電子マネーと経済秩序の変容可能性

電子マネーと経済秩序の変容可能性
池尾 和人(慶應義塾大学経済学部)
1.はじめに
マネー(貨幣)という言葉は、人々の想像力をかきたてるマジック・ワード(魔語)の
1つである。すなわち、マネー(貨幣)という言葉を聞くと、多くの人が、様々なイメー
ジをふくらませる。まして、その言葉に電子的(electronic)という形容詞がつけば、威力
は倍加する。したがって、電子マネーというワードに接して、人々の知的好奇心がいたく
刺激され、次々とイメージの増殖が生じたのは、まったく不思議なことではない。
われわれはこの間、電子マネーの出現とともに、新たな経済秩序が誕生し、人々の日常
的な生活も大きく変容するといった類の話を多く聞かされてきた。あるいは、電子マネー
の登場によって金融政策の有効性は失われることになり、国家がマネーの管理を行う時代
は終わるといった議論をする人もいた。マスコミでの電子マネーのとりあげ方は、一般の
人々の関心を買うために、しだいに過激で、それゆえ空想的なものになっていった。
しかし、電子マネーの出現は、本当にそれだけで既存の経済秩序を転覆するような画期
的なことなのだろうか。電子マネーの登場と未来論的な、すばらしき新世界の到来は、果
たして必然的に一体の出来事と考えるべきものなのだろうか。皮肉なことに、日本でも電
子マネーの実証実験がかなり大がかりに行われるようになり、電子マネーの存在が現実性
を増すにつれて、人々のイメージは萎みつつあるように思われる。
確かに、電子マネーが登場し、一般に普及するようになれば、われわれの生活は便利に
なるだろう。けれども、それは利便性の向上ということに留まるのであって、経済秩序の
変化を必然的に伴うとは限らない。例えば、テレフォン・カードに代表されるプリペイド・
カードが普及するようになって、それ以前よりも便利になったとはいっても、何か本質的
な変化が生じたのか。電子マネーの出現も、その程度のことではないのか。
筆者は、そうした程度に留まる可能性は大きいと考えている。ただし同時に、それが唯
一の可能性であると断言することもできないと考えている。人間は、「道具を使う動物」
だというところに特徴があり、道具の高度化によって、人間社会のあり方の方が変わると
いうことも決してめずらしいことではない。周知のように、自動車の登場(モータリゼー
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ション)は、われわれの文明のあり方を変え、新たな経済秩序をもたらした。
この意味で、電子マネーの出現も、経済秩序の変容につながる可能性はある。しかしな
がら、必然的にそうなるという程、事柄は単純ではないと思われる。経済秩序に本質的な
変化が生じるといえるようになるためには、電子マネーの登場に伴うインパクトがある域
値を越すものとなる必要がある。
具体的には、電子マネーが登場し、かなりの程度普及したとしても、銀行業の産業組織
や決済システムのあり方が基本的に従来と同一構造のものに留まれば、決済手段が単に高
度化しただけであって、金融政策の有効性を含めて経済秩序に本質的な変化が生じるもの
ではあり得ない。逆にいうと、電子マネーの出現が直接の「契機」になって、銀行業の産
業組織が大きく変化したり、現状の中央銀行を頂点とする集権型決済システムが分権化し
たりするなどの構造変化が生じるならば、経済秩序の変容が惹起されうる。もっとも繰り
返すと、電子マネーは以上のような構造変化をもたらす可能性は有しているものの、必然
的にそうした変化を引き起こすものなのかどうかは定かではない。
そこで本稿では、これらのいくつかの可能性についてもう少し立ち入って検討し、電子
マネーの出現がもたらす将来の経済秩序のスぺクトラムの幅(既述のように、一方の端は、
現行秩序の継続である)を見定めることを試みたい。以下の本稿の構成は、次の通りであ
る。続く第2節では、議論の出発点として、かなり割り切った電子マネーに関する定義を
与えるとともに、既存のマネーとの代替性について検討する。その上で第3節において、
電子マネーの登場が経済秩序の変容につながる可能性のある3つの場合とりあげて、順に
考察する。最後に、主張の要約を述べて、結びに代える。
2.新型預金としての電子マネー
電子マネーの定義
現在、電子マネーと総称されているプロジェクトには、多くの種類があり、その道具立
て(ICカードを用いるか、ソフトウェアのみか)やスキーム(転々流通を認めるか否か
など)も多様である。これは、電子マネーがまだ開発段階にあり、標準の座を目指して複
数のプロジェクトが覇権を争っている過程にあるからである。しかし、いずれのプロジェ
クトが勝ち残るかを予測することは、本稿の目的にとって不可欠のことではない。
それゆえ、様々な電子マネー・プロジェクトの詳細や分類学については、別の文献に譲
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り、電子マネーと呼ぶのが似つかわしいものである限りは共通して有すると思われる特徴
に着目して、本稿では概括的な電子マネーの定義を与えることにしよう。その定義は、「電
子マネーとは、情報技術と暗号技術の発展によって実現可能となった(なりつつある)一
般的な支払い手段として利用可能な銀行負債の新たな形態」というものである。
これまで一般的な支払い手段として利用可能な銀行負債といえば、(決済性)預金のこ
とにほかならなかった。この意味で、上記の定義は、電子マネーをいわば新型預金として
理解するものといえる。従来の預金は、いったん払い戻す(あるいは、小切手の振出等の
手立てを通じて指示を出す)という手間をかけなければ、日常の買い物などの支払いに用
いることができなかった。これに対して電子マネーは、そうした払い戻し等の手間なく直
接に支払いにも使える高機能な預金といえるものである。
この定義に対して、直ちに生じかねない疑義は、電子マネーを発行するのは銀行とは限
らないというものであろう。しかし、これは、むしろ銀行をどう定義するかという問題で
ある。もちろん電子マネーの発行体は、従来から銀行と呼ばれていたものとは異なる企業
である可能性がある。けれども、いったん電子マネーを発行するようになったら、その発
行企業は「銀行」と呼ばれるのが自然ではないか。
少なくとも経済学的に、機能的に考えると、一般的な支払い手段を提供している企業が
銀行である。したがって、いささかトートロジカルではあるが、電子マネーの発行体は銀
行と呼ばれるべきだという前提に立てば、上記の定義に問題はないということになる。す
なわち、上記の定義中でいう「銀行」は、従来からの銀行と電子マネーの発行を契機に新
規参入してくる企業との両者を含むものと解釈されたい。
この点を留意しさえすれば、電子マネーを(直接支払いにも使える)新型預金と理解す
ることは、きわめて適切であるとともに、論点の所在を明瞭にするのに役立つものである
と考えられる。ただし、電子マネーを新型預金だというと、折角の電子マネーの未来的な
イメージが損なわれると感じ、気分を悪くする人がいるかもしれない。けれでも、実態が
そうなのだから、しかたがない。
また、電子マネーを新型預金として考えることにすると、既存の預金に対するアクセス
を改善するような電子決済技術の発展も取り込んだ形で問題を考えることが可能になる。
すなわち、広義に電子マネーと呼ばれているプロジェクトの中には、それ自体が支払い手
段として機能するのではなく、電子的な手立てを用いることで、既存の預金の振替などの
資金移動の指図を容易化・迅速化するに過ぎないタイプのものもある。
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こうした電子小切手などの既存の預金の使い勝手をよくするサービスをマネーと呼ぶの
は、厳密にはまったく正しくない。というのは、この場合に支払い手段として機能してい
るのは、あくまでも既存の預金だからである。しかし、この種のサービス(アクセス型の
電子決済技術の発展)を電子マネーではないとして検討の視野から除くのは、形而上学的
に過ぎるもので、実際的ではない。
アクセス型の電子決済技術の発達によって、既存の銀行預金の利便性は高められる。こ
のことは、銀行預金の商品性が変化したことを意味し、新たな金融商品(新型預金)が出
現したのと機能的には等価であるとみなすことができる。すなわち、それ自体を払い戻し
の手間なく支払い手段として使える新型預金が登場したのと、払い戻しの手続きを極端に
簡略化するサービスが既存の預金に付加されるのとは、事実上同じことである。
これまでも、銀行預金の商品性は進化してきている。かつては、預金というのは自分が
預け入れた支店でしか払い戻しができないものであった。その後、同じ銀行の本支店であ
れば、自分の口座が開設されている店でなくても、払い戻しができるようになった。現在
では、どの銀行のどの支店(あるいは、街角)のCD・ATMででも、現金化できるよう
になっている。この背後には、言うまでもなく、電子決済技術の発展がある。
さらに近い将来、デビット・カード・システムが普及すれば、支払いにあたって預金を
払い戻す手間はほとんど感じないで済むようになろう。この過程が進行する中で、銀行預
金は銀行預金という同じ名前で呼ばれてきたが、その商品性は著しく改善されてきたとい
える。アクセス型の電子決済技術の発展によって、銀行預金の貨幣性はとくに増大した。
そして、商品性の改善が大きければ、それは新商品の登場とみなしてよい。
こうした意味で、アクセス型の電子決済技術の発展によるものも含めて、ほとんど払い
戻しの手間をかけることなく支払いに使える新型預金の登場として、電子マネーを理解す
ることは、実際的であって、本稿の以下の議論にとって十分なものである。そこで、本稿
では、電子マネーをこのように理解して議論を進めていくことにする。
支払い手段の棲み分け
現在進行中の多くの電子マネー・プロジェクトは、現金との代替を目指して電子マネー
を開発している。現金(中央銀行券と硬貨)は、きわめて便利な支払い手段である。しか
し、使い勝手にまったく問題がないというわけではない。例えば、現金には分割可能性が
ない。すなわち、千円札を半分に切って500円として使うことはできない。そのために、
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しばしば消費者は小銭でポケットをふくらますはめになる。
小売り店側にとっても、現金のハンドリング・コストは無視できない大きさのものであ
る。つり銭に必要な分の硬貨や小額紙幣をあらかじめ準備し、その日の売上金を銀行に持
ち込み入金するという作業は、人手や時間(従って、経費)を要するものである。また、
多額の現金を手許に置くことは、盗難・紛失その他のリスクを招来することにもなる。こ
れらの経費やリスクは、現金を使い続けている限り、避け難いものである。
電子マネーは、これらの現金の使用に伴う問題点を解消してくれる可能性をもつ。電子
マネーは、分割可能性をもち、端数を伴う支払いにも容易に対応できる。それゆえ、小銭
を用意したり、保有する必要はなくなる。電子マネーを別のタイプの預金(既存の当座預
金等)に振替えることも、きわめて容易なはずである(ここでいう電子マネーが既存預金
+アクセス手段を意味する場合には、振替の必要性すら存在しなくなる)。
この意味で、電子マネーは、消費者の利便性を高め、小売り店側の現金ハンドリング・
コストの節約につながるものである(ただし、盗難・紛失等のリスクについて電子マネー
が現金を下回るかどうかは、電子マネーのスキームが如何なるものであるかに依存し、一
般的に断言できる事柄ではない)。したがって、電子マネーは、現金を代替する可能性を
もつものである。というよりも、現金を代替できなければ、その電子マネー・プロジェク
トとは失敗だと言うべきであろう。
もっとも、電子マネーにも、その利用に伴うコストが存在する。それゆえ、ベネフィッ
トからコストを差し引いたネットの利便性が、電子マネーの方が現金よりも大きいという
ことでなければ、電子マネーは現金を代替できない。例えば、電子マネーの利用にかなり
の手数料がかかるようだと、消費者は小銭でポケットをふくらます方をむしろ選好するか
もしれない。こうした事情は、小売り店の場合も同様である。
なお、現金の利便性の1つは、匿名性にある。すなわち、現金での支払いの場合には、
誰が購買したかを知られないで済み、プライバシーを守れるという利点がある。こうした
現金同様の匿名性を実現できる電子マネーのスキームは、かなり限られる。少なくとも、
既存の預金に対するアクセスを改善したタイプのもの(および、それと同等といえるよう
な新型預金)は、匿名性をもち得ない。
匿名性を確保したタイプの電子マネーのスキーム(電子現金)は、e-cash、internet cash
など、もちろん考えられている。しかし、匿名性確保という制約は、セキュリティの確保
をより困難にする。したがって、そうした電子マネーのスキームの運営コストは、割高な
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ものとなる傾向がある。このことは、技術の進歩がいずれ解決してくれる問題かもしれな
いが、電子マネーによる現金の代替に一定の限界を課すものとなるおそれがある。
また、電子マネーが現金を代替していくとしても、それが一挙的・全面的に起こるとは
考えがたい。当面は、電子マネーと現金、あるいはクレジット・カードのような既存の支
払い手段(支払い方法)は共存し、ある種の棲み分けがみられる可能性が高い。これまで
支払い手段(支払い方法)の間の棲み分けに関しては、もっぱら1回あたりの支払い金額
の多寡の次元についてのそれに関心が集中していた。
すなわち、現在はごく小額の支払い(small transaction)には現金が用いられ、1万円以上
程度からクレジット・カードが使用される傾向がある。ただし、0.1 円といったきわめて微
小な額(micro transaction)については、適切な支払い方法が存在しない現状にある。電子
マネーは、このマイクロ取引に相応しい支払い手段でありえる。しかし、電子マネーの利
用はマイクロ取引に限られるものではなく、反対のきわめて巨額の支払いにも用いられる
ことになるかもしれない。こうした議論がこれまでしばしば行われてきた。
こうした次元はもちろん重要なものであるが、買い手と売り手が実空間で出会う形の取
引であるか、サイバー・スペースで出会う形の取引(電子商取引)であるかによっても、
支払い手段(支払い方法)の間の棲み分けが生じるようにみられる。というのは、これら
2通りの取引では、電子マネーの利用にかかわるインフラ整備の困難性にかなりの差が存
在すると考えられるからである。
実空間での取引において電子マネーの授受を可能にするためには、ICカード・リーダ
ー・ライターのような装置を数多くの金融機関の窓口や小売り店の店頭・自動販売機に設
置する必要があり、そのための初期の固定投資の規模は甚大なものに及びかねない。しか
も、そうした装置の設置密度が低い間は、電子マネーの利便性は低いものにとどまらざる
を得ないので、電子マネーの普及そのものが期待しがたい。
こうした事情から、日常の実空間における取引においてまで電子マネーが頻繁に用いら
れるようになるのは、(そうなるとしても)かなり将来のことになると予想される。これ
に対して、電子商取引の場合には、電子商取引が可能な状態にあるということ自体がほぼ
電子マネーが使用可能な条件が満たされているのに近いために、インフラ整備の困難は相
対的に少なく、電子マネーの普及は急速に進む可能性がある。
したがって、当面は、実空間取引においては現金、電子商取引においては電子マネーと
いった棲み分けが生じるとともに、既に利用にかかわるインフラが整備されているクレジ
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ット・カードについては両者において使用されると見込まれる。とくに電子商取引を通じ
るデジタル財の取引については、微小額の取引にも使えるという特性から電子マネーがも
っぱら利用されるようになる公算が大きい。
シニョレッジの帰着
それでは、電子マネーと既存のもう1つのマネーである預金との代替は、どの程度予想
されることになるだろうか。ここでいう電子マネーが、既存の預金に対するアクセスを改
善したタイプのものであるならば、こうして設問はほとんど意味をなさない。それゆえ、
利用者の手元にある媒体(ICカードなど)の中のデータに価値が貯蔵されているタイプ
の電子マネー、いわゆるストアドバリュー型の電子マネーを念頭に置いて考えてみよう。
こうした電子マネーの利点がもっぱら支払い手段としての特性に限られ、金利が支払わ
れる(付利)といった便益が伴わないのであれば、代替はきわめて限られよう。すなわち、
残高ベースで既存の預金からこうした電子マネーへの資金シフトは、ほとんど生じるとは
考えられない。この場合、電子マネーが、小口にとどまらず、大口の支払いあるいは送金
手段として頻繁に使われるほどにまで普及したとしても、受け取った直後に利子の付く預
金(あるいは、他の収益性資産)に変換され、残高ベースでの電子マネー保有額が著増す
ることはないと予想される。
この結論は、電子マネーと既存の預金との間の交換は容易かつほとんど無コストで可能
なはずだという前提をおけば、人々の経済合理的(利益追求的)な行動の結果として導か
れるはずのものである。そして、既存の預金との間の交換が容易ではない、あるいは無視
できないコストがかかるような電子マネーは(支払い手段として不便すぎるので)普及す
るはずがないから、この前提は妥当なはずである。
この場合にも、現在付利の行われていない当座預金は消滅するかもしれない。当座預金
口座を開いて小切手を使うよりも、電子マネーを使う方が(その他のコストを考慮しても)
便利であれば、当座預金は使われなくなろう。しかし、そうなっても、当座預金の資金は、
他の利子の付く預金や他の収益性資産にシフトするのであって、電子マネーの形態でもた
れ続けるわけではない。
換言すると、既存の預金残高を侵食する形で、電子マネーの保有残高が増えるのは、実
質的に電子マネーに付利が行われる場合に限られる。すなわち、電子マネーに付利される
場合には、ある程度の規模で既存の預金を代替することは十分に考えられる。けれども、
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付利される電子マネーの登場は、ほとんどの面で既存の預金よりも商品性の優れた新型預
金が登場したということにほかならない。
このようにほぼ全面的に商品性の優れた新型預金(付利される電子マネー)に既存預金
から資金シフトが生じても、それは別に驚くべきことでもなければ、困ることでもない。
というのは、例えていえば、白黒TVにひけをとらない価格でカラーTVが発売されるよ
うになれば、皆がカラーTVを買うようになり、白黒TVを買う人がいなくなるというの
と、本質的に同じ事態が起きるということにほかならないからである。
ところで、しばしば電子マネーの発行には無視し得ない額のシニョレッジ(通貨発行益)
が伴うので、それが誘因になって電子マネーの過剰発行が生じるのではないかという懸念
が表明されることがある。しかし、上で議論してきたことを踏まえると、こうした懸念は
かなりの程度に杞憂であると思われる。換言すると、こうした懸念は、発行サイド(供給
側)の事情だけを考慮したもので、利用サイド(需要側)の事情を無視している。
経済学的推論の基本は、需要と供給のバランスを考えることである。供給側がいくら供
給を増やそうと思っても、需要がついてこなければ、供給増は実現し得ない。電子マネー
の場合も、シニョレッジの獲得を目指して発行体が供給を増やそうとしても、電子マネー
に対する需要が無限に存在するわけではない。いまでも、現金に対する需要は無制限では
ない。すなわち、現金保有額が一定以上になると、超過分は収益性資産に転換される。
既述のように、電子マネーに付利されない限り、残高でみた電子マネー保有量はごく限
られたものにとどまると推論される。すなわち、電子マネーの場合も、手元の保有額が一
定以上になると、人々はそれを他の収益性資産に転換しようとするはずである。したがっ
て、電子マネー発行体が大量発行を試みても、その電子マネーの大半は発行体に直に還流
してきて、発行体は還流分に見合う支払い(払い戻し)を求められることになろう。
電子マネーを見合いに電子マネー発行体が貸出を行う、あるいは電子マネー発行体が電
子マネーで支払う形で実物資産を取得する(物を買う)といったケースを考えても、供給
された電子マネーの大半は発行体に直に還流してくる。この意味で、電子マネー発行体が
金融・実物資産の取得を電子マネー発行でファイナンスし続けることはできない。それを
可能とする唯一の方法は、電子マネーに付利することである。
電子マネーに十分な付利がなされ、それが金融資産としてみても魅力的なものとみなせ
るならば、人々はそれを保有し続けようとするであろう。人々が電子マネーを残高として
保有するならば、電子マネー発行体は還流しない分を金融・実物資産の取得に使うことが
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できる。しかし、このとき電子マネー発行体はシニョレッジを専有することはできなくな
る。すなわち、シニョレッジは、付利を通じて保有者に移転することになる。
シニョレッジは、貨幣発行のコストとそれによって得られた資金の運用益の差である。
そこそこの運用益が見込まれるとしても、付利の必要によって貨幣発行のコストが上昇す
れば、シニョレッジは減少する。そして、電子マネーの保有を拡大するためには、保有者
により大きな利益を提供しなければならない。それゆえ、電子マネーの発行には無視し得
ない額のシニョレッジが伴うという考え方自体が疑問である。
とくに、電子マネーの発行に関して競争制限につながるような参入規制が行われていな
い場合を考えると、電子マネー発行体が得られるシニョレッジはゼロに近づくと予想され
る。なぜならば、電子マネー発行体が超過利潤を得ている限り、新規参入が発生し、それ
による供給増が超過利潤を消滅させる方向に作用するはずだからである。このとき、シニ
ョレッジは、利用者にすべて帰着することになる。
それでは、電子マネー発行体が、大量の電子マネーを発行して資金を集めた後、姿を消
すといった可能性はどうか。もちろん、そうした可能性がないとまでは断言できない。し
かし、そうした形の電子マネーの過剰発行は、シニョレッジ云々とそもそもかかわるもの
ではなく、単なる詐欺事件である。電子マネーといった新たな道具立てが新たな詐欺事件
の可能性を増やすかもしれないと言われれば、確かにそうかもしれない。
3.電子マネーの可能性
国内取引のドル建て化
インターネットの成長は、情報交換に際して国内と海外の区別をほとんど感じさせなく
している。電子商取引が既存の商取引と大きく異なる点は、空間的な制約をほとんど受け
ないというところにある。そのために、電子商取引の商圏は、国民国家のボーダーのうち
に収まらなくなる場合がある。そして、クロスボーダーでの取引が行われるならば、その
決済をいかなる通貨建てで行なうかという問題が生じる。
もちろん電子商取引といっても、物財が取引対象となっている場合には、その受け渡し
に際して運搬といった問題が生じるために、クロスボーダー取引になっても、既存の輸出
入の際と事情が大きく異なってくるとは思われない。しかし、ネット上で受け渡し自体が
行なえるデジタル財(ソフトウェアやデータなど)が取引対象となっている場合には、ま
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ったく国境の概念が意味をもたなくなる可能性も否定できない。
いずれにせよ、電子商取引の商圏が1国民国家の範囲を超えて拡大してくれば、取引を
決済する通貨の単位をどうするかは、各国の通貨主権とも関連した深刻な問題となる。さ
らに、もし支払いが電子マネーを用いてネット上で行われるようになれば、その電子マネ
ーの単位としてはどのようなもの採用されることになろうか。この点の帰趨いかんによっ
ては、電子マネーの登場は、既存の経済秩序に変容をもたらすかもしれない。
取引圏に複数の国家が含まれる場合に、選択肢としては、そのいずれかの国の通貨単位
を使うか、いずれの単位とも異なる新たな通貨単位を使うというのが論理的には考えられ
る。後者の場合としては、複数通貨のバスケットと価値が連動するような人工的な単位が
考えられる。かつてのECU(欧州通貨単位)は、ヨーロッパ主要各国の通貨を一定割合
でバスケットにしたものと価値が連動する通貨単位であった。
しかし私見では、そうした可能性よりも、いずれかの国の通貨単位が使われるようにな
る可能性の方が高いと思われる。この判断は、電子商取引の舞台となるインターネットの
性格をいかに捉えるかということと不可分のものである。通常、インターネットのような
サイバー・スペースは、コスモポリタン的な経済活動の場であるように理解されがちであ
る。しかし、実情は本当にそうであろうか。
実際のインターネットは、むしろ米国経済圏の外延的延長であるとみられるような側面
が強いのではないか。それは、インターネットの出自やその主要技術を米国企業が押さえ
ているといったことからも推察されることである。米国政府の政策方針も、そうした方向
を目指すものとなっている。もしこのような見方が正しいとすれば、クロスボーダーの電
子商取引の決済の際の通貨単位は、ドルという特定国通貨単位になる公算が大きい。
こうしたことから、インターネットの普及とともに、英語がますます事実上の世界共通
語の地位を固めたように、クロスボーダーの電子商取引の拡大とともに、ドルの事実上の
世界共通通貨化が加速されると予想できる。いわば、世界的なドル化(dallarization)の進
展である。しかも、そうした傾向が進展すれば、クロスボーダー取引の場合だけではなく、
国内取引においてもドル建てで決済が行われる可能性が生まれる。
日本国内に居住していても、定期的に海外から財・サービスをドル建てで購入している
者にとって、もしドル建てで収入を得る機会があれば、それを円転しないことがむしろ為
替リスクを回避することになる。電子商取引による空間的制約を超えた商圏の拡大は、こ
うしたケースに該当する者の数を増大させることになる。そして、国内の取引主体のかな
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りの部分がドルを保有するようになれば、それらの間の取引もドル建てで行うことにとも
なう不都合は存在しなくなる。
通貨の利便性は、経済学者がネットワーク外部性(network externality)と呼ぶ特性をもっ
ている。すなわち、それを用いる人が多ければ多いほど、それを使う利便性は高くなる(逆
は逆)という特性である。これまで国内でドルをもっていても、使う機会がほとんどない
ことから、大抵の人はドルをもとうとはしなかった。そして、ドルを皆がもとうとはしな
いから、使う機会が生まれず、日本国内でのドルの利便性は低いままだった。
国内でのドルの利便性が高まるためには、上記の循環が逆方向に大きく回転し始めなけ
ればならない。こうした逆転の契機は、従来は生まれようがなかった。ところが、電子商
取引による空間的制約を超えた商圏の拡大と電子マネーの登場は、逆転が始まる契機にな
り得るものである。別に海外旅行に出かけなくても、自宅のPCの前に坐れば、ドルで買
い物をする機会がふんだんに開かれるようになってきているのである。
このようにして国内取引の一定部分にドルが用いられるようになれば、輸出入にドルを
使うというのとはかなり違う話になる。すなわち、米国以外の国にとって、自国の経済活
動の一部が実質的にドル圏に属するようになるのだから、通貨主権の希薄化とでも言うべ
き事態が生じることになる。
もっとも、この場合に、金融政策の効果についても同様の希薄化が生じるかどうかは定
かではない。というのは、例えば日本の政府・中央銀行が円の金利を引き上げるような(金
融引き締め)政策をとれば、その効果は、円とドルの為替レートの変化(具体的には、円
高・ドル安)を引き起こすことを通じて、ドル建て経済圏にも影響を及ぼすからである。
それでも、円建て経済圏が縮小し、その分ドル建て経済圏が拡大する度合がはなはだしく
なれば、「小国」となった円建て経済圏がますます「大国」となったドル建て経済圏に影
響を与えることが急速に難しくなることは疑いない。
しかし、こうした経済的含意があるとしても、国内取引のドル建て化が国民の自発的な
選択の結果としてのものであるならば、問題視する必要があるのだろうか。こうした選択
は個別には最適化を追求した結果のものであっても、社会全体の観点からは不都合をもた
らすことにつながるような、何かの問題が存在すると言えるのだろうか。
例えば、日常的には便利であるとしても、国民国家の枠組みがなくならない限り、ドル
の金融政策に直接かかわる権限のない日本人がドルを保有することのリスクが過小に評価
されているのではないかといった疑問が浮かぶ。こうした点は、電子商取引と電子マネー
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の発展のかなたに出現するかもしれない新たな経済秩序が規範的にみて現状よりもより望
ましいものかどうかを判断する上で、重要なポイントとなる。
しかし、こうした点をここでこれ以上議論することは、時期尚早であるように思われる。
率直に言って、あまりに多くの可能性が考えられ、それらのいずれが実現していくかをい
ましばらく観察することなく議論を進めようとすると、きわめて空想的な議論しかできな
くなるおそれが強い。したがって、いまのところは、上に述べたような可能性が存在する
ことを確認するだけにとどめることが順当だといえよう。
銀行業の産業組織
既述のように、電子マネーの発行体である「銀行」は、現時点で既に銀行と呼ばれてい
る企業に限られるものではない。電子マネーの発行を契機に新規に参入してくる企業のあ
ることも当然に考えられ、そうした新規参入は、銀行業の産業組織のあり方に変容をもた
らす可能性がある。この面での変容は、一般の利用者からみると大きな変化ではないと思
われるが、既存の銀行にとってはかなりの経済秩序の変化とみなされるかもしれない。
電子マネーの発行体には、財務面の健全性とともに、技術面の高い能力が要請される。
既存の銀行に対しては、かなり厳格な公的規制・監督が加えられており、そうした公的規
制・監督が意図されている効果を発揮するならば、財務面の健全性は確保されよう。しか
し、いかに財務的に健全であったとしても、既存の銀行のすべてが電子マネーの発行体に
相応しい技術力を保有しているとはみられない。
むしろ、技術力の観点からは、現在は電気通信産業に属する企業などの方が電子マネー
の発行に適した経営資源を有している場合が多いと考えられる。したがって、電気通信業
その他の既存の銀行業以外の産業分野からの電子マネー発行事業への進出は、単に予想さ
れるだけでなく、望ましいことともいえる。しかし、そうした進出企業の財務面での健全
性の確保は自動的に保証されるものではない。
われわれは、財務・技術の両面で電子マネーの発行体として適確な企業をいかにして選
別すればよいのだろうか。この点については、基本的に2つのアプローチがありえる。1
つは、電子マネー発行事業への参入を自由に認めて、競争を通じる利用者による選別に委
ねるという方法(自由競争アプローチ)である。もう1つは、公的当局(政府)が一定の
基準をもうけて、参入者を制限するという方法(公的規制アプローチ)である。
お金は、命の次に大事だとされる。それだけ大事なことである以上、利用者は不注意に
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怪しげな発行体の提供する電子マネーを使おうとはしないであろう。財務的な健全性や技
術的能力の劣る企業は、利用者からの信認を得られず、競争に敗退し、退出を余儀なくさ
れるであろう。競争に勝ち残るのは、財務・技術の両面で問題のない優良な企業に限られ
る。これが、自由競争アプローチの基礎にある考え方である。
この考え方は、魅力的である。しかし、最終的には優良な企業だけが生き残るとしても、
それまでの淘汰の過程では、劣悪な企業による甚大な利用者被害が発生するのではないか。
あるいは、利用者が過度の警戒感を抱くことになって、電子マネーの普及がむしろ阻害さ
れるのではないか。利用者が個々の発行企業の内実を正確には知り得ないという情報の非
対称性が存在するので、逆選択が生じ、まさに悪貨が良貨を駆逐するというグレシャムの
法則が支配するような状況になるのではないか、等々の懸念は完全には拭えない。
しかも、もし自由競争アプローチをとるとすると、従来までの銀行規制の枠組みを根本
から変更することになる。こうしたドラスティックな変更が行われることは、少なくとも
わが国についてはとうてい考え難い。それゆえ、実際には公的規制アプローチが採用され
ることになろう。ただし、公的規制アプローチといっても、幅があり、どのような内容の
参入規制が行われるかによって、かなりの状況の違いがもたらされよう。
電子マネーの実体は新型預金であるから、その発行体は銀行にほかならないということ
で、電子マネーの発行には銀行免許の取得を条件にするという形で、参入規制が行われる
としよう。このとき、もし銀行免許の取得要件が既存の銀行と同一のものであるならば、
それはかなり参入抑制的な規制になる。
電子マネーの発行事業に進出しようとする企業は、既存の銀行業務の全体に関心をもっ
ているわけではないはずである。むしろ、伝統的な銀行業務のいくつかは将来性の乏しい
ものであって、そうした業務にかかわることなどまったく念頭にないという可能性が高い。
にもかかわらず、フルラインで銀行業務を行う場合と同じ要件の充足を求めることは、新
規参入を意図する企業に過剰な負担を課すことになりかねない。
したがって、電子マネーの発行に限って銀行業務に進出しようとする場合には、限定的
な銀行免許(いわば電子マネー銀行免許のようなもの)の取得(あるいは、登録だけ)を
求めることにし、その取得条件は過度の負担にならないものにすべきであろう。他方、既
存の銀行免許をもった銀行が電子マネーの発行事業に進出する場合にも、登録等の措置を
求め、適切な技術力を有するかどうかのチェックの機会を確保すべきであろう。
それでは、電子マネー銀行免許の内容と取得要件は、どのようなものであるべきだろう
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か。電子マネーの発行に限って銀行業務に参入するということは、換言すると、貸出のよ
うな運用業務を行なわないということである。したがって、電子マネーの発行の見返りと
して集まった資金については、安全資産の形での保有・運用だけを認めるという内容とな
ろう。危険資産での運用を望むのであれば、普通の銀行免許を取得すべきである。
安全資産の形での保有・運用だけを認めるというのは、電子マネーの発行に実質的に
100%準備を求めるということであるから、それだけで財務的な健全性の確保はほぼ確実な
ものとできる。それゆえ、電子マネー銀行免許の取得要件は、純粋に技術的な面での能力
の適否を問うだけのものでよいと考えられる。そうであれば、免許制でなく、100%準備を
求める運用規制と登録制の組み合わせで十分であるといえるかもしれない。
こうした電子マネー銀行免許を得て電子マネーの発行を行う企業は、経済学では「狭義
銀行(narrow bank)」と呼んでいる種類の銀行となる。狭義銀行の実例に近いものは、現
在の郵便貯金制度である。現在の郵便貯金の資産は、国への預託金であり、安全資産とい
えるものに限定されている。もっとも、近い将来、郵便貯金が全面的な自主運用を行うよ
うになると、危険資産も保有することになり、狭義銀行ではなくなってしまう。
電子マネー専業銀行という形で、国営ではない、民営の狭義銀行が登場すると、銀行業
そのものとそれに対する規制のあり方は徐々にせよ変容を迫られていこう。現在の銀行は、
決済業務と資金仲介業務を兼業している。電子マネー専業銀行は決済業務に特化している。
これらが競争するようになったとき、いずれが優位性をもつことになるだろうか。これは、
決済業務と資金仲介業務の間に範囲の経済が存在するかというのと同じ質問である。
範囲の経済(scope economy)とは、兼業が有利となることを意味している。決済業務と
資金仲介業務の間に範囲の経済が存在すれば、既存の銀行が優位となろう。この場合には、
電子マネー専業銀行も、普通銀行免許の取得を行い、貸出等の資産運用業務に乗り出そう
とすることになろう。しかし、2つの業務の間に範囲の経済がみられないならば、特化に
よる専門化が、電子マネー専業銀行に優位をもたらそう。
私見では、後者の可能性がかなり大きいように思われる。国際クレジット・カード会社
のような決済業務の専業企業が、電子マネーの発行体として有力となってきている現状は、
こうした観測を裏付けているようにみえる。もしこの観測が正しいとすれば、電子マネー
の登場を契機に、決済業務と資金仲介業務の分離(unbundling)が進行し、金融産業のあり
方は大きく再編されていく可能性がある。
そして、実際にこうした方向での再編が進めば、現在のように政府が預金保険制度など
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の形で預金者に手厚いセーフティネット(保護)を提供しているという点の見直しが課題
となってこよう。というのは、100%準備の電子マネー専業銀行は、そうした政府の保護な
しに預金の安全性を確保できるからである。セーフティネットの提供が必要になるのは、
決済業務と資金仲介業務の兼業が不可避なことであるときに限られるのである。
決済システムの分権化
現在の決済(債権‐債務関係の解消)は、現金の受け渡しによるものと預金の移動(口
座引落や振込送金など)によるものがある。財・サービスを購入するなどして、その販売
者に対して債務を負った者は、販売者に債務相当額の現金を引き渡せば、その債務を解消
できる。逆に現金を受け取ることで、販売者の債権は実現され、消滅することになる。こ
うした現金の受け渡しという決済方法は、きわめて利便性の高いものである。
しかし、現金の受け渡しが、いかなる場合にも便利な決済方法というわけではない。受
け渡されるべき金額が巨額に上る、あるいは債権者と債務者が遠隔地にいるといった場合
には、現金の受け渡しは、不便であったり、危険であったりする。そのために、こうした
場合には、預金の移動による決済方法が用いられている。そして、預金を決済手段として
用いることができる背後には、銀行間の決済システムの存在がある。
預金の移動による決済方法では、銀行を利用する者の間の債権‐債務関係を銀行間の債
権‐債務関係に置き換えて決済することになる。例えば、乙に対して債務を負っている甲
が銀行振込によって決済を行う場合を考えてみよう。甲の預金口座のある銀行をA銀行、
乙の預金口座のある銀行をB銀行とする。甲がA銀行で振込手続きを行なった時点で、甲
の預金口座から振込相当額が減額される。その上でA銀行は、B銀行に対して乙の預金口
座に振込相当額の増額を行うように依頼のメッセージを送る。
B銀行が実際に増額を行なった時点で、甲と乙の間の債権‐債務関係は解消する。しか
し同時に、A銀行とB銀行の間で債権‐債務関係が発生することになる。この銀行間の債
権‐債務関係は、それぞれの銀行が中央銀行にもつ預金口座間の振替によって最終的に決
済される。この銀行間の決済を一定期間内のすべての債権‐債務関係をまとめてその差額
分だけについて行う場合を時点ネット決済方式、一件ごとの債権‐債務関係について行う
場合を即時グロス決済方式と呼んでいる。
こうした決済方法が可能であるためには、銀行間で依頼のメッセージを送受信するため
のサブ・システムと銀行間の債権‐債務関係を決済(settlement)するためのサブ・システ
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ムが存在していなければならない。これら2つのサブ・システムをあわせたものが銀行間
の決済システムであり、このシステムを一定水準以上のセキュリティを確保しながら運営
するのに要する費用が、預金の移動による決済のコストということになる。
現在の銀行間の決済システムは、高額の取引が行われることを前提にして設計されてい
るために、確保が意図されているセキュリティ水準も高く、小額の取引に利用する場合に
は、決済コストが割高になる面をもっている。実際、銀行振込の手数料は高いと感じてい
る消費者は多数に上ると思われる。この点で電子マネーは、より安価である代替的な決済
方法を提供するものになると期待される。
電子マネーは、新型預金であると定義したが、その決済手段としての使われ方は、上述
したような既存の預金の使われ方よりも、現金のそれに近い。すなわち、電子マネーは、
利用者間で直接に受け渡しされる。しかも、電子マネーの実体は、デジタル・データであ
るから、多額であってもかさばるということはない。また、ネットワーク型の電子マネー
であれば、インターネット等を通じて遠隔地間でも即座に受け渡しができる。
このように電子マネーは、決済手段としての現金のもつ欠点を克服しているものである。
それゆえ、電子マネーの運営費用が低額にとどまるならば、電子マネーの出現は、既存の
銀行間の決済システムを不用なものとしてしまう可能性がある。そして、既存の銀行間の
決済システムを通じる決済が、電子マネーを使ったそれによって大きく代替されていくな
らば、経済全体としてみた決済のあり方は分権化することになる。
既存の銀行間の決済システムは、利用者‐銀行‐中央銀行という階層構造をもち、メッ
セージ交換と settlement の両サブ・システムについてセンターが存在するという意味で、集
権的な性格のものである。銀行間のメッセージ交換は、A銀行とB銀行の間で直接行われ
るのではなく、センターを経由する(即ち、 A銀行→センター、センター→B銀行という)
形で行われる。銀行間の決済を行うのは、中央(central)銀行というセンターである。
これに対して電子マネーの場合には、利用者間での直接に受け渡され、センターを経由
する必要はない。もちろん、電子マネーの提供体制全体を考えたときには、センターが一
切必要ないということではない。現金の場合も、受け渡しは利用者が直接に行うとしても、
その提供体制は中央銀行というセンターの存在を前提にしている。しかし、それでも電子
マネーは、センターに依存する度合が低いという意味で、より分権的な性格が強い。
この点で、普及する電子マネーがクローズド・ループ型のものであるか、オープン・ル
ープ型のものであるかは、分権的な度合の大きな違いにつながるものである。
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クローズド・ループ型であれば、電子マネーの流通は、発行体→甲、甲→乙、乙→発行
体といった形になり、利用者間で一度受け渡しが行われた後は、再び発行体に電子マネー
は還流する。他方、オープン・ループ型であれば、電子マネーの流通は、発行体→甲、甲
→乙、乙→丙、丙→ … という形になり得て、電子マネーは転々流通していく可能性があ
る。明らかに前者の場合には、分権的な性格は著しく限られている。
この意味で、同じ電子マネーの普及といっても、次の2つの場合には大きな違いがある。
1つは、既存の銀行が提供主体の中心を占め、クローズド・ループ型の電子マネーが普及
する場合であり、もう1つは、新規参入する電子マネー専業銀行が提供主体の中心を占め、
オープン・ループ型の電子マネーが普及する場合である。前者であれば、経済秩序の変容
に最もつながりにくく、後者であれば、つながる可能性が高いといえる。
集権型のシステムは、センターが機能不全になれば、システム全体が機能不能に陥ると
いうリスクをかかえている。実際にはセンターを二重化するなどして、この種のリスクを
低減する努力がなされている。しかし、集権型のシステム構成をとる限り、本質的にこの
種のリスクから逃れることはできない。これに対して分権型のシステムには、一部が機能
停止しても、他の部分が生き残って機能を維持していけるという長所がある。
経済活動の高度化・複雑化を反映して、近年、決済ボリュームは(額、件数ともに)著
増傾向を示しており、集権型のシステムを採用し続けることに伴うリスクも同じく増大し
ているとみられる。それゆえ、電子マネーが普及し、決済システムの集権度が下がり、分
権的な要素が導入されることは、全面的システム・ダウンのリスクを回避するという観点
からは、社会的にも望ましいといえよう。
もちろん、分権的に決済が行なえるということには、マネー・ロンダリングや脱税等の
違法行為がやり易くなるといったデメリットも考えられるが、そうした点だけを強調する
のではなく、上記のような利点があることも正しく認識されるべきである。
4.おわりに
本稿では、電子マネーを直接に(あるいはほとんど払い戻しの手間を感じることなく)
支払いに用いることができる新型預金(銀行負債の進化形態)と位置付けて、その出現の
インパクトについて考察した。この位置付けから、電子マネーは法律によって強制通用力
を与えられたものでもなければ、兌換を拒絶し得るものでもないないことが分かる。マネ
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ーという言葉に幻惑されて、こうした基本的な点を見失ってはいけない。
電子マネーが民間企業によって発行されるものである以上、その保有は利用者の自発的
な意思に委ねられている。利用者が保有しようと欲する額を越えて電子マネーの発行が行
われても、超過分は直ちに発行体に兌換(現金その他への交換)を求めて還流する。この
ことを考えると、詐欺的なものを別とすれば、電子マネーの過剰発行(とそれに伴うイン
フレーション)に関する懸念はほとんど杞憂に近いとみられる。
かつて米国で各民間銀行に自由に独自の銀行券の発行が認められていた頃(19 世紀中の
フリー・バンキング時代)、兌換請求を免れるために、山猫しか通わないような辺鄙なと
ころに店舗を構えて営業する銀行が出現したといわれる。しかし、こうしたいわゆる山猫
銀行(wildcat bank)の発行する銀行券は、銀行券の交換市場でしかるべきディスカウント
を受けて流通し、それによって大きな混乱が生じることはなかった。
過剰発行はなくても、もちろん電子マネーの出現によって、それ以外の面で経済秩序に
無視し得ない変化がもたらされる可能性はある。本稿では、そのうちの3つの可能性をと
りあげて検討した。1つは、電子マネーの出現(を一部とした電子商取引の国境を超えた
拡大)によってドルの世界通貨化が一層促進され、米国以外の国々の通貨主権が後退する
かもしれないという可能性である。残りの2つは、それぞれ銀行業の産業組織と決済シス
テムの構造に変化が生じ得るという可能性である。
前者の変化は、国民国家の主権を至高のものとみなす立場からはもちろん、通常の安全
保障上の見地からも、およそ由々しきことと考えられるだろう。ただし、この変化を経済
的な次元に限って考えたときに、果たして望ましくないと断言できるかどうかは、定かで
はない。少なくとも、通貨当局の間で競争が強まり、各国通貨当局がドルに負けないよう
に自国通貨の利便性を向上させるように強いられることは、通貨の利用者である国民にと
っては好ましいことであろう。
後二者の変化は、より明らかに望ましい方向への進化であるとみなせる。既存の銀行組
織や決済システムのあり方に既得権益をもっている者以外にとっては、銀行業に新たな競
争が持ち込まれ、分業体制が再編されることや、決済システムの集権化に歯止めが掛かる
ことは、デメリットよりもメリットの方が大きいと考えられる。
しかし、これらの変化は生じるとしても、それまでにはいましばらくの時間を必要とし
よう。電子マネーの出現とともに、明日にも大きな変化が惹起されるというのは、大袈裟
にすぎる。もちろん情報化社会の特質は、そのスピードの早さにある。まだまだと思って
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いたのが、急激に実現されるという例は情報化・電子化関連では枚挙に暇がない。この意
味では、これまでの常識のままに、鷹揚に構えていることはできない。
確かにそうであるとしても、電子マネーが世界を変えるまでには、われわれがその可能
性について考えを深める程度の時間的余裕は残されていよう。あせって思慮なく飛び出す
必要はない。少なくとも考えながら、走ろうではないか。
以上。
[付記]本稿の作成にあたっては、日本銀行における「電子決済技術と金融政策運営
との関連を考えるフォーラム」の第4回会合(1998 年 5 月)での報告と討論がきわめ
て有益であった。その報告を準備する過程では、日本銀行金融研究所の谷口文一、川
本卓司両氏を中心に支援をいただいたので、記して感謝したい。ただし、言うまでも
なく、残された誤りを含めて本稿の内容に関しては、筆者にのみ責任がある。
参考文献
木下信行・日向野幹也・木寅潤一『電子決済と銀行の進化』日本経済新聞社、1997 年。
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