東洋英和女学院 「救い主を宿す」 全学院クリスマス礼拝 2012年12月7日 ルカによる福音書1章26節~55節 Ⅰ.東洋英和女学院の2012年の全学院クリスマス礼拝に集われた教職員の皆さん方の上 に、主イエス・キリストの祝福が豊かにあります様に祈ります。東日本大震災、また原発事 故による放射能汚染問題が発生してからやがて 2 年になろうとしています。世界的な不況も 重なり、多くの人が様々な困難を抱えて、明日を切り開こうと苦悶しています。このような 中で迎える今年のクリスマスは、私たちに何を語りかけてくるでありましょうか。 先日私の関わっています阿佐ヶ谷教会の高齢の婦人が亡くなり、葬儀に出席して、この方 の御子息にお会いしました。この方は NHK 報道局に勤務され、チームの方々と『塹濠のマ ドンナ』という本を出しておられます。第二次世界大戦中に軍隊に召喚されてロシアのスタ ーリングラード攻撃に加った、クルト・ロイバーというドイツの牧師の話であります。ソ連 軍の猛攻撃を受けて、ドイツ遠征軍は食料も物資の輸送も絶たれ、零下40度の塹濠の中に 閉じ込められました。1942年のクリスマスが近づいたころ、ロイバーは思い立って、手 元にあった大きな地図を裏返して、そこに木炭で、幼児を抱いたマリアの姿を描きました。 幼子と母が頭をかしげ合って、大きな布に包まれ安全に守られている聖母子の姿であります。 その絵のまわりにロイバーは「光」 「いのち」 「愛」Licht、Leben、Liebe という三つの文字 を書き付けました。ヨハネ福音書の冒頭にある「その内に命があった。命は人間を照らす光 であった」(1:4)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:1 6)という御言葉から取ったものでありました。 ロイバーはこの聖母子像を、塹濠の入り口の戸の裏に貼り、絵の下にローソクを点しまし た。クリスマス・イヴの夜、兵士たちが外の闇からこごえて塹濠の穴の中に飛び込んで来て、 戸を閉めようと振り返った時、そこに聖母子が、「光」「命」「愛」に輝いているのを見まし た。彼らは一人残らず深い感動に「おお」とい声をあげました。その後クルト・ロイバーは ロシアで捕虜となり、死ぬのですが、このマドンナ像はドイツに持ち帰られて、ベルリンの カイザー・ヴィルヘルム記念会堂に置かれました。そして廃墟と東西分裂の闇の中から立ち 上り、ヨーロッパ最強の国を作った、ドイツの人たちを励ましつづけたのです。 今日の厳しい状況の中でも、神はわれわれを暗闇の中に放置されず、われわれと同じ人間 の仲間として来られ、われわれの内に宿り、命と光と愛をもって、われわれを照らし、我々 を燃やして下さるのであります。 Ⅱ.今日の礼拝では、主の母マリアへの受胎告知の記事を取り上げました。天使ガブリエル が「おとめマリア」を訪れ「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と挨拶 し、神の子を生むと告げるのであります。そして生れ出る子が「ダビデの王座につく」と約 束されます。教会では、イエス・キリストは、 「預言者」 「祭司」 「王」という、三つの働き、 三職位を持つと教えられます。イエス・キリストは①預言者として神の御心を深く人間に伝 え、②祭司として人間を神と結び合わせ、③王として人間を神の国へと導く方であると教え ています。こうして神が「光」 「命」 「愛」として、人間の内に宿るとガブリエルは告げたの であります。この天使の御告げを聞いてマリアが、このような尊い神の子を自分のような貧 しく低い娘がどうして宿すことができようかと戸惑うと、天使ガブリエルは「聖霊があなた に降り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)ので、神の力によって神の子を宿すこ とができるのだと告げました。 このガブリエルのマリア訪問を題材として、実に多くの「受胎告知」の絵が描かれました。 私はイタリアのフィレンツェの聖マルコ修道院を訪れた時、階段を上ろうとして、その前の 壁に、フラ・アンジェリコの「受胎告知」を見たときの感動を忘れることができません。緑 の木立と小さな花におおわれた庭から、修道院風の柱廊に天使が入って来て、その前に腰を 下したマリアに、受胎を告知している大きな壁画であります。朝もやがまだ残る、生命の夜 明けを感じさせる絵であります。同じフィレンツェのウフィツエ美術館にあるラファエロの 聖母子像も忘れることができません。私はラファエロの作品について、原画をみるまでは、 何となく平凡な絵という印象しかもっていなかったのですが、あの原画を見た時、暫く身動 きができない程の感動を覚えました。聖なる命を宿した美しくも愛にあふれたその姿が、自 分に深く触れて来るのを覚えたのであります。 しかし、今日私は、このマリアを我々の外の一人としてでなく、われわれ人間一人一人の 代表として受け取り、私のこととして考えたいのであります。プロテスタント神学でも、マ リア論 Mariologie を教会論 Ecclesiologie と関係させて考察することがあります。教会は「キ リストのからだ」であり、キリストを宿し、またキリストをこの世に送り出す働きをします。 そこから更に考えを深めると、御母マリアは、人間が神の子を宿したのであり、われわれ一 人一人にも、聖霊によってキリストが宿って下さり、わたしの証しと奉仕を通して、キリス トがこの世に出てゆかれるのであります。マリアは私だと取ることができます。使徒パウロ はコリントの信徒への手紙Ⅱ13:5で「あなたがたは自分自身のことが分からないのです か。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」と記しています。ですから、イ エス・キリストが私の内に宿られることが記されているのです。私たちは、東洋英和という キリスト教教育機関に関係するものとして、マリアは東洋英和という、キリストが宿り、神 の光と命と愛を学生・生徒ひとりひとりにともしてゆく働きのシンボルであり、そこに教職 員として働く一人一人の内にキリストが宿り、学生・生徒の中に送られてゆくことを心に刻 みたいのであります。 Ⅲ.39~45節には、御母マリアがバプテスマのヨハネの母エリサベトを訪問する美し い物語が記されています。ヨハネは旧約の預言者の最後の人物でありますから、エリサベト は旧約の民イスラエルのシンボルであり、マリアは新約の民、キリストの民のシンボルであ ります。旧約の民は長い間イスラエルの救いを待ち望んでいたのでありますが、メシア・イ エス・キリストがこの世に生まれたことによってその救いが成しとげられたのであります。 それで「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」(41節)の であります。 新約の民である教会は、クリスマスになると、御母マリアのように、イエス・キリストが 自分たちの内に宿っておられ、わたしの「命、光、愛」として輝き、わたしにこの命と光と 愛を人々に、この世に運んでゆくように命じられるのであります。 わたしたちは、天の使いが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(2 8節)と、わたしを祝福して下さっているのを聞いています。そして、「聖霊があなたに降 り、いと高き方の力があなたを包む」(35節)ので、この主イエス・キリストを改めて自 分の内に迎え、このイエス・キリストを人々のところに運んでゆくように命じられるのであ ります。 Ⅳ.ですからわたしたちは、マリアの讃歌を自分の歌として歌い、神を讃美するのでありま す。 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である主を喜びたたえます」(47節) 「あがめる」は、メガリスナイ、ラテン語では magnificat であります。メガ、magnus は 「大きい」ことであります。神の恵みを知ったマリアは、自分の魂一杯に神様が大きくなる、 大きくあふれるのを感じました。「心に大きくなる」とは「愛に満ちる」ことであります。 神が私を愛して下さって、私に対して怒り、裁くのでなく「救い主」として来て下さったこ とを知った時、私の心は喜びに満たされ、「救い主なる神」を心から愛し、愛の神を愛し返 すのであります。 「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節) 神と人間との間には、天と地ほどの差があります。永遠に生きる方とつかの間の人生を過す 人間との差だけでなく、汚れなき聖なる方と罪にまみれ汚れ果てた人間との差があります。 そのような天と地程の落差をものともせず、神が私の内に来て下さるのであります。 これはマリアだけのことではありません。マリアを通して、人間一人一人の内に宿って下 さるのであります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執 しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられまし た。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でし た。(フィリピの信徒への手紙2:6~8)。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリ ストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しく なられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コ リントの信徒への手紙Ⅱ8:9)。このような神の破格の恵みが、自分に与えられているこ とを知る時、我々はマリアと共に「力ある方が、わたしに偉大なこと(大いなること)をな さいましたから」(49節)と告白するのであります。 「その御名は尊く、その憐れみは代々限りなく、主を畏れる者に及びます」。 ここで「尊く」と訳されている言葉は「ハギオス」で、 「聖」 「潔い」という意味であります。 また「憐れみ」と訳された言葉は「エレオス」で、ヘブライ語では「ヘセド」という言葉で あります。フォーサイスというイギリスの神学者は、神の愛が holy love であることを強調 しました。人間の愛を遥かに超えた、純なる、そして高く深い愛であります。この holy love、 ヘセドについて最も深く経験したのは、預言者ホセアでありました。彼は預言者でありまし たけれど、異教の神殿の娼婦であったゴメルという女性に愛を抱いて結婚し2人の子供を与 えられました。ところがゴメルは、他の男に心変りして家を出てゆきました。恐らくホセア の心は引き裂かれ、嫉妬に荒れ狂ったことでありましょう。ところが、暫くして、風の便り に、ゴメルは次の男にも捨てられ、女奴隷として身売りされているのを知ったのであります。 それを聞いた時、ホセアの心に燃えていた青い嫉妬の炎が、フッと真赤な愛の炎に変りまし た。「わたしの心は、わたしのうちに変り、わたしのあわれみは、ことごともえ起こってい る」 (11:8)と告白されています。ホセアは、自分を裏切ったゴメルを買い戻すために、 銀15シェケルと大麦1ホメル1レテク(230ℓ、一石二斗)を支払って、自分の家に連 れ帰りました。ホセアは、この時自分の心の動きを通して、神の愛を知らされたのでありま す。普通の人間の愛は、それが裏切られ、破られると、愛の赤い炎が嫉妬の青い炎、憎しみ の炎に変ります。しかしヘセドの愛は、そこに止らず、嫉妬の青い炎を、もう一度愛の真赤 な炎に変えるのであります。「わたしの心は、わたしのうちに変り、私のヘセドは、ことご とくもえ起る」という状態にあります。神の愛は、神に背を向け、神に背く人間に対して、 裁きとしてこれを打ち叩かれますが、そこに止らず、不真実なものを愛し抜いて、相手を真 実な愛へと連れもどさずにはおかないのであります。 東日本大震災に遭遇して、生活の地盤がくつがえり、家族・友人を失なったりした人々の 中に、Christian でも、神が信じられなくなったという人がありました。私は『信徒の友』 の編集委員として、それに答えるように依頼された時、その人々の気持に先ず共感を覚えま した。しかし、あのような過酷な現実の中で、神はどこにおられたのかと考えた時、神はイ ンマヌエル(神われらと共にいます)として、十字架の主として、われわれと共におられた ことを感じたのであります。東日本大震災の時、われわれは、人間の限界を痛感させられる と共に、堅い岩盤が割れて地下水が吹き出すように、日本社会に「共感」「共生」の思いが 沸き起るのを感じました。それと同時に、人間同志の共生の絆だけでなく、神もまた共にい て下さることを教えられたのであります。 2012年の Christmas に、天使はわれわれ一人一人に「おめでとう、恵まれた方、主 があなたと共におられる」と祝福の挨拶を送ってきます。われわれは、ヘセド、holy - love の君イエス・キリストが、改めて我々一人一人の内に宿って下さり、命と光と愛の炎をかざ して、この世に出てゆく様に招いておられることを、深く心に止めたいものであります。 「わ たしは主のはしため、主のしもべです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えて、 新年への出発をしたいものであります。
© Copyright 2024 Paperzz