大和市の彫刻 三山 進

大和市の彫刻
三山 進
はじめに
大和市役所文書課のご配慮で去る昭和49年8月の17・18・23日の3日間にわたり、
市内所在の寺院・神社に伝わるさまざまな彫刻の調査をさせていただいた。以下はそ
の結果の概報である。土地の歴史にくらいため、思わぬ誤りをおかしているのではな
いか…と危惧の念も強く、内容も決して十分とは言切れない。諸先学のご叱正・ご教
示を切望している。便宜上、仏教彫刻(肖像をも含めて)と神像彫刻とに大別、配列は
調査順序に従った。
調査に際しては、各社寺の関係者の方々をはじめ、日野一郎氏・市役所文書課の担
当者の方々、上杉孝良氏・清水眞澄氏等のご理解あるご助力を得、清水氏には写真
の撮影もおこなっていただいた。また、像の法量は、先に調査をおこなっておられた
田近道圓氏のご報告に基づいた分もすくなくない。いずれも記して謝意にかえたい。
(1)仏教彫刻
1、宗昌寺(曹洞宗) 福田1544
『新編相模風土記稿』(以下、『風土記』と略称)によれば、開山は慶安元年(1648)
正月3日に没した林室宗茂、開基は鈴木某。某は寛永七年(1630)5月25日に死去、
法号は雲栄宗昌。寺名と山号の雲栄山とは、この法号からとられたのであろう。
木造釈迦如来坐像 1躯
宗昌寺の本尊。寄木造、玉眼嵌入。漆箔は大正年間の修理の際に施されたといい、
新しい。首は襟間でさしこみ。禅定印を結ぶ通常の釈尊像である。光背は蓮弁形(舟
型)挙身光で、裏面に次のような銘文が刻まれている。
「為一桂活道上座菩提
本尊施主橘川七兵衛
當寺現住祖随代新造之
元祿十四辛巳年十二月吉日」
また、光背頭光部にはめこまれた銅鏡には、「藤原光政作」の陽鋳銘がみられる。改
めて記すまでもなく、この光政は鏡の作者であって像の造立者ではない。
像は全体的には手際よくまとめられており、衣文刻出も一応深い。しかし、いきいきと
した写実性は認められず形式化がめだち、面部も扁平で江戸時代彫刻のひとつの特
色を示している。光背銘の年紀―元禄14年(1701)を造立年と考えても大過はない。
像高三九糎。
宗昌寺 釈迦如来坐像
木造阿弥陀如来立像 1躯
一木造、彫眼、漆箔。両手先及び両足先は別木。右手を胸前で屈し、左手は垂下、い
ずれも第1指と第2指とを捻じ、いわゆる上品下生の来迎印を結ぶ。光背は輪光。衣
のひだ刻出は浅く、総体に簡略化されている。恐らくは江戸時代も後半、素人の信仰
家の手で作られたのであろう。像高49糎。
2、蓮慶寺(真言宗) 福田1279
山号は福立山。『風土記』は開山教誉、開基関水対馬と伝える。教誉は寛永3年(16
26)没。法号を月叟徳円と称した対馬の死んだのが、元和4年(1618)という。寺の
開創は 17 世紀も早い頃と考えても良いであろう。
木造不動明王及び二童子像 3躯
右手に剣、左手に羂索をそれぞれ持つ不動明王の坐像に、矜羯羅・制咤迦両童子の
立像を配した通常の三尊像であり、蓮慶寺の本尊。3躯とも寄木造、玉眼嵌入、彩色。
中尊像の首柄前面内部には、
「三尊之作者
鎌倉扇谷佛師
三橋法印宗慶」
の墨書銘が残る。年紀のないのは惜しいが、三橋宗慶は大弐宗慶とも称し、現在ま
でのところ、以下の事績が判明している。
(イ)慶長15年(1610)、鎌倉市極楽寺木造釈迦如来立像修理。
(ロ)同16年(1611)、横浜市港北区自性院木造薬師如来立像造立。
(ハ)元和3年(1617)、平塚市宝積院木造薬師如来立像修理。
(ニ)寛永5年(1628)、多摩市一ノ宮木造随身像再興。
(ホ)同15年(1638)、鎌倉市長谷寺木造阿弥陀如来坐像修理か。
(ヘ)同20年(1643)、鎌倉市英勝寺木造阿弥陀三尊造立。
(ト)同 年、鎌倉市英勝寺木造十六羅漢像の内数躯造立。
17世紀後前半、かなり広い範囲にわたって活躍していたことがわかる。しかも、水戸
徳川家の援助で開かれた格式の高い尼寺英勝寺の造仏にたずさわった事実から、
当代の代表的な鎌倉仏師の一人であったろう、と思われる。それはとも角として、蓮
慶寺像の造立期はいつ頃と推定すればよいのか。手がかりのひとつになるのは、長
谷寺阿弥陀如来像の銘文である。その修理銘で大弐は「栄勝寺様大工」の肩書きを
つけている。いま伝わる栄勝寺関係の作品は、長谷寺像修理より5年後の造立にし
ろ、英勝寺の仏殿上棟は寛永13年におこなわれた。すでにその頃から同寺に安置
するさまざまな仏菩薩等の像が造りはじめられていたであろうことは、容易に推察で
きる。大弐もまたそれに従事していたため、長谷寺象修理に当って、「英勝寺様云々」
の肩書きを用いたに違いない。近世の仏師たちには、格式高い寺、あるいは由緒正
しい名刹などでまとまった仕事をした場合、他の寺院での造仏や修理の折にも、
「某々寺大工」とか「某々寺仏師」とかの称を誇らしげに名乗る物がすくなくない。大弐
もその例に洩れなかったわけであるが、蓮慶寺像の銘文には英勝寺は登場しない。
この点から不動明王像はすくなくとも寛永13年以前の造立ではないか…と考えられ
るのである。
そして、もし右の推定に誤りがないとすれば、蓮慶寺の開基と開山との没年をも考慮
に入れ、17世紀も10年代の作品とみなしても大過ないように思われるのである。像
の固い彫技もまた、この年代の作にふさわしい。ただ、中尊像は首がぬける外、両肩
から先・膝部・胴部がいずれも別木であり、頭部・胴部の中心部にくらべ、他の部分―
とくに膝部などの彫技が鈍い。相当部分が後補のものに変わっている。
なお、上記の造仏や修理の際、大弐はたんに「大弐」と名乗っている例
[(イ)(ロ)(ハ)(ホ)(ト)]が多いが、(ニ)と(ヘ)とでは「大弐宗慶法印」と称している。こうし
た呼称からだけでは、数多い鎌倉仏師たちのうち、大弐がどの家号をもつ仏所に属し
ていたかまでは明確にできなかった。しかし、蓮慶寺像の銘文で、後藤家と並んでも
っとも有力であった三橋家の仏師であることが明らかになった。鎌倉仏師の系譜をた
どる上にも、貴重な作品といえる。像高:不動明王44.5糎、矜羯羅童子40.7糎、
制咤迦童子40.5糎。
[注] 長谷寺像の修理銘では、肝心の名前のところがかすれ「大仏師□□」としか定
かでない。が、写真でみる限り「大弐」と読むのが一番自然なようであるため、ここで
は大弐として取り上げておく。この問題については拙稿「長谷寺の木造阿弥陀如来
像」(昭和49年長谷寺刊)を参照していただければ幸甚である。
木造大日如来坐像
2躯
智拳印を結ぶ金剛界の大日如来と法界定印を結ぶ胎蔵界の大日如来像。いずれも
寄木造、玉眼嵌入、漆箔。両腕に欠失部がある。肉身には一応張りが認められるも
のの、衣文表現・面部などは形式化し、固い。江戸時代の作。像高:金剛界大日33
糎、胎蔵界大日33.5糎。
木造優婆尊尼坐像
1躯
寄木造、玉眼嵌入、肉身部漆箔、衣部は彩色。髪を長く垂らし、面部は口・両眼とも大
きく開く。1種の忿怒相であり、歯や舌も克明に刻んでいる。露出した胸部には肋骨と、
しなびて垂れ下がった乳房とをかなり写実的に表現、面部とともに妖しげな老婆の雰
囲気をたくみに現わす。一見、三途の川のほとりにいて亡者の着衣を奪うという奪衣
婆(葬頭河婆)を想起させるが、通常の奪衣婆像と異なり、右手は膝上で握って第2
指のみ伸ばし、左手はスカーフ状の布を持つ。優婆尊尼の名称の由来は定かではな
いものの、柴田国満氏によれば、この像には次のような伝説が残されている。
「かつて蓮慶寺の建つ福田の地に小林大玄という人物が住んでいた。その妻の糸は
生来気性が荒く、大酒呑みの上嫉妬心が強く、夫との争いがたえなかった。しかも、
一度怒り狂うと長い髪をふり乱し、鬼女のような姿になった。大永4年(1524)、大玄
はついに妻をすて、行方をくらました。糸は夫を探し求めるうちに発狂、凶暴さが以前
にも増し、村人も相手にしなくなった。だが、道行く人びとを脅かして物を奪い、はては
幼児まで食べるにいたったため、村人たちは毒酒を作って呑ませ、糸を殺した。ところ
が以後、街道には糸の怨霊のせいか妖気が漂い、近在の人びとも道を避けるように
なった。そんな或る日、さる高貴な人が旅の途次街道に足を踏入れ、話を聞いて、
さかみなる福田の里の山姥は
いつにいつまて夫や待つらむ
と詠じて、糸の冥福を祈った。そのためであろうか、祟りは減ったものの、村人たちも
鎮魂の必要をさとり、鎌倉の建長寺から優婆尊尼像を勧請、一堂を設けて厚くまつる
にいたった。のち堂は滅び、像は蓮慶寺に移された云々―。
どこまで信用してよいかどうかは明らかでない。しかし、像はこうした伝説にふさわしく、
不思議な妖気をそなえている。仮面彫刻を連想させる面部、幾分形式化が認められ
るにしろ、手慣れた彫技でまとめた衣文部等々も物語の年代にふさわしい作風である。
おそらく室町時代も後期、鎌倉の仏師の手で造立されたのであろう。珍重すべき作品
である。像高40.8糎。
蓮慶寺 優婆尊尼坐像
木造弘法大師坐像
1躯
寄木造、玉眼嵌入、彩色。右手に五鈷、左手には念珠をそれぞれ持って安座する通
常の大師像。次のような銘・銘札が残る。
[像底部墨書銘]
「此□(海)弁ト申ハ素人ニて商賣ハ山伏ニ御座候
相州下和田村仏師海弁 集玉
安永六酉年十二月十五日
弘法大師再興
[上疊座裏書銘]
「 當寺中興法印秀弁弟子
彩再建奉仕
干時文化九
吉見誠慶
申八月日
東都麹町拾三丁目住
大佛師同人
信茂
吉見兵部藤原 」
[胎内納入銘札墨書銘]
[表]「
施主関水要祐母
小嶌新左衛門母
□□□奉再建 関水留左衛門母
右留左衛門伯父
渡辺吉兵衛 」
[裏]「明治十六未年十二月
住職吉岡教宥代
鎌倉郡岡本村
佛師
市川茂助造
」
これらから、像が安永6年(1777)・文化9年(1812)および明治16年、3回修理さ
れた事実がわかる。像の造立期は江戸時代も前期と思われる。
海弁については現在まったく他の資料が見出されていない。文化9年の修理にたずさ
わった吉見姓の誠慶・兵部は銘文の示す通り江戸仏師。兵部は誠慶の弟子に当る。
近世には相模国へも江戸仏師たちはさかんに進出したが、吉見誠慶たちの動きも活
発であった。たとえば、兵部は文化2年(1805)、横須賀市光心寺の木造善導大師
坐像を再興しているし、誠慶と共同で同市成田山不動堂木造阿弥陀如来坐像を修理
(年次不明)している。像高38糎。
木造聖観音菩薩立像
1躯
寄木造、玉眼嵌入、漆箔。江戸時代。像高39.6糎。
木造地蔵菩薩立像
1躯
寄木造、玉眼嵌入、肉身部漆箔、衣部彩色。江戸時代。像高61.3糎。
木造地蔵菩薩立像
1躯
寄木造、玉眼嵌入、彩色。江戸時代。像高57.5糎。
木造不動明王坐像
1躯
一木造、彫眼、黒彩色。江戸時代。像高14.5糎。
3、常泉寺(曹洞宗) 福田2172
山号は清流山。『風土記』によれば、開基は関水和泉。和泉は天正16年(1588)10
月14日死去、法諡は清流常泉。開山は元和4年(1618)10月15日に没した朝厳
存夙という。
木造観音菩薩坐像
1躯
常泉寺本尊。『風土記』には釈迦如来像が本尊と記すが、創立当初の像は失われた
のであろう。寄木造、玉眼嵌入、漆箔(後補)。右手は胸前で屈し、左手は膝上で蓮華
を持つ。頭部には宝冠をいただく外、宝髻部を覆う布をも刻出する。現在台座に固定
され、おろして調査することができなかったが、硬い彫技から江戸時代の作と思われ
る。像高50糎。
常泉寺 観音菩薩坐像
4、信法寺(浄土宗) 上和田5768
山号は生養山。開基は元和3年(1617)に没した地頭の石川与次右衛門永正。開山
は同2年に死去した空閑と伝える(『風土記』)。
木造阿弥陀如来及び両脇侍立像 3躯
信法寺の本尊。3躯とも寄木造、玉眼嵌入、肉身部は漆箔、衣部は泥地漆塗。中尊
はいわゆる上品中生の来迎印を結び、観音菩薩は蓮台を捧持、勢至菩薩は合掌。
両菩薩像はいずれも踏割蓮華座の上にたち、上体をやや前に倒す。典型的な来迎
姿の弥陀三尊像である。銘・胎内納入文書などがかなり残っている。
(1)阿弥陀如来像関係。
[光背裏面陰刻銘]
「 相州上和田□信法寺本尊
俗名小川作十良
爲厭誉淨欣 施主
法名本誉尊動 」
(2)観音菩薩関係。
[台座底部墨書銘]
「 相州鎌倉
扇之谷村ニ而
中尊前立三躰佛師 後藤右近
作
子同左近 」
[胎内納入文書墨書]
(その一)
「 相州上和田信法寺観音
爲厭譽淨欣菩提也
寛文十年戌ノ十二月十九日
俗名小川作十良
施主
法名本誉尊動 」
(その二)
「 天保十二丑
奉再興三佛 十七世慈誉上人
四月原宿村佛師田邊伊織 」
(右二紙の包紙表)
「 天保十二丑
観音ぼさつ
四月
」
(3)勢至菩薩像関係。
[台座底部墨書銘]
「 天保十二丑年四月
奉再興三躰共
十七世慈誉上人
再佛師原宿村
田邊伊織 」
[胎内納入文書墨書]
(その一)
「
延宝四年
えん誉浄欣信士為父ぼさつ 小川作重良建立
卯ノ十二月十九日
」
(その二)
「 天保十二丑年
奉再興三佛 十七世慈誉上人
四月 原宿村佛師田辺伊織 」
(右二紙の包紙)
「
近左子
鎌倉扇ノ谷村
近右
紙佛
」
以上を年代順に整理すれば―。
まず寛文10年(1670)、父厭誉淨欣の菩提を弔うべく小川作十(重)良が観音菩薩
像を鎌倉佛師の後藤右近・左近親子に造立させた[いま、中尊像は首が固定され、胎
内納入品や胎内銘の有無は確認できないが、順序としては当然阿弥陀如来像の方
を先に作ったはずである。造立時期は寛文10年か、それより少し前であろう。蓮弁形
挙身光の陰刻銘は内容から推して、造立時のものと見てよい]。
ついで延宝4年(1676)、勢至菩薩像が造立された。発願者・作者ともに他の二躯と
おなじである。三躯の完成までに数年を要したのは、施主の財政的な事情にでも基
づくのかもしれない。
そして天保12年(1841)、仏師田辺伊織が三尊を修理。
後藤右近と同左近とは三橋靭負と並ぶ17世紀の代表的な鎌倉仏師であり、父子とも
に延宝5年(1677)には鎌倉長谷寺本尊木造十一面観音菩薩像の修理にたずさわ
っているのをはじめ、各々幾つかの事績が判明している。ことに左近の場合、鎌倉安
養院木造尊乗上人坐像(元禄6年1693)・三浦市延寿寺木造三宝本尊像(元禄8年
1695)など、明確な作品も伝わる。しかし、現在の段階では、右近・左近の作品とし
てはこの信法寺本尊がもっともまとまった像といえる。江戸時代の通例で、総体に硬く、
衣文表現の形式化は覆いがたいにしろ、全体的には室町時代の作風を踏襲したらし
く、模古作の一例としては成功している。造立事情・造立年代・作者、すべてが明らか
な点、大和市内では貴重な作品である。田辺伊織に関しては、いまの所手もとに他の
資料がない。像高:阿弥陀96糎、観音55.4糎、勢至53.6糎。
信法寺 阿弥陀如来像
木造善導大師坐像
一躯
安座し、合掌・念仏する通常の善導大師像。寄木造、玉眼嵌入、彩色。胎内納入銘札
に、
「 萬延元庚申年九月 日
奉再興善導大師前
施主 當山十七世慈誉上人代并ニ
惣旦方中」(表)
「相州上和田村
信法寺什物
大仏師鎌倉山之内住人
三橋幸助 」(裏)
と墨書されている外、台座裏に次のような墨書銘がある。
「元来之
施主者
小川作十良□
座候再興主
小川弥左衛門」
後者に見える小川作十良は、先述の本尊像の施主である。善導大師像も17世紀後
半の作と考えて良いであろう。万延元年(1860)の再興に従事した三橋幸助は幕末
の鎌倉仏師の一人。作品としては万延2年(1861)の高階家木造高階道直坐像が
知られている。像高:33.3糎。
木造法然上人坐像
一躯
念珠を持つ通常の坐像。寄木造、玉眼嵌入、彩色。台座の裏面に次の銘が残る。
「安政七申天
新規同様之再興
施主十七世慈ヨ
上人
并ニ惣旦中 」
おそらく前の善導大師像とおなじく、17世紀後半に造られた像が破損したため、安政
7年(1860)、やはり三橋幸助の手で新造と呼んでおかしくないほどの補修がおこな
われたのであろう。像高33.3糎。
木造阿弥陀如来立像
一躯
寄木造、玉眼嵌入。右手後補、左手欠失、江戸時代。像高50糎。
木造如来立像
一躯
一木造、但し面部は前面のみ矧ぎ玉眼嵌入。肉身部漆箔、他は素木。両手欠。素人
風の江戸時代作。像高38.5糎。
5、薬王院
上和田5768
現在信法寺の管理する一堂。『風土記』は「薬師堂 薬師は行基の作と云坐像長二尺
五寸」と記す。
木造薬師如来坐像
一躯
岩座上の蓮台に坐し、左手に薬壷を持つ坐像。台座は後補。寄木造。彩色は新しい。
眼は彩色で塗りつぶされ、本来玉眼だったのではないか…と思われるもののはっきり
しない。眼病治癒祈願の本尊として久しく信仰されてきたといい、右眼は閉じた形に
色を塗られている。膝部と胴部との接合部内面に次の銘がある。
「于時寛文九辛酉ノ十月廿六日」
膝部うすく、衣文刻出も浅めで、『風土記』の伝える行基作はむろん信じられない。銘
にいう寛文9年(1669)頃の造立とみて良いであろう。なお、十二神将もまつられて
いるが、修理中とのことで調査は出来なかった。像高53糎。
6、観音寺(真言宗) 下鶴間2240
『風土記』は次のような記事をかかげている。
「鶴間山東照院と号す古は金亀坊の号あり、古義真言宗(中略)、中興開山を頼満と
云ふ慶長十三年(1608)十一月二十日卒す、本尊十一面観音慈覚作、又薬師を置
く立像長八寸恵心作(後略)」
本尊の十一面観音菩薩像は秘仏で、今回は調査ができなかった。
木造薬師如来立像
一躯
一木造、彫眼、素木。台座・光背は後補。左手に壷を持って立つ通常の像。衣文の刻
出も深くなく、総体に簡略化されている。恐らく素人の作品であろう。像高から推して、
『風土記』所載の薬師如来像に当たるのかもしれないが、恵心僧都作はもちろん伝説
の域を出ない。江戸時代の作品と思えるものの、こうした作風の像は造立期の推定
がむずかしい。より正確には後考にまつ。像高22.5糎。
木造観音・勢至両菩薩立像
二躯
現在、右の薬師如来立像とおなじ厨子内に納められている。いずれも寄木造、玉眼
嵌入。観音菩薩は蓮台を捧持、勢至菩薩は合掌。両躯とも上体をやや前に倒した来
迎の姿勢である。失われた中尊阿弥陀如来像とともに、念持仏として造立されたので
あろう。法量は小さいが、全体に神経はこまかくゆき届いている。江戸時代。像高各2
2.5糎。
木造地蔵菩薩半跏像
一躯
右手に錫杖、左手に宝珠をそれぞれ持ち、蓮台上に坐って左足を垂下。光背は三箇
の宝珠を配した輪光。寄木造、玉眼嵌入。肉身部漆箔。法量大きく豊かな量感をそな
え、耳孔や鼻孔も深い。しかし、衣文刻出は幾分硬く、形式化している。室町時代末
期か近世初め16世紀頃の造立であろうか。大和市内の仏教彫刻中では佳作のひと
つである。像高101.5糎。総高(含左足長)139.9糎。
観音寺 地蔵菩薩半跏像
木造聖観音菩薩立像
一躯
左手に蓮華を持ち、連弁形挙身光を背負って蓮台上に立つ。寄木造、玉眼嵌入、漆
箔。全体によくまとまっているが江戸時代の作。以下の千手観音像や馬頭観音像な
どと同時期であろう。像高65糎。
木造千手観音菩薩立像
一躯
頭頂に十面をいただく十一面千手観音であり、手の実数は20本、蓮台上に立ち、光
背は連弁形挙身光。張りは備えているものの、やはり彫技は硬い。聖観音菩薩像と
おなじく江戸時代の作。寄木造、玉眼嵌入、漆箔。像高64糎。
木造馬頭観音菩薩立像
一躯
頭上に馬頭(後補)をいただく三面八臂の儀軌通りの馬頭観音像。光背は連弁形挙
身光。寄木造、漆箔。正面の三目は玉眼嵌入、他は彫眼。前記の聖観音・千手観音
両像と同じ時期の作。像高63.5糎。
木造勢至菩薩立像
一躯
合掌して蓮台上に立ち、連弁形挙身光を背負う。寄木造、玉眼嵌入、漆箔。像背面に、
多くの寄進者名とともに、次のような朱書銘がある。
「
享保三戊戌年十月吉祥日
□奉造立□(勢)至菩薩一躰爲二世安楽也
相州靏間
観音寺十一世雲龍(花押)」
形式化した彫技から推しても、銘にみえる享保三年(1718)が像の造立期と思える。
像高68糎。
木造十一面観音菩薩坐像
一躯
右手を胸前で屈し、左手に蓮華をもつ。頭頂の仏面のほか、頭上に頂く十面中の二
面が欠失(8面中4面は後補)。寄木造、玉眼嵌入、肉身部漆箔、衣部彩色。膝前は
後補。光背も透彫部分の欠失が目立つが、裏面には、
「
観音寺弘道代
天明□□八月吉日
」
の朱漆書銘の外、10名ほどの人名が記されている。面部には張りが認められるもの
の、江戸時代の硬い彫技であり、天明年間―18世紀後半の作とみて大過はないと
思われる。像高30糎。
木造如意輪観音菩薩坐像
右膝を立てた六臂の通常の如意輪観音像。光背は連弁形挙身光。寄木造、玉眼嵌
入、漆箔。手に後補部がある。愛くるしい顔立ちの表現は巧みで、膝部は14世紀頃
に流行した俯瞰的な形を踏襲しているが、衣文刻出の形式化・面部側面観の扁平さ
は江戸時代の特色を示す。次の准胝観音像と同時期、近世の作品。像高43糎。
木造准胝観音菩薩坐像
一躯
蓮弁形挙身光を背負い、蓮台上に安坐する六臂像。寄木造、玉眼嵌入、漆箔。面部・
衣文表現等々には、前の如意輪観音像とおなじような特色が認められる。江戸時代。
像高38糎。
木造不動明王立像
一躯
寄木造、玉眼嵌入、彩色。江戸時代。火焔光は昭和の補作。像高35糎。
木造聖徳太子立像
一躯
右手に柄香炉を持ち、髪を美豆良に結う、いわゆる太子16歳の孝養像。寄木造、玉
眼嵌入、彩色は新しい。次のような銘文が残る。
[首柄底部墨書銘](首柄は円筒形)
「享保十年
江戸京橋
巳五月吉日
北壹町目
大佛師大熊
宮内作
」
[上疊座裏墨書銘]
「江戸京□□町目
大仏師大熊宮内作
□(高カ)目町壹北橋京」
これらの外、上畳座裏にはさらに、『明治卅六年十月吉日」再彩色ス」府下南多摩郡
原町田」大仏師栗原東雲』の修理銘も墨書されている。享保10年(1725)に江戸仏
師大熊宮内が造立したことがわかる。人形風に仕上げられて硬いにしろ、18世紀前
半の太子像としては一応まとまった作品である。大熊宮内についての詳細はまだ明
らかでないが、元文4年(1739)には横須賀市不断寺の木造観音・勢至両菩薩立像
をも造立しており、当代相模国にも進出した江戸仏師の一人であった。像高87.6
糎。
木造弘法大師坐像
一躯
寄木造、玉眼嵌入、彩色。江戸時代も末期か。像高42.3糎。
以下次号
写真撮影 宗昌寺・常泉寺・信法寺佛像 田近道圓氏
蓮慶寺・観音寺佛像 清水眞澄氏