ドイツの人種差別 団員 2 私は在日コリアン三世である。国籍は韓国 テーマについて考察していた。 だが、在日にとって朝鮮民主主義人民共和国 と韓国とは同じ「朝鮮」という国である。戦 ユダヤ人迫害についてホストファミリーた 争で分断されたが、元は同じ国。旧東西ドイ ちと話していると、必ず「日本ではどうか」 ツを同じ「ドイツ」と考えるのに似ている。 と訊かれた。戦時中、中国・朝鮮を植民地支 在日韓国人や在日朝鮮人とも呼ばれるが、英 配したこと、今も続く人種差別問題を説明し、 語を借用して在日コリアンと呼ばれることが 私は在日コリアンだと言った。日本で生まれ 最近増えている。私は朝鮮小学校を卒業し、 育ち、永住権を持っているのに韓国籍を所有 中学校からは日本の学校に通っている。私は していることは世界的に見て珍しいことのよ 自分が韓国人であるということを物心ついた うで、みんな驚いていた。ドイツではドイツ ときから認識し、民族教育を受け、韓国人と 国籍を取得したがる外国人が多いのに、なぜ してのアイデンティティーを持てていると思 あなたは日本国籍を取得できるのに、敢えて う。日本で生まれ、生活し、母国語である韓 しないのかと尋ねられた。差別があるなら日 国語よりも日本語の方がうまく話せ、日本の 本国籍にすればいいのではないかと。そして 教育を受け、日本人の友人の方が多いけれど なぜ母国に戻らないのかとも尋ねられた。こ も国籍は韓国であるという特殊な立場にいる のような質問は日本にいるときにも友人によ せいか、在日外国人に対する差別に対して非 く尋ねられた。 常に関心がある。私が日本で生まれることに まず、在日コリアンの歴史的背景を簡単に なった直接的な要因は第二次世界大戦にある。 説明した。戦時下の日本政府に徴用・強制連 ドイツと聞いて思い浮かぶものに「ヒトラー 行 された者や職を求めて自ら渡航した者と による独裁政治」、「ナチスによるユダヤ人迫 で終戦当時の 1945 年には 210 万人を超える 害」がある。日本もドイツも第二次世界大戦 朝鮮人が日本にいる結果となった。その多く 中、周辺諸国に対してひどいことをしてきた。 はすぐに自力で朝鮮半島に戻ったが、戻るた しかし、ドイツと日本の周辺諸国に対する戦 めのお金や手段がなかった人は取り残された。 後補償などの戦後の対応を比べると、日本は また、財産の持ち出しを制限されたため、朝 ドイツほど解決できていないように感じてい 鮮に生活基盤がなくなっていた人も帰ること た。そこで今回のもう一つの研究テーマとし ができず、結局、1947 年の時点で約 53 万人 て「ドイツと日本の戦後問題」を掲げていた。 が日本に残った。これが在日コリアンの「一 今回訪れたダッハウ強制収容所跡でユダ 世」である。アメリカなどは「出生地主義」 ヤ人迫害の歴史を肌で感じた。ガス室に入っ をとっているので、アメリカで生まれるとア たときは空気の重さ、冷たさを感じ、恐怖で メリカ国民となるが、私たちは「血統主義」 凍りついた。ホストファミリーやその両親、 をとっているので日本で生まれても両親がコ 友人たちと交流する中でヒトラー時代につい リアンならばコリアンとなる。 て、ユダヤ人迫害について、そして東西ドイ 在日コリアンが日本に帰化しない大きな理 ツについていろいろと質問を投げかけ、研究 由は、帰化をすることは民族性を棄てること 17 だからだ。在日コリアンにとっては、国籍が 協定の締結をはじめ、60 年スペイン、61 年 民族的アイデンティティーの拠り所である。 トルコ、63 年モロッコ、64 年ポルトガル、 しかし日本の法務省関係者たちは「日本に帰 65 年チュニジア、ギリシャ、68 年ユーゴス 化をするためには日本社会への同化が必要で ラビアと次々と協定を締結していった。 ある」と公言していたので、私たちは朝鮮籍 しかし、1973 年の第一次オイルショック以 や韓国籍のまま帰化しないのである。また、 来、長引く経済不況の中で外国人労働者の受 私たちは日本社会の一員であり、二世以降は け入れを停止することになった。この時点で 母国語ができない人の方が圧倒的に多いので、 の外国人人口は 400 万人だった。外国人労働 帰国しても生活することさえままならないた 者数は減少したものの、家族合流によって外 め、韓国・朝鮮に帰ることもできない。 国人人口は増加し、1990 年には 493 万人と そう説明すると、ドイツにも深刻な人種差 なった。その後、東側の体制崩壊により、旧 別があると言われた。国籍は有していないが、 西ドイツには大量のドイツ系帰還者や難民が トルコ人 と クルド人 が移民者とその子孫と 押し掛け、1992 年、統一ドイツ全体で外国人 してドイツに居住しており、経済情勢の悪化 居住者数は 600 万人にまで達した。 などから、ネオナチなどによる外国人襲撃な その中でトルコ人は、ドイツにおける最大 どが深刻な問題となっているそうだ。 のエスニック集団を形成した。1967 年には 実際、トルコ人が経営するトルコ料理の飲 17 万 2000 人あまりだった旧西ドイツのトル 食店を街中でよく見かけた。そして「トルコ コ人は、1974 年には 100 万人を突破し、1990 人は嫌いだ」という差別発言を耳にしてしま 年には外国人居住者全体の 3 分の 1 に当たる った。日本にも在日コリアンに対する差別は 161 万人に達した。 あるが、私自身が差別発言を投げつけられた 外国人労働者には2つの選択肢があった。 経験はなかった。 「コリアンは嫌いだ」と言わ 帰国するか、ドイツにとどまるかである。彼 れた気がしてすごく衝撃的で、息が苦しくな らの多くは定住の道を選び、家族を呼び寄せ った。このときから「ドイツの人種差別」に た。トルコ人が定住を選んだ最大の理由は、 ついて調べてみたいと思うようになり、当初 母国の経済不況だった。1960 年代以降、彼ら 掲げていた「ドイツと日本の戦後問題」とい の母国は人口爆発により、彼らが帰国しても う研究テーマを「ドイツの人種差別」に変更 就職できる保証はなかった。しかし、残った し、多くの外国人移住者の中で、今回はトル 彼らの大半は低賃金の肉体労働者に過ぎず、 コ人に焦点を絞った。 低収入ゆえに劣悪な生活を強いられた。やが て彼らは、開発から取り残され、ドイツ人が ドイツにおける外国人労働者の歴史は古く、 住まなくなった都市の一角に集住するように 19 世紀にさかのぼる。ハンガリーやポーラン なる。集住の長所は外国人比率が高いと極右 ドからの農業労働者やルール地方の炭鉱労働 や極左等の勢力が活動しづらく、比較的安全 者の導入から始まった。そして第二次世界大 であるということ、短所はトルコ語で生活で 戦後、東西ドイツに分裂し、旧東ドイツから きるため、ドイツ語習得の機会が少ないこと の帰還者や逃亡者が急速に復興し始めた旧西 である。ドイツ語ができないと職業訓練を受 ドイツの労働力不足を補っていた。しかし、 けるチャンスが少なくなる。 1961 年にベルリンの壁が建設されると、東か 子供たちが成人すると、今度は彼らの就職 らの労働力移入は困難になり、本格的な外国 難が問題になり始めた。貧困、失業、ドイツ 人労働者の受け入れが開始された。 人による差別と偏見。こうした状況の中で、 1955 年のイタリアとの二国間労働者派遣 「第二世代」からは非行や犯罪に走るものも 18 出てきた。もともと民族意識が強いうえ、冷 ちらかに決定しなければならない、という条 戦後、旧東ドイツ人とトルコ人が職を奪い合 件付きだ。 う羽目になったドイツでは、 「 イスラムが好き なら国に帰れ。ムスリムがいなければその分 私のホストファミリーに次のような質問を 雇用も増える」。そんな排外的風潮が人々の間 してみた。 に広がった。東西ドイツの統合、高税率、高 失業率などに伴って、ドイツ人失業者と、家 問)なぜトルコ人を嫌うドイツ人がいるの 族と共にドイツに定住したトルコ人の争いが か。 激化し、犯罪や暴力事件が社会問題にまで発 解)彼らはドイツ語を話そうとしないし、 展するようになったのである。最近はスキン ドイツの習慣を受け入れようとしない。 ヘッドのネオナチによるトルコ人の殺人など トルコ人だけでかたまって、ドイツ人と も頻繁に起こっている。 仲良くしようとしない。だからどうして 一般ドイツ国民は、国内での異民族との争 も対立してしまうのだ。 いに疲れ、大規模な外国人受け入れ主義の平 和市民運動を繰り広げた。一方、異民族(主 このことを聞いて、なぜトルコ人はドイツ にイスラム教徒のトルコ人)を受け入れたく になじもうとしないのか考えた。そして、そ ないキリスト教勢力は、キリスト教民主同盟 の主な原因は宗教ではないかという結論に至 (CDU)が中心になって「二つのパスポート った。 反対」のデモや署名運動を繰り広げた。外国 宗教の自由、政治と宗教の分離が保証され 人融合政策を公約に掲げた社会民主党 ているといっても、ドイツはやはりキリスト (SPD)は、長年続いたコール首相の CDU 教国である。学校では宗教の時間があり、こ を選挙で破り、環境保護や人権擁護を目指す れは義務ではないがカトリックかプロテスタ 緑の党と連立政権を組んで、外国人受け入れ ントに分かれていて、入学式や終業式などは 主義の出生地主義国籍法を成立させた。しか 必ずカトリック・プロテスタント合同のミサ し連立政権成立後、地方選挙で SPD や緑の で始まる。また、バイエルン州はいまだに学 党が負けていくにつれ、 この新国籍法案に終始反 対だった CDU に譲歩し ないわけにはいかなくな っ た 。 こ う し て 、 2000 年 1 月、両親が外国人で も、片親がドイツに 8 年 以上住み、滞在権あるい は無期限の滞在許可があ れば、その子どもはドイ ツ国籍を申請、取得でき る新国籍法が施行された。 ただ、二重国籍の存在を 否定した CDU に譲歩し、 23 歳になった時点でど ホストファミリーとカフェでいろいろな話をしました 19 校の教室に十字架をかけることを義務づけて 問)それならば、争うくらいなら信仰を捨 いる。トルコ人はイスラム教徒である。アッ ててしまってもよいのではないか。 ラーが唯一絶対の神で、一日のうち 5 回、決 解)人生の指標であり、答えであり、戒め まった時間に礼拝し、1 年のうちの決まった であり、支えでもある信仰を捨てれば、 月に断食しなければならないなどの信仰行為 争いごとがもっと増えるだろう。争いの があり、女性は家庭の外で肌を見せてはいけ 原因は資本主義だという人もいる。 ないなどの男尊女卑な教えがある。このよう な行為を集団で一体的に行うことにより、イ 問)自分と異なる宗教を信仰している人を スラム教徒同士はお互いの紐帯を認識するの どう思うか。 だ。イスラム教は宗教的理念のみならず、民 解)どんな宗教であれ、その人を幸せにす 間の慣習や政治に深く関わっている。 るものならば、他人を傷つけない限り信 仰すべきだと思う。 主な原因が宗教であるという考えをホスト ファミリーに言ってみたところ、賛同を得た。 難しい。宗教が絡みだすと問題がさらに難 そこで、宗教のことをいろいろと質問するの しくなる。在独トルコ人に比べ、在日コリア は失礼なことだとは思ったが、無宗教の私に ンはうまく土地になじめている。それはやは はどうしても理解できなかったので、非礼を り、イスラム教とキリスト教、儒教と仏教の 詫びながらさらに尋ねてみた。 それぞれの相容れなさの度合いが違うからだ と思う。しかし、異なる宗教、習慣、文化、 問)あなたたちにとって信仰とはなにか。 それに資本主義も悪くないと思う。大切なの 解)多くの人にとって、信仰は人生の軸で は他を温かく受け入れ、違いを理解し、尊重 あり、答えなのだ。生まれたときから神 することだ。在独トルコ人も在日コリアンも を信仰し、神は私を温かく見守ってくれ 特権を要求しているのではなく、市民として ている。 認められ、社会で平等に扱われることを望ん でいるのだ。まだまだ問題はたくさん残され 問)なぜトルコ人はイスラム教に固執する ているが、お互いが相手の立場に立って物事 のか。 を考えれば少しずつ解決していくのではない 解)トルコ人にとって、イスラム教は文化 だろうか。 であり、生活の一部なのだ。ドイツに来 ても、ドイツで生まれてもそれを変えよ 今回の訪問で、それぞれの国がそれぞれの うとしないし、キリスト教徒とはあまり 人種差別問題を抱えていることを知った。在 交流しようとしない。 日問題だけでなく、もっと広い視野を持ち、 この国際化社会に飛び出していかねばと思っ 問)宗教は異なってもどの教義もつまりは た。 「人を愛せ」と言っているのではないか。 解)キリスト教の教義はそうだ。しかし、 イスラム教では違うことがある。主な原 因のひとつはイスラム教の聖書であるコ ーランが多様に解釈されていることだと 思う。聖戦は正義であるという人もいる し、平和的な宗教だという人もいる。 20
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