遺伝学 - 農学部 大学院生物資源環境科学府 大学院農学研究院

遺伝学
生物進化と進化論 03 年度/古賀担当分
このノートは,昆虫生理学の講義ノートと並んで,私の最終の講義のために 03 年度に作成したもので,ホ
ームページへの掲載にあたり,図表の引用を減らすなどの手を少し加えた.
生物の理解には,遺伝学・進化論, 分子遺伝学, 生化学, 細胞学, 生理学, 生態学の素養が必須であり,これら
の上に立って初めて,先端的あるいは応用的な生命科学の研究分野が展開できる.この講義はそのうちの遺伝
学を分担するものであり,応用生物学の1つである育種学への入門もかねる.古賀の分担枠では遺伝学と密接
な関係にある生物進化の問題を述べる.
生物多様性
現在の地球の全生物で,最も進化したものは何かと聞かれたら,皆さん何と答えるであろうか.おそらく大
半が「ヒト,ホモ・サピエンス Homo sapiens」というであろう.ヒトは頭脳を発達させ,文明を築き,60 億も
の人口に達している.もっと生物を知っている向きは,
「昆虫」という答えを用意していると思われる.確か
に,昆虫は,全部の動植物の中で群を抜いている.どういう意味で群を抜いているか,というと,それは「多
様性」において,である.種の数でいえば,昆虫は全部の動植物のほとんどを占めるといってもよいほどであ
る (詳細は後で述べる).ヒトは,現在生き残っている唯一の Homo 属の,しかも 1 つの種に過ぎないのであり,
多様性という基準からすると,取るに足らない存在である.
しかし,以上は動植物に限った答えになっている.ここで問うたのは,全生物の中で最も成功している生物
群は何か,ということであった.それは,ヒトでも昆虫でもなく,微細な「細菌」なのである.従来の多くの
教科書における生物進化の記載は,主として地球の歴史のかなり最近の時点といえる「カンブリア紀」以降の,
しかも動植物に最重点を置き,細菌を無視してきた.カンブリア紀から後を「顕生代」と称していたという事
情もある.カンブリア紀以降は,生物の痕跡――化石――が「前」カンブリア時代よりも多く残されているの
である.ところが,近年になってカンブリア紀より前の歴史が次第に明らかにされてきた.その結果,生命の
歴史を通じて多様であり続けているのが「細菌」である,ということが判明した.細菌は顕微鏡でしかみえな
い生物であるから,認識が遅れたのも無理はない.有名な映画の題名「猿の惑星」に習って,地球はあたかも
「ムシの惑星*」であるといわれたが,眼にみえない世界を加えると,
「細菌の惑星**」という比喩が最も落着
きのよいものとなる.
*石川 統 東大教授 (現放送大学).**スティーブン・J・グールド 米国ハーバード大教授 (故人)
生命の起源と進化 (カンブリア紀まで)
地球上に存在した,また存在する多様な生物種のすべてが,約 40 億年前に生じた最初の生物に由来すると
信じられている.生命の起源とその後の主要な出来事を Fig. 1 と Table 1 にまとめる.Fig. 1 は,従来よくみ
られるカンブリア紀以降の生物を中心とした系統樹に,真正細菌・古細菌をドッキングしたものである.これ
によって,細菌を無視せずに生物全体の進化の概要を把握できるようにした.しかし,分岐の時期と場所を間
違いなく描くことは不可能に近い.それぞれのグループ内での複雑な分岐も無視している.そのことを意識し
つつ参照していただきたい.Table 1 は,進化年表である.この Fig. 1 と Table 1 に基づき,生物の歴史をざっ
とたどってみよう.以下の文章における①∼⑦の番号は,Fig. 1・Talbe 1 に付した番号に対応する.これは丸山・
磯崎「生命と地球の歴史」(岩波新書,1998)に提唱されている地球史 7 大事件①∼⑦である.
<生命の誕生,②>上述のように, 最初の生物は 40 億年前に生じたとされる.45.5 億年前に起こったという
①の地球誕生の後の早い時期,すなわち地球の年齢としては,まだ幼年期といえる約 4.5 億年のころである.
最初の生物は,おそらく細菌 bacteria で,深海の熱水噴出孔において生じたという説が有力である.摂氏 100
度を超える高熱状態の場所であり,太陽光線が届かない.地球で最初に生じた生物は好熱性細菌 (好熱菌・高
温細菌) と考えられる.今に至るも,このような暗い海底の熱水噴出孔付近には好熱菌が存在する.さらに,
同様に好熱性の細菌が地上の火山の麓にある熱水噴出口,いわゆる「地獄」にもいる.このような細菌は,い
わば地球を食べるというライフスタイルをとる.これをリトトロフィー (岩を食べること),すなわち無機質に
依存して生活していることを意味する*.初期の生物は,噴出口を通じてマグマから絶えず供給される無機質,
すなわち硫化水素・イオウ・アンモニアなどを頼りに生息している好熱菌だけであった.
*これに対して,有機質――ほかの生物が作ったものや生物体そのもの――を食べることをオルガノ
トロフィーorganotrophy という.今日の動物の生き方であり,ヒトもその典型である.ほかに葉緑体を
もたない植物,および多くの細菌がこれである (細菌には無機質を食べるものと有機質を食べるものが
1
おり,双方兼用のものもいる).無機物質に頼る栄養の取り方を独立栄養 autotrophism,有機体を餌にす
るのを従属栄養 heterotrophism ともいう.
現在我々が知っている生物は一般にエネルギーを獲得するため分子状酸素により呼吸をするが,上記のリト
トロフィックの細菌は,硫化水素などを代謝して有機物を作ることでエネルギーを獲得しており,酸素に頼っ
ていない.このように酸素を必要とない細菌を嫌気性細菌 anaerobic bacteria という.
<真正細菌と古細菌> 初期の好熱菌は,2 つのタイプに分岐したと考えられる.1 つは真生細菌 eubacteria
ユーバクテリア ,もう1つがいわゆる古細菌 archaebacteria アーキーバクテリア である (Fig. 1 下方で太い線が分
岐している箇所をみよ).現存の生物は,真正細菌,古細菌,真核生物の 3 群に分けられている.このうち,
古細菌は,好熱菌と高度好塩菌とメタン生成菌の 3 種類から成り,原核生物であって細菌と類似しているが,
真核生物の性質をある程度あわせ持つ.好熱菌は,熱水噴出口で最初にできた生物に類似しているであろう.
古細菌は細菌の一種ではない,ともいわれるが,本ノートでは,真正細菌と古細菌をまとめて「細菌」と称す
る.真正細菌とは,これまで知られていた細菌のことで,古細菌と区別するための新たな呼称である.
生命誕生からざっと 10 から 15 億年という長きにわたって,地球は,深海の暗闇に住む細菌すなわち真正細
菌と古細菌の天下であった.いずれにしろ嫌気性菌しかいなかった.その後の進化において,こうした暗闇の
微細な生物が滅びた,と考えると大間違いである.現在の地球上で最も繁栄している生物群は何かといえば,
それは依然として細菌,特に古細菌である.海水中のバイオマス*の 50%が古細菌であるとされる.古細菌は,
現在,酸素の少ない深海,酸性で高温の温泉の地獄,岩の割れ目,洞窟,凍結した極地の海中,高濃度の塩水
の中,草食動物の胃の中などを含めて,生物圏のありとあらゆるところに生きており,エネルギー源として硫
化水素・イオウ・アンモニア・亜硝酸・水素・二価鉄などを利用している.棲息できる温度の幅も広い.
*バイオマスとは,エネルギー資源としてみた場合の生物体そのものおよびそれを構成する有機物.
<光合成をする細菌の出現,③> 生命が生じておおまかに 10∼15 億年たったころ,つまり今から約 25∼30 億
年前,生物は浅海にも進出するようになった.シアノバクテリア cyanobacteria 藍色細菌である.シアノバクテリ
アは,光合成によって,太陽光からエネルギーを得つつ分子状酸素を放出する.シアノバクテリアの栄養摂取
の方法はリトトロフィック,つまり独立栄養である.光合成を行い酸素放出型でリトトロフィックというライ
フスタイルは,現在の緑色植物にもみられる.酸素放出型細菌の増殖は,やがて地球環境を激変させた.すな
わち,それまでの無酸素状態から高濃度の分子状酸素が存在する状態になる.酸素濃度は 20 億年前ごろから
上昇し始め,10 億年までに現在値 (20%) に達した.
シアノバクテリアは,群体として存在し,それが分泌する粘液に海水中の炭酸カルシウム堆積物が沈
着して,ドーム状あるいは柱状の層状構造体を作る.これをストロマトライトという.西オーストラリ
アの中部,シャーク湾の最奥部ハメリンプールには,現生のシアノバクテリアによるストロマトライト
がある.
酸素濃度が上昇した状況下で,ある種の真正細菌は酸素を用いてエネルギーを獲得し始めた.これを好気性
細菌 aerobic bacteria という.栄養獲得形式としてリトトロフィックのものが存続する一方,ほかの細菌を捕食
するオーガノトロフィックのものも生じたであろう.双方の細菌とも,現在,多数生息している.
<真核生物の誕生,④> 約 21 億年前,生物進化史上,著しく劇的な出来事が起こった.真核生物 eucaryotes,
eukaryotes の出現である.古細菌は,真核生物に似ていると述べた.これが真核生物の祖先であるとも考えら
れる.いずれにしろ,ある種の細菌細胞の中に,酸素依存性の好気性細菌が侵入して共生関係が生じることで,
真核細胞が進化したのであろう.好気性細菌は,こうしてできた真核細胞において酸素呼吸を分担するミトコ
ンドリアとなった.この考えは,女性進化学者リン・マーギュリスがいい出したものである.共生という言葉
は合目的的な協調関係を思わせるが,実際のところは「食いつ食われつ」の戦いであったかもしれない,と彼
女はいう.つまりオーガノトロフィックな細菌も出現していたわけである.おそらく,「食いつ食われつ」の
過程の中で偶然に生じた永続的相互依存性が,真核生物の誕生という大進化をもたらした.これを共生進化と
いう.酸素放出型光合成をする細菌であるシアノバクテリアがほかの細菌細胞内に侵入して生じたのが,葉緑
体すなわちクロロプラストの起源であるというマーギュリスの仮説も,今では広く容認されている.細菌の侵
入・共生の結果としてミトコンドリアとクロロプラストの双方を持つに至ったのが植物細胞である一方,ミト
コンドリアは存在するがクロロプラストを欠くのが動物細胞になった,という考えも一般的となった.
これらの他にも,マーギュリスの説として,ミトコンドリアやクロロプラストの起源ほどには歓迎されてい
ないものもあって,その一つが,真核生物ができるに際し,真正細菌の 1 種であるスピロヘータが共生するこ
とで,細胞内の鞭毛様組織ができた,というストーリーである.この鞭毛様組織には,染色体の分離を行う紡
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錘糸も含まれる.このマーギュリスの仮説が正しければ,真核細胞における有糸分裂・減数分裂といった極め
て重要な動的機能が,共生細菌由来の構造によって支えられていることになる.彼女はまた,真核生物の核――
つまり染色体 DNA の格納庫――も侵入細菌由来であるといっている.
以上述べたことは,3 つの興味ある議論を呼ぶ.第 1 は,進化論への波紋である.細胞内共生は,2 つ以上
の異なる細胞間で捕食・侵入が起こった結果として成立する.これは広義の「細胞融合」の過程を経る.
「進化
は枝分かればかりではない」とマーギュリスはいう.枝分かれとは,ダーウィンの称する「分岐」のことであ
る.ダーウィンの考えと遺伝学の知識がドッキングして生じた進化論の「総合説」によれば,分岐とは,「突
然変異とその組換えによって生じた個体差の,自然選択による振りわけ」である.真核細胞の出現は,分岐で
なく,その逆の「融合」によるわけである.これはゲノムレベルの統合* によって一気に起こる画期的な大進
化で,ダーウィンが固執した「漸進説」もあてはまらない.細胞融合による進化の考えは進化論に大きな衝撃
を与えたが,マーギュリス自身は,自然選択説・漸進説を否定し去るつもりはまったくなく,別のものを付け
加える必要があるとしているだけである.
*総合研究大学院大学の「原生生物入門」というホームページ,http://taxa.soken.ac.jp/WWW/
protistology/menu.html および筑波大学の「細胞共生 (endosymbiosis) による藻類の多様化」というホー
ムページ,http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~inouye/ino/etc/endosymbiosis.html.
第 2 に,細胞融合による共生進化は,20 億年前に 1 回起こっただけであろうか,それとも一般的な現象なの
であろうか.ちなみに原生生物界では,現在でも,細胞内共生がいたるところで起きており,多様性の獲得に
重要な役割を果たしていると考えられる由である.生物は細胞融合による共生進化の潜在能力を依然として有
している可能性がある.
原生生物とは,単細胞の真核生物で,微胞子虫 (昆虫などに寄生) など興味ある多様な微生物群.光
合成を行うものもあり,これは光合成生物の共生によって生じたとされる.
第 3 は,遺伝子の水平伝播の問題である.水平伝播については,おいおい解説するので,まずは文章を続け
て読んでほしい.上記のように,細菌は,他の生物体にも住みつく.マーギュリスが注目した細菌の一種スピ
ロヘータは,動物に取り付いてヒトの梅毒などの病気をもたらすことで知られ,螺旋 (らせん) 型で,軸糸と
呼ばれる糸状構造を持つ.同じく螺旋型のスピロプラズマは,植物や昆虫に感染する細菌である.スピロプラ
ズマがショウジョウバエの細胞内に感染すると,雄だけを特異的に殺して,ハエの性比を激変させる (異常性
比因子がスピロプラズマである事実を発見し世界的な衝撃を与えたのは,蚕学研究室の教授であった 坂口文
吾博士 (現九大名誉教授).性比の著しい偏りをもたらすのはスピロプラズマだけではなかった.リケッチアに
属するウォルバキア Wolbachia という細菌が,昆虫など節足動物の細胞内に広く感染して宿主の性比を変更し
ていることが,現在,確認されている.そもそも,多細胞生物の腸管・体腔・細胞内には,多数の細菌が存在し
ており,一部は宿主の生存に必須な共生体となっている.草食動物の胃に住み着く細菌,植物の根粒菌がその
例である.ヒトの体には,腸内だけで細菌が 100 兆個以上もいて,細菌ゲノムの量はヒト本体のゲノムを上回
ることになる.生物は,共存する多数のゲノムとの「共生体」として進化してきたのではないかという考えが
ある (小林正彦東大教授).上述の真核生物の誕生や原生生物の多様性獲得など共生進化の諸過程も,すべてこ
の仮定のもとで解釈できるのではなかろうか.このような事情のもとでは,宿主と感染体との間で遺伝子の「水
平伝播」が起こる機会も高いと思われる.事実,2002 年,マスコミを賑わしたヒトゲノム塩基配列の解析結果
によると,進化の過程で直接細菌から水平伝播によってヒトに移入し,ゲノムの一部になっている遺伝子が,
目下判明しているだけで 100∼200 個も存在する (2001 年の Nature 誌, ヒトゲノム特集).また,カイコなど昆
虫のゲノムにも,細菌から水平伝播によって持ち込まれた遺伝子が存在することが報告された.驚くべきこと
に,ヒトでもムシでも,移入細菌遺伝子の多くは重要な生理的機能を担っている.
<多細胞生物の出現> 生物進化の話に戻る.真核生物は,出現以来,当分の間は,単細胞真核生物として
存在していたであろう.それは酵母とか原生生物のようなものであったと考えると便利である.しかしやがて,
多細胞生物が生じた.最初は,単細胞の単なる集合体であったかもしれない.そのような生物は今でもみられ
る.たとえば細胞性粘菌は,生活史の中で単細胞と多細胞の両方の状態をとる.緑藻類のボルボックスと近縁
な単細胞生物クラミドモナス (原生生物の 1 つと考えられる) は,栄養不足になると,合体して集合体を形成
する.上述のように,シアノバクテリアも群体すなわち集合体として存在する.本格的な多細胞生物の出現は
今から約 10 億年前とされるが,ほかの場合と同様に,この数値も流動的である.既に 14 億年前には,ニハイ
チュウ様の動物が存在したといわれている.現存のニハイチュウは 30 程の細胞からなる単純な多細胞生物で,
タコやイカの腎臓内に寄生する複雑な生活史を持つ.さらに,カイメンやクラゲのような多細胞動物も出現し
ていた.藍藻集合体,ニハイチュウ,カイメン,クラゲなどは,現在でも生息している.多細胞生物の出現は,
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生物の大型化の道を開き,やがて,細菌から巨大生物までを含む多様な生物群の共存状態をもたらした.
8.2 億年前から始まるベンド紀には,エディアカラ生物群 Ediacara fauna,またはベンドゾア Vendozoa
と称する生物が生息していた.ベンド紀生物は,シート状の,あるいはマット状の奇妙な多細胞生物で
あった.動物・植物の分類にそぐわないので,当初名づけられたベンドゾアつまりベンド紀動物という
名前は不適当であるとして,ベンドビオンタ Vendobionta という名称が改めて提唱された.この生物群
は,生物の歴史における前後のつながりが不明という意味でも,不可思議な存在であり,前カンブリア
時代最後のベンド紀にだけ出現し,カンブリア紀に入る前に絶滅した.典型的なベンドゾアはほとんど
現存していない.この絶滅を V/C 境界 Vendian-Cambrian boundary と称する.V/C 境界は,その後に起こ
った五大絶滅に匹敵する重要性がある (後述).
<カンブリア爆発,⑤> 5.44 億年前,カンブリア紀における浅海で,動物進化史上最も重要な出来事が起こっ
た.ほとんどすべてのタイプの動物の基本パターンが,一気に生じたのである.それが,わずか 500 万年など
という,地質年代からみると一瞬に過ぎないような短期間で進行したので,
カンブリア爆発 Cambrian explosion
と称する.無から有が生ずることはないから,カンブリア動物の基もあったはずである.それは何であろうか.
前カンブリア紀の動物といえば,上記のベンドビオンタがいたが,これは木の葉型の形態や,大規模な補食関
係がないなど,カンブリア動物との連携をほとんど持たない.おそらくカイメンなどごく限られた二胚葉性の
多細胞動物が,カンブリア動物のオリジンであろう.カンブリア紀の後には,分類基準の門 phylum のレベル
でみて,新しく生じた基本設計はない,といわれる.また,カンブリア紀に生物進化史上初めて大々的な捕食
関係が生じた模様である.カンブリアの動物は,ともかく多様であった.余りに多様なため,その後絶滅して
しまったものも多い.絶滅種には今日の動物とは似ても似つかぬ奇妙な形をしているものもある.カンブリア
動物の種の数は,目下,万のオーダーであるとされる.化石の解析が進むと,さらに増大するであろう.
カンブリア爆発までの動物進化をまとめてみる.
三胚葉無脊椎動物: 節足動物ほか多数
細菌→単細胞真核生物→多細胞二胚葉動物
三胚葉脊索動物: 尾索類,頭索類,無顎類
現生の後生動物 30 余の門のうち,脊椎またはその原型をもつのはわずか 1 つ,脊索動物門 Vertebrata
に過ぎず,残りのすべての門――たとえば節足動物門 Arthropoda など――に属する動物には脊椎がない.
これらのすべてを便宜上ひっくるめて無脊椎動物 invertebrates と総称する.「無脊椎動物」というのは,
いわば「その他」の意味であって,分類学上の正式用語ではない.しかし,後述のように,地球上の動
物群のほとんどは,無脊椎動物である.脊索動物門は,尾索動物,頭索動物,脊椎動物の 3 亜門から成
っている.上記の無顎類は脊椎動物亜門に属する.ニハイチュウ,クラゲ,イソギンチャク,カイメン
などは,外胚葉と内胚葉から成る二胚葉動物である.これらはカンブリア紀の前から生息していた (も
ちろん無脊椎動物である).ベンドビオンタ (エディアカラ生物群) を二胚葉動物と考える人もいる.現
生動物の門の全数を 34 とすると,二胚葉動物は,門の数で7であり,残りの 27 門がカンブリア紀に生
じた三胚葉動物に由来する.三胚葉動物は外胚葉,内胚葉に加えて中胚葉を持つ.
カンブリア爆発で最も多数生じたのが節足動物門に属するとされる動物類である.節足動物にはエビ,三葉
虫,カギムシなど多様な種が含まれる.カンブリアの海で捕食関係の頂点にいたと思われるアノマロカリス
Anomalocaris も,節足動物または少なくともそれと近縁である.ほとんどの動物が数センチに満たない小型で
あった中で,体長 1 m に達するアノマロカリスは最大サイズを誇った.しかしこれは絶滅種である.五つ目の
オパビニア Opabinia もアノマロカリスと同じ門に属するとされる.これも絶滅したが,目が 5 個というデザイ
ンは,カイコの幼虫の単眼 (6 つだが) に残されている.同じく節足動物である昆虫は,カンブリア紀に生じ
たのでなく,その後,4.3 億年前のシルル紀あたりに地上で進化した.昆虫進化のもととなったのは,カンブ
リアの海にいた原カギムシの類のアイシェアイア Aysheaia であると考えられるが,確証はない.現在の地球上
の動物で最も多様なのは,昆虫を筆頭とする節足動物である.これは,カンブリア動物群の中で節足動物が最
も多様であったためにほかならない.
カンブリアの海には脊椎またはそれに準ずる構造を持つ動物,すなわち脊索動物もいた.カンブリア紀の脊
索動物門の動物で最もよく知られているのがピカイア Pikaia である.これは尾索動物亜門に属し,現在のホヤ
の幼生に類似している.多くの啓蒙書において,このピカイアがヒトを含む脊椎動物の起源であると説明され
ている.これは原始的な尾索動物から,中間的な頭索動物を経て,高等な脊椎動物が,3 段階で進化したとい
う,ダーウィン流の「漸進説」に準拠した考え方である.数年前に NHK が製作した画期的なテレビドキュメ
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ンタリーシリーズ「生命――40 億年はるかな旅」(ビデオも発売,一見の価値あり) でも,この考え方が採用
されていた.しかし私は大野 乾 (おおのすすむ) による大胆な仮説を好む.大野説によると,無脊椎動物だけ
でなく,尾索動物,頭索動物 (現在のナメクジウオの類) や脊椎動物をも含めて,カンブリアの動物群は,す
べてがほぼ同時に爆発的に生まれた.最初の脊椎動物は無顎類プロミッスムすなわち現存のヤツメウナギの類
と考えられる.これは魚類の一種である.脊椎動物は尾索類から段階的に時間をかけて進化したのでなく,一
気に脊椎動物として生じたのである.
脊椎を有するのは哺乳類の基本設計であるが,哺乳類が生じたのはカンブリア紀でなく,それから 3 億年も
経った後の三畳紀においてであった.カンブリア紀の脊椎動物は小型で,食物連鎖の下位に位置する小さな存
在に過ぎない.しかし脊椎という構造は,後に恐竜の繁栄という大ヒットをもたらす.脊椎動物の体制は内骨
格で,これは体を恐竜のように大きくすることができる.一方,無脊椎動物の体制は,昆虫を代表とする外骨
格である.外骨格は,大型化を妨げる.特に体にかかる重力が水中より遥かに大きい地上で大型であるのは大
変なことである.史上最大の外骨格生物とされるアノマロカリスは,陸上だと存在できなかったであろう.ゾ
ウやクジラのサイズを有する陸上外骨格動物を,コンピューターシミュレーションで構築してみたところ,体
の殆どを骨格で占めないと体を支えることができず,内臓の入る余地がなくなった,というのは,有名な話で,
しばしば紹介される.内骨格のゾウでさえ,自分の体重を支えるのに苦労している様子がみうけられる.人間
も似たような状況にあって,
「ぎっくり腰」に悩んだりする.ましてや外骨格の昆虫が陸上で暮らすには,小
型化の方向に行かざるを得なかったのである.
「昆虫の小型化は進化上での失敗であり,大型脊椎動物との競
争に負けたのである」
,という仰天するべき説明がなされたのを,ある英国民間テレビ放送局製の生物進化に
関する啓蒙ドキュメンタリー番組で聞いた.あらゆる事象を生存競争で説明しようとする英国らしい偏ったダ
ーウィン主義と思われる.確かに恐竜は生物進化における成功者であるが,一方では,小型化し,極めて多数
の種に分かれ多彩な生き方を獲得した昆虫こそ特記すべき存在である.恐竜はサイズが過大になったために天
変地異に耐えられず全滅したではないか (後述).加えて,昆虫と恐竜とが限られた資源を巡って直接に生存競
争をしたなどとはとても考えられない.
要するにカンブリア紀において,無脊椎動物で外骨格というのが最も普遍的な動物の設計となり,この事情
は現在でも続いている.地球上の動物の圧倒的多数は,やはり無脊椎動物なのである.
カンブリア紀以降の生物進化概要
上述の無顎類を基にして,魚類が進化し,シルル紀,デボン紀,そして白亜紀に大繁栄し現在に至っている.
デボン紀には,原始的な硬骨魚類である総鰭類のオステオレピスから,最初の両生類が進化した.両生類は石
炭紀に大繁栄し,その後は現在まで細々ながら存続する一方,石炭紀における原始両生類であるイクチオステ
ガから初の爬虫類が生じた.さらに,初期の爬虫類から,ペルム紀に哺乳類様爬虫類が進化し,これが哺乳類
の基となった.最初の哺乳類は三畳紀に誕生している.主流の爬虫類は中生代の陸の覇者,すなわち恐竜とし
て君臨した.鳥類の起源については論争があったが,「トリはトリアス紀」つまり三畳紀に初期の恐竜から分
かれて生じたという説が有力であり,かつ語呂合わせで覚えやすく便利である (異説もいろいろある).鳥類は,
親 (兄弟?) である恐竜が白亜紀末期に完全絶滅したのをしり目に生存し,現在に至っている.昆虫は,シルル
紀に出現し,石炭紀に大繁栄,ペルム紀に刷新され,ジュラ紀に小型化して現在の状態がほぼでき上がった.
同じジュラ紀に恐竜が超大型化したのと対照的である.恐竜が白亜紀末期 6,500 万年前の大隕石落下による天
変地異 (後の記載をみよ) に耐えられなかったのは,既述のように大型化し過ぎていたことが関連しているで
あろう.陸上の植物は,オルドビス紀に出現し (胞子の化石が知られている),デボン紀にシダ植物が,ペルム
紀までに裸子植物が,中生代最後の白亜紀に被子植物が加わって,現在に至っている.白亜紀における被子植
物の出現は,植物進化史上の画期的出来事であることを覚えておいてほしい.
哺乳類の適応放散は,恐竜が絶滅した後,すなわち新生代の出来事である.そして,現代人 Homo sapiens
が,直接の先祖であるホモ・エルガステル Homo ergaster (またはホモ・エレクトゥス Homo erectus) から生じた
のは,わずか約 14 万年前,いいかえると 0.0014 億年前であったとされる.生物全体を見渡す系統樹 Fig. 1 に
14 万年前からの現代人の枝を書き込んでも,その枝は枠の線の中に埋もれてしまってみることができない.現
代人は,できたてほやほやの種であり,系統樹のほんの末席を汚す小枝中の小枝に過ぎないのである.
生物進化を見渡す
以上で,生命誕生から今日までの進化の概要を見渡したこととする.Fig. 1 は,縦軸に記入した時間が
均等目盛であるから,生物進化における重点項目の時間的関係を概観するのに便利である (Table 1 の縦
軸も時間を指しているが,任意の目盛である).上述のように,細菌に加えて,サイズの大きな生物群が
出現したのは,40 億年という長い生命の歴史の中で,35 億年が過ぎた後,すなわちやっと 5 億年前から
のことに過ぎない.その予兆は 10 億年前に始まっていたともいえるが,そのころも,主体は細菌で,単
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細胞真核生物およびカイメンなどのせいぜい限られた多細胞生物がいただけであった.Fig. 1 で,動植物,
糸状菌,原生生物などの横の広がりが描かれているのは,上方 1/8 の枠の中だけである.
大絶滅は次の進化の基となる
ダーウィンの時代までに,化石種はある時期に途絶え,その後に別種が著しく増加することから,生物の歴
史には絶滅が付きものであるという考えが得られていた.しかし急速な種の増加すなわち適応放散の妥当性が
説明できなかった当時,これは「創造説」の論拠となっていた.創造説とは,生物種のすべてを神が計画的に
創造する,という考えである.ダーウィンの考察は,ライエルの地質学的「斉一説」を導入することなどによ
って,生物学を神の手から開放し科学の範疇に入れることを最大の目的にしていた.であるから,創造説を支
持することになる絶滅とか放散という性急な事象を否定ないしは無視した.これには旧約聖書に記されている
「ノアの洪水」すなわち神の力による絶滅という神話を捨てることも含まれる.そして,生物進化は種の分岐
につぐ分岐だけで漸進的に進むとした.
ダーウィンは,分岐の考えに基づき,生物の系統樹を初めて作っている (下図左,年代は下から上に進む).
これは偉大な業績であるが,彼が提示した系統樹は,末広がりで,多様性は漸進的に増加するという形のもの
であった.生物多様性は,今が最大となる.ところが,最近になって大絶滅説が復活し,五大絶滅などが種々
の教科書に書かれ,ダーウィンの自然選択説・漸進説が無視してきた種の絶滅が,実際には大規模に繰り返し
起こっていることが広く認識されるに至った.こうなると,生物全体を現す系統樹には,種の大絶滅を加味す
ることが要求される.グールドはそうした系統樹のモデルを描いた (下図右,同じく年代は下から上に進む).
生物多様性は,今が最大ではない.
生物の中で天変地異に特に弱いのが動物である*.カンブリア紀に発祥して以来,動物は度重なる天変地異
に遭遇し絶滅を経験してきた.大絶滅に際しては,メジャーな存在がいなくなり,それまでマイナーな存在で
あったものが生き残って新天地で適応放散する.こうして,大絶滅の度に,動物種が入れ替わり,新種が広が
った.これは,共生進化の場合と同様に,ダーウィン的な漸進説が該当しない過程である.
*天変地異に耐性の動物もいる.温泉地獄の高温条件下で繁殖している昆虫,深海の暗闇・地中の洞
窟に住んでいる無脊椎動物群や魚類などは,地上での災害とのかかわりが少ないであろう.フロリダの
地下水脈には眼の機能を失った白色のザリガニやオオサンショウウオが生息しており,酸素やエネルギ
ーが少ないため代謝も緩やかで,各個体は 50 年も生きるという.昆虫は電離放射線への耐性も哺乳類
などより遥かに高い.クマムシという微細な無脊椎動物 (緩歩動物門という独立の門に分類されている)
は,植物の種子のように,乾燥など極端な条件に耐える.ちなみに植物は,枝の一部でも残っていれば
栄養繁殖で復活でき,種子の状態では長期休眠の状態で生き残る.天変地異により一時的に壊滅状態と
なり動物に栄養を供給できなくなっても,そのうちに植物自身は復活してくる.
Table 1 の横線は大なり小なり絶滅を表している.ことのほか大規模であったのが,前述の五大絶滅である.
五大絶滅に先立つ V/C 境界 (前述) も,動物という定義から外れる可能性があるが,いずれにしろ多細胞生物
であるベンドビオンタ (エディアカラ生物群) を大絶滅に導き,続いて起こるカンブリア爆発の条件を作った
と思われる点で重視される.
五大絶滅の中で最も大規模であったのが,2.51 億年前,ペルム紀末期の P/T 境界 Permian-Triassic boundary
で (Table 1 の⑥),三葉虫や古生代型アンモナイト・サンゴなど古い動物の絶滅を導き (サンゴは存続してい
るが,これは以前のとは別物といわれる),古生代の終わりをもたらし,次の中生代における恐竜の繁栄を導
いた.
最も激しかったとされる大絶滅がこの P/T 境界とすれば,人々の間で最もよく知られており高い人気を誇る
のが K/T 境界 Cretaceous-Tertiary boundary である.
これは 6,500 万年前に起こり,
恐竜を完膚なきまでに滅した.
かくして中生代が終わり,新生代が始まった.哺乳類は適応放散し,やがてヒトが生ずる (⑦).もし 6,500 万
年前に隕石落下がなかったら,地上は今もって恐竜が繁栄し,哺乳類はあいかわらずマイナーで,ヒトは誕生
していなかった可能性がある.もし昆虫が大型であったなどの理由で災害を避け得なかったとしたら,食虫類
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を中心としていた哺乳類も,餌がなくなって,マイナーどころか全滅したのではなかろうか.
「生物は大絶滅
を察知することができない.正常時の環境にどれほど適応していようが,天変地異のときに生き延びられるか
どうかは偶然でしかない」(グールド「フラミンゴの微笑」下,1989,早川書房).生物進化には,偶然の出来
事が大きく影響するのである.ダーウィンの自然選択説・漸進説は,生物進化のすべての局面にあてはまるも
のではない.
現存生物の多様性
繰り返し述べたように,現在の地球を代表する生物といえば,それは細菌である.細菌は極端な環境条件下
――高温,低温,高圧,暗闇,乾燥など――で生存し得る.しかし細菌にとって,こうした条件は決して極端
ではない.
「極端」とは,非常に狭い範囲の条件下でしか生息できない動植物からみた場合に過ぎず,細菌に
とってはごく普通である.われわれヒトを含めた多くの動植物が暮らしていける条件とは,分子状酸素があっ
て,pH は中性,太陽光が充分届き,常温・常圧であること,充分量の水 (陸上では淡水) があることである.
このような条件がすべてととのっているのは,地球のごく限られた時間的かつ空間的な範囲に過ぎない.
生物が浅海に生息できたのは,27 億年前,磁力線によるバリアーが生じ,太陽・宇宙からの高エネルギー粒
子等の大部分が地球を迂回するようになってからである.この条件が,シアノバクテリアの浅海での繁殖をも
たらし,そして分子状酸素の蓄積を誘発した.しかし 5 億年前のカンブリア紀にはまだ紫外線バリアーである
オゾン層がなく,地上は強い紫外線のため不毛であった.生物の上陸は,4.85 億年前から始まるオルドビス紀
のオゾン層形成を待たなければならない.こうして,地球が,太陽などからの有害なエネルギーがさほど届か
ない天国のような状況になったのは,かなり最近,つまり現在までの期間のおよそ 90%に達したころ (オルド
ビス紀) である (まさに Fig. 1 の上方 1/8 の枠の中である).この恵まれた条件を作ったのは,地磁気バリアー
を除いて,シアノバクテリアなど生物による貢献なのであり,現在これを維持するのに緑色植物も重要な役割
を果たしている.であるから,この状況は,場所が限定されているのみならず期間も短いという意味で,「特
殊」である可能性がある.つまり地球でも,火星のような状況が「正常」なのかもしれない.今の地球に似た
ほかの天体は,目下のところ見出されていない.地球が火星に匹敵する厳しい惑星に戻ってしまっても,細菌
は存続するであろう.細菌の多くは,酸素がなくとも,常温・常圧・中性でなくともよく,水分は少しあればよ
く,有機物を餌にせず,太陽光を要求しない.地球が「細菌の惑星」であるといういい方の所以である.
地球の地質学的歴史において,自然条件はしばしば激変している.これを天変地異 disaster, catastrophe と呼
ぶのは,動物のように一種スポイルされている生物の都合からみた場合のことに過ぎない.多くの動物にとっ
ては,自然の変更が災害となり,絶滅のきっかけとなるからである.天変地異に弱い動物群の栄華の期間は,
一般に,さほど長くない.両生類の天下は石炭紀のみで終わった (一部は現在まで存続).哺乳類様爬虫類は,
哺乳類の直接の祖先として興味の持たれるグループで,ペルム紀のメジャーな陸上動物であった (Table 1) が,
存続期間は 5,000 万年ほどであり,完全に絶滅した.恐竜は繁栄の時代が 2 億年弱存続したので,大型動物と
してはきわめて顕著といえるが,これも完全絶滅.ちなみに哺乳類は新生代の始めに適応放散して以来,現在
まで 6,500 万年ほど経ったが,まだ恐竜の 1/3 にも満ちていない.これらと比較すると,シルル紀に進化した
昆虫類が,幾たびかの天変地異を生き延びつつ,4 億年も繁栄し続けているのは,驚嘆に値する.
昆虫の繁栄度を表すもう一つの尺度は,種の数の多さである.現在,細菌を除く全生物の中で最大の多様性
を誇っているのが昆虫である.昆虫の種で,記載されているのは約 100 万程度に過ぎず,未記載のほうが多い.
予測される昆虫の種の数はどのくらいか.NHK のドキュメンタリー番組では 300 万という予想値を,あたか
も確定的であるかのように採用していたが,研究者によっては 3,000 万とも 1 億ともいう (最近,2 億という
数値もみかけた).実数であれ予想値であれ,ほかの生物群でこれほど多様なものはない.
細菌の種の数もまた不明であり,私は予想値をみかけたことがない.微生物の専門家による講演要旨 (緒方
靖哉九大名誉教授,現崇城大学; 農芸化学会市民フォーラム,熊本,2003) の一部を改編しつつ引用すると,
「今まで判明している微生物——原核微生物,真核微生物,ウイルス——は,自然界に存在するほんの一握り
に過ぎない.地球上には未知の微生物が多数存在するといわれる.人の目に触れたことのないもの,存在は判
明しているが人の手で培養できないものの方が,数・種類ともに遥かに多い.近年,直接菌を分離しなくても,
環境 DNA——total community DNA——から,存在する菌名や菌叢を推定する方法——molecular community
analysis——が開発された.この方法で,深海など極端な環境下に生息する微生物であっても,また培養・単離
不能であっても,追求が可能となった.
」
原核微生物とは真正細菌と古細菌のことをいい,真核微生物とは糸状菌 (酵母を含む.糸状菌のこと
をカビともいう) や原生生物などのことである.細菌の種の数は,昆虫ほどには多くない可能性もある.
120 兆個もいるというヒトの腸内細菌も,種の数は 300 ほどという.いずれにしろ,細菌は量の多さと
住むところの多様さにおいて図抜けている.糸状菌も同じような事情にあると思われる.なお,緒方教
授は微生物学者なのでウイルスを微生物に入れておられるのが興味深いが,私の好みでは,生物の最小
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単位は細胞であり,ウイルスは (遺伝子と同じく) 単なる物質に分類する.
哺乳類などは,存在期間だけでなく,種の数からいっても,決してチャンピオンではありえない.同じ脊椎
動物の仲間である爬虫類,鳥類,両生類よりも少ない.脊椎動物のチャンピオンは,水圏の王者,魚類である.
グールドによれば,新生代を「哺乳類の時代」というのも間違いである.ヒト Homo sapiens についてはどうで
あろうか.それ自体がマイナーなグループである哺乳類の,わずか1つの種に過ぎないものが,地球を代表す
る生物であるなどとは,とてもいい難い.しかし,これとは正反対の,ヒトこそが進化の極致にある生物であ
るという信念がある.19 世紀の西欧では,あらゆる創造物の中でヒトが最高である,というのが健全な考えを
持つ普通の人々の常識であった.
ダーウィン自身はこれを否定したわけであるが,彼の生存競争・適者生存・自然選択説は悪用され,白
人は進化的に進んでおり,生存競争において優先的生存権を獲得するのは当然であるとか,白人が最も
高度に進化した特別の存在で,黄色人種がそれに次ぎ,黒人はサルに近い,などとされていた.イギリ
スはこの考えに基づいてタスマニア原住民を計画的に殺戮した,と大野 乾はその著書の中に怒りを込
めて記載している.人種差別に基づくホロコーストの事例は枚挙にいとまがない.西暦 1500 年前後の
ころ,コロンブスは,カリブ海バハマの島で自分が「発見」した金鉱の利権を守るだけの目的で,温厚
な原住民タイノ族を虐殺し全滅させた.コロンブスの名前はヒトの醜悪さの典型として記憶され続ける
であろう.全く非科学的とはいえ,白人優秀説は,今でも根強い影響を保っている.欧米人の中でも,
ものの判っている人々は,これが間違いであると積極的に発言している,というのが現状である.
生物多様性という言葉に照らして誰がチャンピオンであるかをまとめると,生物全体で最も顕著なのが細菌,
動物では無脊椎動物で,なかんずく昆虫や甲殻類などを含む節足動物は,カンブリア紀以降,あいかわらず圧
倒的な優勢を保ち続けている.脊椎動物に限れば魚類がトップである.魚類は,カンブリア紀に始まって今で
も繁栄し続けている (5 億年にもなる!) という意味でも注目に値する生物群である (甲殻類や軟体動物類も同
様である).そして,酸素を補給して好気性生物を支える植物も重要である.原生生物は,それに関する知見
が増大するにつれ重要性が認識されると思われる.大学の生物系学部が対象とする材料としてみると,医学系
よりも農学系が扱うものが圧倒的に多い.
第 6 の大絶滅?
グールドと,同じハーバード大学の同僚教授であったルウォンティンは,これまで地球上で生じた種の
99.99%は滅びた,と主張している.種の絶滅・多様性の低下は,避けられない自然現象であり,ヒトの手でそ
れを止めることはできない,とも.細菌を考慮すると,この%の数値は変更を余儀なくされると思われるが,
それは今後の問題である.グールドによると,カンブリア紀以降の動物の絶滅は,多数の動物を「悲運多数死」
の憂き目にあわせてきた.
多様性低下の説明として,現在 (現代人出現後か?) の地球は,
五大絶滅に続く第 6 の大絶滅 the sixth extinction
の真っ只中にあるという考えもある.一説によると,現在の絶滅の速度は,最速であった P/T 境界よりも 3 桁
高いとのことである.過去の大絶滅の原因は,地質学的な大変動または天体の衝突という自然現象であったが,
仮定的な第 6 の大絶滅は,ヒトの手によるとされる.
この考えはグールド/ルウォンティンの自然現象説と相容れない.しかし彼らであっても,たとえば熱帯雨林
開発のための伐採 (盗伐を含む) が,そこに生息する無数の昆虫種を,記載する前に絶滅させてしまうことを
否定できないであろう (膨大な数の昆虫種の大半は熱帯雨林にいるというから,その喪失は,絶滅速度の計算
結果に大きく寄与するはずである).事実,ルウォンティンは,「われわれ人類にできることは絶滅の速度を可
能な限り低下させることである」と記している*.放置しておいても絶滅する生物群であるとすれば,少なく
とも,ヒトがそれに手を貸す頻度を低下させることが望ましい.
* Lewontin, R. 著,The Triple Helix––Gene, Organism, and Environment (三重螺旋––遺伝子・生物・環境),
Harvard Univ. Press, Cambridge, 2000 年
進化は進歩でないといい切れるか
生物進化とは,古いライフスタイルを残しつつ新しいものを付け加えていく過程である.すなわち保守的で
あるとともに革新的でもある.これは矛盾であるが,そもそもこの矛盾は,生物の存在の仕方と遺伝の仕組み
に潜在しているものである.種は結構長い間同一性がたもたれる一方,劇的に変化して大進化する.このノー
トでは,ここまで進化の保守性の面を強調してきた.そして,最初の生物に近い古細菌が今でも地球の主要な
生物であり続けているとか,初期の多細胞生物といえるカイメン,クラゲ,サンゴが今も生き延びている,な
どの事実を強調してきた.ヒトが進化の頂点ではない,という考えもこれに基づく.
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これらの記載は,進化を「ひとえに」革新的であり進歩であるとする考えが間違いであることを強調
したかったためにほかならない.そもそも evolution という言葉は「回転すること,転げ落ちること」の
意味で,価値の変化とは関わりがない.「進化」という訳語は誤訳であるといわれる所以である.細菌
→真核単細胞生物→二胚葉動物→無顎類→硬骨魚類→両生類→爬虫類→哺乳類,あるいは細菌→真核単
細胞生物→二胚葉動物→有爪類→無翅昆虫類→有翅昆虫類といった複雑化の筋道は正しいとしても,こ
れらの各段階の進行は,その前のものの絶滅を必然的に伴うのではまったくない.複数の段階のものが
複雑に共存するのが一般的である.速い話が,最初の生物である細菌は,今でも地球のチャンピオンで
あり続けている.天変地異が起こると,皆が一斉に滅びる (悲運多数死).幸運にもたまたま生き残るも
のがあり,それが新しい境地を作る.
しかし,翻ってみると,ここまでの記述では進化の革新的な面を過小評価したようにも思われる.論旨が揺
れることを恐れずに,進化の進歩性について少し付け加えたい.生物進化は,既存のものへの「新しいものの
追加を含む」わけであり,その流れでいえば,たとえばチンパンジー様の体制の上に,新たに大きな脳を追加
したのがヒトである.チンパンジーとヒトは共通性が大きいが,後者は大きな脳を持つ点が違うといえる.脳
の構造分だけヒトがより複雑なのである.同じく,無翅昆虫よりカイコやハエなどの有翅昆虫の方が,翅を獲
得したことを含めて高等であるし,両生類より爬虫類の方が「羊水」など陸上への適応を獲得した分だけ進ん
でいる (胎児を羊水に浸すことによって,陸上の乾燥した条件下でも子孫を残すことができるようになった).
適応進化
進化が進歩である,という面は,もう1つ別の事象からも明らかである.ダーウィンより 50 年も前に進化
論を唱えたラマルクは,生物学から宗教論を取り去ろうとした点ではダーウィンと同じであるが,生物には自
ら前向きに進化する内的な力が備わっているという一種の目的論といえる考えを持っていた.機械論的考察に
よって生物学を科学にしようとしたダーウィンは,説明のできない目的論を忌み嫌った.あくまで無方向の個
体差から,自然選択によって最適なものを拾った結果として,終わってみれば,あたかも目的論的・適応論的
な進化が起こっていた,というのがダーウィンの考えである.ダーウィン説の延長である総合説でも,適応的
突然変異が否定されている.しかし,適応的変異も,天変地異説が復活したのと同様の経緯をたどっている.
すなわち,細菌は,大量の抗生物質存在などという強い淘汰圧の下で長期間培養を続けると,あるとき一斉に
耐性遺伝子を獲得する.つまり居合わせた全個体がそろって適応的な変異を遂げる.そして,その変異は遺伝
する.たとえば,MRSA などの多剤耐性菌の急速な出現がそれであり,まさにラマルク流の目的論である.ラ
マルクが唱え,これまで強く否定されてきた獲得形質の遺伝仮説の復活の狼煙 (のろし) でもある.
では,適応変異はどのようにして起こるのか.
「水平伝播」が有力である.このノートでもすでに触れたよ
うに,ヒトやムシを含むすべての生物種で,交配によらない,種の壁を越えた遺伝子の移動すなわち「水平伝
播」が起こっていることが判明した.その水平伝播そのもののメカニスムは何であろうか.高等生物では理解
が不充分であるが,細菌では容易に説明できる.細菌において,外来遺伝子は次の 3 つの媒体から細胞内に取
り込まれる.すなわち (1) プラスミド,(2) ウイルス (ファージ),(3) 他細胞由来の DNA 断片である.抗生
物質存在下で,細菌集団のごく一部に耐性遺伝子があるとすると,それがプラスミドなどを通じて集団全体に
いっせいに拡大する,といったことが起こる.これまで非耐性であった個々の細菌は,新しい遺伝子をもらう
ことで一斉に適応的突然変を遂げる.非耐性菌群の死滅を伴っていないことから,ダーウィン流の自然選択説,
つまり既存の抗生物質耐性菌群が非耐性菌群との生存競争に打ち勝ち,選択的に増殖した結果である,という
解釈は成り立たない.
適応論に基づく考察は,生物進化のすべての局面に当てはまるものではない.ルウォンティンの「三重螺旋」
でのいい方に習うならば,ヒトの耳はなぜゾウの耳のようでないのか,とかヒトの男性のほほ髭の意味は何か,
などの質問に対して,適応論的答えは意味をなさない.一方,多剤耐性菌の出現の場合は,適応論でしか解釈
できない.このように局面によって説明は異なってくる.進化論では,すべてに適用できる絶対的原理などは
ない.この多面性は,生物の持つ本来的性質を表している.
遺伝と進化は表裏一体の関係にある.一方の知見が不足であれば他方も判らない.遺伝学の講義を終えた後
に,再度このノートを読めば,講義で聴いた際よりも理解が深まるものと思われる.■
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