社会的排除と「経験の社会学」

<排除の経験を生きる>
社会的排除と「経験の社会学」
── 3 つの論理と接合のワーク──
濱西 栄司 京都大学 [email protected]
本稿の目的は、
「社会問題」
と呼ばれる状況、とりわけ
「排除」
の状況を生きる人びと
の経験を分析するための新しいアプローチとして、フランソワ・デュベの
「経験の社
会学」
を検討することにある。
記述と分析の具体例としてはメルボルンのマージナル
な若者に関する調査を取り上げる。
従来のアプローチは、重層的・複合的な排除問題を一元的なものに還元してしま
い、当事者の複雑な主体性をうまく描くことができていない。それに対して
「経験の
社会学」
は、
(1)
統合・戦略・主体化という3つの論理・観点から経験の多元的な分析を
行ない、
(2)
当事者がそれぞれの論理を結びつける複雑なワークに焦点を当てる。
さ
らに、従来のアプローチは社会やシステム
(およびその抑圧)
を過大評価することで、
当事者を客体化し、研究者による一方的な読み込みを正当化してきた。
それに対して
「経験の社会学」
は、
(3)
社会・システムが分裂し、自律する3つの論理の狭間に個人が
置かれることで、
「行為」能力を衰退させることこそ排除の真の問題であると主張す
る。それゆえ、3つの論理を自力で接合しようとするワークが重要になる。そして
「経
験の社会学」
は、
(4)
当事者が3つの論理に基づいて語り、場を組織するという観点か
ら、当事者を客体化しない社会学的介入・対話法を重視する。
このような特徴をもつ
「経験の社会学」
は、
「包摂的」
アプローチとして重要な意味をもち、レジーム類型や排
除のパラダイムを考慮に入れたうえで、
日本にも適用可能なものである。
キーワード:社会的排除、
社会的経験、
アラン・トゥレーヌ
1 はじめに
本稿で検討するのは、
「社会問題」
、とりわけ
「排除」状態を生きる個人の
「社会的経験」
を分
析するアプローチ
「経験の社会学」
[Dubet 1987, 1994a, 1994b; McDonald 1999]
である。
「経験
の社会学」
は、次のリサーチ・クエスチョンにどう応えるのかに関心を置いている。
すなわち、
(1)
排除された人びとの経験をどのように描けばよいか。
従来のアプローチはそれを適切に描
理論と動態
けているのか。
(2)
排除された人びとはなぜ
「社会運動」
はもちろん、組織的な闘争・紛争に至り
づらく、
そしてその複雑な主体性の萌芽をどう捉え、
どこに期待することができるのか。
排除は重層的・複合的・多元的なものだという指摘は多い
[岩田 2008; 樋口 2004; Bhalla and
Lapeyre[1999]
2004]
。
量的調査においては、その複合性が前提にさえなっている
[Yapez del
Castillo 1999; 内田 2008]
。
それに引き換え、質的調査やエスノグラフィーにおいては、その複
合性・重層性をどう捉えるかについてまだ十分な考察がなされていないように思われる。
排除
される人びとの重層的経験をどのようにして記述するのか。社会病理・逸脱論・シカゴ学派的
なアプローチ、
合理的選択・ブルデュー・ゴフマン的アプローチ、
批判的社会学・サバルタン・マ
ルクス的アプローチ。
数多くの研究があるが、それらはいずれも一元的記述であって、重層的
な排除問題を、各々の一元尺度に還元してしまう可能性がある。また主体性についての描き
方にも問題がある。
よくある主体化論理一本では、社会的排除のもとでの複雑な経験も主体
性も描き出すことができない。
当事者は十分にそのことを自覚していても、そこに留まり続け
られないのである。
さらにその背景には、
「社会」
観におけるシステムや構造の過大視、位階的
構造の前提視があり、そしてそれゆえに方法論的にも研究者の読み込み
(解釈)
が多く、当事
者は
(自分の経験について自己分析できない当事者として)客体化
(認識論的切断)
されるこ
とになる。
総じて従来的アプローチは、それ自体が視座としても方法論としてもさまざまなも
のを
「排除」
するアプローチになっている。
このことは根本的な問題点であり、一面的・一元的
にどれほど記述を行なっても、
本質を捉え損ない続けるどころか、
新たな
「排除」
を生み出すだ
けに終わる可能性さえあるということだ。
そこでより
「包摂」的なアプローチが求められるこ
とになる。
その一つの候補として、フランス社会的排除論の主観的アプローチの代表格と言えるフラ
ンソワ・デュベの
「経験の社会学」
(Sociologie de l'expérience)
がある。
デュベ
(1946年生まれ。
ボルドー第2大学教授、CADIS1)副代表。
国際社会学会RC47副代表)
は、アラン・トゥレーヌの
著名な2人の弟子の1人
(もう1人は2006-10年度国際社会学会長のミシェル・ヴィヴィオルカ)
である。
彼は1970-80年代にトゥレーヌの社会運動調査
[Touraine 1978; Touraine et al. 1978,
1980, 1981, 1984]
にヴィヴィオルカらと参加しつつ、自身では排除される若年失業者や移民2
世たち
(フランス・ベルギー・チリ)の調査を行なった
[Dubet 1987; Dubet et al. 1989]
。その
後、小学生、中・高校生、大学生の
「経験」
についての調査も行なっている
[Dubet 1991; Dubet
et Martuccelli 1996]
。そして、90年代半ばにトゥレーヌの
「行為の社会学」
[Touraine[1965]
2000=1974; 濱 西 2009]を引き継ぐ 理 論 書として 書 か れ たのが
『経 験 の 社 会 学』
[1994a=
2)
forthcoming]
である
(デュベの研究史についてはDubet[2007]
参照)
。
デュベの
「経験の社会学」
は、
「社会的排除」
状況にある人びとの複雑な論理を捉えようとす
る。
それだけであればよくある話である。
しかし彼のアプローチは、単純な一次元的排除論で
はなく、
3つの視座・論理のあいだを生きる苦悩、
困難な状況下での行為者のワークを捉えよう
とするものである。
以下では、まず従来の社会問題へのアプローチを3つに整理したうえで、
「経験の社会学」
が
それらを等価値な複数の視座・論理として位置づけるものであることを指摘する
(2節)
。
その
うえで、メルボルンの事例を示し
(3節)
、3つのロジックを結びつける当事者自身のワークとし
て当事者の複雑な主体性を描き出す
(4節)
。
そしてさらに論理とシステムの関係性と、研究者
と当事者の関係性について検討していくことにしたい
(5節)
。
2 当事者の語りを組織する3つの論理/視座
社会現象・社会問題の社会学的記述には、伝統的に3つの仕方がある。
それぞれ、自己がなん
であるか
(自分自身の定義)
、他者との関係がどのようなものであるか、そしてその関係性の賭
金・争点がなんであるかについて独自の観点=論理をもっている。
そしてそこで問題とされる
ものもそれぞれ異なる。
それら3つはたがいに排他的な関係にある。
「それぞれが他の2つに対
して批判的なポジションを取り」
、いずれも自分たちから
「社会全体を再構成できると主張す
る」
[Dubet 1994a:134]
。
以下では、それらをデュベと同じく、統合
(intégration)
の論理、戦略
(stratégie)
の論理、主体
化
(subjectivation)
の論理と呼んで、自分自身の定義/他者との関係/関係の賭金に分けて紹
介していこう。
後述
(5節)
するように、これらの論理は研究者による記述の仕方であると同時
に、当事者が自分たちの経験についての語りを組織化する際に用いる論理でもある。研究者
が3つの論理を区別できるように、当事者もそれを区別でき、自分たちの語りをそれらにそっ
て組織化していくのである。
2.1 統合の論理
まず、古典的社会学によく見られる
(心理学の影響をある程度受けた)記述の仕方がある。
まず自分自身の定義、すなわち
「行為者のアイデンティティ」
は、ここでは
「システムの統合の
主観的な側面」
として定義される。
幼少期や子ども時代、より深い社会化などをとおして、
「個
人は他者の期待を自分のもの」
としていく。
「このアイデンティティが言語、国家、性、宗教、社
会階級にかかわる場合」
には、それらが自然なものとみなされる。
ここではアイデンティティ
とは
「属性」
、それによって行為者が社会的存在として構成されるところの
「社会的属性」
とし
て記述される。
次に他者との関係性は、ここでは
「彼らと私たちの対立」
として定義される。
「他
者は差異と異質性によって定義される」
。近い間柄であっても
「良い趣味と悪い趣味の階梯」
を作り出し、
ヒエラルキーを確立していきつつ、個人をつなぎ合わせる。
そして、それぞれが追
求する関係性の賭金は、
「価値」
という言葉で定義される。
「統合の論理において行為者は、秩
序とアイデンティティをいっしょに保証する一連の価値として文化を解釈する」
。
統合の論理においては、
アクターはその帰属によって定義され、
そして統合システムとみな
される社会の只中で自分たちを維持・強化するとされる。
この観点においては、
問題は
「危機の
行動」であり、
「病理的」なものとして語られる。古典的社会学の全体が、アノミーや社会の組
織崩壊といったテーマでこの観点を幅広く展開してきた。
そして、
「
『病理的な』
社会的行動は
社会化の欠落によるものと解釈され、これ自体がシステム統合の欠落へとさらに送り返され
る」
[Dubet 1994a:112-7]
。
理論と動態
表1 統合の論理
言及されている議論
I)自分自身の定義
役割を内面化した統合的ID
※ミードのI/Me論
O)他者との関係性
我々/彼ら
※ホガートの内集団・外集団論
T)関係性の賭金
価値
※デュルケムの宗教論
危機の行動
※シカゴ、
アノミー論、
相対的剥奪論
解体)
2.2 戦略の論理
2つ目は、合理的選択論などに代表される記述の仕方で、経済学やネオリベラリズムの影響
で一般的にも強くなっている。
ここではアイデンティティとは、
「資源」
としても構築され、利
用される。
次に、
「社会的諸関係は、競争という言葉で定義される。
人びとの関係は、
『個人的あ
るいは集合的な利害』
をめぐる
『ライバル関係』
である。
行為者たちが用いる言葉は、
『戦略、ス
ポーツ、ゲーム、パンチ、敵や盟友、とくにライバル仲間』
などであり、
『社会は競争的交換のシ
ステムと捉えられ、金、権力、威信、影響力、認知などの希少な財を得るための競争のなか』
に
置かれる」
。
ここでは関係性の賭金、つまり
「追求すべき諸目標や目指す財」
は、
「ウェーバーの
言葉を借りるなら、
『勢力』
、
他者に影響を与える能力」
である。
それもまた解体に向かう。
この戦略の論理においては、アクターは、市場
「として」
理解される社会において、自分たち
の利益を自分でつくろうとする。
ここでは各自が一定の権力を利用する
「オープンな社会」
の
「調和した均衡状態の形成」
が追求されるので、それを邪魔するような
「開放への障害」
が問題
視される。
すなわち、
「伝統や阻害要因や団体主義や規則に基づく介入」
である
[Dubet 1994a:
118-27]
。
表2 戦略の論理
言及されている議論
I)自分自身の定義
機会と結びつく地位
※ハビトゥス論、
ゴフマン
O)他者との関係性
競争関係
※クロジェの組織論、
モース、
ジンメル
T)関係性の賭金
解体)
「権力」
※ウェーバー、
オルソン、
資源動員論
開放への障害
2.3 主体化の論理
第3の論理は、統合の論理や戦略の論理に抵抗しようとする側面を記述するものである。
こ
こではアイデンティティは、主体の表象を構築するさまざまな文化的モデルへのコミットメ
ントとして現れる。主体的なアイデンティティは、
「欠損、あるいは主体の文化的表象を満た
すことの困難」
として間接的・否定的に定義される。
「だれも主体として生きるのではないし、
同時に、いかなる行為者も自己や利害でしかないものに還元されることはない」
。社会的諸関
係は、この主体化の認知および表現にとっての
「障害」
という言葉で把握される。社会的コン
フリクトは、アイデンティティの擁護や「さまざまな勢力」の競争には要約されない。
社会運動
は、
「信仰の名のもとに宗教的社会において設立される教会に対抗したり、理性の名のもとに
ブルジョワ世界における伝統に対立したり、創造的労働の名のもとに産業社会におけるその
搾取に対抗したりする」
。運動は何に対して声を上げるのか。
「重要なのは批判のために動員
されるさまざまな価値の内容そのものというよりも、それら価値が可能にする主体の定義と
いう観点からこれらを解釈する行為者たちがどんな視点を選ぶかである」
「
。コミュニティや
道徳的秩序に関する言説もまた、主体の定義および、その形成を邪魔する障害を定義するこ
とを可能にするや否や、
解放の言説となる」
。
主体化の論理においては、行為者は、生産と支配のシステムとして定義される社会と対決
する批判的主体として自己呈示する。
それもまた解体に向かうことがある。
この論理において
は問題とされるのは疎外であり、それはここでは
「意味喪失として、支配の効果による自律性
の剥奪として現れる。
そして、支配者層あるいは
『システム』
が行為者を役割の担い手、押しつ
けられた限定的な利害のエージェントに還元する」
という。
当事者もそのように語る。
たとえ
ば、
「意味を奪われた人生を送っているという感情、自分自身であったことが一度もないとい
う感情、
『無力』
感、自分の人生の観客でしかないという感情、お決まりの名称に還元されてい
るから
『見えない』
存在ではないのかという恐れ」
などである
[Dubet 1994a:127-33]
。
表3 主体化の論理
言及されている議論
I)自分自身の定義
アンガジュマン
※サルトル
O)他者との関係性
主体の認知や表現への障害と紛争
※トゥレーヌ
T)関係性の賭金
主体のさまざまな歴史的定義
※活動家や社会運動
解体)
疎外
以上、3つの論理について整理し、紹介してきた。社会学者は、これまで3つの論理のいずれ
かを優越化させてきた。社会解体論や機能主義の観点から、あるいは合理的選択論や組織戦
略の観点から、そして支配や疎外、運動の観点から、それぞれ重要と思う側面を取り上げ、行
動を取り上げ、語りを選んできた。
デュベの師匠に当たるトゥレーヌ
(前期・中期)
も、主体化の
論理をとりわけ重視してきた。
それに対してデュベは──3つの論理の区別はトゥレーヌから
引き継ぎつつも──、3つの観点・論理のどれかを優越させず、同時に分析すべきだという立
場をとる。研究者は優越させようとするが、当事者にとっては自明ではないからである。
自然
といずれかがシステムによって優越されるべきものとして与えられているわけではない。後
述
(5節)
するが、システムと行為者はすでに切り離されてしまったからである。
当事者にとっ
ては、実際に3つの観点・論理は同時に等価値である──それはパリ郊外のマージナルな若者
の調査から導き出された結論である。
「行為者たちの視点からすると、中心的な点というもの
は存在せず、ありふれた議論のなかで論争は果てしなく続く。行為者たちは次つぎとすべて
の視点を採用し、……この循環のなかで足跡を残すよう選択させるものはなにもなく、彼らは
理論と動態
『まったく同時に全部』
なのである」
[Dubet 1994a:134]
。
そのうえで当事者は、論理を接合する作業・ワークを行ない、いずれかの論理を優越させて
整理していこうとする。
研究者・社会学者が見ているのは、その作業の結果である。
「彼ら相互
のなかで確立される正義や交換の規範が、社会学者にとって真に社会的なものとして、
『アレ
ンジメント』
として、
社会的経験の産物として現れる」
[Dubet 1994a:134]
。
あるいは接合しようとして失敗していく。
いずれかを優越させてもすぐに他を優越させな
くてはいけなくなる。
その結果、
一箇所にとどまれずぐるぐると回ることになる。
「若者たちはすべての行動に参加するのだが、どれ一つとして若者たちを全面的に定義す
るものはない。……シテが収容しているのは、内にこもった若者たち、逸脱する若者たち、暴
力的な若者たちではなく、同時にそれらすべてであるような、他人にも自分自身にもまったく
予見できないような行為者たちなのである。若者たちの経験は中心をもたない。若者たちは、
ある行動から他の行動へと状況やチャンスのままに揺れ動く。
まるで自律した志向性に導か
れているのではなく、
その状況に振り回されているかのように」
[Dubet 1994a:134]
。
排除される人びとは、それら3つの観点を次つぎに移り変わる。
どれかを優越化できるなら
ば、それほど苦労はない。
どれも優越化できず、それゆえ周りに合わせて──対話者に応じて
──コロコロと変わる。
自分たちでなにも選ぶことができず、一貫した行為を生み出すことが
できない。
このような行為能力の衰退にこそ、排除の真の厳しさがあるというのが、デュベの
考えである。一人ひとりの行為能力が衰退しているので、組織化された集合行為も形成され
ず、
当然、
「社会運動」
にも至らない。
社会学者が見ているのは、当事者のワークの結果・産物なのである。
当事者がどのように場
を組織していくか、対話者とのあいだで場を組織していけるかについて分析を行なうために
は、一人ひとりの当事者の語りを聞き取る方法だけでは不十分である。
そこで、社会学的介入
法を用いた調査の事例について、
次章から具体的に見ていこう。
3 事例(行為の各論理の記述)
ここで取り上げるのは、ケビン・マクドナルド3)の
『主体性をめぐる闘争』
[McDonald 1999]
である。
この書は、デュベの
「経験の社会学」の枠組に
「欠けていた」
「身体」や
「場所」
といった
要素を付け加えつつ
(2007年メルボルン大学でのマクドナルド教授へのヒアリングより)
、メ
ルボルン郊外の若年失業者やさまざまな問題を抱えた若者の経験を分析したものである
[濱
西 2005b]
。
ここでデュベ自身によるフランス郊外のマージナルな若者の経験についての分析
書
『ガレー船』
[Dubet 1987]
ではなく、
『主体性をめぐる闘争』
を紹介するのは、第一に若者の
語りがスクリプトとして掲載されていることにある。
これは
『ガレー船』
ではごく一部に限定
されていて、どのような語りがなされたのかを正確にフォローできないからである。また、
オーストラリアという半ば自由主義の国を舞台とする点も日本に近く、有益である。
さらに、
第2部においてフローのなかを生きる若者の経験も分析していることも、
後述する
「経験運動」
論への発展を確認するのに都合が良い。
デュベと同じくマクドナルドも、社会学的介入法を用いている。
社会学的介入は3つの段階
からなる。
第1段階では、参加者は、イシューと、彼らに影響を与える他の社会的アクターを見
4)
定めながら、
「自分たちの社会的世界の絵」
を幾つか構築する
[McDonald 1999:90]
。
マクド
ナルドによれば、最初のリサーチ・セッションは、若者のリアリティのなかにある2つの緊張を
明確に示した。
3.1 共同体と解体──統合論理に基づく行為の場の解体
1つ目は、
「共同体、規範と規範的統合の経験と、個人の解体、社会解体という経験のあいだ
の緊張である
[McDonald 1999:48]
。
次は、その語り・やりとりの部分のごく一部である
(以下
同じ)
。
(共同体の肯定)
セルジュ:
「ここに19年いる。
素晴らしいところだ。
ここで育った。
道は全部知っている。
」
リマ:
「そう、
みながみなを知っている。
」
……
(窃盗)
セルジ:
「もしだれかがバイクを盗んだら、
『分かった、そのバイクを戻して来い』
とは言わな
い。
年配の男は……」
カーソン:
「はやく、
急げ、
それに色をぬれ!だ。
」
……
(家族)
アンジェラ:
「家では子どもの前にドラッグがある。
」
シンディ:
「学校で多くの子どもが昼食の金をもっていない。
両親は全部カジノに」
……
(パーソナルな解体)
ポール:
「退屈は人間を愚かにする。
退屈なら日常を活気づけるものが必要だ。
」
セルジ:
「ドラッグ?あんたが望むだけ山のようにある。
」
……
[McDonald 1999:24-41]
3.2 労働と排除──戦略論理に基づく行為の場の解体
2つ目は、
「より広い社会への参加可能性への気づき」
と、
「都市的生活を構成する人・快楽・
金というフローの外へ押し出されているという、集合的な感覚として生きられる排除の経験」
のあいだの緊張である
[McDonald 1999:48]
。
ロブ:
「昨日仕事を探しに行った。
200人くらいが列をなしてたよ。
」
セルジ:
「いまや人びとはアジア人をむしろ雇う。というのも奴らはよりきつく働くから。
」
……
ポール:
「ここにはなにもない、
なにもない……。
」
理論と動態
セルジ:
「まさに……西部郊外の腐りきったエリアのようだ。
」
[McDonald 1999:46-7]
このような排除の感覚は、
「スティグマ化の感覚」
を増幅するという。
続く第2段階では、他のアクターとの関係性が探究される。
対話者は異なったイシューをそ
れぞれ照らし出す。
対話のなかで参加者は
「自分自身を社会的に位置づけ、各々の関係性のコ
ンテキストにおいてアイデンティティを構築し、対話者に話しかけ、彼らがいうことを聞き、
返答する」
。
そのコミュニケーションは、社会的関係性と賭金となる権力・創造性と、アイデン
ティティのかたちを描き出すレンズとして役立つ
[McDonald 1999:90]
。
3.3 解体から労働階級へ──主体化論理の接続へ
階級意識を体現する町長・前町長との出会いは、コミュニティの連帯を肯定し、
「剥奪され
た人びと」
というイメージを拒否するように若者を鼓舞した。
前町長:
「ウェストビューに……悪い評判が立っていることに関心はないか?だれかがテレ
ビでホームレスや失業者を語るときはいつもウェストビューに言及される。
どう応答
する?」
アレックス:
「仕事を探しに行くときも同じだ。西部郊外から来たと言うや否や、奴らは……
まったく違ったようにみるようになる。
」
町長:
「そうだ!」
前町長:
「もし私が君らならとても腹がたつ。
私なら我々がそれに対してなにができるか考え
る。
」
カーソン:
「だれひとりホームレスじゃない!」
前町長:
「じゃぁ、
君らはそういうことに腹が立っているんだね。
」
全員:
「そう!」
ポール:
「でもあんたたちになにができる?」
町長:
「君らにはできることがいっぱいある。
」
[McDonald 1999:50-3]
3.4 排除の増幅へ──戦略論理の更なる解体へ
しかし企業経営者と会ったときには、排除の経験を紛争化の原理に動員することはできな
かった。
ゲオルグ:
「思うにそれが多くの人がうまくやっていけない理由だ。
もし仕事に空きができた
として、
それが
『シット・ジョブ』
だったとしよう。
」
カーソン:
「OK……」
ゲオルグ:
「仕事が必要な状況なら、わたしならできることはなんでもしただろう。そしてそ
れを土台として使うだろう。……たとえ君がその仕事を好きでなくても、その仕事で
10
できる限りのベストを行なうことはとても意味あることだ。
」
[McDonald 1999:60-1]
3.5 解体と排除からレイシズムへ──解体した主体化論理との結びつき
若者を
「剥奪された人間」
、ホームレスとテレビで表象していた若い活動家サムが呼ばれ
た。
サム:
「心配な問題の一つは今にも爆発しそうにみえる人種的種類の紛争だ。
」
ビル:
「おう、
それは爆発しそうだ、
それについて心配は要らない」
セルジ:
「きっと、
今や奴らが攻撃されるときだ!」
カーソン:
「そうだ。
」
……
ビル:
「もし半分のアジア人が町のこちら側を去れば、そのとき、ここにいる者のなかで失業
したままなのは一部だけだろう。
」
カーソン:
「そう、
そう!」
全員:
「そう、
そのとおり!」
[McDonald 1999:72-7]
若者は2つの経験を連結する。
社会解体のプロセスと社会的排除の両方が、今やアジア人の
ニューカマーと関連している。
「ニューカマーとの出会いは、若い男性たちが彼らがコミュニ
ティの移動モデルとみなすものによって不安定化されるとき、解体の経験を増幅する。また
ニューカマーがより低い経済的資源の基盤から経済的成功を達成するとき、排除の感覚を増
幅する。
それはまた創造性、つまり探究してきている3つ目の社会的領域の危機を明確に指し
示す」
[McDonald 1999:73-86]
。
3.6 解体と排除と疎外から社会的論理全ての否定へ
最終段階は、調査過程で起こったものの自己分析から成る。これまでのセッションのなか
で、若者たちはなにをしようとしてきたか、実際になにが起こったか、出会いはどのようなジ
レンマを生み出したか、
どのような応答を試みたか、
それがどのような社会的世界を指し示す
か。
これらの点が以下のように分析される。
ケビン
(研究者)
:
「セルジ、
君は先週のグループについてどう思う?」
セルジ:
「みなちょっと刺激をもらったのさ、そしてすぐやつらに暴力を!あのあとでもっと
もなことはいえない!みんなやつらを殺すことしか話してなかった。
」
……
セルジ:
「ここには問題が多すぎる。たんに……俺はここを抜け出したいんだよ。俺は年をと
りすぎた。
とりすぎたんだよ。
もっと若かったときならよかった。
今では……」
[McDonald 1999:90-108]
理論と動態
11
4 事例(ワークの分析)
デュベやマクドナルドは、マージナルな若者の調査から、
まず語りをグループ化する
(表4)
。
「経験の鍵になる諸局面をグループ化すること」によって、
「行為者が肯定的なアイデンティ
ティを構築・動員しつつ社会的関係性のなかで闘争する、行為の場を見定めることができる」
という
[McDonald 1999:111]
。たとえば、
「労働世界への参加と社会的移動」は、地域の企業
家ゼブリンスキーとの出会いによって強調され、
「秩序・無秩序・コミュニティ防衛」
の問題は、
地域の警察官との出会いをとおして露わになる。
「スティグマ化・フラストレーション・主体性
の危機」
は、若い運動家サムとの出会いによって提起され、そして町長・前町長との出会いは、
階級意識とアイデンティティの問題を結晶化させた
[McDonald 1999:90]
。
5)
表4 それぞれのロジックに当て嵌まる語りの整理
[McDonald 1999:111]
行為の場
行為と肯定的アイデンティティ
行為の場の解体
自由としての
主体性・創造性
・階級意識
・尊厳をめぐる闘争
・紛争化しライバル関係を生み
出す能力
・恐怖、
意味の喪失
・無計画な内側/外側に向けられた
怒り
・紛争化する能力のなさ
機会と制約
・機会への戦略的な行為
・参加
・パーソナリティの動員
・フローからの排除
・個人的な引きこもり
・不満としての怒り ・警察とのいざこざ
コミュニティの
結合
・
「我々」
、
我が郊外
・コミュニティのぬくもり
・規範
・向こう側 ・役割
・社会解体
(ゴミ、ドラッグ、暴力、盗
み、
アノミー)
・個人的解体(暴力、退屈、ドラッ
グ、
盗み、
防衛行動)
・防衛的な共同体主義
以上の分析から、マクドナルドは、
「産業社会によって生み出された若者の社会的なモデ
ルの終焉」
と、それが当事者によってどのように経験されているのかを描き出す。
しかし同時
に、若者たちは
「たんなる被害者」
というわけでもない。彼は、
「社会的なロジックがますます
分裂し、
産業社会の終焉にまつわる社会的・文化的コストに直面しなくてはならない世界のな
かで、一貫した、パーソナルで社会的なアイデンティティをめぐる闘争に巻き込まれている」
としている。
そして、若者たちの一見して個人的なものにみえる諸闘争こそが、現代のモダニ
ティにおける中心的なコンフリクト
(主体性をめぐる闘争)
である可能性を認めている。
排除のもとでも主体的なワークは、複雑なかたちで存在している。
3つの論理をさらに分割
することで、解体された行為の場をかろうじて接合させようとするワークを描き出すことが
可能になる。
「解体の経験は個人的
(
「我々はみな問題をかかえている」
)
かつ集合的になる
(
「ビデオを盗
12
んだとき、あなたは自分自身のものを盗み返しているのだろう」
)
」
「
。排除の経験は個人的な失
敗
(
「私は子ども用の本さえ読めない」
)
、かつスティグマ化の集合的経験でもある
(
「我々はく
ずだ」
)
。
創造性の危機は、解釈不能な恐怖と結びついた主体性の危機として経験される。
それ
は2種類の怒りを生み出す。
すなわち、拡散し暴力と結びつく傾向のある外・向きの怒り、そし
てレイシズムの経験理解の中心にある内・向きの怒りである」
[McDonald 1999:112-4]
。
怒り
内向きの怒り
レイシズム
(ビル)
外向きの怒り
[警察との]
いざこざ
(テイブ)
社会解体
不満 /スティグマ化
解体
排除
失敗 / 引きこもり
脆弱性
(カーソン)
個人的解体
図1 制御不能な社会的論理
[McDonald 1999:113]
レイシズムと、警察とのいざこざ、ソーシャル・ワーカーに頼る脆弱性などはいずれも、排除
される人びとにとって精一杯の接合ワークの結果として現れる。
レイシズムを選ぶビル、警察
とのいざこざへ向かうデイブ、ソーシャル・ワーカーに依存する脆弱性を選ぶカーソン。
3つの
論理のあいだを循環しつつも、接合への努力がそこにみられる。
それは、そのように語りを組
織することができていることの証拠である。
それこそ、
我々が注目すべき複雑な主体性の様態
である。
このような整理自体が、当事者による場の組織化の結果=ワークの結果を描写したも
のなのである。
研究者の勝手な読み込みではないのである。
そのうえで5節では、
「経験の社会学」
をめぐる重要な2つの論点について検討を行ないたい。
5 経験の社会学──2つの論点
5.1 システムと個人の関係
経験の社会学とは、
「ますます分裂する社会的場とそれらの社会的領域を航海するために
構築されたアイデンティティとを結びつけようとする社会的アクターの闘争についての社会
学的研究」
[McDonald 1999:21]
のことである。
脱中心化された世界においては、社会的アク
ターは、行為の論理がかならずしも整合的ではない状況で、自分たちの経験を形成しなくて
はいけない。
行為の論理が整合的になるのは、伝統的な社会学が前提としたような
「社会シス
理論と動態
13
テム」
の功績ではない。社会的アクター自身に課されたものである。個人とシステムはもはや
直接つながっていない
[三上 2010]
。
古典的社会学は、行為の諸ロジックが相互に必然的な関係を保っていると主張した。デュ
ベは、それはむしろ
「偶然的」
であると考える。
社会学は、もはや構造と機能あるいは土台と上
部構造を伴う
「社会」
に争点を当てることはできない。
3つの論理の区分けは中期トゥレーヌから引き継いだものであるが、
「これらのロジックが
とても広い範囲で自律的で、それぞれの社会関係タイプはかならずしも相互にヒエラルキー
をなしていない」
と考える点で、デュベは中期トゥレーヌと袂を分かつ。
その点を強調するた
めに、
「
『行為』
よりも
『経験』
という言葉を用いたい」とデュベは言う。経験と主体の社会学の
対象は、行為者のもつ自分たちの経験を構築し、それに一貫性を与えることのできる能力で
あり、行為の論理の異種混交性は、自分たちの経験の構築における行為者のワークを示唆し
ているのだ。
5.2 研究者と当事者の関係
3つのロジックは、研究者の視座であるだけではなく、
「行為者の求める合理性でもある」
と
デュベは言う。
「諸個人の考える自然発生的な社会学が、知識人の社会学にとても近いという
ことがしばしば起きる」
。
たとえば、統合のロジックは、
「価値の危機、没落、死、アイデンティ
ティの防衛、アノミー、これらのテーマが編集者たちを潤し、カフェやサロンでの会話を勢
いづかせる。社会学の要綱について書かれたいくつもの本よりずっと強く」
[Dubet 1994a:
118]
。
戦略の論理は、
最近のネオリベラルな社会において中心的な語彙になっているものであ
る。主体化の論理は、昔からアクティビズムなどの中心的な語彙であった。当事者自身が3つ
の論理を明確に区別して語る。研究者はそれを記述する・分類する。すなわち、当事者の区別
は周囲に理解可能なかたちでなされ、それを普通の研究者も区別することができる。行為の
論理
(行為の文法)
とは、
自分自身に対して、他者に対して、
そう説明することのできる文法・論
理のことなのだ。
行為者は、理解されるために場を組織する努力をしなくてはいけない。
「社会経験は行為の
3つの論理の結合から生じる。統合、戦略そして主体化である。個人であれ集団であれ、行為
者はかならず行為のこれら3つの論理の登記ファイルを採用し、それらによって、行為者の目
ざすオリエンテーションと他者への関係を概念化するやり方が同時に定義される」
[Dubet
1994a:111]
。
さもないと、
周りにも理解されない。
行為者は、それぞれの視点を社会や自分自身、他者に関して用いる。当事者自らが場を組
織していけるかどうか。
3つをつなぎ合わせる場を組織できるかどうか。
さらにいつも通りの
仲間の集まりにおいてだけではなく、他人や敵手といっしょにいるなかでどのような場を組
織できるのか。
これらの点にとりわけ焦点を合わせるのが、社会学的介入法である
[Touraine
1978; Dubet 1994a, 1994b; Hamel 1998; 濱西 2004, 2005a]
。
この方法が具体的にどう用いられ
るのかについては、3節でみたとおりである。
この方法は、当事者の語り、対話の場がそれぞれ
の論理を中心に組織されていく過程を記述するためのものである。
そしてそれは、
当事者が自
己の状況を理解できることを前提としており、ともかく当事者を
(自分の経験を理解できない
14
存在として)
客体化しないことが重要となる
[濱西 2004, 2006]
。
6 おわりに
以上、
「経験の社会学」の検討を行なってきたが、その特徴を整理しておきたい。
まず
(1)従
来のアプローチが、重層的複合的な排除問題を一元的な説明に還元していたのに対して、
「経
験の社会学」
は、統合/戦略/主体化という3つの論理に基づいて多元的な分析を行なう。
(2)
従来の研究が、当事者の主体性も一元化してしまうのに対して、
「経験の社会学」
は、3つの論
理を結びつける複雑なワークに焦点を当てることができる。
このように多元的に社会的排除
を捉えるのが、
「経験の社会学」の特徴である。
1つ目のリサーチ・クエスチョンに応えるなら
ば、排除のもとでの経験の分かりにくさを、
(1)
(2)
のようなかたちで
「経験の社会学」は描き
出すことができる。
個人は、3つの行為の文法・論理を自分のなかで結びつけることで、一貫した
「経験」
を構築
していこうとする。
もし個人に、それぞれの論理に基づいて行為をうまく編成する能力がない
場合には、
「暴力」
「排除」
「引きこもり」
「社会解体」
といった、一般に
「社会問題」
とみなされる
ような状況に陥る。
統合の論理ではアノミー、共同体の崩壊を経験し、戦略の論理では、市場・
労働からの排除を経験し、主体の論理では、労働者・階級の観点をもつことができない。そし
て、それらのあいだをぐるぐる回り、行為の論理も行為の場も、アイデンティティ、敵手、賭金
も1つに絞ることができない。
それゆえ、行為を作り出すことはできないが、そのなかでもレイ
シズムや警察とのいざこざ、ソーシャル・ワーカーとの関係性などを、当事者たちは作り出し
てきた。
ここから2つ目のリサーチ・クエスチョンに応えることができる。すなわち、排除され
る人びとは、3つの論理のあいだで揺れ続けるがゆえに、行為能力を失い、組織的な闘争・紛争
にも至ることができない。
しかしそれでも、当事者は努力して、解体された行為の場の要素を
結びつけていこうとする。
そこにこそ、排除される人びとの複雑な主体性の萌芽があるのだと
いえる。
加えて
「経験の社会学」
は、2つの特徴をもつ。
すなわち、
(3)
「経験の社会学」
は、マクロなシ
ステムの分裂、行為者とシステムの分裂から議論を始める。
「社会」
・構造からの抑圧よりも、
「社会」
と個人が分離することによって、排除の問題が現れると考える。
そして、
(4)
「経験の社
会学」
は、当事者・研究者共通の観点・論理が組織されていくプロセスと程度を明らかにする。
そのために、当事者を客体化せず、当事者自身が自己の経験の意味を理解できるとしたうえ
で対話を行なう社会学的介入が用いられる。
このような特徴をもつ
「経験の社会学」は、一元
的な記述や一面的な主体性の把握、社会・システムの過大視、対象の客体化によって、排除の
状態の調査をとおしてさらなる排除を生み出す可能性のある従来的なアプローチと比べれ
ば、
「包摂的」
なアプローチとして注目に値する。
それゆえ評価され、
数多く実践されてきた。
1990年代の時点では、デュベやマクドナルドは、社会的経験から運動に至るルートを明確
には見い出すことができなかった──レイシズムなどを除いて。それに対して2000年以降、
とくにマクドナルドは、WTOなどをめぐるサミット・プロテストの盛り上がりをとおして、人
びとの無秩序な集まりでありながらも身体・空間性を介して運動形成へ向かう
(行為を介さ
理論と動態
15
ずに一人ひとりのワークを同居させる)
「経験運動」
論を展開していく
[McDonald 2006; 濱西
2005a]
。
すでに
『主体性をめぐる闘争』
第2部のなかで、マクドナルドは、フローのなかにある若
者の経験分析を行なっていた。
経験運動の核となる空間性・身体性は、そこから展開されたも
のである
[濱西2005b]
。
最後に、トゥレーヌの
「行為の社会学」
と同様[濱西 2009; 杉山2007]
、
「経験の社会学」
もま
た、フランス特有の排除状況を念頭に置いた理論であり、日本など自由主義
(家族主義/企業
主義)的な状況への適用は、慎重に行なわれなくてはならない。当該社会の福祉国家状況は
さまざまであり
[Esping-Andersen 1990]
、フランス以外の国では、3つの行為論理が均等に分
離するとは限らない。
シルバーは、
「社会的排除」
にも3つのパラダイムがあると指摘している
[Silver 1994:540]
。その点、3節・4節で紹介した自由主義福祉レジーム
(社会的排除の
「特化
パラダイム」
)
に関するメルボルンの事例は、日本への適用が可能なものであり、重要である。
デュベの
『ガレー船』
[Dubet 1987]
に登場する若者と比べると、戦略の論理が、語りの組織化
に全体として強い影響力をもっている可能性がある。
このような点は日本にも通じるものが
あるだろう。
[注]
1)
社会科学高等研究院
(EHESS)の 社 会 学 的 介 入・分 析 セ ン タ ー
(Centre d'Analyse et
d'Intervention Sociologiques)の 略 称
(http://cadis.ehess.fr/)
。トゥレ ー ヌが1981年 に 創 設 し、
1993年まで代表を務めた。
後任はミシェル・ヴィヴィオルカ
(1993 ~ 2009年)
、
そしてフィリップ・
バタイユ
(2009年~)
である。
2)
筆者は、これまでトゥレーヌ
(派)
について、トゥレーヌ初期の論稿にまで遡り、また経験的調査
のアプローチとして、検討を進めてきた
[濱西 2004, 2005a, 2005b, 2006, 2009]
。
とりわけ、トゥ
レーヌとその
「行為」
、
「行為の場」
、
「行為の社会学」
については、濱西
[2009]
を参照されたい。
日本
におけるデュベの研究は、フランスや社会運動論の文脈で、伊藤
[1993]
、杉山
[2000, 2007]
、稲葉
[2004]
、
また近年、
社会理論
(ルーマン他)
の観点から三上
[2010]
などがある。
3)
ケビン・マクドナルド
(1958年生まれで、ロンドン大学ゴールドスミス校教授
[前メルボルン大
学]
)は、英語圏におけるトゥレーヌ派の代表的人物である。オーストラリア出身の彼は、トゥ
レーヌのもとで、社会運動的労働組合の文化的側面に関する博士論文を書き、現在、国際社会学
会のRC47副代表を務めている。
筆者は2007年のヒアリング以降、毎年、RC47の学会・会議で彼に
会い、
さまざまなアドバイスを頂いてきた。
4)
参加者は、メルボルン西部郊外
「ウェストビュー」
(仮名)
に住む
「全員何年も失業中」
の16 ~ 25歳
のセルジ、
マンディ、
カーソン、
パムとその友人たちである。
5)
本稿では扱わないが、
『主体性をめぐる闘争』
の第2部では、ショッピング・モールを縄張りとする
ホームレス・生活保護の女性ギャング集団、グラフィティ・ライターたち、摂食障害の女性・大学
生、カンボジアや中国からオーストラリアにきた移民2世の若者たち、あるいはアボリジニの若
者による、エスニシティと人種、差異に関係する具体的な民族キャンペーン活動などが論究され
いる。
Dubet
[1987]
が論じていないいくつかの要素
(消費、身体、場所性など)
が、個人のフローを
生きる経験・ワークのなかに見出されている
[濱西 2005b]
。
16
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(はまにし・えいじ 京都大学)
【欧文要約】
Social Exclusion and‘Sociology of Experience’
: Three Logics and Articulating Work
HAMANISHI, Eiji University of Kyoto [email protected]
The aim of this article is to convey a type of sociological thinking still not much spread
in Japan: Sociology of Experience, theorized by the French sociologist Francois Dubet.
The effort is aimed at deepening the understanding of the concepts─logics of Integration,
Strategy and Subjectivation― developed by that author, not only from the theoretical
point of view, but also regarding their possibilities for application to the empirical field.
That is why an analysis of his work will be carried out: Sociologie de l'Experience
(Sociology of Experience), La Garele(The Galley), and Struggles for Subjectivity(by
Kevin McDonald)in an attempt to understand society's contemporary expressions, in its
apparent crisis of values, ambiguities and incoherencies.
Keywords: social exclusion, social experience, Alain Touraine
18