これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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修士論文要旨「1920 年代の日本のデザイン −銀座・資生堂を中心に」
小早川 真衣子
学籍番号 30151090
指導教官 村山康男先生
1920 年代は社会そのものが均質化していった時代である。そのような均質化した状況の中で、同時代
的な現象が現われるのは必然なのであるが、アール・デコ様式の流行はそこに現われた現象と言えるの
ではないだろうか。アール・デコ様式の集大成であった「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」の意義
. .. .
は、現 代的 なデザインということを強調した点であり、美術作品に限らず、幅広く、工芸のジャンルを
も受け容れるとしている点である。日本のアール・デコを研究したいと考えるのは、この様式の特色に
.. ..
ある。アール・デコはある一定のスタイルではない。現代 的な デザインであり、そのスタイルは自由自
在で、折衷的である。様々な様式を柔軟に取り入れながら、国や思想を飛び越え広がった。もちろんそ
の旋風は日本にも届いたはずである。アール・デコは単なる郷愁漂うアンティークに収まらない。アー
ル・デコは個々のオブジェだけをとりだすだけではなく、それが生み出された時代の精神、ライフ・ス
タイルを含む、時代の雰囲気といったものをみる必要があるのである。アール・デコはどのようにして
日本に伝わり、独自のアール・デコに変化し、生活の中に根付いていったのだろうか。
1920 年代は現代都市の記号化の出発点と言える。流行というシステムもまた記号化によるものである。
そのシステムの中では、物そのものではなく、デザインが商品として売れる。イメージの消費は、使用
価値よりむしろ、象徴的な交換価値によるものである。このようなシステムにいち早く気が付き、経営
方針として取り入れたのが資生堂だった。また、資生堂は企業のデザインの方向性としてアール・デコ
を用いている。アール・ヌーヴォーからの影響によるアール・デコ様式を採用した独自のデザイン様式
は、資生堂調と呼ばれている。新様式であるアール・デコ・スタイルは資生堂製品を介して街に流行し
ていった。その戦略は女性を対象に、そして銀座を舞台に、雑誌、ギャラリー、レストランを拠点とし
て展開されていった。資生堂が 1924 年から創刊している『資生堂月報』には当時の人々のライフ・スタ
イルや時代の精神が表れており、また多くの新様式の記述をみることができる。主にセセッション、立
体派の影響を、新様式のデザインから読み取っているが、中でも近代的という意識が強調されていた。
また、新様式の流行において構成派の図様がデザイン・エッセンスの1つに過ぎないということが指摘
されていた。記述の中では、構成派の理論や志向などは流行には関係なく、その表層部分だけに着目し
ており、広く浅く、多様な様式の表層部分の総合から成り立っているアール・デコの特徴がよく現われ
ていた。その他にも「モダン」に代わって「シック」と言う言葉が使われだしたと記述してあり、それ
らの多様な表現は
アール・デコの爆発的な流行の勢いを表している。
初代社長・福原信三は 1916 年に国内初の意匠部(現・宣伝部)を発足させて本格的な宣伝活動を開始
した。「商品をしてすべてを語らしめよ」という企業哲学からは彼が企業活動におけるデザインの重要性
を当時から認識していたことがうかがえる。意匠部員らにより表現された唐草は、資生堂のデザインの
主要モチーフとして次世代のスタッフに受け継がれていった。また、前田健二郎により設計されたアー
ル・デコ様式の資生堂化粧本部、資生堂パーラー、資生堂本社を拠点として、その文化戦略はすすめら
れた。信三は資生堂の意匠部とギャラリーによって、文化的なネットワークを作り上げたが、その交友
関係は資生堂に多くの刺激を与えている。20 年代のギャラリーは美術もファッションも混ざっていた。
雑多で不純であるが、それだけに面白い時代であった。信三は既に新製品の展示という商売と同時に、
美術を取り込むことで企業のイメージアップを図ろうとしていたと考えられる。つまり今日でいうメセ
ナ活動、すなわち企業の文化支援という考え方を先取りしていたのではないだろうか。当時無名の新進
作家に場を提供した事は、広く美術界の振興に役に立ち、恩恵をもたらした。『資生堂月報』に著名な歌
人らの記事があるのもまた、この交友関係によるものであろう。一方で、ソーダ水とアイスクリームの
製造と小売を行なったソーダファウンテンには、一種のコミュニティが生まれた。資生堂パーラーが果
たした役割は、先端の味覚の提供だけではなく、このような場所の提供にあった。パーラーが多くの文
学作品に登場し、長く人々に親しまれてきたのには、このようなパーラーの特質があったからこそなの
である。
こうして「銀座の資生堂」が徐々に、確実にできあがっていった。アール・デコは銀座のライフ・ス
タイルの表面だけでなく内面にも影響を与えていた。資生堂の建物をはじめとする建築物は直線的な形
態をみせた。カフェの内装も建物と調和をとるように、モダンであった。服装の形態や色彩はアール・
デコの特色そのものである。パリより伝えられたアール・デコには、その形態に加え、それを取り巻く
時代の精神が含まれていた。ソーダ水やアイスクリームはパリのカフェを思い起こさせた。モダンガー
ルは外面的にモダンだっただけでなく、その精神がモダンだった。先端と呼ばれるもの、精神は現代的
である必要があった。そして、現代的ライフ・スタイルを提供していたのが資生堂である。
当初資生堂の羅針盤はパリを指していたが、日本の文化との融合により、独自の新しい志向を生み出
したと言える。日本文化への回帰により、これまでになかった独自の文化を創りだしていったのである。
これらはすべて銀座を舞台とした資生堂のイメージ戦略であったと私は考える。流行したモダンなファ
ッションも髪型も、カフェも、そしてその内にある精神さえも、先導していたのは資生堂である。アー
ル・デコ様式の内には確固たる精神があったわけではない。実に移ろいやすいが、柔軟であったこの性
質を生かし、アール・デコのもつ形態とイメージの中に、日本文化を融合させたのである。この独自の
デザインとイメージは、そのままアール・デコのもつモダンなイメージと共に、資生堂のものとなった。
その結果モダン=資生堂というイメージ戦略は、銀座を舞台として成功した。そして更に、モダン=資
生堂=銀座というイメージをも確立していったのである。信三は銀座を発展させることが、資生堂の発
展に繋がることを十分に理解していたと言える。
1920 年代、人々は銀座に流れていた一種の性的気分に浮かれていた。自分が自分の姿に陶酔している
ようなものかも知れない。その極端な例が、モダンガールのスタイルの過剰化であった。調和を無視し
ていると批判されたこのような傾向は、モダン都市・銀座の陶酔的な雰囲気が生み出したと私は考える。
当時の銀座には独特の雰囲気がある。銀座はモダンという目が眩むような明るみの裏に、人知れぬ暗さ
を持っているからだろう。高価な独占的の感じのする昼間の銀座と、露店が並んで手軽で安易な気分を
漂わす夜の銀座である。1920 年代の銀座には、どこか幻想的であると同時に雲の上を歩いているような
危うさをも感じる。
1920 年代のデザインを通してみえる銀座はモダンであったが、そこには数々の試行錯誤があった。銀
座は人々の意識改革の場だったのではないだろうか。時に不器用にもみえるその実践の繰り返しが、銀
座という街を形作っていった。難しい倫理や高踏的な芸術を通してではない。風俗と呼ばれる文化の中
で人々の意識は変わるのである。