沖縄県平和祈念資料館 貸出用写真パネル

沖縄県平和祈念資料館 貸出用写真パネル
①戦闘状況
パネル番号 大きさ(㎝)
内容(写真集のキャプション)注:キャプションの著作権は当資料館には無い
備考(撮影日)
整理番号
B-001
60×90
米軍の砲爆撃で見るも無惨に崩壊した那覇市街。
B-002
60×90
コンクリートの建物以外は、全て消え去った那覇の中心街。中央は天妃の校舎で、右上隅に僅かに上之山の校舎が見
える。島尻ではまだ戦闘が行われているころの写真である。
B-003
44×55
沖縄の運命は風前の灯し火。動くものすべてが砲弾のエジキとなる。
B-004-1
60×90
沖縄本島上陸に先立ち慶良間列島、渡嘉敷島を攻撃する米艦。
B-004-2
62×83
〃
B-004-3
42×53
〃
B-005
62×83
4月14∼18日、連合艦隊は菊水3号作戦を発動、沖縄特攻攻撃をかけた。
おもに夜間攻撃だったため米軍も慌てたが、しかし写真のように雨のような砲火を浴びせ応戦した。
この頃米軍に対する日本軍の作戦はほとんど特攻攻撃であった。
B-006
44×55
日本軍狙撃兵を求めて廃墟の那覇市内をパトロールする米海兵隊。
B-007
60×90
※(上陸する米兵)
B-008-1
62×83
「敵はどこだ」読谷海岸の浅瀬を演習気分で上陸する海兵隊員。
B-008-2
42×53
B-009
44×55
米軍の軍需品を横領することを“戦果”と称し、生きる便法と同時に、米軍の戦力をそぐ戦法と理屈づけて、住民はさし
6月7日金武村
て罪悪感を持たなかった。米軍も割に寛大だったが、武器にはうるさかった。その“戦果”を捜索する米軍。
114
B-010
60×90
渡具知の浜にはドラム缶が続々陸揚げされた。
22
B-011-1
90×60
日本軍の狙撃兵が頑強に抵抗した首里の教会に突入する米兵。
B-011-2
53×42
B-013
44×55
首里城は落ちた。城壁は崩れ落ち、森も無惨であった。首里の荒廃を表現した写真としてよく使われている。
B-014
54×43
※(瓦礫と化した建てもの)
B-015
60×90
※(鉄道駅舎の残がいと休息する兵士)
(常設展示)
B-017
55×45
日本軍の狙撃兵が頑強に抵抗した首里の教会に突入する米兵。
6月6日
B-018
60×85
※(戦車の陰にかくれる米兵)
3月30日
758
読谷飛行場4月
(常設展示)
132
64
4月1日
〃
19
〃
6月6日
〃
1
360
267
〃
5月29日(常設展示)
269
267
B-019
83×62
米陸軍部隊は、日本軍から奪ったTNT火薬を使って日本軍の壕を封印するように爆破していった。
B-020
62×83
爆破された自然壕の入口で、出てくる日本兵を小銃を構えて待つ米海兵隊員。
那覇市の防衛線として構築された堅固な地下壕陣地は、“リトル・ジークフリート”と呼ばれた。
B-021
62×83
精鋭を誇る米海兵隊は、5月には首里の右翼、即ち那覇方面攻略を命じられ、圧倒的力で日本軍を押しまくった。
那覇市内は民家を問わず、至るところしらみつぶしに狙われた。
B-022
60×90
夜空をこがす米軍の照明弾。(沖縄本島南部)
B-023
60×90
※(破壊された民家)
B-024
62×83
焼き払われる民家。南部与座の北。
B-025
60×90
艦砲射撃のすさまじさを証する弾あと。
B-026
44×55
B-027
4月20日
43
52
5月
58
6月21日
83
墓を探索する米海兵隊員。人間がいないことがわかると、無線連絡を受けたMPが墓を封鎖する。
5月
543
62×83
この家族は先祖代々の墓地に運命を託したが全滅した。那覇市高橋町。
5月
545
B-028
60×90
※(墓を探索する米兵)
B-029-1
62×83
日本軍が陣取っていると思われる自然壕に手榴弾を投げ込もうとする米兵。
6月12日(常設展示)
230
B-029-2
42×53
B-030
62×83
6月7日
113
B-031
44×55
B-032
91×60
※(火炎放射で洞穴入口を焼き払う米兵)
B-033
60×85
※(火炎放射器で焼き払う米兵)
B-034
62×83
敗敵掃討戦で、日本軍の壕に片っ端から火炎を浴びせる米軍戦車。本島南部の海岸沿いにあるこの洞穴には多くの
6月25日(常設展示)
日本兵がたてこもっていた。
85
B-035-1
62×83
「戦争は終わった降伏しなさい。」と沖合の上陸用舟艇から日本兵に呼びかける米軍。海岸線や崖の上には多くの日本
兵がいるが、この呼びかけを聞いて、ある者は降伏し、またある者は降伏は恥として自決した。
6月22日
降伏呼びかけをしているのは米軍から頼まれた県民の一人。沖縄本島最南端の摩文仁海岸。
向こう側に見える丘が第32軍司令部終焉の地の摩文仁が丘。
247
B-035-2
42×53
B-036
60×90
沖縄守備軍第32軍司令部のあった首里城城壁から廃墟と化した首里市街を望む。
6月18日
270
B-037-1
62×83
日本軍の木製“オトリ戦車”。
4月(常設展示)
164
B-037-2
42×53
B-038-1
44×55
B-038-2
42×53
〃
米第165歩兵隊B中隊の兵士が、火炎放射器で洞穴の入口の足場を焼き払う。金武村。
〃
〃
与那原の日本軍陣地の木製オトリ砲。米軍がこのオトリ作戦に引っかかったかどうかは、一切不明である。
〃
2
〃
〃
166
B-039
62×83
読谷飛行場内に置かれた日本軍によるオトリ機。米軍は“茶番劇”と冷笑したが、生き残った日本軍関係者によると、
空襲の際結構時間稼ぎになり、命拾いしたものだという。
B-040-1
44×55
からの真鍮の薬きょうは与那原のサルベージに集められた。薬きょうの山とトラックの高さと比べてみると、すさまじい物
6月27日
量戦のほどが偲ばれる。
B-040-2
42×53
B-041
53×42
襲いくる日本軍特攻機の攻撃を受けて炎上する米正規空母“バンカーヒル”。5月頃の沖縄海上。
B-042
54×43
廃墟と化した那覇上空を偵察する当時トンボと呼ばれた米軍の軽飛行機。
B-043
42×53
本部半島の西海岸で発見された海上特攻艇。
B-044
42×53
嘉手納飛行場の周辺には、米軍機の機銃掃討をおびきよせるための、数多い竹製のオトリ機が配置された。
敗戦した日本軍の力を象徴するような写真である。
B-045
42×53
切り立った崖の中腹にある自然壕。
B-046
42×53
地上部隊支援に出撃、ロケット弾を発射する米海兵隊の「コルセア」戦闘機。
B-047
60×90
南前方、八重瀬岳攻略戦を展開する米軍。東風平村富盛の大石彫獅子(現存)は格好の弾よけとなった。
B-048
60×90
米軍の手によって次々と洞窟から救出される住民たち。
B-049
60×90
※(煙をあげる艦隊)
B-050
60×90
B-051
〃
4月3日
405
280
〃
253
6月
136・536
165
18
6月18日
81
ホールド・アップ、出テコイ。煙幕弾に追われ、砂糖キビ畑から、手をあげて出てきた日本兵(中央)。
彼は2カ所に銃創を負っていた。
6月13日
226
60×90
脱出をはかる日本兵を、歩兵が見守る中で米軍戦車の火炎放射が焼きつくす。
7月15日
78
B-052
42×53
万雷轟くように咆哮、上陸軍を援護する戦艦“アイダホ”。
B-053
42×53
与那原の洞穴陣地で破壊された日本軍の大砲。
B-054
42×53
※(義烈空挺隊)
B-055
60×90
那覇の北2マイルに迫り、バーズーカー砲の援護をうけながら攻略作戦を展開する米海兵隊。
B-056
45.5×55.5 米軍は那覇市占領後、海側高台にあるこの波の上神社鳥居付近に野戦病院を置いた。
B-057
53×42
昭和20年3月、米第58機動隊は沖縄攻略の前哨戦として九州の日本軍航空基地を攻撃した。
その時、空母フランクリン号は日本軍特攻機の攻撃を受けて満身創痍となった。九州南海上。
B-058
53×42
※(艦砲による海からの攻撃)
B-059
53×42
炎を吐いて落下する神風特攻機。中には炎上しながら米艦に体当たり攻撃を敢行するものもいた。
しかしその多くは雨あられのように応射する米艦砲によって無惨にも空中分解した。
B-060
45.5×55.5 中央の県物産館にこもる日本兵を砲撃。飛行機が狙うは小緑飛行場か。遠方の稜線は垣花。
B-061
45.5×55.5 北側、左翼を受け持った海兵隊2連隊の上陸地点沖合のサンゴ礁を爆破、水路を深くする。
B-062
90×60
124
上陸地点の読谷・嘉手納海岸に向けてまっしぐらに進む米上陸用舟艇。
3
5月30日
174
5月4日
54
6月18日
256
5月29日
475
20
B-063
42×53
渡嘉敷島阿波連の海岸を攻撃する米軍。
B-064
42×53
10・10空襲。燃える那覇港方面を波の上付近から撮影したもの。
B-065
60×90
首里城の下方当乃蔵にあるキリスト教会では、日本軍狙撃兵が頑強に抵抗、容易に落ちなかった。
B-066
42×53
米軍戦車の前にはひとたまりもなかった日本軍の軽戦車。八重瀬岳。
B-067
42×53
※(火炎放射攻撃をする米軍戦車)
B-068
53×42
写真下は魚雷を受け11分後に沈没した対馬丸。
上は魚雷を発射した米軍潜水艦ボーフィン号がとらえた対馬丸の最後。
B-069
42×53
特攻兵器“桜花”。双発の爆撃機で運ばれ、目標近くで離され、小さなロケット・モーターで進む。
乗員1人の木製機。戦果は不明である。
135
B-070
42×53
6月28日、摩文仁が丘厳頭に立てられた牛島司令官、長勇参謀長の墓前に立つ日本兵捕虜。
138
B-071
60×90
戦いたけなわ。砲煙弾雨に煙る中部戦隊。死に物狂いに抵抗する日本軍陣地に火炎放射器を浴びせる米軍。
B-072
60×90
義烈空挺隊によって、読谷飛行場に強制胴体着陸した97式重爆激機二型。
B-073
54×43
※(伊江島の公益質屋跡)
B-074
42×53
上陸を前にすさまじい砲爆撃にさらされる伊江島。本部半島から弾幕を眺める米兵。
122
B-075
46×55
伊江島は海上遠方からまるで航空母艦に見えたという。タッチュー(城山)はさしずめブリッジ(艦橋)というところか。
ここで日米の死闘が展開された。
516
B-076
43×53
伊集、和宇慶方面を担当した米第7歩兵師団も起伏の多い地形を利用して抵抗する日本軍に悩まされる。
火炎放射器で沈黙させたあと突入しようと待機している米歩隊。
44
B-077
34×48
首里城下の沖縄守備軍第32軍指令部壕の指令官室。壕は完全にトンネルで連結されていた。
75
B-078
34×48
嘉手納沖を圧する輸送船団から揚陸されて展開する戦車隊。日本軍は応戦してこぬ。
まさか、イースターデー(復活祭)の四月馬鹿だからではないだろうなーと恐る恐る進撃した。
(常設展示)
371
B-079
43×53
40ミリ高射砲を据えて艦隊を援護する米軍。
6月24日
16
B-080
43×53
地元の人が、慶良間チージ(頂上)と呼んでいるシュガー・ローフ。
B-081
43×53
日本軍の狙撃兵も死力を尽くしたが、火には敵すべくもない。
4月13日(常設展示)
39
B-082
42×53
山稜を攻撃する米軍713火炎放射戦車中隊。
5月17日
104
B-083
43×53
県庁内側から見た那覇署と市内。かつての美しい街路樹の無残さ。
B-084
43×53
那覇市内に突入した米海兵隊は、日本兵から狙撃されるため立ち止まれず、民家から民家へ走り抜けながら進撃し
た。
5月13日
61
B-085
43×53
豊かな水と緑で美しかった首里は見るも無残なありさまとなった。
6月6日
268
B-086
34×48
戦火にさらされた首里城跡。
6月26日
271
3月27日
4
4
72
6月14日
5月6日
175
98
128
254
446
B-087
43×53
那覇に通じる橋はすべて退却した日本軍によって爆破され、米海兵隊の侵攻を1時間、1日でも食い止めようとしたが、
5月10日
ジリジリ押されてゆく。今5月10日、那覇市の運命はつきかけていた。
56
B-088
43×53
日本軍のオトリ砲座の前で銃弾の犠牲になった住民。
564
B-089
42×53
比謝川河口。米軍が作戦名イエロービーチと呼んだ渡具知。補給物資もピクニックのようにスイスイ陸揚げされる。
左手に日本軍の燃料ドラム罐が見える。
B-090
43×53
嘉手納飛行場から西側の水釜、野国、砂辺海岸の上陸地点のおびただしい艦船を望む。
6月16日
5
31
6月4日
275