エンジニアの魁(さきがけ)、ブルネルとスチーブンソンの対比/菅建彦

I.K.ブルネルと R.スティーヴンソン
鉄道技師としての業績を比較する
菅 建彦
(交通博物館)
I. K. Brunel vs. Robert Stephenson
Comparing Their Achievements as Railway Engineers
Tatsuhiko SUGA,
Transportation Museum, 1-25 Kanda Suda-cho, Chiyoda-ku, Tokyo 101-0041
Alongside Thomas Telford, Isambard Kingdom Brunel and Robert Stephenson are regarded as the greatest engineers of the early
Victorian age. While George and Robert Stephenson represented the main stream of railway engineering that had emerged from coal
mines in northern England, I. K. Brunel was a brave challenger willing to introduce new techniques that were disliked by the orthodox
engineers. The achievements of I. K. Brunel and Robert Stephenson in railway engineering were probably almost equally-matched, but
Brunel’s bold and determined attempts such as the introduction of broad gauge and atmospheric traction still attract many people.
Keywords: Isambard Kingdom Brunel, Marc Isambard Brunel, George and Robert Stephenson, civil engineer, railway engineering, ,
1 生い立ちの相違
支配して学校教育の整備が大陸諸国よりはるかに遅れていた
イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom
ことも事実である。ブルネルの気質や仕事ぶりには、やはり
Brunel)は 1806 年 4 月 9 日、イングランド南部の軍港ポーツ
色濃くフランス的なものが流れているように思われるが、こ
マス近郊で生まれ、1859 年 9 月 15 日、ロンドンで没した。ロ
れはフランス人の父に育てられ、フランスの学校教育を受け
バート・スティーヴンソン(Robert Stephenson)は 1803 年 10
たことと無関係ではあり得ないであろう。
月 16 日、イングランド北部のニューカッスルに近い炭坑町ウ
ブルネルの父マークはフランスのルーアンに近い農村で生
ィリントン・キーで生まれ、1859 年 10 月 12 日、ロンドンで
まれ、神学校で僧職になるための教育を受けていたが途中で
没した。スティーヴンソンの方が三歳年長であったが、二人
海軍を志し、ルーアンで士官となるための教育を受けた。海
は同時代を生き、ともに鉄道という新しい技術の発展に尽く
軍士官になるために航海術や砲術に必要な高等数学を学んだ
し、大きな業績を残した。
ことが、後に偉大な技術者となる基礎として役だったと思わ
ブルネルの父は周知のように、フランスで生まれ英国に帰
れる。海軍士官として勤務しているうちにフランス革命の嵐
化した技術者で、世界で最初にシールド工法でテムズ川に水
の中で失職したマークは、アメリカに渡ってニューヨーク市
底トンネルを建設したことで知られるマーク・イザムバー
の技師を務めていたが、自ら発明した艦船用のブロック滑車
ド・ブルネル(Marc Isambard Brunel, 1769–1849)である。母
製造機を英国海軍に売り込むことに成功し、1799 年英国に移
親は英国人であった。スティーヴンソンの父は、これまた周
って、間もなくルーアン時代に知り合った婚約者の英国女性
知のように、蒸気機関車の改良と世界最初の鉄道の創始者と
ソフィア・キングダムと結婚した。
して知られるジョージ・スティーヴンソン(George Stephenson,
このように、ブルネルの父マークは、当時のヨーロッパで
は高い教育を受け、国際体験も豊かな人だったし、商人の娘
1781–1848)であり、母親も英国人であった。
英仏混血のブルネルは、教育もフランスで受けた。ブルネ
であった母親も、フランス語習得のためルーアンに留学した
ル自身は「フランスの書物は抽象的な科学を扱うだけで精神
経験を持っていた。つまり、ブルネルは当時としては教育水
の満足が得られるだけだ。実際的な工学の知識は鍛冶屋や車
準の高い、開明的な両親のもとで生まれ育ったと言える。
大工の店で実地に学ぶ方が良い」と言って英国の経験主義を
これに対してスティーヴンソンの父ジョージは、北イング
買っていたとされるが、当時のイギリスは自由放任の思想が
ランドのニューカッスルに近い炭坑町ワイラムで炭鉱労働者
1
の子として生まれ、体系的な教育を受ける機会に恵まれなか
George and Robert Stephenson であり、ベケットの書物の表題も
った。鋭い直観にめぐまれ、優れた技術者となる資質を持っ
Stephensons’ Britain で stephenson は複数形、つまり両者ともス
ていたが、文章を書くことができず、まして自らの知見を数
ティーヴンソン父子を一体として扱っている。たしかに、ス
学によって理論化するようなことは全く出来なかった。
ティーヴンソン父子が共同で行った事業も少なくないし、そ
基礎教育の重要性を知っていたジョージは、息子ロバート
の活躍舞台は主に鉄道の分野に限られていた。
の教育には非常に熱心で、おかげでロバートは一貫した教育
を受け、エディンバラ大学で自然科学を機会も得た。
3 鉄道との関わり方の違い
ブルネルのように海外で教育を受けることはなかったが、
独学で土木技術を習得したスコットランド出身のテルフォ
若き日のロバートは南米コロンビアで鉱山の採掘に従事し、
ードは、メナイ海峡の吊り橋、カレドニア運河、道路建設と
多数の荒くれ男を統御する術を学んだとされる。
舗装法の改良、アバディーンやダンディーの港湾建設など多
彩な業績を残し、1818 年に創立された英国土木技術者協会
2 近代技術史の中で占める位置
(Institution of Civil Engineers)の初代会長を務めた大御所的存
I. K. ブルネルと R. スティーヴンソンは互いに好敵手でも
在である。
ICEは今日では英国の土木技術者の協会であるが、
あり、また晩年は親しい友人でもあった。この二人はヴィク
創立当時は機械工学や電気工学のような専門分野は存在せず、
トリア時代初期を代表する大技術者として並び称されること
civil engineer の意味は今日よりはるかに広義であった。従って
が多いが、創業期の鉄道技師としては、この二人のほかにジ
この時代の civil engineering は、土木技術というよりも民生技
ョゥゼフ・ロック(Joseph Locke, 1805–1859)の存在を忘れる
術全般を指していたことに注意する必要がある。鉄道が出現
ことはできないし、近代土木技術の開拓者という意味では、
するのはテルフォード晩年のことであったため、彼は鉄道分
この二人よりも一世代前のトマス・テルフード(Thomas
野にはほとんど業績を残していない。
Telford, 1757–1834)を忘れる訳にはいかないであろう。技術
これに対しスティーヴンソン父子は鉄道において名声を確
者の評伝や鉄道史・交通史の名著を多数残した L. T. C. ロゥル
立し、彼らの業績はほぼ鉄道の分野に限られている。鉄道は
ト(Lionel Thomas Caswell Rolt, 1910-1974)は、ブルネル、ス
何もなかったところから突然生まれたのではなく、中世ヨー
ティーヴンソン父子の優れた伝記のほかに、トマス・テルフ
ロッパの鉱山で用いられた木製の軌道と車両を起源とし、長
ォードの伝記も残し、あたかも三部作のようにいずれもペリ
い年月を経て改良を加えられてきたものである。
カン叢書に加えられているし、デリック・ベケット(Derrick
木製の軌道と車輪のかわりに鉄の軌道と鉄の車輪が用いら
Beckett)もまた、Brunel's Britain, Stephonseons' Britain, Telford's
れるようになり、次に蒸気機関を小型軽量化して車両に搭載
Britain の三部作を発表し、この三大技師の仕事を工学者の立
することが試みられた。リチャード・トレヴィシック(Richard
場から詳しく紹介している(注)
。
Trevithick, 1771–1833)が作った機関車が、1804 年 2 月、南ウ
もともとは軍事技術者や工兵を意味した engineer という語
ェールズの炭坑で数両の石炭車を牽引して走行してから、今
が民生のための技術者(civil engineer)をも意味するようにな
年はちょうど二百年になるので、英国では記念行事が盛んに
ったのは、オックスフォード英語辞典(電子版 Shorter Oxford
行われた。トレヴィシックの発明以後も多くの人々の努力で
English Dictionary)によれば 17 世紀前半のことらしいが、最
蒸気機関車の性能が向上し、いくつかの炭坑で専用鉄道が実
初は技術者というよりも職人に近い存在であったであろう。
現した。これらの成果を総合して世界最初の実用的な公共鉄
それが技術部門の如何を問わず一定の資格を有する専門職と
道、つまり不特定多数の荷主や旅客を対象に輸送事業を営む
いう、今日的の意味の技術者を指すようになるのは、同辞書
鉄道としてストックトン・ダーリントン鉄道を実現(1825 年
によれば 19 世紀半ばのようだが、
19 世紀前半に活躍したテル
開業)したのが、北イングランドの炭坑で自らも機関車の改
フォード、スティーヴンソン、ブルネルらは今日的な技術者
良に心血を注いだジョージ・スティーヴンソンであった。
の元祖ないしは原型として、現代人からも尊敬される際だっ
その子ロバートもまた、青年時代には蒸気機関車の改良に
た存在ということではないかと思われる。
実績をあげ、父ジョージとともに世界最初の本格的都市間鉄
面白いことに、ロゥルトのスティーヴンソン伝の表題は
道リヴァプール・マンチェスター鉄道(1830 年開業)の建設
2
に貢献し、さらに本格的な長距離都市間鉄道たるロンドン・
ブルネルはロンドンから真西の港湾都市ブリストルに至る
バーミンガム鉄道(延長 180 km。1838 年全線開業)の建設を
延長 190 km 弱のグレイト・ウェスタン鉄道を建設し、1838
指揮し、ニューカッスルのハイ・レヴェル橋、メナイ海峡の
年から完成区間で順次営業を開始して、1841 年に全線開業し
ブリタニア橋など当時としては画期的な規模の鉄橋を作った。
た。その後、この鉄道を延長する形で西南部のデヴォン、コ
鉄道は炭坑で生まれたので、北イングランドの炭坑で生ま
ーンウォール方面への鉄道を建設した。
れ育ったスティーヴンソン父子にとっては身近な存在であり、
これに対してスティーヴンソンは、ロンドンから北西に向
彼らの天職とも言えるものであった。今日世界の標準軌間と
かい中部イングランドの工業都市バーミンガムに至る延長
される 1345 mm の起源は、ジョージが若き日に機関車改良に
180 km のロンドン・バーミンガム鉄道を建設し、1838 年に全
取り組んだキリングワース炭坑の専用軌道の軌間 4 フィート
線開業した。その後の彼の鉄道建設は北部イングランドに集
8 インチを、その後彼が建設した鉄道に用いたことにある。ス
中している。
ティーヴンソン父子こそ、イギリスの炭坑で生まれた鉄道を
トンネルではブルネルのボックス・トンネル
(全長 2918 m、
発展させて来た正統派を代表する技術者であった。
現存)に対し、スティーヴンソンのキルズビー・トンネル(2233
これに対してブルネルは、スティーヴンソンと同様に親子
m、現存)がある。前者の方が長いが地質には恵まれ、後者
二代の技術者でありながら、父子の仕事の重複は少なく、ブ
は短かいが大量の水が噴出し地盤が液状化するという難工事
ルネルの活躍舞台は父親の世界を超えて拡大した。
であった。
炭坑で生まれたスティーヴンソンにとって、鉄道は自分の
石ないし煉瓦の橋梁では、ブルネルには扁平の煉瓦アーチ
身近な世界の問題であったのに対し、ブルネルにとっての鉄
橋として良く知られる、前述のメイドンヘッドのテムズ川橋
道は、生まれ育った環境からは遠い存在であった。外部から
梁があり、ロバートには 28 連の石造アーチからなるロイヤ
鉄道の世界に飛び込んだブルネルは、それまでの鉄道の発展
ル・ボーダー橋(イングランドとスコットランドの国境に位
経緯などに毫も配慮する必要を感じなかったから、自らの直
置する)がある。いずれも現存し幹線の輸送を支えている。
観と論理的思考が正しいと判断したものに向かって突進する
鉄橋としてはブルネルにウィンザーのテムズ橋梁(現存)
、
ことが出来たと思われる。
この結果生まれたのが 7 フィート 4
チェプストウのワイ川橋梁(現存せず)
、プリマスとコーンウ
分の 1 の超広軌や、大気圧鉄道であったと言えよう。
ォール州ソールタッシュの間に建設されたロイヤル・アルバ
ブルネルは鉄道の分野でトンネル掘削、橋梁架設、停車場
ート橋がある。これに対しスティーヴンソンはニューカッス
の設計と建設などで大きな実績を上げた、中でもロンドンの
ルのハイ・レヴェル橋(一階道路、二階鉄道の併用橋、現存)
、
パディントン駅のアーチ式大屋根(鉄製)
、メイドンヘッドの
コンウェイの箱桁橋(現存)
、メナイ海峡のブリタニア橋が傑
テムズ川橋梁(煉瓦アーチ橋)
、ボックス・トンネル、イング
出した存在である。
ランド西南端に近いプリマス郊外のテイマー川に架かるロイ
ロイヤル・アルバート橋とブリタニア橋はブルネルとステ
ヤル・アルバート橋(鉄橋)などは、いずれも記念碑的業績
ィーヴンソンの代表作であるだけでなく、いずれも建設当時
であり、今なお現役の構造物として鉄道輸送を支えている。
の最先端の技術水準を示す記念碑的作品であった。1850 年に
ブルネルにとって、鉄道はあくまで自らの関心と能力を生
完成したスティーヴンソンのブリタニア橋は、錬鉄製の箱桁
かす挑戦の場であり、仕事の場を鉄道に限定する必然性は全
の内部に線路を敷き列車を通すという独特の構造を持ち、中
くなかった。彼の天賦の才能は鉄道以外の分野でも遺憾なく
央に径間 140m の桁を二連、両端に径間 70 メートルの桁の合
発揮され、ブリストルのクリフトン吊り橋や、当時としては
計四連を廃し、これらをつないで連続桁にするという画期的
画期的な性能を持つ汽船グレイト・ウェスタン号、グレイト・
なものであった。メナイ海峡を通る帆船の軍艦を安全に航海
ブリテン号、グレイト・イースタン号を建造した。
させるためにアーチ構造が許されず、やむなく箱桁を採用し
たものである。ブリタニア橋は完成後 120 年を経た 1970 年、
4 鉄道分野における業績の比較
惜しくも火災で損傷を受けたため箱桁を解体撤去し、残った
ここで、鉄道分野におけるブルネルとスティーヴンソンの
橋脚と橋台を利用して鋼鉄製トラスのアーチを建造して、鉄
代表的な業績を簡単に比較して見る。
道だけでなく道路も通る二層構造の橋として再建された。
3
これに対してブルネルのロイヤル・アルバート橋は、錬鉄
師協会の会長、名門土木技師協会の会長などを務め、また多
製の巨大な管をまげて作ったアーチと錬鉄製のアイバーを連
数の技師を雇ってコンサルタント会社を経営し国際的規模の
ねて作ったサスペンション・チェーンを組み合わせた構造に
ビジネスをしていたスティーヴンソンは、ほとんど国葬とい
よって錬鉄製のプレート・ガーダーの桁を吊る合成桁(径間
って良いほどの栄誉を受け、遺体はウェストミンスター寺院
138m)二連を水面から 30 メートルの高さに架設した。1859
でテルフォードと並ぶ位置に埋葬された。
年に完成してから何回も補強工事を受けながら生き延びて、
これに対して、生涯現場第一線に身を置いたブルネルは、
今も健在である。
ロンドン西部郊外の両親の眠る墓地の一角に葬られた。
停車場では、ブルネルの代表作はロンドンのパディントン
才気煥発で天才肌のブルネルは、大事なことを人に任せる
駅とブリストルのテンプル・ミーズ駅で、錬鉄製アーチ構造
ことが出来ず、常に自ら実行しなければ気が済まないという
の大屋根を持つパディントン駅は今もロンドンの代表的ター
タイプの仕事師であった。これに対してスティーヴンソンは
ミナルとして機能している。スティーヴンソンが関与した現
温厚な人柄で、信頼する部下には重要な仕事も任せるタイプ
存の駅建築は少ないが、建築家ジョン・ドブソン(John Dobson,
であったから、人に慕われ門下から多くの人材が育った。ブ
1787–1865)が設計したニューカッスル中央駅の大屋根の構造
ルネルの本領はあくまで天才的な技師という点にあったが、
設計は彼の手にかかるとされている。
スティーヴンソンには経営者、指導者に求められる資質が備
鉄道技術の確立のための試行錯誤が続いていた時代、ブル
わっていたと言えよう。
ネルもスティーヴンソンも手痛い失敗を経験している。ステ
イギリスでは、ブルネルもスティーヴンソンもまるで昨日
ィーヴンソンは鋳鉄と錬鉄の合成桁の弱点を過小に評価した
まで生きていた人であるかのように、ごく普通の市民によっ
ため、1847 年にチェスターのディー川橋梁で進行中の列車を
て語られることがある。彼らの仕事は人々によく記憶され、
支えきれなかった橋梁が崩落するという大事故を起こしてい
かれらの評伝は今も読者を失わない。
る。蒸気機関車の性能に疑問を抱いていたブルネルは、1840
しかし、後世の人気はどうやらブルネルの方にあるようだ。
年に試験運転が公開された大気圧鉄道に注目し、1847 年から
ロバートの人柄や生き様は非常にイギリス的で、才気走った
48 年にかけてサウス・デヴォン鉄道にこの方式を採用したが、
ブルネルの生き様はあまりイギリス的でないように思われる
間もなく彼自身も失敗を認め、機関車方式に戻している。
が、却って現代のイギリス人には魅力的に映るのかも知れな
ブルネルが有利と信じてやまなかった 7 フィートの超広軌
い。ブルネルとスティーヴンソンの業績を回顧する評伝のた
鉄道は、性能面では明らかに優位を示していたにもかかわら
ぐいは、今も毎年のように新たなものが出版されているが、
ず、結局はスティーヴンソンの標準軌で作られた鉄道の方が
その数もブルネルに関するものの方が多いようだ。
はるかに多いという理由により敗退する悲運を見たが、これ
をもって彼の技術的失敗とするのは少々酷に過ぎよう。
こうして見ると、鉄道技師としてのブルネルとスティーヴ
(注)
ンソンの業績はほぼ互角ということではなかろうか。
参考文献紹介を兼ねて、ロゥルトとベケットの書を掲げる。
L.T.C. Rolt, Thomas Telford, Longman 1958, Pelican 1979
5 技師に徹したブルネルと名士になったスティーヴンソン
L.T.C. Rolt, George and Robert Stephenson: The Railway Revolution,
晩年のブルネルは造船技師としての仕事にのめり込み、巨
Longman 1960, Pelican 1978
船グレイト・イースタン号の建造に心血を注ぎ込んだ。グレ
L.T.C. Rolt,, Isambard Kingdom Brunel,
イト・イースタン号の建造をめぐって経営面でも技術面でも
Longman 1957, Pelican 1970
多くのトラブルが発生し、疲労困憊して心臓発作で倒れたブ
Derrick Beckett, Telford’s Britain, David & Carles 1987
ルネルは、1859 年 9 月 15 日に 53 歳でこの世を去った。
Derrick Beckett, Stephensons’ Britain, David & Charles 1984
ブルネルが没したときスティーヴンソンも死の床にあり、
Derrick Beckett,, Brunel’s Britain, David & Charles 1980
四週間後の 10 月 12 日、56 歳の誕生日を目前にして没した。
長らく保守党の下院議員をつとめ、創立後間もない機械技
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