日タイ両語における擬音語・擬態語について

日タイ両語における擬音語・擬態語について
パンニパー・スントーンムニー
0.はじめに
日本語の擬音語・擬態語は、日常会話やマンガなど、日本人の生活において様々な場合
に幅広く直感的に用いられている。しかし一方で、タイ語の擬音語・擬態語は、普通子供
の言葉だと考えられており、一部の書き言葉やマンガ以外ではあまり使われない。そのた
め日本語を学ぶタイ人にとって、擬音語・擬態語の理解や習得は大変難しいことだとしば
しば言われている。そこで本稿では、日タイ両語の擬音語・擬態語について調査・分析し、
両者の間の類似点・相違点を明らかにしていきたいと思う。
1.擬音語・擬態語とは?
『擬音語・擬態語辞典』
(浅野鶴子編、角川書店、昭和53年)によると、擬音語・擬態
語について次のように説明されている。
擬音語:外界の音を写した言葉
○擬音語:無生物の音を表すもの
(例)雨がざあざあ降る。
どんどん戸を叩く。
○擬声語:生物の声を表すもの
(例)犬がわんわん吠える。
猫がにゃーにゃーと鳴く。
擬態語:音を立てないものを、音によって象徴的に表す言葉
擬態語:無生物の状態を表すもの
(例)星がきらきら光っている。
擬容語:生物の状態(動作容態)を表すもの
(例)彼女はにこにこ笑う。
擬情語:人間の心の状態を表すもの
(例)バスがなかなか来ないので、いらいらしている。
この辞典では、擬音語は、擬音語と擬声語の二種類に、擬態語は、擬態語、擬容語、擬
1
情語の三種類に分類されているが、これらは一般的な用語ではない。広く用いられている
のは、擬音語・擬態語という用語である。また、擬音語・擬態語の呼び名をさらに調べて
みると、擬音語・擬態語を併せてオノマトペまたはオノマトピアという外来語が使われる
こともある。
2.日タイ両語における擬音語・擬態語の形態的特徴
2.1
日本語
日本語における擬音語・擬態語は、ほとんど「CV」
(子音+母音)から成り立つ一モー
ラ(または音節)ないし「CVCV」(子音+母音+子音+母音)の二モーラを語基(基本
形)として持っている。日本語のモーラと音節はだいたい一致するが、文献によって促音・
撥音等の扱い方が異なる。本稿では日本語に関しては、モーラという用語を用いることに
する。
2.1.1
一モーラの語基を持つ擬音語・擬態語の形態
1に示すように、一モーラの語基だけで用いられている形態は余り多くない。
1.一モーラ:
ふと思い出す。
つと立ち上がる。
しかし、一モーラの語基で構成されているものでも「促音」
(っ)や「撥音」
(ん)が付
いたり、母音が長音化されたものは多く見られる。また語基を繰り返す形態(反復形)も
一般的である。以下に、一モーラから成る例を示す。
2.促音:かっ、さっ、はっ、ぱっ、ふっ、きゅっ
3.撥音:かん、ぐん、ばん、ぱん、わん、きゅん
4.長母音:かー、がー、きゃー、にゃー、きゅー
5.反復形:かんかん、ぱんぱん、かーかー、きゃーきゃー
さらに、6に示すように、2.と3.が長音化された形態もある。
6.かーっ、さーっ、ぱーっ、ぼーっ、きゅーっ、かーん、がーん、ぐーん、
ぽーん、きゅーん
例からわかるように、一モーラの語基から成るものは、ほとんどが擬音語である。
2.1.2
二モーラの語基を持つ擬音語・擬態語の形態
1. 二モーラ:ぐい(と)、はた(と)
、ひし(と)
日本語における擬音語・擬態語は、二モーラの基本形を持つものが最も多い。しかし、
「ぐ
い」
「はた」「ひし」のように二モーラだけで構成されるものは希である。
一般的には、二モーラの語基に、
「促音」
(っ)や「撥音」
(ん)が付いたものが多い。
2
2.
促音:がたっ、きらっ、ころっ、ばたっ、ぽきっ
3.
撥音:がたん、ころん、ばたん、ぺたん、ぽきん
また、語基が繰り返されるもの(反復形)が一般的であり、最も典型的な形態だと考え
られる。
4.
4.1
反復形
がたがた、きらきら、ばたばた、べたべた
その他、次の例のように、二モーラの反復形変種ものもある。
4.2
からころ、かさこそ、どたばた、ぺちゃくちゃ
4.3
ちやほや、ちらほら、てきぱき、のらくら
4.2の例の場合は、よく似た意味を持つ二モーラの語基を組み合わせたものである。
例えば、
「かさこそ」は、
「かさかさ」の「かさ」及び「こそこそ」の「こそ」が組み合わ
さった語だと考えられる。
「ちやほや」や「てきぱき」など、4.3の例の場合には、「ちや」と「ほや」あるいは
「てき」と「ぱき」を組み合わせた語ではなく、反復形の後部が変化した形態だと考えら
れる。
さらに、二モーラの語基から成るものの中には、
「り」を伴うものも多く見受けられる。
5.
「り」:がたり、きらり、ころり、ばたり、ぽきり
次の例は、二モーラの間に促音ないし撥音が付加され、「り」が語末に付いている形態で
ある。これらは、日本語においてよく見られる一般的な形態である。
6.
がっくり、くっきり、さっぱり、すっきり、ばったり、こんがり、すんなり、ぼん
やり、のんびり、ふんわり
7.の例は、二モーラの間に促音または撥音が入ったものであるが、数は多くない。
7.
すっく、どっか、はっし、ざんぶ、むんず
8.の例は、特殊な形態を持つ擬音語・擬態語であるが、数は多くない。
8.
その他:こけこっこう、すってんてん、とんちんかん、ゆっくりかん
前にも述べたように、日本語における擬音語・擬態語の形態は、基本形として一モーラ
ないし二モーラの語基を持つ。しかしながら、「ふ(と)
」や「ぐい(と)
」のように、一モ
ーラないし二モーラの語基がそのまま使われているものはきわめて希である。
「こけこっこ
う」のような特殊な形態を除けば、語基に促音、撥音、
「り」が付加されたり、母音が長音
化されたり、あるいは語基を繰り返した形態が一般的である。特に、
「くるくる」、
「いらい
ら」
、
「べたべた」のように、語基を単純に繰り返す反復形は数多くある。
以上から、促音化・撥音化・
「り」の付加・長母音化・反復が、日本語における擬音語・
擬態語の形態的特徴だと言えるであろう。
3
2.2
タイ語
タイ語における擬音語・擬態語の一番短い形態は、
「CV(子音+母音)
」または「CV
C(子音+母音+コーダ)から成る一音節のものである。しかしながら、日本語同様に一
音節だけで用いられるものは少ない。しかも、現代語として使われているものは、ほとん
どが擬音語である。以下に、タイ語における擬音語・擬態語の一般的な形態の例を示す。
1.一音節の語基を持つ擬音語・擬態語の形態:
1.1 「kriid(驚き恐れる高い悲鳴。
「きゃー」に近い)」、
「pang(打ち上げ花火や銃な
どの音」
、
「miao(猫の鳴き声)」
、
「pleng(堅いものが落ち割れるまた壊れる音)」
、
「web(瞬
間的に星や光が光るさま)
」
「kriid」のように、一音節の形態だけで使われているものも見られるが、一般的には、
「kriid‑kriid」
「pang‑pang」
「miao‑miao」のように音節を繰り返すものが非常に多い。
1.2
「soo‑see(体が力なくよろめくさま。また不安定なさま)」「ngud‑ngid(落ち着
かない、気があせるさま)
」
「ciaw‑cau(物事が騒ぐさま、ざわめくさま)」
「wew‑wau(星や
宝石が長時間に光るさま)
」
1.3 「klean‑klaad(全般的に物や人物がいっぱいいるさま)」
「kee‑kang(落ちつかな
いさま。目的がない、または一つに定まらず考えゆれ動くさま)」
「cha‑chaan よどみなくし
ゃべるさま」
」
「ngok‑ngern(落ち着きのないさま。また戸惑うさま)
」
1.2と1.3の例は、一音節の反復形の一部分が変化したものを示した。すなわち、
1.2の場合は母音だけが変化したものであり、1.3.の場合は母音及び終結部(コー
ダ)が変化したものだと考えられる。
2.二音節の語基を持つ擬音語・擬態語の形態:
2.1 「kee‑kee kang‑kang(「kee‑kang」の連続的な意味を表す)」
、
「ngok‑ngok ngern‑ngern
(ngok‑ngern の連続的な意味を表す)」、
「tum‑tum tom‑tom(心臓がどきどきするさま。ま
た運動、興奮、恐怖、不安などで激しく動揺するさま)
」
2.2 「kra‑sik kra‑sik(小さい鳴き声)」
、「lok‑laek lok‑laek(あわてたり、うろた
えたりするさま。また落ち着かなくあたりを見まわすさま)
」
2に挙げた例は、二音節の反復形で四音節の形態を持つものである。2.1と2.2の
4
例は、
「AABB」と「ABAB」の形態を持つもので、動作・状態の継続を表すものが非常に多い。
次は、語基の後部が変化した「ABAC」の形態である。
2.3 「ka‑rung ka‑ring(もろく砕けたりくずれたり、ばらばらになったりするさま)」
、
「 kra‑mup kra‑mip(口を十分開けずに小さい声で言うさま。また小言や独言を言うさま)」
、
「ra‑yip ra‑yap(連続的に星や宝石などが光るさま)
」
2.4 「kra‑cad kra‑caai(乱れ散らかるさま。またまとまりのないさま)」
「sa‑uk sa‑uun
(小さい声で泣く)
」
「ta‑klum ta‑klaam(大きい口を開けて無作法に食べるさま)」
2.3と2.4は、反復形変種だと考えられる。2.3に挙げた「ka‑rung ka‑ring」や
「kra‑mup kra‑mip」の例は、「rung‑ring」や「mup‑mip」という語だけでも意味を表すこ
とができる。そのため、二音節を使用する場合もある。一方で、2.4の場合は、
「cad‑caai」
「uk‑uun」「klum‑klam」という語だけでは使用されない。上述の1と2の例から、次のこ
とを指摘することができる。
タイ語において普通に使用されている擬音語・擬態語は、一音節・二音節の語基を持つ
ものが非常に多い。一音節は最も短い形態であり、擬音語として使われているものが過半
数を占めている。ただし、一音節の語は単一形態としてはあまり使われていない。一般的
には「kriid‑kriid(きゃーきゃー)
」のように、反復形が多い。
また、最も典型的だと言える形態は、1.2と1.3のような反復形であろう。1.2
は母音だけが変化したものであり、1.3は子音及び終結部が変化したものである。2.
1は「AABB」(kee‑kee kang‑kang)、2.2は「ABAB」(kra‑sik kra‑sik)の形態であり、
また2.3と2.4は「ABAC」
(kra‑rung kra‑ring)の形態である。なお、
「eak ii eak eak
(こけこっこう)
」のような特殊形態もあるが、希である。
さらに、強調を表すため一音節を二回以上繰り返したものもある。ただし、マンガや文
庫以外ではほとんど用いられていない。例えば、「tuk tuk tuk⇒バタバタバタッ」(『ピー
チガール』上田美和著
2.3
日本語版とタイ語版2002年)
日本語とタイ語の対照
2.2では、日タイ両語における擬音語・擬態語の形態的特徴を示した。本節では、両
言語における擬音語・擬態語の形態的特徴についての比較を行う。
日本語における擬音語・擬態語の一番短い形態は一モーラであり、タイ語では一音節で
ある。日タイ両語における擬音語・擬態語の最も典型的な形態は反復形である。また、音
5
が一部変化した反復形変種もよく用いられる。
英語においても、
「flip‑flap(ばたばた)」
「murmur(ざわざわ)
」「click‑crack(ぱちぱ
ち)」のような反復形は多い(『日英擬音・擬態語活用辞典』尾野秀一編著)。例えば、
「flip‑flap」という英語は、日本語では「ばたばた」に、タイ語では「ngun‑ngaan」 な
いし「plun‑plaan」に当たる。反復形が用いられているのは、日本語とタイ語だけではな
い。
日本語の擬音語・擬態語には、
「促音」
(っ)
、「撥音」(ん)
、
「り」が付加されたり、あるい
は長母音化の起こったものが多く見られるが、タイ語においては、これらの現象が見られ
ない。タイ語は「CVC」という音節を持ち、終結部(コーダ)を持つため、各音節の間
を完全に分けるので、「促音」(っ)が付く形態が見つからないと考えられる。
「撥音」
(ん)
は、タイ語において終結部の一つだと考えられているので、「撥音」
(ん)を付加する形態
がないのである。また、強調のための長音化はタイ語では見られない。タイ語には、既に
母音の長短による区別があるからである。
3.日タイ両語における擬音語・擬態語の文法的機能
本章では、日タイ両語における擬音語・擬態語が文章中でどのように用いられるのか、
すなわち、文法的にどのような機能を持っているのか考察してみる。
日本語における擬音語・擬態語は、基本的には動詞を修飾する「副詞」として使用され
ている。また、
「動詞」や「名詞」等、他の品詞に変わったものも多く見られる。他方、タ
イ語においても、擬音語・擬態語は「副詞」として使用されるのが一般的である。両言語
における擬音語・擬態語は、それぞれどのような文法的働きをするのかを見ていこう。
3.1
「副詞」
日本語においても、タイ語においても、擬音語・擬態語の基本的な機能は「副詞」とし
て文中の他の用言を修飾することである。日タイ両語の雨が降る様子を表す例を見てみよ
う。
雨がしとしと降っている。⇒fon
tok
pram‑pram.
雨がぱらぱら降っている。⇒fon
tok
po‑pae.
「しとしと」や「ぱらぱら」は、
「降る」という動詞を修飾する副詞だとわかる。一方タ
イ語においても、「pram‑pram」や「po‑pae」は、
「tok(降る)
」という動詞を修飾する副詞
である。なお、タイ語においては、動作や感情などを描写する擬態語が副詞として翻訳的
に使われると、
「yarng」という接頭辞が付くことがある。例えば、
「ぼんやり」はタイ語で
「mer‑loi」と訳される。副詞として使用される場合は、
「動詞+(yarng)mer‑loi」にな
6
る。擬音語の場合は、
「yarng」と共に用いられない。
3.2
「動詞」
日本語では、「動詞」として用いられる擬音語・擬態語が数多く見られる。
「副詞」のよ
うに、そのままの形態を用いるのではなく、
「する」や「つく」等が付加され、動詞化され
るのである。
1.
「する」の付加
例:かっとする
ぎくっとする
しゃんとする
あっさりする
げんなりする
いらいらする
きちんとする
これらは、擬音語・擬態語に「する」が付加されたものであり、最も数が多い。特に、
「あ
っさり」のような「□っ□り」形態、「げんなり」のような「□ん□り」形態、また「うろ
うろ」のような反復形が非常に多い。
2.
「つく」の付加
例:いらつく
がさつく
ばさつく
ねばつく
むかつく
もたつく
2の例は、二モーラ反復形の語基に「つく」が付加されたものである。例えば、「いらつ
く」や「がさつく」は、
「いらいら」
「がさがさ」から派生したものだと考えられる。
また、1.の「いらいらする」及び2の「いらつく」は両方とも「いらいら」という二
モーラ反復形の語基から派生したものであるが、微妙に異なるニュアンスを表す。
「つく」によって動詞化されたものは、マイナスイメージを表すことが多い。しかしな
がら、マイナスイメージを持っているものが全部「つく」によって動詞化されるとは限ら
ない。例えば、
「おずおず」には「おずつく」という形態がない。
3.その他の動詞
例:きらめく
ざわめく
ぼやける
よろける
ひたる
よたる
これらは、いずれも例のように「めく」「ける」
「る」等の接尾辞が付いた形態である。
このうち、
「めく」と「る」は、
「つく」同様にマイナスイメージを表すものが多い。
次に、タイ語について見てみよう。タイ語においても、擬音語・擬態語は動詞として使
用されるが、接尾辞等が付加されることはなく、そのままの形態で用いられ、語順として
は動詞の位置にたつ。
例: pro waa mer‑loi ko lei kun rod keun」
⇒「ぼんやりしていたら、乗り過ごしてしまった」
7
例えば、タイ語の「(yarng) mer‑loi(ぼんやり)」は、普通は文中で副詞として使われ
ているので、動詞の後ろに置かれるが、日本語の「ぼんやりする」のように動詞化される
と、
「mer‑loi」というそのままの形態で動詞の位置に置かれる。ただし、動詞化するのは
擬態語がほとんどで、擬音語が動詞化するのは希である。
3.3
「名詞」
3.3.1
日本語における擬音語・擬態語は、臨時的にそのままの形態で名詞として使
用される場合もある。
例:
(a)隣の犬がわんわん鳴いている。
(b)隣のわんわんに噛まれた。
二つの文を比べると、
「わんわん」の文法的機能が違っていることがわかるだろう。すな
わち、
(a)文の場合は、
「わんわん」が「鳴く」という動詞を修飾する副詞として使われて
おり、
(b)文の場合は、
「わんわん」が犬の意味を表す名詞として使われている。このよう
に、名詞として使われるものはほとんどが擬音語であり、「幼児語」として用いられるのが
典型的な使い方である。次の例文を見てみよう(
『必携国語辞典』大野晋
田中章夫編)
。
例:
(c)もやもやした気分が残る。
(d)もやもやが晴れない。
二つの例を比べると、(d)文の「もやもや」は(b)文同様に形態を変えずに名詞として
機能していることがわかる。
3.3.2 「つく」、
「めく」によって動詞化された擬音語・擬態語は、
「つき」
、「めき」
という名詞形を持つ。
例:
「いらつく」⇒「いらつき」
「がさつく」⇒「がさつき」
「きらめく」⇒「きらめき」
「ざわめく」⇒「ざわめき」
3.3.3
「複合名詞」
日本語の擬音語・擬態語は、後ろに他の語を伴って、
「複合名詞」を構成することがある。
例:1.ひそひそ話
2.がら空き
ぶつぶつ言い
よちよち歩き
びしょ濡れ
ぼろ負け
1と2は、擬音語・擬態語と動詞から成る動詞句が名詞化されたものである。1は反復
形であるが、2は非反復形である。すなわち、「ひそひそ話」は「ひそひそ+話」
(話す)
」
から、
「がら空き」は「がらがらに+空き(空く)
」から成る語だと考えられる。
3.ごろ寝
ほろ酔い
8
ぐい飲み
3は、1と2同様に動詞句と組み合わさったものである。しかし、反復形の語基ではな
い。例えば、「ごろ寝」は、「ごろごろ+寝る」ではなく、
「ごろっと+寝る」から派生した
ものだと考えられる。
4.きらきら星
ばさばさ髪
ばらばら死体
4に挙げた例は、擬音語・擬態語と名詞から構成されたものである。「きらきら星」は、
「星がきらきら輝く」から派生したものだと考えられる。
5.むっつり助平
ふんわりパン
のらくら者
さらに、5の例のように、「□っ□り」や「□ん□り」また、反復形変種の擬音語・擬態
語も名詞と結び付いて複合名詞になることがある。
タイ語においては、擬音語・擬態語が名詞として用いられることはほとんどない。
「hong‑hong(わんわん)
」のように、
「幼児語」として使われるものもあるが、非常に少数
であり、日本語同様にほとんどが擬音語である。またタイ語においては、
「kwaam」という
接頭辞を添加して名詞化されることがあるが、この場合、名詞化されるものは、心理状態
を描写する擬態語に限られる。
例:「waad‑wan(おどおど)」
⇒「kwaam waad‑wan」
「ngeup‑ngan(ひっそり)」 ⇒「kwaam ngeup‑ngan」
また、日本語の「いらつく」のように、動詞化された形態がタイ語にないので、「いらつ
き」のような名詞形態もない。さらに、タイ語には擬音語・擬態語から派生した複合名詞
はない。したがって、日本語の複合名詞をタイ語に翻訳する場合は、説明的に翻訳される
ことが多い。例えば、
「きらきら星」をタイ語に翻訳すると、
「きらきら輝く星」になる。
3.4
1.
1.1
「星がきらきら輝く」
dau
soong saeng wew wau
「きらきら輝く星」
dau thii soong saeng wew wau
「きらきら星」
dau thii soong saeng wew wau
「形容詞・形容動詞」
形容詞
「しい」または「い」が付加されて形容詞化される。
例:
「しい」
「い」
:とげとげしい、けばけばしい、たどたどしい
:のろい、ぼろい、とろい、でがい、くどい
二モーラ反復形には「しい」が付加され、二モーラ反復形の語基には「い」が付加され
る。
1.2
擬音語・擬態語の要素あるいは語基が接頭辞として形容詞に前接し、複合形容詞
を構成する。
9
例:ほろ苦い
(ほろっ(と)
ひょろ長い(ひょろひょろ
2.
⇒
ほろ+苦い)
⇒ひょろ+長い)
形容動詞
二モーラ反復形の語基に「やか」が付いて形容動詞化される。
例:にこやか、ひそやか、ゆるやか、しとやか、つややか
これに対して、タイ語では、形容詞として機能する擬音語・擬態語はあるが、派生形は
ない。つまり、そのままの形態で形容詞として機能できるということである。タイ語で動
作や動きが遅い、また鈍い様子を意味する「yuud‑yaad」という語の例を見てみよう。
例:1.のろのろ歩く。
⇒Dern yuud‑yaad.
2.のろのろする。
⇒Yuud‑yaad.
3.のろいしゃべり方。
⇒karn puud yuud‑yard.
1〜3は、
「yuud‑yaad」という語が副詞、動詞、形容詞として機能している例である。
まず、1の例では、
「yuud‑yaad」が「dern(歩く)
」という動詞を修飾する副詞として用い
られており、2の場合は、動詞として機能している。3の例は、「karn puud」という名詞
を修飾した形容詞として用いられている。例からわかるように、「yuud‑yaad」はどの品詞
で用いられても語形は変化しない。
3.5.まとめ
1.日タイ両語の擬音語・擬態語の最も典型的な文法的機能は、
「副詞」としての機能であ
る。
2.日タイ両語の擬音語・擬態語には、
「副詞」としての機能以外に、
「動詞」「名詞」「形
容詞」としての機能がある。
3.日本語の擬音語・擬態語には、接尾辞の付加によって派生した形態がある。
例:
「いらいら」⇒「いらいらする」
「いらいら」⇒「いらつく」
しかしながら、タイ語では、語順によって品詞を特定することができるので、新たな他
の形態を作る必要がない。
4.日タイ両語における擬音語・擬態語の形態と意味との関連性
4.1
日本語
1.特殊形態
前にも述べたように、
「促音」
(っ)
、「撥音」
(ん)
、「り」
、長音、そして反復形が日本語
10
における擬音語・擬態語の形態的特徴だと考えられる。
「ぐらっ」
、
「ぐらん」、
「ぐらり」
「ぐ
らーん」
、「ぐらぐら」のように、同じ語基を持ちながら形態の違いによって、微妙なニュ
アンスの違いを表すことである。このように、擬音語・擬態語の形態と意味は深く関わっ
ている。
1.1 促音:促音を含む語は、「瞬間性」、
「急な終わり方」、
「動作開始」または「スピー
ド感」といった語感を持つ。
例:
「さっ」:行動など急なさま。軽く動く、また早いさま。
「ぱっ」
:突然あらわすさま。一瞬はなやかなさま。
「きらっ」
:瞬間的に光るさま。
「ぐらっ」
:ものが急に大きく揺れ動くさま。
「さっ」
、
「ぱっ」
、
「きらっ」
、「ぐらっ」のように、突然動作が始まり、突然動作が終わ
る様子が感じられる。
1.2 撥音:撥音で終わる語は、
「弾力性」、
「動作の完了から次の動作へ」
、「共鳴」とい
ったニュアンスを表す。
例:
「かん」
:鐘を打つ音。
「ぺたん」
:餅をつく音。
「ぱたん」
:ものをいきおいよく倒れたり閉じたりする音。
「ころん」
:ものが弾んでか転がるさま。
例からわかるように、どれも勢いよく、「弾力性」を感じさせる。撥音が付くものは、ほ
とんどが擬音語で、余韻が残る感じを伴う。
「ころん」の場合は、ものが一度転がって、そ
の後また転がり始めることを予感させる。つまり、
「動作の完了から次の動作へ」というニ
ュアンスを暗示する。
1.3
「り」:「動作終了、完了」または「ゆとりのある感じ」といった語感を持つ。
例:
「ころり」
:ものが転がって止まること。
「きらり」
:瞬間的にすごみを帯びて光が輝く。
「ぐらり」
:一回大きく揺れ動くさま。
例のように、
「ころり」は、ものが転がって止まるイメージである。
「ころっ」と比較す
ると、
「ころり」は、
「ころっ」よりスピードが遅く感じられる。また「ころん」が転がり
続けるように感じられるのに対し、
「ころり」は、動作が一回で終了することを表す。
11
1.4 長音:母音が長音化された形態は、ほとんどが擬音語である。長音形は、「時間的
継続」を表現するのに使用される。次の例を見てみよう(『擬声語・擬態語慣用句辞典』白
石大二偏)
。
例:
1.鐘がカンと鳴った。
2.鐘がカーンと鳴った。
二つの文は、鐘の音を描写する擬音語であるが、2の文の方が余韻が響いているように
感じられる。つまり、「カーン」は、「カン」より強く、鋭く、非常に長い響きを表現する
ことができる。同様に、ものが転がる様子を表す「ころん」と「ころーん」を比べると、
「こ
ろーん」の方がやや時間をかけて転がるさまを表している。
また「カーン」同様に、
「かー」
、
「がーん」
、
「きゃー」などの長音化した擬音語も多く見
られる。長音化した擬態語は、
「強調」に用いられることが多い。例えば、
「ほーっと」は、
「ほっと」の意味的強調形として使用される。
1.5
反復形:「かんかん」、
「きゃーきゃー」、
「ころころ」
、「きらきら」のように、
「連
続的」な音や動作・状態の継続を表現するのには、反復形が最も用いられる。したがって、
「ころころ」
、「ころんころん」、「ころりころり」は、どれも連続した継続表現を示す。ま
た、次の例のように、反復形になっても微妙にニュアンスが異なる。
「ころころ」
:連続して転がること。
「ころんころん」
:弾みをもって勢いよく転がること。
「ころりころり」
:転がっては止まり、転がっては止まること。
2.母音
2.1
母音「あ」:
母音「あ」を含む語は、
「全体」という概念を象徴的に表現する。
例:
かん、かーん、ぱーっ、ばらばら、ぱたん、さらさら、ぱくぱく
「あ」という音は、必ず口を開けて発音するため、音が外に拡がっているように感じら
れるので、
「大きい」
「明るい」「広い」というニュアンスを与えると考えられる。
2.2
母音「い」:
母音「い」を含むものは、甲高く小さい音であり、動きが素早いという印象を与える。
また鋭い、突き刺す聴覚印象を与える。
例:
「きりきり」
:てきぱきと物事を運ぶさま。
「すいすい」
:気持ちよさそうに軽く進むさま。
12
「ちかちか」
:鋭い光が断続的に点滅するさま。
「ちくちく」
:とがったもので刺されるような痛みが繰り返すさま。
「きんきん」
:金属的に耳に鋭く響く高い音声。
「きりきり」や「すいすい」のように、「い」を含んでいる語は、素早いというニュアン
スを表し、
「ちかちか」や「ちくちく」は、鋭いというニュアンスを表す。また「きんきん」
のように、甲高い音声を表すこともある。
2.3 母音「う」:
母音「う」は、人間のくすんだ心理的情感や暗くはっきりしていないイメージを表す。
例:
「ぐずぐず」
:なかなか事が決まらない。はっきりしていないさま。
「うじうじ」
:何かしようとしながら決心がつかず、ためらうさま。
「ぶつぶつ」声で何かつぶやくさま。また、不平や不満をもらすさま。
2.4
母音「え」:
日本語において、母音「え」を含んでいる擬音語・擬態語は、品のない音声や状態を表
す。
例:
「げらげら」
:大声でとめどなく笑うさま。
「へらへら」
:だらしなく、むやみに笑うさま。
「ねちねち」
:性質や話しぶりなどがあっさりせず、しつこいさま。
「げんなり」
:十分すぎていやになるさま。
例からもわかるように、マイナスイメージを表すものが多い。
2.5 母音「お」:
母音「お」が付くものは、こもった音声を表すと考えられ、鈍くて不明瞭なさまを表す。
例:
「おろおろ」
:不安にかられてどうしてよいかわからないさま。
「おどおど」
:おびえたり自信がなかったりして落ち着かないさま。
「ごそごそ」
: 質のあらい物が触れ合う音。またそういう音を立てて、何事
かをしているさま。
「ぼろぼろ」
:もろく砕けたり崩れたり、ばらばらになったりするさま。
また、母音「あ」が「全体」という概念を象徴するのに対して、母音「お」は、「部分」
という概念を象徴する。例えば、乱れ散らばるという意味を持つ「ぼろぼろ」と「ばらば
ら」を比べると、「ばらばら」の方が「ぼろぼろ」より広い範囲に散らかるというイメージ
を与える。日本語では母音は、
「あ」や「お」を含む擬音語・擬態語が最も多い。母音「え」
13
を含む語は、数が著しく少ない。
3.子音
3.1
有声音・無声音
日本語の擬音語・擬態語においては、有声音(濁音)と無声音(清音、半濁音)がペア
になっている形態がたくさん存在する。
例:
「とんとん」
「どんどん」、
「ころころ」「ごろごろ」
これらは、基本的には同じ環境で用いることができるが、両者の間には、微妙なニュア
ンスの違いがある。次に、有声音と無声音のニュアンスの違いを例に挙げる。
・有声音は、無声音より大きく強いという印象を与える。
例:
「とんとん、どんどん」叩く。
「ころころ、ごろごろ」転がる。
「とんとん」と「どんどん」は、いずれも物を叩く音を描写するが、有声音「どんどん」
は、無声音「とんとん」よりも力強く叩いた大きい音を表す。また「ころころ」より「ご
ろごろ」の方が大きい物が転がるさまを表す。
・有声音は、無声音より数量や分量が多く、また重いと感じられる。
例:
「たらたら、だらだら」(汗を)かく。
「とくとく、どくどく」流れる。
「たらたら」と「だらだら」の例をとると、「だらだら」の方が汗の量が多く、重い物が
落ちるように感じられる。同様に、「どくどく」は、「とくとく」よりも重い物が盛んに流
れるさまを表す。
・有声音は、無声音より激しい動作・状態を表す。
例:
「かたかた、がたがた」揺れる。
「きらきら、ぎらぎら」輝く。
例のように、
「かたかた」と「がたがた」は、いずれも揺れている状態を表すものである
が、「がたがた」は、どちらかというと、揺れる程度が強く激しいというイメージを表し、
「ぎらぎら」は、
「きらきら」より激しく輝く強い光を表すと考えられる。
・有声音で始まる擬音語・擬態語は、マイナスイメージを表すものが多い。
例:
「さらさら」
、
「ざらざら」
「しっとり」
、
「じっとり」
「ざらざら」と「じっとり」の例は、イメージ的に汚い様子ないし状態を表している。
例えば、
「ざらざらとした手」というと、手触りが荒く滑らかではないさまを表し、
「さら
14
さら」を使う場合は、湿気や粘りがなくさっぱりとして美しいというニュアンスを含んで
いる。
「しっとり」と「じっとり」は、水分を含んだ状態を表すものであるが、
「じっとり」は、
水分が過度にある状態を表すため、
「じっとりと汗ばむ」のように気持ちが悪いというニュ
アンスを表すのに対し、
「しっとり」は、「しっとり潤い肌」のように適度に水分のあるさ
まを表す。
3.2 破裂音
・破裂音「p」は、自然現象を描写する擬音語に用いられることが多い。
例:
「ぽつぽつ、ぱらぱら」
(雨の降る様子を表す)
、
「ぴゅうぴゅう」
(風の吹く
音)
、「ぴかっと」
(稲妻が光る)
また「p」は、音色が澄み、はっきりした調子の協和音であり、
「b」は、濁った音色の不
協和音である。
例:
「ピー」
「プー」(笛の音)
、
「ボー」「ブー」
(汽笛の音)
・
「k」
「g」は、物がきしんだり、こすれたりして出る音を表すことが多い。
例:
「こんこん、ごんごん」、
「かたかた、がたがた」
、「かんかん、がんがん」
・破裂音「t」
「k」を含んでいるものは、堅いと感じられる。
例:
「かたかた」
、
「がたがた」
、「ことこと」
、「がたぴし」
、
「がちゃがちゃ」
これらは、いずれも堅い物が触れ合う時の音を表している。
3.3
摩擦音
・
「h」が付くものは、抵抗感がないと感じられる。なお、日本語では摩擦音「h」と破裂音
「p」は有声音「b」と対立するので、「h」と「p」は、抵抗感がないという同じ音象徴を表
すと考えられる。ただし、
「h」は「p」より文章的な感じがある。
例:「はらはら、ぱらぱら」
:軽い物がまばらに落ちるさま。
「ほろほろ、ぽろぽろ」
:軽く小さいものがこぼれるように落ちるさま。
・「s」で始まる擬音語・擬態語は、スムーズ、あるいは滑らかな語感を持つものが多い。
特に、
「さ」と「す」で始まるものである。それに、素早い動作や様子を表すものもよく見
られる。
例:
「さらさら」:物事がつかえずに進むさま。
「すいすい」
:気持ち良さそうに進むさま。
「さっと」
:動作などが素早く行われるさま。
「すべすべ」
:滑らかなさま。
15
3.4 鼻音
・鼻音「m」は、円やかで柔らかい状態を表し、はっきりしていない不明瞭な感じを含むも
のも多い。
例:
「むにゃむにゃ」
:口の中でわからぬことを言うさま。
「もくもく」
:煙・雲などが、たくさんわき立つさま。
「もぐもぐ」
:口を十分開けずに物を言うさま。
「もやもや」
:ぼんやりしているさま。またすっきりしないさま。
・鼻音「n」は、ゆったりとした感じ、行動が遅い様子を表す。例えば、「のそのそ、のろ
のろ、のっそり、のしのし、のっしのっし、のっしり、のんびり」のように、いずれも急
がずにゆっくり動く、つまりゆったりした様子を表している。
また、次の例のように、鼻音「n」が付く多くの擬音語・擬態語は、柔らかく、粘りのあ
るニュアンスも表す。
例:
「なよなよ」
:柔らかくしなやかで弱々しいさま。
「ぬるぬる」
:手触りが滑らかでやや粘りがあってすべりやすいさま。
「ねばねば」
:よくねばって物につきやすいさま。
「ぐにゃぐにゃ」
:曲がったり形が変わったりするさま。また柔らかで力のな
いさま。
3.5 流音
流音が使われる擬音語・擬態語は、震え動く様子や震える不安定な状態を表す。例えば、
「ふらふら、ぶらぶら」は、揺れ動くという意味であり、
「よろよろ」
(足取りが確かでな
い、倒れそうな格好になるさま)は、不安定な状態を表す。
3.6 接近音
接近音「w」が用いられるものは、ほとんどが人間や動物が実際に発する音声である。
例:
「わんわん」
、
「わー」
、「わーっ」
、「わあわあ」
、
「わいわい」
4.2
1.
タイ語
特殊形態
タイ語の擬音語・擬態語は、反復形が最も典型的な形態である。タイ語の反復形は、日
本語の反復形同様に、いずれも動作・状態の繰り返しや継続を象徴すると考えられる。タ
イ語の擬音語・擬態語反復形は、次のように分けられる。
16
1.1
一音節反復形は、ほとんどが擬音語だと考えられる。例えば、
「kriid‑kriid(き
ゃーきゃー)
」
「pang‑pang(ぱんぱん)」のように、擬音語が非常に多い。基本的には、一
音節を二回繰り返す形態であるが、マンガや小説などでは、強調のため二回以上繰り返さ
れるものもある。
1.2
次は、
「AABB」
「ABAB」という反復形である。例えば、
「kee‑kee kang‑kang(ふら
ふら)
」
「lok‑laek lok‑laek(きょろきょろ)」のような例を挙げることができる。
1.3 三つ目は、最も多い「ngun‑ngaan(ばたばた、ぐずぐず、まごまご)」
「cha‑chaan
(はきはき、ぺらぺら)」のような反復形及び、「kra‑cad kra‑caai(ばらばら)」「ra‑yip
ra‑yap(きらきら)
」のように「ABAC」といった形態を持つ反復形変種である。
2.母音
タイ語の母音は、短母音と長母音に分けられる。したがって、日本語のように長音化さ
れることはない。タイ語では、長母音と短母音が以下のように、異なったニュアンスを表
していると考えられる。
2.1
長母音は、短母音よりも大きいというニュアンスを表す。
例;
「ha‑ha」
「haa‑haa」
:笑い声。
例のように、
「ha‑ha」
「haa‑haa」は、いずれも笑い声を表すが、長母音「haa‑haa」の方
が、短母音「ha‑ha」
」より大きい声で笑うさまを表す。
2.2
長母音は、短母音よりも共鳴のニュアンスを表す。
例:
「tuum」
:爆弾などが爆発する音。また大きいものが落ちる音。
「tup」
:急に物が落ちる音。
「tuum」と「tup」は、物が落ちる音を表すが、
「tup」は、物が一度落ちて終わる音を表
すのに対し、「tuum」は、物が落ちてから、音がまだしばらく響き続けると感じられ、共鳴
のイメージがある。
2.3
長母音は、短母音より鋭い、高い音声を表現する。
例:
「krik」
:ドアの鍵をかける音。また小さい物が少し転がる音。
「kriid」
:悲鳴をあげる音。
「krik」と「kriid」を比べると、長母音「kriid」の方が、短母音「krik」よりも鋭く
17
高い音声だと感じられる。
2.4
短母音を含む多くのものは、マイナスイメージを表す。
例:「ka‑rung ka‑ring」
:ものがもろく砕けたり崩れたりするさま。またぼろぼ
ろになったりするさま。
「ner‑na」
:粘りがあるさま。ねっとり、ねばねばとしたさま。
「kru‑kra」
:ものの表面が平でないさま。でこぼこなさま。
「cher‑che」
:湿気が多く不快なさま。
「le‑te」
;どうにもならないほどまとまらないさま。
挙げた例は、いずれも不愉快や不満などの感じを表している。
2.5
短母音は、素早い動作・状態や突然起こって急に終わるさまを表すものが多い。
例:
「pria」
:布など物が急に破れたさま。
「wep」
:一瞬光るさま。
「chap」
:物を切る音。また行動などが早いさま。
「pria」
「wep」「chap」は、いずれも早さ、瞬間的な様子や状態を象徴するものである。
興味深いことに、これは、日本語の擬音語・擬態語に現れる「促音」
(っ)という特殊形態
にも見られる現象である。タイ語の「pria」
「wep」
「chap」は、日本語の「びゅっと(裂く)」
「ぴかっと(光る)
」「ばさっと(切る)
」に対応している。
3.子音
タイ語は、
「CVC」という音節を持つ言語であり、語頭に頭子音、語末に末子音を持つ。
タイ語においては、頭子音だけでなく、末子音も音象徴に関わっている。
3.1 頭子音
・
「n」
「y」で始まるものは、柔らかい、遅い、ゆったりしたといった語感を持つ。
例:「nerp‑naap」
:ゆっくりして動くさま。のんびりする行動。
「yuud‑yaad」
:遅く動くさま。
「num‑nim」
:ものが膨らんで柔らかいさま。
「yuap‑yaap」
:急がずに揺れ動くさま。また柔らかで力のないさま。
「nerp‑naap」と「yuud‑yaad」は、ゆっくり遅く動くという意味である。他方、
「num‑nim」
「yuap‑yaap」は、柔らかい様子を表す。ただし、
「y」が付くものは、マイナスイメージも
含むと考えられる。
18
・
「r」
「l」を含んでいるものは、滑らか、スムーズで素早く進行するニュアンスを表す。
例:
「riip‑reng」
:わき目もふらずどんどんゆくさま。
「ruad‑rew」
;素早く進むさま。
「luun‑lai」
:物事がつかえないで進むさま。なめらかなさま。
「klong‑klew」
:なめらかに進むさま。滞りなく話したり行動したりするさま。
例のように、
「riip‑reng」と「ruad‑rew」は、速やかに進む様子を表し、「luun‑lai」
「klong‑klew」は、スムーズで滑らかな状態を表す。
・
「ng」で始まるものは、ほとんどが不明瞭、静かで暗いイメージを与える。
例:
「ngeap‑ngan」
:物静かなさま。黙っているさま。
「ngeap‑ngow」
:静かにもの寂しいさま。
「ngum‑ngam」
:口を十分に開けないでわからぬことを言うさま。
「ngoon‑ngen」
:力なくよろめくさま。またしっかりしていない不安定なさま。
・
「k」
「p」
「t」で始まるものは、擬音語が多い。
例:「kriid(きゃー)
」「kaa‑kaa(かーかー)」
「kong‑kong(こんこん、ごんご
ん)
」
「kik‑kik(くすくす笑う)」
「kruun‑kruun(ぐうぐういびきをかく)」
「pang‑pang(ぱんぱん)」
「pong(ぽん)」
「pram‑pram(雨がしとしと降る)
」
「po‑pae(雨がぽつぽつ降る)」
「plaep(ちくっとする)」
「tum‑tum tom‑tom
(どきどき)」
「tuum(どーん、どかん、どしん)
」
「to‑tae(よたよた、よ
ちよち)」
「tuk‑tak(かちかち)」
3.2
末子音
前にも述べたように、タイ語の擬音語・擬態語では、頭子音だけでなく、末子音も意味
ニュアンスに関わっている。タイ語の末子音は、
「k」「d」「p」
「m」「n」
「ng」
「y」
「w」の八
つであり、それぞれの末子音が含まれる擬音語・擬態語は、異なったニュアンスを表す。
3.2.1
摩擦音
・
「k」
「d」
「p」の語末を持っているものは、音声や動作の急な終わり方を象徴すると考え
られる。
例:
「kik‑kik(くっくっ、くすくす)」
、
「krik(かちゃっ、ぱちっ、がちゃっ)
」
、
「krop(かりっ、さくっ、ざくっ)」
、「kok‑kok(こっこっ、こつこつ、こ
んこん、かっかっ、かたっ)」
、
「chiid(ちくっ)」、
「chap(ばさっ)
」
、
「pok
(ぽきっ、ぱりっ)
」、
「plaep(へろっ、ぺろっ)」
、「pud‑pud(ごぼっ、ぽ
ちゃっ)
」
、
「kwap(じろっ)」
、
「wep(きらっ、ぎらっ)」
、
「leup(ちらっ)」
、
19
「wap(ぽつっ、ぽつん)
」、
「waap(ひやっ、ぎくっ)」
、」
「huap(がくっ、
がくん)
」
、
「heuk(どきっ、はらはら)
」
・
「k」
「d」
「p」の語末で終わるものは、堅いと感じられる。
例:
「tik‑tek」
:堅い物が触れ合う音。
「kok‑kok」
:堅いものに触れ合って出る音。また堅い物を打つ音。
「krood」
:堅いものが大きく擦れ合って立てる音。
「krop」
:堅い物を噛んだり折ったりするさま。
「kraek‑kraek」
:堅い物を掻く音。
・「k」
「d」「p」が付くものは、品のない、またマイナスイメージを表すものが多い。例え
ば、
「saak」
(ざらざら)
、
「paak」
(からからに乾く)、
「kaak‑kaak」
(げらげら笑う)
、
「hook‑haak」
(がみがみ言う)、
「ngud‑ngid(いらいら、じりじり、やきもき、むしゃくしゃ)、
「mup‑mip」
(もぐもぐ、ぶつぶつ言う)、
「chok‑chek」
(がやがや、ざわざわ騒ぐ)などが挙げられる。
3.2.2
鼻音
・鼻音「m」
「n」
「ng」で終わる語は、擬音語として用いられることが多い。
例:「kong‑kong」(ごんごん、ごーん)「ting‑ting」(ぽとぽと、ぽたぽた、ぽ
たりぽたり)「tum‑tum tom‑tom」(どきどき)「kring」(ちーん、ちりんち
りん、ちゃりん、きんこんかん)
「kruun‑kruun」
(ごろごろ)
「tuum」
(どし
ん、どすん、どかん)「pong」(どんどん、どかん)
・
「ng」で終わるものは、
「弾力性」
「共鳴」を象徴する。
「kong‑kong」
「ting‑ting」
「kring」
「pong」
「pang‑pang」
「pleng」など前述の例のように、いずれも音が弾んで響くイメージ
を表す。
・末子音「m」
「n」が付く多くのものは、不明瞭さや不安定さを表す。
例:
「tuam‑team」
(よちよち、よろよろ、よぼよぼ、のこのこ、とぼとぼ)
「oom‑aem、ngum‑ngam、prum‑pram」(もぐもぐ、もじもじ、むぐむぐ、ぶつ
ぶつ)
「pan‑puan」
(めちゃめちゃ、めちゃくちゃ、むちゃくちゃ)
「ngun‑ngaan」
(まごまご、もたもた、ぐずぐず、ばたばた)
「ngoon‑ngean、klorn‑klaen」
(くらり、くらくら、ぐらぐら、よろよろ、ぶ
るぶる、がたがた)
3.2.3
接近音
・末子音「w」を含んでいるものは、摩擦音が末子音に来る場合と比較すると、より範囲が
20
広いと感じられる。例えば、「wep‑wap」と「wew‑wau」のペアは、星などが光るさまを表す
が、
「wep‑wap」よりも「wew‑wau」の方が広範に光っている状態を表す。さらに、
「wep‑wap」
は、一度光るあるいは、瞬間的に光るというニュアンスを表すのに対し、
「wew‑wau」は、
やや時間をかけて持続的に光るというニュアンスを表現する。日本語に当てはめれば、
「wep‑wap」は「きらっ」に、
「wew‑wau」は「きらきら」になる。
・末子音「y」で終わる語は、ゆったりとした、静かな、柔らかいと感じられる
例:
「prooi‑prai」
:雨が柔らかく降り始めるさま。
「yoy」
:滴が少しずつ垂れ落ちるさま。
「riay‑piay」
:目的なく歩き回るさま。何となくのんびりして行うさま。
「ngoy」
:静かに寂しそうで元気のないさま。しおれているさま。
4.3
まとめ
以上のように、日本語においても、タイ語においても、擬音語・擬態語は、形態と意
味が関連性を持っていると言える。異なる形態によって、様々なニュアンスを表すと考え
られる。
・反復形という特殊形態を持っていることが、日タイ両語の共通点である。
「ごろごろ」の
ような反復形や「ngun‑ngaan」
(ばたばた)のような反復形変種は、いずれも動作・状態の
繰り返しや継続を表す。
・日本語の長音化された母音とタイ語の長母音が擬音語の中で用いられる場合は、いずれ
も「共鳴」というニュアンスを表す。しかし、擬態語の場合、日本語では「強調」という
ニュアンスがあるのに対し、タイ語にはない。
・日本語の擬音語・擬態語は、有声音(濁音)と無声音(清音・半濁音)の対立によって、
ニュアンスの違いを表すが(「ころころ」「ごろごろ」)、タイ語には有声音と無声音の対立
がないので、このような違いは見られない。
・
「あ」
「い」
「う」
「え」
「お」という母音を持っている日本語では、各母音それぞれが象徴
的な意味ニュアンスを持っている。これに対して、タイ語では、短母音と長母音の対立の
方が優先されると考えられる。
・タイ語においては、頭子音だけでなく、末子音も音象徴に関わっている。
・日本語の促音「っ」
(きらっ)という特殊形態同様に、タイ語の摩擦音末子音「k」
「d」
「p」
(wep)も「瞬間性」や「急な終わり方」を象徴する。
・日本語の撥音「ん」(こんこん)という特殊形態同様に、タイ語の鼻音末子音「ng」
(kong‑kong)も「弾力性」
「共鳴」を表すと考えられる。
21
5.おわりに
以上、日タイ両語の擬音語・擬態語をめぐって、日本語を中心としながら両言語の対照
的研究を試みてきた。両言語は、音韻的にも形態的にも構造が異なるが、擬音語・擬態語
においては、種々の類似点が存在する。
日タイ両語には、自然界を描写する擬音語や人間の動作様態を象徴的に表現する擬態語
が実際に多数存在しており、知らず知らずのうちに、あるいは無意識に使用されている。
したがって、日本語らしさ、タイ語らしさを身につけるためには、擬音語・擬態語の学習
が不可欠だと言えるであろう。
「CV」から成る日本語と「CVC」から成るタイ語は、全く違う構造を持つ言語であ
るが、両言語の擬音語・擬態語は、形態と意味が深く関わっている。
形態と意味の関連性については、厳密な規則はないが、本稿では、例を示しながら、擬
音語・擬態語はどういう形態を持っているのか、各形態はどういうニュアンスを表してい
るのかということについて述べてきた。さらに、擬音語・擬態語の文法的機能についても
考察を加えた。タイ人日本語学習者にとって、日本語の擬音語・擬態語の習得は、大変難
しく、また参考書も不足している。このレポートを出発点として、今後さらに日タイ両語
の擬音語・擬態語に関する研究を進め、学習者が効果的に日本語を習得できる方策を探っ
ていきたいと思う。
参考文献
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『擬音語・擬態語辞典』角川書店
田守育啓(2003)
『オノマトペ擬音・擬態語をたのしむ』岩波書店
天沼寧編(1974)
『擬音語・擬態語辞典』東京堂出版
白石大二編(1982)
『擬音語・擬態語慣用句辞典』東京堂出版
堀井令以知(1986)
『擬音語・擬態語の言語学』明治書院
尾野秀一編(1991)
『日英擬音・擬態語活用辞典』北星堂出版
筧寿雄・田守育啓編(2003)
『オノマトピア』勁草書房
日向茂男・日比谷潤子(1989)
『擬音語・擬態語』荒竹出版
三戸雄一・筧寿雄編(1981)
『日英対照:擬声語(オノマトペ)辞典』学書房出版
小林英夫(1976)
『国語音象徴の研究』みすず書房
ローレンス・スコウラップ(1999)
『オノマトペ・形態と意味』くろしお出版
宮本マラシー(1996)
『タイ語の言語表現』大阪外国語大学学術研究双書17
森山卓郎(2001)
『日本語とタイ語の擬音語・擬態語の研究へむけて』ひつじ書房
22
上田美和(2002)
『ピーチガール』日本語版・タイ語版 Kodansha Comics
矢沢愛(1999)
『NANA』日本語版・タイ語版 Shueisha Inc.
コーサー・アリヤ(1996)
『日タイ辞典』Thammasat University
コーサー・アリヤ(1996)
『タイ・日本辞典』Thammasat University
23
インドネシアの番組と日本のテレビ番組の比較
ウィジャヤ・アストリッド
テレビは一つのマスコミとして日本のメデイアの受け手、読者や視聴者にも重大な影響
を与える。1どこの国にも、テレビというものがあるが放送されている内容は同じではない。
そこでその内容の違いを調べるため、各国のテレビ歴史から書き始めることとする。日本
のテレビ放送の歴史は昭和 28 年(1953 年)に始まった。まず NHK が 2 月 1 日に本放送を開
始、同年 8 月 28 日、日本テレビ放送網(NTV )が民放として初めて本放送をスタートした
2
。インドネシアの場合、テレビ放送の歴史は 1962 年(昭和 37 年)に始まった。国営放(イ
ンドネシア共和国テレビ、略して TVRI)が唯一の放送局としてテレビ業界を独占していた
が、1989 年のラジャワリ・チトラ・インドネしア・テレビ(RCTI)開局以来、ぞくぞく民
間放送が生まれた。3
両国のテレ歴史を見ると、明らかに、日本のテレビ界は長い歴史を持っている。
さて、日本のテレビ番組を挙げるともちろん色々ある。ニュースを除いては大体面白いも
のである。特にバラエティーの番組を見るとかなり多様である。テレビ局はみんなの満足
をさせるためにできるかぎり面白い番組を作成するがそれは簡単なものではない。なぜな
ら、多くの人を満足させる番組を作成するのは困難だからである。またテレビ局はビジネ
スと深い関係があるためで、できるだけ多くの視聴者を引きつけようである。そのため、
テレビ局は視聴者の立場に立ってどんなものを見たいかを考えなければならない。それに、
視聴者の背景は様々であるためそれも一つの問題になる。
筆者はさらに日本に来て一ヶ月ぐらいの間に、自分の国と比べると、日本のテレビ番組
はより面白いというか、違う雰囲気を持っていると感じた。それはほとんど放送されてい
る番組に反映している。日本のテレビ番組とインドネシアの番組と比べてみると、やはり
大きな相違があるだろう。なぜ日本のテレビ番組は面白いと感じるか簡単な理由は言えな
い。ある国に放送している番組はその国の社会、文化を映すとは言えるかもしれない。そ
こで私は日本とインドネシアのテレビ番組を社会や文化の方面から考察することとした。
1
桂敬一、1996 年「メデイア王マードック上陸の衝撃」岩波ブックレットNO412、4 ペー
ジ
2 岡村黎明著、2003 年「テレビの 21 世紀」岩波新書、i ページ
3 小池誠、1998 年「インドネシア島々に織りこまれた歴史と文化」前田完治、195 ページ
24
この研究は、以下のような構成となっている。
I.
日本とインドネシアのテレビ番組の特徴
II.
日本とインドネシアのテレビ番組の分析
III. 日本とインドネシアの社会や文化の違いの考察してみる。
Ⅰ. 日本のテレビ番組の特徴
a.日本のテレビ番組を見ると、特にバラエティー番組に字幕と様々な記号が出てくるのは
めずらしくはないが、インドネシアのテレビ番組の母国で放送されている番組は、インド
ネシア語で書いてある字幕は出てこない。
どうして日本の番組なのに、日本語の字幕が出てくるのだろう。ひょっとしたら、障害
を持つ視聴者のことを考えているのではないだろうか。ニュース番組だけではなくて、娯
楽番組も楽しめる様にではないか。特にバラエティー番組には、日本語で字幕が日本人に
とってごく普通のことかもしれないが、筆者にとっては目新しいものである。インドネシ
アではこういうものは全くないので、最初は見慣れていなかったが勉強になるから本当に
良かったと思う。この点で、日本のテレビは一つの勉強のいい手段と言えるだろう。それ
だけではなく、日本の番組のなかで特にバラエティー番組で使用されている言葉はそれほ
ど正式な言葉ではないようである。
インドネシアではニュースのような正式な番組はもちろん、クイズ番組のような娯楽番
組でも丁寧なインドネシア語を使用する。
また他の特徴を挙げるとの朝ニュース番組に
出てくる人はたいてい2人以上である。メインアナウンサーは2人いて、それ以外にもゲ
ストスターが二人ぐらいはいるだろう。ある民放では、毎朝6人も出てくるのを見たこと
がある。インドネシアのニュース番組でも、日本と同様、メインアナウンサは2人いるが
ゲストは大体一人しかいない。たまに2人のゲストが出てくる場合もあるが、6人も出て
くることはない。
b.インドネシアのテレビ番組の特徴。
「インドネシアは世界で最多のイスラム教徒を抱える国である」ということは多くの人
が知ってるかもしれないがインドネシアはイスラム国家ではなくて宗教国家である。国家
が決定するアガマ(宗教)が社会生活のあちこちで大きな力をもって存在している4。その
ことはインドネシアのテレビ局によって放送されている番組にも反映されている。毎朝、
4
ibid, 62 ページ
25
テレビ局が放送を開始すると、それぞれの局がほとんどイスラム教の番組を放送している。
それは多分インドネシア人にとって、なじみのあることだけれどあまり宗教のことにこど
わらない日本人にとっては、このような番組は不思議に思うのではないかと思う。
このイスラム教の番組は確かに月曜日から日曜日まで放送されている上に、局によって
は時々午後同じような番組も再び放送されている。さらに、イスラム教徒にとって、一年
で最も重要な宗教行事は、ラマダンと呼ばれる断食月間はテレビ番組にも大きな影響を与
えている。その時期に放送されている番組はイスラム教の番組に変更される場合が多い。
ドラマのストーリーもイスラム教の考えに関する話が多いのが、どのテレビ局にも現れる。
その上、全体的にも、番組内容が変わっている。その時期に不適切なように思われる番組
は一時的に中止されている。それらの番組は例えば:洋画ドラマ、ラテンアメリカドラマ
のような刺激の強いシーンが入ってるものである。
もちろん、ラマダン以外の時期には、他の宗教の番組も放送されているが頻度数的には
はるかに少ない。それぞれの宗教の番組の時間帯は決まっていないが少なくとも一ヶ月に
一回は放送されている。また、インドネシアのどのテレビ局も、毎朝開始する時は、イン
ドネシアラヤという国歌を放送する。なぜこういうことをやるかは明らかではないがイン
ドネシアは多民族国家からできた国民できるため分裂はいつまでも懸念することになって
いるのだろう。そのため、毎日インドネシアラヤの国歌を放送することで政府は「多様の
中の統一」というスローガンを掲げ、多様な民族を統合うるように国民を導こうしている
ではないかと考える。それだけではなく、間接的な政治宣伝と言えるかもしれないが堂々
とテレビ放送を政治手段として使用している政党も少なくない。特に選挙を迎える時期が
一番目立つことになる。このようなことは日本ではあまり見られないだろう。
日本では、このようなことがないのは民族の分裂が問題になっていないので、国歌を放
送するには不必要なことなのではないか。だから、日本のテレビ局で「君が代」という国
歌を放送していないことは当然であろう。
II.
日本とインドネシアテレビ番組の分析
日本のテレビとインドネシアのテレビの番組表を比較してみる。日本のテレビ局として
は NHK 総合局と TSS 局を取り上げて、インドネシアの場合は TVRI 局(国営)とインドシア
ル局(民放)を取り上げる。特に TVRI の歴史については前述に書いたため、今回はインド
シアル局について少し説明する。インドシアル(IVM)は 1995 年1月 11 日に開局した。確
かに一番に開局した民放ではなけれど民放の代表的な局と言えるだろう。以上のインドネ
シアと日本のテレビ番組を比べたところ、次のようなことが明らかになった。
26
1.放送時間
放送時間を見ると、日本の NHK 総合局はかなり長く(24 時間)、インドネシアの TVRI 局
は一日、約 19 時間ぐらい放送している。また、民放放送の場合、日本の TSS 局は約 21.6
時間放送して、インドネシアのインドシアル局は約 20.5 時間である。
2.ニュースの割合
各局のニュース割合を見ると、日本のテレビは NHK,TSS のどちらもニュース番組がイン
ドネシアよりは割合が多い。さらに、日本のテレビ局の中でも、NHK 総合は(一応国営局と
しては)民間の TSS 局よりも割合が多いことは明確で、同様にインドネシアも TVRI 局の方
が、インドシアル局よりもニュースの割合が多くなっている。
3.娯楽
クイズ、ドラマ、バラエティーのような娯楽の放送時間を見ると、インドネシアのテレ
ビ局、特に民放のインドシアルでは割合が全体的の 78%にも及ぶ。TVRI 局が国営よりもず
っと多い理由はインドシアルは民放の一つであり「コマーシャル収入に依存しているので、
できる限り多くの視聴者目をひきつけようと、娯楽番組構成になっている」5のである。
3.1
クイズ
インドネシアのテレビ局の娯楽番組は大体クイズ、ドラマ、洋画ドラマ、音楽からでき
ている。特にクイズ番組のほうに、あまり豊富な知識は与えないだろう。もちろんそのな
かにも面白くて豊富な知識を与える内容もある。例えば:日本で放送しているクイズ$ミ
リオネア「TSS 局、毎木曜日、19:00〜19:57 時」はインドネシアでも全く同じような番
組が「Who wants to be a millionaire」というタイトルで放送されている。それを見ると、
知識的なこともかなり入っているが、こういうクイズ番組はあまりないである。
また、最近、インドネシアで注目を集めている人気のある他のクイズ番組として、毎月
曜日から金曜日までインドシアル局に、朝 08:00〜09:00、Kuis Siapa Berani (クイズ
誰が勇敢か)が放送されている。このクイズの特徴はいつも生放送で参加者は 100 人に決ま
っている。その 100 人は 5 グループに分かれていて、各グループは 20 人にきまっているの
で、参加者はほとんど会社の人とか学校のような人々がたくさん集まる場所から来ている。
クイズ番組は普通夜に放送されているが、これは珍しく朝放送されていて、こんなに人
気が出るとは本当に予想されていなかった。それに Who wants to be a millionaire クイ
5
ibid, 199 ページ
27
ズと比べてみたら、このクイズはインドネシア独自の制作であり、こんなに注目を浴びる
のは稀である。
一方で、最近日本で人気が出たクイズ番組は毎水曜日、夜 21:00〜21:54、TSS 局で放
送されている「トリビアの泉」クイズである。「明日使えるムダ知識をあなたに」というキ
ャッチフレースで色々ななじみのない話とか情報を全国の視聴者から集める。そして、ス
タジオにいる 5 人の出演者はまず、最初のヒントを聞いて、その情報が面白いと思ったら、
ボタンを押す。そして VTR を見て、さらに面白いと思えば、ボタンを押し、最後に出演者
全員のボタンの数の合計が情報の提供者にお金として換算されて、送られる。
3.2
ドラマ
日本は四季なので、放送されている番組にも四季が影響を与えているのではないかと思
う。例えば:テレビでやっているドラマ番組はテレビ番組の雑誌の表紙を見たら、確かに
「秋ドラマスタート」とか「春ドラマが登場する」など、四季を使用した言い回し方をし
ている。さらに、ドラマのシリーズはたいてい 11 回まで制作されている。そのドラマの長
さは季節の期間と合っていて、そんなに長くは制作されていない。
逆に、インドネシアのドラマと比べてみると、一年間以上を上回った連続ドラマもある。
自分が思うには、ドラマが始まった時にはいつ終わるかが決まっていないのでもし人気が
出れば、いつまでも続くことになるようだ。例えば:インドシアル局に放送されている
TERSANJUNG「プライド」
、毎金曜日、20:00〜21:00 というドラマは4年間以上放送されて
いる。最初に放送された時は視聴者の評判が良く、そこまで人気が続くとは思わなかった。
日本にも、11 回以上放送されているドラマがあるようだ。
「渡る世間は鬼ばかり」というド
ラマは何年間も続いているそうだ。このドラマではごく普通の家族におこる問題を取り上
げているのだが、この様に長く続いているドラマは日本では珍しいだろう。
3.3
バラエティー
バラエティー番組は自分自身にとって、最も興味深いものである。なぜかというと、イ
ンドネシアでは日本のようなバラエティー番組はあまりないからである。もちろんインド
ネシアにも笑いを取る面白い番組はあるけれど、日本のバラエティー番組は笑いだけでな
く、内容の充実した、ためになるものが多い。例えば:HTV 局、日曜日、夜 21:00〜22:
00、
「行列のできる法律相談所」のバラエティー番組を見れば、視聴者は綺麗な芸能人達を
見るだけでなく、それに加えて法律の情報も理解できるようになる。それにスタジオにい
る参加者(普通は芸能人)にあるケースについて、自分はどう思うかを判断させて回答さ
せるという番組である。また、以上と同じように充実したためになる番組は TSS 局、金曜
28
日、夜 19:57−20:54「ザジャッジ」というタイトルで放送されている。
4.情報・教養番組
日本の情報・教養番組を挙げると、日常生活に関する内容はかなり視聴率を引くだろう。
「伊東家の食卓」という番組は 2002 年 10 月の関東のテレビ視聴率 TOP20 の6位にあった6。
インドネシアではこんな番組はあまりないのであるが情報・教養番組の例を挙げるとドキ
ュメント番組が挙げられる。そのドキュメントの内容は大体自然とか動物についてであり、
あまり日常生活に関していないものである。
5.スポーツ
日本では、一番人気のあるスポーツを言うと間違いなく野球である。スポーツの番組を
放送したら、確かに一部は野球のコーナがおいてある。それに去年 11月の TV 視聴率を見
ると、日本シリーズ巨人―西部第1戦と2戦は1・2位にあった7。そして、野球以外、人
気を維持してきたスポーツ番組はプロボクシング、相撲である8。
一方、インドネシアでは一番人気のあるスポーツは一応サッカだが国際的に定評のある
スポーツを挙げるとバドミントンである。ほとんどのバドミントン大会、特に国際の大会
がいつも放送されている。もちろん、他のスポーツの番組も放送されている。例えば:2002
年日本・韓国で主催された WORLD CUP もインドネシアで放送されて盛り上がった。
III.
日本とインドネシアの社会や文化の違いを考察してみる
テレビで映しているものはかなりそれぞれの国の社会や文化を反映しているだろう。そ
の見方から日本とインドネシアの社会や文化を考察してみる。
1.放送されている番組を見ると、日本のテレビ番組はより自由さを表している。特に、
バラエティーのような娯楽番組の中で、その自由さは私にとって一番目立つものである。
例えば:インドネシアではクイズのような、みんな楽しめるはずの番組でも司会者はもち
ろん出演者も、みんな正しい言葉を使用しているだけでなくて、全体的に真面目な雰囲気
になるようにされているような気がする。逆に、日本のバラエティー番組を見ると、その
自由さを感じられます。この点で私にとって、日本とインドネシアのテレビ番組の相違が
明らかになってきました。このように、日本の社会はインドネシアの社会と比べるとより
6
7
8
weekly テ V ビジョン、2002 年 11 月 22 日、120 ページ
ibid
小田桐誠、1994 年、
「テレビ業界の舞台裏」
、三一書房、36 ページ
29
自由な風潮があるようである。
2.日本は先進国といっても、確かに西洋の影響を受けているがまだ伝統的なものを守り
続けているようだ。テレビで放送されている時代劇や各地方の祭りを見ると、そう思われ
る。インドネシアは多民族からの国民できていても、実際にそれぞれの地方の文化はあま
りテレビに反映していないようだ。日本もインドネシアも西洋の文化に対して向かってい
るが日本はその西洋の文化を取り入れながら、自国の文化を守っている一方インドネシア
は西洋の文化を取り入れて、自国の文化を忘れているようだ。
参考文献
柱敬一、1996 年「メディアマードック上陸衝撃」岩波ブックレット NO412、
岡村黎明著、2003 年「テレビの 21 世紀」岩波新書、
小池誠、1998 年「インドネシア島々に織りこまれた歴史と文化」前田完治
weekly テ V ビジョン、2002 年 11 月 22 日
小田桐誠、1994 年、「テレビ業界の舞台裏」
、三一書房、
30
資料1
31
資料2
32
日本と中国の企業経営比較
チャン・アントニオ・ジンボ
導入
日中経済概略
日本は世界有数の経済発達国の一員であり、第二次世界大戦後、日本の経済発展が急激
に発達し、とりわけ 70 年代と 80 年代に自動車と電化製品などの輸出で外貨を稼ぎ、国外
の投資活動も非常に多く、経済大国のイメージもその時期に確立した。日本統計年鑑(2002)
によると、2001 年日本の国内総生産の構成は製造業が約 21.6%と首位を占めている。日本
における輸出の割合によると自動車製造業の輸出額はおよそ 978 億円であり、全国の輸出
総額の 20.0%を占めており、日本経済を担う基幹産業として最も重要な役割を務めている。
最近、生産の費用を下げるため、各自動車生産会社は自ら一部あるいはすべての流れ作業
を労働力や資源の豊富な中国へ移転した。現在、日本は厳しい経済環境に直面して、不良
債権、リストラや失業などの問題により日本経済の発展に影響を受けているにもかかわら
ず、日本の大手企業は世界での経済影響力をいまだ持っている。
一方、投資機会の最も多いといわれる国‐中国は 1976 年に毛沢東の「10 ヵ年規画」をは
じめとし、経済開放の政策を導入し、この 27 年間経済の改革を推し進めている。開放政策
では中国南部、特に広東省一帯に経済特区を形成し、中国への海外投資の窓口となった。
現在、社会主義市場経済体制に従い、年々一定の国民総生産の増加を目指している。2002
年の国内総生産は 10 億中国元を突破し、2001 年の国内総生産より8%増加した(中国国家
統計局 2003)。中国の経済構成は農業、工業とエネルギー、という三つの柱に支えられ、中
でも世界総生産量のシェアを見ると鉄鋼製造、紡織、電化製品生産などの工業が、ほぼ 10
〜38%を占め、世界の工場の地位を確立した。その上、WTO(世界貿易機関)加盟に伴う国
内企業の再構成と企業の保護条文の廃止などにより、中国自らの企業競争を激化すると見
られる。西部開発、WTO への加盟と安価な経営経費のため、日本経済新聞社と日本経済研究
センターが共同で実施した「日本企業の中国・アジア戦略調査」にて、日本の 709 社のア
ンケートで、約7割弱に中国市場が「5‑10 年後に世界有数規模になる」と答えた(『日本経
済新聞』2002 年 11 月4日)
。
現在、日本の産業は自らの生産における流れ作業を中国に移転しただけでなく、「人口最
大の消費地」中国に販売市場の開拓も重視しており、中国はいまや日本にとって不可欠の
33
貿易パートナーなのである。また、
「日本企業の中国・アジア戦略調査」にて、2005年
の中国市場向けの売り上げ予想は回答した 326 社の合計で 2 兆1千億円であり、両国の貿
易取引はもっと頻繁に行われるはずである。
日本と中国の企業経営を理解する重要性
現在、世界経済は不景気という状況に迫られ、戦争と金融などの問題で世界の経済大国
であっても新たな投資や融資機会を探り出し、自らの経済成長を引き伸ばそうとしている。
要するに、経済発展潜在力が最も高い国を探り出すことで、その国との貿易関係を強め、
互いの経済を促進することを目指している。今、最も経済発展潜在力が高い国はおそらく
中国しかないだろう。しかし、中国のビジネス文化は一般の欧米ビジネス文化とは異なり、
アジアでも独特なビジネス文化を持つ。したがって、中国の企業とスムーズなビジネスを
行おうとするなら、中国の企業経営を充分理解しなければならない。中国の企業経営文化
は中国多年の儒教思想に影響されているため、中国に対し一般の欧米企業の経営策略を用
いれば、必ず貿易摩擦という結果を招く。
日本はアジアで屈指の経済発展国であり、現在、国内の経済不景気ではあるが、国外投
資の活動はまだ行っており、中国と殆ど同じ思想文化を持つ日本は隣国中国との貿易取引
を更に増加するべきである。日本と中国は共に経営共通点を持っており、そのため互いの
取引も他の国より容易である。中国は WTO への加盟後、国内市場をさらに開放し、大量に
世界各国から資金が注がれ、地域と思想文化の相似で鬼に金棒である。日本は中国の完全
に対外開放する初期のチャンスを捕らえて、他の国より先に経済活動を行うだろう。
この研究の目的は日本と中国各自の独特の経営文化を比較し、両国の経営文化の差異の
研究を通じて日本と中国のビジネス関係を促進させようとするものである。さらに、現在
の経済環境で日中の企業経営策略の変更も提案したいと考える。
日本企業
日本企業形態
現在、日本経済を支えている企業は、主に戦後の旧財閥系列グループ、ソニー、トヨタ
と松下電器などの組み立てメーカーグループ、明治維新時に創立された総合商社(財閥系
含め)である。総合商社の海外投資額は 80 年代前半におよそ日本の 3 分の一の海外投資額
を占め、日本の輸出入と国内取引が基本的に総合商社に支配されていた。旧財閥は、即ち
三菱、三井、住友、芙蓉(旧安田)などの戦前財閥企業であり、第二次世界大戦後、これ
ら財閥が解体され、変わりに、現在の旧財閥系列グループになる。現在、旧財閥系列は国
内では様々なビジネスで活躍しており、今でも日本経済に影響力を持ち、たとえば三菱銀
34
行、合併した三井住友銀行など大手銀行も財閥企業の業務の一つである。ただし、松下電
器、ソニーなどの新興企業の活躍の影響で旧財閥は今や日本経済唯一の支柱ではない。
銀行、貿易会社、証券会社、製造企業などの系列の株は、主に系列の中心企業を所有し、
メンバー会社の取引も同じグループ内の各社であり、グループに資金や生産物資を供給す
る役を務めている。グループの経営方針も中心企業により統制されたものである。中心企
業に提供する資金や物資は、一般の相場価額や借金の利子より低い。たとえ系列企業に損
失があっても、中心企業の要求に従って行う。しかし、中心企業の傘下系列の一員として、
各メンバー会社もその身分を誇っている。しかし、最近の経済不景気の影響で、各メンバ
ー企業の利害の衝突も激化したため、グループ内でのライバル関係が発生し、利益を保つ
ためメンバー企業自らの独立した行動をとり、
系列としての統一は徐々に薄くなりつつ
ある。
総合商社は日本における資本主義の歴史的な展開と密接な関連の下に誕生、発展し、戦
前と戦後も日本国外の取引の仲介機関であり、日本高度経済成長期における総合商社が海
外進出の他、融資の債務保証の役割も果たした。現在の総合商社は海外投資活動だけでは
なく、完備の情報ネットワークを持つため通信事業へも進出し、国内の開発計画にも参入
し、既存の商品取引業務よりも新たな業務による自らのビジネスをもっと強化し、多角的
な業務を行っている(藤井ほか 1991)
。
雇用制度
日本の雇用制度、いわゆる終身雇用制は非常に独特の経営方針の一つであり、*終身雇用
とは、正規の従業員として採用された場合に、経営上の大きな困難や従業員の大きな不手
際がないかぎり、定年まで雇用されるという暗黙の契約である。終身雇用の策略が大幅に
採用されたのは 1950 年代後期の日本の経済高度成長期であり、企業による雇用が急増し、
特に大手企業の大量生産工場化を進め、自らの生産力を確保するため採用されたものであ
る。終身雇用の主なメリットは二つある。一つは企業へのコミットメントとモチベーショ
ンであり、企業が長期の関係を重視するため、従業員へ雇用保証を与え、それにより従業
員の仕事への努力もより大きくなる。第二のメリットは、企業内での熟成や技術蓄積がで
きることである。終身雇用の従業員は企業内部のローテーションやトレーニングを受けた
ため、企業に対する経営管理や生産の効率も高めることができる(伊丹ほか 1989)
。最近は
終身雇用の基準が多少変わってきており、勤め始めた組織にずっと所属する人ばかりでな
く、関連企業への転籍が早い階段で始まるようになってきた。しかし、こういう変化があ
っても、雇用制度は従業員の保護を義務とし、景気に応じてレイオフなどの雇用調節シス
テムの導入もできなくなり、雇用制度の硬直化問題も続々明らかになってきた。
35
企業組織構造
日本の一般組織構造の職階級は、他の国と比べかなりの中央集権である。社長や部長レ
ベルは企業の新たな計画の画策や計画の開発など企業の主な経営策略もトップ・マネジメ
ントが主導する。したがって、企業内トップ・マネジメント以外の階級が実際に握ってい
る自主権は非常に少ないのである。その上、今、日本企業が採用している事業部組織構造
は事業部制組織であり、つまり、組織が製品、地域、あるいは顧客を基準に事業目的別に
事業部が作られる組織である(金原 2000)
。この組織構造が多角化ビジネスの発展に有効で
あるため、多角化ビジネスを進めている日本企業は事業部制組織を採用する傾向がある。
(図−1)
図−1
事業部制組織図
社長
企画
資材
事業部 A
経理
事業部 B
生
営
産
業
総務
技術
事業部 C
経
株主と企業の関係
企業経営の自主を極めるため、株主は企業のガバナンスが非常に少ないのである。日本
企業の理事会は常に企業自らの上位管理役を担当し、終身雇用と共に、いつか理事会の一
員となる従業員の忠誠心も高い。こういう関係は日本経営の特徴の一つである。ちなみに、
企業の株所有権が企業を握っており、即ち企業が株主を選べ、更に、企業の従業員を持っ
ている株がわずかしかないので、様々の株所有権を制限する企業のトップ・マネジメント
は企業の全体管理を独自に行っている。株主の配慮がなくなり、管理や生産もより効率化
36
するが、透明度がないため、最近、実際に株主優位の理論で企業のガバナンスを行ってい
るアメリカはこの不透明の日本的制度変革を望んでいる(伊丹ほか 1989)
。だが、企業のガ
バナンスと企業のスムーズ経営がどのようにバランスを保つか、その問題を解決するには
更なる時間を必要とするだろう。
中国企業
中国企業形態
中国の企業基礎は国有・国営企業であり、社会主義のもとで国内大企業および他の関連
企業を国有化しており、企業の経営方針と共に資本の運用などは基本的に中国中央政府、
即ち国務院により支配されている。国有・国営企業は国務院の政策に従い、国内と国外貿
易往来の仲介人の役を務めており、中国の計画経済政策を本格的に実行する企業である。
国家基幹産業部門を中心に大企業およびその関連企業が国有化されていたし、電力、交通、
通信、銀行も政府の管理下に置かれる。このような企業形態は、要するに、日本の旧財閥
とほぼ同じ形態である(今井 1993)。
なお、国有企業の経常赤字が増大するため、政府の補助金もますます増加し、経営の見
直しは重大な課題である。この問題に対して、国有企業は新しい経営方針を導入し、国有
企業にも独立採算原則に基づく経営と資本・行政の分離が図られるようになり、私的資金
も国有企業へ注がれる(今井 1993)
。中国は WTO へ加盟してから、国有企業が資本会社化す
る可能性が高いため、国有・国営企業の経営や資金調達も更に効率化するが、一方で過剰
の従業員や国際競争力不足などの問題も同時に明らかになる。
国有・国営企業の他、中国国内は郷鎮企業(きょうちんきぎょう)や外資系企業もある。
郷鎮企業は郷鎮所有企業と農民と共同で経営する企業であり、農村でニーズの高い製品や
サービスを提供すると共に、都市工業や輸出工業の下請け機能も持つようになった(今井
1993)
。つまり、郷鎮企業は農民(農村に居住する住民)の資本と労働力を集めて、郷村政
府、農民連合、個人あるいは多様な企業の合作などによって創業・経営されている多種多
様な企業群を総称するものである(上野 1993)
。郷鎮企業の経営者および従業員は、原則的
に農民であり、地元の労働力の安さと自然資源の豊富さが、郷鎮企業の最大のメリットだ
と思われる。しかし、中国市場の開放に伴い、各企業の競争が激化し、郷鎮企業の成長率
も 90 年代になると下降してきている。今、主な郷鎮企業は開放が進んだ沿海地域に集中し
ており、都市工業の下請けを引き受けている。
中国における「外資」の概念は、対外借款、外資企業による直接投資とそのほかの投資
に分類されている。そもそも経済開放以前、対外借款が主体であり、市場開放以降、直接
投資の規模や数が徐々に拡大している。対外借款は主に外国政府や国際機関からの借款で
37
あり、交通、通信、技術導入などの主な計画を行うために使用されている。こういう借款
は通常低金利で、返済期間も長い。一方、外資系企業、つまり、海外から直接投資の企業
は外国を受ける民間企業からの投資であり、合作経営、契約方式合作経営や外資単独出資、
三つの方式で営んでおり、三資企業と総称され、日本の企業による合作経営か単独出資の
場合がほとんどである。中国は外資企業に対して、優遇税制を中心に多くの優遇措置をと
ってきた(海老名ほか 2000)。例えば、外資企業は利潤が出た最初の二年間は免税、その後
の三年間は税金半減である。ただし、WTO 加盟で外資企業に対する優遇措置は廃止される可
能性が高いと見込んでいる。
雇用制度
中国の雇用制度には地域差がある。だが、国営・国有企業の雇用方針によりすべて国家
は統制された。国は募集人数、職種、地区を規定し、企業に従業員募集の枠を与えていた
(萬成ほか 1997)
。中国の国有企業と集団所有の企業は「子女頂替」
(しじょうちょうたい)
形式での雇用方法が多く、要するに在職中の従業員が早期退職する代わりにその子女を就
職させると言う採用方法である(丸川 2002)
。こういう体制は公平性が欠けるという批判か
ら、80 年代に禁止されたが、いまだ中国や香港の中小企業においては一部で用いられてい
る。
現在、一般企業や国営・国有企業の雇用基準は特に規定されていないため、雇用や解雇
に関してある程度自主権を持ち、雇用制度も以前の固定工(正社員)制度から、全員契約
工制度や固定工制度と契約工制度を並行実施する二つの雇用制度に移転し、将来、市長経
済発展や企業管理効率化に進む方針を配合するため、全員契約工制度のみ採用されると思
われる。例えば、1994 年 10 月、広州政府は本市の各企業に所属する正社員は企業と労働契
約を締結し、契約社員とみなされた(萬成ほか 1997)。
企業組織構造
中国の企業組織構造は企業の種類によって違うため、国有・国営企業を中心して説明す
る。元々、中国の国有・国営企業の組織は職能別組織であり、即ち類似の仕事を基準にし
て部門化する組織である(図−2)。企業は営業部、人事部、企画部などの部門に分けられ
運営される。ただし、この組織の問題点は戦略的な資源配置や政策決定に関わる管理の余
裕がなく、各部門の業績を明確に評価することができない。中国の経済改革のきっかけで、
国有・国営企業も日本の事業部制組織に転換し、より全面的な企業管理組織や多角化戦略
に進んでいる。この転換の原因は外部の技術および市場の変革に適応するためだけではな
く、根本的な原因は、マクロ体制の計画経済から市場経済への移行、および政府と企業間
38
の関係に適応するためである(萬成ほか 1997)
。現在の国有・国営企業の自主権や経営戦略
も改革前より拡大し進化した。
図−2
職能別組織図
社長
企画
資材
経理
生産
製
製
総務
技術
販売
製
地
地
地
域
域
域
株主と企業の関係
国有・国営企業の株式制度の導入は 1984 年 7 月に始まり(任 1991)、現在、株式を徐々
に公開しており、去年、香港でも国有・国営企業の株式の購入を実施した。国有・国営企
業の主要な株主は中国政府であり、市場開放される前は各国有・国営企業の経営自主権が
あまりなく、個人株主の比率も非常に低く、個人株主は一般的に企業内の従業員であった。
経済改革の後、経営自主権を拡大するため、従業員の持ち株と社会一般を対照する株の比
率も徐々に増加している。ただし、株式の公開はまだ多少問題点が残っているため、より
健全な法規制度や管理システムの制定、特に金融市場の透明度の改善はまだ続いている。
日本と中国のビジネスマネジメントの共通点
文化面では中国と日本とも儒教に影響されたため、人間関係を重んじる点で、中国と日
本の対人関係は類似点が多いだろう。この類似点に基づいて、中国と日本はビジネスマネ
ジメントの文化もある程度同じであり、例えば、会社の人間関係、人事の矛盾の対応処理
など、この部分は正に中日企業内の人間関係の分析である。
さて、中国と日本の企業経営はどんな類似点があるだろうか。まず、両国も非公式の人
間関係を重視し、会社内の人事関係だけではなく、会社以外の人間関係も重視している。
39
というのは、社員は会社が雇っている従業員ではなく、家族の一員というような見方であ
る。この見方で、勤務時間以外の飲み会や食事なども従業員の人間関係を促進する活動と
見られ、特に日本では、こういう活動はよく行われている。ちなみに、この視点をきっか
けに、勤務時間外や会社と会社の公式会議以外に、お互いの関係を促進するための接待は
よくあり、自然にその接待も会社間の(パスカル)暗黙のコミュニケーションとなってい
る。中国ではこの暗黙のコミュニケーションは Guanxi(関係)と呼ばれる。つまり、人間
関係を意味する。外国の経営文化と両端であるため、中国や日本における独特な人間関係
の構築は常に外国ビジネスマネジメントの研究テーマである。
社内で人事問題が生じた場合に中国や日本では穏やかに解決する傾向があり、口論は行
儀悪い行動と考えられ、お互いの体面が保たれる方法を探すのが最優先である。いわゆる
中国の
面子を保つ
である。儒教の本義は社会の調和を構築し保つことであり、意地の
悪い行動はできるだけ避ける(Chen1995)。このように、口論などを止めさせ、個人面談を
行い、問題の根本を解き、さらには相談の仲介人を招き入れる可能性さえある。だから、
中国人や日本人は互いに相手の体面を保つため、間接的な話や行動も多いのである。企業
の商談にも衝突を招かないため、商談の分岐が出る場合に中国や日本は妥協し、商談を続
ける意向を示す。もちろん、この行動は相手の会社にも見られる。この婉曲なコミュニケ
ーションの特徴はいつも単刀直入の外国人に対し最も理解しにくい文化であり、商談時に
は、外国の商談チームが知らないうちに商談を破ってしまう可能性が高い。
契約を成立する際に、中国と日本はその契約が両会社の合作の始まりと認知し、将来予
想できない様々な問題が生じる恐れがあるため、契約内の条文が変更可能で同時に契約の
設定もある程度の融通性を許可し、長期のビジネスパートナーシップをスムーズに行える
ように相互の約束と理解を求めるのである(Chen1995)。したがって、条文の制定が多く、
細かな問題もよく持ち出されるため、商談時間は外国より長く、商談を行う回数も多い。
ただし、商談を繰り返し行うのは将来見込むリスクを低減するのに加え、相手との取引を
続行する耐久性と意志の判断基準でもある。ただ、互いの取引関係を作るためだけではな
く、ビジネス上の結束した仲間を作る意図もある(Chen1995)。
もう一つ商談の際、頻繁に見られる特徴は中日の企業が商談の代表チームの人数を多く
する傾向があるということである。人数の多い商談チームは相手に圧倒的な印象を与え、
自らにとってこの商談がいかに大事なものかという証を見せる。更に、日本側は社内各部
門のコンセンサスを達成するため、各部門の代表により商談チームも構成される。だが、
一般的には両国の商談チームも最後の決断はくだせない。商談チームの機能は情報の収集
と初歩の商談しかできず、最終の決断を下すのは主に本部のトップ・マネジメントである。
その上、相手の商談チームの職階級を非常に重視し、もし職階級が低い場合には、中国と
40
日本に対してビジネスを成立する誠意が足りないと考え、時に侮辱と認められる場合もあ
る。両国のマネジメントの類似点から見ると、文化の分岐は他の国と比べより少ないため、
貿易商談を行う際、効率よく進行し、万一、商談や契約を履行する論争があっても、お互
いに相手のマネジメントの特徴をよく理解でき、問題を解決するのに要する時間も短い。
現代経済における日本と中国への影響
80 年代末、日本の経済バブルがとうとう崩壊し、バブル時期の過剰インフレにより地価
が高騰したことが現在の日本経済不況の主な原因である。地価と株の大幅値下げでデフレ
を産生し、逆資産効果の形成により国民の消費意欲は軽減した。こうして、バブル期から
のデフレは年々増加し、消費不況の問題もますます厳しくなった。
バブル崩壊の問題で最も注目されたのは銀行の不良債権であり、金融庁の日本主要銀行
の平成15年3月期決算のレポート(2003)によると、主要銀行11行の不良債権残高は
なんと20兆2千億円である。ちなみに、日本の四つの大手銀行、みずほ、三井住友、三
菱東京と UFJ の去年の決算によると、およそ 3 兆 6200 億円の損失を出し、その中でも、み
ずほ銀行の 2 兆 3800 億円という損失額は日本企業損失額の最高記録である。不良債権と経
営損失などの問題で、日本銀行業はかなり難問山積の状況に直面している。最近、日本政
府はりそな銀行へ 2 兆円公的資金を投入したが、日本銀行の不良債権処理は遅すぎた。更
に、公的資金を投入したりそな銀行は事実上すでに国有化され、この事件を通して日本国
内各銀行の不良債権の自力処理能力の不足と日本政府の不良債権政策の問題が浮き堀にな
った。すべての不良債権を処理する方法は銀行の国有化の道しかないかもしれない。ただ
し、公的資金の投入により引き起こす問題も注意すべきであり、特に海外投資者に対する
信頼度や金融業界のイメージの影響には注意しなければならない。現在、海外だけでなく
国内の世論でも銀行業界の不良債権処理能力に疑い目を向けている。
不良債権の問題は銀行業界への影響に加え、国内各中小企業も大きな影響を与えている。
すなわち、融資の問題である。資金問題のため、経営の戦略も多少変化し、定期昇給と終
身雇用などの日本型経営スタイルも続々見直された。まずは定期昇給、要するに、年功の
経過に伴って賃金を上げていくという定期昇給制度であり、その機能は従業員と企業の安
定な関係を図り、終身雇用などと同じ企業を安定させる戦略である。だが、経済成長の鈍
化や高齢化社会により、定期昇給制度の変化の議論も徐々に増え、ついに、最近では、日
本国内各企業も今年中に定期昇給を全廃する意向を示した。例えば、三菱自動車、武田製
薬、キャノンなどの大手企業はすでに定期昇給の廃止を明言した。
その定期昇給の変わりに、成果主義型の賃金制度を導入した。つまり、従業員自らの業
績評価に基づく賃金制度である。もちろん、成果主義型は従業員の競争力を向上させるメ
41
リットがあるが、成果主義における問題点にも注意すべきだ。問題点は目標の設定と成果
評価であり、従業員の目標設定の基準がどうやって設定されるか、そして目標達成の基準
が何に基づいているか、疑問視されている。従業員の利益を保つため、公平な基準を設定
し、万全な評価制度を導入しなければならないが、画一的設定ではこうした目的を果たす
ことはできないだろう。従業員の評価範囲、職種の限定などの問題も労資の相談によって
解決されるはずだ。そのためには、長い時間の議論が必要であろう。一方で、終身雇用も
廃止し始め、生産力を向上するため、契約式で雇った従業員の数はますます増加する。厚
生労働省の調査によると、終身雇用の慣行を重視するという企業はわずか 8.5%、1988 年
の調査以来最低の数字であり、日本企業の崩れ行く雇用慣行の流れを反映している(『朝日
新聞』2002 年6月 26 日)。
一方、15 年以上の年月を経て、2001 年 12 月に WTO に正式加盟した中国は WTO を通じて
世界各国との貿易をもっと活発に行うはずだが、元の国内企業保護主義の撤去に伴い様々
な懸念を明らかにしている。特に国有・国営企業の低い生産性と赤字などの問題で、どう
やって今まで以上の厳しい輸入品や外資系企業との競争に打ち勝つかはよく指摘されてお
り、国有系企業の再編や淘汰の結果が見通されている。更に、近年、国有企業の市場シェ
アは低下し、例えば、1999 年には全国工業生産額に占める国有企業のシェアは 1997 年の
78.5%から 27.3%まで低下しており、国内の民営企業や他の形態の企業の役割も台頭しつ
つある(海老名ほか 2000)。1999 年中国政府は国有企業の改革方案を提出し、競争力を高
めるため国有企業の経営メカニズムを市場経済に適用するよう改革した。人員削減、契約
式従業員の雇用制度への移転、従業員評価制度の具体化などの経営改革は WTO に加盟後、
外資系企業との競争力の向上を図ったものの、改革の成果が見られるまでには時間がかな
りかかりそうである。
世界各国も中国の金融業の開放には注目し、近年、中国の金融市場が急速に拡大し、個
人預金や株式市場の規模は大幅に拡大した。ちなみに、最も潜在力を持つ保険市場の保険
料収入は年平均 31.5%という高い伸びを示している(海老名ほか 2000)
。ただし、金融市
場の開放は中国国内の金融業、特に銀行業に大きな影響を与え、外資系の優良銀行企業の
国内進出に対し、情報開示の不透明さ、管理体制の不完全さなど日本銀行と同じ不良債権
問題を抱いている国内銀行業の競争力は明らかに足りない。スタンダード&プアーズ(総
合金融情報サービスプロバイダー)が今年 6 月発表した報告によると、中国国内銀行の不
良債権の比率は 50%に達し、不良債権に対する金額はなんと 5 千億ドルあまりである。仮
に単に銀行が自力で不良債権を処理するのにかかる時間はおよそ 23 年。金融体系は難局が
出る前に、銀行の危機管理と収益性を高めるべきである(『香港成報』2003 年6月 24 日)
。
本格的な競争時代に向かうため、管理力と営利を改善しながら、外資銀行が国内へ進出す
42
る時に、相手の経営メリットを吸収し経営改革を促すべきである。
外国食料品の大量輸入はおそらく企業経営改革以外では中国政府にとっての難問の一つ
である。輸入した食料品が国内産より高い品質と低い価格のため、農民の収入保障は解決
しなければならない課題である。中国前首相朱鎔基氏も去年 3 月の記者会見にて農民に有
効な対策への懸念を表した。加えて、
最近の SARS の猛威で経済の成長に深刻な影響を与え、
企業や農民の経営改革だけでなく、現在、経済の成長の回復も重要な問題である。
結論
中国と日本の企業の経営構造と経営のメカニズムから見ると、両国は確かに異なる経営
特色を持つ。それにもかかわらず、両国の政府は銀行への支援の役割が非常に類似し、中
日国内の大手企業も政府と緊密な関係を持つ。その上、商談の時の戦略も多少類似してお
り、両国とも人間関係を重視し、相手と長期的な関係を図るため、充分なコンセンサスを
配慮する。現在、世界経済一体化に従い、世界の貿易も更に活性化され、互いに重要な貿
易パートナーと考えられる中国と日本はもちろん貿易による取引を増加させている。中国
と日本の経済はそれぞれの問題を持つものの、危機もあればチャンスもあるのである。互
いの経営特色を理解することで、他の国よりも貿易の取引が円滑かつ効率的に行われるで
あろう。
参考文献
日本語文献
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今井理之『最新ガイド中国経済:市場経済化の実態』日本経済新聞社,1993.
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海老名誠・伊藤信悟・馬成三『WTO で加盟中国経済が変わる』東洋経済新報社,第 2 刷,2002.
金原達夫『やさしい経営学』文真堂,第 2 刷,2001.
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http://www.fsa.go.jp/news/newsj/14/ginkou/f‑20030526‑1.html.
日本総務省統計局『第 50 回
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平成 13 年』日本統計協会,2002.
任文侠(斉藤毅憲訳)
『現代中国の企業経営 経済体制改革後の動向と展望』文真堂,1991.
藤井光男・丸山恵也『現代日本経営史:日本的経営と企業社会』ミネルヴァ書房,1991.
丸川知雄『労働市場の地殻変動
シリーズ現代中国経済 3』名古屋大学出版会,2002.
43
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英語文献
Chen, Min, Asian Management systems: Chinese, Japanese and Korean styles, New York:
Routlledge, 1995.
中国語文献
中国国家統計局『2002 年国民経済と社会発展統計公報』中国国家統計局
日,情報入手日:2003 年 7 月 25,
http://www.stats.gov.cn/tjgb/ndtjgb/qgndtjgb/1200302280214.htm.
44
2003 年 2 月 28
松尾芭蕉の俳句の韓国語翻訳の可能性を探る
黄
Ⅰ.
善裕
はじめに
極端に短い 17 字の暗号のような詩がある。それは俳句。
俳句は日本の伝統的な詩であり、今でも大衆に非常に人気があるが、今日は日本のもの
だけでは無くなってきた。第二次世界大戦後、欧米では俳句の翻訳書と解説書が刊行され、
自分たちの言語で俳句を作る作者達が増えるようになった。アメリカの場合、小学校の教
科書に松尾芭蕉と小林一茶の作品を載せてあり、世界各地からは俳句のコンクールも多く
行われている。
なぜ、今になって俳句なのかという疑問を抱いてみよう。現代の社会は速度、機能、豊
かさ、論理を常に追求し、すべてが明らかな確かなものを求めている。そして無感覚にな
り、自然の移り変わりさえも忘れていく。刺激から楽しさを探している若者も増えている。
だが俳句はこれとは反対だ。速度よりはわざと昔の感覚を辿っていく、豊かさよりは余白
を、確かな物よりは隠れた魅力を、ドラマチックよりは日常の美しさを探し出し、自然の
中で季節的な情緒を借りて表現しようとする余裕があるのだ。現在インターネット本屋に
載ってある俳句関連の書籍が数千冊もあるとはいえ、その中から韓国語で翻訳された俳句
翻訳書を探すのは大変難しく、まれである。世界俳句と呼ばれるようになった現在、なぜ
か韓国だけが情勢に乗り遅れているのは確かだ。
実際、韓国では日本文学について知りたい且つ無視したいような複雑な情緒があるため、
俳句がほとんど紹介されていないのが実情である。韓国の多くの詩人は日本が近くにあり
ながらも、アメリカや、フランスで出版されている英語や、フランス語の俳句に初めて接
して、衝撃を受けたという。韓国で出版されている数少ない俳句の翻訳集から英訳された
俳句を重訳した跡が見える理由もここにある。ところで、俳句を韓国語に翻訳するには困
難な点がいくつかある。その一つは作品の中に使われている単語の結びつきに省略が多く、
意味のつながりが希薄なことである。その結果、作品から読み取れる意味が多様になり、
読み手に複数の解釈を可能にさせることである。もちろん、解釈の多様性は、俳句に深い
味わいを持たせるという情緒的な豊かさを与えてくれる。しかし、俳句を外国語に翻訳す
るとなると、「多様な解釈」は「多様な翻訳」を生み出すこととなる。本研究では、松尾芭
蕉の俳句を採り上げ、その韓国語の翻訳の多様性と起源について考察する。
45
Ⅱ.本文
1.俳句の翻訳は可能なのか?
俳句の一番大きな特徴は 5・7・5 という定型と、その表現が含んでいる多様な意味であ
る。17 字という約束を表現的余白の美を生かして韓国語の 5・7・5 字で表すのはまず不可
能と言われる。俳句に含まれた言葉は日本特有の情緒と、発音から生み出された聴覚的・
音楽的な韻律、風土的・歴史的意味などを持っているため、日本語でなければその定型の
約束を守ることは簡単ではない。実際欧米では言葉の成り立ちが違うので定型がはまらず、
あくまでも自由な短い詩という形になっているが、中国や、韓国では昔から定型詩があっ
たので、型を守ることや翻訳はむしろ難しい。これは必ずしも俳句に限らない。詩は言語
の持つ独特な響きと含蓄を備えているため、もっとも適切な言葉を選んで翻訳をしたつも
りでも、その詩の本当の味は味わえないし、母国語の持つ伝統的なニュアンスとずれる時、
詩想は全然違うものになってしまう。特に俳句の場合、極度に短いため注釈をつけないと
いう難点を持っている。短いからこそ美しい俳句は、短いからこそ翻訳が難解極まりない
のである。
1)季語
俳句が理解できる鍵を握っている一つの特徴は季語だ。
四季を持っている日本の自然の豊かさを句の中で生かし、季語が入っていることによっ
て、必ずどの季節を詠っているのかが分かる。季語は季節的な美を表すとともに変わって
去りゆく物に哀愁をもたらせ、刹那の美を賛美する日本人の嗜好の表れである。火山、地
震、台風といった天災が多く、雨が多い、天気の変わりが激しく、何もかに対して、絶対
的に確信できなかった自然環境から自然に生まれた日本人の美学なのだ。季語の中には昔
の詩人達によって作られた季節感があり、それは今の人々にも同時に味わえる共通点をも
たらせ、その二つを繋ぐ、いわゆるパイプの役割を果たしているのだ。最近、韓国では、
人気のある詩人が翻訳俳句集を出したり、インターネット上で俳句を紹介している個人ホ
ームページが増えるなど、注目を浴びているが、その理由として、韓国人が忘れていた季
節的情緒に対するノスタルジアを呼び起こすという想いがある。
だが、季語のイメージは相当分かりにくく、翻訳するには大変な苦労がかかる。確かに、
地理的に一番近い外国という事から四季の移り変わりが似ている韓国は、それは一つの苦
労をしなくて済む点だと言えるだろう。しかし、日本の季節と全く同じ訳ではなく、島国
という特徴は温帯と亜熱帯気候が同時に存在しているため、韓国より雨が多く、また 湿気
が激しいという違いがあり、必ずしも簡単に翻訳できない所である。雨が多いということ
は、それほど天気の変化が激しいということでもある。日本の雨に対する名称や、その降
46
り方を表す言葉は、季節によって数えられないほど多様で、韓国語より遙かに多い。多分
どの言語より多いと思う。
(実に多くの留学生がすごく難しがっているし、迷っている部分
でもある。
)俳句では季語が雨の場合、主に春雨、五月雨、時雨などに分けて詠んでいるが、
各雨には独特なイメージがついているのでまた困惑する。春雨は濡れるようで、濡れない
ようでいつまでも降り続く甘美な雨のイメージである。実を言うと、春雨が激しく降る時
もあるが、俳句の中で
春雨
と詠まれるとその雨は決して激しい雨ではない。多くの日
本人は春雨はこういうものだと共感するのであろう。
それに対し、五月雨は梅雨の事を指し、夏の前に長い間降り続ける陰鬱な雨のイメージ
であり、時雨は初冬の急に降り出す雨から無常流転の嘆かわしいイメージを持ち、初冬の
寂しい風景や、叙情的には寂しくむなしい気持ちを表してきた。このような雨による様々
な植物、変化無双な気候、内向的な日本人の性向などの要素は俳句の韓国翻訳への道をよ
り難しくさせる。
次に時雨が季語の芭蕉の句と、その韓国語翻訳を比べてみる。
<草枕犬も時雨ゝかよるのこゑ>「野ざらし紀行」
この句は松尾芭蕉が旅寝の枕にきこえる犬の遠吠えを、犬も時雨の侘びしさにたえかね
ているだろうかと自分の心を移入して詠んだものだ。
♤草枕やあの犬にも雨は降るのか深夜の声(ユオッヒ)
・ ・ ・ ・ /・
・ ・ ・ ・
・
・ ・ ・ ・ /・ ・ ・
・ ・
◎旅路の宿初冬雨に乗って遠き所の犬の声(キムジョンレ)
・ ・
・
・ ・ /・ ・ ・ ・ ・
・ ・ /・
・ ・
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・ ・
・ ・
韓国語で時雨を訳せば初冬雨としか表現できず、それも「初冬+雨」の形になり、韓国
人にとって芭蕉が感じた侘びしさや、季語が持つそのままのイメージは感じにくい。ユオ
ッヒ教授の句の場合、時雨はあえて雨だけで表現しており、芭蕉の句そのままを伝えよう
とする意図が見える。だが本に載せてある注釈を読まないと季節や、草枕の持つ旅路とい
うイメージを理解するのは非常に難しい。それに対して、キムジョンレ教授の句の場合、
旅路の宿という表現を使って、初冬の雨が伝えられなかった寂しさや侘びしさを伝えよう
とした。最後の犬の声は芭蕉の句とは異なるが、その時の芭蕉の状況などを、翻訳者が理
解したことを読者に伝えようとしている。
次は夏衣が季語の句の翻訳を比較した。
47
<夏衣いまだ虱をとりつくさず>「野ざらし紀行」
長旅を終えて、草庵に帰り着いたが、旅の疲れの物憂さもはれず、まだ道々で、移され
た夏衣の虱もそのままでいて、衣更えもせず、長旅ぼけのためか、まだ草庵生活のペース
を取り戻せないで、遊意の名残をなつかしんでいる有様を詠った。季語は「夏衣」
。
♤すり切れた夏衣いまだ虱をとりくつさず(ユオッヒ)
・ ・
・ ・ ・ /・ ・ ・
・ ・
・ /・ ・
・ ・ ・
♧夏に着ていた我が服、その中にいまだとれない虱がいる(リュシファ)
・ ・ ・
・ ・
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・ /・ ・ ・
・ ・
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・ ・ /・ ・
・ ・
◎旅中着替えたあの夏衣いまだ虱をとらないでいる(キムジョンレ)
・ ・
・ ・
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・ ・ /・
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・ ・ ・ /・ ・
・ ・
・ ・
・ ・
この句の季語は夏衣、韓国には衣更えという単語自体が存在しない。暑くなったら半袖、
寒くなったら長袖で、それは個人が決める事で、日にちなどがあるものではなかったので
ある。私も最初日本語を習った時、理解しにくかった言葉が衣更えだった。
芭蕉の句ではただの夏衣だったが、ユオッヒ教授の場合、
「すり切れた」という表現を加え、
長い旅を連想させる。だが季語はそのままの夏衣。詩人リュシファ氏の場合は「夏に着て
いた我が服」というはっきりと違う表現を選んで、もう草庵で衣更えを終えたような印象
を残す。キムジョンレ教授の場合は、「旅行中着替えたあの夏衣」という形で、すでに衣更
えは旅行中に終えたという風に感じさせる。同じ紀行文で、同じ句の翻訳なのに三人の表
現が全部異なるとはいかに多様な解釈が可能なのかを証明している。
2)定型
*575 の音律
韓国の定型詩・詩調は 3 4 3 4/3 4 3 4/3 5 4 3 の音律を守って作る詩で、定型である
のは俳句と同じだが、43 字もあるのに対して俳句は 17 字、まさに世界で一番短い詩である。
日本人は、この 17 字は読んでみれば簡潔に絞られていながら、意外に飽きさせなく、安定
と変化を同時に持つ完璧な詩型だという。それに五七、七五というこの音律は日本人が覚
えやすい形なのである。日本の詩歌の元祖は記紀歌謡(古事記、日本書紀に記された古代
歌謡)と言われているが記紀歌謡は、全部五七調、七五調である。
自分の気持ちを相手に強く訴える時は、言葉を一文字ではなく、かたまりにして伝える
と効果的で、特に奇数のかたまりを好み、その中でも五七のかたまりが良かったため、七
五調で詩歌を作ったのである。
48
ちなみに、覚えやすいというのは暗誦を誘発し、その暗誦性は俳句を詠む喜びとそれを
耳で聞く楽しみを感じさせ、ひいては口誦性を誘発する。因って、ひらがなの同じ行を使
って舌の撥ねや、唇の動きのある句、リズム感のある句を求めるようになる。
ところが、そのような優れた作品などは違う言語で翻訳する時、一つのうまさを無くして
しまうので読者にその感じを上手に伝えるのは非常に難しく、翻訳家の腕が問われる所で
もある。
次の句を通して比べて見たい。
<旅に病んで夢は枯野をかけ廻る>「笈日記」
この句は芭蕉の最後の句である。旅中病にたおれ、うとうと眠る夜々の夢は、あちらの
枯野、こちらの枯野と、寒々とした枯野をかけ回る夢を見るという、死の前で超然とせず
に断末魔でさえ旅の妄執を捨てられない詩人の最期がむしろ心打たれる。季語は「枯野」
で冬。
♤放浪に病んで夢は枯野をかけ廻る(ユオッヒ)
・ ・ ・
・ ・ ・ /・ ・
6
・ ・
・ ・ ・ /・ ・ ・
7
・ ・
5
♧旅中に病みを得、夢の中でひたすら枯野をかけ廻る(リュシファ)
・ ・ ・ ・
・ ・
8
・ ・ /・
・ ・ ・
6
・ ・ /・ ・
・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
10
この句はいわば「字余り」の句で、一字多いだけだが、この句を韓国語で翻訳してみる
と、まずユオッヒ教授の場合、六七五調になり、ちょうど芭蕉の句と同じくなる。訳もほ
ぼ同じで、旅を放浪という風に表現したのが特徴だと言える。それに比べ、詩人リュシフ
ァ氏の句は八六十調になり、前者が16字で訳せたのに対し、世界で一番短い詩と言える
だろうかという疑問を感じさせる。だがその内容の面ではわざと長くなるのを覚悟したか
のような表現が目立つ。
「旅中に病みを得」とか「ひたすら」などの強調した表現ではこの
不世出の詩人のもっぱら旅を慕った最後の煩悩にふさわしい表現であり、リュシファ氏が
訳した句からもやはりリュシファ氏の詩人らしさが感じられる。
3)切れ字
俳句の三番目の約束は切れ字が入るべきという事だ。
切れ字の役割は、短い句のある部分を切る事によって俳句が散文のように単調になって
49
しまう事を防ぎ、俳句のイメージの世界を拡大させる。細かい切れによって弾みが生まれ
たり、切れの強弱・バランスによって意味を伝えやすくする事も可能である。
切れ字に該当する韓国語の単語も幾つかあるが、それに対しては意見が分かれる。韓国
のゲミョン大学のユオッヒ教授は、「〜や!」という詠嘆型助詞は、韓国で陳腐と思われ、
最近は使用が減りつつあるが、作家の意図や意味を断絶するためには使うべきで、韓国内
で出版されている俳句集の中で本来意味を充分に生かしていない翻訳が目立つ、と言う。
それに句が叙述になってしまう事があり、名詞の切れの場合は、強い余韻を残すために終
わりも叙述ではなく名詞で終わらせることを強調する。
それに対しジョンナン大学のキムジョンレ教授は、そのような単語に限らず意味上切断
されていればいいという意見を示している。どっちであれ、読者の胸にうまく響く翻訳が
よいだろうが、これもまた俳句の翻訳の難しさのひとつである。ともかくその切れ字によ
って17字の俳句がややもすれば標語みたいな感じになるのを塞げることができる。
次の句を見てみよう。
<旅人と我名よばれん初しぐれ>「笈の小文」
いよいよ初時雨も近く、行き先も定まらない旅人の境涯を味わうにはちょうどいい季節。
さあ旅に出よう。旅に出て、道々旅人と呼ばれて行こう。
この句にはただ呼ばれるだけの意味ではなく、令名高き芭蕉翁から無名の旅人に身も心
も変身したいという決意と、人々にそのようなものと認めてほしいという願望が込められ
ている。
季語は「初しぐれ」で冬。
♤旅人と/我名よんでくれ/初しぐれ(ユオッヒ)
・ ・ ・ ・ ・ /・ ・ ・
・ ・ ・ ・ /・ ・ ・
♧時雨れてる/我が名は/
・ ・ ・
・ ・
・ ・ ・ /・
・ ・ ・
旅人 (リュシファ)
・ ・ ・ /
・ ・ ・
この句の中での切れは「旅人と」の
と
が当てはまるが、切れ字を守るべきだと主張
しているユオッヒ教授はさすがにちゃんと守って、芭蕉の句そのままのように伝えようと
しているのが分かる。ただ「よんでくれ」と表現されているのは、韓国では受け身の表現
が少なく、ほとんど使われていないため「呼ばれたい」よりは「呼んでくれ」の方が読者
にとって分かりやすいと思ったらしい。詩人リュシファ氏の場合は、翻訳の内容も結構異
50
なるが、切れ字のあるべき部分に大胆に動詞を使ったのが面白い。最後の部分を
旅人
と終わらせたのは句を詠んだ芭蕉や前者の翻訳より強いイメージが句に込められて伝わっ
てくる。しかしかなり恣意的に翻訳した句に思われる。
<命二ツの中に生たる桜哉>「野ざらし紀行」
旧友と自分と、二つの命が生きながらえて、再会し得た今、この再会の場に年々に咲き
続けてきた桜の花が、爛漫と咲きにおっている事よ。季語は「桜」で春。
♤命二つの中/その歳月そびえ立って/咲き続ける桜かな(キムジョンレ)
・
・ ・
・ ・ /・
・ ・
・ ・
・ ・ /・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
♧私達二人の生涯、/その中に/桜の生涯がある(リュシファ)
・ ・
・
・ ・ ・
・ ・ , /・ ・ ・ ・ /・ ・ ・
・ ・ ・
・ ・
この句には「かな」という切れ字が使われており、その韓国語の翻訳を比べてみた。
「か
な」という切れ字は句のおしまいに使われる事が多く、この句のように、感情がこもって
いい響きが出てくる。まずキムジョンレ教授の訳の場合、「かな」にあてはまる韓国語の表
現を適切に使い、古風ながら感情のこもった「かな」のイメージをよく生かしている。そ
れに対し、詩人リュシファ氏の句は本来の芭蕉の句とはだいぶその形が違っており、最後
は動詞を使ってまとめ、切れ字「かな」の持つニュアンスは全く伝わって来ない。自分の
イメージを翻訳の句の中に生かすのもいいが、そのせいで本来の句の味わいが薄くなるの
はどうだろう。
4)歌枕
日本で親しまれている有名俳句の中で一番翻訳しにくい句は地名と関係のある俳句であ
る。優れている景色、あるいは歴史的な事件と関わって、日本人なら誰でも知っている地
名が俳句の中では数多く登場するのである。このような地名は単なる地名として存在する
のではなく、古来から数え切れないほど詠まれて来た有名句と共に伝承されるが、このよ
うな事を歌枕といい、整理し記録され、それがまた後世の俳人の手引きとなり、その地域
は観光資源として開発される。
<荒海や佐渡によこたふ天の河>「奥の細道」
出雲崎から日本海のかなたに佐渡島がある。そこは古来多くの人々が流罪にあって悲運
を嘆いたところであり、一方また黄金が掘られたりして、人間の喜怒哀楽が渦巻いてきた
51
島である。しかしいま、夜空を仰ぎ見ると、そんな人間の些事とは無関係に、広々と澄ん
だ秋の夜空をかぎって、天の川が佐渡島にかけて大きく横たわっている。広大無辺な自然
の前で微々たる存在の悲しさを感じる。季語は「天の川」で秋。
♤荒海や佐渡島に横たわった夜空銀河(ユオッヒ)
・ ・ ・ ・ ・ !/・ ・
・ ・
・ ・ ・ ・ /・ ・ ・
・ ・
このような歌枕を翻訳したのは本稿で比べてきた3人の中でたった一人ユオッヒ教授し
かいない。これはどれくらい歌枕の翻訳が難しいのかをよく表している点でもある。ユオ
ッヒ教授の翻訳書の中で歌枕の俳句はその注釈が非常に長く、詠まないと絶対分からない
句ではあるが、より多くの俳句の普及を望むなら恐れずにどんどん翻訳していく必要があ
ると思う。そのような意味で歌枕の翻訳は絶対乗り越えるべき宿題である。
Ⅲ. 終わりに
これまで俳句の韓国語翻訳の可能性について松尾芭蕉の句を中心に考察してみた。翻訳
家の色んな形の解釈は句の中に内包されている季語、切れ字、定型によって生まれるもの
で、俳句の必修条件でもある。これらは意味の規制にも作用しているとも言える。
多様な解釈を生み出すもう一つの背景は、俳句の根元にある論理の明快さをさける作家
の創作態度と、それによる表現を俳句らしさの一つとして日本の研究者らが肯定的に受け
入れることが、俳句の特色となっていることだ。また読者も論理的な意味の把握よりは体
験的な詩の世界を楽しむ傾向が強い。しかしそれは作者と受容者が共通の風土に存在する
場合であり、両者の文化が違う場合は、翻訳句の意味に微妙な差ができることは避けられ
ない。因って同じ文化圏の人に比べ、違う文化圏の人は俳句の表現が何倍も曖昧に感じら
れるしかない。このことによる翻訳の困難さが、読者に表現の隙間を埋めようとする欲求
を引き起こすことによって、各自の想像に満ちた解釈を生む喜びを与えるきっかけとして
作用するのではないかと思う。それは俳句が
雲を掴むような遠い世界
ではなく、表現
の隙間を埋める喜びを与え、作品の解釈に読者の関与を積極に誘導するという点から
しみやすい身近な世界
親
と変わるだろう。
実際、キムジョンレ教授と詩人リュシファ氏の翻訳俳句集の売れ行きを比べてみると、
なるべく芭蕉の句そのままを読者に伝えようとしたキムジョンレ教授の翻訳俳句集より、
破格の翻訳が目立つ詩人リュシファ氏の俳句集のほうが遙かに人気を集めている。以前か
ら俳句を知っていた人達が求めるのはキムジョンレ教授の本だが、日本語が分からなくて
も、俳句を知らなくても、簡単に俳句に接して、楽しんで、身近だと感じられるのは詩人
52
リュシファ氏の方だということだ。それがどれだけ本来の句とずれているか、ずれていな
いかは気にせずに。だが、これは俳句の翻訳の可能性の一つの青信号と見てもいい。
最近韓国での俳句の普及を懸念する声もあるという。極度に言語が省略され主体の思想
と行動に重点を置かないということから、俳句はいたって日本的な文芸形態の一つである。
あまりにもニッポンらしくて国民の情緒に合わないなどの意見もあるが、それより韓国の
俳句研究者達は、すでに時代に遅れていることを認識し、俳句を理解するのに必要的な切
れ字、季語などについて研究に積極的に取り組むべきだ。それにこのような事実を生かし
て作者の意図から遠ざからないようにしながら、より多くの韓国人の読者に親しまれる翻
訳も、さらなる課題の一つだと思う。韓国でのより多くの人々からの関心を望みながら、
私も研究して行きたい。
引用文献
井本農一・堀信夫・村松友次(1979)
『松尾芭蕉集』小学館.
ユオッヒ(1998)
『松尾芭蕉の俳句』ミンウンサ.
リュシファ(2002)
『ハンジュルドノムギルダ』図書出版イレ.
キムジョンレ訳文『野ざらし紀行』
キムジョンレ訳文『笈の小文紀行』
53
日本にはなぜ自動販売機が多いのか?
李
京姫
自動販売機は、今や日本全国どこへ行っても当たり前の存在である。日本での自動販売
機の普及率は世界でも断然トップ。手近で 24 時間の無人サービスなど、自動販売機のメリ
ットはいろいろあるが、なぜ日本ではこんなに自動販売機が普及したのか。日本社会であ
るからの要因があるかもしれないという疑問から調査を始めることになった。
1.自動販売機
日本の国民生活のすみずみまで浸透した自動販売機。今や社会施設としても必要不可欠
な存在となった自動販売機であるが、そもそも自動販売機とはどのようなものなのであろ
うか。
(1)自動販売機の定義
自動販売機(以下[自販機]と略する)とは「自動的に販売行為・サービス行為を行う
機械」のことである。具体的に言えば、
「通貨またはこれに代わるカードなどの挿入により、
自動的に物品、サービス、情報などを販売・提供する機械装置」となる。ただし、同じ貨
幣操作方式の機械であっても、ジュークボックスやゲームマシンのような娯楽機械や公衆
電話機は自販機には含まれない。総務省の日本標準中商品分類では自販機を種類別に次の
ように分類している。
●自販機:
飲料自動販売機、食品自動販売機、タバコ自動販売機、券類自動販売機、切
手・はがき・印紙及び証紙自動販売機、新聞及び雑誌自動販売機、日用品及び雑貨自動販
売機、各種物品複合・併売自動販売機など
また、自動サービス機については、以下の通りに分類されている。
●自動サービス機:
自動両替機、玉・メダル貸機、自動貸出機、自動入場機、自動写真
撮影機、コインロッカー、コインランドリーなど
54
(2)自販機の起源
自販機のルーツは遠く紀元前のアレクサンドリアにさかのぼる。BC215 年に三角公式で有
名な数学者のヘロが著した
Pneumatika(ニューマティカ:気学) の中に、エジプトの寺
院で聖水を売るために使われた硬貨操作装置に関する記述がある。
この装置の原理は、図1に示すよう
に完全自動で、5ドラクマ貨を入れ
ると、硬貨の重みで栓が開き、水が
出てくる仕掛けであった。
近代自販機の始まりはアメリカで
1925 年ウィリアム・ロウが開発した
もので、異なった値段で多品種を売
図1
B.C215 年の聖水自販機の原理図
る煙草自販機である。
2.日本での自販機の歴史
(1)自販機の幕開け
日本では 1890 年 9 月、36 歳の俵谷高七による日本最初の自販機に特許(964 号)が付与
された。これは煙草・物品自販機であったが実用には至らなかった。日本で普及型の自販
機が登場したのは第一次大戦後の 1924 年、中山小一郎が製作した袋入り菓子自販機が最初
である。その頃、新聞漫画で人気のあった
のんきな父さん
が外枠に描かれたというこ
の機械は、一銭銅貨を入れると、ちんちんと音を出しながら袋入りの駄菓子が出てくる仕
掛けで、全国の菓子店や茶店の店頭に 1,000 台程度設置されたという。その後、日本の自
販機工業は菓子、切符、煙草などの自販機を中心に展開された。
1938 年 4 月に国家総動員法が出された後、第 2 世界大戦(1939 年)が起こり、1941 年日
本は太平洋戦争へ突入する。鉄鋼製品製造禁止の命令が出され、戦後の自販機工業はこれ
以上展開することなく中断された。
(2)自販機大国への道のり
1957 年 10 円硬貨を入れるとジュースが出てくる飲料自販機が初めて登場した(図 2)。現
在も自動販売機のオペレーターの大手であるアペックスの前身の日本自動販売が設置した
機械は利用者にとっては目新しく、中身の飲料を作る中小のメーカーにとっては、利益率
の高い販売方法であり、全国に普及した。
その後、登場したのがコーラ自販機である。米国の大手コーラ会社の日本市場への本格
1)
55
的な進出により 1962 年に流通改革 の担い手として自販機の展開が始まった。当初はびん
自販機で、1960 年代半ばからは缶自販機が登場した。コーラの売上の驚異的な伸びに自販
機チャンネルの活用が大いに寄与したが、同時に自販機マーケティング戦略、オペレーシ
ョンのノウハウは、日本の自販機産業の発展に大きな影響を与えた。
図2
噴水型ジュース自販機(ホシザキ電機)
1960 年代には、アペックスやユナイテッド・スティール(現在のユニマットの前身)が
カップ式自販機の専業オペレーターとして事業に着手した。カップ式の自販機は自動車工
場の休憩室などで、短い休憩時間を従業員がゆっくり過ごすための必需品となっていた。
1967 年には、50 円硬貨、100 円硬貨が登場して大量に流通するようになり、1972 年には温
かい飲料を提供する自販機、さらに、1973 年には缶飲料で、1976 年にはカップ式で、それ
ぞれホットとコールドを同時に販売するタイプが登場した。
乗車券の場合は戦前から小規模ながら実施されてきたが、1968 年には国鉄(現在の JR)
が出改札業務の合理化のため東京の山手線の全駅に乗車券自販機を導入したため、より多
くの国民が抵抗なく自販機から物を購入する習慣が一般化するようになった。日本の経済
は発展し、
人々が豊かさを求める中で、結果的に自販機は 1975 年から急速に普及し始めた。
3.自販機大国日本の現状
日本は世界一の自販機大国といわれる。どのぐらいの自販機があるのだろうか。日本自
動販売機工業会の統計によると、1979 年末に 400 万台、1984 年末に 500 万台を突破し、2002
年末における自販機及び自動サービス機の普及台数は 552 万 4,700 台となった。また、2002
年(1〜12 月)における自販機及び自動サービス機によって売られた自販金額の合計は 6 兆
56
9,798 億 8,390 万円となった。
(表 1)
表1
自動販売機普及台数及び年間自販金額
2002 年 12 月末現在
機
種
普及台数(台)
前年比
自販金額(千円)
前年比
(%)
(2002 年 1〜12 月)
(%)
飲
料 2,589,700
99.1
2,765,215,200
98.1
食
品 144,700
97.3
105,492,300
98.0
こ 629,100
100.1
1,976,653,600
99.5
類 41,800
99.8
1,687,665,800
99.7
他 907,600
99.6
349,648,000
100.0
自動サービス 1,211,800
99.8
92,209,000
100.2
合
99.4
6,979,883,900
99.0
た
ば
券
そ
の
計 5,524,700
機種別普及状況では飲料自販機が 46.9%で圧倒的なシェアを持っていて、自動サービス
機(21.9%)とタバコ自販機(11.4%)が続いている(表 2)
。
日本以外の国で、普及台数・年間自販金額調査が実施されているのはアメリカのみであ
る。アメリカでの普及台数は約 760 万台と日本より 208 万台多いものの、自販金額では 409
億ドル(約 5 兆 1,200 億円)となり、日本の 73%となっている。他の小売業であるコンビ
ニエンスストアの年間販売額の 6 兆 1,348 億 9,600 万円(1999 年統計)に比べると日本自
販機ビジネスの市場規模の巨大さがわかる。
日本とアメリカの自販機事情を比べた場合、飲料自販機が1位を占めていることは同じ
だが大きな違いは、菓子と食品を合わせた食品自販機がアメリカでは総自販金額のうち
28.9%(2002 年末現在)を占めているのに対して、日本ではわずか 1.5%を占めるに過ぎな
いことである。代わりにタバコ自販機はアメリカの 2.7%に対して、28.3%を占めている(表
3)
。
一方、
表 4 のように日本自販機市場の普及台数は 1987 年頃から定常状態に陥っている。
自販機が高速に普及した結果、もはや日本には自販機の新規のロケーション(自販機設置
場所)は、ほとんど残されていないということである。
57
表2
種別普及状況
2002 年 12 末現在
食品自販機 144,700台
酒・ビール 1.7%
コーヒー・ココア
牛乳
ガム・キャンディ他 0.9%
パン・おつまみ・麺類他 0.9%
アイスクリーム他 0.8%
3.3%
3.3%
券類自販機 41,800台
たばこ自販機
629,100台
11.4%
乗車券 0.4%
食券・入場券他
その他自販機
飲料自販機
2,589,700台
46.9%
清涼飲料
3 8 .8 %
総台数
5,524,700台
907,600台
16.4%
0.4%
切手・新聞・雑誌他 0.2%
カミソリ・靴下他 2.3%
生理・生産用品 1.1%
乾電池・玩具・カード他
12.8%
自販サービス機
1,211,800台
21.9%
両替機 1.5%
パチンコ玉貸機他 0.6%
コインロッカー・パーキングメーター他
19.8%
表3
中身商品別年間自販金額・構成比(日米比較)
日:2002年 1月〜12月
米:2001年 1月〜12月
飲料
食品
たばこ
その他
58
表4
普及台数及び年間自販金額の推移
cv
万台
普及台数
年間自販金額
兆円
昭和
平成
4.なぜ日本は自動販売機が多いのか
(1)時代の要求に応じる自販機の特質
自販機の第一のメリットは、無人で 24 時間、品物、サービス、情報を供給できることで
ある。また、手近で購買手続が簡単であり、気軽にすぐ買える便利性も自販機の大きなメ
リットである。この自販機の特質は急速に変化してきた日本社会に適合していた。
昭和 1945 年 8 月 15 日、太平洋戦争が終結した。経済、国民生活は荒廃し、暫く戦後の
2)
混乱状態が続いたが、1950 年 6 月の朝鮮戦争 による特需景気を始め、1955 年からは戦後
初の好況期を迎える。 神武景気 を起点に経済の高度成長が始まった。1960 年末には所得
倍増計画の発表、翌年 岩戸景気 の高揚があり、日本経済は 1959 年度から 1961 年度ま
で、実質国民総生産は毎年 10%を超え、未曾有の好況は 1961 年 12 月までの 42 ヶ月にも及
んだ。
この間に雇用情勢は一転して労働力過剰から不足へと移行する。人手不足の声が高まり、
人件費の高騰が続き、製造部門、流通部門での合理化が緊急の課題となった。このことが
自販機産業でもその普及を促す大きな要因となる。
自販機はこのような省力化・情報化社会の一つの流通チャンネルとして一翼を担うこと
になる。自販機はこの省力化に寄与して、いまや小さな映画館では、発券も売店も自販機
が対応している場合が多い。小さなビジネスホテルなら、ルームサービスや売店ではなく、
59
さまざまな自販機がサービスを提供している。立ち食いそば店やラーメン店などでは、自
販機で食券の発券を行うところが多い。人々はこうした場所にある自販機を自然に利用し
ている。流通売場の大型化・専門化という流通環境的な大きな変化のためスーパーとか小
売場が消えていくにつれて生じる不便さを自販機が解消している。日本では自販機が設置
されている住宅街をどこでも見かける。
(2)治安がいい
日本は治安のいい国だと言われている。犯罪率は低く秩序意識も高い。日本の治安の良
さは日本特有の自販機のアウトドア設置を推進し、日本を自販機王国にした。治安がいい
のは犯罪が少ないということである。では、日本の治安がいい理由は何か。
第一は、日本人が世界最大の同質的人口集団であることが挙げられる。日本人の総人口の
うち、民族的に日本人ではないものは、約 0.5%のみであり、そのほとんどは韓国人・朝鮮
人及び中国人である。日本には犯罪と強い相関関係がある人種的・文化的な葛藤集団が少
ないということになる。他派とはっきり区別された競争的な宗教的な宗派もない。また、
経済的には日本は先進国の中でも所得の分配が平等に行われている国である。日本は先進
国の中では失業率が低い方で、労働人口のうちストライキに参加するものの比率も少ない。
アメリカのパトロール式と違って常駐することによって地域に密着した警察活動を展開し
ている日本の交番システムも治安のいい理由として評価される。法律に関しては、拳銃の
所持に関わる法律が厳しいことも挙げられる。
また、日本の治安がいい理由として挙げられるユニークなところは日本社会での相互関
係である。犯罪は反社会的な行動である。日本での反社会的な行動は日本だけにあるメカ
ニズムによって抑制されているという。日本には、どういう行動が社会的に妥当であるか
についていろいろなきまりがあって、日本人はそれによって行動するということである。
自分のことだけをするより、集団と調和し、集団の目的をまず思うようになる。建前とは、
保たれなければならない表向きの姿を意味し、内心の方に引きずられるより、集団の調和
という建前を維持するために意見の不一致をなくす。
日本人は個々人が自分に求められている役割をうまく果たすことに誇りを感じているの
で、統制が保たれている。日本社会は権威という点では階層的であるが、仕事の持つ評価
という点では平等主義的である。重要なことは、地位ではなく、仕事に対する献身である。
日本においてあらゆることに成功を収める上で不可欠な要素は、
「精神」である。立派な精
神さえ示せば、少しばかり不十分な業績でも許してしまうことがよくある。エドウィン・
ライシャワー元駐日アメリカ大使は、「日本人の社会的協調は、弱さではなく、鍛えられた
精神力の産物である」と言った。これを象徴するものが日本人の美的感覚の独特な表現と
60
しての盆栽である。盆栽は、一風変わった人為的な形になるように、縛ったり刈り込んだ
りして、束縛された小植物である。盆栽は束縛され、言い方によっては形を崩すことによ
り美を達成する。日本の治安の良さは、このようにして達成されている。
(3)日本人のライフスタイルの変化
日本市場において自販機が持つ幅広い社会的な容認度の高さは自販機の普及をさらに加
速した。日本人は人ではなく機械からものを買うことに抵抗が少ないという。その背景と
しては日本社会の自動化やコンピュータ化が挙げられる。オフィスはもちろん、家庭でも、
あるいは町を歩いていても、多くの自動機械、コンピュータ化されたシステムに出会い、
普通の生活習慣として何気なく多くの自動機械に接している。対面する相手のいないサー
ビス、販売にも慣れ親しんでいる。好むと好まざるとにかかわらず、自動化は多くの人々
のライフスタイルを構成する重要な要素となっているのだ。自販機もこうした自動化され
た社会の一部として機能している。日本人はこうした自販機の気軽さと便利さを享受して
いる。また、自販機の「非対話型消費」
、すなわち無言で買物できるという点はコミュニケ
ーション能力の欠如、あるいは排除傾向になっている現代日本人に受けている。
(4)自販機の技術革新
日本の驚異的な経済発展は大量の技術導入による技術革新があってこそ可能であった。
1956 年から活発化した日本の技術革新は自販機史にも大きな影響を及ぼす。自販機史にあ
っての最大の技術革新は今では当たり前の存在となった「ホット&コールド自販機」の登
場である。1972 年、サンデン(旧・三共電器)によって開発された自販機で、夏はコール
ド飲料、冬はホット飲料を提供できるため、1 年を通して季節変動の無い安定した売上を上
げることができるようになった。
UCC 上島珈琲は世界初の缶コーヒー(UCC 缶コーヒーオリジナル)を開発し、市場に投入
した(1969 年)。1973 年、缶コーヒーの拡大販売には自販機が欠かせないという判断から
自販機による缶コーヒーの販売をスタートさせた。
缶にやや送れて 1976 年、富士電機がカップ式コーヒーのホット&コールド自販機を開発
した。同年にはレギュラーコーヒー自販機も登場する。近年では、IC を搭載した大型のカ
ップ式自販機が登場、ホット&コールドのレギュラーコーヒーのほか、アメリカン、エス
プレッソ、レモンティー、ミルクティー、さらに清涼飲料までを揃えている。
(5)コインの活用範囲が広い
コインは自販機に入れ、使用するのに便利であるため、自販機の利用率と関連性がある。
61
自販機の高い普及の基盤を確たるものとしたのが 1967 年の新 100 円・50 円硬貨の発行であ
る。それまでは 100 円のコイン化が遅れており、自販機の普及に大きな障壁になっていた。
しかし、新硬貨は、素材が銀から白銅に変更されたことから、大量製造が可能となる。硬
貨の大量流通は、自販機流通のインフラ整備に役立ち、国民の自販機利用に対する馴化が
進んだ。その代表的な例が乗車券自販機である。
現在、日本の缶飲料は 100 円から 120 円程度。コインは 500 円まである。少ない数のコ
インで 1,000 円以下の廉価な品物を買える。コインの幅広い使用範囲は、自販機の利用率
の増加に影響を与えた。また、便利で迅速に自販機を使えるというメリットは消費者を自
販機に近付けている。500 円のコイン化と自販機での 1,000 円札の使用が当たり前になって
きてから、自販機はますます便利になった。
(6)専門的で徹底した管理・運営システム
自販機を所有して様々な場所に設置することで中身商品やサービスを販売、提供する企
3)
4)
業をオペレーターという。オペレーターには「専業オペレーター」
、「兼業オペレーター」
、
5)
「オーナーオペレーター」
の 3 パターンがある。オペレーターと呼ばれる専門の自販機
管理運営業者を中心に展開している日本自販機業界では3年〜5年使った後は自販機を廃
棄処分するのが一般的である。運営者の経営的な面で新機種の積極的な導入が必要であり、
専門化したロケーション運営による使用頻度の増加のため自販機の交替周期が早くなって
いる。
屋外の自販機は主に缶自販機であり、空き缶の収集機がいつも備えてあり、品切れとか
自販機の外部がステッカーなどによって汚れたりすることはあまりない。快適な設置環境
を確保していて、衛生問題でも信頼を与えている。
(7)多様なアイテム
アメリカでは自販機の中身商品がほとんど4C1F(coffee、candy、cold‑drinks、
cigarette/food)に限られているが、日本の場合は、これらに加えて乗車券、酒類、乳飲
料、日用品雑貨等が販売されており、その比率も高い。
自販機は販売商品の形態と商品の選択という点で制約が見られるが、現状においても多
種多様な広がりをもっているし、技術的にはどんなものでもそれを必要とするニーズさえ
あれば、自販機化はほとんど可能であるという。
5.韓国の自販機産業
1977 年ロッテ産業が日本シャープ社からコーヒー自販機 400 台を導入・設置したのが国
62
内自販機の普及のスタートである。2001 年末における自販機及び自動サービス機の普及台
数は 8 万 513 台となった。また、2001 年(1〜12 月)における自販機及び自動サービス機
によって売られた自販金額の合計は 142,548 百万ウォンとなった。日本に比べると台数の
面では約 69 分1、販売金額の面では 163 分の1(100 円=1,000 ウォンで計算した場合)
である。コーヒー自販機が全体普及台数の 70%で、日本では 28.2%のタバコ自販機が韓国
では青少年有害環境に対する取締りと社会世論でほとんど見つからないのは韓国の自販機
産業のユニークなところである。1988 年のオリンピックを前後にして急速な成長を見せた
が、1995 年から鈍化し、1997 年末に IMF
の監督下に置かれたとき成長はが止まり、現在
は横ばいの状態である。
6.将来の自販機
将来の自販機の特徴はより使いやすくなるということである。乗車券など券類の場合、
すでに液晶タッチパネルが採用されているなど自販機の便利さは向上している。1998 年に
コカ・コーラグループが開発した「J‑FLEX」は商品取出口が中央部に、釣銭取出口も以前
より高い場所に移されている上、価格が従来機より低く抑えられている。
使いやすさと同時に楽しめる自販機も期待される。日本の若者の間で大ヒットしたステ
7)
ッカー自販機がいい例で、自販機でステッカー写真をとりながら楽しめる。ブロードバン
ド
が本格化し大量の情報の送受信が可能になる時代には、本や薬などを対話形式で販
売するインタラクティブ(双方向)自販機も予想できる。例えば、患者が自販機のディス
プレイに現れたドクターと交信し、問診に答えると症状に適した薬が販売されるというこ
とだ。このようなコミュニケーションサービスは、旅行、スポーツ、イベント、車や住宅
の購入などさまざまな分野で応用され、国民生活に新しい利便性を提供していく。
7.終わりに
日本に自販機が多い理由を調べるために自販機の定義から始め、その起源、歴史、普及
状況などを調べてみた。「4.なぜ日本には自販機が多いのか」では日本での高い自販機の
普及率の理由を探ろうとした。自販機という機械のメリットはいろいろあったが、そのメ
リットは日本という国の特性と相まって、高い普及率を見せている。
戦争後、経済的に急速に発展し続けてきた日本では流通環境的な面でも大きな変化があ
った。小売場は消えて省力化が求められる中、身近で 24 時間の無人サービスの自販機はこ
のニーズに応じていたのである。一つの新しい流通チャンネルとして、その一翼を担うこ
とになった。
自販機のアウトドアの設置を可能にし、普及に大きな影響を及ぼしたのは日本の治安の
63
良さであった。日本の治安がいい理由として第一に挙げられるのは人口の 99.5%が日本人
だという同一民族性である。経済的にも比較的に富の配分が均等に行われ、社会的葛藤要
素が少ない。常駐しながら地域コミュニティーの警備を行っている。日本交番システムと
拳銃の所有に関する厳しい法律も治安のいい理由として挙げられる。しかし、いかに民族
的な構成比と構造的な環境がいいとしても市民の高い意識と実践がなければ治安はよくな
らないであろう。「新・日本の警察」で著者デイビット・H・ベイリーは日本には反社会的
な行動を抑制する日本だけのメカニズムがあるという。このメカニズムとは社会的な決ま
りを守る、集団との調和を求める、自分に求められている役割を果たすなどの日本社会で
の相互関係によって支えられている。日本の治安の良さを盆栽の美しさに喩えたことは日
本社会の独特さを表現したものである。
自動化・コンピュータ化されている日本社会において、人ではなく機械から物を買うこ
とは違和感が少ない。この社会的容認度の高さも自販機の普及の一助となった。また、コ
ミュニケーションの機会を失っていく現代人の姿も伺える。自販機産業でも技術投資によ
る革新的な自販機開発があった。もっと便利になった自販機は消費者に慣れ親しまれた。
代表的な例は「ホット&コールド自販機」である。
自販機に入れ、使うに便利であるため、自販機の利用率を高めるコインの発行と大量流
通も自販機普及に影響を及ぼした。自販機管理運用業者、オペレーター中心の専門的運営
と衛生管理は自販機を利用する人に中身商品への信頼感を与えた。多様なアイテムの開発
で選択の幅が広いことも消費者を自販機に近付けた要因である。
日本での一年はあっという間に経ってしまった。短い期間であったが経験して、感じた
ことは多い。日本で頂いた最高のプレゼントは人との出会いである。日本語・日本文化研
修プログラムを通して出会った世界各国の友達はその一人一人への関心だけではなくて、
その人の国への関心を持つきっかけになった。世界地理に疎かった私であったが、いつの
まにかコンピュータで授業の時間に話した人の国の位置などを調べたりしていた。授業以
外のいろいろな集まりの中でも多くの人に会えた。外国での韓国人との出会いも格別であ
った。
何よりも勉強になったのは韓国人としての日本という国に対しての認識であろう。日本
は韓国人にとってはいつも特別な国である。
過去において 35 年間、韓国を植民地にした国、
驚くべきスピードで先進国入りした国として長い間、韓国人にとっては愛憎の対象であっ
た。この一年間は日本に関していろいろ見て感じる期間であったため、特に意義深かった。
韓国人の私にとっては簡単ではないかもしれないが、等身大の日本を見ることに努めたし、
得たものは多いと思う。私の母国、韓国の長所と短所も客観的に見ることができる期間だ
ったと思う。この一年間は帰国してからの私の人生にとって―韓国人としての、社会人と
64
しての、主婦としての私―いい滋養分になると思う。
注
1)流通革命: 大量生産体制に対応する流通段階の急激な変化をさす。この語は第2次大戦
後米国で用いられ始め,1960 年ころから日本でも一般化。大量流通体制が進行し,小売段
階ではサービス的要素を圧縮し,標準化された商品を大量に扱うスーパーマーケットなど,
大資本の大型店舗が進出,問屋・卸商など中間流通業者の衰退または役割の変化がみられ,
全体として流通ルートが太く短くなる傾向にある。
2)朝鮮戦争: 1950 年―1953 年にわたり大韓民国(韓国)軍と朝鮮民主主義人民共和国(北
朝鮮)軍の武力衝突を機に起こった国際紛争。
3)専業オペレーター:
さまざまなメーカー製品(飲料など)を取扱い、自動販売機を通じ
てロケーション(自動販売機を設置されている場所)に最適な状態で商品の提供をし、自
動販売機維持管理を業務とするタイプ
4)兼業オペレーター: ボトラーとも言われ、飲料メーカー自身が自社商品の販拡、広告宣
伝のために自ら運営するタイプ
5)オーナーオペレーター:
設置する場所の所有者が自ら自販機を運営するタイプ
6)IMF: 国際通貨基金(International Monetary Fund)。第二次大戦後の国際通貨制度の安
定を目指すブレトンウッズ協定に基づき、1945 年 12 月に発足した国連の専門機関。加盟国
は出資義務を負い、金・ドルを基軸とする固定相場制の下、為替取引を自由化し、国際収
支が悪化した国は資金の融通を受けられるとされたが、1973 年以降の変動相場制への移行
に伴い、発展途上国への融資機関としての性格を強めている
7)ブロードバンド: 放送や通信に利用できるバンド幅の広いものをブロードバンドといい、
狭いものをナローバンドという。従来の 56Kbps、ISDN で 64Kbps 以上の通信を一般的にブ
ロードバンドという。ブロードバンドによる通信が可能になると、TV放送のようなこと
もインターネットでできるようになる。今後のインターネットはブロードバンド時代に突
入する。
参考文献
『自動販売機 20 年史』 日本自動販売機工業会年史委員会編、日本自動販売機工業会、1983
『自販機マーケティング:21 世紀のベンディングマシーン・ビジネスを求めて』
ベンデ
ィングマシーン・マーケティング研究会編著、ダイヤモンド・フリードマン社、1998
『自動販売機行政の現状と問題点:自動販売機の設置及び管理に関する調査結果報告書』
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行政管理庁行政監察局編、東京:大蔵省印刷局、1978
『図解古代・中世の超技術 38:
「神殿の自動ドア」から「聖水の自動販売機」まで(ブルー
バックス)
』
小峯龍男著、東京:講談社、1999
『新・日本の警察:日本の治安はなぜよいのか』
デイビッド・H・ベイリー著、サイマ
ル出版社、1991
『日本の工業化と技術発展』
南亮進、清川雪彦編、凍洋経済新報社、1987
『日本の機械技術(日本科学技術史大系)
』
第一法規出版、1966
『自動販売機(現状と分析と将来の可能性)
』 加藤裕樹、京都大学経済学部、若林ゼミ・
ゼミ論文、1999
参考ホームページ
「www.meti.go.jp」 経済産業省
「www.jvma.or.jp」
日本自動販売機工業会
「www.koreavending.com」
「www.fujireiki.co.jp」
「www.goo.ne.jp」
コリアベンディングコンサルティング
富士電機リテイルシステムズ株式会社
辞書検索サイト
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日本語、韓国語に見られる擬音語・擬態語の対照研究
金
素姫
Ⅰ.前書き
日本に来て、言葉に関して一番苦労したことが擬音語・擬態語だった。がりがり、もち
もち、ぶくぶくなど、簡単な言葉でも分からなくて落ち込んだりしたが、だからこそ勉強
してみようと思って始めたことがもう一年近くになった。
時間が経つに連れて日本語の中で最も重要なところは擬音語・擬態語ではないかと思いな
がらほぼ一年間におよんだことをまとめることにしよう。
Ⅱ.擬声語・擬態語とは?
まず、両国の辞書での定義を見ることにする。
1.日本語
*擬音語
・研究国語大辞典:物の音や動物の音などを真似て表した語。
・広辞苑:物の音響、音声などを真似て作った語。
*擬態語
・事物の状態、様子を、それを表すのにふさわしい音で表した語。
・事物の姿態を感覚的に写し表す語。
・音を立てないものを音によって象徴的に表す言葉。
2.韓国語。
*擬音語
・大国語辞典、標準国語辞典:物の音を真似て表した音。擬音。
・教育大辞典:人の声を真似て表す言葉、或いは、その音。子供がまだ語彙が足りない時、
言語発達の一段階として表す現状で、大人の場合はわざわざ使うことがある。
*擬態語
・ある模様、状態などをそれと似ているように真似た言葉。
韓国ではこうした擬音語・擬態語という単語があるのにも関わらず、多くの韓国語学者
67
は「音声象徴」或いは「象徴語」と名付けている。その理由は、擬音語と擬態語は一つだ
けの意味を表すことはほとんどなく、いくつかの意味を持っていて、それが擬音語であれ
ば、擬態語であったり、或いは両方の意味を持っているものもあるため、『概念(signifie)』
に『ある程度の必然的な』関係を持つ聴覚または、視覚的な映像を音素記号(significant)
で『写す』こと、これらの意味を全て含んでいる「象徴語」で通っている。
音声象徴とは、言語記号の一部がその音声と意味との関係がより直接的に結合していて
必然性が感じられることがあるが、こうした言語表現を音声象徴と言い、音声象徴に基づ
いた言葉を
音声象徴語
または、 象徴語
と言う。
ところが、「象徴語」という名称は擬音語・擬態語だけではなく形容詞、特に色の表現に
対してもよく用いられるので本論では混乱をさけるため特徴がよく現れているので、私は
擬音語・擬態語と表記することにする。
言葉が時代と共に変わったり、無くなったりしていくのにも拘わらず、韓国の擬音語・
擬態語は固有語としてまだまだ数多く残っていて、繊細な感情表現に豊かに使われている。
Ⅲ.研究の対象
日本と韓国で一緒に出版された本の中で一冊を選んだ。日本で出版されている THE JAPAN
TIMES の「英語人と日本語人のための日本語擬態語辞典、1989」という本が、韓国では
YOUNGYUNG MIDEA から「擬態語辞典、2000」という名で出版されていて言葉を比較するのに
大変役に立つと思ったので、この本を中心にすることにした。
Ⅳ.両国の擬音後・擬態語の特徴
1.音韻的特徴
日本と韓国の擬音語・擬態語は母音と子音との結びつくことによって音感が変わる。
古代日本語(奈良〜平安時代)においては母音が8つあったが、三つの母音が、それぞ
れ似ている母音に合流して、平安時代以降五つになった。8つもあった時は、韓国語のよ
うに母音交替と母音調和も多分あったと思うが、五つになってから、母音の強弱や、母音
による豊かな表現ができなくなったと思う。
韓国語の場合、中世の8つだった単純母音が今は七つで、複合母音が 18 個もあるので母
音の交替による語感の表現が豊かである。また、日本語は母音と子音がそれぞれ結合する
ことによって語感の違いを表現することができる。その特徴を見てみる。
まず、ある論文の結果を借りて音節の頻度数をみよう。この結果は、日本の小学校の教
科書に出る 319 個の擬音語・擬態語を研究したものの結果である。
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1)日本語の音韻的特徴
(1)日本語のオノマトペの語頭に来る音節の頻度の調査。
ア.カ行:21%
イ.サ行:19%
ウ.ア行:16%
エ.ハ行:13%
(2)日本語のオノマトペの語末に来る音節の頻度の調査
ア.り:18%
イ.促音:16%
ウ.撥音:14%
これは小学校の教科書に出る擬音語・擬態語の頻度数だが、擬音語・擬態語全体的にほ
ぼ同じだと思う。
(3)音節の添加
ア.音韻による語感の違い;
ア)促音:一時的、瞬間的、素早い
意味を強くしたい、1回的、瞬間的な表現、急速度の進行、突然表われる変化、
正確、鋭い、乾燥、さっぱりした感じがする。
イ)長音:時間的な長さを強調
音を伸ばす事によって、時間がかかる感じがする。
ウ)撥音:音の響きを表わす
強調、響き、余韻、軽い感じ、音の間に隙間がある。
エ)り:語末に来て回転と繰り返しを表わす
のろくて柔らかい、隙間が長いと感じる。
オ)ラ行:流動性
カ)ぱ行:破裂、破壊
韓国語のように、語頭に来る清音、濁音は語感と意味の変化に影響を及ぼす。
―清音([p][t][k][f][s]):小さい、少ない、快い、軽い、明るい、弱い
―濁音([b][d][g][v][z]):大きい、多い、不快、重い、暗い、強い
(4)母音による感じ
ア.[a]:口を大きく開いて発音する。―大きい、強い感じ
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イ.[i]:甲高い音。明るい、小さい、早い
ウ.[o][u]:唇を尖らせたり、すぼめたり、両唇を閉じたり、近付けたりして、口の中に
空洞ができる。その空洞自体が肥満を象徴。
エ.[o]:鈍くて不明瞭な音
オ.[e]:下品な表現が多く、一般的に否定的な意味
(5)一般の子音が持っている感じ
ア.[t][k]:硬い
イ.[s][z]:摩擦感
ウ.[m][n]:柔らかい感じ
エ.[h][p]:抵抗のない感じ。/b/と比べてより文章的で、上品な感じ。
オ.[r]:流動的、差し障りない感じ
カ.[r][l]:流動的ではないものもある。
2)韓国語の音韻的特徴
(1)母音交替(母音相対法則)
:隠陽対立を通して語感が違う。
‑陽性:明るい、軽い、小さい、鋭い
‑隠性:暗い、重い、大きい、鈍い
広い語感(前母音類)
狭い語感(後母音類)
小さい語感(低母音類)
[a][ae][ya][wa][wae]
[o][oe][yo]
―陽性母音
・ ,・ ,・ , ・ , ・
・ , ・ , ・
大きい語感(高母音類)
―陰性母音
[eo][e][yeo][wo][we][eu][eui][
i]
・ , ・ ,・ , ・ , ・ , ・ , ・ ,・
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[u][wi][yu]
・ , ・ , ・
*小さい言葉/大きい言葉
―大きい言葉とは、語感が大きい言葉である。陰性母音同士の作り合った言葉で大きく感
じられ、大きく聞こえる言葉である。
―小さい言葉というのは、大きい言葉と意味はほぼ同じで明るくて小さい感じの言葉であ
る。擬音語・擬態語に多く、主に陽性母音で作り合っている。擬音語・擬態語のすべ
てが対になるというわけではないがほとんどがペアを組んでいる。同じ意味を表して
いても、小さい言葉を使うことによって印象がちがってくる。
(2)母音調和
韓国語では日本語と同様に、擬音後・擬態儀は前半部分とそれに類似したから後半部分
になるが、それぞれに用いられる母音は普通陽性母音、あるいは陰性母音で一致しなけれ
ばならない。これを「母音調和」という。中性母音の[i]が用いられる場合はその限りでは
ない。日本語には[CuCu][CaCa][CoCo][CiCa][CoCu]などの形は多いが、韓国ではもっと複
雑である。母音調和はアルタイ語の特徴でトルコ語、フィンランド語などでも見ることが
できる。
。原住民の言葉と渡来人による古代韓国語とが入り混じった古代日本語の多くの語
彙は原住民語と古代韓国語が混合されたので、古代日本語にも母音調和は存在したそうで
ある。
(3)子音交替:平音、硬音([kk][bb][jj]…)、激音(=帯気音[k][t][ch][p]…)の違いに
よって語感が変わる。
―後者になる事につれて語感が強くなる。
(子音加勢法則)
普通の語感
(平音)
[g][d][b][s][j][ng] ‑ [・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
強い語感
(硬音)
[gg][dd][bb][ss][jj][ll] ‑ [・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
激しい語感
(激音)
[k][t][p][ch][h] ‑ [・ ・ ・ ・ ・ ]
*子音加勢法則(語感の強度)
71
(4)末音の子音の役割
ア.内派音([g][b][s]・ ,・ ,・ ):停止、あるいは差し迫って急な様、一時的な現象、軽い、
乾燥、弾力のない感じ
イ.鼻音:([n][m][ng]・ ,・ ,・ ):響く性質(共鳴)、弾力性と持続性、湿潤、軽さ
ウ.流音([l/r]・ ):進行、流動、変転、湿潤、持続性
―日本語の場合:ら、り、る、れ、ろ の流音は動き(流動)の意味
ぱ、ぴ、ぷ、ぺ、ぽ の破裂音は破裂、破壊の意味
日本語と韓国語を勉強するに最も重要なところが、語感だと思われる。特に擬音語・擬態
語は、言葉の意味よりまず伝わってくる感じで意味を把握しようとする言葉で、言わば、
覚える単語ではなく、まず感じる言葉である。ところが、外国人は、母語の影響が強いた
め、日本語と韓国語の擬音語・擬態語を勉強するのに大変苦労すると思う。だからこそ、
両国の擬音語・擬態語を勉強するには、音韻的特徴を身に付ける必要があると思う。
2.形態的特徴
*基本形の設定
韓国語の場合、基本形がはっきりとしていて、基本形を繰り返したり、接尾語により派
生もする。例えば、[mikkeun‑mikkeun[・ ・ ‑・ ・ ]‐ぬるぬる]の場合、[mikkeun]という AB
の基本形を繰り返したり、[‑hada], [‑georida], [‑daeda]などを付加して派生する。基本
形は、派生していない平音で陰性の単語を基本とする。ところが、日本語の場合は基本形
を決めることが難しい。これは、その擬音語・擬態語の語根がどこにあるのかが不明瞭で
あるためだと思われる。
漢字から来たものや、動詞、形容詞などすでにある言葉から来たものは、簡単に基本形
を決めることができると思う。形態的特徴は韓国の方から書くことにする。
1)韓国語の形態的特徴
・一つの意素単一形の擬音語・擬態語と二つ以上の核語が繰り返す重畳形擬音語・擬態語
にわける。
・重畳形の擬音語・擬態語は、母音、あるいは子音が変わっても意味の変化はない。これ
は、必須の条件ではない。象懲形態素だけで組まれているもの、一般語の語幹、または
誤根に音声象徴的要素が接尾して派生したものなどがある。
(1)重畳の様相
ア.完全畳語:独立性を持っている語幹が繰り返えされる。
72
ア)同音畳語:音声象徴のきっかけによって作られるため、分析できない単純な同一音の重
畳形態。
イ)類音畳語:似ている形の二つの語根が繰り返す。繰り返す構造成分の一部が交替するこ
とで、基本形からの子音の添加と脱落、音節の交替が生ずる。類音畳語は、
それぞれ同じ音節形式を持っているものの結合で、各要素の後半部は一致す
る。これを使うことによってある動作、状態について多様で変化感が感じら
れる。両方の形は、意味的な由縁性の有無とは関係なく、音相の対立に重点
を置く。
―その音相を巧妙に変えることによって、同じ部類なのに、違う意味を持つことになる。
子音、母音、音節だけを最小限に変えて、音相と意味に最も大きな対立をもたらすような
構造にする。
重畳の変わったもののように見えるが、実際には独立的語根の合成によったものである。
イ.部分畳語:一つの語根の一部がくりかえす。
ア)語頭畳語:語根の前の部分(CV か CVC)がさらに添加する。
イ)語中畳語:語根内部の部分音が重畳。語根内部に CV が挿入して繰り返す。
ウ)語末畳語:語根の末のところがさらに添加、繰り返す。
ウ.類似畳語
外見では子音交替か音節交替による重畳に見えるもので、ある意味で、重畳語と認めな
い学者もいる。ところが、韓国で使われることでは、一般の単語としてより、擬音語・擬
態語として認識していると思うので、擬音後・擬態語の範囲に入れたいと思う。
(2)形態構造分析
ア.完全畳語:一つの語根全体が同じ形で繰り返した言葉。
ア)音韻的、形態的変化過程が全然になく、完全に繰り返した場合。
イ)完全畳語の後、ある変化があった場合。
―類音畳語の場合、形態上相違に重点を置く場合は音韻、音節の交替が行われたと思われ
るが、形態的以外内部の構造の相違に重点を置くと
か
添加
だと見ることができる。
73
交替 ではなくて、音韻の 脱落
例
派生方法
特徴
[tnag‑tnag][sak‑sak][gadeuk‑ga
前半要素を後半
自立的、派生する。
deuk]・ ・ ,・ ・ ,・ ・ ・ ・
要素に写す。
完全重畳単一語。
[kkul‑kkul][maem‑maem][peol‑pe
自律性ない。派生し
ol]・ ・ ,・ ・ ,・ ・
ない。
洗練された表現、現
一つの
[adeung‑badeung][eombeong‑deom
基本形
beong][obul‑kkobul][odong‑podo
完
を繰り
ng]・ ・ ・ ・ , ・ ・ ・ ・ ,
全
返すこ
・ ・ ・ ・ , ・ ・ ・ ・
重
とによ
畳
って作
後半要素の語頭
場描写に適切。
子音を削除して
‑[georida],
前半要素写す。
[‑・ ・ ・ ]
第一の CV(C)で C
‑[daeda], [‑・ ・ ]
が脱落するか、第 ‑[hada],[‑・ ・ ],
二の CV(C)で C1
‑[ida][‑・ ・ ]と自
が添加。
然に付けられる方が
基本形。
られる
もの。
[aong‑daong][alssong‑d
alssong][eoluk‑deoluk]
子音
・ ・ ・ ・ ,・ ・ ・ ・ ,・ ・
添加
・ ・
右に重畳。
子音添加、あるい
[sikkeul‑beokkul][oksi
は音節の交替。
n‑gaksin][heodung‑jidu
音節
ng]・ ・ ・ ・ ,・ ・ ・ ・ ,
交替
・ ・ ・ ・
イ.完全畳語の有形分析
ア)基本語根が完全に写して同じ形態の重畳。
‑写した方向が左から右。
完全畳語単一語
自立性がない、派生の有形が決まっている
完全畳語複合語
各々自立する
イ)写した方向が右から左
‑語頭子音の脱落:完全重畳の変形。−
脱落
74
現象。
第1或いは第2構造要素で最初の音節初声(最初の子音)が脱落。
‑基本形での子音が添加するか脱落することによって語感が変わる。
;より繊細な表現、現場描写に適切である。
Ex)[adung‑badung][・ ・ ・ ・ ],
[eombeong‑deombeong][・ ・ ・ ・ ],
[obul‑kkobul][・ ・ ・ ・ ],
[odong‑podong][・ ・ ・ ・ ],
[otol‑dotol][・ ・ ・ ・ ],
[olmang‑jolmang][・ ・ ・ ・ ],
[ulgeut‑bulgeut][・ ・ ・ ・ ]…
―[‑hada], [‑georida], [‑daeda], [‑ida]が付いて、派生する。
―派生ができる方が基本形である。
ウ)写す方向が左から右:一定の類型や規則はまだ明らかではないので決められてない状態
である。
―子音が添加する場合:基本形での第1構成要素の初音節の子音が脱落するか、第2構造
要素の初音節に子音が添加。「子音添加」、
「子音脱落」というのは、韓国語では最初に来る
「・ (ieung ‑ ・ ・ )」は子音として認められず、空いているところを埋めるために書いて
おくもので、子音の添加ができることである。
Ex)[aung‑daung][・ ・ ・ ・ ],
[omok‑jomok][・ ・ ・ ・ ],
[eoluk‑deoluk][・ ・ ・ ・ ]…
―音節交替:基本形の初音節が繰り返して、後の初音節では他の音節に変わる。
Ex)[sikkeul‑beokkeul][・ ・ ・ ・ ],
[heodung‑jidung][・ ・ ・ ・ ],
[oksin‑gaksin][・ ・ ・ ・ ]…
―第1構成要素の[sikkeul][・ ・ ]が基本形で、[sikkeul‑sikkeul][・ ・ ・ ・ ]はあるが、
[beokkeul‑beokkeul][・ ・ ・ ・ ]はない。第2構造要素の発音節が変わったものである。
イ.部分畳語:一部だけ繰り返す。語根が指示する音、動作、状態などが維持、持続する。
ア)語頭畳語:多くない。右から左へ写すが、その範囲によって違う表現形になる。語根の
音節の構造によって変わる。
Ex)[daegul][・ ・ ]‑[daekdaegul][・ ・ ・ ・ ],
[daegul][・ ・ ]‑[daekdaegul][・ ・ ・ ]…
イ)語中畳語:2番目の音節の子音と母音が右に写したもの。
韓国語の語中畳語についてはまだ議論が多い。単語によって 3 音節のものが 2 音節にな
ったという意見もあるが、擬音語、擬態語の場合は単音節から多音節に変わっていきなが
ら音韻の挿入と重畳が行われるので、語中畳語が認められるべきである。
Ex)[sarararak][・ ・ ・ ・ ]‑[sararak][・ ・ ・ ]‑[sarak][・ ・ ]
75
派生方法
音節構造
特徴
CV+CVC
最初 CV と次の音節の [daegul]‑[daekda
‑CVC+CV+CVC
C が語頭になる。
CVC+CVC
最初の CV が語頭にな [dungsil]‑[dudun
‑CV+CVC+CVC
る。
語
右の方向に写
頭
す
畳
語基の構造に
CV+CVC‑CVC+CVC+
語
よって違う
CVC
CVC+CV+CVC‑CVC+
部
CVC+CV+CVC
分
重
語
畳
中
重
畳
語
末
畳
語
必ず二番目の
音節の CV を右
に写す。
例
egul]
gsil]
[deongsil]‑
最初の CVC の中で子
[dungdeongsil]
音か母音を一つ取っ
[daenggeurang]‑
たもの。
[waengdanggurang
]
全て CV+CV+CVC の音
CV+CVC
節構造。
[padak]‑[padadak
‑CV+CV+CVC
中の CV は何度も増や ]
すことができる。
最後の音節を
CVC+CVC‑CVC+CVC
最後の音節を繰り返
[kungdeok]‑[kung
添加、重畳
+CVC
す。
deokdeok]
[r/l]音韻の重
CVC+CVC‑CVC+CV+
畳
CV+CV
最後の音節の[r/l]
に母音[eu/・ ]を添
加さらに繰り返す。
[binggeul]‑[bing
geururu]
ウ)語末畳語
(ア)最後の音節を語末に添加する。Ex)[kungdeok][・ ・ ]‑[kungdeokdeok][・ ・ ・ ]
(イ)[pareureu][・ ・ ・ ], [sareureu][・ ・ ・ ], [ureureu][・ ・ ・ ]などは、語根の語末子
音がない(C)Vの構造もので、語根の最後の音節を繰り返したものである。こういう形も語
末畳語に含まれる。
(ウ)最後の音節の C(r/l‑・ )に V(初声母音
[eu] ‑ ・
)を添加して繰り返したもの。
Ex)[daegul][・ ・ ]‑[daegureureu][・ ・ ・ ・ ],
[wageul][・ ・ ]‑[wageureureu][・ ・ ・ ・ ]
―この CV が添加したものは、各々の語根が指示する動作、状態の維持、持続することを
意味する。
●部分畳語の特徴的な現象
―舌先で発音される、/r/の音韻が繰り返す傾向がある。特に、語中、語末でよく見られ
76
る。韓国語の場合、語頭の/r/の発音が難しいため、語頭/r/の重畳はないが、語中、語末
では頻繁に見ることができる。これは、音調を滑らかにして聞き手に快さが伝えられる音
便と同じ現象である。
ウ.類似畳語
―外見では子音交替か音節交替による重畳に見える。
例
類
似
畳
語
重畳と似
ている
表面上、子音交替
独立の語根の
か音節交替。
結合。
表面的、母音交替。
が、重畳
が低母音。
[siluksaeluk]
自立する。
派生する。
心理的且つ生
理的に感じる。
基本形の区別
ではな
い。
右より左の方
[asakbasak]
重畳形単一語。
がつかない。分
けたら意味不
[osondoson]
一つの語根に
なったもの。
明。
ア)独立の語根の結合−合成語形
―文章の中で自立し、[‑geirida], [‑daeda], [‑ida], [‑hada]などの派生語尾を添加す
ることができる。
Ex)[asakbasak]‑[・ ・ ・ ・ ]で[asak]‑[・ ・ ]と[basak]‑[・ ・ ]は各々存在する単語
で両方ともお菓子や野菜などの噛み味や切れ味がいいことを表す日本語の「さくさく」と
同じ意味のことである。両方とも[asak‑asak]‑[・ ・ ・ ・ ],[basak‑basak]‑[・ ・ ・ ・ ]とも
使われる独立の言葉であってそれぞれが一つになったものである。
イ)表面的には母音交替
右のものと母音だけ違ったもので、母音が交替したものと見ることができる。右のもの
より左にあるものが低母音である。これによって心理的且つ生理的な現象と認識する。
Cf)
高母音:[i] ・ 、[eu]
・ 、[u] ・ 、低母音:[ae]
・ 、[a]・
ウ)繰り返した単一語
重畳か合成でもないし、どれが基本形かの区別が付かないもの、要するに一つの単語と
して認められるものがある。
Ex)[oson‑doson]‑[・ ・ ・ ・ ], [eogeun‑beogeun]‑[・ ・ ・ ・ ]
二つの構成要素の関係が不透明で、基本形が分からないものである。二つを別々に分け
77
たら意味が分からなくなり、派生も当然できないので、一つの語根として認められるもの
である。
(3)漢字
擬音語・擬態語を使う度に思うことは、漢字で書けるかどうかということである。日本
語の場合かなりの数の擬音語・擬態語を辞書で調べると漢字が出てくる。これは韓国語と
はもっとも違うことである。
韓国の擬音語・擬態語は韓国語固有の言葉であり、常にハングルで表記され、漢字で書
かれることは全くない。漢字の擬音語・擬態語について論ずる理由は、日本語の擬音語・
擬態語のうち、ある程度のものは普通使われる動詞や形容動詞、形容詞からその語根だけ
を取って繰り返したものが多いと思うからである。
私の資料としている、「英語人と日本語人のための日本語擬態語辞典」に載せてあるもの
のほぼ 20%がほとんどの場合仮名で表記されるとしても、書こうと思えば漢字で書くこと
ができる。
・あの二人はあつあつの仲だ。
・質問にいちいち答える。
ここでの「あつあつ」は「熱々」と、
「いちいち」は「一々」と漢字で書ける。韓国語で
は[yeolyeol]と[hanahana/ilil]と発音するが、こういうことが、この本の 182 個の中の 36
個、つまり 20%にあてはまる。このようなタイプの言葉は韓国では擬音語・擬態語として
は認めていない。その理由は、漢字をある程度分かっている人ならば発音は違っても意味
は分かるもので、肌で感じられ、文化の中で自然に分かるものではないからである。とい
うわけで、韓国では漢字で書ける言葉は擬音語・擬態語として扱わない。
「ろうろう−朗々」
、
「きゅうきゅう−汲々/急々」など、言葉として使われているが「ヒットする」、
「エスカレ
ートする(―韓国はこの言葉はない)」などのような外来語と同じであるとみなされる。韓
国も繰り返した漢字語を認めるなら擬音語・擬態語の数は増えるだろう。
さらに、36%(66/182)に至るものがある単語から来たものと見られる。
・
「ひそひそ」―「密か」
・
「もりもり」―「盛る」
このことから、日本の擬音語・擬態語は韓国語より、必然性が欠けているとも言える。
「ぱくぱく」
、「てくてく」
、「とぼとぼ」のように、音や様子を描写したものだけを、擬音
語・擬態語と認めたい。
2)日本語の形態的特徴
78
(1)畳語、促音、撥音、り音、長音、清音、濁音、半濁音、不規則な変化などがある。
ア.ABAB の形が一番多い。
イ.2拍以上の畳語:強調、緊張、連続、延長などが感じられる。
ウ.畳語:連続性の表現に使われて意味の強調、リズムを表わす。
ア)同音の繰り返し:滅多にない。
イ)異音の繰り返し:多い、ABAB,ABCABC
―韓国語は文字に初声、中声、終声があって、一つの字でも音声による象徴が表われるの
に対して、日本語は一文字一音なのため、音声象徴はできない。
(2)音節の添加
ア.促音の添加:形式上、促音で終わるものには
と
がつく。
撥音の直前、直後には付けない。
イ.り音の添加:促音、撥音の直後には付けない。
元々「り」音が入っているもの、或いは、語根にり音添加。
ウ.撥音:元々、基本形に撥音が入っているもの。
或いは、基本形から派生した一部に撥音添加。
エ.長音:擬声語はカタカナで、擬態語はひらがなで表記。
(3)日本語の擬音語・擬態語は、動詞と結び付いて複合動詞になる事が多い。
ア.2音節の擬態語「+〜つく」の形が一般的。しかし、AB つくの形で、B の発音が撥音
とか母音の場合
つく
は付けられないことが多い。
イ.韓国語とは違い:ゆっくり、はっきり、もっとなど、品詞の分類に違いがある。
普通、日本の擬音語・擬態語の形態的特徴はこのようにまとめられているが、これらは、
擬音語・擬態語の形になった後に付くもので、韓国語のように擬音語・擬態語自体の様子
は語っていない。私は、韓国語のように、擬音語・擬態語が単語になる間にもある変化が
あると思っていて、基本形とそこから派生した擬音語・擬態語を探したかったので、自分
なりに考えてみた。
私は日本語も子音の交替と音節の交替が行われていると思う。これを決めるのに最も重
要なことが基本形の設定だと思っている。日本語は、韓国とは違って、漢字から来た擬音
語・擬態語も認めているのでその基本形を探すことはより易しいことである。
「あつあつ」の場合、
「熱熱」もあり、「厚厚」もある。
*二人はあつあつの仲だ。
の場合は、
「熱熱」で、この「あつあつ」は「熱」の漢字か「熱い」の形容詞から来たこと
79
が分かる。この場合の語根は「熱」になり、基本形もまた、
「あつ」と言えないだろうか。
資料とした本では繰り返した擬音語・擬態語がすべてで、その中での比較は難しい。そ
こでひとつひとつの単語を、辞書を引きながら 182 個を探してみたところ、自分なりの結
果を出すことができた。
これは上の擬音語・擬態語の特徴は除いたものである。
形態
いじいじ、じとじと
同音畳語
ぽたぽた、しぶしぶ、むかむか
子音添加か脱落
うずうず-むずむず
子音交替
「 」
、
「゚」が付いたもの。
うじうじ-もじもじ、くよくよ-くやくや、
音節交替
いらいら-いらくら、
完
重
全
畳
擬音
語根に前に何かが
しゃあしゃあ-いけしゃあしゃあ
付く
へらへら-えへらえへら
重
形
畳
語、
ずきずき-ずきんずきん
語根の後に何かが
だらだら-ふしだら
付く
擬態
もじもじ-もじかわ
語
しみじみ(染み染み)
自立語から繰り返して後半要
こわごわ(怖々)
素に連濁がおこるもの
さむざむ(寒々)
自立語の繰り返しで連濁がお
おずおず(怖ず怖ず)-おどおど
きないもの
あつあつ
表面的に子音交替か音節交替
うねくね(うねる-うねうね/くねる-くねくね)
が二つの語根が一つか、
むさくさ(むさい-むさむさ/くさい-くさくさ)
逆になったもの
めちゃくちゃ(めちゃめちゃ/くちゃくちゃ)
独立的に使われるもの
し-ん、さっ、どんちゃん、ぺちゃんこ
類似重
畳
単一語
3.意味的特徴
1)複数の意味を持っているもの。
日本と韓国の擬音語・擬態語は一つだけの意味を持っているものもあるが、二つ以上の
80
意味を持っているものも多くある。
・箱が壊れてりんごがごろごろと転がってきた。
・遠くで雷がゴロゴロと鳴っている。
上の文章は基本的な用法で、何かが転がっている様子を表しているが、下の文章は雷の
音を表している。このように、違う意味を同じ日本語で表していることも多いが、逆に韓
国では同じ表現を用いるのに日本語では別々の表現を使う例もある。
[bandeulbadeul]
・つやつやとした髪の毛。
・彼は頭がつるつるにはげている。
この場合は、光沢があって美しい様子や表面が滑らかな状態を表すが、なまけ者、また
は、悪がしこいさまを表す時もよく使われる。
2)擬音語・擬態語で訳せないもの
品詞が違ったり、擬音語・擬態語として定着してなかったりして、両方がちゃんとした
擬音語・擬態語ではなく、説明文になったり、省略までされるものがある。
日本語の場合、
「ちらちら」、
「どろどろ」
、
「でれでれ」など、説明文の中で副詞になった
りすることがある。また、
「むっ」、
「ばたり」など、文章の中で説明文になって、ただ感じ
だけを伝えたりするものもある。このようなものは日本にも韓国にも多くあると思う。資
料としている本でも 50/182 個の 27.4%にあてはまる。
3)人の行動、感情に関する物が多い
両国の擬音語・擬態語は何より人の行動や感情に関するものが多い。韓国には特に笑い
に関する擬音語・擬態語が多い。
4)意味と、音韻的、形態的特徴との関係
両国の擬音語・擬態語は形によって言葉のニュアンス、語感が違うため、音韻的、形態
的特徴が意味と深い関係があると思われる。反復、促音、撥音、長音「り」などの音節の
添加、母音、子音との関係が分からないと、正しい意味やニュアンスが伝えられない恐れ
がある。
4.文法的特徴
日本語の擬音語・擬態語は「と、
」「に」
、
「する」
、或いは、特定の動詞を伴って使われて
いる。その文法的機能をまとめてみた。
81
1)副詞的機能
(1)擬音語・擬態語(+と)+動詞
・勉強しながらうとうとと眠りはじめた。
・夏の太陽がぎらぎら照りつけている。
・そんなにじろじろと人の顔を見るのではない。
擬音語・擬態語のほとんどは「と」を共にしたり、或いはそのまま副詞として働く。同
じ擬音語・擬態語でも「と」が付く場合もあれば、付かない場合もある。
「と」を付けるこ
とによって、意味を強調したり、語調を生々しく伝えることができる。
(2)いつも「と」が付く場合
ある擬音語・擬態語はいつも「と」が付くものがある。その形態はこのようなものであ
る。
ア.語尾が促音の場合
*バッターはさっと身をかわしてボールを避けた。
*水がどっと流れ込む。
促音で終わるものは必ず「と」を伴う。そうでないと発音が難しいし、何か足りないと
感じる。
イ.2音節で語尾が撥音か長音の場合。
・夏休みに入って需要がぐんと伸びた。
・指揮者が構えると客はしんと静まりかえった。
この場合は「と」がないと単なる言語音に止まる恐れがあるので必要となり、これは連
用修飾の機能だけ持っている。但し、こういうものが重畳語になると必ずしも「と」は必
須ではない。
ウ.2音節の語根+撥音の場合。
・客足ががくんと落ちる。
・起きたらふとんをきちんと畳みなさい。
これらも、発音が難しいため、
「と」を伴うが、
「どきん」のように随意的なものもある。
エ.3音節目が「り」で終わる場合。
・狙いをぴたりと定める。
・言い間違えてぺろりと舌を出す。
「り」で終わるもののほとんどは、
「と」が付くが、随意的なものもある。
オ.2音節の語根の間に促音が入っている場合。
・もったいぶらずにさっさと言えよ。
82
2音節の間に促音か撥音が入ったものは、それだけでは安定できず、不完全に感じるた
め「と」が要る。
カ.4モーラ以上の場合、比較的随意的だが、まざまざ、のうのうなどのように必ず、
「と」
が付くものもあるという。これは慣用的なもので「まんじりともしない」
「びくともしない」
のように、
「…+と〜ない」、
「ぐらぐらとくる」、
「かちんとくる」のように「…+とくる」
、
「相手の攻撃にたじたじとなる」のように「…となる」などのように、使われるものであ
る。
(3)「と」、
「に」の両方が取れるもの。
一般の副詞では意味的な違いはないが、擬音語・擬態語では「と」と「に」の使い方が
違う。
「と」と「に」の両方が使えるものは、重畳形で擬音語と擬態語、両方の性質を持っ
ているものである。
「と」が付くと、音声の描写が、動作、進行などの経過状態を表す。
「に」の場合は、成立した後の状態を表す。
・かんかんになって怒る。
・炭がかんかんとおこる。
(4)「と」を伴わない場合
・久しぶりの雨で暑さもちょっぴりお休みだ。
・声が父親にそっくりで、電話だとよく間違える。
このように、程度、数量副詞に近いものは、「と」は付けずに直接に時間、数量、程度を
限定して動詞を修飾する。
*会社は5年間にぐんぐん成長した。
*少しの間、ぶらぶら町を歩いた。
などのように、動詞選択に制限が強い場合、
「と」は余分な物と感じられる。また、こうい
う擬音語・擬態語の大方は「する」が付いて述語として使われることもある。
2)形容動詞的機能
(1)「と」
、
「に」の両方が取れるもの。
副詞的機能と同じく使われている。
(2)「に」だけを伴うもの。
・ぐでんぐでんに酔っぱらう。
・めちゃめちゃにつぶれた。
83
・ずたずたに切る。
・ほかほかの御飯。
・このスカートはゆるゆるだ。
「に」が付くものは、ほとんど否定的表現が多い、
「な」
、「の」も随伴して名詞、代名詞
の体言を修飾したり、「だ」、
「で」が付くなど、形容動詞の性質を持っている。また、
「に」
だけが使われるものは、
「擬音語・擬態語+になる」、
「擬音語・擬態語+にする」の形である
ものが多い。
・この本は背表紙が取れてばらばらになりそうだ。
・並べたものがぐちゃぐちゃになる。
・時計をばらばらにする。
・壇の上でかちかちになる。
「擬音語・擬態語+になる」の形は変化の結果を、
「擬音語・擬態語+にする」の形は動作や
意図を表すことがある。
(3)「の」だけを伴うもの。
・あの二人はあつあつの仲だ。
極めて少数のものは、
「に」や「な」を伴わず、
「の」だけで連体修飾する。これは形容
動詞の一部の性質だけ持っていると言える。
(4)「〜しい」の形で形容詞になる。
・けばけばしくかざり立てる。
3)動詞的機能
擬音語・擬態語に「する」
、「つく」
、「めく」などが付いて、動詞的機能を持つ。
「めく」は、その様子に見えるよう、そう言う感じがするようになるという意味を、
「つ
く」もその様子になりかかるという状態の変化があったことを表す。
「めく」と「つく」は
ほとんどの擬音語・擬態語に付くが、ABAB の形に付くのではなく、韓国語の擬音語・擬態
語のように、AB の状態に付く。
・だらだら:だらつく。
・ひそひそ:ひそめく。
次に「する」を中心に見てみる。
84
(1)いつも「する」を伴う。
・思うとおりにならなくていらいらする。
・必要な出費なのにけちけちする。
・あまりくよくよするな。
擬音語・擬態語に「する」が付いて、状態や性質、人間の心理状態、感情、行動などを
表す。
・胸がどきどきして手紙を開けることもできなかった。
・いじいじした態度。
・ごわごわした浴衣。
・おろおろして何も手に付かない。
このように、自動詞として使われているものが多く、状態を描写する特徴があるわけで、
状態副詞と言われている。
(2)「する」を伴わないものの特徴
・2台の自動車がすれすれ行き違った。
のように、程度副詞に近いもの。
・赤ん坊がすやすやと寝ている。
のように、特定の動詞とのつながりが固いもの。
・子供がすくすくと育つ。
のように、動作、事物などが次々と動く様子を表すもの。
4)名詞化
両国の擬音語・擬態語は、文章や一般の会話の中で、一つの名詞として使われることも
多い。その例をいくつかまとめてみる。
(1)幼児語として使われているもの。
・わんわん:犬
・ぶーぶー:車
・にゃーにゃー:猫
・ごろごろ:雷
(2)擬音語・擬態語から、意味が移り変わって名詞になったもの。
・ごたごたが絶えない。
85
―種々の物が雑然と入り混じって整理が悪いさまという意味から、もめていたり、突発的
な出来事に取り組んでいたりするさまを意味して紛争の意味を持つ。
*顔にぼつぼつができた。
−小さな点や粒の散在するさま。また、その点や粒という意味から湿疹やニキビを表す。
(3)擬音語・擬態語の意味を持ちながら、名詞になったもの。
・ごろごろ―雷がとどろき渡る音の意味で、幼児語で雷を言う。
(4)擬音語・擬態語が他の品詞と結合したもの。
Ex)ごろ寝、びしょ濡れ、ほろ酔い、ずたずた斬り、ぞろっぺえ、金ぴか物などな
ど。
韓国の擬音語・擬態語は、接尾辞が付くことで名詞、形容詞、動詞になる。
1)名詞派生
擬音語・擬態語が名詞になる接尾辞は、[‑bo], [soe], [jil], [gwari]などがなるが、
代表的なものは[‑i]であり、これが用いられることが一番多い。
Ex)[ttung‑ttung]‑[・ ・ ]‑[ttungbo]‑[・ ・ ],[allang‑allang]‑[・ ・ ・ ・ ]‑[all
ngsoe]‑[・ ・ ・ ], [ttalkkuk‑ttalkkuk]‑[・ ・ ・ ・ ]‑[ttalkkukjil]‑[・ ・ ・ ],
[kkwaeng‑kkwaeng]‑[・ ・ ]‑[kkwaenggwari]‑[・ ・ ・ ]…
日本の擬
韓国の擬音語・擬態語
意味
名詞化
意味
態語・擬態
語
[maem‑maem]‑[・ ・ ]
せみの泣き声
[maemi]‑[・ ・ ]
[kkakduk‑kkakduk]
立方体のように
[kkakttugi]‑[・
‑[・ ・ ・ ・ ]
切った形
・ ・ ]
[gaegul‑gaegul]
‑[・ ・ ・ ・ ]
蛙の泣き声
[gaeguri]‑[・ ・
・ ]
[gwittul‑gwittul]
コオロギの泣き
[gwitturami]‑[・
‑[・ ・ ・ ・ ]
声
・ ・ ・ ]
86
せみ
ミーンミ
ーン
カクテキ
蛙
けろけろ
コオロギ
ころころ
2)形容詞派生
擬音語・擬態語に[‑hada], [‑eopda]が付いて形容詞になる。
(1)[‑hada]
韓国の擬音語・擬態語
[mikkeun‑mikkeun]
‑[・ ・ ・ ・ ]
[geochil‑geochil]
‑[・ ・ ・ ・ ]
+[hada]
意味
[mikkeun‑mikkeun‑hada]
‑[・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
[mikkeun‑hada]‑[・ ・ ・ ・ ]
[geochil‑geochil‑hada]
‑[・ ・ ・ ・ ・ ・ ]
[geochil‑hada]‑[・ ・ ・ ・ ]
つるつる
/ぬるぬる
日本語の派生
つるつるとした〜
かさかさ
かさかさの〜
/がさがさ
がさがさした〜
ABAB の形で、ABAB に付いたり、AB だけにも付く。
(2)[‑eopda]
ABAB の形で、AB に付く。B の CVC の中で、終声の C(l)が後の[eo]に影響を与え、[reo]
になる。
韓国の擬音語・擬態語
[budeul‑budeul]‑[・ ・ ・ ・ ]
+[eopda]
[budeureopda]‑[・ ・ ・ ・ ]
意味
なめらか
[jinggeul‑jinggeul]‑[・ ・ ・ ・ ] [jinggeureopda]‑[・ ・ ・ ・ ] 不快な気持ちがする
[eojil‑eojil]‑[・ ・ ・ ・ ]
[eojireopda]‑[・ ・ ・ ・ ]
くらくら
3)動詞派生
ABAB の形で、AB に[‑ida]‑[・ ・ ], [‑georida]‑[・ ・ ・ ], [‑daeda]‑[・ ・ ]が付いたり、
ABAB に[‑hada]‑[・ ・ ]が付いて動詞なる。[‑georida], [‑daeda], [‑ida]は 2 音節語根と
繰り返した単音節の語根に付く傾向がある。これは、韓国語が、2 音節語が主になっている
単音節言語に属するためである。また、擬音語・擬態語の全てに[‑georida], [‑daeda],
[‑ida]が付くとは限らない。
・[‑georida]は同じ動作を繰り返すことを表す。
・[‑daeda]は[‑georida]が付ける副詞の語根に付いてその言葉を動詞に変える。
(し) 続ける、 (し)たてる、
(し)こける (し)散らすという意味になる。
87
韓国の擬音語・擬態 [‑ida]‑[・
語
・ ]
[‑georida]‑[・
[‑hada]‑[・ ・ ]
・ ・ ]
[‑daeda]‑[・ ・ ]
[gubul‑gubul]
[gubul‑georida]
[gubul‑gubul‑hada
‑[・ ・ ・ ・ ]
[gubul‑daeda]
]
[banjjak‑banjjak]
[banjjak‑id
[banjjak‑georid
[banjjak‑banjjak‑
‑[・ ・ ・ ・ ]
a]
a]
hada]
[huljjeok‑huljjeo
k]
‑[・ ・ ・ ・ ]
意味
くねくね
ぴかぴか
[huljjeok‑geori
[huljjeok‑i
da]
[huljjeok‑hujjeok
da]
[huljjeok‑daeda
‑hada]
しくしく
]
Ⅶ. 結論
韓国語の擬音語・擬態語をより簡単に見分ける方法は、
「象徴素」をまず見つけることで
ある。100%とは言えないがほとんどの擬音語・擬態語にこの象徴素が付いているので、す
ぐ分かる。その種類は 20 個から 22 個までと学者によって分類の仕方は違うが、全く違う
のではなく、重畳の際変わる母音や子音の分類方法によるものでここでは 20 個を紹介する。
子音の加勢(濃音化、激音化)と母音の陽陰性は分けない。
‑・ :‑・ ,・ [‑geun]
‑・ [‑geul]
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・
・ ,‑・ ,‑・ ,‑・ [‑dak]
[‑dong]
‑・ :‑・ (‑・ ,‑・ )[‑lak/ak]
‑・ :‑・ [‑lang]
‑・ [‑mul]
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ [‑bak]
‑・ [‑sil]
‑・ :‑・ ,‑・ [‑geum]
‑・ :‑・ [‑geut]
‑・ :‑・ [‑deuk]
‑・ [‑deuk]
‑・ :‑・ [‑lok]
‑・ :‑・ [‑mak]
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ [‑sak
]
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・ ,
‑・ :‑・ ,‑・ ,‑・ ,‑・
‑・ [‑jak]
[‑jok]
‑・ [‑seul]
‑・ [‑jil]
残念ながら、他のものから、象徴素を区別する明確な規則は存在しない。これは、韓国
人でないと感じられないことで、韓国語を学ぶ外国人にとっては最も難しいところである。
同じように、外国人にとって日本の擬音語・擬態語も簡単に感じて分かるというわけには
88
いかない。
日本と韓国の擬音語・擬態語は、派生、音節の交替、子音の交替などが行われていて、
語感に関しても一致する部分もある。これは、近い国であって、お互いの感じることが似
ているからではないかと思われる。また逆に、全く違っていて韓国人の感覚では分からな
いこともあったが、それを分かるように努力することこそ外国語を勉強することだと思う。
両国の擬音語・擬態語の共通的特徴は、ABAB の 4 音節が多いことと、音節添加、派生が
行われることである。私はそれに、日本語にも促音、撥音、
「り」の添加だけではなく、そ
れ以外の音節交替と子音交替があると思う。似ている言葉を全部集めたら、語根の前や後
にある言葉が付いて強調したり、ニュアンスを変えることができたりして、これ以上の特
徴がを見出すことができると思う。
日本語が韓国語と最も違うところは漢字語を擬音語・擬態語として認めていることであ
る。韓国では、固有のハングルで作られた言葉だけを擬音語・擬態語として認めて、漢字
から来た言葉は認めない。
「事物の状態、様子を、それを表すのにふさわしい音で表した語、
物の音響、音声などを真似て作った語」という定義からは、漢字の言葉は擬音語・擬態語
とは認められず、
「ざあざあ」、
「あっぷあっぷ」、
「がぶがぶ」、
「しくしく」、
「じゃぶじゃぶ」
のような、人の動きや物の音をできるかぎり音にしようとしたものだけが擬音語・擬態語
として認められるべきである。
両言語にはの擬音語・擬態語が多くて比較しやすいだろうとも思ったが、違っていた。
似ているものは確かに多いと言えるが、よく考えたら、重さ、早さ、大きさ、連続性など、
言葉のニュアンスが微妙に違って、よく考えたら「これだ」とはっきり言えることが思っ
たより少なくなるかも知れない。
擬音語・擬態語は人、時代、社会に従って急速に変化していく言葉なので研究するに大
変苦労すると思うが、国の言葉と文化を感じるには相当役に立つと思う。
また、擬音語・擬態語を教えて、教わる時には、自分の母語の感覚ではなく日本や韓国、
相手の言葉だということを念頭に置いて勉強するべきだと思う。
固有の文化から生み出された擬音語・擬態語も多くあると思う。それに関しても元々考
えていたことろまで研究が至らなかったことを残念に思う。
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店
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「オノマトペの前哨」
、広島大学留学センター紀要
90
第6号
キリスト教の日本に対する影響
ショーン・アンダーソン
Ⅰ.初めに
イエス・キリストの誕生以来、多くの人々によってキリストの教義、信条、または様々
な解釈が諸国に広められた。キリストの伝道の任期は3年間のみであったが、それが世界
の果てまで極めて重大な影響を及ぼした。日本もキリスト教の影響を受けた国の一つであ
る。
A.研究目的と方法
この論文の目的は、キリスト教が日本へ影響を与えたという史的事実を収集・提示し、
キリスト教が具体的に日本にどのような影響を与えたのかについて、事例を提示し、考察
することである。本研究の方法は日本人の宗教観に関する先行研究を調査し、史的事実を
確認し、文化人類学的な視点から日本に与えたキリスト教の影響を考察するものである。
これらの目的を達成するために、以下3つの方法を用いる。第一に、文献研究、すなわ
ち、文化人類学的研究、社会学的研究、歴史学的研究のレビューである。第二に、現地調
査である。キリスト教の影響を受けた場所の見学などを通してこの論文の研究が出来た。
第三に、この論文の論の展開を定めるための文化人類学的、社会学的分析である。第三の
方法と内容については、
「論点」の節にさらに詳述する。
B.定義
読者にはそれぞれの宗教がある。そのうえ、キリスト教の中でも様々な宗派がある。こ
の論文においては、誤解を生じさせないために、まず「宗教」と「キリスト教」の定義を
行う。
宗教というと、大抵の人は神様を信じることと思うだろうが、宗教とは神あるいは神々
に対する信仰であり、またこの信仰に結び付けられている活動、行為、儀式を行うことで
ある。これらの活動には、教会あるいは神社、寺、神殿、モスクのような建物での祈り、
礼拝が含まれている。また、宗教は組織の厳守とも考えられているだろう。死に関する事、
道理にあわない事、試練、気掛かりな事など、すなわち科学的に認証できない事に関連す
るのが宗教だとも言われている。確かに、宗教についてのこれらすべての定義は適切なも
91
のである。しかしこの論文においては、宗教を「人が人生に喜びと平和をもたらすための
神聖な起源の信念に従う制度やそれを守る仁義」という定義を用いる事とする。
キリスト教の中でも様々な宗派と「キリスト教徒」の定義があるため、それぞれのキリ
スト教徒にとって普遍的な「キリスト教」の意味を探る。そして、イエス・キリストをあ
まり理解しない読者のために、その都度説明を加える事とする。
キリスト教の諸宗に従っている人の意見や随想録などの調査で、一つの定義の着想が浮
かんだ。この論文においては、キリスト教はイエス・キリストと言う方の教え、また彼が
神の御子の信条に基づいている宗教であり、その宗教に従っている人々の集団である。
イエス・キリストは様々なアイデンティティでもって知られている。キリスト教世界にと
っては、イエスがこの世に生を受けた他のいかなる人よりも、人類の救いのために多くの
ことを成し遂げた人物である。他の人にとっては、イエスが神話的な人物である。神話か、
実在かにもかかわらず、イエス・キリストと呼ばれている人物の教えは全世界に影響を用
いたことを疑えない。イエス・キリストはどんな人物であったかと言う質疑に回答するこ
とに、キリスト教の教義は向けられなければならない。キリスト教によると、人間は最初
に純真であった。神が始めて造った最初の親の「アダムとエバ」は善も悪も理解出来なく、
小さいの子供のようで純粋な状態で神と共に「エデンの園」で暮らしていた。神はアダム
とエバに戒律を授けた。その戒律の一つとして、エデンの園にあった「善と悪の知識の木」
の実を食べてはいけないということがあった。しかし、悪魔に騙され、アダムとエバがそ
の「禁断の実」を食べてしまい、世の最初の罪を犯した。これは「堕落」と呼ばれている。
これで、人間は不完全になってしまい、罪を犯し始め、神と神の御許から離れさせられた。
神はアダムとエバと彼らの子孫、すなわち、全人類が神の御許へ帰ることが出来るような
方法を準備した。神は「仲保者」を備えると約束した。神の御子イエス・キリストがこの
世に送られた。イエス・キリストの両親は父親の神と母親の人間のマリアで、特別な特徴
があった。神の御子で神のように完全であったが、マリアは母親で人間のような肉体を持
って感受性や罹病性を持っていた。この事によって、イエス・キリストは人間の世界と神
の世界の間に存在した。この世にいる間に、アダムの子孫が神の御許へ帰れる方法、取り
も直さず、神の「福音」を教えた。そして、行われた多くの奇跡の中で、キリストの最も
栄光ある出来事は「贖罪」と知られている。人間にとって不可解な方法で、イエスは彼自
身に世界の罪を引き受けた。この後、イエス・キリストは周りにいた人の不信仰で、迫害
を受け、十字架に磔にされた。キリスト教によると、三日後イエス・キリストは復活し、
天に帰った。キリスト教の目標は、人が悔い改めてキリストの教えに従えば、この贖罪を
通して自分の罪を償われ、救われる事を世界に述べ伝える事である。大抵の現代のキリス
ト教会は、昔イエス・キリストが設立した教会の残りである。イエス・キリストの人生及
92
び教義について微に入り細にわたった説明を新約聖書の福音書は言及している。
キリストの業績は彼がこの世に存在していた時にのみ生起したと思われている。上述し
たように、人間の堕落でキリストは仲保者になった。キリスト教によると、キリストは人
類の発端からこの世に来るまで、役割を果たしていた。キリスト教徒が用いている聖書に
は、2つの主要な構成によって成り立っている。それは旧約聖書と新約聖書である。イエ
ス・キリストの生死、教義、復活、そしてキリストの弟子の教えは新約聖書に記されてい
る。旧約聖書は最初の親のアダムとエバの時代から、幾世紀にもわたって神が備える仲保
者とその来るべき勤めについて証した古代の預言者たちの記録である。神はその預言者た
ちを通して律法・戒律を人間に語った。旧約聖書によると、一人の「モーセ」と言う預言
者が紀元前1400年頃に存在していた。神はモーセを通して「十戒」と呼ばれている道
徳的な規範を人類に与えた。そして、様々な厳しい原則及び儀式も与えた。これらの戒律
と儀式を最初に受容した人類はイスラエル人であった。モーセによって受けたので、
「モー
セの律法」とも呼ばれている。古代からモーセの律法に従っている集団は現代でも存在し
ている。これがユダヤ教である。ユダヤ教徒は旧約聖書のみを使用し、神が備えると約束
した仲保者、換言すれば、
「メシヤ」が来る事を待っている。しかし、キリスト教徒にとっ
て、イエス・キリスト自身がこのメシヤだと信奉している。そのうえ、旧約聖書の「神」
はイエス・キリストだと言う教義もある。この信条を照明する為に、キリスト教徒は新約
聖書のヨハネによる福音書に記されている言葉によく言及する。ある日、イエスはエルサ
レムでユダヤ人に彼らの会堂で教えを説いている時に、このように語った。
「よくよくあな
たがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしは、いるのである。
」9その後、そ
の会堂にいたユダヤ人たちが「石をとってイエスに投げつけようとした。
」10なぜそこにい
たユダヤ人は憤っていたのかと言うと、旧約聖書に言及を用いる。神はモーセと語った時
に、モーセが神の名前を問う。そこで、神はこう言った。
「わたしは、有って有る者。
」11イ
エスはユダヤ人の会堂で旧約聖書に記されている事と同じような事を言った。つまり、イ
エスは「私はあなたたちの神だ」と言ったと感じたのである。これはユダヤ人にとっては
非常に冒涜的で、イエスを石投げで殺そうとしたのである。こうして、キリスト教徒はイ
エス・キリストが旧約聖書の神だと信奉しており、それゆえ、紀元前のユダヤ教も、古代
のキリスト教であり、その一部であると考えられている。
9
新約聖書ヨハネによる福音書第8章58節153頁(下線は筆者による)、
『聖書』日本聖書協
会2001年
10 前掲書59節153頁
11 前掲書旧約聖書出エジプト記第3章14節77頁(下線は筆者による)
93
C.論点
キリスト教の日本に対する影響において、この論文は2つの要点で贈る。まず、キリス
ト教が日本に齎した影響を吟味する。キリスト教が最初日本国に上陸した頃から現代にか
けての歴史を復習する。その後、古代キリスト教、すなわちユダヤ教の影響を検討する。
この論点を展開する順序はこの論文の第三研究の方法である。なぜ現代から古代に遡る方
法を用いるかと言うと、キリスト教の影響は現代において最も捉えやすいからである。そ
の終で、一層複雑で把握しにくい古代キリスト教の影響を吟味する。そしてキリスト教が
日本国に上陸した時代を論じる。
Ⅱ.本論
A.キリスト教の影響
1.キリスト教が日本に上陸した頃
a.地代の状況
ⅰ.室町時代12
日本にキリスト教が伝播したのは、室町時代(1392〜1573)の終わりであった
と言う記録がある。九州に上陸したキリスト教徒は、国家統一が進む以前の各地方が力を
持っていた日本に遭遇した。足利義満将軍の時代(1358〜1408)の間に、室町幕
府は幕府周辺を統制する事が出来たが、遠隔地域の威力を次第に失っていった。それから、
15世紀から16世紀にかけて、足利将軍と京都にあった政府の力は低下していき、遂に
は消滅する事になった。その後、地侍と言う村落に土着の武士が力を持つようになった。
これらの地侍は、最初にそれぞれの地方の有力者と協力して、そのうち何人かが周辺地
域において威力を発揮するようになった。彼らはその後「大名」となり、それぞれ地域に
おける実質的な統制者となり、数年間の戦国時代の間、戦い合った。こういう状況の中で、
1542年にポルトガル人の商人と教会の宣教師が九州に上陸した。
ⅱ.安土桃山時代13
16世紀の中期、最も強力な大名達は日本全国の統制権力を手に入れるために競争して
いた。その一人が織田信長将軍(1534〜1582)であった。織田信長は1568年
に京都を捕らえて、日本の統一に向かって最初の一歩をした。そして、1573年に室町
幕府を打倒し、京都周辺の地方の覇権を握った。これによって、室町時代が終わり、安土
12
13
http://www.japan-guide.com/e/e2134.html
http://www.japan-guide.com/e/e2123.html
94
室町時代(1573〜1603)になった。京都の基地から、織田は敵の排除を続けた。
織田は仏教より、キリスト教の方を重んじていた。そのため、織田の敵の間には戦闘的な
仏教宗派の一向宗(浄土真宗)も含まれていた。織田は、その時代の多くの大名のように
軍隊を備え、火器を手に入れるためにポルトガル人の商人と宣教師を迎え入れ貿易した。
1575年にこの新兵器の鉄砲を使用して、織田信長・徳川家康の連合軍は長篠の戦争で
武田族を破った。1582年に織田は明智大将に殺害された。その後、織田の下の豊臣秀
吉大将(1536〜1598)は機敏な反応をし、明智大将を謀殺して管理を引き受けた。
豊臣の統治で、以前にキリスト教は受け入れたことが変わりはじめた。
b.日本の多元宗教論
ポルトガル人の宣教師はイエスキリストの教義を述べ伝える為に日本にやって来た。そ
れは容易い任務ではなかった。キリスト教徒たちは九州に到着した1000年前に混合さ
れた宗教に遭遇した。そこには3つの国の主な宗教の要素があった。それは神道と仏教と
儒教である。
ⅰ.土着の神道14
神道は自然や先祖崇拝を受け入れる崇拝である。主な神は日本皇帝家の先祖の天照大御
神である。神道の信仰徒は海、川、風、火や山の神々、または皇帝家の高名な戦士と忠実
な使用人を崇拝して、主に天照大御神とその子孫の崇拝をしている。これは神道主義の特
徴を構成している。神道の礼拝での基礎をなしている原則は清浄である。礼拝をする準備
として、口と手を洗う事はほぼ規定された事項のようである。そして、神主と信心深い信
者の頻繁な沐浴は清浄の卓絶した重要性を示す。神道主義の信者が清める不純物とは、死
体や人間の血などとの接触、そして心の邪悪な想像から成り立っている。神道主義は神学、
あるいは倫理の制度がない。神道には、仏教の仏陀やキリスト教の預言者のような創設者
がはっきり存在しない。神道主義は人間の心の天賦美徳を教えるものである。
ⅱ.インドの要素:仏教15
「仏教は仏陀の説いた教えである。世界三大宗教の中で一番大きい。5世紀頃インドの
ガンジス川中流地方に興った。仏陀釈迦牟尼の説法に基づき、人間の苦悩を解決するため
Japanese』Frederic De Garis, Atsuharu Sakai;Kegan Paul Limited、2002年;
68頁
15
前掲書69頁
14『We
95
の道を教える。アショーカ王の入信により、インド全土から国外へも広まった。
」16そして、
東の中国と朝鮮に広まった。仏教は紀元後552年初めて日本に入った。当時朝鮮の百済
の聖明王は内戦を心配し、日本に支援を要請した。その時、朝鮮の国王は日本の欽明天皇
に仏典と仏像を献納した。これらの贈り物の後は僧侶と尼僧、及び寺の建築家が日本に上
陸した。欽明天皇は大臣にこの新しい宗教を普及するように指示したが、仏教の導入は保
守的な神道信者に強く反対された。たくさんの論争と苦闘に満ちた50年間の後、聖徳太
子(574〜622)は最初の女帝の推古天皇(592〜628)の御代に帝国に安定し
た地位に仏教を確立した。その聖徳太子の行いはローマ帝国でキリスト教を普及させたコ
ンスタンティンと同じであるため、時々「日本のコンスタンティン」と呼ばれている。
日本の最初の仏教宗派は624年に現れた。それは三論宗の教訓を普及させた。他の宗
派も現れたが、凡そ130年間仏教の主な特徴は中国式のままであった。それから2人の
影響力を持った僧侶の努力を通して、強い国家の素質が反映した仏教が広まった。最澄(7
67〜822)
、すなわち伝教大師は比叡山に位地した日本天台宗の開祖であった。そして、
空海(744〜835)
、すなわち弘法大師は奈良の高野山に位地した日本真言宗の開祖で
あった。仏教に与えられた変化は主に「本地垂迹説」の適用であった。この教義によると、
日本の神は本地である仏・菩薩の顕現だと言う概念である。この大胆な教義は両部仏教・
両部神道の根元であった。それで、仏教は日本で全権を有するようになった。競合してい
た天台宗と真言宗は日本で仏教学習の源泉になった。
ⅲ.中国の要素:儒教17
日本の家族組織構造には孔子の教え、すなわち儒教の倫理が存在している。儒教の「忠
誠」という伝統的な社会論理と侍の子としての「信心」はすべての日本人における標準的
な社会的アイデンティティとして普遍化された。
孔子(紀元前551〜479)は中国の歴史で最も知られた、そして恐らく最も影響力
を持った思索家である。彼は魯の昌平郷陬邑、(現代は山東省曲阜)で貧困な家庭の子とし
て出生した。20歳になり、職業として穀物の店の経営を始めた。大抵の報告によれば、
孔子は紀元前501年に魯の宰相になったとされている。彼は統治者の政策を承認しなか
ったため、4年後に宰相を辞任したと言われる。それから13年間、孔子は州から州に放
浪して様々の封建制の支配者に提言をして回った。これで幾人かの弟子が出来た。その後
彼は生命の残りを過ごして教授する為に魯に帰った。
16
17
『広辞苑第五版』新村出版2002年「仏教」2342頁
「Confucius」
;
『The Penguin Dictionary of Religions』
;編集者:John R. Hinnels;出版社:
Penguin Group;1984年;95〜96頁
96
孔子は独創的な思索家よりどちらかと言うと、本来教育者あるいは知識の送信者であっ
た。彼は弟子を受け入れた時に、階級の差別をせずに貧困な人も弟子として受け入れた。
彼の主要な行いの1つは、中国の生活と思想についての、重要な倫理的または人的主義的
な再定義であった。
「天子」と言う用語は「主権者の息子」と逐語的には意味しており、孔
子がこの用語を用いることは、主権者の息子だけではなく、慈悲深く言葉が謙虚であった
人にも包含した。孔子は、天が有益な個人的な力であると見ていた事は明瞭である。何人
もの人が思っていたと異なり、孔子は不可知論者でも懐疑論者でもなかった。彼の政治的
な考えへの重要な意見は、倫理と政治の同一視の主張であった。孔子は政体がただ権力を
操作するよりも、むしろ本来道義的な責任の問題だと信じていた。孔子自身の考えの最も
頼りになる源は「論語」に記録されている。日本では古事記とか日本書紀に記された応神
天皇の時代(5世紀前後に比定)に朝鮮の百済より孔子の「論語」が伝来されたと伝えら
れる。
2.キリスト教が日本に伝播して数年後
ポルトガル商人が1542年に九州上陸した時に、カトリック教の祭司を連れて来た。
その後数年の間は、そこに建てた教会は商人だけの為だけのものであった。それから7年
後、キリスト教が日本へ影響を及ぼし始めた。宣教師が九州から送られ、キリストの教え
は日本全国に広がっていた。結果として、様々な事が生起した。それはすべてフランシス
コ・デ・ザビエルの到着から始まった。
a.フランシスコ・デ・ザビエル18
19
1549年8月15日に日本の最初のキリスト教宣教師が日本に来た。その宣教師の中
で最も偉大であったと言われているのはフラシス・デ・ザビエル(1506〜1552)
であった。ザビエルはスペインのナバラ王国に属していた貴族であり、そして、カトリッ
ク教のジェズイット修道(イエズス会)の一員であった。このイエズス会は「IHS」と押印
されている旗で知られている。
( IHS は Iehsus Cristus の頭字語、
つまりイエスキリストと言う意味である。)ザビエルは1541年
に東洋の伝道をするためにインドからマラッカとかを遍歴した。ザ
ビエルが会った最初の日本人はマラッカに駐屯していた「やじろ
う」と言う侍であった。ザビエルはやじろうの好奇心、鋭い常識や
18
http://pweb.sophia.ac.jp/~d-mccoy/xavier/laures/laures.html
19
http://members.tripod.com/~jcolaco/sfx-2.html
97
愉快な性格について興味があった。そこで、ザビエルはヨー
ロッパにあったイエズス会の本部へ手紙を届けた。その手紙
の内容には「もしすべての日本人がやじろうと同じような学
ぶ事に対しての熱望があれば、彼らが世界中で最も驚くべき
民族であろう。
」と言うような言葉が含まれていた。ザビエル
がやじろうに日本まで付いて来るかどうか、そして多くの日本人がキリシタン(ポルトガ
ル語でキリスト教徒との意味)になると望むであろうかどうか尋ねた。保持された記録に
よると、そこでやじろうがこう返事した。「我が国の民族はキリストの教えを最初に受け入
れなかろう。最初にあなたに問いをし、そしてあなたの回答を考察し、そして取り分け、
あなたの教えている事と行為が偽善でないのか調べるであろう。もしあなたの回答が彼ら
にとって満足なものであれば、そしてあなたの行為で咎めの事を見いださなかったら、す
べての貴族とすべての知識人も、天皇さえ一年以内洗礼を受け入れるであろう。彼らは推
理に導かれている民族だからである。」と言うような事を語った。そこでザビエルはキリス
ト教の基本を教えられた侍のやじろうと一緒に日本への宣教の遠征を計画した。1549
年6月24日にザビエルは二人のヨーロッパ人の仲間と3人の日本人と二人のインド人の
使用人と伴い、マラッカを出発した。彼らは2ヵ月後やじろうの出生地の鹿児島に上陸し
た。薩摩の大名の島津貴久(1514〜1571)はこの外国の説教師を迎え入れる事を
大いに喜び、そしてザビエルを鹿児島に置いておく事を切望した。島津はカトリックの宣
教師の存在によって鹿児島の港へポルトガルの貿易船を誘致する事を密かに希望していた。
しかし、ザビエルは日本のどこに移動し、福音を述べ伝え、福音を信ずる日本人を改宗さ
せる為に後奈良天皇(1496〜1557)に許可を頂こうと望み、都の京都へ向かい始
めた。そして、11月の中旬に山口に到着した。
山口はその時非常に重要な町であった。それは力強い大内の一門の統治下であった。大
内の一門は周防省だけではなく、本州と九州の隣接していた省も支配していた。ザビエル
はその一門長の大内義隆大名(1507〜1551)がキリスト教にとって忌まわしい悪
徳を行っていた事が知り、福音を教える為にしばらく山口に留まる事にした。毎日ザビエ
ルは彼の仲間のフェルナンデス牧師と道の岐路に立ち、説教をした。フェルナンデスはザ
ビエルとやじろうが鹿児島で準備した手書きの教義問答を読んだ。彼が地球の創造の記述
を読んでから、日本人の3つの大罪であると信じていた事を大声で批難していた。すなわ
ち、偶像礼拝、男色と嬰児殺しであった。彼らの説教の影響は多種であった。何人かの日
本人は説教師が大胆に日本の神々に対しての非難をしたため腹を立てていた。他の何人か
はキリスト教の教義の美しさに感銘を受けていた。また、他の人はザビエルとフェルナン
デスの変な見掛けやぼろ姿の衣服や無骨な日本語をからかった。ザビエルは山口での努力
98
の空しさを実感し、遂に山口を出て、皇帝室への旅行を続ける事を決意した。京都に着い
た後に、ザビエルは山口にいた時経験した事と変わらず、成功を見なかった。彼が後奈良
天皇を訪ねる事は不成功に終わっただけではなく、説教に興味を持っていた聴衆を見出し
さえする事が出来なかった。この経験を通して、ザビエルは天皇が真の権力を獲得してお
らず、従って帝国の許可がほとんど無駄である事が分かった。そして、ザビエルは大内義
隆が日本で最も強い力を持っている1人だと悟った。それから首都での11日の短い滞在
の後に彼は京都を出発して、山口へ帰任することを計画した。しかし今回山口で成功しよ
うと思うならば、ザビエルは彼の酷評的な態度や貧相な見かけを改めることが肝要だと考
えた。
ザビエルが日本へ旅を始めた時、インドの総督
はザビエルに大使として伝言を日本の天皇へ
持って行く責任を委託した。同じく、ゴアのカ
トリック教の司教はザビエルを公使として任
命した。彼らの天皇への伝言の内容では、ポル
トガルの国王の友情を日本の支配者に伝えるものであった。その代わりに、彼らは天皇が
「神の律法」の説教師を受け入れることを要請した。ザビエルは伝道の成功を確かめるた
めに、天皇のための非常に多くの贈り物を日本まで持って行った。天皇へ訪ねる計画がす
でに失敗したため、ザビエルはインドの総督とゴアの司教の伝言、または贈り物を山口の
大内義隆大名へ持って行くことを決意した。それから、大使に適している服装を身に着け、
フェルナンデスに伴われ、2度目の山口へと向かった。彼らが伝道のやり方を変更したた
め、大内は喜んで彼らを受け入れた。ザビエルたちは大内から山口で誰に対しても福音を
教える許可を受け、そしてザビエルたちを襲ったり、怪我をさせたりする人が酷い罰を受
けることされた。大内一門の政権による計らいによって、ザビエルはやっと求めていた自
由を得た。そして2ヶ月の間に、山口で500人が洗礼を受け、新改宗者の人数が毎日増
加していた。しかしながら、反対が生じ始めた。ザビエルが仏教の信条に対して反論を書
き、そして坊主が天国へ行けるための
マジックパスポート
を売っていたことを非難し
た。これで山口の真言宗の坊主たちがキリスト教徒と敵対することになった。この頃、ザ
ビエルは教会の発展を観るために、ゴアに戻ることに決めた。ザビエルが山口から去った
後、反乱が起こり、大内義隆と彼の息子は謀反者とその指導者の陶晴賢(1521〜15
55)に長門市の大寧寺の境内で囲まれ、自殺した。大内は死ぬ前に、安芸国にあった要
塞の主の毛利元就(1497〜1571)へ書簡を送り、彼の死を復讐する任務を託した。
毛利はそうして、謀反者から山口の返還を要求した。山口にいたキリスト教徒にとっては
不幸なことに、以前に安芸の主であった毛利は仏教の一向宗の熱心な支持者であり、キリ
99
スト教の信条には敵対していた事であった。そのため、新しい統治下にあってキリスト教
徒にとっての困難な時代がはじまった。
その間、ザビエルはゴアへの船に乗っていて、中国で停船していた。ザビエルは日本人
が知恵と新しい考えを得るために中国に頼っていたことを知っていた。中国はその頃外国
人にとって区域外であったが、ザビエルは中国を通して一層効果的にキリスト教を日本に
伝播する計画を立てていた。その計画では、船長を中国の皇帝への大使と指名することで、
ザビエルが大使の補助者として中国に行くことを希望した。その計画がしくじって、そし
て新しい計画が実現された間に、ザビエルが熱病で患い、次第に悪化した。そして、フラ
ンシスコ・デ・ザビエルが1552年12月3日の早朝逝いた。
b.キリシタン大名20
ザビエルとイエズス会の宣教師の努力によって、成功を達成し遂げた。
仏教が反対したにもかかわらず、西日本の多くの大名は火器を入手する
ことを願い、軍の理由で外国の商人との貿易に興味を持っていたため、
キリスト教を歓迎した。前掲書の鹿児島の島津貴久は喜んで宣教師を受
け入れた。しかし、彼自身はキリスト教に改宗することはなかった。1549年にザビ
エルと会ったが、貿易しか興味がなかったようであった。その息子の島津義弘(153
5〜1619)は鹿児島に次第に増加してきた外国の商人とキリシタンの民衆のため、
島津の紋を改めた可能があるとされている。最初は、偉大な島津一門の定紋は丸の中に
ある十紋字であった。それは絵で示されている。義弘自身の定紋はキリスト教の聖像の十
字架に似ている。兄の義久(1533〜1611)と共に多数の軍事活動においてその旗
を使っていた。しかし、長崎の「26聖人記念館」の館長または歴史家の結城了悟神父に
よれば、島津一門の定紋とキリスト教は関係がないということであった。21
少数の情報源によると、キリシタン大名は当時多く存在した。以下は少数の改宗者のリ
ストである。荒木村重(15??〜1586)・一条兼定(1542〜1585)・小西行
長(15??〜1600)織田秀信(1581〜1602)
・高山右近(1552〜161
5)
・蒲生氏郷(1556〜1595)・有馬晴信(1567〜1612)・京極高次(15
63〜1609)・黒田孝高(1546〜1604)
・大友宗麟(1530〜1587)
・大
村純忠(1533〜1587)
。
大友宗麟は別名で大友義鎮であり、弟の八郎が山口の大内の後任になったけれども、毛
20
21
http://www.samurai-archives.com/registry.html
結城了悟神父と電話インタビュー2003年8月4日
100
利元就との戦いにおいて敗北した。大村純忠は最初のキリシタン大名であった。
ⅰ.大村純忠22
大村純忠は有馬晴純大名(1483〜1566)の息子である。1538年肥前(現在
は長崎)の大村一門に養子され、そして1551年肥前の領主となった。大村純忠は自分
の家臣に連続して反乱を経験したため、ポルトガルの商人とジェズイット修道の宣教師と
絆を構成することによって権威を強くしよう努めた。そして、彼は1563年洗礼を受け、
キリシタンの名のバルトロメオとキリスト教徒に呼ばれ始めた。その代わり、ジェズイッ
トの商人たちが年度の貿易船を肥前の港に迂回する事とした。次の年、大村の家臣がその
港を破壊したが、他の港に立ち寄り続けた。1580年6月9日に「永久に」肥前をイエ
ズス会に割譲した。しかし、1584年に島津一門が肥前を占拠地した時、この割譲は錯
覚と見られていた。そして、1587年大村純忠が亡くなり、豊臣秀吉(1537〜15
98)が島津を破り、肥前を吸い寄せ、キリスト教解禁を布告した時に、肥前の割譲は無
効にされた。
c.姫路城の「十字紋の鬼瓦」
キリスト教が影響を及ぼしたのは人間だけではなく、日
本の建築まで影響を及ぼした。1618年に完成したと言
われる姫路城は他の城と異なる瓦がある。本党までの道を
とって、八門を越えて二門がある。この二門の白壁の上か
ら2番目の切妻にキリスト教の十字架が刻んである。これは「十
字紋の鬼瓦」と言う。なぜ日本の城にこんな事があるかと言うと、
姫路城の案内者の安部みえ子さんによると、姫路城の築造の期間
(1601〜1609)
、そこを占領していた黒田孝高大名が築造
を監督し、キリスト教に改宗したという話しが関係するという。
また、諸学者によると、城は16世紀の中頃に建てられたものであり、1549年にポル
トガル人の宣教師によって日本全国に広められたキリスト教に、姫路城の大工や建築家な
どが改宗し、十字紋の鬼瓦を作ったという話しもあるという。黒田孝高か、姫路城の大工
か、どちらの話が真実か誰も分からないと安部さんが言う。
22
http://www.baobab.or.jp/~stranger/mypage/sumitada.htm
101
d.キリスト教解禁と26人の殉教者23
24
16世紀キリスト教は長崎や山口などで栄えていた。1564年正親町天皇(在位15
57〜1586)はキリスト教の宣教師を追放したが、その追放は長く続かなかった。1
568年織田信長は京都を取得してから、1569年にイエズス会士のフロイス司祭(1
532〜1597)と謁見し、キリスト教の宣教師が京都に在住することを許した。その
後織田は家臣の明智光秀(1528?〜15
82)に京都の本能寺で襲われ、自刃した。
豊臣秀吉はこの機会を利用し、織田の死の1
3日後、明智の軍を破り、権力を奪った。
この間、キリスト教の改宗者は多くなって
いた。このキリスト教徒の増加は仏教の浄土
真宗や一向宗にとって厄介な存在になって
いた。そして、豊臣はこの急激な増加と高山右近のような力の強い大名がイエス・キリス
トが主君と呼び始めた時に不安を感じ始めた。豊臣は元来キリスト教や外国の学習を好ん
でいたが、やがて脅威を感じ始めた。豊臣はキリシタン大名の大友義鎮の要請で島津一門
を破ることを助力したものの、その後すぐに、1587年にキリスト教徒に対しての政策
を弾圧の方針に転換し、1589年にはキリスト教禁止の法令を出した。キリスト教禁止
により、外国人の宣教師を皆日本から追放し、日本人のキリシタンはキリスト教を放棄し
なければならなかった。しかし、最初これは強硬に実施されなかった。これは恐らく豊臣
が外国貿易と外国の宗教の潜入を区別したためであった。しかしその後、豊臣は目的を強
調するために京都で26人のキリスト教徒を逮捕し、その26人を強制的に長崎までに行
進させることを命じた。長崎に行く選択は故意であった。最初のキリシタン大名の大村純
忠は肥前をイエズス会に割譲した大名であったため、豊臣は長崎での公の死刑執行は、速
く長崎のキリスト教徒にキリスト教を断念させる事になるだろうと確信していた。26人
は西坂の丘まで行進させられた。大衆が見えるようにするために、26本の鋸で挽かれた
十字架が西坂の端に港まで並べられていた。26人は鉄の輪と縄で十字架に締められた。
それぞれの十字架の下に二人の侍が槍を持って立っていた。この間、十字架に掛けられて
いた26人は賛美歌を歌い始めた。死刑執行を監督していた侍が心配し始めた。彼の主君
の豊臣が命じた通りの成果は上がらずキリシタンの勇気の展示になったからであった。最
終的には、侍が槍で26人の胸郭を突っ込み殺した。傍観していた群衆の沈黙が急に激烈
23
24
http://www.samurai-archives.com/registry.html
『A Song For Nagasaki』
;Paul Glynn; Marist Fathers Books、2002年;25〜27頁
102
などよめきになった。豊臣が意図していた屈辱的な光景はしくじった。この26人は殉教
者になり、キリスト教の威信が劇的に上昇し、改宗者の人数が殖えた。
1598年に豊臣秀吉は病没し、莫大な政権争いが戦国の大名の間
で起きた後、徳川家康将軍(1542〜1616)は勝利し、徳川は
豊臣より一層専制的な独裁者になった。徳川はキリスト教、特にカト
リック教に関して邪推していた。徳川は宣教師がスペインの征服者と
伴い、地球中に植民地の旅をしていた事を知り、高山右近や農民が全
権を持っていた豊臣秀吉に従わず不法とされた外国の宗教に賛成し
たことで動揺していた。1614年に徳川は反抗を全て壊滅させ、キ
リスト教会禁止令を増強した。大量の報酬が司祭や宣教師が隠れてい
た場所の情報のかわりに提供されていた。大勢のキリスト教徒は信仰
を放棄せずに死を選択する時、徳川はキリスト教徒を挫くために拷問
にかけ始めた。長崎とその近郊は将軍の代理人や軍人で満ちていた。処刑された司祭の後
任になる司祭が長崎に密かに入ってもすぐに逮捕された。処刑を避けるために、多くの長
崎のキリスト教徒は「隠れキリシタン」になり、沖合の島々や浦上のような奥地や本州に
移住し、司祭なしでキリスト教を保持する方法を考案した。
e.島原の乱25
26
キリスト教禁止令はスペインやポルトガルのような西の諸国との禁止された貿易も含ん
でいた。徳川幕府は国際貿易が中国とオランダとのみ行うこと、そして、長崎の港だけで
貿易をすることを許した。また、日本に来る外国人は長崎市南部の出島に限定して滞在が
許されていた。その上、外国に移住していた日本人が帰国することさえ許されなかった。
これらの厳密な状況の間、島原という長崎県の南東の市は最も厳しいキリスト教弾圧を受
けていた地域の一つであった。島原は徳川幕府の統治の下で多くの封建制に基づく支配者
が存在した。これらの支配者たちの間で、島原の基礎構造を装備したと努力したのは松倉
一門であった。松倉重政(?〜1630)の統治下で島原の領土の農民たちは重い課税や
無情な圧迫を受けていた。重政が死んでも、農民たちは課税され続いていた。このように
して、農民たちの不満が爆発寸前になっており、そして1634年から1637年までひ
どい凶作があった。しかし凶作でも、年貢の量は変わらなかった。餓死者があり、キリシ
タンの農民たちはもう進退窮まる状態に置かれた。1637年に松倉一門に反乱すること
25
http://www4.justnet.ne.jp/~aoh/SHIMABARA.HTM
26
http://www.ffortune.net/social/history/nihon-edo/simabara.htm
103
になった。農民たちの反乱の首領は16歳で非常に若い益田時貞(1621〜1638)
であった。益田はキリシタン大名小西行長の遺臣の子だと言い、肥前の天草の出身である。
1637年益田は凡そ島原と天草から3万7千人のキリシタン反乱者を原城まで指導し、
そこで徳川幕府が派遣した凡そ12万4千人の軍と戦った。1638年に反乱者は全員死
んでいた。島原の乱の後、徳川幕府はキリスト教徒をより弾圧することになった。そして、
ポルトガルとの外交関係を切るに至った。
f.ペリーの黒船27
28 29
徳川時代(1600〜1867)の間、仏教の寺院は「檀家制度」の執行を許可される
かわりに国の執政に関する支援を行っていた。檀家制度とは、ある地方のすべての住民が
地元の寺で檀家として家の構成員を登録するように要求され、生産と死亡、または結婚を
通知しなければならなかった。この制度の一部として、坊主が毎年庶民の一人一人にキリ
シタン信徒ではない立証の「寺請」を発布した。それで、徳川幕府は仏教の坊主を利用し、
日本中の住民を監視したり、統制したりしていた。日本はほとんど完全にどこの外国から
でも約200年間隔離されていた。
19世紀に、アメリカ合衆国の南北戦争が終わって、カリフォルニア州まで拡張し、ア
メリカの「自明の運命」
(アメリカは北米土を支配し、開発をすべき運命を担っている理論)
を達成した。それから拡張主義者は太平洋やアジアに向かった。これらの拡
張主義者の一人は中国海に駐屯していた米国海軍の艦隊のマシュー・C・ペリ
ー提督(1794〜1858)がいた。1852年、ペリーは英国がもう香
港とシンガポールを管理しいて、まもなくその区域を全部管理するようにな
ると米国のフィルモア大統領に警告した。ペリーは合衆国が日本の「いくつ
かの港を安全に保つように処置」をするという勧告をした。フィルモア大統
領が賛成して、1853年7月8日にペリーと米国の四つの船は江戸湾(東
京)に入港した。浦賀の将軍は米国の船が長崎の港に移動しなければいけないという命令
をしたが、ペリーは確固として断った。14日に日本国に書類を提出した。その書類の間
に、孝明天皇(在位1846〜1866)への手紙があった。その手紙の内容は米国航海
の漂流者の保護や、石炭を買う権利や、一つあるいはそれ以上の港を開港することの要求
27
『Christianity Made in Japan』
;Mark R. Mullins;University of Hawaii Press, 1998;7
頁
28
http://mickmc.tripod.com/perry.html
29
http://www.1upinfo.com/encyclopedia/P/Perry-Ma.html
104
が含まれていた。それから、ペリーの遠征隊は中国の海岸に戻った。1854年2月にペ
リーと強化された艦隊は再び日本に戻った。その結果として、3月31日に横浜の近くで、
米国の要請においての欧米と日本との貿易条約が記名捺印された。下田の港と函館の港が
開港された。そして、この条約の内容として、外国人が滞在している場所に教会を建てて
もよいという規定が含まれた。これによって、キリスト教の司祭は日本に入国できるよう
になったが、日本人がキリスト教に改宗することはまだ禁止されていた。
g.隠れキリシタンとキリスト教徒の返還30
31
1614年に徳川幕府が命じたカトリック教の牧師の追放とキリスト教徒の
迫害は外国の宗教を排除することを意図して行われてきた。若干のキリスト教
徒の迫害においての反応は信仰を宣言し、殉教を受け入れるが、大抵のキリス
ト教徒が信念を隠して、密かにキリストを祝っていた。あるキリシタンの共同
体の住民は比較的に隠れやすい遠隔の地に移住することにした。1640年に
徳川幕府はキリスト教徒の全滅に向け、宗門改役を設立し、踏絵が確立した。
踏絵とは、徳川幕府が「キリシタン宗門を厳禁するため、聖母マリア像・キリ
スト十字架像などを木版または銅版・真鍮板に刻み、日本の(住民に)足で踏
ませて、宗徒でないことを証明させ」32たというものであった。司祭がいない
ため、日本のキリシタンの共同体は平信徒の指導を依存していた。彼らは徳川
幕府に強制的に仏教や神道の実行をさせられたため、隠れキリシタンは二重宗教の生活を
発展し、密かにキリスト教の信念と実行を維持していた。隠れキリシタンの家の中に、ち
ょっと変わっている像があった。徳川幕府の侍にとってこの像は7人の運の神々弁天だと
見えていた。しかし、弁天の像の持っている籠の中に魚がある。魚はイエス・キリストの
印である。この像は弁天の像ではなく、聖母マリアの像であった。こうして、日本人の隠
れキリシタンが弁天を祝っているように侍にとって見えても、実はマリアを祝っていた。
隠れキリシタンは200年以上このようにキリスト教の祝いを続けていた。司祭や印刷し
た本や文はないため、キリスト教のすべての教義と礼拝形式は口頭で伝わった。
1854年に日本が欧米との貿易条約を署名した後、日本の住民はまだキリスト教に入
信することを厳しく禁じられた。日本と外交関係を確立した国々(仏・英・米)は外交官
の家族のための礼拝堂を建造するために日本の政府に請願した。許可が与えられ、186
30
http://www.baobab.or.jp/~stranger/mypage/kakure.htm
31
『No Greater Love』
;Robert M. Flynn S.J.;エデック株式会社;1995年;1〜2頁
『広辞苑第五版』新村出版2002年「踏絵」
(括弧とその内容は筆者による)
32
105
5年にフランスが大浦で教会を建てた。その頃、徳川幕府の力は弱っており、日本は明治
時代に向かっていた。それから、1865年3月17日に少数の日本人がフランスの教会
の司祭に会いに行った。そこで、一人が司祭に「サンタマリアに祈りますか」と尋ねた。
それで司祭はマリアの像に指差した。像を吟味した後、日本人は司祭に「私たちと神父の
心は一緒だ」と言った。彼らが浦上から来たと言い、そこはキリシタン共同体であった。
こうして、隠れキリシタンの存在が発見された。
h.津和野の乙女峠33
1867年11月最後の将軍が死亡し、徳川幕府が崩壊し、天皇が中心とする新政府が
成立され、日本は12月から明治時代に入った。新しい政府はすぐに浦上に隠れていたキ
リスト教徒の問題に直面した。明治維新を達成した革命家は天皇への敬意の基礎として巧
みに日本の伝統的な神道を復活させた。仏教も政府による支持がなくなったが、それ以上
にキリスト教は前と同じく厳格に禁止されていた。そして、明治政府は日本に侵入した外
国人に対して強く憤慨すると同時に西洋のように現代化することに対する熱望があった。
日本の政府は窮地に陥っていた。
この問題に対する2つの解決が提案された。1つ目の提案された解決はキリスト教禁止
令を守らせて隠れキリシタンを処刑するという解決であった。2つ目の提案された解決は
寛容の態度であった。1つ目の解決は徹底的すぎであったが、日本政府は寛容の準備がで
きていなかった。それから、妥協案が提案された。それは浦上のキリスト教徒が神道に改
宗させることであった。それで日本の政府はこの「再教育」の政策を取ることに決めた。
しかし、これらのキリスト教徒は断固としてキリスト教を断念することを拒否した。その
次の処置は一層徹底的であった。これらの手に負えないキリスト教徒が浦上から追い立て
られ、国全体に散乱させるべきであると決定された。凡そ3千5百人の浦上キリシタンは
追放させられた。彼らは小さい群をなして、20の場所に送られた。次の図はどこへ、何
人のキリスト教徒が追放された事を示すものである。
1868年7月10日に28人の
キリスト教徒は山口の北にある津和野という小さい町に追放された。津和野は小さいにも
かかわらず、そこの大学の宗教学者の威信が強いため、追放地として選ばれた。28人の
キリスト教徒は津和野の「乙女峠」という場所に行かされた。この峠の由来は、何百年前、
ある津和野の領主の娘が京都の皇子と婚約したが、断られたことになる。彼女の悲しみで
津和野の峠に放浪し、行方不明になり、彼女の名誉に与えるため、「乙女峠」と名づけられ
33
『No Greater Love』
;Robert M. Flynn S.J.;エデック株式会社;1995年;5〜7頁
106
た。3428人のキリスト教徒は津和野で捨てられた寺で閉じ込められ、洗脳され、食物や衣
類の削減を受けさせられた。
結果として6人がキリスト教をやめたが、他の22人が断固としていた。説得が失敗し、
一層厳しい方法に変わった。彼らはキリスト教徒を三尺牢(約1m3 )という非常に狭い
牢屋に閉じ込め初め、洗脳し続けた。このような迫害を受けていた一人が聖母マリアに訪
れられたと言った。殉教者の間に子供もいたという。天王星を支持していた政府は津和野
での極端な処置に気づいておらず、外国の宣教師がやっと津和野の地域に訪れた。それで
1871年に英国の副領事が残酷なことが行われていることを伝えると、調査が行われ、
津和野で起こっていた行為は明らかにされた。その時以来、カトリック教の礼拝堂が津和
34
前掲書10〜11頁
107
野で建てられた。そして、日本人はキリスト教を自由に実行できる事になった。
3.現代日本におけるキリスト教の影響
キリスト教が現代において影響力が最も強かった時代は恐らく第二次世界大戦の後であ
った。天皇は神性を否定し、日本に衝撃を与えた。その後、多くの日本人はキリスト教に
向かった。一人の改宗者は1945年の状況を次のように記述している。
「大多数のキリス
ト教徒は無批判で西洋の宣教師の教えを受け入れた。彼らはあの世の
神の市
の考えを
受け入れた。彼らは正真正銘の教会を 目に見えない教会 にし、そして社会の現実を 非
宗教的な物
にした。これは日本の伝統的な社会に信頼を持っていなかった日本人にとっ
て非常に有意味であった。事実は、そのキリスト教徒はめったに伝統的な日本の社会を批
判しなかった。その代わりに、あの世の
霊的な福音
を
非宗教的な
社会からの逃避
として受け入れた。そのキリスト教徒たちは現代日本の福音主義のキリスト教を方向付け
ている。
」35
現代の日本のキリスト教は多様な形態で社会の下位文化となっている。それは西洋の宣
教師によって移植された多くの教会の慣例、土着のキリスト教の運動、キリスト教に影響
され且つキリスト教の組織に所属していない個人的な信仰システムを含む。その個人的な
信仰システムはキリスト教に影響された限り、数人の個人的な信仰のシステムが同じであ
れば、新しい宗教や宗派が現れる。それは日本の土着キリスト教と東洋の古来の考え方を
援用したキリスト神仏混交の宗教(ニューエイジ宗教)である。
a.日本の土着キリスト教36
カトリック教とそれから来たプロテスタントの宗派は日本の宗教界に来る新参者として、
「外国の宗教」としての評価を捨てる事において、かなり困難な経験を経でいる。時折キ
リスト教の「西洋性」は日本人の間で魅力的なもととして捉まえられる点において貢献し
たが、大きな部分において問題だと見なされた。キリスト教に改宗した最初の日本人の多
くはこの問題が主に外国の宣教師の所為だと感じていたようである。日本にあるキリスト
教は不必要に西洋の組織的な形式や宗派の政治や宣教師の管理に制約されていた。統計(日
本の人口の凡そ1%がキリスト教徒である)により大抵の日本人が西洋宣教師の福音伝道
『The Clash of Civilizations: An Intrusive Gospel in Japanese Civilization』;Robert Lee;
Trinity Press International, 1999年;46頁
35
36
『Christianity Made in Japan』;Mark R. Mullins;University of Hawaii Press, 1998年;14〜15、25、
42頁
108
者の嘆願や要求を拒絶したことを示しているが、土着と無宗派の運動は移植されたキリス
ト教に対して微妙で、重要な反応を示めしている。この問題は1890年に日本土着キリ
スト教の無教会の創立者に次のような言葉で表わされている。
「宗派閥の偏屈者は異教の国
で自身の些細な嫉妬を復興している。これのため彼らの先祖は戦い、焼き尽くし合った。
これらの宗派閥の口論と嫉妬が日本人の目にとって醜く、不愉快な事はない。それより一
層悪く、日本人の求道者は様々なキリスト教の宗派の間に相反している教義の迷路に混乱
される。
」37これは全世界に起きるパターンである。一つの集団は諸宗派の欠点を見いだし、
その反応として新しい宗派を創立する。その後このパターンは同じ事を繰り返す。
明治維新以来1992年頃まで、ほとんど176のキリスト教の宗派が日本で宣教の活動
を始めていた。その宗派からいつくかの日本土着のキリスト教の宗派が現れた。次の表は
少数の土着キリスト教の宗派を示す。
創立年
土着の影響
無教会
1901
儒教、武士道
道会
1907
新儒教、陽明学派、神道
基督心宗教団
1927
儒教、仏教、山での苦行
栄光の福音キリスト教
1936
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
活けるキリスト一麦教会 1939
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
基督カーナン教団
1940
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
日本キリスト召団
1940
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
イエス之御霊教会
1941
民俗の宗教伝統、先祖の崇拝
聖イエス会
1946
念仏、先祖の崇拝
聖成基督教団
1948
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
原始福音(幕屋)
1948 無教会、民俗の宗教伝統、山での苦行
活かすキリスト
1966
‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑
沖縄キリスト教福音
1977
沖縄のシャーマニズム
土着の宗派
上記の表が示しているように、原始福音が無教会に影響され、新しい宗派が創立された。
西洋の宗教の宣教師や土着キリスト教の運動は今でも続き、キリスト教会員は殖えてい
るが、日本の人口の1%以下と変わらない。
37
前傾書24頁
109
b.日本の「ニューエイジ宗教」
キリスト教が日本に導入された以来、日本では土着キリスト教だけでなく、仏教の新し
い宗派や仏教の要素が強い宗教も現れている。これらの宗教の多くは起源が微妙で、目的
が不明である。その二つは世界真光文明教団と創価学会である。
ⅰ.世界真光文明教団38
39
世界真光文明教団(真光)は日本で1959年8月に岡田光玉によって(1901〜1
974)創立された。真光の信徒によると、岡田は1959年2月27日に主神という神
から啓示を受け、真光を創立するように命じられたと言う。そして、真光には入ると希望
している人は改宗という事をせず、仏教徒やキリスト教徒やイスラム教徒が信念を捨てな
くても入る事が出来るという。真光の最も顕著な特徴は「真光の業」という。この業をす
るために、真光の普通の信徒でも高い次元の光を得、そしてその精神的な光を掌から放射
するという。そして、真光の業を受ける人は霊的な障害を解消され、体の健康を良くされ、
さらに救われるという。そして、3日間の研修会を受講したら誰でも真光の業が出来る。
真光は従者を増やすために、真光が無宗派であると宣言する。イエス・キリストも仏陀も
人を癒すために真光の業を利用していたと言う。全体の会員は凡そ2百万人である。
真光の起源は神秘に包まれている。真光の元会員の多くは真光が取り入れる「シオンの
博識な長老の儀典」と呼ばれる神秘的な原稿について語る。アドルフ・ヒトラー(188
9〜1945)もこの「儀典」を使っていたという。オウム真理教も同じ「儀典」を信じ
ていたという。1993年5月28日にオウム真理教の西オーストラリアにある地所で核
爆発のような爆発が起こったという。真光が使っている「御聖言」という聖典に、「人間が
謝罪の態度がない限り、火の玉の生産は止められない」というような言葉を真光の創立者
の岡田光玉が書く。世界真光文明教団とオウム真理教は関係があるかどうか、謎のままで
いる。
ⅱ.創価学会40
41
日本は新しい宗教の受容をしたため、仏教でも多数の新しい組織や宗派が現れている。
これらの中で最も強い力を持っているのは創価学会であると言われる。
38
http://www.mahikari.org/mahikari.htm
39
http://www.rickross.com/reference/mahikari/mahikari9.html?FACTNet
40
http://www.sokagakkai.info/html3/sg_today3/sg_today_index3.html
41
http://daisaku-ikeda.com/
110
創価学会は仏教の学者の日蓮(1222〜1282)の教えや哲理を受容している組織
である。1930年に牧口常三郎(1871〜1944)と戸田城聖(1900〜195
8)は創価学会を最初に創価教育学会として創立した。牧口は熱心に教育修正に打ち込ん
だ。牧口と戸田は1920年に出会った。その時から彼らは共に学び、そして日蓮正宗に
改宗した。牧口は1928年に日蓮の哲理を勉強してから、それによって彼の創価理論を
支える事が出来ることを悟った。そして、牧口と戸田は人間の固有の、かつ無限の潜在能
力に影響を与える教育を促進するために創価教育学会を創立した。1942年に会員は3
千人いた。
第二次世界大戦の状況が日本にとって悪くなり、日本政府は民衆が神道に忠誠を誓うた
めに努力を強くしたが、牧口は政府の命令を拒否した。それで、政府は牧口や戸田や何人
かの創価学会の指導者を逮捕した。1944年11月18日牧口は刑務所で逝いた。日本
の降参の少数週間前に、1945年7月3日に戸田は釈放され、創価教育学会を復元しは
じめた。戸田は創価教育学会が教育だけに限定されるべきではないことを悟り、創価学会
に改名をした。そして1951年5月3日に創価学会の第二会長になった。1958年に
戸田が亡くなった、当時は、全体の会員は凡そ75万人となっていた。
創価学会において最も影響力を持っていた人は恐らく池田大作(1928〜)であり、
1960第三会長になった。池田は1964年に日本の2番目のもっとも強力な政党の公
明党を結成した。池田は1979年までに会長であったが、今まで創価学会の名誉会長と
なっている。池田は、政治的、また金融関係のスキャンダルによって、公明党の会長とし
ての責任をとって辞職した。そして、1991年に親分にあたる日蓮正宗によって創価学
会に対して解散要求があったが、創価学会は日蓮の教えを受け入れながら、解散せずに日
蓮正宗から独立した。現代は創価学会の会員数は凡そ1千万人となっている。
B.古代のキリスト教:ユダヤ教の影響
「定義」の節にある既述したように、紀元前のユダヤ教はキリスト教の予備の福音であ
り、その一部である。以上の論述では古代キリスト教がいかに日本に影響したのかを、そ
して今までそれについて明らにする。初めに、ユダヤ人の先祖のアブラハムからの系図を
簡単に説明し、そして聖書によりアブラハムの他の子孫がどうやって日本に上陸し、影響
をしたかを調査する。
1.行方不明のイスラエルの部族
歴史において、ユダヤ教徒は何度も彼らがアブラハムの子孫であると公言する。そして、
トーラー(ユダヤ教が使っている聖典:キリスト教の旧約聖書最初の5書)による神がア
111
ブラハムとの聖約を主張している。旧約聖書によると、神はアブラハムに次のように言っ
た。
「わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起こそう。また、王た
ちもあなたから出るであろう。わたしはあなた及び後の代々の子孫と契約を立てて、永遠
の契約とし、あなたと後の子孫との神となるであろう。」42そしてこう言った。
「また地のも
ろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。
」43しかし、これらの言葉によ
ると、ユダヤ人はこの祝福を得る唯一の民族ではない。それでは、この神に授けられたア
ブラハムとの契約の祝福を受けるのは誰なのか。そして、日本はどのように関係している
のか。この疑問を解くために、ユダヤ人の系図を調べることとする。
a.イスラエルの系図
旧約聖書に出ているアダムの後最も影響力を持っていた予言者の一人はアブラハムであ
った。彼の義心のため、上述したように神様はアブラハムと彼の子孫に永遠の契約をした。
下の図を見ると、アブラハムの系図によると子孫が多かった。
「定義」の節に言及したモーセはその子孫であり、そしてユダヤ人は全員アブラハムの
曾孫ユダの子孫である。さて、神様とアブラハムとの契約の祝福はアブラハムの子孫のた
めであれば、その契約の祝福を受けられるのはユダの子孫であるユダヤ人だけでなく、す
なわちヤコブ(イスラエル)の12人の息子の子孫である。父親のイスラエルから生得権
(長子の相続権)の特定の祝福は各々の12人の兄弟と夫々の子孫に与えられた。ルーベ
42
43
旧約聖書創世記17章6〜7節;
『聖書』日本聖書協会2001年;18頁
前掲書22章18節;26頁
112
ンは長男として、元々この生得権を持っていたが、罪を犯したため、その権利を失い、ヨ
セフに与えられた。44この生得権はヨセフに与えられるだけでなく、12人の兄弟と夫々の
子孫は生得権の祝福のいくらかの部分を与えられた。重要な部分はユダと彼の子孫、すな
わちユダヤ人に与えられた。この祝福は王がユダの家系から来ることを指示する45。サウル
やダビデやソロモン王たちはその子孫である。そして、旧約聖書によると、イエス・キリ
ストもユダの子孫の一人である。創世記の第49章の10節46には、シロと言う人物に言及
している。シロはヘブライ語で「権威を持つ者」という意味で、エゼキエル書の第21章
の27節47と相互参照したら、同じような言葉を使う。そして、新約聖書のヘブル人への手
紙の第7章の14節48にもキリストの家系は宣言している。ユダの弟のヨセフとその子孫も
興味深い祝福を受けた。
「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、
かきねを越えるであろう。
」49この聖句は日本人にとって重要である。それは後で言及する。
b.イスラエルの解散
この12人の兄弟の物語を要約するために、ヨセフは兄たちに苛められ、奴隷に売られ
エジプトに連れられた。それから、何年後にヨセフは神に恵まれていたため、下っ端から
昇進し、エジプト王のパロ(大きな家と言う意味)の2番になった。ヨセフの父親と兄弟
たちがカナンに住んでいた。当時に酷い飢饉があり、エジプトの王国に住んでいた民族は
エジプトまで行き支援を求めた。これで、ヨセフは家族と再会し、一緒にエジプトで暮ら
すことになった。その後何年も絶ち、
「イスラエルの子孫が多くの子を生み、ますますふえ、
はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。
」50それから、イスラエルの子孫は「イス
ラエルの家」と「イスラエル」と呼ばれ始めた。その後エジプトは新しい王を任命し、そ
の王はこう言われた。「見よ、イスラエルびととなるこの民は、われわれにとって、あまり
にも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多く
なり、戦いの起こる時、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ること
のないようにしょう。
」51結果として、新しいパロはイスラエル人を奴隷にした。この状況
は約400年間続き、ついに神が予言者モーセを通して自由の身にされた。それから、モ
44
45
46
47
48
49
50
51
旧約聖書歴代志上第5章1節、568頁、
『聖書』日本聖書協会2001年
前掲書;2節
前掲書71頁
前掲書1178頁
前掲書;新約聖書、349頁
旧約聖書;創世記第49章の22節、71頁
出エジプト記第1章7節;74頁
前掲書9〜10節
113
ーセは神から戒律を受け、そしてイスラエル人がモーセの律法を守ることになった。モー
セはイスラエル人を彼らの夫々の先祖によって、12の部族に分けた。モーセはイスラエ
ル人をエジプトから荒れ野に導き、何年後かについにカナンに到着した。この後、イスラ
エルは力強い王国になった。それから、イスラエル人とその王たちとの不調和のため、約
紀元前925年にイスラエルは北の王国と南の王国に分かれた。北の王国はイスラエルの
家の10部族になり、12部族の大多数でイスラエルの名を保持し、ヨセフの息子エフラ
イムの子孫がその中の一番多くを占めていた。南の王国の残った2部族の中にユダの子孫
の方が多かったので、ユダの王国と呼ばれる。それから、イスラエル人の違犯が続いたた
め、神はアッシリアの帝国に北の王国の10部族を捕虜にさせた。その後、10部族はア
ッシリアに滞在したか、他の国に移動したかどうか誰もがはっきり分からない。10部族
は聖書や歴史から行方不明になった。
2.日本に上陸したイスラエル人
イスラエルの十部族は解散した後、次第に人口も増えし、いたる所に土地を広げた。ど
こに行ったか誰もははっきり分からないが、イスラエルの部族がアジアに痕跡を留めたと
数人の学者は言う。そして、その学者らによれば、古代のイスラエルと日本の特徴の間に
多数の類似性があるという。それは神道とユダヤ教の儀式との曖昧ではあるが確かな類似
性や、建築術など明確な類似性も含む。そして、日本の神話にはユダヤ教との神秘的な類
似性も見られる。
a.イスラエルの系図と日本の神話52
この類似性を理解するために、イ
スラエルの系図をもっと深く見なけ
ればならない。この次はヤコブ(イ
スラエル)の系図で、ヤコブの2人
の妻と息子のヨセフと孫のエフライ
ムも含まれている。
創世記によると、ヤコブは伯父の
ラバンの次女ラケルが美しく、嫁に
しようとしたが、ラバンは「妹は姉
より先に嫁がせる事はわれわれの国
52
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
114
ではありません。
」53それで、ヤコブは長女のレアと結婚したが、レアはあまりにも醜く、
ラケルの方を愛していたので、ラケルと結婚するためにラバンの下に14年働いた。ヤコ
ブとラケルの息子のヨセフは上述したように兄弟たちに苛められ、ヨセフがエジプトに行
き、パロの下に2番となった。そして飢饉が起こり、ヨセフの兄弟たちがエジプトに行き、
ヨセフと再会し、ヨセフが彼らを赦す。ヨセフはエジプト人の司祭の娘であるアセナテと
結婚し、エフライムが生まれる。エフライムは4人の息子があり、次男と三男が若くして
逝いた。そして、4番目の息子の子孫であるヨシュアはカナンの国を征服した。
日 本の 神話 によ る
と、日本人は皆天照
大 神の 孫で ある に
に ぎの みこ との 子
孫である。ににぎの
み こと は大 和の 先
祖である。ににぎの
みことは高天原(天
国)から来た時、こ
の はな さく やひ め
と いう 麗し い女 の
人に惚れ、結婚しようとしたが、彼女の父親は彼女の姉のいわながひめと結婚することを
求めた。ににぎのみことは二人とも結婚するけど、姉は醜くて、妹の方を好んだ。ににぎ
のみこととこのはなさくやひめはやまさちびこという息子がいる。やまさちびこは兄に苛
められ、海神の国に行かされる。そこで、やまさちびこは神秘的な力を得、兄に復讐とし
て飢饉をさせるけど、後で兄を赦す。やまさちびこは海神の娘であるとよたまひめと結婚
し、息子であるうがやふきあえずを生む。うがやふきあえずは4人の息子の父親であった。
次男と三男は他の国へ立ち去った。そして、4番目の息子は大和を征服した神武天皇であ
った。詳しい細部以外、日本の神話は聖書の記録と似ている。8世紀に書かれた古事記と
日本書紀の神話は元来聖書の物語に基礎づけられ、後に異教的な要素が加えられたという
考えがある。そして、これらの系図は同じの物であるという考えもある。
「イスラエルの系
図」の節に上述したように、ヤコブの12人の息子は一人ずつ生得権の祝福を受けた。
53
創世記第29章26節;38頁
115
もう一度ヨセフの祝福に言及する。
「ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は、かきねを越えるであろう。」これは何を意味するか分かるために、分析が必要で
ある。
「実を結ぶ若木」という句は他の言葉でよく実を齎すと言う意味もする。このような
句を人に言及するとき、
「多くの子を産む」と言う意味もある。ヨセフの曾祖父のアブラハ
ムが神様に受けた聖約によると、神様がアブラハムの「子孫をふやして、天の星のように、
浜べの砂のようにする」54という事実があるから、アブラハムの子孫が「天の星のように」
多くなるため、その子孫の中で誰かが「実を結ぶ若木」のようにならなければならない。
そして、
「その枝は、かきねを越えるであろう。」という言葉の意味は、その「若木」一つ
の場所に制限されることが出来ない。つまり、ヨセフの子孫は多くなり、一つの場所に制
限されなく、国々の境界を越える。
「イスラエルの解散」の節をもう一度言及すると、北の
王国の中で、ヨセフの息子エフライムの子孫は一番多かった。そして、アッシリアの帝国
は北の王国を侵略し、エフライムの子孫がたくさんいた十部族を捕虜し、アッシリアに連
れて帰った。それからエフライムの子孫とその十部族は行方不明になった。しかし、ヤコ
ブの系図と日本の神話の系図は同じ物であれば、そして両方が真実であれば、うがやふき
あえずとエフライムは同じ人であると言うことになる。それは若干の学者の考えである。
こういう研究は1879年頃に遡る。上の絵は N.・マクラウドの「Epitome of the Ancient
History of Japan」55の作物の部分からとられている。
54
55
創世記第22章17節;26頁
N. McLeod、東京;1879年
116
全面画の絵の上に「イスラエル人の考える日本への行進。部分的に古代の絵からとられ
ている。
」56と書いてある。こんな曖昧なことだけでなく、現代でも見える痕跡もある。た
とえば、エルサレムの外の壁にある紋章と日本の皇室の菊の紋との親密な類似性がある。
両方ともは16枚の花弁の花であると思われる。
そして、これ以上にいくつかの痕跡があると言われている。
b.御神輿と契約の箱57
58
神道のお祭りで担う御神輿とイスラエル人が
荒れ野に担った「契約の箱」には興味深い類似
性がある。
『広辞苑』によると、御神輿は神幸がある時、
神道の神体や御霊代が乗るとされる輿である。
御神輿は四角形や六角形や八角形の色々な形が
ある。そして、多くの御神輿は金銅の金具が付
けてある木製黒漆である。そして、御神輿は空っぽで、御神輿の蓋の上に鳳凰や葱の花が
ある。御神輿を担うために、御神輿の両側に2本の棒を轅に貫き、御神輿を運ぶ人々がそ
の棒を肩に乗せ、祭りの中心まで運ぶ。
約紀元前1300年にモーセはエジプトの奴隷であったイ
スラエル人を解放した後、イスラエル人を荒れ野へ導いた。シ
ナイ山でモーセは神に十戒の掟59、あるいは神の律法を受けた。
その律法は二つの平たい石に刻まれた。神は十戒を刻んだ石を
守るためにモーセに契約の箱を造るように命じた。出エジプト
記の第25章60に神様はモーセに契約の箱を造るために精密な
説示を与えた。この次に書いてある。10節:「アカシヤ材で
箱を造らなければならない。」11節:
「純金でこれをおおわなければならない。すなわち、
内外ともにこれをおおい、その上の周囲に金の飾り縁を造らなければならない。」12
節:
「また金の環四つを鋳て、その四すみに取り付けなければならない。すなわち、二つの
環をこちら側に、二つの環をあちら側に付けなければならない。」13節:
「またアカシヤ
56
57
www.jewishencylcopedia.com;Tribes, Lost Ten;Japan
『広辞苑第五版』新村出版2002年「御輿」
58
http://bolosto.tripod.com/experiences/omikoshi.htm
59
出エジプト記第20章;102〜103頁
前掲書110頁
60
117
材のさおを造り…。
」14節:「そしてそのさおを箱の側面の環に通し、それで箱をかつが
なければならない。
」16節:「そしてその箱に、わたしがあなたに与えるあかしの板を納
めなければならない。」17節:
「また純金の贖罪所を造らなければならない。
」18節:
「ま
た二つの金のケルビムを造らなければならない。
…贖罪所の両端に置かなければならない。」20節:「ケルビムは翼を高く伸ばし、その
翼をもって贖罪所をおおい、顔は互いにむかい合い…。」21節:「あなたは贖罪所を箱の
上に置き…。
」22節:「その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の
上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人人のために、わたしが命じようとする
もろもろの事を、あなたに語るであろう。
」
契約の箱は御神輿のような形があるような事が聖書に記録して
いる。そして、契約の箱は神輿と同じく、神が乗る所である。
聖 書
に よ
ると、
イスラエル人は契約の箱を荒れ野
に担いだが、イスラエル人の違犯
で、時々神様から指示を失い、踏
み迷う。御神輿を運ぶ人々も祭り
の中心まで直接に行かなく、町を
回ってから到着する。
c.神社と幕屋61
神社のユダヤ教の神殿や幕屋の間に多数の類似性がある。右の絵は典型的な神社を示す。
鳥居以外、神社の示されている部分のような物はユダヤ教の幕屋や神殿にも表れている。
神を礼拝するために、イスラエル人と共に荒れ野にいたモーセは幕屋を建てるように命
じられた。幕屋は、持ち運べる神殿であった。神はまた精密な説示を与え62、左の絵のよう
な構成を指示した。幕屋は神社のようで、二つのに分かれている。神社の神は本殿の中に
有る。モーセは神と会う場所は至聖所であり、契約の箱をそこに置く。幕屋と神殿の異な
っていることいくつかあるが、これらの絵で分かりやすい箇所が一つある。イスラエル人
は日本に上陸したことが事実であれば、なぜ祭壇がないかということを、聖書で調べなけ
61
62
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
出エジプト記第26章〜第27章;111〜114頁
118
ればならない。祭壇は聖書の創世記の第8章に言及されている。地球を沈めていた洪水の
後に、予言者のノアは神への感謝の気持ちを示すために、祭壇
を建てて、その上に動物を全部焼いて神様に捧げた。63神はイ
スラエル人にも同じ事を命じ、祭壇を幕屋と含めるように言っ
た。しかし、どこでもこういう犠牲をしてはいけなかったらし
い。なぜかというと、神はイスラエル人にこう言った。「慎ん
で、すべてあなたがよいと思う場所で、みだりに燔祭をささげ
ないようにしなければならない。ただあなたの部族の一つのう
ちに、主が選ばれるその場所で、はんさいを捧げ、またわたし
命じるすべての事をしなければならない。」64もしイスラエル人
は日本に来たら、犠牲を行う事は命じられなかったという事が
ある。しかし、神道には、捧げ物をする習慣がある。平たく円
形の餅を神々に供える鏡餅というものである。
ⅰ.伊勢神宮65
伊勢神宮は、三重県の伊勢市にある皇
室の陵である。そして、神道の信者によ
ると、伊勢神宮は天照大神が存在してい
る場所である。この伊勢神宮の外観にあ
る物は、ユダヤの歴史は興味深い類似性
がある。
1.
ダビデの星66
67
伊勢神宮の神社に向かうと、道の両側にいくつかの
石灯籠がある。それらの石灯籠に現代日本には合わ
ない紋があると言われる。それはユダヤ教の象徴と
されているダビデの星である。このマークは三角形
63
64
創世記第8章20節;9頁
申命記第12章13〜14節;264頁
65
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
66
http://www.us-israel.org/jsource/Judaism/star.html
67
http://www.aish.com/literacy/concepts/Star_of_David.asp
119
を2つ組み合わせた星形である。現代のイスラエル国旗にも用いられている。第二次世界
大戦で、ヒトラーの統治下でナチは強制収容所にあったユダヤ人を他の民族と区別するた
めに、ダビデの星が押印している腕章をつけさせた。ダビデの星は旧約聖書に出るダビデ
王68の盾の形を象徴していると思われるが、初期のラビの文芸作品には証拠はない。若干の
学者はダビデの星の上の三角形は神に向かい、下の三角形はこの世に向かっているという。
そして、ダビデの盾は「神」という表現であるという考えもある。ダビデはイスラエルの
軍を導いて、奇跡的に成功したので、ダビデは自分の力だけでなく、神の力で成功したと
いう。もう一つの考えは6先端の星が中心から形式と実質を受けるということもある。こ
れはユダヤ教とキリスト教の安息日と同じような事である。彼らは6日間で働き、そして
1日間休む。ダビデの星は伊勢神宮の元敷地の京都にある真名井神社にも
あるという。
2.
八咫鏡
若干の学者の間で、伊勢神宮の本殿の中にある八咫鏡に関する流言がある。八咫鏡(大
きい鏡という意味)は皇室の三種の神器の一つである。古事記と日本書紀の神話によると、
嵐の神であるすさのおのみことが繰り返した犯罪のため、太陽の女神の天照大神は岩戸に
隠れた。その時、天照が岩戸から出るために、いしこりどめのみことは八咫鏡を使ったと
いう。その後、天照はこの八咫鏡をににぎのみこと( イ
スラエルの系図と日本の神話
の節で言及)に授けたと
いう69。八咫鏡は神道の信者にとって、とても神性なもの
であり、ほとんど誰もそれを見るのを許されないが、見
たと強く主張する若干の人々がいる。第二次世界大戦後、
青山学院大学の佐近と
いう教授は八咫鏡の複
製を皇居宮殿の中で見
たという。佐近教授は八
咫鏡の複製の裏に非常に興味深い事を見たと言った。ヘブ
ライ語のような字を見たと言った。複製をした際にそれら
を言った人は本物の八咫鏡の裏を見、その模様を書き写し
たのであろうか。それは左の絵で示す。鏡にある文字を解
68
69
サムエル記上第16章〜サムエル記下第24章;405〜473頁
『広辞苑第五版』新村出版2002年「八咫鏡」
120
釈する方法は2つの理論がある。1つ目の理論は文字を日文(ひふみ)で解釈する方法で
ある。日文は日本の神代文字の一つであり、神代から伝えられたという文字である。もう
2つ目の理論はヘブライ語で解釈する方法である。若干の人々は八咫鏡の裏の中心にある
丸の中の文字は「わたしは、有って有る者。
」と読めるというという。他の人々はこの文字
を「ヤハウェの光」と解釈し、旧約聖書のダビデが書いた詩篇に言及する。ヤハウェはヘ
ブライ語で「神」という意味である。そして、詩篇には、
「主なる神は日です、盾です。」70
と記されてある。しかし、この書き写された模様は本当に八咫鏡から来ているかどうか、
証拠はなく、この絵は謎のままである。
ⅱ.手水舎と洗盤
多くの宗教には、神様の元へ入る前に、清めが必要である。神道はそれを行う一つの宗
教である。神社の拝殿に入る前に、手水舎という水盤で手を洗い、口をすすぐ。これによ
って、体と霊を清め、神性な神社に入ることが出来る。日本は神道と仏教が「合併宗教」
のような宗教があるため、日本人は神社の手水舎で手と口を洗うし、寺でもする。
古代のユダヤ教も体と霊の浄化を実行していた。神様は
モーセに洗盤という水盤を造るように命じた。71この洗盤
は真鍮で造られ、イスラエル人が使っていた幕屋や神殿の
中庭で、祭壇と聖所の入り口にあった。ユダヤ教の司祭は
幕屋の聖所に入る前に、洗盤の水で手と足を洗った。キリ
スト教徒にとってユダヤ教はキリスト教のための準備の福
音である限り、この洗盤で洗うことは洗礼と似ている物だと思われる。しかし、洗礼は洗
盤で洗うことと異なり、物質的な場所に入る前に体と霊を清めることではなく、神様の身
元、すなわち、天国に入るために清めるという意味がある。
ⅲ.狛犬と獅子72
73
狛犬とは、神社の社前と社殿の前に置かれる神社を守る像であ
る。獅子とも言い、沖縄ではシーサーと言う。大抵の神社は2つ
の狛犬があり、両方が同じだと思われているが、前の道の右側に
70
第84詩篇11節;823頁
出エジプト記第30章17〜21節;119頁
72 『We Japanese』Frederic De Garis, Atsuharu Sakai;Kegan Paul Limited、2002年;
332頁
71
73
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
121
中国からの「唐獅子」の像があり、そして左側に朝鮮からの狛犬がある。これらは曖昧な
起源があるが、中国では、住宅の前に獅子の像を置くという実行を昔の日本は採用したと
若干の学者は考えている。狛犬は朝鮮の王の象徴であると言われる。200年前に日本は
朝鮮を侵略した時、朝鮮の王が日本の忠誠を示すために、皇居宮殿を永遠に守ることを約
束したと言われる。唐獅子と狛犬の外観はほとんど同じだから、区別は忘れられたと思わ
れる。また他の学者は神社の狛犬は神話のひでり
のみことの象徴であると考えている。ひでりのみ
ことはににぎのみことのもう一人の子で、やまさ
ちこの兄であった。ひでりのみことはやまさちこ
を尊敬していたため、皇居宮殿を永遠に守ること
を約束した。
古代のユダヤには、ダビデの息子のソロモン王は
巨大な神殿と宮殿を建て、両方は前に獅子の像が
あった。74この実行は他の文化にも伝播されたよう
である。米国のニューヨーク市立図書館の前にも2つのライオンの像がある。
d.神道とユダヤ教の儀式75
日本の宗教とユダヤ教は、物質的な特徴の類似性のほかに、宗教の儀式において僅かな
類似性もある。日本で行われる若干の部分の儀式は旧約聖書の物語によく似ていて、その
他の部分の儀式は古代のイスラエルの司祭が施した儀式に似ている。最初に、神道とユダ
ヤ教のそれぞれの着ている式服の説明をする。その後、日本の大祓、流し雛とユダヤ教の
アザゼルという身代わりの説明をする。それから、元々日本ではなかった沖縄におけるカ
ンカーとユダヤ教の「過ぎ越し」という古代の出来事を明らかにする。最後に、御頭祭と
いう神道の儀式と、旧約聖書に記されているアブラハムの物語を比較する。
ⅰ.式服76
若干の学者は、神道の神主の着る祭服や式服が、イスラエルの司祭の式服、または農民
の服装に似ているというと思われる。神主の式服の隅に20−30cm の房がある。旧約聖
書には、神がモーセに式服に対してまた厳しい説示を与えた。「羊毛と亜麻糸を混ぜて織っ
74
旧約聖書列王記第7章36節、487頁;第10章19節、494頁
75
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracam4.htm
76
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
122
た着物を着てはならない。身にまとう上着の四すみに、ふさをつけな
ければならない。」77服の隅に房を付ける事とは、その人はイスラエ
ル人であるという意味である。新約聖書に記されている物語にも、キ
リストは偽善的なイスラエル人に非難をし、彼らの服について語った。
「そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは
経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、…。」78そして、キ
リストの服装でも房があった。
「…十二年間も長血をわずらっている
女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。」79そ
して、ユダヤ教の祭司は神道の神主と同じく、帯を締め、立烏帽子の
ような物を被る。
「…彼らのために帯を作り、彼らのために、頭巾を作って…。
」80
日本の宗教とユダヤ教の類似性のもう一つは、
日本の修験者の外観である。修験者は別名とし
て山伏と呼ばれ、山や荒れ野で禁欲的な生活す
る人物である。大抵の山伏の外観には、兜巾と
いう黒い布で造られる小さい箱を額に被る。
こ
の兜巾は紐で頭に結びとめられる。そして、法
螺貝を持ち歩き、鳴らす。山伏は仏教のもので
あるとされているが、山伏は日本以外の国にいないと思われる。その上、山伏は仏教が日
本に伝播した前に存在していたと思われる。
一方、ユダヤ教徒には、申命記の第6章の4
節からシェマという朗唱がしるされている。シ
ェマは神の絶対唯一性に対する信仰告白であ
る。熱心なユダヤ教徒は朝と夜の祈りとしてシ
ェマを朗読する。神は、シェマの言葉の大切さ
を強調するために、このような比喩的なことを
言った。
「またあなたはこれを…あなたの目の間において覚えとし、またあなたの家の入口
の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。」81古代のユダヤ人はこの聖句を文
字通りにとって、シェマの言葉を羊皮紙にしるし、革の小さい箱に入れて、その箱を頭に
77
78
79
80
81
申命記第22章11〜12節;278頁
新約聖書マタイによる福音書第22章5節;37頁
前掲書第9章20節;13頁
旧約聖書出エジプト記第28章40節;116頁
申命記第6章8〜9節;255頁
123
つける。その箱は上述したのように経札と言う。あるいは、聖句箱という。門に置く経札
は「メーズーザー」という。ユダヤ教の祭司が持っている物のもう一つは「ショファル」
というものである。ショファルは、雄羊の角で作った喇叭である。現代は、ユダヤ教の祭
司はショファルを儀式のために使うが、古代はイスラエルの軍が敵の軍が近づくことの警
告、そして攻撃するための信号、あるいは退却の信号としてショファルを使った。旧約聖
書によると、ヨシュアとイスラエルの軍はショファルと大声で叫び、エリコ市を囲んでい
た大きい壁を倒したという。82
ⅱ.大祓、流し雛とアザゼル83
日本では、古代ユダヤ教の「贖罪」に対する考えと同じような伝統的な儀式がある。神
道では、
「大祓」という儀式がある。古代から、天皇が白い亜麻布の服を着て、その服を脱
ぎ、小さい舟に入れるということを行う、大祓という儀式がある。そして、その舟を川に
流す。その服は万民の罪や穢れを持っているため、川に流された後は、万民の罪や穢れが
祓われた。神道には、天王星が神の子孫で、日本人全員の罪を担えるという事が言われて
いる。現代大祓は全国各神社で行われる。大祓は6月と12月の晦日に行われる。日本で
は、もう一つの「贖罪」の儀式がある。これは「流し雛」という儀
式である。3月3日に行われる節句として、夕方に紙作りの雛人形
を川や海に流し、その雛人形に人間の罪を背負わせて流すのである。
古代ユダヤ教では、大祓と類似する儀式があった。ユダヤ教の暦
法によると7ヶ月目の1日目に「贖罪の日」の儀式を行った。レビ
記の第16章によると、ユダヤ教の神殿の大祭司は白い亜麻布の式
服を着て、この儀式を行った。最初に2頭の雄やぎをとった。その後、2頭のやぎを籤で
分けた。一つの籤は神のための籤であり、もう一つの籤は「アザゼル」(贖罪のやぎ)のや
ぎのための籤であった。大祭司は神のための籤に当たったやぎを祭壇の上に神へ犠牲をさ
さげた。そして、大祭司はアザゼルのための籤に当たったやぎの頭にイスラエルの罪を全
部やぎに象徴的に伝播した。その後、イスラエルの罪を持ったアザゼルのやぎは荒れ野に
自由にされ、二度と見られなくするというものであった。84
82
ヨシュア記第6章20節;308頁
83
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracam4.htm
84
レビ記第16章4〜10節、21〜22節;158〜159頁
124
ⅲ.沖縄のカンカーと「過ぎ越し」85
86
元々日本でなかった沖縄では、興味深い出来事がある。
『沖縄大百科事典』によると、
「シ
マクサラシ」という行事が年中2,3回行われると記されている。沖縄諸島では、この行
事が様々な別名として呼ばれ、その一つはカンカーと呼ばれている。旧暦3月に糸満市喜
屋武では、期日が決まると区長は区民に連絡し、牛を買うためのお金を集める。その後、
区長は買った牛をマーチュウモートと呼ばれる所で殺す。その牛の骨をしめ縄に結んで村
の入口など3ヵ所に張る。そこは村の内側と外側の境界と考えられている。殺された牛の
肉は村のおのおのの家に分配される。村の子供たちは牛の血をジークンという葉につけ、
家の門にさす。他の村は牛や豚ややぎも殺すという。これは悪疫が村に入って来るのを防
ぐために行われる行事であるという。現在、カンカーは次第に行われなくなり、沖縄島で
は中南部を中心に僅かに残っているようである。
これに類似する話がある。モーセはイスラエル人であったエジプトの奴隷を解放させる
ために、パロに10回訪れた。しかし、1〜9回の時にはパロがイスラエル人を解放する
ことを断った。そこでその代わりに神はパロが断る度に、悪疫をエジプト人に行った。パ
ロは悪疫を受けたエジプトを見て、イスラエル人を解放することをモーセに約束した。そ
してその代わりにモーセは悪疫が終わらせるために神に祈った。そして、悪疫は終わった
が、その終でパロはまた頑固にも、イスラエル人を解放しなかった。そのため、神は連続
に悪疫をエジプトに送った。しかし、エジプトに住んでいたイスラエル人は奇跡的に影響
を受けなかった。これらの悪疫には:川の水が血に変わった・蛙の群・蚋の群・虻の群・
家畜の病・腫れ物・炎の雹・蝗の群・三日間の暗みが含まれていた。10回目の悪疫は最
も恐ろしかった。真夜中に神はエジプトに「滅ぼす者」を送った。この滅ぼす者はエジプ
ト全地に行き巡り、全ての人間や家畜の初子を殺した。神はイスラエル人の初子は「滅ぼ
す者」に殺されないようにモーセに指示を与えた。
「あなたがたは急いで家族ごとに一つの
小羊を取り、その過越の獣を屠らなければならない。また一束のヒソプ(植物類)を取っ
て鉢の血に浸し、鉢の血を、かもい(鴨居)と入口の二つの柱につけなければならない。
朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。主が行き巡ってエジプトび
とを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、
滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。あなたがたはこ
の事をあなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
」87こうして、イ
スラエル人は皆滅ぼす者に殺されることなく、エジプトからパロに解放された。その後、
85
86
87
「シマクサラシ」
;
『沖縄大百科事典』
「中巻ケ〜ト」
;沖縄タイムス社1983年;327頁
出エジプト記第7章〜第12章;82−92頁
前掲書;第12章21〜24節;90頁(括弧とその内容は筆者による)
125
神はイスラエル人が神の力で解放されたことを思い出すために、この儀式をいつまでもし
なければならなくなった。10回目の悪疫でイスラエル人はやっと解放されたため、その
儀式は「過ぎ越し」と呼ばれる。この出来事は非常に重要であったため、神が解放された
日を彼らの暦法の初日にするように命じた。この日はグレゴリオ暦によると、3月下旬〜
4月初旬にある。
沖縄のカンカーはイスラエル人の過ぎ越しと似ている。両方は悪疫が入って来ないため
に動物の血を門につけた。そして、行う時期も同じ頃である。もっと不思議なのは、
「カン
カー」という言葉である。15世紀に、琉球諸島(沖縄)は日本と中国の両属の地であっ
た。その結果として、琉球人は混合した言葉で話した。広辞苑に記されている「かんか」
の登記は22件がある。これらの登記を『漢字源(JIS 漢字版)
』で参照すると、
「カンカー」
の音に一番近い中国語の漢字は、
「看過」と「瞰下」である。広辞苑によると、「瞰下」の
意味は「みおろすこと」と言う意味である。
「看過」の1番目の意味は「大したことではな
いとして見のがすこと。
」という意味である。2番目の意味は「見すごすこと。見おとすこ
と。
」という意味である。出エジプト記に記されているイスラエルの解放の話にもう一度言
及すると、神はエジプトを見下ろして、滅ぼす者を送り、血で記されていた門を見過した
のである。
ⅳ.御頭祭とアブラハム88
89 90
長野県にある諏訪大社には「御頭祭」
(おんとうさい)という古来から重んじられてきた
祭りがある。この祭りで行う事は旧約聖書に記されているアブラハムと彼の息子イサクの
物語と酷似している。
御頭祭は現在、田植えが無事に終え、害虫や害獣(昔
は猪、鹿などの獣)に作物が荒らされずに無事に収穫で
きるように祈る五穀豊饒の祭りである。剥製にした鹿の
頭を「御贄柱」という柱に載せ、それを神社に担って行
く。古代の御頭祭は現代と少し異なっている。昔この祭
りは「御神」(おんこ)という8歳ぐらいの少年を「御贄
柱」(おにえばしら)と呼ばれる物に縛り付け、竹の筵に
置いた。その後、諏訪大社の神官は小刀を持ち、少年に
88
http://www.mars.sphere.ne.jp/kuronekoin/onto-sai.htm
89
http://www5.ocn.ne.jp/~magi9/isracame.htm
90
諏訪大社の代理人と電話インタビュー;2003年8月29日
126
近づき、柱の上の部分を刻んだ。その後、もう一人の神官は前の神官を留まらせ、柱に縛
り付けられた少年を解放した。その後、少年の代わりに75頭の鹿を犠牲にして、諏訪大
社の神に捧げた。その75頭の鹿の中で、1頭の鹿は裂けた耳がある。その鹿は「神が矛
に獲った鹿」という。この祭りは守矢山(もりやさん)という諏訪大社の後ろにある山の
近くで行ったと言われている。
旧約聖書の創世記によると、アブラハムと妻サラは約70年間、子供がいなかった。し
かし、神の使いはアブラハムとサラの前に現れ、サラが息子を産めるようになると宣言し
た。91この息子の名前はイサクである。イサクはヤコブ(イスラエル)の父である。イサク
はアブラハムによってサラの唯一の子供として、大変愛されていた。ある日、神はアブラ
ハムの献身を試すために、アブラハムに変わった指示をした。「あなたの子、あなたの愛す
るひとりイサクをつれてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさ
「アブラハムは燔祭の薪を取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物と
い。
」92その後、
を執って、ふたり一緒に行った。」93そこで、イサクは父のアブラハムに聞いた。
「火と薪と
はありますが、燔祭の小羊はどこにありますか。」94アブラハムはこう答えた。
「子よ、神み
「彼らが
ずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう。
」95この次のようにこの物語が続く。
神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサク
を縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子
を殺そうとした時、主の使いが天から彼を呼んでいた。 アブラハムよ 。彼は答えた、 は
い、ここにおります 。み使いが言った、 わらべを手にかけてはならない。また何も彼に
してはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、
あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。この時アブラハムが目をあげて見
ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊
を捕らえ、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
」96アブラハムは神の指示に従い、
唯一の子のイサクを燔祭として神に捧げることにし、神への強い献身を示した。神はアブ
ラハムがイサクを殺させることなく、その代わりに雄羊を備えた。その後、神はアブラハ
ムが強い献身のため、
「イスラエル人の系図と日本の神話」の節に既述した聖約をした。
御頭祭とアブラハムの話には興味深い事はたくさんある。御頭祭は守矢山(もりやさん)
の近くで行い、アブラハムとイサクが登った山はモリヤという地にあるという類似がある。
91
92
93
94
95
96
創世記第18章10節;19頁
前掲書第22章2節;25頁
前掲書6節
7節
8節
前掲書9〜13節;25〜26頁
127
そして、御頭祭の「御神」とイサクは、両方少年を犠牲とされ、神に捧げようとされた。
結局、その少年は殺されなく、代わりに角のある動物を捧げる。諏訪大社の神には、
「たけ
みなかた」の神、また「ミサクチ」という神がいる。神話によると、たけみなかたの神の
父親は「大国主」(おおくにぬし)である。漢字の意味の通りにすると、「大国の主」であ
る。イサクの父親のアブラハムは元の名が「アブラム」で、神は聖約をした時、名前を変
えた。
「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれる
であろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。
」97「アブラハム」はヘブ
ライ語で「多くの国民の父」という意味である。そして、ある研究家は、
「ミサクチの神」
は「ミ・イサク・チ」に違いないと指摘している。
Ⅲ.結論
A.キリスト教の影響
「多くの日本人は生まれてから、神道の儀式を行う。キリスト教の教会で、キリスト教
の牧師によって結婚式をする日本人もいる。そして、亡くなった時、仏教の葬式がある。
」
こういう言葉はよく耳にする。でも、この言葉は事実であろう。
「無宗教」と思われる現代
の日本人は日々の生活には、人口の大部分がキリスト教徒である西洋の国々に影響されて
いる。それは良い影響も悪い影響もある。ザビエルが鹿児島に上陸した時代から現代にか
けて、日本人のキリスト教への反応は様々であった。西日本の大名の中には、キリスト教
を利用してポルトガルの商人と売買したという貪欲さを表す者、下層階級の農民の中には、
キリスト教を心から信じ、その信念のため死んだ者までいた。キリスト教は徳川家康のよ
うな支配者には恐れを抱かせたため、キリスト教禁止令という結果を招くことになった。
そして、隠れキリシタンは約200年間密かにキリストを礼拝するという勇気を表す者も
いた。現代の日本はキリスト教を受け入れるというより、土着のキリスト教を作っている
ようである。そして、他の宗教はキリスト教の教えを取り入れ、仏教や神道の教義と混合
している。これらの影響は、外面的に見える影響である。それ上、この影響は多くのキリ
スト教信者が弾圧されるという惨事も起こしてきた。現代の日本人には、歴史を繰り返す
ことなく、宗教から自分の人生に良い影響を得るため、キリスト教を選択する際には、そ
の教義を個人的なものとして捉え、実行する必要があるのではないだろうか。
B.古代のキリスト教:ユダヤ教の影響
日本人は、キリスト教を始めて味わった時はザビエルが日本に来た時であるという事は
97
前掲書第17章5節;18頁(下線は筆者による)
128
事実なのだろうか。日本人の先祖は、古代キリスト教のユダヤ教を実行していたのではな
いだろうか。若干の学者が現代そのことについて研究している。神道や日本人の習慣とユ
ダヤ教の教義に関する類似性に対して、ただの偶然の一致であると多くの学者は考えてい
る。一方、若干の学者は日本人がアブラハムの子孫であると確信した。どの話が本当なの
か。それが偶然の一致であると考えることは容易である。しかし、神道は古代ユダヤ教で
あった微妙な形跡が存在している事も確かである。神社の地取りはユダヤ教の幕屋と似て
いる事や、伊勢神宮にある形跡や、沖縄のカンカーや、諏訪大社の御頭際は全部明確な証
であると若干の学者が指摘している。そして、神道は創設者がはっきり存在しないという
事実もある。神話は本当は旧約聖書の話ではないか。それは真実であれば、日本人は神が
アブラハムの子孫に約束した祝福を受ける権利も与えられている。何が真実であるとして
も、それを受け入れる事はまた個人的な問題ではあるが、興味深いことであり、日本の歴
史を異なった視点から捉えることが出来るものであり、今後も研究の蓄積に注目したい。
129
日本語における英語からの外来語
―スペイン語における外来語との比較―
リナ・マリア・コンデ
始めに
現代の世界では英語が他の言語に対して、強い影響を与えている。なぜかというと、昔
はイギリス、現代はアメリカも経済やビジネス、娯楽、ライフスタイルなどさまざまな面
で、世界を動かしているので、その影響の一つに言語がある。アメリカ経済やアメリカ企
業が世界で幅を利かせていることが、アメリカ英語を「世界標準」の立場になった主な理
由であろう。ちなみに、同じ言語を話さない人々がコミュニケーションをする時や、国際
的な場で英語はよく使用されている言語である。それ故、英語の単語は世界の多くの言語
によく借用されている。
日本語においても、経済、政治、技術、教育、文化の交流の中でよく他の言語から単語
を取り入れている。そうして、そういう言葉を取って、本来の文法や発音などに基づいて、
組み入れることが普通である。
来
「外来語」は簡単に言えば、前は外国語であったものが、日本語の中に取り入れられた
言葉である。西洋の言語から日本語に入って来た単語が外来語であるということについて
はほとんど異論がない。問題が生じるのは中国語から取り入れられた言葉である。例えば
「マージャン」や「ラーメン」などのような言葉はしばしば外来語として扱われるが、い
わゆる漢語の多くは昔中国語から取り入れられたが、慣用されてきたので、もう外来語と
して取り扱われない場合が多い。そのうえ、漢語は歴史が古く、歴史の新しい西洋語系の
単語と比べたら、外国語に由来する感じがまれに残っていない。
外来語はもともとポルトガル語、オランダ語からの外来語が多かったが、江戸末期以降
は英語、ドイツ語、フランス語などからの言葉も取り入れられてきた。現代はその中でも、
英米語系の外来語は大変多い。そのために、外来語の代わりに時々「洋語」という言葉も
使われているが、中国語や韓国語などに由来する単語もあるので、
「洋語」という言葉が「外
来語」の代わりをすることは正しくないであろう。
第二次世界大戦の後は前にもいったように、英米語系から取り入れられた言葉が非常に
130
多くなってきた。なぜかというと、英語が職業生活、日常生活の中に重要な意味を持つよ
うになったので、英語との接触の結果で、外来語として、英語の単語は日本語の中に入っ
てきたのである。
外来語といのはいうまでもなく、日本語だけの事象ではない。大さっぱに言えば、言語
の構成の中には他の言語からの借用語が含まれているのである。例えば、スペイン語の中
は昔アラビア語からいくつかの単語を取り入れられた。現代には英語からの影響をいちじ
るしく受けている。しかし、スペインのスペイン語にはそんなに強く影響はないので、そ
こに限定していると思われる。ラテンアメリカのスペイン語にはラテンアメリカの独特の
成長ということもあり、アメリカの近くにあり、アメリカは文化や経済や技術などの影響
を与えているので、別の状態があることが考えられる。
一方で、アメリカに住んでいるラテンアメリカ系の人々は英語の世界に囲まれており、
その結果はいわゆる Spanglish を使用していることである。それはスペイン語の文法や発
音に基づいて、英語とスペイン語の単語の混合を使用することである。
例;
「Maria tuvo un baby y esta bien cute」
英語に関しては、ゲルマン系と呼ばれ、昔ラテン語やフランス語の強い影響を受けた。
現代の英語の語彙の中では65%くらいはラテン語から取り入れられた言葉であり、歴史
が古く慣用として、外来語と呼ばれていない。「英語固有の要素などをゲルマン系は日本語
のやまとことば系にあたり、英語のラテン系は日本語の漢語系にあたる」(石綿敏雄:外来
語の総合的な研究、253)。
ゲルマン系
ラテン系
happiness
felicity
begin
commence
deep
profound
外来語の種類
現代の外来語は全般的にいくつかの種類に分けることができる。意味的に、まず、一般
用語と専門用語に分ける。しかし、専門用語は時々一般の生活のなかでも使われているの
で、区別するのは容易ではないこともある。英語からスペイン語に入ってきた外来語はほ
とんど同じように分けることができる。次に例を取り上げてみよう。
131
日本語
スペイン語
一般の生活外来語
一般の社会生活用語
カーテン、スカート、
okey, cool, remover,
オーケー、キュート
reporte, sexy
インテリ外来語
メリット、ペンディング
lider
商業風俗外来語
ビジネス、トレード、マーケ marketing,
ティング、ネットワーク
料理
ステーキ、ハンバーガー
hamburguesa, steak
インターネット用語98
メール、ウェブサイト
email, chatear, red
電気産業用語
コンデンサー、スイッチ
condensador, switch
コンピューター用語
ソフトウエア、プログラム
software, mouse
経済関連用語
シンジケート、デフレ(デフ
trading
専門用語外来語
レーション)
スポーツ用語
コーチ、テニス
futbol, corner
病気医療関係用語
インフルエンザ、インスリ
influenza,
ン、クリニック
外来語の特性
新しい事物などが社会に取り入れられると、もちろん、新しい言葉も取り入れられるこ
とが多い。したがって、自国語にない言葉は他の言語から取り入れるのは普通に見られる
ことであるが、時々ある言葉があっても、外来語を使用することもある。例えば、日本語
には「複写」という言葉があるが、
「コピー」の方がよく使われている。しかし、外来語と
日本語のもとの単語を同時に使うこともある。例として、「ドライブ」と「運転」という単
語があり、
「運転する」という意味で「ドライブ」を使うことはない。一方で、ドライブは
「行楽または自動車で遠乗りすること」という意味である。
外国語を借用し、日本語にするのに、二つの手段がある。一つの方法は外国語の言葉を
取り、だいたいそのままカタカナにすることである。もう一つは外国語の言葉の意味に基
づいて、刺激的創作語という方法である。後者は明治時代から使われているが、戦後の後
はそういうような方法でできた語彙は非常に少なくなった。刺激創作語の例は「芸術」
、
「汽
車」
、
「商業」などである。
98 インターネット用語は専門用語であるが、日常生活で重要な役割を果たすので、一般の生活として扱う。
132
*
婉曲語
日本語の外来語の中では、婉曲語が多い。直接の表現があまりにも公然であるとき、外
来語を用い、婉曲に表現することがよくある。例えば、
「トイレ」、
「WC」
、性に関する表現
にも外来語が非常に多い。
「セックス」、
「マスターベーション」、
「ホモ」
、
「レズ」が「性交」、
「愛撫」
、「自慰」、
「同性愛」の代わりに普通使用されている。そのような外来語の使い方
はスペイン語にはなく、日本語の特徴であろう。
意味の違う外来語
英語から入ってきた外来語は英語の単語と意味が変わらないと思うのは当然であるが、
多くの外来語は英語の言葉と違う場合もある。実際に全く異なる言葉もある。例えば、「ク
レーム」という言葉は「claim」からできた言葉であるが、英語の「claim」と全然違う。
スペイン語では「esmoquin」という言葉は「smoking」から来たが、「喫煙」という意味で
はなく、
「タキシード」という意味である。
意味が狭くなることも非常に多い。例えば、英語の「building」は壁と屋根のある建物
をすべて表すが、日本語の「ビル」は「洋風」と「高層」の意味で使用されている。
*
和製英語
「telephone」や、「television」はギリシャ語の単語を使って、ギリシャ人が作った言
葉ではないように、日本人は英語の単語を使って、新しい言葉を作ることが多い。いわゆ
る和製英語は「日本で作られた英語」、または「日本独自の使い方をする英語」ということ
を指す。
(加島祥造:英語の話。英語と日本語をつなぐバイパス、74)
。
和製英語の中では和製複合語がおびただしい。普通は英語の言葉と一部分が一致するこ
とがある。前後ろ入れかわりこともあり、外来語では複合語であるが、英語ではー語とい
うものもある。次の表は多少の例を表す。
前部分が一致する
後ろ部分が一致する
前後ろ入れかわり
日本語では複合語、
英語では一語
ビーチパラソル
デコレーションケー
ポテトフライ
ガードマン
beach umbrella
キ
fried potatoes
guard
フロアスタンド
fancy cake
フラッシュニュース
ブレザーコート
floor lamp
サイドブレーキ
flash news
blazer
emergency brake
133
一方、一致点がないものもある。例えば、ホームドラマ(soap opera)などである。
日本語の中の元の英語の単語はもう日本語化され、日本語的に表現することは当然であろ
う。したがって、和製英語が生まれた。
*
外来語の書き方
外国語は日本語の中に取り入れると、日本語化し、変容する。外来語はカタカナで書か
れるのは普通で、時々カタカナ語と呼ばれる場合もあるが、カタカナは外来語ではない言
葉も含めていることがある。一方で、慣用として、もうカタカナで書かれていない外来語
もある。例えば、タバコは「たばこ」も「煙草」も使える。コーヒーの場合はひらがなを
使われていないが、
「珈琲」も使える。
スペイン語の場合は英語の単語を取り入れると、スペイン語の綴りによって変容するこ
とは普通であるが、英語の綴りはそのままに残ることも多い。例えば、「sandwich」はスペ
イン語でそのまま書くが、発音はちょっと違う。しかし、
「sanduche」という書き方もある。
「club」という英語の単語はスペイン語にしても、「club」と書くが、英語の発音と違っ
て、[club]になる。日本語化の程度範囲の高い単語は,だいたい次の表に示す仮名で書き
表される。すなわち、日本語の発音と一致して、書かれる。
ア
イ
ウ
エ
オ
ガ
ギ
グ
ゲ
ゴ
キャ
カ
キ
タ
ケ
コ
ザ
ジ
ズ
ゼ
ゾ
ョ
サ
シ
ス
セ
ソ
ダ
デ
ド
シャ
タ
チ
ツ
テ
ト
バ
ビ
ブ
ベ
ボ
ョ
ナ
二
ヌ
ネ
ノ
パ
ピ
プ
ペ
ポ
チャ
ハ
ヒ
フ
ヘ
ホ
ョ
マ
ミ
ム
メ
モ
ニャ
ヨ
ョ
ロ
ヒャ
ヤ
ラ
ワ
ユ
リ
ル
レ
キュ
キ
ッ(促音)
シュ
シ
チュ
チ
ニュ
ニ
ヒュ
ヒ
ミュ
ミ
リュ
リ
ギュ
ギ
ョ
ミャ
ョ
リャ
ョ
ギャ
134
ン(撥音)
ー(長音符号)
ョ
ジャ
ジュ
ジ
ビュ
ビ
ピュ
ピ
ョ
ビャ
ョ
ピャ
ョ
一方,日本語化の程度がそんなに高くないときも,外国語に近く書き表す必要のときも
(人名、地名の場合)、原音になるべく近く書き表そうとすると、次の表に示す仮名を使用
する。それ故、外来語が日本語の音節構成を増加したと言われる。例えば、
「ティ」
、
「ヴィ」、
「ウェ」などという組み合わせは外来語を表記するためにできたものである。そうすると、
「ミルクティー」
、
「フェアプレー」
、「フォークダンス」などが書き表すことができる。
シェ
ウィ
チェ
ツァ
ツェ
フア
フィ
ウェ
ヴォ
ヴィ
ヴ
ヴェ
テュ
クィ
クェ
クォ
ティ
ヴァ
ウォ
クァ
ツォ
イェ
フュ
ヴュ
ツィ
フェ
トゥ
フォ
ジェ
グァ
ドゥ
ディ
デュ
スペイン語の場合では、スペイン語で使用されていなかった文字が外来語を表記するた
め、使用するようになった。例えば、W、Kなどはもともとなかったが、「whisky」、
「kilo」
などを書くのに使われている。
*
音形の変化
諸言語の音声はそれぞれなので、他言語の言葉を取り入れると、自国語の音声の構造に
よって変容することは普通である。日本語の音節の構造においても促音という特殊音素を
135
除いて、すべて母音を含む。子音が二つ以上連続することがない。そして、
「ん」を除いて、
子音で終わる単語もほとんどない。それ故、外国語の言葉を取り入れると、母音を添加す
る。例えば、英語の「sectionalism」は日本語に入るとセクショナリズムになる。
音節化に対して、英語からきた「ランプ」をみると、英語では一音節であるが、日本語
の見かたでは三つになるであろう。スペイン語の場合は子音で終わる単語があるが、音節
末の子音は/t/や/t∫/であることはまったくないので、語尾の子音に母音を添える。例
えば、英語の「pamphlet」は「panfleto」になる。
一方で、スペイン語から英語に入る時、一般的に母音をつけたままで入るが、たまに母
音を削り落とすこともある。例えば、「tornado」や、「banana」が取り入れられたときに母
音をつけたままにしたが、
「rancho」は「ranch」になった。
外来語が日本語化すると、外国語と日本語のあいだで対応のあるものはそのまま取り入
れられるが、日本語にその外国語の音がないとき、日本語にある音に置き換えるのは普通
である。しかし、前言ったように、外来語の表記に対して、日本語の五十音にない音を表
そうとすると、特別な結合ができた。
例をあげていうと、日本語にはない「l」のある単語を借用すると、普通ラ行で表す。
従って、
「lighter」は「ライター」になり、
「leader」は「リーダー」になる。
スペイン語にZは独立な音素ではないので、その音のある単語を取り入れると、Sにな
る。日本語にもスペイン語にもない/δ/という音のあるものを取り入れるときに、日本語
の場合はザ行になるが、スペイン語の場合は/d/に置き換えることになる。例えば、外来
語ではないが、「The Others」というアメリカの映画は日本語にしたら、「ザ・アザーズ」
であるが、スペイン語にしたら、「The Others」と書くが、[de oders]という発音になる。
*
つづり字発音
英語のつづり字からできた外来語は日本語にもスペイン語にもあるが、後者の方が多い。
日本語では「デリケート」、「イメージ」などは英語の発音とあまり一致してない。
delicate は[delik∂t]の発音で、
「デリケート」は英語のつづり字からでてきたものだ
と思われる。なぜならば、 「late」, 「mate」, 「gate」など、同じような語尾で、どれ
も「ケイト」になることに基づいて、
「デリケート」や、「イメージ」という外来語が生ま
れたのであろう。
*
省略
日本語では外来語を省略するのは普通に行われる。例えば、「フロントデスク」は「フロ
ント」と省略する。省略の方法は言葉の前の部分、中央部分、後ろ部分の省略がある。そ
136
の方法の例は次の表であげてみよう。
省略された言葉
もともとの言葉
前部分
スピーカー
ラウドスピーカー
中央部分
ボールペン
ボールポイントペン
後ろ部分
プロ
プロフェッショナル
複合語に関しては、四つモーらになるように省略するのは普通である。例えば、
「デジ
カメ」は「デジタールカメラ」からできた外来語である。このように複合語を取り、それ
ぞれの後ろ部分を省略すると、できる言葉が非常に多い。しかし、多少違う言葉もある。
「た
とえば、インフェリオリティ・コンプレックス」の前の部分を省略するとコンプレックス
になる。じつはこうすると、自分が劣っているという、もとの意味の大事な部分が抜けお
ちてしまうのであるが、日本人にとっては、英語はやはり外国のことばであって、もとも
となにを意味するのか、わからないで、使っているということがある。だから意味上大事
な部分であっても、すこしも心配することなく、省略することができる」(石綿敏雄:外来
語の総合的な研究 41)。
*
語形の国語化
外国語の単語を取り、国語化すると、本来の文法に合わせて、使用することは自然であ
ろう。英語から入ってきた名詞を取り、日本語にすると、動詞が作ることができる。例え
ば、「トライ」という言葉は日本語で名詞であり、動詞とすると、「トライする」になる。
形容詞の場合も日本語の形態に合わせて、使用する。例をあげてみると、
「ハンサムな人」
や、
「デリケートな問題」などができる。ときどき美化語を使用することもある。英語から
の言葉ではないが、例として、
「おビール」や「おたばこ」という表現がある。
スペイン語にもそういうことがある。冠詞や、複数などを使用したり、性分類の語形を
付けたりすることが普通。その上、スペイン語では英語の影響に対して、単語の面だけで
はなく、文法的にも影響を受けてきたのである。例えば、昔のスペイン語には受身形がめ
ったに使われていなかったが、現代は英語の影響で、使うようになった。その上、名詞を
次々に連ねて複合語を作るのは英語とゲルマン系の言語の特徴で、スペイン語にはあまり
137
なかったが、今はある。
英語
元のスペイン語
現代のスペイン語
Parent‑children
Relaciones entre padres e
Relaciones padres‑hijos
relationships
hijos
Car‑bomb
‑‑
Carrobomba, cochebomba
Protest songs
Cancion Social (形容詞)
Cancion Protesta
結論
日本語は外来語が多いと言われるが、他の言語の外来語と比べてみると、それはそうで
あるが、他の言語にもこういう現象がみられることがわかった。新しい表現、専門用語、
国際語、婉曲語など外来語を使用すると、言語の語彙を豊かにする。
英語から日本語とスペイン語への影響をみれば、多くの言語において、とくに20世紀
の後半期に英語の影響を受けるようになってきたことがわかる。その時期にアメリカの影
響が大きかったのは経済、政治、外交、軍事、科学、技術、文化などの分野でのアメリカ
の力が強くなり、それは言語の面にもみえることであろう。
参考文献
Tozaka Emi / Ezaki J. Keiko:「マ Extranjerismos del Japones」 Sociedad Hispanica del
Japon, Casa Espana.
岸本
重陳
:
「国際化時代のためのカタカナ語・略語辞典」
加島祥造:
「英語の話。英語と日本語をつなぐバイパス」南雲堂
石綿敏雄:
「外来語の総合的な研究」東京堂出版
外来語の表記
:
旺文社1990年
1994年
2001年
http://www.konan‑wu.ac.jp/ kikuchi/kanji/gairai.html
Spanglish : http://members.tripod.com/ nelson̲g/spanglish.html
Sorokin Ellen: 'Spanglish' speakers mix home languages THE WASHINGTON TIMES
http://www.washtimes.com/national/20021121‑85016760.htm
Jarque, Fietta: El castellano 'alucina' con el 'bakalao':
http://www.geocities.com/Athens/2982/bakalao.htm
138
日本の若者とその生活様式
ガビン・ポフリ
カール=ジロウ・ロック
はじめに
僕達のこのレポートは単なる好奇心から生まれたものとも言えるかもしれない。他国の
同じ年代の人がどう生きているか、自分とはどう違うかを知りたい気持ちから始まった。
2人ともヨーロッパの地で育ったが、この日本という国とのつきあいはかなり長いものだ。
その中で当然日本と自国、そして世界の国々の人と社会を観察し、比べてきた。または社
会学者としてその同じ点と違いの由来を調べて、理解しようとしてきた。学問としてだけ
でも十分に面白いけれど、日本の社会に滞在する僕達にとってはよりリアルで、より自分
に近いものである。ある意味でうまく日本の社会に参加しなければいけないという必然性
があったわけだ。
Ⅰ
レポートの目的と方法
1.目的
その中でも、一番興味深いグループかつ僕等に一番よく見えるのはもちろん同じ「若者」
だ。そして今この機会を生かして、身の回りの日本の若者をさらに調べて、その結果から
出るいくつかの面白い点を纏めて、ここで発表したいと思う。
それにもう一つの目標がある。最近のマスコミにも、学界でも日本の若者に関する議論
が多い。殆どが批判論や何らかの社会問題に繋がるものである。少年犯罪や不登校、援助
交際、またはもっと抽象的なモラルの衰退などは飽きる程耳に入っている。しかし自分の
目で見れば、日本の若い人が皆駄目で社会のシステムが根本的に歪んでいるというのはい
かにも信じがたいものだ。だからこの研究を通して、メディアの映る惨めなイメージは実
際にどれくらい当たっているのかを明確にしたい。つまりこのレポートの目標は二つ
今の日本の若者の生活様式を具体的に示すこと。
少年犯罪、モラル衰退などの若者に関する社会問題はどれくらい見えるかを察すること。
2.研究の仕方
139
第一に僕らは若者を対象にアンケート調査を行う。アンケート調査の結果をレポートの
主な出所にするため、一人より二人でアンケートを配って情報を集める方が有利だと思い、
二人で共同のレポート研究にする。当然ながら、共同の研究にした第一の理由は研究のテ
ーマにお互いに興味を持っていたからである。
それで生活の中の活動の内容と頻度、時間の割合などを聞く。それからアンケートで集
めた情報を纏め、分析し、そして最後に具体的な生活パターンを描くことが出来る。この
ような実用的な情報とともにアンケートの回答者から自分の生活についての意見と感想を
も聞き出す。あとはアンケートでは書いてもらいにくい感想のようなものも何人かのイン
タービューで聞くことにした。次に最近のマスコミに取り上げられる幾つかの社会問題を
取り上げ、調査で分かったことを中心に論じる。
3.若者の定義と研究の前提
僕らはこの研究、特にアンケート調査のために「日本の若者」を「16才以上30才以
下の現在(2003 年)日本で生活している人のこと」と定義する。どうしてこう決めたかと
いうと、まずは15才までは義務教育を受けなければいけないという日本の法律があると
いうことだ。厳密に言えば20才未満の人は法律から見れば未成年である。最低20才か
らにしようかとも考えたが、やはり子供や未成年は若者とは違う。最高年齢を30才にし
たのはもっと非合理的だった。
「若い」はいつまでかというのは非常に難しい哲学的な問題
で人の感覚によって全然違う。でも区切りがどうしても必要なので結局20代と30代の
境目にした。
注:
「日本で生活している人」は必ずしも「日本で生まれた人」でも「日本人」でも「日本
国籍を持っている人」でもない。国に住んでいることだけでその国の社会の一部になるの
で。
Ⅱ.アンケート調査の結果の分析と結論
1.アルバイト
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「1」にした。日本で学費も生活
費も高いし、若い人は色々なものが欲しいので、アルバイトをするのは当たり前かもしれ
ない。親がお金を送る習慣があるが、これが足りなかったり、自分で稼ぎたかったりする
ことがよくある。調査の結果を見ると8割の回答者はアルバイトをしていることが分かる。
一番よくアルバイトをするグループは大学生と言ってもいいだろう。それ以外の回答者が
少なかったが、高校生の間にもしている人が多い。フリーターは言うまでもない。
働く時間と言えば週11時間から15時間まで働いている人と16時間以上働いている
140
人が多かった。大体のアルバイトの給料は低いものだからこれくらい働かないと意味があ
まりない。家庭教師などの給料の高いアルバイトをしている人はより少ない時間でよい。
この人たちは自分をラッキーと思っているかもしれない。週1時間から5時間まで働いて
いると答えた6人の中の5人は家庭教師か模擬試験の採点の教育系のアルバイトをしてい
ることはこのパターンに合っている。
一番人気のあるアルバイトじゃないかもしれないが、一番よくしているタイプは居酒屋、
レストランなどの飲食店。次いで店の店員。割合はこういうサービス系のアルバイトが圧
倒的に多い。肉体労働やビジネス系のアルバイトをしている人が調査のサンプルに一人も
居なかった。大学生と女性が大半を占めていることの影響かもしれない。
生活の感想を述べるところに「アルバイトの給料が不満」と書いた人が何人かいた。そ
れでもたくさんの人は「アルバイトをしたい」や「もっとしたい」などを書いた。やっぱ
りお金がないと苦しいからほとんどの若者はアルバイトをした方がいいと思っているよう
だ。
2.勉強
2.1
概観
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「2」にした。
「常に何かを勉強し
ているか」という質問に、
「している」と答えた人は、アンケート調査対象の54人中で、
半分の27人だった。従って、「していない」と答えた人も同じく、27人だった。
「常に
何かを勉強する」と言えば、それは例えば学校の勉強や就職資格の勉強など」とはっきり
アンケート用紙に書いたので、質問を理解できなかった人はおそらくいなかっただろう。
しかし、アンケート対象者の半分が何も勉強していないというのは、割合的に見ると、著
しく多い。それにしても、
「勉強している」と答えた27人中、10人が「週に1−5時間」
と答えたので、していると言ってもあまり勉強をしていない人が多いことが分かった。
「何の勉強をしているか」もアンケートで訊いた。対象者の中で大学生が多かったため、
所属している学部の専門分野を勉強している人が一番多かった(16人)
。就職資格や他の
言語の勉強をしている人も10人と、かなり多いことが分かった。
2.2
「勉強していない」のはなぜか
アンケートで、「常に何かを勉強しているか」を質問した。「していない」と答えた人が
意外に多かった。その理由を詳しく日本人に尋ねた。大学の入学試験に合格するため、試
験の前は、一生懸命勉強しているようだ。試験に受かれば、大学に入学後勉強をしなくな
る学生が多いらしい。それは、日本の社会における知識を増やす方法に対する見方に関係
141
があることが分かった。大学の入学試験をパスしたということは十分に勉強ができ、優秀
であることの証拠になるようだ。従って、学生は大学に行っている間に、頻繁に勉強する
ように要求されないので、あまり勉強していない学生が多いらしい。
またもう一つの面白い点が見られる。大学に行っている間に、勉強をあまりたくさんせ
ず、かわりに部活やサークルに参加した学生の方が、卒業して就職しやすいという利点が
ある。なぜかといえば、部活をしている学生は、対人関係を良好にする術を持ち、社交性
や根性が備わっているため、そういった学生を日本の企業は求めている。日本の社会は大
学のことを勉学よりも、人間性を磨く場所として見ているようだ。つまり、より社会的な
人間になるために、勉強をあまりせず、本格的に部活やサークルに参加する学生が意外と
多いということである。
3.仕事
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「3」にした。調査のサンプルに
仕事をしていると答えた人が一人しかいなかった。データがないため若者の生活のこのと
ころは有意味の分析が不可能。
4.倶楽部活動とサークル活動
4.1
概観
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「4」にした。様々なスポーツ、
音楽、趣味などを学校や大学のサークルかクラブでやっている学生は少なくないであろう。
誰がやっているのだろうか?簡単に言えば学生がやっている。教育機関以外のところに
似たような集団もあるが、それに所属している人の数が比較的に多くない。社会人は基本
的に学生より時間が少ない。仕事、あるいは家族などへの責任があるし、暇なときは疲れ
ている。それに学校外のクラブはかなり高い有料なのが殆どであるため、学生でない人は
あまり参加しないのが事実である。大学を卒業したら部活をも卒業するという考え方もあ
る。
学校にこのようなクラブが多い理由がある。学生が常に皆で何かお互いに好きなことを
したらより早く仲良くなれるし、人間関係のコミューニケーションがうまくなるという教
育的な結果がある。特に体育系のクラブは近代に見る若者の運動不足と不健康なライフス
タイルという社会問題の対策の一つともなる。だから学校はサークルやクラブ活動を十分
に提供するように動力し、多くの学生が参加するように促している。
学校や大学の情報書を見るとたくさんのサークルとクラブの説明が書いてある。種類は
ところによって違うけど次のようなのはだいたいどこの大学にもある。
142
体育系:スポーツ。特に野球、サッカー、テニス、バスケット、バレーボール。後は卓球、
ラグビー、アメフト、ラクロス、陸上など。武道、例えば柔道、剣道、空手。
音楽系:あらゆるスタイルの音楽サークルがあるが、当然当時の流行が多い。基本的に大
人数の同好会と限られた人数のバンドの二つがある。一つの楽器か音楽のスタイ
ルが中心となっているのもある。
文化系:茶道、生花、折紙などの伝統的なもの。またはダンス、手芸、美術。
その他:コンピューター同好会、車クラブ、国際交流などのカテゴリーに入れにくいサー
クル。
4.2
部活の特徴
もちろんこのような中心的に計画した集団活動は日本に限って行われるものではない。
でも日本の場合は幾つかの面白い特徴がある。
クラブかサークルに入る理由は入る人と同じほど多い。でも多くの場合は友達を作りた
いという希望が入っているであろう。大学生の半分以上がまだ酒を飲めなかったり、ディ
スコとかで集まらなかったりする日本では、確かに部活が仲間を作るところとして更に大
切になる。これは日本の教育機関に部活が多い原因の一つと考えられる。ヨーロッパの国々
の大半では飲酒の許される年齢は大学に入る年齢と同じ、若しくはそれよりも若い。その
ような国では社会人と同じく酒場で集まって交流する。一方クラブ活動に参加する人はあ
まりそのクラブの仲間と一緒に遊ばない傾向がある。
日本で部活をとても熱心的にやっている人が多いとよく言われる。これは本当にそうな
のか、その差を測るのは非常に難しい。気軽でゆっくりしたペースでやっているように見
える人も結構いるし、何がふさわしいかとか何がやり過ぎかは個人の価値観によって違う。
それでも、特に体育系で、毎日くらい何時間も会って、休みになってもそのペースを崩さ
ない、まわりによく「やりすぎる」とか言われるのがかなりある。逆に他の国では滅多に
見ない。ヨーロッパではそれ程やるクラブに行っている者はプロを目指している人ばっか
り。日本ではそれからプロになる人もいるけど、そのつもりも才能もなくてもプロみたい
に練習する。これはもちろん日本の部員はみな過度にやっているわけじゃない。ヨーロッ
パの人が中途半端ということでもない。日本語の「クラブ」と「サークル」の言葉を使う
ならヨーロッパはクラブが少なくて、サークルの方が多いと言えばよい。
クラブとサークルの違いは要するに活動の程度のことである。例として広島大学の空手
クラブ(広島大学体育会空手道部)と空手サークル(広島大学空手同好会)を比べよう。
クラブは週6回全部で13時間練習して、休みは強化練習と合宿があって、休みと言って
も平均週9時間やっている。それに対して空手サークルは通常週2回4時間やって、休み
143
は完全オフである。
活動の頻度だけではなく、メンバーに何を要求するかというところも異なる。
サークルの人はやりたいときにやったり、休みたいときにやすんだりする。集まるときに
ずっと来なくても、それが自分の自由として認められる。それにサークルの中では、上下
関係を強調していない。
クラブの方はもっと厳しい。出ないと何かのペナルティーを受けるか、少なくとも先輩
に注意される。この固い制度に性格が合わなくて辞めてしまう人が毎年現れる。
最後に、日本のクラブに必要な仕事は全部部員が自分達でやる。道具の購入、部費の管
理、試合の申し込みなどの役割がわり当てられる。それぞれの担当者がいて、次の年にま
た新しい人がその責任を引き継ぐ。普通は1年生か2年生がこのような仕事をする。全く
同じ教育的な考え方が日本の学校給食と放課後掃除などに見える。ヨーロッパのある国の
場合はこれを全部クラブの管理者がやっている、別の人の責任になっている。その人は普
通は学生でもない。クラブの使う施設の関係者が多い。
この2つの点は間違いなくそれぞれの社会で尊重される主義の違いに基づく。集団主義
の日本では個性を犠牲にし、集団に忠誠を誓い、そして集団のために働くという考え方は
たくさんの厳しい、部員管理制度のクラブを生じたのではないか。個人主義の進んだヨー
ロッパのクラブ活動では部員の平等と自由が重視され、絆の薄い束縛しないようなクラブ
ができている。
4.3
部活における連帯感
アンケートで「部活動やサークルなどに参加しているか」を質問した。
「している」を答
えた人が圧倒的に多かった。なぜ参加しているかを日本人に更に尋ねると、様々な面白い
面が見えるようだ。それぞれの部活やサークルにおけるアクティビティーに興味を持つ他
にも、参加している理由があることが分かった。
一つの理由は、日本人が持つ連帯意識に関係があるようだ。日本人は連帯感を大切だと
感じ、そのため個人性より集団性を尊重している。組織や集団などに所属したいという気
持ちがもちろんあり、大学で部活動やサークルに参加する人が多い。従って、それぞれの
部活やサークルにおけるアクティビティーに興味を持つことより、連帯感を得るために、
参加する人が多いらしい。
部活のメンバー間における集団心理について日本人に尋ねると、さらに面白いことが分
かった。集団に所属していると、メンバーは全員一人一人平等に扱われるので、連帯感を
持てるようになっている。しかし、一人一人のメンバーは個人的に要求されることがある。
つまり、集団でいる時、個人は他のメンバーと同じように行動し、反応するべきであると
144
いう考えが見られる。皆が盛り上がる時に、メンバーとして、自分もそれに対応し、盛り
上がらないと変に思われる。それを精神的につらく思う人がいるようだ。
5.遊び
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「5」にした。若者は遊ぶ。これ
は代々変わらない事実だ!20代はやっぱり一番遊びたい盛りだ。友達と遊ばないと答え
た4人は多分非常に忙しい人か、質問を理解しなかった。
平均の遊ぶ時間は週11.5時間くらいだが、16時間以上遊んでいる人が20人に達
して、一番多かった。
若者はどのようなことことをして遊んでいるかというと、それはかなり限られているみ
たいだ。カラオケと飲酒、喋ることの3つはほとんどの人が答えた。それ以外に食事とビ
デオや映画を観ることと、ビリヤード、ボーリング、テレビゲームをすることも多かった。
日本の若者の遊びの習慣は時間的にも、内容的にも他の国の若者とそんなに異ならない。
一つだけ目立つ違いはカラオケの人気である。飲酒と喋ることと並んでカラオケが「普通
の遊び」のように考えられている。これはさすがにカラオケを発明した国だ。多くの国で
は特別な興味をもっている人がするけれど、一般な遊びとは見られていない。
6.買い物
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「6」にした。
「買い物をしている
か」という質問に、対象者全員の中で、一人を除く、53人が「している」と答えた。更
に、
「どれくらい買い物をしているか」を尋ねると、次の答えが出た。
「食料品や生活に必要な他のものを買うため、週に何時間かけているか」という質問に、
53人中、「週に1−5時間」と答えた人が一番多かった(40人)
。12人が「週に6−1
0時間」と答えた。一人だけが「週に11−15時間」と答えた。
「自分のためのものをどれくらい買うか」を訊くと、53人中、「週に1−5時間」と答
えた人は48人がいた。
「週に6−10時間」と答えた人は5人だった。
自分のための買い物は、本、雑誌、音楽、服という四つのものを買うという答えが圧倒
的に多かった。
6.1
食文化
「買い物しているか」をアンケートで訊くと、頻繁に食料品を買う人は当然多いようだ。
日本の若者の食生活はどのようになっているのか、食文化はどのような影響を与えている
かを自分なりに考えた後、日本人に尋ねた。
145
日本の食文化はものすごく豊かだと思う。それは自分達の国々の食文化と比べて、わか
ったことである。ある国の食文化に第一に影響を与えるのはその国の地理的な場所であろ
う。日本の場合は、地理的な条件によって、四季がはっきりしている。季節が変わるたび
に、手に入る食物も変わるだろう。従って、季節ごとに、色々な食べ物が採れるだけでは
なく、それぞれの季節に様々な行事、例えば、秋の紅葉狩りや春の花見などを行うし、こ
ういうことから日本人が四季を楽しんでいるということが分かる。自然の無常を感じ、日
本人は四季の移り変わりとともに生きていると言えるだろう。それゆえ、食文化も当然な
がら、多彩になっていくのだろう。
食文化は社会的にも他の様々な面に大きな影響を与えると考えられる。そういった面の
一つは日本のテレビ放送に関係があるということだ。僕たちが日本に来て、気になり、不
思議に思ったことは料理番組がものすごく多いことである。テレビをつけたら、最近でき
たばかりのフランス料理屋のシェフが作ったごちそうを試食させてもらった美人レポータ
ーの満足そうな表情、あるいは家庭のキッチンのように作ったセットの中で素人っぽく慣
れない手つきで魚の調理などをしている、エプロン姿の女性が毎日、いつでも見られるの
ではなかろうか。なんでこんなに料理番組が多いのか、こんな風に料理がサブカルチャー
のようになったのだろう。それもやはり四季の変化と関係があるのではないだろうか。テ
レビの視聴者の季節感や興味の対象が料理番組を作る時、アイデアの種になるのだろう。
しかしながら、こういった面から見た食文化と社会のつながりは社会に悪影響を与えて
いるように見える。料理番組は圧倒的に日本全国の主婦を対象としているようだ。こんな
風にしていると、料理や色々な家事は一層、女性の仕事として見られるようになってしま
うし、男性と女性の地位の平等を達成するのは更に難しくなるだろう。つまり、料理番組
には望ましくない、社会的にマイナスの意味があるということだ。
それについて日本人に尋ねると、更に面白い点が見られる。日本の食文化において、マ
スメディア以外にも男女の平等を達成するのを難しくする点があるようだ。女性が家事に
時間を長くとられるのは、料理の作り方や飾り方、作る順番が大きく影響しているようだ。
それらの準備のために時間がたくさん要るらしい。自分達の国々と比べると、特に日本の
場合は、
「フアーストフード」や出来合の料理を家族と一緒に家で食べる習慣があまりない
ようなので、キッチンで作られた料理を暖かい内に食べるとなると、料理の準備には時間
が必要である(最近は出来合の料理を買ってきて、暖めて、食べる家族も増えてきたよう
だが)
。それにしても、食卓の上の料理の盛りつけ方において、料理には様々な種類がある
ため、それぞれの種類は一つの皿に装うのではなく、皿がたくさん使われるのである。つ
まり、料理を盛りつけるためにも時間がかなり要るらしい。皿がたくさん使われるため、
食事の後には、洗う食器がたくさんあり、それにも女性は時間がとられるのである。この
146
ように、女性の仕事に見られている家事は料理の他にもたくさんあり、男女の平等を達成
するには、社会的に見て、様々なマイナスの要素が見られる。
7.のんびり
このテーマについては、アンケート回答用紙で、質問「7」にした。
「のんびりする時あ
るか」を質問した。54人中、それに「ある」と答えた人は大多数48人で、「ない」と答
えた人が6人だけだった。
「のんびりする時がある」と答えた48人中、「週に1−5時間」
をのんびりする人が6人、
「週に6−10時間」と答えた人が9人、そして7人が「週に1
1−15時間のんびりする」と答えた。しかし、「週に16時間以上」のんびりする人が一
番多く、24人だった。
「週に何時間か」を詳しく訊くと、その24人中「毎日、もしくは、
ほぼ毎日、週に合わせて20時間以上」と答えた人が著しく多かった。
アンケートの結果によって、のんびりする時間がたくさんある若者が割合的に多い。
「2」
に挙げたように勉強する人が少ない傾向にあることとのんびりする時間が多いということ
は、少なからず関係があるようだ。つまり、若者は勉強をせず、のんびりしたり友だちと
遊んだりすることが多いというパターンが顕著に見られる。
8.自分の日常生活の感想
8.1
概観
「現在している生活でもっとしたいこと、し始めたいことはあるか」または「現在して
いる生活でしたくないこと、満足していないことはあるか」と質問すると、様々な答えが
出た。
「満足していないこと」では、
「恋愛の問題」、
「アルバイトに時間がとられること」、
または「食生活」という答えが一番多かった。
「し始めたいことはあるか」では、「自炊」や「運転免許をとりたい」という答えがあっ
た。アンケートの中の「勉強」の項目では、
「勉強はしていない」と答えた人が、「生活で
もっとしたいことあるか」という質問では、
「勉強をもっとしたい」と答えていて、それは
おかしいと思った。
8.2
外国に興味がある若者
しかし、
「自分の日常生活の感想」についての答えによって、外国に興味を持つ日本人の
若者が非常に多いことが分かった。
「生活でもっとしたいことはあるか」に対する答えから、
もっと外国語、英会話を勉強したい、あるいは、TOEFL などの留学するための英語能力をは
かるテストの勉強をしたい人が多いらしいことが分かった。それについて日本人に尋ねた。
外国に興味を持ち、留学する人が増える傾向にある現代は、否定的側面も持っているよう
147
だ。それは日本の企業の若者に対する雇用に影響を与えている。つまり、日本の企業は、
留学経験のある若者を雇わない傾向がある。なぜかといえば、留学すると外国の考え方や
社会の習慣に馴染み、日本の企業や社会に合わなくなってしまうため、留学していた若者
を雇いたくないということである。そのため、日本の学生をできるだけ留学させないよう
に日本の社会がしているようだ。イコール社会の閉鎖性を強めることになる。
Ⅲ.日本人の若者へのインタービューによって分かった他のこと
1.対人関係
一年間で、アンケート調査を行ってきた他にも、僕たちは二人とも日本でアルバイトを
したこともあり、日本人と接する機会がたくさんあった。日本の社会における対人関係の
イメージと、実際に経験し感じたことが研究の動機となった。
1.1
敬語
日本語を勉強し始めて、すぐ接したのは、当然ながら、日本語における敬語である。僕
たちが大学で日本語を勉強するにあたって、同じ教科書を使ったわけだが、まず第一に学
んだのは敬語であった。つまり、日本の社会において、敬語は重要な地位を占めており、
マスターしなくてはならないものであることを学び、理解した。僕たち二人は日本語を勉
強し始めて四年目だが、敬語の使い方の難しさをよく分かっていて、今でもうまく使えな
い場合はもちろんよくある。文法的な問題よりも、いつどんな場合、誰と話すかというタ
イミングが敬語を使う時の本当の難しさや複雑さだと思う。それはこの研究の結果によっ
て、日本人にも時々難しいということがわかった。
敬語は言葉だけではなく、様々なことと関係する。視線、うなずき、イントネーション
なども表現に大きな影響を与える。これを全部うまくコントロールできるようになる人は
ほとんど日本語が母国語の人しかいないだろう。日本人とのインタービューの結果による
と日本人でも敬語における尊敬語や謙譲語の使い分けが難しいということだ。特に、感謝
状など、敬語を文面に表したりするのが日本の若者にとって難しいらしい。日本人にとっ
ては親に厳しく躾られないかぎり、敬語は常識のようにだんだんと身に付いていくもので
あり、先生や教授しか敬意を払う相手がいない、社会に出ていない若者にとっては難しい
ということである。アルバイトをすると客に敬語を使わないといけないが、たまに尊敬や
謙譲を間違ったりするらしい。自分では敬語を使うのが面倒だと感じても、やっぱり年上
の人や上司に敬語を使わない、口の効き方を知らない若者を見ると腹がたち、改めて敬語
を使う重要性と、敬語が日本の文化の美徳であると感じるそうだ。
上記のように、時と場合、または相手が誰かによって、敬語を使うか使わないかという
148
問題が日本語を学ぶ外国人にとって最も難しいことである。丁寧な言葉だけを使うと親し
みが感じにくいので、日本人の友だちを作りたいと思えば、丁寧な言葉だけではなく、普
通の言葉も使えるようになりたいのが当然なことである。だが、丁寧に話すべきである場
合に普通の言葉を使ってしまい、恥をかいたり変な顔をされた経験は、日本語を勉強して
いる外国人には、誰にでもあるだろう。
しかしながら、外国人にとっては日本語の能力のレベルにさほど関係なく、日本にいる
といつも外国人として扱われるので、敬語や普通に話すことを完璧にコントロールできな
くても、社会においては許されるであろう。だから、外国人にとって、言葉の問題は限ら
れている。誰と話してもどんな場合でも丁寧か普通かはそれほど問題にならず、自分の言
いたいことを言葉で表すことができれば、よいだろう。
上記のように、敬語は言葉だけではないのである。だから、普通の言葉を使っても、丁
寧に聞こえるような話し方もある。それは声を出す力の調節やイントネーションに関係あ
るものである。イントネーションにおいて高い声で話すと自然と丁寧に聞こえる。従って、
声を出す力の調節によって言葉に思いやりや優しさを込めることができる。
1.2
冷たく感じる敬語
敬語を使うのは、丁寧さや思いやりを表現したいための言い方だが、敬語には逆効果が
あることもよくあるらしい。インタービューの結果によって、特に海外に留学していた日
本人は日本で使われている敬語に対して、マイナス思考が多いようだ。彼らは敬語を使う
ことは思いやりを表すというよりもむしろ、冷たさや無責任を表すと感じることが多い。
敬語の弱点は人と人の間の心理的な距離を遠くしてしまうことである。その行動をとるこ
とは冷たさや無責任が感じられ、「丁寧すぎる」ことは「気持ちが悪い」とインタービュー
の対象者が言った。
自分たちの経験でも同じように感じたことがある。例えば、店に行った時に、店員にも
のすごく丁寧に声をかけられると、優しさを感じるというよりもむしろ、自分が何か悪い
ことをしたのか、といやな感じになることがある。確かに客が第一という日本の考え方も
分かるが、客が丁寧に扱われることで、心地よさを感じるには限界がある。客がその限界
を越えてしまうと、店員が客に対してよかれと思って行ったサービスは完全に逆効果にな
ってしまう。確かに店員が客の気持ちを考えず、その会社のマニュアル通りの接客をして
いるという無責任さを感じる。客に対して、来店の感謝をしつこく言えば、客との間に距
離ができ、自分から話しかけない限り、客から質問されたり、私的な空間に入る必要はな
い。その接客の目的と客が実際に感じるものは根本的に矛盾してしまう。それは社会に大
きな悪影響を与えていくのであろう。対人関係において人と人の間に距離が生じ、人づき
149
あいが消極的になり、他人に自分の本心を言わない人間がうまれる。官僚制に統制されや
すいこういう人間が増え、日本の閉鎖社会化を進めていると思われる。
1.3
謝り「ごめんね!」
あまりにも「ごめんね」
、「ごめんね」と連呼されると自分が悪いことをしたかのような
気持ちになり、不愉快な気分になることがある。自分からするとちょっとしたことなのに、
なぜ何度もいうのかその感覚がよく分からない。
「ありがとう」と「ごめんね」がごちゃ混
ぜになっているのも気になる。「ありがとう」というべき場面で、「ごめんね」と言ってし
まう日本人が多い。おそらく日本と僕たちの国々の文化におけるあまりにも大きな違いの
せいかもしれないが、感謝すべき場面で謝るような言い方をされると不愉快な気分になる
ことが多い。感謝をしたい人に対して、
「ごめんね」と謝ることは、自分の地位を相手より
低くすることである。相手に対して、謙譲を表すため「ごめんね」と言って表現すること
は、それは僕たちにとってとても微妙である。その場合、謝る人がむしろ何かを隠し、本
心を明かしていないという感じがする。謝る本音が違うとすれば、自分の地位を低くする
ためではなく、相手より心理的に自分を優勢に立たせようとしているふうに感じられる。
感謝すべき場面でなぜ謝るような言い方をするのについて日本人に尋ねた。日本の文化の
独自性は日本語やその使い方に大きな影響を与えている。つまり日本の文化は、次の節に
挙げるように思いやりや遠慮を大切にする文化であるから、相手が自分のことを思いやっ
てしてくれた好意に対して、自分がそれを意図していたかしていないかにはかかわらず、
迷惑をかけたと自分が感じたことから謝罪のニュアンスが強くなり、謝るのではないだろ
うか。つまり「
(迷惑をかけて)ごめんね。
」という表現になるのだろう。
1.4
遠回しな表現
相手に物事をはっきりと言わず、よく遠回しな表現を使うのは日本人の独特の性質であ
る。きちんと断らず、うまいいいわけを作れるのも日本人の特技である。相手を傷つけな
い、または相手の気持ちを害さないための手段であるので、人間関係における高度な技術
とも言えるだろう。しかし、それには否定的側面もある。僕たちにとって、日本人があま
りにも遠慮しすぎると、それには消極性が感じられ、気になることが多い。僕たちにとっ
て、物事をはっきりと言われるのは自然に感じ、誤解にならないよう遠慮なく物を言って
くれるのは好ましい。日本人が本心を見せてくれず、不愉快な気分になることが多い。遠
回しな表現は日本の文化に深く組み込まれているようであり、なぜそれを使うのかは日本
人にも説明しがたいことだとわかった。
150
2.日本人の若者が使っている方言
日本の諸方言が標準語(佐藤和之、米田正人『どうなる日本のことばー方言と共通語の
ゆくえ』によると標準語は、地域性を反映したお互いに通じ合えることばということだ)
とどのように違っているかを僕たちの国々と比べると、かなり異なっていることが分かっ
た。日本の場合、例えば百年前を考えてみると、方言は、ことばのアクセントの位置の違
いではっきりと区別ができ、南から北に及び、方言はたくさんあったようだ。日本語にお
いては戦後の生活の西洋化、様々な変化や現代のテレビ放送の影響で、方言の本質が変わ
ったようである。現代の日本語の単一化はマスメデイアの多大な影響によるもので、標準
語が全国的に広がっている。従って、現代では、
「方言」と言えば、その言葉の内容は前と
比べると、違ってきている。方言によって、発音的な違い(アクセントの位置やストレス)
はあまりはっきりとせず、主に文の最後に付ける助詞で区別ができるようだ。例えば、広
島弁の「〜けえ」、大阪弁の「〜へん」や「〜ねん」
、九州弁の「〜と」などはそれぞれの
方言の特徴になっている。
僕たちの国々では、方言と言えば、内容はかなり違う。それは方言によって言葉の発音
が違っていることである。綴り方が同じでも、特にアクセントの位置やストレスで方言が
区別できる。ある地方で育つと、その地方による方言を話し、その方言を身に付けるとい
うわけである。そして、別な方言で話そうとし、うまくできないことが普通である。また
は、方言のなまりを消そうと、標準語を話そうとしても、とても難しい。
日本語の場合は違う。例えば、普段大阪弁で話す人が敬語を使いたい時や丁寧に話した
い時は、標準語にスイッチし、うまく話せることが普通である。つまり、通常日本人は話
す時に、自分の意志で、普段話す方言をうまくコントロールできるということだ。
これについて日本人に尋ねた。方言は個性であり、アイデンティティの一部だと考えら
れる。というのも自分が無意識に方言が出てしまった時に、どこの出身か聞かれたりして
恥ずかしいけど、なんだか自分のことを少し理解してくれたような気がしてうれしいらし
い。しかし、上記のことは方言と標準語の差があまりない地方の出身者が言っていたこと
で、差が大きい地方出身の人はなるべく標準語を使い、方言を隠そうと努力することが多
いようだ。その他にも、東京に行くとどの地方の人でも、大方標準語を話すようになるら
しい。やはり日本人の頭の片隅には田舎ものは格好わるいという固定観念があるように思
われる。また、標準語は何かしら冷たく、素っ気なく聞こえるが、方言は暖かみがあり、
親近感が湧くのは否めない。「郷に入っては郷に従え」とあるように、人にとって、住んで
いる土地の風俗、習慣に従うのが人間関係をスムーズにする方法であるゆえに、その土地
その土地の方言を使うのが処世の術ではないだろうか。
151
Ⅳ.日本における若者に関する社会問題
アンケート調査の最後に生活の感想を聞いた。インタービューでも若者に関係のある社
会問題について述べて貰った。その中で幾つかの面白い発言があった。問題があるという
意識は確かに高い。ある意味では高すぎる。たくさんの人の回答から分かったのは実態よ
り問題が多くて、深刻な程度であるとの誤った認識を持っていることである。例えば少年
の凶悪犯罪事件(人殺しなど)は毎年倍に増えているとか、麻薬の使用者はある学校の生
徒の10%まで上っている、不登校は医学的な病気で精神科の治療を受けて治せるなどの
意見を聞いた。インタービューした若者はこうした社会問題に対する感心を持っているが、
ヒステリアに近い心配と恐れを抱いているようだ。これもマスコミのセンセーショナリズ
ムとちゃんとした教育の不足のせいではなかろうか。しかし、各問題の程度が実際より酷
いと思いながらも、ほとんどの人は下記のような問題が身近に起こっていることを断然に
拒否した。
「麻薬や援助交際などに巻き込まれている知り合いがいるか?」と聞かれたら一
人も「いる」と答えなかった。だからこのよく持たれている非現実的で最悪なイメージは
新聞やテレビのドキュメンタリーを見て作られたものだと思う。自分のまわりの人は運が
良くて関係ないけど、見えないところで全部が駄目になっているような意見は少なくなか
った。これ自体が大きな社会問題ではないだろうか?
このレポートの第二の目的は社会問題と若者の関係と現状を明確にすることだ。どんな
社会でも問題点がある。特に日本みたいな短期間に劇的な変化が起こり、今でも変わりつ
つある社会は問題が多いかもしれない。若者とその社会との接し方、社会の中の居場所、
次の時代の未来などに関連する問題も少なくないだろう。日本の場合は問題が他の先進国
におけるのと違うかと言うと、殆ど変わらない。しかし独特なところのたくさんある日本
の社会には幾つかの独特な問題も当然ある。
近年、よく若者に関連した社会問題の話が耳に入る。そして聞けば聞く程人々の問題意
識と関心を高めている。しかしマスコミがセンセーショナリズムのためにこの冷静で考え
るべき問題の議論に油を注ぎ、一般の人に届いた情報が最悪なイメージを作ってしまう。
その結果、大概の日本人は「今時の若者だめだな」などと聞く度にそれが本当かどうかを
疑わず、残念な事実と思ってしまう。そこから先入観を持ったり、この問題を生じた社会
までがだめだと決めってしまったりする。多くの場合は問題の一番重要な原因は社会全体
にあるのでも、若者だけにあるのでもない。だから「早く社会の仕組みを革命しよう」な
どの過激な手段を取ろうと声をあげる人は解決に役立たない。その前に徹底的に問題の実
態を理解することが大切ではなかろう。
若者達を責めることは愚かである。好きで問題を起こしているわけではない。むしろ問
題の被害者になっている。日本は昔から老尊若卑社会だった。多少変わったとしても、今
152
でもその影響が大きい。従って若者はより苦しんでいる。日本の社会と思想は中年以上の
人の問題を優先的に扱って、若い人を無視しがちとでも言えるかもしれない。
次の1から7はアンケートの回答とインタービューに出てきた発言、コメントに基づい
たものである。
1.少年犯罪
未成年の間の犯罪事件回数が少し増えたが、それだけだったら大した問題ではない。も
っと心配すべきなのはその犯罪の手口が酷くなったことである。凶悪犯罪の恐ろしい事件
が相次いで起こっている。暴力、人殺し、拷問などの依然考えられなかったことを少年や
少女が犯している。もっともこのような凶悪な事件のほとんどは動機が薄い、もしくは全
くない。強いて聞かれても少年犯罪者は「好奇心」や「むかついた」みたいなことしか言
えない。
原因はよく学校生活のストレスと若者に孤独感を与える社会の厳しい期待と言われる。
しかしこの問題の規模はもっと狭いものだと思う。少し増えたとしても実際にこのような
罪を犯す人の数は少ない。その中でも9割がもともと精神的な欠点のある人ではないか。
社会の問題よりこれは何人かの個人の精神的な問題かもしれない。
2.引き籠もりと不登校
最近の社会問題の中でも最も深刻で注目されているのは不登校とそのより酷い程度の引
き籠もりかもしれない。これは登校恐怖症とも呼ばれ、要するに学校に行くことが嫌にな
る精神的なことである。よく病気と思われるが実はそうでない確かな証拠があった。
引き籠もりをそのままにすると対人シチュエーションと人間関係が辛くなり、身内でも
他の人間と顔を合わせるのが出来なくなる。そして日常生活すらもできない。一番残念な
ケースは自分の部屋に「引き籠もって」
、何年も外の世界と接しない。長期ではもちろん本
人の教育と成長を困難にさせ、親や親戚、友人を心配させる。
原因はそれぞれのケースによって違うが、幾つかの何回も出てくる共通点がある。虐め
と学校生活の辛さ、勉強によるストレスなどである。特に受験のときは一番危険と考えら
れている。このようなことが重なり、精神に強い圧力がかかり、結局それが耐えられなく
て、全てから逃げてしまうという反応をする。
近年、不登校と引き籠もりの数が多少増えたのは事実だが、激増状態と恐れられている
のは誤解だ。新しい統計によると不登校の数が減っている。
3.家庭内暴力
153
親と親戚に対する暴力も増えたらしい。原因は上の引き籠もりと少年犯罪と殆ど同じだ
が、貯まった不満とストレスの発し方が違う。先生への逆切れ、同級生の虐めなども似て
いる。
4.援助交際
多くの若者に関する社会問題は男女を問わない。しかし援助交際は若い女性だけに限っ
た問題だ。現代社会の消費主義とマスコミの絶えないブランド商品マーケティングはとん
でもない要求を引き起こす。特に若者にファッションに従わなければいけないというプレ
ッシャーを感じさせる。男でも感じるけれど、女の場合はこのプレッシャーの程度がとて
も強い。そしてブランドものが高い。学生やフリーターなどのお金では滅多に買えない。
ここで問題が始まる。どうやってこのお金を手に入れるかの問題に答えて、一部の女性は
援助交際というある種類の売春に身を投じる。もう犯罪になっているけれど、強制がなく、
自分自身からやっているので犯人を捕まえることが非常に難しい。
5.公共マナーと一般常識の崩壊
半分はどこの社会にでもある若者の社会ルールに対する反乱で、半分社会のマナー思想
の変化かもしれない。目立つ例をあげると落書きやうるさい携帯電話の利用などがある。
日本の社会は昔からこうした厳しいルールにこだわるところが多いが、ジェネレーショ
ンギャップがかなり大きい。従って前の世代と今の世代の価値観が違う。前の世代のスタ
ンダードで今の人を測ったら常識やモラルに欠けているように見えるかもしれないが、そ
れは不公平な考え方である。
6.就職の困難さ
バブル経済の時代に高校か大学を卒業したばかりの若い人は就職の心配が少なかった。
経済が苦しんでいる今は仕事を求めている人、特に若い卒業生も苦しんでいる。新しい人
を採用しなくなった会社が増えつつ、就職ができても、リストラなどによってすぐ辞めさ
せられてしまう恐れがある。
日本の社会が中年と長年の雇用者を優先的に扱うことも、若者の就職困難問題を悪化さ
せる。
7.麻薬と覚醒剤
まだそれ程深刻な問題ではないが、麻薬の濫用は徐々に悪化しつつある。一番被害を受
けるグループが若年層だから教育を通して、問題意識を高めるのが第一の対策であろう。
154
Ⅴ
まとめ
1.若者の生活様式
アンケート調査の結果によって、大多数の若者の生活様式が見てとれる。一般的な若者
は次のように考えられる。まずは飲食系か販売系のアルバイトを週に15時間しているこ
とがわかった。アルバイトをしている理由は何かといえば、学費、生活費が高いため、お
金が稼ぎたくて、「アルバイトの給料が不満」や「アルバイトをもっとしたい」などという
ふうにアルバイトにこだわっている。アルバイトは一般的な若者の日常生活の中で、最も
大切なものであることが分かった。
そして、勉強にあまり興味がなく、勉強をする習慣は全くないか、最大毎日平均一時間
勉強をしている若者が一般的だということが分かった。なぜ勉強していないかといえば、
第一に日本の社会における知識を増やすための方法に関係がある。大学生の場合は、大学
の入学試験を合格したということは、十分に勉強ができ優秀であることの証拠になるよう
だ。従って、大学に行っている間に、頻繁に勉強をするように要求されない。または、勉
強をあまりたくさんせず、かわりに部活やサークルに参加した学生の方が、卒業して就職
しやすいという利点があり、部活やサークルに参加しているということも一般的な若者の
生活様式に当てはまる。
週に16時間以上、体育系の部活やサークルに参加している若者が普通であることが更
に見られる。参加する理由と言えば、第一に友だちをつくりたいということである。また
日本における集団主義が大きな影響を与え、原因になるということが分かった。
一般的な若者の日常生活における友だちとの遊びははっきりしたパターンが見られる。
カラオケや飲酒やお喋りをして、友だちとほぼ毎日遊ぶのは普通だと分かった。
生活における買い物は、食料品や生活に必要な他のものを買うために、週に1−5時間を
かけるのが一般的だ。自分のためのものを買うのに週に何時間かかるかといえば、およそ
一、二時間が普通である。自分のために何を買うかというと、本、雑誌、音楽と服という
四つのものが一般だということが分かった。
週に16時間以上のんびりするのが一般的であり、上記のことにつなげて考えてみると、
若者は勉強をせず、のんびりしたり友だちと遊んだりすることが多いというパターンが顕
著に見られる。
自分の日常生活における感想についても一定のパターンが見られる。
「満足していないこ
と」は「恋愛の問題」、「アルバイトに時間がとられる」や「食生活」ということが普通の
ようだ。
「もっとしたいことは」は「勉強をもっとしたい」という答えが一般的に見られる。
何の勉強をしたいかといえば、外国語、英会話を勉強したい、あるいは、TOEFL などの留学
するための英語能力をはかるテストの勉強をしたい若者が多いことが分かった。
155
2.若者に対する社会問題
インタービューとアンケートを行ったときに若者と接して、やっぱり強く感じたのは社
会への心配と問題への関心だった。確かにⅣに書いたような望ましくないことが日本の社
会に危ない影響を及ぼしている。しかし各問題に対する意識、認識が足りないと思う。こ
れは特に若者自身の間に見えるが、上の世代にも正確な情報が届いていないようだ。原因
を理解して効果的な対策を考えるより、たくさんの人は誰かに責任を取らせようとしてい
る。この誤った考え方は改めた方がよい。または事態を理解した上でそれぞれの問題の中
から一番深刻で一番影響のあるものとそれ程深刻ではないのに分けて、集中的に立ち向か
うべきだろう。
おわりに
アンケート調査の結果をレポートの主な題材にしたことには、欠点があるということが
分かった。それは、正確な結論を出すために、対象者の人数が足りなかったり、質問が適
切ではなかったりすることがあり、非常に難しいからである。僕たちの場合は、レポート
調査の対象者における欠点があった。まずは人数が少なく、合計54人だった。もっと正
確な結論を出すためには、できるだけ多くの人にアンケートに答えてもらう必要があるだ
ろう。100 人くらいが妥当な人数であり、正確な資料を得ることができると思う。また機会
があれば、今回より大規模な調査を行いたいと思う。
対象者がほとんど大学生だったため、結論で、
「一般的な日本の若者」といったが、「一
般的な日本の大学生」の方がふさわしい表現であり、そこが紛らわしく思われる。またア
ンケート調査を行うならば、対象者の年齢や身分の範囲を更に広くしてみたいと思う。
「常に何かを勉強しているか」という質問はアンケートの中の一つだったが、その質問
はもっとも誤解しやすいということが分かった。この質問中の「勉強」という表現には、
大学での勉強が含まれていないという風に思った人がいたようで、たまにふさわしい情報
を得ることをできなかった場合があった。
上記のように、対象者はほとんど大学生だということから見ると、
「仕事をしているか」
という質問に対して、答えはほとんど全員が同じように、「していない」だった。大学以外
の人にもアンケートを配れると思ってそういう質問をつくったわけだが、仕事をしている
人は一人しかいなかったため、その質問の重要性はなくなったように考えられる。大学生
以外の仕事をしている若者はどんな日常生活をおくっているか、機会があればもっと調べ
たいと思う。
買い物についての質問の仕方はふさわしくなく、的を得た答えを対象者から導き出すこ
とができなかったようだった。
「自分のために何を買うか」という質問をし、
「服、CD や雑
156
誌など」というふうに例を挙げた。結局その質問に対しては、挙げた例と全く同じように
「服、CD や雑誌など」と答えた人がかなり多かったため、正確な情報を得たかどうかが分
からなくなり、疑問が残る。
アンケートの対象者に、できるだけたくさんの情報を書いてもらいたいという気持ちは
当たり前なことだが、たくさん書いてもらえるように、どんな質問をどのようにすればい
いかなどを理解するのは、かなり難しいということが分かった。また機会があれば、本質
的な質問をうまく考え出せるよう、どのように質問すればいいかという技をまず身につけ
てから、アンケート調査を行いたいと思う。
参考文献
石塚雅彦『若者と社会の実態』日本外交メディアセンター、1995
佐藤和之、米田正人『どうなる日本のことばー方言と共通語のゆくえ』大修館書店、1999
平野雅章『日本食文化考』東京書房社、1986
藤本卓『登校拒否と不登校』教育出版株式会社、1993
アンケート回答用紙
アンケートに答えていただいて誠にありがとうございます。この調査の結果は僕たちが書
くレポートの重要な題材となりますので、正直に答えていただくよう、ご協力をよろしく
お願いします:−)
Carl‑Jiro Lock, Gavin Poffley
広島大学、留学生センター、2002/2003年
適切な答えに○をつけるか、またはふさわしい情報をお書きください
個人的な情報
年齢
16−18、19−20、21−23、24−26、27−30
性別
男
身分
高校生、大学生、大学院生、仕事、フリーター、無職、その他
血液型
女
A
AB
B
O
出身地
あなたの日常生活についての質問
157
1.アルバイトをしていますか?
A.している
していない
B.どれくらいしていますか?(頻度・週に約何時間)
C.何のアルバイトをしていますか?
2.常に何かを勉強していますか?(例えば学校の勉強や就職資格の勉強など)
A.している
していない
B.どれくらいしていますか?(頻度・週に約何時間)
(学校の場合は宿題をする時間と授
業にいる時間を別にして書いてください)
C.何の勉強をしていますか?(具体的に書いてください。大学生の場合、専攻も書いて
ください)
3.仕事をしていますか?
A.している
していない
B.どれくらいしていますか?(頻度・週に約何時間)
C.何の仕事をしていますか?
4.倶楽部活動やサークルなどに参加していますか?
A.している
していない
B.どれくらいしていますか?(頻度・週に約何時間)
C.どんなことをしていますか?
5.友達と遊びますか?
A.遊ぶ
遊ばない
B.どれくらい遊びますか?(頻度・週に約何時間)
C.どんな遊びをしていますか?どこで遊びますか?
6.買い物をしていますか?
A.している
していない
B.どれくらいしていますか?(頻度・週に約何時間)
(食料品、生活に他の必要なものを
1.に、服、CD、雑誌など、自分のためのものを2.に書いてください)
1.
2.
C.何を買いますか?
7.のんびりする時はありますか?
A.ある
ない
B.どれくらいのんびりしますか?(週に約何時間)
8.自分の日常生活でしていることについて、その他書きたいことがあれば書いてくださ
い。
158
A.具体的に内容を書いてください
B.どれくらいですか?(頻度・週に約何時間)
自分の日常生活の感想
あなたが現在している生活でもっとしたいこと、し始めたいことはありますか?
あなたが現在している生活でしたくないこと、満足していないことはありますか?
アンケート調査の結果
対象者の全員数:54
年齢の範囲
16−18:0
19−20:35
21−23:14
24−26:4
27−30:1
性別
男:15
女:39
身分
高校生:0
大学生:48
大学院生:5
仕事:0
フリーター:0
無職:0
その他:1
血液型
A: 25
B: 10
AB: 6
O: 12
159
無回答: 1
1.アルバイト
している:41
していない:13
週に何時間アルバイトをしているか
1−5:6
6−10:2
11−15:18
16以上:15
アルバイトの種類
飲食:17
販売:12
その他のサービス:7
労働:0
教育:10
その他:1
(二つ以上のアルバイトをしている人:6)
2.勉強
している:27
していない:27
週に何時間勉強をするか
1−5:10
6−10:7
11−15:4
16以上:6
勉強の種類
言語系:5
就職資格:5
学部で勉強:16
研究:4
その他:1
160
(二つ以上の勉強の種類をしている人:4)
3.仕事
している:1
していない:53
週に何時間仕事をするか
16以上:1
4.倶楽部活動やサークル
している:41
していない:13
週に何時間倶楽部活動やサークルに参加するか
1−5:9
6−10:5
11−15:6
16以上:20
無回答:1
倶楽部活動やサークルの種類
体育系:19
音楽系:9
文化系:7
異文化交流系:2
その他:5
無回答:1
(二つ以上の倶楽部活動やサークルに参加する人:2)
5.友だちと遊ぶか
遊ぶ:50
遊ばない:4
週に何時間友だちと遊ぶか
1−5:14
6−10:9
11−15:7
161
16以上:20
遊びの種類
カラオケ:16
酒飲み:16
雑談:17
テレビ、ビデオ、映画鑑賞:6
ボーリング、ビルヤード、麻雀:10
スポーツ:1
食事:9
その他:8
(二つ以上の遊びの種類をしている人:20)
6.買い物
している:53
していない:1
週に何時間、食料品や生活に必要な他のものを買うか
1−5:40
6−10:12
11−15:1
16以上:0
週に何時間、自分のためのものを買うか
1−5:48
6−10:5
11−15:0
16以上:0
買い物の種類
本、雑誌:22
服:34
音楽:15
化粧品:20
その他:10
(二つ以上の種類を買う人:27)
162
7.のんびりする時あるかどうか
ある:48
ない:6
週に何時間のんびりするか
1−5:6
6−10:9
11−15:7
16以上:24
無回答:2
自分の生活についての感想
次のテーマが何回かでてきた:
英語かほかの外国語を勉強する希望。
恋愛がしたい、もしくは不満に思っている。
アルバイトの給料や働いている環境が不満。
運転免許宇が欲しい気持ち。
今より自炊したい気持ち。
163
祇園花街の言葉
Monika Kubiszewska
1.はじめに
祇園花街は、祇園社(八坂神社)の西、鴨川の東、四条通りをはさむ地域である。この地
域では、お茶屋 (揚げ屋)と子方屋 (屋形・置き屋)には、芸子・舞子が生活をしている。
芸子・舞子は日本の観光の主な役割を果たしているという自覚と誇りを持っている。
彼女らは、子方屋お茶屋、女紅場学園において、芸に向かう行儀作法、根本的な心の持ち
方を徹底的に躾けられる。集団的な組織のもとで祇園の作り出す遠慮深い情緒を身につけ、
仕草、動作、言葉つかいにいたるまで、全ての伝統的な祇園気質を理解しなければならな
い。厳しくて難しい芸の訓練の後には、ハイクラスの人々に、または、有名人に、直接に
触れ合うというプライドがある。ハイクラスの常連客を持つのも祇園だからこそであり、
他の花街と比べても、優雅さが感じられる。祇園育ちの内娘が、ほとんど芸子・舞子にな
るというもの、この地域の世襲性の強さを示している。
2.芸子・舞子の言葉使い
下に書かれた表には、芸子・舞子の言葉つかい社会的な意味と言語的な意味も明らかに
する。
表1.芸子・舞子の言葉意味およびその働き
言葉
意味・働き
1.「オカーサン」
子方屋を取り仕切る女主人である。鍛えが見
習いを経て芸子や舞子になるとき、衣装、芸
事全ての世話する人。
2.
「シコミサン」または、「ショジョサン」
昭和はじめの子方屋には、芸子・舞子と一緒
に住んでいた人。シコミサンは、芸子・舞子
になるため修業した。
3.
「ミナライサン」
見習い期間。
4.
「オチョボサン」
お茶屋と子方屋の連絡などをした人。祇園花
164
街で芸子のをお供や使い走りをする少女。現
在はいない。
5.
「オナゴシ」または、
「オナゴッサン」 ま お手伝い。女中。芸子・舞子と仲居にはなれ
たは、
「ゴハンタキサン」
なかった人。
6.
「ゴマハン」
朝麻はん。短い時間の花代で、すぐ帰る客。
お茶屋にとって望ましくない客。
7.自前または、抱え
芸子などが独立し、実力で営業すること。
8.
「オトッコサン」または、
「タイコモチサ 男衆。お手伝い。花街では、オトコシが芸子・
ン」または、
「オッチャン」
、
「オトコシ」
舞子のオヒロメ(披露)に先導する人である。
お茶屋への送り迎え、着物の気付けなどを大
事なしごととする人。現在では、その数も少
なくなった。
9.
「ネーサン」
姉芸子。ネーサンと呼ばれるのは、年齢に関
係なく、店世出し(店出し)の早かった芸子・
舞子である。
10.
「シンルイ」
子方屋内や子方屋間での、女主人・姉芸子・
妹芸子のような義理関係。その義理関係を表
すのに、姉芸子からその芸名の一字を必ずも
らうことになっている。
例:「竹葉さんと美代葉さんはシンルイドッ
セ」などという。
エダハ「枝葉」とかスジとかは姉芸子と妹芸
子、子方屋どうし、お茶屋間の系統にいう。
11.
「ミセダシ」または、
「デル」
店出すしとは、鍛えから舞子・芸子になるこ
とである。これを「デル」ともいう。
12.
「エダハ」または、
「スジ」
(枝葉)とか(筋)とかは、姉芸子と妹芸子、
子方屋どうし、お茶屋間の系統にいう。義理
関係の系統。
例:「小豆も豆男も豆スジ(豆の字がつく芸
名をもつ義理関係の系統。
)
。である。
「真理子と小真理は同じエダハヤ」
。
13.
「ワレシノブ」または、
「フクマゲ」
お福。舞子が店出しの時結うまげ。京都舞子
165
のまげはミセダシ(舞子としての披露)をし
て数ヶ月の間、ワレシノブに結う。客と馴染
ができると、フクマゲ(お福)となり、祇園
祭の期間には勝山という特別なまげを結い、
紋日の正装には東京でいう高まげに近いヤ
ッコマゲを結う。エリカエ(舞子から芸子に
なること)が近付くとサツコウマゲになる。
これらのまげを、京都舞子特有の京風に地髪
で結う。
例。
「オレ見トミ、ワレシノブに三本足(襟首に
三つの線が入った化粧法)の舞子さんが来ヤ
ハッタワ」。
14.
「アブラムシ」
油虫。ごきぶりのように嫌われる客。用事も
ないのに、お茶屋の座敷から台所へきて、無
駄話に時間を過ごす客を嘲っていう。
例。
「こんなとこで、うろうろしてたら、アブラ
ムシといわれマッセ」
。
3.京言葉の婉曲性
京言葉、婉曲的に相手に理解してもらうように努めるのである。直接的に伝えるのでは
なくて、他の人には分からない意志疎通するためのものとても面白い。京ことばでは、直
示性を避け、間接性・婉曲性を好むといってよい。祇園の身振り語はこれの一つの例えに
なる。さらに、婉曲表現も京言葉の優美性に結びつく要因になっていると思われる。依頼
表現や辞退表現には、婉曲的な言い回しが多い。祇園の身振り語を明らかにする。祇園身
振り語は、祇園甲部では、芸子や舞子が仲間どうし意志を伝達するように使う。目の前に
いる客対して、口頭語では都合の悪い場合や、芝居見物中のように、話をすることを慎ま
なければならない時などに、イロハ48文字(45音)の身ぶり語で次のように伝えあう。
たとえば、イはイケズの口形、口は櫓をこぐまね、ハは歯を指で示す。また長音の記号は
なく、濁音は指で二つ点を打ち、半濁音は指先で〇を書くきまりになっている。さらに、
これらの身ぶり語を連続して、短い電文程度の意志を伝達する。たとえば、イケズの口形
166
と矢をつがえる動作を連続してイヤという拒絶を表す。
4.舞子・芸子の生活・職業習慣的な行為
京都の伝統的な職業集団では、それぞれの集団特有の職業語があり、隠語も用いられて
いる。祇園の舞子や芸子職業に就く間にそれぞれ習慣的な行為がある。次にこの行為を明
らかにする。
a)祇園の福笑い
元旦の福笑い。祇園花街の子方屋では、女主人をはじめ内娘の舞子や芸子が雑煮を祝う
前に、内娘の舞子や芸子が「オカーサン、オメデトーサンドス」というと、女主人が受け
て「オメデトーサンドス、ドーゾゴイットーニ(御一統)」という。その後、全員で朗らか
に大笑いをする習慣がある。この笑いは、新年の縁起をかついだ福笑いである。
b)祇園引き祝いのあいさつ
芸子を辞めるときの祝いを引き祝いという。世話になったお茶屋へ、前もって男衆だけ
であいさつに行く。
「〇〇さんの引き祝いドス」といって、赤いオコワ(赤飯)を、「つな
き団子」の紋のついたオジュ(重箱)に入れてさし出す。二度と芸子に戻らないときは、シ
ラメシ(白いオコワ)にする。お茶屋は「おめでとうサンドス。オーキニ」と受ける。数日
後、引く本人が男衆を伴って正式にあいさつに行く。男衆が「オーキニ。ながながと」と
いい、本人も「オーキニ。ながながとお世話になりまして」という。お茶屋の女主人は「こ
ちらこそ。おめでとうサンドス。
」と受ける。
c)祇園自前披露のあいさつ
子方屋から独立して自前になった芸子は、男衆を伴って、ひいきのお茶屋へひろめのあ
いさつに行く。男衆が「こんど自前にならハリまして」といい、続いて芸子が「どうぞ、
よろしゅうお願いします」という。お茶屋の女主人が「おめでとうサンドス。オキバリヤ
ッシャ」と受ける。
d)祇園衿かえのあいさつ
舞子と芸子とでは、その衣装は大きく変わる。色ものの衿から、白の衿へ変えるところ
から、舞子から芸子になる時衿かえといって、祝う習慣がある。衿かえをした芸子が男衆
と共にお茶屋を訪ね、まず、男衆が「〇〇さんの衿かえでー」といい、続いて本人が「ど
うぞオタノ申します」という。お茶屋は「おめでとうサンドス」と受ける。
167
5.おわりに
研究テーマは、京都の舞子や芸子の言葉にした。但し、文法的な特徴だけではなく、社
会文化的な違いにも明らかにした。つまり、社会言語学の視点から、京都の舞子・芸子の
言葉と習慣の分析した。舞子や芸子の言語コードの分析をしたり、日本文化や人間関係を
解釈したりした。そこで、祇園花街の習慣やあいさつ語などを明らかにした。
6.言葉の定義
―女紅場学園。女子に裁縫うその他の手仕事考えるために、明治初年各地に設けられた
女学校。今、京都の舞子の学校にその名が残る。
参考文献
井上口有一・堀井令以知『京ことば辞典』東京党出版、1992年。
『京ことば京存京英辞典 Okini』UNI
PLAN、1995年。
168
日本語における挨拶のことば
アンナ・ドンブロフスカ
1.はじめに
言語は人と人とのコミュニケーションのためにあるだけではなく、文化の土台になって
いる。また、逆に民族の歴史や社会の変化、発展なども言語に行われるはずだ。言葉は社
会の本質に属するものであり、それなくして社会は成立しない。ジャン・ジャッ・クルソ
ーは「ことばは諸道物の中から人間を差別し、言語は諸民族をお互いに差別する」と言っ
ている。奥山益朗はそれに「同一言語の諸民族の結束される」と加える。
言語そのように考えると、外国語の勉強は言葉や表現の使い方に限らず、その背景に隠
れているさまざま現象を学ぶことにもなる。
ポーランド語が母語の私は、日本語の知識を深めるに連れ、不案内な言語行動に触れる
機会も多かった。挨拶というものもその中の一つである。あいさつに興味をもったのは、
私の母語にも、また一般的にヨーロッパの多くの言語にも、日本語ほど意味の範囲が広く、
あいまいな意味概念を含むあいさつはないように思ったのが第一の理由だった。
あいさつ語辞典には「あいさつは人間の言語活動としてはごく初歩的なもので、人間関
係をスムーズにする潤滑油のようなものである。これはなくして、二人、あるいはそれ以
上の人々の間柄はギスギスしてしまう」と書いてある。来日して、この定義の意味を実際
に感じることができた。
日本で知り会った熊本出身の友達に何回も「熊本にぜひ遊びにきて」と誘われた。留学
しているうちにできるだけあちこち日本を旅行したいと思っていたので、熊本へ行くこと
にした。九州につき、その友達に電話をすると、どうしてなのか分からないが、困惑した
声が私の耳に聞こえた。私はその友達が迷惑だと感じ、あまり私に来てほしくないのだと
分かり、すごすごと引き返した。ちょっと腹が立ったのは言うまでもないが、すこし時間
が経ってから、外国人の友達に不思議な出来事の
言語社会的な
説明をしてもらった。
日本人はよく「遊びにきてください」という言い方をするけど、ほんとうは言う通りに思
わない。ただのあいさつにすぎない。私の驚きは
なるほど
という納得になり、もっと
深くこの言語行動を調べなくてはとだんだんおもうようになった。
2.挨拶の定義
169
挨拶という言葉はポーランド語に訳せないほど色々意味を覆われる言葉である。その上、
日本語でもはっきり定義できない。
日本国語大辞典によると、
1) 手紙の往復、応答のことば。
2) 交際を維持するための社交的礼儀。人と会った時、別れる時などに取り交わ
す礼儀、応答の言葉や動作。
3) 儀式、就任、解任などの時、祝意、謝意、親愛の意などを述べること。
イ)とりもち、仲介、紹介、世話
ロ)仲裁、調停、とりなし
4)人と人の間柄、両者の仲、交際、付き合い
5)仕返しをいう不良仲間の隠語
挨拶という言葉に関わる表現自体も多重多様である。
あいさつを切る
―
人と関係を絶つ・縁を切る・絶交する
あいさつがあがる
―
争いの仲裁・とりなしが打ち切れる
あいさつをあげる
―
争いの仲裁・とりなしをやめる
あいさつまわり
―
謝意や敬意などをのべにあちこち回って歩くこと
あいさつ者
―
客あしらいのうまい者、愛想の良い人
あいさつ柄
―
人と応対にふさわしい言葉とふるまい、また、あ
いさつする様子
あいさつより円札
―
言葉を尽くしての例を受けるよりは、金銭を
もらったほうがよいの意。あいさつの「さつ」と
円札の「札」と同意を重ねたしゃれ。
あいさつ人
―
人の間に立ってよいように計らう人。とりなしを
する人、仲介者
あいさつ金
―
礼を詫びなどのしるしとして相手に差し出す金
あいさつ代わり
―
日常のあいさつ代わりに取り交わす言葉や振る舞
い。また、初対面や訪問のしりしに相手に差し出
す物品。
あいさつ心
―
言葉やしぐさで相手に対する敬意や親愛を示し対
人関係を円滑にしようとする心。
挨拶という言葉の二つの漢字の意味は
170
「挨」―
おす、おしのける、押して進む/背をうつ/近づく、迫る/擦りつける
「拶」―
迫る、押し迫る、指に締め付けるもの
とある。これらの漢字は二つともその意味に「近づく・近寄る・接近する」というニュア
ンスが分かる。この接近のニュアンスは人と人の間柄に関係があるのだろう。
greeting
とか
formal greeting
というありふれた挨拶の翻訳では意味が狭すぎる
ように思われる。あいさつは形式化、儀礼化された日本社会のしきたりを反映する言語行
動だとも聞いた。このしきたりについてはすこし触れておこう。
III.
挨拶と敬語
すでに述べたように、言語にはその社会の歴史や文化が反射されているはずだ。日本語
の場合はどんな文化背景を持っているのだろうか。
まず考えられるのは儒教の影響だと思う。現代の日本では孔子の教えはすでに忘れられ
ているようだが、言語層では受け継がれているようだ。この島国の言語と文化を深める人
は、日常の生活のあちこち出会う「義理・義務・恩・仁・礼儀」など、強く儒教に結びつ
いた観念に感銘を受ける。
次に封建制度は日本語に明らかに映し取られていると思える。古い時代には、社会的階
層というものがはっきりとあったようで、それに従って、下関係は言葉づかいの上で強い
規制力をもっていた。徳川幕府が開かれ、江戸時代になると、以前から存在していた身分
の区別と言うものが、社会の中で固定して認められるようになった。
「士農工商」という言
葉で知られるように、人々の階層は武士{士}・農民(農)・職人(工)・商人(商)の順に
尊敬すべきものとされた。身分の上下に従って言葉づかいにも色濃く表されていたはずで
ある。現代では、社会的階層が不明瞭になり、地位の上下というファクターが言葉づかい
の上でも弱くなってきたと思われる。
しかしながら、現代の日本語でも会話をする場合に話し手が様々な社会的なファクター
を顧慮し、それに従ってその場にふさわしい、いわゆる「待遇表現」を選ぶ。この社会的
なファクターがどんなものか少し触れておこう。
1.上下関係
先輩・後輩の関係(経験の長短)
親族の関係
年齢の上下
男女関係
2.立場関係
171
恩恵を与える立場/受ける立場(恩恵授受関係)
権限をもつ立場/相手の権限に委ねなければならない立場(権限・従属関係)強
い立場/弱い立場(強弱関係)
3.親疎の関係
4.内/外の関係
IV.
挨拶表現の構造
人が対面した時のあいさつ
お早う
―
昔「お」接頭辞なしは朝早く働きに来た人に対して使った言
葉。接頭辞を加えてから朝のあいさつとして使えるようにな
った。丁寧な形は「おはようございます」
。
こんにちは
―
これも敬語がつけにくいことばで、下略の例である。おそら
く昔は「こんにちはいいお天気で」加えていたのだろうと奥
山は書いている。今となって、
「こんにちは」だけで独立し、
昼前から夕刻まで人に会った時使えるあいさつ語になった。
これは下略の例で、敬語がつけにくいことばである。
こんばんは
―
夜の訪問や対面の際のあいさつ。
「こんにちは」と同様下略
された形。
お邪魔します
―
元来は仏教語。仏の教えにそむく誤った考えを主張して、菩
提道に入るのを妨げる悪魔。転じて他人の妨げ、迷惑に
なること。
失礼します
―
礼儀を欠くこと・礼儀をわきまえないこと・不作法なことな
どの意味
「失礼」という言葉から由来する。三つの「失礼」
「失礼し
ます」
「失礼いたします」丁寧さの度合いを区別できる形で
使われている。
例1:
僕はまだご飯を食べてないから、一寸失礼して近所で食べてくる。
例2:
―承知しました。早速調べます。
―それでは失礼します。
ただいま
―
外出から帰った時の挨拶。元の意味は「現在」である。
「た
だいま、帰りました」の下略である。
172
お久しぶり
―
長い間会わなかった人が対面した時のあいさつ語。
御免なさい
―
中国語の「御免」と言う言葉から由来する。元々の「許可・
認可」の意味から今日の御免なさいの意味に発展した言葉。
あいさつとして,ただの社交表現の働きしかなく、社会的な
接触をするために使う。封建時代には現代の「お邪魔します」
という表現と同じ意味で、人の家を訪問したとき使われる言
葉、また知人と別れる時のあいさつ。現代の「では・じゃあ・
ではまた・じゃあまた・じゃあさようなら」などのあいさつ
に当たるいいまわし。
すみません
―
「済む」というの動詞の否定文。
「済まない」は人に対して
申し訳が立たない。謝罪や感謝の意味を表す。ことに最近「あ
りがとう」に代わって「すみません」を使う人が多い。
例1:
お島さん、どうもすみませんね」などと、仕事から帰ってきた若い者
が声をかけたりした。
例2:
どうもすみません。色々ご心配をかけてしました。
例3:
すまねえが、お前、後で渡辺さんに電話をけかといてくれ。
V.行動としての挨拶
あいさつは人間関係を円満にするものである。しかし、これは国語の問題であるととも
に作法の問題でもあり、固定した、複雑な言葉に限らず、おじぎ、ものごし、動作、態度、
身振り、手振り、目つきなども挨拶という言語行動に絡んでいる。場合によって、言葉の
ほうはあっさりしているが、それにつけ加える身振りや仕草、表情が率直に敬意を表して
おり、その方が、より多く相手の好感をより多く得ることがある。つまり、あいさつは体
全体で表すものである。が、その中で主な「伝達装置」としての働きは言葉に置かれてい
るはずである。言葉というものは歴史的、伝統的に認められた一定した言い回しである。
戦後の日本では平等主義を広めるために1957年に文部省が「これからの敬語」とい
う文書を発表し、現代の敬語の使い方を提案した。しかしながら、敬語を簡単にする一方
で、一定した表現と見なせるあいさつの有様は保護すべきものであると主張した。
私の母語、ポーランド語では、逆に、定まった表現はできるだけ避ける傾向があること
に気がついた。話しかけたり、手紙を書いたりするとき、いつも別の表現を探し、新しく
173
あいさつの言葉を作ることも多い。ところが、日本ではあいさつの仕方を知らないことで
お互いに誤解することが多い。
(私が間違って理解した「遊びに来て」は一つの例)
日本は団体社会であると思われている。それぞれの日本人は何かグループに属する。グ
ループには家族・会社・サークル・知人たち・町・田舎などいろいろある。たとえ戦後の
社会の平等化が進んだにせよ、自分がどういうわけで他人に対して先輩・後輩になったり
してしまう。
日本人が一日の生活で使っている多くのあいさつ普通は、知り合い同士・家族同士・同
僚同士のあいさつである。エレベータに会った人、同じ電車に乗っている人、バスで隣の
席に座っている人に対して、あいさつをする必要は全くない。
なぜかというと、あいさつは敬語と密接に結びつき、相手の評価、格付けの基準の一つ
になるからである。あいさつするときに話し手は社会的地位、年齢、男女の性別、学歴、
売り手と買い手など、上下関係をいろいろ整理しなければならない。また、ここで扱って
いない日本語の代名詞も様々な問題の原因となる。特に、人を指し示す場合、実名・愛称・
地位・役職名・職業・役割名・親族名など多彩なバリエーションの中から呼称を選ぶこと
ができる。二人称の例を挙げるとそんな言葉の豊かさが実感できる。
二人称代名詞:
実名・愛称:
あなた・きみ・おまえ・あんた・おたく・きさま・そちら
地位・役職名:
山田(…/さん/さま/くん/ちゃん)山ちゃん・アッコ
課長・部長・社長・会長・議長・委員長・総理
年齢階梯語:
ねえちゃん、おばさん、奥さん、おやっさん、
地名・国名:
ポーランドさん
あいさつは、何と言っても会話の前奏曲であり、その場の人間関係を設定するものであ
る。いったん設定されると、後はだいたいその格差を守り通すのが普通である。こういう
わけで話題・聞き手・話し手を描写するために積極的に用いられ、あいさつはその人物に
ついてさまざまな情報を与えてくれると言われる。
日本語のあいさつをポーランド語に訳すのは非常に難しい。なかなかピッタリの言葉が
見つからないので、語源的な分析や社会背景の説明するほかないと思う。その例としてと
して短い会話を挙げてみたい。
―御免ください。
―はい、あっ、田中さん、いらっしゃいませ。
―よくいらっしゃいました。さ、どうぞお上がりください。
―じゃ、失礼します。
174
―やあ、渡辺さん、お久しぶり。どちらへ?
―いや、ちょっと。
―それは、それは、では。
―じゃ、また。
175
「生きる」、
「住む」、
「暮らす」動詞グループから見た類義語
ロジナ・ナターリャ
はじめに
言葉の裏に隠された意味というものは理解しにくいものである。動物の鳴き声の口調に
よって、意味が違っているように人間が口から出す言葉も特別な意味が入っている。言葉
には多くの側面があり、日本語は他の言語に比べて、特別な読み方をする漢字、紛らわし
い同音語などはもちろん、東洋の言葉に特有の擬態語、擬声語など、その数が特に多いと
思う。
日本語を勉強していて、新しい単語を覚えても、その使い分けを完全に理解するのにか
なり苦労するものだ。辞書で必要な言葉を引いてみると、必ずいくつかの言葉が出てきて、
どの言葉が使いたい場面に一致するのか分からなくて戸惑う。
勉強している言葉、すなわち日本語で話しているうちに、自分から話したり、手で書い
たりして、言葉に潜んでいる意味を正確に理解しているのか把握するつもりで、類義語を
研究レポートのテーマにした。本レポートでは類義語の中でも「生きる」、
「住む」、「暮ら
す」動詞グループの使い分けを扱うことにした。
動詞というものは基本的に広く使われているが、知らない部分も多いと気付いたのは日
本語を鍛えようと小説にはまり始めたの頃のことである。語彙を増やすのなら、読書が語
学の勉強にとても良い方法だと思ったのだ。日本語の小説を読んでいると、自分の母語と
言葉の使い分けが一致することもあるのに、全く一致しないこともある。意外だったのだ
が、これらの相違点が日本語への関心を高め、興味深く感じさせ、このテーマを選ぶこと
となった。
研究方法
本稿では、辞書で「生きる」動詞の用法を調べた後、考察し、まとめる。資料として、
次の辞書類を参考にした。
・基本日本語―意味と使い方
・新明解
国語辞典
第一版
・新明解
国語辞典
第四刷
角川辞典―川書店
昭和
48年
176
森田良行
昭和54年
・新明解
国語辞典
第五刷
・大きな活字の国語辞典
・A dictionary
第三版
三省堂
of basic Japanese
1982 年
基本日本語辞典
角川書店
森田良行
平成10
年
・The Great Japanese Dictionary 日本大辞典 第二版 講談社 梅棹忠夫・金田晴彦 1995
年
例としては身の回りに見聞きし、用法に一致している、していない文章をまとめた。ど
ういった場合はどういった動詞を使うことが可能か不可能か、どういったニュアンスが入
っているのかをネーテイブ
スピーカに聞き、得た結果を本稿にまとめた。
1.「生きる」の基本的な用法
辞書では、その編著者によって、解釈が違うのが当然である。意味がほとんど一緒だけ
れど、少し違うというものもある。
「生きる」動詞の使い分けが元々決まっているのかもし
れないが、これらの用法を調べるのは面白かった。
上記の辞書で動詞の用法を調べると、次ぎのようになった。
・生き物として自身の自律的な営みとして、休むことなく運動、吸収や活動を続けながら、
この世で生存を保つ。
例文
a 人間が生きていくためには最も重要な器官、脳。
b 俺は今こうやって生きてるし、春江ちゃんもちゃんと生きてるし、それは間違
いないことだろう。だからいつか必ず死ぬなんて、俺はそんなこと考えたくな
い。
c 家内が言っていることに従わないと、生きていけない。
・効力や機能を失わずにいる。有効である。価値が出る。そのものとしての働きが引き出
される。役に立つ。実効がある。
例文
あなたのこれまでの苦労は、いつか必ず生きるでしょう
・現実に影響を与えている。生命のあるものとして存在する。死んだ者、失われたものが
人の
心の中で命のあるもののように作用する。影響を残す。
例文
彼の精神は我々の心の中で生きています
・打ち込む。何かにすがる。ある物事に精魂を傾ける。生活の張りを何に見いだす。生き
177
甲斐を見い出す。
例文
10年思い出に生きる
・生き生きとする。活気がある。実際に活動している。生命がこもっている。生命のもた
ないものに、命がふきこまれる。生じる。
例文
この小説では会話が特に生きている
・自分や家族が飢えないように、うまくやっていく。この世で暮らす。暮らしを立てる。
生活する。
例文
二人で暮らすの、そうしたら、さあ、いつも一緒にいられるんじゃない?やっぱ、
バラバラに生きたらさ、俺達弱いからダメになっていくんじゃない?
・うまく扱うことによって、そのものに備わっている機能、効用が一段と発揮される。
命があるような動きをする。意味を持つ。
例文
野口英世の研究は今日なお生きている
・死なないで済む。死ぬことを免れる。死にそうな状態から逃れて助かる。死んだもの、
死にかけたものが、命を取り戻す。よみがえる。蘇生する。
例文
肉体的に生きていたが、精神的にはもう亡くなっていた。
碁や野球でアウトにならないですむ。
2
動詞の語源
2.1「生きる」
以上のことから「生命を保つ」という点に注目し、
「生きる」の字の語源を調べてみよう。
「生」という字は草の生え出る形をしている。木を生じて土上に出つるに象る。種の形を
し、種の発芽生成の象を示す字である。全て新しい生命のおこることをいう。
「生」を偏に持つ漢字を調べると、
「生きる」という、意味の入っている字がかなり存在し
ている。その用法は次のようである。
草木が地上に生じてきた様に象るー生える
生まれるのを意味の系列のものに女性・性など
青く澄み切る意味を共有し、
「晴」
、「清」
、
「精」の要素になった
昔の「生」の字はどういった形をしていたのかも面白い点であると思う。
178
2.2
住―
「住む」
人+主であり、
「主」の上の部分にある点は、一カ所にじっとたつ灯火を示す。
そして「主」の字は、この光りの下に燭台を描いた様で、定立して動かない意を含む。
2.3
暮―
「暮らす」
幕+日であり、草原のくさむらに太陽が没する様。
3.グループ動詞の相違点
では、このグループの動詞は「生活する」という意味合いでどれだけ一致するのか、し
てないのかを見てみよう。
普段「生きる」動詞を「生活する」という意味で使う場合は物事を実質的以上に誇張し
ている意味合いが入っている。
・毎日静かに生きていた。
・留学している間にその国の言葉を使って生きる。
経済的な意味の入っている文章ならば、
「生きる」の反対語である「死ぬ」という意味も
入っていて、そのお金でぎりぎり生活していて、死ぬ状態に近いという意味である。
・昔の人は山の斜面に生きてきた。
という言い方には、まず、生き延びるために苦労しながら、大変な生活をしていたという
意味である。ここで注意してもらいたいところは、
「生活する」という言い方には生活が大
変であるという意味が入っていることである。「生活する」という意味の「生きる」動詞は
やはり文語的な表現である。
・彼は生まれながら東京に生きている。
「生きる」に「に」格助詞を加えると、
「暮らす」の意を帯びてくる。本にしか出ない表
現だろう。
・パンダは中国に生きている。
というと、対象、パンダは擬人化され、なかなか文語的なことになる。
・四万円で生きる。
といった表現にはそういう意味合いが強い。しかも、
・四万円で暮らす
というならば、元々用法に経済的な営みを行うといった意味が入っているので、自然で、
よく使う文章になる。
・給料だけで暮らす。
という表現の意味合いは、置き換える場合の「生きる」動詞とニュアンスが違う。
「暮らす」
179
の場合、普通の生活ができるというのであって、
「生きる」の場合、最低限の生活の水準を
イメージする言い方である。
「暮らす」はゆとりのある生活のことを示しているのだが、
「生
きる」は生活するだけで精一杯といった言い方である。
ここは、
「生活する」という意味の「住む」動詞を置き換えが不可能である。
・四万円で住む。
(―)
・給料だけで住む。
(―)
「住む」とは、
「居所を定めて、そこで生活する」[岩波国語辞典第五版] という意味で
あるので、経済的な意味合いはなく、社会的な意味合いを持っている。だから、上記の言
い方ができないことが動詞の用法、意味合いを証明している。
先に述べた通り、
「生きる」に「に」格助詞を加えると、
「暮らす」の意を帯びてくる。
暮らす動詞は「で」格助詞と使われるのが基本としては決まっている。「住む」の場合は、
「に」格助詞で示されるのが基本である。(類似表現の使い分けと指導法 佐治・福島 1
998年
p.123 )
・西条で暮らす。
・西条に住む。
とどちらも使えるが、ニュアンスに違いがある。
「西条で暮らしている」には一時的な動作
性が入っている。この、
「暮らす」動詞の用法に注意しなければならない点として、短い時
間にこの動詞が使えないという点がある。(月日をすごしてゆく。転じて、生活する。生計
を立てる。日が暮れるまでの時間をすごす。[岩波国語辞典第五版])一日未満の場合は、
「過
ごす」動詞を使うべきである。
「で」格助詞は基本的に「暮らす」の前に出てくるのがほとんどの場合であるが、
「に」
を使うこともある。
「で」を使う場合は、場所を強調したい時である。
「に」の使う場合は、
空間の意味や心理的な要素を伴う時である。
・父は東京で暮らしている。
・俺は東京に暮らすことが多かった。
1
父は田舎に暮らしている。
2
父は田舎で暮らしている。
ということは、例の1の場合、暮らす動詞自体がメインであるが、例の2の場合、
「田舎」
が中心である。
「田舎」に合わせた生活をするという意味合いである。
先に述べたように「住む」は定められたところで「生活する」という意味を持ち、次の
文章を見ると、その用法がよく分かると思う。
180
A 百歳まで住んでいた。
B 百歳まで生きていた。
「住む」がやはり場所のことを示す動詞であると納得できる。どこで百歳まで生きてい
たのか分からないのだが、一応どこかの住まいで生きていたということである。百歳まで
生きていたと言えば、寿命は百歳だったという意味である。
「暮らす」は時間を過ごして、生活するという意味を持ち、連続性の意味合いは入って
ない動詞である。
A 幸せに生きる。
B 幸せに暮らす。
B の場合は、動作の連続性があり、一生幸せな日々を送るということである。A の文章は
今のことを示す。
A 夢に暮らす。
B 夢に生きる。
B と言えば、事実から離れた、自分が作った世界にいるということであるが、A と言えば、
夢といったことに向かって、実現させるように努力するという意味を持つ。したがって着
実性の意味合いもかなり強くなる。
結び
「生活する」という用法では「生きる」動詞は文語的なニュアンスを持っていて、もう
一つの用法「生存する」という用法に近い意味合いになる。
「住む」は、場所の要素が重要であり、「暮らす」と違い、その営みは個人的なものでは
なく社会的である。
「暮らす」の場合は、経済的な要素が中心であり、それに「時間を過ごして生活する」
という意味合いが強い。動作の連続性を示す動詞であるが「生きる」よりは短い。
ロシア語においては「生きる」動詞の大体の用法は「生存する」はもちろん、「住む」
、
「暮らす」の意味合いも持っている。定められた場所を表すのに「生きる」ーzhit 動詞は
接頭詞が付け加えてきた、prozhivat になる。
死なないですむという意味の「生きる」はロシア語の vizhivat になる。言根は変わらな
いが聞こえは違ってくる。日本語の「西条に生きる」に当たるロシア語の zhit v Saijo に
なる。意味的には全く一緒でありつつ、日本語の「西条に住んでいる」に当たるロシア語
181
の prozhivvat
v Saijo、居場所を強調していることを含まれ、同じ意味合いを持ってい
る。 同じく経済的な営みを表している「住む」みたいに pprozhivat 動詞が使わない。
基本的な「生きる」の zhit が使われる。
「生活する」グループ動詞に関連する資料やいろいろ参考にしてきたのだが、類語とい
う莫大な内容には完全には届いていないとつくづく感じる。
言葉の学習はもちろん、言葉の細かいところは理解するのに長い時間を要する。類義語
も同様である。今回は類語に関するテーマを選んで、「生活する」に類する動詞のグループ
をめぐってレポートにしたのだが、他にも類語のことも調べてみたことがある。しかも調
べたにもかかわらず、使い分けを失敗してしまったこともあった。
日本語を自国で教科書だけで勉強している日本語学者にとってはこのような類語の使い
分けは自然な日本語が使われる環境にいないとなかなか身に付けられないだろう。
参考文献
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泉原省二
広告や CM が創り出す日本のライフスタイル
イゴール・ロゲーリャ
はじめに
どこの国でも CM や広告には、その国の文化や社会が凝縮されている。ゆえに、CM に描か
れている生活の理想、価値はそれぞれの国の人々が抱く理想、価値に近いはずである。む
ろん、CM に描かれた「事実」はよく幻想的とも言えるが、その CM の意味的な枠組みはやは
り文化に根ざしている。もしそうでなければ、その文化に属する消費者、あるいは視聴者
には理解できないはずである。すべての視覚的なコミュニケーションと同じように、CM
を理解するためのスキルは個人個人の文化的な背景にあると考えられる。それを示す一番
簡単な例は「ネッカーの立方体」だ。実際にはただの二次元の図なのだが、我々は文化的
な解釈するため、立方体にしか見えないのである。
しかし、CM と文化の関係は単純な「理解」だけではない。この関係についてもっと詳し
く述べる為に、ここでは、ウィリアムスンの『広告の記号論』に登場した、広告やCMを
分析するための新たな方法を用いる。この新しい分は、CMに見られるイデオロギーや意
義の重要さをはっきり認められるものである。このようにCMが伝えているメッセージを
分析すると、その社会において必要とされているもの、望まれているものがなんであるか
明らかになると思える。
さらに、現代の CM は「我々の人文上に意味をなす要素を冷淡に専有する内面的な植民地
主義になった」99。つまり、我々が暮らしている文化の価値は、CM によって文化的な価値の
ない商品にまでくっつけられているというのである。そうなると、その文化自身の価値が
徐々に下がっていくことになる。
昨今、グローバル化が進んでいるため、グローバルな文化が生まれるという考え方をす
ることが非常に多いが、一般市民の生活に大きな影響を与えるのは、やはり各地方の独特
な文化である。その土地の文化が CM に使われるのである。本論では、日本社会とその文化
を例として取り上げ、日本の CM を分析する。それはどんな理想や願望を表しているのか、
CM を作るビジュアルの煉瓦はどこから取ってこられているのか、などの問題について考え
る。日本で流されている CM をすべて分析することはできないので、ここではいくつかのテ
99 Goldman, (1992) p8
183
ーマにしぼって検討する。そのテーマというのは、それぞれのCMの主題とも当然関係が
あるが、これより一般性を持つものでもある。シンフォニーの主旋律のように、様々なC
Mをくくるの「美しさ」、
「食文化」などのテーマである。この研究で選んだテーマには、
共通点がもう一つある。それは「ライフスタイル」というコンセプトである。
ポストモダニズムの人間社では、人と人の分化は自由時間をどのように使うか、どんな
格好をしているかというようなことによって付けられる。ウィリアムスンはそれについて
こう語る:「しかし、私たちの社会においては、人々のあいだでの現実的な区別(労働者と
いった)が生産過程における各人の役割によって創出されるのであるが、他方では、彼ら
自身の労働の生産物を利用し、広告が呼びさます偽りの諸カテゴリーのなかで、特定の製
品の消費で作り出られる区別によって階級な区別を置き替えてしまい、現実の社会構造を
曖昧なものにする過程が存在する。
」100この研究の目的は、日本の消費者は広告にどんなラ
イフスタイルを提示されているのかを明らかにすることである。ライフスタイルと広告の
関係を観察すれば、隠れていた事実が色々明らかになるかもしれない。
ここで扱うテーマを選ぶにあたっては、様々な CM を恣意的に9のカテゴリー(例えば:
食品、薬品、自動車など)に分けた。各テーマは一つのカテゴリーに当たるわけはないの
で、それらの関係についてはもっと説明しなければならない。テーマはカテゴリーより広
いが、ひとつのCM、あるいは広告にはいくつかのテーマをもつこともありえる。一方、
厳蜜に定義されるカテゴリーは売られている商品ということになるが、各商品はまたいろ
いろなテーマと深い関係がある。例えば、ヨーグルトという商品は食品というカテゴリー
に含められているが、ヨーグルトそのものは健康や食文化というテーマを含んでいる。従
って、ヨーグルトの CM や広告はその二つのテーマについて語る。この研究では、商品とテ
ーマの関係の方が注目するが、それを考察するまえに、CM や広告は分類しなければならな
い。なぜかというと、CM や広告は数があまりにも多すぎるため、実際にどんなテーマが存
在するか把握するにはカテゴリーがその最初のステップになるからである。各カテゴリー
の CM の頻度によって、代表的なテーマを選ぶことができた。この研究で選んだテーマは「美
しさや健康」と「食文化」である。CM において、美しさや健康は大きなテーマとなってい
る。また、食文化というものも現代の日本では CM の大きなテーマとなっている。これら二
つのテーマは、現代人のライフスタイルには欠かせないものとなっている。ライフスタイ
ルに関係する場面に組み込まれているのは一体どんなイデオロギーかが、本論で扱う問題
の中心である。
私が命題しているのは、日本のCMや広告がそれぞれの商品について語っていると同時
100 ウィリアムスン (I) (1985) p26
184
に、実際にはあるライフスタイルを売っているのはということである。第二章に紹介した
カテゴリーは表面的なメッセージによって決めている。そのカテゴリーによって、この研
究の中心としているテーマをいっそう具体的に定義することができた。そして、最後に、
そのテーマがCMでどのように扱われていることによって、この研究における目的、つま
りCMが創り出すライフスタイル、そのイデオロギーについての情報が浮かびあがってく
る。
この命題を立証できるように、本論は次のように構成する。第一章では、私の研究が拠
り所とする広告理論を簡単に説明する。第二章では、日本のテレビ・チャンネルに流され
る CM の頻度についてのデータを提示する。第三章からは、選んだテーマをひとつひとつ分
析し、それらに組み込まれたイデオロギーを明らかにする。本論ではただいくつかの目立
った例を紹介するだけになるが、日本の CM や広告とライフスタイル、イデオロギーの顕著
な発言を見ることができる。
1.広告における意味の成立
CM や広告がなにを意味するかを理解するためには、その働き方をまず分析しなければな
らない。ある商品についての「メッセージ」を伝えるというのは CM の普通の定義である。
そのメッセージには、よく不正確で私たちを騙すような情報もよく含まれている。我々は
そういうことに気づき、
「CMには負けない」というような満足を得ることも多い。だが、
この明示的なメッセージより、それを運ぶ形式の方に注意すべきである。形式とはただ商
品についてのメッセージを入れるだけの器ではない。形式自体にも様々なシニフィアン(意
味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)が含まれている。というわけで、形式を見な
いでいると「形式が持つ内容を無視」することになる101。この章では、まずCMを分析する
ときの用語を簡単に説明したいと思う。
ウィリアムスンは「形式/内容」という言葉ではなく、「記号表現/記号内容」という新
たな用語を導入している。記号表現/記号内容とは先のものといったいどう違うのだろう
か。形式と内容は反意的なペアになるが、記号表現と記号内容は記号のなかで一つに結び
ついている。二つはモノでありながら、観念でもある。具体的な例としては、ドコモの広
告(図一)が挙げられる。その広告の表面的なメッセージは「アウトドアが好きな人はこ
のケイタイを選ぶ」である。この広告の下の方に書かれたテキストはこのメッセージを説
明し、その具体的な理由を述べる。例えば、そのメッセージには、このケイタイは「水よ
り軽くて、しみとおらない」などの情報が含まれている。広告に使われている写真を見る
101 ウィリアムスン(I)
(1985)p36
185
と、アウトドアへの連想がさらにこのメッセージを強調する。それが、広告によって意味
されるものである。一方、左側の写真をよく見ると、そこに写っているものは、アウトド
アが好きな人が整えたものには見えない。なぜかというと、そこに並べられた色々な道具
の置き方が不自然だからである。普通に準備されたように雑然とはしておらず、博物館の
陳列のように「21世紀の人がアウトドアを楽しめるために必要としたもの」として整然
と並べられており、まるで展覧会だ。ここでは、上で紹介した用語をもっと詳しく説明し
ておこう。ウィリアムスンは、
「記号内容」というのは「記号によって意味されるもの」と
定義している。上の例ではケイタイ(とその機能)がこれにあたる。なぜならば、この広
告(=記号)の表面的なメッセージは「アウトドアが好きな人はこのケイタイを選ぶ」か
らである。ところが、この例のケイタイは、ウィリアムスンの述べる「記号表現」にも該
当する。ウィリアムスンによると、記号表現とは意味するものと定義されるものである。
この働きは次のように構成されている。ケイタイの画面に映っているのはシャチの写真だ
し、ケイタイの色は寝袋や折りたたみ式いすなどの色と全く同じである。すなわち、ケイ
タイそのものがアウトドアへのチッケトになり、寝袋などより大事だと思われたいのだろ
う。自然やアウトドアがケイタイによって提示される。
つまり、このケイタイを東京で
使っても、アウトドアというコンセプトが意味される。
しかし、そのような意味は広告にはっきり書かれていない。広告のテキストには、
「アウ
トドアへ行くためにケイタイが必要」というような主張は書かれていないのである。この
メッセージを伝えるように、広告では他の方法も使用されている。言葉ではなく、視覚的
な形式が上のメッセージを伝えるのである。こういうことについては、ウィリアムスンは
次のように三つの決定的なポイントを挙げる:「第一に、この「記号表現の意味」は二つの
モノの関連づけを含んでいる。つまり、二つのモノは、論証だの物語だのの線にそってで
はなく、写真のなかでの双方の位置関係によって、つまり形式的構造によって結び付けら
れている。第二に、意義のこうした移転は、広告のなかで完全なものとしては存在してお
らず、私たちに結びつきを作るよう要求している。
(中略)第三に、移転が基礎をおいてい
るのは、第一のものが移転さるべき意義を持っているという事実にである。広告は最初か
ら意味を創り出すのではなく、意味があるものから別のものへと移転されるような処理を
行うように、私たちに要求するのである。意味システムがあらかじめ存在していなければ
ならない。
(中略)そして、意味システム自体は広告の外部にあり、広告はそれを単に指示
して、その構成要素のひとつを価値の担い手として、つまり通賃として利用するのである。」
102
102 ウィリアムスン(I)
(1985)p36
186
この章の例に戻れば、ケイタイとアウトドアを結びつけるのは私たち自身ということに
なる。そうさせるために、広告は様々な方法で、ある意味システム暗示する。釣りの道具
や丈夫な靴、寝袋などは私たちに、アウトドアを楽しめるという意味喚起する。そして、
その意味価値がケイタイに移転する。置いてある道具とケイタイとの関係がいっそう浮か
び上がるように、写真のレイアウト(ケイタイがその中心にある)、配色(ケイタイの色は
道具と同じ)を使って、我々がケイタイに新たな意味を付加するようにしむける。そのよ
うな構成は西洋の広告にも、日本のCMにもあるので、やはりグローバル・スタンダード
のようなものではないかと思われる。しかし、私が明らかにしたいのはその構成法だけで
はなく、日本に固有の意味システムである。それこそがこの研究のねらいなので、ウィリ
アムスンの理論に従いながらも、少し違う立場からCMの分析を行う。「どのように」では
なく「なに」を意味するかをここで検討したい。
2.広告の分類と量的側面
最近、テレビで流されているCMの数は確かに夥しい。そのため、CMや広告を研究す
るには、まずCMをカテゴリーに分けなければならない。なぜなら、簡単な分類をしただ
けでも新しい情報が色々明らかになるからである。例えば、どのカテゴリーの CM が一番多
いか、どういった CM がどんな時間に流されているかというような事実は、テレビ局の都合
ではなく、視聴者が広告によってイメージを作り上げるライフスタイルを語っている。
カテゴリーの定義
この研究のために、観察したCMは9つのカテゴリーに分類した。この分類は法律上の
分け方によるのではなく、商品の役割、あるいは買う目的によって分類した。各商品がど
ういう使われ方をしているかがカテゴリーの定義の基礎となっている。以下に説明するの
が、各カテゴリーの定義である。この定義はむろん雑誌や新聞などの広告についても使え
るが、今回の研究においては、活字メディアにおける広告の頻度は観察していない。
まず紹介するのはこの論文で使われている「商品」という言葉の定義。岩波国語辞典に
よる定義は「財である物。金銭や品物。また、宝物。
」さらに、私が導入するのは「消耗性」
というコンセプトである。以下に提示するカテゴリーはすべてこの定義の追加がある。
・食品や飲料
このカテゴリーに含まれる商品は、単に必要な栄養を与えるだけではなく、それ以外の
特徴(味がいい、便利である、値段が安い)も併せ持っている。しかし、基礎となる役割
が栄養の摂取ではないものについては、食品や飲料というカテゴリーには含めない。例え
187
ば、薬に近い健康的な飲料(ビタミンの入っている飲料など)を飲む理由は「のどが渇い
ている」などではなく、
「健康にいい影響を与える」からであろう。従って、ビタミン飲料
は薬品というカテゴリーに含まれる。しかし、特定保健用食品という商品もあるため、薬
品と食品の区別は時々難しい。
・化粧品
自分を美しくするために存在する商品はすべて化粧品として分類した。こういう定義は
きわめて広いので、すこし説明しなければならない。ここでいう「化粧品」の端的な特徴
は、直接的に体を美しくするものと捉えられる。
「直接」と言っても、それは所要時間や事
実の効果の問題ではない。消費者の期待こそが化粧品の定義になる。すなわち、健康的な
飲料はよくいわゆる「ダイエット・サポート」としてよく売られているが、直接的に美を
与えるわけではやはりないので、薬品として扱う。ところが、人間社会では、健康と美し
さの違いは昔から微妙である。この章では別のカテゴリーに分類したのだが、次の章では
一つのテーマとして扱うことにする。
・薬品
このカテゴリーに含まれる商品のCMは、主に朝や夕方に流されている。このカテゴリ
ーは法律ではっきり定義されたものだが、役割を中心に見ると、法律上の定義とは異なる
場合がいくつか出てくる。例えば、養毛剤・育毛剤は法律的には薬品だが、この研究では
「化粧品」というカテゴリーに分類した。薬品は体を丈夫するために、または病気を治す
ために存在するはずなので、体を美しくするための薬品は化粧品と見なしてもいいだろう。
・家庭用商品
化粧品と似ているところは意外に多いが、美しくするのは自分ではなく、自分の環境と
いうだけである。洗剤からゴキブリホイホイまですべてこのカテゴリーに属する。CM に登
場する人物や CM のスタイルから言えば、明らかに女性向けのカテゴリーである。
・電器
海外で日本のイメージを代表しているこの商品のCMは国内のテレビでもよく流されて
いる。
このカテゴリーに含まれるのはすべての電器製品のCMとケイタイ会社の CM である。
・自動車
188
かなり値段の高い商品103であり、そのCMも莫大な制作費が投入されているように見える。
このカテゴリーははっきりしているが、一応その定義に該当するのはすべてのエンジンつ
きの車やバイクである。
・金融サービス
モノではないけれど、やはり商品に近い。このカテゴリーで最も一般的なものはローン
のCMである。それ以外には、保険会社や銀行、クレジット・カードのCMも多い。
・余暇
温泉旅行などを始め、このカテゴリーのCMはモノではなくて、時間の過ごし方を売っ
ている。
・その他
上記にカテゴリーに分類できない商品はいくつもあるのだが、その頻度が低いものは一
つのカテゴリーに併せた。
カテゴリーの頻度
上記のカテゴリーに CM を分類することで、実際に観察ができるようになった。四月から
八月までの四ヶ月に様々な日本のテレビ局で流されている CM を分類した。観察したのは大
体以下のテレビ局だ:テレビ朝日、フジテレビ、テレビ埼玉、広島ホームテレビ、広島テ
レビ、テレビ新広島、関西テレビとテレビ大阪である。
(しかし、主に観察したのはやはり
広島地域のテレビ局である)観察したときは時間的(朝や昼、夜などの時間によって CM が
変わるかどうかを確認するため)においても分類し、意味深い結果も見られたのだが、本
論ではこの時間帯による分類は使わない。
ここは観察するときにとった方法をもう少し説明する。テレビで流される CM は例外なく、
いわゆるコマーシャル・ブロック(ブロック)として放送されている。長いブロックは1
0分もあることがあるが、普通の長さはおおよそ1〜5分になっている。各ブロックでは
一般的に3〜10の CM が入っている。ここで注意すべきなのは、特別な放送(最新映画、
スポーツ試合など)で流されるブロックである。そういう放送を提供する会社の CM はもち
ろん番組の終わりまで繰り返されている。それぞれのブロックには同じ CM がはいっている
ので、CM のカテゴリーの頻度を決めるときは一つのブロックとしてしか認めない。例えば、
103 家の広告やCMもあるが、
「商品」というコンセプトは「消耗品」と見なせるので、家は商品として認めがたい。
189
自動車メーカーのⅩ社が番組を提供し、10回も同じカテゴリーの商品の CM が流されてい
るとしても、その CM の頻度はやはり1回にしか数えない。カウントの仕方をもしこのよう
に修正しなければ、結果が非常に杜撰になる確率が高い。
早速、このように100ぐらいのブロックから集めたデータの集計を見てみよう。
カテゴリー頻度
1
2
3
4
5
6
7
8
9
4%
3%
12%
36%
6%
14%
5%
9%
11%
上の表を見ると、一番頻度の高い商品は明らかに「食品と飲料」である。二番目の「電
器」のカテゴリーよりなんと二倍以上頻度が高く、抜きん出ている。日本テレビのもう一
つの特徴、食べ物に関わる番組の多さと関係があるかもしれないが、本論で扱うのは CM だ
けなので、番組編成との共通点は考察しない。
健康や美しさというテーマに一番近い「薬品」と「化粧品」
、この二つのカテゴリーの頻
度を合わせると、その頻度もかなり高くなる。さらに、
「食品と飲料」のなかにも健康や美
しさがテーマの CM が多いので、美しさや健康というテーマを扱う CM の割合は30%に近
いということである。
本論で扱う二番目のテーマ、
「食文化」に関わる CM の頻度は、パーセンテージで見ると、
36%になっている。本論で選んだ二つのテーマはやはり代表的ということができる。
この章で示したデータは命題と特に直接な関係がないのだが、選んだテーマとそれらに属
するカテゴリーがどのくらいメディア・スペースに浸透しているかを確認するができる。
しかし、CM をカテゴリーに分類すれば、ほかにも明らかになることがある。それは、一つ
の商品に色々なテーマがあることである。特に自動車の CM は様々なテーマを暗示する。家
族生活、スポーツ、スタイルなどのテーマは食文化や美しさなどと同じように人々のライ
フスタイルを構成する。そこで、次の章では「食文化」と「健康や美しさ」に注目しなが
らも、それら以外のテーマの重要性も評価する。
190
3.CM とライフスタイル
テーマをはっきりさせてから、録画した CM を具体的な例として詳しく分析する。ここで
の分析の仕方はすべて第一章で紹介したものなのだが、分かりやすくするために、分析し
ながら、曖昧なところはまた説明する。
分析した CM は第二章で挙げたテレビ局の放送から録画した食品と飲料、化粧品と薬品のカ
テゴリーに属する CM である。ここでは、商品を売り込もうとしながら、明らかにそれ以外
の意図も持っている CM を選び、それを分析した。一つずつ典型的な CM を分析し、それら
が創り出すライフスタイルとそのイデオロギーを見ていく。
食文化
日本の食文化の伝統は確かに長く、世界中に知られている。しかし、ここで扱うのはそ
の実際の姿ではなく、CM や広告によって提示される食文化である。CM や広告による食文化
は一体現実のものとどう違うのであろうか。テレビで売られているもののほとんどはイン
スタント料理や様々な調味料、ソースなどである。このような料理の文化的、それから味
覚的な価値はあまり高くないため、商品には必ず何か新たな価値を与えないといけないよ
うだ。以下に挙げた例はそれぞれ食文化というテーマがどのように CM や広告によって示さ
れているかという問題を扱う。
1.「カップスター」
ここで第一の例として出すのはサッポロ一番の「カップスター」といインスタント麺類
の CM である。普通、インスタント麺のメリットは便利さ、安さなどである。おまけにまず
くなかったら、それは誰でも「良いインスタント麺」と考えるであろう。ニッシンが出し
た最初の「カップヌードル」もそれに似た商品についての広告も飽くまで簡単な作り方や
便利さを大事にしてきた。しかし、現代は似た商品が多すぎるので、新たなセールスポイ
ントが次々に出されている。「カップスター」の場合はそれが特に明らかになる。まず、CM
は意味のレベルが一つだけなのではなく、二つも、三つもあるということを説明しなけれ
ばならない。「カップスター」の CM の場合は、二つのレベルが観察される。一つはテキス
ト、つまり言語的なレベルだが、その映像、つまり視覚レベルでも無視できないほど重要
なメッセージが伝えている。この CM は両方をうまく使用し、多様なメッセージを同時に伝
えることができる。
言語的なレベル、つまりそのテキストは次のようになっている:「夏だから、体が求めち
ゃうんですよね。このあっさり塩味。あっさりが嬉しい
(中略)」。この商品は夏体にと
って必要だというような考え方も出しているし、気持ちの上でも非常にいい(「あっさりが
191
嬉しい」
)ので、夏にはとてもいいと
いっているが、これが言語的なレベ
ルのメッセージである。この CM を見
ると、暑いようだが涼しそうな風が
風鈴を鳴らしているので、間違いな
く夏である。ところが、映像のレベ
ルにもう一つのメッセージがある。
そして、このメッセージはインスタ
ント麺が普通与えるイメージと全く
違う。このメッセージは「伝統」、あ
るいは「懐かしさ」である。「カップスター」を食べている女の子から始めよう。彼女は古
めかしい洋服を着て、古い家でこの商品を味わっている。さらに、足は冷たい水で冷やし
ていることからこの家にはエアコンが付いていないということも考えられる。つまり、彼
女は和風の家でのんびりしながらこの商品を食べている。それは彼女だけの独特な食べ方
かもしれないが、この情景は商品について何を伝えているのだろうか。それが問題だ。商
品はこの CM の情景の意味の枠組みに組み入れられる。この意味の枠組みは我々には容易に
理解できるので、その家全体が持つ文化的な価値を商品に転化させる。すると、商品はち
ょっと懐かしい感じのする和食のように思えてくる。さらに、この商品はほかのインスタ
ント料理とは全然違うと感じられる。彼女はひまそうに「カップスター」を食べている。
便利さや安さではなく、味こそ彼女が「カップスター」を選んだ理由だと主張しているこ
とになる。この商品には元々なかった特性(伝統、懐かしさ、和食らしさ、のんびりと過
ごす時間)が CM によって与えられた。さらに、インスタント料理、あるいはファースト・
フード全体に波及し、この CM は「カップスター」が洋風ファースト・フードではないかの
ようなイメージも与える。
「カップスター」はファースト・フードだとしても、とても日本
らしいものだと見られたいようだ。
しかし、このように CM に描かれた世界はすべて虚構である。「カップスター」を買った
としても、大きな和風の家に住めるようになるはずがない。
「カップスター」を買ったとい
うだけで、時間をのんびり過ごすことができるはずもない。やはり忙しいから、インスタ
ント料理を食べるというのが真実だろう。そんなことは消費者にもわかると思うが、この
商品に結びつけられた文化的価値は残るだろう。なぜなら、我々は意味的な枠組みを解釈
して、その枠組みと商品の間に関係があると想定し続けるからである。この関係がいかに
も変なのだが、我々はその謎めいた関係が意味をなすように解釈する。そして二、三回こ
の CM を見ると、そこに映った家、風鈴の音などはもう違和感を与えず、その商品の背景と
192
して置かれただけで前より低くはなるが新たな文化的価値を発揮する。
結局、この CM はどんなライフスタイルを提示するのであろうか。仕事や勉強で忙しい人
に CM の女の子のようなライフスタイルを提示しているというのが一番普通の見方であるが、
こんなライフスタイルは大勢の人には雲をつかむような話に思えるかもしれない。ところ
が、それこそがポイントになっているようだ。幻想のライフスタイルはそのまま、幻想と
して売られている。この商品は忙しく平凡な日常からの脱出と見てもらいたいのだろう。
実際ここで考えられているライフスタイルはこの CM の女の子のものとは全く逆であろう。
2.ハウスの「とんがり corn」
この CM でも、商品が食べられている場所はま
ったく非現実的である。「カップスター」の CM
と同じように、その虚構の世界は我々にとって
ある価値を持つ。「とんがり corn」の CM では、
五人の若者がきれいなビーチで夏を楽しんでい
るシーンが出てくる。しかも、その五人の中に、
日本人は一人しかいないので、
「海外での休暇」というイメージになる。ハンモックでゆら
ゆらゆれている主人公はこの商品を食べ(日本からお土産で持ってきたのだろうか)
、ほか
の人たちとギターを弾いたり、海で泳いだりしている。この CM の視覚的なレベルのメッセ
ージは明らかに「若さ」
、や「夏休み」、
「遊び」などだ。ところが、この CM は前の CM と違
って、言語的なレベルでも重要なメッセージを伝える。それは「太陽の味がする」という
奇妙な意味のメッセージである。当然太陽の味は誰にもわからないのだが、この表現が示
しているのは別に味の特性ではなく、商品のイメージである。太陽は暖かく、夏を象徴し
ている。この商品を作った会社は「太陽」そのものを調理し、それを誰でも買える商品に
入れたということになる。
「とんがり corn」はもちろん太陽ではないが、太陽の性質、
「
「自
然」におけるその「位置」
(中略)
についての知のシステムにしたがって、製品につ
いての共示的意味を生み出している。」104この場合、我々はこのメッセージを読みとり、太
陽の味について考えさせられる。そして、この問題への答えがいつの間にか商品の特性に
なる。なぜなら、
「太陽」と「味」という二つのコンセプトを結びつくのは「とんがり corn」
だからである。
上で紹介した二つの CM には、一つの共通点がある。それは「想像上のライフスタイル」
が用いられていることである。すなわち、消費者が自分の生活に抱いている不満、あるい
104
ウィリアムスン
(II)(1985) p31-32
193
は寂しさを満たすのであろう。我々は上の CM の主人公たちに自分を重ねることはできない
が、夢を見させる働きはやはりある。
3.ハウスの「ハヤシライスソース」とソゲンの「無添調味料」
上の CM と違う、
「普通」のライフスタイルの方も見てみよう。この CM の主人公は自分のこ
とについて「結婚し
たての私」と歌いな
がら、
(夫に?)料理
を作っている。台所
はかなりきれいで、
「ハヤシライスソー
ス」が異常に多いだけで、全体的なイメージとしてはやはり一般的な「家庭」に見える。
飛田良文は「家庭」を「二人でつくるものであり、そこには夢と希望と、現実が待ってい
る。
」105と定義している。この定義のように、この CM の主人公も夢と希望を待っているので
あろうか。実は、ここでは待つ必要はなく、いい主婦として幸せな夢を実現しているらし
い。結婚したてだけど、料理が上手という意味の歌がこの CM のポイントになっている。と
ころで、場面にいない夫も大切な役割を持つ。彼こそがその料理を味わう人間である。そ
して、料理がおいしいことで、喜ぶはずである。つまり、この商品によって幸せになれる。
さらに、彼女が使っている商品は「愛情たっぷり」という言葉も付けられる。彼女は夫に
対する気持ちをこの商品で表すのである。この CM の柱となっているのは愛情なのだろうか。
ある意味では、それも正しい見方なのだが、それ以上に注目すべきはこの CM とライフスタ
イルとの関わりである。ここに紹介されるライフスタイルは非現実的な虚構ではなく、実
現可能なものである。
これに似たテーマの CM はたくさんあるが、
次に紹介するのは「無添加調味料」の CM であ
る。この CM は夫の視点からほとんど同じよう
なことを語っている。彼の台詞は「口には出さ
ないけど、うちの料理を食べると、なんか落ち
着くんだようなぁ」である。しかし、この夫婦
は話などせず、二人の間のコミュニケーション
はただ料理を通して行われる。さらに、この CM
105
飛田良文 (2002) p3
194
の映像の構成をよく見ると、妻の顔が全然見えないことに気づく。顔の見えない「妻」は
「料理」によって表される。料理ができると、その(愛の?)メッセージは夫に伝わる。
そして、彼はこのメッセージを解釈し、落ち着くのである。
これは CM が創り出した家庭のイメージである。
家庭内のコミュニケーションをすべて取り去り、
そこにできた空虚に商品を入れる。すると、その
商品はただの調味料などではなく、コミュニケー
ション・ツールとなるのである。この CM によっ
て創られた家庭のイメージが現実の世界からイ
ンスピレーションを得たものかどうかという問
題は本論では扱わないが、やはり関係はあるのだ
ろう。
3.シュワラビッチ
次に検討する CM は「シュワラビッチ」というお酒である。この派手な CM のほのめかし
はかなりあからさまであり、CM に関する法規が厳しい国では多分流されないだろう。水着
を着た女の子がプール浮かんだ小さなボートに乗っている。そして、
「シュワラビッチ」と
いうスパークリング・ワインを飲むと、いきなり魚のように男性たちがプールから飛び出
してくる。それに気づき、主人公はなんと「恋力がシュワラビッチ」と言う。さらに、こ
の CM はなぜか字幕まで付いてるので、このメッセージは耳が不自由の人にも理解される。
むろん、セックスの暗示は CM でよく使われているのだが、この CM の露骨さはやはり注目
すべきである。そのメッセージをさらに解釈すれば、次のように理解できる;
1.女の子がシュワラビッチを飲む
2.女の子が酔う
195
3.男性にもてる
この CM が視聴者にすぐ解釈できるのは、ここに込められている意味がずっと前からあっ
たからだが、この CM はもちろん酒一般ではなく自分たちの商品を置く。この商品は不思議
な愛の妙薬のように見られたいのだ。男性を魅了するには、水着や一本の「シュワラビッ
チ」があるだけで充分なのであろう。
4.ホンダ
この項の最後の例は「食品と飲料」のカテゴ
リーには入らない、
「自動車」の CM なのだが、
テーマはやはり食文化である。CM で最初に映っ
ているのは色々なケーキ、美味しそうなデザー
トであるが、次にホンダの自動車を形をしたケ
ーキが出てくる。このできたばかりのケーキは
それからスプーンに載った車のシルエットにな
り、
「Honda メイドのおいしいデザイン」という
宣伝コピーが現れる。この CM を理解するために、
まずは「食べる」という言葉について考えなけ
ればならない。一般的には「食物を口に入れ、
かんでのみこむ」と定義できる。それをそのま
ま車に適用するのは確かに無理だ。ところが、
この場合文字通りに解釈するのではなく、隠喩
として解釈すれば、CM の伝えるメッセージが理
解できる。つまり、車を栄養のある食べ物のように消費すると理解するである。
「食べる」
196
という行為は「消費」の中で最も肉体と結びついたものである。我々は生産者が「料理し
た」商品を食べる(消費する)
。そして、その商品は消える。この CM において注目されて
いるのは生産の時点ではなく、消費の時点である。このように我々は作ることではなく、
食べることによって社会的なあり方、我々のライフスタイルを決められている。
健康や美しさ
身に付けるものだけではなく、我々の体そのものもライフスタイルに大きく関係する。
むろん、体と言えば、その外面が最も重視される。
「美しさ」が問題となるが、「健康」と
いうテーマも同じように重要な役割を待つ。
「美しさ」と「健康」は昔から強く結び付いて
おり、人間にとって最も根元的な本能の一つである。美しく見える人は大体健康な人だ。
しかし、このずっと変わらない結び付きは CM の世界でどのようにイメージされているので
あろうか。
「薬品」のカテゴリーに入る CM はほとんどが病気を治療するための薬品ではな
く、疲れや頭痛、あるいは体調をよくする薬品である。つまり、重病ではなく、平凡な毎
日に起きる小さな体の問題を解決する。
このような CM には様々なタイプがある。一つのタイプは次のように構成されている。ま
ず普通の人の毎日の生活を見せる。そして、色々な症状(頭痛、疲れ、くしゃみ、鼻水な
ど)がこの生活において邪魔であることを納得させる。次に提示する二つの CM はそれぞれ
作り方が違うが、基本となるメッセージは同じである。
1.「ピップイーバン」と「サリドン」
「ピップイーバン」という肩凝りの薬の主人公は急に肩がこる OL である。でも、幸いこ
とにも、引き出しには「ピップイーバン」が置いてある。そして、これを使うと、また元
気になり、バリバリ仕事ができるようになる。
このシンプルなストーリーはもちろん文字通りで、薬効についてのメッセージが出てく
る。この CM には場所が違う別のヴァージョンがあり、そこでは、主人公は仕事中に問題が
起こる、つまり、肩が凝ったせいで、仕事をうまくできない。
197
次の CM は見た感じが違うかもしれない
が、その表面的な滑稽さの裏には、全く同
じようなストーリーがある。この CM の主人
公は突然薬局にかけ込む掃除婦である。彼
女は頭痛のせいで掃除機が操作できなくな
り、店で大混乱を起こす。そして、上と同
じように、仕事ができるようになるには、
この商品が必要ということになる。
この二つの CM はただ体の状態だけがポ
イントなのではなく、職務の達成こそがポイントになっている。
2.「蕃爽麗茶」
この商品は実際に「食品や飲料」のカテゴリーに属するのであるが、CM において紹介さ
れるこの商品の特性は完全に「健康」というテーマに含まれる。法律上は「特定保健用食
品」として分類されているので、薬に近いとは思える。この CM で使用される味付けは「科
学」である。むろん、ここで扱う「科学」は本当の科学ではなく、我々がイメージする「科
学」である。ウィリアムスンはそれについてこう語る:「「科学そのもの」は決して私たち
の知識ではありえない。実際、それはだれの知識でもありえない。しかし、本当に主体を
欠いているわけでもない。なぜなら、それは単にある科学である代わりに、
「科学そのもの」
なのだからである。
」106この「科学」は CM でよく「証明」のために使われている。さらに、
CM では、
「科学」は理解されるのではなく、ただ感じられる。「蕃爽麗茶」の場合、注目さ
れているのは「ポリフェノール」という物質である。ところが、その説明はものすごく小
さな字で書かれており、2秒ぐらいしか見
せないので、誰にも読めない。だが、この
CM は別に説明しようとしているのではな
く、ただ「科学」というイデオロギーの枠
組みを指示している。「広告全体が『科学』
を指している記号であるが、具体的科学は
そこに不在である。
」107我々は「科学」に信
頼を置いているので、この商品についての
106
107
ウィリアムスン(II) (1985) p38
ウィリアムスン(II) (1985) p59
198
メッセージもそのまま受けとりやすい。
この CM が示す「ライフスタイル」はつまり、現代人と「科学」の関係に基づいている。
「科学」自体はだれにも理解できないのに、
「科学」が語る「真実」には誰にでもアクセス
できるような形でやはり差し出されている。
3.「バファリン」
上述の「サリドン」と同じような頭痛の薬でありながら、この商品の CM の作り方はすこ
し違う。この CM でも取り上げられるのは家
庭内のコミュニケーションである。最初の
シーンは上の例と似ている(日々の生活が
頭痛のせいで壊れる)ので、説明しなくて
もいいだろう。ところが、次のシーンで出
てくる「いいものは、母の手から。」という
メッセージにはやはり注目しなければなら
ない。
このシチュエーションはよく考えると、
「母」というコンセプトを商品にくっつけている。つまり、この商品はただ母親の娘に対
する心配や愛を伝えるものと見られたいようだ。さらに、「母」にはこの商品の安全さを強
調する役割もある。
「母」が自分の子供に健康を損なう薬物を与えるわけはないからである。
「バファリン」という商品には別の CM もあ
る。この CM が商品に付加している文化的な
価値はさらに高い。この CM では、次々に同
じようなシーンが繰り返される。一人の手
からほかの人の手にバファリンが渡されて
いく。ところが、このシーンの視覚的なイ
メージはまるでミケランジェロの「アダム
の創造」を見るようである。この商品を知
っている人(神)は、「病気」の人に命をあげる。
「バファリン」は神様の贈り物、
「バファ
リン」は新しい命を与えるというふうに、本当に色々な解釈ができる。そして、直接つな
がっているわけではない人と人の間には、この商品しかない。つまり、本当にすばらしい
この商品は人間関係もしっかりさせてくれるというのであろうか。
この CM で使用されたイメージはむろん大げさなのだが、「ライフスタイル」に関するメッ
セージはそれほど複雑ではない。CM が創り出す理想な生活では、我々自身ではなく、商品
199
が我々の代わりに話す。それはもう一つの現
代社会の特徴と関係がある。先進国の人々の
最も大きな心配ごとは健康だとよく言われ
る。従って、この心配に「科学」を使って答
える商品はまるで魔法のようで、高く評価さ
れ、我々のライフスタイルにおいては欠かせないものとなる。
4.「Sofina のカットミルク」
この日焼け止めクリームは当然「美しさ」というテーマを暗示する。ここで使用されて
いる方法は単に「模倣」である。CM の主人公は
その「模倣」の対象になっている。CM では最初
に超高層ビルが見える。それは彼女が勤めてい
る会社のビルかもしれない。その後、彼女は
様々なところで見られる。その中から選んだの
は彼女がクーペに乗っているシーンである。彼
女が運転していないということもポイントに
なる。彼女の隣に「見えない男」のいることが
暗示され、それはまた彼女についての情報をも
たらす。つまり、彼女は美しいから、かっこいい車を持っている彼氏もいる。
この暗示による意味の枠組み、イデオ
ロギーでは、美しさが一種の貨幣になっ
ている。化粧品の CM や広告では、このパ
ターンがよく見られる。女主人公に好き
な人がいるというのが最初の情報である。
その次に、CM の主人公はその商品を使い、
好きな人に会うと、彼は当然彼女の美し
さに気づく。
このような CM はまだほとんど女性向
けなのだが、同じパターンを使用する男
性向けの CM や広告も少なくない。
CM に見える「美しさ」と「ライフスタイル」の関係にはもう一つのパターンがある。上
の例では、商品は美しさを与え、そしてその美しさは貨幣のように色々なライフスタイル
を手に入れるために使用される。もう一つのパターンはもっと自分を見つめ直すようにし
200
むけるものだ。次に提示する例はこのパターンに当たる。
5.「2ウィークアキュビュー」
この CM が扱う商品は Johnson&Johnson のコンタクトレンズである。この CM の主人公は
一人の女子高生である。CM では始め、
彼女はまだ眼鏡をしているが、同級生
の友達がこの商品を紹介してくれたの
で、彼女は眼鏡を捨て、コンタクトレ
ンズを選ぶという簡単な展開がこの CM
の表面にある。ところが、彼女がコン
タクトレンズを選んだ後で、
「ほんとの
私、デビュー」というコピーが出てく
る。従って、彼女はこの商品を使い始
める前は、
「ほんと」ではなく、
「にせ」
であった、ということになる。この商品は彼女の中にもともとあった本当の魅力、美しさ
を明らかにした。すなわち、我々はみな「ほんとの私」をどこかに持っているはずなのだ
が、この「ほんとの私」を我々は自分で明らかにすることはできないと言うのである。そ
こで、その商品が登場し、
「ほんとの私」への扉を開いてくれる。この過程を要約すれば、
この CM が売っているのは我々自身ということになる。このようにとらえられる「ライフス
タイル」のイメージはかなり侘しい。商品への依存は人間関係や社会における立場(4番
の例)だけではなく、自分自身のイメージにまで広がっていく。むろん、これは CM によっ
て描かれた「ライフスタイル」なのだが、それらは我々の本当のライフスタイルにも関わ
っている。
201
おわりに
本論で扱った問題にはもちろんはっきりした答えがあるわけではない。だが、CM を子細
に検討するたび、様々なことが浮かび上がってきた。第二章で紹介したテレビで流される
CM の頻度は本論のバックボーンとなっているが、ここでは第三章で述べたことについて確
認しておこう。
「食文化」、
「美しさと健康」
、これらのテーマはそれらの文字通りの意味よりはるかに拡
がりを持つ。これらのテーマから発した隠喩や連想は CM で使用されると、我々が既に知っ
ていた知識が新たな意味の枠組みを作り、商品に文化的な価値を与える。結局、第三章で
選んだ商品の CM はどのような文化価値を持つのであろうか。また、これらが語る日本人の
ライフスタイルとはどんなものであろうか。
「食文化」というテーマの CM では、家庭内コミュニケーション、または人間関係への連
想が多い。なぜなら、「食文化」そのものが基本的に家庭で、あるいは友達や恋人と行われ
るものだからだ。食べ物を最初にそこに置いたのは CM ではない。以前からあった習慣をた
だ利用し、その商品をこのシチュエーションに入れたのだ。しかし、商品の入り込んだラ
イフスタイルはそのままでは普通ではない。商品が売れるように、そのライフスタイルの
イメージは作り変えられる。人間関係や家庭内コミュニケーションは単純化され、すべて
が商品に支配されている。人々は「空腹」で寂しい生き物であり、かれらの生活はただ商
品のためだけに存在する。
「美しさと健康」の CM が提示するライフスタイルのモデルはもっと共有されている。食
べ物についてあまり考えない人はまだいるかもしれないが、健康や美しさは我々の文化の
奥深くまで浸透している。そして、CM によって健康や美しさはさらに声高に叫ばれ、我々
の体はいつの間にかこうした商品によって作り変えられている。このすばらしい新世界で
は、人々はみな健康で美しい。この世界では、お金さえあれば、愛や家族の幸せ、自分の
好みのライフスタイルが買える。
「シュワラビッチ」の女性、「無添加調味料」の夫婦、始
めてコンタクトレンズをつけた女子高生などの人物が住んでいる世界は我々の世界ではな
い。しかし、よく似ているため、我々には影響を与える。CM のライフスタイルをそのまま
コピーするわけではないが、このようなライフスタイルは「あり得る」というだけで我々
の日常生活に入り込んでくる。CM そのもの、CM が創った文化は日常の会話の話題となり、
ドラマや映画と同じように考えられる。しかし、映画と違い、商品を売ることが CM の狙い
だ。だが、そのために使用される方法、そのために作り続けられるイデオロギーは幻想で
はなく、我々の世界に存在するものだ。従って、我々はこの CM の幻想世界に入ることはで
きないが、現実の世界にも留まることができない。迷子のように、到達できない理想を追
いかけ、現実の世界で起こることを無視してしまいがちだ。
202
最初、日本はほかの国とどう違うかと考えていたが、本論では明らかにならなかった。
本論で述べたことを何度確認しても、CM がライフスタイルを提案し続けるというのは日本
も世界のどこの国も同じだ。
参考文献
ジュディス・ウィリアムスン、
『広告の記号論 I』、『広告の記号論 II』
山崎カヲル/三神弘子訳、柘植書房、東京、1985 年
Goldman, Robert, Reading Ads Socially. Routledge, London, 1992
Tanaka, Keiko, Advertising language, Routledge, London, 1994
Mitchell, Arnold, Nine American Lifestyles, Macmillan, New York, 1983
飛田良文、
『明治生まれの日本語』
、淡交社、東京、2002 年
Newman, Cathy, The Enigma of Beauty, National Geographic Magazine, Washington, Jan
2000
203
日本における船舶と日本人
―主に法律と歴史を通して−
アーロン・ペーシェンス
0.はじめに
日本の歴史は海や船を抜きにして語ることはできない。島国で暮らす日本人にとって、
船は交通の面でもでも生活の面でも、なくてはならないものである。
1.
日本における船舶
1.1 日本の船舶の歴史
飛行機も自動車もない江戸時代までのくらしでは、国内や国際貿易と言えば船に頼るし
かなかった。海だけではなく、川も湖も今日の道路と同じ役割を果たしていた。
地中期から瀬戸内海を中心に発達した弁才船(図 1)は国内海運の主役として活動してい
た。一般に弁才船と呼ばれる船は様々あったが基本のデザインは木材の船体にぎっしり編
んだ綿でできた帆を立てていた形であった。樽廻船という弁才船がお酒を江戸に運送した
商船であった。
図 1:樽廻船
(船の科学館の資料から)
明治時代になると(鎖国後)和洋折衷の弁才船が登場した。明治天皇の開国法―明治憲法
−の影響で方帆の弁才船がスクーナー式みたいに真帆船となった。
「合の子船」(図 2)と呼
ばれた弁才船はその一つであった。船首三角付け(スピニカー)で、舵も舳先も非常に洋
204
風であったが船体と帆の生地は変わらなかった。
こういう弁才船は木、綿、油、しょうゆ、紙などの日用品を大坂(大阪)から江戸まで
運送する商船であった。明治時代の政府の欧化政策はデザインに反映していた。
明治時代には日本では同時期に弁才船にくわえて鉄船と鋼船が製造されるようになった。
これは日本の造船業の転機と言えるだろう。嘉永 6 年(1853 年)ペリーの黒船の来航によ
って鎖国の夢を破られた日本はそれまで徳川幕府によって禁じられていた大船の建造を解
いた。明治 5 年、新丸が日本の鉄船として建造された(図 3)
。17 年後(明治 23 年)大阪
商船会社は日本の最初の鋼船を製造した。
図 2:1000 石の合の子船
図 3:筑後丸、610 トンの日本の最初の鉄船
1.2
日本の戦艦
明治 38 年まで日本の鋼船が世界的になってきた。明白な証拠は日本海海戦時には、戦艦
205
三笠を初めとするいわゆる六六艦隊を編成し、露西亜のバルチック艦隊を撃退し、日露戦
争を日本の勝利に導いたことである。世界ではじめて東洋の国が西洋の国に対して勝利を
収めた。
日本の戦艦造りは昭和 16 年にピークに達した。史上最大の戦艦として歴史に名をとどめ
るのが、日本海軍が建造した 64,000 トンの戦艦大和である(広島県呉市呉海軍工廠進水)
。
しかし進水してから 4 年後(昭和 20 年)、沖縄に出撃中、米国の航空母艦による攻撃を受
け沈没した。戦後、マッカーサーの管理によって書かれた日本国憲法の 9 条の影響を受け
て日本の自衛隊(1954 年設置)は防衛以外の軍艦造りを禁止された。
2. 日本における海洋法の歴史
「日本橋より唐(中国)阿蘭陀、境なしの水路なり」―林子平(寛政三奇人の 1 人)が北海
道、長崎などを調査して執筆した国防を論じた「海国兵談」の一部である。海国の日本に
適した国防をするように論じた。寛政改革(1787 年―1793 年)のおりに、発禁となり、林
は謹慎を命じられた。1841 年(天保 12 年)罪料が解かれて、同書も復刻した。
2.1
日本の領海
領海というのは国の主権が及ぶ沿海である。日本は 1870 年(明治 3 年)から 1977 年(昭
和 52 年)
まで領海の幅として 3 海里を保っていた。
3 海里領海はもともとオランダの cannon
shot rule (着弾距離規則)から採られた。
着弾距離規則と言うのは、陸地にある大砲の最大到達距離からきた。その距離は明治時
代にだいたい3海里だった。日本政府が最初に 3 海里領海を宣言した理由はおもに普仏戦
争であった。仏蘭西とプロシアが日本の近くで海戦をする可能性があったのでそれを禁止
するため3海里領海を実施した。第 2 次世界大戦後 3 海里領海が変わらなかった。その時、
アメリカ、イギリス、仏蘭西などの領海はすべて 3 海里であった。世界中の基本ルールで
あった。
50 年代から国際連合の国々が 12 海里の領海を協定し始めた。最初は日本がこの新しい距
離に反対した。世界の国々の領海の幅が広くなれば、なるほど、世界の公海が限られてい
く。その上、漁業の自由は限定される。その時日本の漁業会社は日本政府を圧迫したが世
界からのプレッシャーも重かった。
12 海里の領海がないと、日本の周りの魚は露西亜または韓国の漁業船に取られる可能性
が非常に高かった。日本政府は選ばなければならなかった
―
日本の領海を広げるか 12
海里のトレンドに反対するか。1971 年まで 45 か国が 12 海里の領海を実施していた。これ
から他の国もきっと 12 海里の領海を採用するだろうと日本政府が考えた。反対してもこれ
206
からの方向が変わらないという事を理解してきた。ということで、1977 年に日本の漁業を
守るため、日本の領海を 3 海里から 12 海里まで広げた。
2.2
漁業と排他的経済水域(EEZ)
日本は 1977 年に漁業水域暫定措置法を定めた。この法律によって日本の漁業水域が 12
海里から 200 海里まで増やされた。1970 年代に 200 海里体制が世界標準になった。排他的
経済水域というのは基線から 200 海里までの領海の外にある海域で、沿岸国は漁業資源の
漁獲量の配分と操業活動について一方的に決定できる権利を持つ。はじめに、日本は排他
的経済水域に反対した。しかし、露西亜が 1973 年に 200 海里の排他的経済水域を設定し、
露西亜の回りの公海が突然露西亜の漁業水域になった。その結果日本の漁船はある程度狭
くなりそうだったので漁業を守るため日本は排他的経済水域体制に入った。結果的に日本
の基線より 200 海里まで外国の漁業船は許可がないと漁をすることが国際法では違法にな
った。
図 4:日本の排他的経済水域、「日本と海洋法」から、p75
207
1973 年に第3次国連海洋法会議が行われ、1974 年には排他的経済水域制度へのコンセン
サスができ、1982 年に完成した。露西亜の漁業船だけは日本の EEZ(Exclusive Economic
Zone)に入ることを禁止された。1983 年まで中国や韓国の漁船は自由に EEZ 以内漁をする事
が出来たが 1983 年に国内の漁業会社の要請により日本政府が完全に水域を排他的に定めた
(図 4)
。
2.3
日本国憲法の第 9 条
第 9 条では「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発
動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永
久にこれを放棄する。2 前項の目的
を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
ない。
」となっている。
日本の交戦権は、陸海空軍その他の戦力を保持しないが日本政府は自衛権を法的に有効
と認めている。しかし、どこまでが自衛かという疑問点がある。日本の海上自衛隊が潜水
艦を 22 本、駆逐艦を 51 本、フリゲート艦を 10 本と飛行機 200 機保持している(海上自衛
隊のパンフレット、2000 年発行)。また、45,000 人以上が海上自衛隊員としてつとめてい
る(2000 年)
。ただの自衛のためにこのような力を持つ事は極端ではないか?という意見が
ある。一方、日本は四面を海に囲まれた島国で、日本に対する脅威が常に海を経由して来
ることを意味する。その上、日本の 1 億 3 千万人の人権と盛んな経済を守るため、穏当な
軍事力がないと日本の国民と貿易は害されるかもしれないという心配もある。日本国民の
間にはこれらの二つの意見がある。
2.4
海洋法と船舶の関係
日本政府は第 9 条を防衛の権利をあたえていると解釈しているが、海上自衛隊を調査す
ると、この防衛は
限られているようだ。飛行機を遠くまで運ぶ航空母艦がなく、海上自衛隊の戦艦は主に対
潜戦、防空戦、対水上戦及び機雷戦などの対攻撃役割を務めている。その上、日本の非核
三原則も船造りを制限している。日本政府が 1971 年に、この原則を採用し、核兵器を持た
ず、作らず、持ち込ませずという三つの原理を設定した。因みに、核兵器を持つ戦艦を建
造することは違法である。さらに、外国戦艦の日本領海の無害通航権は核兵器を持つ戦艦
を含まない。しかし、横須賀や佐世保に入港する米軍戦艦に関して、米軍は核兵器を持っ
ているかどうかを否定も肯定もしていないことから、米軍がこの非核三原則に服従してい
ない可能性が指摘されている。
208
国際条約も海洋法と船舶に影響をあたえる。2004 年に発効する海上人命安全条約(SOLAS
条約―Safety Of Life At Sea Convention‑)はその一つである。この新法が厳密な安全基
準を船舶に押しつけて、日本製の船舶も日本に入港する外国船舶もこの基準に従わなけれ
ばならない。名の通り、SOLAS条約は船舶に乗船したり働いたりする人の健康や安全を守
ろうとする法律である。2003 年 6 月、富山県は北朝鮮船の富山港への入港を事実上拒否し
た。SOLAS 条約が日本の法律に含まれると、このような危険船入港拒否事件はきっと増える
だろう。
3.結論
日本船舶は江戸時代から明治時代にかけて、木材の漁船や商船から鉄鋼の客船や世界的
な戦艦へと変わった。海洋法に関して、日本は 19 世紀から領海設定を世界基準に合わせた。
1970 年代になってからも、世界の多くの国と同様に排他的経済水域の 200 海里制度に入っ
た。第二次世界大戦以前は日本国は世界基準の戦艦を所有していたが戦後憲法第 9 条の規
制により、以前のような世界基準の戦艦を建造することが出来なくなった。現代の海洋法
に関して、日本の海員を守る法律が増えている。
これから、北朝鮮からの脅威の為、日本政府が防衛を真剣に考えざるを得なくなると筆
者は考えている。日本での魚類の消費量は、自国の 200 海里の経済水域内の漁獲量だけで
は不足している。よって、日本漁船は南太平洋をはじめとする南半球の海域での自主的な
漁獲またはその周辺各国からの水産物の輸入を必然的に行うこととなる。従って、日本は
水産資源を今後も益々、諸外国に依存する割合が増加していく。
海洋法は、以前と同じ船舶の建造や漁業などに影響を及ぼしてくることだろう。しかし、
以前にも増して日本政府は世界の情勢を踏まえて、海洋法を整備する必要があるだろう。
参考文献
防衛庁海上幕僚部偏 2000「JMSDF Japan Maritime Self Defense Force 海上自衛隊」
水上千之 1995「日本と海洋法」1‑26; 61‑78 有信堂
水上千之 2003「現代の海洋法」208‑213 有信堂
日本海事科学振興財団 2002「船の科学」1‑36 日本財団
Saunders S. Ed. Janès Fighting Ships 105 Ed. 2002, 377 ‐ 378, Janès Information
Group
杉原高嶺 et al. 1995「現代国際法講義」第2版 111‑176 有斐閣
上野喜一郎者 1990「船の世界史」中巻
212‑214
209
舵社
明治時代における美術史に見るナショナリズム
孫
夢佳
0. 動機付け
私は去年日本語日本文化研修生として日本に来て、この一年の間に、日本文化について
考えてきた。最初の段階の勉強手段としては日本人論、日本文化論を読み、時々目からう
ろこが落ちるような気がした。ところが、この日本という国に住んで十ヶ月経った今、日
常生活はいかに本に書かれている伝統とかけ離れているか、そして毎日付き合っている日
本人は日本人論の中の日本人像とどれほどすれ違っているかに気が付いた。こういう困惑
を抱き、図書館へ行けば行くほど、本棚にずらっと並んでいる「日本人の美意識」
、「日本
の伝統芸術」など、いわゆる日本文化の型について疑問を持つようになってきた。私一時
的に自分の専門に戸惑ってしまい、研究の目的がだんだん見えなくなった。ちょうどその
時、イギリス歴史学者E.ボブズボウムが書いた『創られた伝統』
(E.ボブズボウム T.
レンジャー編)という本との出会いは私を救うといえるほどたくさんの啓示を与えた。作
者は「伝統」という言葉に二重の意味を与えた。それはすでに伝統社会に存在している慣
習(custom)と今我々が語っている伝統という二つの概念である。
伝統には、二重の意味がある。一つは日常生活に常に存在し、人手をかけず、無意識に
人びとの生活に貫くものだ。こうした意味での「伝統」というものは、いわゆる「伝統」
社会を支配する「慣習」
(カスタム)というものだ。これを創りだされた伝統と明確に区別
しなければならない。伝統社会における「慣習」には、二つの機能がある。先例と調和し
ていること、あるいは、一致していることさえ要求されているため、実質的な限界が課せ
られることは明らかであるが、ある点までは革新や変化を許容する。こういう観点からさ
らに興味深いのは、新たな目的のために、古い材料を用いて、斬新な型式の作れ出された
伝統を構築することである。したがって、型式の移り変わりによって、「慣習」の中身の一
部分も必然的に変容していくのも考えられよう。
(E.ボブズボウム
T.レンジャー編『創られた伝統』
)
この概念を頭に入れ、今まで自分の興味を持っている分野に戻し、もう一度私は新しい
研究をスタートすることに決意した。日本文化論といったものを読むことよりも、文化論
210
に登場するイメージがいかに抽出され、解釈されているのかは日本文化研究者にとって遥
かに興味深いことにも気が付いた。明治時代の美術政策という大テーマを選んだのは、元々
美術について興味を持つのも一つの理由だし、激しい変革を目撃し、色々な可能性を育ん
でいた明治時代に国家という概念がはじめて登場し、明治国家という主体としてどのよう
文化政策を持ち入り、国民のアイデンティティーを構築しているのも、私にとってとても
見逃せない分野であると考えたためである。
1. 序論――美術史というシステム
美術(fine arts の訳語)は現代では絵画、彫刻、書、建築、工芸など造形芸術を意味す
る。
「美」にしろ、fine にしろ、人間の主観的な判断である。今日の我々は、過去の時代を
振り返って、一つ一つの時代の「美」をまとめ、そのまとめたものはいわゆる「美術史」
というものだ。この筋に従って、われわれ現代人が無意識の中、伝統についての美意識が
心に覚え、そして身に染みる。時代は一つの美を形づくり、そして、美は時代とともに崩
壊する。時折、奇跡的に残されるものもある。これらの残されたものを手がかりに、その
時代に応じる時代の形を見い出すのも近代以来美術教育と歴史教育の目的でもある。そし
て、マスメディアや、出版業の発達によって、これらの美術作品と伝統イメージの宣伝が
大量に複製され、人々の目に入る。したがって、各時代と時代を反映するこれらの記号を
一々対応の関係だと思い込むのだ。日本の美術教育を例にしてみると、どの出版社の中学
校、高校美術テキストにも縄文時代の土偶と弥生時代の埴輪を原始美術とし、法隆寺や、
法隆寺中の仏像を仏教美術として紹介している。こういう教育を受けてきた日本人にとっ
て、これらの美術作品は自分の国の歴史の象徴になっている。
ところが、美術というのはどうのように芸術として成り立つのか。まず、美術は視覚の
芸術で、純粋に目だけで味わうものとして、成り立ってきたものである。つまり視覚的な
要素だけを抽出したということになる。
原始美術を考え直してみると、実は美術館に展示されている展示品は、人に見せるため
のものではないものが、原始時代に多い。日本の場合だけでなく、エジプトや、中国の青
銅器にしても、多くは墓の中に埋められたものである。墓の中に埋められるということは
人の目に触れないということであり、人の目に触れなければ、美術とは言えないわけで、
本来ならば原始美術というのは土の中に埋まっているのも疑わしいものである。原始を考
えるときには、現在私たちの目には映るのだが、実は目に映らないものが本当は重要だっ
たのだということである。
仏教美術もそうだ。仏像を信仰の対象として、もともと手を合わせて祈る対象であると
いうことであれば、美術品ではない。彫刻の芸術としてきょろきょろ見回すようなもので
211
はなく、手をあわせ、目をつむるべきものである。つまり、仏像は見るためにつくられた
ものではなくて、心で感じるものだ。とにかく、信仰を犠牲にしなければ、美は姿を見せ
てくれなかった。
以上から見てみると、美術というものは一つの視線でもあるし、一種の解釈でもある。
原始美術にせよ、仏教美術にせよ、いずれもその時の人が、自分の見ているものと感じて
いるものを如実に表現したものだけにすぎない。作品は直接に人の感情世界と関連付ける。
ところが、後代の人が作品の前に立ち、そして考えているのはその時代の人と物との素朴
な関係ではなく、この作品のどこが優れているかとの問題だ。時代というカテゴリの下で、
文化という空欄の内容を埋めるために、ただのものが美術作品に昇格されたのだ。これに
ついても、日本だけではなく、近代以来社会発展史を認めてきた世界共通のものでもある。
日本美術史の起源といういと、普通は古代までさかのぼって記述される。工芸史におい
ては打製石器にまでさかのぼる事例さえもあるのだが、以上にみてきたように「日本美術
史」の基本的な枠組みが近代の所産であるとするならば、石器や装飾古墳や仏像を「日本
美術史」として記述することは、近代に発祥する造型観を、それ以前の時代にさかのぼっ
て適用した味方であるということになる。つまり、
「日本美術史」の起源は、じつは、原始
や古代ではなく、近代にこそあると考えることができるのである。例えていうならば、「日
本美術」という眼鏡を通して造型の歴史を眺めるようになった時点にこそ、その起源を認
めるべきなのであり、そのことをわきまえずに、造型というガイドラインを伝わって史料
の続くかぎり、遠い過去へ「日本美術」の源流を探し求めるのは、赤いレンズの眼鏡をか
けているのを忘れて、赤い光の源を外部に探すようなものなのだ。
(
『境界の美術史』P48‑49
北澤憲昭)
美術史にまとめられたものが、すべての時代をひっくるめて文化の底流を形づくる一定
の原理というものはあるのだろうか。この問いはこれまで文化論という形で、くり返し論
じられてきた。これよりも興味深いのは、国家として美術史を中心とする美術政策を立て
る際、何の影響を受け、何の基準に依存、取捨の標準はどうであるかとの問題である。
以下は、明治時代を中心とし、近代の日本美術史を分析しながら、日本がこの変革の時
代に、どのように自分の伝統を自己認識し、外に発信したのかについて議論したいと思う。
2. 明治時代に美術分野における出来事
明治期に明治政府が美術にたいしてとった美術行政には、次の三つの柱があった。
(ア)殖産興業としての美術振興
212
(イ)古美術保護
(ウ)美術教育制度の確立
今回は美術教育制度という枠組みにある美術史の成立を中心に議論していこうと思うが、
美術教育制度の成立を論じるために、殖産興業と古美術保護政策を抜きにしては語れない
ので、まず明治時代の美術分野における影響のある出来事を見てみたい。
2‑1. 万博と殖産興業
十九世紀を通じて、芸術の所産は国民国家の形成のアイデンティティを高めるために利
用され、またそのために芸術運動の育成奨励がなされた。万国博覧会が開催され、ロンド
ン万博〔1815 年〕
、パリ万博(1876 年)はその象徴的存在であった。そして、博物館が作
られた。とくに世紀の後半急速度で、先進国の仲間入りをしたドイツは、首都ベルリンを
中心に次々と美術館、博物館を建設し、国威発揚に寄与した。民族や国民の知的伝統を確
認し、強化するために、国民文学史や国民美術史の構想が描かれた。伝統芸術は、外貨獲
得のための重要な手段となり、流行を創り出し、世界にその市場を拡大した。
日本もそのような世界動向と無縁でない。むしろ、日本の美術も殖産興業と国家建設と
結びついて発展してきたといえる。日本が万博に参加するのは、ウイーン万博(1873 年、
明治六年)であるが、この博覧会から日本の「美術」あるいは、芸術は始まった。この万
博に出品された日本の工芸品は好評を得て、以後日本の重要な輸出品となる。明治十年に
なると、
「内国勧業博覧会」が開催され、「美術」は海外への出品の人気にあわせて、視覚
芸術に傾いていく。ともあれ日本では、「美術」は産業奨励とともに、普及していった。
ヨーロッパ人によって、注目された日本の美術は伝統工芸品が中心であった。ワーグナ
ー(ウィンで活動したオーストリア建築家)の建言は、ヨーロッパでは外貨獲得の相当部
分を美術工芸が占めていることを説き、日本も博物館と絵画学校を設立して、その分野の
発展に力を尽くすべきであると説いていた。
このような殖産興業政策下の芸術育成の奨励は工部省のもとに工部美術学校を創設する
にいたる(明治九年)。美術そのものの育成というよりも殖産技術の招致が目的であった。
以下は日本の伝統工芸である漆器のヨーロッパ進出の事例を通して、万博が殖産興業への
影響を見てみたい。
「英和辞典」をひもとくと、小文字の japan には、思わぬ意味があることを知る。
「うる
し」あるいは「漆器」をさすのである。なぜ、こういう意味が生じたのだろうか。どうや
ら、江戸時代の日本とオランダの貿易と関係がありそうである。寛永年間から寛政年間ま
213
で、オランダ東インド会社からヨーロッパに転送した分を数えると、膨大な量におよぶで
ある。その結果、英語の japan という単語に「漆器」という意味が定着したと考えられる。
そして、明治四年に横浜を出て、欧米諸国を回覧することになった岩倉使節団は、行く
先々で日本の陶器や漆器の評価の高さに驚嘆する。また、一行がパリのフオテンブローの
宮殿を見学した折、日本の蒔絵の漆器を見い出したのである。その結果、岩倉一行は「漆
器ハ、日本ノ特技ナレハ、評判高シ」という自信を得て帰国の途についた。
文久二年のロンドン万国博覧会に浮世絵がもたらしたジャパニズムと相まって、岩倉使
節団はヨーロッパで日本の蒔絵をはじめとする工芸品が高く評価されているのを知る。こ
れに意を強くして、日本政府は六年のウイーン万博に参加をきめ、この万博で日本の工芸
品、とりわけ漆器の蒔絵が再び評価された。かくして、日本の伝統工芸品にたいする国内
の自覚も高まっていった。明治七年には、政府出資十万両を得て、起立工商会社が設立さ
れた。会社の目的は輸出工芸品の製作にあり、蒔絵はもっとも重視されていた。小川松民
という人が古典蒔絵の複製に専念することから始め、光琳派の技法を受け継ぎ、
「古物」を
題材とし、新しい境地を拓いたのである。
(
『漆の器を知る』
pp 190‑‑196 新潮)
2‑2. 国内勧業会と日本の美術館の誕生
「美術」は欧米を規範をする近代国家としての態様と力を急速に身につけようとする政
府によって有力な制度として整えられ、
「美術館」はその手段、装置として構想されたので
ある。では、当時の日本の場合どうだろうか。
初代内務大久保利通が「博物館の主旨」について語る「夫人心ノ物事ニ触レ其ノ感動識
別ヲ生ズルハ眼視ノ力ニ由ル
古人曰百聞一見ニ如カズト
人智ヲ開キ工芸ヲ進ルノ簡易
ナル方法ハ此ノ眼目ノ教えニ在ル」ということばに表れたとおり、「モノヲ視ル力」が民衆
を啓蒙し、ひいては国を富ますという発想が見える。この啓蒙主義と経済目標が一体とな
った発想に基づく政策の中で、もっとも輝かしく、効果的と考えられたのが博覧会であっ
た。この大久保の言葉は「美術館」に的を絞ったものではないが、博覧会の中心に「美術
館」が置かれたということに、
「美術」に向けられる政策側の期待の大きさを読みとること
が出来るだろう。
日本に「美術館」と名の付く建物が登場するのは、明治十年(1877年)のことであ
る。この年夏から秋にかけて東京上野公園で、第一回国内勧業博覧会が開催された。中に
第三区は美術館として、博覧会の目的を象徴している。この博物館はその名が示すとおり、
富国のための殖産興業を目的としていた。次は第一回内国の勧業博覧会の区分目録の「美
術」の項である。
214
第三区
美術
第一類
彫像術
第二類
書画
第三類
彫刻術および石版技術
第四類
写真術
第五類
百工および建築学の図案および装飾
第六類
陶磁器
ここにあげられる分野は、私たちもが造形芸術ないし視覚芸術と呼ぶ分野のものが含ま
れている。そしてその「製品の精巧にして其美妙なる所」と、美意識のようなものも感じ
させ、概ねその意味で「美術」という言葉が用いられているといえよう。ただ、全体とし
ては今の工芸的技術の分野に視線の重点が置かれているように見える。しかも出品者は売
価を付けて出品し、政府は出品者に売価の三分の一ほどの補助金を出したり、余剰金を下
げて渡したり、さらにはさまざまな褒賞を用意したという。この美術館は、程度のよいも
のを集めた物産館あるいは産業館という色合いが濃い。
博覧会の中で誕生した、
「美術」をみる人々はそれに積極的に関わることを求められてい
た。積極的に関わるとは、
「美術」を作り出すことに関わることである。ある部分、「美術」
が産業の一分野であったのだから当然かもしれないが、つまり、見る人々は美術品の生産
者の側に立つ。明治期の美術行政の三本柱が殖産礦業(博覧会)、古美術保護(博物館)
、
美術教育(東京美術学校)だったことは、古美術でない当代美術を扱う博覧会も美術学校
もそれを作る要点である。両手の違いは、産業としてと、芸術としての違いである。そし
て日本の芸術としての美術は美術学校を所管する文部省の美術行政の枠組みの中で捉えら
れていく。
3. 日本美術史の成立
3‑1. 欧米の日本美術観
以上、殖産興業政策を軸に、美術と経済、ジャポニスムなどの関係を見てきた。西欧の
ジャポニスムコレクションに、工芸品と浮世絵が圧倒的に多いことが観察できるが、日本
美術に対する関心は、特に工芸品に大きな比重があったようである。そのため、輸出を前
提とした殖産興業による美術の振興も、工芸品に重点がおかれていくことになる。一方、
振興のジャンルという点で言えば、明治二十年代以降に本格化した文部省の主導の美術教
育では、西欧の美術理念や価値体験を移植したことから、絵画と彫刻に比重がおかれた。
215
つまり、前者は西欧の経済的需要に、後者は西欧の芸術理念に、それぞれ照準を合わせて
いるのである。
そのため、この以降、絵画、彫刻は「芸術」として文部省の美術教育で、工芸は「産業
品」として農商務省の殖産興業で、それぞれ主導的に振興される構図が定着していく。の
ちに文部省で編纂された「日本美術史」から、殖産興業による当代工芸品がすっぽりと抜
け落ちているのには、こうした状況が背景として強く作用している。しかも西欧の価値体
系に倣った美術観では、ジャンル的に絵画、彫刻を上位、工芸を下位とし、内容的には宗
教美術やアカデミズムを上位、大衆美術、生活美術として、逆に低く位置付けられたので
ある。
こうした状況から、日本と西欧それぞれの日本美術観、日本美術史観も、大きく異なる
ことになった。日本のそれは文部省の美術教育に、西欧のそれは内務省のちの農商務省の
殖産興業に、それぞれ分立的に深く関係していたからである。古美術保護政策はその両者
に関係したが、西欧の日本美術史観へは間接的、消極的に関与したのに対し、日本のそれ
へは直接的、積極的に関与していた。つまり西欧の日本美術観は、日本の行政でいえば殖
産興業に、また美術品の質で言えば浮世絵、工芸品という「民」の美術に、強い関係をも
って形成されたと言える。日本の「日本美術史」が、西欧に示すべく「官」の美術で形成
されたのとは、正反対とも言うべき対象をなしていることが分かる。
(
『明治国歌と近代美術』P122 佐藤道信)
3‑2.「西洋美術史」に対する「東洋美術史」の構築
前文で、殖産興業政策を軸に、美術と経済、ジャポニスムなどの関係を見てきた。この
節に欧米の日本美術観に殖産興業と日本の美術行政が、どのように関係しているのかを見
てみよう。
日本人が外国人の注目の下で、もう一度自分の文化を振り返ってみてきた。「日本の美術
史」と「東洋美術史」も形づくられてきた。日本で、「日本美術史」
、「西洋美術史」「東洋
美術史」がはっきりと歴史認識体系として論じられたのは、明治二三年から三年間にわた
って、岡倉天心が東京美術学校で行った「美学及び美術史」の講議においてだった。明治
二五年の講議の筆記ノートが、東京芸術大学の図書館に残っているが、そのない様は日本
美術史である。逆に「日本美術史」のノートに、中国美術史がかなりの量で入っていたり
する。天心が「日本美術史」と「東洋美術史」を一体的に扱おうとする。
明治二十年に入って、近代国家としてのアイデンティティーを確立した日本は、「脱亜入
欧」を志向することになるわけだが、この時点での「東洋」との現実的な力関係はまだ曖
216
昧だったが、それをはっきりさせたのが日清戦争の勝利だった。ここから「東洋の盟主」
という意識が急速に台頭する。
「稿本日本帝国美術略史」の歴史の序文も「東洋美術」の歴
史を編纂できるのは日本であることを世界に宣言したのだ。日本における「日本美術史」
と「東洋美術史」が「日本東洋美術史」として一体的に成立し、展開してきたことにも、
皇国史観を共通の構築理念としたことが強く作用していると考えられる。日本東洋美術史
はいわば「思想」の産物としてあったとも言える。
3‑3. 国民国家と国民美術教育
昔のやり方がいきているところでは、伝統を認識したり、復活したりする必要はない(
「創
られた伝統」ボブズボウム)。しかし、国が変革する場合、国を統合するために、古代から
国という存在の連続性と正統性を証明するために、伝統が作り出されたのである。美術も
そのメカニズムの下にある。これを論じるためには「ボーダー」という概念を導入してみ
たい。
ボーダーという美術と国家について考えようとするとき、まず最初に検討すべきなのは、
国境という意味での「ボーダー」であろう。明治維新後、近代国家としての日本の領土は
千島列島と、沖縄という南北のボーダーを画定することで、一応のまとまりを得たのであ
った。ただし、いうまでもなく、これは領土の広がりという量的な問題にとどまる事柄で
はない。事柄は、文化の質にも深くかかわっている。これによって、日本国家はアイヌ文
化圏と琉球文化圏を明確なボーダーに内に含み込むことになったからだ。もっとも琉球に
関しては、それと本土との文化的差異は地方差にすぎないと、一般にはみなされがちであ
る。しかし、民俗学の指摘によると、本土の文化とひとしなみのできない独自性を沖縄の
文化は持っている。また、沖縄の言葉と本土の言葉は英語とドイツ語より開きが大きいと
認めている。単一言語と単一文化がしばしば民族の条件とされることからすれば、言語の
うえで大きな隔たりがあることは決定的である。
(
『境界の美術史』P104
北澤憲昭)
要するに、国境の南北を注目すると、日本は、多民族国家であるといわざるをえないわ
けであり、しかも、これは、国土の南北についていいうるばかりではない。文化的亀裂は
国境の奥深く、本土の内部においても認められる。このように見てみると、一つの領土、
一つの国家を共有する単一民族というイメージの裏に、実は様々な差異を覆い隠してしま
う。こうした「単一民族国家」への国家意志は、明治初期の造型史のうえにも大きな影を
投げかけている。近代化へ向けて大きく再編成されていった明治初期の造型史は、国民国
217
家「日本」の構図のプロセスと深い関わりを持つのである。国家と美術というと、歴史画
など主題性にかかわる事柄が、まず思い浮かべられるが、「美術」と称されるジャンルの編
成自体が、国民国家の形成へ向かうのと同じ意志の力、発想によって進められていったの
だ。
「美術」という分類枠の成り立ちに関して、第一に指摘しなければならないのは、この
言葉がーーそれから、この言葉に伴う概念もまたーー明治以前には存在しなかったという
事実である。
「美術」の語は、明治六年(1873 年)にウイーンで開かれた万国博覧会に明治
政府が参加するに際して、fine arts の西洋語の翻訳のために作りだされた言葉である。
つまり、日本において、
「美術」というジャンルは社会的な過程を通じて自然に形成された
のもではなく、文明開化のなかで、きわめて人為的に設定されたのであった。次に引くの
は、
「稿本日本帝国美術略史」の「序論」の一節である。
日本美術を創らせる人民は、所謂大和民族なり。此の民族の性格や、他の民族に於け
るが如く、人種的遺伝若しくは地勢風土等の感化に因りて、今や頗る複雑を極めたりと雖
も、二千畭年来万世一系皇統を戴きて、此の国に定住せるがゆえに、国を通じ、古今に恒
りて、一貫せる一種特異なる性質者からざるにあらず。そして此の性質や、帝国文明の種
子となり、文学美術等の成果とっはなれるものなり。古来哲学、文学、美術、工芸の何た
るを問はず、一旦邦人耳目に触れたるもの、悉く日本文化せられ、別種の趣を呈するに至
れる、又以て了するを得べし。
ここには、明治における「美術」と「日本」の成り立ちの秘密が明らかに語られている。
「日本」における「美術」と、「美術」における「日本」が相まって、
「日本美術」を、ボ
ブズボウムのいう「創られた伝統」として根付かせてゆくのだ。
「美術」と「日本」の歴史
的起源の集団的な忘却を引き起こしながら。
「美術」という分類枠の受容は、当初は、合理主義的な文明へ向けての啓蒙の一環をなす
ものであった。このことは、文明開化の教育装置であった博覧会において「美術」概念の
形成が緒についたことに示されている。しかし、明治十年以降、「美術」は、「日本」を主
題として引き受けることによって、徐々に非合理なものを宿すようになる。その非合理な
ものとはナショナリズムにほかならない。すなわち、啓蒙的活動としての分類作業のなか
で、
「美術」と「国家」は、複雑しかも緊密な関係を結んでいったのだ。こういうイデオロ
ギは新しい形態の国を統合するための対内の均質装置ともいえよう。
4. 今後の展望
218
井の中の蛙海を知らずかもしれないが、いままで日本美術のイメージについて聞かれる
際、まず頭に浮かぶのは浮世絵と七宝焼、焼き物などの工芸品だった。もちろん、こうい
う精巧な工芸品への愛着という個人的な要素も入っているだろうが、おもしろいことに、
こういった作品は模様と意匠が決め手で、作者についてはいっさい問わないというのも多
くの方々の経験だと思う。ところが、西洋の美術について聞かれると、私だけではなく、
高等教育を受けたことのあう人にとって頭の中にすぐ厳格な絵画の流派、代表的な作者お
よび名作品が浮かんでくる。これはある程度に明治時代以来、殖産興業ための対外工芸政
策と対内の国民統合するための美術教育の中身の使い分けによる結果ともいえよう。
いままで美術を視覚鑑賞の角度から接してきた私にとって、この論文を書くことをきっ
かけとして、美術教育者と美術政策を立てる側の角度からもう一度美術史の枠組みを考え
直すのが、とても興味深いことだった。特に「日本」という国号の下で、近代国家と国民
統合の観点から伝統の再構築という問題を分析することは、私にとって新しい近代文化研
究のアプローチ手段であり、これからもっと掘り下げていこうという意欲も湧かせてくれ
た。
この論文を書き始めて、四ヶ月ほど経った。この論文の完成はこの一年の留学生活に句
点を打つことになる。まだまだ勉強不足のせいで、中身の充実さともかく、論点と論証の
構成自身さえ、色々問題が残っていることを痛感している。こんな私を最後まで見捨てず、
いろいろなアドバイスをしてくださり、温かく守ってくださった中村先生に、またゼミで
お互いに指摘し合い、一緒に有意義な時間を送ったみなさんにも感謝したいと思う。
参考文献
「明治国家と近代美術」
「境界の美術史」
佐藤道信
「日本の美術」
北沢憲昭
神原正明
中村隆文
「文化の発見」
金田晋
『日本の創造力』
吉田憲司
2000年6月
2002年
2000年4月
T.レンジャー編
2000年
岩波書店
1999年5月
紀伊国書店
勁草書房
1992NHK出版
新潮社
2000年
京都大学学術出版会
E.ボブズボウム
「芸術学の100年」
『漆器を知る』
ブリュッケ
けいそう書房
「視線からみた日本近代」
「創られた伝統」
吉川弘文館
2000年
219
日本語中級の読解の読み指導法
ユスフ・シャルル・バングン
I.はじめに
日本語能力試験の二級と三級の認定基準を見てみると、三級が「基本的な文法・漢字(三
百時間程度)・語彙(千五百語程度)を習得し、日常生活に役に立つ会話ができ、簡単な文
章が読み書きできる能力(日本語を三百時間程度学習し、初級日本語コースを修了したレ
ベル)
」
、二級が「やや高度の文法・漢字(千字程度)・語彙(六千語程度)を習得し、一般
的な事柄について、会話ができ、読み書きできる能力(日本語を六百時間程度学習し、中
級日本語コースを修了したレベル)
」となっている。これから判断すると、日本での中級の
入り口というのは、日本語能力試験の三級の試験に合格できるぐらいのレベルということ
になる。
日本語を三百時間程度というのはどのぐらい学習すればよいのか。日本語学校の例でい
うと、毎日午前中の授業を受け、半年〜七ヶ月ほどたったくらいである。教科書でいうと、
「みんなの日本語」二冊終わった段階になる。
平成13年度日本語能力試験平均点等は以下の表のようになっている。
級
文字
―
語彙
聴解
読解
―
文法
総合点
1
69、2
66、7
125、3
261、2
2
64、5
58、0
103、6
226、1
3
65、8
49、0
128、6
243、5
4
69、8
51、0
125、0
246、0
上の表の結果を見ると、三級と四級の総合点は240点で合格すると、合格点を越えた。
しかし、二級と一級はまだ合格点をこえなかったものがたくさんいた。
それから、インドネシア教育大学日本語教育学科の学生は一年目に四級を受ける。二年
目は三級で、三年目は二級で、四年目は一級である。以下の表のインドネシア教育大学の
220
日本語学科の日本語能力試験結果は、1998年度から2000年度までの学生に対して、
サンプルを取ったものである。
学年度
四級(合格)
1998年度
13人
三級(合格)
二級(合格)
一級(合格)
13人
1人
1人
(受験者30人) (99年)
(00年)
(01年)
(02年)
1999年度
4人
0
0
(受験者35人) (00年)
(01年)
(02年)
(03年)
2000年度
20人
1人
‑
(02年)
(03年)
6人
24人
(受験者42人) (01年)
表からもわかるように日本語能力試験の結果は思わしくない。それから、その日本語学
科生の中、
「日本語能力試験の中で、どの分野が点が低いか」と20人に尋ねた。結果は以
下の通りである。
文字 −
語彙
0人
聴解
7人
読解 ―
文法
13人
上の結果から見ると、学習者の読解力はまだ良くなさそうである。非常に日本語能力試
験を合格した人は少なく、特に二級と一級はほとんどいない。いったいどうして中級日本
語が難しそうにみえるか。そして中級学習者に対して、どんな指導法がよいのかを調べた
いと思う。範囲が広がらないように、私は読解の読み指導に範囲を制限する。
Ⅱ.本論
まず、読解の定義から行く。木村(1982)は「文を読んで内容を理解することを読解と
いう。そのような能力、読解力を養成するための指導が読解指導である」(133 ページ)と述
べている。普通、読解指導は購読によって行われるものとされている。
「購読」というのは、
学習者にとっては難解な文章を教材として、教師が文の構造を分析したり、語句の意味を
解釈したりしながら、文章に盛られた内容を学習者に理解させるという作業である。
次に、日本語教育辞典によると、読解力とは、書かれてある文字と言う記号を目を通し
て認識し、その記号群の持つそれぞれの意味を総合的に把握する能力である。それを詳述
すると次のようである。
221
1.文字を読みとること
2.文字の意味を知ること
3.文字によって構成される語の意味を知ること
4.語と語との意味的、構文的関係を知ること
5.語とそれが含まれている句との意味的、構文的関係を知ること
6.語とそれが含まれている文との意味的、構文的関係を知ること
7.句と句との意味的、構文的関係を知ること
8.句とそれが含まれている文との意味的、構文的関係を知ること
9.文と文との意味的、構文的関係を知ること
10.文と段落との関係を知ること
11.段落と段落との関係を知ること
12.段落の大意や要旨をつかむこと
13.文章の大意や要旨をつかむこと
14.読み手に必要な内容かどうかを知るために全体をざっと読むこと
15.未習の語彙や文型などを前後関係から類推すること
16.書かれてある事実と書き手の意見とを判別すること
17.書かれていない書き手の意図や立場を探ること
18.書かれていないが当然予想される発展や結果を推量すること
19.読み手の価値判断を持ちながら批判的な読み進むこと。
私はインドネシアでの読解授業を受けたときは日本語の先生が文章を読む前に15分く
らい「プレセッション」を設けて、文章を理解するために必要な背景知識を示したり、学
習者間で知識の共有化ができるように、話し合いをさせたりしているが全然プレセッショ
ンをしないのもある。そして、先生は学習者に文章を読ませる。最初から最後まで読ませ
て、説明することもあるし、一段落だけを読ませて、説明することもある。時々説明する
途中、先生は語彙の意味、文型など質問される。文章を説明した後、要約をまとめる。そ
れから、学習者が理解できるか理解できないか、テキストに文章の質問を答えさせて、試
みる。
ところが日本大学で読解授業を受けたのは多少同じところがある。授業の後、先生は次
の授業の文章を始める前に読むように言う。それから「プレセッション」をして、先生が
文章を読まれる。読んだ後学習者に内容が理解できるかどうかを聞く。わからないところ
があれば、学習者が質問する。わかれば、先生は再び文章を読みながら、学習者に語彙の
意味、同意語、反意語、分脈などを聞く。それから、その時出てくる語彙、文型とかの説
222
明を配る。時間がまだあれば、それを説明するが時間が来られば、次の授業で説明する。
それから木村氏がよくわかる中級の教え方(70 ページ)に以下のように述べている。
内容が理解できるとは、どういうことなのであろうか。ここで、これまでに行われたきた
母語における読みの研究の中から、三つの読解処理のモデルを見てみよう。
(1)ボトムアップモデル、これは文章を読む場合に、単位の小さいものから大きいもの
へという順に処理するというものである。まず、文字を確認し、文字から成る語の意味を
理解する。次に語から成る句の意味、句から成留文の意味を理解し、最終的にそのような
単位の組み合わせである文章の全体の意味を理解するというものである。
(2)トップダウンモデル、文字通りに解釈すれば、ボトムアップの逆をいくわけである
から、より大きな単位から小さな単位に向けて読解処理をするということになる。しかし、
門田・野宮(2001, 14 ページ)は「このような処理は実際には不可能である」とし、
「トップ
ダウンモデルとはテキスト処理において、読み手が重要で、支配的な役割を果たす読み手
駆動(reader‑driven)のモデルと考えるのが適切である」と述べている。簡単に言うと、文
章を読むとき、自分が持っている様々な知識を活用して文章の内容を理解しようとしてい
るということである。
(3)相互作用モデル、門田・野宮(2001, 3 ページ)によれば、相互作用とは「読み手とテ
キストとの関係ではなく、読みにおける様々な構成技能間相互の処理関係」のことである。
これは、単語の意味を知らないために文章を理解することができないときには、自分のも
っている知識を使って何とか理解しようとし、逆に知識がないときには言語情報だけで文
章を理解しようとすることである。
これらを踏まえて、中級レベルの読解指導について文法的な読みはボトムアップ処理を
していると考えられる。日本語学習者が一般の日本人のために書かれた文章を読むときに
はトップダウン処理における読み手の知識が十分に活用できないということである。
最近の中級読解教材では、実際に文章を読む前に「プレセッション」を設けて、文章を理
解するために必要な背景知識を示したり、学習者間で知識の共有化ができるように、話し
合いをさせたりしている。学習者も母語ではトップダウン処理をしているはずですから、
それを日本語学習にも活用するようにするわけである。
これまで私は受けた読解授業はボトムアップモデルで、時間が十分あって、精読である。
しかし能力試験のための短い時間で解いてみる読解授業を受けたことがない。ところが日
本語教育辞典は以下のようにのべる。
読解は一般に精読、多読、速読の方法によってなされる。精読では1から13までのこ
223
とが特に日本語教育の初級、中級の場では、語彙や文型の習得は重要なものであるから、
文脈や場面の中でそれらの使われ方をみるという意味も含めて精読が行われるのである。
中級後半から上級になると、精読は評論文や説明文のような複雑な文構成を持つ文章につ
いてなされ、文構成の解明に基づく正しい内容把握を目指す、そこでは連帯、連用修飾句
の係方や指示語の指示内容、接続語の使われ方などが問題となり、更に16から19のこ
とについても注意しなければならない。基礎的な文型や語彙の学習が終わった中級以後の
段階では、多読、速読が精読に加えられる。多読と速読では12から15までが読み方の
中心となるが16から19も十分考慮しなければならない。日本語教育では多読、速読の
教材は少ない。多くの時間を漢字学習を費やすために、読解力の進歩は学習者に意識され
にくいのだが、語彙数の限定した多読,速読用教材いろいろの分野について作れれば、学
習者の読解力の向上の非常に役立つだろう。
III. まとめ
上に述べたように、日本語教育では多読、速読の教材は少ない。多くの時間を漢字学習
を費やすために、読解力の進歩は学習者に意識されにくいのだが、語彙数の限定した多読,
速読用教材いろいろの分野について作れれば、学習者の読解力の向上の非常に役立つだろ
う。ということで最初のページの平成13年度日本語能力試験読解の結果はなぜ思わしく
ないわけがわかった。大体読解の授業で行われている方法は精読だから多くの学習者は多
読あるいは速読には慣れていないのである。それから日本語能力試験のためにトップダウ
ンモデルあういは相互作用モデルはいいと思う。大きな単位から小さな単位に向けて読解
処理をするのは短い時間に読解問題を解いてみることができると思う。自分が持っている
様々な知識を活用して文章の内容を理解する。しかし逆に知識がないときには言語情報だ
けで文章を理解する。そう言う方法で早く解くことができると思う。学習者が多読または
速読に慣れているために特別な多読、速読を授業の後、これから始めるべきだろうか。
参考文献
小川
芳男・林
大、1982『日本語教育辞典』大修館書店
木村
宗男、1982 『日本語教授法
坂本
正、よく分かる中級の教え方、2002『月刊日本語五月』アルク
高木
京子、1980
研究と実践』凡人社
『中上級の読解教育』国立国語研究所
224
基礎から考える中東問題
ハーラ・マハムード
目次
はじめに
第1章
中東とは
第2章
中東問題とは
(1)第1次世界大戦とイギリスの駆け引き
(2)パレスチナアラブ人の独立
(3)第2次世界大戦と民族抹殺
(4)ユダヤ人とアラブ人のゲリラ合戦
(5)イスラエル建国
第3章
イスラエルという国
(1)イスラエルの国民
(2)イスラエル国籍のアラブ人
(3)イスラエルの言語
(4)イスラエルの周辺事情
第4章
パレスチナ自治区とは
(1)ガザ地区
(2)ウエストバンク(ヨルダン川西岸地帯)
(3)パレスチナ自治区の誕生
第5章
第二次湾岸戦争
(1)戦争終結後
(2)同時多発テロ
(3)イラク戦争
第6章
日本と中東間における「石油」
おわりに
参考文献
225
はじめに
かけがえのない子ども達や孫たちの未来に希望の光を求めて、 反戦・非戦の輪をひろげ
なければならない。
米英両国による連日のイラク攻撃。いたいけな子どもたちや女性、老人など、身を守る
すべもないイラクの民衆が、ハイテク兵器による爆撃におびえ、傷つき、倒れ、命を失っ
ている。
「核兵器や生物・化学兵器など大量破壊兵器をイラクから取り除き、テロの脅威を払拭す
る」
「独裁者(サダム・フセイン)を倒し、イラクに民主国家を樹立し、イラク国民を解放
する」と大義をかざし、
《世界の警察官》を自認する超軍事大国・経済大国のアメリカが、
国連の良識や平和努力、世界各国の慎重論を蹴散らして、独善的理論でイラクの攻撃を開
始した。まさに大量破壊兵器を排除するために、大量破壊兵器をもって攻撃している。戦
争で犠牲になるのは子どもやお年寄り、女性など闘うすべのない弱者たちだ。そして上官
に命じられた両国の若者たちだ。
しかし戦争を決意し、若者たちを戦場に送り出す最高命令者は、常に安全な場所に身を
置き、危険な戦場には出向かない。世界中に平和を求める反戦・非戦の大きなうねりが湧
き起こり、地球規模で広がっている。とはいえ、世界平和のために、いま自分にできるこ
とはなにか、と考えるとき、あまりに無力で、悲しい現実を思い知らされる。
しかし、地球規模からみれば、私達は《ケシ粒のような存在》であっても、平和への行
動を起こさねばならならない。毎日のニュースで、戦争の話を当たり前のこととして聞い
ている私たち若者は、どうしてこんなことになった?あるいは、これって本当はだれのせ
いなのか?と自問自答したことがあるだろうか
第1章
中東とは108
まず中東と一言に言っても、どこからどこまでを指すのかという疑問がある。実際に中
東の国々というのがあるが、その周辺諸国も含めると中東問題に関係している国はぐっと
増えてしまう。
本論文では中東問題を扱っているので、中東問題にかかわっている国々を中東の国とす
る。中東問題に関わるといってもいろいろな形がある。
まずは問題の中心国であるイス
ちゅう‐とう【中東】(Middle East)
アフガニスタン以西の西南アジアと北アフリカ北東部の地域の総称。本来は極東と近東の中間を指した。
[広辞苑 第四版]
108
中東の国々をさっと述べてみたら、
「ヨルダン・ハーシム王国(ヨルダン・ハシミテ王国)
、エジプト・アラブ共和国、クウェート、社会主義人民リビア・アラブ国、シリ
ア・アラブ共和国、レバノン共和国、イラン・イスラーム共和国、イラク共和国 、チュニジア共和国、サウジアラビア、トルコ共和国 、スーダン共和国、イエメン共和国、
アルジェリア民主人民共和国 、モロッコ王国、バーレーン王国、カタール 、オマーン、パレスチナ自治政府、モーリタニア、リビア、イスラエル
226
ラエルおよび隣国だ。そして、イスラエル内のパレスチナ自治政府を支援している国や、
イスラエルと闘争している組織を支援している国、および組織を支援している団体に加盟
している国などだ。もちろん、イスラエルを支援している国もあるが、これは主に欧米の
国であり、中東周辺の諸国と言う意味からは外れるので、中東の国とは呼ばないこととす
る。
第2章
中東問題とは
中東問題とは、ユダヤ人がイスラエルという国を作ったため、そこに住んでいたユダヤ
人ではない民族(アラブ人)が納得できないと言って、手段や主張の強弱はあるが、ユダ
ヤ人に立ち退きを迫っていることから両者の間で起きている摩擦のことだ。
国を持たない民族ユダヤ人は世界中に散らばっていた。しかし、やはり国家がないと自
分達の権利を保護してくれるものがないので、迫害を受けてきた。そのため、国家を手に
入れたくなったのだ。しかし、ユダヤ人が生まれた町はローマ帝国軍によって支配された。
その後ローマ帝国は滅び、当時はオスマン・トルコの領地になり、WWⅠの後はヨーロッ
パの植民地となった。では、これを分配してもらうために、あるユダヤ人がオスマン・ト
ルコの皇帝、そしてイギリスに願い立てした。しかし、イギリスにもいろいろ事情があっ
た。それは?
(1)第1次世界大戦とイギリスの駆け引き
イスラエルがあるパレスチナ地域は第1次世界大戦までオスマン・トルコの支配下にあ
り、アラブ人やユダヤ人達が普通に暮らしていた。そして、第1次世界大戦でオスマン・
トルコが滅びると、イギリスとフランスがこの地域を領土とし、イギリスはアラブ人には
独立、ユダヤ人には国家建設というひとつの地域にふたつの国家建設という矛盾した約束
をした。イギリスのこの行動は約束を守るつもりがないと取れ、意味がわからない。
その後、ヨーロッパで迫害されたユダヤ人たちがイギリスの言葉を信じてパレスチナの
地に逃げ込んできた。
(2)パレスチナアラブ人109の独立
とりあえずイギリスはアラブ人との約束を実行するため、ヨルダンという国を建国させ
109
パレスチナアラブ人
文字通りパレスチナに住むアラブ人だが、イスラエルが建国されるまで国家というものが存在しなかっ
たので、どこの国の人間かわかりにくいのだ。本人たちはイスラエル人になりたくないので、ユダヤ人
は我々の土地から出て行けと言っているけど、だからといってパレスチナがパレスチナアラブ人のもの
だとは言えないだろう。これが中東問題の発火点だ。
227
る。ヨルダン建国の背景は、レバノンとシリアがフランスの領土となり、これに負けない
よう中東地域へイギリスの影響力を強めるため、アラブを味方につけるための駆け引きで
もあった。イギリスはこのヨルダンをパレスチナの独立という名目で行なう。これにより
パレスチナアラブ人の国家が誕生したのであった。
しかし、ユダヤ人に対しては国家を建国せず、依然イスラエル地域はイギリスの委任統
治領であり、ユダヤ人は国家を持ったアラブ人とイギリスに対し敵愾心を燃やした。
(3)第2次世界大戦と民族抹殺
第2次世界大戦前夜、ナチスの迫害が激化し、このパレスチナ地方に大量のユダヤ移民
が押し寄せてくようになった。そして、富裕なユダヤ人たち(ヨーロッパからの移民)は
パレスチナアラブ人から土地を片端に買い取りはじめ、その様子は、まさにユダヤ人の国
が建設されるかという勢いであった。しかし、そういう大掛かりなことをすれば当然社会
問題(=中東問題の具現化)になってしまい、実質的に土地をなくしたパレスチナアラブ人
とユダヤ人の間に軋轢がはっきりと見て取れるようになった。第2次世界大戦が終結する
と、ドイツ領以外の世界中に散らばっていたユダヤ人は自分たちの立場をはっきりと認識
し、パレスチナの地に自分たちの国家建設を現実的に考え始めるのだ。
(4)ユダヤ人とアラブ人のゲリラ合戦
パレスチナのユダヤ人とパレスチナアラブ人の間ではついに社会問題が激化し、双方が
武装地下組織をつくりテロやゲリラ活動が行われていた。ユダヤ人過激派はパレスチナア
ラブ人だけではなく、国家建設の約束を果たそうとしないイギリスも攻撃対象にした。そ
して、イギリスはエルサレムの軍司令部を爆破され、さらに植民相モイン卿を暗殺される
にいたりついにさじを投げ、この地方の権限を国連に委ねた。
(5)イスラエル建国
だが国連に委ねられたからといって丸く収まる問題ではなく、早急に解決しないとユダ
ヤ人、パレスチナアラブ人の双方に死者が増大するばかりであった。そして、ついに国連
はイギリスの約束を実行しイスラエル建国に踏み切ったのだ。ユダヤ人達は狂喜した。し
かし、同時にパレスチナアラブ人を支持する周辺諸国はこれに反対し、イスラエルに攻め
込んだ。
第3章
110
イスラエルという国110
イスラエル(ヘブライ は「神と争う者」の意)
228
イスラエルという国は1948年に国連の決議によって建国を認められたユダヤ教徒の
国だ。以下において、現在のイスラエルという国を説明する。
(1)イスラエルの国民
イスラエルの国籍はユダヤ教徒であれば誰でも取得できる。しかも、2重国籍も認められ
ている。離散の民ユダヤ人は移民の国イスラエルに戻ってきたが、その離散2000年の
歴史の中で人種が多様化してしまった。つまり、ヨーロッパ系の白人ユダヤ人もいればエ
チオピアから空輸されてきた(ソロモン作戦)黒人ユダヤ人もいるし、さらに地元のアラ
ブ系のユダヤ人もいるのだ。
(2)イスラエル国籍のアラブ人
イスラエルが建国される以前からそこに住んでいて、建国後にイスラエルの国民となっ
たアラブ人もいる。彼らはイスラエル国籍のアラブ人と呼ばれる。彼らこそパレスチナア
ラブ人である。
しかし、ほとんどのアラブ人はイスラエル人になることが嫌で、国外に
逃げ出した。今でも周辺の国々は逃げ出してきたパレスチナアラブ人を難民として抱えて
いる。
アラブ系イスラエル人には兵役の義務はない。敵国と同じ文化と宗教をもつ彼らを兵士
として使うわけにはいかない。ただ、ドルーズ族やベドウィーン111などのアラブ系イスラエ
ル人は兵役についてはいくけども、これにはわけがある。ドルーズ族もアラブ人の部族で
ある。イスラームのドルーズ派の人々のことだが、この部族もイスラエルとは敵対してい
ない。もちろんイスラエルの国籍をもっている。つまりイスラーム・アラブ系イスラエル
人(注:ユダヤ人ではない)だ。
ドルーズの掟にいつでもその時の統治者に忠誠を誓う
というのがあり、イスラエルに対してパレスチナアラブ人ほど敵対していないのだ。その
ためイスラエル国防軍に入隊しているドルーズ族はイスラエルと敵対しているアラブ人か
ら見れば同じアラブ人に銃を向ける、裏切り者とうつるわけだ。
1旧約聖書に見えるヤコブとその後裔たる一二部族の総称。パレスチナの東南方荒地に起り、前千数百年
頃エジプトに居住した人々で、モーセに導かれてエジプトを出、カナンの地に至り、前一二五○年頃サウ
ルによってヘブライ王国を建設、前九二六年北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂。イスラエルは
前七二二年に、ユダは前五八六年に滅亡、バビロン捕囚の体験を経て、イスラエルの宗教はユダヤ教とし
て発展。
2シオニズム運動の結果パレスチナに流入したユダヤ人が一九四八年イギリスの委任統治終了とともに建
設した共和国。この国家の存在は、中東紛争やパレスチナ問題の中で焦点となっている。首都はエルサレ
ム。公用語はヘブライ語とアラビア語。面積二万平方キロメートル。人口四四三万(1988)。
[広辞苑 第四版]
111
ベドウィン族、ベドウィーン
アラブ人の部族でありながら、イスラエルとは敵対していない。なぜなら彼らはもともと遊牧の民なの
で、イスラエルが国を作ろうと自分たちには関係ないということなのだ。
229
さらに、イスラエルはイスラーム・アラブ系居住区で問題が起こると国防軍を派遣する
のだが、同じアラブ人であるドルーズ部隊が先鋒で行き、説得にあたるのだ。まあ、結果
は目に見えているが、ドルーズ族は双方の板ばさみになる。
イスラエルが戦争で占領した地区のうちウエストバンクとガザはパレスチナ自治区とな
っている。戦争前にイスラエルから逃げ出し、難民となってそこに住んでいた人々は、今
度はイスラエル国内にいる難民となってしまった。
彼らはいまだ難民だ。占領地にいた難民でないアラブ人は占領地の民だ。同じくイスラ
エル人ではない。
(3)イスラエルの言語
イスラエルの公用語はヘブライ語だが、場所によってアラビア語も通じる。もちろんア
ラブ国から移住してきたアラブ系ユダヤ人はアラビア語も話せる。この国では英語も使え
る。そして、ロシア語も通じる。ユダヤ人はヘブライ語を話し、イスラーム系アラブ人は
アラビア語を話す。つまり、イスラーム系アラブ人とユダヤ人のコミュニティーは分かれ
ている。しかし、ユダヤ人の社会にいる(労働力として)アラブ人はヘブライ語も話す。
(4)イスラエルの周辺事情
イスラエルは周辺のアラブ諸国と対立している。でも、最近は対外戦争もなくある程度
平和なのだが、国内のテロや北のレバノン国境あたりはまだ危険だ。
第4章
パレスチナ自治区とは
イスラエルに住んでいるパレスチナアラブ人が、独立をして自分達の国家を作りたいと
いう考えに基づいて、とりあえず作ることができた国家内の国家、つまり自治権だ。
(1)
ガザ地区(図1)
ガザはイスラエル国内と比べて、経済力はかなり低い。それにより物価も安いので、い
ろんなものがイスラエル国内へ売られている。労働力も同様に、パレスチナアラブ人はイ
スラエル国内への就労許可証を持って、日帰りの出稼ぎに出かける。
商品も人間も自治
区を出るとき、検問(国境)でかなり厳しいチェックを受ける。爆弾などがイスラエルに
持ち込まれないようにするためだ。
230
図1
イスラエル南部、エジプトとの国境ガザ地区 Powered by CIA
(2)ウエストバンク(ヨルダン川西岸地帯)(図2)
ウエストバンクは第1次中東戦争が停戦となり、ヨルダンの領土となっていた地区であ
る。そのヨルダン領ウエストバンクも第3次中東戦争でイスラエルが占領した。このため
ウエストバンクは(イスラエルの)占領地と呼ばれている。ウエストバンクがヨルダン領
の時、エルサレムは旧市街地(東)と新市街地(西)で半分になっていたのが、イスラエ
ルが完全占領した後、ここを首都と宣言した。
そのため、ヨルダン領だった地区がパレスチナ自治区となった今でもイスラエルはエル
サレムの権利を譲ってはいない。(元々、それが原因で起こった中東問題なので当然とも言
える。
)
231
図2 イスラエル東部、ヨルダンとの国境
ウエストバンク(ヨルダン川西岸地帯)
Powered by CIA :
(3)パレスチナ自治区の誕生
パレスチナ人を代表する組織(PLO112)とイスラエルによる、オスロ合意113に基づいて
112
PLO
国家と言う組織をもっていないパレスチナ・アラブ人を代表する組織として1964年5月に設立され
た。
232
イスラエル占領地の中の都市でパレスチナ自治政府が発足し、自治が始まった。この自治
合意では、ウエストバンク内の町をABCと3つのエリアに分け、自治を認めるというこ
とだ。Aエリアとは、パレスチナ自治政府による完全自治であり、イスラエル国防軍も撤
収している。
・Aエリアの町:
ヘブロン;
世界の中で最も古い町の1つだ。郊外にユダヤ人入植者の町キリアト・
アルバがある。
ジェニン /トルカレム/ベツレヘム; イエス・キリスト誕生の地であり、キリスト
教徒が多く住んでいる。
エリコ;
世界で一番古い町であり、最初の完全自治区となった。
ナブルス;
パレスチナ自治区内では一番大きな町だ。
ラマッラ;
アラファト議長のオフィスがある。
・ガザ地区: Bエリアの町とは一応の自治ではあるが、一部の町では治安を国防軍とパ
レスチナの共同で維持するということだ。
Cエリアの町では自治といっても、今までのようにイスラエルが社会基盤を支え、国防
軍も駐留するということだ。これはイスラエルにとって戦略的にも重要であり、イスラエ
ル人の植民も進んでいる町が対象となっている。
テロなどが起こるとAエリアに国防軍が報復攻撃を仕掛けたり、そのエリアを封鎖した
りする。ちなみにAエリアの中に国防軍が進入すると侵攻という言葉が使われている。
パレスチナ自治区の治安維持にはパレスチナ警察があたるが、この組織はPLOの軍事
部門であったPLA(パレスチナ解放軍)の兵隊がそのまま警官となった。警察署には空
き家となったイスラエル軍の基地があてられた。
そして、テロなどの報復にはこの警察署などがターゲットとなりイスラエル空軍のF−1
6によるミサイル攻撃などにさらされる。
第5章
第2次湾岸戦争
113
オスロ合意・・・パレスチナ暫定自治合意
PLOとイスラエルは中東和平の行き詰まりから、直接交渉しかないと判断し、ノルウェーの仲介で秘
密裏に交渉を行った。その結果、パレスチナ人による自治が暫定ながら5年間認められて、自治区はガザ、
ウエストバンクのエリコだった。
イスラエルとPLOはお互いを認証し、公的な立場で話し合いが出来るようになった。この陰にはオス
ロ合意の立役者であるノルウェーのホルスト外相がいた。しかしこの合意に賛成しないパレスチナ・アラ
ブ人もいた。ハマスやイスラミック・ジハードなどはイスラエルと手を組むPLOを裏切り者と呼び、こ
の合意を妨害するためならあらゆる手段をこうじると発表した。つまり、PLOも容赦しないということ
233
イラク戦争(第2次湾岸戦争)はアメリカ・イギリス連合軍がフセイン政権打倒を狙っ
て、イラクに侵攻し始まった戦争である。なぜ、いきなりアメリカ・イギリスはイラクに
攻め込んだのか。ブッシュ大統領は
イラクが大量破壊兵器を所有しているから、制裁を
与えるため。 と言っているが、なぜイラクが兵器を持っていてはダメなのだろうか。何か
本当の理由があるのではないだろうか。
(1)戦争終結後
湾岸戦争がイラクの敗戦で終了し、イラクが経済封鎖という形で制裁を受けると、イラ
クはますます経済的に困るようになった。元々イラン・イラク戦争での債務が払えなくて、
その借金を棒引きにしろとクウェートに侵攻したのだから、まったくもって泣きっ面に蜂
なフセイン大統領だった。湾岸戦争は停戦となったのだが、今度はイラク国内の反乱分子
であるクルド人やシーア派が蜂起し、フセイン大統領は親衛隊を持ってこれを鎮圧する。
アメリカはこれに対し、クルド人やシーア派の人々を保護する名目でイラク国内にイラ
ク軍機の飛行禁止区域を設定した。侵入してきた場合は問答無用に撃ち落すと言うわけだ。
さらにイラクには国連から査察が入り、大量破壊兵器やミサイルの廃棄を迫られた。
停戦を受け入れたのみで、他国に占領されたわけでもないのになぜここまで恥辱を受け
なくてはならないのか。イラクは国連からの圧力やアメリカ・イギリスからの攻撃に憤慨
しつつも、少しずつ自国の兵器開発を暴露せざるを得なくなった。こうして湾岸戦争後1
0年間、イラクはアメリカ・イギリスの空爆にさらされ、経済制裁によって国民は困窮し、
100万人以上の市民が犠牲となったのだ。そんな中、アメリカに対して同時多発テロが
発生した。
(2)同時多発テロ
アメリカがイラクへ空爆を行なった7ヵ月後の2001年9月11日、アメリカ同時多
発テロが起こった。これに対してアメリカは、仇敵オサマ・ビン・ラディン師が率いるア
ル・カエダと、その庇護国であるアフガニスタンを攻撃すると宣言し、アフガニスタンへ
侵攻した。この頃のアフガニスタンは以前にソ連の侵攻を受け、イスラームの人々が力を
合わせてそれを撃退した後、今度は民族同士の内戦へと発展していた。この内戦はパキス
タンのバックアップを受けたタリバーンが勝利し、国内は一応の落ち着きを取り戻してい
た。
そしてアメリカが攻撃を開始した。タリバーンがラディン師を匿っていると言うことは
前から分かっていたので、攻撃することにも躊躇しなかった。アル・カエダはアメリカの
攻撃から逃れるため、山中に身を潜めていた。またラディン師は時折アル・ジャジーラT
234
Vにビデオを送ってきては、世界中のイスラームにアメリカに対する聖戦を呼びかけてい
た。結局、アメリカはアフガニスタンのタリバーンを追い払い、アフガニスタンは反タリ
バーンの部族集団
北部同盟
が政権を受け持った。
戦争とは敵が降伏すれば終了するのだが、2001年12月の時点で、タリバーンは崩
壊していたが、アル・カエダは行方をくらました。そのため、アメリカはアフガニスタン
で作戦を継続し、ラディン師や側近の逮捕に全力を注いだ。ところが、行方はまったく掴
めず、世界中のメディアからラディン師の報道が消え始めた。
ラディン師を逮捕するための作戦が、失敗に終わったのだ。アメリカがプライドをかけ
て進めたこの作戦が失敗することはブッシュ政権の崩壊を招きかねない。そして、ブッシ
ュ大統領は年明けの2002年1月、イラク、イラン、北朝鮮を悪の枢軸国だと非難する。
この3国にとってはいきなり何事だ!?と思ったことだろう。なぜか非難されたイラクで
は査察問題の話し合いが再開されることになった。
アメリカはいきなり、イラクに対して以前より強く査察の協力を求め半ば脅迫状態とな
った。なんせ、ブッシュ大統領はフセイン大統領の追放まで公言し始めたのだ。これはも
う話し合いではない。そして、アメリカはイラクに空爆を再開した。イラクに侵攻する半
年前のことだ。アメリカの強硬な態度に対し、フランス、ドイツ、ロシアなどの大国を含
める世界の国々はイラクに対しての攻撃を反対すると宣言していた(日本は攻撃に賛成)。
まるで第3次世界大戦でも始まるかと言う勢いだったが、世界の国々もイラクを守るため
に軍隊を派遣すると言うことは行なわなかったのだ。そうこうして年も明け2003年と
なって、イラクは査察を受けてミサイルなどの廃棄を行なっていたのだが、未だ大量破壊
兵器は見つかっていない。
アメリカとイギリスはイラクへの空爆を続けていたが、そろそろ特殊部隊がイラクに潜
入し、来るべきイラクへの侵攻のため反フセインのクルド人達を味方に引き入れるため暗
躍していた。そして、2003年3月17日、ブッシュ大統領はフセイン大統領とその家
族のイラク国外への退去を通告する。査察に協力しろと言うことではなかったのか!?な
ぜ、フセイン大統領を攻撃対象とするのか?よくわからないが、大量破壊兵器が無いこと
に気がついたのだろうか?いいえ、そんなことは最初から分かっていたのだ。とにかく、
問題が摩り替えられ、アメリカはイラクに宣戦布告をしたのだ。
(2)イラク戦争
2003年3月20日、アメリカ・イギリス・オーストラリア連合軍はイラクに爆撃を
開始する。空爆は以前から行なっていたのだが、今回からは明確な侵攻するための攻撃だ。
国連のアナン事務総長はこれを非難した。世界中で連合軍への反対デモが相次ぎ起きた。
235
この時点で世界とまったく逆の反応をしていたのはイスラエルだった。そして、すでに爆
撃目標が無くなったのだろうか。2日後には連合軍がクウェートからイラクに侵攻、次々
と都市を制圧していった。
4月9日、バグダッドが連合軍によって陥落したが、フセイン大統領の出身地ティクリ
ートでは戦闘が続いていた。そして、4月14日、ティクリートも陥落し、イラクは連合
軍によって制圧された。ただし、フセイン大統領は行方がわからなくなってしまった。連
合軍の目的がイラクの占領ではなくフセイン大統領であったので、逮捕しなくては戦争の
目的が達せられない。
ところが、ラディン師と同様にアメリカはフセイン大統領を取り逃がしてしまっている。
イラクでの戦闘は終結したためブッシュ大統領は5月2日、イラクとついでにアフガニス
タンの戦闘終結宣言を行なった。両戦闘共に勝利宣言を出すことが出来なかった。ラディ
ン師のスケープゴートに使ったフセイン大統領を取り逃がし、アメリカは次にどうするの
だろう。テロは世界中で続いている。
第6章
日本と中東間における「石油」
戦争を経済問題と捕らえると分かるかもしれない。「国連総会」は、国連の最高議決機関
だが、実際は「常任理事国」が決定する。一応「一国一票」が建前だが、常任理事国が大株主
なのだ。日本のように「拠出金」や「分担金」を沢山出している株主も、アメリカに白紙委任
状を出しているので、
アメリカの票に加算される。常任理事国は「拒否権」があるので、
結局は意思決定の最高機関なのだ。アメリカは常任理事国で反対されねばよいので、総会
は目ではない。
イラクはサウジアラビアに次ぐ石油の産油国だ。石油は地球の構成物質で大量にあるの
だが、今のところ地表に一番近いところから出る中東地区が、 採掘コストが安いのだ。イ
ラクを攻撃して米軍基地を設置出来れば、石油産油国に拠点が出来、かつサウジアラビア
との 微妙な関係が出来るのだ。
北朝鮮の場合石油はないが、ここに米軍の拠点が出来ると、中国とロシアに対し睨みが
利かせられる。中国は将来超大国になる可能性が有って油断がならない、ロシアは 一癖も
二癖もある国で目の上のタンコブだ。中国とロシアはこれを阻止するため、北朝鮮に日本
との国交を回復させるよう働きかけたのだ。 イラクと北朝鮮を押さえれば、北半球の経済
的利権はアメリカが一手に握ることが出来るのだ。
おわりに
236
中東は現在、あらゆる意味で過渡期にある。冷戦の終焉、湾岸戦争、さらに昨今の中東
和平プロセスの進展は、中東域内システムを内外から規定してきた枠組みを大きく変化さ
せつつある。他方、中東各国では従来の経済開発路線が破綻し、かつ貧富の差の拡大、若
年層の失業の増大、都市化など、経済的 ・ 社会的矛盾が蓄積されている。また、国民の
不満や政治意識の高まりに加え、冷戦後の民主化に向けた世界的な流れもあり、各国は国
民の声を何らかのかたちで吸収する必要に迫られている。このため各国は経済、政治の両
面において改革に取り組んでいるが、今のところ思うような成果をあげておらず、むしろ
一部では矛盾が増大している。こうした状況を背景に、中東全体で進行しているのがイス
ラーム復興現象であり、特に政治面でのイスラーム的な価値の実現を目指したイスラーム
復興主義の台頭である。イスラーム復興の高まりは決して新しい現象ではなく、歴史的な
経緯に根ざしている。
これらの動きをめぐり「イスラーム原理主義」イコール「テロ」と見なされる。しかし、
イスラーム復興主義およびその背景にあるイスラーム復興現象は極めて多様で、宗教や社
会活動、あるいは経済活動に重点をおいている運動もある。また、武力闘争を否定する穏
健かつ現実的な政治グループも存在する。それ故、今求められているのは、イスラーム脅
威論や「 文明の衝突 」といった対立的な見方ではなく、多文明、多文化の共存をいかに
実現するかというアプローチである。その意味で、アジアにありかつ西欧に近い日本の立
場はユニークなものといえよう。
また、日本からみても過渡期にある中東やイスラーム復興主義の動向は大きな意味を持
っている。エネルギー資源の確保はもとより、中東の安定は国際社会全体の情勢に大きな
影響を及ぼしているからである。加えてイスラーム復興現象はイスラーム世界全体に広が
っており、その流れはアジアのイスラーム諸国などにも及んでいる。
中東・イスラーム世界に対する本格的な取り組みが日本で始まってから約 20 年が経過し
た。これを機に多文化、多文明の共存をはかるという視点から、中東・イスラーム世界に
対する総合的な研究の拡充、アジアのイスラーム諸国を含めた多角的な交流や援助の拡大、
教育・啓蒙活動の活発化などを目標とした政策が取られるよう提唱する。
参考文献
『事典イスラームの都市性』 亜紀書房
www.hotwired.co.jp/news/news/culture/ story/20020620207.html ‑ 40k ‐
english.aljazeera.net/NR/exeres/
『大人の参考書「中東問題」がわかる!なんだそういうコトだったのか!』大人の参考書
237
編纂委員会/編/青春出版社
『最新誰にでもわかる中東』小山茂樹
著時事通信社
english.aljazeera.net/NR/exeres/
http://www.jccme.or.jp/japanese/01/event/01‑03‑08.cfm
http://www.jsanet.or.jp/newship/html/05chemi/013.html
238
日本とニュージーランドにおける自殺要因の一考察
マッケンジー・キャシー
はじめに
自殺。この言葉を聞くだけでぞくぞくさせられる。この行為の影響は本人にだけではな
く、多くの人にも及ぶ。たくさんの人々がこの話題を無視しようとするが、高い自殺率と
言うことはいくつの国でも大きな問題になっている。ニュージーランドも日本もこうした
国の一つである。なぜこの文化も生活も習慣も大分違う国が同じ問題に悩まれているのだ
ろう。どういう点が同一なのだろう。また、どういう点が違うのだろう。この二つの国の
状況を比べて、お互いに学び合って、自殺率の低下する方法を見つけることができるので
はないだろうか。
この研究を始める前に、ニュージーランドの自殺に関する状態と日本の自殺に関する状
態がかなり似ていると思っていた。それがこの研究の基本になるはずだった。ニュージー
ランドでは長い間青年自殺は特に注目されている。大人の自殺確率が青年の三分の二ぐら
い。日本の場合もそのような統計が出てくると予想していた。受験の圧力が強すぎて自殺
する日本人の学生が多いと言うイメージがニュージーランドにはあるのだ。しかし、ちょ
っと調べてみると、それは日本における第一原因ではないと言うことを発見した。このレ
ポートはそれぞれの国の情報と主な原因に触れる。
統計
ニュージーランドの厚生省が今年出版した調査の答申(Suicide Facts, Ministry of
Health, New Zealand, 2003)によると、一番最近の統計は 2000 年のものだ。しかし、こ
の情報はまだ暫定的だ。なぜこの情報がまだ暫定的なのかと言うと、死因がまだはっきり
わからない場合がいくつか残っている。死因が自殺だと正式に言える前に、必ず検死官が
検死を行い、さらに、審問を行う。状況によるが、出来事が起こった一年後審問が行われ
る場合もあるそうだ。
日本の情報は「第五十三回
日本統計年鑑 平成16年」から取られた。2003 年の本で
あるにもかかわらず、2000 年の統計が一番最近のものである。確率の方は全国両性率しか
記されていなかったため、残りの確率が人口統計と主要死因、年齢階級別死亡者数の統計
を使って計算された。当初統計がもう概数にされていたので、全部の確率が近似である。
239
ニュージーランドi
日本ii
両性
458
30521
男性
375
21656
女性
83
8595
全国人口率
11.2
24.1
男確率
18.7
34.9
女性率
4
13.3
両性率
18.1
11.3
男性率
29.9
15.6
女性率
5.8
6.8
自殺での死亡者数
自殺率
青年自殺
(/100,000 人)
(15歳〜24歳)(/10 万人)
特定年齢に特有の確率
ニュージーランド
2003 年に一番高い確率を持っている年齢集団が二十五歳から二十九歳にかけての男性だ
った
(100,00 人に 45.0 人)。
その次は二十歳と二十四歳の間の男性だった。
その確率が 38.3。
女性の中でも二十五歳から二十九歳までの間の年齢集団も一番高い確率を持っている。け
れども、その年齢集団の女性の確率が 9.5 で、同じ年齢集団の男性の約五分の一だ。女性
では第二に高い年齢集団が十五歳から十九歳までの集団だ。
ニュージーランドの特定年齢に特有の確率
240
―
2000 年
日本
男性の中で一番高い自殺率を持っている年齢集団が五十五歳から六十四歳までの年齢集
団だ。100,000 人に 65.6 人だった。第二番目に高いのが四十五歳〜五十四歳の年齢集団で、
100,000 人に 54.4 人という確率だった。女性の場合は、30.9 という確率で、七十五歳以上
という年齢集団が一番高かった。六十五歳から七十四歳までの年齢集団が 100,000 人に 20.4
人という確率で、第二番目に高くなった。
比較分析
この二つの国の統計を見てみると、いくつかの大きな差異に気が付くと思う。一つは死
亡者数がかなり違うことだ。ニュージーランドの総計死亡者数は日本の数の約 66 分の1だ。
日本の総計女性数はニュージーランドの 100 倍以上になっている。もちろん日本の人口は
ニュージーランドよりずっと多く 30 倍くらいである。つまり、日本の自殺率がニュージー
ランドの確率の2倍以上だといえる。日本人の目から見ると、ニュージーランドの状況は
気にとめなくてもいいくらいだと思われるかもしれないが、世界の基準ではニュージーラ
ンドの自殺率もかなり高いと言うことが分かる。
日本の総計確率の全部がニュージーランドの確率の二倍以上で、日本の女性総計率がお
よそ三倍。けれども、ニュージーランドの青年確率は日本のものよりずっと高い。ニュー
ジーランドでの予防策動力はいつも青年達に強調されている。ニュージーランド人が自殺
について考えてみると、すぐ頭に浮かぶのがほとんどいつも青年自殺のことだろう。日本
の場合は中年や初老の年齢集団の統計が特に高い。取締役の男性の数が特に厄介なことだ。
なぜこの年齢集団率がこんなに高いだろう。それぞれのグループはどんな環境にすんでい
るのか。
特定年齢に特有の確率
70
60
日本男性
50
日本女性
40
ニュージーランド男
性
30
20
ニュージーランド女
性
10
上
75
以
-7
4
65
-6
4
55
-5
4
45
-4
4
35
-3
4
25
-2
4
15
514
歳
0
241
日本の突発的な流行
―
サラリーマン自殺
統計の部分を見ると、日本の中で一番高い自殺率を持っている年齢集団が男性の五十五
歳から六十四歳までの年齢集団だ。日本が不景気になってからこの年齢集団に入っている
サラリーマンが自殺することが大分増えてきた。不景気が長くなればなるほど、この年齢
集団の自殺率が高くなっている。以前は日本でほとんどの場合に、ある人が一つの会社に
ずっと勤めていた。財政的なことについて安心できた。でも今の状況は変わってきた。一
度就職が決まっても、退職するときまで仕事があるというわけではなくなった。1999 年に
日本の失業者率が急に4.6%まであがった。iii 色々な日本と外国の新聞記事によると、
圧倒的な借金も主な理由になっている。日本にはすぐお金を貸してくれる銀行のような会
社がたくさんあるのが、その借金の利率が20%以上というのは少なくない。iv仕事がなく
なったら返す方法も同時になくなる。日本では昔から自殺というのは名誉あることだと思
われていた。「引責自殺」という表現がこのことをよく表す。責任を自分の身に引き受ける
ため自殺するということが悪いと思われなかった。v自殺というのは良心の呵責を表現しか
たちとして認められてきた。このような考え方を持っている日本人はまだたくさんいる。
もうひとつの要因は日本人の破産に対する意見ではないだろうか。日本では破産という
のは犯罪と同じように見られていると言えるだろう。viそういうわけで、日本人は、他の国
の人が破産になったと法律的に認めてもらう状況と同じになっても、他の方法を探す。1999
年に、日本の破産に対しての法律が変えられ、現在では以前にくらべ破産しやすくなって
きたので、破産する日本人の数が増えてきたが、お金がなくなったのに破産したと認めな
い人がまだまだ多いらしい。東京の法律事務所によると、1987 年に日本では7万人ぐらい
だった破産が、今毎年およそ 16 万人が破産宣告を受けている。しかしその上、実質的に破
産したにもかかわらず破産宣告を受けたくない人は 150 万人ぐらいいると推定されている
vii
。
もうひとつの注目すべきところは、もし保険証券を一年以上持っていたら、日本の生命
保険会社が自殺の場合でもお金を出すことになっている。お金に悩む人にとってこの選択
はかなり魅力的に見えるかもしれない。東京の相談ホットラインのカウンセラーがこの状
況を考えている人と話すことは多い。viii自分の命を捨てたら、家族がお金に悩まなくてい
い。カウンセラーは、そういう人に、子供さんがお金よりお父さんをほしがっていると伝
えようとする。ixこうしたことを減らすように、日本の生命保険会社のいくつかが、1999 年
にこの一年という最低期間を二年に引き延ばした。家族がお金をもらえることが自殺の激
励となっているように責められて、この問題を改正しようとしている。x
もう一つ問題になっていることは日本人の男性がこうしたことについて他の人に話さな
いことが昔から指摘されている。現在大きな会社はカウンセリングセンターを作ってきた
242
が、会社員の多くが恥ずかしくて入りたいと言う気持ちを持っていない。誰かに見られて
どこかに記録されているかということが心配でならないのだ。xiお酒を飲んで忘れようとす
るのが一般に認められている。でも少しずつこの態度は変わってきている。製薬業者の
GlascoSmithKline P.L.C.が 2000 年に抗鬱薬を売る許可を政府にもらって、その時から色々
なキャンペーンによって欝病は治療できる病気と伝えようとしている。顧客は多いといわ
れる。xii
インターネット自殺
日本の不景気の影響は中年の男性にだけ及んでいるわけではない。最近日本でもう一つ
問題になっているのはインターネット自殺というものだ。以前は日本人の大人が子供たち
に「学校で頑張れば結局利益を得られる。良い会社に入れるよ」と言えたが、今はそんな
わけにはいかない。xiii何十万人の若者が社会から引き下がり、出かけずにずっと家で生活
している。xiv一方で、自殺に目を向ける人も少なくない。最近自殺したい人が一緒に自殺す
る人を探すためのインターネットウェブサイトがいっぱい出てきた。効力のある自殺方法
を書いているウェブサイトもたくさんある。自殺したいけど一人でするのは寂しいと思う
人が一緒に死ぬ相手を見つけられる。警察の調査によると、今年30人以上がこういうふ
うに一緒に死ぬ相手を見つけて自殺した。一方で、そのサイトで自殺する約束はしたけど
結局やめた若者もたくさんいるという。xv
恐ろしい点は、この自殺約束に入る人がよく平凡なことを理由に自殺する決心をする。
一人だったら、そこまで考えないかもしれないけど、他の人に支えられながら、自殺する
勇気を見つけて、急に人生を終わらせることに決めることも多い。表現の自由を取らない
ようにこのウェブサイトが禁止されてはいないが、このインターネット自殺の数がもっと
増えていくと、いつまでも無視はできないだろう。
ニュージーランド人の自殺理由
ニュージーランドの自殺率が世界の基準によってかなり高いのは、一つだけの理由とは
言えないと思う。色々な研究によると、よく出て来る要因がいくつかある。精神病が一番
主な理由だと言われる。その中で欝病が特によく起こる。ニュージーランドのクライスト
チャーチ市の「カンタベリー自殺群」の研究は自殺するまたはしようとする若者が下のよ
うな要因で共通しているということを発見した。
内在している精神病や心理的な悩みを持っていること
自殺未遂の前に認識できる精神的や適応の困難を表示すること
243
自殺未遂のすぐ前に大きなストレスや人生危機と出会うこと。この危機は感情的な関
係や支えになっていた結び付きが崩れたことと関係ある場合が多い。
機能障害な家族や不幸な環境に育ってきた傾向がある。
社会的又は教育的に不利な条件におかれた寄贈環境に育ってきた傾向もある。xvi
こういうことはもちろんニュージーランドでしか起こっていないわけではない。でも、
どうして生活の質がニュージーランドより低い国の自殺率がニュージーランドほど高くな
いのだろう。ある研究者の結果によると、アルコール中毒病増加、暴力率増加、虐待率増
加、一般的な家族や社会構造の変化、文化疎外、宗教的な影響の減少、高い失業者率、そ
して危険を冒すことも個人主義の増加ということも大事な要因となっている。xvii
宗教的な影響の減少
全歴史を通じて、宗教が人間の生活に影響を及ぼしている。ある国の自殺率と宗教の情
報を比べてみると、興味深い結果が出てくる。クウェートのようなイスラム教の国では自
殺することが禁じられているので、
こうした国の自殺率はゼロに近い(100,000 人に 0.1 人)。
xviii
ヒンドゥー教とキリスト教の国の確率が似ていて、100,000 人に 10 人ぐらい。日本のよ
うな仏教が強い国の自殺率がそれよりかなり高く、100,000 人に 17.9 だ。でも一番高いと
いうのは無神論の国で、100,000 人に 25.6 人という確率を持っている。長い間宗教が禁止
されている国もこの範囲に入っている。xix
二百年ぐらいに白人の改宗がニュージーランドに来て、マーオリ人を改宗しようとした
時から、ニュージーランドはキリスト教の国と思われている。しかし、最近実際にはクリ
スチャンの人数がだんだん減ってきている。以前はキリスト教の活動をしていないのに自
分をクリスチャンだと呼ぶ人が多かった。今は「政治的見地から見た正しさ」ということ
が大事になってきた。それはどういう意味かというと、どうでもいいという考え方が強く
なってきたということである。他の人の考えに同意しなくてもいいけど、何でも認めなけ
ればならない。以前キリスト教が禁じていた行動が差しつかえなくなった。ニュージーラ
ンドがだんだん無宗教の国になってきている。というわけで、キリスト教的にダメだと思
われた自殺が許されることのように思われてきたため今の自殺率が高くなったと言う人が
いる。
Tall Poppy Syndrome ―
高いケシ症候群
Tall Poppy Syndrome、直訳で高いケシ症候群、というのは日本語のことわざの「出る杭
は打たれる」と同じように、成功者や偉い人をけなすことを表す表現だ。ニュージーラン
244
ドでよく起こることだ。誰かがみんなより少しでも成功したら、すぐみんなにけなされる。
これはほとんどの場面に行われている。小学校からずっと、一人か二人の特に頭のいい人
がいて、いつもテストではいい成績を取る人は、ほとんどの場合に誰かにいじめられる。
成功するのが恥ずかしくなる。寂しくて成功したくなくなることもある。大人になって少
し楽にはなるが、このことが終わるわけではない。仕事場でもよくできる人の悪口がずっ
と言われている。こういうことは確かに個人的および全体として国にとって良いこととは
言えないだろう。なぜこんな考え方があるかよく分からないが、ほとんどのニュージーラ
ンド人はこれが当たり前だと思っている。これしかわからないから。けれども成功という
のが恥ずかしくなると、人生への意気込みも強くはなくなるだろう。これが欝病の原因の
一つになっているのだろうか。それならば高い自殺率の間接原因にもなっているではない
か。
ニュージーランドにおける文化疎外
民族性に関する自殺率
全人口
マーオリ族
マーオリ族以外の人
両性
458
80
378
男性
375
69
306
女性
83
11
72
全国人口率
11.2
13.1
ー
男確率
18.7
23.3
17.5
女性率
4
3.6
4
両性率
18.1
25.7
16.2
男性率
29.9
43.5
26.4
女性率
5.8
7.4
5.4
自殺での死亡者数
自殺率
(/100,000 人)
青年自殺 (15歳〜24歳)
(/100,000 人)
245
ニュージーランドにおけるマーオリ族とマーオリ族以外の人の自殺死亡率―1996 年‑2000 年
なぜマーオリ族の総計確率が他の人の確率より高いかという理由がいくつかあげられる
と思うが、マーオリ族というのは少数民族と言うことが一つの主な理由ではないかと考え
られる。白人が約二百年前にニュージーランドに来た時以来、マーオリ人の人口はだんだ
ん少なくなってきている。自分の国なのにマーオリ族が外国人のようになってしまった。
これは色々な個人的又は社会的な問題を引き起こす。外国に留学したことがあるひとは、
外国人として外国に住むという経験がどういうものか少しでも分かっていると言えるだろ
う。色々な大変なことがある。公用語は自分の母国語ではなくて、他の言語を勉強しなけ
ればならない。文化というのは、伝統的なことだけに影響を及ぼすのではなく、小さな日
常のことまで影響されている。例えば、他人の交流に対して一般的なやり方とか、どうい
うことが礼儀正しい、正しくないか、ミーティングのやり方、授業の教え方、どういう物
がスーパーで売られているかということも多数民族の文化の影響を受ける。しかも外国に
行く時は、この国は自分の国と違うからこういうことがあるはずということを前から意識
して行く人が多いだろう。期待に満ちている。今住んでいる外国のやり方と習慣がいやに
なる時もきっとあるけれど、その時は「自分の国もある。今の状況は一時のことだ。もう
少し頑張ろう」と考えて、自分を励ますことができる。でも、自分の文化が主である国が
なかったら、どう感じるだろう。自分の国なのに自分の文化も自分自身もばかにされるこ
とがあるかもしれない。それはかなり大変な状況ではないだろうか。自分の国でテレビを
246
付けると、
「外国人」ばかりが写っている。自分の民族や民族の文化の価値が認めていない
所にずっといると、自分も価値を持っていないと思ってくるかもしれない。自分の国に所
属している感じがなかったら、他に認めてくれる所があるだろうか。現在の状況から逃れ
る道がないように見える場合は予想を絶する。
このような差別を無くすためにどうすればいいだろう。大きな障害の一つになっている
のは、ある国や地域の支配民族がほとんどの場合に持っている支配的立場を剥奪されたく
ないという事実だ。そのためこの状況を改善するために、まず皆が自分の地位を守ること
ばかり考えず、他のバックグラウンド(人種、文化など)を持つ人々のことを認めて行く
必要があるだろう。
対策
しかし、そういう欠点にもかかわらず、ニュージーランドの青年自殺は 2000 年の五年連
続減っている。2000 年の確率は 1986 年から一番低い。ニュージーランド政府が色々な対策
を使って減らそうとしている。開業医や学校の先生は自殺したい衝動に駆られる人が分か
るようになれるために、誘導指標を作ったり、みんなの自殺についての意識が深まるよう
に英語とマーオリ語の小冊子を作ったりしている。精神病を治療する自殺で家族のメンバ
ーや友達を亡くされた人のためのプログラムもある。
おわりに
自殺というのは深い話題で色々な研究方法がある。このレポートはただ基本の状況とそ
の状況の理由の少ししか触れていない。この研究を基本として、他にたくさんの研究がで
きるだろう。例えば、この国にどんな予防策があるのかだけではなく、この予防策の効果
について調べることに非常に興味がもてる。どんな予防策があった方がいいか。さらには、
日本とニュージーランドだけではなくて、他の国の情報も比べればいい。しかし、それぞ
れの国における情報の集め方やどの時が自殺だと言えるかとの決め方は違うため、国際比
較は本来的に疑わしい。このことを明記しながらこのレポートを読み進めていただきたい。
i
Ministry of Health .2003. Suicide Facts: Provisional 2000 Statistics (all ages). Wellington: Ministry of
Health
ii
総務省統計局統計調査部国勢統計課「国勢調査報告」
「国勢調査報告速報シリーズ 抽出速報集
計結果」
(
「第五十三回 日本統計年鑑 平成16年」に引用されている)
http://www.stat.go.jp/data/nenkan/index.htm
iii
World: Asia-Pacific Japan on suicide alert. BBC News. Friday, July 2,1999.
http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/asia-pacific/383823.stm
247
iv
Bremner, B. Business Suicides: Asia’s Death Trap. Business Week Online, June 3, 2002
http://www.businessweek.com:/print/magazine/content/02̲22/b3785141.htm?mz
v
World: Asia-Pacific Japan on suicide alert.
vi
Bremner, B. 2002
vii Bremner, B. 2002
viii
Bremner, B. 2002
ix
Bremner, B. 2002
x
Japan insurers extend payment date for suicide benefit payouts. Oct 26, 99
http://www.insurance.com.my/zone̲industry/newsbrief/life̲insurance/1999/oct26
xi
Zielenziger, M. In Japan, suicides soar as economy sags. Knight Ridder News Service. Jan 23, 2003.
http://www.philly.com/mld/inquirer/news/nation/5009173.htm?template=content
xii
Zielenziger, M.
xiii
Faiola, A. 2003. Internet Suicides Plague Japan: Young People Make Death Pacts With Strangers.
Washington Post Foreign Service. http://www.noblenatl.org/news/publish/printer̲659.shtml
xiv
Faiola, A. 2003.
xv
Faiola, A. 2003.
xvi
Beautrais A. 1998. A Review of the Evidence: In Our Hands, The New Zealand Youth Suicide
Prevention Strategy. Wellington: Ministry of Health. (2003. Suicide Facts: Provisional 2000 Statistics
(all ages). Wellington: Ministry of Health に引用されている)。
xvii
Youth Suicide Prevention. Ministry of Youth Affairs. Wellington: New Zealand.
http://www.youthaffairs.govt.nz/pag.cfm?i=184
xviii
Bertolote, J.M. & Fleischmann, A. 2002. A global perspective in the epidemiology of suicide
xix
Bertolote, J.M. & Fleischmann, A. 2002. A global perspective in the epidemiology of suicide
248