ミュシャの油彩制作過渡期における連続性について

新谷式子
(兵庫県立美術館)
ミュシャの油彩制作過渡期における連続性について
アール・ヌーヴォーのポスター画家として知られるアルフォンス・ミュシャ (1860-1939)
は、1910 年以降、祖国チェコに寄与すべく連作《スラヴ叙事詩》(1912-26) の制作に打ち
込んだ。近年、彼の民族主義的な側面について研究が進み、歴史画家としての顔が明らか
になりつつある。ミュシャがこの愛国心の証というべき大作の構想を得たのは、1900 年の
パリ万国博覧会に際しボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の壁画制作を依頼されたときであり、
また先行研究では、約 10 年振りに油彩画を描き始めたのもこの前後とされる。
油彩におけるミュシャの表現は、意外なほどアカデミックである。多方面に渡る彼の仕
事を総覧する時、問題となるのはこの二面性と不連続性、つまり、アール・ヌーヴォーの
ポスターで時代の寵児となった一方、伝統的な画家を志し続けていたこと、そして名声を
捨て、突如、民族主義の画家に転向したように思われることである。本発表では、ミュシ
ャが油彩の制作を行わなかった期間について再考するとともに、制作再開後、いわばキャ
リアの過渡期にあった作品に注目し、一見断絶している二つの仕事の連続性を示す。
ここでは、油彩を止めていた期間を、アカデミー在籍中の 1888 年から遅くとも 1899 年
頃までと考える。1902 年には《クオ・ヴァディス》(1903-04) に着手し、すでに民族主義
的な主題に取り掛かっていたが、未だ折衷的な表現を用いていたことは《百合の中の聖母》
(1904) の装飾性からも明らかである。遡れば、4 連作リトグラフ《アイリス:四つの花》
(1897) のレプリカとして再制作された油彩《アイリス》(c.1899) や、同じく先行するリ
トグラフに主題を借りた《カーネーション》《バラ》(1901) があり、この時期の油彩は、
リトグラフと同じ需要層に向けて制作されていた可能性が高いということが指摘できる。
またミュシャは、アール・ヌーヴォーの求心力を意図的に油彩に取り込もうとしていたと
考えられる。