「予科練」430号 - 公益財団法人 海原会

ヽ−
ヽ■′
か・か・無二野か、か■か・中敷・寮・か
高松宮妃殿下御歌
予科練習生を偲びてよめる
零式輸送機の碑︵いしぶみ︶
昭和二十年二月二十五日に早朝、米機動部隊来襲のため、空中退避に飛び立った木更津
基地の﹁零式輸送機﹂は、中曽根中尉︵前中曽根総理の実弟︶を機長に十二名が搭乗して
岩国に向った。
途中、鈴鹿山脈で猛吹雪に遭い、局ケ岳山頂近くで激突炎上し、全員壮烈な戦死を遂げた。
戦後になって機体の一部と遺骨を収容して、麓の高福寺︵三重県飯南町︶に葬った。
機長の兄である当時衆議院議員の中曽根康弘氏は、十二柱の遺族に連絡をとり、ねんご
ろな慰霊祭を行って英霊を慰めた。
この時﹁天地有情﹂の書を中曽根氏が揮毒して高福寺に贈った。また﹁零式輸送機﹂と
車輪等は現在、三重空跡地に設置された若桜霊園の展示場に保存されている。
第1023海軍航空隊零式輸送機
戦没十二柱英霊供養塔
霞ケ浦に立ちて海軍飛行
/︶
(三重県飯南町高福寺)
涛はらに
散華せし
はたおはそらに
いく春やへし
きみら声なく
この御歌は、高松宮喜久子妃殿下
の御直筆で、有桶川流と申しあげ、
承ります。
妃殿下はその御宗家にあたられると
凍寒撃墜堵率攣噂琢磯率堵勺海
鋒評終郊雛等が 綴燕寮綺麗渾箪新撰揮発筆轡が篤が 樟鯨潰燐鵠畿恕灘短陸離洩 望洋塗群雲整薮率経堂篭篭塑撃墜空軍零深 緑照露衆浴寮巌流一錠舘岩霧綴巌喜梵猥諾洪黒縁㌫来綴
〈予科練〉 (2)
各軍鬼籍漁村練習せ
遺言 遺詠 旦為 卑せ
回天特別攻撃隊・振武隊
岩手県・十九才
海軍一等飛行兵曹 千 葉 三 郎
第十三期甲種飛行予科練習生
不肖、皇国ノタメ一身ヲ捧ゲ奉ランノ光栄、今日アリタル己ヲ顧ミ、
呈、祖、父、母ノ重ナル恩、死ヲ以テ報ズルノ感激、実二本懐ト
スル処ナリ。小生、心中、唯撃滅アルノミ。
御両親様 御達者デ。 昭和二十年五月二日
家に遺ス 父母に孝二兄弟二友こ、夫婦相和シ恭倹己ヲ持シ博愛
衆に及ボシ。
謹ミテ明治天皇ノ御聖旨ヲ奉戴シ、日々明朗、悠久二栄エル帝国
臣民トシテ其ノ誠ヲ致スベキ事。
御一同様
昭和二十年五月五日
回天特別攻撃隊・振武隊として伊号三六人潜に乗り組み大津島基地を出撃、
五月二十七日サイパン北西海域にて敵船団攻撃戦死。
(3) 〈予科練〉
︶
支決算報告について﹂
議長は、平成二十六年度収支
決算書を机上配布した上で、平
野事務局次長を指名して当期
︵自平成二十六年四月一日 至
平成二十七年三月三十一日︶ の
第一号議案﹁平成二十六年度収
議長は午前十一時十分、評議員
会の開催を宣言した。
員異議なくこれを承認可決した。
﹁議長の選任﹂
出席者の互選により徳永三好
氏を議長に選任した。
﹁議事録作成人及び議事録著名
人の選任﹂
議長は議案審議に先立ち、本
評議員会の議事録作成人に保坂
俊雄理事を議事録著名人に豊岡
昭氏・加藤登氏をそれぞれ指名
し議場に諮ったところ、全評議
評議員七名中六名が出席委任状
提出者が一名で全員出席につき
本評議員会は海原会定款第十八
条第一項に照らして適法に成立
することが確認できた。
ぶ益財川法人 軸原会
平成二十七年度定時評議員会 議事録
平成二十七年六月十二日
一日 時
二 場 所
ビル︶﹁富士の間﹂
東海大学校友会館︵霞が関
︵東京都千代田区霞が閑
芳
三丁目二番五号︶
三 出席者
﹁出席評議員﹂
大石 治
津島 裕
金子 敬三
﹁
同
席
者
﹂
代表理事
理事
理事
理事
理事
理事
理事
理事
四 議 事
寛昭俊三陽隆省周
﹁定足数の確認﹂
開会に先立ち、 平野事務局次
長から定足数の報告があった。
郎
勲巌雄
也二雄好一典三一
渡手岩
速攻舘
菅早保徳平助酒堺
野川坂永野村井
収支決算状況について報告を求
めた。平野事務局次長は配布さ
れた財務諸表について収支の詳
細について説明した。議長は下
記記載の財務諸表について個々
に審議を行い承認を求めたとこ
ろ、議案は原案のとおり出席評
議員全員一致で承認された。
一貸借対照表
二 正味財産増減計算書及び正
味財産増減計算書内訳表
三 二項附属明細書︵規定によ
り作成を省略しているため、注
記で報告︶
四 財産目録
第二号議案﹁監査報告について﹂
議長は平野理事を指名して、
平成二十六年度監査の結果につ
いて報告を求めた。平野理事か
ら、四月二十四日︵金︶に海原
会事務局に於いて酒井副理事長、
助村専務理事、平野事務局次長
及び加藤公認会計士立ち合いの
もと佐藤監事・穴山監事ととも
に平成二十六年度会計監査を実
施した結果、適正に処理されて
おり異常がなかったことが報告
された。議長は、会計監査報告
について質疑を行い承認を求め
︶
たところ、議案は原案どおり出
席評議員全員一致で承認された。
第三号議案﹁任期満了に伴う役
員の改選について﹂
議長は、酒井副理事長を指名
して平成二十七年度役員改選に
ついて報告を求めた。酒井副理
事長は、配布資料に基づき理事
の堺 周一、酒井省三、助村隆
典、平野陽一郎、徳永三好、早
川昭二、保坂俊雄、菅野寛也、
福田裕の九氏が平成二十七年度
の定時評議員会の終結をもって
任期満了に伴い退任し、篠田輝
男氏が新任の理事に、堺周一、
酒井省三、助村隆典、平野陽一
郎、徳永三好、早川昭二、保坂
俊雄、菅野寛也、福田裕の九氏
がそれぞれ重任理事に選任され
た旨報告がなされた。
選任された十氏は六月十二日
付で承諾書を提出した篠田輝男
氏及び福田裕氏を除き席上就任
を承諾した。議長は、全理事を
一括して決議する旨について出
席評議員の同意を得た上で、質
疑を行い、全理事就任について
一括承認を求めたところ、議案
は原案のとおり出席評議員全員
(4)
〈予科練〉
一致で承認された。
﹁重任する理事﹂
堺 周一
助村 隆典
徳永 三好
保坂 俊雄
福田 裕
﹁新任の理事﹂
篠田 輝男
也二一三
郎
以上この議事録が正確であるこ
とを証するため、議長及び議事
録著名人は記名捺印する。
。
た
議を終了したため、議長は十二
時二十分に閉会を宣言し散会し
以上で、全ての議案について審
寛昭陽省
平成二十七年六月十二日
公益財団法人海原会
議 長 徳永 三好
議事録著名人 豊岡 昭
議事録著名人 加藤 登
本議事録の作成に係る職務を行
った者の氏名
議事録作成人
公益財団法人海原会
理事 保坂 俊雄
転換期を迎えた海原会
事務局長 助村 隆典
一、海原会創立の経緯と推移
1、昭和三十三年乙飛十八期の
有志により予科練雄飛会発足
2、昭和三十八年予科練慰霊祭
予科練雄飛会全国大会を開催
︵於靖国神社、甲飛、特乙飛が
特別参加︶
3、昭和四十年慰霊碑建立連絡
会議開催︵甲飛、乙飛、特乙飛、
丙飛による合同会議︶
4、昭和四十一年第一回全国予
科練戦没者慰霊祭∴慰霊碑除幕
記念式典を開催︵於武器学校︶
5、昭和四十二年第二回全国予
科練戦没者慰霊祭開催・﹁雄翔
館﹂建設に着手︵於武器学校︶
6、昭和四十三年第三回全国予
科練戟没者慰霊祭開催・予科練
記念館﹁雄翔館﹂竣工式典開催
︵於武器学校︶
7.昭和五十三年財団法人海原
会設立
8,平成二十二年十一月公益財
団法人海原会に改変
︶
海原会は、このように乙飛十
八期生有志の発起から五十七年、
先人の並々ならぬご努力により
全国オール予科練の会に成長し
財団法人となって三十七年、更
に公益財団法人となって四年余
今日まで慰霊事業一筋に活動し
本年は第四十八回・全国予科練
戟没者慰霊祭を開催いたしまし
。
た
二、海原会の現状
前述のように順風満帆の海原
会であったが、種々の事情によ
り、安心しておられない状況に
立ち至りつつある現状にある。
1、会員数の推移
海原会は予科練同窓生によっ
て結成され設立初期の段階では
同窓約五千名を数えた会員も、
甲飛十六期まで乙飛二十四期ま
で特乙九期までで、後輩の居な
い悲しさ高齢化の趨勢に抗し難
く、最年少クラスも八十五才を
過ぎ年々減少の一途を辿ってい
。
る
当初約五千名いた会員も、平
成二十六年末現在、会員数の詳
細は、同窓会員八百八十名、遺
族会員八十三名一般会員百名、
合計一千六十三名である。
過去十年における年平均減員
数は百七十名となっているが、
年々の減少率は高まっており、
極端な計算だが、′このまま進め
ば概ね六年で会員無しの状態と
な
る
。
2、海原会の経理の現況
海底会の財源は、会費収入と
会員からの寄付しかないわけで
あるが、当初会費三千円であっ
た頃、一千六百万余円あった会
費収入は、会員減により四百九
十万円程度に落ち込んでいる。
年間運営は約九百万円で、約
四百万円の赤字で基本財産から
補填している。基本財産は現在
八千万円であるが、今後の収支
を計算すると今後十年が限度と
思科される。
三、今後の海原会について
1、海原会の存続
将来の海原会の存続と慰霊祭
の存続については、前述のよう
な趨勢を心配された、今は亡き
桜井房〓空言長が約十二年も前
から何処に、如何にして海原会
の慰霊事業を継続させるかに、
腐心され努力された経緯につい
(5) 〈予科練〉
菅早平酒
野川野井
ては﹃務科練三∼四月号﹄ の、
平野理事の﹁貴方が居てくれた
海原会の経理状況については、
毎年の評議委員会後に、事業報
告・事業計画並びに予算・決算
が﹃像科練﹄ で周知されている
財政面に関する諸問題を検討し
てみると
※永年会員の皆様にお願い
本文中に申し上げましたが
永年会員制度の見直しに従
って、皆様に一般正会員に
なって戴くための意思確認
海原会では、公式ホームペー
現況を御理解の上、同窓会
員として継続して下さるよ
う、お願い致します。
後日、案内書、振込用紙を
の■調査を実施致すことにな
りました。どうか海原会の
お送りしますので、宜しく
拡充整理が必要である。
ィ、永久会員制度の改廃
永久会員とは、同窓会貞の中
で創立当初、資金窮乏の時期に
一時金として、六万円を納入さ
れた会員に感謝の意味で永久に
会員として、年会費を免除し、
現在に至っている制度で約百名
登録されている。
ご協力下さい。
いが、今機会に実情を調査、生
存会員、並びに遺族で希望され
る方は、一般同窓会貞となって
戴く様、制度改廃を実行させて
戴き本年から、年会費を納めて
ジを六月八日にリニューアルし
投稿記事や連絡事項の掲載を
ご希望の方は海原会事務局まで
ご連絡ください。
一つとしてご活用下さい。
◎海原会公式ホームページ公開
戴くよう理事会で決議しました。
公開いたしました。
会員の皆様には、海原会活動
状況の確認や相互連絡の手段の
︶
′
同窓生皆さんのご意見を拝聴
しながら、改革を推進したいと
念願しています。
ま
す
。
以上転換期に来た海原会につ
いて述べてきましたが、将来的
に予科練慰霊祭を続行するため
には数々の問題点があると思い
既に四∼五十年を経過してお
り、会費納入によりその消息を
とおりであり、今年も四百万程
度の赤字でこれを解消すること
は至難の業である。
赤字は、基本財産から補充す
る外ないのだから、赤字幅を少
なくして、基本財産の減少を防
ぎ、慰霊事業が永く続行できる
は、高く評価しなくてほならな
知るしか方法が無いために機関
紙の発送は続行しているが、消
息は不明である。勿論先人の功
更に賛助会員制度、既に実施し
た遺族会員実情調査などにより、
既に一部実施した人件費や、
事務局管理費等削減を手掛けた
が、今後もっと根本的な改善を
検討する必要がある。
●会員制度の整理・改廃
ア、会貞の募集
同窓会員が減少の一途示す現
状で、会貞の募集対策はなかな
か困難な問題ではあるが、入会
していない予科練同窓生の発掘、
今年度立ち上げたホームページ
の中に於いてする一般会員募集、
よう努めなくてはならない。
●経費削減問題
から﹂に詳細に記載されている
ので、ご覧になったと思うので
説明を省きますが、何時の時点
で武器学校OB会の皆さんに事
業を継承して戴くか喫緊の課題
となっている。
理事会では一昨年頃から、海
原会の将来について種々検討を
重ねてきたところであるが、昨
年から予科練同窓及び武器学校
OB会の皆さんと意見交換会を
開催、更に、予科練同窓のみの
意見交換会を開催して、何時の
時点で、事業継承を実施するか
を討議、同窓としては、かなり
体力的に厳しいとの判断もある
が、第五十回慰霊祭開催を区切
りとして、公益財団法人海原会
の運営を武器学校OB会にお願
いするとの結論に達している。
その際に於いて、我々同窓生が、
どのような面に関与し、協力し
ていくかについては、今後の研
究課題と言える。
2、今後の課題
武器学校OB会に事業継承を
実施するにあたって、組織面、
︶
′
〈予科練〉 (6)
貸借対照表
公益財団法人 海原会 平成27年3月31日現在
公益目的事業会計 (単位:円)
科 目
当 年 度
前 年 度
Ⅰ資産の部 1.流動資産 現金預金
245,507
355,260
普通預金
8,329,079
11,423,188
郵便振替 現預金合計 貯蔵品
228,164
8,802,750
増 減
∠ゝ109,753
∠ゝ3,094,109
195,939
11,974,387
456,200
32,225
△3ユ71,637
456,200
0
預け金 仮払金 流動資産合計 2.固定資産 (1)基本財産 有価証券 基本財産合計 (2)特定資産 遺品等補修及び雄翔園整備 特定費用準備金 特定資産合計 (3)その他の固定資産 土地 0 0 0
9,258,950
12;430,587
80,033,624
80,013,693
19,931
80,033,624
80,013,693
19,931
6,867,627
10,000,007
∠ゝ3,132,380
6,867,627
10,000,007
∠ゝ3,132,380
11,894,726
建 物
構築 物
5,024,202
11,894,726
5,277,522
3,449,358
電話加入権
△3,171,637
3,871,333
137,300
△421,975
137,300・
差入れ保証金 その他の固定資産合計 固定資産合計 資産合計 Ⅱ負債の部 1.流動負債 未払金
20,505,586
0
∠ゝ253,320
0
50,000
21,230,881
0
△50,000
△725,295
107,406,837
111,244,581
△3,837,744
116,665,787
123,675,168
△7,009,381
254,907
253,001
1,906
預り金 流動負債合計 固定負債合計 負債合計 ̄ Ⅲ正味財産の部 1.指定正味財産 指定正味財産合計 2.一般正味財産 正味財産合計 負債及び正味財産合計 9,189 18,359 ∠ゝ9,170
264,096
271,360
0
264,096
271,360
0
116,401,691
116,665,787
備 考
∠ゝ7,264
0
△7,264
0
123,403,808
123,675,168
0
∠ゝ7,002,117
△7,009,381
財務諸表に対する注記に記載しているため付属明細書は省略する。
正味財産増減計算書(税込)
公益財団法人 海原会 平成26年4月1日から平成27年3月31日まで
公益目的事業会計 (単位:円)
科 目
当 年 度
前 年 度
増 減
Ⅰ一般正味財産増減の部 1.経常増減の部 (1)経常収益 基本財産運用益 [ 119,931] [ 463,693] △343,762
基本財産受取利息
119,931
463,693
普通財産運用益
[ 3,548]
[ 1,426]
普通財産受取利息
(7) 〈予科練〉
3,548
1,426
2ユ22
当 年 度
受取会費
募金収益
受取慰霊寄付金
広告料収益
雑収益
経常収益計
前 年 度
4,050,600]
4,891,000]
1,273,900]
1,322ユ00]
755,000]
679,000]
620,000]
670,000]
158,211]
6,981,190
289,378]
8,316,597
増 減
∠ゝ840,400
△48,200
76,000
∠ゝ50,000
∠ゝ131,167
△1,335,407
(2)経常費用
事業費
863,138
慰霊顕彰事業費
慰霊祭費
霞ケ浦支部活動費
遺族支援調査費
関係団体費
給料手当て
1,282,513
∠ゝ21,447
∠ゝ63,378
13,475
△116,800
∠ゝ910,556
会議費
70,835
旅費交通費
通信運搬費
消耗品費
△30,820
∠ゝ48,758
△422,358
渉外費
△34,642
会費受取手数料
建物管理費
減価償却費
遺品等整備経費
機関誌発行費
機関誌発行費
給料手当
△8,407
△35,502
∠ゝ243ユ29
3ユ34,000
∠ゝ519,292
12ユ19
∠ゝ365,538
会議費
13,263
旅費交通費
通信運搬費
消耗品費
△46,402
△21,808
△203,885
渉外費
△18,728
会費受取手数料
建物管理費
減価償却費
∠ゝ4,527
∠ゝ9,976
126ユ90
支援金
99,917
青少年育成支援金
会費受取手数料
建物管理費
減価償却費
0
△1,326
45,478
55,765
管理費
81,938
∠ゝ67,166
給料手当
会議費
∠ゝ51,530
旅費交通費
通信運搬費
光熱水料費
消耗品費
租税公課
印刷製本費
△1,338
∠ゝ5,757
∠ゝ9,545
△27,709
195,190
47,655
渉外費
37,445
支払手数料
会費受入手数料
2,222
∠ゝ750
保険料
△21,070
建物管理費
顧問報酬
減価償却費
△16,605
0
∠ゝ3,219
雑 費
経常費用計
評価損益調整前当期増減額
投資有価証券評価損益等
評価損益等計
4ユ15
13,983,307
∠ゝ7,002,117
[ ]
13,038,231
∠ゝ4,721,634
∠ゝ2,280,483
∠ゝ371,917
△371,917
〈予科練〉 (8)
科 目
当 年 度
前 年 度
増 減
当期経常増減額 2.経常外増減の部 (1)経常外収益 経常夕川又益計 (2)経常外費用 経常外費用計 ∠ゝ7,002,117 ∠ゝ5,093,551 △1,908,566
0
0
0
0
0
0
当期経常外正味財産増減額 当期一般正味財産増減額 一般正味財産期首残高 一般正味財産期末残高 Ⅱ指定正味財産増減の部 当期指定正味財産増減額
△7,002,117
123,403,808
116,401,691
0
∠ゝ5,093,551
∠ゝ1,908,566
128,497,359
∠ゝ5,093,551
123,403,808
0
指定正味財産期首残高
指定正味財産期末残高
0 116,401,691
△7,002ユ17
∠ゝ7,002ユ17
0
0
0 123,403,808
Ⅲ 正味財産期末残高
備 考
財務諸表に対する注記に記載しているため付属明細書は省略する。
財 産 日 録
公益財団法人 海原会 平成27年3月31日現在
公益日的事業会計 (単位:円)
貸借対照表科目
場所・物量等
Ⅰ資産の部 1.流動資産 現金
普通預金 郵便振替 貯蔵品
三菱東京UFJ大森駅 前支店 阿見と予科練
預け金
運転資金
運営資金 予科練顕彰資料
金 額
245,507
8,329,079 228,164 456,200
野村謹券、蒲田
流動資産合計
2.固定資産 (1)基本財産 基本財産
有価証券
野村謹券蒲田 有価証券
(2)特定資産 遺品等補修及び雄翔園整備
使用 目 的等
手元保管
0
9,258,950
公益目的基本財産であり、運用
80,033,624
益を公益目的事業(公1∼公3)
に使用している 特定費用準備資金として公1事 6,867,672 −10,000,000 16,867,627 11,894,726 (11,299,990) (594,736) 5,024,202
特定費用準備金 (3)その他固定資産 土地 建物(大森コーポベアネーズ) 野村諾券蒲田 普通預金三菱東京 UFJ大森駅前支店 25.54平方メートル 業のために使用している。 法人の基礎となる財産であり、
東京都品川区南大井
事務所が所在する大森コーポの
6−16−12大森コーポ 土地(法人持分)で、95%の割合
ベアネーズ建物持分 65.5 平方メートル を公益日的事業で使用している。 また、5%の割合を2号財産と して法人管理に使用している。 事務所
No.402、403、404
法人の基礎となる財産であり、
東京都品川区南大井 公益日的保有財産として、95% 4,772,992 251,210
6−16−12大森コーポ の割合を公益目的事業で使用し
ベアネーズ3室分 ている。 また、5%の割合を2号財産と して法人管理に使用している。
(9) 〈予科練〉
116,665,787
資産合計
︹ ︶
流動負債合計
負債合計
264,096
264,096
116.401.691
正味財産
107,406,837
固定資産合計
254,907 9,189
源泉所得税
京浜印刷㈱
Ⅱ負債の部 1.流動負債 未払金 預り金
練記念館に設置して公一1事業
町青宿121−1陸上自
金 額
使用 目 的等
場所・物量等
貸借対照表科目
構築物(山本五十六像) 電話加入権 その他の固定資産計 茨城県稲敷郡阿見 公益目的保有財産であり、予科 3,449,358 137,300 (130,435) (6,865)■ 20,505,586
衛隊武券学校構内 に使用している不可欠特定財産
雄翔館前に設置 である。
事務局内 固定電話加入権 法人事務所内で使用する固定電 話の加入権であり、95%の割合 を公益日的事業で使用している。 また、5%の割合を2号財産と して法人管理に使用している。
公益財団法人 海原会
参与 行方 滋子
平成二十七年五月二十四日、
額にしっとりと汗ばむほどの陽
気の中、第四十八回全国務科練
戦没者慰霊祭が陸上自衛隊武器
学校内の雄翔園内でしめやかに
執り行われました。
慰霊祭では国旗掲揚後、真っ
白い制服に身を包んだ海上自衛
隊下総教育航空群の隊員による
儀任と弔銃が行われ、続いて、
陸上自衛隊武器教導隊の隊貞と
下総教育航空群の隊員二名によ
り献火が行われました。
来賓挨拶において教育航空集
団司令官 池 太郎 海将は、
英霊に対する哀悼の意を表する
とともに、海上自衛隊の現状並
びに戦後七十年にあたり実施し
ている教育等について述べられ
ました。
また、六月十二日に開催され
た公益財団法人海原会の平成二
︶
㌦
十七年度定時評議員会の席上、
﹁海上自衛隊の白い制服を見る
と嬉しくなる﹂という声が聞か
れました。
私はそのような声から﹁線科
練出身の皆様に、海軍から今も
引き継がれている伝統を知って
いただきたい﹂という衝動に駆
られ、調べてみることにしまし
。
た
すると、調べるほどに海軍の
伝統が海上自衛隊に脈々と受け
継がれていることがわかりまし
た。そこで、この場をお借りし
て、その一部を紹介したいと思
います。
第一戦後の歩み
戦後、旧海軍軍人は海軍の
再建が、﹁独立国として不可欠﹂
であり、海軍が持っていた伝統
の美風を後世に伝えるためにも
必要との信念を持っていました。
そこで、終戦時の海軍大臣、米
内光政の指示により、野村葺二
郎元海軍大将らが海軍再建につ
いて政府や米海軍に働きかける
とともに、山本善雄元海軍少将
〈予科練〉(10)
れました。
や吉田英三元海軍大佐が中心と
なって海軍再建の研究が進めら
東西冷戦と朝鮮戦争により、
米国は日本に再軍備を要求し、
海軍再建を検討するY委員会が
山本元海軍少将、吉田元海軍大
佐等の旧海軍軍人と米海軍軍人
を主要委員として結成されまし
。
た
Y委員会における検討の結果
と計画・準備により、一九五二
年︵昭和二十七年︶四月二十六
日に海上保安庁内に海上警備隊
が創設されました。
当時の幹部の大部分は旧海軍
将校であり、最初の実力部隊の
指揮官は前出の吉田英三海軍大
佐でした。
そして、保安庁警備隊を経て
一九五四年︵昭和二十九年︶ に
保安庁が防衛庁に移行するとと
もに、警備隊も海上自衛隊に発
展改編されました。
なお、海上自衛隊のトップで
ある海上幕僚長は、二代目から
十六代目︵昭和六十年着任︶ま
でが、海軍兵学校出身者でした。
︶
︶
上自衛隊航空学生に引き継がれ、
航空学生の歌は﹁海の若鷲﹂だ
また航空学生旗には予科練生
の襟章であった﹁桜花に翼﹂の
そうです。
今年は日本海軍の終焉から七
十年目の節目にあたりますが、
第二 戦後七十年についての
教育
海上自衛隊は﹁伝統の継承﹂を
ウイングマークが採り入れられ
ています。
等を全国で開催し、隊員のみな
らず部外の方々を含めて伝統の
継承について理解を促進してい
護衛艦実習、操縦訓練等があり
航空学生教育は、予科練教育
と同様に数学、物理、航空力学
等の座学、遠泳、行進訓練︵行軍︶、
短艇競技、登山競技等の行事、
テーマとしたシンポジューム、
講演、パネルディスカッション
るそうです。
江田島にあった海軍兵学校で
行われていた将校教育は、現在
狭い艦内で邪魔にならないよ
うに肘を張らない挙手の敬礼や
と言うなど、艦や隊は運命共同
体でありワンファミリーと見な
しています。
直士官等に﹁上陸お願します。﹂
も、江田島にある幹部候補生学
校で引き継がれ、短艇競技、遠
泳、古鷹山登山等の行事、五分
前の精神、五省の唱和等の習慣
や心構えは、海軍時代と変わっ
ていません。
海上自衛隊では、艦や隊を生
活の中心とし、外出する時は当
ま
す
。
第三 海軍からの伝統を継承
する海上自衛隊
海軍航空の流れを汲む航空部
隊は、海軍の鹿屋・厚木・館山・
大村等の基地及び建物︵庁舎、
います。
格納庫等︶を、現在も使用して
また、航空部隊でも艦艇部隊
と同じく、起床のことを﹁総貞
起こし﹂、ロープのことを﹁肪
い ︵もやい︶、掃除は﹁甲板掃
除﹂、外出︵退庁︶ を﹁上陸﹂
と言い用語も海軍と同じです。
海軍飛行予科練習生の象徴で
あった﹁七つ釦の制服﹂は、海
離任者を見送るときの﹁帽振れ﹂
の動作なども海軍から引き継が
れています。
また、海軍は逸早く洋食を執
りいれ、海軍カレーや肉じゃが
が一般に普及したように﹁海軍
の食事﹂に対する評価は高く、
海上自衛隊においても調理専従
の隊員を養成し、栄養価が高く
おいしい食事の提供が自慢です。
そして﹁スマートで、目先が利
いて凡帳面、負けじ魂これぞ船
乗り﹂で知られるように、海軍
以来、世界的な視野を持ち科学
技術や合理性を尊重し無駄なく
行動する﹁スマート﹂さや、変
化する環境や技術の進歩などに
順応し目先が利く﹁フレキシブ
ル﹂が現在でも求められていま
。
す
第四 捨てる伝統
海上自衛隊の特徴は﹁伝統墨
守、唯我独尊﹂と椰旅されるこ
とがありますが、良き伝統を継
承し次代に合わなくなった伝統
は捨てるように努力しているそ ︶
うです。例えば、海軍で行われ 皿
〈予科練〉
て鉄拳制裁等の暴力を止め、下
士官と兵︵曹士隊貞︶の差別も
止めました。それから、兵科将
校が機関科将校や主計科将校よ
り上位だったのが、敗戦の教訓
から後方部隊を重視するように
なり連用幹部と後方幹部の上下
を無くしました。
また、陸軍と仲の悪かった海
軍と違い、現在では陸上自衛隊・
航空自衛隊との統合運用が進め
られています。
最後に、海軍の敗因の一つは
情報軽視と言われていますが、
現在では専門要員を育成し、情
報業務群という専門部隊をつく
るなど情報強化に努めているそ
うです。
ここでご紹介したものは、ほ
んの一部であり、海軍の良き伝
統と先の大戦から学んだことは、
これからも永遠に継承されるこ
とでしょう。今回﹁海軍の伝統﹂
について調べてみましたが、線
科繰同窓皆様の日本海軍に対す
る想いと、その伝統を引き継ぐ
人々の想いを知り、強い感銘を
受けるとともに万感胸に迫るも
のがありました。 終
公益財団法人海原会主催
第四十八回預科練戦没者慰霊祭
御遺族の言葉
のご実弟、中西 明様より。
乙飛六期・故中西義男海軍少尉
只今ご紹介を戴きました﹁乙
飛第六期生﹂故・海軍少尉中西
義男の弟、中西 明でございま
。
す
まことに借越ですが、本日参
列のご遺族並びに諸般の事情で
参列が叶わなかった、全国の予
科練戟没者のご遺族を代表して
一言ご挨拶申し上げます。
予科練ご出身の方々にとって
は、生涯の思い出あるこの土浦
の地、雄翔園で霞ケ浦の薫風を
肌で感じながら、第四十八回務
科練戦没者慰霊祭が、厳粛かつ
盛大に執り行われましたことを
心からお喜び申し上げますとと
もに、私ども遺族をご招待いた
だき、心から御礼申し上げます。
本年は、先の大戦が終結して
七十年の節目の年に当たります。
七十と言う歳月は、一人の人間
の生涯に相当する永い年月であ
り、現在ここに居る我々も戦後
/︶
様々な困難の中を生き抜いて参
りました。
戦災跡からの復興、食糧難、
追い打ちのような災害、と枚挙
に暇がありませんが、いま振り
返って見ますと、﹁戦争が無か
った七十年の平和﹂とも言える
のではないかと思います。
そして私は、この今日の平和
の礎こそが戟没された数多くの
御霊によって築かれたものだと
いうことを常に脳裏に置き、感
謝を忘れてはならないと思って
います。
さて、七十年という歳月を振
り返りますと、皆さんそれぞれ
に様々な出来事がおありだった
のではないかと想います。私方
﹁ ︶
でも兄に関する奇跡的な出来事
がございました。偶然に、もた
らされた兄に関する情報と、遺
族の方々のきめ細やかなお心配
りで生まれた奇跡ですが、どの
ご遺族にも起こり得る話だと思
いますのでご紹介致します。
最初の奇跡は、書店で兄の名
前が載っている本を偶然見つけ
ました。しかし、その場で購入
せずに出版社へ電話注文したの
で、私の存在が出版社へ、更に
は、兄と同期の方のご遺族へと
伝わった事です。
二つ日の奇跡は、そのご遺族
が数年前の線科練慰霊祭で、兄
の戦死直前の戦地生活の様子を
記述した図書が存在することを、
同席されていた方からお聞きに
なり、連絡して下さった事です。
また、その情報を提供して下
さった方は、私の家から山一つ
隔てた隣の県にお住まいでした
ので、早速連絡をとってお会い
し、その本を書かれた方が乙飛
七期の方であることや、その部
隊の活躍ぶり等詳細を聴くこと
が出来ました。
兄は、昭和十八年六月ソロモ
〈予科練〉(12)
ン群島の戦いで未帰還となり、
二十四才で戦死しているのです
が、実は、入籍できていない妻
と当時一歳の女児が岩国にいた
のです。
この結婚は両家とも認めてい
ましたし、兄の英霊帰還や、市、
区主宰の合同慰霊祭には中西家
の家族として参列しておられた
のですが、最終的には入籍せず
に故郷の広島に戻り、終戦後に
再婚されました。父は、その女
児を成人するまで孫として扱い、
この雄翔園完成記念の慰霊祭に
も同伴して参列しています。し
かし、その娘が成人して結婚し
てからは徐々に縁が遠くなり、
この半世紀は音信不通の状況と
なっていました。
私の家には、生後七ケ月の我
が子を抱いた兄の写真が一枚残
されています。その写真は、兄
の乗船していた航空母艦が修理
で呉に帰港した際に、三日間の
休暇が出たので、急遽、岩国か
ら母子を同伴して大阪の両親に
紹介したときに写したのです。
生涯でただの一度だけ我が子を
腕に抱いた家族の写真です。兄
︶
︶
な、とホットしています。
継ぎの次男として可愛がってく
れた兄に一つ恩返しができたか
らかなれと、長年にわたり慰霊
祭を執り行って戴きました公益
財団法人海原会様、そして予科
練生の聖地でもある、この雄翔
園を護り続けて戴いております
陸上自衛隊武器学校長様を始め
職貞の皆様、毎年慰霊演奏を戴
した海上自衛隊下総教育航空集
団様、並びに日の丸飛行隊の皆
様に、心から敬意を表します。
また、この地に航空隊が創設さ
れたために数次の空襲を受け、
多くの親族の方々が犠牲になら
れたにも拘わらず、戦後、予科
練戦没者の慰霊のために一方な
らぬ、ご支援を戴いております、
地元阿見町町長様を始め、町民
いております施設学校音楽隊様
さらには本日慰霊飛行を戴きま
ような慰霊顕彰を目的とする組
の皆様に、本日出席しておりま
はこの後、妻子二人を大阪に残
して自分だけが帰艦、そのまま
再出撃したのですが、この写真
を見たかどうか、また最後の搭
乗時に肌身につけていたかは不
明です。
私は、この度の一連する出来
事が、兄の﹁心残り﹂を私に気
付かせようとしている様にも思
え、昨年夏から兄嫁の実家の姓
織の維持、そして継承が必要で
その結果は、残念ながら二人
とも既に彼岸へ旅立っているこ
とが判明しました。けれどもそ
の探索の過程でこの姪と親しか
った従姉妹の所在を知り、直接
と旧住所を便りに、縁故を探し
ました。
会って詳しい状況を聴くことが
出来ましたし、生前の写真や身
に着けていたネックレスも頂き
はないかと強く思っています。
す遺族並びに本日都合で出席で
きませんでした総ての遺族を代
表して、心から感謝申し上げ、
遺族代表のご挨拶とさせていた
そして、これも、兄と同期の方
のご遺族が親身になってご丁寧
な情報を提供して下さったこと、
また、歴史研究家の方が、ご自
分の研究を通じて知り得た情報
を我々遺族に提供していただけ
たお陰だと深く感謝しています。
年月とともに遺族の高齢化が
加速度的に進む現状の中で、私
は予科練戦没者の遺訓の顕彰と
労苦に対する感謝を忘れず、更
には貴重な資料や情報を風化さ
せることなく後世へ伝える為に
も、我々遺族相互の、より一層
のキメ細かい連携と、海原会の
ました。
最後に、戦没同窓生の御霊の安
平成二十七年五月二十四日
遺族代表 乙飛第六期
故 海軍少尉 中西 義雄
弟 中西 明
だきます。
私どもは、昨年十一月に改め
て母子二人の法要を営み、兄の
墓へ、二人の写真と姪が愛用し
ていたネックレス、そして戦友
が生存、帰国後、出版された本
も入れて、七十二年振りに、我
が子を兄の腕で抱きしめて貰う
事が出来ました。私はいま、後
(13) 〈予科練〉
瑞鳳﹂から飛び立った十四機の
九七艦攻が全機未帰還となった。
その日二十機の艦爆隊も同時に
発進したが、帰ったのは三機で
あった。直援戦闘機隊は三十三
機、これが三空母の連合攻撃隊
ンにも宜しく。乱筆の優失礼す
る。希はくぼ何時までも達者で
暮らされるよう。茄子や十六豆
の出来栄え結構でしたでしょう。
川島、加納の父上様に宜しく。﹂
稲子殿
った一航戦の艦偵機長︵偵察︶
は叔父と同期︵乙飛二期︶近藤
雷撃を敢行して全機未帰還とな
った。撃墜された秘密は、近接
信管︵VTヒューズ︶の採用に
あった。昭和十八年十一月の米
機動部隊には、この新兵器は十
艦攻隊は〓6四、超低空で
砲火を冒して、高度七千㍍から
急降下を敢行した。
艦爆隊は二五〇激しい対空
三隻、巡洋艦、駆逐艦十二隻か
らなる敵機動部隊を発見した。
日本機と米空母との間に位置
した海兵隊のコルセア戦闘機が
迎撃してきた。母艦の四十哩先
で大空中戦が始まった。
勇中尉であった。
攻撃隊は二四二、セントジ
ョージ岬の東南百十哩に、空母
天候報告をしたまま、消息を絶
二〇五敵発見。その付近の
であった。
以後連日味方の船団、艦艇の
哨戒に当たった。陸上基地はト
ラック諸島春島基地である。
その折の貴重な写真があるの
でお目にかける。
﹁昭和十八年十一月十一日﹂
第三次ブーゲンビル島沖航空
戦で第一航戟母艦﹁瑞鶴・翔鶴・
﹁ ︶
分に行き渡っていた。この十二・
七糎砲弾に仕込んだ近接信管
は、遥か遠距離から損害を出す
にいたる程に開発されていた。
我が方は終戟まで遂に、これ
に追いつくことは出来なかった。
そのため九九艦爆は十七機もが
空母の上空で消滅してしまった。
﹁艦攻十四機は、この対空砲火
と超低空で待ち構えていた、敵
戦闘機に食われた。﹂
この中の一機が叔父である。
共に倒れた後席の偵察、電信
の方々は昭和十七年末から、家
族ぐるみの親交があった人達で
あるが、今の時点では浜崎一夫
一飛曹︵甲五期︶は確実である。
もう一人は熊本県玉名郡木葉村
上木葉の藤山雅子さんのご主人
ではないかと思われる。
この戦いの総指揮官、瑞鳳飛
行隊長・佐藤大尉も未帰還であ
る。この戦いの消耗率は零戦
50%・九九艦爆95%・九七艦攻
90%・二式艦偵100%、文字通り
っ
た
。
虎の子の空母搭乗貞の壊滅であ
叔父は前年十一月十七日、佐
(14)
〈予科練〉
乙飛第二期 海軍大尉
青井 正雄
三八完工 甲十二期
青井 潔
﹁青井正雄の最期﹂
昭和十七年十一月末に瑞鳳に
着任した叔父は、鹿児島を基地
に早朝深夜に及ぶ猛訓練に励み
﹁まだまだ若い者には負けぬ﹂
っていた。
と訓練の陣頭指揮を執っていた。
年明けてトラック島を中継地に
ラバウルへの進出、山本元帥の
戦死もあり、六月には内地へ帰
最期の出港は十八年七月九日。
その時極めて簡明、慌ただしい
手紙を妻の稲子に送っている。
﹁鹿児島では色々有難う。元気
で行ってくる。吃度、吃度頑張
るから安心して呉れ。貯金通帳
かえす。三十円だけ下ろした。
宴会が三つ有ったため、これ丈
マイナスした。許されよ。光枝
も元気になっただろう。廉チヤ
︶′
トラック諸島春島基地 前列中央が叔父青井大尉
中、青井正雄少尉︵乙二期︶を
はじめ、柴田正信︵乙四期︶有
書恒男、宮本 亘︵乙五期︶太
遺留彦︵乙七期︶ の各飛曹長や、
春原宗治、利根川 渡︵乙十期︶
の上飛菅など﹁瑞鶴・翔鶴・瑞鳳﹂
︶
世保軍港に停泊中の瑞鳳に転任
の途中岐阜に立ち寄った。その
時、﹁今度の戦争はとてつもな
い相手との戦いだ。我々搭乗貞
が全員戦死しなければ片付かな
い﹂と私達を唖然とさせるよう
の若い搭乗員の顔もかなり見え
た。機会は前髪を掴めとか、こ
んな絶好の時がそう許されるも
のではない。
昨日も、もう一日早く来てい
間足らず前の記述である。
文中階級が青井少尉とあるの
は、中尉進級にも拘わらず正式
な通達が遅れていて、階級章を
その儀にしていた為か、或いは
階級章を調達するどころの事態
ではなかったのか?。これは戦
場では珍しいことではなかった。
︵註︶ これは叔父戦死の二十時
て、生涯忘れまいと密封した。
はない。私はその一語一語をし
っかりと心のテープに焼き付け
れば、池田︵乙四期︶や櫓垣た
ち十幾人の者に会えたのだ。
私達は指揮所の下の壕の入り
口に車座を作って、即時待機中
の彼らの語る話に耳を傾けた。
無論、テープレコーダーなど
な事を言い放った。
ガダルカナルで手こずり、支
那事変以来からの多数の戦友の
死を見ていて、既に自分の運命
はもとより、国の運命をも見通
していたようだった。
﹁十一月十日と十一日の叔父﹂
叔父戦死前後の消息を、倉町
教官の記述﹁予科練外史﹂から
引用させて戴く。
十一月十日、午前中に一度空
襲がかかったが、珍しく平穏な
半日で昼食後、七〇二空・七五
もいなかった。
一空の非番の者達と記念撮影を
する機会にも恵まれた。七〇二
空だけで言うと、今春、木更津
空で語り合った顔は、もう半分
飛行場に行くと陸攻の搭乗員
だけでなく、第一航空戦隊の連
ソ
十一日早朝〇三〇〇。
ラバウル東飛行場を発進した
五〇完工の彗星一機は、〇四四
五ムッピナ角二百二十度三十浬
に西航中の航空母艦≡隻、巡洋
艦、駆逐艦十二隻、輸送艦五隻
以上からなる敵大部隊発見を報
じ
た
。
空母出現による危悦は現実と
なって、その日ラバウルは早朝
から戦爆連合の大編隊による先
制攻撃を受けた。
十一月五日に続いて米空母三
隻からの艦上機と、ソロモン空
襲部隊陸上機の第二次大空襲で
〇七〇〇敵空襲の報により、
あ
る
。
基地航空部隊︵二〇一空・二〇
四空二二五三空・計六十人機︶
と一航戦﹁瑞鶴・翔鶴・瑞鳳﹂
計三十九機の零戟百七機は合同
して遊撃に発進した。
﹁瑞鶴﹂十二機は〇七一〇、
来襲の艦爆六十機、戦闘機七十
機と空戦、引き続き第二次来襲
を撃墜したが、三機が行方不明
となった。
﹁瑞鶴﹂機はF4F十四機︵内
七機共同︶SB二十機を共同撃
墜し、二機に白煙を吐かせ、〇
八三〇迄に全機帰投した。
﹁瑞鳳﹂機はF4F六機︵内三
機共同︶艦爆三機︵内二機共同︶
を報じたが、三機行方不明とな
った。〇八三〇ラバウルに於け
この遊撃戦による戦果は地上
砲火によるものをも含めて撃墜
る空襲警報は解除された。
六機は不確実、四機共同︶SB
六十機、被害は一航戦、基地航
の敵機七十数機と交戦し、﹁翔
鶴﹂十五機はF6F十五機︵内
D六機︵不確実三機、共同三機︶
(15) く予科練〉
空部隊の戦闘機十一機をはじ
を振りながら飛び出して行く。
しかし、不思議にも続いて帰る
午後、飛行場に行って、攻撃
この待機所の、ここの枚数の
上に寝転んで、他の基地にいる
戦友の消息を話し合ったり、弁
還となった。
﹁予科練外史四三四∼四四一頁﹂
倉町教官記より
堂々と鵬翼を連ねて三十一機
でブナカウ基地を発った艦攻、
艦爆は三機の艦爆が帰投しただ
けで、他の二十八機は遂に未帰
操縦加藤哲夫上飛曹乙九期
偵察清沢哲夫一飛曹甲七期
電信川崎敏行上飛曹甲六期
挟縦青井正雄中 尉乙二期
偵察野中清義上飛曹甲三期
電信浜崎一夫上飛曹甲五期
﹁瑞鳳﹂乗り組み予科練出身
未帰還者
ものがない。
待機所で待っていた者は、手
二つ、三つ。
隊の帰投を待っていたが、一時
過ぎになっても帰ってきた機は
め、ラバウル湾内外の艦艇も多
大の損害を蒙った。
ラバウルに留まることは危険
だと判断されたため〇九三〇、
草鹿南東方面部隊指揮官は水上
艦艇のトラック回航を発令した。
﹁十時過ぎ、段々たる大爆音が
窓を揺すぶって近づく﹂
さてはまた空襲か、戦闘機が
遊撃に上がっているのだろう︰
⋮・しかし、それにしては少し
音がおかしい、と訝りながら資
料整理の手を休めて窓から首を
伸ばすと、椰子の葉越しに見え
るものは、魚雷を抱いているも
の、爆弾を抱えててるもの、味
方の攻撃隊の出動であった。
今朝発見した米空母部隊に対
する昼間の強襲である。白昼
堂々と、敵の待ち構えている制
空権の実っただ中に飛び込んで
行く、全力を挙げての捨て身の
強襲である。
帰って来る機、幾機ぞ。
曇天の下を這って行く機影を
心中おろがみながら私は見送っ
。
た
■′ ︶
当をたべたり、サイダーを飲ん
だりしていた連中が、出撃した
かと思うと僅か四時間か五時間
の後には、もはや金輪際帰らぬ
人になってしまう。
加藤哲夫のごときは、私がカ
ビエンに着いた日の、壮行決別
の宴が終わった夜、宿舎への道
が判らないだろうと、二∼三の
戦友の先頭に立って送ってくれ
た姿が彷彿とする。
あんなに若いのが、あんなに
元気だった者が⋮⋮。
崇高にして美しい姿を追いつ
つ、待機所の羽目板に寄りかか
って、ぼんやりしていると﹁顔
と、続いて
﹁しかし、南太平洋戦争でごっ
そり帰らなかった時は、さすが
に淋しかったです。ベットが欠
けて残ったのが、ぽつんぽつん
だったですから、実際あの時は
一人で小便に行くのも嫌なよう
な、妙に淋しいような、気味の
悪いような気がしました⋮・﹂。
加藤哲夫氏は岐阜県恵那郡の
出身。叔父の七期後輩。瑞鳳乗
て深い親交があった。
り組み中、同じ艦攻操縦貞とし
前出の﹁平木三郎さん﹂︵飛
曹長・飛繰二十二期・香川県小
色が悪いですよ。具合が悪いで
すか﹂と平山︵乙九期︶が寄っ
ました。
豆島︶は白寿を悠々と突破され
した。 終り
なんと納得ですが、同じ地獄の
飛練にしても、青井大尉や平木
先任に当たった練習生は幸せで
平木さんならでは、さもあり
﹁想い出・俺たちの文集﹂まで
頂きましたが、甲十三期操縦組
の先任教員として、分隊員には
慕われていました。
てきた。
﹁⋮⋮﹂と私。
平山は
﹁戦争だから仕方ないですよ。
初めのうちは、私達も戦友が戦
死すると淋しかったんですが、
もうこの頃は別に考えなくなり
ました。今度は自分の香だと思
うだけです。一々悲しんだり、
淋しがったりしていては、戦い
は出来ませんよ﹂。
﹁ ︶
(16)
〈予科練〉
海軍と運
乙飛第十六期生
三澤 逸次
元雄飛会静岡支部長
採用試験と運
海軍少年航空兵に憧れて、昭
和十六年一月、高小在学中に、
海軍志願兵の一次試験を、遠州
森町で受けた。学科試験の方は
なんとか書けたが、身体検査で
引っかかってしまった。
軍医が鼻の蓄膿症だと言うの
である。私の前の受験者も蓄膿
症の疑いと言われてた。軍医は
助手に﹁こちらが蓄膿症で、そ
ちらが蓄膿症の疑いだから、書
き違えないように﹂と注意した。
衛生兵は﹁ハイ﹂と答え記入し
た。その記入をテラと見たとこ
ろ、三澤のカードの方に﹁蓄膿
症の疑い﹂と軽い症状の方を記
入していた。そのためかどうか
わからないが、とにかく一次試
︶
験に合格することができた。
二次試験は、三月十二日から
五日間、土浦航空隊で行われた。
学科試験や適性検査など、それ
ほど難関とも感じなかったが、
また身体検査で引っかかってし
まった。鼻の病気の方は、その
後治療に努めた結果、問題とは
ならなかったが、﹁眼筋平衡検査﹂
のところで、異常が発見された
のである。
検査官が異常を発見して、上
官に報告に行ったところ、﹁ど
れどれ﹂と言って、少佐の肩章
を付けた軍医が現れ、︵後で軍医
長と判明︶再検査をしてくれた。
暗い部屋で、かなりの時間を
かけ詳細に検査の結果、軍医長
は﹁ヨシ﹂と言い、控えの検査
官に﹁大丈夫だ﹂と言い残して
立ち去って行かれた。
この時もし軍医長が再検査し
てくれなかったら、おそらく不
合格になっていたことだろう。
昭和十六年四月、待ちに待っ
た採用通知が来て、躍り上がっ
て喜んだ。落ちた場合の進路な
ど、何も考えていなかったの
で、合格しなければ大変だった。
︶
四月末日、村人総出の見送り
を受けて、出征兵士として故郷
を出発し、途中熱海に一泊した
後、五月一日憧れの土浦海軍航
空隊に入隊した。
班編成に恵まれる
配属されたのが五十三分隊
︵後に五十一分隊に︶三十四班
で、班長は大山春雄上菅︵戦後
病没︶、班員は二十名であった。
この分隊で一年間寝食を共にし
たが、ここで感じたことは、﹁隣
の三十二扉や三十五班に入れら
れなくてよかった﹂と言うこと
であった。三十三班長は、なん
と善行章を四本もつけた上菅
で、無口で意地の悪い顔をして
いて、やることも意地悪で、あ
る時は昼食時、配食を終えたテ
ーブルを、班員全員で頭の上に
持ち上げさせるなどの罰直を科
したりして、横で見ているのも
つらい思いであった。︵大串・
梅本・四位君等の班︶
逆の隣の三十五班長は若手で
に見える教員で、分隊一恐れら
あったが、これまたひねくれた
顔の持ち主で、練習生に罰直を
科すのを生甲斐としているよう
班員の吉野・柴嶺・曽根君等
れていた。
のバッターの数も多かったと思
う。吾々の班長は善行章二本の
上菅で、厳しい中にも温情があ
り、常識をわきまえていて、班
員は非常に恵まれていたと思う。
数字の一つ違いで、隣の班に入
い
る
。
れられなくて良かったと感じて
︵後で聞いた話では、大山教貞
は旧中卒で、海軍兵学校を受験
したとのことである。︶
専修となる
希望どおり操縦︵水上機︶
一学年の後半に、操偵別に分け
るための希望調査があった。
操偵別飛行適性検査の時
勿論操縦を希望したことは言
うまでもない。昭和十六年十二
(17) 〈予科練〉
月に操縦員に適しているか否か
の飛行適性検査が行われ、初め
て飛行機に乗って、水平飛行の
操縦をさせて貰ったが、落ち着
いて操縦することができて、ま
ずまずの結果と思われた。
二学年は操縦・偵察・攻撃に
分かれて分隊編成され、希望通
り操縦分隊に入ることができて
嬉しかった。
第二字年終了の時
二学年の後半に、今度は陸上
機班と水上機班に分けるとのこ
とで希望調査があった。多くの
者が戦闘機か艦爆を希望するが、
私は﹁水上機希望﹂と書いて出
した。﹁水上機の方が海軍らしい﹂
とか言っていたが、実のところ
は、飛練の噂で﹁地獄の○○空﹂
とか﹁鬼の○○空﹂などと言う
て来た身にとっては、やや拍子
抜けの感じであった。
戦後同期の書いた文を読んだ
貞が見える。然しその教員は手
に何かを持っている、言わずと
知れたバッターである。︵中略︶
帰った者から順にバッターの洗
を称して三段罰直と言ふ。滑走
路のアスファルトが炎天に溶け
り、話を闘いたりしたところに
ょると、陸上機の飛練は、噂ど
おりの地獄の訓練であったらし
く、平成六年三月に出版された、
出水空三十二期飛練の惣門秀男
てやわらかく、ぢりぢりと指の
いた。従って予科練では例えば
話を聞いて、気後れしてしまっ
たのが本音である。もともと私
はおとなしい性質で、自分でも
平均よりおとなしい方と感じて
て﹁篭球﹂を選び、短艇競漕で
氏︵福岡県︶ の回顧録︵遺稿︶
﹁七月の炎天下、重い飛行服・
飛行靴・風の通らない飛行帽、
で、炎天下で手を油だらけにし
て磨きあげる作業をしたのだと
いう。三段罰直と言う言葉は、
これを読むまで聞いたことがな
かった。同期として申し訳ない
ような気持である。
吾々水上機班には、飛行場が
ないので、飛行服での駆け足な
どは一度もなく、飛行機の手入
れも整備員任せで、飛行機への
乗降には、整備貞が背負って運
んでくれた。飛行作業終了後の
罰直は、あったとしてもせいぜ
罰直の次は飛行機の手入れ
ち、滑走路にしみ込んでゆく。﹂
何とも凄惨な情景である。抜
粋はこの辺でとどめたい。
の汗は鼻の尖端に集まって、そ
こから焼けた滑走路に滴り落
間からせり上がってくる。顔中
礼、バッターの終わった者は滑
走路の上に﹁前に支え﹂、これ
は予備員と言うような始末であ
成替えで、どんぴしゃりと水上
機班に編入され、土空残留組と
されたことも幸運であった。
昭和十八年三月二十六日、同
期の第一陣としてついに予科練
を卒業し、鹿島空からの迎えの
トラックに乗車した。
三学年︵短縮︶に進級した編
武道では﹁柔道﹂を避けて﹁剣
道﹂・球技では﹁闘球﹂を避け
っ
た
。
を読んで驚いてしまった。
その文章の一部を引用させて
貰うと、﹁五月二十七日、西出水
駅からトラックで兵舎前に着い
たところ、手に手にバッターを
持った教員が、鷲のような眼を
光らして俺達を迎えた。﹂という
のである。それを見た練習生達
の気持ちは如何ばかりであった
ろうか、更に驚いたことに三段
鹿島空で訓練
鹿島空に到着し、正門前で整
列し、良いところを見せようと
先ず罰直の始まりは飛行場駆け
足、一周二里近くはあろう。︵中
略︶教員は二、三人が自転車で
後を追う。手には鞭をもって︵中
略︶三分の二が落伍し出し、後
の方でぴしぴしと鞭がなる。︵中
飛練第三十一期生として
期長の号令一下、整然と駆け足
をして庁舎前で申告した後、兵
舎前まで再び見事な駆け足を披
露した。飛練の教貞は静かにこ
れを迎え、必要事項を説明した
が、入隊して一週間位は全く罰
略︶後五百米、白いシャツの教
﹁ ︶
罰直というものがあったらしい。
直もなく、相当の覚悟で入隊し
︶
∴
〈予科練〉(18)
い﹁前に支え﹂程度で、パート
における罰直は余り記憶に残っ
ていない。飛行作業の敦貞も温
厚な性質の人で、機上で怒鳴ら
れたり、伝声管で殴られたりし
たことは一度もなかった。
最初の単独飛行の時は、一番
最初は十人位であったが、その
中に入り、一人で空中を飛んだ
時は爽快だった。
兵舎でも、予科練を超える程
の罰直は記憶に残っていない。
特に班長の藤代教貞︵乙九期︶
は罰直反対の信念の人だった。
丙飛出身の一飛菅で張り切り
屋が一人居たが、他は先任教員
以下、温厚な教員が多くて幸い
だった。
卒業近くなって、実用機に進
んだ場合の希望調査があったの
で、﹁二座水偵﹂と書いて提出
した。理由は、三座水偵では敵
戟閤機に遭遇した場合、﹁処置
なし﹂の状態になるのではない
かと思い、二座ならば多少の反
撃が可能であろうと考えたから
であった。
博多空で二座水偵の操縦訓練
昭和十八年九月末、鹿島空の
︶
練習機教程を卒業して延長教
育︵実用機教程︶を受けるべく、
博多空に入隊した。
幸いにも二座水偵専修に指定
され、先ず九五水偵の離着水か
ら訓練が始まった。
九五水偵は着水時の操縦がや
やむづかしい飛行機だったが、
零式観測機に変ってからは、馬
力も強く、操縦性能も良くて快
適だった。博多空では、それ程
難物の教員もおらず、居住区で
も罰直の回数は多くなかったと
思う。特に十一月一日に下士官
に任官してから以降は、全くと
言っていい程罰直はなかったよ
うに記憶している。飛行作業で
も、担当の教員は、乙飛先輩の
兵曹長で、実に温厚な、立派な
人で、怒鳴るようなことは全然
なかった。
ったとき、座席の砂が顔の方に
ただ一度だけ、宙返りをやっ
たとき、もう一度やれといわれ
て、続けて宙返りをしたところ、
速度が足りなくなり、背面にな
落下し、何とか宙返りはできた
ものの、﹁もっと速度をつけて
やれ﹂と注意を受けたことがあ
︶
った程度で、射撃訓練のとき
は、吹き流しに命中弾があった
し、急降下爆撃訓練では、模擬
爆弾が標的に直撃して誉められ
たこともあった。
戦後になって、十期生の水
上機の先輩による戦記文の中で
﹁博多空の急降下爆撃訓練では
模擬爆弾を標的に直撃させるこ
とは極めて困難で、十期生では
一人も無く、他の期でも滅多に
無い。﹂と記されているのを読
んで驚いた。因みに戦後厚生省
の資料で調べたところ、私の飛
繰卒業成績は二番となっていた。
日曜日に外出して、食堂に入
ったとき、ビールを注文したと
ころ、下士官になっていたため
か、すぐに出してくれ、いか刺
しを肴に一杯やったことや、一
人で歩いていて、陸軍の小隊に
出会い、いきなり﹁カシラ右﹂
と部隊の敬礼をされてドギマギ
したことなど、色々と面白い経
験もあった。
総じて博多空時代は、気候も
余り寒くないし、特別幸い思い
出もなくて、恵まれていたと言
えると思う。
卒業近くなり、卒業後の配属
先の希望を書いて出せと言われ、
他の多くの同期と同様、﹁戦地
希望﹂と書いて出し、そのよう
に覚悟していたが、愈々発表さ
れてみると、意外や鹿島空だっ
た。私は内心小躍りして喜んだ、
戦地に赴く同期には申し訳ない
が、鹿島空は勝手知ったる母校
であり、ここの教貞とあらば申
し分のない配置と思ったからだ。
卒業式を終え、喜々として五
つボタンの下士官服に着替え、
伊野勢勝利君・岩崎喜十郎君と
三名で鹿島空に向かった。
善行賞一線付与の時
列車内では近くの乗客に﹁こ
んなに若くて下士官ですか﹂と
驚嘆の日で見られたりした。こ
の時満十七歳だった。 続く
(19) 〈予科練〉
昭和十六年志 丙飛十六期
そしてみんなを集め、
﹁みなはまだ若いのだから犬
死にしてはならぬ。今後の日本
の繁栄に戦死した者の分まで努
力すべきである﹂と訓示された。
﹁なに言ってやがんだ。いま
さ
ら
﹂
いつもなら整備員たちが走り
という命令をくり返した上官が
おそらく分隊士クラスの先輩が
つぶやいたのだろう。
﹁死んでこい﹂
という誰かの声が聞こえた。
まわって忙しくうごいているの
今 泉 利 光
だが、その姿がない。そしてゼ
人月十五日を境に正反対のこ
とをおなじ人が口にするのを聞
けば鼻白む。その気持ちも痛い
ほどわかった。
私はそのとき、なにがどうな
友が特攻で死んだ。
しかし、あまりにも多くの戦
犬死にするなという言葉に嘘
は無かったと思う。
ろう。
今日、命令する義務から解放
されて我々の命を気遣ったのだ
おもう。
終戟となったとたんに、
﹁犬死にしてはならない﹂
と諭す。
玉井司令も幸い立場だったと
ロ戦のところまでいっておどろ
いた。なんとプロペラがない。
爆弾も見当たらない。私たちは
唖然として立ちつくした。
整備の先任下士官が走ってき
た。そして
﹁玉井司令よりの命令で全機プ
ロペラをはずした﹂とすまなそ
うに謝った。
みな、やけっぱちな気持ちに
なって芝生に寝転んでしまった。
私もそれにならって芝生の上に
大の字になった。
仰向けになって見上げると、
真っ青な空がまぶしかった。
そのあと、玉井司令がきた。
︶
っているのか状況がよくわかっ
ていなかった。ただ、もうゼロ
戦に乗ることが出来ないことだ
けはプロペラがはずされた機体
をみてわかった。そして、それ
をひどく淋しいことだと感じた。
終 章
昭和六十年五月四日、富山県
黒部市で︹海軍大尉黒瀬順斎氏
の慰霊祭︺を盛大に実施した。
この慰霊祭がおこなわれるに
︶
海南島二五四空
いたった経緯を、当時、ゼロ戟
搭乗会の会報に寄稿した。その
ときの拙文を載せて、あとがき
にかえたい。
以下、若干校正を加えた。
我々二〇五空隊員は、フィリ
ピンで特別攻撃隊の第一陣を命
ぜられた。
この二〇五空は、二〇一空の
生存者を基幹隊員とし、昭和二
十年二月五日にフィリピンから
台湾へ救出された部隊である。
玉井浅一中佐を司令とし、三
〇二、三一五、三一七、の三飛
行隊︵零式艦上戦闘機各四人機、
計一四四機︶ で編成され、二〇
五空の全員が﹁神風特別攻撃隊・
大義隊貞﹂に命名された。
昭和二十年五月九日。
黒瀬中尉︵予学十三期︶ は、
第一人大義隊員として、直掩二
機、爆装三機で、﹁宮古島の南
方に英国機動部隊あり、発見し
攻撃せよ﹂との命令を受け、十
五時〇〇分、台湾の宣蘭基地を
発進した。しかし、列機がエン
ジン不調でつぎつぎと引き返
し、直掩機石原泉上飛曹︵長野
〈予科練〉 (20)
県在住︶と二機なってしまった。
この二機は、電探を避けるた
め高度を二〇㍍に下げて洋上を
飛行中、シコルスキー戦闘機四
機が頭上を通過するのを発見し
。
た
石原泉上飛菅は、
﹁発見されたのではないか﹂
と心配し、黒瀬中尉と顔を見合
わせたが、幸い敵機は気づかず
飛び去って行った。︵石原氏談︶
洋上をすすむこと二時間。
石原泉上飛菅は﹁敵母艦近し﹂
と判断し、高度を二一〇〇㍍に
上昇しょうとエンジンをふかし
て機首をあげたが、黒瀬中尉が
操縦する爆装機がなかなかに上
昇できない。
心配になったが、やっとのお
もいで二一〇〇㍍に上昇した。
今まで高度が低く見えなかっ
たが、一七時〇〇分、大濁水渓
河一〇五度、二五〇浬付近に英
国中型空母三隻を基幹とする敵
機動部隊を発見した。
この機動部隊は、第一七大義
隊直掩隊、中尉、角田和男︵乙
飛五期︶、爆装、谷本中尉︵予
学十五期︶、常井一飛曹︵乙十
︶
六期︶、鉢村一飛曹︵丙飛十七期︶
が以前に突入し、撃ちもらした
空母群で、三隻のうち一隻の空
母が無傷であった。︵角田氏談︶
黒瀬中尉は、目標を指差し、
石原機にバンクをして最後の別
れの合図をおくり、勇敢にも一
いった。
機で一艦を葬るべく、輪型陣の
最後尾の空母めがけて突入して
︶
飛行機だけが四散した。
フィリップさんは機体の破片
を記念に持ち帰り自宅で大切に
保管していた。
昭和五十九年十二月
フィリップさんは自分も年配
︵英国ロンドンに在住し、昭和五
十九年当時六一歳になられてい
た︶になり、最近になって、拾
った零戦の破片をご遺族に返還
できたらと思い立ち、﹁零戦=
ミツビシ﹂をおもい出した。
そして、三菱商事ロンドン支
店に相談したところ、さっそく
東京支店より某新聞社に依頼し、
記者一名が専属調査に入った。
しかし四十年前のことであり、
猛烈に打ち上げる護衛駆逐艦
の対空砲火のあいだを爆風にあ
おられながら敢然と体当たり攻
撃を敢行した。
ところが不幸にもなぜか二五
〇キロ爆弾が爆発せず、一瞬、空
二∼三分後には鎮火してしまっ
母の甲板は火の海となったが、
た。︵石原氏談︶
イギリス海軍の士官であるフ
ィリップ・W・グリフィンさん
そして、角田和男︵乙飛五期︶、
石原泉︵丙飛三期︶両氏の証言
から、その破片は、海軍二〇五
航空隊の神風特別攻撃隊第一八
遺族の発見はむつかしく行き詰
まっていたところ、﹁予科練﹂
︵海原会︶という会があること
を知り、そこへ連絡をしていろ
いろ調査してもらった結果、﹁大
義隊員﹂ではないかということ
になり、﹁二〇五空会﹂に連絡
があった。
が、昭和二十年五月九日、英国
空母ビクトリアスに乗りこんで
沖縄方面先島群島付近を航行中、
零戟一機に護衛された特攻機が
体当たりを敢行してきた。
そのため乗組員が六∼七名が
戦死したが、爆弾は爆発せず、
大義隊、黒瀬順斎大尉︵予学十
三期︶ の零戦の一部であること
が実証されたのである。
おもえば、四十年前、身命を
した魂は、一片の破片とともに、
挺して祖国の繁栄とご両親、弟
妹の安泰を願いつつ、肉弾突入
永遠に消えることなく、今日、
富山県の黒部の山河を眺めつつ
ご両親が眠る懐かしの故郷へ、
私ども﹁二〇五空会﹂の隊員
無言の凱旋をしてきたものであ
。
る
がその遺品を手にしたとき、無
念の涙とともに、﹁よく帰って
きてくれた﹂と誰もが感じたこ
ご遺族の話では、昨年朽ちた
とであろう。
白木の骨箱を命日に新しくつく
ったばかりであるという
﹁きっと兄が家に帰るから骨箱
くらいきれいにしておけよ、と
催促したのでしょう﹂
と感無量の様子であった。
遺品は零戟の垂直尾翼の一部
と思われる。
銀色に輝くジュラルミンと黒
瀬大尉の栄光の輝きは、白木の
三十誓四方くらいの桐の箱に納
(21) 〈予科練〉
められた。
その輝きは未来永劫にわたっ
て凄然と光を放ち、家の守り神
として、また村の守護神として
敬愛されることでしょう。
合
掌
。
続く
予備学生による壮烈な特攻で
あった。ここに記録として残し
ておきたい。
︵敬称略︶ ︵単位千円︶
平成27年5月
五 井ノ久保武義︵丙16︶宮崎
一石上平五郎︵丙16︶東京
佐藤 建次︵特10︶神奈川
藤野 雅之︵乙19︶埼玉
小池よし子︵硝18︶静岡
三輪 信光︵甲望北海道
有瀧 玲子︵一般︶三重
武田 まり︵帽6︶東京
忠一︵乙空三重
淳子︵一般︶東京
輝雄︵特4︶岐阜
渡遽 啓司︵甲望静岡
五五五〇五五五五五五〇六
恒徳︵甲ほ︶大阪
盛一︵甲望広島
乙小松原森
重林下島下
豊田重次郎︵乙召福岡
若林 武美︵乙ほ︶富山
曽根 和満︵甲は︶神奈川
羽賀一夫︵特9︶千葉
藤野 雅之︵乙19︶埼玉
︶
′
秋山 正喜殿 乙十九期
平成二十七年六月一日没
福島県いわき市
ご遺族 長男 秋山 裕久殿
中島 孝殿 甲十三期
溝口 三郎様
千葉を福岡に訂正いたします。
げます。
謹んで訂正し、お詫び申し上
芳名簿に誤りがありました。
務科練会報四二九号の寄付者
訂正とお詫び
誠に有難うございました。
海原合へのご芳志
平賀 義治︵甲は︶神奈川
小林 繁樹︵甲ほ︶埼玉
中山 憲語︵特4︶神奈川
大久保浩之︵甲望佐賀
三五五五五五五五五
平成二十七年六月三日没
静岡県菊川市
ご遺族 長男 中島 敏殿
横溝 潔殿 甲六期
平成二十七年七月十一日没
さいたま市大宮区
ご遺族 妻 横溝 マツ殿
ご冥福をお祈り申し上げます。
十名出席
東海大学校友会館富士の
間、評議貞六名、理事人
名、監事一名、準評議員
12︵金︶臨時理事会於、東海大学
校友会館相模の間、再任
新任理事人名、監事一名
参与一名出席
堺理事長、酒井副理事長
を決定
理事長の発議により助村
専務理事を決定
七月
園圏圏同園
五月
15︵水︶横清 潔顧問逝去通夜
於、やすらぎホール大宮
16︵木︶横清 潔顧問告別式
於、通夜に同じ。
堺理事長、酒井副理事長
参列
津島評議員、豊岡準評議
貞、小島準評議員参列
助村専務理事、平野理事
福田理事、大石評議員、
24︵日︶第四十八回線科練慰霊祭
於、土浦孫科練雄翔園
招待者、会貞、関係者
総員四六五名参列
六月
10︵水︶像科繰慰霊祭反省会
於、武器学校広報援護班
酒井副理事長、助村専務
理事、徳永支部長、平野
理事、篠田参与、小野O
B会幹事長他一名、広報
援護班二名参加
28︵火︶大森コーポ管理組合総会
24︵金︶七月定例理事会於、海原
会会議室
堺理事長他十二名出席
12︵金︶六月定例理事会於、東海
大学校友会館相模の間、
堺理事長他七名出席
助村専務理事出席
於、西友大盛店﹁花蔵﹂
12︵金︶二十七年度評議委貞、於
︶
′
〈予科練〉 (22)
2 月
海原会恒例の二〇一六
年度のカレンダーが出来
上がりましたので、頒布
させて頂きます。
価格は本年から二千円
と致します。
︵送料北海道・沖縄・
九州・四国は四部まで
八〇〇円、普通地域は、
五〇〇円ですが、五部
以上の場合は、無料とさ
せて頂きます。︶
以上ご了承戴き、品切
れにならない内に、早め
に申し込みをお願い致し
なお、絵柄は下記の通
ま
す
。
りですので、幾人か纏め
てのお申込みをお待ちし
ております。
海原会事務局
1 月
3 月
ミン芸言放ゝ萱済 絹を誉∧洋髪
仙=プ_弧夕 .
空技廠九三式中間練習機“赤トンボ”陸上型
空技廠陸上爆撃機“銀河”一一型
4 月
5 月
三菱一式陸上攻撃機一一型
6 月
増や萎 套葵 贈,琵 ∴ト 調舅舅■田野艶麗威誹
拳や
ぎ
川西九四式水上偵察機
中島艦上偵察機“彩雲”一一塑
川西二式飛行艇一二型
8 月
9 月
7 月
鉱山
雲慧発露;妻㌫♪ききまき…−
三菱零式艦上戦闘機52型
∨認
ぎ 登攣 蓑 、磯ンン表rV毒≡≡㌫三滞る≡
三菱零式観測機初期型
10 月
11 月
曇誉挙墾慧 洪返抜嘉
川西局地戦闘機“紫電”一一型
12 月
豪
γまぶ曇γ撃ち ≡射!鰻や学 童箋
中島夜間戦闘機“月光”二一型
(23) 〈予科練〉
磁郷関野澤
凛騒顔形奈猟泌㌍=攣 弊蔓誓書蔓ン…さく等消毒 済姜
三菱零式艦上戦闘機二一型
三菱九〇式二号機上作業練習機
発行所〒羞溌粋蒜が讃
﹁予科練﹂第430号9・10月号
平成27年9月1日発行 発行人 堺 周一
昭和53年7月26日第3種郵便物認可︵隔月奇数月1回1日発行︶編集人 保坂俊雄