散歩の文化史(2) 書 評 - 東京成徳大学・東京成徳短期大学

書 評
散歩の文化史(2)
König, Gundrum M, (1996) Eine Kulturgeschichte des Spazierganges:
Spuren einer bürgerlichen Praktik 1780-1850. Wien : Böhlau
市 村 操 一*
近 藤 明 彦**
A Book Review of ‘A Cultural History of Roaming’ (2)
Soichi ICHIMURA
Akihiko KONDO
現在われわれが見たり行ったりする散歩は、約200年前に始まったにすぎないと、「散歩の文化
史」の著者のKönig (1996)は述べている。本書評で紹介する彼女の著作は18世紀後半から19世紀中
葉にかけてのドイツ語圏、特に南ドイツでの散歩の文化の発展を研究したものである。
この時代の大きな歴史的出来事の一つはフランス革命(1789)であり、もう一つは産業革命の始動
である。その結果、都市の拡張が始まり、有産市民階級が生まれ、余暇や社交への欲求が増大してき
た。ゲーテ(1749-1832)やベートーベン(1770-1827)の活躍した時代でもある。この時代に散歩が
一つの社会的現象として発達し始めたことを本書の著者のKönigは歴史社会学的資料をもとに跡付け
ている。
200年も昔の南ドイツの散歩の歴史を紹介する動機は単なる好事家のそれのように思われるかも知
れない。21世紀の日本ではウォーキングという形態での歩行が人気を集めている。その動機は運動不
足を解消するためであったり、高齢者の仲間の経済的な社交であったりするようである。このような
状況において他の文化の、しかも異なる時代の散歩の状況を知ることには、われわれの散歩文化を豊
かにするヒントを得ることにつながるのではないかという期待が存在する。
本書の序章の内容は2008年度の本紀要に紹介された(市村, 近藤, 2009)。今回は第2章の
「文化的・美的プログラムとしての散歩」(Der Spaziergang als Kulturelles und Ästhetisches
Programm)の要点の翻訳と解説を行う。
第2章は5つの節を含む長いものであるが、そのうちの2つの節を取り上げる。1つは、「美的楽
*
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Soichi ICHIMURA 健康・スポーツ心理学科(Department of Health and Sports Psychology)
Akihiko KONDO 慶応義塾大学体育研究所(Institute of Physical Education, Keio University)
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しみとしての自然」(Natur als äethetischer Genuss)であり、もう1つは「散歩による世間への参
与」(Die Aneignung der Öffentlichkeit)である。前者の節では、市民の散歩が自然の美しさを観
賞しながらのものになっていく契機と実態について触れ、後者の節では散歩が社交の場になっていっ
た様子を述べている。
1 美的楽しみとしての自然
自然を観賞しながらの散歩のスタイルが生活の中に根付いていくためには、散歩をするための余
暇時間と自然を美しいと感ずる感性の発達が必要である。第2章の冒頭には、当時の高名な哲学者
K.G.Schelleによって1802年に書かれた文章が紹介されている。
「Schelleによれば、散歩とは市民階級によって新たに見出された楽しみであり、『集中する時と
休息する時、まじめな時と遊びの時、仕事する時と気晴らしの時といったその時々の状態に応じて、
われわれが日常生活を意識しながらきちんと切り替えて生活するなかで、散歩は重要な意味を持ちは
じめた』ことが示された」(p.31)
このような余暇活動としての散歩への欲求は都市の主人公になった有産市民階級から生まれてき
た。彼らは都市の城壁の外にある自然に手を加えてそこを散歩するようになった、ということであ
る。
ヨーロッパの都市は城壁に囲まれて造られていた。外敵を防ぐための城壁の中には領主も庶民も一
緒に住んでいた。余暇を持てるようになった有産市民は城壁の外へ散歩に出て行くことによって自然
を身近に観賞するようになり、人間と自然の関係にも変化が現れた。整然と区画されたフランス式庭
園が王侯貴族のものであるとするならば、自然を模倣した英国式庭園を大衆は評価するようになっ
た。このような美的感性の変化をKönigはつぎのように書いている。
「英国の風景式庭園はこのような社会的・経済的変化に伴って生まれた。人間の自然に対する関
係は根本から変わった。自然の美を象徴するものは、もはや細かく裁断され、手入れされ、管理さ
れたフランス風庭園ではなく、人間の手が加わっているものの、ありのままの姿を残した英国風庭
園となった。散歩が市民階級の文化として根づいたことで、こうした自然観が行き渡っていった」
(p.36)
「しかしながら、英国風庭園の人気を単なる趣味の変化と捉えるのは誤っている。それは同時に、
興隆しつつある18世紀の有産市民階級が自らの理想と価値観をそれに託した証でもある。樹木や植え
込みを茂るに任せ、道もわざと曲がりくねるように設計されたこの英国風庭園の趣向は市民階級の自
然観が映し出されている。その普及は多かれ少なかれ啓蒙専制君主の庇護のもとで行われた。従って
その過程では、建築の粋を凝らしたフランス風庭園に対する英国風庭園、貴族階級の体面維持として
の庭園造成に対する市民階級の自然への傾斜といった二分法の意識が働いており、それがフランス風
庭園から英国風庭園へと歴史的に移り変わっていった背景事情として挙げられる。英国風庭園を散策
する者は、体面維持のために庭園を必要とし、またその庭園で華やかな催しものや気晴らしを楽しむ
王侯貴族のもとで厳格なしがらみに縛られた下僕ではもはやなく、むしろ彼らは<孤独な人間>のタ
イプに当てはまる。彼らにとって自然の風景は見たり享受したりするものではなく、思索の対象とし
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て考えを深めていったり、感情を映す鏡として存在している」(p.37)(*1)
(*1)フランス式庭園とは人工物で整然と区画された、ヴェルサイユ宮殿の庭園のようなスタイル
をいう。これに対して英国式庭園は、森や草原や湿地など自然の一部を模したスタイルの庭園であ
る。前者を人為的、後者を自然と区別することには異論もある。どちらも人間の考え出した自然と
いうものを、それなりのやり方で表現したにすぎない、という主張もある。ヴェルサイユの庭園に
は、「規則性が宇宙の深遠な掟、自然の本質自体」があらわされているという解釈もある。(ベル
ク, 1990, p.34)
2 芸術形式としての散歩
2−1 「散歩の称賛」
散歩の流行とともに、散歩の効用を称賛するものが出てくる。先に紹介した哲学者Schelleも「文
明に倦み疲れた市民の心の清涼剤として、散歩、特に田舎に散歩に出かけることを、疎外された都市
住民に対する何よりの処方菱と見なしていた。Schelleはつぎのように書いている。「田舎で暮らす
こと自体が重要なのではなく、ありのままの自然と、街のしがらみから逃れたいという人間の欲求
が、都市住民に田舎で過ごしたり散歩したりすることの心地よさを与えている」
本章で繰り返し引用されているSchelleの著書の表題は、Die Spaziergänge oder die Kunst
spazieren zu gehen. であり、「散歩、すなわちあてもなくぶらぶら歩く方法」(以下『散歩』とす
る)というものである。この本は1802年にデッサウの領邦君主フランツ候に献呈された。その中に
は、当時まだ新しい習慣であった散歩の楽しみ方の提言も記されている。Königの引用している部分
に、自然美の観賞の方法の助言を見ることができる。
「Schelleは精神を『調和の取れた』状態に置くために、『多種多様で美しい自然』を散歩の目的
地に勧めた。それゆえに、気の向くままに散歩する者は誰でも、自然に対して美的な関心を抱くこと
をSchelleは求めた」
さらにSchelleは、散歩するものが自然のどこに目を向け、どのように観賞したらよいかを解説し
ている。つまり、彼の著書は自然の楽しみ方の指南書にもなっている。このような指南書が必要だっ
たことは、それまで城壁の中で生活を送っていた市民にとっては余暇活動の中で接する自然あるいは
風景は、それを楽しむためには解説書あるいは指南書が必要だったことを示している。日本では国木
田独歩の『武蔵野』(1901)や島崎藤村の『千曲川のスケッチ』(1912)などのような英国ロマン主
義の影響を受けた文学作品が、自然の美しさ、特に風景の美しさを観賞する人々の近代的感性の形成
に影響を与えたと思われる。Schelleの推奨する自然の目の付けどころをKönigはつぎのように紹介し
ている。
「Schelle は述べている。『自然の懐の深い包容力は、せせこましい都市生活の束縛からわれわれ
を解放してくれる』山や谷、牧草地や野原、そして森を歩き回るわれわれの心がどのような感情や気
分にとらわれているか、Schelleは詳細に描写してみせる。『自然のどのような場所にも、何かしら
の価値や意味合いを見出すことができる。野原を眺めると、われわれの心は人間らしい美を愛でる感
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受性と未来に対する希望を呼び覚まされ、森を眺めると、われわれは自分と自然とが何の隔てもなく
向き合っていると感じる。どこまでも同じ光景が続く牧草地は、われわれに穏やかな安心感と深い満
足感を与えてくれる』と」(p.33)
Schelleの描くこのような「自然」に対する接し方を、Königはつぎのように評している。
「このような都市住民の『自然』に対する接し方は、ほとんど神秘的といってもよい特徴を備えて
いる。彼らにとって美的な体験は日々の礼拝行為の代替であり、散歩は彼らの神聖化された世界ヘの
道標なのである。Schelleの言う『自由な自然=freye Natur』とは、つまり都市にないものすべてを
指している。野原、牧草地、森、こういった手入れされ人が踏み込むことのできる自然が彼にとって
『自由な自然』だったのである」(p.34)
2−2「散歩はゆっくりと、感性を働かせて」
Schelleの『散歩』の中に示された散歩の方法の詳細な書き方には、理由があったとKönigは考えて
いる。
「一歩一歩『喜びを味わいながら』歩くという考え方自体が当時まだなかったのである。歩行の目
的地ははっきり定められていて、外の動機が歩行に影響を与えることはまずなかった」ということを
考えると納得がいくと、Königは述べている(p.34)。
当時の神学者のC. F. Bahrdtは一般の市民の自然に対する感性のなさをつぎのように嘆いている。
「自然の美しさを感じ取ることは、見るという行為ではなく、心のありようの問題であり、その前
提として鋭い感受力が求められる。外面的な自然の印象は、歩くときの体の動きに合わせて、感情や
イメージと関連づけて体験されなければならない」とBahrdtは主張した(p.34)。このような批判が
書かれる裏には、自然に美的感動を感じることのできる人とできない人が存在することを意味するだ
ろう。つまり、自然美の解る人と解らない人の存在である。
Schelleは自然美を理解できる能力についてつぎのように述べている。
「自然との触れ合いの中から何かしら得るものや満足感を引き出そうとする散歩者は、とにかく自
然を解読しなければならない」「自然に話をさせようと思うならば、まず自然を話に引き込むことを
知らねばならない」「ただしそれはある条件下でのみ可能である。散歩の魅力に触れ、散歩を求める
心の欲求を満たすためには、ある程度の教養と理念を身に備えていなければならず、それはわれわれ
誰もが備えているというわけではない。それゆえに、賃金労働者が散歩の心地よい感情を味わうこと
ができないのは、むしろ当然至極のことである」(p.34)
上記のSchelleの主張の中には、現代の景観哲学の理論に通じる考えがある。「風景は文化的アイ
デンティティの指標であるばかりではなく、さらにそのアイデンティティを保証するものである」と
いう考えがある(ベルク,1990, p.11)。つまり、風景のような環境を構成する事物の外的側面が、その
環境を整備したり称賛したりする社会の審美的判断や倫理観などを映しだすという意味で、風景はそ
の風景を持つ文化のアイデンティティの指標なのである。Schelleの上記の主張を、このような観点
からみると、散歩において称揚された自然美は新しく台頭してきた有産市民階級に似つかわしい教養
と理念を持った人々によって「発見」された美しさであり、その美しさに感銘を受けることができるこ
とは有産市民であるというアイデンティティを確認することにつながるということを意味している。
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このことは必然的に散歩文化の社会階層による差異の考察の必要性につながっていく。
2−3 「散歩と社会階層」
Schelleは散歩が有産市民階級の文化であることを主張し、賃金労働者や農民は自然を観賞しながら
の散歩の魅力を理解しない存在と考えた。Schelleはつぎのように述べている。
「教養がないために賃金労働者が自然の魅力に無感覚であるように、『農民』は自然との近さがか
えって障害となる。農民は自然の中で生活し、いつも自然の中を歩き回っているが、それだけに自然
を感じるということに最も縁遠い。距離を置いて心の中で美的に自然と一体化を図るこうしたやり方
が、教養市民階層の自然熱の背景にある。都市に住む彼らにとってだけ、自然は脅威を失って御し易
くなり、荒々しくも危険でもなくなった。自然の理想とされたのが、人の手の入った自然であり、美
しく手入れされた風景だった」
Schelleは「農民」や「賃金労働者」の無知無学を、理想的な自然を把握する障害として否定的に
評価した。Schelleは「農民」や「賃金労働者」、プロトタイプ的に言えば下層階層の代表者たち
を、市民階層の不遜さで一方的に評価した。
Königは上記のようなSchelleの見解を紹介した後で、社会階層による自然観や散歩のスタイルの研
究の必要性をつぎのように主張した。
「散歩の社会的位置づけと散歩習慣の成立を正確に記述するためには、これまで当分野の先行研究
がほとんど顧慮して来なかった、散歩に対する社会階層ごとの関心の相違に眼を配る必要があるだろ
う」
この社会学的問題については後の章で詳しく論じられることになる。
2−4「散歩の4つのタイプ」
散歩のスタイル、つまりやり方にもさまざまなものがあったようである。一人きりの自然の中の散
歩も、親しい人と連れ立っての街の中の散歩も、この時代の散歩のスタイルとして現れてきた。この
後者の、現在ではまったく普通になった街中での散歩も、フランス革命の過程で登場してきたものの
ようである。Königはつぎのように述べている。
「フランス革命の過程で、好んで群衆の中に足を向ける散歩者像が文学の中に登場してきた。群集
の中を散歩して歩く大勢の散歩者が雄弁に物語っているのは平和のありがたみであり、散歩とは共和
国市民の新たな権利を体験することであった」(p.36)
当時の作家のJean Paul(1763-1825)は散歩をする人々の観察に基づいて、4つのタイプをあげて
いる。このタイプ分類の裏には、流行にのって散歩をする人たちへの批判も含まれている。Paulの文
章がつぎのように紹介されている。
「最も情けないのは、虚栄心や流行に踊らされて散歩するタイプである。次に挙げられるのが頭で
仕事をする人間や肥った人間で、彼らは運動のために散歩をする。また風景画家然としたまなざしで
自然の輸郭を目でなぞろうとする者もいる。そして最後に挙げられるのが『一番まともなタイプ』
で、つまり審美眼を備えた目でだけではなく、心から散歩を楽しむ人間である」(p.36)
このランク付けは散歩の意義の内面化の度合いを基準にしているようである。このようなランク付
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けの根底には、「散歩の内面化の度合いは人間の感受性に比例するものであり、第一のタイプに属す
る(虚栄心や流行によって散歩する者)は決して内面の世界に到達することができない」という仮定
が存在する。
このような、いくぶんシニカルな分類に対して、本書『散歩の文化史』の著者のKönigはつぎのよ
うに述べている。
「(散歩の流行に批判的な人)が見過ごしているのは、散歩という行為が市民階級の楽しみごとと
してまさに流行現象となっていた、その集中の度合いである。・・・・・文化的な面で市民階級が主
導権を握りつつあった状況を踏まえてみれば、むしろ(彼らの散歩のタイプが)典型となりうるよう
な中心的な役割を果たしていたのである」
3 「散歩による世間への参与」
散歩をする人が増えてくると、散歩を楽しむ場所の確保の問題が生じてくる。この節では、18世紀
末の公園の開放とプロムナード(遊歩道)の整備の様子が紹介されている。
この節の冒頭はつぎのように始まる。
「独りで散歩する市民たちは、身体及び精神の健康上の理由からその足を自然の中に向けたが、そ
れとは別に彼らが必要としたものがプロムナード(遊歩道)だった。プロムナードは自分を社会に
オープンにする場所であり、公共空間としての相貌を備えていた。18世紀後半からの社会的・政治的
変化は、市民階層が社会の主役となるのに好都合に働いた。だが、市民たちがお互いに意思疎通を交
わす方法はそれまで極めて限定されており、『家庭内での交流が彼らの昔からの主要な付き合い方』
だった。散歩が市民たちに公共の場所での出会いを増やしたことによって、必然的に新しい市民文化
の花が咲くことになった」(p.38)
この状況は、現在でもヨーロッパの古い町の旧市街(アルトシュタット)を歩いてみると想像する
ことができる。城壁の中に造られた町は小さな広場以外には建築物が稠密に詰まっている。そのよう
な都市にも散歩のための公共空間が作られるようになった。
「18世紀後半当時、都市には緑豊かな公共空間が未だほとんどなかった。それでも散歩道としての
街路の建設はぼつぼつ行われており、1780年になるとその傾向が顕著になった」とKönigは書いてい
る(p.36)。
3−1 「公園の開放」
庭園の開放は、ウィーンやベルリンで18世紀の中葉から行われる例が見られるようになった。
ウィーンでは1766年にヨーゼフⅡ世(パリに嫁いだマリー・アントワネットの兄)によって狩場で
あったプラターが開放され、現在は大観覧車で名高い公園となっている。ベルリンではフリードリッ
ヒ大王によってティアガルテンが1772年に開放されている。ちなみに将軍吉宗によって王子の飛鳥山
公園が江戸の庶民に開放されたのは1737年、水戸の偕楽園が徳川斉昭によって開園するのは1842年で
ある。
王侯の狩場の市民開放と並行して、1770年代に力を増したのが都市の衛生化という啓蒙思想であ
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り、それは公共の散歩道を美しく整備することにより、領民たちの健康水準を引き上げようという考
え方だった。しかし、多くの領主や貴族の庭園は十分には開放されておらず、開放されたとしても所
有者の都合に左右されていた。
「教養市民階級にとって、庭園というものが世間や隣近所と自分を隔てている境界線という意味を
失うまでには、まだしばらく時間が必要だった」とKönig は当時の状況を書いている(p.39)。
このような状況が劇的に変化する時代がやってきた。市民階級の台頭だけではなく、ドイツがナポ
レオンに敗れた結果の共和思想の広がりも時代の変化であったが、戦争技術の変化が城壁を無用の長
物としてしまったことが街の様相を変えていった。この経緯をSchelleはつぎのように述べている。
「都市の景観に決定的な変化をもたらしたのは、19世紀初頭に相次いだ大規模な城壁撤去の動き
だった。従来は街を拡張する際に、城壁や市壁を撤去してその跡地に建て増ししていたのが、1800年
になると、それまで防衛施設があった場所に設けられた緑豊かな公園が人気を博した。こうした城壁
撤去の理由は、老朽化による補修不可能、戦争技術の進歩による時代遅れ、あるいはフランス軍のウ
ルム占領などであり、これらの理由に市民階級の自然熱や英国風庭園の人気などが加わった。ブレー
メンでは城壁の傷みがひどいことから、1802年に『公共の散歩道敷設のための請願』が出され、その
ための協議会が設置されたが、他の多くの都市でも同じような組織が作られた。新たに生まれた跡地
を城壁の形態を留めた散歩道にするか、それともすっかり取り壊して英国風庭園にするかの判断は、
その時の街の経済状況に大きく左右された」(p.39)
このようにして、19世紀初頭には公共の空間に緑豊かな公園が誕生していった。
3−2 「社交の場としての散歩」
散歩をするものは、街の市門を出て遊歩道を通り農村の自然の中に出ていった。市門の前の通り
は、自然に通じる「開放感」と街の「人工美」の複合した雰囲気が漂っていた。そこでは人々は自然
の美しさを楽しむというよりは、連れ立って談笑する社交の楽しみを享受した。この様子はSchelle
のつぎの文章から想像することができよう。
「公共の遊歩道を気ままに歩き回る興味の関心は、自然に、人間そのものや人々の様子や行動に向
けられるようになった。人々の陽気な様子を眺め、弾む心を感じ取り、粋な服装に目を奪われ、背筋
の伸びた姿勢に感心し、行き交う人々の姿に心を躍らせた。あらゆるものに生が息づき、人間の多様
な生活ぶりが見て取れる。あらゆるものが、たとえそれが無邪気な子供の悪ふざけであっても、散歩
する人間の心に快く働きかけてきて、別に意識せずとも周囲の人々と接し合っているという意識を与
えてくれるのである」(p.41)
このように公共の場に人々が出て行って楽しみを求めた動機は何であったのだろうか?本書の著者
のKönigは、19世紀の上四半期までかかってこうした封建的身分はゆっくりと解消していき、新しく
現れた市民階級には新たな社交の様式が必要とされたと考えており、つぎのように述べている。
「公共の場所を散歩することは、市民階級の社交文化に全く独自の自己表現の形式を提供した。他
人に注目する楽しみに加え、自分自身が注目の的になる可能性は、社会的身分によって決められてい
た伝統的な人間関係の解消が視覚的な形で意識されるだけではなく、他人の視線のただ中に自分を曝
け出すことで、自己のアイデンティティを確かめ直す意味も持っていた」(p.41)
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このような動機も、新興市民階層の分化としての散歩のスタイルを特徴づけていったと考えられ
る。
参考文献
市村操一、近藤明彦(2009). 書評 散歩の文化史. 東京成徳大学研究紀要−人文学部・応用心理学部−.
No.16, 129-137.
ベルク, O. (篠田訳)(1990).日本の風景・西欧の景観. 講談社現代新書
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