Untitled

Brazil
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カポエイラ
目 次
はじめに
1 . カポエイラ 近年の挑戦
7
9
ルイス・ヘナト・ヴィエイラ、マティアス・ローリグ・アスンソン
2 . カポエイラの変貌―カポエイラの歴史をたどって
21
ギリェルミ・フラザォン・コンドゥル
3 . カポエイラ弾圧時代
35
フレデリコ・ジョゼ・ヂ・アブレウ
4 . 詩「カポエイラ闘士」
43
オズワルド・ヂ・アンドラーヂ
5 . グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)―政治舞台に登場したカポエイラ
45
カルロス・エウジェニオ・リバノ・ソアーレス 6 . カポエイラは防御、攻撃、ジンガ、そしてマランドラージェン(抜け目ない機転わざ)
55
アントニオ・リベラキ・カルドーゾ・シモンイス・ピレス
7 . アンゴラ流カポエイラ、ホダ(輪)の儀式
61
ホザ・マリア・アラウジョ・シモンイス 8 . カポエイラの神秘と魔術
71
ペドロ・ホドルフォ・ジュンジェルス・アビビ
9 . カポエイラの「動き」とメタファー
81
エリアニ・ダンタス・ドス・アンジョス
10. バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
87
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ 11. カポエイラと女性たち
97
リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネ-ゼス
12. カポエイラ女性師範インタビュー:ホザンジェラ・C・アラウジョさん(ジャンジャ師範)
13. カポエイラと 20 世紀の体育学
99
103
パウラ・クリスチーナ・ダ・コスタ・シルバ
14. カポエイラがもたらす効果
110
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ、リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネーゼス
15. カポエイラと社会福祉
115
グラヂソン・ヂ・オリヴェイラ・シルヴァ、ヴィニシウス・エイニ
16. カポエイラの国際化
123
ジョゼ・ルイス・シルケイラ・ファルコン
挿絵を描いたアーティスト:カリベ
134
写真家ピエール・ヴェルジェ
136
はじめに
一つの例です。この言葉の起源については色々な説がありますが、ブ
ラジルの先住民インディオの言葉で「消え失せたジャングル」
(mata
カポエイラは、ブラジル文化の特徴を、もっともよく表している
extinta)を意味する、という説が有力のようです。
表現活動のひとつです。カポエイラの定義を見ると、よく、次のよう
また社会面に関して言えば、
カポエイラの歴史を調べることによっ
に書かれています。
「カポエイラは、スポーツクラブやアカデミーア
て、ブラジル史における、重要な局面が明らかになってくるのです。
(academia:スポーツ・ダンスなどのトレーニング施設)
、あるいは
カポエイラがさまざまに変化してきたことは、ここ数世紀のあいだに、
道路で行われるスポーツ活動である。カポエイラには厳密なルールは
ブラジルでさまざまな社会的変化が起きたことを反映しています。そ
ないが、ジョゴ(jogo:直訳で「競技 / 試合 / ゲーム」だが、カポエ
ういう意味からも、カポエイラの歴史的アプローチをする場合は、と
イラのジョゴでは二十世紀後半以降、
「勝負が目的でない」という点が
くに 19 世紀から 20 世紀の初めに、カポエイラが弾圧された時代の
重視されている)や、
ホダ(roda:輪を作って行うカポエイラのつどい)
ことについて触れないわけにはいきません。カポエイラは、どんなに
を、ビリンバウ(berimbau)という楽器が奏でる独特な音楽にあわ
厳しく弾圧されても、またどんな妨害を受けても、それを乗り超えて
せて展開させるという、個性的なしきたりがある」…。しかしこういっ
きました。それができたのは恐らく、カポエイラが、ブラジル気質そ
た定義は、おもにカポエイラのスポーツとしての面を取り上げている
のものとも言える、意義深い文化表現であるからでしょう。だから簡
ので、カポエイラが、スポーツ以外でも、色々な分野でブラジル社会
単に消滅させることができなかったのです。
に関係してきたことが、全て省略されてしまっています。だからこそ
ブラジルの庶民文化から生まれたカポエイラは、
エリート層からは、
本書で、カポエイラのスポーツ以外の側面を紹介したいと思います。
品のない、ならず者の喧嘩ごっこのようにみなされて、敬遠されてい
本書では、ブラジル社会のいろいろな分野での、カポエイラの役割を
ました。それを考えると、かつては社会問題を起こす原因だと思われ
考察していきます。社会の中で、大切な役割をしているからこそ、カ
ていたカポエイラが、今では社会問題を解決するために使われている
ポエイラは、ブラジルの、もっとも複雑な文化表現のひとつとされて
のは、たいへん面白いことです。実際、カポエイラは、社会福祉活動
いるのです。
においても、すばらしい手段であることがわかってきています。これ
たとえば、カポエイラの神秘的で宗教的な面は、ブラジルがはぐく
は、カポエイラ武術家たちが、たゆまぬ訓練で謙虚さと忍耐をつちか
んできた、独特の「神聖さ」と一体化して、信仰や生活様式、ブラジ
い、対立する者同士、あるいは、異なった種類の人たちの間でも、な
ル社会の夢や闘争のなかに深く根を張ってきました。セルジオ・ブア
ごやかな関係をはぐくんできたからだと言えます。
ルキ・ヂ・オランダ(SérgioBuarquedeHolanda)が上手く言い
2007 年には、ブラジル外務省が後援する、50 以上ものカポエイ
あらわしているように、カポエイラには、明らかに、ある種の宗教性
ラのイベントが世界各地で開催されました。こうして、カポエイラが
があります。それは、人間の心の内面を重視する、ブラジル人にとっ
外国に広まっていくことで、カポエイラの活動と発展の上で、興味深
て、たいへんなじみ深い宗教性です。また、この宗教性は、さまざ
い状況がおきています。現在では、ブラジル人と同じくらい優れた、
まな超自然的な出来事をおこしてきたものであり、セルジオ・ブアル
外国人のカポエイラ師範が大勢います。こういう状況ですから、カポ
キ・ヂ・オランダが、ブラジル人が持つ特性として掲げた「まごころ」
エイラがブラジルで生まれた文化であり、従って、間違いなく、ブラ
(cordialidade)に相当するものです。カポエイラの世界をとりまく
ジルらしさの象徴でありながら、今や世界じゅうで、ごく普通に行わ
魔術的な要素は、庶民の空想から生まれたものではありますが、ほか
れているということは、ブラジルが人間の文化遺産に貢献している証
の沢山のブラジル庶民文化や伝統でもそうであるように、カポエイラ
だと言っても、過言ではないかもしれません。それは、この本のイラ
においても、魔術的な性質は非常に重要な意義を持ち、また宗教との
ストや写真を見てもわかります。写真はピエール・ヴェルジェ(Pierre
関係でも大切な役割を果たしているのです。
Verger)
、イラストはカリベ(Carybé)ですが、この二人はブラジル
カポエイラで使われている言葉を見ると、ブラジル人と自然とのあ
いだには、独特な関係があるのではないかという気がしてきます。事
実、カポエイラの動きや攻撃技につけられた名前は、自然の中の生き
ものやできごとを表わすことが多く、カポエイラと自然とのあいだに、
人ではありません。しかし、その作品を見れば、カポエイラの特性を、
本当に理解しているということが伝わってきます。
願わくば本書が、読者の皆さまを、カポエイラの魅力あふれる奥深
き世界へと、導いて行ってくれますように .....。
強い結び付きがあることがわかります。カポエイラという言葉自体も、
ブラジル外務省文化部広報室
1. カポエイラ 近年の挑戦
ルイス・ヘナト・ヴィエイラ、マティアス・ローリグ・アスンソン共著
Luiz Renato Vieira Matthias Röhrig Assunção
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カ
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以
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラは、武芸やアートとして親しまれ、
学術的な分野で研究されるだけでなく、演劇や
映画、広告に至るまで、ますます色々な場面に
登場しています。
カポエイラに対するイメージも、まったく変わりました。カポエ
イラをするだけで、治安を乱す犯罪として、即座にムチ打ちの刑に
処されるかもしれない時代もありました。カポエイラは、黒人たち
の野蛮な習慣で、近代国家発展の妨げになるからと、根絶やしにさ
れそうになった時代もありました。そんな時代も過ぎ去り、やがて
カポエイラは、きっすいのブラジル格闘技として、次世代に受け継
いでいくべき個性的なフォークロアだと見なされるようになりまし
た。さらに近年では、カポエイラの芸術性や文化的価値が注目され
て、ブラジルの無形文化遺産として指定されるのも時間の問題です。
〈カポエイラは本論が書かれたのち 2008 年にブラジル無形文化遺
産として指定された。
〉その後カポエイラは、
世界中に広まっていき、
ヘナト・オルチス(RenatoOrtiz)の表現を借りれば、
「国際ポップ・
カルチャー」(culturainternacional-popular) になりました。
1980 年代以降、カポエイラは学術的な研究の対象になり、ブラ
ジル内外で頻繁に、カポエイラについての、人類学、歴史学、社会学、
教育学、体育学などの修士論文や博士論文の調査が行われています。
同時に、カポエイラの団体もブラジル内外で増えていき、討論会や
イベントを行って、カポエイラに関する研究についての意見をかわ
しています。また、武芸やアートとして親しまれ、学術的な分野で
研究されるだけでなく、カポエイラは、演劇や映画、広告に至るまで、
ますます色々な場面に登場しています。
1980 年以降のカポエイラ武術家たちは、カポエイラ史の、大き
な変革期を経験していると言えます。現在カポエイラをしている人
たちは、師範や先生から、むかし、警察に追い回された話や、ホダ(カ
ポエイラ輪の集い)を強制的に解散させられた話、祭の最中の広場
カポエイラ 近年の挑戦
を駆けぬけて逃げた話などを、よく聞かされたと思います。しかし
現在、カポエイラをしている人たちの生活は、一般に、昔とは全然
ちがってきました。最近ではカポエイラが、教育機関や官庁機関か
らも取りあげられるようになり、それと同時に、カポエイラのやり
方も意義も、全く変わってきました。この急速な変化のおかげで、
カポエイラをする人達も、ブラジル政府も、また文化プロデューサー
たちも、新しい状況に挑戦することになりました。
カポエイラの現状が成立するまでの過程
歴史を少しさかのぼって、カポエイラが、現在の状態にたどり着
くまでのことを、もう少し詳しく説明しましょう。1970 年代の初
頭には、カポエイラをする人達は、まだ相変らず、どこか変わった
人達だと思われていました。カポエイラ自体は、ようやくスポーツ
として認められ、文化活動のひとつになっていましたが、カポエイ
ラが行われる「お決まりの場所」と言えば、よく、
「社会のワクか
らはみ出している」と表現される、主にアフリカ系の貧しい人達の
コミュニティだったのです。上流階級のスポーツクラブでは、カポ
エイラをしていると、眉をひそめる人が多く、そもそもセレブなク
ラブの多くは、カポエイラを締め出していました。こういう状況で
したから、カポエイラ活動を組織化して、カポエイラ武術家たちが
20 世紀前半から築いてきた伝統を守っていくためには、たいへん
な努力が必要した。
1970 年代、80 年代は、カポエイラに関する大きなプロジェク
トが始まった時代だといえます。
(これより以前にも、
単発のプロジェ
クトで重要なものが沢山ありましたが)70 年代、
80 年代のプロジェ
クトは、大抵のものが初めての試みだったのです。例えば、学校や
10
Photo:AlexandreGomes
大学でカポエイラが取り入れられたり、体育の教育課程でカポエイ
した。カポエイラ団体では論理や組織が充実してきて、カポエイラ
ラ師範の資格コースができたり、問題を起こした青少年の再教育の
学校を卒業して師範やインストラクターになった人達が、自分のカ
ためにカポエイラが活用されたりし始めたのです。こうして、時に
ポエイラ道場をつくり、知名度の高い団体と提携するようになりま
は「セラピー」として、時には「体育の科目」として、時には「学
した。このような組織化は、カポエイラの多様性と文化的な豊かさ
術論文の題材」として、カポエイラが注目されるようになってきま
を保持していく上で、たいへん重要でした。同時に、カポエイラ界
した。上に挙げた分野でも、またこれ以外の分野でも、カポエイラ
が一丸となってカポエイラ活動を強化する面でも、たいへん役に立っ
についての重要な研究がありますが、それをリストアップするのが、
たのです。
本論の目的ではありません。重要なのは、近年、カポエイラの歴史で、
1980 年代の初頭から、もうひとつ重要な流れがありました。そ
一大変化が起きているということです。カポエイラがブラジルのス
れは、かつての「老師範」の重要性を再認識することと、アンゴラ
ポーツ界で確固たる地位を固めたのも、1970 年代、80 年代のこ
流カポエイラの発展です。カポエイラを単にスポーツ化することに
とです。当時のカポエイラは、まだブラジル・ボクシング連盟のも
疑問を持つ人が増えるにつれて、アンゴラ流カポエイラをやる人も
とにありましたが、スポーツや教育関連で、いろいろな政府機関の
増えていきました(注2)
。より伝統的なカポエイラセンターの多
承認を得ることができました。その頃のカポエイラの試合のやり方
くでは、カポエイラ用語で「カポエイラの再アフリカ化」と呼ばれ
は、ほかの格闘技のやり方に従っていたので、カポエイラのアート
る動きも出てきました。これは、カポエイラの音楽性や楽器編成に
としての重要性はあまり注目されず、単なる、格闘系スポーツとし
おいて見られましたが、カリブ海に浮かぶマルティニク島のラジャ
て扱われていました。しかし次第に、カポエイラのフォームが整い、
(ladja)やインド洋のモリンゲ(moringue)のような、カポエイ
完成度の高いものになって、カポエイラ専門家の目から見ても満足
ラの祖先やきょうだいに当たるような格闘技の考察をとおして、カ
のいくかたちが出来上がってきました。また試合の形式も、本来の、
ポエイラにアプローチする研究も行われました。
ホダ(カポエイラ輪の集い)の形式に近づいていきました。このよ
うにカポエイラが確立されていく上で、カポエイラの学校対抗試合
(JEBs)が、大きな役割を果たしました。学校対抗試合は、カポ
かつては、カポエイラをブラジル産のものだと主張するナショナ
(1)カポエイラ界では、一人または複数の師範が創立した道場が、そのカポエイラ組織の代表になっ
ていて、そこで師範など指導者の資格を得た弟子が自分のカポエイラ道場を作ると、その道場は、
エイラを広い視野で検討していく上での実験の場になったのです。
代表組織の名のもとに統括されるという仕組みになっている。一つか二つのカポエイラ道場を統
括している小さい組織もあるし、また、大きな組織になると、法人として企業形態で支部を持ち、
1980 年代は、大きな組織をもつカポエイラ団体が、国内での組
世界各国に進出している。カポエイラ学校を卒業した武術家が、カポエイラのインストラクター
織を、ますます拡大した時期でもあります。それまでのボクシング
として就職するために、今までの組織から別の組織に移る場合もある。このような状況によって、
連盟流のやり方を続けようとした人達もありましたが、この時期に、
ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範の場合のように)師範の名前がカポエイラ武術家の苗字になっ
従来のカポエイラ界の師弟関係が、根本的に変わってきた。1970 年代までは、
(例えばジョアン・
ていたので、武術家の身元は所属する団体によって表され、カポエイラ武術家は事実上、その人
カポエイラ組織としての、
独立した現存の形式が確立したのです(注1)
。
これは間違いなく、カポエイラ近代史のなかで、注目すべき進歩で
が所属する団体と同一視されていた。
(2)軍事政権と近代化の精神、そして急速な経済成長を遂げた 1970 年代には、スポーツ面とブラジ
ル音楽面から、カポエイラが奨励された。
11
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
これは間違いなく、カポエイラ近代史のなか
で、注目すべき進歩でした。カポエイラ団体で
は論理や組織が充実してきて、カポエイラ学校
を卒業して師範やインストラクターになった人
達が、自分のカポエイラ道場をつくり、知名度
の高い団体と提携するようになりました。
リズム志向が強かったのですが、次第に、カポエイラの文化面やカ
ポエイラが成立した歴史を、国際的な広い視野で眺めるようになっ
てきました。奴隷にされたアフリカの人々の抗議の歴史や、奴隷だっ
たアフリカ人の子孫達の海外での歴史を踏まえた上で、カポエイラ
が考察されるようになってきたのです。カポエイラを、スポーツジャ
ンルで扱う必要性があることは分かっていますが、カポエイラのアー
トとしての性質は、単に、スポーツとしての面に集約することはで
きません。このような、カポエイラの文化面の尊重は、
「ヘスガッチ」
(resgate「
〈カポエイラ〉救済」
)
「バガージェン」
、
(bagagem「
〈文
化の詰まった〉トランク」
)などの言葉が、カポエイラ用語として完
全に確立した 1980 年代以来、ますます重要視されるようになりま
した。例えば以前は、扱いやすくて機能を重視した、ネジ式アタバ
キを使っていたカポエイラ武術家たちが、サイザル麻の太い紐を巻
きつけたタンボールを使うようになっていることも、その例です。
1990 年代になると、カポエイラを、スポーツとしてではなく、文
化としてみなす傾向が強くなりました。カポエイラの重要性がブラ
ジルで再認識される時代は、もはや過去のものとなり、今やカポエ
イラは、国際的スケールの文化現象になってきています。
カポエイラ 近年の挑戦
Photo:LiliaMenezes
カポエイラの国際市場を獲得しようと世界に出ていくカポエイラ
武術家たちは、1970 年代には、一か八かの冒険に乗り出す人のよ
うに見られていましたが、そういう時代も過ぎ去りました。現在で
は、大きなカポエイラ団体で、外国に支部がないところはありませ
ん。外国の大都市では、たいてい、カポエイラをやっているところ
がすぐに見つかります。今では、外国でブラジル人からカポエイラ
を習い、その技能をもとにして、その国でカポエイラを教えている
外国人も多くなりました。こういう現状は、ブラジルで、カポエイ
ラをしたり研究したりしている私たちに対して、新たな課題を突き
付けてきます。なぜなら私たちは、
「国際ポップカルチャー」として
世界に進出していく、新しいカポエイラの特徴を把握していかなく
てはならないからです。カポエイラ国際化のもとでは、時には、カ
ポエイラのブラジル起源の性質と消費市場とのかねあいが問題とな
り、また時には、カポエイラのアフリカ起源の側面と潜在的な西洋
文化への批判の精神が問題になってきます。ですから、カポエイラ
の世界普及を、国際文化のダイナミズムの観点から理解する必要が
12
カポエイラ
近年の挑戦
あると同時に、「西洋文化への潜在的な批判精神があるカポエイラが
チーニャ師範とその仲間は、捨て去られようとする伝統を受け継ぐ
国際化している」という、矛盾した面もあるカポエイラの論理を理
ことを重視したのです。こういうわけから、パスチーニャ師範たち
解することも大切なのです。
は、自分たちの流派に、カポエイラとアフリカとの関係を守ってい
るということを強調して、「カポエイラ(ヂ)アンゴラ」(capoeira
(de)angola「アンゴラ
(の)
カポエイラ」
)という名前をつけました。
現代のカポエイラのスタイル
1930 年代以降の、カポエイラの近代化とスポーツ化の結果、カ
しかし、このような伝統を重んじる姿勢にもかかわらず、アンゴラ
ポエイラに、二つの流派が生まれました。そのうちの一つは、ビン
流カポエイラは、1930 年代のバイアのカポエイラをそのまま引き
バ師範(Mestre Bimba, 1900-1974)が、弟子たちの支持を受
継いでいるというわけではありません。ヘジォナウ流カポエイラに
けて創立したヘジォナウ流カポエイラ(capoeiraregional)です。
対抗した結果、新しいスタイルになっている場合もあります。例え
ビンバ師範が、この流派を開拓したきっかけは、昔からカポエイラ
ば、ヘジォナウ流で「バロン」(balão「風船」)の技を使っている
が、
「バイアのヴァヂアソン」(vadiaçãobaiana「バイアの遊び」
)
と、この技は、バイアの「伝統的」なカポエイラでも使われてきた
と呼ばれてきたことが不満だったからです。そして当時のプロレス
にも関わらず、アンゴラ流では「バロン」の技を使うと非難される、
のリング上では、カポエイラは、新しい戦い方で挑戦できるレベル
といったことが起きるのです。また、近代化の前のバイアのカポエ
に達することはないだろう、と見られていたからです。そこでビン
イラ自体にも様々な種類があって、師範ひとりひとりが自分流の動
バ師範は、適切だと思われるテクニックを集めてまとめ、時代遅れ
きやリズム、儀式を教えていたのです。ですから、ヴァウデマール
だと思われるものは切り捨てて、新式の攻撃を加えて――これの大
(Waldemar)
、コブリーニャ・ヴェルヂ(Cobrinha Verde)
、カ
半が非常に効果的な攻撃術でしたが――自己流の「ルタ・ヘジォナ
ンジキーニャ(Canjiquinha)など昔の師範たちのカポエイラには、
ウ・バイアナ」(luta regional baiana「バイア地方流格闘技」)を
パスチーニャ師範が教えたカポエイラとは、だいぶ違った特徴があっ
Photo:LuizRenato 所蔵アーカイヴ
Photo:LuizRenato 所蔵アーカイヴ
編み出しました。更に重要なことは、ビンバ師範がカポエイラの教
た可能性もあります。
授法も発展させたということです。練習のときはユニフォームに着
昔のバイアのカポエイラに、ひとつにまとまった伝統があったこ
替えるなど、道場での規則を作り、トレーニングの時のけじめやス
となど、一度もありませんでした。そのおかげで後になって、それ
ポーツとしてのエチケットも確立させたのです。ビンバ師範の流儀
ぞれのグループが、完全に伝統的とは言えない、様々な特徴を出す
は、1960 年代以降、たいへんな成功を収めましたが、バイアのカ
ことができるようになったのです。また、ヘジォナウ流カポエイラ
ポエイラ界で完全な支持を得たわけではありませんでした。
とアンゴラ流カポエイラには、共通点も多いことを強調しておかな
1940 年 代 か ら、 別 の 流 派 が、 パ ス チ ー ニ ャ 師 範(Mestre
くてはなりません。例えば、かつての、いわゆる「ガラの悪さ」と
Pastinha)をリーダーとして、まさしくヘジォナウ流カポエイラ
は手を切って、道端でなく道場で練習すること、ユニフォームや規
が切り捨てた、昔ながらのやり方を継続しようという意図で生まれ
律を設けて定期的に訓練していること、より沢山の生徒が来るよう
ました。この流派では、例えば「シャマーダ」(chamada「呼び出
に、子供や中流階級の若者、女性といった新しい生徒層を開拓して
し」: 格闘の最中に相手を呼び出して共にゆっくり踊るような動きを
弟子の数を増やし、カポエイラの普及に努めている点などは、ヘジォ
しながら技能を探り合うもの)や、スローな動きの「ジョゴ・ヂ・
ナウ流にもアンゴラ流にも共通しています。
デントロ」(jogo de dentro「内の技」)が行われます。また、ホ
この二つの流派を出発点として、近代的なカポエイラがブラジル
ダ(輪の集い)の芝居性が受け継がれており、ホダの開始唄として
全土に広まったことから、事態はいっそう複雑化しました。たとえ
「ラダイーニャ」(ladaiha) を歌ってから格闘をはじめるなどの儀式
ば、カポエイラが普及していくやり方も、( 1) バイア州で、バイア
的性質も残っています。革新を重視したビンバ師範に対して、パス
の師範にカポエイラを習った弟子たちが、他の州、特に南東部の州
13
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラが行われるやり方が変われば、つま
り、カポエイラが行われるソーシャル・コンテ
クスト(社会における場)が変われば、カポエ
イラの内容にも変化が出てくるのです。ですか
ら、
「アンゴラ流 vs. ヘジォナウ流」という昔
からある区別の他に、闘技・伝統・文化・エン
タテイメント・ダンスなど、その場その場で重
視されている点に基づいて、カポエイラの様々
なスタイルを区別していく必要があるのです。
に移り住んでカポエイラを普及させた場合、( 2) バイア州を訪れた
人が、そのとき偶然、バイア州の師範にカポエイラを習って、それ
をもとに他の州でカポエイラを始めた場合など、色々なケースがで
てきました。(2) のケースは、ほとんど独学に近いので、リオデジャ
ネイロのグループ「センザラ」
(Senzala)に見られるように、スタ
イルに変化が起こりやすくなります。またバイア州のカポエイラと
言っても、広いバイア州のあちこちの町で、その土地自体のカポエ
イラの伝統があるのです。各地の地方色が、現代のカポエイラのス
タイルに与えた影響は、おおいに議論を呼んでいます。特にリオデ
ジャネイロでは、シンニョジーニョ(Sinhozinho)のように、バイ
アの人たちが参加するまで、音楽を一切使わないでカポエイラを教
えていた先生もいます。
少しでも余裕のある生活ができるかもしれないという期待から、
多くの人々が、1950 年から 1980 年の間に、北東部のバイア州
から南東部の大都市へと移住しました(それ以降は、バイア州から
移住する人の一部は外国に行っています)
。バイアから移住してきた
人たちの中には、カポエイラの師範や、カポエイラ学校を卒業した
人々、そしてアマチュアの人々がいました。こうして北東部以外で
は、カポエイラがバイアからの移住者たちの独特の文化として発展
したので、故郷バイアを懐かしむようなところがあり、それが今日
でも特徴になっています。バイアを遠く離れたカポエイラ武術家た
ちの間には、流派が違う者同士でも連帯感が生まれてきて、ヘジォ
ナウとアンゴラという流派の対立も薄れてしまうほどでした。特に
サンパウロ州では、カポエイラ団体コルダォン・ヂ・オウロ(Cordão
de Ouro)のように、アンゴラ流とヘジォナウ流の師範や先生が組
カポエイラ 近年の挑戦
んで、一緒に教えたり、学校を作ったりするケースもありました。
しかしこの時期には、アンゴラ流カポエイラは優位に立つことはで
きませんでした。バイア州のアフリカ文化の特色が強いために、初
めてカポエイラをする人達には多少とっつきにくかったからです。
主流になったのはビンバ師範が教えたスタイルに近いものでした。
しかしビンバ師範の、8つのセクエンシアによるトレーニング法
(注3)は受け継がれないことがありました。音楽も、バイアを出
たカポエイラの音楽は、典型的なヘジォナウの音楽とは、少しちが
う感じがします。ビンバ師範が教えたビリンバウのリズムよりも、
サンベント・グランヂ・ヂ・アンゴラ(São Bento Grande de
Angola)
(注4)のリズムが使われる場合のほうが多いです。バイ
ア州を出て他州でカポエイラを教え始めた人達の次の世代は、アン
ゴラ流、ヘジォナウ流という対立を強調することが少なくなり、「カ
ポエイラは一種類だけだ」と言う人も増えました。このように、カ
ポエイラ界で「エキュメニカル」
(世界共通派的)な姿勢を持つ人た
ちが出てきたのは、今までプラスだったことが多く、また今でもプ
ラスになる点が沢山あります。まず、
「カポエイラはガラが悪い」と
思う人達の考えを変えようとするときに、カポエイラ武術家たちの
(3)
「ヘジォナウ流カポエイラのセクエンシア」
(seqüência)あるいは「ビンバ師範のセクエンシア」
とは、偉大なビンバ師範が確立したものの中で最も重要である。これは一連の攻撃やディフェン
スの組み合わせによる格闘のシミュレーションになっていて、ヘジォナウ流の主な攻撃法やテク
ニックの目録と呼べる。この連技は(これに八つの種類があると見る人達がいるので「8つのセ
クエンシア」と呼ばれるのだが)初心者を教える場合や、上級レベルの人たちの日常訓練で使わ
れていた。
(4)カポエイラの「バテリーア」(楽器隊)の基本リズムを奏でる楽器ビリンバウは、カポエイラのホ
ダで、象徴的で意義深い役割を果たす。例えば、ビリンバウの音色が、ホダを進める師範を選ん
だり、速度ややり方などを指示する。ビリンバウの演奏の仕方にも、アンゴラ流、ヘジォナウ流
など色々な流儀がある。
14
カポエイラ
近年の挑戦
間の対立を和らげて結束するのに役立ちました。また、カポエイラ
を「カポエイラ・コンテンポラニア」
(capoeira contemporânea
を、単なるスポーツとしてではなく、ブラジルの個性を表わす特別
「現代流カポエイラ」
)と呼ぶようになりました。また、自分達はア
な表現手段として確立しようという目的から、愛国心に溢れた結束
ンゴラとヘジォナウの両刀使いだと言う師範たちもでてきました(ア
も見られました。
ンゴラとヘジォナウの両方を使うというのは、競争が激しくなって
1964 年に軍事政権が発足した後、1970 年に「サンパウロ・カ
いる現在のカポエイラ市場を考えると、たいへん有利です)。アンゴ
ポエイラ連盟」(Federação Paulista de Capoeira)ができまし
ラとヘジォナウの両方を使っていることを表わす「アンゴナウ流」
た。そして 1972 年には、CBP(セベペ)すなわち「ブラジル・
(angonal)という言葉も普通に使われるようになりました。この
ボクシング連盟」(Confederação Brasileira de Pugilismo)に
言葉は、純粋派からは「どっちつかず」という軽蔑を込めて使われ
カポエイラ部門ができて、それまでスポーツ連盟に加入していなかっ
ていますが、この名前を、自分の流派名として堂々と名乗っている
たカポエイラ団体を統合しました。加入した団体は、連盟が定めた
人たちもいます。
規則に従うことを約束しました。その規則のなかには、ユニフォー
ムの着用や、挨拶のような(Salve!:「サウヴィ!」という挨拶は今
でも沢山のカポエイラ学校で使われていますが)、必ず守らなくては
いけない規則から、試合の時の細則まで含まれていました。このよ
うなカポエイラの発展によって、ブラジルの学校活動にカポエイラ
が取り入れられてスポーツとの一体化が進み、一方では、カポエイ
ラの外国への普及も進むという結果になりました。すると、カポエ
イラの伝統を受け継ぐことを誓ったカポエイラ団体の中には、こう
いった風潮に反対する動きも出てきました。
反対する団体の中には大組織を持つものもあり、連盟との提携を
拒否するだけでなく、連盟とは無関係だということを示すために、
昇級や段制度を設けたり、それに代わるものとして帯の色を決めた
りしました。この時、バイア州のアフリカ系伝統を保持しようとす
る流派が、重要な役割を果たす結果になりました。連盟から離れよ
うとするいくつかの団体が、アンゴラ流カポエイラに傾倒したので
す。これは当然、黒人運動が目指していた、「アフロ・ブラジル文
化の再評価」にもつながっていきました。同時に、アンゴラ流カポ
Photo:ブラジル観光公社(Embratur)
エイラの復興にも好都合でした。アンゴラ流カポエイラは、バイア
の昔の師範たちが亡くなってからというもの衰退の一途をたどり、
1981 年にパスチーニャ師範が他界した時点で、最も勢力が衰えて
いたのです。こうして 1980 年代から、アンゴラ流カポエイラの新
しい師範が、ブラジル内外で新しい弟子を増やしていきました。し
かしアンゴラ流カポエイラ界内部で、もめ事も持ち上がりました。
あるバイア出身の師範に直結するグループの流儀である「アンゴラ
流スタイル」と、いわゆる「アンゴラ化したスタイル」との間に対
立が起きたのです。「アンゴラ化したスタイル」というのは、アンゴ
ラ流カポエイラの特徴を一部取り入れる一方で、アンゴラ流の一派
に「ヘジォナウ流」だと見なされている、独自のスタイルも持って
いるグループでした。もめ事の発端は、アンゴラ流派の中心になっ
ている「頑固な首脳陣」とでも呼べる人達によって、幾つかのグルー
プが「アンゴラ流」の名を名乗ることを禁止されてしまったので、
その権利を奪回しようとしたからでした。
「ヘジォナウ」という流派の呼び名については、状況がいっそう複
雑です。アンゴラ流の人々にとっては、アンゴラ以外のやり方は全
てヘジォナウ流だということになり、また、この場合の「ヘジォナ
ウ流」という言葉には、悪い意味がこめられていることが多いので
す。このような陰口がある一方で、ビンバ師範のやり方をそのまま
受け継ごうとしている直系の後継者の中には、自分達だけがヘジォ
ナウ流の名を語るに値する、と宣言してはばからない人達もいます。
そして、対立する二つの流派のどちらにも属さない、いわば、
「純
粋な流派に属さない」カポエイラ師範達の多くが、自分達のやり方
15
Photo:AlexandreGomes
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
時にはスポーツとして時には文化活動として、
Photo:LiliaMenezes
カポエイラが大衆化し、国際的に広まっていく
うちに、様々なカポエイラのイメージができま
した。そして、文化が普及する場合にはいつで
もそうであるように、プラスの面とマイナスの
面が出てきました。
「現代流カポエイラ」
(カポエイラ・コンテンポラニア)の特徴を
明確にするのは困難です。そもそも、現代のアンゴラ流とヘジォナ
ウ流にも、様々なスタイルがあるからです。カポエイラが本来の場
から離れて、スポーツクラブや学校、大学、ダンスの舞台、フリー
スタイルレスリングの試合、そしてテラピー室にまで進出したおか
げで、カポエイラの意味、意義、形式、そして練習も複雑化してき
ました。カポエイラが行われるやり方が変われば、つまり、カポエ
イラが行われるソーシャル・コンテクスト(社会における場)が変
カポエイラ 近年の挑戦
われば、カポエイラの内容にも変化が出てくるのです。ですから、
「アンゴラ流 vs. ヘジォナウ流」
という昔からある区別の他に、
闘技・
伝統・文化・エンタテイメント・ダンスなど、その場その場で重要
視されている点に基づいて、カポエイラの様々なスタイルを区別し
ていく必要があるのです。
カポエイラの挑戦と展望
以上、カポエイラの現状について、ごく簡単に述べてきましたが、
これでも分るように、現代のカポエイラは、たいへん複雑な状況下
に置かれています。ですから、新しい世代のカポエイラ武術家たち
も、カポエイラの団体や道場の指導者や経営者たちも、カポエイラ
を発展させる上で、いろいろな問題に直面しています。ひとむかし
前の世代が取り組んだ問題は、カポエイラを消滅させないようにし
ようという問題でした(バトゥーキ〈batuque〉やペルナーダ・カ
リオカ〈pernada carioca〉
、チリリッカ〈tiririca〉のように、ブ
ラジルの格闘系ダンスや男性闘技で、実際に消滅してしまったもの
もあります)
。しかし今日では、これとは全く逆の問題が生じていま
す。カポエイラは、ブラジルでは日常生活に溶け込み、外国では、
ブラジル文化のシンボルのひとつとして普及しています。このよう
に、時にはスポーツとして時には文化活動として、カポエイラが大
衆化して、国際的に広まっていくうちに、様々なカポエイラのイメー
ジができました。そして、文化が普及する場合にはいつでもそうで
あるように、プラスの面とマイナスの面が出てきました。
本論の題にある「近年の挑戦」という表現は、私たちが今、計画
的に討論していくべき、カポエイラについての諸問題を指していま
す。それは例えば、外国でのカポエイラ活動、ブラジル政府による、
16
カポエイラ
近年の挑戦
Photo:AlexandreGomes
いうタイトルの乱用が問題になりましたが、現在のブラジルでは、
カポエイラが普及して、カポエイラ市場ができたり人々のクチコミ
が盛んになったおかげで、正当な資格を持たないインストラクター
は減ってきました。しかし外国ではまだ、この状況が改善されてい
ません。
今迄、これらの問題について掘り下げた討論が行われなかったの
で、状況が複雑化していますが、それには幾つかの原因があるよう
です(注 5)。1990 年代のおわりに、体育課の教師によるカポエ
イラの教授について大きな議論が起こり、今では少し下火になりま
したが、
まだ続いています。1998 年の連邦法条例第 9696 条によっ
て、体育課教育に携わる者についての条例が制定され、連邦審議会
と地方審議会が設置されました。この時「体育活動」という概念が
たいへん広い意味で解釈され――後になって、この解釈の曖昧性が
指摘されましたが――連邦審議会はこの条例の制定を機に、体育課
の教諭だけが教えられる「体育活動」の中に、カポエイラも組み込
もうとしたため、議論を呼んだのです。
このような状況から、現代のカポエイラについて、また別の重要
カポエイラの習得・教授・普及ほか色々な面への支援計画、様々な
な問題がみつかったように思えます。それは、カポエイラの文化的
カポエイラの現況などについての問題です。
多様性の維持という問題です。カポエイラが、身体という、万国共
最近の議論の中心は、伝統の継承と、祖代カポエイラの理解につ
通の要素をつかった「ボディランゲージ」のような表現である考え
いてです。これは具体的には、「カポエイラ師範やインストラクター
ると、
当然、
カポエイラのパフォーマンス上の「方言」とでも呼べる、
になるためには、どんな条件を満たすべきか」という問題として討
多種多様なやり方が出てきます。それは単に、アンゴラ流とヘジォ
論されています。伝統的な概念では、カポエイラの師範とは、口頭
ナウ流という違いがあるということだけではありません。この二つ
伝承や、師範と弟子の長い共同生活で伝えられていく、カポエイラ
の流派の内部自体にも、技術的特徴から、指針になる儀式や礼儀作
の祖先について博識である個人、同時に、地域社会でよく知られて
法の概念にいたるまで、幾つも異なったやり方があるのです。また、
いる個人のことでした。しかし最近では、この「伝統的な師範」の
カポエイラの大組織がますます巨大化して企業と化し、ブラジル内
かわりに、現在の団体や連盟、あるいは公式に近い機関で師範とし
外にがむしゃらに進出する戦略を推し進めている現状もあります。
て認められたカポエイラ武術家達が、指導者として登場してきまし
これを目の当たりにして、研究者たちは、ブラジルの田舎や都会の
た。現在のカポエイラ界では、「師範」とはどういうものであるべき
片隅で生き残っている、豊かなカポエイラ武芸が消滅してしまう可
かについての統一した見解は、到底、得られそうもない状態です。
能性があることを危惧しています。文化普及にたずさわる団体、と
おもなカポエイラ道場や団体では、適切な基準に従って師範の資格
りわけ、文化をあつかう政府の機関は、カポエイラには様々な形態
を与えています(そうすると、個人の能力や知識だけでなく、どれ
があり、
「カポエイラス」と複数形で呼ぶべきものだということを念
だけ有名な組織に所属しているかということも、師範の出世に関係
頭に置いて活動してほしいと思います。多様性を維持し、異なるも
してくるわけです)。しかし広いカポエイラ界には、指導者資格につ
のを許容する文化を普及させるということは、それぞれのカポエイ
いての基準が曖昧なまま、カポエイラを行っているところもあるの
ラのやり方が、それぞれ適切な活動の場を見出せる状況を作ってい
です。
く、ということです。
カポエイラの世界進出を考えると、この問題は、ますます複雑化
カポエイラの多様性の維持ということは、カポエイラ武術家が、
してきます。外国の団体や個人が、ブラジルとの関連を得たいとい
カポエイラを仕事にして生活していける状況を保障する、というこ
う理由だけで、ブラジル人のカポエイラ武術家を歓迎するという傾
とも意味します。現在のブラジルで、この問題が特に複雑化してい
向がよく見られますが、これは一筋縄で解決する問題ではありませ
るのは、サルバドール、リオデジャネイロ、ヘシフェのような伝統
ん。提案や代案が議論されていくうちに、解決策を見出すどころか、
的カポエイラの中心地や、昔ながらのカポエイラが生き残っている
別の問題点が見つかっていくのが現状です。例えば、なんらかの連
ブラジルの片田舎の老師範たちの場合です。この問題は、カポエイ
盟や政府機関に、カポエイラを教える資格を持つ人や師範を「公式
ラをブラジルの文化遺産として指定する、国の方針との関連で考察
に」登録するシステムをつくったらどうか、という案がありますが、
していくべき、重要な問題の一つだと思います。
全てのケースのカポエイラに通用するような指導者の資格基準を決
めるのは不可能だと思われるので、この案は、さらに熟考して明確
に計画していく必要があります。外国で、カポエイラ師範の先がけ
(5)ブラジルの現行の法律が定めているように、連合や連盟などのスポーツ組織だけに保障されてい
る特権はない。従って、組織管理や代表選手選出の上で、連合や連盟のほうが、他の組織よりも、
政府の後ろ盾があるとも言えないし、より「公式」であるとも言えない。一つの種類のスポーツが、
となって普及に努めてきた人たちが不安に思っていることは、ブラ
一つの州に複数の連合を持っている場合や、国内に複数の連盟がある場合があり、そういうケー
スは多い。言うまでもなく、リーグや協会も、代表選出について、連合と同じ状況にある。カポ
ジルではほとんど無名で、カポエイラを教えたこともない人が突然
エイラの場合は、独自の連合や協会、リーグを持っているグループもある。
やってきて、自称「師範」を名乗り、カポエイラ教室を開いている
という問題です。ブラジルでもかつて、インストラクターや師範と
17
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ブラジル外務省(MRE)文化部は、近年、在
外の大使館や領事館を通じて、ブラジル以外の
国で活動しているカポエイラ武術家支援を行っ
ています。この支援を、更に組織的なものにす
る方法があると思います。
ここで、
「カポエイラ・ヴィヴァ」
(Capoeira Viva)の重要性を
記しておく必要があります。これは 2006 年にリオデジャネイロ
で、カポエイラ活動促進と、政府のカポエイラ後援基盤をつくるこ
とを目的として、
文化省(MinC)が実施したプロジェクトでした(注6)
。
「カポエイラ・ヴィヴァ」は、支援プロジェクトで、ネットに掲載
された基準に従って、政府が、カポエイラに関する様々な民間活動
を支援していくというものでした。記録フィルムのアーカイヴ作成
から、貧しいコミュニティでカポエイラ教室開く活動に至るまで、
様々な活動への支援です。政府からの働きかけは以前からあり、そ
の中には 1980 年代に再開されたものもありました。しかし「カポ
エイラ・ヴィヴァ」が優れている点は、政府が援助金を提供する活
動を選ぶときの「基準」を明確にした点と、支援を受けた活動の結
果を、ネットで広く報告した点です。こうして 21 世紀の初頭に、
カポエイラ発展のために、初めて、政府による組織的な活動が実施
されました。
昔ながらのカポエイラの伝統を守るという重要な活動に関連し
て、問題があることにも触れておきます。カポエイラの歴史的資料
や知識の独占という問題です。カポエイラの地域調査に多大な努力
がなされているのに、そこで得られた知識が、その地域でカポエイ
ラをする人達や、一般社会に伝わってこないのが非常に残念です。
つまり、古代カポエイラやカポエイラ起源について地域調査が行わ
れても、それで得られた知識が一般には還元されず、いつの間にか、
得た知識を独り占めしたがる「非民主的」で「博識」なカポエイラ
武術家やエリート集団を作ることが、調査の目的になってしまうの
です。地域調査を援助するだけでなく、その調査が、地域社会の生
カポエイラ 近年の挑戦
活表現の基礎をかためる役割を果たす結果になるように、ここで再
度、政府が、民衆文化の推進者として協力してくれることを期待し
ます。
最後に、外国で活動している師範やインストラクター支援につい
て述べたいと思います。ブラジル外務省(MRE)文化部は、近年、
在外の大使館や領事館を通じて、ブラジル以外の国で活動している
カポエイラ武術家支援を行っています。この支援を、更に組織的な
ものにする方法があると思います。在外ブラジル大使館はブラジル
文化の拠点としての機能を充実させ、師範やカポエイラに興味があ
る人達のために、図書館や映像館などを提供することもできます。
また、既にカポエイラが盛んになっている国々では、大使館のサポー
トで、インフォーマルなカポエイラ委員会を作るのも良いと思われ
ます。この委員会は、カポエイラの流派は一つでないことを常に念
頭に置いて、カポエイラ指導者の登録の際に助言したり、カポエイ
ラ支援を決定する基準を常に明確にしておいたりする役割を果たし
ます。
「カポエイラ・ヴィヴァ」が行われた際にも指摘されました
が、文化促進の目的からカポエイラ活動への財政援助が増えている
ので、資金関係の情報を常に社会の目の届くところに公開し、誰も
が、ネットに掲載された情報や資金援助の結果をチェックできるよ
うにしておかなくてはいけません。カポエイラ支援を含めて、カポ
エイラをとりまく活動は、既に国際化の兆しが見られるサンバやマ
ラカトゥなどカポエイラ以外のブラジル文化活動の、手本となるや
り方で行われるべきだと思います。
(6)
〈2006 年 の 時 点 で 〉 こ の プ ロ ジ ェ ク ト の 公 式 Web サ イ ト は 以 下 に 掲 載 が あ る。www.
capoeiraviva.org.br
18
カポエイラ
近年の挑戦
おわりに
カポエイラのグローバリゼーションをきっかけに、この章ではカ
ポエイラの世界進出について、簡単ではありますが、いくつかの考
察をすることができました。今はインターネットで一瞬のうちに情
報が伝達され(世界じゅうのカポエイラ界の人々がよく利用してい
る)動画シェアのサイトもある時代だから、ブラジルの役割は今ま
でと変わらないだろう、などと思ってはいられません。カポエイラ
がブラジルの特徴的文化であることを主張していくのは大切です
が、現代の世界では、
「カポエイラで抜きん出ているのはブラジルだ」
と受け合っているだけではだめなのです。
伝統としてのカポエイラと、ブラジル社会の様々な場に入り込ん
だ日常的なカポエイラ、この両方を尊重しながら、多くの活動を積
み重ねていくことによってはじめて、ブラジルは、現代のカポエイ
ラ界で中心的役割を担うことができるのです。こうすることによっ
てはじめて、ブラジルは、カポエイラ発生の神話や過去の輝かしい
業績のある地としてだけでなく、カポエイラの歴史の新しい原点、
そしてカポエイラの武芸・音楽性・指導の新しい原点として、今後
も引き続き世界に認められていくことができるのです。
Photo:AlexandreGomes
ルイス・ヘナト・ヴィエイラ(LuizRenatoVieira)
文化社会学博士、連邦上院法律顧問(社会福祉・マイノリティ部門)
、
カポエイラ団体グルッポ・ベリバズ(GrupoBeribazu)師範、ブラ
ジリア連邦大学プロジェクト「カポエイラ・コムニタリア」
(capoeira
comunitária)主任、文化省(MinC)プロジェクト「カポエイラ・
ヴ ィ ヴ ァ」
(CapoeiraViva) 師 範 委 員 会 委 員、 書 籍“Ojogoda
Capoeira:CorpoeCulturaPopularnoBrasil.”
『カポエイラ――ブラ
ジルに於ける身体と大衆文化』RiodeJaneiro:Sprint,1998 著者。
E-mail:[email protected]
マティアス・ローリグ・アスンソン(MatthiasRöhrigAssunção)
歴史学博士、エセックス大学教授(歴史学)
、フルミネンセ連邦大学大
学院・歴史学科客員教授、CAPES 奨学金受奨者、書籍“Capoeira.
TheHistoryofanAfro-BrazilianMartialArt.”
(London.Routledge,
2005) 著者。E-mail:[email protected]
19
2. カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
ギリェルミ・フラザォン・コンドゥル
Guilherme Frazão Conduru
本論
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の
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々な
要素 要素、
が一
体
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
1808 年にポルトガルの王家一族がブラジルに
移り住んで以来、外国から、年代記執筆家など
が、ますます頻繁にブラジルにやってくるよう
になりました。そういった外国人達が書き残し
たものは、当時のブラジルの習慣や社会の様子
を知る上で、たいへん役に立っています。この
時代の資料では、ヨハン・モーリッツ・ルゲン
ダ ス(Johann Moritz Rugendas: 1802-1858) に
よる 1835 年のものが、カポエイラについての
最初の記述であるようです。
しかしこの記述は、歴史的にたいへん初期のものであることを忘れては
なりません。ですから、ブラジル独立期のカポエイラや、第二帝政時代の
カポエイラなどを全く区別しないで、全て、この記述を使って説明すると、
カポエイラの歴史的な変化を無視してしまうことになりそうです。そこで
次のセクション以下で、カポエイラの形式や社会的地位、役割などが、時
代と共に、どう変わってきたかを明らかにしていきたいと思います。
1.カポエイラについての最初の記述(1770 年―1830 年ごろ)
16 世紀末から 17 世紀には、逃げ出した黒人奴隷たちが、ブラジル北
東部の奥地を中心に、
「キロンボ」
(quilombo)と呼ばれる部落を作って
生活するようになりました。そのなかでも、
「パウマーレスのキロンボ」
(QuilombodosPalmares)とよばれる大集落は、白人に滅ぼされるま
で一世紀以上も続きましたが、この「パウマーレスのキロンボ」の時代か
ら、カポエイラが行われていたと考えている人達もいるようです(注1)
。
カポエイラを、奴隷制度に対する黒人達の抵抗の歴史と結びつけたくな
る気持ちは、たいへんよくわかります。実際にカポエイラは、奴隷にとっ
て、苦しみと不幸をしばし忘れるための、束の間のなぐさみ事だったと同
時に、自由を勝ち得るための戦いの手段でもあったかもしれません。しか
し歴史を調べてみても、今のところ、キロンボの住人たちがカポエイラを
やっていたという、確かな証拠は見つかっていないのです(注2)
。カポ
エイラについて書いたものが出てくるのは、
18 世紀後半になってからで、
しかもそれは、奥地ではなく都会で行われていたという記述なのです。
ルイス・エヂムンド(LuisEdmundo)の回想録には、副王領時代
(Vice-Reinado)のリオデジャネイロで、カポエイラをしていた人々に
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
ついての記述があります。それによると、当時カポエイラをしていた人々
は、陰気で乱暴でずる賢いけれど、信仰心が篤く、リオの町のあちこちに
立てられた祈祷塚に祭ってある、聖なる肖像を熱心に拝んでいたというこ
とです(注3)
。
文学的な資料ではありませんが、エリジオ・ヂ・アラウジョ(Elísiode
Araújo)が記した、昔の首都リオデジャネイロの警察史には(注4)
、
カポエイラがおこなわれていたという、はっきりした証拠がみつかりま
す。この資料では、作品名は書いてありませんが、高名なマセード博士
〈JoaquimManueldeMacedo:1820-1882、ブラジルの作家〉が
書いたものの引用だとして、次のように記述されています。
す で に 1770 年、 ラ ヴ ラ デ ィ オ 侯 爵 (Marquêsde
Lavradio) の時代に、軍の将校でジョアン・モレイラという
中尉がいた。「むほん人」いうあだ名で、ものすごい力持ち
の熱血漢だったが、恐らく、この人物が、リオデジャネイロ
で最初にカポエイラをやっていた人ではなかろうか。なぜな
らモレイラは、刀やナイフ、棍棒などの武器は使わずに、頭
突きや足蹴りで戦うのが得意だったからだ。
この記述を見ると、
「むほん人」とは、のちの、名高きヴィジガウ少佐
(majorVidigal)ではないかと思えてきます。ヴィジガウ少佐とは、当
〈参考文献は原文のまま〉
(1)Soma,umaterapiaanarquista,vol.2/PráticadaSomaecapoeira,p.160-168,EditoraGuanabara-Koogan,Rio
deJaneiro (1991).この文献でホベルト・フレイレ(RobertoFreire)が触れている、新聞 Movimento (1976 年 9
月 13 日付 ) でのアウミール・ダス・アレイアス師範 (MestreAlmirdasAreias) のインタビューを参照。カカ・ヂエ
ギス監督 (CacáDiegues) の映画「キロンボ」(Quilombo,1983 年 ) にもカポエイラによく似た格闘シーンがある。
(2)参照:MemorialdePalmares ,deIvanAlvesFilho,XénonEditores,RiodeJaneiro,1988.
(3)参照:ORiodeJaneironotempodosVice-Reis ,AthenaEditora,RiodeJaneiro,s/d.
(4)参照:EstudohistóricosobreaPolíciadaCapitalFederalde1808a1831 ,Primeiraparte,ImprensaNacional,
RiodeJaneiro,1898,p.56.
22
「サン・サルバドール」
J.M.ルゲンダス(1802-1858)画
時、ブラジルの摂政王子の地位にあったジョアン 6 世の指名を受け、ブラ
になりました。そういった外国人達が書き残したものは、当時のブラジル
ジルの初代警視総監になったパウロ・フェルナンデス・ヴィアナ(Paulo
の習慣や社会の様子を知る上でたいへん役に立っています。この時代の資
FernandesViana)から、絶対の信頼を受けた人物でした。またヴィ
料では、ヨハン・モーリッツ・ルゲンダス(JohannMoritzRugendas:
ジガウ少佐は、
「ある軍曹の回想録」
(MemóriasdeumSargentode
1802-1858)による 1835 年のものが、カポエイラについての最初の
Milícias)の登場人物のなかの、抜き打ちでリオの町に「警察の手入れ」
記述であるようです。
をやる鬼警部として出てきます。
(注5)
。ヴィジガウ少佐は、キロンボや
カンドンブレ〈アフリカ系のブラジル呪術的宗教〉
、カポエイラなどを、
…黒人達には、もうひとつ別の、もっと乱暴でケンカのよ
徹底的に取り締まることで有名だったのです。逮捕されると、
「エビの晩
うな、カポエイラという遊びがある。これは二人の闘士が、
餐」
(ceiadoscamarões)
(注6)という異名をとった「拷問」のコー
互いに相手の胸めがけて突進して頭突きをくらわし、相手を
スがあって黒人たちを恐れおののかせましたが、これもヴィジガウ少佐が
倒そうとするものだ。横っ飛びや払いで、巧みに攻撃をかわ
考えだしたことなのかもしれません。この拷問は、リオ市民の生活を脅か
すが、頭から相手に突っ込んでいく様は、さながらヤギのよ
すとして、カポエイラで暴れる者や、ヤクザ者に対して施行されていたの
うだ。時には、頭と頭が全力でぶつかり合い、そうなると、
です。
この悪ふざけが本物の喧嘩と化してナイフが登場し、流血騒
ぎになることもある(注8)。
ブラジルにおける最初の刑法、すなわち 1830 年のブラジル帝国刑事
法典には、特にカポエイラを犯罪として定める項目はありません。ですか
らカポエイラをしていた人々は、この法典の第4章 295 条が定める「浮
ドイツ人の芸術家ルゲンダスは、上の記述のほかに、カポエイラが行
浪者や乞食」として扱われて、連行されていたのだと思われます(注7)
。
われている風景を描いた二枚のグラヴーラ〈版画手法の絵〉を残していま
事実、カポエイラをしている人々は、泥棒の仲間で定職もなく、まさに社
す。この二枚のグラヴーラに描かれている風景は、当時の景色を写実的に
会のクズのように思われていたようです。そうすると一体どうして、奴隷
描いたものとして信憑性が高く、カポエイラに関する図版資料のうち、最
や黒人たちの「無邪気な」遊びだったカポエイラが、社会のクズだという
烙印を押されることになってしまったのか、詳しく調べてみなければなり
ません。
1808 年に、ポルトガルの王家一族がブラジルに移り住んで以来、外
国から、年代記執筆家などが、ますます頻繁にブラジルにやってくるよう
(5)参照:MemóriasdeumSargentodeMilíciasdeManuelAntôniodeAlmeida ,IrmãosPongetti
Editores,RiodeJaneiro,1963,prefáciodeMarquesRebêlo,p.28.
(6)参照:Almeida, op. cit.; Waldeloir Rego,Capoeira angola: ensaio sócio-etnográfico, Editora
Itapuã, Salvador, 1968, p. 295; e Raimundo Magalhães Júnior, Deodoro: a espada
contraoImpério ,Cia.EditoraNacional,SãoPaulo,1940,vol.2,p.183.
(7)参照:Rego,op.cit.,p.291.
(8)出典:Johann Moritz Rugendas.Viagem pitoresca através do Brasil , Livraria Martins, São
Paulo,1940,p.197.
23
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
この二枚の絵のどちらにも、ビリンバウが描か
れていないという点を強調しておいてもよいで
しょう。そうすると、この時代には、ビリンバ
ウはカポエイラとは関係がなかった、という仮
説を立てることも不可能ではありません。また
二枚目の絵で、闘士達がこぶしを握りしめてい
る点が、この絵での、格闘のやり方の特長になっ
ています。
も古いものとなっています。そのうちの一枚「サン・サルバドール」
(São
Salvador)の絵では、背景に、ボンフィン教会付近から眺めたバイアの
みやこ、サルバドールの景色が広がり、前面には、二人の黒人男性の対決
を、三人の黒人男性と四人の黒人女性が眺めている様子が描かれていま
す。楽器はひとつも描かれていませんが、対決している二人のしぐさや、
それを見ている人たちの様子から、カポエイラのリズムが響いてくるよう
な感じがします。また、女性が描かれていることと、一人の女性に男性が
抱きついている点も、特筆すべきことでしょう。
もう一枚の絵は、
「カポエイラ格闘」
(JogodaCapoeira)
〈
「格闘」
「闘
士」などの対訳語については本誌 6 章表紙 p.55 参照〉と題されています。
これは、二人の黒人男性が対決しているところを、十人ほどの黒人の男女
が取り囲んで眺めている絵です。またこの絵には打楽器アタバキが登場し
ていて、対決を見ている男の一人が手拍子を打っています。ひとりの男に
何か食物を渡している黒人女性を除いては、皆、カポエイラで格闘する二
人に釘づけになっています。その中に、頭にパイナップルの籠を乗せた女
性がいるので、ここは都市なのだろうと推測することができます。
この二枚の絵のどちらにも、ビリンバウが描かれていないという点を強
調しておいてもよいでしょう。そうすると、この時代には、ビリンバウは
カポエイラとは関係がなかった、という仮説を立てることも不可能であり
ません
(注9)
。また二枚目の絵で、
闘士達がこぶしを握りしめている点が、
この絵での、格闘のやり方の特長になっています。
ジ ャ ン = バ テ ィ ス ト・ デ ブ レ(Jean-BaptisteDebret:17681848)は、
カポエイラについてはっきりとした記述はしませんでしたが、
カポエイラの歴史を知るための重要な資料である、二枚の水彩画と、その
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
二枚についての解説を残しています。このフランス人の画家は、
「黒人王
の息子の埋葬」
(Enterrodofilhodeumreinegro)と題されている大き
な絵についての解説で、次のように述べています。
祭司の合図で埋葬の行列がはじまる。祭司は、行列の行く手
に群がる黒人達を追いはらおうとして、長い指揮杖を振り回し
ながら進んでいく。花火係の黒人が爆竹や花火を打ちならし、
三、四人の黒人曲芸師たちが、宙返りやトンボ返り、そのほか
幾つもの離れ技をみせて場を盛り上げている(注 10)。
黒人曲芸師たちが、葬列に加わっていたというのは興味深い話ですが、
そのアクロバティックな身のこなしは、20 世紀になってから、カポエイ
「黒人王の息子の埋葬」
J.B.デブレ(1768- 1848)画
(9)参照:O berimbau-de-barriga e seus toques , Kay Shaffer, MEC/FUNARTE/INF,
Monografiasfolclóricas,1981.
J.M.ルゲンダス画
「カポエイラ格闘」(部分)
24
「黒人の吟遊詩人」
J.B.デブレ(1 768-18 48)画
ラの「フロレイオ」
(floreio)のような、相手のかく乱や脅し、あるいは、
ます。これは野外で行われていたので、外国からやってきた人々が図版な
観客にアピールする曲芸として使われるようになっていくのでしょう。
どに書き残すことになったのです。社会学の観点から見ると、カポエイラ
もう一枚の水彩画「黒人の吟遊詩人」
(Onegrotrovador)で、デブレ
をする人々が警察に追われて、厳しい取締りを受けていたことを無視する
は、黒人の老人が楽器ウルクンゴ、別名ビリンバウを弾いているところを
わけにはいきません。カポエイラをする人々は、たいてい奴隷や黒人達で
描いて、以下のような解説を添えています。
したが、この人達は、カポエイラを、犯罪や社会の規律を乱すような騒ぎ
の時にやっていたので、ひったくりやチンピラの集団と同一視されてし
こういうアフリカ黒人の流しの歌い手は、次から次へと止
まったようです。
めどもなく恋の歌を披露して、おしまいは必ず、ジェスチャー
付きで、ちょっと色気のある言葉で締めくくる。このくだり
2.
「カポエイラ軍団」-政治に利用されたカポエイラの「プロフェッショ
になると、必ずと言っていいほど、観客である黒人たちに大
ナル」たち(1830 年―1890 年ごろ)
受けで、みな喜んで拍手喝采し、ピーピー口笛を鳴らしたり、
厳しい取締りにもかかわらず、カポエイラは消え失せずに生き残ってい
甲高く叫んだり、気が狂ったようにピョンピョン飛び跳ねた
きました。そして、第二帝政時代のあいだに、ブラジル社会に浸透していっ
りして、たいへんな騒ぎになる。しかし、この騒ぎも、幸い、
たのです。いつの時期からか、なんらかのやり方で、カポエイラは、黒人
長続きはしない。軍警察の警官たちが棍棒を持って駆けつけ
や奴隷だけのものではなくなっていきました。もちろんかつての有名なカ
てくるので、皆、ちりぢりに逃げ去るからだ(注 10)。
ポエイラ武術家の大半は、
黒人やムラート(黒人と白人の混血の人)です。
しかし、この頃から、カポエイラがうまいのは、黒人やムラートだけとは
限らなくなっていったのです。
ルゲンダスの絵に基づいて上でのべた、ビリンバウについての仮説に
戻って考えてみると、仮の結論ではありますが、1830 年代までは、カ
どんなに厳しく取締まってもカポエイラは消滅せずに生き残り(他にも
ポエイラとビリンバウのあいだに密接な関係はなかった、と言えるようで
カンドンブレのように消滅させようとしも出来なかった黒人文化が幾つか
す。これは、少なくとも 1930 年代には、カポエイラとビリンバウが切っ
ありますが)
、帝政時代のうちから、奴隷や黒人以外の社会層にも広まっ
ても切れない関係になっていたことを考えると、驚くべきことです。
ていきました。こうしてカポエイラは、犯罪だと見なされると同時に普及
ここ迄で述べたことを踏まえると、1770 年から 1830 年頃までの時
するという、矛盾した歴史を歩むことになったのです。その原因のひとつ
代に、カポエイラがどのようなものであったかについて、二つの観点から、
として、沢山の「カポエイラ軍団」
(malta「マウタ」
)ができたことがあ
次のことが言えます。民俗学の観点から見ると、
この時代のカポエイラは、
黒人達の(従ってアフリカ人起源の)遊びや楽しみの一種であったと言え
(10)出典:Debret,ViagempitorescaehistóricaaoBrasil,Itatiaia ,BeloHorizonte,Edusp,
SãoPaulo,1989,II,p.164-165.
25
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラ軍団 (malta) は、政治家の不正選挙
を手伝う仕事では、
「プロフェッショナル」と
して活躍していたと言えます。当時、奴隷から
解放された人や、貧しい人が「カポエイラ軍
団に入る」ということは、自由党か保守党かど
ちらかを支持するということを意味していまし
た。こうして、職にあぶれた人々や浮浪者や、
正規の職にありつけない人たちなど多くの人々
が、つてを探して、せっせとカポエイラ軍団に
加わっていったのです。
げられます。リマ・カンポス(LimaCampos)やコエリョ・ネト(Coelho
Neto)など、当時の記録を書き残した人々が、カポエイラはペドロ二世
の時代に最盛期に達したとして、
「第二帝政時代はカポエイラの全盛期だっ
た。事実、この時代はカポエイラの絶頂期で、カポエイラが最も盛んな時
代だった」と述べているのも偶然からではありません(注 11)
。
多くのカポエイラ軍団ができたのは、19 世紀後半のリオデジャネイロ
の町の急成長とも関係があります。この時期のリオの町は、地方からの移
住者で一気に人口が増加しましたが、移住してきたのは、主に〈カポエイ
ラをやっている人が多い〉奴隷から解放された貧しい階層の人々だったの
です(注 12)
。また、取締まりが厳しかったのに、次々とカポエイラ軍団
ができた背景には、政治的な原因もありました。カポエイラ軍団が選挙に
利用されたのです。この点に関して、
次の、
メロ・モライス・フィリョ(Melo
MoraisFilho)のコメントはたいへん意味深長です。
「…つい最近まで上
院も下院も、黒い肩に支えられていた。我々を支配する政治家の多くが、
刃物をたよりに、そのポジションにのし上がったのだ」
(注 13)
。
リマ・カンポスとメロ・モライス・フィリョが述べていることによると、
リオの町のカポエイラ軍団には掟や上下関係があり、一種の昇進制度もあ
りました。カポエイラ軍団は、
(グロリア、ラパ、ラルゴ・ド・モウラ、
サンタ・ルジアなどの)リオの町の地区ごとに結成されているか、あるい
は(サン・ジョゼの大工、海軍の雑用係など)職業ごとのグループが結成
されていました。
またリマ・カンポスによると、カポエイラ軍団は、
「グアイアム」
(guaiamu)
、
「ナゴ」(nagô)〈本書 6 章も参照〉とよばれる、二つの大
きな派閥のどちらかに属していると言えました。政治家にとって、カポエ
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
イラ軍団をつぶさずにおいた利点は、選挙のときに利用できたからです。
こうして権力者とコネができたカポエイラ軍団の人々は、警察に逮捕され
ることも免除されたので、その素行は目に余るものがありました。カポエ
イラ軍団は、当時の二大政党、
「自由党」と「保守党」のどちらかの黒幕
になって、市民集会を襲撃したり、投票箱を盗んだりすり替えたり、選挙
妨害をやったり、ライバル政党の政治家に仕返ししたりする仕事をしてい
ました。ですから、カポエイラ軍団は、政治家の不正選挙を手伝う仕事で
は、
「プロフェッショナル」として活躍していたと言えます。当時、奴隷
から解放された人や、
貧しい人が「カポエイラ軍団に入る」ということは、
自由党か保守党かどちらかを支持するということを意味していました。こ
うして、職にあぶれた人々や浮浪者や、正規の職にありつけない人たちな
ど多くの人々が、つてを探して、せっせとカポエイラ軍団に加わっていっ
たのです。
しかしカポエイラをやっていたのは貧しい人々だけではありません。カ
ポエイラ闘士と接触して、良家の子息たちも、カポエイラを覚えて勇壮な
猛者に変身しました。コエリョ・ネトは、自分自身もカポエイラの大ファ
ンだと告白したうえで、
「警察や、教授陣の中や、陸軍海軍にいた、ひと
きわ目立った大物たち」について言及していますが(注 14)
、その「大物
たち」は、なんらかのやり方でカポエイラ軍団と近しくなって、カポエイ
ラの奥儀を学んだのでしょう。
一方、カポエイラ軍団と権力者との癒着は頂点に達し、とうとう「グア
ルダ・ネグラ」
(GuardaNegra「黒人護衛隊」
)が結成されるまでになり
(11)参照:Lima Campos,“A Capoeira” , artigo publicado na revista Kosmos, Rio de Janeiro,
1906,apudCarlosDrummonddeAndradeeManuelBandeira,RiodeJaneiroemprosa
everso,LivrariaJoséOlympioEditora,RiodeJaneiro,1965,p.191-194.
(12)参考:SobreaexpansãourbanadoRiodeJaneironosmeadosdoséculoXIX .この文献につい
ては以下に言及がある。MauríciodeAbreu,EvoluçãourbanadoRiodeJaneiro,IPLANRIO/
Zahar,RiodeJaneiro,1988.
(13)参照:Festas e tradições populares do Brasil, Editora Itatiaia, Belo Horizonte, Edusp, São
Paulo,1979,p.257-263,apudRego,op.cit.,p.280.
J.M.ルゲンダス画
「カポエイラ格闘」(部分)
26
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
ました。グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)とは、
イザベル皇女のボディーガー
会的には、
犯罪と政治のあいだを行き来していたことになります。中には、
ド団という名目で結成された、一種の秘密組織でした。そしてグアルダ・
ジョゼ・ド・パトロシニオ (JosédoPatrocínio) のように理想化されて
ネグラは、ジョアン・アルフレド(JoãoAlfredo:1888 年、奴隷制廃
いる人物もいますが、グアルダ・ネグラの主な任務は、共和主義者の政治
止法案を提出し奴隷制度廃止を実現させた中心人物の一人)が内閣首相を
集会や集まりをつぶすことでした。グアルダ・ネグラを利用するのは、な
務めた時代には、まるで警察の下位組織のようになり、当時ますます高まっ
んとかして君主制を死守しようとする、帝国政府の苦肉の策であったので
ていく共和革命運動を鎮圧すべく、なかば軍隊のように借りだされていま
す。共和国宣言によって、帝政が崩壊する前後には、社会の混乱は最を極
した。奴隷制度廃止に感謝感激する世相に便乗して、
グアルダ ・ ネグラは、
めました。その当時の数々の事件の中に、第一騎馬隊の兵舎がグアルダ・
カポエイラ闘士や非行者・不良などを隊員として採用し、組織化していき
ネグラに襲撃されるという告発がありましたが、これは、軍内部にも造反
ました。グアルダ・ネグラの隊員となったカポエイラ闘士たちは、機動力
分子がでてきた兆しだったと解釈できます(注 15)
。
がばつぐんでしたが、これはカポエイラ軍団で身についたものに違いあり
帝政時代のカポエイラを研究する上で、クリスチアーノ・ジュニオル
ません。一方、グアルダ・ネグラの団員になった非行者・不良などは、社
(ChristianoJúnior)が撮影した写真に触れないわけにはいきません。
この写真は、1864 年から 1866 年のあいだに撮影されたもので、カポ
エイラ練習場での個人指導の様子が写っています。写真では、黒人の若者
が黒人の子供にカポエイラの手ほどきをしていて、
「ジンガ」
(ginga:カ
ポエイラをする人が格闘中に、身体の動きのリズムを保ち、すぐに必要な
動きに出られるようにするために行っている、基本ステップと呼べる動
き)の基礎を教えているように見えます(注 16)
。この写真を見ていると、
カポエイラのテクニックを教える場合には、この時期からすでに一種の教
授法があり、師範―弟子のような関係もあった、という仮説を立てること
ができそうです。そして、もしカポエイラ軍団に厳しい階級構造が存在し
たということが証明できれば、この仮説の証拠にすることができるでしょ
う。
最後に、当時の社会ではカポエイラ闘士に対するイメージが曖昧だった
ということを述べなくてはなりません。カポエイラ闘士は、事件や喧嘩さ
わぎをおこして、人々を震撼とさせる一方で、既成の秩序や権力に反抗す
るという偉業をやってのけるということから、
「たいした連中だ」とも思
われていたのです。これについて、文豪マシャード・ヂ・アシス(Machado
deAssis)のエッセイの一節を引用しておくのも良いかもしれません。
... 自分と同時代の人々が、なぜ、カポエイラ闘士は我々
の腹に刃物を突き立てるような連中だと解釈するのか、わた
しには納得がいかない。誰もかれもが口を合わせて、カポエ
イラをする者は悪事を働いていて、すばしっこさや度胸を見
せたいだけなのだと言うから、これが定説のようになってい
る。こんなことは、馬鹿らしい解釈にすぎないということに
誰も気づかない。(注 17)
コエリョ・ネトに至っては、ノスタルジーとロマンをこめてカポエイラ
闘士を理想化し、高い品格のある者であると見なして、カポエイラ闘士は、
「
(ネトの原文通りに言えば)刃物は使わないし、倒れた人間は殴らない、
また、奴隷解放問題などで帝国政府を支持するのは、
(ネトの原文通りに
言えば)カネ目当てではなく理想主義からだった」としています。しかし、
このように称賛する一方で、ネトは、カポエイラ闘士たちが、警察内で行っ
た脅しについても述べています(注 18)
。
(14)
「コエリョ・ネトはジュッカ・パラーニョス(Juca Paranhos)の名を挙げており、この男は
後にリオブランコの男爵、1902 年から 1912 年まで外務大臣を務めた人物で、若い時はたい
した快男子であり、自分がかなりの「ワル」であることを誇りとしていた」。以上、マガリャン
イス・ジュニオル(MagalhãesJúnior,既述文献 ,p.185)による。
(15)参照:Rego,op.cit.,p.313-315;MagalhãesJúnior,op.cit.,vol.1,p.326-327,341342,373-376;vol.2,63-64,183,228.
(16)参照:Escravos Brasileiros do século XIX na fotografia de Christiano Jr. , Paulo
CesardeAzevedoeMaurícioLissovsky(orgs.),EditoraExLibris,SãoPaulo,
1987,figura71.
(17)出典:Machado de Assis, Crônicas (1878-1888), W. M. Jackson Inc. Editores,
1938,vol.IV,p.227-228,apudRego,op.cit.,p.280-281.
「カポエイラ個人指導」
クリスチアーノ・ジュニオル撮影
27
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ブラジル帝政時代末期の警察日誌には、ひっき
3. 弾圧され忘れ去られた時代(1890 年―1930 年ごろ)
帝政時代末期の警察日誌には、ひっきりなしにカポエイラ闘士の逮捕記
りなしにカポエイラ闘士逮捕の記録が出てきま
録が出てきますが、やがてカポエイラは、国家の刑法によって犯罪として
すが、やがてカポエイラは、国家の刑法によっ
扱われるようになってしまいます。1890 年に公布された「ブラジル合州
て犯罪として扱われるようになってしまいま
す。
共和国」〈「合州」は直訳による〉(RepúblicadosEstadosUnidosdo
Brasil)の刑法では、第 13 章に、次の条例が規定されました。
条例第 402 号:浮浪者およびカポエイラをする者に関す
る項――カポエイラとして知られる敏捷な身体能力を駆使す
る運動を、公共の道路または広場で行うこと。身体に傷害を
与える可能性のある武器や器具を所持して走り回り、騒動や
混乱を招くこと。特定の人あるいは無差別に人を脅すこと。
又は他者に迷惑を及ぼす行為。/刑罰:上記の行為に対して
は禁錮二カ月から六カ月。/単項:上記に該当する者が何ら
かの集団またはカポエイラ軍団に所属している場合は犯罪性
が高いとみなされる。組織の上層部や頭領の場合は罰則を二
倍にして適応のこと ...(注 19)
このように、カポエイラは法の上で犯罪として指定されました。この刑
法でのカポエイラは、職を持たない浮浪者と深く関係づけられ、身体を使
うだけでなく、カミソリ、ナイフ、棍棒などの武器も使うとされています。
この刑法が政令として施行される前から、カポエイラは国家警察から、
厳しい取締りを受けていました。共和国が樹立して間もない政治混乱の中
で、臨時政府首長から初代大統領の任に就いたデオドロ・ダ・フォンセカ
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
元帥(DeodorodaFonseca)は、警視総監として、サンパイオ・フェハ
ス (SampaioFerraz) を指名しました。サンパイオ・フェハスは国家検察
官でしたが、新聞記者をしていた時代には、君主制に激しく反対していま
した。サンパイオ・フェハスを警視総監に指名した時、フォンセカ大統領は、
カポエイラ闘士をはじめ、騒ぎを起こしそうな連中はすべて、首都リオデ
ジャネイロの町から一掃せよと命じて、フェハス総監に絶大な権限を与え
ました。
そこでサンパイオ・フェハスは、カポエイラ軍団根絶に向けて一大作
戦を繰り広げました。カポエイラ軍団を、リオから完全に一掃するため
に、追放の刑を使ったのです。ムリロ・ヂ・カルヴァリョ(Murilode
Carvalho)によると、追放刑はすでに帝政時代末期から始まっており、カ
ポエイラ闘士は、マトグロッソ州に追放されていました。サンパイオ・フェ
ハスは、600 人近くのカポエイラ闘士を逮捕して、起訴もしないでフェル
ナンド・ヂ・ノローニャに追放したようです。また、ムリロ・ヂ・カルヴァ
リョは、カポエイラ闘士の中には、
「白人も多く、海外からの移入者もいた」
という点に注目しています。ムリロは、1890 年の 4 月にカポエイラ犯罪
で逮捕された 28 人のうち、黒人は 5 人、白人は 10 人いて、そのうちの
7 人が外国人だったと指摘し、「カポエイラをした罪で逮捕された人々の中
に、ポルトガル人やイタリア人が混じっているのは、ごく普通のことだっ
た。しかも貧困層の白人ばかりではない」と述べています(注 20)。
事実、その 1890 年の 4 月に、あるカポエイラ闘士の逮捕が原因で、
ブラジルの政局が危機にさらされるという騒ぎまで起こりました。逮捕さ
れたのは、かの有名なカポエイラの猛者ジュカ・ヘイスでしたが、この青
(18)参照:CoelhoNeto,crônica“Onossojogo”,inBazar ,LivrariaChandron,deLelloe
IrmãosLtda.,Porto,1928,apudMagalhãesJúnior,op.cit.,p.136-138.
(19)出典:Código Penal Brasileiro , pelo Doutor Manuel Clementino de Oliveira Escorel,
Tipografia da Cia. Ind. de São Paulo, 1893, apud Luiz Renato Vieira, Da
vadiação à capoeira regional , tese de Mestrado para o Departamento de
SociologiadaUnB,1991.
J.M.ルゲンダス画
「カポエイラ格闘」(部分)
28
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
年は裕福なポルトガル人の息子でした。そして、そのポルトガル人は、時
います。しかし当時の人々の政治意識に関しては、選挙権をはじめ政治に
の外務大臣キンチーノ・ボカイウヴァ(QuintinoBocayuva)がジャーナ
参加する権利を保障する市民権が確立していなかったために、無関心やシ
リストだった時代に「国家」
(OPaiz)紙の編集長をしていた、新聞社のオー
ニズムが生じ、更に、権力や社会関係に対する「カーニバル化」〈バフチン
ナーだったのです。暴れ者のブルジョア青年が逮捕され、しかも流刑が迫っ
(露)が提唱した概念で、カーニバル時のように、普段のしきたりや上下
ていると聞くと、キンチーノ・ボカイウヴァ外相は、辞職すると言いだし
関係を無視して価値観をひっくり返すこと〉が生じる傾向があったと指摘
ました。自分が辞職するか、あるいは、ジャーナリスト時代以来の自分の
されています(注 21)。
パトロンの息子ジュカを釈放するか、二つに一つだと言うのです。もし、ジュ
いままで述べたことを踏まえて、カポエイラが社会に受け入れられるの
カを釈放すれば、こんどは、警視総監サンパイオ・フェハスを辞職に追い
が遅れた原因を考えてみようと思います。サンパイオ・フェハスのカポエ
やることになります。そこで、苦肉の折衷案がひねりだされ、「エリートの
イラ撲滅作戦は、リオの町からカポエイラが完全に消え失せてしまったと
場合は、フェルナンド・ヂ・ノローニャに到着後、即座に外国へ出国できる」
いう意味で、大成功でした。1883 年にリオデジャネイロに数か月滞在し
という例外をつくることで合意に達し、事態はようやく解決したのです。
たフランス人の旅行者が提供した、当時の警察統計によると、カポエイラ
このエピソードで、いかにカポエイラが様々な社会層に広まっていたか
をしている者は、リオ市民のうち二万人近くいたとされています。しかし
が分かります。事実カポエイラ界では、まったくちがう階層の人々のあい
その約二十年後、書籍『日本の体育』(EducaçãoFísicaJaponesa)の
だに親交がありました。ルイス・カルヴァリョは、カポエイラ界のような
序文では、サントス・ポルト海軍大尉(SantosPorto)が、「もう昔のこ
異なった社会層の交流は、以前から、宗教団体や相互援助機関には存在し
とになってしまったが、我々の間に、カポエイラという敏捷性を駆使する
ていたと指摘しています。当時のリオデジャネイロ市民は「自意識に目覚
体操があり、様々な家庭の子息たちの間で大流行りだった」と述べていま
める時代」にあり、人々はリオの町が、植民地時代・奴隷制時代の典型的
す。先ほど名前がでてきたリマ・カンポスは、1906年に書いた文献の中で、
な小都市から、近代国家の首都として、大都市に変貌していく過渡期を、
カンポス自身が昔はあったと考えている、「正統なカポエイラ精神」が失わ
身を持って体験していました。そんな中で、ちがう社会層の交流の場をつ
れてしまったと嘆いています。近頃のカポエイラ闘士たちは、「(カポエイ
くろうという活動が盛んになり、それを象徴するものとして、ルイス・カ
ラを)真の武芸として行わず、プロ意識もなければ規律もない。... 中略 ... カ
ルヴァリョは、リオで人気のある祭になった「フェスタ・ダ・ペーニャ」
(festa
ポエイラ武術家の名にふさわしい、プロ意識ある組織活動をするかわりに、
daPenha)や、著名な政治家たちのカンドンブレ祈祷所訪問、次第に向
上するサンバの社会的ステータス、そして〈ブラジルのエリート層のスポー
(20)参照:José Murilo de Carvalho,Os bestializados / O Rio de Janeiro e a República
ツとして始まった〉サッカーが貧困層に広まっていったことなどを挙げて
(21)参照:Carvalho,op.cit.,p.156-160.
quenãofoi,Cia.dasLetras,SãoPaulo,1987,p.179,nota25ep.155.
「カポエイラ格闘」
J.M.ルゲンダス(1802-1858)画
29
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
1930 年代以降から次第に、カポエイラと犯罪
性が結びつくイメージは薄れていきました。カ
ポエイラが、ゆっくりと社会的ステータスを向
上させ、社会の人々から受け入れられるように
なっていったのです。
カミソリやナイフを持ち出して、てんでに怒鳴りあっている「問題児」と
でも呼んだほうがよさそうだ」と述べています(注 22)。また、カルヴァ
リョは、1904 年の「防注射反対の暴動 *」で投獄された者たちについて
の、警察署長の手記を紹介しています。〈* 予防注射反対の暴動(Revolta
daVacina):地方から来た貧民の増加でスラム化が進んだリオの町の衛生
対策として行われた、天然痘予防注射の義務接種に対する反対暴動。〉この
1904 年の手記によると、暴力行為で逮捕された二千人のうち、カポエイ
ラで捕まったのは、たったの 73 人となっています。カポエイラ軍団で大
騒ぎした時代が過ぎると、カポエイラはすっかり鳴りをひそめてしまった
ようです。しかし、他の地域については、もうすこし調べてみる必要があ
ります。
バイア州では、カポエイラの取締りが激しくなったのは 1920 年代で
す。これは、通称ペドリットと呼ばれた警察署長、ペドロ・ヂ・アゼヴェー
ド・ゴルヂリョ(PedrodeAzevedoGordilho)による、カンドンブレ
やカポエイラの取締りが有名になった時期でした。リオデジャネイロと比
べて、サルバドールでは、「御主人様vs. 奴隷」(あるいは「白人vs. 黒
人」)という対立にもとづく社会階層が、ずっとはっきりしているという
特徴があります。今後、19 世紀のバイア州で、カポエイラが社会階層を
超えて、どの程度普及していたかを明らかにする研究が必要です。今の時
点では、バイア州で、カポエイラ軍団(malta)が存在したという証拠は
見つかっていません。ヘゴ(Rego)は、有力者に雇われていたカポエイ
ラ用心棒について述べていますが、これは、リオのカポエイラ軍団のこと
を言っているのではないかと思われます(注 23)。バイアに関しては、
1842 年から 1857 年まで英国副領事としてバイア州に駐在したウェザ
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
レル(Wetherell)が、サルバドールの下の町(cidadebaixa)でよく見
かける闘技について、「...(黒人達が)ひっきりなしに飛びあがったり手足
を振り回したりして、活発きわまりなく動き回り、その対決する様子は、
さながらサルのようだ ...」と描写している資料があります(注 24)。
4.
「カポエイラ学校設立」
-社会からの受け入れと新しいプロ意識
(1930
年以降)
1930 年代以降から次第に、カポエイラと犯罪性が結びつくイメージは
薄れていきました。カポエイラが、ゆっくりと社会的ステータスを向上さ
せ、社会の人々から受け入れられるようになっていったのです。こうして
カポエイラが三度目の変貌をなしとげる過程で、カポエイラは公式イベン
トに参加し、ブラジル大衆文化の代表として知られるようになり、また、
カポエイラの教授法ができて、
「アカデミーア」
(スポーツクラブや道場など
のトレーニング施設)でカポエイラのレッスンが始まるようになっていき
ます。
教授法が導入されてから、カポエイラは武術として発展していきました
が、その裏には政治的・思想的な背景がありました。1920 年代、30 年
代には、美意識も政治観もちがうインテリ達が寄り集まって、
「正真正銘の
ブラジル文化」として掲げることのできる、理想的な「ブラジリダージ」
(brasilidade:ブラジルの個性)と呼べる文化を探し出そうと、さかんに
議論していました。この議論の中心は、ブラジルの近代化と伝統の維持を
両立させるという点でした。こうして、産業発展に伴って社会と政治が変
化を遂げたこの時代に、今までと違った形のカポエイラが誕生する土壌が
(22)参照:Santos Porto, prefácio ao livroEducação física japonesa , Cia. Topográfica
Brasileira,RiodeJaneiro,1905;LimaCampos,apudDrummondeBandeira,
op.cit.,p.193.
(23)参照:Rego,op.cit.,p.315.
(24)参照:James Wetherell, Brasil: apontamentos sobre a Bahia 1842-1857, Ed. do
BancodaBahia.この文献で翻訳者が、カポエイラが存在したと記している。
J.M.ルゲンダス画
「カポエイラ格闘」(部分)
30
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
と、1937 年にビンバ師範の道場の経営権利が法的に認められたこと(ま
できていったのです。
1930 年の革命 * で、政府と一般民衆とのあいだに、新しい関係が生ま
だカポエイラ自体には偏見がありましたが)
、1939 年から 1942 年まで
れました。
〈*1930 年の革命:クーデターによりジェトゥリオ・ヴァルガ
ビンバ師範がサルバドール陸軍の予備武官養成所(CentrodeFormação
ス(GetúlioVargas)が政権を掌握し、その後、ヴァルガスの独裁により、
deOficiaisdaReservadoExército)で教官を務めたこと、そして、
統一国家ブラジル樹立の政策が推進される。
〉政界には新しいエリート層が
1953 年にジェトゥリオ・ヴァルガス大統領を前にカポエイラ披露のイベ
台頭し、ポピュリズムをアピールする演説やパフォーマンスで売り込んで、
ントが行われたことは、カポエイラが社会に受け入れられ、カポエイラの
政府への庶民の強制服従を正当化しようとしていました。このエリート達
社会的地位が向上したことを象徴する出来事として、紋章のように輝いて
は、愛国心の象徴をつくろうという目的で集められたモダニズムの識者と
います。その結果、たくさんの大学生グループがビンバ師範のカポエイラ
共に、ブラジル国家の「思想の基盤」を打ち立てようとしました。一方で、
を学ぶようになり、また、多くのサルバドールのエリート達がビンバ師範
政治の「浄化」が自分たちの使命だと信じてやまない軍部は、
愛国心の「再」
の弟子になりました。こういう状況から、
「ヘジォナウ流は特権階級向けの
構築のためは、国民動員が不可欠であり、国民教育こそ、それを達成する
カポエイラだ」などと言われるのも、全く根も葉もないとは言えないのか
手段だと考えたのです。そのためには、国民教育のなかに、軍隊式の規律
もしれません(注 26)
。
や階級制度を取り入れるべきだと考えて、体操の授業を学校教科とすると
いわゆる「ヘジォナウ流カポエイラ」出現の結果、誤った区別も出てき
いう提案がなされました。丁度この時、政府は、大衆文化の発展に力を入
ました。それは、昔からある伝統的な「アンゴラ流」と、純粋主義者が「カ
れようとしていました。こういう背景のなかで、カポエイラが、1932 年
ポエイラの没個性化」だと見なしている「ヘジォナウ流」という、二つのス
に設置された、特別警察の教育カリキュラムに加えられたことは、たいへ
タイルがあるという区別です。
「アンゴラ流」カポエイラという概念は、ビ
ん大きな意義があります。警察教育でのカポエイラは、二つの目的のため
ンバ師範の「ヘジォナウ流」誕生の結果、1941 年に、バスチーニャ師範
に役立つと考えられていました。一つ目は、プロの警察官育成に欠かせな
(MestrePastinha)ことヴィセンチ・フェヘイラ(VicenteFerreira)
い戦闘テクニックの向上のため、そして二つ目は、カポエイラはブラジル
を中心に、バイアに「アンゴラ流カポエイラ・スポーツセンター」
(Centro
文化として、愛国心の象徴になると見なされたのです(注 25)
。
EsportivodeCapoeiraAngola)が創立されたことから生まれたもので
このような時代に、
「効力」を重視した、新しいカポエイラが誕生しまし
す。また、
「アンゴラ」
(toquedeAngola)として知られているビリンバ
た。新しいカポエイラが生まれた時期は、1932 年にビンバ師範(Mestre
ウの「トッキ」
(toque)――それは、ジョゴ(本章表紙、p.21 参照)の
Bimba)が、最初のカポエイラの道場である、
「身体育成とバイアのヘジォ
やり方や速度を示すビリンバウのリズムや音色のことですが――この「トッ
ナウ(バイア地方の)カポエイラセンター」
(CentrodeCulturaFísicae
キ」が、
「アンゴラ流スタイル」のジョゴというものがあって、それを指し
CapoeiraRegionaldaBahia)を創立した時だとみなすことができます。
ているのだという見方がありますが、それも誤解です。色々なビリンバウ
すでに紹介した、クリスチアーノ・ジュニオルの写真を見ると、これ以前に
のトッキは、それぞれ色々なジョゴの種類を規定するために定められてい
も、カポエイラの教授法のようなものがあったのではないかと思いたくな
るだけで、ビリンバウのトッキが、カポエイラの流派そのものを表わして
りますが、この時まで、カポエイラを学ぶ場所は道路だったのです。道路
いるのではないことを、明らかにしておきたいと思います。
や広場に集まってカポエイラが行われるだけで、テクニックを習得するた
あちこちに、カポエイラのトレーニング施設ができたおかげで、カポエ
めの、きちんとした練習はありませんでした。言い換えれば、カポエイラ
イラと聞いて、浮浪者のイメージが浮かぶことは減っていきました。そし
をしながら技を覚えるのであって、現在のように練習して習得するという
て、今日のカポエイラ界の人々の実績のおかげで、
「カポエイラはろくでな
ことはなかったのです。
「効力」
を重視した新しいスタイルを打ち出すとき、
しやアウトローのものだ」という汚名は、次第に消えました。その一方で、
ビンバ師範は心の底で、それまでのカポエイラは、闘う手段としては不備
沢山の道場がつくられてカポエイラが広く普及したことから、
「師範」を名
があると考えていました。こうした考えをもとに、ビンバ師範は、闘士の
乗る人々が続々と現れ、本来のカポエイラが損なわれて、質の低下につな
育成を重視した教授法を採用したので、遊戯的要素の少ないカポエイラの
がるという事態も頻繁に発生しています。一方で、カポエイラは、生活手
スタイルができあがりました。また、カポエイラの教育制度が整い始めた
段のひとつになってきました。多くの道場やカポエイラ教室が開かれるこ
おかげで、カポエイラは浮浪者がすることだというイメージは薄れていき、
とによって、師範(または先生 / インストラクター)を職業として生活す
道端で行われることも次第に減っていきました。
ることができるようになったからです。
ビンバ師範はテクニックを重んじ、他の格闘技の動きを取り入れるほど、
長年のあいだ繰り返してカポエイラ教授法が使われてきたことからも、
カポエイラの闘技としての面を重視しました。また同時に、カポエイラを、
プラス面、マイナス面、両方の結果がでてきました。動きの繰り返しによ
アウトローなイメージから切り離すことにも尽力しました。ヴィエイラ
るトレーニングと、ブラジル内外で頻繁に団体交流があるおかげで、現在
(Vieira)が述べているように、ヘジォナウ流カポエイラ道場に入会するに
のカポエイラは、技術的にも競技的にも、想像を超える完成度を見せるよ
は、
「生徒」は、
(
「生徒」という呼び方からもカポエイラの「教育制度」が整っ
うになりました。その一方で、繰り返しが重視されるために、動きが自動
たことが感じられますが)
、学生であるか、仕事をしていることが条件だっ
的になったり機械的になったりして闘技のフォームが画一化し、個人技に
たので、仕事をしないでぶらぶらしている人や(あるいは失業者も?)除
個性が見られなくなる場合があります。
外されました。このほか、
ビンバ師範は、
それまでの庶民的な文化にはなかっ
世界中にカポエイラが普及したということも重要な点です。1966 年に、
た、入学試験・基礎コース・卒業式・専門コースなど、高尚な文化にみら
パスチーニャ師範とそのグループが、セネガルのダカールで行われた「ブ
れるフォーマルな面を取り入れました。このようなやり方でビンバ師範は、
ラックアート・フェスティバル」
(FestivaldeArteNegra)に参加したの
自分のカポエイラを教育活動として正当化し、同時に、カポエイラに軍隊
が、外国での初の、公式なカポエイラのデモンストレーションだと言えま
式の規則や階級制度も導入したのです。
1936 年 7 月 2 日にビンバ師範と弟子達が公式なイベントに参列したこ
(25)参照:Vieira,op.cit.,capítuloII.
(26)参照:Vieira,op.cit.,p.175.
31
Photo:LiliaMenezes
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
1966 年に、
パスチーニャ師範とそのグループが、
セネガルのダカールで行われた「ブラックアー
ト・フェスティバル」
(Festival de Arte Negra)
に参加したのが、外国での初の、公式なカポ
エイラのデモンストレーションだと言えます。
1970 年代から、ヨーロッパやアメリカ合衆国を
訪問するカポエイラ武術家は日々増え続けてい
ます。特に 1980 年代以降はその数が増し、外
国に長期滞在して教室や道場を開き、活動を続
ける人もいます。
カポエイラの変貌―
カポエイラの歴史をたどって
す。1970 年代から、ヨーロッパやアメリカ合衆国を訪問するカポエイラ
武術家は日々増え続けています。特に 1980 年代以降はその数が増し、外
国に長期滞在して教室や道場を開き、活動を続ける人もいます(注 27)
。
本論で述べたことを、まとめてみます。カポエイラは歴史を通して、様々
に異なった形に変貌し、偏見や弾圧を乗り越えてきました。帝政時代のベル
エポックに、1世紀近くものあいだ、カポエイラが消滅の危機にあったと
は、グローバル化した 21 世紀の世界にいる私たちにとっては奇妙に思え
るほどです。現在、カポエイラは外国でも大いに発展しています。しかし
同時に、カポエイラが持つ伝統と特性を維持していかなくてはなりません。
近年の研究で、ビリンバウの伝統的な様々のリズムには、カポエイラ軍団
(malta)より以前の、昔のカポエイラの伝統が反映されていると指摘され
ています。ですから、
ビリンバウの伝統的リズムや音色も、
特別な注意を払っ
て、大切に守っていかなくてはならないのです。
(27)例 えば、アコルデオン師範(Mestre Acordeon)のケースが挙げられる。アコルデオン師範
はバイア出身でビンバ師範の弟子だったがサンフランシスコに滞在し、1983 年にはカポエイ
ラ学習のためにアメリカ人弟子達をブラジルに連れて来た。同様の例は数えきれないほどあり、
益々増えている。
32
Photo:LiliaMenezes
ギリェルミ・フラザォン・コンドゥル
(GuilhermeFrazãoConduru)
外交官として長年勤務、カポエイラ武術家。1966 年リオデジャネイロ
に創立されたグルッポ・センザーラ(GrupoSenzala)のソヒーゾ師範
(MestreSorriso)
、
ガヒンシャ師範(MestreGarricha)の両師範に師事。
33
3. カポエイラ弾圧時代
フレデリコ・ジョゼ・ヂ・アブレウ
Frederico José de Abreu
カポエ
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た
いと思
動を監
視する
ように
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラが広まったのは、主に地域のあいだ
の奴隷売買が原因でした。また人々が別の地域
へ移り住んだ結果、広まった場合もありました。
サルバドール、リオ、ヘシフェでは、カポエイ
ラは黒人たちの日常生活の一部であり、黒人た
ちの習慣そのものであったので、労働するとき
も、
(警察沙汰の)騒ぎが起きたときも、また、
黒人たちの祭のときも、常にカポエイラが登場
していました。
「バトゥーキ」(batuque)という言葉は、当時、広い意味で使わ
れていて、黒人たちの民族的な表現活動のすべてを指していました。
黒人たちの民族表現は、ほとんどの場合、皆で集まって、打楽器を
叩きながら踊るというものでしたが、それを色々な種類に区別しな
いで、どれもバトゥーキと呼んでいたのです。打楽器とダンスに、
歌が加わる場合もありました。また、神聖な儀式でバトゥーキをや
る場合と、遊びでやる場合がありましたが、儀式と遊びを分けてバ
トゥーキをすることもあるし、一度にやる場合もありました。この
ように、サンバも、カンドンブレも、カポエイラも、また、その他
の黒人たちの踊りや遊戯も、それぞれ異なったものではありますが、
全て、バトゥーキという名前で呼ばれていたのです。
19 世紀のブラジル史に関して、今までに見つかっている文献に
は、当時ブラジルを訪問した外国人達の目を通して見たものや、そ
の人たちの印象を記した記録が、かなりあります。こういった記録
は、奴隷であれ、自由黒人であれ、解放奴隷であれ、また、アフリ
カ黒人であれ、クリオウロ(crioulo)と呼ばれるブラジル生まれの
黒人であれ、当時の黒人たちのしきたりや習慣を知るための、基本
的な資料になっています。その頃ブラジルにやってきた外国人たち
は、皆、ブラジルはアフリカに似ているという印象を受けたようで
すが、特に、サルバドールの町やヘシフェの町、そしてリオデジャ
ネイロの町の風景を目にしたとき、そう感じたようです。
〈共和国宣
言以前のブラジルは、
現在の「州」にほぼ相当する、
自治権のない「プ
ロヴィンシア」
(província)とよばれる地域に分けられていたので〉
サルバドールの町はバイア・プロヴィンシアに、ヘシフェの町はペ
ルナンブコ・プロヴィンシアに、そして、リオデジャネイロの町は
カポエイラ弾圧時代
リオデジャネイロ・プロヴィンシアに属していました。この三つの
港町では、人々の生活は活気にあふれ、1871 年に奴隷貿易が完全
に姿を消すまで、町は奴隷貿易によって発展しつづけました。です
から、この三つの町では、黒人が圧倒的に多く、黒人たちが町を活
気づけ、都市生活が機能していく上での重要なパワーになっていた
のです。
歴史研究によってわかっている範囲では、サルバドール、ヘシ
フェ、リオデジャネイロの三都市が、カポエイラが生まれ育った中
心地であり、19 世紀から 20 世紀の半ばまでのあいだに、この三
都市から、ブラジルのあちこちにカポエイラが広まったのです。カ
ポエイラが広まったのは、主に地域のあいだの奴隷売買が原因でし
た。また人々が別の地域に移り住んだ結果、広まった場合もありま
した。サルバドール、リオ、ヘシフェでは、カポエイラは黒人たち
の日常生活の一部であり、黒人たちの習慣そのものであったので、
労働をするときも、
(警察沙汰の)騒ぎが起きたときも、また、黒人
たちの祭のときも、常にカポエイラが登場していました。こういう
ことは、外国人による資料にも記されていますが、口伝えや、当時
の新聞や警察日誌、裁判の記録などによっても分かります。これら
の資料を見ると、カポエイラ弾圧時代が、カポエイラ史の中で、最
も厳しい逆境の時代であったことが伝わってきます。
19 世紀前半のブラジルは、独立運動や、反乱や闘争が勃発し、
社会的にも政治的にも激動の時代でしたが、1822 年、ブラジルが
独立してポルトガルの支配のもとから自由を勝ち得た時、その動乱
も頂点を迎えました。民衆の反乱が次々と起こりましたが、そのな
かには、バイア・プロヴィンシアでおきた「サビナーダ」
(Sabinada
「サビアーノの反乱」
、1837 年―1838 年)や、グラン・パラ・
36
「バトゥーキ」
J.M.ルゲンダス(1802-1858)画
プロヴィンシアでおきた「カバナージェン」(Cabanagem「川辺バ
容易なことではなく、黒人達は強硬に抵抗して、石塀の中や浜辺に
ラック住人の反乱」、1835 年 -1840 年)、そしてマラニョン・プ
集まってはアタバキやマリンバなどの打楽器を叩き続けました。こ
ロヴィンシアでおきた「バライアーダ」(Balaiada「籠作り人の反
れらの楽器は、
1716 年に公布されたサルバドールの町の法令によっ
乱」、1838 年―1841 年)などがあります。これらの反乱に先立
て禁止されました。法の力で、町なかでの黒人の生活に規制を設け
つのが「仕立屋の陰謀」と呼ばれる 1798 年にサルバドールで起こっ
ようとしたのです。しかし、すぐにアタバキやマリンバが鳴り始め、
た反乱で、この反乱には、下層階級の大衆層(すなわち奴隷たち)
これが鳴り始めると、バトゥーキの音楽やダンスが始まりました。
が悲願の自由をえようとして参加しました。奴隷たちは、反乱によっ
奴隷を使っている支配層の人々はジレンマに陥りました。バトゥー
て奴隷制度が廃止されることを期待して参加したのです。19 世紀
キは迷惑と不安の種ですが、自分たちは奴隷なしでは生活していけ
前半は、ブラジルの田舎でも都会でも、奴隷の反乱や暴動が相次き、
ません。また、奴隷達にとって、バトゥーキは欠くことのできない
不穏な世の中が、ますます不穏になっていました。特に 1807 年か
人生のよりどころなのです。奴隷に頼って生きている支配層の人間
ら 1835 年のあいだのバイアのみやこサルバドールの町での事態は
が、どうやって、奴隷にとって欠くことのできないバトゥーキを取
深刻で、サルバドールとその近くの町や村では、ひっきりなしに反
り上げることができるでしょうか。
支配層の人々が、バトゥーキに対してどんな迷惑や不安を感じて
乱がおこり、奴隷の暴動がない日はないというありさまでした。
サルバドールの町は、日々、黒人が暴動の陰謀をめぐらしている
いたかは、当時の新聞に寄せられた苦情を見るとわかります。
「アフ
ような雰囲気に包まれて、町の権力者や住民はピリピリしていまし
リカから来た色々な種族の黒人たちが大勢、男女入り混じってたむ
た。人種の違いによって、支配関係がほぼ決まっていたので、支配
ろして、ひどく不気味なアタバキの音にあわせて、ガヤガヤ喋った
層の人々は、奴隷の復讐が怖かったのです。そこで支配層の人々は、
り、おどったり、悪魔に魅入られたような歌をうたったりしている」
、
奴隷の反乱を抑えるには、反乱が起きる原因を絶ち切ればよいと思
「悪ふざけがやかましい」
、
「音楽と歌声がうるさい」
、
「野蛮な習慣」
、
いつき、反乱が起きる原因をつきとめようとしました。その結果、
「騒ぎが鳴りひびいて気分が悪くなる」
、
「ケンカ騒ぎ」
、
「破廉恥で
黒人達が集まってバトゥーキをやるから反乱がおきるのだ、という
モラルに欠ける」
、
「気味の悪い踊り」…。苦情は、黒人たちの文化
意見がでてきました。しかし黒人達にバトゥーキを止めさせるのは
的表現を、文明社会と呼ばれる色めがねで見て、侮辱しただけでは
37
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
エリート層のなかにも、バトゥーキの味方をす
る人がいました。聖職者のなかには、バトゥー
キは、
「素朴で無邪気な楽しみ」なのではない
だろうか、と考えた人々がいたのです。そうい
う聖職者達は、奴隷も神の息子であることに変
わりないのだから、休息したり楽しんだりする
権利があるのではないかと述べています。
ありませんでした。支配層・被支配層の関係が逆転してしまうとい
う非難の声まであがったのです。つまり、奴隷達は「何時でも何処
でもやりたい時に」バトゥーキを始めて、これが始まると――もち
ろん一時的なのですが――バトゥーキが行われている場所に「我物
顔でのさばっている」というのです。また、許可がおりれば、黒人
たちは、町中で行われるカトリックの行事や祭に参加するのが習慣
になっていました。黒人たちが祭や行事に参加するときは、その中
心から遠ざかったところにいたのですが、それでも、例の苦情によ
ると、
「黒人の音楽や歌がうるさくて、肝心のものが何ひとつ聞こえ
ない」という事態が発生するのでした。
新聞の苦情をよく見てみると、奴隷の人生にとっての、バトゥー
キの根本的な価値がわかってきます。また、バトゥーキが、どんな
に奴隷たちの心を活気づけたかも、わかってきます。外国からブラ
ジルを訪れた人々も、それに気づいて述べています。外国人の年代
記執筆家たちは、奴隷たちが、無理やりに働かされ辛い重労働を終
えたあとに、バトゥーキに乗って生き生きと活気づく様子を見て、
目を見張っています。目の前にいるのが奴隷だとは、とても信じら
れませんでした。年代記執筆家の記したことによると、バトゥーキ
に対する黒人たちの様子を見ると、バトゥーキは、黒人にとっての
喜びの源であり、不幸な人生に打ちのめされた身体に、再び命を吹
き込む役目をしていることがわかったそうです。バトゥーキの様子
を目の当たりにした年代記執筆家のひとり、画家であるルゲンダス
(Johann Moritz Rugendas)は驚愕して、こう書いています。
「我々は、自分達の目の前にいるのが奴隷であるのだと、自分自身
に言い聞かせたが、とうてい信じることはできなかった」…。これ
カポエイラ弾圧時代
を見ると、
バトゥーキ(つまり、
カポエイラ、
サンバ、
カンドンブレや、
黒人たちの楽しみ)は、奴隷たちにとって、奴隷制度によって奪わ
れた人間性を取り戻してくれる時間だったのではないかと思えるの
です。
エリート層のなかにも、バトゥーキの味方をする人がいました。
聖職者のなかには、バトゥーキは、
「素朴で無邪気な楽しみ」なので
はないだろうか、と考えた人々がいたのです。そういう聖職者達は、
奴隷も神の息子であることに変わりないのだから、休息したり楽し
んだりする権利があるのではないかと述べています。また、奴隷を
使っていた領主であっても、奴隷たちがバトゥーキをしながら悲惨
な運命をしばし忘れて、束の間の楽しみで不幸を覆い隠そうとして
いるのだと理解した人たちがいました。
先ほど述べた、黒人達からバトゥーキを取り上げたいが、それが
できないというジレンマは、当時の歴史的状況を考えると、深刻な
問題でした。日々黒人たちの反乱が相次ぐなか、奴隷制度を経済の
基盤とする当時の支配層は、黒人が大勢集まるような活動や、領主
や警察の目が届かないところでの黒人の集まりを、全て止めさせよ
うとしました。バトゥーキは、
この規制の対象になりました。バトゥー
キの時は必ず黒人たちが沢山集まるので、支配者側から見ると、反
乱の陰謀を練っているように見えて、当時バイアの至る所で起きて
いた奴隷暴動の原因になると思われたからです。
そこで、役人、聖職者、警官、領主、議員、それに庶民も加わって、
バトゥーキについて様々な意見を交わしました。バトゥーキ禁止か
許可か意見を出すことなら、誰にでもできました。しかし、寄せら
れる苦情と事態の深刻さ、日常茶飯事になっているバトゥーキと黒
人暴動との関連など、全ての状況をふまえて、禁止か許可かの決定
38
Capoeira
A repressão à capoeira
「黒人の格闘」 オーガスタス・アール画
(AugustusEarle,1793-1838)
を下すのは植民地政府でした。1767 年に、カラボウソ (Calabouço)
警察にも規制を緩めるように申し入れました。アルコス伯のやり方
と呼ばれる、公の奴隷仕置き場ができてから、領主は自分で奴隷を
は、場合によって、バトゥーキを許可したり、規制したりするとい
処罰しなくなっていました。また、町なかでの黒人の行動を取り締
うものでしたが、伯は、このやり方で、二つの対立する意見の両方
るのも、奴隷主の仕事ではなくなり、公の機関、つまり植民地政府と、
を聞き入れようとしていたのです。すなわち、規制するのは、町の
その傘下の警察の仕事になっていました。
権力層が送ってくるバトゥーキに対する苦情緩和のための対処であ
町の権限を使って、町なかでの人々の行動を規制する法律を作り
り、許可のほうは、聖職者や、何人かの奴隷主たちの意見に気を使っ
ましたが、バトゥーキには効果がありませんでした。見張りや規制
てのことでした。アルコス伯は、バトゥーキをしてよい時と場所を
手段を使っても、バトゥーキ問題は、町の支配層の力の及ぶところ
定めたので、かつての苦情に寄せられたように、いつでもどこでも、
ではありませんでした。禁止しても、バトゥーキ連中を逮捕しても、
バトゥーキが出来るわけではなくなりました。その代わり、奴隷達
バトゥーキを根絶やしにすることができません。警察活動を充実さ
に、楽しみや祭の機会が保障されました。聖職者や領主が、どの人
せ、バトゥーキ弾圧に効果をあげて、町の人々の不安を取り除くに
間にとってもそうであるように、奴隷達にも楽しみや祭の機会が必
は、新しいやり方が必要でした。
要だと意見したからです。しかし奴隷の楽しみや祭は、すべて監視
付きでした。
最初に事態に立ち向かったのは、1804 年から 1808 年までの
間、バイアの行政官を務めた〈第六代〉ポンチ伯爵(Conde da
バトゥーキで黒人が集まるから、奴隷暴動が起きるのではないか
Ponte)でした。ポンチ伯のやり方は、バトゥーキを止めさせると
という警告に対しては、アルコス伯は、こういう不安自体を和らげ
いうより、警察の実力行使でバトゥーキ壊滅させてしまう、という
る対処法をとりました。つまり、黒人奴隷たちのルーツは、アフリ
ものでした。たいへん過激な策でしたが、伯爵によれば、これが問
カ大陸の様々なちがう種族からきているのだから、バトゥーキで集
題解決の唯一の方法で、バトゥーキ連中を消して、奴隷が共謀でき
まっても互いに理解し合えないだろうし、また、ブラジルの奴隷制
る機会を無くすしかないというのです。しかし、この策は無駄に終
のもとで生きる苦しさから、集まればケンカが起きる可能性のほう
わりました。バトゥーキは、相変わらず何事もないかのように続き、
がずっと大きいと強調したのです。しかし結果的には、アルコス伯
迷惑だという苦情も相変わらず後を絶ちませんでした。奴隷の反乱
の策はポンチ伯の策と同じでした。相変わらずバトゥーキは続き、
も、ポンチ伯がバイアを治めている間じゅう続いていました。
奴隷を使用する人々を騒音で悩まし、反乱の不安を与え続けまし
た。奴隷制度を基盤にしていた当時のブラジル社会は、黒人奴隷の
ポ ン チ 伯 爵 の 後 を 継 ぎ、1808 年 か ら 1818 年 ま で の 間 に バ
イア行政官となったのは、〈第八代〉アルコス伯爵(Conde dos
労働なしには成りたちませんでした。一方、黒人奴隷たちにとって
Arcos)でした。アルコス伯は、ポンチ伯より柔軟な政策を取り、
は、バトゥーキは、生き抜いていくために無くてはならないもので
39
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラの弾圧には様々な段階があり、はじ
めは単なる禁止でしたが、やがてムチ打ちの刑
に処されるようになり、とうとう国の問題に発
展して、ついに 1890 年には、国家の刑法によっ
て処罰されるようになりました。
した。だから、規制などないかのようにバトゥーキは続き、人々の
苦情も続いていったのです。新聞に苦情が殺到しようと、町の規則
で禁じようと、警察の追撃でひどい痛手を受けようと、バトゥーキ
の歴史の流れを止めることはできませんでした。バトゥーキの歴史
は、ブラジルのシンガーソングライター、カエターノ・ヴェローゾ
(Caetano Veloso)の言葉を借りれば、
「起こるべくして起こる
物事が秘めている、信じられないパワー」によって、先へ推し進め
られていきました。
先ほど紹介した「苦情」の中に、バトゥーキは野蛮だと見なすも
のがありましたが、この偏見は、19 世紀全般と 20 世紀のかなり
の時代を通じて、支配層のあいだに広く根付いており、今でも完全
に無くなったとはいえません。カポエイラやサンバ、カンドンブレ
などは、エリート達が、自分たちの目から見て「文明国」だと思い
込んでいる国々の習慣ややり方とは違っていたので、エリート達に
とっての「理想の文明社会」をぶち壊すように思えたのです。この
偏見から、町の一等地からバトゥーキを追い出したり、バトゥーキ
を禁止したりする案が出されました。その案は、うまい言い回しで
力説され、進歩的だとして支持を受けましたが、実行に移すことが
できませんでした。なぜならエリート達が理想とする文明化は、ブ
ラジルに深く根付いた社会や経済の特色にそぐわなかったので、実
現の可能性が低かったのです。実際、当時ブラジルの主要都市で起
こっていた、経済成長や近代化、都市生活レベルの向上などは、最
も時代遅れな労働システム、つまり、奴隷制度のおかげで成り立っ
ていたからです。
(19 世紀の)その時期に、ブラジルを訪れた外国
人の中には、奴隷制度は残酷だと考える人がいました。ブラジルの
カポエイラ弾圧時代
エリート層は外国の人達に、ブラジルにも、ヨーロッパ化された社
会の理想図があることを見せつけて、良い印象を与えようとしてい
ました。しかし奴隷制度があるということだけで、そんな見せかけ
をぶち壊すのに十分だったのです。
ここまでざっと述べてきたバトゥーキ弾圧のプロセスをみると、
様々な黒人たちの表現活動が、どのような方針で規制されていった
のかが分かります。ここで注意すべきことは、バトゥーキという名
で呼ばれていた、様々な黒人たちの表現活動の一つ一つが、それぞ
れ違った環境に置かれており、弾圧に対する抵抗の方法も、それぞ
れ違っていたということです。こういう理由から、黒人たちの色々
な表現活動は共通点が多いにもかかわらず、それぞれ独自の歴史を
歩むことになり、カポエイラも独自の道を歩んでいきました。カポ
エイラは、19 世紀より前からブラジルで行われていたという情報
があります。その頃から規制を受けていたという情報もありますが、
昔のカポエイラ弾圧については、わずかに暗示されているだけです。
また、この頃の歴史の調査・研究・報告は、主に年代史や警察記録
などに基づいているので、その資料を分析するときは、警察の特殊
言葉や、語り手の偏見、曲解した解釈などを、極力、排除しなくて
はいけません。昔のカポエイラの歴史が、ねじ曲げて伝えられる可
能性があるからです。この点に注意しながら資料を調べてみると、
色々なことがわかってきます。カポエイラをしていた人達が、どん
な事を感じていたか、儀式・社会活動・習慣にはどんなものがあっ
たか、互いにどのように接していたか、また、スラングや、都市の
地理についての情報、使っていた武器、生物学的データ、皮膚の色
や民族学的情報、着ていたもの、職業、仲間同士のケンカ、警察相
手の闘争の記録、どんな場所でカポエイラしていたか、そのテクニッ
40
カポエイラ弾圧時代
そこでカポエイラをやるのが楽しみだったのです。
クなどがわかってくるのです。
カポエイラの弾圧には様々な段階があり、はじめは単なる禁止で
カポエイラをしていたエリート層は、内心、カポエイラは健全な
したが、やがてムチ打ちの刑に処されるようになり、とうとう国の
運動であり、優れた格闘術だと気付づいていました。それを身体で
問題に発展して、ついに 1890 年には、国家の刑法によって処罰
感じとったのです。そして自分達が危険分子だと思われるのは、カ
されるようになりました。カポエイラを犯罪として定める法律が発
ポエイラをする人のなかに、不良じみて見える人(黒人のチンピラ、
せられる前後、すなわち 19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけて、
浮浪者など)がいるせいだと思っていたようです。
カポエイラ闘士と警察のとの間に激しい闘争が頻繁に起きていたの
リオデジャネイロやヘシフェ、サルバドールのカポエイラ闘士た
で、この時期を、カポエイラ動乱期と呼ぶことができるでしょう。
ちは、警官を巻くために、足跡を消したり偽装したりと、抵抗の策
特に、リオデジャネイロの町、ヘシフェの町、サルバドールの町では、
略を練りました。カポエイラをするのも、ひと気の無いところを選
弾圧と闘争が続きました。
び、町中でする時は、警察の見張りが手薄の時をねらってやるなど、
この三都市のカポエイラの伝統は、形式面でも、闘士の行動の面
時と場所を見計らっていました。この方法は昔のバイアでも盛んに
でも、たいへんよく似ていました。この三都市でカポエイラをして
使われていましたが、昔のバイアのカポエイラ闘士の場合は、警官
いた人々は、町なかで働く労働者(例えば、荷物運搬人、荷車引き、
と個人的に話をつけて、「ヴァヂァソン」(vadiação)をやらせても
屋台や青空市場の物売り、清掃人など)であるか、または波止場の
らうという手も使っていました。
「ヴァヂァソン」という言葉は、
〈本
労働者(船積みや、倉庫の労働者、貨物運搬ボートの漕ぎ手など)
来は「フーテン、無職放蕩」という意味でありながら、
「遊び」とい
でした。カポエイラをしていた人のなかには、波止場で釣った魚で
うニュアンスで〉カポエイラと同じ意味で使われていたのです。警
生計を立てている人や、使い走り、日雇い労働者などがいましたが、
察に追われたカポエイラ闘士と警官のあいだで、一対一の直接対決
この人たちは、定職のない浮浪者だと見なされていました。一方で
になることもありましたが、こうなると、カポエイラ闘士のほうが
カポエイラをする人たちは、たいへんな祭り好きだったことも分かっ
有利でした。町中の地理をずっと良く知っていたし、身体で直接ぶ
ています。矛盾のように思えますが、バイアやリオデジャネイロで
つかりあう対決なら、カポエイラ闘士のほうが、ずっと強かったか
は、祭のときカポエイラがはじまると、怖いと思う人達もいたので
らです。このような、カポエイラ弾圧の歴史があったおかげで、人々
すが、そういう人達でさえ、カポエイラはサンバ同じく、
〈カトリッ
の想像もたくましくなり、
「カポエイラ闘士は超能力の持ち主で、警
クの〉祭の、宗教とは関係のない、いわゆるお祭りの楽しさの盛り
察につけ狙われると、棒きれや植物や動物に変身した」などという
上げ役だ、と感じていたのです。たとえ騒動の種になっても、祭を
作り話や伝説も生まれました。
歴史資料によると、カポエイラがらみの乱闘騒ぎが最も頻繁で激
活気づけていると思われていたのです。
バイア、リオデジャネイロ、ヘシフェの町では、カポエイラの弾
しかったのは、リオデジャネイロの町です。19 世紀のリオデジャ
圧が行われましたが、その厳しさの度合いは町によって異なり、リ
ネイロでは、ブラジルのどこよりも、カポエイラが人々の日常生活
オデジャネイロが最も厳しかったのです。町の法令で禁止され、闘
に入り込み、何かにつけ影響を与えていました。当時のリオの新聞
士たちは警察に追われて牢屋に投げ込まれました。処罰のやり方は、
には、
「カポエイラ軍団」
(malta:本書 2 章 - 2参照)のニュース
その場で好きなように決める場合もあり、拷問されたり、苦役を課
がよく載っています。張り争いが原因で乱闘さわぎになったり、ま
されたり、流刑になるなど様々でした。なかには、強制的に陸軍や
た、警察相手の事件も多かったからです。新聞のニュースでは、リ
海軍に入隊させるという刑罰もありましたが、この処置は、ブラジ
オのカポエイラ闘士は、政治にも首を突っ込んでいると厳しく批判
ルの植民地時代からあったようです。この当時、職業としての軍隊
しています。これは、カポエイラ闘士たちが、奴隷解放(1888 年)
組織が無かったので、町中でうろついている人を連れてきて兵士に
や共和国宣言(1889 年)に深く関係していたからです〈本書 5 章
してしまうことがよくありました。不良や、職を持たない者、犯罪
参照〉
。ですから、共和国の刑法でカポエイラが犯罪として指定され
者などが徴兵されることが多かったのです。このような状態でした
たのも、こういう、リオデジャネイロのカポエイラ闘士の行動が大
から、当時の陸軍と海軍は、さながら少年院のような状態で、逃亡
きな原因になっていました。
した黒人奴隷たちも、捕まるとそこに入れられました。これが当時
刑法でカポエイラが犯罪として指定されると、つぎつぎとカポエ
の、いわゆる「軍隊に入る」やり方だったのです。当時の政府は「祖
イラ取締りの警察指令が出され、リオデジャネイロの主なカポエイ
国の志願兵部隊」の分遺隊を結成しようとして、兵士を集めていま
ラ闘士たちは牢屋に投げ込まれて、流刑地だったフェルナンド・ヂ・
した。こうして軍隊に入れられたカポエイラ闘士たちは、パラグア
ノローニャの島に追放されました。この処置が決定的な原因になっ
イ戦争(1864 年―187 0年)では、祖国ブラジルのために、大
て、リオ伝統のカポエイラは継続の力を失い、事実上、消えうせて
いに戦ったということも記しておきます。
しまいました。かろうじて弾圧をまぬがれた人たちは、サンバやカー
警察は、カポエイラ闘士といえば、「乱暴なトラブルメーカーで、
ニバルの気ままな騒ぎに逃げ込んで生き延びました。ペルナンブコ
職を持たずにうろついている連中」というイメージを持っていまし
州では、同じ時期にカポエイラが消滅していきましたが、その特質
た。このイメージにもとづいて、警察のカポエイラ取締りが行われ
の一部は、ペルナンブコ文化のひとつ、フレヴォのダンスの力あふ
ていたのです。しかし、このイメージには、黒人以外の人、つまり、
れるステップの中に溶け込んでいきました。しかし、なぜ、ペルナ
貴族や警察官、エリートや学生などは入っていなかったので、当然、
ンブコのカポエイラが、このような過程を踏んでいったのかの理由
警察のイメージにあてはまらないカポエイラ闘士もいました。また、
については、まだあまり研究が進んでいません。
家庭や学校の権威主義に反抗した若者達もカポエイラをやっていま
一方バイアのカポエイラは、他の土地と比べて、大きな勢力を保っ
した。こういう若者達にとって、道端が、自由になれる場所であり、
ていくことができました。19 世紀には、バイアでも、カポエイラ
41
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラの社会的地位を逆転させた、歴史上
の立役者として活躍した人物があります。それ
は、はじめて職業としてカポエイラと向き合っ
た、ビンバ師範です。ビンバ師範は、公式に、
カポエイラ教育の権利を勝ち得た人物であり、
カポエイラの教訓を教えた先駆者でした。かつ
て「社会悪の根源」だとされたカポエイラが「社
会悪の解決手段」に変わる、そういう意味での
「過去の歴史へのリベンジ」のために、ビンバ
師範の教えは、これからも役立っていくことで
しょう。
がリオの場合と同じ扱いをうけて、壊滅寸前になった時もありまし
た。しかし、バイアのカポエイラ闘士たちは、武芸として、エンタ
テイメントとして、また(遊んだり、ふざけたり、楽しんだりする)
息抜きの機会として、同時に、護身術としての性質もそこなうこと
なく、カポエイラを守り続けることができました。それができたの
は、バイアのカポエイラ闘士たちが、カポエイラが社会に役立つよ
うな活動を続けてきたからです。バイアのカポエイラ闘士たちは、
カポエイラをすることによって、バイアの祭が人々の親睦の場にな
り、カポエイラがバイアの人々の楽しみと喜びになるように努めて
きたのです。
このような活動がはじまったのは、とおい昔の師範たちのおかげ
です。その人達は、まったく無名のまま世を去ってしまいましたが、
その人達のおかげで、1930 年以降、文明化された武芸としてのカ
ポエイラを編み出す師範が登場したのです。1930 年代以降の師範
たちは、カポエイラの形式やふるまいの様式を変えました。フォー
ムを磨き、カポエイラ動乱期にも続けてきた、社会に役立つ面を強
化し、教育価値を高め、カポエイラが、ブラジルのシンボルの代表
になるようにしてきました。こうして、刑法で犯罪だとされたカポ
エイラが、変貌していく基盤がつくられました。カポエイラの社会
的地位を逆転させた、歴史上の立役者として活躍した人物がありま
す。それは、はじめて職業としてカポエイラと向き合った、ビンバ
師範(Mestre Bimba)です。ビンバ師範は、公式に、カポエイラ
教育の権利を勝ち得た人物であり、カポエイラの教訓を教えた先駆
者でした。かつて「社会悪の根源」だとされたカポエイラが「社会
悪の解決手段」に変わる、そういう意味での「過去の歴史へのリベ
カポエイラ弾圧時代
ンジ」のために、ビンバ師範の教えは、これからも役立っていくこ
とでしょう。
フレデリコ・ジョゼ・ヂ・アブレウ
(FredericoJosédeAbreu)
経済学者。ジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範の道場(AcademiadeJoãoPequenodePastinha)、ビン
バ師範財団(FundaçãoMestreBimba)、およびジャイール・モウラ研究所(InstitutoJairMoura)の創立メンバー。
著書:BimbaéBimba:acapoeiranoringe(『ビンバはビンバだ:リング上のカポエイラ』)、OBarracãodoMestre
Waldemar(『ヴァルデマール師範の小屋で』)、Capoeiras:BahiaséculoXIX(『19 世紀バイアのカポエイラ』)。
42
4. 詩「カポエイラ闘士」
オズワルド・ヂ・アンドラーヂ(1890-1954)
Oswald de Andrade
「オマワリさん、何をひろってるん?」
-QUÉ APANHÁ SORDADO*?
「なんだって?」
-O QUÊ?
「何を拾ってるのさ?」-QUÉ APANHÁ?
... 道路にころがっているのは
カポエイラ闘士の生首やちょん切れた足
PERNAS E CABEÇAS NA CALÇADA
〈* SORDADO:本来のスペルは SOLDADO(「兵士」
、
「軍
警察の警官」の意味 ) だが、意図的に庶民の発音に従った
スペルを用いている〉
43
5. グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)
政治舞台に登場したカポエイラ
カルロス・エウジェニオ・リバノ・ソアーレス
Carlos Eugênio Líbano Soares
、
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ていな
れ
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研究
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です。
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令に感
対して
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)が活動したの
は、1888 年 5 月 13 日から 1889 年 11 月 15 日ま
でという、たいへん短い間でした。しかしそれ
以前からグアルダ・ネグラは、ブラジル文化に
深く根付いた活動をしていました。その活動が
カポエイラなのですが、カポエイラと政治に関
する史実も、近年になってようやく少しずつ明
るみに出てきました。
君主制を守ろうと立ち上がった黒人達は、何世紀も続いた奴隷制度のせい
で身にしみついてしまった、
服従心にあやつられていたのでしょう。だから、
奴隷廃止令「黄金法」
(注1)よりずっと前から、君主打倒が叫ばれていた
という事も、共和主義者も奴隷制度の恩恵を受けていたという事も、また、
それ自体が君主政体の結果だったいう事にも、気が付きませんでした。
黒人たちは、前時代的な(当時の言い方をすれば)
「素朴な」感情にあや
つられていたので、共和制という近代国家の到来によって罰せられたので
す。グアルダ・ネグラは、
君主制の崩壊とともに消滅する運命でした(注2)
。
そして、
その運命がやってきたのは、
1889 年の 11 月 15 日、
共和革命によっ
て、帝国政府が砂上の楼閣のごとく崩壊したときでした。以上が、20 世紀
が終わる前後に、ブラジルのインテリたちの大半が、唯一の真実だろうと考
えていたことです。
しかし、違う見方もあります。それは、黒人記者ジョゼ・ド・パトロシニ
オ(JosédoPatrocínio)が主幹だった新聞『リオの町』
(CidadedoRio)
の記事に書かれていました。ジョゼ・ド・パトロシニオは、熱烈な奴隷制廃
止論者で、グアルダ・ネグラの活動は、奴隷から解放されたばかりの黒人達
の、政治意識の現れであると解釈していました。何世紀ものあいだ服従を強
いられた、もと奴隷だった人々は、はじめて意見を公表できるようになり、
奴隷廃止で政治論が白熱するなか、自分たちの意見をはげしく力説しました
が、その内容自体は、奴隷解放令に賛成を唱えるというものでした。一方、
その陰では、帝政国家の大黒柱だった領主たちが、
〈奴隷解放によって、奴
隷という〉財産を奪われたうえ、何一つ補償されないことで、帝国政府への
恨みをつのらせていました。同時に、共和主義者たちは、
「救い主イザベル
皇女」というイメージができたおかげで、突如、帝国政府の人気が上昇して
グアルダ・ネグラ
(黒人護衛隊)
-政治舞台に登場したカポエイラ
きたことに対し、猛烈に腹を立てていました(注3)
。
こうして対立意見が渦巻く状況は、11 月 15 日の共和国宣言で、全て一
気に飲み込まれてしまいました。共和国の登場で、それまで白熱していた議
論は、消し飛んでしまったのです。共和制の新政府は、
「そんな議論はもう
過去のものだから、博物館にでも送り込んだほうがよい。新政府には、もっ
と他に議論すべき新しい問題が山とある」と言わんばかりに、公民権問題、
政治の近代化、移民政策、連邦制度などの討論に明け暮れました。
奴隷解放と共和国宣言の 100 周年をむかえた、1980 年代のおわりに、
新しいブラジルの歴史編纂が行われました。その結果、
いままでの歴史では、
予想していなかった、新しい問題や、新しい歴史的証拠がでてきました。そ
して、新しい証拠が指し示す出来事は、思いがけない方向に展開したのです。
グアルダ・ネグラも、この歴史再調査の対象になり、現在も続いています。
グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)が活動したのは、1888 年 5 月 13 日(奴
隷解放令施行)から 1889 年 11 月 15 日(共和国宣言による帝政崩壊)
までという、たいへん短いあいだでした。しかしそれ以前からグアルダ・ネ
グラは、ブラジル文化に深く根付いた活動をしていました。その活動とはカ
ポエイラですが、これに関する史実も、近年になってようやく少しずつ明る
みに出てきました。
カポエイラについて、長年、真実だとみなされてきた解釈は、カポエイラ
はアフリカからブラジルに入ってきて、植民地時代の始めに奴隷小屋で盛ん
(1)
「黄金法」(LeiÁurea「レイ・アウレア」)が 1888 年 5 月 13 日に署名され、ブラジルの奴隷制度が廃止された。
(2)当時の白人達の間に潜在したグアルダ・ネグラに対する反感については、フイ・バルボーザ(RuiBarbosa)
が、1889 年に新聞「ヂアリオ・ヂ・ノチシアス」(DiáriodeNotícias)に執筆した記事参照。BARBOSA,
Rui.CampanhasJornalísticas.Império(1869-1889).ObrasSeletas,v.6,RiodeJaneiro:CasadeRui
Barbosa,1956(principalmenteoartigointitulado“Aárvoredadesordem”publicadoem18deagosto
de1889),pp.189-192.
(3)イザベル皇女に対し“Louramãedosbrasileiros”(ブラジル人の母なる、金髪の白人女性)というイメージが
できたことについては以下参照。SCHWARCZ,LiliaMoritz.“Dosmalesdadádiva:sobreasambigüidades
noprocessodaAboliçãobrasileira”inGOMES,FláviodosSantos&CUNHA,OlíviaMariaGomesda.
Quase-cidadão:históriaeantropologiasdapós-emancipaçãonoBrasil,RiodeJaneiro:Ed.FGV,2007.
46
になり、パウマーレスのキロンボ * に受け継がれ、その後、黒人文化のシン
ては、研究者達の間でまだ意見が分かれていますが)様々に変わってきまし
ボルになっていったというものです。
〈* キロンボ(quilombo)は逃亡奴隷
た。カポエイラと政治との関係についての研究は、最近、注目され始めたば
の部落のことで、パウマーレス(Palmares)は、北東部の奥地にあったキ
かりです。
ロンボの大集落〉しかし次第に、カポエイラは、ブラジルではじまった奴隷
以前の私の研究(注4)は、19 世紀の終りに、カポエイラに対する世間
の文化として、解釈しなおされるようになりました。カポエイラは、アフリ
の見る目が変わったのは、パラグアイ戦争が重要な原因になっていることを
カから来た黒人や、
(ブラジル生まれの黒人である)クリオウロ(crioulo)
示したものです。19 世紀のブラジルで最も大きな戦争だったパラグアイ戦
が、都市で始めたもので、植民地時代のおわりに、町や村で行われていたと
争は、5 年以上におよび、さまざまな変動をもたらして、結果的に君主制を
いうことが明らかになってきたのです。また、カポエイラは、領主や奴隷制
崩壊させることになりました。
度に抵抗する手段だったと見なされていましたが、次第に、都市の奴隷社会
パラグアイ戦争はブラジル社会の人々に大きな衝撃を与え、それは何十年
内部のケンカや紛争を取り押さえる手段だったと見なされるようになってい
も消えませんでした。一方、リオの町に住んでいた黒人や貧しいパルド〈黒
ます。同時に、
「ヴァヂアージェン」
〈vadiagem:本来は「フーテン、浮浪者」
人と白人の混血の人〉や、カポエイラをやっていた人々にとって、パラグア
などの意味〉とよばれた、奴隷たちの苦役の気晴らしのための格闘ごっこと
イ戦争と聞いて思い出すのは、歩兵大部隊の兵士の「かき集め」でした。軍
しての解釈から、町なかでの、奴隷や黒人の闇商売に欠かせなかった、脅し
隊は、母国の義勇兵を集めるために、町をぶらついている人を狙ったり、長
の手段として解釈されるようになっています。カポエイラは、屋台の物売り
屋に押し入って来たりして、黒人やパルドを無理やり連れて行き、兵士にし
や「小銭かせぎの黒人」
(ネグロ・ヂ・ガニョ=negrodeganho:物売りや、
ていたからです。兵士のかき集めで捕まったカポエイラ闘士達は、縛りあげ
その場で見つけた仕事で、はした金を稼ぐ事が許されていた奴隷)が不正な
られ、いくつもの部隊に分けられたあと、ブラジル帝国陸軍の軍服をきせら
商売をする上での、闇のパワーそのものだったのです。
このように、歴史研究の上でカポエイラが持つ意味は(その意味につい
(4)参照:SOARES, Carlos Eugênio Líbano. A negregada instituição: os capoeiras na
CorteImperial1850-1890, RiodeJaneiro:Ed.Access,1994.
47
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
一対一の戦いでは、銃は点火に手間がかかるの
で、一度ドンと火を噴いたあとは、ろくに役に
立たなくなります。そうなると、はるか遠くリ
オデジャネイロの町でならしたカポエイラ攻撃
が、ブラジル軍の黒人兵士達の強力な武器にな
りました。そして、リオだけでなくヘシフェや
サルバドールから連れて来られた黒人カポエイ
ラ兵士達も大活躍でした。カポエイラ兵士達は、
戦場の伝説になったのです。
れて、パラグアイ戦争の戦場に送りだされました。
一対一の戦いでは、銃は点火に手間がかかるので、一度ドンと火を噴いた
あとは、ろくに役に立たなくなります。そうなると、はるか遠くリオデジャ
ネイロの町でならしたカポエイラ攻撃が、ブラジル軍の黒人兵士達の強力な
武器になりました。そして、リオだけでなくヘシフェやサルバドールから連
れて来られた黒人カポエイラ兵士達も大活躍でした。カポエイラ兵士達は、
戦場の伝説になったのです。
戦争が終わり、凱旋兵として故郷に戻ったカポエイラ闘士達は、熱狂的に
迎えられました。リオを出たときは、人間のクズのように扱われ、無理やり
悪名高き陸軍にぶち込まれたのに、戻ってきたら英雄扱いです。じゃらじゃ
ら勲章をつけている者もいるし、
軍隊に入って「血肉の奉仕」をするからと、
奴隷から解放された者も大勢いました(奴隷は軍隊に入ると奴隷の身分から
解放されたのです)
。しかし軍隊を離れると、再び、リオの町をうろつく生
活に戻ってしまい、戦争に行く前の縄張りを取り戻そうとする者もありまし
た。
その頃のリオデジャネイロの政界のエリート達の多くは、パラグアイ戦争
のときの将校で、黒人カポエイラ兵士達の戦場での物凄い戦いぶりを見て、
あるたくらみを企てていました。リオの政界エリートたちは、
軍隊で部下だっ
たカポエイラ兵士を、内密に自分の政治の手下に引き込んで、平和を取り戻
した時代の「新しい戦争」
、すなわち「選挙」に勝つための、用心棒として
使おうとしていたのです。
こうしてカポエイラが、政治舞台に登場してきました。奴隷社会での政治
ように、
小さな政治の場ではありません。カポエイラ用心棒たちは、
「自由党」
と「保守党」が大広間で意見を闘わす議会政治に加担し、
控えの間に詰めて、
グアルダ・ネグラ
(黒人護衛隊)
-政治舞台に登場したカポエイラ
党同士の対決では不正選挙に一役かうようになりました。
リオのグロリア地区の強豪カポエイラグループに、
「フロール・ダ・ジェ
ンチ」
(FlordaGente:
「私の花」
「我が選抜隊」などの意味)というあだ名
がついた、いわれを話しましょう。このグループは、もとパラグアイ戦争の
カポエイラ兵士達からなる軍団で、
「保守党」の政治家、ドゥキ = エストラー
ダ・テイシェイラ(Duque-EstradaTeixeira)の用心棒として、重要な政
局を争った 1872 年の選挙戦で大暴れしたのです。用心棒になった、もと
カポエイラ兵士達は、
ナヴァリャ(カミソリ)
、
ハステイラ(足払い)
、
ハボ・ヂ・
アハイア(エイの尻尾)
、
カベサーダ(頭突き)と、
カポエイラ技で大襲撃して、
「自由党」の立候補者を演説台から引きずりおろし、
「自由党」に投票する人々
を一掃してしまいました。
この選挙のあと、当時のメディアで流行った言葉が、
「フロール・ダ・ジェ
ンチ」でした。ドゥキ = エストラーダが、議会で襲撃を糾弾されて、
「貴
公は、どんなジェンチ〈人々・連中〉に、対立候補を襲えと命令したの
か?」と尋問されると、返答に詰まって、
「そ、それは…ミーニャ・ジェ
ンチ〈ウチの連中、私のところの人々〉に命令したのです。つ、つまり…
フロール・ダ・ジェンチに命令したのです」と答えたからです。
〈
「フロー
ル・ダ・ジェンチ」の中の、フロール(flor)は「花・選り抜き」の
意味、ダ(da)は「~の(英 of)
」の意味。またジェンチ(gente)
には「人々・連中」のほかに「私・私たち」の意味があるので、
「フロー
ル・ダ・ジェンチ」は「我が選抜隊」や「私の花」などの意味になる。
〉
この「フロール・ダ・ジェンチ」というアダ名に象徴される、カポエ
イラと政治の結び付きは、その後ずっとリオの政界を騒がせ続ける
ことになるのです。
当時の自由党の新聞は、こういうカポエイラ闘士た
ちは命令されて行動していると告発していますが、
ちがう理由もありました。世界中に起こっていた、
奴隷制崩壊の影響も受けていたのです。アメリカ合衆国では、アブラハム・
リンカンが大統領に選出され、奴隷解放を自分の政府政策として明確に掲げ
ると、合衆国は、南北戦争へと発展した内戦に突入しました。南北戦争の結
果、奴隷制を支持した南部連合軍が敗北すると、南北両アメリカ大陸のなか
で、ブラジルのエリートだけが、名実共の奴隷制支持者として取り残されて
しまったのです。
1871 年に「新生児自由法」
(LeidoVentreLivre)が、内閣と保守党の
支持を得て公布されると、多くの人々が将来に不安を覚えました。これは、
公布以降に生まれた奴隷の子を、奴隷の身分から解放する法律だったので、
自由党と、将来の労働力不足を懸念する保守党の一派が、強く反対しました。
しかしその後、ペドロ二世の娘イザベル皇女が、病気の父の代わりに奴隷解
放令にサインし、ブラジルでの奴隷開放が実現します。そして、イザベル皇
女と保守党の幹部は、解放されたリオデジャネイロの黒人たちと共に、たい
へんな晴れ舞台を享受することになるのです。
黒人カポエイラ闘士たちは、この状況に便乗して、政治家に金をもらって
汚職の片棒をかついだり、裁判所や白人警官の命令に背いても罰を受けない
ように取り計らってもらったりしていました。こうして、リオの保守派の政
治家とカポエイラ闘士のあいだには、奇妙なコネができていきました。です
から、カポエイラ闘士たちは、町を我物顔で歩きまわり、ライバルに喧嘩を
ふっかけたり、物売りをゆすったり、逃亡奴隷を保護したり、ちょっとした
盗みを働いたり、
投獄されない特権を盾に、
カポエイラ軍団(malta「マウタ」
)
罵声が飛び交い、固く閉ざした発行所の入口は、破られて襲撃されるところ
を組んで、政治家とのコネを知らない警官に逆らってみたりしていました。
でした。ガラの悪いチンピラがひとり、発行所の看板にまたがり、あたり一
選挙の日になると、カポエイラ闘士たちは、投票所―当時はどこでも教会
面、黒人が群がっていました。帝国政府が、この事件の黒幕だと非難されま
した。
でしたが―の近くに集合して、対立候補に投票する人を襲ったり(公開投票
だったので、誰に投票するのか分かったからです)
、有権者になりすまして
1870 年代には、君主派の政治家と黒人カポエイラ闘士との間の癒着のせ
投票する「フォスフォロ *」をやったりして、不正選挙の片棒をかついでい
いで、リオデジャネイロの帝国議会に、絶え間なく意見状が送られていまし
ました。
〈* フォスフォロ(fósforo)=「マッチ」
:当時の投票箱が大きいマッ
た。その後 1878 年に――約 10 年ぶりに――自由党が勢力を盛り返すと、
チ箱に似ていたのでニセ投票の行為はマッチと呼ばれた。
〉こんな時は必ず
はじめて、
「政治に首を突っ込むカポエイラ連中」に対する非難キャンペー
殴り合いのケンカ騒ぎになりました。闘士たちは、票を買収たり、対立候補
ンが始まりました。新聞でも告発しましたが、このキャンペーンは、何ひと
者の勝利がわかっている時は、投票箱を盗んでしまうこともありました。
つ効果がありませんでした。
奴隷廃止の結果、当時のいろいろな社会層に影響が出ました。1870 年ご
上に述べたことを考慮すると、グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)の結成
ろから、ブラジルのコーヒー経済の中心地が、使いすぎて荒廃したリオデジャ
が起こりそうな政治状況は、
(既に「フロール・ダ・ジェンチ」事件の時か
ネイロの地から、サンパウロに移っていました。しかし、コーヒーのおかげ
ら君主派の政治家と黒人カポエイラ闘士の癒着があったわけですから)奴隷
で台頭した、サンパウロの「新ブルジョア」たちは、帝国政府の政策の、つ
解放令よりも、15 年も前からできあがっていたことになります。ペドロ 2
んぼ桟敷に置かれていました。当時、帝国政府を支配していた政治家は、昔
世とイザベル皇女は、奴隷解放論者に賛同していたとされています。また、
からのエリート達だったからです。帝国政府が、つぎつぎと実行に移してい
「反」君主派の旗印だったサンパウロ共和党の中心は、かつて北東部の黒人
く奴隷解放の政策は、サンパウロのコーヒー農園の新ブルジョアたちを不安
をパライバ川ほとりのコーヒー農園の奴隷小屋で働かせていた領主であり、
におとしいれました。サンパウロのコーヒー農園は、北東部や北部の奴隷商
帝国政府の奴隷廃止に対して「怒った奴隷所有者」だったとされています。
奴隷解放令よりもずっと前から、グアルダ・ネグラが結成される状況が出
人から買い取った、奴隷の労働によって経営が成り立っていたからです。
このサンパウロのコーヒー農園経営者たちが、帝国政府と君主制打倒をめ
来上がっていたと見る、この解釈が、グアルダ・ネグラの時代に出てこなかっ
ざした、共和党の中心人物になったのです。またリオの共和党は、1870 年
たのは、政治上の都合からです。グアルダ・ネグラを支持する側にとっては、
に、ちっぽけなクラブとして発足しましたが、名高い識者の集まりで、政党
1870 年代の「フロール・ダ・ジェンチ」事件の時に、犯罪だ、権力主義だ
新聞『共和国』
(ARepública)は、常に、保守的な政府を批判しました。
と非難された行為と関係してきたことがうしろめたかったので、このことに
こういう社会背景をふまえると、君主派の保守党に加担したカポエイラ闘士
触れるのは避けていました。またグアルダ・ネグラを非難する側にとっても、
と、共和主義者とのあいだの最初のもめ事、世に言う「
『共和国』乱入事件」
この点に深入りすると、何人かの自由党政治仲間の、奴隷としての暗い過去
がなぜ起こったのか、わかってきます。
を思い出させることになるので、深入りは控えていたのです。
それは 1873 年 2 月 28 日、ドゥキ = エストラーダと、カポエイラ用心
こうして、
グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)が結成されたもっと深い理由は、
棒グループ「フロール・ダ・ジェンチ」が、選挙戦で勝利をおさめた直後の
わからないままでした。グアルダ・ネグラが起こした最初の事件は、1888
ことです。この選挙でドゥキ = エストラーダとカポエイラ闘士が、
グルになっ
年 12 月 31 日、リオデジャネイロのトラベッサ・ダ・バヘイラ街にある「フ
て不正をはたらいた事が新聞で叩かれると、
『共和国』の発行所には、カポ
ランス体育協会会館」
(SociedadeFrancesadeGinástica)で行われたシ
エイラグループの面々が、
復讐しようと押し掛けました。石が投げつけられ、
ルヴァ・ジャルジン(SilvaJardim)の演説会襲撃です。シルヴァ・ジャル
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
「カポエイラ党」は、都市の貧困層や労働者層
の利害を直接代表する集団で、奴隷制に固執す
る政治一派と縁を切り、自分達の、明白な人種
的主張を掲げていました。
ジンは、
「人的財産」
〈奴隷〉が奪われた領主達のあいだで君主政治の人気が
急落しているのに目をつけて、共和党が財政支援していた新聞『国家』
(O
País)に取り入っていました。
その晩、グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)が、シルヴァ・ジャルジンの演
説会場に現れると、表に詰めていた選り抜きのガードマンが「殺人鬼」を取
り押さえようと飛び出してきました。取り囲まれたグアルダ・ネグラは筋ガ
ネ入りのなぐり合いを始め、乱闘騒ぎになりました。現場から数メートルの
ところに警察本署があったのですが、手が出せません。事件のあと、帝国議
会の重鎮が事件の黒幕だったに違いないとささやかれました。しかし、その
約半年前から帝国議会の裏で、この事件の準備が着々と進められていたこと
に気づく者は、ほとんどいませんでした。
事件の約半年前、1888 年 7 月 12 日付のリオの警察日誌に奇妙な事件
が載っています。あるカポエイラ軍団のメンバー「全員」が一度に逮捕され
たというのです。それは、中心街の大空地、カンポ・ヂ・サンタナを縄張り
にしていた、リオの町きっての最強グループで、
「カデイラ・ダ・セニョーラ」
(CadeiradaSenhora「聖夫人の椅子」
)という名前のカポエイラ軍団でし
た。この名前はサンタナ教会の正面祭壇に祭られたキリストの祖母、アナ聖
夫人像からとったものです。その後サンタナ教会は取り壊され、
その跡地は、
ドン・ペドロ二世鉄道の中央駅(現在のリオ中央駅)になっています。
カポエイラ軍団のメンバー「全員」が一度に逮捕されるというのは、警察
記録の上でも、非常に珍しいことです。政治家とのコネで罪を免れていたの
ですから、なおさら奇妙です。新聞では、逮捕された者は身元を記録された
後、1860 年代と同じく、陸軍に入れられるはずだと報道していました。し
かし、ますます奇妙なことに、事件の翌日に全員が釈放されたのです。この
グアルダ・ネグラ
(黒人護衛隊)
-政治舞台に登場したカポエイラ
とき逮捕されたカポエイラ軍団のメンバーの名前は、リオの大刑務所のリス
トに残っています。
そのリストにある名前が、シルヴァ・ジャルジンの演説会を襲撃した、グ
アルダ・ネグラ(黒人護衛隊)のメンバーの名前として、襲撃事件の翌日、
1889 年 1 月 1 日付の新聞に載っていたはずです。残念ながら、この襲撃
事件で逮捕されたメンバーの名前リストは残っていないのですが...。
しかし、
カポエイラ軍団「カデイラ・ダ・セニョーラ」の全員逮捕という事件と、グ
アルダ・ネグラ(黒人護衛隊)のジルヴァ・ジャルジン襲撃事件という二つ
の事件には、明らかに関連がありました。この二つの事件の裏には、パラグ
アイ戦争のカポエイラ兵士と、1870 年代のカポエイラ軍団と政治家の癒
着が関連していたのと、同じ背景があったのです。
二つの事件は、当時の新聞が「カポエイラ党」
(PartidoCapoeira)と
呼んでいたもので繋がっていました。
「カポエイラ党」というのは、政党
の名前ではなく、政治活動の一種で、パラグアイ戦争のカポエイラ兵士と
保守派政治家とのあいだのコネを軸にして、闇ルートで結束して行って
いた活動でした。
「フロール・ダ・ジェンチ」事件以来、カポエイラ軍団
は 20 年近くも新聞沙汰になっていたのに、
この闇ルートの政治活動は、
世間に知られていなかったのです。
「カポエイラ党」は、都市の貧困層
や労働者層の利害を直接代表する集団で、奴隷制に固執する政治一
派と縁を切り、自分達の、明白な人種的主張を掲げていました。
この政治活動こそ、近年の研究でもまだ指摘されたことのな
い、グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)の、もう一つの横
顔なのです。グアルダ・ネグラは、
「黒人」
を意味する
「ネ
グロ」
〈または「ネグラ」
〉という言葉を、はじめて、
「黒人という人種を主張する」という、前向きな意
味で使った人々でした。
「ネグロ」という言葉は、
何世紀ものあいだ、侮蔑表現以外の何ものでも
50
グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)
政治舞台に登場したカポエイラ
なく、奴隷、軟弱さ、闘う気力もなく服従する人間、という意味合いがあり
ている内閣と無力な警察が、もどかしくてなりません。何もかもが、
〈奴隷
ました。ブラジルのアフリカ人とクリオウロ〈ブラジル生まれの黒人〉も、
廃止法公布の立役者だった〉当時のジョアン・アルフレド内閣がこの事件の
互いに相手を罵倒する時、
「ネグロ」という言葉を使っていたのです。
「ネグ
黒幕だということを暗示していました。犠牲になった共和主義者たちは、危
ロ」という言葉は、アメリカ合衆国の nigger という言葉と関係があります
険分子だと目をつけられ、政府の陰謀で襲撃されたのです。この事件で、あ
が、nigger にも、たいへん悪い意味が込められ、つい最近までアメリカ合
るグアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)のグループが、
「暴力団」だ、
「騒ぎの元
衆国での黒人運動に対する罵倒表現でした。
凶になっているヤクザ組織」だ、という濡れ衣を着せられてしまいました。
「ネグロ」という言葉が、ブラジルで人種的主張を持つようになった時期
このグループは、あるインテリ達と付き合いがあったので、日ごろ、社会か
が、1850 年に奴隷貿易が禁止されたあとの「黒人奴隷と自由黒人をあわせ
ら疎外されている「ネグロ層」
(黒人層)を代表して、新聞に自分達の意見
た人口」のうちで、クリオウロ〈ブラジル生まれの黒人〉の数が過半数を超
を載せてもらっていました。この頃のブラジルでは、黒人が新聞で意見を述
えた時期と一致するのは、偶然ではありません。このクリオウロたちが、
「ネ
べるなどということは、前代未聞のことでした。しかし、この黒人達も、か
グロ」
(黒人)という言葉を、それまでの黒人のイメージを表わす言葉とは
つての「フロール・ダ・ジェンチ」のように、暴力グループだということに
ちがった、ブラジルにおける、自分達の人種を主張する言葉として使い始め
されてしまったのです。
これのせいで、またもや、
「黒人」
(ネグロ)という人種に対するイメージ
たのです。
こうして、グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)のクリオウロ達は、当時の人
が悪くなり、それが定着していきました。1888 年 5 月 13 日の奴隷解放
種的偏見に満ち満ちたブラジル社会に、
「ネグロ」
(黒人)という言葉の新し
令で、黒人たちが政治的権利に目覚めたので、その勢力が力をつける前に、
い意味を突き付けました。新聞『リオの町』
(CidadedoRio)に掲載されて
政治圧力でその権利を取り消すか、あるいは再び、国の監視下で黒人たちを
いる、クラリンド・ヂ・アルメイダ(ClarindodeAlmeida)の書いた記事
奴隷のような労働者にして、田舎に追いやってしまう必要があったのです。
では特に、
「ネグロ」という言葉が、この新しい意味で使われています。ク
「黄金法」で自由になった奴隷たちは、
「5 月 13 日の人々」と呼ばれてい
ラリンドは、謎に包まれた男で、グアルダ・ネグラのチーフをしていました。
ましたが、それも束の間、今度はブルジョア層が、新しい圧力をかけ始めた
現在の研究者は、今までの研究者が見逃してきた、
「グアルダ・ネグラが、
のでした。
ネグロという言葉を使って主張した、政治的意味、人種的意味、そのほか広
グアルダ・ネグラの人種的主張の高まりは、君主制を崩壊させる共和革命
範な意味」を再考察する必要があります。この主張は、その後いきなり、無
の危機をはらんだ時代に、君主制を守る戦力として利用できると期待された
理やりに口を閉ざされてしまうのです。
のでしょう。しかし、グアルダ・ネグラの危機は、共和革命が起こる前にやっ
グアルダ・ネグラによる、リオでの、二度目の共和主義者襲
てきました。1889 年、オウヴィドール街の襲撃があった 7 月に、ジョアン・
撃事件は、
1889 年 7 月 14 日に起こりました。その日はちょ
アルフレド内閣は失脚し、自由党が力を得て、オウロ・プレト子爵(Visconde
うど、共和主義にとって重要な、パリのバスティーユ襲撃か
deOuroPreto)の内閣が発足しました。
ら 100 年記念にあたる日でした。明け方、何人かの共和党
新内閣は、君主制のみじめな終焉を早めることになりました。オウロ・
員が、オウヴィドール街の坂道を下っていきました。途中ま
プレト子爵には、悪い前評判がありました。リオの市街電車の料金に〈当時
でさしかかったところで、ひとグループのグアルダ・ネ
の貨幣単位で、20 レイス、すなわち1ヴィンテン(vintém)の額の〉税金
グラが待ち伏せしていました。案の定、激しい乱闘
を課すという政策を提案したのが、かつて財務大臣だったオウロ・プレト子
になりました。この時は、
すぐに警察が駆けつけ、
爵でした。この税は、わずかな収入しかないリオ貧民層にとっては、たいへ
逮捕された者の留置記録も残っています。
んな出費です。結果として 1880 年に「ヴィンテンの暴動」
(Revoltado
アルフレド・エミジヂオ・プロステロ、ポ
Vintém)と呼ばれた大衆暴動がおこり、市街電車は破壊され、町の至ると
ルトガル系、18 歳、家具屋、住所、モンチ街。
ころにバリケードが立てられて、民衆は軍の機動隊と衝突をくりかえしまし
アルビーノ・ロウレイロ・ヂ・カルヴァリョ、
た。反政府のジャーナリスト達は、この運動がおきたことに大満足でした。
ポルトガル系、ヴィラ・ヘアウ出身、21 歳、
「ヴィンテンの暴動」は、多くの死者と負傷者を出したあげく鎮圧され、当
住所、コスタ・ヴェリョ小路。ルイス・ピ
のオウロ・プレト子爵は財務相を辞任し、電車税は廃止されました。しかし、
ント・ペレイラ、21 歳、ミナス・ジェラ
この暴動は、その後の、奴隷廃止や共和制を支持する大衆運動の先駆けとなっ
イス州書記係、住所、ガンボア街。このよ
たのです。
うに、共和党員サイドは全員、白人でした。
共和国宣言が発せられた数日後、臨時内閣の長となったデオドロ・ダ・フォ
一方、奇襲をかけたほうの例をあげると、
ンセカ(DeodorodaFonseca)は、
弁護士サンパイオ・フェハス(Sampaio
次のような人達です。ジョゼ・カルロス・
Ferraz)を、警視総監に任命しました。サンパイオは即座に行動を起こしま
ヴィエイラ、22 歳、大工、パルド〈黒
した。
人と白人の混血の人〉
、住所、ペドロ・
サンパイオ・フェハスは、長年、検事としてカポエイラ闘士達を監視して
ヂ・アルカンタラ。ジョゼ・アント
きた男で、帝国政府が倒れ、臨時政府が独裁的権限を握っている今が、カポ
ニオ、黒人、20 歳、バイア州出身、
エイラ軍団を壊滅させ、グアルダ・ネグラ(黒人護衛隊)も葬り去るための、
無職(注5)
。
絶好のチャンスだということがわかっていました。一、二ヵ月のあいだに、
この事件は、どの新聞でも、トッ
何百人というカポエイラ闘士たちが、
「現役」であれ、カポエイラをやるに
プニュースで報道されました。リオの
は年を取りすぎている「引退組」であれ、無差別に逮捕されました。カポエ
町の金持ち層は、物騒で不安でたまらな
い様子でした。軍部も、見て見ぬふりをし
(5)こ の 身 元 記 載 の 出 典 は 以 下。Livro de Matrículas da Casa de Detenção no. 4321,
15/07/1889,ArquivoPúblicodoEstadodoRiodeJaneiro.
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
グアルダ・ネグラの問題は、その後一世紀近く
の間、歴史の上で忘れ去られていました。黒人
達には、社会的規範が無かったから(anomia
social)
、新ブルジョアの権力に対抗することが
できなかったと見なされていたので、それに反
論する説は、長年、歴史研究の興味の対象から
外されていたのです。
イラ闘士たちは、サンタ・クルスの監獄に投げ込まれ、その後、蒸気船に詰
め込まれて、政府が流刑地として指定したフェルナンド・ヂ・ノローニャの
島に流されました。
一年も経たないうちに、サンパイオは、カポエイラ党の残党を一掃し、グ
アルダ・ネグラを壊滅させました。10 月には共和国の新しい刑法が公布さ
れ、カポエイラは犯罪として指定されました。こうして、沢山のカポエイラ
闘士が大西洋で朽ち果てていきました。流刑にされた人々がどうなったのか
は謎です。グアルダ・ネグラの問題は、その後一世紀近くの間、歴史の上で
忘れ去られていました。黒人達には、社会的規範が無かったから(anomia
social)
、新ブルジョアの権力に対抗することができなかったと見なされてい
たので、それに反論する説は、長年、歴史研究の興味の対象から外されてい
たのです。そしてグアルダ・ネグラに関しては、1964 年から始まった軍事
政権が終結する時期〈1985 年〉が過ぎてから、ようやくオフィシャルな歴
史編纂で取り上げられ、事実が少しずつ明るみに出てきたのです。
参照文献
BARBOSA,Rui.CampanhasJornalísticas.Império(1869-1889) ,Obras
グアルダ・ネグラ
(黒人護衛隊)
-政治舞台に登場したカポエイラ
Seletas.v.6,RiodeJaneiro:CasadeRuiBarbosa,1956.
BERGSTRESSER,RebeccaBaird.TheMovementfortheAbolitionof
SlaveryinRiodeJaneiro.1880-1889 ,StanfordUniversityPress,1973.
DUQUE-ESTRADA,Osório.Abolição:esboçohistórico .RiodeJaneiro:Leite
Ribeiro,1908.
GOMES,FláviodosSantos&CUNHA,OlíviaMariaGomesda.Quase-
cidadão:históriaeantropologiasdapós-emancipaçãonoBrasil .Riode
Janeiro:Ed.FGV,2007.
GOMES,FláviodosSantos.“Nomeiodaságuasturvas(racismoe
cidadanianoalvorecerdaRepública;aGuardaNegranaCorte,18881889)”InEstudosAfro-Asiáticos .RiodeJaneiro,v.21,pp.75-96,
dezembrode1991.
MAGALHÃESJUNIOR,Raimundo.AvidaturbulentadeJosédoPatrocínio .
RiodeJaneiro:Sabiá,1969.
ORICO,Osvaldo.Otigredaabolição .RiodeJaneiro:s.ed.1953.
カルロス・エウジェニオ・リバノ・ソアーレス
(CarlosEugênioLíbanoSoares)
UFRJ(リオデジャネイロ連邦大学)学士および修士(歴史学)
、
UNICANP(カンピーナス大学)修士および博士(歴史学)、UFBA
(バイア連邦大学)准教授(歴史学)。
SOARES,CarlosEugênioLíbano.Anegregadainstituição:oscapoeirasna
CorteImperial1850-1890 .RiodeJaneiro:Ed.Access,1994.
TROCHIM,Michael.“TheBrazilianBlackGuard:racialconflictinpostabolitioninBrazil,”
InTheAméricas ,v.XLIV,janeirode1988.
52
53
6. カポエイラは防御、攻撃、ジンガ、
そしてマランドラージェン *(抜け目ない機転わざ)
アントニオ・リベラキ・カルドーゾ・シモンイス・ピレス
Antônio Liberac Cardoso Simões Pires
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラを、ひと言で説明するのは、とても
難しいです。カポエイラが、歴史を通して多様
なフォームを生み出し、また、カポエイラが様々
な種類の社会の人々によって育てられてきたか
らです。
カポエイラを、
ひと言で説明するのは、
とても難しいです。カポエイラが、
歴史を通して多様なフォームを生み出し、また、カポエイラが様々な種類の
社会の人々によって育てられてきたからです。カポエイラは、ブラジルで、
アフリカ人の奴隷たちがやり始めたとされています。奴隷としてブラジル
に連れて来られた、アフリカの色々な種族の人々によって培われてきた混
合文化の産物です。1820 年代の警察記録には、リオデジャネイロの町で、
カポエイラをして投獄された奴隷についての記録があります。それを見る
と、カポエイラをしていた人々には、いろいろな種族の人がいたことがわ
かります。例えば、
アンゴラ、
コンゴ、
モザンビーク、
カサンジェ
(Cassange:
アンゴラ共和国北ルアンダ州に所在)などが出身地として記されています。
19 世紀に、カポエイラが組織化されて大規模に行われていたのはリオデ
ジャネイロだけでしたが、リオのカポエイラは、警察の規制によって弾圧
されてしまいました。リオのカポエイラ闘士についての記録は、18 世紀の
終り、
「ヴィヂガウ少佐」
(majorVidigal)の時代にさかのぼります。ヴィ
ヂガウ少佐は、対決のときカポエイラを使うことで有名で、逃亡奴隷や、
まじない師、それから、カポエイラ闘士そのものも相手にして、カポエイ
ラで戦っていました。しかし、歴史の上でカポエイラ闘士についての記録
がコンスタントに出てくるのは、民間警官と軍警察ができたあとです。リ
オでは既に 19 世紀のはじめには、
カポエイラが、
かなり広まっていました。
1810 年から 1821 年のあいだの、リオの警察逮捕者の総数 4853 人の
うち、9%に当たる 438 人がカポエイラをした罪で捕まっています。この
時期のカポエイラ闘士たちは、徒党を組んでいて、リオの町なかの縄張り
争いや、奴隷と領主のもめごとや、奴隷同士のいざこざに首を突っ込んで
いました。
「カポエイラは
防御、
攻撃、
ジンガ、
そしてマランドラージェン」
この時代のリオでカポエイラをする人は、町の、あちこちの地区を根城
にして、沢山の、
「カポエイラ軍団」
(malta「マウタ」
)と呼ばれる組織を
つくっていました。ブラジルのほかの町にも、同じような組織があったよ
うです。リオのカポエイラ軍団は、組織の対決やケンカの時に、カミソリ
のほか、キリ、棒きれ、こん棒などを使っていました。
当時の、最も優れたアマチュアのカポエイラ闘士のひとり、プラシド・ヂ・
アブレウ(PlácidodeAbreu)によると、19 世紀後半のカポエイラ闘士
たちは、二つの大きな派閥に分かれていて、
「ナゴア」または「グアイアム」
と呼ばれていました。
〈単語の意味としては、
グアイアム(guaiamu)には「青
ガニ」
、ナゴア(nagoa)にはアフリカの「ヨルバ族」の意味がある。
〉こ
の二つの呼び名は、町の地区ごとに結成されているカポエイラ軍団のまと
まりを意味しました。つまり、
「ナゴア」
「グアイアム」という呼び名で、カ
ポエイラ軍団のあいだの連帯があらわされ、それぞれの軍団の拠点がある
地区が「ナゴア」か「グアイアム」のどちらかの縄張りになっていたのです。
しかしまだ、この二つの呼び名についての完全な定義を立てるところまで、
歴史的な研究が進んでいません。そうはいっても、プラシド・ヂ・アブレ
ウによる文献は、
「ナゴア」と「グアイアム」に、それぞれ色々な特徴があっ
たことや、この二大グループの内部で使われていたスラングなどを明らか
にしているので、たいへん貴重なものです。以下この文献を基にして、二
大グループと近しくしていた「アマチュア」
(注 1)の闘士、アブレウの目
を通して見た、当時の様子を考察してみることにします。
アブレウは、19 世紀のカポエイラ闘士の様子について、もっとも面白い
記述を残していると思います。例えば、
「ナゴア」
「グアイアム」と呼ばれた
カポエイラ闘士たちは、
様々なカポエイラの「党」
〈partido:アブレウが「党」
と呼んでいるものは、ほぼ「軍団」
(malta「マウタ」
)に相当する〉に属し
(1)
「アマチュア」という語は、「どこの軍団(malta)にも所属していないカポエイラ闘士」という
意味で使われていた。
56
カポエイラは
防御、攻撃、ジンガ、そしてマランドラージェン
ていたと書いています。アブレウによると、グアイアムと呼ばれていたの
は、リオデジャネイロの町の中心街一帯を占める広大なサンフランシスコ
グアイアムが敵に呼びかけて歌った
地区をはじめ、サンタ・ヒタ、マリーニャ、オウロ・プレト、サンドミン
イエスの聖テレジーニャよ *
ゴス・ヂ・グスモンなどの地区の「党」に属すカポエイラ闘士たちでした。
扉を開けて明りを消しておくれ *
またナゴアと呼ばれていたのは、サンタ・ルジーア、サンジョゼ・ダ・ラパ、
ナゴアの死を見たい
サンタナ、モウラ、ボリーニャ・ヂ・プラタなどの地区の「党」に属すカ
慈悲深きイエスの扉の傍らで
ポエイラ闘士たちでした。アブレウが「党」と呼んでいる地区集団は、小
さい地区集団に分かれていて、更に、その小さい地区集団の内部が、地域
ナゴアが答えて歌った
別の小グループに分かれていました。それぞれが、自分たちのトレードマー
城に旗 * が掲げられた
クを決めていましたが、
「グアイアムの赤」
、
「ナゴアの白」といった具合に、
サンフランシスコ教会の鐘が高らかに告げる
主に色で表されていました。またアブレウによると、カポエイラ闘士たち
「グアイアムが恐れをなして叫んでいる
は、決闘や喧嘩をはじめる前に、名乗りをあげ、大声で宣戦布告を唱えた
“黒人勇士マノエル * が出てきた”と」
ということです。
「我ら、ラパなり!」
「エスパーダなり!」
「我らが地区、
出番の時がきた!」
「我ら、セニョ―ラ・ダ・カデイラなり!」
「サンタナの
Os guaiamus cantavam:
お出ましだ!」
「ヴェリョ・カルピンテイロなり!」
「サンジョゼなり!」といっ
Terezinha de Jesus / Abre a porta apaga luz
た具合だとアブレウは書いています。
Quero ver morrer nagoa / A porta do Bom Jesus
アブレウは、決闘の開始を知らせる、儀式のようなしきたりもあったと
Os nagoas respondiam:
して、次のように記しています。
「例えば、町の中心街、つまりグアイアム
O castelo içou bandeira / São Francisco repicou
たちの縄張りから楽隊が登場して、ラパ地区、つまり新市街の方面へ行進
Guaiamu está reclamando /Manoel preto já chegou
していくと、楽隊が通りすぎる地域一帯のカポエイラ闘士たちは、敵の縄
〈* 聖テレジーニャはフランスの修道女で聖人 (1873-1897)。次の行の「扉を開け」は「天
を開く」、「明りを消す」は「殺す」を意味する。7 行目の「旗」は死界との関連を表わし、
最後の行の「黒人マノエル」はグアイアムが恐れた男。( 歌詞についてはカポエイラ研究家
MayaTalmon-Chvacier の解釈から )〉
共和国宣言後の臨時政府が、カポエイラ禁止令を発令したのとほぼ同じ
頃、カポエイラの価値を訴える運動がおこり、様々な社会層に広がってい
きました。議員の中にもカポエイラを擁護した人がいて、例えば、代議士
コエリョ・ネト(CoelhoNeto)は、軍隊でのカポエイラ教育の公認運動
を始めるまでになりました。これは何百人というカポエイラ闘士達が、法
令 402 条によって逮捕されていた時期と、全く同じ時期です。カポエイ
ラ教育の公認運動には、カポエイラを戦闘技として整備し、
「きっすいの
ブラジル国技」
であるスポーツとして打ち立てるという構想がありました。
1920 年代の、特に優れたカポエイラ闘士の一人であり、
「ズマ」
(Zuma)の名で知られたアニバル・ブラマキ(AnnibalBurlamaqui)は、
次のように述べています。
ブラジルでは既に、全てのスポーツが行われていると言える。
Photo:ブラジル外務省(MRE)アーカイヴ
ボート競技、水泳、フットボール、バスケットボール、ボクシング、
張りに乗り込んでナゴアと対決するのだとわかって、決闘の準備を整え、
レスリング、テニス、陸上競技全般、この全部に、競技大会がある。
ぞくぞくと楽隊の列に加わっていった」
現在では、ポロやゴルフまでやる人が出てきた。しかし残念なが
それぞれが、自分の訓練場も持っていました。
「トレーニングは、定期的
ら、今日まで、きっすいのブラジル国技と言えるスポーツが無い。
に日曜の朝に行なわれ、ヘディングと足蹴りの練習、刃物を使っての訓練
国家のアートであり、ブラジル自体のもの、ブラジルの音楽とで
がメニューだった。名が売れているカポエイラ闘士たちが初心者の指導に
も言えるもの、そしてブラジルの政治とまでも言えるスポーツを
あたっていた。攻撃は、はじめは棍棒など木製の武器での練習だったが、
育てたいものだ。
しまいには刃物が登場して、練習場が流血の場となることもしばしばだっ
た」
ズマは、リオデジャネイロの新スタイルのカポエイラを考案した中心
「トアーダ」
(toada)と呼ばれる唄もあり、挑戦や遊び感覚で、対決の時
人物のひとりです。ズマは、新スタイルのカポエイラを考案したとき、バ
にうたわれました。
トゥーキやサンバからインスピレーションを受けてつくった攻撃法も、多
く取り入れたと述べています。例えば、腹部を使って相手に攻撃をかけ
る「バウ」
(baú)は、ウンビガーダの踊りに似ています。
「バウ」は、ズ
マによると、もっとも軽めのバトゥーキである「ライト・バトゥーキ」
(batuqueliso)でも使われています。その一方、
「ハパ」
(rapa)は、
「ヘ
57
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ブラジルのカポエイラ闘士たちに共通の特徴
は、アダ名をつけることで、これは今日でも続
いています。19 世紀に、バイアのカポエイラ
闘士が、歴史上の注目を浴びることはほとんど
ありませんでした。しかし、リオデジャネイロ
のカポエイラ闘士が戦闘術としてのカポエイラ
を生み出しているあいだに、バイアのカポエイ
ラ闘士は、
「アンゴラ流カポエイラ」と「ヘジォ
ナウ流カポエイラ」という、二つの違った様式
を編み出していました。パスチーニャ師範と、
ビンバ師範が、それぞれのカポエイラのスタイ
ルを整えた中心人物です。
ビー・バトゥーキ」
(batuquepesado)で使われる攻撃だと言えます。
またズマは、
「タピアソン」
(tapeação「まやかし」
)という動きがあり、
これは、相手をかく乱するために使うと述べています。
ズマは、カポエイラ教育のための規則や訓練についての構想も記しまし
た。
「まず、闘技場として必要なのは、このブラジリアン・ジムナスティッ
クスが行えるだけの、じゅうぶんなスペースがあるところだ」
ズマが思い描いた闘技場とは、円形で、その円の中に「Z」という文字
が描かれているものです。試合の時にはタイムを計り、選手の動きをコン
トロールする審判員がいます。試合時間は最長でも1時間です。対戦は1
ラウンド 3 分間で、
2 分間のインターバルが入ります。インターバルの時、
試合場の円の真ん中で選手紹介が行われますが、これは、審判が中心になっ
て行う試合プログラムの一部だとされています。引き分けの場合は、30
分の延長戦ですが、休息目的でインターバルが長くなります。それでも勝
負がつかない場合は、審判の判断によって、どちらかがノックアウトされ
るまで休息無しで戦う、デスマッチになることがあります。対戦は、サッ
カーのフィールドで行われることになるだろうと記されています。
19 世紀の初めから 1890 年に犯罪として規定されるまで、カポエイ
ラは厳しく弾圧されてきましたが、それに抵抗する力のほうが強く、カポ
エイラは、1920 年代から再構成されていきました。闘士たちは、カポ
エイラの、スポーツ・ダンス・音楽、そして主に武術としての性質を強化
していき、この格闘技が、ブラジルのシンボルの代表のひとつとなるよう
に育ててきました。
19 世紀のバイアでのカポエイラは、リオデジャネイロの場合ほど、激
しい弾圧を受けませんでした。1890 年の刑法 402 条によって、警察に
「カポエイラは
防御、
攻撃、
ジンガ、
そしてマランドラージェン」
逮捕された人は一人もいませんでした。しかし 20 世紀はじめのバイアで
は、多くのカポエイラ闘士が投獄されました。投獄は、
(1890 年に公布
された刑法第 303 条が規定する)
「身体への攻撃」が原因でした。バイ
アのカポエイラ闘士たちにも、リオの「カポエイラ軍団」のような組織が
あり、
サルバドールの町の地区を根城にしたグループを形成していました。
バイアのカポエイラ闘士たちは有名になっていき、かつてのリオの闘士
たちと比べると、現在のカポエイラ武術家たちの記憶に、ずっと強く残っ
ています。当時のカポエイラ闘士を挙げてみると、
ペドロ・ミネイロ
(Pedro
Mineiro)
、アントニオ・ボカ・ヂ・ポルコ(AntônioBocadePorco)
、
ベ メ ノ ウ(Bemenol)
、 シ コ・ ト レ ス・ ペ ダ ッ ソ ス(ChicoTrês
Pedaços)
、フェリシアーノ・ビゴヂ・ヂ・セダ(FelicianoBigodede
Sêda)
、ビゾウロ・マンガンガ(BesouroMangangá)などがいて、中
でもビゾウロ・マンガンガが最も有名です。ブラジルのカポエイラ闘士た
ちに共通の特徴は、
アダ名をつけることで〈例えば「ビゾウロ」
(besouro)
は「カブトムシ」のこと〉
、これは今日でも続いています。19 世紀に、バ
イアのカポエイラ闘士が、歴史上の注目を浴びることはほとんどありませ
んでした。
リオデジャネイロのカポエイラ武術家が戦闘術としてのカポエイラを生
み出しているあいだに、バイアのカポエイラ武術家は、
「アンゴラ流カポ
エイラ」と「ヘジォナウ流カポエイラ」という、二つの違った様式を編み
出していました。パスチーニャ師範(MestrePastinha)と、ビンバ師
範(MestreBimba)が、それぞれのカポエイラのスタイルを整えた中心
人物です。ヘジォナウとアンゴラは、基本的には同じ仕組みで、練習に技
や動きの組み合わせパタンを使うところから、ユニフォームがあるところ
まで似ています。二つの根本的な違いは、ジョゴのスタイルと、音楽面の
違いです。
アンゴラ流カポエイラは、
1920 年代にバイアに登場しました。おもに、
58
カポエイラは
防御、攻撃、ジンガ、そしてマランドラージェン
昔のバイアの波止場、カイス・ヂ・オウロで、荷積み労働者をしていたカ
エイラも、ヘジォナウ流の約 10 年後から、同じように普及していきまし
ポエイラ闘士のグループ、
「ケリード・ヂ・デウス」
(QueridodeDeus)
た。しかし、アンゴラ流カポエイラが伝わっていくにつれ、カポエイラは
が行っていました。しかし、儀式ルールを設けたり、様々な美しい音色や
新しい推進力を得て、世界的な文化として普及していきました。現在、カ
リズムを規定したり、ユニフォームを使用したり、スポーツ面を強化した
ポエイラは、五大陸全てで行われており、ブラジルの個性のシンボルとし
りして、アンゴラ流カポエイラを整備したのは、パスチーニャ師範でし
て、重要な文化活動になっています。
た。パスチーニャ師範にとっては、アンゴラ流カポエイラは、ブラジル文
その結果、カポエイラが偏見の眼差しで見られたり、警察による規制を
化の一部でした。さまざまなアンゴラ流カポエイラ武術家が排出されまし
受けたりすることも減っていきました。19 37年にカポエイラは、社会
た。例えば、ヴァルデマール・ダ・パイシォン師範(MestreValdemar
の中で新しい価値を得て、完全な自由を勝ち取りました。こうして黒人文
daPaixão)
、ノローニャ師範(MestreNoronha)
、チブルシオ師範
化は、民族的シンボルから国家的シンボルになりました。現在のブラジル
(MestreTibúrcio)
、 カ ン ジ キ ー ニ ャ 師 範(MestreCanjiquinha)
、
は、カポエイラを、国家のユニークな文化財のひとつとして、また、シン
カイサラ師範(MestreCaiçara)
、ジョアン・ペケーノ師範(Mestre
クレティズム(文化混合)の結晶として、世界に向けて発信しています。
JoãoPequeno)
、ジョアン・グランヂ師範(MestreJoãoGrande)な
そして、そのシンクレティズムの中で、アフリカ、ヨーロッパ、ブラジル
どです。一方ビンバ師範は、
攻撃法を強化し、
音楽面では「カント」
(canto:
の先住民インディオなど、いろいろな民族が導入してきたものが、カポエ
唄)を重視して、楽器はパンデイロ二枚とビリンバウ一本だけに規定しま
イラという形でひとつになって、ブラジルの個性そのものを形づくってい
した。この様式が、ブラジルで主流になっているようです。
るのです。
ヘジォナウ流カポエイラは、バイアのカポエイラ武術家達によって、ブ
ラジルじゅうに普及しました。ブラジルの町や村では、よほど奥地でない
かぎり、カポエイラをする人がいない場所はありません。アンゴラ流カポ
参照文献
ALGRANTI,LeilaMezan.Ofeitorausente:estudossobreaescravidão
urbananoRiodeJaneiro. 1808-1822.Petrópolis,Vozes,1988.
HOLLOWAY,ThomasH.“OSaudávelterror”Repressãopolicialaos
capoeiraseresistênciadosescravosnoRiodeJaneirodoséculo
XIX .RiodeJaneiro,Revistadocentrodeestudosafro-asiáticos,16,
1989.
SOARES, Carlos Eugênio Libano.A negregada instituição. Os
capoeirasnoRiodeJaneiro. RiodeJaneiro,Ed.SecretariaMunicipal
deCultura,1994.
―――AcapoeiraescravanoRiodeJaneiro 1808-1850.Campinas,
Tesededoutorado,Unicamp,1998.
PIRES,AntônioLiberacCardosoSimões.ACapoeiranojogodas
Photo:ブラジル外務省(MRE)アーカイヴ
cores.Criminalidade,culturaeracismonacidadedoRiodeJaneiro
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ALMEIDA,ManoelAntôniode.Memóriasdeumsargentodemilícias .
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(AntônioLiberacCardosoSimõesPires)
カンピーナス大学(Unicamp)歴史学博士、バイア・へコンカボ連邦大学(Universidade
FederaldoRecôncavodaBahia) 准 教 授。 著 書:“Bimba,PastinhaeBesourode
Mangangá,TrêsPersonagensdaCapoeiraBaiana.”(ビンバ、パスチーニャ、ビゾウロ・
マンガンガ:3 人のバイア・カポエイラ名士達),Tocantins/Goaiania,UFT/Grafset,2001.“A
capoeiranaBahiadeTodososSantos.”(バイア、トードス・オス・サントスのカポエイラ),
Tocantins,UFT/Grafset,2004.(org).“SociabilidadesNegras.”(黒人たちの社交性),Belo
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deJaneiro,tesedemestradonodepartamentodehistóriadaUFRJ,
この論説は次の論文に基づいて執筆された。Movimentosdaculturaafro-brasileira,
Campinas,tesededoutorado,DepartamentodeHistória,Unicamp,2001.(「ア
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SODRÉ,Muniz.Oterreiroeacidade. Petrópolis,Vozes,1988,p.54.
フリカ系ブラジル文化運動」、カンピーナス大学大学院博士論文、歴史学、2001 年)。
59
7.アンゴラ流カポエイラ、
ホダ
(輪)
の儀式
ホザ・マリア・アラウジョ・シモンイス
Rosa Maria Araújo Simões
ポ
」。カ
哲学
生
すま
人
、ま
て「
日
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そ
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ラは
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ま
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ト、
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、
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、
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だ
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闘技
あい
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界に
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アン
です
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ラ)
イ
ポエ
流カ
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
伝統と基本を守ろうという姿勢は、儀式、すな
わちカポエイラの「ホダ」
(輪のつどい)の仕
組みに、もっともよく表れています。ホダでは、
アンゴラ流独特の知恵やことばを用いて、カポ
エイラ道の儀式が厳粛にすすめられます。それ
では、ホダに入ってみましょう ...
カ ポ エ イ ラ は ブ ラ ジ ル を 起 源 と し て お り、 奴 隷 制 時 代 に は じ
まって、ブラジル社会の流れと共に歩んできました。リマ(Lima,
1991:p.10-12)は、ブラジルでのカポエイラの歴史的な発展を、
4つの段階にわけています。まず帝政時代の奴隷解放前には、カポ
エイラはおもに護身術として使われていました。ブラジルが共和国
になると、カポエイラは護身術以外に、黒人文化の表現手段になっ
ていきましたが、この頃のカポエイラは「アンゴラ流カポエイラ」
(注 1)に相当するものでした。1930 年代なかば、ナショナリズ
ムが高揚するジェトゥリオ・ヴァルガス政権時代から、カポエイラ
は体操として再構成されはじめ、1972 年に、国家スポーツ審議会
によって、スポーツとして認定されました。1930 年代には、マヌ
エル・ドス・ヘイス・マシャード、すなわちビンバ師範(Manuel
dosReisMachado,MestreBimba)がカポエイラの新スタイル
を考案しました。
〈ビンバ師範の名は、Manoel と書く場合もある。
〉
それは、
「ルタ・ヘジォナウ・バイアナ」
(lutaregionalbaiana「バ
イア地方の格闘技」
)という名前でしたが、
現在は単に「カポエイラ・
ヘジォナウ」
(capoeira regional「ヘジォナウ流カポエイラ」)と
呼ばれています。その後、
「アバダ・カポエイラ協会」
(注 2)のカミー
ザ師範(Mestre Camisa)が、「ヘジォナウ流カポエイラ」に新し
いスタイルを導入したので、
それが「カポエイラ・コンテンポラニア」
(Capoeira Contemporânea「現代流カポエイラ」
)という名前で
呼ばれるようになり、現在では、この「コンテンポラニア」スタイ
ルのカポエイラが主流です。このように、色々なスタイルのカポエ
イラがあるので、
色々なタイプの「ホダ」
(roda「輪のつどい」
)
(注 3)
があり、それぞれのホダには、それぞれの意味がこめられているの
アンゴラ流カポエイラ、
ホダ
(輪)
の儀式
です。
カポエイラの流派による違いについては、今後、更に研究してい
く必要がありますが、この論説の目的は、カポエイラの儀式パフォー
マンス(注 4)のなかに潜在している根本概念を調べてみることで
す。この目的のために、
「アンゴラ流カポエイラ」の道場である「ア
ンゴラ流カポエイラスポーツセンター、ジョアン・ペケーノ・ヂ・
パスチーニャのアカデミーア」(Centro Esportivo de Capoeira
Angola-AcademiadeJoãoPequenodePastinha)(注 5)
、
略して CECA-AJPP のホダの様子を記していきます。ジョアン・ペ
ケーノ・ヂ・パスチーニャ師範(1917 年 12 月 27 日生)は、ま
さしくカポエイラの「生ける歴史書」です。師範の道場は、弟子た
ちの活動によって世界に進出していますが、その活動の中心になっ
た人が、ペ・ヂ・シュンボ師範(MestrePédeChumbo)です。
アンゴラ流派の師範たちの話を聞くと、いつも、
「アンゴラ流カポ
エイラの伝統と基本を守る」ということを重視しているのが感じら
(1)1922 年にバイア・カポエイラの粋を集めた「セントロ・ヂ・カポエイラ・アンゴラ・コンセイソン・ダ・プライア」(CentrodeCapoeiraAngola
ConceiçãodaPraia)が創立された(MestreBolaSete,2001:29 による)。
(2)
「 ア バ ダ・ カ ポ エ イ ラ 協 会 」(ABADÁCapoeira) は「 ブ ラ ジ ル・ カ ポ エ イ ラ 武 術 後 援 促 進 協 会 」AssociaçãoBrasileiradeApoioe
DesenvolvimentodaArte-Capoeira が正式名。〈アバダ(ABADÁ)は協会名の略語〉。
(3)
「ホダ」
(roda:カポエイラの輪、カポエイラ輪の集い)とは、カポエイラが表現される形式のことであり、カポエイラ儀式の遂行(パフォーマンス)そのものも指す。
(4)ターナー (V.Turner: スコットランドの文化人類学者 ) は、著書 (1982,p.13) で、
「パフォーマンス(遂行)の人類学は経験人類学の一部である」と述べ、
その意味で、「ディルタイ(W.Dilthey:独、歴史学者)も主張しているように、全ての文化活動のパフォーマンス(遂行)は、儀式にせよ、式典にせ
よ、カーニバルにせよ、演劇にせよ、それ自体が人生の説明であり、人生を読み解くものである」としている。更に『表現』とは、それ自体が「ひと
つのプロセスであり、そのプロセスによって、その『表現』を完成させる、なんらかの表現が完成している」とも述べている。これはどういう意味な
のかを説明するために、ターナーは英語の performance の語源を例にとり、次のように述べている。performance の語源は、
〈form という綴りが入っ
ているが〉form(形式)とは何の関係もなく、古フランス語の parfournir:「完全なものにする」「精密に / 厳密に / 完全に / 実現する・実行する」か
ら派生している。従って performanceは「ひとつの経験の完結そのもの」である。これに関する理論 / 方法論の詳細は以下の本論著者の修士論文参照。
“Dainversãoàreinversãodoolhar:ritualeperformancenacapoeiraangola”(SIMÕES,2006).
(5)本部はバイア州サルバドールのアフリカ文化・カポエイラセンター「フォルチ・サント・アントニオ」(Forte)にあるが、支部はサンパウロ州ではイ
ンダイアトゥーバ、カンピーナス、サン・カルロス、プレヂデンチ・プルデンチ、バウル、ソロカーバ、サンパウロ市にある。その他ミナスジェライス州、
外国ではメキシコ、スエ―デン、ポルトガル、スペイン、デンマーク、アメリカ合衆国などにも支部がある。〈アカデミーア(academia)はスポーツ
クラブ、ダンススタジオ、道場などに相当するトレーニング施設〉。
62
ホダの一場面
れます。「アンゴラ流カポエイラの伝統と基本」の例としては、
尊敬・
ダで使用する三本のビリンバウに弦を張り、予備のビリンバウも準
正義・人間性・忍耐などを挙げることができます。伝統と基本を守
備します。アラミ、つまりビリンバウのヴェルガ(注 6)の両端に
ろうという姿勢は、儀式、すなわちカポエイラの「ホダ」
(輪のつど
くくりつけられた鉄弦が、万一、ホダの途中で切れてしまったら、
い)の仕組みに、もっともよく表れています。ホダでは、アンゴラ
すぐ代りのビリンバウで演奏を始め、闘技が中断しないようにする
流独特の知恵やことばを用いて、カポエイラ道の儀式が厳粛にすす
ためです。
アンゴラ派カポエイラの儀式は、ホダ(輪のつどい)を行うこと
められます。それでは、ホダに入ってみましょう ...
であり、ホダは、
「神の旧世界」
(宇宙)を表わしています。ホダの
様子を描写するときは、音楽・身体の動き・ヒエラルキー(上下階
アンゴラ流カポエイラ儀式の記述にあたって
層関係)
・道徳観念など、すべての重要なポイントを網羅できるよう
... 使われている小道具の殆どすべて、なされている
なアプローチの仕方で、描写していく必要があります。ホダには、
仕草のすべて、歌や祈願唄のすべて、そして、時空のす
いつも数えきれないほどの「対立の概念」がでてきます。たとえば、
べてが、確かに、本来のものとは「ちがう何か」を表わ
「抵抗の動き vs.服従の動き」
、
「高い技(jogoemcima)vs.低い
している。それは「見かけ以上のもの」になり、そして、
技(jogoembaixo)
」
「内の技(jogodedentro)vs.外の技(jogo
、
本来のものより「ずっと素晴らしいもの」になること
defora)
」
、
「楽 vs.苦(悲しみ)
」
、
「戦 vs.遊」
、
「闘争 vs.弾圧」
、
「正
が多い。(Turner,1974:29)
vs. 偽」、「手 vs. 足」
(注 7)などの対立概念によって、ホダは、カ
ポエイラの象徴的な宇宙観を形成しているのです。ボラ・セチ師範
アンゴラ流カポエイラの儀式の特徴のひとつに、
「多義性・曖昧性」
(MestreBolaSete)は、カポエイラは、
「ブラジルで、アフリカ
があります。従って、ビリンバウや、ジョアン・ペケーノ・ヂ・パ
人がつくりだしたので、古代アフリカの儀式に起源があるのかも知
スチーニャ師範の道場のロゴマークである「虹」の絵、
(アンゴラ派
れないと考える師範が多い」と述べています。
の系譜であり、アンゴラ派カポエイラの歴史と伝統を物語っている)
カマラ・カスクード(CâmaraCascude)も著書(1967:183)
名高い師範たちの写真、また、こういうものを掛けてある場所も含
で、カポエイラとアフリカのダンスを関係づけています。それは、
めた「道場の装飾」、それから「ユニフォームの着用」、これら全てが、
「ンゴロ」
(N'Golo:
「シマウマのダンス」
)という戦闘的な踊りで、
「音楽に合わせた身体の動き」と共に、アンゴラ派カポエイラの様々
なことを語る言語の役目をしています。
(6)ヴェルガ
(verga)
はビリンバウの弓の部分になる木の枝で、
ヴェルガに使われる木の代表例には
「ビ
リーバ」(biriba)がある。「ビリーバはパウ(木)だ、ビリーバはパウ。ビリーバでつくるよ、ビ
リンバウ ..」(Biribaépau,épau/Oibiribaépauparafazerberimbau...)という歌はよく
儀式の場を整えるために、ホダ(輪のつどい)がはじまる予定時
知られている。
間より少し前に、弟子たちがやって来て床を掃除し、スツールを準
(7)よく知られているコヒードの唄で、リードの歌い手(師範や師範格の人)が「足のかわりに手だ」
備します。その間に、楽器をチューニングする弟子達もいます。ホ
「手のかわりに足だ」(Éopépelamão)とリードがうたうと「足のかわりに手」(Amãopelo
(Éamãopelopé)とうたうと「手のかわりに足」(Opépelamão)と応答する合唱があり、
pé)と応答の合唱が入る。これが幾度も繰り返される。
63
Photo:RitaBarreto.
アンゴラ流カポエイラ
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ホダでは、バテリーア(楽器隊)の楽器、カン
ト(唄)
、ホダで格闘する格闘者たち、この三
者のあいだに、意思の疎通があります。カント
には、ラダイーニャ、クアドラ、コヒードなど
の種類があります。格闘者達は、言葉を使わな
いで、身体の動きによって意思の疎通をします。
思春期を迎える者たちの「通過儀礼」
〈誕生 / 成人 / 死など、人生で
必ず経験する事に際して行う儀式〉のひとつになっており、少年た
ちが少女たちに見せるために、踊りながら戦います。
1930 年より以前は、カポエイラは、アカデミーア(スポーツ・
ダンスなどのトレーニング施設、道場にも相当)のような屋内では
行われませんでした。このことは、昔の儀式は、現在のものとは違っ
ていたことを示しているのかも知れません。またはカポエイラが、
自由のため、生き抜くための闘いの手段であり、遊びとしてやる場
合にはエンジェニョ *、波止場、道端、バール * の前、青空市場、丘、
池のそばなど、野外でやったとも考えられます。その当時の写真を
見ると、ビリンバウの数やバテリーアの配置、服装などに現在との
違いが見られます。
〈* エンジェニョ(engenho)は植民地時代の砂
糖工場のことだが、奴隷が労働した砂糖農園や領主の屋敷を含めた
広大な地域がエンジェニョと呼ばれた。バール(bar)は立ち食い式
のコーヒースタンドや一杯飲屋〉
バイア州サルバドールの町にあるアンゴラ流カポエイラ道場は、
ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ師範の系列をひく、1930
年代の伝統を守っていく努力をしています。外国に普及したアンゴ
ラ流カポエイラのグループも、パスチーニャ師範の伝統を維持しよ
うとしています。ジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範は、
パスチーニャ師範の代表的な弟子であり、アンゴラ流カポエイラの
伝統をゆだねられました。従って本論では、ジョアン・ペケーノ師
範が創立した道場 CECA-AJPP で、ジョアン・ペケーノ師範自身が
おこなうカポエイラ儀式を記述しました ( 注 8)。
アンゴラ流カポエイラ、
ホダ
(輪)
の儀式
アンゴラ流カポエイラのホダ(輪の儀式)
... 先 ず、 行 わ れ て い る こ と の ひ と つ で あ る、 振 付
があるようなジェスチャーをしながら謎めいた唄をう
たっている人々を観察することである。次に、その人々
にとって、その動きと唄が何を意味しているのか、正
し く 理 解 で き る よ う に 試 み る こ と で あ る。(Turner,
1974:20)
ホダでは普通、人々は円形に座りますが、四角や長方形に座る場
合もあります。カポエイラ団体は、年間をとおして、一週間に一回、
アカデミーアなどでホダをする習慣があります。国内大会や国際大
会のように、様々なグループが集合するアンゴラ流カポエイラのイ
ベントもあります。ふつうイベントは、一つのカポエイラ団体が後
援や企画をして、多くの師範とその仲間や弟子達が参加します。
ホダでは、バテリーア(楽器隊)の楽器、カント(唄)
、ホダで格
闘する格闘者たち、この三者のあいだに、意思の疎通があります。
カントには、ラダイーニャ、クアドラ、コヒードなどの種類があり
ます。格闘者達は、言葉を使わないで、身体の動きによって意思の
疎通をします。
〈本章で使用している「ジョゴ」
「格闘」
「格闘者」な
どの対訳語については本誌 6 章表紙(p.55)参照〉
(8)ヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ師範の談話に「私は、その場限りの先生ではない、本物
の師範を二人残す」と述べたものがあり、ジョアン・ペケーノ師範とジョアン・グランヂ師範(ニュー
ヨーク在住)が示唆されている。
64
アンゴラ流カポエイラ、ホダ(輪)の儀式
と高くなります。
楽器とヒエラルキー(上下階層関係)
アンゴラ流カポエイラのホダ(輪のつどい)で、中心となる楽器は
それぞれのビリンバウは、独自の「トッキ」
(toque:リズム・音
ビリンバウです。ビリンバウは、楽器の階層のなかで、もっとも崇高
色)で演奏されますが、その音色が合わさってジョゴの展開をみち
なものです。ビリンバウの御元で
(みもと:pédoberimbau)
(注9)
、
びく役割を果たし、ボディモーションがはじまります。多くの場合、
ホダで行われるジョゴの展開が決まっていきます。ビリンバウは三種
ボティモーションはスローですが、ビリンバウのトッキによる指示に
類あります。
「ベハ・ボイ」
(berra-boi)または「グンガ」
(gunga)
従って、早い動きや大きい身振りになることもあります。カポエイラ
(注 1 0)と呼ばれるビリンバウは最も音が低く、演奏するのは師
で使われる楽器は、バテリーアと呼ばれるパーカッショングループを
範または師範格の人とされていますが、これは、経験の豊富さ・博識
組んでいますが、
配置の上で定まった順列があり、
ビリンバウ 3 本(グ
という基準での、カポエイラ界の上下階層関係(hierarquia)に従っ
ンガ、メヂオ、ヴィオラ)
、パンデイロ 2 枚(1 枚の場合もあります)
て決められています。
「メヂオ」
(médio)と呼ばれるビリンバウは
に、
アゴゴ1つ、
ヘコヘコ1つ、
アタバキ一台、
という順序になります。
中間の音色、
「ヴィオラ」
(viola)と呼ばれるビリンバウの音色は、
もっ
ここに掲載する写真で、バテリーアの楽器の配置例を示します。
Photo:RosaSimões
写真では、ジョアン・ペケーノ師範がジョゴの相手と共に、ビリン
層関係に従って構成されますが、ラダイーニャの時の楽器隊は、特に
バウの御元(みもと)についています。この時、ジョアン・ペケーノ
厳密に階層関係に従って構成されています。ですから写真の場合も、
師範は、自作のラダイーニャ、
「俺がここにやって来たとき」
(Quando
グンガを担当しているのがモラエス師範 (MestreMoraes)、メヂオ
euaquicheguei)を歌っていました(師範がうたっている歌詞を
はシロ師範 (MestreCiro)、ヴィオラはペ・ヂ・シュンボ師範 (Mestre
書きとったものを後で紹介します)
。ラダイーニャが、ビリンバウの
PédeChumbo) が 担 当、 パ ン デ イ ロ は ト ペ チ 先 生 (Professor
御もとで歌われる場合は、師範自身がジョゴをする時です。従って、
Topete) が演奏しています。この全員が、カポエイラの小宇宙での
その場合のラダイーニャは、グンガを演奏している師範によって歌わ
重要な人物となっています。
れるのではありません。また写真では、3本のビリンバウと1枚のパ
ンデイロだけが演奏されているのがわかります。バテリーアは上下階
(9)ビリンバウのみもと(‘pé-do-berimbau’)に就くとは、二人の格闘者が三本のビリンバウの前
にしゃがむ姿勢をとることを示す。
(10)「グンガ」という言葉自体も「ビリンバウ」の意味になる。
65
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
歌詞にふった番号のうち、1 から 17 までが「ラ
ダイーニャ」
(ladainha)です。ラダイーニャは
一種の「カンチーガ」
〈cantiga:詩に単旋律の
ふしをつけて唄うもの〉で、
歌詞の内容は、
物語、
祈祷や賛歌、気晴らし、相手をけしかけるよう
な歌詞、何かを通達する歌詞もあります。ソロ
カポエイラにおける「カント」
(詠唱唄)
ジョゴがはじまる前に、師範またはグンガ演奏者、あるいは、ビ
リンバウの御元にいる格闘者のうちの一人が、ラダイーニャをうた
います。以下に、ジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範自作
の唄、
「俺がここにやって来たとき」の歌詞を記します(これは師範
が歌った通りに書き表したものなので単語のスペルが普通と違う場
合があります)
。これにそって、師範によって、どのようにホダが開
始されたか説明していきます。
でうたわれるか、または師範がリードしてうた
われる場合もあります。
「俺がここにやって来たとき」
(Quando eu aqui cheguei)
「ィエ」
(注 11)
Iê
1-俺がここに来たのは
Quandoeuaquicheguei
2-俺がここに来たのは
Quandoeuaquicheguei
3-皆を賛美しに来たのだ
atodoseuvimlouvá
4-まず神を賛美するために
vimlouváaDeusprimero
5-それから、ここの住人たちを
eosmoradôdesselugá
6-俺がうたっている歌は
Agoraeutôcantando
7-賛歌をうたっているのだ
cantandocantoemlouvô
8-イエス・キリストの賛歌
TôlouvandoaJesusCristo
9-イエス・キリストを賛美しているのだ TôlouvandoaJesusCristo
10-キリストは我らを祝福なさった
porquenosabençoô
11-だから賛美して祈るのだ
アンゴラ流カポエイラ、
ホダ
(輪)
の儀式
Tôlouvandoetôrogando
12-我が父、我らが創造主よ
aopaiquenoscriou
13-この町を祝福したまえや
Abençoeestacidade
14-この町を祝福したまえや
Abençoeestacidade
15-この町の人々を祝福したまえや comtodosseusmoradores
16-そしてカポエイラのホダでは
enarodadecapoeira
17-格闘者たちへの祝福を願う、なぁ友よ abençoeosjogadores,camaradinho
18-あいつは魔術師だ
19-そうさ、魔術師だ、同士よ
Émandinguêro(P)(注 12)
Iêémandinguêro,camará(C)(注 13)
20-そう、貴殿は魔術を使う
Oiioioémandingá(P)
21-そうさ、魔術だ、同士よ
Iêémandingá,camará(C)
22-そう、貴殿はカポエイラがうまい
Oiioiosabejoga(P)
23-そうだ、カポエイラがうまい、同士よ
Iêsabejogá,camará(C)
24-さぁ、あっちに貴殿の技がとぶ Oiioiojogadaquiprálá(P)
25-そう、あっちに技をとばすんだ、同士よ
Iêjogueprálá,camará(C)
26-さぁ、こっちに貴殿の技がとぶ Oiioiojogaaquiprácá(P)
27-そうだ、こっちに技をとばすのだ、仲間よ
Iêjogueprácá,camará(C)
28-さあ、ぐるりと世界ひとまわり Oivoltaquemundodeu(P)
29-そう、世界ひとまわりだ、同士よ
Iêqueomundodeu,camará(C)
30-さぁ、貴殿、世界ひとまわり
Oiioioqueomundodá(P)
31-そう、世界ひとまわりだ、友よ
Iê,queomundodá,camará(C)
(11)
‘Iê’(ィエ)はホダを開始させる合図になる言葉。師範同士のジョゴの開始、不適切な行為のた
めに中断したジョゴの再開、又はその両方を告げる場合もある。
(12)P:puxador(リード)→(注 14)
(13)C:coro(合唱)→(注 14)
(14)分析の便宜上、一行ごとに歌詞の前に番号がふってある。歌は、シュラ(chula)に入ったところから「呼びか
け-応答形式」で詠唱されるので「呼びかけ」節の後には、それを歌う P(puxador「プシャドール」:リード
の歌い手)、それに対して、皆で声を合わせて「応答」をうたう節の後には C(coro「コロ」
:合唱)と記してある。
(15)ジョアン・ペケーノ師範は世界各国を訪問しアンゴラ流カポエイラを教えている。
(16)28 番の歌詞は‘Iê dá volta ao mundo’:「そう、ぐるりと世界をひとまわり」と歌われる場
合もある。
66
歌 詞 に ふ っ た 番 号 の う ち、1 か ら 17 ま で が「 ラ ダ イ ー ニ ャ」
(ladainha)
(注 14)です。ラダイーニャは一種の「カンチーガ」
〈cantiga:詩に単旋律のふしをつけて唄うもの〉で、歌詞の内容は、
物語、祈祷や賛歌、気晴らし、相手をけしかけるような歌詞、何かを通
達する歌詞もあります。ソロでうたわれるか、または、師範がリードし
て掛け合いでうたう場合もあります。ここでジョアン・ペケーノ師範が
唄っているラダイーニャには、祈祷と賛美の両方が入っていて、賛美で
は、神が「住人」
(師範が住んでいる町や、今迄、訪問したことのある
町の住人)に対し上位に置かれています。
(注 15)
ジョアン・ペケーノ師範は、危険からの加護を祈って神を賛美し、次
に、周りをなごませるために、ホダにいる格闘者たちを賛美します。こ
れによって、高まる緊張をコントロールし、穏健な雰囲気を作り出しま
す。このとき二人の格闘者は、
ビリンバウの御元
(みもと)
にしゃがんで、
Photo:RitaBarreto
歌の内容に注意深く耳を傾けています。
(この時、格闘はありません)
。
演奏は、3 本のビリンバウと 1 枚もしくは複数のパンデイロだけです。
ふつう、ラダイーニャの、歌詞 17 番にある「カマラヂーニャ」ある
繰り返します(同じ歌詞の「応答」は、格闘者やバテリーアが別の歌や
ジョゴをリクエストするまで繰り返されます)
。
いは「カマラヂーニョ」
(camaradinha(o))
:
「仲間よ・同士よ・友よ」
以下のコヒードは、身体による対話をサポートするために、あるいは、
などの意味)の言葉がでてきたら、すぐ後に続いて、18 番から 31 番
万一「不適切な攻撃」が起きている場合などに、注意をうながす目的で
のような、
「呼びかけ-応答形式」でうたわれる、掛け合いの歌「シュ
うたわれます。また、この両方の目的で唄われる場合もあります。
ラ」
〈chula:注 14 参照〉が始まります。ここでは、リードの歌い手が
「呼びかけ」を一節うたうごとに、ホダにいる人々が声を合わせて、リー
「オイ、スィン・スィン・スィン、オィ、ノン・ノン・ノン」
ドの歌い手がうたった歌詞を繰り返して「応答」をうたいます。ホダの
(Oisim,sim,sim,oi,não,não,não)
中にいる格闘者達もこれに答え、両手を挙げて互いに相手をさして、
「そ
うさ、あいつは魔術師だ」
「そうだ、貴殿はカポイエイラがうまい」と、
「はい、そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim(P)
身振りで同意を表わします。
「いや、ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não(P)
「さあ、ぐるりと世界ひとまわり」
(注 16)がうたわれると、格闘者
「はい、そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim(C)
たちは格闘の開始を許可されたことになります。格闘者たちは十字を切
「いや、ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não(C)
り、相手の手を握って挨拶をかわします。
「はい、そう・そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim,sim(P)
そのあと、沢山の「コヒード」
(corrido)が唄われます。コヒードに
「いや、ダメ・ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não,não(P)
も声を合わせて返答する「合いの手」が入りますが、
シュラの場合と違っ
「はい、そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim(C)
て、コヒードの合いの手は、つねに同じ歌詞を繰りかえします。どんな
「いや、ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não(C)
歌詞が繰り返されるかは、それぞれのコヒードで決まっています。ふつ
「はい、そう・そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim,sim(P)
う、この時に格闘者達が一人ずつ、ビリンバウに向けて「ケダ・ヂ・ヒ
「いや、ダメ・ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não,não(P)
ン」
(quedaderim)の動きをしますが、これは、バテリーアの指示に
「はい、そう・そう・そう」
Oisim,sim,sim(C)
従うという宣誓のしるしです。以下はコヒードの一例です。
「いや、ダメ・ダメ・ダメ」
Oinão,não,não(C)
(内容は歌詞の通り)
「テン・デンデ」(Temdendê「デンデがある」)
1-デンデがある、
デンデがある
2-アンゴラ流の格闘には、デンデがある
3-デンデがある、
デンデがある
4-低い技には、
デンデがある
5-デンデがある、
デンデがある
Temdendê,temdendê(P)
Ojogodeangolatemdendê(P)
Temdendê,temdendê(C)
Jogodebaixotemdendê(P)
Temdendê,temdendê(C)
デンデ椰子のオイルが、バイア料理の重要なスパイスになることを考
えると、このコヒードは、格闘にうま味が増したとき、つまり、身体の
動きによって優美に対話するような、練り上げられた美しい格闘が展開
している時にうたわれます。コヒードのスタートには、師範(または演
奏者のうちの一人か、バテリーアの中の歌い手の一人、あるいはその両
方)が、歌の最初の二節を「呼びかけ」としてうたいます。そして歌詞
の最後の行以降は、力一杯声を合わせて、
「呼びかけ」への「応答」を
Photo:MRE(ブラジル外務省)アーカイヴ
67
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラのホダでも、人生のホダにおいて
も、動きの一つ一つが、常に、社会正義を求め
る挑戦と闘争のための行為になっています。ア
ンゴラ流カポエイラ儀式を注意深く見て気づく
のは、右左、上下など、対立するもののうちの、
どちらか一方しか重視しない、ということが無
いことです。重視されているのは、対立するも
のや、異なるものの間の「バランス関係」であ
り、その「バランス関係」が、謙虚さと忍耐の、
たゆまぬ訓練をとおして培われているのです。
まとめと考察
ホダには、師範と弟子が参加し、公の場で行われる場合は観客も
参加します。格闘や演奏をしていない人は、つねに格闘に注意を払
い、声を合わせて「合いの手」を入れます。アンゴラ流カポエイラ
では、自分自身を防御するために攻撃にでます。そのため、格闘の
間じゅう、次にどうすべきかを模索しています(これは、私たちの
日々の生活で行っていることの縮図だと見ることができます)
。です
から、相手をよく観察すること、相手がどう動くか分析すること、
つまり、いま誰と格闘をしているか、相手をよく知ることが必要な
のです。格闘だけでなく、唄にも注意を払うことが大事です。カポ
エイラの教訓は唄によって伝えられます。それは唄が、言葉を使わ
ずに意思の疎通をはかる、身体を使ったコミュニケーションを指揮
しているからです。
ですから、ジンガ(ginga)
、ネガチーヴァ(negativa)
、ハボ・
ヂ・アハイア(rabo-de-arraia)
、シャッパ(chapa)
、ハステイラ
(rasteira)
、ケダ(queda)
、その他、もろもろの動きや技が、格
闘者のあいだで、言葉を使わなくても対話ができるようなやり方で
行われています。最も重要なのは、攻撃することでなく、いかに防
御するかです。従って、アンゴラ流カポエイラの修行者たちは、尊
敬の念や忍耐、人間性、均衡を保つこと、つまり正義を探究してい
ると言えます。例えば、平衡(バランス)という言葉は、広い意味
で解釈されていて、
「人生おけるバランス」という意味にもなります。
ですから、アンゴラ流カポエイラの奥儀を極めた人、すなわち、ア
ンゴレイロ(angoleiro)は、カポエイラの技に秀でるだけでなく、
日常、他人との付き合いの上でも、均整のとれた人間になることを
アンゴラ流カポエイラ、
ホダ
(輪)
の儀式
目ざしています。
そうするとアンゴラ流カポエイラは、暴力をコントロールする訓
練にも役に立つと言えます。全てが、教育、楽しみ(
「ヴァヂアージェ
ン」:vadiagem「怠け者の遊び」とも呼ばれましたが)、そして、
尊敬のために行われているからです。対戦相手は、
「カマラーダ」
(カ
ポエイラの仲間)であり、この人と格闘することで益々色々なこと
が学べるのです。
カポエイラでは、
所謂「対戦時間」は決まっていません。一回のジョ
ゴの時間は、五分から十分、または三十分ですが、ビリンバウが特
別なトッキ(音色・リズム)を鳴らして命じた場合、または、ビリ
ンバウを前に傾けて演奏し始めた場合は、ジョゴの終了が言い渡さ
れたことになり、格闘者たちは、ビリンバウの前に戻らなくてはな
りません。
(再度、
ビリンバウの御元に就くことになります)
。ここで、
格闘していた二人は、良き仲間として挨拶を交わし、その後、次の
格闘者が入場するのです。
こうして考察してみると、アンゴラ流カポエイラの動きから、多
くの知恵が感じられてきます。カポエイラのホダでも、人生のホダ
においても、動きの一つ一つが、常に、社会正義を求める挑戦と闘
争のための行為になっています。アンゴラ流カポエイラ儀式を注意
深く見て気づくのは、右左、上下など、対立するもののうちの、ど
ちらか一方しか重視しない、ということが無いことです。重視され
ているのは、対立するものや、異なるものの間の「バランス関係」
であり、その「バランス関係」が、謙虚さと忍耐の、たゆまぬ訓練
をとおして培われているのです。
68
アンゴラ流カポエイラ、ホダ(輪)の儀式
参考文献
BOLASETE,Mestre.AcapoeiraangolanaBahia .3.ed.Rio
deJaneiro:Pallas,2001.
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Mestre João Pequeno, Mestre João Grande. Programa
Nacional de Capoeira (SEED/MEC): Capoeira Arte & Ofício
(disco)Salvador.ladoB,faixa1.,1989.
LIMA, L. A. N. Capoeira Angola: uma lição de vida na
civilização brasileira . São Paulo: PUC. (Dissertação de
Mestrado),1992.
PEIRANO, M.Rituais ontem e hoje . Rio de Janeiro: Jorge
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SIMÕES, Rosa Maria Araújo. Da inversão à re-inversão
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193p.Tesededoutorado(DoutoradoemCiênciasSociais).
ProgramadePós-graduaçãoemCiênciasSociais.UFSCar.
TURNER, Victor W. O processo ritual: estrutura e
antiestrutura ; tradução de Nancy Campi de Castro.
Petrópolis,Vozes,1974.
______ From Ritual to Theatre: The Human Seriousness of
Play. New York City: Performing Arts Journal Publications,
1982.
ホザ・マリア・アラウジョ・シモンイス
(RosaMariaAraújoSimões)
サンパウロ州立大学(Unesp)バウルキャンパス、建築・芸術・コ
ミュニケーション学部、芸術・グラフィックデザイン学科、芸術教育
学修士課程教授(担当科目:大衆文化人類学、ボティアート・音楽表
現)
。サンパウロ州立大学公開講座 (PROEX/UNESP):
“Acapoeira
angoladeMestreJoãoPequeno”
「ジョアン ・ ペケーノ師範のア
ンゴラ流カポエイラ」主任。サン・カルロス連邦大学大学院博士課
程修了、社会科学専攻。
(博士論文“Dainversãoàre-inversãodo
olhar:ritualeperformancenacapoeiraangola.”
)
69
8. カポエイラの神秘と魔術
ペドロ・ホドルフォ・ジュンジェルス・アビビ
Pedro Rodolpho Jungers Abib
カポエ
イラは
、意義深
格闘技
く重要
のよう
なアフ
にも、
ロ・ブラ
ポエイ
ダ
ンスの
ジル文
ラをア
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化です
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にも見
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え
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るし、
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ので、
思えま
人もい
うか?
す。ま
ます。
た、カ
それで
は、ど
のよう
にカ
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラのいろいろな特徴のなかでも、神秘
なつかしのパスチーニャ師範。パスチーニャ師範ことヴィセンチ・
フ ェ ヘ イ ラ・ パ ス チ ー ニ ャ(MestrePastinha,VicenteFerreira
的で魔術のようなところは、もっとも興味をそ
Pastinha)
は、
バイアでその生涯を送り、
1981 年に亡くなりました。
「カ
そられる点のひとつです。これについては、多
ポエイラは、口で食べるもの全部、身体がやること全部さ」というのが、
師範の口ぐせでした。カポエイラの偉大な守り神のひとりが残したこの
くの議論があり、また、庶民文化として人々の
言葉は、カポエイラの、複雑でダイナミックな特質をうまく言い当てて
あいだの口伝えで、沢山の物語が語りつがれて
います。なぜならカポエイラは、変貌しては順応し、反乱を起こしては
きました。口承伝説の伝統は、ものしり達の知
静まり、創造と再生を繰り返し、自己防衛の手段となり、殺生すら行い
ながら、今日では教育手段になってしまうという道を歩んできたからで
識を代々伝えていく上で、最もたいせつな手段
す。しかもそのあいだ、四世紀にわたる、悲惨なブラジル奴隷制度の歴
のひとつだったのです。
Photo: ボラ・セチ師範所蔵アーカイヴ
カポエイラの神秘と魔術
史を映し出し、抑圧された人々の自由への叫びと文化を、主張し続けて
パスチーニャ師範
きました。
カポエイラのいろいろな特徴のなかでも、神秘的で魔術のようなとこ
ろは、もっとも興味をそそられる点のひとつです。これについては、多
くの議論があり、また、庶民文化として人々のあいだの口伝えで、沢山
の物語が語りつがれてきました。口承伝説の伝統は、ものしり達の知識
を代々伝えていく上で、最もたいせつな手段のひとつだったのです。
カポエイラとカポエイラ闘士について、庶民に語り継がれてきた話
のなかで、ビゾウロ・マンガンガ(BesouroMangangá)ほど有名な
人物はいません。洗礼名はマノエル・エンヒッキ・ペレイラ(Manoel
HenriquePereira)といいましたが、今日でも、実在の人物だったのか
どうか、疑う人は多いです。絶対に実在した、と受け合う人もいます。
ビゾウロと一緒に生活し、ビゾウロからカポエイラを習ったという、故
コブリーニャ・ヴェルヂ師範(MestreCobrinhaVerde)本名ハファエ
ル・フランサ(RafaelFrança)などです。ごく最近になって、ビゾウ
ロが実在した証拠が出てきました。バイア州ヘコンカボ地区のサント・
アマロ・ダ・プリフィカソンの「聖なる慈悲の家」
〈SantaCasade
Misericórdia:慈善病院、かつては孤児院を兼ねていた〉に、マノエル
の死亡証明が見つかったからです。
ビゾウロは、バイア州ヘコンカヴォ地区では、昔から住んでいる人々
の記憶の中に生き続け、ビゾウロが巡査をまいて逃げる時の凄いからく
りや、一度に何人もの敵を相手にくり広げた大立ち回りなど、数えきれ
ない武勇伝の主役になっています。特に、ビゾウロに「変身能力」があっ
たという話は有名で、
「アフリカ起源の魔法を心得ていて、切り株や動物
72
カポエイラの神秘と魔術
など色々なものに化けることができたし、必要に迫られた時は、空を飛
この世に魔法はおこるし、魔術ができる人も沢山いる。身体には
んで逃げた」などと言われています。
唄があり、小鳥にはクチバシがあるようにな。カポエイラにはア
シェ(カンドンブレの神々の超自然的な力)がこもっている。こ
ビゾウロは、ならず者仲間から、魔術師ビゾウロ、黒人ビゾウロ
(BesouroPreto)
、 ビ ゾ ウ ロ・ コ ル ド ン・ ヂ・ オ ウ ロ(Besouro
れは、俺のおやじと恩師が教えてくれたことだ。そりゃ、大した
CordãodeOuro)などと呼ばれていました。アントニオ・リベラキ・
人達だったよ。ふつう、密は、花のこともミツバチのことも知ら
ピレス(AntônioLiberacPires)の研究(注1)によると、
ビゾウロは、
ない。だが俺にカポエイラを教えた人達は知っていたんだ。
奴隷制度への抵抗をはじめ、カポエイラ軍団のカミソリ対決や選挙の用
心棒で知られる、19 世紀のカポエイラ界と関係していたとされていま
す。今日でもカポエイラのホダ(輪の集い)では、ビゾウロの豪胆ぶり
や警官との対決での活躍が、散文や韻文の歌でうたわれています。長年、
カポエイラ闘士たちの間で、ビゾウロの大胆さと賢さが唄い継がれてい
るのです。かの有名なビゾウロの「変身能力」は伝説となり、今でも、
次のように唄われています。
ズンズンズン、ビゾウロ・マンガンガ
Zum,zum,zum,BesouroMangangá
軍警察のおまわりどもをやっつける Batendonossoldadosdapolíciamilitar
ズンズンズン、ビゾウロ・マンガンガ
魔術ができない者たちは
パトゥア*を持ってないからさ
Zum,zum,zum,BesouroMangangá
Quemnumpodecommandinga
nãocarregapatuá.....(注2)
〈* パトゥア:アフリカ起源のブラジル呪術宗教カンドンブレのお守り〉
パスチーニャ師範の愛弟子で、90 歳を迎える今も、現役で活躍してい
るジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範(MestreJoãoPequeno
dePastinha)本名ジョアン・ペレイラ・ドス・サントス(JoãoPereira
dosSantos)は、ビゾウロは自分の父親のいとこで、自分は小さい時か
らビゾウロの武勇伝を聞いて育ったので、ビゾウロのような勇者になりた
くてカポエイラを始めたと言っています。ジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチー
ニャの父親の話では、ビゾウロはどこにいても姿を消すことができて、人
の前を通っても、その人に姿が見えなかったといいます。またジョアン・
ペケーノ師範の話では、ジョアンの父親自身も、ちょっとした「まじない
の心得」があって、ビゾウロのように、姿を消したり、魔法のようなこと
ができたそうです。
物 語 の 世 界 を の ぞ い て み る と、 マ ル コ・ カ ル ヴ ァ リ ョ(Marco
Carvalho)の『楽園のフェィジョアーダ』
(注 3)という面白い本では、
「カポエイラ格闘」―ジャイール・モウラ研究所アーカイヴ
ビゾウロがストーリーテラーになって、
自分が「アリピオおじさん」から、
どうやってカポエイラを習ったかを語ります。アリピオおじさんは「... 知
カポエイラの世界で、
「マンヂンガ」
(mandinga「魔術」
)として知
り合った時から年寄りだったが、ずっと前から年寄だったように思えた。
られる、神秘的で魔法のようなものは、カポエイラをより深く理解す
音ひとつ立てずに、ネコみたいにそっと歩く爺さんだった」そうです。ア
るうえでの、基礎になります。ヘゴ(WaldeloirRego)
(注4)の研
リピオおじさんは、もと奴隷で、農園主の奥方に惚れこまれ、農園主の旦
究によると、
「マンヂンガ」という名詞は、西アフリカの国際河川、ニ
那が怒り狂っておじさんを殺せと命じたけれど、殺せなかったのです。
「な
ジェール川・セネガル川・ザンビア川が流れる、マンディンガ族の住
ぜなら、アフリカのヨルバ族の、深い信仰の魂から生まれ出た男だったか
む地域に関係があるのではないかとされています。ブラジルに奴隷と
ら」です。カルヴァリョの物語中でのビゾウロは、こう語り続けます。
して連れて来られたアフリカの人々は、この地域に、沢山のまじない
師がいると信じていたからです。カポエイラに魔術があるということ
アリピオおじさんは、俺に、何でもかんでも山ほど教えてくれた。
について、カポエイラをする人々のあいだで、いろいろな神話が創り
ベテランの助産婦みたいに落ち着き払った男だった。黒人で、ひ
だされました。
との目の奥をじーっと見つめて邪気を見抜いた。そういう見抜く
偉 大 な る ヴ ァ ル デ マ ー ル・ ダ・ リ ベ ル ダ ー ヂ 師 範(Mestre
力があったから、死の危険から逃れることができたんだ。カポエ
ValdemardaLiberdade)も、もはやこの世にはおりませんが、生
イラが物凄く上手くて、他のことも何でも上手かった。そういう
(1)参照:Bimba,PastinhaeBesouroMangangá.AntônioLiberacPires.Tocantins:NEAB,2002.
人だったね。何でも、他人より先にやってしまう、抜け目ない人
(2)この歌は大衆によく知られているので解説省略。
だった。トロかったり、優柔不断でブスッとした暗い人間じゃな
(3)参照:Feijoadanoparaíso:asagadeBesouro,ocapoeira.MarcoCarvalho.RiodeJaneiro:Record, かったことは確かだ。カポエイラの上手さは奇跡みたいだった。
(4)参照:Capoeiraangola:ensaiosócio-etnográfico.WaldeloirRego.Salvador:Itapuã,1968.
2002.
(5)参照:Ojogodacapoeira:culturapopularnoBrasil.LuizRenatoVieira.RiodeJaneiro:Sprint,1998.
73
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
コブリーニャ・ヴェルヂ師範(Mestre Cobrinha
Verde)は、バイアのヘコンカヴォ地区サント・
アマロ・ダ・プリフィカソンで、ビゾウロや「そ
の道の」物知り達から学んだ「魔術の芸」を、
とても大切にしている人のひとりでした。
前、研究者ルイス・ヘナト・ヴィエイラ(LuizRenatoVieira)に、
こう話したことがあるそうです。昔の師範たちは、
「…よく魔術を使い、
しょっちゅう木の葉に化けたり、動物に化けたりしていた。そりゃも
う、凄かったものだ。ビゾウロは偉大なカポエイラ闘士だったが、そ
れは全て、願掛けが効いていたのさ」
(注 5)
ジョアン・ペケーノ師範は、ビゾウロの死因についての一説を教え
てくれましたが、それによると、魔法が破られたから倒されたという
ことです。
魔術は、カポエイラにも宿っていたが、首にぶら下げた
お守りのおかげでもあった。お守りの中には祈祷文や願
掛けが入っていて、
〈それをつけると〉鋼のように強くなり、
刃物も歯が立たぬ身体になるのだった。しかし、女と寝
て汚れた身体の人間は、だらけた、スキのある身体になる。
ビゾウロが殺られたのも、そのせいだった。女の家に泊
まった次の日に、ビゾウロが家に帰る途中、有刺鉄線を
くぐったところ、背中をひどく怪我したので、その日は
魔力を失っていることに気がついた。…ビゾウロが殺ら
れたのは、その日だった。ジャングルのヤシ、トゥクン
でできたナイフのひと突きで、殺られてしまった。
ジョアン・ペケーノは、自分にカポエイラの手ほどきをしてくれた
のは、ジュヴェンシオという名の黒人で、その男が、バイア奥地のマタ・
ヂ・サン・ジョアンに住んでいたころは、鍛冶屋で働いていたという
話もしてくれました。ジュヴェンシオは、ビゾウロの友人で、長らく
カポエイラの神秘と魔術
ビゾウロと一緒に暮らしていたので、ビゾウロの話をたくさん聞いた
そうです。
コブリーニャ・ヴェルヂ師範(MestreCobrinhaVerde)は、バイ
アのヘコンカヴォ地区サント・アマロ・ダ・プリフィカソンで、ビゾ
ウロや「その道の」物知りたちから学んだ「魔術の芸」を、とても大
切にしている人のひとりでした。それのおかけで、ブラジル北東部の
奥地で暴れ回る盗賊団にいた時期も含め、師範の冒険の旅の、ありと
あらゆる場所で出会った、ありとあらゆる危険から、逃れることがで
きたと言っています。
「俺が使っていたお守りは、サント・アンドレ 7 つのチャ
ペルの聖イネス祈祷のお守りで、6 枚の葉っぱの飾りが
ついていた。使わない時は首から外してテーブルの上の
きれいな皿の中にいれておいた。あいつは皿の中で、ピョ
ンピョン飛び跳ねていた。だって生きていたんだからな。
しかし悪いことが起こった。お守りは逃げ出して消えてし
まった。俺が何か間違いを犯したらしく、あいつはいなく
なって、
二度と戻ってこなかった。俺が 17 歳でオラシオ・
ヂ・マトスの盗賊団に入ったときは、俺は、あのお守りを
持っていた。あれのおかげで、何度も助けられた。お守り
をくれたのは黒人の男で、あの男のことを話し始めると、
今でも懐かしくて泣けてくる。パスコアルって名前の男
だった。
(注 6)
(6)出典:CapoeiraseMandingas.CobrinhaVerde/MarcelinodosSantos.Salvador: ARasteira,1991.
74
カポエイラの神秘と魔術
自分たちのために伝えてきたものを、見よう見まねで覚えていくの
コブリーニャ・ヴェルヂ師範は、自分のことをカトリック教徒だと言っ
だと語っています。
ていましたが、アフリカの伝統宗教も信仰せずにはいられませんでした。
師範は、
「この世やあの世の」敵から身を守るために、
「スキのない身体」
二人の格闘者がビリンバウの御元(みもと)につき、準備万端で
を手に入れようとしていました。以下は、コブリーニャ・ヴェルヂ師範の、
格闘の開始を待つ。この時間は、
たいへん大切な時間です。なぜなら、
おまじないの唄です。
パスチーニャ師範の伝統に従うアンゴラ流カポエイラのホダでは、
助けたまえや、我が聖シルヴェストレよ
その衣の 27 人の天使よ。 三頭の獅子の心を静めたように
手足の突き刺さった丘の上で
我が足もとに葬られ
忘れ去られた奴らの心を静めたまえ
白蝋のごとく静めたまえ。
目をもってしても我が見えぬよう
口をもってしても我に語れぬよう
仕返しを企もうとも
我を捉えることができぬように。
我に立ち向かう者の刃物を
聖母が空に描く虹の輪のごとく
願わくば、グンニャリと曲げたまえ。
我に立ち向かう者の棍棒を
へし折りたまえ
格闘前のジョアン・ペケーノとジョアン・グランヂ (1968)―Photo:JairMoura
聖母が祝福された息子の乳を温める
焚き火の小枝を折るがごとく。
格闘の開始と終了が、たいへん重視されるからです。それぞれの格
我に銃が向けられたなら
闘者には、格闘相手がどんな技を使ってくるかを見抜き、相手を研
引き金は血塗られ銃身には水が流れる
究する時間が必要です。そして、ここぞという時に攻撃に出るため
聖母が祝福された息子のために
に、作戦を練る時間が必要です。魔術師(mandingueiro「マンヂ
流す涙のごとく。アーメン(注 7)
ンゲイロ」
)と呼ばれるのは、じっくりと相手をじらせて急がずに頃
を見計らい、相手のスキをねらって、手ごたえのある攻撃をする者
のことなのです。
昔のカポエイラ闘士たちは、カポエイラの根本には魔術があると言
います。カポエイラでの「マンヂンガ」
(mandinga「魔術」
)という
「ビリンバウの御元(みもと)
」は、アンゴラ流カポエイラでは、
言葉は、攻撃すると見せかけて相手をかく乱するフェイントのような、
格闘に入り格闘を終わらせる場であるので、神聖な場所なのです。
抜け目ない策略を意味すると同時に、カポエイラ闘士と、アフリカ系
そこには、格闘の始まりと終わり、過去と現在、天と地、善と悪、
ブラジル宗教との間にあるきずなを表わすという、神聖な意味もある
生と死が結集しているのです。死は常に潜在しています。ビリンバ
のです。
ウの御元についたカポエイラ格闘者は、誰でも死を意識します。心
「魔術」という点が、アンゴラ流カポエイラと、ヘジォナウ流カポエ
臓が高鳴り、息づかいが荒くなり、その目は、自分の命を奪うかも
イラを区別する要素のひとつだと考える師範たちもいます。そういう
しれない、格闘相手に釘付けになります。だから、ビリンバウの御
師範たちは、ヘジォナウ流カポエイラは、例外はあるにしても、概し
元についた格闘者の中には、願掛けする者がいるのです。それが、
てアフリカ伝統の、神秘的なものやまじない的なものから遠ざかって
「マンジンガ」(mandinga「まじない・魔術」)になります。十字
きている、と感じているようです。そういう性質から、ヘジォナウ流
を切って願掛けしたり、あるいは、今では廃れてしまいましたが、
の「主観より客観」
「策略よりテクニック」
「入り組んだ仕掛け技より
昔のアンゴラ流カポエイラ武術家達は、両手で地面に模様を書くま
ダイレクトで明快な技」などを重視する、独自の格闘の美学や特徴的
じないをやっていました。また、オリシャと呼ばれるカンドンブレ
なシステムが出来上がっています。一方、
「主観・抜け目ない策略・入
の神々や、カトリックの聖者に加護を頼んで祈る者もいます。それ
り組んだ仕掛け技」などは、アンゴラ流カポエイラの魔術に、より近
ぞれ独自の祈りのやり方があり、手を使ったり、身体をつかったり、
いものになっています。ヘジォナウ流に、こういう要素が無いと言っ
あるいはラダイーニャの唄の間に祈る者もいます。ビリンバウは、
ているのではありませんが、比較的少ないのです。
祖先代々かわらぬ音色で、祖先の加護を求めて鳴り響きます。アフ
エレトリシスタ師範(Mestre Eletricista)ことエヂウルソン・
リカでは、ビリンバウは、死者との対話のために使われていました。
マノエル・ヂ・ジェズス(Edílson Manoel de Jesus)は「魔術
ビリンバウの合図で、二人の格闘者は互いに握手をかわし、格闘開
は教えてもらうものじゃない。魔術は自分で学ぶものだ」と述べ、
始になるのです。
ひとりひとりが、「マンヂンガの芸」を上達させる修行の道を歩み、
最初は宗教でも信じるようにひたむきに努めながら、先駆者たちが
(7)出典:C apoeiras e Mandingas. Cobrinha Verde/Marcelino dos Santos. Salvador:
ARasteira,1991.
75
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ビリンバウは、祖先代々かわらぬ音色で、祖先
の加護を求めて鳴り響きます。アフリカでは、
ビリンバウは、死者との対話のために使われて
いました。ビリンバウの合図で、二人の格闘者
は互いに握手をかわし、格闘開始になるのです。
アンゴラ流カポエイラで、マンヂンガ(魔術)の要素が感じられる
のが、
「シャマーダ」
(chamada「呼び出し」
)と呼ばれているものです。
この
「呼び出し」
によって、
格闘の進行が一時中断します。
「シャマーダ」
は、攻撃や防御、ジンガの動きの流れに「待った」をかけるものです。
格闘者のうちの一人が身体の動きを止めて「様子見」の姿勢を取り、
これが合図になって相手を「呼び出し」
、動きの中断をうながします。
呼び出されたほうは、呼び出した格闘者に、ほとんど身体が触れ合う
距離まで、ゆっくりと注意深く近づきます。いきなり思いがけない攻
撃を受けるかもしれないからです。そのあと、
「舞踏」
(bailado「バイ
ラード」
)のようなものが始まります。二人の格闘者は、互いの身体を
近づけたまま、何歩か、前へ後ろへとステップを踏むのです。両者の
間にピンと緊張が張りつめます。いつなんどき、片方がいきなり攻撃
に出るという、
抜き打ち行為があるかもしれないからです。
「呼び出し」
の状態が終わるのは、呼び出したほうが、独特の身振りで格闘の再開
をうながした時です。そうすると、また格闘が再開されます。
アンゴラ流カポエイラで行われる「呼び出し」では、不意打ちされ
るのではないかという張りつめた雰囲気の中で、二人の格闘者が相手
に自分の本心を悟られないようにしながら、策略・洞察力・巧みなカ
ムフラージュの限りをつくして、その場に、いかに立ち向かうかとい
うところでマンヂンガ(魔術)が発揮されます。アンゴラ流カポエイ
ラのホダに「呼び出し」が入ると、いつも、どことなく神秘的な雰囲
気になります。たった一回の「呼び出し」で、何が起こってもおかし
くありません。格闘者たちは二人とも、どんなことが起きてもよいよ
うに注意して、神経を張り詰めています。そして、抜き打ちの攻撃が
起こることも、めずらしくないのです。
カポエイラの神秘と魔術
アンゴラ流カポエイラの「シャマーダ」(呼び出し)
Photo:ジャイール・モウラ研究所アーカイヴ
76
カポエイラの神秘と魔術
気を付けろ!緊急事態!いかなる場合にも備えて注意し
vencertodasparadaqueapareizasendoahora
ていろ。待ち伏せしている奴が大勢いる。どんなに気を
suficientesicausonãofordezistaparaoutraocazião
つけても、気を付け過ぎるということはない。マンヂン
porqueezisteoutroencontroporquequem
ガの教訓がこう教える。ろうたけた者は二度と騙されな
apanhanuncacisqueceequemdánãoselembra
い。... 策略の秘は我が内にあり。我が身だけの、誠の秘
estaéamalíciadocapoeirista(p.18).(注 9)
の内にあり。キリストすら、
七つの受難の一つのおかげで、
死にて十字架に身を捧げたもうた。だから我が身、我が
大魔術師ビゾウロの魔術は、ヘジォナウ流カポエイラの創立者、ビ
内にあるものだけを信じ、たとえ自分の影であっても疑っ
ンバ師範(MestreBimba)ことマノエル・ドス・ヘイス・マシャー
てかかれ。... カンを鋭くして、だらけないこと。常に頭
ド(ManoeldosReisMachado)によると、
「バック転して、ぴた
をハッキリさせておけ。
(注8)
りとサンダルに両足をつけて着地する」
(注 10)ことができたといい
ます。ビゾウロ、ノローニャ、パスチーニャ、コブリーニャ・ヴェル
カポエイラでマンヂンガ(魔術)が発揮されるのは、カポエイラ格
ヂなどのように、
「魔術師」と呼ばれ、サルバドールやヘコンカヴォの
闘や策略、身ぶりや唄などの、儀式的な場面においてだけではありま
住人達の記憶の中で生きている、かつてのカポエイラ大家たちの魔術
せん。カポエイラでのマンヂンガを知るには、アンゴラ流カポエイラ
は、現在のカポエイラ武術家たちにとっては、豪胆で騒動を起こす「才
武術家のなかの、ある種の人々が行う、ある種の行為を、より深く理
能の持ち主」だという、畏敬の念を与える以上のものがあります。
解する必要があります。その行為とは、最初はカポエイラのホダの中
カポエイラ界を取り巻く、この魔術的雰囲気は、人々の想像から生
で習得されるものですが、モラエス師範(MestreMoraes)
、実名ペ
まれたものではありますが、ほかの沢山のブラジルの民衆文化の表現
ドロ・モラエス(PedroMoraes)が言うように、やがて、日常生活
活動や伝統と同じように、このアフリカ系ブラジル文化カポエイラと、
に入り込んでいき、世の中との接し方にも表れてきます。
「聖なるもの」
(sagrado「サグラード」
)との関連で、大きな意義を
特に、サルバドールとその付近一帯、ヘコンカヴォに至るまでの地
持っています。
「聖なるもの」は、ブラジルの素朴な庶民にとって、特
域に住むアンゴラ流カポエイラ武術家たちには、世間から見ると、か
別で、深い意味があり、これが、庶民の信仰や生活の仕方、夢や闘い、
なりふう変わりな、ある種の行為・信仰・迷信・習慣などが見られます。
勝利や敗北を決定してきました。
これは、まさしく、アンゴラ流カポエイラ界での生活をとおして習得
したもので、現代社会の、いわゆる「ふつうの理屈」とは、ちがう論
理にもとづく行動なのです。そういう人達はたいてい、特別の注意力
や洞察力、霊感、第六感などが発達していて、これに従って行動すると、
ふつうの都市社会の行動基準から、かなり外れるのです。
この人たちの「普通とちがう論理」は、アフリカ系ブラジル文化に
由来する密教の特質と関連があり、大昔からカポエイラの様々なフォー
ムによって表現されています。
かの有名なノローニャ師範(MestreNoronha)
、本名ダニエル・
コウチーニョ(DanielCoutinho)は、20 世紀前半、悪業はびこる
バイア・カポエイラ界で生きた人物ですが、貴重な資料を残していま
す。それは、当時のカポエイラについて様々な点を書きとめた「自筆」
の手記で、庶民独特の言葉でつづられた文章は、豪胆と無秩序の時代
を知る重要な手がかりになっています。
俺そして俺と同じカポエイラの武芸仲間、
今日、社会や世界じゅうに広まっているが
それはひどく役立つ護身術だからで
その不意打ちの魔術はつぎつぎくる困難も克服する
ちょうど良い機会なら、もしそうじゃなければ、次の機会にまわせ
なぜなら他の対決もあるからで、
やられたほうは絶対わすれないが殴ったほうは覚えていない
これがカポエイラ武術家の悪知恵だ(p.18)
〈以下原文はバイア庶民独特の言葉で書かれている〉
Euemeuscolegadamesmaarte,decapoeira,
porquehojeemdiaestánosmeiossocialeno
(8)出典:Maioréacapoeira,pequenosoueu.JoséUmberto.RevistadaBahia,no.33-
Salvador:FundaçãoCulturaldoEstadodaBahia,1999.
mundoenteiroporqueéumadefeizapessoalde
(9)出典:ノローニャ師範、手書きによる「アンゴラカポエイラの ABC」
。OABCdacapoeiraangola:
grandevalorqueésuasmandingatracueirapara
(10)出典:MestreBimba:corpodemandinga.MunizSodré,RiodeJaneiro:Manati,2002(p.36).
manuscritosdomestreNoronha.FredericoAbreu.Brasília.DEFER,1993.
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
「聖なるもの」は、ブラジルの素朴な庶民にとっ
て、特別で深い意味があり、これが、庶民の信
仰や生活の仕方、夢や闘い、勝利や敗北を決定
現在、カポエイラをする人達は、意識的にせよ無意識にせよ、カポ
エイラがおのずと伝えてきた祖先の遺産を引き継いでいくのです。で
すから、カポエイラの意義や意味と無関係ではいられないのです。そ
の意味や意義は、カポエイラが生まれてから現在までの、世の中の危
険・逆境・未知のもの・予想外のものに立ち向かう経験をとおして、様々
してきました。
な要素を取り込み様々な形に成長しながら、文化としての自覚にめざ
めていくという、長い道のりのなかで蓄積されてきました。
近年では、カポエイラの活動が商品化されてしまい、宙返りなどの、
曲芸スペクタクルで旅行者の注目を集めるために利用され、儀式など
の伝統的な要素や、祖先伝来のマンヂンガ(魔術)的な要素から遠ざ
かる傾向にあります。
しかし、これに抵抗し対抗する向きもあります。そこでは、民衆の
苦しみと喜び、信仰と創造力から生まれたカポエイラの威厳を保ち、
かつての武術家たちと、その伝統に敬意を払いながら、カポエイラの
歴史遺産がうけつがれています。
ペドロ・ホドルフォ・ジュンジェルス・アビビ
(PedroRodolphoJungersAbib)
バイア連邦大学教育学部准教授、著書:
“CapoeiraAngola:cultura
カポエイラの神秘と魔術
populareojogodossaberesnaroda.”
(アンゴラ流カポエイラ:
民衆文化とものしり達のホダ格闘)
(Edufba/CMU-Unicamp,2005)。
カポエイラ師範、ジョアン・ペケーノ・ヂ・パスチーニャ師範に師事。
78
79
9. カポエイラの「動き」とメタファー
エリアニ・ダンタス・ドス・アンジョス
Eliane Dantas dos Anjos
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魔術
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラの動きや技につけられた名前、つま
り、カポエイラ用語を理解するには、その起源
や、どうやってその名前をつけたかがわかると
役に立ちます。19 世紀はじめまで、文献にも
絵にも、カポエイラが出てきたことはありませ
んでしたが、黒人奴隷たちが、護身や自由への
戦いの手段として発展させた闘技だとされてき
ました。
しかしその後、カポエイラ用語 * のレパトリーは広がり、多様で独創的になっ
ていきました。〈* 本章のカポエイラ用語の日本語訳は、原文の主旨を伝えるた
め直訳にしてあり、日本での用語と違う場合がある。〉カポエイラの動きや攻撃
技の名前を挙げてみると、
「アウー」(aú「A & U」)、
「ベンソン」(bênção「祝
福」)「
、ハボ・ヂ・アハイア」
(rabo-de-arraia「エイのしっぽ」)「
、メイア・ルーア」
(meia-lua「半月」)「
、サピーニョ」(sapinho「小蛙」)「
、ヴォォ・ド・モルセゴ」
(vôodomorcego「コウモリ飛び」)「
、ヘジステンシア」
(resistência「抵抗」)
「ネガッサ」(negaça「おとり」)など、際限なく出てきます。こういう技や
動きの名前は数えきれません。カポエイラ武術家の技能や創造力が増すにつれ
て、動きや攻撃の種類もふえていくからです。カポエイラ武術家は、新しい動
きやバリエーションをつくるたびに、それに名前をつけていきます。この時に、
メタファー(隠喩)を使って名前をつけることが、非常に多いのです。
カポエイラの動きや技につけられた名前、つまり、カポエイラ用語を理解
するには、その起源や、どうやってその名前をつけたかがわかると役に立ちま
す。19 世紀はじめまで、文献にも絵にも、カポエイラが出てきたことはあり
ませんでしたが、黒人奴隷たちが、護身や自由への戦いの手段として発展させ
た闘技だとされてきました。フランス人の画家、ジャン・バティスト・デブレ
(Jean-BaptisteDebret)は、ナポレオン軍の侵略を逃れてブラジルに移り
住んでいたポルトガル王ジョアン 6 世から、ブラジルでの芸術活動を依頼され
て 1816 年にブラジルへやってきました。そのときデブレは、「宙返りやトン
ボ返り、そのほか幾つもの離れ技をみせて場を盛り上げている黒人曲芸師たち」
について記しています〈本書 2 章 -1 参照〉。ドイツ人の画家であり多くのデッ
サンを残したヨハン・ルゲンダス(JohannRugendas)は、1821 年にブラ
ジルに滞在しました。そのときルゲンダスは、カポエイラについて最も初期の
定義を記しました。それによると、カポエイラは、相手の胸めがけて頭突きして、
カポエイラの「動き」とメタファー
横っ飛びや払いで攻撃をかわす、黒人たちの「ケンカのような遊び」だとされ
ています〈本書 2 章 - 1参照〉。ルゲンダスは、カポエイラの闘士たちをヤギに
例えていますが、それは格闘の間じゅう、強烈な頭突きがくり返されるからです。
プラシド・ヂ・アブレウ(PlácidodeAbreu)は、著書『オス・カポエイラス』
(OsCapoeiras「カポエイラ闘士達」
)で、
「トペチ・ア・シェイラール *」と、「シ
フラーダ」(chifrada「角突き」)という言葉を使っていますが、これは両方と
もヘッドキックのバリエーションです。〈* トペチ・ア・シェイラール (topete
acheirar):「鼻めがけた頭突き」。トペチは「前髪」の意味だが、ここでは本
書 p.27 写真左の人物のような昔の闘士のリーゼント風の髪型を指す。シェイ
ラールは「臭いをかぐ」の意味。〉アブレウが記した言葉は、19 世紀末に警察
から追い回されたカポエイラ闘士たちのスラングでした。1890 年に刑法で
犯罪として指定されたあとも、カポエイラは軍隊の兵舎で行われ、ブラジルの
「スポーツ」として扱われて、最初のカポエイラ入門書も書かれました。それ
は 1907 年に書かれた、『カポエイラ、またはブラジリアン・ジムナステック
ス入門』(GuiadoCapoeiraouGymnasticaBrasileira)ですが、著者につ
いては、軍人であることしかわかっていません。その後 1928 年には、アニバ
ル・ブラマキ(AnnibalBurlamaqui)が、著書『国家の体操「カポエイラ闘技」
のやり方と規則』(GymnasticaNacional(Capoeiragem)Methodizadae
Regrada)で、カポエイラの動きを記し、独自のルールを立てました。
20 世紀のバイア州は、まさにカポエイラ武術家の宝庫でしたが、カポエイラ
がブラジル全土、そして世界中に知られるようになったのは、ビンバ師範こと
マヌエル・ドス・ヘイス・マシャード(ManueldosReisMachado,Mestre
Bimba)〈ビンバ師範の名は、Manoel と書く場合もある〉と、パスチーニャ師
範ことヴィセンチ・フェヘイラ・パスチーニャ(VicenteFerreiraPastinha,
MestrePastinha)という二人の師範の、強い意志と指導力のおかげでした。
ビンバ師範は、18 歳の時にカポエイラの指導を始め、サルバドールの町の
82
「アウー」
(Aú「A & U」
)
エンジェニョ・ヴェリョ・ヂ・ブロタス地区に、カポエイラ道場「クルビ・ウ
けたり切ったりする道具や傷を負わせるもの)や、円形や文字、あるいは日常
ニオン・エン・アプロス」(ClubeUniãoemApuros)をつくりました。そ
用品からの「連想」にもとづいている場合が多いのです。
の当時は、「ヘジォナウ流」(regional)、「アンゴラ流」(angola)という区別
動物からの連想でつけられた名前は特に多く、「コイッシ」(coice「馬の足
はありませんでした。ビンバ師範自身が、ヘジォナウ流と呼ばれているカポエ
蹴り」)、
「ハボ・ヂ・アハイア」(エイのしっぽ)、
「サピーニョ」(小蛙)、
「プロ・ド・
イラ流派をつくったからです。ビンバ師範の話では、ヘジォナウ流カポエイラ
マカコ」(pulodomacaco「猿飛び」)、「ヴォォ・ド・モルセゴ」(コウモリ飛
は、バトゥーキ(アフリカ起源の男性の踊り)のアグレッシヴな身ぶりや、新
び)などがあります。「ガロパンチ」
(galopante「ギャロップ」)という名前は、
しい攻撃の型、今までの攻撃の効力を高めたものをまとめあげ、1928 年に完
5 本の指をぴったり閉じた掌でパンチを与えようと、相手の耳のあたりを狙う
成したということです。レスリングからも影響を受け、たとえば「グラバッタ」
攻撃を指しますが、この名前も、馬の駆け足という、動物の動作から来ています。
(gravata「ネクタイ」)のような攻撃技や、相手の胴まわりを抱えて持ち上げ、
カポエイラという言葉自体は、語源の上では、ブラジル先住民インディオの言
相手を投げる「投げ技」を互いにやりあう「シントゥーラ・ヂスプレザーダ」
葉で、「カ・ア・プエラ」(ka'apuera=mataextinta「消え失せたジャング
(cinturadesprezada「あなどられた胴まわり」)と呼ばれている技には、そ
ル」)に相当するという説が有力です。カポエイラをやりはじめた黒人奴隷と、
の影響が見られます。
大自然との間には、たいへん強い絆がありました。だから新しい技に名前をつ
ビンバ師範と弟子達がバイアの権力者に請願した努力が実って、1940 年代
けるときも、動物に関することばが使われたのです。カポエイラも、一般の格
に、カポエイラを犯罪だとする項目が刑法から除かれて、カポエイラをしても
闘技や身体による表現活動と同じように、動きが基本なので、技をつくるとき
逮捕されなくなりました。ビンバ師範のヘジォナウ流カポエイラが承認される
も、また、その技に名前をつけるときも、動物の動きが基になっていたのです。
と、昔ながらのカポエイラは、アンゴラ流と呼ばれるようになり、代表者パスチー
この、「動き」と「動物」という関係でつけられた名前は、具体的でわかり
ニャ師範を得て、流派として確立していきました。
やすいので、その後も使われて定着しました。動物と関係している技の名前を
ヘジォナウ流とアンゴラ流が発展し、また、リオで、警察の追撃に立ち向か
聞くと、すぐイメージが浮かんできて、動物の動きと似たような攻撃を、簡
うための新しい反撃技が次々できたので、カポエイラの攻撃技の名もますます
単に想像することができるからです。ヨハン・ルゲンダスは、カポエイラ闘士
増え、変化していきました。現在カポエイラは、ブラジル国内だけでなく世界
たちをヤギに例えましたが、それはカポエイラでは頻繁にヘッドキックが使
中に広まって、基本的な動きから多くのバリエーションが生まれています。ま
われるからからです。『ヘジォナウ流カポエイラ講座』(CursodeCapoeira
た新しい動きもつくられるので、用語もますます増えています。こうしてカポ
Regional) の CD でも、ビンバ師範が、ヤギやヒツジの角突き合いを意味する「マ
エイラが普及したことから、動きのパタンそのものが、地域によって、かなり
ハーダ」(marrada)という言葉を使っていますが、これも、カポエイラでヘッ
ちがってきています。例えば、アンゴラ流の「ハボ・ヂ・アハイア」(エイのしっ
ドキックがたいへん多いためです。しかしその後、こういった言葉は全て、「カ
ぽ)は、床に手をつき、身体をまわしながら相手に足払いをかける攻撃で、ヘジォ
ベサーダ」(cabeçada「ヘッドキック」)という言葉ひとつに集約されてしま
ナウ流の「メイア・ルーア・ヂ・コンパッソ」(コンパス半月)にほぼ相当しま
いました。
すが、ヘジォナウ流では床に手をつかない点が、アンゴラ流「ハボ・ヂ・アハイア」
武器として使われる道具の名前が、技の名前として使われる場合も多いです。
と異なります。また、リオのカポエイラにも、これと似た動きがありますが、
「アソィチ」
(açoite「鞭」)「
、アルパォン」
(arpão「銛」)「
、シバッタ」
(chibata
リオの場合は足の動きがちがいます。
「鞭」)、「クチラーダ」(cutilada「切り傷」)、「フォルキリャ」(forquilha「三
ビンバ、パスチーニャの両師範と弟子達が記した 1960 年以降の記録や、そ
又くわ」)、
「マルテロ」(martelo「金づち」)、
「チゾウラ」(tesoura「はさみ」)
の他のカポエイラの文献を基にした、本論著者の 2003 年の修士論文『図解式、
などの言葉が使われているのを見ると、カポエイラでは、身体そのものが武器
カポエイラの動きと攻撃法の用語集』(GlossárioTerminológicoIlustrado
になり、身体の動きによって、こういう道具と同じように、相手に怪我をさせ
deMovimentoseGolpesdaCapoeira)に、カポエイラ用語の主なものが
ることができる、ということがわかります。「アソィチ」
(鞭)と「シバッタ」
(鞭)
まとめてあります。この論文は、カポエイラ用語が作られるとき、メタファー
という名前の動きは、黒人奴隷を鞭打ちの刑に処したり、拷問したりするとき
とメトノミーが、たいへん頻繁に使われていることを示したものです。〈メタ
に使われた「ムチ」を連想させます。ここに見られる「動きと武器の関係」は、
ファー(隠喩):「~のようだ」を使わないで、「彼女はバラだ」のように、それ
メタファーが成立するときに起きている「連想関係」に基づいていて、カポエ
を「連想」させる言葉だけで比喩を表す表現法。メトノミーは後述〉
イラはそれ自体が武器であり、現在では格闘技やスポーツとしてみなされてい
カポエイラ用語をつくるときに使われるメタファーは、動物や武器(穴をあ
83
ても、かつては闘いの手段であったことを暗示しているように思えます。
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラ用語をつくるときに使われるメタ
ファーは、動物や武器(穴をあけたり切った
りする道具や傷を負わせるもの)や、円形や
文字、あるいは日常用品からの連想にもとづ
いている場合が多いのです。
「チゾウラ・ヂ・フレンチ」
(Tesouradefrente「前鋏」
)
「アウー」
(aú「A & U」
)のように、動きの姿がアルファベット文字と似て
いることから、つけられた名称もあります。
「アウー」
(aú)という技の名前
の語源については、1999 年版の『新アウレリオ・ポルトガル語辞典』
(Novo
DicionárioAuréliodaLínguaPortuguesa)では、アフリカに関連すると記
されていますが、この技の名前は、下に向かって両足を開くときの身体の形が
アルファベットの A に似ていて、上に向かって両足を開くときの身体の形は
U に似ていることから、
「アウー」
(aú
「A & U」
)とつけられました。
また、
「S・ドブラード」
(Sdobrado「ダブル S」
)という技の名前も、攻
撃のときの、
S 字のような身体の動きを表わしています。S の文字の2つのカー
カポエイラの「動き」とメタファー
ブが、攻撃のときの円を描くような動きに似ているからです。円のような動
きに関連した名前は、ほかに、
「メイアルーア・ヂ・フレンチ」
(meia-luade
frente「前半月」
)
、
「メイアルーア・ヂ・コンパッソ」
(コンパス半月)
、
「コンパッ
ソ」
(compasso「コンパス」
)
、
「ホレー」
(rolê「回転」
)などがあります。
「S・ドブラード」
(Sdobrado「ダブル S」
)
「シャペウ・ヂ・コウロ」
(chapéu-de-couro「皮の帽子」
)
、
「グラバッタ」
(ネクタイ)
「
、レキ」
(leque「扇子」
)などの装飾小物や、
「バロン」
(balão「風
船」
)
、
「シャッパ」
(chapa「板」
)
、
「クルス」
(cruz「十字架」
)
、
「テレフォーニ」
(telefone「電話」
)などは、日常よく使われるものなので、すぐに思いつく
名前です。人間には、何か新しいものを創り出すとき、既によく知っているも
のの形や機能をもとにしてつくる傾向があるので、日常的で身近なものから、
技の名前がつけられることが多いのです。
84
カポエイラの「動き」とメタファー
「ベンソン」
(bênção「祝福」)という言葉は、神の御加護の意味がありますが、これを皮肉っ
うです。ただ、
「アウー」と「ジンガー」
(gingar)には異論があります。前に述べたように、
「ア
て逆の意味にしてしまい、技の名前では、あざけりの意味になっています。教会での祝福
ウー」については『新アウレリオ・ポルトガル語辞典』でアフリカに関連するとして記さ
のときに、神父が信者の頭に両手をかざして祝福をさずけるしぐさとは反対に、カポエイ
れています。また、「ジンガー」(gingar)については、ネイ・ロペス(NeiLopes)の『ブ
ラでの「祝福」は、相手を足で蹴りつける攻撃の動作になっています。こういった皮肉や
ラジルのバントゥー語辞典』(DicionárioBantodoBrasil:1995)で、アフリカのキンブ
あざけりは、
「ボシェショ」(bochecho「口すすぎ」)や「スイシジオ」(suicídio「自殺」)
ンド族の言葉で、「揺り動かす」を意味する「ジャンガラ」(jangala)という語に関連があ
などの名前にも見られます。「ボシェショ」のほうは、攻撃を受けて傷を負った口の中をす
るとされています。しかし、この二件をのぞいては、アフリカ起源のものがカポエイラ用
すぐことからついた名前であり、「スイシジオ」のほうは、この技で、死亡する危険もある
語に影響したという証拠は、まったく見つかっていません。これは、カポエイラはブラジ
ということを暗示しています。
ルで生まれ育ったものであり、「既にアフリカにあった、何らかの闘技がブラジルに導入さ
れ、カポエイラとして発展した」とは考えにくい、ということの証拠だと言えます。 カポエイラの動きや技の名前に見られるメタファーは、たいてい、
「動きの形」と「物・動物・
文字などの形」とのあいだの類似性にもとづいて成立しています。しかし、
「アソィチ」
(鞭)、
このように、カポエイラ用語には、技の特徴や、奴隷制・差別に対する抵抗、この格闘
「バロン」
(風船)「
、ベンソン」
(祝福)「
、ボシェショ」
(口すすぎ)「
、シバターダ」
(chibatada「鞭
技の普及、人間の自然との交わりなどが反映されています。カポエイラ用語には、ブラジ
の連打」)、「マルテロ」(金づち)のように、「機能」の類似性、つまり、技を行うときの身
ル文化の、ひとつの大きな特徴が映し出されていると言えます。
体の「形」ではなく、その技が与える「効果」によって名前がつけられている場合もあります。
技が与える「効果」によって名前がつけられている場合には、メトノミー(換喩)が
参考文献
ABREU,Plácido.Oscapoeiras .RiodeJaneiro:J.Alves,[1886?].
使われています。〈メトノミー:言葉の意味を拡大し、その言葉と「近い関連性があるも
の」を表す表現法。〉「アスフィキシアンチ」(asfixiante「窒息技」)、「ケブラ・マォン」
(quebra-mão「手つぶし」)、「ケブラ・ペスコッソ」(quebra-pescoço「首骨つぶし」)
BURLAMAQUI, Annibal (Zuma). Gymnastica nacional
などもその例です。この種類のメトノミーでは、動きの名前が、動きによって生じる効果
(capoeiragem)methodizadaeregrada .RiodeJaneiro,1928.
と結びつけられているので、動作との「関連性」がとても明らかです。このほか、よく使
われるメトノミーは、何かの「部分を表わす言葉を使って、そのもの全体を表わす」メト
FERREIRA,AurélioB.deH.NovoAurélioSéculoXXI:odicionário
ノミーです。例えば、「バンダ」(banda「サイド」)は、相手の身体の「側面」から攻撃を
da língua portuguesa. 3. ed. totalmente revisada e ampliada.
かけることからついた名前です。また、「シントゥーラ・ヂスプレザーダ」(あなどられた
RiodeJaneiro:NovaFronteira,1999.
胴まわり)という名前の「投げ技」では、胴まわりが、この技のポイント部分なので、こ
の部分の名前が、技の動き全体の名前として使われています。また、
「ボカ・ヂ・カウサ」
(boca
GUIADOCAPOEIRAOUGYMNASTICABRAZILEIRA .2.ed.Rio
decalça「ズボンの裾」)のように、攻撃を与える「部分」の名前が、攻撃の動作全体をあ
deJaneiro:LivrariaNacional,1907.
らわす名前になっている場合もあります。また、「パウマ」(palma「手のひら」)や「ポン
LOPES, Nei. Dicionário banto do Brasil . Rio de Janeiro:
テイラ」
(ponteira「ステッキなどの先っちょ」)という名前では、動きの中心となる身体の「部
分」、すなわち大抵の場合では、そこを使って相手に打撃を与える「部分」が、技全体の名
SecretariaMunicipal da Cultura, Prefeiturado Rio de Janeiro,
前になっています。
1995.
攻撃術の名前のなかには、「ネガチーヴァ」(拒絶)、「ヴィンガチーヴァ」(vingativa「復
讐心」)「
、ヘジステンシア」
(反抗)などのように、人間の気持ちに関連した抽象的な言葉が使っ
REIS, Letícia V. de S.Negrose brancosno jogoda capoeira:
てある場合もあります。この場合は、名前の底にひそんでいる意図や、カポエイラの戦闘
reinvençãodatradição .Dissertação(MestradoemSociologia)-
的性質を表わしています。奴隷制度への反抗や、不当に弾圧されたことへの復讐など、カ
Faculdade de Filosofia, Letras e Ciências Humanas da
ポエイラのネガティヴな面を暗示しているとも言えます。
UniversidadedeSãoPaulo,SãoPaulo,1993.
皮肉ったり、せせら笑ったり、反抗したりするのは、特に、カポエイラが禁止されて目
のかたきにされた時代には、カポエイラ闘士の人生そのものの特徴でした。皮肉表現の例
ANJOS, Eliane D. Glossário Terminológico Ilustrado de
として、「ゴデミ」(godeme)という技の名があります。これは、イギリス人たちが、労
Movimentos e Golpes da Capoeira: um estudo término-
働者をなぐりつけるときのゲンコツを意味するようになった言葉です。イギリス人たちは、
lingüístico. Dissertação (Mestrado em Letras - Filologia e
しょっちゅう、‘Goddamnit!’「畜生め!」と言っていたのですが、ブラジル北東部の工
LínguaPortuguesa)-FaculdadedeFilosofia,LetraseCiências
事現場で働いていた労働者の人たちには、これが「ゴデミ!」と言っているように聞こえ
HumanasdaUniversidadedeSãoPaulo,SãoPaulo,2003.
たので、イギリス人たちの横暴ぶりを皮肉って、ゲンコツを表わす言葉になったのです。
人類学者であるレチシア・ヘイス(LetíciaReis)は、1933 年の論文『カポエイラ
RUGENDAS, Johann M. (1802-1858). Viagem pitoresca
格闘における黒人と白人―伝統の再発明』(Negrosebrancosnojogodacapoeira:
através do Brasil. Tradução de. Sérgio Milliet. São Paulo:
reinvençãodatradição)で、カポエイラは「上下逆転の世界」を作り出している、と述
MartinsEditora&EditoradaUniversidadedeSãoPaulo,1972.
べています。その「上下逆転の世界」は、カポエイラの、ほとんど床にへばりつくように
身をかがめた姿勢で行う「低」から、
「高」に向う技にも見られるし、また、既成のものをひっ
挿絵:ヘイナルド・ウエジマ(ReinaldoUezima)
くり返したり、笑い物にしたり、「祝福」という言葉を正反対の意味で使ったりする、反抗
的な性格にも見られます。レチシア・ヘイスは、カポエイラでは、身体を使ってあらわす「文
法」(ことば)や、さかさまで巧みな動きや、カポエイラ用語などを駆使して、抵抗のメッセー
エリアニ・ダンタス・ドス・アンジョス(ElianeDantasdosAnjos)
ジを発しているのだと強調しています。
サンパウロ大学大学院、哲学・文学・人間科学研究科文学修士。
(文献
カポエイラ用語が、アフリカ言語の影響を受けているという可能性は、ほとんど無いよ
学、ポルトガル語専攻)
85
10. バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ
Ricardo Pamfílio de Sousa
カポエ
イラは
、スポー
自由へ
ツであ
の闘争
ると言
と自己
えます
うたい
認
識を歌
が、音楽
、ビリ
い
と切り
つ
ン
いでき
バウを
エイラ
離せま
ま
奏
した。
で、カ
の音楽
せん。
カポエ
シシ、
は、散
カポエ
われ、
イラの
パ
文
イラは
ンデイ
詩や、
コヒー
格
人生哲
闘
ロ
掛
をする
、アゴ
け合い
ド、ラ
学でも
う歌や
人
ゴ
歌
ダ
たちは
、
、サン
イーニ
あり、
ア
音楽に
タ
音
バ
バ
ャ
楽
キ
・
、
乗
家です
、ヘコ
ヂ・ホ
シュラ
って、身
に参加
。
ヘ
ダ
と
体
唄を
コを演
(サン
呼ばれ
してい
運動に
奏しま
バ輪の
る歌や
る人々
よる「
す
つ
、
の息を
ネガセ
。カポ
どい)
祈祷歌
ぴたり
アール
などの
、祝福
とあわ
」( 注1
形式で
の
歌
な
せて融
) が行わ
うた
どもあ
合に導
ります
れ、ホダ
いてい
。こう
(カポ
くので
い
エイラ
す。
輪のつ
どい)
(1)
「ネガセアール」
(negacear)とは格闘で身体の動きによる「フェイント」をすること。片方が動
きに出ると片方は引き、片方が攻撃に出ると片方は防御にまわる。まさしく唄の歌詞がいうように、
「カポエイラは防御、攻撃、ジンガ、そしてマランドラージェン(抜け目ない機転わざ)
」というわ
けだ。
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラの音楽は、特に、ホダ(輪のつどい)
を行うために演奏されます。カポエイラの音楽
にはホダの格闘者を教え導く役目があり、武術
家達がきめた順序にのって展開していきます。
リズムやメロディーにはバリエーションが豊富
で、唄の歌詞も沢山あります。
「バテリーア」
(bateria)と呼ばれるカポエイラの楽器隊には、弦鳴楽器
であるビリンバウ、膜鳴楽器であるパンデイロとアタバキ、体鳴楽器である
アゴゴ、ヘコヘコ、カシシという具合に、カラフルで色々な種類の楽器が集
まっています。気鳴楽器であるアピト(ホイッスル)を使うカポエイラグルー
プもあります。
〈以下、
「ジョゴ」
「格闘者」などの対訳上の用語については
本誌 6 章表紙(p.55)参照〉
カポエイラの音楽は、特に、ホダ(輪のつどい)を行うために演奏されま
す。カポエイラの音楽には、ホダの格闘者を教え導く役目があり、武術家達
がきめた順序にのって展開していきます。リズムやメロディーにはバリエー
ションが豊富で、
唄の歌詞も沢山あります。
「ラダイーニャ」
(ladainha)は、
最初にうたわれる唄です。ラダイーニャの歌詞は、叙事詩である場合も、そ
うでない場合もあります。ラダイーニャのあいだは、絶対に格闘を行いませ
ん。アンゴラ流カポエイラのホダでは、ラダイーニャがうたわれているあい
だに、二人の格闘者はビリンバウのもとにしゃがんだまま、唄が「呼びかけ
- 応答」形式になり、ソロの歌い手の呼びかけに対して合唱が応答して入っ
てくる「シュラ」
(chula)
、つまり、
「カント・ヂ・エントラーダ」
(canto
deentrada「開始・入場の唄」
)が始まるのを、じっと待っています。
「コヒー
ド」
(corrido)または「クアドラ」
(quadra)と呼ばれる唄が始まると、格
闘者たちは挨拶を交わします。唄は、
「パート A」と「パート B」
、つまり「ソ
ロ」と「コーラス」が交互にうたわれます。アンゴラ流カポエイラ格闘者た
ちは、ふつう一対一で、唄にのせた格闘舞踏で対話します。あらかじめ定まっ
ている動きのパタンはありますが、必ず即興の動きが出てきます。格闘の最
中にひらめいて、その場でできた唄に合わせることがあります。唄の歌詞に
は、カポエイラ武芸の真髄がうたわれていることが多いです。
ビリンバウは「師範」の役目をします。演奏者は、格闘者をビリンバウの
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
もとに呼び、そこで、カポエイラに関する教訓や基本が示されます。最近作
られた唄や、作り直された唄がうたわれることも多いですが、必ず、パスチー
ニャやノローニャ、ビンバなど、昔の師範の伝統的な唄も数多く唄われます。
カポエイラのバテリーア
(楽器隊)
の中心はビリンバウです。ふつう、
グンガ、
メヂオ、ヴィオラの三種のビリンバウが使われます。この三つは、それぞれ、
ベハ・ボイ、コントラ・グンガ、ヴィオラとも呼ばれ、その他、色々な名前
で呼ばれることもあります。この三種のビリンバウが、同じ旋律を繰り返し
たり、音色を様々に変えたりして生み出していくリズムとメロディーのハー
モニーは、実に素晴らしいです。
格闘のあいだには、リードの歌い手のレベルによって、ちがうコヒードが
うたわれます。歌詞が、格闘のやり方について、特別の意味を表わしている
コヒードも沢山あります。たとえば、
格闘を活気づけるコヒードには「あぁ、
聖ベント * が私を呼んでいる」
(Aiaiaiai,SãoBentomechama)があり
ます(注2)
。
〈* 聖ベントはカトリックの重要な戒律を定めたイタリアの聖
者で、その名がついたビリンバウのトッキ ( リズム / 音色 ) も、重要とされ
る。
〉攻撃を増やせと要求する唄には、
「やぁ、おじけづいたか、ガンバレ」
(Oi
'tácummedoTomacoragê)や、
「さぁほら、殴るぞ、倒れろ」
(Oao
aíeuvôbatêquerovêcaí)があります。格闘者達の動きのスピードを落
とすためには、
「スロー・スロー、スローだ、ゆっくり」
(Devagâ,devagâ,
devagâdevagarinho)がうたわれ、低い姿勢で格闘せよと指示を出す唄に
は、
「ブジョン *、ブジョンよ、ブジョン、アンゴラ流カポエイラは床すれ
すれでやるんだよ、ブジョン」
(OBujão,oBujão,oBujãoCapoeirade
AngolaéroladanochãooBujão)があります。
〈* ブジョンは本来「ガス
ボンベ」のことだがここでは人の ( あだ ) 名〉
「ボニート * な格闘」をリクエ
ストする唄には、
「アィ・アィ・アイデ、ボニートな格闘をしておくれ、ボニー
(2)歌詞の中の下線部はソロの呼びかけに応答してうたわれる部分。
88
Photo:LuizRenato 所蔵アーカイヴ
トな格闘が見たい(Aiaiaidê,jogabonitoqueeuquerovê)があります。
ることを告げます。どちらかの格闘者が退場を告げることもあります。ビリ
〈* ボニート(bonito)
:基本的には「美しい」の意味だが、状況により「す
ンバウ奏者自身も、音楽を使って自分が退場することを告げる場合がありま
ごい / 勇猛な」ほか様々なニュアンスになる。
〉アンゴラ流カポエイラで、
す。ラダイーニャのはじめの部分で、師範、または格の高い弟子が、
「イエ!」
格闘者の動きがあるときに唄われるのは、コヒードだけです。ラダイーニャ
と掛け声をかけます。
「イエ!」は、よくシュラのあいだにも聞かれ、コヒー
が唄われている時には格闘は行われません。シュラの時に動きがある可能性
ドの間に聞かれることもあります。格闘中断や格闘終了の合図として使われ
は、なお低いです。格闘の「舞」は、攻撃と反撃のあいだ、つまり格闘者が
る場合もあります。
相手の攻撃をかわし、自分の攻撃を仕掛けるときに展開します。
格闘者のうちの一人が相手に対して、
「シャマーダ」
(chamada「呼び出
し」
)を行う場合もあります。シャマーダは賢さや基本技能を見せるための
ものですが、たやすく次の動きを決められないような難しい取り組みになっ
た場合や、あるいは、多少の休息時間を取るために行われる場合もあります。
シャマーダでは、二人の格闘者は互いに幾分よりかかったような形に組み、
タンゴの歩くようなステップに小さいジャンプを混ぜた、ダンスのような動
きをみせます。シャマーダを要求した方の格闘者が、シャマーダを終わらせ
るという身振りをすると、相手は再び格闘の体勢に戻ります。格闘者のひと
りひとりに、独自のパフォーマンスの見せ場があり、どこまでそれを行う
かは、格闘の中で決まっていきます。
「ヴォウタ・アオ・ムンド」
(voltaao
mundo「世界一周」
)
(注3)も、抜け目なさや賢さ、基本技能を見せるため
のものですが、休息やリラックスの目的でも行われます。この間に、アンゴ
ラ流格闘者は、相手が気を抜いたところにつけ込んで攻撃をかけるという、
裏切りの手に出ることもあります。
さらばコリーナ *、ダン・ダン ダン・ダラン・ダラン
ダン・ダン
俺は行く
俺は行く
アンゴラに帰るんだ
たったの半時間、
半時間 さあ、嬢ちゃん、ひと回り、
ひと回りだけ
もう出ていくよ、可愛い子
俺はもう行く
もう出ていくよ、可愛い子
出発の時がやってきた
AdeusCorinadamdam Damdaramdaram
Damdam
Vou-meembora
vou-meembora
vou-meemboraparaAngola
Émeiahorasó
Émeiahora Iaiávamodá
Umavoltasó
Eujávoubeleza
Eujávouembora
Eujávoubeleza
Quechegouahora
さらば、さらば
良き旅を
Adeusadeus
Boaviagem
〈* コリーナ(Corina)は女性の名だが、天地を統合する人とされる古代ギリシャ文明時代の女
性詩人の名として有名。〉
ホダの途中で、ビリンバウが奏でる音楽の速さが最高に達していきます。
そして最も早いペースになったあと少し速度を落とし、再び盛り上がって格
(3)アンゴラ流カポエイラでは、「世界一周する」(dar volta ao mundo)とは、格闘者がホダの中
闘が終了します。格闘の終りが近づくと、唄の歌詞が、ホダの終り間近であ
時に格闘者同士が手を取り合う場合があり両者が接近するため、いきなり攻撃されたり手を引っ
を円形に歩くことをいい、これは一見、単にホダの中を回っているだけに見える。しかし、この
張られたりする危険をはらんでいて、緊張の時間となっている。
89
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
性別による制限があったわけではありませんが、最近まで、カポ
エイラをする人の大半が、男性や少年でした。しかしアンゴラ流カ
ポエイラの唄では、女性がうたわれる場合のほうが多いぐらいです。
カポエイラは男と子供と女のため
そのとおり、男と女のためのもの
サロメは .. ギシッ、ギシッ *...
誰もが君と一緒にいたがる
君がサロメという名前だから
サロメ .. サロメ ..
そうだ、そうそう、サロメ
そら、男も女にガツンとやられる
アダム、アダム、サロメはどこだ、アダム
サロメはどこだ、アダム
島に遊びに行っちゃった
カンブオタのマリアさん *
店に来て、格闘やろうと言っている
カンブオタのマリアさん
ホダに入って格闘開始
さあ、さあ、
マリアさん、ご機嫌いかが
いかがお過ごしでしたか、あんたさんは
Capoeiraéprahomemmeninoemulher
É,é,éprahomememulher
Nhêco,nhêcoSalomé
Todomundoteacompanha
queseunomeéSalomé
Salomé,Salomé
EhêêSalomé
Olhahomemtambémapanhademulé
DonaMariadoCambuotá
Cheganavendaelamandabotá
DonaMariadoCambuotá
Entranarodaecomeçaajoga
Vaivocêvaivocê
DonaMariacomovaivocê
Comoéquepassoucomovaivosmecê
Adão,Adão,CadêSaloméAdão
CadêSaloméAdão
Foiprailhapassear
〈* ギシッギシッ:nhêco, nhêco(ベッドやブランコのきしる音を表わす擬声語)は、サロメが男といることを想像させると解釈する人が多い。* 歌
詞後半のカンブオタ :Cambuotá は Camboatá とする場合もある〉
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
一回のホダの所要時間は決まっていませんが、一般に、一時間から二時
間のあいだです。ホダ進行の手順はおよそ決まっていて、要約すると、ほ
ぼ次のようになります。
1.ビリンバウの弦を張り、チューンングをする。楽器奏者はバ
テリーアの演奏位置につき、全ての楽器をセッティングする。
2.ホダに人が集まってくる。先に格闘する人達はバテリーアの
隣に待機し、後に格闘する人達はその反対側で、先に格闘す
る人達と向き合う位置に待機する。
3.この間に(一般公開のホダでない場合は大抵)カポエイラに
ついて簡単な説明がある。
4.楽器奏者は調律しながら音あわせをする。(注4)
5.音楽の開始。一般に、スタートはグンガによる「アンゴラ」
(Angola)の演奏、続いてメヂオが「サン・ベント・グランヂ」
(SãoBentoGrande)で加わり、次にヴィオラが「アンゴ
ラ」または「サン・ベント・グランヂ」で加わる(アンゴラ、
サン・ベント・グランヂはアンゴラ流カポエイラの伝統的な、
ビリンバウのトッキ:toque「音色 / リズム」の名前である)。
6.パンデイロが加わる。
7.二人の格闘者が、マンヂンガ〈mandinga: 魔術、この場合は「幸
運を祈るおまじない」のこと〉の仕草をして、ビリンバウの
もとに歩み寄る。(注5)
8.ラダイーニャの唄が始まる。
9.唄が、合唱による「応答」のある「シュラ」に移り、アタバキ、
(4)4が、3番目に行われる場合もあり、4を全く行わない場合もある。
(5)この場合のマンヂンガは、ビリンバウに触れたり、十字を切ったり、ソロモン王の〈紋章である〉
星を描くなどの仕草によって行われる。
90
Photo:AntônioCarlosCanhada
15.終 わ り に は 皆、「 さ ら ば、 さ ら ば、 良 き 旅 を 」(Adeus,
アゴゴ、ヘコヘコが加わる。
adeus,boaviagem)と唄う。
10.
「カント・ヂ・エントラーダ」(開始・入場の唄)が始まる。
その後、最初のコヒード。これが格闘開始の合図になる。ヴィ
楽器奏者達は立ち上がり、歌いながら右を向いて、時計と反
オラはドブラール(バリエーション演奏)に移り、トッキを
対まわりでホダを一周し、元の位置に戻る。これが「ヴォウタ・
アオ・ムンド」(voltaaomundo「世界一周」)である。
奏でるというより細かい旋律を繰り返す。一般に、同じトッ
キを演奏し続けるのはグンガであり、メヂオは普通、グンガ
16.そのあと最低2分ほどは「さらば、さらば、良き旅を」が繰
が演奏するトッキを、一部、順序を逆にして演奏するか、あ
り返しうたわれ、その間のどこかで、師範かビリンバウ奏者
るいはグンガのトッキをそのまま繰り返すかどちらかの演奏
が「イエ!」のかけ声を入れ、アンゴラ流カポエイラのジョ
法をとる。格闘の最中には、グンガとメヂオもバリエーショ
ゴ終了となる。一般に、ジョゴが「買われる」
(comprado「コ
ン演奏をする場合がある。
ンプラード」)と呼ばれる形で、格闘者交代が行われる。これ
11.二人の格闘者は、ビリンバウの元で互いに手を握り、まず「ケ
は、ホダにいた人が、今まで格闘していた二人の格闘者の間
ダ・ヂ・ヒン」(queda de rim)を行う。その後、身体を触
に入り、前の格闘者のうちの一人と組んで、新しい取組みを
れ合わない格闘がはじまる。「ネガチーヴァ」(negativa)や
始めることである。
「ハボ・ヂ・アハイア」
(rabo-de-arraia)などがよく使われる。
12.ホダの最初から、師範は弟子達の動きに注目している。動き
に問題があった場合は、それを直せという指示が、唄の歌詞
によって伝えられる。ビリンバウの音色によって問題の指摘
が行われる場合もある。その音色を聞いたら、格闘者はビリ
ンバウに近づき、ビリンバウの演奏によって奏者からの指示
を受ける。
13.格闘者の交代は、師範が指示した場合、あるいは格闘者のう
ちの一人が格闘の中止を決めた場合に行われる。交代時に
は、格闘者はビリンバウの元で握手を交わす。交代後はホダ
に戻り、再びコーラスかバテリーアに加わる。
14.ホダの間に必ず、最初のものと違うラダイーニャが、ふつう、
最低2回、最高6回うたわれる。
91
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
格闘の終りが近づくと、唄の歌詞が、ホダの終
り間近であることを告げます。どちらかの格闘
者が退場を告げることもあります。ビリンバウ
奏者自身も、音楽を使って自分が退場すること
を告げる場合があります。
アルジェンチンに生まれブラジルに帰化した造形美術のアーティス
ト、カリベ(Carybé)は、カポエイラ武術家としても活躍しましたが、
1951 年の記述で、バイアのカポエイラ音楽を次のように描写してい
ます。
音楽分野でのバイアの貢献は大きい。手拍子の代わりに、パンデイ
ロ、カシシ、ヘコヘコを使う。ビリンバウの弦は人間の声より、ずっ
と豊富な音楽効果を発揮するし、ずっとよく響く。沢山の唄も作られ、
唄がカポエイラの格闘を導く。例えば、カポエイラのジョゴ(jogo)
は、普通、師範が唄う「基本のシュラ」
(chuladefundamento)によっ
て開始となる。「ねえさん、何を売ってるのかい?/マラニョン州の
米ですよ/ご主人様に「売って来い」って言われてね/ソロモン王
の地で」 この後、返答の合唱が加わる。「そうさそうさ、アルアンデ
だよ *、友よ(カマラード:camarado〈説明後述〉)/雄鶏が鳴いた
/そう、雄鶏が鳴いた、友よ/コケコッコーと/そう、コケコッコー
と、友よ/洗濯糊は糊づけのため /そう、洗濯糊は糊づけのためだ、
友よ/鉄(アイロン)は殺すため/そう、鉄(アイロン)は殺すためだ、
友よ/鋭いナイフ/そう、鋭いナイフだ、友よ/さあ出発しよう/
そう、出発しよう、友よ /外国へ/そう、外国へ、友よ/ぐるりと
世界をひとまわり/そう、ぐるりと世界をひとまわりだ、友よ」 こ
れから格闘する格闘者達は、ビリンバウの前にしゃがんで唄に耳を傾
けている。恐らく、弾丸や罠、刃物から身を守る、効きめのあるまじ
ないを唱えているのだろう。やがて格闘者達はホダの真ん中に出てき
て、両手をついて身体を回転させ、そのあとジンガを始めるが、これ
は護身の動きでありながら、一種のダンスステップにもなっている。
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
〈* アルアンデ(Aruandê):アフリカからブラジルに連れて来られ
た黒人奴隷達が、アフリカ大陸アンゴラの町「ルアンダ」をもとに作っ
た造語で、「楽園・自由を約束された地」を表わす。〉
92
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
カリベがこの記述で、「基本のシュラ」と呼んでいるものは、アンゴラ流
「トッキは何にしますか?サン・ベント・グランヂ・へピカード、サンタ・
カポエイラでは、「ラダイーニャ」のことを指しているのだろうと解釈する人
マリーア、アヴェ・マリーア、バンゲーラ、カヴァラリーア、カランボロ、
が多いです。ヘジォナウ流カポエイラの人々は、これは「クアドラ」を指し
チラ・ヂ・ラ・ボタ・カ、イダリーナ、それとも、コンセイソン・ダ・プ
ていると解釈していて、アンゴラ流カポエイラでも、そう解釈する人が多少
ライアですか?」ビンバは一寸考えてすぐ答えた。「トッキ・アマゾナス、
います。実際の、いわゆる「シュラ」の部分は、合唱による「応答」、つまり
そのあと、バンゲーラだ」。ビリンバウが鳴り始めた。クリオウロ(ブラジ
「カント・ヂ・エントラーダ」(開始・入場の唄)が続いてくることが特徴で
ル生まれの黒人)は、ビンバ師範に近づき、師範の手を握った。その場に
す。カリベの記述では、ソロの歌い手の「呼びかけ」が省略されていて、直
いる人々はみな、ビリンバウのビンビンビンの音に合わせて手を打ち始め
接、合唱の「応答」から入っています。カリベの文献では、「カマラード」
る。ビンバは身体を揺らすと唄い始めた。「俺が始めたら / イタバイアニー
(camarado)という言葉が下線部で用いられていますが、これは、
「同士よ、
ニャでは / 男は馬に乗らないし / 女は鶏に卵を抱かせもしない / 祈祷を捧
仲間よ、きみ、友よ」などのニュアンスのある、câmara(カマラ)〈という
げる尼達は / 連祷の言葉を忘れてしまう」〈この歌は「俺がカポエイラを始
表現の、もとの意味を表わすことば「カマラーダ」
(camarada「仲間、同士」)〉
めたら、その猛威に、誰もが普段からしている簡単なことすら忘れてしま
を使っているつもりで「カマラード」と書いているのだと思われます。ここ
う」と相手を威嚇している。イタバイアニーニャはセルジッピ州の町の名。〉
ではコヒードには触れていません。カリベの文献以外にも、唄について、筆
ここでクリオウロも負けずに、ビリンバウの音色に合わせて身体を揺らし
者それぞれが独自の定義や意味づけを記しているものがあります。
ながら唄った。「イウーナは魔術師だ / 水飲み場では賢くて素早かったが /
ビンバ師範が編み出したヘジォナウ流カポエイラも、以下に紹介するハマー
カポエイラで殺された」〈イウーナ(iúna)は、①ビリンバウのトッキ名、
ジェン・バダロ(RamagemBadaró,1980:47-50)による、1940 年
②それが暗示するジョゴ、③師範 - 子弟の階層と無関係に行うカポエイラ
代の格闘の実録ルポを読むと、その当時は、アンゴラ流カポエイラと異なる
の試合、④伝説上の美しい鳥や女の名、などの意味があるが、どの解釈を
というよりむしろ、アンゴラ流に近いものであったような印象を受けます。
とるにせよ、この唄も、
「この対決はビンバ師範にとって危険な試合になる」
と威嚇している。〉クリオウロの即興唄に拍手が沸き起こった。しかしクリ
オウロが気を良くする暇もなく、ビンバ師範が間髪を入れずに返答唄を返
した。「強力な祈祷 / 使徒マタイに祈祷をしたぞ / 墓場へ行く骨の数は多い
が / 行くのはお前の骨であり私の骨ではない」。取り巻きは、やんやと喝采
してカポエイラお決まりの唄を歌った。「ズンズンズンズン / カポエイラが
一人殺る / ズンズンズンズン / 闘技場に残るは一人だけ」。しかしクリオウ
ロのほうも、ビンバ師範の唄に屈しもせず唄い返した。「俺は土曜に生まれた /
日曜に育ち / そして月曜には / もうカポエイラをやっていた」。人々は「ヴィ
ヴァ(万歳)!」の歓声をあげると、輪の中にいる二人の闘士に向けて一
斉に拍手喝采した。黒人女が一人、感極まって口を開いた。「なんて凄い子
だろう!格闘も上手いし唄も達者だなんて。ビンバ師範も相手にとって不
足は無いね」.......... 中略 ......... 勝負がついた。皆、闘技場になだれ込んでカ
ポエイラの王者を称えた。ビンバは対戦相手を抱擁した。その時、クリオ
ウロは真の男らしさを見せて唄った。「暴れるロバを静める小さな聖アント
ニオよ / 7千もの悪魔を持って / カポエイラで我を静めたまえ」〈「自分も
強いが、自分を倒したビンバ師範は(7 千の悪魔の力があるほど)物凄く
強い」とビンバ師範を称えている。この唄は「聖アントニオへの祈願唄」、
「暴れるロバを静める小さな聖アントニオよ / 悪魔に魅入られた / 姑の心
を静めにきておくれ」の即興替え歌。〉ビンバはこの称賛の唄が大いに気に
入り、再度、唄で相手の健闘をほめ返した。「俺にはひとり仲間がふえた /
我々が共に歩めば / 墓場が足りなくなるだろう /〈我々にやっつけられる〉
死人の数ほど沢山、墓はないのだから」
このように、唄が上手い人を相手に対戦する場合には、「唄による対決」に応じ
るのは、わきまえておくべきエチケット、あるいはカポエイラの倫理とでも呼べ
るものなのです。「唄による対決」があるという点で、カポエイラは、即興歌の対
決や、クルル〈cururu:ブラジル中西部の民族ダンス / 歌、起源はサンパウロ州〉
などの、ブラジル大衆文化の別ジャンルとも類似しています。
アンゴラ流カポエイラのグループではどこでも、パスチーニャ流派の教訓に従っ
て、カポエイラの楽器隊のことを、バテリーアと呼んでいるようです。すでに述
べたように、アンゴラ流のバテリーアでは、まず三本のビリンバウが一本ずつス
タートし、続いてパンデイロが入り、次にヘコヘコ、アゴゴ、アタバキが加わり、
そのあとラダイーニャが始まる形式をとっています。
Photo:DelfimMartins/PulsarImagens
93
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ビリンバウの演奏では、3つの基本音を、音量
と音色のバリエーションを使って色々に組み合
わせます。その音量と音色のバリエーションは、
共鳴器であるカバッサ(cabaça:空洞の瓢箪)
の開口部分を奏者の腹部に近づけたり遠ざけた
りすることと、弦を張ったヴァレッタ(vareta:
細竿)の打ち方の強弱によって生み出されます。
カポエイラは一般に、ビリンバウの演奏に乗って格闘が展開しま
す。カポエイラ武術家達は、ビリンバウのリズムとメロディーの色々
なパタンを「トッキ」
(toque)と呼んでいます。トッキには様々な
種類があり、基本的には、リズムのコンビネーションと、次の三つ
のビリンバウの音色のバリエーションを基にして成立しています。
1.最も高音。ドブラン〈dobrão: 昔のコイン、代用品を使う場合
もある〉で弦をおさえ、弦が張りつめた状態でヴァレッタ(vareta:
弓なりの部分の「細竿」
)を打った時に出る音。2.上記の音より低
音。ドブランを弦にあてるだけで、弦を張りつめない状態でヴァレッ
タを打った時に出る音。3.最も低音。弦に何も当てない状態で、
ヴァ
レッタを打った時に出る音。
ビリンバウの演奏では、上記の三つの基本音を、音量と音色のバ
リエーションを使って、色々に組み合わせます。その音量と音色の
バリエーションは、共鳴器であるカバッサ(cabaça:空洞のひょ
うたん)の開口部分を奏者の腹部に近づけたり遠ざけたりすること
と、弦を張ったヴァレッタの打ち方の強弱によって生み出されます。
アンゴラ流カポエイラの指導は、すべて「口伝え」で行われ、「注
意深く見ること・練習すること・まちがいを修正すること・師範が
弟子に繰り返し模範技を見せること」によって習得されていきます。
弟子たちは皆、それぞれ自分のペースで上達することが尊重されて
います。しかし次のような、ソロでうたう即興の唄を使って、師範
が弟子に指示を与えることは多いです。
「アタバキがクロスした」
(O
atabaque atravessou)
。これは、楽器のテンポが、早すぎる・遅
すぎるなど、ズレていることを意味します。
「ヘコヘコの音がきき
たい」
(Quero ouvir o reco-reco)
。これは、ヘコヘコ以外の楽器
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
の場合もありますが、その楽器演奏が、注意力を欠いている・迫力
が足りない・音が小さいなどを意味します。また、合唱している人
全員に向かって「貴方達の歌声をききたい」
(Quero ouvir vocês
cantar)と唄い、皆に、大声で唄うように促す場合もあります。
ホダでは一般に、バテリーアのメンバーや担当楽器を決定するの
は、師範です。しかし、師範がいない場合や、師範のすすめによっ
て、自発的にメンバーチェンジが行われる場合もあります。それは、
楽器奏者が、割り当てられた楽器が自分にとって難しすぎる、ある
いは易しすぎると判断して、別の楽器と交代する場合です。
楽器の習得は、ふつう、ヘコヘコから始めます。次にアゴゴ、パ
ンデイロまたはアタバキの順に学び、ビリンバウを習うのはいちば
ん最後です。ヘコヘコとアゴゴまでしかいかない人もいますし、ビ
リンバウ習得までたどり着く人達もいます。アタバキ以下、全ての
カポエイラのパーカッションができる人もいますが、ビリンバウを
使いこなせる人は少ないです。アンゴラ流カポエイラ武術家が、全
てのパーカッションを使いこなせるようになると、自分が演奏する
楽器を自分で選べるようになり、その他の楽器を弾くことは要求さ
れなくなります。ヘジォナウ流でも、この点は同じであるようです。
ビリンバウのみを演奏するカポエイラ武術家は多いです。カリベは
パンデイロ専門でした。アンゴラ流では、よく見て覚えていくこと
が、習得の上での一番のカギになります。
カポエイラでは、誰もが先ず、格闘と全ての楽器の演奏、唄を学
んでいきます。その上で、何らかの楽器に秀でて、その楽器を好ん
で演奏する人が出てくるのです。また、誰に、ラダイーニャを作っ
たり歌ったりする才能があるのかも、次第に分かってくるのです。
カポエイラの音楽の多くは、サンバ・ヂ・ホダ(サンバ輪の集い)
94
バイア・アンゴラ流カポエイラの音楽
と労働歌の中間に位置していると言えます。また、カンドンブレの
儀式唄が使われる場合もありますが、その中には、白人とインディ
KOSTER,Henry.TravelsinBrasil .2ed.2v.London:Longman,
オの混血の人であるカボクロ達の伝統的な儀式唄もあれば、カンド
Hurst,rees,orne,andBrown,Paternoster-Row,1817.
-----ViagemaoNordestedoBrasil .TraduçãoenotasdeLuizda
ンブレの神々であるオリシャ達を祭る儀式唄もあります。
現在、カポエイラの唄は、ポルトガル語の普及、特にバイアのしゃ
CâmaraCascudo.BibliotecaPedagógicaBrasileira,série5,v.
べり言葉の普及に貢献しています。カポエイラは、活気に満ちた刺
221.SãoPaulo:CompanhiaEditoraNacional,1942.
激的な身体運動として注目され、いっそう国際的になっています。
しかしそれと同時に、ますます豊かなブラジル気質にあふれ、音楽
RUGENDAS, Johann Moritz.Malerisch Reise in Brasilien.
面においても限りない創造力を発揮しつづけています。
Engelmann&Cie .InParis,CitéBergerno.1inMülhausen,
Ober-RheinischesDept,1835.
-----ViagemPitorescaeHistóricanoBrasil .BibliotecaHistórica
Brasileira,direçãodeRubensBorbadeMoraes.4ed.tomo1.
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1949.
Bimba é o grande rei negro do misterioso rito africano”
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WETHERELL,James.S.d.Brasil:ApontamentossobreaBahia .
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1842-1857.Apresentaçãoetrad.deMiguelP.doRio-Branco.
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Salvador,BancodaBahia.[1972].
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Janeiro:PublicaçãodoMuseudoEstado,1951.
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CARYBÉ,HectorJulioPárideBernabó.OJogodaCapoeira .
ColeçãoRecôncavo,3.Salvador:TipografiaBeneditina,1951.
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CASCUDO,LuísdaCâmara.AntologiadoFolcloreBrasileiro:
Séculos XVI-XVII-XVIII-XIX-XX . Os cronistas coloniais. Os
estudiososdoBrasil.Bibliografiaenotas.SãoPaulo:Martins,
1956.
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Paulo:Melhoramentos.S.v.“Capoeira”
193-4.S.v.“Berimbaude-Barriga”
120-1,1981.
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ
DEBRET,Jean-Batiste.Voyagepittoresqueethistoriqueau (RicardoPamfíliodeSousa)
Brésil,ouSéjourd'unartistefrançaisauBrésil,depuis1816
バイア連邦大学修士、専門:民俗音楽学、修士論文(1997)
“A
jusqu'en 1831 inclusivament . Edição Comemorativa do IV
músicanacapoeiraangola.” ピ エ ー ル・ ヴ ェ ル ジ ェ(Pierre
Centenárioda Cidade de São Sebastiãodo Rio de Janeiro,
Verger)財団所属、アフリカ系ブラジル文化センター企画 :Ponto
1965. Rio de Janeiro: Distribuidora Record; New York:
deCulturaPierreVergerデジタル・カルチャー主任。
ContinentalNews.Fac-similedaediçãooriginaldeFirminDidot
Frères,Paris:1834.
-----ViagemPitorescaeHistóricanoBrasil .BibliotecaHistórica
Brasileira,direçãodeRubensBorbadeMoraes.2ed.tomo1.
2v.Trad.enotasdeSergioMilliet.SãoPaulo:Martins,1949.
-----“L'Aveugle chanteur.”
InMercedesReisPequeno (org.).
TrêsSéculosdeIconografiadaMúsicanoBrasil80 .Riode
Janeiro:BibliotecaNacional,1974.
95
11. カポエイラと女性たち
リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネーゼス
Lília Benvenuti de Menezes
1940 年代から、努力や熱意、勇気や自信を象徴する人物として、女性の名も歴史に刻まれるように
なりました。この時代には、
「男 12 人やっつけのマリア」
(Maria12Homens)
「カウサ・ハラ」
、
(Calça
Rala「
〈薄い〉カポエイラパンツ」)、「サタン」(Satanás)、「黒人ジジ」(Nega Didi)、「電車止めの
マリア」
(Maria Pára o Bonde)などの女性勇者が有名でした。この女性達は、男を渡り歩いて、カ
ポエイラ界の非情な極道を生き抜いたのです。文豪ジョルジ・アマード(Jorge Amado)の著書「死
せる海」
(MarMorto)に、伝説の勇猛武人として登場するホザ・パウメイロン(RosaPalmeirão)も、
その一例でしょう。「男 12 人やっつけのマリア」は、男の世界に殴り込みをかけて、
「こわおもて」の
女性の最たる者として一目置かれました。この人はカポエイラ闘士であり、カイス・ドウラードの波止
場や、市場メルカード・モデロの小路で行われるホダの常連だったとされています。
「男 12 人やっつけ
のマリア」の苗字は、サルバドールの役所記録には残っていませんが、このアダ名は、12 人の強豪をノッ
クアウトしたことからついたと伝えられています。こういう女性達は、悪知恵と策略で自分の地位を固
め、歴史に名を残しました。
人生の戦いで名誉を勝ちえ、勇気や決意の象徴になった女性をめぐって、沢山の神話ができました。
例えば、コンゴ王国の王女であったアクアルツゥーニは、ジャガ族が襲撃してきた時、一万の大軍を率
いて応戦したと語り継がれています。しかし王国は滅ぼされ、アクアルツゥー
ニは捕えられて、子を産むための奴隷として奴隷船に乗せられました。
ひとりの奴隷男との関係を強制され、ヘシフェに着いた時は身ごもっ
ていましたが、子供が生まれる前に、他の奴隷達と共謀してパ
ウマーレス〈北東部の奥地に存在した逃亡奴隷の大集落〉に
逃げたということです。
現在、女性達は、勝利と自尊心のシンボルとして、政界
や経済界でめざましく活躍し、能力を発揮しながら重要な
任務をこなしています。スポーツ界でも、女性選手は多く
のメダルやトロフィー、タイトルを獲得しています。当然カ
ポエイラ界でも女性の参加が増えて、カポエイラの特色の強化に
貢献しています。女性達は、楽器を演奏し、歌い、格闘し、カポエ
イラ教室で教え、著名な師範達との討論会に参加しています。12 人
の強豪を倒したマリアや、カウサ・ハラ、サタン、黒人ジジ、電車を
止めたマリア、ホザ・パウメイロンも、誇らしく思っていることでしょう。
リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネ-ゼス
(LíliaBenvenutideMenezes)
体 育 課 教 諭、 グ ル ッ ポ・ ム ゼ ン ザ(GrupoMuzenza) 教 官、 ブ ラ ジ
ル・カポエイラ・スーパーリーグ二冠チャンピオン。著書:
“Benefícios
PsicofisiológicosdaCapoeira.”
(カポエイラの心理生理学的恩恵)
。
Photos:MarcFerrez
12. カポエイラ女性師範インタビュー
ホザンジェラ・C・アラウジョさん
(ジャンジャ師範)
Senhora Rosângela C. Araújo (Mestra Janja)
カポエイラの女性師範、ジャンジャ師範ことホザンジェ
ラ・コスタ・アラウジョさんは、カポエイラ界で最もよく
知られている人のひとりです。バイア連邦大学(UFBA)
を歴史学専攻で卒業し、サンパウロ大学(USP)大学院(教
育学専攻)で博士号を取得したあと、研究面でも日々の訓
練の面でも、既に 20 年以上のものあいだカポエイラに身
を捧げてきました。師範は、本誌 Texts of Brazil が行っ
たインタビューで、女性のカポエイラ界進出について、近
年カポエイラ界で起こった変化について、また、今後の挑
戦や展望についての意見を述べてくれます。
TB(Texts of Brazil 略)
:カポエイラは、多くの専門家によって、
最も正統なブラジル文化のひとつとして認識されています。貴方の意
見では、カポエイラのどんな特質が、ブラジルの個性を表わしている
と思いますか?
ジャンジャ師範:まず、私は、カポエイラを「アフリカ系ブラジル文
化のひとつ」として考えていることを強調したいと思います。これは
私にとって、たいへん重要なことなのです。というのは、
「ブラジル
が持っているアフリカ的性質を考慮しないで、ブラジルを考えること
はできない」というのが、私の基本的な考えだからです。そこを出発
点にしてはじめて、私は、カポエイラがブラジル人らしさを読み解く
アートであるということや、カポエイラには、すさまじい現実を暗示
するフォームが多いということが、理解できるのです。
「ジンガ」は、
カポエイラの「特徴」などという言葉では表せないほど「特
徴的」な動きですが、
「ジンガ」は、闘いと舞踏がミックスされていて、
否定的なものを人間の喜びに変えるという、逆境を生き抜く素質のあ
らわれだと思います。
TB: 貴方は 20 年以上も、
カポエイラの世界に従事しています。その間、
貴方が気づいた、カポエイラに関する主な変化には、どのようなもの
がありますか?
ジャンジャ師範:そうですね、カポエイラと縁ができてから 25 年ほ
どになります。幸いなことに、その間、ブラジル国内の色々な州や外
国の国々で、幾度かカポエイラの発展を実感できました。私にとって
最も印象的なのは、交流のやり方の変化です。つまり団体の間や、特
に師範達の間で、新しい形での交流が始まったことです。いろいろな
団体や師範達が一緒に活動しています。また、社会の色々な分野にい
る人々や、行政機関とも対話を持つことができるようになりました。
まだ過去の不信感が完全にぬぐいされてはいませんが、新しい交流の
形態ができ始めています。女性の参加が日々増え続けていることも、
指摘すべき重要な現象で、これについて議論することも大切です。
TB: 様々な生活面で、20 世紀の半ばまでは男の世界であった分野で、
女性が重要な位置を占めるようになってきました。カポエイラのホダ
(輪の集い)への女性参加については、どんな進歩があったと思いま
すか?
ジャンジャ師範:まず、ホダの参加にたどり着く以前の問題として、
女性がカポエイラ武術家になること、カポエイラ武術家として認めて
もらうこと、もう、この時点で差別があることを申しあげておきます。
カポエイラが男性だけのものでなくなったのは、誰にとっても周知の
ことです。これは、カポエイラが、誰か限定された人達のものだったと
想定しての話ですが。今日では、女性が創立し、経営しているカポエ
イラの組織もあります。また、特に外国では、参加者の大半が女性と
いうグループもあります。しかし、師範や指導者として昇格が認めら
れる人の中に女性が少ないのを見ると、代表者を選ぶ場合には、まだ
かなり偏りがあるようです。また、
組織の「伝統」を守るという名目で、
女性にはグンガを演奏させないとか、ラダイーニャのリードをさせな
いというグループを、しょっちゅう見かけます。女性にも、そういう
ことをする能力が、日々の訓練や学習では要求されているのですが。
や技能の面だけでなく、団体の組織運営に
な点を中心にリーダーシップをとっていく
も、女性が進出しているからです。女性達は、
べきだと思いますか?
組織運営面では、文化・教育・政治などを
考慮して、カポエイラ界内部だけでなく広
ジャンジャ師範:近年カポエイラは、特に
く社会討論の場でも活躍しています。
都市中心からそれた地域に住む青少年の交
しかし更に状況を前進させるには、カポエ
流の場として、重要な役目を果たしていま
イラ界に新しい美意識を導入する必要があ
す。アトラクションやイベントの他に、カ
ると思います。伝統的に男性中心だった組
ポエイラの活動や普及のために、地域の人々
織ではどこでもそうですが、カポエイラ界
に貢献してもらったり、率先して活動して
でも、グループや師範のアイデンティティ
もらったりする企画もあります。
を打ち立てる上で、たいへん大きな美意識
幸い今日では、政府の方針で、色々な刊行物
の対立があります。女性が尊重されるよう
や記録文書が紹介され、それによって、さ
になれば、新しい見地が開かれて、
従来の(身
まざまな官庁の組織も、カポエイラの社会
体面も含めて)
、
「女性的なものを表に出さ
における重要性を認識してきました。その
ない」というやり方に固執する必要はなく
結果、文化活動の中心から離れた地域の団
なるでしょう。
体も、より広いカポエイラコミュニティに
対して、自分たちの活動を紹介することが
TB: カポエイラ学校での教育は「グローバ
できるようになりました。政府の企画の中
ジャンジャ師範
ル」でなくてはならない、つまり、テクニッ
でも、「国立歴史芸術遺産研究所」(IPHAN:
カポエイラのホダは、グループの個性や能
クの面だけでなく、道徳観・倫理観の育成
Instituto do Patrimônio Histórico e
力の発表の場なので、個人でやる練習の場
もされなくてはいけない、ということをよ
Artístico Nacional)によって、カポエイ
合とはちがい、あからさまにか暗にか、女
く聞きます。カポエイラを習得することに
ラが無形文化遺産として登録されたこと、
性が、活動を規制されたり嫌がらせを受け
よって、人間的にどのように成長できると
ま た、 ブ ラ ジ ル 文 化 省(MinC) の 後 援 プ
たりする場合があります。そのため、女性
思いますか?
ログラムである「クウトゥーラ・ヴィヴァ」
(CulturaViva)
、
「ポントス・ヂ・クウトゥー
達の組織ができて、各国で討論会を開いた
り、練習のネットワークを作ったりと、女
ジャンジャ師範:カポエイラを学びたいと思
ラ」
(Pontos de Cultura)
、
「カポエイラ・
性の間の結束ができています。カポエイラ
う人には、まず、カポエイラの根本にある
ヴィヴァ」
(Capoeira Viva)が実施された
を理解するには、常に、一つの社会と周囲
ものを、理解してもらうべきだと思います。
ことは注目すべきことです。国際的には、ブ
の環境との対話を持ち、カポエイラを、「大
カポエイラは共同体としての活動ですから
ラジル文化省による「カポエイラ世界プログ
きなホダ」に加わった「小さいホダ」とし
(これはアンゴラ流のことを言っているので
ラム」
(ProgramaMundialdeCapoeira)
て見ていく必要があります。女性達は、一
すが)、グループのアイデンティティを形作
が提案されました。そして現在、
世界各国で、
般の社会でやってきた闘いと全く同じ闘い
るうえで、歴史や哲学的な要素がたいせつ
師範や団体がカポエイラ教育や文化の絆の
を、カポエイラ界でもやっているわけです。
です。言い換えれば、スタートが良ければ、
ために貢献しています。
グループとしても個人としても、すんなり
TB: 女性達は、今後まだカポエイラ界で、
とネットワークに入っていけるということ
TB: あなたの考えでは、良いカポエイラ武
どんなハードルを乗り越えなくてはならな
です。
術家は、どんな特質を備えているべきでしょ
いのでしょうか?
カポエイラ界に入った人は、入った後の過
うか?
程で次第に、階層関係・伝統の精神・協調性・
ジャンジャ師範:丁度よい機会だと思うの
異なるものの尊重などに価値を見出してい
ジャンジャ師範:ジンガのうまさです。これ
で、この質問を別の角度から考えてみよう
くようになります。また、カポエイラには
は広い意味での人の輪(ホダ)の中で、順
と思います。つまり、「カポエイラ界で、女
人格形成的な面があって、技や音楽の能力
応力があるということも含めてです。常に
性の存在が認められ、敬意が払われるよう
習得と、グループの一員として行動する上
人間的に成長できるように、オープンであ
にするためには、女性カポエイラ武術家は、
で学び取っていく知識とを一体化させなが
ること。カポエイラ武術家として、教育に
どんなハードルを越えなくてはならないか」
ら、武術家を育成するということも、強調
責任をもち、欠けるところのない自己形成
という質問として考えてみます。
しておきたいと思います。
をめざすこと。忍耐と敬意をつちかうため
の、たゆまぬ訓練。それから、自己と異な
そうすると2つの重要な問題があることに
るものを尊重する精神です。
気が付きます。すなわち、「多様性」と「平
TB:近年カポエイラは、社会への順応や、
等の権利の構築」の問題です。カポエイラ
社会福祉のための手段として、効果をあげ
界は、この問題に取り組んでいくべきだと
ています。この分野では、カポエイラのど
TB: 貴方は、カポエイラをテーマにした博
思いますが、それは、今日、カポエイラの
のような性質が役に立つのでしょうか?ま
士論文を執筆し、2004 年に、その論文の
技・楽器演奏・歌・歴史・哲学などの知識
たこの分野では、カポエイラは、どのよう
最終口頭諮問審査をパスしました。しかし、
つい最近まで、カポエイラ武術家の中には、
へん人気が出てきました。こうして成功を
TB: 現代の社会では今後、カポエイラはど
学術的なカポエイラ研究にはあまり値打ち
おさめた原因は、何にあると思いますか?
んなことに挑戦していきますか?
がないと考える人も、大勢いました。カポ
また貴方は、カポエイラの国際化を、どの
エイラの世界と、学術研究の世界は価値観
ように評価しますか?
ジャンジャ師範:まず、人種差別・性差別・
国籍差別の基になっている、過剰な愛国心や
が違うと考えていたからです。現在、この
ジャンジャ師範:カポエイラは、若々しい精
自国文化への不必要な執着を、無くしていく
神を保ち続けてくれると思います。これが、
ことです。また私たちが、
「人間の輪(ホダ)
」
ジャンジャ師範:そういう見方があるのは、
カポエイラに人気がある理由の一つかもし
から取り除こうとしている政策上の圧力が、
カポエイラ界に限ったことではないと思い
れません。またカポエイラは、柔軟性や音楽
カポエイラ界には侵入してこないように対
ます。例えば、カンドンブレのようなアフ
性が培われること、仲間ができることなど、
処することも大事です。そして今後も引き
リカ起源の伝統文化の場合も、学術研究が
魅力的な面が沢山ある活動です。カポエイラ
続き、自由と平等の精神を広めていくこと、
受け入れられるようになったのは、ごく最
は、個人にとっても集団にとっても、有意義
同時に、世界中にカポエイラが普及しても、
近です。今日ではブラジル内外のたくさん
な活動の場を提供してくれます。カポエイラ
マス化(大衆化)してしまわないように留
のカポエイラ団体に、学術的にしろ、そう
が魅力的な活動だという証拠の一つとして、
意していくことが大切だと思います。
でないにしろ、多くの研究家がいて、貴重
次のことが挙げられると思います。人種的・
な研究や出版物を世に送り出しています。
文化的・社会的に異なった背景を持つ子供・
こういう活躍をしている研究グループを、
青年・大人達がカポエイラに参加すること
幾つか紹介しておきたいと思います。まず
によって、ブラジルを中心とした大きなネッ
「 カ ポ エ イ ラ 研 究 会 」(GECA: Grupo de
トワークができました。そして、そのネッ
Estudos da Capoeira) で す が、 こ の 研
トワークのおかげで、国際問題にもなって
究会には、ブラジル国内のカポエイラ武術
いる差別や闘争のせいで、隔離されてしまっ
家の大半が参加していて、メンバーの中に
ていた人々とも交流する機会ができました。
は、大学院生や大学で教えている人もいま
これは素晴らしい結果だと思います。
す。その他、サルバドールの「ノローニャ
その一方で、新しくカポエイラ界に入ってき
師範研究会」(GrupodeEstudosMestre
た人達には、カポエイラの歴史とやり方を
Noronha)や「ジャイール・モウラ研究所」
よく認識してもらって、カポエイラが、本
点はどのようになっていますか?
(Instituto Jair Moura)などが研究活動を
行っています。
来とまったく違うものになってしまわない
ように、また、単なるスポーツと化してし
まわないように、留意してもらうことが大
TB: カポエイラは、さまざまな面で多様性
切です。カポエイラ武術家たちが皆、カポ
を見せています。この多様性は、カポエイ
エイラがオリンピックの種目になることを
ラの文化的複雑さ、つまり、ブラジル文化
望んでいるわけではありません。また、ブ
の複雑さの証拠だと思いますか?
ラジルの過去の歴史における、黒人たちの、
自由を勝ち得るための闘争と無関係でない
ジャンジャ師範:そのとおりですね。いま
ことも忘れてはなりません。
だかつて、カポエイラが、こんなに多様な
発展をしたことはなかったと思います。今
TB: 現在でも、克服しなくてはならない、
後、更に色々な方面で多様化する可能性が
カポエイラとカポエイラ武術家に対する固
ありますから、そのひとつひとつに対応で
定観念にはどんなものがありますか?
きる状況を用意する必要があります。
しかし、色々なものと混ざりすぎて、カポ
ジャンジャ師範:社会にも、行政当局にも、
エイラ本来の特色が失われないように気を
カポエイラに対する固定観念があると思い
つけなくてはいけません。新しい流派名や
ますから、それに立ち向かっていかなくて
特許を追いかけまわすより、本来のカポエ
はなりません。ブラジル社会は、自分の国
イラがもつ複雑な要素に秘められている、
のメインな特性のひとつに、
「アフリカ的な
数限りない可能性と、
(アート、健康、教育、
もの」があるということを、もっと認識す
人権など)カポエイラと関連ある分野との
るべきです。そして官庁も、教科書や他の
協力活動を開拓するために、努力していく
出版物の内容を再検討したり、研究や活動
べきです。
を促したりして、この認識が広まっていく
ようにサポートする必要があると思います。
TB:近年カポエイラは、世界各国で、たい
13. カポエイラと 20 世紀の体育学
パウラ・クリスチーナ・ダ・コスタ・シルバ
Paula Cristina da Costa Silva
して格
ス、そ
ン
マ
ー
と同じ
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のホダ
心ある
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、皆が
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注1
と思い
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い
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感
学
ていき
イラの
い緊張
の体育
考察し
カポエ
離せな
0 世紀
ら
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ら常に
家の視
ポエイ
闘技か
ラ武術
も、カ
イ
で
エ
論
ポ
カ
、本
もある
ように
究者で
研
、
を
た過程
(1)本論でフィジカル・エデュケーション(身体教育、いわゆる「体育」)を書き表すとき大文字を使う場合と
小文字を使う場合がある。大文字の場合は、身体教育(体育)という言葉を「体育に関する概念や組織など、
抽象的なもの」として扱っている場合である。小文字の場合は、学校教育での科目としての体育を示してい
る。〈翻訳文では、オリジナル文書の内容によって、大文字の EducaçãoFísica は「体育部門」,「体育学」
などの表現をあて、小文字の educaçãofísica には「体育」,「体育科目」などの表現をあてた〉
(2)
「世界をひとまわり」は、カポエイラ格闘の開始前に唄われるラダイーニャの歌詞のひとつである。この表現は、
ボディモーションの開始を告げる印として解釈することができるし、また、そのホダにおいて、様々な技が
展開されることも示している。レチシア・V・S・ヘイス(LetíciaV.S.Reis:1997)をはじめとして色々
な研究者が、カポエイラのホダで行われることと、日常生活の出来事とのあいだの類似性を指摘している。
従って「世界をひとまわり」も、人間がその一生でめぐりあう経験すべてを示しているとも考えられる。
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラと体育部門が関連を持つようになっ
たのは、20 世紀のはじめです。この時、体育
学専門の人たちだけでなく、軍隊の教育班が、
カポエイラを体操の形式にしてスポーツのひと
つとして導入する方法を考案していました。
本 論 は、 リ ノ・ カ ス テ リ ャ ー ニ・ フ ィ リ ョ 博 士(Lino
CastellaniFilho)を指導教授とした、私の、体育学を主題とす
る修士論文に基づいています。この論文の目的は、体育に関する
教育学の学者たちの研究と、カポエイラの活動や研究との間の関
係を、明らかにすることです。それ考察する上で、三つの疑問が
生じました。一つ目は、カポエイラの歴史とはどんなものだった
のか、二つ目は、かつてのカポエイラも体育部門と関連性があっ
たのか、あったとすればいつの時代にどこで関連が生じたのか、
そして三つ目は、体育の教育に従事する人、カポエイラ活動をす
る人、あるいは、その両方の活動に携わっている人が、国家教育
委員会および地方教育委員会の管轄内でカポエイラの活動や教育
を行っていくうえで、どのような認識をもつべきであるのか、と
いう疑問です。本論では、この三点についての分析も行います。
いま述べた問題を調べる上での参考にしたのは、体育学・歴史
学・人類学・社会学の文献、そしてカポエイラ界(注3)で書か
れた文献です。また、カポエイラ活動に関する過去 20 年間の雑
誌データも活用しました。
カポエイラに関する議論で必ず取り上げられるのは、カポエイ
ラがブラジル社会でどのように行われてきたかの歴史です。カポ
エイラの発展を理解する基礎になるからです。私の論文でも、カ
ポエイラの歴史を考慮することによって、カポエイラと体育部門
との関係を掴むことができました。
カポエイラの起源は、アフリカからブラジルに奴隷としてつれ
て来られた黒人たちと深い関係があります。アフリカから連れて
来られた黒人奴隷たちは、16 世紀以降、このブラジルの地で、
カポエイラと 20 世紀の体育学
カンドンブレ、サンバ、コンガーダ、マラカトゥなど、自分たち
の 民 族 の 特 徴 を 表 現 す る よ う な 活 動 を は じ め ま し た。 カ ポ エ イ
ラは近年、世界の五大陸で行われるようになるほど国際的に普及
し、注目を集めています。カポエイラは、格闘・ダンス・遊び・
舞台パフォーマンス・ゲーム・スポーツなどがミックスした表現
活動だと言えます。
私の調査資料に基づくと、カポエイラと体育部門が関連を持つ
ようになったのは、20 世紀のはじめです。この時、体育学専門
の人たちだけでなく、軍隊の教育班が、カポエイラを体操の形式
にして(注4)スポーツのひとつとして導入する方法を考案して
いました。この計画には、カポエイラ界も参加していましたが、
計画の根本は、国家の方針、つまり、カポエイラを、ブラジルを
象徴するスポーツ・護身術として整備して、「ブラジリダージ」
(brasilidade「ブラジルの個性」)を称える手段として用いる
という見地に基づいていました。
20 世紀はじめのブラジルでは、健全なる国家の建設をめざし
て、さかんに愛国心が強調されていました。ですから、軍部が、
体育の一ジャンルとして採用しようとしたカポエイラは、カポエ
(3)本論での、「カポエイラ界」(mundo capoeirístico)という言葉は、カポエイラの師範・先生・
弟子・カポエイラをする人、これら全ての人々の、行為や考え方全般を指すために使われており、
カポエイラの学術的研究とは切り離した意味になっている。
(4)ブラジルの教育制度における体育科目の導入は、20 世紀初頭にヨーロッパから入った「体操メ
ソッド」の人気が高まったことと直接関連している。ヨーロッパでも同様だったが、教育面での
体育科目導入は、工場労働者の身体を鍛え、健全な国家を作ろうという目的のもとに行われた
が、基本的な衛生対策や医療体制などの社会政策自体は、一切かえりみられていなかった。ブラ
ジルにおける体操メソッドについての参考文献は以下。Educação Física: raízes européias
eBrasil ,deCarmemLúciaSoares,1994.EducaçãoFísicanoBrasil:ahistóriaque
nãoseconta ,deLinoCastellaniFilho,2000.
104
Photo:RicardoAzoury/PulsarImagens
イラ本来の、黒人ルーツや庶民文化(注5)を反映している部分
し た。1930 年 代 に は、 新 国 家 体 制〈Estado Novo: ヴ ァ ル
は、切り捨てられていました。しかし、これによって、二つの全
ガス大統領下で実施された独裁体制〉のもとで、貧困層が行って
く違った社会層が接触する機会ができたのです。すなわち、比較
いたカポエイラが合法化されました。こうしてほぼ同じ時期に、
的生活に余裕のある中流層と、奴隷や労働者などの貧困層とのあ
ふたたび、異なった社会層の間で、カポエイラをめぐる「闘い」
いだの接触です。カポエイラは 1890 年の刑法で禁止されてい
とでも呼べる、まったく違う動きがはじまりました。このときの
た行為なのですから、これが体育課教育の「教科」として取り上
「闘い」で、カポエイラをめぐって優位に立ったのは、被支配層
げられたことによって、ある意味で、被支配層が再評価されたと
のほうでした。特にバイア州サルバドールを中心とする被支配層
言えます。
のカポエイラ師範や武術家たちが提案した、アフリカ的で庶民感
こうして、二つの違った社会層が、カポエイラを「国家を象徴
覚が強いカポエイラが、イネズィル教授のカポエイラを踏み台に
する正統なスポーツ」として整備するために活動をはじめました
して、優位になっていきました。バイアの師範たちは、カポエイ
が、両者はそれぞれ、全くちがうやり方でカポエイラを再構成し
ラに体育やスポーツ要素が入るのは、権力主義の象徴だと思って
ようとしたのでした。中流層サイドが支持したのは、カポエイラ
いましたが、カポエイラが、体育学やスポーツから影響を受けた
を「ズマ・メソッド」(Método Zuma)という形にまとめたも
ということは、否定できません。フレデリコ・ジョゼ・ヂ・アブ
ので、この方式ではカポエイラが、おもにボクシングをモデルと
レウ(Frederico José de Abreu)(注7)やアントニオ・リ
したスポーツとして成立していました。その一方で、被支配層の
ベ ラ ッ キ・ C・ S・ ピ レ ス(Antônio Liberac C. S. Pires)
人々のあいだでは、カポエイラの黒人起源の性質が尊重されてお
(注8)の分析によると、カポエイラ師範やカポエイラ武術家た
り、広いけれど質素な庭の奥や、広場での祭で、黒人起源そのま
ち自身が、最初にスポーツ体系を視野に入れて、カポエイラをス
まを残したカポエイラが受け継がれていました。しかし、この時
ポーツに組み込める可能性を示し、カポエイラをリング上の競技
点では、カポエイラと体育科目が、はっきりと関連づけられたわ
に登場させたのだとしています。その後、師範たちはカポエイラ
けではありませんでした。
教室や訓練方法を整えました。そしてカポエイラは、1930 年に、
1945 年 に は じ め て、 イ ネ ズ ィ ル・ ペ ナ・ マ リ ー ニ ョ 教 授
(Inezil Penna Marinho) に よ っ て、 体 育 と し て の カ ポ エ イ
(5)
「黒人」ルーツや「庶民」文化を反映しているカポエイラとは、アフリカ起源の伝統から発生した様々
ラの新しい意義を追及するプロジェクトが実施され、「ズマ・メ
な表現活動の一つとしてのカポエイラを指す。一方、「白人」の「高尚な」カポエイラという表現
ソッド」に基づいたカポエイラのトレーニング法が再考察されま
ツとして適用されたカポエイラを示す。これらの表現に関する詳しい議論については以下を参
は、ブラジル体操のメソッドや、国技としての闘技や護身術、あるいはブラジルを象徴するスポー
照。Reis,LetíciaVidordeSousa.Omundodepernasparaoar:acapoeiranoBrasil.
1997.
105
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
従って、カポエイラと体育学の本格的な関連性
ができあがったのは、カポエイラが当時の体育
体育の種目の一つとして認定され、やがてブラジルを代表する体
育活動としてみなされるようになっていきました。
従って、カポエイラと体育学の本格的な関連性ができあがった
の種目の一つとして認められるという威光を勝
のは、カポエイラが当時の体育の種目の一つとして認められると
ちえて、カポエイラをする人々が、自分達の文
い う 威 光 を 勝 ち え て、 カ ポ エ イ ラ を す る 人 々 が、 自 分 達 の 文 化
化を確固たるものにした時期だと見なすことが
できます。
を確固たるものにした時期だと見なすことができます。かつての
みやこ、サルバドールの師範たちは、カポエイラと結びつける上
で、「体育」や「スポーツ」という言葉を、それぞれ独自のやり
方で解釈していました。たとえば次の、パスチーニャ師範のコメ
ント ( 注9) を読むとそれが分かります。「... はっきり言って、今
やスポーツを考慮する時がきた。私が意図しているのは、仲間よ
り秀でてやろうというのではなく、スポーツを重視するというこ
とだ」(注 10)。またビンバ師範は、自分の教授法の正当性を説
明するコメントで、次のように述べています。「うちのアカデミー
ア(道場)の壁には、教育庁の認定書がかけてある。俺は体育文
化の教師だ。だれも俺を妨害することはできない」(注 11)。こ
のように、政府の後ろ盾をえて、民主的に(注 12)カポエイラ
を保護することができるようになった 1930 年代から、カポエ
イラの「庶民的な教授法」(pedagogia popular)(注 13)が
力を盛りかえしたのでした。
師範たちは、高尚な文化――この場合はスポーツや体育科目の
ことですが――の特色を取り入れて、自分が適切だと判断した形
にカポエイラを変えていきました。師範達は、カポエイラの伝統
を再発見して、この格闘技を、ブラジル国家の文化に対する、バ
イア州とバイアの黒人たちの正統な貢献活動として確立したので
カポエイラと 20 世紀の体育学
す。師範達は、カポエイラにアフリカルーツの要素があることは
一切否定せず、その一方で、スポーツだとか護身術だとかジャン
ルを規制するということもしない、という非常に融通の効くかた
ちで、広い意味での文化表現としてカポエイラを世の中に認めさ
せていったのです。バイアの師範達は、カポエイラとその格闘の
位置づけは曖昧にして、色々な可能性を残しておきました。スポー
ツと見なされることも拒否しませんでしたが、カポエイラには、
格闘技・ダンス・音楽・護身術・人生哲学など、色々な面がある
ということを主張したのです。
カポエイラ界と体育部門とのあいだの最初の「闘い」では、カ
ポエイラ界のほうに軍配が上がりましたが、その後すぐに、カポ
(7)ABREU,FredericoJoséde.Bimbaébamba:acapoeiranoringue .Salvador:Instituto
JairMoura,1999.
(8)PIRES, Antônio Liberac Cardoso Simões. Movimentos da cultura afro-brasileira:
a formação histórica da capoeira contemporânea (1890-1950). 2001. Tese
(Doutorado em História) - Instituto de Filosofia e Ciências Sociais (IFCH),
UniversidadeEstadualdeCampinas,Campinas.
(9)パ ス チ ー ニ ャ 師 範 す な わ ち ヴ ィ セ ン チ・ フ ェ ヘ イ ラ・ パ ス チ ー ニ ャ(Mestre Pastinha,
VicenteFerreiraPastinha)とビンバ師範すなわちマノエル・ドス・ヘイス・マシャード(Mestre
Bimba, Manoel dos Reis Machado)は、バイア・カポエイラのシンボルである。二人は、
1890 年から猛威をふるった、カポエイラを犯罪とする刑法撤廃のために戦い、1930 年代か
らブラジル全土で知られるようになった。
(10)FILHO,1997apudPIRES,2001,op.cit.,p.282.
(11)ABREU,1999,op.cit.,p.30.
(12)パ スチーニャ師範やその当時の師範達の唄でもこう唄っている。「カポエイラは男と子供、そ
して女のためのもの。カポエイラをしないのは、やりたくない奴だけさ」(Capoeira é pra
homem,meninoemuié.Sónãojogaquemnãoqué)
(13)この用語は Letícia Vidor de Souza Reis(1997)の研究で使用された用語で、カポエイラ
師範達による教育法には、体育界における所謂「高尚な教育法」とは違う特色があることを示す
目的から使われた用語である。
106
カポエイラと 20 世紀の体育学
Photo:PaulaCristina
ていました。
1970 年 代 に、 カ ポ エ イ ラ が「 ブ ラ ジ ル・ ボ ク シ ン グ 連 盟 」
(Confederação Brasileira de Pugilismo)に加盟すると、
カポエイラ・スポーツ化の動きが、目に見えて盛んになりました。
カポエイラの団体も増えました。師範がグループの階層の頂点い
るという点に変化はありませんでしたが、ほかのスポーツの規則
に似たものが、カポエイラの規則として導入されはじめました。
歴史的には、カポエイラがスポーツの影響を最も強く受けたの
は、この時期だったと言えます。また体育はスポーツと密接な関
係があるわけですから、この時期に、カポエイラは「体育部門」
のやり方や考え方からも影響を受けたと言えます。ここで、体育
部門が、はじめてカポエイラ界を制覇したかのように見えました
が、それは、決定的なものでも完璧なものでもありませんでした。
それどころか、皆で足並みそろえて、ブラジル・ボクシング連盟
に加盟した「スポーツとしてのカポエイラ」を行うということに、
反感を持っているカポエイラグループもありました。カポエイラ
エイラをスポーツや護身術に組み込もうとする、体育部門の新し
を、一種類のスポーツとしてすべてを単一化してしまうことに対
い動きが続々と出てきました。
して、カポエイラ武闘家達の意見は様々でした。後になって、こ
そ の う ち の 一 つ は、 体 育 の 関 係 者 と、 軍 隊 が 手 を 組 ん で 行 っ
の時点が、カポエイラが様々な形で発展してく転機になった時期
た も の で し た が、20 世 紀 に は、 よ く 軍 隊 と 体 育 部 門 の 提 携 が
だと見なされるようになりました。またこの時期に、様々なグルー
あったのです。1960 年に、体育部門の関係者、ラマルチーニ・
プで、様々なやり方や考え方が出てきたからこそ、その何年か後
ペ レ イ ラ・ ダ・ コ ス タ 中 尉(Primeiro-Tenente Lamartine
に、革新的な提案が出てきて、色々な分野の研究者に影響を与え
Pereira da Costa) が、 カ ポ エ イ ラ を 護 身 術 に 取 り 入 れ る と
ることになったのです。その一例として、「スポーツとしてのカ
い う 提 案 を 出 し ま し た。 こ れ は 体 育 部 門 サ イ ド か ら の 提 案 と し
ポエイラ反対運動」が挙げられます。これは、パスチーニャ師範
て は 二 度 目 の も の で し た。 一 度 目 の 提 案 は、 こ の 点 を 研 究 し た
の 思 想 と、 ア ン ゴ ラ 流 カ ポ エ イ ラ の 価 値 を 再 評 価 す る 運 動 で し
最 初 の 人 物 フ ェ ル ナ ン ド・ ヂ・ ア ゼ ヴ ェ ー ド(Fernando de
た。(注14)
Azevedo)で、それを述べているのは以下の著書です。「体育に
色々なカポエイラグループが、明らかにボクシング連盟の規定
ついてー体育とは何か、今までどんなものだったか、そして今後
を無視して、それぞれ独自の形式で活動をはじめました。ですか
のあり方(アンティノウス * を排出するようにあるべきだ)」
(Da
ら、「体育部門との関係」も、今までと同じわけにはいかなくな
Educação Física: o que ela é, o que tem sido e o que
りましたが、関係が断ち切られたのではなく、ますます複雑な状
deveria ser (seguido de Antinoüs).)〈* アンティノウスは
況になっていったのです。なぜなら、新しい動きがあると同時に、
古代ギリシャの美少年で、しばしば肉体美の象徴とされる。〉マ
「カポエイラをスポーツとして規範化したい」と考えるカポエイ
ルチーニ・ペレイラ・ダ・コスタ中尉は、戦闘に備えて、海軍兵
ラグループもでてきたからです。さらに 1980 年代には、カポ
士用の訓練プログラムにカポエイラを導入するように提案しまし
エイラを体操に組み込むという、かつてのアイデアをとり上げる
た。コスタ中尉が主宰して、この提案を記した書籍「師範なしの
動きもあり、ますます多様化が進みました。
カポエイラ」(Capoeira sem mestre)が書かれましたが、こ
この状況下で起こった様々な動向の一つの例として、カポエイ
の本の中では、老師範の能力に疑問が投げかけられています。こ
ラをブラジルのジムナスティックスとするという、かつての案を
のような提案が続きましたが、みな提案に留まり、「体育部門」
再考察すべきだという提案がなされたことが挙げられます。これ
に本格的にカポエイラが導入される計画は成功しませんでした。
はイネズィル・ペナ・マリーニョ教授が、著書(1982)で述べ
1960 年 -1970 年代のブラジル社会には、大きな変動があり
たことですが、カポエイラをスポーツのジャンルとして扱うとい
ました。1964 年に、軍部によるクーデターが勃発し軍事政権が
う主張を受け継いだ提案でした。更にこの時期には、体育学の関
発足しました。様々な事件や出来事が渦巻く中、スポーツを高く
係者たちによる運動がありました。これは、体育学の学者層が中
評価し、いつ爆発するともわからない政局の調整手段として、体
心になって、体育の社会的な役割の重要性を訴える運動でした。
育が利用されはじめました。この過程は、リノ・カステリャーニ・
フィリョ(Lino Castellani Filho)の著書「ブラジルにおける
身体教育――語られざる歴史」(Educação Física no Brasil:
ahistóriaquenãoseconta)に記されています。この時、
「体
(14)パスチーニャ師範とビンバ師範は、カポエイラを犯罪とする刑法撤廃のために戦ったが、その後、
それぞれ異なった流派を主宰した。ビンバ師範の提案は、バトゥーキなどの文化表現を基盤とし
育部門」とカポエイラ界の間に新しい関係ができました。当時、
た「ヘジォナウ流」だが、当時行われていた、プロレスなどの要素も取り入れた。パスチーニャ
カポエイラ界内部でもカポエイラのスポーツ化現象が見られるよ
とを基本にしていた。
うになっており、また一方で、体育部門の内部でも変化がおこっ
107
師範が提案したアンゴラ流カポエイラは、新しい要素は切り捨て、歴史的な民族の伝統を守るこ
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ブラジル文化の表現手段としてのカポエイラ
は、体育の分野でも、おおいに評価されるよう
になりました。それは 1980 年以降、体育学に
新しい方法論が導入されたからです。
こうして色々な機関が様々な見解を主張するだけではこと足ら
ず、公認の組織とは無関係にカポエイラ活動をしたいと主張する
カポエイラグループもでてきました。
相変わらず複雑さをみせながらも、この状況は、一定の解決を
見ることになりました。政府の後援なしに、文化としてのカポエ
イラ活動をしようという組織は幾つかありますが、数は多くあり
ません。その理由は、この考えをもつ人々の主張が明確でないこ
とと、活発なカポエイラ活動を維持する上では、スポーツ・芸術・
教育など、何らかの「組織」による後だてがどうしても必要だか
らです。ブラジル国民としての意識をもって行う文化活動は、現
行の「ブラジル連邦共和国憲法」によって保護されています。従っ
て、カポエイラを文化活動としてとらえると、カポエイラは、す
でに国という組織による支援を受けている、と言えるのです。
ブ ラ ジ ル 文 化 の 表 現 手 段 と し て の カ ポ エ イ ラ は、 体 育 の 分 野
で も、 お お い に 評 価 さ れ る よ う に な り ま し た。 そ れ は、1980
年 以 降、 体 育 学 に 新 し い 方 法 論 が 導 入 さ れ た か ら で す。 た と
え ば、1933 年 の『 フ ィ ジ カ ル・ エ デ ュ ケ ー シ ョ ン 方 法 論 』
(Metodologiadoensinodaeducaçãofísica)にのっとっ
て、学校教育での体育の授業も、
「ブラジルのボディカルチャー」
という見地から行ったらどうか、という提案が出されました。こ
の提案は、体育学の方面での提案のうち、もっとも筋の通ったも
ののように思えます。カポエイラの歴史的・社会的様相をふまえ、
また、実際のカポエイラ活動や、カポエイラの研究も重視した上
での提案だからです。
このように、体育学の分野で、新しい見地からカポエイラが考
カポエイラと 20 世紀の体育学
察され始めた今日、体育教師のなかで、カポエイラを重視する人
たちは、「進歩派」(progressista)と呼ぶことができるかもし
れません。1990 年代に出版された文献(注 15)では、カポエ
イラに関する深い知識をもつ人物として師範を高く評価していく
と同時に、体育の授業にカポエイラを取り入れている教師を尊重
していく、という視点に基づいて、今後、カポエイラ界と体育界
のあいだの関係強化と交流促進を進めて行こうという点が強調さ
れています。まだ足並みはそろわず、この方向で活動する専門家
の数は限られていますが、今後、体育の授業にカポエイラを導入
する上で、一層実りのある活動が行われていくだろうと期待され
ます。
最後に、カポエイラ界と体育部門が手をたずさえて、充実した
文 化 活 動 を 行 っ て い く 上 で、 重 要 な 点 を 記 し た い と 思 い ま す。
すなわち、私たちは常に、「カポエイラというものは、奴隷とし
てブラジルに連れて来られた人々が、自分たちの文化を守りつづ
け、微笑みながら闘い、闘いながら踊り、みずからの過去を語る
唄と、みずからの祖先を思い起こさせる格闘の技をもって、私た
ちに託した、尊い遺産である」ということを念頭において、カポ
(15)以 下 の 文 献 参 照。FALCÃO, José Luiz.A escolarização da capoeira. Brasília: ASEFE
RoyalCourt,1996;REIS,AndréLuizTeixeira.BrincandodeCapoeira:recreaçãoe
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カポエイラと 20 世紀の体育学
エイラ活動や教育を行っていくべきなのです。
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COSTA,LamartinePereirada.Capoeirasemmestre .Riode
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Janeiro:EdiçõesdeOuro,1962.
スクール「サッシ・ペレレ(SaciPererê)
」教官、
「学校身体教育研
究会」
(GEPEFE)、
「カポエイラ研究会」
(GECA) 研究員。
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109
14. カポエイラがもたらす効果
カポエイラの教育効果
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ
Ricardo Pamfílio de Souza
カポエイラには、定まった教え方はありません。そのかわり、師
哲学的な効果…カポエイラ仲間のメンバーが、この格闘技の本質を
理解する。
社会的な効果…集団意識に目覚め、責任、義務、仲間の権利を重ん
じるようになる。
身体上の効果…肉体的精神的に可能な範囲で、経験と年齢に応じて
カポエイラの動きを習得できる。
範一人一人が、自分の師範から受けついだ伝統を重んじながら、自
分なりの教え方を編み出していきます。カポエイラの訓練のとき
に、身体の感覚によって学びとるもの、また情緒的に学びとるもの
などのすべてが、カポエイラの教え方の特徴をつくりあげていきま
す。カポエイラの学びの場で、教え方が出来上がっていくのです。
芸術上の効果…唄や、ビリンバウ、アタバキ、パンデイロ、アゴゴ
この例のひとつが、ホダ(輪のつどい)をしている時に、弟子達が、
演奏などの音楽面、ダンス、格闘時の演出などを通
仲間うちで無意識に分かち合っている基盤に基づいて、新しい身体
して、カポエイラ美学を学ぶ。
の動きを編み出したり、即興で新しい唄を作ったりするときです。
形式が定まっている教育法に従って教えたり学んだりするのではな
く、アンゴラ流カポエイラの文化そのものを通して、教育法ができ
あがっているのです。
ヒカルド・パンフィリオ・ヂ・ソウザ(RicardoPamfíliodeSouza)
バイア連邦大学大学院修士(1997 年、専攻:民俗音楽学)
カポエイラによる身体的・精神的な効果
リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネーゼス
Lília Benvenuti de Menezes
カポエイラは、色々な筋肉をリズミカルに駆使しながら展開させ
また筋力アップのためにも素晴らしい効果が期待されます。なぜ
る、ダイナミックな身体運動です。カポエイラをする時の身体運動
なら、頸部や手足を使って身体を支えて、バランスをとったまま静
で起こる骨格筋の収縮に関して言うと、等張性筋活動〈骨格筋が長
止の姿勢を取り続けることが多いからです。闘技でもあるため、格
さを変えながら力を出す運動〉と等尺性筋活動〈骨格筋が長さを変
闘相手への対抗手段として、攻撃技や反撃技、跳躍や身をかわす技
えずに力を出す運動〉の両方が起きているだけでなく、集中的に激
を駆使します。また跳躍や小刻みのジャンプ、手で身体を支える静
しい筋肉収縮が起きています。
止姿勢、床上でコンスタントに続ける低い動き高い動きなどが、筋
身体運動はどれもそうであるように、カポエイラも、心血管や肺
力アップにつながります。
や筋肉に影響を与えます。年齢や性別以外にも、運動時の体勢や、
カポエイラで持久力を養う場としては、ホダ(輪のつどい)と、
筋収縮の度合い、環境、体液の状態、個人のトレーニング状況など、
トレーニングという、二つの場があります。トレーニングでは、
「特
様々な要因によって、異なった影響が出てきます。またカポエイラ
種持久力」
、つまりテクニックの上達を目指すための訓練上の激しい
によって、柔軟性、筋力、持久力、スピード、平衡感覚、瞬発力な
運動による持久力が養われます。ホダ(輪のつどい)では、身体調
どの運動能力を発達させることができます。
整と筋肉調整によって「一般持久力」が養われます。持久力はカポ
カポエイラは、柔軟性の向上にたいへん効果があります。それは、
カポエイラ武術家達が、効果的に身体運動を行っているからです。
エイラ武術家にとって最も大切なものの一つです。ホダでコンスタ
ントに身体運動を続けるので、持久力が不可欠だからです。
つまり、思いきり伸び伸びした身の動きをする目的から、激しい筋
カポエイラでは、スピード力が必要な場合が多いです。攻撃の時
肉収縮や関節運動を行っているうちに、優雅な動きが身についてく
に素早く別の場所に移る場合、手足を動かす場合、また、相手の攻
るのです。
撃に対する反撃やディフェンス、身をかわす場合にもスピードが要
求され、それにともなって敏捷性と頭の回転力がブラッシュアップ
されていきます。こういう身体の動きはパタン化していないので、
フォームもスピードも臨機応変に決まっていきます。
カポエイラでは平衡感覚も養われます。パフォーマンスのあいだ
に、片足でバランス良い姿勢を保ち続ける場合が多いからです。ま
た、両足とも宙に浮かせたまま、両手か、あるいは片手だけで体を
支えた姿勢を取ることもあります。
「アウー」
(注 1)や「バナネイラ」
(注2)
、
「マルテロ」
(注 3)
、
「ベンソン」
(注 4)
、
「ポンテイラ」
(注
5)などの攻撃技によって、優れた平衡感覚が身に付きます。
(注 1)
「アウー」(aú「A & U」)
:アルファベット文字 A(アー)形に似た体勢から、手を支えとして、
文字 U(ウー)を描くように行う側転技。
(注2)「バナネイラ」(bananeira「バナナの木」):いわゆるハンドスタンド。逆立ち技。
(注3)
「マルテロ」
(martelo「かなづち」)
:足の甲によって相手の顔または胴をねらって蹴り突く攻撃技。
(注4)「ベンソン」(benção「祝福」):片足を上げ、足の裏によって相手を突こうとする攻撃技。
(注5)
「ポンテイラ」(ponteira「ステッキの先っちょ」):足を突き上げ、足先によって相手を突こう
とする攻撃技。
Photo:LíliaMenezes
Photo:LíliaMenezes
一般の人にはあまり知られていないのが、カポエイラによる心理
生理学(サイコフィジオロジー)の効果です。
ごく簡単に言えば、心理学は感情のはたらきを研究する科学であ
り、また生理学では、筋肉が一瞬一瞬、いかに働いているかを解明
しようとします。従って、心理生理学では、私たちが筋肉を使って
運動した結果、どんな感情的な効果や、行動の上の変化がおきるの
かを研究します。ですから心理生理学では、運動と感情の相互作用
が研究対象になります。
ジンガを例にとって、心理生理学的な見地から、カポエイラを考
えてみることにしましょう。ジンガの動きでは、一定のリズムにのっ
て両足を動かしているうちに、次第にのびのびした柔軟な気分にな
り、楽観的な気持ちにもなってきます。その影響が、友人達とのつ
きあいや、仕事や勉強のときの決断力など、日々の行動にもあらわ
れてきます。人間は、身体を動かす活動によって、肉体そのものを
超えて、自分を「包んでいるもの」だけでなく自分そのものを認識
するため、実行力がでてくるのです。
このように、カポエイラだけでなく他のどんな身体運動も、より
良い毎日を送るために効果があります。また、高血圧、II 型糖尿病、
カポエイラでは、敏捷性がたいへん重要です。格闘の間じゅう、
繊維筋痛症などの病気の治療や、ストレス解消にも役立ちます。こ
いつなんどき相手が攻撃してきても良いように、常に敏捷でなくて
れは、運動のときに燃えるエネルギーによって、脳が活性化され、
はなりません。油断ないジンガで、常に用意万端にかまえ、必要な
エンドルフィン、アドレナリン、ノラドレナリンなどのホルモンや
瞬間に素早く防御や攻撃に出て、さっと身をかわしたりフェイント
神経伝達媒体の分必がうながされて、すがすがしい気分になるから
をかけたりするのです。機敏であればオンタイムな反撃ができるし、
です。
的確な瞬間に相手の攻撃から身をかわすことができます。スピード
またカポエイラは、他の格闘技と同様に、筋力の向上に役立つば
について言えば、ビリンバウのリズムにリードされて素早い動きの
かりでなく、感情的にも精神的にも自信がついてくるという効果が
格闘が展開した場合、武術家達は、上下前後左右さまざまな方向へ、
あります。ここでカポエイラが他の格闘技とちがう点は、リズムや
いろいろな種類の動きを立て続けに繰り広げることになります。こ
音楽にのせたダンスのような動きがあるという点です。これによっ
の時に、武術家達の素早い動きをうまく調整している、優れた敏捷
て、安定した、自由な気分になります。身体の動きも、厳しく規定
性が実証されるのです。
されたものではなく、幅広くて、遊びのような動きも含まれていま
様々な動きを上手く調整する能力について述べるのが、いちばん
す。また、格闘のトレーニングを続けるうちに、気になっていた自
最後になってしまいましたが、これも非常に重要な能力です。運動
分の欠点を改善し、良い点を伸ばしていく効果もあり、心身ともに
調整力は、スタイリッシュに、軽やかに、かつ豪快に、自然に、そ
成長していく自分を実感することができるのです。
して見せ場をつくりながらの格闘をくりかえすうちに、次第に身に
ついてきます。なぜなら、カポエイラ武術家たちは、予期していな
い状況にも、次々と臨機応変に素早く対応していくので、反射神経
と運動調整力がますます鍛えられていくからです。
カポエイラと精神的な効用
運動をすると、精神的に良い影響があることはよく知られていま
す。運動するとリラックスした気分になり、精神的な刺激になるか
らです。そして機嫌も良くなり、自信も出てきます。心配や緊張が
和らぎ、気落ちしたり、ストレスに悩んだりする危険性も少なくなっ
てきます。
リリア・ベンヴェヌチ・ヂ・メネ-ゼス
(LíliaBenvenutideMenezes)
体育課教諭、グルッポ・ムゼンザ教官、ブラジル・カポエイラ・スーパー
リーグ二冠チャンピオン。著書:「カポエイラの心理生理学的効果」
Photo:EnricoMarone/PulsarImagens
15. カポエイラと社会福祉
グラヂソン・ヂ・オリヴェイラ・シルヴァ、ヴィニシウス・エイニ共著
Gladson de Oliveira Silva
Vinicius Heine
カポエ
イラは
、自由
「ソー
を奪わ
シャル
れた人
インク
々の苦
ルージ
ル
ージョ
闘のな
ョン」
ン
かで生
」
(社会
とは、
まれま
カポエ
的
社
包
会
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した。
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ですか
、
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されて
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きた人
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て、人々
え
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、自分
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シャル
性別、
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ま
す
と
イ
ち
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る
つにす
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の存在
た。で
社会福
人種、
るとい
と権利
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年齢、
等な人
う
、
カ
宗
動
大
そ
ポ
教
で
き
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エ
、経済
す。
間とし
な使命
て文化
イラに
状態、
てひと
がある
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は、「輪
学歴を
つにな
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値
の
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集
主
問わず
り、よ
。カポ
い」(ホ
り良い
に集っ
エイラ
ダ)に
人生と
て、ビ
の輪の
よっ
社会正
集いで
リンバ
義を追
は、人々
ウの音
求して
色
が、
に合わ
います
せて、
。
みな平
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
良い師範は、ホダ(カポエイラ輪の集い)で教
育を行うだけではありません。
カポエイラは、ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)を推
進するために、また平等と公民権の確立のために大切な役割をして
います。格差や矛盾は、いたるところにあります。生活レベルの差
や、修学・雇用機会の不平等、住宅・衛生・保険事情などの基本的
生活面での不条理があるほかに、交通条件や、スポーツ・レジャー・
文化環境の点でも不平等が見られます。いつの時代にも、これら全
てが、格差社会の証になってきました。
庶民文化の産物であるカポエイラは、この状況を変えて、人間が、
物質面ではなく人格によって評価される社会をつくるために役立つ
はずです。また、その義務があります。カポエイラは、自由で平等
な場を作ることにも貢献しています。そこでは、誰もが平等な権利
と機会を分かちあえます。またカポエイラは、過去・現在・未来の
間には、どんな関係があるのかを理解する機会を与えてくれ、政治
意識や公民権、基本的人権のためにも貢献します。
カポエイラと社会福祉
カポエイラクリニック集会 / 於:サンパウロ大学スポーツセンター
師範の任務
先生や師範は、カポエイラ活動の中心です。先生や師範は、次の
世代にカポエイラの基礎を伝え、自分がカポエイラを指導する上で
の原理や規範、価値、理念を定めます。これら全てが、みずからの
活動指針となり、弟子たちの行動や技量育成に影響していくのです。
ですから生徒の育成は、先生や師範の責任です。カポエイラ教育の
方法は、伝統的な学校教育とはちがいます。師範と生徒の関係は、
教室の授業だけでなく、指導する側が、生徒の人生の色々な面を分
かち合うことで成立しているからです。
良い師範は、ホダ(カポエイラ輪の集い)で教育を行うだけでは
ありません。生徒の人生の、さまざまな面で、役立つような教育を
する義務があります。ですから、生徒ひとりひとりを、出来るだけ
深く知って対応するだけでなく、生徒の家族や学校、属している組
織などについてもよく知る必要があります。知る・聞くということ
は、全ての基本です。知ったこと・聞いたことを生徒と共有して、パー
トナーシップを築いていくからです。生徒を励まして、感情面でも
知識面でもサポートしますが、もちろん、生徒の問題を全て解決す
116
カポエイラと社会福祉
ることなどできません。もっとも良い道を探し出す手助けをするの
イラを、どのように教えるかについては、慎重に検討する必要があ
が、私たちの役目です。師範になるということは、生徒の親になり、
ります。日々の練習や評価ついて考察を重ね、思いやりを忘れず、
友達になり、きょうだいになるのと似ています。
参加者にとってプラスになるような、健全で建設的な活動をめざし
ます。近年ブラジルでは、地域と協力して行う民間公益団体の活動
が増えてきました。カポエイラもソーシャルインクルージョンの分
「リベルダージ・カポエイラ」懇親会
「ポルタ ・ アベルタ」イベント / カポエイラと公民権
野で意義ある活動をしています。
ソーシャルインクルージョンの理念
ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)には、この仕事をす
カポエイラがこの分野で業績をあげるには、知識の交換や対話が
る上での理念があります。マイノリティや不利な立場の人々、疎外
重要です。生徒とのコミュニケーションやふれ合いは、たいへん重
感を味わっている人々の立場に責任を持ち、自分もそこに巻き込ま
要です。またカポエイラのホダが、生徒にとって、のびのびと活動
れてはじめて、ソーシャルインクルージョンの仕事が成立するので
できる生活環境の一部になり、積極的に参加してもらえるような状
す。
況をつくっていく必要があります。また生徒の生活環境については、
この意味で、ソーシャルインクルージョンは、差別、偏見、偏狭、
今までのことや、どんな社会的文化的環境にあるのか、などを理解
不平等、先入観などの犠牲になっている状況からぬけだすための共
する必要があります。カポエイラは、生まれた時から現在まで、不
同作業であり、また、その努力の過程だと考える必要があります。
平等と不理尽に対する抵抗をつづけてきましたが、それがカポエイ
私たちは、皆、自分の問題を抱えていて、他人との理解の限界を感
ラのアイデンティティなのです。まず、生徒を尊重することが基本
じることがあります。人とのかかわりあいの中では、個人の立場と
です。生徒が今までの人生をとおして経験してきたこと全てを尊重
考え方、他人の立場と考え方、また集団としての立場と考え方など
するのです。生徒の個性を理解するということは、生徒の人間性そ
を見極めて、結束・協力の精神や仲間意識を高めることができるよ
のものと対話することであり、また、生徒の経歴や考え方と対話す
うな、バランスのとれた回答を見つけなくてはなりません。私たち
ることです。自分と異なっている相手を、尊敬の念をもって受け入
は日々の生活のなかで、ソーシャルインクルージョンのために役立
れることこそ、平和な生活を築くための基本です。皆が仲間になり、
つチャンスに、よく出会います。ですから、家庭でも、学校でも、
潜在力や能力を伸ばしていきましょう。カポエイラの達人になるに
町でも、仕事場でも、いつでもソーシャルインクルージョンに貢献
は、意欲的に学び、規則を尊重し、闘技のダイナミズムを身につけて、
できるよう、常に、ジンガ * でスタンバイしている必要があるので
自分自身を信じなくてはなりません。カポエイラは全ての人間を受
す。〈ジンガ(ginga):カポエイラをする人が格闘中に、身体の動
け入れます。カポエイラの輪の中では、ひとりひとりが、自分なり
きのリズムを保ち、すぐに必要な動きが取れるようにするために行っ
の貢献をし、ひとりひとりが個性あるトッキ * とジンガを披露して、
ている、基本ステップと呼べる動き〉
かけがえのない存在となるのです。〈トッキ(toque):カポエイラ
格闘をリードする楽器ビリンバウが奏でるリズム・音色〉
カポエイラでは、競争に勝つことより協調性のほうが大切です。
協調とは、互いに支え合い、分かち合って、力を合わせることです。
ソーシャルインクルージョンの教育学
ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)を目的としたカポエ
カポエイラには、常に、皆のための場と、皆に役に立つものがあり
117
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラ界は少しずつ、今までカポエイラと
縁遠かった人々に、カポエイラへの参加を呼び
かけています。
ます。共に働き、造り出し、共に利益を得ることができます。カポ
エイラによって、異なった条件下にいる人々がひとつになるうえで、
何よりも大切なのは、
「敵と格闘する」のではなく「共に格闘する」
ことなのです。
社会の一員としての自覚をもち、身近な環境も、国全体の環境も
改善していく能力のある、真のリーダーを養成することも、私たち
の目的のひとつです。それは、社会福祉と正義を促進するための、
決断力ある市民を育てることです。
「カポエイラは男と子供、そして女性のためのもの」
カポエイラと社会福祉
保護者を交えて / 於:サンパウロ大学スポーツセンター
カポエイラ界は少しずつ、今までカポエイラと縁遠かった人々に、
カポエイラへの参加を呼びかけています。たとえば、女性のカポエ
イラ参加は、かつては大変まれでした。思い切ってホダに参加した
女性たちは、目立つし、有名になってしまいました。カポエイラは
男がやるものだという偏見をもつ人たちは、
「どういう了見から、こ
んなところに女が入ってこようとするのか?」と思っていたのです。
近年、この状況はがらりと変わってきて、女性のほうが多いカポエ
イラのクラスやホダもあります。女性だけのカポエイラ大会も開催
され、カポエイラ界での女性の受け入れや尊重についてのディスカッ
ションも行われています。カポエイラのホダは男女共通です。女性
も男性も対等な立場で、格闘し、歌い、楽器を奏でて、女性と男性
が互いに相手を重んじるのです。
子供からシルバーエイジまで楽しめるカポエイラ
ブラジルでも外国でも、2 歳になれば、カポエイラ学校に参加す
ることができます。また多くの教育機関で、カポエイラが、社会順
応力をのばす有効手段として注目されはじめました。近年、重要な
研究が行われ、カポエイラが、高齢者の生活の質を向上させる優れ
た手段であることが証明されました。高齢者ひとりひとりが、でき
118
カポエイラと社会福祉
る範囲でカポエイラを行いますが、自分が限界だと思っていた以上
家庭でのカポエイラ
のことができる場合が多いのです。もうカポエイラなどできないと
カポエイラを教育手段や社会福祉として利用するときには、家族の
思っていた人も、実際にやってみて、自分には、予想しなかった運
参加がたいへん重要になります。生徒にとって、両親、きょうだい、
動能力と社交性があることに気づいて驚くことがあります。
叔父叔母、祖父母、いとこ、子供たちは、最も身近な存在です。生ま
高齢者は、カポエイラのアクロバティックな動きや攻撃防御より
も、カポエイラの娯楽性や芸術性、社交性のほうに興味をもつ場合
れてから最初の経験を積んでいくのは家庭であり、家庭での経験が人
間の人格形成や行動基準に大きく影響します。
も多いです。積極的に楽しく参加することが最も大切です。グルー
残念なことに、今日、家庭崩壊や家庭不和などの問題を抱える家
プに入る、友達ができる、人づきあいが増える、仲間ができるなど
族が増えています。特に、両親の不和は子供に悪影響を与え、不適切
は、どんな年齢の人にとっても、健全な生活を送る上で基本的なこ
な行動をとったり、社会になじめなかったりする結果を呼ぶ場合があ
とです。そして、その意味でもカポエイラは、シルバーエイジの方々
ります。子供たちが愛情や調和のない家庭で育つと、その反動が、
「怒
の生活のために役立っています。
りっぽい」
「集中力や認識力に欠ける」
「反抗的」
「団体行動が取れない」
「自己過小評価」
「年上の人への嫌悪」などの形で出てしまうことも
あります。
しかし決して、家庭に問題があると子供にも問題がある、というこ
特別なカポエイラ
ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)について述べるとき、
とではありません。子供たちは、愛情や尊敬、対話や規律、そして理
特別なニーズを持っている人々の、カポエイラ参加について述べな
解のある環境に居れば、自分の中に愛情や自尊心を見出して、人とも
いわけにはいきません。生きる価値を見出だしたい、困難や逆境を
上手く接することができるようになるのです。そして、家庭でも社会
乗り越えたい、自分の能力を伸ばして目的を達成したい、と願って
でも、きちんとした態度で、安定した行動ができるのです。
いる人たちがいます。カポエイラは、こういう状況にある人たちが、
このときカポエイラは、子供たちや青少年の生活にとって、重要な
物理的精神的に、より良い状況を見つけ出し、また、社会的にも良
役割を果たすことができます。カポエイラは、こういう状況にある人
い解決策を見つけ出す手助けをします。特別なニーズを持っている
たちが生活を立て直し、社会に参加していく場を提供することができ
人たちは、闘技にしろ、楽器演奏や唄にせよ、熱心にカポエイラに
るからです。そのためには、師範と生徒、そして生徒から師範へ、ま
参加してくれます。カポエイラを、社会福祉のために役立てること
た生徒同士の、信頼関係に基づいた対話が重要になってくるのです。
ができる場は、いっそう広がっています。特別なニーズを持つ人達
の幾つかのグループが、一か所に集う企画をもちましたが、これは
素晴らしい結果を呼んでいると思います。参加してもらった人たち
は、多少特殊な感性をもつ人たちで、それぞれ違うニーズをもって
います。そして、最初は、無理だと思っていることがあっても、カ
エポイラを行っているうちに、無理だと思っていたことに挑戦しよ
うという雰囲気ができてきました。そしてそれを克服したとき、大
きな喜びと自信が湧いてきたのです。
専門家の養成
ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)の手段としてのカポ
エイラを充実させるには、リーダーとなる人たち(師範、准師範、
インストラクター、アシスタントなど)を、社会福祉の専門家とし
ての知識や能力をもつように、養成する必要があります。カポエイ
ラ武術家の中には、創造力が豊富でリーダシップがあり、実行力に
富んだ人達がいて、ほんの少しの教材で、素晴らしい仕事をする人
達がいます。
近年ますます、ブラジル政府がカポエイラの社会貢献を認識し、
カポエイラ活動を後援しています。しかしカポエイラには、まだま
だ潜在力があるわけですから、活動をさらに発展させていかなくて
カポエイラを楽しむ / 於:サンパウロ大学スポーツセンター
グローバル・インクルージョン
はなりません。カポエイラ指導者の能力を伸ばしていく、一貫性の
近年、カポエイラは世界的に広まってきました。世界各国でビリ
ある計画的な活動を続けていくことが必要です。個別の活動を行っ
ンバウが響いています。ロシア、日本、ドイツ、南アフリカ共和国、
ているグループもありますが、まだ、全体活動や、相互の情報交換
ぺルー、アメリカ合衆国などの国々では、ずいぶん前から、カポエ
が充実していません。現時点で成果をあげているのは、師範や先生
イラが盛んになりました。ブラジルでも、カポエイラによって社会
たちが、個人的に企画して行っている活動です。政府や大学、そし
参加の輪が広がっています。各国のカポエイラ武術家たちのあいだ
てカポエイラのコミュニテイが、互いに一致協力して活動していく
の交流も盛んです。毎年、沢山の人々がカポエイラの交流のために
ことが大切です。
世界を行き来しています。特にブラジルには、新しい知識や技能を
119
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラ格闘技によって沢山のブラジル人が
学ぼうと、たくさんのベテラン武術家たちが訪問しています。
奮起し、生きるため、自分ため、社会のために
立ちあがってきました。このプロジェクトも、
社 会 福 祉 の 成 功 例 ― プ ロ ジ ェ ク ト「 ポ ル タ・ ア ベ ル タ 」
(Porta
社会状況を変えることが中心目的です。カポエ
Aberta「オープンドア」
)
イラ活動をとおして、誠実で思いやりある積極
的な人間社会をつくることが目的なのです。
2001 年の 1 月に、サンパウロ市南部にある、町はずれの地区カ
ポン・へドンドでのイベントを皮切りに、カポエイラ活動を基にし
た「ポルタ・アベルタ」
(オープンドア)プロジェクトが始まりまし
た。これは、サンパウロ市厚生局、ブラジル・パラス・アテナ協会
(Associação Palas Athena do Brasil)
、
「リベルダージ・カポ
エイラ」
(Projete Liberdade Capoeira)の共同プロジェクトで、
青少年の自尊心をつちかい、この地域での暴力問題を緩和する目的
で行われました。近年ブラジルでは、地域社会の問題解決に役立つ
ことを目的とした活動が盛んになってきました。
「ポルタ・アベルタ」
の企画も、その一例です。カポエイラ格闘技によって沢山のブラジ
ル人が奮起し、生きるため、自分ため、社会のために立ちあがって
きました。このプロジェクトも、社会状況を変えることが中心目的
です。カポエイラ活動をとおして、誠実で思いやりある積極的な人
間社会をつくることが目的なのです。
カポン・ヘドンド地区でのカポエイラ活動は、民間の組織に実行
力があることを示す、たいへん良い例になりました。ここ何年か、
カポン・へドンド地区の暴力事件や犯罪は減り続け、人命が尊重さ
れて平和になってきています。
「ポルタ・アベルタ」のプロジェクト
は、ほんの小さな働きかけですが、確実に状況の変化をもたらして
います。参加者の青少年のうち、たった一人でも、心がやわらぎ、
カポエイラと社会福祉
以前よりもずっと自尊心や良心を感じることができるようになれ
ば、プロジェクトの目的は達成されたと言うことができます。この
プロジェクトは 7 年間続いています。その間に色々なことがあり、
再検討を重ねてきましたが、多くの生徒の人生に、プラスの変化を
もたらすこともできました。
民間の組織は、ブラジルの現実を変えていく上で、根本的な役割
を果たしています。カポエイラの団体も民間組織ですが、参加者に
対して強い影響力があります。そのリーダーである師範は、筋道の
とおった、寛容で、親しみやすい社会を作るために貢献することが
できるでしょう。変革は既に始まっており、これを継続していかな
くてはいけません。そして人々のあいだに、また国レベルでも、ソー
シャル・インクルージョン(社会的包摂)を促進させ、正義と親睦
を推し進めていきましょう。カポエイラの唄なら、こう、締めくく
ることでしょう。
「イエ、社会福祉で世界をひとまわり、カマラ!(友よ!)
」
120
カポエイラと社会福祉
「ポルタ ・ アベルタ」社会的包摂の活動
参考文献
グラヂソン・ヂ・オリヴェイラ・シルヴァ
SILVA, Gladson de Oliveira. Capoeira: do Engenho à (GladsondeOliveiraSilva)
Universidade. 3ªed.SãoPaulo,2003.
_______RevistadeCapoeira .EditoraTrês.SãoPaulo,1983.
体育課教師、カポエイラ師範。サンパウロ大学スポーツセンター
(CEPEUSP)、およびサンパウロ州スポーツ / レジャー / 観光局ス
ポーツセンター「ベビー・バリオニ」
(Baby Barioni)所属。
「ポル
SILVA, Gladson de Oliveira & Heine Vinicius. Capoeira:
タ・アベルタ」
(PortaAberta「オープンドア」
)プロジェクト主任
um Instrumento Psicomotor para a Cidadania . São Paulo,
教師。サンパウロ、リオグランヂドスル、アルジェンチン、ぺルー、
2007(noprelo).
スペインに分校を持つカポエイラ学校「プロジェッチ・リベルダーヂ・
カポエイラ」
(Projete Liberdade Capoeira)校長。ブラジル内外
LAMA, Dalai. O Caminho da Tranqüilidade . São Paulo:
の大学や教育センターでカポエイラ講座担当。
Sextant,2000.
ヴィニシウス・エイニ
本章の写真はすべて著者の提供。以下の HP に掲載があります。
www.projeteliberdadecapoeira.com.br
(ViniciusHeine)
体育課およびカポエイラ教師。サンパウロ大学スポーツセンター
(CEPEUSP)所属。
「ポルタ・アベルタ」プロジェクト主任教師。
ブラジル内外でカポエイラ講座および講演会講師担当。カポエイラ
調査研究センター(CEPECAP)主任。
16. カポエイラの国際化
ジョゼ・ルイス・シルケイラ・ファルコン
José Luiz Cirqueira Falcão
いた格
がして
達
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カポエ
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ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ここ何年か、カポエイラをする人が数多く、外
国でひとはたあげて良い生活を手に入れよう
と、ブラジルから世界に旅立ちました。この人
たちの外国進出のおかげで、カポエイラが世界
じゅうに広まっただけではありません。カポエ
イラが、
「ユニークで、トロピカルで、まさし
くブラジルチックな文化パフォーマンス」とし
てアピールされ、ブラジル文化そのものの普及
に貢献しています。
ここ何年か、カポエイラをする人が数多く(注1)、外国でひと
はたあげて良い生活を手に入れようと、ブラジルから世界に旅立
ちました。この人たちの外国進出のおかげで、カポエイラが世界
じゅうに広まっただけではありません。カポエイラが、「ユニーク
で、トロピカルで、まさしくブラジルチックな文化パフォーマン
ス」としてアピールされ、ブラジル文化そのものの普及に貢献し
ています。
ブラジルの奴隷制時代には、「奴隷役人の羽ペンから、〈インク
のかわりに〉血がほとばしり」(注2)、カポエイラをすると、残
酷な刑に処されました(注 3)。今日、官庁のお役人から、カポエ
イラはまったく違う扱いを受け、ブラジル文化の貴重なシンボル
として認められ、普及の支援を受けています。
カポエイラのやり方も、今と昔ではずいぶん違います。今も昔
も変わらない点は、カポエイラの様々な集団があり、それぞれ違
う目的で活動しているということです。リオデジャネイロのカポ
エイラといえば、「カポエイラ軍団」(malta: マルタ)や、町なか
での乱闘さわぎ、第二帝政時代の警察との闘争などが象徴的です
が、サルバドールのカポエイラは、一杯飲み屋や店先で、仲間同
士で楽しむという性質があり、それが、おとずれる人々の目をた
のしませるようになりました。
むかしは、倉庫労働者や荷車引き、荷物運搬の人足や屋台の物
売り、それから職にあぶれている者たちも、飲み屋や広場に集まっ
て一杯やりながら、博打をうったり世間話に花を咲かせたりして
いましたが、そんなときにカポエイラが登場して、技を見せあっ
て楽しんだり、ちょっとした対決をやったものです。今日では、色々
カポエイラの国際化
なジャンルのカポエイラのプロがいます。カポエイラを専門にす
る人も多く、これで生計を立てる人が増えました。しかしカポエ
イラを職業にして、学校や既存の機関に就職できるかどうかわか
らないと感じる若手武術家もかなりいます。
手さぐり状態ではありますが、若手プロたちは、意表をつく独
創性を活かしてカポエイラで生活できるような道を開拓していま
す。今まで見捨てられていた手段まで利用して、かつての偉大な
師範たちが、赤貧の中でみじめな死に方をしたという愚かしい歴
史を繰り返さない努力をしています(注 4)。パスチーニャ師範や
ビンバ師範、ヴァルデマール・ダ・リベルダーヂ師範ほか、20 世
紀の偉大な師範たちは、アブレウ(ABREU, 2003, p.14)の言
葉を借りれば「有名なのに食っていけない」という目にあいまし
た。若手武術家は、「利用されたあとの使い捨て」を打開する必要
があると考えているのです。
(1)本論では、男性名詞の「カポエイラ」(ocapoeira)という語で、カポエイラをしている人、師範、
先生、カポエイラ闘士などを示している。「カポエイリスタ」(capoeirista)という語は、カポ
エイラ道を極めた専門家という意味あいがある場合に使用する。
(2)トニ・バルガス師範(MestreToniVargas)作の唄から引用。
(3)ヘゴ(Rego ,1968, p.43) によると、「警官がカポエイラ闘士を一晩中見張っている」ほど、カ
ポエイラは長年、警察の弾圧を受けた。Pires (1996)/ Soares (1994, 2001) らはブラジル
警察記録に基づいてカポエイラについて一貫性のある研究を行っている。
(4)
アンゴラ流カポエイラ創立の中心人物であるパスチーニャ師範(1889-1981) は 1941 年に
「アンゴラ流カポエイラ・スポーツ文化センター」(CentroCulturaleEsportivodeCapoeira
Angola)をサルバドールに創立しが、盲目になり世間から忘れられて他界した。ビンバ師範
(1899-1974)はブラジル初のカポエイラ道場を創立、世界的に知られるヘジォナル流カポエ
イラを編み出した。より良い生活を求めてゴイアス州ゴイアニアに移住したが、貧しい生活環境
で他界した。ヴァルデマール・ダ・リベルダーヂ師範は、1940 年代、50 年代に、サルバドー
ルで毎週日曜、カポエイラ輪の集いを行った。師範の輪の集いは、文豪ジョルジ・アマードや写
真家ピエール・ヴェルジェらも、この集いで「文化を食した」と ABREU(2003, p. 43)が
いうほど、サルバドールで重要な文化拠点となったが、1990 年に師範が他界したときは、他の
著名なカポエイラ師範と同様、非常に貧しかった。
124
カポエイラの国際化――ブラジルの個性から人間の文化遺産へ
1970 年代のはじめに、カポエイラ界の人々が、世界で運試し
をしようとブラジルをあとにした時には、まさかその 30 年後に、
世界中にカポエイラが普及するとは誰も夢にも思いませんでし
た。外国に出てみると苦労の連続で、カポエイラを披露するのも、
道端の大道芸としてやる以外はありませんでしたが、そこでは、
色々な国からやってきたピエロや軽業師とのつきあいができまし
た。アメリカ合衆国やヨーロッパの大都市では、カポエイラは「ト
ロピカルアート」として注目され、ほかのアートにも影響を与え
ました。例えば 1980 年代に USA に登場して世界中で大流行し
たブレイクダンスの、フットワークやヘッドスピンなどのアクロ
バティックな動きには、明らかにカポエイラの影響が見られます。
ニューヨークのブラジル人たちが、広場や大通りに集まってカ
ポエイラを披露しているところは、よくテレビのドキュメンタリー
や文化番組で放映されています。1989 年に新聞「ジョルナル・ド・
ブラジル」
(JornaldoBrasil)に、
「 アメリカ人もやるカポエイラ」
というタイトルで掲載された記事は、将来のカポエイラブームを
予測しているかのようでした。
「ブラジル人が USA に紹介したカポエイラが人気
を呼び、クラブでは大流行、展示会・コンクール・学
校でも行われ、映画にも登場している。...(中略)... カ
ポエイラは初期のジャズ感覚で ...(中略)... そのビー
ト、スイングが受け入れられている。またカポエイラ
の動きや思考、行動は、そのひとの人生における思考
や行動を映し出している。
(WEELOCK,1989,p.8)
Photo:LauraCampos
範の道場、またアントニオ要塞(Forte)にあるジョアン ・ ペケー
ここで一つ疑問が生じてきます。国際化は、カポエイラの発展
ノ師範の道場(注5)のようなところは、「カポエイラのメッカ」
として、世界中から参拝者の集まる寺のようになっています。
や評価に、どのような影響を与えているでしょうか?
師範などの指導者から初心者まで、多くの人々が外国に出てい
外国に支部を持つ、ブラジルのカポエイラ組織の本部が、カポ
くのは、名声を得て収入ふやすという、主に経済的な理由からで
エイラ選手権を企画すると、大勢の外国人選手達がブラジルの空
す。ブラジルではカポエイラインストラクターの月給はかなり安
港に降り立ちます(注6)。これについては時々批判も聞かれます
いのですが、アメリカ合衆国やヨーロッパの主要都市で教えれば、
が、近年このような選手権が、外国へのカポエイラ普及に、確実
ずっと高収入になります。
に貢献しているのです。
カポエイラの普及により、予期しなかった状況が生まれていま
カポエイラにとても興味がある人は、「ブラジルに行ってみた
す。外国で教えると給料が良いというのは、たいへん魅力的に思
い」と思うようになり、また、「ポルトガル語がしゃべれるように
えます。その一方で、カポエイラの伝統維持が難しくなるのでは
なりたい」と思うようになります。外国でカポエイラを教えてい
ないかと危惧する人もいます。カポエイラ世界進出のせいで、不
る人は、本場のカポエイラを教えていることをアピールするため
当な扱いに対する「抵抗の闘争」という、カポエイラ本来の原則
に、ポルトガル語を使って教えようとするのです。アフリカ系ブ
や価値がうすれて伝わってしまうと心配する人が多いのです。そ
ラジル文化の伝統をアピールする目的から、カポエイラの攻撃や
の一方で、世界進出のおかげで、アフリカ文化が見直され、同時に、
動き、唄や楽器の名前などをポルトガル語のまま使い、自分の国
ブラジル文化とブラジルそのものへの世界の関心が高まったとみ
の言語に訳して使うのを禁止するインストラクターもいます。レッ
る人達も大勢います。
スンのときにポルトガル語を使うのが、カポエイラ学校の「優良
アメリカ合衆国では、カポエイラのおかげで、アフリカンアメ
ブランド」の条件になった結果、以前は考えもつかなかった学業
リカンの人々とアフリカ大陸とのあいだの絆が再び強まったと指
の分野が登場しました。ニューヨークの伝統あるハンター・カレッ
摘する研究者います。アメリカ合衆国では、長年の人種差別のせ
ジ(HunterCollege)では、カポエイラで使うからという理由で、
いで、アフリカ系アメリカ人とアフリカ大陸との関係が希薄にな
ポ ル ト ガ ル 語 の コ ー ス が 常 設 さ れ た の で す(NUNES, 2001,
らざるを得なかったのです。多くのアメリカ人が、本場のカポエ
p.3)。
イラを拝もうとしてブラジルにやってきて、有名な師範を訪ねて
ジョアン・グランヂ師範(MestreJoãoGrande)は、かつて
います。サルバドールのペロウリーニョ広場近くにあるビンバ師
ブラジルでガソリンスタンドの従業員をしていましたが、10 年以
125
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
外国に支部を持つ、ブラジルのカポエイラ組
織の本部が、カポエイラ選手権を企画すると、
大勢の外国人選手達がブラジルの空港に降り
立ちます(注6)。これについては時々批判
も聞かれますが、近年このような選手権が、
外国へのカポエイラ普及に、確実に貢献して
いるのです。
上前にニューヨークに渡り、その後ニュージャージー州のウプサ
ラ・カレッジ(Upsala College)で名誉博士号を取得、1996
年よりウエスト・ヴィレッジに自分のカポエイラ道場を構えて、
きっすいのバイアのポルトガル語を使って教えています。その一
方で、ブラジルでは、外国語、特に英語のカポエイラ・ワークショッ
プが盛んに行われています。例えば、著名な師範が主催して、夏
のあいだにブラジルのあちこちの観光名所で開催されるイベント
「カポエイランド」
(Capoeirando「カポエイラしながら」)には、
本場のカポエイラを学ぼうと、たくさんの外国人がつめかけてい
ます。
このように複雑な国際化が進んだ結果、カポエイラは、世界の
すみずみで行われるようになりました。インターネットだけでな
く、映画もカポエイラ普及に貢献しています。その先がけになっ
たのが、国際的な多くの賞をとったブラジル映画「サンタ・バー
バラの誓い」(O Pagador de Promessas) ですが、よりカポエ
イラの宣伝になったのは、アメリカ映画「ソウル・サヴァイヴァー」
(Only the Strong Survive)―この映画にはブラジルでは「血
だらけのスポーツ」(Esporte Sangrento)という題がついてい
ましたが―および、同じくアメリカ映画「ルーフトップス」(Roof
Tops)でした。
カポエイラの、いちじるしい世界進出が見られるのは、アメリ
カ合衆国とヨーロッパです。カポエイラをアフリカで発展させよ
うという、数少ないプランもありますが、主に、いわゆる先進国
への進出が中心です。
事実、カポエイラは世界じゅうに知られ、ブラジル文化普及の
カポエイラの国際化
ための最も重要な手段の一つとして、ブラジルの PR に貢献して
い ま す。2003 年 に は、 ア メ リ カ 合 衆 国 の 50 州 す べ て に カ ポ
エイラ学校ができて、ニューヨーク州だけでも 15 校あります。
USA でのカポエイラの需要は、おもに公立校に集中しています。
学習能力や対人関係で問題のある青少年の、自尊心や自信の回復
に役立つ活動としての評判が高まっているのです。カポエイラは、
バイオレンスの犠牲になった若者や、ドラッグや飲酒癖から抜け
られない若者の「駆け込み寺」の役目を果たしています(NUNES,
2001)。「ソウル・サヴァイヴァー」は、この問題をテーマにし
た映画です。
しかしアメリカ合衆国でカポエイラの人気があるのは、公立校
だけではありません。カポエイラは、アクション映画スターのト
レーニングにも利用されています。映画「キャット・ウーマン」
(Catwoman) の ヒ ロ イ ン 役 ハ ル・ ベ リ ー(Halle Berry) の
場合がそうです。この映画の監督は、カポエイラは迫力があり、
かつスイングがあるとコメントしています。「アメリカ人にとっ
てカポエイラは、護身術や健康のため以外の面でも人気がありま
す。... 中略 ... カポエイラはユニークだし、カポエイラをやってい
ると魅力的な感じがします」(BERGAMO, 2004, p.58)。その
他のハリウッド映画で、カポエイラのシーンが登場するのは、
「ミー
ト・ザ・ペアレンツ2」(MeettheFockers,2004)、「オーシャ
(5)ジョアン・ペケーノ師範(89 歳)は、現在(2007 年)のブラジルで活動している指導者の中で、
最も長いキャリアの持ち主である。師範は、2003 年 12 月 18 日、ミナスジェライス州のウベ
ランヂア大学の名誉博士号を取得した。
(6)ア バダ・カポエイラ(ABADA-Capoeira)のように、26 カ国に支部をもち 3 万人の会員をも
つカポエイラの大組織もある。大組織は、例年、各国の師範やカポエイラ修行者たちが集まる国
際大会を開いている。
126
カポエイラの国際化
ンズ 12」
( Ocean'sTwelve,2004)、
「 ランダウン ロッキング・
ザ・アマゾン」(The Rundown)、「クエスト」(The Quest)、
「ハリーポッターと炎のゴブレット」(Harry Potter and the
GobletofFire)、「バットマン」(Batman)などです。
「鉄拳3、4、5」、「エターナル・チャンピオンズ」、「ダークリ
ザレクション」、「ストリート・ファイター III」、「餓狼伝説」、「レ
イジ・オブ・ザ・ドラゴンズ」、World of Warcraft (USA オン
ラインゲーム)、
「 バスト・ア・ムーブ」、
「 ポケモン(カポエラー)」、
「マ
トリックス」、
「ワールド・レスリング・エンターテインメントシリー
ズ」の Smack Down ! と Here Comes the Pain などのゲー
ムによっても、カポエイラが世界に知られるようになりました。
この結果、かつての先駆者達がつくりあげ守ってきた、口承伝
説、即興、魔術的要素などのカポエイラの「旗印」は置き去りに
され、時代が要求する目的、すなわち、エスニック商品として、
ま た は、 リ フ レ ッ シ ュ や 筋 ト レ の 手 段 と し て、 あ る い は ス ペ ク
オスロでのワークショップ -2003/08/16-Photo:J.L.C.Falcão
タ ク ル と し て、 カ ポ エ イ ラ が 使 わ れ る こ と が 多 く な っ て い ま す
(VASSALLO,2003b 参照)。
「ガリニェイロ」(galinheiro)、つまりブラジルで言
う「カポエイラ」は要らないという。こんな風だった
から、最初は本当にたいへんだった。(2003 年6月
海外でのカポエイラ体験談
27 日、ウモイ師範との対談より)
大学の体育学部など、高等教育機関や調査組織でも、カポエイ
ラの普及活動がみられます。ブラジル人のカポエイラ教師が、外
国の教育機関と契約し、任期付きで外国で活動を行う組織的なプ
ログラムもあります。例えば、リスボン大学、ヴァルソヴィア大学、
ネストール・カポエイラ師範が始めた活動は、多くの師範やイ
オスロ大学、ブリストル大学、リスボン工科大学などの研修プロ
ンストラクターによって受け継がれました。師範やインストラク
ジェクトがそうです。
ターたちは、ヨーロッパにカポエイラが定着し、また、多様化し
世界の至る所で、重要なカポエイラのイベントが開催されてお
て有名になるよう貢献してきました。
ヨーロッパに根付いたカポエイラは、動き、唄、歴史に取り込
り、カポエイラ活動の上で、意義ある交流がなされています。
ヨーロッパでは 1951 年から、ブラジル人によるカポエイラの
まれた豊かな文化財によって表現されています。その結果、バイ
デモンストレーションが行われています。その後 1971 年に、ネ
ア的な性質を超え、実際にブラジルに存在する文化(また経済的
ストール・カポエイラ師範(MestreNestorCapoeira)(注7)
な)性質とは少しちがった、理想化されたブラジルの個性がみら
が、イングランドの、ロンドン・コンテンポラリー・ダンススクー
れます。ブラジルのあちこちの町から、ヨーロッパや北アメリカ
ルで、本格的なカポエイラレッスンを始めました。これが、ヨーロッ
大陸に向けて、カポエイラが巣立って行った結果、カポエイラの
パにおける最初の組織的なカポエイラ教育でした。
文化特徴が多様化し、ブラジルの個性そのものにも、変化が出て
ここ 30 年のあいだに、ヨーロッパのカポエイラ活動は、目を
きました。ノルウェーのカポエイラインストラクターは、次のよ
見張るほど発展しました。しかし初めは、カポエイラについての
うに語っています。「今日では、皆がカポエイラとはどういうも
情報不足から、困難の連続でした。
のなのか良く知っていて、カポエイラをやりたがります。...(中
13 年 間 ポ ル ト ガ ル に 在 住 し て い る ウ モ イ 師 範(Mestre
略)... カポエイラをやりたがる人は、カポエイラはブラジルのも
Umoi)は、はじめの頃は、子供たちがカポエイラに興味をもつよ
のだと分かっていて、それをやりたがるのです!」(2003 年 8
うにと、道端でデモンストレーションしていたと言います。師範
月 18 日、 ノ ル ウ ェ ー、 オ ス ロ で の ト ル シ ャ 教 官:Professor
は、子供たちにキックを教えるつもりでした。チビさんたちに、
「ブ
Torcha との対談より)
カポエイラは唄や動きに、ブラジルの個性を掲げたまま広まっ
ラジルキック」は面白いと思ってもらうという手段に頼るほかな
ていき、現在では、世界各地の人々の交流の手段として、ブラジ
かったと、師範は述べています。
ルという一国を超えた、国際交流のシンボルになっています。先
1990 年の 8 月に私がここにやってきた時には、
ほど名前が出てきたウモイ師範は、次のように述べています。
すくなくとも、私が住みついた大リスボン圏では、カ
ポエイラをやっている人はいなかった。私がやってい
ることがカポエイラだと知っている人はいなかった
が、だからこそ、私はカポエイラを教えようと思って
(7)ネストール・カポエイラはレオポルヂーナ師範に師事、1969 年にグルッポ・センザラ(Grupo
Senzala)で赤帯を習得、カポエイラに関する多くの書籍と小論を執筆した。またリオデジャネ
ここにやってきたのだ。リスボンのスポーツセンター
イロ連邦大学大学院で博士号を取得(専門:文化コミュニケーション)し、映画「コルドン・ヂ・
を訪ねていったが、オーナーの反応は、ポルトガルの
エンブラフィルミ(Embrafilme)、1978 年。ビデオ制作(Globovideo)。
127
オウロ」にも主演した。映画 CordãodeOuro:A.C. フォントウラ監督(A.C.Fontoura)
、制作:
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラは唄や動きに、ブラジルの個性を掲
カポエイラは、ブラジル・アフリカ・ヨーロッパ・
げたまま広まっていき、現在では、世界各地の
アメリカ合衆国を隔てる大海原というハードルを、の
人々の交流の手段として、ブラジルという一国
り越えてしまった。カポエイラをする人達は、カポエ
イラでつながっている。ここヨーロッパにも、たいへ
を超えた、国際交流のシンボルになっています。
ん優れたカポエイラ武術家が出てきた。ドイツ人で、
アンゴラ流カポエイラがもの凄くうまい人がいる。ブ
ラジルからも、サルバドールからも出たことがないカ
ポエイラ武術家より、ずっとうまいぐらいだ。「それ
は、ドイツ人だから上手いんだ」と言うのだろう?ち
がうさ、本物のカポエイラ武術家だからうまいのさ。
(2003 年 8 月 18 日、アムステルダムでのウモイ
師範との対談から)
ヨーロッパでの、ブラジル人インストラクター体験談
現在、ヨーロッパで活動しているカポエイラ師範やインストラ
クターたちの大半が、ブラジル北東部、特にヘシフェやサルバドー
ルの出身ですが、実際、ブラジルの全ての州から師範や先生たち
がヨーロッパに来ています。
1970 年以降、多くのブラジル人カポエイラ指導員がパリに渡
るようになりました。ウルスラ女性教官(Professora Úrsula)
は、12 年以上パリで活動していますが、パリに来たばかりの頃
に は、 カ ポ エ イ ラ を 知 っ て い る ひ と は 少 な か っ た と 話 し て い ま
す。かつて一度も、カポエイラ学校で教えた経験が無いのに師範
カポエイラの国際化
を名乗る不心得な人がいるのは問題ですが、カポエイラは広く普
及し、「女性のほうが多いクラスもある」(CARVALHO, 2002,
p.17)のも珍しくなくなりました。
カポエイラを外国に普及させたブラジル人達は、厳しい就労状
況に直面しました。時には、非合法に仕事をしなくてはならない
人もいました。就労事情は、予想とはちがい、全く不安定なもの
でした。
しかし、何とかして安定した仕事を見つけようと、歯を食いし
ばり、必死でやってきた若者たちは、カポエイラの真のプロだと
呼べると思います。若者たちは、どんなに不安定に思えても、選
んだ道を突き進み、その中の多くが、母国から遠く離れた土地で
生計を立てていけるようになりました。しかしその過程で、カポ
エイラも、臨機応変で即興的な性質を帯びていくようになりまし
た。
生き残りのための戦いと、名をあげたいという気持ちから、た
くさんのカポエイラのインストラクターがブラジルを後にしてい
ます。外国で、カポエイラを使って、より良い生活を手に入れた
いという、不確かな期待に賭けてみようと出発するのです。しか
し、外国でカポエイラを教えようとしても、単発的な仕事か、そ
の場限りの仕事しか見つけることができないのが普通です。大抵
の人が、生計を立てるためにアルバイトをしながら、フリーラン
スとしてカポエイラの仕事を続けなくてはなりません。
(8)本論に掲載したコメントは、著者のヨーロッパでの研修期間(2003 年 4 月-8 月)で収集した
ものであり、著者の博士論文(2004)OJogodaCapoeiraemJogoeaConstruçãoda
Práxis Capoeirana:「カポエイラとカポエイラ・プラクシス(実践活動)の構築」、第 4 章の参
考文献となっている。
128
カポエイラの国際化
こうしてヨーロッパに着いたインストラクターたちは、大低の
場合、ひどく苦労しました。マチアス師範(MestreMatias)は、
1989 年にスイスに渡り、現在、スイスの色々な町で仕事をして
います。以下は師範のコメントですが、外国で働くカポエイラ師
範や指導員たちは、マチアス師範と同じように感じている人が多
いようです。
スイスに来たばかりの時は本当に大変だった。ひど
く苦労したよ。雪の降りしきる、電車の駅でビリンバ
ウを弾いたんだ。こっちのカポエイラは、道でホダを
やらないんだ。ひとりで通りに出て行って、ビリンバ
ウを弾いたもんだ。宙返りもやろうと思った。時々、
気の狂ったようなことをやっていたが、それは、あの
状況から何とか逃れたいからだった。ビリンバウだけ
が道連れさ。あの苦しみ、あの寂しさ、ブラジルに帰っ
オスロの広場でのホダ -2003/08/1 7-Photo:J.L.C.Falcão
て生徒や仲間と会いたい気持ちから、逃げたい一心
だった。あの寒い国、着いた時どんなにショックだっ
意識がひどくてね。そこの施設でインターンとしての
たか、分からないだろう。誰も知っている人もいない
自分のプランを見てもらった。幸運だったのは、院長
し、言葉も全然通じない。たいへんだった。しかし、
が 20 年もブラジルで生活した経験があったことだ。
お蔭様で、俺は全てを克服した。今では、ドイツ語が
カポエイラも知っていて、私のプランを見ても、ポル
ペラペラだという訳ではないが、うまく喋れるように
トガルのものだとか何だとか思わないで、すぐカポエ
なった。(2003 年6月 29 日、マドリッドにて、マ
イラだと分かってくれた。ほんとにツイていたね。イ
チアス師範との対談より)
ンターンとして契約し、その施設での講座が終わった
あと法務省と契約を取り付けることができて、今は、
そこで働いている。(2003 年 6 月 27 日、ポルトガ
ル、リスボンでのウモイ師範との対談より)
島流しにあったような絶望の中でも、多くのパイオニアたちが、
ブラジルでは得られないステータスと名声を目ざして闘い続けま
した。「俺は小鳥さ」、「誰も捕まえておけない」、「俺はブラジルに
いるような気がするんだ」。これは、ヘシフェ出身で、ポルトガル
ヨーロッパでカポエイラ指導をしている人たちは、カポエイラ
で暮らしている活動的なインストラクターの口癖です。このイン
のパイオニアであるだけに、地元のカポエイラ専門家と張り合う
ストラクターは、ストレスと将来の不安が重なる日々にも負けず、
必要が無いという点は救いでした。メイド・イン・ブラジルの特
周囲の人々まで楽しくなるような明るさと工夫で、日々努力して
技の持ち主だということで、徐々に名をあげていきました。一般
います。
にヨーロッパの若者はブラジル製の格闘技にたいへん興味があ
ヨーロッパの福祉機関を通しても安定した職が見つからなかっ
り、インストラクターたちは、ユニークな文化技能の持ち主とし
たインストラクターは、海外移住者のレッテルを貼られ、それが
て、既成の概念に立ち向かい、不安定だとされているカポエイラ
ハンディになる場合が多かったのです。その場しのぎの仕事につ
指導員の体質を変えていこうとしています。
きますが、充分な生活費も稼ぐことができない中で、なんとか身
を立てようとする堂々巡りの日々を送ることになります。
生き抜いていくためには、今までとは違った方法で収入を得た
り、その場で新しいやり方を開発したりしてきました。多くのイ
こういう状況に置かれたインストラクター達は、名をあげたい
ンストラクターがネットワークを作り、協力して、イベントやワー
という焦りと将来の不安に駆られます。特種なカポエイラ教育の
クショップ、フェスティバルを開催したり、あるいは、「カポエイ
職に就く場合もあります。大抵、低所得層の人たちにカポエイラ
ラ」と「ブラジルからの移住者」という二つの点での同胞者の仕
の指導をする福祉の仕事で、これについてウモイ師範は次のよう
事場に、遊びがてらで顔を出したりしています。もとはライバル
に述べています。
同士だった人達のあいだにも、ヨーロッパに来てから連帯感が生
まれ、ブラジルの「緑のパスポート」を持つ者に等しく課される、
社会福祉の仕事なら、いつもやる気満々だ。以前
も、ブラジリアの町はずれのコミュニティー関係の仕
外国からの移住者という困難な立場に立ち向かおうと、団結する
ようになります。
事をしていた。... 中略 ... 私は、国鉄カスカイス線の
カポエイラを使った仕事の種類は、エンタテイメントとしての
カシアス駅にある少年教護施設でインターンをしてい
ショーから、教育目的のワークショップ、問題を抱えた青少年の
る。いわゆる感化院で、俺は子供たちの見張りみたい
指導など、多種多様です。しかしヨーロッパでのカポエイラ指導
なものだ。ちょっとした問題もある。アフリカ系の子
員の仕事は、単発的なものが多いのです。従って、仲間の多くが
たちが多いし、ポルトガル人の子も多いんだが、対抗
メインの仕事が取れないときは、カポエイラの小物や装飾品の販
129
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
ドイツ人で、アンゴラ流カポエイラがもの凄く
うまい人がいる。ブラジルからも、サルバドー
ルからも出たことがないカポエイラ武術家よ
り、ずっとうまいぐらいだ。
「それは、ドイツ
人だから上手いんだ」と言うのだろう?ちがう
さ、本物のカポエイラ武術家だからうまいのさ。
(2003 年 8 月 18 日、アムステルダムでのウモイ
師範との対談から)
売をして資金をやりくりする場合もあります。
このような困難があっても、外国でカポエイラを教えている人々
の大半が、やりがいがあると感じています。それは、この人たちが、
自分は個性あふれるブラジル文化の正統な紹介者だという自負を
持っているからであり、また、外国の人々がカポエイラに興味を
持ってくれるからです。
公の教育機関や個人経営の機関と契約して、ある程度の生活の
安定を得たインストラクターも沢山います。ポルトガルで活動し
ている師範のひとりは、ノルウェーでイベントがあったとき、公
の機関の「カポエイラの先生」として、たいへん尊敬されたと話
しています。
ヨーロッパの活動として、もう一つ記しておきたいのは、色々
なイベントをとおして、ちがう社会層の人々が共有する場を提供
しているということです。カポエイラ師範やインストラクターの
中には、裕福な階層のスポーツクラブと、貧しい人々の地域で、レッ
スンの掛け持ちをしている人が多いからです。週末のカポエイラ
の集いやイベントでは、全く違う社会層のひとたちが、にぎやか
なホダで親睦することになります。
バロン師範(Mestre Barão)は、ポルトガル北部のポルトの
町の、まったく違った階層の人たちにカポエイラを教えています。
私はラガルテイロという地域で教えているが、そこ
はたいへんな場所だ。貧困層が多い地区で、あの地域
を、地獄と呼んでいる人もいる。ポルトの、別の、や
はりたいへんな場所で、ジプシーにもカポエイラを教
えている。こういう仕事は福祉の一環としてやってい
カポエイラの国際化
る。そのレッスンのあとすぐ、金持ちばかりが来てい
る企業のジムに行って教えている。(2003 年 6 月 8
日、バロン師範との対談から)
海外からの移住者として、カポエイラで生計を立てるのは、か
ならずしも成功するわけではありません。生きていけるかどうか
すら、危ぶまれる時もあります。しかし社会福祉の一環としての
カポエイラレッスンは注目されており、この分野での経験が、一
マドリッドでのグッズ販売 -2003/06-Photo:J.L.C.Falcão
130
カポエイラの国際化
般のカポエイラ教育に役立つ場合もあります。 外国でカポエイラが文化活動として定着し、師範やインストラ
クターが、文化背景や人種のちがう人々にカポエイラを教えるに
つれて、カポエイラの歴史自体のタブーや固定観念が克服されて
いきます。「カポエイラがブラジルのものであり」、「我々の血の
中に存在するものならば」、いかにして、ブラジル人の血が流れて
いない人々に、カポエイラを教えることができるのでしょうか?
Travassos の研究(1999,p.266)は疑問を投げかけます。「あ
る人種の血肉に刻みつけられているものを、それを持たない人々
に、いかにして教えることができるのだろうか?」
カポエイラをやっているヨーロッパ人の中には、フレヴォやサ
ンバ、マクレレ、マラカトゥなど、カポエイラ以外のブラジル文
化に興味をもつ人がいます。それを通して、大のブラジルびいき
になる場合も多いのです。リスボンでカポエイラレッスンを行っ
ているインストラクターの一人がこう言っていました。「ヨーロッ
ポーランド 、 ヴァルソヴィア大学でのワークショップ -2003/05-Photo:J.L.C.Falcão
パ人で、ブラジル人よりもカポエイラに力を入れている人も多く、
そういう人たちは、本当にブラジルのハートを持っていると言え
せん。ホダはホダで変わりません。私はそれを伝えて
る」(2003 年 8 月 13 日、ポルトガル、リスボンにて、マルコ・
いこうと思います。恐らく、ブラジル人の多くの人た
アントニオ教官:ProfessorMarcoAntônio との対話から)。
ちよりも、もっと、それを伝えていきます。それが私
ブラジル人でなく、外国人のカポエイラ指導員が増えるにつれ、
カポエイラの基礎に、新しい要素が入ってきています。その過程
の人生にとって、非常に重要なことなのです。(2003
で、カポエイラの基礎は、経済・文化・個人的に、絶え間なく切
年 11 月 26 日、ブラジルサンタカタリーナ州、フロ
リアノポリスにて、アホス・ドッシ指導員との対談よ
磋琢磨され、練り上げられていくのです。
り)
1985 年 か ら ヨ ー ロ ッ パ で 生 活 し て い る ボ ハ ッ シ ャ 師 範
(Mestre Borracha)はインタビューで、ヨーロッパ人で初め
てカポエイラ師範の資格を獲得した人物について語ってくれまし
た。 コ ル ー ジ ャ 師 範(Mestre Coruja) と い う イ タ リ ア 人 で、
このような、カポエイラ国際化の複雑で様々な動きを考察して
20 年間カポエイラにいそしみ、リオデジャネイロのマンガンガ・
みると、3つの基本的な傾向がわかります。(A)ここ数年、カポ
カポエイラグループに所属するカネラ師範(Mestre Canela)か
エイラは外国にしっかりと根をおろし、外国に於いて、ブラジル
ら資格を授けられた人です。今後、このような分野での調査を進
の象徴としての活動であることが明確になってきている。(B)人々
める必要があります。カポエイラを、より広く複雑な視野から考
が共に感動を分かち合いながらカポエイラすることで、交流が深
慮していく上で、たいへん役立つはずだからです。
まり、経験が充実していくという意義がある。このようなカポエ
ブラジル人でないカポエイラ指導員に対して、ブラジル人の師
イラ活動では、民族・政治・歴史・文化・経済的にちがう背景を持っ
範や指導員、また弟子でさえも、不信感を見せることがあるのは
た社会の人々の交流が行われる。(C)カポエイラは様々な社会層
確かですが、外国人カポエイラ指導員の中には、カポエイラの根
で行われており、その場その場で置かれている階層に見合った、
本をマスターすることに対して、普通以上の責任を感じている人
様々な可能性を伸ばしている。
が多いのです。リスボン大学人間運動機能学部で教えているポル
トガル人のカポエイラインストラクターは、このジレンマについ
てコメントしています。
私はブラジル人ではないので、自分の能力を認めて
もらうために、ブラジル人よりも多くのことをしなく
てはなりません。私が格闘するのを見る前は、私が唄
うのは、つまり ... 下手くそなカポエイラしかやれな
いから唄で誤魔化していると思われるのです。私のこ
とを、指導員としてすら紹介してくれない、ただの、
ポルトガルのアホス・ドッシとしてしか紹介してくれ
ないところもあります。しかし、ホダが始まればすぐ、
私をどんなふうに紹介したかなどということは、皆、
すっかり忘れてしまいます。ブラジル人にせよ、ヨー
ロッパ人にせよ、カポエイラはカポエイラで変わりま
131
ブラジル外務省刊行誌
TextsofBrazil
カポエイラは「ブラジルのもの」ではあります
が、同時に「皆のもの」であり、教えられ・練
習され・伝えられ・培われるにつれて、共有さ
れ、分かち合われて、何倍にも大きく育ってい
くのです。
イタリア 、 カルミニャーノ・デ・ブレンダでのストリート・ホダ -2003/07-Photo:J.L.C.Falcão
おわりに
ここで紹介した外国でのカポエイラ体験談は、今後のカポエイラ
の可能性についての考察のよりどころとして、たいへん役立ちます。
外国人のあいだでは、益々、カポエイラに対する興味が高まってい
るからです。また、この章での考察によって、カポエイラが民族の
ちがいを超えた活動になっていることが分かりました。1970 年代
以降のカポエイラ国際化によって、政府も文化活動の後援に力を入
れ、新しい試みが行われています。
カポエイラが、ますます国家の違いを超えた性質のものになって
きており、それが、カポエイラの発展に貢献していることがわかり
カポエイラの国際化
ます。この状況は、
「カポエイラは、ある特定の社会層だけで頻繁に
行われている、特定の人種に限られた活動だ」とする見方は、もは
や通用しないと警告しています。
また国際的活動が根付くにつれ、カポエイラの複雑性とダイナミ
ズムは、水平的な広まりにおいては各国に浸透し、垂直的な広まり
においては様々な社会層に浸透しています。
カポエイラは「我々ブラジル人のもの」であり、従って、全ての
ブラジル人に、カポエイラのマンヂンガ(魔術)を独占する権利が
あるということが再認識されていますが、外国での体験談をよく分
析してみると、この考え方には、矛盾と曖昧性があることがわかり
ます。カポエイラは「ブラジルのもの」ではありますが、同時に「皆
のもの」であり、教えられ・練習され・伝えられ・培われるにつれて、
共有され、分かち合われて、何倍にも大きく育っていくのです。
社会的価値の面からも、カポエイラを評価することができます。
永久に構築されつづける社会の産物として、また文化表現として、
さまざまな時代の歴史的影響を受けながら、カポエイラは、カポエ
イラによって社会の中での活力を勝ち得ようとする人々の手で育て
られてきました。
カポエイラは、ブラジル文化・アフリカ文化・アフリカ系ブラジ
ル文化など、民族的シンボルとして扱われることが多いです。しか
し、世界進出が進んだ今、カポエイラは文化遺産として扱われるよ
うになりました。こうしてみるとカポエイラは、まちがいなくブラ
ジルの個性のシンボルであり続けながらも、いくつもの母国を持つ
活動として成長していくのです。
132
カポエイラの国際化
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ジョゼ・ルイス・シルケイラ・ファルコン
(JoséLuizCirqueiraFalcão)
サンタカタリーナ連邦大学スポーツセンター教員、バイア連邦大学
大学院教育学博士。
133
挿絵を描いたアーティスト カリベ
カリベ(Carybé)
、
本名、
エクトル・フリオ・パリデ・ベルナボ(Hector
造形美術の革新につとめました。1955 年には、第 3 回サンパウロ・
JulioPárideBernabó)は、1911 年 2 月 7 日にアルジェンチンの
ビエンナーレ美術展のデッサン部門最優秀賞を受け、1961 年には、
ラナスで生まれ、1997 年 10 月 2 日にブラジルのサルバドールで亡
カリベ専用の展示室が設けられました。カリベは 1957 年にブラジル
くなりました。カリベはブラジルを描いた造形美術家として有名です
に帰化し、バイアの象徴的芸術家になりました。カリベの作品は、ど
が、特に、黒人洗濯女や漁師、そしてカポエイラ仲間など、バイアの
れもバイアの豊かな庶民文化を映し出しています。
五千以上の作品を残し、絵画、デザイン、彫刻、スケッチのほかに、
情緒あふれる人々を、抽象的手法によって描きだしました。アルジェ
ンチンで生まれましたが、幼少時代はイタリアで暮らしました。ブラ
ジョルジ・アマード(JorgeAmado)やフーベン・ブラガ(Rubem
ジルを訪れたのをきっかけに美術を手掛けるようになり、1919 年か
Braga)
、マリオ・ヂ・アンドラーヂ、ガブリエル・ガルシア・マルケ
らブラジルに住んで 1927 年から 1929 年までの間、国立芸術学校
ス(GabrielGarciaMarquez)などが執筆した書籍のイラストも手
(EscolaNacionaldeBelasArtes:リオデジャネイロ連邦大学芸
掛けました。サルバドール、ロンドン、ニューヨークには、カリベに
術学部の前身)で学びました。
よる壁画があり、壁画作品にはピカソ(Picasso)や〈メキシコの〉
バイアと縁ができたのは、1938 年に、新聞社プレゴン(Prégon)
リベラ(Rivera)の影響が見られます。カリベは多くの本も残しまし
から、ブラジルで最も有名な盗賊「ランピオン」の取材に派遣された
た。三十年間、カンドンブレを研究した成果である「バイア・カンド
ときでした。しかしプレゴン社が倒産したため、カリベはブラジル北
ンブレ:アフリカの神々イメージライテイング」
(Iconografiados
部の海岸地域を旅しながら、絵を描き続けました。はじめて展覧会に
DeusesAfricanosnoCandomblédaBahia)
、バイア風物画集「ア
出展したのは、1939 年、ブエノスアイレスでのことです。1940
ス・セチ・ポルタス・ダ・バイア」
(AsSetePortasdaBahia)
、
「ご
年代に、カリベはマリオ・ヂ・アンドラーヂ(MáriodeAndrade)
らん雄牛だ」
(OlhaoBoi)
、ジョルジ・アマードとの 2 冊の共著「バ
の小説「マクナイマ」
(Macunaíma)をスペイン語に翻訳しました
イア」
(Bahia)
、
「良き地バイア」
(BoaTerraBahia)などです。カ
が、それによってカリベとブラジルの関係はますます密接になりま
リベと大親友だったバイアの文豪ジョルジ・アマードは、カポエイラ
した。1950 年代には、教育長官アニジオ・テイシェイラ(Anísio
の小唄のなかで、カリベへの友情を込めてうたった、心あたたまる歌
Teixeira)の申し出に応じて、カリベはバイアに永住することを決め、
詞を残しています。
..この景色、この詩(うた)
そして、このバイアの神秘
なあ、カマラード*(きみ)
それは誰のもの?
カマラード(友よ)、そりゃ、カリベ、きみのものさ
そうだよ、カマラード(きみ)、そうなんだ...
“...A paisagem, a poesia
e o mistério da Bahia,
ê, ê camarado, e de quem é?
É de Carybé, camarado*,
Ê camarado, ê. ....”
〈* カマラード:外国人であるカリベは、
「カマラ (câmara)」、すなわち「カマラーダ (camarada)」の省略形で「友よ、同士よ」などを意味する「親
しみの表現」の代りに、誤って「カマラード」という言葉を使っていた(10 章参照)。この詩では、意図的に外国生まれの親友の口癖を借りた「カ
マラード」という呼びかけによって、カリベへの温かい友情が一層、伝わってくる。〉
写真家ピエール・ヴェルジェ
ピエール・ヴェルジェ(PierreVerger)は 1902 年 11 月 4 日
にパリで生まれました。ヴェルジェは裕福な家庭で育ち、ブルジョ
アの雰囲気に反発を感じてはいたものの、30 歳までは、この階級
の人たちが送るごく普通の生活を送っていきました。転機が来たの
は 1932 年、ヴェルジェが写真家の職につき、旅に魅入られてしまっ
たときです。1932 年 12 月から 1946 年 8 月までの 14 年間、
写真で稼ぎながら、ほとんど毎年、世界を旅しました。ヴェルジェは、
新聞社や旅行会社、研究所などに自分の写真を買ってもらい、企業
の写真関係の仕事も引き受けていましたが、収入のほとんどが旅行
代に消えてしまいました。パリを起点にして旅をつづけ、旅から戻
ると、プレヴェール〈Prévert(1900-1977)詩人、名曲「枯葉」
の作詞が有名〉の仲間のシュルレアリスムの芸術家や、ロカデロ博
物館の人類学者達と過ごしながら、次の旅行プランを練る日々を送
りました。当時の一流出版社と組んで仕事をしていましたが、名誉
には無頓着で、すぐに「果てしなく世界が広がる景色が頭から離れ
ない。だから、あの水平線を超えて見に行くんだ」と言って旅立っ
てしまうのでした。
1946 年、バイアの地に降り立ったヴェルジェは、人生観が変わ
るのを感じました。第二次大戦で荒廃し果てたヨーロッパをとはち
がい、穏やかなバイアは別天地だったのです。バイアの人々の温か
さに感激し、またバイアの豊かな文化の虜になったヴェルジェは、
帰国を忘れてバイアで暮らし始めました。旅のならいで庶民の仲間
入りをして、もっとも質素な場所で生活しました。バイアには黒人
が多く、ヴェルジェが付き合いたいと思ったのも黒人達でした。黒
人達に写真の被写体になってもらったり、友達づきあいをしたりで、
ヴェルジェは次第に黒人を理解するようになりました。カンドンブ
者を兼ねた財団の理事長になって、自分の家を研究所にしました。
レの存在を知ったときは、これこそバイア庶民のパワーの源だと確
ヴェルジェは 19 96 年 2 月に亡くなりましたが、FPV がその志を
信し、カンドンブレの神々であるオリシャたちに願掛けしたり霊魂
継いでいます。
を呼び出したりする、カンドンブレの儀式を熱心に研究しました。
ヴェルジェは、
財団の第一回会報にこう書いています。
「ピエール・
こうしてアフリカ起源の宗教に対する興味が深まっていき、アフ
ヴェルジェ財団を作ったのは、私が二つの土地に対して深い愛着を
リカ儀式を研究するために、1948 年にアフリカに渡りました。宗
感じているからです。一つはバイアの土地、もう一つは、アフリカ、
教への関心から、ヴェルジェは研究者としての活動も始めました。
ベナン共和国の湾岸地域に対する愛着です。アフリカのこの地域の
主に西アフリカのヨルバ族とその子孫、また、奴隷としてアフリカ
活動を知ると、この地域とバイアが、同じ文化遺産を共有している
からブラジルにつれて来られた、バイアのヨルバ族とその子孫の歴
ことがよくわかってきます。アフリカのこの地域の人々は、自分達
史と習慣が、ヴェルジェの研究や作品のメインテーマになりました。
がベナン共和国とナイジェリアについて知っていることを、ブラジ
ヴェルジェは、いろいろな大学で研究に協力し、客員研究者になっ
ルのバイアに教えこみました。また、この地域の人々は、自分達が
たので、自分の研究を雑誌に載せたり、学会で口頭発表したり、本
バイアに与えた影響を、ベナン共和国とナイジェリアに伝えていっ
として出版することができました。ヴェルジェは 1960 年に、バイ
たのです」…。ヴェルジェは、研究所に全てのアーカイヴや、長年
ア州サルバドールのヴィラ・アメリカに家を買いました。1970 年
の旅と調査研究の成果を寄贈しました。研究所には、ヴェルジェが
代のおわり、ヴェルジェは写真の仕事をやめ、研究のためにアフリ
執筆した何十編もの小論文、本、六万二千にのぼる写真のネガ、録
カに旅立ちました。
音テープ、映画やビデオ、そのほか貴重な書類や記録、私信や手書
晩年のヴェルジェの最大の関心事は、どうやったら今までの研究
きの文書を含めた遺品が管理されています。
成果を多くの人々に見てもらえるかということと、膨大な写真や記
1988 年に創立されたピエール・ヴェルジェ財団は、特別非営利
録をいかに保管したらよいかということでした。1980 年代にコフ
活動法人として認められた独立経営・独立採算の組織で、所在地は、
ピオ出版(Editora Corrupio)が、ヴェルジェの最初の出版物を再
ヴェルジェがかつて暮らしたサルバドールのヴィラ・アメリカ坂で
版して作品の保存に乗り出しました。1988 年にヴェルジェはピエー
す。研究所は、ヴェルジェの友人達や協力者、ヴェルジェの作品ファ
ル・ヴェルジェ財団(FPV)を創立し、作品や研究の寄贈者・保管
ンの人達によって管理されています。研究所員の中には、晩年のヴェ
ルジェとたいへん親しかった人々もいて、ヴェルジェの作品の保管
と普及に努めています。
ピエール・ヴェルジェ財団の主な目的:
・創立者ピエール・エドゥアール・レオポルド・ヴェルジェ(Pierre
EdouardLeopoldVerger)の作品の保管、普及および研究。
・ブ ラジルとアフリカの相互影響全般、特にバイアとベナン湾の相
互影響に関する研究および出版。
・アート、人類学、植物学、音楽、歴史などの分野での共同研究の促進。
・情報・研究センターとしての庶務。
・ア フリカ文化について、および新世界への強制移住によるアフリ
カ人ディアスポラ(国外離散)の問題についての研究促進と、文
化組織間の国際交流。
・研究所では、
著作権管理、
ピエール・ヴェルジェ撮影による写真販売、
研究者へのアーカイヴ貸出も行っています。
・情報源:ピエール・ヴェルジェ財団
http://www.pierreverger.org/br/index.htm