March 3]St,2012 KAMO CITY MUSEUM OF HiSTORY NEWS No 19 僻嶋酌 献知伸節 ︲ ロ 腋 確 カ 師 舗 鱒 一 沖 ﹃ 縮 押 ︱ 民俗 資料館 だより 料館 ― 日発 行 市 民俗 資料館 加茂市 の文化財 資料館 展 示 品の紹 加│々 市民俗 資料脩 にな せホ 中の 民俗4‖ には、い内 に もあ ま り類 のサ せられ ない ,tiな 資ド│が7Fね:します。 今Fは 、そ の 中の 2すよを紹 介いた します。 1 ,イ ロ ロ てつ│= ‖和50年 1)112日に測4漑用 ユ (場水器 )「 ダイロ■「 じゃ“Jが 林 して加茂市有形民俗夜 う 「 とは 川や池か │1文化,1に指定されました。itt PtlH其 ′ てつばうJが らユ ヽ水を次み にげる揚水器 ですが 、「 のようこ直線 的 に水を吸い上げる方式 になつ 注lll,十 民俗 資十付f 所故 の 「 木製だるよ白は ■J 木投だるま白は ■ この宋り物 は、初 めて 日本 に人った りJ , 合 31■ 〔 ているのに対 し 「 グイロ は 」11ヽ して水を吸い■げる 文 明 の利 器として珍工 され た 白は 1 1 です Ⅲ初 】) の! て は 今 の子供 が r f る二 l l l tい じ t t〕 とくチ ェー ン 方式 になってい ます. 回 転式 のfv水杯 は水 Ltllと が 無 く 前 l l を大 きく後 愉 を」ヽ さくしてあり= し rrばれ 、アルキメデ スが考突した叫h■ の仕 掛 けを木 エ いH街 の内部 に取り付けた場水ホンプです . 製 の和ロ ,こ 、 民 俗 夜十 館 にljR示され ているの は lllサ 切のもの 本には中国を経て 17 Wi紀 中頃に伝わりました.江 だるま自転 Ⅲ Jと呼 ばれ ‖]1こ打 Prおもあり で、「 ■時イ (、日本最 大のに出上を誇つたに波金銀 山は、 ませ んてしたt車 大 ■をしていた 3T藤さん という 人が、1倫もスポ ー クの ヤお分t)本で作 ったもので 地 下水の排 水 rt,1に悩 まされ続 すていましたが 承 'Hし71.め ました。や が 応2年 (1953)かt,水上 愉をlJ・ 昭 和 3 0 年 頃 まで少 しは 来れ たようです が 、t t 在 うですt使 用 した地域 によつて、呼び方も達 っていま は llmの 部 分 にヒビが 入 つてい よ〕. そ の 後 チ = c ― ンセ ぅ考架され ましたが、Ⅲ 体 の 型 はあまり劣わ ラ ダ イロ タツ ホラ タツマキ ダイロマキ す !ジャ″` らず 、本 製 に合 に の l l をお けたもの で お l L が ,t)の ダイロウ十多彩ですt木 製 ′ は数が多いそうです l H いのには囚つたということです 。 が 加技市のようなトタン製 の物 は市少だということで 日本 の 自ほ 車 は H l 治3 0 年 町I から次 午j にゴム - 1 女的 には 金 l l のモ ) 輪 に変わ ってきましたが 、 て 快│!ヤ Lでも揚水器として使用されるようになったよ '。 所は してあるわ [設 は県内でt)7箇所くらいです。 (参考文献 1新潟 ││に史博物億 資イ 十) のを使 用 していましたて明治4 0 1 イ ヽこなると、t l と 在 の 型と よぼ 同 じモ ) のになりました! 本 け , ( 全体 で 2 0 0 0 台 と記 l l され てあ り 加 代 市 ヒ谷 地 区は2 台であつたと加技 r 史に紙 っています。 H 4 店のショウウィンドウに 「 だろま白にヽ l I J が飾ら れ ているのを兄か けることもありましたが 前 l l の 大きいこの型 は道行く人 々 に税 しみ とユ ー モアを 与 えていました。l f 十 1 館 の この 白拡 ■ は 、多 分 H 本 叫 の 文化進と ではないでしょうか. 写lヨよ民裕I_‖悼所蔵のダイロ ( 参考 1 杖 担 i m ` 元民俗 資オ 十いいに 資料) 加茂農林高校 の植物園 加茂市文化財調査審議会委 員 中野 保 栄 農林 高校 の赤 レンガの校 門 を くぐる と、左 右 に 当時 の植物園は学術上の参考に、また、衛生及び 展 開す る植 物 園 が うつ そ うと茂 り、年 月 の経過 の 風致を計 つて樹木を植え、植物見本園 とする計画で 深 さを感 じさせ る。 県 内の高校 にあ つて 、 これ だ あつた らしい。園内には、林業に関係す る有用樹種 けの 規模 の植 物 園 を持 ってい るの は、加茂農林 高 を主 とし、更に、薬用及び有毒植物を学術用の分類 校 だ けで あろ う。 国内は堂 々 と していて 、落 ち着 により、区画植栽 している。 い た空 間 を持 ち、学習 の場 へ誘 い 、 同時 に憩 いの しか しなが ら、これ らの樹木は年月が経 つ に従つ 場 を提供 して くれ る。 生徒 た ちは登下校 に関 して て植物園の諸条件が崩れ、樹勢が表えていつた。ま は、必ず植 物 園 の 中央通路 を通 り、樹木 の枝葉 が た、諸の害に対する抵抗力が低下 して、枯死 してい 作 る屋根 を くぐ り抜 け るので あ る。 つた もの もあつたで あろ う。加 えて、自然災害によ 農林 高校 は平成 14年 で創 立百周年 を迎 えた。 学校 の 沿革史 に よる と、 この植 物 園は明治 37年 る倒木災害等で、当初 より半数以上の樹木が減って V`る。 の 日露戦役 の記念 と して設 計 され 、起 工 され た の 学校 では校風 の下、学校創設 と共に推進 してきた だ とい う。 造成 時 には樹木 園 3反 3畝 (約 3, 3 00平 方 メー トル )、草花 園 6畝 (約 300平 方 メ 生徒達の勤労奉仕 (ボランティア)に よる植 え付け ー トル )で あ った ら しい。樹 種 は 200余 が続 いていつた。 種約 3 00本 、草花 の種類 は 70種 であ つた と記録 され てい る。 ←写真① 「 青海百年Jよ り 日露海戦の提督来校 明治 39年 7月 21日 、海章大将 東郷平人郎氏、同中将 ・上村彦之丞 氏来校視祭、人力車 10余 台 の うち 先頭車、赤星校長 参考文献 「 青海 七十年」 「 青海八十年 」 「 青海 百年 J 力[茂農林高等学校 「 北越農林 J 力1茂農林 高等学校 同窓会 ↑写真② 造 成当時の植物園 「青海百年」より 時勢 は変 わ り、第 2次 世界大戦 か ら終戦 にか けて 食糧難 時代 が続 き、植物 園 も伐採 の連命 に遭遇 した。 この よ うに時代 は変化 して い くが 、育 ち続 い て い く植 物園 に拍 手 を送 りた い。 けれ ども、 当時 の 寄宿舎生達 は 「 われ われ の食 事 は 2回 に減 ら して も良 いか ら、何 とか伐採 だ けは止 め てい ただ きた い。Jと 学校側 に 中 し出たそ うで ある。 これ らの精神 と愛 情 が植 物 園 に加 わ っ て、現在 に引 き継 がれ て きた のだ といわれ てい る。 更 に何 回か に わ た って松 食 い 虫の被告 に遭 った ものの 、全滅 を免 れ て元気 に育 ってい る もの もあ る。 ご く最近 になつ て コ ナ ラ カ シワの 告 虫 (カシノナガ キクイ ム シ) に よる被 告 で失 われ て ゆ くもの もあ る。 痛害 虫に も 耐 えて遅 しく育 ってい って欲 しい。 最近 、 この植 物 図 で 育 つた樹 木 について 、2つ の 話題 を述 べ てみ たい。 そ の 1つ は メタセ コイアであ る。 現在 、 この 国 内 に 20メ ー トル 以上 の樹木 は相 当教存在 してい るが、 この メタセ コイ アは植 物 園内 で最 も楠 高 が高 く 29メ ー トル あ る。加 茂市 の鈴木 写真③ メ タセ コイア 「 青海 百年 Jよ り とな つてい るが、 日木 各地 か ら化石 と して発 見 され てい る。 日本 には 300万 年 か ら 100万 年以 前 に た くさん生 えていた ら しい。 だか ら、生 きて い る化 石 と して有名 で あ る。植 物 園内 の メタセ コイアは、 そ の種 子 か ら繁殖 に成 功 し、昭和 27年 農林省林 業 試験場か ら贈 られた県内初 の 2 本 であつた。挿 し木 が簡単で増やせ ることか ら、県内の方 々に育 ってい る。 そ の 2 つ めは、 コ ウヤマ キである。明治 3 8 年 の 日露戦争で活躍 した東郷平人郎海常大将 が、翌年、 加茂町を訪れている。町民あげての盛大な歓迎 だつ たそ うである。そ の際、農林高校 の視祭に来校 され ている。そ して ヨ ウヤマ キを植栽 した。 写真④ ヨ ウヤマキ 「 青海百年Jよ り アオギ リ アカガシ ア カヤ ツ ア カ メガ シ ワ ア キエ レ アベ マ キ ア ラカ シ ア ワブキ イイギ リ イテイ ガシ イチ ョウ イヌシデ イ ロハカエデ ウ本 メガシ ウラジ ロガ シ 工 Jノ キ エ ゾユ ズ ツハ エ ツキ オ オカ メ ノキ オオ ′ヽボダイ ジュ オオモ ミジ カ キ カツラ ガヤ ズ ミ キササタ クス ギ クマシデ ケヤキ コ ウヤマ キ コ ウヨウザ ン ヨナ ラ コメツガ ゴヨウマツ サルスベ リ サ ワラ シオジ シダ レザクラ シす ノキ シ ラガ シ スギ スタジイ ス トロー ブマ ツ セ イ ベ ルセ ヨイア ツタイ ヨシノ チ ャ ンテ ン チ ョウセ ンゴヨウ トウカエデ ドウタンツツジ ナチ カマ ド ナ ラガ シ ワ ‐セ アカ シア ネ ヨシデ ネ ジキ ネ ズ ミナシ ハ ク ウンボ ク ハ クモ ク レン ″ヽゼ ノキ ″ヽヅギ ツ ハ ン フキ ヒイ ラギモ クセ イ ヒノキ ヒ ′` ブナ ボダイ ジュ マ テ パ シイ マユ ミ マルタ`マ ンサ ク ミズナ ラ ム ク ロジ メタセ コイ ア ヤマ ザ クラ ユ ズ リハ リキダマ ツ トチ ノキ 加 茂農 林 高校植 物 園 の樹 木 一 覧 ドイ ツ トウ ヒ 外 一 般 参加 者 活 35名 ー マ ァ ① 古 文書講座 恒例 の 古文書講座 は 、熱 心な受講者 の皆様 に 支 え られ 29回 を数 えま した。益 々充実 した 内容 に してい きた い と思 つてい ます。 開催 時間 午 後 7時 ∼8時 40分 会 場 加 茂 市公 民館 第 1研 修 室 平成 23年 8月 30日 (火) 講師 関 正 平 先 生 (加茂市文化財調査審議 委員) 一般 参加者 43名 テーマ 「 幕末 の上 条 。加茂 を読むJ ―上 条 の 商人史料 か ら一 講座 内容 天保 12年 、上条の関氏 に よ り認 め られ た 「 年代記 Jを 解読 した。 に関す る事柄 だけでな く、 日本 商売 全体 の政治 、気象 、事件等 、広い視 野 で記述 してい る。 「 青海神社古川舎人 の神葬祭 一件 J 講座 内容 青海神者に古川舎人 (古川茂 陵)の 人 とな りにつ い て触れ た後 、 け旨上 中 一 札之事Jの 文書 を示 し、神官 の葬 祭 につ いて 、合 人 と大昌寺 とのや り の終始等 取 りや 、寺社奉行 へ の HFl訟 を解読 した。 平成 23年 9月 20日 (火) 講師 丸 山 朝 雄 先 生 (加茂 市文化財調査審議委員) 一般参カロ 者 35名 ァ ー マ 「 古文書 の書体 につ いて」 講座 内容 「 二行 半Jの 文章 と して有名 な離縁 状」の拍々読か ら入 り、鳩 の森村 の永 井 慈 現 が 開設 した狂 疾 病 院 の 薬 の 宣伝 文 を 「 東講 商人鑑 Jか ら引用 し した て1子読 。また、解 読練習 と して 五 人組 書上帳J取 り上 江戸時代 の 「 げた。 平成 23年 9月 6日 (火) IIn師満 口 敏 麿 (加茂市文化財調査審議 委員長) 一般参加者 37名 テーマ 「 長瀬神社 の 明治期 の祭礼」 講座 内容 明治期 、長瀬神 社 の祭 礼 に関 しての た。 誓約 書、許 可願 等 の文 書 を解 H7Lし 丸山 朝 雄 先 生 溝田 敏 麿 先 生 平成 23年 9月 13日 (火) 講師 佐 藤 賢 次 先 生 (加茂 市文化財調査審議委員) 平成 23年 9月 27日 (火) 講師 長 谷川 昭 一 先 生 (加茂 市文化財調査審議 副委員長) 一般参加者 36名 テーマ 「 長瀬神 社 と猿 毛 日 吉神社 の御神 木 につ いて 」 講座 内容 猿 毛 山名 主の新右衛 門が 山工神社 境 内 の杉 の払 い 下げを願 い 出た件 に対 し、管轄 の小池大隈神 主が新 発 口藩寺社奉行苑 てに出 した回答 案文 「 山王神 社社木 につ き寺社奉 行宛回答 」等 を拍“読 した。 ② 歴 史話演 会 成 23年 11月 19日 (上) 茂 市公民館 第 1研 修室 谷川 昭 一 先 生 W茂市文 化財 調査審議委員) (力 テ ー マ 「 力日 茂 の大地主 の 土地所有 につ いて」 一 般参カロ 者 47名 識僚 内容 い わゆ る地主小作制 につ いて 少 数 の 大地 主 と多 くの 零 細農 民 で成 り立 ち、そ の 特徴 は、①家族経 営 の稲 作 と② 現物 の 小作料 であ つた。 '巨 大地 主 の メ ッカ 蒲 原 平野 全国的 に見 て も、新潟 県 には大地主が 多 く存在 し、巨大地 主は、在村地 主を 飲み込み なが ら拡 大 してい った。昭和 にな り縮小 し、次第 に地 主経営 か ら転 換 して い つた。 ・大地 主 の 土地所 有 主要地 主 の小作地 の 多か った ところ 市川家 ;加 茂 ・下条、石 国家 ;七 谷 狭 口、加 茂新 回は、原 田巻 と三菱で 3 割 を所有 、須 田は両 国巻家 、七谷は 在 村 の 山林 地 主鶴 巻家 が断 然 で あ つ た。 ③特別歴 史講演会 日時 会 場 講 師 日時 会 場 講 師 テーマ 平 加 長 成 24年 3月 10日 (土) 茂文化 会館小 ホー ル 柳 嘉章先生 (石川 県輪 島漆芸美術館館長 漆 文化財科学研 究所所長) 「 漆器 考古学 の世界J 一般参加者 110名 平 加 四 討演 内容 (1)漆 の 分析 法 考 古学 で は、扱 う材料 を科学 的 に決 めな い と議論 にな らない。分析 には顕微鏡 を 使 用 して いたが 、研 究所 では 、赤外分 光 分析 装置や エ ネ ル ギー 分散型蛍 光 X線 分 析 装置 も使用 し精度 を上 げてい る。 (2)漆 文化 の は じま り 漆利 用 の最 古 の 例 は 、北海道 の波 島半島 垣 ノ島 B遺 跡 か ら検 出 され た。 約 900 0年 前 、 上坑 墓 での、仰 臥屈葬 (あお む けで膝 を折 り曲げた埋 葬 法)の 遺体着装 品 であ る。 遺 体 は赤色漆塗 り糸 で髪 を束 ね 、肩 、腕 、足 に も綾物状 の衣服 あ るい は装身具 を身 に着 けて い た。 また 、世界 最 古 の漆 の木 が福 井県鳥浜 貝塚 か ら発 見 され てい る。 縄 文時代 の 主な漆器 出土遺 跡 の 分布 を見 る と、 日本海側 に多い。対 馬 海 流 を介 した文化 の伝播 、あ るい は変 易 が盛 んで あ った と考 え られ 、大 陸 も視 野 に置 く必要 も出て くる。 素地 を作 り、 下地か ら上塗 りまで施 され た本格的 な漆 製 品は、石川 県 七尾 市三 引遺跡 出上 の漆 塗 り櫛 で あ る。結歯 式堅櫛 と呼ばれ る形式 の もの で、 両端 に小 さな角状突起が つい て い る。漆 塗 りは 下か ら漆 2層 、パ イ プ状 ベ ンガ ラ漆 4層 の順 に 塗 られ た漆塗 り技法で ある。 (3)弥 生時代 漆器 の種類 は縄 文時代 と変 わ りな いが 、若色 は 赤 色漆 主体 の縄 文漆器 に対 して 大 きな変化 が 見 られ る。弥生時代前期 は赤色 と黒色 を塗 り分 けたが、後期 にな る と黒色漆 が主体 とな り、古 墳時代か ら奈 良時代 に継 承 され る。 (4)税 と しての漆 ・漆 工 品 漆器 は 、 「 祖 Jで 産物 を購入 して中央 に貫進す 「 る 変易雑物Jと して も、越 前 、加 /Ft、 越 中、 越後 の諸国 に課せ られ てい る。京 に架 荷 され た 漆 は 、律令 国家 の工房 で漆器 生lIにあて られ た。 (5)中 世 平安時代 も後期 になる と国家権力 は表 え、各地 で新た な漆器生産が開始 され た。荘囲絵 図で知 られ る越後 「 奥 山荘Jでは、大量の漆器 と挽物 、 木地製 品 荒 方 、漆 工用具が見 つ か り、荘 国内 にお ける一 貫 生産 が うかがわれ る。 蒔絵 の世界 では、11世 紀 に描割や 引抵 き技 法 が 出現 し、多様 な表現が可能 とな つた。また、 螺am工 の分化 も見 られ 、自立化が進行 してい る。 こ うした 中で、11∼ 12世 紀 に力Hナて材料や 工程 を大幅 に省 略 した炭 粉 渋 下地漆 器 が 出現 す る。下地 は漆 の代用 と して柿渋 と炭粉 を混ぜ た もので 、漆 塗 りも 1・ 2回 程度 の簡 単な 工程 であつた。当時 の漆 の値段 は非常 に高価 であ り、 漆 1升 の 価格 は大人 一 人 の賄 い 一 年 分 に相 当 していた と考 え られ る。また、漆器 を所有 で き る階層 は三位 以 上の 貴族 であつたので 、身分表 示 に もな っていた。 (0)近 世 徳 川 幕府 の成 立 に よって社 会 が 安 定 へ と向か Vヽ、各藩 は産業の奨励 と保 護 を行 つたため 、各 地 に漆器 産地 が生 まれ た。そ の 生産 の 具体的内 容 にな る と、今 まで の限 られ た記録か らだけで うかが い知 る ことは 困難 で あつたが 、考古字 と 文化 財 科学 的 な近 世漆器 の 調 査 が進 展 す るに 及 んで、地域 的な動 向や特色 がかな り浮かび上 が つて きて い る。 四Hll嘉 章先生 ②来館者の声 ・資 料が多く見ごたえがあっ亀 年代別lこ よく整理さ れていた 。無 料 で有難V、 立派に保存されていて感動 し名 。当 時の暮 らしぶ りが残 つている物を近くで見られ 23年 度の 1 ス 鮮議 駒 戎 23年 4月 ∼判 戎 24年 3月 市内 大人 292 小中学生 394 計 市外 計 599 891 049 7 444 50 680 団体 1,335 10 17 2 節 榊収集の状況 本年度は 6名 の方から56点 のご寄贈を賜 り、お礼申し 上げ、紹介させていただきま丸 く 寄贈品名〉 防寒用外曇 落壕験ャスリ北接用ステンシレ 陸霊大演習記念写真レネ ル 花瓶 半切掃 楽録告 て良かった 写真 (E10人の様つ も掲示 してある と良V、 ・老 人でかなり視力が溶ちている。造跡の地図の該当 場所に色をつけて示していただくと良いと思う。 ・と ても懐かしく、感慨深か つ亀 子供の頃を思い出 した 展示品が多いのに紳 ヽ 名 ・き れVWこ飾られていてとても見やすかつた の ・8月 15日 ∼ 8月 23日 縮 パ岸 メ技 学部 鋼 蜘 名 群 期 常部 学 生1 名 膳腕 お かもち 木 皿 誇 松董 黒 椀 黒 塗膳 讐楽雪 箱 替朱重 朱重箱 作難 鉄瓶 水入れ 幼韻健 島 益 兜刀 け 抑緯 跡 タ そろばス 森髄 楯 鯛 鉛 短 轍 勤 り 水切り 券輸 癸粋働 ヽ 桶 大皿 翌勅 1脊 袖 瞬ャスク ・丸 山遺跡に関する鮒 地層の資料力戦 しい 。資 料館にある金属製水上輪の構造を詳 しく見せて ほしVヽ ・南 北潮時代、岳山城に一時いたとい う宗良親王につ いての資料力歌 しい 。加 茂のthlこ ついて知りたい 。 哲 苗 につVヽ ての資料力戦 しVヽ ・上 条城について知 りたい 。カ ロ こ架かる橋について知 りたい 嗣 i‖ ・加 茂の昔話について知 りたい 。加 茂 と良寛のつなが りについて知 りたい ・資 料館 にある継壌笥 を詳 しく調査 したい 。加 茂紙について知 りたい 醐 鳥存 ・線 ○加茂市の追跡に触れる会 ○力D 茂的 ○昔の加茂を映像で振 り返る会 日時 8 月 1 2 日 ( 日) 芝P後 3時 30分 絃 2ほ子ヽ 会場 加 茂市立図書館 の 内容 新 潟国体ハイライ ト 触 効 崚 力随 史散歩 0 萌 番D 他 O古 文書講座 第1回 8月 28日 4日 第2 回 9 月 3 口 9月 11日 第 4 回 9月 18日 第 第5 回 9 月 2 5 日 しく) 関 く (′ )を打婆 侠 )溝 口 υO中 野 υく )長 創 │ 姓姓牲姓姓 ごラ多名〉 髄 諸橋千恵子様 鞠 崎 俊郎様 織 原 宮 離様 中山 勇 様 岡 田 チ ヨ様 北 傑 健一様 レファレンス ・サー ビス及びア ンケー ト調査 (民俗資料館への問制 ① レファレンス ・サー ビス(430 24年 度の事業予 O歴 史講演会 日時 判 戎24年 11月 17日 (」 午後 2 H 4 - 4 時 会場 加 茂市公民館 第 1研修室 講師 溝 口 劉 奮 先 生 O特 月1歴史講演会 期日、部 市ともに未定 加茂市の遺跡 平成 2 3 年 遺跡発掘調査 につ いて 加 茂 市教育委員会社会教育謀係長 伊 藤 秀和 本年 の遺跡 調査 は、開発 事業 に関連 した試 堀 ・確 認 調 査 が 5遺 跡 、 繁 急 雇 用 創 出事 業 に 関連 した源! 量 確 認調 査 が 1遺 跡 を対象 に行 われ た。 主な調査 につ いて報告す る。 1 鬼 倉遺跡― 古 代一 調 査 地 調 査 面 積 加 茂 市大字 矢立新 田字人反 田地 内 鬼倉遺跡 土 層 断面 約 394f 調 査 期 間 平 成 23年 11月 9日 ・10日 調 査 原 因 排 水路 改修 工事 2 高 柳城跡一 中世一 調査 の概 要 鬼 倉遺跡 は下条川右岸 の 沖積地 に立地 加 茂 市大字上高柳地 内 調 査 期 間 平 成 23年 9月 5日 ∼ 11月 28日 す る大規模 な古代 の遺跡 であ る。 国道 403号 線 バ イ 調 査 原 因 学 術調査 (緊急雇用創 出事業) パ ス用 地 内 の調査 で は、河ブ跡 か ら多量 の墨書 土器 調 査の概 要 高 柳城跡 は高柳川 上流右岸 の丘 陵 上に な どが 出土 してい る。今 回 の調査対象 区岐 か らは遺 立地 した戦 国時代 の 山城 である。 別称 「 御殿 1」 と 構 、遺物 ともに確 認 され なか ったが 、土層堆積 状況 も呼ばれ る。今 回 の調査 に よ り、本 丸、曲輪 、横堀 、 か ら周辺 に追跡 が存在す る可能性 が 高 い。 土塁、壁堀 な どが重層 的 に配 置 され てい る こ とが、 所 在 地 よ り明確 とな り、高 い 防御性 を備 えて い た こ とが確 認 され た。全体的な規模 はそれ ほ ど大 き くはな いが 、 各遺構 の遺存状況 が 良好 で 中世 山城 のモデル と して 、 堂 々の作 まい をま とってい る。標 高 225mに ある本 丸は見晴 ら しの利 く場所 にあ り、宗晴 らしい眺望が 望 める。城跡 までは麓 か ら徒歩約 20分 ほ どで登れ る。 城 の麓 に も 「 城 山下Jや 「 寺下」な どの小学 が残 り、 山城 との 関連 が推 測 され る。平成 19年 度 に加 茂市指 定史跡 となった。 鬼倉遺跡位置図 鬼倉遺跡 確 認調査風景 高柳城跡位 置図 高柳城跡 遠景 高柳城跡 土塁 高柳城跡本 丸 調 査風 景 高柳城跡 高柳城 lLか らの眺望 (下大谷方面) 高柳城か らの眺望 (上高柳方面) 編集後記 平成 18年 以来 の家 雪 とな り、 日常生活や交 通機 関、住宅等 も脅 か され ま した。そ んな雪 の 中、元気 な小学生 の訪 問 も数 多 くあるな ど、年 間 を通 し来館者 も増加 しま した。 また、主催 事 業 に も多数 の入場者 を数 え、市民 の皆様 の熱意 を感 じるこ とが 出来 ま した。厚 くお礼 申 し上 げ ます 。最後 にな りま したが、今 回、玉稿 を賜 り ま した 中野保 栄 氏 に深 く感 謝 申 し上 げます。 横堀 加茂市民俗 資料館 日 開 館時間 9tOO∼ B 休 17iOO 館 日 月 曜日、毎月第 1,3)0主 日曜日 祝 日、年末年始 ※ 但 し、4,5局 は月曜日のみ (祝日に 当たるときは次の平日) 〒950」 972新 潟県加浅市大手力0浅229番 地 1 TEL/FAX1 0256-52-0089 E― ma‖ m nzoku@ctty kamo nⅢ 9atajp
© Copyright 2024 Paperzz