九州工業大学学術機関リポジトリ Title Author(s) Issue Date URL 続々・トーマス・マンの初期短編における諸問題 宮島, 隆 1992-03-31T00:00:00Z http://hdl.handle.net/10228/3510 Rights Kyushu Institute of Technology Academic Repository 続々・トーマス・マンの初期短編における諸問題 (平成3年11月25日 受理) 独語 宮 島 隆 Einige Probleme von Thomas Ma皿s FrUhwerken (Fortsetzung:Teil n) Takashi MIYAJIMA (1) 「ブッデンロークの家の人びと」の成功以来世界的名声を得たトーマス・マンは,個人 的な体験を背景にした初期の主要な諸作品を次つぎに発表した。その「大公殿下」を完成 した後,マンは長い間腹案をあたためていた「詐欺師フェリックス・クルルの告白」の執 筆に取りかかった。しかし,きわどい平衡曲芸的な詐欺師の回想録を続けることにうんざ りし,同時にマンには,休息したいという願望が生じた1)。1911年の5月26日から6月2 日まで2)妻と共に,ヴェネツィアのリドを訪問したことが契機となり,マンの内部に 「ヴェニスに死す」の着想が芽生えた。彼は詐欺師小説を中断し,その仕事の合間に突然, この新たな構想をさしはさむことにしたことが,小説「ヴェニスに死す」を轡く第一の動 機である。 デリケートでメランコリックな注意を払いながらここでも繰り返される「生・生活」に 対する「精神・芸術」,「思想」に対する「感情」,「理性」に対する「陶酔」といった芸術 家問題の相反する内面的対立概念の「この弁証法的対立は.「ヴェニスに死す」にまでも 及ぶこの製作範囲のなかで,絶えず支配的な役割を演じています.」とマンは述べている が,ここでは・トー二わ持一ガー・と異なり,その対立は最も尖鋭化された危機とし て提示されている。 彼のこの小説に対する第二の動機をなすものは,マンのゲーテ体験と音楽家グスタフ・ マーラー体験である.マンはミュンヘンでマーラーの醜酬たこともあり・返礼の書 簡・・に・大公殿下、を醐して送ったこともあったが・19U年の初夏にブリオー二島に滞 在中,この小説を欄してい醐りに,マーラーの貢ト報に接した・「紙上で彼の離の数 時間について宮庭ごみの文体で書かれた亨茜状暁を詳しく齢ました・そしてその後・こ の時のシ。ックと私の作品の素材となった印象やアイディアとカζまざ胎った結果・私は・ 繊な酬のうちに死んでゆく齢を担った私の主舩に・この偉大錯緯と同じ名前 をつけたばかりではなく溶貌の鰐}こあたっても・マーラーの蹴ちをも借用したので す㌔マーラーはユダヤ排斥蟻の昂揚す誹難・蝶の渦中に・敗のジフテリアに 12 宮 1□ 隆 よる死に遭遇して,挫折のうちにウィーンを去リニューヨークへ渡ったが、病のため再び ウィーンに戻った。そして1911年2月,50才にてこの偉大な芸術家は死を迎えたのである。 ちなみに,「ヴェニスに死す」を映画したヴィスコンティは,マーラーの風貌に似た人物 を登場させ.バックミュージックにマーラーの第三,第五交響曲を用いている。この伴奏 ’酬に対してハンス・マイヤーは,次の様に批判している.・第五交響曲のAd。gi。,,。 (アダージョより少し速いテンポの曲)は,反デモーニッシュな品位のある芸術に対する アッシェンバッハの信仰表明にとって相応しいとは決して云えない。マーラーの第三交響 曲の中には、映画「ヴェニスに死す」(Morte a Venezia)に於けるアッシェンバッハより もむしろはるかにフェリックス・クルルに的確に相当する汎エロチズムが形成されている。 (「汎エロチズム」という表現は,トーマス・マンに由来し,誘惑的な詐欺師のことを考 えている。)映画の様ざまなシーンは,マンのアッシェンバッハの尊厳失墜を示している かもしれない。だが,それらは彼の音楽の自己否定を明らかには示し得ていないω。」 ゲーテの極めて美しく,高度の芸術性をたたえる詩「マリーエンバートの悲歌」は, 1823年ゲーテが74才の時,19才の女性に対熱烈な恋心をいだいた結果の所産であった。老 ゲーテは湯治のためにマリーエンバートに赴いた時に,フォン・レーヴェッツォーの可憐 な娘ウルリーケと染みとなり,自分の子供の様に接していた日びの愛情は,激しい慕情に 変っていき,この一家がカールスバートに移れば老ゲーテも跡を追う程であった。勿論こ の老いらくの恋はうぶなウルリーケの方からそれとなく断わられたし,息子夫婦も強く反 対したし,ゲーテにとって悲痛であったが成就することはなかった。エッカーマンが語る ゲーテが,机上に常に蝋燭をともして仕事をした様にアッシェンバッハも,「原稿の頭の ところに長い蝋燭を立てた一対の銀の燭台を置いて・・…・たくわえた精力を……熱心な 誠実な仕事によって、芸術にささげるのである7)。」創作のマンの念頭からゲ・一テ像が去 ることはない。1920年7月にカール・マリア・ウエーバーに当てた手紙にマンは,次の様 に書いている。「紛糾と尊厳失墜としての情熱は,本来私の小説の対象です。一私がもと もと物語りたかったものはホモ・エローティシュなものではなく,マリーエンバートのあ の小さな少女に対する老人ゲーテの〉グロテスクニく見える体験でした。彼は出世主義的で 売春仲介人的なその母親の同意は得たものの,自分自身の家族の驚愕に抗しても,どうし てもその子と結婚したかったのでした。そのことはその子も決して望んではいませんでし た。戦標的だが愉快な,極めて恥ずべきだが畏敬の笑いにも通じる様ざまな情況を持った この話しを.悲痛だが感動的で偉大なこの話しを,多分いつかきっと書くことでしょう。 当時そこで起こった出来事は個人的な・拝情的な旅行体験であり,そのことが「禁じられ た」愛のモチーフを導入することにより,様ざまな事と際立たせることを私に決意させた のです8)。」そして1936年ll月アンナ・ヤーコブソンに宛てた手紙の中で,「この作品で私 は,ゲーテその人を実際に生き返らせてみせるという破天荒な楽しみを味わうことになる でしょう。大それた計画でしょう? でも,40才の時に避けて通ったのですから(「ヴェ ニスに死す」の時です。そもそもあの作品は,ゲーテのウルリーケ体験に空想.の加工を施 したものでした9り」 更にヴェニスと云えぱマンにとって忘れ難い芸術家存在は,ヴェニスの旅行体験から 「ヴェネチアのソネット」を詩作したアウグスト・フォン・プラーテンのことである。 続々・トーマス・マンの初期短編における諸問題 13 「かつては,あの憂欝で熱狂的な詩人の目の前に,彼の夢に描いた丸屋根や鐘楼が,この まんまんたる潮のなかから浮ぴあがって来たのである。アッシェンバッハはその詩人のこ とを思い出して,当時その詩人の畏敬や幸福や悲哀の気持ちから生まれた格調の正しい歌 を二つ三つ心の中で繰り返したlo㌔」 Wer die Sch6nheit angeschaut mit Aug螂 Ist dem Tode schon anheimgegebenln. 美を眼で見し者は, 既に死の手に委ねられたり。 マンもその詩を評価していたプラーテンは,19世紀ゲオルゲ派の賞賛を得ていたが,現実 社会から乖離した宗教的唯美主義の故にみはなされた。彼もコレラを逃れるためにシチリ アに赴き,シラクサでチフス性の熱で死亡したのである12㌔ そして時局が第三の動機となっている。19世紀末からドイツにおいて,資本主義の発展 が急速に進み,20世紀初頭には独占資本主義,帝国主義的ドイツ帝国が確立していた。し かしそれは,早くから国外・海外への経済的政治的侵略を行っていたイギリス,フランス に遅れをとっていたために,軍国主義的侵略主義的傾向を必然的により一層強めていった。 と同時に1905年のロシア第一革命を契機に勇気づけられた労働者を中心にした大衆運動の 波が,生活苦と前近代的な議会制度に対し泣i海として起こって来た。1910年裏切られた政 治改革と大増税とにより大衆の怒りは,プロイセンの諸都市での毎週の大規模なデモと なっていった。モロッコは地中海に面してアフリカの戦略的要地であり,鉱物資源も豊か なために帝国主義諸国の対立を時として惹き起こした。1905年門戸開放を主張して皇帝 ヴィルヘルムU世みずからタンジール港に現れたのでフランスとの紛争を招いた。この第 一次モロッコ事件を機にヨーロッパ中に戦争勃発の噂が乱れ飛んだ。トーマス・マンが 「ヴェニスに死す」を執筆し始めた1911年に,第二次モロッコ事件が起きた。モロッコの 内乱鎮圧のためにフランスが出兵すると,ドイツ側は騒乱から自国居留民を保護するとい う名目で,アガディール港に軍艦を派遣してフランスを徴発した。「グスタフ・フォン・ アッシェンバッハは,数カ月にわたってヨーロッパ大陸に深刻な危機的様相を与えた 19_年の春13・,、とマンはこの’」・説の醐を堅始めている・そしてこのイ乍品は第一次 大戦の勃発直前の1913年に出版されたのだが,その後1916年「非政治的人間の考察」.の中 の「正義と真理に抗して」の章で次の様に書いている。「短篇小説「ヴェニスに死す」が その意志の緊張と病的性格の点で時代のなかに立っている識争直前の噺tに立っている 事実,この事実も私はよく心得ている。つまりこの・1・説は・この小説なりに最後のもので あり一馴の最後の作品であり,この作品には,新しい時代のおほろ↓デな光が射しこん できている……14〕」 ヴィルヘルム晒時代はぽ争騨艦のイ判スに対抗する大建設計副こ典型的にみら れる様に,軍酬強麟と増大す肛難産フ」や独占的金離本躍づけされた対外膨脹 政策とが採られた.ドイ蹄国は世界分割瀞に遅れて参加したが故に帝国主酬強と の間に世界のいたる処で摩徽惹き起こした.19世紀勅ら2・世紀初頭に至るカ’かる端 的で鞍定な社会峰囲雛,様ざま欄流をもって嚇代の芸徽の作品に反映してい る。イデ和ギー的に左右の過齢傾向を含め,シ・一ヴィニズム’デカダンス漣避的 14 宮 島 隆 厭世主義等が蔓延した。ハウプトマンは変動する同時代の苦悩,悲惨,疎外に共感し,自 然主義的作品を多く発表し,19]2年にノーベル文学賞を受賞した。ゲオルゲはこの自然主 義に強く反抗し,神秘主義的な厳格な形式美の詩を追及し,ニーチェの英雄的貴族主義的 な高踏的態度を好んだが,ヒットラー・ナチスの「政治」には無縁で居られなかった。ま たニーチェの美的感情やことばはリルケの詩にも影響し,彼は大都会の生の不安そのもの を詩的形象の素材とした。かかる混沌の時に出たこの小説は,作家としてのマン自身の生 活と,またその生活が属していた時期という両面に於いて,特に際立った「二重の位 置15)」を占めている,とマンは云っている「そしてこの大戦とともに,ヨーロッパ的生活 の一時期は終って,生きながらえる者にとり新しい運命の世界が開かれました。時代の変 り目における,私の感情にとって決して偶然ではない,この立場にぴったりと合致するも のが,私の内面においてこの物語が,ある最後の極端なものを,つまり,ひとつの結末を 意味する限りに於いて,演じることの役割です。すなわち,その役割とは,デカダンスと 芸術家との問題の道徳的にも形式的にも極度に尖鋭化され,極度に結集された形姿であり ました。「ブッデンブローク家の人ぴと」以来私の創作が徴候を示してきていた問題が, 「ヴェニスに死す」とともに実際に完全な構成を見たのです。一これは,破局に終ろうと している市民時代の個人主義的な全問題性の完全な構成ならびに終結に,全く合致しま す161。」 既に述べた様に,元来マンは名匠と仰ぐゲーテにとって危く没落になりかねなかった晩 年の危機を,悦惚の悲痛な体験を通して,芸術家的気質一般にたいする苦く憂欝な懐疑的 な批判1ηを試みようと思っていた。然しマンにはゲーテの形姿を呼び出し,描出するだけ の能力があるとは思われなかったので,現代的な「繊細なタイプの主人公を,虚脱に瀕し ながらも仕事を続けて,途方もないことを成し遂げるような虚弱な英雄を,創造すること にした18}」のである。そして蔓延していた芸術のデカダン的風潮を,芸術家気質の病理と 危険性を,凡庸ではあるが明るい市民的生への憧憧を秘めつつ,マンはこの小説で鋭く批 判した。しかし逼迫し,混沌とした危機的精神状況の中で,芸術家は如何にしてこれらを 克服し,如何にして健全な芸術家的生を社会の中に保持すことが可能であろうか? その ためには,マンは多くの年月を必要としたが,勿論,第一次,第二次の二つの大戦とナチ ズムの出現によるファシズムとの体験とは,当時の多くの知識層たちがそうであった様に, マンにとっても世界観的基本にかかわる大きな転機となる。 (2) 芸術家生活の没落と破滅に対するマンの批判的省察は,既に「小男ウリーマン氏」や 「道化者」の中にも見て取れた。ウィルヘルム皿世時代の初期に,急激に成長する資本主 義と昂揚する新興ブルジョアジーの旺盛な生活意欲の背景で,マンみずから貴族的豪商一 家の零落を体験した。これらの初期の諸短篇や「プッデンブローク」は生活弱者,局外者 であるが故に音楽や文学へ,恥美主義へと逃避する者の悲痛な哀歌でもあり,また成り上 り者の俗物根性や無教養に対するマンの批判,軽蔑を,プロイセン体制への嫌悪をも表明 したものであった。しかしマンは既に「ブッデンプローク」の成功以来,ブルジョア的と 続々・トーマス・マンの初期短編における諸問題 15 も云える確固たる地位にもあり乍ら,長期の抑欝的な不安定な状態に陥ることになる。兄 ハインリヒの陽性で旺盛な創作活動に比べ,「恥美主義的生の衰弱という難問を… 非 生産的でメランコリックな襖悩の絶えざる脅威に抵抗をしつつ,労働倫理によってほとん ど強制的に遂行されたものであった… トーマス・マンの美学上の問題の解決が,如何 に遅ちとした進展しかしていなかったかは,1909年に,時を同じくして発表されたトーマ スの「大公殿下」と,ハインリヒの「小都市」を見比べてみれば,一一見して明かであ る19},」とハルトムート・ブーメは指摘している。「ブッデンブローク」後の最も重要な作 品である「ヴェニスに死す。」は,マン自身も認める様に,芸術家的危機の解決ではなく それを尖鋭化したものである。 この小説は他の諸短掲と異なり,鳴動する危機的状況の時代設定が明確であるが,主人 公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは少年時代以来の虚弱な体質ではあったものの, 50才の時貴族に列せられ,彼の作品の一部が選ばれて官選の教科に取り入れられる大家と して登場する。彼の名声を獲得した4つの作品,物語「みじめな男」,論文「精神と芸術」. フリードリヒ大王の生涯を扱った散文叙事詩,「マーヤ」という長編小説とは20),マン自 身の著作を暗示するパロディ21)である。即ち,マンは次の様に描写している。「物語られ ているこの世界を人が覗いて見るならば,心の中が空洞になって,生物学的な意味で没落 してゆくのを,最後の瞬間まで世間の目から隠しておこうとする高雅な自制の姿が見える。 くすぶる欲情をあおり立てて清らかな炎にするばかりか,奮起して美の支配権をにぎるこ とさえできる,黄ばんで,五官の完全でない,醜い姿が見える。精神の白熱する深みから 取り出した力によって,おごりたかぶる民衆をすべて十字架の足もとに,つまり,自分の 足もとに屈服させる青白い虚弱な姿が見える。形式に対して内容のない厳格な奉仕をする 愛すべき態度が見える。生まれながらの詐欺師の,偽りの危険な生活,あこがれとたくら みとのために,たちまち神経をすりへらしてゆく生活が見える麗}。」以上の描写の中にマ ンは読者に対し,トーマス・ブッデンブローク,ロレンツォ,「フィオレンツァ」のサ ヴォナローラ,「大公殿下」のクラウス・ハインリヒを,そして詐欺師フェリック・クル ルを彷彿させるものである却。マンは過去の,及び予定している自分の諸作品を念頭に置 き,建前上は明晰で類のない不動の大家の諸作品と,禁欲的な規律を自らに課すその生活 態度とに,一定の距離を置いてシニカルに自分の芸術家問題を新ためて反映画させている。 「この作品も主として死についての物語一一それも,背徳的な誘惑者としての死について の物語一一,没落の淫らな喜びについての物語であることは確かです。けれども,私が特 に関’亡、を寄せていたのは,芸術家の品位の問題で,私はいわば巨匠なるが故の悲劇のよう なものを描こうとしたのです。パイドロスへの呼びかけを全篇の中核と見倣しておられる ところを見ると,あなたはこのことがお分りになったように思います24)・」と1915年の9 月に,エリーザペト・ツィムマ魂ての手紙でマンは既に語っている・従ってこの小説の 始めの数頁から,不吉な死と死の使者とを暗示するのである。即ち,冒頭のミュンヒェン の場の,淋しく光る騨のレ→レ涜1,ものの+字架と墓碑・仮麟地となっている墓石 工場,・かれら神の家に入る、という来f肋銘文.醐の前の二匹の謎めい鋤物よ吐 に居楓采が醐でない旅人らしい男.彼は歯から短かすぎる唇がめくオ・あがり泊噛 が長ながとのぞいている価膜を思わせる},そしてその旅の男から何か肉体的な,ある 16 宮 嶋 隆 いは心理的な影響でも受けたのか,唐突に旅に出たいという暗示を受ける。そしてビザン ディン風の建物,ギリシャ式の十字架と明るい色どりの聖美術ふうの絵のある所,即ち, イタリアのヴェニス,プラーテンやワグナーがイトれ,ニーチェも旅した「無気味」と云わ れて来た芸術の古都への突然に安住地探求・望郷の念に襲われて(Heimsuchungヱ5〕,黄 泉の国への死の旅なのである。この。Heim5uchung”と.Bewahrung”(守護)との弁証法 を.,,Haltungmotir“(厳格な態度のモチーフ)と.VerfUhrungsmotiv“(誘惑のモチーフ) との弁証法をこの小説の中心テーマと見ることも妥当である。 アッシェンバッハは突然に襲われた自分の旅への誘惑を次の様に自己解釈する。「あれ は逃亡の衝動だった。遠方の新しいものへのあこがれ,解放してもらいたい,重責を免除 して貰いたい,そして何もかも忘れたいというあの熱望は,逃亡の衝動だった… 毎日 の勤務から冷たいが情熱的な不屈の勤務をする場所から離れようとする衝動だったの だ261。」彼は克己と抑制の連続であった自分の精神的道徳的立場を説明している。しかし 彼は自分が描き出した幻覚が示す徴候を更に追及しようとしない。今後を実り豊かにする ために中休み,遠方の空気を吸って気分一新することが必要だ,と思って満足し,「旅に 出ればいい,あまり遠くでなくていい,虎の居るところまで行くこともない,どこか国際 的な保養地で二,三週間劉」休養しよう,と結論を下す。「虎の居るところ」という表題 には,マン特有のイローニッシュでまたパロディー的な綿密な計算が込められている。即 ち,虎の居るところとはコレラの暗示である。19世紀以降世界的に流行したコレラの原因 菌は,アジアコレラ菌と呼ばれ元来インドのガンジス川下流デルタ地帯の風土病とされて いたコレラの原因菌として知られ,恐れられていた。結局アッシェンバッハの旅の道は, コレラへと通じていたのである。小説の始めのミュンヒェンの場で彼が発作的に見た幻覚 は,じめじめとした草木の繁茂した,羊歯の茂り椋欄の木が高く伸び出た,熱帯めいた泥 沼でできた「原始的な荒れ地田)」のシィーンであり,後半の描写を暗示したものである。 つまり,数年まえからヨーロッパにも蔓延する傾向にあったインドのコレラは.「ガンジ ス河のデルタ地帯の暖かい湿地に発生し,そこの竹やぶには虎鋤がうずくまっているあの 欝蒼としているが役に立たない,人間が避けている原始世界の荒れ放題の島の有毒な気息 を帯びて発生した疫病鋤」なのである。虎とはディオニゾスの車を引く虎をアレゴリーで あり,この疫病コレラは心を惑わされたアッシェンバッハの病める内面の出来事に対し, 外面的に照応したアレゴリーである。それ.は「彼の心の冒険と隠れたところで融け合って いて,彼の情熱を漠然たる無法な希望で養っている外界の冒険聞」だったのである。 ヴェニスの逼迫した不吉な出来事に対し,市当局はその噂をもみ消そうと努力する。 「ここに於てブルジョア的社会秩序は,専ら営業の利益のために文化的ヒューマンな秩序 たることを放棄した,」とインゲ・デイールゼンは指摘している鋤。主人公もまた,情熱 の赴くままに任せ,己の心の冒険,遊戯が奪い去られるという不安にかられ,知り得た疫 病のことを沈黙することにする。「自分も秘密にあずかっていて,共犯の関係にあるとい う意識は,わずかなブドウ酒でも疲労した脳髄を酔わせるように,彼を酔わせた… こ れらの期待に比べたなら,いま自分が一瞬間夢みたあの優しい幸福など,何の役に立つだ ろう? 混沌の利益にくらべたならば,芸術や美徳など,自分にとって何の価値があるだ ろう? 彼は沈黙して滞在し続けた33)。悪病に襲われた荒涼たる都市の光景が,彼の心の 統々・トーマス・マンの初期短編における諸問題 17 中に浮び,理性をふみ越えた,途方もない甘美な陶酔と不可解な希望に彼は震憾する。 アッシェンバ・ソハの基本的な生活信条は,「大家になってからの決意とは,およそ知識と いうものが意志や,行動や,感情や,情熱をすら,すこしでも麻痺させたり,弛緩させた り,辱しめたりする傾向硯せる限りは,この知識を否定し沌絶し昂然と知齢鱈見 して進むという決意詞}」であったのだ。そして,「がんばり抜く」35)という言葉を好み, ・堕落に対する共感からの離反甜・すること口業績のモラリスト37)」を描くことを信念と する作家であった。しかし今となってはヒューマニズムの本質を体現する彼を激情が変え てしまうのである。「それらの出来事は外部から聞入して来て、彼の抵抗一深刻な精神的 な抵抗_を乱暴に圧倒しなが樋轍1ナていって,彼の生存を・彼の生活の文化を荒廃さ 也破壊した詰あとに残していった甜・.そして「混沌の利益のため}こ39}」臓を否定 するのである。 それは非合理主義に対する,美の化神・少年タドゥッィオに取りつかれた者に対する. 耽美撞的傾向に対する批判,警告であり,これらの瀦醜示である・そしてさしづめ 難しつつあるコレラは,予感される迫りくる第一次瀞の繰と見ることが可能である・ マンの酬轍年の回駅も知り得る様に当時のマンは酬的にも芸術的にも酬1脆 酬状況に立たされていた.・破局・へと繍しつつある時局に予感する彼1よ心中三・ 1913年11月兄ハインリヒ‘こ舗している.「しかし,常に襲って来る疲労・迷い・倦思・ 醒と弱みといった内心の悩みがあり,だからちょっと攻撃されるたびに・’ゆ底まで打 撃校けてしまいます.更に兄さんカ・出来るようには・本舶分を榊的コ3よ微紬 に立場をはっきりさせる能力がぼくにはないのですユれながら深くつきまとっている死 への共感は晦に強まり」まくの総ての閲’亡・は常に没落です・ぼくが進歩というものに興 味を持ちえない原因も恐らくそこにあるでしょう…時代と掴との悲惨の全てが自分 に課せられているのに,その悲惨を形象化するだけの勧が自分にないのも鞭すべきで す.そのこともまさ塒代と祖国との悲惨の一部分なのでしょう・それともこの悲惨は・ 兄さんの作品・臣下、で縫化されるのでしょうか?ぽくは自分の作品よりも兄さんの 作品のほう端待しています.この点では兄さんは榊的に鮎れていますが・まさ‘ここ のことこそ決定的なのです.作家としてのぼくの役割は終ったと思います・多分作家なん かに決してなってはいけなかったのでし・う・・ブ・デンブ・一嬬の人びと・はただの 市良小説で,二+世紀にとってもはや無意味で.・トニわクレーガコはただ1まうりと させるだけで,・始肝、は鯛値で.・ヴェニスに死す・は撚は中斜端で髄った ものです…」マン繍のイ・ニーが込められて言葉を文唖りに受け取肋け1こはいかな いかも知れないが端榊下醐こあって認想的にも芸術的にも離するマンの内理 題と継ってぷ沌とし蹄局の轍期の不安とが相紬に作肌て・マン漣大危機に 直漂≧㌫自身の言虻れ}工蜘の脚.芸㈱説噸のf乍品と 隠罐竺撫慧イ㌶ご+漂漂1欝ξ晴 養は中途糊で問違ったもの、と自嘲気味に決めつけている・このことは㌃ア小説持 行し得なかったこととは分に課せられていると思われる・時代と祖国の剋榔全てを形 18 宮 貼 隆 象化出来なかったことを意味している。この悲惨は小説の中の雰囲気や気分の中に感じ取 れる。営利上の破廉恥は常軌を逸し,市当局の腐敗と衛生長官の更迭と唯唯諾諾とした従 順な人間へとの交代.下層階級の風紀素乱光をいとう反社会的犯罪等である41}。しかし その批判はマン自身が告白した様に,兄ハインリヒとは違って経済的政治的領域へ踏み込 むことなく,精神的倫理的な分析の,文化批判の枠に留まっている。 (3) 主人公アッシェンバッハ像のゲーテとのパロディーも,最初の意図からして容易にうか がい知ることが出来る。「彼はまた老人になることも心から願っていた。何故なら,彼は 昔から,人生に於けるあらゆる段階でそれぞれの段階の特色のある作品を出せるように決 定つけられている芸術家だけが,真に偉大で,包括的で,更に真に尊敬すべきものと云え る,と思っていた42]。」「人生に於ける… 」という表現はこの小説の出版の後,1921の 「ゲーテとトルストイ」の中でもマンガ使用した言葉四である。ゲーテの様に大家であり 国民の代表者たる主人公は,「頑張り抜く」をモットーとする厳格な紀律のプロイセン的 な性格を持たされて登場する。そしてマンの他の諸知編と異なり,「生」は始めから死・ 没落の影に付き纏われる。ミュンヒェンの墓地に立つあの見知らぬ旅人,彼が引き返すの を拒むかの様に,早い仕草で切符を渡した老朽船の怪しげな男,彼をぞっとさせる様な若 者風に厚化粧した赤ネクタイの老人,棺を思わせるゴンドラとその船頭との危険な渡り合 い,服から消毒液の臭い発散させ,卑糧な物腰の骸骨を思わせるや歯の出た痩せた大道芸 人達,これらすべては死の使者の周到に計算された暗喩として構成され,配置されている。 そして大道芸人は最後に,テラスに居るアッシェンバッハに嘲笑を浴びせる。「彼は,自 分と客たちとの間の芸術的間隔が回復されたのにつれて,持ちまえのあつかましさをすっ かり取り戻していた。そしてずうずうしくテラスに向って投げあげる彼の作り笑いは,嘲 笑なのであった… アッシェンバッハは… 大笑いと吹き上って来る病院の様な匂い と美少年の近くに居ることとが織り合わさって彼を包みこむ夢の呪縛になり,その呪縛が 引き裂くことも避けることも出来ない様に,彼の頭や感覚を包みこんでいた44}。」つまり プラーテンが云う様に,「美を眼で見し者は,既に死の手に委ねられたり」なのである。 アポン的たらんと欲し,プロイセン的精神の紀律を代表する彼は,ディオニゾスの虜にな り,最早理性のあらゆる警告も彼の耳には入らない。彼の作品の一部が宿選の教科書にも 取り入れられる程の,古典主義的,文化保守主義的な国民的代表者の破滅に於いて,「大 戦前に現われた小説「ヴェニスに死す」に於いて,プロイセン的倫理気風に対するイロ ニーをこめた悲劇の没落が準備されていた45},」と1944年の1月マンは,ブーテル宛ての 手紙で語っている。この没落の暗示と同時に,マンがこの小説を芸術家気質の最後のもの として,「新しいもの」,「新しい時代のえぼろげな光」(「考察」)を摸索.期待していたし. 1912年には妻の療養のためにスイスのダヴォスに赴くことが「魔の山」の契機となってい た。「1914年に40才になるかならないかのトーマス・マン,リルケ,ヴァッサーマンが, 旧世代の作家たちであり,もはや時代おくれとなった文学の代表者であった剥。」作家達 は当然戦争との対決を余儀なくされた。マンは大戦中に1918年に約2年間かけて,「政治 続々・トーマス・マンの初期短編における註者問題 lg 的」な文化芸術論,骨の折れる自己探求の書,「非政治的人間の考察」を害き上げた。そ して今日までのマンの保守主義的傾向を包括して,ドイツ精神史を,ドイツの戦争をも擁 護した。当時マンはこの大戦争要因を見極める姿勢と能力に欠けていた。「そういう時代 逆光的な絆は,私を反動家の位置に追いこみました。というか少くとも世間からそういう 目で見られたことがありました… 保守的,民族的世界の長たらしい探索であったので す47},」と当時を振り返って1950年に語っている。保守的,反動的であったが故にマンは、 「文明の文士」,「共和派的平和主義者」兄ハインリヒと1922年まで対立していた。「魔の 山」(1924)を書いた12年問に,「ゲーテとトルストイ」,「神秘的体験」,「ドイツ共和国に ついて」を書き,探索と自己克服の過程を経て民主主義の擁護者となり.兄ハインリヒと も和解する。そして「ヴェニスに死す」で形象化し得なかったマンは,やがてゲーテの芸 術の中にその深遠と偉大さと真の民主主義的ヒューマニズム,つまり「人類の鏡」を見出 すのである。「あの自己摸索の著者の中で私が戦ったのは,ゲーテのドイツのためであっ て,皇帝のためでもルーデンドルフのためでもありません… 精神と政治は明確には分 つことができないという信条,非政治的な文化人であり得ると信じることは,ドイッ的な 市民性の誤診であったし.また文化は政治的な本能と意志とを欠くならば,極めて重大な 危機に陥るという信条 要するにこの民主主義的信条が,そのとき口を衝いて出て,脱 皮を求めたのです。私はそれを押し留めなかったことを,私のよき守護神に私は感謝しま す。何故ならば次の通りであります。もしも私の保守主義が… 極めて低級な権力崇拝 とヨーロッパ的良風の基礎を脅やかす野蛮性とに陥ることを防ぎきれなかったところの, ドイツ的気質をあくまで固執していたならば,果して今日私は,どこに居て,如何なる側 に立っていたでしょうか4B㌔」 Anmgrkung6n l)Th。m。、 M、m,』。,、bdB. G醐md陪W・・k巳S・Fi・・h・・V・・1叫974・趾XI・S・123・ 2)D。,⊇h1。n、ch。 W。,k Th。m、・M・nn・E・・…h・ng蹴hi・ht・Q・dl・・Wi・k・・g・A・』−V・・1・島 Berlin und Waim凪r、1976, S,498. 3)Th。m。。 M、…BH・f・1田9−1936’SFi±・Y・・1・g・1962 S・部 , 4)Ebenda. S.185. 5)AFilm P輌ced、。d Di祀…dby LUC田NO VISCONTI f・・ALFA CI陀MATOGRAFICA ユ ア M。,1・by GUSTAV MAHLER f・・m THIRD・nd FIF「H S・mphrnies・ 6)H。。、M。y,,品。m・・M….S・h・k・皿pV・・1・g・F…U・輌Ma1・ll980・S・田2・ 7)Thomas Mam:Erz亘hlungen. S、Fischer V{…rlag,1965. S.452. 8) 」、;漂『:況_宛ての似た様口面の中で.マンは・背徳噸蛭としての死∵ いての物語_芸徽の品位の問題で1私はいわば離なる棚の酬のよ・なものを監っ 蕊h:蕊惣k。m,曲,,,1卿爬一。 V・n・di即」・h 1・・b・di・K・m…i・i・・f… 。,,g。,,,。 G。wi凪i、・di, Geschi・h・…lch h・・p・…hli・h d・・G…hi・h・・Ψ・m T品e und鋼「 20 宮 島 隆 vom Tode als eincr verf砧re亘schen, widersittlichen Macht、−eine Ge5chichte von der Wollust de$Unterganges. Das Problem aber, das ich besond町5 im Auge haue, war das KUn∼tler− wUrde,.ich wolhe etwas geben wic die Trag6{lie des Mcistertums. Dies schcint Ihncn deutlich geword巴n zu sein, da Sie die Anrede an Phaidros, fUr dcn Kem des Ganzen erachten. Ich hat− te ursprUnghch njchts Geringeres geplant als die Geschichte von Goethe’s Ietzter Liebe zu er品hlen, der Liebe des Siebzigj亘hrigen zu lenem kleinen M員dchen, die er durchau5 noch heiraten wollte, was aber sie und auch seine Angehbrigen nicht wollt印,−eine b□se, schbne, grot臼kc. crsch油emde Geschichte. die ich vlellecht口o囮dcm noch.einmal erzahle, aus der aber vorderhand ein而al der論Tod in Venedig“geworden i剖. Ich ghube, daB die記r ihr Ursprung auch Uber die田「叩由ngliche Absicht der Novell das Richtigste aussagt. Brief an Elisabeth Zimmer, Bad Tolz, den 6.9.1915Ebenda、3.123. 9)Eb{}nda. S、430. 10) Erzahlungen,乱a、0., S.46】. ll)August von Pl田en:Tristan. Das deutsche Gedicht von mittelalter bis zum 20, Jahrhundert, Fischer Ta5chenbuch 155,1965, S.227. 12)Eberhard Hilscher:Schrift5teller der Gegenwar輪Thma5 Mann l5, S.44. 13)Erzahlungen, a. a.0., S.444. 14)Thomas Mann:Aus亘tze・Reden Essays, Band 2,19]4−1918, Aufbau−Verlag,1983, in:Be抽ch− tungen eine5 Unp{]htischen, S,371. 15)Thomas Mann:On Myself, Gesammelte Werke, S. Fischer Verlag、1974, Bd. XIII S l5α 16)Ebenda. 17)Ebenda. a. a,0., S.149. 18)Ebenda. 19)Jan Ber9/Hartmut B6hrne/Walter F油nders/Jan Hans/Heinz−B. He11er/Joachim Hintze Helga Karrenbr㏄k/Peter S亡huue/J口g㎝CTh6ming/Peter Zi㎜͡皿:SOZIALGES CHICHTE DER DEUTSCHEN LITERATUR,Ψon 1918 bis zur Gegenwart 1981Fischer Taschenbuch Verlag GmbH, S.304. 20)Erzahlunge叫a. a. O.、 S.450. 21)… der Verfasser endlich(urld damit sind die Werke 5einer Reifezeit kurz bezeichnεt)der leidenschafdich㎝Abhandlung曲be⇔Geist und Kun5t{, deren ordnende Kraft und antithetische Beredsamkeit ernste beurteiler verm㏄hte, sie unmittelbar neben SchUlers Raisonnement Ubεr naiΨe und sent㎞ent且1ische Dichtung zu stellen:GustaΨAschenbach also war zu L、, einer Kreis. s田dt der Provinz Schlesien, ak Sohn eines h6heren Just詑beamtem geboren. Ebenda. S.450, 失敗に終ったマンの「文学随想」の試み,つまり覚書「精神と芸術」を,短編「ヴェニスに死 す」の主人公グスタフ・アッシェンバッハが書きあげたとされるている。これは短編の自伝的側 面をあらわす事実だが,また同時に,随想の試みとこの短編との絡み合いをさす事実としても (パロディーの成立の重要な契機として)注目したい。」:「トーマス・マン文学とパロディ」, クヴェレ会,1976。「パロディの成立」,金子元臣,23頁。 22) Ebenda、 S.453. 23)Gerd Hoffma㎜:Die Problematik des bUrgelich印K迦sders in den Novellen Thomas Manns, DeutschunterHcht, Volk und Wi5sen Volkseigener Verlag Berlin,3/1975, S.147. 24)Bdefe, a. a.0., S.123. 25)Gerf Hoffmann, a. a.0., S.148. 26) Er字ahlunge叫a. a.0., S.448. 27) Ebenda. S.449、 28} Ebenda. S.447. 29)Eh由訂d Bahr:Er』terung題und Dokum題te, Thomas Mann:Der Tod ln Vene由g, Phillpp Reclam lun, Stuttgart,1991, S.15. 続々・トーマス・マンの初期短細における諦問題 21 30)Ebenda. S.512. 31〕Ebenda. S.504, 32)hge Diersen:Thoma5 Mann, Episches Werk Weltanschau㎜g Lebe叫Au「hau Verlag, Berlin und Weimar,1977, S.108. 33)Erz…ihbngerx a. a.0., S.5】5. 34)Ebenda. S.455. 35) Ebenda. S.451、 36) Ebenda, S.455. 37) Ebεnda. S.454. 38}Ebenda. S.5]6. 39)Inge Diersen, a. a.0., S.109. 40)Thoma5 Mann・Heinrich Mamm:BHefwechsel 1900−1949、 Aufbau.Verlag、 Berhn und Waimar、 1977.S.111. 41)Erz亘hlungen. a. a. O., S、5M・ 42)Ebenda. S.451. 43)Inge Diersen,乱乱0., S.102. dem er hatte von jeher da缶r gehalten, dal}wahrhaft gro凪, umfassend、 ja wallrhaft ehrenwen nur das K品stle血m zu nenn即sei, dem e5 beschieden war, auf allen S耐en des Menschlichen ch且raktehstisch fruchtbar 2u sem.:Erz5hlungen, a. a.0.、 S.451. w,il,i。。1,ht、lt g。。。g daz・w・・d題, w・iI di・Nat・・ih・・n di・晒・d・u・d Wdh・d・・h。h・n J。h,。。。噺印・、 ih肺n・i・ht…g6nnt・,・・f・11・n St・f・・d・・L・b酷・h・題kt・・i・ti叉h dm・htb…u sein, ein ganzes und klassi8ches Leben durchzufUhrm… :Thomas Mamrn:G㏄the und Tol− stoi, Aufs翫ヱe・Reden・Essays, Bd.3,1919−1925, Aufbau−Verlag,1986. S.133. 44) E毘亘hlu㎎erL乱己0., S.510. 45)Thomas Ma㎜:Bdefe 1937−1947, S. Fi5cher Verlag.1963、 S.353. 46)Kri5e und Wandlungen der deutschen Lheratur Von We十kind bis Feu£htwanger, Aufbau−Ver− 1ag Bel㎞und Weimar.1976、 S.155. 47)Thomas Mann:Meine Zeit, a. a.0., S.313. 48)Thomas Mam:On myself、 a. a.0., S.161.
© Copyright 2024 Paperzz