6号 平成 24年3月 財団法人茨城県郷土文化顕彰会 第6号 財団法人茨城県郷土文化顕彰会 ― 01 ― 「ふるさとの文化」第六号発刊に当たって 理事長 今 瀬 文 也 財団法人茨城県郷土文化顕彰会は、平成二十五年四月に一般法人として、再出発する予定です。 現在の組織は平成二十四年六月まで続きます。今回発行の『ふるさとの文化』は、第六号で、特集「霞ヶ 浦の民俗」を掲載、そのほか、皆様から投稿いただき、記念号としました。本誌は、一般財団法人茨城郷土 文化顕彰会として引き続き発刊していきます。 本財団は、昭和四十八年に創立、西茨城郡、土浦市で活動し、平成十七年から水戸に事務局を移し、食文 化・民俗文化の調査、講座、食体験などをとおして、郷土文化の顕彰にあたってきました。東日本大震災に よって、昨年、今年と予定した計画が実行出来ませんでした。それでも茨城民俗学会、茨城県立図書館、国 営ひたち海浜公園と共催で、事業を行うことが出来ました。 役員の方々には、平成十七年に事務局が水戸に移ってから大変御面倒をおかけしました。厚く御礼申し上 げます。 今後も郷土文化顕彰のため、歴史・民俗・文学・芸術・建造物などの調査、記録、公開をしてまいります。 また、県内の文化団体と協力し、財団としての役割を果たして行きたいと思っております。 今号から題字は川又南岳先生にお願いしました。なお、表紙、カットは、本会の前評議員の野上光子さん の描いたも の で す 。 ― 03 ― 目 次 「ふるさとの文化」第六号発刊に当たって …………………………………………………… 今 瀬 文 也 弘道館・偕楽園の復興に向けた取組 ………………………………………………………… 和 田 祐之介 …… 1 東日本大震災と文化財 ………………………………………………………………………… 照 山 洋 …… 5 ― 04 ― 東日本大震災 慰霊観音巡礼 ………………………………………………………………… 柳 田 誠 子 …… 楽しみながら健康づくり ……………………………………………………………………… 須 田 文 子 …… セカンドライフの楽しみ ……………………………………………………………………… 百 地 康 …… 詩 ………………………………………………………………………………………………… 野 上 光 子 …… 四つんばいの進化論 ……………………………………………………………………………………………………… 鏡 …………………………………………………………………………………………………………………………… 稲 …………………………………………………………………………………………………………………………… 地図帳 ……………………………………………………………………………………………………………………… 原種集 ……………………………………………………………………………………………………………………… 常陸太田市の梨…………………………………………………………………………………… 渡 辺 敦 子 …… 社会言語学の七不思議 方言・アクセント・言語の境界線および歴史的移入について … 今 瀬 文 隆 …… 祖父の兄の墓碑から学ぶ~川﨑家の系図~ ………………………………………………… 川 崎 定 信 …… 40 32 29 28 27 27 26 26 26 14 12 10 京都・水戸藩 曾祖父を訪ねて ………………………………………………………… 西 宮 能 信 …… 我妻和男先生と南岳書道展 …………………………………………………………………… 御 供 文 範 …… 別章 国営ひたち海浜公園みはらしの里 ……………………………………………………………………………… 194 188 159 146 第3章 住居 ……………………………………………………………………………………………………………… 第二節 芸能の諸相 ………………………………………………………………………………………………… 編集後記 ……………………………………………………………………………………………………………………… 第一節 祭礼 ………………………………………………………………………………………………………… 第2章 霞ヶ浦の民俗芸能 第四節 民謡とわらべ歌 …………………………………………………………………………………………… 第三節 ことわざと俗信 …………………………………………………………………………………………… 第二節 方言とことわざ …………………………………………………………………………………………… 第一節 伝説と昔話 ………………………………………………………………………………………………… 第1章 言語生活 特集 霞ヶ浦の民俗 黄門料理 ………………………………………………………………………………………… 今 瀬 文 也 …… - 198 ― 05 ― 60 51 44 121 118 106 77 - 和 田 祐之介 弘道館・偕楽園の復興に向けた取組 〈講演の記録〉 偕楽園公園の歴史と自然についての学習・研究、偕楽園公園の自然環境 の保護・管理への協力、偕楽園・弘道館の文化遺産としての伝承と新し い魅力の創造、大名庭園の保存会など市民団体との交流、会報の発行・ ホームページの管理などでございます。 平成一八年度の事業はこの事業計画に基づいて実施いたしました。特 に、新しい魅力の創造に重点に置いて事業が展開されました。具体的に は「市民の力で偕楽園公園を日本一の梅林にしませんか 」というタイ 続けてください。 」 という言葉が印象的でありました。私どもも、偕楽園・ ら日本がだめになってしまう。私どもに遠慮しないで、どうぞご活動を た。仙台商工会議所の会頭さんが「みなさん、このまま自粛をしていた が続きました。自粛ムードが漂いまして、日本国中、混乱しておりまし 観光客がおられたそうです。その後は、街は大混乱でして、不安な日々 華やかな雰囲気に溢れておりました。偕楽園には、一五〇〇名くらいの と感じております。折りしも、 偕楽園では、梅祭りの最中でして、水戸は、 東日本大震災は、大変不幸なことでございました。しかし、今までの 惰性からの決別、価値観の再認識などを考えると、いい機会ではないか ります。梅園に必要な成木を確保するためには、素姓の確かな苗木を購 愛する市民の会は、偕楽園公園を再び日本一の梅園にしたいと念じてお 現在は一〇〇品種三〇〇〇本と称されております。私たち偕楽園公園を 後、幕末の動乱、戦災により荒廃しながらも、多くの方々の努力により、 邸より水戸に送り創設されました。かつて日本一と言われましたがその この市民運動の趣旨は、次の通りです。「県民の誇りである偕楽園の 梅林は、九代藩主斉昭公が並々ならぬ意欲と情熱で、自ら種子を江戸藩 とても日本一には及びません。 の梅林と思っているようですが、実際は、一〇〇品種三〇〇〇本であり、 御紹介いただききました、和田でございます。どうぞよろしくお願い いたします。 弘道館の被害状況をみて、来年までに復旧・復興をしないと水戸の元気 入、育成しなければなりません。品種の収集、接ぎ木して育苗、そして トルで市民運動を展開いたしました。観光客の皆様は、偕楽園は日本一 が取り戻せなくなるのではないかという危機感を持ちました。 成木にする過程は 年に及ぶ長い期間と経費を必要とします。この梅園 成十八年三月には、茨城県立歴史館講堂において創立総会を開催し、会 しました。賛同者を募ったところ、間もなく三五〇人を超えました。平 に伝えるため、 「偕楽園公園を愛する市民の会」を創立することにいた 平成十七年十一月五日、我々は第一回の発起人会を開催し、歴史的に も思想的にも価値のある弘道館・偕楽園を保存、更に磨き上げて後の代 うお願い申し上げます。」という趣旨でございました。 賛同頂き、『梅の都 水戸』の名を更に高めるためご協力くださいますよ 新しい苗畑を造成する場所は決定いたしました。是非本事業の趣旨に御 い一ページを加えたいと念願しております。茨城県の協力の下、すでに 苗畑の管理に参加する等、市民の力を結集して偕楽園公園の歴史に新し 整備を市民運動として展開し、苗木代など必要経費の募金をお願いし、 則、事業計画、予算案、役員人事が決定されました。事業計画(案)は、 ― 1 ― !! では、今回の活動の経緯を述べたいと思います。 十 松栗林公園でして、大名庭園の樹木と自然というテーマです。第六回は 湯の文化、第四回は東京小石川後楽園で、水の文化と庭園、第五回は高 文化というテーマです。第三回は水戸でございまして、大名庭園と茶の 名庭園の価値に向き合おう、第二回は岡山後楽園、大名庭園の暮らしと 平 成 二 十 年 月 に は、 大 名 庭 園 民 間 交 流 協 議 会 の 第 三 回 大 名 庭 園 サ ミット水戸大会を主催いたしました。第一回は金沢兼六園、テーマは大 て、たくさんの人に関心をもっていただいています。 企業からも、社員教育にと、あるいは、個人のご注文もかなりありまし 市内の小学校全校、それから、図書館などに寄贈いたしました。民間の 思 っ て い ま す。 二 十 三 年 四 月 に は、 『 偕 楽 園 何 で も 百 科 』 を 編 集 し て、 梅 品 種 辞 典 の 作 成 を 開 始 し、 そ の 後 は 梅 の 見 本 園 と し て 整 備 し た い と 本。日本一品種の多い梅の公園が出現いたしました。二十三年二月から 園にある一一八品種と合わせて四〇〇品種、新たに植樹した本数八六九 十二月には、日本三名園の岡山後楽園より三品種一〇本植樹。偕楽園本 平成二十年二月には、第一回植樹祭が行われ、八八品種二九九本、第 二回は一六七品種四九九本、第三回植樹祭は二四品種六一本、二十二年 結集されて、今回、日本一の梅林となったわけです。 園からも接ぎ穂をいただいております。広い地域の沢山の善意がここに 社ほど協力をいただききました。各地の自治体が管理している四つの梅 て、当初の募金目標を達成できました。また民間団体からの助成金も四 北海道から西は愛媛県まで幅広い地域から約四〇〇〇人以上の協力を得 募金は順調に集まり始め、地域別にみますと、県外については、海外 一、 一都一道一府十一県、県内は一九市六町一村に及び、ロサンゼルス、 す。最近は、大人の参加も増えてきております。 は、しっかりと勉学に励んでおります。それは、とても頼もしく感じま 大きな声で素読が続いております。歴史の重みを感じるのか、子供たち の 重 要 文 化 財 に 指 定 さ れ て お り ま す 至 善 堂 で、「 子 の た ま わ く …」 と、 でございました。毎回六〇人から一〇〇人ほどの参加がありまして、国 楽しく、お子さんと一緒に『論語』を学んでみませんか。」という趣旨 『弘道館記』をはじめ『偕楽園記』などの中には『論語』から引用した す。弘道館は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭公により建てられた藩校です。 やりや慮る心、志を持ち、やり抜く強い精神力をゆっくり育んでくれま 「弘道館・親と子の論語塾」の趣旨は次の通りです。「 『論語』は名文・ 名言の宝庫です。古くから日本人の心の拠り所となってきました。思い ております。また、翌年八月一日には、偕楽園がオープンしております。 を開催することにしたわけです。「弘道館記」は、藤田東湖が、起草し れ た 日 で あ り ま す。 そ の 記 念 す べ き 日 に、 「 弘 道 館・ 親 と 子 の 論 語 塾 」 月一日は、天保十二(一八四一)年、この日に弘道館の仮開館式が行わ 平成梅林整備事業に目途がついたので、今度は弘道館の魅力を高める ため、平成二十一年八月一日から毎月第一土曜日に、安岡定子先生を講 力向上懇談会なども協力しています。 グと植物観察会、偕楽園公園サポーターなどにも参加し、偕楽園公園魅 実施しております。年一、二回の講演会、それから、偕楽園ウォーキン 実を利用して、偕楽園の梅干作り、紫錦梅作り、梅酒作りなども、毎年 は会津若松、松平氏庭園が決定しております。そのほか、偕楽園の梅の 彦根、玄宮楽々園で、今月の二十五日に開催予定です。テーマは、大名 東日本大震災は、仮開館から、ちょうど、一七〇年後の今年でありま 言葉が出てまいります。先人たちが学んだ、歴史あるこの地で、真剣に ― 2 ― 師にお迎えして、「弘道館・親と子の論語塾」を開始いたしました。八 庭園の池泉の整備です。第七回は縮景園、広島で開催予定です。第八回 十 日はミトの日(三一〇)で黄門料 した。水戸の梅まつりの最中であり、三月五日は、「弘道館・親と子の 楽園の復旧は、来年一月、梅まつりの前に終了予定でありますが、弘道 りますが、残りの金額と県所有の金額は除外されます。おかげ様で、偕 論語塾」を開催いたしました。三月 く感じます。 に匹敵する藩校はどこにもなく、文字通り天下一の学校であったという い理想と我が国の歴史や水戸藩の学問・教育に誇りを持ち、当時の国際 館に関しましては、二、三年先と予定が立っておりません。現在、 「弘道 私どもは、被害状況を見るにつけ、一刻も早く、復旧しなくてはなら ないと思いました。四月はじめ、県とも相談いたしまして、四月二十日 ことを、水戸史学会の住谷先生が書いておられます。学問は、水戸が受 理まつりに由美かおるさんをお迎えして行われておりました。十一日は、 に復興のための実行委員会を立ち上げました。約五〇団体が集まりまし け継いだ偉大なる遺伝子だと思います。 館・親と子の論語塾」は学習の場を失い、転々と会場を変えながら学習 て、募金集めの活動に入りました。パンフレット、募金箱の大が二〇個、 旧暦で烈公さんの誕生日にあたるわけですが、東日本大震災が、同じ日 小が五〇個、プラカードなどを用意し、税務署にも免税措置の手続きを 当会は、幕末、戦炎で消失した弘道館の建物の一部復元という要望を したいと思っております。この際、萎縮しがちな、大地震に対する対応 を余儀なくされています。 お願いし、動き出しました。昨日まで、一億四〇〇〇万弱の募金を頂戴 を濃くし、歴史的な矜持に心を用い、復興を期待したいものであります。 であったことは驚きでした。藤田東湖は、安政二(一八五五)年十月二 いたしました。また、常磐小学校や上大野小学校、五軒小学校、新荘小 本市は、歴史のまちを標榜しながら、類似都市に比較して、先人の美徳 日午後十時ごろ、安政の江戸大地震に見舞われ、圧死されました。マグ 学校の児童の寄付など、感動することがたくさんございました。このう を継ぎ、後世に伝えようとする情熱が乏しい気がします。復興、復元の 創建当時、弘道館は二四〇〇〇坪(約一七八四〇〇平方メートル)と いう規模で、断トツ、群を抜いておりました。地位、身分に関わらず、 ち、約一億円を、一月七日、県に寄付をし、復旧が急がれる偕楽園整備 情熱は、他市と比べ希薄であるようにも感じます。幕末に偉容を誇り、 ニチュード六・九ですが、最近では、七・二ともいわれる直下型の大地震 の不足金に充当ということにしました。残りは、来年の三月三十一日の 消失した、弘道館の武館、文館、医館のうち、一館たりとも、一四〇年 学ぶ機会を与えた画期的な発想でありまして、学問には終わりがないと 募金終了後、弘道館復興に寄付予定でございます。偕楽園は、被害額が 後の今日までに復元されたものはございません。昭和二十年の戦火に消 でした。東日本大震災と安政の大地震が、時を隔てて、弘道館と深い関 三億弱、弘道館は四億弱、合計七億弱の費用がかかると言われておりま えた五階三層の水戸城も、復元の兆しすらございません。大震災を理由 いう、生涯学習の考え方が採り入れられております。何といっても、高 すが、弘道館は、国所有の施設に関しては文化庁が負担することになっ に、財政難を理由に、先人の遺産が崩壊し、水戸の矜持を捨ててしまう 係のあるものに大きな損失と影響を与えたということは、非常に痛まし ておりますが、県所有の施設に関しては除外されます。偕楽園は、国土 のは、避けたいものであると感じます。苦しい財政下の水戸藩にありま 情勢に適応できる人材を育成し、国家的に対処しようとしました。これ 交通省(災害復旧補助事業)が九五パーセント負担することになってお ― 3 ― 十 して、国家の礎となるべき人物の養成を願って、弘道館の設立に奔走し ました、藩主斉昭公をはじめとする先見たちの心意気は、この大震災に 呻吟する今こそ、果たされるべきものと思っております。それが、我が 水戸の文化を世界遺産に登録を目指している、一番の理由ではないかと 思っております。 最後に、偕楽園は、民とともに楽しむという公園であり、このような 施設を造っていただいて、本当に、ありがたく思っています。今度は、 お礼に、民とともに復興する気持ちで取り組みたいと思っております。 弘道館の一部復元に関しまして、触れたいと思います。水戸市の木であ る梅は、中国では好文木というそうです。文を好む木、いわゆる、学問 の木です。復元する場所の一部に梅の木がございますので、それを各小 ― 4 ― 学校、中学校に移植してはどうかと思うのです。学問の木、弘道館の梅 の木を、各学校に移植し、教育のシンボルとするのです。そして、世界 遺産に登録を目指す県、市におかれましては、ぜひとも、文化・観光施 設の充実をお願いする次第です。 今こそ、そのチャンスであると思います。皆様には、多額の御寄付を いただきまして、本当にありがとうございました。震災後、「偕楽園・ 弘道館復興支援の会」を立ち上げまして、沢山の方々の善意に接しまし て感動の毎日でした。本当にありがとうございます。 好文亭 中門 )その時私は 東日本大震災と文化財 一 ( 照 山 洋 東日本大震災から、間もなく一年になろうとしている。平成二十三年 三月十一日午後二時四十六分、東北地方を震源地とする、国内観測史上 最大のマグニチュード九・〇の強い地震が発生した。茨城県も震度六強、 震度六弱が相次いで観測され、長く激烈な揺れが続いた。そして間もな く電気、水道、電話が切れた。その時私は、妻とテレビを観ていたが、 余りの強さに立っているのがやっとであった。妻はテレビが倒れないよ う必死に押さえていた。私は瞬間にこれは大変なことになった、家が潰 指示通りに行動をした事に頭が下が り感謝をしている。 私 も、 十 一 日、 十 二 日 の 両 日 は、 青色パトカー 警 ( 察署の許可 に )乗 り、同じように地区内を巡回及び被 害 の 状 況 の 確 認 と、 ケ ガ 人 は い な い か 等 の パ ト ロ ー ル を 行 っ た。 家 屋 の 崩壊、道路の陥没、石塀の崩落、そ して屋根瓦の破損は、古い家ほど被 害 が 大 き か っ た。 パ ト ロ ー ル 中 に、 子 供 か ら「 避 難 所 は ど こ か 」「 他 の かった。三日後電気が復旧し、テレビニュースで初めて見る、地震、津 や ラ ジ オ で 知 る こ と が 出 来 た の に、 慌 て て い る と 其 の 事 も 思 い つ か な 電のために全ての情報が分からなくなった。今にして思えば、カーナビ 市民センターを通し、市役所本庁舎に連絡をしてもつながらず、市役 所からも指示はない。避難場所となっている上大野小学校の体育館は、 た」 「ガラス戸が外れ、割れてしまった」などの多くの被害状況を聞いた。 所と連絡が取れない」等の声を掛けられた。又「家の柱が折れてしまっ 地 区 は ど う な っ て い る の か 」「 市 役 波、原発事故のその被害の甚大さと、悲惨さに愕然とした。 所に行く道路側の塀がいたるところで崩れ、続く余震の度に人々が屋外 れてしまうと思った。震源地は、茨城県内か、茨城県沖と思ったが、停 私は、ボランティアで水戸警察署の防犯連絡員と、地域の防災委員の 任命を受けている。日ごろからこのような緊急時に、家族にケガ人や家 に出て、ただ、おろおろしている姿を多く目にしたが、この地区からケ 天井が落ちて避難所としては使用出来ず、教室を避難所に当てた。避難 が崩壊しない限り、公務と思い何をするのが良いかを考えている。 城東、浜田、上大野地区の自治会長と共に地区内を巡回、一軒ずつ声掛 私は、防犯連絡員である地区支部長に対し指示を出した。その内容は、 渋井地区五棟、吉沼地区二棟、合計三九棟だった。 大野地区一一棟、西大野地区一〇棟、圷大野地区五棟、中大野地区六棟、 ちなみに、平成二十三年三月二十八日発表、水戸市消防団第一〇分団 の目視確認によると、上大野地区の家屋等被害状況は、全半壊家屋、東 ガ人が出なかったのが幸いだった。 けをする事、特に一人暮らしの高齢者宅は必ず訪問し、安否の確認をす 又、渋井町自治会の三月三十日取りまとめによると、町内の家屋瓦 ぐ ( 地区の防災責任者と対応策を話し合う積りが、彼は水戸市役所で会議 中のため連絡が取れず、地区の市民センターにも連絡が取れない。次に るよう指示を出した。防犯連絡員もそれぞれに被災を受け混乱の中に、 ― 5 ― 駐車車庫崩落(渋井町) しを含む 損 ) 傷四三、鉄筋家屋セメ ント壁崩落一、外壁亀裂一、セメン ト瓦損傷一一、納屋・物置屋根瓦損 傷九、ブロック塀崩落九、石塀 大 ( 谷石・御影石 崩 ) 落一一、駐車車庫 崩落一と発表された。 水 戸 市 全 体 で は、 家 屋 の 全 壊 棟 一七二棟、半壊棟六八八棟、一部破 損 棟 一 万 八 九 五 八 棟 に な っ て い る。 茨城県内全四四市町村では、住宅な ど の 被 害 の 数 は、 津 波 被 害 を 含 め 一三万戸を超えている。人的被害は、 流され、上流の城里町石塚で流されていた。 我が家の水道は十二日、電気は十四日に復旧し、電話もつながった。 長 男 が 通 勤 に 使 用 し て い る J R 常 磐 線 が 不 通 に な り、 会 社 で 用 意 し た チャーターバスで通勤をした。常磐線水戸駅が甚大な被害を受けたため 復旧に時間がかかり、震災から十一日後の三月二十二日に開通した。 ガソリン不足も深刻だった。給油所には、前日から並ばなければ買え ない状態が続いた。私も何回か並んで給油をした。スーパーやコンビニ からは水や食料品が消え、食事に苦労する日が続いた。家族で食料品の 買い出しなど初めての経験で、忘れる事の出来ない体験になった。しか しただ一つ、電気の無い生活が三日間続き、一本のローソクの下に家族 全員が集い、テレビなしの時間の中に家族の絆を深める事が出来た。平 凡で当たり前の日常生活を、 今回ほどありがたく感じたことはなかった。 府の復興対策本部の発表によると、避難転居者三四万一四一一人にもお 死亡者二四人、重傷者は三三人を数えた。 ところで我が家を改めて見てみると、食器類の破損で足の踏み場も無 い状態で掛け時計は落下し、仏壇や神棚の中はメチャメチャである。飾 よぶ。東日本大震災の被災地が一日も早く、復旧復興されるよう心から 平 成 二 十 四 年 二 月 十 日 現 在、 警 視 庁 の 発 表 に よ る と、 死 者 一万五八四八人、行方不明者三三〇五人、同じく一月二十六日現在、政 り棚の中の置物は多くのものが割れヒビが入った。特に、蔵の状態は最 祈っている。 二 ( )小さな文化財を守る 悪で、屋根のぐしは全部落ち、かろうじて鬼瓦だけが残った。落下した 瓦は一五〇枚が割れ、漆喰は一階の内壁が全部剥がれ落ち、柱もずれて しまった。蔵の中の物は、地震対策は何一つしていないので、全ての物 が崩れ落ち、何が何だか分からない状態だった。最近になりやっと蔵の 化財がある。二つとも、今回の地震で大きな被害を受けた。その一つは、 ( 九五五 に )水 私の住む町は、旧上大野村大字渋井が、昭和三十年 一 戸市に編入し、現在の水戸市渋井町になった。この小さな町に二つの文 根が多く見られる。 がある。現在の福徳弁財天である。その寺の名は、寿仏山浄秀院正暦寺 修理が終わった。街の中を見ても、未だブルーシートを掛けたままの屋 隣町の大洗町は、最大四・二mの津波に襲われた。津波は町内を流れ る那珂川を逆流し、かなり上流まで押し寄せた。支流の新川は、那珂川 と言われているが、江戸時代の文献を調べても何も出ていない。寛文三 佐竹氏が水戸城主になった時、寺を建立し弁天様を安置したと言い伝え の水門が閉められず、川の氾濫はなかったが、地元の人達の船は何隻も ― 6 ― 全壊家屋と崩れた塀(東大野) 年の徳川光圀の排仏毀釈によって、整理されたのかも知れない。 カズチノミコトで、創建は天正年間 一 ( 五七三~一五九三 、)佐竹の武 将渋井内善重正が建立したと言われている。地元では別名を明神様と言 う。 今回の地震により、社殿がずれ、傾いてしまったが、屋根は銅ぶきな ので崩壊は免れた。修理は可能か、再建するか、長い時間をかけ検討を 現 在 弁 財 天 本 堂 に 掲 げ て あ る 寿 仏 山 の 扁 額 は、 二 六 〇 年 前、 東 京 芝 の増上寺の住職だった妙定月によった書かれたもので、正暦時の扁額で 関係があったのか興味深いが、資料は何一つ残されていないのが残念で した結果、修理することになり、地元の建築家に依頼し無事に復旧した。 あったと言われている。増上寺は徳川将軍家の墓所であり、どのような ある。しかし、近くにある共同墓地だった片隅に、正暦時の僧侶と思わ 工事期間中、お田植祭行事を社殿の外で行ったのは、町として初めての 二十四年二月二十日に行われ、町民 居と宮殿 厨 (子 を ) 再建することが できた。年に一度の初巳祭が、平成 らの寄附と、氏子たちの浄財で、鳥 の た び、 祈 祷 寺 で あ る 六 地 蔵 寺 か 居 は、 地 元 と し て も 自 慢 の 鳥 居 で 年五月に奉納された花崗岩造りの鳥 は余りにも有名である。明治四十一 は秋田県能代に赴き産業界で活躍 一 ( 八八一 慶 ) 応 義 塾 大 学 に 在 学 中、 福沢諭吉に師事した。その後、直幹 師 範 学 校 で 学 ん だ 後、 明 治 十 四 年 神 社 の 象 徴 で あ る 鳥 居 は 完 全 に 崩 壊 し て し ま っ た。 鳥 居 の 奉 納 者 は、 町 内 に 生 ま れ た 井 坂 直 幹 で、 茨 城 事であった。 れる墓碑が残されているのも事実である。 今回被害のあった文化財は、その 福徳弁財天本堂の中にある、本尊の 入る宮殿 厨 (子 が ) 壊 れ、 本 堂 は 平 成十一年に再建したので崩壊の被害 の前にめでたく披露することが出来 あった。それだけに惜しむ声が多く 新しい鳥居は一回り小さくし、直幹奉納の鳥居と並べて建てる事にし た。並んで建つ鳥居は、地震と共に後世に語り継がれる事になろう。平 壊した鳥居の一部を有形の記念建造物として、後世に残す事に決定した。 完全に崩壊した、鹿島神社の鳥居 成二十四年四月竣工の予定である。福徳弁財天、鹿島神社とも、小さな ― 7 ― は な く、 鳥 居 に ヒ ビ が 入 っ た。 こ た。小さな祠でも、昔から地域の人 あり、検討の結果、先代奉納者の郷 もう一つの文化財は、鹿島神宮の末社鹿島神社である。祭神はタケミ し、秋田杉を日本全国に広めたこと 達に大切に守られて来た、御本尊を安置する場所の再興に尽力された、 土への無限の想いの精神を尊び、崩 いる。今後も大切に守っていく決意である。 水戸光圀により、排仏毀釈により多くの寺社が消された中で、地域に 唯一残された福徳弁財天、今も町内を始め近郊の人達に厚く信仰されて 総代の人達に深く感謝をしたい。 福徳弁財天 水戸市に於いては、世界遺産登録を目ざす弘道館や、偕楽園の好文亭 など、数多くの文化財に大きな被害を受けたが、関係者の努力により、 文化財であるが、渋井町の有志がこれからも大事に守って欲しい。 の周辺の県民は、既に放射性物質を体内に取り込んでしまった。過去に 物質に対し、目に見えない敵との戦いが続いている。しかし、福島とそ 染は周辺に拡大した。事故直後の汚染が、現在、日本国内、及び世界に 接現場には行っていないが、社内的には一大事だと聞いている。 私の長男は、原子力発電に関係した仕事をしており、年に二、三回原 子力発電所に出張している。今回の福島第一原発事故で、今のところ直 形で後遺症が出るか心配である。 拡散してしまった。その汚染された物質と、現在も流出している放射性 現在復旧復興工事がされている。どんなに時間と費用がかかっても、元 経験した事のない未曽有の事故だけに、今後何十年か先に、どのような )深刻な危機・原子力発電所 通りの再興を願わずにはいられない。 三 ( 戦後の混乱期以来の非常事態と言われる、福島第一原発事故、一号機 から四号機まで、地震発生から五十六分後に襲来した大津波によって、 全ての電源が停止、核燃料から発生する膨大な熱を冷やす事が出来なく 今までも、原子力発電の必要性は子どもと話し合いをしてきたが、技 術的なことは理解できないでいた。今回の事故で構造的な事は詳しく知 師は那珂核融合研究センターの職員で、テーマは、放射能や放射線に関 なり、核燃料が溶け落ちるメルトダウンが起きた。一九七七年の、アメ 今回の津波は一四m以上で、海抜一〇mにある建野外のポンプなどの 設備を、ことごとく破壊した。原発で想定していた津波は五・四~五・七 する基礎知識だった。プレハブ造りの仮の市民センターには、予想以上 ることが出来た。現在事故現場はどのようになっているのか、国の発表 mだったという。余りにも危機管理が甘く、国と東京電力の人為的ミス の人達が集まりその関心の高さを物語っていた。 リカスリーマイルアイランド原発事故、一九八六年の旧ソ連チェルノブ であることは明らかである。地震発生後五六分間関係者は何を思い、何 ( 講演の内容は、 一 以上に重大な事故であることには違いない。 をしていたのか。使用済み燃料プールにも、冷却用の水をすぐに注入し イリ原発事故でさえ、全電源が止まることはなかった。それだけに世界 ておく事もなかった。津波によって、非常用発電機やポンプが止まった の影響は。 三 ( 原 ) 子力防災についてであった。原子力関係者という事 もあって、「健康には余り影響はありません」という事だった。又、食 の原発史上初の重大な事故であることが分かる。 時、何をすべきか分からなかったのか。何よりも、非常用復水器の操作 料品に対しては、より詳細に検査をして、安全な物しか出荷されていな そうした心配から私は、二回原子力について学ぶ機会を得た。第一回 は、平成二十三年九月六日、水戸市上大野市民センターで行われた。講 訓練をしていなかったのには驚きである。そうした事で全てが後手に回 いので、これも心配ないという。この話を聞いて、殆どの人達が「それ 第 二 回 の 講 演 会 は、 茨 城 民 俗 学 会 今 ( 瀬文也代表 主 ) 催 で、 平 成 なら安心」と納得したようだが、私には疑問点が数多くあった。 放 ) 射 線 て ど ん な も の。 二 ( 福 ) 島第一発電所から り、事故の拡大につながってしまった。 国民は、唯一の情報源を国や東京電力に頼っているが、正確な情報は 混乱を招くとして発表されなかった。その間、放射性物質による環境汚 ― 8 ― 今後日本は、何十年と目に見えぬ新たな不安との戦いが続くであろう。 しかし、時間と共に風化させないために語り継ぎ、正確な情報を共用す 二十三年九月十一日、茨城県民文化センターで行われた。講師は、青木 貞雄筑波大学名誉教授だった。 る。 楽しく活動出来た事は一生の宝になりました。ありがとうございました。 勉強をし、成長させていただきました。又、多くの人達との出会いや、 役員の人達には大変お世話になりました。何よりも活動を通して様々な 最後に、財団法人茨城県郷土文化顕彰会が、公益法人法の改正により、 最終を迎えようとしている。今までの活動を振り返ると、 理事長を始め、 これを機に今後全ての人が、原子力発電を含むエネルギー問題を、真 剣に考えなければならない時が来ている。 べきと考える。今回の事故を忘れた頃に、健康影響が出るのが心配であ 中には福島から避難をしている婦人もおり、 ここにも大勢の人が集い、 講演会終了後に熱心に質問をしていた。 「放射能とどう向き合っていくか」、 一 ( 空 ) 間放射線 講演の内容は、 の現状 二 ( 放 ) 射能情報の可視化と 共有 三 ( 食 ) 品の放射能規制 四 ( ) 放 射 性 物 質 の 除 去 か ら な っ て い た。 特に、東北から関東までの、放射線 の拡散が地図で示され、又、水戸市 周辺の放射線空間線量の経緯が、三 ― 9 ― 月十一日~八月十八日まで、放射線 テレメーターHPのデーターによる と、三月十一日から十日間に、何回 か特に高い所がある。これは原発で 何かが起きている事と重なってい る。 た。 全は、 正式な公表値を正確に把握し、 適切に判断をすることであると思っ 「絶対に安心ですよ」「心配ないですよ」という話で 両講演を聞いて、 はなく、各自が、低い線量であっても被爆量を最小限にする。食品の安 れた。 かと思うと驚きである。 最後に放射能除染の具体的な注意事項も話さ 食料品についてもより詳しく説明があった。講師の自宅敷地内のマイ クロホットスポットも図に示された。私の家の周りもこうなっているの 講演する筑波大の青木教授 東日本大震災 慰霊観音巡礼 田の浜に着いた時には、皆で心経を唱えたが、涙があふれ出てお経も途 絶えがちだった。献花をして、一日も早い復旧、復興と、犠牲者の冥福 を祈りバスに乗った。その日のバスの中は一日中重苦しい雰囲気が漂い、 食欲も無く弁当も食べられなかった。 奥州三十三観音の中で唯一第二十八番蛸浦観音だけが流失してしま い、跡形もないので近くの浜辺で遥拝した。第二十八番蛸浦観音の御朱 柳 田 誠 子 東日本大震災慰霊、奥州三十三観音霊場の旅に参加したのは、東日本 大震災四か月後の七月だった。 何時の日か再建されたら、改めて訪れ結願したいと思っている。 は、開創時の土地の風習、信仰心が残っているものもあり、日本の風土 では伝わらない当地の現実の厳しさは、被災地の現場に立って見なけれ 東日本大震災の被災地の復興は、かなり厳しい道のりではないかと思 う。被災地が余りにも広範囲に渡っているのと、テレビ、新聞等の報道 印は白紙のままで、この空白の夏はいつ埋める事が出来るのだろうか。 巡礼には色々な形がある。四国八十八カ所のように大師信仰の下に罪 を懺悔し、救いを求める巡礼もあり、秩父や坂東の観音霊場のように、 に習合した仏教が定着している所が多い。 スの運転手は、放射能測定器を持って行動している。こんな旅はもう二 を持ちつつ、夏の真っ盛りに東日本大震災慰霊の旅に出た。宮城県名取 の仏像は、平安初期以降のものが多く、陸奥への仏教伝播の歴史に興味 ( 東・秩父・西国 、)出羽百観音 最 ( これまで八年かけて、日本百観音 坂 だった。 補陀洛の世界を思い浮かべ札所を訪ねる巡礼もある。それぞれの札所に 今回、慰霊観音巡礼する奥州三十三カ所は、本尊については、一木彫 りの仏像が多く祀られている。 第二十二番の黒石寺の本尊薬師如来像は、 度としたくない。多くの寺院も被災しており、悲しい、悲しい祈りの旅 市の第一番紹楽寺から、岩手県二戸市の三十三番天台寺まで四泊五日で 上・庄内・置賜 、)会津、那須、安房、津軽、越後、佐渡と巡った。こ れで四国霊場八十八カ所巡礼への道が開かれた。全行程の歩き遍路は無 ば理解出来るものではないと思う。四か月も経っているというのに、バ 胎内からの墨書銘により、八六二年頃の作と言われる。東北地方の殆ど 巡った。 カ所の遍路をしてみたいと思っている。 理かも知れないが、今、六十五歳の私は、七十歳までに四国霊場八十八 仙台空港から、陸前高田まで行く途中の車窓からの眺めは、筆舌に尽 くしがたく、本当にショックだった。二階建てのビルの屋上に大型バス が載っていて、今にも落ちそうになっていたり、五階建てのマンション の四階まで全てが流され空洞になっていたり、大型船が山の麓までおし 流されていて、数か月前まで、人々の営みのあった町並みはガレキの山 と化している。あの惨状が脳裏に焼きつき忘れることは出来ない。テレ ビや新聞のニースで見るのとは違い、想像を絶する被災状況に、陸前高 ― 10 ― 奥州三十三観音霊場 1 紹楽寺 曹洞宗 宮城県名取市高舘吉田 十一面観音 2 秀麗斎 〃 〃 聖観音 3 金剛寺 〃 宮城県名取市高舘川上 4 斗蔵寺 真言宗智山派 宮城県角田市小田 千手観音 5 名取千手観音堂 - 宮城県名取市増田 〃 6 瑞巌寺 臨済宗妙心寺派 宮城県宮城郡松島町松島 聖観音 7 大仰寺 〃 宮城県宮城郡松島町手樽 千手観音 8 梅渓寺 曹洞宗 宮城県石巻市湊 聖観音 9 箟峰寺 天台宗 宮城県遠田郡涌谷町 十一面観音 10 興福寺 〃 宮城県登米市南方町 〃 11 天王寺 臨済宗妙心寺派 福島県福島市飯坂町 聖観音 12 観音寺 浄土宗 福島県伊達郡桑折町方正寺 〃 13 大聖寺 真言宗豊山派 福島県伊達郡桑折町上郡 〃 14 大慈寺 曹洞宗 宮城県登米市東和町米川 〃 15 華足寺 真言宗智山派 〃 馬頭観音 16 清水寺 〃 宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎 聖観音 17 大祥寺 曹洞宗 岩手県一関市花泉町老松 十一面観音 18 道慶寺 〃 〃 如意輪観音 19 新山観音堂 - 岩手県一関市花泉町金沢 十一面観音 20 徳寿院 曹洞宗 岩手県一関市花泉町花泉 千手観音 21 観音寺 〃 宮城県栗原市金成有壁 馬頭観音 22 勝大寺 真言宗智山派 宮城県栗原市金成小迫 十一面観音 23 長承寺 曹洞宗 宮城県登米市中田町上沼 千手観音 24 長谷寺 - 宮城県登米市中田町浅水 25 黒石寺 天台宗 岩手県奥州市水沢区 千手観音 26 長泉寺 曹洞宗 岩手県一関市大東町 〃 27 観福寺 天台宗 岩手県一関市舞川 聖観音 28 大善院蛸浦観音 - 岩手県大船渡市赤崎町 千手観音 29 普門寺 曹洞宗 岩手県陸前高田市米崎町 聖観音 30 補陀寺 〃 宮城県気仙沼市古町 如意輪観音 31 聖福寺 〃 岩手県岩手郡八幡平市寺田 七面観世音 32 正覚院 天台宗 岩手県岩手郡岩手町御堂 十一面観音 33 天台寺 〃 岩手県二戸市浄法寺町 聖観音 ― 11 ― 十一面観音 ‘ 楽しみながら健康づくり 須 田 文 子 ポーツクラブを中心に行っている。私がスポーツクラブで水泳を始めて 十七年になり、ヨガ歴十二年、ステップ、エアロビクスを始めて八年が 経った。その運動の継続により、メタボリックシンドロームとは無縁で ある。私の健康づくりの体験を交えながら、「運動の量」「運動の強度」「運 動の種類」等について検証をしたい。 あるという。メタボリックシンドロームとは、腹囲が男性八五㎝以上、 歳の男性は五六・二%になり、女性は一九・二%が有病者または予備軍で 厚生労働省が発表した、平成十九年国民健康・栄養調査によると、メ タボリックシンドローム有病者と、その予備軍を合わせると四〇~七四 せている。健康づくりの主役は自分であり、自分に合った運動を体験に 翌日、翌々日に筋肉痛を感じない程度に行っている。運動は一つでも良 比較的楽であるから、ややきついと感じる程度に行い、また筋肉疲労は、 キロカロリーを目標にしている。心拍数では、一一五~一四五拍/分で 現代社会において「健康」を指向するとき、‘日常生活の運動の在り 方 について考察をしてみたい。 女性九〇㎝以上で三つの項目 高 ( 脂血症、高血圧、高血糖 の ) うち、二 つ以上の項目に該当する者であり、メタボリックシンドローム予備軍は よって見つけるのが理想である。 ス テ ップ 40分 220 kcal 130拍 / 分 40 エアロビク 40分 168 kcal 128拍 / 分 ス L40 ウオーキン 30分 100kcal 100拍 / 分 グ ― 12 ― 自分が一日に摂取するエネルギーの量を、一週間のスポーツで消費す るのが望ましく、一日のスポーツで消費するカロリーは一五〇~三〇〇 三つの項目のうち一つに該当する者をいう。 私の日常化している運動の種類、運動時間、消費カロリー、心拍数は 表1のようになっている。 水泳 30分 168 kcal 116拍 / 分 (クロール) いが、今だから出来る運動と、十年先までも続けられる運動を組み合わ 放置すると、脳卒中や心筋梗塞、糖尿病などに進行する危険性がある。 その原因となる、不健康な生活習慣を改善するのには、適度な運動とバ 心拍数正常値 75 拍/分 最大心拍数 ( 拍/分 ) =220-年齢 220- 68 =152( 拍/分 ) ランスのよい食事、 休養が大切と言われている。内臓脂肪は付きやすく、 燃えやすいので、 運動の必要性は感じていても、「何を」 「どのように」 「ど の程度」行ったらよいのか、戸惑っているのではないか。また運動を試 みても、三六%が途中で挫折してしまうとの統計がある。 しかし、やみくもに運動やトレーニングに励むのは危険である。老化 が進んで弱り始めた関節や骨、筋肉や腱を痛めることになるので注意が 必要である。では「どのような運動が自分に合うのか」「自分で注意す べき点は何か」 「どのような運動が望ましいのか」専門家のアドバイス 私の健康づくりは、 「何時でもできるはいつでもできない」ので、ス 112拍 / 分 水中ウオー 30分 135 kcal キング 88拍 / 分 60分 150 kcal ヨガ を受けながら、プログラムを組むのが理想的である。 表1 片足立 片足立 103.1 240 閉眼片足立 ( 秒 ) 20.2 27.0 体脂肪率 (%) 22.8 30.5 30.2 18.0 ~ 28.0 BMI(Kg/㎡ ) 21.7 22.2 22.3 22.8 値内で、右脚、左脚、つまり下半身の筋肉の発達程度が少し弱い。体の 構成成分は、体水分、たんぱく質、ミネラルは標準値内。体型は、BM Iは標準値内で、体脂肪率は、三〇・二%で標準範囲より多少高めである。 基礎代謝量は、一〇九〇キロカロリーで標準値内、一日の摂取エネルギー 量の目安は一六四二キロカロリーとなっている。 この測定値から見えてくることは、今の体力を維持し、後期高齢者に なってもQOL 生 ( 活の質 を ) 落さないように、握力を向上させ、下半 身の筋肉を付けるように、これからは意識してウエートトレーニングを 行って行きたい。 スポーツクラブを中心に 運動を日常化して得られた効果は、精神機 能面では、運動をするのが楽しい、元気がある、活力がある、生き生き している、若々しい、意欲が出た等が挙げられる。心身機能面では、平 成二十三年ガン検診は異常なく、特定健康診査では、コレストロール値 が少々高いが、血圧、中性脂肪、血糖値、BMIとも正常値内である。 筑波大学大学院体育科学系田中教授は、「運動の習慣化は、自己価値、 自己評価を高め、自己効力感を向上させ、心理的ウェルビーイングを改 善する。高齢者でも体力水準の高い人ほど、認知活動能力が良好である」 と言っている。 健康は、健康作りの先にあるのではなく、健康づくりその過程を楽し む、それが健康である。 ― 13 ― カールボーネン法による目標運動 強度を計算してみると(表2) 12.3 し た が っ て、 私 の 最 大 心 拍 数 は 36.5 一 五 二 拍 / 分 ま で 上 げ る 事 が で き、 28 ~ 25 目標の運動強度は一一四 拍 ( /分 ) である。私の日常化している運動の 25.2 心拍数を見ると、もう少し運動強度 25.6 を上げてもよいのではないかと思 24.8 う。 今回、原稿を書くにあたり、所属 しているスポーツクラブに、体力測 定を依頼した。 (表3) 六年ぶりに行った体力の測定の結 果は、季節的に代謝が落ちる時であ 20.6 21.3 り、加齢により数値は下がっている 26.5 19.2 と思ったが、平成六年六月の数値と 27.5 エアロバイク (ml/Kg/ 分 ) ほぼ変わらず、年齢平均値に比べて 良好である。やはり 「継続は力なり」 60 ~ 69 歳 平均値 座位体前屈 (Cm) である。 ( 体力測定と一緒にインボディ 体 成分測定 も ) 行 っ た。 そ の 結 果 は、 筋 肉 と 脂 肪 の 割 合 は、 体 重、 筋 肉、 体脂肪は標準値内。部位別筋肉のバ ランスは、右腕、左腕、胴体は標準 12/ 2 [(220 - 68) - 75〕×50 / 100 + 75 = 114( 拍 / 分 ) 06/8 HR =(最大 HR -安静時 HR)× 目標 運動強度 /100 +安静時 HR 01/3 握力 (Kg) 表2 表3 セカンドライフの楽しみ 百 地 康 くことでもあり、最初の頃は僅かな点として知るものであったが、やが ていくつかの点を知り、その後、点と点を結ぶことにより、案内の依頼 に応えようと努力した。この案内人の会では設立三年目の役員改選時、 初代会長さんの体調が悪くて、会長交代となった時、なぜか地元の役員 を引き受けることになり、二年間の役を務めた。このことが、一般の会 に引き受ける人がおらず、県外出身者である平会員に回ってきて、会長 会社人生を終えてセカンドライフが始まった時、行く手には一面の白 地図があった。 りとなっていった。 員では入ってこない情報も来ることになり、その後の活動での幅の広が そこでご近所の方から土地をお借りして野菜作りをしながら、この先 の行くべき道を考えた。 「常陸太田まちかど案内人の会」では、県内や県外から見えられるお 客さんに対して西山荘や佐竹寺・正宗寺等の歴史案内をする他に古い建 『常陸太田まちかど案内人の会』の活動 か趣味の道を歩もうとして「水墨画教室」(c)新しい世界を知るため 物等を残す常陸太田の街並みを案内している。この他、更に生涯学習セ 初めに選んだ道は生涯学習センターの講座で、まず(a)住んでいる 街を知るために選んだ「まちかど案内人養成講座」、この他に(b)何 の隣国のことば「中国語」のコースを選んで受講した。 太田にとっては徳川家による西山荘の前の時代である佐竹氏関係の歴史 た当初は講座で学んだ「西山荘」の案内だけであったが、その後、常陸 掛け声に呼び止められて、案内人の会設立に参加した。会が立ち上がっ はじめの「まちかど案内人養成講座」は、講座終了の時、皆さんでボ ランティアガイドとして「まちかど案内人の会」を立ち上げましょうの ている。 数の道となり、相互に入り組んだいろいろな繋がりを持った社会となっ あり、いくつかの枝分かれをして、十二年を一回りした今振り返ると無 探検隊講座(史跡探訪)として、毎年市内四地域を巡る現地学習の講座 「常陸太田まちかど案内人の会」の行事として、常陸太田市生涯学習 センターと共催で行なっているエコミュージアム体験講座は、常陸太田 を深めている。 や秋田市内ボランティアガイドのお世話になり、茨城県と秋田県の交流 案内している。一方常陸太田で「祖先の歴史を守る会」や案内人の会の ど、馬坂城址や佐竹寺・正宗寺など秋田の人にとって関心のある場所を まちかど案内人の会では、この常陸太田を祖先ゆかりの地とする秋田 市の久保田城址歴史案内ボランティアの会のメンバーが見えられた時な ンターと共催で行なっているエコミュージアム体験講座などがある。 の道をご案内する必要があると考え、佐竹氏関係の歴史を学んだ。この として開催するものである。案内人の会員が学習センターの講座担当者 「まちかど案内人養成講座」がその後いろいろと発展して、 この(a) ボランティアガイドの活動を始めてから、いろいろな人との巡り逢いが 時には常陸太田市の生涯学習センターの講座だけでなく、県民大学の講 と一緒にコースの説明ポイントの下下見から始めて、更にコース案内の 研修で秋田方面を訪ねた時には、久保田城址歴史案内ボランティアの会 座等にも参加した。静岡県出身の筆者にとって佐竹氏の歴史は初めて聞 ― 14 ― すべて地域の史跡を巡って説明するもので、案内人の会員が行う。毎回 時間まで調べて下見まで行い、そのあと講座の説明資料を作る。講座は 馬坂城址・鶴が池 等) ・大中・小中の里めぐり(大中神社・小中の大石・小里城跡・菊池家 ・世矢の里めぐり②(安養寺妙観堂跡・旧塩の道・戦闘塚・弁天様・ 鹿島神社・瀬谷館跡・瀬谷金山跡・高橋塾(強盛塾)跡 等) もみじ・羽黒神社・泉福寺・小森明神古墳 等) 平成二十三年度 ・世矢の里めぐり①(木内玄民墓碑・旧日立電鉄線軌道・鷹房神社・ 小目館跡・高井館跡・普門寺・酉和館) ・里川の里めぐり(三鈷室山の碑・荷見家・素鷲神社・七反のシダレ ザクラ・プラトーさとみ・里美牧場) ・小妻・徳田の里めぐり(行石館跡(荒蒔城)・小里川発電所・旧棚 倉街道・境明神神社・大森家・小妻天満宮) ・大菅・小菅の里めぐり(豊田天功胸像・小菅郷校跡・小室家ヤマザ クラ・菅谷不動尊・円寿院) ・西金砂古道めぐり(西金砂神社・上宮河内ふれあいセンター・菊蓮寺) 平成二十二年度 ・上・中利員の里めぐり(鏡徳寺・熊野神社・利員城跡・常寂光寺・ 西光寺) 平成二十一年度 ・高柿・大方の里めぐり(高柿城跡・猫淵横穴古墳群・愛宕神社・堀 江家書院・大方鹿島神社・吉田神社) ・松栄・小島の里めぐり(香仙寺・旧鴨志田家・諏訪山古墳・星宮神 社・小島鹿島神社・直牒洞石仏・善光寺古墳群) ・山田の里めぐり(青蓮寺・猿田東風頌徳碑・田中愿蔵の生家跡・密 蔵院・松平城址 等) 数十人の講座受講生があり、案内人の会も説明班、コースの先導班、記 録班など総掛かりで行っている。 平成十八年度 ・金砂郷の史跡めぐり(阿弥陀堂・久慈郡衙跡・常光院・久米城址・ 正念寺) ・織物のふるさとを訪ねて(幡初地域)(阿弥陀仏と三十三石仏・長 幡部神・幡山古墳群・ (六号横穴線刻壁画)・古墳公園・古墳石室・寿松 院・永田円水の遺構) ・万葉の里を訪ねて(幸久地域) (河合神社・枕石寺・鹿島日吉神社・ 梵天山古墳・宝金剛院) ・太田城址の坂と蔵めぐり(太田城址市街の坂・梅津会館分室・蔵 等 巡り) 平成十九年度 ・電気見たけりゃ町屋にゆけ(町屋地区等) ・都々逸坊扇歌の古里を巡る(岡玄作の墓・天白羽神社 等) ・風土記久慈の里めぐり(東山古墳・星神社・香仙寺 等) ・真弓神社と世矢の郷めぐり(真弓神社・爺杉・大森地区 等) 平成二十年度 ・染和田の里めぐり (和久の勘兵衛・町田城址・町田郷校・町田焼 等) ・天下野の里めぐり(木村謙次と墓・坂本御殿跡と道城の井戸・東金 砂神社 等) ・佐竹氏発祥の里めぐり(白馬寺・山寺水道跡・佐竹寺・宝篋印塔・ ― 15 ― 陸太田の徳川と佐竹」 「佐竹氏発祥の地めぐり」の四コースに分けて、「常 前中に現地研修会として市内を「西山の里めぐり」 「鯨が丘の街歩き」 「常 内の二五団体、約二五〇名が参加した。この時には討論会に先立ち、午 最近の案内人の会の活動の中で大きな活動として常陸太田市を会場と した平成二十三年六月の観光ボランティアガイド茨城県大会があり、県 ・機初の里めぐり(幡山古墳郡・横穴墳と線刻壁画・稲田家大イチョ ウ・長幡部神社・森東貝塚・古墳講演等) ・西小沢・幸久の里めぐり(吉田神社・八幡橋・落合橋・防人の碑・ 枕石寺・都々逸坊扇歌の碑・峰山館跡) 文化)・若宮八幡宮(ケヤキ) ・梅津会館・法然寺・浄光寺 ・ 茨 城 県 立 太 田 第 一 高 等 学 校( 旧 講 堂: 国 指 定 馬場八幡宮(ケヤキ) 重要文化財)・太田(舞鶴)城址・ヨネビシ醤油(株)(醸造樽に巨木の コース ① 佐竹氏ゆかりのまちなみ この巨樹めぐりツアーはバスでめぐるコース一から四まであり、六時 間から六時間三〇分のコースであった。 れて説明をした。 また平成二十三年十月に全国巨樹フォーラム茨城・常陸太田大会が行 われた時には、全国から参加した約二〇〇名近い人達が、二日目に常陸 ・正宗寺(ビャクシン) ・茅根家(マツ) ・関家(カシ) ・ 瑞龍小学校(桜) 西金砂神社(イチョウ・サワラ) ・西山荘 コース ② 常陸秋そばの故郷と佐竹氏ゆかりの寺社 太田や大子町の巨樹巨木を見学する時、案内人の会員が四コースに分か 陸太田まちかど案内人の会員」が説明をした。 この茨城県大会は、筆者が平成十八年十月に長崎市で行われた全国大 会に参加して、その報告で茨城県大会の開催を提案していたもので、平 成二十年から始まり、県央・県西・県南に続いて、四回目に県北開催と なり、常陸太田市の会場で実施されたものである。 ちなみに、瑞龍小学校は創立一三八年の歴史に幕が閉じられ,五五名 の子どもたちは平成二十四年四月から誉田小学校に通学することになっ コース ③ 里山の風景と巨樹・巨木 た。 を元に、市民・観光客双方にとって魅力あるまちのあり方についての講 全体研修として常陸太田市観光物産協会の佐藤賢一氏による「東日本 大震災の被害現場で気づいたこと」のテーマで、古河市・土浦市の事例 演が行なわれた。また、氏は東日本大震災で大きな被害を受けた大船渡 ・大中神社(スギ)・菊池家(モミジ) ・猿喰の 御岩神社(三本スギ) ケヤキ・七反のしだれ桜・里美牧場・風力発電 地位域の歴史と文化を繋ぐ~、第四文科会常陸太田の黄門様検定と観光 ドの原点を探ろう、第三文科会「ガイドのレベルアップと後継者育成~ 分 科 会 で は 第 一 分 科 会「 ガ イ ド 活 動 の 充 実 化 ~ 魅 力 あ る キ ャ ッ チ コ ピーを創ろう~、第二分科会「まちおこしの魅力とボラアンティアガイ された。 氏(常陸太田市)の説明を受け、現地研修をした。 なお、この四コースについて、常陸太田まちかど案内人の会のメンバー が説明にあたり、事前研修として、全国巨樹・巨木の会々員の川上千尋 正宗寺(ビャクシン)・東金砂神社(モチノキ)・竜神大吊橋・近津神 社(鉾スギ) ・大子町立だいご小学校(ケヤキ) ・法龍寺(イチョウ・カヤ) コース ④ 竜神大吊橋と初秋の奥久慈 市を訪れ、これからの観光地まちづくりのあり方について問題提起がな ボアンティアのテーマで行われた。 ― 16 ― (財)徳川ミュージアムとのつながり 各委員会で約五〇名が任期二年で知事より委嘱されて、年度ごとに活動 アム)などの見学をしている。 の会へ入会後、友人・知人を誘って徳川歴史博物館(現・徳川ミュージ 戸徳川家の博物館や西山荘・瑞龍山などの管理運営をするところで、友 二十三年四月から「 (財)徳川ミュージアム」に名称が変わった)は水 文化を学ぶ機会が多くなり、それまで見たこともなく、聞いたこともな この「県北地域高齢者はつらつ百人委員会」では、応募した年度期初 の役員改選の時、副委員長の役が回ってきた。入会当時三部会制だった より、幅広く生きがいづくり・健康づくりの県民運動を展開している。 活動の内容は各種創造事業(スポーツ大会・ハイキング・ウォーキング・ 歴史散策・施設見学・健康体操・講演会・交流会・介護支援など)の実施に テーマを決めて活動している。 平 成 二 十 二 年 十 二 月 十 二 日、 水 府 明 徳 会 友 の 会 の「 水 戸 藩 開 藩 四 百 年」記念の集まりの時に初めて水戸徳川家夫妻にお会いして会話する機 い茨城県の文化を知ることができた。 数年前のこと、西山荘の案内をしていたある時、西山荘の関係者から 水府明徳会友の会に入ることを勧誘されて入会した。水府明徳会(平成 会があった。この後、水戸徳川家の案内で「日光東照宮の研修と流鏑馬 慈・しおざいの3ブロック)とし、地域別に事業を行うこととなり、百 委員会で、役員としていくつかの行事に参加して、茨城県のいろいろな 見学」に参加でき、更に夫妻とは平成二十三年十一月三日朱舜水の子孫 ただ県北地域の委員会は広い地域にまたがっているので、委員会活動 の活性化を検討し、翌年、県北地域を四ブロック(最近はひたち北・久 「まちかど案内人の会」 の活動から 「高齢者はつらつ百人委員会」の活動へ クごとの地域住民の参加が多くなり、活動が活性化した。、平成二十三 が一〇二年ぶりの瑞龍山の墓参の時にも挨拶する機会があった。 平成十四年のある時、水戸の団体から常陸太田の案内依頼を受け、佐 竹寺と正宗寺等を案内した。その時、水戸から常陸太田を訪ねた団体は 年度の活動の記録を見ると、各ブロックでほぼ毎月いろいろな事業が展 ると聞き、翌春、 「県北地域高齢者はつらつ百人委員会」の募集に応募 開されている。 人委員会の会報を発行して、相互の情報交換の場とした。 この結果ブロッ 「県央地域高齢者はつらつ百人委員会」で県北地域にも百人委員会があ して、五月から活動が始まった。 この会報はその後の委員会でひきつがれ、現在「県北地域高齢者はつ らつ百人委員会」のホームページで見ることができる。 健所の支援を受けながら、高齢者の生きがいづくり・健康づくり活動へ 城県社会福祉協議会茨城わくわくセンター)からの委託を受け、地域保 百人委員会委員との懇談会にも参加されている。 ているもので、知事は高齢者はつらつ百人委員会委員委嘱式や年度末の この高齢者はつらつ百人委員会の活動は、橋本知事も生きがいを持っ て生活できるためにと、これからの高齢者社会の活動の一つとして捉え 「高齢者はつらつ百人委員会」は高齢者の誰もが健康で心豊かな生活 が送れるよう、 高齢者が主体となった委員会を設立し、社会福祉法人(茨 の参加を進める県民運動である。 『高齢者はつらつ百人委員会』の活動からシルバーリハビリ体操の活動へ 茨城県立医療大学付属病院々 この高齢者はつらつ百人委員会で、当時、 委員会組織は県北・県央・県西・県南・鹿行の五地域で構成され、公 募による概ね六十歳以上の方一〇〇名(委員会当たり)からなり、毎春 ― 17 ― 齢者自身による「自助」 、地域社会で支え合う「共助」、公的制度の「共 は、各種のサービスのほかに家族、地域での支え合いが重要。家族や高 このような状況をふまえ、国では高齢者の自立支援のため、各種の事 業の見直しや検討がされている。高齢者の方々が自立した生活を送るに 十年後の二〇二五年には、高齢者人口はピークを迎える。 高齢化が急速に進行し、要介護状態の方々が増加している現在、平成 二十七年には「団塊世代」も高齢者(六十五歳)の仲間入りをし、その 康プラザホームページより) 康でいきいきとした生活を送れるよう支援すること)の推進にある。(健 このシルバーリハビリ体操のねらいは、介護予防(健康寿命の延伸と 生活の質の向上を図るため、できる限り要介護状態に陥ることなく、健 きいきヘルスいっぱつ体操」で構成されている他、嚥下体操等を含む。 常の生活を営むための動作の訓練にもなる「いきいきヘルス体操」や「い に筋肉を伸ばすことを主眼とする体操であり、立つ、座る、歩くなど日 このシルバーリハビリ体操は、リハビリ医療・介護の第一人者である 大田仁史先生が考案した体操で、関節の運動範囲を維持拡大するととも 回の募集では応募者が多く、約一年たってやっと受講できた。 ビリ体操指導士を養成すると聞き、早速応募したが、平成十七年の第一 講演に先立つ挨拶の時に茨城県では健康プラザを開設し、シルバーリハ ちなみに常陸太田市でのシルバーリハビリ体操の指導は体操教室(参 加者一〇人~二〇人)が三〇以上あり、毎週あるいは隔週に体操し、一 た。 フォーラムは平成二十四年二月に県北地域として東海村の会場で行われ ムでは大田仁史先生による基調講演の後、県北・県央・県西・県南・鹿 県域組織としてのシルバーリハビリ体操指導士会の第一回のフォーラ ム が、 平 成 二 十 二 年 十 一 月 に 笠 間 市 友 部 公 民 館 で 行 わ れ た。 フ ォ ー ラ ある。 めに、他市町村との交流研修会や県域組織でのフォーラムへの参加等が このシルバーリハビリ体操指導士の活動としては、各市町村ごとに市 内公民館等の体操教室などで指導しているが、指導士のレベル向上のた ね六十歳以上の一般住民を対象としている。 士の養成が進んでいる。なおこのシルバーリハビリ体操指導士はおおむ で三級指導士を養成できる一級指導士が現在一九市町村に生まれ、指導 四七〇九名に達している。この内、三級指導士の養成については、地元 指 導 士 の 養 成 は 平 成 二 十 七 年( 二 〇 一 五 年 ) 度 ま で に 一 万 人 養 成 の 目 リ 体 操 指 導 士 の 養 成 は 水 戸 市 に あ る 健 康 プ ラ ザ で 行 わ れ て い る。 こ の そのシルバーリハビリ体操指導士の活動は、当初モデル地区として平 成十六年に利根町で行われ、その後、平成十七年度からシルバーリハビ 長(現茨城県立健康プラザ管理者)の大田仁史氏の講演を頂いた。その 助」が、組み合わさり継続し機能することが重要と思われる。茨城県で 年間に体操に参加した市民は平成二十二年度には延二万人を超える状況 高齢化社会の進む中で、茨城県での生涯学習への取り組みとして「茨 茨城ゆうゆうカレッジへの参加 となっている。 行 の 五 地 域 代 表 に よ る パ ネ ル デ ィ ス カ ッ シ ョ ン が 行 わ れ た。 第 二 回 の 標 に 対 し て、 平 成 二 十 四 年 三 月 一 日 現 在 で 茨 城 県 四 四 市 町 村 全 体 で は は、「自助」 「共助」の体制づくりとして、「シルバーリハビリ体操指導士」 の制度づくりを行っている。 この体操は茨城県が全国で初めて行っているもので、最近、各地から の問い合わせを受け、講演の依頼があると聞く。 ― 18 ― 聞社の見学等それまでの生活では見ることの無かった最近の知識と情報 ろいろな分野の講義を聞くことができた他、筑波地区の各施設とか、新 県北地区の学園は茨城キリスト教学園で行われ、講座は六月から十二 月まで(八月は休み) 、ほぼ毎週一日行われ、この学園生活の中で、い レッジであったが、この制度は平成十八年度で終了した。 このゆうゆうカレッジは県内の高齢者(六十歳以上)を対象として県 内五地域に設けられ、茨城県の教育長を総学長とする、二年間学べるカ の倍率の中で、幸運にも入学することができた。 地区学園九期生の募集に応じたところ、定員四〇名に対して、一五〇% 容や課外活動としての同好会の活動を説明した。同好会活動の中では、 時、学園から「ゆうゆうカレッジ」に一コマ出演の依頼があり、講座内 NHK TV放送への出演 NHK水戸放送局がTV放送を始めた頃、県内各地の高校等の活動を 放送する番組があった。その中で茨城キリスト教学園の放送が決まった の長寿の源を知ることができたことも思い出として残る。 三〇〇人近い参加者を集め「黄門様の食卓に学ぶ」と題した徳川光圀公 土文化顕彰会の役員会でご一緒出来た。この時、高齢者はつらつ百人委 このゆうゆうカレッジの中で「高年層の健康と食生活」の講義を聞い た、 当 時 茨 城 キ リ ス ト 教 大 学 教 授 の 落 合 敏 さ ん と、 二 年 後 に 茨 城 県 郷 城ゆうゆうカレッジ」の制度があり、平成十七年(二〇〇五年)の県北 を得ることが出來た。 す活動を紹介した。 TV画面を考えて、俳句同好会での短冊を使った展示と紙飛行機を飛ば 員会の事業としての講演をお願いし、その講演では常陸太田市の会場に ゆうゆうカレッジでは講義を聞くだけでなく、いろいろな同好会が立 ち上がり、卒園後も活発な活動が行われている。その同好会の中にパソ この青春十八切符を使って、仙台の七夕祭りや水郡線(平成二十三年に の散策を楽しみ、俳句の吟行をするもの。ゆうゆうカレッジ在学中には 最近届いたメールは青春十八切符の旅の誘いがある。一二人の仲間が JRの高萩・日立・多賀・大甕の各駅から乗り、一日、東京三鷹地方で してメンバーの間で、パソコンのメールが有効に使用されている。 使用者が卒園時には全員が使えるようになっていた。現在では同窓会と コンの勉強会を行なった。この結果入園当初約五〇%であったメールの 県 北 ゆ う ゆ う カ レ ッ ジ の メ ン バ ー が 五 市 一 村 に わ た る こ と か ら、 カ レッジの初めに、相互の情報交換のためにパソコンの活用を考えてパソ でのTV出演の経験はその後の二団体の出演の時に出演者の皆さんに事 会」が二日にわたって放送された。筆者にとって「ゆうゆうカレッジ」 陸太田地域家庭博物館網」と「常陸太田市シルバーリハビリ体操指導士 翌年、NHK水戸放送局が県内の市町村の民間の活動を紹介するとき に常陸太田市は5団体の活動が紹介された。その中で筆者の属する「常 NHKテレビ出演は関係者にとってまたとない貴重な経験であった。 れる『あと**秒』の看板との戦いで何とか五分程度に収まった。この いた。その後各人が時間を短縮する努力をし、放送中にスタジオで示さ クターの前で行ったのが初めてで、そのときの所要時間は八分を超えて コンの活用がある。 愛称が「奥久慈清流ライン」に決まった)の旅などシニアの仲間の友好 前に、生番組の状況を伝えることができた。 放送はわずか5分の生番組だったが、春休み中の事で、事前に全員揃っ ての確認がとれず、全体を通した全員の説明は放送局の控え室でディレ の旅に愛用した。 ― 19 ― ・常陸太田市収蔵文化財曝涼の見学 一緒にいろいろな活動を計画した。 高齢者はつらつ百人委員会で一緒に活動したSさんから茨城県郷土文 化顕彰会への参加を勧誘されて参加した。郷土文化顕彰会ではTさんと 茨城県郷土文化顕彰会での活動 茨城県郷土文化顕彰会の伝統文化・美術顕彰 大雄寺は徳川光圀が水戸藩に招聘した明の国出身の禅僧東皐心越ゆか りの寺である。大雄寺への往路で、徳川斉昭公が殖産政策として進めた 郷土文化顕彰会の平成二十年度の事業として栃木県大田原市の黒羽山 大雄寺顕彰バスの旅を行った。 黒羽山大雄寺顕彰バスの旅 いる。また展示館には波山由来の品々と、下館に残る小品、素描、下絵、 跡)と六十余年の創作の舞台であった東京田端の工房が移籍展示されて 記念館の敷地内には、波山が生まれ、幼少年期、晩年の一時期を過ご し た 板 谷 家( 創 建 は 江 戸 中 期。 木 造 平 屋 建( 昭 和 四 十 年 茨 城 県 指 定 史 は初の文化勲章受章者である。 ・板谷波山記念館 板谷波山(一八七二年(明治五年)~一九六三 年(昭和三十八年))は日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家として れた。 昭和五十二年の「伝統的工芸品」の指定は一七二名の団体として指定さ の指定では三種の作業に二人ずつ、合わせて六人が人間国宝に指定され、 昭 和 五 十 二 年 に は「 伝 統 的 工 芸 品 」 に 指 定 さ れ た。「 重 要 無 形 文 化 財 」 ・つむぎの館 古代の結城紬の技法は工芸の灯りを絶やすことなく 今日に伝えられ、昭和三十一年に国の「重要無形文化財」に指定され、 寺を訪ねた。 郷土文化顕彰会の平成二十一年度の事業として国道五〇号沿線にある 伝統文化と美術の顕彰を行った。 その顕彰先として、つむぎの館(結城市)、続いて板谷波山記念館及 びしもだて美術館(筑西市)を見学し、その後、桜川市の小山寺・月山 小砂焼を見て、復路では那須国造碑と上・下侍塚古墳を顕彰した。 常陸太田市では平成十八年に西光寺(下利員:旧金砂郷町)の国指定 重要文化財「木造薬師如来坐像」と県指定文化財「木造仁王像」の修復 完成を記念して、従来、正宗寺で行われてきた「収蔵文化財の曝涼の日」 に合わせて、多数の国・県・市指定の文化財の集中曝涼を行うことになっ た。 そこで茨城県郷土文化顕彰会では県内に広く参加者を募集して、「収 蔵文化財鑑賞バスの旅」を実施した。約五〇人の参加者は普段は公開さ れていない文化財を身近に鑑賞して秋の一日を楽しんだ。 ・郷土資料館 螺鈿蒔絵香盆(県指定)宇佐美大奇筆山水図屏風(市 指定)佐竹氏関係寄託資料等 ・若宮八幡宮(郷土資料館で公開) 僧形八幡画像(市指定) ・正宗寺 雪村筆滝見観音図(県指定) 十一面観音菩薩坐像(同) など二六件 ・梅照院 銅造阿弥陀如来坐像(市指定) ・普門寺(梅照院で公開) 木造十王坐像(市指定)、木造多聞天立像 (市指定)不動明王像(市指定) ・青蓮寺 木造阿弥陀如来立像(県指定) ・西光寺 木造薬師如来坐像(国指定)木造仁王像(県指定) ・菊蓮寺 木造千手観音立像(県指定)木造多聞天立像(同) 木造 女神像(同) ― 20 ― 愛用の品を常設している。 ・しもだて美術館 茨城工芸会創立八〇周年を記念した「茨城工芸 会展」 (十月十七日~十二月十三日)を見た。 ・小山寺 小山寺は天台宗の寺で、寺伝では天平七年(七三五)、聖 武天皇の勅命により、行基菩薩が開基したと伝えられている。江戸時代 には、徳川幕府より御朱印二〇石を拝領している。 ・月山寺 月山寺は天台宗の寺で、曜光山見明悟道院と称し、関東八 カ檀林の一つになっている名刹である。本山は比叡山延暦寺。 奥久慈大子七福神めぐり 茨城県郷土文化顕彰会の事業として奥久慈大子七福神巡りの計画があ り、役員三人でその下見をした。 自然の恵みに包まれた、奥久慈大子には由緒ある多くの寺院があり、 それぞれ七福神のひとつを祀っている。 奥久慈大子の七福神巡りは、寿老人、布袋尊、福禄寿、大黒天、恵比 寿天、弁財天、毘沙門天、寿老人の神々全行程約四八キロ。大子町の観 光名所を巡るコースで、観光スポットが随所にあり、楽しみながら巡る ことが出来る。 ・長福寺(一番) 寿老人 健康・長寿の神 長元二年 一 ( 〇二九 に ) 律宗の寺として、梅閑律師が建立。 ( 四七〇 佐 ) 竹氏の一族で城主の小川和泉義房が、 その後、文明元年 一 大通詮甫禪師を招いて律宗から曹洞宗となった。 ・龍泰院(二番) 布袋尊(ほていさま) 福徳・円満の神 天文の時代(元年は一五三二)に創建。開山は、足利市長林寺の五世 天山正繁禪師。 ・実相院 三 ( 番) 福禄寿(ふくろくじゅ) 長寿・立身出世の神 ( 五四三 に ) 建立。江戸時代天保期の水戸藩寺社整理で、 天文十二年 一 宝泉寺、金性寺などを集合。真言宗豊山派で如意山宝珠寺と号し、本尊 は大日如来。 ・慈雲寺(四番) 大黒天(だいこくてん) 五穀豊穣の神 ( 一五二 に ) 意 教 上 人 が 開 山。 か っ て、 徳 川 家 の 加 護 を 受 仁平二年 一 け隆盛を誇った寺で真言宗智山派で金剛山千手院と号し、本尊は千手観 世音菩薩で弘法大師の作といわれる。 ・高徳寺(五番) 恵比寿(えびす) 漁業・商売繁盛の神 ( 五五八 、常 ) 陸太田の耕山寺一二世、舜霊文芸和尚が開山。 永禄元年 一 鳳林山阿弥陀院と号し、本尊は釈迦如来で開山時のものが安置されてい る。 ・性徳寺(六番) 毘沙門天(びしゃもんてん)勇気・商売繁盛の神 ( 四九〇 、)本堂を下野宮から移したもので、法印宥貴が 延徳二年 一 建立にあたった。 ・永源寺(七番) 弁財天(べんざいてん) 芸能の神 文安三年 一( 四四六 に) 創建。曹洞宗で臥雲山と号し、本尊は釈迦如来。 一八六四年天狗党の乱で寺の太半を焼失。現本尊堂は一九五三年に再建。 二孝女顕彰会の活動に参加 郷土文化顕彰会で常陸太田市収蔵文化曝涼の時に拝観した青蓮寺で は、最近、曝涼の時に平成二十二年九月に市指定文化財となった 「二孝女」 関係の古文書(「つゆ」と「とき」の二姉妹の手紙など)を展示している。 昨年(平成二十三年)の六月に東海村に住む大分県出身の友人からの 電話で「十月に臼杵市から五〇人の団体が青蓮寺に来る」と聞き、青蓮 寺の住職に問い合わせたところ、臼杵市(豊後国)からの青蓮寺への訪 問団があると言うことだった。 ― 21 ― による、二孝女学習発表や二孝女顕彰碑の前での「きっちょむ史談会々 が行われた。そのあと青蓮寺の近くにある常陸太田市山田小学校三年生 江戸時代後半のこと、浄土真宗開祖・親鸞上人ゆかりの地を巡る旅に 出た豊後国の農民初右衛門が、旅の途中で患った病が悪化し、青蓮寺で 員の詩吟等が行われた。 (追記:常陸太田市山田小学校三年生による二孝女学習を報告するホー 倒れ、寺の離れに住まわせてもらい、住職夫妻や村人らの世話で養生を 続けた。 ムページが、いばらきの魅力再発見事業「学校ホームページコンクール」 夜に入り、交流会第三部では二孝女の子孫や当時初右衛門の世話をし た医者や薬屋の子孫達が紹介され、その後きっちょむ史談会による盆踊 ときが二〇〇年前に見た木造阿弥陀如来立像を拝観し、また、つゆ・と ‘ 人たちの話では九重 ‘夢 大吊橋は揺れるが、竜神大吊橋は揺れないか ‘ に出会い、病に臥せている初右衛門のことを知った浄範は、豊後に戻る りや「吉四六」に扮した幼稚園の先生による吉四六話が繰り広げられ、 で県知事賞を受賞した。) と早速初右衛門の家族に伝えた。父のことを知った二人の姉妹は、豊後 交流会は夜遅くまで続いた。 それから七年たった文化八年(一八一一年)京都西本願寺で行われた 親鸞上人五百五十回忌で、全国各地から多くの僧や信者が京都に集まっ 国から三百里の道を二か月かけて千辛万苦の旅をして青蓮寺に辿りつい それから後の二〇〇年を記念して、平成二十三年十月に臼杵市(豊後 国)から二孝女の子孫と野津町きっちょむ史談会の会員達が、青蓮寺を ら安心して渡れるとのこと。その後、青蓮寺に行き、初右衛門とつゆ・ た。その中で、初右衛門の菩提寺の住職浄範と青蓮寺の住職証吟が偶然 た。 翌日は竜神大吊橋(大分県に九重 ‘夢 大吊橋が出来るまでの日本 一長い大吊橋)を渡った。その時の臼杵から来た「きちょむ史談会」の 訪問するとのことで、この訪問団に対して、平成二十三年五月に立ち上 がった常陸太田の二孝女顕彰会との交流会が行われると知った。 等を見た。 た。 「きちょむ史談会」の臼杵への帰路、二孝女物語に出てくる枕石寺・ 河合神社はバス車中で説明して、那珂市の阿弥陀寺で皆さんとお別れし き の 二 姉 妹 が 豊 後 国 か ら 青 蓮 寺 に 出 し た 手 紙( 常 陸 太 田 市 指 定 文 化 財 ) そ こ で 早 速 二 孝 女 顕 彰 会 に 参 加 し、 一 泊 二 日 の 訪 問 団 の バ ス が 交 流 会々場の青蓮寺に向かう途中、西山荘と佐竹寺を案内し、そのあと、バ ス車中で街を案内しながら、交流会場の青蓮寺へ向かった。 交流会は「二孝女」つゆとときの子孫をはじめ、臼杵市で「二孝女」 の物語を伝承する「野津町きっちょむ史談会」の会員達が、七年間も寺 豊後国の「つゆ」と「とき」が常陸国で父と再会する十年前の享和元 「二孝女物語」の評価 従来と最近 青蓮寺に到着した時、青蓮寺の住職が「ようこそいらっしゃいました。 や村人に世話になった父初右衛門と二姉妹「つゆ」と「とき」に扮して 二〇〇年ぶりですねと」出迎えることから始じまった。 当時、貨幣経済の発展・浸透とともに貧富の差が激しくなり、犯罪も 年 一 ( 八〇一 、)江戸幕府は全国の孝行者、忠義者、奇特な人、農業に 精を出している人などの事例を集めた『孝義録』という本を編纂した。 ・ 「きっちょむ史談会」関係者の挨拶、常 交流会では「二孝女顕彰会」 陸太田市大久保市長の来賓祝辞や水戸徳川家十五代当主の親書の披露等 ― 22 ― れた社会の秩序回復を図るべく、『孝義録』によって、庶民に善行や忠義、 頻発した。農民は耕作を放棄し、富が集中する都会に流れた。幕府は乱 係の史料は見当たらなかった。 平成十七年三月、秋山さんは臼杵市野津町に取材に行き、タクシーの 運転手に聞き、供養碑を探し当て、さらに子孫の川野勝行さん宅を尋ね 周辺の古老や檀家を尋ねても記録は出て来なかった。 同じころ、秋山高志さんは、水戸藩の役人が著した『水戸紀年』に数 行「二孝女」の記述を見つけ、友人の野上平さんの協力を得て、青蓮寺 本業精励を訴えた。 こうした背景もあって、水戸藩は金品を姉妹に与え、帰郷の手配をす るほど心を配った。当時の水戸藩々主七代治紀(はるとし)が掛け軸を 贈ったという記録もある。 時に親子に渡した。また青蓮寺を出て、河合村の枕石寺に立ち寄った時、 いた親子の話を、 『豊後国川登二孝女物語』として纏め、別れの挨拶の 上人、農民ら各層の人々が二人に贈った短歌や漢詩等が張られていた。 川野さん宅では古ぼけた木箱に入っていた「つゆ」と「とき」が持ち帰っ た短冊帳や巻物等を見る事が出来た。その短冊帳には、常陸国の武士や る事ができた。 枕石寺の住職西天は近郷近在の文芸愛好家たちが姉妹の孝心を称賛して 秋山さんは水戸に戻り、本格的な調査に入るために歴史家や旧知の学 芸員ら十三名で「二孝女研究会」を立ち上げた。 査研究員、常陸太田市在住)によれば、「烈公・9代藩主斉昭の時代に は、檀家(門徒)が住職の実家である東海村の願船寺に預けていた。 ― 23 ― 二人の姉妹が父を連れて豊後国へ帰る時、初衛門の病を治療した水戸 藩領東蓮寺村の在郷医猿田玄碩が往診中に目にしたことや関係者から聞 詠んだ詩歌や文を集めて入れた木箱を贈り物として初衛門に渡した。 史実を伝える二孝女関係の書簡類が青蓮寺で見つかったのは今からわ ずか7年前。 藤井智住職によれば、その文書類は住職の実家である願船寺に預けら れていた青蓮寺関係の長持ちの中に保管されていたという。 この「二孝女」の話は臼杵市では「豊後国の二孝女物語」として盆踊 りの歌としても語り継がれ、孝女の供養碑が残り、地元小学校の校歌に も登場する。 一方常陸国では藩をあげて姉妹を厚遇し、近郷近在の多くの庶民が心 を動かされた物語が伝承されなかった。 青蓮寺では昭和二十年、先代の住職が亡くなった後、二人の娘がしば らく寺を守ってきた。その娘達も他界し、先代の親戚にあたる藤井住職 が 年前に寺に入るまで、無住だった。寺に残っていた掛け軸や文書類 台頭した藩政改革派の存在や、斉昭が断行した廃仏稀釈(仏教排斥)の 藤井住職によれば、長持ちの中にあった紙包みの中身が何であるかわ からない時、掛かり付けの歯医者に話した所、同じ歯医者に掛かってい 二孝女研究に努める秋山高志さん(元目白大学教授(近 これに対して、 世文化史) 、水戸在住)と野上平さん(常陸大宮市歴史民俗資料館の調 政策が封印したのでは」と推測している。 平成十八年三月、「二孝女研究会」は資料集「豊後国の二孝女」を刊 た野上さんに話が繋がり、臼杵藩江戸屋敷から青蓮寺宛ての手紙や姉妹 からの礼状など一七通の書簡であることが判明したという。 史談会事務局から青蓮寺に問い合わせた時には青蓮寺には「二孝女」関 地域の歴史・文化を後世に残す活動をしている「野津町きっちょむ史 談会」にとって、史実か言い伝えかはっきりしないために平成十六年に 10 橋本さんは豊後国二孝女研究委員会(代表 秋山高志)の協力を受け、 父である同研究会副代表の野上平さんの指導のもとに、平成二十二年九 成十九年常陸太田市出身の著述業、橋本留美さんに話が持ち込まれた。 界も注目し始めた。一般の読者向けに現代語訳を求める声が高まり、平 行した。初版は五〇〇部、その二ヵ月後に増刷、歴史家だけでなく教育 と別系列の記録を基にしていると推定される。 四年)中の「豊後二孝女」の部分。本稿は常陸国に伝存する孝女伝 本稿は大分県立高等女学校校友会編『大分県婦女善行録』(大正 月に 「実話 病父を尋ねて三百里 豊後国の二孝女物語」(編集 野上平) を刊行した。 こ の 現 代 語 訳 の「 病 父 を 尋 ね て 三 百 里 」( 英 文 要 約 付 ) が 発 行 さ れ、 豊後国(大分県)と常陸国(茨城県)を結ぶ「親孝行姉妹の壮大な感動 の物語!」として「二孝女物語」の話題が急速に広まった。 ある。しばらく無住の時があったが、関係者の努力により寺宝や文 鸞廿四輩の一人性澄の開創といい、廿四輩の寺第八番の著名な寺で 3.青蓮寺文書(常陸太田市 青蓮寺蔵) ・臼杵藩留守居役平生忠剛より青蓮寺宛て書簡 九通 ・臼杵藩留守居役平生忠剛より水戸藩庁宛口上手控 一通 ・善正寺浄範より青蓮寺宛て書簡 四通 ・つゆ・ときより青蓮寺宛書簡 二通 ・善正寺より徳薗寺宛書簡 一通 常陸国久慈郡東連寺村(現常陸太田市東連地町)は水戸藩であり、 ( 二一八 に )親 そこに在る皇跡山青蓮寺(浄土真宗)は建保六年 一 常陸太田市では青蓮寺で発見されたこれらの書簡を「豊後国二孝女関 係資料」として、平成二十二年九月に常陸太田市の文化財に指定し、同 年十月には青蓮寺の境内に顕彰碑が建立された。 書記録類の保存状態は良い。 う劇職の重役ながら、水戸藩との格差や農民の扱い方その他難しい 青蓮寺宛ての書簡にある平生左助は臼杵藩江戸邸の留守居役とい れた)され、十月十三日に「野津町きっちょむ史談会」を中心とする、 また平成二十三年五月に「二孝女顕彰会」が設立(当初の発足予定は 平成二十三年三月であったが、東日本大震災発生により、設立が延期さ 臼杵市からの使節団を迎え、青蓮寺で交流会が行われた。この使節団に はあたかも肉声を聞く感があり、浄土真宗の人々の信仰心が実によ とくに臼杵市立図書館本の附録にある初衛門・とき・つゆの談話 物語」と思われる。 図書館の祖本は「つゆ」と「とき」が持ち帰った「豊後国二孝女 写本一冊 猿田敬著 交渉を円滑に進めた円満篤実な性格と能力が伺える。 4.「豊後国川登二孝女物語」(臼杵市図書館蔵) は「二孝女」の子孫である川野勝行・美智代夫妻も含み、「二孝女」が 常陸国を尋ねてから二〇〇年ぶりの訪問となった。 「豊後国の二孝女」 紹介資料(古文書等)目次と解説より抜粋 「文化史捿」 ( 「臼杵市教育委員会蔵) 1. 「文化史捿」という。 く理解できる。 5.『豊後国二孝女物語』(茨城県立歴史館蔵) 豊後国臼杵藩の藩庁記録「御会所日記」の文化年間の書き抜きを 本書は文化八年条の二孝女に関する部分である。 2. 「豊後二孝女」 ( 『大分県婦女善行録』より) ― 24 ― 藩領東蓮寺村の在郷医で、名を敬、字を子敬、称を玄碩といった。 著者の猿田敬(明和三~文政五年・一七六六~一八二二)は水戸 写本一冊 猿田敬著 (注:「豊後国の孝女」には短冊帖・巻子本纏めて作者数一五〇名 の地域別・性別・職業別の表がある。 参考文献 作者は一六人 巻子本一巻 作品一四 (漢詩七、和文五、和歌一、画と和歌一) 医学を古医方の重鎮で水戸漢医の原南陽に、文学を水戸藩彰考館総 豊後国の二孝女「病父を尋ねて三百里」(朝日新聞 平成二十三年十 月九日十一日十三日) ― 25 ― 裁立原翆軒に学んだ。茨城県立歴史館蔵の写本を作った人物は水戸 藩士凹斎長谷川恭近。 臼杵市立図書館の組本は二孝女の持ち帰った「豊後国二孝女物語」 であろうが、茨城県立歴史館本と臼杵市立図書館本は、序文、附録 の有無、引用資料や人名地名の差異から、同一の粗本から発達した と考えられる。 6. 「孝女伝」 (土浦市立図書館、水戸秋山高志氏蔵) 写本 一冊 西天 著 ( 歴十一~文政五年・一七六三~一八二二 は ) 水戸藩領久 西天 宝 慈郡上河合村内田山枕石寺(浄土真宗・親鸞廿四輩の寺第十五番) 住職。漢籍に詳しく、詩文に善しい。 「孝女物語」 (東京大学史料編集所蔵) 7. 写本一冊 伴資富 著 水戸藩士丹羽五郎作久福(大番組)の弟忠三郎久喜は同藩の伴家 を嗣ぎ忠三郎資富と改称し、扈従人組に入る。忠三郎の母は青蓮寺 住職即證の娘、つまり證吟の伯母にあたり、二孝女が水戸藩寺社奉 行に召出された時に同道したという。 「 贈 (短冊帖 臼杵市 川野勝行氏蔵) ( 孝女二子言」 8. 短冊帖一帖には一〇〇点(和歌四一、俳句六二 一紙に複数句あ り) 「 贈 (巻子本 臼杵市 川野勝行氏蔵) ( 孝女二子言」 9. 顕彰会の現地研修 月山寺にて 四つんばいの進化論 野 上 光 子 立って歩くはずのわたしが四つんばいになってしまったのは稲 株においかぶさって繁る水草を取るために幾年となく泥田を四 つん ば い に な っ て 居 た た め と 信 じ て い る 母もそして祖母もいっそ四つんばいになって水草を取りつくし たいとどんなに願っていたろう そんな思いを祖母から母へ母 からわたしへと徐々にいっぱいに受けついで ついにわたしは 四つんばいになり それは泥田の水草取りには一ばん適応した 体の型だろうとあくまでもあくまでも泥田の草を取るための手 足と な っ た キリンの首はなぜ長いか それは祖先のキリン達が高い木の実 や葉を食べようと代々首を伸ばしていたからだという進化論を 信じれば四つんばいになった事も納得ゆく事であった こなぎを取りつくしうりかわを取りつづけて水草を取りつくし た 泥田に残した黒い水草の球根までさがして このまま生涯 四つんばいの方がふさわしいだろうと納得する人もいた そんな草取りの時期を少しすぎたころ 四つんばいについての 進化論の記事をみかけた 進化論では獲得形質が遺伝するとな り 小さく先祖は四つんばいで歩いていたとあった 鏡 草の一節が鏡であったと云う錯覚にとらわれていた わたしは 背負い篭の中でまだ濡れている草を丹念に捜すのだがきまって 鏡は見あたらなかった おそらく刈り取った草の中に見失ったのかとわたしの惑いは 長い間自分の顔を見ていない不安を巻き込んで渦を大きくして いった 刈り取る草のざわざわとした草ずれに 自分の顔がだんだんと 削られ 何年も鏡を見ないうちに 顔は刈り取った草の中に粉 末のように落ちてしまっているかもしらない あるいは顔のあとのもう陥没した内部に刈り取った事もないつ ゆ草ににた茎が垂れてはしまいか 見なれた丘にひるがおの咲きかけた花をほこ形の葉がつつんで その向こうの暮れかけた空の裂け目に自ら沈んで行く 沈みな がら丘も傾斜して 暮れて行く空のずっと下の闇の方向から 一筋の光がやわらかなほこ形の葉をてらしている 確かに鏡であった その光に向かって自分の顔を照らそうとすれば 光ははるか闇 の向こうに小さくなったりした 小さくなりながら確かに光の 中に裂開果形の顔らしき影がかたい実をはじきとばしていた ― 26 ― 稲 いつも あるいは夢だったのではないか とく り か え す 風 景 の 中 に より 野 性 種 の 籾 種 を 蒔 く それが植物資源収集館の金属の棚にこぼれ落ちていた雲南省の 在来 種 の 籾 種 だ っ た と し て も 花は と に か く 雄性 不 稔 の や さ し い 花 退化 し て ゆ く 雄 花 は こお ろ ぎ の 脱 皮 の し ぐ さ で つり ふ ね の 花 首 深 く 吸い こ ま れ そ う に な っ て い る 吸い こ ま れ そ う に な り な が ら も 出穂 期 に は 雑 種 一 代 の 多 収 稲 の 籾 種 の 輪 郭 が いく ぶ ん 胚 芽 の 部 分 が 欠 け て は い る が こお ろ ぎ の 声 を いっ ぱ い に の み こ み ふく ら ん で 白い 畦 に 影 を つ く る 何世 代 も 雄花 は 脱 皮 し な が ら 退 化 し て ひとつの品種となりながらも雄花は岩の様になって肩から先に 籾殻 の 表 皮 を 風 に 向 っ て 脱 皮 し て い る 地図帳 谷津田の多い八田地区の地図帳を開けた 何年も耕作されない荒れた畑に老人が立っていた その隣接地に、やはり何年も何も蒔かないわたしの畑がある 白いはこべらの花を茂らせ、錆びたにおいをさせた 老人もわたしも、耕されていた時の畑を遥な空に映して立って しまっている 地図帳には畑の地目の印でも本当の畑は荒野に変って、やがて 木を茂らせてしまう そして、その時わたし達は畑に休耕の立て札を立てる そんな地図帳の畑を鳥型に折り、果てしない夢野に放しながら 地図帳を閉じる ― 27 ― 原種集 もう一株の隙間もなく 原種ばかりの山草を集めた一冊の表紙 は 赤い岩山の地に蔓りんどうの球果を這わせて綴じた 表紙 を め く る と 山 道 は 下 り 坂 に な っ て 薄葉 細 弁 の 花 の 群 花を咲かせては採種し また花を咲かせて もう一株の隙間もないのに はじけとんだ種がいちめんに発芽 して い る 風に吹かれて白というよりは乳色に近い風になった胞子は か るかやのしげみに ゆれては吹かれようとしていた そし て 羊 歯 は 一 株 の 変 種 を つ く っ た こぼれた花粉は座禅草の花芯に向って暗い腐葉土深く落ち 花 芯は茎のようにやわらかくなりながら実をむすび つぎ つ ぎ と 変 種 が 発 芽 し た 突然変異の種は種内にその変異をためて 同じ方向にむかって 洪水のように頁をめくって行く 足下の谷底からいっせいに延齢草の茎が伸び出し頂端の広卵形 の葉が淡紅色の花をかくしている 葉のゆれるたびにめくれて ゆく 原種集 めくられて行き止りは 岩肌にからみついた蔓の原種 細い根先に根瘤をのぞかせて突然変異の息をひそめて裏表紙の 方まで根を伸ばしている 蔓はやがて花さき根瘤を落し もうまめ科ではない それでもぐるぐると巻き付いた根先が赤い岩山を少しづつこぼ してゆく もうめくれない原種集から こぼれ落ちる花粉が 向原のきん ぽうげの花色を変え細弁の花に向って吹かれようとしている ― 28 ― 常陸太田市の梨 の庭に植えることを避けたり、「ありのみ(有りの実) 」という反対の意 味をもたせた呼称が用いられることがある (忌み言葉) 。しかし、逆に「無 し」という忌みを用いて、 盗難に遭わぬよう家の建材にナシを用いて「何 の良い利用法も存在する。 も無し」、鬼門の方角にナシを植えることで「鬼門無し」などと、縁起 ナシ(梨)は、バラ科ナシ属の植物、もしくはその果実で、主なもの に和なし(日本なし) 、中国なし、洋なしの三種があり、食用として世 渡 辺 敦 子 界中で栽培されている。 日本でナシが食べられ始めたのは弥生時代頃とされ、登呂遺跡などか ら多数食用にされる根拠の種子などが見つかっている。ただし、それ以 また黄緑色でリンゴに似た直径一〇~一八㎝程度の球形の果実がなり、 メートルほどの落葉高木で、八月下旬から十一月ごろにかけて、黄褐色 和 な し は、 中 国 を 原 産 と し て 中 国 や 朝 鮮 半 島、 日 本 の 中 部 地 方 以 南 に自生する野生種ヤマナシを基本種とする栽培品種群である。高さ一五 する記述がある。 持統天皇の六九三年の詔において五穀とともに「梨」などの栽培を奨励 考えられている。文献に初めて登場するのは『日本書紀』(七二〇)であり、 周辺のみであることなどから、大陸から人の手によって持ち込まれたと 前の遺跡などからは見つかっていないこと、野生のナシの自生地が人里 食用とされる。果肉は白色で、甘く果汁が多い。これは、石細胞と呼ば 細胞壁が厚くなったものである。 和なしに多く含まれるため、しゃりしゃ 〔三十持統〕 七年三月丙牛、詔令下天下勧二殖桑紵梨栗無菁等草木一以助中五穀上、 れるもので、ペントザンやリグニンという物質が果肉に蓄積することで りとした独特の食感がある。 江戸時代には栽培技術が発達し、一〇〇を超す品種が果樹園で栽培さ れていた。松平定信が記した『狗日記』によれば、 「船橋のあたりいく。 明治時代には、現在の千葉県松戸市において二十世紀(にじっせいき) が、現在の神奈川県川崎市で長十郎がそれぞれ発見され、その後、長ら は、既に梨の栽培が盛んだったことが分かっている。 とあり、現在の市川から船橋にかけての江戸近郊では江戸時代後期頃に しては花も咲かじと思ふが、 枝ののびやかなければ、花も実も少しとぞ。」 梨の木を、多く植えて、枝を繋ぐ打曲で作りなせるなり。かく苦しくな ナシの語源には諸説があり、 ・果肉が白いことから「中白(なかしろ)」あるいは「色なし」 ・風があると実らないため「風なし」 「甘し(あまし) 」 ・ ・ 「性白実(ねしろみ) 」 江戸時代の学者荒井白石は中心部ほど酸味が強いことから「中 他には、 酢(なす) 」が転じたものであると述べている。 また、ナシという名前は「無し」に通じることからこれを忌んで、家 ― 29 ― 祥の松戸市を含む関東地方では現在あまり栽培されなくなっている。 表的品種になるであろうとの観測と願望を込めて新たに命名された。発 一八九八年に渡瀬寅次郎によって、来る新世紀(二十世紀)における代 一八八八年に現在の松戸市で、当時十三歳の松戸覚之助が、親類宅の ゴミ捨て場に生えていたものを発見した。松戸は「新太白」と名づけたが、 青梨系の代表的な品種で中生種。和なし生産の一三%を占める生産量 第三位の品種である。鳥取県産なしの八割を占める。 二十世紀 良が行われた。 たのだが、多くの早生種を含む優良品種が多数発見され、盛んに品種改 県、千葉県から導入した苗木の中から山田氏が異品種を発見し、近隣に 小雪、常花、太平、早生赤、奥六などであったが、明治三十年代に埼玉 梨栽培がふえて現在の常陸太田の産地のもとになった。当時の品種は、 同三之介、井阪春太郎の三氏が新植し、明治末期から大正初期の両村は 三十三年になると同氏の指導のもと、燐村西小沢村沢目の根本久太朗、 田定雄氏宅の庭先に記念碑が建てられている。当時は経営のごく一部に 世矢村豆飼(常陸太田市小目町豆飼)の山田吉郎平氏が、水田単作地帯 て い た。 洪 水 の 被 害 を 受 け に く い 落 葉 高 木 の 梨 を、 明 治 十 年 旧 久 慈 郡 「常陸太田市史」によると、久慈川下流域の茂宮川、落見川、里川で 囲まれた地域はたび重なる洪水に見舞われ、畑作物が定着せず、苦慮し 〈「太田なし」栽培のはじまり〉 長十郎 発し、一時減反したが大正七~九年に石灰ボルドー液の使用が実用化し くナシの代表格として盛んに生産されるようになる。一時期は全国の八 赤梨系の中生種。かつては和なしを代表する主要品種であったが、現 在はあまり生産されていない。 が結成され、昭和一一年には組合員四八名による常北愛梨組合に発展し 割を長十郎で占めるほどであった。また、それまでは晩生種ばかりだっ 一八九五年に川崎市で当麻辰次郎(長十郎は屋号)が発見した。本来 は十分に甘いが、収量を上げるために糖度を下げていることが多い。肉 た。昭和三二年には常陸太田梨組合として統合され、組合員数一六〇名 て再び活況を迎えた。この時期に世矢村では一〇名による共同防除組合 進めたものが長十郎であったと言われる。大正六年ごろから病害虫が多 すぎず、イネ刈り時期の「水菓子」として地元で重宝されていた。明治 の有利な換金作物として植えたのがはじまりとされる。現在三代目の山 質は硬く、やや劣る。授粉用の花粉採取のためによく使われている。 の組織となった。 〈「太田なし」の現状とこれから〉 常陸太田市における現在の梨の産地の中心は、久慈川、里川の下流域 の「小沢郷」で、沖積の壌土、埴壌土に栽培されている。栽培面積二三 茨城県におけるなし栽培のはじまりは、徳川時代末期(一八六〇年頃) から明治の初め頃といわれている。 県内なし産地において独自に発展し、 城町(現筑西市)の「関本なし」 、新治郡千代田町(現かすみがうら市) ㌶、収穫量三八一㌧で、幸水と豊水を合わせると全体の九割以上を占め 大正時代中期には現在のような産地が形成された。なかでも、真壁郡関 の「土田なし」 、常陸太田市の「太田なし」が知られている。 る。幸水は八月中旬から下旬頃に、 豊水は九月上旬から下旬に収穫のピー ― 30 ― からの梨栽培にどのような影響を与えていくのかたいへん心配な状況で クを迎え、品種によって違った味を楽しめるのは魅力である。 一部の観光果樹園では、幸水や豊水を主として、新品種の「あきづき」 の栽培をはじめ、「筑水」 「新生」 「秀玉」 「南水」 「新高」 「秀峰」そして「二十 ある。 常陸太田市の梨の収穫量は、大幅な変動はないものの、減少を続けて いる。梨組合の組合員数も後継者不足から減少していることから、これ 世紀」などの早稲から晩生までの様々な品種を栽培し、観光客から好評 石井早生 花粉親(父親) 種子親(母親) ― 31 ― を得ている。 「二十世紀」は一時ほどの収穫量はないにしても、貴重な 早生幸蔵 梨樹百年の記念碑と冬の梨園 これからも、常陸太田市はもぎとり直売と宅配の形で、近郊消費都市 の供給地となり続けるために、より一層消費者のニーズに合わせた品種 収穫時の常陸太田の梨園 産地の役割を果たし続けている。地元常陸太田市をはじめ、日立市、水 イ- 33 二十世紀 豊水 選びが重要になっていくであろう。 栽培面積及び収穫量は農林水産統計年報(H18) 幸 水 × イ - 33. 糖 度 が 高 い が、 ほどよく酸味もある濃厚な味が 特徴。幸水よりやや大きめで、果 汁が多い。日持ちも幸水よりは 長い。 ◆収穫量 幸水 二十世紀 菊水 太白 193㌧ ◆品種特徴 11㌶ 戸市、ひたちなか市などの消費都市の供給基地となっている。 ◆収穫量 9月上中旬~下旬頃 ◆栽培面積 菊水 × 早生幸蔵。早生種の中で も特に収穫時期が早い。酸味は 少なく糖度が高い。果肉は柔ら かく果汁も多い。 豊水(ほうすい) ◆収穫時期 153㌧ ◆品種特徴 10㌶ ◆栽培面積 8月中旬~下旬頃 幸水(こうすい) ◆収穫時期 今 瀬 文 隆 - 言・アクセント・ 社会言語学の七不思議 方 言語の境界線および歴史的移入について Ⅰ「無型アクセントについての考察と動向」 共に似たような高いステイタスを得ていた。 水戸は、周知のとおり、徳川御三家のお膝元であったし、一方の甲府 も江戸時代は、代々徳川氏が治めており、水戸光圀の時代であった頃に は、 光 圀 は、 甲 府 藩 主 で あ っ た 徳 川 綱 豊 後 ( の六代将軍徳川家宣 を )、 五代将軍綱吉の後継者として強く推薦している。 いては、まだ笛吹市に住んでいた。 日本語のアクセント体系で代表的なのは、東京式アクセントと京阪式 アクセント、無型アクセントの三つである。 ただ、ここで疑問が生じる。甲府も水戸も東京からほぼ同じ距離なの に、なぜアクセント体系が違うのであろうか。 このように茨城県、特に水戸と甲府は、アクセントや方言以外の面で は類似点が多い。 山梨弁とか静岡弁という固有名詞を聞くと、「そうずら」という方言 を連想する人が多いかもしれないが、山梨県に一年半ほど在住した私で 私は、縁あって、一九九九年より約十二年にわたって日本語教師を務 めてきた。前勤務先が山梨県笛吹市にあったため、この原稿執筆時にお も、ほとんど「そうずら」という言葉を聞いたことはなかった。 ガティブな印象を持っていたに違いない。 故・金田一春彦は、生前、日本国中の方言調査に出掛けたが、東京出 身の金田一にとって、茨城県を中心とする無型アクセントについてはネ 山梨県の地理的位置を考えてみると、山梨県は東京都、あるいは神奈 川県の西側に接しているため、方言的には東京弁に大変類似しており、 市は街の規模や人口規模などの点で、大変類似していると言える。 アクセントや方言語彙という点から考えると、山梨県と茨城県土浦以 北地区はかなり違うが、ただ、お互いの県庁所在地である水戸市と甲府 にいるかのような錯覚に陥る。 実際に、山梨県笛吹市内を自転車で歩き回っていると、アクセントが 東京式ということもあり、あたかも神奈川県西部、ないしは静岡県東部 金田一が方言調査をした頃は、テレビも今ほどは普及していなかった であろうし、もちろん、インターネットやスマートフォンもなかった時 らであった。 それは、極めて単純な理由であった。すなわち、茨城県も東京都もと もに関東地方に位置し、水戸から上野までは約一時間一〇分で行けるか ばかり思っていた。 田一の著作に接するまで、茨城方言は東京式アクセントに属するものと アクセントは東京式アクセントである。 東京からの交通アクセスという点でも、甲府は新宿からスーパーあず さで約一時間半、一方の水戸も、上野からはスーパーひたちで約一時間 代である。 私が金田一春彦の著作を本格的に読むようになったのは、大学院生に なって言語学の研究を開始するようになってからのことだが、私は、金 一〇分である。高速バスを利用すれば、お互いに約二時間の距離にある。 金田一は、取手市と千葉県我孫子市の県境のところが、茨城弁と東京 地理的な面ばかりではなく、実は、甲府と水戸は江戸時代においても ― 32 ― 弁の境界線と定義していた。 し か し、 時 代 は 流 れ た。 常 磐 線 沿 線 に 関 し て 言 え ば、 取 手 の み な ら ず、土浦駅、あるいは土浦駅のひとつ先の神立駅周辺までが東京通勤圏 と言ってよいだろう。 一方のつくばエクスプレス沿線に関しても、当然のことながら、終点 のつくば駅までが全て東京通勤圏になっている。したがって、これらの 県南の東京通勤圏は、確実に東京式アクセントに変貌を遂げている。 そもそも、この東京周辺の無型アクセント地域であるが、茨城県の土 浦以北以外に、栃木県の足利・佐野を除くほぼ全域、福島県、宮城県、 山形県内陸地区に広がっている。 そのため、私は、初対面の人に「仙台出身なんですか?」と言われる ことも多かった。 無型アクセント地域という言葉を聞くと、これらの北関東地区と東北 南部地方だけを連想しがちであるが、実は、無型アクセント地域は、東 頭先生は茨城弁を話すけど、他の先生や生徒たちは話しませんね」とい の先生たちの中で、茨城弁を話す人はいますか?」と聞いてみても、 「教 チェックしてみた。 州地区の放送関係者が、どれほど無型アクセントでしゃべっているのか 私 は、 九 州 ま で 出 掛 け て 調 査 に 行 っ た り す る 時 間 や 余 裕 は な い。 そ こで、私は、最近はやりのインターネットラジオを受信したりして、九 京からはるか西の九州地方にも広がっている。大変不思議な話である。 う回答が現に多かった。ということは、管理職以外の教員たちは地元の 私は、以前、取手市戸頭の学習塾で中学生を相手に教えていたことが あったが、その当時の取手・守谷地区の中学生たちに、「皆さんの学校 県南地区の者が多く、教頭や校長といった管理職は、場合によっては水 すると、無型アクセントが顕著であったのは、予想通り宮崎県であっ た。宮崎県は、金田一の調査でも、都城市が無型アクセントに属してい 次に、県西地区に目を向けてみると、県西地区の場合にも、古河市や 結城市は東京通勤圏になっている。 の証明にもなる。 そのうち、宮崎大学については、国立大学であるから、九州各地のみ ならず、中国地方や近畿地方などからも学生が集まってくるのであるが、 立大学の現役学生にも無型アクセントがみられた。 たが、私が、「宮崎サンシャインエフエム」のインターネットラジオで 戸近郊の県央地区から転勤という形で派遣される場合も多いということ 私は、以前、栃木県の石橋駅周辺に住んでいたことがある。その際は、 諸事情があって、栃木県の石橋駅から埼玉県の志木駅まで遠距離通勤を 不思議なことに島根県や広島県出身の宮崎大学生にも無型アクセントが 次に、同じ九州の熊本であるが、熊本はもちろん九州に位置している が、同じようなことが宮崎弁にも言えるということなのであろうか。 「朱に交われば赤くなる」ということであろうか。よく、関東の人が 大阪に転勤になると関西弁に次第に変わっていくという話は大変有名だ みられた。 調査してみたところ、宮崎大学の現役大学生や南九州短期大学、宮崎公 していた。 栃木県の石橋は、当然のことながら、茨城県と同じ無型アクセントで あるが、東京通勤圏と言われている古河駅から通勤してくる乗客も、無 型アクセントであった。 ということは、古河市や結城市などの県西地区の場合には、守谷や取 手などと違って新住民が少ないということの証明なのかもしれない。 ― 33 ― かばい」という熊本弁は、 「男女の営み」という意味で使ったりするこ ので、方言語彙という点では熊本弁と茨城県は全く異なる。例えば、 「よ で話せば、福井弁と茨城弁は似ているかもしれない。 ここまで、まとめてみると、日本語において無型アクセントが広がっ そのように考えていくと、無型アクセントというのは、既に柳田国男 が「方言周圏説」で唱えているように、東京式アクセントや京阪式アク ている地域を概観してみると、それぞれ、東京・大阪 京 ( 都 ・)福岡を 中心として円を描いた場合の外枠に広がっているということである。 だが実際に、福井県は関西の文化圏の影響を受けているため、関西弁 から入ってきた語彙も多い。 とがあるが、その意味では茨城では通じないであろう。 とはいうものの、私が熊本放送のインターネットラジオで確認したと ころ、若い女性レポーターたちでさえも、そろって無型アクセントで た ( ひとつの例を挙げると、魚の牡蠣と果物の柿がある。二〇一二年一月 二十六日に熊本放送ラジオのインターネット放送で、「柿」についての セントのより古い形のアクセント体系であるとも定義できる。 だし語彙は標準語で 毎 ) 日元気にレポートを続けている。 レポートがあったのだが、女性レポーターが第一声で「かき」と言って 女性レポーターが改めて「果物の柿についてレポートいたします」と言 Ⅱ「外国語における無型アクセント」 も、 スタジオのアナウンサーには「何のかき?」か通じなかったようで、 い直す場面があった。 日本語以外の言語に目を向けると、無型アクセントと言えば、韓国語 の中のソウル方言がかなり有名である。インターネットなどで調べてみ ちが無型アクセントであるかということ自体、ほとんど認識していない。 ると、ある韓国人の韓国語研究者は、 「 ソ ウ ル の 人 た ち は、 な ぜ 自 分 た 者たちの間からは、長いこと「二型アクセント」であるという指摘がな だから、韓国においては、無型アクセントの研究は、これまであまり進 長崎県の場合にも、長崎市出身の歌手・俳優である福山雅治氏のよう に無型アクセントが確認される人もいる。鹿児島県については、言語学 されてきた。無型アクセントに聞こえる場合もある。 んでいなかった」と述べていた。 ちなみに、釜山方言は、アクセント体系がはっきりしているそうだが、 韓国語以外の外国語に目を向けてみると、スリランカの公用語であるシ 例えば、以前、私が勤務していた埼玉県新座市の専門学校の上司は、 鹿児島県の出身であったが、イントネーションだけをとれば茨城弁そっ くりであった。方言語彙の相違がなければ、茨城弁と鹿児島弁の違いが ンハラ語や、バングラデシュの公用語であるベンガル語にも、韓国語と は、それぞれ違う歴史を歩んできている。 実際に、遠くから何気なく聞いていると、韓国語と茨城弁は似ている なと感じることもあるが、残念なことに、茨城弁と韓国語は方言学的に ちょっと雰囲気の似た、ささやくような無型アクセントがみられる。 認識できないほど、イントネーションは類似していた。 以上、東京周辺と九州地区における無型アクセントについて考察して みたが、大阪周辺における無型アクセント地区というと、福井弁が有名 である。 ある福井県出身の若手女性タレントが上京したばかりの頃、茨城弁と 勘違いされたことがあったという話は有名であるが、語彙だけを標準語 ― 34 ― に似た印象を受ける。 ところが、近鉄名古屋線に名古屋駅から乗車すると、方言事情は一変 する。近鉄名古屋線が愛知県内を走っている間は尾張弁が主流なのであ Ⅲ「もうひとつの七不思議 関 - 西弁と東京弁の境界線」 以上、前章までは、主に、無型アクセントの境界線について検討して きたが、本章では、関西弁と東京弁の境界線について考察してみたい。 突然のように車内の雑談は三重弁に変化するのである。 常磐線の普通列車に乗っても、東京弁が突然茨城弁に変化するという ことはあり得ないから、近鉄名古屋線における名古屋弁から三重弁への るが、電車が三重県内に入り、桑名駅で乗客の入れ替わりが起こると、 私は、二〇一一年十月に、二度ほど所要で三重県鈴鹿市を訪れた。三 重県と言えば、東日本出身の人からみると、いかにも関西弁という印象 を 受 け る が、 で は 一 体、 東 京 弁 名 ( 古屋弁 と ) 関西弁 三 ( 重弁 は ) どこ でチェンジするのであろうか。 突然のチェンジは、言語学的には大変興味深い。 ちなみに、東京弁と茨城弁の境界線は、数十年前の取手から現在の土 浦近辺まで北上したが、一方のこの名古屋弁と三重弁 関 ( 西弁 の ) 境界 線は、数十年前に金田一が調査した頃と全く変わっていない点も興味深 だいぶ前に金田一春彦が東海道線沿線の方言調査をしているときに、 「駅が一つずつ西に進んでいくと、少しずつ関西弁に変化していくので ことながら、残念なことに、駅が一つずつ変わるごとに方言が比例して い。 あろうか?」と、半分冗談めいた仮説を立てたことがあったが、当然の 徐々に変化していくということは、あり得ない。 三重県には、三重テレビとかFM三重といった放送媒体があるのであ るが、全国的に三重弁が有名になるということは、三重県の長い歴史の 中でこれまで全くない。三重弁が大阪弁に類似しているのがマイナスに 例えば、東京から神奈川、静岡と向かって行っても、静岡駅周辺、浜 松駅周辺の場合には、いかにも南関東弁といった印象を受け、言語とい う点ではまだ東京弁の影響を強く受けているのが分かる。 阪弁とは全く違うとの認識であるようだ。 Ⅳ「歴史地理学から見た茨城弁」 なっているのかもしれないが、大阪弁の話者に言わせれば、三重弁は大 だが、浜松から普通列車に乗って豊橋に向かうと、そこは愛知県であ る。豊橋は方言学的には三河弁に属し、アクセントの点では東京式だが、 らJRの新快速で西に二〇分の位置にある岡崎市でも同様である。東日 語彙の点では、関西弁と類似した語彙が少しずつ入ってくる。豊橋市か 本の出身の人が岡崎弁を聞くと、 「東京弁のアクセントの人が関西弁に さて、第Ⅰ章の後半で、簡潔に福井弁についても考察してみたが、歴 史地理学の点から考察してみると、次に述べるような仮説を唱えている 似た語彙を話している」という印象を受けるかもしれない。 ここで述べる仮説は事実なのかどうか真偽のほどは全く証明されてい ないが、インターネットの「YAHOO知恵袋」の中に、興味深い問答 者もいる。 であり、中部地方最大の都市である。そのため、東京方面から出張や転 があった。 ところが、JR岡崎駅から新快速で西に三〇分の位置にある名古屋に ついて言えば、事情はやや異なる。名古屋は新幹線「のぞみ」の停車駅 勤などで移動してくる者も多く、アクセントにしろ語彙にしろ、標準語 ― 35 ― それは、徳川家康の次男である結城秀康が結城から福井に転封された 際に、大量の結城の住民もまた福井に移住し、その際に、茨城弁 結 (城 弁 が ) 福井にもたらされたという説である。 ( 日本においては、その長い歴史的見地から考察していくと、標準語 東 京弁 に ) 対抗する言語圏として、関西弁が勢力を張っている。そのため、 大きな書店に行ってみると、関西弁の文法解説書や、関西弁による英会 土桃山時代に尾張国から加藤清正が転封してやってきている。しかし、 言えば、茨城弁同様に無型アクセントが見られる熊本弁の場合には、安 共通性が見られ、茨城や福島県浜通りの方言とは全く異なる。ついでに 方言語彙については山形県庄内地区などの東北地方日本海沿岸地区との というのは、関ヶ原の戦いで敗北し、水戸から秋田に転封になった佐 竹氏の場合を見てみたら分かる。秋田弁はアクセントは東京式であり、 はないか。 る。 実際に自分から広東語で話すことは全くできないと言っていたことがあ 例えば、私の台湾人の知人は、広東語は耳で聞いていれば理解できるが、 ぞれの地方の代表的方言が「~語」として独立した呼称を獲得している。 たら「上海語」と言い、福建省の方言だったら「福建語」と言い、それ 隣国の中国を見てみると、中国はその広大な領土から、日本をはるか に上回る方言を持っている。 ただ、中国の場合は、例えば、上海の方言だっ しかし、大阪弁にしろ関西弁にしろ、日本語の中の「ひとつの方言」 であって、言語としては独立していない。 話の解説書などが語学書売り場に並んでいる。 尾張弁は東京式アクセントだから、熊本弁とはアクセント体系が異なっ において、福井弁だけが大量に異国の茨城弁から言語変革を強いられた た。 が英語、中国語 普 ( 通話 は )第 「方言の移入」 、すなわち「言語の移動」について考察して 前章では、 みたが、それでは、言語と方言の境界線は、どうやって引いていったら Ⅴ「言語と方言の境界線および連続した方言線」 的な場所、さらには中国本土の人たちとのコミュニケーションツールと ある。ただ、マレーシアの華人の場合には、母語は中国語 普 ( 通話 と ) いうわけではなくて、広東語や福建語が母語の者が多く、学校教育や公 東南アジアに目を向けると、マレーシアやシンガポールも中国語圏で ― 36 ― なるほど、この説は真偽のほどは別にして、大変興味深い。だが、こ の仮説は正しくないと思えば正しくないと結論付けることもできるので ている。だから、このような事実を考慮に入れてみると、数えきれない この広東語は香港でも香港人の母語として日常的に使われているのだ が、私の香港人の知人は、当然のことながら広東語が母語で、第 言語 とは言い難い。 そのため、この香港人は、ハルビン出身の友人と中国語で話している ときに、いつも、「発音」を直されながら会話をしているということであっ ぐらいの国替えや転封が行われていた安土桃山時代後期や江戸時代初期 だから、結城秀康が福井に転封された際に、結城弁が福井弁そのもの を茨城風にすっかり変革させてしまっていたとしたら、それは言語学界 た。ついでに言っておくと、香港以外でも、地方の省出身の人の中には、 言語になってしまうということであっ の天と地を引っ繰り返すような出来事になるだろう。 2 いいのであろうか。 必ずしも「普通話」の発音がうまくいかない人は多いらしい。 3 して、中国語 普 ( 通話 が ) よく使われているようだ。 こ れ だ け で も 言 語 の 使 い 分 け は 大 変 だ な と 思 っ て し ま う の だ が、 マ レーシアの華人の場合には、これとは別に、マレーシアの国語であるマ パの場合、言語と国家が必ずしも一致していないことがよく分かる。国 が 変 わ る と 言 語 が 必 ず し も 急 に 変 わ る わ け で は な く、 特 に ド イ ツ 語 圏 こ の こ と は、 ド イ ツ 語 と デ ン マ ー ク 語 と の 関 係 の 場 合 に も 言 え る か 周 (辺 の ) 場合、ドイツ語とオランダ語との関係、国が変わると方言が ゆるやかに変化していくと言った方がいいかもしれない。 合には、ひとりで「六か国語、あるいは七か国語」を話せることは、日 レー語、さらには英語も必修科目となっているため、マレーシア人の場 常茶飯事になっている。 もしれない。実際に、 facebook German にドイツ語でコメントを書い たりすると、デンマーク人から反応が来たりすることがある つ ( いでに 以上述べてきた中国語圏の場合の例は、日本語の場合とは違って、中 国語のそれぞれの方言が「~語」としてひとつの言語として独立した地 ク語という言語が使われているが、この言語は、いまだに言語学的には ヨーロッパに目を向けても、言語と方言の境界線の定義は、決して簡 単にはいかない場合がある。例えば、ルクセンブルクではルクセンブル 東北地方南部にまで広がっているため、いわゆる「関東地方」、 「東北地 型アクセント地域」は茨城、栃木のみならず、福島・宮城・山形などの 日本に話を戻すと、方言の境界線もまた、県の境界線や「~地方の境 界線」に必ずしも一致していない。例えば、北関東周辺に広がっている 「無 言っておくと、 Wikipedia によれば、デンマークにおいては、第二外国 語としてはドイツ語の履修者が多い 。) ドイツ語の一方言という位置づけがなされていて、ルクセンブルクの法 方」という枠を越えて広範囲に広がっていることになる。 位を得ている場合の例であった。 律では、一九八四年にルクセンブルク語が公用語のひとつとして認めら スイスにはスイスドイツ語というスイスドイツ語圏の人たちにとって の母語があり、このスイスドイツ語というのは、ドイツ人には大変聞き すれば、語彙的にも発音的にも茨城弁に類似した「いわき弁」がまだ連 き市に入れば、「ここから東北地方」となるわけだが、言語学的に考察 れたばかりである。 取りにくいらしい。ドイツには「スイスドイツ語」の文法書もあるよう 続して続いていることになるのである。 これは、行政区画と方言が一致していない場合のひとつの例になるわ けであるが、たとえば常磐線に乗って、北茨城市を通過し福島県のいわ だが、スイスにはフランス語という巨大な公用語もあり、スイスドイツ フランス語になっている。 に言っておけば、ルクセンブルクにおいても、国家の言語はあくまでも イスドイツ語」の独立はあまり歓迎できないことかもしれない。ついで ドイツ語の影響に微妙な変化が出てくるため、ドイツ本国としては、 「ス つい先日、フジテレビ系列の「ほんまでっかTV!」という番組を見 関連性について研究している学者も多い。 第Ⅰ章から前章までは、言語学と方言との関係について、隣接学との 関連を考慮に入れながら考察してきたのであるが、言語学と生態学との Ⅵ「生態学と言語学との関係」 語をひとつの言語として完全に独立させてしまうと、EU諸国の間での 以上、ドイツ語圏の場合を例にとって考察してみたが、中部ヨーロッ ― 37 ― これは、大変恐ろしい事実であるが、それでは一体、母親以外の言語 を新たに習得しようということになると、どうなるのであろうか。 うわけだ」と論じていた。 母親が常に方言で話していれば、生まれてくる赤ん坊も方言を話すとい ときに、子供の言語は決定づけされてしまっているのである。だから、 かの中にいるときに既に決まっている。すなわち、母親が妊娠7か月の ていたら、ある生物学者が、 「我々人間の言葉というのは、母親のおな るジャンルでの「東京中央集権主義」を考慮に入れれば、大阪弁が今ま 大阪市の橋下徹市長は「大阪都構想」を掲げているが、仮に、東日本 大震災並みの大震災が東京を直撃し、「大阪都」が日本の臨時の首都に なることは間違いないだろうと思われる。 衰退し、東京を中心とした画一的な社会方言のみが発展していく時代に 伴い、いわゆる地理方言のようなものは、よりいっそう早いスピードで トやスマートフォンの普及、さらには地上デジタル放送の完全実現化に どに絞って、社会言語学の七不思議について述べてきたが、 インターネッ なったとしても、昨今の日本の政治・経済・文化・流行といったあらゆ それは、言語学や生態学の世界では、「臨界期」と呼んでいるのであ るが、 「臨界期」は七歳だと言われている。 あると言われているロシア語とかアラビア語といった言語をマスターし として認知されるか、あるいは、標準語に徐々に飲み込まれていき、衰 というのは、世界中における言語の変遷を考察してみると、方言とい うのは、その方言区域が独立して「ひとつの国」となり「ひとつの言語」 で以上に日本全体で強力な「言語」にまで成長するとは思えない。 ようとする場合も、早ければ早いほどいいということになる。例えば、 退の一途をたどるかのどちらかしかないからである。 ― 38 ― 日本においては、日本語と英語のバイリンガルは、非常に格好いいと 思われがちであるが、英語に限らず、日本人にとって大変難解な言語で 東京外大などに入学してからロシア語やアラビア語を第一外国語として 茨城県の場合は、牛久市やつくば市以南は東京の通勤圏になっていて、 既に茨城弁は衰退したと言われている。 習得しようと思っても、様々な困難がつきまとうのは、臨界期をとっく に過ぎてしまったからだという事実から理解することができる。 取手市や牛久市といった県南の常磐線沿線が、水戸よりも東京との関 係の方が強いことは、何十年前も前から指摘されていたが、つくばエク なってきている。 前章で、スイス人やマレーシア人の場合を例にとってみたが、彼らは 好んで複数の言語を話しているわけではない。政治上および生活上の理 か国語も話せるようになったわけ スプレス開業後は、つくば市内においても東京との関連が急速に大きく か国語も 由から、幼少期から複数の言語を話すように鍛えられているのである。 決して大人になってから ではない。 かし、つくばエクスプレス開業後の「つくば市民」にとっては、大洗水 例えば、水戸市近郊に在住している者にとっては、「休日に水族館に 行こう」と思ったら、まず大洗水族館のことが念頭に浮かぶだろう。し Ⅶ「まとめ」 族館よりも、秋葉原で一回乗り換えるだけで行けるようになった「品川 水族館」の方が親しみやすい存在になっている。 4 (言 の ) 境界線、言語と 以上、今回は、アクセントの境界線と語彙 方 方言の境界線、方言の移入、アクセントの類似性、生態学との関連性な 3 重ねて言えば、土浦以北の茨城弁が消滅するのも時間の問題だと思わ れるが、その茨城弁が消滅する前に、デジタル録音機器などで保存し、 後世に語り継いでいくことも、また社会言語学者や方言学者の使命だと 思われる。 茨城弁の特徴として、早口でせっかちという特徴がある。標準語の話 者と話していた直後に、 茨城弁の話者と電話などで話していたりすると、 つくづくそう感じる。 このようなせっかちで焦燥感を漂わせる性格は、「車社会」である茨 城県人に広くみられ、交通事故死者数を見てみても、茨城県は、北海道 や愛知県などと並んで多い。 方言が消滅し標準語化した場合、茨城県人の早口で焦った性格という のも是正されていくのであろうか。十年後、二十年後の茨城弁や他地方 の方言の変化を注意深く見守っていきたい。 ― 39 ― 祖父の兄の墓碑から学ぶ ~川﨑家の系図~ (一)(二)が送られてきた。一冊一〇〇項目で、二月十二日に発刊した 鈴木健夫さんと田代辰雄さんの労作である。 二人で茨城県内の墓碑・頌徳碑・記念碑を見て歩き、拓本採拓した貴 重なもので、それは芸術であり、歴史の採集でもある。二人は茨城大学 の公開講座「水戸の漢詩文」を学び、それから発展したそうだ。 現在、これらの碑文を読める人は少なくなっている。歴史を知る資料 としても貴重なものである。字体も様々、保存状態の悪いものもあるし、 川 﨑 定 信 我が家の先祖はどうなっているのだろう。気になり調べてみたが分か らないままであった。 編ぐらい目を通しているが読むのが楽しみである。 私などには手の施しようもないものである。いただいた日から毎日、五 数年前から家の墓標が気になっていた。本気になり調査をすれば、今 ま で 知 ら な か っ た 祖 父 の 兄、 清 房 の こ と が 理 解 で き る の で は な い か と 思った。 なる。墓碑では介さん、覺さん、林十江、神社、寺院、義民、史跡、忠 「偕楽園の漢詩碑」 「浴徳泉記」 「種梅記」など、 第一集には「偕楽園記」 隷書もあり、判読困難だが拓本には読み下し文もあり、歴史の資料にも 墓標は苔がむしていて、読むのが困難なため、そのまま放置しておい たが、はじめて拓本に挑戦した。 ど一〇〇点が収められている。 参考にわが祖父の兄の碑を紹介しておく。 川﨑健治諱秀信初名亀松以安政五年二月日生于常陸久慈 み方の指導をお二人に相談されてはいかがでしょうか。 この『碑文・墓碑銘集』は、今後も発刊を続けるそうだ。各地に墓碑 はたくさんある。墓に行って、先祖の墓碑を調べ、拓本のとりかたや読 十竹居士佐佐君之墓(助さん)は摩滅もあり読むのが困難である。宝 永元年(一七〇四)に孝子宗立が建立、安積覺(格さん)の撰文である。 記の書き出しである。天保十一年の建立で斉昭の撰文である。 「予自少愛梅庭植数十株天保癸巳始就国国中梅樹最少南上之後毎歳手 自採梅実以輸国司園吏種之偕楽園及近郊隙地今茲庚子再就国…」は種梅 魂碑など一〇〇点である。第二集には治水・殖産・史跡・武術・墓碑な 祖父の兄の墓碑は真中に法名「鶴寿院積徳道栄居士」と書かれ、右側 に二五字 × 六行、左側が七行になっている。墓碑とはいっても、顕彰 碑であって、その様式は、ほぼ決まったものになっている。 本名、諱、何年にどこで生まれ、父母の名、先生の名、妻の名、勤め、 その功績が書かれている。私の祖父の兄は、安政五年(一八五八)の生 まれ、明治十五年茨城県巡査になり、明治十七年(一八八四)北海道へ 転勤、そこで退職した。北海道で広野を開墾、牧場も経営、漁場組合会 議員、村会議員などを勤め、明治四十年(一九〇七)に帰郷した。この ことが墓碑に漢文で書かれている。 碑文の終わりに「公職微力ながらいたし、地方産業の開発に尽す。今 生前の経歴を勒し建碑す」とある。建てたのは大正十二年(一九二三) とあるので、六十五歳の時である。 この拓本を読んでいる最中、茨城県内版(漢文編)『碑文・墓碑銘集』 ― 40 ― 県巡査在勤菅谷分署十七年九月有転勤之命赴于北海道庁 也幼而師事小泉巌娶篠﨑氏無子明治十五年十二月為茨城 郡上土木内先考弥兵衛翁先妣長須氏有二男一女而其長子 大正十二年十二月五日 地方産業の開発に尽す。今生前の経歴を勒し建碑す。 中漁業組合会議員、浜中村村会議員等の公職を微力ながらいたし、 五月得官許開墾釧路国厚岸郡浜中村走古潭之広野百余町 川﨑家の系図 根室警察署並浜中標津両分署十九年七月依願退職廿二年 鶴寿院積徳道栄居士 私は祖父の兄の墓碑を見てから川﨑家の家系に興味をもった。家に「久 慈東郡西安慈久間郷土木内村川﨑氏系図」のあることを思い出した。そ 歩傍経営牧場而飼養馬匹矣廿五年六月移于籍北海道厚岸 して、奥書に「川﨑家系図一巻 明治二十六年四月 手に入る 末孫 川﨑弥兵衛」とある。昔、系図売りがきて途中から、事実を書いたよう 郡榊町弟清房為雇主桔据励精全其業丁父之憂譲於家産戸 主四十年十月帰郷焉其間当榊町及後静村総代兼学務委員 川﨑秀国の子・川﨑秀信筑後守は、永承六年(一〇五一 源 ) 頼義に属し、 奥州の安倍貞任の征伐に同行、 久慈東郡安慈久間山に宿陣した。その子、 だが、最初の部分はおそれおおい人物が書かれている。ここでは、その 妣(亡母)は長須氏、二男一女あり、その長子なり。幼くして小泉 川﨑秀邁武蔵守(康和二年・一一〇〇没)は、後三年の役の八幡太郎義 産馬組合釧路支部幹事霧多布水産統区議員浜中漁業組合 巌に師事し、 篠﨑氏を娶(めと)る。子なし。明治十五年十二月、茨 家にも仕え、手柄を立てている。真弓山の寒水石の発見、悪路王退治に 系図を追っていくことにする。 城県巡査となり菅谷分署に在勤。明治十七年九月転勤の命あり、北 も功をたてている。 会議員浜中村村会議員等之公職致微力旅地方産業之開発 海道庁根室警察署並びに浜中評津両分署に赴く。明治十九年七月依 今生前方建碑自勒其経歴大正十二年十二月五日 願退職。明治二十二年五月、官許を得て、釧路国厚岸郡浜中村を歩 その子の秀光(康和二年・一一〇一没)は新羅三郎義光に仕え、奥州 合戦に功があり、常陸奥七郡を拝領した。義光の子孫は常陸国に住むよ 天津児屋根命からはじまり、藤原鎌足が大先祖である。そして、平将 門を討った田原藤太(藤原秀郷)の子孫の田原秀国が、大和国式上郡食 き、古潭の広野百余町歩を開墾する。傍ら牧場を経営して、飼い馬 うになり、川﨑家もそれに従った。この秀光の室が今瀬左京大夫定友の 邑川﨑郷(奈良県)に居住し、川﨑を名乗ったのが始まりである。 匹を飼養する。明治二十五年六月、籍を北海道厚岸郡榊町に移す。 娘で、今瀬理事長との縁がある。 川﨑健治は諱(いみな)を秀信、初めは亀松、安政五年(一八五八) 弟清房は雇主の為に桔据励精、すべてその業をなす。丁父の憂、家 二月日常陸久慈郡上木内に生まれる。先考(亡父)は弥兵衛翁、先 産戸主を譲る。明治四十年十月帰郷、その間、当榊町及び、後静村 その子の秀明和泉守(養和元年・一一八一)は頼朝の金砂合戦に参戦、 弟の秀敏はこの時、討死している。秀明は佐竹秀義から高二六〇貫を賜 総代兼学務委員、産馬組合釧路支部幹事、霧多布水産統区議員、浜 ― 41 ― 巻島の合戦で功があった。 その後が秀俊兵庫頭(建長七年没・一二五五)、その長男が秀玄丹波 守(弘安四年・一二八一没)でこの親子は佐竹義繁公に仕え、京都宇治 わっている。 ノ民間に土着ス」弟の川﨑康基大善は秋田へ下った。 ラレ因茲御一族諸家中次男三男ニ至ルマデ悉ク秋田ヱ供奉シテ下テ時ニ で但し書きがある。 「慶 次が川﨑康親淡路守(慶長十九年・一六一四没) 長七年(一六〇二)五月十七日在台命佐竹氏羽州秋田城ヱ御国替ヲ命ゼ て天正十八年(一五九〇)川﨑家は高百弐拾五貫の加増があった。 川﨑淡路守儀ハ奥州赤館マデ御供候処是ヨリ御暇ヲ賜ル直ニ立帰リ本村 その子、秀鑑相模守(永仁六年・一二九八)、その子、秀庸雅楽頭(応 長元年・一三一一没) 、その長男は早世、弟の秀信信濃守(延文五年・ 一三六〇没) 、弟は秀篤三郎大夫で、久慈郡三筒原合戦に参戦、討死した。 宮内大夫、正實の弟信維の三人は、多賀郡竜子山合戦(応永二十七年・ 改めとある。 弟は川﨑三左衛門で、川﨑佐之衛門・川﨑五左衛門と続き、分家にあ たり系図はここで終わっている。この系図は元禄九年(一六九六)十月 康親の長男のほうは、川﨑吉左衛門光晟・川﨑六衛門光喬・川﨑縫殿 介雅親・川﨑徳之丞信郡と続いている。 一四三〇) に出陣、 信維は討死した。この戦いで義實は抜群の働きによっ 秀信の子が信邁玄番頭(永徳三年・一三八三没)で、長男が正實伊豆 守( 応 永 三 十 四 年・ 一 四 二 七 没 ) 、 息 子 義 實( 嘉 吉 三 年・ 一 四 四 三 没 ) て、佐竹義盛公から「義」の一字を賜った。 山東清寺合戦で戦死。この時代、川﨑家の活躍は著しかった。 川﨑善衛門義之(天保五年・一八三四・没七七歳)は亀作村久保木善 六の娘を妻(天保九年・一八三八・没七十九歳)とした。 川﨑善次衛門義成(享和三年・一八〇三没) 、妻は沢目村中村與五兵 衛の娘で文化三年(一八〇六)に死去した。 を娶った。 こ の 後、 分 家 し て 一 家 を 構 え た の が、 川 﨑 清 大 夫 清 成( 宝 暦 七 年・ 一七五七没)妻は堅磐村武藤治郎兵衛の娘豊子(明和六年・一七六九没) 次が川﨑與五衛門(享保十三年・一七一八没)、弟は川﨑與蔵である。 本家の川﨑信郡の方は、川﨑與衛門(元禄十年・一六九七没、)弟は 川﨑源右衛門。 その後が實邦肥後(寛正五年・一四六四没)、信重主水正(文明十六年・ 一四八四没) 、信憲掃部頭(文亀三年・一五〇三没)と続く。 佐竹義舜公の代に至り「明応五年(一四九六)三月川﨑掃部頭太田城 ヨリ土木内郷ニ転ㇼ居住ス。其ノ地ニ於テ高弐百五拾貫を賜ル 佐竹義 信憲の息子が信寛越前守(永正十七年・一五二〇没)、弟信縄は討死。 信寛の長男が忠敦将監(天文二十二年・一五五三没)で、弟の川﨑民部 舜判 明応九年十一月 日 川﨑掃部 頭 殿 」。 信 憲 掃 部 頭( 文 亀 三 年・ 一五〇一没)の弟忠久は太田木﨑合戦で戦死、もう一人の弟信憲は金砂 儀光は部垂の原戦いで討死。この功績は系図に詳しく書かれている。 その後、川﨑善右衛門、幼名善四郎が分家、寛政六年生まれ、明治三 年(一八七〇)三月十四日七十七歳で死去。妻は亀下村佐藤忠兵衛娘茂 川﨑善次衛門兼義(文化十一年・一八一四没)妻は堅磐村武藤治郎兵 衛の娘豊子を娶った。明和六年(一七六九)十一月死去。 次 が 信 睦 雅 楽 頭( 元 亀 三 年・ 一 五 〇 一 ) で、 そ の 弟 の 信 録 は 佐 竹 義 昭 に 仕 え、 す ぐ れ た 勇 士 で あ っ た。 信 睦 の 長 子 が 信 照( 文 禄 三 年・ 一五九四没) 、 弟三人は佐竹義重に仕え討死している。この時の功によっ ― 42 ― 止を娶った。明治三年十月七十五歳で死去。妹二人は神田村岡部家、亀 作村久保木家に嫁いでいる。 ― 43 ― 息子が川﨑弥兵衛で天保二年(一八三一)十一月生まれ、明治二十九 年(一八九六)二月十七日六十四歳で亡くなった。妻は本米﨑村長須源 川﨑家系図 右衛門の娘を娶った。慶応四年(一八七一)八月三十一歳で死去。弟は 善八、妹は二人、三才村草野家と藤田村萩谷家に嫁いでいる。 川﨑家系図 曾祖父を訪ねて が取交されている。 名簿)に載っているのだが、仙台に住んでいた叔父西宮弘の『随想集』 和三郎については藩文庫役の肩書が『万延元式帳』(一八六〇年・職員 1 平成六年に勤め人の生活を終えての京都行きの切っ掛けは、私の曽 祖父で分家した西宮の祖でもある和三郎能脩の事を知るためであった。 られる。 文久二年一月五日に慶喜公が京都へ入った際に随行した一行が、大部 分水戸藩京都屋敷で活動を強めたので、一月二十七日は早速の集りと見 4 これまでの経緯からも水戸藩士が京都でも随分と嘱目されていたら しいので、長州を加えて二十七名中十四名を占める会合だった。 京都・水戸藩 「成」は尊攘の大義を国論にまとめる事、「破」は破壊活動を起す事で、 水戸が破を、長州が成を担当する約束もあって、坂下門の変や天狗党の には「徳川慶喜公幼少の頃の学問指南役だったが、幕末の風雲急を告げ 乱はこの破であると見る事も出来る。 るや、慶喜公に従って上洛し、心労のあまりに不眠から脱れるため毎晩 飲んだ酒が次第に量を加え、遂に京の地で客死との事である」と書かれ ている。 2 もう一つの出来事は戦前、父が存命中に読んでいた歴史物の中の伊 藤痴遊著の『実録維新十傑』のどれかの中に、西宮和三郎の名を見つけ て感激していたのを記憶している。 国立国会図書館に勤める弟に手伝ってもらい、当該全集は指定蔵書と してあったので、順次読みながらの記事探しに着手したのが平成八年二 月中旬で、三月七日二度目の上京閲覧で七冊目に記事を見出した。 木戸考允(桂小五郎)の編で、文久三年一月二十七日に西本願寺所有 の東山翠紅館に各藩の士、二十四名を集めて長州藩と会合したとあり、 参加した水戸藩十四名の中に和三郎能脩の名があった。 3 当時、尊王攘夷の旗印の下で、安政大獄、桜田門外の変以後の運動 は水戸藩が中心的役割を果しつつあり、江戸藤田東湖の門を叩いて教え を乞う志士群には桂小五郎・吉田松陰・佐久間象山・西郷吉之助・横井 土佐 平井収二郎、武市半兵太 石見 福羽文三郎 梶清次衛門(天)、赤須銀蔵 林長左衛門、岡部藤介(天) (天)は後の天狗党の乱で死去した人。 下野隼次郎(天)、川又才助 、住谷七之允 大胡聿[いつ]蔵(天) 西宮和三郎、大野謙助 高畑孝蔵、林五郎三郎(天) 水府 梅津準次郎、金子勇次郎(天) 長州藩主世子毛利長門守、井上聞太(伊藤博文)、久坂玄瑞の外に出 席者は、次の通りである、 担ったシナリオのようである。 なかで、藩主毛利敬親と計り諸藩の在京志士を集め尊王攘夷派の激励を 5 翠紅館会議については、文久二年(一八六二年)六月に桂小五郎が 京都政務座役四名の一人に加えられて長州から上京して以後の出来事の 西 宮 能 信 - 小 南 な ど が 居 り、 桂 小 五 郎 と 水 戸 藩( 西 丸 帯 刀 ) の 間 に、「 成 破 の 約 」 ― 44 ― - 対馬 多田荘蔵、青木達右衛門 肥後 住江甚兵衛、山田十郎、佐々涼蔵 河上彦斎、宮部鼎蔵 この会議には薩州は含まれていない。 、大場一眞斎、原市之進、鵜飼吉左衛門・幸 松平昭訓(斉昭十四子) 吉親子の墓石以外に、一回り大きな碑石、水戸藩留名碑が建っている。 京都で生命を絶った六二名の志士の、留名顕彰碑という。訪れる人影も ない山腹に碑石は静まりかえっていて、碑文も判読出来ない程の薄暗さ 大老が安政疑獄にからんで破った事から不安定になったとしている。特 うが、戦後荒れた東山の復旧に立上ったのが故松下幸之助氏で、明治百 8 足を延ばして、霊山の水戸藩招魂社を訪れた。東山には明治初年、 太政官布告により近代日本の礎となった維新先覚者の霊が祀られたとい だった。 に浪士を集め大名が同席する事は一番喧しいとされていて、この集会は 年記念の昭和四十三年に霊山顕彰会を創設して霊場整備と歴史館設立を 6 前後の記事を読むと、政治上のトラブルについて、水戸の出来事に 朝廷は手出ししない、京都の出来事に幕府は手出ししない不文律を井伊 物議を起したらしい。 行った。 9 昭和四十年、常陽銀行銀座支店に勤務の時、取引先に三木啓次郎氏 が健在で居られた。 明治初年からの府県招魂社は、山口、京都、高知、熊本、福岡、鳥取 が建てられていた。明治二年創立の東京招魂社は、明治十二年靖国神社 ― 45 ― 幕末の京都には水戸藩士は尊攘派、本圀寺派などが中心となって三百 名から千名に達する時期もあり、郷里水戸が幕府援護の諸生派中心で占 められていて相反する派の対抗期にあったという。水戸へ帰る事も難し く、水戸から仕送りを欠き極めて苦しい生活を強いられつつ、朝廷への があって維新功労者を京都霊山へ祀る計画を聞かされた事があった。 水戸光圀を育てた旧水戸藩家老三木之次の子孫で、後に水戸市松本町 へ回天神社忠魂塔建立の発起人となられた方で、故松下幸之助氏と交誼 場から犠牲者、脱藩者もあったという。 回 天 神 社 役 員 滝 田 昌 生 氏 の 言 に よ れ ば、 昔、 松 下 さ ん が 生 業 を 始 め ら れ た 時 分 に 三 木 氏 が 援 助 し た 事 か ら そ の 恩 を 感 じ て 居 ら れ た。 昭 和 忠誠と幕府・藩への忠誠に挟まれながら京都の重要護衛部門の中心的立 7 水戸藩京都屋敷跡は、京都御所蛤御門の直ぐの場所に史蹟碑がある との事だったが、その上長者町通りには京都放送会館の大きな建物があ 四十四年にスタートのテレビ番組「水戸黄門」のスポンサーがナショナ 歴史館の向い側に霊山護国神社があって、一帯は明治維新史蹟公園 である。 「 註 」 水 戸 光 圀 は 中 納 言 の 位 に あ っ た の で、 黄 門 呼 称 は 中 納 言 の 唐 風 の呼名(唐の黄門侍郎の職に似る)。 ルであることも納得できる。 り、隣はガーデンパレスホテルの建築工事現場で碑文は見当たらない。 蛤御門は、各藩分担での御所警固。水戸藩が担当していた記録もあっ て、近くに屋敷があったのは事実だろう。 水戸の縁りの地は、東山区に円山公園に続いて長楽寺と少し離れて霊 山に水戸藩招魂社がある。長楽寺は、建礼門院供養塔、頼山陽・三樹三 郎親子の墓の外に「水戸の烈士眠る」のパンフレット・栞があって、京 都で死去した人達の墓が後山にある。(パンフレット編者は関西茨城県 人会員安蔵櫻水氏) 10 茨城県は以前六三柱が墳墓に祀られていたが、明治百年記念事業と一 緒に招魂社として建立されたのは昭和四十三年である。 となった。 奥羽征討 一一九、前項以外 二二一 水戸招魂社以前に霊山修墳墓にあった志士は六三柱(合祀に含まれた 四六、その他一七) 東禅寺の変 一一、坂下門の変 五、 合祀に含まれない志士〈一七柱〉 安政大獄 飯泉喜内友輔(斬死)〈脱藩〉 桜田門外の変 佐久間東雄良哉(断食死) 霊山招魂社の最上部に祀られており、建立発起人に三木啓次郎氏、松 下幸之助氏と茨城県の岩上二郎(県知事)、木村伝兵衛(水戸市長)、宮 造営主体は、水戸市回天神社勤王殉難志士忠魂塔保存会が中心となっ た。 田重文(常陸太田市長) 、渡辺覚造(水戸市長)、三宅亮一氏(常陽銀行) 霊山記念館への道も整備されて、 入口には松下幸之助の筆になる「維 新の道」の石碑が建てられ、個々の墓も木戸孝允(桂小五郎)夫妻、坂 の名が刻まれている。 木村権三衛門聿(病死) 島男也竜雄(斬死) 天狗党 大越伊豫介(不詳) その他 徳川斉昭(病死) 原市之進忠成(暗殺)〈慶喜側近〉 伊東甲子太郎(暗殺)〈新撰組〉 本龍馬、中岡慎太郎への参拝者が増えているのは、作家司馬遼太郎書物 〈天誅組〉 渋谷伊与作実行(斬死) の影響とも言われていて、特に坂本龍馬の墓付近にはファンの寄せ書き の石板サイン記録が並べてあった。此処での呼ばれ方は、「龍馬くん」「遼 阿古津小次郎広正(戦死)〈鳥取藩〉 ‘ 七、桜田門外の変 二一、 吉田采女(病死) 豊田小太郎(暗殺) 髙林貞助重秀(病死)〈親兵〉 黒沢仙次郎(病死)〈十津川藩〉 〈鳥取藩〉 大村辰之助包房(斬死) 若泉主税(幽囚死) 三輪友右衛門信義(病死)〈昭訓傅役〉 太郎さん」 「幸之助はん」だったし、立看板も龍馬への墓の道とあった。 ちょうどこの維新の道入口に、翠紅館跡の碑があって、現在は料亭・ 京大和の『翠紅のやかた』敷地に建っている。 招魂社に絡んで司馬遼太郎氏は、「明治維新の尊王攘夷は九州人が 行動的でエネルギーになってます。思想は水戸で生まれてますけれど、 まあ水戸は ‘宗教本山 です。 」 ( 『わが愛する維新群像の人物評定』から) 水戸招魂社に合祀された志士 水 戸 市 松 本 町 回 天 神 社 忠 魂 塔( 昭 和 八 年 建 立 ) に 刻 ま れ て あ る 一七八六柱 安政大獄 内訳 元治甲子の変(天狗党の乱)一四一九、 ― 46 ― 11 12 13 (参考) は酷にすぎる。天狗党の水戸浪士としてのキャリアも十二分にあり、芹 陽気な外向的芹沢と、内気で教養もやや足りない近藤とでは、郷士と 百姓という身分の違い以上に、気質の面で大きな隔たりがあった。近藤 沢の死を国家的損失だと悼んだ評言もある。 坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通 と比べると、芹沢には思想性がなく、暴力一辺倒の非組織人間だったと 伊藤痴遊 著 『実録維新十傑』二十巻 平凡社刊 西郷南洲、岩倉具視、三條実美 勝海舟、木戸孝允(桂小五郎) いう断定をよく聞く。話はあくまでも芹沢に都合悪く出来ているような 芹沢の敗因はどこにあるのか。具体的には、男のやっかみという人 間くさい部分で芹沢は足元をすくわれ、上司と財源を味方につけた点に 意する必要もあろう。 気がする。残されている史料は圧側的に近藤一派の記録が多いことに留 吉田松陰、高杉晋作 二〇〇五・三刊 泉涌寺内戒光寺の墓に見られる「伊東甲子太郎」に絡む記事を見付 けた。 『グーテンベルクの森シリーズ』 山内昌之東京大学大学院総合文化研究科教授 『鬼平とキケロと司馬遷と歴史と文学の間』岩波書店 第四章 幕末騒動始末記―新撰組のぐるり 「歴史とスターの宿命」 近藤勇と芹沢鴨、伊東甲子太郎の嫉妬と党争 他人が空腹の時にあえて自分の食事を見せつける。相手の空腹を刺激 しかねないことおびただしい。自分の身近の人がほめられると名誉欲を 抑えることが出来ない人は、燃え上がる嫉妬を抑えられない。これは、 芹沢鴨や伊東甲子太郎に対する近藤の僻みや嫉妬心についてもあてはま るのだ。 おいて近藤は勝ちを収めたのではなかろうか。近藤や土方歳三が芹沢を 暗殺する動機は、いろいろと理屈をつけても、男社会における陰湿な嫉 妬や僻みにつきると考えている。もし芹沢が主導権を握っていたなら、 暗 殺 者 集 団 と し て の 新 撰 組 は 相 当 に 姿 を 変 え て い た よ う に 思 え て い る。 薩長の陰謀家たちも驚くほどの天衣無縫を発揮して、西郷隆盛や、木戸 孝允を動転させていたと仮定するだけでも楽しくなる。 「芹沢鴨」常陸国行方郡生れ、名は光幹。 江戸幕府設置の浪士組に参加。京都に残って新撰組隊長として尊攘派 浪士の弾圧に当る。文久三年九月十八日、暗殺された。 芹沢鴨に触れている。 又、作家司馬遼太郎は『日本人の名前』の中で、 デターで斃され活動期が短かすぎた為、どういう人物なのかよくわから 水戸の人で木村某という人物が、郷国を脱して攘夷運動に加わり、後 に新撰組の首領株になった。芹沢鴨である。彼は近藤勇一派の隊内クー 近藤勇は、男っぷりや剣技では芹沢の敵でなく、経綸や弁舌をとって は伊東に及ばなかったのが正直なところ。 ないところからみると彼の純粋独創で、その発想たるや極めて大胆で、 ない。ただ、鴨という妙な名は、同時代にもそれ以前にも類似のものが 芹沢の悪行と伝えられる多くは、勝者側の証言によるものばかりだ。 酒癖の悪さを考えると、好漢とまではいえなくても、極悪人という世評 ― 47 ― 15 16 14 後に出された伊東甲子太郎の建言書のインパクトを強調している。 伊 東 甲 子 太 郎 に 対 す る 感 情 が、 近 藤 の 心 中 で 嫉 妬 の 炎 と し て 燃 え 立ったのはいつのことか。 「嫉妬の世界史」では徳川慶喜の大政奉還直 をはたしているようにも思える。 身が考え出したこの名前を歴史に記録しただけでも、詩人としての仕事 なる材料が残っていない。もっとも彼が若し詩人だったとすれば、彼自 ような人物を想像するのだが、残念なことに歌とか詩とか、その傍証に 前衛的ですらある。そのかぎりにおいてはよほど感覚的な、前衛詩人の で、残らず皆兵とすべきこと。 大強国の国是肝要のこと。 一〇、五畿内の外、攘夷開鎖の儀は、衆議により決すべきこと、大開国 八、五畿内にては洋風に等しき風俗厳禁のこと。 七、大宰府は五卿(都落ち)も同様の御沙汰ありたきこと。 すべき旨を御沙汰ありたきこと。 六、毛利家の扱い(蛤御門の変)を復旧し、これまで通り誠忠の尽力致 に配当し、摂・河・泉の三国を以て海陸軍を取立つべきこと。 一一、国民皆兵の方針を定め、出家・沙門(僧)その他の遊民に至るま 九、天下の公儀(議)を尽すべきこと。 双手をあげて大政奉還を歓迎する伊東と、大政奉還を「君辱臣死」(君 辱めらるれば臣死す)とばかりに情勢の挽回を計ろうとした近藤の政治 一二、海陸軍と御親兵の統御は堂上公卿にておこなうべきこと。 ここで伊東は、素朴とはいえ新国家や国民皆兵の構想を描いた。こ れは、近藤にはできない芸当であった。 く、天下忠勇の士民失望仕るべきこと。 四、摂海の開港は中止すべきこと、この措置なくては王政復古の甲斐な 三、海内の上下一つに和して、同心協力の御基本決定が急務であること。 二、正義純良の公卿を役職に配置すべきこと。 ち伏せによる粛清の凄惨さをうまく理解できない。 討ちと伊東一派(この時分、新撰組を離れて本圀寺党と称していた)待 や派閥の憎悪だけでなく、私的な嫉妬心を考えに入れないと、卑怯な闇 水戸学者の才知と経綸に嫉妬が兆したことは間違いない。公の政治対立 近藤勇は、伊東甲子太郎の構想の壮大なスケールを知ったとき、胸中 深くには、江戸に東帰して自ら発見した人物だけに、野望に燃えた後期 ― 48 ― 感覚の違いは大きかった。 距離を感じたと思われる。 伊東の論は、朝廷と公卿を中心とする政治、独特な公卿政権論になっ ている。 新撰組の局長と参謀という地位にあって、攘夷論だけを軸とする限り は協力しあってきたが、政治構想を新たに描く段になって、彼我の間に 伊東甲子太郎の弁舌の才にも優る構想力と文章力に対して、近藤が物 狂おしい嫉妬を感じたと推定したが、それ程、伊東の建言書は堂々とし 五、五畿内一円は御領と定められ、山城・大和は天朝・宮・摂家・公卿 役割を低めている薩長の政権構想とは、趣が異なっていた。 て、よそからの借り物でない自信に満ちあふれていた。 『歴史のなかの新撰組』からの紹介引用 十二項目 日本史家 宮地正人から 一、大政奉還は万世不抜の一大美事であること。 薩長中心の政権構想でなく、近藤が期待の幕府への政権委託論とも異 質、大名による全国会議の招集とも違っていた。最初から朝廷や公卿の 19 17 18 文面から「若し」があれば、討幕の様相が変ったかともとれる想定 もあり、 幕末水戸藩士の京都でも維新政府に向けての陽の当る面は尠く、 藩内抗争による人命ロスといえるものの外に、在京新撰組に加担しなが ら不慮殺害された者もあることを知って、水戸招魂社に合祀されない人 を加えて考えることが必要と感じた。 東山の泉涌寺御陵(皇室)に附属する戒光寺にある墓石 正面 『常州 志筑之人 慶応三年十一月十八日 於 油小路戦死 三十二歳 贈従五位 誠斎伊東甲子太郎藤原武明』 横面 『贈従五位 故伊東攝津 特旨ヲ以テ位記ヲ贈ラル 大正七年十一月十八日 宮内省 常陸国石岡町 実弟鈴木恵良 刻』 おう わざわい かか なお ますます 枉 禍 ニ 罹 レ ル 者 少 ナ カ ラ ズ 此 等 ノ 所 為 親 子 ノ 恩 愛 ヲ 捨 テ 世 襲 ノ 禄 ニ しっぷうもく う 離レ墳墓ノ地ヲ去リ櫛風沐雨四方ニ潜行シ 専ラ旧幕府ノ失職ヲ憤怒シ しんしん 死ヲ以テ哀訴アルイハ搢紳家ヲ鼓舞シ アルイハ諸侯門ニ説得シ 出 けんかい つい なげう 没顕晦万苦ヲ厭ハズ 竟ニ身命ヲ抛チ候者全名義ヲ明ラカニシ 皇運ヲ よみ なおいわん 挽回セントノ至情ヨリ尽力スル処 其ノ志実ニ嘉ス可ク 尚況ヤ国家ニ いかで いんめつ おぼしめ 大勲労有ル者 争カ湮滅ニ忍ブベケンヤト歎キ思食サレ候 之ニ依テ其 ノ志操ヲ天下ニ表シ且ツ忠魂ヲ慰メラレ今般東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ右 等之霊魂ヲ永ク合祠致サル可キ旨仰セ出サレ候 猶天下之衆庶 益 節 義ヲ貴ビ奮励致ス可キ様 御沙汰候事 *きちゆう=嘉永六年(一八五三年) 資料② 東山翠紅館跡の碑(昭和四十三年十一月京都市建之) 翠紅館と呼ばれる屋敷があって、度々志士達の会合の場所となってい た。文久三年(一八六三年)正月二十七日、土州藩武市半兵太、長州藩 井上聞多、久坂玄端らが集まり、次いで同年六月十七日にも長州藩桂小 五郎、久留米藩眞木和泉守らが集まった。ここ数年攘夷運動は次第に高 まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の う。同年八月十三日には孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて、攘夷運 資料① 動は頂点に達した。然し、八月十八日に政変が起って攘夷派は失脚、代っ 会議で具体的な討幕の方向が検討された。世に、これを翠紅館会議とい 明治元年五月十日太政官布告 て公武合体派が指導権を握り幕末の政局は混迷の度を加えていった。 冊子「水戸の烈士眠る」編者 安蔵櫻水(水戸市大塚町出身) おり から 大政御一新ノ折柄 賞罰ヲ正シ節義ヲ表シ天下ノ人心ヲ興起遊バサレ たく まい つい き 度 既ニ豊太閤、楠中将ノ精忠英邁ヲ御追賞仰セ出サレ候 就テハ*癸 ちゆう さきがけ たお そう もう えん 丑 以 来 唱 義 精 忠 天 下 ニ 魁 シ テ 国 事 ニ 斃 レ 候 諸 士 及 ビ 草 莽 有 志 ノ 輩 冤 ― 49 ― 20 ◇水戸藩留名碑 幕末の頃、尊王攘夷運動の最も尖鋭的なのは水戸藩であった。実行の 著名なのには佐野竹之介ら十八人による雪の桜田門外にての大老井伊直 弼暗殺があり、文久二年一月十五日老中安藤信正を坂下門に水戸の志士 平山兵介ら六名で襲撃、信正を老中職より失脚させた。また、筑波山で 攘夷の旗揚げをした武田耕雲斎、藤田小四郎らは天狗党として全国を震 駭させた。 当時、京都は尊王攘夷、王政復古の革命のるつぼであった。 その時、水戸藩主徳川慶篤が将軍家茂に従って京都へ上ることになっ た。慶篤を警固し、慶篤を盟主として尊王攘夷を実行せんものと、天狗 ― 50 ― 党に属する藩士は勿論、在郷の神主、郷士、有志の農民まで慶篤に具従 して京都に上った。京都の本國寺(西本願寺隣接)に駐屯した。これを 本國寺(本圀寺)党と呼び、その統率を大場一真斎、住谷寅之介らがあ たった。 慶応三年六月十三日、松原河原板橋で土佐藩士山本旗郎により暗殺さ れた住谷寅之介はじめ、京都で生命を絶った六十二名の藩士の留名顕彰 の碑である。 水戸市 回天神社 我妻和男先生と南岳書道展 「印日文化センター」は別名「タゴール・オカクラ・ババン」とも呼 ばれている。いうまでもなくオカクラとはタゴールと親交の厚かった岡 倉天心をさしている。北茨城で晩年を過ごした岡倉天心をモデルにした 「映画・天心」の制作が、天心生誕百五十周年を記念し、松村克弥映画 監督の手で進められているというが、ベンガル湾を抱えるコルカタ市内 御 供 文 範 南岳、タゴールに捧げる でも岡倉天心の名前はよく知られている。 天心は、一八九八年、東京美術学校を排斥され辞職した後、横山大観 らを引き連れ、日本美術院を上野谷中に発足させた。一九〇五年に、天 □ インド東部の西ベンガル州コルカタ郊外の「印日文化センター」で、 二〇一一年十一月十二日~二十日まで茨城県水戸市在住の書家、川又南 在駐日本国領事館、バングラアカデミー)を開催した。これは二〇一〇 心は五浦(北茨城市)の別荘を改築し六角堂を建設。院の再起を賭け、 岳先生の「南岳、タゴールに捧げる」 (主催:日印タゴール協会、後援: 年一一月の加藤瑞恵さん(千葉県・光陽会)の絵画展開催に続いて私が 横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山ら四人の画家たちを呼び寄せ た。当時は「美術院の都落ち」と揶揄されることもあったが、 「朦朧体 (もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。 当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批 判的な声もあったが、四人の画家たちは優れた作品を制作し、日本美術 史に大きな足跡を残した。 四 人 の 指 導 的 立 場 に あ っ た 天 心 は、 そ れ よ り 先 の 一 九 〇 一 年 か ら 一九〇二年にかけてインド訪遊し、アジアで初めてノーベル文学賞を受 賞した詩人のラビンドラナート・タゴールと交流をしている。タゴール の家には、一九〇一年以来、岡倉天心、横山大観、荒井寛方、菱田春草、 河口慧海など日本の代表的文化人が芸術、 文化交流のために訪れている。 タゴールは、偉大な詩人であっただけでなく小説家、劇作家、作曲家、 画家、教育者であった。タゴールは人間のさまざまな可能性を調和、発 展させようと一九〇一年、西ベンガル州のシャンテニケトン(平和の郷) に生活、芸術、学問の融合と、自然の調和を目指した学園を創立。学園 ― 51 ― コーディネイトした二度目の展覧会となった。 南岳先生は二〇〇二年に茨城県立五浦天心記念美術館で「天心とプリ ヤバンダの交流書展」を開いたこともあることから、同氏の熱望でイン ド開催が企画され実現した。 同センターはタゴール研究家として知られる故我妻和男先生(筑波大 学・ 麗 澤 大 学 名 誉 教 授 ) や 加 藤 純 章 先 生( 名 古 屋 大 学 名 誉 教 授、 千 葉 県・ 金 乗 院 住 職 ) 、故 新井慧誉先生(二松学 舎大学教授、東京・寿 徳院住職)などが中心 となって建設基金を募 り、同州文化情報省バ ングラアカデミーの協 力を得て二〇〇七年七 月にオープン。 会場となった印日センター前 授に日本からあいついで招かれた。タゴール自身も日本に五回訪れ、日 創立以来、生け花、造園、建築、絵画、手工芸、柔道、日本語などの教 織物・陶芸・美術)の分野で極めてユニークである。また、同学園には 自由な雰囲気の中で研究と学習をすすめている。特に芸術(音楽・舞踊・ 土からはもとより、世界各国から集まった多くの芸術家、学者、学生が、 は一九二一年に国立タゴール国際大学となった。この学園にはインド全 記してみる。 回の川又南岳先生がインドで書道展を開催するようになった経緯などを してタゴールや天心と関わりを持つようになった。それらを含めて、今 二〇一一年七月に腎不全で逝去するまでの一八年間、我妻先生を中心と 当時の我妻先生は筑波大学で教鞭をとっていた。それ以来、我妻先生が 連絡を取りタゴールの話を聞きに自宅を訪れたのが一九九三年の秋で、 天心亡き後、タゴールは来日の際、天心を偲び五浦を訪問して墓前に 足を運び弔意を表している。当時、わたしは常陽新聞の記者をしていた 問、文化を学ばせたといわれている。 流をはかり、また、インドの青年たちを日本に留学させ日本の美術、学 らに積極的に、インドの学者と芸術家を日本に派遣し、両国の文化の交 定していた。しかし、まったく茨城とは関係ない人だけでは読者に不親 の大久保喬樹先生(東京女子大学文理学部日本文学科教授)の二人を予 タゴールの話を常陽新聞の岩波嶺雄社長にしたところ興味を示し、新 年号に座談会記事を掲載することが決まった。当初はタゴール研究家の 正月の紙面を飾る 本の芸術を高く評価し、日本文化に関する多くの著述を残している。さ こともあって、 タゴールは東京に本社がある朝日新聞社の招きで来日し、 切だということで、同市内で医師でもあり作家として世界的に知られて いる佐賀純一先生に加わってもらった。その鼎談は一九九四年の常陽新 天心が住んでいた北茨城市五浦を訪れた。今瀬文也先生(茨城民俗学会 代表理事)の案内で、タゴールが二度目に来県した時に講演したという 茨城県立水戸高等女学校(現・水戸第二高)を訪れて小島信基校長と歓 談し音楽授業を参観。さらに、茨城県庁を表敬訪問して橋本昌県知事と 懇談。北茨城市五浦を訪れ六角堂を見学、岡倉天心の墓を参拝。岡倉天 心偉績顕彰会主催の歓迎パーティーでタゴールの歌と踊りを披露した。 北茨城市の日程を終えた一行は土浦市の筑波研究学園専門学校を訪 ― 52 ― 我妻和男先生(麗澤大学教授・外国語学部日本学科)、岡倉天心研究家 各界から大歓迎を受け講演会も開 催 し て い る。 そ ん な 偉 大 な 詩 人 聞新年号の紙面を飾った。 城の片田舎の五浦へ足を運んだの かー。天心とタゴールを結び付け る強い絆とは一体何だったのだろ うかー。当然のようにジャーナリ ストとしての野次馬的な好奇心か ら興味を持ちいろいろ調べた。そ の過程でタゴール研究家として高 名な我妻和男先生が千葉県市川市 に住んでいることがわかり、早速 その年の五月には、日印タゴール協会(我妻和男事務局長)の招きで タゴール国際大学の副学長代行ら五人来日。タゴールと親しかった岡倉 が、なぜ、天心を偲びわざわざ茨 大書に最後の仕上げをする にインド舞踊を観賞した。 て懇談。同ホールで「タゴールの歌と踊り」を披露。約二〇〇人が熱心 の江崎玲於奈学長夫妻らの歓迎昼食会に出席。国際化や国際交流につい つくば市のカスミつくばセンターを訪問。神林章夫社長夫妻、筑波大学 子さんも北茨城に一緒に行っている) 、西谷隆義学校長代行などと懇談。 た 高 良 と み 女 史 と 縁 戚 関 係 に あ り、 と み 女 史 の 愛 娘 で 詩 人 の 高 良 留 美 問。高良和武理事長(高良理事長はタゴールが来日した時、通訳を務め 一四〇年を記念してタゴール国際大学舞踏団が来日。タゴール舞踊劇の 我妻先生をサポートした最大のイベントは、二〇〇二年四月の日印国 交 樹 立 五 〇 周 年、 岡 倉 天 心・ タ ゴ ー ル 邂 逅 一 〇 〇 周 年、 タ ゴ ー ル 生 誕 けていた。 訪れるようになり、我妻先生の依頼で私はそのサポート役を毎回引き受 りを披露するなど、タゴール国際大学の関係者が来日すると必ず茨城を その後、タゴール国際大学音楽部の学生たちはタゴールが作った歌と踊 中の最も著名な仏教舞踊劇「不可触賎民の娘」 チ ( ョンダリカ を ) 日本 の舞台で初めて公演したことだった。 されている。公演会場は栃木県氏家町公民館、東京の九段会館、柏市民 タゴール国際大学との交流がはじまる るタゴール国際大学日本学院を訪れた。同学院は、一九八八年に日本で センター、茨城県ではつくば市西大橋のカスミつくばセンターで開催し、 この「チョンダリカ」は全編タゴール作詩・作曲の舞踊劇で、優美な モニプリ古典舞踊を核としたタゴール創作の総合舞踊とされている。仏 開催されたインド祭に出席するために来日したタゴール国際大学の副 四会場で延べ二〇〇〇人の来場があった。 我妻和男先生のコーディネイトにより一九九五年三月に一週間にわ たって初めてインド訪問。メンバーは西谷隆義筑波研究学園専門学校学 学長ニマイ・ショドン・ボシュ氏が、日本文化紹介のためにタゴール国 教譚に基づくこの舞踊劇は、タゴール生存中から、タゴール国際大学の 際大学の中に日本学院を建設するために日印タゴール協会に資金協力 この時の費用は日印タゴール協会が負担するというもので、四会場に 配るポスターやパンフレット、チケットの制作は私が担当を任され順調 長代行を団長に、荒井寛方出身地の栃木県氏家町の関係者を含めて二〇 を求めていた。同協会事務局長の我妻先生が中心となって浄財を募り、 に進んだが、最大の難関はベンガル語を翻訳して日本語の字幕を作らな 広場に舞台を設え、満月の夜に演じられ、近隣の村民が見にくる。現在 一九九一年に約一二〇〇万円を寄付して建設されオープンしたもので、 ければならない。当初は、リハーサルをビデオ撮影して日本に送り、そ 人 と い う 大 所 帯 の ツ ア ー が 組 ま れ た。 コ ル カ タ 市 内 の ベ ン ガ ル 仏 教 協 私たちが訪問する一年前の一九九四年二月に落成式が行われたという。 の映像を見ながら我妻先生がベンガル語から日本語に訳して作るという もインドの各地で演じられ、バングラデシュでも最も魅力的な舞踊劇と そこではさまざまイベントが行われ歓迎をしてくれた。 手配も済み関係機関はすっかり準備を整えていた。焦る我妻先生は何度 会に宿泊しタゴール記念館などを見学。さらに、シャントニケトンにあ 一九九九年十月に「タゴール・愛の捧げもの―歌と踊りのメッセージ」 をつくば市のカスミつくばセンターで開催。我妻和男先生(筑波大学名 も催促をしたが返事がない。ようやく送られてきたのは開演から一カ月 計画であったが、ビデオはなかなか送られて来ない。日本側では会場の 誉教授・麗澤大学教授)が「タゴールと音楽」のテーマで講演をして、 ― 53 ― 生が何度もテープを回して翻訳していく。そのかたわらで私がタイプを 前だった。それも約束のビデオテープではなくカセットテープ。我妻先 一〇〇〇万円)を寄付した。 用の約一〇〇〇万ルピー(約二七〇〇万円)のうち四〇〇万ルピー(約 こ と で 日 印 タ ゴ ー ル 協 会 は 財 政 的 援 助 を す る こ と を 決 定 し た。 建 設 費 □ 打つ。そして、一週間前になんとか舞台の状況によって使い分けられる ようにタテとヨコを完成させた。本番では、我妻絅子先生(東方学院講 師)が舞台の進行を見ながら合図をおくり担当者がパソコンの操作をす るという方法がとられた。 二〇〇八年二月の中外日報(宗教専門紙)のインタビューで我妻先生 は印日文化センターの意義を次のように述べている。 ると、翻訳のために何度もテープの巻き戻しをしているうちにテープが ド文化が相当な影響を与えてきたわけですが、インド人の間ではそのこ 中心となるのは仏教とタゴール、もう一つ入れるとしたら岡倉天心で すね。 約一五〇〇年前に仏教が伝来して、日本には仏教を通してイン センターの理念は。 伸びてしまったようだ。スタッフの一人が機転をきかしてカセットラジ とがあまり知られていないので、それを知らせなくてはならない。多く カスミつくばセンターでは、会場のモニター室に設置されている高級 オーディオ機器とカセットテープが合わず回らないという事態が発生し オで試してみたらテープが正常に回るということがわかった。それでは、 の日本人がかつて天竺に行こうと試みましたが、誰もたどり着くことが た。リハーサルの時はなんともなかったのにどうしたものかと原因を探 カセットでテープをまわしてマイクで音を拾い音楽を流すことになっ できず、皆途中で死んでしまった。明治時代になって岡倉天心がインド に渡り、カルカッタでタゴールと出会って互いに共鳴した。それが近代 た。ひやひやの連続だったが、無事公演を終えた時は、まだ千葉と東京 の二会場での公演が残っていたにも関わらず、このまま帰国してもらっ における日印交流の大きな原点になっているんですね。タゴールも日本 が大変好きで、五回ほど来日もしています。 てもいいと思ったぐらいだった。 印日文化センターの建設に向けて 的 援 助 を 要 請 し て き た。 日 印 タ ゴ ー ル 協 会 は 元 々 タ ゴ ー ル の 思 想 を 理 年七月にベンガル・アカデミーから正式に印日文化センター建設の財政 建設したいので日印タゴール協会からの資金協力を打診され、二〇〇三 日印仏教交流の歴史や日本仏教に関するもの、茶の湯や古武道などの資 を紹介するために博物館や美術館、図書館などが作られます。陳列には 対応できる語学のコースなどを作る計画もあります。それから日本文化 インドの人々に日本語と日本文化を紹介し、日本人の旅行者や留学生 にはベンガルの文化や言葉を学んでもらいます。短期長期、様々な人に 「印日文化センター」はどのような施設になる予定ですか。 念 と し て 設 立 さ れ た も の で あ る し、 も ち ろ ん ベ ン ガ ル・ ア カ デ ミ ー も 料も展示することになっています。 二〇〇二年暮に、西ベンガル州政府情報文化省ベンガル・アカデミー 事務局長から印日文化交流のための印日文化センターをコルカタ市内に タゴールを最も尊重している協会なので、基本的な考えは同じだという ― 54 ― のひとつとしてタゴールの「郵便局」に出会ったんです。 いたのですが、やることがないのでいろいろな本を読んでいた。その中 たりしたことも何度かありました。 その時は毎日籠の鳥のように寝て のですが、私も肋膜炎にかかって、絶対安静になったり、死にそうになっ ながら焼け跡整理をした。当時は無理をして体を悪くする人が多かった た。中学二年の時終戦を迎えて、死体がゴロゴロしている所を転々とし 私は東京の真ん中の空襲が最もひどかった本所区の旧制都立三中に 通っていて、東京大空襲では学校の中だけでも一二〇人が亡くなりまし 先生とタゴールとの最初の出会いは? めるため、足先をもんでいる――。 なくてならないので、足の血管をもみ、足先が冷たくなるので足先を暖 くらはぎは血液の循環が悪く、押すと痛くそのままでいると足を切断し 白内障のため、治療後も視力回復せず、ものが霞んで見える。また、ふ んで見えたりして、階段が下りがたい。また糖尿性眼底出血及び糖尿性 りした。また起立性自律失調症のため、立つとめまいが、階段の線が歪 この二年半の間に五回失神し、七回失神しそうになったりする。学校 の評議会や卒業式のときみんなの前で失神してみんなにご迷惑をかけた が急に一一〇程に下がり、失神したりする。 二〇〇八年春、我妻先生は西ベンガル州政府から印日文化センターの 落成式とタゴール賞授与式に招かれていたが、とても訪印するのは無理 □ ちょっと象徴主義的な児童劇で、ある腺病質の少年が外出を止められ て 部 屋 に 閉 じ 込 め ら れ て い る ん で す。 彼 は い つ か 王 様 の 使 者 が 手 紙 を だと大学関係者や主治医からも反対されていた。もちろん私も強く自重 どのような作品なのですか。 持ってきてくれるという夢を抱いて待ちこがれている。病気になると、 をうながした。しかし、タゴールとインドとの文化交流に六〇年余身を 捧げてきた我妻先生にとってはどうしても出席したいという意志は固 死ぬと思う一方で希望を持ちたい気持もあるんですね。私も病気で動け なかったので、主人公の少年と自分を重ねていました。一番初めに読ん かった。車椅子に乗り看護婦を同伴させ、絅子先生と一緒に満身創痍の 身体で式典に臨んだのだった。 だタゴールの作品なので特に心に残っています。 □ 式 典 当 日 の 様 子 は、 我 妻 先 生 が 教 鞭 を と っ て い た 麗 澤 大 学 の ホ ー ム ページに公開されている。 しかし、このインタビューを受ける二年前から我妻先生の持病である 糖尿病が悪化していた。二〇〇六年秋、私の自宅に我妻先生から「我妻 和男の病状」と題するファックスが送られてきた。 安倍首相を迎えてコルカタ市の印日文化センター落成式を挙行 ( 、)インドのコルカタ市で印日文化センターの落成 八月二十三日 木 式が行われ、式典の中で我妻和男名誉教授に二回目のタゴール賞が授与 我妻和男名誉教授 2回目のタゴール賞を受賞 ―― この二年半、腎不全を患い、週に三回血液透析の治療を受けて い る。 即 ち、 糖 尿 病 性 腎 不 全 の 治 療 を 受 け て い る。 腎 臓 を 患 う 前 に 約 破壊されると、体温と血糖値の自律的調整ができず、血液人工透析を受 されました。 二十年間糖尿病であったため、自律神経が破壊されている。自律神経が けた後、特に体温が急速に三四度台に落ち、ひどく寒気がしたり、血圧 ― 55 ― この式には、安倍晋三首相、ブットデブ・ボッタチャルジョ西ベンガ ル州首相ら両国の関係者約三〇〇人が集いました。式は午前十一時に両 首相の除幕によってスタートし、両首相は一階ロビーに展示されている も活躍しています。 の役割について期待を述べるとともに我妻教授と日印タゴール協会の尽 事らの名前を挙げ、今後の日ベンガルの交流にとって印日文化センター 役者チャンドラ・ボース、極東軍事裁判で日本の無罪を主張したパル判 安倍首相は挨拶の中で、総領事館設立の一九〇七年からコルカタがイ ンドの玄関口であったという歴史的なつながりの深さ、インド独立の立 見学後、講堂で挨拶をしました。 面的に応援して開催も可能だろう。しかし、全幅の信頼を寄せ実行力の たのだった。本来なら我妻先生に依頼するべき事項で先生も元気なら全 本の東京で絵画展を開催したいのでサポートして欲しいと私に訴えてき した。私にどうしても会いたいということで我妻先生の家で会うと、日 して安倍首相の案内役を務めたニランジョン・バナルジーが仕事で来日 我妻先生は帰国すると、すぐに再入院して療養生活に戻った。当初の 印日文化センターに二年ほど我妻先生夫妻が滞在し、印日文化交流の足 東京でニランジョン絵画展を開催 力に敬意を表しました。 たっている絅子先生にしてもベッドを離れて奔走できる状況ではなかっ タゴールや岡倉天心ら日印を代表する文化の担い手を紹介するパネルを ブットデブ・ボッタチャルジョ首相は挨拶で「私の何回もの訪日で、 日本の人々がタゴール、チャンドラ・ボース、パル判事に対して愛着が た。ニランジョンの注文は簡単にいえばスポンサーを見つけて欲しいと いうことだ。なんの伝手もないからこれは無理だと断った。 ある我妻先生は病に臥しているだけなく回復の見込みもない。看病にあ 場固めをするという計画は断念せざるを得なかった。それからしばらく 強いことを感じている」と述べ、西ベンガルに文化センターが設立され た意義を強調しました。同首相は挨拶の後、我妻和男麗澤大学名誉教授 理事長に話すと、奨学会で研究助成金として一〇〇万円の援助をすると しかし、こういう企画があるがいかがなものでしょうかと、カスミの 社 長 時 代 か ら お 世 話 に な っ て い る( 財 ) 神 林 留 学 生 奨 学 会 の 神 林 章 夫 大学出版会刊 の ) 功績によってタゴール賞を授与しました。タゴール賞 は西ベンガル州の文化勲章に相当するもので、我妻教授が受賞するのは いう。九回二死満塁でさようなら逆転打を打ったようなまさかの出来事 に文化センター設立の尽力および『タゴール 詩・思想・生涯』 麗 (澤 九七年に次いで二回目となり、一人で二回の賞を受賞するのは極めてま だった。しかし、いろいろと経費を計算するとさらに五〇万円ほど不足 そ の 折、 加 藤 純 章 先 生 か ら、 せ っ か く 印 日 文 化 セ ン タ ー が 完 成 し た 催することができた。 も五〇万円の寄付を頂くことができ、何とかニランジョンの絵画展を開 を寄付してくれた野田市在住の加藤純章先生に相談をしたところ望外に することが分かった。そこで、印日文化センター建設の時に多額の浄財 れなことです。 (日本について)』 最後に同首相からタゴールの著作集『 Talks in Japan ( SHIZEN 刊)の紹介があり、同書及び我妻教授の前掲書が安倍首相に として Special Officer 贈 呈 さ れ、 落 成 式 を 終 え ま し た。 同 書 を 刊 行 し た SHIZEN 社 は、 麗 澤 大学で日本語を学び客員研究員をしていたニランジョン・バナルジー氏 が代表の出版社で、同氏はタゴール国際大学の ― 56 ― 南岳書道展開幕に向けて 絵画をセンターに寄贈した。 る。展覧会が終了すると、印日文化交流の継続性と発展をこめて六点の ダーラの仏像を、明るいイメージで自由闊達にダイナミックに描いてい カ ラ フ ル な 色 づ か い が 特 徴。 作 風 は ギ リ シ ャ 彫 刻 に も 影 響 さ れ た ガ ン 仏教シリーズ二〇点と風景画など一〇点。独自のスタイルで描く仏陀は 画家加藤瑞恵さんの絵画展は、十一月二十日から十二月四日まで印日 文化センターで日本人が行う初の交流イベントとして開かれた。出展は どうか。費用は加藤さんが全部負担するという提案があった。 やっており「仏陀」をテーマに取り組んでいるので絵画展を開催しては のに日本人が利用しないのは片手落ちだ。奥さんの瑞恵さんが油彩画を の三月一一日に東日本大震災の発生。南岳先生にどうするかと尋ねると 二〇一二年一月、打合せのために自宅を訪れた時は、 「これまで世界 各国を旅したがインドはまだ行ったことがない。楽しみだ。筆と墨を持 詩人、陶芸家などと多くのコラボをして楽しんでいる。 にいわれているという。書く苦しみより喜びみを信条としており画家や でも快眠ができる。病気をしないから「医者泣かせ」と掛かり付け医師 人で一カ月過ごした。どこの国の料理でもおいしく食べられどんな場所 ト(チョモランマ)の五〇〇〇メートルのベースキャンプで奥さんと二 しいからだという。一九三七年生まれだが、体力的には壮健でエベレス 書家の川又南岳氏は、県内はもとより世界各国に赴き大筆で揮毫する 雄姿を見せている。南岳という雅号は中国の五大名山の一つに南岳秀と る」という有難い返事だった。 参して大いに遊んでこよう」と笑顔で話していた。それから約二カ月後 「やりましょう」という力強く言われた。 早速インドとコンタクトを取り準備を進めたが、なにしろ約束を守ら せるのは「ロバを木に登らせる」というような根気が要求される現地ス タッフ。メールや電話でのやりとりもなかなかうまくいかない。額装や パンフレットは現地で調達することにしていたのでスタッフを信じるし かないが、心配だから何度も念を押すが返事はいつも「ノープロブレム」 の連発。その辺の海外事情は南岳先生もご承知で「なんとかなるだろう ―」と話されていたが、自分で企画を立てそれなりの費用を南岳先生に 負担してもらうことになっているだけに下準備だけはしっかりとして置 きたかったのだ。 インドへ出発する一週間ほど前、南岳先生が橋本知事にインドで書道 ― 57 ― いう二番目に高い山があり、自分は常に二番目あたりにいるのがふさわ 同展覧会は成功したが、私自身にはなにかくすぶる不満があった。タ ゴールと親交のあった天心は茨城 の五浦に居を構えていたことも あった。なんとか茨城の人に印日 文化センターを知って欲しいと同 時にイベントを開催してほしいと い う 強 い 気 持 ち だ っ た。 そ こ で、 かねてから親交のあった川又南岳 先生にその話をすると「是非やり たい」 ということだった。ただし、 費用は全部先生が持つようになる こ と も 伝 え た。 南 岳 先 生 は、 「も ちろん全ての費用は私が負担す 展示作業を見守る南岳先生 展を開催することを公言したことは、結果報告が必ずあるはずだ。展覧 の話だから当然だろうが、それよりもこうして橋本知事にインドで書道 ソングを披露した事を話すと、記憶にないということだった。十数年前 ル国際大学の一行が来県して橋本知事を表敬訪問し、知事室でタゴール のだった。ただ、まだ知事室が三の丸にあった一九九四年五月にタゴー に質問をする。あまり詳しく知っているわけではないから、ひやひやも 書道展開催の意義などを話していた。橋本知事はインド事情を盛んに私 作詞した「柔道の詩」の日本語訳を巻き紙に認めたのを披露し、今回の 展を開催の報告に行くことになり私も同伴した。南岳先生はタゴールが 岳先生の偉業に賞讃の言葉を述べ になることを祈念します」と、南 後ますますの印日文化交流が盛ん ます。この展覧会を弾みとして今 先生には深く敬意を表し感謝をし 開幕に向けて尽力された川又南岳 化を紹介できて光栄です。書道展 古くから伝わる書道という日本文 川口三男総領事も「インド国民に つ。 コ ル カ タ 日 本 国 総 領 事 館 の た。 □ れしいことです」と笑顔を見せながら参加者に指導をしていた。 を通して日本文化の美しさや楽しさなどを知って頂き交流が深まればう 筆を走らせ、日本の伝統文化である書道を楽しんだ。南岳先生は「書道 た和筆を握り慣れない手つきで、南岳氏のお手本を見ながら思い思いに また、セレモニー開催前には、同センターで日本語を学ぶインド人た ちとのワークショップも開かれた。参加した学生たちは、初めて手にし 加者から大きな拍手を受け書道展に華を添えた。 リクエストされた「心」と「愛」の二文字を力強く揮毫。約七〇人の参 合わせて一〇〇点。また、大文字の実演も行われ、南岳先生は会場から 展示された作品は四メートルの 大作から小品と、今回のために書き下ろした「般若心経」の掛け軸など 大書のパフォーマンスを披露する こうして振り返ってみると、さまざまな場面が思い出される。タゴー ルや天心のことで分からないことがあれば電話を入れ質問すると、どん ― 58 ― 会が失敗したらどうしようという気持ちが強かった。 書道を通したワークショップも開かれる 印日文化センターで展示の準備 をしたのは開幕前日の一日だけ だ。それでも南岳先生は長旅の疲 れも見せずに精力的に動き回りア シスタントのインド人に指示をし ていた。朝から始めた展示作業が 終わり翌日の開催に見通しがつい たのが夜の七時ごろだった。 翌日夕方から開かれたオープニ ングセレモニーには、同センター 長やコーディネーターのニラン ジョン・バナルジー、特別ゲスト としてインドでも著名な画家のシュワットサンナ氏らが歓迎のあいさ ワークショップに参加した人たちと な事も懇切丁寧に教えてくれた。我妻先生が病に臥していた時に、印日 文化センターの開設に情熱を燃やしていた会場で、日本人の絵画展と書 ― 59 ― 道展を開いたことを枕元で報告できたのがせめてもの恩返しだったのか も知れない。 (*肩書は当時のものです。) 我妻 和男(あづま・かずお) 一九三一年東京生まれ。タゴール及びベンガル語、ベンガル文化研究家。 東大大学院でドイツ文学、インド哲学の専門課程を修了。タゴール国際 大学客員教授、筑波大教授、麗澤大学教授などを歴任。日本におけるタ ゴール研究の第一人者。一九九七年にはベンガル語による日本紹介など の功績により、日本人として初めてのタゴール賞を受賞。二〇〇八年瑞 宝中綬章(日印文化交流功労)受章。二〇一一年七月二十八日、腎不全 で逝去。七十九歳。タゴール全作品集の翻訳などで知られる。著書に『タ ゴール 詩・思想・生涯』 (麗澤大学出版会)『人類の知的遺産タゴール』 (講談社)など。 1994 年に来県したタゴール国際大学の一行(北茨城市五浦で) 黄門料理 茨城は食材が豊富である。鮎・鮭などは久慈・那珂の両川とその支流 でたくさんとれる。野菜も山菜も茸も自慢出来る。それに海の恵みも十 分に受けている。 大塚さんの黄門料理は独占営業で、協賛者がいなかったのが、町おこ しには繋がらなかった。大塚さんの死後、これでは黄門料理が途絶えて 今 瀬 文 也 はじめに 大塚子之吉さんの生い立ち 戸藩らーめんもこれらに追いつく日の来ることを願っている。 立水戸商業学校(現在・水戸商業高等学校)に入学、 昭和十六年(一九四一) 大塚子之吉さんは、大正十三年(一九二四)六月四日、水戸市柵町に 大塚寅蔵(昭和五十五年没・九十一歳)、きむ(昭和四十一年没・七十五歳) しまうということで、水戸商工会議所がその跡を継いだわけである。 全国的に町おこしが盛んである。とくに、食を中心に成功している所 が多い。宇都宮の餃子、佐野・喜多方・白河のラーメン、仙台の牛舌な 本 県 で は 龍 ヶ 崎 の コ ロ ッ ケ が 有 名 に な っ た。 昔 は 鉄 道 の 開 通 な ど に よって駅弁が作られ、かなりの利益をあげていた。その土地の名産を食 に同校を卒業、父親のもとで家業の手伝いをした。 どは町を活性化させ、観光地としての印象を深めている。黄門料理・水 材にしていたからである。 峠の釜飯などその例であったが、列車のスピー の二男として生まれた。水戸市立三の丸尋常高等小学校を経て、茨城県 ド化によって衰退している。水郡線では、上菅谷駅の酒饅頭が名物で繁 昭和十九年(一九四四)一月、宇都宮第一四師団歩兵第二七旅団水戸 第二連隊に召集され入隊、仙台陸軍航空予備士官学校に転属、館山など 転々、終戦時は水戸市住吉町の水戸陸軍 昌していた時代が懐かしい。最近の新聞報道では、土浦名物の鰻弁当も 近く廃業するとのことである。 で通信・情報の軍務をした。 え入れたい。茨城空港もプラスになっているはずである。 慶塗、紙漉き、紬織、郷土食作りなど、体験学習を通しての観光客を迎 代 目、 魚 屋・ 仕 出 屋 と し て 繁 盛 し て い 祖母まん(大正五年没・五十歳)の開店 大 塚 屋 は 明 治 二 十 七 年( 一 八 九 四 )、 祖父大塚藤吉(大正二年没・六十六歳) ・ 通 信 学 校( 当 時 水 戸 教 導 航 空 通 信 師 団 ) 水 戸 と 言 う と 梅 と 納 豆 と 黄 門 様 の イ メ ー ジ が 強 い。 最 近 で は、 こ れ らの意識を高める努力をしているが、観光産業は単一ではなりたたなく ところで、水戸には黄門様の食べたという黄門料理がある。水戸市柵 町の大塚屋の主人、大塚子之吉さんが、黄門様(徳川光圀)の食べた料 た。子之吉さんは大学進学を希望してい なっている。茨城には観光の目玉がたくさんある。米作り、笠間焼、春 理の復元に努めた。黄門様の日常の食事は、一汁二菜だったという。大 たが、家を継ぐため断念し、昭和二十年 ( 一 九 四 五 ) 九 月、 三 代 目 大 塚 屋 店 主 に に よ る も の で、 父・ 寅 蔵 が 後 を 継 ぎ 二 塚さんは史実を大切にしながら、一連のコースに並べた。これは、物語 性と創造性を巧みに備えたものであった。 ― 60 ― いった。 ホ テ ル や 現 代 風 の 結 婚 式 場 も 登 場、 大 継 茅 の 料 亭 は 結 婚 客 が 減 少 し て 数年後、結婚ブームで大塚屋は結婚式場になり、本来の和風の部屋に 三階の新屋も増築、大繁盛していた。しかし、昭和四十年代に入ると、 なった。 になった。福田氏は水戸家のことなら何でも知っていた。まず、光圀が 当時館長で県文化財専門委員であった福田耕二郎氏の教えを受けること 大塚さんは、最初、茨城県立歴史館に行き、西山荘の図面を見たが台 所は分からなかった。そこで、影考館(現在・水戸徳川美術館)を訪ねた。 逝去。 掘現場をよくめぐり、考古資料も多く収集した。 大塚屋では彫刻家木内克、画家木村武山など著名な人々との交流があ り、多くの美術品を収集していた。それに、考古学にも興味をもち、発 研究を始めたが、順一さんは平成十年 その中から食の部分を抜き出すよう指 人日記』(活版本)を大塚さんに与えた。 隠 居 し て か ら の 動 静 を 書 い た『 日 乗 上 それらの美術品や考古資料展示のため、水戸市五軒町にギャラリーを もち、自宅の三階をマロン美術館としていた。大塚屋閉店のさい奥原西 (一九九八) 、四十八歳で亡くなった。 福田氏から西山荘の買物帳・料理控を示され、「それを閲覧して勉強 しなさい」といわれたが、皆目読むことができず、福田氏の教えを受け 示した。大塚さんは長男の順一さんと 湖・山下清・ルノアールなどの作品をオクションしたが、偽物もあり、 本物は美術館に寄託してあった。 黄門料理との出会い ながら黄門料理の研究を始めた。 その間、昭和五十二年(一九七七)から黄門料理が始まった。毎月の 献立の写真は昔、写真家秋山正太郎、文芸春秋社粟屋允から指導を受け 作家の梶山季之(一九三〇~一九七五)が、昭和四十二年、『水戸の女』 を書くため大塚屋を訪れ、 光圀の隠居所西山荘などの名所旧跡を大塚(子 之吉省略)さんが案内した。 で撮影、プロ級であった。 た撮影法によって撮影していた。写真機もライカやニコンの高級カメラ 「西山荘には、風呂も台所もないが、仕 その時の梶山季之の質問が、 出し屋から食事を取って、 御隠居さんは生活したのか」であったそうだ。 で 元 服、 寛 文 元 年( 一 六 六 一 ) 三 十 四 歳 で 藩 主。 三 十 年 間 の 藩 主 時 代 徳川光圀は寛永五年(一六二八)十二月十日水戸城下柵町で誕生、寛 永 十 年( 一 六 三 三 ) 十 一 月 江 戸 に 上 る。 五 十 八 年 間 江 戸 で 生 活。 九 歳 員など会を盛り立てていた。 田耕二郎氏、一橋家の徳川幹子さん(当時・婦人会館長) 、婦人会館役 大塚資料提供「お西山食歳記」として小冊子になっている。それに、福 そこで大塚さんは、それを調べる気になった。 一一回帰国。一回の滞在期間は約九〇日。元禄三年(一六九〇)十月、 第一次の黄門料理の集まりの頃は新聞記者・茨城放送のアナウンサー も多数出席し、茨城新聞には黄門料理の連載もした。これは平成十年に 六十三歳で家督を綱條に譲り、 十二月水戸へ帰国。元禄四年(一六九一) その頃は水戸柵町の本店のほか大洗町祝町にスコールクラブがあり、 両方を会場にしていた。写真は福田耕二郎さん。 五月西山に隠居、権中納言になる。元禄十三年(一七七〇)七十三歳で ― 61 ― 光圀は常陸太田新宿に亡母谷久子のため、延宝五年(一六七七)日蓮 宗久昌寺を創建した。この年、京都深草から元政門下の日乗上人を迎え 日乗上人の事 初期の黄門料理 た。 し、その後、地元の庄屋、檀家合わせて二〇人にも酌をしたとある。日 ので、 実質上、 寺の経営・執行にあたった。 昌寺の院代とした。住職を置かなかった 祀って、専ら財をもたらす幸運として、福の神をお祭りする日で、子の とは水戸で御馳走すること。 町人や女性の宴はこれが終わってからです。 「新年おめでとうございます。七日正月も終わり、十三日に若餅をつ いて、餅花を飾って、十五日の小正月のおせち振舞をしています。振舞 記によると光圀が酌をする記述が多くみられるので、酒を楽しく飲まれ た。光圀は日乗上人のため、久昌寺付属の一〇坊の筆頭として摩訶衍庵 歌会をしたり、 光圀には法話をしたり、 外出のお供をしている。光圀は六十四歳 日の宴遊びをします」 ( ま か え ん あ ん ) を 建 て て 庵 主 と し、 久 の元禄四年(一六九一)西山に隠居して おせち振舞 一、子の日祝肴 瓜連常福寺納豆(京都の説も) 一、祝肴 常福寺牛蒡紅毛焼 寒鮒柔煮(鮒は旧玉里村産・現小美玉市) 十二日は初子の日なので、本日を選びました。子の日の祭りは大黒様を い る が、 こ の 時、 日 乗 上 人 は 四 十 四 歳 これは、黄門料理当初の案内文で、珍しい催しとして皆から注目され た。その時の献立は次の通りである。 で、それから十年間は、かなり深い関係 にあった。 そして元禄四年から元禄十六年 (一七〇三)の記録を日誌にとどめてい る。この日記が大塚屋の黄門料理の資料になった。 一、御生 常磐鮟鱇(北茨城市大津産) 一、煮〆 野菜 名取(鴨) 一、和交 芹およご(芹は行方市繁昌産) 一、御焼 献上初霜漬 元禄九年(一六九六)二月六日、光圀(六十九歳)水戸へ。七日水戸 より、湊へ。八日湊滞在・酒宴。九日海老沢、酒参る。十日小川へ(日 光圀と日乗上人は酒豪であった。日記には必ず「酒参る」とある。 乗は鳥羽田・竜眼寺回り・小栗・照手姫の像拝観)、小川では蕎麦切り。 一、御刺身 鯛 一、御飯 ハララ子飯(鮭のイクラ) 一、御汁 けんちん雑煮 一、蒸物 酒蒸(紅白) 十一日小川滞在。十二日玉造へ、途中、宍倉で蕎麦切り。十三日に潮来 の築地をめざして馬で出発、日乗上人は荒々しい馬に乗って落ち、右肩 を打ち、二里ほど歩き、麻生から馬を乗り継ぎ、潮来へ着いた。 十四日には光圀から「落馬いかがしけるぞとて薬くださる」 中略 十七日潮来滞在、妙光寺で酒宴があり光圀は寺の弟子から堂守に酌を ― 62 ― 鮭の話 より古文書が発見され、 それより解読し、 山の御安所にて作らせました。三〇〇年経ってから飯村紀一さん宅の蔵 黄門様、家臣吟味役賄頭江橋六介に命じ、 「元禄十二年(一六九九)秋、 大子町付・郷士飯村武介に干鮭(からざけ)の製法を教え、大子の八溝 初霜漬鮭のほかに「献上干鮭」がある。これには「水戸黄門発明・水 戸大塚子之吉謹製」として紹介した。 は毎月、この集まりがあり、多くの人が参加していた。 鮭の話を少し続ける。水戸藩では、寛永五年(一六二六)水戸藩初代 藩主徳川頼房の時から甘漬鮭として献上されている。当時の献上鮭は二 一、八溝うどん 一、けんちん汁(味噌仕立) 一、おせちの蒟蒻田楽 一、干鮭の焼 紅葉卸し 一、鮭かぶとの煮物 一、叩き牛蒡 烏賊 ハラハラ子和交 蓮根鋏 一、常磐鮟鱇共酢 鮭を吟味しまして旧十月下旬にやっと成 尺二寸の最良品を選び、京都御所・仙洞御所・将軍家に贈っていた。 献上品で切り身の鮭を寒水の沸騰した塩水に浸し、 この中で初霜漬は、 米と麹に包み漬けておいたもので、黄門料理の目玉になっている。当時 功 し ま し た。 干 鮭 は 黄 門 様 の 大 好 物 で、 一、富有柿膾 干鮭というのは今でいう塩引きで、冷蔵保存のなかった時代には、天 日で乾燥した。八溝山の麓は空気も新鮮で風も乾燥にあっていたのであ ろう。ここでは、干鮭を大根と人参を卸した紅葉卸しで食べた。ハラハ ラ子は筋子、それに鮭とかぶらの煮つけと鮭料理が中心であった。 けんちん汁は普通、醤油仕立てだが、味噌汁になっている。これは昭 和五十二年(一九七七)頃の献立である。 浜の料理を復元 これも初期の献立で「水戸黄門卿磯浜御網場での納涼宴膳の再現」で ある。元禄九年(一六九六)の夏、光圀が湊御殿より祝町へ渡り、海人 と地曳網をしたというのである。 地曳の大漁で船大将・日乗上人・家臣・海人を集めて、光圀は大漁の ― 63 ― 一、薬喰の白酪牛 お歳暮の品として最高の品です。寒中見 黄門様は鮭好みで知られ「鮭の皮と三五万石とを取り換えてもよいと 申された」という伝説もある。 舞い献上品初霜漬鮭とともに御賞味下さ い」 製法は古文書にあるので紹介してお く。 「 た か の す よ り 川 上 の 内、 鮭 相 見 へ 候 は ば 五 本 に て も 二、三 本 に て も、 川 下 へ す を立て逃げ申ず候様にいたし、当十月末 時分に網にて成共とらへ、腹の方寄り三枚に割り付け、干鮭にこしらえ させ候様にと仰せられいで候。干し所は八溝のごあんしょ所にて昼は日 に干し差し上候様にと、此段御自分まで申し遣し候様にと御意御座候。 鮭は成ほどさびやせ候がよく御座候」 次の献立も黄門料理初期のもので、師走「忘憂の宴」の献立である。 鮭の包焼 スコールクラブで開いた。その時の献立は次である。 宴を開いた。この時、銀流しという漁法でスズキを獲った。この再現は 一、油揚 麩入りつけ 後段 御料理よく召し上がる。 一、御茶 手前より 御薄茶 茶菓子 くわへ (中略)料理は二汁五菜也。 一、御汁 わらび・ふき・干大根・山椒の芽 二汁すまし 海苔・茗荷・栗 一、煮物 松茸・豆腐やきて 一、和物 ふし・酢入れ・山椒の芽 たてにて 一、あげふ わらび・らうたけ 一、御先に くこ・くるみ・いりたけ 一、御香の物 いろいろ 一、御座付 御長昆布、御煙草、御茶出す。 『日乗上人日記』の元禄十二年(一六九九)四月一日、光圀が蓮華寺 へ上がった時の料理の記載がある。 一、銀魚 すずきの糸膾(しくわい) 一、赤エイのこごり 一、姫鰯のつみ 一、姥貝の煮物 一、刺身 火取り鰹 一、うに焼 一、冷麦 一、鮨 巻きすし 紫錦梅入り 葉包みすし 椎茸入り 一、黄門様のかすていら 銀 魚 は 縁 起 が よ い 魚 で 中 国 の 周 の 武 王 が 孟 津 を 渡 る 時、 銀 魚 が 船 に 入ったという。日本では平家が栄えた時代で、清盛の乗った船に銀魚が 飛び込んだ。 「湊の真言宗華蔵院より新麦献上、御殿で光圀御手造 冷麦について、 の仕様のひやむぎ」とある。 料理の中心は山菜など地産のものである。 季節によって、芹・わらび・たんぽぽなどが食膳に上がった。 一、御吸物 いわたけ・豆腐 一、御肴 いろいろ 元禄六年九月二十日の『日乗上人日記』によると、光圀が少林院を訪 れた。少林院は当時太田の北にあり、正宗寺の末寺であった。 これより以前の話だが、元禄八年(一六九五)三月十日には、瓜連へ 出御の帰り、光圀が久昌寺へ立ち寄っている。『日乗上人日記』に次の 黄門様が食べた献立 日記に「御機嫌めでたくて、御料理遣スに御くご三度まで御かはりあ り」とある。又、 「ごぜんの時は、御酒いただかず」とあるので、酒は、 ぜん、あげとうふ、糸うどあへもの、からしたうふ也」とある。御酒も 「俄の事にハあり、山へいひやりて、御座敷しつらい、御料理もよおす」 その時の料理は「雑芋の御汁並びにかへ汁。御さしみ、あぶらふ、すい ようにある。 いろいろ その後飲んでいる。 その時の献立である。 一、御膳御汁 牛蒡・大根・椎茸 初茸・生姜・栗・大根 一、御酢和 ― 64 ― 膳にすえたとある。 後段には吸物、御酒、御肴とりどり、出されている。光圀の御成りの 時には三、 四〇人の宴になった。 朱舜水の事 黄門料理にとって、朱舜水の存在も大きかった。朱舜水(一六〇〇~ 一六八二)は明朝の遺臣で、浙江省余姚県の生まれ、明朝末年の政治腐 敗を目のあたりにし、憤然として、海外に避難するしかないと正保二年 朱舜水の指導のもと、寛文十二年(一六七二)、彰考館を開設、学者 を招集して『大日本史』の編纂を始めた。朱舜水は他に工学設計・建築 技術・農業園芸・医学種痘なども伝えている。 彰考館二代目総裁が安積覚で、宝永四年(一七〇七)に朱舜水の語っ たことをまとめたのが『朱子舜水談綺』である。この中に飲食・法貨(食 器など)・禽獣(獣肉、魚)米穀(含む野菜)草木の項目がある。 などが飲食の項にあり、中国と日本の食の比較をしている。 葡萄酒・点到酒・饂飩・饅頭・餃子・粽・月餅・砂糖・黒糖・塩梅・飴・ 豆腐・蒲鉾・金平糖・円団(だんご) ・風魚(しおびき) ・醍醐(白牛酪) り、明朝復元に努めたが敗戦、万治二年(一六五九)、日本に亡命した。 光圀は生涯、酒を好んだ。「酒は人の気を助て壮になす者なり。しか れども酒を持て盛んなる気は、真の勇気にあらず。醒めて後臆するもの (一六四五) 、初めて日本に渡った。その後、清(明に変わった国)に帰 これは七度目の来日で、その後二十余年日本に滞在した。 その頃、徳川幕府は鎖国を実施しており、外国人の入国を認めなかっ た。筑後柳川藩の儒臣安東守約は朱舜水の道徳学問を敬い、長崎鎮巡に なり・・・・」、「病気になって薬を飲むのでなく、食事の工夫第一」と 黄門料理の目玉 願い出て日本居住を許された。 旬のもの 西山荘には村人から野菜、山菜・きのこ・蕎麦粉などが届 けられた。光圀は麺うちの名人であった。若い頃、江戸浅草でうどん打 言っている。 た。寛文三年(一六六三) 、長崎の大火で朱舜水の家も焼け、、安東は長 ち を 見 て、 そ の 真 似 を し た と い う。「 日 乗 上 人 日 記 」 に は、 蕎 麦 打 ち、 当時、朱舜水は六十歳、中国からの亡命、孤独で財産もなかった。安 東守約は朱舜水のために衣食の節約などして、朱舜水を迎える準備をし 崎に駆けつけ、書を一緒に読んだ。 る。豆御飯も御馳走であった。 どについて相談した。 とある。大塚屋では酒コップ一杯、水 牛 乳 酒 「 綺 談 」 で は、 點 到 酒 で「 糯 米にて造りたる甘き酒の中へ牛乳或は うどん打ちの記載がたくさんある。そのほか、冷麦もたくさん食べてい 一方、水戸の光圀は朱舜水の噂を聞いて、寛文四年(一六六四)小宅 生順を長崎に遣わして、朱舜水を賓客として招聘し、師として丁重に教 朱舜水は祖国を終生忘れず、明朝の服装をし、心は故郷を念じていた。 天和二年 (一六八二) 、 朱舜水は八十二歳で死去。光圀は非常に残念がり、 コップ一杯、砂糖一匙を混ぜて沸かす。 えを請うた。光圀は、国家の施政方針・礼楽典章制度・文学学術の面な 明朝の儀礼により墓を作り、徳川家の墓地、常陸太田の瑞竜山に埋葬し 別にコップ一杯の牛乳を沸かす。そし 鶏卵を入れあたためて點到酒という」 た。墓碑には「明徴君子朱子墓」と光圀が書いた。 ― 65 ― て両方混ぜる。現代栄養学では、血液をさらさらにする効能がある。 光圀は鮎川村(日立市)に、多摩川の鮎を放流させ、繁殖させたとい う。元禄七年八月一日、安渡川(藤井川の上流・城里町)で鮎狩を見た 上桧沢(常陸大宮市)の真言宗満福寺の宥栄上人(一六九二没)と光 圀は親しくしており、伝説では、光圀が寺に滞在した時、鮎を御馳走し という伝承があり、碑が建っている。 現代栄養学では、カルシウムが多く、骨の強化 ようと焼いているうちに、本堂が焼失。光圀が再建したという。 白牛酪 牛乳を煮詰め、葛でかためたも ので、 チーズをあっさりさせた味である。わさび醤油 になる。一升の牛乳から一合の酪が出来、一合 で食べる。 日本の古い時代の料理で醍醐という。 は白米一斗の値段であった。 川尻肉醤(たゝき) 明治四十二年四月二十日の「いばらき新聞」に川 尻名物として鰹塩辛の紹介記事がある。 餃子 福包という。中国語を日本語にしたもの で、 『 談 綺 』 に は キ ャ ウ ツ ウ と 書 か れ て い る。 の背骨や頭を丁寧に打ち砕いて出来たもの。身たゝきは肉をつぶして筋 て作ったもの。味は之が第一等なのだ。骨たゝきは肉の附着して居る鰹 飛龍頭 ヒリュウズとかヒリョウズという。関 西では雁擬き(がんもどき)といい、味が雁の味に似ているという。 鴨肉・松の実・クコの葉を餡にした餃子で、梅 を取り去りて拵えたもので肉漿(にくしょう)というのがそれで上品で 「 土 地 の 人 は 之 を た ゝ き と 称 し て 居 る。 鰹 の 塩 辛 に は ワ タ を た ゝ き、 骨をたゝき、身をたゝきの三種がある。ワタたゝきとは鰹の臓物を裂い 肉をつけて食べる。 あるが真の塩辛の味はワタたゝきにある」 『日本萬物山海名産図會』巻四には次のようにある。 「鰹魚をタゝキといふ物あり。即(すなはち)醢(ひしほ)なり。勢州・ 紀州・遠江の物を上品として、相州小田原これに亜く。又奥州棚倉の物 黒豆納豆 丹波山の黒豆で造った納豆。塩・胡 椒・粉山椒で食べる。最初、潮来長勝寺の大嶽 の天狗納豆に委託していた。この納 は色白くして味地に越へる。即国主の貢献する所なり」 和尚が西山荘に持参した。大塚屋は水戸市柵町 豆については公衆衛生検査センター で 成 分 の 検 査 を 受 け た。 牛 肉・ テ 五三・七%、脂質七・八と少なく、蛋 れている。 こ の 書 物 の 発 行 は 宝 暦 四 年( 一 七 五 四 ) 甲 戌 初 夏 吉 日 で 寛 政 九 年 (一七九六)丁巳初春求板・浪華書林で昭和四年(一九二九)に再版さ 白質、炭水化物・繊維・灰分が多く、 元禄年間(一六一五~二四)に書かれた『醒睡笑(せいすいしょう) の一口話に醤(ひしお)が出てくる。これは塩辛である。 『今昔物語』 に「鯛 ン ペ・ 糸 引 納 豆 と の 比 較 で 水 分 は カロリーは二〇九カロリーである。 るが、これは動物の肉で作った醤の意味である。 の醤などの諸々に塩辛き物共を盛ろう。古い言葉で「ししびしお」があ 鮎の足半料理 光圀が鮎を料理するのに板がなく、足半草履の上で料理 したのにあやかった名称である。 ― 66 ― 告をした。これが日本独特の食文化を作りあげた。 た。彦根藩からは、牛肉味噌漬・粕漬・干し肉が天明から嘉永にかけて し か し、 肉 食 が な か っ た わ け で は な い。 猪 は「 山 鯨 」、 鹿 は「 紅 葉 」 などと言った。八代将軍吉宗は健康食品として牛乳を飲み、牛肉を食べ 弘化年間(一八四四~四七)川尻塩辛を川尻の落合与衛門が始めたと も、 光圀が川尻村の医学生を奥羽に派遣して製法を研究させたとも。又、 五十年間、寒中見舞として将軍家・親藩・老中に贈られていた。光圀は 『漬物の歴史』によると、高知で鰹の肉身を漬けた塩辛の紹介がある。 大塚さんの調査を見てみる。 肉醤については、元禄九年(一六九六)平潟村(現・北茨城市)の松延 この川尻肉醤は『ふるさと探訪・日立の再発見』に『加藤寛斎随筆』 て高知産であることが分かった。 この鰹を料理するのに、大塚さんは三種類(大・中・小)の包丁とま な板を復元した。なお、この包丁の型紙が堺市に保存されていた。そし 干浮亀(まんぼう)・葛粉・初鮭(五番鮭まで)・鮟鱇・甘漬鮭・川尻 肉醤(たたき)その他。 水戸藩の献上品 となった。 明治五年に明治天皇が、牛肉を試食するまで、とくに庶民は掟を守っ ていたので、西洋の食文化には驚き、肉食禁止解除が文明開化の幕開け 「生類憐みの令」には批判的であったという。 の中から紹介している。 「川尻村 小貝浜と云所に色砂利あり酉島あり。 肉醤の名産なり。元禄九子年、 平潟村松延道庵と云者より当村江伝ふと、 蝦夷の食文化を運んだ快風丸 道庵が伝えたともいう。 年々献上となる」 元禄元年(一六八八)二月三日、光圀は、常陸那珂湊から快風丸を蝦 夷まで行かせた。それまでに、二隻造船していた。一隻目は寛文十一年 ( 一 六 七 一 ) で 長 さ 一 八 間・ 幅 五 間 の 船 を 造 っ た が 光 圀 は 気 に 入 ら ず、 こ の 川 尻 た ゝ き は 鰹 の 新 鮮 な 肉 身 で 造 っ た も の だ が、 鰹 の 漁 獲 量 が 減った明治時代に姿を消した。 鮟鱇 天和二年(一六八二)に廃船、二隻目は、貞享二年(一六八五)に竣工、 暴風で行方不明になった。 三隻目の快風丸の建造費は、七〇〇両、蝦夷地と石狩川の探検が目的 であった。出発にあたって、一度目は天候不良、二度目は松前藩の反対 鮟 鱇 は 水 戸 藩 か ら 将 軍 家 へ の 献 上 に な っ て い た。 当 時 は 乾 し た も の だったと思われる。鮟鱇の七つ道具といって、すべて食べることが出来 物である。 で引き返し、三度目に成功した。食糧は三年分積んで行ったが四〇日で る。鍋料理・供酢の料理がある。とくに供酢は水戸独特の料理として名 肉食 乗員六七人、船は全長二七間(五三m)、 幅九間(一七・七m)、櫓四〇挺、 帆柱一八間、柱の基三尺角、帆木綿五〇〇反で、二艘の伝馬船を積んで 戻ってきた。 のあらば罪せしむ」 。一時ゆるんだが、徳川家康は慶長十七年(一六一二) いた。(『水戸市史中巻』) (六七五) に肉食禁止令(日本書紀)が出た。そのため、 天武天皇から五年 日本人の肉食はタブー「牛馬犬猿鶏の宍を食ふことなかれ…もし犯すも に「牛を殺すこと禁制なり。自然死するものは一切うるべからず」の布 ― 67 ― 六 月 二 十 四 日 に 松 前 か ら 西 海 岸 を 北 上 し 蝦 夷 に 入 り、 二 十 七 日、 石 狩に到着している。とにかく、蝦夷から参考になることを調べるため、 四〇日間滞在している。漁場・集落など回った。 この時、ある程度の交易を行っている。鮭二万本、熊、ラッコ・トド の皮類を積んで帰っている。水戸からはおそらく、米・酒・煙草などを を何度も長崎から取り寄せては献上していました。その献上品のなかに は麺の材料の藕粉(おうふん・蓮根の澱粉)が記されています(後略)」 元禄十年(一六九七)六月十六日の『日乗上人日記』 十六日 甲子 晴 製法については石狩で受け、塩に漬けて、それを干しながらきたとも思 ナリ」 御所ニテ参ル。ウンドンノゴトクニテ汁ヲイロイロノ子ヲカケタル物 勤行如常 日中晩出仕 甲子祭等如例 「晩課前、日周師ニカケトイフ物振舞ニテ われる。 これだけの文章である。御所は注釈によると久昌寺の唐門の東にある 尊明院の館とあり、日周上人は尊明院の伝役とある。 持って行ったものと思われる。鮭は船の中で塩引きに加工された。その 元禄元年の歳末から、翌二年正月にかけて、水戸の城下では、石狩の 鮭が食膳を賑わしたのではないかと、想像できる。水戸藩では那珂川の と書き、小麦粉に鹹水を加えて、練った麺を鶏ガラや豚骨からとったスー 鮭を献上していたので、その加工については興味をもっていた。 鮭は頭から尻尾まですべて無駄なく食材として使える。干し鮭を細か く切り、 湯煮をして 「さめ」 の油をかけて食べたともある。黄門料理では、 プに入れ、さまざまな具を入れ、載せたものである。 小麦粉に蓮根澱粉を入れ、とにかく現代人にあうよう平成六年に川崎 製麺(水戸市下大野町)によって復元された。中国で、ラーメンは拉麺 この氷頭を料理して膳にのせている。しくしくして美味いものである。 らーめんの話 ・ 薬味としては『朱氏舜談綺』には川椒(チャアンヂャオ・さんしょう) 青 蒜( チ ャ ン ス ア ン ス ウ・に ん にく )・ 黄 芽 韮( フ ァ ン ヤ ヂ ウ・ ニ ラ・ 「日本で中国麺が定着し始めたのは、明治の中頃だといわれています。 初めは華僑の人たちの郷土料理でしたが、もともと麺好きな日本人の眼 の五辛である。現在、水戸藩ら― 香菜(シャンツアイ・らっきょう) にら) ・白芥子(バイヂエツ・ねぎ) ・ に止まらないわけがありません。戦後の目覚ましい発展とともに御当地 め ん は、 五 辛 と し て、 し ょ う が・ 水戸藩らーめん研究会は、次のように解説している。 ラーメンが登場し、即席ラーメンの研究開発も進み、(中略) うを薬味としている。 なお、「中国風のうどんは、麺粉を水でこね、うち広げて二寸四方ほ どに切り、中へあん(野菜)を少し入れ、四方の端を見えるように残し にんにく・にら・ねぎ・らっきょ ところが、このラーメンは、実はもっと時代を遡って三〇〇年前余り 前に口にした人がいました。それは水戸の黄門様でした。(中略)寛文 国の儒学者朱舜水を水戸藩へ招きました。朱舜水は黄門様のために多方 て包み煮て食べた」と『談綺』にある。 五年(一六六五) 、儒学に熱心だった黄門様は、長崎に亡命していた明 面にわたり尽力し、中国麺の製法まで伝授しました。そして中国の食材 ― 68 ― 食物は当屋が季節の食物を準備し、 各自が持寄った簡単なものである。 煮しめ・きんぴら・煮豆・漬物などがそれである。そして特別な時には、 集まって、御詠歌を唱え、御馳走を食べ、世間話をした。 と仏教の言葉で、経典を講義する法会であるが、民間では決まった日に その中で生まれたのが信仰的な講や頼母子講という経済講である。庚 申講・観音講・二十三夜講とかバラエティーに富んでいる。講はもとも この共同体制を支えてきたのが付き合いである。 昔は共同で何かすることによってムラの生活が成り立っていた。田植 え・家普請・道路改修などすべて共同生活に欠かせないものであった。 汁講会については、次のように定義づけた。 初の参加は十三名だったが、その後、隔月開催、三十数名が集まった。 大塚屋では、毎月献立を変えて黄門膳を提供しているが、それとは別 に会費制の汁講会を開いていた。平成十四年二月十四日が第一回で、最 汁講会 一、納豆 酢味噌 一、煮染 以豆煮 若竹 一、ふきのとう酢漬 一、山菜に和合い 一、白牛酪 一、あかえ煮魚 一、かすご鯛 昆布〆 一、川尻たたき田楽 一、御神酒 金砂山大田楽祭御振舞 海の幸を探し求めて調理した」と大塚屋の案内文にある。 れた。平成十五年は七十二年廻り、第十七回である。同時期の山の幸、 ここでは、平成十九年の汁講会の献立を紹介しておく。 二月九日(金)午後六時 平成十九年の汁講会 手の込んだ献立になっている。 一、ちんぴ おろし大根 わさび汁 一、中染村出御 食小豆 羹煮餅 この料理は、『常陸国北郡里程間数記』『水戸旧臣記』 『常陸国記』『水 府志料』 『水戸下市御用留』を資料として、 神事後の酒盛を考案したので、 一、あげのり酢和え うどんが御馳走であった。 一、お蕎麦切 御下地 一、花かつお 焼海苔 焼味噌 汁講については『桃源遺事巻の四』に次の記事がある。 「むかし世に汁講といふ事あり。その様子ハ、客を請候とてハ、その 客も銘々に飯をめんつうという物に入れ、携へ来たり、亭主は唯汁一色 のミにこしおらへ、能時分汁を鍋まま座敷へ持ち出、打ち寄賞味もては やして、此外には何のもてなしと申義一つもなし」 光圀も汁講をやってみようとしたが、この年亡くなったので実現しな かった。 平成十五年三月には金砂神社大祭礼にがあり、それに因んだ汁講会が 行われた。 「天明七年三月三日(太陽暦で四月二十三日)金砂神社大祭礼が行わ ― 69 ― 一、食前酒 偕楽園の梅花酒 一、御口取 弘道館の梅たたき はなびら百合 一、御千代口 春芹(北浦産) 一、御生 領地産 生鮪 一、酒菜 山椒にしん 一、御食事 うんどん 蘇東坡好豚肉料理は、豚の角煮であ る。豚肉を長時間ゆでて豚の脂を抜く。 脂を抜くことによってゼラチンだけ残 る。そして、脂を抜いた後、特製のた れにつけて、アクを抜きながら数時間煮る。さらに一晩ねせる。ばら肉 九月十三日 菊花の汁講会 「菊の節供も過ぎ、菊の香りも一段と高まりました。野・山・海・川 は、秋の味覚で埋め尽くされています。それを食材にした祝宴は格別で を使う。蘇東坡が好んだ料理で、長崎から。水戸にも伝わった。 一、御吸物 春芹の卵とじ 一、御飯 七福寿司 一、御酒 一品 久慈の山 副将軍 この料理は、偕楽園・弘道館というので、光圀というより斉昭の献立 と考えられるだろう。なお、すみつかれも県西の郷土料理で、水戸藩で す。黄門様は西山荘に菊の屏風を飾り、菊酒で祝い、長寿を念じました。 ― 70 ― 一、御煮 がんもどき 一、揚物 春芹 しらす 一、酒菜 初午のすみつかれ は作っていなかった。正月の残り物の塩鮭の頭、鬼おろしで卸した大根、 今宵はそれにあやかり、皆さんと御一緒に、秋の夜を楽しみたいと思い 一、御手塩 領地産旬の野菜漬物 一、御飯 天然舞茸御飯 一、御生 お刺身 一、御汁 武蔵野風仕上げ 一、御焼 松茸鋏み焼き 一、御煮 那珂川産子持ち鮎煮浸し 一、御千代口 菊味 一、御口取 揚げ大根のおろしのせ 一、祝酒 菊花酒 一、御祝肴 満月卵 衣かつぎ 枝豆 ます」 人参、節分にまいた大豆の残りもの、酒粕、酢を入れて煮たものである。 四月十二日(木)夜六時 春謳歌の汁講会 「桜花爛漫、満開の菜の花は日に輝いて強く目に映り、万木すべてが 芽を出す季節です。今宵は、春の到来を祝い、美酒と旬の御馳走を用意 しました。ゆっくり語り合い、春を謳歌していただければ幸甚です」 一、食前酒 ガマズミ酒 一、千代口 枝豆 一、口取 献上浮亀(まんぼう)献上川尻肉醤(たたき) 一、御生 鹿島灘産 鰹 一、御煮 蘇東坡好豚肉料理 色付焼 那珂川産鮎 一、御焼 豚の角煮 マイク真木も参加 、大根は栃木県塩原、茸は福島県田島 鮎は喜連川(栃木県さくら市) から仕入れた。 十月三十日(月) この日、NHKの収録が昼間あり、夜、汁講会を実施した。 献立 NHK好み 牛乳酒 白牛酪 大黒納豆 福包 西山荘好み 白子田楽 ふろふき大根 きのこ天婦羅 きのこ汁 献上甘漬鮭 戻り鰹刺身 きのこ御飯 十二月十日 年忘れ汁講会 献立 一、御酒 初しぼり 一、御口取 冬至蒟蒻白和え 一、御生 領地産鮪 一、御煮 冬至南瓜 一、御焼 奥久慈山女塩焼き 一、酒菜 ひろうず 鮟鱇こごり煮 鮟鱇塘味噌 一、御汁 けんちん汁 一、御飯 茶飯 一、御菓子 柚子甘露 この汁講会が最後になった。 この汁講会には、酒は水戸の明利酒造の芋焼酎、常陸大宮の久慈の里、 水戸の一品、醤油は常陸太田の米菱から寄贈されていた。 秋になると福島県の田島から茸が届いていた。それに蕎麦の頃になる と、大塚さんは、田島の蕎麦打ち名人(鉄鋼場経営)の家を訪ね、打ち 立ての蕎麦を食べ、塔のへつりを訪ね、洗心亭ホテルへ泊まり、食材探 しをしてきた。 黄門宴膳 「私は六十歳になりました。今の私の願いは黄門様の料理をまず、自 分で食べるために作ることです。次に人に食べてもらうために、美味い ものを作ることです。だから暇さえあると彰考館の記録と今までの集め た資料をもとに、自分で台所へ立って行きます。但し最初は完全無欠の 出来栄えは期待していません。下手でも、それに近いものを作ってみる ことが完成への道をたどる一歩です」 大塚さんが黄門料理をはじめようとした時の文章である。 大 塚 屋 の 黄 門 宴 膳 は 三 千 四 六 五 円・ 四 千 六 二 〇 円・ 五 千 七 七 五 円・ 六千九三〇円・九千二四〇円の五種類で、消費税・サービス料が入って いる。ここでは六千九三〇円を中心に献立 を紹介しておく。 一月 一、食前酒 牛乳酒 一、祝肴 珍味盛合せ 一、御口取 七草せり 胡麻和え 一、千代口 紅白なます 一、御生 おさしみ 一、御煮 東坡煮 一、御焼 寒鰤 ― 71 ― 二月 一、御汁 吸物仕立 一、御食事 水戸藩米 一、酒菜 献上 白牛酪 一、 〃 黒大豆製 黄門納豆 五月 一、食前酒 牛乳酒 一、御手塩 香の物 一、御飯 水戸藩米 一、 〃 鴨入り福包 一、酒菜 白魚 天婦羅 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上 白牛酪 一、御食事 水戸藩米 一、御食事 若筍寿司 六月 一、御煮 若筍 炊き合わせ 一、御焼 川鱒 木の芽焼 一、酒菜 久呂万米納豆 一、 〃 若筍 天婦羅 一、 〃 若筍姫皮 和合 一、 〃 若鮎せんべい 一、御汁 若筍 若布 一、御口取 献上 白牛酪 一、御生 おさしみ 一、御菓子 柚子甘露 三月(二月と同じ) 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上白牛酪 はなびら百合 四月 一、食前酒 牛乳酒 一、千代口 旬の山菜 和合 一、御生 おさしみ 一、千代口 一、御口取 献上醍醐(白牛酪) 一、御千代口 若旬木の芽和え 一、御煮 豚肉 東坡煮 一、御焼 那珂川産 若鮎 一、御生 おさしみ 一、御煮 ひろうず 一、御生 おさしみ 一、御煮 春野菜 にしん 巻湯葉桜麩 一、酒菜 那珂川産 若鮎南蛮漬け 一、 〃 久呂万米納豆 〃 鮟鱇鍋 一、御汁 一、御焼 旬のお魚 一、酒菜 久呂万米納豆 一、御焼 春鱒木の芽焼 一、御肴 菊春巻膾 ― 72 ― 一、 〃 鴨入り 福包 一、 〃 若筍姫皮うに和え 一、御汁 一、御食事 水戸藩米 七月 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上白牛酪 一、千代口 久呂万米納豆 一、御生 おさしみ 一、御煮 炊き合わせ 那珂川産 若鮎 一、御焼 一、酒菜 鴨入り 福包 一、 〃 天魚(ます)南蛮漬 一、 〃 山椒にしん 一、 〃 和えもの 一、 〃 鮎せんべい 一、御汁 味噌仕立て 一、御食事 水戸藩米 八月 一、食前酒 冷やし牛乳酒 一、御口取 献上 白牛酪 一、御生 おさしみ 一、御煮 高原大根と豚角煮 一、御焼 那珂川産 鮎 鴨入り 福包 一、酒菜 一、 〃 久呂米納豆 一、 〃 ぶどう みぞれ和え 一、 〃 那珂川産 鮎せんべい 一、 〃 秋刀魚 辛煮 一、御食事 黄門冷麺 九月 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上 白牛酪 一、御生 おさしみ 一、御煮 ゆば 高原大根 一、御焼 那珂川産初漁鮭 一、酒菜 鴨肉入 福包 一、 〃 ぶどう みぞれ和え 一、 〃 那珂川産鮎 煮浸し 一、 〃 茶碗蒸 天然茸 百合根 一、御汁 名月椀 武蔵野仕立 一、御飯 水戸藩米 十月 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上白牛酪 一、御千代口 香茸 一、御生 おさしみ 一、御煮 秋野菜炊き合わせ 一、御焼 献上鮭 包焼 一、御酒菜 白子田楽 ― 73 ― 一、 〃 鮎せんべい 一、 〃 柿膾 一、御汁 一、 〃 鮟鱇 塘味噌 一、 〃 冬至蒟蒻 一、御食事 年越蕎麦 一、御茶菓子 木の葉柚子 甘露 大塚屋店舗 一、御食事 ハララ子御飯 十一月 大塚屋の入口には自然石が置かれていた。日本画家木村武山(一八七六 ~一九四一)ゆかりの石で「木村武山画伯壇ノ浦ノ本石ニ蟹ヲ絵ガキ寄 て茨城県護国神社に寄進された。 塚屋の看板石だったが、廃業によっ 旧吉田村)とある。この自然石は大 進ス藤沢校長(陸軍航空通信学校・ 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 献上 白牛酪 一、御千代口 きのこ粕漬 一、御生 おさしみ 一、御煮 ふろふき大根 献上鮭 初霜漬 武 山 は 日 本 美 術 院 が 五 浦( 北 茨 城 市 ) に 移 転 の 際、 横 山 大 観 ら と そこに住み、「孔雀王」を描いた。とくに仏画は有名である。また、笠 間には大日堂を建設し、壁画に大日如来、日光・月光両菩薩と天女を描 いた。 ま た、 玄 関 を 上 が っ て 右 側 の 庭 に は 彫 刻 家 木 内 克( 一 八 九 二 ~ 一九九九七) の石灯籠があった。請花と宝珠にフクロウを配している。 フクロウは必ず巣に帰るので、それに因んで、「料理屋に来て酒を飲ん でも必ず家に帰る縁起物」として木内克から贈られたものである。 中 庭 に は 百 匹 を 超 え る 鯉 が い た。 各 部 屋 か ら の 庭 の 景 観 は す ば ら し かった。聖徳太子堂もあった。笠間から移築したもので武山の描いた聖 徳太子像が入っていた。 本館は平屋建ての日本間で、近年は各流派の茶会に使用されていた。 大部屋、小部屋の純和風の部屋であった。新屋は一階が調理室と帳場。 ― 74 ― 一、御焼 一、御酒菜 黒大豆製 黄門納豆 一、 〃 鮎せんべい 一、 〃 鮟鱇供酢 一、御汁 きのこ汁 一、御食事 水戸藩米 新米 献上 白牛酪 十二月 一、食前酒 牛乳酒 一、御口取 一、御千代口 菊花なます 一、御生 おさしみ 一、御煮 ひろうず 一、御焼 領地産 鮭包焼 一、御酒菜 献上 鴨肉入り福包 一、 〃 鮟鱇 こごり煮 木村武山の蟹の絵 二階はかつて洋式の披露宴の部屋であったが、その後、物置になり、食 器や骨董品が収納されていた。三階は居間・勝手・便所・寝室・仏間・ 中華店で使用。 ⑻○水戸藩 三〇類 脱穀済みの大麦、食用粉類。 ⑼○水戸藩黄門らーめん た。三階へはエレベーターで昇降していた。 三〇類 中華そばの麺、即席中華そば麺。 書庫(元美術館)で、 書庫にはたくさんの書籍・コピーされた資料があっ 商標の話 ⑽○水戸藩黄門らーめん 四三類 中華料理を主とする飲食物の提供。 ⑾◎黄門 三二類 食肉・卵・食用水産物・野菜・果実・加工食料品ただし、加 工穀物(麺類)、すし・弁当・サンドイッチを除く。 水戸藩料理、水戸藩らーめんには商標がある。大塚さんは商標に関心 が深く、早くから取得し貸出もしていた。 ⑴◎水戸藩・みとはん 三二類 食肉・卵・食用水産物・野菜・果実・加工食品に使用できる。 水戸藩らーめん加工に使用。 四二類 日本料理を主とする飲食物の提供、中華料理を主とする飲食 物の提供。 料理を提供する店を募集することになりました」 して復活させ、水戸市の商工業発展と地域の活性化を図るため、今回… います。水戸商工会議所では、この料理を水戸の郷土料理・名物料理と 「黄門料理とは、水戸黄門が当時食した料理の研究を長年重ねた水戸 大塚屋が再現したもので、その献立は一〇〇種を超えているといわれて 大塚屋はこれだけ所有していたが◎印は水戸商工会議所に移った。 ⑿○黄門 ⑵◎水戸藩・みとはん 二八類 日本酒・洋酒・ビール・果実酒・中国酒・薬味酒などが該当 する。酒造会社が使用。 ⑶◎水戸藩料理 三二類 大塚屋が使用。現在。九店が使用。 内容は1と同じ。 ⑷◎水戸藩漬 三二類 粕漬肉・粕漬魚介類・野菜又は果実の漬物。漬物会社が使用。 ⑸○水戸藩 /煎酒 これが、黄門料理提供店募集の案内文で、現在次の九店が黄門料理に 参加し商標を使用している。山翠・五鐡夢境屋・粋酔庵・テラスザガー デン・ホテルレイクビュー・割烹いずみ・山口楼・三の丸ホテル・プラ ザホテル。 二八類 清酒にかつお節・梅干・塩などを加え煮詰めた料理酒。 ⑹○水戸藩 四二類 日本料理を主とする飲食物の提供、中華料理その他の東洋料 理を主とする飲食物の提供。 水戸へ行けば美味い黄門料理が食べられという料理を作らなければな おわりに ⑺◎水戸藩らーめん 四二類 中華料理を主とする飲食物の提供。水戸藩らーめん会加入の ― 75 ― 宴膳は季節を大事にした。 生活全体に言えることだが、食を感得するのに、視覚・嗅覚・味覚は もちろん、聴覚・触覚など五感すべてが関わるのである。大塚屋の黄門 大塚屋も汁講会の初期は、お茶は安いもので、出がらを平気で入れて いたので、これは注意した。お茶は高級なものでなければならない。 がよいのだが、ポットを持ってつぐ店もある。 つ、中にはお茶でなく水を出す蕎麦屋もある。お茶の入れる容器は急須 お茶の出し方が出来ない。和食は煎茶が一番なのだが、ほうじ茶が目立 らない。水戸の一般的な飲食店はもてなしが低調である。第一、基本の ていた。 れた。その中で由美かおると 大塚屋にはタレントやス ポーツ選手など多くの人が訪 塚さんが考案した烏骨鶏スープは、病気を和らげ、多くの人に喜ばれた。 白乳酪・などの原点が水戸にあることを定義づけた。食材にする大根は 平成五年十二月十日が最後になったが、その間、旬の食材をもとに、 元禄時代の献立を再現、医食同源として確立した。牛乳酒・福包(鴨餃子) ・ て最高の楽しみであった。 大塚さんが日野原重明さん の「新老人の会」に八十歳で の写真は絵ハガキにして送っ 塩原、茸、蕎麦は会津田島、鮎は喜連川、水は昭和村駒渡に求めた。大 視覚 季節にあった掛軸、生花を飾った。これが今日の料理をイメー ジする。大塚屋では木村武山・川鍋暁斎・横山大観などの掛軸を掛け、 生花は季節を代表する草花を豪華に飾った。食器も季節にあった膳椀・ 陶磁器を使用した。 入会し、その時、会報に寄稿した文章がある。 大 塚 さ ん の こ と だ が、 奥 さ ん の か つ さ ん は 平 成 十 五 年 年 一 月 十 六 日 七十六歳で死亡、ただ一人になり衝撃を受けた。 一品一品ずつ味わっている。日本の食事は西欧とは違い、 味覚 客は、 一度に配膳して、一箸ごとに味わうのがよい。 都・奈良・大徳寺・秋篠寺に毎月行っています。四〇〇キロくらい自分 ことが、知恵のある老人だと思います。私は自分だけの劇場の主人公で をもって奉仕に生きています。ところが、老中の上がありました。大老 嗅覚 黄門料理は、季節の食材を使うので、季節独特の香りがあった。 今日の食材が調理場から匂ってくるのである。 京都の瀬戸内寂聴には病気のことなど話し、これからの生き方につい て相談している。好きな女性についてはプラトニックにゆきなさいと言 で運転して、福島の南会津まで行きます。山に登り、春は山菜、秋はキ 「 黄 門 様 の 元 禄 時 代 の 武 家 社 会 で は、 幕 府 の 政 治 に 携 わ る 老 中 職 を 年 寄といいました。私は黄門様の長寿法を再現し、PRする老中だと自信 われたそうだ。 ノコを採って黄門様の食事を再現しています」 もあります。それには耄碌しないことです。恋もしますし、日帰りで京 です。どうせなら大老になって、黄門様の長生きの秘訣を現代に伝える 大徳寺塔頭の小林太玄には「無一文」の文字や前に紹介した辞世句を 書いてもらっていた。包丁は京都の老舗有常。この二人は子大塚さん重 体のとき、水戸に見えた。この人たちとの交流が大塚子之吉さんにとっ ― 76 ― 特 集 霞ヶ浦の民俗 ― 01 ― 特集 霞ヶ浦の民俗 んだ」 第一節 伝説と昔話 伝説も昔話も長い間、語り継がれてきたもので、その村々の生活を知 るのに大切である。伝説は歴史的人物と結びついたり、土地の名称に関 わたったり寺社の創建に深いつながりがあったり、真実らしく語られた そのためには、記憶されやすい内容と形式をもつ必要があった。それに 今 瀬 文 也 ものが多い。 言語は地域によって異なり、共通語に対して方言という。この言葉が 中心になって、毎日の生活が行われ、伝説、昔話、ことわざ、わらべ歌 は身近なものからということになる。そのことから伝説は民衆的発想が 第1章 言語生活 などが語られてきた。次にあげるのは、昭和四十三年に当時九十歳だっ 必要であった。 伝説・昔話は民衆の間に口から耳へ語り継がれたもので、文字ができ てからも、文字の読めない人が多く、いつまでもつづいたものである。 た大和田はなさん(行方市・旧行方郡玉造町)から収録したものである。 人物伝説 武甕槌命、日本武尊、源義家、源頼朝、徳川光圀などの伝説 がある。武甕槌命は天照大神の命を受けて、葦原中国を平定するため、 て化げ出た。そんで酔っ払って鳥栖のこびきが仕事して、えーにぐ、そ 日暮れに通る人を馬鹿にした。えがい入道になって、それ木に登ってい があったですよ。クボでそこにムジナのころひいだ、ひどいのがいてっ、 いる。その地方平定にあたった日本武尊、源義家、源頼朝も共通している。 民の幸福と世の中の安寧を図った地方君主的な面と武神の性格をもって 出雲の海岸に降り立った武神で、鹿島神宮の祭神である。鹿島地区の住 1 霞ケ浦の伝説 幼い頃聞いたことを記憶していて、地方独特の言葉で話してくれた。 「むかしっつーのは、山ん中で、むじなや狐つーのがいて、化かされ た話もあったな、それがら、富田と鳥栖のあわいに、グミノザワ山うち の山のふじさ、腰かけでて眠っちゃったんだっー話だ。そして眼がさめ 東方諸国には荒ぶる夷 え ( みし を ) 平定することであった。武甕槌命は 出雲に降り、鹿島を中心に活躍したことで、鹿島神宮の祭神になった。 てみだればムジナと子供らがワヤワヤいたんだちゅしよ。おや、これ家 えがい入道めが松の木にのぼっているっていうだなー、馬めは、それが たてーも、あんだよ。そんで、河岸でおそぐなってやっぱり戻りあした。 たんかんね、いくらでも、鳥栖の河岸さ、富田の方がらドンドンつけっ そしたふーに、 みせたんだんべな、 あの頃は馬で、まぎや竹、駄賃づけやっ 周辺も同じで、鹿島大神に戦勝祈願するあたりに特色がある。 軍している。茨城はその通過地点として、数々の伝説を残した。霞ヶ浦 から東征を命じられ、常陸国にも入り、『日本書紀』では、奥州まで進 残している。日本武尊は一二代景行天皇の皇子で、九州出征の後、天皇 『 常 陸 国 風 土 記 』 で は、 日 本 武 尊 は『 古 事 記 』 で は、 倭 武 命 と 表 記、 倭武天皇「やまとたけるすめらみこと」として、地名起源説話を数多く さきだとみえると、めがさめてみたら、それグミノキザワでムジナめが、 いるっちゅーと、ガサっと山の中へはめごみ、かくれちゃったってゆー ― 77 ― している。 討伐や義経のことを口実に奥州の藤原氏を滅亡させている。この両者は を討ち、後三年(一〇八五~八七)の役にも登場している。頼朝は佐竹 源頼朝はともに奥州征伐の途上の出来事として登場している。 源義家、 義家は前九年(一〇五一~六〇)の役に父頼義に従って奥州の安部貞任 その首を埋めた所で、今でもそこの砂は赤いという。 土地の名を神釜とした。 鬼塚(鹿嶋市) 鹿島に高天原がある。昔は、鹿島灘を望む砂原の松林 であったが、今は住友金属の住宅団地になっている。その団地の隣の原 こで、村びとは武甕槌命に感謝して、祠を建てた。それが鹿島神社で、 れをみた村びとも、老人の製塩法によって塩を作り、豊かになった。そ ら覚めた老人は、その教えによって塩を作り、たくさんの富を得た。そ 親鸞は建保二年(一二二四)に越後から上野、武蔵を経て常陸に入り、 現在の笠間市稲田の西念寺を拠点として、二〇年、常陸で布教にあたっ 鶏と鳥居のない村(稲敷郡阿見町石川)大昔、武甕槌命が荒ぶる神を打 鹿島の大神に戦勝祈願のために、霞ケ浦の村むらにも立ち寄り伝説を残 たので伝説が多いのは当然である。とくに、鹿島神宮参詣途上の出来事 ち平らげるため、この地に来た。村人たちは、いつ荒ぶる神に襲われる た。 かと不安でいた時なので、武甕槌神の来たことを喜び、協力を誓ってい 野に鬼塚がある。昔、鹿島の大神武甕槌命がこの地の鬼賊を征伐した時、 が多い。親鸞が稲田に草庵を結んだ時、教えを受けに来た人々の中に一 人の白髪の老人がいて、弟子にして欲しいというので、親鸞は信海 し ( んかい の ) 名を付けて弟子にした。この老人が鹿島大神であったという。 いた鶏が驚き騒ぎ鳴きたてたので、命の所在が知られてしまった。そし 時も時、あらぶる神たちが、里を襲った。命は潜んで引き寄せ、一気 に討とうと謀られた。ところが、ただならぬ、気配に里人たちの飼って う。ここには、幽霊済度の伝説があり、稲田と鹿島を結ぶ重要な地点で て、あらぶる神たちは、その野性と凶暴をあらわに襲いかかってきた。 稲田の西念寺と鹿島神宮の中間に鉾田市鳥栖の無量寿寺がある。寺の 開基の順信房は、鹿島神宮の神官片岡信頼で、親鸞の弟子になったとい あった。 た地域である。 日記』に見られる。この地は水戸藩の飛び地で「潮来一万石」と言われ ている。そのことは、いつも同行していた日乗上人が書いた『日乗上人 はったと伝えられる。経津主命はやがて常陸の海を渡って、現在の佐原 経津主命と立切(稲敷市釜井・旧東町)釜井に立切という小字がある。 長年建てなかった。(『茨城の民俗』第六号) 命は難渋しながらあらぶる神を討ち滅ぼした。鶏がこの苦戦の原因を つくったことを恐縮し、里では鶏を飼わないことにした。また、鳥居も 命方はそのため、苦しい戦いを続けなければならなかった。 武甕槌命 鉾田市上釜の鹿島神社は、海岸に面した高台で砂地が多く、 田が少ないので、村びとは食糧に困っていた。そんなある日、老人の夢 市の香取の地に移り、香取神宮の祭神になった。その後、お礼として、 水戸黄門光圀伝説は、領内巡視伝説で、天皇巡幸伝説の系譜に属する もののようである。 光圀は潮来へは藩主時代に三回、隠居後は数多く通っ に武甕槌命が現れて「田の少ないのを嘆くでない。飯を炊く釜で海の水 香取神宮から毎年、奉幣使(ほうへいし)が来るので、上陸する場所に 大昔のこと、東征してきた経津主命(ふつぬしのみこと)が初めに陣を を煮て塩を作れば、人びとの生活は裕福になる」と教えたという。夢か ― 78 ― 鹿島の地に渡ったと伝えられる。鹿島神宮も年に一度訪れるので、この 伊佐部の上場 あ ( がっぱ ()稲敷市伊佐部 旧 ・ 東町)伊佐部と阿波崎の 境界付近の低地を上場と呼ぶ。建甕槌命がこの地に陣を張り、その後、 立切の地名がついた。 幣使は来なくなった。村びとは怒り、香取神宮と縁を断ち切ったので、 香取神社を建てた。ところが、年月が経って香取神宮が繁栄すると、奉 の名を行細 な ( めくわし の ) 国というべし」といわれたので、この地方 を行方と呼ぶようになった。 行方の地名 行方市現原 あ ( らはら (旧 ) 玉造町)に日本武尊が来たとき、 現原の丘に登って四方の景色を眺め、その美しいことをほめて「この国 うになった。 尊は手に美しい玉を持っていたので、この井戸を「玉の清井」と呼ぶよ 日本武尊が手を洗ったとき、その泉の水が清かったので、誉めたたえた。 村を上場というようになった。 地 名 の 命 名 で あ る。 日 本 武 尊 は、 吉 田 神 ケ 浦 に 集 中 し て い る。 そ し て そ の 多 く は 郡、香島郡、信太郡、茨城郡に分布し、霞 武天皇として一七か所に記載される。その説話を地区別にみると、行方 両書とも常陸国征服の伝承はない。とろが、『常陸国風土記』には、倭 日本武尊が甲斐(山梨県)の酒折宮で、御火焼の老人と問答して詠ん だとして有名な歌である。しかし『記紀』ともにこの歌を記しているが、 かがなべて夜には九夜日には十日を のために生まれたと伝える。 さとのみやつこ 神 ) 社がある。鳥塚橋に流れついた笄に羽が生え、ここ まで飛んできたので笄崎と名づけて宮を祀ったという。羽生の地名もそ ( ちばなの 鳥塚橋に近い笄崎「こうがいさき」というところに橘郷造 た がついたという。 い、海神のいけにえになった姫の笄 こ ( うがい が ) ここに流れ着き、そ れを守るために、たくさんの鳥が群がり、塚のように見えたのでこの名 鳥塚橋 行方市(旧玉造町)羽生 は ( にゅう の ) 鳥塚橋には弟橘姫命 お ( とたちばなのひめ の ) 伝説がある。走水 は ( しりみず の ) 海で嵐に遭 日本武尊 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる 社 の 祭 神 で、 水 戸 の 吉 田 神 社 は、 尊 が 船 ( ろやま と ) いう塚 羽生の台地の突端、橘郷造神社近くにお帆呂山 ほ がある。尊が大暴風にあったとき、舟の帆がもぎとられ、それが打ち寄 をつけたという遺称地である。 こ に 来 て 鹿 島 大 神 を 拝 み、 戦 勝 を 祈 願 し いるという。後になって、ここに祠を建て尊を祀ったのが御船神社で、 御船神社 行方市蔵川(旧麻生町)は日本武尊の船が着いた所で、ここ に上陸し、馬に乗り換えた。船は今も水中にあって、石のようになって せられたのを引き上げて納めた塚である。 た。 そ の と き、 谷 を 開 墾 し て 田 を 造 る 一 境内の駒形神社は、尊の乗馬を祀ったものという。 造谷 鉾田市造谷(旧旭村)は日本武尊が 東 征 の と き、 角 折 浜 か ら 陸 に 上 が り、 こ 老人を見て、その労をねぎらって慰めた。 行方市井上(旧玉造町)の泉で、 そこから造谷の地名が生まれたという。 大井戸 日本武尊は東征のとき、稲敷、行方を経て玉里の桑原岳に立ち 寄った。そして、小川と玉里の間の川を渡るのに難渋し、大きな木の枝 玉の清井 ― 79 ― なった。現在は園部川になった。このあたりの地名は、大枝郷とか、大 で、この地を香住と名づけた。 香澄 景行天皇が千葉県の印旛の鳥見の丘に登り、牛堀のほうを眺めた ところ、赤紫がかった霞がたなびき、まことに美しくすばらしかったの を渡して川を越えた。その由来によって、この川を大枝川と呼ぶように 枝津といっていたが、現在は大井戸となっている。 「戸」と呼び、上戸、下の戸とあった。その上戸からきたようだ。 上戸 う ( わど )古くは台地のほうだけに人びとが住んでおり、駅家が 置かれ、陸上交通の要所であり、海上交通の要基点であったりしたので 田 餘 そ し て、 後 に 田 余 に な っ た。 こ の と き の 井 戸 は、 大 宮 神 社 北 東 約 玉里の地名(小美玉市) 日本武尊は、井戸を掘らせた。その井戸の水 が清く、こんこん湧き出たので「よくたまれる水かな」といったので、 二〇〇メートルのところにある「玉井」だという。 清水 き ( よみず )昔、観照院という寺があった。この寺は京都の清水 の観音を遷し、安置したのでここを清水と名づけた。 い、恋瀬川と呼んだという。 三の輪とかいう。 堀の内 慶長元年(一五九六)佐竹氏の家来であった小貫大蔵が、大台 の地に城を築いた。中世城郭のあったところを堀の内とか、根小屋とか、 恋瀬川(石岡市)日本武尊が川をさかのぼっていると、暴風雨になった。 角折(鹿嶋市)角折には水がなかった。日本武尊がここを通りかかり、 尊はその時、海に身を投じて、海神の怒りを鎮めた弟橘媛命を恋しく思 鹿の角をとって地面を掘ったところ、角が折れてしまったので「つのお 鳴津の浜 な ( りつのはま )日本武尊が浮島から舟でやって来て、ここ に上陸したところ、お成りからきた語である。 八代 や ( しろ )神社の所在地からくる名である。そのやしろがどこか は不明である。 茂木 昔、下野の茂木から三人の武士が、この地に土着し、開墾をした。 そして、郷里の名をとって茂木とした。 れ」と呼ぶようになった。 常名(土浦市)海は昔、桜川まで侵入していた。日本武尊がこの地を 通りかかったところ、水が満々とたたえていた。そのことが、尊の心 に止まった。帰りにもここを通った。その時、干潟になっていた。尊は、 あれほどの水がたたえていたのに、 「ひなた」といった。この言葉がい つしか、地名となり、 「常名」の文字をあてるようになった。 いて現在のような町になった。その堀は丑年に作ったので牛堀と名づけ 牛 堀 の 地 名( 潮 来 市・ 旧 牛 堀 町 ) 永 山 よ り 分 か れ 一 村 を な し、 中 世、 木田見郷といっていたが、江戸時代、湿地を開き、掘割を作り、堤を築 だという。そこから花立の名が生まれた。 かった。そこで観音堂の見える場所に花と線香を立てて、遠くから拝ん 花立 は ( なだて )清水に観照院という大きな観音様があった。堀の内 の人びとは回りが堀で囲まれていたので、行って参拝することが出来な 梶内 か ( じうち )日本武尊が鳴津の浜に向かっているとき、大風にみ まわれ梶が流された。その梶が流れついた所を梶内と名づけた。 たという。 浮島の乗浜 の ( りはま )日本武尊が海辺を巡幸した。その浜には、た くさんの海苔が乾してあった。そのため、その村を能里波麻の村と名づ ( 『土浦市史民俗編』 ) 永山 『倭名抄』に、 「山の如く続ける故の名なり」とあり、古代、牛堀 とともに香澄里といい、中世は木田見郷といっていた。 ― 80 ― 休息した。そして出発の時、大師は庭に立てておいた杖を忘れて出かけ 弘法大師の逆さ杖 稲敷市飯出(旧桜川村)の脇鷹 そ ( ばたか 神 ) 社に 弘法大師伝説がある。昔、弘法大師が行脚の途中、脇鷹神社に立ち寄り、 混じったものである。 水を求めたが、女性が親切にしたので水がとまった。第三は両方が入り 湧きでた。第二は泉のそばに女性が大根を洗っている所に大師がきて、 弘法大師 弘法大師伝説は、泉に関するものが中心で三つの型がある。 第一は女性が親切にしたので、大師が杖で突いたところ、そこから泉が けた。今の稲敷市旧桜川村の霞ケ浦に望む地帯である。 天に通ず」と。その声は彩雲とともに南に動いて行った。 「われは大和の三輪の神なり。なんじら霊場を開かんとする精誠すでに 日光開山の勝道上人が、この地にやってきた。霞ヶ浦を渡航しようとし 大杉神社と常陸坊海存(稲敷市阿波)奈良時代の神護景雲元年(七六七)、 (『麻生町史』) 和五十三年は大旱魃だったが、清水がこんこん湧き出していたという。 がある。弘法大師が諸国行脚のおり、杖をもって崖の六尺くらいの所を たとき、暴風にあい、船上で祈願したところ、天から声が聞こえてきた。 突いたところ、清水がほとばしり出て、谷田の水田を潤したという。昭 た。そして、この杖が芽をふきイチジクの木になった。杖は木の裏先を 間もなく波浪は静まり、上人らは阿波に上陸した。勝道上人はその彩 雲を追って行くと、大杉の木の梢に留まったので、御神体を刻んで小祠 下にして使うので、逆さに立っていた。それが芽をふき成木となり、逆 かった。 大師は江川からあがって、 杖で山に穴を掘り、水を出して飲んだ。 弘法水 鉾田市札(旧大洋村)弘法大師が、江川に来た時、そこにいた 女性に飲み水を要求したが、女性は仕事に夢中で気つかず、水を与えな く、冬は暖かい水を湧き出している。 た。それ以来、どんな日照り続きでも、水は涸れることなく、夏は冷た い水がこんこんと湧き出た。弘法大師は、大変喜ばれ、のどをうるおし のどが乾き、よい水の出る所を探し、錫杖を立てて、掘ったところ、よ の秋、彩雲に乗って姿を消したという。 に応ずるごとく、功顕を与えるであろう」といって、文治五年(一一八九) やがて、天下が源氏のものになると、海存は阿波村に帰ってきた。そ して、自分の像を彫って安穏寺に納め「明神を信仰する者は、禍福響き 助けて平氏の討伐にあたった。 その後、平清盛が政権をとると、平氏一族が横暴を極め、大杉明神は それを押えるため、常陸坊海存という豪傑の姿になって現れ、源義経を て、阿波村に滞在、大杉明神に不動尊を合祀し、安穏寺と号した。 をその大杉の下にまつり、阿波大杉大明神とした。 この水を弘法水という。江川はどこを掘っても渋水ばかりで、飲用には さのイチジクになった。 ( 「桜川村史考」) 適しなかった。これは、弘法さんに水を与えなかったからという。(『大 大杉神社には「常陸坊海存」と刻んだ大きな碑が立っている。海存は 義経の家来で、弁慶とともに海や水に詳しく、活躍したという。 平安時代の初め伝教大師の弟子の快賢が大師の彫刻した四魔降伏の不 動明王を持って、奥州の逆賊降伏祈願に常陸に来た。そして霊夢によっ 洋村史』 ) 平将門伝説 天慶二年(九三九)平将門は常陸国府を攻撃した。東方軍 弘法様の照井 土浦市真鍋の善応寺の井戸は、弘法大師が掘った井戸と 伝えられ、照井といわれる。弘法大師が行脚のおり、ここを通り、大変 弘法清水(行方市行方・旧麻生町) 行方の谷田の奥地に新田という所 ― 81 ― め、国府を攻略したという。 ( 『平将門伝説』) 国府軍を牽制させ、その間に西方部隊を柏原方面に迂回させて府中を攻 桜川を渡って、中央部隊と西方部隊を指揮し、中央隊に恋瀬川付近から は、土浦から舟で霞ヶ浦を渡り、玉里、高浜方面から上陸した。将門は を意味するのか不明であるが、前九年の役を伝える伝説である。「武士 乗って、渡り着いた所といわれている。両方とも霞ヶ浦に面した船の発 牛渡・牛込 かすみがうら市牛渡、稲敷郡美浦村牛込は、義家ゆかりの 地として語り伝えられている。両方とも頼義、義家の親子が七頭の牛に らむ」と詠っている。 着場で、七頭の牛に乗ってきたということは、湖を牛で来たものか、何 稲敷郡美浦村舟子の曹洞宗海源寺は平将門が天慶二年(九三七)、薬 師如来を本尊として創建、その本尊は、ここの地頭の舟子大膳が霞ヶ浦 の湖底より、拾い上げたものと伝える。美浦村大谷天台宗西福寺薬師堂 家によって滅ぼされたという伝説である。 者が、奥州征伐に行く途中の義家をもてなしたところ、後難を恐れた義 る。義家伝説の中で多いのは、地名の由来と長者伝説である。土地の長 平 定 し、 や が て、 後 三 年 の 役( 一 〇 八 〇 年 代 ) に も 活 躍 し た 英 雄 で あ 源義家伝説 源義家の伝説は、歴史上の人物にかかわるもののうち、常 陸国が最も多い。義家は父頼義に従って前九年の役(一〇五〇年代)を 八号) 保山を領し、将門の子孫信太郎の祈願寺だったという。(美浦村史研究 境内外に、観音堂地、稲荷山、大日山、山王山、寺田山、権現山、大久 平将門が小貝川から拾いあげて奉納したという。信太の天台宗普賢院は その家の主人に、一寸八分の金の観音像をお礼として与えて、立ち去っ う。そして、その松を人々は旗替松と呼ぶようになった。そして、義家 また別の伝説もある。霞ヶ浦を渡っている時、台風にあい、船は延方 に流され、のぼりを吹き飛ばされ、それが新宮の松の木にかかったとい の御利益があり、満願の日には、北浦付近は穏やかになったという。 その時の夢が観音様だったので、義家は観音に帰依し、その観音像を 安置し、一軍の武運長久を祈り、七日七夜、水行を行い身を浄めた。そ 時、義家は不思議な夢をみた。 たが、北浦付近の風が強く、どうしても渡ることが出来なかった。その のという。義家は一軍を率い、水原の里に来て、鹿島の里に渡ろうとし 愛染院の義家 潮来市水原に真言宗の愛染院がある。この寺の本尊は如 意輪観音で、冷泉天皇が八幡太郎義家に、武運の守護仏として与えたも の弓張月の影高く 霞もなびく夜半の神風」と義家は詠んで牛渡の鹿島 神社に奉納したという。 高須の一本松 行方市(旧玉造町)高須の一本松は霞ヶ浦沿岸にあり、 源義家が奥州征伐の時、台風を静めようと鹿島の神に祈願し岸近くの一 たという。そこで、主人は水原に堂を建てて、この観音像を安置した。 の薬師如来は、坂上田村麻呂が東征のおり、ここに安置したものだが、 株の小松を見て「千早ふる鹿島の神の授け松なほ万代も君は栄えよ」と 実際には胎内像である。 その後、大洪水によって、流されていた。それを、承平二年(九三二) 詠んだその松だという。 玉沢稲荷大明神(鉾田市・旧旭村)奥州の安部貞任の乱を平定するため、 父源頼家とともに、奥州へ向かった義家は、樅山原で道に迷ってしまっ はこの近くの農家に泊まっていた。風がおさまって農家を出発する時、 その後、水戸光圀が領内巡視をしたとき、白砂をおおう一つ松の緑が 美しかったので、 「高須崎波にゆらるる一つ松 さぞや山路が恋しかる ― 82 ― この社殿は現在、旧旭村の冷水にある。 う。また、小祠の名も清水が湧き出ていたので、玉沢稲荷大明神とした。 命じて、この地に立ち寄らせ、勝って下る故に勝下村に改めさせたとい 奥州に着いた。そこで五年戦い、安部氏を平定、帰りに鎌倉椎夫景道に た。そこに小さな祠があったので戦勝祈願をし、浜伝いに北進して無事 養をした。そして念仏三昧に余生を送った。 この時、その老婆だけが難を免れて生き残った。老婆は、子供のころ、 病弱であったものを西蓮寺薬師の功徳で丈夫になったことを思い、殺さ 一族を皆殺しにした。 にしておいたら、後日謀反を起こさないとも限らない」と思い、長者の へ立ち寄った義家は、あまりの豪勢さに「こんな豪勢な長者をこのまま れた長者一族の冥福を祈るため、衰えていた西蓮寺を再興し、長者の供 諸井長者 行方市玉造には諸井長者屋敷跡がある。毎年朝廷に綾織を献 上していた。十一月一日の明け六つに、馬が出発することになっていた。 綾織物は天皇が用いたもので、日の出から日の入りまでで、夜は機を織 でに織ることが出来なかった。 若松長者 かすみがうら市に若松長者といわれる富豪が住んでいた。広 い土地と多くの奉公人を使っていた。長者には一人の美しい娘がいて幸 ている。 西蓮寺では、九月末に、長者が供養といって七日間、法会供養を行っ ている。この時、読経始めに、学頭が西蓮寺婆さんのいわれを読みあげ 織姫は死んでお詫びしたいと長者に申し出た。長者は「心配はいらぬ、 私が命にかけて太陽を呼び出してみよう」といって、天皇からいただい わせな暮らしをしていた。あるとき、病気にかかり、医者や薬と手を尽 らないことになっていた。ところが、ある年、織姫がどうしても夕方ま た扇を取り出し、 今にも沈もうとする夕陽に待ってくれるように頼んだ。 の日の丑の刻に生まれた、女の生血を飲ませれば治る」と言われた。 長者の奉公人に、該当する女がいた。そこで女に宿下がりをさせ、そ の途中殺すことにした。女は殺され、生血をとられた。その生血を飲ま したが効きめがない。それで、占にみてもらったところ、「丑の年の丑 すると、太陽は沈むのを待ってくれたという。長者は織姫をいたわり 「これはお前の清らかな心が天に通じたのだ。さあ早く日没までに織っ て」といった。とてもやさしい長者であったので、村びとから信望も厚 かったという。 しばらくたって、殺したはずの女が帰ってきた。不思議なことだ。長 者が守り本尊の阿弥陀様が身代わりになったのだ。それから長者の家は せたら、たちどころに、病気が治った。 ぜいたくな生活をしていた。屋敷から、潮来まで自分の田んぼが続き、 没落し、長者は都へ行った。 ところが、時代がたって、何代かあとの長者は、農民の生活のことを 考えず、税金をたくさん徴収したり、美女をたくさん集めたり、非常に 村びとたちが田植をするのを、酒を飲みながら眺めた。そのため、長者 には生田長者満盛が住んでいた。この満盛は村人の信望を集め、長者と の家はみな奇病にとりつかれ滅びた。 手賀の唐ケ崎長者 病弱な一人娘のために、長者夫婦は西念寺の薬師如 来に祈願し、その功徳によって娘は成長した。数十年過ぎて、この娘が して、このあたりを治め、広大な居館を構えていた。そして、ここによ 生田長者 稲敷郡美浦村の陸平 お ( かだいら は ) 霞ケ浦に突きだして半 島になっている。そして、昔は島であった。景行天皇の御代、この陸平 老婆になった時は、ちょうど源義家の奥州征伐の時期にあたるが、ここ ― 83 ― 島に立ち寄った。この土地は、水が少なく、生田長者が水を運んだ。 飼っていたので、お猿屋敷といわれていた。景行天皇が東征の途中、浮 後の池と呼んでいた。そして、長者は猿を好み、小屋を立て多くの猿を い清水が沸き、台北の裾に大きな池があった。村人たちは、この池を蔵 その後、井戸の油は出なくなり、かつての長者の面影はどこへやら、 秋の落日のごとくに家運は傾き、またたく間に滅んだ。(『桜川村史考』) て、田植えを強行させた。 者はそれを無視して、「筑波様をみなければよかろう」と大きな幕を張っ おみ田(田植え)で、田圃に入ることは、忌みつつしまれていた。油長 油長者 稲敷市神宮寺(旧桜川村)に石橋馬之丞が住んでいた。ある時、 屋敷内の井戸から油がわき、それを売って財産を増やし、たちまちのう ついにはいくらお願いしても、膳椀は現れなくなってしまった。 「 困 っ た と き に は、 ま た 長 者 さ ま に お 願 い す る さ 」 村 び と の 中 に は、 という怠け者がいて、 借りたものを返さない不心得者がいたりしたので、 た。 このため、 山の上の長者を誰いうとなく「膳棚山長者」と呼ぶようになっ ちんと棚の上におさめ、 「ありがとうございました」と礼をいってくる。 の膳椀は棚の上に並べてあった。寄合が終わると、ふき清めた膳椀をき を、山裾の道祖神の所へ置いてくる。すると、その日の朝には、人数分 りますので、何人分の膳椀、よろしくお願い申し上げます」と書いた紙 あると、長者に膳椀をお願いした。 「何月何日に、これこれのことがあ 膳棚山長者 潮来市上戸川の浅間塚を中心とした一帯は、長者の屋敷跡 といわれている。昔、村の人々は、嫁とり、婿とりや葬式などの寄合が その後、何代かたって、長者は衰えた。ここに「朝日さす 夕日輝く 木のもとに 小金千ばい二千ばい」の埋蔵金伝説の歌が伝わっている。 女将は度肝を抜かれた。 け取ろうとした。長袖は焼けても着物など、何枚でも買える金持だった。 炭火が運ばれ、大きな火鉢に入れられた。女将は長い火箸で火を挟み、「何 の来る所ではないという顔つきで、ともかく、 控え室に案内した。そこへ、 時折、江戸の吉原に通い、大門を締め切って、江戸の芸妓を総揚げにし 高浜長者の妻(石岡市高浜) 高浜長者は酒、味噌、醤油を製造し、十 艘の船に乗せ、江戸に送り、大富豪となり、栄華を極めていた。長者は かし後に滅んだ。 文政四年(一八二一)の頃の新右衛門は自分の墓を笠台つきにした。し ころの当主とその子孫は、爪書き阿弥陀に深く帰依、その造営をした。 商だった。同家は代々、新右衛門を名乗り、寛文十二年(一六七七)の この高浜の今泉家は、数ヘクタールの屋敷内には八つの井戸と三六の 蔵を持ち、その清らかな水を使って醸造業をし、江戸まで名の通った豪 高浜長者(石岡市高浜)「西に筑波嶺、南に白帆、あらし鎮める、府中 の鐘よ。寒い北風、貴船の山が、かばう高浜、よいところ」 それによって、生田長者は、水守に任ぜられ、名前を満盛にした。 ちに、長者になり、代々財産を増やし、村びとから油の長者ともてはや 出しを借りるや、畳を十文字に引き裂いて中から藁を取り出して「これ もございませんが」と差し出した。長者の妻は、着物の長袖を出して受 た。ある時、妻が主人を迎えに吉原を訪れた。玄関を入ると、女将が女 された。 「 遠 い 所、 田 舎 か ら お 出 で に な っ て 、 私 は 田 次に花魁が入ってきた。 舎で作る米のなる木を見たことがありません」と言った。長者の妻は切 ある年の五月、長者の家で田植えがあり、村の百姓らが勢ぞろいして、 田植えを行うことにした。ところが、この日は、あいにく、筑波の神の ― 84 ― 畳に取り替えたという。 ( 『石岡市史上巻』) が米のなる木ですよ」と見せたという。すぐに、畳屋を呼んで、新しい の念が消えなかったためか、毎晩のように、姿を現わすので、寺を訪れ 産のため、一九歳で亡くなった。亡骸は境内に葬ったが、この世に愛着 者の遺跡という。地名として木つけ坂、塩つけ坂など長者と関係がある 長者も都に上って高官になった。角折には八角堂跡などがあり、文太長 守などから求婚されたが、姉は都の中将と結ばれ、妹は帝の后になり、 るようになった。鹿島の神に祈り、二人の美しい娘も生まれた。常陸国 塩は良質で、評判もよく商売は繁昌し、富豪になり、文太長者と呼ばれ め暇を出した。文太は角折の浜に出て、塩焼きになった。文太の焼いた 幽霊出現の墓へ埋め、念仏を唱えた。この時から幽霊は菩薩の姿になっ 親鸞は鹿島からの帰途、寺に立ち寄り、たくさんの小石を村びとに集 めさせ、小石へ一石一字ずつ浄土三部妙典二万六千六百十二字を書写し、 救い出して涅槃にわたらすこと)を願い出た。 順信房と一緒であった。村びとたちは済度(仏が衆生の苦海にあるのを くために、青柳(鉾田市)から鳥栖を通った。親鸞はそのとき、弟子の 地頭の高時をはじめ、村びとは魂が安住の地に成仏できるように、願っ ていた。ちょうどその時、親鸞が、雲谷の草庵から鹿島神宮へ参詣に行 る人も少なくなり、間もなくは廃寺同様になった。 という。詳細は『御伽草子』に伝えられている。 同じ伝説は、鉾田市鳥栖の教円寺、鉾田市富田の無量寿寺にもある。 文太長者(鹿嶋市角折・旧大野村) 昔、鹿島神宮の下僕に文太という 男がいた。真面目に働き、二十年の歳月が流れた。宮司は文太を試すた 小野小町 潮来市上戸に観音寺という寺がある。かつては、尾の詰とい う所にあった。その頃、美人で名高い小野小町が、眼病を患って各地を 親鸞とお経塚(行方市・旧麻生町)昔、大きな寺があり、民家もあった。 に、念仏の教えを説いた。親鸞は鹿島神宮へ通ったが、その途中、霞ケ 常陸にきて、稲田に草庵を結んだ。そして、約二〇年間、農村の人たち 親鸞の伝説 親鸞は承元元年(一二〇七)、法然が法難にあい、親鸞も 連座したとされ、 越後国に流された。建保二年(一二一四)四二歳のとき、 野住だと人々は伝承している。 ると、株の根本から新しい芽を吹き、やがて大木となった。尾の詰は小 しい花をつけ、村人たちはその花を愛した。そして、この花は枯れかか そのお礼としてシダレザクラを寄進した。そして、この花は春ごとに美 め、塚にしたそうだ。(麻生町史) 石を供え終わると、大蛇が姿をあらわし、のた打ち回って倒れたのを埋 に経の一行を書き、それを一か所に納め、百万遍の経の終わりを書いた そうだ。私が蛇を封じてやる」と百万遍のお経を唱え、千遍ごとに小石 人の娘があったが、大蛇が出て呑まれて、この娘も近く呑まれてしまう を中におき、泣きくずれていた。親鸞が理由を尋ねると「私たちには三 こえてきたので、不思議に思い、立ち寄ってみた。すると、老夫婦が娘 そこを親鸞が通りかかった。経塚の近くを通ると、民家から泣き声が聞 た。幽霊済度の墓は、女人成仏御経塚といわれるようになった。これと 転々として、この観音寺にも参籠、百か日の祈願をし、病気も全快し、 浦周辺の村にも立ち寄り、多くの伝説を残した。 親鸞と仁左衛門(行方市手賀) 昔、霞ケ浦のほとりに、幸崎村という 小さな村があった。現在の西蓮寺地内であったが、霞ケ浦に侵食されて ので、悲しく泣いているのだ」と話すと、親鸞は「それは気の毒、可愛 幽霊済度 鉾田市鳥栖の無量寿寺には、幽霊済度の伝説がある。承久三 年(一二二一) 、この地方の地頭であった村田形部少輔平高時の妻が難 ― 85 ― そのころ、親鸞が鹿島参拝のため、そこを通ることが多かった。仁左 衛門は、親鸞に霞ケ浦のあやしい光についてたずねた。親鸞は「それは 不思議に思っていた。 浦へ漁に出るたび、沖の三叉沖に、あやしい光が見えるので、かねがね 今は見られない。そこに、高野仁左衛門という漁師が住んでいた。霞ケ て、腫れ物もへこみ、男は驚いて寝床から飛び起き、心からお詫びし、 病人の身体をさすっていると、不思議に痛みがとれて楽になった。そし その男は寝床から親鸞を見上げ、こんな旅人坊主に何が治せるものかと て、 そ の 男 の 家 を 訪 ね、「 腫 れ 物 の 痛 み を と っ て 進 ぜ よ う 」 と い う と、 里にかかった時、腫れ物で悩んでいる男の事を聞き、親鸞は憐れに思っ 思い断った。親鸞は病人の寝ている側に寄り、静かに念仏を唱えながら、 不思議なことだ。私も行ってみたい」と言った。 小麦の焼餅をすすめた。 やがて、親鸞は鹿島に渡るため、船着場に行った。男はそれを見送っ た。親鸞は「極楽往生を願うなら、 常に念仏を唱えることだ」といって、 その夜、仁左衛門は親鸞を乗せて霞ケ浦に舟を出した。不思議な光の 出る所で、網を下ろしてみると、手ごたえがあり、高さ二尺ほどの金色 に輝く阿弥陀如来像が網にかかった。 すめた。 男は家に帰り、庭石をみると、阿弥陀如来の尊像が石に浮彫になって 現れていた。男は親鸞の有難い言葉を信じ、そこに堂宇を建立、朝に夕 庭にある石には阿弥陀如来が宿っているから、それを信心するようにす その後、この尊像は仁左衛門の家に安置され、仁左衛門は親鸞に帰依 し釈信願と名を改めたが、周囲の人々は、阿弥陀仁左衛門と呼ぶように て行ったと伝える。なお、この尊像は滋賀県の木部にある寺の本尊とし に念仏を唱え、名を常願房とし弟子になった。この阿弥陀如来に焼餅を なった。やがて、親鸞は京都に戻る時、この仏像を守護仏として、背負っ て納められた。仁左衛門の屋敷跡が、湖岸に残り、井上には五輪塔が数 供えると、腫れ物が治るというので、最近まで信仰された。 豊安寺と改めた。仁左衛門が親鸞から受けた阿弥陀如来像は、豊安寺に に麻生藩主新庄主殿頭の許可を得て、阿弥陀庵を井上から手賀へ移し、 跡は錦織寺 き ( んしょくじ と ) 称し、浄土真宗木辺派の本山である。井 上の阿弥陀庵は、仁左衛門が亡くなった後、荒廃していたが、文化年間 の木辺にとどまり、念仏道場を開き、本尊として安置した。念仏道場の 霞ケ浦の湖底から曳き上げられた、金泥の阿弥陀如来像は、嘉禎元年 (一二三五)親鸞が京都へ帰る時、しばらく、琵琶湖のほとりの滋賀県 親鸞は「それでは墓に行って祈祷しましょう」といい、近くにあった 玉石一個を手に取り、梵字を書いて墓の中に埋めた。その後、喜八の家 の供養を頼んだ。 るため、供養したが御利益がなかった。喜八は親鸞に事情を訴え、亡霊 子の四人で幸福に暮らしていた。ところが突然、女房が急病で死に、喜 喜八が女房の亡霊に悩まされていることを聞いた。喜八は女房と二人の 基あり、仁左衛門の墓と言われている。 現存している。 に行き、奥座敷の唐紙に阿弥陀如来・聖徳太子・善童太子の絵を描いた。 長島家と親鸞(小美玉市与沢)親鸞が鹿島大明神参拝途中、与沢の長島 親鸞と爪書き阿弥陀(石岡市高浜)石岡市高浜に阿弥陀堂があり、爪書 それ以来、亡霊はまったく出なくなったと伝えている。 八の枕元に亡霊となってあらわれ、子供のことを頼んだ。その霊を鎮め き阿弥陀と呼ばれている。親鸞が稲田から鹿島神宮参拝の途次、高浜の ― 86 ― があった。その橋は、常磐御前が今若、乙若、牛若の三人の子をつれ、 その場所を六万と名づけ、 その六万の兵の炊飯をするため、池の水を使っ 水戸黄門光圀(潮来市)黄門様が巡遊のおり、鹿島の潮宮の「潮」 (いた) われている。橋の名も常磐御前に因んで命名されたという。 夫の源義朝を慕い、奥州への途中、人目を忍びながら、鹿島の平井まで たという。それで池の名が生板池と呼ばれるようになった。また、下大 の読み方から俗言で「潮」を「いた」と言っていたことを知り、潮来の 義家と生板池(石岡市東大橋)八幡太郎義家が奥州征伐のおり、東大橋 橋の田の中に橋塚という陸地(約一坪)があり、義家は、そこから中郷(小 地に来たとき、それまでの「板来」という地名を「潮来」に改めたという。 来て、小川に橋がないので困っていた時、村びとが架けてくれた橋とい 美玉市)に橋をかけて渡り、奥州へ攻めて行った。大きい橋なのでその 潮来のアヤメ 光圀が潮来の地で大きなマコモの中で美しい娘が洗濯 (高浜地区)を通過した。義家が大橋で軍勢を調べたら六万あったので、 村の名を大橋と呼ぶようになった。移動する。 し、南無阿弥陀仏を唱え 都 の 人 で、 諸 国 を 巡 歴 き、各地に伝説を残した。ここで紹介する米俵に腰を下ろして老婆に叩 水戸黄門と老婆(小美玉市旧玉里村)水戸黄門光圀は隠居後、領内を歩 自らこの潮来節を書いて全国に配ったという。 しているの見て賞嘆し「潮来出島の 真菰の中に あやめ咲くとはしお らしや」の歌詞を作った。なお京都の扇子屋に白扇千本を注文、それに ながら布教して歩いたと かれる伝説は、水戸をはじめ、類似の伝説がある。 空 也 上 人 空 也 上 人 (九〇三~九七二)は京 いう。県内では、かすみ 黄門様が玉里の大井戸を巡視した時のことである。河岸近くまで来た 黄門様は、御納米倉庫の前に積んである米俵に腰を下ろして、湖の風景 がうら市宍倉字空也堂に 空也堂があり、空也上人 を眺めながら一服していると、御倉番を勤めている野口という家の老婆 どなった。 が、水汲みから帰ってきて、この姿をみて大いに怒り、声を張り上げて の木造が安置されている。 この伝説によると、空也上人は鹿の背に乗ってここへ来て、天禄三年 (九八五) に七〇歳で亡くなったという。そして、空也上人はここの地で、 荒れ果てた堂塔を修理したり、道を整えたり、川に橋を架けたりしたと 「この俵を何と心得てござる。もったいなくとも、水戸様へ差し上げ る御納米だぞ。それをわきまえず、腰をかけるとは罰当たりめだ」 と、恐ろしいけんまくで、水汲用の天秤棒でなぐりかかった。 さすがの黄門様もこれには閉口し、ようやくのことで老婆を押しなだ め、「御料米を大切にする行為は、誠に感心である」とおほめになって、 いう。また、多くの人たちを集めて、念仏踊りを教えたともいう。 受け、空也僧になったという。 終身五人扶持の褒美を与えた。( 『玉里村史』) ここの場合、空也堂という地名が残り、現在そこにお堂が残っている。 地元の伝説では、ここに将門の生き残りの家来が集まって、僧侶教育を 常磐御前と常磐橋(鹿嶋市)鹿嶋市に常磐御前が渡ったという小さな橋 ― 87 ― のもある。笠懸松、鐘懸松、夜泣松など、名前のつけられている松もあ 松の伝説 松は神霊が降臨する樹木で、杉と同じように大切にされてき た。また、村の辻などにポツンと一本立って、人びとに慕われてきたも だんだん話も高まっていく。そして、二人の愛はこの自然の中に溶 け込んでいき、「楽しみはこれより楽しきはなし」にいたる。 溝口に五郎兵衛という漁師が妻と娘のおとりと住んでいた。ある年不漁 おとり手掛松 神栖市神の池は、軽野池または、安是湖といった。鹿島 工業地帯開発とともに、池は整備されて昔の面影はない。この神の池の (『民話のふるさと』) 頃の利根の入口の安是の湖のか海上の国の名称で、 ここの出身であった。 那賀の寒田の郎子とは、その頃、鹿島郡は那賀国であり、寒田の池 は、今の神の池であったと推測できる。海上の安是の嬢子とは、その 神の池の南側あたりだという。伝説の木はどれか不明である。 軽野の神の池(ごうのいけ)付近から波崎までの街道筋には、白い 苔に覆われた老松が、そのあたり一面に茂っている。童子女松原とは、 夜が明けるまでには終わらなければならなかった。 二人は人に見られるのを恥じ、松の木になった。そして、男のほう は奈美松、女のほうは古津松という。歌垣は人に見られないように、 そして、この甘い語らいの中に溺れ、夜のあけるのを忘れてしまった。 そのうちに鶏が鳴き、犬がほえ、太陽もあがった。 る。残念ながら松の多くは、マツノザイセンチュウによって枯れたもの が多い。 童子女の松原 『常陸国風土記』 昔、軽野(神栖市)の南の童子女の松 原に、ウナイ髪に結った若い男女がいた。そして、男を那賀の寒田の郎 女、女を海上の安是の嬢子という。 「ともに形容端正しく、村里に光華けり」 この二人が、 歌の会で偶然に出会った。男女が相会して、歌ったり、舞っ たりする行事がここでも行われた。 いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも 「安是の小松に花模様の木綿を垂らして、私に向かってそれを振りなが ら見ているよ。安是の小島は」 これは男の歌で、それに答えた女の歌は次のようである。 してください と 」 願をかけた。 になると、彼は「おとりを差し上げますから魚をたくさんとれるように にかくれている小島をみて、走り来られるよ」 大漁になって喜んでいると、大蛇が現れ、約束どおり娘のおとりを 連れていった。五郎兵衛のいうおとりとは、鳥居の意味だったのだが、 潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り 「潮の寄せてくる浜辺に立っていようと申したけれど、多くの島々の中 二人の声は、だんだん燃え上がっていく。そして、二人は松の下にか くれ、手を取り合い、ひざを並べ、恋の思いを語り合い、心の中をすべ 娘と取り違えられたのだ。娘は連れていかれるのをいやがって、松に り手掛松として今に語り伝えられている。 堤の相生の松 かすみがうら市上大堤(旧出島村)に松の木があった。 手をかけてふんばった。その松もいつしか枯れてなくなったが、おと て打ち明けて喜びあった。 「時に 玉の露抄(こぬれ)にやどる時、金(あき)の風丁(きをふな) す節(をり)なり。あきらけき桂月の照らす処は、唳く鶴が西洲(かへ るす)なり」 ― 88 ― 昔の加茂村から府中(石岡)へ行くものが、この路傍の松の根元で旅の 建て、寺が移動した後、そこに榎を植えたが、いつも間にか松に宿って 奪って滅ぼしたが、その後、城内に信太一族の霊を供養するために寺を 名は天正年間、小田氏の子孫の氏治が土浦藩主信太重成を暗殺し、城を 松の宿り木 土浦市亀城公園に、松の宿り木となった榎がある。堀を隔 てた本丸の楼門の横にあり、信太榎から分枝したものという。信太榎の は二本に分かれ、向かって右が女松、左が男松だった。 霞ヶ浦のカッパ 小野川べりに住む弥作の女房お菊は、村でも評判の美 しい女性であった。夏の満月、ただ一人、田圃の引き水を見回っての帰 呼んだ。 されるようになった。なお、河童のいた梶無川を手奪川、橋を手奪橋と 俊幹は手接神社を創建、河童の霊を祀った。それ以後、手の神様とし てはもちろん、疫病神として信仰され、平癒のお礼として、手形が奉納 ある年、魚が届かなくなり、心配した俊幹は家来に河童を探させた。 すると、河童の死骸は上流の与沢で見つかった。 「もし、魚が届かなくなったら、 私が死んだと思ってください」といい、 翌日から毎朝、庭の梅の木に生魚がかかるようになった。 しまったという。そして、この宿り木には信太家の霊がこもっていると り道、小野川に沿って一人歩いてくると、突然、ほの暗いマコモの中か 疲れをいやし、仲睦ましく話しあったという。そして、この村に嫁いで いう。 りと濡れた単衣を着、髪の毛は額までさがり、目の大きな、口の尖った 河童の手 昔、佐野子(土浦市)に久左衛門という草相撲の横綱といわ れた若者がいた。ある時、田植が終わって、家の裏の桜川で馬を洗って きたものは、夫と睦まじく生活していた。下は一本であるが、上のほう カッパと傷薬 小美玉市芹沢にカッパの伝説がある。戦国時代芹沢の城 主芹沢俊幹が館の前を流れる梶無川で、馬に水を与えていると、馬が動 痩せた子供であることが月明かりで見分けられた。 腕を切り落とした。 童を殺そうとした。しかし、河童が手を合わせ、命乞いしたので、命を ら、がさがさ音をさせて、 一〇歳ぐらいの男の子が現れた。水でぐっしょ かなくなった。俊幹が振り返ってみると、河童が馬の尻尾をつかまえて 館に帰った俊幹が馬の尻尾をみると、河童の片腕が馬の尻尾をつかん でいた。俊幹は珍しいものなので、 床の間に飾った。ところが、夜になっ 助けてやることにした。 いた。腕を離すように説得したが、河童が離さないので、俊幹は河童の て、河童が現れ、 「今日は申しわけないことをしました。片腕がないと いると河童が現れ、馬の尻尾を引っ張った。若者は力試しのつもりで河 泳げませんので、どうか、返してください」とあやまった。 「毎年、地元の子供たちが、桜川に引きずりこまれるが、お前のせい でないのか。これから絶対そんなことするな」 と約束させ、河童の左手首を切り落とした。その後、子供の水死がな くなったので、村びとたちは安心し、河童の手首を地元の満蔵寺で供養 切られた腕は返しても、元には戻らないよ」といった。 俊幹は「今さら、 河童は「私は切られた腕をつなぐ薬を持っています。お返しいただけれ ば、それを伝授いたします」と涙を流して頼んだ。 奏したら、雨が降り、田植えが出来たので、河童の手は雨乞いに御利益 した。ある年、旱魃で田植えが出来ないので、河童の手を安置し囃子を 俊幹は河童に腕を返し、その薬の伝授を受け、それを家伝薬として伝 えてきた。河童はお礼として、毎日、俊幹に魚を届ける約束をした。 ― 89 ― があるとされた。 ( 『土浦のむかし話』第一集) 小袖が、寄せ返す波とともに浜辺に打ち上げられ、その小袖が小紋石に のかなたに炎炎と燃える炎を見て浮島城の落城を知り、父の武運と島の 安泰を祝って湖中に身を沈めた。その時、姫の着ていた小紋ちりめんの 権太夫池の大蛇 行方市手賀の権夫池に、池の主で、村人から恐れられ ている雄の大蛇がすんでいた。そして、そこからあまり遠くない山田の 難仏池には雌の大蛇がいて、二匹の大蛇は夫婦であった。両池の池底は 老人は「それが災難の相だ。その手紙を開いてみなさい」といわれたの 物池で女の人から権太池へ手紙を届けてくれと頼まれたことを話した。 むる相が表れている。途中で何かあったろう」と聞かれた。旅人は、難 少し行った所で、白髪の老人から呼び止められ「お前の顔に大難をこう てくれませんか」というので、旅人は承諾し、その手紙を受け取った。 ある日、旅人が難物池の付近で美しい女性に声をかけられた。「手賀 村へ行くのでしたら、この手紙を権太夫池のはたで待っている人に渡し の宿る奇石に違いないと、驚いて清浄な地に安置した。この石に祈願す 成長する石 鉾田市大和田の主石神社に成長する石がある。昔、村人が 土中から石を拾ったところ、その石が成長して止まらなかったので、神 の落とした太鼓の撥に違いないと」といい、雷棒と名づけ伝えている。 センチ)ぐらいの黒色、短刀形のもので、村人たちはそれを見て「雷様 ると、不思議な形をした石のようなものが落ちていた。長さ一尺(三〇 ともに倒れた。雨風が止んでから、家の者が恐る恐る大木に近づいてみ 相通じ、この夫婦はそこを通って行き来していた。 で、旅人は悪いとは思ったが、封を切って読んでみると、「旅人一人そ ると、不思議な霊験があるので、村人たちは、霊石の上に社を建てた。 なったという。 雷棒 稲敷市浮島の旧家に雷棒という石棒がある。昔、雨風が強く吹い て、雷鳴が毎日続いた。ところが、屋敷内の一本の古い大木が大音響と ちらに遣わし候に付き、取り食わるべし」と書いてあった。 さっきの女がうわさに聞いた雌の大蛇であったことを知った旅人は、 真っ青になり、持っていた手紙を投げ捨て、老人にお礼を言って、一目 神体石も成長するという。 の社殿は、改築して大きくしたものだという。鉾田市田崎の香取神社の ところが、この石は年々成長し、とうとう社殿が破損してしまった。今 散に逃げたそうだ。老人は実は鹿島の神で、老人に変身して旅人の災難 て、ウナギの目にねらいを定めて矢を放った。矢はウナギの片目に命中 を救ったという伝説である。 要石 鹿島神宮にある要石は、鹿島の神が降臨のとき、この石に座った という。周囲六〇センチほどの小さな石だが、その根は地中どこまでも し、ウナギはぐったりした。長兵衛はウナギをつかまえ、家に持ち帰り、 片目のウナギ 稲敷市釜井に昔、長兵衛という者がいて、近くの立霧の 池で大ウナギを見つけた。あまりに大きいので、家から弓矢を持ってき 深く入り込み、極まるところを知らないという。地中の大ナマズを押え いろりで焼いたが、脂肪が多く、七日七夜焼いたが、堅くて食べられな 長兵衛は「このウナギはただものではない」と驚き、「たたりかも知 れない」と心配し、ウナギをもとの立霧の池に放した。すると今まで死 かった。 ているので、常陸地区には大きな地震がないという。 小紋石 稲敷市浮島の砂浜に模様のついた小石があって、これを小紋石 という。浮島城主が戦いに敗れ、娘の小百合姫は家来とともに船で避難 した。その船が霞ケ浦の三又沖にさしかかったとき、姫は住み慣れた島 ― 90 ― 片目になったという。 れ、池の近くにウナギを祀るお堂を建てた。これ以後、立霧のウナギは んでいたウナギが生き返り、元気よく泳ぎだした。長兵衛はたたりを恐 また、六〇塚のうち、最も大きな大塚には、金の鶏と金の機織機が埋 めてあったが盗掘され、後になって、歩崎観音(かすみがうら市)に納 名も生まれた。 をさらした井戸で、清水があふれていた。この井戸をとって、藤井の地 だんでぇさんの足跡(稲敷市・旧桜川村浮島)四箇の来栖池を北へ奥に いる。 川中子の田んぼにも足跡が残ったという。なお、でえだら坊と発音して 洗ったという。そのダイダラ坊が歩いたあとには、大きな池や沼ができ、 を神宮に奉納し亀卜に用い、終わると田端地内に埋め、塚を築いた。こ 川玄番が、大川にかかる橋の上で祈祷すると、亀がよってきた。この亀 を選ぶとき、候補者を数名たてて、亀卜 き ( ぼく に ) よ っ て 占 っ た。 こ れに用いる亀は、神栖市田畑地先を流れる大川で捕えた。田畑に住む大 亀塚 神栖市田畑に亀塚がある。鹿島神宮では、物忌職 も( のいみしょく められたというが定かではない。 進むと、谷津の尽きるあたり、俗に「だんでぇさんの足跡」と呼ぶ足型 れを亀塚といい、十三の塚が旧道沿いに南北に分布している。鹿島神宮 ダイダラ坊の足跡 小美玉市(旧玉里村)川中子に昔、ダイダラ坊とい う雲をつくような大男が住んでいて、筑波山に腰を掛け、霞ケ浦で足を の谷津田がある。大昔、だんでぇさんという大男がいて、筑波山に腰を の境内には、亀を焼いて占った亀焼場と呼ばれる所がある。 職になった。 村人は「とんでもない。大ネズミに食い殺されてしまいます」といっ た。ところが僧は「私には三匹の大猫がいるから大丈夫です」といい住 が来てこの廃寺に目をつけ、村人に住職希望を申し込んだ。 いて、何人もの住職を食い殺してしまった。あるとき、諸国修行の旅僧 猫塚 行方市次木 な ( みき・旧北浦町)に猫塚がある。昔、次木に八幡 寺という荒れた寺があった。そして、この寺には大きなネズミの怪物が かけ、海(湖)の貝を食って生きていた。その時の片足の跡がいわゆる 「あんでぇさんの足跡」で、捨てた貝殻が積もって所作の貝塚になった。 ( 『ちょうちん酒』 ) 十三塚 稲敷市阿波に十三塚がある。南北朝時代、神宮寺城にいた畠山 親房を、武家方の佐竹氏が激しく攻撃していた。付近の農民たちは、親 房 に 味 方 し、 築 城 の 労 に 服 し、 穀 物 な ど を 提 供 し 協 力 し た。 し か し 城 は 落 ち、 親 房 に 味 方 し た 名 主 一 三 名 は 佐 竹 氏 に 捕 ら え ら れ、 延 元 三 年 (一三三八)斬罪された。その遺骸を埋葬したところが、十三塚といわ こり、一夜のうちに仕事場は崩れ、女たちは全員死亡した。この女たち 六十塚 行方市藤井の台地に六十塚があった。昔、ここに糸を作る大き な仕事場があり、多くの女たちが働いていた。あるとき、天変地変が起 在も三つの塚がある。 匹の猫も傷を負い、疲れ果てて死んだ。この猫を埋めたのが猫塚で、現 まった。ドタン、バッタンと争った結果、大ネズミはかみ殺されたが三 れている。 を供養するため、六十の塚を築き、六十塚とした。 勅使塚 潮来市延方に勅使塚がある。鹿島神宮に勅使の参拝することが その日の真夜中、大ネズミが現れ、住職に飛びかかろうとした。その とき、僧の脇に眠っていた三匹の猫が大ネズミにかみつき、大格闘が始 この塚のあった所には形ばかりの井戸が残っている。かつて、糸や布 ) ― 91 ― 日幾夜も飲まず食わずで、ついには餓死したのだという。 年寄りを、捨てたところといわれる。ここに捨てられた老人たちは、幾 昼でさえ薄暗いさびしい山道だった。ここは、昔、労働力のなくなった 捨亡窪 鉾田市鳥栖の捨亡窪は、今は鉾田・奥谷間の県道沿いで交通も 便利になったが、昔は鳥栖と下富田の間にあって、松の大木が生い茂り、 いう。 墓石もある。岡の下に御所の井戸、川、橋があり、上人の苦労した所と 定塚 旧要村(行方市)の根本に定塚がある。昔、明海上人が入定した 所で、石に寛文六年十月二十一日とあり、大日如来を建立させ、明海の たので、勅使塚といわれている。 船もろとも北浦の水中に沈んでしまった。その亡骸をこの延方に埋葬し 昔から行われていた。ある年の勅使が鹿島へ船で向かう途中、波が荒く、 鳥名木弁天(行方市手賀・旧玉造町)昔、手賀の鳥名木地区にみにくい なおしてください。なおしてくれたらこの縄をほどきます」と言って祈っ した。願をかける時、注連縄を持って行って地蔵を縛り「早くオコリを た時、「宮地の地蔵を縛って願をかければなおる」と多くの人たち信仰 縛り地蔵(美浦村宮地)昔、霞ケ浦一帯に高熱を発するオコリが流行し がある。地蔵に虫封じの願いをかけると、地蔵様は夜中に出歩き、泣い 化け地蔵(土浦市横町)浄真寺境内の石地蔵は、子供の虫封じに御利益 は現在の赤身に移され、赤身地蔵と名称も変更された。 そっくり移ったのである。そのことから痣身地蔵と呼ばれ、城下の人々 あって、子供のあざはとれた。ところが、地蔵さんの肌に子供のあざが の丸にまつってあった地蔵さんに一七日間の祈願をこめた。その甲斐が 魂尽きはてた白鳥たちは「白鳥の羽が堤をつつむとも/あらふ・真白き 同じことを繰り返して、とうとう池は出来なかった。月日もたって、精 ところが堤は、夜の間にわき出る水のために崩され、あくる日もまた、 の石を集め、水のわき出るところに堤を築き、池を作ろうとしていた。 た朝になると、飛んできて童女になった。童女たちは、一日中、あたり 道祖神が弁天様をつかまえようとした時、弁天様の願いが天に通じた のか弁天様は蛇に化身、するすると、崖をよじのぼり、峰の上に逃げた。 えた。弁天様は必死に逃れようとして、切りたった崖に突き当たった。 れをなし、逃げ回った。そこで、道祖神は弁天様の出掛けるのをつかま 物をし、何度も言い寄った。弁天様は、あまりにもみにくい道祖神に恐 道祖神と美しい弁天様が住んでいた。この道祖神が弁天様をみそめ、贈 た。病気がなおると供物を供え、縄を解いた。現在は信仰がない。 ている幼児を助けたので、化け地蔵といわれる。 から信仰されていた。天正年間(一五七三~九二)、薗部城落城、地蔵 白鳥の里 ある日、天からひと群の白鳥が飛んできて、この里に降り立 ち、童女の姿になり、夕方になると白鳥に変わって天に上って行き、ま 羽壊(はこ)え」と口々に歌いながら、空高く飛び立って行った。その 道祖神もあわてて追い上げたが、フジツルやイバラが多く、ついに上る このことがあってから、弁天様が田の稲を守ってくれないので、苗を 植えてもいっこうに稲が実らなくなった。そこで、村びとたちが、相談 は峰の上に祀られ、道祖神は池ぎわの田んぼの道ばたに祀られた。 ことが出来ず、下の低地にはいつくばってしまった。こうして、弁天様 ため、この地を白鳥の里と呼ぶようになった。 信仰的伝説 伝説には、信仰をもとにしたものが多い。観音・地蔵など 何らかの由来があり、語られてきた。 赤身地蔵(小美玉市赤身 旧 ・ 小川町)昔、小川城主薗部氏の侍女采女が 男 子 を 生 ん だ が、 身 体 に あ ざ が あ っ た。 そ の た め、 薗 部 氏 は 城 中 の 三 ― 92 ― 戻す風習が続いている。 午前に、弁天様田んぼに移し、午後には祭りをして、弁天様を峰の上に 作になった。今でも鳥名木地区では、同地区の田植えが全部終わる日の し、田植え中は弁天様を田んぼへ移したところ、見事に稲が実り、大豊 らは、光をはなった観音像が出てきた。 してみるとよい」ということであった。翌朝、人を頼んで、川に舟を浮 はあがらなかった。ところが、ある夜、不思議な夢を見た。「川底を探 祈願した。この妻はもともと身体が弱く、手を尽して療養したが、効果 い間、子供が生まれなかった。その妻は満三年間、日夜、十一面観音に た。それをみた遠い所の明神様は、椿の木をねこそぎ引き抜いて、村の められ蕎麦畑に逃げたが、 蕎麦の茎が足にからまって、逃げられなくなっ そして、その明神様が白鳥に乗ってやって来た。そして、力比べをし たが、七日七夜にわたって勝負が続いた。そして、村の明神様が追いつ ところが、遠く離れた村にも天下一を唱える明神様がいた。 の明神様が集まって、力比べすると飯倉の明神様がいつも勝っていた。 蕎麦と椿のない村(阿見町飯倉)昔、村の明神様は力持ちだった。近郷 上にさげて、火難除けにした。 ( 『ふるさとの民話』) 時、誰かがあげた前の十文を交換して、家に持ち帰って、カギヅルシの 詣して、大変な賑わいをみせた。御飯を供え、十文銭をあげるが、その た神像がある。昔は毎年、旧正月二十四日は例祭で、近在の信仰者が参 奈良毛では、白い馬を飼わない。市内の個人の家には、白馬にまたがっ て来て、 火事を消し、 大事にいたらずに済んだと言われている。それ以来、 仁左衛門は剃髪して一宇を建てたという。 「うつろくを済度のために御相を霞ヶ浦にかくしおきつる」と詠まれた。 弥陀如来坐像があった。親鸞は三拝九拝の礼をなし、有縁の霊像と喜び、 は霞ケ浦に舟を浮かべ、三叉沖に行き、観察していると、金色に輝く阿 があり、仁左衛門が住んでいた。その当時、霞ケ浦に毎夜、怪しい光が ・ 玉造町)に豊安寺がある。このあたりは、親鸞が稲 手賀(行方市 旧 田から鹿島に向かう途中、通過した所である。この近くに井上という所 に安置した。 円満ならん」と山の方を指して姿を消した。そのため、観音様を山の上 はすみやかに浄地に草堂を建立し、霊像を移してまつれば、無量の諸願 直なる波に色まさるらん」という歌を詠んでいる。その後、 「それより ある夜、お堂の中から一人の童子が飛び出し、「紫の豊浦に響く観世音、 西河岸の一家では、大いに喜んで、仮堂を建てた。妻も快方に向かっ た。その後もお堂の中から、毎日、読経の声が聞こえ、光がもれてくる。 かべ、網を投げさせてみた。すると、大きな厨子が一つかかった。中か 奈良毛の愛宕様 鹿嶋市奈良毛(旧大野村)の高台に愛宕という地名が ある。そして、そこに、愛宕神社跡がある。昔、奈良毛に火事が起きた 明神様を打ち負かし、帰って行った。 猫の会合 猫が集まって会合を開く話が、各地に伝わっている。その会 合には、何らかの理由で一匹の猫が遅れてくることと、そこを必ず商人 時、愛宕の山から白馬に乗った鉄かぶとの武士が、一本歯の下駄でおり これ以来、村の明神様は蕎麦と椿を恐れ、村では蕎麦を作ったり、椿 を植えたりすることをやめたそうだ。 椎の木坂の猫の会合(行方市・旧麻生町)矢幡から右折してまた左折す か農家のおじさんが、通りかかる設定になっている。 現われて、沿岸の人びとは不安に思っていた。その話を親鸞にし、二人 漂着仏伝説 鉾田地域を流れる巴川は昔、舟で北浦に荷物を運ぶ重要な 地点になっていた。ここに西河岸といわれる家があった。同家の妻は長 ― 93 ― るS字型道路の両脇は、うっそうとした樹木が繁り、昼なお暗い山道で あった。矢幡のある農家のおじいさんが牛堀へ買物に行き、夕方その道 にさしかかると、山の中から六、 七人の話し声が聞こえてきた。 「ゲンエモンは今日、ばかに遅いではないか」と話し声がした。ゲン エモンというのは、そのおじいさんの屋号なので、驚いて聞いていた。 美並(村) 大字として中台・男神・下大堤・大和田・南根本・三ツ木・ 上大堤がある。かつての村で、県内有数の煙草、養蚕の生産地帯であった。 安飾(村) 東北が霞ケ浦に接している。かつての村は、大字安飾・柏崎・ 岩坪・下軽部となっている。半島の最突端で、東北は霞ケ浦に面している。 玉里村(小美玉市)昭和三十年三月三十一日、田余村と玉川村が合併し 牛渡(村) 大字牛渡・有河からなる。かつての村である。南方が霞 ケ浦に面している。一の瀬川が流れる。 「いやあ、今日はおれの家で、おじや(雑炊)だったんで、熱くて舌 をやけどしてしまってな。そのため、遅くなったのよ。すまんね」 が霞ケ浦に面している。村の東北を薗部川が流れている。 た村で、日本武尊伝説の「よくたまれる水」から命名された。三方一帯 おじいさんは、買物をやめて、家に帰って、お婆さんに「今夜、おれ の家で、おじやを食ったか」と尋ねた。 玉川(村)下玉里・川中子の大字がある。 小川町(小美玉市)小川町・白河村・橘村が合併して昭和二十九年十二 田余(村)上玉里・高崎・田木谷・栗又四ケの大字がある。 それでタマ(猫の名)を探したがいないので、そのまま、おじいさん は寝てしまった。あくる朝、裏のほうから帰ってきたタマを見ると、 月十日小川町になった。旧小川町の一部が霞ヶ浦に接している。 舌の先が真っ赤に火傷していた。 「今夜は、おかずがないから、おじやにしたよ」とのことであった。 地名の移り変わり 小川(町)小川・小塙・下馬場・中庭・宮田・野田が大字である。 南部の一部、薗部川の川口が霞ヶ浦への窓口になっている。 島村が誕生した。村名については、霞ケ浦に面した半島ということに因 白河(村)世楽・佐才・上吉影・飯前・上合・下吉影の大字がある。 出島村(かすみがうら市)昭和三十年九月十一日、九か村が合併して出 んだ。 十一日に合併して潮来町になった。昔から観光地として知られ江戸時代 橘(村)与沢・倉敷・外の内・山野・幡谷・川戸の大字がある。 潮来町(潮来市)潮来町、津知村、延方村、大原生村が昭和三十年二月 下大津(村) 南が霞ケ浦に面し、霞ケ浦湖岸の一帯は低地で北方に 台地がある。明治二十二年に戸崎村、加茂村が合併、下大津村になった。 もった水郷地域が理想の町づくりを考えての合併であった。 三方が水に囲まれ、文字どおりの水郷で、霞ケ浦、北浦の両湖水の交 叉する横利根川、北利根川とを控えた平坦な水田地帯の一角にある。 の江戸町人の離屋とされていた潮来と、それを取り巻く早場米生産地を 志士庫(村) 東北隅の一端は霞ヶ浦に面し、西南に向かって起伏が ある。西南は平坦で台地が展開、村の中央、北寄りに菱木川があり、水 た。 潮来(町)潮来・大洲・二重谷・浪逆の大字がある。潮来は奥州方面 からの寄港地として栄え、舟は利根川河口の銚子港から利根川を逆行し 田耕作地になっている。大字の宍倉・西成井・上軽部はかつての村であっ 佐 賀( 村 ) 坂・ 田 伏 の 大 字 か ら な り、 東 南 が 霞 ケ 浦 に 接 し て い る。 水利は霞ケ浦用水と一の瀬川によっている。 ― 94 ― となり、同年十一月町になった。合併にあたり、旧村名を使わず、よく 牛堀町(潮来市)香澄村と八代村が昭和三十年四月一日に合併、牛堀村 大生原(村)大生・水原・釜谷・大賀の大字がある。大生古墳群があ る。行方国造建備間命の古墳と言われ、多くの古墳がある。 津知(村)築地・辻が大字名。辻は平坦で商家が多く、築地は丘陵で 半農半商が多かった。 延方(村)延方が大字である。徳田新田と鰐川北浦にのぞむ地は水害 が多かったので民家は東南部に密集している。 図志』にみえる。 都五町街に倣いし廓なり、朝夕の出船入船落ち込む客の全盛」と『潮来 町は旅館が多く、歓楽街になり、遊郭も開業、「常陸なる潮来の里は東 行き、そこで船に乗って、江戸に入った。潮来には奥州各藩の蔵が建ち、 て潮来に寄港し、千葉郡の木下まで逆行し、そこで下船し歩いて行徳に 現原(村)捻木・芹沢・谷島・若海が大字名である。梶無川が北方より 屋敷など伝説の多い地域である。 手賀(村)大字は手賀のみである。西南部が霞ケ浦に接している。長者 多い。とくに仏供養の常行三昧が有名である。 玉川(村)藤井・荒宿・井上・西蓮寺の大字がある。東は丘陵の地で、 玉造町(行方市)玉川村・手賀村・現原村 立 ・ 花村・玉造町が合併して 生まれた。行方郡の北部で霞ケ浦の北辺にあり、地形が二等辺三角形に 武田(村)両宿・内宿・成田・長野江 次 ・ 木・小貫・三和の大字がある。 小貫に発する武田川が、村の中央を東流し、北浦に注いでいる。 川が流れていて、灌漑に利用している。 要(村)行戸・小幡・南高岡・北高岡の大字がある。小幡の中央を余戸 川が村の中央を貫流している。山田、吉川に汽船発着所があった。 日、北浦村が誕生、後に北浦町になった。北浦に接していることから命 北浦町(行方市)津澄村、要村、武田村が合併して、昭和三十年四月一 り、県の天然記念物に指定されている。 八代(村)上戸・島須が大字で、上戸の神明神社には大きな椎の木があ 香澄(村)牛堀・永山・堀之内・茂木 清 ・ 水の大字がある。牛堀から潮 来に至る利根川沿いの街道は人家が立ち並んでいる。 ともに、舟運交通の中心地であった。 はもっとも低い所である。 天竜川の浸食地帯と霞ケ浦湖岸になっていて、水田と人家がある。高須 高須・川向の大字がある。町の東北部が丘陵地、低平地は大益川、薬師川、 玉造(町)里・内宿・横町・加茂・上宿・下宿・柄貝・諸井・泉・横須賀・ 川が流れている。沖洲古墳は行方最大の古墳である。 霞ケ浦湖岸は水田地帯である。県道に沿って人家がある。梶無川、鎌田 村の中央を南に流れている。芹沢には、現原の丘がある。 山林原野が多く、西は霞ケ浦に面している。西蓮寺は古刹で、文化財も なっている。一帯に平坦地で水田が多い。 知られている牛堀を使用した。霞ケ浦の門戸をなす位置にあり、潮来と 名されが、懸賞募集によって決まった。北浦は周囲七九キロ、面積四二 及び、三方を湖水に囲まれ、風光明媚な地である。 立花(村)八木蒔・羽生・沖洲・浜が大字である。平坦な地で、西部の 方キロで、行方、鹿島に接する帯状の湖である。昔の人は、北浦を流海 美浦村 木原村・舟島村・安中村が昭和三十年四月一日、合併して生ま れた。舟島村は舟子のみ合併した。霞ケ浦に面し、湖岸線は二〇キロに な ( がれうみ 又 ) は逆浪海 な ( さかうみ と ) いっていた。 津澄(村)山田・繁昌・吉川・中根の大字がかつての村であった。山田 ― 95 ― 天王町・根宿・切通町・西町・小角・外浦・犬塚の大字がある。背後に 江戸崎(町)江戸崎町には門前・田宿・新宿・戸帳・浜・本宿・荒宿・大宿・ 臨み、小野川が西北部から東へ流れている。 舟島村 舟子だけが分村合併した。北は一面霞ケ浦に接している。 江戸崎町(稲敷市) 江戸崎町・君賀村・沼里町・鳩崎村・高田村が昭 和二十九年十一月三日に合併した。稲敷郡の中心にあり、東が霞ケ浦に ルに陸平貝塚(国史跡)がある。 村は東西に長く、霞ケ浦に突き出している。村の中央部標高二七メート 木・定光・本橋・間野・端山・土浦・馬見山・馬掛・大山が大字名である。 安中(村)大塚・谷中・山王・八井田・中ノ内・堀田・根火・牛込・根本・ 旗本領の時代もあった。 佐が大字名である。村の北部一帯が霞ケ浦に面している。維新前は仙台 木原(村)木原・大須賀津・宮地・茂呂・受領・大谷・信太・興津・布 舟島(村)島津・掛馬・竹来の大字がある。北は一面霞ケ浦に面している。 君原村といっていた。 を阿見川、晴明川が流れる。君島村の「君」と追原村の「原」をとって 君原(村)君島・石川・塙・追原・上・飯倉・大形の大字があり、中央 説がある。 衛隊武器学校になった。 隊が置かれ、予科練で有名な土浦海軍航空隊が置かれた。戦後、陸上自 霞ケ浦に面していて水田が多く、水害もあった。大正九年に霞ヶ浦航空 阿見(町)阿見・廻戸・青宿・大室・鈴木・若栗の大字がある。北側が 日村福田の一部が牛久町に移った。 見が昭和三十年四月一日に合併、舟島は四月二十日に合併、その後、朝 は「湖南町」が有力だったが、阿見町になった。合併も朝日・君原・阿 の二つの川の流域にあるので水田が多い。 高田(村)高田・椎塚・駒塚・桑山が大字である。東南が新利根、小野 の湖岸は低地帯である。 て遠く行方に相対している。土地は平坦で地味が肥沃であるが、霞ケ浦 鳩崎(村)鳩崎・佐倉・古渡が大字名である。東が和田浦、霞ケ浦を距 という。 「月出里」の読みは「すだち」と読む。 明治二十三年の合併の時、沼田の沼と月出里の里をとって、村名にした 沼里(村)沼田・小羽賀・時崎・蒲ガ山・月出里・花指の大字がある。 は米・大豆・麦・菜種の生産地であった。東西七キロ、南北四キロである。 君賀(村)上君山・下君山・松山・羽賀・村田の大字からなる。かつて て周囲一六キロの島であった。 り、西北方に大山の岬と筑波の峰を望む絶景の地である。浮島はかつ 沿い、東西に長く、南北が短い。小野川、霞ケ浦の湖岸には砂浜があ 渡・柏木・相木古渡が大字でかつての村であった。霞ケ浦の東南部に 古渡(村)古渡・羽生・堀之内・飯出・岡飯出・三次・上馬渡・下馬 昔から多くの文人が詩歌を詠んでいる。 三十一年九月三十日、阿波村が編入した。桜川はこの地域を流れる川で、 桜川村(稲敷市) 古渡村・浮島村・阿波村からなる。穀倉地帯で霞ケ 浦水辺の景勝地である。昭和三十年四月一日、古渡村と浮島村が合併、 は町村合併で美浦村に編入した。 明治二十二年の合併の時、舟子と島津の二字をとって村名にした。舟子 んの大字があり、土地は平坦である。実穀は平将門が戦死したという伝 朝日(村)荒川沖・荒川本郷・実穀・上長・小池・福田・吉原とたくさ 丘陵を負い、前に小野川、東は榎浦の狭地を隔てて遥かに霞ケ浦を望む。 阿見町 阿 見町・朝日村・君原村・舟島村が合併したが、町名について ― 96 ― 阿波(村)阿波・神宮寺・四箇・須賀津・甘田・南山来が大字名である。 浮島(村)大字は浮島だけ、これは一島一村だったからである。 西辺は北浦に臨んでいる。古くから、鹿島神宮の鎮座する神域として栄 和二十九年九月十五日に鹿島町になった。東辺は鹿島灘の海岸線を作り、 の距離は六キロである。高地も大河もない。水田が多く、海岸線は一三 えてきた。 東村(稲敷市) 十余島村・本新島村・伊崎村(大須賀村)昭和三十一 年一月五日合併、大須賀村は翌年合併した。村名は一般から募集して多 キロである。浜は高松の浜という。 東が霞ケ浦に接している。元禄図帳には、安場、安波とあり、通称「あ 数の名から選んだ。後に町制をひき東町になった。村の西南が霞ケ浦に 豊津(村)大船津・爪木が大字で西南一帯が北浦浪逆浦に面している。 んば」である。 接している。北方は北利根川を境として水郷地区と相対している。耕地 大船津は一名古川島といい、舟戸ともいう。北浦湖岸では、鉾田に次ぐ 高 松( 村 ) 滝・ 粟 生・ 国 末・ 平 井・ 鉢 形・ 佐 田・ 谷 原・ 下 塙・ 長 栖・ 泉川が大字である。鹿島神宮から東南四キロの地点にある。東西・南北 は米作地帯として知られている。 港である。大船津には鹿島の一の鳥居が水中に立っており、津の宮とい う。 十余島(村)十余津谷・清久島・橋向・押砂・曲淵・四ツ谷・六角新 田・新田・結佐・佐原組・手賀組新田と大字が多い。 豊郷(村)須賀・沼尾・田野辺・田谷・猿田・山之上の大字がある。南 西部が北浦湖岸で景勝地になっている。水田が多い。鹿島灘よりには針 下利根川、新利根川の二つの川に挟まれ東西に長く、南北にやや短い。 葉樹林地帯が連なっている。 波野(村)清水・明石・神向寺。小宮作・下津の大字がある。海岸線に 西に大浦沼があって維新に至るまでは八千石耕地と言われていた。漁 業も盛んである。 ある村である。ここに高天原がある。 ている。湖岸地は湿地帯で北浦の増水には悩んできた。この湿地を利用 本新島村 上須田・上之島・石納・西代・八筋川・境島・本新島干拓が 大字である。霞ケ浦の東岸にある。新利根川を隔て千葉県である。 伊崎村 釜井・伊佐部・阿波崎・下須田が大字である。村の北側が霞 ケ浦の狭水を隔て浮島に相対している。新利根川は村の南部を東に流れ、 して水田が開けている。中央部は台地になっている。河川はなく、水利 大野村 大同村・中野村が合併して、頭文字をとって、昭和三十年三月 三十一日、大野村になった。西が北浦を隔てて玉造など行方郡に相対し 霞ケ浦に注いでいる。 に恵まれず、甘藷などが栽培されている。 武 ・ 井・志崎の大字がある。西方の湖岸は屈折していて、渓谷が多い。 武井・津賀が北浦よりである。 中野(村)中・奈良毛・林・荒野・小山の大字がある。中と荒野の一字 賀 大同(村)小志崎・武井釜・浜津賀・荒井・青塚・角折・棚木・和・津 大須賀村 福田 幸 ・ 田・脇川・中島・清水・(清水新田)・町田・(町田 新田) ・東大沼・市崎・平須が大字名である。 鹿嶋市 鹿島町と大野村が合併して鹿嶋市になった。九州の鹿島市を考 慮して鹿嶋市になった。 鹿島(町) 鹿島町・高松村・豊津村・豊郷村・波野村が合併して、昭 ― 97 ― と命名された。東北は太平洋に面し、西南部は利根川を隔てで千葉県に 波崎町と神栖町が合併した。神の池の神と息栖神社の栖をとり、神栖村 神栖町(神栖市) 軽野村・息栖村が昭和三十年三月一日に合併、神栖 村になり、昭和三十一年二月十五日、若松村横瀬が合併した。神栖市は 流行した。 初め、三角形のもので、村内の需要を充たした。明治の末頃、丸くなり をとって中野村といっていた。かつて、奈良毛の谷田川清兵衛が明治の ら土浦、佐原、銚子、東京方面に通じ、重要な町であった。 鉾田町 鉾田・塔ガ崎の大字からなる。北浦湖岸の尖端に地で、かつて は船舶の出入りが多かった。周囲に豊穣な農産地を控え、北浦の水路か 秋津村 青柳・借宿・半原・野友・串挽・高田が大字名である。平坦な 地である。東北部は北浦、及び巴川に沿って水田がある。 郡に入り、巴村の南境に沿い鉾田町から北浦に流れこんでいる。 徳宿村 舟木・大戸・徳宿・駒木根・飯名・秋山が大字名である。七瀬 川はここが水源である。 新宮村 烟田・安塚・大竹・白塚の大字がある。東は鹿島灘、西は北浦 で水田耕作に向いている。烟田は歴史のある地域である。 対している。西北は鹿島町、東方は砂山を隔てて波崎町になる。 軽野(村)水戸から七七キロの地にある。東部海岸に至る地は砂丘が広 がっていた。村の中心に神の池がある。 諏訪村 柏熊・安房が大字である。 大洋村(鉾田市) 白鳥村・上島村が昭和三十年三月三十日合併して大 洋村が誕生した。地勢が太平洋に面し今後洋々ととして大いに発展する 軽 野 池 又 は 降 野 池 と も 書 き、 古 代 の 安 是 湖 で あ り、『 常 陸 国 風 土 記 』 にある寒田のことである。 『瑞験記』には鹿島神宮の池とある。伝説に よると、後水尾天皇の寛永十八年諸国大飢饉に見舞われた時、この池か 白鳥村 札・江川・中居・上幡木。飯島・上沢・大蔵・阿玉が大字であ る。村の西南が北浦に接している。東北は鹿島灘に接している。北浦湖 ことを願って命名した。 瓶槌命の御恩だという。 岸は肥沃で米の産地である。 ら長さ四五尋の藻が日夜汀辺に打ち寄せて、近辺の者はもちろん、伝え 息栖(村)水に臨む土地が多い。鰐川、浪逆浦及び利根川に臨む沿岸延 聞く者これを採って飯汁の代わりに用い命をつないだという。これは武 長は五千百間にわたっている。 上島村 梶山・二重作・台濁沢・汲上・青山の大字がある。西側が北浦 に接している。 巴村 紅葉 菅 ・ 野谷・大和田・上富田・下富田・鳥栖・当間の大字があ る。西南の一部は低地で北浦の水源巴川の流域に面しているが、他は台 太平洋沿岸二・四五キロである。 た。鉾田町は巴川一〇キロ、 七瀬川一〇キロ、北浦の湖岸周囲六・二キロ、 石岡町 石岡・染谷・村上が大字である。常陸総社宮がある。 石岡市 石岡町・高浜町・三村・関川村が合併して石岡市が誕生した。 平成の大合併では、八郷町と合併した。 るように村の発展を願って命名した。霞ケ浦との直接の関連はない。 旭村(鉾田市) ・ 訪村が昭和三十年三月三日に合併 夏海村・大谷村 諏 して旭村が誕生した。鹿北、大洋、旭などの名称があがった。朝日が上 鉾田町(鉾田市) 巴村・秋津村・鉾田町・新宮村・徳宿村・諏訪村が 昭 和 三 十 年 三 月 十 五 日 に 合 併、 諏 訪 村 の 一 部 は 七 月 二 十 三 日 に 編 入 し 地である。巴川の水源は岩間町(現笠間市)で、東茨城郡を過ぎ、鹿島 ― 98 ― 高浜町 高浜・北根本・中津川・東田中・東大橋 浦に臨んでいる。醸造業がある。 リム兄弟は、「昔話の起源は、古代の神話や英雄伝説の残存と考えられる」 と述べている。そして、昔話はどこかで作られたものが伝播者によって、 土浦市 明治二十二年市町村制施行によって、土浦町・真鍋町・中家村・ 東村・朝日村・藤沢村・都和村・上大津村が生まれた。平成の合併で新 られたり、カチカチ山のほんの一部のみが、話されたりすることが多い。 昔話は動物昔話、本格昔話、笑話の三つに分けるのが普通である。本 県の場合、本格昔話は割合に少ないのが普通である。桃太郎の前半が語 小 ・ 井戸が大字で霞ケ 伝えられたもののようである。真実は別として、日本の昔話が、東南ア 治村が土浦市と合併した。 て、語られてきた。桃太郎、一寸法師など主人公の一代記といったもの ジアに、その原型と思われるものがある場合がある。 土浦町 中城・東崎の大字がある。城下町で水戸街道沿いに発達した宿 場町であり、霞ケ浦の水運により、港町としても活動していた。 派生したのが、動物物語とか、笑話である。 三村 大字名はないようである。 関川村 石川・井関の大字がある。 真鍋町 真鍋・木田余 き ( だまり ・)殿里が大字である。 中家 な ( かや 村 ) 飯田・矢作 や ( はぎ ・)粕毛 か ( すげ ・)佐野子・宍塚・ 上高津・中高津・下高津・小松が大字である。 この昔話の分類はいろいろあるが、柳田國男は『日本昔話語彙』で完 形昔話、派生昔話とに分けている。 恩・愚かな動物・人と狐 ②本格昔話 婚姻(美女と獣) ・婚姻(異類女房)・婚姻(難題聟) ・ 誕生・致富・呪宝・兄弟譚・隣の爺・大歳の客・継子譚・異郷・動物報 ①動物昔話 動物葛藤・動物分配・動物競争・動物餅競争・猿蟹合戦・ カチカチ山・古屋の漏・動物社会・小鳥前生・動物由来 発展、展開、結末と分かれるのが本格的昔話である。この本格的昔話が で、その共通点は異常な誕生によって始まるのが共通点である。そして、 県内でも全国的に知られているものは、もちろん、お婆さんたちによっ 東村 あずま 大岩田・小岩田・烏山・右籾 み ( ) ( ぎもみ ・)乙戸・中村西 根(西根) ・中(中村) ・永国が大字名であった。 朝日村 荒川沖が大字名である。 藤沢村 虫掛が大字で、分離合併したようだ。(大畑・上坂田・下坂田・ 藤沢は藤沢村となり新治村を経て土浦市に合併した) 都 和 村 常 名 ひ 今泉・小山崎・中貫が大字。小字として粟野・ ( たな )・ 板谷・笠師・並木がある。 ③笑話 愚人譚(愚かな村・愚か聟・愚か嫁・愚かな男)・誇智譚(業 くらべ・和尚と小僧)・狡猾者譚(おどけ者・狡猾者) ・形式譚 菅谷 す ( 『土浦市史民俗編』) ( げのや が ) 大字である。 2 霞ケ浦の昔話 この昔話は、口から耳へ伝えられる場合が多かったが、文献による場 合も多かった。とくに、室町時代に発生した御伽草子などが、江戸時代 上大津村 神立 か ・沖宿・白鳥(しろとり ・) ( んだつ ・)手野・田(田村) 「あるところに」「だそうな」というような 昔話は「昔々あったとさ」 語り方をする。そのため、歴史とほど遠いような話に考えられている。 になると、民間にも普及していったし、それらが、型をかえて伝わった (関敬吾氏分類) 伝説は決まった型はないが、昔話はその点、型の整ったものも多い。グ ― 99 ― ものもある。 嫁にやるから放してやってくれと頼んだ。 てやってくれ」と頼んだ。蛙は鎌首をもたげて怒り、なかなか放そうと 語られ、その脇役として、動物が登場してくる。動物物語では、動物そ 動物昔話も面白いものが多い。本格昔物語では、おもに主人公の成功が 県内の昔話は、一番多いのが特色である。そう難しいことはないし、 話も単純だし、その上、面白いし、子供にも好かれたのであろう。また、 が集められている。 て断った。末娘が来た。作右衛門は姉に話したことを話して頼んだ。末 行ってくれまいか」と頼んだ。姉娘は「そんなことごめん」と頭を振っ た。実はといって、昨日あった出来事を話して「お前あの蛇の所へ嫁に 父さんいかがですか。何か心配事でもあるのではありませんか」と尋ね 蛇はこの条件を飲んで蛙を放してやった。作右衛門はとんだ条件をつ けてしまったと家に帰って、布団を被って寝てしまった。家の人びとも はしなかった。それではこうしよう。私に二人の娘があるから、一人を 茨城の昔話については、鶴尾能子氏が『茨城の昔話』としてまとめて いる。これは県内の家々を歩かれて収集したもので貴重である。今まで のものが、主人公として重要な役割を果たしている。 ウタン千個に針千本を用意してくれとのことだった。その蛇は、谷の奥 茨城県の昔話は少ないとされていたが、この研究によってかなりの昔話 そして、最初はこの昔話が、いつも語られたわけではなかった。ハレ の場で、話し好きのお婆さんが語ったものである。それが、だんだん、 の山また山の下の大きな池に棲む大蛇だった。 娘は「それなら私が行きましょう」と聞き分けてくれた。それには、ヒョ 心配し、作右衛門の頭を冷やしたりなどして看病した。姉の方の娘が「お 一般の家庭に入り、子供たちを対象に語られるようになった。この昔話 と同じように考えられるものに、世間話もある。この世間話には、民衆 踏んで、田圃の見廻り、水加減を見て歩くのが常であった。そして蛙の を蛙作右衛門というようになった。作右衛門爺さんは毎朝早くから露を ての効用を宣伝している爺さんがあった。誰いうことなく、この爺さん 虫、青虫、そのほかの害虫は蛙がとって守ってくれると、蛙の益虫とし 蛙作右衛門(行方市旧麻生町)蛙は大切な益虫である。稲の害虫、ずい 本格昔話 夜 の 宿 を 頼 ん だ。 そ れ は こ の 地 一 番 の お 大 尽 様 で 下 男 下 女 を た く さ ん 姿になった。遠くの森の中に、灯りが見えるのを頼りにたどり着き、一 蛙のおばさんが、一皮脱いで、娘に着せてくれたので、蛙のおばさんの 娘はここを逃れて、山また山の森の奥の方へ闇にまぎれて逃げた。逃 げ る の に 若 い 娘 で あ ぶ な い か ら、 「これを着て行きなさい」と年老いた 沈めるために、体中に千本の針がささり、とうとう、倒れてしまった。 になりましょう」と。大蛇は千本の針を浮かして、千個のヒョウタンを 針千本にヒョウタン千個をもって、池に着いた末娘は大蛇に言った。 「千本の針を浮かして、千個のヒョウタンを水に沈めたら、あなたの嫁 元気な様子を見てひとりほくそ笑んでいた。 風呂に入るときは、こっそりとお婆さんの蛙の皮を脱いで入るので、雪 の匂いがただよい、生活の歴史を知る上の大切なものと考えられる。 ある朝、例の如く、田んぼを見廻っていると、一匹の蛙がキイキイと 悲鳴をあげていた。蛇につかまり、足の方から呑まれるところだった。 のような肌の絶世の美人の姿になった。 使っていた。娘はしばらく下女として使ってもらうことにした。仕舞い 作右衛門は蛇に「蛙は稲を害虫から守る大切な益虫だから、どうか放し ― 100 ― (『麻生の民話』) たくさんの砂金がたまったので、お坊さんの所へ持って行くと、なん とお坊さんが病気に罹って寝ていたのである。それで狸は「どうかこの といい始め、両親は困ってしまった。ところが、蛙のお婆さんの皮を脱 こ の 家 の 若 様 が そ の 娘 の 姿 を 見 て し ま い、 得 体 の 知 れ な い 気 の 病 に 罹ってしまった。毎日ふさいでばかりいるので、医者よ薬よと、八方手 いだ娘の姿は、本当にびっくりするような美人であった。両親もびっく 旧玉造町の昔話 玉造町在住で茨城民俗学会会員の堤一郎氏(故人)が 精力的に各家を回って、民俗資料収集にあたり、特に伝説・昔話を収集 砂金で薬を買い、病気を治して下さい」といって、砂金を渡した。する りして、娘はこの大家の若様の嫁に迎えられ、一生豊かな生活をしたそ し『水郷の民俗』にまとめ、 『茨城の昔話』(鶴尾能子編)にも多数資料 を尽し、 両親も神仏に願をかけたりしたが、一向によくなる気配がなかっ うだ。これは、作右衛門に助けられた蛙の御恩報じのお話です。(麻生 を提供している。 と、お坊さんは次第によくなり、元気になったそうだ。 町史P687~688) 和尚と小僧(旧玉造町)昔むかし、あるところにお坊さんがあったんで た。医者は恋の病と診断した。若様は蛙のようなお婆さんを嫁にしたい 狸の恩返し(旧麻生町) 和尚さんが餅食べるのを見て、 と思ってね、何かその計略に一つ、食べらしてやろうと、お小僧さんた 「ああ餅食べたいなあ」 すがね、非常にけちん坊で、んで、お小僧さんが二人いました。そんで、 昔々、ある所に寺があり、そこにどんじゅうというお坊さんが住んで いたそうだ。 そのお坊さんが夜寝ようとすると、「ドンジュードンジュー」 という音が聞こえてきた。お坊さんは頭にきたので考えた。これは狸か 狐の仕業だろうと。ある晩のこと、また「ドンジュウー」と声がするの と聞こえたのだ。 お坊さんは狸を捕まえて、縛り上げたっぷりと叱り、「お 戸を叩いていた。叩く音でドンという音がして、それで、「どんじゅう」 「和尚さんに取り替えてもらおう」と。 「お前はパタパタっていう名前にしろ」って、 「お前は、フーフーって名前にしろ」 ちが相談したんだって。んで、 前は悪い狸だから、狸汁にしてしまおう」というと、狸は涙を流しなが 「そうすると和尚さんが餅焼く時、フーフーパタパタやっから、その時、 で、お坊さんは声のする反対側からそっと行くと、大きな狸がしっぽで ら、 「これからは二度としません。どうぞお許し下さい」といった。お ハイハイって、焼けたの食べてしまおう」って、そういう相談をして、 「和尚さん、和尚さん。ゆうべ、古い先祖の夢を見ましたね。お前は、フー 坊さんは狸が本当に反省しているので、逃がしてやった。 その狸は狸汁にされるところを助けられたので、あのお坊さんに恩返 しをしたいと考えて歩いているうちに、金山にたどり着いた。金山を歩 フーという名前をつけなくちゃいけない。そういわれたんだ」っていう 和尚さんとこへ行った。 いていると、 足にピカピカ光る砂金が二、三個付いていた。狸は「そうだ。 と、 「私は同じ夢を見た。パタパタという名前をつけろっておっしゃったか これを恩返しにしよう」と思い、毎日そこを歩き、砂金をためることに した。 ― 101 ― ら、和尚さん、名前を取り替えて下さい」 そう言われたんで、和尚さんも何の気なしに、 というウタヨミをやった。んで、和尚さんにほめられてね、 「お前ええ子だから、こっちへ来て餅をおれと一緒に食べなさい」 熊公と旦那(行方市川向・玉造町)堤一郎さんが採取した昔話である。 って、それからいつも餅を食べられたという話。 からそう呼ぶから、そっちの部屋に行ってなさい」って、そんでもって、 昔むかしあるところに金持ちがあった。召使もたくさん使っていたが、 「ああよしよし、 それじゃ、 お前はフーフー、お前はパタパタか。じゃ今っ いたところが、今度はお昼ねになって餅を焼いてフーフー、パタパタっ 貧乏してしまって雇人も暇を出してしまい今は三度の飯も困るように ことを許して下さい」と謝った。熊公はそれを聞いて、 同格なのを夕べ気がついたので、あやまりに来た。どうか熊公と言った 「どうも、昨日は熊公と言ってすまなかった。今は主人でも召使でもない。 後悔して、あくる日、改めてあやまりに行った。 ていた時は熊公でも、暇をやった人間は五分五分、悪いことを言ったと しおしお家へ帰り、しみじみ考え、なるほど俺が悪かった。昔、召使使っ ありませんので、気の毒ですがお貸し出来ません」と断られた。旦那は 「旦那様、お金はこのようにありますが、熊公と印のあるお金は一つも 一杯積み重ねて言うのには、 「どうぞ旦那様、奥へ来て下さい」と立派な座敷へ案内して、金を座敷 「熊公すまないが金を貸してくれないか」と無心した。熊公は、 ある時その旦那が是非ない金が必要なので、以前永く雇人であった熊 公という者が金持になったと聞き、金借りに行って、 なった。 てやったのを聞いたから、 「はいはい」って、二人で行ったそうだ。ところが和尚さん、自分で食 べようと思っていたところへ、お小僧に入って来られちゃったから、食 わせないわけにはいかなくて、その食べらしたそうです。 (話者 堤一郎・『茨城の昔話』) 和尚と小僧(その二)あるところに、和尚さんとお小僧がいました。ん で、お小僧が、和尚さんがいない時に餅を盗んで、食べていたもんだか ら、和尚さんが帰って来たんで、たまげてふところへ入れて、 「いったいどこさ置いたら良かろう。 むやみんとこへ隠しておいてはしょ うがない」と思ってね、 「やあ、ここへ埋めてとけ」と、畑ん中へ、包んで埋めたそうだ。 ところがその晩、雪がふっちゃって、積っちゃって、餅が分かんなくなっ ちゃったと。 「はてなあ、あの二つの餅はどうしたかなあ」って、言ったら、和尚さ ん聞いていて、 「旦那様まあお手を上げて下さい。私も口がすべって失礼を言いました が、世渡りはなかなか難しいもの、そうお気がつけば、私も嬉しく思い 「二つの餅っちゃなんだ」って言ったら、 「いや二つの餅じゃない、二親のことを言ったんだ」と。んで ます。ところで、以前は永年お世話になった御恩があります。お金はみ からは、その旦那も心を入れ替えて又、お金持ちになったと。 んなでもお貸し申しますから遠慮なくお使い下さい」と言われた。それ 「雪ふりてしるしの棒も見えもせず二つの餅は何となるかや」 いや、 「餅と言ってはなんない」と思って、 「雪降りてしるしの墓も見えもせず、二人の親は何となるかや」 ― 102 ― の背に乗ってしまった。牛がお釈迦様の前に近づいたとき、鼠は牛の前 さく目立たないのを幸いとして、行列にわり込み一番前を歩いていた牛 列となってお釈迦様の前に進んだが、十三番目に駆けつけた鼠は体が小 集めてお決めになった。お釈迦様がお呼びになった時、鳥や獣たちは行 を選んでみた。 を走る列車は、今の鹿島臨海鉄道である。その際の昔話の調査から昔話 をし、『国鉄鹿島線沿線の民俗』を発刊した。単線でジーゼル車、田園 いものだという。 (話者 塙スイ・ 『茨城の昔話』) 潮来市の昔話 茨城民俗学会では昭和五十二年から五十二年かけて、新 しい鉄道開通によって失われる潮来から鹿島、水戸にかけての民俗調査 (話者 高須みつ・『茨城の昔話』) 十二支の鼠と猫(行方市行戸・旧北浦町)十二支はお釈迦様が鳥や獣を に飛び降りて、 最初にお釈迦様の前に出た。小さな体でありながら、真っ 雀孝行(潮来市) そしたら、 ツバメは親が大病だという知らせが来たら、 一生懸命、紅白粉をつけてその、仕度したんだって。スズメはその、親 目となって、十二支よりはずされた。猫は鼠を憎んで、永劫末代までも、 白粉つけて行ったから、口ん中が赤いだって、そんでその、殻を与えら が病気だって時に、蓑笠 み ( のかさ で ) 行っただって。 で、ツバメはおっかさんが、病気だっていう知らせが来たのに、その紅 先に来たので第一番に決められ、牛は二番となった。それから順々に決 見付け次第に食い殺すようになった。鼠はずる賢くて栄誉を得ても、身 んないんだって。すずめは蓑笠で行ったんだって、その殻を与えられた 物を探したが、何もとれないで夕方すごすごと家に向かった。家の近く さんと二人で住んでいた。ある日、猟に出て、山野を終日歩き回り、獲 「お婆さん、その連れは、んな家からの連れけ」 そしたら白い髭のお爺さんがいてよ。 よ、そしたらば途中に茶店があんだって。みんな昔の人は歩ったかんな。 められていったが、初め十二番目にいた猫は、鼠の割り込みのため十三 の安泰を保てなくなったという。 狐と成田山(潮来市)私の方のお祖母さんがよ。成田山詣りに行くのに まで来ると、大きな狸がゆっくり歩いてくるのを見つけた。猟師は大そ んだって。 (話者 塙正光・『茨城の昔話』) 爺は婆汁食ったあよ(旧北浦町行戸)昔あるところに猟師の爺さんが婆 う喜んで、一発のもとに仕止めて家に帰り、婆さんと二人だけで、狸汁 「んだねだど。そこからくっついて来て、先さ行ぎな、行ぎなって言っ ても、決して先になんねえだよ。で、お前え先行ぎなちったって、俺ァ を作って食べたが、その夜から婆さんがいなくなってしまった。 と繰り返し繰り返し言う者があるので、起きてみると、狸の逃げて行く のが、白い髭のお爺さんが、また、 おっかねぇから寄っただとよ。そしたらば、「あ そしたら、その茶店さ、 ぶらげずし」だなんか食べて「うまかねぇ、うまかねぇ」ってやってた 後でいいの、後でいいのって言うだ」って。 のが見えた。念のため、流しの下をみると、狸の骨ではでなく、婆さん 翌日の夜、爺さんが一人で寝ていると、戸の前から 「爺は婆汁食ったよ、流しの下には骨がある」 の骨であった。 昨日大狸と思って撃ち殺したのは婆さんで、婆さんと思っ 家からの連れか」なんて聞くから、 「お婆さん、その人ははじめっから、 「 な あ に、 そ こ か ら、 く っ つ い て 来 た の。 い く ら、 先 き 行 け た っ て、 た昨夜の婆さんは狸であったのだ。殺生を重ねる人の行末は必ずよくな ― 103 ― 行かねえですわ」ったら、 わいそうな」と思って、その亀を子供らにお金をやって、買い取って、 ているうちに、大きな亀が、なぎさばたへ来たので、子供らが集まって、 そんで海さ放してやったんですって、その亀をね。 その亀をいじめているのを見て、そいでその浦島太郎っていうのが「か 「旅人ではありませんから、気いつけておいでなさい」って言っだと。 そいで、そしたら、ずっと、ずっと行ったらば、二本道になっちゃった。 「お婆さん、そっち行ぐと追い剥ぎが出るよ、こっち行くから」ちうっ たら、 から乗らっせえ」って言うので、そんで、浦島太郎は亀さ乗って行くど そうしてこんだ、ある日また釣りに行ったたら、その大きな亀が居て、 「あの浦島さん。竜宮とゆうところは、よい所なから、そこへ案内する 「お前、そっち行ぎな、俺らこっち行ぐから」言ったらほれな、木挽 きが木挽いてっから、聞いたら、 「こっちは成田街道だよ。そっちには は大きなお登楼、金門が立っててね。そんで、サンゴの柱に赤銅の屋根 に、乙姫様がいて、鯛や平目が舞い踊りして月日の立つのも知らねって。 道はねえーよ」って。 それでお婆さんは安心したら、 「これは、しょうがねー」と思って狐 が離れたんだって。 長いこと、そこでもって遊んでそいで、家さ帰えんねえと思って、 「家 さ帰える」って、言ったら、その玉手箱をくれて、その乙女姫様が、 「そ ほととぎすの兄弟(鉾田市菅野谷)ほととぎすの鳴き声は、「てっぺん んになったんで、浦島太郎は八百年で亡くなったんだって。 不思議と思って、その玉手箱を開けたら、白い煙が出て、白髪のお爺さ の箱は開けるんに無え」って。「開けると、アーこの煙になってしまう かけた、弟と恋しい」と鳴くんだが、おこりは、ほととぎすは、はじめ 帰りにその茶店さ行って、 「昨日のあの白い髭のお爺さんはどこの人 ですね」って、茶店のおっかさんに聞いたら、「そんな人いねぇ」って 仲の良い兄弟だったんだが、けんかの原因はなんだかわかんないが、け (話者 小原まち・『国鉄鹿島沿線の民俗』) ぶったたきと半ごろし(行方市・旧玉造町)旅人は疲れた足をひきずっ から、開けるんにねぇ」って言わって、来たなあ、こんだ戻って送られ んかして、そして弟の脳天を割っちゃった。てっぺんだなあ。それで弟 て暮れかけた山道を歩いていた。もう、とうに里におりていなければな 言うんだって。だから、 「成田山でも現れたんだっぺ、信心してっから」 は死んじゃって、それで、いつも弟のことを思うと、とりかえしのつか らないのに、どうも道に迷ってしまったようである。遠くの方から狐の る来て戻ってみれば、家もなにも、なくなっちゃってだので、ほいで、 ないことをしちゃったと。それからというものは、弟を恋しくて呼ぶの 鳴く声が聞こえてくると旅人は、疲れと心細さにとうとう岩に腰をおろ て言わったって。 (潮来市潮来) に、「てっぺんかけた、 おとうと恋しい、てっぺんかけた、おとうと恋しい」 すと動けなくなってしまった。 「道に迷って困っています」言うと、 そこへ、山仕事の帰りらしいお爺さんが通りかかり、 「旅のお方、どうなさった」と言葉をかけてくれた。 と鳴きつづけているわけだ。青葉の頃、その頃はお盆の前でじめじめし た晩方にね、村から村へ、森から森へ鳴きつづけているわけだ。 (話者 茨城民俗学会員新堀猛・故人) 浦島太郎(鹿嶋市清水)昔むかし、 ある所に、海に浦島太郎が釣りをやっ ― 104 ― 「今からでは、この山道は無理だな、ぼろ家でよかったら、わしらの家さ、 もう逃げられないと思った旅人は、 「どうか命だけはお助けください」とふるえながら頼んだ。 お爺さんとお婆さんには、何のことかさっぱりわからず、ただぽかー んとしていた。 お泊りなんしょ」と親切に言ってくれた。 暗くなった山道をお爺さんの後について行くと、ほどなくして藁葺き屋 「旅のお方やここらではな、ぶったたきとは、うどんのこと、半殺しと 「それは有難い、一晩御厄介になります」と、旅人は大喜びである。 根の小さい家に着いた。 ていたんだよ」と言った。今度は三人で大笑いした。 はぼたもちのことなんだよ、今夜お前様に何を御馳走すべーと相談をし 「それはお困りだな。さあー遠慮しねーで」と、やさしく迎えてくらた。 やさしそうなお婆さんが待っていて、お爺さんからわけを聞くと、 「 旅 の 疲 れ は、 風 呂 が 一 番、 さ あ ー さ あ ー 汗 を お な が し な ん し ょ」 と、 (『玉造の民話』第三集) 馬鹿聟のはなし(旧小川町)昔むかし、おとなしい若者が、とても気立 御年始に行った。嫁さんの実家では、両親は娘のむこさんの来るのを喜 すすめてくれた。 「それでは、お先にいただきます」と、風呂に入った。 んで、もちをついて待っていた。そして、甘いだんごを作って御馳走し てのよい嫁さんをもらった。正月になったので、嫁さんの実家へ一人で 「なんてやさしい人たちだろう。いい人に出会えてほんとうによかった」 てくれた。むこさんは生まれて初めて食べただんごが、美味いので、た お爺さんやお婆さんより早く入っては、悪いなと思ったのですが、 と、言い気持ちで湯につかっていると、お爺さんとお婆さんのはずんだ くさん食べた。 夕方になり、むこさんは、嫁さんの家を出た。「だんご」の名を忘れ ないようにと、帰り道を「だんご、だんご」と唱えながら歩いていた。 話声が聞こえてきました。 「若いもんが家にいるのはいいもんだなー。ばあさまや、今夜はなにに すべえ、ぶったたきはどうだ」というと、 これを聞いた旅人は、そおーっとそおーっと風呂を出た。 てくれと頼んだそうだ。 とたんにだんごを忘れて、家に帰ると嫁さんに「どっこいしょ」を作っ たまたま道の真中に水溜りがあったので、「どっこいしょ」と飛び越えた。 着物をまとめて、かかえると裸のまま、逃げ出した。 「それより久しぶりに、半ごろしがいいんじゃねえけ」とお婆さんの声。 あまり慌てたので、縁台にぶつかって、大きな音をたててしまった。 お爺さんとお婆さんが音を聞いて何事かと、飛び出してきた。 麻生の世間話 きつねにだまされる。きつねの嫁入りを見たなどきつね に関する話が中心である。 ては身近な事件として受け取ることも多い。 3 霞ケ浦の世間話 昔話、伝説とは異なった口頭伝承がある。町の人々のうわさ話などが その中心になる。実話や体験談などにもとづくものが多い。聞く人にとっ 旅人はただ夢中で走り出した。 「旅のお方よーどうしなさった。 そっちさ行くと大やぶの先は崖で危ねー よ」と叫びながら追いかけてきた。 旅人は一生懸命走ったが、山道になれた二人に追いつかれた。 ― 105 ― と言われた。キツネが道案内に現れたこともあるという。(新田) キツネ 田幸稲荷の祠の後ろに穴があり、キツネがすんでいた。キツネ に化かされておなじ場所を回されたりするので、夕方行ってはいけない けなかった。 (新原) 狐と狸 きつねにだまされて、同じ場所をぐるぐる回ったという話を聞 いた。ある人が島並に行こうとしていた時に、同じ目に会い、島並に行 出なくて、明日の朝まで田の中にいたそうだ。 中の田中稲荷様の狐に化かされて、おいしい饅頭があると思って食べて 狐 昔、酒飲みのおじさんがいた。金ができると潮月の旅館に酒飲みに 行き、帰りに魚だの油揚げだの天婦羅だの土産にもらった。すると、途 しょう。 け抜けて行ったのでした。きっとそれがお百姓を欺かした狐だったので を抜かしてしまいました。すると、後ろから二匹の犬のようなものが駆 ムジナ坂 道知稲荷に通じる道の途中にムジナ坂がある。ムジナに化か されるので、夕方遅く通るなと言われた。(新田) 家に帰ったら、口の周りに馬糞がたくさんついていた。それからお爺 さんは床についてしまった。 おじいさんは人が訪ねて来たら、「コンコン」 みると、馬糞であったり、道だと思って田の中を、いくら歩いても道に 赤坂山の白狐 赤坂山の白狐というのたんだって。夏でも真っ暗のぬか る道だった。狐に化かされた人がいて、迷って家に帰れなかったという。 をなして、 水辺に来る状態です。提燈に見えるのは尾を振っているので、 ながら山の方から水辺に向かって歩いてきます。これは、狐どもが群れ 狐の嫁入り(1)夜半、人の寝静まったころ提燈をつけ、ガヤガヤいい すると大きな声で「コンコン」と鳴いてもとのおじいさんに戻った。 それから、おじいさんは決して土産を持たずに帰るようになった。その いって何度もおじいさんは叩かれた。 きだから「ちきしょう。この野郎。出なければ油揚げ出さないぞ」そう といっての狐の真似をする。仕方なく拝む人を頼んだ。狐は油揚げが好 尾の先に電気が発生して、これが提燈のように見えるのです。 田中稲荷様の狐は、他にも多くの人たちを化かしたそうだ。 (矢幡) 狐の嫁入り(2)麻生の四鹿のお話です。ある晩、一人のお百姓が村の 第二節 集会の帰りに暗い山道を歩いていました。「やれやれ、今夜は冷えること」 とつぶやきながら、歩いていました。すると向こうの方から、たくさん 1 方言 方言とことわざ の提燈を下げた行列がやって来ました。「はてな、こんな夜更けに何か のう」そう思いながら、なおも見ていると行列はどんどん近づいてきま 茨城の方言特質 関東地区の言語は音韻・アクセントのうえから三の 系統がある。共通語に近い京浜系、共通語と大きく異なる東北系、京浜 す。 除いて、東北系に属するが、隣の市町村でも微妙な違いがある。 系と東北系の混じった中間系がある。茨城方言は、県西・県南の一部を ろしや」 『風俗画報』に「常陸国潮来町の方言」がある。ガイル(蛙)ネンジン(人 参)ダイゴ(大根)スイガン(西瓜)ホウタブ(頬)やま(眉毛)オッ 「これは狐の嫁入りじゃ。ああ、いやなものを見てしまった。ああ、恐 そして、誰かを呼ぼうとして大声を上げると、あんなにあった提燈が 一 斉 に 一 つ 残 ら ず 消 え て し ま っ た の で し た。 お 百 姓 は、 も う 驚 い て 腰 ― 106 ― れる)ブッチャス(こわす)クネ(柿)バンゲー(今夜)ソンダラ(そ カナイ(くたびれた)オシグレ(雷)チンジャアボ(葬式)オゴレル(折 そのうえ、顔のまん中が、あんまり出っぱってる。 (一回)も出っかしたこどねェー。 そのあど、猫にもいっぱいいきゃったが、こうたものには、いっけい どうもむせっぽくって、本当に困ったっぺ。 れなら)があげてあるが、茨城方言の代表的な言葉がたくさんあげてあ おらァーねごめだー(吾輩は猫である) こ れ が 人 間 の 飲 む 煙 草 ち ゅ う も ん だ ど い う こ っ た。 や っ と こ の 頃 わ そんじその穴めどんなっから、ときどきプープーけむ(烟)をはぐ。 おらァー猫(ねご)めだー。 かったぺよ。 る。 なめェー、そうたもの、まだねぇー。 なんちゅうか、うすぐれー(暗い)しめっぽいちゅーどごで、ニャー 音韻・アクセント おらァーどごでうまれたが、さっぱりわかんねぇー。 ニャーいって泣いでだんだ。それ、おぼいってけど。 押 i え → i e になる場合が多い。短い→ミチカイ これだけ→コレタケ 叔父さん デンシャ 水戸→ミド 猫→ネゴ ③本来濁音であるはずの語が清音になる。②の発音をする人はこの発音 委員→エエン 一郎→エチロウ ②本来清音であるはずの語が濁音になる。カバン→ガバン 自転車→ジ ①イとエが中間音になり、それぞれの発音が逆に聞こえる。 → e る → オ サ イ ル 枝 → イ ダ ひ え → ヒ イ お え な い → オ イ ナ イ おらァーここで初めて人間ちゅう奴(やろ)見たんだ。 そいつをあどで聞いてみっと、それ書生ちゅう、人間中で、いぢばん あらっぽいやづらだっていうべ。 この書生ちゅうやつは、時々、おらぁーを引っつかめ煮で、食っちゃ うっていうこっだ。 けんど、そんどきはなんちゅう考いもなかったぺ。そんで別におっか ④本来、半濁音であるべきものが濁音になる。ジャンパー→ジャンバー →おちさん けんど、奴の手のひらにのっけられ、スーともちゃげられたどき、何 ねェーども思わなかった。 だかフワフワわかんねェー、気分があったっけかねェ。 ン 落ちまい→オッコンマイ 始まる→オッパジメル 突き落とす→ ツッコドス ⑥促音「ツ」の転化と「ツ」の添加がみられる。おかあさん→オッカチャ →シジン 出張(しゅっちょう)→シッチョウ じゅんぐり→じんぐ りなどになる。 アパート→アバート デパート→デバート ⑤拗音の発音が聞かれない これは拗音の直音化で、主人(しゅじん) 手のうえちょくらゆっくらしてからよー、奴の顔を見だのが、人間ちゅ う奴の見はじめだっぺ。 こん時、へんてこなもんだと思ったぺ、そのへんてこな感じが今でも のこってぺよ。 第一(だいいじ)毛はやして、かざっとこの顔つるんこつるんこして て、まるでやかんだっぺ。 ― 107 ― ⑦第二音節にンを入れる。ぶどう色→ブンドイロ 蚊→カンメ ⑧撥音「ン」への転化及び撥音の添加がある。かきまわす→カンマワス へらない→ヘンネエ 音韻の変化 ①「もらおう」という語は「モローベ」になる。「まっすぐ」は「マッツグ」、 「そうすると」の「ソウスット」 、 「やわらかい」の「ヤーコイ」「ヤッ コイ」などがあげられる。 ②本来「カ」と発音するべき語が「ケ」になる。「帰ろう」の「ケエイペイ」 がそれで、ことばとしては粗雑である。 ③「マイ」と発音すべき語が「メイ」となる。終りの意味の「おしまい」 は「オシメイ」になる例である。 ④終助詞「ヨ」が「ド」に変化する。 「悪いことしちゃだめだよ」とい うところを「悪イコトシチャダメダド」という。 ⑤使役の助動詞「させる」が「ラセル」になる。「起きさせるが「オキ ラセル」になる。 助詞の省略・変化 格助詞の「が」や「を」を省略する場合が多い。 「雨(が)降った」「水(を)飲む」で、この場合、「ミズーノムー」と 長 音 に な る こ と が 多 い。 「 東 京 へ 行 く 」 が「 東 京 さ 行 く 」 、「 家 へ 帰 る 」 が「家さ帰る」で、「上さ上がる」も同じである。これについては「京 さ筑紫に坂東さ」といわれ、茨城は「さ」である。 動詞の変化 動詞の活用では間違いになるが、方言の活用になって いるわけである。その中でも次の二つは茨城方言として有名である。 と活用し、カ行変格活用だが、ここでは、キない、キます、キる、キ ①「来る」は正しくは、コない、キます、クる、クル人、クレば、コい 接頭語 接頭語としての使用に茨城方言の特色がみられる。ブン、フ ンの接頭語がつくことである。 「ブンナグル」「フンノボル」がそれであ る人、キればと上一段で活用する。 ば、死ゲとなってしまう。 行五段活用の動詞になる。死ガない、死ギます、死ぐ、死グ人、死ゲ ②「死ぬ」が「死ぐ」となる。本来はナ行変格活用の動詞であるが、ガ る。これは日常、 よく使われる。ほかに「ブラサゲル」 「コンチキショウ」 「オンノメロ」 「クンノム」 「カツタルイ」「コツパズカシイ」「クンノム」 などがある。 接尾語の語尾 女性や子供それに動物などにつける場合が多い。 ①動物の語の語尾に「メ」をつける。イヌメ、ヘンメ、ブダメ、アマメ 擬声語・擬態語 ホイスカホイスカ、ダダピッロイとか方言として、面 白い語がたくさんみられる。 無型アクセント 茨城方言の特色として、アクセントの区別がないとい うことがあげられる。例えば、 橋と端と箸はすべて無型のアクセントで、 (女性に対して)など、意味が強くなる。 ペー、早クシベー、ヨカッペイーなどがその例である。そこで共通語 共通アクセントや関西式アクセントとは、異なったアクセント型を有す ②推量や意志を表現するのにベ、 ベイ、ペイなどをつける。インベー、ヤッ の「そうだろう」の推量表現は「ソウダンベ」「ソウダンベー」の形 ることになる。 語 尾 と 尻 上 が り 「 茨 城 の べ ー べ ー 言 葉 が 止 ん だ ら ば、 な べ や つ る べ は どうするべ」という言葉がある。「べ」が尻上がりをさせている。 になり「ソウダッペ」 「ソウダペー」となる。 ③打消しの「ナイ」が「ネー」になる。「ソウデネー」というのは「ソ ウデナイ」の意味である。 ― 108 ― 旧出島村(かすみがうら市)共通語と方言について、調査員(A)と村 人(B)の会話によって、記録されている。 (クッチャビ・まむし、ケーロコンポ・おたまじゃくし) 「一形平板型でアクセントはなく、言葉の最後が上がる。 茨城方言は、 「ソウケー」 「オレゲー」 「インベー」 「ソウダッペ」などがその例である。 敬語 茨城方言は、比較的敬語が少ない地域とされてきた。しかし、敬 語がまったくないわけではない。全国的にみると、敬語は西日本より、 (B)デーゴ、ネンジン、ナッパ、ガシャッパ、みんなそう言ってんだど。 (A)犬め、猫め、鳥め、ぶだ(豚)めと「メ」が多いのには、驚いた。 東日本は簡略で、特に茨城県、栃木県、福島県が目立っている。 (A)セナー(兄)、オンツァン(叔父)、トーレー(後妻)など家族関 わらあべけんど、おかしかあんめ。 その中で、 他人の持物に「オ」や「ゴ」をつけるし、丁寧語として「デ ス」 「マス」は使われている。これは「ガス」 「ゴザンス」としてみられる。 係の言葉も面白い。家族で方言で話すと意味が分かりません。 (B)んだ、んだ、けんかやってるみていにきこえるといわれんだ。 (A)接頭語とか濁音も多いですね。 おはようございます→オハヨウガス おさむうございます→オサムウゴ ザンス 敬語で最も欠けているのは、尊敬語の中の主語尊敬である。例 えば、 「太郎さんが受ける」に対して、「太郎さんがお受けになる」のよ コロゲル(転ぶ)、デングルゲール(転ぶ)、カッサラウ(さらうこと) (B)クンノンチャ(飲んでしまう) 、ヘーツクバル(うずくまる)、カッ めでとうございます」が「ちょっくら、嫁様が決まったそうでよかった なんていってぺ。 うな形がないということである。 「お嫁様がおきまりになったそうでお ね」などの言い方になる。 (B)いくらでもあらー、 ゆってみっか。オッカネ(恐ろしい)コワイ(疲 (A)短い言葉で面白いものには、どんなのがありますか。 旧東町(稲敷市)朝の挨拶は「おはよう」か「早いね」であり、その後 れた)パッカダカ(堅い)シンニェー(知らない)ポッチラ(少し)な 日常用語 に天候の話が続く。 「今日は暑くなっかな」「いいあんばいの雨だっけね」 (A)外から来た人に、笑われた言葉はありますか。 どあんね。 く降んね」 「ひと雨ほしいなや」と、農村では、天候の話になる。夕方 (B)あったともや、いくらでも、 そうたこと、 おら、 何んにも気にしねえ。 とか、 「畑のがにぁいがっぺ(畑にとってはようだろう)」となる。「よ になれば、「そろそろしめえなべ。暗くなってきたな」「日がつまったな」 ヤットクンツェー(やってください)イリャセント(いりません)セー 精が出んなあ」 「なめるようにきれいにしておくね」「めんどう見がいい ふだんの生活では、人の行動を讃える褒めことばもよく用いられる。 農村では、まめまめましく働くことが、最大の美徳とされるので「よく ものだ。 旧桜川村浮島(稲敷市)年寄りが孫を寝かせるのに、方言で昔話をした と行って来ましょう)なんていうな。 「あしたも(天気が)いいがな」という。 嫁だ」とかいう。 「いい出来だね」 「丹精だね」とと田畑をほめることも 今夜のような晩げにはナイ、川の向こうはナイ、キツネの嫁入りがと ダススンナ(余計な世話をするな)チョックライッテキヤンショ(ちょっ ある。 ( 「東町町史」 ) ― 109 ― 乗っかって、みんなにかずがれでナイ、あがーぐ(明るく)めぇんナ おんナ(通るのだ) 。えっぺエ提燈ば(を)灯けで、狐の嫁さまは台さ 客 これ柿のみそ漬けだな。ならア方の西洋医者殿がワイルス病にゃ ア柿の味噌漬が一番きくと。ワイルスという虫めは足の親指のきずぐち 婆 これはトンだことをした。これならよかっぺ。 と又見えるものだ) 。 提燈みでぇにめんのはナイ、狐のちきしょうがナイ、 なくなってしまって) 、とおーぐさえぐと、まだめぇんな(遠くになる 提燈の明かりはナイ、そばさえぐどなぐなっちゃって(近くにいくと たら、なおったケよ。 を突ップーンだから、きずぐちへ虫殺しに小便チッカケて、しばってい からはいるとよ。おれも五月、田中でギヤマンのかけたので、足の親指 (見えるんだ) 。 死んだぼうの骨がらば口さくわぐどひかんナド(狐が人骨を口にくわく 主人 おれも千度、竹山で土ふまずエかつくい踏んだから、やき油たら し て き ず 口 へ 塩 引 の 頭 の 黒 焼 き を つ ッ ぺ し こ ん で 置 い た ら 治 っ た。 (以 と光るのだとよ) 、おっかねぇがら、早ぐねろぉかんぞっぉ(恐ろしい から早く眠れ、可愛い子よ) 。 下省略) (『桜川村郷土史資料』 ) 旧玉里村(小美玉市)挨拶や会話の例 朝の挨拶 A おはようござんす。いや早いね。 B やあ、おはようがす。 その2 客 いたか。 主人 イヨー誰かと思った。いろりへ、ふんごめよ。さむかっぺい。 客 きょうはおとなくさむいや。鉄砲西だもの。 A きょうは何事でがすか。 B きょうは、くれい起きして、起きむくれに草とりに参りやした。 はあ、お昼でがすべね。 B ン。さっき蒸気(汽船)が下がったから、間もなく昼ですべよ。 A しっかり、畑、さくりゃしたね。(中耕) A A こんにちは、いや暑いねー。 B こんいちは、だんだっぺと思いやしたよ。(誰かと) B あづくなんねえ中に、いそがっせえよ。んでーさいなら。 昼の挨拶 A なあに、ちょっくら、石岡さ買物に行ってくべいと思って。 歩ぎだから早く出てきやした。んでは、おかせぎなんしょ。 どちらへ参りやすね。 主人 四ケ村のうんツァーが来たよ。みやげもらった。かんすう沸いて らア、お茶いれろよ。 婆 ござりましたか、くるたびくるたび、土産をおしこげねェもらっ て。 客 ナーニ大杉様へ参りに来たから、こうれん買って来ただよ。 そこにいるのは、そんだか孫か。それこうれんダスベイ。 主人 これ孫のバッチクレイ野郎の猫の尻だよ。 客 ウン そんだに似てくりくりして利口そだぜ。あちこい男だ。 主人 これぶぎような野郎だナア帯ひろまいで、シヂコだして。 婆 ワアンかずつゃるべい。 客 ウーこれ、から皮の味噌漬だナびとい辛いヤ。おれキンピラだと 思ってよと。 ― 110 ― B なあに、こわくて、そうたにできやせんよ。(疲れてそんなに) A 大事にやった方が、ようがすよ。 (静かに) B なり気にやりやすべよ。 (気のむくまま) A んでーおあがんなんしょ。 (野良からあがる) 動物 ○アキアカネ 各地ともトガラシトンボ、安塚アカトンボともいう。 ○アリ 安塚アリンボ。宮中・延方アリボー。浮島アリメ。 ○イナゴ 安塚ハネコ、ハネッコ、ナゴ。延方ハネムシ、イナムシ。宮 中ハネコ、ナゴ、ナゴムシ、ハットリ。浮島ナーゴ、ナゴ、ハネコムシ。 ○カエル 安塚ケエル、ケエロ。 宮中・延方ゲエロ。浮島ゲーロ。 B さいなら。 夕方の挨拶 A お晩かたになりやした。 B おそっちくなりやしたね。はあ、しまって来たのげい。 ○カマキリ 安塚カマギッチョ、宮中イボカッキリ、延方イボカリ 浮島イボカリ、イボトリ。 ○オタマジャクシ 安塚ケエルコンポチ、コンポチコ、ケエロコンボチ コ。宮中オタマ。延方ゲエロコジョ、タマコジョ。浮島ゲーロゴ。 A なあに、日暮れ方は、かんめだのぶよめがいて、かいくて仕事にな んねえからしまって来やした。んでアー。はあ、しまあっせーよ。 ○アブラゼミ 安塚ガナガナ。宮中ジージー。延方ジージーゼミ。 浮島ガナガナ、ギュータロー。 ○トンボ ゲンザとも言う。 B ん、 あしたも、 あっこったから、 しめいにすべよ。おやすみなんしょ。 土浦市の会話 A この辺の言葉は標準語に近いよな。テレビやラジオで言っているの とほとんど同じだもんな。 ○ムカデ 安塚・宮中モガデ。延方ムカデ。浮島ハガジ、 ハカチ、 モガデ。 ○マムシ 安塚クジハビ。宮中・延方クチャヘビ。浮島クジハビ、クッ チャビ。 B うん、そうだよ。 A しかしな、まさかテレビの方がきれいだよ。 ○イトトンボ 安塚アヤトンボ。宮中オジョロトンボ、オイラントンボ。 延方オイラントンボ、アネサマトンボ、ネエサントンボ。浮島アネサ タオリ、ハタオリバッタ、ハタオリムシ。 ○ショウリョウバッタ 安塚バッタ、ネギサマバッタ。宮中バッタ、フ ネコギバッタ。延方バッタ、コメツキバッタ、トントンムシ。浮島ハ ○コガネムシ 安塚コウラムシ、ホタルノオヤジ、ホタルノトッチャマ。 宮中カナブン、ガンガンムシ。延方アブラムシ。浮島アブラムシ。 ○ガの大型 安塚ホトケサマ。 宮中オニチョー、 ホトケサマ。 延方ホトケ。 マトンボ。 B それは当たりめえだよ。 A それも、アイのイと、ウエのエとの区別がはっきりしているしな。 この辺ではどっちも同じ発音だもんな。 B そういえば、この辺はなんとなく東北弁にも似ているところもある よな。 ( 『土浦市の民俗』 ) 動植物の方言 ここで取り上げた地域は、北浦の先端の鉾田市安塚、潮 来市延方、鹿嶋市宮中、稲敷市浮島である。動物、植物の方言も共通語 になりつつあるが、もともと命名にあたっては、形態、性質、利害、感 じなどであった。ここでは主なものを拾ってみた。 ― 111 ― 植物 ンカク、カヤグサ。浮島サンカクグサ。 ○ヌルデ 安塚ヌリデ。宮中ヌリデ、ゴマギ。延方ヌリデ、ヌイデノキ。 ○ヘビイチゴ 宮中・延方ドクイチゴ。 ○マツバボタン 安塚ネナシ。宮中・延方ヒデリソウ。 旧出島村の方言(昭和四十四年収録) ○イボクサ 安塚ヤベーグサ。宮中ヤバイヅル。延方ヤベーヅル。 ○インゲンマメ 安塚ナリクロクイクラ、ナリクロ。浮島ナリクロー。 ○オオバコ 安塚ケエルッパ、ケエロッパ。宮中・延方ゲエロッパ。浮 島ゲーロッパ。 あってこともない(非常に)あっぱとっぱ(あわてるさま) あったかぼっこ(ひなたぼっこ)あざかす(掘りかえして探すこと) ○サルノコシカケ 安塚 宮 ・ 中オカメノコシカケ。延方オカメノコシカ ケ、テングノコシカケ、オサルノコシカケ。浮島オカマノコシカケ、 いがしておいでなはりゃしょ(行っていらっしゃい) うじゃじゃける(ただれる)うでっきり(精いっぱい) いじがかえない(辛抱しきれない)いんごいた(動いた) ○ジャノヒゲ 安塚リュウノヒゲ。宮中リュウノヒゲ。延方リュウノヒ ゲ、ユノヒゲ。浮島リーノヒゲ。 おとめ(赤ん坊)おだく(吐く)おんか(公然)おだいや(台所) オママノパクパク。 ○スズメノテッポウ 安塚ウマツバナ。宮中タムギ。延方タムギ、ビー ビーグサ。浮島タムギ。 おんたい(頭痛)おっくくる(追い飛ばす)おちる(おりる) おっと(酒)おそんちくなりやーした(涼しくなりました) えめーましい(いまいましい)えんかす(動かす) ○ガマズミ 安塚ヨソズミ、ヨスズミ。宮中ヨソズミ。延方ヨソグミ。 浮島ヨシズミ、ヨソズミ。 かいしき(残らず)がえん(粗雑な人)がしゃっぱ(木の葉) かんちろりん(痩せて細いこと)がしょーき(手荒くすること) かせる(食わせる)がなる(どなる)かっけなす(けなすこと) 延方シャクジッコ、ワライノキ、ワライギ。 ○サルスベリ 安塚ハダカギ。 ○サルトリイバラ 安塚バラ、ヤマバラ。宮中サンキライ、サンキライ バラ。延方・浮島バラ。 (水戸はバラッパ、盆の餅を包む) かどわれる(かどわされる)がなる(どなる)がめる(ごまかす) かずける(罪を人になすりつけること)かたぞっぺ(傾斜地) ○ナズナ 宮中ペンペングサ、バチグサ、カラカサグサ。延方ペンペン グサ、サミセングサ、カラカラグサ。浮島ペンペングサ。 きびちょ(きゅうす)きどろこね(うたたね)ぎご(がんこ) きめっこ(気にかけること・すねること)ぎっちり(十分に) きっかえす(掘り返す)きっちゃす(細かく切ること) ○ヒルガオ 安塚・延方ヒルガオ。宮中ナベズル。 ○マツバイ 安塚サカユキグサ。宮中ケグサ。延方ケグサ、ネコグサ、 キツネカワ、センボンヤリ。浮島イヌゲ。 くんつぁい(ください)くたばっちゃめぇ(死んでしまえ) ぐらかす(ごまかすこと)くらそばえる(悪ふざけをすること) ぎょうざ(たくさん)きんつー(不足すること) ○衣類に付着する草の実 安塚サカユキグサ。宮中ドロボーグサ、延方 ドロボー、ドロボーグサ。 ○カヤツリグサ 安塚サンカクグサ。宮中マスグサ、マスグサ。延方サ ― 112 ― ごっこめ(化け物)ころっと(こっそり)こわい(くたびれた) けっぱる(頑張る)けんつくかませる(あらあらしくしかる) けえだす(かきだす)けぞーみ(人の様子を伺うこと) けっぷりもない(その様子もない)げっけず(びり・最後・末席) けんなるい(羨ましい)げえもない(つまらない)げす(大便) ぐする(だだをこねる)くちかける(言葉をかける)くびる(くくる) くげん(だるい・重苦しい)ぐしょぐしょ(びっしょり) くぜる(さえずる)くちわり(悪口)ぐんなり(疲労している様子) でんぐりけえる(倒れること)てんつけ(はじめから)でえく(大工) てのえねえ(しょうがない)てっこにおえぬ(手にあまる・負えない) つらばちねー(厚かましい)つら(顔)つらめえろ(つかまえろ) とっこてる(落ちる)つんなめる(すべる)つらむ(つかまえる) ちゃがむ(座る)ちっとばし(少しばかり)ちゃぶる(つぶる) ちょんぼり(少し)ちっぽくさい(小さいこと)ちったあ(少し) ちゃべこべ(多言)ちょろまかす(ごまかす)ちゃあちゃあ(平気) ちくぬく(うそをつく)ちんこ(じょうだん)ちんと(少し) たまか(倹約)たんぱち(短気)たばき(嘔吐)ためごえ(下肥) なぐら(波のうねり)なじた(どんな)なんぼにも(何分にも) こすい(ずるい)こっぺくさい(なまいき)こーたに(こんなに) しびたれ(臆病)じょうじょう(たびたび)じゃけら(軽々しい) ならんにぇー(なれない)なだけ(なにほど)なったけ(なるべく) てっつくり(てまね)でっこまひっこま(出たりへこんだり) じゃびる(さびる)じくねる(すねる)しこまい(身支度) ながっぽろしい(長いこと)なきぶち(泣き虫)ながしけ(長雨) こったけ(これだけ)こーれん(せんべい)こみやる(ごまかす) しょくすぎる(分に過ぎる)しんねりむっつり(はっきりせず無口) にんやか(たぎやか)にやくや(どっちつかず)にんど(二度) でっこら(太っていること)てわすら(いたずら)でっちり(存分) すっぽうめし(副食物のない飯)すーずー(面の皮の厚いこと) のんべんだらりん(取りとめないこと)のざく(もどす・嘔吐する) さばける(遠慮しない)ささらほーさら(めちゃくちゃ) すてばて(やけくそ)すんなべる(すべる)すんしない(完全) のっぺー(始終)のーじ(後で・そのうち)のらぼー(怠け者) でえじんどん(財産を多く持っている人)てえしょく(退職) ずぶろく(泥酔)すげる(はめる・入れる)すすくる(修繕すること) のやのやする(蒸し暑いさま)のたし(たえず)にたばる(倒れる) ざっともしない(よくもない)さってえなし(考えなし) せえる(入れること)せっちんでえく(下手な大工)せなー(兄) はだかる(広がる)ばんげ(夕方)はだつ(はじめる)ばっけ(崖) どける(退ける)とんがける(とがらす)どまつく(まごつく) そそらそっぺえ(うわのそらのこと)そのっけえ(そのくらい) ばくれる(いたずらする)はっこくる(打つ)ばんどー(仲介) さこと(笑いぐさ)さす(頭にくる)さとい(敏感な) そばずこ(ふざけること)そそら(身にしみる)ぞうさない(容易) はらっぴり(下痢)はてんぼう(らんぼう)口なみず(水っぱな) どんちゃん(心が落ち着かぬ)とっぱな(先端)とぼぐち(入口) たまげる(おどろく)たくをきる(自慢すること)たかっぽ(竹筒) ひっぱたく(たたくこと)ひーて(一日)びたぐら(あぐら) しっちゃばく(引き裂く)しゃからかいもない(くだらないこと) たっぺぐち(無責任な言葉)たわいねー(手ごたえがないこと) ― 113 ― ぶっくらせる(なぐること)ふだから(それだから)ぶま(不運) ふじみなみ(西南風)ぶっこれた(破損した)ふだねー(そうでない) ぶーぱ(木の葉)ふだ(たくさん)ぶっちかる(腰をおろす) びしゃ(おどす)びたける(甘える)ひだりこぎ(左きき) ひんのまえ(昼の前)ぴしゃぐ(つぶす)ひんがりめ(やぶにらめ) びたつら(横長の顔)ひすばる(しなびる)ひょーげる(ふざける) わんか(少し)わっつぁく(割ること)わざほか(わざわざ) らんと(墓所)らくだ(酌婦)らっちもねえ(しかたがない) よんべー(呼ぼう)よったかる(寄り集まる)よまなこ(鳥目) よごぞっぽう(見当違い)よっぱらすっぱら(あくまで)よめ(妻) よっじゃれ(ぼろぼろなこと)よーせ(弱い)よろばろ(よろける) よわり(夜業・よなべ)よいあわい(よい風向き)ようて(両手) ゆくじなし(意気地なし)ゆすい(留守居)ゆだれ(よだれ) (「出島村の方言・稿」) ふんばたける(ひろげる)ふすくれる(すねる)ふどい(ひどい) べったりすったり(はきはきしないこと)へろくそ(意気地なし) 鹿嶋市の方言 こうこの樽さその石いっけてくれ。(乗せる) ぺそりぺそり(めそめそ)へたくに(やたら)ぺんなり(しなうさま) まけ(一家)まぶす(まぜる)まだるっこい(面倒くさい・待遠しい) いまさか買って来てお茶にすっぺぇ。(大福) あがんなせぇ、お茶でも入れっぺぇ。(お上がりなさい) みっしら(しっかり)みそあげる(自慢する)みつぐ(仕送る) おしぐれ様にヘソ取られるから着物着ろ。 (雷) へこつく(ぺこぺこする)へーつくばる(平伏する)べべ(着物) むせい(数が多いこと・沢山あること)むかり月(生まれ月) 次の停留場でおちる人が沢山いるんだ。(降りる) おめげのあねぇ嫁さいったぺぇ。 (姉) むちゃぽいなし(物を粗末にする)むしょうに(むやみに) そんなに老人をおっこくるもんだねぇ。(追いとばす) ほきる(茂る)ほんこ(本気)ぽんつく(ぽかんとする)ぼち(壷) めど(穴)めっける(見つける)めかい(めざる)めど(見通し) かたすこともできねぇで散らかすな。(片付ける) あままだからゆっくりすっぺ。(雨の合間だから) もんぴき(ももひき)もってえつける(もったいつける)も(のばた) あんな人と思ったらざっぱりした。(興ざめ) まっと(もっと)まじっぽい(まぶしい)まよう(償う、弁償する) もだら(たわし)もえちゃし(燃えのこり)ものもち(財産家・富豪) しっかりはやんねぇがちんとはやる。(多く) いいあわいに飯がたけた。(具合) もげる(落ちる)もじゃくる(しわにする)もちゃぺない(粗末) しっぷりかっぷりしねぇで早くいえ。(知る知らぬふり) まっくろちょっけい(真っ黒・甚だ黒いもの)まんぱち(うそ) やれる(しかられる)やませる(やっつける)やっぴし(しばしば) 隣のじゃーぼうに来る人は多い。 (葬式) いじくりこんにゃくしたら食べられねぇ(おもちゃにしたら) やーら(沢)やっかむ(そねむ)やっぱし(やはり)やえんぼー(猿) この煮物ちんとすかれぇぞ。 (辛い) まれっこ(赤ん坊)まっきん(真紅・まっか)まじょー(当然・普通) やりむくられる(叱りとばされる)やっちゃっかない(やりたくない) ― 114 ― そっぺぇ滑りでズボンがまっくろ。 (斜面) そんな所につくばると泥棒と間違えられる。(しゃがむ) じいさまの布団のべといてくれや。 (敷く) 日くれかっくれのせわしなさ。 (日暮れ寸前) 炭がほきるよううちわであおげ。 (ホキル・起きる) 古物にしてはめっけものだ。 (見つけもの) やーはーな玩具を買うからすぐこわれるのだ。(いいかげんな) 名詞 語彙で最も多いのが名詞である。 オダヤ 台所、飯を古くは「おだい」といった。 カミゴト 仕事を休むこと。 キタキ つばのこと。クダケ・クダキともいう。 ヘナッチ 粘土をいう キドコロネ 着のみ着のままで仮寝すること。 ゴテー 亭主のこと。御亭主の略ともいう。 バンジョー 大工のこと。旧鹿島郡でいった。京都に勤番した大工を番 匠といった。 庭に立ってないであがらっせぇ。 (そうしなさい) それではあんまりあの人によがねぇ。 (気の毒) (『鹿島町史』第二巻) 旧牛堀町の方言(潮来市) ヨビテ 一晩中の意。夜一夜(よひとよ)が転じたもの。 代名詞 人代名詞、自称は、老若男女を問わず、オレといい、私のなま りの「ワダシ」「アダシ」もある。 「オンニクレ」も流通してきた。 ほじくる(掘る)とつっあいに(仲裁する)とばくち(入口)とっぱすっ 第二人称 「アナダ」「アンタ」目下には「オメアー」 いんつうふつう(音信がない)はだつ(はじまる)ほいたれる(泣く) ぱ(軽はずみ)おんか(公然)わさぼか(わざと)ぞんき(不親切)ず 第三人称 「アノヒト」「アノシト」「アレ」卑下する場合「アイズ」 指示代名詞 事物を示すものコイズ、ソイズ、アイズ、ドイズ うぺい(やりとりなし)くらあせる(うちただく)てっこにおえない(て こずる)あだける(あれ狂う)ざらすこ(惜しみなく)ひったくねえい(持 場所を示すもの コゴ、ソゴ、アソゴ(アスコ・アッコ)、ドゴという。 方向を示すもの 「コッチ」「ソッチ」 「ドッチ」という。 動詞 「死ぬ」は本来ナ行五段(四段)活用だが、ガ行五段活用になっ ている。死ガナイ、死ギマス、死グ、死グトキ、死ゲバ、死ゲ。 (落ち着かない)かっとまりがない(まとまりがない)いいころかげん(責 ち上がらない)せいる(入れる)すんなべる(すべる)とっぴょこりん 任がない)さっちゃいなし(軽薄)そろっか(静かに)おびしろはたか(と 「来る」はカ行変格活用だが、上一段で活用している。キナイ(キネー) タカーガス 高くございます 形容詞 高くない「タガクネぁー」「たがかねぁー」 この下に「ございます」の訛「ガス」「ゴス」をつける。 クル(ク)、クル、クレ(コー)、コーの上二段、カ行変格になる。 キマス、キル、キル時、キレバ、キロ(コー)が多いが、コ(キ)、キ、 るものもとりあえず)てつまづかい(手品師)いきすかねー(好感がも てない)がんとこねこ(野良猫) ( 『うしぼりの文化財』民俗資料編) 霞ケ浦の方言まとめ 前述した部分と重複するが、参考文献として『綜 合郷土研究』 (下巻)を参考に、霞ケ浦周辺の地域で使われてきた言葉 についてまとめる。 ― 115 ― ハヤーガス 早くございます スズシーガス 涼しくございます マルーガス 円くございます ヒローガス 広くございます トーガス 遠くございます そのほか、例外として、オハヨーガス、アリガトーガスもある。 助動詞 助動詞についても特別な言い方をしている。 ①時の助動詞 過去を示すのに「タ」 「ケ」を使う。 そうだった→ソーダッケ 人が来たが寄らなかった→人ガ来タッケガ寄ラナカッケカ 犬だった→犬ダッケ・犬ダッケー そういう話をしたった→ソータ話ヲシッタケ 明日は雨が降るだろう→明日ハ雨ガフッペー・雨がフンベー ②推量の助動詞 未来を示す助動詞ベー・ペーが推量になる。 向こうに見えるのは川らしいを、川ダッペー・川ダンベー・川ミテー ダなどという。 ③打消の助動詞 「ない」が訛って「ネー」になる。 わからない→ワガンネー 動かれない→イゴガンネー ④受身・可能の助動詞 「レル」 「ラレル」がある。 「排斥される」は「排斥シラレル」という。 ④尊敬の助動詞 敬語の用法は極めて少ない。「居られます」は「オリ マス」ですませている。 ⑤対話の助動詞 「ます」の訛りアス・アンス。「ございます」の訛りゴ ゼーヤス・ゴザンス・ゴザリャンス・ゴンス・ガンス・ゴス・ガス・ゲ ス。「なさいませ」の訛りナンショ・ラッショ・ラッセ・ナハリャンショ が用いられる。 お休みなさい→オヤスミナンショ・オヤスミハリャンシ。 見なさい→ミラッシュ・ミラッセ。 そうでございます→ソーデァース・ソーデゴザンス ソーデガス・ソーデガンス ソーデゴス・ソーデゴンス ソーデゲス・ソーザンス ⑥指定の助動詞「だ」「です」が花デネァー・花ダネァー・花デガス・ 花ダラバなどになる。 起キ(ル)ンデガス、起キ(ル)ンデンス。有(ル)ンデガス、有(ル) ンデァンショ。イイデガス、イイデンショ。 ⑦比況の助動詞 ヨーダが一般的に用いられる。 「見た」は「見たようだ」になるがそれが訛って、ミタイダ・ミテァー ダ・ミッチダ・ミッチョダになる。 花ミテァーニ、キレーダ。 助詞 省略される場合が多い。 ①主語を示すカ・ハが脱落する。 仕方がない→シカターネァ 言ったことは行え→ユッタコターヤレ あの人には出来まい→アノシトニャーデキメァ ②客語を示す「を」を省略する。 これをあげるか→コレーアゲッカ コレバアゲッカ 魚を釣る→サガナーツル ③補語を示す。「ニ」「サ」 「ト」を用いる。 ― 116 ― 東京サ行ク。右サ回ル。車サ乗ル。 病気ンナル。雨ンナッタ。ソコンアル(そこにある)。 ④修飾することを示す。ガの下にくる名詞を省略する。 「私のものだ」をオレガンダ、オレガナダという。 ⑤比較標準を示す。 それはこれよりよい→ソレァーコレヨカイー・ソレァコレヨッカイー。 ⑥動作の起発点を示す。 「から」にデ・ダが続くと「カン」となる。食っ てからでいい→クッテンカンディー ⑦排他的差別を示す。 「には」がニャーと訛ることが多い。 果物だの菓子だの→クダモンダリ菓子ダリ 誰でも彼でも出来る→ダンジィモカンジィモデキル ダンダッテカンダッテデキル ダンジャッテカンジャッテデキル 下駄なり草履なり履け→ゲタデモゾオリデモハケ ⑬逆接既定条件を示す けれど・けれどもは訛ってケント・ケットにな る。 それはそうだけれども→ソレァーソダケント・ソレァーソーダケット。 ⑭仮定条件を示す。「ば」が省略される場合。 教えれば出来よう→オセーレァーデギベー 行けばよいのに→イケァーイーノニ 雨ガヤンダラ(バ)イグ イケァイーノニなどという。 ⑮疑問を示す。「か」がケ・ゲとなる。 あの男には出来まい→アノ男ニャーデキメァー ⑧一事をあげて他を類推する。サイ・サケァー 水さえ飲めない→水サイノメネァー・水サケァーノメエァー ⑧唯一無二を示す。バカシ・バーシ・ベー 上げるか→アゲッケ 見たか→ミタゲ ⑯文の終わりの詠歎・感動を示す。ゼ・ゾ・ド マダ起キテイルカ、ンダガ、大分、ネムソーダナ。 ンダガ・ンダケンド・ソンダガが使われてきた。 ・ソーターニ(そんあに) ・コータニ(こんなに) アータニ(あんなに) 接続詞「だが」が多く使われている。それも訛っている。 イマーニ来ッカラ(後に) 副詞 様々な言葉が使用されている。 キット取ッテミセル(必ず) キット駄目ダッペー(多分) そう思うのですよ→ソーオモーノセー ヒドク 降ッテル(ゼ・ド・ゾ) そうですね→ソーダシー・ソーダネシ この頃は雨ばかり降っている→雨バカシフッテル・雨バッカシフッテ ル。雨バーシフッテル 紙を十枚ばかりくれ→紙をジュウマイベークレ ⑨分量・制限を示す。ダケ・タゲ・ジャゲ これだけやる→コレタゲヤル、コンジャゲヤルとも訛る。 ⑩排他限定を示す。シカ・チカ・チッカ・ツカ・チャガ あの人にはあんなことしか出来るものか アータコトチカ・アータコドチッカ・アータコドチャガ ⑪原因を示す。デハがディとなることが多い。 難しい本では読めない→グデーホンジャーヨメネァ クデーホンデァーヨメネット ⑫並列を示す。 「だの」の訛った「ダリ」を使う。 ― 117 ― 感動詞 アー・アリャー・アレー・アレーレ・ウー・ウエー・ オヤラ・オンヤラ・テー・デァー・ナ・ナー・ナーヤ・ナーヨ ハー。 接頭語 促音、撥音を持つものが多い。 オンダス(出す)オンノメル(埋める)オッキル(切る) オッチャス(壊す)カックラセル(殴る)カッチャグ(裂く) クンノム(呑む)コギタネァー(きたない)コバヤク(早く) ダダッピロイ(広い)チョンギル(切る)ツンダス(出す) トッケァール(換える)トッツカマル(つかまる)ヒンダス(出す) ヒッパダグ(たたく)ブンナグル(なぐる)ブッチャス(壊す) ブッパダグ(叩く)ブッパナス(放す)ヘズマンネァー(つまらない) ヘンムグ(剥ぐ) 接尾語 たくさんの種類がある。 スミッコ(すみ)ハジッコ(端)ネコメ(猫)ンマメ(馬) ノッポー(丈高き人)オドッツァマ・オドッチァン・オドッツァー・ オドッツァン・オドーサン(父) オッカハン・オッカヤン・オッカサン(母)オンバヤマ(伯母) バーサ(祖母) アガッポイ(うす赤い)アラッポイ(荒い)アッコイ(厚い) ことわざと俗信 アマジッコイ(あまい)キットバス(切る)ケットバス(蹴る) ショッパイ(味が濃い)スッパイ(酸い) 第 三 節 柳田國男は『定本柳田國男集』第六集「口承文芸史考」の二七ページ で「元来コトワザという語は言語の技術、即ち言葉の活用の全体を包容 すべきものであった」といっている。しかし、このことわざは教訓的面 が強く、社会生活の一端になっている。 秋の夕焼けは鎌をとげ 秋に夕焼けがみられるときには、その翌日は晴れという意味で、茨城 のことわざである。 暑さ寒さも彼岸まで 六 ・ 度、秋は一九・八度が東京の平均 三月二十一日ごろを過ぎれば、寒い日はなくなり、九月二十三日を過 ぎればそう暑い日がなくなる。ともにしのぎやすくなるということを意 味している。実際の気温は春が七 気温である。 俗信は、日常の生活知識・技術、あるいは日常の生活目標になるもの である。ただし、非合理的心意伝承であるため、迷信的な面も含んでい るが、ことわざとの明確な区別は難しい。この中の大部分のものが、日 常の経験から生まれたものである。 この俗信はいつ訪れるか分からない厄非に対して、ふだんから心構え や準備を怠らないようにとの警鐘である。また、避けられないものに対 する心配を取り払うものでもある。 「禁忌」 「呪い」 「占い」に区分できる。「予兆」は自然、 俗信は「予兆」 天然現象に前兆をもとめ、後に起こるさまざまな事件を予知することで ある。「禁忌」は土地、物、行為、日時、忌み言葉に分かれ、これを犯 すと制裁があるという。「呪い」は病気や災いが起こらないように、あ らかじめ予防しようとする場合と、災難が起きてしまって、それに対応 する場合とがある。「占い」は後に起こる事件を正確に予測するもので ある。 次にあげるのは『風俗画報』に掲載された常陸鹿島の俗信である ― 118 ― 月が笠をかぶると明日は雨だ 三日月の平なる時は米の値下がり堅てる時は昇る 寒のうち雪がたくさん降るとその年は豊年だ 鹿島神宮の藤の花がたくさん開くとその年は豊作だ 桑の椀や桑の箸を用いると中気にならない 霞ヶ浦に対岸の風景がうつると明日は雨。(北浦の民俗) よしきりが高く巣を作ると大水が出る 霞ヶ浦に小光がさすと天気が変わる 節供過ぎの西風は八十日目に大水が出る 朝焼けは天気がくずれ夕焼けはあした天気がよい 天候に関する俗信 天候は農業、漁業、商売すべての生活に重要な問題 であった。そのため、この種の俗信は多い。とくに予兆が目立っている。 燕が軒端に巣を造るとその年は吉事がある 蛇や葬式の夢を見ると吉事がある 東の空に黒い雲が出ると大風が吹く 庚申の料理は三里戻っても馳走になるものだ 夜中に塩を買えば火元になる うどんげの花の出てきた家では、ごくよい事か、ごく悪い事が できる。 便所でつばをすると頭痛持ちになる 便所と勝手元を清掃する者は、きれいな子を生む 霞ヶ浦に対岸の風景がうつると明日は雨 朝茶を飲むと一日の災難を逃れる 朝のうち梅干しを食べると一日のどがかわかない 初物を食べると七五日生き延びる さん日に豆の飯を炊かんと貧乏神が舞い込む (さん日とは朔日、十五日、二十八日) かぼちゃを切る時に手を切ると手が曲がる 行方市古渡や浮島の湖岸地帯は、沖でする漁業が多かったので、天候 は仕事や生命にかかわるため、 事前に予知判断することが重要であった。 それも、先祖たちの長い経験から生まれた生活の知恵である。 寒の入りに油物を食べると寒さに負けない 茶柱が立つといいことがある 夏湖、秋山といって、夏は湖、秋は陸の様子で天候を予測した。 川端に砂が浮くと西風強し(『ちょうちん酒』) 災厄に関する俗信 動物、植物、夢、子供に関するものが多い。その中 湖面にかーなごが上がると天気は変わる(かーなごは蒸気) スナーリがすると天気は変わる(遠く湖からボゴーンと聞こえる音) 三叉沖の鐘が聞こえれば天気は変わる 早朝、東の空に雲の土堤ができなければ天気は悪くなる 湖の水面が高いように見えるときは明日も晴天 朝飯に汁をかけて食べると出世出来ない ほうきでたたかれると三年生きない 飯を食ってすぐ寝ると牛になる 雷の鳴る時年越しの豆を食べると雷が落ちない 青大将に喰いつかれると長者になる 二十三日には旅立するものでない ざるをかぶると身長が低くなる 柿の木を燃やすと凶事が出来る 味噌の味が変わるとその家では凶事が起こる ― 119 ― カラスが鳴くと人が死ぬ でも予兆が目立っている。 る。 しない。貧乏神が来るので、ニンニクとか豆腐とかメカゴを立てたりす る。「音を鳴らすなこと八日」二月八日と十二月八日は音の出る仕事は 正月七日の七草がゆを食べると一年中風邪をひかない 犬が遠吠えすると悪いことがある 夜口笛を吹くと蛇がくる 初午に風呂をたくな。初午は火が早い 冬至に南瓜を食べると中風にならない 朝クモが下りると縁起がよい ネコにイカを食べさせると腰が抜ける 朝サルの話をしてはいけない 五月の節供に竹の笹の露を浴びると病気にならない とろろを食べた茶碗で茶を飲むと中気する 夜ツメを切ると世を詰めるからいけない 蚊よけにはカイブシをする 朝茶は飲むと健康によい 処置法に関する俗信も多い。これも症状によって様々である。足がし びれた時、手の指をなめながら額に三べん唾 つ (ば を ) つ け る と、 治 る ザルを被ると背が伸びない ビワの木を植えると病人が出る 髪の毛を燃やすと気が狂う ミミズに小便をかけると、睾丸がはれる いろいろのものがある。 病気と俗信 病気になることは人生の最大の関心事である。したがって、 そこにさまざまな俗信が生まれた。病因、予防、処置法など、俗信にも 卯の日に餅をつかない 十一月の三夜様を拝むと四万八千日拝んだことに相当する 十月八日の恵比寿様に枡に金を入れて上げると金がたまる 土用の丑の日に鰻を食べると夏負けしない 冬至には腹の砂払いとしてこんにゃくを食べる 死人の上にネコが乗ると死人が歩き出す ウドンゲの花が咲くと縁起が悪い 夜つめを切ると災いがある (どうしても切る時は「夜のツメはネコのツメ」を三回唱える) 日常生活の俗信 日常生活の衣食住にまつわるものが多い。 子供のおしめを夜干すと、その子が夜泣きする 着物のそでを片方だけ縫うと片思いになる 二人で着物を着せるものではない 朝出がけに針を使うと災難に遭う 赤い腰巻をしていると火事に遭わない 足袋をはいて寝ると、親の死目に会えない 家の中で帽子をかぶっていると、頭がはげる 食事をしてすぐ寝ると角が出る 夜、塩を持ち出すと、火元になる 赤飯にお茶をかけて食べると、結婚式に雨が降る 一杯茶は、よくない 朝茶は、その日の難を逃れる 年中行事と俗信 年中行事や、暦の上の特定の日と結びついたものがあ ― 120 ― というのもこれである。子供が怪我をした時は、チチンプイと唱えるこ 正月は七草の日に七草がゆを炊くまでは、青物は使わない は忌む 一鍬まで農具は使わない とが多い。 チチンカンプン、遠くのお山へ、飛んでっちえープーン 着たままで着物の綻びを縫うな ( い ろ い ろ 嫌 疑 を か け ら れ る か ら 止 め る べ き と い う。 も し ど う し て も けられても言い開きます」と三回唱えて縫ったいう) 縫わなければならない時は「着ていて縫うのは祝い重なる、無い難か 血圧の高い人は蓮をすりつぶして飲むとよい 大根とこんにゃくと柚子の風呂に入ると中風にならない ものもらいが出来たら隣家からおにぎりをもらって食べると治る 旅立ちや出掛けには、出針といって針を使うことを嫌ったが、もし 仕方なく縫う時は、月日も時も選ばざりけり」と三回繰り返して唱え 民謡とわらべ歌 妊娠している人に会うとよいことがある た。 妊娠している人が、死んだ人を見るときは、懐に鏡を入れておくと 第四節 妊婦が便所をきれいにすると可愛い赤ん坊が生まれる 妊娠・出産・性の俗信 妊娠・出産は家族や近所にとって重大なことで あり、神秘的なもので、そこにも、種々の俗信がある。 よい 田植歌とか盆踊歌は、生活の中から自然に生れたもので、個人が作っ たというよりは、集団の中から自然に発生したものである。そして、口 承文芸として、口から耳へ伝えられた。 潮来市の俗信 北浦や北利根川に接する水郷地帯であり、洪水や増水に 対する恐れが、生活の知恵として人々の感覚の中に刻まれている。 水辺の葦の幹に小鳥(ヨシキリなど)が巣をかけるが、高いところ ない素朴なものが多い。農村では、仕事を進めるのに集団で行われる場 ここで述べる民謡、わらべ歌は生活上の目的をもって歌われたもので、 広い意味での作業歌である。その歌も村落の生活に密着して、飾り気の 卜占にかかるものでは、病因、吉凶、方位、運勢があり、行者やモ リコ(巫女)に依存していた。家によっては、節分の豆を囲炉裏で焼 合が多かった。そのようなときに、自然に発生したもので、それがいつ にかける時はその年、必ず大水がある。 き、その年の農産物の豊凶を占う方法で、豆がはじけるたときは豊作 の間にか定着し、いつでも歌われるようになった。 禁忌にかかるものは、日常生活の中で結構守られていた。 七日帰りはしない また、子供たちによって歌われる正月の歌、手まり歌、羽根突き歌、 守唄も子守の苦しい立場が歌われたものである。 あった。作業を少しでも和らげる働きをし、能率増進の働きもした。子 昔はことあるごとに作業歌が歌われた。草取り歌、水掛け歌、稲こき 歌、糸引き歌、地曳き網歌、木挽き歌、嫁入り歌などたくさんの種類が とした。 盆の十三日、十六日は、仏様が来たり帰ったりする日なので、外出 正月八日は山に入るのを禁物とした 正月三が日の炊事は男がやった ― 121 ― 高で、実際にはこれより石高が欠け、内情が苦しかった。そこで光圀は、 「潮来出島のマコモの中にアヤメ咲くとはしおらしや」水郷潮来の代 表的なこの民謡は徳川光圀の作という。水戸三十五万石は、表向きの石 年中行事の歌もたくさん伝承されている。 これは田の神に別れを告げる歌である。茨城では、朝昼晩に分けて 歌うことはあまりなかった。 さらばおいとま お田の神 御縁あるなら来年も ささぎ揃えて船に積む 船は何舟 屋形船 船は何舟 屋形船 サアアチョイチョイ 潮来出島の寄れ真菰 とのに刈らせて我ささぐ 潮来出島の 水戸付近から鹿島にかけて広く歌われたのが、潮来を題材 にした田植歌である。 当時公領だった水郷潮来を手に入れようと計画し、この民謡を作り、江 戸の扇屋に手付け金を渡し、 一万本の扇に民謡を刷りこむよう注文した。 ところが、注文主が取りに来ないので、捨て値同様の値段で全国各地に 売りさばいた。 こうして全国に潮来節が広まり、 光圀は潮来を水戸藩領にしたという。 将軍家光から「潮来は公領で水戸藩領でない」といわれたが、祖父家康 から与えられたもので、庶民が歌う歌でさえ、「水府のものとはしおら 船は出て行く 帆かけて走る いくら招いでも 茶の娘は出て招ぐ になるだろう。 停まりやせぬ しい」と煙にまいたという。 近現代になると、 潮来を舞台に民謡や歌謡曲が作られるようになった。 厳密には民俗学の分野でないが、庶民に歌われた曲として保存すること 1 霞ケ浦の民謡 こも」で歌いだし、続く歌には船や船頭に関するものが入っている。 ( 『ふるさとの民話』) 梶は先導 佐才の田植歌(小美玉市・旧小川町)七五調で最初「潮来出島のよれま 此処はどこだよ 船頭さん 此処は神崎森の下 サンバイは 今こそおりやる 宮の方から 宮の方から 田植歌 「風流のはじめや奥の田植歌」これは芭蕉の句である。 田植歌は元来、田の神の信仰にもとづいたものである。 葦毛の駒に 手綱よりかけ 娘たちが、広い田圃に一列に並んで、田植歌を歌いながら何日もかかっ サンバイというのが、田植に迎えられる神である。そして、田植歌は 朝の歌、昼の歌、晩の歌と時間を区切って歌われるものであった。 昼の歌には昼飯運びの娘を待ちこがれる歌であった。朝の暗いうちか らの田植とあって昼近くなるころは、一番疲労するころでもあった。そ て田植をした。 昔の田植は隣り近所はもちろん、親戚までも動員し、植え手も大勢揃 えて賑やかだった。紺がすりの作業衣に手甲・赤だすき・菅笠姿の若い して休憩、また、夕方まで田植を続けた。 ― 122 ― ハアチョイチョイ 潮来出島のよれまこも ハアヤレコラ 殿に刈らせてよれささぐ 後ろから蛙が追って来る お堂の下になすがよい お寺様ではお子が泣く おお バチ叩いて だましゃれ (以下省略) 田ア植えろ(鹿嶋市・旧大野村) ハアチョイチョイ 拾い集めて舟に積む ハアヤレコラ 舟は出て行く帆で走る ハアチョイチョイ 浅い所は棹をさし ハアヤレコラ 深くなるほどろに変わる ハアチョイチョイ ここはどこだよ 船頭さん ハアヤレコラ ここは神崎森の下 植えてしゃれ ( 『ふるさとの民話』) 植えてしゃれ お寺の部屋で(行方市・旧玉造町) アカベベ 新田ア植えろ 田ア植えろ小田植えろ ハアチョイチョイ 森の中には狐すむ ハアヤレコラ 尾のない狐が住むそうだ ハアチョイチョイ そこの狐は白きつね ハアヤレコラ わたしも二三度だまされた いでしゃれ いでしゃれ お寺のおへやで ねんねの鳴き声がするわい 潮来出島のよれ真菰 (『小川町史上巻』) 田植歌(鹿嶋市爪木) 殿にからせて己れささぐ ささげ揃えて船につむ 船は何船屋型船 六つむぎまぎ 七つなんてんばんぼ 四つよしぎり 五ついどまぎ 三つみみずく 一つひよどり 二つふくろうすずめ ななもと ひとはが でもって それめどになれ めでたい めでたい 梶をよくとれ船頭さん 梶をとらなきゃ山にのる 山は何山筑波山 筑波かけごし真壁宿 オー痛や 腰痛や その子どこへなすだんべい 和尚様のお子なれば ― 123 ― 八つやまがら 九こんめ( 『民話のふるさと』 ) 石岡の田植歌(石岡市三村) ハエーソレデハ出マスゾー 五尺手拭中染めて ハアヤレコラー染めもそめたよ (ハア、チョイ) ハイトー鹿の子染め 染めた手拭誰にやる 向こう山の姫にやる わしに呉りよえば 家へ置く 麦搗き歌 庭仕事の一つ、 麦をこいで臼で搗く時労を癒すために歌った。 あねさん起きな(稲敷市・旧東町) あねさん起きなよ 夜が明けた 朝のお膳が 昼になる 伊佐部に新田 さし向かい 中の田んぼが ままならぬ ここが神埼 森の下 梶をよく取れ 船頭さん わしの心と神埼森は ナンジャモンジャで きがもめる(『東町史』) 石岡酒造音頭(石岡市) とろりとろりと今摺るもとは 酒に造りて江戸さ出す 江戸さ出す酒名取りの酒は 国で自慢の常陸米 常陸石岡おらがの町は 今も昔も酒の町 酒は名代の関東灘よ 水は浮名の恋瀬川 府中よいとこ四千軒に 女夫筑波の立ち姿 上り下りの浜街道に 今日も積み出す酒の樽 二万石でも府中の殿は 水戸の御分家播磨様 盆踊り歌 七・七・七・五調の萌芽は室町時代末期の歌にもある程度みら れるが、この形が完成したのは、江戸時代後期という。三味線とともに 広く流行していった形で、都々逸もこの形である。 そろたそろたよ 踊り子がそろた 秋の出穂よりよくそろた 盆がきたのに踊らぬものは 木仏金仏石仏 この形が盆歌の基本の形である。他の作業歌と比べて、遊び歌の性格 が強いが、たんなる遊び歌ではなく、やはり、生活の中から生まれたと いうことは、その歌詞からも伺える。「ああ、盆が来たのに、なすの皮 のぞうせんだ、盆が終えたら何食べる」盆と正月は一番御馳走のある時 なのに、雑炊を食べているという。この雑炊も御馳走のほうである。そ れなのに盆が終わったら何を食べたらよいか、分からないという。「盆 ― 124 ― 筑波山から飛んできた鳥 出島の盆踊り歌(かすみがうら市) 歌われた盆歌である。 が来たのになぜ足袋はかぬ、はけば汚れる踊れば切れる」は鉾田地方で 未はむかれて丸はだか 百や二百で身請けされ 大たな小たなに下ろされて むこうの国へと送られて 出島の飴屋歌(2) アーヨカヨカナ 恋のうわさも高浜入りよ 金もないのにカオカオと もぐちょ見て見ぬ振りをする ひとの恋地を邪魔する奴は 犬にくわれて死んじまい アー竹にナーなりたや 朱竹の竹に 犬に食われて死ねばよい もとは虚無僧のヨー尺八に うらは書生さんのヨ筆の軸 中はナあんまさんのヨー杖となり 飴屋にゃヨー誰がなる そこらにごろつく 道楽野郎のチョイトわしがなる 盆が来たのに踊らぬ奴は 五本の指にチョイトあてがわれ 穴ないところへ穴をあけ の飯台の周りを飾った手作りの小さな 可愛い男に口すわれ 飴屋歌 デンデンアメ屋の後ろから、子供たちがぞろぞろついて歩く。 アメ屋さんの影も、子供たちの影も夕日を浴びて長い。アメを入れた頭 旗が風に揺れていた。アメ屋さんは町 『出島村史』 ) 末は夫婦となるわいなー ( 鹿島八景(鹿嶋市)昔、各地の景色のよい所を選んで、○○八景が作ら から村から、太鼓をたたきながら、手 ぶり足ぶりの芸を披露し歌を歌った。 れた。次の「鹿島八景」は『風俗画報』に掲載されたものである。 向こうに見えるはありゃ何よ 四ツトヤー 世にも名高き根本寺 鶴来岡の暮れの雪 暮れの雪(鶴来岡暮雪) 三ツトヤー 宮下橋は夕日して 廻りまはゆく水車 水車(宮下橋夕照) 一ツトヤー 人も知ったる宮山の 松に嵐の音たかし 音たかし(三笠山晴嵐) 二ツトヤー 冬は二人で見に行かん 出島の飴屋歌(1) わしほど因果な者はない そこでみかんの言うことにゃ あれは紀の国みかん船 とがないわたしを箱に入れ 花ばさみにてはさまれて ようよう色気のついた頃 ― 125 ― くれ う ) つ鐘の音寒し 音寒し(根本寺晩鐘) 晩 ( ( たらし の ) 五ツトヤー 幾世変らぬ御手洗 み (た り ) 淋しき夜半の雨 夜半の雨(御手洗夜雨) 辺 あ 六ツトヤー 昔ながらに照り渡る ( かま の ) 原の秋の月 秋の月(高間原秋月) 高赤 た ( さか の ) 浦は夕晩 ゆ ( うぐれ に ) 七ツトヤー 浪逆 な 帰る帆船は鳥井がし 鳥井かし(浪逆浦帰帆) オヤサ 網ひきによハアアリャサノサッサ 鹿島ばやし(野口雨情作詞・森義八郎作曲) 一、鹿島神宮の宮山つつじ 花は美し赤く咲く 二、幾日たっても御手洗こそは 湧いて流れてつきはせぬ 三、地からはえたか不思議なものは 鹿島神宮は森陰に 五、広い神の池水さえ澄んで 世にも名高い要石 四、浪逆浦から東をみれば 鹿島甚句 鹿島甚句は鹿島地方で昔から歌われてきた甚句である。 一、ハアー私しゃ鹿島の荒浜育ち 空の雲まで影うつす 六、月は夜な夜な砂丘の上を ( つかほ の ) 稲もまた刈らぬ 八ツトヤー 八束穂 や ( とり に ) 雁ぞ落つ 雁ぞ落つ(三田落雁) 三田の畔 ほ アリャサノサッサ オヤサ 気も荒いハアアリャサノサッサ 二、ハアー主と別れて松原いけばよ 筑波山まで夜があける 潮来数え唄(大漁節) 鹿島灘から出て照らす 七、鹿島灘から朝日が昇り 波も荒いが ハアドッコイ ハアリャサノサッサ 松の露やら ハアドッコイ 一ツトセ一ツ二ツと数取りて 二ツトセー吹けば川風ソヨソヨと くぐる加藤洲十二橋コノ十二橋 ハアアリャサノサッサ あやめ渡しの夕涼みコノ夕涼み オヤサ 涙やらよハアアリャサノサッサ 三、ハアーここは常陸よ向いは下総 合いをとりもつ ハアドッコイ 三ツトセー見ませう名勝の稲荷山 四ツトセー頼朝公の御建立 常陸下総一眺めコノ一眺め ハアアリャサノサッサ 関東名刹長勝コノ長勝寺 オヤサ 渡しもりよハアアリャサノサッサ 四、ハアーわしといかぬか鹿島の浜によ ほだて地引きのハアドッコイ ― 126 ― 五ツトセー潮来城址や天王山 浪逆じゃムグチョ鬼ごっこコノ鬼ごっこ 秋の出穂より よくそろうた 宇治の柴船早瀬を渡る わたし 君ゆえ上りつめ 天明年間(一七八一~八八)、寛政年間(一七八九~一八〇〇)には 「 潮 来 節 」 と い う 俗 謡 が 江 戸 を は じ め 日 本 全 国 に 広 ま り、 文 化 年 間 (一八〇四~一七)以後には「吉原いたこ」「深川いたこ」「品川いたこ」 「上方いたこ」などの種々の「いたこ」は地名を離れた流行歌の一般的 呼び名にもなった。 七七七五調を基調として、曲全体が美しく、それに「あやめ踊り」も 加わって、にぎやかなものになっていった。 六ツトセー昔なつかし御成門 烈士茶村の名が残るコノ名が残る 七ツトセーなかなか磯山源兵衛は 神輿に乗ても落ちやせぬコノ落ちやせぬ 八ツトセー八重の山茶花あやめ 色はとりどりあやにしきコノあやにしき 九ツトセーここは名高い園部川 お園は居ぬかいほーいほいコノほーいほい 十トセーとうとう来ました潮来町 この潮来節と同じように歌われたものに、潮来甚句がある。塩釜甚句 が伊達藩の船頭らによって移入されたものという。 ている「潮来音頭」もある。 こ の 潮 来 甚 句 は 騒 ぎ 歌 で、 曲 調 は 割 合 に 平 明 で 、 七 七 七 五 調 の メ ロ ディーにのって親しまれてきた。またほかに「あやめ踊り」の他歌になっ あやめ踊りでは夜が更けたコノ夜が更けた 潮来名所はかずかずの 稲荷の山の景色なりかすみの月ぞ ながむらん 潮来節(潮来市)潮来には仙台藩の穀蔵があって、奥州から江戸に向か 一、そろうたそろうたよ足拍子手拍子 アラ ヨイヨイサー も繁盛した。潮来節は最初、 塩汲み歌か盆踊りだったともいわれている。 う船頭や藩士の中継点であった。そして、京都五条にならぶ遊郭として それが貞享元年(一六八四)遊郭開設とともに、座敷歌になった。 津の宮河岸から帆をかけて 潮来の河岸へと乗り込め乗り込め (音頭)潮来通いの船なれば 秋の出穂よりやれーよくそろうた ヨイヨイヨイヤサー あやめ咲くとはしおらしや 潮来出島のまこもの中で サテ ヨイヤサ ヨイヤサ そろうたよ 二、潮来出島のざんざら真菰 アラ ヨイヨイサー そろうた 踊り子が そろうた ― 127 ― 誰が刈るやら薄くなる アラ ヨイヨイサー (音頭)鹿島香取の神あるならば 入り来る船のにぎやかさ 芸者が三味弾くたいこ打つ 出島にあやめが咲くわいな なくやからすがうかれ来る 潮来出島のまこもの中に あやめ咲くとはしおらしや サーアーよいやさあ よいやさあ 水郷鉾田小唄(鉾田市) ヤレコノセドッコイサノサ ほいさほつれる恋ごころ 川は二筋霞は三筋 ( まべ の ) 釣どころ やんれ山女 や (て の ) つばなと姐さん冠 か (む り ) 土堤 ど 春 チョイチョイダネチョイチョイ 夏 逢わせ給えやいま一度 三、筑波下ろしを片帆にかけて アラ ヨイヨイサー 潮来出島へひとはしり アラヨイヨイヨイサー (音頭)こいにこがれて泣く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身をこがす 潮来(鹿嶋市・旧大野村) 島と名がつきゃどの島も可愛い 一度お出でよ日本のベニス 島はかや屋根 潮来は瓦 なぜかとしまはなお可愛い なぜかあ銚子は貝の屋根 ヤレコノセドッコイサノサ やんれ屋形の涼み船 ( ちわ も ) みな出て招く 虹の団扇 う ほいさ鉾田の蛍狩り チョイチョイダネ 潮来一丁目にきて鳴くカラス 秋 冬 青いシグナル見送る駅に ほいさ帆に帆がすべり込む 浦は夕焼け筑波は小焼け やんれ八束(やつか)の穂が重い 耕土千町黄金の波よ 誰が可愛いやらカアオカアオと ヤレコノセドッコイサノサ チョイチョイダネ 潮来端唄(潮来市・双葉会) 西に富士山 ここは名高き水の里 筑波山 かりとつばめの行き通い ― 128 ― やんれやらずの小夜しぐれ 又の逢瀬も数あるものを (く が ) 啼く ほいさほろほろ木蒐 ず 鹿島名所歌(鹿嶋市) 鹿島名所のかづある中で 離れ離れの七つ井戸 三笠の山には雌鹿と雄鹿 ツツジと桜の色くらべ 御手洗池には要石 末無川にはそなれ松 高間原には碁石に筆草 矢の根石 波の歌 大津絵(潮来市) その中で「花もないのに名は桜川 柳芽張れば魚躍り 水もないのに荒 川沖と 尾花波立つ松原続き 夫婦連れにて 木の子狩り」 「女郎買ふ なら霜枯れ三月 花の三月誰も来る 土浦女郎衆と雲雀の唄は裾でなく よで空でなく」など江戸時代からの民謡も伝えられている。昭和になっ て横瀬夜雨作詞の「土浦小唄」佐賀みつる作詞の「土浦瓢箪踊り」谷井 法童作詞 曲 ・ の「霞ヶ浦帆曳唄」などが作られている。 「あれ見いさい」 あれ見いさい 品行見いさい 小田原名主の中娘 容貌がよいとて 江戸崎庄屋へ貰われた その庄屋で何と何を着せました 綾縮緬金蘭緞子のはや紫の七重衣 年始の御祝儀に 年玉投げ込んで お形模様は梅の折枝 桜の折枝 お形模様は知りません 七重八重かさねて 染めておくれよ紺屋さん 庄屋のことなら染めても張っても上げようけれども お宝お宝と大きな声を上げ 中は五条の戻り橋 その橋渡らんものかと チョキチョキチョキラコンと打ったんだ 一、まず 松竹を締め終り 二、 二日は初夢 姫初め ( ら ) こで 万才がおポポラポンの真っ白 ち 何処で打たれた 鹿島街道の茶屋の姉さんに打たれた 人を知らじな 公魚は 恋のやまひに 芳と蚊帳 さて 船が見えそろ 土浦入りに 風をはらんだ 帆曳の船が 恋知り初めし 十六七の 娘心は 白魚か海老か 「土浦音頭」(作詞野口雨情 作曲弘田龍太郎) 一 船が見えそろ 霞ケ浦の 千艘萬艘の 帆曳船 鳥追いがチャーラチャラ お獅子が 舞い込む トッピコピーの ピーツピヨ 三、背中にゃ 葵の風呂敷 十一日は お蔵を開いて めでたく 祝います 土浦市の民謡 土浦市の民謡は近・現代になってからの新民謡が多い。 ― 129 ― 逢ひたさみたさ 夢見てばかり ねざめ優れぬ 暁かけて 二 十六七は 砂山のつつじ 寝いろとすれば 起さるゝ ソレ 瓢箪たたいて トントナ 粋な サテ 沖の千鳥に便りきく ソレ 瓢箪たたいて トントナ トント ヤレヤレ トント踊れ 五 ハア 月の野風呂に 瓢箪ゆれる 沖の サテ トント ヤレヤレ トント踊れ 四 ハア 土浦港の 港の朝は 手枕近き プロペラの音 れんじあくれば 燕がえし 伸ばすは 翻るは 飛行機の 道を遮る 雲とてもなし 三 松になりたや 有松の松に 藤にまかれて ねとござる 藤にまかれて まかれて藤に 藤にまかれて ねたいといふた 有馬の松は こちゃ知らねども お城の址に 大きな 大きな 榎の木 宿して ぬっと立つ 松を見しやんせ あれ男松 四 男山女山の 雫を受けて 渕となりたる 桜川 月好し 雪好し 棹さしや届く 屋形屋形の あのさんざめき 船はヤハでも 炭薪やつまぬ 春はうれしや 霞とともに 一 土浦堤は 桜の堤 胸の想いを 空に描く 胸の サテ 粋なあの娘を 見てゆれる ソレ 瓢箪たたいて トントナ トント ヤレヤレ トント踊れ 六 ハア 土浦花火は 川面に咲いて 花の サテ 花がはらりと 咲くならば 嘸や 弥生の なあ人心 土浦瓢箪踊り(昭和十年・佐賀みつる詞・佐賀進曲) 花の旅なら みなおいで ソレ 瓢箪たたいて トントナ ソレ 瓢箪たたいて トントナ トント ヤレヤレ トント 踊れ 八 ハア 誰を待つやら 蛇の目が濡れる 粋な三節の 栄町 恋の サテ 恋の重荷を のせてゆく ソレ 瓢箪たたいて トントナ ソレ 瓢箪たたいて トントナ トント ヤレヤレ トント踊れ 七 ハア 潮来通いか 沖ゆく船は トント ヤレヤレ トント踊れ 二 瓢箪踊りで 今宵も更けて 空の星までさえてくる ソレ 瓢箪たたいて トントナ トント ヤレヤレ トント踊れ 三 ハア 水に遊ぶは 白魚か海老か 空じゃ サテ 空じゃ飛行機宙返り ― 130 ― トント ヤレヤレ トント踊れ なんてやったけよ。また「あづいが、温 ぬ (る い ) か、あんぱいみろ なんて、いろいろやったけが、忘れちゃったなー。指なんかつっこんで そんで、「橋の下のおばあさん 小指つっこんで ホーイホーイ」 潮来の歌謡曲 潮来を題材にした歌謡曲も大正十年から、昭和三十年ま でて、三十六曲ある。船頭、花嫁などを題材にしている。 いでーの、あづいの、といろいろやったもんだ。 ここは てっくび てーのひら しらみころしに あーりゃーありゃ せーたかぼうずに いしゃぼうず さげわかしの かんたろう あがりめ さがりめ 船頭小唄(野口雨情詞)は大正十年(一九二一)に作詞され中山晋平 が作曲した。 「俺は河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ 二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」と歌い、全国に広まった。 昭和六年(一九三一)に「あやめ踊」 「女夫船頭」。昭和九年(一九三四) に「利根の舟唄」 「河原すすき」がレコードになっている。 昭和十年(一九三五)に高崎鞠太郎作詞・古関祐而作曲で音丸が歌っ ぐりぐりまわって ねこのめ それがら、二人で手を合わせて、手のひらを、たたきっこするのもやっ 三つ四つ いづつ 五つ六つ七づ おひとつ おふたつ おんめがみ たな。その歌は、 た。 「夢もぬれましょ 汐風夜風 船頭可愛や エー 船頭可愛や 波まくら」が流行した。 「大利根しぐれ」「大利根越えて」(以 昭和十一年には「潮来恋しや」 上伊藤久男歌) 「利根の夜霧」 (松平晃歌)「潮来恋しや」(音丸歌)がレ コードになっている。 七づ八つ九つ こことおやの ヒットした。 夫・昭和三十五年) 「潮来花嫁さん」 (花村菊枝・昭和三十五年)などは 昭和三十年) 「潮来笠」 (橋幸夫・昭和三十五年)「大利根無情」(三波春 なほど、買ってきらっちゃ、いくらぐらいしたか、忘れっちゃった。芯 てんまりは、やりやしたよ。自分で作ってね。てんまり糸ちゅーのが、 いぐ色も、あったから、黄色、赤だの、桃色だのねー、いぐ色もあって はねごに おんめがみ もんざぶろう つりごに 2 子供の遊びとわらべ歌 昭和四十三年五月に玉造町(現・行方市)の大和田はなさんを訪ね、 子供の遊びとわらべ歌を取材した。その時、はなさんは明治十二年生ま には綿を入れて、したがじりにし、そいづを、てーらに、ふっくらと、 (田畑義夫・昭和十四年)、「娘 そのほかでヒットしたのは「大利根月夜」 船頭さん」 (美空ひばり・昭和三十年)、「おんな船頭歌」(三橋美智也・ れの九十歳であった。手遊びについては、次のように言っている。 てついたり、てんまりは、背の高さぐらいまで、上がるよ、そいで、ト まるこくまるめて…。てんまりは、丸めて、立ってて、ついたり、すわっ こさえであってね、それをいくらでも、一さきでも、二さきでも、好き そんで十色ぐらい、あったぺーよなー。あんでな、ひとまとめにして、 こーたことも、あーたことも、昔は、いろいろ、あったな。指をくん で、ここで風呂さ、はいれちゅーわけだ。んでなんだかのこー、 ― 131 ― 三にさがりふじ 四にししっぼたん 一に橘 二にかきつーばた な 二にかきつーばた」って、ぐるっと、回っていって、また、つきづ きした。てんまりの歌は、 ントンついたんだよ。立ってて、庭なんどでつくときは、「一にたちば 一つえ 日頃恋しい初つぁんや 二つえ 二人兄弟お照様 三つえ みたかはえたかはけの花 四つえ よしたのおしたのきりぎりす (四―十二)には、上大津村の中川さだ 昭和十七年発行の「民俗学」 子さんがお手玉歌を伝承している。 大和田さんは、当時、ほかにもいろいろのわらべ歌を伝えてくれたが、 歌唱力はなかったので、ことばだけの伝承であった。 われらにかまうど 日がくれる 五ついわまの千本ざくら 六つむらさきききょうの花よ 七つ南天ぼんぼん 夜づゆに咲かせ 八つ…(忘れちゃった) 八つ八重桜 明日はすみやのおとさがし 五つえ 石川五右衛門かまの中 かまもではらもおそろしや この歌は二〇番まで続いている。 他の子供たちも、遊びに参加したいので、集まって来て小指に触った。「鬼 ①遊びはじめ 遊び始める時には、誰かが中心になって、人を集なけれ ばならない。子供の年長者が、小指を出し、それに触らせたものである。 まーだ、たくさんあったんだ。ハァーわすれっちゃったな。てんまり 歌はいくらでも、あらやしたよ。庭で廻り回り立ってつくものもあるし ごっこするもの、この指さわれ」である。 九つ小梅が ちらちらおちて とうで殿様 葵のごもん 手のひらで、縁側ですわってつく歌に、 小美玉市(旧小川町) かくれんぼするもの、よっといで。 正月門松 二月が初午 三月ひなさん 四月が釈迦で 「たもとくされ、たもとくされ」といって集めるのもある。 ②手まり歌 「ジャンケンポンよ、あいこでしょう」「アンショウケン」で遊びが始まる。 「けんけんやっぺ、けんけんやっぺ」といって、人集めをした。その後、 太郎さん、遊びましょう ここどーしゃら あずまんどーしゃら かたそーとは あんめのおりん かーたに かーけた かーたびら かたびらを 何に流した 桂川へと なーがした やーれとめろ それとーめろ とめだら ごしょへなんだろ ごいしょいらぬ 三五ショーいらぬ ― 132 ― 五月がお節句 六月天王 七月七夕 八月八朔 てんてん手まりさん(行方市・旧玉造町) 夜明けのカラスはカオカオ そんなにお腹が立つならば 銭屋の銭でもあげましょか そんでもお腹が立つならば たんす長持みなあげよ しめてみたらばしなしなと たたんでみたらばふくふくと 納戸の出口に置いたらば 姉御にとられてお腹立ち てんてん手まりさん どちらへござる 潮来の浜町へ帯買いに 帯もよかろが地もよかろ 九月が栗月 十月恵比須講 よばれて参ったら 鯛の吸物 金のお箸で まず一ぱい吸いましょ まず二はいすいましょ さんもよせよせ まず 一ぽん貸しました(鹿嶋市) この歌は一年の行事を歌ったものだが、十月で終わっている。 次のてまり歌は、行方市(旧玉造町)で収録したもので、「小田原名 主の」として、明治ごろまで、県内で歌われたもので、大変、歌詞が 常陸潮来てまり歌 (『民話のふるさと』) 歌い替えが多くて意味が分からない。 長いが子供たちは一生懸命覚えた。古いため、歌詞の転訛がはげしく、 てまり歌(行方市旧玉造町) 八つ 山伏ほーらの貝がだよーり 九つ 子供衆は学校がたよーり 六つ 娘は針箱たより 七つ 菜切包丁俎 さ ( いばん た ) よーり 五つ医者殿薬箱たより 三つ 味噌豆麹がだより 四つ嫁様婿様たより 一つ ひよ鳥青木がだより 二つ 福助飴だより そこどう原 小田原どう原 小田原名主の中娘 色白でサクラ色で 江戸崎庄屋へもらわれた その庄屋は 名代の庄屋で 何と何を着せ申す つぐつんむぎ 金襴緞子に あや紫の 七重八重揃えて 染めた反物こうやさん 紺屋のことなら 染めても はってもあげやすけれども 知りやせん おかた模様は おかた模様は おウメの切れ枝 中は小次郎のそれ橋 それ橋を渡らんものとて、チョラチョキラ あれ見ろや あれ見ろや 十ヲで 徳利盃たよーりこれで一丁ーよ(『風俗画報』) あれ見ろや(潮来市) 打って打たれた うたれたる面目ないとて かつら川へ身を捨てる 身は沈む かつらは浮きる 船でこさえた唐獅子が 三十六匹通るわや 大国さんの 屋根見ろや 小袖はチラチラ流れる サンとんめろ 三助とんめろ 止めたって 御所にはなりやせぬ ごいしょいらぬ われにかまうと 日が暮れる お月はおでやる ― 133 ― 通らばをえて通らせよ 一っちんきんちょ 二里きんちょ さん丁桜 桜のもとで 女郎とひめが 化粧なさる どこへなさる 熊野へなさる 熊野のさかで 袖びっくり引っかれた たれ引っかれた お万に引っかれた お万の母は 糸より細い 細けりゃ埋めろ 柳の下へ石塔たてる 『茨城のわらべ唄集成基礎資料』) かね塔立てて かえして一本な ( 太郎さん(小美玉市・旧小川町) 太郎さん 太郎さん お馬に乗って ハイ ③羽根つき歌 お手玉歌 羽根つき歌は、日本の歳時・年中行事の中で は、特質すべき代表的な遊びであり、かつては子供ばかりではなく、大 人たちまで参加して行われた。松飾りの中で、長いたもとの色とりどり 正月の遊びとして優美で、羽子板も松材のうすい板に絵を描いた子供用 から、桐板のかるい大きな、押し絵のあるものまで、色とりどりである。 お手玉歌としては、「お城んさん」が県内では広く歌われた。とくに 明治から大正、昭和十年ごろまで盛んであった。お手玉は縦横一〇セン チぐらいの布切を使い、最初に底を縫い、あずきやじゅじず玉や小砂利 を入れて、直径五センチほどに袋縫いして入口を閉じてつくる。 遊び方は、呼び名の数ほど多くあるが、大別すると両手または片手で 二個から数個ぐらいのお手玉を上にあげ、交互に受けて手玉に取る「ア ゲダマ」と、五個から七個ほどのお手玉を使って、歌にしたがい、一個 のお手玉を上にあげている間に、残りのお手玉をいろいろな所作を折り 込んでいく「ヨセダマ」の二つにわけられる。 一人来な 一人来な、二人来な、見て来な、寄って来な、いつ来ても、 むつかし、かなこの帯を、やの字にしめて、ここの夜、とお夜で、くるっ とまわって、いっちょうよー。 (稲敷市旧東町) あーれ見ろや(羽根つき歌)潮来市 あーれ見ろや あーれ見ろや 大黒さんの屋根見ろや かーねでこさゑた唐獅子が を競った。誰かが「一人来な」と歌い、つき始めると近所の女の子がそ の晴れ着、ポックリ下駄の若い娘さんたちは、日本髪に結って、その技 の歌を聞いて、羽子板と羽根を持って集まってくる。 熊野の坂で 袖びっくり引っかれた どーこへなさる 熊野へなさる きーん丁桜 桜のもとで 女郎と姫が 化粧をなさる 一っちんぎんちよ 二里ぎんちょ 三十六匹通るわや 通ればをへて(かまわずの方言)通らせよ 一人で遊ぶ場合は「ひとりつき」あるいは、「揚げ羽根」「揚げ羽子」、 二人またはそれ以上で遊ぶ場合は「追い羽根」という。歌は「ひとりつ き」の場合、いくつついたか、数をとるために歌われた。 羽根がよく回るように、羽根の根元をひねり、温かい息を吹きかけて、 手入れしたり、はさみで形よく羽根を切ったりして、自分でつきよいよ うに作るのが、 また、 楽しみの一つである。単純な遊びだが、伝承も古く、 ― 134 ― だーん(誰)に引っかれた お万に引っかれた お万の母は 糸より細い 細けりゃ埋めろ おちんりんこ おちりんこ おちりんこ おちりんこ。 おきり おきり おきり。 こはば おおはば おおはば こはば。 あんこつけ あんこつけ 一に橘 二にかきつばた 三に桜 四に獅子ぼたん 五ツい山の千本桜 六ツ紫ききょうの花よ 七ツ南天 八ツ八重桜 九ツ小梅の花ちらちらさせて 十で殿様ご年始回り 何で回るかおかごで回る 七つ南天木 八つ八重桜 九つ小梅に木 十でとうがらし 正月や(お手玉歌・小美玉市下吉影) 一つがーらがら 二つ福寿草 三つ蜜柑の木 四つよろずの木 五つえんげんの木 六つむくれんじ 柳の下へ 石塔立てて かね塔立てて かへして一本な( 『風俗画報』 ) 一にたちばな(羽根突き歌・小美玉市・旧小川町) (『小川町史』上) おさらり(お手玉歌・小美玉市下吉影) あんこつけ あんこつけ。(以下省略) 一つがーらがら(お手玉歌・小美玉市下吉影) おひとつ おひとつ 一番はじめは一の宮 二また日光中禅寺 三また佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺 おくぐり おくぐり おろして おさらり。 一番はじめは(お手玉歌・稲敷市旧東町) おさらり お手玉おろして おさらり。 お手のせ お手のせ おろして おさらり。 おお 山越えろ おお山越えろ おろして おさらり。 三月や 梅の花よりおひなさま 飾って見事な内裏様 おさらり(行方市・旧麻生町) 明日は彼岸のお中日 正月や障子あければ漫才が 鼓の音やら歌の声 二月や 二月参りは墓参り おひとつ おひとつ おさらり。 おふた おふた おさらり。 おみっつおとして おひとつ おのこり おさらり。 ちょっと おとして おさらり。 おさらり おさらり おさらり おさらり。 おてのせ おてのせ おてのせ おてのせ おろして おさらり。 おつかみ おつかみ おつかみ おつかみ おすずならして おさなり。 おはさみ おはさみ おはさみ おはさみ おすずならして おさらり ― 135 ― 五つ出雲の大社 六つ村々鎮守様 七つ成田のお不動様 八つ八幡の八幡宮 九つ高野の弘法さん 十で東京二重橋 十一波子の墓参り 十二は二宮金次郎 十三桜の吉野宮 十四は飛行機空高く 十五は御殿の八重桜 十六六六六地蔵 十七質屋のお嬢さん 十八箱根の白ウサギ 十九は楠木正成よ 二十は東京招魂社 ④縄とび歌 子供たちにとって、 「なわ」は遊び道具の一つで、縄とび は手ごろな「遊び」である。縄とびには一人とびと、三人以上で遊ぶも のとがある。一人とびは、縄を前から回してとぶ方法と腕をアヤに組ん でとぶもの、一回とぶ間に二回早回しするものがある。三人以上の縄と びには、一段、二段と順次に縄を高くしていく「段とび」と、縄を「大 なみ小なみ」のようにゆり動かして、 その上をとぶのがある。これを「波 とび」または「へびとび」と呼んでいる。縄とび歌はこれらの遊びのと きに歌われるもので、一人とびに歌はない。 この歌の場合、二人が長縄を持って回しているところへ、一人が入っ てとんでおり、 「おはいんなさい、花子さん」で、もう一人が入り、ジャ ンケンをして負けた者が縄を出る。そして、また次の者が入って同様に して遊ぶ。途中で失敗した者は、縄持ちを交代する。この形式の縄とび 歌は、いろいろの種類がある。 ソレ ぐるりと回して 大なみ小なみ(潮来市) 大なみ小なみ バッタンショ 郵便屋さん(行方市旧北浦町) 郵便屋さん 落し物 拾ってあげましょう 一枚二枚 三枚四枚 五枚六枚 七枚八枚 九枚十枚 ありがとうまたおいで ほうら青山の(行方市旧北浦町) ほーらほら 一はっさい 青山のえんど豆の 二はっさい さんすけどん 三はっさい お姫様 三はっさい お殿様 一おにげ二おいで けらども 三おいで めし使い 番頭さん 女中さん 子供たち 一羽のカラス カアカア 二羽のニワトリ コケコッコ 三は 魚が おどりだす 四は 白髪の お殿様 五は 御殿の おとのさま 六は ロッパの はげ頭 七は 七五のかわいい人 八は 浜辺の 白ウサギ 九は 黒んぼ インド人 十は 東京博覧会 それ 一ぬけろ 二ぬけろ 三ぬけろ…十ぬけろ この「ほうら青山」の歌を歌いながら縄を回して、一人ずつ三人が入っ ― 136 ― 青山のでこちゃんが(潮来市延方) てとび、 そのあと最初に入った人から順にぬけていく。(『北浦町の民俗』) てなければならない。当たらないと、鬼はまた続けることになる。当て 正面だあれ」と歌った時、みんなはとまり、鬼は真後ろの子の名前を当 がみ、皆は「かごめかごめ」を歌いながら鬼を中心に廻る。 「うしろの 何だこのかかん坊主 くそ坊主 かごめかごめ (行方市旧北浦町) かごめ かごめ かごの中の 鳥は いついつ 出やる お前が来ると 邪魔になる 邪魔でもいいから つれてって られたら、鬼を交代してゲームを続ける。 青山の でこちゃんが おっ経 読んでいらっしゃる じゃがいも じゃがいも さつまいも 一はっさい 二はっさい 三はっさい 一抜けろ 二抜けろ 三抜けろ 四抜けろ 五抜けろ( 『茨城のわらべ歌』) 「はっさい」は「はいんなさい」の転訛、はじめに二人が縄にはいっ てとんでいるところへ「一はっさい…」で順次ほかの者がはいり、次に 「一抜けろ…」で一人ずつ縄を抜けていく。 うしろの正面 だあーれ 鶴と亀と すべった 夜明けの 晩に つまいも」に変化しているのが面白い。 うしろの正面だあれ 「お経を読んでいらっしゃる」から「ジャカボコ。ジャカボコ。ナン マイダ」などと歌う例があるが、それが「じゃがいも、じゃがいも、さ 見渡すかぎり(潮来市延方) 目隠しの鬼が円陣の真中にうずくまる。円陣を作った子供たちは、こ の歌を歌いながら、鬼のまわりをぐるぐる回る。歌が終わった時、鬼は 自分の後に立っている人の名前をいい当て、当てると鬼は目隠しをとっ 見渡すかぎり はるばると 海原うつむは 漁業船 て、その子供をつかまえる。 じょうりき じょんま にじょんま じょんま じょうりきじょんま(潮来市延方) 縄とび歌としては珍しい歌であるが、唱歌「漁業の歌」が原曲である。 しかし、歌詞の転訛が著しい。 一にあのいのかいがや 手を打って 外に波を動かす なみしろがいの 『茨城のわらべ歌』) はなここちよや いさましや( ⑤鬼遊び歌 鬼遊びは子供たちにとって、一番楽しかった。なんの道具 もいらず、集まるのにも簡単であった。「かごめかもめ」の遊びは、円 さんたけ よたけで ながいっちょ つんぬいだのは だれだっぺ なやまっこう かついでドンドコショ 陣を作り、 そして、 一人が鬼になる。鬼は円陣の中でめかくしをしてしゃ ― 137 ― かみさまの いうとおり じょうろきじょんま(鹿嶋市) じょうろき じょんま にじょんま じょんま さんたけ よたけに ながいっちょ お前が来るとじゃまになる かんかん坊主 くそ坊主 うしろの正面 だーれ ⑥外遊び歌 二組によって遊ばれる「子もらい遊び」の歌である。二組 が横一列になり、手をつないで向かい合い、ジャンケンに勝った組が、 この歌を歌いながら、三歩前進してピョンと片足をあげる。もう一方の 組はそれにつれて後退する。次に負けた組が同様に前進して、双方がも かついできて 見て よとことせ 鬼になった子は、目かくしをし、その間にみんなは、自分の履物の片 方を、その辺の適当な所にかくす。鬼はみんなの履物を探すが、鬼がか 花いちもんめ(子取り遊び) た者がもらわれていく。 らいたい子を指名する。指名された二人は、中央の線を引いてある所へ くした場所へ近づくと、 みんなは、「近寄った近寄った」「遠よった遠よっ ふるさともとめて 花一もんめ つんぬけたのは どれなっぺな 水神様の まっこう た」とはやす。鬼は、全部の履物を見つけるまで探すが、はじめに見つ 通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ この子がほしい この子じゃわからん 相談しましょ ○○さんがほしい 勝ってうれしい 花一もんめ 通りゃんせ(稲敷市旧東町)くぐり遊び、全国的な歌である。 おかまかぶって ちょっと来ておくれ おかまそこぬけ 行かれない あの子がほしい あの子じゃわからん おふとんかぶって ちょっと来ておくれ おふとんびりびり 行かれない 出て、手をにぎり合って引っ張りっこをするか、ジャンケンをして負け けられた履物の主が、次の鬼になる。 となりのおばさん ちょっと来ておくれ 鬼がいるから 行かれない 坊さん坊さん(稲敷市旧東町)みんなで輪になって手をつなぎ中央に目 をつぶってしゃがんでいる鬼を囲み、 ぐるぐる回って後方の人を当てる。 坊さん坊さん どこ行くの 私は田んぼへ 稲刈りに そんなら私も 連れしゃんせ お前が来ると 邪魔になる 邪魔じゃけんで ホーホケキョ 後ろの正面だあれ 坊さん坊さん(小美玉市・旧小川町) 坊さん坊さん どこ行くの 私はたんぼへ 稲刈りに そんなら 私もつれていきな ― 138 ― 天神様の細道じゃ ちょっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ ⑦手遊び歌 隣の花子さんが(指遊び・行方市上宿・旧玉造町) 隣の花子さんが 柿の種を まきました 芽が出て ふくらんで ずいずいずっころばし(指遊びの歌・稲敷市・旧東町) ずいずいずっころばし ごまみそずい 茶壷に追われて トッピンシャン 抜けたら ドンドコショ 俵のねずみが米食ってチュウ チュウチュウチュウ お父さんが呼んでも お母さんが呼んでも 行きっこなしよ 井戸の回りで お茶碗かいたのだあれ ⑧自然の歌 次の歌は、どんな遊びにも歌われそうだが、ここでは、 自然の歌に分類してみた。( 『風俗画報』) 雨こんこん降ってこう 蓑と笠よばれ (月を見て) 御月様いくつ 十三七つ まだとしや若いね (雨の降り来りし時) あがり目 さがり目 花が咲いて ジャンケンポン 上がり目下がり目(顔遊び・鹿嶋市・旧大野村) くるっと回って ねこの目 丸山土手から(手合わせ・鉾田市鉾田) 蝶ちょう 蝶ちょう 菜のはにとまれ 菜のはがあいたら (猿を見た時) 猿けつまっかんだー 牛蒡焼いておっつけろ (蝶を捕えた時) 兎うさぎ なに見てはねる 月見てはねる 烏勘左衛門 お宿はどこだ (兎を見て) (雁の空中に過ぐる時) 雁がん やさぶ郎 帯になって見せろ たすきになって見せろ (烏を見て) セッセッセ 丸山土手から 東を見ればね 見ればね 門のとびらに おさよさんと かいてね かいてね セッセッセの手合わせ遊びは、女の子に昔から人気があった。二人以 上の女の子が向き合ったり、また円陣になって隣の子と、歌に合わせ、 リズミカルに手合わせを楽しんだ。歌の終わりにジャンケンをして勝負 を決めることもある。 ― 139 ― 大寒小寒山から小僧がとんできた 何といって飛んできた 襷になって見せろう 後ろの女郎捨てていけぇ カラス とんぼー かいれん かいれん とんぼー かいれん かいれん (日中蜻蛉を捕る時) とんぼ とろろ 石の家が焼けたら そこいらとまれ (馬の□□□立てたる時) 馬め馬め 米一升だすから 腹太鼓ぶって見ろ (田螺 た ( にし に )) 寒いといって飛んできた。 雪やコンコン 雪コンコン 桜にとまれ (夕方蜻蛉を捕える時、蜻蛉を呼ぶ時) 田つぼーたんかい 法螺の貝 西風吹くとは ぼーんぼん (冬暖かき所にぬくとまり居る時、その影になった子に向かって) お寺の枯木さいっぱい積もる ほたる来い(鉾田市鉾田) へ入れ、電気を消して、飛ばすのが楽しみの一つであった。 ちわでほたるを落とし、虫かごに入れて、家へもってかえり、かやの中 ほたるの歌は、県内どこでも同じように歌われてきた。虫かごをさげ て、うちわを持って、ゆかたを着て、子供たちが、田のあぜをいく。う こっちの水は甘いぞ ほうほう ほたる来い ほうほう ほたる来い そっちの水は苦いぞ 昼間は草葉の蔭にいて 夜は提燈高のぼり ほうほう ほたる来い ほたるが父様金持ちで 足洗ってどこへ行く 三国 四国詣へ カラス カラスの勘三郎 おらさ影になったら 笠夏季子供 かささかつくるまって 水ふき子供 (冬極く寒き時) 大寒い 小寒い 小三郎のよめが すべって ころんで 赤いふんどしつんだした ⑨動物 植物の歌 れんげの歌(鹿嶋市・旧大野村) ひーらいた ひーらいた なーんの花が ひーらいた れんげの花がひーらいた ひらいたと思ったら いつの間あにか つうぼんだあ がん(鹿嶋市・旧大野村) がん雁やっから雁 帯になって見せろう ― 140 ― むぐちょむぐちょ 足洗って 何処へ行く お寺の山へ(潮来市延方) からす 勘三郎 からす(鉾田市鉾田) 笹葉のような とと(魚)食べる (『玉里村史』) 七草なつな(鉾田市鉾田) 油のような酒 飲んで こっぱのような 餅食って 日本の鳥が 渡らぬ先に 七草なつな 唐土の鳥と 七草なつな(鹿嶋市鹿島) えごとであったものが、歌われるようになった。 七草なつな 唐土の鳥が 渡らぬ先に ストトンストトン 正月の七日には、七草がゆを食べる風習がある。その七草を刻む時に 歌うのがこの歌で、おまじない的な所がある。もともとはお母さんの唱 むぐちょ むぐちょ むぐちょの頭さ 火がくっついた むぐっても むぐっても まだ消えんね 水郷潮来の川にいる「かいつぶり」を歌ったもの。方言でムグチョと いう。頭が少し赤く、火のようなので、それを消そうとして、水の中に 時々もぐる。 恵みを受けるのである。 ものであった。 わーほい 正月十四日の晩は、子供たちにとっても、楽しいひとときで ある。とくに、この晩に行われる「ワーホイ」(鳥追い)は特に楽しい とんとん ばさばさ お正月(鹿嶋市・旧大野村) ワーホイ(鉾田市鉾田) ⑩歳時歌 正月の神はお正月さんとか、歳神様とか歳徳神とか言われて いる。家の中に注連縄を張って、神様の場所を作る。そして、神様のお 正月つっあ いいもんだ 今夜はどこの鳥追いじゃ 塩俵へへし入れて ワーホーイの鳥のぼう 頭を打って塩つけて ワーホーイ ワーホーイ 鎌倉殿の鳥追いじゃ さあらへ追って 助け申そう 今夜はどこの 木っ葉の様な 餅食べて 笹葉の様な トト食べて 油の様な 酒呑んで 正月つっあ いいもんだ お正月(小美玉市・旧玉里村) お正月っちゃ いいもんだ 赤いはなおの かっこ(下駄)はいて 雪のようなまま(飯)食べて ― 141 ― 佐渡が島に席なくば 向かいへおっ越せ 一に俵をひん巻いて 二いにニッコリ笑うて 三に酒をつくろうて 四つで世の中よい様に 五つで泉が湧くように 六つで無病息災で 嫁もうけておめでたい、おおめでたい、おおめでたい」と歌い、初孫の 九つ小倉をぶっ建てて 八つ屋敷をたいらめて 七つ何事ない様に 生まれた家に行っては「初孫をもうけておめでたい」とはやしことば入 十で殿様納めた 梅干の歌(鹿嶋市・旧大野村) 黒鳥 猪のしし 鹿のしし おひ鹿のしし 踏歌爆竹 ワーホーイ ワーホーイ 旧鉾田町では、村はずれに小屋を建て、餅をもちより、雑煮を作って 食べ、正月の飾り物を集めて燃やした。花嫁をもらった家に行き、「花 れて楽しくした。 旦那さんの 鳥追いな 今夜は どこの 鳥追いな 塩につかって辛くなり 紫蘇に染まって赤くなり 近所の町へと持ち出され 何斗何升はかり売り 二月三月花ざかり 鶯鳴かせた春の日も 今は遠い夢でした 五月六月実がなれば 枝から振るい落とされて 鳥追い(潮来市) 鳥追って 火付けて 鳥追いな 鳥追いな むかえさ 追っ越せ 去年買ったの どうしたの しらみが たかって 川流し(『玉里村史』 ) とうちゃん かあちゃん盆が来た 茜 あ ( かね の ) ふんどし 買っとくれ 運動会にもついてゆく ましてや戦さのその時は、 なくてはならぬこの私 盆が来た(旧玉里村) しわはよっても若い気で、小さい子供の仲間入り 七月八月暑い頃 三日三晩の土用干し 思えばつらいことばかり これも世の為人の為、 黒がらす 亥の子唄(潮来市) お亥の子だ お亥の子だ 今夜は どこの お亥の子だ 旦那様の お亥の子だ 銭も金も儲かるように サーン ヨーイ ポッタリショ 恵比寿様(鹿嶋市・旧大野村) 恵比寿様と言う人は ― 142 ― 即興的に、あとからあとから、歌が生まれてくる。 手の悪口を言って、けんかの種を作って、遊ぶこともする。こんな時、 ⑪ことば遊びの歌 子供たちにとっては、仲良くすることも、けんかを することも、悪口を言い合うことも、みんな遊びである。何もしない相 歌詞もある。それだけ子守は大変なものであったことが推測できる。 「ね 口にいっても、いろいろのものがある。子守歌の中には、かなり乱暴な 自身で歌うものではなく、子供に向かって歌うものである。子守歌と一 口から口へ伝えられてきたもので、子守歌はわらべ歌といっても、子供 遊びや生活と密着して、自然発生的に、あるものは、長い風雪に耐えて、 どれにしようかな(旧大野村) いに、帯は七丈値は八十、 三文たかくお買いやれ。(『弄鳩秘抄』 ) ヤーイ山見ろ〈寝させ歌〉 (行方市・旧玉造町) を述懐することによって、自らを慰めようとするものである。 ようとするもの、その三は子供の睡眠とは関係なく、子守自身の労働苦 んとするもの、その二は反対に泣く子を威嚇することによって、黙らせ 子守歌は内容からみると、三つの系統がある。その一つは、やがて来 るべき楽しい期待を懐かせることによって、安らかに眠りの世界に誘わ んねんや、ぱんぱこや、おどめが守はどこへ行った、鹿島の船渡へ帯買 どれにしょうかな 神様のいうとおり かっちゃんかんこくだま(からかい歌・潮来市延方) かっちゃん かんこくだま かさばさ かねじ かっても かっても かいぎんねェ ゆきえ ゆんこくだま ゆきばさ ゆねじ ゆっても ゆっても ゆいぎんねェ(「茨城のわらべ歌」) ヤーイ山見ろ 筑波見ろ 三十三匹 飛んできた 筑波の方から 唐獅子が る。そして、「ちちんかんぷん」とか「ちちんぷいぷい」と呪文を唱える。 ちちんかんぷん 子供たちが遊んでいて、すべって転んで、すり傷をつ くったりすると、友だちが集まってきて、その傷の所に手のひらを当て このおまじないで、痛さはどこかへ飛んで行ってしまう。 ねんねん ねろねろ 月の夜に ねんねしな ちちんかんぷん おわびらんけんそわか(稲敷市月出里・旧江戸崎町) がそれである。 雁が三十三匹 飛んできた ちちらんかんぷん(行方市行戸・旧北浦町) ちちらんかんぷん かへいがまじない ねんねん ねろねろ 月の夜に ねんねしな この歌は県内に広く歌われている。筑波を歌ったところにその特色が ヤーイ山見ろ 筑波見ろ 筑波の方から 月の夜に あびらわんけんそわか なおった なおった ⑫子守歌 子守歌はわらべ歌の一種とみられる。わらべ歌は子供たちの ― 143 ― ある。眠らせようと幼児に「ヤーイ」と呼びかけ、唐獅子がやってくる とおどしている内容である。 ○ヤーイ山見ろ 筑波見ろ 筑波の方から唐獅子が 三十三匹飛んでき た ね ん ね ん ね ん ね し な( 鹿 島 郡 ) ○ ね ん ね し な さ い ね ん ね し な あの山見ろ筑波見ろ 筑波の山から唐獅子が 三匹つながっておりて くる 先のお獅子は物いわず 中のお獅子は目が見えず あとのお獅子 は耳がない ぐるっと回って駆け上がる ねんねしなさい ねんねしな (行方市・旧玉造町羽生) 旧小川町の子守歌(小美玉市) ねんねんころり(基本歌) ねんねんころりよおころりよ 坊やはよい子だねんねしな 坊やのお守りはどこへ行った あの山越えて里へ行った 里の土産に何もらった ( ょう の )笛 でんでん太鼓に笙 し 守は楽なようで(替え歌) もりは楽なようでこわいもんでがす 背中でがきゃ泣く めしゃ焦げる 師走八日(鹿嶋市・旧大野村) 守というは楽なようでこわいもの 雨の降る日に宿はなし 人の軒端に立ちあかし あがれあがれと言われても この子が泣くのであがれない だまって上がるのが守りの役 師走八日が来たならば 旦那様さらばと暇乞い かみさんさらばと眼に涙 友だちさらばと泣き別れ 子守歌(鉾田市・旧旭村) ねんねんよい子だ ねんねしな ぼうやのお守りはどこに行った あの山みやげに何もらった なるかならぬかふえてみろ 子守歌(鉾田市) 鹿島参りに里越えて 鹿島の土産に何買うた かんか金箱千両箱 千両で求めた小脇差 小脇差ささせて宮参り 守りほど因果なものはない 雨が降って(替え歌) デンデン太鼓に鉦の笛 ふいてたたいて遊ばせる 雨風吹いても宿はなし 他の軒場に立ち寄れば 犬に吠えられ子にゃ泣かれ 雨が降ってきたよ 庭のまきゃぬれる ― 144 ― 坊やよい子だ ねんねんしな やーい山の中の一軒家でも おかかほしほしおかかほし おかか貰うて何にする 洗濯させたりままたかせ 夜はほかほか抱かえて寝る 坊やはよい子だねんねしな 子守奉公人の歌(鉾田市) いやだいやだよ他人はいやだ 一にいじめられ 二に憎まれた 三にしゃべられ 四に叱られて 五にごっこまで背負つっけられて 六にろくなものかせられないで 七にしめしまで洗わせられて 八に張っ飛ばされ 九つここらで逃げましょう 十でとうとう一年つとまった ― 145 ― 第2章 霞ヶ浦の民俗芸能 茨城県の各地の生活の中には、風流物・神楽・獅子舞・祭囃子・田楽 など様々なすぐれた芸能が伝承されている。こうした芸能は生活の中か ら生まれ、それを育て伝承してきた人びとの心意や感覚が深くこびりつ いている。人びとはこの芸能を反芻することによって、郷土の伝統を守 ろうと努力を続けてきたのである。 霞ケ浦湖畔の芸能を中心にまとめるが、芸能は各地の影響を受け伝承 されてきたものである。その芸能の発祥地では消滅し、他の地域で生き 残っているものもある。鹿島踊りは、静岡県、神奈川県で現在も行われ ている。 鹿 島 は 弥 勒 踊 り を 三 四 か 所 で 伝 承 し て い る が、 維 持 す る の が 困 難 に なっている。この弥勒踊りを棒人形にしたのが、水戸の旧常澄村とひた ちなか市の那珂湊の弥勒人形である。 あんば囃子は稲敷郡の大杉神社から伝わったので、あんば様として親 しまれてきた。 第一節 祭 礼 馬場 大宮神社 霞ケ浦 五月五日 湖畔で神事 浜 素鵞神社 霞ケ浦 六月十三日 中絶 手賀 八坂神社 霞ケ浦 七月二十二~二十三日 荒宿 八坂神社 霞ケ浦 現在七月 北浦町山田 大枡神社 北浦 七月 漂着神 麻生町五町田 八坂神社 霞ケ浦 七月 橋門 八坂神社 霞ケ浦 七月 麻生 八坂神社 霞ケ浦 七月 馬出し祭り 潮来市潮来 素鵞熊野神社 前川 八月七日 漂着神 鹿嶋市宮中 鹿島神宮 常陸利根川 九月 御船祭 霞ケ浦町柏崎 素鵞神社 霞ケ浦 七月十一~十二日 竹切祇園 加茂 八坂神社 霞ケ浦 七月 戸崎 八坂神社 霞ケ浦 七月 有河 八坂神社 霞ケ浦 七月 西成井 八坂神社 オミタラシ 七月 大和田 八坂神社 オミタラシ 七月二十六日 深谷 八坂神社 清水池 七月 藤切祇園 桜川村古渡 須賀神社 霞ケ浦 七月二十二日 漂着神 東町阿波崎 須賀神社 新利根川 七月 泥打祇園 小川町小川 素鵞神社 薗部川 七月二十一日 (『茨城の民俗文化』藤田稔著) 鹿島神宮には年間九〇の祭りが伝承されている。御船祭や祭頭祭が特に 祭りは祭礼、神事という言葉で表現され、何らかの芸能的要素を持っ ている。ここでは、芸能を伴った祭礼を中心に述べることにする。 あげて祭神にしたという故事から、浜降り神事が行われている。それに 有名である。本誌では鹿島神宮の祭礼としてまとめた。 とくに、霞ケ浦流域では、祇園祭が盛んである。天王さんともいい夏 の一大イベントである。祭神の天王様が霞ケ浦に流れつき、それを拾い は、神輿と山車、屋台が出社する。 祇園祭 祇園祭は本来、神仏習合の祭りで、牛頭天王(ごづてんのう)を含め、 1 浜降りする神社一覧(霞ケ浦周辺)旧市町村名 玉造町 羽生 橘郷造神社 霞ケ浦 六月十三~十六日 ― 146 ― ている。しかし、疫病除けという目的から、境内に小祠として祀られて そのため、八坂神社、素鵞神社、須賀神社、天王社という社の例祭になっ 遷され、寛政三年(一七九一)から、疫病退散のための大祭が行われる 浦八坂樹陰神社として祀った。現在地には応永十八年(一四一五)、に 土浦市内の祇園祭は真鍋村の八坂神社の祭りである。この祭神が霞ケ 浦で漁師によって引き揚げられ、沿岸の天王松の下に社殿を建て、霞ケ 素盞鳴命(すさのおのみこと)を祭神とする神社で行われる祭である。 いる場合もあり、それを祇園として祭りをする場合もある。また、これ ようになったと『墨僊漫筆之稿』にある。 持ち、榊持ち、大鉾、四神持ち、金幣、賽銭箱持ち、神職、神輿、台持 らの社を持たない神社では、夏祭りとか、モライ祇園などということも 京都の八坂神社と八坂の祇園寺はもともと、別の性格をもっていたが、 一緒になって、祇園会が行われるようになった。鉾の飾り物や山車は現 ち、神職、供奉人、山車と続く盛大な祭りであった。 ある。 在でも全国から多くの観光客を集め、一方では、この山車が全国に伝播 かつては、浜降りともいわれ、神輿の渡御は氏子総代を先頭に、金棒 引き、社旗持ち、獅子、猿田彦、太鼓、鉾旗持ち、榊持ち、大鉾、鉾旗 していって、盛んに祇園祭が行われるようになった。 われていたが、桜川の改修によって中止された。 この祭りを伝える資料として、文化九年(一八一一)の『土浦祭礼之 図』『土浦の祇園絵』がある。浜降りは昭和三十年(一九五五)まで行 華やかな行事によって、騒ぎ立てて、疫病を追い払うという考えから、 神輿の渡御、屋台・山車が考え出された。それにつれてお囃子など、芸 能面での発達にもつながったわけである。かつての祇園祭は旧暦で行わ 土 浦 市 の 祇 園 霞 ケ 浦 に 流 れ つ い た 牛 頭 天 王 を 拾 い あ げ て 祀 っ た。 神 輿 渡 御 を し、 御 船 祭 り と い う 形 が 多 い。 田 村 町 の 八 坂 神 社 は 天 正 年 間 異なっている所が多い。 たり、それに休日を考え、七月の第二日曜にするとか、本来の期日とは 台を出す。グループ分けは次のようになっている。 あり、その他を含むと十三町村が参加していた。 現在は十九町が参加 し、それを四グループに分け、四年に一度、当番として、山車や獅子屋 田宿そろえ、裏町・田中そろえ、世話人、最後は大手そろえ、世話人と 町山車、田町と横町の大名行列、川口そろえ、中城山車、吹流緒そろえ、 『土浦祭礼之図』によると祭礼は七日間で、この中には旧虫掛村のそ ろえを先頭に、牛頭天王像、神輿行列、東崎町世話人、本町そろえ、仲 (一五七三~九二)に疫病が流行、津島の牛頭天王を勧請した。ほかに れていたが、暦の改正により、新暦になったが、昔のままの旧暦があっ 八坂神社は上高津、菅谷町、手野、粕毛にあり、昔は旧の六月十一日か ら十五日であったが、 現在は七月二十三日から二十五日が普通になった。 町から人形山車(日本武尊)が出社した。なお、非番の町内でも、七月 因みに平成十九年は、④のグループが当番で、城北町から人形山車(聖 徳太子)、東崎町から獅子屋台、川口町から人形山車(神武天皇)、大和 ①桜町一丁目、二丁目、三丁目、四丁目 ②千束町、文京町、生田町、 田中一丁目、二丁目、三丁目 ③大町、大手町、中央一丁目、中央二丁 目、立田町 ④城北町、東崎町、川口町、大和町 また、中貫には鹿島八坂神社がある。木田余町の鹿島神社は素盞鳴命を 配祀して祭りを行い、白鳥町の香取神社では、境内社の祭りとして祇園 祭を行う。東崎の祇園は水神宮の祭りと同じに行い、昔は浜おちといっ て、神輿が霞ケ浦に降りたが、現在は祇園祭のみになった。 ― 147 ― 地内に来ると権利が出来て、当番を務めることになる。 宿の八坂神社は二〇軒の人たちで順に当番を務める。当番は住んでい る土地に権利があり、他の地に移ると当番は出来なくなる。他からその 減少し、現在は舟津、宿の二区のみになった。 手賀の祇園 昭和初期まで、舟津・宿・竹・塙・新宿・横須賀の六区で 各一台宛の山車を出し囃子も賑やかであったが、第二次世界大戦中より 行方市(旧玉造町)の祇園 旧玉造町には、八坂神社が三社あり、それ ぞれ、神輿、山車を出社して祇園祭を行っている。 る。 二十三日は送祇園で、天王様が御仮屋から真鍋の本社へ戻り祭りが終わ 屋へ神輿が渡る。二十二日が本祇園で、市内を神輿や山車、屋台が歩く。 二十日が笠揃いで、各町内で演じる。二十一日が迎祇園で川口町の御仮 ケ浦にお浜降りし、還御のとき、竹で遮る行事がある。 谷、大和田、牛渡の八坂神社は七月二十五・六日頃が祇園である。柏崎 かすみがうら市(旧出島村)の祇園 加茂の八坂神社は、旧暦から新暦 に移行、七月二十七日、霞ケ浦に神輿渡御があり、お浜降りという。深 着くと、霞ケ浦の水を神官が神輿にふりかけてミソギ祓いをする。 五月五日にお浜降りの行列が、ほら貝を吹きながら進み、霞ケ浦湖岸に は神社に戻る。 詞をあげて清め、西浦のほとりへハマオリをする。水には入らず、浜の して神輿、オオボク(大鉾)と続く。午後一時から集落の境に行き、祝 浜の祇園(旧玉造町)素鵞神社は旧暦六月十二日が宵祇園で、榊を先に 芸能』) の素鵞神社は七月十一・二日で、竹切祇園といい有名である。神輿が霞 馬場の大宮神社(旧玉造町)祭神は八坂系でないが、祭りは祇園系で、 端から端までを清め、御仮屋に入る。十二、十三日とここに泊まり神輿 神輿は八坂神社と旧村社現原神社と二基出御し、祭りの間御仮屋にあ る。神輿の当番は手賀八区が交代で務め、四年に一回当番が回る。この 囲が極端に限られ不自由した。舟津へ行く時、囃子方は、田の上にいて 今は宿の「両宿馬鹿囃子」と舟津の「浜町祇園囃子」の二つになった。 約七〇年前まで、宿の山車は特別に大きく、道路は屈曲して狭く行動範 相手もこちらの代表囃子を奏して答えるのを例とした。 昔、五台の山車が出た頃は、各区とも代表的囃子をもち、区内巡行の 時、出会った際には、相手の囃子を演じて敬意を表した。それに対して 崎の民俗・霞ヶ浦町の祇園祭礼』 『安食の民俗』) 家政学院筑波女子大学民俗ゼミナール発刊『田伏の民俗』 『坂の民俗』 『柏 両社とも神輿が出ていた。戸崎の八坂神社は七月十八日が祭りで、霞ケ 社の祭礼、安食の大宮神社は素鵞が七月十九日、八坂が旧六月十七日で、 地域の神輿は、担いで区内を回るだけで、神輿はもまない。 囃したと伝えられている。今の山車は小さく道路も拡張されたのでどこ 藤切祇園 深谷の八坂神社の祭礼は七月二十五・六日で、宵祇園に藤切 が行われる。この地区は上郷、中妻木、上原、幕戸、田中、堤、毘沙門 西成井の八坂神社は七月二十一日でオミタラシに渡御する。これをお 浜降りという。境内社をもつ加茂の加茂神社は、七月三十一日が八坂神 へでも行けるようになった。 下当は山から太い藤つるを探してくることと、大魚を作る準備をするこ 堂からなっており、交代で当番にあたる。この当番は上当と下当があり、 浦に浜降りする。ここでは、何か社か取り上げてみた。(参考文献東京 昔は山車の並び方、道順も決まっており、祭りは厳しかった。また、 他地区の者が山車に触れることさえも許されなかった。(『茨城県の民俗 ― 148 ― 刀を研ぐ。 とである。上当は山車を組み立て、長 宮神社の八坂神社の祭りを祇園として祭る。 事をする。オハマオリが終わると、来た道とは違う道を太宮神社の神輿 詞をあげ、お祓いをし、その後、霞ケ浦の水をヒヤクで三回かける真似 の者とつづく。神池で神輿の祓いが行 持った天狗、藤切り大夫、神輿、御供 る。翌十二日午後還御の際、数十名の氏子の若者が神馬の進むのを青竹 祭りである。十一日に神輿渡御、お浜降りの儀があり、御仮屋へ一泊す 竹切り祇園 柏崎の素鵞神社で七月十一・十二日に行われる例祭を竹切 り祇園といって、産土の神がこの地に鎮座して疫病除けのために始めた 社に運ぶ。昔は境内にお仮屋があったが、今は作らない。高津賀では太 当日午後三時になると、神社から二 キ ロ 離 れ た 神 池 へ 神 輿 の 渡 御 が あ る。 われる。この時、土産の青葉に包んだ を組み交えて阻止する。神馬はいななきながら立ち上がり、青竹を持つ こ の 時 の 行 列 は 大 柄 杓 持 ち、 長 刀 を 魚を天狗の長刀にかけて持参する。 このような状態を十数回繰り返し、神社が近くなる頃、人も馬も疲れ てきて最高潮に達すると、青竹を持った青年が境内に青竹を林立させて 青年は約二メートル後退する。 つるをぐるぐる回して神輿の行列をさ 潰走する。それを見て、鉢巻をした若者二名が襷十字に女性のしごき十 その帰途、神輿が藤切坂にかかった 時、下当の青年二人が、土手の上で藤 えぎる。山車はお囃子を続け、上当の藤切り大夫がたすきをかけ、勇ま と寸断する。 数本を肩に掛けて躍り出て、日本刀の鞘をはらって、 林立する青竹を次々 木で作った大魚を鉈で切り、やっと、神輿がそこを通ることが出来る。 しく長刀で四苦八若しながら藤を切る。これが終わると、坂の上にある この祭りの意義は、多くの困難を乗り越えて、幸福になることを暗示し この竹切りの間に神輿は本殿に還御する。竹切りの若者は神前にぬか づき、抜刀のまま、左右両方より本殿を三周し、刀を鞘に収めて神前に たもので、五穀豊穣、疾病退散、村内安全を願うものである。 時間半で祭りは終わる。祇園祭の二日目は、当番地区の引継ぎ式が午後 の一日目は、午前十一時から準備が始まり、オハマオリだけをして、一 事が疫病のみならず、婦人病除けにもなるという。 る大傘には、女性の帯を石畳状に結んで、二本ばかり下げるが、この神 切られた竹は疫病除けとして、奪い合って持ち帰る。また、竹切りを すれば健康と心願が成就すると伝えられている。なお、神輿にお供えす 神事の終了を報告する。 一時から行われる。オハマオリは、太鼓―天狗―ヒヤク―神輿―榊の順 田 伏 の 祇 園 太 宮 神 社 の 境 内 に あ る 素 鵞 神 社 の 祭 り で、 昔 は 七 月 十九・二十日に行っていたが、現在は七月最後の土日になった。祇園祭 に太宮神社を出発、オハマオリの場所へ向かう。神輿は静かに進む。 谷に神輿がオハマオリをして、公民館の所に設けた御仮屋に一泊して、 宍倉の祇園 旧宍倉村字天王では、馬場の鹿島神社の境内社八坂神社の 祭 を す る。 か つ て は、 七 月 二 十 四 日 が 宵 祇 園 で、 霞 ケ 浦 に 接 し た 三 ツ オハマオリは、小津にあるテンノウガシ(キジョウ)で行われる。注 連縄が張ってある場所に神輿を置く台を置き、ミソギをする。宮司が祝 ― 149 ― 神輿が続く。公民館に入る時は、三回右回りに回って、公民館の中の安 帽子を着け、猿田彦を先頭に、長刀、矛、柄杓(ひしゃく)、大傘の後、 当屋になると禁忌がある。当屋は鯉とイサザを一年間食べない。当番 組 は 一 か 月 食 べ ら れ な い お き て が あ る。 神 輿 の 行 列 は、 白 の 上 衣 に 烏 翌年のシタドウ二軒の合計四軒で行う。 現在は七月二十五日の朝、馬場の鹿島神社を出発して、神輿を公民館 の中へ祀って、その日の夜、鹿島神社へ戻る。祭は今年のトウヤ二軒と 二十五日、鹿島神社に戻っていた。 かはらい」という。 七月十二日が還御祭(宵祇園) 、十三日が例大祭(本祇園)で、十四日を「た 八千代台の祇園 八千代台は昭和の初期に生まれた集落で、八坂神社は、 昭和二十八年七月十二日に建立された新しい神社である。 これに因んで、 の衿に幣束をつける。ここでは、当屋渡しが厳粛に行われている。 神酒を振舞う。その後、全員で拍手を打った後、神主は新しい当屋二人 てから進む。神輿が神社に到着して神事を行う。午後七時からは、当屋 戸崎の祇園 祭は七月二十九日、三十日で、二十九日が宵祇園で、夕方 六持から始まる。神輿を中心に行列をつくり、霞ケ浦にハマオリし、御 が本殿建築の材料、敷地などを寄進し、多くの者が発起人となって、建 在所などが、ここに置かれた。しかし、神社がないことから川島運平氏 わたしがある。神主は現在の当屋(二人) 、 次 の 当 屋( 二 人 ) の 順 で 御 置する台に置かれる。台には数十本のマコモが敷かれている。 八千代台は、旧出島村の中央にあり、昭和二年四月、川島運平氏によっ て、私立昭和文農学校が創立、役場、小中学校、農協、登記所及び、駐 仮屋に一泊する。 例大祭(本祇園)は午後七時から九時にかけて行われる。この祭には 西成井の煙火ばやしが各家を回わる。獅子舞を演じ、神社へ戻る。囃子は、 立された神社である。 総代、当屋が行列である。 バ・きつね・ひょっとこ・おかめが主流である。太鼓は小さいのがつけ、 ハマオリに出発する。提燈二人、天狗、 宵祇園は神社で神事を行った後、 幣束、賽銭箱、獅子、長刀、神輿四人、神輿台二人、柄杓、区長、氏子 囃子の屋台や村の人も蓮畑の前の道路までついて来る。 行列の後には、 神輿はウワドウ(昨年の当屋)二人、シタドウ(来年の当屋)二人の四 大きい太鼓が大胴で笛のリズムは、西成井から習ったもので、八千代台 大切り・中切り・小切りの三切りからなり、囃子の種類は中抜き・アン 人によってかつぎ、その当屋はかつがない。 ギが終わると花火があがり、 神輿は御仮屋へ向かう。仮屋で神事があり、 れる。これがミソギである。水は霞ケ浦の沖の方から汲んでくる。ミソ 後、神主によってバケツに入れられた霞ケ浦の水が、柄杓で数回かけら 屋では、一昼夜、寝ずに御神体を守る。 待、神社の清掃などを行う。祭礼の行列では猿田彦命の役を演じ、御仮 くる。公民館に当屋を置く。当屋の主人は、主催者となって、酒宴の接 西成井の祇園 西成井は上宿(六三戸) 、下宿(八九戸)、横町(二四戸) の三地区からなっている。当屋は一地区交代なので、三年に一度回って の囃子は西成井のひょっとこが源流という。 神輿はここに一泊する。 現在の祭りは、七月二十一日を含む週の土日に行っている。初日は宵 ハマオリ(神輿のみそぎ)は霞ケ浦に近い蓮畑の近くで行われる。神 輿は神輿台に置かれる。霞ケ浦に到着すると、神主が祝詞をあげ、その 三十日は本祇園である。午後六時に仮屋を出発、右回りで三回半回っ ― 150 ― 花火である。からかさ万灯と煙火ばやしがメイン花火である。からかさ 翌日午後四時に、神輿に神酒をかけて出発、所々で山車が神楽を舞う。 九時前に神社へ到着、神体を戻す。山車は公民館前で神楽を舞う。次は かける水を浴びると無病息災だという。 行列がオカリヤ到着目前の所で、オカリヤの後ろにある泉から柄杓で 水を汲んで来て、神輿に三回かける。これがオハマオリで、この神輿に 彦の面には、寛永二年(一七四九)の銘がある。 杓持ち、お膳持ち、お神酒持ち、賽銭箱、獅子、山車大勢と続く。猿田 担ぐ人四人、矛持ち四人、神輿八人、宮司、唐傘、氏子、総代二人、柄 祇園でオハマオリがある。行列の順番は猿田彦、ツチダワラ(土俵)を キチャキ祇園という。 回る。この時、大太鼓がたたかれ、 火打ち石が打たれる。その音からチャ き、畑の用水から汲んだ水を、神主が掛ける。七月二十八日は本祇園で、 ハマオリは午後三時ごろである。昔は蓮田まで霞ケ浦がきていたが、 現在はその前で止まり、かつぎ手は神輿を七回まわす。神輿をそこへ置 子総代・区長、太鼓である。 神社で神事の後、午後二時ごろ、神輿の行列が出発する。神輿は六人 で担ぐ。行列の順序は、天狗、提燈、露払い、天王様、神輿、神主、氏 後を当屋、氏子総代、区長の三人が続く。 神輿が御仮屋から戻る。神社に戻った後、神輿は七回半右回りに拝殿を 万灯は、大小のからかさに火薬をとりつける。山車の前の部分に綱火を その後、トウ渡しになる。神主が祝詞をあげ、氏子総代が立会い、行 われる。神主から来年の当屋へ、半紙が渡され、それを口にくわえた来 つけて獅子舞を行ったので、煙火ばやしの名になったといわれている。 を掛ける程度になった。 に行って、湖水で身を清めた。現在は、朝夕の二回みそぎ場へ行き、水 できた紐(まがたま)を首に掛け、草鞋をはき、青竹を持ち、みそぎ場 と祭までの一週間、一日に朝昼晩の三回、白地の着物、白い鉢巻、麻で 座船に乗せて湖上を七周半する。祭りには山車が囃子連中を乗せて地区 行方市(旧麻生町)の祇園 麻生天王崎の八坂神社では、七月最終の土・ 日曜日、馬出し祭がある。五町田の八坂神社は、水上の守護神も兼ね、 いて使う。 神輿をかついだ人たちは、拝殿と鳥居近くの井戸の間を七度半往復し 水を掛け清めてきたが、現在、井戸は使用出来ないので、水は汲んでお 年の当屋に、御神体が渡される。 当屋のトウジメは七月二十日で、家の床の間がある八畳の部屋にカヤ を作る。カヤは四本の竹を部屋に立て、四面を竹の格子で囲い、一面に 内を歩く。 加茂崎浜の祇園 崎浜にある八坂神社の祭礼は川尻、松本、御殿、田宿、 崎浜、平川の六地区で祭礼を行う。当番は六年に一度回る。当屋になる 出入り口を設ける。このカヤの中に女性は入れない。床の間には神様や 七月二十七日が宵祇園である。朝七時に当屋に区長、総代などが集ま り当屋がみんなに酒をすすめる。八時過ぎに神社へ行く。この時、当屋 けをする。白浜の祇園は六月二十三日で、 饅頭祇園という。神輿を担ぎ、 社は素盞鳴命が配祀されていて、旧六月二十三日に神楽があり、疫病除 七月の第四土・日曜日に祭りを行う。宵祇園のお浜降りでは、神輿を御 供え物が置かれる。カヤは二十九日の朝、崩される。 橋門の八坂神社は、七月の最後の金・土曜日に二台の神輿がお浜降り と称してお仮屋に入る。ここでは、下座連の囃子がある。石神の熊野神 の両隣りのサキバライと呼ばれる二人が、竹をもち、先頭に立つ。その ― 151 ― 翌年の六月十四日に、領内二四か村の 家が近江国から麻生へ国替えになった が歌われる。 て、終わりになる。この馬出しが行われている間、太鼓に合わせて神歌 われる。神輿は少しずつ前進し、馬場の端まできて、「押し切った」といっ 馬をとめる。これが上手に出来れば一人前である。この突進が何度も行 馬を制する人は、一方の手でくつわを握り、もう一方の手でたてがみ をつかみ、宙に浮いたかっこうで馬と一緒に走る。そして、神輿の前で 各戸を回る。お札を村境に立てる。各家で饅頭を作ったので、この名が 役人を招集し、天下太平・五穀豊穣の 馬出し祭り(行方市天王崎)馬出し祭は、寛文七年(一六六七)に新荘 祭礼名になった。 祈願をしたのがはじまりという。最初 さかきばの(ドンドン) さかきばの(ドンドン) もみあう。終わって、乗馬の稚児、宮 装束の若衆にかつがれ、水中に入って オハマクダリの行事を行う。神輿は白 槍・大榊・獅子で、神輿は湖畔にきて 輿が渡御する。行列は、旗持ち・剣・ 稲穂もそよと秋は来にけり 早苗取りしが いつの間だ 昨日まで 昨日まで 神の御前にしげりこずゆき(ドンドン) いつも変わらぬ色なれや(ドンドン) の日はオハマクダリで、御仮屋まで神 司、神輿、旗、神馬は、列をつくって 祭が終わると、昔は地区内を一軒一軒回り、家々では火打石で切火を し祝儀を渡していた。神馬の挨拶回りが終わると、神輿は本社に還幸す その時の馬の装束はかなり立派なもので、胴縄をまいた上に縄上げ(二 山田の祇園(行方市旧北浦町) 山田の川岸の田に昔、神輿が流れ着いた。 疫病が流行し、それを祀ったことから、祇園祭が始まった。祭は神輿が る。 組み回りをする。 色の反物)を巻き、さらに赤・黄・青・紫 白の五色の吹流しをつける。 ・ 鞍は三枚のふとんを重ねてつくる。また、しりがい、 ・尾毛飾りもつける。 漂着田で又もみ、稲穂二本をとり、河中で魚二匹をとって帰る。 日は還御である。 神輿の渡御の時、各町内から出された一〇数台の山車が参加する。こ 八月七日に天王川岸に作られた仮殿への神輿渡御、八日は町内巡幸、九 潮来の祇園 素鵞熊野神社は、通称天王様といい、文治四年(一一八五) 牛頭天王として創建した。毎年八月七~九日の三日間が祇園祭である。 まず、社から出て、社前の疫病神のお仮屋を打ちこわし、宿通りをもみ、 馬を引く人々の装束は、紺の腹掛け、襦袢を着、それに赤・黄・青の 幅広いたすきを背中にたらす。さらに手甲、脚絆に白足袋で、草鞋をは く。一頭の馬にくつわをとるもの二人、後綱を引くもの一人の合計三人 である。 本祇園は、午後、太鼓を合図に、村の人々が馬場に集まってくる。馬 場は直線で二〇〇メートル、馬は太鼓の音と見物の声援に驚き、神輿に 向かって馬場を突っ走る。 ― 152 ― 町に保存会がある。 の山車にはお囃子連中が参加、潮来・江寺・三町目・四町目・東部・西 が出たので、昭和五十九年に彫物がされた高欄などを使って復元した。 時代初期以前に作られ、しかも、彫物がすぐれたものである。 園祭礼には一四台の山車が繰り出されるが、県指定になったのは、明治 日本武尊(上壱丁目)文政三年(一八二〇)に製作されたという。傷み この潮来囃子の起源はかなり古く、田楽・神楽囃子から分かれたとい う伝承がある。それも潮来全体ではなく、一地区の囃子で、神前に奉納 し、町中を練り歩くことはなかった。 治五年に完成した。東京の彫刻師石川信光の作で宮大工が作製した。正 額には「豊饒 松園書」と書かれていた。県指定文化財。 福俵白鼠(下壱丁目)材料はケヤキ、明治元年(一八六八)から始め明 元禄年間(一六八八~一七0四)になって、素鵞神社と熊野神社が現 在の天王山に遷宮された。そして、山車もその頃から町中を練り歩くよ 面に高砂、猿田彦命の彫物がある。また、「豊楽己卯仲」 (ほうらくつち て県指定文化財になっている。なお「兆民徳澤を蒙 万古威霊仰」 (ちょ うみんとくたくばんこいれいをあおぐ)の幟は市指定文化財になってい のとちゅう)の額がある。また、祇園祭に立てる唐獅子の彫刻があわせ うになり潮来囃子も参加した。 楽器は、摺鉦(すりがね) ・大太鼓・小太鼓・小鼓・笛などが使われ、 一つの山車に芸座連(囃子方)一四・五人乗り、その山車を若衆や子供 たちが参加して町内を引く。 天の岩戸(四丁目)明治五年(一八七二)から製造を始め、明治八年 る。 潮来囃子は賑やかな囃子で 「さんぎり」「馬鹿囃子」「花さんば」「いそべ」 「矢車」 「松飾」 「あんば囃子」 「吉野」などが演じられる。これは、利根 (一八七五)に完成した。製作者は下一丁目と同じである。昭和六十年 に山車人形の天照大神・猿田彦命・手力男命・天鈿女命と岩戸を滑車で 川の対岸に伝わる佐原囃子や江戸囃子を取り入れ、現在まで伝承されて きた。この曲目から、あんば信仰との関係の深いことも分かる。 上下が出来るようにした。県指定文化財である。 佐原囃子などに一脈のつな 敷市・旧東町)、鹿島囃子、 豊作祈願の神事である。以前は旧暦の六月十四日だったが、新暦の六月 でろかけ天王(稲敷市阿波崎・旧東町)須賀神社の祭りで、悪病退散と 山車人形 神功皇后御頭(浜壱丁目)明治二十年、人形職人鼠屋こと福 田萬吉によって製作された。(潮来市指定文化財) 山車人形 源三位頼政鵺(ぬえ)退治(五丁目)人形職人鼠屋五平の作 という。極めて精巧に出来ている。 (潮来市指定文化財) がりがあり、この地方の特 十四日が基準の日である。デロ(泥)やモグ(川藻)を、巡幸中神輿や た。潮来囃子は、東囃子(稲 色を表わしている。(『ふる 人に掛かって汚れるが、それらがつくことは、大変縁起がよいという。 参拝者の行列に向けて投げつける。その泥や川藻が神輿や参列者や見物 潮来祇園祭礼山車は県や市の文化財に指定されている。祇 さとの祭りと観光』) になり、一層、賑やかになっ 「潮来節」 「潮来数え歌」「船頭小唄」なども曲目 大正以後になると、 の中に取り入れられるよう 潮来の山車 ― 153 ― 集落内の辻々で子供や女性が踊る時には、「大杉あんば」「大漁節」「枯 れすすき」などの端物を演じ、お神酒料が出て、口上があり、次に砂切 らし」 「くずし」 「矢車」などの段物を演ずる。 には「砂切」 「馬鹿囃子」 「花三番」の役物を演じ、その後は、「吾妻」「さ 重な段物があり、場面の展開に応じて使いわけている。山車の引き出し である。七月の祇園祭に演ずる。お囃子には端物[はもの]・役物と荘 伊佐部の下座(稲敷市・旧東町)下座とは、お囃子を奏でる人の呼び名 の日、青年たちは神輿を担ぎ出す。この神輿が葬儀用の棺台である。寺 毎年、七月十五日、立原地区では、農作業を休み、赤飯を炊き、青年 たちはお寺に集まって祭をする。天王様ではなく観音様の祭である。こ である。 田圃の中に延宝六年(一六七八)建立の観音像があり、これに因んだ祭 原基衡の妻の命日を含めて、日本三大泣き祇園と言われていた。立原の ている。かつては、静岡県朝羽町の八幡神社、岩手県平泉の毛越寺の藤 この時、「たたきわかれ」といって、山車が威勢よくぶつかることが 行われていたが、中止になっている。 泣き祇園(鹿嶋市立原)旧大野村で北浦よりの集落である。今は中断し る。これが祭のクライマックスである。 になる。なお、伊佐部の下座連は、地元の祇園だけでなく、佐原市や潮 に集まった青年たちは、まず、酒を飲んだり、うどんを食べたりして神 汚れた神輿は川の中に浮かべて、洗い清めていたが、現在は耕地が整 理され、神輿を清める川がなくなり、川のあった場所に持って行き、準 来市や旧江戸崎町の祇園にも頼まれて、そこの山車にのり、さらにフナ 輿担ぎの準備をする。 備しておいた水で神輿を洗い清めるだけになった。(『茨城の神事』) ヤサン(舟遊山)といって、新利根川の中神から幸田橋にかけて、舟に 神輿の行列は葬儀そのままの姿である。棺台を担ぎ、供養の旗を立て 鉦、太鼓の囃子に合わせ、進んで行く。これらの楽器を奏する人たちは、 寺から立原の観音像までの行列はとても有名で、近郷近在から多くの 見物人が来たという。 祭近くなると集まって練習をしていた。 乗って囃したこともあった。 ( 『東町史』) 江戸崎の祇園囃子 天正年間 (一五七三~九一)に天王様を川からすくっ たことに始まり、一〇町内が交代で当番となり、獅子舞、神輿(三八〇 キロ)と八台の回り山車が出る。芸座連が鉦、笛、鼓、太鼓で演奏する。 二〇曲の祇園囃子にのって町内を巡幸し、中央十字路で技を競う。祭は 六〇人を必要とする。二十七日には、二頭の獅子が加わる。一頭を二五 車 が 出 る。 山 車 は 年 に よ っ て 参 加 数 が 異 な る。 一 台 の 山 車 を 曳 く の に 当番は十年に一度回ってくる。二〇人ほどが祭装束に身をかため、神 輿を「ワッショイ、ワッショイ」揉む姿は壮観である。二十六日には山 この祭の起源は、昔、底なし水田に馬がはまりこみ、それを誰も助け ることが出来ず、多くの人々の見守る中で、死んでしまった。その哀れ ほうが、御利益があるという。 を言い続ける。そして、最後に泣きまねをする。なるべく、芝居じみた 七月二十五日から二十七日である。 人であやつるが、五分ぐらいしかもたない。この大きな獅子も人気があ な有様をいつまでも忘れられず、 泣き祇園が行われるようになった。(「郷 「だれだれが死んじゃっ 行列に参加した人々は、口の中で経文を唱え、 たよう」という。それに何か悲しい口調で続けて、はっきりしないこと る。二十七日、夜十時近くなると、町の中央に山車すべてが集合して来 ― 154 ― 祭頭祭 古くは四月、江戸時代には旧二月十五日、明治から毎年三月九 日に行われるようになった。言い伝えでは、防人が徴集された際、鹿島 土の芸能」朝日新聞連載) 鉾 神 社 夏 祭( 鉾 田 市 御 城 ) 鉾 神 社 は 永 正 年 間( 一 五 〇 四 ~ 二 一 )、 鉾 神宮に集まり、武運長久と旅の安全を祈ったという。これが鹿島立ちで、 現在の祭頭祭の始まりと伝えられている。 渡御がある。この神輿は、大正四年(一九一五)、夏祭りに東京深川よ 右方大頭という。両方から出た大総督(五歳~七歳)がこの祭の花形で この神事は、鹿島神宮の氏子六六字(あざ)を南部と北部に分けて、 神卜によって、南北の各一地区が当番に指名される。それを左方大頭、 又、農耕に関する祭りで、祭りに使う大宝竹の尖端に稲穂が飾られた (現在は榊)ことから、五穀豊穣の意味もあると言われる。 り購入、旭橋下流川岸場の喜平船が運んできたという。 た地区は、一年後の祭頭祭まで、村内安全のため、神宮へ日参する。ま ・ 田 城 主 初 代 鹿 島 則 幹 が 城 ノ 内 に 勧 請 し 後、 現 在 地 に 遷 さ れ た。 祭 神 は、 大 己 貴 命、 武 甕 槌 命、 日 本 武 尊 で、 夏 の 祭 礼 が 八 月 二 十 六 二十七・二十八日の三日間行われる。 神輿は鉾神社を出発、毎年、最初に旭町に渡る。神輿は各町内を一巡 して当番町の御仮屋に入る。その夜は、一般の参詣を受け、翌日は当番 た、それと同時に行列囃子の練習をする。 祭りには七軒町、横町、横向、本町、旭町、新町、古宿、桜本町が参 加する。この町内の順番制で、当番町には、御仮屋が建てられ、神輿の 町内をもみ、本殿に戻る。 祭頭祭の当日の人数は、地区の大小によって異なるが、各地区一五〇 人から三〇〇人である。役員は陣笠、羽織、袴の出で立ち、囃子は子供 山車は毎年、五・六台ほど出され、着飾った子供たちにより、盛大に 練り歩き、二十八日夜は、四つ角に全部の山車が集まり、囃子の競演が は、 「鉾神社の御祭神は船でおいでになったから」とある。 歩く。この行列が見事である。赤ん坊を背負った母親は、子供が無事育 や太鼓に合わせて、六尺棒を組んでは解き、組んでは解き、町中を練り から青年まで、あざやかな衣装をつける。たすきの、鉢巻も原色のあざ ある。氏子の各地区は二十年、 三十年に一度当番にあたる。当番にあたっ 旭町へ最初に神輿が渡御するのは、北浦湖頭に一番近い町内だからで ある。昭和十年までは、蒸気船の発着場のあった所である。言い伝えで ある。 中が最高に賑わう。 ヤレソラ御社楽目出度いイヤーホエ イヤーホエ若者そうたよトホヨトヤ イヤートホヨトヤア 鹿島神宮祭頭歌 イヤーホエ鹿島の豊竹トホヨトヤ つことを願って、カシ棒を持って参加する。三月九日はこの祭頭祭で町 やかなものである。そして、手には六尺のカシ棒を持つ。囃子やホラ貝 この祭りには各町内から、囃子に合わせて山車が出る。七軒町は建甕 槌命、橋向が日本武尊、本町が素盞鳴尊、旭町が安徳天皇、新町が天照 大御神、古宿が木華開耶姫、桜本町は源九郎義経で、年により、出し物 は異なる。 2 鹿島神宮の祭礼 鹿島神宮には、 年間九〇数回の祭典の記録がある。 御占祭(みうらさい) 、踏歌祭(とうかさい)、黒酒白酒祭(くろきしろ きさい) 、日月祭(じつげつさい)などは失われている。 ― 155 ― イヤートホヨトヤア ヤレソラ太鼓に合せてイヤーホエ イヤーホエ宮山参りはトホヨトヤ イヤートホヨトヤア ヤレソラ氏子の喜びイヤーホエ イヤーホエ田作り人等はトホヨトヤ イヤートホヨトヤア ヤレソラ御国の礎イヤーホエ イヤーホエ大御代豊にトホヨトヤ イヤートホヨトヤア ヤレソラ五穀は豊穣だイヤーホエ イヤーホエ弥栄栄えてトホヨトヤ イヤートホヨトヤア ヤレソラ目出度が重なるイヤーホエ イヤーホエ豊年満作トホヨトヤ イヤートホヨトヤア ヤレソラ御社楽目出度いイヤーホエ この囃子歌を歌いながら、鳥居をくぐって楼門の中に入り、社殿の前で 力強く囃子たてて祭は終わる。 下幡木の祭頭歌 イヤー目出度いお祝いトホヨトエ イヤートホヨトエ アーヤレソラ御社楽目出度いな イヤー鹿島の宮山つつじはトホヨトエ イヤートホヨトエ アーヤレソラ御社楽目出度いな イヤー文金島田は抱いたら離すなトホヨトス イヤートホヨトエ アーヤレソラ御社楽目出度いな イヤー猫ならかっちゃけ蛸なら吸いつけトホヨトエ イヤートホトエ アーヤレソラ御社楽目出度いな イヤー姉ちゃん可愛いや腰から下だよトホヨトエ イヤートホヨトエ アーヤレソラ御社楽目出度いな この勇壮な祭頭囃子は鹿嶋市内や近郷の祭の中に組み込まれている。 (『国鉄鹿島線沿線の民俗』) 鹿嶋市小宮作、三月三日、子供たちが、太鼓、棒、縄などを持ち、祭 頭囃子を奏でながら住吉神社へ宮参りする。 鹿嶋市下塙の塙神社、七月十五日例祭、村びとが祭頭囃子で村内を練 る。 鹿嶋市沼尾、一月二十八日、初祭頭、稲荷・香取・金砂 大 ・ 宮の各社 で祭頭囃子を奏する。 鹿嶋市佐田、大六天の一年禰宜交代、祭頭囃子で送る。 鹿嶋市須賀、おみかげと呼ぶ祠の宿替え、祭頭囃子で送る。 鹿嶋市平井、三月三日、昼間子供、夜は青年が宝持院と八幡神社の間 を祭頭囃子で練り歩いた。現在は中止。 行方市宇崎(旧麻生町)嬪野神社、三月九日の御七五三降誕祭の夜氏 子一同、当屋から祭頭囃子をはやし、宮上がりする。 行方市西宿(旧北浦町)東宮神社、二月十五日の例祭、ほおずき提燈 ― 156 ― ろいろに飾り立て、津の東西という末社の前より内海へ出し、神風まに 『鹿島神宮例伝記』には「七月、三社の御船の上に仮屋神輿を造り、い のおり、皇后の船を大神が守護した故事によるものと伝承されている。 御船祭(みふねまつり) 鹿島神宮最大の祭典は御船祭で、十二年ごと の午年九月二日に式年大祭として行われる。この祭は神功皇后三韓出征 してきた。 を手にした子供が「鹿島の宮山トウヨトセ」と連呼しながら宮上がりを 活した。馬の数は合計四〇頭、参加者の衣装がそれぞれ異なるので楽し どに伝承されているが、平成十四年の御船祭の際、女性たちによって復 鹿島神社の大助囃子などが演じられた。鹿島踊りは、現在、神奈川県な 事や芸能の披露があった。大野のはまなす太鼓、鹿島踊り、那珂市菅谷 二キロ、二千五〇〇人の神幸、 九月二日、神宮の大鳥居から大船津まで、 先頭が到着して、最後尾が神宮を出発する。その間、御座船の前では神 く。これは秋の豊作を祈っての奉迎の燈である。 ホエ豊年万作トホヨトセ」祭り歌の歌われる中で、あざやかに燃えてい 御座船は銚子の千勝丸が選ばれたが、例年なら双胴船である。神輿を 乗せ、宮司や総代が乗船している。十二時近く、新島河岸の斎杭に着き、 まに、香取神宮の末社津の宮に、まっしぐらに走り着き、津の宮で待ち 御 船 祭 は 明 治 三 年( 一 七 八 〇 )、 御 座船三隻で復興した。船の数は御座船 香取神宮御迎船との対面、ここで神事が行われた。十二歳の午年生まれ かった。色とりどりの吹流し、小笠原流の人たち、日立のささら、流鏑 以 下 七 隻 で あ っ た も の が、 三 年 ご と、 の少女による巫女舞などが披露された。 構える、役人神官等数千人が種々の祭事を行う」とあり、昔は毎年七月 十 二 年 ご と と い う 式 年 大 祭 に な っ て、 馬隊、新刀流、それぞれ趣がある。 規模は大きくなり昭和五十三年の時 その後、潮来河岸に到着、仮設の舞台では、来宮の鹿島踊などが披露 されていた。 に行われていた。 は、供奉員二千数百名、御座船・曳船 鹿島神宮御船祭見聞記(今瀬文也)平成十四年九月二日の御船祭に記録 船団は、八九隻に御座船の九〇隻、先導船が息栖神社でその後に、露 祓いを務める新田神楽がつづく。ささらを演ずる船は三隻で、これは屋 以下供奉船で五十余隻となった。 の到着を待った。神幸は二千五百人で、神宮の大鳥居から大船津の鳥居 中世になって、戦乱のため船による渡御が中断し、丸木舟三隻を造っ て楼門前に飾り、神主と群衆が西へ向かって、トキの声を上げるのが、 九月一日の夜には、提燈祭が行われ る。夕刻から、氏子たちが、提燈をつ まで二キロだが、先頭が到着して最後尾が神宮を出発するというのだか 形を使用している。航行しながらの太鼓、笛、鼓の音は風情がある。 けた笹竹を、楼門前の広場にもちよっ ら、実に長い行列である。その間、御座船の前では神事や芸能の披露が 御船祭であった。 て、かがり火の中へ投げて燃やす。大 あった。大野のはます太鼓、しばらく途絶えていた鹿島踊、那珂町(現・ 監修のため乗船した。午前八時に大船津に着き、そこで一時間以上行列 竹、小竹につけられた提燈は、 「イヤー ― 157 ― い。色とりどりの吹流し、 小笠原流の人たち、日立のささらの、流鏑馬隊、 そのうちに行列が到着、乗船していった。馬は三〇頭、それに参加者 の衣装がカラフルで楽しかった。残暑が厳しく、何とも着物が暑いらし る。皆、美しく作ったドンスを前にたれ、神殿に昇り、左右に分かれ、 舞がある。これが終わって子供の相撲になる。子供の年は七歳以下であ を大神に供え、終わって宮司が幣束を奉り、祝詞を奏する。その後、倭 邪気を祓うと「公事根源」に見える。 新当流、それぞれ趣があった。やがて、一トンもある神輿が到着、御座 かわるがわる出て三番ずつとる。これをことりづかいという。現在は鹿 那珂市)菅谷の鹿島神社の大助人形囃子などが演じられていた。鹿島踊 船への乗船である。船団は八九隻でそれに御座船で九〇隻であった。 一般人が参加して相撲大会が行われてきた。 は地元で消滅していたが、女性たちによって、復活、演じられた。 大型船は幟をたくさん立てていた。 大型船は御座船と他に二隻あった。 息栖神社が先導船で、その後に露祓いを務める新田神楽が続く。ささら 消えた祭り 相撲祭 現在は十一月三日午前十時であるが、昔は十月二十九日の夜で あった。宮前に篝をたき、神殿で禰宜等奏楽の声とともに立って、神饌 を演ずる船は三隻で、これは屋形船を利用し、航行しながらの太鼓・笛・ たが、明治四年官幣大社になった時、廃止されたようだ。江戸時代の占 嶋市宮中地内が当番で、七歳以下の子供の花相撲の後、小・中・高学生、 鼓の音色は心地よいものであった。 御占祭 延文元年(一三五六)の文書には歳山祭とあり、正月四日の歳 山、毎月二十四日に吉凶の御占をしていた。明治初年には御占祭があっ 御座船は銚子の千勝丸が選ばれ、見事な船だった。例年なら双胴船な のだが、今回は堂々とした船だった。神輿が乗り、宮司や総代を乗せて いの形態は、長さ八寸の剣形木札に「十吉合」と書き、椎木を焼く火に なお、物忌選定にも亀卜を用いた。二枚の亀甲に候補者二名の名を分 けて書き、火にあぶって焼け残った方の名を分けて書き、同時に火にあ は、神前ではなく、楼門前の銚場で行われた。 あて、大宮司家の明けの方(東方)の軒に挿して置いた。 明治三年こ ろの御占祭は、天葉若木の枝で亀甲を焼き、祝が神兆を占したが、場所 いる。往路はだいぶ時間がかかった。十二時近く、新島河岸の斎杭に着 き、香取神宮御迎船との対面、ここで神事が行われた。一二歳の午歳生 まれの少女による巫女舞などが行われた。 潮来河岸に到着したのは十二時半を回っていた。川岸には潮来の山車 の乗った武甕槌命が船団を迎え、仮設舞台では、来宮の鹿島踊が披露さ れていた。 昔は神馬御仮殿の周りを走り廻れり。俗諺に朔日より今宵まで大神御眠 という。 踏歌祭 正月十四日に行われた。この祭は唐の風俗によるもので、宮中 で踏歌の節会として行われていたものが伝播したもので、一種の遊びだ ぶって焼け残った方の名を読んで選定した。 おはすよしにて御鎮と称し、鳴物を停止す。さて此夜御目覚めなりとい 青馬祭 一月七日の夜、正殿の戸を開き、祭りが行われる。御戸開きの 神 事 で あ る。 青 馬 節 会 と い い、 「 神 馬 七 匹 を 曳 か せ て 社 前 を か け ら す。 ひならへり」と『風俗画報』にある。 仮殿の縁に梅の枝を数枚置き、正殿の稲荷を袋に入れ、背負い、仮殿 の縁の上へ掛けて置いて拝む。各一同拝んで、梅の花を持ち、所役は太 馬は陽の獣で、青は春の色だという。年の初めに青馬を見れば年中の ― 158 ― 黒酒白酒祭(くろきしろきさい)末社の押手社の祭典であった。『常陸 という。 数の灯明を一晩中点したという。これを別名で一万灯祭礼とか、万灯会 を拝んだ。ろうそくは、大宮司より一五丁、社家中から六〇〇文で、無 供えて、無数のろうそくを照らして、社家中の一同が夜を徹して北極星 北星祭 北極星を拝む神事で、江戸時代中期まで行われていた。中国伝 来のもので、鹿島神宮では、三月二十一日の夜、拝殿に北向きに御餞を 止となった。 式で祭典を行い、仮殿で「あたらしきとしのはじめにかくしこそ つか へまつらめよろづよまでに」と三度唱えることが加わり、常陸帯祭は廃 てまた拝んで、神宮寺堂へ行って、常陸帯祭をした。明治になって中祭 鼓、笛、笏拍子(しゃくびょうし)を鳴らして仮殿を三度回る。終わっ 発展してきた。 霞ケ浦周辺には、田植神事、神楽、獅子舞、祭囃子などさまざまな民 俗芸能が伝承されている。そして、それらの芸能は村の祭と結びついて 第二節 芸能の諸相 城の神事』) う」と答えて終わった。これは、射箭行事で節分祭に残っている。(『茨 禍津日遣神事(まがつびやり) 明治時代に行われた冬至の神事で、庭 上で矢を二度北に向かって射り、終わると「射たり」と叫び、一同「お たこともあったが、昭和になって祭はなくなった。 天といわれ、大正以後は神主の参列はなく、車を走らせ競争し天候を占っ 国風土記』には「年別(としわき)て四月十日、祭を設け酒を灌(そそ) 1 神事 田植神事 田植は米作りの行程の中で最初の大行事である。農民はこの 時期に、田の神を迎えて、秋の五穀豊穣を祈願する。これが御田植祭で らさかの神の御酒をたげと言ひけばかもよ我が酔ひにけむといふ」。歌 を積み夜を累(かさ)ね、飲み楽しみ歌ひ舞へり。その唄に曰はく、あ 事をして豊作を祈る神事もある。 楽は東・西両金砂神社が有名であるが、十二座神楽の中で米作りの真似 ある。予祝行事として田植神事・田楽・田遊びなどが行われている。田 ぐ。卜部氏(うらべし)の種属(やから)、男女集会(つど)ひて、日 の意味は「新酒の御神酒をあなたが飲めといったからでしょうかね、そ われていた。髪の毛をたらし、菅笠(すげがさ)をかぶり、振りそで用 れで、私はこんなに酔ってしまったのでしょう」になる。 いつの頃からか押手社の祭が四月と十一月十日となり、後に十一月の みになり、この日が黒酒白酒祭となっていたが、明治の初年に消えた。 の長い衣を着流しにした。この少女を二人の人夫が肩車にし、周りには 鹿島神宮の田植祭 鹿島神宮の田植祭は明治の頃、参加する少女を八乙 女とか早乙女とかいい、大宮司家と大禰宜家とから一人ずつ奉仕して行 祭典は黒酒白酒を供え、祭の後、大宮司の家で団子や豆腐の吸物鱠(な 多くの警備の人々がついた。本殿に入ると、早乙女が綜と早苗を神前に 田遊 田打から収穫まで稲作の過程をセリフと仕草で模擬的に行い、稲 の豊作を祈願して予祝するのが、田遊である。 奉納した。 ます)を肴に直会(なおらい)が行われた。 日月祭 相撲祭の日の夜に行われた神事である。楼門前左右に高さ一丈 二尺ずつの柱を地車の上に立て、上に日月の像を飾り、大宮司、神職が 参列して拝み、氏子が地車を町内へ曳きだした。日月の車は、日天、月 ― 159 ― る。平三坊は、これに答え、男根を振りながら、鳥居の外へオカメと一 うとめまつり]といい、起 れる。もとは五月少女祭[そ これでお田植えの行事は終わる。この早乙女となる子供は健康祈願が目 又、少しして元に戻る。又、続いて他の一人の早乙女にも同じ動作をし、 その後、華やかに着飾り、三枚の扇子で作った笠冠をした早乙女二人 と菅笠を着けた神主が庭に立ち、一人の早乙女の手を取り、後へさがり、 緒に消える。 源については不明だが、農 的だという。 常 陸 平 三 坊 ま つ り 旧 出 島 村 牛 渡 に 滑 稽 な 平 三 坊 ま つ り が あ る。 こ れ は、田遊びで、毎年五月五 夫の平三夫婦が始めたの 日、鹿島神社の境内で行わ で、平三坊祭といって、ずっ 平三坊とオカメの所作は、人間の性の営みの象徴で、人間が子供を生 むように稲作も、これにあやかる豊作祈願の神事である。戦後、一時、 の屋敷で行い、同家で祭費をあてていたが、明治十七年から鹿島神社の 馬の入手が困難な時には、耕運機を使用したこともある。 と続いている。以前は個人 境内で行われるようになった。 平三坊は昭和三十二年に「米」という映画で紹介され一躍有名になっ た。田男とオカメの姿をした昼飯持との性交を表わしたもので、性交を ナーバ流し 行方市(旧麻生町)蔵川の 御船神社の田植の時、ナーバ(苗束)流 通じて子を生むように、稲も真似て豊作になるという感染呪術(かまけ 俗画報』 ) 毎年、五月二十四日ごろ行われる御田植 五月五日 (明治四十年から新暦)村内の若者総出で、一〇〇頭以上 の馬が集まり境内で競馬が行われた。この間、神官二人が旧家に行き、 祭りの前七日間、斎戒沐浴して清められた馬一頭を美しく飾り、苗代 鞍をのせる。その馬を白たすき、脚絆、草鞋をつけた四人の男が引き出 の時、まず当屋の主婦が神田の中央に進 わざ)である。 す。二人はくつわを持ち、他の二人は荷物を持ち、平三坊と呼ばれる野 んで苗を植えてから、氏子たち全員で田 挨拶し神社に戻り、祭りになる。郡会議員、村会議員、村長、氏子総代、 良着姿の老爺が顔に炭を塗り、 籠を背負って現れる。犂[すき]を持ち、 小学校生が参拝し、 神饌を供え、 祝詞を奏して、平三坊祭りが始まる。(『風 馬の後に従い社殿を三回まわる。回り終わると、平三坊は背負った籠の 植をする。 その時、数名の男たちは、麦わらを用 いて大きな男根と女陰の形をしたものを 作る。田植の終わった新田の畦に笹竹を し の 行 事 が 氏 子 た ち に よ っ て 行 わ れ る。 田の代かきと苗配りの所作である。 二本立て、注連縄を張り、その下にわら 中の葉のついた小枝を、撒き散らしながら、又社殿を三周する。これは、 この時、平三坊は、男根を振りながら歩く。そこへ、オカメの面を着 け、盤台を頭に乗せた腹の大きな女が二人出て来て、平三坊を手招ぎす ― 160 ― わらで作った男根と女陰は、風に吹かれて、離れたり合わさったりす る。生殖のさまを稲苗に見せ、実りをもたらすように祈るもので、ナー 井戸の意味で、水神を田に迎えるためである。 われていたが、現在は、十一月二十三日である。明治以前は八石八斗八 どぶろく祭(行方市青沼・旧麻生町)昔は旧暦七月二十八日に例祭が行 どぶろく・甘酒神事 どぶろく神事や甘酒神事は、農作物の豊かな収穫 を神に感謝して、甘酒やどぶろくを作って供え、直会(なおらい)とし の男根を右に、女陰を左につり下げ、さらに井桁などを下げる。井桁は バは苗束のことで、全国でも珍しい行事である。(『茨城の神事』) 升のどぶろくを作った奇祭であった。 例祭当日、第一の神饌として、どぶろくを四斗樽に入れて供える。第二 て参拝者にも振舞う。 上太田のみそかまち(鉾田市上太田・旧旭村)国都神神社で一月三十日、 「みそかまち」が行われていた。これは田遊の一種で一年間の稲作過程 という団子を必ず供える。 の神饌は、大根の葉を漬けた粕香味(かすこうみ)、第三の神饌は玄米 切りにした人参や大根をつけた鍬を、打ち振りながら田うないの真似を を歌や動作で演じて、その年の豊作を祈願する予祝行事である。所作は する。続いて「くれがえし」となり、同じ動作を繰り返す。「苗代しめ」 昔は種蒔き、苗取り、御昼食、田植えという神事が行われていた。種 蒔きは、総代の一人が、小さな袋三六個に種籾を入れて、田の中と見物 を炊き上げた、おたきあげ、第四の神饌は米粉で作った七個のおしとぎ 「種蒔」 「代作り」と続くが、この時、来年の当屋役が馬となり、その上 人に投げた。苗取りは宮司が榊の小枝を数本拾い、それを早苗に見立て 「田うない」から始める。拝殿に車座に座った村びと全員が、竹箸に輪 に参加者全員が被いかぶさるように乗る。馬役は乗られるのを嫌って、 て田植えの所作をする。御昼食は総代二人が田の中に飯櫃を運び出し、 現在、農耕所作は行わず、普通の神社祭礼になっている。なお、どぶ ろく仕込みについては、祭礼の前日、税務署の検査を受け、祭礼当日は 櫃の中に多く入った年は豊作とされた。 飯を盛った椀を、田の中に入れようとすると、見物人が泥をつかんで、 けったり跳ねたりする。次が「施肥」 「苗打ち」「田植」で田植の真似を しながら、田植歌を歌う。続いて「田の草取」「稲刈」「脱穀」「籾摺り」 「俵入れ」 「俵積み」になる。この時に「千俵できた。万俵できた」とい いながら、 俵を積む真似をする。これが終わると全員で豊年踊りをする。 この行事は昭和三十五年で中止されている。(『国鉄鹿島線沿線の民俗』) の先導にたち、甲冑をつけて乗馬し、霞ケ浦湖畔で禊祓(みそぎはら) (七一三)といわれ、流鏑馬は村人の安全祈願として、城主が神輿渡御 大宮神社の流鏑馬(行方市馬場・旧玉造町)大宮神社の創建は和銅六年 奉納相撲(行方市内宿・旧北浦村)化蘇沼稲荷神社の奉納相撲は毎年、 ある。奈良時代には、相撲節会七月七日に七夕として行われた。 二三)七月七日、ノミノスクネとタギマノケハヤが相撲をとった記事が 神事相撲 その年の豊凶を占うため、神前に土俵を築き、相撲を行い力 技を競う。神事相撲の歴史は、 『日本書紀』によると、垂仁天皇七年(前 午前十時から参拝者に振舞われる。 (『茨城の神事』『郷土の芸能』) いをする。その後、神社に還御して、悪厄祓いをする。ここでは、歩い 八月二十五日に行われ、関取稲荷相撲といわれ、境内に設置した土俵で 流鏑馬(やぶさめ) 弓で的を射って、豊作などを占う神事である。馬 に乗って弓を射る流鏑馬と、歩いて弓を射る歩射(ぶしゃ)がある。 ての流鏑馬である。 ― 161 ― 物が豊作になるという。 きた。この相撲は、取り組む力士双方を田と畑に見立て、勝った方の作 行われる。奉納相撲は、風除け豊作祈願する年占いとしてして行われて のである。これも歩調に合わせ鳴らす。 しめ、それをたらす。金棒は一八〇センチほどの丸鉄の頭に金輪数個を 甲、白足袋、たっつけ袴をつけて、腰には、友禅模様とりどりの細帯を 棒持ち(花笠を被る)と拍子木は行列中最も派手な服装をする。白の手 つけたもので、歩調に合わせて鳴らす。拍子木は、四五センチほどのも 前夜祭には、諸役、行司、呼び出し、総代などが参列し、当日使用す る御幣、弓、矢、軍配等の諸具を供え、祓い清める。その後、当番区長 役員は大幣を持ち、紋付羽織、袴、白足袋、水汲みは黒じゅすの襟を 掛けた派手な半纏を着、下に黒木綿の腹掛けをつけて、たっつけをはく。 宅(当屋)の奥の間を祓い清め、羽織袴、白足袋着用して、神社に向か い、供物を神前に奉献する。 花笠をかぶり、行列に加わる。 褒美だしは、十歳前後の子供の役で四人、白のそろいにかみしもをつけ、 この相撲の歴史を探ると、天保年間(一八三〇~四四)、江戸相撲の 秀の山雷五郎(旧北浦町三和出身)が、奉納相撲をし、四本柱に赤毛氈 花形で弓は力士がかつぐ。四股名(しこな)は、神社に因んだ鹿島山と (もうせん)及び、水引幕を奉納し、江戸相撲の土俵が許可された。 かつては、相撲部屋の力士中心に奉納相撲が行われたが、現在は、地 区内の氏子青年が七地区から五名ずつ出場し、リーグ戦によって戦って 吉田山は必ず命名され、それ以外は○○山とか△△川とか、好きな四股 花相撲は稚児の役で、三組ないし七組が大人の肩車に乗って行列に参 加する。黒の腹掛け、化粧まわしをしめ、花笠を被る。この稚児たちが、 いる。 ( 『茨城の神事』 ) 白足袋、麻裏の草履で、宮行司と書か 繰 り 込 み の 行 列 は、 華 や か で あ る。 宮行司に選ばれた人は、白麻、割羽織、 ている。 撲といっても芸能の要素を十分にもっ だが、準備は六月中旬から始まる。相 が奉納される。七月二十八日が本祭り 当屋祭 神社の祭礼の時、当屋が祭りの世話をする人や家である。当 屋の交代は順番制のところが多い。くじなどで決める例もある。交代の 相撲に子供を出した家では、親戚の人たちを招待し、赤飯を炊き、御 馳走を作って酒宴を開くことが多い。 に行う。 あげる。水汲みが水を運ぶ。行司、褒美出し、年寄りもすべて古式通り が土俵に上がって、三回木を打つ。呼び出しが力士の名を高らかに呼び 相撲はすべて、古式に則り行われる。ショッキリは人々を笑わせ、花 相撲は楽しませ、そして、青年たちの取り組みには、力が入る。拍子木 名をつける。 れた提燈を持ち、鳥居まで行列を迎え 儀式を当渡しといって厳粛に行っているところが多い。 延方の相撲(潮来市延方)潮来市延方 に行く。警備の者は、陣笠、割羽織、袴、 馬鹿まつり(阿見町福田)阿見町福田の鹿島神社の旧暦十一月十五、六 の鹿島吉田神社の風祭に、延方の相撲 白足袋、麻裏草履で杖を持参する。金 ― 162 ― 祭典だけで、十六日の当屋渡しがこの馬鹿まつりの中心となる。 栄の特殊神事として地区をあげて行われる祭りである。十五日は神社の 日の二日間、当屋渡しの形をとった性器崇拝により、五穀豊穣と子孫繁 る。また、酒樽の上におく猿田彦命のワラ人形を作る。この人形に木製 とれた米でドブロクを醸造し祭日に用いる。神田のわらで、注連縄を作 世話人二人が祭を主催する。二年交代、神田の耕作をする。この神田で 当屋の御神体を祀った座敷には、供物のほか、大根で作った男根を何 本もあげる。基部には陰毛に似せて「りゅうのひげ」をつけ、亀頭の中 の男根を結びつける。 その他、面、万灯などを作り、どのようにして観衆を笑わせるかで打合 央には人参を差し込む。二本が一組で、これを家に持ち帰って、食べる 祭礼が近くなると、当屋は一週間くらい前から準備にかかる。収穫さ れた大きな大根で男女の性器を作ったり、雌雄の鯉を各一匹用意したり、 せをする。 性器を持ち、観衆の女性と見るや追いかけて行く。次の当屋までは一キ 花婿は腰から一〇メートルぐらいの白い紐で、花嫁に結ばれ木製の男性 だか分からないようにする。花嫁はおかめの面をつけ、晴着に草履ばき、 地 区 を 四 班 に 分 け、 順 次 交 代 で 祭 事 当 番 に あ た る。 祭 礼 の 費 用 は、 約 卯の日祭(潮来市築地・熱田神社)毎年十二月の最初の卯の日に行う。 み汁が出される。昔は鍋掛けずだった。 夕方になると神社に集まる。神饌はオバンズ・オシトギ・甘酒で当屋 が作る。御馳走は、ワカサギの煮しめ、なます、煮豆、白菜漬け、しじ と、子供が生まれるという。 ロ、二時間かけて歩く。夕方になって、やっと、次の当屋の門前に到着 二〇アールの水田を耕作し、 その純益をあてる。当番区(八世帯)になっ 当屋渡しの形式は、地元の結婚式の風習を変えたもので、花婿はどて らを着て、ひょっとこの面をつけ、背中に枕を入れ、頬かぶりをし、誰 する。花嫁も花婿も酒を飲んでいるので、道中は千鳥足である。 根で作った男女の性器だけが残こる。 (『阿見町史』) れ、当屋渡しの儀式が終わる。そして、花婿と花嫁の前には、三方に大 られた、注連縄の中の雌雄の鯉の腹合わせが、当屋の代表によって行わ 銭等の一切を皆の前で、次の当屋の役員に渡す。その後、宴席中央に張 当屋の引き渡しの挨拶をし、神社の鍵、祭りの費用を書いた大福帳、小 する姿も大変ユーモラスである。宴もたけなわになってくると、代表が 花婿、花嫁に誰が扮しているのか、次の当屋の一同は判別出来ず、詮索 の中で、ひょっとこ面の花婿は女性を見ると、性器を手に追いかける。 次の当屋の前に、万灯がある。この万灯には竹で作った飾りがある。 この飾りを奪い合う行事があり、それが終わると祝宴になる。この祝宴 に饗する。参列者はこれを口のみで受けて食べる。受け損じると唇を怪 をとり、生大根の輪切りを一切ずつ切り先に突き刺し、宮司以下参列者 を行う。祭典が終わると、拝殿で役員の長老が、刃渡り二〇センチの剣 をカワラケ四枚に二匹ずつ乗せ、宮司、稚児、役員が本殿に供えて祭典 子総代、区長、組長、稚児などが拝殿に集まり、井戸よりとった生小魚 剣響の神事(行方市蔵川・御船神社)十一月二十五日も例祭に行う。氏 るものである。 ら、豆類を使う精進料理である。この祭は五穀豊穣、無病息災を祈願す 振舞い、直会用の煮物は肉や魚は使用せず、畑物の野菜の煮物、豆腐か など新品を購入、終われば当番で分ける。祭には、赤飯を炊き、氏子に た班は一年間水田を耕作し、新穀を神に供える。祭には鍋、皿、什器類 道鏡祭(かすみがうら市牛渡上高谷の鹿島神社)祭礼は十二月十五日、 ― 163 ― 太めの生木を五徳として、打ち込んで釜を乗せ、周りに四本の斎竹を立 集まって湯立祭が行われる。まず、社殿、境内を清掃する。拝殿の前に 香取神社の湯立祭(行方市若海)毎年、四月五日に若海の全戸の男性が があり、疫病除けや、田の虫除けになると信じられている。 湯立祭 湯立は神前で大釜に湯を沸かし、巫女や神主が竹笹を浸して振 り、そのしぶきを浴びて託宣を述べる神事である。湯には浄め祓いの力 われている。 我するので真剣である。この祭の由来は、地域の平和を願ったものとい や芸能の中で演じられている。そのため、形や舞い方もいろいろの形が 獅子舞 獅子舞は全国で最も多い芸能で、南は沖縄から、北は北海道ま で、獅子舞のない都道府県はない。おそらく、全国では数千か所の祭礼 いる。しかし、祇園祭については、第一節で述べた。 では囃子、念仏踊、盆踊、獅子舞、祇園祭などすべてこの分野に入って 風流というのは、本来、みやびやかという意味で、祭礼に出る山、鉾 をいったが、後に祭の参加者の派手な仮面や装束をいうようなり、現在 2 風流 城の神事』) 系の獅子舞と伎楽系の獅子舞といわれる。これに対して、一人立ちの獅 てる。その後、左撚(よ)り右撚り二本の注連縄を一緒に拝殿から竹全 のせて神前に供える。祭が終わると、参加者は熊笹に四垂をつけて、一 子舞を固有の獅子舞という。 伝わっている。 茎ずつ持ち帰り、各家の軒先に挿して、一家の一年間の安全、無病息災 体に張り、拝殿から釜まで、筵を敷く。 を祈る。 ( 『茨城の神事』 ) 三匹獅子舞である。県北では、この獅子舞を「さ 本県の獅子舞の主流は、 さら」と言っている。石岡の総社宮の祭礼に出る石岡の獅子舞は一六の しかし、獅子舞の源流を探ってみると、それは二つの型になる。一人 たちの獅子舞と二人たちの獅子舞である。一人立ちの獅子舞は、舞手が 八幡神社の湯立(稲敷市時崎)旧江戸崎町時崎の八幡神社の湯立神事は 町内から参加し、町内の者が胴幕の中に入り安全を祈願する。 釜の水が熱湯になるころ、祭典がはじまる。お祓い、祝詞奏上の後、 湯立に入る。祓幣で釜に向かって「亀井の水」と空書きして釜を一回り 火鎮、豊作、安産、家畜の息災を祈願する。祭は旧暦八月十五日に行わ 一人で、頭に獅子頭をつけ踊る。これに対して二人立ちの獅子舞は獅子 れる。祭は当日、世話人が境内に大釜を据え、四方に笹竹を立て注連縄 田畑の獅子舞 神栖市田畑に獅子舞がある。毎年七月二十七・八日(現 在は七月最終土日曜日)行われているが、鹿島神宮の御神事にも奉納し する。それを三回繰り返す。次に熊笹の束を釜に沈めて、三度かき回し、 を張ることから始まる。 たちが「ささらっ子」と呼ぶ役を受け、御幣を持ち獅子舞の手伝いをす の胴に二人が入って、人間の四本の足が四足獣の形になる。これは外来 大釜の湯をわかして熱湯になると、世話人や氏子総代十余人が注連の 外に並ぶ。神主が祝詞をあげ、竹笹を熱湯の中に入れ、それを引き上げ る。鎮守や不動堂に奉納した後、各戸を一軒回り、悪魔退散、五穀豊穣 引き上げて神前に供えた後、参集の人々を左右左と祓って、笹を三方に てふりそそぎ、地区内に災害のないことを祈願する。家畜のためには、 を祈願して回って歩く。 た。獅子は三匹獅子で、雄獅子、雌獅子、中獅子からなり、それに子供 湯立の湯を持って帰り、飼料に混ぜて飲ませ、息災を祈っている。(『茨 ― 164 ― した。 はげしく踊るたびに羽根が落ち、それを子供たちが奪い合いながら見物 使われていない。 獅子はそれぞれ髪のかわりに鶏の羽根をつけて踊るが、 三匹獅子が鞄鼓を下げ、打ち鳴らしながら踊ったが、現在、この太鼓は 舞手、ささらっ子、供奉と多勢の人たちが「道あり」と呼ぶ曲に合わ せ 歩 く 姿 は 勇 壮 で あ る。 「 さ さ ら っ 子 」 と 呼 ぶ 子 役 の 四 本 の 柱 の 中 で、 獅子舞の前に「みちわり」の曲に合わせ、露払いの猿田彦命を先頭に 社殿前の庭に、舞人と楽人が入場する。まず、天狗が四方固めの後、獅 らし、胴鼓を打ち鳴らしながら舞う。 雄獅子、雌獅子、中獅子といい「前ほう」と呼ばれる黒い布を頭から垂 十一月二十三日に変更された。獅子頭は氏子の寄進による三匹獅子で、 上戸の獅子舞 潮来市上戸(旧牛堀町)の国神神社の祭礼に獅子舞が奉 納される。かつては十一月の中の卯の日を祭礼としていたが、その後、 かつて、舞は一〇種あつたが、六種だけ伝えられている。中獅子は直 立した長い角を持ち、雄獅子は後方に向かった角を持ち、雌獅子には角 朝暗いうちに獅子舞が行われた。 雄獅子、中獅子が雌獅子を奪い合う恋の愛憎の舞が繰り広げられ、中獅 技をする。やがて、三匹獅子による群舞に入り、ゆるやかに又はげしく、 続で、この獅子舞の特色である。また、激しく直情的な獅子らしく、身 子舞に入る。獅子舞は終始円を描きながら舞う。雄獅子は常に乱舞の連 がなく、五色の御幣を持っている。衣装は襦袢に裁着(たっつけ)で手 子の「綱おさめ」の舞である。 とくに息栖神社の祭礼には、神が上がる前に、獅子舞を奉納したので、 「田畑の飯前ざさら」 と呼び、 獅子舞を奉納しないと祭りが出来ないので、 甲をつける。楽器は太鼓、鞨鼓、鼓、鐘であるが、今は鞨鼓、鐘は使用 獅子舞の順序は次のようになっている。 「てがけ」踊る前に獅子頭にかぶせてある布をとる舞で、これをとらな 舞(磯子)の種類 「みちあり」獅子舞の行列が社寺より各戸を回る時の囃子。 3 2 。 雄獅子 七通り (右に同じ) 礼 七通り (右に同じ) 。 格向 七通り (右に同じ)。 雌獅子 初座打出し回り、終わりまで。 中獅子 七通り(笛の七返し、舞七回)。 (道分、道やり)道中を歩く時の曲。 道わり 庭よせ。 1 「弓くぐり」雄獅子が雌獅子を従えて舞うが、民家の軒に立てかけた三 9 廻りや車。 這わり。 獅子歌「この宮に鷹が棲やら 鈴の音 それはそら言禰宜の御神楽、さ 間ほどの弓状の先にある御幣の下をおそるおそる二度三度と采配しなが ら、前後にくぐり抜ける不屈な様を舞う。 「おかざき」各舞の後に必ず踊る滑稽な舞でやはり儀式風のものである。 ほかに、剣の舞などが明治の中期までは伝えられていた。 ― 165 ― のこなしも早い。舞手の息づかいも荒く、笛、太鼓の獅子連も最高の演 していない。 ければ他の踊りが出来ないので、一番初めに行う一種の儀式である。 口上 獅子舞の主旨を説明する。現在は中止。 「山めぐり」雌獅子、雄獅子、中獅子の三匹が仲良く山を巡遊する勇壮 4 な舞である。 5 7 6 8 10 が嫁に行くことになり、それを嫉妬するヒヨットコがいろいろと尋ねる は結婚を中心とした行方、鹿島との地縁の深さを物語っている。オカメ オカメ、ヒヨットコ 獅子舞が終わると、オカメ、ヒヨットコが登場す る。この演出は笑いの中にも古代をしのばせるものが多くあるが、会話 さらは さっと太鼓の縄を きりりとしめてささらはさっと」 (ヒ)そりゃ又ごうきに貰われますわいな (ヒ)麻生 島並 手賀 玉造 (カ)諸々方々から貰われますわいな (カ)麻生 島並 手賀 玉造 が、質問と答えが合わず客席を爆笑させる。 (カ)箪笥が七さお あけねが七さお (カ)入物と云えば箪笥が七さお (ヒ)それでは定めし入物も立派でしょうな (カ)下駄小紋に足袋小紋 (ヒ)上着は小紋 (カ)上着は小紋 (カ 仕度といえば合着は小紋 (ヒ)合着は小紋 (ヒ)それでは定めしお支度も立派でしょうな (カ)ああその大根本さんから貰われますわいな な あの大根本さんでは あるまいな (ヒ)はてな 鹿島に大金木さんはないはずだが (カ)あの大金木さんから貰われますわいな (ヒ)鹿島は又どっちの方から貰われますわいな (カ)鹿島の方から貰われますわいな (ヒ)それは又どっちの方から貰われますわいな (カ)それで又お嫁に貰われますわいな (カ)そっちから来たのもぴんとはね こっちから来たのもぴんとはね 次々とぴんとはね つい破たんとなって (ヒ)それは又なぜ破たんとなったぺいな 歌詞 あらおもしろやここはどこ ここは高天原なれば あづまりたまへ よもの神々あー あらおもしろや こうじんの おまえのしめは幾重ある 七重も 八重も かさねがさねのいええ あらおもしろや天竺の しち夜の星はくもれども わが氏子には 曇りかけまい いええ あらおもしろや きこくより 吹きくる風は あくま風 はやふき返せ 伊勢の風 いええ おかめ、ひょっとこの会話 (ヒ)亀さん かめさん かめさん かめさん かめさん 亀さん (カ)亀々と言う方は どこのどなたさんですか (ヒ)しものちょうのないき ないき (カ)ないきさんと言えば ほんとうになづかしいです (ヒ)なづかしいはずだよ この男ぷりがいいからな (カ)そこでないきさん 私の言うこと聞いてくだしやんせ (ヒ)やあやあ聞くとも 聞くとも (カ)私今度お嫁に貰われますわいな (ヒ)それは又どつちの方から貰われますわいな ― 166 ― 1 2 3 4 (カ)ツツと行って玄関の戸を開いて (ヒ)長持が七さお 囃子は六曲あり、獅子は右手に鈴を、左手に御幣を持って舞う。 第 天の岩戸をおし開き めに奉納されたものである。 第 第 第 げざや神楽も舞い遊ぶ 第 悪魔を祓うそこのせい 太平楽と世は改まる 進で、猿田彦を先頭に威風堂々の行列は、全く偉観であり、神前に到着 である。 「獅子舞は段階ごとに変化に富んだ舞で、最初に道割という行 (ヒ)それは六さんではあるまい あの大きな大さんだろう なお、上戸の獅子舞には「古典獅子舞楽譜」がある。昭和四十六年に 和田小太郎(元陸軍楽長)が楽譜に五線譜にまとめたもので、大変貴重 ら始められ、最後は天下太平を象徴した舞である。 側を向いて、最後に右側を向いて舞う。天の岩戸の故事にちなんだ舞か 立の舞」は、はじめ神前に向かって舞い、その次は後にして、続いて左 その後、両手に鈴と幣を持ち、最後にまた素手で舞う。その中の「四方 流れがある。採物は最初はなく、素手で舞い、続いて片手に幣を持つ。 して、芝寄というせ舞から始まり、雌獅子、仲獅子、雄獅子の順でその 猿田彦は面をかぶり、高下駄をはき、右手に小さな矛を持ち、獅子舞の 付き添いが加わる。獅子は一頭であるが、その中に二人が入って踊る。 る。囃子は太鼓一人、笛一人、の最小人で、道案内の猿田彦に、二人の 押砂の神楽(獅子)稲敷市押砂(旧東町)の鎮守である水神社例祭に一 獅子舞とおかめ・ひょっとこを奉納していた。 として各家庭を巡る。潮来市貝塚の熱田神社は、かつて、神社の祭礼に 潮来の他地区の獅子舞 潮来市古高の国上神社に、三匹獅子舞があった が、現在は一匹だけ各家庭を回っている。潮来市水原・根崎では春祈祷 この獅子舞は、これといった華やかなところはないが、素朴で厳粛な 形で伝えられている。(「ふるさとの祭りと観光」) 行われている間、それをじっと眺めている。 頭立の雌獅子が舞っていた。舞いは布舞、四方舞、剣舞の三種類があっ 潮来の獅子舞 潮来の獅子舞は、毎年八月の素鵞熊野神社の例祭に奉納 される。潮来市三町日の人たちによって伝承されてきた一頭獅子舞であ 頭の獅子が乱舞するわけであります」と和田さんは言う。 笛(れいてき)は神に祈りを捧げる動作から、俄然、雌獅子を中心に三 風格に応じた舞は、よくその楽によって、行われるわけです。最後の禮 「神のいさめ」 「悪 獅子舞の演目は、歌の順に「四方立」「天の岩戸」 魔祓い」「太平楽」「太のりと」とわかれているが、これらには、一連の 神をいさめひと踊り 皆神前の御幣をもおし 第 2 (ヒ)ツツーと行って玄関の戸をおっぴらいて 処で亀さん 亀さんの云うことを聞いたから 俺のいうことを聞いてくれ (カ)聞きますとも 聞きますとも (ヒ)おらがよう隣の 一軒おいてその又隣のおっかあが大でっか いぽんぽんになったからよ 大さんやら 六さんやらの 御祈祷を願い 3 猿田彦を演ずる人は、七日前から水を浴び、身を清める習わしになっ ている。 (カ)それは六さんですわいの 4 この獅子舞は悪疫退散、国家安穏、五穀豊穣、人心和楽を祈願するた ― 167 ― 5 1 6 大船津新田神楽(獅子舞)鹿嶋市大船津新田に獅子舞がある。鹿島神宮 獅子頭だけが水神社に残っている。 げて舞は終わる。この獅子舞は、 昭和三十年(一九五五)頃に中断され、 使用した。そして、最後に獅子は神前に平伏し、悪魔を祓ったことを告 一方の手には幣束を持ち、後方にはウシロカブリがついた。剣は真剣を て、伴奏は笛、小太鼓、謡の囃子がつく。剣舞では、獅子は片手に剣を おおのさん以って 大平楽よとあらたまる あげ奉るよ御神楽 村内安全 坪内安穏 氏子は益々御繁昌 舞させ給えよ御神楽を 神も喜ぶことなれば悪魔降伏来たらんと 神楽しむと読むとかえ 神楽と書いたる二文字は 獅子頭は雌雄一対である。太鼓一、笛(多数)、ヒョットコ面二、そ の他衣装を用いる。 の神楽の指導を受けたようである。 (鹿嶋市文化財) 時、獅子舞は演じない。この神楽は伊勢神楽系のものと考えられ、水戸 て大般若経とともに村々を回り、人々の頭を噛んで厄除けを行う。この 獅子舞を演ずる。また、 一月二十四日の村祈祷には、雄雌の獅子頭を持っ つから始まったかは不明である。御座船の先を走る船に乗り、そこで、 村内安全 坪内安穏 御家は益々繁昌 おおのさん以って大平楽よとあらたまる 伊勢の国わよ渡来郡 日の神天照皇大神宮 雨風烈しい山なれば 男体女体を立たせ給う 峰が七つに谷が八つ 筑波の御山と申するは 天地開闢筑波山 の御船祭の先導をつとめ、除厄をする露払いである。このしきたりがい 新田神楽囃子は、次の六章で構成されている。このうち獅子舞がある のは、②~⑤の四つである。①さんぎり(太鼓と笛のみ)②幣の舞(雄 鎌倉(A)(B)さてさてさてな、お目にかけましょ獅子こそは、 (A)清盛さんは火の病 山へ登るは石道丸よ 彼方にゆられ、ゆらゆらするのが沖の大船、舟よれ舟よれ 獅子のみの舞い。幣束を持って舞う。太鼓・笛・歌がつく)③下がり葉 (雌獅子のみの舞い。太鼓 笛 ・ がつき、歌はない)④昇殿(雌獅子のみの、 両手に鈴を持って舞う。太鼓・笛がつき、歌はない)⑤乱獅子(雌獅子 (B)私しゃ芋食って屁の病 丸い玉子も切り様で四角 四角浮世は色と酒 竹に雀は仙台さんの御紋 御紋どこへ行く油買い茶買い 高い山から谷底見れば のみの舞。太鼓・笛がつき、歌はない)⑥面獅子 ひょっとこ二人が出、 獅子をからかって、戯れるもの。笛と歌があり、太鼓はない。(A)(B) に分かれて掛け合いで歌う鎌倉もある。 見れば目の毒歯の毒 毒峠の権現様よ 浅草の観音様一寸八分 八分されても二分残る 様よ三度笠沢猫の皮 可愛い女があったとさ 神楽歌 天下泰平 五穀成就のその為に 舞わらせ給えよ 伊勢神楽 ― 168 ― 残る八方外が浜 鎌で刈切る様な毛が生えた 生えた傘下駄あしだ あしだで通れば二階で招く 姉が二十一、妹が二十歳 裸足で道中がどうなるものか 昔々その昔 その又昔のずっと昔 爺様と婆様があったとさ ( 『茨城県の民俗芸能』 ) 門前のささら(行方市門前・旧江戸崎町)三頭の獅子頭が、文化六年 (一八〇九)の大仏大火をよけたことから始められ、疫病流行や特別な 祝いに演じられた。羅龍面をかぶり、笛、太鼓、ささらに合わせて土足 のまま、各家により、舞ったというが、現在は中絶した。 囃子 囃子には、山車がつきものである。山車や屋台は祇園祭をはじ め、祭の花形である。今でも各地で祭に出社しているが、かつては、各 村ごとに山車や屋台があったが、戦争とか、社会不況などのため中止さ 春囃子(鉾田市)五穀豊穣、無病息災、悪魔退散を願い二月二十日の夜 半鉾田市柏熊の青年によって行われた囃子である。大太鼓、小太鼓、歌、 囃子方が一団となり、はやして歩いた。曲は鹿島神宮の祭頭歌に似たも のである。 やー そろそろやりましょう トホヨトヤ やーとほよとさ あーやれそう おしゃらくととーよほや やー若衆たのみだ とほよとやー やーその恋許すな とほよとやー やー鹿島のとよたけとほよとやー こちらが入口 とほとほいえー 言えー とほよほよ おしゃらく とほよほいえー 人形は大江山酒呑童子、浦島太郎、小野道風、曾我兄弟などを飾って、 出し物の人形は竹と小麦わらで胴を作り、さらしを被せ、うどん粉を塗 をかぶせて墨を吹きつけ、金箔をかける。これが、山や岩になる。 を茅で巻いて、ボール紙で作ったクマザサをつけたり、イサザ曳きの網 めかごがたくさん集めてくる。そして、高さ一・五メートルに積み周囲 山車は祭の一週間前から青年が鎮守の境内に集まって組み立てにかか る。四つの車に屋台を設け、幕を張り、提燈を取り付け、屋台の上には した神事である。囃子は江戸時代に始 五穀豊穣、嵐除けを祈願して年々奉納 下馬場囃子(小美玉市下馬場・鹿島神 たく。 神、悪魔払ってよいやさ」と太鼓をた め に 祈 願 を す る が、「 こ こ は 雷 神 別 雷 れ、そのまま復活されなかったものもある。 り墨で目鼻を書く。ときには桐の木で頭を彫ったこともある。 とこ踊りのが、伝えたという。鹿島神 村内の氏神、七社を廻り、その社前 では、この歌詞で歌い、悪疫退散のた 屋台の中では青年が太鼓囃子を演じ、上ではひょっとこ踊りなどをす る の が 一 般 的 で あ る。 演 奏 さ れ る 囃 子 に は「 あ ん ば 囃 子 」「 神 田 囃 子 」 社は大同二年(八〇七)の創建で、小 まった。江戸生まれの船頭で、ひょっ 社 ) 鹿 島 神 社 の 例 祭 に、 氏 子 の 安 全、 などがある。 ― 169 ― 川の総鎮守として、崇敬されていた。全盛時代には一二か村の山車が社 あ ん ば 囃 子( 稲 敷 市 阿 波・ 大 杉 神 社 ) 『 和 漢 年 歴 箋 』 に「 享 保 十 二 年 楽などで、最初と最後は大太鼓のサンギリをたたくことになっている。 子、西丸山祈祷囃子など各地名をつけているが、あんば囃子の系統であ りの盛んな様子が多くの記録に残されている。現在、佐原囃子、潮来囃 地の大杉祭、すなわち、アンバ様の悪魔祓いが行われ、囃子、みろく踊 (一七二七)六月、江戸にて大杉祭流行する」とあり、江戸中期より各 頭に集合して、伝統芸能を奉納した。下馬場囃子は、八月二十二日の夏 祭神事として奉納される。 獅子舞 テンスケテンテン(繰り返す) 小太鼓二 ダカスカダンダンダン ダカスカダンダンダンダン ダカスカ ダカスカ ダカスカ ダカスカダンダン ダカスカダンダン ダカスカダンダン(繰り返す) 大太鼓一 る。 本 来 の 祭 り は 旧 暦 の 九 月 二 十 六 日 及 び 二 十 七 日 で あ っ た が、 十 月 二十六、二十七日になり、現在はそれに近い土曜日、日曜日に行う。そ して昭和四十五年から五十七年まで神輿渡御、山車の巡幸が中断してい たが、昭和五十八年に復活した。最近の祭りについては『アンバ大杉の 信仰』(大島建彦著)が詳しい。 民波舞(ヒョットコ)テンテンカテン テンテカテン(繰り返す) 小太鼓二 四丁面舞(オカメ)テンスカテン テンスカテン(繰り返す) 小太鼓二 ドカドンドカドンドカドンドンドン(繰り返す) 大太鼓一 祭りが近づくと大杉神社の社頭に「奉納大杉神社御祭礼」の幟を立て る。前日は夜の八時に出御祭がある。第一日は午後二時から四時まで神 らはやしを頼んだこともあった。 五日が祭で、一一の町内で種々当番をつとめる。終戦後、一時、石岡か 本町ばやし (行方市・旧玉造町甲)本町ばやしも大宮神社の一つ。五月四、 ているものである。 山車が集まり、互いに競演するのは圧巻である。囃子は口伝で続けられ 本町、上町とともに祭を盛りあげている。五月五日の夜、駅前で三つの 諸井柄貝ばやし(行方市・旧玉造町甲)大宮神社の祭礼は毎年行われ、 この囃子は小太鼓、大太鼓、小鼓、太鼓のほかに笛一、鉦二が加 わる。 が加わる。 東久保の一六〇戸と阿波住宅三〇戸がある。祭りはこれに釜井の九〇戸 旧桜川村阿波の集落は、上組の西町・南町・迎町・上仲通町・東仲通 町と下組の神明久保・内出久保・杉下町・和久保・和久保第一・戸城久保・ 稚児と続く。 神輿、床几、神輿舎人、四神旗、神部、宮司、舞乙女、後列奉行、総代、 宝剣、靭(さい)、弓、楯、鉾、太刀、祭事奉行、四神旗、眷属、神輿舎人、 令使、前払、杉車、獅子、猿田彦、太鼓、社旗、唐櫃、神子、祓司、神馬、 輿を中心に神社から、お旅所の不動堂まで練りあるく。その順序は、伝 神波鹿(キツネ)テテンカテンテケテン(繰り返す)小太鼓二 テンスケテン テンスケテンスケ(繰り返す) 太鼓一 上町ばやし(行方市・旧玉造町甲上宿)上演は真馬鹿(しんばか・狐 第一日目の夕方六時から山車の巡幸がある。山車は上組と下組にある が、上組の山車が曳かれ、下組の山車は飾って置くだけである。山車の 舞) 、仁羽(じんば・ひょとっこ) 、四丁目(しちょうめ・おかめ)、神 ― 170 ― 一名である。大杉囃子は軽快で、踊り子がその山車の周囲で踊る。曲目 下座は、大太鼓一名、つけ太鼓一名、大鼓一名、小鼓数名、笛数名、鉦 (三) ソラソラあんばさま鼻高で 御祭になる。 アンバ囃子が奏され、上の方から下の方へ進む。そして、夜の八時、還 く。午後四時からは、本殿着輿祭がある。午後六時からは、山車が巡幸、 龍ヶ崎のところてん そのほかサンギリ、バカバヤシ、ハナサンバなどがある。 第二日目は昼の十二時に上行宮発輿祭、二時半に下行宮輿祭を行う。 その間の十二時から二時半まで、神輿を中心に多くの供奉者が練って歩 (五) あんば様は婆さまで 疱瘡が軽いと (六) あんばの方から吹く風は 疱瘡が軽いと吹いてくる (七) あんばせんべい小野まんじゅう 三十三枚つん抜いた 天井板三枚つん抜いた (四) 三枚四枚はまだおろか は八幡山、磯辺など数曲からなっている。 八幡山 (一) 八幡山でナーヨォオイ 八幡山でナー ハァドッコイ 八幡山でお鳩が鳴きそろ 小西がコラ吹かばナー ハァドッコイ 小西が吹かば潮来へのり込め オーナァヨイー (二) 小西が吹かばナーヨォオイ オーナァヨイー (三) 潮来の茶屋でナーヨォオイ 潮来の茶屋で呑んだる酒こそ 潮来のコラ茶屋でナー ハァドッコイ オーナァヨイー 翌日は午前十時から大杉神社の本殿で大杉祭りがある。その翌日、祭 りの幟をおろして祭りは終わる。 徳島みろくおどり(潮来市延方小字徳島)毎月十五日を酒盛の日とし に配られる。 前日、当日と奉納品を持って集まる。奉納品は、式が終ると出席者全員 御馳走は鯉と鮒が中心で、赤飯、甘味物等、信仰心の厚い婦人たちが、 に小太鼓をたたいて、徳島地内を一周する。残りの数名が御馳走を作る。 の氏子六十歳から七十歳の女性四〇名ぐらいが神前で行う。当番は早朝 て、水神様が祀られている。この日、みろく踊りが行われる。徳島地区 (四)味醂酒さけかナーヨォオイ 味醂酒コラ酒かナー ハァドッコイ 味醂酒さけかお江戸の下りが オーナァヨイー 磯辺 (一) ソラソラ磯辺さ小屋かけて 鰯の番人(ばんと)に頼まれたヨーイヤサ (二) ソラソラあんばの宮山で 鼻高天狗の鼻踊り(以下同じ) ― 171 ― 神前での式順は、大太鼓を二人でたたいて、七人が歌い、残り全員が 歌う。終わると、次の中太鼓を二人でたたき、三人が歌い、残り全員が 起立して円陣で踊る。これが「徳島みろくおどり」である。 「今日」 今日のお酒盛りは おぶすな様のご法楽 皆いずれおそれ申して 花のよ遊びをさしあげる 「道しば」 道しばを踏み分けて 参り申すおぶすなよ 当年の悪しきことをば けぬげてたまえ おぶすなよ 「あれ見ろや」 あれ見ろや磯の浜で おながタイを釣りあげて あれこそや おぶすなさまへの かけのねを見えそう 「十よ七」 十よ七な(ソリャ)召した小袖だサ(ソリャエソリャエ) なぜに裾が(オーナーヨー)破けた(ソリャエソリャエ) このごろは鹿島参りでそれで裾が(オーナーヨー)破けた 鹿島では おもしろのが 護摩堂で 御手洗 お手洗で 稚児が舞いそろた 護摩堂で ごまたく ごまたけど ただもたかねであとでみろ つづいた おもしろや おぶすなごもり こがねさささんうしろでは 清き神だち まえには踊り 立ちそう 「囃子」 千年千年千年(ヨーイヨーイ ヨイヤサヨイサト) はやせば神を喜ぶ(ヨーイヨイヤサ ソラソラ) みかしょの弁財天 悪魔はらって(ヨーイヤサ) (ヨーカンーベヨーカンベ) 悪魔はらって(ヨーカンベ ヨーイヨイヤサ) 「高砂」 高砂の尾上のマツを 幾千代も代経たるためしには 御子孫も枝葉も繁る なおいつまでも いきの松 おぶすなの御神木に 黄金の花が咲き揃う 片枝は十五夜お月 もう片枝はおぶすなよ 「千秋楽」 四海波こそ 国治まりて 千秋楽とは お目出度い みろく踊りは潮来市の文化財に指定されている。 酒相撲(潮来市徳島)地元の水神祭の中で行われる。酒相撲は当番が横 綱、下番が大関となり三献盃によってやり取りをする。高盛は親椀に山 盛りにもられた御飯を当番主と区長が食べる儀式である。 君島のひょっとこ(阿見町君島) 元治元年(一八六四)頃、疫病流行 の対策として、尾張の国から天王社を迎え祀り、三年後に神輿も出来た。 五穀豊穣、悪疫退散、村内安全を願って、慶応三年(一八六七)から行 われるようになった。祭礼は六月十四日から三日間行われた。 この時、何か芸能がなくては寂しいというので、ひょっとこを演ずる ことになった。ひょっとこは旧江戸崎から教わったものである。笛、鉦 に合わせ、屋台の上で、おかめ・ひょっとこが面白おかしく踊る。この 芸能は、君島芸能保存会によって伝承されている。 ひょっとこ、おかめの踊りには、それぞれの地区の人びとの願いがこ められている。面をかぶることによって、農民は自分の思っていること を遠慮なく表現出来たという。また、娯楽のない時代には、これが生き がいにもなった。 ― 172 ― 念仏踊 念仏踊はもともと、信仰的なものであったが、レクリエーショ ンとして演じられるようにもなっている。仲間同士が集まり、好きな時 に踊り楽しむといったものである。県内では、北茨城のじゃんがら念仏 は安来節なども踊り、老人施設でも踊っている。 浮島の小念仏(稲敷市浮島)旧桜川村浮島に伝わる小念仏は結婚祝や新 築祝などに頼まれてしてきた。歌には高砂、宝の入船、八百屋お七、安 珍清姫などがあるが、現在はその中の一部を歌っている。踊り手は明治 鶴とお鶴がヨ 羽がいを休めて 空をばながめる 下なる小池を のぞいて見ればナ め亀とお亀が 米の守りを くちにトくわえて あなたにあげよ こなたにあげよト なんのマかんトテ 千代をば結んで おあそびなさるヨ。 (本歌) それはまアたさておき の頃は全部男だったが、昭和三年頃から女性も交って踊り、現在では、 女性が思い思いの服装で踊っている。 高砂おん家は 目出度いおん家ヨ 入舟万ぞうヨ 中でもとりわけ高砂お舟は 目出度いお舟で から木の帆はしら あやおりにしきの 帆をまきあげてナ 掛軸がござる 狩野法眼かいたるかけもの 前を見ればナ 前はヨたいなん お舟がつきます 出舟が千ぞうに ひだのたくみが め竜とお竜を ほりたるほりもの おん床前には あくまをけのがす しようきヨだいしんの こうらいへりヨ おん床の間は ナナから南天のナ おん床はしらに 奥の一ト間を 拝見すればナ あかり障子に びんごおもてに 四方がたる木にて 八ツ棟つくりヨ 屋根は瓦で 入母屋げんかん 高砂(人見久左衛門氏採集) (上げ) ヤレソーサァソーダョ 国はまァこれより西にョあたりて 播州は高砂 尾上の松のナ そのまァた下には八十余になる爺様と婆様が ほうきを手に持ち 熊手をかついで 目かごを背にしょいて 宝の山にナ、おのぼりなさりて 松のお散れ葉ヨ、すきのはかまをナ さらい集めて 帰るとするとき 上を見ればナ 上なる松はナ 三がい松だヨ 一ばん枝にはなぜに花咲きそろ 二ばん枝には 小判の葉が出る 三ばん枝には 小判の実がなる そのヤマアタ上には、鶴の巣ごもりめ ― 173 ― 話がお前百までわたしゃ九十九までヨ おん乗りんあさるヨ そこでマ 爺さまと婆さまの二人が話すヨ おんのる方はヨ 七福でナ 恵比寿大国毘沙門弁天福禄寿老人さままで 米(よね)のよ守りを口に銜(くわ)えて 雌亀と雄亀が四つそろえて 下なる小池を見ればな 小粒の実がなる三階枝には鶴の巣籠り 二のまた枝には小判の花咲き 共にしらがに枝葉のつくまで ご寿命長くヨ そのやお船に乗り合うご人はどなたと聞けばな これもしお婆さんよ 高砂浦はな名所でござるよ 出船が千艘で入船万艘よ そこでお爺さんお申すことには 羽掻を組んでなおお休みなさる おん家はごはんじょう あちらに向いたり こちらに向いたり ちごまごなさるよ 高砂文句も 申せば長いが まずはヨ ここらで 段のマアタ切りだヨ オーオン オーン オオイナー アア アーアアン アアイ ナアイ 宝の入り船(行方市浮島)浜田良衛氏採集 恵比寿大国毘沙門弁天布袋福禄寿寿老人さまで御乗りなさるよ はるかまた向こうを眺めて見ればな 松の古株に腰うち掛けてな お年の上なら腰にと手を当て 目籠に詰めてな 松のよ落ち葉や すすきの枯れ葉を 箒で掃きよせ熊手でつくねて 宝の山へとお登りなさるよ 箒をかついて熊手を手に持ち 高砂尾上は この世のはじまり 爺さまと婆さまが 汲上の小念仏(鉾田市汲上)旧大洋村汲上の小念仏は鹿島大師の際、巡 まずはここらで段の切りだよ(『茨城の小念仏』) 高砂文句もあまり長いと御座の無礼よ そっちに注いたり こっちに注いたり ちごまごなさるよ そこでな弁天 一二また一重の 緋のまた袴でおしゃくをなさるよ それを釣り上げ勝手にまわりて料理をなさるよ 鯛や平目があまたで食いつき 船のよ舳先に釣竿たらせば そこで恵比寿さんがな魚がないとて お松が見えます 礼して歩く一行が休息する際のお茶礼に演じたものを伝承したものであ 国はまた播州 所は高砂 そのやお松の一のよ枝には銭花咲きそろ ― 174 ― る。 ( 『茨城の小念仏』河野弘著) まずはここらで段とめまする やめろよ止めろの声きかないうちに サァーサ ドッコイショ ヨイトコーショ 月夜ざし なかでよいのが臼と杵 練れたらあんころ餅それ頼む サァーサ ドッコイショ ヨイトコーショ 十五夜のお月さん 宵から夜明かし その時銀行へそれ頼め 梅が枝の手洗鉢 叩いてお金が出た時は もしやお金が出た時は 梅が枝の手洗鉢 わしの方から気がききましたよ 高砂 まずはこの家のお悪魔祓いよ 播州は高砂 尾上の松だよ 松の下には名所がござるよ 八十と余になる お爺さんとお婆さんがおりまするわよ お爺さんは熊手をちょっいと手に持ちてな お婆さんは帯をちょいと手に持ちてな 松の枯葉や すすきのよれ葉を さらい集めて 目籠に詰めてな 帰ろうとすればな お年の上でなお腰が痛いとよ 二番の枝には銭花咲き揃え あれあれ婆さん あれ見らんせな 一なる枝には鶴の卵が十二と産み揃え れていた。 に、毎月二十一日は小規模に行われていた。その際、小念仏踊りが行わ 利根村・美浦村を中心に四国八十八か所の霊場があり、春先は大掛かり 松の古株へ腰うちかけてよ 三なる枝には鶴の巣籠り 佐倉の小念仏(行方市佐倉・旧江戸崎町)江戸崎町を中心に桜川村・新 羽掻を休めておりまするわよ 真菰がさらりな ヤアレ 真菰がコリャさらりな ドッコイ 真菰がさらり噂をたてるぞ オーヨナイ 美浦村安中の小念仏 小念仏踊りに「八幡山」を演目にしたものが多い。 八幡山でお鳩が鳴きます オーナヨイ 霞ケ浦でな ヤアレ 霞ケコリャ浦でな ドッコイ 霞ケ浦で真菰が招くよ オーナヨイ 八幡山 八幡山でな ヤアレ 八幡コリャ山でな ドッコイ 下なる小池をちょいと見回せば 雌亀と雄亀が米の守りを口にと銜(くわ)えて あなたにやろうか こなたにやろうかと 東へ向いたり 西へ向いたり 高砂お祝いもよ まだ先ながいが あんまり長いと踊り子が骨だよ それについては音頭とり骨だよ ― 175 ― である。 ココでは疱瘡除けなので、あんば囃子との関係が深い。テンポは緩やか 化ぶりである。 歌は下座に変わり、笛太鼓に合わせて、目をむいたり舌を出したりの道 と歌いながら、舞台の四方を踏み固める四方固めを踊る。この後、囃子 一の間天照大神宮 伊勢と春日の御社 そもそも御船の始まりは 柳の一と葉を表すなり 後先ほっそり中ぶくろ まことやら まことやら 八幡山でナーヨーイ 八幡山でナー 八幡山でお鳩が鳴きます オーナヨイ なにとて鳴くよ なにとて鳴くよ なにとて鳴くよ 疱瘡が軽いと 小西が吹かば 小西が吹かば 小西が吹かば 潮来へ乗り込め 潮来の茶屋で 潮来の茶屋で 潮来の茶屋で 飲んだるお酒か 味醂酒お酒か 味醂酒お酒か 二の間がやとり正八幡 三の間春日大明神 四には四国の金毘羅大権現 正式には弥勒三番叟である。この三番叟が伝えられたのは、明治初期で ハァーさいしょ さいしょ 波切り波よけ不動明王 船の軸先にのっぺらぽんとまつらせ給う 田舎回りの芝居役者から伝授されたという。 味醂酒お酒か お江戸下がりか 天長井戸の二六三番叟(鹿嶋市天長井戸)旧大野村に伝わる小念仏踊で、 戦前は天長井戸一座という劇団を編成して、近在の祭礼に公演したと いう。当時の演目は、 「高砂ソオダヨ節」「白枡粉屋」「数え歌」などの おやこらなんちょだね こうらみいら こうらみら アーチャーフィ アーチャーフィ このやお船がはるか沖へと漕ぎ出したれば 悪風台風よけらせ給う よけないでどうするもんだ 手踊りと、 「日高川」 「安珍清姫」 「細田川」などの段物があった。 二六三番叟は剣鳥帽子を被り、背中に鯛の模様の入った半纏を着て、 右手に幣、左手に扇を持って三番叟が、 おおさいや おおさいや 喜びありや喜びあり フィフィフィフィ お船がつんづいた (『国鉄鹿島線沿線の民俗』) みろく踊り(鹿嶋市)「土俗のならいに、物の祝、月の初夜などに、老 我が思うところの喜びは 外へやらじと本望 婆等多く集い、弥勒謡とて、各々声をあげ、歌をうたい、太鼓を打ち、 いいっぱトースートトン ― 176 ― と『風俗画報』にある。弥勒菩薩は釈 か 詳 な ら ざ れ ど も、 中 古 の 風 と み ゆ 」 面白し、これ何の時代より、始まりし をあげつつ、踊るあり、そのさまいと 九月二十一日や紐解き祝い、新築祝いなどに行われる。 踊りは廃絶している。お酒盛は五曲ある。演奏はお大師様正月・五月・ 結成された。毎月一日、十五日に大町会館で定例会があり練習してきた。 大町の弥勒 大町では老母連によって伝承されている。ここでは「お酒 盛」とも言う。戦前に始められたもので、昭和三十一年には、保存会も 或は体を躪(にじ)り、手を振り、足 迦 如 来 に つ づ い て、 そ の 歳 が 四 千 歳、 人間の世界では五十六億七千万年に なったら、この世に現れて、釈迦のか わりになるという。弥勒信仰は生きる ものに未来への希望をもたせて、将来 末の小枝に銭がなる。銭の恵みて朝日さす。 、本は白銀中黄金、 是のお庭の白躑躅(つつじ) その一「今日」 今日のお酒盛りは、御神様の御法楽。 皆いずれそろい申して拝み申し候。 何事も悪しきことは避けたまえ神様。 その二「めでた」 ①目出度めでたが三つ重なりて、門に七重の注連を張る。 のために努力することをすすめるため にも役立った。この弥勒信仰と鹿島信 仰が結びついて、みろく踊りが生まれた。 鹿嶋市では大町のみろく、 神野みろく、大船津のみろくなど三四の地区で踊られてきた。人数は各 これのお家はめでたいお家、鶴と亀とが舞い遊ぶ。 朝日長者と名を呼ばれ。 ②目出度めでたが三つ重なりて、門に七重の注連を張る。 してお婆さんたちによって伝えられてきた。寺院を中心にして講が開か 地区によって二人から三〇人までまちまちであった。みろく踊りは主と れ、氏神様の例祭、婚礼などにも踊りが行われてきた。しかし、踊りは その三「弥勒」 鶴は千年、亀は万年、お家繁昌と舞い遊ぶ。 親は百まで、子は九十九まで、ともに白髪の生えるまで。 ほとんど姿を消して歌だけになっている。 鹿島弥勒について、嶋田尚氏が『茨城の民俗』三四号から三七号に発 表している。それによると、現存しているのは、大町・粟生・佐田・爪 世の中は万劫(まんごう)末代、弥勒の船が続いた。 艫(とも)には伊勢と春日、中は鹿島の御社。 ありがたや息栖お森は黄金社壇。 神野・田谷・木滝となっている。近県では千葉県成田市などに伝承され 木・泉川・角内・仲町・桜町・鉢形・大船津新田・谷原・大船津・下塙・ ている。千葉県南房総の洲崎神社では「洲崎踊り」として、二月初午に 一度は参り申すべく候よ。金三合撒こうよ、 打って輝く後には、清き神たち、前には女瓶男瓶。 あの御座船、香取は四十余の御柱、音に聞くとも尊しや。 弥勒踊と鹿島踊を舞っている。踊り手は小学生から中学生までの女子で ある。明治の頃は男性が踊っていたそうだ。 ― 177 ― 金三合は及びござらぬ、米の三合撒こうよ。 何事も叶え給えや。常陸鹿島の神々様。 みないずれいさめ申して、花の遊びをさし上げる。 みないずれいましめ申して、花の遊びをさし上げる。 あれ見ろや、向かい見ろや、色良き花がそよめく。 あの花を迎え申して、お不動様に立花。 ⑤今日のお酒盛は水神様への御法楽。 その四「お茶の礼」 これ様の初の正月、門松門林(かどばやし)、 その松の一の小枝に孔雀の鳥が羽根をば休めなあ。 両羽根に銭を並べて、口には黄金を銜(くわ)え居るよ。 その鳥がまたも来るなら、末代長者で暮らすものよ。 その五「弥勒」 鹿島では、美しいのは、御神様のあのはい藤。 片板は御明神に、もう片板は御明神に、 お薬師の古木に黄金の花が三つ咲く。 みないずれいさめ申して、花の遊びをさし上げる。 ⑦今日のお酒盛は、お薬師様への御法楽。 みないずれいさめ申して、花の遊びをさし上げる。 ⑥今日のお酒盛は道陸神(どうろくじん)への御法楽。 はい藤が咲きそろって、御神様に輝く。 何事も叶え給えや。常陸鹿島の神々様。 もう片板はお薬師に。何事もけよけ給い、 常陸鹿島の神々よ。 その二「お鹿島」 大師様(二十一日)二十六夜尊にも奉唱してきた。一つの太鼓を向かい お鹿島で面白いのは、ごまんどうで稚児が踊れば 粟生の弥勒 毎月一日、 十五日、 女性たちによって、奉唱する。このほか、 シンジンマチ(初産の人の安産祝い) 、鹿島様の祭り、薬師縁日(十二日)、 合わせて二人でたたく。踊りは円陣を組んで行う。 (スッチョイ、スッチョイ)ごまんどうで護摩を焚く。 ただもたかねの、弥勒続きの護摩を焚く。 (スッチョイ スッチョイ) 何事もけよけ給い、常陸鹿島の (アースッチョイ、スッチョイ) 前は女瓶男瓶。おが御座船。 おが輝く。後にはけよけ神立つ。 ありがたやな、息栖お森で黄金さざん (スッチョイ、スッチョイ) (スッチョイ、スッチョイ) その一 お酒盛り ①今日のお酒盛は、お天道様への御法楽、 みないずれいさめ申して、花の遊びをさしげる。 ②今日のお酒盛は、八幡様への御法楽 みないずれいさめ申して、花の遊びを差し上げる。 八幡の玉の手箱は誰も持つまい。おそらくも、 もし持たば、門の和尚さん、かのうかんのじの神主か。 ③今日のお酒盛は、お鹿島様への御法楽。 みないずれいさめ申して、花の遊びをさし上げる。 ④今日のお酒盛は、お不動様への御法楽。 ― 178 ― 神々よ。アーヨイヨイヨイイヤサ、 姿に扮した青年たちが日月の採物・幣を手に持って踊る。鹿島の事触れ は毎年、十二月八日に鹿島神宮の巫女が神託を発し、それを受けた下級 神人が白の仕丁・烏帽子・烏万灯・御幣をかついて諸国を回り、家々の これ様のおざを見れば、黄金の花が七もと、 みないずれいさめ申して、花の遊びをさし上げる。 弥勒踊は女性的で念仏踊という感覚だが、鹿島踊は男性的仕草が強い。 現在、鹿島地区では、鹿島踊は消滅している。今日、鹿島踊が伝えられ に鹿島踊が伝承されていると思われる。 門に立って農漁業の豊凶を卜し、御符を配って歩いた。その影響で各地 七もとが咲きやそろうて、おざわ名所と(が)輝く。 ているのは、太平洋沿岸の神奈川県湘南地区から静岡県の伊豆半島で、 漁村との関係が深い。 何事もけよけ給い、常陸鹿島の神々よ。 アーヨイヤサと囃せば、神も喜ぶ。ヨーイヤサ。 その三 六夜様のお酒盛 今日のお酒盛は、六夜様の御法楽。 鹿 島 踊 「 こ の 躍 舞 は、 白 張 を 着、 烏 帽子を被り、幣を持ちて歌舞す、幣の 熱海市では下多賀鹿島踊、上多賀鹿島踊、網代鹿島踊各保存会があり、 無形の民俗文化財に指定されている。 静岡県島田宿では三〇〇年前に疫病がはやり、春日神社を建立した際、 鹿島踊が始まったという。 「ヨーイヨーイ、ハ、サ、ハ、サノサ」と唱え、 中央には、日形をつくり、中に三足の 国に疫癘(えきれい)あり、常陸国鹿 「ヨーイ、ヨーイ、ソーンライサノサ」と続き後ろ向きで踊りながら進む。 霊鳥を描く、世事談に、寛永の始、諸 島の神輿を出し、所々に渡し、万民の 疫難を祈らしめ、その患を除く、因て 『日本舞踊史の研究』(三隅治雄著)には「近年ダム工事のために水底 に没してしまった東京都西多摩郡旧小河内村に鹿島踊という芸能が伝承 「鼓」などという古い小歌を集めた踊を集団で踊るもの…」とある。こ 躍らしむ、これ即ち世のいへる鹿島躍 此躍今なほ世に名高くものすれど、鹿 の中の「桜川」は昔の若衆歌舞伎の演目にもあるし、古いものという。 されている。これは十七、 八歳の若者たちが女装で、 「月は八幡」 「桜川」 島にては絶ゆ、或書に、鹿島躍といふ の始めなり、云々、この遺風なるべし、 もの、おやもさおやもさと、拍すもの、 鹿島事触 鹿島踊のもとになったと思われる「鹿島事触」について『風 俗画報』を引用しておく。 「 鹿 島 神 民 の 内、 他 邦 に 出 て 鹿 島 大 神 の 祓 札 年中の豊凶災異、疫病の事をいふ、その声大いにして隣里に震ふ、以て もさは猛者なるべし云々とあり」と『風俗画報』にある。 鹿島踊は地元の鹿島神宮には、残っていなかったが、平成十四年の御 船祭の際、女性による鹿島踊が再現された。なお、この時、来宮の鹿島 自ら神託なりとす、俗家これを聞く者、或は出でて其難を祓はん事を請 を戸毎に配付するものあり、白張を着、烏帽子を頂き、また路頭に立ち、 踊が披露されていた。 へば、則、神に祈り謝物を得て去る、これを鹿島事触といふ」とある。 鹿島踊は寛永年間からとされ、鹿島事触れの白衣・烏帽子(えぼし] ― 179 ― 行を働いたので、寺社に訴えた。それにより、事触の名称は御師になり、 は県北地方には一件もなく、石岡市四(うち八郷・三)、筑西市三、下 その形式と技巧は各地によって異なるが、その創始年代は、近世初期 で、本県では十八世紀初頭が創始期と思われる。この十二座神楽の分布 しかし、寛文十年(一六七〇)夏、大宮司則敦がその事触をする者が悪 神札を配るのみになった。この事触が鹿島踊の基になったのは、衣装が 妻市一、結城市一、古河市二、稲敷市(旧桜川村)一で、それぞれ神楽 いい、後に神刀流と改めた。天児屋根命の孫、国摩大鹿島之命の後に国 舞のなかで舞われるものもある。 巫女舞は、一番古い型を伝えているのが、潮来市の大生神社で、鹿島 神宮から伝授されたといわれている。巫女舞は独立せずに、十二座神楽 面を保有している。 それを示しているようだ。 摩真人がいて、高間原に神檀を設け祈り、大神の教えに従い、一太刀の 鹿島神当流 芸能ではなく武術なのだが関連もあるので述べておく。 武甕槌大神は、日本の武人の祖神で、伝えられる兵法があり鹿島太刀と 術を発揮し、後世に伝えた。その後、時代が流れて、子孫の塚原卜伝が、 実際にはこの中から五曲だけを選んで行われていた。一曲一座形式で が追加され、十二座神楽と呼ばれるようになった。 神、第一一座天鈿女命(二) 、第一二座手力男命(たちからおのみこと) たが、大正三年(一九一四)に第八座八幡、第九座榊葉、第一〇座田の 五座稲荷、第六座素盞鳴命 (すさのおのみこと)、 第七座住吉の七座であっ 神楽は、第一座猿田彦命、第二座三宝荒神(さんぽうこうじん) 、第 三座蛭子(えびす)第四座天鈿女命(あめのうずめのみこと) (一)、第 の大祭に演じられる。 大杉神社では境内にある神楽殿で演じられる。かつては、秋の祭りの 十月二十六日、二十七日と五月八日の駒牽祭に奉納されたが、現在は秋 ・ ょっとこなどの道化的なし 十二座神楽は里神楽の一つで、おかめ ひ ぐさも演じられ、滑稽な面が受けている。 香取神宮丁子村氏子中の指導で再興した」と、書かれている。 社(旧江戸崎町高田)の指導を受け再興したが、さらに湮滅、その時は、 「大杉神社文書録」によれば「…明治三十三年湮滅に瀕したとき高田神 大杉神社十二座神楽 稲敷市阿波(旧桜川村)の大杉神社は、あんば様 として、信仰を受けている。この十二座神楽の起源は、不詳であるが、 千日間、鹿島神宮に参籠、神託を得て、神当流として、現在も続いている。 3 神楽 天の岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞ったり、日本 の神話を演ずる仮面黙劇(かめんもくげき)を出雲流神楽という。本県 では、この神楽を太々神楽、十二座神楽と呼称するのが普通である。 ― 180 ― 各曲とも舞人は一人である。内容が変化にとんでおり、観衆を飽きさせ 狄は恐れをなし二度び叛くこともなく天地治める御世のためし、民安全 き起り、波濤頻りにひるがえり、賊船残らず蒼冥海原の漳、いよいよ異 に豊にすめる、これ神国の故なりと御殿さして入りにけり。 ないのも、この十二座神楽の特色である。 楽人は大太鼓一、小太鼓一、鞨鼓一、笛一又は二で、演舞者は調査時 六人であったが、後継者が欲しいとのことであった。(「茨城県の民俗芸 能」 ) 手力男命 我は手力男命なり。諸神等(もろかんだち)は純一無雑の誠をつくし、 祈をなし舞をかなでば天地の神明感応ましまし給え、天照大神も御心ほ どけて岩戸御戸を開き給えば、恐れおそれお手をたまわり引て出し奉れ 尊「そもそも我は天照皇大神の弟神素盞鳴尊なり」 和合に洩れては出雲の神、その古き教えを戴き祭事には天雲の稲田姫、 く安らけく楽しむ御代ぞ目出度けれ。 を引き渡し、別の御殿に移し祀れば、あやしき御心気すでに晴れ、面白 ば、児屋根布刀玉両神は、また中へいりましぞとて端出縄(しりくめ) 御面(みつら)にかんざしゆんずのつま櫛。 榊葉 それ御神楽の音高く拍手もさやけき伊勢の神風、御姿まさに現れたり。 実に実に神明往古のしるし。今こそ誠に姿を現わし、なお人ぐさにまみ 「謡の文言」 (歌詞)がある。 この十二座神楽には、 素盞鳴命 尊「さすなりさすなり」 たもとも輝けるやと、火の川上の向の岸に立ち給う。尊音楽聞いて、 いもきょうくんす。千早振るとも舞の袖、尊は蛇を従えんと、十束(と えば、日月光を同じうして舞をかなでる。 えんと、外宮の男人な陽の鼓を打ち給えば内宮の女人な陰の扇を開き給 たずたになしけるが、その尾が切れて雲村立ち、剣の刃少し欠ければ、 つか)の剣を一手に抜き放ち、怒れる大蛇の酔えたるを切りはなし、ず 尊はあやしみ、御覧ずるに、その尾の中に一つの剣あり。 ありがたしありがたし、あきらけき人たち謹しみいやまいで、未テ倉 をいまつれる故。古へ素盞鳴命のみしわざはなはだあじきなくして、日 唯今せふさく。天の鈿女命と称する者は何者にて候や。 今日の社人称し申さん。 鈿女命 る。 曲をつくし給えば、天下安穏国土豊かに天照大神の御影の光ぞ目出度け に出でて日神月神光を合せ、花になれたる胡蝶のごとく、ぶりょくの秘 そのありさまは誠に神感肝に銘じ、そらつひことはこれならん。おり から七月中の五日の東雲近く、有明月は西に逃れり、明日は東にほのか 尊「ありがたしありがたし、これこそ村雲の剣なるかな」 あれは村雲、これは十束の剣、何れも神剣なれば、永き代までの宝と なるこそこれまた尊の神徳なり。 八幡 御殿しきりに鳴動して和合同神自らその神徳のあらたなり。御姿正に 現われたり。その上つ代の始めよりこの秋津洲に地をしめし、陰陽干満 竜雷の軍配八陣の備え、八つの幡を立て靡かせ八百万代の末までも西海 四海に誓を顕し、益々弓矢の武徳を添え悪魔を鎮め国土を治め守るとこ ろに、ある時異国の凶賊ども我日の本を窺んと襲いきたるを忽ち神風吹 ― 181 ― えば、八百万の神等なげき悲しみ給い、そのとき、はごころ思兼命に思 の神天の岩戸に入らせ給えば、高天原及び豊葦原の中津国常闇となり給 なくもそれ自からが眷属の中にも雲の上の天神、霞が下の霧とて、二 人のけん便者を領し申す。 事自からが執行なり。 を取りて手ぐさとなし、日かげを採りてかつらとなし、岩戸の前にうけ 願成就すべし。 なんじも今日のお神楽を成就せんと思い(え)ば、これより南方に向 いてあな八幡八まん八王八代荒神と念じ給い(え)ば、あきらかにこの わしめ、常世の長鳴鳥に長鳴きさせ、天の香具山の竹を取り、その節合 ふせふみととろかし。 に穴を掘り、和らけき息を通わし給え。天の鈿女命は天の香具山の笹葉 一二三四五六七八九十百千たり、万代というて歌い舞い給えば、日の 神天の岩戸細めに開けて見給えば手力男命お手を取りて、引出し給えば、 を賑やかに演奏する。 この時、巫女を大鳥居まで、宮司な ど全員で見送る。それより大生ばやし (なおらい)の順で行われる。 本殿の閉扉、宮司・参列者一拝、直会 座 ~ 七 座 )、 八 平 手 の 儀、 玉 串 奉 奠、 の 間 奏 楽 )、 宮 司 祝 詞、 巫 女 奉 仕( 五 りが始まる。宮司一拝(全員参拝)、修祓、神饌を供え、本殿の開扉(こ 前 夜 祭( 十 一 月 十 四 日 ) 巫 女 と そ れ に 従 う 人 々 が 参 進 し て 来 る と、 宮司や氏子総代が大鳥居まで迎えに出る。そして、全員が座につくと祭 いる。例祭は十一月十四、十五日で大きな祭りになっている。 言葉そのものは理解しにくいが、楽しい芸能として親しまれている。 大生神社巫女舞 潮来市大生の大生神社で、巫女舞が行われる。大生神 社は大同元年、藤原氏が東征のおり、春日神社を遷宮したと伝えられて 高天原及び豊葦原中津国照輝き給う。この時のわざおきなも神楽の始め なり。 三宝荒神 我は諸神皇論のその先より、八万四千年を経たる者にて、されば世上 のためには父母たり。然るに八人の眷属を引ぐすと言いり。皆夜叉神、 奈行土佐神、さとる神、方ぼく九正神、天夜叉、多波天、水波天とて諸々 の眷属あり。 され自からを荒神と称する者は何物ぞ。 今日のかんが称し申す。 ありがたし、それ三宝荒神と一葉。 素盞鳴命の変化、大巳貴(おおなむじ)のふん神也。しくらんそとう の主上を利はつせんがため、内には慈悲にん人の姿をかくし外には極悪 例大祭 大祭の当日は、氏子各戸か ら総出動して、神社に集合する。また、 不動のかたちを顕じ、それ自からが眷属と一葉。九百八千五百九十二の 磁気を以って上便とす。 神座に行き、出発式をあげてから大行 列を組み、 高張提燈を先頭にして出発、 巫女は神社に集合する。また、巫女は 一心くよう多足の大さは火水二行の道を示し、荒神さらば天。みな社 尊の眷属なり。 所なくにほつしょうみさいの位を任ず。ざじて名をあげ徳をあらわす ― 182 ― 生ばやしが演奏される中を社前に向かう。現在、山車はほとんど使用さ それに合わせて、神社からも山車が出発、中間で二つの組が合流し、大 奏される。 拝殿から殿上は宮司が奉仕する。この時もずっと笛、太鼓によって楽が れが終わると直会があり、終了の太鼓を鳴らす。そして、巫女を神座ま れていない。 宮司をはじめ、総代など大鳥居まで出迎えに出て先導する。その後、 巫女は昇殿して、一拝の式を行う。そして、昔から伝承されている握り で、賑やかな行列を作って送っていく。 神 事 は、 宮 司 の 祝 詞 奏 上( 全 員 平 伏 )、 巫 女 奉 仕 の 古 代 舞( 奏 楽 員、 七器七人奉仕)、八平手の儀、玉串奉奠、神饌撒き、御閉扉と続く。こ 飯の夕食をとることになる。この夕食に使用した飯櫃は、現在、鹿島神 るもの一名を選ぶことになる。これを御籤の儀といっている。決定する 宮の宝物殿に収められている。 夕食がすむと、神事の開始である。まず、祭事にあてられる社前の庭 上に、神田よりとれた新藁八石八斗で作った新菰を敷き、着座札を立て と若者が巫女の家に行き、あらかじめ、準備しておいた注連縄を、その 御当の儀 氏子の中の七歳から十二歳までの童女を選び、さらにその 中から十一月一日、真夜中丑の刻(十二時~一時)に神前で、巫女にな たりする。今では神田もなくなったが、昔、神田から八石八斗の米が収 家の門にそっと張り帰ってくる。翌朝それを知った家は、めでたいもの として巫女を引き受け神座となる。 穫されたので、この祭を八石八斗の祭とも言ってきた。 着座札によって全員が庭につくと、神事が始まる。まず、修祓、宮司 一拝、その後で、氏子中の若者が奉仕して、祓いの儀になる。 三日後、総代、祭典係長、副係長が当家に現れ、祝辞を述べ、その翌 日から故老たちによって巫女舞奏楽伝授の練習がはじめられ、十三日ま を神饌所へ収めて元の席に戻る。 し、元の位置に帰って一座する。これを五座ないし七座行うことになる。 巫女舞 巫女は神前に座し一拝し、七五三調の神楽太鼓にあわせ、鈴 御幣を案上から両手に採って交互に振りながら舞う。神楽太鼓が終わる で行われる。 第二儀 御塩の行事 二の祭員が御塩を拝して、第一儀と同じように 祓いの神事を行い元の席に戻る。 、緋袴、白足袋、たれ髪に熨斗折紙をつけ 巫女の服装 舞衣(狩衣) ることになっている。 第一儀 御榊行事 一の祭員が浄衣を着て身を正し、神饌所から大榊 を捧じて、社前の中央に進み一拝、神前に向かってお祓いをし、次いで 第三儀 散米の行事 三の祭員 米を拝して前の二つの儀と同じよう に行い、自分の席に戻る。 巫女持物 右の手に舞鈴、左の手に御幣を持つ。これを交互に振りな がらの舞である。 右側を、その後、左側を祓って一拝し、三歩後退して、右に回り、大榊 この三つの儀が終わると、本殿の扉を開く。その間、奏楽、全員平伏 して参拝する。その後、神饌を供えることになる。饌米、神酒、鏡餅、 と奏楽、巫女もたって後下がり舞を行い、二節目になると、右回り前進 川魚、野鳥、海藻、野菜、果物、塩及び水がこの時の神饌である。 相楽器及び服装 横笛二、小鼓一、大鼓一、大太鼓一、付太鼓一、神 楽太鼓一で、これを合わせて七器といっている。服は浄衣、引立帽子、 浄衣、引立烏帽子、白足袋姿の若者五人が、神饌所より拝殿まで運び ― 183 ― 白足袋、藁草履姿である。 神楽歌 昔は神楽歌が伝えられていたが、今は音調のみ伝わっている。 太夫は素袍に立烏帽子、高足駄、扇を持つ。才蔵は袂の着物にたっつ けをはき、中歯の下駄、行李の大きいのを、風呂敷で背負い、鼓を持っ ど、大正か昭和の初期まで村を訪れていた。(『水郷の民俗』) 寄せ、こねぶつ芝居、祭文、説経浄瑠璃、虚無僧、猿まわし、獅子舞な ると、おひねり(米一升)と金子を受け、米は現地で売って現金にする。 義(昭和十二年生)さんで「三羽鶴の舞」などを奏しながら、言葉の力 各家を訪れて、家に上がる時は、中座敷から上がることが多い。茨城 を回っていた太夫は若杉昇平(大正二年生)さん、才蔵が長男の若杉範 て歩く。どちらも白足袋をはいている。 万歳は三河万歳が県内を回っていた。太夫と才蔵のコンビで行うが、 才蔵は三河から来たが、才蔵は江戸で臨時に雇っていた。そのために、 空になった升には、お札を入れる。 4 訪れる芸能 昔は季節ごとに各種の芸能が村を訪れてきた。万歳、 神楽は村の人たちに歓迎され定宿も決まっていた。そのほか、ゴゼ、口 才蔵市が立ち、そこで選ばれ、後に二人がなじみになり、個人の契約に で、贔屓先に幸福をもたらしてきた。回る家を檀家といい、万歳が終わ なったらしい。この万歳も後継者が問題になっている。 「檀家初穂帳」に回る家が書かれている。曲目は「三羽鶴」、「七草」 、「天 の岩戸開き」などの舞である。 太夫の舞は立ち上がって目出度い文句の歌を歌いながら扇を開いて舞 う。才蔵はそれに合わせて、区切れ区切れに「えへこれわい」ポンと鼓 三河万歳 三河万歳は最近まで霞ケ浦湖岸を廻っていた。文献としては ビデオ「三河万歳」 (シノ映像)がある。安城市から来て、その後下館 に滞在、玉造町や桜川村を廻っていた三河万歳を記録したものである。 を打ち鳴らす。文句は家の宝の数々をほめ、長寿福徳を讃える。才蔵の おどけた仕草に皆、笑い楽しむのが三河万歳である。 又、 『水郷の民俗』 (玉造町堤一郎著)と『ちょうちん酒』(桜川村人見 暁郎著)も地元での公演の様子を紹介している。 玉造の旅館は定宿になっており、そこで、富山の薬売りの人たちと交 流して、世間話をし、万歳を披露し正月を祝う風景がシノ映像のビデオ 才蔵 チョイト ゆうさい菰やし敷き並べんて 太夫 ヤレ 千代も重ねて 才蔵 チョイト 万年まあいでんも、チョイト咲き栄えんで 太夫 陰陽、鶴は千年、亀は万年のお祝いです。 (鼓を入れる) 才蔵 チョイト みつるの舞でんも 太夫 コリャ 黄金の 鶴は千年亀は万年 におさめられている。 三河万歳は、正月から二月にかけて、定宿に宿泊し、家々を廻ってい た。かつては石岡から鹿島鉄道を使っていたが、車になっていた。 三河万歳は『民俗芸能辞典』によると、愛知県西尾市や安城市別所に 伝承された正月の祝福芸で、文武天皇(六九八~七〇七)が三河に行幸 した時、農民の吉良太夫と庄司がお祝いの歌舞を奏したとか、その他多 くの伝説がある。万歳なので二人の掛け合いであることは確かである。 この地で発祥した万歳の集団が太夫と才蔵を一組として、毎年江戸に下 り、大名家や豪家を巡って、正月の壽詞を述べ、歌舞を演じていた。明 治以後衰退し、地方を回る組も少なくなっていったが、保存に努力して いた。 ― 184 ― 太夫 ヤレ お家も栄えんで 才蔵 チョイト 富がまし、しきりに来んる 太夫 ヤレ 祝のものとが 才蔵 チョイト 賞めよろや、こんでんな 太夫 コリャ 吉凶なる 才蔵 チョイト たてなる孫、ほほ万歳よ 太夫 ヤレ りじょうやこんなる 才蔵 チョイト 多門の冠、チョイト頭に面す 太夫 ヤレ 綾なる袴を 才蔵 チョイト はいてにて、運ぶやんあ コリャ 貴人の刀を 太夫 才蔵 チョイト 腰にと、さしてんな 太夫 コリャ ゆずり葉を 才蔵 チョイト 口にと含み 太夫 コリャ 五葉なる 才蔵 チョイト 松の葉をチョイト太夫さん手や手に持ちてんな 太夫 ヤレ いぬいの隅より 合 チョイト 黄金のさし葉をもって (太夫・才蔵) 右まきには、そろやそんろ、左まきには、 映像)がある。私もかつて同道して霞ケ浦の村廻りに参加したことがあっ た。一組が五人以上で構成される。三味線、太鼓、笛、鉦などの楽器に 合わせて、獅子舞や曲芸をする。 曳く車には天照大神の御神体が乗っている。 「おめでとうございます」といって、お祓い回りは家々を歩く。家で は一升枡の白米と祝儀袋を用意して待っている。お祓いはそ家々の状態 によって異なってくる。 最初は獅子舞である。獅子は邪気を祓い、場を清める役目を持ってい る。村を訪れたときの獅子舞は、素舞、幣の舞、鈴の舞を組み合わせた ものである。(『水戸太神楽』河野弘著) ここでは、前記の『柏崎の民俗』を参考にまとめた。 神楽も最近、お座敷や寄席神楽になりつつあるが、柳貴家勝蔵社中は 水戸藩御用神楽の伝統を守り、旧水戸藩領の霞ケ浦湖畔のムラを廻って いる。 各家を訪れると、獅子役は獅子頭を被り、まずは何も持たずに舞う。 太夫が「ハァー神楽と書いた二文字は、神楽しむと読むなれば神も喜 ぶ千代の舞」と神歌(神楽歌)を歌う。 次に獅子は御幣を持って舞う。ここでは見栄を切る。 ここで一座の者が「ハァーヨーイ」と掛け声を掛けて囃す。 その後、太夫の神歌が入る。「ハァーまずは当年の悪魔除け、くる災 難出先の難、けのがせ給えと宮拝殿に、飾りおいたる御幣に大鈴取り上 獅子は右手に鈴、左手に御幣を持って舞う。囃子方は一斉に囃し、後 見人が「ハイ、お獅子は奥まで」といい、太鼓と笛が奏し、獅子は座敷 げ、悪魔を祓う。お目出度い」と。 水戸大神楽 水戸大神楽・総本家一五代家元の柳貴家勝蔵社中が霞ケ浦 周辺のお祓い廻り(村廻り)をしている。このことについては『柏崎の に上がり、神棚の前に行って、噛む仕草をする。その後、家人の頭を噛 きりりやきりと 太夫 ヤレ 一夜一夜にめんーめんと 才蔵 万本ばかりの柱をば、おとり寄せて合わすれば 民俗』 (東京家政学院筑波女子大学発行)や『水戸大神楽の世界』(シノ ― 185 ― み息災を祈る。これで獅子舞は終わって「有難うございました」で獅子 頭を取る。この後、曲芸に入る。 てすかれける なんあく御普請成就する サァ朝の手水(ちょうず)で身を清め 一人立ちになる。格調高くしたり、怒ったり、中国の故事により眠りに とこ、金獅子がある。この獅子舞は物語風で面白い。二人立ちで、時々 方に散り、紙吹雪が舞う。( 『日本大神楽事典』 ) せ、それを回転させて、さまざまな手事を演じる曲芸で、最後に水が八 新築の場合、礎石の上を幣で祓いながら、普請祝いと家内安全祈願を する。その後「水雲井の曲」を演ずる。長い竿の上に水を入れ、器を載 太々神楽を舞いらする 悪魔を祓うおめでたい 入 っ て、 「 ネ ン ネ コ 」 の 伴 奏 が 入 っ た り も す る。 獅 子 が 鞠 と 戯 れ た り、 (柳貴家勝蔵著)によると、能の舞、 獅子舞の演目は、『日本大神楽事典』 下がり葉、幣の舞、鈴の舞、狂い獅子、邯鄲夢の枕、鞠の戯れ、ひょっ ひょっとこにいたずらされ、最後にそれを追い払うことになる。 そして、その毬を右手の竿の先の皿に投げ上げ、投げ返す。 「おバチを この芸は勝太郎が演じた。右手に先が皿状になった竿を持ち、左手に 毬を隠して「どこにいったか知らないか」という掛け合いの曲芸がある。 お祓い回りで、おひねりのお返しとして、御札を配布する。天下泰平、 悪魔退散、開運招福、五穀豊穣などである。悪魔退散祓いには鐘馗舞も くわえて、おマリをのせた竿をその上に立てます」と太夫がいう。ここ までは、小手調べである。 ある。 村を廻って、新築祝い、開店祝い、結婚祝いなどそれにあった獅子舞 や曲芸をする。不幸があった場合にも、それにあった神楽を奏する。そ ました。その時、必ず、霞ケ浦の中心で、潮の御霊鎮めと大神楽が来た 「霞ケ浦地区は旧水戸藩領を廻ります。横須賀・田伏・中台・沖の内・ 後地・柏崎の周辺です。昔は自動車がなかったので、玉造から船で渡り 家元の柳貴家勝蔵氏にお話を伺った。 ト紙吹雪が散る。 一瞬、頭を振り上げると、さっき水を撒きちらしていたあたりから、パッ コップの水を散らす。水がなくなったところで、「嵐山落下の舞」に入る。 「唐笠屋ロクロ回し」と口上があり、「小野小町は祈りの雨」で遠心力で せる。勝太郎、両手で擦って竿を廻す。「いたいよ」と後見が声を掛ける。 いよいよ、毬にかわって水を載せる番になる。竿の上に水の入ったコッ プを載せ、それを先端の尖った小道具の上に載せ、そのまま額の上に載 知 ら せ の 意 味 を 含 め て お 囃 子 を し ま し た。 そ し て、 庄 屋 で あ っ た 加 古 れが、永くお祓い廻りが続いている理由のようだ。 さん宅より御祓いをして村内の御祓い廻りをしました(今もそうしてい 寿獅子舞は二人立ちになって狂い舞う。この獅子に頭を噛んでもらう と息災である。この後、前に紹介した「水雲井の曲」を行う場合もある。 祝いを奏しハァー奉る」 「サァ、まずは当年の神いさめ悪魔を祓うお目出度い」 寿獅子舞 神歌「サァ、つるはちとせに羽(は)を休め、亀は幾千代 万年の ます) 。今は水戸から自動車で通ってしまいますが、昔は泊まったので、 夜はお寺で村の人に神楽を見せたものでした」 新築の家の場合 『柏崎の民俗』は「水雲井の曲」を紹介している。 神歌 ふたつ枕にふた柱 ちょうなだてには棟上げの 板こ並べ ― 186 ― 家によって演目は異なる。 「天鈿女命の舞」 オカメの面をつけた天鈿女命(あめのうずめのみこと)と太夫が滑稽 な言葉のやりとりをし、皆を喜ばせる演目である。この舞は水戸光圀が 奉納したともいう。 「紙切り」は寄席芸である。紙にはさみを入れて、絵を即興で切り抜 く芸。鳴り物に合わせて切る。水戸大神楽では戦後取り入れ、現在、勝 蔵親方が継承している。 そのほか、 「傘の曲」では、傘を広げて傘の上で鞠・金輪・茶碗・お金・ 枡などを回したりする曲芸である。勝蔵親方が「お相撲さんからもらっ ― 187 ― た金の指輪です」と傘に載せて回す。金の指輪には金回りがよくなると いう縁起がある。次に枡を回し「ますますのご繁栄」。それに後見が「な るほど」といって締める。 「皿の曲」もよく演じられる。篠の竹の先で皿を回す。水戸大神楽独 特の演目として小型の梯子や糸巻を小道具として演ずる。 皿の曲芸を御覧にいれます」の口上があって、 「さらによくなるように、 皿調べをして「おだまき五月節供は風見の手」を演ずる。糸巻きにハシ ゴを掛けて、それをあごに載せ組み立てていく。 掛け合いの茶番は面白い。滑稽芝居で、「忠臣蔵五段目」「忠臣蔵三段 目」 「忠臣蔵七段目」はオチが洒落ていて人気がある。 表紙写真は村を廻る水戸大神楽 第3章 住 居 られる。 屋敷取り 屋敷とは主屋を中心にして、納屋、蔵、井戸、便所、家畜小屋、 隠居屋、長屋門などの付属家屋、庭木、屋敷林、屋敷畑などを含んだ敷 、百瀬家 珍しい民家としては、旧麻生町麻生の福田家住宅(旧畑家) 住宅(旧神田家)、三好家住宅など昭和四十九年の民家調査で記録した。 県南や県西には直屋と大きく分けることができる。これらは、自然の地 地と施設をいう。そして、これらの配置の仕方を屋敷取りという。屋敷 住居の背景 県内の民家は直屋、曲屋、分棟型に分類される。その分 布の状況は、県北部及び太平洋側に曲屋、水戸などの中央部に分棟型、 形や風などの影響の中から考えだされたもので、風土にあった生活の知 や な ) ど を 配 列 す る コ の 字 型 が 昔 か ら 行 わ れ て い る 屋 敷 取 り で あ る。 屋 敷林は屋敷の北から南にかけて植えられているのが普通である。 造物が多い。また、地相 ち ( そう と ) か家相 か ( そう と ) かの影響もある。 一般には主屋の前方に庭をつくり、その庭を挟むように、両側に納屋 な ( よって異なっている。とくに、農家は蔵や納屋や家畜小屋などの付属建 取りは屋敷の形状・日照・風向き・道路などの立地条件と生業の種類に ) 恵ともいえる。 住居は生活機能の面からみると、休息の場、生産作業の場、家畜飼育 の場に分けられる。それはさらにユカを張った居室部分と土間部分とウ マヤに分けられる。曲屋、分棟型、直屋はこれらの生活ができやすいよ うに、考え出されたものである。 切妻 き( りつま 、 寄 ) 棟 よ( せむね 、入 ) 母屋 い( りもや 屋根の形式には、 度葺くと三〇年はもった。この屋根修理は近所のユイ(結い)で行われ 羽屋がいた。茅葺きのほうはカヤデがいて忙しかった。茅葺き屋根は一 ていた。そのほか、霞ケ浦や北浦に面した地域では割合に類似している。 豚と山羊を飼っていた。隠居屋の二階にはタンスや長持を入れ物置にし 庫)・植え込み・氏神がみられた。畜舎は牛二頭を飼っていたがその後、 行方市蔵川の例 天保年間に潮来から購入した母屋を中心に、澱粉乾燥 場・鶏舎・木小屋・閑居屋・畜舎・隠居屋・納屋(物置・作業場・膳腕 ていた。 行方市藤井久保 母屋・蔵・倉庫 井 ・ 戸・便所。同市四鹿では母屋・物 置・農作業所・便所・井戸がある。 の三種があり、茅屋根、瓦屋根、杉皮屋根、木羽 こ (ば 屋 ) 根などがある。 現在、木皮葺きの屋根は見られなくなったが、大正時代までは各地に木 稲敷郡美浦村舟子の場合、屋根は寄棟造りで比較的高く、カネコウバ イ(曲勾配)といわれ、茅葺がほとんどであった。屋根にはヤグラ煙出 み この地域の農家住宅として、かすみがうら市の椎名家住宅、神栖市の 山本家住宅、土浦市の富岡家住宅、商家住宅として、行方市井上(旧玉 潮来市延方 母屋・物置・井戸・湯場 馬 ・ 屋・木小屋・長屋門がある。 潮来市築地 母屋のほかに便所・風呂場・蔵・井戸がある。 潮来市永山 母屋 小 ・ 屋・物置・風呂場・木小屋・便所・板蔵・植え込 氏 ・ 神二社がある。 け ( むだ し ) が作られ、グシの両脇には、奥座敷寄りに、「壽」の字を、 土間寄りに「水」の字が彫ってあった。 造町)の関野家住宅、石岡市高浜の羽成家住宅、土浦市の矢口家住宅な 潮来市永山 母屋・小屋・物置・風呂場・木小屋・便所・板蔵・植込み・ 氏神二社がある。 どがある。集落としては、行方市手賀新田(旧玉造町)が湖岸沿いにみ ― 188 ― 木である。松、梅、ヒノキ、シュロ、ケヤキ、杉、柿、栗、ミカン・桃 など数が多い。垣根のことはクネといい、生垣や竹囲いなどがある。 樹木は防火、防風にもなったので貴重な存在である。人間の生活は風と これらの屋敷取りは農家の例だが、現在では農機具の改良、肥料の発 達などによって、 今まで必要だったものが不要になり、住宅の新築によっ て、外便所や風呂場などの付属物は家の中に組み込まれている。 実畑」という、と『麻生町史 民 ・ 俗編』にある。 屋敷の中に小規模な屋敷畑がある。家族の日々の食事に使う様々な野 菜類を作る畑である。「味噌汁の具にする野菜の畑ということで、汁の て使われた。特に米の貯蔵倉の南側などに植えられている。 林としても役立ってきた。また、ケヤキは大きくなるので、日除けとし の戦いであったので、この風から逃れるために、ケヤキ、カシ、シイを 植えた。カシにはアカガシ、シラカシ、イチイガシなどがあるが、防火 屋敷の面積は、 一般に五畝(五a)から一反歩(一〇a)で、 稲敷市 稲敷市は利根川や霞ケ浦に隣接した地域で、県北などと隣接し た地域で屋敷の配置は簡単である。 美浦村舟子 周囲はコウヤマキとヒバの生垣が巡り、中に母屋、倉、納屋 ナ ( ヤ 、湯 ) 場、 井戸、外便所があり、長屋門のある家もあった。屋敷神は母屋の裏に建 てられた。 鹿嶋市 太平洋側に位置している所と北浦の湖岸に位置している所とが あり、それぞれの特色を出している。 イマ、裏にチャノマがある四室タイプで、整形四間型と言われたものだ。 間取り 間取りには四つの型がある。第一は床上部分が田の字型に四つ に分割され、上手表にザシキ、裏にナンド、そして、土間沿いの表側に 鉾田市箕輪 母屋・蔵・風呂場・物置・便所・堆肥小屋・長屋門・生垣 というのが一般的である。 オダヤにはイロリがある。 麻生町など、イマをチャノマ、チャノマをオダヤといっている所もある。 鉾田市汲上 母屋・隠居・風呂場・氏神・物置(半分が馬小屋)が屋敷 を構成している。 鹿嶋市鉢形 母屋・釜場・蔵・肥料舎・物置・便所・井戸があり、周囲 はマキ垣で境とし、屋敷林はツバキ・ケヤキ・シイが主で氏神がある。 第三も六室タイプである。土間側から三列に並ぶ三列六室で、表から ツギノヘヤ、オクザシキ、ヘヤが続き土間沿いの部屋は表からアガリハ ノマが並ぶ二列六室のタイプである。 第二は床上が六室からなり、上手表にオクザシキ、裏にナンド、真中 の表側にはナカノマ、裏にナンド、土間沿いの表側にヒロマ、裏にチャ 神栖市居切 母屋・蔵・物置・肥料小屋・釜屋・氏神があり、東側に砂 の土手を築き、その外側に松の木を植えている。風を考慮しての配置で ナ、コタツマ、ヘヤになっている。第四は九室に分かれるもので、上手 鹿嶋市和 母屋・氏神・井戸・風呂場・便所が主な建物である。 西南にはマキの垣根がある。 中の部屋は表からナカノマ、ナンド、そして土間沿いの部屋は表からヒ が多い。 ロマ、カッテ、イタノマとなっている。ナンドのことをヘヤということ 表からトコノマ、ナンド、真中の部屋は表からナカノマ、ナンド、真ん 神栖市田畑 母屋のほか牛小屋(タヌキ小屋兼用) ・風呂場・ (半分便所) ・ 藁小屋・馬屋・南側が植込み、そして東北、西、北に幅三メートル、高 さ一・二メートルの土手を築き、その上にマキの垣がある。 屋敷林は主として、農家の周囲に植えられた樹木のことで、庭 屋敷林 ― 189 ― 際には、栗林家住宅(一八世紀) 、城之内家住宅(一九世紀中期) 、山本 が普通である。イロリのすわる場所には座名がある。旦那の席はダンナ には備え付けの戸棚や米櫃が置かれている。イロリの大きさは三尺四方 イロリが切ってあり、自在鉤がかかっていて、食事の調理をする。ここ オダヤ 麻生町ではオダヤというが、チャノマ、イタノマ、アガリハナ、 カッテ、 ダエドコロの名もある。田の字型の部屋から飛び出した部分で、 られている。 られる。 略が多いことなどに発達した点がみられることに、よく時代の特徴がみ が残る。一方では、軒をせがい造りとすること、繋梁による上屋柱の省 にしか用いないこと、ヒロマの一部に間仕切りを設けるなどに古式な点 部にある古民家である。部屋境の差鴨居をオクノザシキ・オクノマの境 山本家は、江戸時代の網元で、名主もつとめた半農半漁の家である。 主屋は、正面東方に突出する土間部と床上部からなる曲屋形式を持ち、 家住宅を記録した。 ザ、ヨコザ、カミザといい、主婦の座はキジリ、ワキザ、オカミザなど 椎名家住宅(かすみがうら市加茂)延宝二年(一六七四)に建てられた 土間 土間は食事の煮炊きをする炊事場であり、夜なべや、雨の日の仕 事場であった。 炊事の場をカマバ、 仕事場をニワバという。カマバには三、 いろいろである。 江戸時代初期といわれている。年代が明らかな民家としては、東日本で 長屋門 門の形式としては、主柱二本の内方に控柱二本を建て、切妻屋 根をかけた薬医門、普通の屋根のほかに、左右の控柱の上にも屋根があ ナンド ナンドは部屋ともわれ、薄暗い板の間である。寝室や長持や衣 類を置く部屋で、特に、新婚夫婦の寝室として使用された。 ある。広間の後部は建具を立てて、間仕切りはないが、家法まで壁がさ 立して建っていて、前面の格子窓には、丸竹を用いるなど、古い形式で 住宅は南面し、西側が土間で、東側は四室と広縁及び縁などからでき ている。間取りは土間に面して、板敷きの広間があり、この上手に表か 直屋の寄棟造り、萱葺である。椎名家の先祖がここに住みついたのは、 る高麗門、二本の主柱の上にも屋根がある四脚門、それに長屋門である。 がり、前よりの広い板間と空間的に区別され、囲炉裏が切ってあり、日 四連のカマドが設けられていて、そこには、荒神様と呼ぶカマド神が祀 チャノマ ヒロマともいい、神棚、仏壇がある。ここにもイロリのある 場合が多い。ウワイロリという。家族の一家団欒の部屋で、近所の人の は、古いほうである。 十八世紀前期に建築されたものと推定され、関東地方では数少ない漁村 交流の場でもあった。 長屋門は名主や組頭など、格式の高い人に許されたものだったらしい。 常の生活の場になっている。なお、広間から土間にかけて間仕切りはな い。(国指定重要文化財) 大場家住宅(行方市玉造甲)水戸藩の大山守(大庄屋)をつとめた家で ら玄関、座敷、寝間の三室が並んでいる。広間前寄り中央に上屋柱が独 門の両脇の部屋の利用法はいろいろであった。両方を納屋にしたり、一 霞ヶ浦の農家 道路から一段高い所に敷地があり、表門として長屋門、脇門として薬医 方を住居にしたり、便利であった。 山本家住宅(神栖市奥野谷)神栖市の奥野谷には、萱葺住宅が昭和三十 門が見える。最近、修復された。 (県指定文化財) 年代までは、たくさんみられた。昭和四十一年の茨城県民家緊急調査の ― 190 ― 面東端二室には式台が付属し、取合部の東面には湯殿が接続する。表座 その奥が居室部と接客部になっている。 表の入口を入ると、土間に接して店があり、ここには床が張られ、帳 場になっている。客は店の上がり口に腰掛けて、品物を見せてもらった。 て、部屋を一列か二列並べている。 敷は藩政事務所や藩主休憩所に使用されたもので、西方の座敷二室は数 主屋は表座敷と居室部が少し喰い違って前後に並び、その間を取合部 でつないだ形式で、茅葺の屋根が複雑な形を表わしている。表座敷の南 奇屋風の造りになり、南面から西面にかけて疎垂木・木舞裏の土庇が回 大店では裏庭を設け、ここには稲荷や三峰神社を屋敷神として祀って いる。商家には箱階段がある。また、帳場格子、帳場机、算盤などの調 矢口家は水戸街道に面した土蔵造の店蔵・袖蔵・元蔵の三蔵から成り、 いずれも二階造、店蔵は四・五 × 三間と居室四・五 × 五間袖蔵は二・五 度品があった。また、銭箱、大福帳など商売の生命であった。 半は十五畳大の茶の間になっている。取会部後半から居室部にかけては × 六間で二蔵は接続、元蔵は六・五 × 三間、家相図は天保九年(一八三八) る。 居室部は東半分が土間の台所で南面に大戸口があり、西方の床上部は 上手に座敷二室が突出する。取会部は南前半が座敷部に続く二室、北後 かなり改造がみられ、土間部は前面的に組み替えられていた。天明八年 弘化三年(一八四六)同四年、 文久四年(一八六四)明治四五年(一九一二) あった。(県指定文化財) (一七八八)の宅地図、家相図があり、今回の修復の参考になっている。 三九号) 羽成家住宅(石岡市高浜) 高浜は恋瀬川が霞ケ浦に注ぐ河口一帯に広 がる水陸交通とも至便の地で、酒・味噌・醤油などの醸造業が盛んであ 大正五年(一九一六)年不明など七枚があり、それにより改築されてい 霞ケ浦の町家 町家の多くは商家である。最初は茅葺きの木造建築だっ たが、頻繁に起る大火事によって、土蔵式に建て替えられた。土浦市の る。羽成家は肥料の販売と醤油を醸造していた。店舗は、江戸時代末期 表門は寄棟造、茅葺の長屋門で、表座敷の前方にある。扉口左右の室に 町並みは旧水戸街道沿いにみられ、調査報告書にまとめられている。 た醸造所は赤レンガの高い煙突が残っている。 て貴重な資料である。建築年代は、天保十二年(一八四一)九月十二日 矢口家住宅(土浦市) ここでは、土浦市の矢口家住宅等を参考に商家 の紹介をしておく。生活の中から生まれた知恵といえる。それに商売替 関野家住宅(行方市井上・旧玉造町)眼下に霞ケ浦を望む所にある。明 出格子を設けている。通用門は茅葺の薬医門で、表門の東側にある。主 えも行われ、そのたびに、建物の改修も行われた。 正面のバルコニーは、この洋館を印象つけている。しかし、一階部分に の大火で焼失、土蔵造に変わった、その上棟が嘉永二年(一八四九)で 商家の敷地は間口が狭く、奥行の深いのが普通である。そのため、主 屋は間口いっぱいに建て、その後ろに土蔵や納屋、便所や風呂場を作っ は和風の玄関や土間の台所があり、和洋折衷の様式である。 屋と合わせ三棟が県指定文化財に指定されている。(『茨城の文化財』第 た。間口が広い場合は、主屋の脇から塀を出して門を設け、その奥に玄 愛友酒造(潮来市辻)創業は文化文政期といわれ、現在地へは明治の中 治十三年(一九二四)の建造で、白亜の外装と赤い屋根が美しい。二階 の建築で、切妻造りの店蔵と寄棟造りの袖蔵から出来ている。 背後にあっ 関や客座敷を作った。そして、裏に通り抜けるトオリニワを片側に取っ ― 191 ― ナンドで主要部分を構成し、広間背面にカッテ、ザシキの前に玄関の間 土間が設けられている。平面構成はいわゆる広間型で、ヒロマ、ザシキ、 る。建物の立ちがよく、外観も壁が多く閉鎖性が強い。向かって左手に 寄棟造り、茅葺き、元禄年間(一六八八~一七〇四)の建築と推定され 四十八年(一九七三)水戸市緑町の茨城県立歴史館に移築・復元された。 旧 茂 木 家 住 宅( 潮 来 市・ 旧 牛 堀 町 ) 元 牛 堀 町 に 建 っ て い た が、 昭 和 いう。 ( 『茨城の民家二・町家編』 ) る通し柱は、蔵内の衛生を保つため、従業員が常に磨きをかけていたと モルタルを用いている。千葉県から取り寄せたという三十メートルもあ を誇るのは、昭和元年(一九二六)に建造したもので、外装に新技法の い、古風なたたずまいを残している。これらの土蔵の中で、最大の規模 供物は米一升、神酒一升、塩、水、山の幸(牛蒡・大根・人参・果実) り、東西南北を区切る。これが祭場で、幣束、榊を立て神霊を迎える。 地祭という地鎮祭も大切な儀式である。建物の建つ中央部に砂を盛り 上げて小丘を造る。その周り一間四方に青笹竹を四本立て、注連縄を張 る。工事の進行状態、建主の都合に合わせ決めた。 の吉凶判断をして、吉日(先勝、友引、大安)に行うのがほとんどであ 着工日は、旧暦により、六耀星(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口) の方を開けすぎないようにする。家相図などで決めることも多かった。 建物の位置を決めるのも大切である。一般には辰巳(東南)向きが多 かった。屋敷の関係もあるが、建物は敷地の中央に設定し、鬼門(東北) いをしてきた。 で、伐採、運搬、建築すべて村落共同体の中で、結 ゆ (い で ) 行われた。 その後、棟梁が手板(設計図)を作成し、建主は職人を呼んで手板振舞 期に移転した。醸造や製品保管のための土蔵群が路地を挟んで向かい合 がある。これは行方地方の特色である。県指定文化財。 分棟型である。向かって右側が土間で、東と南に入口があり、出口は北 殊な構造形式をとるためである。見方によっては、居室と釜屋を分けた らに小屋組を造り、その上の桁行方向にさらに小屋をのせるという、特 ると寺院のようである。床上部分と土間部分のそれぞれの奥行方向にさ 方形に近いため、屋根が異様に高くなっている。そのため、遠くから見 名主をつとめた農家建築、県内でも有数の大規模住宅である。平面が正 富岡家住宅(土浦市白鳥町)寄棟造り、茅葺き、十八世紀初期の建築。 先を鬼門の上に向けて、右側には鶴の矢先を鬼門の下に向けて取り付け 絵を描いた杉枝付の矢と弓、五色の旗を立てる。向かって左側に亀の矢 ると、神祭りになる。棟が上がると、棟梁がその上に登って、鶴と亀の 建前(上棟式)大工と近所の人たちが集まって、棟を上げ、それが終わ わせ、即興の歌詞をつけて歌った。 その後、「エイヤコラ、エイヤコラ」の地搗きがあって、家を建てる ことになる。昔はすべて共同体の作業として行われた。エイヤコラに合 塩を撒き、神職、建主、棟梁の順に鍬入れをする。 海川の幸(鰹節・するめ・昆布)である。祝詞奏上は神主の場合が多い。 側である。土間には、養蚕室もあったが、現在は納屋になっている。玄 る。また、五色の旗の竿の先には、末広がりの意味の扇が付けられ、ま (『茨城の民家一・農家編』) 関はちょっと左寄りにあるが、この玄関が、この家の格式を表わしてい 箱と、機織の筬 お (さ を ) 縛りつける。 た、女性の持物である白粉や紅、かもじ、櫛、鏡、針など一式を入れた かつて農家の建築は、山出しから始まった。建築材料は自給 る。県指定文化財。 ( 『茨城の民家一農家編』) 建築儀礼 ― 192 ― 棟梁送り 建前の式が終わると棟梁送りがあった。以前は上棟柱、鶴亀 などを親戚や知人がかつぎ、送りとどけ、今度は棟梁の家で準備した酒 通りにした。これで一件は落ち着いた。ところが、大工はこのことが将 履かせ足木をしてしまえばいいだろう」と助け船を出した。大工はその 昔、ある大工が家の建築を頼まれて、家を建てている時、間違えて玄 関の柱を短く切ってしまった。どうにも困っていた時、女房が「下駄を 俵(腰掛け俵)を慰労としてもって帰った。 麻生の棟梁送りは、ヒゲコ一杯分の餅と大きな紅白の重ね餅を一重と米 旧大野村津賀では、五色の吹流しを立て、祭頭囃子を囃しながら送った。 髭籠餅を持参して、道中餅を撒きながら、唄で棟梁の自宅まで送った。 肴で祝宴を開いた。旧北浦町内宿では、五色の吹流しを下ろし、酒肴、 来ばれたら大変と、女房に死んでくれるように頼んだ。その代わりにお このいわれについて各地に伝説がある。ここでは『麻生町史』を参考 に掲げておく。 前の持物一切を、タテマエの時にあげるからと約束した。女房は死に、 矢おろしは当日か翌日行う。供えた矢のうち、亀のほうは、亀のよう に家が万年もつように、棟の下に納めた。鶴のほうは、大工が縁起物と それ以降、筬をはじめ、女性の持物が上げられるようになったという。 新しく家が出来て、そこに入ることになるが、ヤウツリという。その 時、タテマエと同じく、大工、職人、親戚、知人を呼んで、酒宴をワタ してもらって帰った。また、五色の旗は安産祈願として使われた。 がまかれ祝宴となる。なおグシの上に乗せるものは、女の使うくし、紅、 マシとかワタマワシと呼んでいる。家の神を移す意味の「渡り座す」か 棟梁は祝詞をあげ、四方に餅を撒き銭もまく。冷酒を飲み手じめをす る。これは四方固めという。その後、祭壇にのぼったものによって、餅 白粉、針、鏡、かもじなど一式とお供え一重ね、酒、米、塩、煮干であ らきている。昔は家の建築、屋根の葺き替えなど、結いによって行われ ていた。 る。撒くものは、餅のほかてんまり、キャラメルなどである。 この建前には人々の役割と協力が欠かせない。上棟式に撒く餅は親戚、 縁者が贈る習わしがある。旧東町伊佐部では親類米二升(一駄)、また は四俵、撒餅、祝金、酒などを贈っていた。旧玉造町上宿でも、同じで あるが、グシモチ一籠とある。 家の建築の際、その建築のいわれを後世に残すため、棟札が作られる。 「上棟 昭和 年 月 当主名 棟梁名」を記入する。昔の形は次のよ うであった。 罔象女神 工匠何々某敬白 (表) 奉上棟大元尊神家門長久繁昌守護所 五帝龍神 (裏) 年号歳月日干支吉祥 ― 193 ― 国指定候補と考えたが、本家・分家(隠居屋)とも、昭和五十六年に 相ついて解体された。両家ともそこに住居を新しくするためであった。 その時、一色史彦氏が民家園の構想をもっていたので、その二棟を引き 土肥家は本家と分家(隠居屋)があり、本家については、報告書を参 考に当時の状況を紹介しておく。 うち、柴崎の平井家住宅は国の文化財に指定された。 茨城県教育委員会では昭和四十九年に国の事業として茨城県民家緊急 調査を実施した。当時、新利根村では、九戸の古民家を調査した。その 宝永三年(一七〇六)の墨書銘が発見され、建設年代がはっきりした。 月一日、完成した。本来、この二棟は、本家と隠居屋であった。今回は 期の建造物を「里の家」として復元した。 平成十六年に国営ひたち海浜公園のみはらしの丘の麓にみはらしの里 を作り、民家園を作ることになった。整備委員会で検討し、まず昭和前 別章 国営ひたち海浜公園みはらしの里 旧土肥家住宅(旧所在地稲敷市下太田) この新利根村付近は、江戸初期以来新田開発の進んだ所で、きわめて 古い民家が残っている。そのうち、土肥家をとり上げる。 いのではないかということになり、県内でも一番古い民家の一つになっ 受けた。しかし、二十六年間、倉庫で養生していた。 当家の建立年代を直接証する資料はないが、延宝三年(一六七五)の 位牌が現存する。また、当家の建築様式と類似する出島村の椎名家の建 た。 主屋については材料の科学的調査の結果、隠居屋よりも五十年ぐらい古 主屋・隠居屋の呼称にした。両屋、左右対称になっている。隠居屋から 第一次古民家として、この土肥家二棟の移築を決定、平成二十二年十 立は、延宝二年建立が判明しており、その対比において、当家はそれよ 広間の柱割付けは、二間半ふたつ割にするのは、霞ヶ浦の南部に分布 する形式である。広間前面の柱間二間とも格子窓が入り、柱面の仕上げ なお、養蚕家屋について、北関東からの移築も計画している。 た飛田家住宅は代表的なものであった。現在古河市に保存されている。 り若干古いものと思われる。 は丸チョウナを使用する。部屋境に差鴨居を入れないなど古民家の特徴 この古民家に続いて曲屋と養蚕家屋の建築を計画している。茨城県で は県北から鹿島郡にかけて、かつては曲屋が見られた。旧金砂郷村にあっ をもつ。オクノマ周りの柱は取り替えがあり、また、土間側面の改造が 人のボランティアの方の協力のもと公開している。 三五〇年の歴史をもつ、古民家が国営ひたち海浜公園に残されたとの 意義は大きい。これから大切に守っていきたいものである。現在、四十 茶会、紙芝居、子供の遊びなども定期的に実施している。 この古民家では年中行事、蕎麦、サツマイモの耕作をし、蕎麦打ち、 ホシイモ作りの体験もしている。古典文化の伝承としては、琵琶演奏、 比較的最近行われた。 しかし、柱・梁には椎木を使用しており、軸部の残存は極めて良好で ある。また、土間部分の半割の梁の存在も、当時における大鋸の普及を 知る上で貴重な資料となろう。 分家があり、 この建物は一九世紀前期頃と思われるが、 (付)隣接して、 非常によく原型を保っている。民俗学的にも分家例として価値が高い。 ― 194 ― はしら ま 主屋と隠居屋は、柱間の寸法が異なり、隠居屋の方が小さく のきてん なっています。屋根は、隠居屋には「せがい」と呼ばれる軒天 じょう 井があり、隠居屋の方が大きくなっています。 隠居屋には、表側の3室には天井が張られ、まとまりのある たたみ じ 空間となっています。また、ザシキは畳敷きで床の間がありま す。表側と側面の建具には障子も入っています。 監修者:宮澤智士:長岡造形大学名誉教授 一色史彦:建築文化史家 田中文男:建築家 今瀬文也:茨城民俗学会代表理事 旧 土肥家住宅 隠居屋 いんきょ や る特徴は以下の通りです。 ・外側の柱が1間ごと に立っています。 けん ぶん こう し ・南側に2間 分 の格 子 まど 窓があります。 こう ぞう ざい ・主屋構 造 材 としてシ イが使われています。 はり ぐ うえ や ・柱と梁 組 みが上 屋 と げ や こう ぞう 下 屋 の構 造 となって います。 ― 195 ― 【施主】 おも や たいへんに古い民家です。主屋、隠居屋に共通してい 土肥傅之烝 寳永三年 丙戌霜月吉日 太田村大工平兵衛 旧土肥家住宅は、江戸時代前期と中期に建てられた ■墨書 柱から「宝永3年」の墨 書が見つかり、建設年代が はっきりしました。 ■台鉋 木製の台に刃を組み込 んだもので現在でもよく 使われている鉋です。 隠居屋の柱の仕上げに 使われています。 みはらしの里 風景 右:主屋 左:隠居屋 ― 196 ― 旧土肥家住宅 主屋 旧土肥家住宅 隠居屋 ― 197 ― 編集後記 前号までは、本会調査の資料を掲載してきたが、今回は役員の方に投 稿いただき、形を変えた編集をした。内容からみると、東日本大震災に 関わる文章が三篇、大きな文化財と小さな文化財の保存について描いた 対象的文章、震災にあった奥羽三十三観音を巡った報告など感動した。 定年退職後、町角案内人などボランティアの様子をブログに発表した 「セカンドライフの楽しみ」 、科学的に自分の体力を調べ、それによって の町起こしにしようと、商工会議所が中心に進めている。ここでは、黄 門料理のいきさつをまとめている。 特集「霞ヶ浦の民俗」は、茨城の郷土文化の顕彰になればと、まとめ たものである。是非多くの方に読んでいただきたい。 財団法人 理 事 今瀬 文也 理事長 安 徹 和田祐之介 相談役 一色 正信 御供 文範 渡辺 敦子 今瀬 文隆 大高 宣靖 川崎 定信 茨城県郷土文化顕彰会役員 市川 僖男 江幡 良子 社会言語学の七不思議は、現在、話題になっている、私たちが使用し ている方言・敬語。アクセントなどについて興味深く述べている。 先祖の話が二点ある。曽祖父のことを調べるため京都に行き、勤王の 志士など調査し、幕末について広く書いたもの。また、系図と祖父の兄 評議員 上原 利康 一色 邦彦 監事 の「楽しみながら健康づくり」 、生きるための大切な分野である。 の墓碑から、今まで不明だった先祖を理解したことを詳細に書いた「祖 照山 洋 常陸太田は小沢など昔は、かなりの梨の出荷数を誇っていた。それに ついて、調査研究したことが書かれている。 父の兄の墓碑から学ぶ」 、この二点は興味深い。 評議員 幹事(事務) 柳田 誠子 百地 康 須田 文子 山本 則明 川崎 一男 インドのタゴールは岡倉天心と親交があった。北茨城を訪れたことは 有名である。我妻先生はインドのタゴール大学の発展に尽くした。この 三次 仁 西宮 能信 インドで川又南岳さんが書道展を開いた。それらのことが紹介されてい る。 詩四編は農業を営みながら詩を詠む女性の作品で、ほかの詩人には詠 めない自然の美しさが表現されている。 水戸黄門料理は大塚子之吉が個人で作りあげたものだが、現在、水戸 ― 198 ― ふるさとの文化(6号)平成 24 年3月 29 日発行 発行所 財団法人茨城県郷土文化顕彰会 〒 310-0036 水戸市新荘 2-8-16 編集発行人 今瀬文也
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