第62回 マグダラのマリア ~絵画とともに聴く古楽

~絵画とともに聴く古楽
須田 純一 (銀座本店)
第62回 マグダラのマリア
モンテヴェルディ:マッダレーナの嘆き
ラケル・アンドゥエサ(ソプラノ)
ヘスス・フェルナンデス・バエナ
(テオルボ)
〈ANIMA E COPRO〉 AeC002 輸入盤 ¥2,394(税込)
アルバム「IN PARADISO(楽園にて)」に所収
キリスト教は一神教ですが、唯一の神以外にも
顔。挑発的な目つきや口元。正直言うとあまり悔
多くの聖人や聖女がおり、その人物たちを崇め
い改めた人物には見えません。それでもこの絵
る、ある意味日本の神道やギリシャ・ローマの宗
が美しく魅力的な作品であることは間違いない
教のように、多神教的な部分も持っています。
も
のですが、
もしかすると王侯貴族の婦人たちが、
ちろん唯一の神を頂点とはしているのですが、信 「マグダラのマリアでさえこんなに着飾っている
じる側としては最高位の神は恐れおおく直接拝
のだから、あとで悔い改めさえすれば私たちだっ
めないので、間をとりなす存在が欲しくなるので
て着飾っていいのよ」なんていう発想からクリ
しょうか。それが聖人であったり、天使であったり
ヴェッリに依頼して描かせたのかもしれません。
するのかもしれません。そうした存在の最たる人
そう疑いたくなるような作品なのです。
このように
物は聖母マリアなのですが、並ぶくらい人気の聖
聖なるものと俗なるものが融合した存在がマグ
人がマグダラのマリアです。
ダラのマリアなのです。
マグダラのマリアという名前は少しでもキリス
さて、音楽においてもマグダラのマリアは頻繁
ト教関係の美術作品をご覧になっている方なら
に登場します。中でもイタリアでは、マグダラのマ
ご存知でしょう。古くから非常にポピュラーな存
リアを主人公としたオラトリオなども作られてい
在で、絵画作品をはじめ、マグダラのマリアを
るわけですが、
あのモンテヴェルディにも
「マッダ
扱った相当な数の作品が残されています。
レーナの嘆き」
という作品があります(マッダレー
では、そのマグダラのマリアですが、いったい
ナとはイタリア語におけるマグダラのマリアのこ
どんな人物なのでしょうか。
それは新約聖書を読
と)。
これは「アリアンナの嘆き」
という作品を基と
んだだけでは、ほとんどわからないのです。実は
する宗教的作品です。原曲の「アリアンナの嘆き」
マグダラのマリアとは、聖書中に登場する他の女
は失われたオペラからの一つの歌で、当時絶大
性(マルタの姉妹であるベタニアのマリア、罪深
な人気を誇ったらしく、モンテヴェルディ自身で
い女など)が一緒になり、かつそこに聖書以外の
多声部のマドリガーレにしたり、別の宗教曲に仕
伝説が加わった複合的存在だったのです。
立て直したりしています。この「アリアンナの嘆
そうして作られたマグダラのマリア像は、娼婦
き」はギリシャ神話を題材とするもので、
アリアン
に身をやつしていたところを、キリストによって
ナとは英雄テセウスがクレタ島の迷宮に住む牛
救われ、悔い改めて忠実な使徒となった、
という
の頭を持つ怪人ミノタウロスを倒すため、
ダイダ
ものでした。罪を犯しても悔い改めれば救われ
ロスが作った迷宮に挑んだ時、道に迷わないよう
る。
この 改悛 という行為はキリスト教において
に糸玉を渡したという有名なお話しに出てくるア
極めて重要な要素なのですが、マグダラのマリア
リアドネのことです。
ミノタウロスを倒し、迷宮か
はその格好の規範とされるようになったのです。
ら無事帰還したテセウスはアリアドネとともに、
ナ
そうしたマグダラのマリアを扱った絵画には、 クソス島へと渡ったのですが、テセウスはアリア
改悛する場面を描いたものが多いのですが、中
ドネを裏切り、島に置き去りにしてしまいます。
こ
には娼婦だったということでかなり着飾ったもの
の「アリアンナの嘆き」は島に置き去りにされたア
だとか、荒野でほとんど何も着ないで暮らしてい
リアドネが自分を裏切ったテセウス
(歌詞中では
たというエピソードから衣服を着ていないものだ
テゼオ)に対して歌った嘆きの歌なのです。最初
とか、そのような作品が相当数存在します。
これ
の歌詞は「私を死なせて下さい」
となっています
は彼女が女性であることをかなり意識的に表現
し、
「ああ、私のテゼオ」
と実に甘美な旋律で訴え
しており、中には豪華な衣服を描くための、
また
かける部分もあります。神話の中の話とは言え、
はヌードを描くための、言い訳ではないかと思わ
捨てられた女性の心情を歌ったこの作品を、キリ
れるような官能的な作品さえ存在します。今回取
スト教の聖人であるマグダラのマリアの作品へと
り上げたイタリア・ルネサンス時代の異才クリ
歌詞を替えただけで転用してしまうのですから、
ヴェッリの作品もその一つと言えるでしょう。
ご覧
これは音楽における聖と俗の融合の代表例と
いただければすぐにお分かりいただけると思い
言ってもいいものでしょう。曲中で、
「ああ、私のイ
ますが、マグダラのマリアは非常に豪華な衣服、 エス」などとまるで恋愛歌のようにマグダラのマ
装飾品を身につけています。香油を塗ったという
リアは歌いさえしています。
ギリシャ・ローマ文化
エピソードから香油壺を持っていますが、その右
をキリスト教化していたユマニスム(人文主義)
手のしぐさもなにやら思わせぶりで、スカートの
全盛期にあって、世俗の愛(男女の愛)は容易
裾をつまむ左手のしぐさも同様です。そしてその
に 聖なる愛(神への愛)に結びつきます。そうい
カルロ・クリヴェッリ:マグダラのマリア
(オランダ、アムステルダム 王立美術館)
えば、マグダラのマリアはイエスの伴侶だという
表現もあります。
「ダ・ヴィンチ・コード」のように二
人は結婚し、子供さえいたとする極端な説さえあ
るのです。
マグダラのマリアはイエスが十字架に架けら
れた時に、その場にいたとされています。そうし
た、今は亡きイエスを思って悲しみに暮れている
マグダラのマリアの心情を、モンテヴェルディは
強い感情表現を有する世俗の音楽を転用するこ
とによって、強烈に提示しているのです。そうした
モンテヴェルディの意図を現代で見事に実現し
ているのが、スペインの古楽界が誇る歌姫ラケ
ル・アンドゥエサです。彼女は、
テオルボ一本の伴
奏で「マッダレーナの嘆き」
を歌っていますが、そ
の歌いようは「これぞ、バロック歌唱!」
と叫びたく
なるほどすばらしいものです。モンテヴェルディ
の音楽、そして表現を理解し、宗教曲だからと
言って落ち着いた表現にすることなく、曲の持つ
強烈な感情表現をそのまま聴き手に伝えていま
す。マグダラのマリアの嘆きが心に突き刺さるあ
まりにも濃密な10分間。世紀の名歌唱だと私は
思います。
時代によって立場によって、様々な条件状況に
よって、そのイメージが作り上げられるマグダラ
のマリア。
「ダ・ヴィンチ・コード」を筆頭に現代に
お いても様 々なシ ーンで そ の 存 在 がフィー
チャーされています。様々な人々の意図に操ら
れ、存在自体が変化させられるという数奇な運
命をたどっている。そんな存在だからこそ、マグ
ダラのマリアは絶大な魅力を持ち得るのかもし
れません。
※マグダラのマリアについては、岡田温司著「マ
グダラのマリア∼エロスとアガペーの聖女」
(中
公新書)を参考にしました。イタリアの芸術作品
を主な手掛かりにマグダラのマリア像の歴史的
変遷をたどる好著です。
ご興味のある方はぜひ
お読みください。
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ご了承下さい。