1 創世記9章18節-19章 1A カナンへの呪い 18-29 2A ノアの息子

創世記9章18節-19章
1A カナンへの呪い 18-29
2A ノアの息子 10
1B ヤペテ 1-5
2B ハム 6-20
3B セム 21-32
3A 民族の分かれ 11
1B バベルの塔 1-9
2B セムの系図 10-26
3B アブラハムの生涯の始まり 27-32
4A 約束の地へ 12
1B カナン人の住むところ 1-9
2B エジプトでの災難 10-20
5A ロトとの別れ 13
1B 約束の地を離れるロト 1-13
2B 約束の地にとどまるアブラハム 14-18
6A 王たちの戦い 14
1B ロトの拉致 1-12
2B メルキゼデクとの出会い 13-24
7A アブラハムへの報い 15
1B 星の数のような子孫 1-6
2B カナン人の地 7-21
8A ハガイからの子 16
1B お家騒動 1-6
2B イシュマエルの誕生 7-16
9A アブラハムとの契約 17
1B 割礼の印 1-14
2B サラからの子 15-21
3B 割礼を受ける家 22-27
10A 主の使いの訪れ 18
1B もてなし 1-15
2B 執り成し 16-33
11A ロトの救い 19
1B 不義に満ちた町 1-11
2B ためらう家族 12-29
3B 変わらない娘たち 30-38
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本文
創世記 9 章 18 節を開いてください。私たちは、前回、ノアが箱舟から出てきて、神が彼を通して、
人と動物と契約を結んでくださったところを読みました。今日は、その続きです。
1A カナンへの呪い 18-29
9:18 箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父であ
る。9:19 この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。
そこで、改めてノアから出てきた子孫を著者モーセは書いています。けれどもここにあるように、
私たちは様々な民族や国語や国々に分かれています。この経緯、民族の誕生を私たちはこれか
ら読んでいきます。三人の息子、セム、ハム、ヤペテをノアは生んでいましたが、その中のハムに
ついて「カナンの父である」と追加しています。カナン人ということを、これからモーセは意識します。
なぜなら、イスラエルの父祖アブラハムは、約束としてカナンの地に入るのであり、そしてヨシュア
たちが、カナン人を追い出してその地に住みつくようになるからです。
9:20 さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。9:21 ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕
の中で裸になっていた。
ここを読むたびに、私たちは驚きます。あの正しい人で、全き人と呼ばれたノアが、泥酔して裸に
なっているのです。聖書は徹底的に、完璧な人などいないことをはっきり表しています。全ての人
が罪を犯し、誰一人として義人はいないことを教えています。ノアもそうでした。彼が義と認められ
たのは、信仰によるのであり、その行ないではなかったことをヘブル書の著者は記しています
(11:7)。
9:22 カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。9:23 それでセムとヤ
ペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。
彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。9:24 ノアが酔いからさめ、末の息子が自分にしたこ
とを知って、9:25 言った。「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ。」9:26 また
言った。「ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンは彼らのしもべとなれ。9:27 神がヤペテを広げ、
セムの天幕に住まわせるように。カナンは彼らのしもべとなれ。」
この箇所は、表面的に読むと、ノアが頭に来て、それでハムを呪ったように見えます。けれども、
そういうものではありません。著者モーセは、注意深く、ハムではなく、その子カナンが呪われてい
ることを書き記しています。ハムが行なったことは、彼の子カナンの子孫であるカナン人が後に行
なうことを、予め示していたからです。
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ハムと、他の二人の兄の違いは何でしたでしょうか?カナンは父の裸を見ましたが、セムとヤペ
テは、顔を背けて父の裸を見ませんでした。見たか、見なかったかの違いです。けれども、この
「見る」のヘブル語の動詞は「じっくりと見る」という意味合いがあります。つまり、ハムはただ父が
裸なのが見えたのではなく、じっくりと見ていたのです。つまり、彼のその態度は、「あざけり」と「見
下し」です。また、性的な興味ももしやあったかもしれません。父の権威に対する反抗です。それを
発展させて、神の権威に対する反抗やあざけり、そして堕落していく姿をカナン人が見せていきま
す。カナン人の中には、ソドムとゴモラの住民もいます。男色に満ちあふれていた町ですね。
その後、イスラエルはカナン人を完全に追い出しませんでしたが、その子孫が確かに、「しもべら
のしもべ」とノアが言ったように、奴隷としての使役を受けるようになります。ソロモンの時代のこと
です。「1列王 9:20-21 イスラエル人でないエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の生き残
りの民全員。すなわち、イスラエル人が聖絶することのできなかった人々の跡を継いで、この地に
生き残った彼らの子孫を、ソロモンは奴隷の苦役に徴用した。今日もそうである。」
セムに対しては、「セムの神、主を。」と言ってノアはほめたたえています。これは預言の言葉で
あり、セムから出てくるイスラエル人からメシヤ、キリストが出てくるからです。そしてヤペテについ
ては、「ヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」と言っていますが、ヤペテの子孫の広が
りは 10 章の初めに出てきます。広範囲に広がるのです。けれども、霊的にはセムの影響下に入
ります。ヤペテはロシア南部からトルコ、そしてヨーロッパに至る諸民族です。そこにイエスを信じ
るユダヤ人が宣教に行き、ユダヤ人のメシヤを信じていくようになるのです。
9:28 ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。9:29 ノアの一生は九百五十年であった。こうして
彼は死んだ。
これでノアの生涯が終わります。アダムよりも二十年長く、生きています。しかし、その最後の三
百五十年は初めの信仰による六百年に比べますと、劣ってしまいます。もちろん、ノアは信仰によ
って報いを受けているのですが、最後まで走るということが、神の憐れみに拠らなければできない
のだということを教えられます。
2A ノアの息子 10
1B ヤペテ 1-5
10:1 これはノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史である。大洪水の後に、彼らに子どもが生ま
れた。
10 章はノアの系図というよりも、民族の分布図になります。聖書を信じる人たちだけでなく、一般
の民族の分類においてもこの箇所を多くの人々が用います。それだけ、歴史上に出てくる民族に、
深く関わりのある名前が出てきます。
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10:2 ヤペテの子孫はゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。10:3 ゴメルの
子孫はアシュケナズ、リファテ、トガルマ。10:4 ヤワンの子孫はエリシャ、タルシシュ、キティム人、
ドダニム人。10:5 これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞ
れ国々の国語があった。
初めに、ヤペテの子孫です。彼から出てくるのは、「ゴメル、マゴグ、マダイ、ヤワン、トバル、メシ
ェク、ティラス」これらは黒海とカスピ海の辺りから小アジヤ(今のトルコ)に至るところに住んでい
た人々です。エゼキエル書 38 章の、イスラエルを一斉に攻める国々の大首長は、「メシェクとトバ
ルの大首長であるマゴグの地のゴグ(2 節)」とあります。同じくゴメルの子孫のアシュケナズ、リフ
ァテ、トガルマもその地域に分布しました。そして、そしてヤワンの子孫で「エリシャ、タルシシュ、
キティム人、ドダニム人」とありますが、ヨーロッパ南部、地中海沿いのところいた民族です。タルシ
シュはスペインにおり、イスラエルにとって地の果てのところとしてしばしば聖書に登場します。有
名なのはヨナ書で、預言者ヨナがヨッパからタルシシュ行きの船に乗りました。ですから、「神がヤ
ペテを広げ」という言葉が成就しました。
2B ハム 6-20
10:6 ハムの子孫はクシュ、ミツライム、プテ、カナン。10:7 クシュの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、
ラマ、サブテカ。ラマの子孫はシェバ、デダン。
ハムの子孫は、主に北アフリカに位置します。「クシュ」はエチオピヤのことで、今のエチオピヤだ
けでなく、スーダン、そしてエジプトの南部にまで広がった国です。そして「ミツライム」は、エジプト
のことです。エジプトにいくと、今でもミツライムの名を使った名称が数多く出てきます。そして「プテ」
は、今のリビアにあっただろうと言われています。そしてクシュの子孫は主にアラビア半島南部に
いました。特に「シェバ、デダン」は、ソロモンに表敬訪問した「シェバの女王」で有名ですね。現在
のサウジアラビアです。
10:8 クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。10:9 彼は主のおか
げで、力ある猟師になったので、「主のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ。」と言われるよう
になった。10:10 彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあっ
た。10:11 その地から彼は、アシュルに進出し、ニネベ、レホボテ・イル、ケラフ、10:12 およびニ
ネベとケラフとの間のレセンを建てた。それは大きな町であった。
10 章は、「ニムロデ」という人物に注目しています。彼が、11 章に出てくるバベルの塔を建てる
のに大きな役割を演じた人であろうと考えられます。彼の王国に「バベル」があり、そして「シヌア
ルの地にあった」とあります。そして後にここからバビロンが登場します。そしてその後に「アシュル」
に行ったとありますが、これは古代アッシリヤのことであり、イラク北部にあるところです。ここに、
後にイスラエルの民が北イスラエルはアッシリヤ捕囚、南ユダがバビロン捕囚に遭うことの種が植
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えられます。
彼は神なる主の権威に反抗した者でした。「主のおかげで、力ある猟師」とありますが、これは否
定的な意味で使われています。「主の前で力ある猟師」と訳したほうがよいでしょう。「ニムロデ」と
いう言葉そのものが「反抗」という意味だからです。ニムロデには神に対する権威を侮り、見下す
態度がありました。そして彼は猟師でありましたが、単に動物の猟だけでなく、人の魂の猟をする
者になりました。権力者となり、人々を次々と蹂躙していったのです。
預言者ミカが、後にニムロデの事を言及します。「彼らはアッシリヤの地を剣で、ニムロデの地を
抜き身の剣で飼いならす。(5:6)」これは、その前に出てくる「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユ
ダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者に
なる者が出る。(2 節)」という預言の続きです。ベツレヘムの町から、家畜小屋でマリヤからお生
まれになったイエス・キリストが、後にアッシリヤ、そしてニムロデの地を抜き身の剣で飼いならす、
とミカは預言したのです。
10:13 ミツライムはルデ人、アナミム人、レハビム人、ナフトヒム人、10:14 パテロス人、カスルヒ
ム人・・これからペリシテ人が出た・・、カフトル人を生んだ。
地中海の島々の民族ですが、「ペリシテ人」という聖書の中で有名な民族が出てきました。彼ら
は地中海に浮かぶクレテ島から来た民族で、地中海の沿岸、イスラエルの南部に五つの町を立
て、そして紀元前 1400 年辺りからイスラエルの地に侵入してはイスラエル人を苦しめていた民族
です。
10:15 カナンは長子シドン、ヘテ、10:16 エブス人、エモリ人、ギルガシ人、10:17 ヒビ人、アルキ
人、シニ人、10:18 アルワデ人、ツェマリ人、ハマテ人を生んだ。その後、カナン人の諸氏族が分
かれ出た。
ここに、ヨシュアたちが約束の地に入った時に、神からことごとく滅ぼせと命じられた民族が並ん
でいます。彼らを理由なく殺しなさいと神は命じられたのではありません。彼らの悪があまりにも酷
かったために、もしそのままにしていたら彼ら自身で自分たちを滅ぼしていったことでしょう。淫ら
なことをして、それで出てきた幼児を偶像のいけにえとして捧げました。後に、イスラエル人がその
慣わしの影響を受けて彼ら自身が行なってしまったために、エルサレムが滅ぼされるという裁きを
受けました。ですから、「のろわれよ。カナン。(9:25)」というのは、それゆえの神の警告だったの
です。
しかし、ここで大切なのは、福音というのは、呪われた者たちをも救う神の力です。カナン人だけ
でなく、私たちはみな、罪によって神に呪われた者たちです。ですから、カナン人だけが呪われて
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いるのではなく、我々人間はみな、呪われています。イエス様と弟子たちが、ツロとシドンに行か
れた時のことです。そこは今のレバノン、歴史的には「フェニキヤ人」の住んでいたところで、フェニ
キヤ人はカナン人の一部とみなされています。そこで、一人の女がやってきました。「すると、その
地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんで
ください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」(マルコ 15:22)」そしてこの女は、その信
仰によって救われました。
10:19 それでカナン人の領土は、シドンからゲラルに向かってガザに至り、ソドム、ゴモラ、アデマ、
ツェボイムに向かってレシャにまで及んだ。10:20 以上が、その氏族、その国語ごとに、その地方、
その国により示したハムの子孫である。
「シドンからゲラル」とありますが、これはレバノンにあるシドンから、イスラエル南部の地中海沿
いにある町であるゲラルのことです。つまり、今のイスラエル全域に住んでいた人々でした。それ
だけでなく、死海のところにもカナン人はいて、「ソドム、ゴモラ」があります。彼らも、その邪悪さの
ゆえに神の裁きを受けます。
そして、ヤペテの子孫にも、ハムの子孫にも「分かれ出た」という言葉がありますね。5 節、そして
18 節です。セムの子孫にも 25 節に出てきます。なぜノアの家族は一つの民、一つの言葉だった
のにこのように分かれ出たのか、という経緯が 11 章のバベルの塔に出てくる話しなのです。
3B セム 21-32
10:21 セムにも子が生まれた。セムはエベルのすべての子孫の先祖であって、ヤペテの兄であっ
た。
セムが、「エベル」の先祖であることが強調されています。この言葉から派生して「ヘブル人」と呼
ばれます。ヘブル人はイスラエル人であり、そしてユダヤ人です。みな同じ人々のことです。」そし
て「エベル」の名前の元々の意味は、「越える」です。初めのヘブル人であるアブラハムは、偶像礼
拝の町から、神に呼び出されて出て行き、そしてユーフラテス川を渡ってカナン人の地に行きまし
た。つまり、偶像の生活から決別し、天地を造られた生ける神に従うという意味合いが、この名前
に含まれているのです。
10:22 セムの子孫はエラム、アシュル、アルパクシャデ、ルデ、アラム。
エラムは後にペルシヤの国になるところで、今のイランです。アシュルは、先ほど話しましたよう
にイラク北部です。そしてアラムは、シリアの古代名です。これも創世記からずっと出てくる国です。
10:23 アラムの子孫はウツ、フル、ゲテル、マシュ。10:24 アルパクシャデはシェラフを生み、シェ
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ラフはエベルを生んだ。10:25 エベルにはふたりの男の子が生まれ、ひとりの名はペレグであっ
た。彼の時代に地が分けられたからである。もうひとりの兄弟の名はヨクタンであった。
「ペレグ」というのは「分かれる」という意味があります。「地が分けられた」とありますが、これを
「大陸移動」と見る人たちもいます。地は一つであったが、ペレグの時に、例えばアメリカ大陸とア
フリカ大陸が分かれ、アフリカ大陸と、インドのユーフレテス大陸が分かれた、というように、です。
あるいは、もっと単純に先ほどから見ているように、言葉が分かれたことによって、民族がそれぞ
れの地域に分かれていった、と読むことができます。そう読むならば、ペレグの時代に次の章のバ
ベルの塔の事件が起こったと考えられます。そして、11 章において、このぺレグからアブラハムま
での系図があります。ぺレグから、後にイエス・キリストにつながります(ルカ 3:35)。
10:26 ヨクタンは、アルモダデ、シェレフ、ハツァルマベテ、エラフ、10:27 ハドラム、ウザル、ディ
クラ、10:28 オバル、アビマエル、シェバ、10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、
ヨクタンの子孫であった。10:30 彼らの定住地は、メシャからセファルに及ぶ東の高原地帯であっ
た。
「オフィル」というのは、アラビア半島の南のところにありますが、金が採掘されるところとして聖
書に出てきます。そして「ヨバブ」を、ヨブ記の「ヨブ」ではないかと言う人たちもいます。そうでなくて
も、ヨブ記はモーセが創世記を書いた時よりも前に書き記されたのではないかと言われています。
モーセが紀元前 1440 年頃、創世記から申命記を書き記したのですが、ヨブはおそらくアブラハム、
イサク、ヤコブの生きていた族長時代に生きていました。ここは主にサウジアラビアの地域です。
10:31 以上は、それぞれ氏族、国語、地方、国ごとに示したセムの子孫である。10:32 以上が、
その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国の民が地上
に分かれ出たのであった。
何度も強調していますね、「諸国の民が地上に分かれ出たのであった」と言っています。それが
11 章です。ノアによって新しい世界、新しい生活が始まったのに、しかし人間が失敗して、こんど
は分かれ出ていったという結果になります。
3A 民族の分かれ 11
1B バベルの塔 1-9
11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。11:2 そのころ、人々は東のほうか
ら移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
当時はもちろん一つのことば、一つの話し言葉でありました。ところで、今の言語学者は意見が
一致していて、人類は元々は一つの言語を話していたと言います。ヘブル語はアレフから始まり、
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日本語も「あ」から始まり、英語は A から始まるように、全て同じアルファベットです。そして東のほ
うからとありますが、ノアの家族は、その箱舟がアララテ山に留まったので、今のトルコ、アルメニ
ア辺りにいました。そこから、シヌアルの地に移動してきました。シヌアルは、今のイラク南部、バ
ビロンの地です。そこに、「平地」があるとあります。それから「定住した」とあります。ここで主がノ
アに命じられたことを思い出さないといけません、「地に満ちよ」という祝福命令でした。平地という、
住むのに楽なところです。そして、定住という、やはり快適さを求めている姿を見ることができます。
11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、
粘土の代わりに瀝青を用いた。
ここから、人が次第に高慢になって来ている姿を見ることができます。主の御名を呼び求めるの
ではなく、「私たちは」という主語、自分たちがするという高ぶりが出ています。そして重要なのは、
「煉瓦」を使っていること、そして「瀝青」つまりアスファルトを使っていることです。その理由は、洪
水の記憶が残っているからでしょう。洪水対策をしています。主が、もう二度とあのようなことはし
ない、という契約と約束を与えておられるにも関わらず、神に安全と保障を求めるのではなく、自
分たちで守ろうとしているのです。
11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名
をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
彼らは神に反逆する罪を犯しています。初めに「町を建てよう」と言っています。これは先ほど読
んだ 10 章 10 節の町バベルのことで、またバビロンのことです。バビロンは「神の門」という意味が
あります。そして「頂が天に届く塔」と言っています。これは天における万象を神の領域として取り
扱うこと、占星術であります。彼らはこうやって神の領域に入ろうとして、それでこれが初めての偶
像礼拝になりました。
バビロンが偽りの宗教の発祥地となりました。指導者ニムロデがバビロンの主神マルドュクにな
ります。エレミヤ書 50 章 2 節では「メロダク」と呼ばれています。そして「ベル」とも呼ばれています。
そして「イシュタル」という女神があがめられました。性愛の神です。バビロンには「イシュタル」とい
う女神がいました。愛と性の神です。エジプトには「イシス」、カナン人には「アシュタロテ」、そして
ギリシヤは「アフロディテ」そしてローマは「ビーナス」です。エレミヤ書には、「天の女王」として出
てきます。では、神道を見てみましょう。天照大神が女神ですね。それから仏教では、創始者仏陀
は明らかに男性ですが、それを祭る観音像はなぜか母性的です。そして、「キリスト教」だと言わ
れているカトリックですが、なぜか神の無比の子であられるキリストに、さらにお母さんがいるので
す。マリヤは神の母と崇められ、イエスよりもさらに高められます。
このことがとても大事になります。バビロンは、エレミヤの時代にユダの国を滅ぼした大国という
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だけでなく、バビロンの滅びを預言したイザヤそしてエレミヤが、終わりの日における永遠の滅び
を預言しているからです(黙示録 17:1-5)。まことの主イエス・キリストを信じないようにさせ、他の
ものに拠り頼ませるもの、これがバビロンであります。
そして「名をあげよう」とあります。これが、神ではなく人間で治めていこうという、高慢、傲慢の
現れです。それが、悪魔が初めにエバを惑わした時の言葉と同じであり、私たちの罪の根本を表
しています。そして「われわれが全地に散らされるといけないから。」とあります。これはノアに対す
る、「地に満ちよ」を故意に従わないとする、反抗です 。神を信頼して、神の言われるように、地に
満ちようとするのではなく、その神が自分たちの都合に合わせず、それと反対のことを命じられる
ので、反発している姿です。自分の快適な空間、これでよいと思っている考えや気持ち、これを神
とて不可侵なのだとして、断固介入を拒む姿、これが高慢です。
11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
興味深いですね、人間は天にまで届く塔を立てようとしていた者たちに対する皮肉です。自分た
ちは神の領域に達したと思っていますが、神は降りてこないと見えてこないぐらい、ずっと下にある
ということを人間の分かる表現で言い表しておられます。人は自分で最善だと思っている時でさえ、
それが神にとっては「不潔な着物」であると、イザヤ書には書いてあります。
11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのな
ら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼
らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
一つの民、一つのことばであったから、このようなことをしたのだ、と主は言われます。これが神
が言葉をばらばらにし、民族を分けた理由です。そして、7 節ですが、「降りて行って」の主語は「わ
れわれは」となっています。つまり、主がかつてご自身を、「われわれに似るように、われわれのか
たちに、人を造ろう。(1:26)」「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
(3:22)」と言われました。三位一体の神です。そして、神が言葉を混乱させられます。これであれ
ば、塔を建てるにも意思疎通ができません。町を建てて、そこでいっしょに住むことができません。
そこで次です。
11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめ
た。11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、
すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。
彼らが主の命令に従わなかったので、主は強いることによって彼らが世界に散るようにされまし
た。地に満ちるのではなく、散って行ったのです。どうでしょうか、これは従順な子供と不従順な子
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供に似ています。親にしなさいと言われたことを行なえば、そこには安心があるし、親に守られて
いるという中にいることができます。けれども、どうしてもやらなかったら、無理やり同じことをしな
ければなくなります。そこには悲しみが残るだけです。
神は時に、私たちがこれ以上、高慢にならないために、力強い手によって何かをやらせないこと
があります。自分にはどうしようもできない不可抗力を与えることによって、その中で主を知って、
へりくだるように促されます。言語がばらばらになりました。民族が分かれています。これらは、残
念なことであり、そのために意思疎通ができなくなり、民族の違いがあります。けれども、その制限
の中で私たちは神を見出すことができます。使徒パウロはアテネでこう語りました。「使徒 17:2627 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決め
られた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひと
りから遠く離れてはおられません。」
私たちは、このような分かれた状態になっていますが、ここに贖いの希望があります。キリスト
にあって一つだという希望です。天において、教会が主イエスを賛美しています。「黙示 5:9-10 彼
らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい
方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のた
めに人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治
めるのです。」私たちは、キリストの血によって贖われたというその一点で、どんな民族であっても、
神の民となることができます。
2B セムの系図 10-26
そして著者モーセは、ペレグ以後の系図を含めて、セムの系図を次に書き記します。
11:10 これはセムの歴史である。セムは百歳のとき、すなわち大洪水の二年後にアルパクシャデ
を生んだ。11:11 セムはアルパクシャデを生んで後、五百年生き、息子、娘たちを生んだ。11:12
アルパクシャデは三十五年生きて、シェラフを生んだ。11:13 アルパクシャデはシェラフを生んで
後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。11:14 シェラフは三十年生きて、エベルを生んだ。
11:15 シェラフはエベルを生んで後、四百三年生き、息子、娘たちを生んだ。11:16 エベルは三
十四年生きて、ペレグを生んだ。11:17 エベルはペレグを生んで後、四百三十年生き、息子、娘
たちを生んだ。
セムからペレグまでの系図です。
11:18 ペレグは三十年生きて、レウを生んだ。11:19 ペレグはレウを生んで後、二百九年生き、
息子、娘たちを生んだ。11:20 レウは三十二年生きて、セルグを生んだ。11:21 レウはセルグを
10
生んで後、二百七年生き、息子、娘たちを生んだ。11:22 セルグは三十年生きて、ナホルを生ん
だ。11:23 セルグはナホルを生んで後、二百年生き、息子、娘たちを生んだ。11:24 ナホルは二
十九年生きて、テラを生んだ。11:25 ナホルはテラを生んで後、百十九年生き、息子、娘たちを生
んだ。11:26 テラは七十年生きて、アブラムとナホルとハランを生んだ。
アブラムあるいは、アブラハムに至るまでの系図です。ここから一気にズームインされて、アブ
ラハムの生涯が始まります。ところで、セムからアブラハムにかけて、極端に寿命が短くなりました。
セムは 600 歳、アルパクシャデは 438 歳、エベルは 464 歳、ペレグは 239 歳です。永遠の命を
与えられていたアダムですが、罪を犯し、それで 1000 年に満たない寿命でしたが、さらにノアの
時代の大洪水によって、その罪の影響がさらに及んだのでしょう。齢が短いのは、神の怒りの現
われであると、モーセが詩篇の中で言っています(90:10-12)。
ところで、アブラハムの父テラですが、その名前の意味は「月」です。彼は月の神を拝む偶像礼
拝者でした(ヨシュア 24:2)。このように、偶像礼拝者の家で生まれて、そこから天と地を造られた
神の声を聞き、その方に従うというアブラハムの生涯が始まります。
3B アブラハムの生涯の始まり 27-32
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。11:29
アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカ
といって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。11:30 サライは
不妊の女で、子どもがなかった。
ここから「テラの歴史」、実際にはアブラハムの歴史が始まります。創世記を読めば、世界の創
造からここまでは、世界的な出来事が出てきましたね。けれどもそれは 1 章から 11 章までであり、
12 章から最後の 50 章までには、非常に小さな、個々人の話にズームアップしています。アブラハ
ム、そしてその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブの子十二人の一人ヨセフの話で終わります。
なぜなら、神がこのアブラハムをして、ご自分の救いの計画を確立されるからです。それは、人類
が民族と国々に分かれてしまった今、神はご自分を信じていく民族を新たに造られて、その民族と
国を通して他の民族に祝福を与えるというご計画です。この神の民族からキリストを輩出させ、そ
して他の全て民族に祝福を与えるというものです。神はこれ以上、繰り返すことのない、変更する
ことのない確固とした、無条件の救いの約束をアブラハムに対して与えられます。
ですから、新約聖書はこの人物の名前をもって始めています。「アブラハムの子孫、ダビデの子
孫、イエス・キリストの系図(マタイ 1:1)」です。そして、終わりの日、新しいエルサレムの中で、ア
ブラハムから出たイスラエル十二部族の名が、その都の門に付けられています(黙示 21:12)。し
たがって、神が終わりまでアブラハムによってご計画されたことを実行してくださるのです。
11
そのような偉大な父アブラハムですが、私たちがこの人物から学ばなければいけない原則は
「信仰」です。ローマ人への手紙 4 章 12 節に、「私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信
仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」とあります。神から大いなる祝福を受けたアブラ
ハムですが、それは彼の行ないがすぐれていたからではなく、彼が神を信じたからです。その信仰
はいったいどういうものなのかを、彼の生涯を模範とすることによって具体的に見えてきます。
それでアブラハムの背景を見てみたいと思いますが、先ほど話しましたように父テラは偶像礼拝
者でした。彼の故郷は「カルデヤ人のウル」とありますが、バベルの塔のある地域です。偶像礼拝
が色濃く残っている町でした。具体的には月を神として拝んでいました。次に彼らが滞在するハラ
ン(カラン)も、月の神への礼拝が盛んだったところです。それでアブラム、サライ、ミルカの名前も、
月の神礼拝の影響があると言われます。テラがその名を付けたからです。このような環境から、
神に呼び出されて、どこに行くかも知らない旅を始めたのがアブラハムです。私たちは、「今までキ
リスト教の環境にいなかったから、私は神やキリストを信じるのは難しい。」と言ってしまいます。け
れども、信仰とは周りがそのような環境だから信じるのではなく、むしろそうでない環境から、神が
個々人をそれぞれ呼び出されて、その呼びかけに応えるのです。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である
嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。
しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。11:32 テラの一生は二百五年であった。テラ
はカランで死んだ。
実は、この家族共々の旅を始める前に、彼は 12 章 1-3 節にある神の声を聞いていました。12
章 1 節だけをお読みします。「その後、主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故
郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。』」「その後」という言葉は原文にはあ
りません。これはむしろ、アブラハムたちがウルの町にいたときに、彼が個人的に神から聞いた言
葉です。
ですから彼は「生まれ故郷」を出て、「父の家」を出なければいけません。ところが、彼は確かに
ウルの町を離れたけれども、父テラを連れて出て行ったのです。神に聞き従っているようで、実は
半分しか聞いていなかったのです。そのため、彼らはハラン(カラン)に滞在しなければならなくな
りました。まだ神が示された地に着いていないのに、そこに留まったのです。そこは月の神への礼
拝が盛んでしたから、テラはさぞかし気に入ったことでしょう。けれども彼が死にまでアブラハムは
そこを離れることができなかったのです。
神の永遠の救いのご計画を示すために選ばれたアブラハムですが、彼の神への信頼は不完全
だったのです。その不完全な彼に対して、神が何ら咎めることなく、むしろ彼をさらに祝福されるこ
とによって、アブラハムは神の恵み深さ、大らかさ、慈しみ深さを知ることができました。それで彼
12
は神にさらに信頼することができるようになりました。彼が初めから神を完全に信頼したのではな
く、彼の弱さにも関わらず神が良くしてくださったので、アブラハムは神により信頼できるようになっ
たのです。
創世記 12 章を開いてください。私たちはこれからアブラハムの生涯を学んでいきます。私たちは
前回、11 章の終わりで、アブラハムが神に呼ばれて、「あなたの父の家を出て行きなさい」と言わ
れたのにも関わらず、父とともに旅に出たところを読みました。そのため、ハラン(カラン)という町
に居とどまることになり、彼が死ぬまで待たなければなりませんでした。そして 12 章に入ります。
4A 約束の地へ 12
1B カナン人の住むところ 1-9
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を
出て、わたしが示す地へ行きなさい。12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あな
たを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。12:3 あなたを祝福す
る者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによ
って祝福される。」
この約束は、とてつもなく大きな約束です。神が当初アダムに与えられた祝福を、彼個人を通し
て全世界にいきわたらせるというものです。そして、聖書全体を読むと分かってくるのですが、実
はこれは今現在に至るまで続いている約束であり、またこれから成就する約束でもあり、まだ完成
していないものです。今は、イエス・キリストにあって私たちが神の霊的祝福をすべて受けているこ
とにおいて成就します。そして、イエス・キリストが再び地上に来られる時に物理的にも成就し、約
束が完成します。そして、この約束が実現するのに一つだけの条件があります。それは、「わたし
が示す地へ行きなさい。」です。アブラハムは、この呼びかけに応えて旅を始めました。ですから、
その後に続く約束はすべて神が無条件に与えてくださいます。
神の約束の一つ一つを見ていきましょう。一つは、「わたしはあなたを大いなる国民」とあります。
バベルの塔によって、人々は偶像礼拝を行なうようになり、また言葉がばらばらになり、民族と国
民に分かれ出ました。そこで神は、まったく新たにご自分の呼びかけに応えて、ご自分を信じる国
民をその中に一つ造り出そうとされているのです。そして次の約束は「あなたを祝福する」です。こ
れは、アブラハム個人の生涯に成就していきます。これから私たちが読む彼の人生に、祝福が成
就していくのを見ていきます。
そして次に、「あなたの名を大いなるものとしよう。」シヌアルの地で塔を建てていた人々は、自
分たちの力で自分の名を上げようとしていました(11:4)。けれども、神は自分を高める者を低くし、
へりくだる者を高めてくださいます。主はアブラハムの名を上げてくださいます。具体的には、今、
私たち信仰者の間で名が高められています。私たちはアブラハムを、信仰の父として仰ぎ見てい
13
ます。それだけでなく、ユダヤ民族はもちろん異邦人である私たちより先に、アブラハムを自分た
ちの父とみなしていました。そしてキリスト教の後に出てきたイスラム教においても、アブラハムは
預言者の一人でありあがめられています。
12:3a あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
この原則は、アブラハム個人の生活に見ることができますが、さらにアブラハムの子孫であるイ
スラエル民族に続きます。(民数 24:9)この原則を読めば、その後の聖書に出てくる話しは納得が
行きます。エジプトのパロがヘブル人の男の子をナイル川に投げ込みましたが、パロとその軍隊
は紅海の中で溺れ死にました。ヘブル人の男の子を生かしておいた助産婦は神に祝福されまし
た。ヨシュアの時代、イスラエル人を偵察にエリコに行かせましたが、彼らをかばったラハブはエリ
コの破壊を免れ、イスラエル共同体の中に入り、そしてラハブ自身がイエス・キリストの先祖となる
のです。そして今も、その原則は続いています。イスラエル、またユダヤ人を呪った国や人は、そ
の呪いと等しい災いを受けています。イスラエルを滅ぼそうとする動きの背後には必ず悪魔がい
ます。イスラエルがいなくなれば、神の選びによる救いの計画は台無しになるからです。
12:3b 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。
これが、アブラハムが神に召された最終的な目的です。バベルの塔によって散っていった民族
の中に新しい神の民を創設し、彼らによって他の異邦の民が、元来アダムに与え、ノアにも約束さ
れていた祝福を受け継ぐことができるようにされました。このアブラハムから出たのがイエス・キリ
ストです。だから、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という新約聖書の
言葉が非常に重要なのです。私たちは、キリストにあって、アブラハムに約束された祝福のうち、
霊的な部分を受け継いでいます。「聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださるこ
とを、前から知っていたので、アブラハムに対し、『あなたによってすべての国民が祝福される。』と
前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、
祝福を受けるのです。(ガラテヤ 3:8-9)」神は、ご自分の前に出ても、私たちを正しいと宣言してく
ださいます。神の前で義と認められるという祝福は、アブラハムの子孫キリストにあって与えられ
ているのです!
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラム
がカラン(ハラン)を出たときは、七十五歳であった。
これが信仰の姿です。信仰は、「主を信じて、その信頼のゆえに神に頼りながらついていく」こと
です。ノアも箱舟について主から語られた時に、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、その
ように行なった。(6:22)」とあります。
そしてもう一人、甥のロトの姿が出てきています。「ロトも彼といっしょに出かけた」とあります。こ
14
こに、とても大事なアブラハムとの違いがあります。アブラハムは神の声を自分自身で聞いて、そ
れで応答して旅に出かけたのですが、ロトはあくまでもアブラハムおじさんと一緒に出かけた、と
いうことです。旅に出るという同じ行動を取っているのですが、アブラハムは信仰の応答として、ロ
トは周囲の変化に応答しているという違いがありました。これが後で、二人の人生に大きな違いを
もたらします。最終的には、ロトは二人娘以外のすべてのものを失い、その二人娘とも近親相姦
によって子孫を残すことになります。そしてアブラハムはとてつもない祝福で祝福されます。ですか
ら私たちは、今、自分たちが行なっていること以上に、そのことを行なっている時の心の動機に注
意を払うべきです。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カラン(ハラン)で加え
られた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
カナンの地については、前回、創世記 10 章で学びましたね。現在のイスラエル国がある地域で
す。北はレバノン、北東にはシリア、東は死海とヨルダン、そして南はエジプトに囲まれている、地
中海沿いに南北に細長い土地です。そして、妻のサラは不妊の女でした(11:30)。ですから、アブ
ラハムが大きな国民となることはもちろんのこと、彼女から、彼に与えられた子孫の約束、キリスト
が来られる約束は、到底考えることはできないことでした。けれども、それをいかに信じていくのか
が注目に値します。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その
地にはカナン人がいた。
おそらくアブラハムは、シリア方面から南下し、ヨルダン川に流れるヤボク川の渓谷を使って、ヨ
ルダンの高地から下り、そしてヨルダン川を越えてそのまま西に向かったと思われます。「シェケム」
は地理的に、約束の地の真ん中にあります。後にヨシュアがここにあるゲリジム山とエバル山のと
ころで、イスラエルに対する神の祝福と呪いを宣言させ、またずっと後には、イエス様がサマリヤ
の女にここで会います。当時は、ここに書いてあるとおり「カナン人」が住んでいました。そして「モ
レの樫の木」とありますが、この場所でカナン人は偶像礼拝を行なっていました。つまりアブラハム
は、異教徒が住んでいる真ん中に来て、異教の慣わしが満ちているところにやってきました。けれ
ども彼は、その慣わしを行なうことは決してしませんでしたが、自分の神を証していたのです。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰
せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
主が、アブラハムがウルの町で、そしてハランの地でお語りになった次に、再び現れてくださいま
した。ここに信仰の原則を見ることができます。神は、私たちにすでに語られていることに対して応
答している時に、次の一歩を見せてくださるということです。アブラハムに対する神のご計画を、
15
「わたしが示す地に行きなさい」という命令に従った後に、さらに見せてくださいました。逆に言うと、
その命令に従わないうちは、次の一歩を示されないということです。
そして主が与えられた啓示は、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」というものです。ア
ブラハムに子孫が与えられます。これは単なるイスラエルの子孫が多くなるということだけでなく、
アダムとエバに与えられた神の約束である「女の子孫」のこと、つまりメシヤのことを指します。で
すから、「この地を与える」と主は言われるとき、イスラエルの民がこの地を所有すること、またイエ
ス・キリストご自身がイスラエルの地を支配されることを意味しています。確かにこれまで、イスラ
エル人がこの地を所有していたことはありますが、すべての地ではありませんでした。これは、キ
リストが再び地上に来られた時に完成します。
それで彼は祭壇を造って、主に礼拝を捧げています。ノアもそうでしたね?すべて良いことが起
こった時に、感謝のいけにえをもって応答していることです。主が良くしてくださったこと、神の真実
を知ったことを思って、礼拝を捧げます。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはア
イがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
さらに南下しました。ベテルとアイはシェケムのさらに南にあります。そこで再び彼は主に礼拝を
捧げています。そして、セツの子孫がそうであったように、アブラハムも主の御名によって祈りまし
た。このようにして、アブラハムには、神がアダムからセツへ引き継がせてくださった霊的な祝福を、
アブラハムへつなげてくださっているのです。
12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
ネゲブはイスラエル南部にある砂漠地帯です。彼は遊牧民として、そこに住むのはさほど苦では
なかったでしょう。彼は、約束の地の北から南まで歩き、主に与えられた土地を踏みしめました。
神の約束を信じながら歩いたことでしょう(ヘブル 11:9)。
2B エジプトでの災難 10-20
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、
下って行った。この地のききんは激しかったからである。
エジプトはさらに南にあります。ネゲブの南はシナイ半島であり、それを横切るとエジプトがあり
ます。アブラハムはカナンの地に飢饉が襲ったので、エジプトに下りました。エジプトは砂漠の中に
ありますが、ナイル川のおかげで緑があり、肥沃な土地でした。その豊かさによってエジプトは大
きな国になっていました。飢饉だからエジプトに行く、というのは人間的に考えれば当たり前のこと
16
です。家族を食べさせなければいけません。けれども、神の目からはこれは大きな失敗でした。神
が、「この地をあなたに与える。」とカナンの地を与えられていたのに、エジプトに行って助けを得よ
うとしたからです。
エジプトはこれから、聖書の中で「世」を示す型になっていきます。雨量がかなり少ないイスラエ
ルの地に住む者にとって、常にナイルの水を得ているエジプトは魅力的であり、それに頼りたくな
ります。けれども、世に頼るのではなく、神ご自身の約束に踏みとどまるのだという決断を私たち
がするときに、神がその必要を満たしてくださいます。しかしアブラハムは、その信仰の試みに対
して失敗しました。エジプトに下りました。確かに物質的な助けは得られます。けれども、霊的に大
変なことが起こります。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あ
なたが見目麗しい女だということを私は知っている。12:12 エジプト人は、あなたを見るようになる
と、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。12:13 どうか、私の妹
だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きの
びるだろう。」
アブラハムは、とんでもないことを妻サラにお願いしています。エジプトでは、女がいれば無理や
りにでも自分の妻にするという危険がありました。それでアブラハムは、サラが自分の妻だといえ
ば、「じゃあこの男を殺してしまおう。そしてこの女を妻にしよう。」とエジプト人が言うだろうことを予
測して、彼女に「妹」だと言っておくれと頼んでいるのです。サラは確かに腹違いの姉妹です。けれ
ども、この状況下においては完全に嘘です。私たちは、一度、信仰の試みに失敗すると、次々に
肉の行ないが出てきます。
12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入
れられた。12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛
の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
サラはこの時、もう六十五歳でした。アブラハムより十歳年下です。当時は寿命が長かったので、
それだけ若かったとは思いますが、それにしてもかなりの美人だったようです。パロがなんと彼女
を自分のハーレムの中に入れました。そして、アブラハムに良くしてやっているのは、いわゆる結
納金です。
このように、世の富は妥協すればすぐに手に入るかもしれません。けれども、これは後で痛手と
なるのです。まず 13 章で、ロトがこの富に魅惑されてしまいました。そして 16 章では、ここにいる
女奴隷の一人ハガイによって、アブラハムは神の約束されていない子イシュマエルを生みました。
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富によってかえって痛々しい思いをしなければならなかったのです。
12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
なんと痛めつけられたのはアブラハムではなく、パロの家のほうでした!アブラハムが嘘をつい
て罪を犯したのですから、彼が罰を受けるべきですが、神はアブラハムを祝福すると約束されたゆ
え、彼を罰することをされなかったのです。むしろ、彼の祝福が失われることのないために、パロの
家を災害で痛めつけました。
おそらく、パロがサラの寝床に入ることのないように、サラの胎を守るために、パロやその家の
男どもにひどい病を与えたのではないかと思われます。痛くて、それで女と寝るどころではなかっ
たではないかと思われます。
アブラハムが行なったことは、単なる嘘というものではありません。神がアブラハムの子種によ
って、そしてサラの胎によって約束のキリストをもたらすと決められていたからです。それを他の男
の、しかも異邦人の子種が入ってしまうことによって、この神のご計画が台無しになってしまうとい
う大きな危機でした。それで神はパロを呪われました。パロは意図的ではなかったにしろ、12 章 3
節にある、「あなたをのろう者をわたしはのろう。」という神の言葉通りのことを行なっていました。
神はこのようにして私たちを守ってくださいます。神はキリストにあって、私たちを罪に定めるこ
とは決してなさいません(ローマ 8:1)。もちろん懲らしめることはなさいます。アブラハムも、この失
敗によって後にいろいろな刈り取りをしました。けれども、それは罰ではありません。神は、キリス
トにあって私たちをただ祝福し、愛を降り注ぐようにお決めになったのです!
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたの
か。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。12:19 なぜ彼女があなたの妹だと
言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れ
て行きなさい。」12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべ
ての所有物とともに送り出した。
まことの神を知らない不信者の人から、このように叱られるのは本当に不名誉なことです。本来
なら、信仰者が不信者に正しい神のことを示さなければなりません。しかし、普通ならパロはアブ
ラハムを当然のごとく殺していたでしょうが、彼はアブラハムには神がおられるという恐れがありま
した。それで、彼らが早く自分たちから去ってくれるようにと、分け与えた財産共々、エジプトから出
してしまいました。
18
5A ロトとの別れ 13
それで彼らは、約束の地に戻ります。
1B 約束の地を離れるロト 1-13
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物
と、ロトもいっしょであった。13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。13:3 彼はネゲ
ブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈っ
た。
アブラハムは、主が語られたとおり多くの富を持ちましたが、彼はその富に支配されていません
でした。むしろ、彼はエジプトにおける大きな失敗から立ち直り、かつて祭壇を築いたベテルとアイ
の間まで戻り、再び主の御名によって祈りました。彼は悔い改めたのです。アブラハムは良かった
でしょう、このように立ち直ることができるほど彼は霊的に敏感でした。けれども、まだ信仰が確立
していなかったロトは、この富に支配されてしまいました。
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。13:6
その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがい
っしょに住むことができなかったのである。13:7 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家
畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んで
いた。
アブラハムとロトは、それぞれ多くの家畜を持ち、それを羊飼いに飼育させることによって家業を
営んでいました。けれども、土地が狭いです。そこはカナン人の地であり、その町々の間にあるわ
ずかな荒れ地を使って放牧していたのですが、ついに両者の羊飼いたちが言い争うようになりま
した。
13:8 そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧
者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。13:9 全地はあなた
の前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。も
しあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
アブラハムの霊性は優れています。彼は、周囲にカナン人がいることを知っていました。まことの
神をあがめる者たちが言い争いをしているのを見せてしまっては、彼らに良い証しにならないこと
を知っていました。それでロトとの間に平和があることを求めました。アブラハムはおじですから、
ロトにいくらでも、どこかに行けと命じることができたはずです。ところがアブラハムは、ロトに最初
の選択を委ねました。ここに、アブラハムの柔和さとへりくだりがあります。これは、すべてのことは
19
神から来ているのでから、相手も神の御手の中にあるというへりくだりです。自分の手を動かして、
自分で支配しないというへりくだりです。
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前で
あったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、ど
こもよく潤っていた。
イスラエルの地形は、その土地の真ん中に南北に山脈が連なっています。そしてヨルダン川は
渓谷になっています。世界で最も低い陸地であり、死海の上空を飛ぶ飛行機は何と海水の水面
下を飛ぶことができます。したがって、今、サマリヤの山々にいるロトからは死海地域は大きく見
渡すことができました。ソドムとゴモラは死海の南の方にあったのではないかと言われていますが、
ツォアルは最南端にある町です。そこ一帯が緑で潤っていたのです。今は塩分を多く含む砂漠に
なっているので信じられませんが、それはソドムとゴモラに火と硫黄が後に降り注がれるからです。
ロトは、この目に見えるものに魅了されました。特に、「エジプトの地のように」とあるように、彼が
味わった豊かさがそこにはありました。彼は、信仰によってではなく、目に見えるものにしたがって
動いてしまったのです。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして
彼らは互いに別れた。13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソド
ムの近くまで天幕を張った。13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な
罪人であった。
非常に豊かであったけれども、「主に対して非常な罪人であった」とあります。主が嫌悪されてい
たのは、彼らがその豊かさによって安逸を貪っていたことと、男色を行なっていたことです。ロトは、
これらの罪に関わりたくはありませんでした。だから、「ソドムの近くまで天幕を張った」のです。罪
は犯したくないからそこには行かないが、その近くまでは行こう、ということです。いかがでしょう
か?私たちは、自分たちがいかに弱い存在であるかを忘れてしまいます。自分の目にしたがって、
自分は大丈夫だと思って行なうことによって、すでに信仰から来る内からの力を失っています。そ
れで罪に対しては弱くなっています。近くに行くだけでは済まなくなってくるのです。
それで 14 章 12 節をご覧ください。何とありますか?「ロトはソドムに住んでいた。」です。そして
19 章 1 節をご覧ください、「ロトはソドムの門のところにすわっていた。」とあります。当時の町は城
壁に取り囲まれており、門には建物がついていて、今の役所の役割を果たしていました。つまり、
ロトはソドムの町のさばきつかさになっていた、ということです。ちょっとした、目の欲による妥協が
ロトを罪のど真ん中へと突き落としたのです。
20
2B 約束の地にとどまるアブラハム 14-18
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる
所から北と南、東と西を見渡しなさい。13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永
久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようになら
せる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。13:17
立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」
アブラハムは信仰の目で見えるものを見て喜びました。「あなたのいる所から北と南、東と西を
見渡しなさい。」と言われています。彼は今、ベテルとアイの間にいます。約束の地の中心部分に
いるのですが、そこは肥沃な地ではありません。岩も転がっている、荒地です。けれども、そこから
は約束の地の東西南北を眺めることができます。「北」にはガリラヤ地方があります。「南」にはエ
シュコルの谷があります。モーセによって遣わされたイスラエルの 12 人のスパイが、巨大なぶどう
の房を取ってきた所です。そして「東」にはエリコなどがあるヨルダン渓谷が、そして「西」はシャロ
ン平原と地中海が見えます。
そして主は、「わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に
与えよう。」と言われました!一部ではなく全部です。そして一時期ではなく永久に、ということです。
そして神は再び、アブラハムから子孫が出てくることを保証なさいました。それは単にイスラエル
の子孫ということだけではなく、その子孫からキリストが出てくるという事です。アブラハムは、神か
ら大きな慰めを得ました。シェケムで神が現れてくださった時には、「あなたの子孫に、わたしはこ
の地を与える。(12:7)」と言われましたが、内容は同じですが、もっと規模の大きい、確かな幻とし
て見せてくださったのです。それで「歩き回りなさい」と言われました。
13:18 そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そ
して、そこに主のための祭壇を築いた。
アブラハムは南部に住むところを移しました。これから、ヘブロンが彼の住まいの町となります。
エルサレムから車で1時間弱のところにあります。そこに行っても、彼は主のための祭壇を築きま
した。
6A 王たちの戦い 14
1B ロトの拉致 1-12
14:1 さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイム
の王ティデアルの時代に、14:2 これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマ
の王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。14:3 こ
のすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。
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場面は王たちの戦いに移ります。これはすべて、すぐに出てくるロトをさらっていくという事件の
背景を説明するためです。そして戦いの場は、「塩の海」つまり死海のところです。四人の王はメソ
ポラミアの地域の者たちです。「シヌアル」は、もうすでにバベルの塔のところで出てきましたね。そ
して後者の五人の王はカナンの地にいる者たちです。この中に、ソドムの王とゴモラの王がいます。
14:4 彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。14:5 十四年目に、
ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハ
ムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、14:6 セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂
漠の近くのエル・パランまで進んだ。14:7 彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至
り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。
メソポタミアからの王たちは、シリアに南下し、今のヨルダンを通過し、紅海の港町であるエル・
バランまで行き、それから折り返して南からカナン人の地を攻めて行きました。
14:8 そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアル
の王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。14:9 エラムの王ケドルラオメル、ゴイム
の王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人
の王とである。14:10 シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラ
の王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。14:11 そこで、彼らは
ソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトと
その財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。
カナンの王たちが負けて逃げました。それで一般の人々がメソポラミア側の王たちにさらわれて
いきました。その中にロトがいて、その家族や財産があったのです。
2B メルキゼデクとの出会い 13-24
14:13 ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ
人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの親類で、彼らはアブラム
と盟約を結んでいた。
自分から離れてしまったロトであるけれども、甥を愛してやまないアブラハムは命がけでロトを奪
還すべく追跡します。ここで初めて「ヘブル人」という言葉が出てきます。エベルから派生した言葉
です。そしてエモリ人のマムレという人とアブラハムは盟約を結んでいました。おそらくマムレに対
して、アブラハムは良い影響を与えていたのだろうと思われます。彼らもアブラハムの神に回心し
ていた可能性もあります。
14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百
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十八人を召集して、ダンまで追跡した。14:15 夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開
し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。
ものすごい距離です。「ダン」はイスラエルの北端の町であり、ゴラン高原あるいはフラ渓谷から
北上するとその遺跡を今でも見ることができます。さらに彼らは北上し、なんとシリアのダマスコの
北まで行きました。
14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たち
や人々をも取り戻した。14:17 こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちと
を打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。
この「シャベの谷」は、「ヨシャパテの谷(ヨエル 3:2)」のことです。エルサレムの町の神殿の丘と
オリーブ山の間にある谷で、ケデロンの谷の一部です。
14:18 また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司で
あった。
アブラハムは二人の王の訪問を受けました。一人はソドムの王で、そしてもう一人は、突然、負
って沸いたようにメルキデゼクという王が出てきています。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き
神より。14:20 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべ
ての物の十分の一を彼に与えた。
彼はいったい誰なのでしょうか?まず「シャレムの王」とあります。シェレムは「平和」という意味
があり、エルサレムの別名です。(エルサレムは「神の平和」という意味です。)そして、「メルキデ
ゼク」という名前の意味は「義の王」です。つまり、平和の町の義の王だということです。
しかも彼は、王だけでなく「いと高き神の祭司」であります。王であり祭司である方です。これはち
ょうど、天皇と国の指導者が一つになったようなもので、とんでもないことです。後に律法では、レ
ビ系のアロンの家の者たちが子孫が祭司職を受け持ち、ダビデの子孫が王座に着きます。王が
神殿の中で祭司が行なう、いけにえを捧げるようなことをするやいなや、例えばウジヤ王はらい病
にかかってしまいました。ですから、旧約聖書の制度においても決してあってはならないことです。
さらに、メルキデゼクは彼を祝福しています。祝福する人が、祝福を受ける人より上位にいます。
そして決定的なのはアブラハムが彼に十分の一を捧げていることです。律法によれば、十分の一
を捧げるのは神ご自身に対してであり、人に対するものではありません。もちろん、実際には祭司
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たちのところに持ってきますが、あくまでも捧げる対象は神に対するものです。
そして不思議なのは、メルキデゼクは「パンとぶどう酒」を持ってきていることです。このコンビを
読むのは、もちろんイエス様の聖餐式です。最後の晩に弟子たちに、「これは、あなたがたのため
に裂かれるわたしの肉です。取って食べなさい。」「これは、新しい契約のために流されるわたしの
血です。取って飲みなさい。」と言われました。そしてこのメルキデゼクについて、後にダビデは聖
霊によって、キリストについてこう預言しました。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、
メルキデゼクの例にならい、とこしえの祭司である。』(詩篇 110:4)」ここの「例」は「位」と訳すこと
もできます。メルキデゼクは、キリストの現われそのものだったのです!
メルキデゼクがキリストご自身であるか、あるいはキリストを表していただけでキリストご本人で
ないかについて意見が分かれますが、私はキリストご本人であると思います。イエス様はユダヤ
人に、「アブラハムは、わたしの日を見て、大いに喜びました。(ヨハネ 8:56 参照)」と言われました。
そして彼らに対して、「アブラハムがいる前から、わたしはいるのです。(58 節参照)」と言われたの
です!イエス様は、二千年前にベツレヘムでお生まれになった時に存在し始めたのではなく、実
に永遠の昔から生きておられ、アブラハムの時代にも生きておられたのです。そしてメルキデゼク
として現れてくださいました。あるいは、たとえキリストご自身でなかったとしても、キリストを表す人
物であることは確かです。
ですから、アブラハムはこのような形で神とキリストに出会ったのです。彼はウルの地を出てか
ら、いろいろ失敗しました。父とともに旅に出かけ、そしてエジプトに下ってしまいました。そのため、
ロトがソドムに行ってしまいました。けれども、彼に神は現れてくださいました。シェケムで、そして
ロトが去った後にベテルで、さらに今、エルサレムの谷でキリストご本人に見えているのです!
14:21 ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなた
が、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。14:24 ただ若者たちが食べてしまった
物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け
前を取らせるように。」
メルキデゼクとは対照的に、ソドムの王とは一切の関わりを持ちませんでした。当時の慣わしで
あれば、戦争で勝った者がその戦利品をすべて受け取ることができます。けれども、アブラハムは
その一切を断りました。その理由が、「『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」とあ
ります。イエス様は、「豚の前に、真珠を投げてはなりません。(マタイ 7:6)」と言われました。この
俗悪な王の財産を受け取ることによって、神にある自分の評判を売り渡してはいけないと考えた
のです。かつては、エジプトのパロから多くの財産を受け取ったアブラハムですが、彼の富はこの
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世のものではありませんでした。むしろ、神ご自身から富を彼は欲しました。彼は、確かにこの地
上の富による祝福を約束されていましたが、あくまでも神ご自身の霊的な祝福、天から来る祝福
に裏づけされたものでした。
7A アブラハムへの報い 15
1B 星の数のような子孫 1-6
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラム
よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
「これらの出来事」とは、アブラハムがロトを救出した出来事です。その後に残っていたのは、ま
ず恐れです。四人の王から反撃が来るかもしれないという恐れを抱いていたことでしょう。もう一つ
は喪失感です。神に与えられた良心にしたがって、世間では当然受け取るべきところの財産を受
け取りませんでした。主はまず、「恐れるな。わたしはあなたの盾である」と言われました。アブラ
ハムの恐れに対して、「わたしが盾になる、わたしがあなたを守る。」と励ましてくださいました。そ
して喪失感に対しては、「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と言われました。
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子が
ありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」15:3 さらに、ア
ブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りにな
るでしょう。」と申し上げた。
アブラハムは、「報い」と聞いた時に、それは子を生むことであるとすぐに悟りました。なぜなら、
創世記 12 章、13 章ですでに神が、彼の子孫によってこの地を所有するという約束を受けていた
からです。(創世記 12:7、13:16-17)けれども、彼には跡取りの子が一人もいません。創世記 11
章の最後に、サラは不妊であったことが書かれています。それで、自分の家の管理人である、ダ
マスコのエリエゼルが跡取りになるのでしょうか、と尋ねています。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。
ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じら
れているそうです。神は、強い意志でアブラハムから生まれてくる者がいることを仰いました。
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができる
なら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 彼は主を
信じた。主はそれを彼の義と認められた。
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到底、自分の力ではできないこと、不可能な事を、アブラハムはそのまま信じました。その信仰
が彼を義としました。信仰による義です。 これまで話したことのまとめを、ローマ人への手紙4章
で読むことができます、2節から読みます。「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのな
ら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていま
すか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります。働く者のばあ
いに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬
虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ 4:2-5)」
ここでパウロは極端にも、「不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら」と言っています。経験
ではないもの、不道徳な者、不正や不義を行なっている者、そういった者たちでも、神が義と認め
てくださることを信じるなら、その信仰によって正しいと認められるのだ、というのです。
ここで、「子孫」には二つの意味があります。星の数のように多くなるイスラエルの子孫という意
味もありますが、アブラハムに約束された子孫は単数形になっています。ガラテヤ書でパウロがこ
う説明しています。「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子
孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。
その方はキリストです。(3:16)」したがって、アブラハムは自分の子孫が無数になるということを信
じただけでなく、その子孫から出てくるキリストを信じたのです。エバから始まり、ノアの父レメクが
信じ、そしてイスラエル人たちが信じてきた「女の子孫」であるキリストが、自分から出てくることを
信じました。
ですから、旧約時代の聖徒はどのようにして救われるのですか?という質問に対して、こう答え
ることができます。「旧約時代は、後に来られるキリストを信じることによって救われる。そして新約
時代は、すでに来られたキリストを信じることによって救われる。」
2B カナン人の地 7-21
15:7 また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カル
デヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の
所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」15:9 すると彼に仰せられた。「わた
しのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わ
せにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
アブラハムに与えられた約束は、子孫だけでなくこのカナンの地でした。これも主からの報いで
ありました。アブラハムは、その約束が確かなものであることを確認したいと思いました。それで神
は、当時、行なっていた契約を取り交わそうとされています。それは動物を真っ二つに引き裂くこと
です。そしてその間を契約を結ぶ双方が通り抜けます。そのことによって、「もしこの契約を破るな
ら、私はこのようになります。」という確約を表すためでした。まさに「血の契約」だったのです。そ
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れでアブラハムは、その準備をしました。
15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。15:12 日が沈み
かかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。15:13
そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分
たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。15:14 し
かし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出
て来るようになる。15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うし
て葬られよう。15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、その
ときまでに満ちることはないからである。」
カナンの地をアブラハムが所有するという約束は、そのままバラ色に実現するのではありません。
アブラハムの子孫はエジプトに下っていき、そこで奴隷として苦しめられ、それでそこから戻ってく
ることによってここを所有する、と神は宣言されました。初めに、猛禽が死体の上に降りて来たこと、
眠っている間に酷い暗黒の恐怖が襲ったことも、そのエジプトの暗黒時代を表していました。
この全ての実現は、出エジプト記で確認することができます。そしてヨシュア記において、イスラ
エルの民がエモリ人たちや、他のカナン人たちを打ち滅ぼしていくところを読みます。それが何の
ためかといいますと、「エモリ人の咎が、そのときまで満ちることはないからである」とあります。イ
スラエルの民がカナン人たちを殺していった時は、かわいそうな先住民を選民が追い払ったという
単純なものではありません。そうではなく、彼らが忌まわしいことを行なっており、ご自分の裁きの
器としてイスラエルを用いられたからです。(レビ 20:23 参照)けれども神は、忍耐をされる方です。
たとえ彼らが自分たちの悪を積み上げているにしても、四百年という猶予期間を与えておられまし
た。これが、神が裁きを行なわれる方法です。イ
15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつ
が、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。
この明かりは、主ご自身が通られている光です。ここで注目したいのは、アブラハムがこの切り
裂かれたものの間を通っていないことです。神が一方的にこの契約を結んでおられます。神は、ア
ブラハム側に条件を付けなかったのです。今までも、またこれからもアブラハムは失敗します。そ
れにも関わらず、神はアブラハムにますますその祝福を降り注がれます。その約束もさらに鮮明
に明らかにしてくださいます。ですから、神のキリストにある契約は確固としたものなのです。私た
ちではなく、神が一方的にキリストにあって結んでくださった契約なのです。私たちの責任は唯一、
キリストを信じるということだけなのです。
15:18 その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与
27
える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。15:19 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、
15:20 ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、15:21 エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」
主はアブラハムに、はっきりと所有する地の境界線を与えられました。それは南は、エジプトの
川です。これはナイル川ではなく、ナイル川の支流のもっとも東にある、スエズの当たりであると言
われています。あるいは、シナイ半島にワジがあるのですが、そこかもしれません。そして北はユ
ーフラテス川です。
ヨシュアの時代に土地を占領しましたが、この地域には至りませんでした。ソロモンの時代にイス
ラエル王国は栄華を極めましたが、その時でさえ、勢力は伸ばしたものの所有するとまでは行き
ませんでした。彼らが不従順のために、敵にその土地が切り取られていき、最後はバビロンによっ
て引き抜かれたのです。けれども、今、お話したようにこれは無条件の契約です。イスラエル人の
失敗によって無効になるものではありません。聖書預言には、イエス・キリストが再び来られる時
に離散しているユダヤ人が天の四方から戻ってくることが約束されています(マタイ 24:31)。イエ
スを信じたユダヤ人が、この土地はここでアブラハムに約束してくださったとおり、所有することに
なります。
8A ハガイからの子 16
1B お家騒動 1-6
16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、
その名をハガルといった。16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを
産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によ
って、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。16:3 アブラ
ムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハ
ガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
この 16 章に題名を付けるならば、一言「肉の行ない」です。主からとてつもない大きな幻をアブ
ラハムは受けました。そして彼はそれを信じました。それを神は義とされました。けれども、ここで
その約束を自分たちで何とかしなければならないとサラが思い、そしてアブラハムがそれを許しま
した。
当時、女奴隷を通して跡継ぎの子を得ることは慣習となっていました。ですから、ここでアブラハ
ムが不道徳なことを行なっているということではありません。今で言うならば体外受精でしょう。け
れども、表向き息子が与えられるようにして、神の約束が実現したかのようにしたのが間違いです。
カナンの地に着いてから十年経っています。だから、これは自分たちが神を助けなければ実現し
たいと思ったのです。けれども、「神を助けなければ」と考えること自体が愚かです。次の章に出て
きますが、神は全能な方です。あたかも神に不足があるかのように、自分たちがそれを埋めようと
28
しました。
私たちは、主を待つ必要があります。そして、御霊の導きに服従する必要があります。けれども、
私たちは自分たちの必要をどうしても、自分自身で満たそうとします。主から与えられる祝福を、
主からではなく、他の手段によって受けようとするのです。
ところで、このハガルはエジプト人ですね。アブラハムがエジプトに下った時に得た女奴隷です。
その時に犯した失敗が、今このような形で表れています。私たちは、神から恵みを受け、罪が赦さ
れ、やり直しをすることができます。けれども、自分が蒔いたものを刈り取らないということではあり
ません。結果は残っています。その結果を受けることによって、私たちはなおさらのこと、その罪を
犯してはならない、同じ過ちは繰り返してはならないことを学びます。そして自ら、その罪を憎み、
その罪から離れます。それゆえ、神は、結果を私たちが刈り取ることも許されるのです。これを「懲
らしめ」と呼びます(ヘブル 12 章参照)。
16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知
って、自分の女主人を見下げるようになった。16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対す
るこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、
彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間を
おさばきになりますように。」16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなた
の手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、
彼女はサライのもとから逃げ去った。
「肉の行ない」は私たちにすぐに結果を与えてくれます。あくまでも表向きですが、自分たちが望
んでいることをすぐに手に入れることができます。けれども、それは上塗りのメッキが剥がれるよう
なものであり、すぐに正体がばれます。
まずハガルが女主人サラを見下しました。これは、跡継ぎの子を自分が産んだということで、女
主人と同じ地位に着いたと思ったからです。すると今度は、夫婦喧嘩が始まりました。サラは、自
分がハガルによって子を与えてくださいと言い出したのですが、アブラハムのせいにしています。
そして今度は、アブラハムが丸投げしました。「あなたの好きなようにしなさい。」と言っています。
このように、「お家騒動」が起こったのです。争いやねたみ、分裂は肉の行ないです。私たちはけ
れども、聖霊の実を待ち望んでいます。実質的な成長です。それは、私たちがキリストに与えられ
た約束を信じて、受け入れて、その中にとどまっていて、その中で喜び、感謝している中で、神が
育んでくださるものです。
2B イシュマエルの誕生 7-16
16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、16:8
29
「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私
の女主人サライのところから逃げているところです。」16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あ
なたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
神が、この騒動に対する憐れみを示されました。「主(ヤハウェ)の使い」とは、イエス・キリストの
ことです。イエス様がベツレヘムで二千年前に人間の赤ちゃんとしてお生まれになる前に、すでに
永遠の昔から存在しておられました。そして旧約の時代は、ヤハウェの使いとして現れることがし
ばしばありました。そして「シュルへの道」というのは、シナイ半島からエジプトにつながる道です。
つまり彼女は実家エジプトに逃げ帰ろうとしていました。
16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えき
れないほどになる。」
すばらしいですね、アブラハムの肉の行ないによってみごもった子であるのに、神はこの失敗を
も用いて新たな民族を造り、それを祝福されようとしています。そして、この民族がアラブ人です。
そして主の使いが、「わたしが大いにふやす」とおっしゃっていますね。主の使いは自分を「主」と
同列に置いています。つまりここに、父なる神と同列に置いているキリストの姿を見るのです。
16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとして
いる。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。16:12
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆ら
う。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」
「イシュマエル」は「神は聞かれる」という意味です。ハガルの苦しみを聞いてくださいました。ここ
にアラブ民族の始まりと特徴を見ることができます。「野生のろばのような人」というのは、荒野を
徘徊する人々、という意味があります。つまり遊牧民です。アラブ人の原型は、あのシナイ半島や
アラビア半島、ネゲブ等の一帯に住んでいるベドウィンです。
そして、その手は「すべての手に逆らう」「すべての兄弟に敵対して」とあります。25 章 18 節にそ
の成就が書かれています。またこの地域には、遊牧民には絶えず部族間の戦いがあり、その部
族の中から出てきたイスラム教が今の時代でも世界を不安定にさせています。また兄弟であるは
ずのイスラエル人にも敵対しています。今、アラブ人がユダヤ人に敵対しているのは、このアブラ
ハムの肉の行ないによると言って良いでしょう。けれども、この失敗をも憐れみによって神は祝福
してくださり、アラブの人たちは非常に多くなり、また石油によって栄えています。アラブの人にも
数多くのキリスト者がいます。
16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、
30
「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。16:14 そ
れゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。
エル・ロイは「ご覧になる神」という意味です。ハガルは、主の使いを見てそれが神ご自身である
ことを悟り、死んでいないことに驚いています。神が顕現されて、それがキリスト・イエスでした。そ
してここが後にアブラハムの子イサクの住む所となり、ネゲブとパランの荒野の辺りにあります。
16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュ
マエルと名づけた。16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳で
あった。
ここで著者がはっきりと年齢を記しています。なぜなら、次の節でまた年齢が出てくるからです。
9A アブラハムとの契約 17
1B 割礼の印 1-14
17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の
神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしと
あなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
もうアブラハムは 99 歳です。16 章の時からすでに 13 年が経っています。なぜ 13 年も待ってお
られたのでしょうか?なぜ 13 年目になって、あえて再び神がアブラハムに対して立てておられる
約束を確認しに来られたのでしょうか?
それは神ご自身の言葉にあります。一つは、「わたしは全能の神である」です。ヘブル語では「エ
ル・シェダイ」であり、原語には「乳」という意味合いもあります。母の乳に抱かれた赤ん坊のイメー
ジです。つまり、すべての源は神にあり、あなたは完全に神に依存している存在なのだよ、という
ことです。アブラハムが、ハガルによって子を生むことにより、神があたかも不足しているかのよう
に振舞いました。それに対する否定を神が行なわれています。
つまり神は、アブラハムに「あなたの側に何ら子を生み出す力がないようにさせよう。あなたには
何もできないようにさせたときに、ようやくわたしが働くことができるのだ。」ということを分からせた
かったのです。私たちは窮地に立たされると、そこで神はようやくご自分が働かれる機会が与えら
れます。私たちが動いている間は、神はご自分で動くことができません。神ご自身だけで動くため
に、私たちがその自分で自分を救おうとする手を引っ込める時まで待っておられるのです。
そこで神はもう一つ、「全き者となれ」と言われています。アブラハムは、信仰の歩みにおいて妥
協してしまっていました。全き心で神に頼るのではなく、イシュマエルを自分の手で生んだからです。
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「あなたは、まだ目標に到達しているのではないのだよ。十全な者になるために、また走り出しなさ
い。」と促しておられます。そして「わたしの前に歩み」という言葉もありますね。これは神のご臨在
にあって生きていきなさい、ということです。神がおられるところであなたは前に進んでいきなさい、
ということです。
17:3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。17:4 「わたしは、この、わたしの契
約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。17:5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んで
はならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、
王たちが出て来よう。
これまでは、子孫を数多く増やすという約束を与えておられましたが、ここで新しく「多くの国民の
父となる」と約束しておられます。一つの国民だけでなく、複数の国民が出てくるということです。そ
れだけでなく、王たちも出てきます。これは、後にイスラエルにもダビデ王朝ができる約束となって
います。
そしてアブラハムの名前ですが、私はこれまでアブラムをアブラハムといい続けましたが、ここに
その理由があります。神がアブラハムと名前を変えてくださったからです。アブラムは「高められた
父」という意味がありますが、アブラハムは「多くの者の父」という意味があります。そしてもう一つ、
「ハ」という音が入ることによって、彼が御霊によって生きる人の意味合いがあります。「ハ」の音で
すが、息の音によって神は人を生きるものとされました。もはや肉ではなく、御霊の導きによって
生きていくのだよ、という意味です。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との
間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神とな
るためである。17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあな
たの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」
神は、これまでの約束をさらにはっきりと、そしてさらに強固にされました。永遠の契約である、そ
して、その目的はアブラハムの神となり、その子孫イスラエルの神となるためである。また、土地
の所有も永遠である、などです。
17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、
代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、
またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたが
たの中のすべての男子は割礼を受けなさい。17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切
り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。
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私たちは以前、神がノアと結ばれた契約において、虹という印を神が与えられたところを読みま
した。ちょうど契約書に私たちが判子を押すように、この契約の確かさを示すためのものです。ア
ブラハムとの契約においては、それが「割礼」です。男性の性器の包皮を切り取ることです。アブラ
ハムの子孫が、その男性が自分の性器を見て、確かにそこから出てくる子種、精子は神の民を生
み出すためのものだということを思い出すためです。
17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければな
らない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。17:13
あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならな
い。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。
17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られな
ければならない。わたしの契約を破ったのである。」
生まれてから八日目の割礼というのは、モーセの律法の中でも引き継がれていきます。そして自
分の家族だけでなく、自分の家にいる男たち全員が割礼を受けます。そしてこれは、割礼を受け
なければ民から断ち切られる、つまり神の民ではなくなる、という厳粛なものです。
ユダヤ人はこれを今でも非常に大切にしています。イエス様の時代に至るまでそれはとても大
切であり、パウロは教会への手紙の中で数多く割礼の問題を取り上げています。なぜなら、これを
受けることによって自分は神の国に入れるとユダヤ人は信じていたからです。割礼を受けることに
よってはじめてユダヤ人となることができ、ユダヤ人となれば神の民になることができるのだ、とい
うものです。
けれどもパウロは、ローマ人への手紙 4 章で、アブラハムは義と認められたとき無割礼だったの
だ、と論じています。そうですね、割礼を受けたのはここ 17 章、彼が 99 歳の時ですが、彼が義と
認められたのは 15 章でした。少なくても 13 年以上前の話です。つまり彼が無割礼だった時に彼
は義と認められたのであり、割礼が彼を義としたのではないということです。むしろ、彼が神に義と
認められた者となったのだという、外側の印として与えられたのです。
2B サラからの子 15-21
17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼
んではならない。その名はサラとなるからだ。17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女に
よって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、
国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
主は、さらに続けてご自分の約束を明確にされました。以前、「あなたから出る子が跡継ぎにな
る」と言われましたが、それはもちろん妻サラとの間の子という意味でした。けれどもアブラハムは
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勝手に、女奴隷を通してでも私の子だという理屈で神の約束は実現したと思っていました。それを
正すために、今、ここでこうやって話されています。「サライ」は「私の王女」という意味があります
が、「サラ」は「王女」という意味です。ここでも、アブラハムの「ハ」の音が、サラにも使われていま
す。最後の所に H の音があり、息が入っています。
17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれよ
うか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」17:18 そして、アブラハムは神に
申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
神が十三年間待っておられた理由がここにありますね。いくらアブラハムもサラも長寿だとしても、
百歳と九十歳は、当時でも更年期を過ぎていた歳でした。絶対に人間側には無理なのです。けれ
ども、神はそれを行なわれました。神のみに栄光が与えられるためです。そして 13 歳というのは、
大人になる年齢です。ユダヤ人は「バル・ミツバ」という成人式を 13 歳の男の子に対して行ないま
す。神は、イシュマエルに対する期待を粉砕すべく、この時に現れたのです。これは神の憐れみで
す。私たちが自分の力や知恵で作り出したものを、遅すぎる前に壊してくださいます。
17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたは
その子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のため
に永遠の契約とする。
「イサク」という名前の意味は「笑う」です。今、アブラハムが笑ったからです。「百歳の父親と、九
十歳の母親から生まれた??」とみなが、その奇跡について笑うことになるだろうと意味が含まれ
ます。あまりにもすばらしいことなので、笑うことしかできないという意味です。神は、私たちにもそ
の喜びを与えてくださいます。あまりにも喜ばしい話しなので、笑ってしまう程の業を行なってくださ
います。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、
彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いな
る国民としよう。
後にイスラエルには十二部族が与えられますが、イシュマエルにも同じように十二部族が与えら
れます。創世記 25 章に、その実現が記録されています。
17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」
時期まで主は決められました。来年の今ごろです。
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3B 割礼を受ける家 22-27
17:22 神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。17:23 そこでアブラハムは、
その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうち
のすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り
捨てた。17:24 アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。17:25 その
子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。17:26 アブラハムとその子
イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。
アブラハムはすぐに神の命令に従いました。その日のうちに割礼を受けました。
1A 主の使いの訪れ 18
そしてこの神の現われを受けて間もない時に、次の出来事が起こります。
1B もてなし 1-15
18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口
に座っていた。18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐ
に天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、18:3 言った。「お客様、よろしければ、どう
か、僕のもとを通り過ぎないでください。18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰
でどうぞひと休みなさってください。18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてか
ら、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。
「では、お言葉どおりにしましょう。」
アブラハムは遊牧民です。天幕に住んでいました。「主がアブラハムに現われた」とあります。
けれども、やって来たのは三人の人です。続けて読んでいくと分かりますが、二人は御使いです
(ヘブル 13:2)。そして、残りの一人は間違いなくヤハウェの使いであり、イエス・キリストです。
アブラハムは単に旅人をもてなしていたのではありませんでした。確かに遊牧民には、旅人をも
てなす慣わしがあります。彼らは野宿をしたら死んでしまうということをお互いに知っていたので、
旅人は必ず受け入れなければいけないことを心得ていたのです。けれども、アブラハムはそれ以
上のことを行っています。「地にひれ伏して」とありますね。彼は、何らかの形で、神から来られた
方であることを感じ取っていました。
18:6 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セア
ほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」18:7 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔ら
かくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。18:8 アブラハムは、凝乳、
乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている
間、そばに立って給仕をした。
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アブラハム自身が給仕をしています。そして彼は、三セアは約 22 リットルで三人には多すぎる分
量です。そして、もっとも良質の子牛の肉を用意しています。ここでは実は、アブラハムが主を礼
拝している姿を見ることができます。主に仕えて、主と共に交わっている姿を見ることができます。
このように不思議な形で主が現れてくださったのは初めてではありません。メルキデゼクが彼の前
に来た時に、彼は財産の十分の一を彼に捧げました。
主が通り過ぎるのではないかと思われるときに、自ら強く誘って自分の天幕に招いたことは、イ
エス様がよみがえられた時も同じでした。エルサレムからエマオの村に向かう二人に、復活のイエ
ス様も歩いておられました。そして彼らに、キリストについて聖書全体から説き明かされました。そ
してイエス様がエマオについても、まだ先に行かれそうになっていました。そしてルカによる福音書
24 章 29 節にこうあります。「それで、彼らが、『いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりま
すし、日もおおかた傾きましたから。』と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まる
ために中にはいられた。(ルカ 24:29)」
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中にお
ります」とアブラハムが答えると、18:10a 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずこ
こにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」
ここにはっきり、三人の一人が主ご自身であることが分かります。17 章 21 節で、アブラハムに
対して主が全く同じ言葉をお語りになっています。
18:10b サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。18:11 アブラハムもサラも多くの日を重
ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。18:12 サラはひそかに笑っ
た。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
18:13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生ま
れるはずがないと思ったのだ。18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここ
に戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
お分かりですか、三人の一人である主は、サラが心の中で笑っていたことを全て聞いておられま
した。主は、私たちの心をすべて見通しておられます。そしてサラは、アブラハムが笑ったように自
分も笑いました。「まさか、そんな良い話があるはずがない。」と思ったのです。それで前回読みま
したように、神は、その子を「笑うちゃん」=「イサク」と名づけました。そして神がここで教えられて
いることは、「主に不可能なことがあろうか。」です。なんと大切な真理でしょうか!99 歳のアブラ
ハムに主は「全能の神」として現れました。主にできないことは何一つありません。
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「い
や、あなたは確かに笑った。」
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アブラハムだけではなくサラにも人間臭い人ですね。私たちは彼女と同じように、気軽に嘘をつ
いてしまいます。恐れたり、面子が気にしたりなど。けれども、このサラを主は祝福されました。とこ
ろでこの後のアブラハムとサラは、信仰に満ちあふれます。ローマ人への手紙 4 章によると、こう
書いてあります。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、
サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神
の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束
されたことを成就する力があることを堅く信じました。(ローマ 4:19-21)」
そしてサラも彼に付いて行き、従いました。「むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このよ
うに自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。
あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。(1ペテロ 3:5-6)」
すばらしいですね、神を一心に信じる夫と、その夫に主に従うようにしたがう妻の姿です。
2B 執り成し 16-33
18:16 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見
送るために、彼らといっしょに歩いていた。18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしている
ことを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。
二人の御使いは、先にソドムに発ちました。そして残されたのは、主ご自身です。主がアブラハ
ムと共に歩かれて、そして「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」
と言われます。ヤコブの手紙には、アブラハムが「神の友」と呼ばれていますがこのことです(2:23、
その他、2歴代 20:7、イザヤ 41:8)。イエス様も同じことを語られました。「わたしがあなたがたに
命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ 15:14)」イエス様ご
自身も、ご自分の命令を守る者たちに対してご自分のことを言わずにはおられないのです。これ
が礼拝の醍醐味です。主に仕え、主に捧げ、それを自分が切に願っている時に、主が友として私
たちに接してくださいます。
18:18 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。
18:19 わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、
正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するた
めである。」
主が再びアブラハムに、大きな国民、強い国民になることを約束し、確認してくださっています。
そしてここでは、正義と公正、正しい道を彼らが歩むようになるためだということを強調されていま
す。なぜなら、次からソドムの不義について語られるからです。
18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて
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重い。18:21 わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているか
どうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」18:22 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行
った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
これは、ソドムで行なわれていることを神が情報として、知識として知らないということではありま
せん。そうではなく、主はすべてのこと細かく調べて、その精査の上でこの町を滅ぼす、ということ
です。神は公正な方であり、その裁きはすべてのことを知られた上で行なわれる、ということです。
そして今はヘブロンにいますから、そこから死海のソドムは東側で低地にあります。
18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに
滅ぼし尽くされるのですか。18:24 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれませ
ん。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町を
お赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と
悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえない
ことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
アブラハムは執り成しをしています。「正しい者が悪者とは一緒に滅ぼされてはならない」という
ことですが、これは神のご性質の中で大きな部分を占めています。神は、必ず正しい者は救われ、
そうでない者は滅ぼされます。正しい者が滅んだり、悪者が救われることは決してありません。し
たがって、これから神が下される患難、神の怒りを、信仰によって正しいと認められた者たちが、こ
の世とともに受けるということはあり得ないのです。「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めに
なったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。(1テサ
ロニケ 5:9)」
この世にあっては、患難はあります。けれども、それは正しく生きる者たちに対して、この世が与
える迫害であり、この世、そしてその君である悪魔から来ています。けれども、神が定められた大
患難は、これら迫害者、キリストを拒む者たちに対して怒りとして与えられるものです。ですから、
これらの者たちとこの地上で患難に遭うことがないように、神は天から降りてこられるキリストによ
って、私たちを引き上げてくださることによって救ってくださいます。
18:26 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その
人たちのために、その町全部を赦そう。」18:27 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にす
ぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。18:28 もしや五十人の正しい者に五人不
足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主
は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」18:29 そこで、再び尋
ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすま
い。その四十人のために。」18:30 また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わ
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せてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もし
そこにわたしが三十人を見つけたら。」18:31 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお
許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。そ
の二十人のために。」18:32 彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に
言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼす
まい。その十人のために。」18:33 主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハ
ムは自分の家へ帰って行った。
主の寛容さがここから分かります。主は、わずかな正しい者たちのゆえに、その町全体を赦して
くださいます。アブラハムは、その神の広い心に驚き、意表を突かれたのでしょう。五十人と言え
ば、それでかなり少ないと思っていたのに、あっさりすべてを赦すとおっしゃられるのです。それで、
おそるおそる人数を減らしました。十人のためにも赦されると聞いて、それで彼は安心して帰りま
した。ロトの家族とその親戚を合わせれば十人以上になると思っていたからです。ところが、次の
章を読めば十人にも満たなかったのです。
2A ロトの救い 19
1B 不義に満ちた町 1-11
19:1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。
ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。19:2 そして言った。
「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、
朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」19:3 し
かし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼ら
のためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。
18章におけるアブラハムが三人をもてなした時の場面と、とても似ています。同じようにロトは、
立ち上がって彼らを迎えて、ひれ伏してもてなしました。けれども二人は、「広場で夜を過ごします」
と言いました。それでロトがぜひと勧めますが、それはアブラハムの時のように親しく交わりたいと
願っていることもあったでしょうが、外で寝ては危険であるということも思っていたでしょう。
ところでロトは「門の所」に座っていました。当時の町は城壁に取り囲まれ、そして門にはいくつ
かの部屋がありました。そこが行政や裁判を行なう所であり、ロトは役人のような存在であったの
です。ロトは初め、ソドムの近くに天幕を張りましたが、ソドムの中に住むようになり、そしてソドム
の中心的存在とまでなっていたのです。私たちは、罪について「近くまでなら大丈夫だ」で済まない
ことを知るべきです。
19:4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべて
の人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。19:5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今
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夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」
この「よく知りたいのだ」というのは、新共同訳にあるとおり「なぶりものにしてやるから。」というこ
とです。親密に知る、夫婦の関係の中で使う言葉であり、町中の男たちが御使い二人に向かって
集団レイプを行なおうとしているのです。アブラハムが最大の敬意を払ってお迎えしたのとは対照
的に、彼らは神からの御使いをこのようにあしらおうとしました。
ソドムというのが、神がご自分の怒りを表す、不自然な情欲を求める代表的な町として聖書に継
続的に出てきます。エゼキエル書の中に、当時の様子が描かれています。「だが、あなたの妹ソド
ムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、
貧しい者の世話をしなかった。(16:49)」安逸を貪っている結果、彼らはよからぬことを考え始めま
した。「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を
追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。(ユダ 7)」
19:6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。19:7 そして言った。「兄弟たち
よ。どうか悪いことはしないでください。19:8 お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘
があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、
あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
「兄弟たちよ」とロトは呼んでいます。果たしてそうなのでしょうか?ロトは、悪い意味で彼らに良
くしてあげていました。ロトは、自分が親切にすれば彼らが変わると信じていました。彼らを信頼し
ていたのです。けれども、そんなことはありませんでした。そしてロト自身も、周りの文化と習慣に
影響されていました。旅人、特に御使いである彼らをどんなことをあっても守るということにおいて
は正しい意図を持っていました。けれども、自分の未婚の娘をレイプ集団に明け渡すなど、今の私
たちには本当に信じられません。けれども、それだけ女性の尊厳が認められない文化が存在して
いたのです。
けれども、それでも彼は義人と主は呼ばれています。不完全ではあっても、主にある正しい心を
完全に忘れていたわけではありません。「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まさ
れていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不
法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(2ペテロ 2:7-8)」
19:9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせ
に、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてや
ろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。
ロトはソドム人ではないので、「さばきつかさのようにふるまっている」と言われています。ソドム
40
人ではないのに役人なんかをやっていると。私たちは悪を宥めることは決してできないのです。貪
りに対して、いくら物を与えても満足はしません。
19:10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をし
めた。19:11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼
らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。
御使いがロトを守りました。
2B ためらう家族 12-29
19:12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなた
の息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。
19:13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きく
なったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」19:14 そこでロトは出
て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの
町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。
主は、ロトだけでなく、その家族と親戚に救いの手を伸ばしておられました。ご覧ください、ロトは
おそらくこの娘の家族にも主については、何度となく語っていたのでしょう。けれども、ロトが声をか
けても、まったく鈍い心を持っていたのです。ロトが妥協していた分、そこには証しの力が弱まって
いました。最も効果的な伝道は、自分自身が変わることです。自分自身が罪から離れて、信仰に
生きることです。そこの部分において妥協があるならば、相手に対する影響力を持つことができな
くなるのです。
19:15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる
ふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてし
まおう。」19:16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたり
の娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置い
た。
なぜロトは、ためらったのでしょうか?それは、妻と娘二人がためらっていたからです。だから御
使いは、それぞれ一人一人の手をつかみました。このような差し迫った危機において、ソドムに対
する未練を残し、判断が鈍ってしまっています。イエス様は、「目を覚ましていなさい。」と言われま
した。見えるものを見ていることができるように祈るべきです。
19:17 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろ
を振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもな
41
いと滅ぼされてしまう。」
滅びというのは突如として襲うものです。それは、ちょうど今回の津波のようなものです。振り返
っては、もう手遅れになります。神は、その滅びを与える時を定めておられたので、その時が迫っ
ているのを知って急がせています。
19:18 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。19:19 ご覧ください。こ
のしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。
しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。
19:20 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。ど
うか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてくだ
さい。」19:21 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あな
たの言うその町を滅ぼすまい。19:22 急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまで
は、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
ロトは交渉しています。逃げることができないと、信じ切れていません。しかし、神はこのように忍
耐していてくださいます。
19:23 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。19:24 そのとき、主はソドムとゴモラ
の上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、19:25 これらの町々と低地全体と、その町々の
住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。
24 節の「主は」というのは、アブラハムから離れられた主ご自身のことです。二人の御使いの後
に来られて、このように硫黄の火を降らせました。そして、「天の主」というのは父なる神のことです。
イエス・キリストが天におられる父に火を降らせたということです。
19:26 ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
先ほど「振り返るな」と御使いが言っていたのに、彼女は振り返りました。私たちは世の楽し
みに未練を持つと、世とともに自分自身を失うことになります。イエス様が警告しましたが、こ
れがこれからも起こるということです。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べ
たり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、
その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる
日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降
りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しな
さい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ル
カ 17:28-33)」
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19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。19:28 彼がソドムとゴ
モラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立
ち上っていた。
今の死海付近の地形は、この出来事によって成り立っています。かつては緑の生い茂っている
ところだったのですが、今は砂漠地帯です。硫黄の火によって燃え尽くされたからです。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、
ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。
アブラハムのゆえに、その執り成しのゆえにロトは救われました。これだけ執り成しの祈りの大
切さが分かります。そして、ペテロ第二 2 章には、正しい者がこのような災いから免れさせることを
教えています。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰
のもとに置くことを心得ておられるのです。」ですから、信者は神の怒りの現れを受けません。その
前に、救われます。
3B 変わらない娘たち 30-38
19:30 その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住む
のを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。
小さい町と言えども、「お前のせいでこのようなひどいことが起こったのだ」とか言われかねない、
あるいはソドムの時と同じように、悪事を自分たちに働くのではないかと恐れて、そこから出ました。
彼はついに洞窟で住む者となりました。
19:31 そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世
のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。19:32 さあ、お父さんに酒を飲
ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」19:33 その夜、彼女たちは父親に
酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。
19:34 その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さん
に酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さん
によって、子孫を残しましょう。」19:35 その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、
いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。
彼女たちは物理的には救われましたが、思いはまだソドムだったのです!確かに、子孫を残す
ということは必要でしょう。けれども、まずもって自分たちしかこの地球上にいないと早まった判断
をしているところに信仰がありません。そして近親相姦をしてでも子孫を残そうとするところに、先
の、平気でレイプ集団に娘を渡そうとする文化と似たようなものを見ます。
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19:36 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。19:37 姉は男の子を産んで、その
子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。19:38 妹もまた、男の子を産んで、そ
の子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。
モアブ人は死海の東に住んでいました。アモン人はその北に住んでいました。どちらも今のヨル
ダンの地域です。そして、この二つの民族が絶えずイスラエルを攻撃するようになります。
これでロトの生涯の記録はなくなるのです。アブラハムの時からのことを思い出してください。初
めは旅を共にしていたのに、アブラハムは神の声を聞いてそれに応答して動いたのに対して、ロト
は、自分自身でも神に対面して、自ら信仰によって動いていくという決断をはっきりとしていません
でした。それで、自分の目に入るものによって動いてしまったのです。その結果、アブラハムとロト
にはこんなに大きな開きが出てしまいました。大事なのは、心の中にある信仰です。同じ事をおこ
なっていても、あなたは信仰によって行なっていますか?ということです。
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