創業明治 44年 積み重 ね ら れ た 技 術

 名
★ もの
古屋の老舗
づ くり
創業明治 年 積み重ねられた技術
44
株式会社
28
10
浩司氏
30
栗田看板舗 代表取締役 栗田
取材日時/平成 年2月 日㈭
時 分∼
取材場所/栗田看板舗
き き て/占部憲一・加藤一郎・平木聖三・清水正彌
25
朝から晩まで彫っとった
――ご創業の経緯をお聞かせください。
明治44年に初代栗田三弥が中区丸太町で看板職人として創
業し、技術を磨き上げ多くの看板制作を行っていました。
父の栗田博治は中学を卒業後、師匠である祖父(三弥)に
弟子入りし、以来看板職人一筋にやってきました。「大八車
に看板を乗せて〇〇までよう行ったもんだ」そうで、私に家
督を譲った今もなお元気に仕事をして、創業当時から培った
ノウハウや職人技術を連綿と引き継いでいます。
戦後はこちらに移転し会社組織にいたしました。
――昔は手彫り看板が多かったですね。
木に文字を彫る看板は当たり前でした。父から聞いた話で
すが、看板以外には算盤の裏に名前を彫ったりしていたよう
で、よく「朝から晩まで算盤の裏に文字を彫っとった。他の
職人と競争してやっとったわ」と言っていました。
手彫り看板を掲げているのは酒屋さん関係が多かったよう
で、その名残りで、古くから営んでおられる酒屋さんで木の
看板を見ることができます。
――赤福さんとは昔からのお取引ですか。
親の代からです。
――古いお付き合いのところが多いのですか。
新しく製作することはもちろんですが、外に掲げてあって
も何十年ももちますので、看板の歴史を守るためのメンテナ
ンス作業も多いです。うちが作ったのではないですが、赤福
様の本店の看板は120年前に作られたもので、20年毎のメン
30 NAKA
平成25年春号
テナンスをさせていただいています。
に漆を塗り、最後に金箔を貼るのですが、「アッ!しまった、
――金箔を張るのは特殊な技術なのですか。
少しでこぼこしている」となったら一からやり直しです。特
そうですね。名古屋は仏壇の街ですから、木を彫る方、漆
を塗る塗師屋さん、金箔を貼る専門の方がおられて分業に
に赤福様の場合は修繕期間が1カ月間と決められていますか
ら、すごく緊張します。
なっています。当社はひとつひとつはそれほどの特殊技能者
赤福様は、伊勢神宮の遷宮に合わせて20年に一度メンテナ
がやるわけではありませんが、木材の調達から仕上げまです
ンスさせてもらうのですが、金ピカの新品のようにするので
べて責任をもってやっています。
はなく、店の雰囲気に合わせて古い感じを残して欲しいとの
ことで、彫り直しはしないで、薬品で汚れを取り、木材を保
彫り方によって変わる印象
――受注から製作、納品までの流れを教えてください。
護するための油分を浸透させて、残っている金箔を剥がす作
業から始めます。
実は、1月に放映されたのですが、東海テレビの『スタイ
会社の担当者からオープンする日時の連絡が入りますと設
ルプラス』という番組の『東海仕事人列伝』コーナーで私ど
計士さんから図面をいただいて、大きさを確認して木を探し
もの仕事を取り上げてもらいました。1年前からオファーが
出してから見積りを出します。
あったので、昨年末に赤福様の看板の修復時期に合わせて収
木を所定の厚さにするために削り、反らないように桟を入
れ、周りを銅の板金で囲み、外から見ると20センチほどの厚
みに見えるようにします。
背中から雨が当たりますから、屋根も胴も銅にするのです
が、銅は耐久性が優れているからです。
昔は手書きの版下でしたが、今はロゴをいただいてコン
ピュータで打ち出して紙に出して彫ります。
――特に気をつけておられることはありますか。
ここがポイントと言うよりは、ひとつひとつの積み重ねで
録されました。
普段はラジオをかけて、疲れたら休憩もしていましたが、
収録時はラジオの音は邪魔ですからシーンとしたなかで作業
をするので、仕事には集中できるのですが最初の頃は一日終
わるとぐったりしてしまいました。
――修理している間、看板はどうなるのですか。
なしです。20年に一度1カ月の空白期間があります。旅行
者は赤福本店の前で写真を撮れないことになりますので、赤
福様はHPに「何月何日から何日まで看板はありません」と
す。例えば文字を彫るとき、最後に金箔を貼るからと、気に
告知されます。
なるところをそのままにしておくと、それが仕上げに正直に
――手彫り看板は歴史の重みが感じられて魅力的ですね。
出てしまいます。文字をキレイに彫り上げ、ムラがないよう
平面の文字を、彫ることによって立体にし、よりその書を
NAKA 平成25年春号 31
印象づけることができますが、彫り方によって印象が異なる
たので、埃ひとつにも気をつけました。塗りをきれいに仕上
ものになってしまいます。その書に合わせた、文字を生かす
げようと思うと、その前の研ぎにも気を使います。その研ぎ
彫り方が、私が受け継いだ栗田看板舗の技術で、それがいま
をきれいにするには彫りが美しくないといけませんから、最
も手彫りにこだわる理由です。
終的にはひとつひとつにいい仕事をすることが必要なのです。
――いま材料の確保は難しいですか。
――お師匠はお父様ですか。
幅の狭いものはいつでも手に入りますが、幅の広い木、ケ
彫刻に関しては中川区にある欄間屋さんへ勉強に行きまし
ヤキが主ですが、看板に使うような希少価値のある板を持っ
た。塗りや金箔は父が師匠で、金沢にも勉強や見学に何度か
ている材木屋は限られていますから、材料の確保に岐阜まで
行っています。
行くこともあります。
周りの柔らかくて水分が多いところも使えませんから、1m
言われても分からなかったことが、
ようやくわかる歳に
の木が欲しいと1.5mの木が必要です。そうすると日本中に
――一人前になるには、どれくらいかかりそうですか。
例えば赤福様の看板は木の幅が1mくらいあるのですが、
1mの木を取ろうとすると、木は反りますから芯を外して、
何本もありません。1mと1m5cmでは何十万円と違って
きます。
また木は乾燥させてなければいけないので、来年開店する
今回TVの取材を受けることになったとき、何十年と修行
されている専門の人たちから見たら、毎日やっているわけで
はない私は一人前なのか? 本当に自分でいいのか?と考え
からと言われると、いろいろな材木屋に手持ちの材木を聞い
てしまいました。
て調達するのですが、材木屋さんとの信頼関係が大切になっ
――どのくらい同業者がおられるのですか。
てきます。
――金箔をおくのは大変な作業でしょうね。
当社は1号色(金の割合98.9%)の「厚打ち3枚掛け」の
名古屋では聞いたことはありません。彫刻刀があれば彫れ
ますから看板屋さんで彫っている方はおられるかも知れませ
んが、漆を塗って金箔をのせるまで全部自分のところでやっ
金箔を使用していますが、向こうが透けるほどに薄くてミク
ているところはないかも知れません。
ロの世界ですから、貼る前の状態が正直に出てしまいます。
――どのようなところからの注文が多いのですか。
金箔を貼るから、逆にごまかしが効きません。ハケの塗りむ
売上では手彫り看板と他の注文と半々です。竜の彫り物な
らが少しでもあると浮き出てしまい、ピカピカですから余計
どがされた看板などは、彫物師さんとジョイントして、やる
に目立ってしまうのです。今回は収録でアップで撮られまし
こともあります。
32 NAKA
平成25年春号
大きくて人の手では運べないのでクレーンで運びます
20年に一度、1カ月だけ看板のない伊勢のおかげ横丁
『赤福本店』
最近はインターネットでも注文できるようにしましたので、
日本全国から注文がきます。和菓子屋さんが多く、お寺さん
もあります。お客様はHPに載せていますから興味がおあり
でしたら、ご覧ください。
――東京や大阪から注文が来るのはいいことですね。継続が
大事ということでしょうね。
従業員数人でやってきたから残ってこられたと思います。
看板彫っていて、気がついたらうちだけになっていたという
感じです。
――先代からは、どのようなアドバイスがありましたか。
父は職人ですから、手取り足取り教えてもらった憶えはな
いですね。そのときに言われて頭でわかったようなつもりで
も、やってみると全然できないんですが、何年か経って、ボ
ソッと言っていたのはこのことかと思い当たることはよくあ
ります。なぜできなかったのか。経験を積み重ねて、この歳
になって分かるのです。若い頃は分からなかったですね。
――名古屋東法人会青年部会税務研修委員会の副委員長をさ
れているとお聞きしました。
法人会に入ったのは3年前です。所属が税務研修委員会で
すから小学校で租税教室をやっていますが、税理士会がな
さっているのと同じではつまらないですから、シナリオを作
り直してやっています。
――名古屋中法人会でも女性部会が租税教室をやっています。
情報交換できたらいいですね。
これからも伝統技術の継承・普及にご活躍され、御社が繁
栄されることを願っています。
NAKA 平成25年春号 33
中法人会
会員サロン
S
A
L
O
スイスという国
N
̶
会友 藤間工業株式会社 代表取締役会長 藤間 敏雄
首都ベルンの風景
今回、かねてから待望していたア
ルプス全景を観望したくて、スイス
へ出かけた。今まで山の天気は不安
定だろうと躊躇していたが、友人か
ら早朝なら山は大抵晴れていると教
えられ、やっと行く気になった。
もう一つ、前大戦後マッカーサー
が「日本は東洋のスイスであれ」と
言われたことは、我々世代は誰もが
知っていると思うが、そのわりには
スイスへ行った人は、マッターホル
ンの美しさやスキーの爽快さをほめ
るけれど、「中立で平和」という魅
力を語ることがなく、また資料も少
なく、この点もみなさまに紹介しよ
うと思う。
グローバル東京本社という旅行社
のツアーにのって2012年7月12日の
10時30分発のフィンランド航空で出
発した。名古屋セントレアより参加
はわが夫婦だけだ。ヘルシンキの乗
り継ぎで成田発の方々と合流した。
合計10人のメンバーである。男女各
5人という最近にない男性の率の多
さに、この旅の内容に対する男性陣
の責任を予感させ、事実その通りに
なっていく。旅程もシニア向きでツ
アーコンダクターは佐藤直美さんと
いう女性で、きびきびして頼りにな
りそうだ。
乗り継いで日本と7時間の時差で
スイスに入り、18時17分チューリ
ヒ・クローテン空港到着。バスに乗
り高速道路を一路125㎞西のベルン
へ向かった。途中ハプスブルクとい
う城跡が牧草の多い丘陵にあったが、
この小さな城がスイス史にあたえた
大きな影響については後述する。ベ
34 NAKA
平成25年春号
ルン一の豪華ホテルへ、まだ明るい
20時40分に到着。ロビーのガラス天
井はアールデコ調で5つ星の瀟酒さ
に感心した。
13日は世界遺産のベルン旧市街散
策から始まった。ベルンは緑の山に
接しライン川上流のアーレ川の屈曲
点に面した中世のたたずまいを感じ
る美しい街。スイス連邦共和国の首
都で人口は約12万である。ホテルの
隣にある連邦議事堂を正面から見よ
うとブンデス広場へ。1902年に完成
されたルネサンス様式の建物である。
議会は国民から選ばれる200議席の
国民院と、州(カントン)代表の46
議席の全州院から構成されていて、
議会が立法府と行政府を兼ねて立法
府が優先。この様式は世界的にも稀
な直接民主制で、この国の大きな特
徴を示している。
ベルンのヘソともいわれる広場で
は、沢山の屋台や市で賑わうスイス
市民の生活の一端に触れて質素堅実
な感じがした。広場に面して、牢獄
塔が1250年に建てられ外敵から街を
守るために活躍し、その後は僧侶と
交わった女性専用の牢獄として使わ
れたというが、現在は何の用途もな
く外観のみ趣がある。塔をくぐりマ
ルクト通りになると多くのカラフル
な彫刻つきの噴水が観られ、「世界
で最も魅力的な交通障害物」とも言
われ、路面電車が噴水を避けて縫う
ように走る。
そしていよいよ、ベルンでもっと
も有名な時計塔へ。時計の国スイス
で最古の時計。毎時56分になると仕
掛け時計がなり、人形が踊る。
通りの歩道は石造りのアーケード
になっていて全長6㎞にも達すると
いう。繁華街の中にアインシュタイ
ンが若かりしころ、家族と共に住ん
でいた部屋がある。特許庁に勤めな
がら、この狭い所で7年生活し、
『特殊相対性理論』をはじめ、多く
の論文を発表したとは驚きだ。
グスタードから氷河へ
10時半にホテルを出発し、40分後
トゥーン湖へ着き、遊覧船に乗った。
面積48平方キロ、標高558mに位置
するトゥーン湖は、氷河期に形成さ
れた湖で、2つの湖という意味を持
つインターラーケンの町をはさんで、
ブリエンツ湖と対称に並んでいる。
山並みの後に雪山が見え、佐藤さん
は、自信はないけれどユングフラウ
かも知れないという。あとで地図を
見ると方向はピッタリだ。いよいよ
スイスの6割の面積を占めるアルプ
スが見えてきた。
対岸のスピーツで下船。バスで緑
の山間を走り、1時間10分で各界の
セレブが集まり最近有名になった山
岳リゾートの、グスタードのホテル
に到着した。夕方町を歩くと、全て
の建物が木造という感じで清々しく、
また豪華なリゾートらしいスーパー
の品の豊富さに感心した。
7月14日はレ・ディアブルレの氷
河観光。昨夜からの雨が朝にはすっ
かり晴れた。9時にバスで出発し30
分後に峠のロープウェイ乗り場に到
着。ここで既にかなり寒かったが、
上は何と1℃とのこと。大きいロー
プウェイで5分、更に別のロープ
ウェイで頂上のセック・ルージュ
(2971m)
へ。後窓には素晴らしい景
色が展開してきた。レ・ディアブル
レとは、小悪魔たちの意味の氷河の
ここがマッターホルン
上にある岩山である。一般に西欧で
は山は悪魔の棲み家とされ、日本人
が山岳信仰などと山を神々として崇
拝したのとは正反対の視点である。
終点に着くとレストランがあり、3
階から外に出て佐藤さんはムリしな
いでと言ったが、40段の石段を上が
り頂上で展望した。氷点下の強風が
吹きまくり、あまり長く居れず、室
内に帰って上着をさらに二枚着込ん
で武装した。やや霧が出る中をス
キー用のリフトで少し下り、氷原を
雪上車に乗り2キロ往復の氷河ドラ
イブを体験した。アルプスの夏の寒
さは凄いと実感し身を引き締めた。
レストランで昼食だがこの建物はス
イスの世界的建築家マリオ・ボッタ
氏の設計で展望ガラスの広い点など
独創性を見た。暖かいグスタードに
戻り、今日一日の勉強はアルプスの
厳しさであると痛感した。
翌15日は鉄道の旅になり、グス
タード駅からゴールデンパス特急で
1時間20分でフランス語圏にはいり、
レマン湖畔のお伽の国のように美し
い町モントルーで下車した。レマン
湖はスイス最大の湖で面積581平方
キロ。ジュネーブ、ローザンヌが湖
岸の有名都市。質量の素粒子ヒッグ
スの存在が証明されたのはジュネー
ブ北方のCERN研究機構だ。快晴
の13時50分、バスで出発。のどかな
ローヌ沿岸を170㎞走り南進しフィ
スプ谷を登る。テーシュから環境上
の車乗り入れ禁止でシャトルに乗り
換え、17時40分登山基地ツェルマッ
トでゴルナーグラード登山電車に乗
り換え2つ目の駅直前の右車窓に
マッターホルンだ!!
マッターホルンから
ルツェルンへ
リッツェルアルプでホテルに泊ま
り、翌16日早朝、ツアーの皆様、写
真で夢中。電車に乗り9時45分に終
着ゴルナーグラードに到着。標高
3135mだが寒さはあまりない。展望
台が目の前で佐藤さんが走らないで
と、叫ぶ。高山病の注意だ。快晴の
中、すばらしい180度の展開である。
左からスイス最高峰のモンテローザ
(4634m)、リスカム(4527m)、
双子のカストール(4228m)とボ
ルックス(4092m)。そして最も荘
厳な美しい三角錐のマッターホルン
(4478m)。左右に広い氷河が横た
わる。絶景に堪能して、11時7分名
残惜しいが下り電車で出発、1つ目
のローデンボーデン駅下車。ここか
ら3.5㎞、2時間の待望のハイキン
グだ。マッターホルンを全コース横
に見て、しかし意外に岩だらけのき
つい道で現地ガイドさんに杖を借り
る。下るとリッフェル池に逆さに
マッターホルンが映っている!高山
植物を楽しみながらリッフェルベル
クのホテルに着く。愉快だった。午
後はくたびれ休みでマッターホルン
をボーッと眺めていた。
翌17日、電車で下りてテーシュで
バスに乗り換えた。フィスプ谷を下
りブリークからローヌ流域を登る。
氷河特急の路線も並行。この辺はシ
ンプロン(長い間全長世界一だっ
た)等、イタリアへ抜ける長大トン
ネルが続々。のどかな牧草地、美し
いブドウ畑。フィーシュでバスを降
り2つのロープウェイを乗り継ぎ頂
上のエッギスホルン(2859m)へ。
快晴だが少し寒い。見下ろすとアル
プス最大で、面積128平方キロ、幅
800m、長さ23㎞の堂々たる世界遺
産アレッチ氷河が横たわる。上流の
方にチラリとユングフラウが見える。
氷河を取り囲む9つの山頂はみな
4000m級という。
14時半にフィーシュへ下り、バス
で出発。30㎞行ってグリムゼル峠の
つづら折りを登ると、目の下30m程
にローヌ氷河がある。世界でも珍し
い内部を歩ける「氷の洞窟」があり、
相当の急勾配を下りて中へ入ると
400mくらいの全長でむろん氷点下。
蛍光灯が幻想的な色彩を帯びる。上
までの帰り道は、この旅で最も大変
で腹式呼吸で乗り切った。バスが出
発しフルカ峠でローヌ流域からライ
ン流域になる。あと90㎞は疲れて寝
ていた。
目覚めるとトンネルの切れ目にキ
レイな湖が見える。ベートーベンの
作品27−2のピアノソナタで第一楽
章を批評家に「ルツェルン湖に煌め
く月光のようだ」と言われ「月光の
曲」の由来になったというその湖だ。
その後ヴェッギスに着き、城のよう
な5つ星ホテルに入った。この湖岸
はヤシや蘭、ブドウが育つ温暖の地
である。夕食は外食で初めてスイス
名物のフォンデュ料理(白ワインと
チーズを熱しパンで絡めたもの)に
出合って美味だった。旅の各所の食
事はチーズものが良かった。例えば
レ・ディアブルレの昼食のラクレッ
トとか、翌日のピラトス山の昼食の
レシュティがそうだ。チーズ抜きで
はモントルーの高台にあるケンピン
スキーホテルのフランス風昼食での
鯛のフィレがよかった。(続く)
ゴルナーグラート パノラマ
NAKA 平成25年春号 35
続・富裕への良薬⑻・完
林
富裕薬の卓効を十分活かした名古屋商人、
の釘かすがいを調達せよ、との命を受けた。
鉄砲町(現中区)の打刃物商、笹屋岡谷家。
村民一同協議の結果、国境をこえて、尾張名
岡谷家の発展は元文3年(1738)逝去
古屋の笹屋に資材を発注。購入した釘とかす
の、三代総助嘉弘のあとを継いだ、四代総七
がいは代金17両3分銀1匁4分5厘にのぼ
嘉幸のときに目ざましい。「享元絵巻」には
った。これ等は12個口に梱包して馬に乗せ、
小舗に描かれている笹屋だが、この頃になる
人足がつきそって、6月11日役所に届けた。
と、店頭には多種多様の商品が所せましと並
さて、嘉幸は良質な商品を豊富に確保する
べられていた。くわ、すき、なた、草鎌とい
ため、志と熱を注ぐ。全国生産品の集散地大
った農具、毛抜き、かみそり、はさみ、湯た
坂を仕入れ先とし、海上輸送の方法で名古屋
んぽの家庭用品、釘、かすがい、小刀、斧、
に運ぶ。多発する海路での遭難や盗難から、
金槌のような工匠具。おかげで店舗が手ぜま
荷主の権益をまもるため、自家同様の仕入れ
になり、宝暦10年(1760)には、南隣
ルートをとる、名古屋の商家12軒で「極印
りに新店を普請。あらたに銅製品も陳列し、
講」を結成。また、航海の安全を祈願して、
客足を呼ぶ。「金物なら笹惣へ」。評判は波紋
海上の守護神、住吉社(現熱田区新尾頭)を
を描いて、他国にもひろがる。話は横道に。
堀川ぞいの、景勝の地をえらび勧請した。
三河加茂郡三好村(現みよし市)といえば、
36 NAKA
董一
嘉幸を商品仕入れ経路確立の功労者として
近世後期、名町奉行と喧伝された、大岡越前
たたえるならば、寛政(1789−1801)
守忠相を祖とする、三河西大平(現岡崎市)
末、六代主の重責をになった、総助真純は流
藩の所領。安政3年(1858)6月の地震
通面ですぐれた経営者として、称賛に値しよ
で大破した、江戸屋敷の修理のため、村民は
う。季節番頭制である。農閑期の労働力を活
1軒に縄6把の供出を課せられた上、修築用
用するため、農民を対象に販賣員を募集した
平成25年春号
(参考文献)
岡谷鋼機株式会社編刊『岡谷鋼機社史』 平成6年
徳川美術館編刊『豪商のたしなみ−岡谷コレクション−』 平成24年
杉浦英一『中京財界史』(復刻・統合版)
昭和61年 中部経済新聞社
名古屋市役所編刊『名古屋市史』社寺編 大正4年
三好町立歴史民俗資料館編『小嶋家文書』 平成元年 三好町教育委員会
ところ、多数の応募が。臨時の販賣員として
契約した人びとには、笹屋印を染め抜いた大
風呂敷、商品見本、それに尾張藩の鑑札を渡
して送り出す。彼等は北陸から関東へ、東北
へ。春の訪れとともに店に戻り、勘定をすま
せたのち、それぞれの古里に。この制度は販
路の拡大とともに、「名古屋の笹屋」の存在
を全国に宣伝するのに、大いに役立った。
笹屋の経営は世相の悪化にもかかわらず、
順調に推移。幕末、在名の尾張藩御用達商人
353人は、9段階に格付けされたが、同家
は最高の「三家衆」に次ぐ、「除地衆」4家の
一員を占める栄誉をえたのもみのがせない。
平成24年4月から5月にかけて、徳川美
住吉社『尾張名所図解』
術館で、「豪商のたしなみ−岡谷コレクション
−」と題し、同家寄贈の美術品が展観された。
観覧者は展示の名品逸品を目のあたりにして、
岡谷家の富裕さを実感したに違いない。
(完)
(愛知学院大学大学部名誉教授)
明治4年『名越各業独案内』
秋号は料亭つたも主人 深田 正雄氏による新シリーズ『住吉の語り部となりたい』がスタートします。ご期待ください。
NAKA 平成25年春号 37