〔特別展覧会〕 聖徳学園創立70周年記念 本 学 所 蔵 品 に よ る 「藤田嗣治展」 ご あ い さ つ 東京聖徳学園は昭和8(1933)年東京に聖徳家政学院と新井宿幼稚園を開設してから、今年で70周年と なります。開設以来一貫して幼児教育・女子教育に力を注いできた創始者川並香順・孝子両先生のご意志が受 け継がれ、聖徳太子の教えの中にある『和の精神』を建学の理念とし、幼稚園から大学及び大学院へと一貫し た教育方針の基に発展してまいりました。 本学園はその建学の精神を達成するため実物教育のすばらしさを取り上げており、その一つに美術教材とし ての絵画資料を揃えております。その中でも、ひときわ美しい純白の色調を持つ藤田嗣治(Leonard FOUJITA)画伯の絵の素晴らしさは格別です。ピカソをも釘付けにしたと言われる画伯の絵画を、ここに学 園の70周年を迎えるに当たり初めて公開します。 「私の體(体)は日本で成長し、私の繪(絵)はフランスで成長した。 」とあるように日本生まれの画伯は、 晩年フランスに歸化し、エコール・ド・パリの一員として高い評価を得た作家でもあり、名実ともにわが国が 生んだ初めての国際的な芸術家であります。 画伯の作品は、近代美術史を語る上で、特に日本と西欧(主にフランス)との関係を理解する時に欠かすこと のできない存在となっています。画伯がフランスで高く評価されるようになった大正15(1926)年頃から 円熟期を迎える昭和58(1983)年頃までの作品の中から、子どもや女子を題材に描いたものなどを中心に し、直筆のサイン入り目録なども展示します。作品の保全上の問題から、会期中に一部入れ替えも行ないます が、この機会に本学で所蔵する藤田嗣治画伯の絵画を心ゆくまでご鑑賞下さい。 平成15年12月6日 学校法人東京聖徳学園理事長 聖 徳 大 学 学 長 聖徳大学短期大学部学長 学園長 川 並 弘 昭 藤田嗣治(Leonard FOUJITA)(1886−1968)の略歴 藤田嗣治の父藤田嗣章は陸軍軍医で森鴎外の後輩にあたり、母のまさは小栗上野介の縁戚にあたる。4人兄 弟の末子として明治 19(1886)年 11 月 27 日東京に生まれる。明治 43(1910)年東京美術学校西洋画 科を卒業後、大正2(1913)年渡仏し、ピカソ、モディリアーニ、スーティンらと知り合う。その滑らかな乳白 色の肌に面相筆で線描した絵画は、西洋人にはまねできない独創性のある作品として高く評価され、エコー ル・ド・パリと呼ばれる第一次世界大戦から 1930 年代にかけて活躍した外国人画家達の一員として脚光を 浴びた。大正 12(1923)年サロン・デ・チュイルリー会員、大正 14(1925)年レジョン・ドヌール勲章を 受ける。昭和8(1933)年に帰国後、二科会会員や帝国芸術院会員となった。戦争中は記録画も数多く制作 して朝日文化賞を受賞するが、戦後になって画家の戦争協力という批判を一身に受けることになる。昭和 24 (1949)年アメリカ経由で仏に渡り、二度と日本に戻ることはなかった。昭和 30(1955)年仏の国籍を取 得。昭和 33(1958)年ベルギー王室アカデミー会員に推挙され、翌年カトリックの洗礼を受けてレオナー ル・フジタと改名。仏のランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂のステンドグラスやフレスコ壁画を手がけ た。この完成後の2年目の昭和 43(1968)年 1 月 29 日スイスのチューリヒの病院で逝去。享年81歳 / エコール・ド・パリ(Ecole de Paris) 1925 年頃につくられた呼称で、パリに在住する画家、特に第一次世界大戦前後から 1930 年代にかけて活 躍した外国人画家達の総称。特にモンマルトル、モンパルナスで活躍した外国人画家達をいう。主要な芸術家 を列記すると、藤田嗣治(日本)、モディリアーニ(イタリア)、スーティン(リトアニア)、シャガール(ロ シア) 、パスキン(ブルガリア)、キスリング(ポーランド) 、キコイン(ロシア) 、クレメーニュ(ポーランド) 達である。共通する事は彼らの大半がモンパルナスに住む芸術家であり、しかも単に祖国を離れてパリで制作 したのではなく、半ば定住しており、前衛的な運動に触発されながら、個性的な画風を守ったという事である。 / 第一次世界大戦前から第二次世界大戦にかけてのパリは、≪ベル・エポック(la Belle Epogue)≫の名で 呼ばれるように、若く貧しい芸術家達にとっては住みやすく、創造的な環境であった。事実、この時期のパリで は毎年定期的に開催される団体展(サロン)が 20 以上もあり、画廊は約 130 会場あった。この数は当時の世 界のどこの都市よりもはるかに凌駕する。 1900∼1951 年の間にこれらのサロンや画廊に出品した芸術家の述べ総数は約 6 万人で、そのほぼ 3 分 の 1 が外国人であったという。共通した主張は持たず、むしろそれぞれの祖国、民族の伝統性に彼らの作風を醸 し出している。今日から見れば、極めてフランス的な表現主義の傾向の一つであったと考える事ができよう。 「乳白色の肌」の秘密を解き明かす 大正2(1913)年に渡仏してから4年目の大正6(1917)年 6 月に初めての個展が開かれた時にピカソを も釘付けにさせたと言われる藤田嗣治の絵画は、その後脚光を浴びるようになった。後に「乳白色の肌」と呼 ばれ、 「グラン・フォン・ブラン(すばらしい白色の地) 」と賞賛された乳白色については、藤田嗣治自身が生 涯秘密にしていたため、美術史上の謎の一つとされていたが、平成12(2000)年にパリで藤田嗣治の作品の 修復が行われた際にようやく解き明かされた。 通常のキャンバスは二つの層で出来ているが、藤田嗣治のものは三層でできていることが分かったのである。 しかも、その第二層には硫酸バリウムが使われていたのである。この硫酸バリウムとは、健康診断で X 線検査 の造影剤として使われるものであるが、光(可視光線)をまんべんなく反射することが知られていて、物質の 反射率を計測する際の比較用物質としても使われているものである。言いかえれば白色らしさの基準とされて にかわ いる物質なのである。従って、絵の具の色を 100%忠実に発色させるために役立っている。第一層は膠 が塗 ってあり、第三層には一般的に使われている鉛白と油で溶いた炭酸カルシウムを 3 対 1 に混ぜた顔料が使わ れていた。このようにして藤田作品を特徴づける「乳白色の肌」が出来上がるのである。 藤田嗣治の絵画にはキャンバスの下地に工夫がされていたのである。 展 示 資 料 藤田嗣治画伯がフランスで高く評価されるようになった大正15(1926)年頃から円熟期を迎える昭和58 (1983)年頃までの作品の中から、子どもや女子を題材に描いたものと直筆のサイン入り目録なども展示し ます。 ○作 品 名 母親と二人の子 猫 / / 猫と少女 / 優 美 神 / 婦人と子供 / 猫 一 / 匹 少女と猫 / / 婦人の横顔 春の二人の乙女 / / 裸 横たわった婦人 婦 / / 猫と子 男性の肖像画 庭園の子供達 ○藤田嗣治画伯の直筆のサイン入り書籍や図録などを特別展示公開 ・Quelques poems by Komaki Ohmia.Paris:Belle Edition,1919. 藤田嗣治のイラストが最初に使われた本。出版者による本のカバーがラフィアヤシ(マダガスカル産ヤシ科 の植物)の葉の繊維で結ばれている。この本には 1922 年の日付とフランス語と日本語による献辞が記され ている。大正8(1919)年に発行された 105 部の限定出版の一冊。 ・Legendes Japonaises「日本のおとぎ話」 題名どおり日本のおとぎ話を紹介した本で、藤田嗣治のイラストが使われている。大正 12 年(1923)年 に発行の初版本。 ・昭和8(1933)年 7 月 12 日∼31 日、アメリカのロサンゼルスにあるダルゼル・ハットフィールド・ギ ャラリーで開かれた「個展」の図録 これらの他に、大正7(1918)年 11 月 26 日∼12 月 14 日、エコール・ド・パリと呼ばれる華やかな 時代に藤田嗣治が水彩画と素描画の作品をパリで公開した時の珍しい図録など、藤田嗣治画伯に関する資料を 展示してあります。 藤田嗣治(Leonard FOUJITA:1886-1968)の年表 明治19(1886)年:11月27日、父藤田嗣章(当時は東京陸軍病院勤務の陸軍一等軍医、大正6年には陸軍軍医総監になる)母 まさの次男として、東京府牛込区新小川町(現在東京都新宿区新小川町)に生まれる。 明治36(1903)年:中学校に通学しながら暁星中学校仏語夜間部でフランス語を学ぶ。この頃、父が上官である森鴎外に息子の進 路について相談し、東京美術学校を卒業してからフランスへ行くことを勧める。 明治38(1905)年:高等師範学校附属中学校を卒業後、3月に東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)予備科に入学。9月には 東京美術学校西洋画科本科に入学。 明治43(1910)年:東京美術学校西洋画科本科を卒業。 大正 2(1913)年:渡仏し、ピカソ、キスリング、モディリアーニなどと交遊し研鑽を重ねる。 大正 3(1914)年:第一次大戦が勃発。日本からの送金が途絶え困窮生活をおくる。 大正11(1922)年:サロン・ドートンヌの審査員に推挙され、この頃よりフランスでは、その地位が確実なものになる。 大正14(1925)年:フランスからシュヴァリエ・ド・ラ・レジョン・ドヌール勲章を授賞する。 昭和 2(1928)年:ベルネム=ジューヌ画廊で作品を展示。 『猫と子猫』を描く。 昭和 4(1929)年:日本に帰国。東京朝日新聞社などで個展を開く。 昭和 5(1930)年:大恐慌の影響で美術市場は低迷したため、モンスーリの家を手放す。 『猫一匹』を描く。 昭和 7(1932)年:アルゼンチンのブエノスアイレスなどで個展を開催。 『婦人の横顔』 ・ 『横たわった婦人』を描く。 昭和11(1936)年:堀内君代と結婚。随筆「腕一本」を出版。 昭和16(1941)年:父が亡くなる(享年88歳) 。帝国芸術院会員となる。この頃より戦争画を終戦まで描き続ける。 昭和18(1943)年:朝日文化賞を受賞する。 昭和20(1945)年:疎開先の神奈川県津久井郡小渕村で終戦を迎える。戦争画がアメリカに移送されることになる。 昭和23(1948)年:近代日本美術総合展に出品。第4回日展審査員。 『優美神』を描く。 昭和25(1950)年:アメリカからフランスへ渡る。 『猫と少女』 ・ 『婦人と子供』 ・ 『母親と二人の子』 ・ 『少女と猫』を描く。描いた 子供達はすべて藤田嗣治画伯の創作でモデルはいない。 昭和29(1954)年: 第27回ヴェネチアビエンナーレで日本代表審査員として、坂本繁二郎、岡本太郎の作品を選出。 『春の二人 の乙女』を描く。 昭和30(1955)年:フランス国籍を取得する。 昭和32(1957)年:レジョン・ドヌール四等勲章を受賞する。 昭和33(1958)年:ベルギー王室アカデミー会員となる。 『庭園の子供達』を描く。 昭和34(1959)年:ランス大寺院にて君代夫人と共にカトリックの洗礼を受ける。洗礼名はレオナール(Leonard) 。 昭和36 (1961)年: 第1回トリステ宗教美術展で金賞を受賞。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに転居。 昭和41(1966)年:ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が完成。 昭和43(1968)年:1月29日チューリッヒの病院で死去、享年81歳。後年、ヴィリエ・ル・バクルに埋葬。4月、日本から勲 一等瑞宝章を追贈される。5月から日本の各地で遺作展が開催された。 平成12(2000)年:藤田嗣治画伯が晩年過ごしたヴィリエ・ル・バクルのアトリエを一般公開する。 平成15(2003)年:10 月6日、ランスのノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に藤田嗣治の遺体が移される。 「藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色」 (2002)より一部抜粋 会 期:平成15年10月27日(月)∼平成16 年3月31日(水) 午前9時∼午後5時(休館 毎日曜日・祝日と学業日程による休業日) 、会期中に一部の 作品を展示替えします 会 場:聖徳大学 クリスタルホール・ギャラリー 入 場:無 料 会場への行き方:JR・新京成とも松戸駅下車、東口より徒歩5分。 問 い 合 わ せ:聖徳大学川並記念図書館 047-365-1111(大代) 学 ○聖徳大学大学院 ○聖徳大学 ○聖徳大学短期大学部 ○聖徳大学幼児専門学校 ○聖徳大学附属高等学校 ○聖徳大学附属聖徳高等学校 ○聖徳大学附属中学校 ○聖徳大学附属聖徳中学校 学校 法人 園 案 内 ○聖徳大学附属小学校 ○聖徳大学附属幼稚園 ○聖徳大学附属第二幼稚園 ○聖徳大学附属第三幼稚園 ○聖徳学園三田幼稚園 ○聖徳学園八王子幼稚園 ○聖徳学園多摩中央幼稚園 ○聖徳大学附属浦安幼稚園 2004 年4月開園(予定) せいとく 東京聖徳学園 〒108-0073 東京都港区三田 3-4-28 TEL.03-5476-8811(代) 発行 聖徳大学川並記念図書館
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