演題「人生はドラマだ!」 市川森一

創立40周年記念講演 & 心に響く人生の達人セミナー
演題「人生はドラマだ!」
市川森一 先生
僕は長崎はドラマの宝庫だと思っているんですよ。僕はいろいろなドラマや何やを作っ
ている,書いている人間なんです。そういう視点から見てもですね,長崎県というのは本
当にドラマの宝庫です。五島にもいろいろなドラマがあると思います。その割には僕は五
島をほとんど知りませんでした。今回で二度目なんです。福江にはまだ行ったことないん
です。二回とも,全部この上五島の方なんですけども,本当に昔からいろいろな面白い歴
史を持っている島々。これから研究,勉強もしていきたいと思います。長崎県下を眺める
と,本当に島原,平戸,長崎はもちろんのことですね,本当に面白い歴史が縦横にある。
その一つ一つを今まで私はドラマにし続けてもきました。そういう思いはやっぱり僕が長
崎県の出身だからだろうなと思うんです。私はたまたまドラマ作家ですから,そうやって
こっちに来てそういう仕事をしていますが,皆様方は仮に実業の方にこれから携わられる
としてもですね,そういう何かこう長崎県の資源を活かす,この風景を活かす,自分の故
郷に何か活かせるようなことがないかなというような,そういう知恵を巡らされる時が来
るかもしれない。
今日はですね,人生の話を時間が来るまでちょっとしてみたい。私の考えをいろいろ言
うというよりは,私が感銘を受けた何冊かの本の話を,何冊もの本がこれから私の話の中
に出て来ると思いますが,テーマとしては一つです。今日「人生はドラマだ!」というタ
イトルのようですが,「人生はドラマ」そう言ってもいいし,あるいは,「夢見る力」とい
う言葉が私は好きなのですが,夢を見る力を何とか持ちましょうよ,という呼びかけ。そ
ういうことを皆さん達に少し話をしたいなと思っております。
古代の人っていうのは人を騙すということに罪悪感がないんです,全く。今の私たちと
違って。これは何ででしょうね。不思議ですよね。人を騙すというのは,それは人間の持
って生まれた本性である。丁度動物や植物にも擬態といって,カマキリでも木の枝に化け
たような格好で餌を捕るというような,ああいう動物の擬態にも似たものが,人間の場合
には擬態ということではなくて,つまり人を騙すということで,自らが生き延びて行く。
これは人間の知恵である。そういう風に断言をしているというか,そういう哲学が古代に
は当たり前のようになっているんですね。これをもうちょっと別の言い方で言えばですね,
騙すということは同時に演じるということになりますよね。つまり騙すという言い方が過
激ならば,人間は演じる動物であるという言い方ができるんですね。人間は演じて生き続
ける。だから人間は人が演じているのを見るのも好き。そして自分が演じるのも好き。そ
のことによって人が騙されてくれるのを人は喜ぶ。演劇とかドラマというのはそうなんで
す。私たちが嘘の話を書いて,役者さん達が,さもあるような振りをして,お客様がそれ
を見て泣いたり笑ったりしてくださる。いわばそれも騙しなんですよね。そういう風に人
は演じるのも好きだし,演じるのを見るのも好き。そうすると私たちの人生そのものもで
すね,実は私は私という人間を演じて生きている。皆さん方は演じている私をご覧になっ
て,市川森一とはああいう人間かな,とお思いになるでしょう。私もまたそう思われたい
市川森一を演じて皆様方の前にこうやって立っていますから,本当の全ての私,全ての私
の本性を皆様方にさらけ出しているわけでは決してありません。私自身は実は非常に何か
エゴイスティックで醜くて,とても皆様方の前でこんな偉そうなことをしゃべれる人間で
はないかもしれない。私の本当の正体というものは。皆様方もそうじゃありませんか。制
服を着て,白いソックスを履いて,三つ編みにして,そこに座ってらっしゃる。それもや
っぱりある種衣装ですよね。中五島高校の生徒を演じてらっしゃるかもしれない。5つボ
タンを閉めて,それはこの中五島高等学校の生徒はこうあってほしい,かくあるべきだと
いう,やっぱり校則とかありますね。先ほど皆さんが起立されたり,きちっとお礼,立派
なお辞儀をなさる。そういうのもある種それは演技ですよね。皆さん達だってお家にお帰
りになって,制服を脱いで普通のTシャツに替えてジーパンを履いて,学校を離れられれ
ばですね,全くそこには違う自分が立ち現れたりするでしょう。そしてまた学校に行かな
いとならないとなったら制服に着替えて,あの子はいい子だねと言われる自分というもの
をどこかでは演じてらっしゃる。そういう演技というものはですね,多分一生涯続くので
すよね。だからよく言う「人生はドラマだよね。」と言うのはそういう所からくるのだろう
と思います。自分の人生というのはやっぱり長い目で見れば自分にしか書けない。自分が
シナリオライターで,自分が演出家で,そして自分が主役の,ただ一回きりの再放送のな
いドラマ,それが自分の人生なのです。だから自分の人生をどう素敵に生きようか,どん
な素敵なドラマを自分を主人公にして展開させようかということが,私たち一人一人にと
っては必要なことになってくるんですね。さて,そうして見ますと,自分の人生にとって
何が一番大事か,人生をドラマだとすれば,私たちが作るドラマもそうであるようにです
ね,一番大事なものはテーマなんです。私たちのドラマでもやっぱりテーマというものが
ないドラマというのは退屈な3流のドラマ,そして見ても内容のない何の役にも立たない
ドラマになってしまいます。そういうドラマも沢山あります。私もうっかりそういうドラ
マを書いてきたこともありました。そうするとそういうドラマがどういうドラマかと言う
と,やっぱりそこにはテーマがない,メッセージがない,こういうことを是非分かっても
らいたい,そしてその伝えたいことは偽りのない自分の心からの願いなんですというテー
マ,そういうメッセージ,こんなことを伝えたいという思いがですね,こもっていないド
ラマ,いわゆるテーマのないドラマっていうのはやっぱり,それ自体が意味がない。そう
すると,それを人生に置き換えればですね,やっぱり自分はこのために生きているんだ,
このことのために生きているんだ,そういう信念,理念というものをしっかり持って,自
分のドラマ,自分の人生というものを生きて行かなければですね,やっぱり振り返った時
にですね,あー自分は一体何のために生きて来たんだろうか,つまんない人生生きて来た
な,一体何だったんだ自分の人生は,というような反省をしなければならないことになり
ます。
私たちは一体何のために生きているんだ,人間は何のために生きているんだ,ということ
は,そういう意味では様々な人達がいろんな文学を通してですね,追求をしてきました。
今日そういう中から一つだけ皆さん達にご紹介したいのは,トルストイの『人は何で生き
るか』という本です。文字通りそのままズバリですね。ロシアの文豪でトルストイという
人がいるでしょう?『復活』とか『戦争と平和』とかいうようなものすごい大作を書いた
ロシアの文豪ですけれど、そのトルストイが時々童話も書いたんですね。その童話の中の
一編に『人は何で生きるか』という人間は何で生きているんだというような、そういうド
ラマを書いています。
一番目は「人間の中には愛がある。」二番目は「人間には自分に必要だと思う物を知ら
されていない。人間はそれを知らされていないままに生きなきゃいけない。」そして、三番
目。ミカエルが発見したのは「人間は他人の愛によって生かされている」ということに気
がつくんです。人間は愛によって生かされているんだ。だから、人間の中には愛がある。
それは人を幸せにするための、人を生かすための愛なんですね。自分が幸せになるための
もんじゃない。だから、三番目の「人間は他人の愛で生かされている。」その愛とは他人か
らもらうものです。同時に自分の中にも愛がある。なかなか気付かないけれども、もしそ
れに気付けば、その愛は何のためかというと、隣の人を生かすため、隣人を生かすための
ものだ。だから、人間には愛がある。そして人間はその他人の愛で生かされているんだ。
あたりまえのことなんですけど、生まれてきた時、私たちは間違いなく誰かの愛によって
ここまで大きくしてもらってる。自分が一人で生きようと思ってきた訳じゃありませんよ
ね。気がついて物心ついて、小学校に通うまでにはだれかが自分にあらゆる愛を注いでく
れて今日まで生きてきた。それが、一番身近なところでは親かもしれないし、家族かもし
れない。しかし仮に、母親とか父親とかいない人でも、必ず今度はそれにかわる第三者の
愛というものが代わりに満たしてくれる。ミカエルはまったく母親に先立たれた赤ん坊が、
他人に拾われて育っていく姿を見て、そういう悟りを開くんです。
同じように他人の愛で生きる、そういうテーマを掘り下げていって、とうとうそれは答
えを出すに難しいテーマであるという結論に行き着いた作家を最後に紹介します。それは
宮澤賢治という人です。
『銀河鉄道の夜』という童話をご存じですか?間違いなく学校の図
書館にもあるでしょう。これは私も感銘を受けて、最近これをミュージカルにして、わら
び座という劇団が上演して全国をまわっています。残念ながら長崎県には来ないようです
けれども。
もうこの物語はおおかたの方がご存じでしょうけれど、主人公のジョバンニが星祭りの
夜に、草原で眠ってしまい、その夢の中で「銀河鉄道」に乗って銀河を旅する物語です。
その銀河鉄道にはたくさんの人が乗っているんですけれども、乗っている人たちには共通
点がありましたね。それはみんなが一人残らず死んでいると言うこと。そして、その死ん
だ人たちは、他人のために他人の身代わりで死んだ人たちが乗っているんです。
たとえば、タイタニック号のお話もその中に出てきます。タイタニック号で救命具をつ
けていた人が、隣のおぼれそうな人に救命具を与えてしまった。そのために自分はおぼれ
死んでしまった人も乗っています。また、タイタニック号で救命ボートに無事に乗ったけ
れど、乗り損ねている人々がいるので、自分がそのボートから降りて、誰かを乗せた。そ
のために自分は北海の海に沈んでしまった。そういう人たちも乗っている。そしてその中
に、学校で自分が一番親友だと思っているカンパネルラという友達もそこに乗っているの
でびっくりするんですね。ジョバンニはもちろん死んでいるんですけど、死んでいるとは
思わない。そのカンパネルラはその星祭りの夜に友達がおぼれているのを助けようとして、
友達は助けましたけれども、自分が死んでしまった。ために「銀河鉄道」に乗ってきてし
まったんですね。そういう死者との旅を続けるなかで、ジョバンニは「本当の幸せ」・・・
これ宮澤賢治の永遠のテーマなんですが、
「本当の幸せ」とは何かということを求め続けま
したね。その「本当の幸せ」を求める中で、一番幸せとは縁の薄い、そのテーマに遭遇す
るんですね。それは「本当の幸せ」とは、間違いなく自分が幸せになることでしょう?本
当に自分が幸せになるためにはどうしたらいいのかっていうことでしょ。それなのにです
ね。それは本当の幸せを突き詰めていけば、それは「他人のために死ぬことだ」というと
ころに行き着いてしまうんですよ。宮澤賢治がね、その『銀河鉄道の夜』のテーマを通し
て。いや、これは宮澤賢治もさすがに苦しむんです。そんなことが自分にできるだろうか。
自分の幸せを求めたいと思っている、その自分が他人の幸せのために死ぬっていうことが、
それが自分の幸せだなんて、そんなこと自分は思えないって、神様でも仏様でもないのに。
でもどうやらそれ以外には本当の幸せはなさそうだというところに宮澤賢治は行き着きな
がら、『銀河鉄道の夜』の小説そのものに、ついにエンドマークを付けることができない。
もうこの課題は皆さんに委ねますということで、筆を折って、そして自身はそれが遺稿、
最後の作品となって、その課題を後世の私たちに残したまま、自ら銀河鉄道に乗ってあの
世へ行ってしまうという作家ですね。
「雨ニモ負ケズ
風ニモ負ケズ
夏ノ暑サニモ
寒サニモ負ケズ」ってそういう詩があるでしょ?あの詩を作った作者ですよね。
冬ノ
他人の幸せを願う宮澤賢治が行き着いて行き詰まったテーマと、トルストイの「人は何
で生きるか」というテーマに対する答え「人は他人の愛で生きるんだ」とは、符合してい
るように思います。そしてそれは、なかなか不可能なこと、大変なことだけれども、そう
いうことを考えている人たちがいた。そして宮澤賢治も自分はそこまで行き着いたけれど
も、でも本当にそのことが幸せかどうかを結論づける事はできない。それは後世の私たち
に委ねると言ってその課題を委ねてくれた。それゆえに『銀河鉄道の夜』はずっと私たち
の課題として残り続けていく。私もまたその『銀河鉄道の夜』を引き受けたときにですね、
私自身も自分のテーマとしてそれを劇化する、ミュージカルにしようとしてやりました。
ただ,ミュージカルは少なくとも人を幸せにするために劇という物を作るわけですから、
多くのみなさん、たくさんの人たちがそれを見てとりあえずは幸福になっていただいてい
るということは、実感を致しました。だから『銀河鉄道の夜』がテーマそのものは難しい
テーマですけれどもその劇そのものが皆さんに見ていただくことで皆さんが一時でも幸せ
な気分になっていただくということで,私はやりがい,やって良かったなという実感をし
ました。これは皆さんこれからの人生をドラマ化して自分の理想の人生を送ろうとするそ
ういう極限の幸せ論,幸福論を考えた人たちがいる,人間というのはとても不思議なもの
だ,人間は騙すのが好き,演じるのが好き,そういう人間がある種奇跡のように他人の幸
せを願ったりする,それはなぜだろうか。
『銀河鉄道の夜』もトルストイの作品もやっぱり
神の目を意識しないわけにはいかない。人間は絶えず人を騙し,偽る,自分自身をも偽る
そういう存在だけれども,神の目というものが私たちが神の目を意識して醜い私が最高の
美しいものを考える,そういう矛盾を抱えた人生を送っていかなければならない,私たち
はそういう宿命を負っている,天使でもない悪魔でもない,醜い面と美しい面とその両方
を抱えて生きなければならない。人間を美化する必要もないけれどももちろん卑下しては
いけない,そういう日々を皆さんに送ってもらいたいと思ってこんな話をしました。
なくてはならない人になってもらいたい,なくてはならない人になる,別に偉い人にな
る,有名な人になるということではなく誰かのためにあるいは何かのために,自分はこの
日のために,こういうことのために生まれてきたのかという風に思える日が生涯の中には
必ずある。人間には必ずあるそうです。そういう風なことを実感した人を私は知っていま
す。ああ,この時のために自分は生かされているんだ。それは普賢岳の火災があったとき
に,長崎県の前の高田知事さんが言った話だったんですけれど,
「避難命令というものを一
瞬遅れていたら三百人くらいが死んでいた,その決断をあらゆる常識を打ち破って,ただ
気のせいがする,危ないという気のせい,学者はみんな大丈夫って言ったんだけど何か戻
ってみんなを避難させろという啓示という言葉を彼は使いましたが,啓示,神の声という
ことですね,神の声のようなものが聞こえたので私はそれに従いました。理屈ではありま
せんでした。だからみんなのひんしゅくを買いましたが,おかげで私の危惧はあたって火
砕流がおきてあのとき避難させていなければ三百人くらいの人が犠牲になっていたかもし
れません。その時に私は,十六年間知事を務めていてこの日のために,十六年間知事を務
めさせてもらったんだということに気が付きました」ということをおっしゃったわけです。
同じ事が私たちの人生の中で遭遇するのだろうと思います。私は何のために生きているん
だろう,人生は何のためにあるんだろう,ということを私たちが結論や答えを出す前に,
天が必ずあなたを何かの役に立たせてくれます。そして天が,あなたは今日この日のため
にこのことをなさい,たった一人の命を救うかもしれないし,人類を救うことになるかも
しれない,それぞれの役目が必ず天からの使命がくる,その時あなた方は天の声を聞き逃
すことのないように,そのために本を読み,英知を磨き絶えず目線を天に向けている日々
を過ごしなさい,ということを多くの賢者たちが私たちに言っているのだろうと思います。
その日を逃すか逃さないかで私たちが意識しようとしまいと,
「私はこの時のために生きて
いたんだ,この日のために生まれてきたんだ」という日を体験・体感できる人は幸せ,体
感できない人はまだまだこれから精進しなければならない,私はこういう偉そうなことを
言っていますが,私自身,六十何年生きてきていまだこの日のために生まれてきたんだと
いう体験はしていない,残念です。鈍感なんですね。あるいはそういう体験があったのか
もしれないけれど,私が勇気がなかったせいか,鈍感だったせいか,無知だったせいか,
そういう実感というものを味わったことがない,私の残り時間はそうないということは分
かっていますが,何とか自分が生きている間に「自分は今日この日のために生まれてきた
んだ,この日のために生きてきたんだ」という実感をしたいものです。もうこの年になっ
てそう思うのは手遅れだと思いますから,このことだけは十代の皆様方にお伝えしたいと
思って,今日はやってきました。随分長い回り道の話になりましたけど,皆さんとはお別
れしなければなりません。真剣な一途な皆さん方と向かい合いながら本当に幸せな一時を
過ごさせていただきました。本当にありがとうございました。皆さんの本当に素晴らしい
未来を祈っています。皆さんたちの人生に素晴らしい未来が開けますように祈りながらお
別れをしたいと思います。長い時間本当にご静聴ありがとうございました。
※
紙面の都合上,講演内容の一部を割愛させていただきました。