は じめ に 拙著「高根をめざして」を読まれた方は、私が「旅人」の視点を持つ傾向があることに気づかれ たことと思います。言い換えるなら、私はクリスチャン生活というものを、その性質上、一時的 なものとして理解しています。私たちの信仰の父祖はこう歌いました。 「この世は私のふるさと ではない。私はちょっと『通過』しているに過ぎない。私の宝はこの青空の向こう側のどこかに 蓄えられている。 」このような歌詞は、「絵に描いた餅のような、つかの間の楽しみ」を求め る哲学を促すことになるかもしれませんが、そこには真理のある要素が含まれています。私たち は罪によって崩壊したこの世において、確かに旅人であるのです。「私たちの国籍は天にありま す。」 (ピリピ3:20)そして、やがて旅を終え、イエス様の御前に進み出る日を心から待ち望 んでいるのです。 とは言っても、 「高根をめざして」に登場する「友人」のように、私たちも期待感と冒 険の可能性を感じながら日々の生活を過ごしています。私たちは直面する一つ一つのチャレンジ に対して与えられている才能や道具を用い、また仲間の旅人たちに対して、彼らが旅を続けてい くために必要な力を創造主なる神に求めるように促しながら、すばらしい和解のメッセージをで きる限り心に留め、口で告白しています。 聖書を学ぶことは、旅を続けていくための最も大切な道具の一つであり、また終わる ことのないプロジェクトです。神のことばは「生きていて」 (ヘブル4:12)、子どもたちから 年配者まですべての世代に関連し、新鮮に語りかけます。そして聖書の真理は、様々な読者に対 して、際限のない仕方で実をもたらします。ある人たちにとっては聖書の最初のページから読む のがいいでしょう。あるいは福音書やパウロの書簡を通して、この旅路へと導かれる人たちもい るでしょう。歴史マニアは、聖地における歴史を旧約聖書を通して何時間もかけて調べることが できるでしょう。そして、深く掘り下げる学者タイプの人は、ダニエル書や黙示録などの書を読 めば、決して期待を裏切られたと思うことはないでしょう。 しかし、神のことばの深さを測るにはどうしたらよいでしょうか。この神の霊感によ って書かれた愛の手紙を開くとき、そのような任務を行うのにふさわしくないと最初は思うかも しれません。聖書の言葉は奥義に包まれ過ぎていて、個人的な体験からかなりかけ離れているよ うに感じたり、あるいは単に信じられないと思えたりするかもしれません。聖書のある箇所につ いての講義を聞くことは助けになるかもしれませんが、この本は私たちが個人的に、直接的に触 れながら注意を傾けることを求めます。ヨハネが彼の最後の手紙に書いた約束は、確かに聖書全 体に通じる真理です。「この預言のことばを朗読する者と、それを聴いて、そこに書かれている ことを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」 (黙示録1:3) 聖書を学ぶための「方法」はいくつもあり、そのほとんどはかなり良いものです。実 際のところ、あなたにとって役立つ方法なら、どの方法もあなたにとって良いものです。この本 の目標は、あなたが神について、神の民について、この世における神の働きについて、そしてあ なた自身について、新しい発見を豊かに得ることを助ける一つの道具を、あなたに提供すること です。 では、どのようにして「Road 方式」を用いればよいのでしょうか。これから、一歩一歩見てい きましょう。 ス テッ プ 1 : あ なた と 共 に こ の旅 路 を 歩 む 人を 、 少 なく と も 一 人 か二 人 探 す 確かに個人的に聖書を学ぶことの意義はありますが、 「Road 方式」を用いるのに必要なことは、 信頼できる人たちと考えや質問を分かち合い、比較することです。箴言の記者が記しているよう に、 「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」 (箴言27:17)のです。自分の 考えを組み立て、互いに分かち合うことによって磨き合うのです。ある聖句は、神が決して意図 していない方向へと読み手を向かわせることがあり得ます。グループにおいて自分の思いを語る ことは、自分の考えを磨き、助けとならない考えを取り除き、より正しい方向へと導く新しい考 えを取り入れるのに、非常によい方法です。 ス テッ プ 2 : 準 備し て か ら 、 グル ー プ の 集 まり に 参 加す る この方法を行うために大切なことは、グループのメンバーそれぞれが、それぞれの章の冒頭にあ る、背景を説明する資料をあらかじめ読むことです。そこに記されている情報からさらに様々な ことを学ぶことができますが、少なくとも、グループとして学ぼうとしている箇所の背景や文脈 を理解しておくことが大切です。グループで集まるときに、最初の10分間は聖書箇所を読むこ とのために用いますが、もし章の冒頭にある資料についても読まなければならないとしたら、時 間が足りなくなってしまいます。そのため、グループで集まる前に、背景に関する資料を読んで おくようにします。そしてみんなで集まるときには、一人一人に筆記用具と聖書が備えられてい るようにしておきます。 ス テッ プ 3 : 始 める 前 に 、 数 分間 、「 落 ち 着く 」 と きを 用 意 す る 最初の10分間はそれぞれが静かに聖書箇所を読むために用いるので、グループとしてそれがで きる状態にしておくことが大切です。そのために、互いに近況を報告し合い、コーヒーや紅茶を 準備し、遅れてきた人たちが落ち着けるようにし、それから祈りをもって始めるようにします。 心と思いが開かれ、聖霊がグループの間に働いて、みことばを通して示されることを受け止める ために新しいビジョンが与えられるように祈ります。 ス テッ プ 4 : 特 定の 聖 書 箇 所 を読 む ( 1 0 分) それぞれの学びは、この福音書に記されている特定の出来事について見ていきますが、必ずしも 一つの章全体を読むとは限りません。この10分間に、そのときに学ぶべき箇所だけを読むよう にします。もしあなたが素早く読む人であるなら、もう一度同じ箇所を読みます。他の人たちの 注意をそいだり、彼らの読み方に影響を及ぼしたりしないために、自分の考えを声に出して言わ ないようにします。この時間に、神が聖書を通してあなたに個人的に語りかけてくださるように します。聖書の箇所はこの本にも印刷されているので、ある人たちにとってはそれを用いるが最 もよいでしょう。あなたの心に留まった言葉、文、箇所に下線をひいたり、余白に自分の考えを 書いたり、しるしをつけたりします。他の人たちにとっては、この本ではなく、自分の聖書を用 いるのがよいかもしれません。 異なった翻訳を用いるのもよいですし、ある箇所を異なった視点から見るためにグル ープにとっても助けとなるかもしれません。あなたが用いる聖書の性質について理解しておきま しょう。その訳は原本から直接翻訳されたものか、あるいは分かりやすく言い換えられたものか。 若者、女性、カトリック、プロテスタントなど、特定の人たちを念頭に置いて訳されたものか。 聖書の学びをするためのものか、気楽に読むためのものか。どの訳も決して間違っているもので はありませんが、訳によってはあなたが特定の聖句を理解しようとするときに影響を及ぼすこと があります。グループとして様々な訳を用意しておき、どれを用いるかあらかじめ決めておくよ うにしましょう。 ス テッ プ 5 : そ の箇 所 の 事 実 を観 察 す る ( 15 分 ) このステップを飛ばして次に進もうとする誘惑を退けましょう。聖書箇所に記されている基本的 な事実を確認します。 「なぜ」という質問にはあまり時間をかけずに、 「だれが」「何を」「いつ」 「どこで」という質問に答えるようにします。それぞれの学びの「Road ワークシート」には正 しい方向に進んでいくことを助けるいくつかの質問事項がありますが、それらの質問がすべての ことを網羅するわけではありません。例えば、ヨハネ3:16に至るまでの箇所に関して、あな たのワークシートの「観察」の部分には以下のようなことが書かれるべきでしょう。 「ユダヤ人 の指導者の一人であるパリサイ人のニコデモは、ある夜イエス様のもとに来て、話をした。イエ ス様が神から来られた方であると述べたニコデモに対し、イエス様はだれでも新しく生まれなけ れば神の国を見ることはできないと言われた。さらにイエス様は、ニコデモに対して教師として の責任を持っていることを思い起こさせ、そしてイエス様自身こそ人間に永遠のいのちをもたら すために神によって遣わされた方であることを説明された。」 次のステップでは、自分の状況に照らし合わせて聖書箇所を思い巡らしますが、このステップで は、聖書に記されている事実に集中します。 ス テッ プ 6 : 観 察し た こ と を 自分 の 生 活 に 適用 す る (1 5 分 ) 上記のヨハネ3章の箇所のように、いくつかの学びは他の学びよりも適用について考えるのが簡 単です。他の箇所については、少なくとも初めて読んだときには、自分と何の関係もないかのよ うに感じることがあるかもしれません。もし何の関係もないように思えるなら、そのように言い ましょう。何かより深いことがあるように思えるなら、そのことを書き出してください。このス テップは、次の、最後のステップである「分かち合い」を活性化させます。 ス テッ プ 7 : ワ ーク シ ー ト に 書い た こ と を 共に 分 か ち合 う ( 3 0 分) ここで、いよいよ流れ始めます。それぞれが観察したことをまとめるにつれ、最初読んだときに は気づかなかった事実を発見するかもしれません。書き留めたことを声に出して話すことによっ て、聖書に記されている出来事がつながってきて、よりよく理解し、適用することができるよう になります。適用のステップに関しては、どれほど多くの異なった答えが存在し得るか、あなた は驚くかもしれません。それは聖書が生きた神のみことばであり、一人一人に非常に個人的に語 りかけるからです。ある人たちは、特定の聖句からはだいたい同じメッセージを受け取るでしょ うが、他の人たちは全く新しいことを見出し、まさしくふさわしい時に、ふさわしい状況におい て語られていると感じるかもしれません。これらのことを共に分かち合うことによって、参加す るすべての人たちに大きな祝福が与えられます。 では、4つの基本的なステップをもう一度見ることにしましょう。それらは「Road」という言葉 でまとめることができます。 R :自分自身で特定の聖書箇所を読む(Read)(10分) O :その箇所の事実を観察し(Observe) 、それらを書き留める(15分) A :事実を自分の状況に適用し(Apply)、それを書き留める(15分) D :書き留めたことをグループで分かち合う(Discuss) (30分) ここまで、時間通りに進めてきたとするなら、約1時間10分で、堅実で実りのある聖書の学び をしたことになります。これよりも短い時間では、その箇所についてあまり深く学ぶことはでき ません。これよりも長い時間では、集会の時間が長くなり過ぎたり、一度にあまりにも多くのこ とを考え過ぎて何も理解できなくなってしまったりしてしまいます。この本は52の学びから成 り立っていて、それぞれの学びではヨハネの福音書とヨハネの手紙第一、第二、第三にある特定 の箇所を学ぶことになっています。 それぞれの学びのために1時間ちょっとの時間を用いるなら、頭を疲れさせることなく、最大限 の集中力を保って学ぶことができるでしょう。 この本を書くにあたり、私は1年間かけて行う聖書の学びを計画しようとしたわけではありませ んが、ヨハネの記述をほどよい分量に分けて考えたとき、驚くことに52になりました。もしグ ループとして週1回、1年間合うなら、あなたはこの学びを完了し、個人的にも、またチームと しても霊的に成長することでしょう。この学びをするという決心をお互いにし、きちんと時間を とり、集会ごとに少なくとも20分間の祈りのときを持つことをお勧めします。神があなたを祝 福してくださり、さらに、あなたが他の人々の祝福となるように祈ります。 な ぜ、 ヨ ハ ネ な のか ? 最初の学びを始める前に、次のことを考えてください。ヨハネの福音書は、4つの福音書の中で 最もよく知られ、最も頻繁に引用され、最もよく実証されている福音書です。ヨハネの福音書は 紀元85年から90年の間に記され、 他のどの書よりも初期の写本(シナイ写本、 バチカン写本、 エフラエム写本、ベザ写本、アレクサンドリア写本、ワシントン写本、コリデティ写本)に書か れていました。また、パピルスに書かれた最古の写本の68の断片のうち、15はヨハネの福音 書でした。学者たちの間で論議されているおもなポイントは、この福音書の記者がだれであるか やそれがどれほど信憑性のあるものかということではなく、他の3つの福音書となぜ大きく異な っているのかという疑問です。 マタイ、マルコ、ルカは「共観福音書」と呼ばれます。これらの書は、同じ視点から、しばしば 同じ情報源を用いて、イエス・キリストの生涯を時系列で記しています。そしておもな出来事と 預言の成就に焦点を合わせています。それに対してヨハネの福音書は、出来事を報告するだけで なく、みことばを適用するように指し示しています。ヨハネがこの福音書を書いた目的は20章 31節にはっきりと記されています。 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子 キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名に よっていのちを得るためである。」言い換えるなら、ヨハネはあなたを回心したいのです。 ヨハネの福音書と共観福音書とを比較するなら、宮のきよめやベタニヤで油を注がれることなど、 ヨハネが同じ出来事を異なった順序で述べているのが分かります。イエス様とバプテスマのヨハ ネやペテロとの最初の出会いや最後の晩餐、そしてイエス様の逮捕、裁判、十字架など、マタイ、 マルコ、ルカと記述が異なって見えるものもあります。その理由は同じ出来事を異なった視点か ら見ていること、ある出来事の重要性についての異なった理解、またしばしば聖書に見られる、 時系列での報告よりもテーマに焦点を合わせる「トーレドート・スタイル」を用いていること、 など様々です。しかし、ヨハネの福音書と共観福音書との間に、神学的な真理や信憑性に疑いを もたらすようなものは何もないことを心に留めておきましょう。ヨハネの視点が他の記者と異な ることは疑いのないことです。彼はイエス様の「愛する弟子」(ヨハネ19:26)であり、イ エス様の胸によりかかった者であり(ヨハネ13:25) 、御子の栄光を自分の目で見(ヨハネ 1:14)、自分の見たことや感じたことを書き留めようとした人でした。 「共観福音書はイエス 様の絵を描き、ヨハネの福音書はそれに色を塗る」とよく言われています。 マタイ、マルコ、ルカには、イエス様によってなされた35の奇蹟が記されています。ヨハネは わずか8つしか記していません(ただし彼は21章25節で、イエス様の行われたみわざをすべ て書き留めるなら、世界も書かれた書物を入れることができない、と述べています) 。しかしそ の8つの奇蹟において、ヨハネは救い主のご性質と力を記しています。それらは以下のとおりで す。 1. 水をぶどう酒に変えられる(2:1以降) 2. 離れたところで病院をいやされる(4:49以降) 3. 中風の人をいやされる(5:1以降) 4. 5000人に食べ物を与えられる(6:1以降) 5. 水の上を歩かれる(6:16以降) 6. 目の見えない人をいやされる(9:1以降) 7. ラザロをよみがえらせる(11:1以降) 8. 奇蹟的に多くの魚がとれるようにされる(21:5以降) ヨハネの福音書を読み進めていくとき、彼があなたと分かち合いたいと願った、光、いのち、愛、 真理、信仰、といった鍵となる言葉に注目してください。また彼が他のテーマよりも、キリスト の受難(逮捕、十字架、復活)について多く記していることにも心を留めてください。 この福音書は、もともとユダヤ人の回心者が多く集まっていたある地域教会に向けて書かれまし た。紀元1世紀は、ユダヤ人のシナゴーグと、増え続けていく「この道」(使徒19:23)を 信じる人々との間に、衝突があった時代でした。キリストに従う者たちはユダヤ人からは追放さ れ、ローマ人からは迫害されました。クリスチャンたちは、分離させられた共同体として、 「イ エスを告白する」ことの意味を学び、その告白によって生じる困難を受け入れることを学ばなけ ればなりませんでした。彼らはそれまで以上に、献身を促し、慰めを与えるヨハネの言葉を聞く 必要があったのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。そ れは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 (ヨハ ネ3:16) ヨハネのメッセージが、あなたにとっても豊かな祝福となりますように。 第1章 「初めに」 ヨハネ 1:1‐18 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、 初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、こ の方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であ った。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 6 神から遣わされたヨ ハネという人が現れた。7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、す べての人が彼によって信じるためである。8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするた めに来たのである。9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方 はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 こ の方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受 け入れた人々、すなわち、 その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によっ て生まれたのである。1 4 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄 光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ち ておられた。15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。 「『私のあとから来る方は、私 にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」 16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのであ る。17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによっ て実現したからである。18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり 子の神が、神を説き明かされたのである。 「ヨハネの福音書」の最初の言葉は、あなたにとって馴染み深い言葉ですか。聖書の最初の言葉、 つまり創世記 1:1 と同じ言葉が使われていますから、きっとあなたにとって馴染み深い言葉でし ょう。ヨハネは、イエス様の神性を示す究極的な証拠は創世記との関連性に見出すことができる と知っていました。ヨハネが用いている「ことば」という言葉について考えてみてください。こ れは、ヨハネの時代のギリシア人たちにとってよく知られていた言葉でした。まさに英語で「街 のうわさ(人々が巷でしゃべっている「ことば」)はどうなの?」という表現があるように、彼 らは知識を表すために「ことば」という言葉を用いました。ギリシア人たちは私たちと同じよう に、 「ことば」にして語らない限り他の人に理解してもらえない、ということを知っていました。 私たちが発する「ことば」を通して、他の人々は私たちの心にあることを垣間見ることができま す。それと同じように、神が語られた「ことば」を通して、神がどのようなお方であるのかが示 されました。神の「ことば」によって、すべての被造物が創造されました。聖書の最後の書には、 神の語られる「ことば」がすべてのものに終わりをもたらすものであることも記されています。 その名は「神のことば」と呼ばれた。 出ていた。 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が (黙示録 19:13-15) さて、ここで決定的な証言がなされています。ヨハネは創世記に記されている神が語られた「こ とば」と、イエス・キリストとが同じであると述べています。この方は「神とともにおられ」、 「神であられ」、そしてすべてのものがこの方によって造られました。では、ここでちょっとし たクイズをしましょう。イエス様が最初に行われた奇蹟は何だったでしょうか。それは、水をぶ どう酒に変えたこと(ヨハネ 2 章)ではありません。答えは、創造のみわざ、そのものです。 「 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」 (ヨハネ 1:3) ヨハネが述べている、光とやみという考え方についてはどうでしょうか。ほとんどの宗教は、善 と悪、あるいは陽と陰の間に緊張関係があり、それらは同等の力をもった正反対のものであると 教えます。しかしヨハネは「光」というただ一つの力しか示していません。その「光」が存在し ないなら、私たちも存在しません。ただ、やみがあるだけです。聖書には、「光」が取り除けら れた出来事が3つ記されています。まず、神はエジプトにおいてパロから光を取り除けられ、ヘ ブル語で「チョシェク」と言う、「やみにさわれる状態」をもたらされました(出エジプト 10:21-22) 。次に、神はゴルゴダにおいて、御子が十字架にかけられたときにご自身の臨在を取 り除けられました(マルコ 15:33)。そして最後に、ヨハネが黙示録 16:10 に記しているように、 「裁きのための第5の鉢」がぶちまけられるとき、 「光」が取り除けられます。これらのことを 知っていたヨハネは、イエス様が「わたしは、世の光です」 (ヨハネ 8:12)と語られたことばを 記したとき、鳥肌の立つ思いをしたのではないでしょうか。 しかし悲しいことに、ヨハネが知っていたことをすべての人が知っていたわけではありません。 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(別訳:これを悟らなかった)。」 (ヨハネ 1:5)ここで注目すべき言葉があります。 「悟らなかった」と訳されている「カタラン バノ」という言葉は、「把握する」、「理解する」、「打ち勝つ」、「征服する」というふうに訳すこ とができます。ここで用いられている動詞の時制に注目してください。光は「輝いている(現在 形)」、しかしやみは「打ち勝たなかった(過去形)」、となっています。言い換えるなら、ヨハネ によれば、過去に暗やみの力が光を征服しようと試みたが失敗した、という意味です。 6 節にはもう一人の「ヨハネ」が登場しますが、混同しないでください。このヨハネは使徒ヨハ ネではなく、バプテスマのヨハネです。彼はザカリヤとエリサベツの子で、ルカ 1:36 によると、 イエス様の母マリヤの「親戚」になります。実際、彼はイエス様より4ヵ月前に生まれました。 バプテスマのヨハネはイエス様と同じように奇蹟的な状況において生まれ(処女から生まれたの ではありませんが、年老いたエリサベツから生まれました)、またイエス様と同じように特別な 奉仕のために聖別されました。彼は「光についてあかしするために」来ました(8 節) 。 10 節からは、再びイエス様に焦点が当てられています。「この方」とはヨハネではなく、「もと から世におられ、 世はこの方によって造られたのに、 世はこの方を知らなかった」イエス様です。 イエス様は「ご自分のくに」、つまりイエス様ご自身が造られたこの世に来られましたが、彼の かたちによって造られた彼の民は、エデンの園にいた頃の状態からあまりにもかけ離れてしまっ たため、イエス様を受け入れませんでした(11 節) 。しかしここでヨハネは、福音のメッセージ を素早く伝えています。 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々に は、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 (12 節) 「神の子ども」とはどういう意味でし ょうか。聖書には4つのタイプの「神の子ども」が記されています。 1.御使い:創造のみわざに基づいた神の子ども 2.ユダヤ人:国籍と神の選びに基づいた神の子ども 3.クリスチャン:養子と新生に基づいた神の子ども 4.イエス様:神の御子(他のすべてのものと異なる方) 4番目の項目に注目してください。「ことばは人となって、 」 (14 節)。おそらくこの聖句は 聖書の中で最も深い意味をもった節だと思います。ことばが人として「現れた」のではなく、実 際に人と「なった」のです。この事実を見極めることは重要です。イエス様は存在し始めたので はなく、人となり、「私たちの間に住まわれ」ました(14 節)。ここにも、神によって選ばれた 言葉が聖書に記されているのを見ることができます。 「住まわれる(宿る)」という言葉は、ギリ シア語の「スケノス」の訳で、それは「皮」や「幕屋」を意味します。これは、シナイ砂漠でモ ーセによって最初に建てられた礼拝の場所である幕屋と関連しています。神が人間に対してご自 身を啓示したいという願いを動物の皮によって示されたように、受肉されたイエス様の「肉」、 あるいは「皮」は、すべての人のためにただ一度、神を啓示しました。イエス様は神秘的な亡霊 ではなく、肉体と血を伴われ、ヨハネと彼と共にいた者たちによって「見られ」、バプテスマの ヨハネによって「 と私が言ったのは、この方のことです」 (15 節)と「証言され」ました。こ の方は「先におられ」、 「恵みとまこと」をもたらし、だれ一人することのできなかった「神を説 き明かす」ことをされました(18 節) 。 ではこれから、読み、観察し、神があなたに示されたことを適用していきましょう。 「初めに」 ヨハネ 1:1‐18 R ヨハネ 1:1-18 を読んでください。 (10分) O 事実を観察してください。ヨハネはだれについて書いていますか。何が起きましたか。他に だれが関わっていますか。(15分) A 読んだことを適用してください。神がこの世に来られ、 「人間の間に住まわれた」とはあなた にとって何を意味しますか。あなたは神のご計画の一部でしょうか。 (15分) D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 (30分) 第2章 "対立" ヨハネ1: 19 ‒ 28 19そしてヨハネの証しはこうである。"エルサレムのユダヤ人がたち がヨハネに司祭及びLevites(レビト人たち)を遣わして「 あなたは どなたですか?」と質問させた時20 彼は公言し、「私はキリスト(メ シア)ではない。」と言い表した。 21 そして彼らが彼にまた、「で は何ですか?あなたはElijah ですか?」と尋ねると、ヨハネは「い いえ違う」と言った。さらに彼に「あなたは予言者なのですか?」と 尋ねると、「そうではない」と答えた。22 そこで彼らは言った。 「それではいったい誰なのですか?私達は私達を遣わした人々に返事 をしなければなりません。あなたは自分を何だというのですか?」23 ヨハネは予言者Isaiahの言葉を用いていった。「私は荒れ野で叫ぶ声 である。主の道をまっすぐにせよ。」 と。 24 彼らはPharisees 派 の人達だった。25 彼らは彼に「あなたはキリストでもなければ、 Elijah でもなく、予言者でもないのになぜ洗礼を施しているです か?」と彼に言った。26 ヨハネは答えた。「私は水で洗礼を施す が、あなたの中には、あなた方が知らない方がおられる。27 その方 は、私の後から来られる方で私はその方のサンダルの紐を解く資格も ない。」28 これは、ヨハネが洗礼を施していたヨルダン川の向こう 側、Bethany での出来事であった。 Judea (Matthew 3章:1節) の荒野からでさえ、そのニュースは立待 ち広がった。予言者は、ラクダ毛のマントの服を着て現われ、野生の イナゴと蜂蜜を食べて生活し、「主の道の準備をせよ」とIsaiah の 言葉を説教していた。それは予言者が話しを始めていらいづっと続い た。 実際はおよそ400 年つづいた。Malachi を越えるところで、人 々は彼の刺すような譴責を残された。神が炉のように燃える日に戻っ てくるという約束、そして 全ての悪行およびあらゆる悪人は藁にな る。そして来たる日にはそれらに火がつくであろう。(Malachi 4章: 1節) 。根も枝も彼の猛攻撃で存続しえないであろう、そして彼の敵 はあなたの靴底の下の灰になるであろう(3節) 。Malachiに約束さ れたそのひどい日の直前に、Elijah彼自身が彼らの父の心を 彼らの 子供たちに戻すために、そして子供たちの心を彼らの父たちに戻すた めにもどってくるだろう。(6節) 。 そしてしばらく静けさが続いた。バビロニア人の流浪時代と同じだけ そして沈鬱のときと同じだけ続いた。古いすばらしい予言者を覚えて いた人々はずっと前に死に、それらの日が帰る見込みもなかった。そ れからヨハネが帰ってきた、そして彼は公言した。「私は水で洗礼を 施すが私より後に来る方は私より強大で、彼は聖霊および火で洗礼を 施す(Matthew 3章:11節) 。そのような言葉は聞き入れられなかっ た。司祭者たちにも聞き入れられなかった。Levites たちが事の成り 行きを調べるためにエルサレムから着いた。調べるためにヨハネにさ れた次の質問の答えは彼らが知りたかったものであった。 あなたはだれですか? (19節) これは彼らの心からの質問でな かったが、ヨハネはそれに答えた、 「私はキリストではない。聖書 に従って、救世主は、ヨハネのように権限で洗礼と説教を施すために 来ることを期待されていた。その考えは思いもよらなかったが、それ は明確にされなければな らなかった。ヨハネは彼らに何を彼らが 迷っているのかと言った、そして道から外れているので、司祭および Levites はより論理的な質問をした。 あなたはElijahですか? (21節) ユダヤ人は天から聞いた次の声が Elijah が彼らに告白(悔い改める)するように言っているということ をMalachi の彼らの調査から知っていた。そして実際は、洗礼者ヨハ ネの言葉はイエス・キリスト彼自身に従っていたのだった。彼が Matthew 11章: 7-10節の群集に言ったように、「何を見に荒野 に出かけたか?。風によって揺れる草か?。8 しかし何を見るために 出かけたのか?。人は柔らかい生地の服を着ていたか?。王の宮殿に いる柔らかい服を身に着けている人々を見なさい。9 しかしなぜあな たは出かけたのか?。予言者に会うためか?。10この人がここに書か れている人です。見なさい。私はあなたのところにメッセンジャーを 送ります。その人があなたのために道を作ってくれるでしょう。 ヨハネはなぜそのことを否定したのか?。 「いいえちがいます。 」 と、彼は21節でのべた。ひとつの可能性はヨハネが質問に文字通り 答えていたということである。 彼は予言者Elijah の生まれ変わりで なかったこと。より深いレベルで、彼は彼がユダヤ人が期待していた 政治解放者の前駆者ではなかったと宣言したかもしれない。そのよ うな結論へ彼の質問者を導くことはイエス・キリストの布告者として 彼の役割を否定することであろう。 あなたは予言者ですか?。 (21節) 再度、ヨハネの拒否はメッセ ンジャーとして彼の役割を確実なものとした。「この予言者は誰なの か?。」と司祭とLevites はとにかく聞いてみた。Deuternomy18章15 節、そして続けて、神は神と同じような人、そして神自身の言葉を話 す人をイスラエルに送ったであろう。そして多分この人が洗礼者ヨハ ネであったと思われる。新約聖書では、ピーター及びスティーブンは 約束された予言者イエス・キリストを認識した(Acts 23節; Acts 3章: 20 - 7: 37ff) 。ヨハネは彼自身はイエス・キリストとで はないので、正直に答えて、 「私は荒野で叫んでいるひとつの声であ り、 Isaiahが予言者として 主の道をまっすぐにしなさい といっ た」ヨハネ1章:23 節) 。これらの人がよく知っていたと思われる Isaiah の第40章より 引用して、ヨハネはずっと昔に彼の人々にバビ ロニアの首都から彼の民を彼らのふるさとへ戻すという神の約束を彼 らに思い出させた。その約束はペルシャの王、Cyrusによって、果た された。彼はバビロニアに住む全てのユダヤ人は、ふるさとに自由に 帰れるという法律を作った人だった。さてヨハネは残りの予言が叶う 時がきたことを告げた。それらは彼らは彼らの敵からも彼らの罪から も解放されるということだった。みなさい、主の栄光が現われ、全て のものがこれを共に見るであろう(Isaiah 40章:5節) 。 それではなぜあなたは洗礼を施しているのか ?(25節) それは答 えを求めるのに十分と思われる質問であった。ヨハネが救世主(メシ ア)でなく、Elijah でもなく、また予言者でもなかったのなら、彼は いったい何をしようとしていたのでしょう。洗礼は、その区域では新 しい事ではなかった。単語自体は、少なくとも200 年間もつかわれて いた。最初にこの言葉が記録されたものは紀元前2 世紀のギリシャの 詩人でありそして内科医であったNicander が示した漬け物の調理法 の中であった。 。野菜はまず熱湯の中につけ(bapto)、その後酢の中 に浸される(baptizo)べきですと 書いている。 個人の液浸(洗礼)はまたユダヤ人の間で行なわれていた。ヨハネの 時代にはユダヤの信仰に従いたいGentiles(ユダヤ人以外の人たち) のために主に使用された。要求されたことは、ユダヤ人の法律を全部 知ること、割礼、および儀式的な清めの"洗礼"であった。あなたがこ こで洗礼を施している人々の何人かはすでにユダヤ人であり、一部は ユダヤ人ではない、司祭ないし、Levites はそのことを考えなくては ならないでしょう。あなたは権限を持って彼らを全員ユダヤ人にする つもりですか?。もしそうなら、あなたは投石を受け死ぬでしょう。 いいえ、これはただの水です、とヨハネは答えた。「でもあなた方の 中に、あなた方の知らない人がいます。」ヨハネ1章:26 節。もっと 良く見てみましょう。 「対立 」 ヨハネ1章: 19 - 28節 R ヨハネ1 章19 - 28 節を読んで下さい。 O できごとを観察して下さい。だれがヨハネと対立しましたか?。 彼らはどんな質問をしましたか?。ヨハネの答えはどうでしたか?。 A 読んだことをあなたに当てはめてみてください。あなたとヨハネ は似て いますか?。異なっていますか?。あなたは今この世の中にどん なメッ セージがありますか?。 D あなたが書いたものをグループの中で話し合ってください。 第3章 キリストの出現 ヨハネ第一章 29-34 節 29:その翌日ヨハネはキリストが自分の方へ来られるのを見て言った。 「見よ、この世の罪を取り除く子羊だ。 」 30:「私の後から一人の人が来られる。その人は私に勝る人である。私より先 に居られたからである。。 」と私が言ったのはこの人のことである。 31:「私はこの人を知らなかったがこの人がイスラエルに現れるので私は水で 洗礼を授けに来た。 32:そしてヨハネは明かしした。「私は霊が鳩のように天から降って来て、彼 の上に留まるのを見た。 33:そして私はこの人を知らなかったが、わたしが水で洗礼を授けるために私 を遣わした方(神)が「霊が降って、ある人の上に留まるのを見たらこの 人が聖霊によって洗礼を授ける人である。 」と私に言われた。 34:そして私はそれを見たので、この人が神の子であると証ししたのである。 「次の日に...」なんと控えめな言い方でしょう。前の章で洗礼者ヨハネは約束されたメシアは こちらに着つつあるとイスラエルから来た司祭と Levites 人たちに述べていた。彼らはこの知ら せにどんな反応をしましたか?。私たちは何も言われなかったけれど 24 時間後の次の場面へと 進むことになる。「見よ、この世の罪を取り去る神の子羊を!」 もう一度ヨハネは私たちを創世記第 22 章 8 節へと導く。そして「神の子羊」という最初の叙述 へと。父(神)は彼の唯一の息子が殺害されるといわれた山の頂上へ苦しみながら進んだいけに えと奇跡の物語において、私たちは来るべき日、洗礼者ヨハネが人々に示した日の写真を示され ます。キリストは今いけにえとしての子羊としてばかりでなく罪の許しを得るために来た人であ ると認識されます。 続く彼の証言の中でヨハネはマタイ、マルコそしてルカで述べられている過去の出来事に言及し ている。洗礼者ヨハネは来るべきメシアのための準備のために人々が悔い改めるために洗礼を授 けていると説明した。しかしそれはヨハネはキリストが本当にメシアであるということは、キリ ストが水の中に入るまでわからなかった。マタイによるとヨハネはキリストを思いとどまらせよ うとしていった。 「私があなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私のところへ来られたの ですか?。」(マタイ 3 章14節) しかしキリストは答えていった。 「正しいことをすべて行うの は我々にとってふさわしいことです。」(15 節) マタイ、マルコそしてルカの全てがキリストの洗礼に続いて鳩のような聖霊が天から降ってきて、 天の声が言った。「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなう者。」(ルカ 3 章 22 節) 大まか な表現なので、その天からの声がすべての人々に聞こえたものかキリストのみに聞こえたものか ははっきりしていない。洗礼者ヨハネはその様子が本当であるということを示して、聖霊が天か ら降りてきたことを見たことさらにそれがキリトの上に留まったということを人々に語った。ヨ ハネはキリストが来たときこのことが起こるだろうということを以前に神より言われたので、こ れがキリストが約束されたメシアであるということのヨハネへのしるしであった。さてこの自信 により、ヨハネは34節で「そして私はキリストが神の子である」と言えると。 考えるべき興味のある点は、これがキリストへの確信であったかと言うこと。聖書はルカの2章 49節で示しているようにキリストが神と特別な関係を持っているということを知っていたと いうことを明確に教えています。エルサレムでキリストはメアリとヨセフから 3 日間もはぐれて しまって、その後寺院で学者たちと話し合っているところを見つけられた。 困惑した両親がキリストを非難したとき、キリストは答えた。「なぜあなたは私を探していたの ですか?。あなたは私が父の家にいなければならなかったことを知らなかったのですか?。」 しかしそのとき子供のキリストが彼自身が神の子であるということを知っていたかということ です。天からの声(私たちの知っている限りではそれはキリストのみに聞こえた)は、キリスト の運命が神の息子として決められるということの特別な関係だった。キリストの運命とは?。ヨ ハネがこの場面から使徒たちが呼ばれているところで、マタイとルカの両方でキリストはその場 を離れ荒野へと入っていき、そこで悪霊の誘惑に合うという事実が記録されている。サタンの誘 惑のアタックは同じ所で行なわれている。 「もしあなたが神の息子なら、、、」基本的な部分でつま り「でも多分あなたは違う」サタンは誰にこれを確信させるため?。彼自身?それともキリスト? いずれにしろキリストはサタンの誘惑に打ち勝つことができた。そして彼の使徒を呼ぶために戻 った。一方サタンは神が創世記3章 15 節から約束した「敵意」を示した。戦いは始まり、カル バリ(キリストが十字架にかけられたところ)まで続いた。 そして控えめな言い方で、ヨハネは親しみを込めて私たちに「再び次の日、、、 」(ヨハネ1章 35 節) キリストの出現 ヨハネ1章 29-34 節 R: ヨハネ1章 29-34 節を読んでください。 O: 事実の観察をしてください。最後の節からどのくらい時間が経過してい ますか?。ヨハネは誰に会って、その人について何を語っていますか?。 ヨハネは彼の宣言のためにどんな証拠を示していますか?。 A: あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。ヨハネの時代の 人々にとって洗礼はどんな意味だったのですか?。あなたにとって洗礼は どんな意味ですか?。ヨハネのキリストについての宣言は単に予言者、 あるいは「よい人」としてのキリストに会った人々とどんな関係があり ましたか?。 D: あなたが書いたことを話し合ってください。 第4章 最初の弟子たち 35:その翌日またヨハネは二人の弟子たちと一緒にいた。 36:そして歩いているイエスを見つめて「見よ神の子羊だ。」と言 った。 37:二人の弟子たちはそれを聞いて、イエスについていった。 38:イエスは振り返り、彼らがついてくるのを見て、「何を求めて いるのですか?。 」と言った。彼らはイエスに言った、「先生、 あなたはどこに泊まっているのですか?。」 39:イエスは「来なさい。そうすれば分かる。」と言った。 そして彼らはついて行って、どこにイエスが泊まるかを見た。 そしてその日はイエスのところに泊まった。これは午後 4 時ごろのことであった。 40:ヨハネの言葉を聞いてついていった 2 人のうちの一人はシモン ペテロの兄(弟)のアンデレであった。 41:彼はまず自分の兄弟のシモンに会って「私はメシアに会っ た。」と言った。 42:そしてシモンをイエスのところへ連れていった。イエスは彼を 見て「あなたはヨハネの子シモンであるがケファ(岩)と呼ぶ ことにする。」と言った。 43:次の日、イエスはガリリーに向かって旅を続けて、フィリップ に会い、彼に言った。 「私についてきなさい。」 44:フィリップはアンドリュウとピーターの町、ベサイダから来た のだった。 45:フィリップはナザナエルに会って言った。「われわれはモーゼ の法にあり、そして予言者たちが示したヨセフの子、ナザレの イエスを見つけた。 46:そしてナザレはフィリップに言った。「ナザレからよきものが 来るだろうか?」フィリップは言った。「来てみてください。」 47:イエスはイエスのほうへ来るナザナエルを見つけて言った。 「見よ、うそのないイスラエル人だ。」 48:ナザナエルはイエスに言った。「どうしてあなたは私を知って いるのですか?」イエスは答えて言った。「フィリップがあなた を呼ぶ前に、あなたがイチジクの木の下にいるのを見たからで す。」 49:ナザナエルは答えていった。「先生、あなたは神の子です。 あなたはイスラエルの王です。」 50:イエスは答えて言った。「私があなたをイチジクの木の下で見 つけたからですか?。あなたは、もっと優れたものを見るでしょ う。」 51:そしてイエスはナザナエルに言った。「はっきり言っておくが、 天が開き天使がやってきて、人の子の上に降りてくるのをあな たは見るでしょう。」 「再び次の日、、 、」もう 24 時間が過ぎていて、イエスは確信と救済の使命を持った旅に向かう準 備が整っていた。最初の使命のひとつは、彼の弟子を集めて、次の 3 年間はその弟子たちがイエ スの教えを学びそして彼らがイエスの教会を造ることであった。 最初の二人は洗礼者ヨハネの弟子であった。キリストが神の子であると言うことを宣言したのを 聞いて、彼らはヨハネのもとを離れ、キリストに従った。キリストは二人のほうを見て最初の言 葉を言った。 (これはヨハネにより記録されている) 、 「あなた方は何を求めているのか?。」 (ヨハ ネ 1 章 35 節)興味深い質問であるが、これらの若い弟子たちはまだ正式には紹介されていなか ったが、それは心に直接伝わってくる質問であった。彼らの心が求めていることを見つけること と彼らが最初に連れて行かれるところが砂漠であると言うことを知る以外の何が彼らをイエス に従わせたのでしょうか?。 人はどうやって神の子として認識されている人から一つの答えを導くことができましょうか?。 明らかにそれは簡単に答えることができません。そして二人は賢く答えて「あなたはどこに泊ま っているのですか」と言った。 (38 節)彼らはイエスとただ行きずりの人として会っていたので はなく、(イエスが)少なくとも偉大な予言者、そして先生あるいはもっと偉大な人だと認識して。 彼らはイエスに従ってイエスの家まで行ってイエスと時を過ごしイエスから学びたかった。そし てイエスの答えでは彼らとわれわれは前から招かれることになっていたのです。「来なさい、そ してあなたは見るでしょう。」(39 節)誰が経験するだろうことを言葉にすることができるでし ょうか?。経験した人だけが言葉にすることができます。 運命づけられて死ぬまでイエスに従って行った最初の二人は誰だったのでしょうか?。一人は「サ イモンピーターの兄弟のアンドリュウ」と言うことがわかっていますが(40 節)。最初の弟子は 全ての弟子の中で最も従順であると示されるべきですがどうでしょう。アンドリュウはほとんど そうは言われていないようですけど。アンドリュウは福音(Gospel)のなかで 10 回でてきますが、 8 回は彼の兄弟のピーターの陰でいつも「アンドリュウ、サイモンピーターの兄弟」として認識 されています。マルコ 3 章 18 節では、われわれはアンドリュウは弟子のなかでは「ビック 3」 のピーター、ジェイムスそしてヨハネの次、4 番目の弟子として認識することができます。そし てヨハネ 12 章 22 節では、われわれはアンドリュウをギリシャ人のグループと一緒にいる傍観者 のようで、フィリップとともにイエスに近づいてきた人として認識できます。しかしもしアンド リュウについて一つ言う事ができるのであれば、それは彼が「運び人」であったということです。 最初にアンドリュウは彼の兄弟をイエスのところへ連れていきました。それから彼はパンと魚を もっている男の子をつれてきました。(ヨハネ 6 章 8ff) そして最後にわれわれは彼とフィリッ プがギリシャ人たちを救い主のところへ連れて行くのを見ます。 イエスが泊まっていたところにアンドリュウと一緒にいた名の知られていない弟子は誰でしょ う?。次のことを考えてみてください。ヨハネ、この福音書の著者ですが、彼自身の名前はまっ たく述べられていませんが、その代わり「イエスが愛した弟子」として知られていると言うこと です。(ヨハネ 19 章 26 節、20 章 2 節、21 章 7 節、21 章 20 節)5 人の弟子についても同様に考 えてみてください。4 人は名前が知られていて、一人だけが知られていなく、それは明らかにヨ ハネ自身です。アンドリュウと一緒にいて、最初の二人の弟子の一人がアンドリュウであったと 言う仮定は可能性が高いと言うことです。 ナザナエルとの出会いに関しては、注意してみるに価する興味深いコメントを見つけけられる。 それはフィリップにより述べられたことで「モーゼの法の中で示された人で、予言者が記述して いる人、ナザレのイエス、ヨセフの息子をわれわれはみつけた。」(ヨハネ 1 章 45 節)ナザナエ ルの反応は信じがたいものであった。 「ナザレからよきものが来るであろうか?。」(46 節)われ われはその小さな農村での出来事に結論を出す前に、フィリップの聖書についての知識について 述べるべきでしょう。彼は聖書を勉強して、彼の仲間を知っているのと同じくらいミカの特に 5 章 2 節と 3 節について知った。「ベツレヘム、エフラテよ。あなたはユダの氏族の仲でもっとも 小さいものだがあなたのうちから、私のために、イスラエルの支配者になるものが出る。そのこ とは昔からの定めである。 」たぶんイエスは予言者であったとナザナエルは思ったがしかし彼(イ スラエルの支配者)はベツレヘムから来るということがわかっていたので彼はメシアであろうは ずがなかった。ナザナエルがイエスがナザレで育つ前の出生はベツレヘムであったということを 知らなかったことは仕方のないことだと思われる。 最初の弟子たち ヨハネ 1 章 35‐51 節 R:ヨハネ 1 章 35‐51 節を読んで下さい。 O:事実を観察してください。最後の節からどのくらい時間が経過 しているのでしょうか?。誰が最初の弟子たちでょうか?。誰が 最初にイエスによって発見されたでしょうか?。誰に最初の予言 が与えられたでしょうか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。 「神の子 が近くにきている」と言う知らせについて、どのように思いま すか?。どんな基準でそのような知らせを判断しますか?。 D:あなたが書いたことを話し合って下さい。 第5章 ヨハネ第 2 章 1‐11 節 最初の奇跡 1:3日めにガリリーのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにい た。 2:イエスもその弟子たちもその婚礼に招かれていた。 3:ワインがなくなったのでイエスの母がイエスに言った。 「ワインがなくなりました。 」 4:イエスは答えて言った。「婦人よ、どうして私に聞くのですか?。 私の出番はまだ来ていません。」 5:イエスの母は召使たちに言った。 「この人が何か言いつけたら、 そのとおりにしてください。 」 6:そばにはユダヤ人たちが清めの儀式に使う石の水がめが 6 つ置 いてあった。いずれも 20 から 30 ガロン入りのものであった。 7:イエスが召使たちに言った。「水がめに水をいっぱい入れなさ い。」召使たちはそれらのかめのふちまで水を満たした。 8:イエスは彼らに言った。「さあ、それをくんで主催者の ところへ持っていきなさい。 」彼らは持っていった。 9:主催者は、ワインに変わった水の味見をした。このワインがど こから来たかその人は知らなかった。水をくんだ召使たちは知 っていたけど。そこでその主催者は、花婿を呼んだ。 10:そして言った。「誰でもはじめはよいワインを出し、みながた くさん飲んだ後に安いものを出すものですが、あなたは最もよ いものをとっておきました。」 11:イエスはこの最初の奇跡をガリリーのカナで行い、その栄光を 示したので、彼の弟子たちはイエスを信じた。 もしあなたが第 1 章を思い出すことができるのなら、イエスの最初の奇跡は創造(Creation)であ って、私たちがヨハネ 2 章で読んだものではなかったということがわかるでしょう。しかしこれ は人々によって最初に認められたものであり、われわれの目的としては、これがイエスの地球上 で職務を行っている間での 36 の奇跡の最初のものであったと言うことに帰することができる。 ヨハネはわれわれに 8 つ示した。それらを彼は「Semeion」、証明のしるしと呼び、それ ぞれのものは特にイエスキリストの本質と力を表すことを言っている。 どこでそれが行われましたか?。ヨハネ 2 章の記述は「そして3日めに、、、」と始まります。でも われわれはどの日からそれを数えていますか?。第 1 章の 19 節から 28 節は、洗礼者ヨハネがメ シアがくると言った最初の日について示しています。29 節では、2 日目とイエスの洗礼について 示しています。35 節は「次の日」つまりイエスが最初の弟子たちを呼んだ日に、われわれを引 き込んでいます。そして 43 節では、3 日目はイエスが彼の弟子たちとガリリーへ向かうことを 示しています。 さてヨハネ 2 章の「3 日目」は、1 章 43 節で示されている日と同じ日、しかしそれはガリリーへ 旅立つ日で、そして同じ日に婚礼に同席していたと仮定できるでしょう。ほとんどの学者たちは、 私たちがここで見たものは最後に入った日から 3 日目であると言うこと、特に事実としてはカナ はエルサレムから 70 マイルのところにあり、徒歩で旅をしたであろうという事に同意を示して いる。 イエスの母は、同様に婚礼に同席していて、イエスをその状況から手助けすることにより、奇跡 を起こすための道具のようなものであったと思われる。われわれが読んだ短い部分には、母と息 子の間にはとても思慮にとんだ考えがあった。メアリーの叫ぶような主張「ワインがなくなりま した。」 (ヨハネ 2 章 3 節)は典型的なイスラエルの地方的な言い方であると思われる。神に選ば れた自由のない人々のこの小さな国のよろこびのなさは、婚礼のパーティーがうまくいかなくな ったと言うことで示されています。その状況は父、彼自身(God)によってのみ癒されるので あった。実際、神の人々に対する癒しの仕事は、ワインがそのシンボルとして表わされている。 たとえば創世記 49 章 11 節でヤコブは彼の息子ジュダをあがめるところで「彼は彼の鶏をブドウ の木につないだ。そして彼のロバの子どもを選ばれたブドウの木につないだ。彼は彼の服をワイ ンで洗った。そして彼のコートをぶどうの血で洗った。」と言っているということはイスラエル はキリストのときを喜びで迎える日が来るだろうとの暗示であるということがわれわれにはわ かる。 再びアモス 9 章 13 節で、われわれは希望の予言を見ることができる。それは「その日は耕すも のが刈るものに近寄り、ブドウを踏むものが種をまくものに近寄る。山々は甘いぶどう酒をした たらせ、全ての丘もこれを流す。」 そしてもちろん私たちはイエスが弟子たちに約束した主の晩餐を忘れてはならない。 「、、、私は 私の父の王国であなたとワインを飲む日まで、私はブドウのみで作ったものを飲まないでしょ う。」(マタイ 26 章 29 節) メアリーはそのときを本当に喜んで待ち望んでいたのでしょうか?。彼女はイエスの奇跡的な誕 生を心配し、洗礼者ヨハネの母と連絡をとっていた。彼女は羊飼いたち、王たち、シメオン(ル カ 2 章 25 節)そしてアナ(ルカ 2 章 36 節)の宣言を知っていた。彼女はイエスの行動の政治的 な含みを知っているべきだったし、これらのことなどすべのことに思いをめぐらしていた。 (ル カ 2 章 19 節)母のイエスに対する言葉は疑いなくイエスをアピールするためのものであった。 しかし彼女は(イエスに)言われた。 「婦人よ、どうして私に聞くのですか?。私の出番はまだ来 ていません。」 (ヨハネ 2 章 4 節)先に進む前に、英語で私たちが読んだことは、尊敬を示してい ない返事ではないと言うことを明らかにすべきでしょう。 「婦人(ガナイ)はどんな女性に対し ても使われる言い方であった。 」イエスは彼女に対する正しい呼び方をしただけだった。そして ふただび、 「どうして私にたずねるのですか?。」と言うところは、怒っているという訳ではあり ません。唯の叙述的な表現です。イエスは、彼がいまはおおやけの場に出る時期ではないことを 知っていた。メアリーは彼の言葉に従い召使たちに言った。「彼が何か言いつけたら、そのとお りにしてください。」 (ヨハネ 2 章 5 節)彼女はイエスがどんなことを決めてもそれを受け入れる 準備をしていた。そして彼の決定において、われわれはイエスの愛と哀れみと彼のよきものを与 える心を垣間見ることができます。イエスはワインの問題を解決したが、イエスはそのような方 法で、イエスの近くにいる人ではなくて、ほかの誰かに、起こったことを認識させると言う方法 をとりました。 6 つの水がめについても同様に、おこったことを考えてみてください。(ヨハネ 2 章 6 節)これ らのものは儀式的な洗礼に使うため、ドアの近くにおいてありました。それらは 6 つであり、ユ ダヤ人が考える完全な数の 7 には、ひとつ足りませんでした。同様に 6 日目における人の創造を 見てみてください。水のカメは石でできています。モーゼに与えられた法律が書かれた石盤につ いても思い起こしてください。イエスは法を行うために来たのであり、法を犯すために来たので はありません。それらのカメはふちまで満たされ(7 節)たのでもうそれ以上何も加えることは できません。これらのことはあなたに何か深い意味を暗示していますか?。 もうひとつの大事なことは、婚礼の主催者がワインがどこから来たか知らなかったと言うことで す。(9 節) これはヨハネの福音書のテーマに戻るということであり、イエスに会った人々がし ばしば何が起こっているか理解できないということです。次の章のニコデマスを見てみましょう。 「どうしてそんなことが起こりえましょうか?。」 (ヨハネ 3 章 9 節)それからわれわれは、井戸 のところで婦人に会います。 「この人はキリストではないでしょう?。」 (ヨハネ 4 章 29 節)6 章 ではイエスの弟子たちは、「でもこれらが(こんな少ないものが)なんでそんなにたくさんの人 のために?。」(ヨハネ 6 章 9 節)そして最後に 9 章の盲人は「あの人が罪人かどうか私は知らな い。ただ私が知っていることは、眼の見えなかった私が、今は見えると言うことです。(ヨハネ 9 章 25 節)ヨハネは普通の人々が超人的な救い主に出会ったことを私たちに示すことを楽しん でいるかのように思え、そして何度も重要なことを繰り返し示しています。 最初の奇跡 ヨハネ 2 章 1‐11 節 R:ヨハネ 2 章 1 節から 11 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスはどこにいますか?。だれが イエスと一緒にいますか?。彼は何をしていますか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。婚礼のパ ーティーでイエスがしたことを知った人々が示した反応に対し てあなたはどう思いますか?。あなただったらどうしたでしょ う?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第6章 イエス神殿から商人を追い出す ヨハネ 2 章 12‐25 節 12:この後イエスは、母、兄弟、弟子たちとカワァルナウムに行き、 そこに幾日か滞在した。 13:ユダヤ人の過越し祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ行 った。 14:そして神殿(寺院)の境内で牛、羊、鳩を売っている人たちと、 座って両替をしている人たちを見つけた。 15:イエスは縄で鞭を作り、牛や羊をすべて境内から追い出し、両 替人の金を撒き散らし、その台を倒した。 16:鳩を売っている人たちに言った。 「このようなものはここから 運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない。」 17:弟子たちは「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす。」と書 いてあるのを思い出した。 18:ユダヤ人たちはイエスに「あなたは、こんなことをするからに は、どんな奇跡のしるしをわたしたちに示すつもりなのか?。」 と言った。 19:イエスは答えて言った。「この神殿を壊してみよ。3 日で建て なおして見せる。」 20:それでユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに 46 年もかかっ たのに、あなたは 3 日で建て直すのか?。」と言った。 21:イエスの言った神殿とは、彼自身の体のことだった。 22:イエスが死から復活されたとき、弟子たちはこういわれたのを 思い出し、聖書とイエスが言ったことばを信じた。 23:イエスは過越し祭のときエルサレムに滞在していたが、彼の 行なった奇跡を見て、多くの人たちがイエスの名を信じた。 24:しかしイエスは彼らを信用しなかった。なぜならイエスは全て の人のことを知っていたからである。 25:そして、人間について、誰からも証ししてもらう必要がなかっ たからである。イエスは何が人の心の中にあるかを知っていた のである。 ほとんどの福音書では、イエスが商人を追い出すことに関しては、同じようなことが示されてい ますが、それらの記録においては、この出来事は、キリストの使命としての仕事の終わりのころ に起こっています。少なくともそのような出来事は、2 回あったと考えられ、最初のものは、ヨ ハネで示されていて、2 回目のものはマタイ、マルコそしてルカで示されています。別の説明で は、聖書の中で、剣で斬ったような説明の仕方をしていて(序の部分を見てください)時間を追 って示しているのではなく、話題を中心に示しています。これについての別の例は、ヨハネとと ても関係の深い創世記の第 1 章と第 2 章で示されていて、最初のものは時間を追って示されてい て、2 番目のものは話題を中心にして示されています。いずれにしても、神殿での出来事は、い つ起こったかが大事ではなくそのことが旧約聖書に基づいているということが大事である。 ヨハネにより述べられている出来事は、エルサレムでの毎年の行事の過ぎ越し祭のときに起こっ ています。ヨハネは第 2 章、第 6 章そして第 12 章で、3 回過ぎ越し祭を示して、イエスの 3 年 間の使命を表わしています。このとき、イスラエルのユダヤ人たちは宿命的な夜を思い起こすの であった。それは死神がエジプト中を飛び回り、最初に生まれた子供を殺して回るのであって、 家の戸に羊の血でしるしのついている家だけがこのことから逃れることができるのであった。そ れはイスラエルの国が神の哀れみを受けるための特別ないけにえのためのときであった。レビテ ィカスではこれらの申し出が神聖なものであると考えられるということを教えるために長く叙 述している。そして第 10 章では、彼らがそれをしなかったとき何が起こるかを生き生きと示し ている。アアロンの息子たちのナダブとアビフは祭壇に香をたく責任を負わされていたが、彼ら は神が彼らに命じたものでない異なった火を主の前にささげた。するとたちまち祭壇から火が出 て彼らは焼き尽くされた。そして彼らの父は息子たちの死を悲しむなといわれた。それからモー ゼは言った。「主が言ったことはこうです。私に近づくものによって、私は神聖になり、全ての 人の前で栄光を表わす。」(レビティカス 10 章 3 節) イエスの時代までは、神聖と栄光の感覚は欲望に道を譲っていた。全てのかたちと大きさの動物 たちは、神殿へ行く道に並べられ、いけにえのための家畜を持ってこなかった人のために売られ るように準備された。全てのお金は、その地域の神殿用のコインに交換されなければならなかっ た。そして両替商たちは彼らのいすなどの道具を全て神殿の境内へ移動させた。それはイエスや 弟子たちを中庭に導くための不快な音であったに違いなかった。もっと驚いたことは、商売でに ぎわっている場所を一人の人がそれら全部の人を立ち退かせることが可能だったことです。 しかし、彼の行為が神殿を汚す乱暴な行為であったとみなすべきではありません。イエスは状況 を見極め、事を起こすタイミングを見て(ヨハネ 2 章 15 節)、次から次へと順番に店に行き、テ ーブルをひっくり返し、コイン入れの箱のコインを撒き散らし、家畜を逃がし、そしてカゴに入 っているハトの持ち主に、ここからそれを外へ持っていくように言った。そして「私の父の家を 商売の家として使うのをやめなさい。」と言った。(16 節) イエスがその状況を制御するための 別のところでの示唆は、ゼカライヤの第 14 章で思い起こされる、イエスの特別な言葉の表現で す。そこでは、予言者が来るべき日を予言していますが、そのときは、馬のベルに「神聖なる主 よ」と示されていて、(20 節)そして「カナナッティはそのときにはもう主の家にはいないでしょ う。」(21 節; カナナッティと言う表現はゼカライヤの時代の面白い表現ですが、それは、 「全 ての商人」という意味です。) その日にはイエスの弟子たちには、特別な時というのは来なかったかもしれないが、イエスが約 束したように、彼の聖霊を通して、後から彼の弟子たちにやってきた。「しかし、助け主、すな わち、父が私の名によって送った聖霊は、あなた方にすべてのことを教え、そして私が話したす べてのことを思い出させてくれます。 」(ヨハネ 14 章 26 節) 彼らの記憶に呼び戻されたものは、 デイビッドが詩篇 69 章 9 節で書いている言葉であった。「あなたの家を思う熱意が私を食いつく し、あなたをそしる人々のそしりが私に降りかかったからです。」この章の寒気をもよおすメッ セージは「食い尽くす」という所に現れています。今日では、それは彼が怒りを覚えているものに より打ち滅ぼされるということかと思われるが、しかし、じっさいの「akal」という意味は、 食べつくされるという意味であります。この説の意味するところは、興奮の状態を表しているの ではなく、 崩壊ということを示しているのです。言い換えるなら、 イエスの神に対する愛のため、 イエスは殺されるだろうということです。 この予言の基本的な部分は、寺院(神殿)での対立の後に起こったものであるといえるでしょう。 ユダヤ人たちの権力者たちがイエスに近づいてきて、イエスは試された。「あなたがこんなこと をするからには、どんなしるしを私たちに示してくれるのですか?。」(ヨハネ 2 章 18 節) イエ スの答えの中には、後にイエスが十字架にかけられると言うことを示唆していた。「この寺院を 壊してみよ、3 日で建て直して見せる。」(19 節) ヨハネの中であらわされているように、重要 な点がわからなくなっている。ユダヤ人の権力者たちは、イエス自身の体のことではなく、寺院 そのもののことだと思ったのです。そして言った。 「あなたは 3 日で寺院を建て直すのですか?。」 (20 節) 古い見方からすると、イエスに従った弟子たちや信者たちは、この権威のある言葉の 中に、真意を見つけ出すことができた。その寺院は石でできた建物のことではなくて、イエスキ リスト自身だったのである。カルバリの十字架で殺された神の息子は、天を揺るがすものではな かったが、そのかわり、天の敵を全て打ち負かした。イエスの復活により、この世界に全て新し いものが現れるでしょう。キリストの体、そして教会。 イエス神殿から商人を追い出す ヨハネ 2 章 12‐25 節 R:ヨハネ 2 章 12‐25 節を読んでください。 O:事実を観察してください。いつこのことが起こりましたか?。 イエスは何をしましたか?。誰がそれに答えましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。イエ スの行動の光の中で過ぎ越しの効果はなんでしたか?。あなたは 今日の教会に「洗浄」が必要だと思いますか?。 D:あなたが書いたことを話し合ってみてください。 第7章 ニコデマス ヨハネ 3 章 1‐21 節 1:さて、ファリサイ派に属するニコデマスと言う名前の人がいた。 ユダヤ人の議員であった。 2:ある夜、彼はイエスのところへ来て言った。「先生、私たちは、 あなたが神の元から来た教師であるということを知っています。 神がともにいるのでなければあなたがしているようなしるしは 誰もできないからです。」 3:イエスは答えて言った。「真実を述べるが、人は新たに生まれ なければ、神の国を見ることは出来ない。 」 4:ニコデマスはイエスに言った。「年をとったものがどうして生ま れることが出来ましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれ なおすことが出来ますか?。」 5:イエスは答えた。「真実を言うが、誰も水と聖霊とにより生まれ なければ、神の国には入れない。 6:肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊であ る。 7:「あなた方は、新たに生まれなければならない。」とあなた方に 言ったことに驚いてはいけない。 8:風は思いのままに吹く。あなたは風の音を聞いても、それがど こから来たかそしてどこへ行くかは、わからない。霊から生ま た者も皆そのとおりである。 」 9:ニコデマスは答えていった。「どうしてそんなことがありえまし ょうか?。」 10:イエスは答えていった。「あなたはイスラエルの教師なのに、 そんなこともわからないのですか?。」 11:真実を述べるが、私たちは、知っていることを語り、見たこと を証ししているのに、あなた方は、わたしたちの証しを受けい れない。 12:もし私が地上のことを話して、それをあなた方が信じないので あれば、天上のことを話しても、どうしてあなた方は、それを 信じましょうか。 13:その人がたとえ人の子でも、天から降ってきた者以外で、天に 上ったものはいない。 14:モーゼが荒野で蛇を持ち上げたように、人の子も上げられねば ならない。 15:それは彼を信じるものが皆永遠の命を得るためである。 16:神は彼の唯一の息子をお与えになったほどにこの世界を愛した。 彼の一人子を信じるものは一人も滅びないで、永遠の命を得る ためである。 17:神が神の子を地上に送ったのは、この世を裁くためではなく、 この子によって、この世が救われるためである。 18:神の子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれて いる。神の子の名前を信じていないからである。 19:光がこの世に来たのに、人びとはその行ないが悪いので、光よ り闇のほうを好んだ。それがもうすでに裁きとなっている。 20:悪を行う者は、光を嫌うのである。なぜならその悪行が明るみ に出されないようにするために光の方に来ないのである。 21:しかし、真理を行う者は、光のほうへ来る。その行為が神に導 かれてなされたということが明らかになるために。 ヨハネの福音書の最初の 2 つの章では、イエスが誰だかということが示された。洗礼者ヨハネの 証しをとおして、イエスの 8 つの奇跡の 1 つをとおして、そして神殿で商人たちを追い出すこと をとおして、今、私たちはイエスが神であるということ、そしてイエスが創造の主であるという こと、そしてイエスは本当の権威のある人であるということがわかる。さて、3 章、これは聖書 の中で最も価値のあるところであるが、ここではイエスは計画を持っていて、それは彼自身の死 と復活によって満たされるということです。 ファリサイ派のニコデマスと言う人(ヨハネ 3 章 1 節)がある晩(人目を避けるため夜にやってき たと思われる)イエスのもとへファリサイ派の人々の代表として、イエスがどんな人であるかを 確認しに来た。ニコデマスは、「私たちはあなたが教師として神のもとからやってきたというこ とを知っています。」と言い始める。ニコデマスは彼が話し始めたことにイエスが同意するかあ るいは反対の返事をするかのどちらかであろうと思っていたがイエスはそうではなくて、話題の 中心の部分に直接触れた(あるいは多分ニコデマスの心に話しかけて)。人は再び生まれなければ、 神の国を見ることは出来ない。(3 節) さて、フィリシア人たちは、仕事を通して、そして法律に従うことことをとおして神の救済を得 ることが出来るということを信じるようになった。神の王国を求めるためには、彼は出発点にも う一度もどらなればならない、つまり誕生に戻るということを受け入れなければならないという ことである。予期していたかもしれないけど、ニコデマスは大事な点を完全に誤解していて、母 の胎内に戻るという曖昧な結論に達したのであった。イエスの返事は 2 回目の「Truly,T ruly. ..」(本当に、本当に、、、) と言う言葉で始まっていますが、この言葉は、聖書の中 の注目すべき言葉の一つです。最初ヘブル語の「ah‒mane」ということばは、ギリシャ語の新約 聖書に翻訳され、それからラテン語、英語、そしてほかのたくさんの言語に翻訳され、そして今 日の最も一般的なことば「アーメン」として翻訳されて、これはどこの国でも使われる「オーケイ」 のようなものと考えられる。この章の中でその言葉を注目すべき言葉としたのは、イエスのその 言葉の使い方にあったのです。普通「アーメン」という言葉は、「言ったことが真実である」という 意味で、祈りの最後に言われます。少なくとも 102 の機会において、3 回は、この章の中で現れ ています。イエスは、「アーメン」と言う言葉をこれから言うことの前置きとして使っています。 ヨハネ 3 章におけるこれらの例としては、この言葉を 2 回使うことによって、従うべきもっとも 権威のあるものを示しているのです。「本当に、本当に(真実として)言うが、人は水と聖霊とか ら生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。」(5 節) 法の教師として、ニコデマスはエゼキエル 36 章からの伝言を認識したと思われるが、そこでは 神は完全な清めのためにイスラエルを呼んでいる。「そして、私はあなたに清い水をふりかけ、 あなたは清められるでしょう。私はあなたの全ての汚れと偶像を取り去るでしょう。」さらに私 はあなたがたに新しい心を与え、あなた方のなかにあたらしい霊を与える。そして、私はあなた の体から石の心を取り去り、肉の心を与える。(エゼキエル 36 章 25‐26 節)いいえ、私は肉体的 な再生についていっているのではありません。イエスはニコデマスにいいます「肉から生まれた ものは肉であり、聖霊から生まれたものは聖霊である。(ヨハネ 3 章 6 節)人は肉体的な行動の みからでは決して救済を得ることは出来ない。霊的に満たされることが必要です。そしてイエス はニコデマスのような人は、次のようなことを知っておくべきだと言います。 「あなたはイスラ エルの教師でしょう?。これらのことを理解してないのですか?。」 (10 節)これはニコデマスに 驚きを与えたことではなかった。あなたは神の生まれ変わりをまのあたりにしているのに、私を 見ようとしない。 「もし私が地上のことをあなたに話してもそれを信じないのなら、天上のこと を話しても、どうして信じるでしょう。」(12 節) ニコデマスは基本的な考え方を理解していなかったので、イエスは彼の質問を無視して、彼を痛 烈に批判した。イエスが言っている霊的な指導者たちとは、霊的な教えに責任がある人たちのこ とです。ここでニコデマスは知っておかなければならない言葉を示されます。 「天から下ってき た人の子以外で天にのぼった者はいない。」(13 節)これはニコデマスの心に強く記憶されるべ き事で、ダニエルの 7 章 13ff 節に起因している。そこでは、救世主の到来が予言され、そして 彼の王国が建てられるときが来て、そして全ての人たちが彼に従うでしょう。2 番目にイエスは 言ったことは、大祭司たちの前でイエスは死刑を宣告されると言うことです。(マタイ 26 章 64 節) 15 節に続く部分は、聖書の中で最もよく知られた部分であると思われ、それは全ての言語で歌 われ、日曜学校の全ての子供たちにも覚えられているもので、 「神が世界を愛するほどに、、、」(ヨ ハネ 3 章 16ff 節)というところです。もうひとつの興味のある部分は、大きな影響を与えている わけでもなく、この章の真意の部分でもないが、16‐21 節のその晩のニコデマスに対する言葉 は、イエスのものではなく、コメントとして、ヨハネにより挿入されたものである。われわれは、 ヨハネ 3 章 10‐21 節の部分はゆるぎない引用部分であると理解している。しかし、その部分は、 聖書の中では実際は、赤い字(イエスの言葉として)で示されている。実際、最初の赤字版の聖 書は、アメリカの出版者ロイス・クロプシュ博士により紹介され、彼は、その部分はキリストが 全て話したものと仮定した。初期の版の聖書では、キリストが教えたことの内容も聖書のその部 分の信憑性もほとんど証明はしていない。 もうひとつの重要な点は、16 節にある「唯一の息子」、これは単性からという意味で、ほかの宗 教が教えているような、イエスは多くの子供たちのひとりと同じだということではありません。 同様に、彼を信じることは、ここにただ存在しているということを超越することである。同様に ジェイムス 2 章 19 節を見てください。そこでは、私たちは、 「悪魔でも彼の存在を信じて身震い する」ということを思い起こすことが出来る。 ニコデマスはこの出来事にどのように反応しましたか?。私たちには、わかりませんが、ヨハネ は 7 章の 50 節で、私たちにヒントを与えています。そこでは、ニコデマスは、ファリサイ人の 仲間たちの中で、イエスに大きな声で話しかけています。そしてまた、19 章の 39 節では続くキ リストの死について話しています。ニコデマスは、死体をもらって、それを埋める準備をするた めに、アリメシアのヨセフとパイレイツへ行きます。キリストの再生なくしては、この仕事をす るのはとても難しい。 ニコデマス ヨハネ 3 章 1‐21 節 R:ヨハネ 3 章 1‐21 節を読んでください。 O:事実を観察してください。この出来事はいつ起こりましたか。 誰が彼のところへやってきましたか?。彼は何を言いましたか?。 イエスはどのように答えましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。肉体的に そして霊的に存在するものがあるということはあなたにとって 問題ですか?。 D:あなたの書いたことを話し合ってください。 第8章 洗礼者ヨハネの証し ヨハネ 3 章 22‐36 節 22:このことがあった後、イエスは弟子たちとジュデア地方へ行っ て、そこにしばらく弟子たちと滞在しながら、洗礼を与えてい た。 23:そして、ヨハネも同様に、サリムの近くのアエノンで洗礼を与 えていた。なぜならそこは水が豊富だったからである。そして 人々はやってきて、洗礼を受けていた。 24:ヨハネはそのときはまだ投獄されてはいなかったのである。 25:ところがヨハネの弟子たちと一人のユダヤ人との間で、清めに ついて論争が持ち上がったのである。 26:彼らはヨハネのところへ来て言った。「先生、ヨルダン川の向 こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しした人が洗礼を 与えています。そして、みんなが彼のもとへ行っています。 27:天から与えられたものでなければ、人は何も受けることが出来 ない。 28:「私は、救世主ではない。しかし、あの人より前に送られてき たものである。 」と言ったが、そのことは、あなたがた自身が 証ししてくれる。 29:花嫁を迎えるのは花婿で、花婿の友達は、そばに立って花婿に 聞き入り、花婿の声が聞こえるととても喜ぶ。だから、私は、 喜びで満たされている。 30:彼は栄え、私は衰えなければならない。 31:天から来た者は全てのものの上にいる。地から来たものは、地 の者であり、地のことを語る。 32:彼は、見たもの、聞いたものの証をするが、誰も彼の証しを受 け入れない。 33:その証しを受け入れた者は、神が真実であることを確認したこ とになる。 34:神が使わしたものは、神の言葉を話した。なぜなら、神が限り なく彼に霊を与えたからである。 35:神は神の子を愛し、彼の手のなかに、全てのものを与えた。 36:神の息子を信じるものは、永遠の命を得られ、神の子に従わな いものは、命がないばかりか、神の怒りがその上に留まる。 ヨハネ 3 章 22 節の最初の部分は、イエスのジュディアンか、イエスの南方での使命について述 べてあるもので、概要的なことは何も述べられてはいない。このときまでに、2 つの別々なグル ープがその地域で、活動していた。1 つはイエスとその弟子たちによって指導されていたもので、 もう 1 つは、洗礼者ヨハネによって指導されていたものであった。ヨハネのキャンプでは、洗礼 の意味について、論争が持ち上がっていた。儀式的な清めの方法については、それはユダヤの伝 統の重要な部分であった。しかし、個々の洗礼は、改宗したジェンタイルの人たちのためにとっ ておかれた。さて今、私たちは、後悔して(悔い改めて)やってくる全ての人たちにイエスとヨ ハネは洗礼を与えているという事を聞いているが、(ヨハネ 4 章 2 節から明確にされるが、イエ ス彼自身が洗礼を与えていたのではなく、弟子たちが与えていたのであった。 )そこで質問が持 ち上がった。 「なぜ私たちが洗礼を与えているのでしょう?」そのことは、まもなく明らかになる でしょうが、実際の問題は、清めについてではなく、それをしている人についてであった。ヨハ ネが話し、そして証しした人は、人気を得ていた。 (26 節)言い換えると、ヨハネの弟子たちは ヨハネに言ってきた。 「私たちは、私たちが、洗礼を与える人たちの数が減ってきています。」 しかしヨハネの返事は、問題がないということを明らかにしています。 「あなた方は、私が言っ たことを聞いていましたか?。」ヨハネは、彼の弟子たちに聞いている。 「私は救世主ではない。 しかし私は彼(イエス)より先に送られてきたのです。」と私が言ったことは、あなた方自身が 証ししてくれます。(28節)そして、29節では、ヨハネはイエスを花婿にたとえて話をしてい ます。それはたくさんのたとえの中の最初のものです。(マタイ9章15節、マルコ2章19節、 ルカ5章34節、ヨハネの黙示録18章23節)そのような言葉は、旧約聖書の救世主が来ると いう予言でも使われています。イザイヤ54章5節では、 「主はあなたの夫です。」ジェレマイヤ 3章14節では、 「私はあなたの夫です。」エザキエル16章32節では、「あなた自身の夫」ホ ゼア2章16節では、 「あなたは私をあなたの夫と呼ぶでしょう。」ヨハネはそれをはっきりさせ ています。イエスは花婿で、私はただの友達です。 (29節)ヨハネは彼の従者たちを説得して います。私たちは、洗礼に来る人たちの数を失ってはいません。私たちは、予言で満たされてい ます。「彼は(イエス)栄えて、私は、衰えなければならない。 」 31節からのところは、多くの学者たちが信じた別の例が使徒ヨハネにより、コメントとして、 挿入されています。 (最後の例は、ヨハネ3章16ff 節。)それはヨハネがあたかも読み手に、 「あ なたが読んだことを今私が説明しましょう。 」と言っているかのようであった。地の人は、地の ことについてのみ話す権限があると私たちは理解しています。同じ形で示されているが、天から 来た人は天のことについて話す権限がある。イエスは見た事と聞いた事の目撃者(証しする人) である。(32節)しかしながら、問題は、イエスの言葉を誰も受け入れなかったということで す。なぜなら、もう一人の目撃者(証しする人)がいなかったと思われたからです。 しかし協力者があったのです。それは神の聖霊でした。それは、信じるものにのみ与えられるの である。(36節)この事において、われわれが、信仰を受け入れることは、聖霊により確実な ものとなるということである。信じるものには、永遠の命が与えられ、拒否するものには、神の 怒りが訪れる。事実、ヨハネ3章18節において思い起こされるように、怒りはすでに人の上に 来ていて、われわれは、非難を受けている。希望は、神の息子を通してやってくる。それらは、 許し、救済、そして神の王国での永遠の命である。しかし、神の息子を拒否することは、神の怒 りを取り除くことを拒否することを意味している。それゆえ、神の怒りはわれわれとともにあり、 取り除かれない。 洗礼者ヨハネの証し ヨハネ3章22‐36節 R:ヨハネ3章22‐36節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスとヨハネはどこにいました か?。彼らは何をしていましたか?。どんな問題が持ち上がりま したか?。ヨハネはなんと答えましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。洗礼 はあなたにとってどんな意味がありますか。神の聖霊が協力者 として働くということはあなたにとって意味をなしますか。あ なた自身の生活でこのような経験をした事がありますか?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第9章 井戸のところにいた女性 (第一部) 第 1 節-26 節 1:イエスがヨハネより多くの弟子たちを得て、洗礼を与えている ということをファリサイ派の人々が聞きつけた。 2:実際には洗礼を与えているのは、イエスではなく弟子たちであ った。 3:イエスは、ファリサイ派の人々がこのことを聞きつけたことを 知ったとき、ジュディアを去り、再びガリリーへ戻った。 4:そのためには、イエスはサマリアを通らなければならなかった。 5:そこでイエスは、ヤコブが彼の子ヨセフに与えた土地の近くに ある、シカルというサマリヤの町に行った。 6:ヤコブの井戸がそこにあった。イエスは旅に疲れて、その井戸 のそばに座った。それは、6 時間目であった(昼の 12 時)。 7:サマリアの女の人が水を汲みに来たので、イエスは彼女にいっ た。「水を飲ませてください。 」 8:イエスの弟子たちは、食べ物を買うために、町へ行っていた。 9:サマリアの女の人は言った。「あなたは、ユダヤ人です。なぜ あなたは、サマリア人の私に、水をくださいと尋ねるのです か?。」ユダヤ人は、サマリア人とは交際を持たないからである。 10:イエスは答えて言った。「もしあなたが神の贈り物を知ってい たなら、そして水をくださいと頼んだ人がだれだかを知ってい たなら、あなたからその人に頼み、そして彼はあなたに、生き た水を与えたことでしょう。 」 11:その女の人は言った。「主よ、あなたは水をくむものを持って いません。井戸は深いのです。あなたはどこからその生きた水 を得る事が出来るのですか?。 」 12:「あなたは、わたしたちの父、ヤコブよりも偉いのですか?。 ヤコブは、私たちにこの井戸を与え、彼自身も彼の子供たちも、 そして彼の家畜もこの井戸から水を飲みました。 」 13:イエスは答えて言った。「この水を飲むものは再びのどが渇 く。 14:私が与えた水を飲むものは、決してのどが渇かない。私が与え る水は、その人の中で泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出 る。」 15:その女の人はイエスに言った。「主よ、渇くことがないように、 そして、ここに水をくみに来なくてもいいように、その水をく ださい。 」 16:イエスは彼女に言った。「行って、あなたの夫を呼んできなさ い。」 17:彼女は答えて言った。「私には夫はいません。 」イエスは彼女 に言った。「あなたの言うとおりです。」 18: 「あなたには 5 人の夫がいたが、今いる人はあなたの夫では ない。あなたが言ったことは、本当のことである。」 19:その女の人は言った。「私は、あなたは予言者だと思いま す。」 20:「私たちの父たちは、この山で礼拝しましたが、あなたがたユ ダヤ人は、礼拝すべきところは、エルサレムにあると言ってい ます。」 21:イエスは答えた。「婦人よ、私を信じなさい。あなた方がこの 山でも、エルサレムでもないところで父を礼拝するときが来 る。」 22:「あなた方は、知らないものを礼拝しているが私たちは、知っ ているものを礼拝している。救いは、ユダヤ人から来るからだ。 23:真の礼拝者たちが、霊と真理を持って父を礼拝するときが来る。 今がそのときである。彼らが父が求めている礼拝者たちである からである。 24:神は霊である。だから神を礼拝するものたちは、霊と真理にお いて、礼拝しなければならない。 」 25:その女の人は言った。「キリストと呼ばれる救世主が来るとい うことを私は知っています。彼が来たとき、彼は、私たちに、 全てのことを説明するでしょう。」 26:イエスは答えた。「それは、あなたと話しているこの私のこと である。 聖書の中で、道に迷ってしまった人のことを考えるとき、ほとんどの人は、プロディガル・サン (浪費家の息子)について考えます(ルカ 15 章 11 節 ff) 。もし人々が女性について考えるなら、 それは井戸のそばの女性でしょう。ヨハネ 3 章は、私たちに、救済のための最高の可能性を示し ています。 それは法を知り、真実を求めている教育を受けたユダヤ人の男の人のことです。さて、 次の章では、私たちは、まったく別のことを見ることができます。それは、道徳も、教育もない サマリアから来たジェンタイルの女性についてです。彼女には皆と同様な希望がありますか?。 もしそうなら、多分私たちにもあるでしょう。読みすすみましょう、、 。 ファリシア人たちがイエスの人気を聞きつけたという言葉に促され、イエスは、ジュデアを離れ、 北に向かいます。もしイエスがジュディアに残っていたなら、イエスは殺されていたか、王にな っていたかのどちらかでしょう。しかしイエスの即座の計画はそのどちらでもなかったのです。 ジュディアからガリリーに向かうには、3 つの道がありました。ひとつは、ジョウダン(ヨルダ ン)川の東へ向うあまり人が住んでいない土地を通っていく道、地中海の海岸に沿って「ビア・ マリス」に続く道(フィリスチン人の土地) 、そして、サマリアを通って、直接北に続く道。ほ とんどのユダヤ人たちは、敵を避けるため、そしてサマリア人のいる地域を移動して、彼らに出 くわさないために、東への長い道のりを選んだ。イエスは当然、直接行く道を選らんだ。 サマリア人てどんな人たちのことだったのでしょう。それを理解するためには、私たちは、紀元 前 722 年の歴史を振り返ってみる必要があります。そして、イスラエルの 70%を破壊した、アッ シリア人の侵略を(ジュディアだけがもう攻撃に耐えた。ヘゼキアの祈りと、神の慈悲に感謝し ます。)。その後、アッシリア人と結婚した北部地区のユダヤ人の生き残りの人たちは、ユダヤ教 を他の宗教と入り混じった宗教に変えた。イスラエルではなくて、シェケムが彼らの聖なる町で あった。そして、ゲリジム山に、彼ら自身の寺院を建てた。ジュウトロノミー(申命記)の書か らの全てのものが割り引かれて、別の司祭職が作られた。その結果として起こった事は、混血の 人々であり、彼らはユダヤ人ではなかったが、選ばれた人々であると主張した、今日のモスラム のパレスチナ人の祖先であった。ユダヤ人にとって、サマリア人は、ジェンタイルであったばか りでなく、事実、異教徒のユダヤ人であった。彼らの憎悪の一部は、ヨハネ 8 章 48 節の中に見 られる。それは、ユダヤ人がイエスを「あなたは、悪霊にとりつかれている。そしてサマリヤ人 だ。」と非難するところである。 イエスは、ヤコブの井戸に昼ごろたどり着く。その井戸はその地域のために、神が約束したこと の象徴だった。ヤコブの井戸は 2 つの山の陰に立っていた。エベルとゲリジン、デュウトロノミ ー27 章 9 節において、そこは、神への忠誠を誓う場所であった。恵みは、ゲリジンから発せら れ、呪いは、エベルから起こった。イスラエルの人々は誓っていった。 「もしわれわれが偶像を 崇拝し始めたら、神はわれわれを取りさるでしょう。」彼らは行い、神は、そうした。 5 回も結婚と離婚を繰り返した女の人が現れます。彼女は、公的な命令により、もう結婚が禁じ られていますが、男の人と住んでいます。彼女は、追放者のような形で、昼ごろ、井戸のところ へやってきます。イエスは彼女に水をくれるように頼みますが、 (7 節)それは、2 つの驚くべき ことなのです。男の人は、基本的に、女の人とは話をしないのです。もうひとつは、ユダヤ人は、 サマリア人から水をもらわないのです。会話は、彼女の夫を呼ぶところまで話題が進みます(16 節)。深い段階では、17 節の 5 人の夫は、荒廃した土地を造りなおすため、アッシリアに運ばれ た 5 組の人々と、 容易に比較できるでしょう。 彼らはそれぞれ神を持っていましたけど。彼らは、 バビロンから来たスコスとビノス、クスからきたニルガル、ハモスからきたアシマ、アルビテス からきたネパツとタータック、そしてサファルバイテスからきたアデリノレックとアビノレック。 これらがサマリアの 5 人の夫でしたか?。もしそうであれば、あなたが今もっている人は(ヨハ ネ 4 章 18 節)、イエスの時代においては、彼らは、1 神教であるべきであることを要求するが、 間違った礼拝をしていたということに帰するであろう。 その女の人は、イエスが予言者であるということに気づくが(19 節) 、イエスは会話を礼拝につ いてのもっと大事なことへと移していく。イエスは彼女に言った。あなたがどこでどのように礼 拝するかということを心配することはない。聖霊と真実において、真の礼拝者たちが父を礼拝す る日が来るということを知りなさい。 (23 節)その女の人は、このことは、救世主が来たときに 起こるだろうということを確信した。「彼は私たちにすべてのことを断言するだろう。」(25 節) そしてイエスは 26 章において、驚くべきことを示します。「それはあなたと話している、、、 。」 井戸のところにいた女性(第 1 部) ヨハネ 4 章 1-26 章 R:ヨハネ 4 章の 1-26 章を読んで下さい。 O:事実を観察してください。イエスはどこに行きましたか?。 イエスはどこで止まりましたか?。誰と話をしましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。 もし誰かがあなたに誰も知らないと思われることを話したら、 あなたはどんな反応をしますか?。 礼拝の回数と場所が観察されるということは、あなたにとって どのくらい大切ですか?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第10章 「井戸端の女」 (パート2) ヨハネ 4:27‐42 27 このとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのを不思議に思った。 しかし、だれも、「何を求めておられるのですか」とも、 「なぜ彼女と話しておられるのですか」 とも言わなかった。28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。29 「来て、見て ください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。31 そのころ、弟子たちはイエスに、 「先生。召し上がってください」とお願いした。32 しかし、イエスは彼らに言われた。 「わたし には、あなたがたの知らない食物があります。」33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか 食べる物を持って来たのだろうか。」34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこ ころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。35 あなたがたは、 『刈り入れ 時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさ い。目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。36 すでに、刈る者 は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜 ぶためです。37 こういうわけで、 『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、 ほんとうなのです。38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるため に、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ている のです。」3 9 さて、その町のサマリヤ人のうちの多くの者が、 「あの方は、私がしたこと全部を 私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。40 そこで、サマリヤ人たち はイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエ スは二日間そこに滞在された。41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じ た。42 そして彼らはその女に言った。 「もう私たちは、あなたが話したことによって信じている のではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」 イエス様とこの女は話し続けます。彼女はイエス様が預言者であると「思い」ましたが(19 節) 、 イエス様はすぐにご自分がメシヤであられることを告げられました(26 節)。彼女は自分の水が めを置いて、急いで町に戻り、人々に「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人 がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」(29 節)と言いました。 聖書に記されている、神からの啓示を受けてそれを人々に伝えたすべての女性たちについて考え てみましょう。ごく一部ですが、サラの女奴隷でイシュマエルの母であったハガル(創世記 16 章)、イエスの母であったマリヤ(マタイ 1 章) 、バプテスマのヨハネの母であったエリサベツ(ル カ 1 章)、マグダラのマリヤとヨハンナ(ルカ 24 章)などが挙げられます。 「女の子孫」が蛇の 頭を打ち砕く、と創世記 3:15 に記されている神の約束の重要性を、決して見くびらないように しましょう。 町の人々はイエス様を見るために井戸に駆けていきました。しかし弟子たちは食べ物を持ってイ エス様のもとに戻りながらも、なぜイエス様がその女と話しているのか、また「わたしにはあな たがたの知らない食物があります」とイエス様が言われたことの意味を理解できませんでした。 ヨハネはいつもの通り、要点がつかめないでいる男たちのことをここでも記しています。「だれ か食べる物を持ってきたのだろうか」 (33 節)。イエス様は彼らにはっきりと言わなければなり ませんでした。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わた しの食物です」(34 節) 。このみわざが何であるか、イエス様は後で群衆にこのように説明して います。 「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のみわざです」 (ヨハネ 6:29) 。 人々に御子について告げ知らせ、罪のうちに失われているこの世を贖うというキリストの願いは、 私たちの願いでもあります。 そして、刈り入れの時がすでに始まっていました。この箇所の最後に記されているイメージは「色 づいて刈り入れるばかりになっている」畑(英語では「白い畑」 )です。町のサマリヤ人たちは 白い服を着ていたのですが、その人々がイエス様を見に押し寄せてきていたのです。イエス様は 福音の種を蒔かれましたが、今や多くの人々がもっとイエス様の話を聞きたいと近づいてきてい たのです。イエス様は弟子たちに思い起こさせました。「こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、 ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労 苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、 あなたがたはその労苦の実を得ているのです」 (37-38 節)。その日、多くのサマリヤ人が信じま した(39 節)。彼らは最初に回心した異邦人でしたが、彼らの回心は一人の女性のあかしによっ て始まったのでした。 「井戸端の女」 ヨハネ 4:27 - 42 R ヨハネ 4:27-42 を読んでください。 O 事実を観察してください。最初、この女性はイエス様のことをだれだと思っていましたか。 イエス様は彼女の考えを変えるために何と言われましたか。イエス様についての新しい事実 を知った彼女は、はじめどのような反応を示しましたか。 A 読んだことを適用してください。他の人が「蒔いた」ものを「刈り取る」とは何を意味しま すか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第11章 「役人の息子」 ヨハネ 4:43‐54 4 3 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。44 イエスご自身が、 「預言 者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。45 そういうわけで、イエス がガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イ エスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。46 イエスは再び ガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウム に病気の息子がいる王室の役人がいた。47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られた と聞いて、イエスのところへ行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死 にかかっていたからである。48 そこで、イエスは彼に言われた。 「あなたがたは、しるしと不思 議を見ないかぎり、決して信じない。 」49 その王室の役人はイエスに言った。 「主よ。どうか私 の子どもが死なないうちに下って来てください。」50 イエスは彼に言われた。 「帰って行きなさ い。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。 51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、 彼の息子が直ったことを告げた。 52 そ こで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、 「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。 53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを 知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入ら れてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。 「井戸端の女」が町の人々にあかしした後、イエス様と弟子たちはサマリヤ人のもとに二日間滞 在しました。そして、ヨハネ 4:43 以降の箇所には、イエス様が最初のしるしを行われたガリラ ヤに、再び弟子たちと共に戻られたことが記されています。このときイエス様は、前回訪問した ときに歓迎されなかった故郷のナザレには立ち寄らずにガリラヤへ行かれました。ヨハネはイエ ス様が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」 (44 節)と証言されたとだけ述べています。しか しマタイとマルコは、ナザレの人々がイエス様の教え、知恵、さらには奇蹟にさえも「つまずい た」ことを記しています。彼らはこう言ったのです。「この人は大工の息子ではありませんか。 いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」(マタイ 13:57、マルコ 6:4) ガリラヤ人たちはイエス様を歓迎しました。彼らの多くは、イエス様がエルサレムで宮をきよめ られたのを見、そこでなされたイエス様の教えを聞いていました。ですから、イエス様がカナ(イ エス様と彼の母が、ある人の結婚式に出席した町)に戻られたとき、いやしを求めている人に出 会ったのは驚くことではありませんでした。彼は「王室の役人」でしたが、その肩書きからだけ では彼がユダヤ人だったのか、異邦人だったのか、百人隊長だったのか、ヘロデの宮廷で仕える しもべだったのか見極めることはできません。いずれにせよ、彼が信仰の人であったとは思えま せん。彼は単に必要を抱えていた人でした。彼の息子は死にかかっているほど重い病気にかかっ ていて、カナから50キロも離れたカペナウムにいました。この役人はイエス様の奇蹟について 聞き、必死の思いでカナまでかけつけ、イエス様に一緒に来てもらうことを願っていました。 イエス様の答えは厳しいように感じられますが、それはイエス様が語らなければならないことで もありました。 「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」 (48 節)。イ エス様はだれのことを言われたのでしょうか。病気の息子をもったこの人に対してでしょうか。 ユダヤ人たちに対してでしょうか。人々全般に向けて言われたのでしょうか。このことばがだれ に向けられたものであったとしても、このメッセージの真理は痛みを伴うほどにはっきりとして います。あまりにも多くの人々にとって、神は私たちが願うものを与えてくれる存在にしか過ぎ ないのです。神が私たちを神と交わる存在として創造してくださり、永遠に神と共にいることが できるようにしてくださるにもかかわらず、私たちは自分自身の必要が満たされることを求めて しまいます。イエス様は悲しみを込めてこのことばを語られたに違いありません。人々は多くの 苦しみを抱えていても、その痛みの本当の原因に気づかずにいたからです。彼らは父なる神のゆ るしと和解というはるかに尊い贈り物を無視し、表面的ないやしのみを求めていたのです。 この父親は主の叱責に対して心をとめず、自分の息子が死ぬ前に来てくださいと、再びイエス様 に懇願するだけでした(49 節) 。ヨハネが記したこの第二のしるしにおいて、イエス様はいやし を行う権威だけでなく、物理的な距離をも越える力を示されました。「帰って行きなさい。あな たの息子は直っています」 (50 節)。この父親は「信じて」、急いで家に戻っていきました。次の 日、家に帰る途中で彼はしもべたちに会い、彼の息子が前日の午後1時に直ったことを知りまし た(51-52 節)。その結果、この父親の信仰は強められ、彼は家に戻ってから「彼の家の者がみ な」イエス様を信じるように導きました(53 節)。 「役人の息子」 ヨハネ 4:43 - 54 R ヨハネ 4:43-54 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様はどこに行かれましたか。だれに会われましたか。その 人は何を求めましたか。イエス様はどのように応答されましたか。 A 読んだことを適用してください。あなたがたは「しるし」を見なければ信じない、というイ エス様のことばは、あなたの心の琴線に触れますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第12章 「池でのいやし」 ヨハネ 5:1‐18 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。2 さて、エルサレムに は、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。3 そ の中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。彼らは水の動く のを待っていた。4 主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされ たあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。5 そ こに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。6 イエスは彼が伏せっているのを見、そ れがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。 」7 病人は答えた。「主 よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、 もうほかの人が先に降りて行くのです。」8 イエスは彼に言われた。 「起きて、床を取り上げて歩 きなさい。 」9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日 は安息日であった。10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。 「きょうは安息日だ。 床を取り上げてはいけない。 」11 しかしその人は彼らに答えた。 「私を直してくださった方が『床 を取り上げて歩け』と言われたのです。」12 彼らは尋ねた。 「『取り上げて歩け』と言った人はだ れだ。」13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいいる間に、 イエスは立ち去られたからである。14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。 「見な さい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなた の身に起こるから。」15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと 告げた。16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことを しておられたからである。17 イエスは彼らに答えられた。 「わたしの父は今に至るまで働いてお られます。ですからわたしも働いているのです。」18 このためユダヤ人たちは、ますますイエス を殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等し くして、神を自分の父と呼んでおられたからである。 この箇所には、ヨハネの福音書に記されているイエス様の三番目のしるしが書かれています。そ れは「ユダヤ人の祭り」 (1 節)の間になされましたが、ユダヤ人にとって祝うように定められ ていた祭りには以下のようなものがありました。 1.五旬節の祭り(ペンテコステ) 2.過越の祭り 3.仮庵の祭り 4.新月の祭り(第七月) 5.週の祭り(第三月) 6.プリムの祭り(第十二月) 7. ラッパの祭り 大多数の学者たちは、この出来事が起きたのは、イスラエルの人々が神に感謝をささげるために エルサレムに集まる、ラッパの祭り(アメリカで11月になされる感謝祭に似たもの)のときだ ったのではないかと考えています。 しかしこの祭りが行われていたとき、町にいたすべての人が神に感謝していたわけではありませ んでした。イエス様は羊の門とベテスダの池と呼ばれる、体の不自由な人たちが集まっていた場 所の近くを通りかかりました。3、4 節によると、池のそばにいた体の不自由な人たちは、 「彼ら は水の動くのを待っていた。主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が 動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからであ る」 (ヨハネ 5:3b-4)。ちなみに、この2つの節は「編集」された部分、つまり意味を明確にす るためにヨハネの福音書に書き加えられた部分の一つの例であると思われます。この部分は初期 の写本にはなく、おそらく後の時代の人々に、なぜ体の不自由な人々がこの特定の場所に集まっ ていたかを説明するために、挿入されたのであろうと思われます。また、ここに記されているこ とはなぜ人々がこの池のそばに集まっていたかについての説明であり、必ずしも神がどのように いやしをなされるかについての教えではないことにも留意してください。御使いが任意で水を 「かき回す」ときに、そこに一番速く降りて行くことのできる、一番強い勝利者がだれであるか を遠くから見つめている、というのは神のご性質にあわないことではないでしょうか。 イエス様はその場所で、38年間も苦しんでいた男と出会いました。注目すべきことに、それは イスラエルの民が荒野をさまよったのと同じ期間でした(申命記 2:14)。「よくなりたいか」と イエス様は彼に尋ねました(6 節)。この状況でこのような質問をするとは、特にこの男の答え は本当の答えとなっていなかったことを考えると、興味深いことです。 「主よ。私には、水がか き回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に 降りて行くのです」 (7 節)。しかし彼があまり乗り気でないにもかかわらず、いやしがなされま した。この男は「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われたイエス様のことばに従いまし た。すると、彼はすぐにユダヤ人の指導者たちから尋問を受けました。彼らはこの男が安息日に 働いたことを非難したのです。彼は自分を弁護するために、イエス様に責任を転嫁しました。イ エス様は彼をいやされ、立ち上がるようにと命じられましたが(11 節)、彼に再び会われ、 「 もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから」(14 節) と警告されるまでご自分の名前を彼に知らせませんでした。 しかし、彼はイエス様のことばに耳を傾けるのではなく、いやし主であるイエス様のことをユダ ヤ人の指導者たちに知らせました。指導者たちはイエス様に対して、安息日に働いたことを非難 しました。イエス様は彼らに応じるにあたり、ご自分がなされたことを素直に認め、ご自身が父 なる神と同等であると述べられたため、ユダヤ人たちの怒りをさらに引き起こしました。「わた しの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(17 節)。この ときから、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を殺すためのさらなる理由を得ました。それはイエ ス様が単に安息日についてのきまりを破ったからだけでなく、ご自分を神と同等の者であると主 張されたからでした。 「池でのいやし」 ヨハネ 5:1 - 18 R ヨハネ 5:1 - 18 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様はどこにおられましたか。だれと話をされ、その人はど のように答えましたか。その結果、何が起こりましたか。 A 読んだことを適用してください。あなたは、この男がいやされることを願っていたと思いま すか。その理由は何ですか。あなた自身は、自分の弱さにし ありませんか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 がみついているようなことは 第13章 「神と同等のお方」 ヨハネ 5:19‐32 1 9 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父 がなさることは何でも、子も同様に行うのです。20 それは、父が子を愛して、ご自分のなさる ことをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。 それは、あなたがたが驚き怪しむためです。21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるよう に、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。22 また、父はだれをもさばかず、すべ てのさばきを子にゆだねられました。23 それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うため です。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。24 まことに、まことに、あなたが たに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持 ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。25 まことに、まきとに、あ なたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は 生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分 のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与 えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者が みな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、 悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。30 わたしは、自分からは何事も行うこ とができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わ たし自分の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。31 もしわた しだけが自分のことを証言するのなら、わたしの証言は真実ではありません。32 わたしについ て証言する方がほかにあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることは、 わたしが知っています。 ベテスダの池にいた足の不自由な人をいやされた後、イエス様はユダヤ人の指導者たちに詰問さ れました。彼らは、イエス様がどんな仕事もしてはならないとされている安息日を破ったことを 咎めたのです。彼らが拠り所としていたのは神が旧約聖書に示された律法(たとえばイザヤ5 8:13)ではなく、特にミシュナに記されている「シャバット」や「エルビン」など、律法に 関して後の時代に付け加えられた解釈でした。これらの教典には、安息日に何歩までなら歩いて も仕事と見なされないか、また地面につばを吐いてはならないことの大切さなどが書かれていま した。地面につばを吐くと土と水が混ざることになり、それはれんがを造ることに通じるとされ ていたからです。そのような「仕事」をしないために、つばを吐くなら地面ではなく岩に吐くべ きでした。このような決まりによるなら、病人をいやすというような慈善も「仕事」の範疇に入 り、避けなければならないことでした。ヨハネ5:17以降に記されている、イエス様を咎める 者たちに対するイエス様の応答は、より重大な論争を巻き起こしました。それはイエス様がご自 分を神と同等の者であると主張されたからです。 「わたしの父は今に至るまで働いておられます。 ですからわたしも働いているのです。」 イエス様は彼らが非難していることを否定せず、ご自分は天の父なる神がしておられることを見 てそれを行っているに過ぎないと言われました(19 節) 。そして、父なる神がわたしを愛してく ださり、父がしておられることをすべてわたしに示してくださっているのだから、どうしてそう せずにいられようか、と言われたのです。さらにイエス様は、「あなたがたはまだ何も見ていな い。神はよりすばらしいことをわたしに示そうとしておられ、わたしはそれを人々に示す。それ によってあなたがたが『驚き怪しむ』ためだ」と言われました(20 節)。「それはどのようなこ とか、とあなたがたは尋ねるだろう。死人をよみがえらせることについてはどうか。神にはそれ がおできになる。わたしもそれをする(21 節) 。この世をさばくことについてはどうか。神でさ えさばくことはなさらないが、神は子を通してこの世がさばかれるようにされる。あなたがたは 神を敬いたいと思うか。それならば子を敬いなさい(23 節) 。あなたがたは神の御前でさばかれ たくないと願うか。それなら、神が子を遣わされたことを信じ、永遠のいのちを受けなさい(24 節)。」 「そして、 永遠のいのちは、すでに死んで墓の中にいる者も含め、 すべての人に備えられている。 彼らは子の声を聞いてよみがえりさえする(ヨハネ 11 章に記されているラザロの物語と関連し ています) 。父がいのちと死に対する権威を持っておられるように、子もその権威を授かってい る(26 節)。そして、死んだ者がすべて墓から出て来て、神の御前に立つとき(29 節)、あなた がたは驚いてはならない。さばきの時は来ている。そのさばきは、あなたがたがどれだけ忠実に 律法を守ったかに基づくのではない。どれだけ神の子を敬ったかに基づくのだ。」 そしてイエス様は、ご自分では何事もなさらず、彼のうちに神がなされるみわざに応答している だけであると、もう一度述べられます。「わたしは、自分からは何事も行うことができません。 ただ聞くとおりにさばくのです。」(30 節) 「そして、わたしのさばきは、わたしの意見に基づくものではない。それはわたしを遣わされた 神のみこころに基づくのである。あなたがたは、わたしが話していることが正しいことを証言す る証人を求めるのか。では、わたしのことを証言する4つのものを示そう。」 (次の箇所へと続く) 「神と同等のお方」 ヨハネ 5:19 - 32 R ヨハネ 5:19 - 32 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様はだれに話をされましたか。そして、何を話されたので しょうか。 A 読んだことを適用してください。イエス様がこの箇所で主張しておられるような存在である ことを信じることは可能でしょうか。言い換えるなら、イエス様は単なる「良い人」、あるい は、「重要な預言者」なのでしょうか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第14章 「証言」 ヨハネ 5:33‐47 5 : 3 3 あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。34 といっても、わたしは人の証言を受けるのではありません。わたしは、あなたがたが救われるた めに、そのことを言うのです。35 彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、 その光の中で楽しむことを願ったのです。36 しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた 証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが 行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。 37 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、ま だ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。38 また、そのみことば をあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。 39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書 が、わたしについて証言しているのです。40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るために わたしのもとに来ようとはしません。41 わたしは人からの栄誉は受けません。42 ただ、わたし はあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません。43 わたしはわた しの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身 の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。44 互いの栄誉は受けても、唯 一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。45 わたしが、 父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あ なたがたが望みをおいているモーセです。46 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わ たしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。47 しかし、あなたがた がモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。 どの社会においても証言は必要とされますが、イエス様の時代のイスラエルにおいてもそうでし た。上記の箇所において、イエス様は安息日にいやしを行ったことを咎めるユダヤ人の指導者た ちに対して、引き続き応答しています。まず、イエス様はご自分のなされたみわざを否定せず、 彼の「父」であられる神のみこころを行ったにすぎないと言われました(ヨハネ 5:19)。そして、 ご自分の権威は神から与えられたものであり、それは死者に対しても影響力があると言われまし た(25 節)。さらにイエス様は、彼の主張を証言するものがあると言われました。 まず、バプテスマのヨハネです。彼はイエス様がメシアであると宣言しました(33 節) 。多くの 人々がヨハネの働きをありがたく受け止め、彼が来たことは間もなく神がイスラエルを敵から解 放してくださるしるしであると思っていました。しかしイエス様が彼らに思い起こさせたように、 ヨハネはただ「真理について証言」したに過ぎませんでした(33 節)。その真理とは、イエス様 ご自身であり、イエス様はヨハネ 14:6 において、よりはっきりとそのことを明らかにされまし た。 しかしイエス様は、人の証言を必要としていないと言われました。イエス様の行っているわざが、 イエス様が神から遣わされたことをはっきりと示していると語られたのです。それらのわざは、 神の御手が御子の上にあることを自ずから示しているのであり、イエス様を求めている人に対し ては十分な証拠であったのです(36 節)。 もしイエス様のわざでは十分でないなら、父なる神ご自身のあかしが、イエス様の信ぴょう性を 示すのに十分な証言でした。しかしここでイエス様は辛らつな言葉を発せられました。「あなた がたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません」(37 節) 。こ れは、イスラエルの民に神のことばをもたらす責任を持っていた人々に対する挑発的な言葉でし た。 しかしこれらのことを脇に置いたとしても、聖書そのものがイエス様を証言しているとイエス様 は言われました(39 節) 。イエス様は具体的な箇所を引用されませんでしたが、引用することの できる箇所はたくさんありました(いくつかの例としては、創世記 3:15、22:8、49:10、民数記 24:17、申命記 18:15、などです) 。これらの箇所はよく知られていて、その時代の宗教指導者た ちはこれらを理解しているべきでした。このことについて真剣に考えているユダヤ人ならだれで も「聖書の中に永遠のいのちがある」と思いながら、聖書を真剣に調べていました(39 節)。し かし、その聖書こそがイエス様を指し示していました。イエス様は、人々が聖書の教えにではな く、モーセによって与えられ、ユダヤ民族の基礎となった律法に思いを集中していることが問題 であると言われました。もし彼らが律法を越えたところにあるもの、つまり、彼らの罪のために 来られ、死んでくださる救い主を彼らが必要としていることに目を留めさえするなら、彼らはイ エス様を受け入れたに違いないのです。しかしもし彼らがそのメッセージを認識することさえで きないのなら、彼らの只中におられる神の御子をどうして認識することができるでしょうか。 その日ユダヤ人の指導者たちがどのような応答を示したかについては、 「ますますイエスを殺そ うとするようになった」 (18 節)ということ以外は何も記されていません。この論争の後、イエ ス様はその地域を離れ、ガリラヤ湖の反対側に移動されました。そのとき、大勢の人々がイエス 様についていきましたが、彼らはイエス様のメッセージよりも、イエス様のなされるいやしの奇 蹟に興味を抱いていました。このとき、弟子たちがイエス様の奇蹟のみわざを、目の前で、個人 的に体験するときがいよいよ近づいていました。 「証言」 ヨハネ 5:33 - 47 R ヨハネ 5:33 - 47 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様はだれに話をされましたか。そして、何を話されたので しょうか。 A 読んだことを適用してください。イエス様が示された4つの「証言」は、現代においても、 イエス様が神の御子であることを示す証拠となるでしょうか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第15章 「五千人の給食」 ヨハネ 6:1‐15 6 : 1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。2 大ぜ いの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見た からである。3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。4 さて、ユダヤ人の祭 りである過越が間近になっていた。5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに 来るのを見て、ピリポに言われた。 「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、し ようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少 しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。 」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄 弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っていま す。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。 」10 イエスは言われた。 「人々 をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五 千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分 けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、 彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないよう に集めなさい。 」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々 が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。14 人々は、イエスのなさっ たしるしを見て、 「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。15 そこで、 イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただ ひとり、また山に退かれた。 これは、4つの福音書すべてに記録されている奇蹟の一つで、それらすべてを読むことによって、 この驚くべき物語が生き生きとしてきます。マルコは、イエス様と弟子たちがこの「寂しい所」 へ退いたのは、群衆が彼らを圧倒したため文字どおり食事する時間さえなかったからであると記 しています(マルコ 6:31)。マタイは、彼らが退いた第一の理由はバプテスマのヨハネがヘロデ 王によって首をはねられたからであることを示しています(マタイ 14:13)。ルカは、この奇蹟 がなされた町はベツサイダの近くであったことを記しています(エルサレムのペツサイダの池と は異なります)。この町はペテロ、アンデレ、ピリポが生まれたところで、彼らはよくここで休 息をとっていました。また、イエス様が目の見えない人を「2段階」のプロセスを経ていやされ たところでもありました(マルコ 8:22 以降)。悲しいことに、この町は不信仰のゆえにイエス様 にのろわれてしまった町の一つでもあります(マタイ 11:21、ルカ 10:13) 。そして、注目すべき ことは、この町がどこに存在していたか今日では不明で、 「エッテル」としてのみ知られている、 まだ発掘されていない廃墟の近くであったと考えられているということです。 ベツサイダに行くのに一番簡単な方法は、ガリラヤ湖(テベリヤ湖としても知られていた)を舟 で横切ることだったので、イエス様と弟子たちもそうしました。それから、彼らは東にある「寂 しい所」へ行き、陸路で彼らの後を追ってきた群衆(マタイ 14:13)が到着する前に、しばし静 まって思い巡らすときを持ちました。ヨハネは、群衆が到着する前にイエス様が弟子たちを山の 頂上に導かれたと記しています(3 節)。多くの人々はイエス様が群衆に対して語りかけるのに ふさわしい場所を見つけたと思ったかもしれませんが、実際のところイエス様は、群衆に押しつ ぶされることなく弟子たちに教えるための場所へと退かれたのでした。このときにイエス様が群 衆に語られたという記録はなく、イエス様は弟子たちとだけの時間を持たれました。イエス様は ピリポに対して「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と質問されました。 このとき、奇蹟が起ころうとしていました。そしてイエス様は、奇蹟を行われるにあたって初め て弟子たちに関わらせました。ピリポの答えは彼の論理的な思考を示しています。「めいめいが 少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」 (7 節)。デナリとは当時のローマの 銀貨で、労働者の一日の報酬と等しい価値を持つと考えられていました(マタイ 20 章のたとえ 話を参照)。 ピリポが彼の論理を示したのならば、アンデレは「連れて来る人」(第4章参照)としての特徴 を示しました。 「弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 『ここに少年が 大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが 何になりましょう』」(8-9 節) 。ピリポと同じようにアンデレも懐疑的でしたが、彼が連れて来 たものについてはいくらかでも価値があるのではないかという期待も抱いていました。 「人々をすわらせなさい」(10 節)。このとき、弟子たちでもできることが告げられました。し かし、それはなかなか大変な任務でした。報告されている五千人の男に加え、数多くの女性や子 どもたちがいたのです。彼らに対して、これから食事を用意するからすわりなさいと促すことは、 それ自体、大きな信仰を必要とすることでした。ついにすべての人々が「草が多かった」 (10 節) 場所にすわりました。このことは、私たちに詩篇 23 篇を思い起こさせるのではないでしょうか? イエス様はこのわずかなささげ物を祝福し、人々に分け与え始めました。全員が十分に食べ終わ った後、イエス様は弟子たちに「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい」 と言われました(12 節)。注目すべきことに、12のかごがいっぱいになりました。これはユダ ヤ民族の12部族と呼応します。またマルコ8章には、四千人の異邦人たちに「七つのパン ま た、魚が少しばかり」配られたことが記されています(マルコ 8:6-7) 。このときは余りが7つ のかごに集められました。これはユダヤでは完全を表す数字であり、また異邦人の時が満ちるこ と(ルカ 21:24)についてイエス様が語られたことを思い起こさせます。 パンと魚をいただいた人々はこの奇蹟を見て、体験し、彼らはイエス様をイスラエルの王にした いと思うようになりました(15 節) 。これはイエス様が絶対に引き受けないことだったので、イ エス様は山のさらに高いところへと「ただひとり、 退かれた」のでした。おそらく、弟子たち がイエス様のしんがりとなり、群衆を湖のほとりにとどめておいたのでしょう。退かれたイエス 様は、夜になった後もそこにとどまられました。弟子たちは湖の向こう側にわたるために、舟に 戻りました。このとき、彼らはイエス様とは離れていました。いよいよ、記録され、語り継がれ ている、最もドラマチックな奇蹟の一つがこれからなされようとしていました。その話は、次回 へ。 「五千人の給食」 ヨハネ 6:1 - 15 R ヨハネ 6:1 - 15 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様と弟子たちはどこに行きましたか。だれが彼らの後につ いて行きましたか。そして、何が起きましたか。 A 読んだことを適用してください。その日、弟子たちがどんな感情を抱いていたか想像してみ ましょう。人々に奉仕するために遣わされ、ワクワクして戻って来ました(マルコ 6:7 以降)。 また、バプテスマのヨハネが殺されたことを聞いて恐れました。そして、この奇蹟に自分た ちも積極的に関わりました。彼らはどのように感じていたでしょうか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第16章 「水の上を歩く」 ヨハネ 6:16‐24 6 : 1 6 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。17 そして、舟に乗り込み、カペナウム のほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられな かった。18 湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。19 こうして、四、五キロメートルほどこぎ出し たころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。20 しかし、 イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。 」21 それで彼らは、イエスを喜んで 舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。22 その翌日、湖の向こう岸にいた群衆は、そこ には小舟が一隻あっただけで、ほかにはなかったこと、また、その舟にイエスは弟子たちといっ しょに乗られないで、弟子たちだけが行ったということに気づいた。23 しかし、主が感謝をさ さげられてから、人々がパンを食べた場所の近くに、テベリヤから数隻の小舟が来た。24 群衆 は、イエスがそこにおられず、弟子たちもいないことを知ると、自分たちもその小舟に乗り込ん で、イエスを捜してカペナウムに来た。 五千人の給食という第4の奇蹟は、弟子たちが食物を配るなど、積極的な役割を果たした初めて の奇蹟でした。第5の奇蹟においては、弟子たちの一人(ペテロ)が、実際に水の上を歩くとい う出来事に参加しました。ヨハネ、マルコ、ルカはこの部分を記していませんが、それはおそら く、私たちが注目すべきはイエス様であり、特定の弟子ではないと彼らが感じたからでしょう。 前の章で見たように、イエス様と弟子たちは数日前から起きた出来事について思い巡らすために、 「寂しい所」へ退かれました。その出来事とは、バプテスマのヨハネの首がはねられたこと、人々 をいやしと悪霊を追い出すために弟子たちを2人一組で派遣した体験(マルコ 6:7 以降) 、ユダ ヤ人の指導者たちとの論争(ヨハネ 5:16 以降)などでした。しかし、群衆が彼らに追いついて きたので、彼らが静まることができた時間はわずかでした。イエス様は奇蹟的に人々に食物を与 えられ(ヨハネ 6:1 以降)、群衆がイエス様をイスラエルの王としようとしたので、彼らから離 れました。 夜が近づくにつれて、 弟子たちは舟に戻り、10数キロ離れたカペナウムを目指して、 湖を渡り始めました。 強風のために、舟はなかなか前に進むことができませんでした。弟子たちが4、5キロ進んだと き、イエス様が水の上を歩きながら彼らのところへ来るのが見えました。この奇蹟を「説明」す るために、学者たちは努力してきました。「湖の上」 (19 節)の「上」というギリシア語の言葉 は「エピ(epi)」ですが、この言葉は「横」や「傍ら」とも訳すことができます。そのため、風 のために舟が湖の岸の近くに流され、弟子たちはイエス様が湖のふちを歩いているのを見た、と 説明することも可能かもしれません。しかしこのような翻訳も可能ではありますが、それでは弟 子たちが抱いた恐れや、マタイの福音書に記されているペテロが体験したことについては説明で きません。おそらく最善の説明は、最も自明なことです。つまり、神であられるイエス様が自然 界に対するご自分の権威を示されたにすぎないということです。イエス様の奇蹟について、真実 とは異なる説明を提供することは可能かもしれません。例えば、 「五千人の給食においては、イ エス様が分け与えるものをほとんど持っておられなかったので、人々は外套から自分たちの食べ 物を取り出し、それをささげたのである。また婚礼においては、人々が本物のぶどう酒を飲んで あまりにも酔ってしまったので、皮袋に入れられた普通の水を飲んでもそれに気づかなかったの である」といった説明です。しかし、なぜそのような説明の仕方を考える努力をしなければなら ないのでしょうか。もし神が聖書に示されている神であられるなら、そしてもしイエス様が神の 御子であられるなら、なぜすべての被造物が神に服従し、奇蹟は普通の状況においては起きない からこそ奇蹟的なのである、と受け止めないのでしょうか。 弟子たちがイエス様を見て驚いたとき、イエス様はすぐに彼らに言われました。「わたしだ。恐 れることはない」 (20 節)。このイエス様の言葉と、御使いたちが人間に現れたときに語った言 葉とを比較してください(創世記 21:7、マタイ 1:20、28:5、ルカ 1:13、1:30、2:10 など)。 「恐 れることはない。 」確かに、霊的な世界を目の当たりにした人がだれでも普通に抱く思いは、純 粋な恐れです。そして、愛に満ちた神が普通になされることは、その恐れを取り除くことです。 イエス様が語られた慰めの言葉は、弟子たちにとって十分でした。彼らはイエス様を喜んで舟に 迎え入れ、そして彼らの舟は「ほどなく」彼らが向かっていた地に着きました。このときももう 一つの奇蹟がなされたと言うことができると思いますが、それは場所が足りないために記録され なかった、「ほかにもたくさんある」イエス様のみわざの一つと考えられます(ヨハネ 21:25)。 これに対して「群衆」は、ベツサイダの近くにとどまり、イエス様が退かれた山の頂上から戻っ て来られるのを待っていました。しかし翌日、弟子たちがイエス様を残していったにもかかわら ず、その地域にイエス様はおられないことが分かりました。群衆はイエス様を捜してカペナウム に戻り、ついに彼を見つけました。そして彼らはイエス様から厳しいチャレンジを受け、その教 えがあまりにも過激であったので、多くの者たちは不信仰のゆえにイエス様から離れて行きまし た。そのことについては、次回見ていきましょう。 「水の上を歩く」 ヨハネ 6:16 - 24 R ヨハネ 6:16 - 24 を読んでください。 O 事実を観察してください。弟子たちはどこにいましたか。イエス様はどこにおられましたか。 そして、何が起きましたか。 A 読んだことを適用してください。ここに記されている奇蹟についての記述は、あなたに励ま しを与えますか。それとも疑いを抱かせますか。あなたは奇蹟を信じますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第17章 「いのちのパンであられるイエス様」 ヨハネ 6:25‐59 6 : 2 5 そして湖の向こう側でイエスを見つけたとき、彼らはイエスに言った。「先生。いつここ においでになりましたか。」26 イエスは答えて言われた。 「まことに、まことに、あなたがたに 告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満 腹したからです。27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物 のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわ ち神が認証されたからです。」28 すると彼らはイエスに言った。 「私たちは、神のわざを行うた めに、何をすべきでしょうか。 」29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者 を信じること、それが神のわざです。 」30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが 見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいま すか。31 私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。 『彼は彼らに天からパンを与えて食べさ せた』と書いてあるとおりです。」32 イエスは彼らに言われた。 「まことに、まことに、あなた がたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わた しの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。33 というのは、神のパンは、 天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」34 そこで彼らはイエスに言った。 「主 よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパ ンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決し て渇くことがありません。36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わ たしはあなたがたに言いました。37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来 ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。38 わたしが天から下っ て来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。 39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひと りも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40 事実、わたしの 父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちを ひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」4 1 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天か ら下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。42 彼らは言った。 「あ れはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている。そのイエスではないか。どうしていま 彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いに つぶやくのはやめなさい。44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしの ところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。45 預言者 の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学ん だ者はみな、わたしのところに来ます。46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、 すなわち、この者だけが、父を見たのです。47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。 信じる者は永遠のいのちを持ちます。48 わたしはいのちのパンです。49 あなたがたの父祖たち は荒野でマナを食べたが、死にました。50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食 べると死ぬことがないのです。51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこの パンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、 わたしの肉です。」5 2 すると、ユダヤ人たちは、 「この人は、どのようにしてその肉を私たちに 与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。53 イエスは彼らに言われ た。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなけ れば、あなたがたのうちに、いのちはありません。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者 は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。55 わた しの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わた しの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。57 生ける父 がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによっ て生きるのです。58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだ ようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」59 これは、イエスがカペ ナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。 イエス様がどのような方であるかを「群衆」が理解すべき時が来ました。これまで、彼らはイエ ス様を病をいやしてくれる人、必要を備えてくれる人、そして将来の王となる人として見なして いました。しかし、ヨハネが彼の福音書の中で描いている多くの人々と同じように、群衆のほと んどが、またイエス様に従っていた何人かの人たちも、大切なポイントを全く見過ごしていまし た。この箇所では、ベツサイダでの奇蹟を体験した群衆が、イエス様がどのようにしてカペナウ ムに到着したか全く分からないまま、イエス様のおられた会堂まで押しかけてきました。イエス 様は「いつここにおいでになりましたか」 (25 節) という彼らの質問に答える代わりに、問題の核心部分に直接触れられました。 「まことに、まこ とに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです。」 (26 節)イエス様は、あの奇蹟は彼らが満腹になるため にではなく、神の御子を通して本当のいのちを知るためであったと説明されました。 「そうですか」と群衆は答えました。「では、私たちはどうする必要があるのですか。」 「わたしを信じなさい。わたしこそ神によって遣わされた者です。」 「そうですか、では私たちが信じることができるように、しるしをください。 」(彼らはすでに、 当時のどの人々よりも多くのしるしを見て、祝福を受けていたのではなかったでしょうか。) 「そ うですねえ、モーセがイスラエルの民にしたように、私たちに毎日食物を与えてくれませんか。」 (出エジプト記16章参照) 「一つはっきりさせよう」とイエス様は言われました。「人々にパンを与えたのはモーセではな い。神である。そして、神はわたしの父であられる。」 (32 節) 「神がそうされたのは、あなたが たのためでもあったのだ。」 「これで話が合いましたね」と群衆は答えました。「これから、私たちにそのパンをください。」 (34 節) 「わたしがパンであり、水である」とイエス様は言われました。 「しかし見なさい。わたしはこ こに、あなたがたの目の前に立っている。それでも、あなたがたはわたしを信じようとしない。」 (36 節) そしてイエス様は群衆に福音のメッセージを語り続けられました。つまり、イエス様は永遠のい のちの源であること、また神が示されることだけを行っておられること、そして終わりの日に神 がイエス様を「よみがえらされる」(37-40 節)というメッセージです。しかしヨハネの福音書 によく見られるように、群衆はつぶやきました。「えっ?ちょっと待って 彼はヨセフとマリヤ の息子、イエスではないか。彼が『天から下って来た』と言っているのはどういう意味なのか?」 イエス様は彼らの不信仰を見て、神が彼らを招かれない限り、彼らは絶対に理解することができ ないと言われました。「人間の心に教えを授け、正しい者たちをご自分のもとへと招かれるのは 神ご自身である(イザヤ 54:13 の引用)。今、あなたがたが理解できないなら、それは神が語っ ておられることをあなたがたが聞くことができないからである。 」このときを境に、イエス様と 群衆との会話はすぐにかみ合わなくなっていきました。イエス様はご自身のことをいのちのパン として示されましたが、群衆はそれを聞いて人食いを意味しているのかと早合点してしまいまし た。多くの人々にとって、ここが分岐点となりました。イエス様を本当の救い主と信じて近づく か、それとも不信仰のためにイエス様から離れ去るかのどちらかでした。イエス様に最も親しか った弟子たちでさえ、イエス様が示されたイメージを理解することに困難を覚えました。次回の 箇所では、このことについて彼らがどのように対処したか見ていきます。 「いのちのパンであられるイエス様」 ヨハネ 6:25 - 59 R ヨハネ 6:25 - 59 を読んでください。 O 事実を観察してください。この出来事はどこで起こりましたか。群衆はイエス様に何と言い ましたか。イエス様は彼らにどのように答えられましたか。それに対して彼らはどのように 答えましたか。 A 読んだことを適用してください。イエス様はご自身のことをパンであると言われましたが、 このイメージはイエス様のことをはっきりとさせますか、それとも分かりづらくさせますか。 神が目を開いてくださらなければだれ一人理解することはできない、というイエス様の言葉 についてどう思いますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第18章 「弟子たちの応答」 ヨハネ 6:60‐71 6 : 6 0 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。 「これはひどいことばだ。 そんなことをだれが聞いておられようか。」61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいてい るのを、知っておられ、彼らに言われた。 「このことであなたがたはつまずくのか。62 それでは、 もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。 肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちで す。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」--- イエスは初めから、信じない 者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである--- 65 そしてイエス は言われた。 「それだから、わたしはあなたがたに、 『父のみこころによるのでないかぎり、だれ もわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」66 こういうわけで、弟子たちのう ちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。67 そこで、イエスは十 二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」68 すると、 シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のい のちのことばを持っておられます。69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知 っています。」70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではあり ませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダの ことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしてい た。 弟子たちにとって、このとき語られたイエス様のことばは、理解しずらいだけでなく、 「聞く(ギ リシア語では、アクオ) 」ことすら困難なものでした(60 節)。実際のところ、イエス様の肉を 食べ、血を飲むという考えは「スキャンダリゾー」 、つまり、つまずきを与えかねませんでした。 この「スキャンダリゾー」というギリシア語の言葉から「スキャンダル」という言葉が派生しま した。この言葉に馴染みはありませんか。パウロが書いたコリント人への第一の手紙の 1 章 23 節に、キリストの十字架は異邦人にとっては愚かなこと、ユダヤ人にとっては「スキャンダリゾ ー」、訳すと「つまずきの石」 、と書かれています。 イエス様は、もしこれが問題であるなら、あなたがたは災いを受け始めていると言われました。 「あなたがたはわたしが天から来て、今あなたがたの前に立っているという事実を、まだ理解で きずにいる。では、わたしが天に戻るのを見るなら、どうするのか」(62 節) 。しかしイエス様 はこのように語りながら、すでに多くの人々が彼を拒絶していたのを知っていました。おそらく、 キリストの弟子であったユダが悪魔に心を向けたのはこのときであったでしょう。イエス様はそ れを知っておられ、イエス様の言葉を聞いている者たちにこう言われました。 「父のみこころに よるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」 (65 節) 。そして 70 節でこ う言われました。 「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちの ひとりは悪魔です。」 そして、予期していたとおり、このとき多くの人々が離れ去って行きました。神の臨在によって 彼らの心に光が照らされていたのではなかったので、このような「スキャンダル」に満ちたイエ ス様のことばは、愚かで、つまずきを与えるものに思われたのです。イエス様が語っておられた 会堂から次第に人影が消えていく中で、イエス様とごくわずかの忠実な弟子たちだけが残りまし た。弟子たちはイエス様のことばを聞いてあぜんとしましたが、イエス様から離れたいとは思い ませんでした。イエス様が十二弟子に「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょ う」と言われたとき、おそらくイエス様の感情があふれていたことでしょう。人となられた神で あられるイエス様は、この質問に対する答えをすでに知っておられたはずでしたが、弟子たちが 自分の信仰を確認することができるようにあえてこう尋ねられました。おそらく信仰のゆえに、 あるいはどうしても言わなければ気がすまないという思いのゆえに、ペテロはこう答えました。 「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておら れます」 (68 節)。ペテロの確信はさらに強まり、69 節ではこう結論づけています。 「私たちは、 あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」 「永遠のいのち」という言葉は、いのちの「長さ」よりも、「豊かさ」を示すものです。この出 来事が起きた時点では、ユダヤ人たちは、新約聖書で示されているような「終わることのないい のち」という概念をはっきりと理解していたわけではありませんでした。実際、神と関係を築く ことの目標は、必ずしも死を避けることではなく、自分を創造してくださった方と豊かないのち を持つことでした。今日の私たちも、イエス・キリストを救い主として告白する動機について吟 味することができるでしょう。私たちは単に永遠に存在する方法を求めているだけでしょうか。 それとも、ヨハネ 3:16 にある「永遠のいのち」に関するキリストの約束は、私たちがイエス様 を信じた瞬間から始まる約束であると信じますか。 イエス様は弟子たちに対する応答として、結局のところ彼らはイエス様に従うために選ばれたの であると語られました。彼らの将来は、イエス様の御手の中にあって守られていました。しかし 70 節にあるように、ユダの場合は異なりました。 「 しかしそのうちのひとりは悪魔です。」イ エス様を裏切るのはだれであるか、この箇所ではっきりと述べているのはヨハネだけです。この 段階においては、共観福音書はユダがどのような人であったかを述べていませんが、ヨハネはイ エス様が決して欺かれる方ではなかったことをはっきりと記しています。イエス様はユダの心に 何があるか最初から知っておられ、最も強い言葉でそのことを指摘されました。ギリシア語の原 文には、この節の「デビル(悪魔)」という言葉に不定冠詞がありません。ですから、この箇所 は「ザ・デビル」あるいは単に「デビル」、つまり「サタン」と訳すことができます。ユダは自 分の自由意志を用いて、サタンによって支配されることを選んでしまいました。サタンはユダを 通して、神のご計画と、神が創世記 3:15 で約束された「敵意」とを打ち壊そうとしました。し かしヨハネは、イエス様はどのようなことがあっても、欺かれたのではないということをすべて の人にはっきりと示そうとしました。イエス様はユダがどのような結末を迎えるかを知っておら れ、その苦々しい結末に向かって彼のやりたいようにさせられたのでした。「あなたがしようと していることを、今すぐしなさい」 (ヨハネ 13:27) 。 「弟子たちの応答」 ヨハネ 6:60 - 71 R ヨハネ 6:60 - 71 を読んでください。 O 事実を観察してください。この出来事はどこで起こりましたか。人々は何を求めていました か。イエス様は彼らにどのように答えられましたか。それに対して彼らはどのように応答し ましたか。 A 読んだことを適用してください。もしあなたがその日に会堂にいたとしたら、気分を害して 離れ去っていきますか。それともペテロが叫んだように「主よ、私たちがだれのところに行 きましょう」と言いますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第19章 「仮庵の祭り」 ヨハネ 7:1‐13 7 : 1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうと していたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。2 さて、仮庵の祭りというユ ダヤ人の祝いが近づいていた。3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あな たの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きな さい。4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたが これらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。 」5 兄弟たちもイエスを信じていなかったの である。6 そこでイエスは彼らに言われた。 「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなた がたの時はいつでも来ているのです。7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたし を憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。8 あなた がたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちてい ないからです。 」9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。10 しかし、兄弟たちが祭り に上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。11 ユダヤ人た ちは、祭りのとき、 「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。12 そして 群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。 「良い人だ」と言う者も あり、 「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたた め、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。 イスラエルに、仮庵の祭りの季節が訪れました。第七の月の十五日目から始まる、もともと収穫 を祝う祭りとしてなされていた仮庵の祭りは、イスラエルにおいて年に3回なされる大きなイベ ントの一つとなっていました。それは、すべての人々が集まり、彼らの先祖が約束の地に入るこ とを許される前に体験した「荒野での放浪生活」を思い起こすときでした。この祭りに参加する 人々は、木の枝や幹を使って簡単な幕屋(仮庵)を築きます。そして、七日間、そこで寝泊りし ます。これは子どもたちにとってはすばらしいときだったに違いありません。今風に言えば、ク リスマスツリーを飾るのを手伝う子どもと同じように楽しかったことでしょう。古くなった祭司 の衣装によって作られたものをろうそくの芯として使っている4つの大きな「メノラー」 (燭台) によって、毎晩、神殿全体が照らされていました。笛の音にあわせて「たいまつの踊り」がなさ れ、レビ人たちが「都上りの歌(詩篇 120-134 篇)」を朗読します。これはすばらしいお祭りで あり、ほとんどのユダヤ人たちが喜びをもって待ち望んでいたものでした。 しかしこのときまでに、イエス様はエルサレムに多くの敵を作ってしまっていました。イエス様 をさげすむ人々と支持する人々との間にはっきりと線が引かれ、さげすむ人々は支持する人々と 同じか、それよりも多い状態でした。祭りが始まる直前、イエス様はガリラヤの実家に、家族と ともにいました。イエス様の家族とはだれでしょうか。聖書には、イエス様にはヤコブ、ヨセフ、 シモン、ユダという4人の弟と、名前が記されていない2人の妹がいたことが記されています (注:カトリックとギリシア正教は、マリヤが処女であり続けたと信じているので、彼らがイエ ス様の弟や妹であることを受け入れません。カトリック教会では彼らは「いとこ」と呼ばれ、ギ リシア正教では彼らはヨセフがそれ以前の結婚生活において授かった子どもたちであると教え ています。しかしこのどちらの考え方も、彼らがイエス様の弟や妹であることを示している聖書 そのものと、また、マタイ 13:54-55 にはっきりと記されていることと合致しません)。 家族の者たちはイエス様に祭りに上っていくように促しました(マリヤはこの会話には加わって いなかったようです)。彼らは、エルサレムにいる弟子たちにすばらしいわざを見せることによ って、公の支持を得ることができると言ったのです。これは良い考えに聞こえるかもしれません が、ヨハネはイエス様の兄弟姉妹たちもイエス様を信じていなかったので、「空威張りをするた めに行きなさい」と促したと伝えています。イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」(6 節)と答えられ、彼らの提案を退けました。しかし、家族が祭りに上っていった後、イエス様は 行く準備をし、祭りが始まってから 3 日か4日経ってからエルサレムに到着されました。そのと きまでに、町にいたほとんどすべての人々がイエス様を捜していました。ユダヤ人の指導者たち はイエス様を殺そうと考え、また「群衆」たちは困惑していました。ある人たちはイエス様を「良 い人だ」と言い、他の人々はイエス様が分裂を起こしていると咎めていました(12 節)。しかし、 敗者の側にまわることを恐れて、公然と語る人はいませんでした(13 節) 。 イエス様は町に「内密に」 入っていかれましたが、宮に向かってまっすぐに進んでいかれました。 そこでイエス様は、彼を咎める者たちと対決し、ご自身のことをはっきりと示されました。その ことについては、次回見ていきましょう。 「仮庵の祭り」 ヨハネ 7:1 - 13 R ヨハネ 7:1 - 13 を読んでください。 O 事実を観察してください。この出来事は、一年のうちのどの季節に起こりましたか。エルサ レムで何が起きていましたか。イエス様の家族は、イエス様に何をするように促しましたか。 イエス様はどうされましたか。 A 読んだことを適用してください。あなたがヨセフの家族において、イエス様の弟や妹として 育ったとします。あなたなら、イエス様のことをどう思うでしょうか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第 20 章 イエス群衆の中に入る ヨハネ 7 章 14-31 節 14:さて、祭りが半ばになったころ、イエスは境内に上っていき、 教え始めた。15:ユダヤ人たちは、驚いて、言い始めた。「この人は教育を受 にどうしてこんなにたくさんのことを知っている の教えは、私からではなく、私を けていないの のだろう。」16:イエスは答えて言った。 「私 遣わした方からの教えである。17:神の意思を行なおうとす る者は、私の教えが神からきたものか、 私がかってに教えているかがわかるはずである。18:自分の考えで話すものは、自分の栄光を 求めるが、 彼を遣わし たものの栄光を求める人は、 真実な人であり、その人には不義 がない。 19:「モーゼはあなたたちに法律を与えたではないか。でも、誰も それを守らない。なぜあなたたちは、わたしを殺そうとするの ですか?。」20:大勢の人が答えた。 「あなたは悪霊に取り付かれている。誰が あなたを殺そ うとしているのでしょう。」21:イエスは答えて彼らに言った。 「私がひとつの技をなしたので、 あなたたちは、驚いている。 」22:モーゼは、あなたたちに、割礼をすることを命じた。(実際 それ は、モーゼからではなく、父たちの世代から始められた。)だか らあなたたちは、安息 日に、割礼を行っている。23:「モーゼの法律を破らないようにと、人は安息日に割礼を受け いるのに、私が安息日に人の全身を癒したからといって、あ て なた方は、腹を立てるのか?。 」24: 「うわべだけで判断せずに、正しい判断をしなさい。」25:それゆえ、イスラエルの人々の何人か の人たちは、 「この人が 人々が殺そうとしていた人ではないのか?。」と言っていた。26:見てく ださい。彼はみんなの前で話しをしているのに、誰も彼 に向かって何もいわない。その地域の 支配者たちは、彼がメシアだという事を知っていたのではないか?。27:「私たちは、この人がど こから来たか知っているが、メシアが いつどこから来るかは、誰も知らない。」28:それゆえ、 イエスは神殿から叫んでいった。「あなた方は、私 かも知っている。私 のことを知っているし、私がどこから来た は、勝手に来たのではない。私を遣わした方は、真実であり、あなた方は、 その人のことを知らない。29:私はその方のことを知っている。なぜなら、私はその方のもと か ら来て、その方が私を遣わしたからである。30:人々はイエスを亡き者にしようとしたが、実際、 彼に手をかけ たものはいなかった。なぜなら、イエスのときはまだ来ていな かったからであ る。31:多くの者たちは、イエスを信じていて、 「メシアが来ても、この人より多くのしるしをす るだろうか。」と言っていた。 それは祭りが半ばに来たときのことであった。イエスの仲間たちは、町のどこかの、粗末な家の 中で眠ったり、食べたり、そして、寺院の周りで夜のたいまつダンスに参加したりしていた。そ のときは、イエスの姿はどこにも見られなかった。イエスは仲間たちに、まだ私の時間ではない といって、どこにも行くつもりはなかった。それから突然イエスは寺院のあちこちに姿を現しま すが、そこは彼の敵に見つかりやすいところです。聞くことをやめた人々に教えることは、イエ スの言葉が、権威があり、その日のどの祭司より、知識が勝っていたということであった。人々 は口々に言い出した。どうしてイエスはそんなにたくさんのことを知っているのだろう?。ナザ レの近くで育った正式な教育も受けていない田舎者なのに。そこでイエスは説明した。彼らが聞 いている言葉は、イエスからではなく、彼の父(神)から出た言葉であると。もう少し見てみま しょう。イエスは続けます。神のことを知っているものは誰でも教えの真意を理解できるでしょ う。又、次の事も考えてみてください。イエスは言った。もしその人が彼自身の栄光を得ようと しているなら、その教えは、明らかに神から来たものではない。いっぽう、もし彼が言っている ことが全て神を栄光しているならば、彼は、真実の人である。 そしてイエスは話題の核心に触れます。「どうしてあなた方は、私を殺したいのですか?。」(19 節)群集の答えは、興味のあるものであった。「あなたは悪霊にとりつかれている(20 節)。」こ れが彼らがイエスを殺したい理由でしたか?。それとも、「あなたは、頭がおかしい。私たちは、 あなたを殺したくはない。」と言っただけでしたか?。どちらにしても、気が変だということは、 しばしば、悪霊に取り付かれたとみなされ、神を求めるということは、完全に、頭のおかしいし るしであった。明らかに、人々の心に最初に起こったことは、安息日に、イエスが人を癒すこと により、イスラエルの法を犯した、ということであった。(ヨハネ 5 章 18 節)そしてこのことは、 割礼の例を使ってイエスにより示された。ユダヤの法により、全ての男の子は、生後 8 日目に、 割礼を受けた。しかし、もしその日が安息日だったら、どうしたのでしょう。全ての基準により、 割礼は、仕事であると考えられていたので、安息日に割礼することは、固く禁じられていた。し かし、一日早くしたり、遅くしたりすることは、法を犯すことを意味していた。それゆえ、それ は、例外としてみなされ、その日が安息日であっても、赤ん坊たちは、生後 8 日目に、割礼を受 けた。イエスは、 「、、、私が安息日に人のからだじゅう全てを癒しているのであなた方は、わた しをおこっているのですか?。」と言って、要点を元に戻した。 (23 節) 論争は続き、人々には、受け入れ難い答えが残された。話の流れは変わっていき、人々はお互い に言った。 「もしこの人がわれわれが殺そうとしている人だとしたら、ここの境内で教えてから どうやって逃げるのでしょう?。多分彼は、本当のメシアでしょう。」それはあまりにも行き過ぎ た結論で、ほかの人々は、「私たちは、彼がどこから来たか知っている。だから、彼は、メシア のはずがない。 」と叫び始めた。 イエスは、 神の助けにより、彼についての真実を知ることが出来る、ということを人々に示して、 これに応戦した。しかし、彼らは、神を知らなかったので、神の息子を知ろうはずがなかった。 そして、イエスはもっと強く言った。 「私は、彼(神)を知っている。なぜなら、私は彼のもと から来たからです。彼が私を遣わしたのです。」(29 節)これがイエスの最後の宣誓であった。 このような、神を冒とくする態度は、尊敬に値しなかったので、人々は、このとき、イエスを殺 そうと、決意したのであった。正確には、われわれに話されることなしに、どのように彼らの行 動が抑えられたかということである。われわれが知っている全ての事で確かな事は、 「なぜ」と いうことである。それは、 「イエスのときはまだ来ていなかった。」 (30 節)その日の終わりには、 イエスは、そこを去ってしまい、イエスの罪は、決められた。しかしまだ、不満の声は残ってい た。 「もし、メシアが来たとしても、この人が行ったしるしより多くのしるしを行なわないだろ う。」(31 節) イエス群衆の中に入る ヨハネ 7 章 14-31 節 R:ヨハネ 7 章 14-31 節を読んでください。 O:事実を観察してください。どこで私たちは、イエスを見つけま したか?。イエスは何をしていましたか?。人々はどのように反 応しましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。 イエスは、割礼の例を示しました。そこでは、別の事を行うた めに、1 つの法が破られなくてはなりませんでした。 あなたは、ほかの例について、考えられますか?。 D:あなたの書いたことを話し合ってください。 第 21 章 人々、イエスについて考える ヨハネ 7 章 32-53 節 32:ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについて、これらのこと を囁いているのを聞きつけた。そして、祭司長たちと、ファリ サイ派の人たちは、イエスを捕らえるために、役人たちを遣わ した。 33:それゆえ、イエスは言った。「もうしばらくの間、私はあなた 方と一緒にいるが、それから、私は私を遣わした、人(神)のもと へ帰ります。 34:あなたたちは、私を求めても、私を見つけることは出来ない。 あなたたちは、私のいるところへ来ることが出来ない。」 35:すると、ユダヤ人たちは、互いに言い出した。 「わたしたちが この人をみつけられない所とは、この人はどこへ行くつもり なのでしょう。ギリシャ人の中に離散しているユダヤ人の中へ 行き、ギリシャ人に教えるつもりなのだろうか?。 」 36:「あなたたちは、私を求めても、見つけることが出来ない。私 のいるところへあなたたちは来る事が出来ない。 」と彼は言っ たが、これはいったいどういう意味なのか?。 37:祭りが盛り上がった最後の日に、イエスは立ち上がって、叫ん で言った。「渇いている者は誰でも私のところへきて飲みなさ い。 38:私を信じるものは、聖書に書いてあるように、その人の内側か ら、生きた水が川となり、湧き出るでしょう。 39:イエスは彼を信じるものが受けられる聖霊について話していた のである。なぜなら、イエスはまだ栄光を受けていなかったか らである。 40:それゆえ、これを聞いた群衆の何人かは、「この人は、本当の 予言者だ。」と言っていた。 41:また、他の人たちは、「この人はメシアだ。」と言っていた。 またある者たちは、「メシアはガリリーから来るだろうか?。」 と言っていた。 42:「メシアはデイビッドの子孫でデイビッドのいた村、ベツレヘ ムからでると聖書に書いてあっではないか。」と言う者もいた。 43:こうして、群衆の中で、イエスに対する意見が分かれた。 44:その中でイエスのことを捕らえようと思った者もいたが、手 をかける者はいなかった。 45:それゆえ、役人たちは、祭司長たちとファリシア人のところへ 戻った。祭司長とファリシア人たちは、役人たちに言った。 「どうしてイエスをつれてこなかったのか?。」 46:すると役人たちは答えた。 「今までにあの人のように話した人 はいません。」 47:すると、ファリサイ人たちは彼らに答えて言った。「お前たち も惑わされてしまったのか?。 48:支配者たち(議員たち)やファリサイ人たちは、誰もイエスを 信じていないではないか。 49:法律を知らない群衆たちは、呪われている。」 50:彼らの中の一人で以前イエスに会ったことのあるニコデマスが 彼らに言った。 51:「われわれの法は、本人から事情を聞き、本人が何をしてい るかを確かめることなしには、判決を下すことは出きないこと になっています。」 52:彼らは、答えてニコデマスに言った。「あなたもガリリー出身 ではないでしょう?。調べてみなさい。ガリリーからは、予言者 は出ないことを。」 53:それから、皆は、家へ帰って行った。 イエスの教えに対する群衆の反応がファリシア人たちに届いたとき、それはあまりに多く、その ため、寺院を守っている役人たちがイエスを捕らえるために、送り込まれた。イエスは、彼の目 的が達せられるためのときが近づいていることを知った。そして群衆たちに言った。 「もうしば らく私はここにいる。そして、まもなく私は、私を遣わした人のもとへ帰ります。」(33 節)そ してイエスは加えた。「あなた方が私を探しても、あなた方は私を見つけられないし、私が行く ところにあなた方は来られない。」(34 節) われわれは、もう一度、人々がイエスを見つけられない、という強い表現をヨハネの中で見るこ とができます。「われわれがイエスを見つけられないところとは、イエスはいったいどこへ行く のでしょう?。」「たぶんギリシャ人の中に離散したユダヤ人のところかもしれない。」と人々は、 互いにたずねあいました。 (35 節)これらの人々は、過去の侵略の時代に、イスラエルをのがれ て、いまギリシャ語を話す地域に住んでいるイスラエル人のことです。実際、その人々は、イエ スが自分たちのところにも姿を現したかっただろうと考えていた。 36 節と 37 節の間には、数日間の時間があり、今、私たちは、その祭りの最も盛り上がった最後 のときにいます。祭りの最後の催しのために、寺院の祭司たちは、ジホンの泉に、水がめを持っ ていきます(水は、町の近くから、シロームの池の近くまで地下通路でつながっています)。その 瓶を満たし、それを豪華な祭壇まで持って帰ります。その間中、聖歌隊は、イザイア 12 章 3 節 からの歌、 「それゆえ、あなたは、救済の泉から、喜んで水を汲むでしょう。 」と歌います。人々 はそれを見て、彼らの祖先が荒野をさまよい、砂漠の真ん中で、岩から湧き出る水を汲むのを思 い出すのです。 この時点でイエスは、再び彼らの前に現れ、大きな声で宣誓します。「渇いている者は誰でも私 のところへ来て飲みなさい。」(37 節)そして、イエスは、「生きた水がその人の内から湧き出 て、 、、」と言います。(38 節)これは、キリストの復活ののち、信者になった人々への聖霊の最 初の約束であった。 その日に信じた者は、 「この人はメシア(キリスト)だ。」と言っていた。 (41 節)他の者たちは、 これがデュウトロノミー18 章 15 節と 18 節における、モーゼが約束した、長い間予期していた、 予言者であると結論付けた。実際は、アクツ 3 章 22 節でピーターが立証したように、彼らのど ちらも正しかった。聖書が予期していたような、ベツレヘムからではなく、その人が、ナザレか ら来たということが明らかであるのに、どうしてそのような結論を正当化できようか。論争が沸 き起こったが、誰もイエスには手をかけなかった。 (44 節)寺院の守衛の役人たちがファリシア 人のもとへ戻ったとき、彼らがイエスの逮捕に失敗した事を説明して言った。 「かつて、彼のよ うに話した人はいなかった。」 (46 節)そしてその後、ファリシア人の間で論議が沸き起こった。 ファリシア人たちは、彼らの立場を主張して言った。「支配者たち(議員)やファリシア人たちで この人を信じたものはいない。この下層階級の人たち(法律を知らない人たち)は、呪われてい る。 」(49 節)しかし、信じている者たちは、下層階級ではなかった。身分の高いファリシア人 のニコデマス、生まれなおすということについて話をするために、ある夜、イエスに会いに来た 人と同じ人、その人は、 「われわれは、われわれが彼を審判する前に、彼の言い分を聞くべきで あると私は思う。 」と言っている。(51 節)ニコデマスの意見に対して、ニコデマスは、イエス と同じ出身、ガリリーから来たということを攻め立てられている。そして、皆が知っているよう に、そこからは、どんな予言者や、ましてやメシアも来ないことになっている。 この後、ヨハネは、イエスを捕らえる事に失敗した事の結果をとても簡単な表現で示している。 「そしてみんな家に帰って行った。」 (53 節) 人々、イエスについて考える。 ヨハネ 7 章 32-53 節 R:ヨハネ 7 章 32-53 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは何を人々に話しましたか?。 人々はそれにどんな反応を示しましたか?。ファリシア人たちは、 どんな反応を示しましたか?。最後にどんな事が起こりました か?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。 あなたは、ベツレヘムでのイエスの誕生について人々に話すこ とは、イエスの真実性を確かなものとすると思いますか?。 なぜイエスは、その事を最初に人々に話さなかったと思います か?。 D:あなたが書いた事を話し合ってください。 第 22 章 予言者の話し 第 8 章 1-11 節 1:イエスはオリーブ山へ行った。 2:朝早く、イエスは、寺院へ戻ってきた。全ての人々が彼のもと へやってきた。イエスは、座って、彼らに教え始めた。 3:学者とファリシア人たちは、姦通のかどで捕らえられた女を連 れてきて、境内の真ん中に立たせた。 4:彼らはイエスに言った。「先生、この女は、姦通しているとこ ろを捕らえられました。 5:このような女たちは、石を投げつけて殺せ、とモーゼの法は 命じているが、あなたは、どう思いますか?。」 6:彼らは、イエスを捕らえる口実を作るため、イエスを試して、 こう言ったのである。しかしイエスはかがみこみ、指で地面に、 何か書き始めた。 7:しかし、彼らがしつこく問い続けたので、イエスは身を起こし て、彼らに言った。「あなた方の中で罪を犯した事のないもの が最初に彼女に石を投げなさい。」 8:そしてイエスは、又かが見込み、指で地面に何か書き始めた。 9:これを聞いた人たちは、年寄りから、一人、又一人とその場を 去っていって、イエスが一人残り、そしてその女が境内の真ん 中に残った。 10:イエスは身を起こし、彼女に言った。「婦人よ、彼らはどこに いますか?。だれもあなたを罪人だと決めつけなかったのです か?。 11:その女は、答えて言った。 「主よ、誰も。」イエスは言った。 「私も罪にとがめることはしない。さあ行きなさい。もうこれ からは罪を犯してはなりません。」 この章を考えるとき、いつも時間のづれが問題となります。そして多くの聖書で、この章は、括 弧でくくられています(7 章 53 節の始まり)。たぶん初期のころの聖書では、但し書きで、この 部分は、含んでいない、と言っている。それは本当のことで、初期のころの 150 以上の聖書では、 その部分は含んでいません。本当の質問は、 「聖書には時間的な間違いがある。」ということはな いでしょう?。でもこれは聖書の一部の章でしょう?。証拠を伴った確実な答えは見つけられま せん。しかし、ヨハネ 7 章 53 節から 8 章 11 節を含んでいても、含んでいなくても、それは、宗 教的な基盤を危うくする事はない。ということを心にとめておいてください。しかし、それは、 ヨハネの技巧的な仕事と思えるものとして、そこに入れておくほうがいいでしょう。 前の章の「予言者」の討論を覚えていますか?。デュウトロノミー8 章 15-19 節では、モーゼは、 人々に、約束の土地での生活を準備していた。彼らは、彼らが土地をうばった人々の方法をとる べきではなく、彼らは、後から来る予言者の言う事を聞くべきである。たくさんの人々は、イラ イジャとしての予言者、彼の死は、決して記録されていない。ということを認識している。炎に 包まれた馬車で、彼が天に連れて行かれたということだけが記録されている。(2 キング 2 章 11 節)ユダヤの伝説では、彼は、メシアに戻ったので、肉体的死から逃れた、と示している。 (ヨ ハネ 19 章 21 節も見てください)レベレーション 11 章 3 節では、実際、2人の証人は、イライ ジャとモーゼである、と暗示されている。そして、モーゼの死体も決して、見つからなかったの であるが、これらの事は、ジュウド9章の中で論議されている。 それゆえ、ヨハネの時代の人たちは、予言者を探していたのでしょうか?。次のことを考えてみ てください。 ヨハネ1章21節:あなたは、予言者ですか?。 ヨハネ5章46節:私は、予言者です。 ヨハネ6章14節:この人が予言者です。 ヨハネ7章40節:この人が予言者です。 ヨハネ7章52節:それは、予言者ではありえない。 ヨハネ8章5節では、 「そのような女は、石を投げつけて殺せ。あなたはどう考えるか?。 」言い 代えれば、「あなたはモーゼが私たちに求めていた事をしますか?。」 これは、反論しがたい質問であった。ローマ人の権力者たちは、イスラエル人は、彼らの許可な しには、誰も殺す事は出来ない、と法の力で決め付けた。モーゼは言った。姦淫の罪は死刑であ ると。もしイエスが彼女を死刑にすべきだと言ったら、ローマ人は、イエスを捕まえていたでし ょう。そして、もしイエスがモーゼの法を拒否したなら、サンヘドリン人がイエスを捕まえてい たでしょう。 「さて、あなたはどう思いますか?。」 (5節)答えとしては、イエスは何も言わなか った。ただ土に何か書いていた。彼は何を書いていましたか?。私たちは、何も知りません、で もイエスが、彼(神)が彼の指で石の板に書いた、モーゼに与えた法について考えていた事は、 明らかである。 (エクソデス31章18節) そしてイエスは、身を起こしていった。「あなた方の中で罪を犯したことのない者が最初にこの 女に石を投げつけなさい。」 (7節)マシュウ7章1節と同様に、はっきり判決を下さないという この節は、キリスト教を批判する最もよく知られた2節でしょう。そして、私たちは、生きるた め、そして、生かされるためにここにいるということの証明であり、われわれの周りは、罪に対 して、盲目となるということをも示しています。われわれは、同様に、神の性格を考えてみるべ きでしょう。なぜ神は、その法律をわれわれに示すためにそんなにながくかけたのか、そして、 簡単にそれを取り消したかを。 イエスは、この状況においては、法律の効力については、なにも述べなかった。イエスは、この 人たちがイエスを殺すための口実を見つけようとしていたという、目的の中心に直接話を持って いった。 「もしここに罪を犯した事のない人がいたら、その人から石を投げつけていいです。」年 のいった者から、そこを去っていった(彼らがいつもそうするように) 。そして、イエスとその 女だけがそこに残った。モーゼの法に従ってイエスは、その女に石を投げて殺す事が出来ただろ うか?。きっと出来たでしょう。でもそうするかわりに、イエスは、「私もあなたを裁かない。 」 と言った。 (11節)これはイエスの慈悲を表し、そして又、罪無き者ではないということも示 しています。イエスは加えて言いました。 「もう罪を犯してはいけません。」 予言者の話し ヨハネ 8 章1-11 節 R:ヨハネ 8 章 1-11 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは、何を尋ねられましたか?。 イエスはそれにどう答えましたか?。そして、人々は、どう反応 しましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。 あなたは、あなたの周りの罪に盲目となる理由として、この章 を使うことが出来ますか?。なぜ使える、あるいはなぜ使えな い?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 23 章 世界の光り ヨハネ 8 章 12-24 節 12:イエスは、彼らに言った。 「私は、世の光である。私に従うも のは、闇の中を歩くことはない。命の光を持つ。 」 13:それでファリシア人たちは、イエスに言った。 「あなたは、あ なた自身の証をしているが、あなたの証は、本当ではない。」 14:イエスは、彼らに答えて言った。 「たとえ私が私自身の証をし たとしても、その証しは、本当である。私は、どこから来たか 知っているし、どこへ行くかも知っている。しかし、あなた方 は、私がどこから来たか知らないし、どこへ行くかも知らない。 15:あなた方は、肉にしたがって裁くが、私は、誰をも裁かない。 16:もし、私が裁くとしたら、私の裁きは、本当である。なぜなら、 私は、一人ではないからである。私は、私を遣わした人ととも にいるからである。 17:あなた方の法律には、二人の人の証しは、本当である、と書い てある。 18:私は、私について証をしている。私を遣わした父も私について 証ししてくれる。」 19:そして彼らはイエスに「あなたの父は、どこにいるのです か?」と言うと、「あなたは、私も、私の父も知らない。もし、 あなた方が私を知っていたなら、あなた方は、私の父も知って いる。」 20:イエスが神殿の境内で教えているとき、イエスは、これらの事 を宝物殿の中で話した。そして、誰も彼を、捕まえなかった。 なぜなら、イエスの時は、まだ来ていなかったからである。 21:イエスは彼らに再び言った。「私は、行ってしまう。あなたた ちは、わたしを捜すだろう。あなた方は、あなた方の罪のうち に死ぬ事になるだろう。私の行くところにあなたたちは来る ことができない。」 22:ユダヤ人たちは、「私が行くところに、あなたたちは来る事が 出来ない。」とイエスは言っているが、自殺でもするつもりな のだろうか?。と言った。 23:イエスは彼らに言った。あなた方は、下のものに属しているが、 私は、上のものに属している。あなた方は、この世界に属し ているが、私は、この世界に属していない。 24:だから私はあなた方に、あなた方は、あなた方の罪のうちに死 ぬことになると、言ったのである。私が、メシア(神と同じ) であるということを信じないのなら、あなた方は、あなた方の 罪の内に死ぬことになる。 ヨハネの最初の章を思い出してください。そして、世の光としての救世主の神がかった感動的な 姿を。これが主題です。このことをヨハネは、福音書の中で何回も何回も示していますし、この 章の中でも、イエスの口から示されるのを私たちは見ています。神殿の祭りが終わったときのこ とをも思い出してください。人々は、たぶん、イスラエルの子供たちが、昼間は煙の柱に導かれ、 夜は、偉大な光りに導かれた、荒野での放浪についての話をしていました。 (13 章 21 節)ファ リシア人たちの反応に対してイエスは、「私がその光りである。 」と 12 節で言っている。そのよ うな勇気のある証言は、価値のあるものとして受け容れられないでしょうし、それを立証するた めの目撃者が、必要でしょう。 (13 節)神の化身として、イエスは、そのような証言をする必要 はなかった。しかしイエスは、彼らに「あなたは、私を知らない。」と言って、彼らにそれを思 い出させた。 (14 節)イエスは続けた。私には、証人がいます。それは。私の父(神)です。 (18 節) 「さて、われわれはどこかに到達しているようだ。」とファリシア人たちは思い、聞いた。 「あな たの父は、どこにいるのですか?」(19 節) 「あなた方が私を知らないように、あなた方は、彼を知らない。もしあなた方が私を知っていた ら、あなた方は、彼のことも知っているでしょう。」とイエスは、言った。(19 節) ヨハネは、イエスは、寺院の女性用の中庭の近くの宝物殿の中から話をしていたという事実をこ こで示しています。それは、人々が寄付のお金を持ってくる場所であり、そしてイエスがマルコ 12 章 41 節と、ルカ 21 章 1 節で「未亡人の小銭」について教えをしている場所であった。そこ は、寺院の役人やサンヘドリンの人たちがしばしばやってくる警備が厳しいところであった。で も誰もイエスを捕まえなかった。なぜならイエスの時は、まだ来ていなっかたからである。 (21 節)イエスは、高い権限から慈悲を示しているのではないということをヨハネは、とても時間を かけて私たちに示したのです。イエスの一度で最後のいけにえの時が来るまで、彼は、行きたい ところへ行って、言いたい事を言ったのです。 ヨハネの、人々がそこへ行けないという別の表現として、イエスは、21 節でファリシア人たち に言っています、 「私は、行ってしまう。あなた方は、私を探すでしょう。でも、あなたたちは、 あなた方の罪のうちに死ぬ事になるだろう。私が行くところへ、あなた方は、来られない。 」人々 が、イエスの許しと救済の申し出を受け入れられなかったので、メシアを失うというなんと悲し い予言なのでしょう。でも人々の反応は、「彼は、自殺でもするのだろうか?。 」ということであ った。 そしてイエスが最後に言ったことは、 「あなた方は下のものに属しているが、私は、上のものに 属している。あなた方はこの世界に属しているが、私は、この世界に属していない。」 (23 節) イエスが、申し出なければならなかった事は、人々にとって今まで経験したこともないような事 であり、そして、信仰の第一歩は、罪を、イエスの光りの中へ運ぶでしょう、ということであっ た。「信仰を守る」という言葉の確かな意味を説明する時が来たようです。 世界の光り ヨハネ 8 章 12-24 節 R:ヨハネ 8 章 12-24 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスが聴衆にした申し出は、なん だったのですか?。彼らは、どう反応しましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。イエスは「世の光りである」とは、あな たにとってどんな意味ですか?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 24 章 守られるべき真理 ヨハネ 8 章 25-41節 25:そこで、彼らは、イエスに「あなたは、いったい誰です か?。」と言うと、イエスは、答えた。「それは、初めから話し ているではないか。 26:あなたたちに話すべきことは、たくさんあり、あなたたちにつ いて、裁くべきことは、たくさんあるが、私を遣わした方は、 真実であり、私は、その方から聞いた事をこの世に話している のです。 」 27:かれらは、イエスが、父 (神)について話していることに気が つかなかった。 28:それゆえ、イエスは、言った。「あなた方は、人の子をあげた ときに、初めて、私がメシア(神と同じ)であるということ、 そして私は、自分勝手には何もせず、ただ父(神)に教えられ たことを話しているということがわかるだろう。 29:そして私は、私を遣わしてくれた方(神)と共にいる。彼は、 私を、一人にしておくことはない。私がいつも彼の喜ぶことを、 行うからである。」 30:イエスが、これらの事を話したとき、多くの人は、イエスを信 じるようになった。 31:イエスは、イエスを信じるようになったユダヤ人たちに言った。 「もしあなたが私の言葉に留まるならば、あなたは、私の本当 の弟子である。 32:あなたたちは、真理を知り、真理は、あなたたちを、自由にす る。 33:彼らは、イエスに答えた。 「私たちは、アブラハムの子孫です。 私たちは、誰の奴隷にもなったことがありません。だのになぜあ なたは、私たちが、自由になるというのですか?」 34:真実を述べるが、誰でも、罪を犯すものは、罪の奴隷である。 35:奴隷は、いつまでも家には、いないが、息子は、いつまでもい る。 36:もしその息子が、あなたたちを自由にするなら、あなたたちは、 本当に自由になるでしょう。 37:私は、あなた方が、アブラハムの子孫であるということを知っ ている。でもあなた方は、私を殺そうとしている。なぜなら、 あなた方は、私の言葉を信じないからだ。 38:私は、父(神)と共に見たことを話している。あなた方は、父 から聞いたことを、行っている。 39:彼らは、イエスに答えて言った。 「アブラハムは、私たちの父 です。」イエスは彼らに言った。「もし、あなた方がアブラハ ムの子供なら、アブラハムと同じことをしなさい。 40:でもあなた方は、神から聞いた真実をあなた方に話している、 この私を、殺そうとしている。アブラハムは、そんな事はしな かった。 41:「あなた方は、あなた方の父がしたことを、しています。」彼 らは、イエスに言った。「私たちは、姦淫によって生まれたの ではありません。私たちには、唯一の父がいて、それは、神で す。 宝物殿の近くの寺院で、イエスとファリシア人との論争(言い合い)は、続いた。ユダヤ人の指導 者たちが、 イエスの要求の証拠を得るための目撃者を要求したので、論争は、醜いものとなった。 答えの中で、イエスは、彼の父を目撃者(明かしする人)として申し出たが、聴衆たちは、彼の 父(神)も、その息子も、知らなかった。ということを加えた。さて、25節では、私たちは、 最初に質問されるべき、「あなたは、誰なのですか?」という質問を見る事が出来ます。 イエスの答えの中で、イエスの時間が限られていて、この会話が、ほとんど終りに近づいている ということが示されている。イエスは、多くのことを分け与えている。それも、彼らとだけでは なく、、、「私がこの世に話している事は、、、。」 (26 節)全ての事は、定められた正しい時刻に知 らされるであろう。イエスは、続けて不思議な予言を、加えた。 「あなた方が人の子を上げたと き、あなた方は、私がメシア(神と同じ)であるということがわかるでしょう。」(28 節)イエ スが、前にもそのような事をしたのを覚えていますか? 。ある夜にファリシア人のニコデマスが イエスからもっと学ぼうと、イエスのところへ来たとき、イエスは言った。「モーゼが荒野で蛇 を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、人の子(イエス)を信じるもの は皆永遠の命を得られるということである。」(ヨハネ 3 章 14-15 節)「持ち上げる」言う言葉は、 ギリシャ語では「フープソウ」といい普通は、「高める」あるいは「賞賛する」と言う意味であ るが、モーゼの時には、それは、蛇の像を棒の先に乗せ、イスラエルの子供たちが皆その蛇を見 られるように、高く持ち上げることを意味していた。彼らがその蛇の像を見ることにより、その 地域の疫病のようになっている、死にかけた蛇により咬まれたどんな人も、死から逃れられ、癒 されるということである。(Numbers21 章 6ff) 神との交わりにおいて、イエスは、彼の聴衆に、 親しみのある物語で、まったく新しい意味のことを教えた。さて今、罪のある、蛇に噛まれたこ とに悩み、死の刑に直面している全ての人々は、十字架の上に上げられるイエスを見上げられる 事が出来る。そこで彼らは、癒しと、希望と、永遠の命を見つけるだろう。 その日に、イエスの言葉は、人々に聞き入れられ、多くの人は、イエスを信じるようになった。 (30 節)これに対しイエスは、次の段階へと進んでいった。それは、「留まる」ということで、 もしあなた方が私の言葉に留まるならば、あなた方は、私の本当の弟子であろう。そして、あな た方は、真実を知り、真実は、あなた方を自由にするだろう。(31-32 節)ちょっと待ってくだ さい。人々は、ちょっと考えて、言いました。「もしあなたが、私たちが自由になると言ってい るなら、私たちは今自由ではないということですか?。イエスよ、あなたは誰に向かって、話し かけているのですか?。我々は、誰の奴隷でもありません。」(33 節) 「あなた方は、罪を犯していますか?。 」とイエスは、彼らに聞きました。「もしそうなら、あな た方は、罪の奴隷です。そして、この事を覚えておきなさい。それは、奴隷は家の中にいつまで もいることは出来ない。」 (33-34 節)言葉を変えれば、家族だけが、永遠なのです。もし人々が 神と共に留まりたいのなら、彼らは、家族になる必要があるでしょう。これらの人々は、父を持 っていたが、イエスが話していた父と同じ人ではなかった。(38 節)ユダヤ人として、彼らは、 アブラハムの子孫である、と主張した。それに対し、イエスは答えて、 「アブラハムがしたよう にしなさい。アブラハムは息子を殺そうとはしなかった。」と言った。ほかの父親の子孫のみが、 殺そうとした。 (40 節) その点において、ユダヤ人たちは、一線を超えて、言った。「私たちは、姦淫によって生まれた のではありません。」(41 節)言葉を変えると、彼らは、イエスが未婚の母から生まれたこども であることを攻めているように思えます。そのような神を冒とくする事に対して、答えないわけ にはいかなかったので、イエスは答えた。次には、、、。 守られるべき真理 ヨハネ 8 章 25-41 節 R:ヨハネ 8 章 25-41 節を読んでください。 O:事実を観察してください。 「あなたは、誰なのですか?。 」と言 う質問に、イエスはどう答えましたか?。イエスは彼らにどんな 予言を与えましたか?。そして彼らは、それにどう反応しました か?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。イエスの うちに留まるということと、イエスを信じる、ということの違 いは、なんですか?。 D:あなたが書いた事を話し合ってください。 第 25 章 あなた方は、何がわからないのですか? ヨハネ 8 章 42-59 節 42:イエスは、彼らに言った。 「もし神があなたがたの父ならば、 あなた方は、私を愛するはずである。なぜなら、私は、神のも とから来て、ここにいるからである。私は、自分勝手にここに 来たのではなく、神が私を遣わしたのである。 43:なぜあなた方は、私の言うことがわからないのですか?。それ は、私の言葉を聞くことが出来ないからです。 44:あなた方は、悪魔の父から来たのであって、あなた方は、あな た方の父の欲望を満たしたいと思っている。彼は最初から、人 殺しであって、真理に基づいていない。なぜなら、彼には、真 理はないからである。彼が、偽りを言うときは、彼は、それを その本姓から言っている。自分がうそつきであり、うそ(偽 り)の父であるからである。 45:しかし、私が真理を話すのであなた方は、私を信じない。 46:「あなた方の誰が私に罪があると攻めたてることが出来るの か?。私が真理を話しているのに、あなた方は、なぜ私を信じな いのですか?。」 47:「神に属しているものは、神の言葉を聞くが、あなた方は、こ れらの言葉を聞かない。なぜならば、あなた方は、神に属して いないからだ。 」 48:彼らは、イエスに答えて言った。 「われわれが、あなたはサマ リア人で、悪霊に取り付かれている。と言っているのは、当然 のことである。 」 49:イエスは答えた。「私は、悪霊に取りつかれていない。私は、 父を尊敬しているのに、あなた方は、私を尊敬していない。 50:私は、栄光を求めていない。私の栄光を求め、裁きをする人が ほかにいます。 51:「真実を述べるが、私の言葉を守るものは、決して死ぬ事はな い。」 52:ユダヤ人たちは、イエスに言った。「あなたが悪霊に取りつか れていることが今はっきりとわかった。アブラハムは死に、予 言者も死んだ。そして、あなたは言った。 「私の言葉を守るな ら、その人は、死を味わうことがない。」 53:「すでに死んだわれわれの父アブラハムよりあなたが偉大だと いうことはありえない。予言者たちも死んだ。あなたは、あな たを何者だと思っているのか?。」 54:イエスは答えた。「もし私が私のために、栄光を求めているの なら、それは、何の意味もない。栄光は、私の父から与えられ るものであり、その方は、あなた方がわれわれの神であると言 った人である。 」 55:あなた方は、彼をまだ知らないが、私は彼を知っている。もし 私が、彼を知らないと言えば、私は、あなた方と同じうそつき になるでしょう。でも私は、彼を知っていて、その人の言葉を 守っている。 56:「あなた方の父のアブラハムは、私の日を見るのを楽しみにし、 そしてそれを見て、喜んだのであった。」 57:ユダヤ人たちは、イエスに言った。「あなたは、まだ 50 歳に もなっていないのに、アブラハムを見たことがあるのか?。」 58:イエスは彼らに言った。「真実を述べるが、私は、アブラハム が生まれる前からいたのである。」 59:それゆえ、彼らは、石を拾って、イエスに向けて投げつけたが、 イエスは身を隠し、神殿から出て行った。 わずかなあざけりとともに、その日に宝物殿に集まったイスラエル人の聴衆たちは、イエスが私 生児であるということを示唆し、一方では、彼らが唯一の父を持っていて、それが神であるとい うことを示唆していた。このことについて、イエスは、もしそれが本当であれば、彼らは、神の 子を知っていて、そして、彼を愛するはずである、ということを保証した。しかしイエスは、そ れは不可能であろるということを付け加えた。なぜなら、彼らは、悪霊の子供たちであり、悪霊 の道に入っているからである。 (42-44 節)イエスは、 「さああなた方の父についての話をしまし ょう。 」とつづけた。 「彼は、人殺しで、生まれつきうそつきで、うその父である。」と。 (44 節) それに対し、きちんと答えもしないで、群衆たちは、「あなたは、サマリア人で、悪霊に取り付 かれている。」と言い出した。(48 節)イエスは、人種についての答えをしないで、悪霊に取り 付かれているということについて、真剣に答えた。 「私は、悪霊に取り付かれていない。私は、 私の父を尊敬しているか、あなた方は、私を尊敬していない。 (49 節)イエスはこれらのことを 彼自身の栄光のために話しているのではなかった。来るべき裁きの確実なことを公言していたの であった。(求めて、そして裁きをする人がいるのである。)しかしイエスは、彼の言葉を守るな ら、死をのりこえられると言った。 (51 節) 人々は、52 節で、「あなたが悪霊に取り付かれているということが今はっきりとわかった。 」と 言った。どうして、この人が死を乗り越えられる権限を持っていうと言えるのか?。誰も、そし て、アブラハムでさえ死から逃れられなかったのに。 「アブラハムについて話をしよう。」とイエスは言った。彼は、私の日を見るのを楽しみにして いた。 (56 節)これは、アブラハムがおこなった、神との約束に起因している。それは、アブラ ハムをとおして、 「地上の全ての人は、神の恩恵を受ける。」 (ジェネシス 12 章 3 節)ということ である。アブラハムは、キリスト(救世主)の到来の時期を知らされていたか、あるいは、神の 言葉が真実であるということを証明することを楽しむことが出来たのでしょうか?。私たちには、 わかりませんが、アブラハムと、イエスの親密な関係が示されていないわけではありません。57 節で、人々は、イエスに、「あなたは、アブラハムに会ったことがありますか?。」と聞いていま す。 この時点で、イエスは、彼を攻め立てているユダヤ人の聴衆たちに言った。「真実を述べるが、 私は、アブラハムが生まれる前からいました。」(58 節)彼らが前にこの言葉を聞いたのは、神 の前で、モーゼについてのときであった。モーゼが、エジプトへ戻ることを言われたとき、イス ラエル人たちに、ファラオの自由を与えるよう要求された。モーゼは神に尋ねた。「人々が私の 名前を尋ねたとき、私は、なんと答えればよいでしょう?。神の答えはこうであった。 「私は、私 である。それゆえ、あなた方は、イスラエル人の息子たちにこう言っていいでしょう。「私は、 あなたの元へ遣わされたのです。」(エクソデス 3 章 14 節)その言葉(ヘブル語のハヤー)は、ヘ ブル語の「主」 (ヤラウェー)とほとんど同じ言葉で、これは後の 2 節で出て来て、それ自身が 聖なる宣誓であり、イエスが、ユダヤ人の前で勇気を持って宝物殿で話しをしたその日まで、慄 きを持って言われた言葉であった。次にイエスは、言葉をしゃべるでしょう。そして、大祭司の 前に立ち、質問に答えるでしょう。「あなたは、生きている神の息子ですか?。 」イエスは答えま す。 「はいそうです。あなた方は、人の子が全能の神の右に座って、天の雲に囲まれてくるのを 見るでしょう。 」(マーク 14 章 62 節)どちらの状況の結果も同じである。人々は、彼自身を神で あるというイエスを殺そうという気持ちになります。 あなた方は、何がわからないのですか?。 ヨハネ 8 章 42-59 節 R:ヨハネ 8 章 42-59 節を読んでください。 O:事実を観察してください。人々は、どのようにイエスを非難し ましたか?。イエスは、どのように答えましたか?。最後には、 何が起こりましたか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。イエスは ユダヤ人に、彼らは、イエスを尊敬していないと言った。それ に対して、彼らはどうしましたか?。私たちは、今日、どのよう にして、イエスを尊敬しないのでしょうか?。 D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 26 章 「盲目の人」 ヨハネ 9 章 1-12 節 1:通りすがりに、イエスは、生まれつき盲目の人を見た。 2:イエスの弟子たちは、イエスにたずねて言った。「先生、この 人が生まれつき盲目なのは、この人か、この人の両親が罪を犯 したためですか?。」 3:イエスは、答えた。 「それは、この人が罪を犯したからでも なく、この人の両親が罪を犯したためでもない。神の業が彼に 現れるためである。」 4:私たちは、私を遣わした方の仕事を、昼間の間にしなければな らない。誰も働けない夜が来るからである。 5:「私がこの世にいる間、私は、この世の光りである。」 6:イエスはこう言ってから、地面につばを吐き、それで土をこね、 それをその人の目に塗った。 7:そして彼に言った。 「シロアムの池に行って、目を洗いなさい。 (シロアムとは、遣わされる。と言う意味。)彼は行って、目 を洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 8:それゆえ、彼を物乞いとして以前に見て知っていた近所の人た ちは、「この人は、座って、物乞いをしていた人ではない か。」と言った。 9:他の者たちは、 「そうだこの人だ。」と言った。別の人たちは、 「いいや、この人は、彼に似て いるだけだ。」と言った。彼は、「私がその人である。」と言い続けた。 10:「それではどうやって、あなたの目は見えるようになったので すか?。」と人々は、彼に聞いた。 11:彼は答えた。 「イエスと呼ばれる人が土をこねて、私の目に塗 り、シロアムに行って目を洗いなさい。と言ったので、そこへ 行って、目を洗ったら、目が見えるようになりました。」 12:人々は、「彼(イエス)はどこにいるのですか?。」とその人に 聞くと、彼は、 「私は、知りません。 」と言った。 ヨハネは、目的もなく、この福音書を書いたわけではないということを覚えておいてください。 すべてのことが主題に執着していて、遠近法の変化のように、繰り返し、繰り返し、主題に戻っ ているのです。ヨハネの福音書は、イエスが世の光りである。というところから始まっています。 (ヨハネ 1 章 4 節)そしてヨハネ 8 章 12 節で、それが本当であるということがイエスにより示 されます。「私は、世の光りである。 」そして、9 章では、イエスがそれを証明します。 これがヨハネがわれわれに示す、6 番目の奇跡となるでしょう。そしてそれは、質問で始まりま した。 「その人が生まれながらに盲目なのは、誰のせいですか?。 」 (9 章 1 節)その質問は、いく つかの段階で、神経を刺激します。たとえば、悪霊は、悪霊を生じる。イエスの日は、人々が、 悩みの種を探したがる今日とほとんど変わらなかったのです。もしわれわれが強いてその理由を 述べるなら、「それが、彼、または、彼女が、そのようなとんでもない状況に、陥った理由なの です。」それから、たぶん、われわれは、今日の世界が、正義が失われていうということに気づ くでしょう。あるいは、たぶん、私たちは、私たちが、同じ難しい状況に陥るのを避ける事が出 来るでしょう。弟子たちには、その理由がはっきりと示されました。もしその人が罪を犯したな ら、その人は、罰を受けます。 (同様に、ジョブの友達たちと、彼らの彼に悔い改めさせるため の試みのところを見てください。)もし罪がないのが明らかであれば、彼は、彼の両親の罪の犠 牲になるでしょう。「父親たちがすっぱいブドウを食べたら、その子供たちの歯は、神経質にな るでしょう。」ジェレマイヤ 31 章 29 節からの、良く知られている語りは、ジェレマイヤと、イ ザキエル 18 章 2 節の両方でそれが神に拒否されているにもかかわらず、受け入れられている。 生まれながらに盲目だった人は、何だったのですか?。彼は、罪を犯していて、生まれる前から、 罰を受けていたのですか?。あるいは、神が、彼が罪を犯すだろうということを知っていて、彼 への罰がさきに、行われたのですか?。それは正直な質問であり、イエスはそれに明確に答えま した。「それは、この人が罪を犯したためでもないし、彼の両親が罪を犯したためでもありませ ん。それは、神の業が彼に現われるためである。(3 節) でもイエスは、彼も彼の両親も罪を犯 したということを否定している、というわけではないということを覚えておいてください。 「全 ての者は、罪を犯していて、神の栄光へは届かないのである。」(ローマンズ 3 章 23 節)しかしな がら、この病的なことは、何か特別な罪のせいではなくて、彼の生活における神のなせる業を示 す機会であったのです。 別の見方をすれば、盲目の人は、罪を負って生まれてきたわれわれひとりひとりの象徴であった のです。われわれは、決してエデンの園を見たことがありませんが、それがどんなところかは、 想像することが出来ます。イエスが、土とつばを使ったということは、天地創造の景色の再現と して、なんと当てはまっていることでしょう。(ジェネシス 2 章 7 節)必要だった事は、壊れたも のをただ直すのではなく、われわれ人間がそこになかった新しいものを造ることである。 この奇跡は、独特のものであり、そこにおいては、2 段階の過程がありました。最初に、神の力 の創造が用いられ、(土)つぎにその人は、シロアムの池に行って、目を洗うよう、要求されま した。 (11 節)シロアムは、ギリシャ語で、送られる(遣わされる)という意味であり、それは、 水が、ヘゼキアのトンネルを通って、城壁の外から、エルサレムへ送られる、ということに起因 しています。同じ方法で、われわれは、「送られし者」「神の息子」のところへ行き、洗浄され、 生まれ変わり、そして、作り変えられることを要求されます。 彼の近所の人たちは、癒された彼を見て、どのような反応をしましたか?。 「この人は、以前、座 って物乞いをしていた人ではないか?。いいや、その人に似ている人だ。 (8-9 節)ここにいた盲 人ではないですか?。」 「盲目の人」 ヨハネ 9 章 1-12 節 R: ヨハネ 9 章 1-12 節を読んでください。 O: 事実を観察してください。この奇跡は、どんな質問を促しまし たか?。イエスはどう答えて、何をしましたか?。 A: あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。神の 業を示すための、生まれつき盲目の人について、あなたはどう 思いますか?。そのことについて、その人は、どう感じたと思い ますか?。 D: あなたが書いたことを話し合ってください。 第 27 章 取り調べ、審判、そして反応 ヨハネ 9 章 13-41 節 13:彼らは、もと盲人だった人をファリサイ人たちのところへ連れ て行った。 14:イエスがこねた土で、彼の目を開けたのは、安息日であった。 15:それゆえ、ファリサイ人たちも、同様に、どうやって彼が視力 を得たかを彼に聞いた。彼は、彼らに答えた。「イエスがこね た土を私の目に塗り、私は、目を洗い、そして、目が見えるよ うになりました。」 16:それゆえ、何人かのファリサイ人たちは、「彼は、神のもとか らきた者ではない。なぜなら、彼は、安息日を守らなかったか ら。」と言っていた。しかし、他の者たちは、「どうしたら罪 のある人がこのようなしるしが出来るだろうか?。 」と言ってい た。このようにして、彼らの中で、意見が分かれた。 17:それゆえ彼らは、盲人だった人に、再び言った。「あなたは、 あなたの目を開けてくれた人をどう思いますか?。 」彼は言った。 「その人は、予言者です。」 18:それでも、ユダヤ人たちは、目が見えなかった人が見えるよう になったということを信じなかった。そして、その目の見える ようになった人の両親を呼んだ。 19:そして彼らに尋ねて言った。「これが生まれながらに盲目であ ったあなたの息子ですか?。そして、どうやって彼は目が見える ようになったのですか?。」 20:彼の両親は、彼らに答えて言った。「これが私たちの息子で、 生まれながらに目が見えなかったことをわれわれは知っていま す。 21:しかし彼がどうして目が見えるようになったか、われわれは知 りません。そして、誰が彼の目を見えるようにしたかも、われ われは知りません。彼に聞いて下さい。彼は大人なので、自分 で言えるはずです。 22:彼の両親は、このように答えました。なぜなら、彼らは、ユダ ヤ人たちを恐れていたからです。ユダヤ人たちは、イエスをメ シアだと認めたものは、神殿から追い出すということを決めて いたからです。 23:そういうわけで、彼の両親は、「彼は大人なので、彼に聞いて ください。」と言ったのです。 24:そこで彼らは、盲人だった人をもう一度呼んで、彼に言った。 「神のもとで正直に言いなさい。われわれは、あの人が罪人 であるということを知っています。 」 25:それゆえ、彼は、答えた。 「彼が罪人かどうか、私は知らな いが、私が知っている唯一のことは、私が盲人であったのに、 目が見えるようになったということです。 」 26:すると彼らは、彼に言った。「その人は、あなたにどんなこと をしたのか?。あなたの目をどうやって見えるようにしたの か?。」 27:彼は、彼らに答えた。「私は、そのことは、もうすでに、あな た方に話しました。でも、あなた方は、聞こうとしなかった。 なぜ又聞こうとするのですか?。あなた方も、彼の弟子になりた いのですか?。」 28:彼らは、ののしるように、彼に言った。 「あなたは、彼の弟子 だが、われわれは、モーゼの弟子である。 29:われわれは、神がモーゼに話したことは、知っているが、その 人に関しては、彼がどこから来たか、知らない。 30:その人は、答えて言った。 「あなた方が、彼がどこから来た か知らないということは、とても不思議なことです。彼は、私 の目を開けてくれたのに。 31:「神は、罪人たちの言うことは聞かない、ということを、私 たちは、知っています。しかし、神を恐れ、神の意思を行う者 の言うことは、聞き入れてくれます。」 32:「生まれつき目が見えない人の目を開けた人がいるということ は、今まで聞いたことがありません。 33:もしその人が、神のもとから来たのでなければ、何も出来なか ったでしょう。 」 34:彼らは、彼に「あなたは、まったく罪の中に生まれたのに、わ れわれに教えようとしているのか?。 」と言って、彼を、そこか ら追い出した。 35:イエスは、彼が外に追い出されたことを知り、彼を見つけて、 彼に言った。「あなたは、人の子を信じますか。」 36:彼は、答えて言った。「主よ、その人は、どんな人ですか?。 私は、その人を信じたいのです。」 37:イエスは、彼に言った。「あなたは、もうその人を見ている。 あなたと話している人が、その人です。」 38:彼は「主よ、私は信じます。」と言って、イエスをあがめた。 39:そしてイエスは、言った。 「私は、裁くためにこの世にやって きた。目の見えない者は、見えるように、そして、目の見える 者は、目が見えなくなるようにするために。」 40:イエスと一緒にいたファリサイ人たちは、これらのことを聞い て、イエスに言った。 「われわれも目が見えないということで すか?。」 41:イエスは言った。「もしあなた方が、盲人であったなら、あな た方に罪はなかったでしょう。でも、あなた方は、見えると言 ったので、あなた方に、罪は、残ります。 」 奇跡が起こった。それは、偶然にではなく、再び、安息日に起こったのでした。調査が、行われ、 癒された人は、ファリサイ人たちの前に、連れ出されました。その人は、言葉使いにとても注意 を払いました。なぜなら、イエスをメシアだと認めた者は、誰でも、神殿から追い出されるから である。 (22 節) 「彼は土を私の目に塗った。そして、私は目を洗い、見えるようになった。」(15 節) 彼か、イエスを違法者にしようと試みた後、ファリサイ人たちは、別の作戦を取りました。 それはたぶん、その人が、盲人ではなかったということである。彼の両親は、呼び出されて、尋 ねられたが、彼らは、 「彼は大人ですから、彼に聞いてください。」と答えた。 (23 節) その人は、もう一度呼ばれて、この全ての出来事を通して、イエスが、罪人のようなものである と言われた。その人は、少し勇気のある言葉で反応した。その生き方は、後のジョン・ニュート ンの永遠の名曲「アメイジング・グレイス」の中に見出すことが出来る。「私には、彼が罪人か どうかは、わからないが、私がわかる唯一のことは、盲目だった私の目が見えるようになったこ とです。 (25 節)ファリサイ人たちは、機嫌を損ね、イエスがどのようにしてこのような奇跡を 行なったか、別の説明をするよう、要求してきた。 「なぜ又あなた方は、そのことを聞きたいの ですか?。 」と彼は聞いた。「あなた方も、あの人の弟子になりたいのですか?。 」(27 節) その人は、イエスの弟子であることを受け入れたので、追い出されるかもしれないという窮地に 立った。ファリサイ人たちは、 「われわれは、モーゼの弟子で、、 、、この人については、私たちは、 彼がどこから来たか知らない。 」と言って、彼に迫った。(29 節)その様な言い合いで、答えの 出ないところへ行くはずはなっかた。その人は、言った。 「ここに奇跡のことがあります。あな た方は、彼がどこから来たか知らないけど、、、もし、彼が、神のもとから来たのでなければ、彼 は、何も出来なかったでしょう。(30-33 節) 興味のある余韻が、35-41 節で、示されています。イエスは、その人が、寺院から追い出された のを聞いて、彼を探し出し、彼に聞きました。「あなたは、人の子を信じますか?。」彼は、それ に答えた。 「主よ、彼はどんな人ですか?。私は、その人を、信じたいのです。 」書き言葉で表す には、あまりにも強い言葉でイエスは、答えた。「あなたは、その人をもう見ています。」(あな たの視力は回復しています)あなたが話している人が、その人です(あなたは、その人の声を聞 いています)。」その人は、イエスをあがめ、イエスは、「私は、裁くために、この世にやってき た。目の見えない人は、見えるようにするために、目の見える人は、見えなくするために。」 (39 節)ファリサイ人たちは、これに答え、イエスに迫った。「われわれも盲目なのですか?。」(40 節)いい質問です。 取り調べ、審判、そして反応 ヨハネ 9 章 13-41 節 R:ヨハネ 9 章 13-41 節を読んでください。 O:事実を観察してください。なぜその人と、その人の両親は、フ ァリサイ人たちの前に呼び出されたのですか?。彼らは、どのよ うに答えましたか?。 A:あなたが読んだことを、あなたに当てはめてください。どのよ うに人は、「霊的に盲目」になりえるのですか?。 D:あなたが書いたことを、話し合ってください。 第28章 「羊飼いとその群れ」 ヨハネ 10:1‐18 1 0 : 1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所 を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。2 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。3 門 番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。 4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知って いるので、彼について行きます。5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、 その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」6 イエスはこのたとえを彼ら にお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。7 そこ で、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門で す。 8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。 9 わたしは門です。だれでも、わたしを通して入るなら、救われます。また安らかに出入りし、 牧草を見つけます。10 盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのため です。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。11 わたしは、良 い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12 牧者ではなく、また、羊の所有者で ない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を 奪い、また散らすのです。13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないから です。14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのもの は、わたしを知っています。15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っている のと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。16 わたしにはまた、こ の囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわた しの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。17 わたしが自分のいのちを再び 得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18 だれも、わ たしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、 それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父 から受けたのです。」 舞台は前の章と同じです。イエス様はパリサイ人たちとの対話を続けていました。パリサイ人た ちはイエス様に対して、ますますイライラしていました。しかしイエス様は彼らをなだめるので はなく、彼らがイエス様のことを理解できるように、ご自身を羊飼いとして示されました。1 節 にある「囲い」とは、動物の群れが夜休むためのもので、永続的なものも、一時的なものもあり ました。囲いにおいては、羊が夜には中に入って休み、朝には外に出ることができるように、一 つの門が開いたままになっていました。羊飼いは門のところにとどまり、夜はそこで眠るのでし た。 このようなイメージはパリサイ人たちにとってなじみ深いものであったはずでした。彼らは、神 が「イスラエルの残りの者を必ず集め」、 「牧場の中の群れのように一つに集め」られるというミ カの預言(ミカ 2:12)を思い出していたことでしょう。その預言におけるミカ 2:13 の「打ち破 る者(pawrats) 」とは王であり、彼が人々の先頭に立って囲いから連れ出し、牧場に導き入れま す。それと同じように、イエス様は「門番(thuroros) 」とは羊を呼び出して、導く者であると 示されました。そしてイエス様は、羊は羊飼いを知っているので、喜んで従っていくと言われま した。 ヨハネはパリサイ人たちがイエス様の話されたことを理解しなかった(6 節)ということを喜ん で記しています。そこでイエス様はよりはっきりと言われました。 「わたしは羊の門です」 (7 節) 「わたしは良い牧者です」 (11 節)。イエス様は、もしこれでもはっきりしないと言うのなら、 「わたしは狼から逃げるような雇い人ではなく、羊のために自分からいのちを捨てる」とつけ加 えられました(15 節)。 さらに興味深いことに(特に異邦人である私たちにとって)、イエス様はパリサイ人たちに、彼 が羊飼いとして行って導くべき「この囲いに属さないほかの羊」があると言われました(16 節)。 それから何年か経って、使徒パウロはこのイエス様のことばを心に留め、 「まずユダヤ人たちに、 それから異邦人に」福音をもたらすことに情熱を燃やしました(ローマ 1:16, 2:19, 2:10) 。 このとき、パリサイ人たちはイエス様を石打ちにして殺そうと再び考えていたことでしょう。し かし、イエス様はご自身のいのちについて、イエス様自身が権威を持っておられることを彼らに もう一度示されました。 「わたしは自分のいのちを得るために自分のいのちを捨てます(イエス 様はご自身の復活について予告されました)。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。 わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一 度得る権威があります」(17-18 節)。 イエス様は彼らにこう言われたのです。「そうです、わたしは死にます。しかし、わたしはわた しのときに、わたしの仕方で自分のいのちを捨てるのです。」 「羊飼いとその群れ」 ヨハネ 10:1 - 18 R ヨハネ 10:1 - 18 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様は、だれに向かって話をされましたか。彼らに対してど のようなイメージを示されましたか。そのイメージにおいて、イエス様はご自分を何にたと えられましたか。 A 読んだことを適用してください。あなたは自分のことを羊にたとえられたなら、どのように 感じますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第29章 「不信仰」 ヨハネ 10:19‐42 1 0 : 1 9 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。20 彼らのうちの多く の者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言う ことに耳を貸すのか。」21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪 霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭 りがあった。23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。24 そ れでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。 「あなたは、いつまで私たちに気をもませる のですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」25 イエスは彼らに答 えられた。 「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名に よって行うわざが、わたしについて証言しています。26 しかし、あなたがたは信じません。そ れは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分 けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。28 わたしは 彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から 彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにま さって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。30 わたしと 父とは一つです。 」31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。 32 イエスは彼らに答えられた。 「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しま した。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」33 ユダヤ人た ちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒瀆のため です。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」34 イエスは彼らに答えられた。 「あなたがたの律法に、 『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。35 も し、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、 36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、 聖であることを示して世に遣わした者について、 『神を冒瀆している』と言うのですか。37 もし わたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。38 しか し、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。 それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」 39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。 40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行か れ、そこに滞在された。41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、 「ヨハネは何一つしる しを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言った。42 そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。 ユダヤ人たちの間で起きていた「分裂」 (19 節)は、数週間かけて起きたことでした。この箇所 の以前に季節について記述されていたのは、仮庵の祭り(ヨハネ 7 章以降)のときのことで、そ れは 10 月中旬にあたります。そしてヨハネはこの箇所では、宮きよめの祭りの 8 日目であった と記しています。ユダヤ人たちは今日それを「ハヌカ」と呼び、それは 12 月 25 日あたりになさ れます。この祭りは、紀元 165 年に、イスラエルがエルサレムをギリシアの支配から奪還したと きのことを記念して行われます。その 3 年前にアンティオコス 4 世が神殿を汚したので、ユダス・ マカベウスがそれを取り戻しました。ついに神殿はきよめられ、燭台の灯は、油がなくなった後 も燃え続けていたと言われています。この出来事についてさらに詳しく学ぶには、聖書外典のマ カベア書第一を参照してください。 エルサレムで起きていた論争は、3つの可能性のうちどれが正しいか、ということに焦点が絞ら れていました。3つの可能性とは、イエスは「悪霊につかれている」、イエスは「気が狂ってい る」 、イエスは実際に自分が語っているとおりの者だ、という考えです。著者であり、神学者で あった C.S.ルイスは、簡潔にこう述べています。 「イエスが『わたしは神である』と主張したこ とについて、3つの考え方があり得る。彼が気違いであるか、うそつきであるか、あるいは救い 主であるか、である。 」 人々は、イエス様が語っておられたことは信じ難いと思いながらも、「悪霊がどうして盲人の目 をあけることができようか」(21 節)とも考えていました。仮庵の祭りのときに論争をした後、 イエス様はヨルダン川の東側に行かれ、最も荒々しい反対者たちから離れておられました。その 後イエス様は、23 節では「ソロモンの廊を歩いておられ」ました。彼は発見され、ユダヤ人た ちは「イエスを取り囲」みました(24 節)。実際には、「取り囲む」という言葉のギリシア語は 「ククロウ」で、より良い訳は「閉鎖する」、 「包囲する」かもしれません。言い換えるなら、そ こには確かに敵意がありました。彼らはイエス様に命じました。 「私たちをもてあそばないでく れ。もしあなたがキリストなら、はっきりと言いなさい」(24 節) 。 「もうそのことは前に話したではありませんか」とイエス様は答えられました。「わたしは自分 がだれであるかすでにあなたがたに話しました。あなたがたはわたしのものではないので(わた しの羊ではないので) 、わたしを信じないのです。しかしわたしについて話すのはやめましょう。 わたしの羊について話しましょう。彼らはわたしを知り、わたしに従います。彼らは永遠のいの ちを持ち、決して滅びることがなく、永遠にわたしのものです。わたしの父が彼らをわたしに与 えてくださいました。そしてもう一つ付け加えるなら、わたしの父とわたしは一つです」 (25-30 節)。群衆は再び石を取り上げ始めました。イエス様は彼らに尋ねられました。 「父のみわざのう ちのどのわざのために、あなたがたはわたしを石打ちにしようとするのですか。」 彼らは、良いわざのためではなく、イエス様が自分を神と宣言したことがあきらかな冒瀆である と主張しました(もちろん、彼らはイエス様が神ではないと思い込んでいたのです) 。ついには っきりしました。ユダヤ人たちはイエス様が言われたことを正確に理解し、それを拒んだのです。 彼らはイエス様がご自分のことを神であると宣言したことを受け入れず、モーセの律法に従って 彼を殺そうとしました。イエス様は律法についてこう言われました。「あなたがたの律法に『わ たしは言った、おまえたちは神々である』と書いてありませんか。」これは詩篇 82:6 の引用です が、この箇所はエルサレムにいた政治的な指導者たちについて書かれたものでした。その教えを 通して、神は指導者たちに神を代表して国家を治める権威を与えられたのでした。このメッセー ジを通して、イエス様は反対者たちにこういわれたのです。「もし神がそのような権威を人間に 与えられるのなら、なぜあなたがたはわたしについて問題を感じるのか。」もし証拠が必要なら、 「わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが 悟り、また知るためです」(38 節)とイエス様は言われました。 それからイエス様はエルサレムを離れ、バプテスマのヨハネが説教をしていたヨルダン川の反対 側に行かれました。しかしイエス様はお一人ではありませんでした。「多くの人々」がイエス様 に従い、「ヨハネがこの方について話したことはみな真実であった」ことを思い起こしていまし た(41 節)。 「不信仰」 ヨハネ 10:19 - 42 R ヨハネ 10:19 - 42 を読んでください。 O 事実を観察してください。エルサレムで起きた「分裂」とはどのようなものでしたか。イエ ス様はご自身の立場について、どのようにその正当性を示されましたか。人々はどのような 反応を示しましたか。 A 読んだことを適用してください。理解することができず信じない人たちと、理解した上でな おも拒絶する人たちとの間に違いはありますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第30章 「ラザロ」 ヨハネ 11:1‐16 1 1 : 1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の 出で、ベタニヤの人であった。2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマ リヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 そこで姉妹たちは、イエスのところ に使いを送って、言った。 「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。 」4 イ エスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のため のものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」5 イエスはマルタとその姉妹とラ ザロとを愛しておられた。6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれた ときも、そのおられた所になお二日とどまられた。7 その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行 こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。 「先生。たった今ユダヤ人たちが、 あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。 」9 イエスは答え られた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。 この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにない からです。 」11 イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。「わたしたちの 友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」12 そこで弟子 たちはイエスに言った。 「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」13 しかし、イエス は、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思 った。14 そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。 「ラザロは死んだのです。15 わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わ せなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。 」16 そこで、デドモと呼ば れるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」 ヨハネの福音書の半分を超えた 11 章まで来ました。しかし時間を軸に考えると、私たちはすで に終わりに近づいています。ヨハネが注意深くイエス様の示された奇蹟を選び、神の御子であら れるイエス様の従順、権威、力、そして神性を一歩一歩記していることに心を留めてください。 この第 7 の、最後の奇蹟(イエス様が復活された後に多くの魚が取れたという奇蹟を除くなら) において、私たちは最も劇的で、奇蹟の中の奇蹟とも言える、死人のよみがえりについて見てい きます。 舞台はエルサレムの東にある、エリコへの途中にあるベタニヤです。ベタニヤという名前は、 「ナ ツメヤシの家」あるいは「いちじくの家」を意味し、その地域で農業が盛んであったことを示唆 しています。マルコは、イエス様がここで実のならないいちじくの木をのろわれたこと(マルコ 11:12 以降) 、また皮膚病にかかっていたシモンの家があったことを記しています(マルコ 14:3)。 ルカは、ここにイエス様がエルサレムに勝利の入城されたときに乗られた「ろば」がつながれて いたことを記しています。そしてベタニヤは、イエス様に香油を塗ったマリヤの家がありました。 マリヤはマルタとラザロと共に、イエス様が十字架にかけられる前の数日間、イエス様に慰めと 喜びをもたらしました(ヨハネ 12 章)。 マリヤ、マルタ、ラザロについてはあまりよく分かりません。おそらく、彼らは未婚の兄弟姉妹 であり、一緒に生活していました。もしかしたら、彼らは皮膚病にかかっていたシモンの子ども たちであり、シモンとは別れて生活していたのかもしれません。彼らは非常に若かったかもしれ ません。ルカ 10:38 によるとマルタは「家事をする人」であり、また家族の中で実務的な人でし た(ルカ 10:40、ヨハネ 11:21)。それに対してマリヤは、「感覚的な人」で、マルタが家事をし ているときに、イエス様の足もとに座っていることを選びました。ラザロについてはどうでしょ うか。私たちに分かることは、彼の名前が「エレアザル」 、つまり「神が助けてくださる人」と いう意味の言葉から派生したものであるということです。もしかしたら彼は働くことができず、 さらには、イエス様がルカ 16:20 で語られた「貧しい人」であったかもしれません。 はっきりと分かることは、ラザロは病気だった、ということです。そしてイエス様がその知らせ を聞いたとき、イエス様と弟子たちはヨルダン川の東側にいました。イエス様は言われました。 「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによっ て栄光を受けるためです」(4 節)。彼らはそれまでいた場所に、さらに 2 日間とどまりました。 弟子たちはユダヤにイエス様を殺そうとしている人々がいると警告しましたが、イエス様が再び ユダヤに向けて出発するときが来ました。 イエス様はその不可解な説明の中で、光の中を歩んでいるうちはつまずくことがないと言われま した(9 節)。そして、ラザロは「眠っていて」、これから彼をさましに行こうとしていることを 伝えられました。ここでもヨハネは、自分自身や他の弟子たちが理解できなかったことを喜んで 記しています。 「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう」 (12 節)。そしてイエス様はこ こでも彼らのためにはっきりと言わなければなりませんでした。 「ラザロは死んだのです。わた しは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせな かったことを喜んでいます」 (14-15 節)。16 節を見ると、トマスがどのような性格の持ち主であ ったかが伺えます。 「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」トマスは運命論者で イエス様のことを向こう見ずな人と思っていたにもかかわらずそれでも一緒に行こうとしたの でしょうか。あるいは彼がいつか殉教を遂げることを自ら示したのでしょうか。その日、弟子た ちはどのような思いを抱いたにせよ、従順に従いました。そして、彼らが「ラビ」と呼ぶお方に 対して、それまで抱いていたかもしれないあらゆる疑いが取り除かれるような、尋常ではない出 来事を、彼らは目の当たりすることになったのです。 「ラザロ」 ヨハネ 11:1 - 16 R ヨハネ 11:1 - 16 を読んでください。 O 事実を観察してください。イエス様はどのような知らせを受けましたか。そして、イエス様 はどうされましたか。弟子たちはどのように応答しましたか。 A 読んだことを適用してください。危険だと分かっている状況に進み行くとき、あなたならだ れに従うことができますか。 D 書き留めたことをグループで分かち合ってください。 第 31 章 「慰めの言葉」 ヨハネ 11 章 17-34 節 17:イエスが来たときには、ラザロは墓に葬られてから、四日たっ ていた。 18:ベタニーはイスラエルから約二マイルのところにあった。 19:多くのユダヤ人はマーサとマリアのところに彼女たちの兄弟の ラザロのことで慰めに来ていた。 20:マーサはイエスが来たと聞いたのでイエスに会いに行ったが、 マリアは家の中に座っていた。 21:それゆえマーサはイエスに言った。「もしあなたがここにいて くれたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」 22:「あなたが神に頼んだことは何でも神は叶えてくれると私は今 でも信じています。」 23:イエスは彼女に言った。「あなたの兄弟は復活するでしょう。」 24:マーサはイエスに言った。「彼が終わりの日の復活のときに復 活することを私は知っています。」 25:イエスは彼女に言った。「私は復活であり、命である。私を信 じる者は死んでも生きるであろう。 26:生きていて私を信じる者は誰でも決して死ぬことは無いであろ う。あなたはこのことを信じますか?」 27:マーサはイエスに言った。 「はい、主よ。あなたがこの世に来 た神の子で、救世主であることを私は信じています。」 28:彼女はこれを言った後その場を去り、姉妹のメアリーを呼び 「先生がここに来ていて、あなたを呼んでいます。」と彼女に ささやいた。 29:メアリーはこれを聞くとすぐに立ってイエスのところに行った。 30:イエスはまだ村には入らず、マーサと会ったところにいた。 31:彼女と一緒に家の中にいて彼女を慰めたいたユダヤ人たちは、 彼女が急に立ち上がり出て行ったのを見て、彼女が墓に泣きに 行くのだろうと思い、彼女のあとを追った。 32:それから、彼女がイエスのいるところにきてイエスを見ると、 イエスの足元に倒れこみイエスに言った。 「もしあなたがここ にいてくれたなら、私の兄弟は死ななかったであろう。」 33:イエスは彼女が泣いていて、一緒に来たユダヤ人たちも泣いて いるのを見て心を動かされ、憤りを感じた。 34:そして言った。「あなた方はどこに彼を葬りましたか?」彼ら はイエスに言った。「主よ、来て見て下さい。」 イエスと彼の弟子たちがベサニーに着いたとき、多くの人々がすでに集まっていた。ヨハネは、 彼らはエルサレムから約2マイルのところにいて、来るべき奇跡への多くの観衆者と目撃者の存 在を保障することを指摘した。多分マーサはイエスの敵のことを心配して、イエスが着いて、皆 に見られる前にイエスに会うために外の道に出た。実用主義者として、マーサはイエスに「もし あなたがここにいたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」(21 節) と言った。表面的には、 それは非難しているように見えるが、ラザロが墓に葬られもう四日間もたっているという事実を 考えると、(17 節)ラザロが病気であったという知らせをイエスが受ける前に、彼が死んだとい う事実をマーサは知っていたのであろう。マーサの主張は事実の観察以上の何物でもなかった。 イエスは多くの人を癒した。イエスは機会を与えられたなら、ナザロを癒したであろう。そのと きでさえマーサは加えて言った。「今私は、あなたが神に頼んだことは何でも叶えてくれるとい うことを信じています。」(22 節) これは復活を願った主張だったのですか? いいえ明らかに 違います。イエスが彼女に「あなたの兄弟は復活するでしょう。」(23 節) と言ったとき、彼女は、 最後の復活の日のことを信じ、そのとき全ての死人は命を得、審判のために神の前に立つという ことを、確信した。 ダニエルはその時のことを述べています。その日は、「、、 、土ぼこりの中に眠っている人々は目 を覚まし、あるものは永遠の命を得て、ある者はそしりを受けて、永遠のさげすみを受けるでし ょう。」(ダニエル 12 章 2 節) イザヤは予言しています。「あなたの死人は生き返り、なきがら は起き上がり、ほこりの中に横たわるものは目覚め、喜び叫ぶであろう。あなたの露は夜明けの 露。地は死者の霊を生き返らせるでしょう。(イザヤ 26 章 19 節) 復活の考えはマーサには新し いものではなかった。彼女はその背後にある理由を思い出す必要があった。「私は復活であり、 命である。私を信じるものは、死んでも命があるでしょう。」(25 節) 求された。 「あなたはこれを信じますか? マーサは信仰の声明を要 マーサはイエスが神の子であることを確信し、すべて の新しいクリスチャンが何をすべきか確信した。彼女は行って彼女の姉妹に言った。 「先生がこ こに来ていて、あなたを呼んでいます。」(28 節) イエスがまだ群衆の中に来ていなかったので、会合は秘密に行なわれるべきであった。でもメア リーが立ち上がり家から走って出て行くと、彼らは彼女がラザロの墓に行くと思い、彼女の後を 追った。でも彼女は村の外に走って行き、イエスの足元に倒れこみ彼女の姉妹が言った言葉を繰 り返した。 「主よ、もしあなたがここにいてくれたなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。」(32 節) 彼女の言葉を聞き、彼女が泣いているのを見てイエスは「深く心を動かされ」そして「憤りを感じ た。」(33 節) その叙述は、彼の回りで見ている人のように、彼の感情を間違って受け取らない ようにもっと注意をして調べる必要があります。「深く心を動かされた」という節はギリシャ語の 単語の「エンブリマノマイ」という言葉から来ていて、その意味は「怒りの現われ」という意味以 外の何ものでもありません。これは嘆きで途方にくれたという状態のイエスを示しているのでは なく、イエスが怒りの限界にあるということを示しています。なぜイエスは怒っていたのですか? 最も良い説明は、サタンがイエスが愛した人たちの中で技をなしたということをイエスが見たか らである。そのような残酷で苦痛なものは、サタンがこの世にもたらした罪によるものであり、 それは「うめきと苦痛」を全ての創造物にもたらします。(ローマンズ 8 章 22 節) そこに立って、 メアリーが絶望して泣いているのを見て、イエスもうめきました(エンブリマノマイ:怒りを示 して)。しかし彼のうめきは、絶望を現したものではありませんでした。彼のうめきは絶望を止 めることを決意することであった。イエスは同様に憤り(タラソ)を覚えたと 33 節は我々に示し ています。タラソとは、 「かき回す」とか「かき乱す」という意味である。イエスは怒り、それ について何かをしようとした。メアリーの方を振り向き、イエスは彼女に尋ねた。「あなた方は 彼をどこに葬りましたか?」「主よ、来て見てください。」 「慰めの言葉」 ヨハネ 11 章 17-34 節 R:ヨハネ 11 章 17-34 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスが到着したとき、メアリーと マーサはイエスに何を言いましたか? 尋ねましたか? イエスは彼女たちに何を イエスはどのように答えましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。あなたは 不正なことや苦痛なことを見たとき怒りますか? 望しますか? あるいは失 神はそのことについてどう感じると思います か? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 32 章 「出てきなさい」 ヨハネ 11 章 35-57 節 35:イエスは涙を流した。 36:ユダヤ人たちは「イエスがどれだけラザロを愛していたこと か。」と言った。 37:しかし何人かの者は「目の見えない者を見えるようにした人が ラザロを死なないように出来なかったのか?」と言った。 38:それゆえイエスは再びとても心を動かされ、ラザロの墓のとこ ろまで来た。その墓は洞穴のような形をしていて、その穴は石 で塞がれていた。 39:イエスは「その石を取り除きなさい」と言った。ラザロの姉妹の マーサはイエスに言った。「主よ、もう死んで四日も経ってい るので悪臭がするでしょう。 」 40:イエスはマーサに言った。 「もし信じるなら、あなたは神の栄 光を見るでしょう、と私はあなたに言いましたけど?」 41:そこで彼らは、その石を取り除いた。イエスは目を上に向けて 言った。 「父よ、私の願いを聞き入れてくれて、感謝しま す。」 42:「私はあなたが私の願いをいつも聞き入れてくれることを知っ ていますが、私の周りに人々がいるので、そう言ったので す。そしてあなたが私を遣わしたことを彼らに信じさせるため です。」 43:そしてイエスがこれらのことを言ったあと、イエスは大声で言 った。「ラザロ、出て来なさい。」 44:手と足を布で包まれた死んでいたラザロが出てきた。顔も布で 包まれていた。イエスは彼らに言った。「布を解いてあげて、彼 を行かせなさい。」 45:メアリーのところに来ていた多くのユダヤ人は、イエスがした ことを見てイエスを信じた。 46:しかし彼らのうちの何人かはファラシア人のところへ行って、 イエスがしたことを彼らに告げた。 47:それゆえ、祭司長たちと、ファラシア人たちは議会を招集して 言った。 「私たちはどのようにすればよいであろうか?この人 は多くのしるしを行なっているけど。」 48:もし我々が、彼をこのままにしておくと、全ての人が彼を信じ るようになり、ローマ人たちが来て、我々の土地も国民も奪っ てしまうでしょう。 49:彼らの中の一人で、その年の高位の祭司であったカイアファス が彼らに言った。「あなた方は何もわかっていない。 50:一人の人が皆のために死に、全ての国民が滅びないですむこと のほうが、あなた方にとって都合が良いとは考えないのです か?」 51:これは、彼自身の考えで言ったのではなかった。その年、彼は 高位の祭司だったので「イエスが国民のために死ぬ。」と予言し て言ったのであった。 52:それは国民のためばかりではなく、イエスが外国に散りじりに なっている神の子供たちを一つに集めるかもしれないからであ る。 53:その日以来、彼らはイエスを殺す計画をした。 54:それゆえもうイエスはユダヤ人の間を公然と歩くことはなく、 その場所を去り、荒野に近い田舎のエファレイムと呼ばれる町 に移り、そこにイエスは弟子たちと滞在した。 55:ユダヤ人の過ぎ越し祭が近づいたので、身を清めるために、過 ぎ越し祭の前に地方からエルサレムへ行った。 56:そして彼らはイエスを捜し求め、寺院の境内の中に立ってお互 いに言った。「イエスはこの祭りには来ないのでしょうか?あ なたはどう思いますか?」 57:そこで祭司長たちとファラシア人たちは、イエスの居所がわか れば報告しなさいという命令を出した。それはイエスを殺すた めである。 この章の始めの言葉、「イエスは涙を流した。」というところは熟考すべきところである。それは 英語の聖書の中で一番短い文であり、ギリシャ語の聖書の 1 セサロニアン五章十六節の二つの言 葉、 「カイロパントテ」、 「いつも喜べ」という意味と一致する。それは我々がイエスが泣くのを見 る最初のときである。でもそれは最後ではありません。後にイエスが最後にエルサレムに入ると き、イエスは町に向かって泣いた。「もしあなた方がこの日に平和をもたらすことを知っていた なら、、、」(ルカ 19 章 41 節)。ナザロの墓の前に立っているイエスの様子を思い浮かべるのは難 しいものではありません。初めのイエスの怒りは、苦痛を受けている人に対する同情に変わり、 「もし彼らが知っていたなら、 、、」と考え始めた。 イエスの涙は、彼の従者たちと、 彼の敵たちの両方に見られた。全ての者が見たことを誤解した。 ある者たちは哀れみを感じ、「見よ、なんとイエスはラザロを愛していたことか!」(36 節) 一 方ある者たちはあざける理由を見つけただけであった。「この人はラザロを死なないように出来 なかったのか?」(37 節) 彼らの考えを知り、イエスは再び怒りに満ち、行動を起こした。 「そ の石を取り去りなさい。」 マーサは予想通り、ラザロが死んでから四日もたっていることを指摘し、悪臭がするだろうこと を言った。彼女に信仰心があったにもかかわらず、これは行き過ぎであった。彼女は気がつくべ きであった。「私はあなたに、もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見るだろう、と言 いましたけど?」(40 節) その石は取り除かれ、イエスは祈りのために別の例を我々に示した。 技における力が、神とその子の間でのことで、言葉で示す必要が無かったにもかかわらず、イエ スは皆に、彼がそうする理由を説明するために、大きな声で皆に聞こえるように話した。イエス は最初にその時だけでなく、いつも神が彼の願いを聞いてくれることを感謝した。それから彼は 「私はあなたが私の願いをいつも聞き入れてくれることを知っていますが、私の周りに人々がい るので、そう言ったのです。そしてあなたが私を遣わしたことを彼らに信じさせるためです。」 (42 節)と説明した。 それを言って、イエスは墓のほうを向いて大きな声で怒鳴った。 「ラザロよ、出て来なさい!」 (43 節) ここであなた方が理解しているその男の状態をヨハネは限定しているということに注 目してください。 「死んだ人が出て来た。」(44 節) これらのイタリックで書かれた四つの言葉 (He that was dead)は、ギリシャ語の言葉「セネスコ」と言い、その意味は「死んだ人」という意 味に使われます。ラザロはただ単に病気であったのではなく、そして意識不明の状態であったの でもなく、彼は死んでいたのです。 我々はラザロと話したい気持ちでいっぱいであり、初めて死を経験したした人から話を聞きたい と思います! しかし聖書には何も書かれていません。我々は、彼が体験したことに我々が興味 を抱くのは良いことではないということが推測されます。C.S.ルイスが言っていることが、最 も真実に近いのではないかと思われます。それは、もし人が栄光に向かうことを許されるのなら、 人は肉の中に留まることに満足することは無いでしょう。死は神秘的なままであり、神の考えに より、それは訪れるべきものである。 ついでながら、ナザロの体験がどんなものであり、続く彼の再生の時間は明らかに短いものであ った。次の過ぎこし祭の前に、祭司長たちは、ナザレを殺そうと決めていた。何故なら、ナザレ がイエスの力をずった信じていたからである。とヨハネは後に我々に述べています。(ヨハネ 12 章 10 節) そのような力強い実演は、イエスの反対者たちを屈服させるでしょう、と人々は考えるでしょう。 でも実際はその反対であった。「もし我々が、彼をこのままにしておくと、全ての人が彼を信じ るようになり、ローマ人たちが来て、我々の土地も国民も奪ってしまうでしょう。 」(48 節) 問 題は、イエスが神の子かどうかではなく、イエスの反対者たちの指導者たちが、彼らの権力を保 たれるかどうかであった。その年の高位の司祭で、カイアファスという名前の人は、ローマ人た ちを入り江のところに留めておくには、イエスを殺すことであるということを言えば十分であっ た。カイアファスはサンヘドリン人たちにだけ話せばよいと考えたが、彼の言葉は歴史上に残る 言葉となった。それは「、、、一人の人が皆のために死に、全ての国民が滅びないですむことのほ うが、あなた方にとって都合が良いとは考えないのですか?」(50 節) 「出てきなさい」 ヨハネ 11 章 35-57 節 R:ヨハネ 11 章 35-57 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは何をしましたか?群集はど のように反応しましたか?ユダヤ人の指導者たちはどのように 反応しましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。いつ あなたの信仰を行動に移すのに難しいですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 33 章 「イエス香油を塗られる」 ヨハネ 12 章 1-19 節 1:過ぎこし祭の六日前に、イエスはベサニーへ行ったが、そこに はイエスが死からよみがえらせたラザロがいた。 2:彼らはイエスのためにそこで夕食の準備をした。マーサは給仕 をしていたが、ラザロはイエスと共にテーブルに着いている者 たちの一人であった。 3:そのときマリアは純粋でとても高価なカンショウ香油を一ポン ド持ってきた。そしてその香油をイエスの足に塗り、自分の髪 でその足をぬぐった。そして家中その香りでいっぱいになった。 4:弟子の一人で、イエスを裏切ろうと考えていたイスカリオット のユダが言った。 5:「なぜこの香油を三百デナリで売って、貧しいものに与えないの か?」 6:彼がこう言ったのは貧しい人について考えていたからではない。 彼は盗人であったからである。金入れの箱を持っていたとき、 それに入れられたお金をくすねていたからである。 7:イエスは言った。「彼女の好きなようにさせておきなさい。彼女 はそれを私の葬りの日のために取っておいたのだから。」 8:「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、私はいつもあ なた方と一緒にいるわけではない。 」 9:イエスがそこにいることを知った多くのユダヤ人はそこへやっ て来た。それはイエスに会うためばかりではなく、イエスが死 からよみがえらせたラザロに会うためでもあった。 10:しかし高位の祭司たちは、ラザロをも殺そうと考えていた。 11:多くのユダヤ人がラザロのことで彼らから離れ、イエスを信じ るようになったからである。 12:次の日、祭りに来ていた多くの群衆たちは、イエスがエルサレ ムに向かって来ているのを知り、 13:椰子の木の枝を持ち、イエスに会うために外へ出て叫び始めた。 「ホザンナ、主の名によって来られた方に祝福を、イスラエル の王に。 」 14:イエスは若いロバを見つけ、それに乗った。それにはこう書か れてあった。 15:「恐れるな、ジオンの娘。あなたの王がやってくる、若いロバ の背に乗って。 」 16:イエスの弟子たちは、最初これらのことがわからなかったが、 イエスが栄光を受けられたとき、これらのことがイエスについ て書かれたものであり、彼らがこれらのことをイエスにしたと いうことを彼らは思い出した。 17:イエスがナザロを墓から呼び、死からよみがえらせたとき、イ エスと共にいた群衆たちは、イエスのしたことの証をしていた。 18:群衆が出て行ってイエスを迎えたのも、彼らがイエスがこの証 をしたことを聞いていたからであった。 19:それゆえファリシア人たちはお互いに言った。「あなた方はう まくいっていないということがわかるでしょう? 見よ、世界 中がみな彼について行っています。」 最後の章のナザロの復活につづいて、その文章は、イエスを信じる人々と、死んでいたナザロを 見たい人々のとの間のことがはっきりと書かれています。もはやイエスは公衆の中を動き回るこ とは出来なかった。イエスはヨルダン川を渡って戻り、エルサレムから約一日のたびの距離のエ フレイムに向かっていた。エフレイムはそのとき、ジョシュアが生まれたところとして知られて いるとても木の多い、繁栄した地域であった。皆が気にしていた質問は、「イエスが過ぎこし祭 の式典に来るかしら?」ということであった。 過ぎこし祭の六日前に、イエスはベサニーに着いた。マタイとマルコ(マタイ 26 章 6 節、マルコ 14 章 3 節)によると、イエスはライ病のシモンの家に滞在したが、そこはラザロ、メアリーそし てマーサの家と同じ家だと考えられる。それはメアリーがイエスの足に高価な香油を塗ろうとし たとき、マーサは給仕をして、ラザロはテーブルについていたということで、説明がつきます。 ユダの性格は、この時点でもっと詳しく明らかにされます。香油は貧しいものに売られ、そのお 金は貧しいものに与えられるべきであると言い、そのようなことをするのは浪費であると抗議す ることにより、それが示されています。さかのぼって考えると、ユダはお金を入れておく箱から お金をくすねていたので、ユダは貧しい人たちのことより、自分のポケットのことを考えていた ということを弟子たちは学んだであろう。 メアリーはイエスの埋葬ための準備をしていて、貧しい人たちはいつもまわりにいるだろうけど、 イエスが彼らと一緒にいる時間は限られていると、イエスはメアリーに言った。ある者は、この 節を貧しい人たちを無視している言い訳であると取るが、それは来るべきイエスの十字架へのは り付けと、イエスが彼らの中にまだいるけど、彼の時間をもっとも有効に使う必要があるという ことを指摘しているということが明らかであると思われる。 イエスが現れたといううわさはすぐに広まり、町は次に何が起こるか見ようとする野次馬でいっ ぱいになった。ここで我々はナザロを殺そうとする計画を聞くのである。それはイエスの従者の 中でナザロが飛びぬけて人気があったからである。計画が実行されたかどうかは、我々には話さ れていないが、その計画があったことは確かであった。 翌朝イエスは多くの支持者に先導され、イスラエルに入った。彼らの多くはイエスがイスラエル の王であると公言されることを期待していた。もちろん、そのような行動はローマから悪影響を 受ける結果になるだろう。そして多分そのために、イエスは武装したウマや馬車に乗らないで、 ロバに乗って現われることにしたのであろう。イエスがやって来たのは、ローマに対する謀反の 始まりを示すものではなかったが、地獄の門への挑戦であった。 「イエス香油を塗られる」 ヨハネ 12 章 1-19 節 R:ヨハネ 12 章 1-19 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスはどこへ行きましたか、そし て誰と共に滞在しましたか?そこで何が起こりましたか?次の 日には何が起こりましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。なぜ 人々はイエスを政治的な人物として期待したのですか?彼らは イエスに何をすることを期待しましたか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 34 章 「その時が来た」 ヨハネ 12 章 20-36 節 20:さて、その祭りのとき礼拝するために来た人々の中に何人かギ リシア人がいた。 21:彼らはガリリーのベスサイダから来たフィリプのところへ来て 「我々はイエスに会いたいのです」と彼に頼み始めた。 22:フィリプはアンドリュウのところへ来て話した。アンドリュウ とフィリプはイエスのところへ来てイエスに言った。 23:イエスは彼らに答えて言った。「人の子が栄光を受ける時が来 た。 24:真実を述べるが、麦の一粒が地上に落ちてそれが死ななければ、 それはそのままであるが、しかし死ねば多くの実を結ぶ。 25:彼の命を愛するものはそれを失う。この世で彼の命を憎むもの はそれを保って、永遠の命を得る。 26:私に使えようとする者は、私に従いなさい。そうすれば、私 のいるところに、私に使える者もいることになる。私に使えよ うとする者は、父がその者に栄光を与えるでしょう。」 27:「今、私の心は病んでいる。なんと言ったらよいのでしょう か?「父よ、私をこの時間から救ってください?」しかし私はこ の時のために来たのだ。」 28:「父よ、御名の栄光を現して下さい。」そのとき、天からの声が 聞こえてきた。「私はすでに栄光を現した。再び栄光を現そ う。」 29:近くにいた群衆たちはそれを聞いて、それは雷であったと言い、 他の者は、「天使がイエスに話をした。」と言った。 30:イエスは答えて言った。「この声は、私のためでなくあなたが たのために来たのである。 31:今この世に裁きの時が来た。今世界の支配者は追い出されるで しょう。 」 32:「私が地上から持ち上げられるとき、全ての人を私のところへ 引き寄せよう。」 33:イエスは自分がどのような死に方をするかを示そうとしてこう 言ったのである。 34:それゆえ群衆はイエスに答えた。 「私たちは法律により救世主 はずっと存在すると聞いていました。どうしてあなたは、「人の 子は上げられなければならない。」と言うのですか?「この人の 子とは誰ですか?」 35:イエスはそれゆえ彼らに言った。 「もうしばらく光りはあなた 方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光りがあるうち に歩きなさい。暗闇の中を歩く人は、自分がどこへ行くのかわ からない。 36:「光りの息子になるために、光りがあるうちに、光りを信じな さい。」イエスはこれらのことを話してから、その場を去り、彼 らから身を隠した。 今までイエスは彼の活力と限られた時間をユダヤ人たちに向けた。アブラハムに対する神の約束 の一部として、全ての地上は、彼らを通して神の恩恵を受けるであろう(創世記 18 章 17-18 節)。 イエスはマタイの福音書のカナナイトの女性に対する言葉において、「私はイスラエルの家の迷 える羊のためにのみ遣わされた」と言った(マタイ 15 章 24 節)。イエスがジェンタイル(ユダヤ人 以外の人々)の人々に哀れみが無かったというのではなく、それは神の計画であり、ジェンタイ ルの人々はユダヤ人を通してイエスを知るようになるということであった。過ぎ越し際のために エルサレムに来たこれらの特定のギリシャ人たちは、離散した人々の一部、(ヨハネ 7 章 35 節を 見て下さい)つまりイスラエルを離れ、今も外国に住んでいるユダヤ人たちの可能性があります。 彼らが誰であれ、大事な事は彼らが遠くから来て、彼らが戻ってきたとき彼らと共にイエスの良 い知らせをもたらすであろうということである。 なぜフィリプ? 多分彼がギリシャ語の名前を持っていたから?あるいはこれらの人々はイエ スを王として見て、イエスに直接近づく勇気が無かったのかもしれなかったからであろう。もう ひとつの可能性は、今イエスは隠れていてイエスとはなす唯一の方法は、そのような要求を示す だろうイエスの弟子を見つけることである。フィリプでさえ直接イエスのところに行かずにアン ドリュウのところに行きアンドリュウに話をした。ギリシャ人たちの要求の知らせはイエスの伝 言の転機を引き出したのであった。その前に、彼の決定と彼の安全は「彼の時間はまだ来ていな い。」ということに依存している。「人の子が栄光を受けるためのときが来た」(23 節)。そして最 後にイエスが来ると言う知らせはイスラエルの国境を越えて伝わり、「世界の全てのところへ行 って、全ての人に福音を伝えなさい。」と言うイエスの最後の偉大な戒めを導くに至るのである (マルコ 16 章 14 節)。 でも一つ覚えておかなければなりません。イエスは両肩に世界の罪を背負って死ななければなり ません。それゆえ、すべての人々に永遠に許しがもたらされるでしょう。イエスは来るべき事の 必然性を知っていたので、それを麦の粒の死と比較した(24 節)。イエス自身の死によってのみ、 彼の従者たちは永遠の命を知ることが出来るであろう。それはイエスが自分から好んで決めたこ とであったが、そのことを通してでなくても何時でも彼はそれを決めることができたということ を知っていた。「それともあなたは私が父に願い出ることが出来ないと思うのか? 願い出れば、 父は十二軍団以上の天使を送ってくるでしょう。」(マタイ 26 章 53 節)。もし彼が望んでいるの なら、来るべきことを喜ぶ必要は無かったであろう。「今私の心は病んでいる。なんといったら よいのでしょうか?父よ、私をこの時間から救ってください?しかし私はこの時のために来たの だ。父よ、御名の栄光を現して下さい。」(27-28 節) 彼の意思は決定され、神自身が天から彼に 話したとき彼の選択は肯定され、神の子はその名により本当に栄光を受けることが保障された。 イエスの回りの群衆たちは驚いていて、それが神の声かどうか見分けることが出来なかった。そ の出来事について、ある者はそれは雷であったと思った、そしてある者はそれは天使の声である と思ったと、正直に報告したヨハネを我々は受け入れるべきである。イエスはそれは神のお告げ であり、それは彼らのためであり、そしてさらに、それはこの世界の支配者の審判を示している と率直に示したのである(31 節)。 イエスは間もなくこの地上から上げられ、その時皆の者を私の近くに引き寄せるでしょう、とイ エスはみなに公言した(32 節)。イエスが以前にニコデマスに説明したように(ヨハネ 3 章 14 節)、 イエスは彼が十字架の上でどのように死ぬかということを再び説明した。しかしニコデマスと同 様、群衆たちはそれがわからなかったので「救世主は永遠に存在するでしょう。」と言っていた。 イエスが行ってしまったら、どうしてイエスが救世主でありえたでしょうか?前にイエスは群衆 たちに救済のお告げを伝えました。このことがあったので、イエスは彼の弟子たちにのみ教えた でしょう。「光りのあるうちに歩きなさい」とイエスは彼らに警告した後、彼は彼らから去って行 きました。 「その時が来た」 ヨハネ 12 章 20-36 節 R:ヨハネ 12 章 20-36 節を読んでください。 O:事実を観察してください。誰がイエスに会いに来ましたか?彼 は彼らにどのように答えましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。ユダ ヤ人の信仰の上にクリスチャンの信仰はどのように築き上げら れたのですか? D:あなたが書いたことを話し合って下さい。 第 35 章 「続く不信」 ヨハネ 12 章 37-50 節 37:イエスは彼らの前で多くのしるしを行なったにもかかわらず、 彼らはイエスを信じなかった。 38:それは予言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう 言っている「主よ、誰が私たちの報告を信じましたか?そして主 の腕は誰に示されましたか? 39:彼らが信じなかった理由をイザヤは又次のように言っている。 40:「神は彼らの目を見えなくした。そして神は彼らの心をかたく なにした。彼らは彼らの目で見ることはなく、そして彼らの心 で悟ることはなく、そして改心されることはなく、そして私は 彼らを癒さない。 41:イザヤはこれらのことを言った。何故なら彼はイエスの栄光を 見たのでイエスについて語ったのである。 42:多くの支配者たちはイエスを信じたにもかかわらず、ファリシ ア人たちがいたので、そして寺院から追放されるのを恐れて、 それをイエスに告白しなかった。 43:彼らは神から認められるより、人間から認められることの方を 好んだのであった。 44:そしてイエスは叫んで言った。「私を信じる者は、私を信じる のではなくて、私を遣わした者を信じるのである。」 45:私を見るものは、私を遣わした者を見るのである。 46:「私はこの世に光として来た。私を信じる者誰もが暗闇の中に 留まらないように。 47:そして、もし私の言ったことを聞いて、それを守らない者がい ても、私はその人を裁かない。何故なら、私はこの世を裁くた めに来たのではなく、この世を救うために来たからである。 48:私を拒否し、私の言葉を受け入れない者はその者を裁く者を持 つ。私が話した言葉が、最後の日にその者を裁くでしょう。 49:何故なら、私は私が自分で決めて話したのではなく、私を遣わ した父が私が言うことそして語ることを命じたからである。 50:父の命令は、永遠の命であるということを私は知っている。そ れゆえ、私が言うことは、私の父が私に言ったとおりに言って いるのである。 ヨハネの福音書の最初の章の 11 節で、イエスは「彼自身の人々」つまりユダヤ人たちから拒否さ れたと何回も述べられています。彼が彼らの中に住んでいて、彼らの国の苦悶を分担し、そして 彼の神性がそれを疑うことを超越しているということを示しているにもかかわらず、不信(不信 仰)はそれが罪そのものと同じくらい不合理であると思えるまでその国の心の中に君臨した。 しかし我々はこのことを驚くべきではない。ヨハネは、この拒絶(イエスが拒否されること)は約 八世紀も前にイザヤにより予言されたと言っている。良く知られているそしてしばしば引用され る苦労している使用人の一節(イザヤ 53 章 1-12 節)は神の啓示を彼ら自身において認知すること に失敗した国のことを痛切に表しています。ヨハネはイザヤに書かれていることは申し分のない ことであるということを知っていて、彼が誰に話しているかについても知っていた。誰が我々の 知らせを信じましたか?そして誰に主の腕が示されましたか??? 彼は人々に軽蔑され、見捨 てられた、不幸な人であり、深い悲しみに満たされ、人々から顔を隠している人の一人のようで あり、彼は軽蔑され、そして我々は彼を尊敬しなかった。 もう一度引用すると、イザヤ 6 章 10 節から、このときはヨハネはイスラエル人たちは信じるこ とができなかったということを我々に気づかせています。神の息子を拒否することがずっと続い たので、神は彼らの目を見えなくすることと彼らの心をかたくなにすることで彼らに罰を与えた。 「このために彼らは信じることができなかった、、 、」(ヨハネ 12 章 39 節)。エクソデス(出エジプ ト記)9 章 12 節、ローマンズ 1 章 24 節そして 2 セサロニアン 2 章 10 節で明示されているように、 このような状態はイエスの時代には特別なことではなかった。人々から真実が取り去られるずっ と前にのみ人々は神の真実を拒否することができるのである。キリストが十字架にかけられる過 程への出来事として、ヨハネはファリシア人たちが彼らの立場を守ることに熱中し、信じること を拒否したばかりでなく、他の者たちを守ったことを非難した。 「多くの支配者たちはイエスを 信じたにもかかわらず、ファリシア人たちがいたので、そして寺院から追放されるのを恐れて、 それをイエスに告白しなかった。」(42 節) 審判は下されるでしょうとイエスに知らされた。しかしそれはイエスからではなかった。彼が来 た目的は人々を救済するためであり、非難するためではなかった(47 節)。にもかかわらず、彼 が話した言葉は父の言葉のほかでもなく、それは彼らを拒否したすべての人々を裁く道具であっ たであろう。 しかしこのことを知っておきなさい。それは、イエスは聴衆を駆り立てました。すべてが望みを なくしたというわけではなかった。何回も非難した言葉と同じ言葉は、それらを聞いて受け入れ た人々のための永遠の命のための言葉でもあった。神はいつも残った者を守り、それらの人々に、 許しと慈悲と永遠の救済を提供するでしょう。 「続く不信」 ヨハネ 12 章 37-50 節 R:ヨハネ 12 章 37-50 節を読んでください。 O:事実を観察してください。ヨハネは何を読者に気づかせていま すか?そして彼は誰(の言葉)を引用していますか?どんな希望 をイエスは申し出ていますか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。あな たは、希望を超越し、心をかたくなにされたと思われる人は誰 だと思いますか?その人にあなたは何が出来ますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 36 章 「イエス、弟子たちの足を洗う」 ヨハネ 13 章 1-20 節 1:過ぎ越し祭の前のことである、イエスはこの世を去り父のもと へ行く時が来たことを知り、彼の従徒たちを愛し、彼らを最後 まで愛した。 2:晩餐のときに悪魔はすでにイスカリオットのシモンの息子のユ ダの心にイエスを裏切るように仕向けていた。 3:イエスはすべてのことを父がイエスの手にゆだねていたという ことを知っていた。そして自分が神のもとから来て、神のもと へ帰って行くことを知っていた。 4:イエスは晩餐の席を立ち、上着を脱いでタオルを取って腰に巻 きつけた。 5:それからイエスは洗面器に水を注ぎ、弟子たちの足を洗い、腰 につけたタオルでその足を拭き始めた。 6:そしてイエスがシモン・ペトロのところへ来たとき、ペトロは イエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗うのですか?」 7:イエスは答えてペトロに言った。 「今私がしていることをあな たはわからないだろうが、後でそれがわかるでしょう。」 8:ペトロはイエスに言った。 「決して私の足を洗わないで下さ い!」イエスはペトロに答えた。「もし私があなたを洗わなか ったら、あなたは私と関係を持たないことになる。」 9:シモン・ペトロはイエスに言った。「主よ、足だけでなく、私 の手も頭も洗ってください。 」 10:イエスは彼に言った。「体を洗った者はすでに清いのだから、 足だけ洗えばいい。あなたは清いが、あなた方のすべてが清い わけではない。 」 11:イエスはイエスを裏切ろうとしている者を知っていたので、 「あなた方すべてが清いわけではない。」と言ったのである。 12:イエスは彼らの足を洗ったあと、上着を取り再びテーブルに着 いて彼らに言った。「あなた方は、私があなた方にしたことが 分かりますか? 13:あなた方は私を「先生」とか「主」と呼ぶが、それは正しい。私は そうである。 14:主であり、先生である私があなた方の足を洗ったのだから、あ なた方も互いに足を洗い合わなければなりません。 15:私は私がしたようにあなた方もするようにと、例を示したので す。 16:真実を述べるが、召使いはその主には勝ることは無いし、遣わ された者は、遣わした者に勝ることは無い。 17:もしあなた方がこれらのことを知り、それらを行なうなら、あ なた方は神の祝福を受けるでしょう。 18:私はあなた方みなについて話しているのではない。私は私が選 んだ者たちを知っています。しかし聖書の言葉は実現されなけ ればならない。それは「私のパンを食べている者が私に逆らう ことをする。」ということである。 19:ことが起こる前に、私はあなた方に言います。ことが起こった とき、あなた方は私がその人であるということを信じるであろ う。 20:真実を言うが、私が遣わした者を受け入れるものは、私を受け 入れ、私を受け入れる者は、私を遣わした者を受け入れま す。」 過ぎこし祭は、決して同じものが再び起こらないでしょう。イスラエルの子供たちに対する神の 愛と世話が神の与えた合図として始められたことは、キリストと彼の教会のための慈悲と許しと 調和の力強い象徴となるべく発展するであろう。彼は彼の敵から守られていた。なぜなら彼の時 間はまだ来てなかったからである(ヨハネ 2 章 4 節、7 章 6 節、7 章 8 節、7 章 30 節、8 章 20 節)。 イエスは間もなくその時間が来ることを知っていた。間もなくイエスは法律が要求している罪の ための弁償として、連れて行かれて苦痛を受けそして殺されるでしょう。イエスの最後の時間に ついてのヨハネの記録は、イエスが最初に考えたことは、イエスが最後まで愛した弟子たちのこ とであった(1 節)、と我々に示しています。イエスはこれらのほんの少しの信徒たちは、恐れて 混乱するだろうということを知った。彼らには今までに無いもっともすばらしい責任が与えられ るでしょう。それはキリストが彼の教会を建ててるための力強い土台となることである。 その教訓は、謙遜の絵で始まった。主、イエスは順番に一人一人のところへ行き、その足を洗っ た。このことは当時としては一般的なもてなしの一部であった。しかしそれは普通その家の召使 いに与えられた仕事であった。イエスがペトロに「もし私があなた方を洗わなかったら、あなた は私と関係を持たないことになる。 」ということを示し、そして「、、、私の手と頭も。 」(8-9 節) とペトロが答えるまで、ペトロがイエスがしたことに異議を唱えた最初の人であった(8 節)。イ エスがペトロに「いいえ、あなたはもう体を洗っている。」と言ったとき、人々は微笑んでいるイ エスを見ることが出来たであろう。イエスは人々のほうへ向き直って、「あなた方は清い。」と言 った。そして微笑みは消え、彼は加えた。 「、 、、しかしあなた方のすべてが清いわけではない」(10 節)。その時すでにイエスはユダの心にあるものを知っていた。裏切り者は彼の主人が彼の足を 洗ったとき、何を考えていたのでしょうか、そして彼が間もなくすることを知っていたのであろ うか? 「あなた方は私がしたことがわかりますか?」とイエスはその人たちに尋ねた。皆はイエスが先生 で主であることを知っていたが、それにもかかわらずイエスは召使いや友達のような役割をして、 考えられないようなことを行った。「、 、、召使いは主人に勝ることは無く、遣わされた者は遣わ した者に勝ることは無い。」(16 節)。弟子たちはまさに世界中に遣わされるところであった(マ ルコ 16 章 15 節)。そこで彼らは迫害と落胆と苦難に出くわすであろう、、、そして彼らが今まで 知らなかった個人的な自尊心の可能性にも。教会の未来は彼らの手にゆだねられるであろう、そ して彼らはどの教会が本当に後まで永遠に続くかを決める責任があります。優しくしかし強くイ エスは、彼の従者たちにもう一度言った。「私を遣わした父に私が勝らないのと同じように、あ なた方はあなた方を遣わした私よりは勝らないでしょう。生徒に対する先生の様にではなく、兄 弟のようにお互い愛し合いなさい。 」 そしてイエスはこの約束を加えた。それは「もしあなた方がこれらを知りそしてそれらを行なえ ば、あなた方は神の祝福を受けるでしょう。」(17 節) 教えを知ることだけでは十分でないでし ょう。彼らは彼らが知ったことに従って行動する必要があるでしょう。さもないと約束された祝 福は彼らにもたらされないでしょう。重要な点を証明するために、イエスは間もなく明らかにさ れるだろう情報の一部を彼らと分け合った。「私のパンを食べている者が私に逆らうことをす る。」サーム 41 章 9 節からのこのぞっとする引用において、弟子たちはデイビットが信頼してい た同席のアヒソヘルに裏切られ、アヒソヘルはその後首を吊って自殺したという物語を思い出す でしょう(2 サム、16 章 20 節-17 章 3 節、23 節)。そしてイエスの近しい仲間のユダはイエスを 裏切り、それから首を吊って死にました。 「私はあなた方を私の代わりに遣わそうとしているところである。」とイエスは彼らに言った。「そ してこのことを覚えておいて下さい。それは、私は神の象徴である」(20 節)。 「イエス、弟子たちの足を洗う」 ヨハネ 13 章 1-20 節 R:ヨハネ 13 章 1-20 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは弟子たちのために何をしま したか?その後イエスは彼らに何を言いましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。どん な謙遜の形の問題に指導者たちは直面しましたか?キリスト教 徒の指導者たちはどんなことについて誇りを持つべきですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 37 章 「予言」 ヨハネ 13 章 21-38 節 21:イエスはこれを言った後、心を騒がせて言った。「真実を述べ るが、あなた方の一人が私を裏切るでしょう。」 22:弟子たちは、イエスが誰について話しているのかわからなかっ たので、お互いに顔を見合わせた。 23:そこにはイエスの弟子たちの一人で、イエスが愛していた人が イエスの胸に寄りかかっていた。 24:シモン・ペトロは彼に「誰について言っているのか」イエスに聞 くように言った。 25:それゆえ、イエスの胸元に寄りかかっているその弟子はイエス に言った。「主よ、それは誰のことですか?」 26:イエスは答えた。「私がパンの一切れを浸しそれを与える者が その人です。」そしてイエスはパンの一切れを浸し、それをシ モン・イスカリオットの息子のユダに与えた。 27:そのパンの一切れをユダが受け取ると、サタンが彼の中に入っ た。それゆえイエスはユダに言った。「あなたがすることをすぐ にしなさい。」 28:テーブルに着いていた者の誰もがなぜイエスがユダにこのこと を言ったのかわからなかった。 29:ある者は、ユダが金入れの箱を持っていたので、「祝宴に必要 な物を買いなさい。」とか、貧しい者に何かを与えなさいとかと いうことをイエスが言ったのかと思った。 30:パンの一切れを受け取った後、ユダはすぐに出て行った。それ は夜のことであった。 31:ユダが行ってしまった後、イエスは言った。「今、人の子は栄 光を受けた。神も人の子により栄光を受けた。」 32:神が人の子によって栄光を受けたのであれば、かみも神自身に よって人の子に栄光を与えるでしょう、しかもすぐに与えるで しょう。 33:子供たちよ、私はもうしばらくあなた方と共にいます。あなた 方は私を探すでしょう。私がユダヤ人たちに言ったように、あ なた方にも言います。 「私が行く所にあなた方は来ることが出 来ない。 」 34:私はあなた方に新しい掟を与えます。あなた方は互いに愛し合 いなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛 し合いなさい。 35:「もしあなた方がお互いに愛し合うならば、それによってあな た方が私の弟子であることを全ての人たちが知ることになるで しょう。」 36:シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、あなたはどこへ行 くのですか?」イエスは答えた。「今は私の行く所にあなたはつ いてくることが出来ないが、後でついて来るでしょう。」 37:ペトロはイエスに言った。 「主よ、なぜ私は今あなたについて いけないのですか?私はあなたのためなら命を捨てます。」 38:イエスは答えた。「私のためにあなたの命を捨てると言うので すか?真実を述べるが、あなたは雄鶏が鳴くまでに三回私のこ とを知らないと言うでしょう。」 ヨハネの福音書の報告によると、イエスとその弟子たちは導くのがとても難しい人たちであった に違いない。ヨハネの福音書の中だけでも、少なくとも十四回の場面で、我々はこれらの十二人 の弟子たちが疑問を持ち、疑い、拒否し、そして彼らが主と呼んだ人を裏切るということを見ま す。(4 章 27 節、5 章 7 と19節、6 章 60 節、9 章 2 節、11 章 12 節、12 章 5 節、13 章 8 節、14 章 5 と 8 節、16 章 17 節、17 章 25 節、20 章 25 節、21 章 21 節)。多分後になってわかることで すが、彼らはイエスが言ったことを思い出し、そして最後には彼が伝え続けたことの深い意味に 感謝することができたでしょう。しかしイエスの言葉はあまりに多く聞き入れられなかったので す。13 章 18 節における彼の死の予告でさえも明らかに無視され、イエスの心を騒がせ、「あな た方の一人が私を裏切るでしょう。」と言う簡単な言葉を導いたのでした(21 節)。 予想通り、弟子たちはペトロがイエスの最も近くにすわっている人にやましい人を見つけるよう 小声で囁くまでは、事の成り行きがわからなかった(22 節)。イエスが愛した者(23 節)として言 及されているその弟子は、不確かではあるがヨハネ自身であると認識される。何故なら彼は他の 節でも似たような引用をしているからである。イエスへの質問として、 「主よ、それは誰ですか?」 イエスは公然とユダを示すことはしなかった。そうすれば騒ぎが起きて、疑いもなく弟子たちは ユダを引き止めようとしたであろう。そして神の計画は、他の方法で成し遂げられるであろう。 そうしないで、ヨハネに「私がパンの一切れを浸し、それを与えた者が裏切り者である。」と示し たのである。ユダが裏切ろうとしている者であると認識されたが、そのことが皆に伝わる前にイ エスはユダに言った。「あなたがすることをすぐにしなさい」(27 節)。 その時サタンはユダの中に入った。そしてユダは裏切ることを考えながら、その集まりから離れ て行った。確かにそれは偶然の出来事ではなく、ヨハネは 30 節においてユダが離れて行った後 に「それは夜のことであった。」という言葉を付け加えている。全てのことが適切に行なわれてい た。残された全ての人たちは永遠に世界が変わるだろうという出来事に関わらないであろう。イ エスが十一人の弟子たちの方に振り返り、 「今、、、」と言うまでは、色々な考えや感情的なことが その小さな二階の部屋に充満していた。今長い間待っていた神の来るべき栄光が明らかにされよ うとしていた。イエスは弟子たちに起こるべきことに対する準備をすることをもう一度示す必要 があった。「子供たちよ」と彼らを呼ぶことにより(33 節)、彼らに対するイエスの愛と慈悲は率 直に示された。時間がなくなってきたので、イエスは彼らに言った。「私がユダヤ人たちに言っ たときのことを思い出しなさい。私が行く所にあなた方は来ることができない。」同じことがあ なた方に対しても真実である。今からでも、私があなた方を愛したように、あなた方もお互い親 しくなり、お互いに愛し合いなさい(33-34 節)。 衝動的なペトロでさえイエスが彼らに言っていることを理解できないはずがなかった。彼らの主 は、死ぬ準備をしていた。そしてペトロは彼と共に死のうと決心した。「主よ、なぜ私は今あな たについていけないのですか?私はあなたのためなら命を捨てます」(37 節)。それは気高い考え であり、それは最後にはペトロを殉教者の死に導くであろう。しかしそれはその夜ではなかった。 ペトロは来るべき試みに直面し、彼自身の弱点に気づかされる必要があった。「私は真実を述べ るが、あなたは雄鶏が鳴くまでに、三回私のことを知らないというでしょう。」(38 節) 「予言」 ヨハネ 13 章 21-38 節 R:ヨハネ 13 章 21-38 節を読んでください。 O:事実を観察してください。彼らはどこにいますか?イエスはど んな知らせをその一行と分け合うのですか?ユダはどのように 反応しますか?ペトロはどのように反応しますか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。教会 の認識のしるしである「愛」とはどのようなものですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 38 章 「安らぎを与える人、イエス」 ヨハネ 14 章 1-14 節 1:心を騒がせてはいけません。神を信じなさい、そして私をも 信じなさい。 2:私の父の家にはたくさん住むところがあります。もしなければ、 私が行ってあなた方のために場所を準備するでしょうと言った であろう。 3:私が言ってあなた方の場所を準備したなら、私は戻ってきて、 あなた方を私のところへ迎えましょう。そうすれば、私のいる ところにあなた方もいることになるでしょう。 4:そしてあなた方は私が行くところの道を知っている。」 5:トマスはイエスに言った。 「主よ、私たちはあなたがどこへ行 くかわかりません。私たちはその道をどのように知ればよいの でしょうか?」 6:イエスはトマスに言った。 「私は道であり、真実であり、命で ある。私を通してでなければ誰も父のところへ行くことが出来 ない。 7:もしあなた方が私を知ったなら、あなた方は、私の父をも知る でしょう。今からあなた方は父を知り、いやもう父を見てしま っている。」 8:フィリポがイエスに言った。「主よ、私たちに父を示してくだ さい。そうすれば私たちは、満足します。 」 9:イエスは彼に言った。「私はあなたととても長い間一緒にいる のに、あなたは私のことを知らないのですか、フィリポ?私を 見た者は、父を見ているのです。どうしてあなたは「父を示して ください」と言うのですか? 10:あなたは私が父の中にいて、父が私の中にいるということを信 じないのですか?私が言う言葉は、私自身が言っているのでは ありません。私の中に留まっている父が、彼の業をなしている のです。 11:父の中に私がいて、私の中に父がいると言っている私を信じな さい。さもなければ、それらの業そのものにより信じなさい。 12:真実を述べるが、私を信じる者は私が行う業を行い、そしても っと偉大な業を行なうようになるでしょう。何故なら、私が父 のところへ行くからである。 13:私の名によってあなたが願うことは何でも叶えてあげましょ う。こうして、父はその子によって栄光を受けるでしょう。 14:もしあなたが私の名によって何かを私に願うのなら、私はそれ を叶えてあげましょう。 ユダが去った後イエスは弟子たちに心を向けたので、もしその部屋の雰囲気を一言で表すなら、 それは「騒然とした」という言葉であろう。イエスは彼自身心を騒がせ(13 章 21 節)、するべきこ とを決意したが、彼と彼の弟子たちに起こることについて知っていたのですでに心苦しい思いを していた。その部屋には曖昧なささやきが広がり、弟子たちには、励ましが必要であった。この 部分で彼らが受けた励ましは、聖書の中で最も心安らぐ節の一つであった。 「心を騒がせてはいけません。神を信じなさい、そして私をも信じなさい。」(1 節)そして別の方 法でもイエスは彼と神はひとつであり、同じであると彼の従者たちに印象付けた。「私の家には 住むところがたくさんある、、、」いくつかの翻訳においては、「部屋」という言葉が使われている が、 それは正確な表現であるが、 たぶんその象徴としては、 たぶん完全なものではないでしょう。 「モネ」という言葉は、ただ眠るための場所以上の意味である。たぶんキング・ジェイムス版で は、それを「大邸宅」という最も良い言葉で言っている。叙述的には、イエスは弟子たちに天国は 「家の中に、多くの住むところがある」と言っている。そこには多くの場所があり、「素敵な保養 地」より広いのである。実際それは自分の家であろう。 「もしそうでなければ、私はあなた方に言ったであろう。」(2 節)「私を信じなさい。」とイエスは 言った。今までのことを思い出してください。私があなた方を間違った方向へ導いたことがあっ たでしょうか。もしイエスが行ってしまわなかったなら、そのようなすばらしい約束は守られな かったであろう。何故なら、それは天国の場所が準備されるであろうことになっていたからであ る。これは天国の組み立てが指導者としてのイエスの存在が要求されるための時間が必要である ということを意味しているのですか?いいえ違います。イエスが話した「準備」というのは、カル バリーで果たされるであろうことで、天国ではありません。彼の死と復活により、少なくとも人 は神と仲直りをし、罪は許され、イエスの存在において場所は確保されるでしょう。 イエスが行くことは確かであり、同様に彼が戻ってくるのも確かである。「私はあなた方を私の 元に迎えるために再び戻ってきます。そうすれば私がいるところにあなた方もいることになる」 (3 節)。この約束により、弟子たちと私たちは希望が持てるわけである。イエスにより我々は「す でに行く道を知っている」(4 節)にもかかわらず、ある日我々の主は、我々を家に連れて帰るで あろう。懐疑的な人としての態度を持ち続けたトマスは、他の人々が考えていたに違いないと思 われることを最初に聞きます。 「私たちはあなたがどこへ行くのかわかりません。私たちはその 道をどのように知ればよいのでしょうか?」(5 節)。その答えとして、他の議論においては神の 元へ行くには多くの道があることを暗示しているが、イエスはそれに明確に答えている。「私は 道であり。真実であり、命である。私を通してでなければ誰も父のところへ行くことは出来ない」 (6 節)しかしながら、弟子たちがトマスがイエスを無視したことを批判する前に、フィリポは誰 かがそうするだろうと思ったので、話に割って入り、「主よ、私達に父を示してください。そう すれば、私達は満足します」(8 節)。イエスがその部屋の人々にイエスの話した内容をもう一度 説明しようとしたとき、イエスの声の中に怒りを読取ることは難しくはない。 「父の中に私がい て、私の中に父がいると言っている私を信じなさい」(11 節)。 それから、その時間が聖なるものであったので、イエスはその分配ということにおいては、今ま で聞いたことのないものを弟子達と分け合った。最初のものは、彼らの業がイエスのものを上回 るだろうということ、二番目は、彼らの申し出た要求はいつもかなえられるだろう、ということ である。「何故なら、私は父のもとへ行くだろう」とイエスは言った。弟子達が行う業が主のなし た業を上回るということであっても、弟子たちはイエスが去って行くところへ行けるであろう機 会を得ることが出来ることになった。要するに、「イエスの名において」願ったことは拒否される ことはない、とイエスは続けた(14 節)。そのとき以来多くの信者たちに対して、この節は、「キ リスト教徒の白紙委任状」と翻訳されているが、それはどのようにイエスが我々が願ったことを 叶える義務があり、彼がどのようにイエスの名によって我々が願ったことを与えるかということ である。このことは、我々が「イエスの名によって」という意味が何であるかということを良く調 べてみたほうが良いということである。それは世界の創造者をも我々の願いに屈服させる不思議 な決まり文句ですか?それとも我々が願ったものは、我々の心の中にあるキリストの存在の産物 であるので、キリストの中に留まる方法を示しているのでしょうか? 「安らぎを与える人、イエス」 ヨハネ 14 章 1-14 節 R:ヨハネ 14 章 1-14 節を読んで下さい。 O:事実を観察してください。イエスは未来について、彼の弟子た ちに何を言いましたか?彼らは何を理解しませんでしたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。「イ エスの名において」という言葉は、あなたにとってどんな意味 ですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 39 章 「来るべき聖霊」 ヨハネ 14 章 15-31 節 15:もしあなた方が私を愛していたならば、あなた方は私の掟を守 るでしょう。 16:私は父に頼みましょう。父は別の助け人をあなた方に与え、彼 があなた方と永遠に一緒にいるようにしてくれる。 17:それは心理の霊であるが、世界は彼を受け容れられない。何故 なら、世界は彼を見ようともしないし、知ろうともしないから である。しかしあなた方は、彼を知っている。何故なら、彼は あなた方と共にいて、あなた方の中にこれからもいるからであ る。 18:私はあなた方を孤児として残しては行かない。私はあなた方の ところに来るでしょう。 19:しばらくすると世界はもう私を見なくなるでしょう。あなた方 は私を見るでしょう。なぜなら、私が生きていてあなた方も生 きるからである。 20:その日には、私が私の父の中にいて、あなた方が私の中にいて、 私があなた方の中にいるということがあなた方にわかるでしょ う。 21:私の掟を有し、私の掟を守る者は、私を愛する者である。私を 愛する者は、私の父に愛されるでしょう。私はその人を愛し、 私自身をその人に現すでしょう。 22:ユダ(イスカリオットのユダではない)はイエスに言った。 「主よ、あなたがこの世界でなく、私たちにあなた自身を現そ うとしているのはどうしてですか?」 23:イエスはユダに答えて言った。「もしその人が私を愛している ならば、その人は私の言葉を守るでしょう。そして私の父はそ の人を愛し、私たちはその人のところへ行き、その人と共に住 むでしょう。」 24:私を愛さない者は、私の言葉を守らない。あなたが聞いた言葉 は、私のものではなく、私を遣わした父のものである。 25:私はあなた方といたとき、これらのことをあなた方に話した。 26:しかし助け人、つまり、父が私の名により遣わした聖霊が、あ なた方にすべてのことを教え、私が話したすべてのことをあな た方に思い出させるでしょう。 27:私はあなた方に平和を残します。私はあなた方に私の平和を与 えます。私はこれをこの世が与えるようにあなた方に与えるの ではない。あなた方の心を騒がせるな、そして怯えるな。 28:「私は去っていく。そして私はあなた方のところへ戻ってく る。」と私があなた方に言ったのをあなた方は聞きました。も しあなた方が私を愛していたなら、あなた方は私が父のもとへ 行くことを喜んでくれるでしょう。何故なら、父は私よりも偉 大であるからである。 29:ことが起こったときにあなた方が信じるように、今そのことが 起こる前にあなた方に話しておく。 30:私はもうあなた方と多くのことを話すことはないでしょう。何 故なら、この世の支配者が来るからである。しかし彼は私をど うすることも出来ない。 31:私が父を愛し、私が父が与えた掟どおりに行っていることをこ の世は知るべきである。立ち上がり、ここから出かけよう。 イエスの弟子たちは、彼らの業が主のものと同じかそれ以上のときに、信じられない約束が彼ら になされた後、イエスはさらにもうひとつ情報を加えたが、それは立ったままでいる者は誰でも 足をすくわれるでしょう。それは聖霊の到来である。「そして私は父に頼みましょう。父はあな た方に別の助け人を与え、彼があなた方と永遠に一緒にいてくれるようにしてくれる」 (16 節)。 この「助け人とは誰ですか?」彼は多くの名前で呼ばれています。聖霊、安らぎを与える人、代 弁者そして仲裁者などいくつかである。ギリシャ語の「パラクレトス」は同様にポールがコロッ シアンズ 4 章 11 節で使っている言葉の一部である。そのときポールは「パレゴリア」、安らぎを 与える人たち、として彼の友達に示しています。偶然にもその語源は「パレゴリック」と同じで あり、それは鎮痛剤として作用する薬のひとつであります。 イエスは弟子たちがいかに早く「鎮痛剤」が必要であるかを知っていた。そこでイエスは「私は あなた方を孤児として残しては行かない。私はあなた方のところへ来るでしょう」 (18 節)とす ぐに付け加えた。聖霊は彼らと共に永遠にいるでしょう。そしてキリスト自身も彼らのために戻 ってくるでしょう。もし彼らが疑いを持っても、それらはその日にすぐに消し去られるでしょう。 その時、この世界はイエスをもはや見ることは出来ないが弟子たちはイエスを見ることが出来る ので。「私が父の中にいて、私の中にあなた方がいて、あなた方の中に私がいるということがあ なた方にわかるでしょう」(20 節)。「なぜなら私が生きていて、あなた方も生きるからである」 とイエスは彼らに保障した。 それからイエスはこの神聖な真実を加えた。愛と従順は共に進む。それは掟をただ知るというこ とではなく、父との関係を持つことになるのである。どんなファラシア人たちもそれを証明でき たであろう。人はイエスが与えたそれらの掟を守るよう努力しなければならない。それにより、 あなた方はイエスのためにあなた方の愛を示し、順番にあなた方は神により愛される。その結果、 あなた方は、あからさまになった貴重な贈り物を受ける。主は彼自身を従う者に現すでしょう。 ユダ(イスカリオットではない)は全ての人が思ったに違いない質問を最初にしました。「なぜ私 たちに、、 、?」 (22 節)。 答えとして、イエスは世界の全てに招待状を出しました。それはただ弟子たちに出したものでは なかったのです。もしその人が私を愛しているならば、その人は私の言葉を守るでしょう。そし て私の父はその人を愛し、私たちはその人のところへ行き、その人と共に住むでしょう(23 節)。 信者の心の中に彼の棲家を造り、聖霊は「全てのこと」を教え、イエスが教えたことを「思い起 こさせる」でしょう。これは福音書が、いかに弟子たちが聞いたり見たりしたことを正確に伝え そして教えているかを理解するのに大切な点である。 聖霊と共に、イエスは今までに人に与えられた贈り物でもっともすばらしいものの一つを残して いくことを約束しました。それは平和です。 「私はあなた方に私の平和を与えます。私はこれを この世が与えるようにあなた方に与えるのではない。あなた方の心を騒がせるな、そして怯える な」 (27 節)。ヨハネの時代から今日まで、信者たちの努力によって、その同じ平和が、イエス の従者たちのすべてに与え得るのです。イエスが弟子たちと我々を残して行ったにもかかわらず、 そして「世界の支配者」が来ても、彼らと我々は、心の中に神の存在と全ての人に理解されてい る平和を保証され、何時の日にか我々の救世主が戻ってくることが約束されているのです。 「来るべき聖霊」 ヨハネ 14 章 15-31 節 R:ヨハネ 14 章 15-31 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは弟子たちに何を残していく ことを約束しましたか?弟子たちはこの贈り物にどんな反応を 示しましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてみてください。あな たはイエスが彼の従者たちに約束した「平和」について証言でき ますか?その平和は、世界が申し出た平和とどう違いますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第 40 章 ヨハネ 15 章 1-17 節 ブドウの木と、その枝 1:私は、真実のブドウの木であり、私の父は、ブドウ農夫である。 2:私の枝で、実を結ばない枝は、私の父が、取り去り、実を結ぶ 枝は、私の父が、もっと実を結ぶように、手入れをします。 3:「私が話した言葉により、あなた方は、すでに清くなってい る。」 4:あなたは、私につながっていなさい。私もあなたにつながって います。ブドウの枝が、ブドウの木につながっていなければ、 実を結ぶことが出来ないように、あなた方も、私につながって いなければ、実を結ぶことが出来ない。 5:私は、ブドウの木。あなたは、その枝である。彼が、私につな がっていて、私もその人につながっていれば、その人は、豊か な実を結ぶ。私を離れては、あなた方は、何も出来ないからで す。 6:もしその人が、私につながっていなければ、その人は、枝のよ うに、捨てられ、枯れて、集められ、火の中に投げ入れられて、 焼かれてしまう。 7:もし、あなた方が、私につながっていて、私の言葉が、あなた 方の中にあるのなら、あなた方が、望むものを、なんでも頼み なさい。そうすれば、叶えられるでしょう。 8:あなた方が、多くの実を結び、私の弟子になるならば、それに よって、私の父は、栄光を受けます。 9:父が私を愛したように、私もあなた方を愛してきました。私の 愛の中に、留まりなさい。 10:私が、父の決まりを守り、その愛に留まっているように、あな た方も、私の決まりを守るなら、私の愛に留まることになるで しょう。 11:私が、あなた方に、これらのことを話したのは、私の喜びが、 あなた方の中にあり、あなた方の、喜びが、満たされるためで す。 12:私が、あなたを、愛したように、あなた方は、互いに、愛し合 いなさい。これが、私の決まりです。 13:友のために、命を捨てること以上の愛は、ありません。 14:あなた方が、私の命じることを、行なうなら、あなた方は、私 の友である。 15:私は、あなた方を、もう、僕とは呼ばない。なぜなら、僕は、 主人が、何をしているか、知らないからである。私は。あなた 方を、友と呼びます。私は、父から聞いたことを、全て、あな た方に伝えたからである。 16:あなた方は、私を選ばなかった。しかし、私は、あなた方を選 び、あなた方が、行って、実を結び、その実が残るようにと、 そして、私の名によって、あなた方が父に願うものは何でも与 えられるよう、私は、あなた方を指名したのです。 17:お互いに愛し合いなさい。これが私の命令です。 イエスは、まえの章で、彼の弟子たちが、神の聖霊と、全てのものに理解できる平和の約束をイ エスから受けた小さな部屋から彼の弟子たちを連れ出した。その平和は、ずっと必要とされるで しょう。なぜなら、彼らが、隔離された場所から去り、エルサレムの外側の、ゲサセマインの園 に移り、 (その名前は、マタイトルカニより名づけられた。)そこは、 「衝突の場所」とか、 「油の 圧力」という場所として、その地方で、知られていた。その道に沿って、ぶどう園があったこと は、確かであるので、イエスが、彼らに、新しいすばらしい真理を教えるための親しみのあるも のを再度見つけたのは、驚きに、値しない。 実際、「ブドウの木」という概念は、彼の弟子たちにとって、親しみのないものでは、なっかた であろう。ジェネシス 49 章 22 節に戻ってみると、ジェイコブは、彼の息子のヨセフに「実のな るブドウの木」として、示しています。サーミスト・アサフは、イスラエルの子供たちを「エジ プトからのブドウ(の木)」と呼びました。 (サーム 80 章 8 節)イザイア、ホジアそして、ジェ レマイヤは、全て、ブドウ園のイメージを用いました。(イザイア 5 章 1 節、ホジア 10 章 1 節、 ジェレマイア 2 章 21 節)そして、イザキエルは、エルサレムを「使い物にならないブドウの木」 と呼びました。 (エザキエル 15 章 1 節) この歴史的なシンボルは、 とてもよく知られていたので、 マカビーンの時代には、(紀元前 2 世紀)フドウの木の型は、イスラエルで作られたコインに描か れていました。 「私は、ブドウの木、 、、」 (1 節)イエスが神の息子であるということをあなたに証明しようとい うことをヨハネが、決めたということに注目してください。ヨハネは、イエスの力と権威を示す ために、少なくとも、7 回、イエスの奇跡をあなた方に示した。そして、その福音書をとおして、 一連の「私は、、、 」という言い方を示したが、それは、彼の聴衆を狼狽させ、彼の批判者たちを 怒らせ、彼に従う者たちを賞賛で従わせた。考えてみてください。 ヨハネ 6 章 35 節、「私は、命のパンです。 」 ヨハネ 8 章 12 節、「私は、世界の光りです。」 ヨハネ 10 章 7 節、「私は、扉です。 」 ヨハネ 10 章 11 節、「私は、良い羊飼いです。」 ヨハネ 11 章 25 節、「私は、生き返り、命があります。」 ヨハネ 14 章 6 節、「私は、道であり、真実であり、そして命であ る。」 ヨハネ 15 章 1 節、「私は、真実のブドウの木である。」 7 つの奇跡、7、「私は、」と述べている。何か質問は? 「あなたは、枝である。 (5 節) 「枝」 (クレマ)という言葉は、聖書の、どこででも使われてい る言葉ではありません。それは、折り取られて、ほかのブドウの木の接木に使われる若い枝に限 って、使われているのです。使徒ポールは、このことを、ジェンタイルの接木として用いられる 「自然の枝」(クラドス)として、イスラエルを、たとえていることにより、私たちに示していま す。(ローマンズ 11 章 17 節)言い換えるならば、主のブドウの木には、自然の枝は、ありませ ん。枝(人)は、神の手によって、接木されなければなりません。 「あなたが、願って頼んだものは、何でもかなうでしょう。」(7 節) この節は、しばしばクリ スチャンの神への祈りにおいて、てこの作用として、(しかし、あなたは、約束した!。 )しばし ば用いられる。しかし、この章の、文脈を、覚えておいてください。ここでの全てのものが、イ エスに留まるという仮説にもとづいてなりったているのです。(4、5,6,7,9,10 節)人が、 主に留まっていても、人は、見当違いな(大事ではない)ことを要求をしてしまいます。 この関係に留まるということは、私たちは、全く新しい役割りをするということである。依然わ れわれが、罪の奴隷であったとしても、われわれは、今は、われわれをつっくた人、われわれを 選んだ人、そして誰よりもわれわれを愛している人の友達である。われわれは、神が与えてくれ たそのような状況で、何をすることになっているのですか?われわれは、豊かな実をむすぶこと になっています。(16 節) そして、お互い愛することになっています。(17 節) ブドウの木と、その枝 ヨハネ 15 章 1-17 節 R: ヨハネ 15 章 1-17 節を読んでください。 O: 事実を観察してください。イエスは、私たちと、何を比較した のですか?。私たちは、それについて、何をすることになってい たのですか? A: あなたが読んだことを、あなたに当てはめてください。あなた は、主のブドウの木には、自然の枝はありませんという叙述に 同意しますか? それは、あなたにどんな意味がありますか?。 D:あなたが書いたことを、話し合ってください。 第 41 章 世界の憎しみ ヨハネ 15 章 18 節-16 章 4 節 18:もし世界があなたを憎んでいたなら、あなた方を憎む前に、世 界は、私を憎んでいたということをあなた方は、わかるでしょ う。 19:もしあなた方が、その世界に属していたなら、その世界は、あ なた方を、その世界の一部として、あなた方を、愛したでしょ う。しかし、あなた方は、その世界に属していなかったので、 私がその世界から選び出した。それゆえ、その世界は、あなた 方を憎むのです。 20:「僕は、主より勝ることはない。 」と言った私の言葉を思い出 しなさい。人々が、私を迫害したら、人々は、あなた方をも迫 害するでしょう。人々が、私の言葉を守ったのであれば、人々 は、あなた方の言葉をも守るでしょう。 21:しかし、私の名において、人々は、これらのことをすべてあな た方に、するようになるでしょう。なぜなら、彼らは、私を遣 わした人を知らないからである。 22:もし私が来て、彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかった でしょう。でも、今は、彼らは、彼らの罪に対して、弁解の余 地がない。 23:私を憎む者は、私の父をも憎むでしょう。 24:もし、私が、今まで誰もしたことのないことを、彼らの中でし なかったなら、彼らに罪はなかったであろう。しかし、今は、 彼らは、私のしたことを見た上で、私と、私の父の両方を憎ん でいる。 25:しかし、それは、「人々は、理由もなく私を憎んだ。」と彼ら の法律に書かれている言葉が、実現するためである。 26:私が、父のもとから、あなた方に送ろうとしている救済者、す なわち、父のもとから真理の霊が来るとき、その人が、私につ いて、証ししてくれるはずである。 27:あなた方も、証をするでしょう。なぜなら、あなた方は、初め から、私と共にいたからである。 第 16 章 1:これらのことを、あなた方に話したのは、あなた方を、つまず かせないようにするためである。 2:彼らは、あなた方を、寺院から追い出すでしょう。そして、あ なた方を殺す者が皆、自分たちは、神に奉仕していると思うと きが来ます。 3:彼らがこのようなことをするのは、彼らが、父のことも、私の ことも、知らないからである。 4:しかし、私が、これらのことをあなた方に話したのは、そのと きが来たとき、あなた方は、私があなた方に話したことを、思 い出させるためである。初めに私が、あなた方にこれらのこと を言わなかったのは、私が、あなたと共にいたからである。 イエスは、彼の最後の話で、彼の弟子たちに、愛についての話を始めた。さて今は、憎しみにつ いての話となった。「もし、世界が、あなた方を憎んでいたなら、世界が、あなた方を、憎む前 に、私を、憎んでいたということを、知るでしょう。 (18 節)信じられないと思われますが、慈 悲と親切の奇跡的な行動の後で、そして、失われ、傷ついた世界に対する自己犠牲の後で、イエ スが地球上で、最も憎まれた人になっていくということは、イエスの弟子たちにとってとても辛 いことになっていくのは、明らかであった。ガセマインの園へ、イエスと彼らが、一緒に暗闇の 中を歩いて行くとき、イエスは、なぜこのようにしなければならないかを、説明した。イエスと 彼らは、もはや、世界の一部ではなかったからで、世界は、彼らを、拒否したからである。彼ら は、まもなく、世界の全ての怒りが、イエスへ向けられるのを見るでしょう。そして、イエスは、 捕らえられ、拷問にかけられ、他の囚人のように、十字架に釘で張りつけにされ、そして世界中 の全ての罪を背負い、そして、彼自身の父にも拒否されることになります。イエスは、さらに彼 の弟子たちに言いました。 「僕は、彼の主人より勝ることはない。」と私が言ったことを、思い出 しなさい。 イエスの弟子たちが過ぎ越しのテーブルの周りに座った同じ晩に、彼らは、イエスが彼らに話し た信じがたい言葉を思い出したのだった。 (ヨハネ 13 章 16 節)それらは、気持ちのよい希望の ある言葉であり、これらの、ただの人たちの仕事が、彼らの主人と同じか、それ以上のものであ る可能性を、示していた。 「、 、私を信じる者、私がしたことを、彼もするでしょう。彼がするだ ろう仕事より、偉大な仕事を、、、なぜなら、私は、父のもとへ行きます。」(14 章 12 節) イエ スが力を与えられたように、力を与えられること。イエスが行なったような、奇跡的なことを行 なうこと。なんと恐ろしい考えなんでしょう。しかしそれから、イエスは、彼らのためにその象 徴を、示しました。主が苦しんだように、彼の従徒たちも、苦しむでしょう。 「もし彼らが、私 を迫害したなら、彼らは、あなた達をも迫害するでしょう。」(15 章 20 節) ピーターとポールの両方が後にこのことを理解するにいたった。そして彼らは、神の従者たちは、 「特別な人々である」と教えた。(タイタス 2 章 14 節、ピーター2 章 9 節、KJV)多くのクリスチ ャンが、クリスチャンは、 「奇妙」で、 「社会からかけ離れている」という意味であるという、キ ング・ジェイムスの訳の聖書での意味を取り入れて以来、ギリシャ語の「ペリオアシオス」 、特 別な、という意味は、神の人々は、神の目的のために神により選ばれ、他の社会から、かけ離れ たところにいるという意味になった。強調は、所有権にもとづいていて、みための様子ではなか った。しかし、結果は、同じであった。イエスと関係を持つということは、世界と隔離されると いう意味であった。悲劇的なことは、偉大な迫害者たちは、神の名においてそのことをする人々 であった。 「彼らはこれらのことをみな、私の名において、あなた方にするようになるだろう。 なぜなら、彼らは、私を遣わした人を、知らないからである。 」(21 節) イエスに対抗する人々 は、最も良い目的を持っていたかもしれないが、彼らは、本当に間違っていました。神は、彼の 息子を通してすばやく現れたのでした。しかし彼らは、神の息子を拒否することにより、神自身 を拒否したのでした。 もちろん、神は、拒否されたことを、驚きませんでした。なぜなら、イエスは、弟子たちを選ん でいたからです。しかし彼らは、そのことを行なったのです。それは、彼らの法律に、「理由も なく、私を憎んだ。 」と書かれるようにするためである。(25 節) これは、サーム 35 章 19 節と 69 節 4 章にもとづいている。世界は、真実に対して、盲目であり、それを公言する人々を憎ん でいます。真実は、現われ、神の聖霊を通して、公言され、信じる人々の生活の中で生き続ける でしょう。 世界の憎しみ ヨハネ 15 章 18 節-16 章 4 節 R:ヨハネ 15 章 18 節から 16 章 4 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスが予期したことが、結果とし てどんなふうに彼に起こりましたか。 A:あなたが読んだことを、あなたに当てはめてみてください。あ なたは、今日、真実を迫害している世界を見ることが出来ます か?その現象を、どこで見られますか? D:あなたが書いたことを、話し合ってください。 第 42 章 聖霊の働き ヨハネ 16 章 5-22 節 5:今私は、私を遣わした人のもとへ行くところであるが、「あな たは、どこへ行くのですか?。 」と聞く者はいない。 6:私が、これらのことをあなた方に話したので、悲しみは、あな た方の心を満たしている。 7:真実を述べるが、私が行ってしまうということは、あなた方に とって良いことである。なぜなら、もし私が行かなければ、救 済者は、あなた方のところへは、来ないだろう。でも、私は、 行ってしまうので、救済者は、あなた方のところへ、遣わされ るであろう。 8:彼は、彼が来たとき、世の罪について、正義について、そして 裁きについて、世の誤りを明らかにするであろう。 9:罪についてとは、彼らが、私を信じないということであり、 10:正義についてとは、私が、父のもとへ行き、あなた方が、もは や私を見なくなるということである。 11:裁きについてとは、この世の支配者が、裁かれるということで ある。 12:私は、あなた方に言っておきたいことがもっとたくさんあるが、 今は、あなた方には、理解できない。 13:しかし、彼、すなわち、真理の霊が来たとき、彼は、あなた方 を、全ての真理の中に導くでしょう。彼は、彼自身で語るので はなく、聞いたことを語り、これから起こることをあなた方に 話すからである。 14:彼は、私に栄光を与え、私から受けたものを、あなた方に示す でしょう。 15:父が持っているものは、全て私のものである。だから私は、そ の人が私のものを受けて、私があなた方に示す。と言ったので ある。 16:しばらくの間、あなた方は、私を見なくなるが、又しばらくす ると、又あなた方は、私を見るようになる。 17:それゆえ、弟子たちの何人かは、お互いに言った。「彼が私た ちに言ったことは、どういうことだろう。しばらくの間、私を、 見なくなり、又しばらくすると私を見るようになる。そし て、、、なぜなら、私は、父のもとへ行く。???」 18:彼が言った、 「しばらくの間。」とは、どういうことなのだろ う。私たちは、彼が何を話しているかわからない。 19:イエスは、彼らが、イエスにこのことを聞きたっがているのを 知り、言った。 「あなた方は、私が言った、しばらくの間、私 を見なくなる。そして、又しばらくすると、また私を、見るよ うになる。ということについて考えているのですか?。」 20:真実を述べるが、あなた方は、泣いて悲痛に陥る。世界は、喜 ぶでしょう。あなた方は、悲しむ。しかし、あなた方の悲しみ は、喜びに変わるでしょう。 21:女性は、子供を生むとき、陣痛で苦しむものである。なぜなら、 彼女の時が来たからである。しかし、子供が生まれれば、その 苦しみを、思い出さない。なぜなら、子供が世に生まれた喜び のためである。 22:それゆえ、今は、あなた方も、悲しんでいる。しかし、私は、 再びあなた方と会い、あなた方の心は、喜びで満たされ、誰も その喜びを、取り去ることはない。 イエスは、彼の弟子たちに、問題について、警告を与えている。それは、世界が、神とその息子 そして、真実を語る全ての人々を拒否しようとしているからである。多分、全ての苦痛は、 「彼 らを迫害する人々が、厳しくそのようにするだろう。なぜなら、彼らの行動により、彼らが、神 を尊敬していることになると考えているからである。」ということである。そして、彼の弟子た ちが、そのような恐ろしい知らせから立ち直る前に、イエスは、彼らに彼(イエス)がまもなく、 彼らの前からいなくなるということを、再び知らせた。彼らの、反応は、パンチをおなかにくら ったようでした。その晩、彼らの主と共に歩いた全ての人は、「もし彼がいなくなったら、わた しには、どんな事が起こるのだろう?」ということを、考えなければならなかった。イエスは、 彼らの考えに気づいて、彼らをやさしくしかった。 「、、、あなた方の誰もが、あなたは、どこへ 行くのですか? と私に聞かない。」 (5 節)そのとき、弟子たちは、イエスの宿命より、彼らの未 来について、考えさせられた。しかし、イエスは、彼らが、ショックでよろめいているのを知っ て、彼らを、励ました。 「しかし、私が去ることは、あなたたちにとって、良いことである。も し、私が去らなかったら、救済者は、あなた方のところへは、来ないでしょう。もし私が、去れ ば、私は、救済者をあなた方のもとへ遣わすでしょう。」 (7 節)もう一度、彼らは、その晩早く イエスが彼らに示した、信じがたい贈り物について、示されるのでした。それは、救済者でした。 それを彼らが、受け入れることが出来たので、イエスは、救済者(助けてくれる人)が、するだ ろうことを、説明し始めた。彼の最初の仕事は 3 つであった。それは、世の罪、正義(罪のない こと)そして、裁きについての世の誤りを明らかにすることであった。イエスの真理が明らかに されたとき、彼を迫害した世界は、すぐに、彼を受け入れることに失敗したことに気がつくでし ょう。それが罪ということです。イエスの復活と昇天により、彼らが不義(不誠実)であると判 断した人が、事実、全ての者の中で唯一の正義の人である。と見られるでしょう。その神のよう な行動により、悪霊は、完全に打ち負かされ、この世界の支配者としての悪霊の権限は、永遠に 取り去られるでしょう。これが審判ということである。 これが弟子たちが知る必要があったであろうたくさんの真実のほんの初めの部分であった。イエ スは言った。 「、、 、あなた方は今は、それらを理解できない。(12 節) 救済者のもうひとつの仕 事は、信者たちが、聞いて理解できるような新しい発見へと信者たちを導くことであろう。注意 すべき言葉:救済者が明らかにした、全てのことは、イエスに栄光を与えるでしょう。なぜなら、 彼は、何もしないけど、彼は、父から直接得たものを、与えるでしょう。 (15 節)逆に、もし弟 子たちが聞いたことが、イエスに栄光を与えなかったなら、それは、救済者が、話したことでは ありません。悪霊は、偽善の主であり、マタイが警告したように、悪霊は、イエスの従者たちを、 真実からとうざけようと、最大の努力を払ったのでした。 「偽のメシアや、偽の予言者が現れ、 偉大なしるしや、 不思議なことをして、 出来れば、選ばれた人たちをも惑わそうとするでしょう。」 (マタイ 24 章 24 節) この警告は、耳の不自由な人にも届いたのにもかかわらず、イエスの弟子たちは、イエスがいな くなるというこことについて思い悩んでいた。「イエスがわれわれに言っているこのことは、な んでしょう。しばらくの間、あなた方は、私を見なくなり、又しばらくすると、又私を、見るよ うになる。なぜなら、私は、父のもとへ行きます?。 」彼らは、お互いに尋ねあった。(17 節) イ エスは、話題を戻し、そしてやさしく彼らに言った。「あなた方は、泣き悲しむでしょう。そし て、世界は喜ぶでしょう。あなた方は、悲しむ。そしてその悲しみは、喜びに変わるでしょう。 (20 節) 女性の、出産の例を使い、イエスは、女性は、出産のときは、痛みと悲しみ以外の何をも感じな いが、子供が生まれれば、過去の辛さは、喜びの洪水の中に、忘れ去られる、ということを彼ら に示した。彼らにも同じことが言えます。「それゆえ、あなた方も、今は、悲しんでいる。でも 私は、あなた方に再び会うでしょう。そして、あなた方の心は、喜びで満たされるでしょう。そ してその喜びを、あなた方から取り去ることはないでしょう。 (22 節)サーム 30 章 11 節のこと ばは、その世のイエスの心でありました。そして、イエスが触ることにより、彼の弟子たちにも 伝わりました。「あなたは、私の悲しみを喜びに変える。あなたは私の麻布をゆるめ、わたしを 喜びでいっぱいにする。」 聖霊の働き ヨハネ 16 章 5-22 節 R: ヨハネ 16 章 5-22 節を読んでください。 O: 事実を、観察してください。救済者の、緊急の仕事は、なんだ ったのでしょう?。 A: あなたが読んだことを、あなたに当てはめてください。聖霊は、 あなたか、あなたの知っている人に、何かを明らかにしました か?。 D: あなたが書いたことを話し合ってください。 第 43 章 「わかりやすく話をする」 ヨハネ 16 章 23-33 節 23:その日には、あなた方は、私には、何も聞かないでしょう。真 実を述べるが、もしあなた方が父に、何かを求めるなら、父は、 私の名により、それを、あなた方に与えるでしょう。 24:今まであなた方は、私の名において、何も願わなかった。願い なさい。そうすれば、与えられるでしょう。そして、あなた方 は、喜びで満ち溢れるでしょう。 25:私は、これらの事を、比喩を用いて話してきたが、もう比喩に よらず、はっきり父について、話すときが来るでしょう。 26:その日には、あなた方は、私の名によって願うでしょう。私は、 あなた方のために、父に願ってあげるとは言わない。 27:父自身が、あなた方を愛しているのである。なぜなら、あなた 方が、私を愛し、私が、神のもとから来た事を、信じたからで ある。 28:私は、父のもとから来て、この世に来たが、私は、再びこの世 を去り、父のもとに帰るのである。 29:弟子たちは言った。 「あなたは、今は、はっきりと話をして、 比喩を使って話をしません。 30:あなたが何でも知っていて、誰もあなたに尋ねる必要がないの で、私たちは、あなたが、神のもとから来られたということを、 信じます。」 31:イエスは答えた。「あなた方は、今ようやく信じるようになっ たのですか? 32:見よ、あなた方は、散らされて、それぞれの家に帰っていき、 私をひとり残していくでしょう。でも、私は、一人ではありま せん。なぜなら、父が私と共にいるからです。 33:私があなた方に、これらの事を話したのは、私によってあなた 方が平和を得るためである。この世では、あなた方は、苦難が ある。でも元気を出しなさい。私は、すでにこの世に打ち勝っ ている。 」 最後には、弟子たちは、わかりやすい導きを受け入れるための準備が出来た。それまで、彼らの 質問は、自己中心的で、恐れを基本にしたものだった。さて、18 節(彼は、何を言いましたか?) では、光りがやって来始めたのであった。でも、まだ彼らは、イエスが、去っていく事を考える ことに問題を残していた。しかし今、彼らは、その事を、もう少し知ろうとしていた。「彼は、 どのくらいの間、いなくなるのですか?」「彼は、何を言おうとしているのですか?」イエスは、 答えて彼らに言った。「もうすぐ、あなた方は、私について、そのような質問をする必要がなく なるでしょう。あなたは、神に直接聞くことが出来るでしょう。 」(23 節)ここで明らかにされ たことは、人と、神の新しい関係が、始まったということです。それは、エデンの園で壊された ものを修復するための、第一歩でありました。アダムとイブが罪を犯したとき、彼らは、彼らの 創造者と、毎日を共有するという、特権を失いました。それは、神が彼らとそよ風の吹く日に、 歩いていた時のことであった。 (創世記 3 章 8 節)彼らは、楽園から追い出され、そのときから、 人々は、空っぽの心と、困惑から、神を求めるために、主のみ名によって祈り始めた。(創世記 4 章 26 節) 神の子が、現れることによって、人々に、元に戻る道が、開かれた。しかしそれは、楽園を通し てではなく、イエスの名を通してであった。今まで、あなた方は、私の名前により、求めたこと はなかった。求めなさい。そうすれば、与えられるでしょう。あなた方は、喜びで満ち溢れるで しょう。 (24 節)私の名においてという言葉は、話をする人(お祈りをする人)が、神と連絡を 取ることを、保障した、おまじないの言葉ではありません。それらは、イエスが、少し前に彼の 弟子たちに話した、神との関係を続けることに同意するということです。 (ヨハネ 15 章 5 節)怒 りそして、遠くにいる神のために、正しい生け贄と、贈り物を行なった権限者の前では、恐れを なした嘆願者は、もはや現れないでしょう。 そのかわりに、神が愛した子供たちが、神の足元に集まり、彼の存在を信じ続け、全ての神の助 けが、彼らのものであろうと信じるでしょう。それは彼らが要求されたものを支払ったためでは なく、単に彼らが神が愛する子供たちであったためである。僧侶や、聖人や、神の息子を通して、 行なう必要は、ないでしょう。なぜなら父自身が、あなた方を愛していて、あなた方が、父を愛 していて、そして、あなた方が、私が父のもとから来た事を信じているからです。(27 節) 弟子たちは、イエスからのこの新しい知らせを、とても喜んだ。 「今、あなたは、わかりやすく 話をしています。今から、私たちは、あなたが、神のもとから来た事を信じます。」と、彼らは、 叫んだ。(29-30 節)そのときイエスの周りの全ての人は、主人のためには、炎の中でさえ行進 してもいいと思っていたでしょう。それは、その夜じゅうは、続かなかった。それは、彼らの心 にとどめておくべき事であった。だから朝の苦しみが彼らに襲いかかったとき、彼らは、落胆の 中で死ぬ事はないでしょう。「見よ、あなた方は、散らされて、家に帰って行き、私をひとり残 していくでしょう。」(32 節)そのときでさえ、彼は、彼らに、彼は、一人ではないということ を彼らに覚えておくように言った。全ての人がいなくなっても、父は息子と共にいるでしょう。 次の言葉を覚えておいてください。イエスは言った。あなた方が、どんな困難に直面しても、あ なた方は、あなた方が必要な慰めを見つけることが出来るでしょう。時々、全てのものが失われ るように思えるでしょうが、決して忘れるな。「私は、すでにこの世に、打ち勝っている。」(33 節) 「わかりやすく話をする」 ヨハネ 16 章 23-33 節 R:ヨハネ 16 章 23-33 節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは、彼の弟子たちにどんな新 しい関係を約束しましたか? A:あなたが読んだことを、あなたに当てはめてください。あなた は、あなたに代わって、神と話をする仲介者が必要だと思いま すか?それは必要ですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第44章 「本当の主の祈り」 ヨハネ17章1-26節 1:イエスはこれらのことを話し、そして天に向かって言った。 「父よ、時がやってきました。息子が栄光を示すために、息子 に、栄光を与えてください。 」 2:あなたは、彼に全ての人を支配する権限を与えました。それゆ えに、彼は、彼に与えられた全ての人に、永遠の命を与えられ ることが出来るのです。 3:永遠の命とは、彼らが、唯一の真の神であるあなたと、あなた が使わしたイエスキリストを知ることです。 4:私はあなたが私にするようにと私に与えてくれた業をなして、 地上であなたの栄光を現しました。 5:父よ、世界が創られる前に私があなたと共に持っていたあなた の栄光を今私に与えてください。 6:私はあなたが世界から選んで私に与えてくれた人々にみ名を現 しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたは、彼らを私 に与えてくれました。彼らは、あなたの言葉を守りました。 7:私に与えてくれたもの全てがあなたからのものであるというこ とを彼らは今知っています。 8:なぜなら、私は、あなたからの言葉を彼らに伝えて、彼らはそ れを受け入れた。そして、私があなたの元から来たことを彼ら は本当に知って、あなたが私を遣わしたことを信じたからです。 9:私は彼らのためにお願いします。この世のためにではなく、あ なたが私に与えてくれた人々のためにお願いします。なぜなら、 彼らは、あなたのものだからです。 10:私の持っている全てのものはあなたのもので、あなたのものは、 私のものです。私は、彼らによって栄光を受けました。 11:私はもうこの世にはいません。彼らは、この世に残ります。私 は、あなたの元へ行きます。聖なる父よ、あなたのみ名により 彼らを守ってください。彼らが私たちのように、ひとつになる ために。 12:私が彼らといた時は、あなたのみ名により彼らを守り、保護し ました。彼らのうち滅びの子以外は、誰も滅びませんでした。 それは、聖書が実現するためです。 13:今私はあなたのところへ行きます。そして私がこの世にいる間 にこれらのことを語るのは、私の喜びが、彼らの内に満ち溢れ るためです。 14:私はあなたの言葉を彼らに与えました。でも世界は、彼らを憎 みました。なぜなら私が世界に属していないように、彼らも世 界に属していないからです。 15:私あなたにお願いすることは、彼らをこの世から取り去ること ではなく、彼らを悪から守ってくださることです。 16:私がこの世のものではないように、彼らもこの世のものではあ りません。 17:真理によって彼らを聖なる者としてください。あなたの言葉 は、真理です。 18:あなたが私をこの世に遣わしたように、私も彼らをこの世に遣 わしました。 19:わたしは、彼らのために、私自身を聖なる者とします。それは、 彼らが真理により聖なる者となるためです。 20:わたしは彼らのためだけでなく、彼らの言葉を聞いて、私を信 じる人々のためにもお願いします。 21:父よ、それはあなたが私の内にいて、私があなたの内にいるよ うに、全ての人が、ひとつになるためであります。そして彼ら を私たちの内にいるようにするためであり、それによってあな たが私を遣わしたことを世界が信じるようになるためである。 22:私たちがひとつであるように、彼らもひとつになるように、私 は、あなたから受けた栄光を彼らに与えました。 23:私が彼らの内にいて、あなたが私の内にいるのは、彼らが完全 にひとつになるためです。あなたが私を遣わし、あなたが私を 愛したように、あなたが彼らを愛したことを世界が知るためで ある。 24:父よ、私はあなたが与えてくれた人々と共に私のいるところに 共にいたいのです。あなたが与えてくれた栄光を彼らに見せた いのです。なぜなら、天地創造の前から、あなたが私を愛して くれていたからです。 25:神聖なる父よ、この世はあなたを知りませんが私はあなたを知 っています。そして彼らは、あなたが私を遣わしたことを知っ ています。 26:私はあなたの名前を彼らに知らせました。そしてこれからも知 らせるでしょう。それはあなたが愛してくれたその愛が彼らの 内にあり、そして私も彼らの内にあるからである。 ヨハネの語りにおける重要な点は、物語が迅速に前に進み、キリストの逮捕、そして十字架への 張りつけと進むことです。13章の初めにおいて、イエスと彼の弟子たちは、多くの人々に歓迎 されエルサレムへ入りました。それから彼らは隠れて、過ぎ越しの食事を2階の小さな部屋で静 かに見守ります。ユダは、主人を裏切るために彼らから離れ、彼の教会を建設している人たちを 残して去っていきます。イエスはその時間を彼らを安心させるために使いそして、何を行なうべ きかを説明します。そして17章では、本当の主の祈りとして何が知られているかを示します。 覚えておきなさい。これは、後に弟子たちが眠ってしまうだろう祈りとは同じではありません。 (マルコ 14 章 32 節 ff)イエスがこれらの言葉を言ったとき、誰もがイエスに注目していた。理 解の光りがさし始めた。そして彼らは、主の話す全ての言葉に注目して、興奮していた。そして 電気が充電されてるような雰囲気のなかで、イエスは、イエスが神と話していることを彼らが聞 きくことを許した。マタイ6章とルカ11章で読んだ伝統的な主の祈りとは違い、これは、毎日 のパンや罪の許しや誘惑から守ることに焦点を置いたものではなかった。これらのことは、クリ スチャンの生活に大事だと思われるものであった。今イエスが天にいる父に申し出た祈りは、最 高のものであった。何故なら彼の生きられる時間はもうわずかであるからである。そんな時間で 神の息子には、どんなことができるのでしょう?。もっとよく見てみましょう。聖書が示さなく てはならない、すばらしい慰めと励ましがそこにはあるのではないでしょうか。 最初にイエスは彼自身のために祈りました。 「あなたの子があなたの栄光をあらわすために、子 に栄光を与えてください。」 (1節)ここで、イエスは神が彼の父であることを認識します。その 息子に栄光をもたらすために、全てのことが叶えられるであろう。永遠の命への道は、もう一度 簡潔にそして完璧に説明された。「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなたとあなたが遣わし たイエスキリストを知ることです。」 (3節)言葉を代えると、イエスを知ることは神を知ること である。そしてイエスは地上での彼の仕事は終わったと認識した。「私はあなたが私にするよう にと私に与えた業をなし、地上であなたの栄光を現しました。」 (4節) 次にイエスは、彼の弟子たちのために祈りました。彼は彼らが神に属しそして神の息子を与えら れ、そして再び彼らが神の手に委ねられるということを知った。彼は世界が憎しみのなかにあっ ても,彼らを守ってくれること、彼らに喜びを与えることを神にお願いした。 「私があなたにお 願いすることは、彼らをこの世から取去ることではなく、彼らを悪から守ってくださることで す。」 (15節)イエスの仕事はなされ、弟子たちではなくイエスが去っていく時が来ました。彼 らにはまだすべきことがあり、天から受けるだろう強さ、勇気そして保護が必要であった。 最後にイエスは、全ての信者たちのために祈りました。「私は彼らのためだけでなく、彼らの言 葉を聞いて私を信じる人々のためにもお願いします。」 (20節)イエスは、この小さな人々の集 まりがイエスが始めた仕事を続けていくだろうということ、そして結果として未来の世代の人々 の世界でも同じ祈りが必要であろうということを知った。もしあなたが信者ならば心を持ちなさ い!この祈りは、あなたのためのものです。 「我々がひとつであるように、彼らもひとつである。 ; 23 「私が彼らの内にいて、あなたが私の内にいるのは、彼らが完全にひとつになるためです。 あなたが私を遣わしあなたが私を愛したように、あなたが彼らを愛したことを世界が知るためで ある。」 (23節)イエスは我々がひとつになるために祈ったばかりでなく、我々がイエスがいる ところで、彼といっしょになり、「彼の栄光を見る」日が来ることを期待していました。さて、 それが祈るということなのです。 「本当の主の祈り」 ヨハネ17章1-26節 R:ヨハネ17章1-26節までを読んでください。 O:事実を観察してください。イエスは何のために祈りましたか? A:あなたが読んだことを、あなたに当てはめて下さい。イエスの 祈りが含まれていると感じますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第45章 「イエス逮捕される」 ヨハネ18章1-24節 1: イエスはこれらのことを話し終えると、弟子たちとキドロン の谷の向こうへ行った。そこには園があり、彼と弟子たちはそ の中に入って行った。 2:イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。何 故ならイエスがしばしば弟子たちとそこで会っていたからであ る。 3:ユダはローマ人の兵士の一隊と祭司長やファリサイ人たちが送 った役人たちを引き連れてやってきた。彼らはたいまつやラン タンや武器を手にしていた。 4:イエスは、自分に起こるべきことを全て知っていたので、前に 出て行って彼らに言った。「誰を探しているのですか?」 5:彼らは「ナザレのイエスだ。」と答えた。イエスは彼らに答えた。 「私がその人です。」イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと いっしょに立っていた。 6:イエスが「私がその人です。」と答えたとき、彼らは後ずさりし、 地面に倒れた。 7:それゆえイエスは再び彼らに尋ねた。「あなた方は、誰を探し ているのですか?。」そして彼らは言った。「ナザレのイエス だ。」 8:イエスは答えた。「私がその人であると言ったではないか。」も しあなた方が、私を求めているのなら、彼らをここから去らせ てください。 9:それは「あなたが私に与えてくださった人々を一人も失わなかっ た。」と言ったイエスの言葉が現実となるためであった。 10:剣を持っていたシモン・ピーターは、その剣を抜いて襲いか かり、大司祭の召し使いの右の耳を切り落とした。彼の名前は、 マルコスであった。 11:イエスはピーターに言った。「剣をさやに納めなさい。父が 私に与えた杯を飲もうではないか。 12:そこでローマ人の兵隊たちと指揮官、そしてユダヤ人の役人た ちはイエスを捕らえて縛った。 13:そして彼を最初にアンナスのところへ連れて行った。何故なら 彼はその年の大祭司のカイアファスの義父であったからである。 14:カイアファスはユダヤ人たちに、みなのために一人の人が死ぬ ほうが都合がいいと忠告した人であった。 15:シモン・ピーターともう一人の弟子は、イエスに従って行っ た。この弟子は、大祭司の知り合いだったので、イエスに従っ て大祭司の家の中庭に入って行った。 16:しかしピーターは、外の門のところに立っていた。そこで大 祭司の知り合いの弟子は、門番に話し、ピーターを中に入れた。 17:門番の女の召使いはピーターに言った。 「あなたもこの人の弟 子の一人ではないですか?」彼は答えた。「いいえ違います。」 18:召使いと役人たちは、寒かったので、そこで炭火を起こし立っ て暖を取っていた。ピーターも彼らと共に暖を取っていた。 19:大祭司はイエスに彼の弟子についてと、彼の教えについて尋ね た。 20:イエスは彼に答えた。「私はこの世に公言して来た。私はい つもすべてのユダヤ人が集まってくる神殿や寺院で教えた。そ して私は、ひそかに話したことは何もないです。 」 21:「なぜあなたは私に質問をするのですか? 私が話したことを聞 いた人に尋ねてください。その人々が、私の話したことを知っ ています。」 22:イエスがこのことを言ったとき、そばにいた役人の一人が、イ エスに平手打ちを食らわし、言った。「なぜ大祭司に向かって そんな言い方をするのか?」 23:イエスは彼に答えた。「もし私が間違ったことを言ったのなら、 それを証明してください。でももし私が正しいことを言ったの なら、なぜ私をたたくのですか?」 24:そこでアンナサスはイエスを縛ったまま大祭司のカイアファス のところへ送った。 それは木曜の夜の偉大な出来事であった。ユダヤ人の指導者たちは安息日にイエスを捉えたまま にすることを避けるには、罪びととしてのイエスを金曜日の日没までに死刑にしなければならな いでしょう。多くの意見はこの人の味方であった。彼らがイエスの神がかった力を認めなくても、 彼らはまだイエスに奇跡が起こることを期待し、そしてイエスが多分イスラエルの王国を再生す ることに望みを持っていた。 同様に、その夜の出来事をつなぎ合わせて四つの全ての福音書を見てみることが大切である。そ れぞれの著者は独自な部分に要点をおいて、神の創造のために神の愛を表す物語を示している。 イエスの祈りの後(17章)、彼は彼の弟子たちと彼らがしばしば以前に会っていた「園」へ行き ます(1節)。マタイとマルコではその場所はゲセマイン、衝突の場所として示されていますが、 そこは明らかにオリーブ園である。ルカではその場所は一般的な言い方で示されていて、オリー ブの山と表されています。福音書によると、そこに着いてイエスはもう一度祈り、彼から杯が渡 されるよう頼みます。ヨハネではイエスの逮捕へと話がすぐに進みます。福音書はユダからの裏 切りのキスを含んでいます。(マタイ26章49節、マルコ14章45節、ルカ22章47節) ヨハネはただ彼が武装した兵士たちをその園に連れてきたと示しています。 「あなた方は誰を探しているのですか?」(4節) 彼らがナザレのイエスだと言ったとき、彼は「私 です。」と答えたが、これは、八回めの「私です。」とヨハネには示されている(40章の但し書 きを見てください)。その結果彼を問い詰めている人たちは後ずさりし、そして地面に倒れた(6 節)。それは誰もにとって危険な瞬間であった。そしてイエスは彼の弟子たちを守ろうとすばや く動いた。「もしあなた方が私を求めているのなら、彼らを行かせてあげてくたさい。」(8節) しかしピーターはすぐにはあきらめなかった。剣を抜いて近くにいたマルコスという名の召使い に襲いかかった。イエスがピーターを制止する前にマルコスの耳はちぎれた。ルカ、内科医であ るが、の福音書ではイエスがその召使いの耳を癒したということが含まれているということは、 注目すべきことである。(ルカ22章51節) 福音書では、イエスが縛られ連れて行かれるところは、いろいろに叙述されています。マタイは 全ての弟子たちはイエスをおいて逃げて行ったと我々に言っています。(マタイ25章56節) マルコはある若い男の人は兵士たちと戦い、そして裸で逃げていったと示しています。(マルコ 14章52節) ルカはピーターは兵士たちが街まで戻るまで距離をおいて彼らに従ったと保障 しています。(ルカ22章54節) なぜ全てイエスを法的に有罪にしようとしたのでしょう? 確実にイエスの敵たちはいっしょに 集まりイエスに投石しイエスを殺すことが出来たでしょうに。しかし実際彼らはイエスを殉教者 として殺したくはなかったのです。彼らはこのことを永遠に終わらせたかったのです。そうする ためには、彼らは神殿の人々とローマ人たちの両方の支持が必要だったのでしょう。全部で六回 イエスは法廷に現れています。三回は宗教家として、三回は市民として。そこでは彼を死の刑に 処すための試みがなされました。最初の段階としてはアンナスでした。彼はもと大祭司で、当時 の支配者カイアファスの義父でありました。正式には彼には権力はありませんでした。何故なら ローマの法では大祭司は毎年代えられなくてはならないとあるからです。これはユダヤの階級社 会で一人の人が強くなり過ぎるのを防ぐためなされました。イエスが彼のところへ連れて行かれ た理由は、少なくとも二つあります。ひとつはアンナスはまだかなりの政治的な力を持っていた ということです。 その証拠は、彼の仲間の人たちが、彼を「大祭司」として認識していることです。 (22節) 以前にアンナスが言ったことを思い出してください。それはローマ人たちが躊躇なく 制圧するためのおもてだった氾濫を許すより、国のために一人の男が死んでくれたほうが都合が いいだろうということです。(ヨハネ11章50節) もうひとつの可能性はカイアファスをサン ヘドリンへ行かせるのを遅らせる作戦であったということです。 この章のもうひとつの出来事は、ピーターの最初の否定(イエスを知らないということ)の報告で す。それはイエスが質問されたところの近くでピーターが炭火のそばに立っていたときのことで す。ピーターがその場所へ行けることは保障されていたのです。もう一人の弟子に感謝すべきで す。(15節)その弟子は大祭司を知っていて、ピーターを門の中へ招き入れたのでした。福音書 では彼については述べられていませんが、それはヨハネ彼自身であると考えられます。ピーター が最初に、召使いの女性にイエスを知らない、と言うことは簡単なことでした。次の二回はもっ と難しいでしょう。 「イエス逮捕される」 ヨハネ18章1-24節 R:ヨハネ18章1-24節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスはどこに連れて行かれました か?弟子たちはどこにいましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。イエスの 逮捕と試みについて、福音書の記録はどうしてそんなにたくさ んの違った場面があるのだと思いますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第46章 「パイレイトの前のイエス」 ヨハネ18章25-40節 25:シモン・ピーターは立って暖を取っていた。彼らはピーターに 言った。「あなたも彼の弟子の一人ではないですか?」彼は否定 して言った。「いいえ違います。」 26:大祭司の召使いの一人で、ピーターに耳を斬られた人の親戚の 者が言った。 「私はあなたがあの人と園にいるのを見ましたけ ど。」 27:ピーターは再び否定した。そのときすぐに鶏が鳴いた。 28:彼らはイエスをカイアファスのところから官邸へ連れて行った。 それは早朝であった。彼らは穢れを受けないで過ぎ越しの食事 が出来るように、官邸には入らなかった。 29:それゆえパイレイトは彼らのところへ出て来て「どういう罪で この人を訴えるのですか?」と言った。 30:彼らは答えてパイレイトに言った。「もしこの人が悪いことを していなかったのなら、われわれは彼をあなたのところへ連れ て来なかったでしょう。」 31:それゆえパイレイトは彼らに言った。「あなた方が連れて行っ てあなた方の法律によって彼を裁きなさい。。」ユダヤ人たちは 彼に言った。「われわれには人を死刑にする権限がありませ ん。」 32:それはイエスが言った言葉が実現するためであった。それは彼 がどのような死に方をするかということであった。 33:そこでパイレイトはもう一度官邸に入りイエスを呼び出して言 った。「お前はユダヤ人の王なのですか?」 34:イエスは答えた。「あなたはあなたの考えでそう言うのですか? それとも誰かが私についてあなたにそのように言ったのです か?。」 35:パイレイトは答えた。「私はユダヤ人ではありませんよ。あな たの国の人たちや祭司長たちがあなたを私に引き渡したのです。 あなたは何をしたのですか? 36:イエスは答えた。「私の王国は、この世ではありません。もし 私の王国がこの世であれば、私がユダヤ人たちに引き渡されな いように私の僕たちが戦ったことでしょう。しかし私の王国は、 この世ではありません。」 37:パイレイトはイエスに言った。「それであなたは王なのか?。」 イエスは答えた。「私が王だということは、あなたが言ってい ることです。私は真理について明かしするために生まれ、そし てそのためにこの世にやってきた。真理に属する全ての人たち は私の声を聞きます。 38:パイレイトはイエスに言った。「真理とは何ですか?。」彼はこ れを言ってから、もう一度ユダヤ人たちのところへ出で行き、 彼らに言った。「私は彼に何の罪も見出せません。」 39:「ところで過ぎ越し祭の時には、私は誰か一人を釈放するのが 習慣になっている。あなた方は私にユダヤ人の王を釈放するこ とを望んでいるのですか?。」 40:彼らは叫んで言った。「この人でなくバラバスを」バラバスは 強盗であった。 その夜は寒く、ピーターは中庭で「召使いと役人たち」と炭火のそばで立っていた。彼はすでに 門番の女性に弟子であることを否定していた。今度は彼のそばに立っている人たちに試された。 「いいえ違います。」と彼は主張した。マタイはピーターは誓って否定したと付け加えている。(マ タイ26章72節) もう一人別の召使いがピーターを見つけた。その人はピーターが耳を切り 落とした人の親戚の者であった。「私はあなたが園で彼といるところを見ましたけど。」(26節) マルコの場合はこのときピーターの言葉は悪戯のある主張に変わり、全てのことを知らないと主 張し、その言葉は彼の口からかろうじて出でいたが、そのときイエスが前もって言った鶏が鳴い た。 それは早朝であった。アンナスとカイアァスはイエスを総督の官邸へ連れて行くのにサンヘドリ ンから十分な支持を得た。(マルコ14章55-64節のサンヘドリンの不一致に関するところを 見てください)ポンティアスのパイレイトは普段はカエサリアの自分の家にいます。しかし過ぎ こし祭の間は、エルサレムにいるのが慣例であった。祭りの間は、みなの感情が高まるのでロー マ人の存在はおもてだった反乱を防ぐのに効果あった。パイレイトとユダヤ人たちの支配者の間 には失われる愛などというものはなかった。彼は残酷なので嫌われていた。事実彼はユダヤ人に 勝る権限があるジェンタイル(ユダヤ人ではない人)であった。そして彼はあからさまに彼らを見 下した。結局サンヘドリンは紀元36年に彼をローマに呼び戻すことに成功した。 イスラエルの支配者たちは、穢れて過ぎ越しの食事を行なう資格がなくなることのない様にと官 邸のなかには入らなかったということにより、状況は変わらなかったであろう。そうする代わり に彼らは総督が彼らに会うために外へ出で来るまで、中庭で待っていた。彼が彼らにイエスをど んな罪で訴えるのかと聞いたとき、彼らは単に「もし人が悪い事をしていないのなら、私たちは この人をあなたのところへ連れて来なかったでしょう。」と答えた。 (30節)パイレイトが彼ら に彼をローマが認めている彼らの法律により裁くように言ったとき、パイレイトはローマだけが 人を死刑にできるということを気づかされた。そのような決定のためには、イエスは神への冒と く以外の何か罪を着せられるべきであったので、パイレイトはイエスに政治的な忠誠さについて の質問をした。 「あなたはユダヤ人たちの王ですか?。」 (33節)イエスは「王のなかの王」とし て肯定的に答えることができたでしょう。でもそうしないで、彼は質問の動機の部分に迫った。 「あなたは、あなたの考えでそういうのですか?それとも誰かがわたしについてあなたにそのよ うに言ったのですか?。」 (34節)パイレイトはイエスの死を見届けるための努力の背後にある 本当の理由に気が付いていたにもかかわらず、それに答えるのに躊躇した。 イエスはパイレイトに自信を持って言った。 「私の王国はこの世には属していません、、、。」 (36 節)それゆえパイレイトは政治的なことに戻って言った。 「それであなたは王ですか?。」 (37節) それは正しいですが、イエスは答えて言った。「王は真実を証しするために遣わされた。パイレ イトの心に起きるだろうことがイエスにのみ想像できた。それは来るべき二千年の間繰り返し言 われるであろう言葉をパイレイトが言うことであった。それは「真理とは何ですか?。」 (38節) 結論がどうあれパイレイトはイエスの処刑を命令するための法的な理由を見出せなかった。それ ゆえ中庭で待っているユダヤ人たちの支配者たちにそのように言った。困ったあげく、彼は過ぎ 越し祭のとき習慣として一人の囚人を開放することになっていたのでそれによりイエスを開放 することを申し出た。それでもイエスは罪のある人のままであろう。しかし彼は自由になり、皆 は満足するであろう。でもそうではなくて、群衆が用意していたものは盗賊のバラバスの開放の 要求であった。 「パイレイトの前のイエス」 ヨハネ18章25-40節 R:ヨハネ18章25-40節を読んでください。 O:事実を観察してください。誰がイエスに質問しましたか?。なぜ ですか?。結果はどうだったのですか?。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。今日の単 元での本当の犠牲者は誰(たち)だったのでしょう?。 D:あなたが書いたことについて話し合ってください。 第47章 ヨハネ19章1-16節 「その男を見よ」 1:それゆえパイレイトはイエスを捕まえて、鞭で打った。 2:兵士たちはとげのつるで王冠を編み、イエスの頭へ載せ、イエ スに紫のローブを着せた。 3:彼らはイエスのそばに来て「ユダヤ人の王、万歳!」と言って、 彼の顔に平手打ちを食らわした。 4:パイレイトは再び出てきて彼らに言った。「見よ、私は彼をあ なたちのところへ引き出します。あなたたちは私が彼に何の罪 も見出せなかったことがわかるであろう。 5:イエスはとげの王冠をかぶり、紫のローブを着て出てきた。そ してパイレイトは彼らに言った。「見よこの男を!」 6:祭司長たちや役人たちはイエスを見て叫んだ。 「十字架にかけ ろ、十字架にかけろ!」パイレイトは彼らに言った。「あなたた ちが彼を連れて行き、十字架にかけなさい。私は彼に罪を見出 すことは出来ない。」 7:ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには法律があります。そ の法によると、彼は死ななければなりません。何故なら彼は彼 自身を神の子と言っていたからです。」 8:パイレイトはこの言葉を聞いてますます恐れた。 9:パイレイトは再び官邸のなかに入り、イエスに言った。「あな たはどこから来たのですか?。 」しかしイエスは答えなかった。 10:それゆえパイレイトはイエスに言った。 「あなたは私に答えな いのですか?。あなたは私にはあなたを解放する権限も十字架に かける権限もあるということを知らないのですか?」 11:イエスは答えた。「神から与えられたのでなければ、あなたに は私に対する権限は何もないでしょう。それゆえ私をあなたに 渡した者はもっと重い罪がある。」 12:そこでパイレイトはイエスを開放しようと努力した。しかしユ ダヤ人たちは叫んで言った。 「もしあなたがこの男を解放した ら、あなたは皇帝の友人ではありません。自分が王であると言 っている者は皆皇帝に逆らっています。」 13:パイレイトはこれを聞くと、イエスを外に連れ出して、敷石 (ベブライ語でガバサ)と言われる場所で裁判のための席に着 かせた。 14:それは過ぎ越し祭の準備の日の正午ごろであった。そしてパイ レイトはユダヤ人たちに言った。「見よ、あなたたちの王で す。」 15:彼らは叫んだ。「彼を殺せ。彼を殺せ。十字架にかけろ!」パ イレイトは彼らに言った。「あなたたちの王を私が十字架にか けるのですか?」祭司長たちは答えた。「われわれには皇帝のほ かには王はいません。 」 16:そこでパイレイトは十字架につけるためイエスを彼らに引き渡 した。 歴史上類を見ない法的な戦略の連続において、イエスは裏切られ、捕えられ、宗教上のそして民 間との両方の法廷で試され、有罪の判決を受け、気の進まない、神経質になった総督により、不 法にローマ人たちの処刑にされるよう取り図られた。全ては二十四時間以内に行なわれた。しか しそれは予言により初めから決められていたのであった。その方法は出エジプト記の時代にさか のぼり準備されていたのです。そのときは過ぎ越しの羊の準備のための指示がされたときでした。 来るべき羊のなかの羊の鮮明な描写において、イスラエルの子供たちは、どんな骨も折られてい ない特別な生け贄のための羊を準備しそれを食べるように言われた。(出エジブト記12章46 節、民数記9章12節) その規則は変に見えるかもしれないが、人々はそれに従い、それはユ ダヤの習慣として今日まで続いている。もし聖書が「折られた骨」に重要性を見出しているので あれば、詩篇51章8節、ジェレマイア50章17節、哀歌3章4節、ダニエル6章24節、そ してミカ3章3節に引用されているように、それは完全に敗北の印象を与えるでしょう。一方詩 篇の著者は詩篇34節で「罪のない人」の話をしたとき、彼は神に賛美を与えた。神は彼を苦悩 から助け、 「神は彼の全ての骨を守り、その一つでさえ折られることはない。」(詩篇34章20 節) イエスに石を投げつけていたなら、きっと彼の骨は砕かれていたでしょうから、イエスの 十字架への貼り付けは行なわれなかったでしょう。詩篇を思い出し、弟子たちはイエスにまた新 たな予言が実現したのを見て喜びました。 ほかの方法でなくて、イエスが十字架にかけられて殺されるということのもうひとつの理由はイ エスの死に対する非難をユダヤ人とそうでない人たちが分け合うということであった。それは何 世紀にもわたるユダヤ人に対する迫害を見る悲しい歴史の記録である。そして「彼らがイエスを 殺した」ということに対する非難の弁明の一部があるということを見ることは、もっと悲しいこ とである。イエスを十字架に釘で打ちつけたり、彼のわき腹を刺したりしたのはユダヤ人の手に よってなされたのではなかったが、イエスを十字架からはがしてユダヤ人の墓に彼を埋め、イエ スのこの世への再生を公言したのは、ユダヤ人の兵士たちであった。 パイレイトは最後にはイエスに非難の言葉を言ったが、それはほとんど言いたくて言ったもので はなかった。パイレイトは最後までイエスに罪を見出せなかったが、ユダヤ人の支配者たちが「皇 帝の友達ではない」とパイレイトを攻め立て、脅かしたので彼は態度を変えた。(12節) パイ レイトの恐れについては、その出来事についてのマタイの報告を読めばもっと理解できるでしょ う。さて我々は、イエスの主張は本当で、パイレイトはそれについて何もすべきではないという ことをパイレイトの妻が夢の中で言われたということを知った。 (マタイ27章19節)祭司長 たちがイエスが自分は神の息子であると言ったとパイレイトに話したとき、彼の妻の警告は彼の 心を新鮮なものとしたに違いない。そしてヨハネによると、それは彼をもっと恐怖に陥れた。 (7 -8節)再度パイレイトはイエスが彼自身を守るように説き伏せようと試み次のように言った。 「あなたは私があなたを解放する権限も、あなたを十字架にかける権限も持っていることを知っ ていますか?」しかしイエスは動かされることを拒否して答えた。「神から与えられたのでなけ れば、あなたには私に対する権限は何もないでしょう。」 (11節)祭司長たちの意志を曲げた後 でさえパイレイトは群衆の前で手を洗いこのことから逃れようとして言った。 「この人の血につ いて私には責任がありません。」 (マタイ27章24節)それに対し群衆は叫んだ。「彼の血の責 任は、我々と我々の子供たちにある!」(マタイ27章25節)再度、彼らがそれを意味してい てもそうでなくても、予言に従った怒りに満ちた群衆はイザヤに書かれた言葉を繰り返した。 「我々の全ては道に迷った羊のようであり、我々はそれぞれ自分勝手に進んでいった。しかし主 は私たちの全ての罪悪をイエスに負わせた。」 (イザヤ53章6節)それが彼に降りかかった我々 の罪であった。そして彼の血は我々に降りかかった。 「その男を見よ」 ヨハネ19章1-16節 R:ヨハネ19章1-16節を読んでください。 O:事実を観察してください。パイレイトは何をしようとしたので すか? 彼はそれに成功しましたか? A あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。あなたは あなたの手をイエスの血で洗うことが出来ますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第48章 ヨハネ19章17-30節 「十字架での処刑」 17:こうして彼らはイエスを連れて行った。イエスは自ら十字架を 背負い、ヘブライ語でゴルゴサと呼ばれる「頭蓋骨の場所」と 呼ばれるところへ向かった。 18:その場所で彼らはイエスを十字架にかけたが、イエスと共にほ かの二人もイエスの両側に十字架につけた。 19:そしてパイレイトは罪状書きを書いて十字架の上にそれをつけ た。それにはこう書かれてあった。 「ナザレのイエス、ユダヤ 人の王」 20:イエスが十字架につけられた場所は町に近かったので、多くの ユダヤ人たちがそれを読んだ。それはヘブライ語、ラテン語、 そしてギリシャ語で書かれていた。 21:ユダヤ人の祭司長たちはパイレイトに「ユダヤ人の王」と書か ないで「彼は私はユダヤ人の王であると言った」と書いてくだ さいと言った。 22:「私が書いたものは私が書いたものである」とパイレイトは答 えた。 23:イエスを十字架に貼り付けにしたとき、兵士たちはイエスの服 を剥ぎ取り、四つに分け一人にひとつずつ当たるようにした。 そして下着のシャツも取ったが、それは縫い目がなく一枚織り であった。 24:そこで彼らはお互いに言った。「それは裂かないで、くじで誰 の物になるか決めよう。」それは「彼らは私の外着を彼らで分 け合い、私のシャツをくじで誰の物になるか決めた。」という 聖書の言葉が実現するためであった。 25:それゆえ兵士たちはそのとおりにしたのであった。イエスの十 字架のそばには、彼の母と母の姉妹、クロパスの妻のメアリー とマグダレンのメアリーが立っていた。 26: イエスは母とそばにいる愛する弟子を見て、彼の母に言った。 「婦人よ。見よ、あなたの息子です。」 27:それから彼は弟子に言った。「見よ。あなたの母です。」その ときより、その弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 28:この後イエスは全てのことが成し遂げられたことを知り、「私 はのどが渇いた。」と言った。それは聖書の言葉が実現するた めであった。 29:そこには、すっぱいぶどう酒のつぼが置いてあった。そこで彼 らはそのすっぱいぶどう酒をヒソプの枝の先のスポンジにいっ ぱい含ませ、それをイエスの口元にもっていった。 30:それゆえイエスはこのぶどう酒を受け、 「全て終わった。」と 言って頭を下げて息を引き取った。 十字架での処刑については、ローマ人たちがその責任を負っていて、効率よくそれを行ない、ユ ダヤ人の寺院の守衛たちを圧倒するような流行の騒動は続いて起こらないようにしていた。ほか の二人はその日死刑になることになっていた。その二人の公での見せしめと死は、過ぎ越しの祭 りを祝うことに一役買っていて、全く問題はなかった。 この見世物のための場所は「ゴロゴサ」と呼ばれ、アラム語で「頭蓋骨の場所」という意味です。 ラテン語のバルケイト(口語)の訳は、カルバリアで現代のカルバリーと言う言葉です。それは たぶんエルサレムの門の外の小さい山の頂上は気持ちの悪いところの印象があり、多くの人が奇 妙な場所であると認識していたからか、あるいは多分そこは死の場所であるといううわさがあっ たからそう名づけられたと考えられる。 イエスはゴルゴサに向かって十字架を運ばされた。ここでもうひとつの事実が思い起こされます。 それはアブラハムの息子イザックが彼が死ぬ事になっているので、その火葬のための木を運んだ ということです。福音書は、シメオンと言う名前のシレーネから来た人がイエスの後ろから十字 架を運ぶよう徴用されたという事を含んでいます。 (マタイ27章32節、マルコ15章21節、 ルカ23章26節)そしてルカはイエスが通ったとき泣いた婦人たちへのイエスの言葉を示して います。 「イスラエルの婦人よ! 私のために泣かないで、あなた方自身とあなた方の子供たちの ために泣きなさい。」(ルカ23章28節) 丘の頂上へ着き、イエスは服を剥がされ、木の十字架へ釘付けにされます。考古学的な証拠がこ の恐ろしい死刑について確証しています。それはイスラエルの近くの墓でひとつの骸骨が発見さ れ、それにはかかとを突き抜けた釘のひとつが含まれていて、明らかにその釘を抜くのが難しか ったので、そのままでその場所に残っているということです。イエスの外着は処刑の証拠として、 四人の兵士により分けられ、縫い目のないシャツあるいは下着はくじにかけられた。これは詩篇 の作者からのもうひとつの予言が実現することであった。 「彼らは私の外着を彼らで分け、私の 下着をくじにかけた。」 (詩篇22 章 18 節) パイレイトが加えた罪状板、 「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 (19節)は熟考の原点であった。 これはただユダヤ人の支配者たちを見下すことを試みた最後の攻撃だったのですか、それともパ イレイトは彼が見つけた新しい信仰について何かを示したかったのですか?初期のころの教会 の言い伝えでは、総督は彼が直面したしなければならない事に対する自責の念について語ってい、 そして彼が最後にはクリスチャンに改信したということさえも示しています。しかしこれを確認 する確かな記録はありません。いずれにしても、その言葉は永遠に真実として示されている。 少なくとも四人の人たちが十字架のところに立っていた。イエスの母のメアリー、クロパスの妻 のメアリー、そしてイエスの叔母のマグタレンのメアリー、彼女はイエスに七つの悪霊を追い出 してもらった人である。 (マルコ16章9節、ルカ8章2節)そしてヨハネである。最も年上の 息子としての最後の責任として、イエスは未亡人であった彼の母親をヨハネの元に送りました。 そして母メアリーにヨハネを彼女の息子として取り扱うように頼みました。 (26節) 最後には全てのことが成就した。イエスは飲み物を求め、すっぱいブドウ酒が与えられた。(詩 篇69章 21 節) そして大きな声で言った、 「テレオ!」 「全ては終わった。」 (30節)これは全 額支払われたというしるしのその当時数えきれないほどパピルスの紙に見られる言葉と同じ言 葉である。そしてイエスは息を引き取った。これは彼自身の意思によるものである。福音書はこ の最も悲劇的な瞬間に時を同じくして起こったいくつかのことを示しています。その国の全てが 闇で包まれ、(マタイ27章45節)寺院のカーテンは上から下まで引き裂かれた。これは神と 人との隔たりの終わりの象徴であった。(マタイ27章51節)地震は町を揺るがし、墓が開き 死人が生き返り、歩き始めた。彼らは多くの人に目撃された。(マタイ27章53節)兵士たち はこれらの事を見て、 「この人は本当に神の子だ!」と認識した。 (マタイ27章54節)しかし ヨハネにとっては主そして指導者の死を知ることだけで充分であった。 「十字架での処刑」 ヨハネ19章17-30節 R:ヨハネ19章17-30節を読んでください。 O:事実を観察してください。十字架での処刑の場面を書き表して ください。 A:あなたが読んだことをあなたに当てはめて見てください。なぜ イエスの死がそのような屈辱的で恐ろしい方法で行なわれなけ ればならなかったと思いますか? なぜイエスは我々の罪の報い を静かに個人的に報いることが出来なかったのですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第49章 「イエスの埋葬」 ヨハネ19章31-42節 31:その日は準備のための日で、安息日には死体を十字架の上に残 しておくべきではないので(特にその安息日は特別な日であっ た)、ユダヤ人たちは彼らの足を折って十字架から降ろすように パイレイトに頼んだ。 32:それゆえ兵士たちが来て、イエスと共に十字架にかけられた最 初の男と、もう一人の男の足を折った。 33:しかし彼らがイエスのところへ来たとき、彼らはイエスがすで に死んでいるのを見てイエスの足は折らなかった。 34:しかし兵士の一人は、槍でイエスのわき腹を刺した。するとす ぐに血と水が出てきた。 35:それを見た人は証をした。その証は真実であった。彼は彼が 語っていることは真実であるということを知っている。それは あなた方も信じるようになるためである。 36:これらのことが起こったのは、「彼の骨は折られないであろう」 という聖書の言葉が実現するためであった。 37:また聖書の別のところには、「彼らは彼らが刺した者を見るで あろう。」と書いてある。 38:その後、ユダヤ人を恐れ密かにイエスの弟子となったアリマテ ィアのヨセフが、イエスの死体を引き取りたいとパイレイトに 願い出た。パイレイトが許可したので、彼は行ってイエスの遺 体を引き取った。 39:そこへ以前ある夜にイエスに会いに来たニコデマスが没薬(香 料)とアロエを混ぜたものを100ポンドほど持ってきた。 40:彼らは、イエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従 い、香料と共に亜麻布でイエスの遺体を包んだ。 41:イエスが十字架にかけられたところには園があり、そこにはま だ誰も葬られていない新しい墓がひとつあった。 42:その日はユダヤ人の準備の日であり、その墓も近くにあったの で彼らはイエスの遺体をそこに葬った。 全ては成し遂げられた。人々の罪を被り、そして造りし者と造られし者の間の新しい関係におい ての案内者となった、神自身の息子の血を伴い、世界の救済のための神の計画は実現した。サン ヘドリンが考えられる限りでは、彼らの計画もまた正確に行なわれた。彼らの敵は二度と彼らに 挑戦できないようにローマ人の十字架にかけられた。一つ覚えておかなければならないことがあ ります。それは夕闇が迫っていたということです。法律では、死体は夜じゅう吊るしたままにし ておくことはできないことになっていて、安息日の夜はなおさらのことである。法律が処刑され た者は神の呪いの元にあると明確に述べているので、ユダヤ人の支配者たちは彼らの体裁や、彼 らが満足かどうかということについてはあまり考えていなかった。一晩中吊るされたままにされ た死体は、その土地を呪うでしょう。(申命記21章23節)ただひとつ問題がありました。それ は十字架に貼り付けにされていた二人の男はまだ死んでいなかったということです。もし彼らが 日没まで生きていたなら、彼らは安息日の後までその場所にそのままにしておかなければならな いでしょう。ですから彼らを十字架から取り降ろすためには、何かをしなければならないでしょ う。 十字架での処刑における死は、普通失血によるものではないので、どの血管も突き刺されること はなかった。そうではなくて体液が肺に溜まることによる窒息死であった。両腕を伸ばして釘で 打ち付けられ十字架に吊るされての呼吸はとても辛いものであり、両足を突きぬいた一つの釘を 支えに体を持ち上げたときのみ呼吸することが出来た。この絶大な努力により、人は数時間か数 日間生きることが出来るが、最後に疲れきって死にます。しかし、簡単な問題解決の方法があり ました。それは体を持ち上げられないように、両足の膝のすぐ下の骨を折ることでした。このこ とがしばしば行なわれたのは明らかで、司法解剖にて骨格を調べることにより確認されるでしょ う。夕暮れが迫ってきたので、祭司長たちは過ぎ越し際の計画が滞りなく行われるように、十字 架にかけられた三人の男たちを十字架から取り去るよう要求した。イエスの右側と左側の盗賊は 最後の試練に供され、まもなく死んだ。しかし兵士たちがイエスのところへ来たとき彼らはイエ スがすでに死んでいるのを知り、確認のためにイエスのわき腹を槍で刺した。噴出した血と水は 彼の肺がそれらで満たされていて、呼吸が出来なかったであろうことの証拠であった。(34節) しかし最後のところでもっと重要だった事は、イエスについて考えられていた二つの予言が実現 した事であった。最初のことはイエスの骨が折られなかったことであり(詩篇 34 章 20 節)、二つ 目のことはイエスのわき腹が突き刺されたことであった(ヨハネの黙示録1章7節)。 普通、死刑にされた罪人の死体は十字架から剥がされ、近くのゴミ捨ての穴に投げ入れられた。 バールの崇拝者たちがその地域を支配していたとき、その場所は人を生け贄にするところであっ た。そして絶え間なく灯された火はそこを地獄絵「ゴヘンナ」とした。しかしそれがイエスに起こ る前にアルメシアのヨセフがイエスの遺体を引き取りたいと申し出た。彼はサンヘドリンの仲間 の一人であったが、ルカ23章51節では彼らに対立し、明らかにイエスの密かな弟子であった。 ヨセフはニコデマスを伴ったが、彼もサンヘドリンの仲間であり、ヨハネ3章である夜イエスに 会いに来た人であった。彼らはいっしょに75ポンドの香料と亜麻布でイエスの体を包み、近く の墓地へイエスを運んだ(マタイ27章60節よるとそこはヨセフの土地であった)。これはイエ スが適切に埋葬されるときまでの、過ぎ越し祭が過ぎるまでの一時的な安置場所であった。 幸いにも我々にとっては、イエスが正式に埋葬される必要がなかったようである。 「イエスの埋葬」 ヨハネ19章31-42節 R:ヨハネ19章31-42節を読んでください。 O:事実を観察してください。十字架の上のイエスの最後の瞬間に おいて、イエスについて考えられていたどんな予言が実現しま したか? イエスが死んだすぐ後にイエスの体にどんなことが起 こりましたか? A:あなたが読んだ事をあなたに当てはめてみてください。この章 について、イエスはただの人であると言っている異教徒の人に あなたはどのように答えますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第50章 「からの墓」 ヨハネ20章1-18節 1:週の初めの日、マグダレンのメアリーは朝早くまだ夜が明けぬ 暗いうちにその墓まで来た。そしてその墓から(墓のふた)石が 取り除かれているのを見つけた。 2:そこでメアリーはシモン・ピーターとイエスが愛したもう一人 の弟子のところへ行き、彼らに言った。「誰かが主を墓から取り 去りました。彼らが主をどこに置いているのか我々にはわかり ません。」 3:それゆえピーターともう一人の弟子は外へ出てその墓へ向かっ た。 4:二人はいっしょに走って行ったが、もう一人の弟子の方が速く 走り、ピーターより先にその墓に着いた。 5:彼は身をかがめて中を覗いた。そこには亜麻布が置いてあった が、彼は中には入らなかった。 6:続いてシモン・ピーターもやって来て、墓の中には入った。彼 はそこに亜麻布が置いてあるのを見た。 7:イエスの頭をくるんでいた布は亜麻布と一緒ではなく、別のと ころに丸めて置いてあった。 8:先に着いた弟子も墓の中に入りそれを見て信じた。 9:そのときは、彼らはまだイエスは死から復活することになって いるという聖書の言葉を理解していなかった。 10:そして彼らは再び彼らの家に帰って行った。 11:しかしメアリーは泣きながらその墓のそばに立っていた。メア リーは泣きながら身をかがめて墓の中を覗いた。 12:メアリーはイエスの遺体が置いてあったところに白衣を着た二 人の天使が座っているのを見た。一人は頭の方に、もう一人は 足の方に座っていた。 13:彼らはメアリーに言った。「婦人よ、あなたはなぜ泣いている のですか?」彼女は彼らに言った。「誰かが主を取り去ったからで す。そして彼らが主をどこに置いているのか私にはわかりませ ん。」 14:彼女がこのことを言ったとき、彼女が後ろを振り向くと、そこ にイエスが立っているのを見た。しかし彼女はそれがイエスで あるとはわからなかった。 15:イエスはメアリーに言った。「婦人よ、なぜあなたは泣いてい るのですか?あなたは誰を探しているのですか?」メアリーは彼を 庭師だと思い、彼に言った。 「もしあなたが主(の遺体)を取り去 ったのであれば、あなたがどこに主を置いたかを教えてくださ い。私が主を引き取ります。 」 16:イエスは彼女に言った。「メアリー!」メアリーは振り向いて ヘブライ語でイエスに言った。「ラボニ!」(ヘブライ語で先生 という意味) 17:イエスはメアリーに言った。「私にしがみつくのをやめなさい。 私はまだ父のもとに行ってはいません。私の兄弟たちのころへ 行って彼らに言ってください。「私は私の父であなたの父、私 の神であなたの神、のもとへ上ります。」 18:マクダレンのメアリーは弟子たちのところへ行き、「私は主を 見ました。」と言って、主が彼女に言ったことを彼らに告げた。 それは日曜日の朝早くであった。それはユダヤの暦では週の始めの日であった。まだあたりは暗 く、法律が許せばすぐにイエスの遺体を引き取りたいというマグダレンのメアリーの願いが示さ れていた。マタイはジェイムスとヨセフの母のメアリーが彼女と共にいたと加えている(マタイ 28章1節)。マルコはガリリア人になったサロメが二人と共にいたという事実を示している(マ ルコ16章1節)。彼女たちが来た目的は、イエスの遺体の埋葬のための準備のためであった。 ヨセフとニコデマスはイエスの遺体を亜麻布と香料で包んだ。しかしユダヤの法律では、死んで から三日間は死体に防腐処置をしてはならないことになっていた。少なくとも三日間はその人の 霊魂が体の中に留まっていると考えられ、そしてその人が本当に死んでいるか確かめるためでも あった。これがイエスの復活が三日目まで起こらなかった理由である。それはイエスがただ単に 意識不明の状態に陥りその後、何かが起こりその状態から目覚めた、という「気絶していたとい う説」を否定するためである。レザラスの奇跡と、三日目までイエスの墓に行かなかったという ことは、この習慣の考え方をより良く理解できうる。 その墓について、メアリーは墓の石が取り去られているのを見つけたが、まだ暗かったので中を 見ることは出来なかった。弟子たちがいるところへ戻り、メアリーは「誰かが主を墓から取り去 り、私たちは彼らが主をどこに置いたかわからない」と告げた(2節)。「私たち」と言う言葉が使 われたことに留意してください。これはメアリーが一人ではなかったということを示しています。 ピーターとヨハネが調べるために急いで行きます。ヨハネはそれを知らされると速く走っていき ピーターより先にその墓に着きます。でも彼はピーターに先に墓に入ることを譲り、彼の後に墓 に入り、イエスの遺体がなくなっていてイエスを包んでいた亜麻布だけが残っていたという証人 となりました。包んでいた布は乱されてなく、顔を包んでいた布は別のところに置かれていたと いう彼の報告は、意味のあることである。まず初めに、このことは、墓盗人たちはイエスを包ん でいた布や香料を取っていくはずであるから、墓盗人がイエスの異体を取り去ったという説明は 成り立たないという証拠です。彼らが見たものは、墓が壊されたり乱されたりすることなく、き れいなままでイエスの遺体がなくなっていたということである。ヨハネで述べられているイエス をくるんでいた亜麻布と顔を覆っていた布は、イタリアのイエスの顔の形が写っている一枚の 「トロインの布」とは一致するとは考えられないが、それは今大きな問題となっている。 空っぽの墓の場所は、見て信じた(と我々に話された)ヨハネにとって、折り開始地点であった(8 節)。イエスが神の子であるということはそれほど信じられることではなかった。しかし弟子達 はすでに信じるに至っていた(ヨハネ16章30節) しかし、イエスは世界の罪のために死なな ければならなかったばかりでなく、彼が死を乗り越えた勝利を示すことでもあった、という神の 完璧な目的は彼らにはわからなかった。このこと全てについて考えるということは、男の人たち は家に帰りメアリーは後に残り泣いていたという意味である(11節)。 身をかがめて墓の中を覗くと、メアリーはイエスの遺体があったところに二人の天使が座ってい るのを見つけます。これは興味のあるところであり、天使は神がいるところでは決して座ること はないのです。ここで聖書に記録されている天使が座っている場面を見ます。なぜ彼らは座って いるのでしょうか? 「彼はここにはいません。」(マタイ28章6節) メアリーは振り返り、彼 女の後ろに立っているイエスを見たときでさえ(14節)、彼に気がつきませんでした。涙ぐんで いたので、彼女は彼を庭師だと思いました。そして彼が何かこのことに関係していたのではない かと思いました。イエスが「メアリー」と名を呼び、彼女が目を開き、主を見るまで気がつきませ んでした。「私にすがりつくのはやめなさい」というところは(17節)、少し神秘的に訳されてい ます。特に King James 版 では「私に触れるな」と書かれています。しかしながら、マタイ2 8章9節とヨハネ28章27節では、イエスが昇天する前の状態であっても、イエスが触れない 状態のものではなかったということは明らかである。イエスの伝言はより深い意味があったと思 われ、それはイエスが父のもとに返るということにより、彼らの関係がまったく新しいものにな るだろうということである。 メアリーの証言は、キリストの再生依頼、その種の初めてのものであり、何世紀もの間多くの人 たちに喜びと希望を与えることでしょう、それは「私は主を見ました。」です。 「からの墓」 ヨハネ20章 1-18節 R:ヨハネ20章1-18節を読んでください。 O:事実を観察してください。何時このことが起こりましたか? 誰が関係していましたか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめてください。なぜ墓が 開けられたのだと思いますか?イエスが外に出る必要があったの ですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 第51章 「イエスの最後の出現」 ヨハネ20章19-31節 19:その日の夕方、つまりその週の最初の日、ユダヤ人を恐れ弟子 達は家の戸を閉めていたが、イエスが現われ彼らの真ん中に立 ち彼らに言った。「あなた方に平和がありますように。」 20:イエスがこれを言ったとき、彼は彼らに手とわき腹を見せた。 そして彼らは主を見て喜んだ。 21:それゆえイエスは彼らに再び言った。「あなた方に平和があり ますように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わし ます。」 22:イエスがこれを言ったとき、彼は弟子たちに息を吹きかけた。 そして彼らに言った。「聖霊を受けなさい。」 23:「どんな罪でもあなた方が許せば、その罪は許されます。どん な罪でもあなた方が許さなければ、その罪は許されないまま残 る。 24:しかし十二人の一人のディディモスと呼ばれるトマスはイエス が来たとき、彼らといっしょにいなかった。 25:それゆえ彼の弟子達は彼に言った。「私たちは主を見ました!」 でも彼は彼らに言った。「私は彼の手の釘の跡を見、その手の 釘穴に私の指を入れ、そのわき腹に私の手を入れてみるまでは 信じません。」 26:八日後に弟子たちは又家の中にいて、トマスも彼らと一緒にい た。家の戸は閉められていたが、イエスが来て皆の真ん中に立 って、「あなた方に平和がありますように」と言った。 27:それからイエスはトマスに言った。「あなたの指で私の手を触 ってみてください。そしてあなたの手を伸ばし私のわき腹に入 れてみなさい。信じない者でなく、信じる者になりなさい。」 28:トマスはイエスに答えて言った。 「私の主、私の神!」 29:イエスはトマスに言った。「私を見たから信じたのですか?見な いのに信じる者は祝福されます。」 30:弟子たちの前でイエスは多くのしるしを行なったが、それらの ことはこの本には書かれていない。 31:イエスが救世主で、神の子であるということをあなた方が信じ るため、そしてあなた方が信じてイエスの名により命を受ける ために、これらのことは書かれました。 それは日曜日の午後であった。弟子たちは困惑し、不安になり、鍵をかけて家の中にいた。その 墓が本当にからであったというピーターとヨハネからの報告を彼らは聞いた。そしてメアリーが イエスと話をしたと言った。これらのことはどんな意味があるのでしょう? 突然イエスは彼ら の真ん中に立っていた(19節)。彼らが反応を示す前にイエスは慰めと確信の言葉を彼らに言っ た。「あなた方に平和がありますように」 誰が恐れと不審の念を抱かなかったのでしょうか?彼の手と足の傷跡を弟子たちに見せることに より、最後には彼らは彼らが見たことを信じ、そして喜んだ。再びイエスは彼らに平和がもたわ されるよう告げ、時間よりも前に計画された予定を彼らに思い出させた。「父が私を遣わしたよ うに、私もあなたを遣わす(21節)。なされるべき業、伝わされるべき伝言、そして救われるべ き世界があった。 彼らは仕事において孤独ではなかった。イエスは聖霊を受ける準備のために「彼 らに息を吹きかけた」。 「エンフサオ」と言う言葉は、聖書の他のところでは創世記の二章七節の みで使われている。そこでは、神は人に息を吹きかけ人は生きたものとなった。さて神は再びイ エス・キリストの体を借り、弟子たちに息を吹きかけた。それは新しい生活と新しい関係とそし て新しい責任の始まりを示していた。聖霊の到来はそのときには起こりませんでした。それは五 十日後の聖霊降臨祭の日に起こりました(使徒行伝2章1節)。 どんな罪でもあなた方が許せばその罪は許されます。どんな罪でもあなた方が許さなければ、そ の罪は許されないまま残ります(23節)。ある人たちはこの節を、神の許しの力がその人たちの 手にゆだねられ、許しを受けるための特別な資格をもったこれらの人々に良い信者たちが頼って しまうという関係に陥るという不幸な結末になると、間違って信じてしまう。弟子たちに与えら れた力は罪を許すための神の権力を占有する力ではなく、罪の許しの良い知らせ、つまり神の子、 イエスの血を通してそれが可能だということを示すことであった。これはイエスを「主」と呼ぶど んな人にも提供された権限である。 弟子の中の一人には、このすごい出来事に直面しなかった者がいた。ディディマスと呼ばれるト マスはイエスが現れたとき、そこにいなかった。彼は全ての使徒の名簿の中に現われているとい うこと以外は、ほとんど知られていない (マタイ10章3節、マルコ3章18節、ルカ6章1 5節、使徒行伝1章13節)。彼はいつもマタイと一緒に述べられていて、マタイはアルファエ アスの息子であり(マルコ3章18節)、これら二人はいつもジェイムスに従っている。彼も同様 にアルファエアスの息子であった。よってマタイ、トマスそしてジェイムスは兄弟である可能性 があります。福音書では、彼についてはほとんど述べられていない。しかしヨハネでは、それが 死を意味していても、恐れる事のない弟子として我々に示されています(ヨハネ11章16節)。 我々は彼を「それを得られなかった」人々の一人として、つまりイエスの行き先を知らなかった ことを告白した人としてみています(ヨハネ14章5節)。そしてヨハネでは同様に、最も良く知 られたトマスの一面、つまり疑い深い人であるということ、を我々に示しています。 「私は彼の 手の釘の跡を見、 その釘穴に私の指を入れ、そのわき腹に手を入れてみるまでは信じません。」 (2 5節) 我々は、トマスがそれをして、そして「私の主、私の神!」と反応するところを読むと、い くらかの羨望を感じます。(28節) 彼が信じたことはほめるに足りるが、見なくても信じる者 はもっと良い、とイエスがトマスに念を押すと、羨望は恥ずかしさに変わります。確かに。 「イエスの最後の出現」 ヨハネ20章19-31節 R:ヨハネ20章19-31節を呼んでください。 O:事実を観察してください。イエスは彼の弟子たちにどんな新し い関係を示していますか?これを受け入れるために助けが必要な 人は誰ですか? A:あなたが読んだ事を、あなたに当てはめて下さい。あなたはあ なたが見たことがない事を信じるのは難しいですか? それはどんなことが考えられますか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。 たとえば 第52章 「イエスの最後の言葉」 ヨハネ21章1-25節 1:この後、イエスはティベリアス海のところで再び弟子たちの前 に現われた。その様子は以下のようであった。 2:シモン・ピーターとディディモスと呼ばれたトマス、ガリリー のカナから来たナタナエル、そしてゼベディの息子たち、そし て彼の他の二人の弟子たちが一緒にいた。 3:シモン・ピーターは彼らに言った。「私は魚を捕りに行きま す。」彼らはピーターに言った。「私たちもあなたといっしょ に行きます。」彼らは出かけ、船に乗った。しかしその夜は何 も取れなかった。 4:すでに夜が明けかけていて、イエスが岸に立っていた。しかし 弟子達は、それがイエスだとはわからなかった。 5:そこでイエスは彼らに言った。「子供たちよ、あなたたちは魚を 持っていないのですか?」彼らはイエスに答えた。 「いいえ。」 6:そしてイエスは彼らに言った。「船の右側に網を打ちなさい。そ うすれば魚が取れるでしょう。」それゆえ、彼らは網を打った。 そうすると魚があまりにも取れ過ぎて、網を引き上げる事が出 来なかった。 7:イエスを愛したその弟子がピーターに言った。「それは主で す。」シモン・ピーターが彼が主であるという事を聞いたとき、 彼は上着を羽織ると(彼は仕事のためほとんど裸同然だったので)、 自ら海に飛び込んだ。 8:他の弟子たちは魚のいっぱいかかった網を引いてその小さな船 で戻ってきた。それは陸からは二百ヤードほどしか離れていな かった。 9:彼らが船から陸に上がってみると、すでに炭火が起こしてあり、 その上には魚がのせてあり、パンもあった。 10:イエスは彼らに言った。「あなた方が取った魚を何匹か持って きなさい。」 11:シモン・ピーターが行って、網を陸に上げると百五十三匹の大 きな魚でいっぱいであった。それほど魚が多かったのに網は破 れていなかった。 12:イエスは彼らに言った。「来て朝食を摂りなさい。」弟子たち は、それが主であることを知っていたので、誰も「あなたは誰で すか?」とイエスに聞く者はいなかった。 13:イエスは来てパンを取り、彼らに与えた。魚も同じようにした。 14:イエスが死から復活して、弟子たちの前に現われたのは、これ が三回目であった。 15:彼らが朝食を終えたとき、イエスはシモン・ピーターに言った。 「ヨハネの息子シモンよ、あなたはこの者たち以上に私を愛し ていますか?」彼はイエスに言った。 「はい、主よ。私があなた を愛していることは、あなたが知っています。」イエスは彼に 言った。「私の子羊を飼いなさい。」 16:イエスは再びシモンに言った。「ヨハネの息子シモンよ、あな たは私を愛していますか?」彼は言った。「はい、主よ。私があ なたを愛していることは、あなたが知っています。」イエスは彼 に言った。「私の羊の世話をしなさい。」 17:三度目にイエスは彼に言った。「ヨハネの息子シモンよ、あな たは私を愛していますか?」ピーターは悲しくなった。なぜなら イエスが三度も「あなたは私を愛していますか?」と彼に聞いたか らである。彼はイエスに言った。「主よ、あなたは全てのこと を知っています。あなたは私があなたを愛していることを知っ ています。」イエスは彼に言った。「私の羊を飼いなさい。」 18:「真実を言っておく。あなたが若いときは、あなたは自分で自 分自身を守り、あなたが行きたいところへ歩いて行ったが、年 をとると、あなたは手を伸ばし、誰かがあなたを守り、あなた の行きたくないところへあなたを連れて行きます。 19:どのような死に方でピーターが神の栄光を現すかを示すために、 イエスはこのことを言ったのである。これを話してから、イエ スはピーターに言った。「私に従いなさい!」 20:ピーターが振り向くと、イエスが愛した弟子がついて来ている のが見えた。その弟子は、あの晩餐のときイエスの胸に寄りか かり、「あなたを裏切るのは誰ですか?」と聞いた者である。 21:それゆえピーターは彼を見てイエスに言った。 「主よ、この人 はどうなるのでしょう?」 22:イエスはピーターに言った。「私が来るまで彼が生きたままで いることを私が望んでも、それがあなたとどんな関係があるの でしょうか? あなたは私に従いなさい!」 23:それゆえ、この弟子は死なないだろう。といううわさが兄弟た ちの間に広まった。しかしイエスは彼は死なないであろうと言 ったのではなく、「私が来るまで彼に生きていてほしいと私が望 んでも、それがあなたと何の関係があるのでしょうか?」と言っ たのである。 24:この人が、これらのことについての証人になり、これらのこと を書いた弟子である。私たちは、彼の証が真実であるというこ とを知っている。 25:このほかにもイエスはたくさんのことをしたが、もしそれらの ことを詳しく書いたなら、世界でさえその書かれた本をしまい きれないであろうと私は思います。 続く四十日の間、イエスは色々な場所に、色々な時に彼の弟子達や、その他の人たちの前に現わ れ、彼らに最後の教えを行い、イエスが昇天するための心の準備を彼らにさせた。三番目に現わ れた記録は、ティベリアス海の岸で起こった(ガリリア海、近年ティベリアス皇帝にちなみティ ベリアス海と名づけられた)。ピーターと六人の弟子たちは短い旅をし人々の元へ戻ってきた。 それは彼らが知っている最も良い生活の手段であった。それはたぶん家族所有の漁船であり、彼 らは網を打ち一晩中過ごしたが、何も取れなかった。朝には岸から百ヤードほどのところに来て いたが、彼らは彼らの仕事を示すものは何もなかった。これは親しみのある響きですか?マタイ の第五章を思い出してください。最初に、ピーターとジェイムスとヨハネはイエスに会いました。 そしてイエスは彼らに彼らの網を深いところへ打つように言いました。今回は船の右側に打つと いうことでした(6節)。彼らは従い、正確に百五十三匹のとても多くの魚を得ることが出来まし た。この数を出すのには何回も魚の数を数えたことでしょう。しかしこれはヨハネはただ単に漁 師がとった魚を皆で分けるために数えたと報告しているようである。 ヨハネが最初にイエスを認識したことを示しました。「それは主です。」(7節)、ピーターがそれ に最初に反応し、外着を来て岸に向かって泳ぎます。このとき、水の上を歩いたということは議 論の余地がありません。主として認識することは疑いの無いことでした。イエスがすでに火を起 こし、魚とパンを彼の友達のために準備していました(9節)。 朝食の後、イエスはピーターを彼の横に連れてきました。ピーターは以前にイエスを知らないと 言ったことに疑いも無く傷ついていました。そしてイエスが彼を「岩」と呼んだことに対しても彼 自身がそうであることを疑っていた(ヨハネ1章42節)。それはピーターを正直な人にする時で あった。「ヨハネの息子シモンよ、あなたはこの者たち以上に私を愛していますか?」(15節)。 イエスが彼をピーター、 岩、と呼ばなかったことに注意してください。それは見たままであった。 ピーターの答えはイエスが聞いたことに正確にあったものではなかった。しかしイエスが弟子に、 彼が無条件(アガパオ)で主人を愛しているかどうか聞いたので、ピーターは「はい、主よ。私が あなたを愛している(フィレオ=兄弟のように愛している)ことは、あなたが知っています。」と 答えた。(15節) イエスは二回目に聞いた。「ヨハネの息子シモン、あなたは私を愛していま すか(アガパオ=無条件で)?」ピーターは再び答えた。「はい、主よ。私があなたを(フィレオ= 兄弟のように)愛していることをあなたは知っています。」(16節) そしてイエスは再びそれを 別の方法で聞きます。ヨハネの息子シモン、あなたは私を(フィレオ=兄弟のように)愛していま すか? さてピーター、私たちは無条件の愛について話しているのではありません。あなたは私 を兄弟のように愛しているのですか? ピーターは悲しくなった。そして「主よ、あなたは何で も知っています。私があなたを(フィレオ=兄弟のように)愛していることをあなたは知っていま す。 」と叫んだ。それで十分であった。そこでイエスはピーターに羊の世話、つまり彼の教会の 世話をするように言った。そしてピーターがヨハネについて聞いたとき、彼はただ「それはヨハ ネと私の間のことである。あなたは私に従いなさい。」と言われた。(22節) ヨハネの福音書の最後の部分(24-25節)は奥づけと呼ばれています。それは本の最後の献呈 の言葉であり、普通筆者により書かれます。この場合、ヨハネは彼が書いた全ての事に対する目 撃者として彼自身を認識し,彼の時代の人たちが知っていることや同意していること、つまり彼 の証が真実であることを示しています。(24節) そして最後の問題として、次の意見を示して います。「、、、この他にもイエスはたくさんのことをしたが、もしそれらのことを詳しく書いた なら、世界でさえその書かれた本をしまいきれないであろうと私は思います。」(25節) アーメン 「イエスの最後の言葉」 ヨハネ21章1-25節 R:ヨハネ21章1-25節を読んでください。 O:事実を観察してください。イエスはどこで弟子たちと会います か?イエスは彼らに何を言いますか?ピーターにはどんなことを 言いますか? A:あなたが読んだことをあなたに当てはめて見てください。あな たが読んだ中でどの弟子があなたにとって価値がありますか?そ れはなぜですか? D:あなたが書いたことを話し合ってください。
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