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Title
奥尻島・戦前と戦後の子どもと教育
Author(s)
相原, 正義
Citation
僻地教育研究, 53: 1-9
Issue Date
1999-03
URL
http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1635
Rights
本文ファイルはNIIから提供されたものである
Hokkaido University of Education
No.53
1999.3
奥尻島・戟前と戦後の子どもと教育
相 原 正 義
(北海道教育大学函館校)
TheStudent’sPrivateLifeandtheirEducation before and
afterThe WorldWarⅡ atOKUSHIRIIsland
MasayoshiAIHARA
伺った。これを機会に,奥尻島民や元教師であった方々
はじめに
にお話しを何い,資料をいただいたりして本論をまとめ
筆者は30数年前,千葉県にある高校の社会科教員にな
ることにした。
ったころ奥尻島を知った。学生時代に習った地理学は直
ちに教育現場では役立たない。当時,多くの地理学研究
11960年前後の地理教材
は地域で働き,生きる“生”の人間の喜びや悲しみを扱
っていないからであった。地理学に頼っていては「人間
高度経済成長が始まる1960年頃の社会科地理の授業の
関心の社会科地理教育」の実践はできない。昭和30年代
中心は,1次産業や鉱工業等の産業学習が中心であった。
にそれに答える教材は容易に手に入らない。東京でもた
1次産業では農地解放による農民の生産意欲向上と生産
れていたささやかな地理教育の研究会で話題になったの
力の増大,未解放下のあった私有林や国有林の実態など
が『綴方風土記』(平凡社・北海道編は1954年,以下「風
が教材選択の範囲であった。社会科地理ではこれら産業
土記」)であった。授業では「風土記」から子どもの作
の諸課邁に人々の生産や暮らしの姿を加え,地域の側面
文や詩を教材としてプリントし,生徒の反応を見る。「貧
乏」「暗い」といった生徒の意見はあったが日本社会の
暗さから目をそらすことなくありのままの現実・実態を
見ることで,未来が開けることを話しながら授業を進め
た。日本の社会がまだ貧しい時代のことである。
当時の漁業・漁村の扱いは,長崎の以西底引き漁,焼
津・三崎の遠洋漁業,三陸の沿岸漁業,そして北海道の
イカ漁や北洋漁業であった。「風土記」第1巻・北海道
編から桧山支庁奥尻の児童・生徒の作文でイカ漁で働く
子どもの様子を扱ったのである。これらの作文や詩は児
童が仕事や生活を直視していて,人間関心の社会科地理
を展開する教材として優れていた。
時をへて,1996年秋に函館校社会科教育ゼミの学生と
ともに奥尻町宮津小学校の授業見学と1993年7月12日に
起きた北海道南西沖地震・津波災害後の復興の様子を知
るため奥尻を訪ねた。学生の資料には「風土記」から奥
尻の子どもの作文等を加えた。そのとき,「風土記」に
作文,詩各1編を寄稿している道下久一氏に短い時間で
図1 奥尻島の位置
緯と「風土記」に「この本をつくった子どもと先生」の
江差からフェリー1日往復2便,冬季1便
瀬棚からフェリー1日往復1便,冬季休便
「指導者」としてのっている阿部秀一氏のことを中心に
函館空港から1日3便(片道45分)
あったがお会いした。話は道下氏の文が掲載に至った経
− 1 −
相 原 正 義
貧乏な」社会科授業だけでなく,世界地理では景色が美
から事実や実態を取り上げることが新しい授業方法とさ
しく豊かな生活のスイスなどを扱ってほしいという声も
れた。
あった。社会科地理の存在意義の1つは日本や世界の社
日本人の多くは,まだ,貧困であったため『貧しさか
らの解放』(近藤康男3分冊中央公論社・1953−54年)
会の現実をありのままに見ることで社会認識を深めると
が授業に込められ,子どもから一定の支持を受けいた。
考えていた筆者の意図が必ずしも生徒に受け入れられた
とはいえ,教育現場には日本や世界の諸地域の実態を教
とはいえない。
えることに活用できる資料がほとんどなかった。社会科
地理教育の方法論の研究は深まるが教材がない時代が続
2 『綴方風土記』と地理学
く。食程が十分でなかった時代を反映し,「ビタミンは
とれているが,主食がない」といった声があった。少数
「風土記」は日本作文の会の国分一太郎らが主となっ
の教師だが夜行列車と休日を利用して教材捜しに出かけ
て企画・編集したと考えられる。地理学研究者からの参
る人もいた。筆者が学生であった1955年ごろにやっとい
加は監修の辻村太郎,解説の大久保武彦,木内信蔵,千
くつかの書籍が出版され,雑誌にも地域の姿が掲載され
葉徳爾であった。経済学,農業経済学では揖西光速,古
るようになったが十分とはいえない状態であった。雑誌
島敏夫,歴史学,歴史教育では高橋穣一である。辻村以
では1955年前後に「経済評論」(日本評論社)が日本各
下の地理学研究者と国分や解説の経済学,歴史学関係者
地の農漁業や鉱工業の現地ルポを連載したし,少し遅れ
の間には思想や学問的立場から見ると大きな隔たりが感
て「地理」(古今書院)も「地域のすがた」シリーズを
じられる。国分や高橋は戦後教育革新運動の中心者であ
掲載した。
教育現場の要望に対応して出版された地理書籍には,
土記」刊行の頂点に立つ監修者辻村の専門は地形学であ
入江敏夫・北野道彦編著『新しい地理教室』全4巻(筑
るが,人文地理学に対しても影響力をもっていた。人文
摩書房・1955),歴史教育者協議会・郷土教育全国協議
地理学では『景観地域』(1933),『景観地理学講話』(1937)
り,揖西や古島もそれぞれの学問の改革者であった。「風
会編『歴史地理教育講座』全6巻(河出書房・1956)の
などを著しドイツ地理学の景観論を紹介している。景観
1巻「理論編」,4巻地理教育編(日本),5巻同(世界),
論とは眼に写る景色の特性を探ることに地理学研究の主
6巻郷土教育編1),今井誉次郎他編・日本児童文庫2)
眼を置く考えである。漁村で見ると,集落の分布や形態
の中の『日本地理物語』(アルス北原出版,1957−58年),
が三陸と奥尻ではどう違うかを主たる問題とし,そこで
岩波写真文庫の残り写真も利用した『日本の地理』全8
暮らす漁民の生産や暮らしなど社会の側とその問題解決
巻(岩波書店・1961),高校の「人文地理」教科書とし
には関心が向かない。また,辻村は『文化地理学』(岩
て作成されたが,検定で落とされたため一般書として出
波全書1942年)を著し,その中の「風土の制約」の項で,
版された飯塚浩二編『世界と日本』上下(大修館・1955,
気候と生活,土地の違いによる生活への影響などを扱い
1957)などであった。それらに加えて『綴方風土記』全
ハンチントンなどの説をあげ,自然の側から人間の文化
8巻と別巻(平凡社・1952−54)がある。これらの書籍
や生活を見るいわゆる宿論的な自然決定論を主張する。
は戦後の時代を背負い総じて「地域の貧しさを見つめ,
いわば人文・社会科学の論理で社会や人間の在り方を分
どう貧困から脱出するか」と日本社会の諸矛盾を主題と
析しようとしない伝統地理学の立場に立っている。
していたといえる。この間,社会科教育論としては,岩
国分と辻村の組み合わせは当時,戦争協力を含めた地
波講座『現代教育学・社会科学と教育Ⅰ』と『Ⅱ』(1961
政学・伝統地理学と訣別し新地理学を目指す人々からは
年)が出版され,『Ⅱ』で飯塚浩二と木本力が地理教育
妙な組みあわせと取られたのではないだろうか。地理学
論を述べている。
研究者の選出は辻村が行ったものと考えられる。ちなみ
前記のように,「風土記」1巻の北海道偏には乾島で
に,大久保は地図学,木内は都市地理学,千葉は民俗地
ある奥尻の子どもの作文・詩が載っている。日本の水産
理学の研究者である。地理学研究者以外の選出から見て,
業・北海道の学習で生徒にこれらをプリントして渡し,
監修の辻村が国分以下を選んだとは考えられない。戦前
「モノ」「カネ」こそが人間の幸福を決定するといった価
から生活綴方教育の実践者であり,研究者であった国分
値観に射し,島に生きる子どもを対置し考えさせた。奥
が辻村を起用したとすると,皇国史観が大手を振った歴
尻の子どもたちが一家の働き手としてイカつけ(釣り)
史学と違って,地理学は戦前も戦後も自然ないし自然か
をしている姿を示し,日本社会の多様な姿と児童労働を
ら社会を分析する「唯物性」の学問として一貫性をもつ
どう見るかといった授業を試みたのである。筆者の授業
と考えたのではないだろうか。もしそうだとすると,国
に対する生徒の反応はさまざまで,日本における多様な
分は地理学が持つ過去の功罪について無知であったとい
地域の姿の一つとして受け取る生徒だけでなく「暗くて
えよう。平凡社が東京大学教授(1951年退職)という「看
一 2 −
奥尻島・戦前と戦後の子どもと教育
No.53
1999.3
奥尻における3人の先生の年表
39,3
35,4
釣石小
阿部秀一
・‥・‥ 針@
① ② 塩谷小
29,1
33,g
54,7
揃方龍滋紀
35.4
北海道編制行
小野清馬
㈲若松小
44.4
49,5
54,3
奥尻小
小野数馬
1930
35
40
45
臥1937年の「島の子」の作品、『風土記」に
日高に転勤
50
55年
臥北檜山町若松/J\学校在職中に病死(1g3さ
臥遭下氏は1939年に塩谷小に振動と。数馬氏は
年)
①、五井氏に「鳥の子」などの資料を送付
42年頃と記憶。(○■)
臥ガダルカナルで戦死(1942年$月∼43年2月)
臥服部氏に「見土記J青磁を呼びかけられ平
㊥、「綴方の実践」刊行〈1g35年)
凡社に奥尻の原積送付
臥同窓文集「巣」2引こ阿部寄稿
たため,「風土」を加えた『綴方風土記』の書名がつけ
板」を示すことが商業上有利と考えたこともあげられる
られたと考えられる。風土とは「その土地固有の気候・
が,後者の考えは国分とは相いれない。
「風土記」編集当時は戦争に協力した地政学,そして
地味など,自然条件」(広辞苑5版・1998年),「自然と
科学性がない景観地理学や地名物産地理教育を批判し新
生活とが一体となって織り成す土地柄」(『地理学辞典』
地理学・地理教育の創造に着手した人々がでてきた。飯
塚浩二は『地理学批判』(1948年)を出していたし,「風
側から混在させて見る考えが強い。貧富・失業・差別な
土記」と並行した時期に前記の高校人文地理教科書『世
ど社会的矛盾は本来社会に由来するが,自然の厳しさに
二宮書店1989年)とあるように,社会や人間を自然の
界と日本』を若手の地理学者とともに編集・執筆中であ
よるものであるなど,社会科学による分析といった手法
った。また,石田龍次郎は1947年に,現在とは違った具
が回避される。そのためか,「風土記」北海道編の子ど
体的でリベラルな内容の学習指導要領を書き,新制高校
もの作文や詩に指導の差が伺える。奥尻の作品はいずれ
用の人文地理教科書を戦後初めて執筆している。石田の
地理思想は合理主義的,社会科学的考えに基づき環境論
理教育の教材としても優れていた。
も「生活の現実を見つめる」が貫かれていて,社会科地
(自然決定論)を排しているなど戦前,戟中の地理学と
明確な区別を示していた。そのほか,若手地理学研究者
3 「生活・島の子」と阿部秀一先生
の入江敏夫は1950年頃から武蔵野児童研究会(同会をも
とに1953年,郷土教育全国協議会が結成される)に地理
1996年10月,学生と奥尻に出かける前に,「風土記」
に作品を書いている6名(見出しには7名の生徒名があ
学の立場から参加した。入江は考古学,歴史学,地学な
どの研究者と地域を取り上げる教育を教師とともに議論
る)の方が在島しているかを町役場の雁原徹総務課長(現
している。その方法は武蔵野の一地点に立ち,それぞれ
在助役)に問い合わせておいた。奥尻についてその所在
の教科がそこで何をどう教えることができるかを問題に
が分かったのは道下久一氏1名だけだった。道下氏は「風
しながら社会科教育,理科教育の創造にあたった。入江
土記」に肩書が「奥尻中」とあり学年が入っていなかっ
は『地理教育の革新』(同学社・1954年)で,石田や馬
たので,問い合わせの年齢欄には96年当時で55−57歳で
場四郎らと対談し今後の地理教育の方向を熱心に語って
あろうと計算し,記入した。道下氏は「風土記」に詩「雨
いる。
つづく」と作文「村の人たち」の二編を書いている。詩
の方が短いので上げる。
「風土記」は戦後の新地理学の成果を取り入れなかっ
ー 3 −
相 原 正 義
雨つづく
には貧しい家の様子を正直に書くことは恥かしいことで
雨降りつづくとしごとに出れない
はないという雰囲気があった。また,観たちには教育熱
遊ぶことがない−さびしいおれたちだ
心な先生が言うことだから,子どもが自分のこと,家の
新聞見ると内地は水害だ
こと,親の仕事の様子をありのまま正直に書くことを世
ずいぶん人が死んでいる−
間体が悪いなど批判めいたことをいう人はいなかった。
いかが釣れねばおれたちも死ぬばかりだ
文集づくりは月ごとに1回,班で持ち回りし,ガリ版で
警報の赤い旗
書いた。カットは版画が多かった。プロ野球オリックス
きょうもあがっている
の佐藤義則前投手の父義美氏がカットを受け持った。
高等科の生徒数は27,8人で,文集は50部作り,残り
(奥尻郡・奥尻中・道下久一)
は阿部氏が方々に送っていた。西川貞行(高等科2年)
家庭経済の力が浅かった島民の生活はイカ釣りにすべ
の散文「ルンペン船の人々」(400字原稿用紙約60枚)が
てがかかっていた。漁に出られなければ,島の人達には
滑川道夫・吉田瑞穂『全国日本子供の文章』(1937年)
「死」が待つだけという生活を書いている。道下氏は役
に所載され,戦後になって『出稼ぎの人々』(作者不明
場の職貞をへて,町会議員,町の教育長を歴職した。聞
−「特集」に名前がない)が百田宗治編の『綴方の中の
き取りで分かったことは,「風土記」に載っている作品
子ども』(1952年)に入っている。道下氏は当時の阿部
は1937年(昭和12)の高等小学校(以下,高等科)2年
氏の教育を振り返り,「ありのまま書く」の実践によっ
のとき文集「生活・島の子」(以下「島の子」)に書いた
て子どもたちはウソをつくことは恥ずかしいことだと知
作文と詩であった。高等科2年生は14歳,「風土記」出
るようになったという。そのためか,親に隠れて悪事を
版に2年の月日がかかったとして,16年ほど前の作品で
する子どもはいなかった。綴方教育のお陰で,文章の書
ある。しかも,道下氏は自分の作品が「風土記」に収録
き方が上手になっただけでなく,それ以上に綴方を通し
されていることを知らなかった。平凡社から本が本人宛
て物事の見つめ方,本質を見抜く力を身につけたと語る。
に送られて,初めて知ったのである。「島の子」を指導
また,阿部氏は中身のない文章はだめだ,真実味のない
した先生は同書の前の方に「この本をつくった子どもた
文章はだめだと常に指導した。作文を書かせて,先生が
ちと先生」に記名されている阿部秀一氏である。
表面を見るだけで,「おめ,上手だな」ですます先生で
はなかった。子どもの掘り下げが弱いと「ここをもう少
道下氏から借りた「ひやま作文」一生括綴方の遺産「生
活・島の子」特集−(桧山作文の会機関誌復刊5号1973
し考えて書き直すように」と書き直させた。
年,以下「特集」)に阿部氏が指導した子どもの作品と
阿部氏の指導の一例を見る。満島喜代治は「授業料」
阿部民本人のことが何人かによって善かれている。道下
の題で作文を書いている(「特集」掲載)。浦島は高等科
氏の聞き取りと重なるが,阿部氏は1935年(昭和10)に
の授業料2カ月分の60銭がたまっている。喜代治は母に
奥尻の釣石小学校(現在の奥尻小)に赴任した。間もな
支払うように頼んだが,母は「いろいろと金がかかって
く,生活綴方「島の子」を文集として出す。文集は生徒
出ない(出せない)」と言う。父に「山さ桐かつぎに行け」
が主体になって執筆,編集にあたった。道下氏も編集
と言われ,山に働きに行くと,30−40本の桐の木が転が
長を務めている。「特集」には芳賀好江氏(当時,青苗
っていた。喜代治は300間(540m)の笹の生い茂る道を
小学校教諭)が道下氏と同級生の放水上告太郎氏(役場
木を背負いながら「授業料,授業料」と口に出しながら
の係長)に取材している。
運搬する。この木を1日で全部運ばなければ,函館行の
阿部氏は100mを11秒台で走るほどのスポーツマンで
船に間に合わない。彼は仕事をしながら「授業料を毎月
あった。出身は旭川で,札幌師範学校を卒業した1935年
決まって出せるような仕事がないものかなあ」と考える。
4月に奥尻に赴任した。下宿は奥尻村奥尻にあった若松
この作文は400字詰原稿用紙10枚の作品である。
旅館(若松キミ経営)3)で,下宿代は月18円であった。
阿部氏はこの作品について「喜代治の労働をきる」と
月給は50−55円,米1俵4円50銭の時代に旅館から通う
題し,次の4点の指導を添える。
彼を島の人たちは「大臣ぐらし」とうわさし羨んだ。い
つ応召されたか不明だが,釣石小学校で学び(直接阿部
喜代治は此の労働から
氏の教えは受けていない)1944年4月に同校に赴任した
○どんなに苦しくたってやり通せる自信を得た。
小野数馬氏4)と道下氏は阿部氏が1945年4月一6月の
○ 〈授業料は自分の手で作る〉愉快さを実際にわかっ
沖縄戦で戦死したと伝え聞いている。
た。
○竹井の人達,父母,家の人達の温かい心がしみじみ
阿部氏の作文指導は「かざりつけはだめ」「ありのま
ま見たまま書け」「方言は,よい」と敢えていた。教室
心に通って来た。
− 4 −
奥尻島・戦前と戦後の子どもと教育
No.53
俺たちは
いわれるが道下氏は「島を出たのは1939年頃」という。
○烏賊つけの時だけ金儲けが出来るのではなく,今頃
阿部氏が塩谷に転任しいつ応召されたか不明である。数
のやうに苦しい時にだって仕事は考へられる。いや,
馬氏の記憶であれば転任校での在籍は1年足らず,後者
この時の方が本当に尊い生活勉強だ−と。
であれば3年ほどである。塩谷での教育実践は残ってい
1999.3
るか,残っていれば島と同じような実践ができたか厳し
(原文のママ)
い時代との関係で知りたい。現在,阿部氏の教育実践記
彼は苦しい労働の中に,自信,自分で金を得る愉快さ,
人の暖かな心,仕事のないときに仕事を考えることがで
録は奥尻でのものがすべてであるが「島の子」1号など
きるようになったことを総称して生活勉強と位置づけ
れる。数馬氏は1944年に釣石小学校に赴任しているが,
る。
1938年頃吹き荒れた綴万事件で多くの資料が紛失した中
が欠本ですべてが残っているわけではない。確認が急が
浦島は「授業料」を書き,その後,生活日誌「時化の
で,戦時中も堂々,学校の本棚にあった「生活・島の子」
を見つけ読み,阿部氏の教育実践の深さとその指導力に
感動した。その多くを保存していたが,次の4で見るよ
日」が「綴方倶楽部」(1936年9月号)に載った。阿部
氏は九州の近藤益雄氏に「島の子」を送っている。近藤
氏はそれを読んで感想の手紙を阿部氏に寄せ,阿部氏は
うに貸し出し,数馬氏の手元を離れている。また,道下
その内容を教室で生徒に読み聞かせている。喜代治は生
氏も個人所有の「島の子」(全巻ではない)を奥尻町の
活日誌にそのことを「4月の末に先生が,九州の近藤益
旧公民館に寄贈し2階に保管されていたが,その後の引
雄先生から来たお便りを俺たちに話してくれた時,俺の
っ越しでなお保存されているか確認していない。
時化の日が大したほめられていたので非常にうれしかっ
「特集」に松谷善四郎氏(肩書は「元校長」)が「阿
た」と書いている。作文の上手であった喜代治は戟争の
部秀一君の思い出」を寄稿している。その内容は松谷氏
犠牲者として物故したと「特集」にあるが,道下氏は「1938
が1935年5月,乙部町の教育研究集会で「児童詩に現れ
年(昭和13)3月に高等科を卒業し,その年の4月に病
た漁村児童の諸性とその指導」という実践報告をした。
死した」と友の死を語る。
阿部氏は研究会が終わった後,初対面の松谷氏に児童詩
さて,道下氏は筆者に前記と違って,阿部氏は「札幌
について話しかけてきた。それから数カ月後に,彼が指
師範卒」ではなく「旭川師範卒の若い教師」であったと
導した高等科児童の文集「島の子」が送られてくる。1938
語る。「特集」には江差町の中西由多寡氏(民間研究人)
が「戦時下,滅私奉公が第一義という中で,貧しい生活
年6月,釣石小学校を会場に教育研究集会が持たれたと
き,阿部氏は松谷氏に「僕が綴方をやるようになったの
とか,苦しい生活とかいうだけで“アが’と決められた
は松谷先生の児童詩の発表に興味をもったからです」と
ころ,子供達の可能性を伸ばそうと生活綴方によって実
いう。当時,阿部氏は全国的に有名になっていて自ら指
践した阿部先生とは一体どんな人物だったか」という問
導する綴方に「生産綴方」6)という名称をつけていた。
題意識をもとに調べ,短い文章を書いている。中西氏の
松谷氏は1951年に無着成恭の『山びこ学校』を手にして
調査の結果は,芳賀氏が道下民らに聞いた「島の教え子
いるが,「島の子」が『山びこ学校』の先駆をなすもの
等と語る」の中で「旭川出身で札幌師範卒」とあるのは
と評価している。阿部氏は松谷氏の影響のほか,道下氏
「昭和10年旭川師範卒」が正しい。また,「沖縄で戦死」
は渡島支庁大野町で教鞭をとっていた秋田師範学校出身
は“餓島”といわれた「ガダルカナルで戦死」が「正確
の小学校教師(氏名不詳)の影響を受けていたといわれ
のようである」と「北海道教育評論」(何号か不明)の
る。筆者はこのことについて大野町文化財保護研究会の
中の坂本亮氏の随想に,阿部氏と同期であった靭本武清
木下寿実夫会長に問うたが,確かに秋田師範学校出身の
氏からの便りのなかにあることをもとに明らかにしてい
生活綴方指導教師はいたが,両者の年代が合わないとの
る。ソロモン諸島のガダルカナル5)の戦いは1942年8
回答を得ている。
月に米軍の上陸,43年2月に日本軍が撤退していること
から沖縄戦の2年数カ月前に当たる。阿部氏の享年は28
4 小野清馬と数馬の兄弟
歳と推定される。
長谷部建夫氏7)によると,釣石小学校には阿部氏が
1935年に奥尻の釣石小学校(当時は尋常高等小学校)
に赴任した阿部氏は,その後,小樽市塩谷の小学校に転
赴任する前,すでに生活綴方教師の小野清馬氏がいて,
任している。小野数馬氏によると,「戟争が激しくなる
阿部氏に少なからず影響を与えていたはずといわれる。
前の1942年頃,塩谷に転任された。奥さんは島の教え子
清馬氏は仙台出身で数馬氏と20歳違いの見である。清馬
の中村光子(道下氏と同級生・1922年生まれ)で,風聞
氏は中学を卒業して函館師範学校二部(旧制中学を出て
として“妻を女学校に学ばせるため塩谷に行っだ’」と
師範に入学)を20歳で出て中標津町の武佐小学校(1927
− 5 −
相 原 正 義
年10月−28年12月)をへて,奥尻の釣石小学校(1929年
方性教育の影響を受けたと長谷部氏は言う。長谷部氏に
1月−33年9月)に赴任した。その後,1933年10月から
よると,清馬氏は中標津で官憲に目をつけられたため離
35年4月まで釣石小学校赤石特別教授場に勤務する。清
島の奥尻にわたり,生活綴方教育に力を注いだ。
馬氏と阿部氏は勤務校は同じでも清馬氏は特別教授場,
数馬氏に兄の教育観をお聞きすると,
阿部氏は釣石小学校の本校と別れて1カ月間同僚であっ
(∋父母や弟,妹のいるところで(父は奥尻村にある奥
津神社の神主),教師として立派に勤めたかった。
た。清馬氏は1935年5月から北櫓山町の若松小学校に勤
(∋生活を知ることによる確かな教育を,子どもたちの
務した。両者の接点が後述の清馬氏の教え子による同窓
文集「巣」2号に,阿部氏の一文が掲載され「特集」に
作文に求めたのかもしれない。
(彰子どもたちに,考える力を作文を通してつけようと
収録されている。次に,序文のみを上げる。
したのではないか。
と,3点を上げる。また,「綴方の実績」を作ったこと
生活組織の文詩へ
について数馬氏は,奥尻島の子どもたちの作文を通して,
阿部 秀一
北海道本島の教師たちに作文教育について自己の実践と
序
〈巣〉 のみんな,みんなが元気で,莫異になって
子どもの能力開化のすばらしさを訴えようとおもったの
それぞれの職場を死守しているだろう事を想うと,
ではないかと語る。長谷部氏の和夫人(1934年生まれ)
胸のふくらむ温さを覚える。
は清馬氏の長女で,早死した父の記憶はほとんどない。
かうした若い人達の一人一人の熱が,いや達しい
数馬氏のもっていた「綴方の実績」は五井治保氏が空
生活意欲が,がっちり組み合って,大股の生活前進
知教育研究所に勤務(のち伊達中学校長)し,北海道作
に高らかに叫ぶ−。
文教育研究協議会の事務局の仕事をしていたので五井氏
のもとへ送った。同時に,「生活・島の子」2号一海に
どうだい考えただけで胸の踊る(ママ)ものがあ
るじゃないか。なあ,みんな,それぞれ仕事場から
生きる,同3号一冬休みの生活,同6号一生活日誌特集,
生活を勉強して立上ってくれ。
同7号一授業料,同8号一烏賊つけ,文集・烏賊つけ,
秋の進軍の6冊(1935−36年)を一緒に送った。そのほか,
それには一人一人の熱い協働が大切なんだ。それ
清馬氏の教え子の同窓文集「巣」1,2号も送っている。
が本当に出来たとき,若い 〈巣〉 の達しい肉体は島
を背負って立上る時だと思う。
道下氏は平凡社から「風土記」が送られてきてむかし
(原文のママ)
書いた自分の作品が載っていることで驚いたことの背景
以上の序文のほか,一,二,三と書き,作品の批評も
にはどんないきさつがあったか。そのことを筆者は数馬
加えている。時代は「国家のため」を植え付ける教育の
氏に確かめる。「風土記」北海道編は北海道作文教育協
時代に入っているが,序文にある「生活」「島を背負う
議会がまとめることになった。中心にあった五井氏は作
人間」への期待がその後にも述べられている。文の後に
「巣」の編集部が「阿部先生について」と題して次のよ
文教育協議会の仲間に声をかけ,数馬氏も資料の要請を
受けた。そのため,前述の手元にあった阿部,清馬両氏
うに書く。「先生は,現在我々母校で教鞭を取られて居
関係の資料を五井氏に送る。その中の「島の子」から道
られ,,生活詩”については非常に深く考えて居られるの
下民らの作文や詩が五井氏の選択を得て平凡社に送られ
で,此の度我々が第二号を出すにあたり此の稿を得た。
たと推測される。
一方,数馬氏は1944−54年の間,奥尻小学校,奥尻中
(後略)」。清馬氏が卒業生の相談に乗って阿部氏に原稿
学校に勤務していた。1952年ごろ,作文教育協議会に所
を依頼したと思われる。
小野清馬氏は3校の子どもの作文をもとに「綴方の実
属していた服部左公民(函館学芸大学付属中学教諭)が
績」8)(私家版・和紙にガリ版刷280頁,1935年9月)
を表したが,その85%は奥尻の子どもの作品である。最
奥尻全島の教育研究会(於,奥尻中学校)に来られた。
研究テーマは「各教科学習の基礎を」で,数馬氏はその
後のページには「此処まで来てとうとう疲れてしまった。
会で「働く中に生き生きした詩−うた−を」の題で発表
付録をもっと充実させたかったのだが,要領を得ない。
した。その会で服部氏から多くの助言を得,また,「風
このままにして筆を捨てる」と書いている。当時,清馬
土記」の原稿を募集している事を伝え聞く。数馬氏は島
氏は病気が悪化し,1938年に心臓病他が原因で30歳のと
内の教師に呼びかけて島の子どもの作文を集めて選択
きに,北桧山町で死去している。「綴方の実績」は「巣」
し,直接,平凡社に送った。そのため奥尻の児童の作文
への寄稿から推測して恐らく阿部氏にも送られたと思わ
れる。此の文集には弟の数馬氏の「ふなの発育日記」(尋
や詩は戦前の「島の子」に掲載された作品と,昭和20年
代半ばの作品の2つに区別される。両者の作品の共通点
常4年)ほかが載っている。清馬氏は中標津で東北の北
は「現実の生活をありのままに見る」に集約され,戦前
− 6 −
奥尻島・戦前と戦後の子どもと教育
No.53
1999.3
と戦後の落差はない。数馬氏には戦死した阿部氏の遺産
防空演習では教師が「警戒警報」「空襲警報」と叫ぶと,
の継承と,戦争で荒れたふるさとと子どもの心を取り戻
子どもたちは防空ずきんを被ってタコツボに避難した。幸
すには生活綴方しかないとの考えがあった。
いに,奥尻には敵の飛行機は一度も来なかった。都会地で
の空襲が激しくなると,奥尻にも疎開者が増え,都会の子
どもが転校して来た。その頃,物不足が深刻になり,子ど
『綴方風土記』に載っている生徒の様子
もたちの靴や衣服は配給制になった。担任教師が子どもに
くじ引きをさせ,配給切符を渡した。教師は平等にわたる
(小野数馬氏などによる)
道下 久一 奥尻中(釣石尋常高等小・高等科2年)
ように,帳簿に記入した。1945年(昭和20)8月15日に,
阿部秀一先生の教え子
教師は子どもたちに「きょう,お昼のニュースで,重大
作品 詩「雨つづく」作文「村の人たち」
発表があるから学校のラジオをみんな聞くように」と知
坪谷 昌雄 奥尻中(釣石尋常高等小・高等科2年)
らせた。その日は夏休み中の暑い日であった。ラジオか
阿部先生の教え子
ら流れてきた声は時々,雑音が入り,何のことだか意味
作品 詩「沖で」
不明であった。だれかが「日本は負けた」といったとた
板垣 好英 奥尻中2年 現在小・中教師 勤務地不明
んに,子どもも教師も涙を流して泣いた。
小野数馬氏の教え子
作品 詩「学校になんかゆかれない」
高田ヨキエ 指導教師・赤石小学校教師で退職
板谷 一枝 赤石小4年
5 昭和30年代の子ども
高田ヨキュ先生の教え子
戦前も戦後も子どもたちは家で決められた仕事があっ
作品 詩「夜あけ」
前田 康雄 赤石小6年
た。兄弟が多く親は生活のための仕事に追われ,子守な
高田先生の教え子
どは3年生以上になると男子も女子もさせられた(一世
作品 詩「阿部は眠った」
藤巻 武士 奥尻中3年・小野数馬氏の教え子ではなく
帯当たりの人員を見ると,1950年6.07人,1996年2.45人)。
「作文クラブ」の生徒
男女とも掃除,洗濯,炊事,食事の後片付けなど,子ど
もは重要な家事労働力であった。男子は高等科や新制中
作品 作文「いかつけは僕だけだ」
学生になると,生活のため父親とともにイカつけにでた。
イカ漁は6月末から12月までの約半年間である。日の長
なお,藤巻武士の作文は『学習指導資料事典社会科』
10巻の2,関東・奥羽・北海道地方(平凡社・1959年)
のp,315に再録され,社会科学習の資料となっている。
い夏季は夕方の5時から6時頃に,秋から冬にかけては
4時頃船に乗り前浜の沖(北海道本土との海峡)にでた。
トンボとかハネゴと呼ばれる釣り道具を手にもって,集
数馬氏は戦時中の奥尻の子どもと学枚の様子を「教室
の思い出」(私家版・1994年)の中に書いている。長い
魚灯に集まってくるイカを釣り上げる。親一人よりも,
文章を筆者の責任で,子どもと学枚に限って要約する。
親子二人乗り込めばほぼ倍のイカを釣ることができる。
現在のように,自動イカ釣横のない時代である。
少国民と呼ばれた子どもたちは,学校教育を通して戦
船が小さいので,大漁のときは夜の10時過ぎに一度,
争協力に追いまくられる毎日が続いた。国民学校の学校
浜に帰ってイカを陸揚げし,再び漁にでる。子どもは睡
経営や教育実践は,その内容が戦局の変動とともに変容
魔におそわれ,半眠りの状態でイカを釣った。夜明けに
し,次第に精神主義的な面が強まり,決戦教育に変化し
て行った。戦争が激しくなるにつれ,先生も次々と戦地
船は浜に帰った。戦後まで奥尻島民の生業はほとんど漁
業であったため,どの子もイカ釣りにでた。船が浜に帰
に行った。応召された先生は戦闘帽を被り,たすきをか
け,子どもや村の人達が振る日の丸の小旗に送られ,港
中学生もイカさきの仕事を始めた。女子中学生はイカの
から別れて行った。学校の二宮金次郎の銅像は兵器を造
墨によって指紋がなくなるほどであった。
ると,スルメに加工するため女衆や老人に加わって女子
るため供出された。中国北部の兵隊が着る軍服や飛行服
には,うさぎの毛皮が必要であったため,うさぎを飼う
男子生徒は始業時になっても,家で寝ていて学校に来
ない。また,出校した生徒は眠いため学校の薪小屋(ス
ことが奨められた。学校では当番を決めて,子どもたち
トーブ用)にムシロを敷いて寝ていた。イカ釣りシーズ
がうさぎの世話をした。また,子どもたちは野原や川端
ンの半年間,生徒の寝不足が続くので,教師は授業をど
でクローバーとりをした。クローバーは種を畑にも蒔い
う進めるか悩んだ。漢字や計算のできない学習の遅れた
て収穫した。戦地の馬の飼料にするため,乾草にして送
生徒が出る。そのため教師は知識の基礎を精選して教え
られた。
なければならなかったし,出枚しない生徒にはプリント
を作って届けた。1962年の奥尻中学の弁論大会の主題は
枚庭には空♯に備え,子どもと教師でタコツボを掘った。
ー 7 −
相 原 正 義
「イカつけに負けるな」であった。昭和30年代半ばの人
の中から,現在,中小企業の社長や親方をしている者も
口は最も多く8,000人に達し(1960年,7,908人),子ど
いて,不況とたくましくたたかっている。奥尻高校のな
もの数も頂点にあった(町制施行は1966年,1996年の人
い時代で,内訳は江差高校が4人,東京1人,札幌1人
口は4,338人)。
である。奥尻高校は1975年に江差高校の奥尻分校として
開校され,77年に独立し,以来,島内の高校進学率が高
仕事に追われていた子どもにも楽しみがあった。浜が
子どもの遊び場で,食穣難の時代にウニやアワビをとっ
まった。
て十分に食べることができた。イカつけの時期には毎朝
長谷部氏が柾島の生徒に社会科として重視して教えた
取れたてのイカサシが朝食にふんだんに出された。勤め
ことは,島の産業や生活の現実をありのまま見ることで,
人の家や商店でも,近所の漁師にイカをいただく。奥尻
社会の現実を見る力を育てることに指導の力点をおい
沿岸(海峡)は波も比較的静かでイカがよく取れた。シー
た。現実を見る力は生徒が島を出る,島に残るにかかわ
ズンには対岸の大成,熊石,乙部の漁師が奥尻の空き家
りなく将来を生きて行くのに最も必要と考え,実践した
や納屋を借りて住み,漁を行った。イカの大部分は市場
という。また,基礎学力が足りない生徒には,ドリルな
への距離が遠いためスルメや塩辛に加工された。子ども
ど教材を買う経済力のある家庭がすくなかったのでガリ
もイカ加工労働力として働いた。仕事はスルメを延ばし
版刷りのプリントを作って渡した。夏休みになると,助
て10枚ずつ足で縛り,一束にする作業である。労賃は貯
教諭の先生たちが通信教育のスクーリングのため東京に
金され,修学旅行の費用や,運動靴の購入に使った。
行く。長谷部氏は島に残り,生徒と遊び,補習をした。
1965年頃になると,イカ釣りの自動化により,中学生
修学旅行は生徒にとって,島以外の土地を見る唯一の
が漁船に乗ることがなくなった。また,1964年の東京オ
機会であった。フェリーは1967年に奥尻丸が初めて奥尻
リンピック前後には,多くの人が島を離れ高速道路や新
一江差間に就航する。その間の時間は2時間30分ほどで
幹線,ビル工事などの出稼ぎに出るようになった。初め
あった。それ以前は漁船より少し大きめの船で奥尻一昔
は海の荒れる冬季の出稼ぎであったが,漁業より収入が
苗一江差の間を4時間30分ほどかかった。大部分の生徒は
安定することから通年化し,やがて都会への定住者が増
江差につき,初めて汽車を見,乗った。函館の棒二森屋
え,生産年齢人口が減少し児童数も減ってくる。人口流
デパートでは当時,エスカレータが設置されたばかりで,
生徒は何度も乗っては下りを繰り返し進んでいた。中学
出減少は他の北海道の漁村と共通点をもつ。
長谷部建夫氏は1958年,北海道学芸大学函館分校を卒
校の修学旅行は2泊3日であったが,島は1日多く3泊
業し奥尻中学に赴任した。島の人達は対岸の北海道を「本
4日であった。1例は,奥尻一江差一画館(宿泊)一弘
土」(「本道」か)と呼び,本州を「内地」と呼んでいる
前(浅虫,宿泊)一函館(宿泊)一江差一奥尻。もう1
ことに驚く。当時,1級の教貞免許状をもっているのは
例は,奥尻一江差一函館(宿泊)一札幌(宿泊)一函館
校長だけで,Ⅰ氏(国語)が2人目の1級を取ったこと
(宿泊)一江差一奥尻。奥尻を出る船は朝6時であった。
が新聞に取り上げられた。長谷部氏は3人目であった。
ちなみに,小学校の修学旅行はプラス1泊で2泊3日,
その他の教師は函館市内の高校を卒業した助教諭であっ
函館までである。
た。助教諭は教貞免許状を取るため,東京の大学の通信
経済的な問題で修学旅行に参加できない生徒はいなか
教育を受講していた。助教諭は空き時間や家に帰ってか
った。生徒が旅行に備えてワカメを取ったり,前記のよ
うに,スルメのしをし,貯金していたからである。また,
らも勉強し,その姿が生徒に好影響を及ぼしていた。
網元,雑貨商,木材屋に青年会が加わって,教師と話し
長谷部氏は2年目に同僚から「教頭になりなさい」と
いわれ,教頭になった。当時の教頭は管理職ではなく,
合い,旅行基金を出した。これは教師が働きかけたので
授業のほか教務事務を引き受ける立場にあった。函館分
はなく,島社会の中に互助精神が根付いていて修学旅行
枚では社会科教育専攻であったが,授業は英語と音楽も
を村全体の行事と受けとめてくれたためである。互助精
持たざるを得なかった。音楽をもったのは履歴書の趣
神は島に住む人たちみんなが支え合わなければ生きて行
味・特技の欄に「アコーディオン」と書いたためである。
けなかったことの名残である。首都圏に出た教え子同士
奥尻中学には当時,ピアノはなくオルガン1台であっ
がしばしば寄り合い,支え合っていることにもその延長
た。初めて受け持った生徒は現在55歳(1998年),37人
が見られる。
のうち6人が高校に進学した。江差高校に進学した生徒
のうち3人は役場に就職し,1人は助役,2人は課長と
おわりに
要職についている。間もなく,日本は高度経済成長にさ
しかかり,中学卒業生は「金の卵」と位置付けられる。
本文では「風土記」をかつて社会科教材に利用したこ
卒業後,東京や川崎の中小企業に就職した人が多く,そ
とをきっかけに,全く素人の生活綴方教育にまで踏み込
− 8 −
No.53
奥尻島・戦前と戦後の子どもと教育
んでしまった。奥尻教育調査の契機は1996年の秋に道下
(4)現在,伊達市有珠町にお住まいである。1944年,函
氏宅を訪問し,高等科時代の教室のお話しを開いたこと
館師範学校の中に特別にあった乙種講習科を2カ年課
に始まる。97年夏,函館で開かれた地理教育研究会のあ
程で修了。故郷の奥尻小学校,中学校をへて,日高の
振内小学校,胆振の有珠小学校などに勤務し,1985年
と,会員の要求で奥尻現地見学の案内を引き受けた。そ
のときの夜,民宿で奥尻町役場の吉沢利和氏に講演をお
退職。
願いした。教育の話では,現在の教員構成が校長,教頭
(5)1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍は大敗北を
の年配者と新卒数年の若い教師に2分され,教育に練達
喫し,続いて米軍はガダルカナルに上陸,ソロモン海
した中間指導層がほとんどいないことを述べられた。北
戦と敗北を重ねる。現在,ガダルカナル島は「ソロモ
海道では1学校5年勤務が原則である。離島はそれが3
ン諸島」(国名・独立国)の中心の島で首都ホニアラ
年で,多くの若い教師は3年たつと移転を申し出るとい
がある。
う。教師としての力量がつき,子どもや地域との親しみ
(6)「生産綴方」は阿部氏が独自に生み出した用語であ
ができたところで転出となる。若い教師にとって離島の
ろうか。郷土教育連盟の指導的立場にあった小田内通
生活は不便でつらい。学校には給食がなくコンビニもな
敏は郷土教育連盟著として『郷土学習指導方策』(刀
いに等しいため弁当にも不自由する。しかし,子どもを
江書院1932年)を書いている。第1編郷土学習法の
預ける親にも言い分がある。吉沢氏は声を落として,「議
組織,2郷土科学体系,の8郷土の再生,の中で「当
会で,“奥尻は若い教員の養成所が’との質問が出たそ
面の急務は教育による郷土の再建である。しからばい
うです」と語る。
とはいえ,島の事情に精通した道下氏から,「かつて,
かにして郷土を再建するか!これが実に吾等の中心問
題である」と述べ,郷土の生成に何が必要であるかに
奥尻には個性あふれた若い教師がいました」という言葉
ついて,「それは生産の社会形態に出発する」とし,
を得た。その中から,阿部秀一先生,小野静馬,数馬の
生産の社会形態=生産関係を明示する。そして「吾等
兄弟先生,昭和30年代には長谷部建夫先生とこれらの先
生を中心に子どもと正面から取り組んだ教師を知った。
い。しかも泣いて百年をまつも人類は滅亡の墓域に急
は現代農村の窮乏を涙なしに直視することはできな
教育への気迫は,個性,時代,それに離島といった地域
性に由来するのか結論はこれからの課題である。当面,
進するのみだ。新興生産体としての郷土の建設に甲斐
阿部先生については現在,旭川や塩谷の調査の手掛かり
田内がここに示した「新興生産体としての郷土建設」
さえ得ていない。彼はなぜ,新卒で奥尻の教師になった
=郷土教育の影響が阿部氏の「生産綴方」という用語
のか,彼の実践は15年戦争の中,離島であったから可能
に何らかの影響を与えたのではないかと考える。
がいしく出発しなければならぬ」と書いているが,小
であったのか。また,綴万事件とは無関係であったのか
など,調査しなければならないことが残されている。関
(7)北海道教育大学非常勤講師(社会科教育),七飯町
係者は高齢に達しているし,死亡された人も多い。島関
係者では島を出ている方も多い。
(8)長谷部建夫氏が仙台の静馬氏の親戚より取り寄せ,
に在住。
北海道教育大学函館校に寄贈された。函館校の図書館
に入れたいと考えている。
今回は戦後の島の教育調査について多くの方々のご協
力を得たが,その一部の記述に終わったことをお詫びし
次回に期したい。
注
(1)2巻歴史教育編Ⅰ,3巻歴史教育編Ⅱ
(2)編集委貞は今井のほか,岡田日出士,菅忠通,早川
元二,桑原正雄,周郷博の6人。「日本地理物語」で
は筆者の手元にあるのは,関根鎮彦編・日本の農村,
栗栖良夫編・水産業で働く人々,風巻義孝編・工場で
働く人々,などである。
(3)郡役所跡を旅館に改造した。阿部先生は2階に下宿
していた。場所は北海道南西沖地震で32人の犠牲者を
出したホテル洋々荘から南(奥尻の町の方)に150m
ほどのところにあった。
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