Ⅴ 東マレーシアの魅力(2) - 特定非営利活動法人 アジア近代化研究所

Ⅴ 東マレーシアの魅力(2)
―サバ州:The Land below the Wind―
上原 秀樹 (農学博士)
アジア近代化研究所副代表、明星大学教授
1.はじめに
サバ州は、3 月から 4 月にかけて乾季の時期になることから、東南アジア最高峰のキナバ
ル山への登山客またはエコツアー客には、この時期のツアーが好まれている。キナバル山
を中心に東西に経緯 30 度の範囲内には南アジアのインドからインドシナ半島諸国、東南ア
ジア島嶼国、長江以南の中国南部、韓国、北海道を除く日本列島が位置するが、この地理
的範囲内をモンスーンアジア地域という。特にキナバル山が位置するボルネオ島(カリマ
ンタン)は、世界でも「生物多様性」の豊富さで知られている。したがって、世界遺産と
して登録されているキナバル山周辺の国立公園内も動物種、植物種の「種の多様性」が豊
富である。
キナバル山の名称の語源は、サバ州の少数部族である Kadazan Dusun の言葉で、キナ
(Cina)は中国、バルは未亡人を意味するという。Kadazan Dusun の民話によると、昔、南
シナ海で漂流してきた中国の王子とこの地(Ranau)の村の娘との民話の中で、夫婦になっ
た後中国に帰郷した王子をキナバル山から王子の帰りを毎日一途に待ち続ける女性をたた
えたことにその名前の由来があるという。女性の永遠の愛と誠実に夫に遣う美しさを表現
したのがキナバル山の名前であろうか。別の民話では、語源が Aki Nabalu で死者の魂が登
る場所で「死者の聖地」とも呼ばれている(以上は、長谷川啓之監修『現代アジア事典』
文真堂刊、を参照)
。
本稿では、サバ州の魅力を主に歴史的観点からひも解いて整理して紹介してみたい。
2.歴史的ロマンに満ちた北部ボルネオ:サバ州
The “Land Below the Wind” ― この名称は北部ボルネオ地域(North Borneo)
、すなわちサ
バ州に与えられた名誉ある呼び名である。アメリカの著名な作家、アグネス・キース女史
(1901~1982 年)は、第二次大戦前にイギリスの保護区としての北部ボルネオの最大都市であ
ったサンダカン市を中心に北部ボルネオで 5 年間居住した経験を持つ。彼女は夫に勧めら
れたこともあり、深いジャングルで覆われたこの熱帯の地で得られた豊かな経験を基に、
1939 年に Land Below the Wind (Boston, Little Brown and Company, November)(『ボルネオ―風
下の国―』三省堂、昭和 15 年)を著した。この著書がベストセラーとなり、本のタイトル
名がサバ州の代名詞となった。それがその名称の由来である。
The Wind とは、特にボルネオ島の北部に位置するミンダナオ島以北のフィリピン諸島を
強烈な暴風雨で襲い、東から西に向けて通過する台風のことを意味する。したがって、land
below the wind とは、台風ベルト圏外の「暴風雨から開放された平穏な大地」と意訳できる。
それゆえに、サバ州を含むボルネオの熱帯多雨林は 1 億年以上の世界最長級の歴史を持つ
にもかかわらず、今日まで多種多様な動植物の生息を安定的に維持することができ、
「生物
多様性のホットスポット」となりえたのであろう。今日でも 50∼70m 級の世界で最も背丈
のあるフタバガキ科の樹木の生態系が深く豊かな熱帯多雨林の森を形成している。しかし
ながら、70 年代から 90 年代にかけて、これらフタバガキ科が輸出用南洋ラワン材として伐
採され原生林の面積が縮小されてきた歴史があることは悲しく、残念なことである。
このベストセラーとなった Land Below the Wind が第二次大戦中にボルネオ地域の捕虜収
容所所長として赴任することになる広島県出身の菅辰次中佐に愛読されていたことで、家
族とともに捕虜となっていたアグネス・キース女史に収容所内での執筆を継続させるきっ
かけを与えることとなった。彼女は家族とともにサンダカン市の沖合に位置するベルハラ
島で 8 か月間の捕虜生活を送った後、サラワクのクチン市近郊の収容所に送られた。大戦
中北部ボルネオを統治した他の日本軍の兵士にもボルネオ地域を知る貴重な資料として読
まれたようである。さらに、彼女が 1947 年に著した別のベストセラーの名著で映画化され
た Three Came Home (Boston, Little Brown and Company, April)では、北部ボルネオを支配して
いた日本軍による彼女と家族に対する捕虜としての扱いが克明に描かれており、興味深い。
Three Came Home は、アグネスが捕虜収容所内で菅辰次から特別に配慮され渡された紙と鉛
筆の日誌がもととなっている。
アグネスが結婚した相手のヘンリー・キースもまたボルネオ島の森林とのかかわりが深
い英国人であった。彼は、戦前・戦後を通じて北部ボルネオの農務局及び森林局長官とし
ての経歴を持つ人物であった。ボルネオの内陸部とその周辺地域に詳しいヘンリーに同伴
して得た旅の経験は彼女の執筆材料を豊かにしたに違いない。彼らが戦後 1947 年に建築し
およそ 5 年間住んだ「アグネス・キースの家」は、サバ州博物館と連邦政府によって修復
され、今日ではサンダカン近郊における観光スポットの一つとなっている。
さらに、アグネス・キース女史の東南アジアへの想いに影響を与えた人物として父親を
挙げないわけにはいかない。彼女の父親は今日ではアグリビジネスの世界的なコングロマ
リットとして位置づけられるデルモンテ社の創始者の一人であった。デルモンテ社は、フ
ィリピン諸島を拠点にパイナップル、バナナ等の栽培から加工・輸出とプランテーション
経営を行っているが、2011 年からはサラワク州とサバ州でも生食用パイナップルの栽培を
始める計画を持つ。アグネスの東南アジアへの思い入れに対し、父親の職業と活動が大き
な影響を与えたことは間違いないであろう。
もう一つ、サバ州にロマンを感じさせるものとして、その州名の由来をあげておこう。
サバ(Sabah)州はマレーシア連邦全域の中で最も北東部に位置することから、その名称が
持つ言葉の意味は「日が昇る」または「朝方」である。ここでは、マレーシア国民に明日
の希望をもたらす州として 1962 年 9 月、シンガポール、サラワク州とともにマラヤ連邦に
組み込まれたのではないかと、推測できる。この朝日を満喫できるのが、キナバル山であ
る。
日が昇る、または Rising Sun(日の出の国)といえば、日本の代名詞としても使用される
場合が多いが、第二次大戦直前までの日系企業と日本人が英領「北ボルネオ会社」の統治
下にあったサバ地域の経済開発と発展に果たした役割は極めて重要であり、宗主国のイギ
リスに勝るとも劣らない社会・産業基盤を残した。この視点からの分析に関し、マレーシ
ア人研究者の最近の研究報告を以下に挙げておく(Sabihah Osman, “Japanese Economic
Activities in Sabah from the 1890s until 1941,”Journal of Southeast Asian Studies, March 1, 1998)。
戦後イギリス政府はサバ州において反日教育を展開しただけでなく、日本人の財産・遺産
を没収または焼却し、日本人全員を本国に強制送還したため、貴重な物的資料が失われて
しまった。しかし Osman による論考は、戦後数少なく点在した史実を網羅・集約し、客観
的な視点から日本人がサバ州の発展に果たした役割を整理・分析している。このことから、
貴重な文献としてここに挙げておきたい。
無償で片道乗車券を与える必要があった中国からの労働者の誘致条件に対し、日本から
の労働者は、主に自己負担で渡航用の船賃をねん出しなければならなかったこともあり、
「北ボルネオ会社」は日本からの労働者の受け入れには積極的であったといわれる。これ
に対し、英国の本国政府は、海上覇権の戦略的見地から、日本人労働者を呼び寄せるには
反対であった。しかし、日本人・日系企業と「北ボルネオ会社」の共通の利害が功を奏し、
多くの日本人労働者がタワウ地域を中心に移り住んだ。タワウ市を中心とした林業、漁業、
マニラアサの製造業などの産業基盤の構築に貢献した企業として、日産系の天然ゴム農園
(タワウゴム農園=久原農園)と三菱グループ系を挙げることができる。三菱系グループ
の久保田農園は、1918 年には沖縄から 42 人の労働者を受け入れている。日本人によって開
発された主要な産業基盤とインフラの遺産は、日本が敗戦国となり、その後植民地政策を
開始した戦勝国のイギリスに没収され、残念ながら現在では計り知れないものとなってし
まった。この日本人がサバ州の開発に果たした役割については次回のニュースレターで紹
介することとしよう。
3.サンダカンにみるロマンから悲劇の街へ
すでに述べたように、サバ州のイメージはロマンを感じさせるものが多くあるが、それ
とは対照的に、英領北部ボルネオの時代に首都として位置づけられたサンダカン市は、悲
劇を象徴する街でもある。サンダカンについては先の「東マレーシアの魅力(1)」で山崎
朋子の著書『サンダカン八番娼館』と関連させて紹介したように、日本からの「からゆき
さん」
(娼婦)の悲劇の物語が描写されて日本人に大きなインパクトを与えた。1891 年英領
北部ボルネオのセンサスでは 71 人の日本人娼婦が確認されている。
さらにもう一つ、サンダカンは、もともとスールー語で、「質に入れた土地」を意味する
ようである。要するに、イギリス人の銃器の密輸業者であったウィリアム・コーウィーが
当地を支配していたスールーのスルタン(王)から貿易港として地理的に有利な立地条件
を備えているサンダカンの土地を借りて、「質に入れた土地」として名づけたもので、ロマ
ンを感じさせるものとは言い難い。
「東マレーシアの魅力(Ⅰ)
」ですでに述べたが、サンダカンとラナウ間の「死の行進」
、
「ラブアン玉砕」に加え、サンダカンの悲劇が最高潮に達したのは、第二次大戦中に連合
軍から集中爆撃を受けた時であろう。また日本軍が応戦しサンダカンを焼き払ったことで
街が廃墟と化した。そこで、戦勝国のイギリスは、戦後は英領北部ボルネオの首都を南シ
ナ海に面したコタキナバル市(当時はジェッスルトンと呼ばれていた)に移すこととなっ
た。
州都のコタキナバル市には、市の南部を起点に 1896 年に建造された北ボルネオ鉄道が南
方に延びている。
2009 年以来運休中であったが、2011 年 7 月から再開を予定しているので、
車中で昼食をとりながら鉄道の旅を満喫することができる。車窓からボルネオの風を受け
ながら、アグネス・キース女史も経験したであろうロマンを感じることができるのではな
いか。
4.コタキナバルと関連する写真の紹介
1)世界遺産「キナバル国立公園」近くに設けられた少数民族、カダザン族の土産物屋。ただし、日常生
活用品と白菜などの温帯野菜に加え生鮮果実も販売している(2000 年 8 月撮影)
。
2)コタキナバル市港湾内の早朝の魚競市
(2000 年 8 月、4:00am ころ)
3)サメはフカヒレ用に解体してから持ち帰る(2000 年 8 月、4:00am ころ)
。
4)朝競市では魚を調達する多数のフィリピン系女性も参加する(2000 年 8 月撮影)
。
5)サバ州は、フィリピンのミンダナオ島との関係が深い。ミンダナオ島には、日系 2∼3 世の住民も多い
(1999 年 8 月撮影)
。
6)ミンダナオ島ダバオ市近郊におけるフィリピン日系人会のメンバー(1999 年 8 月撮影)
。日系人であ
ることに誇り持つ。