ブルガリア

ブ ル ガ リ ア
(小山洋司編『東欧経済』
、世界思想社、1999 年 9 月)
第9章 ブルガリア
1 「経済改革」
経済システムの非効率性、非柔軟性をそれなりに認識してきていた社会主義は、1960年代以降、各国各様
の経済システム改革を本格的に追求しつつあった。ブルガリアの場合、
「経済改革」は1962∼73年と197
9年からの時期の2回にわたって試みられた。特に後者のそれは、ソ連のペレストロイカに鼓舞されてより一層
抜本的な内容を打ち出そうとするものであった(1)。
1989年末からの反社会主義=反共産党革命の開始は、この「経済改革」の続行に対する強烈な異議申し立
てであり、新たな経済改革(体制移行)の追求であった。社会主義の「経済改革」はどのような結末を迎えたの
であろうか。
ブルガリアの社会主義社会モデル
1987年7月、ブルガリア共産党中央委員会総会は、その後「経済改革」の基本理念を規定するものとして
位置づけられることになった「ブルガリアの社会主義社会モデル」
(一般に「7月概念」と呼称された)を採択し
た。これによれば、ブルガリアの社会経済発展の主要な問題は、社会主義制度の本性からして解決されていてし
かるべき問題が未解決のままになっていること、外延的ファクターの残存、現実の生産力に転化するという点で
の科学の立ち遅れ、勤労者のいきいきとした利害を歪曲する否定的諸現象、大衆消費用商品・サービスの不足、
指導的幹部の官僚主義的体質、党の指導的役割の歪曲、コメコン諸国の生産統合・科学技術統合の立ち遅れ、個
人崇拝現象の一定の再発などであり、これらを解決するためには、社会主義の客観的合法則性、社会主義的所有、
改革および発展の決定的な力としての人間、社会発展の原動力としての人々の利害、新しい型の自主管理、社会
組織その他の改革、共産党の改革、より高度な文化とヒューマニズム、モラルの向上に立脚しなければならない
とされた。
ここには当時の社会主義社会の当面する普遍的な問題が指摘されており、それらを解決するための基本的な環
として「所有・人間的要因・自主管理」を設定し、国家管理社会主義から自主管理社会主義への移行を展望しよ
うとする路線が示されている。
これを経済モデルに限定して言えば、モデルの基礎に所有関係の発展を据えること、行政的方法から経済的方
法に国民経済管理の方法を移行させること、価値法則・商品=貨幣関係・分配関係をモデルの中に適切に位置づ
けること、の3点に要約されよう。これは、これまでの経済モデルの欠陥が所有関係の発展の停滞、所有からの
「疎外」
、価値法則・商品=貨幣関係の軽視、浪費的で粗放的な計画・管理モデル、経済的不均衡の拡大、
「均衡
的停滞」
、一連の原材料・商品・サービスの慢性的「不足」などに見いだされていることに由来している。
「7月概念」では、その「単一・不可分性」が強調されつつも、社会主義的所有はさまざまな形態(国家的、
協同組合的、共同体的、グループ的、個人的、混合的等)を採りうるとして、所有形態の多様性が認められると
ころとなり、また所有関係の成熟の基準も、社会化の手段・方法という基準から、モチベーション(動機付け)
の力、国民の社会的エネルギーを引き出す力、社会主義的所有のより完全な経済的・社会的実現の達成という基
準へとシフトするところとなった。計画原則の枠組みの中でではあったが、所有形態の多様性が認められたこと
の意義は大きかった。
独立した自由な経営活動主体としての「会社」の設立
所有関係の発展と経営活動における自主管理の発展とは相互規定的であった。
経営活動の自主管理に関しては、
1989年1月に「経営活動に関する法令第56号」が制定された。
同法令は、国家的所有はもとより、協同組合・社会組織・市民・外国人所有等を含むすべての財産に依拠して
行われる経営活動全般に対して適用され、
「会社」を経営活動実現のための基本形態と規定した。
「経営活動は社
会経済発展の戦略と目的に関する国家の計画=規制機能と、会社の自立性、市場メカニズムの運動との調和、お
よび法律との適合性の下で実現される」という重大な制約を持ってはいたが、
「会社は、財産的・社会的・組織的
に独立した経営活動遂行者であり、個別の商号を持ち、経営計算に基づいて経営を行う」と規定され、会社が自
由な経営活動の遂行者であると同時に、自分の顔を持ち、自分の責任で経営を行う自主管理主体であることを明
確にするものであった。
法令公布後、全国各地で数多くの、さまざまな種類の会社が設立されるところとなり、ブルガリア経済におけ
る会社組織の導入はもはや後戻りすることのできない現実となっていた。問題は、
「7月概念」の提起した自主管
理社会主義への移行という展望が切り開かれるような形で会社が設立されたのかどうか、設立された会社が真に
独立した経営単位=商品生産者として機能する現実的な可能性を持っていたのかどうか、という点にあろう。
1989年12月の中央委員会総会は、事前調査なしの、カンパニア的・行政的方法での会社の創設、伝統的
な方法での経営者の選任、生産の民主化と労働集団の自主管理を妨害するための会社組織の利用、テクノクラー
ト的傾向の強化等々を指摘している。そしてこのような設立の経緯に見る限り、会社が商品生産者として機能す
る独立の経営組織となるために必要とされた諸条件、すなわち、不必要な国家介入からの保護、国家装置の官僚
主義的な要請の排除、活動の自由にとって必要な経済的諸条件の確保等が十分に保障されなかったことは明らか
であり、
したがって、
全体として国家管理経済システムの束縛から逃れ得たとはとうてい見なすことができない。
ブルガリアの現状を反映する新しい経済的思考に沿った、国家機関の活動における全く新しい内容の下での会
社組織の創出に自主管理社会主義への移行の展望を見いだそうとした知識人の期待もむなしく、旧態依然とした
党=国家装置の下で推進された「経済改革」は、共産党時代の変容を促すと同時に、以下で見るような経済危機、
政治危機が進行する中で、社会主義それ自体の墓堀人としての役割を演じていく運命にあった。
2 経済危機
心筋梗塞直前の経済状態
「経済改革」が提起され、例え歪曲された形でではあれ、それに向けて急速な流れが生じていたという事実は、
その裏側で進行する経済危機の深刻さを示す指標でもあった。ただし、この経済危機の捉え方における差が共産
党内の保守派から改革派までの政治的スペクトルを生み、改革の遅れと不徹底が経済危機を深化させると考えた
改革派の対極での保守派の存在が、
「経済改革」を歪曲させると同時に、それに伴う経済混乱に拍車をかけ、経済
危機をより一層拡大・深化させることになったという意味では、
「経済改革」それ自体が経済危機の原因でもあっ
た。
ベルリンの壁の崩壊に象徴される内外の政治的激動の中で党指導部から保守派が一掃された1989年12月、
ブルガリア共産党中央委員会は、当時の社会経済状態を「心筋梗塞直前の状態」
、
「進行的な経済後退期」と特徴
付け、その根拠を①経済成長率の急激な低下、②一連の経済不均衡の生成・発展、③財政危機の深化、④全体と
しての経済効率と競争力の低下、に求めた。
具体的には、近年、いかなる成長もなく、著しい後退のみがあったこと(それを象徴するのが、対内・対外債
務の増大、インフレの昂進である)
、1980年以降、国民の貨幣所得が54%増大したのに、商品供給量は39%
しか増大しなかったこと、補助金・加算金・奨励金として年間70億レバ、全国家予算の4分の1以上が支出さ
れていること、歳入規模が1988年で260億レバに過ぎないのに、銀行に対する国家の債務は100億レバ
以上に達していること、誤った投資政策の結果、国家予算に過重の負担を強いている非経済的・浪費的なプロジ
ェクトの建設が強行されたこと、これらすべてがインフレ傾向の深化に帰結していること、世界経済への適応に
失敗した結果、自由交換性通貨での債務総額が100億ドルを超え、純債務が80億ドルという危機的限界に達
していること、農産物の伝統的な輸出国からいまや数百万ドルをそれに当てる輸入国に転落してしまったこと、
その基本的な原因が70年代初めの農工複合体の創設を通じた協同組合セクターの国家化、
農業協同組合の解消、
その結果としての農村人口の流出・希薄化、数千平方キロメートルにも及ぶ農地の凍土化・荒廃にあったこと、
等々が国民の前に率直に明らかにされた。そして、その主要な原因が「スターリン的な指令的・行政的システム、
権力の独占、官僚主義的指導部による生産と交換の事実上の完全統制」
、
「経済権力の超集権制」に求められた。
もとより、そのようなシステムを指導し運営していたのが共産党それ自身であり、したがってそのような体制こ
そがまさに共産党時代そのものであったのであるから、経済危機の発生はとりもなおさず共産党時代の崩壊を意
味するものであった。
「不足」の極限化
1990年、政治的激動と経済危機の深化は手を携えて進行した。経済危機の深化は、現象的には、
「不足」の
極限化、財政赤字と対外債務の累増として現れた。
社会主義には「不足」はつきものであったが、1990年の「不足」は、深刻な外貨危機と生産減退に起因し
て極限状態に達した感があった。特に、輸入原料に依存する砂糖、粉石鹸、ガソリン等の場合には、数百メート
ルから数キロメートルにも及ぶ想像を絶する行列が発生し、商店の陳列棚からは日常生活物資すらが姿を消し、
クーポン制、輸出禁止措置などが採られるに至った。しかも、消費財を中心として市場価格制が広範に導入され
始めた中での「不足」であったから、その随伴現象はもとより極端なインフレと地下経済の活発化であった。
不足と価格騰貴は、年金生活者、失業者、学生等の社会的弱者の生活を大きく圧迫し、また先行きの価格上昇
を見込んで生産者、流通仲介業者らが小売商店まで商品を卸さなかったために、不足とインフレは一層深刻化し
た。この段階でまだ政権を担っていた「共産党」
(1990年4月に党名を社会党に変更)は、一方では、
「社会
主義的市場経済」への急速な移行という基本路線に基づいて基本的消費財、原材料、燃料その他の生産財に関す
る国家の価格コントロールを段階的に廃止するとともに、他方では、社会的弱者の生活水準の低下を年金・各種
手当て、奨学金等の引き上げで相殺しようとするコンペンセーション制度を採用して、国民生活の窮乏化を阻止
しようとした。この制度が市場経済への移行に伴ってコスト・プッシュ・インフレの要因に転化する危険性を持
ち、また財政赤字の一層の悪化を招くことは明らかであったが、
「共産党」政権としてはこうする以外に自らの責
任を全うするすべはなかった。
財政赤字と対外債務の累増
1990年時点で、ブルガリアの国家予算がブルガリア人民銀行から借り入れている金額は国家予算規模の約
4割に達し、未完了プロジェクト、経済組織の不足金補填、農産物価格支持のための補填、資本建設融資、国家
信用フォンドの形成、賃金フォンド欠損金の補填、ソ連のガス・パイプライン建設のための分担金、国家予算の
赤字補填、さらには農業組織の投資・賃金資金用借入金債務の免除等に当てられていた。しかも、その4割以上
は1989年に集中しており、共産党政権下の財政がもはや再建不可能なほどに悪化していたことが窺われる。
このような巨額の借り入れを余儀なくさせていた歳出の内容は、特に各種補助金の突出(1989年 24.
2%)によって特徴づけられている。補助金の細目は、農産物への補助金、生産刺激のための補助金、コメコン
内輸出のための補助金、交換性通貨地域への輸出のための補助金、生産財価格への補助金、小売価格への補助金
などであったが、要するに、国民生活を圧迫しないようにと農産物価格と小売価格に補助金を出して消費財価格
を低く抑え、低収益・赤字企業の経営を救済し、また小売価格に跳ね返らないようにと生産財価格を低く維持し
つつ、出血的低輸出価格による「損失」を補填する、というのがこの補助金支出の特徴を成していたと言えよう。
共産党時代の財政赤字は、基本的には国民経済全体の非効率と低生産性の下で何も措置しなければ悪化するこ
とが必至であった生産と生活を国家が救済した(社会主義国家である限りそうせざるを得なかった)結果なので
あって、これ以後赤字解消のために採られるであろう諸措置は、国民経済全体の効率化と生産性の上昇が伴わな
いところでは、生産と生活を直撃する性格を持っていたことに留意しておく必要がある。
対外債務もまた、1989年末には107億ドルに達し、100億ドルの大台を突破するところとなった。1
984年には約30億ドルだったので、80年代後半だけで実に3倍以上も膨れ上がったことになる。生産設備
の現代化を目指したエレクトロニクス、機械製作関連等のハイテク・プラントの導入に伴う対外債務の増大、さ
らにはこれに随伴した機械・設備、部品、原材料の輸入増大によるハードカレンシー建て経常収支赤字の拡大が
それを補填するためのユーロ市場借り入れを余儀なくさせたこと、これらがその主要な原因であった。パックス・
ソビエティカの下での科学技術革命への乗り遅れ、その結果としての西側先進諸国へのハイテク機械・設備、部
品・原材料供給の依存、ソ連との二国間分業の集合体としてのコメコン内分業の歪な構造等々がその背景を成し
たことは言うまでもない。なお、ユーロ市場での民間銀行からの借り入れは当然その融資条件が短期・高利であ
ったために、対外支払構造における利子支払いの占める割合が年を追う毎に増大し、デット・サービス・レーシ
オ(輸出額に対する元利返済の割合)が50%を越すという深刻な事態が現出していたことも付け加えておくべ
きである。
3 経済破局
共産党=社会党政権
心筋梗塞直前の経済状態からブルガリアをいかに救い出すのか。そしていかに市場経済への移行を成し遂げる
のか。1989年末以降のブルガリアの政局はまさにこれらの難問を巡って激動することになった。これら難問
は長年の共産党政権によって生み出されたのであるから、何はさておき共産党それ自身にこれを解決する責任が
あった。
挑戦は共産党の「自己改革」から始まった。国家管理社会主義との決別、指令的・行政的管理システムの決定
的・不可逆的解体、近代的で民主的な法治国家・自主管理市民社会の創出、憲法からの共産党=指導党条項の削
除、政治的多元主義に基づく自由で民主的な選挙の実施を宣言し、社会・政治組織における共産党の「指導的役
割」の実行部隊であった党委員会の解散、
「民主集中制」の廃棄、分派・グループ活動の自由化、職場単位から地
域・職業単位への支部組織原則の変更、中央委員会から最高評議会への改編、社会党への党名変更などの諸措置
を矢継ぎ早に打ち出した。要するに、これは紛れもなく共産党の「なし崩し的自己解体」であった。
政治改革と並行して採られるべき経済政策については、経済危機克服を最優先する一連の短期的措置が提案さ
れた。国内市場の緊張状態の改善(消費財生産、特に農業、食品工業、軽工業への優遇的資源配分、軍需産業の
転換促進)
、緊急の社会問題の解決(インフレ下で困窮する社会的弱者の救済、賃金・価格政策に基づくインフレ
の抑制、環境問題の解決)
、生産構造の全面的改革(低収益・赤字企業、低品質あるいは需要のない商品を生産す
る企業の徹底的点検・合理化・解散)
、外貨問題の解決(国民経済全体の世界市場への徹底した方向付け、外国資
本に対する大胆な開放政策)
、財政収支安定化のための抜本的政策(補助金の累進的削減、事実上破産状態にある
企業への支援停止)などであった。
共産党改め社会党は、新憲法制定を特別の使命とし、経済改革のための基礎的諸条件の創出、新大統領の選出
などを目的とする「大国民議会」選挙(1990年6月)で過半数の議席を獲得したが、自由化・民主化=反共
産党=反全体主義の一点で結集した雑多な政治勢力の集合体「民主勢力同盟」
(共産党を離党した若手インテリゲ
ンチャ、技術者、経営幹部等が主力を形成)
、農民同盟などの政治的攻勢を前にして、大統領ポストを民主勢力同
盟に譲るなど政治的譲歩を重ねた。そして反対勢力の協力を得られないままに単独内閣を組織し、改革プログラ
ムを上程してはみたものの、肝心の国際社会からの協力が得られず、外貨の枯渇、原燃料輸入の大幅減、国内生
産の激減、モノ不足とインフレの一層の激化、経営・労働保護、国民生活擁護のための財政支出に伴う財政赤字
累増という経済危機連鎖を突破できないままに、1990年11月末ついに総辞職するに至った。
非・反共産党政権
経済危機脱出の切り札は既に誰の目にも明らかであった。生産に先立つ燃料、原材料を確保するための外貨を
いかにすれば獲得できるのか。社会党政権は、債権国・組織に債務返済の猶予(モラトリアム)を願い出て認め
られ(しかし、その結果国際金融市場で投融資対象国から完全に除外された)
、またIMF、世界銀行に加盟申請
を行って1990年9月末に正式加盟が認められていたが、政治的安定とその下での市場経済、開放経済への具
体的な前進が実現できなかったために、再三の金融支援要請に応えてもらうことができなかった。
社会党に代わって政権を担当することになった非・反共産党勢力が為すべきことはただ一つ、国際社会の「期
待」に応えること、すなわちIMFの対ブルガリア・プログラムに従って非・反共産党的な方法で市場経済化を
押し進め、国際的金融支援を獲得すること、であった。そしてそこに描かれた処方箋は、過剰流動性と不足に基
づく市場不均衡、財政不均衡、国際収支不均衡という三つのインバランスの是正を基本的内容とし、具体的には、
価格の自由化による相対価格の修正、利子率の引き上げ、国有企業・資産の民有化・賃貸化、土地売買の自由化、
外資導入の促進、農地改革による農業生産の活性化、財政投融資および各種補助金の削減・撤廃、官公庁の合理
化・人員整理、税制改革、賃金抑制=国内消費抑制と産業構造のリストラクチュアリング(省資源・省エネルギ
ー型産業構造への転換)に基づく輸入抑制の極限化と徹底した輸出促進等、を政策的に追求するプログラムであ
った。
新憲法(1991年7月制定)下で実施された初の国会選挙(同年10月)は、民主勢力同盟110議席、社
会党106議席、権利と自由のための運動(トルコ人組織)24議席という結果に終わった。与野党拮抗した勢
力分布の中で、非・反共産党政権は改正会社法、農地法(農業生産協同組合の解体、旧地主への農地返還)
、競争
法(独占禁止、公正取引)
、民有化法などに取り組んだ。特に、1992年に民有化法(市場取引を通じた民有化)
、
対外公的債務(18億ドル)問題の解決、1994年には改正民有化法(バウチャー方式)
、対外民間債務( 8
1.3億ドル)問題の決着(帳消し、買い戻し、債務・証券スワップ)という特筆に値する成果を上げた(2)。 し
かし、陣営内部の主導権争い・分裂、大統領・支持労組との不和、社会党との政策・法案・施行を巡る逐条的争
い、為替レートの大幅下落(通貨危機)
、さらには増大する国民の不満を抑えることができず、1994年12月
の国会選挙では、社会党125議席、民主勢力同盟69議席、人民同盟18議席、権利と自由のための運動15
議席、ビジネス・ブロック13議席という結果となり、ビジネス・ブロックの閣外協力を得た社会党が再び政権
の座に返り咲くこととなった。
社会党政権一年目
潜在的失業状態を隠蔽していた共産党時代の「完全就業」状態の下で、質と水準において問題はあったが、一
定の平準化が行われてそれなりに安定していた国民生活にいま突如「失業」という鞭が入れられ、数十万人に及
ぶ失業者の発生が現実のものとなり(登録失業者数は1990年 6.5万人、91年 41.9万人、92年 57.
7万人、93年62.6万人、94年 48.8万人、実際の失業者はこれより20∼30万人多いと見なされてい
る)
、さらに財政支出の削減によって国有企業の合理化・人員削減、賃金・年金・奨学金の抑制等が国民生活を直
撃しだしたとき、国際的な金融支援の下で徐々に生産が回復し(実質GDP成長率は1989年 −0.3%、9
0年 −9.1%、91年 −11.7%、92年 −7.3%、93年 −1.5%、94年 1.8%)
、消費者物価の年
平均上昇率も1991年の 333.5%という異常水準から70∼90%台へと落ち着きを見せていたこともあ
って、国民の間に政治と経済の安定化を社会党に託そうとする気運が盛り上がるのはこれまた自然の成り行きで
あった(3)。
社会党は、指導理念を共産主義・社会主義から社会民主主義へとプラグマチックに変更しつつ、共産党から受
け継いだ国家・社会コントロールのノウハウ、国民の一定の期待と信頼、社会的エリートとしての自負と責任、
そして1989年の100万人から95年の30万人に激減してはいたが未だ最大の党員数を保持していた。た
だしその支持基盤は、大都市住民、工業労働者、文化人にではなく、年金生活者、地方小都市・農村住民、経営
者(ノーメンクラトゥーラ出自の新興経営者層)
、技術者などに中心を置く偏ったものとなっており、また党員構
成も、権力的野心と経済的利害において多種多様な真正社会民主主義者からネオ・スターリン主義者までのモザ
イク模様をなしていた(4)。
このような社会党政権が応えるべき課題は明らかであった。国際社会と新興経営者の側から要請された市場経
済化、とりわけ民有化の加速、財政基盤の健全化を通じた通貨価値の安定、そして国民の側から要請された生産
活動の活性化とインフレの抑制、であった。
結果はどうであったか。政権第一年目の1995年は、非・反共産党政権がIMFの指示に忠実に従ってプロ
グラムを組んだということそれ自体が国際社会に評価・好感され、まさしくその金融支援の賜として経済的結果
が着実に積み上げられた年であった。実際、実質GDP成長率は前年に引き続きプラス 2.1%を記録し、年平
均物価上昇率も60%台へと低下、輸出の伸びにより貿易収支は黒字に転じ、登録失業者は 42.4万人へ減少
した。ただ、農業生産の伸びとは対称的に工業生産はマイナス成長を記録し、財政状態に好転は見られず、為替
レートも下落傾向を持続していた。
社会党政権二年目
良好な経済状態は、しかし、社会党政権自身にとって両刃の剣であった。なぜなら、それはIMF流の厳しい
経済療法に対する拒絶反応体質(旧来の政治本能)
、権力欲における個人的温度差、経済グループ間の利害対立を
活性化させることになったからである。行動の規範を既にイデオロギーから実際主義に移していた社会党指導部
ではあったが、党内の統一を図ることができないままに、徒に経済改革のテンポを遅らせるだけであった。そし
てこの改革の遅れが、IMF、世銀の心証を害し、融資の中断をもたらした。
1996年、実質GDP成長率 −10.5%、工業生産 −8.3%、農業生産 −18.1%、個人消費 −8.2%、
、年平均
労働生産性 −10.8%、登録失業者 53.8万人、年間平均賃金1051ドル(前年は1307ドル)
物価上昇率310%(1991年からの累積では実に24000%)
、財政赤字 −11.6%(対GDP比)
、外
貨準備5億ドル(前年は15億ドル)
、為替レート1ドル= 175.8レバ(年末で550レバ、前年は 67.2
レバ)
、以上の諸数値が社会党政権の総決算であった。国有企業への財政支援が赤字企業の存続を許し、国民経済
全体の効率化を妨げると同時に、金融システムの危機を深化させたことも付け加えることができよう。1989
∼90年の経済危機の高次復活は、経済危機を通り越したまさに経済破局、国民経済の破滅であった。
1996年11月の大統領選挙での敗退(民主勢力同盟ストヤノフ候補の勝利)を契機に、社会党政権は国民
の支持を急速に失っていった。雪だるま式に膨れ上がっていく国民の不満は、12月初めには独立労働組合連合
の全国ストライキ(鉱山労働者、教員、軽工業労働者を中心に約100万人参加)となって現れ、これを皮切り
に、連日反政府デモが荒れ狂い、社会党は首班交代をもって事態を打開しようとした。しかし、翌97年に入っ
ても社会党政権の即時退陣、国会選挙の早期実施を求める国民の抗議行動は止まることなく、国会包囲デモの群
衆が暴徒化して議事堂内に乱入するなど、市街戦さながらの流血の惨事が発生する状況となった。2月初め、為
替レートは1ドル=2608レバを記録し、主要商品が陳列棚から姿を消し、多くの小売商店は店を閉め、ドル
での商いが密かに横行し、燃料の不足が公共交通機関や自動車輸送を麻痺させ、食糧供給が枯渇し、国民の90%
が「赤い経済貴族」や新興富裕階級とは対照的に貧困水準(1日4ドル)以下の生活を強いられる中、ついに社
会党政権は総辞職するに至った(5)。
1989年に開始された反社会主義=反共産党革命の完結であり、共産党時代の完全な終焉である。そしてこの
時点で、
「社会主義」は「死語」と化してしまった。
4 現状と課題
カレンシー・ボードの導入
1997年2月に登場した民主勢力同盟の暫定政権は、経済的カオス脱出のための優先課題として、燃料不足の
克服、銀行取り付けの阻止、国有財産の民有化加速、赤字国有企業の閉鎖、汚職と影の経済の一掃、投資の奨励、
国際融資機関との対話の再開を掲げ、燃料価格の3倍化(世界市場価格への接近、同国最大の石油精製企業の採
算化)
、対外債務当年支払分約10億ドルのEUその他国際融資機関からの調達などの措置を採った。
国際的な金融支援が得られない限り経済安定化が絶望的であることは誰もが認識していた。IMFからの融資
再開は、
その後の国際社会からの資金提供の呼び水となるだけに、
何としてでも実現されなければならなかった。
何はともあれ、カードはIMFによって握られていた。
IMFは、既に前年半ば頃から、赤字経営を続けている64の国有大企業の閉鎖、非効率的だが国民経済にと
って不可欠な国有鉄道、電力会社など70企業への財政支援・融資の抑制、民有化の加速を求め、これらの措置
が実施されるまで 5.82億ドルの融資を凍結するとし、また融資再開との抱き合わせでカレンシー・ボードの
導入を提案していた。
カレンシー・ボードとは、自国通貨の価値の安定、交換性の確保を目指して、自国通貨の交換レートをアンカ
ー役に指定した外国通貨に固定(ペッグ)し、通貨発行量を外貨準備に応じて自動的に決定する制度であり、貿
易収支が通貨供給量に直接影響を及ぼす制度である。固定レートの維持を困難にする通貨価値の下落、したがっ
てインフレを阻止できるかどうかがこの制度の成否の鍵を握ることから、それは、信用とインフレの創造(通貨
増発)による金融機関の追加収入をシャットアウトする制度、中央銀行による国債の引き受けや商業銀行への直
接融資が禁じられる制度、各金融機関、さらには政府が資金収支に自ら責任を持たなければならない制度、総じ
て通貨価値と物価の安定、均衡財政を一挙に成し遂げる制度として位置づけられる。このような制度の下では、
赤字企業はリストラ・閉鎖を余儀なくされ、赤字企業に融資を行う銀行は破産する。そして、その成功裏の導入
は、例え一時的にせよ生産の落ち込み、赤字企業のリストラ・閉鎖による失業の増大、国民の耐乏生活の持続を
もたらすことになる(6)。
1997年4月の国会選挙は、大方の予想通り、民主勢力同盟の圧勝(137議席)
、社会党の惨敗(58議席)
に終わった。選挙結果を受けて5月に組閣された新民主勢力同盟政権は、7月、公定レートを1000レバ=1
ドイツ・マルクに固定したカレンシー・ボード(1999年1月からはユーロがアンカー役通貨となる)を導入
した。
民有化の加速
カレンシー・ボードの導入は、一方では、IMF、世界銀行からの融資の再開を意味し、他方では、それらと
の協定に従った均衡財政主義の徹底、赤字企業の閉鎖・リストラの断行、民有化の加速を通じた構造改革の推進
を意味した。
約束通り、IMF、世銀からは矢継ぎ早に資金供給が開始された。IMFからは、4月以降4回にわたって総
額 3.7億SDRのスタンド・バイ・クレジットが提供され(7)、 また世銀からは、5月に生活必需品用ローン 0.
4億ドル、10月に金融・企業部門調整ローン(FESAL)1億ドルが提供された(8)。 もちろん、これらの
資金提供の都度、新政権の経済改革遂行状況、とりわけ民有化と赤字企業のリストラ状況がIMF、世銀から厳
しくチェックを受けたことは言うまでもない。
IMFはかねてより1997年6月までに全企業の25%、年末までに50%の民有化を求めていた。マス・
プライバタイゼーションは第一波が6月に終了し、国有資産の25%以上が民有化された。その後幾分減速しな
がらも引き続き強力に推進されている。大企業の民有化は外国資本の参入なしには不可能であり、これまでも少
なからず参入が行われてきたが、10月に新外資法が制定されて投資収益の本国送金限度額が引き上げられ、ピ
ルドップ銅鉱山、ユナイテッド・ブルガリア銀行、エクスプレス銀行、ブルガリア・テレコム、バルカン航空、
ネフトヒム精油所、クレミコフツィ製鉄所など巨大企業の民有化に当たって外国資本の参入がより容易になるよ
う、投資環境が整備された。戦前の所有者への家屋、土地の返還、国有地の売却、土地取引市場の形成なども進
んでいる。
民有化と同時進行しているのが赤字企業の厳しいリストラである。1995年時点で国有企業の赤字額の5
0%を計上していた大企業70社は金融部門から「隔離」され、リストラの洗礼を受けつつ民有化を準備してい
る。同じく赤字額の25%を負っていた他の80社は1997年半ばまでに大半が閉鎖された(9)。
金融システム改革に関しては、債務不履行金融機関への中央銀行の取引介入権限が強化され、民間銀行13行
と国有銀行4行が既に破産審理に入っていたが、1997年6月には新銀行法が施行されて債務不履行銀行の解
散促進、営業許可手続きの厳格化、資金ポジションの強化などが図られると共に、ユナイテッド・ブルガリア銀
行を初め国有銀行8行が民有化プログラムに組み込まれた。10月末には新証券取引所が開設され、外国資本も
参入する本格的な資本市場が形成され始めている。
IMFの監視下で生成している以上のような経済構造が、国民経済から非効率的な部分をすべてそぎ落とし、
市場での競争ルールに耐えられる競技者を早急に作り出そうとしていることは明らかであり、まさしく「包括的
なビッグバン・アプローチ」である。したがって、IMFにとっては、1997年の生産低下(実質GDP成長
率−7∼8%)
、失業者の増加( 52.4万人)
、ハイパーインフレの発生(年平均物価上昇率1083%)
、公務
員給与の凍結、国民生活の圧迫と不満の増大(最低生活費月額210DMに対して平均賃金170DM、鉱山労
働者を中心として断続的な賃上げ要求ストライキ)などの諸現象が、財政赤字の削減( −3.8%)
、外貨準備の
積み増し(9月末で22億ドル)と引き替えに現出するであろうことは先刻織り込み済みであり、政府が年金の
小刻みな引き上げを行うことを認めることによって社会問題の先鋭化を阻止しつつ、1998年の経済活動の成
果(各種予測によれば、実質GDP成長率 +3.5%、財政赤字 −2.8%、労働生産性 +4.2%、年平均物価
上昇率 34.2%)を見守っているところであろう(10)。
今後の課題
IMFとの協定=監視下で実施されている民主勢力同盟政権の「カレンシー・ボード路線」(11)は、既にかな
り大きな痛みが伴っているとはいえ、社会党(旧共産党)の市場経済化路線がもたらした経済破局からの回復、
経済安定化、成長軌道への移行にとって、それ以外にオールタナティブが見いだされていない限りにおいて、プ
ラグマチックな「有効性」を有している。インフレの沈静化、対DMレートの維持は、とりあえず事態が筋書き
通りに推移していることを示している(12)。しかし、生産活動の停滞と失業=窮乏生活の長期化が国民の不満を
増幅し、反政府活動を活性化させることにでもなれば、財政支出の増大、インフレの高騰、通貨価値の下落、外
貨への資産移転を通じて、カレンシー・ボードは重大な危機に立たされることになろう。
ブルガリアは、NATO、EUの枠組みに入ることを表明しているが、伝統的な旧ソ連・東中欧諸国、とりわ
けロシア、CEFTAとの関係、さらには黒海沿岸諸国、バルカン諸国との関係をどのように再編・構築するの
か。立ち遅れた生産技術、経営・管理技術、情報・通信・交通等のインフラストラクチュアをどのように現代化
するのか。中小企業の育成をどうするのか等々。市場という形式の必要不可欠性は論を俟たないが、これらは市
場という形式を作り出すだけではとても解けない問題である。
経済システム、ひいては社会システム全体をどのようなコンセプトに基づいてデザインするのか、共産党時代
の「国家」を反面教師として国家をこのシステムの中にいかに再定置するのか(13)、という点が肝要なのである。
それを抜きにしての市場経済、開放経済への移行は、しかも、そのための条件を欠落させたままで、国際投機資
本という怪物が闊歩するEU市場、グローバル市場に広く開放された市場を目指す道は、結局は経済的、政治的
混乱の再発に帰着せざるをえないであろう。
(1) 本稿の一部は、岩林 彪「自主管理経営組織からフィルマへ」
『社会主義経営学会年報』第14号、198
9年10月、同「ブルガリア経済改革の行方」
『経済』第310号、1990年2月、同「ブルガリアにおけるペ
レストロイカの進展と合弁企業の展開」
『松山大学(大学昇格)40周年記念論文集』1990年12月、同「社
会主義経済システムの破綻に関する覚書き」
『松山大学論集』第2巻第5号、1990年12月、同「その後のブ
ルガリア」
『経済』第328号、1991年8月、を利用している。
(2) EIU, Country Profile ― Bulgaria, Albania 1994-95, p13.>
(3) ここでの統計データは、EIU, Country Profile ― Bulgaria, Albania の各年次版に基づいている。
(4) EIU, Country Profile ― Bulgaria, Albania 1996-97, p5.>
(5) Bulgaria in Crisis, http://www.worldbank.org/html/prddr/trans/JANFEB97/art5.htm>
(6) S.H.Hanke, New Currency Boards Come to Balkans,
http://www.worldbank.org/html/prddr/trans/JANFEB97/art5.htm
(7) EIU, Country Report ― Bulgaria 4th quarter 1997, p14.
(8) The World Bank Group, Bulgaria, http://www.worldbank.org/html/extdr/offrep/eca/bgrcb.htm
(9) The World Bank Group, Summary of Private and Financial Sector Development
― Bulgaria, http://www.worldbank.org/ecspf/final/html/bulgaria.htm
(10) ブルガリア科学アカデミー経済研究所編『2000年までのブルガリア経済』
(ブルガリア語)1998年。
G・ミナシャン他『ブルガリアにおけるカレンシー・ボード』
(ブルガリア語)ゴレクス・プレス、1998年。
EIU, Country Report ― Bulgaria 4th quarter 1997. European Forum, The Economic Situation in Bulgaria,
http://www.europeanforum.bot-consult.se/cup/bulgaria/econ.htm
(11) Program of the Government of the Republic of Bulgaria 1997-2001 によれば、新政権は私的所有、自由
競争、自由な起業活動、国際資本の自由な流入、ヨーロッパへの統合に基づく「近代的な社会的市場経済」を目
指すとしている。
(12) 1998年5月時点で年間物価上昇率は 22.1% ( Reuters, 1.Jul.1998 )、8月25日時点の対DMレー
トは994レバとなっている。
(13) 反社会主義の風潮とカレンシー・ボードの導入の下で国家の機能が大きく制約されており、さらには官僚と
新興経営者層との利権を通じた結びつきによる国家機構の歪曲が指摘される中で、日本の産業政策の経験などを
踏まえて、市場経済への移行期における国家の役割を改めて明確にしようとする動きが既に始まっている。I・ア
ンゲロフ「体制転換過程における国家」
(ブルガリア科学アカデミー経済研究所編、前掲書、所収)参照。