愛を頂いた人の生涯(Ⅱ) - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
新約講演・ヨハネによる福音
第 45 回全国大会・講演Ⅱ
愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
ヨハネ 13:34-35・第1ヨハネ 3:14a
イエスから「愛を受けた人」が、その愛を表さずにはいられなくなるとい
うことを、土曜日の晩は第一回としてお話ししました。まず、ヨハネ伝に出
る人物─「イエスに愛していただいた弟子」の話から始めてそのイエスの
お口から語られた命令─「私は新しい命令を今与えて行く。それは互いに
愛し合えという命令だ。この愛を実行していれば、『ああ、イエスの弟子だ』
と、だれの目にも分かる。」あのお言葉を御一緒に学びました。それに、私
自身の小さな経験から、「私をこんなに大事にしてくださったあの方は『主
の弟子』だった!」というショックを─ 一生忘れないショックを受けた経
験をお話ししました。
ところで今朝は、その神聖な感動に基づいて私たちが、愛を人にお返しし
て行く際に時々不安になってくる二つの問題を取り上げてみようかと思いま
す。その一つは、自分の前にいる人を愛したいのだが、どうしてもその人と
同じ考えになれない、抵抗と拒絶反応を先に覚えてしまうような人だったら
……そんな人でも愛することができるのだろうか……。これは、どなたにと
っても、現実の問題だと思います。
もう一つは、主から愛を頂いて、この十年とか二十年とか三十年とかの道
程を、自分なりに「イエスの弟子」として、「愛の命令」に服して歩いて来
たけれども、フト立ち止まって自分の姿を顧みる時に、この私は、「愛の人」
というにはほど遠かった。むしろ、「憎しみと冷酷の人」であった瞬間のほ
うが多かったのではないか? 「イエスの弟子」として私は完全な失敗に終わ
ったか……! そんな思いに駆られた時に、どうしようか……これも同じくら
い深刻な問題だと言えます。今朝はこの二つの疑問に絞って愛を考えますが、
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愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
今朝は土曜日のような長編のストーリーはありません。特に後半は純然たる
聖書の講義で結ぶつもりです。
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始めの方の問題……と言いますと、どうしても愛することができないほど、
抵抗と拒絶反応を起こさせるような相手を私は愛せるのか……という問題で
す。本当はこれは、考えれば考えるほど悲しいことですが、肉の人間という
ものは、自然の傾向のままにしていれば、自分のイメージに合ったものだけ
愛して、それで済ませてしまいます。人が人を“尊敬している”という場合
も、その正体は往々にして、「お前は私のイメージに合って気にいった!」
くらいのところが案外多いものです。ですから、「イエスが愛したように愛
せよ」という“新しい命令”を頂いても、肉の人間の我がままにかかります
と、「相手を私のイメージに合うように変えよ。そして、もしうまく直った
ら愛せよ」という、似ても似つかぬものに変えられてしまいます。
古代ギリシャの街道強盗にそういうのがいました。この人は捕まえて来た
旅人を自分の寝台に縛りつけて測り、もし背が高くて足が外に出たら、その
足を切って寝台の長さに合わせてやったと言います。反対に寝台の長さに足
りない短い人なら、ジャッキのような道具を使って、引き伸ばしてやった。
人間の愛し方は案外、こういうのが多いものです。強盗の名はプロクルステ
ス「プロクルステスの寝台」は諺にもなっています。
人を教えたり指導する場合でも、つい、教師の体質に合うものだけを選ん
で合わないものを、自分の偏見で“足切り”してしまうことがあります。教
師は、相手が素直で学ぶ姿勢を持っている(teachable である)かどうかを
見ると言いますが、実際には、「彼は私の周波数に合わせてくるか」で判定
してしまいます。もっと身近なところでは、家庭でも、自分の夫や妻が自分
のイメージどおりに変身するまでは、決して、赦すことも愛することもでき
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ない……という悲哀。これはクリスチャン同士の夫婦でもよくあるものです。
こういう悲しくも滑稽な私どもが、どうしたら、この肉の弱さに打ち勝って、
主の「新しい命令」を実行できるのか……。おとといの夜は、ローマ書の 5
章(:8)から引用しましたので、今朝は同じローマ書の 14 章から 4 節と 15
節を中心に学びたいと思います。もともとパウロはこの 14 章では、純粋で熱
心な信仰という点で自分とイメージの違う人への拒絶反応をどうするか─
その問題を取り上げているのですが、その中でパウロはこう教えています。
「キリストはその人のために死なれたことを考えよ。」(:15b)「神がそ
の人を既に受け入れておられるのだ。神の大事な人を、まるで自分の家の召
し使いみたいに判定して落第にするとは、あなたはいったい何様のつもり
か!」(:3b,4a)パウロが言う意味は、相手は主が所有なさる主のしもべ、
主の家に仕える主の召し使いであることを忘れるな、ということです。そし
て、その後にこう付け加えます。
「その召し使いが及第か落第かは、彼の主人が決めることだ。彼の主であ
られる方にそのお力がある以上、彼が及第になり得ることを忘れるな。」(:
4b)これを読んだ時は、とてもショックでした。この私の小さなイメージに
合うか、合わないかなど、主にとってはどうでもよくて、私と合わないその
人をちゃんと主の家のしもべに採用して、主が彼を引き受けておられるとい
うのです。主が彼のスポンサーです。主が彼のパトロンになって保証なさる
のです。
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そうは申しましても、私たちには、どうしても兄弟に近づきたくないとい
う場合もあります。交わりを断つほどのことはなくても、少し距離を取って
近付かないでいる場合も当然あります。例えば、その人の道徳的な判断の基
準や生き方が明らかに、私が主から学んだものと異質であるような場合です。
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それでも、その人に対する愛は冷さないで保つことはできましょう。しかし、
そんな極端なケースは稀で、たいていの違いは、その人と私の宗教文化の違
いであることが多いと思います。
たとえば、「キリストの教会」と呼ばれるこの群れで学んだ私の文化と、
外のキリスト教文化で育った人との習慣の違い、物の考え方の違いです。ど
うか誤解のないよう、私は「キリストの教会」の交わりを愛しています。こ
こにいらっしゃるどの日本人よりも、「キリストの教会」の素朴な福音の恩
恵を受けて感謝しています。“Churches of Christ”の主張を誇りにしてい
るつもりです。しかし、そんな私でも、私たちが他の群れの人たちを見る時
に感じる「抵抗」とか、「肌合いの違い」のようなものは殆どすべて、単に
お互いの文化の違いに過ぎないと思うようになりました。私がこの交わりの
中で四十五年間に学ばせていただいた貴重な伝統のうちで、絶対に曲げては
ならない、妥協してはいけない本質的な部分は、「福音以外のものはあって
良くなくて良い。私たちにはキリストと聖書だけで十分」という、聖なるア
マチュア精神、そして、「イエス・キリストの権威以外に権威を持たない」
という潔癖さだと思います。
それ以外の違いはたいてい、一言で言えば、(皆様は西洋の人たちが、胸
の上で十字を切るのを、映画やテレビで御覧になったでしょうが)、あの十
字を切る動作を、ギリシャ教会式に右から切るか、それともローマ教会式に
左から切るかの違い……その程度のつまらない違いだということです。もち
ろん、「全然十字は切らない」立場や、「アーメン」と言って合掌する流儀
をも含めて言っております。私自身は、この交わりから学んだ素朴なキリス
ト教を大事にしていますし、例えば友人がイエスを信じることを告白した場
合は、全身水没の浸しに服することをお勧めします。私には、「イエス・キ
リストの名を根拠として浸されよ」という命令への服し方は、それしか考え
られないのです。でも、そうでない考え方の人も愛することができます。私
はこのことを、土曜日にお話ししましたように、自分とは異質のキリスト教
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文化を持つ兄弟から愛される経験を通して、学びました。ただ、「愛する」
ということは相手の思想の全部を鵜呑みにして、その人に心酔することとは
違う……このことは忘れないようにしています。
私は、自分の愛する人や尊敬する人のことを語るとき、特に信仰の恩人と
して説教の中で感動を込めて語った場合、必ず、その人と自分との違いを付
け加えることにしています。決して先輩を傷付けたり、貶めたりする卑しい
態度では話しません。しかし、先輩の素晴らしさをつい強調してしまった時
には、その分だけ、その方に対して自分はどの点で違い、またシラケている
かを語るように、努力しています。もちろん、それが必要と判断する時だけ
です。もっとも、私のこういう流儀とは逆に人の事を語る際には、絶対に美
点だけを語るという“高貴な”主義も立派です。しかし、これをやりますと、
聞いた人が後で思わぬ迷惑を被ることがあることも、知っています。
次の区分でお話しする内容はその意味で、一昨晩の感動に冷水を注ぐ結果
になりはしないかな……と少し心配もいたします。でも、大事なことを分か
っていただくための必要な例話としてお許しください。「何だ! 織田はそん
な人を尊敬していたのか……」と、皆さんがガッカリなさるのを覚悟で、次
の段落に入ります。
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ここに一冊の美しい本があります。ビザンチン美術に関心のある方でした
ら、きっと内容に興味をお持ちになるでしょう。本の標題は「聖なる画像の
歴史と神学。」「画像」は“イコン”とも言われる中世ギリシャの、キリス
トや母マリアを描いた聖画のことです。英語では、“icons”と訛ります。パ
ソコンのウィンドウズをお使いになる方も、「アイコン」はご存じでしょう
が、美術の方で「アイコン」とか「イコン」─,複─という
場合は、ロシア教会やギリシャ教会にあるあの聖画像のことを言います。こ
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の本の表紙には、典型的な聖母子像を描いている修道士の挿絵があります。
この 48 頁と見開きになっている「イエス・キリスト像」は、シナイ山のカテ
リナ修道院にある有名なものです。実はこの本は、一昨晩お話しした私の師
匠で恩人のマルコ・シオーティスさんがお書きになったものなのです。
以前、聖書学院でこの発表をしました時は、27 分のスピーチにしたのです
が、今日は単に一つの違いの例としてお話しするだけですので、話は3分以
内にコンデンスしています。あのイエスやマリアの聖画像がなぜ大事なのか
について、著者は次のように理由づけをしています。まずアダムが創造され
た時には、あのアダムは神の像として造られたこと。イエス・キリストはそ
の神の像の完全な姿として受肉されたこと。これを考え合わせるとき、イエ
スを描いた画像“イコン”は、人が神の真実を知る洞察を助ける、極度に重
要な補助物だと。念のため、ロシア正教やギリシャ正教では立体の像を彫る
ことは禁じられていて、イコンは必ず平面像でなければなりません。高井寿
雄氏によれば、この平面の画像は「地上と天国との間の窓であり、……信徒
たちはイコンを通して神の国をのぞき込む」
(教文館:「ギリシャ正教入門」)
のです。
ギリシャ人やロシア人が大事にするあのキリストの肖像は、決して後代の
画家の想像したものではなくて、あれには、信頼できる確かな根拠とオリジ
ナルがあるのだと、著者は主張します。これには皆さんも驚かれるでしょう。
シオーティスは古代の教父たちの証言をもとに、既に使徒たちの時代にイエ
スの容貌や特徴は口伝の形でかなり正確に伝えられていた、と言います。次
に、総督ピラトが皇帝への報告書につける資料として、イエスの正確な肖像
画 2 枚を専門家に作らせたことに注意を引きます。このほか、特にリアルな
原型になったものとして、イエスの等身大の銅像がフィリポ・カイサリアに
実在したことを指摘します。この銅像を作らせたのは、イエスの服の房に後
ろから触れて癒されたあの女性だそうですが、彼女は主に対する感謝を表す
ため、自宅の庭にこの像を立てていました。この資料を著者は、エウセビオ
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スの教会史から引用します。著者はまた、奇跡的に主のお顔が写っている「聖
なる手拭」なども、聖画像の貴重な資料として評価するのです。更に、これ
らの聖画像が起こした奇跡ですが……。聖なるイコンに信者が触れたり、口
づけすることによって起こった癒しの奇跡は紛れもない事実で、これは、キ
リストを信じる者とイコンを両電極として生じた、真実の聖なる火花であり、
恵みの力の現れであると結んでいます。(皆様は、そろそろ食傷気味でしょ
うか?)
評価は、お聞きになった皆様一人ひとりに委ねますが、私自身の感情はま
ことに複雑です。ギリシャ人の先達らが二千年かけて守ってきた貴重な伝承
を尊敬するのに吝かでないつもりですが、これは、私が聖書だけから得た『福
音』のキリスト像とは異質のものに思えます。私が拝聴した、あの優れた聖
書講義をなさるマルコ先生と合わない。あんなに愛を示してくださった真の
「イエスの弟子」と、結びつけようとしても結びつかない。これは、私の側
に欠陥があるための偏見でしょうか? しかし、イエスの画像や聖母の画像に
ついてのマルコ先生と私の食い違いなどは、まだまだ御愛嬌のような小さな
ことです。教会の権威や礼典の執行について、主教の権限について、聖職の
任命について論じ始めれば、マルコ先輩と私との間には、天と地ほどの違い
がいくつも、いくつも介在するのです!
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前半のポイントをまとめてみましょう。これは、人間の限界で、致し方な
いのですが、多くの場合人は、自分を育ててくれたキリスト教から多くの恩
恵を受けるのと同時に、その国の、またその民族のキリスト教文化を、好む
と好まざるとに拘わらず背負い込むものです。できればイエス・キリストだ
け、福音だけを頂いて、後は自由でありたいのですが、なかなかそうは参り
ません。ギリシャ正教会に育った人はギリシャ正教会が世界に誇る美しい遺
産を、キリストと抱き合わせで頂戴してまいりますし、また、その教会の持
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つどうにもならない、悲しいシッポみたいなものをも引きずりながら、信仰
を告白するのです。もちろん、このシッポは私たち「キリストの教会」を名
乗る者も、シッポの寸法はいくぶん短い(狐のシッポと兎のシッポ位の違
い?)とは言え、やはり米国の先輩方から受けて、正しい福音と一緒に引き
ずっていることは、謙遜に認めるべきでしょう。それにまた、教会の伝統や
文化などから全く自由な先輩方でも、その方御自身の偏った霊的体質のシッ
ポや、その方の先生が持っておられた見事なシッポを付けて引きずっていら
っしゃる場合は、よくあります。嬉しいことに、愛はそんな時にも十分に成
立するだけの力を持っています。愛はシッポを問題にしないのです。
よくギリシャ人から尋ねられた、一つの質問を思い出します。もちろん、
親切から言ってくださったことで、私を困らせようとした訳ではありません。
「織田さん、あなたはどうして、ギリシャ正教に改宗なさらないのです?」
相手の人はやはり、ギリシャのキリスト教がいちばん由緒正しい、最も聖書
的な正しいキリスト教だと信じて、そうおっしゃるのです。「パウロやルカ
が書いた原作をお読みになれる織田さんが、私たちの“Orthodox”の教会に
お入りにならないというのは不思議だ。」─真理を知ったのに、これを拒
むことはないでしょう、という訳です。ところが、マルコ先生だけは、決し
てこれはおっしゃらなかった。知遇を頂いて三十年以上になりますけれど、
その間一度もおっしゃらなかったと思います。なぜだろう? と、時々考えて
みるのですが……。
何よりシオーティスさん自身が、スイスの教会やドイツの先生方から一人
のクリスチャンの青年として扱って頂いたから……なのでしょうか。ギリシ
ャ正教会の信徒としてでなく……です。ここでも、シュナイダーさんやキッ
テルさんがなさったことの連鎖反応が、私にまで及んでいるのだと思います。
「私が愛したのと同じように、互いに愛せよ」と命じられた「イエスの弟子」
は、相手が同じ「イエスの弟子」であることを見抜いたら、お互いをただ主
にある人として遇することを学ぶのです。
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愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
最初に掲げた問いを思い出してみましょう。「どうしてもその人と同じ考
えになれないし、抵抗と拒絶反応を先に覚えてしまうという場合にそんな人
でも愛することができるのだろうか?」これについては、まず、人間の肉の
弱さから来るものを克服する力を、ローマ書 14 章から、「キリストはその人
のために死なれた」という御言葉から学びましたし、「神が大事にしている
者を、まるで自分の家の召し使いみたいに判定して落第にするか」という御
言葉や、また「足切り山賊」プロクルステスの寝台の例からも考えました。
それで、この項では、相手の信仰の姿勢や、聖書の理解について同意できな
い人を愛することができるか……ということだけを考えることにします。
たとえば、ローマのパパ様を尊重するクリスチャンたちがいらしゃいます。
司祭様のボックスへ定期的に通って、罪を告白してから赦しを宣言していた
だく信者にお会いします。また、私たちと近い兄弟たちの中にも、聖霊を頂
く体験の極致は“聖霊浸し”になって譫言を口走るのだと確信する方々に出
会います。イエスの復活を福音書が描くあの文字どおりに信じる必要はない。
弟子たちは、あの通りのことを見たのではなく、神が彼らの心に手を触れて
「キリスト復活の信仰」を与えた結果があの記事になったのだと主張する学
者、作家、さらに牧師もいます。
「“No!”そんな人は私の兄弟ではない。「イエスの弟子」でもない。そ
んなのは、復活を信じていないのと同じだ。私は与えられた聖書的信仰の純
粋さを守るために聖書に反するすべての自称信者と絶縁する!」と言って交
わりを断つ人もいて、当然でしょう。「主イエスの権威以外にヴァチカンの
権威を仰ぐ人とは、交わりは持てない。そんな人たちと共同で作った聖書は
使わない。」そういう潔癖も、また貴重です。しかし、また他方、自分の素
朴な信仰を守りながら─聖書とキリスト以外何にも無しのシンプルな信仰
を、薄めないで大事にしながら、しかも、同意できないキリスト教を確信す
る人たちを尊敬する道を取る人もいて良いのです。もちろん、どこで線を引
くかは、各人に与えられた恵みの尺度に左右されるでしょうが、自分のキリ
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スト教文化を絶対視しないだけの謙遜さと愛を持てれば宜しいのです。私は
このことを ギリシャ人である「主の弟子」から愛を受ける経験を通して学び
ました、と御報告して、皆様の中にもガッカリなさる方と、何かの参考にな
さる方と、両方いらっしゃって良いという、この自由が何とも嬉しいです
ね!!
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二番目の問題に移ります。私は「イエスの弟子」としては、全くの失敗者
ではなかったろうか? 私は「愛の人」というにはほど遠くて、「憎しみと冷
酷の人」であった瞬間のほうが遥かに多かった。私はものにならないのだ
─そんな思いにさいなまれた経験は、あなたにはおありでしょうか。私に
は、何度もあります。一旦こういう思いに囚われますと聖書の福音の言葉ま
でが我身を突き刺す刃となって、骨にこたえる苦しみを呼ぶことがあります。
例えば、第1ヨハネ書の3章 14 節です。
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛
しているからです。(そんなことが言える人の顔がみたい。私は駄目だ!)
愛することのない者は、死にとどまったままです。 15.兄弟を憎む者は皆、
人殺しです。(私がそれだ!)あなたがたの知っているとおり、すべて人殺
しには永遠の命がとどまっていません。
本当は、この御言葉には、後で申し上げますように、大きな慰めが含まれ
ているのですけれど、「私は愛の失敗者だ。イエスの弟子としては失格者に
なった」と思い込んだ時には、ヨハネが伝えたかった肝心の慰めは見えなく
なっています。そんな時、ヨハネ書簡の内容をよく知っている人が助言して
くれて、「あなた、そうじゃない。ここに言う、『兄弟を憎む者』とか『人
殺し』というのは、1 章からずっと続いている偽りの宗教者のことなのです。
“グノーシス教”と後に呼ばれるようになるこの人たちは、歪んだキリスト
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を信じて、ふしだらな生活を平気でしてそれでいて、正しい生き方のクリス
チャンを憎んで呪っていたのです。ヨハネはその人たちのことを叱責してい
るのですから、あなた、早合点して自分が責められていると思ってはいけま
せん。」そう言ってくださる人がいても、「気休めを言うな! 私は真剣に悩
んでいるんだ!」─どうしても、「人殺し」で、「兄弟を憎む者」は自分
だと思い込まないと真剣さに欠ける─そういう時期もあります。私もそう
でした。
しかし、ヨハネの手紙はそんなジメジメした“お遊び”を私たちに教える
のではなくて、もっと明るいメッセージ、私たちを勇気で奮い立たせるよう
なメッセージを持っています。「あなたは、光の中にいるんだ。眩いほどの
光の中に置かれている自分を見てごらん」(1:7)と……これはこのヨハネ
という人の口癖を真似しているのですが、彼は言うのです。「こんなに大き
な愛で、愛していただいた自分をよく見てごらん。確かに、暗い陰の部分も
残っているけれども、神様の光の洪水の中にいる自分に大きな変化が起こっ
ていることに気づくはずですよ。キリストの愛が、あなたの中で連鎖反応を
起こしている。死んでいた者が、命の中に取り込まれて、自分でも人を愛し
始めて、止まらなくなつているでしょう。」もう一度 3 章 14 節を読み直すと、
それが伝わってきます。
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛
しているからです。(3:14a)
この訳文は、新改訳でも新共同訳でもそうですが、申し合わせたように殆
ど同じです。多分、耳にきれいに響くように文章を整えるとこうなるのでし
ょう。そこで、ちょっと“ぎこちない”のを我慢して、ヨハネが使った強い
完了形《》=“we have moved”の意味を出してみると、「私
たちはもう、死から命へ《移転ずみだ》」となります。
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私たちはもう死の中にはいない。すでに命の中へ『引っ越しずみ』で今は
命の中にいる。このように兄弟たちを愛し初めているのが、何よりの証拠と
考えてよい。(私訳)
ちょうどパウロがローマ書で、「あなたがたは律法の下にはいない。恵み
の下にいるんだ」(6:14)と言ったのと同じです。パウロはその証拠に、「神
の霊があなたがたのうちに住んでおられる」(8:9)と言ったのですが、ヨ
ハネはその証拠を、「こうして私たちが愛し始めたのだから」
と言ったのです。
パウロもそうでしたが、ヨハネも、この凄い愛の福音を信じたのなら本気
で信じてその命の中へ浸かってごらん。自己嫌悪だ反省だ……ウダウダ言っ
ていないで、御言葉の額面どおりに受け止めるんだ。あなたの中に起こって
いる“愛の奇跡”が見えてくるよ。そう言っているのです。
「愛ということを私たちが知るようになったのは、何によってだったか…
…それは、あの方が私たちのために自分の命を差し出してくださったからだ
った。」(1ヨハ 3:16)
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次に、同じヨハネの手紙から、4 章の 16 節以下を開いてみましょう。「完
全な愛には、恐れはもう存在しない」という、よく知られた箇所です。この
言葉には、いろいろな取り方があるようです。例えば、「本当に相手を愛す
る時は、その愛が届かなくても、自分が傷ついても、恐れないでただひたす
ら愛する」という意味(?)に応用できないことはないのですが、書いたヨ
ハネの趣旨はどうも、そのことではないようです。前後の文脈を無視しない
限り、ヨハネが言いたいのは、そんな愛を持って裁きの日に主の前に立てば、
その愛のお陰で恐怖は微塵もない。あなたは子供が父の懐に飛び込むように
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安心して、委ねて、『アバ、父よ!』と近づける。ヨハネのいう「確信」(新
共同訳<)はそんな、父の前にいる子の安心感ですが、これも
また、使徒パウロのローマ書の福音と同じ(ロマ 8:15)です。では、第1
ヨハネ書の 4 章の 16 節以下を開いて、御覧ください。
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神
は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人の内にとど
まってくださいます。 17.こうして、愛がわたしたちのうちに全うされてい
るので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イ
エスのようであるからです。 18.愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め
出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていない
からです。 19.わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくだ
さったからです。
この中に三つの謎があります。というより、ウッカリ読み過ごせない三つ
の大事なポイントがある……と言い直しましょう。それは─
①「完全な愛」(:18)という「完全な」の意味。
②
わたしたちが「イエスのようである」(:17)の意味。
③
愛がわたしたちの内に「全うされている」(:18)とはどうなって
いることを言うのか……その意味─です。
まず、「完全な愛は恐れを締め出す」から考えます。そんな愛が私たちに
全うされている限り、子が父の前にいる時の満足と安心を持てる。
恐怖はない……というのですが、そんな「完全な愛」を人間が果して持てる
のか─という角度からだけ、つきつめて考えると、この「完全な愛」とか、
「全うされた愛」というのは、神の愛しかあり得ないことになります。この
基点に立って考えると、私は決して、自分の愛の純粋さや強さを極限まで高
めた「完全な愛」を行うことで、恐れを持たずに神に近づけるのではない。
自分の愛を完全にするのではなく、神が愛してくださる、本来完全な愛を頂
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いて、その愛でそこへ立たせていただける。この解釈は十分筋が通っていま
すし、福音の信仰にピッタリのように思えます。説教の結論としても感動的
です。私もこの角度からの勧めや説教をした覚えがあります。これは福音そ
のものだ! と言って良いでしょう。ただ、その事が果してヨハネの文意であ
るか……ということになりますと、事は別です。元々この解釈は日本語の「完
全な愛」という訳語の「完全な」に幻惑されてできた解釈なのですから。
けれども、この 4 章の 7 節から 21 節までの全体の思想の流れに乗って考え
てみますと、ヨハネは単に「愛を頂いた」ことを力説するのではありません。
「神の命で生んでいただいた者が、愛することができるようになっている。」
(4:7)「互いに相手を愛する負い目を持つ。」(:11)「現にこうして愛
する存在にされている。もちろん、神がまず私たちを愛されたからだが」(:
19)……と、この一貫したヨハネの重点をしっかり捕えた目で 17 節の結びの
一句を理解すると、「あのお方がそうあられるのと同じに私たちもなってい
る─この人の世で」というのは、やはり「人間のいるこの世界で、あのイ
エスが愛したように愛する存在にされて、言わば一人ひとりが『小イエス』
にされて、人を愛しているのだから」という意味になります。こうして、「愛
しているからこそ」、「裁きの日に確信を持って立てる。これは愛が私たち
を使って perfect な complete なものになって実現しているのが分かるだろう
か!」
この角度から、もう一度、「完全な愛」、「愛が全うされている」を考え
直してみましょう。少し溯った所にある、12 節の言葉がいちばん参考になり
ます。12 節の二行目から……。
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わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってく
ださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
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愛が「全うされている」という 17 節の表現がここ(12 節)にも出てきま
す。これを形容詞にすると、18 節の「全うされている愛」になります。多分
訳した人は、“perfect”=「完全無欠」という先入観から「完全な愛」と訳
したのでしょう。本当は、12 節の「全うされて」~18 節の「全うされて」~
17 節の「全うされている愛」……これらはみな、同じ意味でつながっており
ます。それはどんな意味で「全うされている」のでしょうか?
英語では“and his love is made complete”とか、“made perfect”と訳
されるのですが、ヨハネが使ったオリジナルの言葉の意味から言えば、この
「全き」(:18)とか、「全うされ」(:17)とか、「全
うされている」という時のに込められた意味は、目的を
「達成している」こと、愛してくださった神の意図を実現して「完結してい
る」ことなのです。設定された「目標に達しているこのと」、「終点に着い
ていること」です。くだいて言うなら、この私たちにエンジンがかかって、
神様から頂いた愛がその目的地に届けられた時に、愛は神様の目的を果して
「全うされる」のです。英語で言うなら、“So his love has reached its
destination through us.”(4:12)か、“So his love has accomplished its
purpose through us.”と表現できるのではないかと思います。「完全な愛」
と訳されている一句はむしろ、“Love that has accomplished His holy
purpose”(“聖なる御意図を達成している愛”)と理解すべきものです。
こうして、愛が神の意図された終点に着くような「頂き方」をした人は、
「イエスがなさったと同じに、人を愛する者」(:17b)にされているのです
し、そうやって「頂いて、届けた“愛”」によって、「裁きの日にでも確信
を持てる」のです。終点に「届かせたからそれと引き換えに」ではありませ
ん。「聖なる意図を達成した功績により」ではありません。ただ、そんな「頂
き方」で頂いた人は、神様の愛の聖目的を確かに達成したことを確認して感
謝していい。それが、外ならぬ「完結された愛」“Completed Love”であり、
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愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
「達成された愛」“Perfected Love”である─仮にそれが、「完全無欠」
とは程遠くても……。
8《まとめ》
もう一度あの、二番目の問題に戻ってきました。「私はイエスの弟子とし
ては、失敗者ではなかったろうか? 裁きの日に恐れに震えなければならない
のではないか?」“No!”,決してそんなことはありません。あなたが信仰
で生きる限り、イエス血の力と復活の命があなたを、絶対に失敗者にはさせ
ない。それだけではなく、あなたの中に、現にイエスの愛の奇跡が起こって
いるのを見よ。第1ヨハネ書の 3 章 14 節は、実にこのことを保証する福音の
言葉なのです。
わたしたちは、自分が死から命へ移ったことを知っています。兄弟を愛し
ているからです。(ヨハ 3:14)
これを、先程御紹介した訳文─ヨハネの趣旨を汲んで少し補った訳文で、
言い直してみます。
私たちはもう死の中にはいない。すでに命の中へ『引っ越しずみ』で今は
命の中にいる。このように兄弟たちを愛し初めているということが何よりの
証拠と考えよ。(私訳)
要はこれを本気で受け止めるかです。それだけのことを、キリストがして
くださったのか、そうでないのか。あなたの「石膏の壷」を空になるまで傾
けて、香油を注ぎつくしたいほどの愛をイエスから受けたか。「私が愛した
ように愛せよ」という新しい命令を、本当に主のお口から聞いたか。「主が
愛しておられた弟子が」とヨハネが書いたのは、実はこの私のことだと知っ
たか。その私を通して愛が父の意図された終点に届く喜びを味わったか。も
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愛を頂いた人の生涯(Ⅱ)
しそれを、ほんの少しでも知ったのなら、あなたの中で、神の愛が目的を達
成して完結しているのです。「完全な愛」という訳語はまことにお粗末で、
本来の意味からは遠く外れますがその達成された愛はいつも大事にしてくだ
さい。そして、愛を頂いた人の生涯を、御一緒に、感謝の供え物としてお献
げしようではありませんか。
(1994/07/25・天城山荘)
《研究者のための注》
1.「全き愛」と、「愛が全うされている」は、「完結・達成・終点」を意味する
(end)を語根とする形容詞と動詞を使って表現されていること
から、perfect(complete)love の内容は 4:12,17 の動詞と同じ意味(
=)に解釈しました。参照:織田「第1ヨハネ書の福音」第
13 講、「天城大会ニュース」No.4 所載「愛を終点に届かせる」。
2.「全うされている(いない)」は 4:17,18 では,:12 ではペリフラシ
スでですが、意味は同じです。
3.「引っ越しずみである」と訳した完了形の動詞はヨハネの福音書でも
5:24 に3単で使われていて、しかも修飾句
が全く共通です。「死の中から引き出されて命の中へ移転ずみ」は、まさにヨ
ハネ特有の福音の表現だと言えます。
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