Untitled - Zen in War book by Gabor Fabricius

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1
Zen in War 目次
【前書き】
5
【序論】
6
【第1章】
太平洋80年戦争の序章
10
【第2章】
太平洋80年戦争の年表
17
【第3章】
ほぼ全ての戦争は平和条約から始まる
20
【第4章】
旅順の戦い
22
【第5章】
ルーズベルトの棍棒威圧政策
25
日本の対華21カ条要求
26
【第6章】
欧州大戦と太平洋地域に与えた影響
28
【第7章】
国際連盟
34
【第8章】
端から端まで1万マイル―広域支配の野望
40
ワシントン会議
41
中国における事件と衝突
47
麻薬軍閥
48
蒋 介石 ̶ またの名は「小切手を現金化してくれ」大元帥
51
【第9章】
【第10章】 スターリン・ドクトリンとイル・ルース
西安事件
59
メディア王、イル・ルース
60
【第11章】 上海戦と南京戦
64
南京戦とアジアのカティンの森
67
徐州会戦
73
【第12章】 武漢の戦いとハルハ河戦争
74
武漢の戦い 1938年6月11日∼10月27日
74
ハルハ河戦争 (ノモンハン事件) 1939年5月11日∼9月16日
75
天津事件1939年6月14日∼8月20日
76
インドシナで起こった一連の事件
80
【第13章】 フランクリン・ルーズベルトのガンビット(先手)
真珠湾の年
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59
83
87
2
【第14章】 ニイタカヤマノボレ
105
フィリピンの戦い
107
戦争捕虜の待遇
109
マレーシアでの戦争捕虜の待遇についての俗説
114
【第15章】 チャーチルとマレーの虎
116
マレー作戦
120
スリム・リバーの戦い(1942年1月6日∼8日)
120
シンガポールの戦い、マレーの虎
122
ビルマの戦い―日本軍のビルマ進攻と連合軍の退却
126
フランクリン・ルーズベルトの1942年2月2日付命令
128
【第16章】 太平洋の小さな島々をめぐる戦い
130
ジャワ海の戦い(スラバヤ沖海戦)1942年2月27日
130
珊瑚海海戦
131
ミッドウェー海戦 (ハワイ語 ピヘマヌ・カウイヘラニの戦い)
136
ガダルカナル島の戦い
140
アッツ島・キスカ島の戦い
143
タラワの戦い
145
クェゼリンの戦い
148
エニウェトクの戦い
149
アドミラルティ諸島の戦い
151
ブーゲンビル島の戦い
153
サイパンの戦い
154
アンガウルの戦い
158
パラオ、ペリリューの戦い
160
硫黄島の戦い
163
鉢山の有名な星条旗
165
日本が受けた従来型焼夷弾攻撃
168
沖縄戦
171
【第17章】 広島・長崎
180
【第18章】 忍びがたきを忍び
189
【第19章】 満州戦
197
【第20章】 台湾戦
203
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3
台湾人の最期
203
二・二八事件
211
【第21章】 中国戦
214
1945∼1949
214
朝鮮半島の戦い1945∼1950
220
【第22章】 インドネシア戦
230
【第23章】 インドシナ戦
234
【第24章】 ディエン・ビエン・フーの戦い
244
【第25章】 南ベトナム戦
248
【第26章】 サイゴン陥落・解放
257
【第27章】 結論―太平洋80年戦争がもたらしたもの
264
【著者について】
268
【文献】
271
【オンライン文献】
272
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4
【前書き】
ハンガリーで生まれ、1956年のハンガリー動乱で母国を離れてから亡命者としてデン
マークで育った私は、1971年に来日し、思いがけなくこの国に心のよりどころを見
つけることができた。そして、この国に息づく常に争いを避けようとする禅のモラル
に触発され、次のような思いを持って本書を執筆することとした。
「死者に敬意を示し、生者を戒めよ」
本書は日本、中国、韓国、ベトナムをはじめ、米国及び太平洋沿岸諸国の高校生・大
学生に向けたハンドブックとなるよう執筆したものあり、近代の歴史を理解するに
は、できる限り多角的な視点を持ってその全体像を知るべき、という私の信念を彼ら
に託すものである。今後、本書に続くかたちで、より優れ秀でた多くの歴史書が世に
出ることを望む。
現代のアジア・環太平洋の進歩的かつ実際的な諸国に暮らす若者たちなら誰でも、血
塗られた20世紀太平洋地域がどのような状況であったのか、そこでの現実とは、真実
とは何であったのかを知りたいと望んでいるはずだ。いつか必ず、うわべだけの国家
的、政治的、宗教的、民族的利害に惑わされることのない歴史的真実の探求が成され
ると私は確信している。
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5
【序論】
歴史上の紛争や戦争が、政治的、宗教的利害にまみれた偏見や、勝者を賛美し敗者を
冒涜する行為から解放されて明らかになり、正当に考察されるには100年という時を
待たねばならないのが常である。
太平洋戦争も例外ではなく、近年までこの武力衝突に関する歴史研究の大部分は、当
然のように一方的な立場からなされており、日本を唯一の侵略者とし、他の当事国は
全て犠牲者と決めつけるものだった。
しかし、それは歴史を記す上で正しい在り方ではない。
勝利に固執する浅識な歴史学者が著した幾千もの著書や論文が太平洋戦争の通説と
なっているが、彼らは往々にして二つの事実を無視している。それは、「戦争とは異
なる手段をもってする政治の継続にほかならない」(クラウゼヴィッツ)という事
と、日本と米国は共にそれぞれの国策を遂行したにすぎないという事だ。実際、これ
らの結果として起った大小多数の事件が太平洋を挟んだ二つの強国間の壮絶な軍事衝
突へと発展し、最終的には今日のアジア・環太平洋における政治的、経済的、軍事的
景観の全面的な再編及び変容をもたらしたのである。
どのような武力紛争においても、一番の犠牲者は「真実」である。ゆえに本書では侵
略者、戦犯、野蛮人、狂信者、ファシスト、軍国主義、帝国主義といった言葉の決め
つけをしないよう心がけた。1603年から300年もの間、戦いが皆無であったことが
示すように、歴史的に平和で進歩主義的な日本が、同盟国も持たずに(ドイツは実際
には中国国民党の政府と同盟を結んでいた)、いかにして、なぜ、米国、英国、カナ
ダ、オーストラリア、中国、そして後にはソ連までもが加わった圧倒的に戦力の勝る連
合国を相手に歴史上最も凄惨な戦闘の一つへと突入していったのかを解明しようと本
書では試みた。
当初は日中間の紛争であったものが、米国及び英国との本格的かつ全面的な戦争へと
発展すると、日本は、近代的な海軍・空軍の卓越した力を持って、容赦なく西洋キリ
スト教世界の優越性伝説に永遠に終止符を打った、というのが、今日歴史に記録され
!
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た事実である。そして後に、これがきっかけとなり、アジア・アフリカ諸国は、あら
ゆる植民地主義や外国の支配に対して、武力をもって立ち上がったのである。また、
蒋介石、李承晩、ゴ・ディン・ジエム、フェルディナンド・マルコスを含む米国の支
援を受けたアジアの指導者がことごとく失脚したことで、米国は最終的に1980年代
の末には、極東及び主要経済大国に対する影響力を失ったことも明らかになってい
る。
従って、真珠湾攻撃から広島原爆投下に至る一連の出来事は、当時展開していた大規
模で複雑な覇権を重視した地政学的シナリオの一部に過ぎず、これを第二次世界大戦
と呼ばれる
か5年間を無理矢理一括りにして、歪めてはならない、というのが私の結
論だ。
このような争いを明確に理解しようとするならば、まず対立の発端と終焉を再検討
し、それによって見直された名称を正確に示す必要がある。例えば、ヨーロッパの歴
史書で使用されている「第二次世界大戦」、1941年からの日本公式呼称の「大東亜
戦争」、中国、韓国の歴史書に従った名称の「15年戦争」などである。なぜなら太平
洋戦争は1931年の満州事変や1941年の真珠湾攻撃で始まったのではなく、1945年
の広島・長崎の原爆投下で終わったのでもないからだ。
政治的な因襲や、うわべだけの歴史認識から離れ、多くの戦争は和平条約とともに始
まるという事実を受け入れるなら、この戦争の発端を1895年の日清講和条約(別
名、下関講和条約)、終結を1975年のサイゴン陥落(またはサイゴン解放と見解に
よって呼称が異なる)としても差し支えないだろう。
この80年間は千変万化する当事者とその利害の間で、条約や軍事同盟が次々に結ば
れ、反乱、クーデターがあちこちで起こり、一つの争いが次の争いへと繋がる大小の
戦争や武力紛争の連鎖であった。アヘン密売者、カリフォルニアの砂糖バロン(砂糖
産業を支配するエリート層)、新興の巨大石油企業や実業家を含むあらゆる利害関係
者が、ますます過熱する環太平洋東アジアの新植民地主義の野望に突き動かされてい
た。中でも重要な役割を果たしたのが、米国、英国、フランス、オランダ、日本、ロ
シア/ソビエト連邦、および中国である。
!
7
米国では、伝説的大統領セオドア・ルーズベルトが『アメリカの世紀』を目指し国の
方針を定め、1900年10月29日に次のような発言をしている:
「私は、アメリカ合衆国が太平洋地域の覇者になる日が来る事を願っている」
実際、彼は西方への積極的且つドラマティックな領土拡大を正式に制度化し、手始め
に太平洋岸の主要港であるシアトルとポートランドがあるオレゴン州を英国から段階
的に平和裏に併合し、続いて熾烈な戦いを経てメキシコの領土130万平方キロメート
ルを征服した。なお、この争い(米墨戦争)は、メキシコが現在のカリフォルニア、
ネバダ、ユタ、コロラドの一部、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング、テキサス
を米国に割譲する見返りとして、米国はメキシコに1800万ドル(現在価値にして4億
5000万ドル)、つまり米国が戦争前にメキシコに提示していたほぼ半分の額を支払う
ことで終結した。
(1) 19世紀アメリカの西方への領土拡大―征服・併合・獲得―を示す地図
1867年、米国はアラスカをロシア帝国から720万ドルで買収し、米国領土を152万平
方キロメートル拡大することで、太平洋を地理的に包囲することになったが、これに
!
8
より、米国の産業・政治上および海軍戦略上の最終目標として、中国支配を見据えた
西方への領土拡大に乗り出す準備が整ったことになる。そして、1893年1月17日には
アメリカの宣教師の支援を受け、女王リリウオカラニが治めるハワイ王国を転覆して
併合、19世紀末にはスペインとの米西戦争を経てフィリピンを併合し、太平洋に進
出。勢いを得た合衆国は、今や太平洋を支配することになったのである。
血なまぐさい米比戦争(1899∼1902年)の後、日本が1895年の対中国および1905
年の対ロシアで見事な初勝利を収めると、米国は日本を、中国さらには太平洋全域を
支配する上での重大な障害と見なすようになり、そのことが結果的に、潜在的な敵対
勢力、すなわち、進歩主義的かつ単一民族国家である大日本帝国と新植民地主義的キ
リスト教原理主義の米国という、太平洋アジア地域における列強二国の台頭をもたら
すことになった。
当然ながら、戦争は計画通りに展開するものではない。紛争はそれぞれ独自の慣性を
持っており、太平洋80年戦争も始まった当初は、これほどまで長く、そして凄惨な争
いになるとは誰も思っていなかったのである。
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9
【第1章】太平洋80年戦争の序章
1869年にスエズ運河が開通し、その後1904年に米国がパナマ運河建設(1914年開
通)の大規模プロジェクトの権利を購入したことが、新帝国主義(1871年∼1914
年)の進展を加速させることになった。
この間に、欧州先進諸国は地球上の領土の20%、ほぼ2300万平方キロメートルを征
服している。
(2) 当時の太平洋地域の勢力図
未だ欧州人の手によって植民地化されていないアフリカ、アジア、太平洋諸島が帝国
主義拡大政策の新たな段階における主な標的となった。日本と米国は、中でもアジ
ア、太平洋諸島で欧州列強の領土争奪戦に加わったのである。米国と欧州は独占市場
と交易権の獲得が動機であり、日本は主に安全保障への懸念および原材料・エネルギ
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ー供給の観点から領土獲得へと駆られて行き、とりわけ、脆弱で無防備な朝鮮半島を
その標的とした。当時、朝鮮半島は崩壊しつつある清帝国の属国と考えられその支配
下に置かれており、さらにはロシア帝国の強引なアジアへの拡大政策に脅かされてい
たのである。
日本の心臓部を狙うピストルのような形どおり、従来、日本への侵略は常に朝鮮半島
から行われてきたことから、この半島は、日本の安全保障政策における最重要課題と
位置付けられていた。さらに、米国に依存する脆弱で不安定な石油や鉄鋼の供給を、
確実な原材料およびエネルギー供給に置き換えることが、日本にとって不可欠であっ
た。
英国の覇権と自由貿易が衰退し、長引く不況(1873年∼1896年)やドイツ(1879
年)と、フランス(1881年)が取った保護貿易政策措置によって国内外の市場は頭
打ちとなっていた。そのため、欧州および米国の政財界の実力者たちは、自国への輸
入に対して高い関税障壁を設ける一方、海外の保護市場における解決策を模索するこ
とを余儀なくされたのである。保護市場としてのそれらの新たな海外植民地は、安価
な労働力と原材料を供給すると同時に、他国との競争のない自由な輸出市場を提供す
ることとなった。
この新帝国主義は、キリスト教宣教師たちが先頭に立ち、アジアやアフリカでの商業
独占を目的に進められた。彼らは、キリスト教の道徳を振りかざし、広大な土地の強
奪を一神教の神から与えられた使命として正当化し、また、欧州や米国の超国家主義
者や白人至上主義者たちからの支援も取り付けた。この新帝国主義は、例えばラド
ヤード・キップリングをはじめとする、白人至上主義を標榜する自称大使らによって
一般市民の間に普及していった。彼ら白人至上主義者たちは、米国に対して、「白人
の責務を果たす」 ことを要求しており、その責務とは欧米以外の地域に住む世界の
人々に、望むと望まざるとに関わらず、欧州型の文明をもたらすというものであっ
た。
キップリングに至っては1899年に、フィリピン第一共和国(フィリピン人の手により
建国された共和国)に対して米国が行った米比戦争という徹底した破壊を正当化する
ための詩を書いている。
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Take up the White Man's burden-Send forth the best ye breed-Go bind your sons to exile
To serve your captives' need;
To wait in heavy harness,
On fluttered folk and wild—
Your new-caught, sullen peoples,
Half-devil and half-child.
Take up the White Man's burden--
Have done with childish days—
The lightly proferred laurel
The easy, ungrudged praise.
Comes now, to search your manhood
Through all the thankless years
Cold, edged with dear-bought wisdom,
The judgment of your peers!
(3) 白人の責務
!
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また、近代的な産業船舶や各国の海軍は新たな基地、深い海、不凍港、そして戦略上
最適な給炭地などの物資の確実な補給点、安全な倉庫施設を必要としていた。そし
て、これらはもちろん可能な限り大規模な陸海軍によって守られたものでなければな
らなかった。
その結果、米国がハワイを併合するまでは、ハワイ王国および米国、英国、フラン
ス、ドイツが、広大な太平洋において互いに熾烈な争奪競争を繰り広げ、いくつもの
島や環礁を領有し併合することとなった。
この間にハワイで起こった一連の事件は、アメリカの帝国主義的な政治工作マニュア
ルの典型となる出来事であったと言えよう。
ウィリアム・メイヤーは著書『The U.S. War Against Asia(米国のアジアとの戦
い)』で、次のように述べている。
既にハワイには米軍が駐留していたが、それはウイリアム・ルナリロ王の後継者選び
の選挙で、デイヴィッド・カラカウアがエマ女王に勝利したことをきっかけに起こっ
た暴動を鎮圧するために、1874年の時点で米軍が使われていたからである。なお、
ウイリアム・ルナリロ王は、米国人の大農場主たちの傀儡だった。また、もし(米国
とハワイの間で)通商に関する条約が成立しなければ、英国がハワイを手中に収める
恐れもあった。
1875年の米布互恵条約によって、ハワイ王国と米国の通商関係は正式なものとなる。
本条約により、ほとんどの品目を無関税で取引することが可能になったのだ。自由貿
易協定というものは併合の可能性があることを知らせる警鐘としての役割を担ってい
るのかもしれない。クラウス・スプレッケルスは、米国の富豪の中でも最も裕福な一
人となった。ハワイではそれから10年間にわたり、サトウキビ生産が倍増した。カラ
カウア王は、スプレッケルスからの贈り物攻勢に
れ、買収されていたが、スプレッ
ケルスはハワイ政府に対しても融資しており、彼の顧問弁護士ジョン・T・デアがハワ
イの司法長官に任命された。砂糖の大量生産に多数の移民が必要となった結果、先住
のハワイ人はマイノリティー(少数派)になっていった。1887年、米国出身のハワイ
市民は、デイヴィッド・カラカウア王に新憲法の採択を迫り、軍隊を用いて反乱を先
導した。
!
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米国人勢力の先頭に立ったのは、さとうきびプランテーションの開発業を営み、新聞
社も経営するロリン・A・サーストンだった。米国の上院に相当する貴族院は、今や
指名制ではなく選挙により選出される。しかし、参政権を得るための財産資格が障害
となり、貧困層は投票することができなかった。そして、こうした貧困層に、代々当
地に暮らす先住のハワイ人のほとんどが含まれていたのである。また、アジア系住民
(日本人および中国人の移民)にも参政権は一切与えられなかった。1887年ハワイ
政府が米国に、後にパールハーバーと改名されたワイモミを海軍基地として使用する
権利を与えたのは偶然ではなかったはずだ。1890年関税法(通称マッキンレー関税
法)では、砂糖トラスト(製糖業の企業合同)による活発なロビー活動と選挙献金が
行われた末、米国に輸入される精製前の粗糖は全面的に無関税品目に加えられ、これ
により米国東海岸の精糖業を統合した砂糖トラストの基盤は確固たるものになった。
しかし、この関税法はハワイの砂糖生産者やスプレッケルスが経営する精製工場に
とっては、どちらかというと不利に働き、砂糖製品の価格は40%も下落したのであ
る。砂糖トラストを率いるヘンリー・ハブマイヤーは、共和党のマッキンレー下院議員
と、1893年に大統領になる民主党のグロバー・クリーブランドの双方に相当額の献金
をしている。グロバー・クリーブランドは、アメリカの南北戦争以降初めて勝利する
民主党の大統領指名候補であった。それに加え、スプレッケルスは非常に高くつく不
毛な競争を続けるよりは、砂糖トラストと協定を結ぶ選択をし、サンフランシスコで
もニューヨークにおける砂糖取引価格と同額を支払うことにした。だが、当時は国内
で生産された砂糖については1ポンドあたり2セントの補助金が出ていたのである。も
しハワイが米国に併合されていたら、この補助金によって、ハワイの栽培者たちも救
われたことだろう。米国の国際政策は一種の帝国主義的拡張を推し進めるもので、米
国の駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスは、ハワイ在住の米国人に併合の道を模索
するよう働きかけた。
リリウオカラニ女王は、米国人たちにうんざりしていた。彼女は、ハワイ王国の憲法
を改正して、米国人の選挙権を剥奪することを提議した。提議は否決されたが、この
ことは1893年の女王に対する反乱の口実となったのである。米海兵隊は親米派を支
援。1893年1月16日、臨時政府の樹立が宣言され、スティーブンス公使により承認さ
れた。公使が事前に米国政府から指示を受けていたことは、まず間違いない。在任期
間中、ハリソン大統領が亡くなる直前に、併合条約の草案が作成され、条約は1893
年2月14日に署名された。しかし、新たに選ばれた民主党大統領グロバー・クリーブ
!
14
ランドは条約への署名を拒否。彼は、反乱は違法であり、リリウオカラニ女王に対す
る不当行為であると主張した。クリーブランド大統領はハワイに特別調査団を派遣
し、先住民が併合に反対していることを知る。しかし、大統領自身、選挙資金の一部
として、砂糖の国内生産に反対する砂糖トラストからも多額の献金を受けて当選して
いたのだ。
スプレッケルスをはじめ大農場主が直面していたもう一つの問題が、1886年の排華移
民法だ。ハワイでサトウキビを栽培する大農場主は、主に食ベ物と引き換えに働くと
いう条件で、中国人と中国で契約を結んで雇うシステムになじんでいた。しかしも
し、ハワイが米国の一部になれば、ただ同然で得られる労働要員は底をついてしまう
だろう。最終的に、ハブマイヤーはより重要な利権を手にするため、これまでハワイ
で利用してきた制度を犠牲にせざるを得なかった。マッキンレー下院議員は1896年
の選挙で大統領に選出された。砂糖トラストの利害は、帝国主義派(セオドア・ルー
ズベルトがこの派の所属メンバーでは一番有名である)と一致していた。スペインと
の戦争は、キューバとプエルトリコを獲得するために引き起こされたものである。
1898年4月11日にスペインに対して宣戦布告がなされ、人々が戦争熱に沸くさなか、
ハワイ併合の機運も制御不能なほど高まっていた。1898年8月12日、正式にハワイが
併合され、欧州系でない人々でもハワイ市民には本格的な米国市民権が与えられるこ
とになった。
だが米領ハワイ(ハワイ準州)は民主制ではなかった。ハワイ準州知事は米国大統領
によって任命される。初代ハワイ準州知事はサンフォード・B・ドール(Sanford B.
Dole)だった。ドールは、ハワイが独立国であった当事、ハワイ最高裁判所の陪席裁
判官に任命され、その職務に就いていたが、その後、反逆者となって、1893年の「ハ
ワイ革命」を首謀し、次いで樹立されたハワイ共和国の大統領に就任した。彼の従
弟、ジェイムス・ドラモンド・ドールは、ハワイのパイナップル産業を開発し、ドー
ル・フード・カンパニーを設立しているが、ジェイムスがハワイに渡ったのは、米国に
併合されてからのことである。1898年、ハワイの唯一の重要な輸出産品は砂糖だ
が、その輸出総額は1661万4622ドルにも上る。
幸い、1900年の米国の国勢調査ではハワイも対象となっている。
ハワイの出身国/人種別人口の内訳は以下の通りだ。
!
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集団
人口に占める割合(%)
ハワイ人/ハワイ人の混血
24.400%
白人
18.700%
日本人
39.700%
中国人
16.700%
その他
0.500%
1898年に日本が米国との戦争に突入しなかったのは驚くべきことである。米国がスペ
インと全面的な戦闘を繰り広げている
に、日本はフィリピンとハワイを獲得してい
たかもしれない。しかしまだ当時は、米国とは異なり、日本は平和な文明国として行
動しようとしていた。それからの数十年間、米国、英国、ドイツ、ロシア、フランス
は、「平和な生き方は敗者のものだ」という教訓を示し続けたのである。軍国主義者
が日本政府を牛耳るようになり、通常なら平和を好む国民を威圧するようになった。
しかし、そうした状況にあっても、1940年にフランクリン・ルーズベルト政権によっ
て戦争か、あるいは完全なる服従かの二者択一しかなくなるまで、日本は米国と友好
的な関係を保とうとしてきたのだ。
キューバを米国の属国として確保し、カリブ海を米国の内海にすることを目的とした
米西戦争は、太平洋において大国の地位を誇っていたスペインを排除し、米国はフィ
リピン、グアム、サモアを併合した。また英国は、インド人傭兵の乱(セポイの反
乱)を経て、翌1858年にはインド統治を制度化した。さらに1880年代には、ビルマ
(現在のミャンマー)を征服する。また、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスを占
領し、フランス領インドシナを完成させたのである。
こうして、太平洋およびアジア地域をめぐる帝国主義の野望と対立は、必然的に全世
界の人口の四分の一以上を有する広大な中国という帝国に焦点を当てて繰り広げられ
ることになった。
!
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【第2章】太平洋80年戦争年表
1895 日清講和条約(下関条約)
1895 ロシア・フランス・ドイツの三国干渉
1897 シベリア横断鉄道、ウラジオストック開通
1898 米西戦争(米国のグアムとフィリピンの併合)
1898 パリ条約
1898 フィリピンの独立宣言
1898 米国のハワイ王国併合
1899 ドイツ・スペインの条約締結(ドイツがカロリン諸島、マリアナ
諸島、パラオを含む約6000の太平洋諸島を1700万マルクで購入)
1900 義和団の乱と八カ国連合軍の侵攻
1902 日英同盟協約
1904 英国のチベット侵攻
1904-1905 日露戦争
1905 ロシア革命
1905 桂・タフト秘密協定
1905 日英同盟協約の更新
1905 ポーツマス条約
1905 アジア排斥同盟、米国とカナダで結成
1912 中華民国の樹立、清王朝の最期
1914 青島(チンタオ)包囲
1914 独領西サモアをニュージーランドが占領
1915 日本海軍のシンガポール進駐
1915 二十一箇条要求
1917 石井・ランシング協定
1919 五四運動
1919 ベルサイユ条約
1922 九カ国条約
1911-1941
中独合作
1919-1927 中国国民党、孫文、蒋介石、広東時代
1927 上海虐殺
1927-1950 国共内戦
!
17
1927-1937 南京十年
1928-1938 ソ連支配下のモンゴル人民共和国
1929-1939 世界恐慌
1931 満州事変
1936 西南事変
1936 日独防共協定、中ソ不可侵条約
1937 蒋介石夫人、アメリカ人パイロットを募集する(義勇兵を編成)
1937 日清戦争
1939 日ソ国境紛争(ハルハ河戦争)
1940 日本軍の仏印進駐
1941 ABCD包囲陣
1941 石油禁輸措置、日本の資産凍結
1941 真珠湾攻撃開始を命ずる電文「ニイタカヤマノボレ」の打電
1941-1942 フィリピンの戦い
1941 マレー作戦
1942 スリム・リバーの戦い
1942 シンガポールの戦い、マレーの虎
1942 スラバヤ沖海戦
1942 珊瑚海海戦
1942 ミッドウェー海戦
1942-1943 ガダルカナル島の戦い
1943 コマンドルスキー諸島海戦
1943 アッツ島沖戦
1943 タラワの戦い
1943 カイロ宣言
1944 中国の戦い、一号作戦
1944 サイパンの戦い
1944 パラオ諸島の戦い
1945 硫黄島の戦い
1945 沖縄戦
1945 民間人を標的にした焼夷弾による爆撃
1945 広島・長崎への原爆投下
1945 昭和天皇による終戦の勅旨「堪え難きを堪え、・・・」
1945 !
満州の戦い
18
1945
台湾の戦い
1945-1950 朝鮮半島の戦い
1945-1950 インドネシア独立戦争
1945-1949 中国本土の戦い
1946-1954
第一次インドシナ戦争
1950 カンボジアの戦い
1954 ディエンビエンフーの戦い
1959-1975
ベトナム戦争
1970
ラオスの戦い
1975
サイゴン陥落
!
19
【第3章】ほぼ全ての戦争は平和条約から始まる
この顕著な例としてベルサイユ条約が挙げられる。この条約は第一次世界大戦とも呼
ばれる、第一次欧州産業大戦終結により結ばれたが、後に連合国である英国、フラン
ス、ソ連対ドイツ「第三帝国(ナチス・ドイツ)」との第二次世界大戦へと必然的に
発展していった。「征服する意思が勝利の第一条件である」というクラウゼヴィッツ
哲学を支持するフランスのフォッシュ元帥はこの平和条約が1919年に調印された直
後に「これは平和ではない。20年の休戦である」と宣言した。彼の言葉は予言とな
り、第二次世界大戦は20年と65日後に始まった。
トリアノン条約に於いては、英国とフランスが支配力をふるい、チェコスロバキア、
ユーゴスラビア、ルーマニアを強制的に建国した。これによりドイツとオーストリア
=ハンガリー帝国の地中海へのアクセスは阻止され、英仏両国のスエズ運河への航路
は守られたが、最終的には1990年代のバルカン戦争をひき起す結果にもなったので
ある。
太平洋80年戦争もある講和条約とともに始まった。
つまり、日本軍が平壌で中国軍を破った後、1084年9月に朝鮮が解放されて、最
初の日中戦争(日清戦争)が終結したと同時に、1895年4月17日、下関の春帆
楼において日本と清国の間で調印された下関条約(日清講和条約)がそれである。
この条約では、清国が朝鮮の独立を承認し、澎湖県、台湾、遼東半島東岸を日本に割
譲すると同時に、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本の交易のために開放するというもの
だった。これは日本や朝鮮および台湾の進歩派にとって明らかに重大な勝利であった
が、欧米列強は直ちに割譲地を放棄するよう最後通告を突きつけ、最終的にはロシ
ア、フランス、ドイツの三国干渉によって、日本は遼東半島領有権の撤回を余儀なく
されたのである。
これは日本の安全保障と当地域全体の経済発展にとって大きな後退であった。
特に、ロシアは中国の抗議にもかかわらず露骨な意図を持って旅順口区を狙い、ハル
ビンまでの鉄道建設に着手し、さらにウラジオストックまでのシベリア横断鉄道を開
!
20
設した。米国はグアム、フィリピン、ハワイを併合し、ドイツはスペインから6,000
を上回る太平洋諸島の島々を獲得した。義和団の乱は殺伐とした結末を迎え、八カ国
連合軍による北京の略奪や頤和園の焼打ちが起った。これらは全て太平洋および中国
における西洋諸国の拡大政策に対して日本の懸念が正しかったことを十分裏付けるも
ので、しかも日本の玄関先である遼東半島や朝鮮半島で起こったことだった。
数年のうちに、ドイツ、フランス、英国もまた、経済的・政治的に清国の脆弱性を極
限まで利用し始め、中国本土の重要地域を支配下に収めた。
日本は三国干渉を非常な屈辱と見なした。そして、その2年後にロシアは遼東半島を
租借し、朝鮮、黄海、渤海湾に向かい合う戦略上重要な地点に位置する鉄道を支配
し、さらに、旅順要塞の防備も固めた。これで、太平洋80年戦争における最初の大き
な戦闘の場所と時間が決定したのである。
!
21
【第4章】旅順の戦い
一般的に日露戦争(1904年∼1905年)と呼ばれる太平洋80年戦争における最初の
戦闘は、紛争の要となった旅順で戦いの火蓋が切られ、日本がロシア太平洋艦隊を
破った後、激しい旅順要塞攻囲戦が繰り広げられることになる。
攻囲戦ではあらゆる近代的な兵器、例えば巨大な28センチ迫撃砲や500キロ砲弾、マ
キシム機関銃、速射榴弾砲をはじめ、有刺鉄線、電話線、サーチライトや手榴弾など
が導入され、大方の予想に反して、陸上でも海上でも日本の全面的勝利に終わった。
旅順攻囲戦でのロシアの降伏が受理され、1905年1月2日に調印されたが、続く満州
での奉天会戦、対馬海峡でのバルチック艦隊壊滅で、ロシアはその後40年にわたり、
太平洋地域の列強の地位から排除されることとなる。
(4)自らが指揮する旗艦「三笠」のブリッジに立つ東郷平八郎元帥海軍大将
旅順の戦いはまた、近代産業を伴った塹壕戦による人的コストの高さを示すと同時
に、日本帝国海軍の訓練及び指揮命令系統における優れた能力を世に知らしめること
となった。
!
22
幕開けとも言うべき一連の主要な戦闘での日本の勝利は、西洋世界とアジアに衝撃を
与えるとともに、日本に対する尊敬、称賛、疑念、恐れが同時に沸き起こったのであ
る。
しかしながら、ほとんどの国はこの日本の勝利からもロシアの屈辱からも、正しい結
論を引き出すことができなかった。日本もロシアもホワイトヘッド魚雷を保持してい
たが、日本軍だけが標的に命中させることができたのはなぜか。それは、日本の一般
的な教育がロシアよりはるかに高く普及していたこと、その上に、近代的な陸海軍に
おける高い教育レベルがこの戦果を決定した事実が日本の成功を説き示している。中
世の仏教寺院での教育を起源とする寺子屋のおかげで、1860年には既に日本の男子
の50%、女子の25%が読み書きをすることができたのだが、当時のロシアの一般的識
字率はなんとわずか0.3%に過ぎなかったのである。このことから、歩兵部隊における
人的損失は大差がない一方で(両国の損失は共に4万人から7万人である)、海軍の犠
牲者には明らかな差が見られる。
日本
ロシア
死者117人
死者4,380人
負傷者583人
負傷者5,917人
撃沈された魚雷艇3基
撃沈された船 21隻(戦艦7隻)
接収された船7隻
武装解除させられた船6隻
この戦いの結果は全世界に影響を与えるものだった。
ロシアでは革命が勃発し、ドイツはロシアの同盟国フランスとの戦争を計画した。米
国によるフィリピンの支配を認める代わりに朝鮮における日本の立場を確認した桂・
タフト秘密協定が締結され、東アジア全域を対象とした日英同盟協約が更新された。
英国は、オークランド、ボンベイ、フリーマントル、香港、シンガポール、シドニー
の港の設備を拡張した。また、余談になるが、バルチック艦隊を打破った日本帝国海
軍にはネルソン提督の遺髪が贈られている。
!
23
(5)日本の木版画―目を覚ますロシア皇帝ニコライ2世
!
24
【第5章】ルーズベルトの棍棒威圧政策
(6)棍棒を担いでカリブ海を我が物顔で歩くセオドア・ルーズベルト
米国大統領ルーズベルトの主導により結ばれたポーツマス条約は、日本国民に大きな
失望をもたらしただけでは足りず、いくつかの主要都市では暴動が起った。この条約
をきっかけに日本の西洋に対する不信感は高まりを見せ、軍部は北部中国における影
響力強化へと向かい、太平洋地域における紛争は激化していった。
1912年、清国崩壊後の廃墟から共和制国家が生まれた。
2000年以上にも及んだ中国に於ける帝国支配が終焉を迎え、中国国民党がそれに
取って代わったが、その一党支配はすぐに凋落し、諸省は独立を宣言して中国全土は
混乱を極め、軍閥主義へと傾いていった。
寄せ集めの権力中枢が自らの正当性を主張し合い争っている中国共和党政権の外交政
策は外国の干渉や侵略を招いた。袁世凱政権は正当な政権としての承認を得る代わり
!
25
に、事実上チベットの支配を英国に、外モンゴル地域の支配をロシアに委ねるより術
がなかった。
正式には北洋軍閥政府と呼ばれたこの政権は、短命に終わったのだが「中華帝国の皇
帝(在位1915年∼1916年)」となった袁世凱を大統領とし1912年、北京に政府を
置いた。袁政権は中国国民党を弾圧し、そのため孫文は日本への亡命を余儀なくさ
れ、日本から袁世凱に対抗する第二次革命を呼びかけた。しかし、第二次革命は悲惨
な結末を迎え、袁世凱の勝利に終わった。これによって軍閥主義への基盤が敷かれ、
その後20年にわたり中国は苦境に陥ることになる。
日本の対華21カ条要求
1915年、日本は21カ条の要求をもって中国に秘密裏の最後通告を行った。
21カ条要求は5つのグループ(号)からなる。
第1号
ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承し、同省の鉄道、沿岸地域(港湾)、
主要都市における日本の勢力拡大を認めること。
第2号
南満州鉄道一帯に関する日本の権益期限を21世紀まで延長すること。また、日本の南
満州と東部内蒙古における影響力が及ぶ範囲を拡大し、日本人の入植の権利をはじ
め、財務・行政担当官の治外法権的な任命を日本政府に委任すること、および当該地
域への投資では日本に優先権を与えること。
第3号
日本に対する巨額な負債を抱える漢治萍公司(かんやひょうこんす)の鉱業・金属コ
ンビナートの管理権を日本に与えること。
第4号
中国が今後、日本以外の海外の列強に沿岸地域(港湾)あるいは島々を譲与すること
の禁止。
!
26
第5号
その他一連の多岐にわたる要求。その中には、中国政府の顧問として日本人を任命す
ること、中国警察機関への日本人の運営参画(これは中国の主権を大きく侵害するこ
とになる)、日本人仏教伝道師の布教活動の承認などが含まれる。
4月26日、日本側が改定後に示した提案を中国が拒否したが、元老院が介入し、中国
政府にとって最も異論ある条項であるという理由から第5号が削除された。縮小され
た13カ条の要求が、最終通告の形で5月7日に通達され、受諾の可否の通告期限はそ
の2日後とされた。中国全土を掌握し統治者となるべく各地の地方軍閥と争っていた
袁世凱は、日本との戦争というリスクを犯せるような状況になく、妥協策を受諾し
た。
袁が用いたこうした慰撫戦略は、その後の後継者によっても踏襲された。
最終的な条約が1915年5月25日、双方によって署名された。
国際的に見て、日本の強引な外交上の駆け引きは、特に米国の強烈で否定的な反応を
引き起こす結果となり、親日の同盟国であった英国さえ抗議するに至った。
!
27
【第6章】欧州大戦と太平洋地域に与えた影響
(7)1914年の欧州
欧州で1914年8月初旬に大戦が始まると、英国は直ちに太平洋地域に駐留するドイツ
に対抗して、英国への支援を日本に要請した。
8月15日、日本はドイツに対して最後通告を発し、中国および日本海域からのドイツ
艦隊の撤退と青島(チンタオ)の日本への譲渡を要求した。
8月23日、日本はドイツに宣戦布告し、青島沖で海軍の作戦行動を開始。この作戦で
!
28
日本は世界で初めて水上機母艦「若宮丸」を導入した。これは太平洋において非常に
効率的な海上戦の新時代到来を告げるものだった。
また、青島占領のため2万3千人の兵隊を上陸させての戦闘は、11月16日、ドイツと
オーストリア=ハンガリー帝国の降伏によって終結した。
英国政府をはじめとする、国際社会全体は、この地域における日本の意図に懸念を抱
くようになり、
か1,500人ではあるが英国を象徴する小規模部隊を派遣することを
決定した。
(8)第一次世界大戦時の同盟状況
日本に青島を占領されたドイツの反応は非常に辛辣であった。
海軍少将シュリーパーは、1914年11月8日に次のように書いている。
!
29
「しかし、我々はここ母国において、自らの子どもたちに次のことを繰り返し言い続
けることにしよう。1914年11月7日を忘れてはならぬ、黄色いアジアの奴らに報復す
ることを忘れてはならぬと。彼らはあれほど多くをわれわれから学ばせてもらったに
も関わらず、ひどい不義理を働いたのだ。だが、彼らは英国流のしみったれた傭兵気
質に踊らされたに過ぎない」
1915年2月、シンガポールを拠点とする日本海軍は、インド人部隊の反乱を鎮圧する
英国を助けた。1916年12月、英国は再度、地中海での日本海軍の支援を要請。そし
て交換条件として、山東省と赤道以北にある太平洋の島々(南洋諸島)に対して日本
が主張する所有権を認めた。1916年、ロシアがドイツとの単独講和を結ばないよう
日本は先手を打ってロシアとの協定を結ぶことで、事実上、日本による満州と内モン
ゴルの支配が承認されることになった。
1917年4月に米国が参戦。中国や太平洋地域の当時の状況をめぐり、米国と日本の緊
張は高まりつつあったにもかかわらず、同じ連合国側に立つことになったのである。
これを機に1917年11月2日、秘密保持誓約付きの石井・ランシング協定が締結され
た。ここで日米両国共に中国における門戸開放政策を約束したが、米国は、地理的な
近さから日本が中国に特別な関心を持っていることを認識していた。後にこの協定は
全く効力のないものであると判明し、中国における特殊権益を得ようとする競争は、
列強各国の間で執拗に繰り広げられ、ワシントン会議(1921年∼1922年)及び米
国、日本、中国、英国、フランス、オランダ、イタリア、ベルギー、ポルトガルが調印
した九カ国条約(1922年)へと繋がっていった。そしてそれに伴い、門戸開放政策
は、国際秩序を律する法(国際法)として整備されていったのである。
1918年のロシア帝国崩壊を受け、日本と米国はコルチャーク提督を支援してボルシェ
ビキ革命(十月革命)を鎮圧するために、シベリアに軍隊を派遣した。日本は7万人
以上を遠くバイカル湖にまで派兵することを計画していたが、米国が日本の意図に懸
念を抱き反対したことから、作戦の規模は縮小され失敗に終わった。
コルチャークは破れ、ソビエト連邦が誕生した。
全ての戦争を終わらせるためになされた戦争は、膨大な数の犠牲者を生んだ:
!
30
第一次世界大戦の死傷者(軍事関係者)
連合国側の死亡者数
5, 525, 000
負傷者の数
12, 831, 500
行方不明者の数
4, 121, 000
同盟国側の死亡者数
4, 386, 000
負傷者の数
8, 388, 000
行方不明者の数
3, 629, 000
(9)領地の推移
!
31
(10) 欧州産業大戦の終結
欧州における第一次世界大戦の終結が、太平洋地域に平和をもたらすことはなかっ
た。列強に加え新興国として台頭し始めたソ連の関心がアジアへ、特に中国へと向
かったからである。一方、1919年に中国は崩壊し列強によるかつての勢力地図は廃
れていっからである。
!
32
(11)1910年のアジア
!
33
【第7章】国際連盟
米国、英国、フランス、イタリアの四大国が集まったパリ講和会議では、日本に国際
連盟の常任委員の席を与え、太平洋地域のドイツ領である山東省と南洋諸島の統治を
日本に委任することが確認された。この統治領は、南洋群島委任統治領(サイパン、
パラオ、ヤップ島、ポナペ島、ジャルート環礁)と呼ばれ、これにより、日本は列強
の一つとして台頭することになる。しかしながら、国際連盟規約に人種差別撤廃条項
を明記するよう改正を求めた日本の提案は、米国、英国、オーストラリアによって拒
否された。
(12) 国際連盟
日本のこの提案は1919年4月28日の投票において、「国際連盟の国家平等の原則」と
同じように賛成多数が得られ、17の代表のうち11票の賛成を獲得し、反対票はな
かった。
!
34
日本
賛成
2
フランス
賛成
2
イタリア 賛成
2
ブラジル
賛成
1
中国
賛成
1
ギリシャ
賛成
1
セルビア
賛成
1
チェコスロバキア
賛成
1
合計
11
大英帝国(英国)
保留
米国
保留
ポルトガル
保留
ルーマニア
保留
ベルギー
欠席
議長を務めた米国大統領ウッドロウ・ウイルソンは、提案は圧倒的な賛成多数で承認
されたが、特殊な問題として強硬な反対が表明されており、この件に関しては全会一
致での可決が必要であると述べ、投票結果を覆した。なお、この強硬な反対は英国の
代表から出されたものである。
言うまでもないが、国際連盟におけるこのような民主主義は日本にとって好ましいも
のではなかった。
特に米カリフォルニア州、カナダ、オーストラリアでのアジア人に対する傲慢さと人
種差別は、日本と西洋との関係を悪化させた。日本の代表は認識が甘かったのかおそ
らくこれが、円滑かつ公正な国際関係の大きな障害であると考えたのだろう。また、
この問題は日本のメディアによって広く報道され、日本政府は国民から圧力を受ける
こととなった。
!
35
皮肉なことに、国連憲章に人種平等が盛り込まれたのは1945年になってからであ
る。
白豪主義政策の先頭に立つアルフレッド・ディーキンは人種差別について次のように
結論付けている。
「優秀でないからではなくて、これらの異人種が優秀であるがゆえに、われわれに
とって非常に危険な存在なのである。彼らの無尽蔵の活力、新たな課題に取り組む能
力、忍耐力と低い生活水準が、彼らを驚嘆すべき競争相手にしているのだ」
一方、オーストラリアの政治家エドモンド・バートンは、別の観点から次のように述べ
ている。
「そもそも人類平等という原理を、英国人と中国人に適用するのは論外だ」
また、オーストラリア首相、ウイリアム・モリス・ ヒューズは、日本の人種差別撤廃
要求に激しく反対した。ヒューズは、人種平等が白豪主義への脅威となると考え、も
しこの条項が採択されるなら自分はこの会議から退席すると、英国首相ロイド・ジョー
ジに明言した。日本の提案が否決された際、ヒューズは次のようにオーストラリア連
邦議会に報告している。
「白豪主義は諸君のものだ。諸君は自らが望むことをしたまえ。だが、なにはともあ
れ、兵士は勝利を手中にし、わが同僚と私は本講和会議から諸君の元にこの偉大なる
理念をそのまま持ち帰ってきた。白豪主義の原則は採択された日と同じく安泰であ
る」
言うまでもなく、アジア・太平洋諸国の視点からみれば、パリ講和条約会議は、国際
連盟が機能せず、屈辱のうちに終わったと言える。また、英国もフランスも自国の戦
略的・経済的利益が絡んでいる場合は、人道的、民主的、国家的状況に対しての配慮
は全くされないことも明らかになった。例えば、ハンガリーは、当時の領土の72%以
上、330万人のハンガリー民族(マジャール人)を含む住民の64%を失い、その結
果、今日約500万人のハンガリー人が国外で暮らしているのである。
!
36
(13)トリアノン条約は講和条約ではなく死刑宣告だった。
ベルサイユ講和条約は、ドイツに戦争の責任を負わせ、承服し難い条件と賠償を強要
した。賠償額はなんと2260億金立マルクにも達し、その返済が完了するのは2020年
になる。
トリアノン条約もベルサイユ条約も、実際には平和の宣言というより戦争の布告であ
り、事実上は
ヒットラーのような日和見主義のテロリストが政治家として出現するだろうことを約
束するものだった。
オスマン帝国の分割を画策して1915年に既に署名されていた英・仏・伊の秘密計画
(三者協定)は、石油の利権と交易の利益を独占支配するためなら、西洋の列強がど
こまで突き進むかを示す良い例である。
欧州と極東間のあらゆる交易を全面的に支配しなければならないという、英国とフラ
ンスの強迫観念は、当然ながら中国、インドシナ、インドネシア、そして広くは太平
洋地域の出来事にも影響を与えることになった。
!
37
(14)サイクス・ピコ協定の秘密計画
!
38
(15)セーブル条約
!
39
【第8章】端から端まで1万マイル - 広域支配の野望
米国の視点から見ると、パナマ運河、ハワイ、フィリピン、ひいては中国と日本が、
極東情勢を統制し太平洋を支配するための要であった。
1919年以降、欧州が彼らの経済的利益に東アジアを関与させ組込んだことは、つま
り、この地域での一連の出来事は、当然の流れから起るというより、欧州列強によっ
て決定されることを意味した。
(16)翼を広げれば端から端まで一万マイル
太平洋地域では、英国はその優占的な地位の強化に乗り出し、パナマ運河開通を果た
した米国は、中国の経済成長をオリエンタルドリームとして有望視していた。一方、
西の国境を強化し終えたソ連は、武器を供与し援助することで、中国における影響力
を再構築し始め、さらに、オランダ領インドネシアとフランス領インドシナは英国の
植民地政策を踏襲し、米国のアジア戦略に歩調を合わせることは明らかであった。
日本はまさに孤立し、大変に難しい立場に立たされた。
!
40
ワシントン会議
それはアメリカで開催された最初の国際会議であり、アメリカ政府は開催にあたって
極めて明確な目標を持っていた。会議は史上初の軍縮会議と讃えられたが、真の目的
は英国・日本の同盟関係(日英同盟)を断ち切り、日本を孤立させて太平洋地域にお
ける英国と米国の緊張関係に終止符を打ち、日本に不利な保有艦の総排水量比率の受
諾を強いて、増大しつつあった日本の中国への影響力を抑制することであった。
この時点で、アメリカの指導者及び経済界は東アジアの覇者となる決意を固めてお
り、「ある地域の強国を征服するためには二番手の国を支援し、同時に海軍の絶対的
優位性を構築する」という英国が過去数世紀にわたって実践してきた政策を取り入れ
た。
事実、初めて国際政治に参加する米国には、日本を孤立させること、太平洋で海軍の
主導権を握ること、そして米国製造業による中国市場独占することの三つの目標が
あった。
ワシントン会議において、米国代表はこれらの目標に向けた取り組みを始める一方、
英国は注意深く傍観者を決め込み、日本は米国の威圧的な脅迫に対抗すべく最善を尽
くした。
日本代表団は当初から不利な立場に立たされていたのだった。
後にアメリカ国家安全保障局となるブラックチェンバー、別名MI-8(陸軍情報部第8
課)又はサイファービューロー(暗号局)として知られる米国初の諜報機関が日本政
府からの暗号化されたメッセージの解読に成功し、それにより、米国側は事前に日本
のおかれた状況や容認できる最低限の保有艦の排水量を知っていたのである。他人の
書簡を開封するという今
にない「非紳士的」行為、つまり、米国側の傍受が成功し
たおかげで、以後こうした情報機関は著しく増加した。
会議はワシントン海軍軍縮条約、別名、五大国条約の締結を持って終了した。条約は
参加国に対して特定の保有艦の排水量を定めると同時に、軍備の規模および海軍施
設・要塞の拡大を制限するものだった。
!
41
正式な保有艦の排水量は、以下のとおり合意された。
戦艦 (トン)
空母 (トン)
米国
525,000
135,000
英国
525,000
135,000
日本
315,000
81,000
フランス
175,000
60,000
イタリア
175,000
60,000
条約は1922年2月6日、米国、日本、英国、フランス、イタリアの代表によって調印
された。言うまでもないが、条約書のインクも乾かぬうちに各国とも小型軍艦や軽巡
洋艦といった規制対象外の新しい発想の補助艦を新造し始めた。
日本が強いられた5:5:3という艦艇の保有比率は、次のような根拠に基づいてい
る。米国には二つの大洋(太平洋・大西洋)に対応する海軍が、英国には三つの大洋
(太平洋・大西洋・インド洋)に対応する海軍が必要であるが、日本には大洋が一つ
(太平洋)しかないというものだ。米国は、スエズ運河やパナマ運河が開通して以
来、このような配分が実情にそぐわなくなっていることを軽々と無視した。まして
や、米・英の海軍が合同で日本に対抗するという新たなシナリオ(後に本当にそう
なった)の可能性に全く気付かぬふりをしたのである。
当然ながら、この条約によって日本の政治状況は大きく変化し、日米関係は著しく悪
化した。国内では条約反対派の立場が強くなり、その結果、日本は1936年に本条約
から脱退することとなる。
近年、ロシアの歴史学者たちが発表した研究によると、米国が日本を孤立させようと
尽力したのは、海軍条約だけでなく、ソ連との新たな極秘協力にまで及んだ。例え
ば、モンゴル国境における紛争(日ソ国境紛争)に言及すると、この地域のソ連軍の
増強に資金援助をしたのは事実上米国で、日本を挑発して結果的にもたらされたのが
国境での小競り合いであり、1936年のハルハ河戦争(ノモンハン事件)である。
!
42
120万人以上の死傷者を出した革命と流血の内戦を経て、ソビエト・ロシア(ソ連)
は誰もが認める有能な指導者スターリンのもと、西側の国境を強化し終え、中国にお
ける影響力を取戻すと極東の強国として再び台頭し始めた。
1920年代前半には、米国、英国、ソ連の利害と目的は、東アジア、特に中国における
日本の権益拡大に歯止めをかけ対抗することでほぼ一致していた。
君主政冶や伝統的な社会秩序を廃止し、「労働者独裁」、つまり人民共和国の樹立を世
界全体に広げようとする新生ソビエト・ロシアを、日本は非常に深刻な脅威と考え
た。更に、東アジアにおける米・英のソ連支援が、日本政府の反米感情をいっそう強
くした。
1975年のサイゴン陥落によって太平洋80年戦争が終結し、ソ連および中華人民共和
国という二大共産国家が華々しく世界の舞台に躍り出たのは周知の事実であるが、ま
ずは世界の共産主義の本質を理解することが大切である。
拙著『Buddha s Salesmen(仏陀のセールスマン)』では、共産主義のルーツと組
織構造をキリスト教と比較した詳しい分析を行った結果、実際、共産主義のあらゆる
様相と歴史的意義はキリスト教に根差し、キリスト教に類似していると結論づけた。
共産主義は、レーニンを神(すなわちマルクス)の息子、スターリンをその唯一の弟
子とし、世界中で非共産主義者に勝利することを公言する神聖な党の絶対的指導者と
して、原理主義的で絶対的な一神教のオーソドックスなキリスト教へと回帰したに過
ぎない。それは、まるで原理主義キリスト教が、全人類の究極的なキリスト教化に専
心しているのと同じようなものである。
どちらの組織も、国家権力を握るために同じ戦略を用いている。ローマを聖地とする
キリスト教徒もロシアを聖地とする共産主義者も、部外者を全て敵とみなし、秘密主
義の隠然たる力を持つ神聖な組織である。キリスト教ではそうした敵を異教徒と呼
び、共産主義者は抹殺すべき階級の敵というレッテルを貼る。もともとロシア正教の
司祭になるべく勉強していたスターリンが、世界共産主義の押しも押されぬ指導者に
なったのも偶然ではない。キリスト教原理主義も原理共産主義もリベラルな市民組織
は当然のこと、他宗教や民主的な制度を容認し共存することができない。それ故に、
!
43
彼らの本質も教義も間違いなく偏狭で融通がきかず、わずかでも逆らう者に対しては
異端の烙印を押すのだ。
(17)ローマ法王
(18)スターリン
!
44
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア、中国、トルコと、ほとんどの君主制が消
えてゆき、それまで以上に君主制反対の立場を取りつつ中国の支配を目指す米国とソ
連という新たなパートナーシップの出現に、日本は脅威を感じることとなる。
実際、日本は先の見えない不安と敵意に包まれ、石油や工業原料の供給は不足し、脅
威にさらされて孤立した状況にあった。
無為に手をこまぬくという選択肢は日本にはなかった。当然の結論は、何世紀にもわ
たり中国に根強く残る欧州の影響力と米国の強力な産業的・経済的支配に何らかの形
で拮抗することで、中国情勢の方向を転換することだった。だが当時、スターリンの
支援を受ける中国の社会主義知識階級に対応しながら、米国が支持する植民地主義の
腐敗したキリスト教の中国財界・産業界のエリートの影響力を制限するのは難しかっ
た。
ソ連は、1927年モンゴルに共産主義政府を樹立。中国は1925年に孫文が亡くなる
と、蒋介石が国民党主席そして中国国民党政府の最高指導者(大元帥)となった。
蒋介石の経歴は、中国という帝国の崩壊後の混沌とした状況の反映と言えよう。
ソ連のスターリンやドイツのヒットラーと同様、無法状態と飢えと貧困が蔓延する混
然とした指導者不在の中国に対して行った米国・英国・ドイツ・日本の4国の介入に
よって蒋介石は栄光の座へと押し上げられたのだった。
蒋介石は、日本で陸軍士官学校に入学し、1909年から日本帝国陸軍で軍務に就いた
後、1911年に中国に戻り、国民党創設メンバーの一員となる。袁世凱(えんせいが
い)時代には、日本での亡命生活と上海租界での贅沢な生活とを行き来して過ごし、
その間、地下組織のギャングや首領、例えば、悪名高き「青幇(ちんぱん)」のボ
ス、杜月笙 (とげつしょう))とのつながりを深めていった。
1924年、孫文は傭兵とソ連、正式にはコミンテルン(共産党インターナショナル)の
助けを得て広州市の統制権を回復し、ソ連軍について学ばせるために蒋介石をモスク
ワに派遣した。ここで蒋介石はトロツキーをはじめとするソ連の主導者たちと知り合
うことになる。
!
45
広州市の市内やその周辺に駐屯する国民党の傭兵は、食事や生活費に1日当り3万
5000ドルを支給されていたが、模範兵などは存在せず、海賊行為を働き、船舶を奪
い、人質を取り、商店を襲い、
博場を開き、売春や麻薬取引に手を染めていた。実
際、孫文と彼の副官たちの指揮下で、広州市ほど悲惨な生活を強いられていた地域は
他にはなく、中国で最も悪政が行われた都市であった。兵士への支払いに商人は行政
に現金を貸さなくてはならず、豚からロシア女性の経営するダンスホールに至るま
で、全てが課税の対象となった。市内に800ヶ所あったアヘン窟は高い税を払わねば
ならず、独占企業、役職、公共物も現金を得るため売却された。船主は特別な旗を購
入しなくてはならず、さもなければ、海賊さながらの警察に襲撃される危険があっ
た。孫文は中央政府に送られることになっている関税収入さえ没収しようとした。
1925年、中国に帰国した蒋介石は国民革命軍の指揮官となり、中国北部の軍閥を制
圧するため、北伐に取り組んだ。蒋介石がその後の国共内戦の幕開けにつながる共産
主義者の粛清を突然始めた時は、中国共産党主義者である汪兆銘との同盟を結び、ソ
連の諜報部員ミハイル・ボロディンの助言を受けている。 !
46
【第9章】中国における事件と衝突
1927年夏、田中義一首相は外務省、大蔵省、帝国陸海軍の主要メンバーを招集し極東
会議を開催し、その会議において、張作霖(ちょうさくりん)将軍がソ連による中国
北部の支配を阻止し、満州の実質的自治を強化できるのであれば、日本は中国共産党
に対抗する国民党政府を支持すべきであるという妥協・合意案に達した。
ソ連の秘密警察GPU(国家政治局)は中国語で書かれた『田中上奉文』と呼ばれる偽
造文書を作成し、それを流布して米国や中国のさまざまな団体に知らしめた。日本は
中国全土を征服した後、世界を支配しようと計画していると主張したのだ。ソ連の目
的は自国の利益を増進するために、中国国民党と日本との和解を妨げ、両者の軍事衝
突を引き起こすことだった。
『田中上奉文』は20世紀において最も効果を発揮した「不正工作」の一つであり、文書
偽造が非常に巧妙だったため、今日でもこの文書が本物であると信じている西洋人は
多い。本文書は東京裁判(極東国際軍事裁判)で重要な証拠とされた。だがこの文書
がきっかけとなり、真
な研究者は、太平洋・極東地域における戦争犯罪に対する有
罪判決の全てについて、その正当性に疑問を持つようになった。
田中上奉文は米国共産党によって初めて英語に翻訳され1931年12月に出版された。
その信憑性については反体制活動家として既にメキシコにいたトロツキーが、最後に
執筆した文書の一つで保証している。また、ワシントンの政治家に転身した反日のキ
リスト教宣教師も、このでっち上げ文書を本物として歓迎し承認している。英国情報
部は田中上奉文が偽造文書であることを1937年には既に知っていたのだが、2007年
9月に初めて、複数の中国の歴史学者が文書は偽造されたものだと正式に表明した。
今日では歴史学者のほとんどが、田中上奉文は巧妙な偽造書だと考えている。
!
47
(19)ソビエト秘密警察、GPUのプロパガンダ用ポスター
麻薬軍閥
上海には、蒋介石を支持する二つの中心勢力があった。一つは裕福な中国商人と外国
の資本家の集団、もう一方は上海ギャング「紅幇(ほんぱん)」および「青幇(ちん
ぱん)」が支配する組織化された犯罪者集団で、「青幇」は若きゴッドファーザー杜
月笙(とげつしょう)が率いていた。杜月笙は上海で最も大きな影響力を持つ実力者
の一人で、麻薬大君、反日愛国主義者であり、蒋介石の親友、国民党の大黒柱でも
あった。
杜月笙のキャリアは上海のフランス人居留地から始まった。ここはフランスが犯罪行
為からの税収と引きかえに、行政さえもギャングの手に委ねるなどして、犯罪組織の
自由な活動を許していたせいで犯罪活動の中心地となっていた。杜月笙はフランス租
界の警察で刑事を統括していた「あばたの黄(黄金栄/こうきんえい) 」の下で、警
部補として働くとともに、青幇の首領として活動を開始した。
!
48
1918年まで上海のアヘン取引は英国租界を中心に行われていた。しかし、英国人によ
る取締が強化された後、フランス人居留地を拠点とする青幇が取って代わり、アヘン
取引を行うようになった。杜月笙はアヘン王となり、アヘン中毒の治療法としてヘロ
インを含有する抗アヘン薬まで製造し、彼の犯罪組織を使って何百万という単位で売
りさばき、年間幾トンものヘロインを西洋から輸入さえした。
上海犯罪組織の「三大首領」の一人となった杜月笙は、蒋介石による労働運動や共産
党幹部・学生活動家全滅の
となった人物でもある。1927年4月12日、こうした犯
罪組織は労働組織に対して執拗な弾圧を加え恐怖支配を確立した。青幇は国民党と中
華民国国民政府が支配する全域を実質的な縄張りとする取り決めをし、職権に対する
強い支配力も手中にした。
ジュネーブ協定後1928年にヘロインの取引禁止が発効すると、上海犯罪組織は独自の
精製施設を立ち上げた。こうしてヘロインの販売はアヘンを上回る大成功を収めると
ともに、1934年までには米国への主要輸出品目にまでなった。杜月笙の上海におけ
る権力独占は、国民党による共産主義者の壊滅を助けただけでなく、財政部は麻薬取
引からの資金に完全に依存するようになっていった。資金がいくらあっても足りな
かった蒋介石は1935年、雲南省の全アヘン収益を管理下に置き、長江流域のアヘン取
引売買を掌握した。彼はアヘン事業のほとんどを盟友の杜月笙に譲ると、「蒋介石の
政府」による独占的栽培・販売という厳しい規制を敷いて収益を上げた。なぜなら、労
働者や貧しい農民は食糧を買うより、アヘンを買うことを好んだからである。
上海では青幇の首領、杜月笙が国民党アヘンの効率的な麻薬流通網を指揮し、裏社会
の全ての取引を牛耳った。彼自身が中匯銀行の頭取となり、中国通商銀行の理事長に
なることで、地方政府や財政さえも動かし、なによりも自らの犯罪取引に融資した。
杜月笙は今や中国で最も強大な影響力を持つ男であり、アヘン抑制局のメンバーでも
あった。そして1937年日本の侵攻によって上海を追われるまで、あらゆる競合者や彼
の組織に属さない密売人を情け容赦なく弾圧した。彼は重慶(チョンキン)に住みつ
くと、新たな環境にうまく適応し、非占領下の中国と占領下の中国の間で密かに麻薬
を動かし
けた。彼の新組織はいくつかの銀行から1億5000万中国法幣ドルもの融資
を受けている。
!
49
上海の犯罪組織は、1940年代後半には共産勢力が市を占拠するだろうと解ってい
た。しかも、1927年の組織による労働組合員や共産主義支持者の虐殺は、忘れられ
てはいなかった。そこで、1947年から1950年にかけて、上海の裏社会は、犯罪者の
大量な流入によって警察が十分機能せず組織的な犯罪が蔓延する香港へと移動したの
である。
青幇は国家的組織となり、その統制は中国国民党軍中将である
肇煌(コシュウウォ
ン)の手にゆだねられ、「14K」として知られる新たな結社が作られた。この14Kは
1949年以降、台湾やマカオへと進出し、後にはタイ、サンフランシスコ、バンクー
バー、マンチェスター、オーストラリアにまで拡大した。
青幇の熟練薬剤師は、地元香港の薬剤師にヘロイン精製の訓練を行い、1950年代の
香港はヘロイン取引の中心地へと成長した。また、国民党は米国や欧州の麻薬流通経
路につながっている東南アジア山岳地帯の「黄金の三角地帯」を支配下に収めた。
晩年の杜月笙は香港で引退生活を送り、そこで1951年に死去した。
1945年に日本から台湾を引継ぎ、台湾を私有の領地、斡旋収賄と略奪の対象として支
配した国民党知事の陳毅(ちんき)は、日本の麻薬独占で蓄えられたストックの行方
に注目した。日本の独占に関するデータは公表されていないが、ある記録には1934
年の備蓄は生アヘン67,000キロ、加工アヘン19,000キロ、1935年の備蓄はコカの葉
424,500キロ、モルヒネ6,000キロ、コカイン1,250キロと記載されている。10年
後、日本が降伏した時点ではわずか4,000キロのアヘンと少量のコカインしかなかっ
たと陳毅は発表した。これらの麻薬は地元の保健局と南京の陸軍の医療活動に放出さ
れたとのことだった。また、彼は台中とその周辺でココア・プランテーションを管理し
ていた彼の部下に命じてコカインとその派生品の生産を中止したと付け加えている。
1949年国民党が敗北し、毛沢東が勝利すると、蒋介石は香港を経て台湾へと逃亡し
た。李将軍は雲南省を脱出し、タイ北部およびビルマ(現ミャンマー)に住みつく
と、そこから彼の残党勢力がヘロイン取引を展開した。タイ政府も西洋社会も、この
ヘロイン取引について見て見ぬふりをし、1961年までCIAから資金援助を受けてビル
マに残った国民党はタイとラオスにまたがるシャン州のアヘン生産量を1949年の40
トンから1962年には400トンへと拡大させた。
!
50
CIAが黄金の三角地帯で初めて国民党軍への援助を開始してから、20年以上にわたり
タイ北部の国民党の基地からはシャン州で収穫されたアヘンを持ち出すため、大規模
なラバの隊商が送り出され、世界の違法アヘン供給の三分の一をコントロールするよ
うになった。
タイ北部と米国あるいは欧州間のこの活発な取引に、台湾の国民党の関与があったか
については確かなことは分からない。論理的に考えると、台湾政府には朝鮮戦争後、
米国から流れ込む援助を危険にさらす理由はほとんどない。にもかかわらず、1991年
に米国当局は、中国から台湾経由のルートで米国に着いた500キロのヘロインをカリ
フォルニアで押収した。1993年には台湾警察が、純粋なヘロイン336キロを漁船か
ら押収。3億3700万米ドルに上るヘロインの押収は、台湾の歴史始まって以来の最高
額で、これによって1995年の主要麻薬生産・輸出国リストには台湾の名前も加えられ
た。しかし、ここ数年、複数の大規模なコンテナー港が中国本土に開港され、台湾の
麻薬取引における役割は縮小されている。
蒋介石 ― またの名は「小切手を現金化してくれ」大元帥
蒋介石の統治時代、国民党は著しく腐敗し、有力な政府高官や軍幹部は物資や武器、
とりわけ、米国が提供した軍事支援金、大枚7億500万米ドル、2008年価格にして96
億6900万ドルを私財として溜め込んだ。
トルーマン大統領は、「蒋派(蒋介石一派)も孔派(孔 祥熙一派 )も宋派(宋子文
一派)もみな泥棒だ」と書き、歴史学者C.P. フィッツジェラルドは国民党支配下の中
国について、「効率性はないものの、ファシスト体制の本質を全て備えるこの政権下
で中国の民衆は呻いていた」と述べている。
米国陸軍、スティルウェル将軍は、米国の血税が蒋体制のためにどれほど大量に使わ
れ無駄になったか指摘している。なぜなら蔓延した政治腐敗のせいで、主に米国から
の供給物資(1944年には3億8058万4000ドル相当)が、飢えた徴集兵たちの元に決
して 届 く こ と が な か っ た か ら だ 。 ま た 、 ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 出 版 局 発 行 の 『 T h e
Cambridge History of China』 では、蒋介石の国民党徴集兵の60∼70%は基礎訓
練すら途中までで、本格的軍務に就く前に約40%は脱走し、残りのうち20%は餓死し
!
51
たと推定している。
中国の一般市民は国民党支配の下、非常な苦しみを味わっていた。子どもは13時間シ
フトで労働を強いられ、機械の脇で寝る有様だった。女性は妾や奴隷として売り払わ
れた。高利貸しは法外に高い金利で小作人に金を貸し、返せないと土地を差し押さえ
て奪った。蒋介石軍の倉庫はどこも穀物で
れる一方、殆どの地方で人々は飢え、草
の葉や木の皮を食べていたのである。
国民党軍の兵士によるレイプは日常の光景だった。そのため、「国民政府軍の兵士が
やって来ると、若い女性たちは山へと逃げ、髪を切り、泥を顔に塗る」のだった。
実際には、蒋介石が中国を完全に掌握することはなく、国内には三つの首都が存在し
ていた。国際的に承認されていた北京、中国共産党が支配する武漢、国民党が首都と
する南京で、中でも国民党の首都の名前を取って、蒋介石の南京支配期間は「南京十
年」と呼ばれた。
中国の戦いは1927年4月12日の上海虐殺から始まった。当時、蒋介石は軍閥から最
も優秀な国民党指揮官へと転身した将軍、白崇禧 (はくすうき) と裏社会の首領、
杜月笙に上海の共産主義指導者を全員逮捕・処刑して労働組合の組織を破壊するよう
命じた。著名な知識人および共産主義者と疑われた者や労働組合幹部の逮捕と処刑
は、中国全土の主要都市へと広がっていった。こうして処刑された中には毛沢東の
師、李大釗 (りたいしょう)もいた。彼は北京のソ連大使館強制捜索の際に捕らえら
れ、他の19人と共に1927年4月28日、張作霖の命により処刑された。
国民党による中国統一を目指し1926年には既に開始されていた、いわゆる北伐を完
遂するには蒋介石は三つの地方軍閥と二つの独立系軍隊を打倒する必要があった。
蒋介石が中国の独裁者となるべく力を尽くした努力の中で、戦略上最も重要な勝利を
挙げたのは、戦場ではなく、神戸近郊の温泉保養地であった。1927年9月末、その地
で蒋介石はチャーリー・宋(宋嘉樹)の未亡人に、娘の宋美齢(そうびれい)との結
婚を認めてくれるよう持ちかけたのである。その際、彼は敬
なキリスト教徒となる
ことを約束し、最初の結婚の離婚証明書を見せて熱心に説得した。
!
52
こうして、蒋介石は1927年12月1日、孫文の未亡人の妹であり、キリスト教聖書の
セールスマン(キリスト教宣教師)で後に大金持ちとなったチャーリー・宋の娘であ
る宋美齢と結婚した。宋家に受け入れてもらうために、蒋介石は最初の妻と離婚し、
複数の内妻との仲を清算するとともに、キリスト教に改宗しなければならなかった。
蒋介石にとってはこれが孫文の後継者として認められ、米国の政界への足がかりを得
る近道だったのだ。後ほど述べるが、米国で協力者を獲得しようと取り組む蒋介石に
とって、ドラゴン・レディの異名を持つ宋美齢は、大きな強みとなった。おかげで、
彼は太平洋戦争のカギを握る人物になったのである。
蒋介石は1929年にメソジスト教会で洗礼を受け、妻の陳潔如(ちんけつじょ)を含
め複数の内妻とも、別れると約束した。蒋介石は陳潔如が13歳の時にレイプしようと
し、それから2年後に彼女と結婚したがその時には既に2人の内妻を持っていた。その
上、上海でハネムーンを過ごした際、彼女に淋病をうつした。当時上海市民の約15%
が梅毒に、30%が淋病に罹患しており、彼の生活スタイルを考えれば、これは驚くに
当たらない。
40年後、陳潔如(アーフェンまたはジェニーとも呼ばれる)は回想録を書き、米国の
代理人を通して出版することにした。だが、この代理人は二度も襲われ殴られた上、
事務所に侵入されたり、告訴すると脅されたり、FBIの取り調べを受けたりもした。
陳潔如の回想録が絶対に日の目を見ることがないようにと、最終的に蒋介石の息子が
原稿を17万ドルで買い取ったが、陳潔如が1971年に死亡してから8年後、大学教授の
ロイド・イーストマンが原稿のコピーを見つけ出し、ついに1992年に回想録が出版さ
れた。
キリスト教という新たな信仰を得たにもかかわらず、蒋介石は上海の残忍な青幇から
ギャングの一味を雇い何千もの学生や労働組織幹部を殺すなどして、暴力やマフィア
のやり口を日常的に使った。また、上海の国民党はアヘン取引を牛耳り始めた。
彼はまた陳潔如と結婚した事実を否定し、ニューヨークに彼女を留学させたが、その
際に彼女には宋美齢との結婚は中国を救うための政略的なものに過ぎず、時間が経っ
たら彼女との生活に再び戻るつもりだと約束している。
1927年12月1日の結婚式は、上海タイムズによると、「ここ数年で最も重要な結婚式
!
53
で、軍事的、政治的、経済的権力が一同に会した」ものだった。
宋家ではキリスト教の式が執り行われ、マジェスティックホテルで開催された中国式
の結婚式には1300人もの人々が出席した。ロシアのオーケストラによって演奏され
るメンデルスゾーンの結婚行進曲が流れる中、地方実力者や国の高官の他、米国、英
国、フランス、日本の領事が参列した。米国のマスコミに記事が掲載されることを意
識して、米国で生まれ、教育を受けた宋美齢によって注意深く選ばれた『孤独な兵士
がついに奥方を見つけ、彼女にダーリン、マイ・レディと呼びかける』という詳細記事
が英語でマスコミにリークされた。
陳潔如は米国の新聞を読んで結婚式の様子を知る。そこには蒋介石が陳潔如との結婚
を否定し、「彼女は昔の妾の一人であり、自ら妻だと主張していることに当惑してい
る」という彼の言葉が引用されていた。また同時に彼は、「大多数の一夫一婦制の慣
習に照らして、結婚する自由がある」と明言し、「宋嬢のようなレディは、それ以外
の状況であれば決して結婚に同意しないはずだ」と付け加えたと書かれていた。
陳潔如は傷つき、中国領事館に出向いたが「丁重に締め出されて」しまった。その時
の彼女の動揺はあまりにも大きく、街中で叫び自分の髪をかきむしりながら路上をさ
まよい、ハドソン川に身を投げようとして取り押さえられたほどだった。彼女は1933
年に上海に戻り、蒋介石からの経済的援助と語学を教授することで生計を立て、晩年
の1960年代には蒋介石が買った香港の家で暮らした。
1928年6月、国民党は北京を占領した。さらに、ソ連からの物資供給と米国の支援を
得て中国東部のほぼ全域を掌握すると、南京政府が唯一正当な中国政府であるとの国
際的な承認を即座に受けたのである。
「正式に!」承認されたと言っても、中国の現実は実際には大きく異なっていた。
日本は満州を、共産党は山西省の大部分を、ソ連はモンゴルと新疆ウイグルを支配
し、欧州各国は中国沿岸部の港を支配する中、様々な状況と目まぐるしく変わる権力
中枢や軍閥との協定次第で、蒋介石は自らの政府を都市から都市へと移動させた。
1922年から1924年にかけて起こった戦争では、各地の軍閥の旗の下で戦う兵士たち
!
54
の数は、合計すると150万人にも膨れ上がり、軍隊の維持に軍閥たちが持ち合わせて
いないほどの大金がかかるようになった。比較的潤沢な資金を持つ満州の張作霖で
も、1925年には歳入がわずか2300万ドルのところ、満州軍に5100万ドルを使って
いる。その結果、軍閥も国民党も財源を満たすのに最も即効性があり抑圧的な方策を
講じることになった。
(20)南京十年
四川省では塩に27種の税金が課されたり、廈門市 では徴税70項目として爆竹から売
春まであらゆるものが対象となった。例えば、紙を船で出荷した場合は長江を航行す
!
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る間に11回も課税されたりした。軍閥の中には鉄道輸送費に100%の課税をする者も
あり、1920年代半ばには土地にかかる各種税金の数が673にも上った。農民の中に
は、かつて祖先の持ち物だった土地にさえ税が課せられた者もいた。
掃討された軍閥は退去時に税を集め、次の軍閥が到着時に同じように徴税した。敗れ
た野戦軍は「移動費」を要求し、勝った指揮官は「歓迎金の支払い」を要求。銀行は貸
付を強要され、会社は公債を買わされた。省の中には100万ドルの準備金で2200万
ドルの債権を刷り(湖南省)、銀準備額が150万ドルのところ5500万ドルの債権を発
行(山東省)する所もあった。英国人によって持ち込まれたアヘン取引からの搾取は
ごく当たり前になっており、麻薬の独占は入札で最高値を付けた者に与えられ、アヘ
ン収入が生産、流通、使用の各段階で入るようになっていた。その上に、農場主はケ
シを育てることを命じられ、拒否したものは怠惰だという理由で罰金が課せられた。
雲南省では麻薬取引からの歳入が5000万ドル、甘粛省と福建省では2000万ドル、四
川省では3000万ドルに上り、雲南省の部隊は通常の1カ月の給料より1日の稼ぎの方
が多い麻薬取引によって非常に裕福になっていった。
軍閥の兵士はほとんどが訓練を受けていない農民または都市から流れてきた失業者
で、駐屯部隊によっては90%が読み書きのできない非識字者だった。蒋介石の米国人
参謀長、ジョーゼフ・スティルウェルは、みすぼらしい歩兵隊のうち、20%は4.5
フィート(140センチ弱)以下で、多くが14歳に満たず、中には裸足の者もいたと報
告している。
「どんなに逞しい想像力を持ってしても、逃げる時以外、実戦においてこの無秩序な
集団が見せる体たらくは想像を絶するものだ」
と彼は日記に記している。
多くの軍閥が参謀や傭兵の助けを求めた。国民党と「クリスチャン・ジェネラル」と呼
ばれる馮玉祥 (ふうぎょくしょう)を支援するロシア人が中国にいたのは、思想的・
政治的理由からであり、日本人は戦略および安全保障上の観点から、国民党でも知日
派の汪兆銘(おうちょうめい)を支援していた。だが、大多数の外国人は純粋に経済
的利益のために中国にいたのである。
!
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米国人パイロットは国内の2倍の給料を得るために飛行機を飛ばし、ソ連の社会主義
体制を逃れた白系ロシア人は、満州や山東省で将軍ネチャーエフ率いる部隊と共に
戦ったが、この部隊は著しく冷酷で、3台の装甲列車を乗り回し、民間人に向けて機
関銃を発射し、動かせるものなら何でも盗んだ。
有名な著述家、魯迅は中国という国家を梅毒に例えている。
「先天的に腐敗し、血管には暗黒の混沌とした物質が含まれているため、全面的な浄
化が必要である」
1930年、国民党の内部衝突である中原大戦(ちゅうげんたいせん)が、馮玉祥、閻
錫山(えんしゃくざん)、汪兆銘によって引き起こされた。蒋介石軍とそれら軍閥が
激突し、その数勢130万人以上、死傷者の数は30万人以上に達した。結果、南京政府
は資金的に破綻し、毛沢東を主席とする中華ソビエト共和国の壊滅に失敗したと同時
に、間接的には日本の西安事変への介入を許すことになった。
皮肉なことに、日本の対中国政策の中心にあったのはソ連の影響力への恐れに加えて
共産主義の拡大であり、同時に国民党の民族主義者に強い影響を持つ米国の実業家か
らなる支配者層が伝統的に抱いている反君主制的感情に対する恐れだった。
国民党との共同戦線が破綻した後、毛沢東は次のような命令を中国共産党員全員に向
けて発している。
「われわれの目的は、クーデターを起こすべく中国共産党の軍事力を増強することで
ある。よって、主軸となる指令には絶対に従わなくてはならない。すなわち、われわ
れの努力の70%は勢力拡大に、20%は国民党との対応に、そして10%は抗日に使うと
いう指令である」
1972年に日本と中国が国交を結び、首相の田中角栄が毛沢東に中国侵略について詫
びた際、毛沢東は次のように言っている。
「貴殿が申し訳なく思う必要はありません。貴国は中国に多大な貢献をしました。な
ぜかと不思議に思うでしょうが、もし日本帝国が参戦しなかったとしたら、いかにし
!
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てわれわれ共産主義者が強大な力を持つようになり、蒋介石を打倒できたでしょう
か。もし日本がなかったら、私は今日どこかの山中の洞穴にでも隠れていたことで
しょう。いいえ、われわれは感謝こそすれ、日本の戦争賠償金を欲しいとは思いませ
ん」
!
58
【第10章】スターリン・ドクトリンとイル・ルース
西安事件
長征から一年後の1936年12月12日、蒋介石は部下の将軍たちによって捕らえられ、
西安市に近い唐王朝時代の保養所だった華清池に監禁される。満州総帥の張学良
(ちょうがくりょう)と周恩来が、抗日のため共産主義者と国民党は停戦し結束すべ
し、とのスターリンの指示に従い取引をし、その後、蒋介石は拘束されたのだが、パ
ジャマ姿であったという。スターリンは増大しつつある日本の影響力に懸念を抱き、
中国共産党に国民党と協調して日本と戦うよう指令を出した。蒋介石は共産党幹部及
び満州の指導部と会見し内線は一時的に終結した。これは、蒋介石の逮捕から11日後
に西安市に到着し、夫を釈放するよう張学良を説得した蒋介石夫人の働きであった。
後に、蒋介石は復讐心から張学良を逮捕し投獄した。張学良は蒋介石の死から17年後
の1992年まで、台湾の牢獄に収監されることになる。
西安事件から数カ月後、蒋介石は満州軍の部隊を西安市から動かし、共産主義者(中
国共産党)への攻撃準備を整えたが、日本が1937年に大規模な侵略を開始すると、
この攻撃計画を中止して日本に対峙することを強いられた。
日本が中国での戦闘に本格的に参戦することは、米国もソ連も、実際のところ、太平
洋での戦略的状況全体にとって好都合だと考えていた。スターリンは中国が日本と戦
うことを望んでいた。そうなれば日本を足止めすることができるであろうと考えたの
だ。また、米国は日本に圧力をかけるとともに、何億ドルもの資金と軍需品を投入し
て反共産党派の蒋介石を堂々と支援することで、中立条約の適用を回避する良い口実
になると考えていた。
マルコポーロ橋事件 (盧溝橋事件 ) は、結果として中国国民党と日本との全面衝突に
発展した事件である。しかしいまだに、この事件は歴史学者の間でも論争の的になっ
ている。学者の中には事故だったと考える者も、明らかに日本が挑発したという者
も、国民党を強制的に日本と戦わせるためにソ連と米国工作員が巧妙な計画を実行し
たのだという者もいる(例えば歴史学者リ・フージェンによれば、満州事変とちょう
ど同じような状況だったとのことだ)。
!
59
真相はどうであれ1937年時点での太平洋80年戦争において、ソ連とドイツ、その次
に英国とフランス、そして米国というこれら全ての国が、理由は異なるが日本と敵対
する側にいたというのが事実である。
欧州での戦争を準備していたスターリンは、日本がソ連領のシベリア地域を攻撃する
可能性と、それにより引き起こされる二正面戦争のリスクを避けるために、中国が日
本に対し本格的な戦争を仕掛けることを望んでいた。
ドイツと中国は当時、非常に緊密な経済・軍事協力関係にあり、ドイツが自国産業の
ために是非とも必要としていた原材料と引き換えに、武器輸出の半分が中国へと向け
られていた。一方、日本はドイツが必要な物は何も持っておらず、日本が必要とする
物(石油や鉄鋼)もドイツは全く持っていなかった。軍事技術さえもそうであった。
例えば日本は自前の軍用航空機として当時世界最高の三菱重工業のA6M 零式艦上戦
闘機(零戦)や糸川英夫の設計による伝説的な陸軍戦闘機、中島飛行機の隼キ43を保
持し、1930年代には世界のトップレベルにあった。
メディア王、イル・ルース
スターリンと暗黙のうちに協調することとなった対日戦争において米国が中国を支援
した理由は、非常に複雑で驚くほど多面的なものだ。当時の他の先進工業国と同様
に、米国製品の市場としての中国の傑出した将来性に惹かれていたというだけでな
く、米国の太平洋拡大政策の最終目標は中国にあり、日本はその最大の障害だったと
いう事情が根底にある。
だが、よく調べてみると、それだけではない。計画の中心的立案者は誰で、誰が米国
のアジア政策についての世論を作り上げた張本人なのかを理解すれば、全体像はより
明らかになる。すなわち、その人物は、1923年に創刊されたタイム誌、そしてその後
のフォーチュン誌(1930年)、ライフ誌(1936年)の創設者であり所有者だったヘ
ンリー・ルースだ。
ヘンリー・ルースは中国山東省
莱市でキリスト教長老派宣教師の両親の元に生まれ、
中国内陸ミッションチーフースクール(芝罘学校)に進学した。当然ながら、キリス
!
60
ト教宣教師社会という有利な立ち位置から中国を一生眺め続けた。
米国の保護下にあった中国は徐々にキリスト教化、西洋化された新しい時代へと向か
うことになっていた。そこではアメリカというビッグブラザーが4億5000万の中国人
にアメリカン・ドリームを持ってやって来くることになっており、それを感謝し喜ん
だ中国人はクリスマスには毎年、コカコーラを飲み、ジングルベルを歌うようになっ
ていたのである。
ルースは確信犯的な米国ファシズムの支持者で、雑誌を発行する彼はドゥーチェ(総
帥)と呼ばれたムッソリーニにちなんで「イル・ルース(ルース総帥)」というあだ
名で呼ばれた。彼は自分が発行する有力雑誌、タイム誌に掲載されたヒットラー
(1938年のタイム誌「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた)やムッソリーニ(タイ
ム誌の表紙に1923年から5回登場)についての好意的な記事やインタビュー記事の責
任者であり、また、米国の一般市民や有力実業家に「米国の中国」の将来像として、
蒋介石夫妻(1937年のタイム誌「マン・アンド・ワイフ・オブ・ザ・イヤー」受賞)を
売り込むための立役者にもなった。彼はアジアで布教活動を行ったあらゆる米国人宣
教師と同様に「アジアにおける米国十字軍」の正当性を信じており、基本的には反君
主制主義者で、キリスト教の浸透や西洋支配が絶望的であるが故に日本には強い反感
を持ち続けていた。彼の雑誌、タイムでは、日本人を「Jap」と単数形で表して、う
わべすらも複数性が存在することを認めなかった。
1964年まで、自社の発行物全ての編集長を務めたルースは、反共産主義的感情を持つ
共和党の実力者かつ中国ロビーを支える主要人物であった。ゆえに、蒋介石と妻の宋
美齢に対する米国外交政策と市民感情を好意的に、そして日本に対しては反日的にな
るよう誘導した。蒋一家はタイム誌の表紙に1927年から1955年の間に11回も登場し
ている。
ルースは米国国務長官になるという野望を持っており、それからの20世紀とその後の
米国の役割を明確に示す『アメリカの世紀 The American Century (1941年)』
と題した有名な記事をライフ誌に書いている。彼はキューバのフィデル・カストロを
激しく敵対視し、極右グループ「アルファ66」のキューバ攻撃に資金を供給(1962
年と1963年)した。また、彼はジョン・F ・ケネディに不利になるよう自分のメディ
ア帝国を使っている。ケネディ暗殺に際して、ライフ誌はザプルーダー・フィルム(ダ
!
61
ラスでのケネディ大統領の車列をアマチュアが撮影した8ミリフィルム)と暗殺実行犯
とされる人物の妻 マリナ・オズワルドの話を買い取ったが、この話が印刷物として人
目に触れることも、全てのフィルムが上映されることも決してなかった。
2004年 6月25日、Executive Intelligence Reviewに掲載された『ヘンリー・ルース
のファシズム帝国』は、この件に関する啓発記事である。
1930年代には米国で中立法が成立していたことが、中国も日本も1941年まで正式に
宣戦布告をしなかった理由であり、その間の戦闘は事変と呼ばれていた。欧州とアジ
アにおける緊張の拡大と紛争の危機に加え、米国が第一次世界大戦へ参戦したことに
よる手痛い出費を受けて急速に高まりつつあった孤立主義が起因となり、米国連邦議
会が通過させた一連の法律が中立法だ。それは米国が海外の紛争に対する不干渉主義
を守ることを意味した。ナイ委員会は1934年から1936年にかけて審議を行い、
1915年から1917年の間の米国からドイツへの融資は2700万ドルだった一方、英国
とその同盟国には23億ドル(ドイツの85倍)も融資を行ったことを報告し、米国は絶
対に英国が負けないよう、第一次世界大戦に参戦したのだと結論付けている。また、
多くの書物や論文は、武器製造業者が米国を戦争に参加するよう仕向けたのだと主張
している。
1935年の決議では、武器および軍需品の戦争当事国への全面的通商を禁止してい
る。ルーズベルトは選択的制裁の余地を残しておきたかったが、議会によって否決さ
れた。この法律は、イタリアがエチオピアに侵攻した時から発動されることになっ
た。
1936年の中立法はさらに交戦国へのあらゆる融資や信用取引を禁じた。だが、スペ
インのフランコ将軍は本法の抜け穴を見つけた。というのもスペイン戦争(1936年
∼1939年)はこの法律の適用対象にならない市民戦争だったのだ。そこで、米国の
テキサコ、スタンダード・オイル、フォード、ゼネラルモーターズ(GM)、スチュー
ドベーカーなどの企業は、総額1億ドルの信用取引をスペインに提供することができた
のである。
1937年の中立法はスペインとの武器取引を非合法化し、市民戦争まで適用対象にな
るよう拡大した。しかし、ルーズベルトが現金自国船輸送条項をなんとか含めること
!
62
に成功したことで、現金で支払って自国で輸送の手配をする場合は、欧州の交戦国に
原料や物資を売ることが可能となった。明らかに現金自国船輸送条項は、ドイツと戦
争になった場合のフランス、英国への援助を意図したものである。なぜなら、フラン
スと英国が大西洋の海上交通路を支配していたからだ。中国支配をめぐっての戦争で
はルーズベルトは蒋介石を支援したが、誰も正式に宣戦布告しておらず、現金自国船
輸送条項の恩恵を受けるのは日本だけだったので、中立法を発動をしなかったのであ
る。
この法律を発動しなかったことで、中国国民党に対し武器や物資、資金を支援するこ
とが可能になった。このことは孤立主義を掲げる連邦議会を激怒させた。そこで、
ルーズベルトは米国の船が武器を輸送するのを禁止せざるを得なかったが、英国の船
が米国の武器を中国に輸送するのは許可した。彼が1937年10月に「侵略国の隔離」
を要求した隔離演説(防疫演説)は米国の中立主義の終わりを示すものだった。
1939年の中立法は11月4日に通過したが、フランス・英国との武器取引を、現金自
国船輸送を条件として許可するもので、これに続き1941年のレンドリース法(武器貸
与法)が制定され、米国は軍事物資を同盟国に販売、貸与、贈与することが可能に
なった。
!
63
【第11章】上海戦と南京戦
中国
軍事力
日本
600,000人
300,000人
航空機200機
航空機500機
戦車300両
軍艦130隻
死傷者
250,000人
70,000人
蒋介石がいかに効率的に日本との戦いを主導したかは、今や歴史的記録として刻まれ
ている。一つの軍事的な大失敗の後に別の失敗が次々と起こり、中国東部のほぼ全域
が日本の支配下となった。主要な22の交戦の中でも、最初の、そして最大の戦闘が上
海戦(第二次上海事変)である。1937年 8月、蒋介石軍は十分な訓練を積んだ兵士
の中から選りすぐった60万の精鋭を
え、ドイツの支援による 装備を整えた部隊
が、上海を死守すべく戦闘体制に就いた。上海は西洋諸国や日本からの多額な投資を
受け、何百人もの特派員や駐在員がおり、大規模な外国人社会が存在する世界的な国
際都市だったために、蒋介石は中国が降伏することなどないと世界に知らしめたかっ
た。中国も日本も世界全体が注目していることを認識し、然るべく行動するよう部隊
には指令を出した。特に蒋介石は米国のメディアと世論を自分寄りに誘導するには、
どんな膨大な犠牲も辞さないつもりでいた。
米国で生まれ教育を受けた彼の妻、宋美齢は世界でも最高の報道官であり広報官とな
り、まるで国防省の業務の一部であるかのようにメディアを巧みに操った。
たった1枚の写真でも世界中に配信されることで、世論にいかに大きな影響を与え、
その動向を決定するかを如実に示す例に、中国系米国人写真家H.S.ウォン の撮った
「上海の停車場の赤ん坊」がある。
!
64
(21) 上海の赤ん坊
この写真は20世紀で最も世に知られた写真の一つだ。1億3600万人がこの写真を見
たと言われている。本物なのか改ざんされた物なのかは分らないが、当時のウォンは
イエロージャーナリズム(扇情的ジャーナリズム)の父と言われるウイリアム・R.・
ハーストに雇われていた。そしてハーストのモットーは、「君が写真を提供すれば、
私が戦争を提供しよう」 だった。
ハーストは彼が必要とする全ての技巧をマスターしていた。つまり、実在しないハー
スト社のロンドン、パリ、ローマ、ベルリン、ベニスの特派員からと銘打った、人々
を震撼させるような大見出しや、偽の写真あるいは加工された写真、話の捏造、敗者
への芝居がかった大げさな共感、スキャンダルを食い物にする手法、センセーショナ
リズムなどで、これらは全てより多くの新聞を売るためのものだった。
典型的なハーストの「イエロージャーナリズム」として、米西戦争中、キューバの税
関職員が裸の米国女性旅行者を検査している様子が新聞第一面に掲載されたことがあ
る。
!
65
(22)違法な物を隠していないか、裸の米国人女性旅行者を検査するキューバの税関職員
上海市内や周辺での戦闘は3カ月以上にもわたり、スターリングラードでの市街戦の
ような接近戦が繰り広げられ、香港の黄埔(ワンポア)で訓練を受けたエリート将校
の大部分を含む20万人の中国人が死傷した。蒋介石は倒され、軍が力を回復すること
はなかった。その結果、毛沢東の最終的な勝利へと至ったのである。しかしながら、
蒋介石と宋美齢は西洋諸国から中国に対し、何億ドルにも上る現金やさまざまな軍需
品、兵器貨物などの軍事援助を確保したのだから、外交的には勝利を収めたのであ
る。
中国を3カ月で征服するという日本の計画は、大きな誤算であったことが明らかにな
り、上海戦以降、国際外交と経済における日本の孤立化が急激に加速した。次に収め
た勝利、つまり蒋介石が武漢に敗走して数日後、12月に南京が陥落してからは、特に
日本の孤立化にいっそう拍車がかかった。
!
66
南京戦とアジアのカティンの森
中国
兵力
死傷者
日本
70,000∼ 100,000人
240,000人
死者50,000人
死者6,000人
ドイツの援助を得て構築した南京の要塞は「チャイニーズ・ヒンデンブルク線」に基づ
くもので、徹底的な防御を目的としており、上海が陥落した場合に備えて南京を守る
ために2列の要塞、呉福線と錫澄線が築かれた。南京戦(南京攻略戦)とその余波に
ついては、太平洋80年戦争の中でも最も多く書かれ語られたと同時に、最も論争の的
になっている事件であり、二つの両極端な見解がある。すなわち、南京大虐殺があっ
たと信じる派 (中国国民党の公式見解)と南京大虐殺は無かったと否定する派(日本の
公式見解)である。残念ながら、主に中華民国政府と米国系中国人によって組織的に
広められた「大衆に迎合したホラー版」が西洋社会の世論やハリウッドの娯楽産業を
はじめ、出版社の一部、そしてある程度は学者にも受け入れられている。
南京についての話を書いて成功した典型的な書籍に、1997年に出版されたアイリス・
チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京―第二次世界大戦の忘れられたホロコースト
(The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II)』がある。
この本は10週間にわたり米国でベストセラー入りし、実際何が起こったのかについ
て、学会を含め、世界中の興味を再び呼び覚ますことになった。本書には誤りや
や
伝聞に基づいた事実誤認が大量にあると同時に、子どもじみた手法で日本を悪の権化
に仕立てている。だが実際には、著者が意図したのとは反対の効果を生み、新たに本
格的な歴史分析に取り組む一連の動きを触発することになった。とりわけ本書に掲載
された証拠とされる写真に対する批判的な評論に加え、従来一般の人々に受け入れら
れてきた事実や数値の分析の結果、当時の南京に関する話全体に疑問が出てきたので
ある。南京市に新しく建てられたチャンの像や本書を原作としたハリウッドの映画に
も関わらず、論争は収まらない。というのも、歴史学者がこの問題に対し誠実な立場
を取ることを余儀なくされたからだ。「レイプ・オブ・南京(南京大虐殺)」と呼ぼう
が、「南京事件」あるいは「蒋介石の南京背信行為」と呼ぼうが、台湾のKGBである
国家安全局の極秘ファイルを閲覧できるようになるまでは、われわれが真実の全体像
を知ることはないであろう。
!
67
南京陥落直後に、2名の米国人特派員が報道規制を破り第一報を伝えた。一人はシカ
ゴ・デイリー・ニューズのアーチボルド・スティールで、米国海軍河川砲艦オアフ
(USS Oahu PR-6)の船上から無線で報じた。もう一人は、ニューヨークタイムズ
のティルマン・ダーディンで、彼は南京の事件から3日後に上海に着いたばかりだっ
た。
その他の情報源から得られた記録、書類、証人の報告から判断すると、いくつかの間
違いやセンセーショナリズムはあるとしても、これら2名の米国ジャーナリストは南京
の大惨事について極めて本質的詳細を語っているように思える。奇妙なことに、歴史
学者、作家、ジャーナリストはこれまで南京について数え切れないほどの本や記事を
書いているのに、この二人の目撃者による事件の取材報道をほとんど無視しているの
である。近年、ホロコーストという言葉を使うことで、欧州ユダヤ人の大虐殺と南京
での出来事になんらかの類似点を認めさせ、ナチスのホロコーストと同等のアジアに
おける大虐殺という烙印を押すための取組みがなされてきた。しかし、当然これは完
全に誤解を招くことだ。もし、南京の事件と比較できるものがあるとしたら、それは
「カティンの虐殺」である。
「カティンの森の虐殺」としても知られるカティンの虐殺(ポーランド語のzbrodnia
katy skaは文字通り「カティンの犯罪」の意)は、1940年に起こったソビエト当局
の指示によるポーランド市民の大量処刑である。処刑された人数は1万5000人から2
万1768人と推定されている。ポーランド人戦争捕虜や囚人が、カティンの森やカリー
ニングラード(トベリ)、ハルキウ刑務所などで殺害された。犠牲者のうち8千人
は、1939年のポーランド侵攻の際に捕虜となった将校たちで、それ以外は諜報部
員、憲兵、 スパイ、 妨害工作員、地主、工場主、弁護士、司祭、公務員という嫌疑
で逮捕されたポーランド市民だった。ポーランドの徴兵制度では、徴兵が免除されて
いない大学の卒業生は強制的に予備役将校になることを要求されたので、ソ連側は
ポーランド知識層やポーランド市民権を持つユダヤ人、ウクライナ人、グルジア人、
ベラルーシ人の知識層の多くを一斉に捕らえることができたのである。
カティンの虐殺はナチスドイツにとっては都合の良い出来事で、この事件をソ連の信
用失墜に利用した。ドイツ側は12人の法医学の専門家とそのスタッフからなる欧州各
国代表が参加する委員会を設置。ジュネーブ大学のスイス人メンバー以外、全員が当
時ドイツに占領されていた地域の出身者だった。戦後、チェコとブルガリアの専門家
!
68
を除き、全ての専門家が1943年に発見されたソビエト政府が有罪である証拠を再確
認した。ソビエト政府はただちにドイツの告発を否定し、ポーランド人戦争捕虜はス
モレンスクの西部で建設工事に従事していて、1941年8月に侵攻してきたドイツ師団
に捕まり、処刑されたのだと主張した。4月13日の最初のドイツ側放送に対して、ソ
連側は4月15日に回答した。これは、ソビエト情報局が作成したもので、「ポーラン
ド人戦争捕虜は1941年、スモレンスク西部で国家建設事業に従事しており、ドイツ・
ファシストの絞首刑執行人の手に落ちた」と述べている。不本意であったかもしれな
いが、連合国側は当時同盟関係にあったソ連と敵対しないよう努め、この事件を暗黙
のうちに隠
したのである。
1943年4月24日、チャーチルはソ連側に対して「ドイツ支配下の領土では、国際赤十
字をはじめ、いかなる団体でも『調査』を行うことには、断固として反対する」と断
言した。1943年、ソ連を非難するカティン・マニフェストが風変わりな詩人、ジェ
フリー・ポトツキ・ドゥ・モントーク伯爵により、ロンドンで英語で発表されたが、
彼はロンドン警視庁公安課に逮捕、拘置された。米国でもカティンの虐殺について公
的見解と相反する二つの正式な秘密報告書が作成されたにもかかわらず、同様の方針
が取られた。1944年、ルーズベルトはバルカン半島諸国の大統領特使である海軍少将
ジョージ・アールにカティンについての報告書を作成する仕事を課した。なお、この任
務を果たすために、アールはルーマニアおよびブルガリアとのコネクションを利用し
た。アールはソ連が虐殺を行ったと結論付けている。
ところが、ルーズベルトは米国戦争情報局長のエルマー・デイヴィスと協議した後、
ナチス・ドイツの責任であることを確信していると述べてその結論を却下し、アール
の報告書をもみ消した。アールが彼の発見した事実について、出版許可を正式に求め
た時には、大統領は出版を思いとどまるよう書面で命令している。アールは転任させ
られ、その後の戦時中を米領サモアで過ごした。1945年12月29日から1946年1月5
日にかけ、ドイツ国防軍の将校10名(カール・ハーマン・ストリュフリング、ハイン
リッヒ・レムリンガー、エルンスト・ベーム、エドゥアルド・ソネンフェルド、ヘル
ベルト・ヤニケ、エルヴィン・スコツキ、エルンスト・ゲーヘレー、エーリヒ・パウ
ル・フォーゲル、フランツ・ヴィーゼ、アルノ・デューラー)がレニングラードのソ
ビエト軍事裁判所で裁判を受けた。今日では見せしめ裁判であったと広く考えられて
いるが、将校たちはカティンの虐殺で果たしたとされる任務によって無実の罪に問わ
れた。
!
69
最初の7人の将校は死刑判決を受け、判決当日に公開絞首刑により処刑された。その
他3人の将校は重労働刑を言い渡され、フォーゲルとヴィーゼは20年、デューラーは
15年の刑を受けた。デューラーは裁判で有罪を認め、後にドイツに帰国したと言われ
ているが、他の二人がどうなったかは不明である。 1946年、国際軍事裁判のニュル
ンベルク裁判において、ソビエトの主任検察官、ローマン・A.・ルデンコはドイツを
カティンの殺害事件の罪で告発しようとしたが、米国と英国が告発への支持を拒否し
たため白紙撤回した。1990年4月13日、集団墓地が発見されてから47回目の記念日
にソ連は公式に「深い後悔の念」を表明し、ソビエト秘密警察の責任を認めた。この
日はまた「カティンの森被害者追悼の日」として国際記念日となっている。
南京虐殺についての論争は、当然ながら戦後の軍事法廷、つまり南京裁判(南京軍事
法廷)と東京裁判(極東国際軍事裁判)の正当性をめぐっての論争でもある。
1937年12月18日のニューヨークタイムズは、次のように述べている。
首都陥落は蒋介石のお粗末な戦略と主導者たちの逃亡のせいである
F. ティルマン・ダーディン
南京の占領は中国側にとって最も圧倒的な敗北であり、近代の武力衝突の歴史におい
て最も悲惨な軍事的大敗の一つだ。そして、そのかなりの部分は蒋介石大元帥の責任
である。なぜなら、彼お抱えのドイツ人軍事参謀が口を
えて行った忠告にも、部下
の参謀総長、白崇禧(はくすうき)将軍の意見にも従わず、全く効果のない市の防衛
作戦を許したのだから。
このニュークタイムズの報告では、中国側の唐生智(とうせいち)将軍と部下の司令
官たちが部隊を見捨てて逃亡し、そのために兵士たちがパニックに陥り絶望的になっ
たと非難している。日本軍が市を包囲した後、南京陥落は目に見えていた。12月9
日、日本軍が市の城壁に達すると、中に篭城していた5万人の中国人兵士はすぐにラ
イフル銃を捨て民間服を身に着け始めたと述べられている。
記者ダーディンは言う。
「日曜日の夕方、市内を車で走ると、軍服を脱ぎながら歩く大規模な軍隊を目撃した
!
70
が、その姿は滑稽と言って良い。多くの男たちが下関地区へ向かって隊列を組んで行
進しながら制服を脱ぎ捨てていた。また別の者たちは市民に成り済まそうと路地に逃
げ込んでいった。兵士の中には、完全に衣服のない者も居て、彼らは民間人から着衣
を奪った。
無数の兵士が安全地区の国際委員会本部を囲んでいたが、彼らは銃を放棄したり、戦
闘部隊から急いで抜けるために銃を施設の門の向こうに投げ捨てさえした。安全地区
に居た外国人の安全区委員たちは、彼らの投降を受け入れ、完全地区の建物内に抑留
した」
ダーディンはその他にも、次のように報道している。民間人の死傷者は数千人で、日
本側は民間人の服を着た中国人兵士(便衣兵)の処刑を行っている。中山路の大通り
には、捨てられた軍服、ライフル銃、拳銃、機関銃、野戦砲、短剣、背嚢が延々と散
らばっている。市の周辺地域は中国軍により焼き払われたが、日本軍は使い物になり
そうな建物を破壊するのを避けた。占領の際、空襲をほとんどしなかったことから、
日本軍に建物の破壊を避ける意図があったことが分かる。日本側は市街地にある中国
軍隊の集結を爆撃することさえも避けていたが、これも明らかに建物を保存するため
であった。
ダーディンは上海に戻り、12月22日には次のように書いている。南京戦は近代戦史の
中でも、最も悲劇的な出来事であった。首都圏周辺の村落や集落は中国側による大規
模な焼き討ちに遭い、市の城壁内で身動きが取れなくなった中国軍の少なくとも3分
の2(3万3000人)が日本側によって全滅させられた。この惨状は蒋介石軍の将官や
国民党のリーダシップを問う上で、最終分析に付される。なぜなら彼らは撤退という
ことを全く検討しなかったのだから。そして、次のように結論付けた。
「南京を失うことで、中国人は自国の首都以上のものを失った。彼らの軍隊は何より
も貴重な士気と何千人もの同胞を失ったのだ。
上海から長江下流域に至る前線で日本との戦闘を続けてきた中国軍は壊滅してしまっ
た。そして、彼らが日本の軍事機構に対し、効果的な集団抵抗をするためにもう一度
力を終結できるかは疑わしい」
!
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蒋介石軍の将軍である唐生智は12月12日、日曜日、夜8時に彼の参謀団の将校たちに
も知らせずに脱出した。将校たちは深夜には将軍が姿を消したことに気づき、下士官
と兵卒を指揮官不在の状態にしたまま自分たちも民間服を着て逃亡しようとした。そ
して、これら何千もの兵士が外国人(南京安全区国際委員会)によって設立された安
全区一帯に現れ、軍服を脱ぎ捨て市民に服を分けて貰おうと懇願して回った。また別
の兵士たちは川岸でパニックになり れ死んだ。
南京安全区は約10万人の民間人の命を救った。この地区の完全な非軍事化が守られる
ことは決して無かったことや、何千もの中国兵士がこの地区に流れ込んだにもかかわ
らず、決して日本側は安全区を砲撃の対象とはしなかった。
上海の安全地区は非常にうまく機能したが、南京ではそうでなかった。それはなぜだ
ろうか?
フランスのイエズス会宣教師ロベール・ジャキノ・ドゥ・べザンジュがほとんど一人
で設立運営していた上海のジャキノ安全区は、日本、中国のどちらからも尊重されて
いる歴史的地区に設置された中立地帯であり、ほぼ2年の間に20万人以上の民間人の
安全を守った。
南京にも類似の安全区(中立地帯)が設置されたが、これは国民党と密接な関係にあ
り中独合作の熱心な支持者だったジョン・ラーベによるものだった。彼はシーメンス
南京支社責任者であり、ナチス党員でもあった。一部の歴史学者によると、ラーベは
安全区に民間人の服を着た何千人もの中国敗残兵を保護したが、同時に武器を携帯し
民間服で市民に偽装した何百人もの国民党の諜報部員や工作員も存在し、1937年12
月に南京が陥落すると、戦後の南京の状況が著しく悪化した原因の一つとなった。
日独防共協定が1936年11月25日、日本とドイツの間で調印され、中ソ協定(中ソ不
可侵条約)が1937年8月21日に調印された。また、モロトフ=リッペントロップ協定
(独ソ不可侵条約)が1939年8月に発効された。これによって紛争が起こった場合、
どの国がどの国と組むのかが、いささか予測不可能な状況になった。
!
72
徐州会戦
中国
日本
兵力
600,000人
240,000人
死傷者
100,000人
30,000人
日本政府の非拡大主義政策を無視して北部駐屯の日本軍(北支那方面軍)は南に進攻
し、北京・南京間のつながりを固めた。また中国軍は蒋介石の指令を聞かずに退却
し、日本が青島市と済南市を占領。これにより、黄河に沿って敷かれた防衛線は分断
され、1938年6月までに、日本帝国軍は中国北部全域を支配下に収めた。
状況は厳しく、蒋介石は撤退と同時に武漢市の防衛準備を命じた。時間を稼ぎ、日本
軍の進撃を遅らせるため、黄河の堤防の爆破を命令。これにより1938年の黄河氾濫
(6月9日)が起こったのである。日本軍の意表を最大限に突くため、蒋介石は堤防を
決壊させる前に地元民には知らせないことを決意した。洪水は何百万もの家屋を水没
させ、その範囲は5万4000平方kmにも及び、50万の民間人が命を失った。作戦は
ある程度成功し、この洪水で日本軍の攻撃と武漢市の陥落を遅らせることはできた。
民間人の命を全く無視した行為は軍事戦略的には得るところがあったが、蒋介石軍が
中国の農民の間で嫌われる大きな要因となった。後に農民の中には、国民党の統治で
はなく、むしろ日本の占領を選ぶという人さえ現れた。
!
73
【第12章】武漢の戦いとハルハ河戦争
武漢の戦い 1938年6月11日∼10月27日
中国
軍事力
減損数
日本
兵力1,100,000人
兵力350,000人
航空機200機
航空機500機
戦艦30隻
戦艦120隻
南京陥落の後、200万人の人口を有し、交通の要所でもあった武漢市が政治・産業・
軍事的に最も重要な都市となり中国の首都となった。4月29日、大規模な戦闘(4.29
空中戦)が武漢上空で行われたが、日本側は航空機21機を撃墜されたのに対し、中国
側が受けた損害は航空機12機だった。この時には既に、ソ連だけでなく米国のパイ
ロットも中国戦闘機を繰っていたのである。
1937年6月には早くも宗美齢、つまり蒋介石夫人は中華民国空軍(国民党軍の空軍)
の指揮を任せるために、米陸軍航空隊の退役将校クレア・シェノールトを防空参謀長
として、月給1000ドルで雇っていた。彼は後に「フライング・タイガース」の愛称で
呼ばれる、機体にサメを描いたカーチスP-40戦闘機に乗る米国義勇軍を編成した。ま
た、中ソ不可侵条約(中ソ協定)が1937年8月21日に調印された。ソ連空軍志願隊
が爆撃機、戦闘機、その他の軍需品(総額2億5000ドル)を供給するZet作戦が開始
され、スターリングラードで後に英雄となったワシリー・チュイコフ率いる3665人
のパイロットと軍事顧問が参戦した。これらのソ連部隊は南京、武漢、南昌、重慶の
各市で戦闘を行った。
実際、1937年12月から米国、英国、フランスは、国民党政府の中華民国に対し、借
款による支援(有償資金援助)と軍需品の供与を行っていた。その上、オーストラリ
アは英国の意図をくみ、日本との間で既に結ばれている売買契約を無視し、日本の鉄
鉱石輸入を阻止した。日本から見ると、前途には恐ろしい暗雲が立ち込めていたの
だった。
この間、何千キロも西に離れた欧州でも、1939年にはさまざまな出来事が起り、事
!
74
態は戦争へと加速していった。中でも、国際連盟の頓挫、ドイツとイタリアの鉄鋼協
定の調印(5月22日)、8月23日のモロトフ=リッペントロップ協定の調印は、欧州を
ヒットラー側とスターリン側とに分断するものだった。ドイツの船艦は9月1日午前4
時40分、ドイツ国防軍がポーランド国境を越えるのと同時に、ダンチヒ(現在のグダ
ニスク)のポーランドの基地への攻撃を開始した。
ノルウェー、フィンランド、スウェーデン、スイス、スペイン、アイルランドが9月2
日に中立を宣言した一方、英国、フランス、ニュージーランド、オーストラリアは9月
3日にドイツに対して宣戦を布告した。またネパールに続き、南アフリカとカナダの宣
戦布告が9月6日に、米国の戦争中立宣言が9月5日に行われた。
ハルハ河戦争(ノモンハン事件)1939年5月11日∼9月16日
ソビエト連邦
兵力
死傷者
日本
57,000人
38,000人
死者 7,974人
死者8,440人
負傷者15,000人
負傷者8,466人
ソ連と朝鮮の国境におけるハサン湖の戦い(張鼓峰事件、7月29日∼8月11日)に続
いて、4カ月にわたり交戦状態となったこの戦いは、日本の関東軍と万全な備えのソ
連の司令官ゲオルギー・ジューコフの機甲師団との戦の中でも最大であった。戦いは
モンゴルと満州の騎兵隊同士の小競り合いから始まったが、間髪を入れずソ連=モン
ゴル軍は日本軍の東(あずま)中佐が率いる23師団捜索隊(東捜索隊)を包囲し全滅
させた。双方ともが部隊の編成を開始して間もなく3万人の日本兵はジューコフ司令官
の自動車化歩兵師団および装甲師団と対戦することになったのだ。
6月27日、関東軍は東京の大本営(帝国陸軍本部)に知らせずに、モンゴルのソ連空
軍基地への空爆指令を出した。すぐにソ連は450両の戦車や装甲車両を投入した大規
模な地上戦によって反撃した。両軍の2週間にわたり戦いが続けられ、ジューコフ側は
入念に組織された2600台のトラックから成る輸送体制があったのに対し、日本側は
深刻な補給不足に苦しむことになる。
!
75
8月の末までに、ジューコフはライフル隊3師団、戦車隊2師団をはじめ、戦車団2団、
合計498両の戦車と自動車化歩兵2師団、航空団として戦闘機・爆撃機250機、そして
2師団のモンゴル騎兵師団からなる部隊を編成した。一方、関東軍は軍備でも兵士の
数でも完全に劣勢に陥り、軽武装の2師団しか召集することができず、また諜報部門も
ソ連軍の編成規模やジューコフが計画していた攻撃範囲を見抜くことができなかっ
た。
ソ連・モンゴル軍の5万人の兵隊がハルハ河を渡り日本軍の精鋭部隊に攻撃を仕掛
け、日本軍第23師団を挟み撃ちにした。8月27日、日本軍は包囲網脱出を試みたが失
敗に終わった。包囲された日本軍が降伏を拒むと、ジューコフは砲兵射撃と空爆によ
り日本軍を壊滅させ、戦いは8月31日に終結し、9月16日に停戦が調印された。
この時のソ連の戦略とジューコフ率いる百戦錬磨のシベリア部隊は、後の1941年12
月にドイツ国防軍がモスクワの入り口で大敗を喫した際、大活躍することになる。
ハルハ河で起こったこの事件の決着は、1946年に東京裁判(極東国際軍事裁判)ま
で持越されることになる。土肥原賢二、平沼騏一郎、板垣征四郎には「モンゴル人民
共和国とソビエト社会主義共和国連邦に対し侵略戦争を始めた」罪で有罪判決が下さ
れ、土肥原大将と板垣大将は1948年12月23日に東京で処刑された。この有罪判決が
さらに東京裁判の信頼性に疑問を投げかけた。
天津事件1939年6月14日∼8月20日
ハルハ河戦争またはノモンハン事件とも呼ばれる 日ソ国境紛争と時を同じくして天津
事件が起こり、1939年6月、危うく日英戦争に発展する事態となる。この事件が示す
のは諸外国のさまざまな利益や国内の混沌、軍閥主義や国民党の裏取引によって引き
裂かれた中国の極限状態であり、予想不可能かつ複雑で脆弱な無法状態であった。
1939年4月9日、天津市にある日本傀儡政権下の中国聯合準備銀行の支店長が中国人
テロリストに銃撃され死亡した。日本側は英国租界に住んでいる6人を暗殺の罪で訴
えた。英国警察が6人のうち4人を逮捕し、彼らに拷問を加えないこと、そして5日以
内に英国側に戻すという約束で日本側に引き渡した。2名が自白したがその自白は拷
!
76
問によるものだったにもかかわらず、英国警察はこれらの容疑者が暗殺に関わったと
いうことを認めた。
この容疑者たちは、一旦英国の監督下に戻されたが、蒋介石の妻、宋美齢は英国側に
対して暗殺犯が国民党の工作員であることを認め、その上で容疑者が日本に引き渡さ
れ処刑されることを回避しようとした。ところが英国領事は本件の詳細を本国政府に
知らせずに、暗殺犯を日本側に戻すと約束してしまった。そうした事から英国政府外
務長官のハリファックス伯爵が、日本に男達の身柄引き渡しを拒否する事態になった
のである。
陸軍大将、山下奉文は中国にある西洋諸国の租界を廃止するよう主張し、日本政府に
英国租界の封鎖を進言した。こうして日本軍は1939年4月9日、天津の租界地を包囲
し、出入りする全員の身体検査を始めた。両国の対立は急速に深刻化し開戦へと傾い
ていった。特に日本兵によって、英国の婦人たちが銃剣を突きつけられながら衣服を
脱ぐよう強要されたと英国のマスコミが報じると、それにより「黄禍への激しい抗
議」へと発展し、英国海軍元帥は宣戦布告に値する行為だと述べた。その間、フラン
スと米国の両国は、対象になっているのが天津の1500人程度の英国人であることか
ら、日本と戦争のリスクを犯すことを拒んだ。そこで英国首相チェンバレンは、駐日
英国大使に英国の威信をあまり大きく傷つけることなく、この危機から脱出する方法
を探るよう命じた。1939年8月20日、暗殺犯の中国人は日本側に引き渡され、後に
処刑された。
天津事件は日本政府の外交政策と日本陸軍の間に齟齬があると示すと同時に、米国の
支援が無い場合、アジア地域における英国の軍事的な弱さを示す出来事でもあった。
1939年末にかけて、世界の多くの国が大なり小なりの戦争状態にあり、まだその状
態に至っていない国でも軍事衝突への準備を急速に整えつつあった。9月22日、ドイ
ツ国防軍とソ連の赤軍とがポーランドのブレスト=リトフスク(現ベラルーシのブレ
スト)で合同戦勝パレードを行う一方、大西洋の対岸では10月11日に米国大統領フ
ランクリン・D.・ルーズベルトが、アルベルト・アインシュタインからできるだけ早く
原子爆弾を開発するよう勧める手紙を受け取っていた。
また、10月17日にポーランドのリヴィウ (現在はウクライナ) で超トップ級秘密会談
がアドルフ・ヒットラーとヨシフ・スターリンとの間で行われ、新たな秘密議定書に
!
77
両者が署名した。この新議定書は実情に合わなくなったモロトフ=リッペントロップ
協定に替わるものであった。
自称、世界を救う運命である2名の独裁者のいずれも、この会談の痕跡を残すことを
望まなかったため、秘密会談が開かれたことを示す唯一の証拠はアメリカ連邦捜査局
(FBI)初代長官のエドガー・フーヴァーが署名した次の書状だけである。
1940年7月19日
国務次官補アドルフ・A.・バール 閣下 机下
極秘
われわれは信頼できる筋から、ドイツ・ソビエトによるポーランド分割占領後の
1939年10月17日にヒットラーとスターリンがリヴィウにて秘密裏に会談し、旧協定
に代わる新たな秘密条約に署名したという情報を入手いたしました。
敬具
J. エドガー・フーヴァー
非常に似通っているが全く異なっているとも言える二人の独裁者の会談を見ることが
できたとしたら、非常に興味深いに違いない。ヒットラーはアジアのボルシェビキ主
義から欧州を救うことを運命付けられ、「神は我らと共に(Gott mit uns)」をモッ
トーに千年帝国ドイツの樹立を目指していた。一方、スターリンは神聖共産主義世界
帝国のマルクス主義者にとってロシア皇帝であり法皇であった。両者は永遠の友情を
互いに誓い合う一方、どのように、いつ、相手を抹殺するかを必死に模索していたの
だ。
11月30日、ソ連がフィンランドを攻撃して冬戦争が勃発する。ソ連側は兵隊50万∼
90万人、戦車2500∼6500両、航空機3880機を投入し、フィンランド打倒に2週間
の戦闘を予定していた。ところが驚いたことに、ソ連軍の圧倒的に優勢な火力装備に
もかかわらず、戦闘は翌年の3月13日まで続いた。その結果、ソ連軍兵士の死者は20
万人、負傷者または行方不明者は30万人に上り、戦車3543両と航空機515機が破壊
された。
!
78
目覚しい勝利にもかかわらず、フランス、英国、米国の支持を得られなかったため
に、フィンランドは1940年3月12日にモスクワ講和条約を受け入れなければならな
かった。これにより、フィンランドは第二の都市ヴィーブリを含む国土の10%をソ連
に割譲し、カレリア地方に住むフィンランド人42万2000人は故郷を失った。
この圧倒的な敗北はソ連の弱点をあえて見せて、ヒットラーを
しソ連の軍事力を過
小評価させるためのスターリンの秀逸な策略だったのだと主張する歴史学者もいる。
だが真実は、フィンランドを勝利に導いた陸軍元帥、カール・グスタク・エミール・
マンネルヘイム男爵が軍事の天才だったことにあった。彼は「モッティ(包囲)戦
術」を使い、おかげで圧倒的に数の上で劣勢なフィンランド軍がはるかに大規模なソ
ビエト部隊を壊滅させることができたのである。敵の大群を封じ込め、背後から補給
路を切り崩すという包囲網作戦は、後にドイツ、ソ連両軍によって大規模に利用され
た。
加えてマンネルヘイムは長年ロシア帝国軍の軍務に就いていたため、ロシア人のこと
をよく知っていた。彼はロシア軍での勇敢な働きから、奉天会戦で大佐に昇進してい
る。
マンネルヘイムは流暢なロシア語を話しただけでなく、スウェーデン語(彼の母語で
ある)、フィンランド語、フランス語、ドイツ語、英語、ポーランド語も話し、さら
に標準中国語もある程度話すことができた。というのも、サンクトペテルスブルグか
ら北京までのアジア横断を含め、広い地域を旅行していたからである。サマルカン
ド、トルキスタン、ホータン、カシュガル、ウルムチ、トルファン、敦煌、西安を経た
旅では、中国山西省の五台山も訪ね、ダライ・ラマにも会った。その際ダライ・ラマ
に中国軍から身を守るための護身用の銃を一丁贈っている。また、内モンゴルの首
都、フフホトを通り1908年7月に北京に着くと、軍情報活動報告書を書き、その後、
日本を経由してシベリア横断鉄道で帰国している。
!
79
インドシナで起こった一連の事件
1940年初頭までは大西洋の戦争と太平洋の戦争の行方が互いに影響し合っていたの
は明らかだった。そこで、太平洋の戦争の全ての当事国が戦略的・外交的意思決定を
する際には、欧州の軍事動向を注視する必要があったのである。とりわけソ連と英国
の場合は、作戦の予測や決定にあたって、中国での出来事を考慮しなければならな
かった。
1940年3月5日、スターリンの指示の下、後にソ連第一副首相になるラヴレンチー・
ベリアによってカティンの虐殺が実行され、4月12日には英国軍隊が大西洋の戦いに
おける要所となるフェロー諸島を占領した。5月10日はフランスが戦いを開始し、
チャーチルが首相になった日でもある。英国はアイスランドに侵攻し、5月20日には
エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ軍がイギリス海峡(英仏海峡)まで達した。
これに対し、英国は30万人の兵士をフランス本土最北端のダンケルクから撤退させる
のがやっとだった。6月10日にはイタリアがフランスに、カナダがイタリアに対し宣
戦布告し、ノルウェーはドイツ軍に降伏した。
米国大統領ルーズベルトは6月14日に海軍拡張法に署名し、10%の米国海軍増強が行
われた。ソ連軍はバルト諸国のエストニア、リトアニア、ラトビアに進攻し、これら
バルト三国をソ連に組み入れた。7月3日には、英国海軍がフランス海軍の船を撃沈ま
たは拿捕し、その結果、フランスのヴィシー政権は、英国との外交関係を断絶。米国
ではジョン・パーシング将軍が求める「英国を全面的に支援する」という意見と、米
国の英雄チャールズ・リンドバーグが勧める「孤立主義を貫きつつもヒットラーとの
中立協定を締結する」という二つの意見の間で国民の議論が激化した。そして9月16
日、米国の歴史始まって以来の平時の徴兵が、フランクリン・D.・ルーズベルト大統
領により法制化され(1940年選抜訓練徴兵法)、これによって、10月16日には
1,600万人の男性を対象にした徴兵登録が開始された。
中国側には米国からの燃料、武器など1万トンの輸入補給物資が印仏ルートと呼ばれ
る滇越鉄道(昆河線)を通じて供給されていたことから、日本はフランスに仏領イン
ドシナ情勢を統制するよう圧力を掛けることを決めた。9月22日、日本とフランスは
インドシナに進駐する6千∼2万5000人の日本軍に輸送権と基地を無償供与するとい
う合意書に調印した。陸軍中将の中村明人率いる第5師団は、鉄道の起点であるベト
!
80
ナムのランソンへと進攻中、いくつかの交戦をしたが、9月26日までにはハノイのギ
ア・ラム飛行場と中国雲南省との国境に位置するラオカイ市を占領して戦闘は終結し
た。ハイフォンに進駐の900人の日本軍に加えハノイには600人の兵が配置され、ビ
ルマ道を除けば完全に中国封鎖が実施された。
米国大統領ルーズベルトはこれに激怒し、9月26日、日本への金属スクラップ出荷の
全面的禁輸措置を初めて発動した。そして日本にとって不運なことに、ルーズベルト
は「流れの中で馬を替えてはならない」をモットーに大統領選に勝利し、ただ一人、
米国初の3期目を務める大統領となったのである。
1940年9月27日、日本、ドイツ、イタリアの間で日独伊三国同盟が調印された。なお
この同盟について、イタリアの新聞は早速、各国の首都、Rome、 Berlin、Tokyoの
第一音節をとってRoberto(ロベルト)と名付けた。
(以下は、日本、ドイツ、イタリア、三国同盟条約文)
日本、ドイツおよびイタリアの各政府は、世界中の全国家がそれぞれの権利として付
与されている区域を得ることが恒久の平和にとっての必須条件と考える。よって三国
は、欧州地域および大東亜圏での取り組みにおいて、互いに支援し、協力することを
決意した。これを遂行するために、当事者相互の繁栄と福利を増進することを考慮
し、物事の新たな秩序を確立し保持することが、われわれにとって最も重要な目的で
ある。さらに、最終的な目標である世界平和を達成するために、当三国と同様の方針
に沿って努力を傾けようと考える世界中の他の地域の国家にも協力を拡大すること
は、三国政府の欲するところである。それゆえ、日本、ドイツおよびイタリアは、以
下のよう合意した。
第1条
日本はドイツおよびイタリアの欧州における新秩序の建設に関する指導的立場を認
め、尊重するものとする。
第2条
ドイツおよびイタリアは、日本の大東亜における新秩序の建設に関する指導的立場を
認め、尊重するものとする。
!
81
第3条
日本、ドイツおよびイタリアは、上述の方針に基づく努力において、相互に協力する
ことに合意する。さらに、もし本条約締約国のうちの一カ国が、現在欧州戦争または
日支紛争に参入していない国によって攻撃された場合は、三国は、政治的、経済的、
軍事的方法により、相互に支援を行うことに合意する。
第4条
本条約の実施を鑑み、日本、ドイツ、イタリアの各政府によりそれぞれ任命された委
員から成る混合専門委員会が遅滞無く開催されるものとする。
第5条
日本、ドイツおよびイタリアは、上記合意条項が、条約締約三国のそれぞれとソビエ
ト・ロシア(ソ連)との間に現存する政治的状態になんら影響を及ぼすものでないこ
とを確認する。
第6条
本条約は署名と同時に効力を持ち、発効から10年間有効とする。期間満了前の適当な
る時期において、締結国のうちのいずれか一国が要求した場合は、当締約三国は本条
約の更新に関し協議に入るものとする。
12月17日、ルーズベルトは英国に援助物資を送る計画の概要をまとめた。なおこれ
は、後にレンドリース法(武器貸与法)と呼ばれることになる。1941年1月20日、連
邦最高裁判所長官のチャールズ・エヴァンズ・ヒューズは、米国大統領フランクリ
ン・D.・ルーズベルト(FDRとも呼ばれた)の三期目の宣誓就任を執り行った。そし
て、この瞬間からルーズベルトは太平洋戦争の主役に躍り出たのである。
!
82
【第13章】フランクリン・ルーズベルトのガンビット (先手)
歴史学者の中には、1937年7月には日本の資産を凍結する考えを既にルーズベルトは
持っていたが、さまざまな理由から、各種の制裁措置で「日本を痛い目に合わせる」
のを何とか抑制していたのだと言う者もいる。ルーズベルト大統領が何を考えていた
かを知るすべはないが、彼が米国外交政策で下した意思決定の根源には、失業率が
25%に上り、工業生産高は生産能力の半分以下に落ち込んだ1929年10月の大恐慌後
の米国国内事情があると考えるのが妥当である。
当時の統計を見ると、フランクリン・ルーズベルトの下した決定は正解だった。戦争
の準備や、レンドリース法(武器貸与法)に基づく信用取引によって武器、貨物自動
車、航空機、船舶を供給することで、米国産業は推進力を回復し、人々はまた職に就
くことができたのである。
(23)米国産業生産高の推移
!
83
(24) 米国人1人当たりGDP (2000年基準不変ドル)
(25)米国失業率推移
!
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(26)不況状況の国際比較
転換期となったのは1941年の初頭である。この年、米国は日本に対し攻撃的な経済
戦争を仕掛けたのだ。だが、1941年夏の石油の禁輸措置は、日本に戦争を踏み切ら
せるのには至らなかった。というのも、日本はその時点で既に710万バーレルのガソ
リン、2190万バーレルの原油、3万3000バーレルの潤滑油といった総額5000万ドル
の購入権を得ており、1943年までは十分な供給量を確保していたからである。そこ
で日本への全ての供給を即時停止するために採られた措置が、米国にある日本の資産
を凍結するという1941年7月25日付のフランクリン・ルーズベルトの大統領行政命令
だった。これほどのことをしても日本を戦争に突入させることができなかったとした
ら、どんな強硬手段をもってしても無理だったであろう。フランクリン・ルーズベル
トが、国政から離れていた強硬派のディーン・アチソンを国務次官補および米国・英
国・オランダによる石油禁輸措置の立案者として呼び戻したのは偶然ではない。アチ
ソンは、日本との全商取引の許諾を統制するとともに、彼の3人委員会である外資管
理委員会(FFCC)にも認可を与え統制を二重に行い、必要に応じては外資の放出を
拒んだ。
!
85
豊富な資源を持つ強大な国が、自国の存亡を懸けて闘う「持たざる国」の咽元を締め
上げ、困窮へと追い込んでいったのだ。部下の外交顧問や海軍参謀以上に、最初から
一貫してルーズベルトは日本を戦争へと追いやりたかったように思われる。そして、
アチソンは上司であるこの最高司令官の言葉に出さない暗黙の願望を実行していった
ようである。
米国経済協力局の研究調査(1941年5月1日)を見ると、日本の脆弱性について米国
側がどの程度理解していたかや、米国の石油供給が日本にとっていかに欠くことので
きないものであったかがよく分かる。米国の輸出統制機関は、米国、大英帝国、オラ
ンダ領東インドとのあらゆる商業分野で、日本を完全に通商禁止とすることを目指し
たが、もちろんアチソンはこの措置によって戦争が勃発する可能性があることを承知
していた。
資産凍結はどこから見ても、日本の存亡に関わる致命的脅威であり攻撃であって、米
国に対する自己防衛の戦争として正当化できるものだった。ドイツが三国協定を破り
ソ連へ侵攻したことによって、日本はシベリア鉄道を経由した欧州との交易が断たれ
ることになり、米ドルだけが日本にとって唯一の国際通貨となった。日本を挑発する
ことによって、米国は全国民の支持を得、軍備を完了させた状態で太平洋戦争を始め
るのが可能になったのだが、このことについてフランクリン・ルーズベルトの責任を示
す証拠は、せいぜい状況的なものでしかなく、歴史学者が確固たる証拠を掴むことは
決してないのかもしれない。
しかしそれでも、事実として残るのは、米国民の大多数が1941年1月の時点で、まだ
ヒットラー率いるドイツとの戦争には反対していたことだ。またアドルフ・ヒットラー
と中立条約を結ぶべし、と勧告する飛行家、チャールズ・リンドバーグを代表とする市
民のオピニオン・リーダーたちが、米国連邦議会(1941年1月23日)の前で明らかに
したのは、多くの米国市民はヒットラーの非ユダヤ系白人、つまりアーリア人至上主
義に魅力を感じており、参戦するならば、日本との武力衝突という選択肢のみが残さ
れた。後述するが、こうした事情により、真珠湾攻撃をめぐるさまざまな状況がいま
だに解明されないままなのである。
!
86
真珠湾の年
駐日大使、ジョセフ・グルーは、1941年1月27日に外交官が集まったレセプションで
小耳に挟んだ真珠湾の奇襲計画の
を米国政府に報告する。米国下院は2月8日にレン
ドリース法を可決させ、英国、ソ連、中国、その他の「友好国」に大量の武器と軍需
物資を供給する計画を開始し、ここに中立性の保持という米国の建前は崩れたのであ
る。
総額501億ドル(2008年価格で約7300億ドル)相当の軍需品が、1941年から1945
年の間に輸送された。英国に314億ドル、ソ連に113億ドル、フランスに32億ドル、
中国に16億ドル相当の軍事補給がなされたことになる。こうした物資のうち一部は、
英国植民地のニューファンドランド島や英領西インド諸島の米国用の基地建設のため
に供与され、その他は返還されるか破棄されない限り、活用されることになった。実
際にはこれらの物資は、2006年までに返済するという長期ローンで10億ポンドの割
引価格で英国に売却された。また、カナダも英国とソ連に対し47億ドル相当の同様の
計画を実施した。
1941年2月14日、海軍指令長官の野村吉三郎は駐米日本大使としての職務に就いた
が、それは日本政府が日米関係の深刻な悪化を十分認識しており、米国政府との交渉
の経験を持つ野村を外交官に任命することで、山積する危機を打開しようとしている
ことを示唆していた。半ば退官した後、64歳で抜
された野村は、駐米大使館付き海
軍武官、パリ講和会議およびワシントン会議の代表を歴任し、1933年には海軍大将
に昇進した人物である。さらには阿部信行内閣の外務大臣を務めている(1939年∼
1940年)。彼は1941年のほぼ一年間、不休で日米戦争を回避すべく、米国国務長官
コーデル・ハルとの合意を目指して交渉を試みた。
3月27日、ハワイのホノルルに到着した日本海軍情報将校、吉川猛夫は米国海軍につ
いての専門家で、彼の任務は真珠湾の米国艦隊を調査することであった。1933年に江
田島の海軍兵学校を卒業したエリートの彼は、真珠湾を見下ろせるアパートを借り、
艦隊の動きを記録した。情報収集のために小型飛行機をチャーターして海軍施設の上
空を飛んだり、果ては港に潜ったりしたこともある。彼の報告はパープル暗号(外務
省用の暗号機B型)によって外務省と日本帝国海軍に伝えられた。ところがこの暗号
は、米国の暗号解読者によって解読されており、そのため日本政府との伝達事項は全
!
87
て傍受・解読されていた。しかし、それらの情報は優先度の低いものと考えられ、時
には数週間も翻訳されずにいたこともあった。
1941年3月、日本の外務大臣、松岡洋右は欧州を歴訪した。アドルフ・ヒットラーと
3月27日に会談してドイツとの関係を強化し、できればソ連を含む4国間協定を結ぶ
ことで、米国の日本への圧力を緩和しようとしたのだが、手遅れだった。ドイツはソ
連への侵攻を既に準備していたからである。一方、ルーズベルトとチャーチルは、
ヒットラーとスターリンとの戦争が間もなく勃発するだろうという秘密の報告を受け
喜んだ。そうなれば米英両国は日本とはなんの妥協も合意もする必要がないことを意
味していたからだ。それでもなお、チャーチルはローマにいた松岡に密かに連絡を取
り、日本とドイツとの外交協力を撤回するよう説得を試み、米国に行ってルーズベル
トと会うよう提案した。というのもフランクリン・ルーズベルトは4月14日に日米理
解についての草案を議会に提出していたからである。
4月13日、日ソ不可侵条約が調印され、条約は1945年まで効力を持つことになる。
4月15日、米国はレンドリース法に基づき中国への援助を開始し、一方で、大西洋の
戦いはクライマックスを迎えた。大西洋ではドイツの戦艦「ビスマルク」が英国海軍
巡洋戦艦「フッド」の火薬庫を15インチ砲弾一撃で撃沈。「フッド」の火薬庫に当
たった砲弾は大爆発を起こし、乗組員のうち3名を残して全員が死亡。船体は真っ二
つに割れ、3分もたたぬうちに海底へと沈んだ。ホランド提督と1415人の乗組員は船
と共に沈み、3名の生存者は駆逐艦「エレクトラ」によって助け出された。それを聞
いたチャーチルは、「ビスマルクを撃沈せよ」と激怒した。この命令は5月27年に遂
行され、損傷を受けた「ビスマルク」は艦長エルンスト・リンデマンと2300人の乗組
員を乗せたまま沈没。116人が生き残った。
6月14日、米国にあるドイツおよびイタリアの資産は全て凍結された。さらに、日独
伊三国同盟を破り日本への事前通告なく、ドイツがバルバロッサ作戦を6月22日に開
始すると、大西洋の戦いは新たな局面を迎えることになる。
この時をもって、ソ連および中国と同盟関係にあるルーズベルトとチャーチルには、
もはや日本との和解を探る必要がなくなったと、日本の首脳陣は悟るべきだった。事
実、日本に対する米国の外交姿勢は、この日を境に尊大で非常に厳しく、柔軟性を欠
くものになった。
!
88
ドイツのソ連への奇襲攻撃は真珠湾同様、今日でも歴史的議論の的となっている。バ
ルバロッサ作戦の立案が1940年12月18日に開始され、それから4カ月の間にヒット
ラーは秘密裏にドイツ軍350万人と必要な装備をソ連との国境へと移動させた。こう
して人的資源と死傷者の数では、人類の歴史始まって以来最大の軍事作戦が準備され
たのである。
スターリンは1941年3月には、この計画について既に十分な情報を知らされていた。
ソ連の軍情報部はバルバロッサ計画の全貌をスターリンの目の前に示し、ベルリンに
潜むコミンテルンのスパイの多くと同様、東京のリヒャルト・ゾルゲも攻撃の日を
1941年6月20日と予測したが、スターリンは常識を信じることに固執した。
英国との戦争が未だ終わらない6月中旬に、ソ連への侵攻を開始するということは無
謀な企てであり、ドイツ経済を疲弊させることになる。その上、ソ連の諜報部が欧州
の羊皮市場を注意深く見守っていた。というのも、もしヒットラーが夏の終わりに侵
攻を計画しているとすれば、ドイツ軍は羊皮のコートを何百万着も購入し、冬のロシ
アでの戦闘に備えなければならない。そうなれば羊肉の値段は下落し、羊皮が急騰す
るはずだ。だがそのような値段の変動は報告されなかったため、スターリンは侵攻が
すぐ行われる可能性は低いと結論したのだった。
実際、ヒットラーはそれにもかかわらず攻撃を仕掛けたのだが、それは、軍事力競争
でソ連が勝利を収めつつあり、ヒットラーにはもはや一刻の猶予もなくなっていたか
らだ。当時、ドイツの4000両の戦車に対し、ソ連は1万5000両の戦車を、またドイ
ツの4500機の航空機に対し、ソ連は1万1000機を配備していた。
ソビエトの装甲戦闘車両の生産高推移:
軽戦車
中戦車 1940
1941
1942
1943
1944
1945
合計
2,255
1,907
9,579
5,391
7,155
3,562 30,079
127
2,800
12,578
17,192
16,242
13,485 62,424
243
1,353
2,635
1,458
4,762
3,030 13,831
例:T34
重戦車 例:KV1
!
89
ドイツの全種装甲戦闘車両の総生産高:
戦前
3,503
1939 1940 1941 1942 1943
1944 1945 戦争中
合計
370 1,788 3,623 4,136 13,657 18,956 4,406 46,936 50,439
米国のレンドリース法に基づく軍需補給に加え、英国の援助を考慮すると、ヒット
ラー率いるドイツには、ソ連に対し電撃戦で勝利を収めるしか助かる道は無かった。
こうして6月22日にドイツは98師団(350万人)、4200両の戦車と3400機の航空機
を投入し、バルト海とカルパチア山脈までの1200kmにわたる前線に侵攻。同日、
イタリアおよびルーマニアがソ連に対し宣戦を布告し、6月23日にはハンガリーとス
ロバキアも続いて宣戦布告した。
ドイツ・ソ連・日本の和解を阻止するつもりのルーズベルトは、松岡が考えていた4国
同盟の可能性に恐れを抱いていた。しかし、今や本格的な独ソ戦争が勃発して、「日
米の平和的理解」など全く不要になったことで、不安を払拭することができた。差し
当たっての目標は積極的に日本を多忙な状態にさせ、ヒットラーが密かに願っていた
日本のソビエト極東地域侵攻を防ぐことであった。一方、内閣総理大臣の近衛文麿
は、この期に及んでも米国との関係改善を希望し、7月8日、外務大臣の松岡洋右を通
じて書信を送っている。
「日本国政府は、これまでソビエト連邦に対する敵対行為への加担を考慮したことは
ないと言明させていただきたい」
これでルーズベルトは日本がソ連に侵攻しないという保証を取り付けることができ
た。だがそれにもかかわらず日本の期待に反して、米国の要求は大幅に増大していっ
たのである。7月24日の野村駐米大使との会談で、ルーズベルトは仏領インドシナか
らの日本の完全撤退とタイの中立化、即ち同盟の解消を要求した。タイと日本は最も
近しい同盟国で、歴史的にも両君主国は非常に緊密な関係を保ち、またアジアにおい
て植民地化を回避してきたただ二つの国だった。
ルーズベルトが、タイの中立化というこの新たな要求で本当に意図したところは、も
し日本が完全にインドシナから撤退したとしても、それで問題は終わりにならないと
!
90
いうことだったのだ。だが、ほんのわずかな人間を除き、官僚的な日本外務省と、ま
してや外交的に不慣れな軍の上層部には、一度飲み込んだ「ハル長官の巧妙な釣り
針」を吐き出すことが不可能だということに気づく者はいなかった。フランクリン・
ルーズベルトの先手は今や王手をかけていた。
ルーズベルトとチャーチルの大西洋首脳会議は、将来における植民地は現状維持とす
ることを確認して1941年8月12日に終了した。
(27) 大西洋憲章で構想する世界地図
ルーズベルトは8月17日の朝、ワシントンに帰り着くと、日曜日にもかかわらず野村
大使を打ち合わせに呼び出し、太平洋地域の平和を望む旨を表明して次のような声明
書を手渡した。
「日本政府が近隣諸国に対して武力やその脅威による軍事支配を画策する政策を追求
し推進するのであれば、本政府が日本政府にただちに告げねばならぬのは、米国およ
び米国民の正当なる権利と利益を守り、米国の保全と安全を確保するために必要とみ
なされるいかなる手段を講じることも辞さないということだ」
これは穏やかな話どころか、米国の領土の境界は今やインドシナにあるということを
暗示したものだった。
!
91
7月26日に日本の資産が凍結され、8月1日には石油の禁輸措置が採られたのを受けて
もまだ、近衛首相は日・米首脳会議を提案することで行き詰りを打開しようとした。ハ
ル国務長官がこの提案をけんもほろろに一蹴したのに対し、野村大使がこの提案を
ルーズベルト大統領に持っていった時には、大統領は既にこの一件を聞いていたにも
かかわらず極端に好意的な応対をし、10月の首脳会談の開催地にアラスカのジュノー
を提案した。哀れな野村氏を相手に、フランクリン・ルーズベルトとハルが善玉悪玉を
演じて翻弄したのだ。
9月29日、モスクワ会議が始まった。会議は米国のアヴェレル・ハリマン、英国の
ビーバーブルック男爵がソ連のヴァチェスラフ・モロトフ外相およびスターリンと会談
し、ソ連への緊急軍事支援について調整するものだった。10月1日に合意に達し、最
終的にソ連は連合国側に加わった。合意はドイツの猛攻撃の下でもソ連が崩壊するこ
とはなく、近い将来ドイツ軍によって降伏させられることもないという旨を保証する
ものだった。今や米国は日本が抱く日米首脳会談の夢など相手にする必要はなかっ
た。そこで、10月2日にハル国務長官は野村大使に会い、理由をでっち上げて非難
し、首脳会談の提案を拒否した。
この1941年10月2日の覚書をもって、米国は事実上、日本との関係を終わらせたこ
とになる。ちなみにテネシー州出身の米国国務長官、コーデル・ハルはアパラチア地
方の木こりのように振る舞い、レッドネックのように、 We's been speekin'
Redneck of s'long's I can member. My mammy and pappy spoke it, and they
learned it frum deer mammy and pappy,
というような訛り丸出しで話したの
で、何を言っているか本当に分かり辛かったと付け加えておく。
もしフランクリン・ルーズベルトが日本の外交官たちを侮辱し、両国の交渉が確実に暗
礁に乗り上げることを望んでいたのなら、コーデル・ハルという最適の国務長官を選
んだことになる。フランクリン・ルーズベルトの推薦を受けて、ハルは1945年になぜ
かノーベル平和賞を受賞した。ノルウェー・ノーベル委員会は、ルーズベルトのごり
押しに「ノー」と言えなかったのではないだろうか。
駐日米国大使のジョセフ・グルー(在任1932年∼1941年)は、フランクリン・ルーズ
ベルトの真の戦略について全く知らされておらず、アメリカ政府に忠告の書状を何通
も必死で送り、最後まで戦争を回避しようと試みた。グルーはその中で、米国の強硬
!
92
な政策は日本を国家的自殺行為へと追いやる可能性があると述べている。9月29日、
グルーは「日本が日独伊三国同盟に加わったことの原因は、日本が完全に混乱してい
たということがあるが、この国は今、非常に危険な立場から抜け出そうと努力してい
る ・ ・ ・ 。 日 米 両 国 の 関 係 を 徹 底 して 再 調 整 す る 時 期 が 来 て い る と 、 私 は 考 え
る・・・。日本の首相は、予定されている会議において枢軸国の一員としての地位を
捨てる覚悟である・・・」という報告書を国務長官のハルに送っている。
ハル国務長官はグルーの助言と努力を無視しただけだった。東京でグルー駐日大使の
秘書官を務めたロバート・フィアリーは、最近の記事で次のように述べている。
ジョゼフ・C.・グルー大使は1932年から41年にかけて駐日大使を務め、当地域につ
いて最も経験豊かで傑出した米国の外交官であった。真珠湾の奇襲攻撃に先立つ日米
交渉に対する米国政府の対処の仕方は、想像力と柔軟性に欠けるものであったと彼は
死ぬまで確信していた。駐日米国大使館が熟慮のすえ作成した報告、とりわけ日本の
首相、近衛文麿の提案に関する報告、分析、および勧告を米国政府は軽視したとグ
ルーは考えていた。近衛の提案とは、全ての懸案事項について合意に達するよう、直
接的な尽力をするために、ホノルルで近衛とルーズベルトの両者が膝を突き合わせて
会うというものであった。グルーは、もしこの会談が行われていたなら、太平洋戦争
は回避できたかもしれないと考えていた。
明らかにグルーはフランクリン・ルーズベルトの真の計画を知らされておらず、真珠湾
攻撃の後、2カ月の拘留中もけなげに報告書を作成し、米国に帰国早々ハルに提出し
ている。
8月以降、彼は戦争回避に非常に熱心に取り組み、米国政府に近衛首相の「平和的合
意を見いだすためにハワイでルーズベルト大統領と個人的会談を持つ」という提案
が、昭和天皇をはじめ軍幹部の支持も得たことを伝えていた。当初、米国政府は興味
を示したが、フランクリン・ルーズベルトが主張する「時間的制約」という奇妙な理由
からアラスカでの会談が提案された。近衛は戦争回避のためなら、どこへでも赴くつ
もりで、即座にアラスカに向け出航準備の整った駆逐艦を横浜港に待機させた。9月3
日、野村駐米大使との打ち合わせで、フランクリン・ルーズベルトはいきなりこの件に
関し、英国、中国、オランダと十分議論する必要性を含め、会談の前提条件を記した
!
93
文書を持ち出した。この頃には野村もグルーも、また近衛にもフランクリン・ルーズベ
ルトとハルがアラスカでもどこであっても会談の意図など全くなく、完全にごまかし
ていたことが分かったはずである。
この年の春、近衛はグルーを通じて米国政府に、なぜフランクリン・ルーズベルトと日
本の外で会う必要があるのかをわざわざ説明しているが、こうした近衛の正直さと率
直な態度が裏目に出た。枢軸国派の松岡外務大臣の裏切りを恐れた近衛が通常の日本
の外交ルートを避けるのであれば、米国・中国の厳しい要求を飲むしかないという状
況を米国政府は利用した。というのも、近衛によれば、松岡は即座にあらゆる情報を
ドイツとイタリアにリークするだろうし、両国はいかなる日米和解も妨害するであろ
うからだ。
「細心の注意を要する中国に関わる交渉が、強硬な枢軸国派の松岡外相によってリー
クされれば、自分は暗殺されるであろう」と近衛首相はグルー大使に説明した。その
上、米国大使館と国務省間の暗号通信を担当する日本人解読者のうち、反感を抱く者
から情報がリークされる可能性もあり、近衛は既に暗号は解読されていると考えてい
た。
加えて近衛は、松岡がドイツのソ連侵攻のせいで辞職を余儀なくされたとき、外務省
に彼の支援者を残していったと説明し、中国問題について米国との平和的合意に達す
るなんらかの進展が生まれた場合は、これらの松岡支持者がリークするだろうと語っ
た。
よって、日本陸海軍の高官を伴った近衛とルーズベルト大統領との私的会談が、中国
および太平洋の平和に関して有効な日米合意に達するためには一番良い方法だという
のが、近衛の主張だった。
グルーは近衛の戦略を支持し、日本が多大な投資を行い経済とインフラの近代化が目
覚ましい満州は別として、中国の泥沼から面目を保ちつつ徐々に撤退することを、昭
和天皇をはじめほとんどの日本人が支持し、心からそれを望んでいると米国政府に断
言した。さらに、満州の運命は中国と日本の二国間で後に解決していけるのではない
かと近衛は述べている。
!
94
ドイツがソ連を侵攻した後に決定されたフランクリン・ルーズベルトの真意を知らされ
ていなかったグルーは、米国の禁輸措置と日本の資産凍結のせいで、日本政府内では
過激主義的政治団体が力を持ちつつあり、時間はもう残されていないと忠告した。日
本の過激団体は、米国・英国・中国・オランダの同盟(ABCD包囲網)を敵に回した戦争
が自殺行為を意味するものだとしても、軍は行動を起こすべきだと要求した。それこ
そが米国政府のタカ派政治家の望みだということを知らずに、グルーは「もし近衛内
閣が和平への取り組みに失敗した場合は、別の内閣に取って代わられ、日本は生き残
りをかけた絶望的な戦いへと堕ちていくだろう」と厳しく忠告した。
時は尽きようとしていた。グルーは米国政府に近衛とフランクリン・ルーズベルトとの
会談を受け入れるよう要請した。しかし、中国を愛し日本を嫌うスタンリー・ホーン
ベックはグルーのあらゆる努力を妨害し、日本があえて戦争を仕掛けるはずがないと
あざ笑った。さらにホーンベックは、「グルーは日本に長くいすぎて日本に対する判
断が甘くなっているが、われわれがなすべきことは、ジャップに立ち向かうことだけ
であり、そうすれば、彼らは『尻尾を巻いて逃げ出す』だろう」と主張した。
国務長官コーデル・ハルの特別顧問だったスタンリー・ホーンベックは傲慢な男で、
日本の能力を見下し、米国に挑戦することなどないと考えており、日本が絶望して戦
争を開始するかもしれないという外交局の職員たちの懸念を一蹴した。11月26日に
「ハル・ノート」が提示されたが、その翌日、ホーンベックは次のように書いている。
署名者の意見によると、日本政府は合衆国との武力衝突をただちに望んだり、意図し
たりすることはない・・・もしそれが
けだとしたら5対1で、3月1日以前に日本と
米国が「戦争」になることはないと署名者は予測している(なおこの日付は、現在か
ら90日以上先のもので、これだけの期間があれば準備や配備の「時間」を確保するの
に有利であると、当方の戦略立案者が見積った期間である)。
依然として近衛は日本と米国との首脳会議を一刻も早く実現させようと奮闘し、フラ
ンクリン・ルーズベルトは興味があるふりをしていた。ハルとホーンベックは、日本が
すぐに米国に対して戦争に踏み切る可能性はないし、日本にいるナチス・ドイツの第
五列(ナチス・ドイツに味方する人々)が日米間の和解を妨げる可能性もないとして
いた。
!
95
既に「帝国国策遂行要領」が9月6日に御前会議で採択されていた。これは、日本の自
立と自己防衛を確保するために、米国・英国・オランダとの戦争を受けて立つ決意を
もって1941年10月下旬までに戦争の準備を完了すべし、というものだった。
10月16日、近衛は懇願し待ち望むことに疲れたのか、あるいは単にフランクリン・
ルーズベルトが日本との平和的解決以外の計画を持っていることに気付いたからか、
首相の座を辞し、陸軍大将の東条英機がその後任に就いた。
これは一触即発の危機を回避させるために昭和天皇が行った土壇場での試みであっ
た。なぜなら、東条大将は帝国陸軍の「血気盛んな若き将校たち」に中国からの無条
件撤退を認めさせられるほど強大かつ唯一の権力者であったためだ。
グルー駐日大使はいまだに平和的解決は可能であるかのようなふりをしていたが、個
人的には「賽は投げられた」ことを認めていた。彼は電報を次々とワシントンの米国
政府に向けて送り、突然の捨て身の攻撃がある可能性を警告したが、それはホーン
ベックの報告によって一蹴さ
れ、太平洋防衛を担当する米軍には冷笑されるありさまだった。そしてこのホーン
ベックの報告こそが国務長官ハルとルーズベルト大統領が聞きたかったものだった。
10月18日、東条英機大将が第40代内閣総理大臣に就任した。一方、フランクリン・
ルーズベルトはソ連への10億ドルのレンドリース(軍事物資・武器の貸与)を承認し
た。ソ連政府は10月16日、臨時首都としたクイビシェフに動いたが、スターリンは
モスクワに留まり11月12日に開始される戦いを指揮することになった。チャーチル
は11月10日の演説で、日米武力紛争が勃発した際、英国は日本に対し宣戦布告する
ことを約束した。
この瀬戸際の状況を回避する捨て身の努力として、日本の高級外交官、来栖三郎が野
村駐米大使を補佐するために米国に着いた。一方、駐日米国大使ジョセフ・グルーは
11月17日 にワシントンの米国政府に打電し、日本の奇襲攻撃が目前に迫っていると
警告した。
実際には、天皇の意思に沿って日本が最後まで戦争を回避しようとして指名されたの
が東条内閣だった。なぜなら、平和のために米国の屈辱的な条件を日本軍に受け入れ
!
96
させることができるのは、軍統制権を持つ陸軍大将の東条だけだったからある。屈辱
的な条件とは、日本のインドシナおよび中国全域からの即時かつ完全撤退のことで
あったが、そこには日本が莫大な投資を行ってきた台湾と満州については言及されて
いなかった。これは明らかに、当時何十万もの日本の民間人が暮らしていた満州と台
湾についてあえて触れないことで、もし後に日本が中国からの退去という最初の条件
を受け入れた際、日本に一層圧力をかけられる可能性を残しておいたということだ。
日本の最終的な和平提案2案(A案・B案)が、11月25日を交渉の締め切りとして、
11月4日早々にワシントンの駐米日本大使館へ送られていた。ところが、あらゆる通
信は傍受され解読されていたため、ルーズベルトは公式に提案される前にそれらを読
んでおり、日本政府が設定した交渉期限さえ知っていた。1940年に陸軍長官に就任
した、ヘンリー・スティムソン は、米国陸軍の兵力を1000万人に増強した責任者であ
り、また後のマンハッタン計画の責任者でもあったが、11月27日付の日記に次のよ
うな文章を残している。
「いかにして日本が先に発砲するような状況を作り出すか画策すべきである。それ
も、われわれ自身をあまり危険な目に会わせない方法でだ」
この日の前日、スティムソンはインドシナへの日本遠征軍の派遣に関して、フランク
リン・ルーズベルトに電話をした。これで大統領はかの有名なわざとらしい癇癪を起こ
し、そして、それがハル・ノートの作成につながった。
そう、後に彼自身が友人のオーソン・ウェルズに「われわれ二人は世界最高の役者だ」
と冗談で言っているように、これはフランクリン・ルーズベルトの見事な演技だったの
だ。フランクリン・ルーズベルトと後任のハリー・トルーマンは、原子爆弾に関してス
ティムソンの助言に全て従った。このことは古都京都にとって、とても幸運だったと
言える。なぜなら、スティムソンは新婚旅行で京都に滞在したことがあり、そのため
軍に京都を爆撃のターゲットから外すよう命じたからだ。だがこの話については後ほ
ど述べることにしよう。
有名なハル・ノートという最後通牒(暫定協定の可能性は全く排除されている)が、
11月26日に日本にもたらされた。同日、南雲忠一副司令官率いる6隻の航空母艦から
なる艦隊(南雲艦隊)が、北海道択捉(えとろふ)島にある単冠(ひとかっぷ)湾を
!
97
出航。11月27日、アジアおよび太平洋地域に駐留する米国全軍は戦争への警戒態勢
に入った。
フランクリン・D.・ルーズベルトは12月6日、日本国天皇に対し個人的な和平への呼び
かけを行い、体裁を繕おうとした。一方、凍てつく冬のモスクワの手前では、ドイツ
国防軍がスキーを履いたスターリンのシベリア師団によって大敗を喫し、ヒットラー
の電撃戦は失敗に終わった。
12月7日(日本時間の12月8日)真珠湾において、日本海軍が米国の太平洋艦隊に対
して本格的戦闘を開始すると同時に (実際には、連合艦隊司令長官山本五十六が要望
したように攻撃の30分前に) 日本は米国に対して正式に宣戦布告を行った。こうして
日本側は、戦争における慣習を守りながらも、奇襲をかけることとなった。
N. N. ヤコブレフの著書『The Mistery of Pearl Habor』で示された証拠は、米国の
暗号解読者が、日本大使館が通達を予定していた数時間前に、当然ながら宣戦布告の
情報を傍受し解読していたという事実を裏付けている。
又、宣戦布告は英語で送信されたので日本大使館はわざわざ翻訳する必要はなかった
ということだ。
ハルは真珠湾のニュースを受け取るまで、駐米大使の野村と特命全権公使の来栖をロ
ビーに待たせたままにした。そのため、この日本人外交官2名は宣戦布告状を手渡す
ことができず、また、攻撃が行われたことを知る訳もなく、ハルがついに彼らに拝謁
を許し、悪党・臆病者呼ばわりした時には大きな衝撃を受けた。
1999年に出版されたロバート・スティネットの著書『Day of Deceit:The Truth
about FDR and Pearl Harbour』(邦題:『真珠湾の真実―ルーズベルト欺瞞の
日々』 文藝春秋社 2001年)は、当時の日本帝国海軍の暗号電文を解読・翻訳し
た極秘記録に基づき書かれたものであるが、この記録は情報自由法 (Freedom Of
Information Act) のおかげで最近になってやっと閲覧が可能になった。差し迫ってい
る日本の攻撃についての詳細は、1941年12月7日より数日前にフランクリン・ルーズ
ベルトのデスクに届いていたことは何の疑いもないと、著者は結論付けている。
!
98
そうであるならば、フランクリン・D.・ルーズベルトをはじめ多くの主要人物は、オ
アフ島の米国軍司令官(太平洋艦隊を指揮していたハズバンド・E.・キンメル司令長
官に加え、ハワイ諸島の陸軍陸上部隊および空軍部隊を指揮していた中将ウォル
ター・ショート)に、日本軍の機動部隊/第一航空部隊についての情報と彼らがハワ
イに接近するという明らかに分かりきった警告を知らせなかったということである。
具体的には、さまざまな情報機関が日本側が送信した多数のメッセージを傍受し解読
していたが、こうした機関は大統領の命令により情報を葬り去ったと著者のスティ
ネットは主張している。また、著者は自国と任務をこのような形で裏切った者とし
て、少なくとも8名の海軍高級将校の身元を明らかにしている(彼らの大部分は第二
次世界大戦で目覚しい働きをした)。
だがスティネットは、自分自身が言うところの「恐ろしい真実」を発見したにもかか
わらず、許す気になっているのである。
「私は、ルーズベルト大統領が苦しいジレンマに直面したことに同情する」
そして次のように書いている。
「彼は孤立主義に陥っていたアメリカを自由のための闘いへ参加させるために、回り
くどい手法を見つけ出すことを余儀なくされたのだ。半世紀も昔のこの政策に批判的
な目を向けるほうが、真珠湾攻撃に先立つこの年に、ルーズベルトの心の中で何が起
こっていたかを完全に理解するより簡単だ」
真珠湾は偶然でも米国情報部の単なる失敗でもなく、ましてや輝かしい日本軍の戦略
でもないと著者は言う。米国政府の最上層部において、入念に仕組まれ、計画され、
そして始められた結果なのだと言うのだ。米国を確実に参戦に導くための8項目の措
置を強調したある重要な覚書にスティネットは言及している。彼は、「乗り気でない
米国民を戦いに駆り立てるための唯一の方法が真珠湾だと政府高官は感じていたの
だ」と書いている。米国人は自国の暗号解読者が真珠湾攻撃以前に日本の外交暗号の
解読に成功していたということを聞かされた。だが、軍の暗号機密の解読に成功した
ということについては、これまで正式には一言も発表されていないのだ。
60年間、本当の答えは爆撃にも耐えられる秘密の保管庫に保存され、米国議会の2度
!
99
にわたる真珠湾調査にも、国民に対しても公開されることはなかった。1995年に
なって、合同議会調査が上院議員のストロム・サーモンドと共和党のフロイド・スペ
ンスによって実施された。だが調査団は、さまざまな疑問を解く可能性のある書類が
保管されているインディアナ州クレーンの海軍保管庫を調査することを拒否された。
1980年代中頃、私は真珠湾攻撃の前に米国の監視局が傍受した何十万もの日本軍の
メッセージが、1945年から46年にかけての議会調査で全く紹介も議論もされていな
いことを知った。私は真珠湾の秘密を探る決心をして、情報自由法 (FOIA)に基づく情
報請求を米国海軍に申請した。1985年、ワシントンの海軍将校が数枚の真珠湾攻撃
前の書類を私に公開してくれたが、この極めて少ない量の情報開示に満足せず、FOIA
に基づく情報申請を続けた。
ついに1993年、クレーン・ファイルの保管機関である米国海軍安全局統括軍 (現在の
海 軍 情 報 作 戦 統 括 軍 < N I O C s > ) が 、 ワ シ ン トン D . C . の 国 立 公 文 書 記 録 管 理 局
(NARA)に記録を移すことに同意した。1993年から1994年にかけての冬、ファイ
ルはワシントンのベルトウェイの内側にあるメリーランド大学カレッジ・パーク校の
キャンパスに建てられた新しい施設にトラック部隊によって輸送され、「アーカイブ
II」と名付けられた。当時軍資料室の責任者だったクラレンス・リヨンズ氏が、クレー
ン・ファイルの初回分を1995年1月に私に閲覧させてくれた。閲覧場所は、アーカイ
ブIIを所蔵するステニー・ホイヤー・リサーチセンターだった。見たところ真珠湾勃発
前の記録は1941年以来、誰にも閲覧された様子も、再調査された様子もなかった。
リヨンズ氏の部署のスタッフによって、紙資料の劣化を防ぐために弱アルカリ紙の資
料保存箱に新たにファイルし直されていたが、そうしたクレーン書類の中には埃を
被ったものもあり、箱の中で独特の蝋引き糸で固く束に綴じられていた。リヨンズ氏
は、「記録はこのような状態で米国海軍から確かに受け取った」と断言した。
この記録の価値や重要性を審査するのに1年かかった。このファイルで明らかになっ
た情報は驚くべきものだ。これは隠されていた真珠湾の話を明らかにするものだった
のだ。この話は米国民に知らされるべきだと私は思う。1999年12月7日、サイモン
&シュスター/ザ・フリープレス社(現サイモン&シュスター社)の編集者の尽力によ
り『真珠湾の真実―ルーズベルト欺瞞の日々』が出版された。
!
100
真珠湾についての重大な疑問 ―われわれは何を知り、そしてそれをいつ知ったのか―
については何年間も議論されており、彼はこう書いている。
まず、フランクリン・ルーズベルトが設置した委員会は、事前の警告を全く受け取って
おらず、責められるべきは十分な準備を怠った地元の司令官であるとの結論を出し
た。
最近になって、ジョン・トーランドやエドワード・ビーチなどの歴史家は、情報には傍
受されたものもあったと結論付けている。そしてついに、わずか数カ月前の出来事だ
が、米国国防総省が「責任は共同で負うべきである」と正式に宣言した後、上院は投
票の結果、ハワイの2名の司令官、キンメル司令長官と中将ウォルター・ショートの
名誉を回復した。しかし研究者の中で、政府の最高レベルが攻撃について事前に知っ
ていたかどうかについて検証できた者は、これまで誰もいないのである。
これまでの調査によれば、米国政府は日本の軍事機密の暗号を1941年12月7日以前
には解読していなかったとされているが、スティネットは暗号解読された無数の電報
を提示している。オアフ島にいた日本人スパイが、8月21日から爆撃目標地点を示す
地図を含む情報を送信しており、米国情報部はそのことを全て知っていたことを、ス
ティネットは立証し、またキンメル司令長官は、近づいてくる日本艦隊の位置を知る
ことができたかもしれない、日課の教練の実施を土壇場で妨げられていたことも明ら
かにした。そして、それまでのさまざまな主張に反し、日本艦隊はハワイに接近する
際、無線封止を行っていなかったことも指摘している。多数の暗号化された日本艦隊
の打電は全て、ハワイおよびシアトルの情報局で米国の暗号解読者によって傍受され
解読されていたのだ。
証拠は動かしがたい。米国最上層部、つまりフランクリン・ルーズベルトの執務室で
は、攻撃が差し迫っているとの警告を十二分に受けていた。また同上層部は、米国の
孤立主義派は先制攻撃を受けない限り、戦争への突入を支持しないだろうということ
も理解していた。その結果、日本を怒らせ、真珠湾の防衛を担当する忠実な将校たち
を蚊帳の外において責任を負わせ、米国を建国以来最大の戦争へと引きずり込む計画
になったのであった。
日本の真珠湾攻撃における二つの疑問については60年間にわたり活発に論争が続いて
いる。
!
101
・ 米国海軍暗号解読者は、攻撃前に暗号を解読していたのだろうか?
・ 日本の戦艦および指揮官たちは攻撃前に、海上で無線封止を破ったのだろうか?
この二つの疑問に対する答えが「ノー」ならば、フランクリン・D.・ルーズベルト大
統領が「屈辱の日」と表現したように、真珠湾攻撃は本当に奇襲攻撃であったことに
なる。そして、真珠湾に関する米国政府の整合性は揺るがないことになる。
しかしもし答えが「イエス」なら、「ノー」という答えに基づいた何百もの書籍、記
事、映画、テレビのドキュメンタリーおよび連邦政府の整合性は台無しになる。も
し、日本海軍の暗号が真珠湾前に米国海軍の暗号解読者に傍受され、解読され、英語
に翻訳されていたなら、日本海軍が米国太平洋軍事基地を攻撃することは、米国政府
最上層部の要人の間では事前に知られていたことになる。宣戦布告は1941年12月8
日付の日本の各新聞の夕刊第一面に掲載された。
開戦の詔勅
神々の加護を受け、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇(昭和天皇)は、忠実で勇
敢な汝ら臣民に告げる。私はここに、米国および大英帝国に対して宣戦を布告する。
わが陸海軍将兵は全力をもって交戦を行い、わが全ての政府関係者は忠実かつ勤勉に
職務に身を奉げ、全国民は心を一つにし国家総力を挙げて本戦争の目的達成のために
失敗なきようにすべきである。東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与すること
は、偉大かつ傑出したわが帝国の祖父(明治天皇)と、その偉大な血筋を受けた継嗣
(大正天皇)により構想された遠謀であり、常にわが心に留めている事である。
各国と親しく交流し、万国と共栄の喜びを共にすることが、わが帝国の外交方針で
あった。米英両国と兵刃を交えるに至ったことは、誠にやむを得ない事態であり、わ
が本意からは程遠い。中国がわが帝国の真意を理解せず、みだりに問題を起こし、東
アジアの平和を乱すようになり四年が過ぎ、ここにおいてはついに、わが帝国に武器
を取らせる事態に至らしめた。中国国民政府は再建され、わが帝国はこの政府と善隣
の交流と協力を果たしてきたが、米英の庇護を頼み重慶に残存する蒋介石政権は、同
胞相争う姿勢を改めようとしない。東洋を征服しようという大それた野望の実現をた
くましくする米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長する
ものである。
!
102
加えてこの列強2国は他国をその動きに追随させるべく誘い、わが帝国の周辺で軍備
を増強し、わが国へ挑戦をするものである。両国はわが帝国の平和的通商にあらゆる
妨害を加え、ついには経済断絶に訴え、わが帝国の存続に重大なる脅威を加えるに
至った。わが政府が事態を平和裏に解決することを願い、私は忍耐強く待ち、久しく
辛抱を重ねた。だが敵国米英は、少しも和解する気を見せず、いたずらに事態の解決
を遅らせようと画策し、その間にも経済的・軍事的圧力を強め、これによりわが帝国
を力ずくで屈服させようとしている。このような動きに歯止めをかけなければ、東ア
ジア安定のためのわが帝国積年の努力が水泡に帰するだけでなく、帝国の存続さえも
危機に
することになろう。
ここに至っては、わが帝国は、自存と自衛のために武力に訴え、一切の障害を破砕す
るより道はない。天より加護する皇祖皇宗の神霊を頂き、汝ら臣民の忠誠と武勇を信
じ、わが祖先の遺業をいっそう押し進め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永
遠の平和を確立し、それによってわが帝国の光栄の保全を期すものである。ここにそ
の証として、昭和16年12月8日、神武天皇即位紀元(皇紀)2601年、東京皇居にて
署名し、帝国国章を押印する。
(内閣情報局による発表、1941年12月8日. ジャパンタイムズ&アドバダイザー) 1941年12月8日、米国が日本に対し正式に宣戦布告し、次いで英国(必然的に英領
のインド、南アフリカ、カナダを含む)、中国、オランダ、オーストラリア、ニュー
ジーランド、コスタリカ、ニカラグア、パナマ、ハイチ、ドミニカ、ホンジュラス、エ
ルサルバドルも同日に宣戦した。
ロバート・フィアリーは次のように回想している:
こうして戦争になった。その日はアメリカでは日曜日だったが、東京のわれわれに
ニュースが届いたのは12月8日の朝だ。私は8時ごろ自分のアパートから12メートル
ほどの大使館事務所まで歩いていった。同僚のチップ・ボーレン(チャールズ・ボーレ
ン)が階段を降りてきた。
彼はニュースを聞いたか、と尋ねた。
日本が真珠湾をはじめ太平洋の複数の地点を攻撃し、米国および連合国と戦争状態に
!
103
あると大日本帝国軍本部が発表したというのだ。私がこの情報を何とか理解した頃、
他の大使館員が出勤してきた。彼らのほとんどは、お抱えの運転手からこのニュース
を既に聞いていた。
私は大使館敷地の正面ゲートまで行ってみた。門は固く閉ざされ、周囲には日本人の
警官が立っていた。外の通りでは、新聞売りの少年が「号外、号外」と叫ぶ声が聞こ
えた。少年は、英語の日本政府公認の新聞『ジャパンタイムズ&アドバダイザー』を
振っていた。そこには、WAR IS ON (戦争始まる)という巨大な見出しが見えた。あ
の新聞は何が起こったかを知るのに役立つだけでなく、すばらしい記念の品になるは
ずだ、という考えが私に浮かんだ。そこで、私はできるだけ目立たないように、敷地
を囲んでいる2.5メートル弱の高さの塀に沿って逆戻りすると塀の角まで行った。そこ
には松の低木が何本か生えており、姿を隠せるようなちょっとした茂みになってい
た。そこから私は塀をよじ登ると、新聞を2部、1部はグルー大使に、もう1部は自分
の保存用に買い、また塀を越えて戻った。
私が手元に残した新聞は、今も額に入れて自宅に掛けてある。大見出しのWAR IS ON
の下には、開戦にあたり日本国民に向けた詔勅の英語版が載っている。多分、英語の
堪能な内大臣によって草稿が作られ翻訳されたものであろう。これは文章として逸品
である。1945年10月初旬に東京に戻った私は、同じくジャパンタイムズ1945年8月
15日付の、敗戦の日の新聞を手に入れることができた。ジャパンタイムズは、戦争中
は『日本タイムズ』という名前に変えられていた。降伏を知らせる見出しは、当然の
ことだが戦争勃発を知らせるものより小さかった。見出しには、「天皇陛下が平和復
興のための詔勅を発す」とあった。だが、1941年の詔勅こそ文章の最高傑作であ
る。
!
104
【第14章】ニイタカヤマノボレ
「ニイタカヤマノボレ」は日本軍の決定的な機密暗号であり、米国の太平洋艦隊を電
光石火の一撃で駆逐することを目的とした真珠湾攻撃の開始を告げるものだった。日
本が領有していた台湾の新高山(中国語では玉山)は標高3952メートルで、富士山よ
りも176メートル高く、当時の日本の領地では最高峰であった(山の名前は1900年
に登頂した人類学者の鳥居龍蔵と森丑之助によって名付けられた)。
ハワイとフィリピンに停泊していた米国太平洋艦隊が11月27日から戦争に備え警戒態
勢にあったことや、米国政府上層部の重要人物が全員、日本の攻撃は目前であること
を知っていたにもかかわらず、日本の「ニイタカヤマノボレ」、つまり真珠湾攻撃が
実行されたことは米国にとって大変な屈辱となったのである。日本軍の的を絞った極
めて正確な軍事行動、連携の良さに基づく効率性、組織力とその規模に加え、米国海
軍が優越性を過信していたために完全に準備不足だったことが、米国トップの軍幹部
や政府上層部に衝撃を与えた。そしてルーズベルトの怒りは、今度こそ正真正銘だっ
た。
なぜならその日、つまり1941年12月7日は人々の記憶に「屈辱の日」として残るこ
とになり、18世紀から19世紀にかけて築かれた、アングロサクソン系白人新教徒
(WASP)の全世界における文化的・軍事的優越性に対する信念が永遠に葬られたから
だ。唯一の良い知らせは、太平洋艦隊の航空母艦、エンタープライズ、レキシント
ン、サラトガの3隻いずれも「たまたま」その日は真珠湾に帰港していなかったこと
だ。これらの母艦はちょうど都合よく、ハワイから離れた場所での任務を国家最高司
令官であるフランクリン・ルーズベルトより命じられていたのだ。
開始から90分後、2回にわたる波状攻撃は、民間人55人を含む総数2402人の死者を
出して終了した。民間人の死者のほとんどは、一般居住区域に着弾した米国の高射砲
の不発弾によるものであり、死者総数の半分は戦艦アリゾナの爆発によるものであ
る。
!
105
米国
日本機動部隊
軍事力
戦艦 8隻
航空母艦 6隻
巡洋艦 8 隻
戦艦 2隻
駆逐艦 30隻
軽巡洋艦 1隻
潜水艦 4 隻
駆逐艦 9 隻
その他の船舶 49隻
油槽船 8 隻
航空機 390機
潜水艦 28隻
ハワイフォード島空軍基地
航空機 414機
ヒッカム空軍基地
死者および損失 戦艦 撃沈 4隻
小型潜水艦 沈没 4隻
戦艦 破損 4隻
小型潜水艦 座礁 1隻
駆逐艦 沈没 2隻、破損 1隻
航空機 撃墜 27機
巡洋艦 破損 3隻、沈没 1隻
飛行士 死傷者 55人
航空機 破壊 188機
潜水艦員 死者 9人
航空機 破損 155機
潜水艦員 捕虜 1人
軍関係者 死者 2,347人
負傷者 1,247人
(28) 真珠湾攻撃の航空母艦特殊部隊(機動部隊)の航跡
!
106
真珠湾攻撃の計画・実行の中心的人物である源田実は、真珠湾攻撃指揮官の南雲長官
に燃料・魚雷庫、整備用の乾ドック、潜水艦施設、情報施設を破壊するために第3波
の攻撃を実施するよう強く促した。もしこれらを破壊していたなら、太平洋における
米国の軍事行動をさらに1年以上頓挫させることになったであろう。だが、南雲は撤
退することを決めた。連合艦隊司令長官の山本五十六は当初撤退を支持したが、後に
撤退は重大な過ちだったと認めている。
フィリピンの戦い
(29) フィリピンの戦い
!
107
日本軍側は真珠湾での成功に満足することなく、12月8日、香港、マレーシア半島
(マラヤ)、フィリピンのマニラ、シンガポールへの侵略を開始した。
司令官、本間雅晴中将は、兵力4万3000人の第14方面軍を指揮して、バターン島に上
陸。次いで2日後にはルソン島北部のビガン、アパリ、ゴンザーガに上陸した。本間雅
晴は余暇に文筆や書画をよくすることから詩人将軍として知られ、英国で大使館付き
武官として8年間過ごしたこともあった。彼は部下に、フィリピン人には親切に接す
るよう、また彼らの習慣や宗教に敬意を払うよう指導した。
12月12日、日本軍はフィリピン中部のレガスピに2500人を上陸させた。米軍がフィ
リピンからアジア駐留艦隊のほとんどを撤退させるのと同時に、日本軍は12月22日
には本格的な侵攻を開始。北部と南部の両方からマニラへ向かって素早く進攻した。
米国・フィリピン 兵力
死傷者
日本
151, 000人
死者 25,000人 130,000人
死者 9,000人
負傷者 21,000人
負傷者 13,200人
捕虜 100,000人
行方不明者 500人
(ほとんどが体調不良)
罹患者 10,000人
フィリピン・アメリカ軍は日本軍より数が勝っていたにもかかわらず、彼らの抵抗は3
カ月しか持ちこたえられることができなかった。そして、ついに1942年5月6日、バ
ターン・コレヒドールでの戦闘の後、陸軍大将のジョナサン・ウェインライは、本間
中将に降伏条件について打診した(マッカーサーは3月11日にオーストラリアに逃れ
ていた)。本間はフィリピン駐留の全連合軍部隊の降伏を主張。結局この降伏は米軍
の歴史において最大規模のものになった。
後に理不尽な理由によって、この時の米国軍の屈辱とマッカーサーの執念深い性格の
生贄となった本間中将は1943年以降既に退役していたにもかかわらず、マッカーサー
自身が下した明確な命令により、1945年米軍警察に逮捕された。米国軍事裁判(マ
ニラ戦犯裁判)で裁かれるためフィリピンに引き渡され、1946年4月3日、銃殺隊に
より刑が執行されたが、彼はいかなる戦争犯罪も犯してはいなかった。
!
108
本間の弁護団のジョン・スキーンは、「これは非常に不法な裁判であり、いかなる判
決が下されるかは疑う余地がないという雰囲気の中で進められた」と述べている。米
国最高裁判所判事のフランク・マーフィーもまた判決に抗議している。
「われわれはこのような裁判を憲法に従って崇高な精神と空気の下で行うのか、ある
いはあらゆる正義への希求を捨て去り、長年の努力を無駄にして裁判を復讐心に燃え
た血なまぐさい粛清のレベルへと貶めてしまうのかのどちからである」
本間の妻はマッカーサーに夫の助命を懇願したが、無駄であった。
戦争捕虜の待遇
実のところ、ドイツのスターリングラードでの降伏と同様、バターンでの米国の降
伏、それも7万6千人もの病気や飢え、マラリアに苦しむ兵士を出しての降伏も、部隊
の最低限の補給さえ確保しなかった卑屈な司令官の無責任さによるものだった。(ス
ターリングラードでのドイツ陸軍のフリードリヒ・パウルス元帥とバターンでの米陸軍
のマッカーサー元帥)。1942年1月には既にマッカーサーは部隊の日々の食事を、通
常1日分の割当量の半分にするよう命じていた。なぜならバターンの米国極東陸軍
(USAFFE)の食糧庫の備蓄が、長期にわたり包囲攻撃を耐えるには不十分だったか
らである。それでも、十分な食糧や医薬品がなく、マラリア、赤痢、栄養失調、さら
には日本軍の攻撃が加わって部隊が荒廃したにもかかわらず、4カ月間以上持ち堪えた
バターンの戦闘員たちだが、1942年4月9日にエドワード・キング少将が降伏し、死
に
した兵士達を日本軍に引き渡した時には、彼らはバータンの生きる屍のようで
あった。
7万人の戦争捕虜のうち、5万4000人はルソン島のオドネル基地にたどり着いたが、
約1万人が途中で死亡し、残り6000人は密林の中に逃亡した。1942年の9月から12
月にかけ、日本軍は徐々にフィリピン人兵士を解放し、家族の元や故郷へと帰還させ
た。
これと比べると、スターリングラードのドイツ人戦争捕虜9万1000人のうち生き残っ
たのは5000人ほどだった。
!
109
欧州戦域司令官のドワイト・アイゼンハワー大将は、多数の戦争捕虜の扱いに傑出し
た独創性を発揮した。アイゼンハワーは常に彼らを「戦争捕虜(prisoner of war:
POW)」 ではなく、「武装解除させられた敵軍兵(disarmed enemy forces:
DEF)」と定義し直した。そうすればジュネーブ条約(捕虜の待遇に関する条約1929
年)が適用されなかったのだ。
「武装解除させられた敵軍兵」収容所の衛兵の一人だったマーティン・ベックは、次
にように回想している。
ドイツのアンダーナッハでは、あらゆる年齢の約5万人の捕虜が有刺鉄線で囲まれた
野外に収容されていた。女性の捕虜は別の場所に収容されていて、後になるまで姿を
見ることはなかった。私が監視していた男性捕虜たちには、風雨を避けられるような
小屋も毛布もなく、多くは外套さえなかった。冷たく湿った泥にまみれて寝て、排泄
には不十分な細長い溝があるだけだった。あれは寒く雨の多い春だったが、風雨にさ
らされた彼らの惨めさは誰の目にも明らかだった。
それよりもっと衝撃的だったのが、捕虜が牧草や雑草を水っぽいスープの入ったブリ
キ缶に投げ入れるのを見た時だ。彼らによると、空腹の苦痛を和らげるためとのこと
だった。だが、すぐに彼らは痩せこけていった。赤痢が猛威を振るうようになると、
すぐに弱って体を動かせなくなり、排泄用の溝まで
って行くこともできず、自らの
排泄物にまみれて眠るようになった。多くの捕虜が食べ物を請い、病んで、われわれ
の目の前で死んでいった。われわれには十分な食糧補給があったが、医療支援を含め
て彼らを助けるための対策を何ら取ることはかった。
怒りに駆られ私は将校たちに抗議したが、敵意または煮え切らない無関心しか返って
こなかった。私がもっと強く出ると、彼らは「お偉方」の厳命でしていることだと説
明した。もし「人間として道に外れる行為」として問責されると分かっていたら、こ
のような仕打ちを5万人の人間にあえてする将校など誰も居ないだろう。抗議しても無
駄だと分かり、調理場で働いている友人に、捕虜のために食べ物をいくらかこっそり
渡してもらえないかと尋ねてみた。すると彼もまた、調理人も厳命の下に捕虜の食事
を厳密に分配していて、それは「お偉方」からの命令だと言ったのだ。だがこの友人
は、使う当てのない食料が余っており、いくらかを私にこっそり持ち出してやると
言ってくれた。
!
110
食べ物を有刺鉄線越しに投げ入れるやいなや、私は拘束され軍刑務所に入れるぞと脅
された。私が何度かこうした「規則違反」を繰り返すと、ある将校は怒って私を撃つ
と脅した。こうした脅しはハッタリだと考えていたがそうではなかったようだ。とい
うのはある時、一人の大尉がライン川畔の丘の上からドイツの民間女性の集団に向
かって45口径の拳銃を撃っているところに遭遇したのだ。「なぜそんなことを?」と
尋ねると、大尉は「射撃練習のためさ」とつぶやき、弾丸がなくなるまで発砲し続け
た。私は女性たちが逃げ惑うのを見たが、遠くからでは彼女たちの誰かに命中したか
どうかは分らなかった。
この時私は悟ったのだ。私が相手をしているのは倫理的憎悪で満たされた冷血な殺人
者なのだということを。彼らはドイツ人は人間以下で駆除すべきだと考えていた。人
種差別の悪循環がまたしても体現されているのだ。米兵向けの新聞『Stars and
Stripes(星条旗新聞)』の数々の記事がドイツ捕虜収容所を取り上げており、痩せこ
けた捕虜の体の写真まで掲載されていた。こうしたことが独善的な残忍さを増幅さ
せ、本来ならば抵抗せねばならぬような行動を真似ることを容易にしていたのだ。ま
た、戦闘に出ていない兵士たちは、自分たちがどれほどタフかを捕虜や民間人に当た
ることで証明しようとしていたのだと思う。
これらの捕虜たちのほとんどが、われわれの部隊の多くの兵士たちと同様に、素朴で
無知な農民や労働者だということに私は気づいた。時が経つにつれて、いっそう多く
の捕虜たちがまるでゾンビのような生気のない状態になっていく一方、脱走を試みる
ものも居た。彼らはまるで発狂したか自殺を図るかのように、咽の渇きを癒すため、
遮るものが何もない広々した野原を白昼堂々とライン川に向かって駆け抜けていっ
た。そして彼らは無差別に殺害された。捕虜の中には、食べ物と同じようにタバコを
手に入れるのに躍起になっている者たちも居た。彼らによれば、タバコは空腹感を和
らげるというのだ。その結果、商売上手な米兵「ヤンキー・トレーダー」はわずかなタ
バコと交換に、多数の腕時計や指輪を手に入れた。私がこの取引を台無しにしてやろ
うと、捕虜たちにタバコを何カートンも投げ入れ始めた時には、一平卒の米兵たちか
らも脅された。
DEF(武装解除させられた敵軍兵)収容所
!
111
特に国際赤十字との交渉能力があったドイツ政府(ドイツ・ナチス政府)が消滅した
後、連合軍の首脳陣(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)は、ジュネーブ諸条
約を拒否することを決定した(そもそもソ連はジュネーブ諸条約に調印したことは一
度もない)。
(1) 戦争終結後の拘束
ジュネーブ条約の下では、戦争捕虜は戦争終結後、数ヶ月以内に自国へ送還されるこ
とになっている。ところが、連合軍は多数の戦争捕虜を(「武装解除させられた敵軍
兵」と呼び換えて)、ナチスの武力侵略によって負わされた損害を回復するために
「労働賠償」を提供する強制労働者として留め置いた。西洋諸国の中ではフランスの
要求が特に説得力があった。それは、フランスを骨までしゃぶりつくした上に、ドイ
ツ軍はフランスの戦争捕虜を奴隷労働者として何百万人も拘留してきたという主張
だ。米国は捕虜を選別し、「ドイツ市民軍」の老人や子どもを解放して、訴追のため
にナチスの党員を拘留した後、残りの74万人(米国から欧州へ船で送還された者も含
む)をフランスへ移送した。1946年初頭、ドイツにある米軍の捕虜収容所にはドイ
ツ人捕虜が100万人居たが、1947年初頭に残っていたのは、わずか3万8000人で
あった。欧州諸国が自国に居た最後のドイツ人捕虜をドイツに送還したのは1948年
だった(米国の圧力によってのことが多かった)が、一方、ソ連はドイツ人捕虜をな
んと1956年まで抑留していた。
1945年春、米国軍は340万人のドイツ人捕虜を抑留し、英国は215万人を抑留してい
た。多数のドイツ人捕虜が強制労働者として英国に送られたため、1946年末になっ
てもまだ40万人の捕虜が英国に残っていた。だが、概してフランスに抑留された捕虜
の多くと比べると、英国の捕虜はまともな扱いを受けた。[著者注:1940年から
1945年の間にドイツ軍に抑留されたフランス人捕虜はある程度まともな扱いを受
け、年間死亡率は英国人および米国人の捕虜と同等だった。戦争開始間もない時期に
は、フランス人捕虜の待遇を良くすることが、フランスのヴィシー政権からの経済協
力を保証する上で役立っていた。そしてドイツの敗北が濃厚になり、ヴィシー政権の
協力がもはや意味を持たなくなった1944年には、フランス人捕虜を虐待するのは大
変軽はずみな選択だった]
(2) 配給量の削減
ジュネーブ条約の下では、ドイツ捕虜は連合軍側拘留者と同等量の食事の配給を毎日
!
112
得ることとされている。ところが、「武装解除させられた敵軍兵」と呼び換えられた
捕虜たちは、ドイツの一般市民と同じ食事量が与えられた。大量の飢餓者を出さない
ために、ほとんどの場合十分な食糧が入ってきたにもかかわらず、特に1945年の4月
から7月にかけての捕虜への配給量は、餓死してもおかしくないほど少量だった。
何十万もの捕虜が何週間も野外に拘置され、自分で土を掘る以外に雨露を防ぐ小屋も
なく、自分の戦闘用ヘルメットや厚手の外套の上以外に(泥やぬかるみを避けて)
座ったり寝たりする場所はなかった。春から夏だったので凍死する危険はなかった
が、それにもかかわらずドイツの涼しく湿った天候の下、有刺鉄線に囲まれた「檻」
の中でのこうした生活は、北アフリカやイタリアで一時的処置として設置した同様の
施設と比べると、極めて悲惨なものだった。
米国の一時収容所の中でも悪名高いのが、16の ライン川牧草地収容所群
( Rheinwiesenlager )だった。この収容所群の中でも最も劣悪な6カ所の収容所、
バット・クロイツナハ・ブレツェンハイム(Bad Kreuznach-Bretzenheim)、リ
マーゲン・ジンチヒ(Remagen-Sinzig)、ラインベルク(Rheinberg)、ハイデス
ハイム(Heidesheim)、ヴィックラートベルク(Wickrathberg)、ビューダリッヒ
(Büderich)に1945年4月から7月にかけて55万7000人の捕虜が収容されていた。
ドイツ戦争捕虜の調査をしたマシュケ委員会が後に行った集計では、教区記録簿に登
録された死亡者は、ライン川牧草地収容所郡中、前述の6カ所の収容所で4537人。ま
た、その他の収容所では774人が記録されているとしている。なお、委員会では実際
の死亡者数はこの二倍に上るのではないかと考えているが、ある目撃者が主張する3
万2000人の死者数には懐疑的である。
!
113
マレーシアでの戦争捕虜の待遇についての俗説
●戦争捕虜は牢獄に入れられた
誤りである。
捕虜は有刺鉄線すらないゴム農園内にある英国陸軍の兵舎に送られた。そして、後に
有刺鉄線が張り巡らされても、捕虜はほとんど毎晩問題なく出かけられるなど、日常
的に外に出ることができた。シンガポール島から脱走を企てた場合のみ処罰された。
収容所を出て用を足したり、闇市に行ったりすることを日本人の衛兵は黙認してい
た。中には自分の着ていた服を売り、牛肉あるいはその他の食品を手に入れる捕虜も
いたが、収容所に密売品を持ち込んでも押収されることはなかった。
●戦争捕虜はしばしば殴られた
日本人によってではない。
収容所にいた人々の信頼できる報告によると、日本軍が採用したシーク教徒の衛兵が
確かにある程度殴ったり脅したりしていたが、衛兵がそうした権力濫用を行った場合
は日本軍によって即座に停止させられた。
●意図的に捕虜が飢餓状態に置かれていた
誤りである。
収容者には日本軍の規定量の配給が配られたが、食事はコメが主で、捕虜にとっては
なじみがなく喜んで受け入れられることはなかった。特に英国軍の量と比べても2倍
の肉の配給に慣れているオーストラリア人には不評であった。戦闘が激しくなり、マ
レー半島/シンガポールへの外からの補給が英国、オーストラリア、米国の軍事行動
のせいでいっそう困難になると、日本兵さえも配給量が減らされた。事実、当時
ニューギニアでは海上輸送による物資補給が全く無くなり、前線の日本兵士の中には
飢餓状態の者もいた。よって、日本軍が自国の兵士よりも良い食事を収容者に与える
ことなど望めなかった。創意に長けた捕虜の中には農園のゴムの木を伐採し、自分用
の野菜、ジャガイモ、キャベツを栽培する者もいた。
●戦争捕虜は死ぬまで働かされた
真実ではない。
捕虜たちの退屈をどうするかが最大の課題だった。そこで、収容者たちを多忙にさせ
ておくために、建設工事部隊が収容所の外へ送り出されたが、彼らが難儀したのは重
!
114
労働ではなく、栄養失調であった。
●日本軍は赤十字の備蓄品キットを配布しなかった
誤りである。
そこには赤十字の備蓄品キットは無かった。
●戦争捕虜は過密状態で生活しなければならなかった
オーストラリア兵士にとっては過密状態だったが、アジアの標準からするとそうでは
なかった。
1970年代にマレーシアに駐留していたオーストラリア兵は1部屋に8人、英国兵は同
じ部屋に16人、そしてマレーシア兵は20人が寝ていた。しかも、これは戦争捕虜の
例ではない。
●戦争捕虜が日常的に処刑された
真実ではない。
処刑が実施されたことは確かにあるが、脱走を企てたからであり、その数はわずか
だった。
!
115
【第15章】チャーチルとマレーの虎
現地時間の12月8日早朝、英国のアジア駐屯部隊の主要基地であるシンガポールが日
本軍の爆撃にさらされた。
日本軍に対する抑止力としてシンガポールに派遣されていた英国の主力戦艦「プリン
ス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」は対空砲火で応戦し、日英両軍とも損害は受
けなかった。ほぼその頃、真珠湾のニュースが入ってきた。これは今や、英国海軍は
南シナ海において単独で行動しなければならないということを意味した。司令官の
トーマス・フィリップスは、指揮下にある暗号名Z艦隊を攻撃に向かわせ、マレー半島
を目指す日本軍の護衛艦隊を阻止して壊滅するよう命令した。一方、司令長官、山本
五十六は鹿屋海軍航空隊と元山航空隊を強化するために、一式陸上攻撃機36型を派遣
した。
英国
軍事力
日本
戦艦 1隻
航空機 88機
巡洋戦艦 1隻
雷撃機 34機を含む
駆逐艦 4隻
損失
戦艦 沈没 1隻
航空機 撃墜 4機
巡洋戦艦 沈没 1隻
偵察機 行方不明 2機
死者 840人
死者18人
12月10日11時40分頃、元山航空部隊は「プリンス・オブ・ウェールズ」を攻撃するた
めに、少なくとも6機の雷撃機を送り出した。これにより「プリンス・オブ・ウェール
ズ」は浸水し、シャフトが損傷。さらに、操舵装置が操作不能に陥った。爆弾の一撃
が戦艦の負傷者がいた格納庫に着弾すると、船からの退去命令が下され、負傷した乗
組員が駆逐艦「エクスプレス」で離船した後、13時18分に沈没した。
戦艦「レパルス」は19発の魚雷をかわしたが、魚雷の挟み撃ちを受けて2発あるいは
4発の魚雷が命中し、転覆する前に大きく左舷に傾きながら12時23分に沈没。多数の
死傷者が出た。
!
116
(30) 三菱一式陸上攻撃機「G4M」
(31) 戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」
(32) 戦艦「レパルス」
!
117
その翌日、空軍中尉の壱岐春記は戦場となった海域の上空を飛び、花輪を二つ投下し
ている。一つは戦死した日本人パイロットたちに、もう一つは戦闘で死亡した英国海
兵隊員たちに奉げるものだった。
戦闘の翌朝、第一海軍
ダドリー・パウンドはチャーチルに次のように電話してい
る。
パウンド: 首相、プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルス両艦が、日本軍により撃沈された
ことを報告しなければなりません。航空機の爆撃によるものと考えます。トム・フィ
リップスは水死しました。
チャーチル:それは本当に確かなことか?
パウンド: 疑いの余地はございません。
チャーチル:受話器を置く。 後にチャーチルはこう書いている。
あらゆる戦争の中で、これほどの衝撃を受けたことは無かった・・・。ベッドの中で
寝返りを打ち体をよじるたびに、その恐ろしいニュースが私にのしかかってきた。カ
リフォルニアへと一目散に戻る真珠湾の生き残りの船以外、インド洋あるいは太平洋
には英国もしくは米国の船は1隻も無くなってしまったのだ。この広大な全海域で日
本が絶大な力を持ち、われわれはあらゆる面で弱体化し、無防備だった。
これは、2隻の近代装備を持つ主力戦艦が自らを懸命に防御しながら外洋を全速力で
航行していたにもかかわらず、空軍の力だけで撃沈された最初の例になるとともに、
海上戦において空軍力の優位性が重要であることを示すことになった。日本軍の攻撃
が始まった当初は、強大な戦艦を攻撃しようとしている日本人パイロットを「あんな
に上からではサッカー場にだって命中させることはできないさ」と言い合い
ってい
たと、英国の生存者は後に語っている。
だが、彼らはテニスコートほど小さいものにさえ命中させることができると証明した
のである。
12月23日、日本軍は米国基地のあるウェーク島を占領し、香港で英国軍とカナダ軍
!
118
を破って1942年1月2日にマニラを占拠。1月11日にはオランダに宣戦布告し、1月
19日 、オランダ領東インドとビルマ(現ミャンマー)を侵略、そして1月23日にはラ
バウルの戦いが幕を開けることとなる。
(33) ビスマルク諸島
かつてはドイツ領ニューギニアの一部であったニューブリテン島における1942年1月
から2月にかけての戦いで、連合軍側は日本に大敗を喫した。その後、ラバウル港は日
本軍の主要基地になり、ポートモレスビーのあるニューギニアと、さらにはオースト
ラリアに向けての進攻の要所となる。
オーストラリア
軍事力
兵士 1,400人
日本
兵士 5,000人
航空母艦 加賀・赤城
1942年1月、日本の艦上機がラバウルを攻撃し、オーストラリア軍の沿岸砲兵隊を壊
滅させ、歩兵隊の撤退を余儀なくさせた。そして日本軍は、かつてノイメクレンブル
!
119
グ島と呼ばれていたニューアイルランド島に上陸した。1月22日2時45分、日本軍は
反撃も受けずに、ニューブリテン島に上陸。その後、オーストラリア軍は激しく抵抗
したが小さな集団に分かれてしジャングルの中へと退却した。そして兵士の多くはそ
の後数週間のうちに、捕らえられたか自ら降伏した。
マレー作戦
英国
軍事力
日本
兵士 140,000人
兵士 70,000人
航空機 158機
航空機 568機
軽戦車 200両
死傷者
死者 5,500人
死者 1,793人
負傷者 5,000人
負傷者 3,378人
捕虜 40,000人
1941年12月8日に開始されたマレー作戦は、 マレー半島東北部のコタバルへの陸海
両軍による攻撃に加え、日本帝国海軍サイゴン基地から発った爆撃機によってシンガ
ポールで初めての空爆が行われた。百戦錬磨の日本軍部隊は、近距離からの空軍支援
と、軽装甲隊や自転車を使った歩兵隊(銀輪部隊)が有利に働き、マラヤ北部へと素
早く前進。1942年1月11日までには、英軍が防衛陣地を構築していたタイとの国境
近くのジットラをはじめ、ペナン、クアラルンプールにおいて英領インド帝国軍(英
印軍)の精鋭と英国軍からなる大隊を難なく制圧し、シンガポールからわずか300km
までに迫った。英国軍が陣地としていたスリム・リバーに撤退する間、カンパーの英印
軍第11師団は日本軍の前進を2、3日遅延させた。
スリム・リバーの戦い、1942年1月6日∼8日
英国
死傷者
!
日本
死者 500人
死者 17人
捕虜 3,200人
負傷者 60人
120
スリム・リバーの防衛に当たったのは、准将、アーチボルド・パリス率いる英国陸軍グ
ルカ旅団とアーガイル・サザーランド高地連隊を含む英領インド帝国軍(英印軍)第
11師団であった。一方日本側は、陸軍少佐、島田豊作の戦車部隊を含めた戦闘部隊が
陸軍大佐、安藤忠雄の統率の下、攻撃を担当した。歩兵隊による夜襲の際に戦車が先
頭を切って攻撃をかけるという、非常に危険で大胆な意表をつく計画を島田は考え
た。戦闘は日本軍の勝利に終わり、この計画は極めて効果的であることが証明された
のである。この戦闘で英印軍の2旅団が全滅し、英国陸軍司令官、アーサー・パーシバ
ル中将は、英印軍第11師団をオーストラリア軍第8師団に差し替えなければならなく
なった。1月中旬には日本軍はジョホール州に到着し、1月14日には頑強なオーストラ
リア兵士と交戦することになった。その結果、1月15日にムアール川付近において、
マレー作戦の中でも最も凄惨な戦闘が行われたのである。英印軍第45師団は全滅し、
師団の司令官だったハーバート・セシル・ダンカン准将をはじめ、3大隊の司令官たち
が死亡した。一方、日本側の死傷者も600人に上り、日本の戦車9両がオーストラリア
軍の対戦車射撃手により破壊された。なお、ゲマス付近のゲメンチェ橋は、交通を遮
断するため英国軍によって爆破されたが、戦闘終了後わずか6時間で日本軍によって
修復されている。
驚くほど短い時間で橋梁を修復するというのは、日本人の技術参謀が立てた戦術の中
でも最も成功したものの一つであった。なお、成功した戦術のもう一つは島田戦車隊
の電撃攻撃だった。スリム・リバーの戦いでは、戦車部隊を率いていた渡辺定信中尉
が、鉄橋が爆破される寸前に自分自身で爆破装置の導火線を軍刀で切断し橋を救って
いる。
渡辺隊の電撃的な夜襲で大きな被害を受けた英国人でさえも、これには感銘を受け、
戦闘で九死に一生を得た陸軍中佐アーサー・ハリソンは後に次のように述べている。
「自らの危険も自らが孤立することも顧みず、彼らはわが師団を壊滅させた。彼らは
スリム橋梁を無謀かつ勇敢な決意で奪取したのだ」
1942年1月27日、パーシバルはABDA司令部(米英蘭豪司令部)の司令官より、ジョ
ホール海峡を越えてシンガポール島に退却する許可を得た。
!
121
シンガポールの戦い、マレーの虎
山下奉文は言った。
私のシンガポール侵攻はハッタリでありましたが、そのハッタリが上手くいったので
あります。わが軍の兵は3万人で、数の上では三分の一以下と劣勢でありました。もし
シンガポール攻略のため長期にわたり交戦すれば、わが軍が敗退することは分ってい
ました。そのため、英国軍に直ちに降伏してもらう必要があったのです。英国側がわ
が軍の数的弱点と補給品不足に気付き、わが軍に破滅的な市街戦への突入を強いるの
ではないかと、私は終始恐れていました。
英国
軍事力
死傷者
日本
兵士 120,000人
兵士 60,000人
各種銃砲 1,000丁
銃砲・迫撃砲 400丁/台
装甲車 250両
戦車・装甲車 120両
戦闘機 100機
陸軍航空機 459機
爆撃機 130機
海軍航空機 158機
戦艦 2隻
巡洋艦 1隻
駆逐艦 7隻
駆逐艦 10隻
潜水艦 5隻
潜水艦 5隻
死者 2,000人
死者 1,713人
負傷者 5,000人
負傷者 2,772人
捕虜 50,000人
東洋のジブラルタルともいえるシンガポールは、インド洋と南シナ海/太平洋間の海
上交通路(シーレーン)を支配する英国海軍の主要基地であった。シンガポールは有
名な大口径沿岸砲の砲台(大口径要塞砲)で守られていた。砲台には15インチ砲を3基
設置したものと、15インチ砲を2基設置したものがあり、砲弾発射時に360度回転可
能だった。これらには戦艦の装甲を貫くことを目的とした徹甲弾のみが装てんされて
いたが、1200キロの鬱蒼としたマレー半島のジャングルを通って陸から攻撃を受ける
とは誰も予想していなかったからである。
!
122
英国の軍事計画立案者はいかなる攻撃も海から始まるはずだと確信していた。ところ
が、日本陸軍大将の山下奉文は、シンガポールとマレーシアの攻略において独自の計
画を持っていた。精鋭の大日本帝国陸軍近衛師団を先頭に百選練磨の第25軍を指揮す
る山下は、その大胆不敵で素早い戦術から「マレーの虎」と異名を持つ人物である。
12月8日、日本軍の師団がタイ領内のシンゴラやパタニ、マレー半島東北部のコタバ
ルに上陸し、マレー半島への電撃進攻作戦を開始した。自転車に乗った歩兵隊は砂利
道を素早く移動し、大農園や密林を横切った。そして工兵隊は、爆破された橋梁を信
じられない速さで復旧した。
密林での戦闘や補給物資の運搬に自転車(1台に付き80キロが運搬が可能)を使うと
いう新たな作戦は、その後、ベトナムでの戦闘でベトナム人民軍のヴォー・グエン・
ザップ将軍による陸上補給路、ホーチミン・ルートにもうまく活用されている。
12月17日にマレー半島西のペナン島を、12月26日にペラ州の州都であるイポーを、
12月29日にカンパーを、12月30日にパパン州の州都のクアンタンを占領すると、日
本軍は1942年1月11日、首都クアラルンプールを抵抗も受けずに手中に収めた。山下
の軍が1942年1月31日にマレー半島を制圧し終わるまでに、わずか55日しかかから
なかった。そして2月7日、山下軍は攻撃の最終地シンガポールを目指し、ジョホール
海峡を渡ったのである。
英米の軍事計画立案者は、そのような陸上作戦は、1年以上かかるだろうと予測して
いた。
ところがあらゆる予想を裏切り、シンゴラに上陸して以来、日本軍は大小95の戦闘を
交え、250以上の橋梁を修復しながら、陸路1100kmを突進した。部隊はこうして、
1日平均2回交戦し、橋を4、5本修復しつつ、20kmの距離を進攻して目標に到達した
のだった。そして今や最後の目的地、シンガポールは彼らの目前にあった。
2月10日夜、英国首相のウィンストン・チャーチルは、シンガポールにいるABDA司令
部司令官、アーチボルド・ウェーヴェル将軍に宛てて次のように打電している。
思うに、貴君はわれわれの目から見たシンガポールの現状を自覚すべきなり。パーシ
!
123
ヴァル司令官は10万人余の兵士を有し、うち3万3000人が英国兵、1万7000人が
オーストラリア兵である旨、英国参謀総長、アラン・ブルック将軍より、わが閣僚に
報告あり。マレーシア半島全土において日本軍が同等数の兵を有するには疑念あ
り・・・。かくなる状況で敵を迎え討つ当軍は、海峡を越え来し日本軍に数で圧倒的
に優越するに違いなく、わが軍兵士は善戦して日本軍兵士を壊滅すべし。この期に及
んで、部隊を温存し、兵を出し惜しんではならぬ。
いかなる犠牲を払おうとも徹底的に戦い抜くべし。第18師団がその名を歴史に留める
機会なり。司令官・軍高官は部隊と共に死ぬ覚悟を持つべし。大英帝国と英国陸軍の
名誉が懸かる一戦なり。われは貴君がいかなる弱さも見せぬと信ず。ロシア軍のあの
勇姿、米軍のルソンでの不屈の精神を見よ。本戦はわが国およびわが民族の評価全体
に関わるものなり。われらが部隊はことごとく接近戦に持ち込み、徹底的に交戦する
ことを、われは期待するものなり。
ウェーベルはパーシバルに最後まで戦うよう命令し、いかなる形にせよ降伏は論外だ
と告げた。
既にマレー作戦で勝利した日本軍は、今やシンガポールへ侵攻するための準備を万端
整えていた。シンガポールは、屋久島よりわずかに大きい640平方キロメートルほど
の島で、100kmにわたり魅力的な海岸線を有するが、英国、オーストラリア、イン
ド、マレーの各軍に加え、シンガポールのダルフォース(星洲華僑義勇軍)から編成
された10万人の兵を配備した魅力的とは言いがたい物々しい防御体制を備えていた。
パーシバル将軍は防御体制を北、西、南という3戦闘地域に分け、予備部隊を島の中央
に駐屯させた。だが日本軍は敵を出し抜いて1942年2月7日の深夜に攻撃を開始し
た。日本軍はシンガポール本島の北東にあるウビン島に抵抗も受けずに上陸し、そこ
から大規模に見せかけた攻撃を仕掛けたのだ。攻撃の真の重大さは2月8日になって明
らかになった。北西部の沿岸に日本軍の大規模な空爆や迫撃砲による攻撃が行われた
のだ。また、オーストラリア軍の機関銃射撃によって多大な犠牲を出しながらも進攻
を止めなかった近衛師団の功績により、その日の夜9時30分、陸海軍共同の最初の上
陸がサリンブン海岸にて行われた。翌2月9日にはテンガ飛行場を占拠し、クランジへ
上陸した。
!
124
日本軍司令官、山下大将にとって北部の支配が固まった今、次の目標はシンガポール
のほぼ中心部にある丘陵ブキッ・ティマであった。そしてここを2月11日に占領する
とすぐ、山下はパーシバルに降伏するよう求めた。だが、パーシバルはそれを却下し
たため、その後もパシル・パンジャンとブキッ・チャンドゥをめぐって戦闘が続いた
が、水、食料、燃料、弾薬がほとんど底を尽きかけて、英国軍は市周辺へと後退し
た。
(34)英国の降伏
ブキッ・ティマのフォード自動車の工場において、1942年2月15日18時10分、正式
な降伏調印が行われた。これは日本の堂々たる勝利であるとともに、英国が極東にお
ける軍事力を永久に失ったことを示す出来事であった。パーシバルは、米英蘭豪の多
国籍軍最高司令部(ABDA司令部)宛に「全兵は最善を尽くした」と打電している。
日本軍政下のシンガポール、別名「昭南島」の解放あるいは占領(見方によって異な
る)が今や現実となり、マレー人の心や意識をはじめ、さまざまな制度、合法・非合
法組織および一般大衆全体を、辛抱強く徹底的に「脱植民地化」へ導く試みが日本の
軍政府によって始められた。投降したインド軍兵士を採用して、日本を支持する新た
な「インド国民軍」を編成したことは、極めて大きな成功となった。この国民軍が基
になり、1942年から1945年にわたって約4万5000人のインド兵がビルマで英国軍を
相手に戦ったのである。
!
125
1943年10月21日、「自由インド仮政府」が政府本部をシンガポールに設立。また、
憲兵隊は特に中国系住民に対して厳しい措置を課すようになった。中国系住民の多く
はシンガポールの特権階級的エリートで、豊かな事業家の階級に属しており、抗日の
蒋介石の国民党と英国植民地の両方を支持していた。言うまでもなく英国やオースト
ラリアの秘密工作員は地下に潜り、破壊活動や奇襲作戦を行うサボタージュ・コマン
ド部隊を編成した。これらの部隊は日本の輸送や補給の妨害工作を目的に主に港湾で
活動し、ジェイウィック作戦(カヌー上陸作戦)、グスターヴァス作戦(ジッパー作
戦)、ストラグル作戦、 リモー奇襲作戦などを実行した。その結果、憲兵隊によって
テロリストとみなされ逮捕されたコマンド隊員が多数処刑された。
ビルマの戦い―日本軍のビルマ進攻と連合軍の退却
東南アジアにおける日本軍の戦略には、ビルマを制圧してビルマの原材料、油田、ゴ
ム農園を支配下に置くのはもちろん、1938年に完成した重要なビルマ公路を閉鎖し
て、米英による雲南省の蒋介石への軍事補給を断つことも含まれていた。
1942年1月中旬、飯田祥二郎中将を司令官とした日本軍の第15軍は、ジャングルで覆
われた急峻な山地の道なき道を突き進み、ビルマに侵攻してタヴォイ(現在のダウェ
イ)とメルギーの飛行場を占領した。
ラングーン(現在のヤンゴン)を守るのは、英印軍師団、ビルマライフル部隊、米国
義勇軍(フライング・タイガース)、司令官ハロルド・アレクサンダーと陸軍元帥
アーチボルト・ウェーヴェル率いる英国機甲旅団であったが、1942年3月7日に焦土
作戦が実行された後に撤退を余儀なくされた。
英国軍は中国遠征軍の助けを借りてビルマ第二の都市マンダレーを死守し、日本の進
攻をビルマ中部で食い止めたかった。しかし日本軍は進攻速度を落とすどころか、
いっそう攻撃の勢いを増した。シンガポールとジャワから2師団を導入し、奪取した
英国のトラックを自軍への物資補給に使いながら、日本軍は豊かな油田のあるイェナ
ンジャウン、雲南、ビルマを結ぶ重要な輸送路であるビルマ公路を占領した。これに
より、米国から蒋介石への補給ルートとして最後に残っていた陸路でのルートが閉鎖
された。
!
126
英国直轄ビルマ領政府はミッチーナーに後退し、ビルマ軍団はインドに退却した。道
には敗残兵や難民が
れ、日本軍により退路を断たれた中国軍は本国から遮断され
た。インドへと入る中国人兵士は米国陸軍大将、ジョセフ・スティルウェルの指揮下
に置かれ、再訓練と再装備が為されたが、一方、雲南省にたどり着こうとしていた中
国人兵士の多くは途中で死亡した。こうして英国が主導した中で歴史上最大の撤退が
幕を閉じたのである。軍司令官アレクサンダー大将は、4月26日、全軍インドへ撤退
するよう命令を出した。英印部隊とグルカ兵を後衛として1600km以上に及ぶ撤退の
後、インドに入ったのは5月末であったが、兵士は完全に疲弊しており、ぼろをま
とった惨めな姿で多くがマラリアや赤痢を患っていた。
ビルマの戦いにおける、この5カ月に及ぶ日本軍の侵攻とそれに伴う連合軍の退却
は、英国人1万人以上、ビルマ人3700人の死傷者と、英国空軍機116機を含めたさま
ざまな物的損失を出した。
(35)日本軍のビルマ制圧
!
127
フランクリン・ルーズベルトの1942年2月2日付命令
時を同じくして太平洋の対岸では、1942年2月2日にフランクリン・ルーズベルトの大
統領行政命令が実施されていた。一般的な強制収容所を体裁良く言い換えたいわゆる
「戦争移住キャンプ」と呼ばれる施設へ、12万人の日系米国人を強制収容する大統領
命令であった。米国の西海岸に住む日系米国人は全員強制収容された。一方、人口の
3分の1に当たる15万人が日系米国人だったハワイでは、わずか1800人が収容された
だけだった。なお、このようにして強制収容された日系人全体の62%は米国市民権を
持っていた。
また、1941年12月から1948年2月まで実施されたほとんど知られていない極秘計画
がある。この計画は、ラテンアメリカ13カ国からの日系人の男女、子供の大量誘拐、
強制国外退去、強制収容を米国政府が指揮し資金の提供を行っていた。対象となった
2264人の日系人は誘拐された後、移送の途中でパスポートを取り上げられ、米国に
到着すると不法外国人とされ収監された。
相当数の日系移民1世、2世が市民権を持って暮らしていたキューバ、ブラジル、チ
リ、ボリビアなどのラテンアメリカ諸国でも、日系移民に対し今まで例のなかったよ
うな措置が取られた。
ブラジルには25万人という満州に次ぐ唯一の大きな日系移民社会があったが、危険分
子とみなされた1000家族のみが強制的に南部大西洋岸のパラナグアに移住させられ
た。ブラジルは米国との緊密な同盟関係にあったにもかかわらず、日系移民はブラジ
ル経済にとって価値ある生産性の高い市民と考えられ、危険分子とみなされた人以外
は従来の居住地にそのまま住むことを認められた。
日系移民社会の規模がより小さかった中米およびカリブ海諸国では、程度の差こそあ
るものの、移住措置やトラウマに苦しんだ。キューバでは日系人全員が刑務所の島、
ピノス島(現在の青年の島)に収容された一方、パラグアイの僻地、ラ・コルメナの
日系移住地はそのまま何事もなかった。
ボリビアは米国と密接に協力し、多数の日系ボリビア人を逮捕し米国へと送った。そ
して日系人は不法移民としてFBIに「逮捕された」のだった。国務省の特別戦争問題課
!
128
が行った逮捕と不法国外退去は最高機密であり、強制的に米国に連れて来られた
2264人の日系ラテンアメリカ市民は、移民帰化局が運営する収容所に入れられた。
彼らは民間人だったが、被収容者やその家族は戦争捕虜として扱われた。米国人捕虜
との交換に役立つかもしれないという期待があったからであるが、こうして全く新し
いタイプの人身売買が考えだされた。2回の日米捕虜交換には、こうした日系人が
800人以上含まれていた。
(36)米国収容所に向かう日系ペルー人、パナマ運河地域で1942年4月2日撮影
基本的な人権と国際条約を露骨に侵害する、つまり誘拐し人質を取るという行為を国
策にまで格上げする米国政府のこの政策は、広く日本のマスコミに報道された。
この戦争においては、17世紀の血塗られた三十年戦争以来初めて、戦争捕虜を取ろう
とせず、民間人が捕虜の標的にされたが、それこそが米国軍事戦略の重要部分を占め
ていたことが今や明らかとなり、日本人の徹底した平和主義者たちでさえも、死ぬま
で米国と戦う以外に道はないと確信したのだった。
!
129
【第16章】小さな島々をめぐる大きな戦い
ジャワ海の戦い(スラバヤ沖海戦)1942年2月27日
米国・英国・オランダ・オーストラリア
軍事力
日本
重巡洋艦 2隻
重巡洋艦 2隻
軽巡洋艦 3隻
軽巡洋艦 2隻
駆逐艦 9隻
駆逐艦 14隻
輸送艦 10隻
死傷者・減損数
巡洋艦 沈没 2隻
駆逐艦 破損 1隻
駆逐艦 沈没 3隻
死者 2,300人
パラオからオランダ領東インドに侵攻した日本軍は、ボルネオ島北部のサラワク王
国、フィリピン諸島南部、ボルネオ島およびセレベス(現在のスラウェシ)島の基地
を次々と占領するとともに、侵攻軍の護衛艦隊はマッカサル海峡を抜けて石油の豊富
なボルネオ島のバリクパパンに接近した。
2月13日、パレンバンの戦いにおいて、米英蘭豪(ABDA)の連合海軍は西村祥治少
将が指揮する日本の護衛艦隊と交戦したが、日本軍がスマトラ島の最大給油港を占領
するのを阻止できなかった。
2月19日、日本の第一航空艦隊が、オーストラリア北部の港町ダーウィンを攻撃、
ABDA軍のオランダ領東インドへの補給を止めた。この時、巡洋艦「那智」「羽黒」
「那珂」「神通」及び駆逐艦「夕立」「五月雨」 「村雨」 「春雨」「峯雲」「朝雲」「雪
風」「時津風」「天津風」「初風」「山風」「江風(かわかぜ)」「
(さざなみ)」
「潮」に護衛された護送船団がジャワ島攻撃のために集結した。
2月27日、ABDA連合海軍は午後4時頃に日本軍とジャワ海で交戦を開始。ABDA海
軍の艦隊には、巡洋艦として英海軍「エクセター」、米海軍「ヒューストン」、オラ
ンダ海軍「デ・ロイテル」「ジャワ」、オーストラリア海軍「パース」、駆逐艦とし
て英海軍「エレクトラ」「エンカウンター」「ジュピター」、オランダ海軍の「コル
テノール」「ヴィッテ・デ・ヴィット」、米海軍「オールデン」「ジョン・D.・エド
!
130
ワーズ」「ジョン・D.・フォード」「ポール・ジョーンズ」が含まれていた。戦闘は
夜半まで続き、ABDA艦隊は大きな損失を被った。
英海軍巡洋艦「エクセター」は非常に大きな損傷を受け、オランダ海軍駆逐艦「コル
テノール」は沈没、英海軍駆逐艦「エレクトラ」は制御不能に陥り遺棄された。英海
軍駆逐艦「ジュピター」は沈没。またオランダ海軍「デ・ロイテル」と「ジャワ」
は、大きな破壊力を持つロング・ランス(九三式酸素魚雷)の一撃で撃沈され、連合艦
隊を率いるオランダ人最高司令官、カレル・ドールマン少将と乗組員のほとんどが
「デ・ロイテル」と共に海に沈んだ。日本側は駆逐艦の「朝雲」のみが損傷のため撤
退。その後、米国の駆逐艦2隻とオランダの駆逐艦1隻が、オーストラリアに逃げよう
とするところを撃沈された。これによってABDA海軍は10隻の戦艦と2173人の乗組
員を失ってほぼ完全に壊滅状態となり、ABDA連合軍の東南アジア地域における作戦
は幕切れを迎え、日本軍は1942年2月28日に抵抗を受けずにジャワ島へ侵攻した。
それに加えて、セイロン(現在のスリランカ)の首都コロンボ近海では、4月5日と9
日にかけて日本帝国海軍によるインド洋空襲(日本側の呼称はセイロン沖海戦)が行
われた。その結果、英国海軍の巡洋艦「コーンウォール」と「ドーセットシャー」、
航空母艦「ハーミーズ」、およびオーストラリア海軍の駆逐艦「ヴァンパイア」が沈
没した。
珊瑚海海戦
連合国
軍事力
日本
航空母艦 2隻
航空母艦 2隻
巡洋艦 9隻
軽航空母艦 1隻
駆逐艦 13隻
巡洋艦 9隻
油槽船 2隻
駆逐艦 15隻
水上機母艦 1隻
掃海艇 5艇
艦上戦闘機 128機
輸送艦 12隻
艦上戦闘機 127機
損失
!
航空母艦 1隻
軽航空母艦 1隻
駆逐艦 1隻
駆逐艦 1隻
131
油槽船 1隻
小型戦闘艦 3隻
航空母艦 損傷 1隻
航空母艦 損傷 1隻
航空機 69機
航空機 92機
死者 966人
(37)珊瑚海
1942年5月4日から8日にかけ珊瑚海で、井上成美(しげよし)指令長官率いる日本帝
国海軍第四艦隊とフランク・フレッチャー司令長官指揮下の米国・オーストラリアの海
空連合軍機動部隊との間で戦闘が起こったが、この戦闘では海軍の歴史上初めて、敵
対する両軍が互いの姿が視界に入らないまま交戦を行った。日本の目的はニューギニ
ア島のポートモレスビーを攻略して基地を構築し、それによってオーストラリアと米
国との間の補給路を断つことにあり、この作戦は「モ号作戦」またはMO作戦と呼ば
れた。
!
132
同じ時期に、連合艦隊司令長官、山本五十六は6月にミッドウェー島付近の太平洋中
央部での大規模な作戦を計画しており、これにより奇跡的に真珠湾攻撃を免れた米国
の主力空母部隊を封じ込め、壊滅させたいと考えていた。そこで、彼は自分の指揮下
にある大型空母艦隊の一部を切り離し、「モ号作戦」の海軍責任者として井上司令官
を据えたのである。
山本にとって不運だったのは、米国海軍情報局が「呂」暗号書(呂三版)に基づく
コードで打電された日本の通信信号の85%を解読できていたことだ。従って、優れた
パイロット訓練や海軍戦略を持つ日本軍に相対していた米国太平洋艦隊司令長官、
チェスター・ニミッツにとって、このことは非常に有利に働いた。
5月3日、日本軍はツラギ島を占領し、水上機基地の建設に着手した。一方、5月5日
早朝には、無線傍受情報によって、日本軍が5月10日にポートモレスビーに上陸する
計画であり、また日本軍の空母艦隊はおそらく、侵攻軍の護衛船団の近くで軍事行動
を展開すると思われるという内容のメッセージを、フレッチャー司令長官は真珠湾基
地から受けていた。
この情報によってフレッチャーの機動部隊は、5月6日には燃料補給を完了し、5月7
日には戦闘準備を整えることができた。7日の早朝、両軍ともに索敵機や探査機を飛
ばし、互いに敵の主力空母艦隊の位置をまず突き止めようとした。空海両軍力を駆使
する新手法の戦闘では、どちらが最初に敵の航空母艦を爆撃あるいは魚雷攻撃できる
かが成功のカギになるが、このような戦闘は日本軍のほうがはるかに習熟していた。
しかしながら、暗号解読能力のおかげで、最初に攻撃を仕掛けた軽航空母艦「祥鳳」
を撃沈したのは、米国航空母艦「レキシントン」の航空隊だった。「祥鳳」の834人
の乗組員のうち生存者はわずか203人。こうして、5月7日は日本にとっては陰鬱な日
となり、日本軍のポートモレスビー上陸は5月12日に延期を余儀なくされた。
航空母艦同士の戦闘の2日目は5月8日早朝に始まったが、この時には両軍とも互いの
空母部隊に標的を定めていた。日本の空母からは、高橋赫一(かくいち)少佐の指揮
の下、戦闘機18機、急降下爆撃機33機、雷撃機18機が、9時15分に一斉に発進し
た。航空母艦「ヨークタウン」を中心とした艦隊から飛び立った戦闘機6機、急降下
爆撃機24機、雷撃機9機は、9時15分には標的に向け飛行していた。また、航空母艦
「レキシントン」も戦闘機9機、急降下爆撃機15機、雷撃機12機を9時25分に攻撃に
投じた。
!
133
(38)真珠湾攻撃前日の1941年12月6日、日本帝国海軍航空母艦「翔鶴」に乗船した機動部隊の将
校たち。第2列右から4人目が戦闘師団将校・兼子正大尉、その左が空軍将校・和田鉄ニ郎司令官、城
島高次艦長、航空部隊指揮官・高橋赫一少佐。
「ヨークタウン」の急降下爆撃機は「翔鶴」を攻撃し、飛行・航空機格納甲板および空
母自体に重大な損傷を与え、乗組員のうち223人を死亡または負傷させた後、12時
15分に戦闘から退いたた。一方、「レキシントン」の雷撃機11機から成る飛行隊は
「翔鶴」を追撃できずに終わった。
日本軍の米国航空母艦への攻撃は11時30分に開始された。「レキシントン」に向け
て雷撃機が攻撃を始めてから数分後、高橋率いる急降下爆撃機19機が攻撃を行った。
一方、「瑞鶴」のエースパイロット、江間保大尉は残った爆撃機14機を指揮して
「ヨークタウン」を攻撃した。
!
134
(39)「瑞鶴」の爆撃飛行隊隊長、江間保
「レキシントン」は2発の爆弾の直撃を受け深刻な火災が発生し、その後大爆発し
た。また、「ヨークタウン」の中央飛行甲板には250Kgの徹甲弾が貫通し、下階の甲
板四つも爆破されて重度の損傷を受け、66人の死傷者を出した。正午12時に米軍、日
本軍の攻撃隊はどちらもそれぞれの空母へと引き上げて行ったが、帰還途中で双方が
遭遇し空中戦となって航空部隊指揮官の高橋が撃墜されて死亡した。
「レキシントン」は炎上し制御不能となった。乗組員は17時7分に離船を開始、船は
19時52分に沈没した。戦闘で損傷を受けた「翔鶴」は5月17日に、「瑞鶴」は5月
21日に日本の呉に帰港し、また「ヨークタウン」は5月27日に真珠湾に到着。この新
種の海上戦の第一幕が終了した。この新手法の戦闘では、軍艦が直接視界に捉えられ
ることも、軍艦同士が直接砲撃を交えることもなかった。その代わりに、航空母艦対
航
空母艦の対決において、有人航空機が飛行距離もスピードも強化された攻撃用迫撃砲
としての機能を果たした。そこでは劇的と言えるほど限られた時間での意思決定が必
要であるとともに、暗号解読や情報伝達が絶対不可欠であった。
!
135
経験豊富で優秀な日本軍の空母乗組員は、そうした戦闘で大きな成果を達成していた
と同様、5月8日の日本軍の調整攻撃は米軍より良好に機能していた。しかし、この戦
闘により日本側のパイロット90人を失い、その後数カ月にわたって代替の効かないベ
テランの艦載機搭乗員の不足を引き起こしたのだ。
珊瑚海海戦における戦術としては、米国の1万9000トンに対し4万2000トンの戦艦を
沈めた日本軍の勝利だったが、戦略的には日本の侵攻軍を初めて撃退し、米豪の輸送
と海上軍事支援に不可欠なポートモレスビーの陥落を回避したという意味で、米国・
オーストラリア連合軍の勝利であった。
日本と米国の航空母艦は1942年のミッドウェー海戦をはじめ、東部ソロモン海戦
(日本側の呼称は第二次ソロモン海戦)、サンタ・クルーズ諸島海戦(日本側の呼称
は南太平洋海戦)、1944年にはフィリピン海海戦(日本側の呼称はマリアナ沖海
戦)と、いずれも太平洋戦争では重要な意味を持つ戦いで刃を交えることになる。
これ以降、いずれの太平洋の海戦でも、戦場近くにある沈む心配のない陸上飛行場を
支配することが、戦いの明暗を大きく分けることになったのは明らかだった。
ミッドウェー海戦(ハワイ語:ピヘマヌ・カウイヘラニの戦い)
米国
軍事力
日本
航空母艦 3隻
航空母艦 4隻
支援船 25隻
戦艦 2隻
航空機 360機 巡洋艦・駆逐艦支援船 15隻
死傷者・損失
(1/3は陸上基地所属)
艦上戦闘機 248機
航空母艦 沈没 1隻
航空母艦 沈没 4隻
駆逐艦 沈没 1隻
巡洋艦 沈没 1隻
航空機 撃墜 150機
航空機 撃墜 248機
死者 307人
死者 2,013人
!
136
(40)ミッドウェー諸島6.2 KM2四方
ミッドウェー海戦の結果は次の要因で決まった。
1) 珊瑚海海戦の結果、日本側の90人のベテランパイロットが戦死し、損傷を受けた
「翔鶴」「瑞鶴」はミッドウェーでは計画通りの配置に就けなかった。
2) 米国の暗号解読が有利に働いた。
3) 米国がミッドウェー諸島という不沈空母を持っていた。
4) 過去6カ月にわたる不断の戦闘続きで、日本軍機動部隊に疲労が溜まっていた。
5) 米国に運が味方をした。
1942年までに明らかになっていたのは、海戦での勝利を左右するのは、ほぼ完全に
空軍力、そして航空母艦乗務員の優秀性であり、また戦場近くにある陸上飛行場の支
配がほぼ不可欠であるということだ。
1942年6月4日から7日までのミッドウェー海戦に向けての日本軍の準備は、それま
!
137
での海戦における完璧、精緻かつ統制のとれた立案と実行に比べると、ほとんどずさ
んと言えるものだった。南雲中将はミッドウェーをわずか4隻の航空母艦、「加賀」
「赤城」「飛龍」「蒼龍」で戦うことになった上、前回の戦闘での損失を補う代替機
として十分な攻撃機が無かったと同時に、ほとんどの航空機が1941年11月から休み
なく稼動し続けていた。こうした状況から明らかなように、この時日本の全ての航空
母艦は通常より少ない空軍力しか備えておらず、また予備機もわずかしか持っていな
かったのである。
戦闘疲れもまた要因の一つであった。日本の航空母艦は1941年12月7日の真珠湾攻
撃以来常に稼動状態にあり、そのため川西H8K二式飛行艇による空からの偵察や潜水
艦による偵察など、戦略的索敵は一定の水準を満たしていなかった。従って、米国海
軍の動きについての情報もばらつきのあるものに過ぎなかった。
米国側では太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの下、ハワイの戦闘情報班
(HYPO)の暗号解読者たちは、日本のミッドウェー攻撃が差し迫っていることや日
付は6月4日か5日ということはもちろん、日本の戦闘指令を完全に確認することがで
きた。というのも、日本海軍のJN-25コードは既に解読されており、さらには日本軍
の新しい暗号書の導入が遅れたからだ。米国側がいつ、どこで、そしてどの程度の軍
事力をもって日本がやって来るかを知っていた一方で、日本側は米国軍の動きも計画
もほとんど何も知らなかったのである。
米国の急降下爆撃機中隊指揮官、クラレンス・マクラスキーの頑固さが大いに幸運と
して働き、運命がそれに報いた。彼は自機の燃料が残り少なくなっているにもかかわ
らず、日本の艦隊の探索を実施し、駆逐艦「嵐」の位置を見極めると、偶然にも格好
のタイミングで追いつき、日本軍航空機がまだ格納甲板で給油中のところを攻撃し
た。
午前10時22分、「エンタープライズ」の航空班が「加賀」を、次いで「赤城」を攻撃し
た。一方で「ヨークタウン」の艦載機は「蒼龍」を標的とし、これら3隻の航空母艦
を数分のうちに激しく炎上させた。唯一残った「飛龍」が反撃を開始。「ヨークタウ
ン」とその防御駆逐艦「ハンマン」を沈没させた。
同日遅く、「飛龍」は12機のゼロ戦によって防御されていたにもかかわらず、「エン
!
138
タープライズ」からの急降下爆撃機による攻撃を受け炎上。司令官の海軍中将、山口
多聞は「飛龍」と共に沈むことを選んだ。こうして日本側は最も優秀な海軍司令官の
一人を失ったのである。
ミッドウェー島という不沈空母の存在のおかげで、米国爆撃機は所属航空母艦が沈没
あるいは損傷を受けても、常時着陸が可能だった。これは日本軍のパイロットにはな
い選択肢で、ここで勝負が決まったのである。
日本軍は航空母艦6隻のうち4隻を失うと同時に、多数の優秀な航空機乗組員を失い、
その防御体制は劇的に弱体化した。というのも、当時日本の5倍にも上る国内総生産
(GDP)を誇り、真珠湾を10回攻撃されたとしても持ちこたえることのできた米国と
違って、日本の産業力では損失を補充し続けることはできなかったからである。
ジョナサン・パーシャルとアンソニー・タリーの共著『Shattered Sword: The
Untold Story of the Battle of Midway(剣砕けたり:語られざるミッドウェイ海戦
秘話)』の、ミッドウェー海戦についての最新の分析は非常に興味深い。
ミッドウェー海戦は、海軍史において最も重要とされ、また広く研究されてきた戦闘
の一つであるがこれは当然のことである。本戦は日本と米国の最も本質的な戦い、つ
まり太平洋戦争における決定的海戦であると多くの人々の目には映る。これは理解で
きることだ。なぜならミッドウェーは、典型的な武力衝突を定義付ける時代を超越し
た要素、つまり両軍の軍事力の明らかな不均衡や戦いの主導権を握る側がめまぐるし
く入れ替わり刻々と変化する戦局、両軍ともに見られた素晴らしい英雄的行為、人々
の予想を裏切るクライマックスの全てを含んでいるからである。この戦闘自体につい
てはもとより、より大きな戦争の一部であるこの海戦が太平洋戦争全体に及ぼした影
響を理解したいと思っている後世の人々の興味を間違いなくかき立てるのだ。
それにしても、1942年6月4日は流れを変えた重要な日であった。この日以来、太平
洋戦争は全く新たな局面へと突入した。日本側にとっては、戦争初期の6カ月におよ
ぶ輝かしい勝利がミッドウェーによって突然幕引きとなり、太平洋地域で大規模な攻
撃を開始する上で必要な能力は大きく削がれた。日本帝国海軍の最も優れた航空母
艦、「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4隻が破壊されたことで、開戦当時は世界
に誇っていた日本の海軍航空隊は永久に崩壊した。日本帝国海軍はそれでもなお侮れ
!
139
ない軍隊ではあったが、開戦当初、日本海軍をあれほど恐れられる存在にしていた物
質的優越性と質的優越性の見事な結合を再び取り戻すことはなかった。
1942年8月7日、米国軍はソロモン諸島の一つであるガダルカナル島上陸を開始し、
戦闘は1943年2月9日まで続いた。
ガダルカナル島の戦い
米国
兵力
死傷者・減損
地上部隊 60,000人
地上部隊 35,000人
死者 7,100人
死者 31,000人
船舶 損失 29隻
船舶 損失 38隻
航空機 損失 615機
航空機 損失 650機
(41)ソロモン諸島
!
日本
140
日本の防衛部隊の数を上回り圧倒していた米国海兵隊員はガダルカナル島、ツラギ
島、ンゲラ諸島(フロリダ諸島)に上陸し、米国・オーストラリア間の海上交通路
(シーレーン)を確保するために飛行場を占領して、最終的にはニューブリテン島の
ラバウルにある日本軍基地を占領するつもりであった。
1万人を超える海兵隊員がツルギ島やガダルカナル島に上陸したが、それに相対した
のは2200人の日本防衛隊だった。ツルギ島に侵攻する海兵隊の上陸時には、日本帝
国海軍部隊が全員玉砕するほどの激しい抵抗を乗り越えねばならず、米国側は122人
の死者を出した。ガダルカナル島に上陸した1万1000人の海兵隊はツルギ島に比べれ
ばわずかな抵抗にあっただけで、8月8日16時までに建設中だった飛行場を確保し日
本の建設機材も押収した。
ラバウルを基地とした山田定義少将率いる海軍航空戦隊は、上陸する米国部隊を数回
にわたり攻撃し、米国輸送船「エリオット」と米国海軍の駆逐艦「ジャーヴィス」を
撃沈した。
ガダルカナル島北東のサボ島付近でその夜、英国軍少将ヴィクトール・クラッチリー
率いる連合国軍の軍艦は、ラバウルを基地としていた海軍中将、三川軍一率いる巡洋
艦数隻による奇襲攻撃に遭い敗北を喫した。
オーストラリアの重巡洋艦1隻と米国の重巡洋艦3隻(キャンベラ、アストリア、クイ
ンシー、ヴィンセンス)が沈没した他、駆逐艦2隻と巡洋艦1隻が大きな損傷を負っ
た。ところが、三川は夜が明けるのを気にしていたため、絶好の機会が目前にあった
にもかかわらず、連合国側の輸送船団を追跡し攻撃する機会を逸するという大きな過
ちを犯した。
驚くべき努力の結果、米海兵隊は8月18日には飛行場の建設を終え、ミッドウェー海
戦で戦死した海兵隊飛行士のロフトン・ヘンダーソンの名をとってヘンダーソン飛行
場と命名した。まだ日本軍の命を
した闘志を知らなかった海兵隊は、降伏を厭わな
い日本兵を探して捕捉するよう偵察パトロール隊を複数派遣し、その結果、パトロー
ル隊は日本軍の猛攻撃にさらされることになった。パトロール隊の中には完全に撃滅
されたものもあり、降伏したのは数名の朝鮮人労働者のみであった。
!
141
連合国軍の戦力を過小評価した日本軍最高司令部は、ガダルカナルの再攻略を命じた
が、一木支隊はほんの1000人程度の兵士で正面から攻撃をしかけ殲滅し、このテナ
ルの戦い(日本側呼称はイル川渡河戦)で生き残った兵士は128人だけだった。
8月24日、東部ソロモン海戦(日本側呼称は第二次ソロモン海戦)では、日本軍の軽
航空母艦「龍驤(りゅうじょう)」が沈没する一方、米軍航空母艦「エンタープライ
ズ」が損傷を受け、またその数日後にはサン・クリストバル島付近で米軍の航空母艦
「サラトガ」も魚雷攻撃を受けた。
9月12日の夜、川口支隊はルンガ川とルンガ高地の間で米海兵隊を攻撃したが、ガダ
ルカナル島のヘンダーソン飛行場付近の敵軍を一掃し壊滅させることに失敗した。こ
の長引く接近戦で850人が戦死し、最終的に川口支隊は撤退してラバウルにいた司令
官の百武晴吉中将(第17軍司令官)に敗北を報告することになった。
この敗退を受け東京の帝国陸軍大本営では緊急会議が開かれ、ガダルカナル島の戦い
が戦略上の決定的な重要性を持ち、太平洋戦争の命運にかかわる戦闘へと発展しつつ
あることを、日本側はようやく自覚するのである。
いくつかの交戦や局地的な陸海軍の戦闘の後、9月15日には米国の航空母艦「ワス
プ」が沈没、戦艦「ノースカロライナ」は魚雷攻撃を受けた。一方、日本軍の重巡洋
艦「古鷹」と駆逐艦「吹雪」は10月11日から12日にかけて沈没。戦艦「金剛」と「榛
名」は米軍拠点を砲撃した。ヘンダーソン飛行場をめぐる戦闘が10月24日に始まり、
続いてサンタ・クルーズ諸島海戦(日本軍側の呼称は太平洋海戦)の戦いがあり、10
月26日、米軍航空母艦「ホーネット」が沈没している。
それに続く11月12日から15日にかけてのガダルカナル海戦(日本軍側の呼称は第三
次ソロモン海戦)では、日本側は戦艦「比叡」と「霧島」、重航空母艦「衣笠」およ
び駆逐艦3隻を失い、米国側は巡洋艦「アトランタ」「サンフランシスコ」「ジュ
ノー」に加え駆逐艦7隻を失った一方で、11月13日には日本の重巡洋艦「鈴谷」と
「摩耶」がヘンダーソン飛行場を砲撃した。
海上・陸上での交戦がその後もいくつか行われた末、1943年2月1日から7日にかけ
て、ついに日本軍はガダルカナル島から撤退。南雲司令長官(第三艦隊)は次のよう
!
142
に述べている。
「本戦は戦術的には勝利だが、日本の士気が失われたという意味で戦略的敗北であっ
た」
日本側は航空母艦の乗組員の多くが戦死し要員は直ぐには補充されず、人員において
も、又物質的にも米国の工業生産に対抗できる望みもない中で、決定的勝利を掴むこ
とが困難になり、攻撃力も限定的になっていった。一方、米国は迅速に軍備の差し替
えを行い、戦力の増強さえも行っていた。
西に数千キロ離れた欧州では、1943年2月2日のドイツの敗北をもってバルバロッサ
作戦が終わりを告げた。これはドイツ・イタリアの敗北の始まりを示唆するととも
に、明らかに米国・英国・ソ連の太平洋地域における地位を強化するものだった。
3月26日、コマンドルスキー諸島海戦(日本側の呼称はアッツ島沖海戦)において、
アリューシャン列島西のキスカ島の日本軍守備隊への物資を再補給する任務に就いて
いた第五艦隊司令長官、細萱戊子郎(ほそがやぼしろう)は、火力装備では優位を
誇っていたにもかかわらず、米国の空軍力を恐れ、全ての米軍戦艦を壊滅させること
なく、すぐに撤退してしまった。このためアリューシャン諸島への航路確保の試みは
頓挫し、米軍のアッツ島への侵攻を許す結果となった。
アッツ島・キスカ島の戦い
米国
兵力
死傷者・減損
日本
144,000人
8,500人
死者 1,481人
死者 4,350人
負傷者 3,400人
戦艦 沈没 7隻
航空機 撃墜 225機
!
143
(42)アッツ島・キスカ島
米国のアッツ島再奪取作戦が1943年5月11日に開始され、非常に熾烈な戦闘になっ
た。というのも、山崎保代大佐が率いる日本軍が丘の上に塹壕を掘って防戦したから
で、その結果5月29日まで続いた白兵戦で4000人以上の米軍死傷者が出た。5月29
日、山崎大佐は大規模な「万歳」突撃を指揮し、米国とカナダの部隊を震撼させた。激
しい接近戦の後、日本部隊はわずか28人の捕虜を残し、ほぼ全員が戦死した。
3万4400人の米国・カナダ連合部隊はキスカ島への侵攻を実施したが、日本兵は離島
した後だった。日本軍が7月28日に霧に紛れ部隊をなんとか撤退させることに成功し
ていたためである。米国空軍は撤退を知らず3週間にわたり、放置された陣地を爆撃
していた。
時を同じくして、ソロモン諸島では7月6日に司令長官の秋山輝男少将の旗艦「新月」
が率いる戦闘隊員 2600人と駆逐艦10隻からなる日本軍コロンバンガラ島増援部隊
が、コロンバンガラ島とニュージョージア島との間に位置するクラ湾で米国海軍の軽
!
144
巡洋艦「ヘレナ」「ホノルル」「セントルイス」と短期戦闘を交えた。米軍が「新月」
を撃沈し、秋山司令官は戦死した。
8月4日、3万6000トンの米海軍航空母艦「イントレピット」が進水し、これにより
米国太平洋艦隊はいっそう強化されることになった。8月6日、米軍はこれまでの教訓
を上手に生かし、銃砲の発射によって自軍の位置を知られないよう、先に魚雷を発射
して日本の護衛艦隊をコロンバンガラ沖で壊滅させた。63秒間に36発の魚雷が海中に
発射され、自軍には損害を全く出さずに日本軍の駆逐艦3隻を破壊。乗船していた
1000人以上の日本人兵士と乗組員が死亡したが、そのほとんどが
死であった。
これにより、日本軍はコロンバンガラ島の守備隊への補給が不可能になり、程なく撤
退することになった。ところで、後の米国大統領になるケネディが乗船していた
PT-109(
戒魚雷艇)は、駆逐艦「天城」に衝突され沈没したが、彼は運良くカ
ヌーに乗った島の先住民に救助されている。
11月20日、米国海兵隊がタラワ環礁に上陸し、中部太平洋地域ではガダルカナルに次
ぐ二つ目の攻略が開始された。だが陸海両軍上陸に対する日本軍の強力な抗戦に直面
するのは、米軍にとってこれが初めてだった。最後の一人になるまで戦い抜く覚悟の
日本軍の前に、海兵隊は多大な損失を出すことになる。
タラワの戦い
米国
兵力
日本
35,000人
兵士 3,000人および
労働者 2,000人
損失
死者 1,000人
死者 5,000人のうち
負傷者 2,300人
146人を除く全員
!
145
(43)タラワ環礁
タラワへの侵攻は、米国のアイランドホッピング計画(飛び石作戦)の一環であり、
マリアナ諸島を占領すれば、その地上基地を拠点に米軍は最終的に日本本土にまで爆
撃範囲を広げることができるであろうという目論みからであった。ところがマリアナ
諸島には堅牢な要塞が作られ固く防御されていたため、まずはタラワ環礁を占領する
必要があった。日本軍はギルバート諸島およびタラワ環礁の戦略上の重要性を十分承
知しており、要塞の構築に十分力を入れ、海軍中佐、菅井武雄率いる2600人の精鋭
を
えた海軍部隊を配置していた。島の守備には戦車、要塞砲が設置されたコンク
リート製の掩
壕(えんべいごう)、500個のトーチカ、島の周囲には40門の大砲が
配置され、塹壕は防御施設の各地点を繋いでいた。守備隊(第3特別根拠地隊)司令
官の柴崎恵次海軍少将は、「たとえ100万の敵をもってしてもタラワを制圧するには
100年はかかるであろう」と豪語している。
米国侵攻軍は100万人とまではいかずとも、かつて例を見ないほど大規模の軍隊を集
結した。航空母艦17隻、戦艦12隻、巡洋艦12隻、駆逐艦66隻、輸送船36隻、陸軍
兵士・海兵隊員3万5000人を擁する米国軍は、1943年11月20日に艦砲の援護を受
!
146
けて攻撃を開始。空母から発進した急降下爆撃機の攻撃による中断を除き、砲撃は1
砲撃は1時間半以上にわたって続けられた。
沿岸の礁湖への進撃を開始した海兵隊は、爆撃によってこの小さな島の防衛部隊は撲
滅されたものと確信していたが、日本軍は素早く掩
壕から出ると射撃位置に就き、
浅瀬に停泊していた米国船に砲撃を行って水陸両用車両トラクター(LVT)の半数を
脱落させ、侵攻第一波を阻止することに成功した。第2日目、海兵隊は何とか日本軍
の防衛体制を二つに分断すると、沖に待機していた海軍の援護射撃を要請し、ゆっく
りとだが着実に敵の機関銃や守備隊を排除するに至った。こうして11月21日が終わる
ころには、米軍が島の西部全域を掌握し、環礁守備隊司令官の柴崎は戦死した。
戦闘3日目の11月22日、米軍は陣地を戦車および重火器で固め、日没までには優勢に
立った。日本軍の反撃が翌日の明け方4時にあったがこれは事前に想定されており、
米国の前線に攻撃を仕掛けた日本軍の兵士200人が戦死した。戦闘が終わって生き
残ったのは日本人将校1人、下士官兵16人、朝鮮人129人だけだった。日本側の死傷
者は総数4700人、米軍海兵隊の死者1000人、負傷者2300人。加えて、米国海軍兵
士700人が死亡した。これは米軍の兵力が日本防衛部隊の7倍も大きかったことを考
えると驚くほど大きな損失だ。この結果は米国内で抗議の嵐を巻き起こし、本国から
遠く離れたあのような小さな島を占領するためにこれほどの多大な損失を出したこと
について説明を求める動きが起こった。
米軍の将官の中には、後にタラワの戦いはそれほど犠牲を払う価値はなかったと認め
る者もいた。そして、両軍ともタラワの戦いの教訓を硫黄島の戦いに生かしたのであ
る。
この間、11月22日から26日にかけフランクリン・ルーズベルト、チャーチル、蒋介石
とその夫人が出席してカイロ会談が開かれた。ここで日本の無条件降伏後のアジアの
将来について対応するはずであったが、スターリンが蒋介石の出席を理由に参加を拒
否したため上手くいかず、その2日後にスターリンと米英首脳とのテヘラン会談が準備
された。
カイロ宣言は1943年11月27日に調印されたが、結局意味のないものとなってしまっ
た。この宣言では「連合国側」は、日本が無条件降伏するまで軍事行動を続行し、日
!
147
本から沖縄を含む太平洋の一切の島を剥奪して中国に満州、台湾,澎湖諸島を与え、
朝鮮に「いずれは」独立を約束するというものだった。フランクリン・ルーズベルトは
蒋介石に琉球の領有さえも提案しているが、蒋介石はそれを丁重に断っている。
クェゼリンの戦い
米国
日本
兵力
53,000人
約8,300人
損失
死者 372人
死者 8,122人
負傷者 1,600人
捕虜 100人
(44)マーシャル諸島クェゼリン環礁
畏るべき大艦隊が1944年1月22日、真珠湾を出港した。合計375隻の船、700機の
空母搭載機がクェゼリンに向かい、1月31日にクェゼリン環礁侵攻作戦「フリント
!
148
ロック」が開始された。7000発の12cm炸裂弾や2万9000発の迫撃砲弾が発射さ
れ、島は
間が無いほど砲弾で覆い尽くされた。これにより、米軍の水陸両用トラク
ター(LVT)、戦車、装甲車、ブルドーザーの上陸を待たずに、海岸の守備はほぼ壊
滅状態になった。
米国軍には二つの目標があった。北のロイ・ナムル島と南のクェゼリン環礁を占領す
ることである。日本側の通信を解読していたため、米国側は敵の防御体制・位置を
知っていた上、1月29日にマーシャル諸島のロイ・ナムルの飛行場を爆撃し、ほとん
ど全ての日本軍航空機を破壊していたことから、米軍空軍力の優越性は確実だった。
第7歩兵師団は小島カールソンを占領し、そこに圧倒的な砲兵基地を構築した。長さ
4km幅800mのクェゼリンの岩礁上に、B-24爆撃機と海軍の集中爆撃や砲兵射撃によ
る島全体を覆うかのような圧倒的な一斉攻撃が行われ、目撃者によれば「まるで島全
体が2万フィート(6000m強)ほど上空に持ち上げられてから、落とされたかのよう
だった」とのことである。
それにもかかわらず、その後も日本軍の抵抗は続き、米国側は日本軍5000人のうちま
だ1500人が生存していると推計した。2月1日に米軍によってロイ島の飛行場が占領
され、ナムル島は翌日陥落。もともと駐屯していた日本人兵士のうち生き残ったのは
わずか51人だった。
クェゼリンの占領は、過剰殺戮戦法を使った米国の新戦術と新たな陸海両面戦略の前
には、従来の水際防御は役に立たないとことを示した。
圧倒的な海・空両軍の砲撃に対抗するには、要塞化したトンネルを深部に構築する防衛
戦略が必要だったのである。
エニウェトクの戦い
米国
軍事力
日本
兵士 10,000人
兵士 2,800人
航空機 200機
航空機 500機
戦車 300両
!
149
軍艦 130隻
損失
死者・不明者 350人
16人の捕虜を除き全員戦死
(45) エニウェトク環礁
2月17日、米国海軍によるエニウェトクの大規模爆撃が行われた翌日、海兵隊は日本
軍の飛行場のあるエンチャビ島に上陸すると、ほとんど抵抗に遭わずにほどなく島を
確保した。しかしエニウェトクでは短期間の砲撃の後、米国軍は前進を阻まれ、この
小島を占領するのに2月21日までかかった。だがこの過ちがその後繰り返されること
はなく、それ以降のアイランドホッピング作戦(飛び石作戦)では、米国軍は上陸前
に
間のないほど徹底的に砲撃を加えた。例えばパリー島には米海軍戦艦「テネ
シー」と「ペンシルバニア」によって900トンの炸裂弾が撃ち込まれている。
2月23日までに環礁全体が米国の手中に収められた。
!
150
アドミラルティ諸島の戦い
米国・オーストラリア
兵力 損失
日本
35,000人
4,000人
死亡 330人
死亡 3,300人
負傷者 1,200人
捕虜 75人
(46)マヌス島
この戦闘はニューギニアの戦いの一環として行われた。当時のアドミラルティ諸島は
日本に占領されており、既に早い段階でラバウルには堅固な一大拠点が築かれてい
た。九州より少し小さく、台湾よりは大きいこの島は、もともとビスマルク諸島と呼
ばれたドイツ領ニューギニアの一部であり、オーストラリアが占領し、国際連盟に
よって領有権を与えられた際にニューブリテン島と改名された。だが、オーストラリ
アの人種差別主義とそれまでの先住民族アボリジニーの扱い方を考えると、オースト
ラリアのニューギニア統治は、パプア人を惹きつけるものではなかった。
!
151
1944年2月29日、米国部隊がロスネグロス島に上陸した。最初は比較的容易に進攻
できたが、すぐにアドミラルティ諸島の支配をめぐって激しい戦闘が始まった。日本
軍はゼーアドラー湾、ハウウェイ島、そしてマヌス島を激しい攻防戦によって防衛し
たが、徐々に食糧と弾薬が底を尽いて互角に戦えなくなり、3月24日パピタライ丘陵
地の日本兵50人の抗戦を最後にロスネグロス・マヌス両島における組織的抗戦は途切
れた。
戦死したある日本兵の日記が発見され、そこには日本軍の守備部隊がどのようにして
持ち堪えたかが書かれている。
3月28日
時折迫撃砲やライフル銃の射撃音が聞こえた以外、昨夜の任務は比較的平穏だった。
部隊指揮官が多数参加して協議した結果、現在の拠点を放棄し撤退することが決定し
た。そして撤退の準備が行われたが、この決定は中止になったようで、われわれはこ
の拠点を堅持することになった。ああ、これは名誉ある敗退なのだ。自らを律し冷静
に対処してきた我らの生き方に誇りを持たなければならないと思う。自分たちの名前
だけは残るだろう。それを自分はなかなか受け入れることができない。そう、確かに
ここに残る者たちの命、われわれ300人の命はあと数日しか残されていないのだ。
3月30日
われわれが撤退を始めてから8日目になる。敵の襲撃を避けてずっと山道をさまよい
歩き回ってきた。まだ目的地に着かないのに、日々の食糧は完全に底をついてしまっ
た。自分たちの体はどんどん衰弱しており、この空腹はなんとも耐えがたい。
3月31日
食糧の配給は全く無くなってしまったが行軍は続く。いつになったらロレンガウに着
くのだろう。あるいはわが部隊は山の中で全滅してしまうのだろうか?われわれは進
みながら、自分の装備や武器を一つ一つ投げ捨てている。
4月1日
土地の人が使う小屋に着いた。入った連絡によれば、ロレンガウの友軍部隊も撤退せ
ざるを得ないとのことだ。これから先は、現地人のように生きるしか選択の余地はな
いのだ。
!
152
周囲の島々にはまだ日本軍の部隊が残っていたが、空軍の優位性と海域の支配によっ
て、連合国側は1944年5月18日に正式にこのアドミラルティ諸島の戦いを終結させる
ことが可能になり、大規模な空軍・海軍基地の建設に着手した。その後、この基地は太
平洋地域の軍事行動で重要になっていく。
ブーゲンビル島の戦い
米国・オーストラリア・ニュージーランド
軍事力
兵士 126,000人
日本
兵士(労働者を含む) 60,000人
航空機 700機
(47)ブーゲンビル島
!
153
航空機 150機
1942年4月、日本軍はブーゲンビル島に上陸し、島の全域で飛行場をいくつも建設し
た。その中でも主要な飛行場が北端のブカ島とブーゲンビル本島のカヒリ地区に、ま
た海軍基地が南端のブインに作られた。
1943年11月、米国海兵隊はブーゲンビルのタロキナ岬を攻撃して上陸拠点を設ける
と、三つの飛行場の建設に取り掛かった。しかしタロキナ川沿いの丘陵地帯の高台に
据えられ、敵の目を欺くよう上手く偽装された日本軍の迫撃砲によって、米国軍は多
大な損失を負わされた。その後のヘルザポッピン高地をめぐる激しい戦闘はほぼ12月
一杯続き、海兵隊はクリスマス前に攻略することはできなかった。日本守備隊の最後
の兵士たちが死亡あるいは撤退する1944年4月18日まで、米国歩兵隊およびオースト
ラリア部隊は日本軍との血みどろの戦いを続けた。
日本軍は内陸部へ撤退したために物資の補給が断たれ、農耕で生き延びようとした
が、8200人が戦死し、1万7000人が病気や栄養失調で死亡。残りの2万3000人は
1945年8月21日に降伏した。
サイパンの戦い
米国
兵力 損失
日本
71,000人
31,000人
死者 3,000人
死者 24,000人
自決者 5,000人
捕虜 921人
民間人死者 22,000人
負傷者 10,000人
サイパンへの侵攻は1944年6月13日に開始された。戦艦15隻が16万5000発もの砲
弾を発射した後、6月15日、8000人の海兵隊が300台の水陸両用トラクター(LVT)
で西海岸に上陸した。日本の守備隊はよく組織されており、迫撃砲や機関銃で20台の
水陸両用戦車を破壊した。しかし、日本軍の夜の反撃は海兵隊によって撃退され、米
軍はアスリート飛行場を6月18日に占領した。
!
154
(48)北マリアナ諸島サイパン
フィリピン海海戦(マリアナ沖海戦)での帝国海軍の損失がたたり、サイパン島の防
衛部隊への補給は絶望的となっていた上、日本軍は退却しようにも行き場もなかっ
た。そこで指揮官(第43師団師団長)、斎藤義次中将はサイパン中央部のタポチョ山
周辺の丘陵地帯で守備隊を編成した。
戦闘は凄惨かつ凄まじく、「パープル・ハート・リッジ(名誉負傷勲章の高台)」
「ヘルズ・ポケット(地獄の孤立地帯)」「デス・バレー(死の谷)」などと米軍からあ
だ名を付けられて歴史に刻まれている。日本軍は上手く偽装した洞窟に身を隠し、夜
に紛れ奇襲攻撃をかける一方、米国軍は火炎放射器を使って掩
壕(えんぺいごう)
を焼き払った。
戦闘の混乱は一層酷くなり、もはや民間人と兵士との見分もつかなくなるほどだっ
た。斎藤中将は部隊の残存者3000人で最後の自決バンザイ突撃を計画し実行を命じ
た。突撃にはほとんど武器もない負傷兵や竹やりを持った民間人が続き、この総攻撃
は米軍死傷者650人と日本側戦死者4300人を出す太平洋戦争でも最大のバンザイ突
!
155
撃となった。1944年7月9日16時15分、司令長官 リッチモンド・ターナーはサイパン
の確保を宣言(サイパン島陥落)したが、この戦闘では米軍3000人、全日本軍守備部
隊3万人と民間人2万2000人の死者、そして米軍側に負傷者1万人を出した。
(49)子供を背負って洞窟を出る女性
(50) !
死の赤ん坊を洞窟から救出する海兵隊員
156
斎藤中将は、7月10日洞窟で割腹自決をしたが、以下が彼の最後の命令である。
私はサイパンの帝国軍将校および兵士諸君に告げる。鬼畜米国の攻撃より20日余にわ
たり、当島進駐の帝国陸海軍の将校・兵士および民間の従軍者の諸君は果敢にも善戦
をしてきた。諸君は帝国軍としての誇りと栄光をあらゆる場面で実証し、私は各人が
その任務を果たすと確信してきた。
だが、天はわれらに好機を与えなかった。この地を十分生かすことはかなわなかっ
た。今日に至るまでわれら一丸となり戦ってきたが、今や戦おうにも銃砲弾はなく、
攻撃しようにもわが武器は完全に壊滅状態にある。われらが朋輩は次々に倒れた。こ
こに痛恨の敗北を喫しはしたが、「七生報国(7回人として生まれ国に報いること)」
をわれらは固く誓うものである。
敵の残忍極まりない攻撃はいまだに続いている。敵の占領はサイパンの一角のみであ
るにもかかわらず、われらは万策を失い、峻烈な砲撃と爆撃の下で死にゆく運命だ。
打って出るも留まるも、残るは死のみ。しかしながら、死あればこそ生あり。真の日
本男児の名を一層高めるため、この機を生かすべきである。私はあと一矢を報いるべ
く、残る諸君と共に前進し、わが屍を太平洋の防波堤として残す覚悟である。
「戦陣訓」にもある如く、「生きて虜囚の辱めを受けず」、そして「心身一切の力を
尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし」を心せよ。
ここに私は諸君と共に天皇の永生と国の安寧を祈願し、敵を求め進攻する。
諸君もわれに続け!!
日本軍将校、大場栄隊長は組織化したゲリラ戦を指揮し、昼間は姿を隠し夜襲をかけ
る抵抗をジャングルで1945年12月1日まで続けた。
アメリカ軍は彼が率いる部隊(大場部隊)を倒そうと、1万人を動員して島をしらみ
つぶしに連鎖探索したが、大場隊長を見つけ出すことはできず、東京から連れてこら
れた元上司の連隊長が大場に投降するようメガホンで命令するまで、彼は16カ月の間
戦い続けた。元連隊長の命令にやっと、大場隊長以下46名の部隊は武器を捨て、軍歌
!
157
(「歩兵の本領」)を歌いながらジャングルを後に進み出た。
(51)大場隊長と彼が率いた歩兵隊
アンガウルの戦い
米国
!
日本
兵力
15,000人
1,400人
損失
死者 260人
死者 1,340人
負傷者 2,400人
捕虜 60人
158
(52)アンガウル島
1944年9月11日、全長5kmの火山島でペリリュー島から南西10kmに位置するアン
ガウル島の砲撃と爆撃が、米国海軍の戦艦「テネシー」と航空母艦「ワスプ」から発
進する急降下爆撃機によって開始された。島の防衛に当たったのは、パラオ諸島全域
担当の師団長、井上貞衛中将の指揮下にあった1400人の日本軍部隊だった。
それから6日後の9月17日、米軍第81歩兵師団が島の北部と南部の沿岸に上陸した
が、進攻するにつれて日本軍の抵抗はいっそう激しさを増していった。戦闘は米軍が
日本の防衛部隊が最後の拠点を築いていたサロメ湖付近の丘陵地帯に進攻するに従っ
て、血で血を洗う凄惨なものになっていったが、この時、日本軍はバンザイ突撃をせ
ず、その代わり敵に可能な限りの損害を与えて死んでいくことに全力を注いだ。
9月20日以降、日本軍は米軍の度重なる攻撃に大砲、迫撃砲、機関銃を発射し反撃し
ていたが、水と食糧が底を突いた後の9月30日、米軍はブルドーザーを使って日本兵
がこもる洞窟の入口を塞ぎ全員を殺害。戦闘はついに終わりを迎えた。
!
159
その後、第81歩兵師団は直ちにペリリュー島の戦いへと移ったが、そこでは米国第1
海兵隊師団が極めて難しい戦局に直面していたのだ。
パラオ、ペリリューの戦い
米国
日本
兵力
28,000人
11,000人
損失
死者 1,800人
死者 10,700人
負傷者 8,000人
捕虜 200人
(53)ペリリュー島とパラオ諸島
パラオには当時合計で約3万人の日本軍部隊が進駐し、そのうち1万1000人がペリ
リュー島の守備に当たっており、防衛を計画するのは中川州男大佐であった。彼は内
陸部の守備に特に力を注ぎ、ペリリュー島の周囲と飛行場を含むほぼ全島を見下ろせ
る島の最高地点、ウムルブロゴル山を陣地で固めた。さらに島に500本もあった石灰
岩の洞窟を最大限に利用して、要塞化させた掩
!
160
壕(えんぺいごう)や地下拠点を築
き、それらを複数の坑道で繋いだ。坑道には火炎放射器やナパーム弾を防ぐための頑
丈な鋼鉄製の引き戸が各所に設置され、大砲や機関銃用の開口が多数開けられてい
た。
それに加え、日本軍はウムルブロゴル山の地中を爆破し81mm・150mmの迫撃砲お
よび20mmの機関銃用の拠点を設置してこれらの大規模なシステムを坑道で繋ぎ、必
要に応じて守備位置から退避したり、また位置に就けるようにした。また、何千とい
う地雷と爆破装置が海岸やさんご礁に埋設され、特にザ・ポイント(The Point)に
はこれらに加えて、密閉型の47mm機関砲拠点と6基の20mmの高射機関砲(九八式
高)で強化されていた。これは日本軍の戦術としては革命的変化であったが、圧倒的
な敵の砲兵隊や優越した空軍力に立ち向かう場合には、非常に効果的であることが分
かった。
米国海軍は上陸に先立ち、予備砲撃を9月12日に開始。戦艦「ペンシルバニア」「メ
リーランド」「ミシシッピ-」「テネシー」「アイダホ」、重巡洋艦「コロンバス」「イ
ンディアナポリス」「ルイビル」「ミネアポリス」「ポートランド」、軽巡洋艦「ク
リーブランド」「デンバー」「ホノルル」、および航空母艦3隻と軽航空母艦5隻がこ
の小島を取り囲んで14インチ砲弾、16インチ弾、500ポンド爆弾の他、50口径弾 8
万発を発射したことから、9月15日8時30分に上陸した第1海兵師団は日本軍の陣地
は壊滅したと確信していた。
ところが日本軍は鋼鉄製の扉を開けると、重砲47mmおよび20mm機関銃を発射して
60
の上陸用舟艇(水陸両用車両トラクター [LVT])を一掃。死傷者の数は夥しい数
に上った。というのも、日本軍がLVTに大打撃を与えたために、海兵隊員は機関銃の
射撃が続く中を歩いて上陸せねばならず、その間に多数の兵隊がライフルその他の装
備を失ったからだ。この日1日が終わっても、海兵隊は海岸3kmの行程を持ちこたえ
るのがやっとで、死者200人、負傷者900人を出した。しかし、米国軍(第1海兵師
団長の)ウイリアム・リュパータス海兵隊少将は、まだ日本軍が島の防衛戦術を大き
く変更したことに気付いていなかった。
飛行場を占拠すると米軍の戦闘機「コルセア」が9月26日着陸を開始し、ペリリュー
島全土に急降下爆撃作戦を実施した。洞窟開口部にロケット弾を撃ち込み、中に潜む
!
161
日本軍に対してナパーム弾攻撃を行った。熾烈な白兵戦の後に米軍部隊はザ・ポイン
ト(The Point) を占拠したが、この戦いで死傷者157人という被害を受け、攻撃可能
な隊員は18人までに減った。次に、米国軍側が「ブラッディ・ノーズ・リッジ」と命
名したひときわ血なまぐさい戦闘が尾根で起こり、部隊の70%以上の死傷者を出し
た。日本側は最終的に全体で死傷者60%という損失を第1海兵隊師団に与え、第1師
団は3000人の隊員のうち1750人を失った。ウムルブロゴル山を攻撃した第5師団、
第6師団にも同様の死傷者が出て、10月中旬までには兵士の数は半減していた。10月
第3週までには、海兵隊の残存兵全員が戦線を離れせざるを得ない状況になり、米陸
軍(第81歩兵師団)に交代したが、島を確保するにはその後も1カ月の間、戦い抜か
なければならなかった。
ついに中川大佐は「我らが刀折れ矢尽きる」と告げ、連隊旗を燃やし割腹自決した。
彼は死後陸軍中将に特進している。
それでもなお、日本軍陸軍少尉、山口永は26人の歩兵および何人かの海軍要員と共に
1947年4月22日まで洞窟に立てこもり、日本の司令長官が島に出向いて命令するま
で降伏しなかった。
ウムルブロゴル山周辺での戦闘は、米軍史上最も凄惨な戦いの一つになった。そして
この侵攻は、わずか3日の戦闘で終わるというウイリアム・リュパータス海兵隊少将の
予測とは程遠い壮絶なものであった。
米軍は敵をはるかに凌駕する軍事力をもって飛び石を渡るように島から島へと侵攻す
るとしても、それは日曜日のピクニックのように簡単にはいかないことにやっと気付
き、「軍隊と民間人の男、女、子どもの区別無く、過剰殺戮兵器」を使うことを決定
し、「日本人全員が適正軍事目標である」と告知した。これに対する日本国民やマス
コミの反応は当然激しく、その結果、いかなる形でも米国への降伏を考えることは卑
しむべき行為と見られるようになった。
!
162
硫黄島の戦い
米国
日本
兵力
110,000人
22,000人
損失
死者 6,800人
死者 20,000人
負傷者 20,000人
捕虜 200人
この戦いは近年、クリント・イーストウッド製作のハリウッド映画『硫黄島からの手
紙』によって広く知られることになった。これは、間もなく東京が米軍の空襲を受け
ることを知って、東京にいる自分の家族を心配する栗林忠道陸軍中将の手紙を基にし
た映画である。
(54)硫黄島
昭和天皇への拝謁というめったにない経験を持つ栗林忠道中将は、ワシントンの駐日
大使館付き武官を務めたこともある傑出した才能を持つ戦略家で、長野県の代々続く
忠誠心あつい武家の出身だった。そんな彼が硫黄島防衛の指揮を執るよう任命され
!
163
た。島は東京都に所属する全長7km幅4kmの火山島で、東京の南1200kmに位置す
る。
彼は島に着くと直ちに、新たな防衛戦略を完璧なものにするために取り組んだ。それ
は立体的構造の地下坑道システムによって、敵軍の圧倒的に勝る空軍および砲兵隊を
無力化し、歩兵隊に致命的な地上戦を余儀なくさせるというものだった。米国政府を
強制的に合理的和平交渉へと持ち込むことのできる万に一つの可能性があるとすれ
ば、それは米軍の司令官たちが弔慰の手紙を兵士の親宛にできる限り多く出さねばな
らない状況を作ることだと栗林は知っていた。彼は部下の兵士に米国兵を10人殺害す
るまでは死んではならぬと命じ、これによって米国民に戦争の停止を要求させようと
したのである。
栗林は硫黄島全体に坑道でトーチカや戦闘拠点を縦横に繋ぐ広範なシステムを建設す
るという特殊な防衛体制を
鉢山(すりばちやま)周辺を中心に計画したが、時間が
なくなりその防衛システムを完成させることはできなかった。
米軍の攻撃計画はシンプルかつ強烈なものだった。航空機B-24リベレーターによる
74日にわたる爆撃、それに次いで戦艦「アーカンソー」「ニューヨーク」「テキサ
ス」「ネバダ」「アイダホ」「テネシー」、巡洋艦「ペンサコーラ」「ソルトレイク
シティ」「チェスター」「タスカルーサ」「ヴィックスバーグ」に加え、多数の駆逐
艦による上陸前の予備砲撃をするという計画だ。
1945年2月19日、戦艦「ノースカロライナ」「ワシントン」「ウェスト・バージニ
ア」の16インチ砲が砲撃を開始した。これが侵攻開始の合図で、米海軍全部隊が装備
するあらゆる銃砲、機関砲、ロケット弾、高射砲が発射され、その間、爆撃機100機
が21平方kmの島にある兵器の上に可能な限り爆弾を降り注いだ。2月19日午前9時、
最初の海兵隊員3万人が上陸したが、島は死んだように静まり返っていた。なぜな
ら、栗林中将は海岸が海兵隊員と装備で身動きが取れなくなるほどになるまで、射撃
を待つよう命令していたからだった。こうして上陸をさせてから、日本軍砲兵隊は
鉢山の鋼鉄製の扉を開け、米軍攻撃隊に対し壊滅的な損失を与えた。しかし、熾烈な
戦いで多数の死傷者を出しながらも海兵隊は4万人の海兵隊増援兵の硫黄島上陸に助
けられ、
!
鉢山と島のその他の地域を遮断しながら確実に前進していった。
164
鉢山の有名な星条旗
この星条旗の掲揚は一般受けする伝説と共に語られてきたが、実際は日本の守備隊が
米兵の星条旗掲揚を黙認し戦勝気分を味合わせた後、彼らを血みどろの待ち伏せにお
びき出そうとしたというのが真相だ。
結果として、「正真正銘の
鉢山の星条旗」と呼ばれるものが複数の政治家や軍人に
出まわるというどちらかというと滑稽な状況へ発展したことが、60年後、この星条旗
を揚げた米軍兵士の末裔の一人とされるウィリアム・ブロイルズ著『 Flags of Our
Fathers』(邦題『父親たちの星条旗』 )の中で詳細に語られることとなった。
(55) 鉢山の有名な星条旗
実際には戦闘は始まったばかりで、米国軍が前進しようとするにつれて激しさは一層
増していった。洞窟に隠れて奇襲し、血みどろの夜襲を仕掛ける日本軍守備隊に対し
て唯一効果的な武器は、新型のジッポー火炎放射M4中戦車(通称シャーマン)だけ
!
165
だったが、さらに米海軍の航空母艦から近接支援を受け、トランシーバーとナバホ・
コードトーカー(ナバホ語を暗号代わりに用いた無線交信)を含む効率良い地上通信
が米軍の進攻を助けた。
水、食糧、その他の補給物資が底を突いた日本軍にとって、死ぬまで戦う以外の選択
肢はほとんど残っていなかった。
栗林中将は最後の無線通信で次のように述べている。
「われら5日間飲食しておらず。しかしわれらが意気はいまだ軒昂なり。最後まで勇敢
に戦う覚悟なり」
彼は最後の静かなる急襲を指揮し、米軍前線を突破して最後の一人が戦死するまで抗
戦し、多大な損失を与えたと言われている。島の守備隊2万2000人のうち捕虜となっ
たのはわずか216人で、そのほとんどが負傷者だった。
この時をもって、日本軍は戦場に新たな局面をもたらしたが、それは欧米諸国の将校
たちには全く未知のことであった。つまり、指揮官が部隊と運命を共にし死ぬこと
は、兵達に全てを差し出して死ぬまで戦う意欲を起こさせるということだ。
西洋のキリスト教的プロパガンダは彼らの行動に狂信的で野蛮というレッテルを貼っ
たが、日本軍指揮官たちのリーダーシップこそ、禅とは何かを如実に現したものだっ
た。
それに対し、フリードリッヒ・パウルス元帥(ドイツ)、ダグラス・マッカーサー元
帥(米国)、 シャルル・ド・ゴール将軍(フランス)、グスタフ・ヤーニ将軍(ハン
ガリー)、陸軍大将ジョナサン・ウェインライト大将(米国)、アーサー・パーシバ
ル中将(英国)、クリメント・ヴォロシーロフ元帥(ソ連)、セミョーン・チモチェ
ンコ元帥(ソ連)を含む欧米諸国の多数の指揮官や陳誠将軍(中華民国)は、自らが
率いた部隊が殺戮されても生き延びただけでなく、英雄として自国に凱旋している。
60年以上がたった今、部下の兵士たちと共に戦い死んで行くことを選んだ多くの日本
人指揮官にこそ敬意を奉げるべきである。
!
166
そうした多数の指揮官のほんの一握りではあるが、ここに何人かの人物を挙げておく
(56) 陸軍大将・小畑英良、陸軍中将・中川州男、陸軍大将・牛島満、陸軍中将・斎藤義次、陸軍大
将・栗林忠道 ※最終階級
米国側は2万6000人の死傷者を出したが、そのうち7000人は戦死した。従って、硫
黄島は米国軍の死傷者が日本軍のそれを上回った唯一の戦闘であった。依然として洞
窟に隠れている日本兵は3000人とされており、その多くが割腹自決、あるいは最後に
残った手榴弾で自爆したと推測されている。最後となる大野利彦少尉とその部下によ
る投降が1949年1月6日に行なわれた。
膨大な死傷者の数を知らされ、米軍幹部の多くが硫黄島への侵攻を誤った選択であ
り、全く必要ないものだったと批判した。だが、硫黄島占領は原子爆弾投下を計画す
る上で決定的な意味を持っていたということを、彼らのほとんどが知らなかった。
1944年中ごろ、硫黄島は日本に向けて「その装置」を運ぶB-29戦闘機用の唯一の緊
急着陸地として指定された。論理的に考えると、どんな犠牲を払っても硫黄島を占領
したのがこうした理由ならば、米国は人々の命を救うために原爆を投下したのだとい
う逸話と矛盾する。
!
167
日本が受けた従来型焼夷弾攻撃
(57) マリアナ諸島 - テニアン島
サイパンとテニアンの二つの島に建設された米国の新たな飛行場は、B-29爆撃機の日
本までの飛行が可能になり、都市への大規模な焼夷弾爆撃が始まるであろうことを意
味した。3月9日から10日にかけ、眠りに就いた東京を335機のB-29が急襲し、ナ
パーム弾1700トンを落とした。これにより空襲火災が起こり、東京の密集地41平方
kmは壊滅状態になった。焼き尽くされた地域には150万人が住んでいたが、推定で
10万人が死亡、12万5000人の市民が負傷、住宅100万戸以上が破壊された。日本の
各都市は空襲や空爆に対する防御の備えはなく、地下シェルター(防空壕)もほとん
どなかった。B-29爆撃機の隊列最後部にいた飛行士たちは、人間の体の焼ける異臭が
爆撃地点の上空を飛ぶ航空機内にまで侵入してきたと報告している。
!
168
(58) 東京 1945年
ササキ・フサコは語る。
「積み上げられた死体は、大型トラックで運ばれていきました。辺り一面に死臭と煙
の混じった異臭が漂っていました。歩道の上のあちこちで人々が黒こげになって死ん
でいるのを見ました。ついに私は空襲が何を意味するかを、この目でじかに見て理解
したのです。気分が悪くなり、恐ろしくなって私は引き返しました。後になってあの
夜、東京の4割が焼け、死傷者は10万人にも上り、37万5000人が家を失ったと知り
ました。3月の空襲から1カ月がたった、桜の花がことさら美しい花見日よりのある
日、私は埼玉県の本庄市を訪ねていましたが、そこで隅田川に膨れ上がった黒こげの
死体が浮かんでいるのを見たのです。私は吐き気を覚えると同時に、あの時より一層
大きな恐怖を感じました。
私たち自身も、1945年5月25日の焼夷弾による空襲で焼け出されてしまいました。逃
げながらも、私の目は上空に釘付けになっていました。焼夷弾が爆発したところは、
まるで打ち上げ花火のようでした。人々が炎に包まれ、転げまわり、もだえ苦しみ、
助けを求めて痛ましく泣き叫んでいました。でも私たち人間の力では助けようにも、
どうしようもなかったのです」
!
169
1945年1月から8月の7カ月間に67都市が焼夷弾爆撃を受けた。その結果、かつて例
を見ないほどに破壊され、50万人以上の民間人が死亡し、無数の人々が焼けどや怪我
を負い、約500万人が家を失った。
(59) 日本への空爆:日本主要都市の破壊状況調査
破壊70%以上
甲府・桑名・福山・徳島・福井・富山
50-70%破壊
東京・横浜・敦賀・長岡・日立・熊谷・浜松・前橋・水
戸・豊橋・一宮・奈良・津・高知・静岡・岐阜・明石・
高松・伊勢崎・八王子・松山・今治・岡山・和歌山・神
戸
!
170
30-50%破壊
名古屋・大阪・下関・呉・大牟田・川崎・佐世保・佐
賀・堺・熊本・青森・岡崎・平塚・徳山・四日市・宇治
山田・大垣・姫路・清水・大村・千葉・沼津・銚子・宇
都宮
30%未満破壊
西宮・八幡・尼崎・門司・都城・延岡・宮崎・宇部・大
分・福岡・仙台
沖縄戦
米国・英国
軍事力
日本
戦艦 約1,300隻
兵士 75,000人
以下を含む:
上記に加え:
航空母艦 40隻
沖縄戦闘員 35,000人
航空機 1500機
神風特別攻撃隊 1,465機
上陸第1日目 兵士 183,000人
その後漸増し、兵士 合計
550,000人
損失
死傷者 72,000人
死者 戦闘員 66,000人
その内訳:
死者 民間人 150,000人
死者 12,500人
非戦闘時の神経衰弱・ストレスに
レイプを受けた女性 10,000人
よる
犠牲者 33,000人 米軍侵攻の際はよく行われている
事だが、その結果数多くの自決者
が発生
戦艦 沈没・廃棄 79隻
船舶 損傷 150隻
航空機 撃墜 770機
!
171
航空機 撃墜 3,100機
面積1200平方kmの沖縄はハワイのカウアイ島よりも小さく、当時の人口は50万人程
度であった。際立った産業も食糧の余剰生産もなく、魚雷や自動車燃料として使われ
る商業用サトウキビアルコールの生産を除き、日本の戦争遂行を支援できるような能
力も活動も一切ない島だった。
(60)沖縄
1945年3月下旬、米国側は沖縄周辺に1300隻からなる巨大艦隊を結集した。その中
には航空母艦40隻以上、戦艦18隻、駆逐艦200隻に加え、365台の水陸両用トラク
ターを載せた何百という支援船が含まれていた。1944年10月10日に米国海軍ウィリ
アム・ハルゼー司令長官率いる航空部隊の爆撃機200機による空爆が沖縄の中心的市
街地という市街地を徹底的に破壊したため、沖縄の首都である那覇市は既に壊滅状態
にあった。
!
172
沖縄侵攻の決行日を意味する「L-Day」まで7日を残したその日、大量の銃弾が発射さ
れた。「鉄の暴風」として知られることとなった5インチ砲弾3万7000発、4.5インチ
砲弾3万3000発、小型ロケット艦から発射された4インチロケット弾2万2000発、そ
れに加えて3100回にわたる空襲が海辺や海岸の標的に向け行われた。
沖縄で砲弾や爆弾、ナパーム弾の攻撃を逃れた場所はほとんどなく、最後には村々も
豊かな熱帯植物の生い茂る地帯も、泥土、残骸、人間の死体、動物の屍骸、蛆虫の山
や鉛の塊に成り果てた。逃げて生き延びられる望みがあるのは洞窟あるいは深く掘っ
た地下防空壕の中だけになってしまった。
サイモン・バックナー大将率いる18万3000人の第一次攻撃部隊は、海軍および空軍
のすさまじい援護射撃にサポートされていた一方で、日本陸軍第32軍の6万6000人の
守備隊は、兵力2万の沖縄防衛隊による支援を受け、島の総帥権は牛島満中将が握っ
ていた。
米軍は抵抗を受けることなく上陸した。これは日本軍の主要な守備体制が、強固に要
塞化された那覇・首里・与那部戦線にあったためである。米軍は素早く内陸部へと移動
し嘉手納と読谷の飛行場を占拠すると、2日で内陸部および日本部隊を二つに分断し
た。
4月7日までには、米海兵隊は名護平良戦線に到達し、本部(もとぶ)半島の最高地点
である八重岳の頂上で塹壕を築いていた宇土武彦大佐の歩兵隊(独立混成第44旅団第
2歩兵隊)と衝突した。4月14日、米海兵隊は海空軍の強力な破壊力を持つ射撃支援
を受け、八重岳への総攻撃を開始し、ついに4月18日八重岳を奪取したが、悲惨で血
なまぐさい戦闘で日本側が死者2500人と捕虜46人を出し、米海兵隊も死者236人と
負傷者1061人を出した。次の米軍の目標は本部の西に浮かぶ、大きな飛行場のある
伊江島だった。島を守っていたのは井川部隊(井川正少佐指揮)だった。部隊は伊江
村(いえそん)とブラッディー・リッジ(高地)、城山(ぐすくやま)の周辺を、整然と
して堅固に要塞化された蜘蛛の巣状に走るトンネル、銃巣、トーチカ、洞窟に潜んで
守っていた。
日本軍は6日間抵抗を続けたが、アンドリュー・ ブルース陸軍少将は「最後の3日は、
これまで経験した中で最も悲惨な戦いだった」と証言している。伊江島は4月21日に
!
173
陥落したが、この戦闘で日本兵4700人、沖縄住民1500人が死亡した他、米国部隊も
172人が死亡、900人が負傷した。
4月6日、日本軍の戦闘攻撃機400機が九州の知覧町を飛び立ち、侵攻してくる米国の
大艦隊への特攻隊攻撃を開始して多大な損失を与えた。一方、かつて無敵と言われた
日本海軍の残存戦力も米海軍の艦隊に立ち向かうため九州を出航したが、4月7日、米
軍の航空機に阻まれ、戦艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、駆逐艦3隻が沈没している。
首里線は日本軍の防衛の中心であり、洞窟、坑道、小要塞、背面銃巣、連結防衛拠
点、要塞やトーチカ、大砲や追撃砲の配置が巧みに偽装され、丘陵や地形に一体化し
てうまく姿を隠していた。
4月6日から9日にかけ、日本軍の激しい抵抗を受けながらも、米軍歩兵隊は真志喜
(ましき)、南上原(みなみうえばる)、オウキ(おおき)を占領したが、嘉数(か
かず)で強力な防御に遭い、見事に偽装された大砲や迫撃砲の発射拠点から4日にわ
たり反撃を受けた(日本では、嘉数の戦いとして知られている)。
その後の2週間は非情極まりない白兵戦になった。戦闘はタラワ、ペリリュー、硫黄
島の戦いさえも凌ぐ凄惨で激しいものだった。全ての防衛拠点が示されている地図
が、戦死した日本の砲兵隊将校の着衣から見つかった。それが翻訳され米軍部隊に配
られると、大砲やナパーム弾によって日本軍の隠れた拠点を米軍はピンポイント爆撃
できるようになり、米軍部隊が前進できたのである。
4月13日から14日にかけての日本軍の反撃はほぼ全員が玉砕して終わり、4月19日に
は米軍3師団が地下に潜む日本軍守備隊を1万9000発の砲弾で爆撃した後、牧港(ま
ちなと)線を攻撃したが成果は上げられなかった。というのも、米軍は720人の死傷
者を出し、首里に向けての進攻を足止めされたからである。
その後の数回の熾烈な戦闘でも日本軍は譲らずに戦って玉砕した。これらの戦闘は攻
撃側の米軍にも大きな損失を与え、ツイン・ピナクルや浦添村(うらそえそん)など
の名は太平洋戦争でも最激戦地として歴史に残っている。
4月24日の夜、日本軍は霧にまぎれて首里線の外側から撤退し、首里と那覇両市の防
衛に就いた。
!
174
5月6日、米軍はアサ- 沢岻(たくし)- 我謝(がじゃ)線を戦車と歩兵隊によって攻撃
したが、丘から丘、洞窟から洞窟へと一歩進むごとに激しい抵抗に遭い、火炎放射、
ナパーム・ガソリン弾、爆破薬を洞窟やトーチカの中に向けて発射した後からでなけれ
ば進めない状態だった。バックナー大将は5月11日、総戦力を挙げての攻撃を命じた
が、それから18日間の戦闘は悲惨で犠牲の大きいものだった。運玉森(コニカルヒ
ル)、安里五ニ高地(シュガーローフヒル)、百三十高地(チョコレートドロップヒ
ル)、沢岻高地(ダケシリッジ)、大名高地(ワナリッジ)など主要な守備拠点に対
する進攻は遅々としていたが、5月21日までにはついに石嶺高地 (イシミリッジ)が
陥落した。
5月22日から日本海軍航空隊はこれまでで最大の防衛作戦を開始し、米国海軍に対し
900機近い特攻隊機による奇襲をかけ、米軍の圧倒的な対空集中砲火を浴びながら
も、大きな損害を与えた。
特攻隊、または神風と呼ばれた特別攻撃作戦は、日本海軍フィリピン第一航空艦隊長
官だった海軍中将、大西瀧次郎によって考案された。この特攻作戦は米戦艦に損害を
与える上で最も効果的な方法だった。パイロットは500Kgもの爆薬を積んで、自機を
米国の軍艦に故意に突っ込み衝突するという作戦が後日決定された。特攻隊のパイ
ロットへの志願の呼びかけには驚くほどの反響があり、志願者数は特攻用飛行機の数
の3倍にも上った。熟練パイロットの志願は却下された。それは、死にゆく若い特攻
隊員の訓練に彼らが必要とされたからである。
海軍の神風特攻隊パイロットの9割以上は18歳から24歳だった。また、沖縄戦の陸軍
特攻隊パイロットのほとんどは17歳から22歳で、その多くはもともと日本のエリー
ト大学生だった。1943年10月に教養学部と法学部の学生の徴兵猶予期間は終った
が、理工科系の学生の入隊は引き続き猶予された。これらのもともと学生だった者た
ち(学徒出陣者)の多くが海軍・陸軍のパイロット訓練課程に入り、後に特攻隊攻撃を
実行するために特別攻撃隊に入隊した。1000人の学徒出陣した兵士が、神風パイ
ロットとして戦死したと推定される。
特攻隊のモットーは、「死の大義・場所・時間を選べることは特別な者に授けられた
得難い特権である」だった。
!
175
1945年4月6日の戦闘は、沖縄戦において最も効果的に特攻隊を活用したことが分か
る。航空機350機が一斉に連合国軍艦隊目がけ突進し、米軍水兵の中にはその突撃の
激しさに精神に異常をきたした者もいた。
1944年10月25日から1945年1月25日にかけ、神風特攻隊は護衛空母2隻と駆逐艦3
隻を撃沈し、また航空母艦23隻、戦艦5隻、巡洋艦9隻、駆逐艦23隻、その他の船舶
27隻に損傷を与えた。こうした攻撃の結果、米軍死傷者の数は死者738人、負傷者
1300人に上った。
特攻隊が米国海軍に与えた心理的効果は、海軍作戦本部長がワシントンの米国政府に
出向き、戦闘の即時終了を要求したほど大きなものだったが、ホワイトハウスの最高
司令官(ルーズベルト大統領)はその要求を却下している。
5月29日までに、米軍は那覇と与那原を占領し、首里を包囲した。首里にいた牛島中
将は最後の抵抗を試みる代わりに退却を決定し、これによって戦闘は延び、米軍は一
層損失を被ることになった。首里の日本軍指令本部の退去は少人数の後衛部隊を残し
て秘密裏に行われ、後衛部隊は5月31日に首里が陥落まで、米軍を足止めした。20万
発の海軍および砲兵隊の砲撃や空爆を受け完全に崩れ廃墟になった首里を米軍部隊は
目にした。日本の守備隊はこの交戦で7万人以上が戦死し壊滅した。捕虜はわずか9
人で、それも全員が負傷あるいは意識を失ったため捕虜になった者たちだった。
この戦闘で犠牲となった日本人は、一つのカテゴリーにしか分けられない…つまり死
亡者である。
米軍将校たちも非公式には、日本軍の守備隊が叙事詩を連想させるような英雄的行為
と勇敢さを示したことを認めているが、そうした中には222人の15歳から18歳の女
子学生(沖縄師範学校女子部と県立第一高等女子学校)ひめゆり学徒隊も含まれてい
る。生きる屍で一杯の死体置き場のようだったと後に言い表された、洞窟や過密状態
にある地下壕で、彼女たちは苛酷な状況にも耐え、負傷兵や
死の兵士の看護だけで
なく、外科手術や非常に不快な任務にさえ従事していた。1945年6月18日までの死
亡者は19人だったが、翌朝、米軍が伊原外科壕を攻撃して彼女たちの8割が殺害され
た。また、米軍兵士による組織的なレイプを避けようと、生き残った女学生の多くが
その後崖の上から身を投げるか、手榴弾によって自決した。ごくわずかな女学生が生
!
176
き残り、この3カ月にわたるひめゆり部隊の苛酷な試練について語っている。
6月4日、米海兵隊は小禄(おろく)に上陸すると、激しく残虐な戦闘の末、那覇飛行
場を占領した。この時抗戦したのは司令官大田実率いる完全武装した士気軒高な守備
隊(沖縄根拠地隊)だったが、海兵隊はこれを掃討し糸満市へ進攻。守備隊司令官の
大田は最後に割腹自決を遂げた。
(61)1946年4月に建立された「ひめゆりの塔」と慰霊碑
補給品も装備も底を突き、牛島中将は増大する死傷者を前に、最後の抵抗として配下
の部隊に死ぬまで持ち場を離れないよう命令した。その結果、米軍侵攻部隊は激しい
日本軍の射撃に遭って多大な損失を受け、援護の火炎放射戦車や空、海、陸からの砲
撃が日本側の防衛隊の陣地を一つ一つ壊滅させるまで、何日も足止めされた。
多数の防衛要塞のうち、遊佐とクニシは5日間の熾烈な激闘の末、やっと陥落させる
ことができたが、この戦闘は沖縄戦最多数の死傷者を米軍に与えた。日本軍は米国海
軍の途切れることない爆撃にさらされていたが、そうした中、降伏を勧告するビラが
散布され、同時にバックナー大将は次のような書信を牛島中将に送っている。
!
177
「貴殿指揮下の各部隊は勇敢に善戦してきた。沖縄戦における貴下歩兵隊の戦法はわ
れわれ敵方の十分なる評価を得ている。もはや貴隊に増援部隊も物資も届かぬこと
は、貴殿自身も承知の通りであり・・・(中略)・・・当島における全日本軍の抗戦が壊
滅することは今や単に時間の問題である」
牛島中将はただ微笑み、降伏の可能性についてのいかなる検討も退けたと言われてい
る。そして6月17日には日本軍の銃弾と食糧は尽きようとしていたが、兵たちは忠実
に次の牛島の命令に従った。
「戦場は今やかかる混乱にあり、連絡はことごとく途絶し、われ、指揮を執ることは
困難となる。要塞を守る各部隊はすべからく、生存する上級者将校の指揮に従い、お
国のために最後まで敢闘せよ。これがわが最後の命令なり。皆よさらば」
何千もの日本兵が洞窟から真壁地区の防衛を続行し、6月21日まで米海兵隊は戦い続
けることを余儀なくされた。そして同日、最後の抵抗勢力が掃討された。6月23日、
牛島中将は東京の軍指令本部に戦闘の終了を打電した後、整髪しウイスキーを口にす
ると、部下と共に割腹自決をした。なんとも不思議なことだが、それは米軍の敵将の
命運が尽きた数日後のことである。サイモン・ボリバー・バックナー中将は6月18
日、日本軍の砲弾を受けて戦死した。これにより彼は敵の砲撃で戦死した米国軍人で
は最高位となった。
最も優秀な戦略家の一人であった牛島中将の参謀長、八原博通大佐は割腹自決の許可
を願い出たが、生き延びることを命じられた。牛島は八原の許可願いを次のような理
由で却下している。
「もし君が死ねば、沖縄戦の真実を知るものが誰も居なくなってしまう。一時の恥を
負い、それをよく耐え抜け。これは上司の陸軍司令官の命令だ」
後に八原大佐は『沖縄決戦―高級参謀の手記』を書き、1972年に出版(読売新聞
社)されている。本書は、確実な死が数ミリメートル、数ミリグラム、数分の目前に
迫った状況に置かれた人々は、真実を語るようになるということ、そして沖縄戦にお
いては日本部隊の勇気や英雄的行為の方が、臆病風よりもずっと隊員に伝播しやす
かったことを明らかにしている。
!
178
牛島の命令を果たし、八原大佐は1981年に永眠した。
(62)沖縄の日本軍司令官たち
!
179
【第17章】広島・長崎
歴史家の中には、沖縄戦で米国側に愕然とするほど多数の死傷者が出たことが(米国
民には秘密にされた)、米国人の命を救うためとして広島と長崎への原子爆弾攻撃に
つながったと考える者もいる。
だが、これほど真実からかけ離れた説はないだろう。
(63)原爆投下の後
日本に原子爆弾を落とすという決定、つまり支出に見合うものであるかどうか(マン
ハッタンプロジェクトは少なくとも現在の価値で220億ドルはかかった)は、沖縄で
大量殺戮が起こるずっと以前になされていた。それにこの新たな「驚異の兵器」の実
験は、例えどんなことがあろうと非キリスト教国のどこかの都市で行われていたはず
である。
!
180
米国上層部はこのような絶好の機会を見逃すわけにはいかなかった。というのもその
頃には、米国政府が日本の爆撃地を選択する際には、日本の民間人の生命についての
いかなる配慮も、爆撃の制約範囲も、軍事攻撃目標の制限も、既に全く重要でなく
なっていたからである。
原爆投下の後で、米国・CIAが「被爆マリア像」を長崎平和祈念館の片隅から移動さ
せる際にどのように巧妙になされたかを見れば、いかに偽善的な感情や動機があった
かが分かる。
(64)被爆マリア像
1955年から長崎の姉妹都市になっているミネソタ州セントポール市はどういう訳か、
長崎市長が黒こげのマリア像の存在を「忘れる」ように取り計らって、米国のキリス
ト教国としての体面を保とうとした。何十年かの間、被爆マリア像は人々の前から姿
を消し、最近になって再び発見されたが、いまだに長崎平和祈念館ではなく建て替え
られた浦上天主堂の中にひっそりと「展示」されている。
ここで日独同盟に関する神話に終止符を打っておくのが良いだろう。この同盟とされ
ているものは、実際には存在しなかった。まず第一に、自分たちを「金髪アーリア系
の優れた民族」とするドイツの人種的イデオロギーは、アメリカ人の「アングロサク
ソンのキリスト教徒白人戦士」こそが世界を支配するという考え方や、オーストラリ
ア政府のアボリジニーの子どもたちを両親から引き離して保護区域に隔離するなどと
言うおぞましい政策と同じように、東洋の日本人的考えでは異質なものだった。
!
181
アジア・太平洋においてドイツ唯一の事実上の経済的・戦略的協約は、ドイツの軍事
産業に中国が原材料を供給する見返りに、ドイツが武器や軍用機材を中国国民党に供
給する中独合作のみであった。
太平洋戦争において日本が唯一同盟を結んでいた国はタイだけであり、インドネシア
とフィリピンではそれぞれの地元武装勢力の一部、そしてインド義勇兵も日本に協力
した。
ヒットラーが失脚する目前にドイツは日本に何らかの協力を行ったが、それは日本が
解体されたMe-262ジェット戦闘機(メッサーシュミット)、V2ロケット(弾道ミサ
イル)の部品、550Kgの酸化ウランを購入したときだ。これら全てを秘密裏のうちに
潜水艦U-234に積んで、1945年4月15日、ドイツ人専門家数人と日本人将校2名が乗
船し、東京へ向けてノルウェーのクリスチャンセンを出航した。
航海はU-234がカール・デーニッツ海軍総司令官から「浮上し降伏せよ」との命令が届
いた5月4日までは順調だった。この降伏命令について乗組員と同乗者との間で議論が
行われた末、U-234の艦長ヨハン・ハインリッヒ・フェラーは命令を受け入れて米国
軍に降伏することを決定し、1945年5月10日に浮上する。
潜水艦に乗っていた日本人、潜水艦設計技師の友永英夫海軍中佐と航空機技術者の庄
司元三中佐にとって、降伏は選択肢になかった。彼らは乗組員に多数の贈り物を配
り、艦長のフェラーには刀と多額のスイスフランを贈った。なお、後に彼はこの刀を
船外に投げ捨てている。日本人同乗者は自分の船室に戻るとルミノールを飲んだ。こ
れは割腹をして潜水艦を血で汚したくなかったからである。36時間後に彼らは死亡す
るが、感謝の手紙をフェラー艦長に残し日本へ信号で知らせを送るよう頼んでいる。
だが、ドイツ人艦長はそれをしなかった。
友永中佐と庄司中佐は1945年5月11日、海に葬られた。
U234は実際5月14日に降伏した。これは米国にとっては大ニュースだった。しかし、
積み荷のウラニウムについては緘口令が敷かれ、その押収はマンハッタンプロジェク
トの責任者、ロバート・オッペンハイマーが個人的に指揮した。真偽のほどが疑わし
い
!
話又は伝説によると、これは米国の原子爆弾に使うためだったとのことだ。この
182
話は後になって、ジョセフ・マーク・スカリアが彼の著書『Germany s Last
Mission to Japan: The sinister voyage of U-234(日本を目指したドイツ海軍の最
終任務:失敗に終わったU-234の航海)』で語っている。
1945年8月6日、原子爆弾が広島に落とされ、医師・看護婦の9割を含む約16万人が死
亡。一瞬のうちに広島市は放射能に汚染された瓦礫の山になった。その3日後、米国
は新たなLFX(実弾軍事演習)による大規模武器実験を完結させるために二つ目の爆
弾を長崎に落とし、これにより10万人の市民が死亡した。
ここで、国際法では民間人への爆撃について何と言っているかを思い出してみよう。
1. 民間人への意図的な爆撃は違法である。
2. 上空から狙う場合の標的は、軍事目標でなくてはならず、それが確認できなくては
ならない。
3. 合法的軍事目標への攻撃は、いかなるものであっても、確認行為を怠って付近の民
間人を攻撃しないよう配慮の上、行わなくてはならない。
1939年9月1日、フランクリン・ルーズベルトは次のような声明を発している。
米国大統領からフランス、ドイツ、イタリア、ポーランド、英国の各政府に告ぐ。
ここ数年、地球上のさまざまな地域で行われてきた戦争行為の中で、戦争への備えの
ない都市部に住む民間人に対する上空からの無慈悲な爆撃が、ここ数年猛威をふるい
多くの地区が廃墟と化した。そしてその結果、無防備な何千人もの男女、そして子ど
もが重傷を負い死に至っている。こうした事実は教養ある男女に不快感を与え、人間
としての良心に大きな衝撃を与えてきた。私は従って、公的に戦争行為に関与してい
る可能性のあるあらゆる政府に向けて、緊急の要請を行う。貴国軍隊は如何なる場合
も、いかなる状況においても、民間人あるいは無防備な都市への空からの爆撃を行わ
ないこと。本書信への速やかな返答を期待する。
フランクリンン・ルーズベルト
!
183
だが、1945年5月10日∼11日のロスアラモスでの第二回目標委員会(原爆投下地を
検討する委員会)までには、米国大統領も軍部も全く違った意見を持つようになって
おり、投下目標地は最大限の民間人死傷者を出せるかどうかという観点から格付けさ
れ選ばれた。もちろん、原爆の爆風の「煙突効果」が考慮され、最高の「殺戮効果」
を得るために、山々に囲まれた都市で直径6km以上の規模であることが、投下目標地
リストの上位にあげられた。
そして投下目標地が次のように格付けされた。
1) 京都 ― AA級目標に分類
当目標地は都市部工業地帯で人口100万人を有す。当市はかつて日本の首都で、他の
地域が壊滅状態になっていることから、現在多数の人々および産業が当地域に移動し
つつある。心理的観点から見て、京都は日本の知識人が集まった場所であり、当地に
住む人々は本装置(原子爆弾)のような武器が持つ意味を十分認識する能力があると
いうのは利点である。
2) 広島 ― AA級目標に分類
当目標地は都市工業地帯の中心に位置する重要な陸軍補給廠(しょう)および船積み
港である。レーダーで照準を合わせる上で適したターゲットであるとともに、市の広
範囲に損傷を与えることが可能と思われる規模である。隣接して複数の丘陵があるた
め、これらによって爆風による被害を著しく増幅する集束効果の発生も期待できる。
なお、当市には複数の川が流れていていることから、焼夷弾(通常爆撃)のターゲッ
トには適していない。
3) 横浜 ― A級目標に分類
当目標地は重要な都市工業地帯であるが、これまで攻撃を受けていない。当地産業活
動は航空機製造、工作機械、船渠、電気機器、石油精製設備を含む。東京の被害が増
大するにつれ、新たな産業も横浜に移転しつつある。最も重要度の高い目標地と比べ
た場合の不利な点は、海域によって隔離されていることと、日本で最も対空戦闘能力
が集中している場所であることだ。検討に上ったその他目標地から比較的離れている
ため、悪天候の場合の代替ターゲットとしての利点がある。
!
184
4) 小倉工廠 ― A級目標に分類
当目標地は日本で最大規模の工廠(こうしょう)の一つで、都市型の施設に囲まれて
いる。本工廠は軽戦闘装備(小型戦車や小銃・機関銃)、対空機関砲、上陸拠点守備用
機材の拠点である。損壊規模について言えば、もし爆弾が適正に投下された場合は、
爆弾投下地点では高圧効果が十分発揮され堅牢な構造物も破壊できると同時に、著し
く強力な爆風により離れた場所でも脆弱な構造物なら損傷することが可能であろう。
5) 新潟 ― B級目標に分類
本目標地は本州北西部の船積み港である。他の港が損傷を受けていることから、当地
の重要性は高まりつつある。また当地は工作機械産業が盛んで、日本政府が産業分散
政策を進める上で中心地になる可能性がある。石油精製施設および石油備蓄施設があ
る。
6) 皇居
皇居に原爆を投下する可能性についても議論された。その結果、このターゲットに対
するわれわれの武器の効果を特定できるよう、情報収集をすべきであるということで
合意がなされた。
従来の定説と異なり、日本にとって、また世界にとって幸運なことに京都が原爆投下
目標地リストから外されたのは、ある日本びいきの米国人学者の尽力や、エドウィ
ン・ライシャワー教授の影響のおかげではなく、ただ単に原爆投下地の最終選定責任
者、ヘンリー・スティムソン陸軍長官のおかげだった。彼がそのような決定をした理
由はきわめて個人的なものだった。スティムソンは1926年に新婚旅行を京都で過ご
し、わずかでも文化的価値を理解していたのかもしれないし、あるいは単純に京都で
過ごした若く男盛りだった頃の自分を思い出して感傷的になったのかもしれない。
トルーマンは自慢げに、次のように日記に書いている。
『私は陸軍長官ヘンリー・スティムソンに、それ(爆弾)を用いるのは女性や子ども
に対してではなく、軍事目標や兵士、水兵をターゲットにするよう伝えてあった。
ジャップがいかに狂暴で、非情で、冷酷で、狂信的だったとしても、人類の幸福を目
指す世界の指導者として、われわれがこの恐ろしい爆弾を古都(京都)や新都(東
京)に落とすことはできないのだ。投下目標地は純粋に軍事的な標的で、ジャップが
!
185
降伏し命を無駄にしないように警告を発する。彼らは降伏などしないだろうと私は確
信しているが、われわれは彼らにチャンスを与えたことにはなる。』
335機のB-29戦闘機が3月9日夜に東京を空襲し、ナパーム弾1700トンを落として民
間人10万人を死に至らしめ、空襲火災が住民100万人の住居を奪って以降、爆撃する
ものなど何も残っておらず、これ以上爆撃しようなどという話自体ばかげているとい
うことを、トルーマン大統領は知らなかったようだ。
日本を従来型の焼夷弾や核爆弾で爆撃したことは、「生命を救うため」の取り組み
だったと世界に納得させようとする執拗な試みはもちろん茶番であり、米国がその20
年後にインドシナをめぐる戦い(第二次インドシナ戦争)で「海兵隊はベトナムの村
を共産主義から救うために破壊しなければならなかった」と主張するのと同じであ
る。
確かなことは、戦争とは死と死にゆくことを意味することだ。人類が石
を使って戦
争を始めて以来、どんな戦争でも最終的には死があらゆる戦士を制圧している。
太平洋80年戦争は、それがキリスト教と仏教の禅思想との間の最初の大規模な戦闘で
あったという意味でユニークであった。そして、死に対して勇敢に誠実に向き合うと
いうことに関して言えば、禅のほうが優れているということが明らかだ。
戦争は国家の行為であり、個人の行為ではない、従って殺人という行為で有罪とされ
ることはない。
太平洋における衝突を物語る中でもかなり痛ましい出来事が東京裁判だ。正式には極
東国際軍事裁判(IMTFE)と呼ばれており、国際法を中世の魔女狩りのようなレベル
へと貶めるものだった(フィリピンの検察官ペドロ・ロペスはマニラのポン引きのよ
うに振る舞い、事実そのように見えた)。この裁判全てが、インド最高裁判事(カル
カッタ高等裁所判事)ラダ・ビノード・パールや米国人の被告側弁護士、ベン・ブ
ルース・ブレイクニーによって激しく非難された。両者とも、戦勝国出身の判事が数
の上で優勢であることから、東京裁判は不当であると見なしていた。
ハーバード大出身のアメリカ人弁護士ブレイクニーは、依頼人の一人を弁護するため
!
186
証言台に立った。彼は国際法の知識に自信を持っており、国際法を非常に深く理解し
ていることは明らかだった。法廷の雰囲気を鋭く貫く声で彼は言った。「本法廷およ
び米国政府の中にいる人物たちは、被告席に並んで座るべきだ」と。依頼人の無実を
証明するために、彼はためらうことなく米国の核兵器使用の話を国際法違反(ハーグ
陸戦条約)として持ち出した。ブレイクニーの論拠を聞いたとき、判事たちの顔は明
らかに困惑しうろたえた。
彼は弁論を続けたが、討議の内容を理解させないように、突然日本人被告への同時通
訳が打ち切られた。
戦争の責任、これは国の行為でありますが、これを誰かに求めるということは今日の
法律制度には盛り込まれておりません。戦争中の殺人はいかなるものであっても、法
によって裁くことはできないのです。この法廷は許しがたい過ちを犯そうとしていま
す。つまり、犯罪とは考慮され得ない行為を裁こうとしているのです。もし戦争で犯
した殺人が罪なら、広島と長崎に原子爆弾を投下し、多数の人々を殺害した責任者た
ちを裁かなくてはならないのではないでしょうか?私は統合参謀本部長の名前も原爆
投下の許可を与えた国家元首の名前も存じ上げています。もし必要なら、これらの名
前を列挙いたしましょうか?
ブレイクニーは法律の忠実かつ合理的解釈をよりどころにし、あえて核爆弾で攻撃す
ることの合法性というテーマを持ち出したのだった。
残念なことに、彼の論拠がいかに感銘を与えるものだったとしても、また彼がいかに
傑出した勇気を見せたとしても、裁判で果たした彼の発言は検閲され、削除されてし
まい、米国人あるいは世界的にもほとんど知られていない。
1948年11月、ブレイクニーはトルーマン大統領に「米国人が将来この判決を誇りに
思えるかどうかは疑わしい」と書き送っている。そして彼は書状を次のような文章で
締めくくっている。
このたびの裁判および判決自体 ―国際極東軍事裁判そのものと同じく、それが成立
した理念の下にあって、国際的なものであるはずながら― 世界中の人々の目には、
米国と同じものだと映っています。必然的に、国際極東軍事裁判の訴訟手続きに関す
!
187
る信任あるいは不信には歴史が付いて回るものでありますが、それを大いに背負うの
はとりもなおさず米国なのです。歴史だけではありません、今現在の世論についても
そうです。今回の判決が有効であるかについて、判決の紛れもない不公平さを是正す
る努力を今開始しなければ、われわれの政治的手腕や正義への愛着、そして結局のと
ころ、われわれの平和への奉仕が、この件によって汚点以外の何物でもなくなってし
まうでしょう。
その翌年の1949年、ブレイクニーは東京大学で法学の教職に就いたが、1963年彼の
人生は乗っていた自家用飛行機が、伊豆半島の山に衝突したことで突然終わりを迎え
た。なんらかの秘密工作がなされたという
もある。
ブレイクニーはユダヤ系の米国人であり日本人ではなかったが、自らの職業と正義へ
の信念に忠実に従って、地球市民として米国の核兵器使用へ反対の声を上げた。それ
も、多くの日本人と同じように、いやそれよりずっと大きな声で反対を表明したの
だった。
!
188
【第18章】忍びがたきを忍び
昭和天皇は太平洋戦争を終わらせることを、原子爆弾が投下される数ヶ月前に既に自
ら決断していたといっても過言ではない。広島と長崎の惨事から確かとなったのは、
日本が絶対的無条件の屈辱と降伏を受け入れる以外、米国とイギリスが妥協する道は
ないであろうこと、また、後に米国の領海となるはずの太平洋において、イギリス以
外の重要な海軍の存在を米国が許容することはないということだった。
その上、日本国民の道徳的精神をくじくため、民間人を標的にした情け容赦ない従来
型の焼夷弾がルメイ将軍の計画通り人口密集地に投下され街を隅々まで焼き尽くし
た。
広島と長崎が核爆弾攻撃の標的とされていたことを知らなかったルメイ将軍はこの2都
市を含め、それまでに爆撃されていない他の都市への焼夷弾攻撃が許可されなかった
ことに対して不満を述べていた。このことは多くの歴史書で仮定されているような
「残忍な沖縄戦後に人々の命を救うため」という伝説とは、またしても相反する事実
である。
以下は米国陸軍の発行物によるものだ。
全日本国民が軍事目標である…日本に民間人は存在しない。
我々は敵がどこに居ようが探し出し、可能な限り短時間で、可能な限り多くの敵を打
ち砕くつもりである。
当然、このような方針は一般の日本人の闘争心を掻き立てる結果となり、野蛮なアメ
リカ人に降伏することなどは論外であると考えさせた。
死に至るまで戦うという以外の指揮権の発動が可能であったのは天皇自身のみであっ
た。
当時のリーダー、政界の長老、君主、独裁者や政治家と比較しても、昭和天皇ほど賢
明で誠実に指揮を執り、無私の心でかかる危機的な日々において国民の運命を考えた
人物はいない。ヒットラー、スターリン、トルーマン、チャーチル、蒋介石、ルーズベ
!
189
ルト、ドゴールあるいはホーチンミンのような者の中で、全くの無傷で完全武装し
た、士気軒昂(硫黄島および沖縄戦線で示されている)な帝国陸軍を有しながら、国
民に対するさらなる被害を食い止めるために降伏を選択する者はいたであろうか?
想像するのも難しいのではないだろうか?
とりわけ、長野の山中に政府施設として巨大な防弾地下壕(象山地下壕)が準備さ
れ、日本の地形が長期ゲリラ戦に適したものであり、米国とソ連がヨーロッパにおけ
る連合国の勝利の利権をめぐり衝突することが明白である場合には、この選択肢を考
慮するのは特に難しいのではなかろうか。
1941年にトップ・シークレットとして山本海軍大将が提唱したプロジェクトにより製
造された潜水母艦、伊號第四百型潜水艦(別名、宣徳型潜水艦)は1945年中ごろに
運用が開始され、パナマ運河や攻撃が困難な他の戦略的目標の空爆を可能にした。
1960年代に弾道ミサイル搭載潜水艦が製造されるまでは世界最大の潜水艦であった
とともに、各潜水艦は時速35kmで7万kmという驚くべき航続距離を有し、地球上の
あらゆる地点に達することが可能であった。この空母は搭載する三機の水上攻撃機
「M6A1晴嵐」を高速で発進させ、攻撃の終了時にはクレーンで回収することが可能
だった。
(65)伊號第四百型潜水艦
!
190
(66)水上攻撃機「晴嵐(せいらん)」M6A1
大本営の厳命により、1945年8月22日に浮上し魚雷と水上攻撃機を破壊。その後、
ミサイル潜水艦の前身である伊號第四百型潜水艦に乗り込んだ米軍は、その大きさに
度肝を抜かれた。佐世保での調査中に、ソビエトがこの巨大な潜水空母へアクセスで
きるよう執拗に求めたが、米国側はソビエトによる検査を妨害するために伊號第四百
型潜水艦を爆破した。
既にその時、米国とソ連間に湧き上がりつつある敵対意識は事実となっていた。
中国の中で最も工業化が進み、豊かな地域である満州を毛沢東の支配下におくという
条件で単独講和を考えた場合、アメリカの侵略に対する日本の抵抗が長期化し、そこ
に毛沢東とスターリンの日本支援が早期に加われば、太平洋80年戦争は1975年のサ
イゴン陥落まで長引くことなく、1955年ごろに鹿児島あるいは横浜で終結していた
かも知れない。
しかしながら昭和天皇は国民の命を救うために、痛みを伴う屈辱的なポツダム宣言を
受諾するという哀れみ深く賢明な選択をした。結果として、彼が救うことができたの
は日本国民の命だけであり、日本軍が撤退した後もかつてないほど血なまぐさい太平
洋の戦いは続き、何百万人もの中国人、韓国人、台湾人、インドネシア人、ベトナム
人、ラオス人およびカンボジア人の命が、アメリカ・キリスト教徒が唱える自由と民
主化の名の下に失われたのである。
!
191
それ以前に日本は何度か和平交渉を試みたが、全て米国に無視された。1944年末に
は既に日本の著名人が在東京の教皇使節に連絡を取って和平交渉の仲立ちをバチカン
に依頼しており、1945年4月にはスウェーデン政府に助力を求めているが、これらの
取り組みは両方とも良い結果には繋がらなかった。
外交努力のうちで最も興味深い出来事は、1945年5月7日にリスボンにおいて、在ポ
ルトガル日本大使館員の井上氏が米国代表に連絡を取り、日本には戦闘行為を停止さ
せる用意があると伝えたことである。井上氏は「ソ連に対する米国と日本の共通の利
害が見いだせない場合は、中国全土そしてほぼ全てのアジアの国々が共産主義化する
であろう」と警告している。井上は「無条件降伏は受理できないが、和平協定の詳細
は重要ではない」と強調した。
ヤルタにおいて、ルーズベルトは周囲で何が起こっているのかも分からない程の重病
になり、4月12日に死亡した。彼の死後、世には全く知られておらず経験もなく、対
内的で、食料品店の店員のような風貌のトルーマンに大統領職は引き継がれ、和平交
渉の実現が可能となった。しかし、人間として薄っぺらいトルーマンにとっては、
「ジャップ」を一層することしか頭になかった。就任第1日目に、ソ連がヤルタ条約を
順守していないということを伝えられたトルーマンは、「ヒットラーやスターリンの
連中がこの原子爆弾を発明しなかったのは、世界にとって確かに良いことであろう」
と書いている。
1945年8月9日のラジオ演説で、トルーマンは広島への爆撃について以下のようにま
やかしを述べている。
世界初の原子爆弾が、軍事基地である広島に投下されたことを世界は認識するであろ
う。この最初の攻撃を行うにあたり、われわれは民間人の殺傷を可能な限り避けよう
と願った。しかしこの攻撃は次に来たるべきことへの警告に過ぎない。もし日本が降
伏しないのであれば、爆弾が軍事施設に投下され、何千もの民間人の命が失われるの
もやむを得ないであろう。私は、日本の民間人に工業都市を直ちに離れ、破壊から逃
れるように強く勧告する。
もし日本の民間人がどこへ逃れるべきかが告げられたなら、トルーマンは良い勧告を
行ったと言えよう。さらに、米国になんとしても日本の民間人を殺傷する意図があっ
たとしたら、一体どこに爆弾を投下するつもりだったのであろうか? !
192
日本が無敗・無傷の軍隊(540万人の陸軍兵士と180万人の海軍兵士)を有しながら
ポツダム宣言を受諾したことが、米国政府、トルーマンおよび米軍を驚愕させたこと
は意味深い。このような展開に不意を打たれた結果として、満州、韓国、台湾のみな
らず、インドシナ、マレーシア、ビルマや中国にまでも政権の空白がもたらされ惨事
へと至った。
米国の指導者や陸・海軍の高官が、ダウンフォール作戦(日本への侵略)による米国
側の犠牲者数を予想して準備したのは、50万個のパープルハート勲章(戦死した兵士
に与えられる勲章)であった。日本が戦いを続けたらと仮定し、それにより生ずる犠
牲者の数や、何が起ったであろうかということについては、何年もの間数々の見解が
示されている。そうした場合、スターリンの核爆弾が誕生した1949年8月29日から
数日以内に、米国は日本と無条件の和平に至る道を取ったであろうと信ずる。
昭和天皇初の公の演説(終戦の詔勅)は1945年8月15日に行われた。
私は深く世界の大勢とわが帝国の現状とを振り返り、非常の措置をもって時局を収拾
したいと願い、ここに忠実かつ善良な汝ら臣民に申し伝える。
私は、日本国政府に対して米、英、中、ソの四国の共同宣言を受諾するよう通告し
た。そもそも帝国臣民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、皇祖皇
宗が伝えてきた理念であり、私が常々願ってきたことである。
先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定を乞い
願うものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望む
ところではない。
ところが交戦は既に四年の歳月を経て、わが陸海将兵の勇敢な戦いも、わが多くの政
府関係者の奮闘努力も、わが一億国民の滅私奉公も、それぞれ最善を尽くしたにもか
かわらず、戦局は必ずしも好転しておらず、世界の大勢もまたわが国に有利に働いて
いない。
それどころか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、しきりに罪なき人々までをも殺傷
し、いたたましい被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。なのにど
うして戦争を継続できようか。ついにはわが民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては
人類の文明をも破壊しかねないであろう。
!
193
このようなことでは、私は一体どうやって多くの臣民を守り、皇祖皇宗の御霊に謝罪
できるであろうか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾するよう命ず
るに至った理由である。
私は、大日本帝国と共に東アジア諸国の解放に休みなく協力してくれた同盟諸国に対
しては、遺憾の意を表せざるを得ない。
帝国臣民であり前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらには
その遺族の気持ちを考えると、わが身を引き裂かれる思いである。
戦傷を負い、災禍を被って家財職業を失った人々の生活については、私が深く心を痛
めているところである。今後日本国の受ける苦難は並大抵のことではなかろうと思
う。
汝ら臣民の誠意を私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわ
ず、堪えがたきを堪え、忍びがたき思いを乗り越えて、未来のために平和な世界を切
り開こうと思うのである。私は、ここに国を維持し得れば、善良な汝ら臣民のいつわ
らざる心を信じて、常に汝ら臣民と共にある。
もし誰かが激高してむやみに事件を起したり、同胞同士で排斥しあい、時代の流れを
悪化させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界からの信頼を失うようなこと
は、私が最も戒めるところである。
ぜひとも国を挙げて一家でも子孫にまで語り伝え、神国日本の不滅を信じて責任は重
くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を重んじ
て心を堅持し、誓って国のあるべき優れた姿を発揮して、世界の流れに遅れを取らぬ
よう決意しなければならない。
日本の皇室制度の維持を、マッカーサーではなく米国の国務省が1944年には決断し
ていた。
によるとそれはヨーロッパ最古の立憲君主国デンマーク王室のアドバイス
によるものであったのではと言われており、戦後の日本についての米国の計画に天皇
は不可欠な存在であるという戦時下の正しい想定であった。そしてその成功は、占領
から数日で証明されることとなった。
昭和天皇の動きは迅速で、全軍の降伏を確かめて兵を解散し、警察に法律と秩序を保
!
194
たせることで米軍の占領を容易にした。米軍は帝国政府をそのまま維持して日本を直
接支配せず、命令を発することもなかったが、提言をし、日本側はそれを素早く受け
入れた。天照大神の子孫とリトルロックから来た外国人将軍の関係は良好であった。
マッカーサーが初めて横浜グランドホテルへ25kmの道のりを車列を従えて帰る際、
米国側は明らかに緊張していた。道の両脇には何千人もの日本の武装警官が、道路に
背を向けて見守っていた。これは日本皇室の慣習的な警備体制であり、米国側の緊張
は数日で消え去った。
数少ない意見の不一致の一つといえば、天皇とマッカーサーが並んでいる屈辱的な写
真の公開を差し止めるよう、日本政府が新聞社に申し渡した時だ。マッカーサーの介
入により写真が公開されたことで政府は退陣し、後を引き継いだ新政府は連合軍最高
司令官との協力を円滑に行った。
言うまでもなく、日本の戦時下に行われていた検閲は占領軍のやり方に置き換えられ
た。米国または他の連合国への批判を禁止し、政治活動は米国政府によって破壊活動
とみなされ、占領軍による強姦や殺人のニュースはもみ消された。歴史学者のピー
ター・シュライバースの推定によれば、沖縄戦において約1万人の日本女性が米軍によ
り強姦されたということであり、占領開始から10日間の強姦の件数は、神奈川県内の
みに限っても1336件にも上ったことから、日本女性に対する強姦は日常茶飯事で
あったと思われる。
検閲という言葉を口にすることさえ禁止されていた状況で、連合国側の検閲は日本の
軍隊がかつて行っていたものよりもさらに激しく厳格になり、検閲の痕跡でさえも隠
さなければならなかった。つまり、問題のありそうな箇所を伏せ字にして提出するの
ではなく、むしろ記事の完全な書き直しをしなければならないということであった。
米国による大日本帝国の占領に続いて起こったものは、大規模で避けがたい日本の資
産の略奪、強奪および窃盗であった。
!
195
(67)大日本帝国
!
196
【第19章】満州戦
ソ連
軍事力
日本
兵士 1,700,000人
兵士 1,200,000人
大砲 28,000門
大砲 5,300門
戦車 5,500輛
戦車 1,100輛
航空機 5,400機
航空機 1,800機
(68) 満州
スターリンはヤルタにおいて、ヨーロッパでドイツを敗北させた後3カ月以内に、太平
洋戦争に参戦するよう連合国から要請され合意していた。そして、ちょうどドイツの
降伏から3ヶ月後の1945年8月9日、ソ連は満州への侵略を開始。それは原子爆弾が
広島へ投下された8月6日と長崎へ投下された8月9日の間のことであり、これがソ連
の攻撃のタイミングを左右したのだった。
!
197
モロトフは1945年8月8日、バイカル時間午後11時に日本に宣戦布告し、真夜中の12
時1分過ぎに圧倒的な火力をもって満州への侵略を開始した。
兵器も兵員の数でも劣勢ではあったが、百戦錬磨の関東軍は激しく抵抗した。しかし
その抵抗はソ連の装甲師団の機敏な動きを遅らせるに留まった。両軍は8月15日の天
皇の玉音放送を無視し、ソ連軍は小競り合いを回避しながら戦車とパラシュート部隊
の挟み撃ち攻撃で満州に深く攻め込み、8月20日までに奉天、長春およびチチハルに
到達。満州皇帝、溥儀を捕らえ、8月18日までには朝鮮北部とサハリンおよび千島列
島に上陸して支配権を確立し、関東軍に停戦命令が届くまでにはほとんどの目標に到
達したが、朝鮮半島を全て掌握するという野望は、9月8日に仁川に上陸した米軍に
よって阻まれた。
西ヨーロッパと同じ面積(155万平方km)を持つ太平洋アジアの至宝であり、中国で
最も豊かで発展を遂げていた満州の全権を握ったのはスターリンであった。満州国の
1934年の人口は3000万人強とされているが、1940年には4300万人、そして1945
年には日本人と朝鮮人150万人、その他の民族50万人を含めて、その数は5000万人
へと膨れ上がった(犬塚惟重を含む数名の日本人将校によって、リトアニア領事、杉
原千畝が発行した日本のビザを持つユダヤ人避難民を満州のいくつかの市へ入植させ
る計画「河豚計画」さえ立てられたのである)。
.
毛沢東の農民兵が地方を掌握している間にロシア兵は満州の工場だけでなく都市まで
も解体して持ち去り、とてつもなく大規模な略奪を四六時中行っていた一方で、中国
南部にいた蒋介石は自分の部隊を満州の都市に輸送するよう必至で米国に懇願してい
た。1930年以降の日本の満州への投資規模を知らなければ、国家によって仕組まれ
たこの恐ろしく巨大な略奪がどんなものであったかは理解できないだろう。
日本政府は6500kmの道路を建設し、1931年には満州航空株式会社を設立。新京を
ハブ空港として、大連、奉天、ハルビンに加え、その他複数の都市を結んだ。日本は
主要な鉄道を1万2000kmまで延ばし、南満州鉄道株式会社は炭鉱(撫順)、鉄鋼
(鞍山)、港(大連、旅順)、ホテル、温泉場、商船および漁船、発電所、学校、研
究所、鉱山地質学、公的医療サービスに投資を行った。満州における鉄鋼の生産量は
!
198
1930年代の中ごろまでに日本を超え、1万2000の小学校、200の中学校、140の師
範学校、50の技術学校、1600の私立学校などに通う、合計60万人の生徒とそれらの
学校で教
をとる2万5000人の教師を有する効率的な教育制度を敷いたおかげで、満
州は日本と朝鮮の次に教育が高い国となった。
(69)ソ連による満州侵略の開始
日本による1945年までの投資の推定総額は110億円(55億米ドル)という膨大な額
であり、ソ連がシベリアに送った満州国の資産の価値は、奉天の複数の銀行にあった
300万米ドルの金塊を含め、20億米ドルであると推定されている。
戦略事務局の主要チーム(例えば奉天のハル・リース伍長)の米国人オブザーバーが
報告しているように、個々の赤軍兵士と中国人暴徒による強姦、略奪および窃盗は無
論日常茶飯事であったが、ソ連当局が行った工場や機材の解体と強奪による組織的な
!
199
満州の産業空洞化に比べれば、その深刻さはかすんでしまうほどだった。ソ連軍は昼
夜休みなく工場、発電所を全て解体し、果てしなく続く貨車で北へシベリアへと運ん
だ。その6か月後の奉天で稼働できる十分な設備が残っていたのは、972あった工場
の内20のみであり、水道設備、下水処理場および炭鉱は機材と電力の不足によって稼
働不可能となっていた。
米国海軍のロバート・セックの記憶によれば、彼らは盗れるものは全て持ち去ったと
いうことである。
彼らが街の中心に残したたった一つの物は、上部に戦車が置かれた勝利の記念物のみ
であった。
ニューヨーク・タイムズの特派員であったハーレット・アベンドは、大連の巨大な機
関車や鉄道車両製造工場でさえアムール川の北に運ばれたと報告し、経済学者たちは
以下のように結論付けた。
対日戦勝記念日以来、満州が受けた被害は中国の産業の発展を一世代遅らせた。
ソ連はそれらの設備に加えて64万人の日本人戦争捕虜をシベリア各地の強制収容所に
送り、その内6万人が最初の冬に死亡した。生き残った捕虜は1948年から49年の間
に徐々に釈放され、最後の1,025人が釈放されたのは1956年の12月であった。
1945年8月の時点で日本軍はほとんど損傷を受けておらず、満州に120万人、朝鮮に
75万人、さらに中国本土の150万人を含め、650万人の日本兵と民間人が西太平洋お
よびアジアにいたのである。米国国防総省により急遽準備された8月10日の日本軍の
武装解除と日本人の本国送還に関する方針の草案には、中国や台湾、北インドシナに
いる日本軍は蒋介石に、そして満州および朝鮮北部にいる者はソ連の司令官に降伏す
るようにと書かれていた。
不運にも中国国民党は満州から1500km以上離れており、北方の北京、青島、漢口、
上海および南京などの大都市はいずれも共産党軍に包囲され、中国を再び占領するこ
とを狙っていた蒋介石は不利な状況に置かれていた。そこで、蒋介石は国民党の軍隊
が奪還できるまで、法と秩序を守るため頻繁に日本軍に頼っていた。
!
200
蒋介石は勇敢で愛国的かつ献身的な国民の英雄として、米国の報道では称えられてい
るが、彼を知る人々からすると信頼できる人物ではなく、腐敗した取り巻きに囲まれ
ており、間違いを犯した場合は常にその責任を部下に押し付けて、自分自身は決して
間違えることはないと確信していたという。
1945年の中国には実際、五つの政府が機能しており、それぞれ独自の貨幣や法律制
度、税、軍隊を有していた。それらは蒋介石、毛沢東、満州、そして北京と南京の政
府であり、中でも蒋介石の国民党が最も疲弊してまとまりが無く、腐敗し、無能で暴
虐的な組織であった。
蒋介石への米国の支援は大きな間違いであったことが分かり、規律が乱れた国民党の
軍隊は、あらゆる場所で素朴な中国の農民から嫌われていた。むしろ日本の占領を好
んだ哀れな中国人が、ほんの少しでも不服従な態度を見せれば、日本の協力者である
との疑いをかけられ罰として、国民党の凶悪な党員や恐ろしい官僚によって処刑され
たのである。それにもかかわらず、米政府はウェデマイヤー将軍を送り、蒋介石軍を
組織、訓練し、軍備を整えて、日本軍の武装解除を行い、中国東部の奪還を着実に進
め、かつて日本が中国と台湾で領有していた地域の再占領に助力した。彼はまた、中
国の同胞同志の争いに米国が巻き込まれないようにするという役目も担っていた。
北方にいた毛沢東は、米国が中ソ友好同盟条約(1945年8月14日)を工作し、蒋介
石を中国の大統領であると認識していたことさえ知らなかったが、日本軍の降伏は即
座に受け入れ始めた。毛沢東はラジオ演説し、ファシストの首領である蒋介石は中国
人の代表とはなり得ないと宣言した。毛沢東の八路軍はその場にとどまるようにとい
う蒋介石の命令を無視して前進し、国民党の軍隊を待っていた日本軍の武装解除を強
行し、同時に共産党軍に降伏した日本人から武器や重火器を受け取る傍ら、日本将校
や特技兵の一部を八路軍に引き入れた。
ウェデマイヤーは米軍の7師団をできるだけ早く中国へ送るよう要請したが、マッ
カーサーの部隊が日本と朝鮮に上陸するまでは不可能であると告げられ、その間、同
盟国である米国と蒋介石は、赤潮のごとき共産党軍を食い止めるために、日本軍とそ
の従属軍に頼らざるを得なかった。中国にいた日本軍の将軍のほとんどは国民党と共
産党の両方に反感を持っており、蒋介石や共産ゲリラに敗北したとは全く感じてはい
なかった。降伏の準備のため日本の将校に会った米国人は、彼らの立ち居振る舞いは
!
201
「敗北した日本軍」のものではなく、降伏を形式的に受け入れていただけであったと
述べている。北京や上海では数週間にわたって日本軍による街のパトロールが続けら
れ、将校たちはまだ専用の車を運転しており、9月に入っても上海は日本軍のコント
ロール下に置かれたのである。
1945年以後、満州は毛沢東の人民解放軍の本拠地となり、多くの満州国軍隊や日本
の関東軍兵士および民間人専門家(医師など)が共産党軍と共に反国民党工作を行
なったのである。 満州国を離れた150万の日本人が米国海軍の船で最終的に自国に送還されたのは、
1946年から1948年にかけてのことであった。
!
202
【第20章】台湾戦
台湾人の最期
(70)台湾
中国問題に関する米国国務省の殆どの専門家の取組み方は、救い難いほどキリスト教
宣教師のようだった。彼らは日本統治下の台湾が日本化されたのではなく近代化され
たこと、それによって台湾の生活水準やインフラは東アジアの他の地域をしのぎ、中
国よりもはるかに進歩していた事を無視していた。中国通に転身した彼ら宣教師の心
の内にあったのは、中国人は何も悪いことをせず、日本人は何も良いことをしないと
いうことであった。また、1895年からの日本の統治の結果である台湾特有の近代化
を維持する必要性は考慮されなかった。
!
203
1943年には既に米国の大陸政策が採用され、決定的なカイロ宣言により台湾が中国
の一部であると正式に確認された。説明するまでもないが、かつて台湾が中国の一部
であったことはなく、本土の中国人は台湾人が中国人になるに値しないと考え、島の
住民に対して辛辣な差別を行ってきた。日本による統治の終わりと国民党政府による
支配の始まりは、台湾先住民に死と破壊をもたらし、多様性
れる島の豊かな文化と
13種類の話し言葉の最期を告げるものだった。
(71)台湾の言語分布図
1943年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石夫妻はカイロで会談した。その際
ルーズベルトが恐れていたことは、1937年以来日本との戦いに全敗していた蒋介石の
国民党が、日本との単独講和を考えているならば、米国だけが戦いに取り残されるの
ではないかということだった。チャーチルが驚いたことに、ルーズベルトは1895年の
日清講和条約(別名、下関条約)によって台湾が日本の一部であると認められたこと
!
204
を無視し、台湾を蒋介石に「返還」すると約束し、更にルーズベルトは中国を強国、
そして蒋介石を偉大なる指導者と称えた。カイロ会談への米国の代表者の中には、前
YMCA職員で当時は国務省の中国関連上級専門家であったW. R. ペックも含まれてい
た。尚、中国生まれの彼は1942年1月にバンコクで抑留されている。ルーズベルトと
蒋介石の取引は言い方を変えれば、「中国人の犠牲者が多ければ多い程、米国人の死
体が減って、説明を求める親たちや米国市民が少なくなる」ということであった。
米国の外交官ジョージ・カーは自身の著作『裏切られた台湾』の中で次のように書い
ている。
カイロ宣言は、その中に盛り込まれている美辞麗句と同じ程の歴史に関する記述の不
正確さに注目すべきである。前者は良い宣伝となったが、後者は危険な罠を仕掛ける
ものだ。米国の利益により被った被害の一部は決して弁済されないであろう。
朝鮮は「いずれ時がくれば」ということで、間違いなく独立を約束されたのである
が、千島列島に関する文章には、「武力で奪い取られた」と記述されている。
『わが国の戦後の台湾問題』の中心に置かれた文章は以下の通りである。
満州、台湾および澎湖諸島のように日本が中国人から盗みとった全ての地域は中華民
国に返還されるものとする。
ここでご都合主義が三人の首脳に不愉快な事実を無視させ、条約は再び「単なる紙切
れ」となった。
日本は1875年にロシアと慎重に平和的に交渉された条約により、千島列島の正当な
権利を取得した(その見返りとしてロシアはサハリン全島の正当な権利を受理した
が、結局その半分を1905年の日露戦争の終結時に失った)。朝鮮王朝は1910年に造
作なく併合されたが、その時大英帝国、中国および米国は日本の統治権を認めて法的
な承認を与えた。
満州が武力侵略により占拠されたのは疑いのないことであるが、日本が支配していた
遼東と山東の両租界は、1905年と1914年にロシアとドイツ各々から取り上げたもの
!
205
であり、日本の立場は認められ、数年間も英国と米国はこのことを問題にしなかっ
た。それを「盗賊!」と叫ぶのはいささか遅かった。日清戦争に敗北した中国は条約
の締結により、1895年に澎湖諸島と台湾の権限を日本に委譲したのだ。
1945年9月1日、連合国のいわゆる最初の「解放者」が基隆港に到着した。3名の若
い米国人と2名の中国人大佐が、料理人、召使、ボディガードの一行と共に上陸し、
台湾で最高の妓楼であったプラムマンションを取りあげ住居とした。日本は経費を賄
うための金銭を要求され、300万円(20万米ドル)の銀行口座を用意したが、翌日に
はほとんどチャン大佐により引き出された。また、同行した若い米国人達は軍事委員
会の調査統計局(BIS)の人間であることがすぐさま明らかになった。その組織は蒋
介石を批判する者や敵側の人間に銃や銃剣を突き付けて、ありきたりの尋問を行い、
その後に抹殺するという恐怖手段で知られていた。
台湾を守るため、17万人の完全武装の日本人部隊と33万人の日本の民間の支援者
は、死を覚悟して戦う決意をしていた。本土の国民党の政治体制に疑念を抱いていた
台湾人のほとんどは、米国が日本の政権に取って代わることを期待していた。6週間
が過ぎても何も起らず、日本と台湾のリーダー達の指揮の下、法と秩序を守りつつ瓦
礫を片付けること以外何をなせば良いのかを知る者は誰一人いなかった。
重慶ではウェデマイヤーと蒋介石が満州に気を取られるあまり、台湾は重要な問題で
はないと考えていた。10月5日、ケー・キンエン中将が護衛団と100人の米国諮問団
を伴い空路台湾に到着した。
ケー中将は民衆への演説において、日本人の当局者に変わらず任務を遂行するよう命
じ、さらに次のように述べて、台湾が中国の支配下にあるという基調を打ち出した。
台湾は劣化した地域であり、台湾人は劣化した民族であるから、真の中国文明とは認
められない。
台湾人は戦争の終結を喜ぶあまり、この演説の真の意味を理解しておらず、米国に
よって明るい未来がもたらされるであろうと楽観的に考えていた。
米軍の輸送船に乗り最初の1万2000人のみすぼらしい国民党兵士が到着したが、日本
!
206
軍を恐れるあまり、船を降りることを拒否した。怯えて汚れた、だらしない中国の軍
隊を
笑する台湾人が見物する中、彼らは強制的に上陸させられた。言うまでもなく
兵士自身は勝利を感じていたわけではなく、米兵の進軍に従い、台湾に足を踏み入れ
ただけのことであった。
台湾人と新しい中国の支配者との間に最初の衝突が起こったのは、勝手気ままに振舞
う若い中国人空軍将校らが台北空港周辺の私有地を占拠し、住民全てに48時間以内に
出ていくことを命令した時であった。教養がなく、口べたで、抑圧され、ないがしろ
にされてきた中国本土出身者とは違う台湾人は、そのような不正義に伏して耐えるこ
とをせず、即座にケー中将に抗議したので米軍は流血の事態を避けるために介入せざ
るを得なかった。
台湾総督であった安藤利吉大将は1945年10月25日、市民公会堂での式典において、
台湾を中国の陳儀(ちんぎ)将軍に正式に引き渡した。陳儀将軍にとって、この建物
はよく知った場所であった。それは、1935年、台湾人が日本の臣民である幸運を
祝って開催された日本による台湾統治40周年記念の祝典に助力していたからだ。陳儀
はこの二度目の機会において、日本を打ち負かし、台湾を奪還した中国の勝利を称え
たが、ここに至までの米国の役割について全く触れることはなかった。
安藤大将はその後、中国側により戦犯として告発され(起訴理由の詳細はない)、上
海刑務所で自決した。台湾にいた部下の将校のほとんどは、1945年8月15日の玉音
放送を受け入れたが、数名が自決した。
それから台湾では大規模な略奪が3段階で始まった。
9月に入ると、国民党の制服を着た幾千のハイエナのような兵士が、不運にも国民党
の兵舎の近くにあった市や村のありとあらゆる動かせる物全てを略奪、強奪した。
さらに、何百人ものコソ泥や犯罪者、中国本土の貧民達が、主に上海からジャンク船
やボート、あるいは買収して乗せてもらった米国の軍艦や空軍機で毎日押し寄せてき
た。台湾での大
けの話は中国沿岸全てに広まっていた。台湾に送られた3万人の汚
らしく読み書きのできない国民党軍に報酬は支払われず、生きるには現地で物を調達
しなければならなかったが、本土に比べて略奪の収穫は上々であった。それから間も
!
207
なくして台湾全土で人々は次のような言葉を口にした。
日本人は少なくとも個人の所有物に敬意を払い保護してくれた。
これで、次の一か月の間に台湾では、国民党がなぜ毛沢東の中国共産党人民解放軍と
の戦いに敗北したのかが明らかになった。
次に起った軍の将校たちと新政府関係者による大規模な組織的略奪のせいで、この低
次元の略奪はたちまちかすんでしまった。彼らは軍事用および民間用の備蓄品を運び
出したのだ。
将校たちによって組織された国民党軍の部隊は食料品や衣類から解体した鉄道の線路
までをも略奪し、1945年の終わりまでには莫大な規模に達していた。彼らは没収し
た日本の軍用トラックを略奪に使っていたが、只一つそれに制限をかけたのは運転で
きる徴収兵が不足していたことだった。兵士のほとんどは自転車の乗り方も知らず、
盗んだ自転車を背負って運んでいたのだから、ましてや車の運転など知るわけもな
かった。台北のゴミ収集トラックでさえ略奪品の港への運搬に使われ、うず高く積み
上げられたゴミの山が路上に残された。
中国本土からやってきた武装ギャングは、30万人の日本人の住居へ白昼堂々と押し
入って略奪し、その上、法的に曖昧な状態に置かれた多くの日本人は12月までに住居
から追い出されてしまった。しかし、動かすことができる全ての物が奪いさられる
中、日本への帰還はマッカーサーにより拒否されたのである。所有物の「解放」は日
本人の家のみに留まらず、時を置かずして台湾人の家にも広がり、略奪の標的をめ
ぐってギャング同士のあからさまな争いが起っていたが、家の所有者は保護を求める
すべも無く、略奪を目の当たりにしながらただ立ち尽くすのみだった。
軍服姿の一団があちこちうろつきながら銅線を切り取り、導管を掘り出し、配管を解
体し、扉や窓、金具、鉄道の信号機やスイッチを取り外してしまった結果、国民党軍
により「解放」された建物、病院、学校や寺院に残されたものは骨組みだけであっ
た。
しかし、これは上級将校たちと陳儀の政府補佐官らが行った略奪に比べれば、こそ泥
!
208
程度のものだった。陳儀たちによって船積みされた主な略奪品は、日本軍が広大なア
ジア太平洋戦線のために蓄積した膨大な食料品、医薬品、衣類、予備機材、その他の
補給品であった。台湾は総額20億米ドルの価値があったとされる「解放品」の主な配
送センターとなっていた。
米国の監視をそらすため、表向きには略奪品の積荷は中国本土で共産主義者と戦って
いる「英雄的」な軍隊のためということになっていた。しかし実際には、米国人が見
て見ぬ振りをする間に、積荷のほとんどが途中で消え失せてしまった。その後まもな
くして民間人の備蓄米も「解放」され、島は食糧危機に見舞われたのである。島での
強奪を止めるよう求める民衆の暴動が起きると、陳は台湾人の愛国心の欠如を非難
し、食糧不足や、迫り来る飢饉の責任は地方の台湾人にあるとして、米を集める計画
を立ち上げた。こうしたことは、日本統治下の島の歴史では全く起こっていない。
無法地帯と化した悲運に加え、上海から移動を始めた蒋介石の藍衣隊(青シャツ隊)
は個人が所有する倉庫を急襲し、略奪した備蓄品のうち、約60万トンの粗糖を蒋介石
夫人の弟である宋子文が管理する香港の私設倉庫に送った。日本人により開発され、
1937年には140万トンに達していた台湾の砂糖の生産量は、国民党の経営の下、
1947年には3万トンにまで落ち込んだ。
引き渡された備蓄品に関する日本の記録によれば、全ての物が同じような方法で消え
失せてしまい、その中で上海に送られた石炭、塩、酒、麻薬、樟脳(40万トン)およ
びマッチ(350万箱)は巨額の利益をもたらした。医療用薬物の備蓄品である4000
トンのコカの葉や600万トンの天然モルヒネも「解放」されたことが日本の記録に残
されているが、陳儀が発表したのは4000kgの天然アヘンを中国本土の病院に送った
ことのみであった。こうして来るべき将来において台湾は、違法麻薬の精製と輸送の
主要センターとなっていったのである。
陳儀政権と蒋介石の取り巻きが行った、このように大規模で腐敗した違法な犯罪行為
を、米国政府と国民に対し偽装してごまかさなければならなかったが、彼らは新しい
台湾政府の組織図を公表することで上手くやってのけたのである。ほとんどがキリス
ト教の宣教師学校あるいは米国で教育を受けた者のみで構成された政府委員は全員流
暢な英語を話した。さらに米国からの訪問者の短い滞在期間中に、幸福な台湾を上手
に見せつけて台湾が親米中国の一部であると確約した。その代償として政府委員は、
!
209
多くの親戚、友人や愛人に専門家、技術アドバイザーなどの肩書きを与えて、政府が
給料を払って雇用することを許可されたのである。
こうして、政府に雇用される人員数は日本統治下の1万8000人から1946年には陳儀
によって4万3000人に膨れ上がったが、その生産性と効率性は日本統治時代のほんの
わずかに過ぎなかった。ほとんどの台湾人はメッセンジャーやドアマン、用務員以上
の地位で雇用されることはなく、重要で有利な地位は全て本土からの人間に与えられ
た。今や台湾人は、「解放者」である国民党によって植民地が本当に意味することを
経験し、耐えなければならなくなった。
そもそも、1945年10月に企業や政府から解雇されたはずの台湾在住の日本人が、す
ぐに臨時アドバイザーとして雇用され、その際に新しい台湾政府での就労及び島での
滞在許可を求める陳情書に署名することを強要された。実際には5万人の日本人が台
湾を故郷と思い永住していたが、国民党の統治下となった数週間後にはそのほとんど
が全てを捨て、戦争で荒廃し空襲で焼け出された日本にあえて帰ることを選んだ結
果、1946年まで台湾に残った日本人は2000人のみであった。
1945年の12月に国民党は、「日本に洗脳され退化した台湾人」を日本人技術者や技
能者と入れ替えるための「訓練部隊プログラム」を発表した。孫文の生涯や業績、中
国文学、地理、歴史、経済、多少の会計と気象学などのさまざまな事柄を学ぶ3ヶ月
の訓練コースでとりわけ重要とされたのは蒋介石大元帥の言葉と行いであった。台湾
人が訓練を受けている間に、日本人が残した職務のほどんどが不適格な中国本土から
の移民によって埋まってしまい、孫文の三原則、いわゆる「三民主義」は茶番となっ
て、訓練コースを修了した第一級の台湾人は誰一人雇用されなかった。 台湾の若者を再教育するという目的のために「政府は党へ奉仕し、党の資金を調達す
るためにある」という原則に基づいて、ヒットラー・ユルゲントとコムソモール(ソ
連の共産主義青年同盟)を混ぜ合わせたような国民党青年部隊を結成した。ヒット
ラーのいないナチ党があり得ないように、蒋介石のいない国民党もあり得ない、とい
うことだ。デンマークからタイまで全ての君主国では、君主や皇帝の写真を各学校に
飾る伝統があるが、その伝統を国民党が取り入れた結果、国の指導者である蒋介石の
写真が至るところに飾られ、国旗、党および指導者に対して各人が三回礼をして党歌
を斉唱するという式典を週一回行うように命令された。
!
210
党の幹部が台湾全土でさまざまな強引なやり方を始めた頃、国民党と上海の犯罪組織
との古くからの密接な協力関係が再び活性化した。彼らは不動産を没収し、会社を
乗っ取り、批評家を一掃し、みかじめ料を払わない台湾の富裕層を矯正施設へ送ると
脅迫し、声を上げようとする台湾の新聞を日本に雇われた金のために何でもする裏切
り者として糾弾した。備蓄品の輸送を組織し、略奪品を配分し、没収した資産を管理
することは、こうした経験を持つ上海ギャングや国民党の幹部たちにとっても大仕事
であった。
様々な富が様々な所有者の手から手へと渡っていった。まず、公有地、建物、鉄道、
輸送会社、ラジオ局、港湾、各種国営工場、発電所および台湾銀行を含む日本国政府
と台湾総督の動産や不動産、それに加え、学校、病院、林業、農場、研究所、郵便貯
金や保険の代理店といった自営の施設や不動産もあった。
譲渡された私有資産は、日本企業の子会社や台湾との合弁会社に加え、材木、化学、
鉱石の生産会社と30万人の日本人が家業として築いてきた商店、医院、レストランや
小規模な工場を含むありとあらゆる種類の零細企業であった。日本へ帰還する日本人
が持ち帰ることを許可されたのは、手で運べる物のみであった。日本人と合弁事業を
行っていた台湾人は「敵と協力した罪人」とされ、全てを失った。
可能な限り少な目に見積もったとしても、譲渡された非軍事資産の価値は1940年当
時の金額合計で20億米ドルであった。ある、へそ曲がりな茶番話しによると、台湾が
被った全ての略奪、破壊および窃盗は「盗まれた財産を本来の所有者に返す行為で
あった」ということだ。これは中国の専門家と化したワシントンのキリスト教宣教師
が言ったことである。
二・二八事件
1947年2月27日、タバコ専売局の中国人取締官が闇市で密売するために、40歳の未
亡人、林江邁から禁制品の煙草を没収した。彼らは煙草と共に彼女が生涯をかけて築
いた財産を奪った上、ピストルで頭蓋骨を割った。怒りに燃えた台湾の群衆の目の前
での出来事であった。その場から逃げ去った取締官は激怒した群衆に向けて発砲し、
付近にいた一人を射殺した事で対立はさらに激しくなった。既に国民党の支配ににう
!
211
んざりしていた台湾人は、警官と憲兵に抗議したが無駄であった。翌朝、前日の銃撃
の責任者である取締官の逮捕を要求するデモ参加者に対して、憲兵隊が機関銃を掃射
した。こうして暴力が広がってゆき、台湾人は3月4日に街と軍の基地を奪取し、戒厳
令および夜間外出禁止令をしいて、ラジオで暴力行為に対する警告を行った。
3月7日に新しく到着した国民党の軍隊は3日間、無差別殺人と略奪を続けた。ニュー
ヨーク・タイムズの報道によれば、誰もが路上にいるだけで撃たれ、家屋には押し入
られ、住人は殺害されて女性は強姦され、路上に散乱する死体の中には首をはねられ
たものもあったという。
しかしながら2月28日の事件後の数週間、台湾人によって台湾の大部分が統制され、
高校生と志願者を雇用して間に合わせで作った警察隊によって数日のうちに治安と平
穏が回復された。指導者は、自治権、自由選挙、中華民国陸軍の降伏と政府の腐敗を
終わらせることを含めた32の改革要求を掲げて委員会を立ち上げた。いくつかの台湾
人のグループは独立して真に国として認められることを要求したが、最終的にはより
大きな自治権を得るために妥協することとなった。
(72)中華民国陸軍により処刑された市民
中華民国当局は交渉をする振りをして時間を稼いでいた。陳儀が中国本土で大規模な
軍隊を編成するためだ。3月8日に台湾に到着した陳儀の大部隊は、無差別に残忍な弾
圧を開始した。
!
212
陳の軍隊は台湾中で4000人を超える市民を処刑し、3月末までには捕えた台湾の指導
者や学生、知識人を投獄または殺害したと報じられた。1947年4月7日に、蒋介石寄
りの忠実なタイム誌に以下の様に彼は発言している。
ジャップどもはこの島を支配するのに51年かかった。この地の人々を再教育するため
には5年間かかると私は思う。そうすれば、彼らは中国の統治下で以前より幸せにな
るであろう。
陳儀の再教育の過程で多くの台湾人が手当たり次第殺害され、文明的な日本の法律と
秩序を懐かしむ人々は言うまでもなく、台湾のエリートや指導者、自治グループ、知
識人、中学生や高校生が組織的に、徹底的に、完全に粛清された。
この粛清の後に起こったのは抑圧と恐怖であり、白色テロ(反革命テロ)は1987年の
戒厳令の終息まで続いた。国民党一党支配の期間に投獄、拷問、殺害された中国人、
台湾人、客家人や先住民の人数がどれほどのものであったかは、台湾秘密警察のファ
イルが公開されるまでは分からないであろう。もちろん、そのファイルが既にこなご
なにされていないとすればであるが。
現在被害者の心に残されているのは、40年に及ぶ中国国民党支配の恐怖と、その支持
をした米国に対する根深い憤りのみである。
!
213
【第21章】中国戦
1945-1949
周知のとおり、満州を除いて、米国は日本軍に中国の至る所にいる共産党にではな
く、国民党に降伏するよう命令した。満州では日本軍はソ連に降伏することになって
いたが、蒋介石は日本軍に国民党の軍隊が到着するまで武装を解かず、そのまま留ま
るように要請し、その上で、ソ連と取引して、自身の最良の軍隊の一部を中国北部の
大都市へ米軍が空輸するまでソ連軍の撤退を遅らせようとした。おかげでソ連側には
推定価値25億米ドルの大規模な満州の産業基盤を組織的に解体し、シベリアに輸送す
るための時間が与えられるのでこの取引を喜んで受け入れた。
10月に重慶で始まった蒋介石と毛沢東の和平交渉は、いかなる和平をもたらすことな
く戦いは続けられ、1946年6月には全面戦争へと発展した。三年もの長きに及んだ中
国共産党と国民党による中国本土をめぐる戦いを、共産主義の歴史学者や地方の農民
のほとんどは「解放の戦い」と呼んだ。
米国は国民党と蒋介石を支持し、何億米ドルもの現金、軍用品、寛大な融資に加え、
アドバイザーや航空機による輸送までも提供した。トルーマンは他の皆と同様、毛沢
東と彼の農民兵に対抗するために日本軍を使おうとしていた。その理由を以下のよう
に書いている。
もし、われわれが日本軍に「直ちに武器を置き、沿岸地域まで行進せよ」と命令すれ
ば、国全体が共産党の手に落ちることになったであろう。それ故われわれは、海港を
守るために中国国民党の軍隊を空輸し、海兵隊を送ることが可能となるまで、敵を守
備隊として利用するという非常手段を取らなければならなかった。
5万人を上回る海兵隊員が中国の戦略拠点に送られた。
米国の中国における政策の混乱を収拾し、中国共産党と国民党を停戦に導く試みは、
オクラホマ生まれの個性
れる大酒飲みの米国人で、無一文から将軍にまでのし上
がって新任の中国大使となったパトリック・ハーリー少将に委ねられた。
!
214
ルーズベルトにより選任された彼が中国に統一をもたらす役目を荷ない、週に一度飛
来する米国機で初めて延安の共産党本部にあるディキシー使節団を訪れたのは1944年
11月7日であった。毛沢東と周恩来、朱徳が車から降りて出迎えると、ハーリーは
「ヤフーー!」と大のお気に入りであったアメリカン・インディアンの雄叫びを上げ
た。
中国へ向かう途中、ハーリーはモスクワを訪れ、そこでソビエト連邦外務大臣のモロ
トフに会うが、モロトフは「毛沢東とその仲間は真の共産主義者ではなく、ソ連は彼
らとは関係がない」と断言した。ハーリーはその言葉を信じ、清廉さと歯に衣着せぬ
物言いで蒋介石から疎まれていたスティルウェル将軍を召喚することで、中国に民主
化をもたらすよう蒋介石を説得できると勘違いした。
米国はヨーロッパでの勝利に備えて忙しく、中国戦略は主にハーリーに委ねられてい
たのだが、彼の知識の浅さは半端ではなく、このことは言うにまでもなく不幸なこと
であった。ハーリーは自身の奇跡を起こす能力を信じて、蒋介石と毛沢東という二人
のチンク(中国人の
称)を酒の席で簡単に和解させられると考えていた。彼は中国
についての知識を全く持ち合わせておらず、毛沢東の名を正しく発音せず「ムースド
ング」、そして蒋介石を「ミスターシェク」と呼んだ。
ディキシー使節団長であったバレット大佐は流暢な中国語を話したが、通訳に苦戦し
ていた。スティルウェル将軍の辛辣な発言に加え、ハーリーの会話が論理的な思考パ
ターンに沿ったものではなかったからである。また中国女性に対して「私の背の高い
金髪の女神に」と言って乾杯するという見苦しいことをし、更にその夜、ロシア革命
を祝う盛大な宴会に出席したハーリーは「ヤフー!」と大声で叫び、式典を混乱させ
た。
言うまでもなく、蒋介石と妻のドラゴン・レディはハーリーを自由に操り、罠にか
かったハーリーは更に深みへとはまっていった。
!
215
(73)パトリック・ハーリー(中央で蝶ネクタイを締めている)と延安の共産党の指導者
延安の35万平方kmの共産党の本拠地は、国民党から完全に独立していた。50万人編
成の二つの軍隊は、春までには2倍になり、共産党の民兵の支援も受けて200万人強
にまで膨らんだ。彼らにとっては効率性を除けば、どこから見てもファシスト同然の
国民党は、言ってみれば日本以上の敵であった。
米国からの来賓に良い印象を与えるため毛沢東はキャメルの煙草をくゆらせながら、
もし妥当な合意に達することができるのであれば、蒋介石が大統領になることを承諾
しても良いと言明した。
宴会やダンスが夜を徹して続き、米国人が空輸した大量のジョニー・ウォーカーが場
を盛り上げた。
ソ連を「生理的に嫌っていた」毛沢東は政治将校のジョン・P・デイビスとの話し合
いで、もし米軍が中国東部に上陸し、共産党に援助物資を供給してくれるなら、全面
的に協力すると約束した。デイビスは毛沢東の進歩的なやり方と蒋介石の封建的な中
国は決して共存することはないであろうと予想していた。ワシントンでは政治家に
なった宣教師のほとんどがこの事実を無視するか、あるいは見落として蒋介石を擁護
した。
!
216
蒋介石のように明らかに腐敗した抑圧的な独裁者に米国の政界が傾倒したという事実
をじっくり考えてみるのも面白い。だが、これを理解するためには、1897年にさか
のぼり、当時米国で始まったばかりのグローバル化を検証しなければならない。
当時の米国通商協会は以下の見解を持っていた。
南米の西海岸、太平洋とアジアの島々、そしてアラスカや米国の太平洋沿岸に位置す
る州との交易の成長、そして4億の人口を有する中国の発展に伴って、米国政府のニ
カラグア運河建設を要求する声が上がっているようだ。
J. G. ウォーカー大将もまた、フランスとパナマの合弁事業が失敗に終り、その代償が
1億900万米ドルであったことからニカラグアを推奨する一方、アジアに於ける海軍
基地と有利な商取引のチャンスを確保するために太平洋での米海軍の拡張と強化を行
うことを強調し、必要であれば戦争も辞さないと提唱した。
19世紀の終わりまで、米国の政策の焦点は富と物質主義におかれ、政治プロセスは勇
ましいダーウィン主義へと変遷していった。そして莫大な富に導かれた米国はアメリ
カ原住民、スペイン人、フィリピン人、中国人、パナマ人、ハイチ人およびメキシコ
人に対する軍事行動を自然な自由貿易競争へと引き上げた。
この過程における一つの大きな要因が、キリスト教という宗教と、それを中国本土で
復興させようとした宣教師の増大である。その一例として、米国の宣教師やコロンブ
スの「アジアを食い物にする」という夢が失われないよう米国は義和団に対抗するた
めに5000人の海兵隊員を送った。
米国の多国籍企業は南米で現地の輸出価格と米国の市場価格を同時にコントロールし
て莫大な利益を上げた。生産国は恒久的な貧困のまま捨ておかれる一方、米国での価
格と現地生産コストとの差は著しく、多くの場合、現地価格の20倍から30倍にも
なった。
米国は米中の通商関係においても南米におけると同様な構想を持ってアジアでの政策
を決定付け、全員失敗に終わったが、親米政治家(蒋介石、マルコス、李 承晩、ピノ
チェト、ノリエガ、ゴディンディエムおよびグエン・バン・チュー)への十年以上に
及ぶ確固たる支援を取り決めた。
!
217
中国の混乱を収拾し、妥協策を探すためにマーシャル将軍が呼び出された。毛沢東に
ソ連からの支援はなかったが、共産党は日本軍が残した装甲車や大砲を含む大量の兵
器を引き継いだ。そして、それらの兵器の前に降伏した多数の国民党の兵士が毛沢東
の軍隊に加わると、勢力の均衡は崩れて共産党が優位に立ったのである。
また、共産党による農地改革は、土地を持たず搾取されてきた農民に恩恵を与え、同
時に限りない有用な人的資源を生み出し、「淮海戦役(わいかいせんえき)」では、
国民党軍に対して550万人の農民が動員された。
ヤルタでの秘密協定によってソ連に約束されたのは、中国におけるソ連の権益が、ロ
シアが日本に破れた1905年以前に戻されることであった。1946年3月、中国には蒋
介石の国民党の未来はないと、はっきり分かったスターリンは、ソ連の赤軍が満州か
ら撤退すると同時に毛沢東の軍隊の進入を許可するよう満州のマリノフスキー将軍に
命令した。その結果、中国北部は毛沢東の堅実な統制の下に置かれることになった。
国民党は1947年3月に延安において象徴的な勝利を収めたが、1948年には毛沢東の
農民軍が瀋陽と長春を掌握すると、国民党軍の精鋭部隊は戦車と重火器を共産党の軍
隊に引き渡し降伏した。洛陽が1948年4月に、そして山東省が1948年9月24日に陥
落。1948年11月から1949年1月まで、64日にわたる平津作戦で人民解放軍は大きな
損失を被ったにもかかわらず、国民党軍の兵士52万人を殺傷あるいは捕え、張家口、
天津、大沽および北京を手中に収めた。
共産党は4月21日に揚子江を渡り、国民党の本拠地であった南京を占拠すると、蒋介
石を10月15日 に広州、11月25日に重慶、さらに成都市へと続けざまに撤退させ、
1949年12月10日、最後には台北に国民党軍を追いやった。
毛沢東主義者の勝利は彼らの社会意識と自立によるものであり、その両方が国民党に
とっては全く無縁のものであった。さらに、大事なことは、10年に及ぶ戦いで日本が
蒋介石の軍隊に勝ち続けたこと、そして、毛沢東主席と周恩来が日本の最高指令部お
よび日本が支持するさまざまな反蒋介石派の勢力との相互理解に努め、秘密合意への
実践的な取り組みをしたことであった。また、15万を超える日本の兵士や将校が、米
国占領下の日本へ帰還することを望まずに中国赤軍と共に軍務に就いたことが、毛沢
東と蒋介石の力関係に重要な変化をもたらしたのである。
!
218
4年にわたる国共内戦中に犠牲となったおびただしい数の市民は別にして、1946年7
月から1950年6月にかけて、人民解放軍は1000万人の国民党の兵士と無法者を一掃
したが、そのうち捕虜となった者、逃亡あるいは降伏した者の数は630万人であっ
た。一方、この間の人民解放軍側の犠牲者は、死者26万人以上、負傷者104万人以上
であった。
毛沢東は1949年10月1日に中華人民共和国の樹立を宣言し、その首都を北京と定め
た。一方、蒋介石と200万人の国民党員は台湾島を占領して台北を中華民国の暫定首
都とした。
李弥将軍配下の約1万2000人の国民党兵士の軍団はビルマに逃亡した。中華民国から
の資金とCIAの支援を受けていた彼らは中国南部でゲリラ作戦を続行し、財源を得る
ために麻薬の密売を行った。
1949年には次のことが周知の事実となっていた。
蒋介石のリーダーシップは腐敗し、彼の秘密警察は情け容赦ない。彼の政治は封建的
で、約束は偽りばかり。国民党は日々、中国民衆の血と涙を吸って生きていたのであ
る。
共産党が台湾に侵攻すれば、蒋介石の政府は崩壊するに違いないと誰もが信じ、最後
には米国政府でさえも見放すであろうと思われていた。しかし、折よく太平洋80年戦
争の次なる大きな戦いである朝鮮戦争が起こり、1949年8月29日にスターリンの原
子爆弾が誕生したことが状況を根本的に変えたのである。これでトルーマンは米国第
7艦隊の台湾海峡への派遣命令を下し、結果、蒋介石と国民党が救われることになっ
たのだ。
蒋介石は台湾の政府が中国における唯一の合法的権力であると言い張り、国連安全保
障委員会の常任理事の地位を保持しつつ、中国本土の全ての港の封鎖を宣言し、かつ
政府が支援する海賊行為を容認し、積み荷を横取りして、本土の食糧の流通と漁業に
極めて困難な状況をもたらしたのである。
!
219
朝鮮半島の戦い 1945-1950
韓国
兵力
北朝鮮
1,200,000人
1,200,000人
(500,000人の米国軍を含む)
(900,000人の中国軍を含む)
780,000人
1,500,000人(推定)
犠牲者
民間人の死者、行方不明者および負傷者の合計:250万人
カイロ会談においてルーズベルト、チャーチルおよび蒋介石夫妻は朝鮮人の奴隷状態
に留意し、やがて朝鮮は自由で独立した国になるべきだとして合意した。これは朝鮮
の知識人とキリスト教徒にとっては、「やがて」という部分を除けば良さそうに思え
たが、ワシントンでこれが何を意味するかを解っている者は誰一人いなかった。ほん
の一握りのキリスト教原理主義の宣教師を除き、多くは朝鮮がどこに位置するのかも
知らず、国務長官のエドワード・ステティニアスも地図でその場所を見つけるのに苦
労した。
満州にいるソ連軍が最初に朝鮮半島に到達するであろうことは明らかであり、日本 ‒
朝鮮の代わりにソ連 - 朝鮮になることは米国にとって精神に異常を来すほど好ましか
らざるシナリオであった。米国陸軍の作戦参謀のボンスティール大佐とディーン・ラ
スク大佐は国務省の人間とは違い、地図上にその位置を示し、ソウルを首都として人
口の三分の二を有し、また、日本が黄海と日本海に面して築いた数々の優れた港を持
つ南側と38度線とで朝鮮半島を分断することを提案した。
朝鮮を分断する38度線が最初に提案されたのは、ロシアが併合しようとした1896年
であり、その頃日本は中国と英国から朝鮮における権利を確保したばかりだった。
1945年、スターリンは38度線に関する提案を受け入れた。それは、ソ連には次のよ
うな目的があったからである。
日本の支配下にある朝鮮は、常にソ連の極東への脅威となり得る故、日本は朝鮮から
永久に排除されなければならない。
!
220
日本が朝鮮との通商を許可されるとしても、投資、産業、鉱業からは除外されるべき
であるというのだ。
1945年8月15日、朝鮮人は昼下がりまで、あらゆる場所で歌い、叫び、旗を振って互
いに祝福し合い、太鼓や鍋
平城から
を叩いて、戦争の終結を祝った。
山に至るまで、日本による統治の後数年先に、途方もない悪夢の中に尽き
ることのない涙と血、貧困や破壊や苦痛がもたらされることを想像した者は誰もいな
かった。ましてや、朝鮮の未来が意味するのは二つの傀儡国家であり、外国の利益の
ために対立することを強いられた二つの駒に過ぎないなどと思うものはいなかった。
朝鮮人は半島の未来を決める米国とソ連の会談に参加できず、ましてや意見を聞かれ
ることなどは全く無かった。
こんなことわざを付け足そう。
二人の英国人が出合えば、クラブを一つつくり、二人のフランス人が出合えば、1件
のレストランをつくる。そして二人の朝鮮人が出合えば、三つの政党をつくる。
1945年12月に朝鮮は名目上、米ソ合同委員会により統治されることになったが、実
際には、無傷で残されていた日本の行政当局と警官隊に委ねられていた。この状況が
流血のストライキと衝突を引き起こし、何人かの警官が殺され、戒厳令が発令される
という事態に陥って、米国が宣言した「自由な朝鮮」は信頼を失った。その大混乱に
乗じ、ハーバードで教育を受けたキリスト教徒で国家主義者の独裁者、李承晩(り・
しょうばん/イ・スンマン)は大韓民国を、一方ソ連で訓練を受けた金日成は朝鮮民
主主義人民共和国を設立した。
奇妙にも金日成(キム・イルソン)もキリスト教徒として生まれたのだが、それを除
けば両者に共通していたのは、共に朝鮮全土の覇権を主張し、お互いをならず者と呼
び合っていたことである。李承晩により粛正された左翼主義者は山に逃げ込みゲリラ
戦に備えた。朝鮮の分断はとりわけ南部の組織労働者によるデモを引き起こし、
2500人の社会主義労働党員が逮捕され、1948年4月3日に済州島で勃発した流血デ
モでは100人の警官と市民が殺害された。デモは本格的な反乱にエスカレートし、怒
りに燃えた済州島の住民は警察署を攻撃して投票所を焼き払い、米国の占領と朝鮮の
分断に対抗して戦うという声明を発表した。
!
221
韓国政府は3000人の兵士と数百人の反共主義団体である西北青年会( NYA )の民兵
を送り、警察力を補強した。しかし、兵士達は命令に背いて武器を反乱者に渡した
が、西北青年会の民兵は済州島の住民を組織的に殺害し、強姦して恐怖に陥れた。済
州島の司令官であったキム・イクリュー中将は蜂起を平和的に終結させるために反乱
者の指導者キム・ダルサムに会見したが、キム・ダルサルからは警察官の武装解除、
官僚全員の解雇と西北青年会の行動の禁止と朝鮮の再統一を要求された。
キム・イクリュー中将は、反乱を力で鎮圧せよとの米軍政府長官、ウィリアム・F.
ディーン将軍の命令を拒否したために解任され、代わって後任者が済州島への大規模
攻撃を開始した。
1948年10月には反乱者側の戦闘員は4000人を超え、貧弱な武装ではあったが、数
多くの村の農民に支えられ山に砦を築いていった。その間に政府軍と西北青年会は沿
岸の町々を手中に収めた。
表向きは第三者的立場にいた在韓米軍だが、1949年の春、韓国軍の4大隊と西北青年
会の部隊による反乱者への流血攻撃に深く関わり、済州島での大虐殺は1949年8月
17日に終った。次の50年間は済州島の蜂起を口にすることさえ犯罪とされ、推定3万
人の殺害、反乱者への荷担または支持の疑いで投獄された2万人、そして230の村々の
4万個の住宅の焼き討ちに関する隠
工作が行われた。
1950年6月25日に北朝鮮軍は米国が主唱した国連決議を無視して、「裏切り者の盗
賊」李承晩を追い払うために38度線を越えて侵入した。
完全武装の北朝鮮軍は、23万の兵士に加え、274両のT-34型戦車、約150機のYAK
戦闘機および110機の爆撃機を装備して「祖国解放戦争」を開始し、軟弱で未熟で、
忠誠心も意欲もない8万人の韓国の軍隊を火力を持って打ち負かした。韓国軍は南へ
撤退したが、共産主義の北朝鮮に亡命する者も多数あった。
トルーマンは韓国軍に物資を送るようにマッカーサーに命じたが、朝鮮人民軍は8月
までに半島の南端近く
山市付近まで進行し、米国第8軍は
山周辺を守るのに必死
であった。米国空軍が日に40回の空爆に出撃し、朝鮮人民軍の兵站(へいたん)や
橋、道路、鉄道連絡駅を破壊し、その上、
!
山周辺を500両の戦車と18万人の兵士で
222
強化しすぐに反撃を始めた。同時にマッカーサーは仁川(インチョン)への上陸作戦
を実施し、同市の大半を破壊してソウルを奪回すると、瞬く間に朝鮮人民軍を撃破し
た。この流血の戦闘を生き延び、北へ退却した朝鮮人民軍の兵士の数は約3万人だけ
であった。
1950年9月30日、マッカーサーはマーシャル国防長官から、「戦術的にも戦略的にも
38度線より北への進行を阻止するものはないと思われる」と指示を受け、10月1日、
韓国軍は北朝鮮に侵攻して1950年10月19日に米国第8軍と共に平城を落とし、13万
5000人の北朝鮮軍を戦争捕虜として捕えた。
スターリンのためらいにはお構いなしに、毛沢東は中国人民志願軍に朝鮮全土を占領
する米国に抵抗せよと命令した。統制のとれた行軍と野営によって、米国の航空偵察
に気付かれずに朝鮮半島に侵入した志願軍のうち、3個師団が夜陰にまぎれて(19時
から翌朝の3時まで)進軍し、たった19日で満州から460kmも離れた北朝鮮での戦い
の地に到着した。
モスクワの「赤い教皇」であるスターリンと「中国農民のルター」である毛沢東との
意見の隔たりと相違は、アジアの政争における大きな要因となり、この瞬間から太平
洋での戦争がどのように展開するかが具体化された。だが、この事実を米国で政治家
となったキリスト教宣教師達は無視したのである。彼らは全ての共産主義者は、「同
じ穴のむじな」であると主張し、朝鮮半島とインドシナにおける米国のお粗末な戦略
に追い打ちをかけた。さらに、労働者あるいは無産階級によるマルクス主義を理想と
するソ連とは本質的に異なる毛沢東とホーチンミンの農民や村を味方にした武力政策
による原動力を見て見ぬ振りをした。
以前、マッカーサーはトルーマン大統領に、「中国は優勢な米国空軍に完敗するであ
ろうから、介入するリスクはほとんど無い」と伝えて侮っていたが、毛沢東の軍隊は
日本軍との戦いから多くを学んでいたのである。かくして1950年11月1日、北朝鮮の
奥深く、何千人もの人民志願軍が、米軍の部隊を取り囲み攻撃を開始。米軍部隊を蹴
散らした人民志願軍は雲山群の防衛陣地を蹂躙して韓国師団を打ち負かし、米国第8
軍を米軍史上最も長い距離の退却に追い込んだ。唯一成功したことといえば、軍隅里
(クヌリ)において、多くの犠牲を払いながらもトルコ軍が中国軍の攻撃を4日間送ら
せたことだけだった。
!
223
中国側は日本の戦闘隊形である八式戦術を取り入れ、毛沢東の軍隊で巧みに実施し
た。これは敵を漢字の八の字型に誘いこみ、退路を断って閉じ込めた後、思うままに
分散させ、一掃するのである。
長津湖での決戦は、凍りつくような天候の下、3万人の米陸軍と海兵隊、そしてそれ
を取り囲む宋時輪(ソン・シールン)将軍に率いられた6万人の人民志願軍との残虐
な17日間の戦闘であった。結局のところ、米国軍は何とか脱出し、興南区域の港から
退避したのであるが、これが米軍の北朝鮮からの完全な撤退となった。この戦いで死
亡したのは、中国が4万人、米国が1万5000人であったが、それでも米軍は10万人の
兵士と装備の大半、および9万8000人の市民を
山に避難させることに成功した。脱
出に先立ち米軍は敵に重要な物資が渡らないように壊滅作戦を実行し、興南区域を完
全に破壊した。1950年12月16日、トルーマン大統領は国家の非常事態を宣言した。
1951年1月に中国人民志願軍は韓国人民軍と第3期攻撃(中国軍の冬季攻勢)を開始
し、日本帝国軍から学んだ夜間攻撃作戦を実行した。その作戦で優勢な敵軍を秘かに
取り囲み、奇襲して圧倒し米軍を混乱させた。米軍は武器や装備の一部を放棄して急
きょ南に退却した。
中国人民志願軍は1月4日にソウルを制圧。米国第8軍の士気の喪失と数々の敗北状態
は、マッカーサーに人民志願軍と朝鮮人民軍への核攻撃計画を促した。その上で人民
志願軍への補給路を遮断するため、致命的な放射能降下地域を設けた。米軍は水原
市、原州、三陟市へと退却したが、新司令官のM. リッジウェイは第8軍の団結心を取
り戻した。鴨緑江から前線まで人民志願軍が徒歩や自転車で運び込んだ補給品、弾薬
および軍事物資が尽きて兵站線の伸び切った人民志願軍に対する米国の反撃が成功し
て原州(ウォンジュ)市を奪回し、祗平里(チピョンニ)で新たな人民志願軍の攻勢
を打ち砕いた。
再び活力を得た米国第8軍は、1951年3月14日に中国人民志願軍と北朝鮮軍をソウル
から追放した。これで韓国の首都は一年のうちに4回征服されたことになり、その結
果、完全に崩壊した街と1945年以前には150万人であった人口の内たった20万人だ
けが残された。
朝鮮戦争の統率について、トルーマンとマッカーサーの意見の不一致は4月には爆発寸
!
224
前となり、1951年4月6日の午後4時にワシントンで開かれた極秘会議において、原子
力委員会会長のゴードン・E・ディーンとトルーマン大統領との間で、原子力爆弾の軍
部への移動について協議された。トルーマンは極東の状況を険しい顔で説明し、中国
の春季攻勢が予想されることや、鴨緑江に中国の三つの部隊70万人が集中しているこ
とを伝えた。
これに加え、ソ連は70機の潜水艦をウラジオストックに集結させ、さらに他の部隊を
サハリン南部に集中し日本と韓国間の海上交通路を分断する準備を整えていた。米国
統合参謀本部はソ連の朝鮮戦争への参戦が世界戦争に発展するであろうと確信し、9
発の原子力爆弾を空軍へ移送させるようトルーマン大統領に願い出た。ディーンが反
対しない限り、トルーマンは移送を許可するだろうが、これは本来トルーマンや
ディーン、原子力委員会や米国国民が支持した核兵器の文民統制の終りを告げること
だった。
ベルリン危機でさえも核兵器の文民統制を変えることは無かった。しかし、4月のそ
の日にトルーマンは相容れない文民統制に終止符を打ち、原子爆弾数発を軍部に移送
させた。同時に、その後の展開を統制するために「けんかっ早いビッグマック」と呼
ばれていた在韓国連軍司令官のマッカーサーの職を解いて米国に呼び戻した。それに
対しマッカーサーは、罷免された時にトルーマンが酔っていたという理由で弾劾を求
めると、著名な戦争の英雄を罷免したことに対して、米国市民から抗議の声が上っ
た。
米国に戻ったマッカーサーはトルーマンに反旗を翻した。1952年に大統領に選ばれ
たアイゼンハワーはマッカーサーに朝鮮半島についての助言を求めた。将軍が北朝鮮
と中国への原子爆弾攻撃を進言するとアイゼンハワーはそれを拒否し、マッカーサー
の軍人および政治家としての経歴は終わった。
北朝鮮への核攻撃が行われなかったせいで 極東空軍(FEAF)の爆撃はさらに強化さ
れ、今日数字を見てみると、朝鮮半島で1951年までに爆撃されていない場所はどこ
にあるのだろうかと疑問が湧く程の数である。戦争中に極東空軍は72万980回の爆撃
を行い、47万5000トンの爆薬によって推定15万人の北朝鮮軍と中国軍を殺戮し、約
1000機の航空機、800本の橋、1100台の戦車、800台の機関車、9000台の鉄道車
両、7万台の自動車、8万棟のビルおよび20基のダムを破壊。決壊したダムは道路や鉄
!
225
道線路、そして何千ヘクタールもの水田を水浸しにした。B-29爆撃機の連日連夜にわ
たる空爆は2万448回におよび17万トンの爆弾とナパーム弾が落とされた。
広島と長崎への原子爆弾投下に比べてあまり注目されなかった米国空軍による日本と
朝鮮半島の市街地へのナパーム弾や焼夷弾による恐ろしい攻撃は、ナパーム弾で負傷
したベトナムの民間人の悲惨な写真によってその惨状が知されるまでは、大きな戦争
犯罪として表面化されなかった。しかしながら、それより多くのナパーム弾が朝鮮半
島に落とされ、その威力は更に破壊的で、標的となったのは人口密度の高い街や郊外
の工場密集地であった。
1951年の5月末に戦況は行き詰まり、ブラッディ・リッジ、ハートブレーク・リッ
ジ、ホワイト・ホース、トライアングル・ヒルおよびポークチョップ・ヒルでは戦い
が続行されていたにもかかわらず占領した領土に変化はなく休戦交渉は2年間続い
た。1953年7月27日にインドの後押しで結ばれた脆弱な休戦協定により、ほぼ38度
線におかれた武装地帯は、現在も効力を持って朝鮮半島を二つに分断している。
1953年の休戦協定締結時までの3年間にわたる空爆で北朝鮮は壊滅状態となり、建物
はほとんど残っていなかった。こうして韓国・北朝鮮両国が1945年に見た夢は悪夢に
変り、朝鮮半島全土の荒廃を目にすることとなった。
金日成の政権は消滅同然で、中国の援助とソ連からの施しに依存しなければならない
状態であった。そして韓国は、1960年代の日本からの巨額な投資(韓国への外国か
らの投資合計額36億米ドルのうち、日本からの投資はその52パーセントを占めてい
た)があるまでは飢餓寸前の状態にあったが、最終的にはその投資によって自立する
ことができたのである。朝鮮人は罪のない駒にすぎなかったが、朝鮮戦争は太平洋80
年戦争の中でも最も残酷な戦いとなった。そしてその被害全体の推定は今もって困難
である。
中国人と北朝鮮人の被害者数の西側(米軍 - 国連軍司令部)による計算は、主として
戦場での被害者を算出した報告書や戦争捕虜への尋問および軍情報部の情報(文書、
スパイ等)に基づいたものである。朝鮮戦争の死者は、米国軍3万6940人、人民志願
軍10万∼150万人(大方の推定では40万人)であり、朝鮮人民軍21万4000∼52万
人(大方の推定では50万人)に上る。
!
226
韓国の民間人の死者は、24万5000∼41万5000人、民間人の死者の総計は150万∼
300万人で大方の推定では200万人とされている。人民志願軍と朝鮮人民軍は戦争の
後で共同声明を発表し、両軍隊が「米国人39万人、韓国人66万人および、その他の
国からの2万9000人を含む109万人の敵軍兵士を殺害した」と報告した。
死者、負傷者、捕虜の内訳は報告されていないが、中国の研究者であるシュウヤンに
よれば、その内訳は捕虜となった人々の送還に関する交渉において、中国・北朝鮮側
の立場を有利にする手段として用いられた可能性がある。シュウヤンは、人民志願軍
の死者の数は全体で14万8000人であり、その中で11万4000人が戦闘中や事故ある
いは凍死によって死亡し、2万1000人が病院に運ばれた後に死亡しており、1万3000
人が病死、そして負傷者の数は38万人であると書いている。2万1400人の戦争捕虜を
含む行方不明者の総数は2万9000人であり、その中の1万4000人は台湾に送られ、
7,110人が帰還した。シュウヤンは、朝鮮人民軍の被害者は29万人、戦争捕虜の数は
9万人であり、多数の民間人が北で亡くなっていると述べている。
朝鮮戦争の衝撃と余波は朝鮮半島を超えて広範囲に及び、特に、東西の二大勢力に影
響をもたらした。北大西洋条約機構 (NATO) の強化は1953年までの50師団に加え、
強力な海軍と空軍の動員を可能にし、西側に対するソ連の武力攻撃はあり得ないこと
を示した。東側では共産主義の中国が強い軍事態勢を背景に、アジアの強国としてだ
けではなく世界情勢に影響を与える大国として浮上した。更なる影響は、大型の核融
合装置開発の加速と1952年と1953年に行われた核実験、および1964年のロプノー
ルにおける中国初の核兵器実験によって、米国とソ連の核の脅威が失われてしまった
ことである。
1951年、米国は日本に抗した中国の国民政府と国民党への支援が重大な過ちであっ
たことに気付き、日本との関係修復と、アジア太平洋地域で必然的に起るであろう次
なる戦いと衝突に備えて同盟国を得るために、サンフランシスコ条約をお膳立てし
た。サンフランシスコ条約は激しい反対を表明したソ連を除く50ヶ国を超える国に
よって調印され、米国と日本の新たな関係に信憑性を与えることとなった。インドだ
けは日本との個別な条約を結んだ。なぜならインドは条約の中のいくつかの条項が不
公平であるとして、自由主義国のコミュニティの中で日本が名誉と平等を伴うしかる
べき地位を与えられることを願ったからである。中華民国と中華人民共和国はどちら
も招かれず、1895年以降日本に併合された台湾の地位については、台北条約(日本
!
227
名、日華条約)の存在にもかかわらず、今日に至るまで未解決となっている。
個人資産、産業用資産、国や公的機関の投資および所有財産を含む膨大な日本の資産
は 以下のとおり、 第三者へ譲渡された。
1945年当時の日本人の海外資産(1米ドル=15円、1945年)
国・地域
価値(円)
価値(米ドル)
韓国
7,025,600,000
468,370,000
台湾
42,542,000,000
2,846,100,000
1.46532E+11
9,768,800,000
中国北部
55,437,000,000
3,695,800,000
中国中南部
36,718,000,000
2,447,900,000
その他
28,014,000,000
1,867,600,000
¥379,499,000,000
$25,300,000,000
中国北東部
合計
上記に加え、日本は戦争捕虜と売春婦(主に韓国人とフィリピン人への賠償で、日本
人への賠償は無し)が提供した労働とサービスに対する賠償金を支払うことに合意し
た。また、下記のように戦争被害への追加の賠償金を支払うことにも合意した。
日本が1941年から1945年までの期間に占領していた国に対して支払った賠償金
国名
ビルマ
フィリピン
金額(米ドル)
72,000,000,000
1.98E+11
条約の日付
200,000,000 1955年11月5日
550,000,000 1956年5月9日
インドネシア
80,388,000,000
223,080,000 1958年1月20日
ベトナム
14,400,000,000
38,000,000 1959年5月13日
合計
!
金額(円)
¥364,348,800,000
228
$1,012,080,000
フィリピンへの最後の支払いは1976年7月22日に行われた。他のアジア諸国への支
払いは受理され、二国間協定および賠償金は個人賠償に使われるべきであるという理
解の下で日本により実行された。 韓国などいくつかのケースでは、賠償金は当事国の
政府から個人に支払われずに、公共あるいはその他のプロジェクトに使用され、多く
の個人が賠償金を受け取ることができなかった。
!
229
【第22章】インドネシア戦
インドネシアがインドシナのように幸運であったのは、日本の陸海軍の将校たちの協
力もあって困難な事態を収拾するにふさわしい指導者が1945年に存在したことであ
る。彼らはかつての植民地支配者が執務室を再び占拠するのを待たずに独立を宣言し
た。インドネシアでそれを実行したのはスカルノであった。
1943年11月に東京で開催された大東亜会議にインドネシア代表の出席がなかったた
め、ビルマやフィリピンとは異なり、インドネシアは日本から正式な独立国として認
められなかったが、その後、1944年の9月に日本はジャワ島だけでなく、群島全体の
独立を発表した。もともと海軍王国であるシュリヴィジャ王朝、仏教国のシャイレン
ドラ王朝、ヒンズー教のマタラムーマジャパヒト王朝が、ジャワ島やインドネシアの
ほとんど全域で繁栄しており、イスラム教がジャワ島とスマトラ島で主たる宗教と
なったのは16世紀のことである。やがてオランダの東インド会社が支配的な勢力を握
り、20世紀初頭、インドネシアは正式にオランダの植民地となった。
日本の侵略がかつて抑圧されていたインドネシア独立運動を勇気付けることとなり、
近代的で非宗教的で、その上、多くの言語を話す、植民地ではないインドネシアの将
来の繁栄を託すことのできるリーダーとしてスカルノを選択した日本の決定は見事で
あった。
彼はバリ島人の母とジャワ島人の貴族の息子として生まれ、オランダ人の子弟が通う
学校で学んだ後、バンドンの工科大学で土木工学を学んだ。スンダ語、バリ語、イン
ドネシア語およびオランダ語を母国語のようにあやつり、ドイツ語、英語、フランス
語、アラビア語と日本語も流暢に話す彼は、抜群の記憶力と明晰な頭脳に恵まれてい
た。建築と政治の両方に極めて進歩的であった彼の現代性は、反人種差別、反帝国主
義に表れており、基本的に資本主義者ではなく、社会主義者で非宗教的かつ西洋的で
あった彼のヒーローはケマル・アタチュルクであった。
彼は1927年にインドネシア国民党 (PNI) のリーダーとなったが、1929年にオランダ
の植民地警察に逮捕され、懲役2年の判決を受けた。1930年代にも数回逮捕されたス
カルノは、次のように信じるようになっていた。
!
230
インドネシアの独立は大日本帝国の協力なしでは達成できない…私は初めてアジアを
鏡として自分自身を見て気付いたのだ。
1942年2月、日本はインドネシアに侵攻し瞬く間にオランダ軍を打ち破った。その
時、オランダはスカルノを囚人のまま留めおこうとしていたが、結局、彼らは自らを
救うためにスカルノを釈放した。既にスカルノを知っていた日本側は、敬意を持って
彼に近づき、戦争遂行のためジャワ島とスマトラ島全域の先住民の軍隊を組織するよ
う要請すると、結果としてスカルノは1945年までに200万人のジャワ島人義勇兵を集
めることに成功した。
1943年11月10日に彼は昭和天皇から勲章を授与され、1944年9月7日には日本政府
によってインドネシアの独立が発表された。これを受け米国はスカルノを、敵国協力
者の主要リーダーの一人として非難した。1945年3月にスカルノとハッタはジャワ
島、スマトラ島、ポルトガル領ティモール、イギリス領ボルネオおよびマレー半島か
らの代表者と共に、インドネシア独立の準備作業を始め、スカルノが描く戦後のイン
ドネシア・ラヤ(大いなるインドネシア)の基礎を確立した。そして、1945年6月1
日、スカルノが描くインドネシアという国家の指針について演説を行った。
スカルノの統一された非宗教的な国家への理想像は、イスラム法を切望するイスラム
教指導者には悪評だったが、ジャカルタ憲章については妥協が得られ、イスラム教徒
はパンチャシラーの5原則である神への信仰、人道主義、国家の統一、民主主義と社
会正義に導かれた国家の独立を優先することを受諾した。
1945年8月11日、日本の最高司令官、寺内寿一元帥に召喚されたスカルノ、ハッタ、
ラジマンはサイゴンに飛びインドネシアの独立について意見を交わした。8月16日の
夜、独立宣誓書の草案が現在は独立宣言博物館となっているジャカルタの都通り1番
地の前田少将邸で、前田が二階で眠っている間に起草された。声明は8月24日に予定
されていたが、モットーが「独立か死か」という若者の組織からの圧力で、スカルノ
は8月17日に前田邸の前で約百人の人々に向かい宣誓書を読み上げた。そして彼らは
紅白の旗を揚げてインドネシア・ラヤを歌った。
スカルノとハッタは宣誓書に署名し、民主主義国家のオランダより日本の方がインド
ネシアの独立承認により多く尽力したことを、オランダは恥ずべきであると述べた。
!
231
アダム・マリクはこの宣誓を日本の短波ラジオで中継し、前田の事務所にいた活動家
の青年たちは何千枚ものチラシを印刷した。8月19日には日本が支援したインドネシ
ア独立準備委員会 (PPKI )は、インドネシア国家委員会 (KNI) に変更された。
インドネシアの独立を認める意志が全くないオランダは、スカルノとハッタに日本の
協力者で操り人形というレッテルを張り、インドネシア共和国は日本のファシズムが
造り上げたものであると決めつけた。植民地支配を再構築する人材が不足していたオ
ランダは、東南アジアの連合軍最高司令官であるマウントバッテンにインドネシアの
管轄権の行使を要請した。それは口で言うほど簡単なことではなかったが、マウント
バッテンは厚かましくも日本軍にイギリス軍が9月下旬にジャワ島に到着するまで法と
秩序を維持するよう要請した。
日本軍は要請に応じはしたが、同時に司令官の中には、日本の軍隊はイギリスに敗れ
てはいないのだから、イギリスに降伏する理由はないと思っていた者もいた。そこ
で、彼らはいとも簡単にインドネシア共和主義者に武器を引き継がせ、反オランダ抵
抗運動の強化に重要な役割を果たした。連合国はインドネシアの将来についての方針
など無く、単に日本軍の武装解除と捕虜収容所にいるヨーロッパ人の解放のみを考え
ていた。無論、大多数のインドネシア人は、連合国がオランダ支配の復活を意図して
いるのではないかという疑いを持ち、実際に共和勢力を確立しようと試みたが、その
試みは各地方の複雑な言語、宗教、民族の違いと社会的経済格差が妨げになり、しば
しば困難に直面した。
10月14日、スマランで共和党員により130人の日本人捕虜が殺害されると日本軍は
イギリス軍が到着する6日前に、2000人のインドネシア人を殺害した。11月2日に休
戦協定が結ばれたが、後に散発的な紛争が再発した。
柴田海軍中将はスラバヤで日本軍の武器をインドネシア人に引き渡した。それからイ
スラム教の指導者がインドネシアの聖戦を宣言し、インドネシア人は彼らを武装解除
するために10月25日に到着した6000人の英印部隊を攻撃したが、多くのインド人、
特にイスラム教徒は逃亡し、反植民地主義の戦いに参加した。イギリスはスカルノを
飛行機で現地に派遣して、10月30日に休戦協定を締結させたが、マラビー准将が殺害
されたため、その協定は数時間しかもたなかった。イギリス軍は猛反撃して6000人を
超えるインドネシア人を殺害。報復としてインドネシア人は1000人を超えるオランダ
!
232
人、他のヨーロッパ人や中国人を殺害し、戦いは本格的な市民革命と突入していた。
1945年の末までに約8000人のインドネシア人がジャカルタで殺害された。アラブ連
盟がスカルノのインドネシア統治を承認したことでインドネシアの独立戦争と社会革
命の始まりが告げられ、独立戦争へ新たな推進力が加わった。
不利な立場にあったオランダがなんとか合意交渉を試みた結果、1947年5月25日に
ついにリンガジャティの和解が調印された。この合意には全ての当事者が不満であっ
た。その上オランダは時間を稼いで共和党に対する治安維持活動を開始し、共和党員
はスマトラ島とジャワ島の大部分から追放された。その結果として起こったのが、
ジャワ島西部におけるイスラム国家の分裂とジャワ島東部のマディウンでの共産主義
者の反政府活動であり、それらの出来事は最終的に米国がオランダに圧力をかけてイ
ンドネシア共和国の独立を承認させる引き金となった。
それでも諦めないオランダは1948年12月に2度目の治安維持活動を開始し、スカルノ
とハッタを逮捕してスマトラ北部のバンカ島へ追放した。オランダの弾圧的な方針は
インドをはじめとするアジアの国々や米国を含む国連安全保障理事会のメンバーから
も強い国際的反発を招いた。その結果、西ニューギニアをオランダの支配下に残し、
インドネシアが43億ギルダーを払うという条件で、オランダにインドネシアの独立を
認めるよう圧力がかけられ、1949年12月27日、インドネシアは正式に独立し、スカ
ルノが初代大統領となった。
インドネシアの中立政策や自主独立を保とうとする「新5カ国構想」やスカルノと日
本との協力関係のせいで、スカルノが米国に好まれたことは決してなく、50年代と60
年代にはCIAは打倒スカルノの数々の企てを後押ししていた。1965年についに軍事
クーデターが成功し、スカルノの脆弱な「Guided Democracy」に終止符がうたれた
が、軍や政治的イスラム、共産主義者や国家主義者の間の微妙な力関係に混乱を生じ
る結果となり、1965年から1966年にかけてジャワ島やバリ島で恐ろしい大虐殺や粛
正が起こり、少なくとも100万人が犠牲となったのである。
!
233
【第23章】インドシナ戦
(74) ベトナム
1945年9月2日、小柄で華奢なベトナム人、ホー・チ・ミンがハノイにおいて、ベト
ナム民主共和国の独立を宣言した。宣誓は、「全ての人間は生まれながらにして平等
である」という1776年のアメリカ独立宣言に記された不滅の言葉で始まった。さら
に彼は1791年のフランス人権宣言の「全ての人類は生まれながらに自由で平等であ
る」という言葉を引用し、「フランスの帝国主義者が自由、平等、友愛の精神を踏み
にじり、われわれの祖国を侵害し、市民を圧迫してきた」と非難した。
!
234
ホー・チ・ミンの宣誓は次のように続く。
人間愛や正義の理想に反する行動を彼らは取ってきたのだ。政治においては、わが民
族から民主的な自由を奪い取り、非人道的な法律を押し付けた。彼らはベトナムの北
部、中部、南部のそれぞれに三つの政治体制を作ったが、それはわが国の統一を破壊
し、民族の結託を阻止するためだ。彼らは学校よりも多く刑務所を建設した。彼らは
無慈悲にもわが国の愛国者を殺害し、われわれの蜂起を血の川に沈めたのだ。世間の
声は束縛され、わが民族に対する愚民政策が行われた。われわれを弱らせる為に、彼
らはアヘンやアルコールを使わせた。経済的には、徹底的にわれわれを搾取し、疲弊
させ、わが祖国を荒廃させた。彼らは田んぼを、炭坑を、森林を、そして天然資源を
盗んだ。紙幣の印刷や輸出取引を独占した上に、多数の不当な税を創設して、特に農
民をはじめとしてわれわれを極端な貧困へと陥れた。わが国家のブルジョアジーが繁
栄することを妨害し、われわれ労働者を情け容赦なく搾取したのだ。
宣誓は以下の言葉で締めくくられている。
われわれは自らの手で、およそ一世紀にもわたって縛り付けてきた鎖を引きちぎり、
祖国の独立を勝ち取った。同時に、われら自身の力で1000年以上も君臨してきた君
主体制をも倒し、代わりに現在の民主共和国を建国した。これらの理由から、われわ
れ臨時政府のメンバーは全てのベトナム人を代表して、フランスと全ての植民地関係
を絶つとここに断言する。フランスがこれまでにベトナムに代わって同意した全ての
国際的義務を無効にし、フランス人がわが祖国で不当に得た全特権を廃止する。共通
の目的に駆り立てられたベトナムの全人民は、国を再び取り返そうとするフランスの
植民地主義者によるいかなる試みにも最後まで戦う決心を固めた。テヘランとサンフ
ランシスコで認めた自決の原則と国の平等を認めている連合国は、ベトナム独立の承
認を拒否しないとわれわれは確信している。
これは率直な言葉であり、紛れもない事実である。ホー・チ・ミンの言葉に偽りはな
く、その上彼はフランスと連合国の知らぬ間に、実践的で実利的な方策を周到に準備
していたのである。モスクワが全体主義の赤いバチカンであるかのようなソ連および
ヨーロッパの共産主義と、中国、ベトナムの共産主義が完全に異なることを、米国や
ヨーロッパの列強は理解していなかった。ヨーロッパの搾取された産業プロレタリ
アートの間で、共産主義が道徳的に破綻したキリスト教に取って代わったのとは異な
!
235
り、ホー・チ・ミンの共産主義は昔ながらの村に暮らすベトナム農民の心の中に、仏
教と儒教の道徳の共存共生を見出したのである。
1890年生まれのホー・チ・ミンはフランスの教育を受け、当時のアジアの若き知識
人と同様、彼の政治的展望は1905年のロシア帝国に対する日本の勝利に影響を受け
ていた。それはアジアの植民地が独立する可能性を告げることであり、必要であれば
武力も辞さないと彼は考えていた。1911年から1941年にかけて、フランス、米国、
ロンドンへ旅行したホー・チ・ミンは、フランス共産党の創立メンバーとなって、モ
スクワに長期滞在し、アジアの問題についてコミンテルン(共産主義インターナショ
ナル)にアドバイスを与えた。
1924年、レーニンの死去に際して第5回コミンテルン会議に出席した後、彼はモスク
ワを離れ中国に到着した。ホー・チ・ミンは黄埔軍官学校で教
を執っていたが、蒋
介石の1927年の反共クーデターが引き金となって広東を去り、モスクワ、ブリュッセ
ル、ベルリン、スイス、イタリアを経由してタイに戻ることとなった。1931年にタイ
から香港に移ったホー・チ・ミンは、そこで逮捕されたが、イギリスは彼をフランス
に引き渡さずに刑死したと発表し、1933年に秘かに釈放した。1938年に中国共産党
員のアドバイザーとして中国に戻り、1941年に最後の放浪の旅を終えてベトナムに帰
国した後、べトミンによる独立運動のリーダーとなった。 彼の旧友であり弟子でも
あったグエン・ザップの家族はフランス側に逮捕され、拷問の末に処刑されたが、
ザップ自身は中国に逃れ、1944年にベトナムに帰還してホー・チ・ミンに合流した。
ポツダムでトルーマンやチャーチル、スターリンが、既にベトナムの北と南を、それ
ぞれ中国国民党とイギリスの統治下に置く、というベトナムの将来に関する決定を下
していたことを、ホーとザップは知らなかった。
もちろんフランスにはインドシナにおいて、フランス人キリスト教徒によりベトナム
の独立と文化を弱体化させて滅ぼし、社会に劇的な変化をもたらすという100年の歴
史に根差した計画があった。特に、強引なキリスト教宣教師はしばしば暴力的な深い
恨みを生んだ。その原因となったのは、カトリック教会の司祭による若いベトナム人
に対する性的虐待というよりも、むしろインドシナの地域社会のよりどころであった
儒教的道徳に対して、キリスト教徒が組織的かつ意図的に情け容赦ない攻撃をしたこ
とであった。それは最も貧しい農民までをも苦しめ、キリスト教に関わる全てを彼ら
!
236
が憎む結果となった。全体主義者のモンゴルの支配者でさえ、伝統的で神聖なベトナ
ム・中国の儒教的家族の道徳観に干渉しようとはしなかった。
ミンマン帝(明命帝、在位1820年∼1841年)は、既にベトナムをフランス人キリスト
教徒の影響から守ろうとして、宣教師たちをフエに監禁してフランス語の本を翻訳さ
せた。聖書を読んだ帝は不条理であると思い、儒教に徹する政策を実行した。日本が
1639年にキリスト教を禁止したことが植民地化の回避に役立ったと確信し、1836年
に発布した布告で宣教師の殺害を許可した。1841年、ミンマン帝の死去に伴い、フ
ランスの支援を受けたベトナム人キリスト教徒が反乱を起こし、秩序は敬
な儒教信
者であるトゥドゥック(嗣徳帝、在位1847年∼1883年)が帝位に就くまで回復しな
かった。ヨーロッパ人への不信は根強く、宣教師たちは勅令により処罰され、キリス
ト教集落は散り散りになった。数多くのフランス人神父が処刑され、何千人ものキリ
スト教徒が迫害された。
1855年の布告ではキリスト教的表現を禁止し、全ての神父に死刑を宣告するととも
に、彼らの捕縛に報奨金が与えられた。1857年にスペイン人司教であったトンキン
のディアスが処刑されると、デ・モンティーニ(1859年に在上海フランス領事に着
任)がベトナムを訪れ、宗教の自由、カトリック教徒の迫害の停止およびフエに領事
館の設立の許可を要求した。ベトナムがその要求を全て拒否すると、フランスはそれ
を恰好の理由にして3000人の軍隊を送った。
フランス軍は1858年9月1日にダナンを制圧した後、1861年の終わりまでにコーチシ
ナの南方の海岸(サイゴンを中心としたベトナムの三分の一)を掌握し、これが古代
ベトナム王室の終焉の始まりを告げた。1862年6月、トゥドゥック帝はザーディン、
ディン・トゥオンおよびビエン・ホアをフランスに引き渡し、宗教の自由を約束せざ
るを得なくなったが、コーチシナの官僚たちは反乱を起こした。ボナール中将は反乱
を鎮圧するための増援部隊を呼び入れ、行政機関にフランス人監察官を指名した。そ
の後も数回の反乱や衝突が起こり、結果としてトゥドゥック帝はフランスの統治権を
6省に対して認めることとなり、フエにフランス総督府を許可し、交易のためにクイ
ニョン、ハイフォン、ダナンおよびハノイの港を開放して、それらの各地に領事館と
キリスト教徒を許容することを受諾した。しかし、さらに数回の反乱の後に仏教徒の
暴動が続き、キリスト教集落は火をつけられ、無法者や海賊が川や周辺をうろついて
交易は難しくなり、物価が暴騰するはめになった。
!
237
ベトナムに近代化をもたらすためにヨーロッパに行ったベトナム人がいる一方、何百
万人ものベトナム人にフランス語を習わせる代わりに、フランス人がベトナム語を習
得するよう説得しようとしたフランス人もいた。1878年にフランスは、1882年以降
はクオック・グーと呼ばれるローマ字に限りベトナムの公文書で使用を許可すると決
めたが、結果としてもたらされたのは、さらなる反乱とそれに対する弾圧であった。
1880年にトゥドゥック帝は清国に助力を求め、清政府は臣下のベトナムに20万の兵
士を送った。フランスの司令官、リビエール大佐が清とベトナムの戦争捕虜の絞首刑
を始めると、それに対してルゥ・ヴィン・フック (劉永福)は、フランスに「わが国
を破壊する卑劣極まりない無法者であり、外国の獣だ」というレッテルを貼って「ベ
トナムを去らなければ死あるのみ」と警告した。
1883年5月19日、リビエール大佐と50人のフランス人がソンタイ付近で待ち伏せに
遭い殺害され、これを受けてジュール・フェリー首相はインドシナを最終的に制圧す
るため、強力な軍隊を送ることを決定した。ブイエ将軍とクールベ大将率いるフラン
ス軍は1883年8月18日までにフエ河の砦を占拠すると、新帝のヒエップ・ホア( 協
和)帝に降伏の調印を強要し、フランスはベトナムを保護領とした。清国はそれに抗
議し軍隊を送ったが、フランスが戦争捕虜をならず者として斬首し、12月までに清の
軍隊を追い払った結果、1884年8月、清政府はフランスに対して宣戦布告した。
1885年3月28日、フランス軍はランソンで清軍に破れ、動転したネグリエ将軍の部隊
は山に逃げ込み4月4日に休戦協定が締結されるに至った。
同時に起こったフエでの王位継承をめぐる混乱は、トンキンとアンナムにおいて武力
衝突と反乱に発展した。王子の中にはフランスを支援する者やフランスに対抗して戦
う者もあり、その結果、タヒチやアルジェに追放されたり、中国あるいは日本に逃げ
たりした者もあった。加えて、ベトナム人による差別に苦しんでいたムオン族、タイ
族およびトー族はフランス側を支援した。農民によるフランスへの抵抗はその頻度を
増してゆき、教会の焼き討ちやゲリラ攻撃などの反政府活動が行われ、一方フランス
軍は仏塔を焼き、村々を破壊した。1896年までに4万人のカトリック改宗者、18人
のフランス人伝道者、40人の神父が犠牲となり、9000堂の教会が焼き払われたが、
この植民地戦争にフランスが支払った対価は7億5000万金フランに相当するもので
あった。多くの犠牲を伴った暴動が、フランス軍を打ち破るチャンスはゼロに近かっ
たが、この絶望的な反抗は、ベトナム独立のために戦う後の世代を鼓舞することと
なった。
!
238
ドゥメ新総督はアヘンやアルコール、塩の生産と販売を独占して収入を増やし、1899
年に2000万ピアストルに上る行政の収入を公共事業に投入して道路や鉄道路線の計画
を立て、1911年までの12年間で2000kmの鉄道を建設した。だが、500kmの雲南省
路線の建設だけでも、2万5000人を超えるベトナム人と中国人の死者を出し、さらに
産業と採鉱の不足によって新しい鉄道路線の建設は経済的に実行不可能となった。事
実、鉄道建設に使われる高額な税と強制労働は民に多大な苦しみを与えた。にも拘ら
ずドゥメはハノイ市に下水道の代わりにオペラハウスを造ったと言われていた。
数多くの若いベトナム人が教育を求め勉学を志し、ベトナムでは禁じられている作品
や書籍や研究を公開するために日本へ脱出した。また他の者はフランス統治下での耐
え難い環境から中国へ逃亡しようとした。アヘン中毒者の数は8万人に上り、漁民は
魚を塩漬けにする塩を買う余裕さえなく、伝統的な酒の蒸留はフランス人の独占によ
り禁止され、農民は不当な税と強制労働に苦しんでいた。日本の近代的な教育制度を
モデルとした学校と大学は閉鎖され、教師は逮捕、投獄され、デモは抑圧されて主導
者は拷問された。取締官が捜索令状も無しに民家に押し入って家宅捜索を行い、日本
から秘かに持ち帰った文学作品を没収した。フランスは日本政府がベトナム人の亡命
者を容認しないように金銭を支払おうとさえしたが、かえって日本の知識人や指導者
の反植民地運動への助力を促すこととなった。
1913年にはベトナムは2500万の人口に対し、175の医療設備を有していたが、3万
8000人の患者に対して医者は一人の割合だった。1917年にハノイ大学が再開された
が、医学部の卒業生は医師ではなく衛星管理者であり、医師免許を得るためにはフラ
ンスで学ばなくてはならなかった。推定14万人のベトナム人「志願兵」がフランスで
の戦争にかり出されたが、彼らはむしろ拉致や誘拐に近い方法で集められたのであ
る。1919年に日本に亡命していたクオン・デ(彊柢)王子は、ベルサイユ平和会議に
出席していたウィルソン大統領に電報を送り、インドシナの自治を要求した。これを
受けてフランスは日本にクオン・デ王子を監視下に置き、東京に監禁するよう要請し
た。
ベトナム人の大半が辛うじて生きるなかで、わずかな人間が富を築いた。例えば、ゴ
ム会社は1929年に3億900万フランの収入を得たが、その中から従業員の報酬として
支払われたのは4000万フランのみであり、その結果、6000人の労働者によるストラ
イキが24回行われ、その翌年には3万1000人によるストライキが98回行われ、首謀
!
239
者は警察に逮捕、投獄されて拷問を受けた。1930年のエンバイの反乱の後に699人が
裁判も無く処刑されるとともに、7000人を超える人々がプロ・コンドール島に追放
されており、被疑者の拷問は日常茶飯事であった。1931年にほとんどの抵抗が鎮圧
されると、フランス外人部隊は拷問を用いての尋問および殺害を命じられた。それで
も、ゴム農園の半分以上が島民の所有となっているジャワ島に比べ、ベトナムでの所
有は5パーセントに満たなかったこともあり、非合法の組合とホー・チ・ミンの共産
党農民組織のメンバーの人数は6万4000人にまで膨れ上がっていた。
1938年、2万人のベトナム軍隊をヨーロッパに送るようフランスに要請されると、ク
オン・デ王子は反植民地勢力を組織するために東京を離れ、ホー・チ・ミンは中国に
戻った。フランス軍がドイツに敗北した後、ビシー政府は、フランス領インドシナの
防衛に関して日本と条約を締結し、2万5000人の日本の部隊を駐屯させることやフラ
ンス人のインドシナ統治の続行について合意がなされた。およそ10年間ぶりにベトナ
ムに戻ったホー・チ・ミンは1944年5月10日にベトミン(ベトナム独立同盟会)を組
織し、ベトナム人に独立の用意をするよう促した。1941年11月、日本が全てのイン
ドシナの企業の支配権を握ったが、連合軍の爆撃によりインドシナから出入りする物
品の輸送を阻まれた。ホー・チ・ミンを捕えた中国国民党は、彼なしでベトナム民族
主義者による抗日を組織しようとしたが、ベトナム人を動かせるのはホー・チ・ミン
とベトミンだけであるという事実を認めざるを得なかった。
1943年7月、松井石根陸軍大将はサイゴンで、「日本はフランスによる支配を終了さ
せた。従って、インドシナは独自の発展を遂げられるであろう」という声明を発表し
たが、同時期にシャルル・ドゴールはインドシナをフランスの植民地として取戻すこ
と以外全ての選択肢を拒否した。1945年3月9日、日本軍はインドシナの兵力を6万
人に増強し、フランス領インドシナ総督ドゥクーに2時間の猶予を与えて降伏を迫っ
た。ほとんどのフランス軍部隊は武装解除され、日本はバオ・ダイ(保大)帝を国家
元首とするベトナムの独立を発表した。日本とベトナムの声明を無視したフランス
は、1945年3月24日にコーチシナ、アンナン、トンキン、カンボジアおよびラオスの
5カ国をフランス総督が統治する連邦国家であると宣言したが、この計画はベトナムの
全政党により即座に拒否された。
広島に原爆が落とされた翌日、ベトナムのチャン・チョン・キム(陳仲金)政権が辞
職し、その一週間後に日本はコーチシナの統制権を委譲するという連合国の条件を受
!
240
諾した。8月13日にトンキンで会合したインドシナ共産党は、全面的反乱を投票に
よって決定し、その3日後にホー・チ・ミンに率いられた人民代表大会がハノイ近郷
のタンチャオ村で開かれベトナム民族解放委員会が組織された。同日、ベトミンゲリ
ラがハノイに入り、数千枚のチラシを配布しながら日本人将校の多大な協力を得て公
的な建物を全て掌握したが抵抗はほとんどなかった。
フエに入ったベトミンにバオ・ダイ帝は、ベトナム八月革命の勝利を記念して、政府
の組閣を要請した。その間にフランス軍はトンキンとアンナンにパラシュート降下し
たが、部隊の大半は依然として強固で結束したベトミンに殺害されるか捕縛された。
高等弁務官ジャン・セディールはベトナム南部で日本軍に捕えられサイゴンに連行さ
れた。サイゴンではほとんどの政党がベトミンに権力を委ね、8月25日には数十万人
がサイゴン通りに繰り出して革命を祝った。8月29日にホー・チ・ミンは政府を立ち
上げ、9月2日にハノイに集まった50万人の前でベトナムの独立を宣言した。
同日、サイゴンでは大規模なデモが行われ、2日後、寺内元帥は「日本軍にはイギリ
ス軍が上陸するまで秩序を守る責任がある」とイギリス側から告げられた。9月6日、
最初のイギリス部隊が到着し、即座にサイゴン警察を含む全てのベトナム人に武器の
引き渡しを要求し、サイゴンを奪取するために1800人のフランス部隊を送り込ん
だ。
ベトナム人には武装解除の意志はなく、フランス軍がその強引な行動によって妨害や
衝突を誘発した結果、9月17日にゼネストが行われ、フランス人工作員はベトナム警
察に逮捕された。イギリス軍はベトナムの全新聞を停止して日本軍に市の治安維持を
要請し、最終的に戒厳令を敷いて全ての集会とデモを禁止した。9月22日、イギリス
軍はさらに多くのフランス軍を武装させ、警察を掌握して数百人のベトナム人を袋叩
きにして逮捕した。これでベトナム人によるゼネストが決行されサイゴンが封鎖され
てフランス軍への食糧の輸送が阻まれることとなった。統制を取り戻そうとしたイギ
リス軍は寺内元帥をも逮捕し、日本軍にベトナム人の鎮圧を命じないのであれば、戦
争犯罪人として拘留すると脅した。最終的にフランスから新たに到着した部隊と重装
備の隊列を従えた、ルクレール将軍がサイゴンに進撃して封鎖を解き、ベトナム人を
サイゴンから追い払った。
ポツダムで計画されたように、約5万人の中国国民党軍がベトナム北部を占領してフラ
!
241
ンス軍が16度線を越えるのを防ぎつつ、必要とする物は何でも奪い取って生活してい
た。中国企業(ほとんどが蒋介石の取り巻きのもの)が暴騰した中国ドルを使用し
て、フランスが所有していた鉱山、工場および他の企業を低価格で買い占めていたこ
ろ、ホー・チ・ミンの政府は人頭税を廃止し、塩、アルコールおよびアヘンの独占を
廃止した。18歳以上の全市民への選挙権の付与を含む真の改革は、アヘン、売春、ア
ルコールと
博を禁止し、土地を持たない農民に土地を与え、堤防を修復し、組合の
組織化を可能にして、かつてフランスが所有していた公益企業を国営化した。識字力
向上のキャンペーンが大々的に行われ、ハノイ大学は再開された。
1946年の夏、ザップ将軍は推定5000人の日本人将校と特技兵、とりわけ帝国陸軍の
大佐と向山大佐の助力でベトナム兵の訓練と指導を行い解放軍を6万人に増強し
た。日本では1945年に既に戦争犯罪人の裁判が始まっていたため、ザップとホー・
チ・ミンは日本に帰国を望まない反植民地主義の軍人と元憲兵隊員に対して、解放軍
へ積極的に参加するよう要請を始めた。そして、ザップは彼らにベトナムの市民権と
偽の身分証明書を用意した。この作戦は、最終的にベトミンとその戦闘能力の強化に
重要な役割を果たすことになった。実際、1947年の和平協議におけるフランス側の
要求の一つが、ベトミンを訓練している「日本の戦争犯罪人」を引き渡すべきである
というものであったが、ホー・チ・ミンはその要求を断固として拒否した。彼は日本
人を盟友、そして友人と呼び、決して裏切ろうとせずに和平交渉の席を立ち、その結
果、戦争は7年間も続いた。向山と
はザップ将軍の最も重要な将校となったが、二
人はおそらくベトナムで戦死したと思われる。彼らが組織した自転車による供給・輸
送部隊は日本軍によりマレーシアのジャングルで初めて用いられ、優勢な敵の空襲・
砲撃・機甲部隊に対する地下壕トンネルの防衛システムは硫黄島と沖縄の戦いに初め
て用いられ、それらがベトミンの最終的な成功には欠かせないものとなった。
1946年12月17日、フランス軍がハノイのベトミンに対して3日以内の武装解除を要
求した結果、散発的な戦いが起こりフランスは戒厳令を発令した。これが1946年か
ら1950年にわたるフランス対ベトナムの戦争の始まりとなり、ザップはラジオ放送で
民族解放への戦いを呼びかけ、ホー・チ・ミンはベトナム人が犠牲に耐えて最後まで
戦うよう強く求めた。1947年1月には、フランス軍がインドシナに約11万5000人の
兵力を集結し、ベトミンの本部に対して落下傘部隊による攻撃を開始したが、ホー・
チ・ミンを捕らえることはできなかった。結果的にベトミンは1948年以降、防衛戦
術を変更して、フランス軍に対して積極的に戦闘を仕掛けるようになった。
!
242
1949年10月1日に毛沢東は、北京を首都として中華人民共和国を宣言。1950年1月
18日、中国はベトナム民主共和国に外交上の承認を与えた最初の国となった。毛沢東
からベトナム唯一の合法政府との認識を得たホー・チ・ミンはひそかにモスクワを訪
問。そこでスターリン、毛沢東とホー・チ・ミンは同盟に合意し、ソ連は中国を通じ
てベトナムへの援助を約束した。
満足したホー・チ・ミンが毛沢東、周恩来と共に鉄道で北京に帰ると、中国は援助物
資の輸送とアドバイザーの派遣を開始し、その年の終わりまでに2万人のベトナム人を
武装させ訓練した。ベトミンの兵力は16万人に達し、フランス軍に対して攻勢に出
た。4000人を失ったフランス軍は、中国と国境を接する全地域から撤退した。
フランス国民議会はフランス統治下のベトナム、カンボジア、ラオス連合国を創設
し、米国は1950年3月にフランス領インドシナに対する軍事的援助を開始した。米国
の軍事顧問団(MAAG)がサイゴンで発足し、6万5000人のベトナム兵士の援助と米
軍の助力により勇気づけられたフランス軍は、独立のために戦うベトナム人に対して
大胆な作戦を開始した。その間にも、衝突はラオスとカンボジアにも波及し、ベトミ
ンを模範として植民地から解放されたインドシナ実現を掲げてパテト・ラオとクメー
ル・セレイが組織された。
1954年までに太平洋の戦争の重心がインドシナへ移ったが、そこでは中国から武
器、専門知識、食糧および物資の供与を受けたベトミンが、恐るべき正規軍に変身し
つつあった。それに対して米国から武器と10億米ドルがフランスへの戦争支援として
供与された。ランソンとホアビンの戦いでの惨敗にもかかわらず、ザップ将軍の屈強
な意志力や兵士たちの士気の高さと立ち直りの早さが最終的な差を生み、1954年の
ディエン・ビエン・フーの戦いではフランス軍と(それに協力した米国)を屈辱的な
敗退へと追いやったのである。
!
243
【第24章】ディエン・ビエン・フーの戦い
ベルテイユ大佐が考案した「ハリネズミ」と呼ばれた新戦術はナサンの戦いで用いら
れ、フランス軍に勝利をもたらした。その戦いで、ベトミンは叩きのめされ、多くの
犠牲を被って撤退を余儀なくされたのである。ザップ将軍をおびき出してディエン・
ビエン・フーの谷で壊滅的な敗北に追い込み、ラオスへのベドミンの脅威を排除しよ
うと、アンリ・ナヴァール将軍はこのハリネズミ作戦をより大きな規模で繰り返し実
行することにした。
ナサンの戦いとの決定的な違いにフランス軍は気付かなかった。ナサンでは高地を支
配していたが、ディエン・ビエン・フー谷ではザップの軍隊が周辺の丘を支配してお
り、フランス軍は谷底にいたのである。さらに、ベトミンは兵力で外人部隊を4対1
の割合で上回り、非常に困難な地勢での重い大砲や対空砲の輸送、充分な火薬の備蓄
など、ジャングルでの戦争については日本軍の戦略を用いていた。ベトミンは大砲を
上手くカモフラージュし、おとりを仕掛けるとともに、戦いの前にフランス軍の大砲
の正確な位置を突き止めていた。
フランスの作戦行動は1953年11月20日に開始され、谷の中のナターシャ、オクタ
ヴィーおよびシモーネの三つの地域に9000人の部隊を降下させた。かくして11月の
終わりまでには、六つのパラシュート大隊がそれらの拠点を強化した。
12月、谷全体を七つの砦に分割したカストリ大佐は、自分の男らしさを自慢しようと
それぞれの砦に自分の元愛人の名前を付けたと言うが、それは創作である。というの
も、砦の名前はアルファベット順になっているからだ。北西のアンヌ・マリー、北東
のベアトリス、南のクロディーヌ、北東にはドミニク、南にはエリアンヌ、北のガブ
リエル、滑走路(元々日本軍が築いたもの)にはユゲット、南へ6kmの位置にはイザ
ベルという配置である。
12月末までには、精鋭パラシュート部隊や大勢の元ナチス親衛隊員、アルジェリアと
モロッコの歩兵を含む百戦錬磨のフランス外人部隊により構成された1万6000人近く
の兵が、谷のフランス軍陣地に配置されていた。ザップ将軍は重砲部隊と高射砲隊を
含む5万人の部隊を、谷を見下ろす丘に送ってフランスのハリネズミを包囲した。戦い
は3月13日に始まり、ベトミンはベアトリス砦に圧倒的な大砲攻撃を開始。ベトミン
!
244
側は600人の死者と1200人の負傷者を出しながらも、司令官のペゴ少佐、ゴーシェ
大佐および外人部隊の500人を殺害した。これでベトナム人の士気は高まったが、フ
ランス軍砲兵司令官シャルル・ピロートはベトミンの射撃手に対する自軍の大砲の無
能さに落胆し自決した。
次に滑走路が攻撃されて、フランス軍はパラシュートで物資を供給せざるを得ず、ア
ルジェリアのエリート大隊が守っていたガブリエル砦が夜襲されて砦を放棄したこと
でここでの戦いは終了した。フランス軍は約1000人を、そしてベトミンは約1500人
を失った。
(75)ディエン・ビエン・フー
!
245
アンヌ・マリー砦は少数民族タイ・ベトナム人により防衛されていた。彼らはガブリ
エル砦の陥落により士気を失い、持ち場から離れたり逃亡したりしたため、残るフラ
ンス軍は撤退せざるを得なかった。また、空からの補給はベトミンの対空機関銃に
よって多大な損失を被り、3月末までにザップ将軍はディエン・ビエン・フーの中心に
あるドミニク砦とエリアンヌ砦に対する攻撃を強化した。続く数日間は凄まじい夜間
攻撃と反撃の応酬となり、さまざまな要塞と防衛拠点の奪取、奪還が双方の間で繰り
返され、両軍ともに多大な犠牲を強いられた。
4月10日にフランス軍は谷中央部の防衛には不可欠である第1エリアンヌの奪還を企
て、翌日までにベトミンの捨て身の反撃を打ち破り、同月12日にはエリアンヌ砦を確
実にフランスの支配下に置いた。この時点でベトミンは多数の犠牲者を出し、6000
人の死者と8000人の負傷者に加え2500人が捕虜となったのであるが、有効な医療機
関が完全に欠如しており、多くのベトミン部隊に危機がもたらされた。この状況下で
上官への反抗や命令拒否をする者が現れ、体制の崩壊が危ぶまれたが、ラオスから増
援部隊を招集することでザップ将軍は辛うじて危機を回避した。
(76) 1954年3月のディエン・ビエン・フー
!
246
4月22日の朝、ベトミンは滑走路のほとんどを掌握して、パラシュートでの補給を実
質的に不可能とし、5月6日に疲弊した最後の防衛側の兵士に対して最終的な攻撃を開
始した。5月7日、約3000人の守備隊に対して、約2万5000人のベトミンによる総攻
撃をザップ将軍は命令した。
午後5時、カストリ大佐はハノイの司令部に無線連絡を行い、以下のように告げた。
至る所にベトミンが
れている。状況は極めて深刻だ・・・・しかしわれわれは最後
まで戦う。
夕方までにフランス軍の中心拠点は敵の手に渡り、ラジオ・オペレーターは最後の言
葉を残した。
敵はわれわれを制圧した。全てが吹き飛んだ。フランス万歳!
戦闘中にフランス軍と米軍の間で秘密会談が行われ、ベトミンに対する戦略的核兵器
の使用の可能性について議論された。Vulture (ハゲワシ) と名付けられたこの作戦
は、米国第7艦隊空母から150機の戦闘機に守られた60機のB-29爆撃機を送り込み、
ザップ将軍の拠点へ三つの核爆弾を投下するか否かの選択肢と共に、米空母がトンキ
ン湾に侵入してディエン・ビエン・フー上空の常時偵察飛行を行うことを含むもので
あった。
アイゼンハワー大統領は最終的に他国への不干渉に反対する決定を下し、ザップ将軍
はフランスに驚異的な敗北を与えた。ディエン・ビエン・フーの戦い1954年5月7日
になされ、フランス政府はジュネーブ会議においてカンボジア、ラオスおよびベトナ
ムを独立させることを余儀なくされた。
!
247
【第25章】南ベトナム戦
5月8日にはベトミン軍が捕らえたフランス軍兵士の数は、4346人の負傷者を含む、
1万1721人で、そのうち4カ月後に送還されたのは3290人のみであった。ベトミンの
勝利の結果、ジュネーブにおいて、ベトナムを北部のベトナム民主共和国と南部のベ
トナム共和国とに分断する17度線の設定が一時的に合意されたが、この合意は1956
年の自由で民主的な国政選挙後の再統合までしか存続しないことになっていた。アル
ジェリア戦争のためにフランスがインドシナから撤退した後、米国はゴ・ディン・ジ
エム(呉廷琰)を南ベトナム政府(ベトナム共和国)の指導者とし、ジュネーブ協定
に反していかなる選挙も行うつもりはなかった。
ジエムはカトリック教徒を両親にフエに生まれ、ジャン・バティストという洗礼名を
授けられた。後にベトナムの最高位の神父となった兄を持つジエムはカトリックの学
校へ通い、1921年に卒業した後公務員となった。区長に昇格した彼はフランス人に
高く評価されるようになり、農民の反乱を制圧する手助けをし、反ベトミンを公約と
して政界に入った。成功の見込みはほとんど無かったが、ジエムの活動にうんざりし
たベトミンは1950年に彼の不在中に死刑を言い渡した。ジエムはフランスに保護を
求めたが拒否されたためベトナムを離れ、バチカンで聖年を祝うと称してローマへ
発った。
途中で日本に立ち寄り、マッカーサーの助けを得ようと試みたが無視された。しかし
ジエムはアメリカで運がひらけ、「米国の法王」であり反共産主義者として有名なフ
ランシス・スペルマン枢機
に紹介された。枢機
はニューヨークの大司教であり、
マッカーシーの忠実な支持者であるとともに、米国の「ベトナム戦争推進論」の先駆
者でもあった。
1936年には既にスペルマン枢機
は米国の政治に対して強い影響力を持ち、ルーズベ
ルトが再選されるよう立ち回っていた。「キリスト教インドシナ」の十字軍として、
毎年クリスマスには日本、韓国およびヨーロッパで米軍と共に過ごしていた彼は、
ゴ・ディン・ジエムの最強の擁護者であり、米国の破滅的なインドシナへの関与の土
台を築いた人物である。
!
248
ジエムを無能で狂信的と見ていたフランスの警告にもかかわらず、アイゼンハワー政権
は彼を南ベトナムの首相に任命した。米国によるこの選択は最初から残念な結果と
なった。ベトナム農民から見れば彼は常によそ者であったため、1954年6月26日にジ
エムがサイゴン空港に到着した際、歓迎に出迎えたのは数人のカトリック教徒のみで
あった。ジエムが最初に手がけたのは、米国海軍、CIAと共に行った「自由への
道」作戦である。それは、「キリストは南へ向かった」というようなプロパガンダを
使って100万人を超えるカトリック教徒を北ベトナム(ベトナム民主共和国)から南
へ移動させ、ジエムの支配を強化することであり、蔓延するキリスト教徒の迫害につ
いてホーチンミンを非難することであった。
ジエムの立場はそれでも弱く、国民軍はフランス軍の支配下で訓練されており、カオ
ダイの私的軍隊はメコンデルタを、そしてベトミンは地方の3分の1を支配していた。
サイゴンでは4万人のビン・スエン派の犯罪組織が権力を握り、売春宿、カジノ、アヘ
ン工場の経営やゆすりによる悪の帝国を築いており、国家の警察すらも150万ドルで
雇っていた。実際、ジエムの力は自らの勢力範囲にしか通用しなかった。
ゴ・ディン・ジエムはヒットラーを尊敬するアヘン中毒者の弟ゴ・ディン・ヌー(呉
廷瑈)と共に、1955年10月、ベトナムの未来を決める国民投票を行ったが、その結
果はとんだ茶番であった。というのも、ジエムは98.2パーセント相当の票を獲得した
が、有権者数が45万人のサイゴン市で60万5025票を獲得したのだ。
実際、ジエムの3人の兄弟の中で、ヌーは秘密警察の長官、カンはフエの責任者でラ
オスを通じてアヘンを操り、フエの大司教であったトゥックは郊外の不動産、農地お
よびゴム園をカトリック教会の名の下に抱え込んで、1500平方km(37万エーカー)
の免租地を所有していた。彼らはシシリアのマフィアファミリーのように、南ベトナ
ムを動かしていた。
ヌーと妻は宝くじや通貨を操ってオフショア銀行に財産をためこみ、在イギリス大使
であるジエムの4番目の弟は政府の情報を利用してピアストル - ポンドに投機して億万
長者となった。
ある米国人が言うように、「サイゴンはアル・カポネがいたころのシカゴより酷い」
ということだ。
!
249
それに加え、共産党員と疑われた者、反腐敗活動家やジエム王国の批判者に対する拷
問と殺人が絶えず行われ、推定で5万人が処刑され、7万5000人が投獄された。必然
的に暴力的な抗議運動が増し、1957年には反政府活動が組織化され始めた。そして
1959年、ついにハノイの中央委員会は南における武装闘争を認め、1960年12月20
日にジエム政権と戦うべく解放民族戦線(南ベトナム解放民族戦線)が設立された。
米国の傀儡である南ベトナムのジエム政権に対するベトナム国民の反感の理由は主に
二つあるが、一つは不公平な土地の分配であった。例えば、メコンデルタの40%は人
口の0.025%の地主によって所有され、全国土の55%を人口の10%が所有していた。
もう一つの理由は、カトリック教会の極端な特権的地位と人口の約80%を占める仏教
徒に対する差別である。
政府や官僚の全ての重要な地位はカトリック教徒によって占められ、南ベトナム軍
(ベトナム共和国軍)で昇進するのは皆カトリック教徒であり、実際のところ野心的
なベトナム人の高級官僚の多くはカトリック教徒となって成功した。今日の韓国でみ
られるキリスト教徒の力の独占と類似している。
カトリックの神父の中には私有の軍隊を持ち、キリスト教への改宗を強要し、略奪を
行い、仏塔の焼き討ちや破壊を行わせていた者もいる。いくつかの村はキリスト教へ
改宗することで援助を受け、再定住化や強制労働を避けた。1959年にジエムは、ベト
ナムを聖母マリアに捧げ、重要な公的行事にはバチカンの旗を揚げた。これが仏教の
危機につながり、1963年6月11日、僧侶のティック・クアン・ドックがサイゴン中
心部で焼身自殺をした。マルコム・ブラウンがこの焼身自殺を撮影したことで世界中
から反感が巻き起こり、米国・ジエム政権失敗の動かぬ証拠となった。
他の数名の僧侶もドックの過激な抗議に倣ったが、それに対するジエムの反応は
1400人の僧侶を逮捕して仏像を破壊し、寺と神聖な仏教遺物を守ろうとした農民を
殴ったことから、ジエム政権に対する抵抗やボイコット、不服従が日常となった。
!
250
(77) 仏教の僧侶、ティック・クアン・ドックの焼身自殺
ヌー夫人は公の場で以下のようにコメントした。
もし仏教徒がさらに人間バーベキューをしたいのなら、喜んでガソリンを差し上げま
しょう。
このコメントは世界中の世論と共に、米国とCIAのベトナム専門家に危機感を抱か
せた。1963年11月1日、仏塔への襲撃により引き起こされた軍事クーデターは米国
に承認され、即座にジエムと兄弟たちの処刑が行われた。
皮肉なことに、ジエム政権の後には安定した南ベトナム政府は確立されず、「アメリ
カ帝国主義に支えられた政府は次々に滅びるだろう」というホー・チ・ミンの予言は
現実となった。1964年までに解放民族戦線の兵士は10万人に達し、ベトナムの米軍
兵士の数も1万6500人となったが、解放民族戦線がプレイクの空軍基地を襲撃した
際、米兵8人が死亡し、128人が負傷した。それは、北ベトナムへの爆弾攻撃を正当化
する口実となった。
「フレミング・ダート」「ローリング・サンダー」「アーチ・ライト」などの爆撃作
戦は、ホー・チ・ミンの解放民族戦線への支援を阻止し、北ベトナムの防空、産業と
!
251
輸送のインフラを破壊するためのものであり、「ローリング・サンダー」作戦だけで
も百万トンもの爆弾とロケットが投下された。
爆撃はベトナムのみに限定されず、ラオスとカンボジア、ホー・チ・ミン・ルート全
般が攻撃され、例をあげるとカンボジアだけでも合計で275万7000トンの爆弾が投
下された。全体的に見ると、ヨーロッパの戦域で連合国が投下した合計270万トンに
比べて、インドシナ全土への米国の爆撃はなんと672万7000トンに及んだ。北からの
ベトコンへの供給を阻止する目的は果たされることなく、むしろ解放民族戦線へのさ
らなる支援に繋がった。
1945年に東京大空襲を計画したルメイ将軍が「ベトナムを爆撃して石器時代に戻して
やる」と脅したが、結局実行されなかった。さらにほとんどの米国人は、この衝突が
政治的・宗教的なものであり、爆撃によって勝利は得られないことを理解していな
かった。
1965年1月31日、戦術戦闘航空団が沖縄からダナン空軍基地へ移送された。南ベト
ナム軍が基地の安全を守れないことから、3500人の米国海兵隊が、「共産主義に対
する世界的な戦い」に参加するためにベトナムに派遣され、それを受けてホー・チ・
ミンは以下のように警告した。
もし米国が20年にわたる戦争を望むなら、われわれも20年戦うであろう。
解放民族戦線がビン・ジア、ドン・ソアイで南ベトナム軍に勝利すると、南ベトナム
軍兵士の脱走と士気の低下は増すばかりであったので、米軍は12月までに20万人に
達する兵員を配置した。ウエストモーランド将軍は全ての外交的な偽善を捨てて、ベ
トコンとホー・チ・ミンに対する無期限の戦いを開始した。将軍は1967年末までに
は勝利を収めるであろうと予測し、南ベトナム政府は事実上空洞状態であると認め
た。
米軍の軍務を1年に定めたことで、部隊には経験豊富な戦闘リーダーが不在となり、こ
の方針は間違いであると判明した。「米兵は10年間ベトナムにいたのではなく、1年
を10回繰り返しただけ」であり、そうこうしている間にベトコンとベトナム人民軍は
戦で鍛えられたエリート将校を増やしていった。米国は同盟国にインドシナへの軍隊
を派遣させようとしたが、北大西洋条約機構の主要メンバーであるイギリスとカナダ
!
252
はこれを拒否し、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、タイおよびフィリピン
だけが米国が費用を持つということで、派兵を承諾した。
この間に近代戦における全く新しい武器が出現した。それを思うままに繰れない者に
は、破滅的な結果をもたらすものであった。それは、世界中に出来事を直接伝えるこ
とのできるテレビ生放送と呼ばれるものであり、そのせいでパリからワシントンまで
全世界の主要な都市において、大規模な反米デモが行われた。1963年以降、テレビ
に映しだされる戦争、攻撃、軍事行動は、ザップ将軍の戦術および戦略にとって重要
なものとなった。
(78)テト攻勢
そのような攻撃の最初はテト攻勢と呼ばれるもので、1968年1月31に始まり、サイゴ
ン政府を転覆させ戦争を終結させるために、8万人の解放民族戦線の軍隊が首都を含
む100を超える都市や町を襲い、軍事拠点、政府及び民間施設への攻撃を開始した。
従来の軍事的観点からみれば、テト攻勢は失敗であったが、テレビという最前線では
素晴らしい成功とされたのである。「サイゴンへの攻撃は単なる陽動作戦である」と
!
253
言い張るウエストモーランド将軍は、たいへん滑稽に見えたが、彼を含め米国の指導
者全員が、この攻勢の規模と組織力に大いに揺さぶられたのは明らかだった。
サイゴンでは攻勢の主要な標的を、タン・ソン・ニャット空軍基地、独立宮殿、米国
大使館、ロンビン司令部および国立ラジオ局と定め、それらを48時間占領することを
計画していた。
ホー・チ・ミンのサイゴン解放の声明を録音したテープを持つ解放民族戦線の最重要
目標であったラジオ局を、6時間にわたり占拠したのだが技術的な問題が起こり放送
はできなかった。
19名からなる奇襲部隊が6階建ての米国大使館を攻撃し、部隊長が殺されたにもかか
わらず、大使館の一部を6時間にわたって制圧し5人の米国人スタッフが死亡した。民
間人の服を着てサイゴン中に散らばった小規模なベトコンチームが、軍人や警官、政
府関係者を粛清していたことで、解放民族戦線の幹部の多くが普通の市民をよそおい
生活し、働いていたことが明らかになった。
国家警察の長官グエン・ゴク・ロアンが、捕縛したベトコン将校のグエン・ヴァン・
レムを、カメラマンとテレビレポーターの目の前で処刑するという有名な事件があっ
た。世界のメディアに映し出されたこの映像は、レムが警察官とその家族の殺害に加
わっていたことは説明しなかった。
(79) グエン・ヴァン・レムの処刑
!
254
テト攻勢 (1月30日∼4月8日)の第1期であるサイゴンとその周辺の掃討作戦中に、
約4万5000人の共産軍兵士が殺害され、数多くが負傷したが、米国と南ベトナム側も
4300人の死者と1万6000人の負傷者を出したのであった。
ベトナムの歴史的な首都フエでの戦いは、この戦争においてこの上なく残酷で長期に
わたるものとなった。1万以上の解放民族戦線のゲリラ部隊とベトナム人民軍の兵士が
支配していた街を、米国海兵隊と南ベトナム軍大隊が攻撃した。1968年1月31日、ベ
トコンとベトナム人民軍は、解放民族戦線によるフエの支配権掌握という戦略目標の
ために要所を標的に猛攻をかけ戦いが始まった。
タイ・ロク飛行場とフエ王宮を襲撃し、南ベトナム軍の制服を着た4名の特別奇襲隊
が西門のガードマンを殺害して門を開放すると、ベトナム人民軍が押し入り王宮の塔
に解放民族戦線の旗を掲げた。
時を同じくして、フエ郊外のフバイ飛行場で襲撃を受けた米国海兵隊の増援部隊が市
内に入り、家から家へと激しい接近戦が3週間以上にわたって続いた。
最後に米軍の艦上攻撃機「スカイホーク」がナパーム弾と爆弾を投下して後、ようや
く海兵隊は米国旗をフエ王宮に揚げたのだが、米国旗と南ベトナムの旗は共に掲揚さ
れることになっていたので南ベトナム側から抗議が起こった。数名の米軍将校が米国
旗を降ろそうとすると、海兵隊員は彼らを撃ち殺すといきり立った。
最終的に海兵隊員は、上官の命令により国旗を自らの手で降ろした。
解放民族戦線は、フエでの戦闘で推定9000人の死者に加え市民の犠牲という痛手を
負い、処刑された者は5000人を超え、市の80%が米国の重火器によって破壊され
た。軍事上フエの戦いは米国の勝利であり、市を一カ月にわたり支配したとはいえ解
放民族戦線の敗北であった。だが、世界中の世論とテレビの報道によって、この対立
の終わりが見え始め、米国は出口戦略を探ってベトナムからの撤退を意味するニクソ
ンとキッシンジャーの「ベトナミゼーション」が誕生することとなった。
米国軍の段階的撤退はテト攻勢の後に時を置かずして始まり、北ベトナムによる国家
の再統一に向けての取り組みをソ連と中国が支持し補給を続けるなか、ニクソン政権
!
255
はソ連との緊張緩和と中国との関係改善という新しい方策に着手した。
1969年9月にホー・チ・ミンが死去し、ソンミ村虐殺事件が暴露されて以降、驚異的
な力を持つようになった反戦運動は米軍を苛つかせ、米軍の小隊は民間人の村を襲い
女姓や子供を殺害したり、強姦したりと大暴れした。なお、ニューズウィークは米軍
の作戦で1万人のベトコンが殺害され、恐らく犠牲者の半分が民間人ではないかとの
見解を示した。
(80)ソンミ村虐殺事件
!
256
【第26章】サイゴン陥落・解放
ジュネーブ協定により独立を果たしたカンボジアは、シハヌーク殿下の主導で1950年
代から60年代にかけて中立政策をカンボジアの政策基盤とした。1960年代中頃に、
カンボジア東部各州とホー・チ・ミン・ルートでのベトナム人民軍の活動が引き金と
なって、米国軍はカンボジアを14カ月にわたって集中爆撃し、これにより中立国だっ
たカンボジアの内陸にまで戦争が飛び火していった。ベトナム人民軍・解放民族戦線
(南ベトナム解放民族戦線)はもちろん、米国やその他のいかなる勢力も、カンボジ
アから締め出すというシハヌーク殿下の政策に動揺した米国は、シハヌークに北ベト
ナム支持者というレッテルを貼った。その上、米国政府はCIAにシハヌークを排除す
るよう命じ、1970年に彼を国外へ追放した。こうして米国はインドシナ全域での軍事
活動にカンボジア領空を自由に使えるようになったが、これがかえってクメール・ルー
ジュ(カンボジア共産党)およびポルポト政権を刺激し、ラオスにおける共産主義革
命勢、パテート・ラーオの勝利を招く結果となった。
解放民族戦線への陸上補給路であるホー・チ・ミン・ルートを断ち切るための、米軍
によるカンボジアとラオスへの秘密裏の爆撃、そして南ベトナム軍(ベトナム共和国
軍)と米軍の、中立政策を取るカンボジアへの侵略は、米軍がベトナムから撤退した
にもかかわらず、南北ベトナムの対立を激化させた。さらに、これに関する米軍の関
与を裏付ける米国国防総省の機密文書がニューヨークタイムズによりリークされる
と、米国内をはじめとして世界中の反戦意識は著しく高まった。米軍部隊の士気や規
律は低下して薬物の使用が増え、命令違反に加え「嫌な上官を手榴弾で殺傷する事
件」さえも起こり、その結果、オーストラリアとニュージーランドは1971年に自国部
隊をベトナムから撤退させた。
解放民族戦線とベトナム人民軍による1972年のイースター攻勢(別名、グエン・フエ
攻勢)を、米軍の大規模な空軍力(ラインバッカー作戦)で、かろうじて停止に持ち
込めたしたことから、「ベトナミゼーション(ニクソンのベトナムからの撤退戦
略)」の失敗と、南ベトナムが単独では生き残れないことを疑う余地はなかった。4
月20日、ニクソン大統領補佐官のキッシンジャーは、モスクワでソ連共産党書記長の
ブレジネフと密かに会見し、北ベトナム政府が攻撃を止めるようソ連に圧力をかけて
もらおうと説得を試みた。米国政府と中国政府との関係改善を警戒したブレジネフは
!
257
この申し入れに同意し、パリでの秘密会談を設定して、キッシンジャーと北ベトナム
政府(ベトナム民主共和国)特使のレ・ドゥク・トとを引き合わせた。これをチャン
スと捉え、勝利を実感したベトナム側は、いかなる取引にも妥協するつもりはなく、
この会談は「容赦ない侮
的な言葉の応酬」で終わった。
1972年5月1日、4万人のベトナム人民軍が15万人の南ベトナム軍を撃破してクアン
チ市を陥落し、それを受けてパリ和平交渉は打ち切られた。ニクソンは激怒し、「今
度こそ、あいつらをこれまで経験したことがないような、激しい爆撃にさらしてや
る」と誓い、5月8日午前9時丁度に「ポケットマネー作戦」を発動。空母コーラル・
シー から発進した海軍のA-7コルセアII 艦上攻撃機とA-6イントルーダー艦上攻撃機
が1000ポンド機雷(Mk52機雷・Mk55機雷)36個をハイフォン湾に投下した。
ニクソンは攻撃と同時にテレビで米国市民に「殺戮を止める唯一の方法は、世界の無
法者、北ベトナムの手から戦争のための武器を取り上げることである」と語りかけ
た。5日後に起動する機雷が投下され、その上、あちこちの港にもそれとは別に1万
1000個の機雷が仕掛けられ、あらゆる海上貿易や海上交通が遮断された。
この作戦の目的は、鉄道、橋梁、鉄道車両、貯蔵施設、飛行場を爆撃し、最終的には
空軍防衛システムを破壊して中国からの毎月2万2000トンに上る補給物資を断つこと
で、北ベトナムを孤立させることにあった。月末までに、中国に向かう鉄道のハノイ
とハイフォン間に懸かる橋13基に加え、南の区間でも数基が米軍により破壊され、同
時に、米軍の集中爆撃で石油備蓄施設やその他の施設も破壊された。なお、この攻撃
でB-52の出撃1000回を含む爆撃機の出動は、2万9000回にも上った。南ベトナムに
よるベトコンへの精密誘導爆弾の投下と、それに加えた爆撃では、クアンチ省だけで
5万7000トンのナパーム弾が落とされている。この後、パリ和平交渉が再開され、ベ
トナム・ラオス・カンボジアにおける軍事行動を禁止するケース・チャーチ修正案が
1973年1月26日に提出される結果となった。この法案は米国の爆撃全面停止期限を
1973年8月15日として、5月13日に上院で承認された。
1973年1月15日、ニクソンは北ベトナムへの攻撃を終了すると発表した。そして、同
年1月27日、ベトナム戦争を終結するパリ和平協定に調印すると、ベトナムの国土統
一と南北ベトナムにおける総選挙を呼びかけるとともに、60日以内に米軍がベトナム
から完全に撤退することを決めた。
!
258
当然ながら、停戦は協定調印後早々に破られた。解放民族戦線は乾季に作戦を再開
し、1974年1月までにかなりの領土を奪回した。その結果、南ベトナム側の死傷者
は2万5000人に上り、南ベトナムの大統領グエン・バン・チューは、停戦はもはや効
力を持たないと発表。米国をベトナムの泥沼にもう一引き込もうとしたのである。
幸運にもウォーターゲート事件がニクソンにとどめを刺し、米国議会はグエン・バ
ン・チュー政権への資金援助削減を決定した。この決定をきっかけに、解放民族戦線
の指導者たちは大規模な攻撃に踏み切った。解放民族戦線の軍司令官、チャン・ヴァ
ン・チャは南ベトナムの決意と米国の不関与を確かめるために、カンボジアから南部
のフォックロン省(現在はビン・フォック省の一部)に限定的に侵攻するように指令
を出した。省都のフォック・ビン市は1975年1月6日に攻撃を受け陥落し、これが南
ベトナムの指導者の士気をくじき無抵抗にさせた。さらに米国が傍観する立場を取っ
たため、解放民族戦線の勝利がついに手の届くところに近づき、ベトナムの再統一が
現実的になった。
(81) サイゴン陥落直前の様子
!
259
1975年初頭、南ベトナムは敵に比べて、3倍の砲台、2倍の戦車と装甲車を装備し、
その上航空機1400機と2倍の戦闘部隊を有していた。だが、彼らが相対したのは綱紀
正しく、整然と組織化され、断固とした決意を持つベトナム人民軍・解放民族戦線
だった。1975年3月10日、ヴァン・ティエン・ズン大将は攻撃目標をプレイク市と定
め、戦車や重火器で中部高地の攻撃を開始した。その結果、攻撃は驚くほど速やかに
成功し、南ベトナム軍の防衛部隊は3月11日に崩壊した。南ベトナムのグエン・バ
ン・チュー大統領は軍の撤退を指示したが、すぐに大混乱になった。南ベトナム軍の
大部分がプレイク市やコムトゥム市を見捨てて逃げ出し、孤立し包囲された部隊だけ
が死に物狂いの戦闘を続けた。
この撤退は「コラム・オブ・ティアーズ(涙の隊列)」として知られるようになっ
た。安全な地を求め逃げ惑う人々で惨たんたる混乱の中、兵士に混じった民間人難民
がベトナム人民軍・解放民族戦線の砲撃を受け、多数の将校はパニックに陥って部隊
を見捨てた。撤退中の部隊も4月1日には完全に一掃された。
この勝利に続き、5月1日には最終的な勝利とサイゴン占領を目指して、ホー・チ・ミ
ン作戦が開始された。ベトナム人民軍・解放民族戦線の士気は高まり、精鋭部隊が
次々と、ナトラング(ニャチャンとも呼ばれる)、カムラン、ダラットの各市を占領
していった。4月7日、彼らはサイゴンから60kmのスアンロック市を攻撃し、2週間
にわたっての絶望的な戦闘を最後の砦として抵抗を続けていた南ベトナム軍第18師団
を打ち負かし、最終的に南ベトナム軍は4月21日に降伏した。
混乱、パニック、無法状態に陥ったサイゴンには戒厳令が敷かれ、南ベトナム政府の
役人や高級将校、そして南ベトナム市民は街を離れようとしていた。米軍は「フリ−
クエント・ウインド作戦」を実行し、リスクのある特定のベトナム人やほとんどの米
国人と外国人をサイゴンのさまざまな地点からヘリコプターで避難させた。
4月29日に開始されたこの作戦はヘリコプターを使った歴史上最大の脱出劇となっ
た。自暴自棄になったベトナム人が限られた座席をめぐって醜く争い、艦上に着陸ス
ペースを空けるため、米軍の空母から数多くのヘリコプターが海中に投棄される事態
も起った。こうしたあらゆる脱出劇がテレビのレポーターやカメラマンの前で繰り広
げられ、人々の避難が日夜途切れることなく続けられている間に、ベトナム人民軍・
解放民族戦線の戦車がサイゴン郊外に到着した。
!
260
1975年4月30日、解放民族戦線はあらゆる抵抗を制覇し主要拠点や建物を占拠して
いった。そして、ついに戦車が大統領官邸に進入し、解放民族戦線の旗が官邸の上に
掲揚された。米軍は「ホワイトクリスマス」を放送して、最後まで残っていた海兵隊
員にアメリカ大使館の屋上からヘリコプターで脱出するよう合図を送った。
(82) 大統領官邸に入る戦車
米軍が雇用していた何千人ものベトナム人の運命を天に任せ、置き去りにしたこと
は、かなりの議論を呼んだ。こうして太平洋80年戦争は終焉を迎え、サイゴン政権を
倒すという目標は達成されたのであった。一方カンボジアでは、117日間にわたる激
しい戦闘の末、米国派遣団がカンボジアから避難してわずか5日でクメール共和国が崩
壊し、ロン・ノル政権は1975年4月17日に降伏した。そして、4月下旬には北ベトナ
ムの支持を受けたパテート・ラーオがラオスの支配権を握った。
しかし、こうした勝利の代償は恐ろしく高いものだった。
ベトナム人150万人以上が死亡し、300万人が負傷。合計で200万人の民間人が殺さ
れ、400万人が「オレンジ剤」と呼ばれる枯葉剤中毒の犠牲になり(米軍の飛行機は
4500万リットルの枯葉剤をインドシナ全域に散布した)、ベトナム、カンボジア、ラ
オスは莫大な物的被害も受けたのである。
!
261
カンボジアとラオスを除く、第二次インドシナ戦争推定死傷者:
南ベトナム軍
北ベトナム軍・南ベトナム解放民族戦線
死者 270,000人
死者 1,100,000人
中国軍
米国軍
死者 1,500人
死者 58,000人
負傷者 300,000人
韓国軍
死者 5,000人
負傷者 11,000人
南北ベトナムの民間人死者の合計数: 2,000,000人
(83) 爆撃を受けた地点(赤色の部分)
!
262
従来型爆弾の投下状況:
欧州への投下量合計 1939-1945
2,700,000トン
カンボジアへの投下量合計
2,800,000トン
インドシナへの投下量合計
6,800,000トン
日本への投下量合計 1942-1945
650,000トン
!
263
【第27章】結論―太平洋80年戦争がもたらしたもの
結局、太平洋80年戦争で勝利を得たのは誰だろうか?米国、中国、ベトナム、それと
も勝者はいないのだろうか。
この問いに対する答えは簡単ではない。
アジア全域という答えが、多分もっとも正解に近いのではないだろうか。
軍事的に見ると、米国が最も多くの戦闘で勝利したが、政治的には最後の勝利は日本
そして、その結果として中国のものであった。
「世界最古の君主国」と「太平洋支配を狙うキリスト教新帝国」との衝突は、太平洋
沿岸アジア地域における米国の野望の挫折、あるいはよく言って、引き分けで終わっ
た。1975年以降、東アジアで米国軍が駐留する場所はほとんどなくなり、太平洋地
域における確かな米軍基地は、韓国、沖縄、フィリピンにしか残っていない。沖縄に
駐留する米軍でさえ間もなくマリアナ諸島への漸次移転が始まるかもしれない。また
韓国では、米国が後ろ盾となり市民に対し過去40年にわたって推進してきた強引なキ
リスト教への改宗活動に対して、抵抗が高まりつつある。さらに、キリスト教化に伴
い行われてきた韓国民の大多数を占める仏教徒への差別が、これまでの動きを覆すよ
うな過激な変化を朝鮮半島に引き起こす可能性さえある。
それに加え、米国の産業力とアジア市場におけるシェアは急速な低下傾向にあり、競
争力を失わず成長しているのは、航空機産業と軍需産業だけである。2010年現在、
米国で製造されたハードウエア消費財のほとんどが、ミッドウェー島以西の市場に進
出していない。
凄絶な長い太平洋80年戦争の結果、米国と英国という最強の軍事同盟が、無尽蔵の資
金・資源を背景にして絶え間なくアジア・太平洋地域へ関与したにもかかわらず、植
民地を保持することも領有権を確保することもできなかったのは勿論のこと、何一つ
として目標を達成せず、太平洋地域の支配も確立できずに政治的影響力を全て失った
ことが明らかになった。
!
264
ナポレオンの言葉に「剣で作られた王座に座ることはできない」というのがある。
好むと好まざるとにかかわらず、日本は太平洋地域での一連の出来事を主導し、最終
目標としていた太平洋地域およびアジアの同胞の独立国家に対して援助・支援を20世
紀末までに一つずつ達成してきた。
アジア太平洋地域の20世紀の歴史、運命、発展は、過去100年にわたり日本によって
決定されてきた。そして、21世紀もまた、日本はこの地域の中心となるであろう。
2015年までに中国と日本の国内総生産(GDP)合計の期待値が、米国のGDPあるい
は欧州連合(EU)全体のGDPとほぼ同等になるだろうことや、2010年には日本の1
人当たり国民総所得(GNI)がスイスとルクセンブルグに次いで世界第3位になったこ
とを、誰が1975年の時点で予測できたであろうか。
そう、誰もいなかった。
1975年に太平洋80年戦争が終わった後、ほとんど全てのアジア諸国は目を見張るよ
うな急速な発展を成し遂げた。ダイナミックな都市国家シンガポールの金融中心地へ
の変貌は言うまでもなく、こうした発展は新世紀の幕開けを待たずに、台湾、韓国、
中国、インド、ベトナムの各国を、今後も好調が予想される健全経済へと押し上げ
た。
事実、日本は投資戦略をうまく主導して成功させ、世界中の市場に向けた高付加価値
を持つ製品を共同生産するために、アジア諸国の人々の教育や訓練を行った。優れた
品質管理、製品の信頼性、確固たる労働倫理という長所をこれらの国々に導入すると
ともに、手ごろな価格で消費者の満足度を保証し、それまで高額だった製品を発展途
上地域でも手に入れやすくした。
その一方で欧州および米国は、近隣の貧困諸国に長期的な投資をせず、ラテンアメリ
カおよびアフリカは教育支援もなく、貧困から抜け出せないままだった。これらの地
域では、キリスト教会がイスラムとの激しい競争の中で産児制限の普及を阻害したた
め、環境破壊をはじめとして恒常的な貧困、失業、経済破綻の原因となる人口過剰が
抑制される見込みはほとんどない。
最近出版されたばかりのジェームス・ブラッドレー著『Imperial Cruise(帝国の航
!
265
海)』はハワイ、東京、中国、朝鮮、フィリピンへのルーズベルト=タフト・ミッショ
ンについて書かれたもので、多数の興味深い点や新しい事実が明かされている。だ
が、著者は日本が朝鮮半島へと領土の拡大政策を取った主な理由が、安全保障上の懸
念にあったことや、アジア・欧州からのあらゆる移民にとって最も魅力的な目的地と
考えられていた米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドにアジア人が移民す
る上で、人種差別に基づく制約があった結果として満州へ進出したということを忘れ
ている。
当時、誰一人としてブラジルやアルゼンチンで成功した「金持ちのおじさん」の話な
ど聞いたことがなかった。そこで西ヨーロッパほどの広さがあり、人口の少ない満州
の開発が、日本人や朝鮮人のための代替移民地として役立つと考えられたのである。
また、この移民事業を進める際、日本は将来のために満州国の帝政を保全するつもり
でいた。
19世紀から20世紀の中国および朝鮮における貧困と苦悩の主な理由は、民族性や文
化的なことだと信じる西洋のキリスト教的な考えに反して、支配階級の懐古主義的で
教育をないがしろにした政策が原因であった。
進歩的な政府と近代産業をアジアの近隣諸国に導入しようとする日本軍の取り組み
は、米国・英国・ソ連の同盟国によっていったんは潰えたが、それはあくまで一時的
なことだった。1950年から数年後には日本の取り組みは形を変えて再開され、受け
入れられ、適応され、再び息を吹き返した。こうして日本の努力は、1975年の太平洋
80年戦争終結以降、アジア全地域に繁栄する経済圏と十分に発展した数々の国家を作
り出したのである。
日本国有鉄道(現在のJR)は、1964年には既に高速鉄道の新幹線を導入していた。3
人の空気力学技術者、三木忠直、松平精、川辺一によって、時速210kmでの運行が技
術的に可能となったのだ。3人は全員、戦争中に戦闘機や航空機の設計に携わった経
験があり、こうした彼らが今日の新幹線網の基礎を作ったのである。現在新幹線網
は、総延長2176kmにわたり、これまでの40年間に60億人以上の乗客を運んでき
た。また日本の新幹線技術は、台湾、中国、英国、ブラジル、米国、カナダ、ベトナ
ムにも導入され採用されている。新幹線技術の傑出した安全性は、2011年3月11日
に巨大地震(東北地方太平洋沖地震)が起こった際にも劇的な形で証明された。新幹
!
266
線では、全自動の地震予知システムが完璧に作動し、地震発生時に運行されていた何
十本もの列車のうち、乗客に被害を及ぼしたり、脱線したりした列車は一つもなかっ
た。
現実的で典型的な日本の成功といえば、いささか輝かしいファクシミリの歴史である
が、それは計画されていた訳ではなく、たまたまアジアをはじめ全世界の動向と政治
的な現状に影響を与えた。もともとは組織的犯罪と闘う上で、米国の警察や検察官の
ために開発されたファクス技術は、国のあちこちに証拠(写真)を即座に送れるよう
にするためのものであったが、1948年に米軍が民間の使用を許可し、1968年に米国
のITT(国際電話電信会社)によって標準化された。
ちなみに、商業用デジタルファクシミリは日本で初めて開発された。というのも、一
万字もある表意文字である漢字をタイプで打つより、手書きのほうがずっと速かった
ためであり、日本はこうしてファクスの一大市場になるとともに、商業機種の発明、
生産、輸出をほぼ独占することになった。安価なファクスは世界中に広がり利用さ
れ、やがてコントロールできないほど自由に、経済的かつ瞬時に国境を越えて書類が
複製され、世界中に出回ることになった。このことで一元的な情報管理は意味を持た
なくなり、一般的に行われていた政府の電話盗聴は葬り去られることになったが、と
りわけソビエト連邦および東欧はこの影響を大きく受けた。
応用技術をはじめとする日本の、韓国、台湾、シンガポール、香港、中国、タイ、イ
ンド、インドネシア、フィリピン各国への投資や人材訓練、協力事業、合弁事業、融
資は、今日紛れもない歴史的事実であり、将来的に太平洋地域が支配される懸念など
は、過去の幻想以外の何ものでもない。21世紀が明けて10年が経ち、日本、中国、
インド、そして東アジアのあらゆる国が今まで経験したことのないルネッサンスへと
踏み出した。この新たなルネッサンスは文化的に仏教の影響を強く受け、非一神教的
であり、社会的には儒教の影響を強く受けている。そして、比類なく思いやりに
れ、賢明で気高く、現実的かつ実用主義的な社会の再生を目指すものなのだ。
結局のところ、日本のことわざにあるように、「情けは人のためならず」なのだか
ら。
!
267
【著者について】
(84) 1986年1月18日付 毎日新聞 記事「再開の約束40年ぶり実現へ」
(著者がハンガリーと日本の元将校の再会実現に協力)
ガボー・ファブリシャス
学歴
1963-1966 高等学校普通科(コペンハーゲン、デンマーク)
1966-1971 コペンハーゲン大学
1976-1978 コペンハーゲン大学 東アジア学部 日本研究科
職歴
1972-1976
スカンジナビア館 札幌
輸入マネージャーとして次の業務を担当
!
268
・ スカンジナビア企業の発掘とそれらの企業製品の日本への輸入
・ 常設展示および卸売・小売店販路の構築
〔商品構成〕スカンジナビア・デザイン製品、貴金属、毛皮コート、テキスタ
イル、クロスカントリー・スキー用具等
1978-1981
ヘルプメイツ・インターナショナル(Helpmates International) 東京
外資系企業人材コンサルタントとして、中堅管理職を中心にした人材発掘を担当
取引先
・ 銀行(バンカース・トラスト、パリバ証券、ドレスナー銀行、ゴールドマン・
サックス証券など)製造業(ボッシュ㈱、ゼネラル・エレクトリック、タンデ
ムコンピュータズ、カストロールなど)
・ その他国際企業多数。
1981-1996
SGMコーポレーション(SGM Corporation ) 東京
代表取締役
管理職専門人材コンサルティング会社を東京に設立する。
要求水準および競争力の高い多国籍企業に、有能なトップクラスの日本人管理職を紹
介することを専門とし、人材発掘・幹部管理職リクルート市場で急速な成長を遂げ
る。
取引先
・ ボルボ、メルセデスベンツ、アルファロメオ、フォード・ジャパン、ピレリ、お
よび、キダー・ピーボディ、バンカース・トラスト、カナダロイヤル銀行、モン
トリオール銀行、クレーディト・イタリアーノ(イタリア信用銀行)などの金融
機関。
1997-現在
ジャパニーズ・インターネット・マーケティング株式会社 (Japanese Internet
Marketing Inc.)代表取締役
1カ月の閲覧数が65万 を超える日本大手ポータルサイトhttp://naruhodo.comを設
立。
!
269
日本の消費者に役立つ商品情報を直接届けたいと考える企業やサービスのために、効
果的で経済的な宣伝用プラットフォームを提供している。
取引先(リスト一覧を掲載)
http://twwt.com
その他の運営プロジェクト(リスト一覧を掲載)
http://job.twwt.com (GCC)
http://photo.twwt.com
言語能力
デンマーク語、英語、ドイツ語、ハンガリー語、日本語の5カ国語に堪能。スウェー
デン語、ノルウェー語の高い理解力。フランス語の一般知識も有する。
興味の対象・趣味
国際情勢、企業文化・各国文化、歴史、言語学、自然、環境、食文化、芸術、古美
術。スポーツ全般を得意とするスポーツマンで空手(松涛館流)は黒帯保持者。チェ
スの腕前は中級、またブリッジの熱心な愛好者である。
!
270
【文献】
Georg Feifer
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James Bradley
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Chushima, Caroll & Graf, 2004
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The Fleet that Had To Die, Ballantine Books, 1960
Richard Minear
Victorers' Justice,The Tokyo War Trials, Princenton U., 1971
Ronald H. Spector
In The Ruins Of Empire, Random House, 2007
Ruth Benedict
The Chrysanthemum and The Sword, Meridian, 1972
Tadao Takemoto
The Alleged Nanking Massacre, Nippon Kaigi, 2000
Colonel Masanobu Tsuji
Japan's Greatest Victory, Sarpedon, New York, 1993
M. Bánffy
Huszonöt Év, Puski, Budapest 1993
Paul Johnson
Intellectuals, Weidenfeld and Nicolson, London, 1988
E. Radzinszkij
Stalin, Doubleday, New York, 1996
N.N. Jakovlev
Pearl Harbor rejtélye, Kossuth kiado, 1967
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271
【オンライン文献】
本書は、太平洋・アジア地域の80年にわたる歴史を網羅するにはあらゆる面で詳細な情
報が足りていないことは明らかであり、本書『Zen in War』を読まれた方々の多くはよ
り詳しく、いっそう多くの事実を知りたいと思うのではないだろうか。
そこで、そうした読者のために、客観的で正確かつ中立的な事実情報を提供する有益なイ
ンターネットサイトを集めた。
1895: 日清講和条約(下関条約)
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Shimonoseki
1895: ロシア・フランス・ドイツの三国干渉
http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Intervention
1897: シベリア横断鉄道、ウラジオストック開通
http://en.wikipedia.org/wiki/Trans-Siberian_Railway
1898: 米西戦争(米国のグアムとフィリピンの併合)
http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish‒American_War
1898: パリ条約
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Paris_(1898)
1898: フィリピンの独立宣言
http://en.wikipedia.org/wiki/Philippine-American_War
1898: ハワイ王国の米国併合
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Hawaii
1899: ドイツ・スペインの条約締結 (約6000の太平洋諸島を1700万マルクで購入 )
http://en.wikipedia.org/wiki/German‒Spanish_Treaty_(1899)
1900: 義和団の乱と八カ国連合軍の侵攻
http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion
1902: 日英同盟協約
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance
1904: 英国のチベット侵攻
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Tibet
1904∼1905: 日露戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War
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272
1905: ロシア革命
http://en.wikipedia.org/wiki/1905_Russian_Revolution
1905: 桂・タフト秘密協定
http://en.wikipedia.org/wiki/Taft‒Katsura_Agreement
1905: 日英同盟協約の更新
http://navalhistory.flixco.info/H/180236/8330/a0.htm
1905: ポーツマス条約
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth
1905: アジア排斥同盟、米国とカナダで結成
http://en.wikipedia.org/wiki/Asiatic_Exclusion_League
1912: 中華民国の樹立、中国王朝の最後
http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty
1914: 青島(チンタオ)包囲
http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Tsingtao
1914: 独領西サモアをニュージーランドが占領
http://en.wikipedia.org/wiki/German_Samoa
1915: 日本海軍のシンガポール進駐
http://en.wikipedia.org/wiki/Japan_during_World_War_I
1915: 二十一箇条要求
http://en.wikipedia.org/wiki/Twenty-One_Demands
1917: 石井・ランシング協定
http://en.wikipedia.org/wiki/Lansing‒Ishii_Agreement
1919: 五四運動
http://en.wikipedia.org/wiki/May_Fourth_Movement
1919: ベルサイユ条約
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Versailles
1922: 九カ国条約
http://en.wikipedia.org/wiki/Nine-Power_Treaty
1911∼1941: 中独協力(中独合作)
http://en.wikipedia.org/wiki/Sino-German_cooperation_(1911‒1941)
1919∼1927: 中国国民党、孫文、蒋介石、広東時代
http://en.wikipedia.org/wiki/Chiang_Kai-shek
1927: 上海虐殺
http://en.wikipedia.org/wiki/Shanghai_massacre_of_1927
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1927∼1950: 国共内戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Civil_War
1927∼1937: 南京十年
http://en.wikipedia.org/wiki/Nanjing_decade
1928∼1938: ソ連の支配下のモンゴル人民共和国
http://en.wikipedia.org/wiki/Mongolian_People's_Republic
1929∼1939: 世界恐慌
http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Depression
1931: 満州事変
http://en.wikipedia.org/wiki/Mukden_Incident
1936: 西安事変
http://en.wikipedia.org/wiki/Xi'an_Incident
1936: 日独防共協定、中ソ不可侵条約
http://en.wikipedia.org/wiki/Anti-Comintern_Pact
http://en.wikipedia.org/wiki/Sino-Soviet_Non-Aggression_Pact
1937: 蒋介石夫人がアメリカ人パイロットを募集(義勇兵を編成)
http://en.wikipedia.org/wiki/American_Volunteer_Group
1937: 日中戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/Second_Sino-Japanese_War
1939: 日ソ国境紛争(ハルハ河戦争)
http://en.wikipedia.org/wiki/Battles_of_Khalkhin_Gol
1940: 日本軍の仏印進駐
http://en.wikipedia.org/wiki/French_Indochina
1941: ABCD包囲陣
http://tmh.floonet.net/articles/ph25_2.html
1941: 石油禁輸措置、日本の資産凍結
http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?
pid=16148#axzz1GjySuUaU
1941: 真珠湾攻撃開始を命ずる電文「ニイタカヤマノボレ」の打電
http://en.wikipedia.org/wiki/Attack_on_Pearl_Harbor
1941∼1942: フィリピンの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Philippines_Campaign_(1941‒42)
1941: マレー作戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Malayan_Campaign
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274
1942: スリム・リバーの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Slim_River
1942: シンガポールの戦い、マレーの虎
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Singapore
http://en.wikipedia.org/wiki/Tomoyuki_Yamashita
1942: スラバヤ沖海戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Java_Sea
http://combinedfleet.com/battles/
1942: 珊瑚海海戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Coral_Sea
http://combinedfleet.com/battles/
1942: ミッドウェー海戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Midwayhttp://combinedfleet.com/
battles/
1942∼1943: ガダルカナル島の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Guadalcanal_Campaign
1943: コマンドルスキー諸島海戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Komandorski_Islands
http://combinedfleet.com/battles/Battle_of_the_Komandorski_Islands
1943: アッツ島沖戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Attu
1943: タラワの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tarawa
1943: カイロ宣言
http://en.wikipedia.org/wiki/Cairo_Declaration
1944: 中国の戦い、一号作戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Ichi-Go
1944: サイパンの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Saipan
1944: パラオ諸島の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Peleliu
1945: 硫黄島の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Iwo_Jima
1945: 沖縄戦
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Okinawa
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1945: 民間人を標的にした焼夷弾による爆撃
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Tokyo
1945: 広島・長崎の原爆投下
http://en.wikipedia.org/wiki/Atomic_bombings_of_Hiroshima_and_Nagasaki
1945: 昭和天皇による終戦の勅旨「耐え難きを絶え、・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Gyokuon-hōsō
1945: 満州の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Soviet_invasion_of_Manchuria
1945: 台湾の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/228_Incident
1945∼1950: 朝鮮戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/Korean_War
1945∼1950: インドネシア独立戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/Indonesian_National_Revolution
1945∼1949: 中国本土の戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Civil_War
1946∼1954: 第一次インドシナ戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Indochina_War
1954: ディエンビエンフーの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Dien_Bien_Phu
1950: カンボジアの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Cambodia
1959∼1975: ベトナム戦争
http://en.wikipedia.org/wiki/Vietnam_War
1970: ラオスの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Laotian_Civil_W
1975: サイゴン陥落
http://en.wikipedia.org/wiki/Fall_of_Saigon
その他参考になるサイト
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperialism_in_Asia
http://en.wikipedia.org/wiki/Colonialism
http://en.wikipedia.org/wiki/Christianity_and_colonialism
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20世紀 統計資料
歴史全般
http://users.erols.com/mwhite28/20centry.htm
君主制の国
http://users.erols.com/mwhite28/monarchy.htm
識字状況
http://users.erols.com/mwhite28/literacy.htm
朝鮮
http://users.erols.com/mwhite28/korea.htm
中国
http://users.erols.com/mwhite28/chin-rev.htm
http://users.erols.com/mwhite28/chin-cw1.htm
http://users.erols.com/mwhite28/kmt-chin.htm
http://users.erols.com/mwhite28/longmarc.htm
http://users.erols.com/mwhite28/chin-cw2.htm
大英帝国
http://users.erols.com/mwhite28/brit-emp.htm
フランス帝国
http://users.erols.com/mwhite28/frnc-emp.htm
ヨーロッパにおける第二次世界大戦
http://users.erols.com/mwhite28/ww2-eto.htm
第二次世界大戦における損失
http://users.erols.com/mwhite28/ww2-loss.htm
植民地化の終焉
http://users.erols.com/mwhite28/3d-world.htm
共産主義体制
http://users.erols.com/mwhite28/communis.htm
米国軍の世界配置
http://users.erols.com/mwhite28/usaworld.htm
20世紀における戦争その他残虐行為による死亡者数
http://necrometrics.com/20c5m.htm
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@ Gabor Fabricius
All rights reserved
ISBN # 978-4-9905783-1-2
Home Page http://zeninwar.naruhodo.com
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