レニングラード 生と死の 900 日 サンクト・ペテルブルク紀行 ⑦ ドイツ軍に包囲されたレニングラード 独ソ戦争が始まった 1941 年 6 月 22 日、ドイ ツ軍は 208 個師団、420 万人が戦車 3500 台、 砲 5 万門、飛行機 3900 機を擁してなだれのよ うにソビエトに襲いかかった。独ソ戦争でヒト ラーが最も力を入れたのがレニングラード攻 略だった。社会主義を心底から憎悪していたヒ トラーにとってその聖地といえるレニングラ ードこそ最初に血祭りにあげ、地上から抹殺す べき対象だった。レニングラードに向けてドイ ツ軍は殺到した。 8 月 30 日、ドイツ軍はレニングラードとロ シア本土を結ぶ最後の鉄道連絡網を断ち切っ た。ラドガ湖からネヴァ川にはいる船舶の運行 は完全にマヒ状態となった。北方からはフィン ランド軍が攻め込んできていた。この日から、 世界の戦史に残る「900 日のレニングラード包 囲戦」が始まった。レニングラードはまさに絶 体絶命の危機に瀕した。包囲された時点でレニ ングラード市の人口は 254 万 4000 人、うち子 どもが 40 万人。 さらに市の周辺でも 34 万 3000 人が包囲下にあった。 幽霊と死骸の街となった 包囲体制を完成したドイツ軍は、一挙にレニ ングラード市内への突入をはかった。このころ ようやく防衛体制を立て直したソビエト側は、 市民軍の必死の抵抗によってドイツ軍の進撃 を食い止めた。ソビエトの執拗な抵抗に直面し て、10 月 7 日、ドイツ軍最高統帥部は、戦術 を大きく転換した。それは、レニングラード市 の占領は当面あきらめ、そのかわり市の包囲を 続け、爆撃と砲撃によって市を廃墟にし、市民 を皆殺しにするというものだった。 ドイツ軍の包囲が長引くにつれ、レニングラ ードの都市としての機能が次第に麻痺しはじ めた。まず電力が不足していった。そして、何 よりも恐ろしい事態は食糧不足、飢えだった。 やがて一日分のパンの配給量が、労働者 250 グ ラムとその他の者 125 グラムとなった。その後 も食料の配給量は次々に切りつめられていっ た。配給されるのはわずかのパンだけで、蛋白 長谷川 了一 質や脂肪、ビタミンといった栄養源になる食品 は、ほとんどなかった。レニングラードは、幽 霊と死骸の街になった。 ターニャのノート この包囲のなかで 11 歳の少女、ターニャ・ サヴィチェヴァが残したノートがある。 1941 年 12 月 28 日、朝の 12 時 30 分、ジーニャが 死んだ。 1942 年 1 月 25 日午後 3 時、パープシカ(おばあち ゃん)が死んだ。 1942 年 3 月 17 日午前 5 時、レーカ(姉)が死んだ。 1942 年 4 月 13 日午前 2 時、ヴァーシャ伯父さんが 死んだ。 1942 年 5 月 10 日午後 4 時、レーシャ伯父さんが死 んだ。 1942 年 5 月 13 日午前 7 時 30 分、ママが死んだ。 サヴィチェヴァ一家が死んだ。 みんな死んだ。 ひとりターニャだけが残った。 (ターニャは疎開先で 1943 年夏に死亡した。) 900日の包囲に耐えた街 1942 年のスターリングラード攻防戦で 11 月 19 日、ドイツ軍は致命的な大敗北を喫した。 このあとソビエト軍の反攻が始まった。1944 年1月初め、ソビエト軍はレニングラードをド イツ軍の包囲から解放するため、最後の総攻撃 をかけた。ドイツの精鋭部隊は潰走し、1 月 18 日、レニングラードは解放された。この時レニ ングラート封鎖の悲劇的な 900 日が終わった。 近現代史において、近代的な大都市でこのよう な経験をした都市は、ほかにはない。 レニングラードでは、包囲戦の餓死者は 64 万 1000 人、それに正規軍や市民軍の兵士の戦 死者、ドイツ軍の空爆や砲撃での死者を合わせ ると約 100 万人が命を失っている。これらの市 民は、市郊外の「ピスカリョーフ」という共同 墓地に眠っている。 なお、第2次世界大戦での死者数は世界全体 で約 6300 万人。うちソビエトでは軍人の戦死 者 1450 万人、民間人の死者 700 万人以上と最 大の被害を被っている。 (おわり)
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