The Saison Foundation Flexible support programs answering the

国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Presenter Interview
2013.11.8
プレゼンター・インタビュー
The Saison Foundation
Flexible support programs answering the needs of the times
時代にあわせた柔軟な支援プログラム
セゾン文化財団
久野敦子(ひさの・あつこ)氏
公益財団法人セゾン文化財団
http://www.saison.or.jp
セゾン文化財団は、西武百貨店を中核とした大手流通グループ「西武流通グループ(後
のセゾングループ)」を率いた堤清二氏が私財を投じて 1987 年に設立した個人財団
である(2010 年より公益財団法人)
。堤氏は、西武百貨店に文化事業部を設置し、
「西武美術館(セゾン美術館に改称。1975 年~ 99 年)」、「スタジオ 200(1979
年~ 91 年)
」、アート系書店「アール・ヴィヴァン」(現株式会社ニューアートディ
フュージョン)
、演劇専門書店「ワイズフール」
、詩歌専門書店「ポエム・パロール」
等を展開。また、グループ企業による渋谷 PARCO 内の西武劇場(PARCO 劇場に
改称。1973 年~)や六本木 WAVE(レコード店・書店・映画館等の文化複合商業
施設)
、アートや人文社会科学・文芸などの出版を手掛ける出版社リブロポート、ク
リエーターの才能を活かした宣伝・商品開発なども併せて、「セゾン文化」として一
時代を築き、1970 年代後半から 80 年代の日本の現代文化をリードした。セゾン
文化財団は、その精神を受け継ぎ、現代舞台芸術を中心に先端アーティストの創造
活動と国際交流を支援するさまざまな助成、環境整備を行っている。四半世紀にわ
たって舞台芸術の革新を支えてきたセゾン文化財団について、文化事業部の一員と
してスタジオ 200 で演劇・舞踊を担当し、92 年から同財団プログラ ム・オフィサー
として年間 150 本以上の若手アーティスト公演を見続けるなど、現場を支えてきた
久野敦子さんにお話を伺った。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]
■
オルタナティブ・スペースとしての「スタジオ 200」
──久野さんのキャリアで外せないのが、1979 年から 91 年まで西武百貨店内に設
けられていた「スタジオ 200」での仕事です。当時の西武百貨店は、セゾン文化財
団の生みの親で理事長の堤清二さんによる文化戦略により、スタジオ 200 だけでな
く、西武美術館、アート系専門書店のアール・ヴィヴァンなど「セゾン文化」の発
信地として現代文化を刺激していました。スタジオ 200 は本当に小さなスペースで
したが、連日、映画・ダンス・演劇、果ては落語まで、多ジャンルかつ最先端な国
内外のカルチャーをプログラムしていて、僕も何度も足を運びました。今でいうオ
ルタナティブ・スペースだったと思いますが、当時、東京でもこうした場所は他に
ありませんでしたし、それを西武百貨店のような大手流通グループが手掛けたのは
画期的です。昔話になりますが、そもそもスタジオ 200 で仕事をされるようになっ
たきっかけから聞かせていただけますでしょうか。
私の学生時代に、ちょうど西武百貨店の文化戦略が脚光を浴び、その文化事業部
が就職先として人気を集めていました。大学では法学部に在籍していたのですが、
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セゾン文化財団
文化事業部で仕事をしたいと思い、試験を受け、1981 年に新卒で採用されました。
最初は営業も経験しましたが、82 年からスタジオ 200 に異動し、閉鎖されるま
で演劇・ダンスを担当しました。スタジオ 200 は 79 年に西武百貨店池袋店 8 階の
端に作られた、席数わずか 200 のスペースです。当初は、セゾングループが映画業
界に進出する足がかりとなるような映画を上映する施設としてオープンしたと聞い
ています。しかし、施設的に建築基準法上の課題があったのと、映画上映について
は近隣の映画館との調整が必要でした。それに、私を含めスタッフが若くて、映画
以外にもやりたいことが山ほどあったので、演劇もダンスも落語も、と手がけるプ
ログラムがどんどん広がっていきました。
上司も自分たちの企画で 1 年間のプログラムを埋めてみろと、若いスタッフにま
かせてくれました。担当者は 4 から 6 人くらいでしたが毎週ディスカッションする
のがとても楽しかったです。年間予算は 8 千万から 1 億円、家賃、人件費など経常
諸経費を除くと事業費は 4 千万から 6 千万円くらい。今思うとかなりの額ですが、
それでも当時は「美術館と比べたらゼロが一つ足りないな」と文句を言っていまし
たね。若かったから(笑)
。招聘予算はなかったのですが、スタジオ 200 のような
ところがなかったので、海外の文化機関からの協力を頂き、国際映画祭や来日公演
を実施したり、アメリカの財団であるアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)
のレジデンスで日本に滞在しているアーティストに発表の場を提供していました。
それでモリサ・フェンレイ、ジョン・ゾーン、カール・ストーンなどが公演してい
ます。
──施設が基準を満たしていないと劇場や映画館のような使い方ができなかったの
ではないかと思いますが、大丈夫だったのですか。
今だから言えることですが、興行場としての認可が得られなかったので、スタジ
オ 200 で実施されている映画や演劇は興行ではなく、隣の建物にあった西武コミュ
ニティー・カレッジ(カルチャー教室)の延長で行っている「体験的な講座」とい
う体裁で実質的には公演をしていました。ですので、映画でも演劇でも必ず講演を
付けていました。最近、よく行われるようになったアーティスト・トークの走りと
言えるのかもしれません。私たちも若かったですし、問題があるから止めるという
ことはなくて、
「何か必ずやり方があるに違いない」と。そういう社風でもありました。
上の階にあった西武美術館(セゾン美術館)は当時では唯一といっていい現代美
術を扱う美術館でしたが、展覧会絡みの講演会もスタジオ 200 で開催されていまし
た。レニ・リーフェンシュタール、セザール、アルマンといったビッグネームも講
演しています。
──当時は「講座」があることを不思議に思っていましたが、そういう秘密があっ
たんですね(笑)。久野さんが担当した中で一番思い出に残っているものはなんです
か。
いろいろありますが、ひとつは勅使川原三郎さんの『晴天の腕』
(1987 年)ですね。
勅使川原さんは 1986 年にバニョレ国際振付コンクールで準優勝されて世界的に高
い評価を受けますが、実はこれ以前は自分のスタイルを「ムービングワーク」と称
していました。国内では、この『晴天の腕』で初めて「舞踊」と銘打ったので、あ
る意味デビュー的な公演になりました。私は 85 年に舞踏の創始者である土方巽さん
の最後のプロジェクトになった「東北歌舞伎計画」を担当していました。土方さん
は 86 年に亡くなってしまいますが、そこに彗星のように現れたのが勅使川原さんで、
その舞踊界の二人の巨人の世代交代の場面を目撃したことが、私のキャリアの中で
一番重要な出来事になっています。
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──それは凄いですね。「60 年代に舞踏を創始したひとり土方巽の最後の舞台」と、
「80 年代に日本のコンテンポラリー・ダンスの扉を開けた勅使川原三郎の最初の舞
台」
、この歴史的な交錯がスタジオ 200 という小さな場所で、ひとりの担当者のも
とで起こっていたとは、本当に驚きです。
演劇では、ちょうど野田秀樹・鴻上尚史らが台頭し、80 年代の小劇場ブームが盛
り上がってきた頃でした。西武百貨店の中にはワイズフールという演劇専門書店も
あり、演劇に詳しい担当者と相談しながらプログラムを作りました。ちょうど女性
演劇人が注目を浴びてきた時期でもあり、スタジオ 200 では、NOISE の如月小春さ
ん、劇団 3 ○○の渡辺えり子さんの公演を企画しました。特に如月さんには劇団綺
畸から独立した NOISE の旗揚げを手伝わせていただき、その後も続けて NOISE の
公演を多く行いました。スタジオ 200 には、
「ひとりの人と出会うと、何度も、ずっ
とお付き合いする」というところがありますが、素晴らしい人と出会うと、一緒に走っ
て行きたくなってしまうんですよね。
セゾン文化財団の誕生
── 90 年代に入ると日本ではバブル景気が崩壊し、企業として文化の一時代を築い
たスタジオ 200 は 91 年に活動を終えます。翌 92 年に久野さんはセゾン文化財団
に移られました。
バブル経済の退潮がただちに事業に影響はしなかったものの、徐々に「本来の百
貨店業務に戻るべきだ」という雰囲気になり、文化事業を縮小する流れが明らかに
なっていきました。また 86 年に西武百貨店渋谷店に新しい文化拠点となるシード
ホール(95 年閉館)がオープンしていたので、
「我々は役割を終えた」という感じ
もありました。
企業としての活動とは別に、堤清二は 1987 年にセゾン文化財団を設立しました。
私財 100 億円余りを基金としています。堤は詩人・作家(ペンネーム辻井喬)であり、
現代美術のコレクターでもありますが、同時に安部公房や武満徹といったアーティ
ストを個人的に支援していました。現代美術については、堤が理事長を務めるセゾ
ン現代美術館
(高輪美術館を 81 年に移転。91 年改称)がすでに軽井沢にあったので、
「セゾン文化財団」は、現代演劇を助成することになったと聞いています。
財団の方向性は大きく分けると事業型と助成型がありますが、セゾン文化財団は
基本的に後者で「実行する人をサポートする」ことを重要な方針にしています。私
のプログラム・オフィサーという仕事は、そういう助成事業の担当者というという
ことです。ちなみに「非常に重要なテーマを孕んでいるが日本に受け皿がない」と
いうときには、セゾン文化財団が主催者として事業を行うこともあります。
──助成型財団という方針は当初からのものですか。
はい。財団を設立するにあたって「演劇人が何を欲しているのか、創作には何が
必要なのか」を調査したそうです。その結果、
「資金」
「場所(稽古場)
」
「時間」へ
の要望が多かったので、それらを解決していくところからプログラムが立ち上がっ
たと聞いています。資金を助成し、稽古場を提供し(94 年に 3 つのスタジオを有す
る森下スタジオ本館を開館、2011 年に 1 つのスタジオとレジデンス施設を有する
同新館を開館)、創作のために時間をかけられる環境づくりを活動の重要な方針のひ
とつとしています。
現在でも民間で芸術に特化して支援している財団は決して多くありません。芸術
文化助成財団協議会に加盟しているところで 23 団体(2013 年 10 月現在)ありま
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すが、そのほとんどは美術と音楽が支援対象で、セゾン文化財団のように、演劇と
舞踊のみを支援対象としている団体は今でも他にはありません。
──現在のプログラムの概要はどのようになっていますか。
大きな柱は「芸術家への直接支援」
「パートナーシップ・プログラム」
「レジデン
ス・イン・森下スタジオ」の 3 つです。芸術家の直接支援としては、年間の活動を
支援する「セゾン・フェロー」と海外での充電期間の費用を支援する「サバティカル」
があります。パートナーシップ・プログラムには、芸術創造を支える環境整備への
支援やスタジオ助成を行う「創造環境整備」と国際プロジェクトを準備段階から支
援する「国際プロジェクト支援」があります。レジデンス・イン・森下スタジオには、
現代演劇・ダンスの国際ネットワークで重要な役割を担う海外のアーティストやアー
ツ・アドミニストレーターを招聘する「ヴィジティング・フェロー」等があります。
──当初は演劇に特化した財団だったのかもしれませんが、今はコンテンポラリー・
ダンスも助成対象になっています。
92 年の募集要項から正式に現代舞踊も助成対象になりました。それ以前は、応募
要項には演劇対象と記載してあるのに、舞踊関係者が申請をしてきたんです。90 年
代はコンテンポラリーダンスが爆発的に盛んになってきた時期でしたから。そうい
うニーズがあるのならと助成対象に舞踊も含めることになりました。その辺はあま
りこだわりなく、時代の変化に応じて必要とされていることをプログラムに反映し
ていったということだと思います。
──スタジオ 200 時代もそうですが、セゾン・マインドなのか、現状を反映させて
実に柔軟な対応をされていますよね。
そうですね(笑)
。たとえば以前は、長期で芸術活動を支援するための「芸術創造
プログラム」では、申請者は劇団/カンパニー単位でした。集団が作品創作の核で
あり、劇団やダンスカンパニーの存在が大きかったからです。しかし近年では、カ
ンパニーよりもユニットや個人のアーティストが中心となって行う創作活動の方が
活発になってきているので、
「セゾン・フェロー」というプログラムに変えてアーティ
スト個人に助成金の使い方を委ねるという方針にしました。そういう例は枚挙に暇
がないですね。
──助成の枠組みは一度できると変えるのが大変で、時代を反映できないことも多
いです。これほど現状をフィードバックできるのは、何か理由があるんでしょうか。
枠組みは守るものではなく、基本的に毎年見直すものということが前提になって
います。私を含めてスタッフは西武百貨店から移っている人が多いので、企業では
普通に行われている Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(評価)→ Act(改善)
という姿勢が自然にあります。毎年の報告書では、助成対象者の自己評価と、担当
者が見た評価と、有識者モニターを何人かお願いし、複数の視点での評価もしてい
ます。
「こういう方法もある」
「こうしてほしいという要望がある」といったディスカッ
ションもしています。それと意思決定がスムーズなので、決まるのも早いです。
ただ、財団には私たちが絶対に守らなくてはならないミッションがあり、それは
ぶれません。それは「新しい価値の創造」と「相互理解の促進」で、全てのプログ
ラムはこのミッションの実現のためにあります。それを踏まえ、社会状況や時代の
変化にあわせ、プログラムは積極的に見直していきます。
──事務局の体制はどのようなものですか。
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森下スタジオを入れると全部で 12 人います。森下以外では管理部門を入れて 8 人。
その内、プログラム担当者は私を入れて 4 人です。
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事業内容について
──「芸術家への直接支援」についてもう少し詳しくお聞かせください。
「セゾン・フェロー」のうち、35 歳以下を対象にしているものを「ジュニア・フェ
ロー」といい、2 年間継続助成しています。35 歳に達するまでは何度でも申請でき
ます。45 歳以下を対象に 3 年間継続助成するのが「シニア・フェロー」で、もう少
し手厚い金額を支援していますが、受けられるのは 1 回だけです。公演に対する助
成は、うちよりもずっと多くの額を助成する仕組みが他にありますので、セゾン文
化財団の助成はアーティスト個人が自分に必要な情報を収集、研究したり、必要な
体験を増やしたり、制作体制を整えたり、そういったところに使われています。
申請書や助成金の使い道の計画書はアーティスト本人に書いてもらっています。
もちろん助成金を自分のためではなく劇団のために使ってもいいわけですが、それ
を決めるのは制作者(アーツ・マネジャー)ではなくアーティスト本人だというこ
とを認識してもらいたいからです。「自分で自分のマネジメントができる」というこ
とが大切です。そのためアーティストとの面談時間をとって、じっくり話し合うよ
うにしています。
──そういう意味でも、久野さんがプログラム・オフィサーとして長く現場を担当
されていることが大きいと思います。他の助成金では担当者が 3、4 年で交替してし
まうことも多いですから。
そうですね。助成対象者の意識を高めるとともに、私達も彼らから様々なことを
学び、プログラムに活かそうとしています。プログラムをつくる時に大事にしてい
るのは「我々の仕事は、やる人がやりたいことができるように後ろからちょっと押
してあげること」。もうひとつは「我々は社会のために(直接的に)何かをする財団
ではない。良い作品が生まれて最終的に社会に還元されれば良い。それをつくる核
はアーティストである」です。この 2 点は肝に銘じています。
──「パートナーシップ・プログラム」についてお聞かせください。
「パートナーシップ・プログラム」には 2 つのカテゴリーがあります。
「創造環境整備」はアーティストの創作活動がしやすい環境をつくるためのもので
す。具体的にはシンポジウムなどの情報交流やネットワークの構築、スキルアップ
のためのワークショップなどが対象です。最近では ON-PAM(舞台芸術制作者オー
プンネットワーク)の設立準備に支援させていただいています。
「国際プロジェクト支援」は 3 年間を上限にして支援しています。
「相互理解の促
進」というミッションを実現するためには、
「出会って、親交を深め、クリエーショ
ンし、日本なり海外なりで何かを発表するためには 3 年ぐらいの時間が必要だろう」
ということで継続支援をするプログラムです。最近では、韓国の劇作家・演出家ソ
ン・ギウンさんと東京デスロックの演出家多田淳之介さんとの協働事業「カルメギ・
プロジェクト」を支援しています。チェーホフの『かもめ』の舞台を近代初期の朝
鮮に設定し、韓国と日本が共有する政治的な近代史を取り扱った作品です。初年度
に執筆のために東京でリサーチとディスカッションを重ね、2014 年にソウルで 1
カ月の公演を実施、2015 年に、日本で上演ができないかと計画中です。2008 年に
ショーネッド・ヒューズというイギリスのウェールズのダンサーが国際芸術センター
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青森でレジデンスした時に伝統芸能の手踊りにすっかり惚れ込み、2 年かけて手踊
りとコンテンポラリー・ダンスのコラボレーションを行ったプロジェクトにも支援
しました。今もその作品は世界ツアーを続けています。そういうのはすごく嬉しい
成果ですね。
──「ヴィジティング・フェロー」について伺わせてください。海外から招いた関
係者は森下スタジオに 1、2 カ月滞在し、日本の舞台芸術のリサーチなどを行ってい
ます。滞在中には自国の状況についてのレクチャーも行われています。
「ヴィジティング・フェロー」プログラムは、海外から日本についてのリサーチを
行いたいアーティストと舞台制作者を日本に招へいし、その渡航費や活動費を支援
するものです。
国際舞台での活動を志向するアーティストは自分でネットワークを作って活躍の
場を広げていかなければならないのが時代の流れです。にもかかわらず、日本のアー
ティストはネットワークづくりが弱い、という問題意識がありました。一方で、日
本の作品が海外で注目されるシーンも多くなってきました。しかし紹介されるにし
ても、単に「おもしろい、珍しい」ではなくて、その作品が持っているコンテクス
トをきちんと理解してもらった上で往き来するのが理想です。ならば実際にアーティ
ストや舞台制作者に来日してもらい、日本に対する知識や体験を増やしてもらうこ
とが中身のある交流が生まれる近道になるのではないか、と考えたのがヴィジティ
ング・フェローの発端です。
今ではアーティストも対象にして、舞台制作者は 1 カ月程度、アーティストは 2
カ月滞在して人に会ってもらったり、リサーチしてもらったりしています。リサー
チのサポートはかなり手厚いですよ。目的に合わせてリストを作成し、面談の段取
りをして、場合によっては通訳もついていきます。ただ、だいたい途中から友達が
出来るので、その後はわりと勝手にやっていますね(笑)。
──ヴィジティング・フェローで訪れた人から何かプロジェクトが立ち上がった実
例はありますか。
始めてまだ 3 年目なので成果はこれからですが、12 年にヴィジティング・フェロー
で来たルーマニアのダンサー兼プロデューサー、コスミン・マノレスクが、日本とルー
マニアのダンスの交流事業を立ち上げました。現在は国際プロジェクト支援プログ
ラムに 3 年プランとして「イースタン・コネクション」という企画を申請してきた
ので、支援しています。1 年目の今年は日本から 5 名(山下残、川村美紀子、小野
晋司、三宅文子、乗越たかお)がルーマニアに滞在してミーティングを重ね、来年
はルーマニアから日本に来てもらいます。
東欧の人々は今、国際交流に熱心で、応募も多いですね。私たちも出会ったこと
がない文化に出会いたいので、これまであまり日本とは親交がないような国との関
係を切り拓いていこうと思っています。シンガポールと韓国はこれまでもかなりの
数の事業を支援していますが今後はそれ以外のアジアの国々にも力を入れていきた
いと思っています。
──昔は海外助成と言えば作品を招いたり送ったりすることだけでした。今ではよ
り個人レベルでのつながりが強くなってきています。
その通りです。最初に招聘したスイスのマックス=フィリップ・アッシェンブレ
ンナーは、来日時はまだ 29 歳で、スイスの劇場の芸術監督に任命されたばかりでし
た。もともと日本文化が大好きでしたが、同世代である悪魔のしるし、劇団ペニノ、
路上生活者のブルーシートの家等を集めた写真集「0 円ハウス」で知られる坂口恭
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平などに惚れ込んでしまい、帰国後も個人的に親交を深めていました。今では彼が
中心となってヨーロッパツアーを組んでくれたり、彼の関わるフェスティバルに呼
んでくれたりといった関係が続いています。そうした例がいろいろ出てきています。
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セゾン文化財団
──素晴らしいですね。助成額自体はそれほど多くないとおっしゃっていましたが、
一時的に数百万円の助成金をもらうより、人と人を繋げてくれる方が、どれだけあ
りがたいか、アーティストの世界を広げてくれるかわかりません。しかもセゾンの
助成から離れた後も各自がどんどん広げていくわけですよね。まさに「種を植える」
行為で、助成本来の姿だと思います。
そのことを私たち自身が身に染みて実感したのが、94 年と 97 年の「トライアン
グル・アーツ・プログラム」でした。これはアメリカ、インドネシア、日本のダン
ス交流事業です。ダンサー、制作者、批評家などをグループにして、2 週間ずつ三
か国に滞在し、各地のダンス・コミュニティと交流するというものです。
「ダンスの
理解と異文化交流とネットワーク拡大」を進めていこうというプロジェクトですが、
当時の日本では主催者が見つからず、セゾン文化財団が主催者のひとりになりまし
た。パートナーは、アメリカ側が ACC とサミュエル・ミラー(ジェイコブス・ピ
ロー)
、インドネシア側のサル・ムルギアント(インドネシア・ダンス・フェスティ
バル)でした。
そのプロジェクトで、国際交流とは、ダンス・コミュニティから創る必要があり、
人と人が出会って、理解し合うことが重要で、作品づくりはその次なのだというプ
ロセスが理解できました。そこから徐々に国際交流のプログラムの中身が、海外公
演の助成からクリエーションのプロセスに重点を置いたものに変わっていきました。
それが、現在のヴィジティング・フェローにも繋がっています。
──なるほど、助成財団としての理解が進むことがプログラムにも反映しているわ
けですね。ネットワーキングに丁寧に助成している団体があまり多くない現状を考
えるとセゾン文化財団の存在がどれほど重要かよくわかります。最後に、スタジオ
200 時代から長年にわたって現場を見続けている久野さんが、今、アーティストに
望んでいることがあれば聞かせてください。
かつての国際交流はいわば団体旅行で、アーティストは旗振りについて行って公
演し、成功して「良かった。良かった」で終わっていた。しかし、今はむしろ個人
旅行の時代です。アーティスト個人のフットワークで、どれくらい動けるのか、ど
れだけ人とコミュニケーションを取れるのかが、これからすごく問われてきます。
その力を磨き、多くの人と出会えるよう、私達もお手伝いをしようと思っています。
スタジオ 200 で制作をしていた時代から考えると、舞台芸術を巡る支援策は、格
段の変化を遂げています。文化庁のみならず多くの省庁が「芸術、文化」の力に 注
目した支援策を立てています。文化支援の専門機関として、アーツ・カウンシル設
置をすすめる行政も増えています。企業の支援策、クラウド・ファンディン グを使っ
た個人からの寄付など充実に向かっていると言っても良いでしょう。
これからのアーティストたちには、申請書を提出して助成金を獲得するだけでは
なく、創作を支援する仕組みや人たちとの共創が必要になってくることをもっと理
解して欲しいし、私たちをもっと活用してくれることを望んでいます
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