Title 創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか ―村上

Title
創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか ―村上春樹
とトーマス・マンとゲーテの場合―
Author(s)
大木, 文雄
Citation
釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第45号: 115-125
Issue Date
2013-12
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7306
Rights
Hokkaido University of Education
釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第45号(平成25年度)
Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.45(2013):115-125
創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
―村上春樹とトーマス・マンとゲーテの場合―
大 木 文 雄
北海道教育大学釧路校
Wie drücken sich die schöpferischen Genies in den literarischen Werken aus?
- Im Fall Haruki Murakamis, Thomas Manns und Goethes Fumio OHKI
Kushiro Campus, Hokkaido University of Education
要 旨
創造的芸術家、天才とはどのようなときに生成し、生れるのか。その創造的天才たちは、それを書く小説家たちの作品
にどのように具体的に叙述されるのであるか。それがこの論文のテーマである。最初に、村上春樹の最新の小説『色彩を
持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を取り上げる。そこに観取される作品と創造的天才の関係は、ドイツ文学、とり
わけゲーテやトーマス・マンの作品と密接に関わるものであることが明らかになる。それでは一体、ゲーテやトーマス・
マンは創造的天才をどのように考え、それを作品とどのように関係させているのだろうか。ここでは特にゲーテとマンの
さまざまな作品の中に現れる登場人物の創造的活動、すなわち「精神の大いなる跳躍」とそれを巧みに操作する悪魔的死
の世界との具体的交流関係の叙述が比較検討される。
Ⅰ-1 村上春樹とドイツ「教養小説」
春樹もノーベル文学賞を貰うのではないかと噂されている
作家の書く小説が、どのような場合に時代を乗り越えた
からである。
作品に成り得るのか、あるいはどのような場合にその作品
しかし『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
が時代とともに過ぎ去り読み捨て去られてしまうのか、と
という小説が、一時的ではなく、時代を乗り越え、いつま
いう問題は文学研究の最も重要な課題の一つである。そし
でも読まれ続ける作品に成り得るかどうかはこれからの問
てそのことは作家の創造力とも結びつく問題である。日常
題である。「色彩を持たない」、つまり何も自分に「色」と
の中に埋没して隠れて見えないものを作家はすくい上げ芸
いう「才能」を持たず、何も世間のことを知らない大学二
術にまで高め白日の下に曝すことができるからである。
年生の主人公が、自殺願望に陥っているところからこの小
例えば、村上春樹(1949年-)の最新作『色彩を持たな
説は始まる。主人公多崎つくるは名古屋の高校を卒業し、
い多崎つくると、彼の巡礼の年』1 という小説は、時代を
東京で大学生活を送っているのだが、突然、高校時代の4
乗り越えていつまでも読まれる作品に成り得るのか、ある
人の親友から絶交され、それが原因で、生きる気力を失い、
いは成り得ないのか。確かに村上春樹は人気作家であるか
「死ぬことだけを考えて」2生きている。「多崎つくる」が、
ら、発売以来10日と経たない内に第6刷に到達し、何十万
この自殺願望の原因を突き止め、それをどのように乗り越
部をも売り上げ、沢山の読者を獲得してきた。そしてその
え、成長し、彼の名前からも推測できるように、「多」様な
売り上げの高さの原因は、村上春樹がノーベル文学賞候補
世界を「つくる」のかということが、この小説の主題である。
作家という噂からも来ている。というのも彼は小説『海辺
ところでこのような筋書きは、面白いことにトーマス・
のカフカ』
(2002年)でフランツ・カフカ賞(チェコ)を
マンの『魔の山』の筋書きにそっくりであることが判明す
2006年に受賞しているのだが、2004年に同じフランツ・カ
る。何となれば『魔の山』の主人公ハンス・カストルプも
フカ賞を受賞したオーストリアの女性作家エルフリーデ・
また、
「色彩を持たない多崎つくる」と同じように「単純
イェリネク(Elfriede Jelinek,1946-)が、同年、2004年
な若者」(ein einfacher junger Mensch)3であり、その「単
にノーベル文学賞を受賞していることからも、やがて村上
2 前掲書、3頁
1 村上春樹:『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼
3 Thomas Mann: Der Zauberberg , 2010, Fischer
Verlag S.11.
の年』2013年、文藝春秋
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大 木 文 雄
純な若者」が、
スイスのダヴォス村の国際サナトリウム「ベ
う生命の交換をしたからこそ成し遂げられた業績だという
ルクホーフ」に、肺結核で療養している従兄弟のヨーアヒ
ことになる。
ム・ツィームセンを見舞いに行くところからこの小説は始
村上春樹は、緑川の音楽的才能にこの「肉体と意識の強
まるからである。確かに多崎つくるのように、ハンス・カ
靭な集中」という力を、この小説の中でどのようにして結
ストルプは物語の出だしから、
「死ぬことだけを考え」て
びつけたら新しい創造力、すなわち「精神の大いなる跳躍」 6
いる主人公としては登場しない。しかしハンス・カストル
が生み出されるのか、熟慮したにちがいない。普通の力で
プが見舞いに行ったそのサナトリウムは、死に直面してい
はないもの、それを勝ち得るには異常なものに助力を請う
る患者、やがては肺結核で死ななければならない運命を
しかない。村上春樹はこの時、ドイツ文学に本流として存
持った患者ばかりの巣窟であり、その意味では主人公のハ
在するファウスト的なものに惹きつけられたはずである。
ンスもまた、死の巣窟である魔の山から如何にして死を自
神の高みにまで到達したいと願うファウストは、悪魔を呼
ら消化し、克服し、生に向かって成長、発展して行けるか
び出し、その助力を得て願望を実現させるというものであ
という課題を担った人物として描かれるのである。
る。村上春樹はこの時、自らの小説の中にも魔的な力を忍
従って村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼
び込ませたいという誘惑にかられる。ピアノの天才を願望
の巡礼の年』は、『魔の山』と同じように、ヨーロッパ、
する緑川に魔的な力が忍び寄ってくるのである。生命を悪
とりわけドイツ語圏の小説の特徴をなす「教養小説」
魔に引き渡す代わりに、悪魔は緑川に才能をさらに拡大さ
(Bildungsroman)
、自己発展小説の流れを汲む作品であ
せる力を与える、という構図である。しかし村上春樹の場
ると言えるだろう。しかもそれは「死」に直面した「生」
合は、直接悪魔が登場するわけではない。天才的な能力を
の在り方を取り上げた作品である。
持った他の人間から突然緑川に「君も、天才になりたくな
いか、肉体と意識の強靭な集中がほしくないか」と話しか
Ⅰ-2 天才と悪魔、緑川の不思議な物語
けられる、つまり「セールス・トーク」されるのである。
小説『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の
ただし生命と交換で天才的創造力を獲得するという悪魔的
圧巻は、なんと言っても第5章である。それは主人公の友
構図は変わらない。その人間からの要請を承諾したことに
人灰田文紹が、灰田の父親の不思議な物語を語る場面であ
よって緑川は、生命と引き替えに音楽的才能を十全に発揮
る。灰田の父親は「大分県山中の小さな温泉で下働きの仕
することができた、というのである。緑川は灰田に次のよ
事をしていた」4。ある時、緑川という男がその温泉に宿
うに語りかける。
泊し、灰田はその男と酒を酌み交わしながら、生と死につ
いて本音で話し合う。緑川は、自分の生は才能を十全に発
「死を引き受けることに合意した時点で、君は普通では
揮したものでなければならない、ただ平々凡々と生きるだ
ない資質を手にいれることになる。特別な能力と言って
けでは本物の生ではない、と思っている。しかしその才能
もいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、
を十全に発揮させるためには、自らの生活に相当の覚悟を
そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にある
込めなければならない、と次のように言う。
のは、君が君の知覚そのものを拡大できるということ
だ。君はオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の
「しかし才能というのはな、灰田くん、肉体と意識の強靭
扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけ
な集中に支えられて、初めて機能を発揮するものだ。脳
のない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてが
味噌のどこかのネジがひとつ外れてしまえば、あるいは
クリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯
肉体のどこかの結線がぷつんと切れちまえば、集中なん
7
瞰することになる」
ぞ夜明けの露のように消えちまう。たとえば奥歯が疼く
だけで、ひどい肩こりがあるだけで、ピアノはまともに
5
弾けなくなる」
まさにこれはドイツ文学の伝統となっているファウスト
と悪魔との契約の場面を思い起こさせる。村上春樹はかな
りの程度でドイツ文学に傾倒しており、彼の文学の中にド
緑川はピアノの天才である。モーツァルトやシューベル
イツ文学の本質的なものを取り込んでいることが分かる。
トのような音楽の天才である。そういう天才は自らの創造
かくして色彩を持たない主人公多崎つくるは、緑川とい
活動を展開するためには「肉体と意識の強靭な集中」が必
うはっきりとした「緑」という色彩をもった人物の話を聞
要である。しかしその「肉体と意識の強靭な集中」はそう
くとことによって、多崎つくるもまた成長発展していくこ
簡単に獲得できるものではない。生命を削ってまでしてそ
とになる。しかしこの緑川のエピソードは、この小説の中
れに集中するのでなければ実現され得ないのである。従っ
でとりわけ見事に描かれているにもかかわらず、主人公多
てモーツァルトやシューベルトのような才能は、早死とい
崎つくるには決定的な影響を与えていないところが、この
4 村上春樹:前掲書、74頁
6 村上春樹:前掲書、84頁
5 村上春樹:前掲書、84頁
7 村上春樹:前掲書、89頁
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創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
小説の弱点であるように思われる。つまり山奥の温泉とい
ものも、どうぞ御存分に」(An Tier und Vögeln fehlt es
う幽遠な場所で、緑川のエピソードが語られるという設定
nicht)、果ては「天国から、この世を通って地獄へまでも」
は、村上春樹の高い詩的才能を感じさせるのであるが、そ
(Vom Himmel durch die Welt zur Hölle) 遍歴すること
のエピソードが主人公に無意識のうちに影響を与えては
を許すというのである。けち臭くなく、ふんだんに、物語
いるのであろうが、その後の物語は、高校時代の友人との
を展開させたら、観客、読者は面白がって喜ぶだろう、と
和解とういう点に集中されていき、しかも主人公がそれに
いうのである。
よって霧が晴れたようにハッピーエンドになっていく筋書
ところでトーマス・マンの場合にもまた上述のゲーテと
きは、あまりにも楽観的で直感的で不徹底過ぎるもののよ
同じようなことを言っている文章を見出して我々は驚かさ
うに思われる。「死を引き受けることに合意した」という
れる。トーマス・マンは『魔の山』の「まえおき」(Vorsatz)
緑川の幽遠な生き様は、多崎つくるのその後の生き方には
のところで物語のおもしろさということについて次のよう
ほとんど影響を与えるものとして感じられ取られないから
な興味深い見解を述べている。
である。高校時代の友人との和解への物語は、
「ナイーブ
な傷つきやすい少年としてではなく、一人の自立したプロ
「私たちはこの物語を詳しく話すことにしよう、綿密か
フェッショナルとして、過去と正面から向き合わなくては
つ徹底的に。―――というのも、物語のおもしろさや退
8
ならない」 という教養小説的な構図から書かれているの
屈さが、その物語の必要とする空間や時間によって左右
であろうが、緑川のエピソードとはほとんど関わらない形
されたことがはたしてあっただろうか。むしろ、わたし
で筋が進んでいくのは誠に口惜しい。
たちは、綿密すぎるというそしりをも恐れずに、徹底的
果たして村上春樹のこの小説は、時代を乗り越える作品
なものこそほんとうにおもしろいのだという考えに賛成
に成り得るだろうかという、一等最初の問いかけは、その
したい。」
意味では限りなく心もとないものになっていくように思わ
ゲーテは時間も空間もふんだんに使えば読者や観客を喜
れる。
ばせることが出来るだろうと言うのに対して、マンは時
Ⅱ-1 ゲーテの創造的天才と『ファウスト』
間、空間に関係なく「徹底的なものこそほんとうにおもし
それでは一体ゲーテやトーマス・マンは、
緑川のエピソー
ろいのだという考えに賛成したい」(wir neigen vielmehr
ドのような創造的天才の問題については彼等の作品の中で
der Ansicht zu, daβ nur das Gründliche wahrhaft
どのように叙述しているのであろうか。果たして時代を乗
unterhaltend sein)、そしてそれこそが読者を喜ばせる、
り越えて現代でも盛んに読まれているゲーテやマンの作品
というのである。一見ゲーテとマンの見解は違っているよ
は、村上春樹の小説とどういった点で差異があるのだろう
うに思えるが、ゲーテにとっても「徹底的なもの」(das
か。
Gründliche) は望むところであったはずである。何とな
例えばゲーテは『ファウスト』という悲劇の最初のとこ
れば『ファウスト』はゲーテにとって生涯の大作であった
ろで語られる「前狂言」(Vorspiel auf dem Theater) と
からである。ゲーテは生涯に亘って、何度も『ファウスト』
いう場面で、この悲劇『ファウスト』を展開させる方針と
を推敲し、同じ文章について熟慮し、書き直し、改良して
して、この演劇の「座長」(Direktor)に次のように語らせ
きたからである。具体的なものの中に普遍的なものを組み
ている。
込むという「象徴性」(Symbolik) も取り入れ、『ファウ
スト』は徹底的に考えられてきたからである。
「…今度の興行では、書割り、からくり、なんでもふん
たとえ場面が天上になろうが、冥界の「母達の国」に降
だんにお使いください。太陽も結構、月も結構、星なん
りて行こうが、神話的登場人物スフィンクスやエリヒトー
かいくら使ったって一向に構わないし、水仕掛けに火仕
やガラテーを出そうが、ゲーテにあっては、村上春樹が問
掛け、岸壁はいうに及ばず、鳥やけものも、どうぞ御存
題にしていた「肉体と意識の強靭な集中」ということに関
分に。舞台は狭いが、遠慮は要らぬ。造花の万物を駆り
して、あるいは創造的天才ということに関しても、ファ
出して、緩急よろしく、天国から、この世を通って地獄
ウストと悪魔メフィストとの契約の中で徹底的に考えられ
9
ていたのである。ファウストは「自分の精神で、最高最深
へまでも暦回ってもらいましょうか。
」
のものを攫んでみたい」(Mit meinem Geist das Höchste’
この『ファウスト』劇を面白いもの、魅力あるものにさ
und Tiefste greifen) (V.1773) というまさに最高の創造
せるためにゲーテは「座長」をして、
「なんでもふんだん
的天才を願望する。そしてファウストは、自分が悪魔メ
に使う」(Probiert ein jeder, was er mag)こと、
「鳥やけ
フィストによって「もうこれで満足」(mich mit Genuβ
betrügen) というようにさせられたら「おしまいだ」(der
8 村上春樹:前掲書、106頁
ファ
letzte Tag) と豪語する。従ってメフィストの仕事は、
9 Goethe : Faust, 1986 Verlag C.H.Beck München,
ウストに「もうこれで満足」という言葉を吐かせさえすれ
S.15. V.231-242.
ば良いということになる。単に創造的天才性を与えてくれ
- 117 -
大 木 文 雄
さえすれば、自分の生が短命に終わっても良い、という悪
し、圧倒されながら、しかし同時に主人公の小説執筆活動
魔優位の村上春樹の緑川方程式ではゲーテのファウストは
は、思いもよらず、満足に進展する。ところが丁度その頃、
満足しない。ゲーテのファウストは、たとえ創造的天才
この水の都にペストの病気が蔓延する。主人公はペストに
性を悪魔から与えられたとしても、それに決して満足しな
罹患し、遠くで招くタジオの美に、ほほえみながら死んで
い、無限に前進する人間として描かれる。従って『ファ
いく。
ウスト』全体は、悪魔メフィストが勝つか、ファウストが
以上が『ベニスに死す』の概略である。
勝つかという賭の問題と密接に関わった、常に新しい創造
性を追い求める「徹底的なもの」が描かれている作品なの
Ⅲ-2 マンの創造力と同性愛
である。「永遠に女性的なもの我を引きゆく」(Das Ewig-
ベルリン自由大学助手ティム・レルケ(Tim Lörke)博
Weibliche zieht uns hinan) (V.12110) という『ファウス
士の最新の研究論文12は、マックス・ヴェーバーの資本主
ト』の結句もまた、ファウストが悪魔メフィストに勝つ象
義批判論を援用しながら、この小説の主人公の規律正しい
徴的な詩句なのである。
毎日の生活が、資本主義社会の勤勉な労働者と類似してい
る故に、この小説は現代を批判するものだと解釈する。資
Ⅲ-1 マンの創造的天才性と『ベニスに死す』
本主義的規律正しい生活によって何がしかは構築される
ところでトーマス・マンは、芸術家の創造力ということ
が、そこには情熱、憧憬、創造力、独創性は欠如する。創
をどのように考えていたのであろうか。そしてマンはその
造力を獲得するためには、無秩序、酩酊、陶酔、放逸、禁
創造力ということを作品の中でどのように叙述したのであ
制、永遠なもの、誘惑的なものを愛さなければならない、
ろうか。
というものである。
例えばマンの短編小説の中に『ベニスに死す』というの
ティム・レルケの論文で意味深いと思われるのは、
がある。主人公グスタフ・アシェンバハは50歳で、ミュ
創造力を獲得するためには、
「禁制のもの」(aus einem
ンヘンで活躍する有名な作家である。彼は「若い頃から
verbotenen) を愛さなければならない、という指摘であ
の習慣となっていた克己によって」(von jung auf geübte
る。ここにおける「禁制のもの」とは美少年タジオのこと
Selbstzucht)10、早朝起床し、冷水を浴び、睡眠によって
である。アシェンバハは美少年タジオを愛することによっ
集中された力を、数時間小説執筆に費やすという規律正し
て枯渇していた芸術家としての創造力を獲得するのであ
い毎日の生活を送ってきたのだが、どうにも満足がいか
る。しかし美少年を愛することは、
「同性愛」(Homoerotik,
ず、消耗を感じている。創造力枯渇の状態に陥っているの
Homosexualität)という禁制を犯すことに繋がる。しかも
である。アシェンバハは創作活動をすることは普段以上に
50歳の男性作家が、14歳の神々しい少年を愛するという構
エネルギーを使うものだと感じている。それは村上春樹の
図はいかにも創造的で、
「精神の大いなる跳躍」に相応し
「肉体と意識の強靭な集中」状態と同じである。
い行動であるが、社会のタブーに踏み込む危険性を孕んだ
ものと言っていい。
「個人的に言っても、芸術は高められた生活である。芸
術はふつうの人生より深い幸福を感じさせるが、またよ
Ⅲ-3 マンの同性愛スキャンダル
り急速にひとを疲れさせる。芸術はおのれへの奉仕者の
ところで1991年の週刊誌「シュピーゲル」46号に、「別
要望に幻想的精神的冒険の痕跡を残す。芸術は、たとえ
人であるというショック」(DerSchock, ein anderer zu
外的生活が僧院的静寂のうちに送られたとしても、なが
sein) という見出しで、実は「トーマス・マンは同性愛者
いあいだには、もっとも放埓な熱情と快楽に満ちた生活
だった」(Thomas Mann war Homoerotiker) という論文
すら生み出しえないような、神経の我儘、過度の洗練、
記事が掲載されて文学界に一大センセーションを巻き起こ
疲労、そして好奇心を生み出すのである。
」11
したことをここで指摘しておかなければならない。13 1955
年にトーマス・マンは亡くなったのだが、没後20年してか
従ってアッシェンバハは、創造的作家活動に疲れを感
ら、つまり1975年に彼の日記が一般に公開されて、その中
じ、創作活動が進展していないのを感じている。そのよう
に彼が同性愛者だったことが判明したというのである。さ
な時、突如彼は旅への憧れに襲われる。場所はイタリアの
らにその中の記事には、カルフォルニアに亡命していたマ
水の都ベニス。そこで彼が出会うのは14歳の神々しい美少
ンは、1945年5月21日に、1918年以前の日記、あるいは
年タジオである。浜辺で遊ぶ美の極致タジオを観察し、愛
10 Thomas Mann: Der Tod in Venedig , 2010, Fischer
Taschenbuch Verlag, S.177.
11 Thomas Mann: a.a.O., S.186.
12 Tim Lörke: Der dichtende Leib. Gustav von
Aschenbach, der Tod in Venedig und die Poetik
des Körpers. In: Wollust des Untergangs. 100
Jahre Thomas Manns der Tod in Venedig. 2012 im
Literaturhaus München, Wallstein Verlag, S.29-37.
13 Der Spiegel 46-1991: Der Schock, ein anderer zu
sein. Spiegel-Redakteur Helmuth Korasek über die
Homoesexualität Thomas Manns.
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創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
1921年から1933年までの古い日記を全て焼却してしまった
クス」は主人公アシェンバハに巣食って離れない。アシェ
ことが書かれている。それは丁度マンの高校生時代やミュ
ンバハのタジオへの愛は、まさに同性愛 (Homoerotik)
ンヘン時代の日記であり、特にミュンヘンで画家パウル・
のそれであり、
「強圧的な父親コンプレックス」という父
エーレンベルク(Paul Ehrenberg) と同性愛関係にあった
親の優勢に対する不安の表れであり、強圧的な父親に降
詳細な日記も焼却されてしまったことになる、というので
伏 (Kapitulation) している姿であり、性の対象としての
ある。さらにその論文記事に書かれていることは、
小説『ベ
女性を拒否する態度として現れている、というのである。
ニスに死す』の中で、アシェンバハの美少年タジオに対す
しかもアシェンバハの態度は極めて受動的 (passiv) であ
る同性愛が実現されなかっただけではなく、死でその罪が
り、最終的に自分を救済する手立てを何も企てない。だか
埋め合わされてしまったことは、この少年に対する男色的
らアシェンバハの美少年タジオへの愛は、同性愛のそれで
愛の物語(diese päderastische Liebesgeschichte) が、象
あり、心理分析的見地からはエディプス・コンプレックス
徴的に一般的なもの、即ち芸術と生活という対立構造にす
の問題圏に属する、というのである。
りかえられてしまっている、ということである。さらに面
上記のキム・ヒルによる解釈だと、作家アシェンバハが
白いことには、ヴィスコンティ監督による映画「ベニスに
美少年タジオを愛する行為は、新たな創造的エネルギーを
死す」でも、一般大衆向けに、少年タジオの代わりに、少
タジオから与えられるというよりも、それは単なる父親コ
女を映画に登場させては如何かという意見も共同映画製作
ンプレックスの病気の症状に過ぎないということになって
者たちから出されたということである。
しまう。作家トーマス・マンの芸術的美的表現というより
いずれにせよこの雑誌「シュピーゲル」の論文記事は、
も、患者の一症例に過ぎないというのは、それも確かにあ
これまでのトーマス・マン像とは違ったトーマス・マンが
り得るかもしれないが、患者の症例にまで落ちると文学論
暴き出されたという点で重大問題ではある。しかし今問題
としては肯定しかねる。病気と天才とはまさに紙一重であ
にしている創造的天才性が、作品のどこに現れるか、ある
る。
いはそれが如何に斬新な創造性かということに関しては、
Ⅲ-5 ゲーテのアポロン的創造力とマンのディオニュソ
ス的創造力
マンが同性愛者であったという事実が現れたからといっ
スイス・ジュネーブ大学教授ベルンハルト・ベッシェン
て、その事実に大きく左右されることにはならない。
シュタイン(Bernhard Böschenstein, 1931-) の論文「極
Ⅲ-4 創造力はエディプス・コンプレックスか?
端な両極性。
『ベニスに死す』解釈のために」(Exzentrische
さらに次に概略するキム・ヒルの論文も本論の解釈には
Polarität. Zum Tod in Venedig)15では、ベニスを創造的に
対立するものであるが、比較するという意味において、こ
叙述する二人の作家、ゲーテとトーマス・マンが極端に対
こで取り上げてみよう。
比されて論じられていて、極めて意味深い論文となってい
フ ラ イ ブ ル ク 大 学 の キ ム・ ヒ ル (Kim Hill) の 論
る。
文「 ト ー マ ス・ マ ン の『ベニスに死す』解釈の 心 理 分
ゲーテは1790年3月末から5月末にかけてベニスに滞在
析 的 文 芸 学 の 観 点 」(Aspekte der psychoanalytischen
Literaturwissenschaft mit Interpretationsansätzen zu
Thomas Manns “Der Tod in Venedig” )14では、作家アシェ
ンバハは「エディプス・コンプレックス」(Ödipuskomplex)、
つまり
「父親コンプレックス」
の対象者として解釈される。
アシェンバハの父親は将校、裁判官、行政官であり、子供
時代からアシェンバハは父親のそういう権威に抑圧されて
きたというわけである。だから旅へと誘惑する三人の男性
は、アシェンバハに対して攻撃的で(agressiv) 強圧的な
(stark und bedrohlich) 態度を取るのだが、それは子供
時代に受けた父親からの強圧的態度の無意識の表われだと
いうのである。一方良い父の思い出は、作家アシェンバハ
自身であり、美少年タジオを息子として愛する父親像とし
て表現される。しかし依然として
「エディプス・コンプレッ
し、その経験を『ヴェネツィアのエピグラム』
(ベニスに
ついての諧謔と風刺集)(Venezianische Epigramme)16に
書いているのだが、マンはそれを既に読んでしまってい
て、それと対立するような内容を、彼の『ベニスに死す』
の中に取り込んでいる、というのである。
たとえばゲーテの『ヴェネツィアのエピグラム』には
「女の子は可愛い舌で可愛い唇をなめる」(das Mädchen
leckt mit seinem Züngelchen sein Mäulchen)と 書 か れ
ているのを、マンはよく知っていて、マンはその表現を
『ベニスに死す』の中に次のように変形して文学化してい
る。
「めかしこんだ老人は、<おぞましくみだらに舌の先
で口の端をなめたりした。>」(Er leckte auf abschelich
15 Bernhard Böschenstein: Exzentrische Polarität.
Zum Tod in Venedig , In: Interpretationen Thomas
1 4 K i m H i l l : Aspekte der psychoanalytischen
Literaturwissenschaft mit Interpretationsansätzen
zu Thomas Manns “Der Tod in Venedig” , http://
w w w. k i m h i l l . c o m / o t h e r / t o d i n v e n e d i g . h t m l ,
2013/06/03, S.1-10.
Mann Romane und Erzählungen. Herausgegeben
von Volkmar Hansen, 2005 Reclam, S. 89-120.
16 J.W.v.Goethe: Venezianische Epigramme , In:
- 119 -
Goethe Gedichte 1756-1799 , Deutscher Klassiker
Verlag, 1987.
大 木 文 雄
zweideutige Art mit der Zungenspitze die Mundwinkel.)
(アポロン)と死(ディオニュソス)を見つめ、それを
と叙述する。すなわち健康な古代のゲーテのエロスは、マ
文学化していたのだ、という巧みな叙述方法を見抜くベッ
ンの中では、性的倒錯をしたエロスとして登場するのであ
シェンシュタイン教授の論文は見事である。
る。
総体的にゲーテはベニスをアポロン的生の芸術性で作品
Ⅳ-1 『ファウストゥス博士』に現れた創造力
化するのに対して、マンはベニスをディオニュソス的死の
ところでトーマス・マンは最晩年に、長編小説『ファ
地下世界として描く。とりわけ美少年タジオは、二面性
18
ウストゥス博士』
を 書 い て い る の だ が、 そ の 中 で マ
を持っている。タジオの二面性の一つは、ヴィンケルマ
ン は、 ル ー デ ィ・ シ ュ ヴ ェ ー ル ト フ ェ ー ガ ー (Rudi
ンのいう「高貴な単純」(edler Einfalt) という観点から
Schwerdtfeger、尚、RudiはRudolfの愛称) というミュン
の新しい古典主義的な教養のある面であり、もう一つの面
ヘン・ツァプフェンシュテサー管弦楽団 (Zapfenstöβer-
は当時禁止されていたものを表現するディオニュソス的
Orchester)のヴァイオリニストの青年を登場させている
な面である。後者のディオニュソス的な面とは、創造以
ことをここで特筆しなければならない。なぜならば、
『ベ
前の混沌状態(das Chaos vor der Schöpfung)であり、荒
ニスに死す』の主人公アシェンバハが美少年タジオを愛す
廃 し た 空 間(Raumeswüste)で あ り、 弱 さ(Schwäche)、
るように、『ファウストゥス博士』の中で、主人公アード
病 的(kränklich)、 男 性 以 前 の(vormännlich)、 辛 辣 な
リアーン・レーヴァーキューン(Adrian Leverkühn)は、
(herb)、ひ弱さ(Zartheit)、愛らしい(hold)、しおれてい
ルーディ・シュヴェールトフェーガーを強く愛しているか
る(verwelkten)といったものである。
らであり、二人の関係が同性愛のそれであることが明るみ
年をとったアシェンバハが、若い花であるタジオ少年の
に出てくるからである。そしてこの長編小説『ファウストゥ
中に<しおれている>部分をも観察する二重の姿は、一時
ス博士』にもまた我々は、トーマス・マンが、芸術家の創
的にタジオから若さをもらい、創造的な燃焼を感じるが、
造力をこの二人の同性愛に関係させて具体的に作品の中に
やがてその創造的エネルギーもすぐに枯渇して、死へ近づ
登場させているのを見ることが出来るのである。
いて行くという50歳の自分の姿を、リアルに観察している
しかもその芸術家の創造力については、
『ベニスに死す』
姿である。ここにはもはやアシェンバハがタジオ少年を愛
よりも『ファウストゥス博士』の中では、より徹底的に叙
する姿はない。そうではなくてアシェンバハは、タジオ少
述されているので、あるいは別の言葉で言い換えれば、
年を見ながら、同時に50歳の自分の姿を克明に観察してい
『ファウストゥス博士』の小説の主要テーマそれ自体が芸
17
るのである。ギリシャ神話のナルキッソス が、自分の姿
術家の創造力について書かれているので、まさに『ファウ
を水面に見て、自分にほれ込んでいる姿、それがアシェン
ストゥス博士』をゆっくりと精読していくことだけで、
我々
バハの姿である、というのである。
は芸術家の創造力というものを解明していくことができる
上記のベルンハルト・ベッシェンシュタイン教授の論文
ように思われるのである。我々は以下、
『ファウストゥス
は、50歳代のトーマス・マンの芸術家としての創造性を、
博士』のあらすじを追いながら、芸術家の創造力が作品の
作品『ベニスに死す』
の中に読み込んだ好論文である。トー
中にどのように描かれているのか探求していく。
マス・マンは、同性愛者であったかもしれない。そしてそ
主人公アードリアーン・レーヴァーキューン(1885年生
のような姿を作品『ベニスに死す』の中に描いているよう
れ)は神学に熱中していたが、宇宙の「本源的なもの」
に思えるかもしれないが、そしてそのように読者に思わせ
(das Elementarische) を求めるためには音楽を研究しな
ながら、だがしかし実はトーマス・マンは自分の姿を詳細
ければならないということに気づくことによって、音楽へ
に観察して文学化していたのだ、つまりマン自身の中に生
転向して作曲家になろうとしている。アードリアーン・
レーヴァーキューンは従って自らの音楽の天才的創造力を
17 『ギリシア・ローマ神話』
(ブルフィンチ作、野上弥生
作曲家として極限にまで発展させようと志す者として描か
子訳、1999年、岩波文庫)には、
「エコーとナルキッ
れる。その意味ではアードリアーンは、村上春樹の緑川の
ソス」
(146-149頁)という神話がある。あらすじは次
ような人物でもある。何となれば緑川もまた天才的音楽家
のようなものである。美しいニンペのエコーは、ナル
であり、ピアニストだからである。
キッソスと呼ぶ美しい青年を好きになる。しかしエ
1905年の20歳の学生時代、アードリアーンは音楽の師
コーは言葉を繰り返すことしかできない運命にあるの
クレッチュマルの誘いで、大都市シュトラースブルクに
で、ナルキッソスに見捨てられ、悲しみのあまり肉体
音楽を学ぶためにやってくる。到着早々、
「荷物運搬人」
は萎縮して声だけになる。復習の女神は、ナルキッソ
(Dienstmann) に市内を案内してもらうことになるが、
スに復習する。ナルキッソスは泉に映る自分に恋をす
る。泉に映る自分は、ディオニュソスかアポロンのよ
18 Thomas Mann: Doktor Faustus. Das Leben des
うに美青年に見える。しかし抱こうとすると消える水
鏡にどうすることもできず、ナルキッソスはとうとう
やせ衰えて死んでしまう。
- 120 -
deutschen Tonsetzers Adrian Leverkühn, erzählt
von einem Freunde. Fischer Taschenbuch Verlag,
2007.
創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
暗くなったとき、アードリアーンは、荷物運搬人に強引
軍勢とあらゆる人間とを、断念すること」(wenn du nur
に、だまされて赤線地帯の「魔窟の隠れ家」(Schlupfbude)
absagst allen, die da leben, allem himmlischen Heer
に案内される。19 そこでアードリアーンは「エスメラルダ
und allen Menschen) が必要不可欠な契約条件となる。
蝶」(Esmeralden) のような娼婦、ヘタエラ・エスメラ
緑川の場合は、制限時間24年間、その間、悪魔は緑川に音
ルダ(Hetaera-Esmeralda) に頬を撫でられるが、突然の
楽の天才的能力を発揮させることを手助けするが、24年が
ことで狼狽してしまい、
その「魔窟の隠れ家」から逃げ帰っ
経つと同時に、緑川には死が待っている、というだけの契
てしまう。
約条件の「セールス・トーク」である。その意味ではマン
翌年1906年、エスメラルダ嬢の魅力に取り付かれ、その
の契約条件は、村上春樹のそれよりもはるかに徹底してい
女を忘れられず「肉欲の地獄」(Lusthülle) への思いに陥っ
て、リアルで面白い。
「生あるものすべてを断念する」こ
てしまったアードリアーンは彼女に会いに行く。女は病気
とが物語の中で徹底的に叙述されることによって、生と対
治療のために、前の娼家を引き去って、オーストリアのプ
立するディオニュソス的死の地下世界が実在性を主張し始
レスブルクに住んでいたのだが、アードリアーンはその家
めるからである。
を探り当て訪ねることになる。女は娼婦としての病気に
ところで「生あるものを断念する」こととは、一体どう
罹っていることをアードリアーンに「警告した」(warnte)
いうことかとアードリアーンが悪魔に尋ねると、悪魔は簡
が、警告されたアードリアーンは警告を無視して、この肉
潔に次のように答える。
をわがものにすることに固執した。かくしてアードリアー
ンは梅毒 (die spirochaeta pallida)20に罹患し、
その結果、
「君は愛することを許されないのだ。」(Du darfst nicht
彼は悪魔と関係を持ったことになる。
lieben)22
Ⅳ-2 アードリアーンと悪魔との契約
人間を愛することが許されない、ということ、これはトー
1912年夏、27歳のアードリアーンと友人シルトクナップ
マス・マンが『ファウストゥス博士』の契約条件の中で一
は、イタリアのサビニ山中に建つ、古い立派な宮殿のよう
番表現したかったことであったにちがいない。ヨーロッパ
な住居に避暑生活をし、作曲に集中している。そしてそ
中世の時代に実在したファウストから、ファウスト伝説を
の時初めて悪魔はアードリアーンの前に姿を現す。悪魔は
通って、現代に至るまで、繰り返し悪魔との契約条件が様々
アードリアーンに、
悪魔との契約の内容を次のように語る。
な形で登場してきたが、マンのそれは独創的である。つま
りファウスト伝説の中でもこの「愛することが許されな
「君は我々から時間を受け取る、天才的な時間 (geniale
い」という表現は登場しない。ファウスト民間本では24年
Zeit)、高揚した時間 (hochgetragende Zeit)、契約ノ
間悪魔がファウストに仕えるということはあるが、「愛す
日カラ満24年だ、これを君の限界としよう。その年月が
ることが許されない」ということまでは言われていない。
過ぎ去ってしまえば、―これは見極めることの出来ない
むしろ民間本の悪魔は、肉欲の愛を逆にファウストにさせ
時間であり、したがって一つの永遠でもあるのだが―そ
ようと企む。その意味では村上春樹の緑川のいわゆる
「セー
のときには君はわれわれの手に落ちなければならない。
ルス・トーク」はファウスト民間本の域を出ていないこと
それまでは何事にせよわれわれは君の意のままに服従し
になる。
よう、そして、これはどうしてもしなければならないこ
ゲーテの『ファウスト』の中でもこの表現は登場しない。
とだが、君が生あるものすべてを、天上の軍勢とあらゆ
しかしゲーテの場合、ファウストの契約は、瞬間に対し
る人間とを断念しさえすれば、地獄は君に仕えよう (dir
て一度でも「汝、美しい止まれ!」(du bist schön!) と叫
」
soll die Hölle frommen)。
んだら、ファウストは悪魔のものになるということであっ
21
た。民間本で24年間という制限が課されるのに対して、
ゲー
創造的天才性を獲得するためには、制限時間は24年間
テの場合は、24年間の制限は無くなったが、その代わりに
である。しかもここで特筆すべきことは、上述の村上春
ファウストは「一瞬」たりとも停滞することなく、前に突
樹の緑川の場合と違って、
「生あるものすべてを、天上の
き進まなければならない。ゲーテのファウストにとって、
「行為」(die Tat)がすべてであるからだ。しかし良く考
19 『 フ ァ ウ ス ト ゥ ス博士』のこのくだりは、
『ベニス
えてみると、一瞬たりとも停滞することができないという
に死す』の中でアシェンバハがゴンドラの船頭
ゲーテ的ファウストは、
「愛することが許されない」こと
(Gondolier) に強引にサン・マルコではなく、リドに
と同じことではないかと思われてくるのだがどうであろう
連れて行かれる場面と類似する。しかもそれはディオ
か。よく考えてみると、しかしこれはやはり違う。ゲーテ
ニュソス的死の地下世界ヘ連れ去られていく場面の再
的ファウストは、無限に進展する多様な愛を追い求める巨
現である。
人的なファウスト(グンドルフ)として描かれているが故
20 Thomas Mann: Doktor Faustus , a.a.O., S.338.
21 ebenda. S.363.
22 ebenda. S.363.
- 121 -
大 木 文 雄
に、愛することこそゲーテ的ファウストの本質だからであ
ればならないのが常である。上述の箇所もそうである。
「愛
る。ゲーテのファウストは、愛を求め続ける。停滞するこ
することが許されない」という契約条項を深く考えないで
となく愛を求め続ける巨人的人間として描かれる。ゲーテ
読んだとき、あるいは『ベニスに死す』の「同性愛」との
のファウストを引き上げるのは、
「永遠に女性的なもの」
関係性についてまだ知らなかったときには、その意味深さ
の愛である。
はあまり理解できなかったが、それらの関係性を理解した
従ってトーマス・マンの『ファウストゥス博士』におけ
後でこの文章を再読すると、実はこの文章がマンによって
る「人間を愛することが許されない」というアードリアー
深く考えられて書かれていることが後になってはっと気づ
ンと悪魔との契約は、これまでファウスト文学の中では語
かされ、感動してひざを打ち、納得させられるという現象
られたことのなかった全く新しい約束事である。それはイ
が起こる…トーマス・マンの文章はそういう文章なのであ
エス・キリストが「隣人愛」(die Nächstenliebe) を人間
る。
の持つべき根源のものであると福音の中で唱え、実行した
女を愛するのではなく、男を愛するのなら、悪魔との契
ことと、対極をなす心のありようである。トーマス・マン
約条件を逸脱しないと考えたアードリアーンは、同性愛に
は、意識的に、アードリアーンと悪魔との契約を通して、
走ったのであった。
人類の最高の救済者イエス・キリストと真正面に向き合う
ここで特に指摘しておかなければならないことは、この
のである。
同性愛(Homoerotik)という問題は、ミュンヘン大学の
しかも時代背景は第二次世界大戦中で、場所はドイツで
講師(Auftrag)フリードリヒ・ヴァムプスガンツ(Friedrich
あり、ヒトラーのナチズムが敗北して、ドイツは最悪の暗
Wambsganz) が彼の著書『トーマス・マンの<ファウ
黒の状況に突き進まんとしている時である。徹底的に連合
ストゥス博士>』(Thomas Manns Doktor Faustus)24の
軍から攻撃され、イエス・キリストの救済はドイツには全
中で極めて重要視しているということである。さらにヘ
く見えないという状況下で物語は展開される。次第に「愛
ルムート・イェンドライエク(Helmut Jendreiek)もまた
することが許されない」というその悲惨さが、この小説の
彼の著書『トーマス・マン 民主主義的小説』(Thomas
中で明らかになってくるのだが、しかしながらアードリ
Mann. Der demokratische Roman)25の中でその重要性に
アーンにはこの時点ではまだ「愛することが許されない」
ついて指摘しているということである。
ということがどういうことを意味するのか具体的に分から
ルーディ・シュヴェールトフェーガーは、
「素朴な、子供っ
ない。
ぽい、妖精じみた魔性の光」(Lichte einer absolut naiven,
Ⅳ-3 「愛することが許されない」
:ルーディ・シュヴェー
年らしい仕草、無邪気な癖、率直さ、礼儀正しさ、偏見の
kindischen, koboldhaften Dämonie)を持ち備えており、少
ルトフェーガーとの同性愛
なさ、金銭や所有物への芸術家らしい無関心さ、
「実にか
作曲家アードリアーンは、悪魔との契約後、梅毒の孕む
わいらしい鋼青色の眼」(sehr hübsche kornblumenblaue
悪魔的助力を得て、創造的天才性を発揮してさまざまな音
「ボッ
Augen)26から輝き出る純潔といった性格を持ち、
楽を作曲してきたが、未だに窮極最高の作品は完成されて
ティチェルリが描いた赤い帽子を被った若者の肖像」
いなかった。すなわち完全な「肉体と意識の強靭な集中」
(Botticellis Jünglingsportrait mit der roten Mütze)27 に
力が発揮された窮極最高の音楽作品は、未だに完成されて
似ていた。この若者の肖像は有名で、美術雑誌によく登場
いなかった。
する。特に美男子というわけではないが、ボッティチェル
その様なときアードリアーンは、若き青年ヴァイオリニ
リが心を込めて描いただけあって、礼儀正しさと唇の赤さ
ストであるルーディ・シュヴェールトフェーガーを愛する
が目立ち、少年らしい率直さが見て取れる。トーマス・マ
ようになる。いわゆる同性愛である。
「愛することが許さ
ンがこういう青年を好んでいたのだということが分かり、
れない」アードリアーンは後になってその間の事情を次の
非常に具体的で興味深い。
ように告白している。
トーマス・マンは『ベニスに死す』の美青年タジオにつ
いても具体的に指摘していて、それは次のように叙述され
「前にも私は、悪魔の修道僧である私とて、女のもので
ている。
さえなければ、肉と血を愛することも許されようと考
えたことがあって」(Hatte wohl auch gedacht, schon
「鋏をくわえるのを憚っている美しい髪は<とげを抜く
zuvor, daβ ich, als des Teufels Mönch, lieben dürfte in
24 Friedrich Wambsganz: Thomas Manns Doktoro
Fleisch und Blut, was nicht weiblich war)23
Faustus. Books on Demand GmbH, 2002, S.74,
マンの言語表現は常に意味深い。だから格言を読むよう
25 Helmut Jendreiek: Thomas Mann. Der demokratische
Roman. Bagel Verlag, 1977. S.420.
に、その箇所をゆっくりと熟慮しながら繰り返し読まなけ
26 ebenda. S.505.
23 ebenda. S.725.
27 ebenda. S.296.
- 122 -
創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
少年>像のように額に垂れ、耳を覆い、さらに項に延び
er wohl meinte, gewissermaβen hilflosen Zustand
ていた。
」(Man hatte sich gehütet, die Schere an sein
dazu benutzen zu sollen, seine ganze unverwüstliche
schönes Haar zu lesen; wie beim Dornauszieher lockte
und durch viel persönlichen Charme unterstützte
es sich in die Stirn, über die Ohren und tiefer noch in
Zutunlichkeit aufzubieten, um eine Sprödigkeit,
den Nacken.)28
Kühle, ironische Abweisung zu überwinden, die ihn
aus mehr oder weniger ernsten Gründen kränkte,
この「とげを抜く少年」(Dornauszieher)は、イタリア
oder schmerzte, oder seine Eitelkeit verletzte, oder
のローマに所蔵されているブロンズ像であるが、唇が赤い
ein darum stand!)29
のはエロチックでもある。ボッティチェルリが描いた赤い
帽子を被った若者の肖像であれ、
「とげを抜く少年」であ
多少長い引用であるが、マンの典型的な美的文体である
れ、両者とも唇が赤く、少年のように若々しい。
『ファウ
のでここに取り上げた。ピリオドに到達するまで彼の文体
ストゥス博士』の主人公アードリアーンも、
『ベニスに死
は長く、延々と続く。しかしこの文章を読んだだけでも如
す』の主人公アッシェンバハもこのような少年に惹きつけ
何にアードリアーンとルーディの二人が心を通じ合わせて
られるのである。
いるかが分かる、それほどこの文章は濃密である。この文
しかしそれだけでアードリアーンは、ルーディ・シュ
章は、マンの魂が刻み込まれた彫刻作品のようである。
ヴェールトフェーガーを信頼して、仲良くなり、同性愛の
要するに、ルーディはアードリアーンの「虚栄心」や「あ
関係に陥ることはできない。二人の関係が密接になるのに
る硬さ」や「冷たさ」や「イローニッシュな拒絶」を取り
はそれなりの理由が必要であるからだ。しかもアードリ
除いてやる役割を演じているわけである。そのように重荷
アーンは作曲の創作活動に、いまひとつ没頭できない状態
が取り除かれることによって、アードリアーンは自由な想
に陥っている。彼は梅毒に関係する急性の病気に苦しん
像力を羽ばたかせることができるようになる。
でいるからである。そんな時、ルーディ・シュヴェールト
かくして、この同性愛によって創作活動に力を獲得した
フェーガーはアードリアーンの手助けをするのである。そ
アードリアーンは、窮極最高の作品への構想を練る。すな
の手助けについてマンは次のように美しい言葉で表現して
わちアードリアーンは、交響カンタータ『ファウストゥ
いる。
ス博士の嘆き』 (die Symphonische Kantate Dr. Fausti
”
Weheklag“)を完成させようと仕事に集中することができ
「このヴァイオリニストはアードリアーンが急性の病気
るようになる。
に苦しんでいる間きわめて同情的で誠実で献身的な態度
ところで、この場面もまた、
『ベニスに死す』のアシェ
を示した、実際、彼はこれをアードリアーンの好意、愛
ンバハが、禁断とされている少年タジオを愛することに
情が自分にとってどんなに大事であるかを示す機会と考
よって創作エネルギーを獲得する場面と類似している。す
えているかのようであった、―-そればかりか私の印象
なわち、
『ファウストゥス博士』のアードリアーンもまた、
では、彼はアードリアーンの苦悶し衰弱している、彼の
ルーディ・シュヴェールトフェーガーを愛することによっ
考えではいわば無力になった状態を利用し、多くの個人
て窮極最高の作品を創作するエネルギーを獲得するからで
的な魅力に支えられたたじろぐことのない彼の馴れ馴れ
ある。マンにとって同性愛は創造的天才性を発揮させる源
しさのすべてを動員して、多かれ少なかれ真面目な理
泉であったのである。村上春樹の緑川が獲得した「肉体と
由で彼の感情を害していた、あるいは彼を苦しめてい
意識の強靭な集中」の窮極最高の力は、マンの場合は同性
た、あるいは彼の虚栄心を傷つけていた、あるいは真
愛から生み出される。ルーディを愛したが為に創造力が生
の感情に傷を負わせていた(その、いずれかは知るよ
み出されるのである。なるほど悪魔はアードリアーンの創
しもない!)ある硬さ、冷たさ、イローニッシュな拒
作意欲を刺激するのに役に立ってはいるが、決定的な創作
絶を征服しなければならないと考えているかのようで
力の引き金を引かせるのは、ルーディとの同性愛なのであ
あった。
」(Der Geiger zeigte sich während der akuten
る。すなわち「人間を愛した」ことから生み出されるので
Krankheit unseres Freundes sehr teilnehmend,
ある。決して悪魔が窮極最高の創造力を与えたわけではな
treu und anhänglich, ja es schien, als wollte er die
い。
Gelegenheit wahrnehmen, ihm zu zeigen, wiewiel
ihm an seinem Wohlwollen, seiner Zueignung gelegen
Ⅳ-4 ルーディ・シュヴェールトフェーガーの死
war, - mehr noch: mein Eindruck war der, daβ er
ところが悪魔は「人間を愛することを許さない」とい
glaubte, Adrians leidenden, reduzierten und, wie
う契約をアードリアーンに適応して、彼の同性愛者ルー
ディ・シュヴェールトフェーガーを殺してしまう。
28 Thomas Mann: Der Tod in Venedig und andere
Erzählungen , Fischer Taschenbuch Verlag, 2010,
S.119.
この殺害過程は複雑であるが、徹底的に詳細に書かれて
29 ebenda. S.505.
- 123 -
大 木 文 雄
いて、だから実在性があり、我々を感動させる。殺害過程
の嘆き』を完成させる。そしてファウスト的人間は悪魔に
を概略すれば以下のようになる。ルーディ・シュヴェール
魂を奪われる。
トフェーガーは、アードリアーンからフランス系スイス女
一体にこのような生き方に救済はあるのであろうか。一
性マリー・ゴドーを、アードリアーンと結婚させるよう
体、アードリアーンは悪魔に魂を奪われたまま、全く救済
に口説いてほしいと頼まれる。ルーディ・シュヴェールト
はされないのであろうか。それが重大な問題としてトーマ
フェーガーは口説き役を実行するが、
マリー・ゴドーはアー
ス・マンの心に重くのしかかる。長編小説『ファウストゥ
ドリアーンとの結婚話を断って、
口説き役のルーディ・シュ
ス博士』全体に重くのしかかる問題である。マンはこの救
ヴェールトフェーガーと結婚してしまう。ところがルー
済という問題に対する解答を出すために、相当に苦しんだ
ディ・シュヴェールトフェーガーを純粋に愛していた女性
にちがいない。ゲーテの『ファウスト』の場合も、救済へ
イーネス・ロッデは、その結婚に対して嫉妬に駆られ、ルー
の道が、その作品上に書かれることによって、決定的な価
ディ・シュヴェールトフェーガーを拳銃で殺害し、そして
値を持ち、以前の民間本等から区別され、世界文学の領域
彼女自身も自殺する。
にまで引き上げられたからである。かくして救済への道筋
一見して考えられないような悲惨な出来事であるが、悪
として、トーマス・マンは「痛悔」(Zerknirschung) と
魔がその裏方を操作していることを考えるなら、これも理
いう神学用語を取り上げる。マンは契約の場面の中で、
アー
解され得る。さらにアードリアーンの妹ウルズラ・シュナ
ドリアーンをして、
悪魔に対して次のように言わせている。
イデヴァインの息子ネポムクも髄膜炎で死んでしまう。死
の理由は、ネポムクが、アードリアーンとウルズラとの束
「あんたは誇りが僕を妨げて救済に必要な痛悔に達し得
の間の愛から生まれた子であったからである。これら全て
ないだろうということを頼りにしているが、誇り高い痛
の悲惨が生起したのは、いずれもアードリアーンは「人間
悔というものもあることを計算に入れていない。自分の
を愛することが許されない」にもかかわらず、それを無視
罪は許されるにはあまりにも大きいと固く信じたカイン
して愛してしまったがためである。悪魔の仕業である。
の痛悔がそれだ。あらゆる希望を失った痛悔、恩寵と赦
かくしてアードリアーンが愛した人間は悪魔の手にか
されることとの完全な断念としての、おのれの罪はあま
かって全て死んでしまう。それはどん底の地獄のような状
りに大きく神の慈悲すらその罪を赦すには足りないとい
態である。
う罪人のゆるぎない確信としての痛悔、―それでこそ初
一方このような状態からアードリアーンの作曲は一挙に
めての真の痛悔なのだ、この痛悔が救済に最も近く、慈
進展する。自らの悲劇的体験が、交響カンタータ『ファウ
悲にとっては最も大きな挑発なのだ。」
ストゥス博士の嘆き』の中に音楽として化体し、完成する
“Ihr verlaβt euch darauf, daβ der Stolz mich an der
のである。
そしてこの作品の終曲は、
まさに罪を負ったファ
zur Rettung notwendigen Zerknirschung hindern wird
ウストゥス博士が地獄に落とされるという場面で終わる。
und stellt dabei nicht in Rechnung, daβ es eine stolze
Zerknirschung gibt. Die Zerknirschung Kains, der
Ⅳ-5 救済と「痛悔」
der festen Meinung war, seine Sünde sei gröβer, als
第二次世界大戦の悲劇が、
『ファウストゥス博士』の悲
daβ sie ihm je verziehen werden möchte. Die contritio
劇と重なる。ドイツは第二次世界大戦を引き起こした張本
ohne jede Hoffnung und als völliger Unglaube an
人であるために、ドイツ民族への罪の責任は限りなく重
die Möglichkeit der Gnade und Verzeihung, als die
い。もはやドイツが立ち上がれないほど重い。ナチズムの
felsenfeste Überzeugung des Sünders, er habe es zu
ヒトラーはここでは悪魔的誘惑者である。ナチズムによっ
grob gemacht, und selbst die unendliche Güte reich
てドイツ民族は、優秀な民族であると鼓舞され、悪魔と契
nicht aus, seine Sünde zu verzeihen, ---erst das ist
約して戦争に突き進む。そしてドイツはどん底に落ちる。
die wahre Zerknirschung, und ich mache euch darauf
こういうドイツ民族のありようをトーマス・マンは、
aufmerksam, daβ sie der Erlösung am allernächsten,
『ファウストゥス博士』の中に具体化したのであった。天
für die Güte am allerunwiderstehlichsten ist.”30
才的創造力を獲得するために、ファウスト的人間は悪魔と
契約する。「人間を愛することが許されない」という契約
悪魔に堂々と語りかける「誇り高い痛悔」とは、あらゆ
を締結するが、ファウスト的人間は、それにもかかわらず
る希望を失った、神の慈悲すら期待されない深い罪の意識
その契約を破って、人間を愛してしまう。しかし実は人間
である。例えば、『聖書』の「創世記」第4章に書かれて
を愛する(同性愛)ことによって、ファウスト的人間は悪
いるカインの罪意識であるが、カインは弟アベルを嫉妬か
魔的な重荷から解放され、創造力に火が点けられていたの
ら殺害し、その結果カインは「私の罪は重くて負いきれま
である。ところがそれを許可しない悪魔は、その愛に嫉妬
せん。」と神に正直に告白する。この告白の内容が「痛悔」
し、人間を次々に殺害していく。そして悲劇が次々と起こ
である。
そこに神からの逆転の救済が臨むというのである。
る。しかしそれにもかかわらずファウスト的人間は、創造
力を発揮して悲劇的交響カンタータ『ファウストゥス博士
30 ebenda. S.360ff.
- 124 -
創造的天才たちは文学作品の中にどのように叙述されるか
あるいはもっと具体的な例は、
『聖書』の「ルカによる
Ⅴ-1 終わりに
福音書」の第23章に書かれている事例である。十字架にか
我々はこれまで、創造的天才たちが、作品の中にどのよ
けられたイエスの隣で、同じく十字架にかけられていた犯
うに具体化されて描かれているかということを、村上春
罪人が、イエスを不遜な言葉で罵倒したのに対して、もう
樹、ゲーテ、トーマス・マンを通して考察してきた。いず
一人の犯罪人はそれをたしなめて次のように言った、
「お
れの作家にあっても、その創造的天才たちの作品化は非常
まえは同じ刑をうけていながら、神をおそれないのか。お
な重要性を持って叙述されていることが分かる。村上春樹
互いは自分のやった事のむくいを受けているのだから、こ
の場合は、緑川というピアニストとして、ゲーテの場合は、
うなったのは当然だ。しかしこの方は何も悪いことをした
ファウストという世界の根源を探求する天才として、トー
のではない。イエスよ、あなたが御国の権威をもっておい
マス・マンの場合には、小説家アッシェンバハ、あるいは
でになる時には、私を思い出してください。
」
それに対し
作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンとして芸術作
てイエスは言われた、
「よく言っておくが、あなたは今日、
品を完成させる仕事に携わる。しかしいずれの主人公も、
私と一緒にパラダイスにいるであろう。
」
天才的創造力を十全に発揮させるためには、通常の能力で
このもう一人の犯罪人の発言は、深い罪の意識を孕んだ
は間に合わない。何かを犠牲にするほどにそれに集中しな
「痛悔」の語り口である。その犯罪人は自らの罪を認識し
ければならない。そこに魔的なものが進入してくる隙間が
ているからである。そして救済など考えることもない。し
開かれる。あるいはそういうときに主人公たちは、悪魔の
かしこのような「痛悔」のときにこそ、逆転の救済が訪れ
手を借りることになる。平々凡々とした生活を好まない人
る。そのもう一人の犯罪人は、犯罪人でありながら、イエ
間達、それがすなわち天才的創造力を要求する人間達であ
スと一緒に天国に行けるという恩寵を受けるからである。
るのだが、世界の進歩、文化の発展、技術の進化、新しい
この逆転的発想にこそ救済があると、アードリアーンは
世界の展望は、しかしながらこのような人間達によって創
悪魔との契約のときに主張するのである。
そしてそれは「誇
造されてきたと言えるだろう。
り高い痛悔」と言われる。だがしかしアードリアーンが信
従って文学、小説のテーマはこの天才的創造力の持ち主
じて疑わないこの「痛悔」に、本当に救済はあるのだろう
の秘密を探ることに集中されるのは当然のことである。そ
か。絶対的な絶望のかなたに希望があるのであろうか。アー
して時代が進むに従って、絶えずその秘密の小箱は新しい
ドリアーンの作曲した『ファウストゥス博士の嘆き』の最
ものになるはずである。例えばゲーテの場合は、
「永遠に
終部が演奏されるとき、トーマス・マン(ツァイトブロー
女性的なるもの」への憧憬、トーマス・マンの場合には、
ム)は、その最終部について次のように語る。
ディオニュソス的世界への侵入である。
世界文学といわれる小説とは、時代に密着した散文芸術
「沈黙と夜。
しかし、
かすかに震えながら沈黙の中に漂っ
作品のことを言う。新しい時代、未来にはどのような散文
ている音、もはや音ではなく、ただ魂だけがまだそっと
芸術作品が、書かれ、人々に読まれるのであろうか。例え
耳を傾ける余韻、悲しみの最後の響きであったものが、
ば20世紀までは、天才的創造力は、一人の天才によって成
もはや悲しみの響きではなくなり、その意味を変えて、
し遂げられてきた。しかしこれからの21世紀以降の時代に
夜にきらめく一つの光になるのである。
」
は、天才的個人がなるほど時代の頂点に立って脚光を浴び
“Schweigen und Nacht. Aber der nachschwingend im
るかもしれないが、その個人は、それに反して沢山の人間
Schweigen hängende Ton, der nicht mehr ist, dem
の支えによって創られるようになるかもしれない。そうな
nur die Seele noch nachlauscht, und der Ausklang der
ると一人の個人だけに依らない総合的なエネルギーの助け
Trauer war, ist es nicht mehr, wandelt den Sinn, steht
によって創られる創造的天才性も文学の題材になり得るわ
als ein Licht in der Nacht.”
けである。まさにそれこそ悪魔的な契約の変貌する姿が見
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られることになる。そしてそこにまた新しい救済への道が
「魂」が「夜にきらめく一つの光」になる。これが救済の
考察されることになる。
光でなくて何であろう。アードリアーンは絶対的絶望の中
しかしいずれにせよ、創造的天才たちを題材にした散文
で窮極最高の作品を作曲する。アードリアーンは、悪魔と
芸術作品は、人間が生き、動き、かつ在る限り、そしてそ
の契約通り、24年経った今、悪魔の手に落ちる。しかし彼
こに進歩がある限り無くならないであろう。
の創造した絶望の作品の最終部には「夜にきらめく一つの
光」が予感されるというのである。
このようにしてドイツ民族にも、
「痛悔」を持つことに
よって、救済が訪れるというのである。
31 ebenda. S.711.
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