﹁銀河鉄道の夜﹂を読む︵Ⅱ

The Tsuru University Review , No.74(October, 2011)
﹁銀河鉄道の夜﹂を読む︵Ⅱ︶
関 口 安 義
SEKIGUCHI Yasuyoshi
﹄には、
﹁夏の天の川のた だ 中、白 鳥 の く ち ば し に あ た る 星
︵ ︶
銀 河 鉄 道 の 旅 が 続 く。ア ル ビ レ オ は 白 鳥 座 のβ座 で あ る。
﹃大 百 科
事典
等星が見
だ が、星 名 の 意 味 は 不 詳。小 望 遠 鏡 で の 観 望 に 適 し た 有 名 な 二 重
秒離 れ て ブ ル ー の
その一つの平屋根の上に、眼もさめるやうな、青宝玉と黄玉の
(1)
A Study of Night Train to the Stars (Part II)
銀河鉄道の切符
星。オレンジがかった 等星から約
える﹂とある。アルビレオにちなんだ﹁アルビレオの観測所﹂は、
大きな二つのすきとほった球が、輪になってしづかにくるくる
むね
章を置く。すでに述べたように、この章は四〇〇字詰原稿用紙にし
に﹁ジョバンニの切符﹂の章は、他の章との分量上のバランスがと
とまはってゐました。黄いろのがだんだん向ふへまはって行っ
トパース
れない。このことも本作が未完成作品であることを自ら証している
サファイア
ようなものである。作者には本章を、否、全体の章立を整理し、すっ
は、重なり合って、きれいな緑いろの両面凸レンズのかたちを
とつ
て、青 い 小 さ い の が こ っ ち へ 進 ん で 来、間 も な く 二 つ の は じ
さて、列車は白鳥区の片隅にあるアルビレオの観測所に近づく。
きりさせるという願いがあったに違いない。
と に あ る。が、
﹁ 銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂ の 章 立 て は 、実 に あ い ま い だ 。 特
て聞こう。
5
﹁黒い大きな建物﹂四棟からなる。テクストから直接観測所に つ い
34
て六十枚という分量で、それは一∼八の章の合計枚数に匹敵する。
3
一
1
テクスト全体を読みやすくするためには、章立てをしっかり示すこ
第四次稿﹁銀河鉄道の夜﹂は、第九章に﹁ジョバンニの切符﹂の
1
第 74 集(2011 年 10 月)
都留文科大学研究紀要
青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心
つくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、たうたう
界へはいり込んでしまった一郎は、﹁いつかから だ に は 鼠 い ろ の き
い に 注 目 す る。西 田 に よ れ ば﹁ひ か り の 素 足﹂の 中 で、
﹁死 者 の 世
て ジ ョ バ ン ニ の 切 符 は、
﹁緑 い ろ﹂で あ る。西 田 良 子 は こ の 色 の 違
カ ム パ ネ ル ラ の 切 符 は、
﹁ 鼠 い ろ ﹂ の 切 符 で あ っ た 。そ れ に 対 し
れが一枚まきついて あ る ば か り ﹂に な っ て い た が、
︿鼠 い ろ﹀は、
わ
と黄いろな明るい環とができました。それがまただんだん横へ
はなれて、サファイアは向ふへめぐり、黄いろのはこっちへ進
賢治にとつて、
︿幽明境を象徴する色﹀
﹂であり、ジョバンニの切符
そ
外れて、前のレンズの形を逆に[繰]り返し、たうたうすっと
み、また丁度さっきのやうな風になりました。銀河の、かたち
他方、続橋達雄は、ジョバンニとカンパネルラの切符の色違いにつ
の︿緑いろ﹀は、
﹁ い の ち の あ る み ど り の 葉 ﹂ を 象 徴 す る 色 と いう 。
︵ ︶
も な く 音 も な い 水 に か こ ま れ て、ほ ん た う に そ の 黒 い 測 候 所
げ、そこに﹁アルビレオの観測所﹂を置く。新たな物語の展開に備
星 座 に 関 心 の 深 か っ た 賢 治 は、こ こ に 白 鳥 座 の 二 重 星 を と り あ
符に託されたものが、鳥捕りのことばだけではなくその色彩にも示
実をつつむもの ︵苞︶などというふうに考えると、ジョバンニの 切
というシグナルの緑の燈、それに人びとの食欲をもみたす玉蜀黍の
ねむ
が、睡ってゐるやうに、しづかによこたはったのです。
えるためである。南十字へ着くまでに起きる事件の序曲が奏される
さていることにもなる。これに対してカムパネルラの場合は、鉄道
ポ ケ ッ ト に 手 を 入 れ る と、
﹁何 か 大 き な 畳 ん だ 紙 き れ﹂が あ る の に
鼠いろの切符﹂を車掌に示す。ひとりジョバンニはあわてて上着の
き れ を 出 す。カ ム パ ネ ル ラ も﹁わ け も な い と い ふ 風﹂で、
﹁小 さ な
な く し て は い け な い﹂と の こ と ば に も 重 な る。ジ ョ バ ン ニ の 持 つ
天の川のなかでたった一つのほんたうのその切符を決しておまへは
はげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。
持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本当の世界の火や
そ れ は 初 期 形 の 最 後 の 部 分 に 、 博 士 の ﹁ さ あ 、切 符 を し っ か り
気 づ く。
﹁そ れ は 四 つ に 折 っ た は が き ぐ ら ゐ の 大 さ の 緑 い ろ の 紙﹂
りの﹁小さな紙きれ﹂でもなく、現実の人生を生き抜くための、な
﹁緑いろ﹂の切符は、カムパネルラ の﹁鼠 い ろ﹂の 切 符 で も、鳥 捕
こぢゃない、どこでも勝手に歩ける通行券です。こいつをお持ちに
すぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上ど
(2)
い て、
﹁宗 教 的 な つ つ ま し い お も も ち の 緑 の 瞳、前 進 し て よ ろ し い
のである。銀河鉄道にも車内では、車掌の検札がある。鳥捕りが﹁水
列 車 内 部 の 色 と 同 じ で そ の 列 車 の 乗 客 に ふ さ わ しい ﹂ と す る 。
︵ ︶
の速さをはかる機械﹂について説明をはじめた時に、車掌が﹁切符
と あ る。車 掌 は﹁こ れ は 三 次 空 間 の 方 か ら お 持 ち に な っ た の で す
たものでだまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしまふや
鳥捕りはジョバンニの切符を見て﹁おや、こいつは大したもんで
くしてはいけない切符なのである。
うな気がするのでした﹂と説明されるのである。
めん黒い唐草のやうな模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷し
答えている。切符の内実は、すぐ後で明かされる。そこでは﹁いち
か﹂と 問 う。ジ ョ バ ン ニ は 車 掌 の 問 に、
﹁何 だ か わ か り ま せ ん﹂と
を拝見いたします﹂とやって来る。鳥捕りは、かくしから小さな紙
3
2
る。そして以後鳥捕りの、ジョバンニとカムパネルラを見る眼は、
う。ど こ ま で だ っ て 行 け る 切 符 に は、大 き な 可 能 性 が 託 さ れ て い
ど こ ま で で も 行 け る 筈 で さ あ、あ な た 方 大 し た も ん で す ね﹂と 言
なれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、
た。
はじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひまし
つ ら い。
﹂ジ ョ バ ン ニ は こ ん な 変 て こ な 気 も ち は、ほ ん た う に
﹁僕はあの人が邪魔なやうに気がしたんだ。だから僕は大へん
﹁あゝ、僕もさう思ってゐるよ。
﹂
停車場だよ﹂とカムパネルラが向こう岸の、三つ並んだ三角標と地
ジョバンニは、敬愛する友人カムパネルラといっしょで、他者を
﹁大したもんだ﹂というような様相を帯びる。次に﹁もう ぢ き 鷲 の
図 と を 見 比 べ て 言 う。前 章 の 最 後 に 引 用 し た 鳥 捕 り へ の 同 情 は、
る ジ ョ バ ン ニ は、
﹁午 后 の 授 業﹂に い た ジ ョ バ ン ニ で は な い。自 分
﹁少年ジョバンニの成長物語﹂と評したことがある。鳥捕り を 案 じ
︵ ︶
思いやる心に満たされている。かつてわたしは﹁銀河鉄道の夜﹂を
先 に わ た し は、
﹁ジ ョ バ ン ニ の 成 長 が 語 ら れ る 箇 所﹂と 書 い た。
ジョバンニの切符を介してのものであったのである。
ジョバンニが他者を思いやる大事な箇所が、ここに見られるのであ
んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目て見てあはてゝほめ
せいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをそれをくるくる包
る。ジ ョ バ ン ニ が 鳥 捕 り を 気 の 毒 に 思 っ た の は、
﹁鷺 を つ か ま へ て
もなる。
﹁苹果﹂については、後でくわしくふれたい。
場 面 は ま た 転 回 す る。
﹁苹 果 の 匂 い﹂は 後 に 展 開 す る 物 語 の 伏 線 と
にいる。
﹁何だか苹果の匂がする﹂というカムパネルラのことばで、
だけの世界を守るのでなく、弱者である他者を思いやる少年がここ
し み が あ っ て の、他 者 へ の 理 解 と 憐 憫 で あ る。
﹁あ な た の ほ し い も
さらには活版所でのアルバイトの体験からから得た生きることの苦
の 木 の や う な 姿 勢 で、男 の 子 の 手 を し っ か り ひ い て 立 っ て ゐ ま し
をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやき
してがたがたふるえてはだしで立ってゐました。隣りには黒い洋服
子が赤いジャケツのぼたんもかけずひどくびっくりしたやうな顔を
こ こ で、
﹁俄 に そ こ に、つ や つ や し た 黒 い 髪 の 六 つ ば か り の 男 の
りんご
だしたり﹂するところにあった。それはジョバンニが日常の生活で
のは一体何ですか﹂とジョバンニが鳥捕りに聞こうとすると、その
体験してきたことと、どこか重なる。現実の学校生活や家庭生活、
姿は見えない。鳥捕りへの思いは、カムパネルラとて同様のものが
た﹂という語りが入る。続いて﹁あら、こゝはどこでせう。まあ、
﹁どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどう
云ってゐました。
﹁あ の 人 ど こ へ 行 っ た ら う。
﹂カ ム パ ネ ル ラ も ぼ ん や り さ う
套﹂と﹁黒﹂という冥界の闇を表す不吉な色の羅列も、悲劇の物語
だ し で 立 っ て ゐ る﹂の が 異 常 な ら、
﹁黒 い 髪﹂﹁黒 い 洋 服﹂﹁黒 い 外
腕にすがっている状況が語られる。男の子が﹁がたがたふるえては
の 眼 の 茶 い ろ な 可 愛 ら し い 女 の 子﹂が、
﹁黒 い 外 套﹂を 着 て 青 年 の
き れ い だ わ﹂と い う 声 が し、
﹁青 年 の う し ろ に も ひ と り 十 二 ば か り
あった。二人は鳥捕りについて語り合う。以下のようだ。
しても少しあの人に物を言はなかったらう。
﹂
(3)
4
の挿入を予告する。やがてその悲劇は、青年自身の口で語られる。
腸 も ち ぎ れ る や う で し た。そ の う ち 船 は も う ず ん ず ん 沈 み ま
いの を じ っ と こ ら え て ま っ す ぐ に 立 っ て ゐ る な ど と て も も う
はらわた
長くなるが重要な箇所なので引用する。
こちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰り
いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちは
甲板の格子になったとこをはなして、三人それにしっかりとり
滑ってずうっと向ふへ行ってしまひました。私は一生けん命で
た。誰 が 投 げ た か ラ イ フ ヴ イ が 一 つ 飛 ん で 来 ま し た け れ ど も
浮べ る だ け は 浮 ば う と か た ま っ て 船 の 沈 む の を 待 っ て ゐ ま し
すから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、
に な っ た の で あ と か ら 発 っ た の で す。私 は 大 学 へ は い っ て ゐ
つきました。
りましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左
せ る。一 九 一 二 ︵明 治 四 五︶年 四 月 十 四 日 夜、イ ギ リ ス の サ ウ サ ン
ていない。が、読み手には、すぐにタイタニック号事件を思い出さ
テクストには右の悲劇を何をもとにして書いたかは一切記入され
たれ
て、家庭教師にやとはれてゐたのです。ところがちゃうど十二
た
日目、今日か昨日のあたりです。船が氷山にぶっつかって一ぺ
舷の方半分はもうだめになってゐましたから、とてもみんなは
さ
んに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりあ
乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は
プトンからアメリカのニューヨークに向けて、処女航海中の豪華客
げん
必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びまし
船 タ イ タ ニ ッ ク 号 が、北 大 西 洋 を 処 女 航 海 中、濃 霧 の た め ニ ュ ー
ファンドランド島南方沖で氷山に衝突、翌日未明沈没したという事
く
た。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために
祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところには
が死亡した史上最大の海難事故である。それは宮沢賢治十六歳の時
件である。乗船者二二〇八人中、一四九〇人︵一説に一五一三人とも︶
のことで、世界中に報道されたこの事件の衝撃は、若き賢治の心に
まだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押し
も 及 ん で い た。社 会 の さ ま ざ ま な 出 来 事 に 深 い 関 心 を 示 し た 賢 治
のける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしても
この方たちをお助けするのが私の義務だと思ひましたから前に
前 後 す る が、黒 服 の 青 年 は 女 の 子 に、
﹁こ わ い こ と あ り ま せ ん。
ゐる子供らを押しのけやうとしました。けれどもまたそんなに
わ た く し た ち は 神 さ ま に 召 さ れ て ゐ る の で す ﹂ と 言 い 、男 の 子 を
は、新聞や雑誌で、タイタニック号事件を知り、詳しく調べたので
またその神にそむく罪はわたく[し]ひとりでしょってぜひと
ジョバンニの隣に、女の子をカムパネルラの隣の席に座らせた。青
はないだろうか。
も助けてあげやうと思ひました。けれどもどうして見てゐると
年は姉弟に﹁わたし[た]ちはもうなんにもかなしいことないので
して助けてあげるよりはこ[の]まゝ神のお前にみんなで行く
それができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなし
方がほんたうにこの方たちの幸福だとも思ひました。それから
てやってお母さんが狂気のやうにキスを送りお父さんがかなし
(4)
にほい
す。わたしたちはこんないゝとこを旅して、ぢき神さまのとこへ行
きます。そこならもうほんたうに明るくて匂がよくて立派な人たち
でいっぱいです﹂と言い、男の子の濡れたような黒い髪をなでなが
ら、これまでのいきさつを語ったのである。
青年は最後に﹁どこからともなく ︹約二字分空白︺番の声があがり
ました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれをうたひ
を 想 起 さ せ る。賢 治 は 聖 書 は む ろ ん の こ と、讃 美
my God, to thee
歌にもよく通じていた。 Nearer my God, to thee
の現行日本語讃美
歌 三 二 〇 番、
﹁主 よ、み も と に 近 づ か ん﹂の 歌 詞 の 番 と 番 を 引
用しておく。
もう渦に入ったと思ひながらしっかりこの人たちをだいてそれから
ました。そのとき俄かに大きな音がして私たちは水に落ちました。
主よ、みもとに
ありともなど
のぼるみちは
主よ、みもとに
ちかづかん。
悲しむべき、
十字架に
近づかん、
には
ぼうっとしたと思ったらもうこゝへ来てゐたのです。この方たちの
な
お母さんは一昨年没くなられました。えゝボートはきっと助かった
天がける日
うつし世をば
あおぎみん。
みもとにゆき、
きたらば、
はなれて、
何せよほど熟練な水夫たちが漕いですばやく
船からはなれてゐましたから﹂と遭難現場の様子を告げて、語り終
いよよちかく
にちがひありません
える。この箇所も報道されたタイタニック号の最後と重なる。賢治
主のみかおを
こっちが見えるわけなのか
あ る 種 の 讃 美 歌 の メ ロ デ ィ ー に 非 常 に 近 い。
﹁ 主 よ 、み も と に
営﹂の中に出て来る﹁饑餓陣営のたそがれの中﹂に付した曲など、
賢 治 は 讃 美 歌 の 曲 を 踏 ま え た 作 曲 を よ く 作 っ た。戯 曲﹁饑 餓 陣
あま
の詩﹁今日もまたしやうがないな﹂に、
さよならなんていはれると
いったい霧の中からは
まるでわれわれ職員が
づかん﹂の歌詞と歌曲もよく知って口ずさんでいたことであろう。
ま ま で 忘 れ て ゐ た い ろ い ろ の こ と﹂と は、な に か。ジ ョ バ ン ニ に
ろ の こ と を ぼ ん や り 思 ひ 出 し て 眼 が 熱 く な り ま し た﹂と あ る。
﹁い
タイタニック号事件のクライマックスを生かした青年のことばを
近
タイタニックの甲板で
聞いて、ジョバンニもカムパネルラも﹁いままで忘れてゐたいろい
5
か何かうたふ
Nearer my God
悲壮な船客まがひである
1
Nearer とっては母の病気や、学校生活のことや活版所でのアルバイトのこ
とあるが、青年の語る言葉の中の﹁たちまちみんなはいろいろな国
語で一ぺんにそれをうたひました﹂の歌曲は、英語の歌詞の
(5)
1
5
かったことであったかも知れない。そうしたことと、青年と姉弟の
は、やがて明かされるザネリを助けて自らは溺死しなければならな
とや、いじめのことであったかも知れない。カムパネルラにとって
より普遍的な想いに深められている。
目されよう﹂と言う。確かに改稿によって、ジョバンニの想いは、
話を経ての展開であり、この改稿自体の、そのモチーフの動きが注
パネルラの先の︿母﹀の幸いと許しをねがう問いから鳥捕りの男の
︵ ︶
三 人 が、船 の 遭 難 事 件 の 中 で あ え て 犠 牲 に な っ た こ と と が 重 な っ
て、ジョバンニは ひ と り 想 い に 沈 む。ジ ョ バ ン ニ の 想 い ︵心 内 語︶
は、次のように記される。引用文中の﹁パシフィック﹂は、アトラ
りんご
うか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、
︵あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかっ た ら
か ら な い で す﹂と 言 い、
﹁ほ ん た う に ど ん な つ ら い こ と で も そ れ が
んで﹂しまったジョバンニの前で、燈台守が﹁なにがしあはせかわ
えることにしたい。前述のように、首を垂れて﹁すっかりふさぎ込
さて、ここでテクストの中の苹果のイメージを、より的確にとら
苹果のイメージ
風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、たれかゞ一生
二
けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとのさひはひのために
たゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほん
ンテックの間違いか。
いったいどうしたらいゝのだ[ら]う。
︶
か な し み も み ん な お ぼ し め し で す﹂と 青 年 は﹁祈 る や う に﹂答 え
﹁あゝさうです。たゞいちばんのさいはひに至るためにいろいろの
たうの幸福に近づく一あしづつですから﹂と姉弟と青年を慰める。
続いて﹁ジョバンニは首を垂れて、すっかりふさぎ込んでしまひ
る。青年の信仰が高らかに謳われる箇所である。キリスト教でいう
姉 弟 は い つ か つ か れ て、
﹁め い め い ぐ っ た り 席 に よ り か か っ て
ました﹂の地の文が来る。さらに﹁なにがしあはせかわからないの
睡 っ て﹂い る。
﹁す き と ほ っ た 奇 麗 な 風 は、ば ら の 匂 で い っ ぱ い で
です。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む
佐藤泰正は﹁この場面の初期稿が ﹁私のお父さんは、その氷山の
し た﹂と い う 地 の 文 に 続 き、燈 台 守 が 苹果 を 皆 に 勧 め る 場 面 と な
摂理を理解した者のことばである。それはこの後の︿ほんたうの神
流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく湖水や、
る。ばらの匂いと苹果は、セットになってすでに用いられていた。
さまとは、どんな神さまか﹀論争へとつながるものを持つ。
烈しい寒さとたたかって、僕に厚い上着を着せようとしたのだ ﹂と
背 の 高 い 青 年 が 登 場 す る 寸 前 に、
﹁何 だ か 苹 果 の 匂 が す る。僕 い ま
中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんたうの幸福に近づく
なっていることをみれば、この︿父﹀が︿たれか﹀という、より普
苹 果 の こ と 考 へ た た め だ ら う か。
﹂カ ム パ ネ ル ラ が 不 思 議 さ う に あ
一あしづつですから﹂と燈台守の慰めのことばが続く。
遍の他者と、その他者への痛み、また負い目という、新たな︿回心﹀
りんご
の機軸へと変化していることを見逃すことはできまい。これはカム
(6)
5
﹃大 百 科 事 典
も目立ち、﹁林檎 ﹂はまれである﹂とある。
﹄に は、
︵ ︶
﹁リンゴは古くから知恵、不死、豊饒、美、愛などの シ ン ボ ル と し
たりを見まはしました。/﹁ほんたうに苹果の匂だよ。それから野
茨 の 匂 も す る。
﹂ジ ョ バ ン ニ も そ こ ら を 見 ま し た が や っ ぱ り そ れ は
ではエデンの園のアダムとイブが食べたとされる知恵の木の実とし
て知られ、そのことは神話や伝説の多くに反映している。旧約聖書
苹 果 は 賢 治 テ ク ス ト に は し ば し ば 登 場 し、鮮 や か な 印 象 を 留 め
窓からでも入って来るらしいのでした﹂とあった。
い︶、ケルト人は天国を︿リンゴの国﹀と表現している﹂とある。
﹁銀
河鉄道の夜﹂の﹁苹果﹂は、前述のように透き通った風が運んでく
てのリンゴが有名であるし ︵ただし聖書にはリンゴと特定できる記述はな
る﹁ばらの匂﹂とともにやってくる。
の夜﹂における苹果も、また、印象的で、テクストの︿読み﹀に深
くかかわっている。本作での苹果の最初の登場は、五の章﹁天気輪
る。
﹁氷と後光﹂︵習作︶など、その最たるものであろう。
﹁銀河 鉄 道
の柱﹂にあった。ジョバンニはわびしい気持ちを抱いて﹁黒い丘﹂
な風にしてゐると考へますと、ジョバンニは、もう何とも云へずか
中にはたくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらったり、いろいろ
聞えてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その
が 聞 こ え、列 車 が 姿 を 現 す。そ こ に 苹 果 が 登 場 す る。
﹁汽 車 の 音 が
からかまたはもっと向ふからかときどきさまざまの形のぼんや
めん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のやう、そこ
は赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいち
た。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上に
し た。向 ふ の 方 の 窓 を 見 る と、野 原 は ま る で 幻 燈 の や う で し
ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みま
りんくわう
な し く な っ て、ま た 眼 を そ ら に 挙 げ ま し た﹂︵傍 線 筆 者︶と 出 て い
りした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろの
に向かい、ひとり星の祭を楽しむため頂上に立つ。その時汽車の音
た。なぜジョバンニは﹁たくさんの旅人が、苹果を剥いたり、わらっ
そらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほった奇麗
ききやう
た り、い ろ い ろ な 風 に し て ゐ る﹂の を 見 て、
﹁何 と も 云 へ ず か な し
な風は、ばらの匂でいっぱいでした。
のろし
く﹂なったのか。先走った言い方になるが、わたしはここに語り手
﹁い か ゞ で す か。か う い ふ 苹 果 は お は じ め て で せ う。
﹂向 ふ の
にほひ
の背後にいる賢治の眼を感じるのである。ここに原罪のシンボルと
席の燈台看守がいつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大き
ん
し て の 苹 果 の 扱 い を 見 る の だ。
﹁た く さ ん の 旅 人﹂は、罪 あ る 人 間
な苹果を落さないやうに両手で膝の上にかゝへてゐました。
き
であり、彼らが苹果を剥いて行為することを見て、悲しくなるとい
ひざ
うのは、人の世をしかと見据えた者にして、はじめて感じることの
ん
苹果は﹁黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな﹂ものであっ
き
りんごは普通、リンゴ、もしくは林檎と記されるが、賢治は漢字
た。立派な果実である。賢治の育った花巻地方は、昔からのりんご
出来るものなのだ。
の生産地でもある。右の﹃新宮澤賢治語彙辞典﹄には、苹果を﹁詩
︵ ︶
の 苹 果 の 方 を 用 い る こ と が 多 い。
﹃新 宮 澤 賢 治 語 彙 辞 典﹄に は、
(7)
15 7
﹁﹁りんご ﹂と仮名書きされる場合も あ る が、漢 字 で は ﹁苹 果 ﹂が 最
6
人の生活圏内の果実となってはいるがそれがかえって観念や想像力
か。わたしは 本 作 に ﹁ よ だ か の 星 ﹂ 同 様 の 原 罪 と の 闘 い を 読 み 取
再び問う。賢治は﹁銀河鉄道の夜﹂に、なぜ苹果を登場させたの
︵ ︶
の産物と違った根つきの存在感を読者に与え、それでいて泥くささ
る。その際にリンゴは、大きな意味を持つ。結論を急いではならな
﹁銀河鉄道の夜﹂における苹果は、いかなるイメージをもってテ
などとは程遠い新鮮な感覚に輝き、香気を放っている﹂とある。
︵ ︶
クスト中に存在するのか。大塚常樹は﹁ありうべき最も幸福な宇宙
体系 ︵個と全体との止揚︶を表す、最高の︿銀河モデル﹀
﹂だと し た。
れ を 明 か す。ま た、続 く と こ ろ で、
﹁い や、ま あ お と り 下 さ い﹂の
複 数 個 で あ る。
﹁両 手 で 膝 の 上 に か ゝ へ て い ま し た﹂と い う の が そ
また、萬田務は︿賢治と苹果﹀というテーマをめぐっての考察を
ストに聞きたい。
ぐって姉弟とジョバンニたちがどう反応するかを取り上げる。テク
す。燈台守は眠っている姉弟の膝にもそっと置く。以下、苹果をめ
勧めで、青年が一つとり、青年がカムパネルラとジョバンニにも渡
頬 の 色、青 年 た ち が 乗 車 し て き た と き の 先 ぶ れ の 匂 い の 形 容 と し
て、そして燈台守が手渡す実際の食物として、さらには、タダシの
︵ ︶
夢の中にもあらわれる。一作品の中にこれだけ多様に、しかも度々
あらわれるのは、習作 ﹁氷と後光 ﹂を除くと他に類例をみない﹂と
先 に﹃大 百 科 事 典
﹄の﹁リンゴ 林檎﹂の項を紹介した が、
﹃旧
すでに若干ふれてはいるが、異なるのである。
言う。こうした見解はそれなりに意味を持つが、わたしの理解は、
10
一視されるのが、リンゴである。この果物は、原罪と深く関わる果
物として存在するのである。すると、聖母子像によく見るイエスの
手許にあるリンゴは、原罪からの救済を意味するのであろう。燈台
守は、原罪の入口であり、同時に原罪からの出口、︱︱救いを意味
するものとしての苹果の役割を、十分知っていたかのようである。
だからこそ、それを皆に配り、慰めようとしているのである。
した。男の子はまるでパイを喰べるやうにもうそれを喰べてゐ
眼をさましまぶしさうに両手を眼にあててそれから苹果を見ま
ご ら ん、り ん ご を も ら っ た よ。お き て ご ら ん。
﹂姉 は わ ら っ て
るねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやらう。ねえさん。
すよ。
﹂青年が云ひました。
﹁ありがたうをじさん。おや、かほ
﹁その苹果がそこにあります。このをじさんにいたゞいたので
りんご
のなかだねえ。
﹂
げませうか云ったら眼がさめちゃった。あゝこゝさっきの汽車
こにこわらったよ。ぼくおっかさん。りんごをひろってきてあ
本のあるとこに居てね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこに
くいまお母さんの夢をみてゐたよ。お母さんがね立派な戸棚や
に は か に 男 の 子 が ぱ っ ち り 眼 を あ い て 云 ひ ま し た。
﹁あ ゝ ぼ
行い、
﹁﹁銀河鉄道の夜 ﹂での︿苹果﹀は、カムパネルラとかほるの
もあろう﹂とする。
︵ ︶
原子朗は﹁地上のものならぬ天国の苹果であり、というより球形の
燈 台 守 ︵燈 台 看 守︶の 持 っ て い た﹁大 き な 苹 果﹂は、一 個 で な く
クストそのものを読み進めたい。
いので、まずは以上のことを指摘・確認した上で、いましばらくテ
11
天上界そのものであり、地上の現象界を片割れとする宇宙の表象で
8
約聖書﹄の﹁創世記﹂においては、アダムとエバが食べた果実と同
15
(8)
9
ました。また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜
きのやうな形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰い
三
蝎の火
汽 車 は﹁熟 し て ま っ 赤 に 光 る 円 い 実 が い っ ぱ い﹂の 林 や、
﹁い ち
﹁園の中央に生えている木の果実﹂であって、リンゴとは表記 さ れ
る。先 に も 記 し た が ア ダ ム と エ バ が エ デ ン の 園 で 食 べ た 果 実 は、
苹 果 は、原 罪 と 深 く 関 わ る 果 物 と い う の が、わ た し の 考 え で あ
ニもカムパネルラも歌い出したとある。カムパネルラと隣に座って
聞こえてくる。タイタニック号事件のイメージが浮かぶ。ジョバン
のであった。汽車のずうっと後の方から聞きなれた讃美歌の合唱が
いな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れて来る﹂
らはオーケストラベルやジロフォンにまじって﹁何とも云へずきれ
二人はりんごを大切にポケットにしまひました。
ろに光って蒸発してしまふのでした。
ていない。二人はそれを食べることで﹁善悪を知る者となった﹂の
いるかほるとが孔雀をめぐって親しく話し合っている。ジョバンニ
めん黄いろやうすい緑の明るい野原﹂などを通り過ぎる。森の中か
である。
﹁銀河鉄道の夜﹂を書いていた賢治に、
﹁創世記﹂のこの記
は﹁俄かに何とも云へずかなしい気﹂がしてくる。
し
事が浮かんだのだろうか。ミルトンの﹃失楽園﹄をはじめ、禁じら
の心内語を含んだ箇所を引こう。
しているのを前に、ジョバンニの心境は穏やかでない。ジョバンニ
たくさんの鳥の飛ぶのを見て、かほるとカムパネルラがずっと話
には
れた果実をリンゴと表記することも多かったことゆえ、彼が苹果を
原罪と関わる果物と見たとしてもおかしくない。
﹁銀河鉄道の夜﹂では、まず、男の子が﹁まるで パ イ を 喰 べ る や
うに﹂苹果を食べるのである。青年とかほると呼ばれる姉も続いた
︵どうして僕はこんなにかなしいのだらう。僕はもっとこゝろ
ことであろう。水難事故という割り切れない事件に遭遇し、彼らは
必死に闘った。そのことは前章に引用した青年の述懐からもうかが
もちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のず
れはほんたうにしづかでつめたい。僕はあれをよく見てこゝろ
うっと向ふにまるでけむりのやうな小さな青い火が見える。あ
も ち を し づ め る ん だ。
︶ジ ョ バ ン ニ は 熱 っ て 痛 い あ た ま を 両 手
える。もう十分だ。苹果を食することで救われたいとの願いは、先
他 方、
﹁二 人 は り ん ご を 大 切 に ポ ケ ッ ト に し ま ひ ま し た﹂と あ る
の述懐と響き合う。
ように、ジョバンニとカムパネルラは、ここでは苹果を食べずにい
で 押 へ る や う に し て そ っ ち の 方 を 見 ま し た。
︵あ ゝ ほ ん た う に
ほて
る。ジ ョ バ ン ニ は で な く、
﹁二 人 は﹂と な っ て い る こ と に 注 視 し た
どこ ま で も ど こ ま で も 僕 と い っ し ょ に 行 く ひ と は な い だ ら う
はな
い。カムパネルラは、いまだジョバンニと共にいる。
なみだ
か。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談して
ゐ る し 僕 は ほ ん た う に つ ら い な あ。
︶ジ ョ バ ン ニ の 眼 は ま た 泪
(9)
平線のはてから湧きそのまっくろな野原のなかを一人のインデアン
わ
でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったやうにぼんやり
が白い鳥の羽根を頭につけたくさんの石を腕と胸にかざり小さな弓
つが
白く見えるだけでした。
カ チ ッ カ チ ッ と 正 し く 時 を 刻 ん で 行 く﹂
、そ の 振 子 の 音 の た え ま
振子は風もなくなり汽車もうごかずしづかなしづかな野原のなかに
車 場 に と ま る。
﹁正 面 の 青 じ ろ い 時 計 は か っ き り 第 二 時 を 示 し そ の
聞こえてくるのは、このすぐ後のことである。︱︱汽車が小さな停
かち淵﹂には、子どもの目を通して見た発破漁のことが扱われる。
ストには、よく発破や毒もみのことが出て来る。日記体童話﹁さい
は、多かった。一度に大量の魚が収穫できるからである。賢治テク
禁 止 さ れ て い た。が、法 律 を 犯 し て も 発 破 や 毒 も み を 仕 掛 け る 人
とをいう。当時毒もみと並んで流行った漁獲法の一つだが、法律で
とはダイナマイトの日本語訳であるが、この場合火薬で魚をとるこ
インデアンの話に続き、天の川で魚をとる発破の話がくる。発破
に矢を番へて一目散に汽車を追って来るのでした。
﹂
を、遠くの野原の果てから﹁かすかなかすかな旋律が糸のやうに流
ド ヴ ォ ル ザ ー ク 作 曲 の 交 響 曲 第 九 番 ホ 短 調、
﹁新 世 界 交 響 楽﹂が
れて来る﹂のが、
﹁新世界交響楽﹂であった。
大人も来るからおもしろい。今日のひるまもやって来た﹂とある。
どもも魅せられたものらしい。
そこには﹁ぼくらが、さいかち淵で泳いでゐると、発破をかけに、
テクストの読み手には、その第二楽章 Largo
がすぐ頭に浮かぶ。
日本では﹁家路﹂︵﹁遠き山に日は落ちて﹂︶などに編曲され、今日では
法律を犯しても、川で発破をする魅力があったらしい。魚は死んだ
た毒もみ漁法に凝った警察署長が逮捕され、死刑になる話が描かれ
あけぐも
誰にもおなじみである。賢治には﹁春はまだきの朱雲を/アルペン
り、おおくは気絶して、やがて生き返る。そのやり方は、大人も子
り/四月は風のかぐはしく/雲かげ原を超えくれば/雪融けの草を
る。毒もみとは、谷川で山椒の皮汁などを流して、一気に大量の魚
カ
わ た る⋮⋮﹂の 歌 詞 を、
﹁第 二 楽 章 Largo
﹂に つ け た 歌 曲﹁種 山 ケ
原﹂もあることは、心を和ませるこのゆったりとしたメロディーに
を獲る漁獲法である。署長さんは毒もみ漁法の魅力にとらわれ、捕
ダ
惹 か れ て い た の で は な い か。ま た 歌 曲 の 題 名、
﹁ 新 世 界 ﹂と い う こ
マ
農の汗に燃し/縄と菩提樹皮にうちよそひ/風とひかりにちかひせ
とばは、賢治にとってユートピアと重なり、それは宗教の問題とも
まって裁判にかけられ、死刑になる寸前にも﹁あゝ
﹁新 世 界 交 響 楽﹂は、
﹁ い よ い よ は っ き り ﹂ジ ョ バ ン ニ が 、
﹁コ ロ
河鉄道の夜﹂には、発破の魅力が次のように記される。
よ い よ こ ん ど は、地 獄 で 毒 も み を や る か な﹂と 言 っ た と い う。
﹁銀
た。おれはもう、毒もみのことときたら、まったく夢中なんだ。い
おもしろかっ
﹁毒もみのすきな署長さん﹂になると、発破と同様禁止されてい
深くかかわっていたのである。
ラドの高原﹂ではなかったかと思ったというところの﹁地平線のは
その時向ふ岸ちかくの少し下流の方で見えない天の川の水が
てから湧き﹂あがる。賢治の想像力は、新大陸アメリカの高原を縦
横に走り回る。︱︱﹁突然たうもろこしがなくなって巨きな黒い野
原がいっぱいにひらけました。新世界交響楽はいよいよはっきり地
( 10 )
ぎらっと光って柱のやうに高くはねあがりどおと烈しい音がし
ました。
川の向こうの赤い火、︱︱﹁ルビーよりも赤くすきとほりリチウ
その柱のやうになった水は見えなくなり大きな鮭や鱒が き
ジ ョ バ ン ニ の﹁蝎 の 火 っ て 何 だ い﹂と い う 問 に 女 の 子 は、
﹁蝎 が や
くところで、
﹁あら、蝎の火のことならあたし知ってるわ﹂と言う。
きして調べるカム パ ネ ル ラ に 女 の 子 ︵か ほ る︶は、こ の す ぐ 後 に 続
ムよりもうつくしく酔ったやうになって﹂燃える火、地図と首っ引
らっきらっと白く腹を光らせて空中には抛り出されて円い輪を
﹁発破だよ、発破だよ。
﹂カムパネルラはこをどりしました。
描いてまた水に落ちました。ジョバンニはもうはねあがりたい
けて死んだのよ。その火がいまでも燃えてるってあたし何べんもお
称である。六〇〇種もあるという。体長は四∼六センチメートルの
蝎 ︵ふつう﹁蠍﹂の漢字を当てる︶は、節足動物蛛形綱サソリ目の総
はふ
くらい気持ちが軽くなって云ひました。
川に爆薬を仕掛け、魚を獲るのは、心躍ることであったのだ。自
ものが多い、先がハサミ状になった大きな触肢と、腹部の毒針が特
ちゅけい
分は出来なくとも、大人の仕掛けた発破のおこぼれにあずかった、
徴 で あ る。夜 行 性 で 昆 虫 を 主 食 と す る。
﹁蝎 の 火﹂は 賢 治 の 蠍 や 蠍
父さんから聴いたわ﹂と言う。
さ ら に、
﹁双 子 の 星﹂の 物 語 に 重 な る お 星 さ ま の お 宮 の こ と が 話
胸躍る少年の日の思い出、︱︱それが天上を流れる銀河にも及ぶ。
座 へ の 関 心 か ら 来 る。彼 は そ の 短 歌 に、
﹁南 天 の/蝎 よ も し な れ
さそり
題になった後、蝎の火のエピソードが語られる。ここは本テクスト
この大空に魔はあらざるか﹂と詠んでいたほどだ。そう
魔ものならば/のちに血をとれまづ力欲し﹂﹁いささかの奇跡 を 起
す力欲し
中にあって、重要な箇所といえよう。人間の罪、原罪の問題が扱わ
れるからである。次のような導入にはじまる。
川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒
母さんから聴いたわ﹂と﹁女の子﹂に言わせている。その上で今度
読者周知の話とされ、ここにも登場する。語り手は﹁なんべんもお
れん坊の悪役として描かれていた。そういう﹁双子の星﹂物語は、
言えば初期作品﹁双子の星﹂にも蠍は登場し、大烏と喧嘩をする暴
にすかし出され見えない天の川の波もときどきちらちら針のや
は、お 父 さ ん か ら 聴 い た と い う 蝎 の 話 が 持 ち 出 さ れ る。
﹁銀 河 鉄 道
やなぎ
うに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な
の夜﹂の蝎は、罪に目覚めた存在だ。
には
火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天を
た。
﹁あ れ は 何 の 火 だ ら う。あ ん な 赤 く 光 る 火 は 何 を 燃 や せ ば
りもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えてゐるのでし
まま引用しよう。
けどいゝ虫だわ﹂と言い、次のような話をする。テクストからその
言い、刺されると死ぬって先生が言ったと反論する。女の子は、
﹁だ
女の子は蝎を﹁いゝ虫よ﹂と言う。ジョバンニは博物館で見たと
ききやう
も焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよ
できるんだらう。
﹂ジョ バ ン ニ が 云 ひ ま し た。
﹁ 蝎 の 火 だ な。
﹂
さそり
カムパネルラが又地図と首っ引きして答へました。
( 11 )
彷徨するときに﹁口を大きくひらいて、はねをまっすぐに張って﹂
は意識しなかったが、罪を犯していたのである。彼は鷹から逃れ、
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がゐて小さな虫やなん
匹もその咽喉﹂に入ってくる。次に﹁一疋の甲虫が夜だかの咽喉に
空を横切る。口を大きく開くことで、まず﹁小さな羽虫が幾匹も幾
はひって﹂もがく。一瞬置いて、また一匹の甲虫がのどに入り、ば
ど
か殺してたべて生きてゐたんですって。するとある日いたちに
た ば た す る。
﹁よ だ か は そ れ を 無 理 に の み こ ん で し ま ひ ま し た が、
の
見附かって食べられさうになったんですって。さそりは一生け
ん命遁げて遁げたけどたうたういたちに押へられさうになった
その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声を上げて泣き出しま
に
わ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまっ
した﹂とある。三度の繰り返しの事象の後に来るものは、哀しい事
おぼ
たわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたの
あんなに一生けん命にげた。それでもたうとうこんなになって
願 っ た 。 見 田 宗 介 は そ れ を 賢 治 の ﹁ 焼 身 幻 想 ﹂ と した 。 け れ ど も そ
よ だ か も 蝎 も 自 身 を 犠 牲 に し、光 を 放 つ 存 在 に 転 身 す る こ と を
に重なる。
実の発見であった。それは﹁銀河鉄道の夜﹂の蝎の発見した哀しみ
よ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたといふの、
あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわから
しまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわ
の行為は、ロマンチックな想いを伴う﹁幻想﹂などという生やさし
ない、そしてその私がこんどいたちにとられやうとしたときは
たしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そ
いものではない。
︵ ︶
したらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心
のである。具体的に言うなら生存との闘い、罪との闘いである。よ
という烈しい自己否定、︱︱原罪意識に目覚めたことから生じたも
わたしはそこに﹁原罪からの脱出の願い﹂を見る。存在自身が罪
はまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さ
をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次に
い。って云ったといふの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだ
だかはやり切れない現実の中で、原罪からの﹁解放﹂の願いを強く
や
持 つ 。 そ れ が ﹁ 灼 け て 死 ん で も か ま ひ ま せ ん ﹂の 叫 び と な り 、
﹁解
︵ ︶
がまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らして
おっしゃ
ゐるのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。
放﹂を求めて大空を彷徨する。
や
よ だ か は 死 を も っ て、み に く い 存 在 か ら の 脱 出 を 試 み、
﹁私 の や
うなみにくい か ら だ で も 灼 け る と き に は 小 さ な ひ か り を 出 す で せ
う﹂と言うのであった。
﹁よだかの星﹂の最後は、右に引用した﹁銀
河鉄道の夜﹂の蝎の最後にきわめて近い。その場面を対比の意味で
引用しよう。
( 12 )
12
ほんたうにあの火それだわ。
誰もが気づくように、ここには﹁よだかの星﹂のよだかの哀しみ
にきわめて近いものがある。
よだかは鷹にねらわれ、殺されようとしている時に、自分もまた
小さな羽虫や甲虫を殺して生きていることを知るのである。よだか
13
を向いてゐるのかも、わかりませんでした。たゞこゝろもちは
てゐるのか、のぼってゐるのか、さかさになってゐるのか、上
た。さうです。これがよだかの最后でした。もうよだかは落ち
た。そ し て な み だ ぐ ん だ 目 を あ げ て も う 一 ぺ ん そ ら を 見 ま し
かを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまひまし
くいきはふいごのやうです。寒さや霜がまるで剣のやうによだ
それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つ
じめて﹁まことのみんなの幸のために﹂自身の命を捨てることが可
放を求めて羽ばたくのである。原罪を知ることで蝎もよだかも、は
ことで、より深刻化する。蝎もよだかも原罪を知り、それからの解
に語らせたことばとも重なる。人間の哀しき性は、原罪を自覚する
一刻も生きてはいられないものだよ﹂と語り手を使って、登場人物
我々人間は、如何なる因果か知らないが、互に傷け合はないでは、
芥川龍之介が﹁好色﹂︵﹃改造﹄一九二一・一〇︶という小説で、
﹁一 体
るのである。共に哀しい、そして避け得ない現実であった。それは
な羽虫や甲虫を殺して生きていたが、今、鷹に殺されようとしてい
私がこんどいたちにとられやうと﹂していると言う。よだかは小さ
やすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがって
れない現実から飛翔するには、どうしたらよいのか。彼はそれをい
が幸いになるにはいかにすべきかに心を砕いた人であった。やりき
と同様に把握していた。また、そうした苛酷な現実を越え、みんな
きるためには、他者を傷つけないではいられないという現実を芥川
ここに作者宮沢賢治の思想を垣間見ることができよう。賢治は生
ら﹂すまでになる。
能 と な り、
﹁ま っ 赤 な う つ く し い 火 に な っ て 燃 え て よ る の や み を 照
さが
は居ましたが、たしかに少しわらって居りました。
それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきま
した。そして自分のからだがいま燐の火のやうな青い美しい光
になって、しづかに燃えてゐるのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかり
が、すぐうしろになってゐました。
そしてよだかの星は燃えつゞけました。いつまでもいつまで
も燃えつゞけました。
蠍座は赤く光る。七月下旬の夕方、南の地平線近くに見えるS字
くつものテクストに昇華する。
の火だらう。あんな赤く光る火は何を燃や せ ば で き る ん だ ら う。﹂
形の星座である。
﹁銀河鉄道の夜﹂では、二人の少年が﹁﹁あれは何
今でもまだ燃えてゐます。
女の子の語った︿蝎の話﹀と﹁よだかの星﹂とには、右に見たよ
首っ引きして答へました﹂との対話を伝える。それに続く女の子の
ジョバンニが云ひました。﹁蝎の火だな。﹂カムパネルラが又地図と
うに共通項が多い。それぞれの主人公は、共に追い詰められた最後
の段階で、それまで知らずして犯していた罪の深さにおののくので
ソードとなっている。
語る赤く輝く星にまつわる話は、本テクスト中、最も印象深いエピ
ある。
二つのテクストを貫くものは、原罪との闘いである。蝎は﹁わた
しはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその
( 13 )
こ う し た 会 話 を き っ か け に、
﹁ほ ん た う の 神 さ ま﹂を め ぐ っ て の
論 争 が は じ ま る の で あ る。
﹁銀 河 鉄 道 の 夜﹂の 一 の 大 事 な 箇 所 で あ
に、銀 河 鉄 道 の 列 車 は 進 み、サ ウ ザ ン ク ロ ス 駅 に 近 づ く。
﹁も う ぢ
﹁音 な く あ か る く あ か る く 燃 え る﹂う つ く し い さ そ り の 火 を 後
しさうに﹂言う。ジョバンニと女の子と青年を交えた論争の箇所を
りなけあいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから﹂と﹁さび
別 れ た く な い の で あ る。が、女 の 子 は、
﹁あ た し た ち も う こ ゝ で 降
四 ﹁ほんたうの神さま﹂論争
きサウザンクロスです。おりる支度をして下さい﹂という青年のこ
引く。
る。年の行かない男の子ばかりか、ジョバンニも女の子も、互いに
とばで、場面は一転する。サウザンクロスは南十字星である。四つ
の星が見事な十字架を描き、天の川の中に位置する。ここに銀河鉄
﹁おりる支度をして下さい﹂という青年のことばに反 抗 し、男 の
れに神さまが仰っしゃるんだわ。
﹂﹁そんな神様うその神さまだ
先生が云ったよ。
﹂﹁だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそ
で天上よりももっといゝとこをこさえなけぁいけないって僕の
﹁天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝ
子は降りたがらない。青年と女の子は降りる支度をするが、男の子
道の一駅が設定されている。
は駄々をこねる。その箇所をテクストから引用しよう。
い。
﹂﹁あなたの神さまうその神さま よ。
﹂﹁さ う ぢ ゃ な い よ。
﹂
だって行ける切符持ってるんだ。
﹂﹁だけどあたしたちもうこゝ
云 ひ ま し た。
﹁僕 た ち と 一 緒 に 乗 っ て 行 か う。僕 た ち ど こ ま で
し 汽 車 へ 乗 っ て か ら 行 く ん だ い。
﹂ジ ョ バ ン ニ が こ ら え 兼 ね て
ん で 男 の 子 を 見 お ろ し な が ら 云 ひ ま し た。
﹁厭 だ い。僕 も う 少
﹁こ ゝ で お り な け あ い け な い の で す。
﹂青 年 は き ち っ と 口 を 結
やうすでした。
したけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうな
ムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめま
顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声を
その通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しさうでその
す。
﹂青 年 は つ ゝ ま し く 両 手 を 組 み ま し た。女 の 子 も ち ゃ う ど
うの 神 さ ま の 前 に わ た く し た ち と お 会 ひ に な る こ と を 祈 り ま
うぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんた
たったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。
﹂﹁だからさ
の神さまはもちろんたった一人です。
﹂﹁あゝそんなんでなしに
なんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。
﹂﹁ほんたう
云 ひ ま し た。
﹁ぼ く ほ ん た う は よ く 知 り ま せ ん、け れ ど も そ ん
﹁あなたの神さまってどんな神さまですか。
﹂青年は笑ひながら
で 降 り な け あ い け な い の よ。こ ゝ 天 上 へ 行 く と こ な ん だ か
あげて泣き出さうとしました。
﹁僕 も 少 し 汽 車 へ 乗 っ て る ん だ よ。
﹂男 の 子 が 云 ひ ま し た。カ
ら。
﹂女の子がさびしさうに云ひました。
( 14 )
しばしば善を行った死者が行ける理想の世界を﹁天上﹂と記した。
その生涯の共通項に思い至る時、トルストイは﹁僕の先生﹂に擬せ
イその人だったのである﹂という。賢治のトルストイへの傾斜や、
︵賢治︶に教えてくれた ﹁僕の先生 ﹂
、そ れ は 疑 い も な く、ト ル ス ト
り も も っ と い ゝ と こ を こ さ え よ う ﹂と、時 代 を こ え て ジ ョ バ ン ニ
よ く 知 ら れ る 詩﹁永 訣 の 朝﹂に は、
﹁ど う か こ れ が 天 上 の ア イ ス ク
ら れ て よ い 。 が 、文 脈 を 離 れ て の ﹁ 僕 の 先 生 ﹂の 探 求 で は 、
﹁農 民
方、三上満は、その一人にトルスト イ を あ げ る。三 上 は﹁﹁天 上 よ
リームになつて﹂の一文も見られる。キリスト教でも﹁天上のエル
芸 術 の 興 隆﹂で ト ル ス ト イ と 共 に 名 が 挙 げ ら れ て い る シ ペ ン グ
ここで使われている﹁天上﹂とは、
﹁天の世界﹂
、望みの世界であ
サレム﹂といった言い方で﹁天上﹂を天国と同義語に用いる場合も
ラー、エマソン、ロマン・ロランなども浮上する。さらには田中智
る。キリスト教では一般に﹁天国﹂﹁天 の 国﹂と 呼 ば れ る。賢 治 は
ある。要するに﹁天上﹂﹁天国﹂﹁天の国﹂は、諸宗教を超えた彼岸
︵ ︶
世界の超自然的望みの世界である。
かほると呼ばれる女の子は、ジョバンニが﹁天上へなんか行かな
学以外の法華経関係の指導者や、賢治と親交のあった元小学校教師
く た っ て い ゝ ぢ ゃ な い か﹂と 言 っ た の に 対 し、
﹁だ っ て お っ 母 さ ん
のキリスト者斎藤宗次郎なども挙がってくる。すると﹁僕の先生﹂
た。そ れ に 対 し て ジ ョ バ ン ニ は、
﹁天 上 へ な ん か 行 か な く た っ て
も行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ﹂と言う。
ここでの﹁ほんたうの神さま﹂論争は、まずジョバンニとかほる
いゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさ
女の子は、日曜学校で受けた天国の話を噛みしめるようなような口
と呼ばれた女の子との間でなされる。かほるはジョバンニたちと別
え な け ぁ い け な い っ て 僕 の 先 生 が 云 っ た よ。
﹂と 返 す。こ こ で ジ ョ
振りで言う。ジョバンニには、そうした教条的な言い方が気にくわ
は、広義には、賢治に影響を与えたこれら思想家であり、狭義には
バンニが言う﹁僕の先生﹂とは誰か。恐らくは﹁一、午后の授業﹂
ないのである。それゆえ﹁そんな神様うその神さまだい﹂というこ
﹁午后の授業﹂に出て来る先生ということになろう。
で星座の授業をした﹁先生﹂ではないだろうか。ひとり一人の生徒
と ば ま で 飛 び 出 す。女 の 子 も 負 け て い な い。
﹁あ な た の 神 さ ま う そ
れたくなかったに違いない。それだからこそ心を引かれながらも、
に よ く 気 を 配 っ て、納 得 の い く 授 業 を 展 開 し て い た﹁先 生﹂で あ
﹁こゝ天上へ行くとこなんだから﹂と﹁さびしさうに﹂言うのであっ
る。カムパネルラやザネリ、そしてジョバンニの担任の先生といっ
の神さまよ﹂と言い返す。ここに青年が立ち入り、あなたの神はど
が、文脈上の﹁僕の先生﹂が担任の先生としても、文脈の背景に
んな神かと、ジョバンニに笑いながら問う。それに対してジョバン
お
たらよかろうか。
ニ は、
﹁ぼ く ほ ん た う は よ く 知 り ま せ ん、け れ ど も そ ん な ん で な し
ジョバンニはうまく答えられないものの、神は唯一人と信じてい
にほんたうのたった一人の神さまです﹂と答える。
る か の よ う で あ る。が、
﹁ほ ん た う の 神 さ ま は も ち ろ ん た っ た 一 人
は 語 り 手 の、そ し て 語 り 手 を 統 御 す る 作 者 の 考 え る﹁先 生﹂が い
研究者がまず挙げるのは、国柱会創設者の田中智学である。智学へ
る。その﹁先生﹂は、一人でなく複数存在したように思う。多くの
の賢治の崇拝ぶりが、よく知られていたところからくる考えだ。他
( 15 )
14
んか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわ
す﹂と 繰 り 返 す。そ れ に 対 し て 青 年 は、
﹁だ か ら さ う ぢ ゃ あ り ま せ
そんなんでな し に た っ た ひ と り の ほ ん た う の ほ ん た う の 神 さ ま で
です﹂と青年が言うにもかかわらず、ジョバンニはいま一度、
﹁あゝ
のやうな青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ってゐるの
ました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉
何とも云ひやうない深いつゝましいためいきの音ばかりきこえ
こっちにも子供が瓜に飛びついたときのやうなよろこびの声や
や う に ま っ す ぐ に 立 っ て お 祈 り を は じ め ま し た。あ っ ち に も
の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときの
は、両 者 の 立 場 を 認 め つ つ、
﹁こ れ は 一 神 教 か 多 神 教 か と い う レ ベ
この﹁﹁ほんたうの 神 さ ま ﹂論 争﹂に 対 し て 心 理 学 者 の 河 合 隼 雄
さんのシグナル[や]電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるや
た何とも云へずわやかなラッパの声をききました。そしてたく
んなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとほっ
﹁ハ ル レ ヤ ハ ル レ ヤ。
﹂明 る く た の し く み ん な の 声 は ひ ゞ き み
りんご
たくしたちとお会ひになることを祈ります﹂と応じる。ジョバンニ
ルを超えて、光というか、誰をも包んでくれるような大きな存在、
かになりたうたう十字架のちやうどま向ひに行ってすっかりと
めぐ
も青年も﹁ほんたうの神さま﹂は、唯一の神であることを言ってい
が見えました。
そういうものを何か言葉でうまく言いたい。ところが自分たちとこ
十字架が天の川の﹁青や橙やもうあらゆる光﹂にちりばめられた
年は、背後にタイタニック号事件を背負ったヨーロッパ人らしい存
木といふ風に川の中から立ってかゞやきその上には青じろい雲
ト︵コネティカット︶州とか、大きな海パシフィックやコロラドの
作中の地名もランカシャイ︵ランカシャー︶とかコンネクテカッ
( 16 )
るのだが、ニュアンスが若干異なる。
の 青 年 の 間 に は こ だ わ り が あ っ て﹂う ま く い か な い。け れ ど も、
まりました。
︵ ︶
﹁たったひとりのほんたうの神さま﹂には、賢治の言いたい、
﹁表現
したい絶対者の姿がよく出てい る﹂とする。法華経もキリスト教も
超えた絶対者の存在に、賢治は想いを馳せているのである。西田良
姿で輝く。人々は祈りを捧げる。その内実は﹁子供が瓜に飛びつい
︵ ︶
たときのやうなよろこびの声や何とも云ひやうない深いつゝましい
た め い き の 音﹂と 表 現 さ れ る。
﹁銀 河 鉄 道 の 夜﹂は、こ こ に キ リ ス
界である。ここに登場する人物も、︱︱ジョバンニにしてもカムパ
在である。
ネルラにしても、国籍を超えた名が与えられ、女の子や男の子や青
あ ゝ そ の と き で し た。見 え な い 天 の 川 の ず う っ と 川 下 に 青 や
がまるい環になって后光のやうにかかってゐるのでした。汽車
だいだい
橙 やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の
ある。テクストを引用しよう。
ト教色に染め上げられた感がある。いや、すべての宗教を超えた世
︵ ︶
わたしはそうした母性をも越えた絶対者の存在を読みたい。テクス
子や武田秀美は、ここに﹁母性なるものの救い﹂の存在を説く。が、
15
ト は﹁さ あ も う 仕 度 は い ゝ ん で す か。ぢ き サ ウ ザ ン ク ロ ス で す か
17
ら﹂という青年のことばで、物語は新局面を迎える。別れの場面で
16
高 原 な ど が 登 場 し、国 際 的 で あ る。こ こ に 国 際 的 宗 教 キ リ ス ト 教
ト分析から賢治のキリスト教との関わりを掘り起こしている。わた
よ っ て 推 し 進 め ら れ 、 近 年 は 遠 藤 祐 の 一 連 の 賢 治 研 究書 が 、 テ ク ス
︵ ︶
が、大きな位置を占める。
子の手を引き汽車を降りる。女の子はジョバンニとカムパネルラに
たくしたちとお会ひになることを祈ります﹂と言った青年は、男の
く。
﹁わ た く し は あ な た 方 が い ま に そ の ほ ん た う の 神 さ ま の 前 に わ
﹁ハルレヤハルレヤ﹂の合唱の中に汽車はサウザンクロス駅に 着
後は﹃二荊自叙伝﹄を無視して﹁銀河鉄道の夜﹂を語ることは怠慢
て、キリスト教の世界といかに深く関わったかを明確に物語る。今
次郎﹃二荊自叙伝﹄上・下二巻の刊行は、賢治が斎藤宗次郎を通し
スト教理解は、なまなかのものでなかった。近年の新資料、斎藤宗
つ、
﹁銀 河 鉄 道 の 夜﹂の 世 界 を 捉 え た い と 考 え て い る。賢 治 の キ リ
しもまた多く の 賢 治 テ ク ス ト の 背 景 に キ リ ス ト 教 の 影 響 を 認 め つ
︵ ︶
よなら﹂とぶっきり棒に言う。汽車の中は半分以上も空いて、さび
﹁さよなら﹂を言う。ジョバンニも﹁泣き出したいのを﹂こらえ、
﹁さ
21
のそしりを免れないであろう。
ジョバンニの成長
かほると呼ばれた女の子と、青年に手を引かれた男の子と別れた
五
し く な る。汽 車 を 降 り た 人 々 は、
﹁つ ゝ ま し く 列 を 組 ん で﹂十 字 架
の 前 の 天 の 川 の な ぎ さ に ひ ざ ま づ い て い る。
﹁天 の 川 の 水 を わ た っ
てひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るの
を二人は見﹂る。キリストを思わせる人物がここに現れるが、汽車
ジョバンニとカムパネルラは、次のようなやりとりをする。テクス
は動き出し、十字架は小さくなる。
﹁銀 河 鉄 道 の 夜﹂は、背 景 も 内 実 も キ リ ス ト 教 に 深 く 染 め 上 げ ら
河鉄道の夜 ﹂の先駆稿と呼び得る作品からは、導くことのできない
もとづく ﹁ひかりの素足 ﹂や亡妹を主題とした挽歌群といった、﹁銀
を成立せしめる中心的モチィーフであり、それは、仏教的他界観に
もかまはない。
﹂
たうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いて
もどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほん
﹁カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまで
トを引用する。
れている。本作とキリスト教との関係に言及した論に、鈴木健司の
か ほ る と 宣 教 師 ミ ス・ギ
フ ォ ード﹂が あ る。鈴 木 は﹁キ リ ス ト 教 の 問 題 は ﹁銀 河 鉄 道 の 夜 ﹂
︵ ︶
﹁﹁た っ た 一 人 の 神 さ ま ﹂と い う デ ィ レ ン マ
要素なのである﹂とし、盛岡のアメリカ人宣教師ミス・ギフォード
が う か ん で ゐ ま し た。
﹁け れ ど も ほ ん た う の さ い は い は 一 体 何
ネルラがぼんやり云ひました。
だ ら う。
﹂ジ ョ バ ン ニ が 云 ひ ま し た。
﹁僕 わ か ら な い。
﹂カ ム パ
﹁う ん。僕 だ っ て さ う だ。
﹂カ ム パ ネ ル ラ の 眼 に は き れ い な 涙
︵ ︶
( 17 )
22
に注目する。そして賢治とミス・ギフォードとの英語での会話が、
︵ ︶
20
賢 治 と キ リ ス ト 教 と の 関 わ り は 、 こ れ ま で 佐 藤 泰正 や 上 田哲 ら に
を、手堅い手法で立証する。
19
﹁銀河鉄道の夜﹂でのジョバンニとかほるとの会話に対応すること
18
十 字 座 近 く の も の を 呼 ぶ こ と も あ る。
﹃大 百 科 事 典
﹄の 記 述 に 拠
︵ ︶
れ ば、
﹁星 間 空 間 に は 一 辺 一 〇 〇mの 箱 の 中 に 平 均 一 個 程 度 の 星 間
﹁僕 た ち し っ か り や ら う ね え。
﹂ジ ョ バ ン ニ が 胸 い っ ぱ い 新 ら
しい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
μm程度である。星間塵の密度が高
塵がある。その大きさは
くら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしん
てゐるのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかい
ました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあい
ました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまひ
しそっちを避けるやうにしながら天の川のひとところを指さし
の 比 喩 と し て 登 場 し て いる ﹂ と す る 。
痛 む の で し た﹂と あ る。大 塚 常 樹 は 石 炭 袋 に つ い て、
﹁恐 ろ し い 闇
いくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずたゞ眼がしんしんと
なる。テクストには﹁その底がどれほど深いかその奥に何があるか
〇等級以上の減光をするので星はまったく見えない﹂ということに
な場合を暗黒星雲と呼んでいる。コールサックでは、中央部では二
くなると、後の星の光を弱めて隠してしまう場合がある。そのよう
︵ ︶
と 痛 む の で し た。ジ ョ バ ン ニ が 云 ひ ま し た。
﹁僕 も う あ ん な 大
・
﹁あ、あ す こ 石 炭 袋 だ よ。そ ら の 孔 だ よ。
﹂カ ム パ ネ ル ラ が 少
5 23
きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさひ
1
あ っ あ す こ に ゐ る の は ぼ く の お 母 さ ん だ よ。
﹂カ ム
きれいだらう。みんな集まってるねえ。あすこがほんたうの天
で行かう。
﹂﹁あゝきっと行くよ。あゝ、あすこの野原はなんて
はいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進ん
大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんたうのさひは
ん し ん と 傷 む﹂眼 を 大 き く 見 張 り、進 も う と す る。
﹁僕 も う あ ん な
少 年 を 決 定 的 に 分 け 隔 て る 境界 ﹂ な の で あ る 。 ジ ョ バ ン ニ は 、
﹁し
﹁闇﹂とは、松田司郎によれば﹁ジョバンニとカムパネル ラ 二 人 の
そ う い う﹁恐 ろ し い 闇﹂を ジ ョ バ ン ニ は 乗 り 越 え よ う と す る。
︵ ︶
上なんだ
やみ
パネ ル ラ は 俄 か に 窓 の 遠 く に き れ い な 野 原 を 指 し て 叫 び ま し
いをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行か
カムパネルラと二人になったジョバンニは、再び﹁ほんたうのさ
くよ﹂と言ったカムパネルラは、次の瞬間、もう、その席にいない。
に 奏 さ れ る 箇 所 で あ る。が、ジ ョ バ ン ニ に 同 調 し、
﹁あ ゝ き っ と 行
長を語ろうとするかのようだ。ジョバンニの求道の精神が、高らか
う﹂という積極的ことばは、それを示す。語り手はジョバンニの成
いはいは一体何だらう﹂とカムパネルラに問いかける。カムパネル
そしてジョバンニは丘の草の中で目覚めるのである。
第 三 次 稿 ︵初 期 形 三︶で は、ジ ョ バ ン ニ が 目 覚 め る 前 に ブ ル カ ニ
ラは﹁僕わからない﹂とぼんやり言う。それに対しジョバンニは﹁僕
ロ博士 ︵﹁黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人﹂︶が、
﹁い ち ば
あな
炭袋だよ。そらの孔だよ﹂と天の川のひととこを指さす。そこには
ふうと息をしながら﹂言う。その時カムパネルラは﹁あ、あすこ石
石炭袋、コールサックとは、南十字座にある暗黒星雲である。北
ンニの決心を促す文面があった。引用しよう。
んの幸福をさがし﹂に行くがよいと話しかけ、以下のようにジョバ
たちしっかりやらうねえ﹂と﹁胸いっぱい新らしい力が湧くやうに
た。
25
﹁大きなまっくらな孔がどほんとあいてゐる﹂のである。
( 18 )
0
24
い。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできて
をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけな
﹁あゝわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符
バンニ少年の﹁ほんたうの幸福﹂を求めての歩みは、彼を大きく成
に援用すると、ジョバンニの求道の歩みは、より鮮明となる。ジョ
ま す よ﹂と 叫 び、ま た 走 り は じ め る。第 三 次 稿 ︵初 期 形 三︶を こ こ
ジョバンニは﹁博士ありがとう、おっかさん。すぐ乳をもって行き
トの中には、
﹁天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んで﹂あった。
幸福を求めます﹂と力強く言い、天気輪の丘を走り降りる。ポケッ
ゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそれを疑やし
いわう
ない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔
長させる。
らう。それからぼくたちの心がいゝとかわるいとか議論するだ
互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだ
ぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお
い 涙 が な が れ て ゐ ま し た﹂に は じ ま る。丘 か ら は 町 が 見 え、
﹁そ の
れてねむってゐたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめた
場面は﹁ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につか
成 度 か ら 言 う と、第 三 次 稿 ︵初 期 形 三︶を 上 回 る。最 終 稿 の 最 後 の
最終稿は、首尾照応を意識した結びになっている。テクストの完
はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄ででき
らう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほ
光はなんだかさっきよりは熟したといふ風でした﹂とある。光の数
てゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじ
んたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを
が増したということだろう。天の川は南の地平線の上が煙ったよう
に歩いて行かなければいけない。天の川のな[か]でたった一
中でなしに本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ
﹁さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の
同じやうになる。
︵中略︶
まって橋の方を見ながら、何かひそひそ話し合っている。橋の上に
行 っ た 川 の 方 へ 行 く と、女 た ち が 七、八 人 ず つ 町 角 や 店 の 前 に 集
取 っ た ジ ョ バ ン ニ が、さ っ き カ ム パ ネ ル ラ た ち が あ か り を 流 し に
ないで待っている母を思い出し、牧場の牛舎へと急ぐ。牛乳を受け
になり、蠍座の赤い星がきらめいている。ジョバンニは夕飯を食べ
ほて
分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と
つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしていけな
はあかりがいっぱいである。
た。そ し て い き な り 近 く の 人 た ち へ/﹁何 か あ っ た ん で す か。
﹂と
﹁ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったやうに思ひまし
い。
﹂あ の セ ロ の や う な 声 が し た と 思 ふ と ジ ョ バ ン ニ は あ の 天
叫ぶやうに﹂聞く。
﹁こどもが水へ落ちたんですよ﹂と一人が言う。
の川がもうまるで遠く遠くなって風が吹き自分はまっすぐに草
の丘に立ってゐるのを見また遠くからあのブルカニロ博士の足
原に降りて、級友のマルソに会い、カムパネルラが川に落ちたザネ
橋の上は人でいっぱいで川は見えないほどである。ジョバンニは河
[お]とのしづかに近づいて来るのをききました。
ジョバンニは﹁僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの
( 19 )
リ を 救 い、行 方 不 明 に な っ た と こ と を 知 る。ジ ョ バ ン ニ の 哀 し み
帰るのである﹂とする。
う命題なのである。だから手紙を待っている母親のもとへ一目散に
︵ ︶
は、
﹁誰 も 一 言 も 物 を 云 ふ 人 も あ り ま せ ん で し た。ジ ョ バ ン ニ は わ
う。ジ ョ バ ン ニ は 思 わ ず 博 士 の 前 に 駆 け 寄 り、
﹁ぼ く は カ ム パ ネ ル
駄 目 で す。落 ち て か ら 四 十 五 分 た ち ま し た か ら﹂と き っ ぱ り と 言
る。時 計 を じ っ と 見 て い た カ ム パ ネ ル ラ の 父 で あ る 博 士 が、
﹁も う
く わ く わ く わ く 足 が ふ る え ま し た﹂と い う 描 写 に よ く 示 さ れ て い
に起こる出来事である。
なった親友の死、母の病気、父のことなど、少年ジョバンニの回り
ぱい﹂の﹁いろいろなこと﹂とは、いじめっ子ザネリの身代わりと
知 ら ぬ も の で あ る こ と が 暗 示 さ れ る。
﹁い ろ い ろ な こ と で 胸 が い っ
ジョバンニの哀しみと悩みは、依然つきまとう。その悩みは果て
博 士 は﹁ど う し た の か な あ、ぼ く に は 一 昨 日 大 へ ん 元 気 な 便 り が
帰 っ て ゐ ま す か﹂と 問 う。
﹁い ゝ え﹂と ジ ョ バ ン ニ が 頭 を 振 る と、
まの追求、自己犠牲などをめぐって、考えを深めることで、彼は大
妬・いじめ・弱者へのいたわり、ほんとうの幸せ、ほんとうの神さ
河 鉄 道 の 夜 の 旅 を す る。そ こ で の さ ま ざ ま な 体 験、︱︱友 情・嫉
バンニが、あこがれの友カムパネルラと夢の世界で会い、ともに銀
悩みのない人生はない。
﹁銀河鉄道の夜﹂一編は、孤独の少年ジョ
ラの行った方を知ってゐます﹂と言おうとするが、のどが詰まって
あったんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだ
言 え な い。博 士 は ジ ョ バ ン ニ を 認 め、
﹁あ な た の お 父 さ ん は も う
な。ジョバンニさん。あした放課后みなさんとうちへ遊びに来てく
き く 成 長 す る。が、本 作 は 単 な る 成 長 物 語 で は な い。テ ク ス ト は
問うているのである。
ジョバンニの哀歓を通し、読者に生きるとは何か、幸せとは何かを
ださいね﹂と言う。最後の一文は、以下のようである。
ジョバンニはもういろいろなことで胸がいっぱいでなんにも云
﹃大百科事典 ﹄平凡社、一九八四年一一月二日、六二二ページ。こ
西田良子﹃宮澤賢治論﹄桜楓社、一九八一年四月二〇日、三六∼三七
んたうの幸せ ﹂は、自分ひとりで見つけてこそ意味がある ︵中略︶
、
バ ン ニ に 与 え た の か と 問 い、
﹁カムパネル ラ と の 別 れ に よ っ て ﹁ほ
ページ
注
お父さんの帰ることを知らせやうと思ふともう一目散に河原を
の項目の執筆者は、茨木孝雄である。
へずに博士の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持って行って
街の方へ走りました。
ジョバンニに与えられたものは、地上に戻って今病の床に臥してい
賢治﹄第一七号、二〇〇六年一〇月五日
佐藤泰正﹁賢治とキリスト教︱︱ ﹃銀河鉄道の夜 ﹄再読︱︱﹂﹃国文学
関口安義﹁ジョバンニの哀歓︱︱ ﹁銀河鉄道の夜 ﹂を読む︱︱﹂﹃宮沢
続橋達雄﹃宮沢賢治少年小説﹄洋々社、一九九八年六月一五日、七二
る母親のために何があっても一生懸命に尽すことが使命であり、そ
ページ
こから ﹁たったひとりのほんたうの神さま ﹂を見つけること、とい
3
この結末について萩原昌好は、なぜ賢治はこのような結末をジョ
1
4
( 20 )
26
1
2
5
原
﹄平凡社、一九八五年六月二八日、七五〇ページ。この
子朗﹃新宮澤賢治語彙辞典﹄東京書籍、一九九九年七月二六日
解釈と鑑賞﹄二〇〇〇年二月一日
﹃大百科事典
項目の執筆者は、谷口幸男である。
コスモロジー
大塚常樹﹃宮沢賢治心象の宇宙論﹄潮文社、一九九三年七月二〇日、
子朗﹁賢治を解くキーワード 苹果︵林檎・りんご︶﹂﹃國文學
二五一ページ
原
務﹁
﹃銀河鉄道の夜﹄考 ︱︿苹果﹀をめぐって︱﹂﹃国文学解釈と鑑
月臨時増刊号、賢治童話の手帳﹄一九八五年五月二五日
萬田
賞﹄一九九三年九月一日、のち﹁銀河鉄道の夜﹂への一視点︱︿苹果﹀
をめぐって︱﹂と改題、
﹃宮 沢 賢 治/自 然 の シ グ ナ ル﹄翰 林 書 房、一 九
九四年一一月五日収録、一二六∼一三八ページ
かほると宣 教 師 ミ
読みと受容への試論﹄蒼丘書林、
鈴 木 健 司﹁﹁た っ た 一 人 の 神 様﹂と い う デ ィ レ ン マ
スト教文学研究﹄第一四号、一九九七年五月一〇日
﹃宮沢賢治という現象
ス・ギフォード﹂
二〇〇二年五月二五日、九一∼一一七ページ
佐藤泰正﹁宮沢賢治とキリスト教 ︱内村鑑三・斎藤宗次郎ににふれつつ︱﹂
﹃国文学解釈と鑑賞﹄一九八四年一一月一日ほか
上田 哲﹃宮沢賢治 その理想世界への道程﹄明治書院、一九八五年
祐﹃宮澤賢治の︿ファンタジー空間﹀を歩く﹄双文社出版、二
一月一五日
遠藤
〇〇五年七月二五日、﹃宮澤賢治の物語たち﹄洋 々 社、二 〇 〇 六 年 一 〇
山折哲雄・栗原 敦編、斎藤宗次郎﹃二荊自叙伝﹄岩波書店、上、二
月二〇日、﹃イーハトヴへの招待﹄洋々社、二〇〇八年一二月二〇日
〇〇五年三月二五日、下、二〇〇五年六月二八日
﹃大百科事典 ﹄平凡社、一九八四年一一月二日、一一五二ページ。
本項目の執筆者は、磯部 三である。
5
﹃キリ
関口安義﹁
﹁よだかの星﹂の世界 ︱悪より救い出したまえ﹂の祈り︱﹂
スト教文学研究﹄第二三号、二〇〇六年五月一二日、のち﹃賢治童話を
存在の祭りの中へ﹄岩波書店、一 九 八 四 年 二 月 二
西田良子編﹃宮沢賢治を読む﹄創元社、一九九二年二月一日、二八〇
の手帳﹄一九八五年五月二五日
﹃キ リ
武 田 秀 美﹁宮 沢 賢 治﹃銀 河 鉄 道 の 夜﹄ ︱﹁ほ ん た う﹂の テ ー マ︱﹂
∼二八三ページ
大塚常樹﹁﹃銀河鉄道の夜﹄を読み解くキイワード石炭袋﹂﹃國文學﹄
一九九四年四月一〇日
松田司郎﹃宮沢賢治の深層世界﹄洋々社、一九九八年二月二〇日、二
四四ページ
萩原昌好﹃宮沢賢治﹁銀河鉄道﹂への旅﹄河出書房新社、二〇〇〇年
一〇月二五日、二一九ページ
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読む﹄港の人、二〇〇八年一二月二四日収録、五三一∼五四七ページ
見 田 宗 介﹃宮 沢 賢 治
九日、一三二∼一四四ページ
参照
満﹃明日への銀河鉄 道 わ が 心 の 宮 沢 賢 治﹄新 日 本 出 版 社、二
あした
よだかの﹁原罪﹂からの解放の願いに関しては、注
三上
11
河合隼雄﹁瀕死体験と銀河鉄 道﹂
﹃國 文 學 月 臨 時 増 刊 号、賢 治 童 話
〇〇二年一〇月二〇日、三∼二五ページ
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