からし種ほどの信仰

2015 年度 10 月 4 日
麻生教会主日礼拝説教
「からし種ほどの信仰」
ルカによる福音書17章1節~10節
久保哲哉牧師
1.麻生明星幼稚園関係者評価・第三者評価
-キリスト教保育の中心点-
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのと
ころに来るなら、赦してやりなさい(ルカ 17:4)」
先週の9月 30 日に幼稚園の関係者評価・第三者評価というものを行い、教会から7名、
在園児の保護者2名の方々に集まって頂き、幼稚園の評価をしていただきました。当日は
1時間半ほどかけて園内を見学した後、それぞれの意見を交換する時間も持ちました。こ
ういう機会はとても良いものです。やってみて改めてそう思いました。
幼稚園では1クラスに3名の教師がついて保育を行い、朝の時間は園内すべてを使って
自由遊びを行います。園長として3年目も半ばを過ぎましたので、最初は見えていなかっ
たことも色々と見えてくるようになりました。最近は幼児教育の大切さが身に染みていい
ます。その中で麻生明星幼稚園は「自発遊び」・「自由遊び」を大切にしています。それに
は理由があるのです。もちろん、その根底には聖書の発想があるのです。これは実感ベー
スですが、最近は自分のことを自分で決めることができない大人が増えているように感じ
ています。成熟した大人が減っているということでしょうか。それは、色々な要因がある
のでしょうけれども、幼児期の育ち、特に教師や保護者が主導で子どもがこれに従ってい
くような教育のあり方に課題があると思わされています。
別の言い方をすれば親や教師が敷いたレールに従って子どもが歩むということでしょう
か。これには良い面と悪い面があります。小学校・中学校・高校・大学と親や教師が敷い
たレールの上を歩み、大人になってからはそれまで「学校」という枠組みで守られていた
ものがなくなって、さらに親元から離れ、目の前から急に人生のレールが外されて自由が
広がったときに「自己決定ができない」とか「怠惰な方に流れてしまう」とか「社会の荒
波につぶされてしまう」ということはよくあることです。
そうした中で、幼い頃から自発的に自分で遊びたい遊びをつかみ取り、友達と協力して
困難を乗り越えていく、そうした遊びを積み重ねることで自由に振り回されない、成熟し
た大人になることができるようになるのだと信じています。
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キリスト教保育の最終目標はすべての子どもを「成熟した大人」に成長させることです。
さらにいえば保護者をも父・母にふさわしい「成熟した大人」へと成長させることです。
その手段の一つとしての自由遊びにはとても大切なものがあると感じています。それで、
評価の当日は園庭での自由遊びを皆さんに見て頂きたかったのですが、当日はあいにく雨
が降りまして園庭で遊べなかったために、園内が園児たちでいっぱいになりました。
当日は記録のためにビデオカメラを回していると、年長さんの泣き声が聞こえてきます。
こういう時はトラブルがあると記録のし甲斐があるというものです。
どうやら話しを聞いてみると同じ年長の友達が自分のことを押したことがゆるせなくて
泣いているようです。「あいつが僕を押したんだ!しかも2回も」と泣き叫んでいます。
押してしまった当人は少し気まずそうに近寄ってきて、泣いている子の肩を抱き寄せて「ご
めんな」「大丈夫?」と言っているようにも見えます、すこし慌てて、すまなそうにして
います。
しかし、ゆるすことができないので、その子はそれからおよそ20分間くらいでしょう
か、ホールのストーブと本棚の間に隠れて一人で泣いています。すると、教育実習生がよ
っていったので、それにつられて何人かの友達も泣いている子を見に行きます。
それに気付いた「押してしまった当人」も心配になって見に行きます。
「二回も押した!謝れ」「あやまったじゃん」「あやまってない!」「謝った!」
言った言わない論争が白熱する中、最終的には教師が間に入って納得いくまで話し合い
を続けます、クラスではすでに皆が椅子に座り、朝の出欠を取り終わっています。礼拝を
する時間になってもまだ二人はホールで話し合いを続けています。
ついに時間切れとなって 10 時半、教師の促しで二人は隣同士になって座り、礼拝の時
間が始まりました。納得がいかない「押された子」はまだべそをかいています。
そうこうしている内に礼拝の時間が始まると、皆心を静めて祈ります。あちこち向いて
いる子もいますが、皆で大きな声でさんびかを歌い、教師の言葉を神様の言葉として聞い
ています。べそをかいていた子も泣き止んでいます。
礼拝が終わると次は「英語で遊ぼう」の時間です。「英語で遊ぼう」の時間は宣教師の
先生が英語で手遊びをしたり、聖書の話しをします。たしか今年の4月からは創世記の物
語で、今はヤコブの子、ヨセフの話をしています。
手遊びが始まると、先ほどトラブルを起こしていた二人が笑顔でハイタッチする姿があ
りました。その後は今までよりも仲良く遊んでいたとのことです。
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「ゆるすことができなかった者」が「ゆるすことができる」ようになりました。1日に7
回赦すとは中々いかないものですが、こうした隣人とのトラブルを何度も経験し「折り合
いをつけていく経験」を幼い頃から積み重ねることで人生の荒波にもパニックを起こさず
に適切に対処することができるようになっていくのでしょう。その中心には「神の言葉」
が中心にあるということがキリスト教保育のキリスト教保育たる所となります。
教会員からの評価を眺めていると、こんなに幼い頃から礼拝しているとは驚いたという
感想もありました。教会の方々に幼稚園のことをよく知っていただき、祈りを深くしてい
ただくために企画をしましたけれども、よい機会となりました。
2.「ゆるせない」生き方から「ゆるす」生き方への招き
子どもたちは遊びにおいて人生を経験しています。彼らは遊びに真剣です。ともすると、
わたしたちが日々の人生を生きている以上に、遊びに真剣に向かう姿があります。惰性で
はないのです。一瞬一瞬で命を燃やして遊んでいます。本気で泣き、笑い、自由遊びの中
で人生で体験するすべてのを経験していきます。「ゆるす」自由もありますが、「ゆるさな
い」自由もあります。それは子どもたちだけではありません。大人であるわたしたちも同
じです。
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのと
ころに来るなら、赦してやりなさい(ルカ 17:4)」
「ゆるせない」人生よりも「ゆるすことのできる」人生を主イエスは求めておられます。
納得して前に進むことができない、思い煩いに捕らわれてしまう大人が増えています。こ
れが現代における「罪」の一つの表出の仕方なのでしょう。主イエスはそのからみつく罪
から解放されて生きることを求めておられるのです。
「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ 8:32)」という主の言葉は真実です。
真理とは主イエスのことです。主イエスに従うことを指します。主に従うことは自らを
殺し、十字架につけ「私どもは取るに足りない僕です」と宣言し、ただ主の御心を行う者
として生きることですから、相当な痛みを伴います。痛みの伴わない信仰の生活はありえ
ません。本当の信仰の生活に甘えはゆるされないのです。
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キリスト教保育について学び、これを深めたいと思う中で、その中心はどこにあるか、
問い続けているわけですが、「1日に7回赦すことができる歩み」にこそキリスト教保育
の中心点があるように感じています。
特に、家庭などで子育てに奔走していると、子どもたちと向き合う中で1日で3回目く
らいで「もうゆるさん」となりそうな所ですが、主イエスの発想はそうではない。「7」
というのは完全数ですから「とことん赦す」ということです。「悔い改め」がない者をゆ
るす必要はありませんが、悔い改めが認められるならば、「とことん赦す」のが聖書の発
想となります。
3.弟子たちのつまづき・わたしたちのつまづき
その中で主イエスは弟子たちに語るのです。17章1節。「つまづきは避けられない」。
その通りです。
「一日に7回赦す」という信仰者が歩むべきあまりに高い水準に落胆し、
畏れている弟子たちの姿が目に浮かびます。こうした本当の信仰生活を送ることができる
ものは果たしてどれだけいるのでしょう。つまづきは避けられません。
その中で弟子たちは主イエスに懇願します。「私どもの信仰を増してください(17:5)」
弟子たちの気持ちがよくわかるのです。いつも主なる神に信仰を支えて欲しいと思う私
達です。日々、悔い改めの祈りがない日はない程の私達です。そのような「信仰の薄い」
私達ですから、「信仰を増してください」と主に助けを求める弟子達の願いは正しいよう
に思えます。
しかし、そうではないのです。この「信仰を増してください」との弟子の懇願に主イエ
スはっきりと「否」とお語りになっています。
もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、山をも動かすことができるとされます。また
桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても言うことを聞くといいます。この主イ
エスの言葉の真意はどこにあるのでしょう。
弟子達は「自分たちは信仰をもっている。けれども罪を犯した人たちと向き合って赦す
ようにという主イエスの命令にどうしても応じることができない。主の命に応じるために
はもっと大きな信仰が必要である」と思っていました。ここが違うのです。
彼ら弟子たちは実は、ごく小さな「からし種ほどの信仰」をすら持ってはいなかった。
その事実を主イエスはここではっきりと指摘なさったのだろうと思います。弟子たちは主
の命令を聞いて、そのあまりの水準に恐れ、足が止まり、思い煩いに占められています。
はたして、そのような生活ができるのか。主の御心に適う歩みができるのか。足が止まっ
ています。
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4.主に従う先で起こる奇跡
しかしながら、
「信仰を持っている者」は違うのです。立ち止まらないのです。
「主に従う」
のです。つべこべいわないのです。信仰が増さなければ「できない」のではなくて、すで
に信仰が与えられている者として「できる」と信じて歩むのです。その先で、信仰をもっ
て主なる神と向き合うときに、主キリストの十字架を信じ、見上げるときに、驚くべき仕
方で必ずこれを支えてくださります。
あの放蕩息子の兄や弟が経験したように、こうした厳しい主に従うことはとても窮屈で
不自由で、逃げ出したくなることもあるに違いないのですけれども、自分から自発的に主
の道に従う道を喜んで、信頼をもって選び取るとき、それがかえって私たちが自由に力強
く生きる源泉となることをも私達は知らされています。
人生は海の上を行く航海に例えられます。広大な海を羅針盤なしでいくことは自殺行為
です。不安にもなります。波が打ち寄せれば畏れだっていだくでしょう。わたしたちは恐
れたり、思い煩ったりする必要はもうないのです。主イエスの十字架に示された神の愛を
この身にうけて、この愛を「ものさし」
「基準」としてこの身に迎え入れ、生きることで、
私達は本当に、自由に生き生きと主の道を歩むことができるようになるのです。
5.麻生教会墓地建設「O
qeo.j avga,ph evsti,n 」-墓に刻む聖句について-
それで、説教を準備しているときに、またある方の説教集をみていますと、興味深いこ
とが書かれていました。今日の箇所の説教なのですけれども、その冒頭で牧師が「キリス
ト者の墓碑名」について質問を受けたときのことについて触れられていました。
先週、教会墓地に関する懇談会を開き、献金の目標の 300 万円が今年度じゅうに満ちる
であろうことが確認されました。懇談会の後、臨時役員会で承認、決議され、墓地の今年
度の完成にむけて動き出しています。先週日曜の臨時役員会後に業者の方と契約を結び、
打ち合わせを行う中で、墓地に聖書の箇所を掘るのはサービスで行ってくださるというこ
とでした。準備のために説教集を見るとちょうどその話題であったので、興味深く見てい
ました。話の要約としてはこうです。
スウェーデンにすばらしい働きをした一人の牧師がいたそうで、その人が生前、すでに
自分の墓碑銘を決めておいたのだそうです。それが、今朝与えられている第 17 章の最後
の御言葉であるとのことでした。17 節「わたしどもは取るにたらない僕です」文語訳で
は「我らは無益なる僕なり」です。この御言葉が刻まれているといいます。
森永製菓の創業者の墓碑には「我罪人の頭なり」と刻んでいるということは以前に紹介
したように思いますが、その説教者・牧師は「我らは無益なる僕なり」との墓碑銘を見た
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ときに大いに心を動かされたと書いています。それで、果たして自分は自分の墓碑銘とし
てこれを選ぶことができるだろうかと自問しています。墓碑銘にはその人の信仰がでます。
教会の墓に刻むものは教会の信仰が出るのです。
「我らは無益なる僕なり」
教会がこの謙遜さに生きることができているか。主なる神のみを大きくする、栄光を現
す生き方を果たしてできているか。からし種ほどの信仰をもって生きているか。仮面をか
ぶってはいけません。偽りがあってもなりません。堂々と墓碑にこの言葉を刻むことがで
きるかどうかを真剣に問うています。
それは弟子達の落胆と重なることです。この説教も 30 年前のものですが、人間の根源
的な問題はいつもかわらないことを今日も思い知らされております。
これは麻生教会墓地についてですが、一応サービスで掘ってもらえるということでした
けれども、聖句を掘ってしまうとこれを選んだ人間の思いが入ってしまうし、これから終
わりの日まで残したい墓ですから、大いに責任が発生しますので、文字を入れるのは控え
ようと思っていました。けれども色々考えるうちにこの一週間で一ついい案が思い浮かん
でいたのです。これまで毎週どなたかの説教を読み、聞いてきましたが、墓に刻む言葉な
ど、そうそう出会うものではありません。その矢先にこの説教を読んだものですから、主
のなさることは不思議です。
それは、教会の牧師館の屋根に掲げられている聖句を墓碑に刻むということです。みな
さんはこの建物に刻まれている聖句をご存じでしょうか。写真を拡大して掲示板に載せて
おきましたが、ギリシャ語で「O
qeo.j avga,ph evsti,n
(ホ・セオス・アガペー・エス
ティン)」と書いてあります。かつての旧会堂では会堂入り口の十字架の下に掲げられて
おり、現在は牧師間の屋根に掲げられている御言葉です。文語訳では「神は愛なり」。ヨ
ハネの手紙1の4章16節の御言葉です。表面に記すとちょっとデザイン的にごちゃごち
ゃする感がありますので、裏に掘ろうとこの後の墓地委員会・役員会で提案するつもりで
す。牧師からの提案なので、どうなるかはわかりませんが。麻生教会の信仰が出ててとて
も良いなと感じています。
この墓は納骨する際には正面ではなく、裏手に扉があり、後からお骨を入れるデザイン
となっています。その際に聖句が見えるとよいなとは思っていました。
人生の最後、もう骨になってしまって、最後の最後の別れのとき、悲しみの極地にある
中ですけれども、
「神は愛なり」との主の御言葉に信頼して、たとえ骨になったとしても、
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今もなお、それでもなお、神の祝福の中にいることを信じて、復活の時を待つ。というの
は何ともふさわしい聖句であると思わされたわけです。
神は愛なり
人生の最後の最後で神は愛であったと言えるかどうか。
神の祝福の中で人生を終えられたと言い切ることができるか。
骨を目の前にして、私達がそう信じることができるか。
からし種ほどの信仰があればできるのです。
これは、主の助けによってのみできることです。
これから私たちは聖餐を祝います。主が私達の内に生きて働いてくださるとの信仰によ
って主の助けによってのみ奇跡が起こるのです。主のご命令に従うことが可能とされるの
です。そのことを通して主の御名があがめられるのです。洗礼によって罪赦され、贖われ、
十字架と復活の福音に生きる者にはすべてが可能です。
未だ悔い改めることばかりの私達ですけれども、主は十字架の出来事を通して赦してく
ださいました。主の赦しがあるから、私達は生きることができます。主から与えられた「か
らし種ほどの信仰」を携えて、歩んでまいりましょう。
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