き ょ う ど し り ょ う 岩手県立図書館 子ども向け 郷土資料 vol.3 の む ら こ ど う 野村 胡堂 きょうど 「 郷 土 」の ことをたくさん 知ろう! きょうど 「 郷 土 」とは 生まれ育った ふるさとの こと! そんなことないよ! 昔の人のことなんか 昔があるから今があるんだ。 知らなくても 大事な事なんだよ!! よくない?! ブラリー そめちゃん 1 2 3 4 それはね… ポストン 大人の話は むずかしいので わたし 私 たち子ども向けの しりょう 資 料 を作ったよ♪ いっしょ 一 緒 に見ていこう! 目 次 のむら こどう 野村 胡堂 ってどんな人? 1 たんじょうから少年時代まで 2 こどう 胡堂の青春 ~文学となかまたち~ 3 ちゅうたい 大学を 中 退 し新聞記者へ ぜ に が た へ い じ とりもの ひかえ 4 たんじょう 代表作『銭形平次 捕物 控 』の 誕 生 こどう 5 いんたい 胡堂 、 作 家 生 活 を 引退 こどう しょうがい ささ 8 ふじん 胡堂 を 生 涯 支 え た ハ ナ 夫人 9 のむらこどう もっと野村胡堂を知ってみよう 10 のむらこどう ★すごろく★野村胡堂・あらえびすのかつやく のむらこどう 野村胡堂年表 17 さんこうしりょう 参考資料 19 きょうりょく 協 12 力 21 0 のむらこどう 野村胡堂ってどんな人? の む ら こ ど う 野村胡堂 明治 15 年(1882) -昭和 38 年(1963) しょうせつ おさかず 大正・昭和時代の 小 説 家。本名は野村長一。 し わ ぐ ん おおまき げんざい し ひこべ わ 紫波郡大巻村(現在の紫波町彦部)生まれ。 めいじ ほうち 明治45 年報知新聞社に入社。記者から作家と かつやく ぜ に が た へ い じ とりもの ひかえ のむらこどう なり活躍する。代表作「銭形平次捕物 控 」は かん きねんかん (提供:野村胡堂・あらえびす記念館) つづ へん 人気となり、50巻383編まで 26 年間続いた。また、「あらえびす」のペン ひょうろん かつやく き く ち かんしょうじゅしょう ネームで音楽 評 論 家としても活躍。昭和 33 年菊池寛 賞 受 賞 。昭和 34 年 し わ え い よ ちょうみん し じ ゅ ほうしょうじゅしょう に紫波町第一号の栄誉 町 民 となる。昭和 35 年紫綬 褒 章 受 章 。昭和 38 年 し ざ い やく おく しほん がくげいざいだん せつりつ はいえん 2 月、私財約1億円を資本に野村学芸財団を設立。同年 4 月肺炎により 80 な じゅ い くん ずいほうしょう おく 才で亡くなる。死後、従四位勲三等瑞 宝 章 を贈られる。 し わ の む ら こ ど う きねん 紫波町に「野村胡堂・あらえびす記念館」がある。 大正~昭和時代に かつやく しょうせつ 小説家 し わ 岩手県紫波町 ぜ に がた へいじ とりものひかえ 「銭形平次捕物 控 」 出身 の作者 ひょうろん こ ど う 音楽評論家 「胡堂」は 「あらえびす」 ペンネーム としてもかつやく 本名は長一 おさかず 1 たんじょうから少年時代まで のむらこどう めいじ ちほう せ い じ か 野村胡堂は明治15 年(1882)10 月 15 日、地方政治家をしていた の む らち ょう しろ う な 野村長四郎の次男として生まれました。長男が早くに亡くなったため、 おさかず な づ 次男ですが「長一」と名付けられ、長男として育てられました。 の む ら け え ど ころ つづ 野村家 は江戸 の 頃 から続 くと言われ る の む ら こ ど う 野村胡堂が生まれた家 ちいき めいか 地域の名家で、大きな農家でした。父の ちょうしろう しんぼう あつ 長四郎は村人からの信望が厚く、32 才で ひ こ べ むら じょやく へ 彦部村助役となり、長岡村の村長を経て ひ こ べ むらそんちょう つ 44 才で彦部村 村 長 に就きました。 のむらこどう きねんかん (提供:野村胡堂・あらえびす記念館) い わ て け ん し わ ぐ ん この時代の岩手県紫波郡 どんなところ? こどう し わ ぐ ん おおまき げんざい し わ ひこべ 胡堂の生まれた岩手県紫波郡大巻村(現在の紫波町彦部)は、 さん きょ ち みんか ふうけい ひろ でんえん 散居(散らばって民家があること)の風景が広 がる、のどかな田園 ちたい いちのせき 地帯でした。当時の岩手は鉄道(東北本線)が上野から 一 関 まで 走っていましたが、電気はまだひかれていませんでした。 本好きだった少年時代 めいじ こどう ひ こ べ じんじょう こどう 明治22 年胡堂が 7 才のとき、 彦部 尋 常 小学校に入学します。父が読書家だったため、胡堂 こどう は小さいときから本に親しみます。いじめられっ子だった胡堂は、高学年になったある日、 いってん 帰り道で読んだ本を、いじめっ子たちに面白おかしく語って聞かせます。すると、一転し そんざい さんごくし はっけんでん すいこでん よしつね い ち だ い き て一目おかれる存在になりました。 『三国志』や『八犬伝』、 『水滸伝』、 『義経一代記』など たくさんの本を読んでいたことが、胡堂を救ったのです。 みんなは読んだことあるかな!? 2 こどう 胡堂の青春 ~文学となかまたち~ のむらこどう 野村胡堂が 14 才のときに入学した もりおか 学校が「岩手県立盛岡中学校」。 20 才で東京に出るまで、なかまたちと いっしょに学びました。 の む ら こ ど う 学生時代の野村胡堂 のむらこどう きねんかん (提供:野村胡堂・あらえびす記念館) もりおか ★岩手県立盛岡中学校はこんな学校!★ こどう じんじょう もりおか 胡堂が入学したころは「岩手県 尋 常 中学校」でした。明治 34 年から「岩手県立盛岡中 ゆいいつ 学校」になりました。当時、県で唯一の中学校でした。 げんざい もりおかだいいちこうとうがっこう 現在の名前は「岩手県立盛岡第一高等学校」です。 文学をたくさん学んだ学生時代 こ ど う もりおか かんがく い か わ じゅく 胡堂は盛岡の名物塾である猪川 塾 に入学し、漢学(中国の学 とりょうぎんしゃ は い く 問)を勉強します。また、「杜陵吟社」という俳句グループを同 こどう けっせい はいく 級生・仲間と結成し、活発に活動しました。また、胡堂は俳句だ しょうせつ ころ けでなく 小 説 もこの頃に書いていました。 ★ なかまたちも有名人!★ 米内光政 金田一 京 助 【1880–1948】 【1882–1971】 かいぐんたいしょう いしかわ た く ぼ く き ん だ い ち きょう すけ よ な い みつまさ 石川 木 【1886–1912】 はじめ 海軍 大 将 ・首相。 同級生。アイヌ文学研究 もりおか 家・言語学者。学生時代は こどう 盛岡 中学では胡堂 の せんぱい しょうがいしんらい 先輩で、生 涯 信頼し なか あった仲でした。 かめい 花明と号して短歌のリー しゅうせい こ ど う ダーだった。 終 生 胡堂と どうし は親友同士でした。 た こ いち みん しゅうぎいん ぎちょう 本名 一 。文学者・詩 もりおか 人。盛岡中学時代から こどう 胡堂と友人でしたが、 こどう 上京後、たびたび胡堂 の世話になりました。 ごう こきよし みつびし じゅうこうぎょう そうすい こ の ほ か に も 同 級 生 に 田子 一 民 ( 後 に 衆議院 議長 ) 、 郷 古潔 ( 三菱 重 工 業 総帥 ) 、 おいかわこしろう かいぐん たいしょう いたがきせいしろう りくぐん たいしょう はらほう きん とおる はらたかし おい 及川古志郎(海軍 大 将 )、板垣征四郎(陸軍 大 将 )、上級生に原抱琴(本名: 達 、原 敬 の甥)、 などがいました。胡堂の卒業後は宮沢賢治(童話作家)も入学しています。 3 ちゅうたい 大学を 中 退 し新聞記者へ もりおか そつぎょう こどう へ めいじ 盛岡中学を 卒 業 後胡堂は上京し、第一高等学校を経て、明治40 年、25 才のとき、 ていこく ほう めいじ ちょう し ろ う 東京帝国大学法学科に入学にします。しかし明治43 年、村長をしていた父 長 四郎が しんこう しっぱい せきにん たがく しゃっきん せ お な 村の振興事業に失敗し、その責任をとって多額の 借 金 を背負います。さらに父が亡 がくひ こどう ちゅうたい くなったため学費を工面できず、胡堂は大学を 中 退 することとなります。 や さが こどう めいじ 大学を辞め仕事を探していた胡堂は明治45 年 30 もりおか しょうぞう 才のとき、盛岡中学時代の友人安村 省 三 の紹介で、 ほうちしゃ ほ う ち しんぶんしゃ 報知社(後の報知新聞社)に入社しました。入社後 こどう ねば づよ の胡堂は持ち前の粘 り強 さと真面目さでぐんぐん ち い 地位を上げていきます。 こ ど う はじめて「野村胡堂」のペンネームを使ったのは… ひょうろん じんるい こどう せいじ 人物評論「人類館」 ほうち 報知 新 聞 に 入 社 し た 胡堂 は 政治 部 記 者 と な り 、 当 時 の せ い じ か しゅざい 政治家たちをたくさん取材しました。大正 3 年 32 才のとき、 ほうち せいじ ひょうろん じんるい れんさい はじ 報知新聞政治面に人物 評 論 「人類館」を連載し、そこで初め こどう て「胡堂」のペンネームを使いました。 じんるい れんさいしゅうりょう しゅっぱん こどう 「人類館」は連載 終 了 後一冊の本にまとめて 出 版 され、胡堂 はじ ちょさく にとって初めての著作となりました。しかし、思ったままに歯 きぬ ないよう かんけい くじょう さっとう に衣着せず書いた内容に関係者から苦情が殺到し、この後会社 めいれい こどう きん 命令で胡堂の名前で記事を書くことを禁じられてしまいます。 じけん こどう にが けいけん この事件は胡堂にとって苦い経験となりました 取材した有名人の中 が、学んだこともありました。取材のため当時の には岩手出身の 政治 有名人にたくさん会いにいったことが、小説を書 にんげんぞう つちか くときの「百人百様の人間像を書きわける力を 培 うことにつながった」と後に話しています。 4 せいじ はらたかし ご と う しんぺい 家・ 原 敬 や後藤 新平 などもいたよ! ぜ に が た へ い じ と り も の ひかえ たんじょう 代表作『銭形平次捕物 控 』の誕生 じんるい こどう れんさいしょうせつ 「人類館」から 8 年後、胡堂は連載 小 説 を書くよう会社から命じられ、 『二万年前』 しょうせつ ほうち れんさい という空想科学 小 説 を大正 11 年報知新聞に連載します。その後、『奇談クラブ』を ごろ ほんかくてき 連載した昭和 2 年頃から本格的に作家として活動し、昭和 6 年には代表作となる ぜ に が た へ い じ とりものひかえ れんさい 『銭形平次捕物 控 』の連載がスタートします。 こどう 胡堂が書いた 初めての しょうせつ 小 説 だね! しょうせつ SF小説『二万年前』 さいみんじゅつ 催 眠 術 をかけられた主人公が二万年 さ い のこ 前の地球で目を覚まし、生き残りをか たたか く ひろ ちょうへん けて 戦 いを繰り広げる SF 長 篇 。 しょうせつ ぜ に が た へ い じ と り も の ひかえ ベストセラーとなった時代小説『銭形平次捕物 控 』 こどう ざっし そうかん へんしゅう 昭和 6 年、胡堂49才の時、雑誌『オール読物』を創刊するとき 編 集 長から、 おかもときどう はんしちとりものちょう ほ いらい 当時人気だった「岡本綺堂の『半七 捕 物 帳 』のようなものを書いて欲しい」と依頼 ぜ に が た へ い じ とりものひかえ れんさい ぜにがたへいじ され、誕生したのが『銭形平次捕物 控 』です。雑誌連載後、 「銭形平次」はたちま こどう ち人気が出て、同年 11 月には映画化もされました。胡堂は売れっ子作家となり、 ぜにがたへい じ つ 「銭形平次」シリーズは 26 年間にわたり書き継がれるベストセラーとなりました。 まちぶぎょう 町奉行 ぜ に が た へ い じ と り も の ひかえ え 『銭形平次捕物 控 』 おか ぴき 主人公は岡っ引の平次。手下の ろう え ど ど し ほう けいさつ ぶたい みんせいぜんぱん など民政全般をつかさどった 八 五 郎 と と も に 江戸 を 舞台 に なんじけん ぎょうせい 江戸の町方の司法・警察・行 政 部下 かいけつ 難事件を解決するお話です。 よ り き 与力 おか ぴき べつめい 部下 ごよう 【岡っ引】は別名、御用聞き・ めあか まちぶぎょう ぞく 目明しともいうよ。町奉行に属し よりき はんざい 同心 そうさ た与力・同心の下で、犯罪の捜査 はんにん 部下 たいほ や犯人の逮捕にあたった人のこ おか とです。 ぴき 岡っ引 5 ぜ に が た へ い じ と り も の ひかえ 『銭形平次捕物 控 』のひみつ こんじき おとめ ざっし けいさい さいしゅう てっぽう ●昭和 6 年 4 月号に第 1 作「金色の処女」を雑誌に掲載してから、昭和 32 年 最 終 回「鉄砲 つ あい の音」まで 26 年間にわたり書き継がれ、50 巻 383 話も発表されました。多くの人に愛さ えいが れ、映画・ドラマ化もたくさんされました。 こどう とりもの とくちょう かんたん ざいにん しょみん あいじょう さむらい ●胡堂の捕物帳の 特 徴 は、簡単に罪人を作らず、町人(庶民)に 愛 情 を持ち、 侍 や遊び人は てってい ばっ ゆる とりもの 徹底してやっつける。そして、人を罰するのではなく、すべての人を許す明るい捕物帳で はんにん に あることです。そのため、平次は時に犯人を逃がしてやることもありました。 へい じ ぶ き な せん せん ぶ き ぜに ●平次の武器は投げ銭(銭はお金のこと)。武器の代わりに銭をパッと悪人に投げつける、こ で ん き しょうせつ すいこでん え れは中国の伝奇 小 説 『水滸伝』からヒントを得ました。 のむらこどうちょ こどう ぜにがたへいじ たんじょう (野村胡堂著『胡堂百話』「銭形平次」 誕 生 (二)より) ご よ う き う …だが、ただの御用聞きでは、芸がない。いろいろ考えているうちに、ふと浮か すいこでん ぼ つ う せ ん ちょうせい んだのが水滸伝である。…そのとき、没羽箭 張 清が頭にうかんだ。百八人のそのう つね にしき ふくろ こし ちでも、小石を投げる名人で、常に 錦 の 袋 に入れて腰にさげ、エイッと投げれば よ き てき たいしょう あ り き 百発百中。三万余騎の大軍をひきいた敵の 大 将 、阿里奇さえ、小石一つで落馬させ てしまう。これだ、これだ! たいへい だれ い つ しかし、小石のままでは芸がない。泰平の世に、誰でも何時でも持っているもの ぜに え …となると、銭ということに落ち着かざるを得ない。 ふつう いちもんせん とくがわ うらめん もよう 普通の一文銭なら軽すぎるが、徳川の中期から出来た四文銭。裏面に波の模様の なみせん しろうと わたし あるいわゆる波銭ならば、目方といい、手ごたえといい、素人の 私 が投げてみても、 せんとうりょく てき かんぷう これならば相手の戦 闘 力 を一時的に完封できそうである。 ぜ に が た へ い じ とりものひかえ 『銭形平次捕物 控 』のひみつはエッセ こどう イ『胡堂百話』にくわしく書かれてい え ど ます。『花のお江戸のミステリー』(赤 へん ばっすい 木かん子編 ポプラ社 2001)にも抜粋 の したものが載っているよ。 ぜ に が た へ い じ とりものぜんしゅう 『銭形平次捕物 全 集 』 読んでみてね! 杜陵書院 1949 (岩手県立図書館蔵) 6 の む ら こ ど う しょうせつ ◆ 野村胡堂 小説セレクション ◆ てき しょうせつ しょうかい こどう ここでは代表的な 小 説 を 紹 介 します!胡堂の しょうせつ とりものしょうせつ ぼうけん 小 説 には捕物 小 説 のほかに、子ども向けの冒険 で ん き しょうせつ ものや時代伝奇 小 説 などがあるよ。 がんくつ でん どう 『岩窟の大殿堂』 ざっし 昭和 5~6 年に雑誌『少年世界』 子ども向けの れんさい こどう げんだい ちょうへん に連載 。胡堂 の少年現代 物 長 篇 ぼうけんしょうせつ 冒険 小 説 です。 ぼうけんしょうせつ 冒険 小 説 の第一作。科学者の大発 せっけい かく 明の設計図が隠された暗号を、科 こども だん 学 者 の 子供 た ち と ス パ イ 団 が なぞと こ ど う ぼうけんしょうせつ せん 『野村胡堂冒険 小 説 名作選 第 4 巻』 愛育社 昭和 23 年(1948) ちょうせん ぼうけんしょうせつ 謎解きに挑 戦 する冒険 小 説 。 がり 『美男狩』 ほうち 右から 『スペードの女王』 『大宝窟』 『ロボット城』 (野村胡堂全集 第 1~3 巻) 光文社 昭和 25 年(1950) れんさい 昭和 3 年、報知新聞に連載。加賀 ごうしょうぜにや ご へ え かく ざいほう の豪商銭屋 五 兵衛 が隠 した財宝 なぞ さが を謎 の美女が探 すところからお ぶたい なぞ 話は始まる。やがて舞台 は謎 の おんな あるじ やしき うつ 女 主 が住むお化け屋敷 へと移 こ ど う さいしょ ちょうへん で ん き り … 。 胡堂 最初 の 大 長 編 伝記 しょうせつ 小 説。 がり ようじゅつへん 『美男狩 妖 術 篇 』 高志書房 昭和 23 年(1948) 『三万両五十三次』 ほうち れんさい 昭和 7~8 年、報知新聞に連載。 ばくまつ ぶたい ひみつ 幕末 を舞台 に、秘密 の命を受けた え ど 者たちが江戸から京まで 3 万両と がり いう大金を運ぶお話。『美男狩 』 ぜにがた とりものひかえ 『銭形平次捕物 控 』とこの小説の こどう しょうせつ ヒットにより、胡堂は時代小 説 作 ち い かくりつ 家としての地位を確立しました。 『三万両五十三次 あいぞうへん 第1巻 愛憎篇』 湊書房 昭和 24 年(1949) (全て岩手県立図書館蔵) 7 こ ど う いんたい 胡堂、作家生活を引退 せいりょくてき しっぴつ つづ こどう はくないしょう 精 力 的 に執筆活動を続けてきた胡堂ですが、昭和 29 年 72 才のとき、白 内 障 (目 しゅじゅつ ふたた しゅじゅつ の病気)のため入院し、右目を 手 術 します。次の年、 再 び入院し左目を 手 術 します けいさい てっぽう が、その後も目の病気が悪化し、昭和 32 年、 『オール読物』8月号掲載の「鉄砲の音」 さいご つづ ぜ に が た へ い じ とりものひかえ れんさい しゅうりょう こうせき みと を最後に、長年続けていた『銭形平次捕物 控 』の連載を 終 了 することとなりまし た。 こどう その後、胡堂は長年の功績が認められ、昭和 33 年 き く ち かんしょう じゅしょう し わ さいしょ めいよ に菊池寛 賞 を 受 賞 、昭和 34 年に紫波町最初の名誉 ちょうみん し じ ゅ ほうしょう 町 民 となり、昭和 35 年、紫綬 褒 章 を受けました。 き く ち かんしょう じゅしょう こどう じたく てんとう こっせつ 菊池寛 賞 を受 賞 した数か月後、胡堂は自宅で転倒し、右足を骨折してしまいます。 ひ ぎわ こどう の む ら がくげいざいだん そうせつ 入院中、人生の引き際をどうするか考えていた胡堂は、野村学芸財団を創設し、また、 しょうがい しゅうしゅう きちょう きぞう 生 涯 にわたって 収 集 した貴重なレコードや図書などをたくさん寄贈します。 ぶ かん まい き ●昭和 32 年 1 月、東京都に SP レコード 7 千枚を寄付。 しりょうへんさん こ ど う しゅうしゅう はたもと ぶ かん ●昭和 37 年 12 月、東京大学史料編纂所に胡堂 収 集 の武鑑 え ど え ど さつ え ど しょ 【武鑑】は江戸時代、諸大名・ ふ きぞう し めい け いず 旗本の氏名・系図・住んでい しろ る城などを記した本のこと。 482 冊、江戸切り絵地図 14、江戸期の本 251冊を寄贈。 し わ きねん せつりつ ちょしょおよ きぞう ●昭和 38 年 2 月、紫波町に記念文庫が設立されるに当たり、著書及び 200 万円を寄贈。 わか じんざい いくせい じょせい もくてき しょうがく じょせい ●同じ年、若い人材の育成と新しい文化への助成を目的とし、主に 奨 学 金と研究助成金 きゅうふ の む ら がくげいざいだん そうせつ おく き ふ の給付を行う「野村学芸財団」を創設するため一億円寄付する。 こどう ていこく ほうか そつぎょう 胡堂は東京帝国大学法科大学の学生の時、卒 業 を目前と な じゅぎょうりょう はら しながら、父親が亡くなったことにより 授 業 料 が払え けいけん ず中退しなくてはなりませんでした。その経験から、学 こころざ わかもの しえん ねが のむら 問を 志 す若者を支援したいという願いを持ち、「野村 がくげいざいだん そうせつ 学芸財団」を創設しました。 こどう はいえん な こどう な 昭和 38 年 4 月 14 日、胡堂は肺炎のため 80 才で亡くなりました。胡堂が亡くなった ふじん い し つ ぞうしょ さつあまり 後はハナ夫人がその遺志を継ぎ、蔵書3500 冊 余 を日本近代文学館と岩手県立図書館に、 ぐんしょるいじゅう こ じ る い えん もりおか きぞう 『群 書 類 従 』『古事類苑』を盛岡市立図書館にそれぞれ寄贈しました。 8 こどう しょうがいささ ふじん 胡堂を 生 涯 支えたハナ夫人 ひょうろんか かつやく ベストセラー作家・音楽評論家 として活躍 した こどう かげ ささ 胡堂ですが、そのそばにはいつも陰から支えるハ ふじん ナ夫人の助けがありました。 く な ん ささ 苦難を支えた野村家の太陽 けっこん ちょうしろう しゃっきん せ お まず 2 人の結婚は明治 43 年、父長四郎の 借 金 を背負いながらの貧しい生活からスタート けっこんしき も まい く こま しました。結婚式は、そば屋の 2 階で盛りそば一枚のみ。その日の暮らしに困るような ふじん きぼう 生活でしたが、ハナ夫人は「希望さえあれば びんぼう くつう どんな貧乏も苦痛でない」と野村家を照らす 太陽のように明るく前向きでした。 おっと しゅみ りかい しめ また、 夫 の趣味にも理解を示しました。 こどう しゅうしゅう 胡堂が長年 収 集 したクラシックレコードは こうか 当時とても高価なもので、野村家の家計は ふじん いつも火の車でした。そこで、ハナ夫人は ふぞく きょうし こ ど う 母校日本女子大学の附属高等女学校の教師と はたら 胡堂56 才、ハナ 50 才 十和田旅行 ていきょう の む ら こ ど う きね ん (提供:野村胡堂・あらえびす記念館) ささ なって 働 き、一家の生活を支えました。 こどう ざっし ふうふ 胡堂 は雑誌 記事(夫婦 げんかについて答えるアンケー ふじん けっこん ト)で、ハナ夫人との結婚を次のように話しています。 い くじ 良い籤を引いた けっこん ふうふげんか けいけん な しつもん 結婚してから四十三年になるが、夫婦喧嘩というものをやった経験は無い。ご質問 おう まこと いた に応じかねて、 誠 に相すまぬようであるが、こればかりは致しかたもない。 つか あ くちげんか わたし あま 四十三年もの長い間を掴み合いも口喧嘩もしなかったのは、多分 私 は人間が甘く ろうさい まわ た もっと 出来ており、老妻がズルく立ち廻った為めだろうと思う。 尤 も、仕事のことで、時 いささ こ ご と こう べ え には気むずかしいこともあり、年のせいで、 些 か小言幸兵衛になりかけているが、 ろうさい たく けんか 老妻は巧みにあしらって、決してこれを喧嘩にはさせない。… そ ば けっこん わたしたち かぞ ……四十三年前、もり蕎麦で結婚した 私 達 は、もう、日本流に算えて七十一才に けんか ぶ じ 六十五才だ、喧嘩をせずに来たのは、運がよかったのかも知れない。これから先も無事 へいぼん よせい い くじ に平凡に余生を送るだろう。つまりは良い籤を引いたのだ。 (『キング』昭和 27 年 9 月号) 9 のむらこどう もっと 野村胡堂を知ってみよう のむらこどう 今まで紹介してきたほかにも、野村胡堂を知るための 大切なキーワードがあるんです! とっても大事だから、しっかりおぼえてね。 あらえびすとクラシック音楽 こどう 胡堂と音楽の出会いは上京してからです。東京でクラシ はじ ふ ック音楽に初 めて触 れ、そのとりことなりレコードの しゅうしゅう 収 集 をはじめます。そのコレクションは2万枚にも上り ました。 はじ 初 めて「あらえびす」のペンネームを使ったのは大正 ほうち びじゅつてん 11 年 40 才のとき。報知新聞に音楽会、美術展の記事を 書きました。そして、大正 13 年、あらえびすのペンネー こうきょうきょく しょうかいひひょう ムでベートーヴェン「第九 交 響 曲 」の 紹 介 批評記事を の さいしょ しょうかい ひひょう 書き、これが新聞に載った最初の音楽 紹 介 ・批評記事と なりました。 ひょうろん ばん がくせい レコード 評 論 家として『名曲決定盤』 『楽聖物語』など さつ しゅっぱん いっぱんてき 9冊の本を 出 版 。クラシック音楽がまだ一般的でなかっ た大正から昭和時代にかけて、たくさんの人に音楽の感動 つた を伝えました。 まい かこ 2 万枚の SP レコードに囲まれて こどう じたく (自宅にて) 「あらえびす」という名前の由来は、胡堂の「胡」か ていきょう のむらこどう きねん ( 提 供 :野村胡堂・あらえびす記念館) らきています。 「胡」はえびすとも読み、そこからさら に、やわらかくひらがなで「あらえびす」と名づけま した。 きろく えんばん レコードは音を記録した円盤のこと ちくおんき さいせい で、蓄音機を使って再生します。SP か レコードからLPレコードに変わり、 げんざい 現在はデジタル方式のCD(コンパク か トディスク)へと変わっています。 10 岩手県立図書館「野村文庫」 こどう い し つ ふじん ぞうしょ 昭和 39 年、胡堂の遺志を継いだハナ夫人から、その蔵書の きぞう 一部が岩手県立図書館に寄贈されました。それらを「野村文庫」 いっぱん かんり めいじ として一般図書とは別の棚に置いて管理し、明治20 年代から昭 やく さつ しょぞう 和 30 年代までに出版された本約1,300冊を所蔵しています。 しりょう ないよう れきし でんき き こ う かんけい さつ え ど しりょう 資料の内容は、歴史、伝記、地理、紀行関係が 280冊、江戸資料 およ え ど かんけい さつ めいじ せ い じ およ ばくまつ い し ん しょうせつるい 及び江戸文化関係が 100冊、明治の政治及び幕末、維新 小 説 類 さつ かんけい さつ こてん が 100冊、詩歌関係200冊など、その他古典文学、キリスト教 しりょう てつがくかんけい しゅうしゅう などの宗教関係資料や、哲学関係の本も 収 集 されています。 岩手県立図書館 集 密書庫内にある 「野村文庫」 しゅうみつ し ょ こ 「野村文庫」の本は、岩手県立図書館の中で 読むことができます! け い こ の ば ら 「K子(瓊子)と野薔薇」 めぐ ふさい わか うしな ひげき 4 人の子どもに恵まれた野村夫妻ですが、3 人の子どもを若くして病気で 失 う悲劇に み ま あつ きょうねん かずひこ きょうねん 見舞われます。昭和 2 年に長女淳が病死( 享 年 17 才)、昭和 9 年には長男一彦( 享 年 けいこ わか 21 才)が、昭和 15 年には次女瓊子が 23 才という若さで病死しました。 ちょしょ たの の ば ら けいこ あらえびすの著書『音楽は愉し』の中の「K 子と野薔薇」で、次女の瓊子とシューベ けいこ ルト「野バラ」のレコードとの思い出を書いています。その中であらえびすは、瓊子が な わたし どうこく 亡くなった時のことについて「 私 は声をあげて慟哭(悲しみのあまり大声で泣くこと) うしな しんこく した。この悲しみは、三人の子を 喪 ったものだけが知る深刻なものであった。」と語っ ています。 けいこ しょうがい さいのう はっき つぼみ しおん 次女の瓊子は短い 生 涯 のなかで作家としての才能を発揮し、 『七つの 蕾 』 『紫苑の園』 あいどく さいきん か わ で しょぼうしんしゃ などの小説を残しました。当時の女学生の間で愛読され、最近も 2012 年に河出書房新社 まつだけいこ しんじゅ から『すみれノオト 松田瓊子コレクション』(早川茉莉編)が、2013 年に真珠書院か つぼみ しゅっぱん ら『七つの 蕾 』(パール文庫)が 出 版 されています。 →左から しおん 『紫苑の園』 (美和書院 1956) 『野辺の子等』 (新浪漫社浅田書店 1950) つぼみ 『七つの 蕾 』(中央公論社 1953) まつだけいこ (全て松田瓊子著 岩手県立図書館蔵) 11 の む ら こ ど う ★すごろく★ 野村胡堂・あらえびすのかつやく のむらこどう 野村胡堂のかつやくをすごろく でふり返ってみよう!! だれがいちばんに ゴールできるか な!? スタート しょうせつ 大正 11 年、科学 小 説 大正 11 年(40 才)、 ほうち 「二万年前」を報知新聞 はじ 初めて「あらえびす」の れんさい に連載。 ペンネームで音楽会、 びじゅつてん 美術展の記事を書く。 大正 13 年(42 才)、 へんしゅう 編 集 局相談役になり しっぴつ うつ 主力を執筆活動に移す。 大正 13 年、ベートーヴェン こうきょうきょく 1 つすすむ しょうかい 「第九 交 響 曲 」の 紹 介 ひひょう 批評記事を書く。 の 昭和元年(44 才)、マンガ さいしょ これが新聞に載った最初の しょうかい たろう 絵物語『太郎の旅 ひひょう 音楽 紹 介・批評記事となる。 たんけん 1 つすすむ 昭和 2 年(45 才)、 しょうせつ 昭和 5 年(48 才)、 げっかん ほうち 月刊レコード雑誌 そうかん 『The GRAMOPHIL』を創刊、 かた れんさい 報知新聞に連載。 ざっし えら きだん 小 説 「奇談クラブ」を れんさい 「レコードの選び方」を連載。 12 月世界の かんこう 上・下』を刊行。 昭和 14 年(57 才)、 ちょ あらえびす著『名曲決定盤』 ちゅうおうこうろんしゃ 昭和 19 年(62 才) 昭和 16 年 ばん ぜ に が た へ い じ とりもの 「銭形平次捕物 (1941)第二次 かんこう を中 央 公 論 社 から刊行。 ひかえ 控」 『オール読物』 たいせん 世界大戦起こる い こ う ちゅうだん 4 月号以降 中 断 する。 1 つもどる せんじ 昭和 17 年(60 才)、 戦時中、 とうごう ほうち 新聞統合により報知新聞は 昭和 13 年(56 才)、 がっぺい ぜにがたへい じ とりものひかえ 『銭形平次捕物 控 』 るいけい へん き 読売新聞と合併。これを機に や しっぴつ 新聞社を辞め、執筆活動に たっ 累計100編に達し、 せんねん 専念する。 ぜ に が た へ い じ とりもの 『銭形平次捕物百話』 かん ちゅうおうこうろんしゃ (全 9巻)を中央公論社 かんこう から刊行開始。 昭和 12 年(55 才)、 1つすすむ 『池田大助捕物日記』の とりもの しっぴつ 執筆を始める。 昭和 7 年(50 才)、 ほうち れんさい 「三万両五十三次」を報知新聞に連載。 ぜにがた えいが はなよめ 銭形平次映画化第2作「七人の花嫁」 (日活) 。 ていこく ほう が く ぶ しゅさい 東京帝国大学法学部緑会主催の レコードコンサートを始める。 す 好きな歌の名前を言って、1 つすすむ ぜにがたへい じ え い が 昭和 6 年、銭形平次映画化第1作 ふりそでげん た しょうちく せいさく 「振袖源太」を 松 竹 が制作。 昭和 6 年(49 才)、 ぜ に が た へ い じ とりものひかえ 「銭形平次捕物 控 」第 1 作 こんじき おとめ ざっし ぶんげい 「金色の処女」を雑誌『文芸 しゅんじゅう 春 秋 オール読物号』に発表。 さいしょ 昭和 6 年、あらえびす最初の ちょしょ ちくおんき 著書『蓄音機とレコード』を しゅっぱん 出 版。 1 つすすむ 13 せんそう はげ 昭和 20 年(63 才)、戦争が激しく かるいざわ さんそう なったため長野県軽井沢の山荘に うつ しゅうせん むか 移るが、8 月に 終 戦 を迎え、東京 もど 昭和 20 年 に戻る。 しゅうせん (1945)終 戦 昭和 21 年(64 才)、 ぜ に が た へ い じ とりものひかえ ざっし 「銭形平次捕物 控 」を雑誌 れんさいさいかい 『オール読物』に連載再開。 とりもの 昭和 24 年(67 才)、捕物作家クラブが けっせい 2 つすすむ しゅうにん 結成され、会長に 就 任 する。 ぜ に が た へ い じ とりものひかえ へん 「銭形平次捕物 控 」200編になる。 とりもの 捕物作家クラブとは? 2 つすすむ だんけつ いっしょ とりものしょうせつ さか 「団結して一緒に捕物 小 説 を盛んにしていこ こ どう よこみぞ せ い し は じ せ いじ じょうまさゆき う」と胡堂や横溝正史、土師清二、 城 昌幸など よ せつりつ の呼びかけで昭和 24 年に設立されました。 ぜ に が た へ い じ とりもの 昭和 28 年(71 才)、『銭形平次捕物全集』 昭和 26 年(69 才) ぜにがたへいじ かんべっかん 「銭形平次」のラジオの連続放送が ぜ に が た へ い じ とりものひかえ となりの人とあくしゅして、4 つすすむ (昭和 33 年 6 月まで) ふたた 再 び入院し、左目を しゅじゅつ めがね 手 術 。強度の眼鏡を 昭和 29 年(72 才)、 はくないしょう 白 内 障 (目の病気)のため東大病院 しゅじゅつ 小石川分院に入院、右目を 手 術 。 しっぴつ か の う 一回やすみ 使えば、執筆可能な じょうたい へん 「銭形平次捕物 控 」は 300編になる。 ラジオ東京より開始される。 昭和 30 年(73 才)、 かんこう (全 50巻別巻1)を同光社から刊行。 れんぞく かいふく 状 態 にまで回復する。 こきょう し わ ひこべ 昭和 31 年(74 才)、故郷岩手県紫波町彦部に こ どう ちょしょ きぞう 胡堂文庫を設け、著書を寄贈する。 の む ら こ ど う 野村胡堂の本のタイトルを1つ言って2つすすむ 14 き きん おく 昭和 38 年、基金1億円で いくえいしょうがく げいじゅつ ゴール 育英 奨 学 金と学問 芸 術 の えんじょ もくてき 研究援助を目的とする 昭和 38 年 4 月 14 日、 の む ら がくげいざいだん はいえん 「野村学芸財団」を 肺炎のため死去。 せつりつ きょうねん 設立する。 享 年 80 才。 じゅ い くん 死後、従四位勲三等 ずいほうしょう し 瑞 宝 章 を贈られる。 わ 昭和 38 年、紫波町に ちょしょ きぞう 著書と 200 万円を寄贈、 きねん せつりつ 記念文庫を設立。 ゴールまでもう少し! 昭和 37 年(80 才)、 ぶ かん え ど え 昭和 35 年(78 才)、 ど かんけい 武鑑・江戸切絵図・江戸関係図書 しりょうへんさん し じ ゅ ほうしょう 紫綬 褒 章 を受ける。 きぞう などを東京大学史料編纂所に寄贈。 し わ 昭和 34 年(77 才)、紫波町 さいしょ め い よ ちょうみん 最初の名誉 町 民 となる。 昭和 32 年、 昭和 33 年(76 才)、 き く ち かんしょう じゅしょう SP レコード 第 6 回菊池寛 賞 を 受 賞 。 やく きぞう こ どう 都に寄贈する。 胡堂が書いた作品は ぜにがたへいじ 昭和 32 年(75 才)、 眼疾悪化のため へん けいさい 『オール読物』8月号掲載の 700編にもおよびました。 さいご 「鉄砲の音」を最後に ぜ に が た へ い じ とりものひかえ へん 「銭形平次」だけで 383編、 他作品を合わせるとおよそ がんしつ てっぽう まい 約7 千枚を東京 1 つすすむ れんさい 「銭形平次捕物 控 」の連載を しゅうりょう 終 了 する。 15 の む ら こ ど う こたえは ★やってみよう★ 野村胡堂チャート さいごの ページ! スタート 本名はなに? おさかず ア.長一 じろう イ.二郎 もりおか どちらが盛岡中学の 同級生? き ん だ い ち きょうすけ ア.金田一 京 助 出身校は? はたら 働 いていた もりおか ア.盛岡中学校 イ.石川 たくぼく 木 新聞社は? イ.岩手中学校 ほ う ち しんぶんしゃ ア.報知新聞社 い わ て にっぽうしゃ イ.岩手日報社 ぜにがたへい じ 銭型平次は どんな人? はじめて書いた まちぶぎょう ア.町奉行 おか しょうせつ 小 説 は? ぴき イ.岡っ引 ア.二万年前 き だ ん イ.奇 談 ク ラ ブ こどう あらえびすが じゅしょう 胡堂が受 賞 したのは? な お き しょう 集めていたのは? き く ち かんしょう ア.C D ア.直木 賞 イ.菊池寛 賞 イ.SP レコード マスター☆レベル ノーマル☆レベル ビギナー☆レベル パーフェクト! ふつう もう一回 かんぺき!すばらしい! まあまあできる方 チャレンジ! 16 のむらこどう ねんぴょう 野村胡堂 年 表 年 才 出来事 明治15(1882) 0 ・10 月 15 日、岩手県紫波郡大巻村(現在の紫波町彦部)に父・長四郎、 めいじ げんざい し わ ぐ ん おおまき し わ ちょうしろう ひこべ たんじょう おさ かず 母・マサの次男・長一として 誕 生 。 ひ こ べ じんじょう 20(1887) 5 ・彦部 尋 常 小学校に入学。 24(1891) 9 ・3 月、彦部 尋 常 小学校卒業。4 月、紫波高等小学校に進学。 29(1896) 14 ひ こ べ じんじょう し し わ わ そつぎょう もりおかじんじょう めいじ ・3 月、紫波高等学校を卒 業 。4 月、岩手県盛岡 尋 常 中学校(明治34 もりおか げん もりおか だいいち こうとうがっこう 年より岩手県立盛岡中学校。現岩手県立盛岡第一高等学校。)に入学。 ひこべ 34(1901) 19 ・父、彦部村村長となる。 35(1902) 20 ・3 月、盛岡中学校卒 業 。(旧 制 )第一高等学校受験のため上京。 37(1904) 22 ・9 月、(旧 制 )第一高等学校入学。母のすすめで法科(仏科)に進む。 40(1907) 25 ・6 月 、第一高等学校卒 業 、東京帝国大学法学科・仏科(現東京大学 もりおか そつぎょう きゅうせい じゅけん きゅうせい ほうか がつ そつぎょう ていこく ほう しっぱい せきにん ふつ ふつ げん ほう が く ぶ 法学部)に入学。 42(1909) 27 おとべ はさん ・乙部村長だった父の村おこしが失敗。責任を取り破産したため、長 と だ 一への送金が途絶える。 けっこん ちょうしろう な 43(1910) 28 ・3 月、同村出身の橋本ハナと結婚。8 月、父長四郎が亡くなる。 44(1911) 29 ・3 月、長女淳 誕 生 。この頃大学を退学。 45(1912) 30 ・5 月 、報知新聞社政治部外交記者として入社。 大正 2(1913) 31 ・1 月 、長男一彦 誕 生 。 3(1914) 32 ・報知新聞政治面に人物 評 「人類館」を連載。初めて「胡堂」のペン あつたんじょう がつ ころ たいがく ほ う ち しんぶんしゃ せ い じ がつ かずひこたんじょう ほうち せいじ ひょう じんるい はじ れんさい はじ ちょしょ こどう じんるい かんこう ネームを用いる。8 月、初めての著書『傑物?變物?人類館』を刊行。 がつ けいこ 5(1916) 34 ・3 月 、次女瓊子誕生。 9(1920) 38 ・10 月、 三女稔子 誕 生 。この年社会部長となり、 報知新聞に「時事川 柳 」 と し こ たんじょう らん もう ほうち せんりゅう せんりゅう の欄を設けて川 柳 の新しいジャンルを開く。 11(1922) 40 ほうち びじゅつてん かん ・ 「あらえびす」のペンネームで報知新聞に音楽会・美術展に関する記 事を書く。 13(1924) 42 へんしゅう しっぴつ うつ ・編 集 局相談役になり主力を執筆活動に移す。7 月、「あらえびす」 はつゆにゅう こうきょうきょく しょうかい の名で日本に初輸入されたベートーヴェン「第九 交 響 曲 」の 紹 介 ひひょう れんさい さいしょ しょうかい ひひょう 批評記事を書き、これが新聞に連載された最初の音楽 紹 介 ・批評記 事となる。 あつ きょうねん 昭和 2(1927) 45 ・8 月、長女淳死去(享 年 17 才)。 3(1928) 46 ・長男一彦の療 養 のため神奈川県鎌倉に転居。 6(1931) 49 ・文芸 春 秋 社 創刊の『文芸 春 秋 オール読物号』に「銭形平次捕物 控 」 かずひこ りょうよう か な が わ ぶんげいしゅんじゅうしゃそうかん こんじき ぶんげいしゅんじゅう おとめ 第 1 作目「金色の処女」を発表。 17 かまくら てん きょ ぜ に が た へ い じ とりものひかえ 年 出来事 才 ていこく ざいがく かずひこ きょうねん 昭和 9(1934) 52 ・1 月、東京帝国大学在学中の長男一彦死去(享 年 21 才)。 12(1937) 55 ・ 「池田大助捕物日記」の執筆開始。以後、昭和 23 年に至るまで総計 とりもの やく しっぴつ い ご いた そうけい へん 約80編。 13(1938) 56 ぜ に が た へ い じ とりもの ひかえ へん たっ ぜ に が た へ い じ とりもの かん ・「銭形平次捕物 控 」100編に達し、『銭形平次捕物百話』(全 9巻) ちゅうおうこうろんしゃ かんこう けいこ ま つ だ とも お こんやく を中央公論社から刊行。次女瓊子、松田智雄と婚約する。 ちょ ばん ちゅうおうこうろんしゃ かんこう 14(1939) 57 ・あらえびす著『名曲決定盤』を中央公論社から刊行。 15(1940) 58 ・1月、次女瓊子死去(享 年 23 才)。 17(1942) 60 ・7 月、戦時下の新聞統合により、報知新聞は読売新聞社と合併。30 けいこ きょうねん せん じ つと とうごう ほうち ほうち しっぴつ がっぺい せんねん としこ まつだ 年勤めた報知新聞を去り、執筆活動に専念する。この年、三女稔子、松田 とも お けっこん 智雄と結婚。 せんそう げ き か かるいざわ べっそう うつ もど 20(1945) 63 ・戦争激化により、長野県軽井沢の別荘に移るが、11 月東京に戻る。 24(1949) 67 ・7 月、捕物作家クラブが結成され、会長に就 任 。 「銭形平次捕物 控 」 とりもの けっせい しゅうにん ぜ に が た へ い じ とりものひかえ へん 200編になる。 28(1953) 71 ぜ に が た へ い じ とりもの かん べっかん かんこう ぜにがたへいじ ・ 『銭形平次捕物全集』 (全 50巻別巻1)を同光社から刊行。 「銭形平次 とりものひかえ へん 捕物 控 」は 300編になる。 はくないしょう しゅじゅつ 29(1954) 72 ・白 内 障 のため東大病院小石川分院に入院、右目を手 術 。 30(1955) 73 ・再 び入院し、今回は左目を手 術 。強度の眼鏡を用いれば執筆可能な ふたた しゅじゅつ じょうたい めがね しっぴつ か の う かいふく 状 態 にまで回復。 きょうり し わ ひこべ ぞうしょ さつ きぞう やく まい きぞう こどう せつりつ 31(1956) 74 ・郷里の岩手県紫波町彦部に蔵書百数冊を寄贈、「胡堂文庫」を設立。 32(1957) 75 ・1 月、東京都にSPレコード約7 千枚を寄贈。8 月、眼疾悪化のた けいさい てっぽう がんしつ さいご ぜ に が た へ い じ とりもの め、 『オール読物』8 月号掲載の「鉄砲の音」を最後に「銭形平次捕物 ひかえ お そう へん 控 」の筆を置く。総計 383編。 き く ち かんしょう じゅしょう 33(1958) 76 ・3 月、第 6 回菊池寛 賞 を受 賞 。 34(1959) 77 ・12 月、紫波町最初の名誉 町 民 となる。 35(1960) 78 ・11 月、紫綬 褒 章 を受ける。 37(1962) 80 ・武鑑・江戸切絵図・江戸関係図書などを東京大学史料編纂所に寄贈。 38(1963) し わ さいしょ め い よ ちょうみん し じ ゅ ほうしょう ぶ かん え し ど え わ ど かんけい ちょしょ およ しりょう へんさん きぞう おく ききん きぞう いくえいしょうがく ・2 月、紫波町に著書及び 200 万円を寄贈、1億円の基金で、育英 奨 学 げいじゅつ えんじょ もくてき の む ら がくげい ざいだん せつりつ 金と学問芸 術 の研究援助を目的とする野村学芸財団を設立。4 月 14 はいえん きょうねん じゅ い くん ずいほうしょう じょ 日、肺炎のため死去(享 年 80 才)。従四位勲三等瑞 宝 章 に叙せられ る。 39(1964) ふじん こ ど う ぞうしょ たんこうぼん れ き し ぶんけん きょうど しりょう ・1 月、ハナ夫人、胡堂蔵書の全集・単行本・歴史文献・郷土資料等 さつあまり ぐんしょるいじゅう こ じ る い 3,500冊 余 を日本近代文学館、岩手県立図書館に、 『 群書類従 』 『古事類 えん もりおか きぞう 苑』を盛岡市立図書館にそれぞれ寄贈する。 18 さんこうしりょう 参考資料 ※書名五十音順 <図書> ちょしゃ 書名 (本の名前) 発行者 発行年 (書いた人) (出したところ) (出した年) 岩手放送 1988.10 岩手放送岩手百科 じてん 岩手百科事典 む 著者 じてん 事典発行本部 さ ころ カタクリの群れ咲く頃の のむらこどう ふじん ふじくら しろう そとざき きくとし せい あ ぼ う 藤倉 四郎 青蛙房 1999.2 野村胡堂・あらえびす夫人ハナ こどうでん 胡堂伝 しゃっきん 百年分の 借 金 をはねのけた男 外崎 菊敏 ふっこう 岩手復興書店 2014.4 のむらこどう 野村胡堂・あらえ しょかん こどう たくぼく 書簡に見る胡堂と 木 きねんかん びす記念館/ いしかわたくぼく き ね ん か ん 石川 ぜにがたへいじ よ 木記念館 のむらこどう 野村胡堂・あらえび きねんかん す記念館 2001.9 と 銭形平次を読み解く のむらこどう 野村胡堂・あらえびすの研究 そとざき きくとし そとざききくとし ふじくら しろう ぶんげいしゅんじゅう 外崎 菊敏 外崎菊敏 2011.8 ぜにがたへいじ 銭形平次の心 のむらこどう でん 藤倉 四郎 文芸 春 秋 1995.9 野村胡堂あらえびす伝 父の手紙 や のむらこどう あいじょう え しま いさお 八重嶋 勲 ふっこう 岩手復興書店 2013.6 野村胡堂に注いだ 愛 情 のむらこどう のむらこどう 野村胡堂 のむらこどう 野村胡堂・あらえ 野村胡堂・あらえび たいしゅう そくせき のこ 大 衆 文学に足跡を残す のむらこどう 野村胡堂・あらえびす ぜにがたへいじ ひょうろん 「銭形平次」と「音楽 評 論 」を生 2002.9 きねんかん びす記念館/ みちまた つとむ のむらこどう 野村胡堂・あらえ きねんかん びす記念館 2014.5 しょうでん 野村胡堂あらえびす 小 伝 いじん (岩手の偉人シリーズ 2) もりおか 盛岡タイムス のむらこどう のむらこどう きねんかん す記念館 のむらこどう 野村胡堂・あらえ 道又 力 ぶんし んだ岩手の文士 のむらこどう きねんかん びす記念館 しょうでん 野村胡堂あらえびす 小 伝 もりおか 盛岡タイムス社 のむらこどう 野村胡堂・あらえ 野村胡堂・あらえび きねんかん びす記念館 19 1995.6 きねんかん す記念館 2008.10 ちょしゃ 書名 (本の名前) 著者 発行者 発行年 (書いた人) (出したところ) (出した年) のむらこどう 野村胡堂 ・あらえびすとその時 代 のむらこどう 野村胡堂・あらえびすの研究 おおた あいと きょうぶんかん 太田 愛人 教 文館 いわてどうしかい のむらこどう のむらこどう きけんしゅう 野村胡堂・あらえびす来簡集 いわてどうしかい 岩手堂子会 野村胡堂・あらえ 岩手堂子会 2003.9 1999.3 のむらこどう 野村胡堂・あらえび きねんかん きねんかん びす記念館 す記念館 2004.11 ぶんげいしゅんじゅう き か く のむらこどう ふじくら 野村胡堂からの手紙 のむら こどう 藤倉 り え 文芸 春 秋 企画 こ 利恵子 しゅっぱん 2011.10 ― 岩手県立図書館 2007.4 岩手県立図書館 岩手県立図書館 1982.10 出版 のむら ぶんこ 野村 胡堂 の作品と「野村 文庫 」 て ん じ しりょうもくろく とくしゅ ぶ ん こ て ん 展示資料目録 特殊文庫展2 もくろく 野村文庫図書目録 ぜにがたへいじ バッハから銭形平次 のむらこどう 野村胡堂・あらえびすの一生 のむらこどう わたしの野村胡堂・あらえびす ふじくら 藤倉 ふじくら 藤倉 しろう せい あ ぼ う 四郎 しろう 四郎 青蛙房 2005.11 エム・ビー・シー21 1990.9 <新聞> にっぽう にっぽうしゃ 岩手日 報 岩手日 報 社 <インターネットなど> ●オンラインデータベース『ジャパンナレッジ』http://japanknowledge.com/ の む ら がくげいざいだん ●野村学芸財団 http://nomuragz.or.jp/index.html べつ のむらこどう ●青空文庫(作家別作品リスト:No.1670 野村胡堂) http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1670.html インターネットの青空文庫は、 のむらこどう 野村胡堂の作品が読めます! ぜひ読んでみてね♪ 20 協力 しりょう きょうりょく この 資 料 を作るために 協 力 してくれた のむらこどう 野村胡堂・あらえびす記念館です。 のむらこどう ちょしょ 「野村胡堂」「あらえびす」の著書をはじめ、収集した しょせき レコード、書籍などがたくさんあります。 ★みんなも行ってみよう★ の む ら こ ど きねんかん う 野村胡堂・あらえびす記念館 〒028-3315 岩手県紫波郡紫波町彦部字暮坪193-1 TEL 019-676-6896 FAX 019-676-6897 ホームページ http://kodo-araebisu.jp/ げんざい (平成 27 年 4 月現在 ) たてもの な ん ぶ まが や この 建 物 は平成7年、岩手の「南部曲り家」をモチーフに 建てられました。建物の中にはコンサートができる 「あらえびすホール」があり、レコードコンサートも 開かれているよ! 21 このページをコピーして すごろくに使うサイコロを作ってみてね。 は かたい紙に貼るとキレイに作れるよ! 22 16ページのこたえ スタート 本名はなに? おさかず ア.長一 もりおか どちらが盛岡中学の 同級生? き ん だ い ち きょうすけ ア.金田一 京 助 出身校は? はたら 働 いていた もりおか ア.盛岡中学校 新聞社は? ほ う ち しんぶんしゃ ア.報知新聞社 ぜにがたへい じ 銭型平次は どんな人? はじめて書いた しょうせつ おか 小 説 は? ぴき イ.岡っ引 こどう ア.二万年前 あらえびすが じゅしょう 胡堂が受 賞 したのは? 集めていたのは? き く ち かんしょう イ.菊池寛 賞 イ.SP レコード マスター☆レベル ノーマル☆レベル ビギナー☆レベル パーフェクト! ふつう もう一回 かんぺき!すばらしい! まあまあできる方 チャレンジ! 23 そめちゃん ポストン ブラリー きょうどしりょ う 岩 手 県 立 図 書 館 子 ど も向 け郷 土 資 料 vo l .3 の む ら こ ど う 野村 胡堂 へ い せ い 発 行 年 : 平 成 2 7 年 4 月 発 行 者 : 岩手県立図書館 指定管理者
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