2005.2.16 フランスでは芸術援助に関して国家が主導的な役割を演じている。また1981 グランド・アルシュ 年の社会党政権誕生以降、フランスの文化予算がそれ以前の倍近くにまで増 額され、国家予算の1%近くを占めるに至ったこと、大衆文化を含めた多様 な創造活動が支援対象となっていること、そして国家が主導的とはいえ、社 会党政権下で地方分権化が進められたことなども、よく知られている。 しかし近年、80年代以降のフランスの文化政策に関するこのような“常識” 的見解に疑問を呈する研究が登場してきている。以下ではこの近年の知見を 踏まえながら、国家と地方自治体による文化支援のあり方を、特に「文化の 民主化」という問題に注目しながら考えてみたい。 ルーブル美術館 マルローとラングの隔たり フランスにおける国家による文化政策の歴史を紐解くなら、その起源は絶対主義の 時代にまで遡ることができる。しかし文化政策を芸術家の創造活動の支援(と規 制)だけでなく、文化活動への市民のアクセスの促進という施策も加えたものとし て理解するなら、フランスにおける文化政策の歴史的発展過程において決定的に重 要なのは、59年の文化省の設立とアンドレ・マルローの文化大臣就任、そして81年 の社会党政権誕生とジャック・ラングの文化大臣就任という、2つの契機である。 このうち後者こそが現在のフランス文化政策の基礎的枠組を整備したといえるのだ が、それがどんな特徴を有しているかは、前者(マルローの文化政策)と比較して みるとよくわかる。 すなわち、マルローが文化省の初代大臣として熱心に取り組んだのは、「文化の民 主化」と呼ばれる施策だった。この場合の「文化の民主化」とは、洗練されたフラ ンスの芸術文化をフランス国民が等しく享受できるようになることを意味してい る。そしてそのための手段として、マルローは全国に文化会館(通称「文化の 家」)を建設することを目指した。この「文化の家」とはいわば複合型文化セン ターというべきもので、演劇、音楽、映画、テレビ、展覧会、講演のすべてを実施 するための施設だった。 しかし、彼が69年に職を退くまでの10年間に建設された文化の家はわずか7つにす ぎず、今日でもその数は15にすぎない。この失敗は、莫大な建設コストのためでも あるが、なによりも国民の支持を得ることができなかったためだと考えられてい る。というのも、マルローの「文化の民主化」というプランは、あまりに甘い認識 に基づくものだったからである。彼は文化施設を提供しさえすれば文化の民主化は 達成されると考えており、階級や家族、および教育などの社会学的要因を考慮する ことがなかった。また彼は、パリにおける最良の芸術作品をフランス中に普及させ ることをもって「文化の民主化」と考えており、現実にフランスに存在する地域文 化の活性化といったテーマは全く考慮されていなかったのである。 それに対し、81年に左翼政権下で文化大臣に就任したジャック・ラングは、マル ローとは異なる解釈に基づいて「文化の民主化」を推し進めた。すなわち彼は、 「文化」という概念をきわめて広義にとり、支援対象の枠を地方文化のみならず大 *1 地域圏 衆文化や文化産業と呼ばれるものにまで大幅に広げたのである。つまり、「文化の (région) 民主化」を伝統的な高級芸術の普及としてではなく、人々のライフスタイルに根ざ 1964年に設置された広域行政機関で、県 した多様な文化の保護と支援だと解釈したのだった。しかも彼はこれを、既存の高 (département)の上位となる地域区分。し かし従来は中央政府機関が統括する企画の 級芸術の支援を犠牲にするのではなく、国の文化予算を大幅に増額(前年度予算の 効率的計画と実行のための役割しか与えら 約2倍)することで実現したのだった。 れていなかった。 この多様な文化を支援するという政策方針にとって重要なのは、まず、地域におけ *2 地域圏文化局 る文化活動の活性化である。左翼政権は、フランス国家を特徴づけている中央集権 (directions régionales des affaires culturelles) 体制を是正するために82年および83年に「地方分権法」を施行し、地域圏議会を公 1970年代における地方分権化の一環として 全国的に整備された。単に文化予算分配の 選化して独自の権限をもつ行政執行母体とし、幾つかの国家の権限を委譲した(* 仲介を行うだけでなく、文化省の方針に基 1)。当然ながらこうした傾向は文化政策にも影響を及 づき、地域関係機関のために勧告や評価活 動を行う。 ぼし、全国に地域圏文化局(DRAC *2)のネットワークが整備されていった。この地 域圏文化局は現在全国で27カ所存在し、国の文化政策に基づく資金援助の90%はこ の地域圏文化局のレベルで決定されているという。また現在、地方自治体は文化省 の予算の2.5倍に上る資金を文化活動に充てている。 また、ラングの政策方針にとってそれ以上に重要なのは、大衆文化の支援であっ た。実際、ラングによる文化政策において最も際立っていたのは、この大衆消費文 化やアマチュアの文化活動の支援であった。ラングの下で文化省は、芸術と民衆、 芸術におけるさまざまな立場、アマとプロ、地域的・民族的格差などの障壁を崩す 作業に取り組んでいったわけだが、その中でも「高級文化」と「低級文化」との間 のヒエラルキーの解体に対する取り組みには特別に熱心であった。 文化省は、まず、従来の文化政策が表現の形式によって支援対象を選別してきたこ とを問題にし、これまで無視されてきた数多くの「民衆的芸術」、例えば人形劇、 オペレッタ、サーカス、料理などを支援対象に組み込み始めた。とりわけフランス 文化省が関心を向けたのは、若者文化、特にポピュラー音楽、それもポップスや ロックであった。例えば82年2月には、ラングはポップスのための指針を多く含ん だ新しい音楽政策を発表している。それらのうちには、練習場所を探している若者 への援助、またそうした場所や設備を提供してくれる地域団体への援助などが含ま れている。そしてさらに目を引いたのは、ロック・コンサート専用ホールの建設で ある。84年1月にはパリのラ・ヴィレットにその第1号であるル・ゼニットがオープ ンし、また少しずつではあるが、同様のホールが地方にも建設されることが計画さ れた。 このように娯楽産業の枝葉にすぎないとみなされていたポップスやロックをも支援 対象に含むことにした国家の姿勢は、80年代前半のフランスにおいてもきわめて目 を引く出来事だった。さらに、89年5月には文化省ロック音楽専門官のポストがつ くられ、初代専門官には当時25歳であった音楽雑誌編集者のブルーノ・リオンが就 任した。ロック担当官に割り当てられた年間予算は設立時で4,300万フラン(当時約 11億2,000万円)であった。このようなポピュラー音楽を支援する傾向は現在に至 るまで続いており、98年度、99年度の重点施策の対象にもなっている。 また、文化省は漫画に対する支援も行っている。82年4月には、ラングはプロの漫 画家たちとの協議会を開き、続く83年1月の記者会見で、漫画がこれまで若者に とって有害で文学的な価値の低いものとみなされ軽蔑されてきたことを指摘し、そ れに正当な位置を与えることを主張した。また地方都市アングレームでは毎年「国 際漫画フェスティバル」が開催されているのだが、85年にミッテラン大統領が来訪 したことをきっかけに、翌年「国立漫画センター」設立の構想がもちあがり、同セ ンターは91年1月に開館。さらに、このような文化産業の領域に関して、写真芸術 国民センター、およびアルル写真芸術学校、広告美術館等が創設された。 このように、左翼政権成立以後の文化政策においては、支援対象の多様化という顕 著な特徴が見受けられる。しかし同時にフランス社会党は、そのような政策方針と は相異なる、ある意味で保守的ともいえる文化政策をも実施している。それは、 ミッテラン大統領による大規模施設の建築プロジェクト「グラン・プロジェ」であ る。フランスでは大統領が記念碑的施設を建設するのはポンピドゥー以来の慣例と なっているものの、ミッテランのこの事業は、単独の大統領がいくつものプロジェ クトを立ち上げた点で非常に話題を呼ぶものであった。 このグラン・プロジェのうち文化関係施設は文化省の予算で建設されたものの、 ミッテランの直接的な指導の下に実施された。そのため、このプロジェクトは他の 文化省の施策とは独立した形で進められることになった。大統領の指導は概括的な プランの提示にとどまらず、具体的かつ詳細な点に関する指示にまでわたったとい われている。 ミッテラン政権下でスタートしたグラン・プロジェに含まれる建設計画は次のとお りである。 1. グラン・ルーブル(ルーブル美術館の大改造計画。ピラミッドはその一部) 2. 国立図書館 3. バスチーユの新オペラ座 4. グランド・アルシュ(凱旋門型の国際通信センター) グラン・プロジェは文化省の政策領域というより大統領管轄の領域であったため に、内閣の変動(86∼88年の保守内閣の成立)の影響を受けずにすみ、重大な修正 を被ることなく継続された。80年代のフランスにおいて実施された文化政策の主導 者は、ジャック・ラングとフランソワ・ミッテランだったといってよいが、以上か らわかるように、この2人によって別個に担われた2種類の文化政策は、少なくとも 表層的なレベルではかなり趣を異にしていた。ラングが時代に適合するように文化 政策の方針を変えようとしていたのに対し、ミッテランは古典的な文化政策の手法 ともいえる、国民的モニュメントの構築を志向していたのである。 地方分権化の実態 しかし、ラングがスタートさせた既述の一連の文化政策は、はたして企図どおりの 効果をもたらしたのだろうか。また、それらは本当に、ミッテランが志向していた *3 現代美術地域基金 (fonds régionaux d’art contemporain) 1982年創設。地域住民の同時代の芸術(絵 のとは対照的な、革新的な政策だといえるのだろうか。 キム・エリングの最近の調査によれば、この一見すると派手なフランスの文化政策 画、彫刻、写真、装飾美術、工芸等を含 は、見掛けほど革新的でもなければ、同時に中央集権的でもないようである。それ む)に対する感受性を高めることを目的と どころかエリングは、フランスの文化政策における政策決定過程は、実際上はイギ する。作品の収集だけでなく、地域間での 貸出活動も行う。作品の購入は地域ごとに リスのように第三者機関が中心となったものとさほど変わらないと主張しているの 独立した専門委員会の決定に基づく。この である。 委員会は地方議会議員と独立的な専門家、 および国の代表者で構成されている。 例えば地方分権化の実際に注目するなら、文化省は地方自治体へ完全に権限を委譲 FRACの作品購入額は、現代の芸術作品の したわけではなく、現代美術地域基金(FRAC *3)や美術館購入地域基金(FRAM 購入のための公的支出の半分を占める。 *4)、地域文化遺産委員会(COREPHAE *5)といった助成機関を設置すること *4 美術館購入地域基金 によって、分散化やパートナーシップを図った。また文化省は、地域圏文化局の (fonds régionaux d’acquistion des musées) ネットワークを整備し、そこに人的財政的資源を投入していった。さらに重要なの 1982年創設。FRACと同様のシステムで、 地域における美術館の活動の促進を図る。 は、契約政策という形式が拡大され、その中に地域圏文化局が組み込まれたことで ある。 *5 地域文化遺産委員会 (comissions régionales du patrimoine これにより、文化政策に関する自治体の助成金使用の自由は、地域圏文化局と取り historique, archéologique, et ethnologique) 交わされる契約によって、実際上は制限されてしまうこととなった。つまり、この 各地域において文化財・記念碑を指定する 政策のおかげで地方への国家予算の分配が増大したのだが、一方でそこには、いわ 諮問委員会。文化財選定過程において地域 住民に発言権を与えることを目的としてい る。 ば家父長制度的な国家の温情主義が働く仕組みになっているのである。実際、現在 に至るまで、地域圏文化局は優先的に支援すべき自治体の選定に関して、文化省か ら年度ごとに指導を受けているという。そしてこうした交渉事に精通していない地 方当局が、文化省が「真の対話の産物」として提示する計画を素直に受け入れてし まっているというのである。 もちろん、こうした契約政策は地方自治体の意向を無視して行われたわけではな い。支援対象が特定の地域に偏るということは事実上なく、82年の契約にはすべて の地域がサインしており、そのうちのほとんどが契約更新に応じた。さらに、この 契約は地方当局の投資活動を活発化させる役割を果たした。そして何より、こうし た政策の結果、地方自治体の文化予算の総計は、文化省も含めた国家全体の文化関 係予算よりも多くなっているのである。 しかしこれは、文化省が自らの懐を痛めないままに地方の政策決定に介入する権利 を握っているとも解釈できるだろう。エリングによれば、地方自治体にとって文化 省が文化政策のパートナーとなるということは、プログラムの「質」が保証された ことを含意するのだという。それだけ、文化省やその下部機関である地域圏文化局 の価値判断は大きな力をもっているのである。 ところで、この中央と地方との不均衡に関してよりあからさまなのが、グラン・プ ロジェであった。国家の文化的支出は毎年増加傾向にあるものの、グラン・プロ ジェのための予算は81年にはそのうちの約15%を占めるにとどまっていたのに対 し、86年には70%近くを占めるに至ったのである。このため、予算を他の芸術文化 支援に回す余裕がなくなり、必然的に他の文化政策は規模の縮小を余儀なくされ た。もちろん地方分権化政策も、このグラン・プロジェのせいで被害を受けてい る。例えば地方分権化に割り当てられた予算は、85年には1億2,600万フランであっ たのに、翌86年には6,300万フランと、約半分にまで削減された。それになによ り、これらの建設計画はすべてパリにおいてなされたのであって、地方分権化とい う社会党の目標には反するものであったといえるだろう。 フランスの文化政策を検証する また、果たしてラングが目指した「文化の民主化」が実際的な効果をもっているの かどうかも、実のところはっきりしない。文化の民主化や芸術教育などの施策を含 ■参考文献・資料 V. Dubois: La politique culturelle: Genèse d'une catégorie d'intervention publique んでいる「文化開発」という予算項目は、左翼政権誕生により、割り当てとしては 前年度比で1,440パーセントもの上昇を果たした。しかしそれは、それ以前の「文 Belin, 1999. 化の民主化」向けの予算がないに等しかったからで、実は81年度の文化開発の予算 K. Eling: The Politics of Cultural Policy in は4,100万フランでしかなかったのである。それにこの予算枠は、グラン・プロ France Macmillan Press, 1999. D.L. Looseley: The Politics of Fun: Cultural ジェへの支出などの影響により、次第に縮小していった。 Policy and Debate in Contemporary France それに対し、演劇や音楽といった主要な文化セクターの予算は、社会党政権誕生に Berg, 1995. D. Wachtel: Cultural Policy and Socialist よって文化予算が倍額近くになったにもかかわらず、文化予算の内訳では従来と同 France Greenwood Press, 1987. じく高い比率を保ち続けた。すなわち、以前は無視されていた美術部門が123%の R. Wangermée & B. Gournay (Council of 予算増加となったし、映画やオーディオ・ビジュアル作品が220%増となったもの Europe report) : Programme européen d'évalution: La politique culturelle de la France La documentation francaise, 1988. の、演劇や音楽のような伝統的なセクターも、それぞれ75%と50%の予算増加と なったのである。つまり助成の配分の割合にはほとんど変化がなかったのだ。 このような事情を鑑みると、ラング以後の文化的多様性の保護・促進という政策目 標は、現実的な効果としては限定的なものだったように思える。もちろん先述した ように、耳目を引きつけるような大衆文化への諸々の支援策は実施されているわけ だが、実はそれらも単発的なものが多く、予算規模的に考えてもそれほどの額では ない。つまり80年代以降のフランスの文化政策は、大きなパイを用意することで多 様な文化活動が助成を受けるチャンスを与えはしたが、助成における伝統的で制度 化された芸術の優位性は維持される結果となったのであって、実は見かけほどに革 新的なものではないのである。 なぜこのような結果になっているのかという疑問に対して、エリングはインタ ビュー調査を積み重ねた結果、制度化された芸術分野に存在する強力な利益団体に よる政策形成への干渉、という回答を導き出している。すなわち、伝統的な芸術分 野には十分に影響力のある利益団体が存在しており、それらが政策担当部局に対し て強く働きかけ、自らの権益を確保する活動を行っているというのである。これ は、国家主導型という、フランスの文化政策に対して従来から与えられてきたイ メージに反する実態であろう。それに対し、利益団体が存在しえない「文化開発」 のような予算項目や、組織力の弱い大衆文化や未成熟な創造領域は、利益団体によ る交渉力をもたないために政策担当部局の判断力が強く働き、その予算規模は時勢 によって容易に左右されてしまうのだという。 したがって、82年以降の文化予算の発展は、結果的に支援対象のセクト化を推し進 めるものだったとも考えられる。裏を返せば、文化の多様性を真に支援するために 必要なはずの、セクト間の調整がほとんどなされなかったのだ。要するにラング以 後の文化政策は、シンボリックなレベルでは文化的多様性の認知をした。だが同時 に、伝統的な価値体系や文化的権威の温存にも貢献していたといえる。 フランスの事例から学ぶべきこと 以上のようにフランスの文化政策は、従来考えられていたほど地方分権化が進んで いるわけでもなければ、文化省が絶対的に政策決定権を掌握しているわけでもない ようである。所詮制度は人が利用する道具であり、使い方次第でその効果は変化し てしまう。単純な制度比較によって各国の文化政策を理解した気になってはならな いだろう。 もっともこのようにさまざまな問題点を見出すことのできるフランスの文化政策だ が、文化的価値基準の多様化した現代において、なおも積極的に文化支援の主要な エージェントたらんとしている文化省とその下部機関の姿勢は、やはり注目に値す るだろう。 先述のように文化省、あるいはDRACの価値判断が文化的な「質」を保証するもの として認知されているということは、(もちろん支援対象の決定等の価値判断は独 立的な専門委員会が担当しているわけだが)それだけ当該部局自体が文化に関する 判断力を磨き、また部局の判断・決定に関して責任をもって臨んでいるということ でもある。だからこそ、フランスの文化政策担当部局は政策の理念や目的を明示す ることを重視しているし、またそれを実行している。
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