モースコレクション: もう一つの在外19世紀日本

Ⅱ部 欧米(ドイツ語圏を除く)における日本関連コレクションの現状と課題
モースコレクション:
もう一つの在外19世紀日本コレクション
小林 淳一
1.はじめに
大学共同利用機関法人人間文化研究機構が主宰する「日本関連在外資料の調査研究」プ
ロジェクトは、欧米に数多く存在する日本関連コレクションの所在調査を実施し、詳細な目
録を作成することを主たる目的としている。スタートしてからすでに3年目に入り、その成
果は確実に表れつつある。私と小山周子(江戸東京博物館学芸員)の担当する米国人エド
ワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse,1838−1925)が収集したピーボ
ディー・エセックス博物館所蔵(米国マサチューセッツ州セーラム市)の「モース・コレク
ション」については、現在までにモースが収集した約1千点のガラス写真原板、および彼
自身が描いたスケッチ約1千点の撮影を終了し、現在、目録を作成している最中である。
一方、民族資料については、モース自身が収集者、もしくは寄贈者である資料の点数
は、2千880点であることがこのほど判明した。そのうちの約300点の詳細な調査を終了
し、また新発見資料もあったことから、本プロジェクトの成果の一部を広く市民に公開す
べく、「明治のこころ─モースが見た庶民のくらし─」と銘打った展覧会を実施した。
大学共同利用機関法人人間文化研究機構、国立歴史民俗博物館、大田区立郷土博物館、
ピーボディー・エセックス博物館、ならびにボストン美術館に特別協力を仰ぎ、江戸東京
博物館、朝日新聞社が主催。2013年9月8日∼12月14日までの会期で、会場を江戸東京博
物館において開催し、8万人余の市民の観覧に供することができた。本稿では、モースコ
レクションの調査研究の進捗状況とともに、あわせて本展覧会の内容についても報告する。
2.モースとモースコレクションの今日的意義
現代の日本には難問があまりにも山積している。とりわけ人口動態の急激な変化はこの
国に深刻な「少子高齢化」社会をもたらし、もはや国民的課題となっている。明治維新
後、「近代化」に向けてひた走ってきた日本。戦後の焼け跡から高度経済成長を経て、日
本人は物質的な豊かさを確かに手にすることはできた。しかしながら、これまで培ってき
た人と人との繋がり、あるいは家族のありようは、ここにきて新たに創り出していかなく
てはならない、という必要に迫られているのではないだろうか。
そして、2011年3月11日。あの東日本大震災による未曽有の災禍に直面して、私たちは
従来の価値観やものの考え方を変えざるをえない状況にある。その後、「絆」という言葉
がさまざまな場面で使われるようになり、人と人との絆、人と自然との結びつきなどにつ
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いて、あらためて深く考える契機がおとずれている。
いま、幕末から明治における日本人の暮らしぶりが注目され、そこから何か生き方のヒ
ントを学ぼうという機運も大いに高まっている。およそ150年前に消滅したといわれる「江
戸」というユニークな文明は、その当時に来日した多くの外国人によって紹介されてきた。
彼らは、初めて目のあたりにした当時の日本人の心根、あるいは生活や風景などに驚嘆と
称賛の声を挙げた。なかでもきわめて重要な証言を残した人物の一人にモースがいる。
モースといえば、日本の近代考古学の発祥地「大森貝塚」を発見したことで名高い。そ
の一方で、庶民の日常を示すさまざまな文物を数多く収集した。それらは、今日、
「モー
スコレクション」と称され、全米最古の博物館といわれるピーボディー・エセックス博物
館が誇る日本コレクションの中核を占めている。同コレクションには、現代の日本ではす
でに湮滅してしまった貴重な品々が含まれる。この展覧会は、モースの眼差しをとおし
て、明治初期の日本を再構成しようとする試みであった。
モースがつぶさに見た幕末から明治にかけての日本の、たとえば環境、災害、教育、仕
事、娯楽、信仰、儀礼などについて、彼自身が体系的に収集した日本の生活用具、陶器、
写真をはじめ、スケッチ、日記など、多彩な記録「モースコレクション」により、その時
代を生き抜いた名もなき日本人たち、すなわち私たちの曽祖父、曾祖母の日常── 失われ
たその「小宇宙」を描くことを念頭に置いた。先人たちの暮らしぶりの一端をもう一度、
振り返ることによって、これからを生きる私たちの「よすが」とすることを主眼とした。
3.モースコレクションとは
この展覧会は、ピーボディー・エセックス博物館所蔵の「モースコレクション」
、およ
びボストン美術館所蔵の「モース日本陶器コレクション」から、321点を精選し、両館の
協力のもと、モースの視点から変わりゆく時代を生き抜いた日本人の暮らしを紹介した。
ピーボディー・エセックス博物館には、モース自身が収集したことに端を発する民具を
はじめとする日本コレクションが数万点の規模で収蔵されている。同コレクションは、19
世紀の日本を物語る貴重なコレクションとして知られる。その内容は、すでにわが国から
消えてしまったあらゆる種類の生活用具、人びとや景観を捉えたガラス原板写真、モース
自身によるスケッチ、日記であり、明治維新後まもない庶民の生活の様子がきわめてよく
うかがえる。とりわけ、その日記は後年、『日本その日その日』(石川欣一訳)(Japan Day
by Day)として出版されるが、それは彼の単なる日記にとどまらず、19世紀日本の生活の
諸相を示す民族誌(エスノグラフィー)と位置づけられる。
モースが熱心に収集した、もう一つの重要なコレクションに「モース日本陶器コレク
ション」がある。彼はその成果を『モース日本陶器コレクション目録』(Catalogue of the
Morse Collection of Japanese Pottery)としてまとめ、そこに掲載された陶器の全5千点はボ
ストン美術館が購入のうえ保存することとなった。モース日本陶器コレクションには、現
在は場所さえも辿ることができない窯元の陶器も含まれ、世界随一の豊富な内容として知
られる。
「モースコレクション」と「モース日本陶器コレクション」の2つの重要コレク
ションを同時に紹介する初の機会となる展覧会であった。
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
4.モースコレクションの概要
モース自身が収集した日本コレクションで、ピーボディー・エセックス博物館に保管され
ているものは下表のとおり、計2千880点である。なお、カテゴリーは同館の分類に基づく。
2D Art(絵画)
200点
30点
Ainu(アイヌ資料)
Archeology(考古学)
390点
Architecture(建築)
7点
1,050点
Ceramics(陶器)
Household and General(生活用具・職人道具)
390点
30点
Netsuke(根付)
Personal accessory(服飾)
200点
Religion(宗教)
110点
Shop sign(看板)
2点
Stencils(型紙)
10点
Textiles(染織・布地)
20点
Tools and Profession(職人道具)
290点
Toys, Games, etc.(玩具)
110点
40点
Weapons(武具)
計
2,880点
(表作成:小山周子)
5.展示構成
モースコレクションのデータベースは、いまだ構築の途にあり、今回はその中間報告と
しての展覧会であった。展示構成は3章立てで以下のとおり。
[第1章] 「モースという人」:プロローグ/①来日前 ②日本との出会い
生まれ故郷のメイン州ポートランドでは「学校嫌い」の少年時代を送っていた「問題
児」モース。2度にわたる高校中退を繰り返し、製図工として鉄道会社に就職した。そん
なモースでも貝の収集とそのコレクションにおいては、ニューイングランドの学者たちに
一目おかれる存在であった。持ち前の好奇心と研究への情熱は、成長するにつれてさらに
醸成され、地元の博物学会で活躍しながら、ハーバード大学の比較動物学博物館に学生助
手として採用されるにいたった。その後、動物学に関する論文を次々に発表し、1871年に
はボードウィン大学教授に就任した。
1877年(明治10)6月、腕足類の採集と調査研究を目的にアメリカから初来日。ときに
モース、39歳のことであった。横浜に上陸後、新橋へと向かう開通したばかりの陸蒸気の
車窓から、大森貝塚を発見したことは、あまりにも有名な話である。彼の日本での足跡は
実にあざやかだ。お雇い外国人として、東京大学の初代動物学教授に就任するとともに、
ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介したほか、近代考古学や動物学の基礎を築いた。
この章では、モースの生い立ち、少年時代を経て、ハーバード大学やボードウィン大学で
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の研究生活、来日前後の事績をプロローグとして紹介した。
[第2章] 「日本と日本人」:150年前の暮らしを彩る品々/①よそおう ②たべる ③す
まい ④こども ⑤あそぶ ⑥いのる ⑦あきない ⑧なりわい
モースが滞日中、日本人の暮らしにかかわる多彩かつ膨大な品々を収集したことは、一
般にあまり知られていない。モースは、3回、通算約4年間にわたり日本に滞在し、全国
をくまなく旅した。とりわけ、江戸の原像が色濃く残る明治初期の、東京の下町の散策を
こよなく愛した。『日本その日その日』には、江戸から明治へと時代が大きく変わるなか、
当時の日本および日本人をめぐる日々の観察や出来事が克明に記されている。
この章では、明治維新を経て近代への幕開けとなった日本──文明開化の華やかさとは
うらはらに、いまだ江戸の暮らしが連綿と続いていた庶民の日常の諸相について、8つの
テーマに分けたうえで、モース自身が収集した生活の品々、スケッチ、写真などによって
明らかにした。
[第3章] 「モースをめぐる人々」:エピローグ/①蜷川式胤との親交と陶器コレクション
②モースをめぐる日米の人々
モースが4年間という限られた日本滞在で、質の高い日本コレクションを形成した背
景には、モース自身の熱意とともに友人らの支えがあった。ボストン美術館に所蔵され
る「モース日本陶器コレクション」の約5千点は、文部官僚・好古家の蜷川式胤(1835−
82)の協力の賜物であった。モースは蜷川の屋敷をたびたび訪れ、日本陶器の薫陶を受け
た(コレラで亡くなった蜷川の葬儀にも参列している)
。その成果は、『モース日本陶器コ
レクション目録』の出版に結実し、日本陶器の体系化が実現した。
1886年の『日本のすまい・内と外』(上田篤・加藤晃規・柳美代子訳)
(Japanese Homes
and Their Surroundings)とを合わせた「日本関係三部作」の著作と、みずから収集した約
2千880点の実物標本資料により、モースは明治初期の日本と日本人を克明に捉えたので
あった。また、明治期の日本美術を収集したことで世界的に著名なアーネスト・フェノ
ロサ(Ernest Fenollosa,1853−1908)、ウィリアム・ビゲロー(William Begelow,1850−
1926)、チャールズ・ウェルド(Charles Weld,1857−1911)らの来日のきっかけをつくっ
たのも、実はモースであった。彼らは洗練された美術工芸品などを収集し、一大美術コレ
クションを形成した。
この章では、モース日本陶器コレクションとともに、彼をめぐる人々を紹介し、モースの
ネットワークを示した。あわせて、彼の業績がニューイングランドにおける数多くのジャパ
ノロジストたちを輩出する歴史的役割を担ったことも明らかにした。さらにモースが見た日
本の風景写真を展示し、明治日本の人々の暮らしとこころに思いを馳せる機会とした。
6.新発見資料
今回のピーボディー・エセックス博物館の現地調査において、新たに「生き人形 甲冑武
士」が発見された。生き人形は、安政年間に大阪で大流行し、幕末から明治にかけての見
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国際シンポジウム報告書「シーボルトが紹介したかった日本」
世物興行などで使われ、盛り場で人気を博した。
「活きるが如く造りたる」人形という意味
からこのように称され、江戸では浅草の奥山や両国の回向院の出開帳などにお目見えした。
これまで、モースは7体の生き人形を収集し、ピーボディー・エセックス博物館に所蔵
されていたことは、1997年の同館における調査で把握されていた。すなわち、
「武士の家
族(武士・奥方・女児・男児)」
、それに「農民の家族(農夫・農婦・乳児)である。し
かし、このたび確認した「甲冑武士」を合わせると、モースは計8体の生き人形を収集し
ていたことになる。モースは数多くの民具、陶器を収集したが、「日本人の標本」をこの
生き人形に求めたのではないか、と推定される。なお、同館図書室が所蔵するモース文書
から、これらの生き人形をモースが東京で購入するにあたり、東京大学動物学教授・箕作
佳吉(1858−1909)が人形師に仲介したものであることが判明した。
7.モースのプロフィール
[エピソード1]……モースの日本と日本人に対する親和性
モースにまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。もっとも身近に接した日本人の一
人である動物学者・石川千代松(1860−1935)の証言を紹介する。「(モース)先生は日本
に居られた頃にも土曜の午後や日曜抔には方々の子供を沢山集め、御自分が餓鬼大将に
なって能く戦争ごっこをして遊ばれたものだ」
。子どもが大好きで天真爛漫なモースの人
柄がよく表れている話といえる。明治新政府のお雇い外国人であり、東京大学の初代動物
学教授でもある「権威」と、「餓鬼大将の地位」とが何ら矛盾なく併存するのがモースと
いう人なのである。
また、神田の小学校において無償で講演を行った際は、校長が何かお礼をしたいと申し
出たところ、モースはそれを辞退し、「今日講演を聴いて呉れた子供達が路で会った時に
挨拶をして呉れれば夫れが自分には何よりの礼である」と述べた。
1942年に刊行されたモースの優れた伝記『エドワード・シルベスター・モース』(蜷川
親正訳)(Edward Sylvester Morse)の著者であるドロシー・ウェイマン(Dorothy Wayman,
1893−1975)は、「モースは、決して石膏で造り祭られるような、えせ聖人ではなかった。
しかし、人間としては性格上の欠点があったために、それが研究の上の障碍となったり、
折角の好意を寄せてくれた人の感情を害し
たり、敵に噂話の材料を提供したことも
あったのである」と記している。とはいっ
ても、日本とアメリカとを問わず、モース
に少しでも接した人びとは、たちまち彼の
人間としての魅力のとりこになってしまっ
た。
[エピソード2]……モースが来日した動機
モースの貝コレクションはハーバード大
学教授のルイ・アガシー(Louis Agassie,
「明治の子どもたち」モースコレクション 写真ガラス原板
(米国ピーボディー・エセックス博物館所蔵)
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1807−73)に評価されるところとなり、二人は会うとたちまち意気投合した。そのころ同
大は比較動物学博物館の開館準備を進めており、モースはその標本整理や科学研究などの
助手として採用されることになった。仕事に心血を注いだモースは、当時、世界に旋風を
巻き起こしたダーウィンの『種の起源』についても興味をもつようになった。ボストンの
博物学会でも、進化論をめぐる激しい論争が繰り広げられていた。ただし、進化論を否定
する立場にいた恩師アガシーは、反進化論の格好の材料として、4億年前の化石と現生の
ものとの間にほとんど変化した形跡のない「シャミセンガイ」の研究をモースに命じた。
その後、ハーバード大学を去り、セーラムのピーボディー科学アカデミーの開設に関わる
ようになったモースは、尊敬するアガシーの命に従い、その間もずっとシャミセンガイの
研究を進めていたのだが、やがて進化論の正当性を認めるにいたった。アメリカ沿岸では
わずかしか発見できなかったことから、その種類と量が豊富な日本にいつかは必ず行って
みたいと熱望し、日本に対しては憧憬の念を抱くようになった。
[エピソード3]……ピーボディー・エセックス博物館とセーラム
セーラムは、1626年、漁師らによって開かれた古い港町である。漁業をはじめ、無尽蔵
といわれるほどの後背の森林資源を活用することによって、造船業と海運業が大いに発展
し、とくに18世紀の終わりから19世紀の初めにかけては、アメリカの海運史上に燦然と輝
く黄金時代を迎えた。遠くインド洋を経てアジアへと新たな航路を開き、アメリカ東方貿
易の先陣を切るに及んだ。
巨万の富を築いたセーラムの船長たちは、1799年に「セーラム東インド海運協会」を設
立。1824年には協会本部として「東インド海運ホール」も建設された。1階は銀行や保険
会社が入り、会議室やサロンにあてられた2階は、船乗りたちが世界各地への航海から持
ち帰った「珍品奇物」の展示場となり、セーラム市民へ公開された。このような展示物を
保管するセーラム東インド海運協会が、やがてピーボディー科学アカデミー、そして現在
のピーボディー・エセックス博物館へと継承されていく。モースが同アカデミーの館長に
就任していた時代は、セーラムの全盛期が過ぎ去って1世紀以上あとのことになる。
[エピソード4]……少年・青年時代のモース
モースは、1838年6月18日、メイン州ポートランドの地で、父ジョナサン・モース、母
ジェーンがもうけた7人兄弟の3番目として誕生した。学校にはなじめず、自然のなかで
生き物を観察していることのほうが大好きな少年時代を過ごしていた。「モースはどの学
校からも放校処分になった。ポートランドの村の小学校はもとより、1851年にはコンウェ
イ学園から、続いて54年にはブリジットン・アカデミーから退学処分になっている。先生
たちはモースの荒々しい気性、権威に対する反抗心、そして森の中や海辺をさまよって授
業を無視することを嘆いた」
(ウェイマン『エドワード・シルベスター・モース』)
。同年、
ポートランド社に製図工として入社。56年にはベセル高校に入学したが、同年に退学。再
びポートランド社に就職した。
しかし、モースは一方で、海岸では貝を集め、森のなかに分け入っては小さな巻貝など
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を集めることに熱中し、貝のコレクションでは地元で名を知られた存在であった。やがて
学者たちにも一目おかれるようになると、ポートランドやボストンの博物学会で活動を始
めるなど、さらに活躍の舞台を広げた。
[エピソード5]……『日本その日その日』を書いた契機
日本に滞在していた約4年間、モースは日々の出来事を詳細に記した。この日記は、3
千500ページにもおよぶ膨大な量で、どのような方法で世に出すか、長年、モース自身が
考えあぐねていた。そのようなとき、モースの3回目の来日に同行した畏友ビゲローが差
し出した手紙が、モースに出版の決意を固めさせた。
その文面は次のとおりである──「君(モース)と僕(ビゲロー)とが40年前親しく
知っていた日本の有機体は、消滅しつつあるタイプで、その多くは既に完全に地球の表面
から姿を消し、そして我々の年齢の人間こそは、文字通り、かかる有機体の生存を目撃し
た最後の人であることを、忘れないで呉れ。この後十数年間に我々がかつて知った日本人
はみんなベレムナイツ[今は化石としてのみ残っている頭足類の一種]のように、いなく
なって了うぞ」。換言すれば、ビゲローはモースが日本で経験した大切な記録を書物とし
て残しておかないと、誰も分からなくなってしまう、と警告しているように受けとれる。
そして、この日記は1917年、モースが79歳のとき、最後の来日から数えて実に24年を経
たのちに、モース自筆の777点のスケッチを含め、Japan Day by Day(邦訳『日本その日そ
の日』の書名で上梓された。
8.むすび
ボストン・グローブ紙の記者でもあったウェイマンは、モースの生涯について、
「モー
スは、教会の規律の代わりに応用科学の実験的方法を、また、王侯の宮殿におさめられた
個人的なコレクションの代わりに公衆のための博物館の設立という、二つの意味で独自の
ものを打ち立てた開拓者であった」(蜷川親正訳)と評している。モースは、わが国にお
いても、同様な業績を残した。しかし、何よりも当時の日本人たちときわめて親密な関係
を築いたことを特筆したい。彼の形成した日本コレクションをとおして、私たちは現在も
博物館どうしの連携を深めている。それは博物館のみならず、日本とアメリカの人々の草
の根レベルの文化交流にも及んでいるのである。
モースコレクションは、19世紀の在外日本コレクションとしては、その質、あるいは規
模からいって、シーボルト父子コレクションと双璧を成す、といっても過言ではない。こ
れらの貴重な日本コレクションのデータベースを構築し、公開することは、私たち日本人
の責務であると認識する。
参考文献
小林淳一・小山周子編著『明治のこころ─モースが見た庶民のくらし─』 青幻社 2013年
(こばやし じゅんいち・江戸東京博物館)
モースコレクション:もう一つの在外19世紀日本コレクション
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