使徒信条講解説教 使徒信条 われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、おとめ マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて 葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の 右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん。 われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、 とこしえの命を信ず。 アーメン 1 使徒信条1 エペソ4:13、Mk5:25-34 「我は信ず」 2005 年 3 月 13 日 主日礼拝 credo 序 キリスト教会の三大憲章といわれるものがあります。それは、十戒、使徒信条、そして 主の祈りです。ある人が、「キリスト者の歩みとは、要するに、使徒信条を信じ、主の祈り を捧げつつ、十戒を行なうことである。 」と言っていますが、そのようにキリスト教会の二 千年にわたる歴史の中でこの三つのものは大切にされてきました。私どもの教会でも毎月 の第一主日は使徒信条を告白しておりますので、その理解を深めて真実な告白が出来るよ うにということで、これから何度かの主日にわたって使徒信条を学びたいと願っておりま す。 ただし、十戒、主の祈りと使徒信条は決定的にちがう点があります。それはどういうこ とか?十戒と主の祈りは、神のことばである聖書の一部ですが、使徒信条は神のことばで なく、人のことば、いやむしろ教会のことばであるという点です。信条というものは、聖 書は何を教えているのかについて、教会が信じるところを要約し、告白したものです。 礼拝の中心は、神のことばが語られること、聞かれることです。神のみことばが語られ なければ、それは真の礼拝ではありません。説教は神のみことばの説き明かしです。です から、私たちは使徒信条を学んではまいりますが、それは使徒信条そのものを神のことば としているのではなく、使徒信条というアウトラインに則って神のことばである聖書に耳 を傾けていきたいと願っているのです。 本日は、「われ信ず」ということばを学びます。キリスト教信仰とはなんなのか、信じる ということはどういうことかということを聖書に学びたいのです。 1.教会の信仰――信条について (1)洗礼式式文として成立――我は信ず 「われは父なる神を信ず」、 「われは、そのひとり子イエス・キリストを信ず」、 「われは聖 霊を信ず」と使徒信条は、「われは信ず」という告白をします。このように「私は信じる」 という表現がとられた理由は、使徒信条というものがもともと紀元二世紀の古代教会に原 型ができ、それが徐々に整えられて紀元四世紀に西方教会に普及した教会の洗礼式文の一 部として成立したからです。当時の教会で、これから洗礼を受けようという人が、洗礼準 備会においてこれを学び、洗礼式において「私は天地の造り主・・・」と口に言い表した 2 のです。ちょうど私たちの教会で、洗礼式が行なわれる時、牧師が「あなたは天地の造り 主、生けるまことの神のみを信じますか。」と問うて、志願者が「信じます」と答え、 「あな たは神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われていることを確信しますか」 と問われて「確信します」云々・・・と誓約をする場面にあたるものです。 すでに当時旧新約聖書が完結していたのに、どうして聖書以外に信条というものが必要 だったのでしょうか?洗礼準備の段階で「聖書を信じる」ということを厳密に言うならば、 聖書各書を全部詳細に通読し理解してからでなければ、洗礼を受けられないことになって しまいますが、それには相当の読書力と時間が必要で、ごく一部の人しか可能ではないで しょう。それに個人として聖書全巻を入手することが可能になったのは、キリスト教会の 長い歴史のなかではごく最近のことです。こういう実際的な面からもシンプルな信条が必 要だったのです。聖書をどのように信じているかということを要点を押さえて確認する必 要があったのです。 (2)キリスト教信仰は共同体的告白――結び、かつ、分ける a.結ぶ そういうわけで、洗礼志願者は準備会を経て、洗礼式の日には「私は・・・信ず」と公 に言い表したわけです。「私は信じます」というのですから、そこには、本人の主体的な責 任ある信仰が表現されています。それは事実なのですが、同時に、そのときに口で言い表 す信仰は、洗礼を受けたキリスト者が共通して言い表す信仰ですから、それは単にその個 人の信仰ではなくて、教会としての信仰であるわけです。教会という信仰共同体が全体で、 いわばひとりの「我」となって、「我信ず」と言い表すのです。場所を超えて、時代を超え て教会は「我信ず」と告白してきたのです。 信仰を告白するというときの、告白するということばは、ギリシャ語ではホモロゲイン といいます。ホモは「同じ」という意味、ロゲインは「言う」という意味ですから、ホモ ロゲインは「同じことを言う」という意味です。こういう語源からうがった言い方をすれ ば、教会の兄弟姉妹全員が信仰を告白するとき、心と声を合わせて同じことを言うわけで す。民族や国家を超えて世界の、そして、時代を超えて世々の教会が同じことを言う、そ れが信仰告白です。こうして信条は、信じている私たちを結び合わせているのです。 「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に おとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 」 (エペソ 4:13)と あるように、信条において、私たちは結び合わされているのです。教会の一致は御霊の一 致ですが、御霊の一致は信仰告白の一致として現われてくるのです。このようにして、信 条は私たち教会を結び合わせるのです。 b.区別する 信条には、結ぶと同時に区別する働きがあります。「我信ず」というとき、そうは信じな 3 い人々との自分を区別しているものでもあります。使徒信条をご覧になると、父と子と聖 霊の三位一体的構造を成していることに気づきます。けれども、父と子と聖霊についてそ れぞれ割かれている分量がずいぶん違っていて、父についての部分は非常にシンプルであ るのに対して子についての部分はアンバランスなほどに分量が多いことに気づくでしょう。 なぜこういうことになっているのでしょうか。それは、すでに当時のキリスト教世界にお いて、御子イエス・キリストについて間違った教えを語るいわゆる異端説が出てきていたか らです。 たとえば、だれもがみな聖書の言うとおり処女マリヤから生まれたと信じていれば、あ えて告白するまでもなかったのですが、 「いやキリストは霊として来たのであって、処女マ リヤからは生まれていない」という異説を唱える人々が出て来ていましたので、 「処女マリ ヤから生まれ」と告白する必要がありました。また、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを 受け、死にて葬られ・・・」というのも、「善悪二元論の哲学の考え方からすると、神は善 であり、苦しみは悪である。だとすると、神が苦しむというのは矛盾だ。したがって、神 の御子イエスが苦しんだはずがない」などという異説が出て来ていたからです。そういう わけで、使徒信条が作られたときに、まちがった説に対して区別して聖書が語っているこ とを明らかにするために、キリストに関する項目がかなり詳しくなったのです。 このように信条は信じている内容を明瞭にすることによって、信じる者をしっかりと結 び合わせ、かつ、偽りの説と区別をするという機能があるのです。ですから、この学びの なかで、私は意識して異説や異教とのちがいというものを指摘して、聖書の真理をあきら かにすることにも心がけたいと願っています。 (3)キリスト教信仰は告白的信仰 「信仰を告白する」と言いますが、これは多分、キリスト教信仰の特徴です。聖書でい う信仰においては、告白することが大事なのです。先に告白するというのは、ホモロゲイ ンという「同じことを言う」という意味だと申しました。たとえば愛の告白をするという とき、心の中に相手に対する愛があってこそ、それは愛の告白になります。もし心の中に 愛がないのに、「愛してます」と言ったら、それは告白でなくただの冗談か嘘にすぎないで しょう。 信仰告白という行為においては、私たちが教会の兄弟姉妹と同じことを言うという意味 と同時に、心の中にあるのと同じことを口で言うということでもあるわけです。心にもな いことを言うのは、嘘になりますし、心にあることを言わないことも嘘です。キリスト教 信仰において「信じる」というのは、単に心の中で思っているのとは違います。心の中で 信じていれば、口で「信じていない」と言っても大丈夫ということはありえません。心の中 で「私はイエス様を信じています」思っているならば、人前で公に「私はイエス様を信じ ています」と言ってこそ、生きた信仰です。実際、そういう信仰しか、最後の審判の日、 神様の前では役に立たないと主イエスはおっしゃいました。 4 「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の 前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたし も天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」 (マタイ 10:32、33) だからこそ、主イエスが暗黒裁判にかけられた夜、弟子ペテロは大祭司カヤパの官邸の 庭で人々から「おまえはイエスの弟子だろう?」と問い詰められて、 「イエスなど知らない」 と三度もイエスを否んだとき、自分はもうだめだ滅びてしまう、自分はとんでもない罪を犯 してしまったと嘆いたのです。裏切りの朝、二度鳴いた鶏の声はペテロの有罪を宣告する 裁判官の声でした。実際、ペテロはあの裏切りゆえに本来からいえば滅びてやむをえなか ったのです。ただ、イエス様のあわれみによって悔い改めることが許されたのです。 私たちは、人から「あなたはイエス様を信じているの?クリスチャンなの?」と聞かれ たならば、「はい。私はイエス様を信じています。クリスチャンです。 」と答えましょう。 終わりの日、御父の前で「あなたなど知らないよ」とイエス様に言われてしまうことのな いように。 2.信仰の三要素――知識・承認・信頼 次に、聖書でいう「信じる」という行為はどういう内容を含んでいるのかを学びます。真 実の信仰は、知識と承認と信頼の三つからなります。取り上げるモデルは、イエス様に出 会った長血の女の信仰です。 「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひど いめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえ って悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、う しろから、イエスの着物にさわった。 『お着物にさわることでもできれば、きっと直る。』 と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、 からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、 群衆の中を振り向いて、 『だれがわたしの着物にさわったのですか。』と言われた。そこで 弟子たちはイエスに言った。 『群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それ でも「だれがわたしにさわったのか。 」とおっしゃるのですか。 』イエスは、それをした人 を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、 イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」 (マルコ 5:25-34) (1)知識 この記事のなかで、第一のことは信仰には知識が必要であるということです。27 節を見 ると「彼女はイエスのことを耳にして」と書いてあります。彼女はイエス様というお方に ついての知識を得ました。良い知らせを耳にしたのです。イエスさまは神の御子でいらし て、全能者でありあわれみ深いお方であられるという良い知らせ、福音を聞いたのです。 5 ローマ書 10:17「信仰は聞くことから始まり、聞くこととはキリストについてのみことばに よるのです。 」とある通りです。 真実の信仰には、普通の場合、まず福音に関する正しい知識が必要です。信仰には感情 的側面もありますが、知識としての面はある意味でそれ以上に重要なのです。というのは 感情はふらふらと揺るぎやすいのですが、真理にかんする知識というものは感情のように は不安定ではないからです。私たちはお天気がいいと気分もよくなり、雨が降ると気持ち が沈みがちなものでしょう。でもお天気がよくても悪くても、 「3足す4は7」という真理 にかんする知識は変わらないでしょう。 「雨模様だからきょうは3足す4は5です」という ことにはなりません。知識というのは感情ほど不安定ではないのです。信仰の教理の知的 理解もそうで、キリスト教信仰はたしかに理性を超えた面はありますが、理性に反しては いないので、知識を大事にすることは重要なのです。 また、信仰はまず「聞くことにより、聞くことはキリストについてのみことば」なので すから、私たちは家族や友人や知人の救いを願うならば、祈るだけではなく、さらに、ど のような方法によってか、とにかく福音を伝える必要、聞かせる必要があるのです。農家 の方に肥料のこととか株間のこととか、あれこれ家庭菜園のことを相談すると、 「やあ、と にかく蒔いてみるだよ。蒔いておけば何かは取れるよ。 」とよく言われます。種を蒔かない 限り決して芽は出ません。とにかく蒔いておけば、なにか生えてくるものです。ですから、 私たちはうまずたゆまず、自分の心の畑にも、また友人の心の畑にも福音の種を蒔くこと に努めましょう。 (2)承認 しかし、正しい知識があるというだけでは、それは真実のその人を救う信仰ではありま せん。真実の信仰の第二番目の要素は「承認」ということ、つまり、耳で聞いた知識につ いて、 「ほんとうにその通りなのだ」と認めることです。長血の女の記事を見てみましょう。 マルコ 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 イエスさまは全能の神の御子であり、哀れみ深いお方だという知識を彼女は得ました。 その上、彼女はその噂はきっと本当に違いないと承認したのです。だから、「お着物にさわ ることでもできれば、きっと直る。」と考えたのでした。 (3)信頼または信従 真実の信仰の三つ目の要素は、信頼です。日本同盟基督教団の小教理問答でも「信仰とは なんですか?」という問いに対して「信仰とは信頼です。 」と答えています。つまり、ほん とうの信仰には神様に委ねてしたがうという意思的な行動が伴ってくるのです。長血の女 を見てみましょう。27 節。 「群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 」 6 長血の女は、まずイエス様についてのよい報せ――福音――を聞きました。次に、その 報せはほんとうに違いないと承認をしました。そして、第三に信頼したのです。それは彼 女の場合、具体的な行動としては、出かけて行って実際にイエス様の着物にさわるという行 為でした。ヤコブ書 は次のように言っています。 「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どもも そう信じて、身震いしています。ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしい ことを知りたいと思いますか。 」 (ヤコブ 2:19−20) 悪霊は神様がおひとりの絶対者であるという知識は持っています。そのうえ、それをは っきりと承認しています。けれども、神がどんなお方かを知りかつ承認しながら、神を信 頼し従うどころか、逆に神を憎み、神に反逆し、神を恐怖の対象としてしか見ていません。 ですが、ほんとうの信仰には、知識という要素と、その知識をほんとうのことだと承認す るという要素に加えて、信頼ということが伴わねばならないのです。主に信頼していれば、 主に従うことは当然ともなってきます。 結び 我は信ず。私たちは、信仰によって神様に立ち返り、神様に結ばれ、信仰によって神の民、 キリストのからだである教会のうちに入れられて、御国への歩みをする者です。さらに、 キリストに信頼し、キリストの福音を宣べ伝えてまいりましょう。 7 使徒信条2「天地の造り主を信ず」 ローマ 1:19―23 ヘブル 11:1-3 創世記1:1−2:3 「天地の造り主」 2005 年 3 月 20 日 主日礼拝 credo in deum patrem omnipotentem; creatorem coeli et terrae. 序 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白するとき、「わたしは、万物の創 造主である神が、私たちの全能の父でいらっしゃる。この事実を私は認識し、承認し、創 造主に私は信頼します。 」という告白をしているのです。 父と子と聖霊の三位一体である神様において、その働きの面から、父は造り主、子は救 い主、聖霊は慰め主と呼ばれることがあります。父なる神様が主役というべきお働きは、 創造と摂理です。創造というのは神様は過去のある時点において、この世界を無からお造 りになったことを意味しています。他方、摂理とは、全能の神様がこのようにしてお造り になった世界を保ち支配し導いていらっしゃることを意味しています。きょうは特に「天 地の造り主」について、御言葉を味わいたいと思います。 1.創造主を知る知性 (1)自然啓示の事実 まず新約聖書のローマ書1:19,20 節を学びましょう。それは、創造主である神様は、 私たちにその作品である自然を通して、ご自分について教えていらっしゃるという事実で す。ローマ 1:19、20 「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明 らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の 創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、 彼らに弁解の余地はないのです。 」 天文学者ガリレオ・ガリレイも次のように言っています。 「聖書も自然も、ともに神のこ とばから出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く 実施されたものだからであります1。 」神様は聖書を通して私たちにご自分のみこころを語っ ておられると同時に、自然というご自分の作品を通して、 「わたし、造り主がいるのだよ」 と人類にメッセージを送っていらっしゃるのです。アダム以来、人間が堕落したことによ 1 「クリスチナ大公妃あての手紙」 (ガリレオ、中央公論社世界の名著 p107) 8 って、自然も本来の完全なすばらしい姿ではなくなっていることは一方の事実なのですが2、 それでも星の運行の秩序正しさや、宇宙をコントロールしている物理法則や、植物や動物 の絶妙な仕組み、そして、私たちのからだの見事な仕組み、細胞、分子や原子の構造など の精巧な仕組みを見れば、これらが決して偶然の集積物ではなく、すばらしく知恵のある 設計者がいることは実に明白なことなのです。 たとえば精巧なカメラの仕組みは、人間の目に基づいて設計されたものだそうです。人 間の目は水晶体と呼ばれる凸レンズによって光を集めて網膜に映し、網膜にある一億二千 万個の視細胞がこれをロドプシンという名の感光物質によって光エネルギーを電気信号に 変換して脳に送って脳の中で映像化するわけです。その光の量は虹彩と呼ばれる絞りで調 整し、ピントは凸レンズである水晶体の分厚さを瞬時に調整して行なっています。デジタ ルカメラはそれを真似て絞りで調整された光を凸レンズで集めて、スクリーン上に映して これを電気信号に変えて映像化しています。デジタルカメラを見て、偶然できたと思う人 がいるでしょうか。偶然、鉄くず、アルミくずと、ガラスやプラスチックなどが組み合わ さってカメラができるでしょうか。そんなことを信じる人は正気ではありません。知恵の ある人が設計したと考えます。しかし、その精巧な目の設計は神様の作品である人間の目 の真似事にすぎないのです。 こうした自然を通しての啓示は、最後の審判のとき、無神論者が「わたしは創造主がい ることは知らなかった」という弁解の余地がないほどに明白な証拠です。 (2)理性は腐敗している 次に、ローマ書1:21−23 が教えていることは、人間は、創造主がこのように明白にご自 身の知恵と存在を啓示なさっているにもかかわらず、創造主を認めようとしないので、そ の心がむなしくなってしまい、創造主に代えて被造物を神々に仕立て上げて偶像として拝 むようになっているということです。真理そのものである創造主に背を向けたので、人間 の理性はまともに機能しなくなってしまいました。この世界は神が創造なさったものであ ることは歴史的事実です。ただ、アダム堕落以来、人はその事実を正しく読み取る能力を 失ってしまっています。生まれながらの人間の理性は、アダム以来の罪のせいで腐敗して いるのです。 では、人間の理性はどんなふうに腐敗しているかというと、一つには神を決して認めた くない、神ぬきですべての自然現象を説明し尽くせることが人間として立派なことだと考 える奇妙な癖がついていることです。もう一つは、神に背を向けた結果、人間はさまざま な被造物をあたかも神のように仕立て上げて偶像崇拝をするようになってしまっていると いうことです。 「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、 かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分で 2 創世記 3:17、18、ローマ 8:10-21 9 は知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、 獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」 (ローマ 1:21−23) ローマ書が書かれた時代には、ギリシャ世界にはすでにすばらしい哲学の伝統がありま した。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者の伝統を引く学派があり、 哲学者たちは自説を披露しあって、ああでもないこうでもないと議論をして一日をすごし ていました。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学は、現代においても哲学の古 典と見なされていて、なお研究し続けられています。ところが、そういう頭のよい人々が、 大理石を刻んで作ったゼウスとかアフローディテとかアポロンといったオリュンポスの 神々の像を拝んで、「私を美人にしてください」とか「おれに知恵をください」とか言って 拝み、それに香を焚きながら、霊的な暗闇のなかに暮らしていたのです。使徒パウロはア テネを訪れた時に、そうした実情を見て憤りを覚えました3。 考えればたいへん不思議なことです。しかし、そうしたありさまは、現代の日本でも変 わらないでしょう。たとえば超難関大学をめざすようなたいへん頭のよいはずの人たちで も、北野天満宮は学問の神様だからと言って、「必勝祈願」などをしてお守りをもって受験 場に赴いたりしているではありませんか。創造主に背を向けて人は自分は頭がよいと誇り ながら、他方で迷信的になって、創造主の代わりに人間や動物や木や石ころや鏡などを怖 がり拝むようになってしまいます。偶像礼拝者たちを見て偶像の背後にいる悪魔や悪霊た ちは、してやったりとニヤニヤしているのです4。 「理性が腐敗していると言うけれど、神様を信じていなくても頭の良い人はいっぱいい るではないか」と言う人もいるでしょう。そのとおり、クリスチャンでなくても数学や天 文学や医学や音楽やいろいろな分野で優秀な人がいるのは事実です。けれども、創造主を 知らないと、そうしたさまざまな知識のかなめ、究極の目的がわかりません。人が数学に せよ天文学にせよ生物学にせよ物理学にせよ音楽にせよ、いろいろな分野で探求をする本 来の目的とはなんですか。それは数の世界であれ、宇宙の天体の世界であれ、生物界であ れ、音楽の世界であれ、その探求を通して、造り主のみむねを知り、神を愛し、隣人を愛 することにほかなりません。 「主を畏れることは知識のはじめ」なのです(箴言1:7)。 けれども、神を認めない多くの学者たちは、この目的を知りませんし、認めたくないの です。むしろ、神があがめられるよりも、すばらしい理論を打ち立てた頭のよい自分が人々 からあがめられることを望むのです。知識は人を高ぶらせるのです。 (3)信仰による再生が必要 創造主を正しく知るためにはなにが必要なのでしょうか。それは、創造主に背を向けて しまったために、霊的に暗くなってしまった知性が新しくされることです。空しくなった 心に聖霊が注がれるならば、知性は新しくされます。そして、知性が新生しますと、本来 3 4 使徒 17:16-18 1 コリント 10:19-21 10 の、創造主をあがめ、隣人を自分自身のように愛するという目的を取り戻して、徐々に働 き始めるのです。 信仰によってわたしたちは知性が再生されてこそ、この世界が創造主のみことばによっ て創造されたという事実を悟ることができます。この世界は、偶然にできあがったもので はなく、あきらかに創造主の作品としての姿をしていますが、その当たり前の真理を悟る ことができるようになるのです。悟って、創造主をほめたたえることができるようになる のです。 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々 はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで 造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないこ とを悟るのです。 」(ヘブル 11:1−3) 2.神と被造物 キリストを信じ、心に御霊が注がれますと、人の知性は正常に機能し始めます。 「正常に」 という意味は、創造主なる神を礼拝し、隣人を自分自身のように愛するという本来的な目 的にしたがって働き始めるという意味です。新しくなった心の目で、自然界の事物と聖書 の啓示を照らし合わせるならば、そこに神様の栄光を見出して、神様をたたえることがで きます。 創世記 1 章 1 節から 2 章 3 節に描かれた天地創造の記事は、近代の自然科学の用語や表 現で記述されたわけではありませんけれども、万物の創造者が人格的な存在でいらっしゃ ることと、その創造における根本的な原理についてははっきりと語っています。次にこれ を見てみましょう。 (1)三位一体の人格神 創世記の最初に「はじめに、神が、万物を創造した」とあります。また、 「『光よあれ』 とおおせられた」とあります。また、 「神は光とやみを区別された」とあります。また「名 づけた」とあります。また、神は、作品の出来上がるにしたがって「よしとされた」とあ ります。満足なさったのです。こうした神の創造における記述をとおして、わたしたちは 造り主である神は、単なるいのちのない「神観念」といったものではなく、また、単なる宇 宙の原理や法則といったようなモノでも決してなく、知性をもち、創造力を持ち、行動し、 名づけ、区別し、語る、「生ける神」であるということを知ることができます。 ただし、私たち人間は有限な人格にすぎませんが、まことの神様は無限の生けるご人格 でいらっしゃるのです。 しかも、神様は人間を創造なさるにあたって、次のような不思議なことばを語られまし た。「そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼 11 らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 」 と仰せられた。 」 (創世記 1:26) 「われわれ」とありますから、このことばは、お一人の神様ご自身のうちに複数の人格 の交わりがあるということを示唆しています。新約聖書にいたって、私たちはこれが父な る神と子なる神が聖霊の愛の絆に結ばれて交わっていらっしゃり、語り合い相談なさって いたのだということを知ります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方に よって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 」(ヨハネ 1: 1−4)とある通りです。 このようにして、私たちは万物を創造した神は、生ける無限の人格であられて、そのう ちに完全な愛の交わりがあるお方なのだということを知るのです。新約聖書の啓示から、 さらに明白に神様は父・子・聖霊の三位一体の生ける神であることを知っています。 (2)神と被造物は別別である―――汎神論の否定 神様は永遠の存在です。世界ができる前から、神は神のみで存在しておられました。主 イエスは大祭司の祈りのなかで、天の父に向かってこう祈られました。「今は、父よ、みそ ばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持って いましたあの栄光で輝かせてください。」 (ヨハネ 17:5)神様はご自分以外のものつまり 被造物が存在するしないにかかわらず、自ら存在なさることができるということで、これ を神の自存性といいます。 このことは、汎神論と呼ばれる世界観と区別される点です。汎神論というのは、 「すべて は一つ、すべては神」という世界観です。汎神論によれば、世界のもろもろの個物は、神 の現われであるということです。しばしば汎神論では神は大海にたとえられ、個物は大海 の面に現われては消える波にすぎないとされます。汎神論の考え方によれば、世界がなけ れば神もないのです。つまり、汎神論では神は自分で存在はしておらず、世界に依存して 存在しているのです。けれども、聖書にご自分を啓示されたまことの神様は、世界が存在 していようといまいと、自ら存在なさいます。 (3)多様にして統一的な被造物世界 また、私たちはこの創造の記事を読むときに、そこにはたいへん豊かな多様性がありな がら、しかも、全体的に驚くばかりの統一的な秩序を見ることができます。まず多様性に ついてはどうでしょうか。神様が動植物の創造にあたって繰り返されたことば、 「種類にし たがって」に注目しましょう。 「神が、 「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹 を地の上に芽生えさせよ。 」と仰せられると、そのようになった。 」(創世記 1:11) 「それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き 12 物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよし とされた。」(同 21 節) 「ついで神は、 『地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類に したがって野の獣を生ぜよ。』と仰せられた。するとそのようになった。 」(同 24 節) 信州の野山を散策すれば、なんとさまざまな花が咲いていることだろうかと、私たちは 神様の作品である豊かさに目を瞠ります。まずスイセンとクロッカスが寒さの中に花を咲 かせます。そして梅、桜。桜の中でも淡いピンクのソメイヨシノ、濃い色合いの紅山桜、 桜と同じころ庭にはユキヤナギとレンギョウが美しく、しばらくすると芝桜が長く咲いて います。その頃には庭には野山に山吹が咲き乱れます。植物にかぎらず、動物も虫たちも なんと多様で豊かな世界でしょうか。その種類の豊かさに驚かされるではありませんか。 人間は画一化する方が合理的で無駄がないということで、すぐに規格化、画一化に走るも のです。工業はもちろん、農業でも「産地主義」といいまして、白菜なら白菜、レタスなら レタス、トウモロコシならトウモロコシが地平線までというのが、近代の合理的農法の理 想とされています。また、白菜もレタスも少し大きすぎるとか小さすぎるとかいうと、市 場ではねられてしまいます。人間に対しても画一的な枠を設けたがるのが人間の近代合理 主義文明です。 けれども、神様が造られた世界はなんと多様なことでしょう。それぞれの種は、決して みなずるずるとつながっていません。区別されています。それが、創世記では「種類にした がって」と表現されています。カブトムシはカブトムシ、ネコはネコ、犬は犬、猿は猿、人 は人として、また、みかんはみかん、りんごはりんごとして、 「種類にしたがって」造られ ているのです。一つの種のなかでは環境に適応するためにいろいろな変化する柔軟性が用 意されていますが、種を超える変化つまり「進化」はけっして起りません。たとえば犬の なかには小さなチワワから、スピッツ、柴犬、ゴールデンレトリバー、グレートデンにい たるまでいろいろな品種はありますけれども、どんなに品種改良をしても犬はネコにはな りません。チワワ、スピッツ云々・・・これはみな一つの種の中の多様性です。また、最 近はみかんやオレンジを掛け合わせていろいろなかんきつ類では品種が作られていますが、 リンゴには決してなりません。かりに人工的にむりやり種を超えて交配させても、子孫は 残せないのです。たとえば、ラバは馬とロバのあいの子ですが、子どもは産めません。ラ イオンとヒョウのあいの子レオポンも子孫は残せませんし、トラとヒョウのあいの子タイ ポンも子孫は残せません。創造主が、 「種類にしたがって」すべての生き物をお造りになっ たからです。 しかも、さらに驚くべきことは、この広大無辺の天体の動きと、地球のさまざまな物質 界と、多種多様な植物界と多種多様な動物界が、ミクロからマクロまでたがいに結びつき、 支えあい、生かしあって一つのシステムを成しているという事実です。光、大気、陸地と 海、植物、天体の運行システム、動物、そして人間が造られるという順序が、基礎的なも 13 のから順順に築き上げられています。 太陽エネルギーは光のかたちで地上に降り注ぎますが、神様は地球を傾けかつ自転と公 転をさせることによって、このエネルギーをまんべんなく配分するようになさっています。 傾いた地軸と公転によって地球には春夏秋冬の変化があり、又、神様が地球を自転させてく ださっているからこそ、地球は全体として気温がバランスよく保たれています。もし地球 が自転しなければ、片面は灼熱地獄の沙漠となり、片面は一年中昼のない寒冷地獄になっ てしまいます。 地球の大気と水は太陽エネルギーの作用によって、水の循環が起こります。雨が降り、 大地を潤した後に川に注ぎ、海まで行きます。「川はみな海に流れ込むが、海は満ちること がない。川は流れ込む所に、また流れる。 」 (伝道者の書 1:7)海はあたためられて蒸発し上 空にのぼると冷やされて雲を形成し、これが大気の循環で内陸に運ばれて、また雨として 大地を潤します。この循環がなければ、内陸は沙漠になります。 植物は、太陽からの光と二酸化炭素と水によって、光合成をおこなって成長しています。 動物たちは植物が出してくれる酸素を吸い、植物を食べることによって生命を保ち、二酸化 炭素と排泄物を出し、土の中の微生物はこの排泄物を分解して植物の栄養として提供して います。また動物たちのおなかのなかにも、ビフィズス菌や大腸菌など微生物やほかの虫 がいて、人間の栄養吸収を助けて人間と共生しています。一説によると、現代日本人が花 粉症に悩まされるのは、おなかの寄生虫がいなくなったからだそうです。また、多くの植 物は昆虫によって花粉を運んでもらって受粉をしてこそ、次の年に子孫を残すことができ ます。もし一シーズン蜂や蝶がいなければ、その植物は次の年には絶滅してしまいます。 また、植物は鳥や獣に食べてもらえるようにおいしい実をならせて鳥や動物を養いますが、 かわりに、種を遠くに運んでもらいます。 太陽エネルギー、地球の自転と公転、大気の循環と水の循環、さまざまの植物と動物と 微生物の助け合い、この天地の万物は実に複雑なシステムを成していて、この環境システ ムは人間の知恵をはるかに超えた創造主の驚嘆すべき知恵による作品なのです。 (5)神のかたちとして創造された人間 神は自然界をこのように造ったのちに、人間を創造なさいました。しかも、人間をご自 分の似姿として造ってくださいました。つまり、知性と感情と意志とを持ち合わせた存在 として。また、生ける神と人格的な交流を持つことのできる霊的な存在として造ってくだ さったのです。 神様は、ご自分の似姿に造られた存在として、私たちにこの自然を託されました。私た ちは、この自然を知恵と愛をもって治め、世話をする任務が与えられています。わたしたち 人間は、自然に対して暴君となってはいけません。知恵と愛に満ちた、謙遜な支配者であ るべきです。 「そして神は、 『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼ら 14 に、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。 』 と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創 造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰 せられた。 『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべて の生き物を支配せよ。 』 」(創世記 1:26-28) むすび 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。 」と告白する私達は、御父から託された この世界を楽しみ利用しつつ、かつ、これを正しく世話をして、神様のみさかえを現すも のでありたいと願います。身近なところではごみ問題とか、地球温暖化とか、工業化によ る空気や河川の汚染、戦争による環境破壊があります。そして身近に迫り来る静岡県御前 崎市にある中部電力浜岡原子力発電所が、東海地震によって原発震災をもたらすのではな いかという危機的状況があります。アダムが堕落して以来暴君となってしまった人間によ って、神の作品である地球はボロボロにされています。私たちはキリスト者として、この 世に派遣されています。それぞれの持ち場・立場において、神の作品であるこの地球を正 しく利用し、かつ保全して神様のみこころを行なう者となりたいと思います。 15 使徒信条3 ローマ 8:14−15、ヘブル 12:5-8 「全能の父なる神――神の父性と摂理――」 2005 年 4 月 3 日 小海主日礼拝 credo in deum patrem omnipotentem この朝、私たちは「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という信仰の告白を しました。特に、私たちの神様は私たちにとって「全能の父」でいてくださるということの 意味、すばらしさを味わいたいと願っています。二つのことを学びます。 はじめに神の父性、つまり、私たちが神様を父として仰ぐことが許されていることのす ばらしさについて、第二に、その父なる神様が全能の御手をもって今も行なっていらっし ゃる摂理についてです。 1.神の父性 神様が「全能」でいらっしゃるということは、神様にはよいことも悪いこともなんでも おできになるという意味ではありません。正しくは、神様はご自分がお望みになることは、 なんでもおできになるということです。その全能の神様が私たちの「父」でいてくださると はなんとすばらしいことでしょうか。全能ではあるけれども、冷酷非情な他人のような存 在であったら、神様が全能者であるということはむしろ恐ろしいことでしょう。しかし、 事実は、全能の神は私たちの「父」でいらっしゃるのです。神は全能の力を、愛するご自分 の子どもたちのために働かせてくださるでしょう。なんと心強いことでしょうか。 私たちが神様を「おとうさま」と呼んでよいのだよとはっきり大胆に教えてくださったの はイエス様です。旧約時代には、神様の呼び方として最も一般的だったのは、「主よ」とい うことでした。もちろん新約時代でも、神様を「主よ」とお呼びしてよいのですし、事実、 そのように呼んでいる個所が新約聖書のなかに何箇所もあるます。けれども、あえて新約 的な特徴ある呼び方はなにかといえば、「父よ」 「おとうさま」なのです。 「主よ」と神様をお呼びする時、私たちは自分は神様のしもべなのだという立場を意識 しているのです。万物の創造主であり、主権者であるお方の前で、私はしもべなのである ということを意識しているのです。けれども、「父よ」 「おとうさん」という呼び名で呼ぶ とき、私たちは自分は神様の子どもなのだということを意識するのです。神様は、一般的 な創造主としての被造物に対する愛ではなく、それに加えて特別のご愛をもって、私たち を愛してお取り扱いくださるのだと確信してよいのです。 「この方を受け入れた人々、すな わち、その名を信じた者には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 」とあるとおり です。 16 新約の時代に、なぜ私たちは神様のことを「お父さん」「父よ」と呼ぶことが可能になった のでしょうか。それは、まず神様の実子であるイエス様が、人となって私たちの兄弟とな ってくださったからにほかなりません。神様の永遠の御子が驚くべきことに私たちの兄弟 となってくださったことによって、私たちは神様の子どもとされるという恵みにあずかっ たのです。そして、イエス様は私たち兄弟姉妹に、神様のことを「お父さん」と呼んでい いんだよ、と教えてくださったからです。 そして、私たちが実際に神様のことを、慕わしい思いを持って「お父さん」と呼ぶことが できるために、イエス様は私たちにご自分の霊を与えてくださいました。イエス様は永遠 の父なる神の永遠の実子でいらっしゃいますから、御子イエス様はこころから父なる神様 をおとうさんと呼べるのです。私たちはその御霊をいただいたので、信頼をもって「アバ、 父」と祈ることができるようになったのです。 ローマ 8:14-15 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として くださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。 』と呼びます。 」 私たちは、子が父を慕い、敬い従うようなそういう心をもって神様を慕い敬い従うので す。旧約時代の聖徒たちは、たとえあの偉大にしてもっとも謙遜な預言者モーセであって も、神さまに対しては基本的にしもべとしてのスタンスにいなければなりませんでした。 燃える柴の個所でモーセはおののきながら、主の御前にひれ伏しています。主がシナイ山 にご臨在を現された時、黒雲に稲妻にかみなりが鳴り響いて、人々は震え上がったのです。 旧約的な信仰の基本は、聖なる主に対する恐れでした。たしかに、新約の時代にあっても、 健全な意味で神様への畏敬を失ってはいけません。神様に対してなれなれしくなってはい けません。しかし、神様をただ恐怖の対象として考える必要はなくなったのです。 私たちはモーセや偉大な聖徒たちと比べようもないほど小さな者ですけれども、時満ち て神の御子が私たち神の家族の長子となってくださったことによって、神に対して愛と慕 わしさをともなった服従ということが与えられたのであります。 「放蕩息子のたとえ」の中で、弟息子がお父さんから財産の取り分を受け取って旅に出 て、放蕩三昧の生活をし、そしてどうにもこうにもならなくなります。そのとき、息子は お父さんに会ったときなんといえば良いだろうかと適当なセリフを考えます。「私は天に対 して罪を犯し、また、あなたに対して罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はあり ません。あなたの雇い人のひとりにしてください。 」そうして、家路につきます。家では父 親が、息子の帰りを待ちわびて髪が真っ白になっていました。父親は息子がこじきのよう ななりをして歩いてくるのをいち早く見つけると、駆け出します。息子は父親の顔を見る とあの練習しておいたことばを言おうとしました。 「私は天に対して罪を犯し、また、あな 17 たに対して罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません。 ・・・」すると、父 親は最後まで言わせず、 「雇い人などとはとんでもない。おまえは確かに私の息子だ」とい わんばかりに、抱きしめて接吻してやまず、さらに、彼に相続人の証である指輪をはめさ せたのです。 神様は、あなたのことを、いやいや救われたのではありません。神様は、私たちの父と なってくださったのですから、あなたのことを我が子として愛していてくださるのです。 きょうも礼拝者として、神様をあがめるために集ってきたあなたの存在を、何ができるで きないかではなく、あなたがそこに礼拝者として存在することを喜んでいてくださいます。 2.全能の摂理――保持・統治・配慮 全能者である神様は、そのことばをもって万物を創造してくださいました。私たちは、 神様は創造主でいらっしゃることを前回に学びましたが、きょうは、神様の摂理について みことばを味わいたいと思うのです。さて、 『ウェストミンスター小教理問答』は問答11 において、例のごとくたいへん簡潔に摂理について説明しています。 「問 神の摂理のわざとはなんであるか。 答え 神の摂理のわざとは、神の全被造物とそのすべての行動の、最もきよく、賢く、力 強い保持と統治である。 」 (1)保持 神様は無から万物を創造なさったあと、これを放置なさいませんでした。これを保ち、 かつ治めていらっしゃるのです。保持するというのは、これが滅びてしまわないように支 えていらっしゃるということです。神様の保持がなければ、この世界はたちまち無に帰す るでしょう。特に、神様はノアの大洪水の後に契約のしるしとして空に虹をお立てになっ て、おっしゃいました。 「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わ たしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたし の虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起 こすとき、虹が雲の中に現われる。わたしは、わたしとあなたがたとの間、およびすべて 肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い出すから、大水は、すべての肉なるものを滅 ぼす大洪水とは決してならない。虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、す べての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」(創世記9: 13−16) 神様はご自身の真実にかけて、この地球を保持していてくださいます。それで、ノア契 約は「保持の契約」と呼ばれたりすることがあります。 18 (2)統治 次に「統治」ということで言われているのは、目先、サタンが悪事を企てて、やりたい放 題しているように見えても、結局は神様がこれを支配して、ご自分の正しい目的を達成し てしまわれるということです。ヨブ記の第一章を読めばわかるように、悪魔でさえも、神 様の許しがなければ指一本動かすことはできません。もし神様が悪魔を統治することがで きないとすれば、悪魔に敵対して正義のために戦うクリスチャンとしては、一体何がわが 身にふりかかるか不安でならないことでしょう。しかし、現実には神様は彼らを一時は放 置しておられるように見えても、最終的には必ずみこころを成し遂げる知恵と力をもって おられるのです。ジュネーブ教会信仰問の 29 を読んでみましょう。 「問28 悪魔や悪しき人々も、やはり神の主権に服しますか。 」 「答え 神は彼らを聖霊をもってはお導きになりませんけれども、神が彼らに許された限度でな ければ、彼らは活動することができないように、神はその手綱を握っておられるのです。その上 に、たとえ彼らの意図や決意に反してでも、みこころを実行するように彼らを強制されるのであ ります。 」 「問29 それを知ることは、あなたに何か益がありますか。 答え 多くの益があります。なぜならば、もし悪魔どもや不義な人々が神の意志に反して何事 か行なう力があるとするならば、非常に災いであります。そしてまた、彼らからおびやかされて いる限りは、われわれは決して心に安らぎを得ることはできないでありましょう.しかし、神が 彼らの手綱を引き締めて、神の許しによらなければ何事もできないようにしておられることをわ れわれが知るとき、そのことによって、われわれは心を休め喜ぶことができのであります。それ は神がわれわれの保護者であり、またわれわれを護って下さることを約束しておられるからであ ります。 」 悪魔は善きことをも悪に転じようとしますが、神様は悪魔の仕業をも転じて善となすこ とのできる、計りしれない知恵をもっていらっしゃいます。その最大の出来事は神様の御 子が呪いの十字架にかけられたという出来事でした。悪魔と悪しき御使いどもは、この隠 された十字架の奥義を知りませんでした。知りませんでしたから、背後から律法学者・祭 司長・長老たちヘロデなど当時の権力者を焚き付けて、イエスをなきものにしようと企て たのです。そして、最後には十二弟子の一人であるユダの心に入り込んで、主を売らせた のです。 その企ては実にうまく行ったかに見えました。聖なる神の御子が呪わしい十字架にはり つけにされる釘の音を聞いた時、悪魔は喜びの高笑いをしたにちがいありません。しかし、 そこに神の知恵がありました。神様は、私たち人間のすべての罪に対する呪いをあの十字 架にかけられた御子のうえに置かれたのです。あの御子イエスの十字架の死によって、私 たち罪人はその呪いから解放されたのです。復活の朝、自分がやってのけたことの結果を 知った悪魔はどんなに歯軋りしたことでしょうか。神様は悪魔のなした最悪のことさえも、 19 最善に変える不思議な知恵をもっていらっしゃるのです。この全能の知恵ある神様を、父 としていることはなんと幸いなことでしょうか。 (3)試練の配剤 また、私たち一人一人に対する神の配慮あるいは配剤という面で、摂理ということばを 次に味わってみたいと思います。摂理ということばは、プロヴィデンチアというラテン語 の訳語なのですが、このプロヴィデンチアということばは、 「あらかじめ(プロ)、見る(ウ ィデーレ)」という意味で、配慮とも配剤とも訳されることばです。配剤とは医者や薬剤師 が、患者の病状に応じて、さまざまな成分を調合してぴったりの薬を用意することを意味 しています。そのように神様は、私たちのたましいの病のいやしのために、嬉しいこと、 悲しいこと、恐ろしいこと、すばらしいこと、感激すること、平凡な日々、さまざまな出 来事を人生のうちにお与えになることによって、それぞれにピッタリの薬をお与え下さる というわけです。「良薬口に苦し」といますが、聖書を読むと、神様はしばしば苦い薬でも って、その愛する子どもをご自分に似た者、聖なる者へと成長させてくださるのだという ことがわかります。 ヘブル書12章5節から試練の配剤について三つのことを学びましょう。 第一に認識すべきことは、試練は神の愛の証であるということです。神様はが私たちに 配慮として試練をお与えになるのは、私たちを憎んでいるからではなく、逆に、私たちを ご自分の子として愛しておられるからなのだということです。ヘブル 12:5−8 「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れてい ます。 『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはなら ない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからで ある。 』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。 父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲 らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。 」 第二に、父から試練を受けたときは逃げ出さないで、服従することです。良薬が苦いか らといって呑まないで捨ててしまってはいけません。胃の薬はたいへん苦いですが、あれ はオブラートで包んでは効き目がないそうです。あの苦味が胃によいそうです。そのよう に、私たちの人生に起ってくるさまざまな苦々しい出来事も、これを与えてくださる父の 愛の意図を信じるのです。父を敬い、服従してごっくんと飲むことです。父なる神様のご 愛を疑って捨ててはいけない、逃避してはいけないのです。 ヘブル 12:9 「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たち は彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きる べきではないでしょうか。 」 20 第三に、試練の目的は 聖化であるということです。つまり、父なる神様が摂理のうちに、 試練をくださるには目的がある。その目的は、なんと土から作られた被造物である私たち を父なる神様ご自身のきよさに与からせるためであり、平安な義の実を結ばせるためなの だということです。神様に似た者として作り変えるためにこそ、試練はあたえられるのだ ということです。 ヘブル 12:10-13 「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるので すが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲 らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲し く思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ば せます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがた の足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、 いやむしろ、いやされるためです。 」 結び 最後にハイデルベルク信仰問答の 27-28 を読んで結びとしましょう。 「問 27 神の摂理とは何であると思いますか。 答え それは、神の全能なる、今働く力であります。その力によって、神は、天と地と、 そのすべての被造物をも、御手をもってするごとくに、保ちまた支配してくださり、木の葉 も草も、雨もひでりも、実り豊かな都市も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も 病気も、富も貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としての御手によって、 我々に来るのであります。」 「問28 神の創造と摂理を知ると、どのような利益が、われわれにあるのでしょうか。 答え われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、 未来のことについては、われわれのより頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、 いかなる被造物も、われわれを神の愛から、離れさせることはできないようになるのであ ります。 それは、すべての被造物は、まったく御手の中にあるのですから、みこころによらない では、揺るぐことも動くこともできないからであります。 」 21 使徒信条4 ヨハネ 20:27−29、マタイ1:21 我らの主イエス credo in iesm christum, filium eius unicum, dominum nostrum 2005 年 4 月 17 日 小海主日礼拝 1.われらの主:イエスは神である 「主」 (ラテン語 dominus,ギリシャ語 kurios)という呼び名は旧約聖書においてはアド ナイといって、神を呼ぶ最も一般的な呼び名でした。使徒信条の第一条で、私たちは「天 地の造り主、全能の父なる神」に対する信仰を告白しますが、御子イエスの条項において、 私たちは神の御子をも「われらの主」とお呼びするのです。つまり、父なる神が神であら れるのと同様に、御子イエスもまた神であると知り、まさにそのとおりだと承認し、信頼 するのがキリスト者の信仰告白です。 聖書ではイエス様はしばしば「ナザレのイエス」と呼ばれています。当時、イスラエル では苗字がなかったので、地名を付けて呼んだのです。「清水の次郎長」というのと同じで すね。イエス様の宣教活動が始まると世の人々はナザレ村のイエスという人についていろ いろな評判を立てました。ある人々はナザレのイエスはバプテスマのヨハネの再来だとい い、ある人は預言者エリヤの再来だといい、ある人は預言者エレミヤの再来だと噂しまし た。ピリポ・カイザリヤで、イエス様は弟子たちに問われました。 「では、あなたがたはわ たしのことを誰だと言うのか?」すると弟子団の中からペテロが歩み出て答えました。 「あ なたは生ける神の御子キリストです。」この信仰告白の土台の上に、新約の教会は建ったの です。イエス様はおっしゃいました。 「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロで す。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てませ ん。」 (マタイ 16:18)教会は、権力によらず、人間の能力によらず、信仰告白の上に建つの です。 ですから、サタンはこの信仰告白という土台を壊してしまおうと歴史の中で画策してき ました。たとえば、18 世紀頃から聖書を批判する合理主義的な学者たちが登場して、イエ スは単なる愛の教師・道徳の先生、すぐれた宗教家であったと主張してきました。こうい う聖書から離れてしまった神学(自由主義神学といいます)の流れに棹差して、J.G.メイチ ェンという神学者は、はっきりと宣言したのです。「キリスト教信仰とは、『イエス・キリ ストが神を信じたように、我々も神を信じる』という宗教ではなく、『イエス・キリストが 神である』と信じる宗教なのである。」と。 22 その後も、21 世紀の今日にいたるまで聖書を神のことばと信じない立場から、ある者は 「イエスは革命家である」だとか、ある者は「イエスは道徳の教師」だとか、またあるも のは「イエスはスーパースターだ」とか言いたいことを言っています。彼らは、実は、そ れぞれ自分の好みにしたがって、福音書のなかのイエス様の言動をつまみ食いして、もっ ともらしくイエス像を作っているだけのことです。終わりの日、彼らはみな、それぞれ語 った言葉について審きを受けなければなりません。 さて、このように人々はいろいろなことを言っていますが、あなたはナザレのイエスは 誰だというのでしょうか? 二千年前にパレスチナの地でベツレヘムの馬屋に生まれ、大 工さんの生まれ育ち、貧しさの悲しみや生きる悩みを経験し、30 歳にして伝道生涯にはい り、三年間、愛のわざに挺身し、福音宣教に励み、最後にはねたみを受けて十字架ではり つけにされ、それでも十字架の上から「父よかれらをゆるしてください」と祈られたあの 方。そして、三日目に死人のなかからよみがえって、そのからだを示されたあのお方こそ 主である、生ける神であると私たちは信じるのです。 「我はその一人子、我らの主イエス・キリストを信ず。 」 2.イエスが神であるという証(あかし) では、聖書はどのようにあのナザレ村のイエス様が神の御子であるという証を述べてい るでしょうか。 第一は証言です。イエス様は、人々からの「あなたは神です」という信仰の告白を堂々 と受けていらっしゃいます。私たちは、あの疑い深いトマスが、復活したイエス様が二度 目に弟子団に現れたときについに告白した、その信仰告白を思い出しましょう。ヨハネ 20:27−29 「それからトマスに言われた。 『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手 を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になり なさい。 』トマスは答えてイエスに言った。 『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。 『あ なたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。 』 」 またイエス様ご自身が、ご自分が比類の無い神に等しいお方であると証言なさいました。 「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ誰ひとり 父のみもとに来ることはありません。 」ヨハネ14:6 また、ご自分が天地万物が創造される前から父なる神とともに永遠から存在しておられ たとおっしゃっています。ヨハネヨハネ 17:5 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ご いっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。 」 またヨハネ黙示録では、イエス様は「わたしはアルファであり、オメガである。最初で あり最後である」とおっしゃっています。つまり、ご自分は永遠から永遠にいます生ける 23 神であるとおっしゃっているのです。 第二は、イエス様が神が人となってこの世に来られたお方であることは、行なわれた数々 の奇跡が証しています。あるとき、イエス様はほえたけるガリラヤ湖の嵐に対して「黙れ。 静まれ。」とお命じになると、嵐はやんでしまいました。弟子たちは「風や湖までが言うこ とを聞くとはこの方はいったいどういうお方なのだろう」と恐ろしくなりました(マルコ 4:39−41)。この出来事は、イエス様は自然、自然法則に対してまでも権威を持って おられるお方であることを示しています。自然法則さえも支配する権威があるお方といえ ば、自然法則をもお造りになった創造主以外にはありません。 創世記1:3に「その時、神が光あれと仰せられた。すると光ができた。」とあります。 また 6 節「ついで神は『大空よ、水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。とおお せられた。するとそのようになった。 」このように神は権威をもって、水を造り支配するお 方です。ことばをもって万物を創造なさった神が、人となって地上に来られた。それがイ エス・キリスト様なのです。 しかし、イエス様が万物に支配権をもつ神でいらっしゃることは、なによりもイエス様 が罪をお赦しになる権威をもっておられたことからわかります。イエス様がある日ガリラ ヤのカペナウムで、中風で寝たきりの男に向かって言いました。 「子よ。あなたの罪は赦さ れた。」すると、そこに同席した律法学者たちがつぶやきました。「この人は、なぜ、あん なことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪をゆるすことが できよう。」 A さんが B さんに対して罪を犯したとき、A さんに対して「あなたの罪を赦してあげよ う」ということが出来るのは、B さんのほかいないでしょう。ところがもし、そこに C さ んがやってきて、A さんにむかって「あなたの罪を赦してあげよう」といったら、B さんは 「あなたは関係ないでしょう。神様以外になんでそんなことが言えるのですか。 」というで しょう。 イエス様はまさにそのように、人の罪をお赦しになりました。イエス様は、まさしく神 の御子であり、神でいらっしゃいました。 3.イエス――罪からの救い主 そもそも、イエスという名は、父なる神様が御使いをマリヤの夫ヨセフに遣わして、付 けさせた名前でした。人間が考えてつけた名前ではありません。父なる神ご自身がつけた 名でした。いい名づけのマリヤが妊娠したと知って悩み苦しんでいたヨセフに、御使いが 告げました。 マタイ 1:21 24 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民 をその罪から救ってくださる方です。 」 父なる神がつけた名なのですが、イエスという名前は当時のイスラエル社会のなかでは 珍しい名ではありませません。むしろたいへんポピュラーな名前で、新約聖書のなかにも 他にイエスという名の人が二人出てきます(コロサイ4:11ユストの別名、使徒13: 6バル・イエス)。旧約聖書に出てくるので一番有名なのは、モーセの後継者ヨシュアで、 たいへん高潔で勇敢な模範的な信仰者でしたから、彼にあやかりたいというわけで親たち がつける名だったわけです。ほかにもヨシュアという名は出てきますし(2 列王23:8、 ハガイ1:1) 、クリスチャンホームの子どもには、ヨシヤ君(義也君、義哉君、善也君、 治哉君)という名前の子どもがいます。ヨシュアをギリシャ文字で書いてギリシャ風に読 みますと、イエスース、イエスとなるのです。ですから、義也君とはイエス君という意味 ですから、これはすごい名前です!たとえば、韓国風に読むとキム・デジュンなのが、日 本風に読めばキン・ダイチュウとなるように、ヨシュアはイエスとなるわけです。 このヘブル風には「ヨシュア」 、ギリシャ風には「イエス」、英語風には「ジーザス」と発 音するその名の意味は、「主は救い」という意味です。「いと高き神の御子にいませど 世 を救うゆえにイエスとは呼びぬ」とけさ讃美歌で歌ったとおりです。父なる神様は、地上に 御子を派遣なさるにあたって、どういう名前がよいかなとお考えになって、人の子たちの 名前のなかで一番適当なものとして「イエス」と名づけることになさいました。それは、御 子が救い主としてこの世に遣わされたからにほかなりません。 使徒ペテロは次のようにイエス様の御名にのみ救いがあると断言しています。 使徒 4:12 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、 私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。 」 ナザレのイエスは救い主である。しかも、唯一の救い主であると断言するのです。そん な主張はあまりにも排他的ではないかと感じるでしょうか。いったい、なぜイエス様だけ が、救い主であると言えるのでしょうか。それはイエス様だけが、聖なる神の前で私たち を罪から救ってくださるお方であるからです。 「この方こそ、ご自分の民をその罪から救っ てくださるお方です。 」 私たちの住む日本にたくさんある神社が提供するという救いとはなんですか。それは、 たいてい病気や自己からの救いと貧乏からの救いです。「家内安全商売繁盛」というでしょ う。いずれにせよ、神社は現世利益を約束しても、罪からの救いは提供していません。神 社に行って私を罪から救ってくださいとお願いするのは、八百屋にいって魚を売ってくだ さいというようなものです。 では、お釈迦さんが説いたことはなんだったのでしょうか。ある伝道者が日本宣教のた めには、仏教のことも学んでおかなくてはということで仏教の大学で研究をなさいました。 いろいろな仏教学者からむずかしい講義を聞いているうちに、 「変だなあ?」と、先生のう 25 ちに一つの大きな疑問が湧いてきました。そこで質問をしました。 「仏教における救いとは なんですか?」すると、偉い仏教学者が喝破したそうです。「仏教に救い無し!」仏教には 救いはない。あるのは悟りであるというのです。では、その悟りの内容とはどういうこと でしょう。お釈迦さんの教えの要点は、 「救われたい、救われたいという執着が、苦しみを 増幅する。救いなど無いのだとあきらめなさい。 」ということです。このあきらめを悟りと いうのです。 では、私たちはなぜ罪から救われなければならないのでしょうか?それは、罪こそ人間 を不幸にしている根本原因であるからです。すべての祝福は神様にあるのに、罪が神と私 たちの隔てとなっているからです。しかも、罪の問題が解決しなければ人は死後に審きを 受けて燃えるゲヘナに投げ落とされてしまいます。人はどんな病気であっても、それを理 由に地獄には落とされませんし、どんなに貧乏でも地獄には落ちません。むしろ、金持ち が天国に入ることのほうが困難だとさえイエス様はおっしゃいました。 「地獄の沙汰もカネ 次第」などというのは大嘘です。神道のいう救いは罪からの救いではありませんし、お釈 迦さんも罪からの救いは約束しませんでした。 しかし、イエス様には罪からの救いがあるのです。イエス様にのみ罪からの救いがある のです。ですから、 「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御 名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられてい ないからです。 」というのは、排他的というよりむしろ、正当な主張なのです。 永遠の生ける神であるイエス様は救い主キリストとして、私たちの住む歴史のうちに来 てくださいました。そして、自ら私たちの罪をゆるすために、ご自分を犠牲にされました。 あの十字架の上で、私たちが受けるべき罪の呪いを経験なさったのです。イエス様の上に くだった、あの呪いこそ、ゲヘナの燃える火が集約されたものだったのです。「我は、その ひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。 」この告白によって、私たちはイエス様の うちにある罪の赦し、罪からの救いをいただくことができるのです。 26 使徒信条5 キリスト――預言者・祭司・王 christus 2005 年 4 月 24 日 小海主日礼拝 けさは、イエス・キリストの「キリスト」というお名前の意味を学びます。イエスという 名前は、ちょうど、太郎とか花子とかいうのと同じように固有名詞です。けれども、キリ ストというのは井出とか篠原という苗字ではなく、職務名なのです。キリスト(クリスト ス)というのはギリシャ語の動詞クリステイン「油を注ぐ」ということばから来ていて、「油 注がれた者」という意味のことばです。それは旧約聖書のことばヘブル語では「油を注ぐ」 とはマーシャーといい、 「油注がれた者」はメシヤといいます。 油を注ぐという行為は、イスラエルでは人を、預言者、祭司、王として任命するときの 儀式として行なわれたものでした。この油は、神の霊、聖霊を象徴するものでした。祭司 の任命については、アロンとその子らの任職に関して。出エジプト記 30:30 「あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕え させなければならない。 」 預言者の任命については、イザヤに関して。イザヤ書 61:1 「神である主の霊が、わたしの上にある。 主はわたしに油をそそぎ、 貧しい者に良い知らせを伝え、 心の傷ついた者をいやすために、 わたしを遣わされた。 」 王の任命については、ダビデに対する油注ぎの例です。サムエル記第一 16:13 「サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、 ダビデの上に激しく下った。サムエルは立ち上がってラマへ帰った。」 とあります。 キリストは祭司と預言者と王としての職務を持っていらっしゃるのです。では、イエス 様ご自身に、聖なる任職の油が注がれたときとはいつでしょうか。それはイエス様がバプ テスマを受けられたときでした。イエス様の上に神の御霊が鳩のようにくだって、父なる 神様からの宣言がありました。マタイ 3:16−17 「こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開 け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天から こう告げる声が聞こえた。 「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 27 1.キリストの三職 (1)預言者 預言者の職務というのは、その字が示すように、神のことばを預かりこれを民に伝える ということでした。神のみことばをもって、神の民を導くのです。旧約時代最大の預言者 といえばモーセです。ところがそのモーセは次のように語りました。 申命記 18:15 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの 預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。 」 モーセのような預言者、モーセに匹敵する偉大な預言者とは誰でしょうか?モーセは、 神の導きの下に旧約聖書全体の土台にあたるモーセ五書を記した人です。あの偉大なモー セに匹敵し、それ以上に偉大な預言者がいるでしょうか。エリヤでもイザヤでもエレミヤ でもありません。彼らは、堕落したイスラエルの民に、 「モーセの律法に立ち返りなさい」 と警告しましたけれど、モーセの律法を超えたことは語りませんでした。 ところが、イエス様はどうでしょうか。マタイ 5:21−22 「昔の人々に、 『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。 』 と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向か って『能なし。 』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、 『ばか者。 』と言う ような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」 また、こうも言われました。マタイ 5:27−28 「 『姦淫してはならない。 』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わた しはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫 を犯したのです。 」 「人を殺してはならない」 「姦淫してはならない」というのは、モーセの律法です。また、 「しかし、わたしはあなたがたに言う」とイエス様はおっしゃるのです。つまり、モーセ が言ったことはもちろん認めるが、それ以上の権威を持ってわたしはあなたがたに教えよ うとおっしゃるのです。モーセに匹敵し、いやモーセよりも偉大である預言者。それは、 イエス・キリストをおいて他にはありません。 なぜなら、イエス様は、永遠の昔から父なる神のふところにいますひとり子の神である からです。神のひとり子であるので、神様のことを誰よりも正しく知っていらっしゃるの です。その独り子が、2000 年前この世界に人となって降り、そのお言葉とその生き方をも って、神様がどのようなお方であるか、神様のみこころはなにかを教えてくださいました。 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説 き明かされたのである。 」ヨハネ 1:18 28 (2)祭司 次にイエス様がどのようにして祭司の務めを果たされたかについてです。旧約時代、神 様は祭司を任命して、彼らに、民の代表として、神にいけにえをささげさせました。そう して、神様の前で民のとりなしをさせたのです。旧約聖書にはいけにえに関して非常にた くさんの細かい規定がありますが、一例を挙げておきましょう。誓いを破ってしまった場 合のいけにえです。レビ記 5:4−6 「あるいは人が口で軽々しく、悪いことまたは良いことをしようと誓う場合、その人が 軽々しく誓ったことがどのようなことであっても、そしてそれに気づかなくても、彼がそ れを知ったときには、これらの一つについて罪に定められる。これらの一つについて罪に 定められたときは、それを犯した罪を告白しなさい。自分が犯した罪のために、罪過のた めのいけにえとして、羊の群れの子羊でも、やぎでも、雌一頭を、主のもとに連れて来て、 罪のためのいけにえとしなさい。祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい。 」 洗礼式や結婚式で私たちも誓いを立てます。私も結婚式では「私は神の教えに従って、 夫としての分を果たし、その健やかなる時も、病めるときも、富めるときも、貧しき時も、 この人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、死がふたりを分かつまで、堅く節操 を守ることを神と証人の前で誓います。 」と誓いを立てました。しかし、振り返ってみれば 心の中で、また言葉で、また行動で、意識をしても無意識でも、一体何度この誓いを破っ てしまったことでしょう。それは罪です。罪から来る報酬は死ですから、罪の贖いが必要 な罪です。 旧約時代には、罪を犯すたびに牛や羊などのいけにえが捧げられました。罪を犯した人 に対する呪いが、その人の代わりに、いけにえの上に下されたのです。けれども、何度牛 や羊のいけにえが捧げられても、人々はこれで本当に罪が赦されたという平安は得られな かったと聖書にあります。「私の罪のために、いたいけな羊が殺されてしまった。でも、羊 の死によって、どうして人間である私の罪が償えるのか?」という疑問は残りつづけまし た。旧約の民の良心は不安でした。 そこで、神様の御子イエス様が、地上に来られて、祭司としての務めを果たされました。 旧約時代には、動物のいけにえが捧げられましたが、イエス様は、自分自身をまことの小 羊として捧げてくださいました。そうして、自らが呪われたものとなって、私たちの罪を あがなってくださったのです。 「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まこと の聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛 の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとす れば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげにな ったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神 に仕える者とすることでしょう。 」ヘブル 9:12−14 さらに、イエス様は、よみがえられ天に昇ってからも、今も私たちの罪のために父なる 29 神様の前でとりなし祈っていてくださるのです。第一ヨハネ 2:1 「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないよう になるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくだ さる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のため の、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」 私たちが神様の前で罪を犯すとき、イエス様がとりなしていてくださいます。 「とうさん。 私は、あの水草修治という男のために、この命を捨てて罪のあがないをしました。私に免 じて赦してやってください。」と。 (3)王 イエス様の務めの三つ目は王としての務めです。王の務めとはなんでしょうか?それは、 軍事と立法・行政・司法です。敵と戦って民を守り、正義をもって民を治め、裁判官とし て審きを行なうことです。 イエス様は王として、この務めをどのように果たされ、また果たしつつあるのでしょう か。イエス様が、伝道の生活を始められた時、多くの人々がイエス様をこの世の王となる べきかただと誤解をしました。ローマ帝国の軍政下に置かれて苦しんでいたユダヤ人のう ちには、メシヤを待望する機運が満ちていたからです。ローマ帝国のくびきを打砕いて、 祖国イスラエルの栄光を復興させてくれる軍事的な王が出現することを、彼らは待ち望ん でいたのです。悪魔もまた主イエスを、この世の権力・栄華を与えようと誘惑しましたし、 民衆もイエスをこの世の王となるように担ぎ出そうとしました。それどころか、弟子たち でさえもイエス様がエルサレムに上るときに、イエス様がこの世の王となると思っていて 自分たちが右大臣左大臣になれるようにとお願いしているほどです。 けれども、イエス様はピラトから尋問を受けた時に、ご自分がこの世の王ではなく、真 理の国の王であるとおっしゃっています。 ヨハネ 18:37 「そこでピラトはイエスに言った。 『それでは、あなたは王なのですか。』イエスは答え られた。 『わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしを するために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの 声に聞き従います。 』 」 イエス様は真理の国の王として、この世に来られ、サタン人間たちの偽りを暴き、そし て、敵であるサタンと戦いました。イエス様は、十字架において人類の罪と死とそしてサ タンとの戦いに赴かれるにあたって、王の装束をしておられました。それは、決して偶然 ではありません。 「また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せ た。 彼らは、イエスに近寄っては、 『ユダヤ人の王さま。ばんざい。 』と言い、またイエ スの顔を平手で打った。ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。 『よく聞きなさ 30 い。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないとい うことを、あなたがたに知らせるためです。 』それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を 着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに『さあ、この人です。 』と言った。」ヨハネ 19:2 −5 ローマ兵たちはイエスをあざける為に、茨の冠を編み、紫の着物を着せ、葦の棒を王勺 として持たせたのです。こんな弱弱しい男がどうして王であろうかという侮蔑でした。「王 という者は、黄金の冠をかぶり、ベルベットのローブをはおり、立派な王勺を持つもの。 それこそ、誇り高い権力者というものであろう。それなのに、貴様はなんという惨めな姿 なのか!」と嘲るためでした。 しかし、実は、茨の冠を戴き、葦の棒を持たされ、嘲られ、つばを吐きかけられ、ビンタ を食らって、激しく鞭打たれました。その辱めと激痛を忍ぶイエス様こそ、王の王、主の 主でいらっしゃるのです。人類の敵であるサタンに打ち勝ち給う王の王、主の主でいらし たのです。 人の罪の根にあるものは傲慢、頑ななプライドです。時に、人は辱められるくらいであ れば、死をさえ選ぶものです。それほどに侮辱を静かに忍ぶということは、耐えがたいこ とです。しかし、主はその侮辱をあえて受けたまいました。その苦しみによって私たちの ごうまんという罪の根を断ち切るためです。 そして、王なるイエス様は、あの十字架で死んでくださいました。ご自分の死によって、 死という人類最後の敵を滅ぼしてしまわれたのです。そして、死に対して勝利を収めて復 活した後、父なる神の右の座に着座されました。右の座というのは、全権が委ねられた権 威の座を意味しています。「わたしには天においても地においてもいっさいの権威が与えら れています。 」とおっしゃったとおりです。 そうして、後の日、主イエスは再臨なさって、王として世界を審かれるのです。 2.キリスト教会の三職 キリストには預言者・祭司・王という三つの職務があることを学びました。キリストは教 会のかしらであり、教会はキリストのからだです。教会は、この時代、地上にあってイエ スさまのお働きを進めていく器です。ですから、キリストに預言職・祭司職・王職があるよ うに、私たち教会にもまた三職つまり預言職・祭司職・王職があります。このことは第一ペ テロ 2:9 からもあきらかです。 「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされ た民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくだ さった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」 ここに記されていることばのうち、キリスト者と教会の職務にあたることばを拾うと、 31 「王である祭司」そして「神様のみわざを、宣べ伝えること」つまり預言職です。私たち は小さな者ではありますが、小さなキリストとして、預言者であり、祭司であり、王なの です。そういう任務を神様から私たちはいただいています。 預言者として、私たちは神様のみことばを学び、そしてこれを伝えていくという務めが 与えられています。教会では、特に牧師が説教という務めにおいて、それを担っていますし、 子どもメッセージをすることもそうです。みなさんがご自分で聖書を読み、こどもにイエ ス様のことを伝えるとき、やはり預言職を果たしているのです。 祭司として、私たちは何をするでしょうか。もちろんイエス様によって罪の贖いは完成 しましたから、もはやいけにえを捧げる必要はなくなっています。しかし、礼拝すること、 とりなし祈るという務めに関しては、なお残されています。あなたもまた祭司なのですか ら、神様に礼拝を捧げ、賛美をささげ、献金をします。そしてあなたも祭司として、自分 のために祈るだけではなく、主にある兄弟姉妹のため、またご自分の家族のため、また住 んでいるこの世界のために祈る祭司としての任務が神様から与えられているのです。 王として私たちは何をするでしょうか。王の務めとは、軍事・立法・行政・司法だと申し ました。もろもろのことを管理することです。そんな大それたことは私には関係ないと思 うでしょうか。そうではありません。教会にあっては、信徒会に出てご自分の意見をおっ しゃること、教会のお掃除とか色々な管理をすること。この世にあっては、家庭の主婦で あればお料理をしたり、お洗濯をしたり、家計を管理したり、ということがあるでしょう し、また、社会にあっては選挙のときには、ふさわしい方たちに投票をすることがあるで しょう。あるいは、この世で不正がなされていれば、それを正すことも必要です。王の務 めは不正と闘うこと、もろもろのことを管理することなのです。 こうしてみると、私たちの信仰生活というのは、とても範囲の広いことであるというこ とに気づくでしょう。信仰生活というのは、ただ単に日曜日の午前中の一時間か二時間教 会に来ている間のことを意味するのではありません。実は、私たちの一週間すべての生活 において、私たちは預言者として祭司として王として務めを果たして生きて行くように召 されているのです。又、言い換えると、私たちの生活の全領域において、神様の栄光を現 すようにと、父なる神様から期待されているのです。食べることも飲むことも、勉強する ことも、畑や会社で働くことも、家事を行なうことも、子育てすることも、寝ることも、 運転することも、テレビを見ることも、食べるにも飲むにも何をするにも神様の御名があ がめられるようにするのです。 結び イエス様は、キリスト。預言者・祭司・王としての任務を今日も果たしていらっしゃ います。私たちもまた、聖霊の賜物を戴いて小さなキリストとして、預言者・祭司・王とし ての任務を果たしてまいりましょう。そうして、主が戻ってこられたとき、「よくやった、 よい忠実なしもべだ。 」とお褒めのことばをいただけますように。 32 使徒信条6「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ」 ピリピ 2:3-8 神は人となられた 2005 年 5 月 1 日 小海主日礼拝 1.キリストの受肉を否定する異端 古代教会を悩ませた異端的な教えは、大まかに言えば二通りありました。一つは、ユダ ヤ主義の異端で、「人は信仰だけでは救われない、ユダヤ人の行なってきた諸々の儀式律法 も行なわないと救われない」と教えました。つまりキリストの福音とユダヤ教を混合した 混合宗教です。もう一つの異端は、グノーシス主義という異端でした。これはキリストの 福音が宣べ伝えられていったヘレニズム世界の宗教哲学とキリストの福音をごちゃ混ぜに した混合宗教でした。グノーシスというのは「知識」という意味で、人は瞑想やさまざまな 修行をして、ある天的な神秘的知識を得ることによって神と一体化することができると考 えたのです。 グノーシス主義者は、霊肉二元論に立っていました。すべて霊的なものは善であり、す べて物質的なものは悪だと考えました。そういう考えでしたから、彼らは、善であるキリ ストは霊であって、悪である肉体を持つ人となって地上に来ることはありえないというこ とになります。受肉を否定したのです。つまり、キリストは、処女マリヤから生まれたの ではなく、霊としてこの世界に来られ神秘的な知識を教えたのだと教えました。そうして、 その神秘的なグノーシス(知識)をわがものとすれば、自分も神になることができると教え たのです。ヨハネの手紙第一は、こうしたグノーシス主義に対する反駁書という性格を持 つ書簡です。 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からの ものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神 からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではあり ません。それは反キリストの霊です。 」第一ヨハネ 4:1-3 しかし、聖書はそんなことは教えていません。まず、神様は霊も物質も含めて万物を創 造なさったお方です。神様は、光に始まって、地球、海、陸、天体、動植物そして人間を 創造なさいました。そして、「見よ。それは非常によかった。」と書かれています(創世記 1: 31)。本来、霊も物質も、ともに神様の被造物として善いものなのです。たしかに人間の堕 落によって世界には罪の汚染の影響が及んでしまいますが、そういう意味では、物質だけ 33 が罪の汚染を受けたのではなく、霊にも罪の影響は及んでいるのです。イエス様は、むし ろ心が汚れていて人を汚すとおっしゃいました。マルコ 7:18-23 「イエスは言われた。 『あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人には いって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような 物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。』 イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。 『人から出るもの、 これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、 不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚 かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』 」 そして、聖書はイエス様は、単に霊として地上に来られたのではなくて、霊肉ともに本 物の人となってこの世に来られたのだと、きわめて明瞭かつ丁寧に告げています。ルカ伝、 マタイ伝にはそのクリスマスの出来事の消息が詳しく記されていますが、ここでは永遠の ことばなる神の受肉についてヨハネ伝冒頭を見ておきましょう。 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、 初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、 この方によらずにできたものは一つもない。」ヨハネ1:1−3 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 」ヨハネ 1:14a 2.人間の宗教哲学の理想:「あなたは神になれる」 この世の多くの人々はキリスト教というのは、世界のさまざまの宗教の一つにすぎない と思っています。けれども、<神が人となられた>という福音の告げる真理は、実は、き わめてユニークな真理で、聖書だけが告げている出来事なのです。 十年程前、私は『ニューエイジの罠』という小さな本を書くために、さまざまな宗教に ついて調べたことがあります。仏教、神道、ヒンドゥ教、サイエントロジー、幸福の科学、 真光教、ニューエイジなど。それから、心理学とか自己啓発セミナーなども調べました。 調べてみると、枝葉はいろいと違っていても、どれもこれも、その中心的なところは共通 していることを知りました。それは<あなたは神になれる>とか<自分が神であることに 気づきなさい>という教えです。聖書は<神が人となった>というのですが、これらの宗 教は<人が神になる>というのです。 たとえば、ヒンドゥ教における悟りの境地というのは、「梵我一如」といいます。「梵」 というのは宇宙の根本原理つまり神のことです。 「我」とは自我です。神と私が一つになる というのです。ヨーガの体操、呼吸数を減らす修行をしたりして、その果てに、悟ると人 は自分が宇宙原理と一つだと感じる、それが梵我一如の境地だそうです。 それぞれの宗教にはいろいろな修行があります。頭がしびれるくらい冷たい滝の水に打 34 たれるとか、何千回もひたすらにマントラ(呪文)を唱えるとか、呼吸を制限するとか、 食事を制限するとか、睡眠を制限するとか。オウム真理教では、冷たいプールの中に何十 分間もずっと息を詰めて入らせるなどということさせていました。そうすると、 「私は神だ」 という境地に至るそうです。 ある研究者がヒンドゥ教のヨギが悟りを開いたときの脳の状態を調べたそうです。分か ったことは、そのとき脳は酸欠状態に陥っているということでした。呼吸をずっと減らし ているのですから、当然です。脳が酸欠状態に陥りますと、宇宙と自分が一体になったと いうような「変性意識」というものを持つそうです。私はその話を聞いて、以前、ある柔 道家が話していたことを思い出しました。彼はこう言いました。 「絞めわざを食らって意識 不明になると、必ず気持ちのよいお花畑に言った夢を見たもんだよ。」頚動脈を押さえられ て脳が酸欠状態になったのです。また、ある種の薬物を用いますと、やはり簡単に脳が同 様の酸欠症状に陥るそうです。そうすればインドのヨギが何十年も修行をして達する境地 に、10分で到達するということを言っていました。 もしそれが真相だとしたら正体見たりなんとやら、ですが、科学による「悟り」の種明か しの当否はともかく、こうした修行が危険なことは、だんだんと自分が神に近づいている、 偉くなっていると思い込んでしまうことです。すると、他の人々を霊的に段階の低い連中 であると見下すようになる。そして、ついに「私は神になった」と思い込むようになります。 しかし、 「私は神になった」という境地はたいへん危険なことです。それは、実はサタンの 罠です。エデンの園で蛇は女にささやきかけたではありませんか。 「あなたがたは決して死 にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神の ようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 (創世記 3:4-5) 本来、万物の創造主である神様だけが、世界の善悪を知る方です。創造主が善悪をお定 めになるのです。ですから、最初の人アダムは他のすべての木から取って食べてよいけれ ども、ただ一本「善悪の知識の木」からだけは取って食べてはならないとされたのでした。 人間は神様に造られたものですから、神様の定めた善悪したがって生きることが正常なの です。けれども、サタンは「あなたは神のようになり、善悪を知るようになる。 」と言いま した。それは、 「あなたは神に従う必要などない。あなたが好むことが善であり、あなたが 好まないことが悪なのだ。」という意味です。 たいへん極端な例ですが、十年ほど前ある新新宗教の指導者は修行の結果、<私が神で ある。私が望むことが善であり、私が望まないことが悪である>と思うようになりました。 そこで、彼は、自分に都合の悪いことをする人々に、これ以上罪を犯させないために、抹 殺したのです。しかも、それを良心の呵責なくやってのけてしまったのです。 3.神が人となられた:キリストの福音 しかし、聖書は神が人となられたと告げるのです。しかもまことの人となられたのです。 35 ガラテヤ 4:4-5 「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた 者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、 その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」 4-5 世紀に生きた教父アウグスティヌスは、キリスト教神学史上、最大の人です。彼は敬 虔なクリスチャンの母モニカに育てられながら、母の素朴な信仰に飽き足りずに、若い日 はマニ教というグノーシス的宗教にのめりこみ、その後、新プラトン派哲学に傾倒しまし た。しかし、不思議な神様の導きの中で己の罪深さを知って悔い改め、ついにキリストに 救われるのです。彼は新プラトン派の書物を読んで、「永遠のことば」について哲学的新知 識を得たけれども、それとともに非常に傲慢になって行った、と言います。多くの知識を 得て肉欲に溺れた生活を抜け出したいと願いながら、抜け出すことが出来ないでいました。 理屈では、きよい生活を望み、そこに平安があるのだろうと思いながら、実際には罪と欲 の泥沼のなかでもがいていたのです。 そんなある日、アウグスティヌスは友人に、母モニカをはじめ学問もない素朴なキリス ト教徒たちが天国の約束を手に入れて平安な生活をしているのを見て、うらやましくてた まらずに叫びます。 「どうして僕たちはこんな目にあわなければならないのだろう。聞いた かい。学問もない連中が立ち上がって、天国をかっぱらってしまったんだよ。僕たちはな まじ学がありながら、心がないから、どうだ、肉と血の中をころげまわっている。先を越 されたからといって、後に続いていくことを恥ずかしく思ってはいけない。せめてその後 にでもついて行こうとしないことを恥じるべきではないか。」(『告白』山田晶訳) アウグスティヌスはこうして苦しみの果てに、隣の家から「取りて読め、取りて読め」 という子どもの声を聞きます。これは神様が自分に語っておられるのだと彼は思って、そ こにあったパウロのローマ書を開きます。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活 ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着 なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。 」アウグスティヌスは言います。「この 節を読み終わった瞬間、いわば安心の光とでもいったものが、心の中に注ぎ込まれてきて、 すべての疑いの闇は消えうせてしまいました。 」(同訳) こうして、彼は新約聖書を読むようになり、ある発見をします。彼は新プラトン派の書 物の中にも、ヨハネ福音書の冒頭にあるような「永遠のことば」についての哲学的な教え を読んだことがあった。けれども、 「ことばは、人となって私たちの間に住まわれた」とい う受肉については聖書ヨハネ福音書で初めて知ったというのです。また、彼はピリピ書2 章にあるキリストの謙遜と受肉と十字架の記事にも驚きました。 「キリストは、神の御姿で あられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にし て、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質 をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたので 36 す。」栄光に満ちたきよい永遠の真理、神の御子が人となって地にくだり、さらに辱めの十 字架までもしのばれたというのです。アウグスティヌスはこのことに驚きました。 要するに、人間の考えた高度な哲学的宗教においては、人は「神に成り上がる」ことを 理想としており、したがって人は上昇志向をもっており、あからさまであれ、いかにも謙 遜みえる密やかな形においてであれ霊的傲慢に膨れ上がっていかざるをえないのです。け れども、キリストの福音は逆です。尊い神の御子すなわち永遠のことばなる神が、神のあ り方を捨てることが出来ないとは考えないで、謙遜にも、人となってくださったのです。 ですから、キリストの福音にあっては、私たち人間は「神に成り上がること」を目指す必 要は毛頭ありません。私たちは人であることに満足すればよいのです。人として造られた ことに平安を持てばよいのです。 では「人である」とはどういうことですか。神様は本来、人間をご自分のかたちとして 創造してくださいました。けれども、最初の人の堕落によって、その神のかたちはひどく 傷ついてしまいました。以来、罪を背負って生まれてくる私たちは、人間でありながら十 分に人間ではなくなっているのです。 「まことの人」ではないのです。しかし、神のみ子イ エス様が、天の栄光の御座を後にして、へりくだった「まことの人」となって来てくださ いました。イエス様だけが、アダム以後堕落の影響を受けていない「まことの人」なので す。そこで、私たちは、己の罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ、イエス様に神の子 どもとする御霊をいただいて、クリスチャン生活を歩むことが許されているのです。それ は、 「神になること」を目指す道ではなくて、本来の「神のかたち」つまり本来の人間性を 回復させていただくことを願い祈りながら生きる道です。それが、御霊の実を結び、キリ ストの似姿にしていただくことに他なりません。 ある人がアウグスティヌスに質問しました。 「先生。キリスト者にとって一番たいせつな 徳とはなんですか。」彼は答えました。 「それは謙遜ということです。」すると、また尋ねま した。 「先生。ではキリスト者にとって二番目にたいせつな徳とはなんですか。」アウグス ティヌスは答えました。 「それは謙遜です。」するとその人はまた尋ねました。「先生。では クリスチャンにとって三番目にたいせつな徳とはなんですか。 」アウグスティヌスは答えま した。 「それも謙遜ということです。 」 アウグスティヌスは、かつて自分が哲学的宗教に凝って知的傲慢になり、母モニカの素 朴なキリスト信仰を軽蔑するという愚かなことをしていたことをふりかえって、慙愧の念 にかられながらこのように言ったのでしょう。キリスト者において一番大事な徳とは、謙 遜なのです。尊い神の御子が栄光の座を捨てて、人となって来てくださいました。しかも、 主イエスは王侯貴族の家にでもなく、有名な学者の家にでもなく、貧しい庶民の家庭にお 生まれになりました。そうして、実に、あの辱めの十字架を背負って、ゴルゴタへの道を 一歩一歩踏みしめて行かれました。このお方の御霊を受けているという私たちが、もし何 らかの傲慢にふくれあがっているとしたら、それはなんと愚かしいことでしょう。なんと 恥ずべきことでしょう。キリストが神の栄光を捨て、まことの人として十字架への道を歩 37 まれたように、私たちはあくまでも人として、自分の十字架を背負って主の跡をついてま いりましょう。 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもす ぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたが たの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるも のです。 」(ピリピ 2:3-5) 38 使徒信条7、マルコ 15:1−15 「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」 2005 年 5 月 8 日 小海主日礼拝 1.歴史的事実として 「福音書を読むと、ポンテオ・ピラトというのは、イエス様を処刑したいとは思ってい なかったことがわかる。なのに、なぜ使徒信条は『ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け』 と言っているんですか?なんだか気の毒みたいです。」こんなことを言う人に何度か会った ことがあります。確かにピラトはイエス処刑に反対でした。けれども、最終的にはユダヤ 人の暴動を恐れて保身のために臆病風に吹かれて、彼はついにイエスをユダヤ当局の手に 委ねました。 「ポンテオ・ピラトの下に」と長い教会の歴史の中で、繰り返し言われてきま した。では、なんのために「ポンテオ・ピラト」という特定の歴史上の人物名が使徒信条に 刻まれているのでしょうか? 第一に、それは、主イエス・キリストがこの私たちが生きている現実の歴史の中に来ら れ、現実の歴史の中で十字架に付けられて私たちの贖いを成し遂げたことを明瞭にするた めです。当時のグノーシス主義という異端は、キリストが霊として来たといい、イエス・ キリストが歴史的実在だという事実をあいまいにしようとしていたからです。イエス・キ リストはギリシャ神話中のゼウスや、浄土神話中の阿弥陀仏のような架空の存在ではなく、 歴史の中に来られた実在の神、実在の救い主なのです。 ポンテオ・ピラトは、ローマ帝国がパレスチナに派遣した第五代目の総督でした。紀元 26 年から 36 年まで、彼はパレスチナの総督を務めたことが、聖書以外の歴史資料で確認で きます。イエス様は公生涯の最後にピラトの法廷に引き出されて、無罪判決を受けながら、 不当にもユダヤ人に引き渡されて、その日、午前九時に十字架につけられ午後三時頃に息 を引き取り、十字架から下ろされました。 主イエス・キリストが歴史上の人物であり、歴史の中で十字架において私たちのために 罪のあがないを成し遂げてくださったことが、「ポンテオ・ピラトの下に」とあることによ ってはっきりと告白されるのです。『使徒信条』の原型がまとめられた時代の人々の印象か らいえば、 「ああ、あのローマ総督ピラトの時代にね」ということでした。たとえていえば、 「ダグラス・マッカーサー元帥が日本を支配していた時代に」というような印象です。主 イエスの実在、主イエスによる贖罪のわざは、神話中の架空のお話ではなく、歴史の中で の事実なのです。 2.キリストと国家権力 39 さらに聖書を読みますと、 「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け」ということばは、単 に、主イエスが歴史に出現した、実在の救い主であるということだけでなく、<キリスト (メシヤ)はこの世の権力者によって苦しめられる>ということ、つまり、国家権力の問 題性を示していることばであることがわかります。ローマ総督ポンテオ・ピラトは、当時 の権力の中の権力であるローマ皇帝から全権を委ねられてユダヤに来ていた者でした。 主イエスご自身、その 3 年ほどの伝道生活の中で、少なくとも三度にわたってご自分が この世の権力者に捕らえられ引き渡され苦しめられ、殺されると予告なさっています。そ のひとつを引いてみましょう。マルコ 10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレム に向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、 人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。」 祭司長、律法学者はユダヤ最高議会サンヒドリンの議員連であり、異邦人というのはポ ンテオ・ピラトのことを意味しています。 さらに、『使徒の働き』では、メシヤ詩篇である第二篇を引用して、権力者たちが結託し てイエス・キリスト様に敵対したことは、旧約聖書に示された神のご計画なのだというこ とが語られています。使徒 4:25 −28「あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり 私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。 『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、 もろもろの民はむなしいことを計るのか。 地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主と キリストに反抗して、一つに組んだ。 』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイス ラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らっ てこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを 行ないました。 」 この世の権力は、えてしてキリストに敵対する習性があるものなのです。イエス様がこ の世界に来られたときから、そうでした。イエス様がこの地上ベツレヘムにお生まれにな ったとき、当時の権力者であったヘロデ大王がそのことを聞きつけてただち殺害しようと しました。ベツレヘムの二歳以下の男の子をことごとく殺害したのです。そして、イエス は、ユダヤ最高議会サンヒドリンによって死刑と宣告され、さらに、異邦人の最高権力ポ ンテオ・ピラトの裁判にかけられ、ついに、十字架刑に引き渡されてしまいます。 黙示録 12 章は、実は、キリストに敵対するこうした政治権力の背後にはサタンがいたと 告げています。「竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、 その子を食い尽くすためであった。 」 (黙示録 12:4) イエス様は復活なさった後、多くの弟子たちに出現して世界宣教命令をお与えになり、 天に戻られます。教会がキリストのからだとして、イエスさまの福音宣教を始めたとき、 教会をつぶしにかかってきたのは、やはり、この世の権力者たちでした。まずユダヤ当局 がイエスの御名を宣べ伝えてはいけないと禁令を出しました。そして、使徒パウロも地中 海世界行く先々でユダヤ当局からの迫害を受けています。 40 さらに、1 世紀後半になり福音がさらに伝えられ、急速にキリスト者の数が増えてまいり ますと、今度はローマ帝国当局によるキリスト教会への迫害が生じてきます。有名なのは 皇帝ネロによる迫害でしょう。彼は自らローマの都に火を放っておいて、その罪をキリス ト教徒に着せて、多くのキリスト教徒を処刑します。さらに、彼の後も、デキウス帝、ヴ ァレリアヌス帝、ディオクレティアヌス帝、ドミティアーヌス帝といった皇帝たちによる キリスト教会の迫害が続きます。なぜローマ皇帝たちはキリスト教徒を迫害したのでしょ うか?キリスト教徒が税金を納めず、反国家的行動を取ったからでしょうか?いいえ。そ うではありません。 「ローマ皇帝は神である」と称して、帝国民に皇帝礼拝を強制したのに、 キリスト教徒が皇帝礼拝を拒否したからです。 その迫害の中でキリスト教徒は爆発的にふえて行きます。そして、313 年にコンスタンテ ィヌス皇帝によってミラノ勅令が発せられてキリスト教はようやく公認されます。キリス ト教会はこれで一安心したのです。 ところが、その後のヨーロッパの歴史を見ますと、今度は、ローマ皇帝や、ローマ帝国 滅亡後のヨーロッパの国王たちは、多くの場合キリスト教を国民を統治するための手段と して利用するようになります。キリスト教会と国家の歴史にかんする教訓を簡単にまとめ て申しますと、次のように成ります。 国家権力は、キリスト教徒が少ない時代にはこれを迫害する傾向があります。キリスト 者が国家権力者を神としてあがめようとしないからです。しかし、キリスト教徒が増えて 社会的影響力を持ってまいりますと、今度は国家権力はキリスト教を利用して国民をまと めようと企てます。キリスト教を国教化するのです。もし教会が、それに安易に同調する と、キリスト教は御用宗教に成り下がってしまいます。 ですから、教会としては、国家(皇帝・王・大統領・天皇)ではなくキリストのみが、 教会のかしらであることを決して見失わないようにしなければなりません。 3.教会と国家権力 では、聖書は国家についてどう教えているでしょうか。簡潔に、二つのことをお話して おきます。 第一は、国家の権威は、本来、この世が無秩序になってしまわないために、神が用いる 道具ですから、キリスト者である私たちは、王や総督、総理大臣や裁判官などをそれなり に敬い、税金も治めなさいということです。ローマ 13:1―7 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権 威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神 の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。支配者を恐ろ しいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたく ないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼 41 があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なう なら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のし もべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしい からだけでなく、良心のためにも、従うべきです。同じ理由で、あなたがたは、みつぎを 納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、 だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税 を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければ ならない人を敬いなさい。 」 Ⅰペテロ:13,14 「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であって も、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であ っても、そうしなさい。 」 第二は、国家権力者はこの世俗世界の無秩序化を防ぐための神の道具ですから尊ぶべき ですが、国家権力は神そのものではないのですから、彼らに良心の自由を奪われてはいけ ないということです。言い換えると、私たちは国が信仰のことがらに口出しをしてくるこ とを、けっして許してはいけないということです。 先に見ましたように、国家権力はえてして、宗教を利用し、宗教に介入して、これを国 民を治める手段としようとします。明治以降の日本の国家神道政策はその典型でした。政 府は、現人神天皇を頂点とする国家神道によって、国民を総動員して富国強兵政策を進め ました。靖国神社は軍国主義国家神道の中核でした。多くの兵士たちが、 「死んだら靖国で 会おう」ということばを合言葉に戦場に出かけ、「天皇陛下万歳!」といって死にました。 政府は「立派に天皇陛下のために死んで来い。そうしたら、神々として祀ってやろう。」と 言って、国民を戦争に駆り立てたのです。 しかし、主イエスはおっしゃいました。 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」(マ ルコ 12:17)私たちは、国民として納税義務などは果たすべきですが、礼拝という務めは 神にのみ果たすべきであって、カイザルに対して返してはならないのです。 その点が、権力者には気に入りません。黙示録 13 章を見ますと国家権力とサタンの関係 が書かれています。サタンの影響を受けた権力者は、傲慢になって軍備拡張・侵略戦争を 進めたくなります。そのため民心までコントロールしようと御用宗教を用いるのです。か つてヤロブアム王は、北イスラエルに二つの偶像を造り、国家宗教を創設して民心を掌握 しようと企てました。かつてダニエルいた時代バビロンでは、ネブカデネザル王が自分を 象徴する金の柱を拝ませました。ローマ皇帝は皇帝礼拝を求めました。近代においては、 ドイツではヒトラーは崇拝の対象でしたし、ソ連ではスターリン崇拝、中国では毛沢東崇 拝、北朝鮮では金日成崇拝、そして、かつてわが国では現人神である天皇への崇拝が求め 42 られました。 かつて朝鮮半島をはじめ日本軍が侵略した国々には、多くの神社が建てられ、神社参拝 が強制されました。このとき、アン・イスクさんという一人のクリスチャンの学校教員が いました。彼女は神社参拝を拒否して、ひどい目に遭わされます。その少し後、山で神様 にお祈りをしていましたとき、彼女は天からの声を聞いたそうです。「このままでは日本の 国に火と硫黄の雨が降ることになる。日本に行き、彼らに警告を与えよ。 」そうして、同じ ことを祈りのうちに示された朴長老とともに、日本に来られまして、帝国議会傍聴席から その警告を記した文書を投げ込みました。けれども、日本の当局はまるで聞く耳を持ちま せんでした。彼らを投獄し、いっそう教会への弾圧を強めます。礼拝に検閲がはいり、礼 拝のなかで皇居遥拝を強制し、戦意高揚のための歌「海ゆかば 水漬くかばね 山ゆかば 草生すかばね 大君の辺にこそ死なめ」や君が代を斉唱することが求められました。また、 キリストの再臨によってこの世の権力はみな滅びて神の国が来ると強調すると教える牧師 たちは逮捕され、幾人かは獄死しました。朝鮮半島での教会の国家への抵抗はもっと頑強 だったので、その迫害ははるかにひどく、2000 人のクリスチャンが投獄され、200 人の牧 師たちが殉教しました。 しかし、ついに、日本には神の審きがくだりました。その結果、日本全土には B29 によ って文字通り火と硫黄の雨が降り注ぎ、日本は広島と長崎に原爆を落とされて、1945 年 8 月 15 日敗戦を迎えます。聖書的な歴史の見方からすれば、かつて神が軍事大国アッシリヤ を杖として用いて偶像崇拝化した北イスラエル王国を滅ぼされたように、神は米軍を用い て日本を撃たれたのです。 今日の急速に右傾化しつつある日本はどうでしょうか。私たちは目を覚まして、みこと ばに聞き、祈り、適切に発言し行動しなければなりません。 むすび 私たちの主イエス・キリストは「ポンテオ・ピラトの下に」苦しみを受けられました。 ですから、キリストのからだである教会が、キリストに忠実であろうとすれば、権力があ やまちを犯しているときには、この世の権力から苦しみに遭わされることもあります。し かし、主イエスがその苦しみを通して、人類を救済し、神の栄光を現わされたように、私 たちもその苦しみを通して、神様のご栄光を現すことになります。 国家の権力者がサタンの影響を受けるとき、国家は国家宗教を創設し軍国主義化してい くということを歴史の中で繰り返してきました。私たちはキリスト者として、神の道具で ある国家に対しては一定の敬意を払うべきです。しかし、また同時に、キリスト者として、 この国が滅亡に向かって暴走し始めることに対しては NO と警告を発する責任もあります。 主イエスはおっしゃいました。 「あなたがたは世界の光です。あなたがたは地の塩です。 」 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのため の苦しみをも賜ったのです。」ピリピ1:29 43 使徒信条8 ガラテヤ3:13、マルコ15:25−34 十字架につけられ 2005 年 5 月 15 日 小海主日礼拝 1.十字架の死であったわけ 「主は聖霊によりて宿り、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受 け、十字架につけられ死にて葬られ」とあります。人の死に方にもいろいろありますが、 イエス様の死は十字架刑による死でした。どうしてイエス様の死は十字架刑の死でなけれ ばならなかったのでしょうか。 世界の聖人と呼ばれるような人たちの死を思い返してみると、十字架のイエス様ほどむ ごたらしい死を迎えたという人はほかに例がありません。シャカは、檀家がくれたお饅頭 を食べておなかを壊して死にますが、その時には弟子たちが周囲に集まって泣き悲しむな かで、「自己灯明。自己灯明。しっかり修行しなさい。 」と説教を垂れてから静かに死を迎 えたそうです。哲学者ソクラテスの場合は、裁判で死刑に定められた点ではイエス様に似 ていますが、その死刑の方法は毒杯を仰ぐという方法で、その時、そばには弟子も仕える ことが許され、ソクラテスは従容として死に臨みます。彼は逃げることもできましたが、 「悪 法もまた法であるかぎり、これに従うべきである」という己の信念に殉じたのです。その 死に方には自由人として、名誉ある方法が許されたのです。シャカにせよ、ソクラテスに せよ、いずれもかっこいい死に方ですね。 彼らと比べるとイエス様の死は、この上もなくむごたらしく、格好悪いものでした。ま ずイエス様が愛した弟子たちの一人がイエス様を敵に売り渡し、他の弟子たちもイエス様 を捨てて逃げ出してしまったという点で格好悪い。次に、ローマ兵による「半殺し」と呼ば れる残酷な鞭打ちがされ、背中の皮はむけ肉が裂け骨が飛び出すほどの激痛を味わわされ ました。その上、目隠しをされて嘲られ、殴りつけられ、つばまで吐きかけられ、公衆の 面前で着物を剥ぎ取られ、いっさいの尊厳を無視されました。そうした挙句、イエス様は 十字架に犬釘で手足を釘付けにされ、怒号の中で処刑されたのです。そして、なによりも 悲惨なことは、イエス様は最期のときに十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ わ が神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 」と叫ばれたことです。これ ほど惨めな死がほかにありえるでしょうか。 イエス様は、手塩にかけて育てたはずの忠誠を誓った弟子たちに捨てられ、人として最 小限の尊厳も名誉も奪い去られ、耐えがたい肉体と精神の激痛にさいなまれ、そして、こ れまで自分が懸命に説いてきた神に見捨てられてしまったという絶望の叫びを上げて死ん 44 でいかれたのです。人となられた神はそういう死に方をしなければならなかったのです。 このように、イエス様の死は、哲学者や宗教家たちの誇り高い従容とした己の信念に殉 ずるという格好よい死とは、まったく異質の死でした。また多くのキリスト者たちが、ロ ーマ帝国の暴君ネロの迫害下で、みごとに天に希望をもって殉教していった死とも異質の 死だったのです。イエス様の死は、呪われた死でした。イエス様の死は惨めな絶望の死で なければならなかったのです。イエス様の死が十字架刑によらなければならなかったのは、 そのためです。ガラテヤ 3 章 13 節に次のようにあります。 「キリストは、私たちのために呪われた者となって、私たちを律法の呪い(katara)から 贖い出してくださいました。なぜなら、 『木にかけられる者はすべて呪われた者である。』 と書いてあるからです。 」 黙示録 14 章 13 節に「これから後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」とあります。ク リスチャンの死は幸いなのです。行く先は天の御国であり、栄光の義の冠が待っています から。しかし、イエス様の死は決して幸いではありませんでした。イエス様の死は呪われ た死であったからです。呪われた死とは、つまり、神から有罪者として断罪された者とし ての死です。神に捨てられてしまった者の死です。ゲヘナの呪いとしての死です。ですか ら、イエス様は聖人と呼ばれるような人々の死のありさまとは、まったく違う死に方をな さらねばなりませんでした。 ハイデルベルク問答書は次のように言っています。 問39 主が十字架につけられたということは、他の死に方をなさったということよりも、 さらにほかの意味があるということでしょうか。 答 そうです。なぜなら、それによって、わたしは、主が、私の上にかかっていたのろい を、自らの上に担ってくださったことを確信するからであります。十字架の死は、神によ って呪われたものだからであります。 2.呪いの暗闇 イエス様が十字架に釘付けにされたのは、紀元 30 年 4 月 7 日午前 9 時でした。そして、 午後 3 時にイエス様は十字架上で死を迎えます。つまり 6 時間にわたってイエス様は十字 架の上に苦しまれたのです。ですが、この6時間は、正午までの前半の 3 時間と、正午か ら午後 3 時までの三時間とで、ずいぶん様子が異なっていることに気づきます。 前半の三時間、ゴルゴタの丘は、人々のイエスに対する罵声で満ちています。マルコ 15 章――。 29 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。 「おお、神殿を打ちこわ して三日で建てる人よ。 45 30 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。 」 31 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけ って言った。 「他人は救ったが、自分は救えない。 32 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれ は、それを見たら信じるから。 」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイ エスをののしった。 けれども、午前九時から正午まで、イエス様は人々から辱めを受け、激痛にさいなまれ ながらも、なお余裕がおありだったように見えます。ルカ伝の並行記事を見ると、イエス 様は十字架にかけられている隣の犯罪人に福音を伝えることさえおできになりました。犯 罪人がイエス様に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出 してください。 」というと、イエス様は、彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはき ょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と素晴らしい約束をお与えになることさえお できになりました。 ところが、正午になると、太陽は光を失いました。そして暗闇が三時間にわたって地上 を覆い、主イエスの十字架を包むのです。恐れた人々はちりじりになってしまい、恐怖の あまり黙ってしまったのでしょうか。とにかく、この三時間はあの「神の子なら十字架から 降りてみろ!」という罵声が記録されていません。暗闇と沈黙のなかにイエス様は捨て置 かれます。そして、三時間が経とうとするとき、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバク タニ!わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか。 」と絶叫なさったのです。 あの暗闇はなんだったのか。聖書のなかで、しばしば暗闇は神の審きの表象として扱わ れています。たとえば、神様が反抗するエジプトのパロを懲らしめるために、裁きとして 三日間の暗闇をもってエジプトを覆いました。出エジプト 10:22「モーセが天に向けて手 を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。」 また終末的な審きについて、アモス、ゼパニヤは次のように預言しています。アモス 5:20 「ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。」 ゼパニヤ 1:15「 その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗 黒の日、雲と暗やみの日」 そして、イエス様は主が再臨なさったとき、審判を経て有罪とされることについて、不 忠実な役に立たないしもべが外の暗闇に追い出されるといわれました。 マタイ 25:30「 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎし りするのです。 」 ゴルゴタの丘を覆ったあの暗闇は、最後の審判におけると同じ終末的な呪いの暗闇でし た。神の呪いを表わす暗闇でした。前半の三時間のイエス様は、激しい苦しみの中に置か れていても、なお天の父との交わりを保っていらっしゃいました。どんなに人々がイエス 様を、罵り、侮辱し、苦しい目にあわせたとしても、イエス様はなお父なる神との交わり 46 を持っていました。永遠から御子を愛しておられる父がイエス様とともにいらっしゃいま した。 「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」とおっしゃった御父がイエス 様とともにいらっしゃいました。ですからイエス様にはどんな屈辱にも激痛にも耐えるこ とがお出来になりました。そのありさまは、古代教会の多くの殉教者たちが賛美のうちに 天に召されていった姿と重なります。 ところが、後半の暗闇においては、イエス様は絶望していらっしゃいます。神にも見捨 てられた姿です。その姿は、むしろ神に捨てられた永遠の劫火で苦しむゲヘナの亡者に重 なります。御子が「アバ父よ、アバ父よ!」といかに呼んでみても、父なる神はお答えにな りませんでした。御父は、御子を罪人の代表として有罪者として呪いのうちに、お見捨て になったのです。御子イエスは人類の代表として、神からの有罪者への呪いを受けて、捨 てられました。 ゴルゴタの十字架につけられた御一人子をご覧になっている父なる神は、罪人である私 たちのためにいのちを惜しまず捨てた御子をいとおしさのあまり、胸張り裂けてしまわれ ました。 「心に迫る父の悲しみ 愛するひとり子を十字架につけた 人の罪は燃える火のよう 愛を知らずにきょうもすぎて行く 十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙 十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛」 3.呪いと祝福の交換 しかし、神の御子イエスが、人類の代表として呪いの中に死ぬことが、私たちの救いに とって必要不可欠なことでした。イエス様は、永遠から祝福に満ちた神の御子でいらっし ゃいます。天地の造られる前から、御父とともに聖なる愛の交わりをもっていらっしゃる のがイエス様です。そのイエス様が、ご自分のもっていらっしゃる大いなる祝福を私たち に与えてくださいました。 宗教改革者 M.ルターは、イエス様が罪の罰を受けてくださることによって、私たち神様 の前に罪ある者が赦されたという救いについて、 「交換」ということばで説明しました。私 たちがイエス様を信じるとき、私たちが聖なる神の前に犯した罪に対する呪いをイエス様 にお渡しするのです。そして、イエス様は私たちに呪いに代えて祝福を与えてくださいま す。呪いと祝福を交換するのです。 なんと虫のよすぎる話でしょうか。そんな虫のよい話でよいのか?と思ってしまうでし ょう。けれど、それ以外に私たちが神様の前に罪をゆるされ、呪いを解かれる方法はなか ったのです。私たちは罪を後悔しても取り返すことはできないし、後悔しながらもさらに 罪を重ねてしてしまう存在であるからです。 しかし、不思議です。そんな私たちを御父は愛してくださいました。なんとかして呪い 47 から助け出してやりたいと思ってくださいました。それで、父の命を受けて御子イエス様 は人として地上に降り、あの十字架において苦しみを受けてくださいました。 この神の愛を拒んではなりません。拒んであえて滅びの道を選んではならないのです。 己の罪を認め、イエス様を信じて祝福をいただきましょう。 結び 今日、一人の姉妹が父・子・聖霊の名によって洗礼を受けられました。それは、姉妹が 三位一体の神様の所有となったということを意味しています。また、言い換えると、名実 ともに神の家族として受け入れられたということを意味しているのです。 私たちが神に赦され、神の家族となるために、なんと大きな愛を父なる神は私たちに注 いでくださったことでしょう。なんと激しい苦しみを、神の御子イエスさまは引き受けて くださったことでしょう。私たちは、この日、もう一度、自分の救いの原点に立ち返って、 イエス様の十字架に表わされた神の愛の大きさを感謝しましょう。自分がどれほどの犠牲 をもって買い取られたのかということを思って、神様に自らをささげようではありません か。 ローマ 12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願 いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささ げなさい。」 48 使徒信条9「死にて葬られ陰府に降り」 死にて葬られ 2005 年 5 月 22 日 小海主日礼拝 マルコ 15:37−47 「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つ に裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られた のを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。また、遠くのほうから見てい た女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロ メもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。 このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリ マタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願っ た。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラト は、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしま ったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのから だをヨセフに与えた。 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って 造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの 母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。」 ガラテヤ 2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を 愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 」 1.神殿の幕が裂けた イエス様は呪いの十字架で苦しみを完了なさいましたから、イエス様はそのとき、「完了 した」とおっしゃいました(ヨハネ 19:30)。イエス様は、そうして「父よ、わが霊をあなたに 委ねます。」とおっしゃって息を引き取られたのです(ルカ 23:46)。 そのとき、たいへん不思議なことが起りました。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂 けたのです。神殿の幕とはなんでしょうか?何を意味しているのでしょうか。エルサレム 神殿の奥には聖所と呼ばれる場所があり、その奥は至聖所と呼ばれる神の臨在が現われる 49 場所でしたが、この聖所と至聖所を隔てているのが、神殿の幕でした。この至聖所は通常、 人が立ち入ることが許されませんでした。ただ年に一度、その年の大祭司が、民の罪のた めに贖いの儀式をするためでした。もし、大祭司以外の者が至聖所に入るならば、ただち に神に打たれて死にました。また、たとえ大祭司であってもまず自分の罪のきよめをして からしか入ってはいけませんでした。 この聖所と至聖所を隔てる幕にはケルビムという天使が織り出されていました。ケルブ というのは神の御座を守る役割を持つ天使で、ケルビムはその複数形です。ケルビムが最 初に聖書の記述に出てくるのは創世記 3 章の末尾です。アダムとエバが神様に対して罪を 犯し、その結果、彼らが楽園から追放されたとき、彼らがいのちの木に近づかないために 用意された門番がケルビムでした。 「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、 ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」創世記 3:24 神との交わり、エデンの園、天国にこそ私たちの永遠のいのちがあります。けれども、 罪が贖われないままに聖なる神と交わろうとするならば、罪人は死ななければなりません。 そこで、神は、ケルビムによって罪人が神の臨在なさるエデンの園に入らないようにと守 っていらしたのです。神が聖なる臨在を現わされる至聖所は、いわばエデンの園の模型で したから、その入り口には「危険!罪人は近づくべからず。」という具合にいかめしくケル ビムが織り出された幕がかけられていたのです。 ところがイエス様が息を引き取られた時、至聖所の前のケルビムを織り出された幕が上 から下までビリビリッと引き裂かれてしまいました。聖なる神様と、人間とを隔ててきた 幕が取り去られたのです。神が「もうこんな幕は要らない」と破り捨てられたのです。そ れは、神が人となられたイエス様が罪のあがないを完成させ、神様と人間との仲介者とな ってくださったからです。神殿の幕が引き裂かれたことは、またモーセ以来の神の幕屋と それを引き継いだエルサレム神殿におけるもろもろの犠牲の律法が無用になったというこ とを意味しています。新約の時代である今、神は、世界のどこででも霊とまことをもって 礼拝がささげられることを喜んでくださるのです。いずこの地であっても、霊とまことに よる礼拝がささげられる時代となったのです。私たちはイエス様を信じるだけで、神様と の交わりが許され天国への道が開かれたのです。イエス様にあって、私たちは大胆に恵み の御座に近づくことができるのです。この神に対する近しさ、大胆さは新約の聖徒に与え られた特権です。 「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの 聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たち のためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」ヘブル 10:19―20 2.葬られ 50 ところで、使徒信条ではなぜ「死んだ」というのではなく、わざわざ「死にて葬られ」と いうことが告白されているのでしょうか?また、四つの福音書自体がイエス様の葬りに関 する記事を丁寧に残しています。なぜでしょうか?私たちは人が死ぬとなぜ葬式をし、墓 に葬るのでしょうか。それは、公にその人の死を証言するためです。もし公然と葬りをし なければ、社会的にもいろいろ不都合なことが起るでしょう。イエス様が死んで葬られた というのは、イエスは死んでしまったことが、イエス様が公然と墓に葬られたことによっ て、世界に知られるためです。 イエス様が本当に死なれたということは、あきらかな歴史的事実です。イエス様は午前 九時に十字架にかかって六時間後、つまり午後三時に死んでしまいました。その事実が総 督ポンテオ・ピラトに告げられたとき、ピラトはイエスがもう死んだのかと驚いたとあり ます。 「ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに 死んでしまったかどうかを問いただした。」マルコ 15:44 なぜ驚いたのかといえば、通常、十字架に六時間ほどかけられただけで人が死ぬことは ないからです。けれども、考えてみればイエス様の場合、十字架刑にされるまえに半殺し と呼ばれるローマの鞭打ちをされて、息も絶え絶えでいらっしゃいましたから、その死が 早く訪れたのは当然とも言えるでしょう。また、仮に鞭打ちがなかったとしてもイエス様 が十字架上で受けた苦しみは、単なる通常の十字架刑の苦しみではなく、永遠の神の罪人 に対する怒りが圧縮された苦しみでしたから、死がすみやかに訪れたのは当然のことでし た。 しかし、ピラトの不審を受けて、イエスの死を確かめようと、兵士の一人がイエス様の わき腹を一突きにしました。 「すると、ただちに血と水が出て来た。 」 (ヨハネ 19:34)とあ ります。死体の場合、心臓は血を送り出していませんから出血しないといわれていますの で、イエスの亡骸から「血と水が流れ出た」というのは普通ではありえないことです。医学 者たちがこの個所を研究しました。そうして、次のように結論しています。イエスは心臓 が破裂して死んだのである、と。主イエスの心臓が破裂し血液が赤い赤血球と無色透明の 血漿が分離して胸腔の中にたまっておりましたところを槍で突いたために、血と水が流れ 出たというふうに見えたということです。 私はこの医学者の説明を読んで、衝撃を受けました。心筋梗塞の発作で倒れたことがあ る知り合いが、その発作の苦しみは「分厚い鉄の板で胸を前後から押しつぶされるような、 とんでもない苦しさでした。 」といっていたのを以前聞いたことがあります。けれども、実 際には彼の心臓は押しつぶされてはいないので、それも譬えにすぎません。また、私たち は「胸が張り裂けるような悲しみ」というような表現をしますが、それも譬えにすぎませ ん。しかし、主イエスは実際に心臓が破裂してしまったのです。主イエスが私たちの罪の ために背負われた悲しみは、いったいどれほど激しいものだったのでしょうか。想像を絶 します。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という悲しみ 51 によって、主の心臓は文字通り張り裂けてしまったのです。 イエス様の復活を信じない人々のうちには、イエス様は仮死状態であったなどという人 がいますが、実にばかげた主張です。心臓が破裂した人がどうして生きていられますか。 イエス様は、ほんとうに死なれたのです。そして、その死がまぎれもない事実であったこ とを「死にて葬られ」ということばは表現しているのです。 3.古い人を十字架につける 『ハイデルベルク信仰問答』は問答43で次のように語っています。 問 キリストの十字架の犠牲と死とから、さらに、どのような益が得られるのですか。 答 そのみ力によって、われわれの古き人は、主とともに、十字架につけられ、殺され、 葬られて、肉の悪い欲は、もはやわれわれのうちに、支配することなく、われわれは、自 分自身を、感謝のしるしとして、主にささげるようになるのであります。 イエス様が十字架に死んで葬られたという出来事を、御霊に導かれて正しく理解し深く 味わうならば、私たちの生き方そのものが変わるというのです。人生が変わるのです。ア リマタヤのヨセフをその実例としてみてみましょう。 イエスのみからだを引き取ったのはアリマタヤのヨセフという人物でした。彼は、相当 の資産家であり、かつユダヤ最高議会の議員として名のある人でした。ユダヤ最高議会は イエス様をねたみ、亡き者にしようとしていましたが、ヨセフはイエス様の教えを聞き、 行動を見るにつれてイエス様こそ旧約聖書に預言されているメシヤであると信じる者とな りました。しかし、彼はユダヤ人たちを恐れ、自分の議員としての社会的地位を失うのを 恐れて、公には自分のイエス様に対する信仰を証言していませんでした。いわば隠れキリ シタンを決め込んでいたのです。しかし、数日前いよいよイエス様の評判は高くなり、つ いに、都エルサレムに入城なさいました。エルサレムに到着なさると、イエス様は最初の 仕事として、エルサレム神殿に行き、最高議会サンヒドリンの祭司連が管理している神殿 礼拝の堕落と偽善をあばきました。律法学者やサドカイ派の祭司やパリサイ派の人々と議 論をして、ことごとく彼らを言い負かしてしまいました。律法学者・祭司連中はイエスを 死刑にする算段を始めていました。アリマタヤのヨセフはイエス様のあまりの大胆さ、事 の成り行きを見て、ハラハラしていたにちがいありません。 果たして、過ぎ越しの祭りの小羊がほふられる日の真夜中、サンヒドリンの緊急の招集 がかけられました。当然、議員であるアリマタヤのヨセフにも招集がかかりました。法廷 に引き出されてきたのはイエス様でした。裁判の結果、議会は「全会一致で」イエスを死 刑に定めてしまったと記録されています(マルコ 14:64)。「全会一致」ということは、アリ マタヤのヨセフもまた、心ならずも、イエス死刑という判決に加わってしまったというこ とを意味しています。ヨセフは、きっと心の中で「イエス様。ゆるしてください。私一人の 52 力ではどうしようもないのです。臆病者の私です。 」とつぶやいていたことでしょう。 サンヒドリンは、イエスをローマ総督ピラトの法廷へと突き出し、無理やり、死刑の判 決を取り付けてしまいます。イエス様は重い十字架を背負って、黙々とドロローサの石畳 の道を進んで行かれ、十字架につけられてしまいます。人々はイエスを嘲り、ののしりま す。しかし、イエス様は罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、かえっ て、傍らの罪人に天国の約束を与え、十字架の下にやってきた母の将来を心遣うことばを 語られました。そうして正午になると、暗闇があたりを覆い尽くし、午後三時、イエス様 はその霊を父に渡して死んでしまわれたのでした。 アリマタヤのヨセフは、ことの次第をつぶさに見ていました。十字架のイエス様を見つ めているうちに、ヨセフの胸のうちに勃然とイエス様に対する信仰が再び湧き上がってき たのです。「このお方は、紛れもない神の御子キリストではないか。神の御子が、こうして 私のために十字架にかかってくださったのだ」と。 「私はイエス様を信じてきた弟子ではな いか。私がイエス様を裏切ったのに、イエス様は『父よ。彼らをゆるしてください。 』と裏 切ったこの私を赦してくださったのだ。 」そうして、ヨセフはイエス様が十字架で果てると、 もはや矢も盾もたまらず、総督ピラトに申し出たのです。 「イエス様の亡骸を私に引き取ら せてください。私に葬らせてください。 」 この行動は、ヨセフの公然たる信仰告白を意味するものでした。彼は公然とサンヒドリ ンが死刑に処した犯罪人を引き取り、その上、自分のために用意しておいた墓にお迎えし たのです。アリマタヤのヨセフは、この時、この世に対して死んだのです。この世の富も 名声、サンヒドリン議員という社会的地位も、ヨセフにとっては、今やちりあくたに過ぎ ぬものでありました。彼の古い人はキリストとともに十字架につけられて死んでしまった のです。彼が生きているのは、彼のために命を捨ててくださった神の御子イエス様を信じ る信仰によっているのです。ガラテヤ 2:20 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、 キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を 愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 」 むすび 主は死んで葬られました。イエス様の死によって、聖なる神様と罪ある私たちを隔てる 幕は破り捨てられました。私たちの罪は赦されました。だから、大胆に神様に「おとうさ ん」と言って近づくことが出来るのです。 また、十字架についたキリストを信じる私たち自身もまた、十字架につけられ古い人は 死んでしまいました。死んだのは古い人の抱えていたあの罪、この罪だけではありません。 古い人そのものが死んだのです。古い人というのは、神に背を向けて、神ぬきで自分の判 断で自分は生きていけるし、そのように生きるべきなのだと思っていたそういう古い人で 53 す。善悪の知識の木から取って食べ、神抜きで自分ですべての善悪を決めていけるという 自律的な考え方、自己中心の考え方をする古い人です。 そういう、神抜きで善くあるいは悪く生きようとしていた、古い人そのものがキリスト とともに十字架で死にました。もはや私たちが生きているのではなく、キリストの御霊に あって私たちは生かされているのです。富や名声や権力や快楽や世間体といった、この世 のものに対して死んで解放されましたから、私たちは、今や神様の御前に神様のみこころ を行なうために生かされているのです。かつて多くの日本人には世間体が偶像でしたが、 現代人の多くは自己実現を偶像とし、それに縛られて生きています。 けれども、私たちは十字架につけられてこの世に対して死にこの世から自由にされまし た。そうして、私たちは、神様のみこころの実現のために、キリストが私たちのうちにあ って生きていてくださるのです。実際、私たちは「みこころの天になるごとく、地にもな させたまえ」と祈っているわけです。私の願いではなく、主の御心がなるように、自己実 現でなく、神の御心の実現のために生きているのです。 54 使徒信条10「三日目に死人のうちよりよみがえり」 マタイ福音書 27:57−28:15 復活 1.イエス・キリストの復活は歴史上の出来事である (1)イエスのからだはなかった イエス様は金曜日午後 3 時前後に息を引き取られ、ユダヤ最高議会サンヒドリンの議員 であったアリマタヤのヨセフに引き取られ、彼が自分と家族のために用意していた墓に葬 られました。使徒信条は主イエスが葬られたということばのあとに、「陰府にくだり」と告 げていますが、これは宗教改革者にならって主イエスが非常に苦しんで死なれたという事 実を、もう一度念を押していることばとして理解するのがよいと思います。主イエスの「陰 府くだり」については、1 ペテロ 3:19,20 にのみ若干ふれられているのですが、そこでは ノアの時代に神に従わなかった人々に主イエスが「みことばを語られた」というのみです。 そのみことばが福音なのか審きの宣告なのかで解釈者によって意見が分かれており、その 意味するところも明白でないからです。 それはともかく、主イエスは、その金曜日から数えて三日目の早朝、イエス様を慕って ガリラヤからついてきていた女の弟子たちが墓に出かけてみますとイエス様はすでにいら っしゃらいませんでした。 主イエスの墓については、伝統的には聖墳墓教会の場所がそうであるとされて来ました。 けれども、1881 年、考古学者でもあったゴルドン将軍がエルサレムの北城壁の外側に、も っと信憑性の高いものを発見しました。ゴルドンのカルバリーのすぐそばにある園に位置 しており、さまざまな面でこれこそ本物のイエスの墓である可能性が大きいと思われます。 聖書に「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしか けて帰った。 」(マタイ 27:60)とあるとおり、この墓穴は岩壁に人の手で掘られた横穴であ り、その墓の入り口の前にはこの封印石が転がるために、石で幅 60 センチの溝が造られて います。その幅から、封印の石の厚みは 60 センチ弱だったことがわかります。そして、墓 の入り口の両側には赤くさびた太い鉄の楔が先っぽが折り取られて残っているそうです。 その赤さびた楔の太さはなんと 3.8 センチもあります。その二つの鉄の楔の距離が 4 メート ル 1 センチありますから、封印の岩は直径 4 メートル弱で、厚さは 60 センチ弱だったとい う巨大な円盤状の石でした。重量は推計 13.8 トンにもなるそうです。この封印石は当時の 墓としては異常な大きさです。ここからもアリマタヤのヨセフという人が、聖書に記録さ れているように相当の資産家だったことがわかります。 事柄の順序で整理すると、アリマタヤのヨセフがイエスのからだを墓に収めたあと、こ 55 の封印の円盤状の重い岩が左から右へとゴロリと転がされて、墓の入り口にふたをしまし た。あの巨大な石を動かしたのですから、もちろん手伝いのしもべたちも多数いたはずで す。その翌日は安息日にあたります。ユダヤ当局は総督ピラトの許可を得て、この岩が決 して動かされないために、太さ 3.8 センチもある鉄の楔を岩の両側に打ち込み、封印をし、 番兵をつけました。 「そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。」 (マタ イ27:66) ところが、今日その墓をみると、イエス様の墓の穴の左の楔は左に曲がってボキリと折 り取られているそうです。つまり、石が何者かによって左わきに転がされて、鉄の楔が折 られたのです。ちなみに 3.8 センチもある鉄の楔というのは、もし折り取ろうとすれば 60 トンから 80 トンの力が必要なので、とても人間の力では不可能なことです。聖書は、それ は人間の力によるのではなく、御使いの力によると記しています。 「すると、大きな地震が 起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわ ったからである。 」 (マタイ 28:2) こんなことを少し詳しく申し上げたのは、イエス・キリストの復活は主観的な絵空事や 神話ではなく、客観的な歴史的事実であるという印象をはっきりと心に刻んでいただきた いからです。神が人となって来られたことも奇跡による事実ですが、イエス・キリストの 復活もまたこの私たちが住んでいるこの時間と空間の中に起こされた神の奇跡による事実 なのです。私たちの救いはイエス・キリストの十字架の死と復活という歴史上の事実に基 づいています。 他の宗教と比較してみますと、この事実こそキリストにある救いの特質なのです。たと えば、浄土教では西方浄土にはアミダ様がいらっしゃることになっていますが、それは単 に「こうあってほしいな」という願望を神話にしたものにすぎません。また、昔はともか く現在は、浄土教の門徒たちだって、どんどん西に行けば東から戻ってくることになるこ と、西方浄土など実在しないことを知っています。知っていても文句をいわないのは、そ れがいわゆる神話、フィクションであると了解しているからです。けれども、キリストの 復活は歴史上の事実なのです。 (2)イエスの復活の論証 しかし、ユダヤ当局は、番兵たちに金をやって弟子たちがイエスの亡骸を盗み取ったのだ といわせ、その噂を広めました。マタイ 28:11−15 「女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭 司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士 たちに多額の金を与えて、こう言った。 『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって 来て、イエスを盗んで行った。 』と言うのだ。もし、このことが総督の耳にはいっても、私 たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。』そこで、彼らは 金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって 56 今日に及んでいる。 」 しかし、これが作り話にすぎないことは、少し筋道を立てて冷静に考えれば、明白なこ とです。弟子たちはこの後、「十字架に死なれたイエス様は、復活した。 」と宣教を始めま した。ユダヤ当局は弟子たちを激しく弾圧し、ヤコブをはじめ弟子のうちから殉教者が出 ました。しかし、当局はイエスの弟子たちの証言を覆すことができませんでした。なぜ、 ユダヤ当局は弟子たちの証言をくつがえすことができなかったのですか?それは、実際に、 イエスの亡骸が墓から忽然と消えてしまっていたので、 「ここにイエスの亡骸があるぞ。復 活したというのはデマだ!」ということができなかったからです。 では、イエス様が復活したのでないとすれば、そのからだはどこに行ったのですか?ユ ダヤ当局が噂を流したように、イエスの弟子たちが盗み出したのでしょうか。番兵たちが 居眠りしている間に、コトリと音も立てずに楔を 60 トンの怪力でへし折って、イエスのか らだを奪い取ることができるわけがあるでしょうか? ですが、かりに弟子たちがアルセーヌ・ルパンのような天才的泥棒でイエスの亡骸を盗 んだのだとあえて仮定してみましょう。そんな無理な仮定をしても、なお矛盾があること に気づくでしょう。この後、弟子たちはイエスの復活を証言し、その証言のゆえに殉教し て行きます。弟子たちは、イエス様が死んでしまったことを重々知っていながら、「イエス はよみがえった」と嘘をついて、わざわざ自分の嘘のために命まで喜んで落としたという 馬鹿げたことになります。やはり、弟子たちがイエス様のからだを盗んだことは、どう考 えても筋が通らないことです。 というわけで、ユダヤ当局も、弟子たちもイエス様の亡骸は持っていなかったことは明 白です。イエス様のからだはどこに行ってしまったのですか?唯一の理にかなった答は、 イエス様は実際に、よみがえられということです。 2.キリストの復活の意義 次に、イエス・キリストが復活されたという事実がわたしたちにとってどういう意義が あるのかということを御言葉から三つお話します。 (1)キリストの復活は私たちが義とされたことの保証 第一にキリストの復活は、わたしたちが神様の前に義とされた、つまり、罪をゆるされ たことの保証です。 ローマ 4:24−5:1 「また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた 方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のため に死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信 仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を 持っています。 」 57 聖書において「義」というのは、神との正しい関係を意味しています。言い換えると、 神との平和の関係があることです。私たちは、かつて神様と不義の関係、戦争の関係にあ りました。つまり、神様に背を向け、 「神などは存在しない。かりに神が存在しているとし ても、私は神に従うことなどまっぴらだ」という態度でおりました。あるいは、神様にな どまるで無関心で、 「神など存在してもしなくても私には関係ない、私はこの世で適当に幸 せだったら、それで十分だ。 」という態度でおりました。このように、神に意識的に逆らっ たり、神など信じても無駄だと考えて無関心であることが、罪なのです。 このような罪のなかにいたとき、私たちは当然、神様との平和をもってはいません。神 など要らないという人に対しても、神様は忍耐強いお方ですから、なお太陽を昇らせ雨を 降らせ必要な糧を与えてくださっています。けれども、まことの神様を礼拝せず感謝もせ ず従わないその人は、むなしい人生を送らなければなりません。そうです。まことの神様 を知らないという人生は実にむなしい、意味のない人生です。そうして、最終的には自分 の罪ゆえに裁かれゲヘナに捨てられてしまいます。 私もかつてまことの神様を知らず、生きる目的がわからずにおりました。その果てに、 神様と出会い、人生の主な目的は神の栄光を現わし神様を永遠に喜ぶことだと知ったので す。その喜びがあまりに大きかったので、私はそれ以来、いろんな人に「あなたの生きる 目的はなんですか?」と聞くようになりました。十九歳の春、大学のクラスメートに石上 俊雄君がいました。教育学にかんする授業の合間、バルコニーに出て私は彼にいきなり質 問しました。 「君はなんのために生きていますか?君の人生の目的はなんですか?」すると 彼はしばらく考え込んで答えました。 「俺は俺のために生きている。」と。私は、言いまし た。 「ぼくは神の栄光を現わすために生きているんだ。 」その後数ヶ月、石上君はしばらく 教会に来ましたが、神様に立ち返ることをしませんでした。そして卒業間近に彼の下宿を 尋ねた時も「やっぱり、俺は俺のために生きるんだ。 」と言っていました。私たちは卒業後、 私は神学校へ、彼は国際協力事業団に入ったのですが、十数年たったとき、彼から電話が ありました。「俺、ケニヤで洗礼を受けたんだよ。」というのです。「人生の目的は何か?」 ということを彼はずっと考えつづけて、ついに神様に自分の人生をお委ねすることを決心 したのでした。一昨年、彼とクリスチャンの奥さんと子どもたちに会い、もう二十八年も 前、初めて彼と話した学校のあのバルコニーに出かけました。当時、真新しかった校舎は随 分古びた感じでした。そして、ともに祈りました。 まことの神様を知り、この神様との人格的交わりがあるということは実にすばらしいこ となのです。主イエス・キリストが十字架で私たちの罪を背負い、復活してくださったの で、信じる私たちは神様との正しい関係、神様との平和をいただくことができました。戦 争をしている二つの国があったら、お互いの国を人が行き来すること交わることもできま せんし、貿易もできませんし、飢饉になっても助けてもらうこともできません。平和がな ければ何も始まりません。そのように、神様との関係が正常化して平和にならなければ、神 様からの祝福はいただけません。けれども、イエス様にあって神様との平和をいただくな 58 らば、神様との人格的交流が与えられ、聖書のみことばによって生きる指針と力と喜びを いただき、死後の審きについても心配なくなります。神様との平和は、なにものにも代え がたい恵みです。 (2)私たち自身の復活の保証 キリストの復活は私たち自身が、後の日、イエス様が再び来られたとき、復活すること の保証です。イエス様の復活は私たちの復活の初穂なのです。第一コリント 15:20−23 「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来た からです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによって すべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂で あるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」 キリストが私たちにくださった救いとは、人が死ねば、肉体は滅びるが、霊魂は生きて いて死者の国に行くという程度の低いものではありません。キリストの復活が成る前の旧 約時代の聖徒たちは、死後についての望みが曖昧でした。彼らにとっては死後、よみ(シ ェオル)は薄暗がりのような印象があったようです。たとえば、詩篇6:5には次のよう にあります。 「死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、 あなたをほめたたえるでしょう。 」 けれども、キリストが死者のなかからよみがえられて、死後について素晴らしい祝福を 用意してくださいました。まず、この肉体が滅びると霊魂は復活のときまで霊魂として主 イエスの御許に行くことになります。イエス様は、十字架にかかっておられたときかたわ らの犯罪人に「あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。 」と約束なさいま した。復活の日まで霊魂がとどめ置かれる世界は薄暗い「よみ」は、輝けるパラダイスと されたのです。ですから、パウロはピリピ 1:23bで「私の願いは、世を去ってキリストと ともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 」と言います。死後の審 きが過ぎ去って永遠のいのちを与えられているというのは、ほんとうに素晴らしい恵みな のです。 しかし、キリストがくださった救いとは霊魂だけの救いにとどまりません。キリストを 信じる私たちは、主イエスの再臨のときに、新しいからだを与えられて霊肉ともに完全に 祝福されてよみがえるのです。そうして、正義が支配する新しい天と新しい地に永遠に住 むことになります。キリストにある究極の救いは、霊魂だけの救いではなく、全生活的、 全宇宙的な救いなのです。 (3)キリストの復活ゆえに、今、新しい人として生きる 私たちは、振り返ればキリストの復活のゆえに罪赦されて、神様との平和をすでに持っ 59 ています。もはや神様に対してびくびくと恐れを抱く必要はないのです。神様をと信頼し て安心して生きることができます。 そして、未来を見るならば、また、キリストが新しいまことのからだをもって復活なさ ったように、わたしたちもキリストの復活を初穂として、新しい天と新しい地、完成した 御国に復活するという約束が与えられているのです。死後に何の望みもない人々とちがっ て、希望があります。 私たちはすでに罪赦されて神との平和が与えられ、やがての日には復活の希望がある。 そのような者として、私たちは現在を生きているのです。では、今、現在を私たちはどの ように生きるのでしょうか。みことばは次のように言っています。ローマ 6:4 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られた のです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私 たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」 確かに私たちはまだ文字通りの復活にはあずかっていません。それは後の日の希望のこ とです。しかし、原理的に、キリストの死によって私たちは古い人に死んだのです。そし て、キリストの復活によって、私たちは新しい人として今を生きることが許されているの です。古い人とは神なき人生です。神なき人生とは、自己中心の人生か、日本人の多くの 場合、世間体中心の人生です。正しいことをしていても、悪いことをしていても、自己中 心か世間体中心の人生が古い人の人生です。けれども、新しい人の人生とは神中心の人生 なのです。 「みこころが天になるごとく、地にもならせたまえ」と祈りつつ生きる人生です。 私たちの置かれた持ち場・立場はちがいますが、それぞれの置かれた持ち場・立場にあっ て、神様の御心が成りますようにと祈り、神の栄光をあらわす人生を歩みましょう。 60 使徒信条11「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」 Ⅱサムエル7:1−12 エペソ1:20−23 王なるキリスト 2005 年 6 月 5 日 小海主日礼拝 1.主イエスの昇天・着座はダビデ契約の成就である 主イエスは復活の後40日間なお地上にとどまって、弟子たちに何度も出現しては、神 の国のことを語られました(使徒 1:3) 。そして 40 日目、天に昇り、父なる神の右に着座さ れました。この主イエス・キリストの昇天と着座の出来事は、紀元前 1000 年頃に与えられ たダビデへの契約の成就だったのです。神様は、神の民と契約を結んでこられました。聖 書自体、旧約聖書、新約聖書というように、神様が私たちにお与えになった契約の書なの です。 旧約聖書に「契約」ということばそのものが最初に出てくる個所は、ノアの大洪水の直後 が最初なのですが、契約ということがらはすでにエデンの園における善悪の知識の木にお ける創造の契約から始まっています。その後、ノア契約、アブラハム契約(BC 約 2000) 、 シナイ契約(BC 約 1500)、そしてダビデ契約があり、これらの契約はことごとく主イエス・ キリストにあって成就しました5。ダビデ契約はその一つです。 5 旧約時代の諸契約とキリストにおける成就 創造の契約とは、神が人間を創造なさったときに、善悪の知識の木から取って食べない ことを条件として、より祝福された神の子どもとしての生を約束されたものである。アダ ムの堕落後、神は人間に「女の子孫」が救い主として到来するという原福音を約束された(創 世記 3:15) 。キリストは「女の子孫」として来られた。 ノアの契約とは、大洪水の後に神が世界を大洪水では滅ぼさないと約束された世界保持 の契約であり、この契約はその後の人類の歩みの場を保証する(創世記 9:9−11) 。「契約(ベ リート) 」という用語が聖書に出てくるのはノア契約が最初。 アブラハム契約は、相続の契約と呼ばれ、アブラハムの子孫が神の民となり世界の相続 人となるという契約である(創世記 17:1−10) 。アブラハム契約は、彼の子孫としてきたイ エス・キリストを信じる神の民(教会)に継承された(ローマ 4:13−16) 。 シナイ契約は、律法の契約と呼ばれ、モーセを通してイスラエルに与えられた。神が恵 みによってご自分の民として選び召したイスラエルが、神とともにいかに生きるべきかが 石の板の律法に記された。旧約時代、律法を破る者にはもろもろのいけにえが要求されそ のための儀式が定められたが、主イエス・キリストが来られて自らを完全ないけにえとし てただ一度ささげられたので、キリストを信じる者は罪を赦される。また、律法はキリス トが教会に注がれた聖霊によって、心の板に記されることになる(2 コリント 3:3−18)。 ダビデ契約は本文中にあるとおり、ダビデの子孫が神殿を建て、その王国は永遠に続く という内容。ダビデ契約に基づいてキリストの昇天と着座を論じている新約聖書の代表的 61 ダビデはイスラエル全土を平定して王となりエルサレムに自分の宮殿をレバノンの杉材 で造りました。木材の乏しい地域では日干しレンガなどで家を作るのが普通なので、木の 家というのはたいへん高級です。ところが、当時、神の臨在される場は、本建築ではなく モーセ以来の幕屋だったので、ダビデは自分が立派な宮殿に住みながら、神殿をテントの ままにしておくのは忍びないと感じ、神殿建築を志しました。けれども、神様のみこころ は違っていました。神様はダビデが神殿を造ってはいけないとおっしゃり、ダビデの子孫 から出る王が神殿を建て、その王国は永遠に揺るがないと約束なさったのです。これが契 約の内容です。 サムエル記第二 7:12 「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あな たの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわた しの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。 」 このダビデ契約は一見すると、彼の息子ソロモン王において成就するかに見えました。 ソロモンが神殿を造ったからです。しかし、ソロモンはその後、多くの政略結婚をした結 果、偶像崇拝を王国に持ち込むという罪を犯して、そのために彼の死後、王国は南北に分 裂し、やがてそれぞれ滅びてしまいます。ダビデ契約は、ソロモンの罪と弱さのために成 就しなかったのです。こうしてダビデへの契約は、罪ある人間の王によっては成就しえな いことが、歴史の中で明らかにされました。 ダビデ契約は約千年後、神の御子イエスによって成就します。ですから、主イエスはダ ビデの家系から出たヨセフの家に生まれなければならなかったのです。「アブラハムの子で あるダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるでしょう(マタイ 1:1)。また、主イエ スは折々「ダビデの子」と呼ばれています。長じて三年間の伝道活動の後、主イエスは嫉む 人々によって捕まえられ、鞭打たれます。そして、茨の冠をかぶせられます。そして、イ エス様の十字架上に掲げられた罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されました。イエス様 は茨の冠をかぶった王として、罪と死とサタンとの戦いにおもむき十字架において、私た ちすべての罪に対する呪いを嘗め尽くされました。十字架の苦しみを幾分かでも和らげる ために差し出された麻酔薬としての苦味をまぜたぶどう酒さえもあえて拒んで、主イエス は苦しみを受けて死なれたのです。そして、三日目、悪魔と罪と死に対して勝利を収め復 活なさいました。 そして、死に対して勝利を収め復活された後、天に昇り、父なる神の右に着座されたの です。ダビデの王座は地上から天に移されたのです。右の座というのは、力の座というこ とで、父なる神から全権を委ねられた立場を意味しています。父なる神は御子イエス様に 全権をお委ねになったのです。 「わたしには、天においても地においても一切の権威が委ね られています。 」とイエス様が復活の後おっしゃったとおりです(マタイ 28:18) 。 個所は、使徒 2:25−36、エペソ 4:7−11。神殿は教会、王国は神の国として成就した。 62 では、イエス様がダビデ契約の成就として、建設なさった神殿とはなんでしょうか。そ れは実に教会なのです。教会とは建物のことではありません。建物は教会堂です。聖書で は、イエスを主と信じ従う信仰共同体を教会と呼びます。しかし、その共同体としてのあ りかたが、神殿の建物のようにさまざまな部分が、しっかりと組み合わされ支えあってい るので、教会はときどき建物にたとえられます。 信仰をまっとうして天に上げられた教会を勝利の教会と呼び、地にある教会を戦闘の教 会といいますが、天の教会と地の教会をあわせて一つの教会です。また旧約の神の民、新 約の神の民をあわせて「聖なる公同の教会」と呼びます。これがイエス・キリスト様が、ダ ビデ契約の成就として建設なさった新しい神殿なのです。 第一コリント 3:16 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らな いのですか。 」 エペソ 2:20‐22 「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身 がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる 宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって 神の御住まいとなるのです。」 では、ダビデの子孫が建てるといった永遠の王国とはなんでしょうか。それは新約聖書 でいう「神の国」「御国」です。イエス様は宣教開始のときに宣言なさいました。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」マルコ 1:15 「国」と訳されるギリシャ語「バシレイア」は王国という意味で、また「神の王的な支 配」とも訳されることばです。 「神の王国」という概念は、時に教会と言う意味で用いられ ますが、たいてい教会よりも広い内容を意味していることばで、<神様のみこころがそこ に成って行く場><神の支配のおよぶ領域>ということです。ですから、みなさんが遣わ された家庭や職場や学び舎で神様の御心が成り、神のご支配が及んでいくならば、そこは 神の国となっていくわけですし、そう成っていくべきなのです。生活の全領域において神 様のご支配が成り、神様のみこころが成っていくために、私たちは神様のみこころを行な っていくのです。仕事をするにも、勉強をするにも、趣味を楽しむにも、寝るにも起きる にも、食べるにも飲むにも何をするにも、神の栄光が現わされるように生活をするとき、 そこに神の国があるのです。 神の王国は、その始まりのとき、この世の強大な国々と比べて一見すると、ちっぽけで 弱弱しく見えました。一握りの弱弱しい群れだけがクリスチャンでした。けれども、これ は永遠の王国です。エジプト王国も、アッシリヤ帝国も、バビロン帝国、ペルシャ帝国も、 63 ローマ帝国もみな滅びましたが、神の国は時を超えて世界中にひろがってきました。神の 国はとこしえの王国なのです。神様がダビデに約束なさったとおりです。 2.イエス様は着座して何をするか? イエス様は父なる神の右の王座に着座されて、何をなさるのでしょうか。どのように歴 史と教会を支配なさるのでしょうか。 (1)聖霊を注いでくださった イエス様は、まず、天に昇り、教会に対して約束の聖霊を注いでくださいました。それ は、地の果てまで神の国の福音を宣べ伝えるためです。そして、教会が広がり神のご支配 が拡がっていったのです。使徒 1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、 エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」 御国の福音は、あらゆる民族・国語を超えて世界中に宣べ伝えられなければならないと イエス様はおっしゃいました。しかし、その命令を受けた人々とはどんな人々だったでし ょうか?彼らはなにかこの世の権力を持っていましたか?財力のある人たちだったでしょ うか?いいえ。彼らの多くは私たちと同じように、ごく普通の庶民でした。ガリラヤの田 舎の漁師であったり、もと取税人でした。彼らが自分の力で世界宣教などできるわけはな いのです。もっとも神様は、旧約時代にはエジプトの王子モーセを用い、新約時代にはパ リサイ派のエリートであったサウロを、サタンの手から取り上げてご自分の飛車として地 中海世界で自由自在にお用いになりましたから、「キリストの弟子は庶民でなければならな い」というわけではありません。ですが、彼らを用いるにしても、まず、彼らに自分の罪 と無力を徹底的に悟らせてからお用いになりました。 イエス様は、弟子たちに聖霊を注いでくださいました。聖霊に満たされて、彼らは世界 に御国の福音を宣べ伝えるために立ち上がります。そのスタートとしての出来事がペンテ コステでした。そうして、世界中に福音が宣べ伝えられて二千年が経ち、ついに、この極 東の島国に、そして、この信州の山間地にまでキリストの御国の福音は宣べ伝えられ、教 会が建てられてきました。 (2)世界を統治なさる――宇宙的王権と教会的王権 御国の福音ということばを使っていますが、御国というのはバシレイアといいまして、 バシレウスは王ですから、御国とは王国という意味です。だから、御国の福音とは「王国の 福音」という意味です。また神の国の福音とも言いますが、これは「神の王国の福音」つま り、神が王としてご支配なさる国です。クリスチャンとは神の王国の臣民なのです。した がって、キリスト者の生き方とはつまり、神であるキリストへの服従ということに尽きま 64 す。 イエス様は王でいらっしゃいますが、聖書はイエス・キリストは二重の意味で王である と語っています。それを宇宙的王権と教会的王権といいます。宇宙的王権とは、イエス様 は万物・世界を支配する王であるという意味です。エペソ 1:20‐21 「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえ らせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、 また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く 置かれました。 」 イエス様が王であるというもう一つの意味は、イエス様は教会の王でいらっしゃるとい うことです。これを教会的王権といいます。エペソ 1:22-23 「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立 つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、 いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 」 けれども、聖書はこの世界についてもう一つのことを語っています。それは、イエス様 の荒野の四十日の試みとき悪魔が「自分にはこの世が任されている」といったり、エペソ 書が悪魔のことを「空中の権を持つ支配者」と呼んだり、「この世の神」と呼んだりしてい ることです。つまり、悪魔はこの世では王のように振舞っているのです。 イエス様はすべてを統治なさる王ですが、今の時代にあっては、悪魔がキリストの支配 を妨害しているのです。しかし、イエス様は最終的にすべてのことを働かせて、悪魔の仕 業さえも利用して、みこころを遂行するという知恵と力を持っていらっしゃいます。悪魔 がしばし勝利を収めたように見えるときも、実は、神の知恵が働いているのです。 たとえば、イエス様が天に昇り聖霊が注がれてエルサレム教会の宣教はスタートしまし た。彼らのところに人々が続々と集まってきて、エルサレム教会は繁栄しました。ところ が、実際には、彼らはなかなか異邦人への伝道には立ち上がりませんでした。やはり彼ら もユダヤ人であって、かつて犬と呼んで交際することにも抵抗を感じてきた異邦人に福音 を伝えることには抵抗感があったのです。 ところが、悪魔の働きによってエルサレム教会に対するユダヤ当局の激しい弾圧が起り ました。当局は、片っ端からキリスト者を捕まえては牢にぶち込みはじめました。すると、 使徒たちは地下にもぐりますが、エルサレム教会の兄弟姉妹は散らされて各地に引っ越し ていきまして、その逃げて行った先々の町町で福音を宣べ伝えたのです。 「他方、散らされ た人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」とあります(使徒 8:4)。このようにし て、御国の福音は世界に広がっていきました。教会迫害という悪魔の仕業も、御心が成っ ていくために用いられたのでした。 このように、確かに今の時代も悪魔は働いていて、とんでもない悪行をします。なんで こんなに悲惨なことが、と思うようなこともあります。けれども、キリストは王として悪 65 魔の悪行さえも善に転じてしまう知恵と力をもって、みむねを遂行なさるのです。ですか ら、たとえどんな苦境にあっても、私たちには確かな希望があります。その希望の成就を 見るために必要なのは忍耐です。 (3)教会を統治なさる そしてキリストは、教会に対してはもっと直接的な意味で王でいらっしゃいます。教会 的王権と言います。ですから、教会では、人間の都合や願いではなく、キリストのみここ ろが成されなければならないのですし、私たちは人間の願望や欲望ではなく、キリストの みこころに服従することが求められています。教会では信徒の願いが成ることではなく、 また牧師の願望が成ることでもなく、キリストのみこころが成ることが重要なのです。 また過去の教会の歴史を見てくると、旧約・新約時代を通じて国家権力者はしばしば自 ら教会のかしらとなることを望み、教会を利用して国民統合をもくろんできました。そし てその背後にはサタンの動きがあったと聖書は告げています(黙示録 13 章参照) 。しかし、 教会のかしらはキリストであって、国家ではありません。教会では、ただひたすらにキリ ストの御心が成ることが重要なのであり、したがって、私たちにはキリストへの服従が必 要なのです。 王なるキリストはみことばと聖霊とによって、教会を統治なさるのですが、そのために こそ、キリストは教会に御霊を注ぎ、みことばを宣べ伝えるしもべたちをお立てになって います。 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、あ る人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働 きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一 致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ち た身たけにまで達するためです。 」エペソ 4:11-13 ですから、説教者には神様のみことばを時がよくても悪くても、人を恐れずに、また自 分の好みによらず、正しく宣べ伝える任務があります。また、信徒のみなさんには、牧師 が大胆に正しく神様のみことばを宣べ伝えることが出来るように祈るという務めが託され ているのです。土曜日の夜、 「あした牧師が神様のみことばをまっすぐに説き明かすことが できるように、主よ助けてください。 」と祈ることなしに寝てしまうことがないように。使 徒パウロも次のようにエペソ教会の信徒に訴えています。 「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせる ことができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大 使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、 祈ってください。 」 (エペソ 6:19−20) 66 (4)私たちのためにとりなしてくださる 教会はキリストの王国とも、また、キリストが建てた神の宮とも呼ばれますが、もう一 つの代表的な呼び名は、 「キリストのからだ」というものです。頭とからだが生命のつなが りがあって密接に結びついているように、キリストと私たち教会は密接に結びついていま す。初代教会の執事であったステパノの殉教の場面を思い浮かべてください。彼が御国の 福音を大胆に宣べ伝えたとき、ユダヤ当局は彼を石打の刑にしようとしました。この時、 ステパノが天を見上げると彼の霊の眼にはイエス様が見えました。使徒 7 章に記されてい ます。 「人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立ってお られるイエスとを見て、こう言った。 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立ってお られるのが見えます。 」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到 した。 」使徒 7:54-57 私はこの個所を読むたびに胸を打たれるのです。「人の子が神の右に立って」ということ ばです。使徒信条で「全能の父なる神の右に座したまえり」というように、御子は父なる神 の右に着座していらっしゃるはずなのに、ここではイエス様は立っておられる!イエス様 は父なる神の右に、じっと座っていらっしゃらなかった。王なるイエス様は危機的状況の 中にあるステパノを見て、もはや王座にすわってはいられず心配のあまり立ち上がられ、 手を差し伸べられたのです! 時の迫害の急先鋒はサウロでした。主イエスはこのサウロにダマスコ門外で出現した時 におっしゃいました。 「サウロ、サウロなぜわたしを迫害するのか?」(使徒9:4)教会に 対する迫害は、主イエスご自身に対する迫害なのです。教会が苦しむ時、主イエスご自身 が苦しんでいてくださるのです。教会が痛むとき、主イエスも痛んでおられます。 王なるイエス・キリストは、これほど親身になって私たちのことを知っていてください ます。そうして、私たちのために今日もとりなし祈っていてくださるのです。なんとあり がたいことではありませんか。 私たちはこの世にあっては戦いがあります。天の教会は勝利の教会ですが、地上の教会 はなお戦闘の教会です。この世が、また私たち自身の「肉」とよばれる古い性質が、私た ちに挑んできます。黒幕の悪魔はほえたける獅子のように、獲物をさがしてうろついてい るのです。しかし、王なるイエス様は私たちとともに苦しみ、痛み、そして、ともに戦い、 勝利を得させてくださるのです。教会は迫害の時代を超え、今日にいたるまで歩んできま した。多くの聖徒たちが、王であるイエス様にいのちをささげて御国に凱旋して行きまし た。 結び 67 「天に昇り父なる神の右に」着座なさった王なるイエス・キリストは、今も、この世界を 統治していらっしゃいます。ときには、悪魔がやりたい放題やっているように見えるこの 世のありさまですが、王なるキリストは万事を働かせて益となしてくださるのです。 また特に、王なるイエス・キリスト様は、みことばをもって教会を支配なさいます。私 たちは、みことばに服従し、神の国の福音を宣べ伝えて、この世界に神のご支配が成るよ うに自分自身をささげてまいりましょう。 祈り「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますよう に。」 68 使徒信条12「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」 マルコ13:21−27、1 テサロニケ4:16−17、2テサロニケ2:1−12 キリストの再臨と審き 2005 年 6 月 12 日 小海主日礼拝 十字架にかかりよみがえられた主イエスは、今、天の父なる神の右の座に着座しておら れます。しかし、主イエスはやがて最後の審判を行なうために戻ってくると約束なさいま した。世々の教会は、 「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と信 仰を告白してきました。この朝、学ぼうとしているのは、主の再臨の前兆、惑わされては ならないということ、主の再臨への備えという三つの点です。 1.主の再臨の前兆 主イエスの再臨の前兆については、マルコ福音書は、まず世界に現われる前兆、次に教 会にかかわる前兆、そして直前の出来事の三つに整理しています。まず「産みの苦しみの はじめ」と呼ばれる世界に現われる前兆です。産みの苦しみのはじめと言われる前兆には 次のようなことがあります。 一つは、マルコ 13:6「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、 『私こそそれだ。 』と言っ て、多くの人を惑わすでしょう。 」とあるように偽キリストの出現。 二つは、マルコ 13:7−8a「また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわてては いけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族 は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」とあるように民族紛争の頻発です。 三つは「方々に地震があり、ききんも起こる」ということです。 そのほかに、マタイ伝では「不法がはびこるので多くの人たちの愛は冷たくなってしま います」(マタイ24:12)とあり、ルカ伝では疫病の蔓延(ルカ21:12)も告げられ ています。神に背を向け、なにが正しいことなのか分からなくなり、不法がはびこり、ほ んとうの愛が見失われて、それが疫病の蔓延をもたらしているという事例では性病エイズ が典型的です。かつて私たちは不道徳・不品行な情報というものは、漫画、映画、テレビ その他でひろがるものだと思っていましたが、今や、公立学校の教室でも純潔を守りなさ いという教育はなされないのです。むしろ、結婚関係の外での性交渉を容認するような包 括主義教育が公然とされています。 国連の統計によると 2004 年末現在エイズ感染者 3940 万人、昨年新たに感染したのが 490 万人、死者 310 万人で感染者・死者とも過去最多だそうです。過去最多をどんどん更新し 69 ている状態です。最悪はアフリカでエイズ間者の七割を占め、たとえば南アフリカ共和国 は 10 人に一人はエイズ。最悪はボツワナで三人に一人がエイズだそうです。 なんだ深刻なのは遠いアフリカのことかと思うでしょうか。では日本はどうか?2002 年 の統計ですが、東京都では高校三年生の女子生徒の性体験率は 46 パーセント、男子が 37 パーセントだそうです。今は 2005 年ですから、その世代は成人を迎えています。十年後二 十年後にはアフリカの危機は人ごとではなくなっていることは確実でしょう。また WHO (世界保健機構)は、東京山手線内は、世界でも最も HIV 感染者の率が高い危険な地域で あると指定しており、特にティーンエイジャーの HIV 感染率が異常に高くなってきている と報告されています。こういうわけですから、結婚をしようというときには、血液検査の 結果を含む健康診断書をお互いに提示することが当然という時代になっているのです。 日本、特に東京は、神様の目から見れば、かつてカナンの地にあった都市国家ソドムとゴ モラのようなありさまを呈しています。神はソドムを天からの火と硫黄を降らせて滅ぼさ れ、これらは今は死の海の底にあります。最後の審判の日は近いといわざるを得ないので はないでしょうか。 次に、教会に関する再臨の前兆です。 一つは、教会への権力による迫害が起ることです。マルコ 13:9「だが、あなたがたは、 気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂で むち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対 してあかしをするためです。」 二つは、こうした迫害のなかで福音が全民族に宣べ伝えられることです。マルコ 13:10 「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。 」 三つは、激しい迫害のなかで背教が起ることです。マルコ 13:12「また兄弟は兄弟を死 に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。」 こういう厳しい状況になり、イエス様のためにキリスト者はみなの者に憎まれます。し かし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。 そして、再臨直前の前兆です。14 節から。 神の民に対する国家的な迫害と背教の背景には、強力な独裁者が出現していることが示 唆されています。この独裁者は、聖書のなかで「荒らす憎むべき者」「不法の人」「滅びの 子」といった名で呼ばれている人物です。この人物は、先に述べた頻発する民族紛争、地 震や飢饉、不法・疫病の蔓延といった世界の危機的状況のなかで、世界のリーダーシップ を取るようになる一種の政治的天才であると考えられます。 ところが、彼はこの政治的な成功に酔いしれて傲慢になり、治世半ばに本性を現わしま す。彼は自分を神と思い上がり、彼を拝もうとしない人々に大弾圧を加えるのです。その ありさまをマルコ伝では「荒らす憎むべき者が立ってはならないところに立つ」と表現し 70 ていますが、その意味するところは第二テサロニケ 2:4 によれば「彼は、すべて神と呼ば れるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設 け、自分こそ神であると宣言します。」ということにほかなりません。不法の人は、自分が 神であると宣言するので、彼を拝もうとしない敬虔なキリスト者は「買うことも売ること も出来ない」ようにされるという、厳しい迫害を受けることになります。 この最後の独裁者を、過去の歴史に登場した人物になぞらえて言えば、たとえばドイツ 第三帝国の総統アドルフ・ヒトラーのような政治家ということになるのでしょう。ヒトラ ーが登場した当時、ドイツは第一次世界大戦の莫大な戦後賠償と世界恐慌で不景気のどん 底にあえいでいました。ちまたに失業者があふれていました。ヒトラーはこのドイツ民族 の特権的な偉大さを主張し、それにもかかわらず現在苦境にあるのは強欲なユダヤ人たち のせいであると言ってユダヤ人に対する憎しみをあおる演説を繰り返して、人気を博すよ うになります。やがて政権を奪い取ると、ヒトラーはベルサイユ条約を無視して再軍備を 宣言し軍需産業・自動車産業・アウトバーン建設の大事業を始めます。景気はにわかに回 復し、失業者はほとんどいなくなりました。同時に、彼はドイツ民族の生存圏の拡大のた めと称して周辺国を次々に侵略し併合してしまいます。そして、おぞましいユダヤ人大量 虐殺を実行していきます。このころには、かつて敗戦で自信を失っていたドイツ民族は挙 げてヒトラーをメシヤのごとくあがめる熱狂的信奉者になっていました。まもなくヒトラ ーは世界を相手に戦争を始め、ドイツを滅亡へと導いていきます。ヒトラーは悪魔的独裁 者の典型でした。 民族紛争、地震、疫病、ききん、経済恐慌といった世界的な危機の時代に、ヒトラーよ りもさらに幾回りも巨大な世界的独裁者が出現します。世界は彼こそメシヤであると熱狂 的に信奉するようになるでしょう。しかし、私たちは惑わされないように目を覚ましてい なければなりません。 イエス様はこうした再臨の前兆を「産みの苦しみ」と表現なさいました。その意味はな んでしょうか。二つの意味があると思います。一つは、お母さんはたいへんな苦しみを味 わいますが、赤ちゃんが生まれた瞬間に、その苦しみは大きな喜びに変わります。そのよ うに、主イエスの再臨の前に大変な苦しみを教会は経験しなければなりませんが、その苦 しみの向こうには大きな喜びがあるのです。苦しみのための苦しみではなく、喜びにいた るための苦しみなのです。主イエスが再臨されて、正義が住む新しい天と新しい地がやっ て来るのです。 産みの苦しみにはもう一つ意味があると思われます。 「産みの苦しみ」というのは、寄せ ては返す波のように、何度も訪れながら、徐々にその波が大きくなって行き、ついに破水・ 分娩にいたるものです。そのように、ここに予告されている再臨の前兆も産みの苦しみの ように、過去の歴史の中で何度も小規模ながらそれらしき印は現われてきました。そして 71 段段と規模が大きくはっきりとしてきました。ローマ帝国の末期は天変地異とか飢饉に見 舞われ、ネロ皇帝をはじめとして自らを神と称する皇帝たちの所業を見れば、彼らこそ終 わりの日の独裁者のようでした。その後も、歴史の中で主の再臨の近さを思わせる印が現 われてきました。そのたびに、神の子どもたちは主の再臨に備えて襟を正しましたし、そ れは主のみこころにかなったことだったのだと思います。宗教改革の子たちは、当時の堕 落しきったローマ教皇を「キリストとすべて神と呼ばれるものとに反抗して自分を高くす るところの、かの非キリスト、不法の者、滅びの子」であると断言しています(ウェストミ ンスター信仰告白25:6)。ナポレオンやヒトラーが、ヨーロッパを席巻し世界帝国を築こ うとしていたときにも、終末の独裁者の様相を呈していました。このように再臨の前兆の 波は寄せては返すことを繰り返して、最後にはいよいよ世界を飲み込む大波がやってきて、 そして主の再臨が来るのです。 2.惑わされないためには イエス様は再臨の前兆をお話になったとき、繰り返し「惑わされてはいけない」と警告な さいました。マルコ 13:5−6 「そこで、イエスは彼らに話し始められた。 『人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、 「私こそそれだ。 」と言って、多くの人を惑わすで しょう。 』」 では、私たちはどのようにして偽キリストを見分けることができるでしょうか。答えは、 単純です。再臨の主の出現のありさまは、聖書に啓示されたままのありさまであるという ことを確信していればよいのです。偽キリストはどのように出現するでしょう?そして、 主イエスはどのように再臨なさるでしょう?まず偽キリストの出現についてマルコ 伝は こういいます。13:21−22 「そのとき、あなたがたに、 『そら、キリストがここにいる。』とか、 『ほら、あそこにいる。 』 とか言う者があっても、信じてはいけませんにせキリスト、にせ預言者たちが現われて、 できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。」 偽キリストの場合には、たとえば「そら、キリストが国連本部で演説をすることになっ ております。 」とか「ほら、キリストが国会議事堂に来た。」とか「あの教祖様は実は再臨 のキリストなのだ。 」という宣伝が、本や新聞や雑誌やテレビやインターネットで宣伝され るでしょう。偽キリストに会いたければ、どこかの大聖堂や国際会議場や後楽園球場など に出かけたりしなければなりません。そこで彼は悪魔の力によって、いろいろな不思議な ことをして見せたりするでしょう。それで世界の多くの人々は偽キリストに惑わされてし まいます。ご存知のように、今の時代すでに、その手の小さな偽キリストたちは何人も出 現しています。 しかし、ほんもののキリストの再臨はそういうものではありません。 72 マルコ 13:23−27 「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。だが、その 日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万 象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って 来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てま で、四方からその選びの民を集めます。」 これがほんとうのキリストの再臨ですから、この約束をきちん文字通りに信じていれば、 まちがえようがありません。キリストは最初に地上に来られたとき、つまり初臨において は、お忍びの姿で処女マリヤの胎に宿られました。しかし、再臨の時にはキリストは公然 と来られるのです。主の再臨は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのです。使徒 1 章 11 節では、御使いが、こう言っています。 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立ってい るのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのを あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。 」と言いました。 しかもイエス様を信じる者たちは、自分からイエス様が再臨されたところに出かけてい ったり、テレビニュースを注意して見ていたりする必要はまったくないのです。なぜなら、 27 節にあるように、再臨の主イエスが、ご自分の民を世界中から御許に一瞬にして集めて くださるからです。最初にイエス様が赤ん坊として地上に生まれたときには、羊飼いたち も博士たちも、みどり児のイエス様を捜しに行かねばなりませんでした。けれども、再臨 のときには、自分で捜しに行かなくても、主イエスが集めてくださるのです。このわざを 携挙と呼びます。このことはテサロニケの手紙にも啓示されています。 第一テサロニケ 4:16−17 「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下 って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残 っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と 会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」 「そんな不思議なことが起るわけがない。いくらなんでも信じられない。 」という人は、 偽キリストに惑わされてしまうでしょう。「ほら、そこにいる。 」 「あそこにいる」というニ ュースに惑わされてしまいます。実際、私の学生時代の先輩であった A さんという人は、 聖書を信じているといいながら、再臨についての聖書のみことばが受け入れられないでい て、文鮮明の統一協会にたぶらかされて行ってしまいました。聖書が語ることを中途半端 に信じていると、偽キリストに惑わされます。しかし、聖書が語るままにキリストの再臨 と携挙の約束を信じていれば、惑わされることはありません。主は、終わりの時、裁きの ために空中再臨をし、聖徒たちをご自分のみもとに携え挙げてしまわれます。そして、あ の自らを神と名乗る独裁者を御口の息で滅ぼしてしまわれ、世界の審判を行なわれます。 3.主の再臨と審判への備え 73 主イエスが再臨されると、主はご自分のみもとに、信徒を集めてくださいます。ですか ら、主イエスが再臨なさったときにイエス様が本物か偽者かどのように見分ければよいの かなどと心配するには及びません。私たちが心配しなければならないのは別のことです。 それは、 「私はイエス様に招いていただくにふさわしい準備ができているか?」どうかとい うことです。準備が出来ていないために取り残されてしまわないかということです。 このように考えて、多くの人々は主の再臨と審判を恐怖と感じるようです。しかし、『ハ イデルベルク信仰問答』は主の再臨と審判を慰めとして語っています。あなたは、主イエ スの再臨と審判を慰めとして期待していますか?それとも恐怖を感じていますか。主イエ スの再臨の審判を慰めとして待ち望む者でありたいものです。 ハイデルベルク信仰問答問答52 問52 生ける者と死ねる者とをさばくための再臨は、どのように、あなたを慰めるの ですか。 答 わたしが、あらゆる艱難や迫害の中にも、頭を挙げて、この審判者を待ち望むこと ができるためです。①主は、わたしのために、すでに、神のさばきに対して、ご自身を与 え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださり、②また主とわたしのすべての敵を、 永遠の罰の中に投げ入れ、③しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、御許に 召し、天の喜びと栄光のうちに入れられるのです。 神様に背を向けた罪の世にあって、キリストを信じて敬虔に生きていれば、周囲から不 当に馬鹿にされたり、迫害されるばあいがあるものです。 「おまえはどうしていっしょに偶 像を拝まないのか。 」 「どうしていっしょに泥酔しないのか。」 「どうしていっしょにいかが わしいところに行かないのか?」「どうして一緒に万引きしないのか?」 「お前はくそまじ めで、一緒にいると、しらけるよ。」このような扱いを受けたことがあるでしょうか?そう いうキリスト者にとっては、主の再臨とさばきは何よりの慰めなのです。なぜでしょう。 三つの理由があると問答書は聖書の教えをまとめています。 主の再臨と最後の審判が慰めである一つ目の理由は、確かにキリストを信じている私た ちも神様の御前に罪ある者ですけれども、すでにキリストが十字架に死んですべての罪に 対する呪いを取り去っていてくださるからです。最後の審判の座に立たされるとき、イエ ス様を信じる者たちはびくびくと恐怖におののく必要はありません。イエス様が「あなた の罪の呪いはわたしがすでに背負ってしまったよ。安心せよ。わたしを信じているあなた はすでに赦されている。 」とおっしゃってくださるからです。 主イエスの再臨とさばきが慰めである二つ目の理由は、主の再臨と裁きは、正義が貫徹 されるときであるからです。神に背を向け、福音に耳を貸さず、神を嘲っていた人々、神 を信じる者たちに迫害を加えていた悪者たちとその背後にある悪魔は、最後の審判におい 74 ては、みなそれぞれの罪に応じて審かれてます。神は正義のお方ですから、罪は罰せられ るのです。 主イエスの再臨とさばきが慰めとなる三つ目の理由は、その日、主イエスは私たちの罪 を赦してくださるばかりか、ご自分の御許に召して天の永遠の喜びと祝福の内に入れてく ださるからです。私たちは、父なる神の子供として、主イエスを長兄として、神の家族の とこしえの交わりのうちに招かれています。 「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。」主の再臨と裁きを迎 えるための備えとは、かつてのノストラダムスの大預言の信奉者たちのように、心を騒が せて仕事が手につかなくなるようなことではありません。主イエスの来臨と審判とを慰め として迎えるためにたいせつな備えとは、罪を悔い改めて、主イエス・キリストを信じる ことです。そしてイエス・キリストを信じて、それぞれにこの世で与えられた持ち場立場 で、神の子どもとして証しとなるきよい愛の実りある生活をし、落ち着いて仕事をし、敬 虔に教会生活に励むことなのです。 75 使徒信条13「我は聖霊を信ず」 ヨハネ 14:16-20、第一コリント 3:16−17、エペソ 4:30-32 「聖霊—内住と聖化」 2006 年 6 月 19 日 小海主日礼拝 使徒信条は父・子・聖霊の三位一体の順序で配列されています。きょう「われは全能の 父なる神を信ず」「我らの主イエス・キリストを信ず」という条項に続いて、「我は聖霊を 信ず」という三つ目の項目に入ります。まず、今日は聖霊とはどのようなお方であるのか ということを、みことばに味わいたいと願っています。聖霊が何をなさるのかという前に、 聖霊はどのようなお方であるのかということを味わいたいのです。というのは、ともする と私たちは聖霊がしてくださること、下さる力・賜物には関心があっても、聖霊ご自身には 案外無関心であることがありがちだからです。 1.三位一体における聖霊 (1)三位一体 まず、わたしたちは父・子・聖霊の三位一体の神様がどんなお方であるかを確認してお きたいと思います。ウェストミンスター小教理問答書問答6には次のようにあります。 「問 答 神にはいくつの人格があるか。 神には三つの人格がある。それは父と子と聖霊であって、この三つは一つの神で、 本体は同一であり、力と栄光は同等である。」 三位一体とはどういうことでしょう。多くの人は、三位一体は神秘であるからわかるわ けがないと言います。しかし、アウグスティヌスはいや違うといいます。三位一体は謎で ある。謎と神秘のちがいとはなんでしょうか。神秘は解きようがないのですが、謎はむし ろ解くべきものなのです。 聖書は、 「神はただひとりである」(申命記 6 章4節)と啓示しています。と同時に、聖書 は「神は愛である」と断言しています。唯一絶対の神のうちには父・子・聖霊という三つ のご人格の交わりがある、というのです。神様が三位一体の交わりの神であるということ について、聖なる「愛」から考察してみましょう。神が万物を創造なさる前、神以外のも のは何者も存在していませんでした。神のみが存在したのです。愛には愛する対象が必要 です。しかも、真実の愛は自己愛ではなく他者への愛でしょう。ところが神以外には何も 存在しないならば、神が愛であるということはどういう意味でしょうか。それは、神のう ちに、愛する者と愛される者とが存在し、そこに最も完全な愛の人格的交わりがあったと いうことを意味します。愛というのが単なる言葉や、抽象概念ではなくて、現実であるな 76 らば、そこには愛する者と愛される者とが生きているのです。アウグスティヌスは、愛す る者は御父であり、愛される者とは御子であり、そして父と子を結ぶ愛こそ聖霊であると いうのです。なかなか味わい深い洞察ではないでしょうか。唯一絶対の神が愛なる神であ るということは、神が三位一体であるということを意味しているとさえ言えるかもしれま せん。 (2)聖霊のご人格 さて、御父と御子が生ける神、人格であることからも明らかなように、第三位の人格で ある聖霊というお方は単なる力ではなく、生ける人格でいらっしゃいます。たしかに、聖 書には「聖霊が臨まれると、あなたがたは力を受けます。」とあったり、聖霊についての聖 書的表現において、油(ルカ4:18) 、水(ヨハネ7:38,39) 、火(使徒1:3)、 風(ヨハネ3:8、使徒2:2)などにたとえられることがあります。それは、聖霊が多 様なご性質・お働きをもっていらっしゃるからです。けれども、これらの多様な性質をも っていらっしゃるということから聖霊が人格ではないということにはなりません。例えば、 エリヤという預言者は炎の預言者と言ったりします。それは、彼が燃えるような激しい預言 者であったからです。また、坂本竜馬のような飄々とした自由人を風のような人という具 合に表現します。火が人格であることはできませんし、風が人格であることはできません が、人格が火のようであると、人格が風のようであると表現されるのは意外なことではあ りません。同様に、聖霊が油、水、火、風と表現されるのは、聖霊様にはそういう豊かで 多様なご性質とお働きがあるからです。 聖霊がご人格でいらっしゃるということは、次のような聖書の証言からもわかります。 人格ということばで意味されるのは、知性、感情、意志を備えた統一された意識のある方 ということです。まず、主エスは聖霊のことをご自分に代わる「もうひとりの助け主」と 呼びました。つまり、イエス様は、聖霊を一人格として明示なさったのです。 「わたしは父 にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。 その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御 霊です。 」(ヨハネ 14:16−17) また聖霊は私たちにイエス様のことを教えてくださる知性のあるお方です。 「しかし、助 け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべての ことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてください ます。(ヨハネ14:26,ほかに15:26,ローマ8:16)。 また、聖霊は感情のあるお方です。私たちが怒りや叫びやそしりといった罪、憎しみを 抱くときに、聖霊は悲しまれるのです。 「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがた は、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。無慈悲、憤り、怒り、 77 叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、 心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互い に赦し合いなさい」 (エペソ4:30−32) 。 また聖霊は意志をもって行動するお方です。 「しかし、同一の御霊がこれらすべてのこと をなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださ るのです。」 (1コリント 12:11) 実際、新約の時代、それまでユダヤ民族の中に閉じこもっていた神様の救い、祝福が世 界に爆発的に広がっていったのは、聖霊が教会に望まれたからです。聖霊が臨んで教会に 力を与えたのです。爆発的な世界宣教は、聖霊の行動力の現われです。「使徒の働き」は、 ときに「聖霊の働き」 『聖霊行伝』と呼ばれたりもするのです。このように、聖霊は、考え、 教え、行動し、喜び、悲しむ、生ける人格でいらっしゃるのです。 2.聖霊の内住と聖化 (1)驚くべく恐るべきめぐみ! イエス様は、お約束どおりに、私たちに助け主である聖霊を送ってくださいました。助 け主・慰め主である聖霊は、私たちのうちに住んでくださいます。これはよく考えてみる と、恐るべき恵みなのです。旧約時代、神が臨在なさったのは、幕屋あるいは神殿の一番 奥の至聖所でした。あのモーセでさえ、幕屋が張られ聖霊の輝く栄光の雲が満ちたときに は入ることができなかったのが、至聖所です(出エジプト40:35) 。 ところが、御子が来られ十字架にかかったとき、あの神殿の幕は、神によって破棄され たのです。そして、新約の時代にあっては聖霊は信じるすべての人のうちに宿ってくださ るのです。私たちが聖霊の宮なのです。住まいなのです。至聖所なのです。こんなことが あってよいのかと思いますが、現実なのです。 (2)信仰共同体としての教会に内住される 聖霊が内住してくださるということには二つの意味があります。一つは、聖霊が信仰共 同体である教会のうちに住んでくださるという意味です。それはイエス様のことばで言え ば、「二人でも三人でもわたしの名によって集う所に、わたしはいる」とおっしゃったこと と重なります。聖霊がいらっしゃるならば、そこに主イエスと御父も臨在なさるのです。 十字架刑の前日、間もなくイエス様が弟子たちから去ろうとしていることを予告なさい ました。弟子たちは不安で不安でなりません。主はおっしゃいました。 ヨハネ 14:16-21 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお 与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。そ の方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見も 78 せず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあ なたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを 捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましば らくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたし が生きるので、あなたがたも生きるからです。その日には、わたしが父におり、あなたが たがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。 」 これをパウロのことばでいえば、次のようになります。 第一コリント 3:16−17 「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らない のですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿 は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」 この文脈では、信仰共同体としての教会は聖霊が住まわれる神殿ですから、その神殿を 壊すような者がいたら、神様がその人をただではおかない。滅ぼしてしまうぞ、と使徒パウ ロは警告しています。つまり、当時コリント教会では、「私はパウロにつく」「私はアポロ につく」 「私はケパにつく」と言って、教会を分裂させようとする人々がおりました。そこ で、使徒は「教会は聖霊の住まわれる神殿なのだ。 」これを破壊して分派をつくるような人々 は、神様の御怒りに触れることになるぞ、悔い改めなさい」と警告しているのです。 聖霊はこのように私たち信仰共同体としての教会のうちに住まわれて、教会を一致させ ているのです。私たちは同じキリストの御霊にあずかっているからです。 (3)聖霊は私たちの肉体に内住なさる 聖霊は信仰共同体である教会に住んでくださると同時に、私たちキリスト者一人一人の うちに聖霊が住んでくださいます。これは私たちの聖化の動機となります。私たちのから だがきよい聖霊の宮であるのだから、そのからだをけがす性的な不品行を避けなさいとパ ウロは命じています。 当時、ヘレニズム世界のグノーシス主義者たちは、精神と肉体との二元論を主張してい ました。この種の二元論は二つの行動を生み出します。一つは、精神はきよいと考え肉体 をさげすむので、肉体から精神を解放するためと称して、肉体を痛めつける色々な苦行を するということです。ところが精神と肉体の二元論は、正反対の行動も生み出します。修 行の結果、自分は肉体から精神を解放したので、解放された後は、肉体をどんなに汚して も精神はきよく保てるのだという主張をして、もろもろの肉欲的生活をしたのです。霊肉 二元論の宗教はみな同じことをしています。修験道などする人は火渡りの苦行などします が、そういう修行が終わると、今度は精進落としとか言っていかがわしい所に遊びに行くと いうような習慣があります。近年も、一般の信者には肉体を苦しめる修行をさせながら、 教祖と幹部たちは自分たちはそういう段階を超えた者であるとして酒池肉林の生活をして 79 いたという新新宗教団体があったではありませんか。 コリントの町にもギリシャ的思想の影響がありましたので、不道徳が蔓延していました。 そこでパウロは、それはとんでもない間違いである。キリストを信じたあなたがたの肉体 は聖霊の宮なのだ、遊女を買うなどはもってのほかである。きよく保ちなさい。と命じる のです。 第一コリント 6:18−20 「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行 を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたが たのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のも のではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。 ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 」 兄弟姉妹。みなさん一人一人のからだも聖霊の宮です。ですから、食べるにも飲むにも 仕事をするにも神様の栄光を現すためにすることです。みなさんのからだを自分のものだ と思ってはいけません。神様からの預かり物であり、聖霊の宮なのです。自分の欲のため に汚さないように、壊さないように、きよく、たいせつに管理しましょう。 (4)慰め主 聖霊は私たちのこの肉体を宮としてくださっているのですから、こんなに身近な存在は ほかにありません。友だちより、親兄弟よりも、配偶者よりも、さらに近しい存在なので す。イエス様は、この聖霊を「もう一人の助け主」とお呼びになりました。これはパラク レートスということばで「慰め主」「弁護者」とも訳されます。その意味は「そばにあって 声をかける者」ということです。 私たちは、時には、祈りたいのにどのように祈ることもできず、うめくことしかできな いような状況に置かれることがあります。肉体が弱り果ててしまうとき、あるいは、あま りに深い悲しみなどのために。けれども、そういう祈ることもできないようなときにも、 聖霊は私たちの代わりにとりなし祈ってくださいます。 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈 ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、 私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何か をよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとり なしをしてくださるからです。 」 (ローマ 8:26−27) (5)聖霊を悲しませてはいけない ただし、聖霊は生けるご人格でいらっしゃいますから、あまりにひどく聖霊を悲しま せるならば、聖霊はあなたを離れてしまうでしょう。聖霊を悲しませることとはなんでし 80 ょうか。罪はみな聖霊を悲しませますが、とくに聖書は言います。 「神の聖霊を悲しませて はいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているので す。無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去り なさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦 してくださったように、互いに赦し合いなさい」(エペソ4:30)。 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりは聖霊を悲しませるのです。こういう罪にしがみつ いているならば、やがてあなたは聖霊の力は消えうせてしまうでしょう。キリストにある 喜び、神に愛されている感謝と平安が失われてしまいます。そして、あくまでも心をかた くなにして罪にしがみついているならば、恐ろしいことに悔い改めることも出来なくなっ てしまいます。 聖霊は、私たちにみことばをもってささやかれます。それでも分からないときは、みこ とばの剣をもって胸を突き刺し、悔い改めなさいとおっしゃるでしょう。その声を聞いた ならば、ただちに罪を悔い改めることです。主の平安と喜びが帰ってきます。このように して私たちは内に住まわれる聖霊によって、神を愛することに、隣人を愛することに成長 して行きます。 81 使徒信条14 1 コリント1:2、1ペテロ 1:15−16、黙示録 5:9−10 聖なる公同の教会 2005 年 6 月 26 日 小海主日礼拝 「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり(credo in spiritum sanctum; sanctam ecclesiam catholicam;sanctorum communionem;) 」と使徒信条の第三の部分が展 開していることからわかるように、教会の存立とその働きは、聖霊のみざわです。父なる 神が主イエスを派遣し、主イエスが罪のあがないを成し遂げられたことに基づいて、聖霊 が主イエスを信じる神の家族である教会を生み出されたのです。この聖霊のわざである「聖 なる公同の教会、聖徒の交わり」についてみことばを味わいましょう。 1.教会とは聖徒の交わりである まずこの信条は「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と告白していることの意味について です。それは、聖なる公同の教会とは、すなわち聖徒の交わりのことなのであるという意 味です。 ところが、 「聖徒」ということばは、ローマ・カトリック教会では「聖人」と訳して、特別 に神様の前で功績がたくさんある人々のことのみを意味するように使っています。たとえ ば、聖ペテロとか聖パウロなどといいます。先ごろ亡くなったヨハネ・パウロ二世はたい へん立派な方であったという評価が高いので、すぐに聖人の列に加えるべきだという議論 がされているそうです。 ローマ教会は、なぜこうした聖人をたいせつに奉るのでしょうか?その根底には、<人 が救われるのは、恵みだけによるのでなく、プラス行ないが必要だ>という教えがありま す。言い換えれば、イエス様の十字架の贖いは私たちを救うには不十分であるという教え です。ところが、凡人の場合、自分が救われて天国にいけるほどの立派な功徳は積んでい ないので、救われない。そこで、功徳を山ほどに積み上げて有り余っているたちに、分け てもらうことによって救われようと考えます。そうした功徳を有り余るほど積み上げた 人々のことを聖母マリヤを初めとして諸聖人と呼び、その聖人たちに祈り、聖人たちの功 績のおこぼれに与かることができるのだといいます。それで、聖徒の交わりを「諸聖人の通 功」と翻訳しています。 けれども、こうしたローマ教会の「諸聖人の通功」という教えは四つの点で聖書的では ありません。第一に、私たちが救われるのは主イエスの恵みによるのであって、行ないに よるのではないというのは、ローマ書、ガラテヤ書が力説するきわめて基本的で重要な教 82 えです。 第二に、マリヤであれペテロであれパウロであれみな、神様の前には罪人です。マリヤ はイエスの伝道活動を最初は理解せず連れ戻しに来たという愚かな罪人でした。ペテロは 主イエスを三度も裏切った罪人ですし、パウロは教会を迫害した自分は「罪人のかしらで す」と告白しています。それぞれに悔い改めたとはいえ、功徳が有り余っている聖人では ありません。そうした者が救われたのはただ神様の恵みによるのです。私たちは、彼らを先 輩のクリスチャンとして尊敬してもよいのですが、彼らに祈りをささげることは偶像崇拝 の罪にあたります。 第三に、聖書では「聖徒」ということばを特別に功徳がありあまっている人を意味するた めには用いておらず、聖書における「聖徒」ということばはクリスチャン一般をさすこと ばです。たとえば、1 コリント1:1:2でもパウロはコリント教会の人々を「聖徒」と呼 んでいますが、コリント教会の兄弟姉妹にはいろいろな問題がありました。それでも、彼ら は神様によってこの世から聖別された者なので聖徒なのです。私たちも聖徒なのですから、 聖パウロ、聖ペテロと言えるならば、聖篠原啓治といっても良いのです。 では、 「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」とは聖書的にはどう理解すべきでしょ うか。それは、単純に「教会とは、神の民の交わりである」と言う意味にほかなりません。 教会というのは、何か建物や一定の制度を意味しているのではなく、神の民の総体である ということです。教会は、二千年もの間に世界中に広がって来たので、それぞれの民族・地 域・文化に適応するなかでさまざまな教団・教派というかたちを取ってきましたが、そうい ういろいろなちがいを超えて、すべてのクリスチャンの総体が「聖なる公同の教会」なので す。 2.聖なる――神に属する、きよい (1)聖なる――神に属する つぎに、教会が聖なるものであるとはどういう意味でしょうか?聖人、聖徒、聖書、 聖 歌ということはなどと「聖」という文字を使いますが、「聖なるもの」であるとは聖書にお いては、どういうことを意味しているのでしょうか。これを訓読みにして「きよい」と読 みますが、それは道徳的に清潔で、罪を犯さないという意味だけではありません。 「聖である」ということばには、二つの面があります。第一は「聖なるもの」というのは、 分けられたもの、区別されたもの、特に神様に属するものとしてこの世から区別されたも の、神様専用のものという意味です。ですから、「聖なる公同の教会を信ず」というとき、 私たちは教会という信仰共同体は、この世に属するものではなくして、神に属するものと して取り分けられたものなのだと信じますと告白しているのです。 新改訳聖書は「聖別する」という特別な翻訳ことばを用いていますが、これは聖書の思想 83 をうまく表現した造語であると評判の訳語です。 「神のものとして、他のものから区別する」 ことが、聖別することなのです。神様に所属するものとして、この世のものから区別され たものが教会なのです。 私たちは、聖別された教会のメンバーですから、実際に、この世から神様の所有として 取り分けられているのです。その印として、父・子・聖霊の三位一体の神様の名による洗 礼を受けました。私たちが自分の持ち物に名札を付けるように、神様はご自分のものとし た私たちに名前を付けてくださり、神様の特別のご愛に満ちた配慮を受けるようにされた のです。ペンテコステの日、ペテロは集まって来た人々に向かって使徒 2:40「この曲がっ た時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めました。神をないがしろにしている世界か ら救われて、神様のものとされることが、聖なる者とされることなのです。 コリント教会というのは、分裂問題とか、知的傲慢の問題とか、不道徳な問題とか、い ろいろ問題をかかえた群れでした。そういう問題ある群れではありましたが、パウロは彼 らへの手紙の冒頭で次のように挨拶をしました。第一コリント 1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で 呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖な るものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。 パウロがいろんな罪を犯し、問題を起こしているコリント教会の兄弟姉妹にむかって、 「あなたがたは『聖徒』だ」と言ったのは、冗談ではありませんし、まして嫌味ではあり ません。まず、恵みの事実を確認しているのです。彼らには今、道徳的な問題、教会運営上 の問題があるにせよ、まず、彼らが神様の御前ではどういうすばらしい立場にあるもので あるかということを、確認させているのです。 「聖なる神様に選ばれ、主イエスの十字架の 贖いによって罪赦され、愛されている特別な存在なのだよ、だからこそ・・・」と彼らに 確認させているのです。 (2)きよい――聖なるお方にふさわしく では、神様のために恵みによって取り分けられた特別な立場であるということに満足し、 恵みの上にあぐらをかいて、罪に浸りつづけていればよいというのかというと、決して、 そうではありません。教会が聖なるものだということのもう一つの意味は、所有していて くださる聖なるお方にふさわしく、私たちもその生活において聖なるものとなることがた いせつだということです。 1ペテロ 1:15−16「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身 も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、 あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」 84 私たちを所有者してくださっている神様がこの世と区別されたお方であられるのですか ら、私たちがこの世と調子を合わせて、この世と同じ生き方をするのは奇妙なことです。こ の世と調子を合わせるのではなく、むしろ何が神様の御心であるのかを尋ね求めながら生 きるのが、聖なる者とされた者の生き方です。時間の使い方にせよ、お金の使い方にせよ、 おしゃれの仕方にせよ、仕事の仕方にせよ、趣味にせよ、食べ物飲み物にせよ、この世を 標準としてこの世の合わせるのではなく、神様のみこころはなんだろうかと聖書に聞いて 生きることが、聖なる神の聖なる民としてふさわしいことです。私たちは聖なる神様にふ さわしい歩みをすることがたいせつです。 コロサイ書には次のように有ります。コロサイ 3:12「それゆえ、神に選ばれた者、聖な る、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着 けなさい。 」 やはり、まず、神様が選び、神様が聖なる者としてこの世からとりわけ、 神様が愛を注いでいてくださる信仰共同体なのだということが前提です。だからこそ、神 様に選ばれ、それほど愛されているのだから、神様のこのありがたい愛にお応えして、深 い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に付けなさいというのです。恵みの事実があり、その 恵みにふさわしく生きよ、実を結びなさいというのです。「まず恵み、そして行ない」とい う順序は、何度繰り返しても、足りないほど大切な真理です。まず、神の恵みの聖別がなさ れ、聖別されたからそれにふさわしくきよく正しく愛を持って生きるというのが、キリス ト者と教会の歩みなのです。 2.公同の――普遍的な 次に、 「聖なる公同の教会」というばあいの、「公同の」ということばです。「公同の」と いうのは「普遍的な」という意味です。教会は普遍的であるというのです。教会はどうい う意味で普遍的と言えるのでしょうか。 (1)旧約・新約を超えて ここまでの教えを踏まえて、クイズをしましょう。<教会の歴史上最初の殉教者とは誰 ですか?>「ステパノ」と答えるでしょうか、それとも「アベル」と答えるでしょうか?使 徒信条は、「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と告白しています。それは、「聖な る公同の教会とは、すなわち、聖徒の交わりなんですよ。 」という意味だと先ほど申し上げ ました。「公同の」というのは、 「普遍的な」という意味であり、 「聖徒の交わり」とは、神 様を信じる民の交わりです。普遍的な教会とは、聖徒の交わりのことです。 アベルは聖徒でしょうか。むろん聖徒でした。ですから、使徒信条の示す教会観からい えば、教会の最初の殉教者はアベルだというのが正解ということになります。つまり、旧 約の教会も新約の教会も、ともに一つの神の民ですということになります。ペンテコステ に聖霊が降った事件を指して「教会の誕生」という人もいますが、厳密には、「新約時代の 85 教会の誕生」なのです。 パウロは教会を、ローマ書で接木したオリーブの木に譬えています。 「もしも、枝の中の あるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そして オリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇 ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなた をささえているのです。 」 (ローマ 11:17、18)台木は旧約のイスラエルの民の教会であり、 その台木に異邦人の教会が接木されているのです。接木されたら、別々の木が一つの木、一 つのいのちになってしまいます。そのように、旧約の教会と新約の教会は一つの「公同の 教会」なのです。 (2)民族国語を超えて 「公同の」というのは普遍的なという意味ですが、それは、さらにあらゆる民族国語を超 えているという意味で普遍的なのです。確かに旧約時代は、アブラハムの子孫であるイス ラエル民族が特別の扱いを受けていました。けれども、それはやがてあらゆる民族にキリ ストの祝福が及ぶためでした。主なる神は、アブラハム契約において、次のようにおっし ゃいました。 創世記 12:2−13 「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、 あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。 あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」 新約時代になると、もっと明白に教会が民族国語を超えた「公同の教会」であることが明 らかにされ、主イエスは弟子たちに「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々 を弟子としなさい」と命令されました(マタイ 28:19)。そして、 「この御国の福音は全世界に 宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」と主イエス はおっしゃいました(マタイ 24:14)。そして、黙示録には、実際、世界宣教が実行されて、 終わりのときが来たときのことが次のように預言されています。 彼らは、新しい歌を歌って言った。 「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほ ふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を 贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治め るのです。」黙示録 5:9−10 キリストの福音は民族国語を超えたものであり、教会は民族を超えて公同のものですか ら、その本質から言って、国教会主義というのは間違っています。たとえば英国国教会と かドイツ国教会とかロシア正教とか言いますが、こういうふうにキリストの福音を特定の 86 民族や国家に結びつけるならば、公同の教会ではなくなってしまいます。教会を特定の民 族や国家と直結するならば、それは本来の公同の教会ではなくなってしまうのです。とこ ろが、歴史の中ではそういう誤りが繰り返され、その結果、キリストの名を利用して自民 族を絶対化するという恐ろしい罪を犯し、今日にいたるまで多くの戦争をしてきたのです。 17−18 世紀のヨーロッパではそれぞれの国がキリスト教国を標榜しつつ、実際には政治的・ 経済的な欲望のための戦争にすぎないのに、キリストの名によって自らを正当化して戦争 をしてきました。そのために 18 世紀から 19 世紀にはヨーロッパでは人々の急速な教会離 れが起こりました。 聖書によれば、教会のかしらはキリストであって、いかなる意味でも、国王や天皇や政 府が教会のかしらではありえません。教会は聖なるものですからキリストにあって神に属 するものであり、教会は公同の教会ですから特定の民族や特定の国家には属さないのです。 ですから、もし教会にふさわしい国旗というものがあるとすれば、それは万国旗以外には ありえないでしょう。聖書もはっきりといっています。ガラテヤ 3:27−28 「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身 に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありま せん。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」 教会は、民族・国語を超え、職業身分を超え、男女を超えた普遍的なものです。福音が 民族を超えて普遍的なものであり、教会が民族国語を超えて公同のものであるというのは、 この国と国、民族と民族が対立して争いが絶えない時代の中で、実にすばらしいことです。 国籍を超えて愛の交わりがあるというのは実に素晴らしいことなのです。 十数年前、私は同盟教団の兄弟姉妹たちと韓国の教会を訪問しました。過去の歴史を思 うと、申し訳ないという気持ちがたいへん強い訪韓でした。ところが釜山に到着して最初 の集会で、私たちを迎えてくださった韓国の教会の牧師が、こうおっしゃいました。 「聖書 には教会はひとつの神の家であるとかかれています。ですから、みなさんは別の家からこ ちらの家を訪ねてこられたのではありません。隣の部屋からこちらの部屋に来られただけ のことです。ですから、どうぞくつろいでください。」胸が熱くなりました。 (3)天上と地上の境を越えて 「公同の」とは、さらに天上と地上という枠を超えて普遍的であるという意味です。 エペソ 3:15 「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。 」 地上における信仰の戦いを終えて今や天にいる聖徒たちの群れを勝利の教会と言います。 他方、今、この世にあって信仰の戦いをしている私たちのことを戦闘の教会と言います。 ですが、聖書は天上であれ地上であれ、どちらも一つの家族である、両方あわせて「公同の 教会」なのであると教えています。アベルもアブラハムもモーセもルツもダビデも、ペテ ロもヨハネもパウロも、アウグスティヌスもフランチェスコも宗教改革者ルターもカルヴ 87 ァンも信仰覚醒運動の指導者ウェスレ―も母水草紀子姉も中島末三兄も渡辺とし子姉も、 主イエス・キリストにあって救われた私たちはみな一つの神の家族なのです。 やがて、主イエスが再び来られる時には、大宴会が開かれて、聖徒たちは一堂に会するこ とになります。その喜びはどれほどのものでしょうか。想像を絶します。 結び 我は聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず。この神の民に加えられた者として、 視野を広く持ち、そして、この地域にあって主の教会にお互い責任と喜びをもって仕えて まいりたいのです。 88 使徒信条15 「罪の赦し」 ローマ3:10―26 罪の赦し 2005 年 7 月 3 日 小海主日礼拝 1.罪とは 別の教会にお仕えしていたときのことですが、 「教会に行くと人が親切そうで居心地いい んですが、牧師さんの話で『自分の罪を認めなさい』といわれるのがうっとおしくて行か なくなった」という人がいました。確かに聖書には罪について多く書かれており、 『旧約聖 書に見る人間の罪』などという本もあるほどです。 ところで罪とはなんでしょうか?ギリシャ語新約聖書に用いられている言葉の中で、日 本語の罪にあたることばは何種類かありますが、聖書がいう罪の本質を言いあてているこ とばはハマルティアということばです。ハマルティアとは、もともと射撃用語で、 「的はず れ」という意味のことばです。<人間には本来ねらうべき的がある。しかし、その的から 外れた生き方をしている、それが罪である>というわけです。 では、人間が本来ねらうべき的とはなんでしょうか。言い換えれば、人生の主な目的と はなんなのでしょうか?「あなたの人生の主な目的とはなんでしょうか?あなたは何のた めに生きているのでしょうか?」答えることができないとすれば、あなたも罪を犯してい るのです。どんな弓の名人であっても的が何であるかわからないで、当てることができる はずがありません。 私はかつて自分自身が生きる目的がなんであるかがわからずに悩んだ末に、キリストと 出会って素晴らしい人生をいただいたという経験をしたので、人に伝道をするときにしば しば「あなたの人生の目的はなんですか?」と聞いてしまいます。すると、 「難しいですね え。そんなこと考えたこともなかった。 」という人がほとんどで、たまに「若い頃には考え たけれど、答は見つからなかったですねえ。」という人もいました。 18 歳の時、私自身も、 「何のために生きているのか?」と考えたとき、 「あれ?何の答え もないじゃないか」と愕然としたのです。その頃の私は、自分は同級生たちよりも考え深 い人間であると思い上がっていましたが、こんな基本的なこともわからないでいたことに 気づきもしていなかったのでした。「何のために生きているのかわからないのに、よく生き てこられたもんだなあ」と自分自身のうかつさに呆れました。 これが罪の現実です。私たちは生まれながらに、人生の目的がわからない。それどころ か、人生の目的を見失っていることさえ自覚しないで、無目的に生きている。目先の目標 はあるかもしれません。受験生なら大学合格とか、サラリーマンなら家を建てることとか、 なにか目標はあるかもしれない。けれども、そういう目標は達してしまえば、それでおし 89 まいで、空しくなってしまうものです。そのように目的を見失い、さまよっているこの世の 人間の有様をごらんになって神様は次のように嘆いておられます。ローマ 3:10−12 それは、次のように書いてあるとおりです。 「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべ ての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもい ない。 」 人間の目的とは、私たちを造ってくださった創造主なる神を求め、神を知り、神を愛し、 神がくださった隣人を自分自身のように愛することです。少し硬い表現でいえば、「人の主 な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶこと」なのです(ウェストミンスター小教 理問答1)。ところが、人は神様に背を向け、神様など知っても何の腹の足しにもならない と思い、神様を無視して生きている。 創造主は、私たちに太陽を昇らせ、雨を降らせ、季節に応じて実りを与えて必要な糧を賜 り、空気を与え、水を与えすべての良いものを与えてくださっています。それなのに、神な どはいない、かりに神などいても私は関係ない、私の人生は私のものだ、私は自分の力で生 きていけると恩知らずにも思い上がっています。この神を無視し、神に反逆する事こそ、罪 の本質なのです。 その結果、私たちの生きている社会はどういうことになっているでしょうか。人間同士 はことばによって傷つけ合い、欺き合っています。13−14 節。 ローマ 3:13−14 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」 「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 先日、一人の高校一年生(でしたか?)が、父親をバットで撲殺し、母親をも殺してし まったという悲惨な事件がありました。その理由について、少年は前の晩に父親から「お前 は俺より劣っている」と散々馬鹿にされたのだということです。恐らくは、この時だけで なく、いつも事あるごとに彼は父親に馬鹿にされ、傷つけられ続けていたのでしょう。 私たちの舌は、本来、神様を賛美し、神様がご自分の似姿としてお造りになった隣人を 慰め励ますために与えられたものです。ところが、私たちはこの舌でもって、一番身近な 人を傷つけ、そのことばで心臓にナイフをつきたててしまうのです。これは神様に背を向 けた人間の悲惨です。愛と真実に満ちた神様に背を向けたことによって、私たちは自分の 舌を制御することができなくなってしまったのです。 さらに、聖書は神様に背を向けた人間世界のありさまについて描写します。 ローマ 3:15−17 「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。 」 舌の罪を放置すれば、そこには憎しみや怒りが増し加わり、憎しみや怒りを放置すると、 90 それは殺意に変わり、ついに殺意は殺人に至ってしまいます。60 年前世界大戦が終わり、 日本は敗戦を迎えました。世界はそのとき、国際連合を作って永久平和という希望を持ち ました。けれども、現実はどうですか。あの 60 年前からただの一日も、戦火はやんだこと がありません。 「平和の道を知らない」のです。いいえ。破壊や悲惨は、遠い外国の戦場に おける出来事ではありません。私たちの住むこの国に、この町に、そして家庭の中にも現 実としてあるのではありませんか。婚姻率と離婚率という統計があります。それによると、 一昨年の全国平均ですが、婚姻率が6で、離婚率が2.3だそうです。つまり、現代では 三組に 1 組以上が離婚しているということになります。心の安らぎの場であるはずの家庭 の中にも、憎しみや争いが絶えないという現実があるのです。 2.自分自身の罪の赦しが必要 森有正という人が次のような意味のことを言っていました。多くの人は何か問題を抱え、 その解決を望んでキリスト教会に来る。けれども、キリストと出会うと、その人は今まで 問題だと思っていたことが本当の問題ではなく、今まで問題だとも思ってもいなかったこ とこそ自分の問題であることに気づき、その問題を解決される。その時、かつて問題だと 思っていたことがらを乗り越えて生きてゆくものである。 職場の先輩があまりにひどいことを言うので、悩みに悩んで教会にやってきた若い女性 がいました。彼女は、最初教会に来た時、ぽろぽろ涙を流しながら先輩の理不尽な扱いに ついて訴えていました。その次の日曜から彼女は毎週礼拝に来るようになり、半年後、洗 礼を受けました。彼女は教会に通っているうちに職場の同僚のことはいつのまにかあまり 気にならなくなり、神様の前で自分自身の罪の問題に苦しみ悩むようになり、そうして半 年後のクリスマス、イエス・キリストがこの私の罪のために十字架で罪を贖ってくださった のだという事実を受け入れて洗礼を受け新しい人生を歩み始めたのです。 ところで、あの職場の先輩の問題はどうなったでしょう。当面大きな変化はありません でした。けれど、彼女にとって、その先輩は、あまり気にならなくなったのです。やがて 彼女はその先輩のために毎日神様の祝福があるようにと祈るようになりました。半年後、 彼女は嬉しそうに報告してくれました。 「あの先輩が、私に個人的なことで相談を持ちかけ てくれるほどに親しくなったんです。不思議ですね。神様は生きていらっしゃいます。 」と。 神様の前に来るまで、私たちが問題なのだと思っていることとはなんでしょう。たとえ ば夫の問題、たとえば妻の問題、たとえば子どもの問題、姑の問題、たとえば職場の上司 の問題、あの人の問題この人の問題である場合が多いでしょう。その頃は、私たちが自分 では問題だとは思いもしなかったこととはなんでしょう?それは自分自身の罪です。しか し、この自分自身の罪こそが、実は、問題中の問題なのです。 イエス様のもとに来て、この自分自身の罪という問題が解決されると、かつて大問題だ と思っていたことのただなかでも勇気を持って歩むことができるようになります。さらに 91 は、あるいは時間はかかるかも知れませんが、その問題の解決の光が見えてくるようにな るでしょう。 なぜなら、自分の罪の問題が解決しないうちは、私たちはいのちと力と平安の源である 神様から断絶しているので、一人ぼっちですが、自分自身の罪の問題が解決されるならば、 神様が人生の同伴者となってくださるからです。そして、神様が人生の同伴者となってく ださるならば、あなた自身のうちからいのちと力と平安があふれて来るからです。 ですから、私たちは、あの人の問題、この人の問題で悩んでいるとしても、まずは神様 の前での自分自身の罪の問題を解決することこそが必要なのです。 3.罪の赦し (1)行ないによるならば では、神様の前における罪はどのように解決できるのでしょう?ある人々は、自分の努 力、功徳を積み上げることによって、神様の前の罪の問題を解消できると考えました。聖 書の用語でいえば、 「律法を行なうことによって、神様の前に義と認めてもらえる」と考え るのです。「義と認める」というのは、裁判用語で、裁判官が被告に対して、「あなたは正 しい、無罪である」と宣言することです。実は、このローマ人への手紙を書いているパウ ロという伝道者自身が、かつて律法を行なうことによって、神様の前に義と認められ、神 様との関係を保てると考えていました。そうして、比類ないきまじめさで、律法を懸命に 行なったのです。律法の要約である十戒を挙げてみると、次のようになります。 「あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。」 「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。 」 「あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。 」 「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」 「あなたの父母を敬え。 」 「殺してはならない。 」 「姦淫してはならない。 」 「盗んではならない。 」 「あなたはあなたの隣人に対して偽証をしてはならない。 」 「あなたは自分の隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻・・・・をほし がってはならない。」 これらの戒めを一生の間、百パーセント守るならば、その人は、神様の前で義であると 宣告してもらえます。そこでパウロは懸命に、戒めを守ろうとしました。驚くべきことに 彼は第一から第九番目まではすべて守れたそうです。ところが、第十番目の戒めに真剣に 取り組んでみると、パウロはこれだけはどんなに努力しても守ることができないというこ とを認めざるを得なかったのです。ローマ7:7−10 92 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなこと はありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法 が、 『むさぼってはならない。 』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしま した。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、 戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの 戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。 」 ローマ書 3:20 が言っているのはこのことです。 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないから です。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。 」 (2)神の恵みの賜物 功徳を積み上げるといった行ないによる救いの道は、理屈の上では可能でも、現実的に は不可能なのです。私たちは抜きがたい罪の性質――原罪――を宿しているからです。神 様は、罪の中に溺れてしまって自分で自分を救うことのできない惨めな私たちをご覧にな りました。そして、二千年前、最愛の一人子であるイエス様を私たちの救い主として、地 上に遣わされたのです。 イエス様は、イスラエルのベツレヘムという小さな町にお生まれになりました。イエス 様を育てた養い親は、ヨセフという貧しい大工さんであり、母はマリヤという女性でした。 イエス様は十五になるかならないかの頃、養父ヨセフは早く亡くなってしまったようで、 イエス様は母を助け、養父とマリヤの間に生まれた弟や妹たちの面倒をみて苦労なさいま した。貧しさの悲しみも生活の苦しみも、つぶさに経験なさいました。やがて三十才にな ったとき、イエス様は天の父からその時が来たことを知らされ、伝道の生涯に入られます。 イエス様は、福音を宣べ伝え、友なき者の友となり、病気の人をおいやしになり、悪霊に 苦しむ人々を解放なさいました。多くの人々がイエス様の後に弟子を志願してついてゆく ようになりました。しかし、他方でイエス様は当時の宗教指導者たちからきびしく非難さ れるようになります。というのは、彼らの宗教や道徳が偽善に陥っており、それをイエス 様が暴いたからです。彼らはイエス様に殺意をいだくようになっていきます。 伝道活動の 3 年後、イエス様は弟子たちとエルサレムに向かわれます。エルサレムは、 ユダヤ教の総本山でした。そこでイエス様は宗教指導者たちの手の者に捕縛され、暗黒裁 判にかけられ、さらに当時のローマ総督の下でも裁判にかけられることになりました。人々 はイエス様を嘲り、罵り、こぶしで打ち、恐ろしい鞭打ちにし、ゴルゴタの丘にイエス様を 追い立てます。イエス様は、ご自分がかけられる十字架を背負って悲しみの石畳の道ドロ ローサを一歩一歩踏みしめて行かれました。ゴルゴタの丘に到着すると、人々は十字架の 上にイエス様を押し倒し、その御手と御足とを、犬釘によって打ち付けてしまいます。激 痛がイエス様の身体に走ります。そして、十字架がゴルゴタの丘に立てられました。 93 そのとき、イエス様は十字架の下にいる人々のためにこう祈られました。 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 イエス様は、ご自分を十字架につけた者のために、赦しを天の父に向かって希われたの です。驚くべき愛ではありませんか。 神様は正義の審判者です。聖なる正義の審判者は罪に対して怒りを燃やされます。罪 に対しては、それ相応の罰をお与えにならねばなりません。罪をそのまま放置したとすれ ば、それは正義の審判者ではなくなってしまいますから。神の聖なる怒りを鎮めるには、 なだめの供え物が必要なのです。 それにしても、アダム以来、私たち全人類が神の御前に犯しつづけている罪の量とはい ったいどれほどのものでしょう。どれほどの重さでしょう。全人類の罪を償うためには、 どれほどの犠牲、なだめの供え物が必要でしょうか。たとえ百万頭の牛や羊のいけにえで も足りません。ただ、人となられた神、罪のない尊い御子イエス・キリスト様だけが、私た ち全人類が神の御前に犯した恐ろしい罪を償うことのできるお方です。 そのイエス様が、こう祈ってくださったのです。 「父よ。彼らを赦してください。」そし て、事実、父なる神様は、この歴史の中で公に、イエス様が十字架で流されたその血潮を、 その苦しみを、私たちの罪のための贖いとして受け取ってくださったのです。ローマ 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公 にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯 されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 (3)信仰によって賜物を受け取る 神様は、一人子イエス・キリストという救い主を賜物(贈り物)として、私たちに与えて くださいました。イエス様は十字架の上で、あなたの身代わりとなって、罪の呪いを引き 受けてくださいました。神様の聖なる怒りを鎮めるなだめの供えものとなられたのです。 神様は、私たちに罪の赦しを、贈り物として差し出していらっしゃるのです。「さあ、この 贈り物を受け取りなさい。」と。 このように、神様の御前で罪を赦され義と宣言していただくことは、プレゼントなので す。贈り物は、決して買うことはできません。ただ感謝していただくのみです。そのよう に、私たちは神様からの罪の赦しを信仰によって感謝していただくほかないのです。 「わたしは確かに神様の前で罪を犯しました。神様を無視して、人々を傷つけ、自分自身 をも傷つけて、多くの罪を犯しました。しかし、私は今、イエス様をあなたからの救い主 として信じます。」と祈るならば、あなたは救われるのです。神様から断絶した一人ぼっち の人生、滅びに向かう人生から、神とともに歩む人生、天国へ向かう人生に変えていただ けるのです。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キ リストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょ う。」 94 使徒信条16 ルカ15:11−24、ローマ8:15−17 神の子どもらしく 2005 年 7 月17日 小海主日礼拝 1.神の子どもとされたことは特別の祝福 きょうは神の子どもとされたという祝福についてお話します。使徒信条では「罪の赦し」 と告白したあと、「からだのよみがえり、とこしえのいのち」と進んでしまうのですが、そ の前に「神の子どもとされた祝福」について、味わいたいと思います。神に義と認められ るという項目の中で、「神の子とされる祝福」について論じている有名な神学者もいます。 けれども、実は、後に学びますように、子とされる祝福は、義と認められることに勝る祝 福なのです。 とはいえ、この使徒信条が「神の子どもとされた」という恵みを忘れてしまったわけで はありません。使徒信条は冒頭で「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白 しているからです。「父なる神」というのはイエス・キリストの父なる神であられるという 意味だけではなく、私たち自身にとっても、神様は父となってくださったということ、つ まり、私たちは神の子どもとされたということをも意味しているのです。 「クリスチャンとはどういう人ですか?」と質問されたらどのように答えるでしょう。 神によって罪を赦された人、神様のしもべ、洗礼を受けた人、イエス様を信じている人・・・ どれも間違っていませんが、新約聖書を総合的に読んでみて、クリスチャンはどういうも のかという問いに対する最良の答えとは、イエスを信じて神様を父として持っている人の ことであるという答えです。 聖書の中には、<天地万物の創造主である神がすべての人の父である>という教えはど こにもありません。悔い改めてイエスを信じた人々にとってのみ、神は父なのです。私た ちは生まれながらに神の子どもではなく、イエス様を信じたときに、神様の養子として受 け入れていただいたのです。ヨハネ 1:12「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、 その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあるとおりです。 特権とありますね。誰もが持っている権利であれば、それは特権とは呼びません。ほとん どの人は持っていないのに、特別に持っているからこそ特権といいます。神様を「お父さ ん」と呼べることは、特権なのです。生まれながらには私たちはみなし子だったのですが、 神様はキリストを信じる私たちを、キリストに結ばれた者として、ご自分の子どもとして くださったのです。 95 2.最高の祝福――義認と比較して (1)神の子どもとされたことは最高の祝福 神の子どもとされたというのは、神様が用意してくださった実に最高の祝福です。これ 以上の祝福はありません。驚く人があるかもしれません。神様に罪を赦されたということ、 義と認められたということが最高の祝福だと思っていたという人があるかもしれません。 確かに、罪を赦され義と認められたことは、きわめて重要な祝福です。義と認められると いうことは、神様との平和がやってきたという法的な関係が正常化されたことです。その 平和を基礎として、両者の間に具体的な交流が始まるのですから、重要なのです。 けれども、神に義とされたことは最高の祝福というわけではありません。義と認められ たことは、神の子どもとされるという最高の祝福をいただくための基礎となる祝福です。 イエス様の話された放蕩息子のたとえは、罪赦され義とされるということと、子とされる ということとをよく説明しています。 ルカ 15:17-22 「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。 『父のところには、パンのあり余っている 雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、 父のところに行って、こう言おう。 「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの 前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひと りにしてください。 」 』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、 まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、 口づけした。息子は言った。 『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪 を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、し もべたちに言った。 『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、 手に指輪をはめさせ、足に靴をはかせなさい。」 弟息子は、父から相続財産をふんだくり、町に出かけ、飲む打つ買うの三拍子。カネを 瞬く間に使い果たしたまさにそのとき、飢饉が町を襲いました。そうして、豚の餌を食べ たいと思うほどのどん底まで落ちたとき、彼は我に返ってふるさとに帰ろうと決心します。 この時の彼のことばを見ると、その心の動きがよくわかります。 「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、 あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。 」 彼は、とにかくふるさとに帰ったら罪を赦してもらい、食いつなぎたいと思いました。 けれども、まさか今さら親子の縁を回復してもらえるとは思っていました。 「雇い人の一人 にしてください」と言うつもりだったのです。 ところが、どうでしょう。父親は、あの息子がぼろをまとって裸足でとぼとぼと帰って くるのを見て、いても立てもいられずに、走りよって口づけをし、靴をはかせ、指輪させ て上着を着せて宴会です。特に、お父さんとの久しぶりの対面に際して、息子が言ったこ 96 とばに注目してください。彼があらかじめ用意したことばと違うところに気づくでしょう か?そうです。息子があらかじめ用意したことばの最後の一文が抜けているのです。 「雇い 人のひとりにしてください。」ということばです。父親は、息子が「子どもと呼ばれる資格 はありません。 」というのに対して、「いや。もうそれ以上は言うな。お前は紛れもなく私 の息子だ。 」と言いたいのです。その証として、彼に「指輪」をはめさせました。指輪とは、 相続人のしるしに他なりません。 このたとえ話をもって、イエス様は、義と認められたという恵み以上の恵みとして神の 子とされるという恵みがあるという事実を語っておられます。神様に罪を赦されたという 恵みは、基本的な恵みです。神様に背を向けていた者が、神様に向き直り、神様と私たち の間のいのちの交わりの妨げとなっていた罪の問題が、イエス様の十字架の贖いのゆえに 赦されたのです。そのことによって、神様と私たちの間の罪という根本的な障壁が取り除 かれましたから、罪の赦しは非常に重要です。イエス様にあって罪赦されることなくして、 神様に祈ることも、また、神様に似た者となろうとしてきよめを求めることも無駄なこと です。まず、罪ゆるされて基本的な神様との関係が正常にされなければなりません。そう いう意味で、神様に罪赦されることは重要です。 けれども、罪赦されたという恵みは基本的ではありますが、最高の恵みではありません。 罪赦されたというだけでは、神と人間の関係は主人と雇い人の関係にとどまっています。 雇い人のために、神の御子がいのちまで投げ出されたというだけでも、ありがたいことで すが、神様の恵みはさらにすばらしいのです。神様は、私たちの罪を赦してくださった上、 さらに、同時に、ご自分の子どもとしてくださったのです。養子としてくださったのです。 放蕩息子は父の前に帰ってきて、 「雇い人の一人にしてください」と言おうとしましたが、 父親は押しとどめて、彼に息子のしるしの指輪を与えました。放蕩息子は、単に衣食住を 恵まれたのではなく、息子として愛されるようになったのです。 神は創造主であり、私たち人間は被造物です。被造物にすぎない者が、どうして創造主 を「お父さん」と呼べるようになったのでしょうか。それは、創造主のひとり子が、被造 物である人間となってくださったからです。このイエス様に結ばれた私たちもまた、イエ ス様にあやかって神様の子どもとしていただいたのです。もちろん、イエス様は実子であ り、私たちは養子であるというちがいはありますが、それでも私たちは神様の子どもとし て特別の愛情と庇護の対象とされているのです。そのことがよくわかるように、神様は私 たちに御子の御霊をあたえてくださいました。ローマ 8:15−16 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として くださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たち が神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいま す。 (2)神の子どもとされたことは教会的な祝福 97 神の子どもとされたという祝福は、義認と比較すると、もう一つの特徴があります。神 様によって義と認められたというとき、あなたは被告として審判者である聖なる神の前に ただ一人で立たされています。そして、審判者はあなたに、「あなたをイエス・キリストの 贖いのわざを根拠として、義と宣言する。」とおっしゃったのです。裁判官の前で被告は孤 独です。そのように義認という恵みにおいて、私たちは孤独です。 けれども、神の子とされたという恵みは、共同体的な恵み、教会的な恵みです。 罪を犯したのに裁判で義と宣言されてしまった囚人は、きょとんとして刑務所から釈放 されることになりました。しかし、一抹の不安が彼の心をよぎります。 「シャバの風は冷て えだろうな。またここにいつか舞い戻っちまうんじゃねえかなあ。 」と。ところが、刑務所 の重い鉄の扉が開くと、そこにはあの裁判官がガウンを捨てて彼を迎えに来ているのです。 しかも、子どもたちを連れて。そして、刑務所から出てきた彼の肩を抱いて、「君は、これ からわたしの子どもだ。この子どもたちも、かつては君と同じ境遇だったんだ。 」というの です。 これが「子とされた」という恵みです。つまり、 「子とされた」という祝福において、わ たしたちは神の御前でひとりぼっちではありません。主にある兄弟姉妹とともに、父なる 神様の御腕の中に抱かれるのです。主にある兄弟姉妹も、みなかつては生きる目的もなく、 罪の闇の中をさまよっていました。けれども、恵みによって神様の子どもとなったのです。 この神の家族としての兄弟姉妹を教会というのです。この兄弟姉妹の長子はイエス様です。 「宗教というのは、神様と私一人の関係です。 」という人がいます。キリスト教信仰にも そういう側面があるのは事実で、義と認められたということについては、特にそうでした。 けれども、キリスト教信仰はそこにとどまりません。義と認められた私たちは、創造主を 父と呼ぶ神の家族のメンバーのお互いなのです。互いに愛し合い、祈り支えあう、そうい う共同体なのです。そこで私たちは、ともに主を礼拝するのです。 3.父なる神は私たちを子として愛してくださる 「私は物心ついたときには父は死んでしまっていたので、神様が父となってくれたという ことがよくわかりません」という人がいます。また、「私の父親はとても冷酷で無責任な人 だったので、神さまが父であるというのが祝福であるというのがピンと来ません。 」という 人もいるでしょう。けれども、それだからといって、そういう人には神様の子どもとされ たという恵みがわからないわけではないのです。人間の父親は不完全な罪ある存在ですか ら、ただ自分の父親と神様を重ね合わせてしまうならば、神様について誤解してしまうで しょう。では、どうすればよいのか。 父なる神と御子イエスのありかたをよく見ればよいのです。父なる神が、御子をどのよ うに愛し、御子イエスはどのように、父なる神を愛したのでしょうか。御父は、御子イエ スに結ばれた私たちを御子を愛するように愛し導いてくださるのです。また、私たちは御 98 子が御父を愛し従ったように、愛し従うように召されています。 (1)父の愛の表現 御子がヨルダン川で洗礼を受けたとき、御父は御子に聖霊を降したまいました。そして、 天から声をおかけになりました。 「おまえはわたしの愛する者だよ。お前のことを喜んでい るよ。 」同じように、御父は私たちが洗礼を受けたとき、私たちに御霊を満たしてくださり、 「おまえはわたしの愛する者だ。わたしはお前のことを心から喜んでいるよ。」とおっしゃ ってくださったのです。何が出来るとか出来ないとかいう、機能の標準によらず、まず神 様は私たちそのものを喜んでくださいます。私たちの存在を喜んでくださるのです。 もし奴隷であれば、その働きのみに応じて評価されるでしょう。けれども、子どもは、 その働き以前にその存在を喜んでいただけるのです。たとえば赤ん坊というのは、働きと いう客観的な基準から見るならば、親にとってはただ迷惑なだけのものにすぎないという ことになるでしょう。生まれると昼欲かまわずビービー泣き喚いて、やれおっぱいだ、や れおむつ交換だ、やれあせもだ、やれ熱が出たとたいへんですし、ただお金がかかるだけ みたいです。けれども、それでも親は我が子をいとおしく感じます。なぜですか。親は,赤 ん坊がなにが出来るかを基準にして評価しないで、子どもの存在を喜ぶからです。 神様にとって、私たちを雇っても機能・働きということからいえば、別に何も得はないで しょう。けれども、父として私たちの存在を喜んでくださるのです。天の父の愛は、その ような愛です。 次に、御父は御子を信頼して人類の救いという使命を与えて地上に送られました。同様 に、父なる神様は私たちを子どもとして信頼し期待して、キリストの福音をこの世界に伝 える使命をお与えになっています。 また、父なる神はその子どもたちのために、試練をお与えになることがあります。御子 イエスもこの地上に遣わされて、もろもろの苦しみを通られました。格別、公生涯にはい ったらすぐに、荒野の四十日の試練。そして、十字架にいたるまで試練に接ぐ試練でした。 試練はその当座は苦しいものですが、それは私たちが私生児ではなく、父なる神の子ども として愛されていることのしるしです。ヘブル 12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。 「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。 」 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が 懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らし めを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、 私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったの 99 であれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでし ょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる のですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、 懲らしめるのです。 御父は①私たちの存在を喜び、②また私たちに使命を与え、③そして、私たちが御父の ように清くなるために必要に応じて試練をも与えてくださるのです。 (2)父の愛に応えて生きる 他方、御子は御父を常に信頼なさいました。たとえば、嵐のガリラヤ湖で小舟が荒波に 木の葉のように揺られたとき、弟子たちは「死んでしまう!」と大騒ぎしましたが、御子 はゆりかごの赤ん坊のようにすやすやと眠っておられました。そのように、私たちはイエ ス様に結ばれて神の子どもとされたので、どんなときでも御父を信頼して生きてゆけばよ いのです。 御子は、御父に服従なさいました。御子は御父のみこころにしたがって、天の御座を捨 てて地上にくだり、実に十字架の死にまでもしたがい通されたのです。私たちはキリスト に結ばれ、キリストのうちにある者ですから、それぞれ自分の十字架を背負って神の子ど もとして御父に服従して生きるべきです。 しかし、その服従は奴隷の主人に対する服従ではありません。それは、愛ゆえのまた人 格的な交流をともなったものです。そのあかしとして、御子は御父に格好をつけないで率 直に祈られました。特に胸打たれるのはゲツセマネの祈りです。十字架を目前に控えて、 イエス様はあのゲツセマネで祈りました。その祈りは実に赤裸々で、かつ、わがままでは なく御父に服従しますという態度でした。 マルコ 14:36 またこう言われた。 「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、 この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたの みこころのままを、なさってください。」 私たちもまた祈りにおいては、どんな格好もつける必要はありません。赤裸々でいいの です。赤裸々であり、かつ、御父のこころがなりますように、という態度がたいせつです。 (3)相続人の責任感 神の子どもということばは、聖書では「神の国の相続人」という思想と緊密に結びつい ています。あの放蕩息子に父親は相続人のあかしとしての指輪をはめました。また、ロー マ書はいいます。ローマ 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受け るために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続 人であります。 100 私たちは、キリストとともに相続人となると聖書は語っています。そして、相続人はキ リストと栄光と苦難をともにするものであるのです。キリストは天においても地において も一切の権威が与えられている」とおっしゃいました。やがての日、主イエスは再臨され て世界をすべ治めることになります。主イエスは世界の相続者です。そして、聖書は私た ち自身もキリストと共同で世界を相続人するのだと語るのです。その日には、私たちは新 しい御国で御使いをもさばくことになると他の個所では言われています。 ですが、主の再臨が訪れて新天新地が来る前から、私たちはこの世界に対して相続人と しての責任があります。ちょうど旧約時代、約束の地の相続人アブラハムが、滅ぼされそ うになっていたソドムとゴモラのために懸命にとりなしの祈りをしたように。私たちは、 神様によってそれぞれの職場や家庭や地域社会に派遣されています。そこで、神様のご栄 光をあらわす歩みをすることが礼拝の生活のです。生活を礼拝化することが大事です。私 たちはこの世の子ではなく神様の子どもなのですから、神様の子どもらしく生活をするの です。 結び 神様は、キリストにあって、私たち一人一人の罪を赦して義としてくださいました。 その上、神様は私たちに御子の御霊をくださって、私たちをご自分の子どもとして、神の 家族として愛してくださるのです。私たちは、御父の愛に応えて、神の国の相続人として の自覚をもって、父なる神様を礼拝し、信頼し、したがって参りましょう。 101 使徒信条17 ピリピ 3:20,21、1 ヨハネ 3:2,3 「からだのよみがえり」 2005 年 7 月 21 日 小海主日礼拝 序 「からだのよみがえり」の告白の位置から 使徒信条は父・子・聖霊という聖三位一体の構造を成しています。その第三区分、聖霊の 条項の中に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこし えのいのち」という順番で告白されています。この順序は何を意味しているのでしょうか。 聖霊が「聖徒の交わり」としての「聖なる公同の教会」を生み出し、そして、聖霊は、教会 を通して神様の恵みを宣べ伝えるのだということを意味しています。使徒信条は、その神 様の恵みの内容を要約して「罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえのいのち」と三つ のことばで表現しているのです。今回、味わおうとしております恵みは「からだのよみが えり」です。 1.グノーシス主義の教えと生活 (1)霊肉二元論 ところで、神がくださった恵みといえば、イエス様を信じたときにすでにいただいたも のとして「罪の赦し」を告白し、将来完全なかたちでいただく「永遠のいのち」を告白す るだけで十分という気がしないでしょうか。 「からだのよみがえり」というのは「永遠のい のち」という中に含まれているのですから。けれども、使徒信条は、わざわざ、 「からだの よみがえり」と言っています。なぜでしょうか?これまで使徒信条について味わってきた みなさんには、ある程度、見当がつくかもしれません。 そもそも信条、信仰告白というものは、正統な教会が異端的な教えから自らを区別する ために生み出されたものでした。<世間にはこんなことを教えている異端グループもある けれども、正統な教会としてはこのように信じるのです>と区別するわけです。使徒信条 が生み出された背景には、特に、当時のヘレニズム世界に流行していた異教とキリスト教 を混ぜ合わせたグノーシス主義という哲学的な異端があったことは先にもお話ししました。 グノーシス主義者は「からだのよみがえりなどありえない」と教えていたのです。ですか ら、教会は「からだのよみがえりを信じる」と言って区別しているのです。 グノーシス主義の世界観・人間観は霊肉二元論でした。世界は霊と物質で出来ており、霊 は高尚で善いものであるが、物質は卑しく悪いものであり、本来、両者はかかわりのない 102 ものであるという考え方が、グノーシス主義の二元論の基本でした。 このようなグノーシス主義の肉体(物質)をいやしめる思想は、素朴な経験からして私た ちにもわからないではありません。たとえば、年老いてくるとからだのあちこちに不調が 出てくる。気持ちは若いつもりであっても、からだが言うことをきかなくなって来て、さ らに肉体の不調のために家族にも負担をかけるようなことが増えて来ます。すると、気持 ちが若くても肉体がついてこないという状況が苦痛に思えてきます。精神は大丈夫だけれ ど、肉体つまり物質が問題だという経験ですね。また、逆に、若いなら若いで、性欲をは じめ肉体の欲求というものが強くて、自分の精神のコントロールを超えてしまいそうにな り、苦しむことがあるものです。肉体が精神の重荷になってしまうわけです。こういうこ とから霊が肉体の束縛から解放されれば、どんなに軽やかに生きられるだろうかというよ うな考えが生じてきたことは一応理解できそうです。 (2)グノーシス主義のもたらす異端的教えと不道徳 しかし、このように霊を善とし、肉体を悪とする霊肉二元論は聖書的な考えではありま せん。霊肉二元論は、キリストの福音をどのように捻じ曲げ、かつ、私たちの生き方にど ういう間違いをもたらしたでしょうか。 第一に、グノーシス主義者は、キリストの受肉と受難と復活の否定する点でまちがえて います。彼らは、善である神の御子の霊が悪である肉体をまとわれるはずがないし、善で ある神のキリストが十字架で苦しむこともありえないというのです。けれども、聖書はま ちがいなく聖なる神の御子は人となっておいでになったと語っていますし、キリストは生 身のからだをもつ人として十字架で苦しみ死なれたのだと語っています。そして、キリス トが復活されたとき、墓にはキリストのなきがらは無くなっていました。キリストが、霊 だけでなく、からだごとよみがえられたからにほかなりません。 第二に、グノーシス主義によれば、霊は善で、肉体が悪なのだから、霊が肉体から自由 になって、霊の世界で遊ぶことが理想ということにもなります。そうした考えからすると、 「からだのよみがえり」があるというのは、当然、ありえないということになってしまい ます。 このように、教えに関して言えば、グノーシス主義はキリストの受肉・受難・復活を否 定しますから、私たちの罪の赦しの根拠はなくなります。そして、私たちの復活の希望も 否定してしまいます。 では、生き方についてはどうでしょうか。まず、グノーシス主義は、苦行・禁欲主義を 勧めます。グノーシス主義の考え方からすれば、霊が肉体の束縛を受けていることが苦し みのもとなのですから、肉体の束縛から霊が解放することが救いだということになります。 そこでこの世にあっては、肉体を苦しめ肉体を弱める修行をすることによって、霊に対す る肉体の影響を弱めることができると考えます。コロサイ書にはこういうグノーシス主義 103 の苦行主義に対する反駁が記されています。コロサイ 2:20−23 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、 どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、 「すがるな。味わうな。さわるな。 」 というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものに ついてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手 な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、 肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。 肉類を絶ったり、妻帯を禁じたり、冷たい滝に打たれたり、逆さ釣りになったり、炭火 の上を歩いたりなどという苦行をしている人を見ると、私たちは「なんだかわからないけ れど、たいしたものなのかなあ」と印象を持ってしまう人が多いのです。が、使徒パウロ はニベもなく「あんなことをしても肉のほしいままな欲望に対しては何のききめもない」 と断言してしまいます。自分自身パリサイ主義者として徹底的に自分をいじめ抜いてきて いた彼には苦行の無意味さがよくわかるのでしょうね。 次に、グノーシス主義の霊肉二元論は、逆に肉欲主義を勧めます。肉体の苦行を勧める 禁欲主義と正反対のようですが、実は根っこは同じなのです。霊肉二元論の教えによれば、 肉体と霊というものはもともと全く別個のものなのだから、我々が肉体をもってどんな汚 れたことをしても、霊は汚れることは本来ありえないのだと教えます。本来ありえないの に、肉体にとらわれているのが問題だということです。そこで、肉体と霊の分離という境 地に達するために、厳しい苦行をします。その結果、肉体と霊の分離の境地に到達したと 思い込みます。すると、今度は、肉体でもって何を食べようと何を飲もうと売春婦と交わ ろうと、霊は汚れないというのです。今でも、この種の二元論的な宗教においては、しば しば見られる教えで、末端の信者たちには禁欲修行をさせながら、教祖は公然と肉欲にま みれた生活をします。 このように、グノーシス主義の教えによれば、キリストの受肉、キリストの受難、キリ ストの復活、私たちの復活は否定されます。そして、道徳的には禁欲主義と肉欲主義が賞 賛されるのです。 2.からだのよみがえりを信ず けれども、キリスト教会は、 「からだのよみがえりを信ず」と告白します。私たちは、こ のからだのよみがえりの信仰によって、どのような益を得るでしょう。 (1)キリスト者の復活の希望 私たちはキリストの復活を信じ、かつ、後の日、主イエスが再臨なさったときには、私 たち自身も復活のからだを与えられるという約束をいただいています。ピリピ 3:20−21 104 「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として おいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせるこ とのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変 えてくださるのです。 」 私たちのこのからだは神様からいただいているものですが、残念ながらこの手足で罪を 犯してしまったり、このからだは病に痛めつけられたりするものです。不完全・不十分なか らだです。けれども、そうであっても、このからだは後の日に神様がくださる復活のから だへの準備なのです。私たちがイエス様を信じたときから、聖霊さまが私たちのからだに 宿ってくださるようになります。私たちのからだは聖霊の宮となっているのです。 主が再臨された復活の日に、神様のくださる新しいからだについては、確かに今私たち が使っているこのからだとの連続性はあるものの、イエス様の「栄光のからだと同じ姿に 変えられる」と約束されています。イエス様の復活のからだは、墓にイエス様の亡骸が無 かったことからもわかるように、復活前のからだとの連続性があるものでした。両手の傷、 足の傷さえ残っていたのです。このように連続性があるものでしたが、同時に、復活の身 体は栄光に満ちたおからだでした。同様に、そのような主のからだに似た姿に、私たちの からだも変えていただけるのです。 その新しい身体はコリント書 15 章では「御霊に属するからだ」と表現されています。そ れは単なる霊ではなく、御霊の完全なご支配の下にあるからだなのです。したがって罪へ の誘惑に二度と破れることはありません。常に神を愛し隣人を愛するために役立つからだ です。そして、それはまた、朽ちることの無いからだなのです。これが、 「からだのよみが えり」の希望です。 (2)からだのよみがえりの希望を持つ者の生き方 キリストに似た復活のきよい朽ちることの無いからだをいただけるという希望をもって いる私たちはどのような生き方をするのがふさわしいでしょうか? 第一は、キリストのように清く生きることです。第一ヨハネ 3:2−3 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされてい ません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわか っています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キ リストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清く します。 第二は、からだのよみがえりを信じているならば、からだをめちゃくちゃに酷使せず、 大切に管理することです。からだは軽んじるべきものではありません。からだは、グノー シス主義者がいうようにいやしむべきものではないのです。からだもまた神様がくださっ たものですし、格別、クリスチャンのからだの場合は、聖霊の住まい、聖霊の宮とまでさ 105 れているのです。 旧約時代、神殿の祭司たちレビ人たちが、いつも神殿を清く保つために務めていたよう に、私たちも自分のからだが神様からいただいている聖霊の宮として清く保ち管理しなけ ればなりません。聖霊の宮であるからだを壊すほどの労働は罪でありますし、聖霊の宮で あるからだを壊すほどの暴飲暴食・運動不足もまた罪です。あなたのからだはあなたの所有 物ではないのです。好き勝手に用いてはなりません。神の御心にかなって用いるべきです。 第三は、霊だけでなくからだもまたは神様のくださった賜物ですから、生活における物 質的・肉体的な必要や楽しみを軽視してはいけません。私たちは、グノーシス主義者たちの ように禁欲主義に走らないで、神様がお許しになる範囲のなかで正当に物質的・肉体的な面 でも人生を楽しむように召されているのです。神様にささげるべき分まで自分の趣味に用 いてしまうのは盗みにあたりますが、神様にささぐべき十分の一を第一にささげたならば、 その後、手元に残されている十分の九をもって生活し、人生を楽しむことは良いことであ って、決して罪ではありません。 たとえば、食事を楽しむことは罪ではありません。健康を害するような飽食や、人の分 まで食べるむさぼりは罪ですが、神様のくださった分を楽しんで食べることは神様に喜ば れることです。また夫婦の間における愛情の表現としてのスキンシップも、神様がくださ った賜物として感謝して楽しむことです。むろん結婚という枠を超えてはいけませんが。 また、おしゃれをすることもよいことです。野のゆりが美しく装っているように、神を賛 美する者として美しく装うことも良いことです。 神様がお造りになった美しい花々やさまざまな生き物たちや美しい星空を見れば明らか です。みな神様のぜいたくであり、私たちを楽しませようとしていらっしゃるのです。こ の神様の豊かな芸術作品である世界をみると、神様は生物として生きるために必要最低限 だけを私たちにくださっているだけでなく、神様の子どもとされた私たちが楽しむことを 意図してくださっていることはあきらかです。 第四は、からだのよみがえりを信じるならば、私たちは口先だけでなく、このからだを もって、つまり具体的な行動をもって、兄弟愛を表現すべきです。ヨハネの手紙は先に申 しましたように、グノーシス主義に対する反論という面がある手紙です。グノーシス主義 といういささか哲学的な議論好きの宗教に対して、復活の希望を持つキリスト者は、その 具体的生き方をもってキリストを現わすのです。 第一ヨハネ 3:16−18 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私 たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、 どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけ 106 で愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。 キリストは口先だけで私たちを愛したのではありませんでした。キリストは、肉体をと ってこの世にお生まれになり、その生身のからだにむちを受け、あの十字架で呪いを一身 に受けていのちを捨ててくださいました。私たちが、キリストに似た者とされるというこ とは、キリストのように兄弟のためにこのからだをもって仕えるということです。口先だ けでなく、具体的な生き方をもって、ここでいえば世の富の用い方をもって、あなたの主 にある兄弟愛を実践すべきです。 神様は私たちにからだのよみがえりという望みを与えてくださいました。その日を待ち 望みながら、私たちは、このからだでもって神の栄光を現わして生きていきたいものです。 第一コリント 6:19−20 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、 あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、 代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしな さい。 107 使徒信条18 黙示録21:1−8 「永遠のいのちを信ず」 2005 年 7 月 31 日 小海主日礼拝 使徒信条の順序にしたがって、みことばを味わってまいりましたが、今日はその結びと なります。「われは永遠のいのちを信ず」という告白です。神様が私たちに賜る永遠のいの ちについて、聖書は未来のことであるという面と同時に、現在すでに享けているという面 とを語っています。私たちは、やがて新しい天と新しい地で生きるいのちに希望を抱きつ つ、今すでに主イエスにあって永遠のいのちを享けて生きるのです。 1.やがて (1)新天新地 黙示録 21:1 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや 海もない。」 この世の終わりのとき、歴史に終止符を打つためにキリストが再臨し、すべての悪い者 が滅ぼされます。「獣」と呼ばれる独裁者、その独裁者を支える偽預言者、そして、黒幕の 悪魔――悪の三位一体――が火の池に投げ込まれます。黙示録 20:10 「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預 言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。 そして、最後の審判が行なわれ、永遠のいのちの書に名の記されていない人々もまた、 火の池に投げ込まれてしまいます。黙示録 20:15 「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」 そして本日の個所 21 章。新しい天と新しい地が訪れます。これはペテロの手紙第二では、 「正義の住む新しい天と新しい地」(3:13)と表現されています。今、私たちが住んでいる世 界が、究極的には神のご摂理の下にあることは事実ですし、この星空や美しい山々、可憐 な花の姿、つまり神様の作品である自然の秩序や美を通して、その創造者の知恵やすばら しさを垣間見ることができることは一面の事実です。けれども、アダムの堕落以来、これ ら被造物が呪われた状態にあることももう一面の事実なのです。この世界には正義ととも に悪が住んでいます。 パウロはこの世界の状態について、ローマ書 8 章で「被造物が虚無に服し」ているとか 108 「被造物自体も滅びの束縛」の中にあるとか「うめいている」と表現しています。被造物 世界の状態は正常ではなくなっているのです。たとえば、作物に潤いをもたらす雨が降る ことは素晴らしいことですが、反面、ひどく降りすぎて洪水となり家も畑も流し人命も奪 ってしまいます。太陽がさんさんと降り注ぐことは恵みですが、反面、ときには太陽が照 り付けるばかりで旱魃そして悲惨な飢饉になってしまいます。また、動植物の世界にも呪 いが及んでいます。生き物たちは今も多くの面で本来の支え合ううるわしい関係を持って います。たとえば、花が咲けば、ミツバチやチョウチョが来て蜜をもらったお礼に受粉さ せるとか、アリがアブラムシに蜜をもらい、アリは彼らを守るとか、さまざまな助け合い がなされています。けれども、他面では、ライオンはシマウマやキリンを食べなければ生 きてゆけないというふうに、生物たちは弱肉強食の抗争をせざるをえない状態のなかに置 かれています。 しかし、キリストが最後の審判を行なわれた後、神様は新しい天と新しい地を創造なさ います。そのとき全被造物は滅びの束縛から解放されるのです。イザヤはその幻を次のよ うに描写しています。イザヤ書 11:6−9 「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が 共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共 に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子 はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、 そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。 」 神様が、究極にもたらしたまう救いとは、単に人間のたましいの救いだけでなく、から だまるごとの救いだと前回学びましたが、今日は、さらに、神様の究極賜る救いは、単に 人類の救いだけでなく、全被造物の救いなのです。すばらしすぎて、描写し尽くすことが できない栄光です。 (2)花嫁エルサレム この新天新地の中心に位置するのが聖なる都、新しいエルサレムです。新しいエルサレ ムは夫のために花嫁のように飾っています。むろん夫とはキリストのことです。聖なるエ ルサレムは神の民、教会の住まうところです。復活し、キリストに似た新しい御霊に支配 されたからだを与えられた神の民は、至福の状態に置かれることになります。 黙示録 21:2-5 「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えら れて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。 「見よ。神の幕屋が人とと もにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともに おられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫 109 び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。 すると、御座に着いておられる方が言われた。 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」 また言われた。 「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」 このみことばの中心部分は、 「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、 彼らはその民となる。 」という所です。旧約時代の紀元前 2000 年のアブラハム契約、紀元 前 1500 年のシナイ契約、紀元前 1000 年のダビデ契約にずっと一貫してきたテーマはこの ことでした。「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 」かつて、アダムとエバがエ デンの楽園で持っていた永遠のいのちの祝福とはなんですか。それは、神がともに住んで くださり、神様が彼らを完全に所有してくださっていたということに他なりません。私た ちが行こうとしている天の御国がなぜ幸福なのかといえば、それは神様がともに住んでく ださるからです。そこは、エデンの園の回復、いな、それ以上の祝福された場なのです。 そこでは、神様が私たちの神でいてくださるからです。 この世は憂き世と呼ばれるように、この世の人生には、悲しみ、叫び、苦しみ、涙がつ きものですが、神様は手ずからその涙を拭い取ってくださるのです。あなたには、誰かに 涙を拭いてもらったという経験があるでしょうか。おそらくもう忘れてしまったずっと幼 い日に、お母さんがあなたの涙を拭いてくれたことがあったでしょう。母親が泣いている 我が子を抱きかかえて、その頬の涙を拭いてやるように、神様が私たちの涙を拭い取って くださいます。なんという親しさでしょう。なんとありがたいことでしょう。 今も、すでにこの世にあっても私たちはこうした神様の慰めを経験しています。経験し ていますが、それはおぼろな状態で経験しているにすぎません。パウロの表現でいえば、 今は、古代の青銅でつくったぼんやりとした鏡に映すように見ているにすぎませんが、そ のときにははっきりと神様の慰めを見ることになります。 「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」 悲しみ、叫び、苦しみに満ちた世は、すべて新しくされるのです。イエス様は、サタン がかき乱し悪に満ちたものにしてしまった世界を新しくなさいます。 (3)勝利を得る者に また、御座から高らかに宣言がなされます。黙示録 21:6 「また言われた。 『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、 最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。』」 御座についているお方とは誰でしょうか?「アルファであり、オメガである方」と黙示録 に何度も出てくる表現が指しているのは、主イエス・キリスト、そのお方です。いのちの水 とは聖霊です。かの日、到来する御国には、聖霊が満ち満ちていますから、そこは御霊の 実のりが豊かです。 「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」。私たちは、 この世にあってはこうした実りがなかなか得られない自分自身を思って、神様の前に申し 110 訳なく悲しくなるものですが、やがて、主が来たらせてくださる御国においては、御霊と 御霊の実を満喫することができます。 そうして、今一度、たいせつなキリストの契約の主題が繰り返されます。黙示録 21:7 「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子 となる。 」 神さまが私どもの神となってくださり、私たちは子どもとされるのです。神様は私たち をキリストにあって、我が子として慈しんでくださいます。 しかし、最後の点として、誰もがこの新しい天と新しい地における祝福を享けるわけで はないということが告げられていることを、真面目に受け止めなければなりません。聞き たくないといって耳を塞いではなりません。神様は正義のお方です。あくまでもキリスト を拒む者には救いはなく、第二の死、永遠の死が待っているのです。黙示録 21:8 「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を 行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池 の中にある。これが第二の死である。 」 私たちはこのみことばの現実をしっかりと誠実に聞くべきです。キリストの福音を聞き ながら、世間体が悪いと言ってキリストを信じようとしない「臆病者、不信仰の者」は火 と硫黄の燃える池に陥ります。まことの神を拒み、神の憎まれる罪のなかにどっぷりと浸 かっている「憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、す べて偽りを言う」人々もやはり火と硫黄の燃える池に陥ることになります。 私たちは、この警告のみことばをまず自分自身で聞き、吟味し、悔い改めを求められて いるとすれば、悔い改めることです。そして、滅びに向かっている人々に主イエスの福音 を伝えなければなりません。 むすび 「今すでに」 さて、終わりの日に実現する新しい天と新しい地での最高の祝福とはなんだったでしょ うか。それは、永遠のいのちの本質といってもよいことです。若干の表現のちがいはあり ますが、繰り返されたあのみことばです。 「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」(3 節) 「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 」 (7 節) これです。それは、神とともにあることです。神がともにいますことです。そのために、 イエス様は天の御座をあとにして、私たちにいとも近いお方になってくださいました。そ の意味では、私たちはイエス様を知ったことによって、いや、むしろイエス様に知られた ことによって、すでに永遠のいのちに入っているのです。すでにいただいた御国の前味を 味わいながら、生きることができるのです。 111 ヨハネ 17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされた イエス・キリストとを知ることです。 ツルヤの食品売り場にまいりますと、ロースト・ビーフとか野沢菜とか白菜漬の味見コ ーナーがあります。信州の人は遠慮深いのか、人目を気にしてなかなか食べないのですが、 私と子どもたちは爪楊枝で突き刺してパクパク食べてしまいます。すると、ある時はワー ッという感じで子どもたちが集まってきてローストビーフがなくなってしまいました。で は、サンプルを食べてそれで満腹するかといえば、そんなことはありえません。少し食べ て、もっとたくさん食べたいなあと思わせるのがサンプルの役割です。 私たちはこの世にあって、永遠のいのちをすでに得ていますが、それはいわば味見とい うかサンプルです。次の世で与えられる満ち足りた完全な永遠のいのちがどれほどすばら しいものであるかを少しばかり教えてくださるのです。でも、サンプルでも実にすばらし いものだと思いませんか。生きる力、生きる喜び、平安・・・どれもイエス様を信じる前 には経験したことのないものでした。永遠のいのちは前味でこうなのですから、本体を味 わったらどんなに素晴らしいことでしょうか。すでにいただいた御国の味わいを味わいつ つ、完全な御国の到来を期待しながら、ともに生きてゆきましょう。 新聖歌 268 番 「悲しみ尽きざる憂き世にありても わが主と歩めば御国の心地す ハレルヤ 罪とが 消されしわが身は いずこにありても御国の心地す」 112
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