Reconsidering Ruth Benedict シンポジウム報告書 よみがえるルース

研 究 シリー ズ 6
Research Series 6
シンポジウム報告書
よみがえるルース・ベネディクト
ー紛争解決・文化・日中関係ー
2008年12月6日
Reconsidering Ruth Benedict
Conflict Resolution, Culture and Sino-Japanese Relations
Symposium Proceedings
December 6, 2008
龍谷大学アフラシア平和開発研究センター
Afrasian Centre for Peace and Development Studies, Ryukoku University
表紙デザイン: 山中大輔・内田晴子
研 究 シリー ズ 6
Research Series 6
シンポジウム報告書
よみがえるルース・ベネディクト
ー紛争解決・文化・日中関係ー
2008年12月6日
Reconsidering Ruth Benedict
Conflict Resolution, Culture and Sino-Japanese Relations
Symposium Proceedings
December 6, 2008
龍谷大学アフラシア平和開発研究センター
Afrasian Centre for Peace and Development Studies, Ryukoku University
ロゴは、ガーナ・アディンクラ模様の「双頭のワニ」
。双頭のワニは、2つの口がたとえ争っても胃袋はひ
とつであり、つまり目的は同じなのだから、争わずに協力していこうという意味合いの平和のシンボルであ
り、アジアとアフリカという2つの地域を合わせて「アフラシア」という圏域(スフィア)を象徴的に示す
とともに、他方で同地域における非暴力による紛争解決と平和の実現を目指す本センターの強い願いを示し
ています。
The logo mark of the Afrasian Centre is adopted from an Adinkra symbol of Siamese crocodiles in
the ancient kingdom of Asante that existed in what is now the Republic of Ghana, West Africa. It is a
popular symbol of peace and unity, as Siamese crocodiles share a stomach, or the same ultimate goal,
even if they tend to fight with each other.
若原 道昭 学長
ポーリン ケント 氏
土屋 礼子 氏
−i−
福井 七子 氏
胡 備 氏
郭 連友 氏
濱下 武志 氏
報告の様子
討論の様子
− ii −
はじめに
龍谷大学アフラシア平和開発研究センター
センター長 ポーリン ケント
2007 年 10 月、北京外国語大学で開催された国際シンポジウム「21 世紀における北東アジアの日本研究」に
お招きいただいたことをきっかけに、郭連友先生や胡備先生との研究交流が始まりました。郭連友先生はシン
ポジウムの企画者で、胡備先生は私と同じ部会で報告されました。その部会では、主にアメリカの古典的な日
本研究を再考する報告が中心でしたが、そこで注目された研究の一つが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』
でした。胡備先生は、中国で相次いで出版された『菊と刀』の中国語訳を比較した上で、中国における『菊と
刀』の人気について報告されました。
第二次世界大戦直後に『菊と刀』とその日本語訳が出版されてから 60 有余年、しかも 2005 年には反日運動
がピークに達していたにもかかわらず、中国で『菊と刀』がアカデミック・ベストセラーになった理由は何だ
ろうかと不思議に思いつつ 、 私は中国を去りました。その上、1990 年代においては、中国だけでなく、ロシ
ア、インドネシア、フランスなど、多くの国で『菊と刀』が新たに翻訳されています。近年 、 ルース・ベネ
ディクト研究も活発に進展しているので、今回のシンポジウムでは、ルース・ベネディクト自身がなぜよみが
えっているのか 、 原点に戻って考察した上で、現代中国における『菊と刀』の役割を探るという構成にしまし
た。
戦中から戦後、日本および日本人に対するイメージは、非常に非人間的かつ好戦的で、文化として消滅すべ
きでさえある、という否定的なものが主流でした。しかし、戦時中に心理戦に関わっていた研究者たちこそ、
実は日本人をもっと正確に捉える必要があると訴えていました。彼らが日本人のプロフィールを正確に捉えな
がら、ホワイト・プロパガンダの作成につとめていたことはあまり知られていません。そこで、戦時中の情報
に大変お詳しい土屋礼子先生に、プロパガンダ研究の観点から、彼らが日本人をどのように捉えていたか説明
していただきます。それをふまえつつ、ケントは、米国戦時情報局に勤めていたベネディクトの研究が、なぜ
今も盛んなのかということを、彼女が文化をラディカルに比較し研究した方法から説明しています。さらに、
ベネディクトに先立ってジェフリー・ゴーラーが 1942 年に日本人の行動について研究をまとめましたが、謎
めいた人物ゴーラーと、彼がベネディクトの研究に与えた影響について、福井七子先生が新しいデータにもと
づいて解明されています。
シンポジウムの第 2 部では、まず、胡備先生に、増え続けている『菊と刀』の中国語訳と、翻訳における日
本理解の問題点を丁寧に解説していただき、隣国である中国と日本の文化は、近い関係にあるからこそ、似た
ような文化概念の違いについて気づきにくいことをご指摘いただきます。続いて、郭連友先生に、中国におけ
る近年の日本研究の行方と、そのなかで『菊と刀』がなぜ中国で注目されるようになったかを詳しく紹介いた
だきます。そして、最後に濱下武志先生が中国における日本研究の複雑な位置づけについて、
『菊と刀』の中
国語版に掲載されている映像資料を追いながら、もう一つの日本解釈について述べています。原文と翻訳の間
−1−
にアメリカの歴史家、ジョン・ダワーの日本研究が間に挟まれているからこそ、過去と現在の中日関係の間に
リンクを張ることができたという指摘はとても興味深い論点です。
この数年間、中国における反日運動について多くが報道されてきましたが、再び日本理解に貢献した『菊と
刀』の役割についてはあまり知られていません。紛争解決では、文化理解だけで解決できる問題は少ないので
すが、このシンポジウムでは、日中の複雑な関係において、昔にベネディクトが構築した文化説明の方法が、
今でも役立つことが証明できたといえます。また、日中のアカデミック・ネットワーキングとしても大いに意
味のある機会となりました。
最後に、特に最新の情報にもとづいて興味深い研究報告をしてくださった先生方に、心から御礼申し上げま
す。また、このシンポジウムは本学の 370 周年記念事業との共催で行われましたが、大学の支援があればこ
そ、今回の国際的交流が可能になりました。学長の若原道昭先生をはじめ、大学の関係者の皆さまに御礼を申
し上げます。そして、中心となってシンポジウムの計画と実行に携わった 3 班の RA、松井智子さんをはじめ、
アフラシアのエネルギッシュな PD と RA の皆さんと研究部スタッフに大変お世話になりました。
「裏方」の
方々に心から感謝しております。
謝辞
本報告書は、文部科学省私学助成学術フロンティア事業「紛争解決と秩序・制度の構築に関する総合研究―
アジア・アフリカ研究の地平から」(平成 17 ∼ 21 年度 龍谷大学)と龍谷大学の 370 周年記念事業による研
究助成を受けた。
This publication has been supported financially by the Academic Frontier Centre (AFC) research project
at Ryukoku University In Search of Societal Mechanisms and Institutions for Conflict Resolution
initiated and funded by the Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology (2005-2009)
along with generous support from the Ryukoku University 370th Anniversary Foundation.
このシンポジウムおよび報告書において表明された見解は、それぞれの発言者または執筆者によるも
のであり、龍谷大学アフラシア平和開発研究センターの立場を反映するものではありません。掲載写真は、
とくに記載のない限り、発言者または執筆者ないしアフラシア平和開発研究センターに帰属します。
The opinions expressed in this publication are those of the authors and do not necessarily reflect the
views of the Afrasian Centre for Peace and Development Studies. No part of this publication shall be
reproduced in any form without the permission of the author/s and the Afrasian Centre for Peace
and Development Studies.
−2−
目 次
プログラム………………………………………………………………………………………………………
4
報告者プロフィール……………………………………………………………………………………………
6
基調講演
ルース・ベネディクトの個人的背景と『菊と刀』の誕生…………………………… ポーリン ケント
9
第 1 部 戦争にみる異文化理解
心理戦における日本認識─『菊と刀』の背景……………………………………………… 土屋 礼子
21
ルース・ベネディクトによる文化理解と紛争解決の関係…………………………… ポーリン ケント
29
ルース・ベネディクトの日本人論─ジェフリー・ゴーラーの果たした役割…………… 福井 七子
35
第 2 部 東アジアと日本文化論
中国における『菊と刀』の翻訳………………………………………………………………… 胡 備
55
中国における『菊と刀』研究…………………………………………………………………… 郭 連友
67
東アジア地政文化は成り立つか─中国における『菊と刀』現象をめぐって
………………………………………………………………………………………………… 濱下 武志
72
資料
Ruth Fulton Benedict(1887−1948)経歴 ………………………………………………………………
87
ルース・ベネディクト関連レファレンス……………………………………………………………………
89
−3−
−4−
−5−
報告者プロフィール
土屋 礼子(TSUCHIYA Reiko)
大阪市立大学大学院文学研究科教授。歴史社会学、メディア史研究。著書に、
『大衆紙の源流』(世界思想社、2002 年)、
訳書に、『米国のメディアと戦時検閲』(法政大学出版局、2004 年)などがある。大衆ジャーナリズムとリテラシイに
関心があり、現在は、第二次世界大戦中の対日心理戦における戦時宣伝ビラの研究に取り組んでいる。
ポーリン ケント(Pauline KENT)
龍谷大学国際文化学部教授。龍谷大学アフラシア平和開発研究センター長。社会学専攻、ルース・ベネディクト研究。
福井七子氏との翻訳・共著書として、
『日本人の行動パターン』
(共著・NHK ブックス、1997 年)などがある。現在
は、ルース・ベネディクトが紛争解決にいかに貢献しうるかという課題に関心がある。
福井 七子(FUKUI Nanako)
関西大学外国語学部教授、文学博士。専門分野は文化移入の研究で、日本文化論では、とくにルース・ベネディクト
を中心としたその関連研究に重点を置く。翻訳・著書として『さまよえる人 ルース・ベネディクト』(翻訳・関西大
学出版部、1993 年)、『日本人の行動パターン』(共著・NHK ブックス、1997 年)などがある。
胡 備(HU Bei)
天津理工大学外国語学院日本語学部準教授。大阪産業大学アジア共同体研究センター「アジアの社会、文化の変容に
関する研究グループ」メンバー。研究分野は、中日の言語・文化・経済の比較研究。著書に、『マーケティングの戦略』
(吉林人民出版社、2002 年)
、論文に、「『菊と刀』に対する今日の解説」(21 世紀における北東アジアの日本研究・シ
ンポジウム、北京日研センター、2007 年 10 月)、
「『菊と刀』原著の Glossary と Index に関する一考察」(西安外国語
大学シンポジウム、2007 年 11 月)などがある。
郭 連友(GUO Lianyou)
中国北京日本学研究センター教授。中国日本哲学会副会長。日本東北大学大学院文学研究科博士課程修了、文学博士。
日本思想史を専攻。著書に『吉田松陰と近代中国』
(中国社会科学出版社、2007 年 3 月)
、主編『近世中日思想交流論
集』(世界知識出版社、2004 年)などがある。近世から現代に至るまでの中日思想・文化の交渉や交流に関心を持って
いる。
濱下 武志(HAMASHITA Takeshi)
龍谷大学国際文化学部教授。アフラシア平和開発研究センター第 3 班「ネットワークと地域文化からみた紛争」班長。
東アジア近代史、経済史を専攻。著書に、『香港─アジアのネットワーク都市』
(ちくま新書、1996 年)
、『沖縄入門─
アジアをつなぐ海域構想』(ちくま新書、2000 年)などがある。現在は特にアジアにおける歴史的な広域地域秩序につ
いて関心があり、アジアのネットワークと域圏に関する研究に取り組んでいる。
−6−
基
調
講
演
基 調 講 演
ルース・ベネディクトの個人的背景と『菊と刀』の誕生
ポーリン ケント
龍谷大学国際文化学部教授
本日は「よみがえるルース・ベネディクト:紛争解決・文化・日中
関係」という大きなテーマのシンポジウムだが、その主役、女性の文
化人類学者、ルース・ベネディクトは、1887 年に生まれ、1948 年に
他界した。日本では、ベネディクトが女性であることがあまり意識さ
れていないが、おそらく女性であったからこそ、あの有名な『菊と刀』
(Benedict 1946=1948)を書くことができたと私は思う。ちょうど 60
年前に亡くなった人物なのに、なぜか彼女は最近も話題にあがること
が多い。
このシンポジウムの午後のセッションでは、近年、中国でも活発に
よみがえっている『菊と刀』について詳しく論じることになっている
ので、ここでは、一人の人間としてのベネディクト、そして文化人類
学者としてのベネディクトにふれてから、なぜ彼女だからこそ『菊と
ルース・ベネディクト
刀』が誕生しえたのかについて考えてみたい。
ルース・ベネディクトが育ったのは、先祖がメイフラワー号に乗ってアメリカに渡ったという、信仰深い家
族だった。ルースの母親のベアトリスは、保守的でありながら、当時珍しく大学卒業資格を持つ女性だった。
ルースは 1887 年の生まれだが、1887 年といえば、まだビクトリア朝時代にあたり、女性らしさに対する固い
観念がある時代だった。女性は道徳的に純潔であり、また男性と異なり、理性的・論理的ではなく、感情的で
よくヒステリーを起こすといったようなイメージが強かった。いうまでもなく、多くの女性にとってこの時代
は窮屈に感じられていた。そして、ベネディクトもその一人であった。
ルースはそのような時代に生まれたが、その道徳的観念や女性に対する考え方は、世紀が替わると同時に変
化を見せた。ルースの母親は、ヴァッサー大学の卒業生として新しい女性像を心に描く人であり、また、ちょ
うどルースが生まれた頃から社会と時代が大きく変わり始めていた。ルースの父親は、医学会の若きホープと
して実験研究を行っていたが、残念ながら、ある日実験に使っていた注射針が刺さり、それが原因で病気に
なった。さまざまな治療方法を試した甲斐なく、結局 2 年後に亡くなってしまった。ルースはまだ 2 歳で、妹
のマージェリーは生まれたばかりの赤ん坊だった。このような悲しい出来事はどの子供にも大きな影響を与え
ることになるが、さらにベネディクトは、3 歳の時にかかった麻疹が原因で片耳が聞こえなくなり、難聴とも
戦わねばならなかった。しかも、家族は、彼女が小学校に入学するまで難聴に気づかなかった。ルースは一人
で遊ぶことを好み、呼ばれても無視するような、単なる気むずかしい子供だと家族は考えていた。対照的に、
妹のマージェリーはとても明るく、家事なども積極的に行うタイプだったので、二人の性格の違いとしてみな
−9−
され、なおさらルースの難聴への対応が遅れることとなった。
父親が亡くなった後、母親のベアトリスは実家を離れ、教師や司書の仕事を求めて、子供とともに転々と移
動した。母子家庭のため、決して裕福な生活はできなかった。しかし、ベアトリスは非常にレベルの高い女子
校を選んで職に就いたので、二人の姉妹もレベルの高い教育を受けることができた。また、ベアトリスは教育
熱心だったので、ルースがもっとうまくコミュニケーションができるように、文章を書くことを勧めた。ある
日、ルースの伯父が家を訪れたとき、
「お前が面白い話を書いてくれたら、お小遣いをやるよ」と言った。こ
うしてルースは、自分の書いたストーリーが認められるよう、文章を書くことに励んだ。のちには詩も書き、
大人になるとその作品が文学雑誌に掲載されるほど、その才能は認められた。このことは、コンパクトな表現
で多くのことを語る練習を若いときから積んでいたともいえる。またこの訓練は、後に文化のパターンを把握
する能力につながるが、彼女は上手にノイズを消して、重要な点にのみフォーカスを絞るということができ、
それが彼女の学問的特徴ともなった。
このように姉妹は高等学校を優秀な成績で卒業し、1905 年に奨学金を得て名門女子大学ヴァッサー大学に
入学した。(年齢が違っていたが、転々と移動しているうちに二人は同じ学年になってしまった。)ルースは文
学を専攻し、また大学新聞に投稿するなど、自分を表現することに喜びを感じた。大学の成績もまた、非常に
優秀であったため、卒業後にパトロンの援助で、他の二人のヴァッサー大卒業生とともに、1 年間ヨーロッパ
に留学することができた。
難聴のせいもあり、ルースは大変シャイな性格だったので、自分の行動が束縛され、社会に対する疑問を
持っていても、マジョリティに対して反対意見を言うまでにはなかなか踏み出せなかった。つまり、自分の考
えに自信を持つことができないでいた。しかし、ヨーロッパの文化を次々と体験するなかで、同じ「西洋人」
であるのに、文化的行動、態度、信念などが国によってかなり異なっていることに気づく。バプティスト派の
厳しい規律のなかで育ったルース、あるいは、女性の権利や平等を認めない社会のなかで育ったルースにとっ
て、アメリカ社会は自分の考えと行動を制限し、狭苦しい思いばかりを強いるところだった。ビクトリア朝的
な厳しい道徳を重んじていたアメリカと比べて、カトリックを中心とするイタリアでは、人は陽気で、それま
でルースが経験したことがなかったような感情的な行動をする。また、ドイツやイギリスに移動すると、アメ
リカとの共通点もあれば、ユーモアや宗教に対する考えがかなり異なることもわかった。これはルースにとっ
て、初めての異文化体験であり、アメリカで重視されている文化や価値観が必ずしも普遍的なものではないこ
とに気付くきっかけとなった。
留学から戻り、ボランティア活動をしたり、高校で文学を教えた後、ヴァッサー大での友人を通して知り
合ったスタンリー・ベネディクトと結婚し、彼女はルース・ベネディクトとしてニューヨーク郊外で新しい生
活を築き始める。スタンリーはコーネル大学で期待されている若い化学者で、実は第一次大戦中に、政府が支
援する毒ガス研究にも携わった人だった。新婚生活がしばらく続いたが、そのうちにルースは子供を産むと体
に危険があることが判明し、スタンリーの決断で子供をつくることを断念した。
文化人類学との出会い
ベネディクトは、子供のいない主婦生活に満足できなくなり、1919 年に開校された New School for Social
Research という新しい発想でつくられた社会科学系の教育機関に入学した。ちょうど第一次世界大戦後、コ
ロンビア大学での戦争翼賛に反対した人たちが中心となってつくった大学である。独立精神の旺盛な知識人
− 10 −
(independent thinkers)である経済学者のソーステン・ヴェブレン(Thorstein Veblen)、歴史家のチャール
ズ・ビアード(Charles A.Beard)、哲学者のジョン・デューイ(John Dewey)などが、社会人のための高
等教育を目指して、気軽に参加できる機関として設立するが、当初から J. ケインズ、B. ラッセル、W.E.B. デュ
ボイスのような優れた研究者が教鞭をとり、New School はすぐに社会人の先端的な教育の場として有名に
なった。
それゆえに、この学校に集まった「学生」には、戦争を二度と起こさないために自分たちは何ができるかと
いう明確な目的をもって入学した人が多かった。戦争の悲惨な実態が徐々に明らかになる中、平和を志向して
入学した学生は、特に社会科学によって紛争を予防するための勉強に励んだ。そして予防の一つのカギは、国
や文化の間にみられる違いをどのように理解するかということであった。
ベネディクトはこの New School で初めて人類学と出会い、この学問をとおして文化に対する数々の疑問を
徐々に理解していった。この学校は非常にリベラルな考えのもとに設立されたために、女性の教員も採用し、
そのなかには活動的な社会学者、Elsie Clews Parsons(1875-1941)も教鞭をとっていた。パーソンズはアメ
リカ南西部のプエブロ族(アメリカン・インディアン)のフィールドワークによって、この地域のインディア
ン文化についての権威として知られていた。1915 年にフィールドで初めて文化人類学者であるフランズ・ボ
アズ(Franz Boas、1858-1942)とプリニー・ゴッダード(Pliny E. Goddard、1869-1928)と出会い、その後
ボアズの指導の下で、コロンビア大学で人類学の研究を進めていた。パーソンズは、自分の授業に出ていたベ
ネディクトの才能を見込んで、彼女をボアズに紹介し、コロンビア大学人類学研究科の博士課程への入学を交
渉した。その結果、ボアズはベネディクトが New School で取得した単位を認め、博士論文のみを要求した。
ベネディクトは、文献調査にもとづいた、ズニ(Zuni)族の神話についての博士論文を、たったの 3 セメス
ターで完成させ、博士号を取得した。ルースはその後、ボアズとのプロフェッショナルなパートナーシップを
築き上げていく。
ボアズは「文化人類学の父」といわれ、文化の働きを解明するうえで多くの功績を残した一人である。彼は
ドイツ生まれのユダヤ人で、差別や迫害を避けてアメリカに移動した。アメリカ自然史博物館(American
Museum of Natural History)での研究員を経て、コロンビア大学で教鞭をとり、多くの文化人類学者を養成
した。ただ、英語をドイツ語なまりでしゃべったために、話が大変聞き取りにくかったといわれている。面白
いことに、難聴のベネディクトは彼と問題なくうまくコミュニケーションがとれていたため、ボアズは彼女を
頼りにし、死ぬまで大切な仕事のパートナーとしていた。
ボアズの人類学は人種決定主義との戦いでもあった。1920 ∼ 40 年代、人種という概念そのものが一般にあ
まり理解されておらず、人種によって生活、能力、文明の程度が決定されると素朴に信じられていた。つま
り、生まれながら運命が決まってしまうという先天的な考えが主流であった。
しかし、ボアズは、文化というものが、我々の思想、行動、言葉、それから体そのものに大きな影響を与え
ていると考え、実験的に、移民の 1 世、2 世の頭蓋骨の形態測定を行ない、父親と息子の頭蓋骨の数値が確か
に異なっていることを証明した。つまり、環境が変われば身体まで変化することもあるので、私たちは人種に
よってすべてが決定されるのではない、また人間生活は不変のものではなく、時代、環境、歴史、成員などに
よって変わり得るものであるとボアズは主張した。
そして、ボアズは、各文化の優劣をつけることもできないと主張し、各文化を普遍的な単位の組み合わせと
して捉える「文化相対主義」を掲げた。ボアズはさまざまな研究を行ったが、消えつつあるアメリカン・イン
ディアンの文化を懸命に記録し、またその文化の意味を解明しようとした。弟子のベネディクトは、ボアズか
− 11 −
らの依頼もあり、彼の文化の概念をできるだけわかりやすく説明するように努力した。そこで、彼女の「書く
才能」が大変役に立った。ボアズは学問の世界では尊敬されていたものの、彼の文章は学問的で難解であった
ため、一般人に読まれることがほとんどなかった。ベネディクトは、大学でボアズのドイツなまりの英語を
「通訳」すると同時に、ボアズが構築した文化の概念を踏まえて、
『文化の型』
(Benedict 1934)という著作
で、文化の全体性と相対性について具体例に解説してみせたのである。
すでに 1871 年にイギリスの人類学者、エドワード・タイラー(Edward Burnett Tylor、1832-1917)が文
化を定義していたが(Tylor 1871)、長い間その定義は注目されなかった。(後に、文化の概念が注目されるよ
うになってから、彼の定義は一つの定番となったが。
)ベネディクトの『文化の型』が出版されると、頻繁に
大学のテキストに採用され、広く読まれるようになったことによって、少しずつ文化の概念、および文化が
我々の生活に与える影響について意識されるようになっていった。この本で、彼女は三つの文化(南西イン
ディアンのプエブロ族、バンクーバーのクワキウトル族、トロブリアンド島のドブ族)を取りあげながら 、 特
定の文化のさまざまな条件、たとえば、環境、歴史、宗教などによって文化の性格が異なることを説明した。
また、同じ地域においても、全く異なる文化の型が生まれる可能性があることを指摘することによって、同じ
人種でも、理想とする価値体系が対照的になりうることを明確に示した。これにより、当時、主流であった人
種決定主義および環境決定主義などの「決定主義」にはあまり根拠がないことを明らかにし、同時に、文化決
定主義も否定した。文化が私たちの行動や言動に大きな影響を与えることは確かだが、同時に個人は文化を変
える力を持っているということも『文化の型』で述べられ、文化における個人の位置づけと、文化の改善・変
更・発展と個人との関係も考察された。
文化を改善することが可能だと考えていたからこそ、ベネディクトは文化の改善に関する研究を進めた。彼
女自身、女性として「ジェンダー決定主義」によって束縛されていたため、文化による規定と束縛、あるいは
「偏見」と戦うためにどうしたらよいのかと個人的に考えることがよくあった。ボアズは、ベネディクトが既
婚者だから給料を与える必要性がないと(偏見をもとに)判断したが、勉強に目覚めたルースの心は、次第に
夫のスタンリーから離れ、1930 年に二人は離婚に近い形で別居を始める。スタンリーは他の女性と生活する
ことになるが、残念なことに、毒ガス研究の影響によって 1936 年に早世する。別れてからルースはある若い
女性と生活を共にする。つまり、彼女はレズビアンであった。当時のアメリカでは同性愛に対してさまざまな
偏見が存在しており、場合によっては犯罪者扱いされることさえあった。特にキリスト教社会の規範に反する
行為と見なされていたために、同性愛者に向けられる目は非常に冷たかった。
しかし、文化が異なればホモセクシュアルは認められることもあり、社会の一員として社会貢献ができる仕
組みも存在すると、ベネディクトは『文化の型』やその他の論文において主張している。その時代に、ホモセ
クシュアリティを肯定的に取りあげるのは非常に難しかったが、ベネディクトはデータに基づいて偏見と静か
に戦っていた。
人種主義差別との戦い
1940 年、ベネディクトはサバティカルをとり、ボアズの依頼で Race: Science and Politics(Benedict 1959)1)
を著した。この本は 2 部構成で、第 1 部では人種概念を明確にしつつ、
「人種」は分類の便宜をはかる研究の
1)日本語訳は、筒井清忠・寺岡伸悟・筒井清輝訳『人種主義 その批判的考察』名古屋大学出版会(1997 年)
。イギリ
ス版は、Race and Racism と題された。
− 12 −
道具にすぎないと論じ、第 2 部では社会的・経済的迫害の延長線上にある「人種による差別」の深層を説明し
た。恩師のボアズは自らユダヤ系として、ドイツで広がったユダヤ人に対する迫害がアメリカでも拡大するこ
とを懸念し、ベネディクトに人種差別についてわかりやすい本を書いてくれるよう依頼したのである。実際、
1933 年 5 月 10 日にドイツの各地で行われたナチスによる焚書事件では、ボアズの本も焼かれたため、ボアズ
は偏見から迫害にいたるプロセスを十分に意識しており、戦争の中でそのプロセスがアメリカでもエスカレー
トしないように注意を払うべきだと言い続けていた。
ベネディクトは一般の読者に向けた人種と人種差別に関する説明の中で、アメリカにおける黒人に対する偏
見と差別にも触れた。黒人(アフリカン・アメリカン)は同じ人間として、同じ権利や労働の機会等を得るべ
きだと明確に書いている。こうした発言は、後に南部選出の国会議員によって非難された。また彼女の他界
後、マッカーシー旋風の中で、差別を予防するために書いたパンフレットが非難され、共著のジーン・ウェル
トフィッシュ(Gene Weltfish、1902-1980)とベネディクトは共産主義者として咎められた(朝鮮戦争中に
ウェルトフィッシュはアメリカの化学兵器使用に関して反対したため、マッカーシーのターゲットにされた)。
実際、ウェルトフィッシュはその後 9 年間も大学でのフルタイムの職に就くことができなかった。
このように、ベネディクトの文化人類学は、ある意味で差別や偏見との戦いでもあった。深く植えつけられ
た固定観念をどのように崩すか、少しでも客観性を持って人々に社会と文化を見てもらうためにはどうしたら
よいのかという問題意識のもとに、研究・教育を進めていた。特に、第二次世界大戦中、日本人に対する人種
的偏見が非常に強かったため、ベネディクトが日本研究をする際、偏見と差別の壁をまず打ち破ることから始
める必要があった。これについては、続いて行われるシンポジウム第 1 部のパネル報告で、詳しく説明され
る。
偏見との戦い
ルース・ベネディクトは、コロンビア大学でボアズの助手として働き始めたが、夫のスタンリーと別居する
まで、ボアズはベネディクトを専任教員として採用する必要がないと考えていた。別居して生活のために収入
が必要となった時点で、ようやくベネディクトは専任講師の地位を得た。しかしその後も、彼女の業績が一般
に広く認められたにもかかわらず、大学では女性であるがゆえに男性と同じ基準で評価してもらえなかった。
ボアズが退職した後も、ベネディクトは講師の地位のまま人類学科の主任代理を務め、コロンビア大学の終身
在職権(tenure)を取得したのはさらに後のことであった。1937 年に助教授に昇進したが、学科主任(chair)
の地位は、シカゴ大学から赴任したロバート・レドフィールドという男性に譲らざるを得なかった。ちなみ
に、コロンビア大学で女性として終身在職権と助教授の地位を得たのは、ベネディクトが初めてである。業績
をあげても女性に対する固定観念は強く、当時、女性として学科主任になることがいかに困難であったかを物
語っている例である 2)。やがて 1948 年に教授に昇進したものの、同年に他界する。
ベネディクトの授業を受講したバージニア・ヤングによると、学部でも大学院でも、ベネディクトは学生と
同僚から尊敬され、重要な決断が求められる際、同僚はよく彼女の意見を求めたそうだ。ただ、このような面
は、大学の昇進制度の中に反映されていなかった。しかし、最後に教授の座にのぼったベネディクトは、偏見
と差別の壁を破ることができたといえよう。それでも、第二次世界大戦が始まると、大学で起こったトラブル
2)ベネディクトが所属していた学部で、彼女の次に女性が教授になったケースは 1981 年で、人類学科では次に女性が終
身在職権を得たのは 1970 年代に入ってからであった。
− 13 −
などにベネディクトは我慢できなくなり、米国戦時情報局から声がかかった際、すぐにその仕事を引き受け、
早速コロンビア大学から休暇をとり、ワシントン D.C. に引っ越した。
米国戦時情報局(Office of War Information: OWI)は、1942 年に大統領令によって設立され、ホワイト・
プロパガンダという宣伝活動をする機関であった。ホワイト・プロパガンダとは、真実性の高い情報によって
敵の士気を低下させることを目的とし、情報源は確認できるものとされていた。ベネディクトは、1943 年か
ら情報局で、数ヶ国の文化プロフィールを作成した。たとえば、ルーマニアやビルマ、タイなどのプロフィー
ルをまとめて報告書の形にし、プロパガンダとしてどのように利用できるかという提案も書いた(後にこの研
究は、国民性研究として知られる)。
そして、ヨーロッパで終戦が見え始めると、次にアメリカは太平洋戦線に目を向け、敵である日本人の研究
を本格化させた。日本人の強制収容所で調査を行なっていたアレクザンダー・レイトン(Alexander Leighton、
1908-2007)は、1944 年 8 月、OWI の中に海外戦意分析課(Foreign Morale Analytical Division: FMAD)を
新しく設置させた。当時は日本人の文化的プロフィールや特徴についてほとんど何も知られていなかったた
め、当初、レイトンは日系人の助手 2 名とともに、強制収容所で日系人にインタービューやアンケートを行な
い、情報収集をした。次いで、レイトンは自分が所属する海軍にデータ分析課の設置を提案したが却下され
た。海軍では日系人を採用しないとの規程があることがその理由だった。そこで、レイトンは OWI に新しい
課を提案し、FMAD は OWI の中に設置されることになったのである。ここで、研究者、データ処理スタッ
フ、翻訳スタッフという、総合的な研究チームによって、日本に関する様々な研究が行なわれた。
ベネディクトは、1944 年 9 月にレイトンに誘われ、このチームの兼任研究者になった。入手できるデータ
にもとづいて、1945 年の 5 月からのほぼ 2 ヶ月で日本人の行動パターンについての 57 ページの報告書をまと
めたが、周知のとおりこの報告書は、後の『菊と刀』の核となる内容であった。彼女は戦争が終わると研究休
暇をとり、日本文化についての情報をまとめ、1946 年 11 月に『菊と刀』を出版した。連合軍最高司令官
(SCAP)の指令によって、『菊と刀』はすぐに翻訳対象とされ、日本語版は 1948 年に出版された。
『菊と刀』
1948 年以降、日本でも『菊と刀』についての批評、批判、非難などが相次いで出た。『菊と刀』はさまざま
な観点から注目された。大きなシンポジウムが東京で行われ、
『民族学研究』
(川島他 1949)では、日本の錚々
たる社会科学者による合評が発表され、また『菊と刀』で日本特有とされた社会・文化的概念を再考する論文
が発表された。1964 年の作田啓一の論文の影響によって、
『菊と刀』は日本文化を「恥の文化」と描いた本と
して知られるようになり(作田 1964)、さらにこれについての議論も盛んに行なわれた。1981 年、ダグラス・
ラミスは、ベネディクトの個人的背景を含む『菊と刀』の再考を発表して(ラミス 1981)、『菊と刀』が再び
注目されるきっかけとなり、また同様に、青木保の『「日本文化論」の変容』
(青木 1990)の出版をきっかけ
に、90 年代においても『菊と刀』に対する関心が高まり、日本で論文等が相次いで発表された。
それら数多くの再考の中で、特にアメリカ人であるダグラス・ラミスの『内なる外国:
「菊と刀」再考』
(1981)が日本の読者に大きな影響を与えた。彼は、人類学者としてよりも詩人としてのベネディクトを強調
し、彼女の日本研究は詩人の直観による部分が多く、根拠のある研究とはいいがたいと厳しく批判した。日本
では『菊と刀』のイメージ作りにこの本が大きな影響を与えたが、その理由は、日本の研究者のほとんどが
『菊と刀』のテキストを研究や批判の対象にしていたのに対して、ラミスはベネディクトの個人的な背景も含
− 14 −
めて『菊と刀』の再評価をしたからである。その意味では、新しい『菊と刀』再考になったが、ラミスの著作
は、ベネディクトの友人であったマーガレット・ミード(Margaret Mead、1901-1978)が編著した An
Anthropologist at Work(Mead 1959=1977)をもとに議論を立てていた。その後、ベネディクト研究がかな
り進み、ミードがこの本を編著するときに、自分の個人的な秘密を守る必要から事実を隠し、また自分があこ
がれていた詩人の世界を過大にベネディクトに投影していたことが明らかになった。つまり、ミードが個人的
な理由で少し詩人のベネディクトを強調し、ラミスはそれをさらに強調した。端的にいうと、ラミスは最初か
ら結論を決めて、その結論に至るために恣意的にミードの資料を用いた。ラミスは後に、自分の研究は、
「オ
リエンタリズム」がほとんど知られていない時にオリエンタリズムを批判する研究であり、後のポスト植民地
研究に属するような内容だと自賛している。ソニア・ライアン(Sonia Ryang 2004)も、カルチュラル・ス
タディーズの立場から、類似した評価をしている。
しかし、ベネディクト研究を専門とする者はラミスの研究を評価していない。2004 年に出版された Reading
Benedict, Reading Mead(Janiewski and Banner 2004)という、ベネディクトとミード研究に関する論文集
にはラミスの新バージョンの論文も含まれている。しかし、その掲載前に、ベネディクトの専門家である編者
は、編集権を行使してラミスの論文をかなり修正している。おそらく単純に誤りを訂正しただけの編集だった
と想像できる。これに対してラミスは納得できず、編者が勝手に編集し、オリジナルの内容とあまりにも異
なっているとして、最初に投稿した原稿をオンライン・ジャーナルの Japan Focus(2007 年 7 月 19 日号)に
掲載した(Lummis 2007)。しかし、この論文に対しても読者から非常に厳しい批判が寄せられた。Japan
Focus(2007 年 12 月 4 日号)には、政治学者の Toru Uno がラミスの方法論や根拠にしている資料を取りあ
げ、議論の根本的な欠点を指摘している(Uno 2007)。また、ベネディクトがダイナミックに捉えていた文化
概念を、ラミスが静的な概念として認知していることも根本的な欠点だと指摘し、ラミスの議論の立て方その
ものに問題があると、Uno は非常に厳しく批判した。Uno の批判は的確であり、ラミスの「思い込み」にも
とづいた「議論」を暴いており、これまで日本で受け入れられてきたラミスのベネディクト像は、多くの海外
のベネディクト研究者には通じないといえるだろう。
他方、海外では特に女性研究者を中心に、ベネディクトの生涯と研究を見直すような研究が増えている。
ジュディス・モーデル(Judith Schachter Modell 1983)をはじめ、マーガレット・カフリー(Margaret
Caffrey 1989=1993)、バージニア・ヤング(Virginia Heyer Young 2005)によるベネディクト研究は、学問
に対するベネディクトの貢献に新たな光を当てている。さらに、ベネディクトとミードの個人的あるいはプロ
フェッショナルな関係についての研究も増え、現在は良質なデータに基づいて、さまざまな観点からベネディ
クトの再評価ができるようになった。
戦後、文化人類学はじめ社会科学一般は、研究費を獲得するために「科学的」な研究方法を用いることを要
求された。そのミリューのなかで、ベネディクトを代表とする文化とパーソナリティの研究は「科学的」な方
法を用いていないと批判され、しばらく忘れられた存在となった。しかし、近年、ベネディクトが用いた方法
は再評価されつつある。彼女は 60 年も前から異文化を研究する際、その文化に属する人の立場から文化の意
味と意義を考える手法をとっていたが、今はそれが主流となっている。また、ベネディクトは日常生活に見ら
れるものに文化の特徴が現れていると考え、研究材料として写真や文学、映画などを文化の分析に用いた。こ
のような手法および他者(Other)への認知は、文化人類学やカルチュラル・スタディーズでは現在、主流の
考えとなっている。
戦時情報局で、彼女は、学際的な研究チームに参加したが、当時は interdisciplinary な研究は珍しかった。
− 15 −
戦争直後にベネディクトは多額の研究費を獲得し、interdisciplinary な大規模研究プロジェクトを展開した。
残念ながら、オーバワークのせいもあって、ルース・ベネディクトは 1948 年、64 歳の若さで他界したため、
この斬新的なプロジェクトを最後まで見届けることができなかったが、ミードが、ローダ・メトロー(Rhoda
Métraux、1914-2003)と 2 人でプロジェクトをまとめて、The Study of Culture at a Distance として出版し
た(Mead and Métraux 1953)。ミードは、研究の成果について、1949 年にイギリスのバーミンガム大学で講
演シリーズとして報告した。後に、1951 年からカルチュラル・スタディーズがバーミンガム大学で生まれた
といわれているが、ベネディクトの研究プロジェクトがこの新しい分野に与えた影響は大きかったといえよ
う。
現在、interdisciplinary な研究プロジェクトが主流になり、アフラシア平和開発研究プロジェクトもその一
つである。つまり、ベネディクトの研究プロジェクトに対する考え方は、かなり広く長い範囲にまで影響を及
ぼしているといえる。
ベネディクトが残した著作は、今でも人々に多くを語り続けている。
『文化の型』(Benedict 1934)と『菊
と刀』は出版されてから一度も絶版になったことがなく、最近、再び注目されるようになった。1990 年代に
入ってからは、中国語を含めて、
『菊と刀』は様々な外国語に新たに翻訳されている。シンポジウムの午後の
セッションにおいて、特に中国における『菊と刀』の人気について詳しく説明していただくことになっている
が、このようにルース・ベネディクトは今でもさまざまな場面でよみがえっているといえよう。
戦後、日本に関する情報が非常に少なかったため、日本人を理解するために『菊と刀』が活用されたが、60
年経た今も、新たに中国で活用されている。他者である日本人をどのように客観的に捉えるか、またどのよう
なデータで日本の文化を把握できるかという細かい配慮は、おそらくベネディクト自身の個人的背景から生ま
れたと考えられる。女性や人種に対する固定観念や偏見を冷静に見ていたベネディクトは、時代の流れによる
価値体系の変化も見て、文化のダイナミックな性質について語ることを目指していた。ダイナミックだからこ
そ、個人の影響も含めて、文化は様々な影響によって変化し、同時に、より多くの人のために改善することも
可能だからだ。
『菊と刀』が出版されて 60 年あまりが過ぎ、そこに描かれている日本社会はかなり変わった。しかし、
『菊
と刀』で用いた方法論や分析方法から、また彼女の研究に対する態度から学ぶことは大いにあると思う。時代
を超えて、また文化を超えて、さまざまなことを教えてくれるルース・ベネディクトのような研究者は多くは
存在しない。だからこそ、私たちは彼女からさらに学ぶことができる。本日のシンポジウム「よみがえるルー
ス・ベネディクト」で、皆様が私たちの研究の成果から何かを得ることができれば、ベネディクトも喜んでく
れるはずである。
参考文献
英語文献
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論社;1973,米山俊直訳『文化の型』社会思想社.)
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寺岡伸悟・筒井清輝訳『人種主義 その批判的考察』名古屋大学出版会.)
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Tuttle Co.(=1948,長谷川松治訳『菊と刀:日本文化の型』社会思想社.)
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Caffrey, Margaret M. 1989. Ruth Benedict: Stranger in this Land. Austin: University of Texas Press.(=1993,福井七
子・上田誉志美訳『さまよえる人 ルース・ベネディクト』関西大学出版部.)
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Mead, Margaret and Rhoda Métraux eds. 2000 (reprint of 1953 orig.) The Study of Culture at a Distance. Berghahn
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(Critical Studies in the History of Anthropology Series).
Uno, Toru. 2007. How to Critique: Lummis on the Legacy of Ruth Benedict, Japan Focus (December 4, 2007)
日本語文献
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─,1967,『恥の文化再考』筑摩書房.
─,1972,「恥と羞恥」『価値の社会学』岩波書店,295-331.
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川島武宜・南博・有賀喜左衛門・和辻哲郎・柳田国男,1950,「《特集》ルース・ベネディクト『菊と刀』の与えるもの」
『民族学研究』14(4).
ラミス,ダグラス,1979a,加地永都子訳「日本文化への墓碑銘:
『菊と刀』再考(第一部)
」『思想の科学』第 6 次,102
(1979. 3):86-99.
─,1979b,加地永都子訳「日本文化への墓碑銘:
『菊と刀』再考(第二部)
」『思想の科学』第 6 次,103(1979.4)
:96-115.
─,1979c,加地永都子訳「日本文化への墓碑銘:『菊と刀』再考(第二部)」『思想の科学』第 6 次,105(1979.5)
:85-99.
─,1981,加地永都子訳『内なる外国「菊と刀」再考』時事通信社.
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第
部
戦争にみる異文化理解
1
第 1 部 戦争にみる異文化理解
心理戦における日本認識
『菊と刀』の背景
土 屋 礼 子
大阪市立大学大学院文学研究科教授
1.はじめに
1946 年に刊行されたルース・ベネディクトの『菊と刀』が、第二次世界大戦における対日心理戦を背景と
して誕生し、その原型とみられる「日本人の行動パターン」は、日本の降伏以前に執筆され、ナンバー 25 と
名付けられたタイプ原稿で米国国務省に提出された報告書であったことは、福井七子、ポーリン・ケントなど
をはじめとする研究と翻訳によって、すでによく知られている。しかし、ベネディクトが参加を誘われて日本
研究に取り組むきっかけとなった外国戦意分析課(Foreign Morale Analysis Division: FMAD)、またその上
位にあった米国戦時情報局(Office of War Information: OWI)という組織がどのようなものであったのか、
あるいはそれらの組織を含めて行われた連合国による心理戦とはどのようなものだったのか、特に日本に対す
る心理戦の実態は、充分に明らかになっているとは言えない。実際には日本軍に対する心理戦は、米国の諸機
関だけでなく、オーストラリアに創設された極東連絡局(Far Eastern Liaison Office: FELO)や英国の情報
宣伝機関、アジアに植民地を持つオランダなどが関与する複雑な組織によって展開された。そこで本論では、
こうした複雑な組織の中で、日本軍及び日本兵、また日本社会と日本文化に対する認識は、どのように展開し
共有されていったかを、戦時プロパガンダの主要な手段であった宣伝ビラを作成する過程を記録した連合国軍
側の文書に基づいて明らかにし、それらとベネディクトの研究がどのような位置関係にあるのかを考察してみ
たい。
2.連合国による心理戦
第一次世界大戦においてプロパガンダと総力戦が結びつき、戦争の作戦の一環としてメディアによる宣伝が
利用されるようになった。新聞、ポスター、ビラによる大衆への働きかけをコントロールする政府機関とし
て、英国では情報省が設けられ、米国ではクリール委員会と呼ばれた広報委員会が設立された。米国における
マス・コミュニケーション研究の基礎を築いたラズウェルは、この第一次世界大戦時のプロパガンダを分析し
た論文で博士号を得、その著作『宣伝技術と欧州大戦』は 1927 年に刊行された後、1940 年には日本語訳が出
版された。この 1940(昭和 15)年には、日本の大本営陸軍部の報道部内に秘密組織が設立され、
「伝単」と呼
ばれた謀略宣伝ビラを作成するようになった。
しかし、米国では第一次世界大戦の時の煽動的な宣伝活動のために、プロパガンダに対する嫌悪感が醸成さ
れた。1939 年 9 月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、ナチス・ドイツに対する宣伝戦が英国によって
開始された後も、孤立主義を守る米国では、情報宣伝に対する機関はしばらく設けられなかった。ようやく
− 21 −
1941 年 6 月に陸軍省軍事諜報部の中に、後に心理戦部(Psychological Warfare Branch: PWB)と呼ばれるよ
うになる部署が設けられた時も、最初は特別研究班という名称であった。おそらく、第一次世界大戦時の記憶
と ナ チ ス ら の 全 体 主 義 プ ロ パ ガ ン ダ に 対 す る 嫌 悪 感、 そ し て 心 理 学 の 発 達 を 背 景 と し て「 心 理 戦
(Psychological Warfare)」という語が、米国では戦時の宣伝活動を指すために、プロパガンダに代わる新し
い用語として採用されるに至ったのであろう。一方、英国では「政治戦(Political Warfare)」という語が一
般的に用いられ、心理戦は戦場に限られた宣伝を指して使われることが多かった。しかし、1942 年 6 月に設
立されて、いち早く対日宣伝諜報活動を開始した FELO の文書では、プロパガンダという語が一般的に用い
られており、後に使われるようになる心理戦とプロパガンダとは実質的には互換的な意味であると考えて差し
支えない。だが、正義の戦争における正しい宣伝であるという意識が「心理戦」という語に込められていたこ
ともまた事実であろう。
連合国軍による対日心理戦が開始されたのは 1942(昭和 17)年 6 月である。この月の 13 日に米国では、情
報調整局(Office of the Coordinator of Information: COI)が改組され、戦略局(Office of Strategic Service:
OSS)と OWI が創設された。この二つと軍諜報部 G-2 の心理戦部を主要機関として米国による心理戦は展開
された。戦時情報局長官に指名されたエルマー・デイビスは、もともと CBS ラジオの有名なコメンテーター
であり、戦時情報局は文官による非軍事的な機関として、情報源の明らかな公報的宣伝、すなわちホワイト・
プロパガンダを推進した。これに対し戦略局長官のウィリアム・ドノヴァンは、心理戦を軍事的作戦のひとつ
と考え、情報源を明確にしない謀略的なブラック・プロパガンダを扱った。心理戦の政策目的は統合参謀本部
と国務省が決定し、戦時情報局は心理戦の政策立案と実施の責任を負ったが、戦略局や軍との衝突はしばしば
起きた。戦時情報局の本部はワシントンに置かれ、米国内向けおよび同盟国向け宣伝を主に担当し、特に「ア
メリカの声」(Voice of America: VOA)のラジオ放送が戦時情報局の最も重要な仕事であった。
一方、戦闘地域における戦術的なプロパガンダは、各戦域の司令部に権限が委譲された。そのため対日戦争
では、マッカーサー陸軍大将が指揮した南西太平洋戦域、ニミッツ海軍大将が指揮した北太平洋戦域、スティ
ルウェル将軍が指揮した中国戦線のそれぞれで、OWI、OSS、軍の心理戦部との関係は異なる様相を示した。
その上に、インド・ビルマ戦域を支配した英国軍、ニューギニアや南太平洋の諸島で戦うオーストラリア軍、
中国の共産党軍と国民党軍は各々、米国とは別の組織によって対日プロパガンダを展開した。このように、太
平洋と中国大陸を主な舞台とする対日戦線では、1942 年 12 月にヨーロッパ戦線で連合国軍の心理戦部が組織
され英米各機関が統一して協力したのとは異なり、心理戦の機関が一本化されることがなかった。それゆえ、
米国の心理戦だけでは、対日戦における心理戦の複雑な全体像を見誤ることになるだろう。
ところで、プロパガンダは、働きかける対象によって大きく三つに分けられる。ひとつは敵国及び敵の軍隊
に対するプロパガンダであり、これには戦場にある軍隊の将兵を対象とするものと銃後の敵国民に対するもの
がある。二つ目は同盟国及び中立国の人々に呼びかけるもの、三つ目は国内および自国の軍隊に対する宣伝で
ある。米国の OWI はそのすべてを活動範囲としたが、心理戦において日本及び日本人に関する知識が喫緊に
必要とされたのは、まず日本軍に直接対峙した戦場においてであり、中国大陸を除いて、連合国軍による対日
心理戦の最初の前線拠点はオーストラリアであった。その任にあたったのは、米国の OWI が創設された同じ
6 月の 19 日に、オーストラリア軍司令官の命令により創設された FELO であった。
− 22 −
3.極東連絡局(FELO)による対日宣伝ビラ
初期の対日心理戦を担った FELO は、オーストラリアとオランダ、米国が出資して設立され、オーストラ
リア陸軍の軍人を主軸に構成され、本拠をメルボルンに、作戦本部をブリスベンに置いた。その活動範囲は、
オーストラリア北部のソロモン諸島などの太平洋の諸島、蘭印と呼ばれたオランダの植民地であったニューギ
ニア、スンダ列島を含む西南太平洋での戦闘における宣伝活動であり、その目的は日本軍の士気を低下させ戦
闘能力を減ずること、日本軍占領地域の現地住民が連合国軍側を支援し日本軍に協力しないよう働きかけるこ
との二つであった。ラジオ放送はオーストラリア政府情報省の管轄下にあったので、FELO が用いた方法は、
宣伝ビラと前線を移動する宣伝隊、現地諜報者の三つであった。本論では、このうち宣伝ビラに焦点をあて、
日本軍に対するビラがどのように制作され、その過程でどのように日本人の行動が分析され、議論されたかを
見てみよう。
FELO が日本軍向けに作った J シリーズのビラの最初 J1 は、
筆で日本語文を綴っただけの簡素なビラだが、
ミッドウェー海戦を先月のこととして述べた内容から 1942 年 7 月作成のものと考えられる。ビラの記録簿に
よればこれは 2 万部作成された。翌 8 月 7 日には識別番号 J2 のビラが 14 万部印刷されている。この J シリー
ズは確認した限りでは J337 まで制作されたが、この他にも JK、JL、JM、JX、LJ という記号の付いた日本
語ビラのシリーズがあり、1945 年 9 月までに FELO が作成した約 6,900 万枚の宣伝ビラのうち、約 4 割を占
める約 2,860 万枚が日本語のビラであった。初期には米国の OWI で作成されたビラも 2 種撒かれた。それは、
「桐の葉」(写真 1)という有名なビラと「運賀無蔵」という小冊子であった。これらのビラは、在米日本人が
OWI に協力して作られたものであった。
真珠湾攻撃の時点で、米国には日系人が 10 万人以上いたのに対し、オーストラリアでは 1901 年の建国以
来、日本人移民を受け入れなかったため、日系人がほとんど居なかった。そのオーストラリアで日本語のビラ
はいかに作成されたのであろうか。創立当初の極東連絡局の人員は 5 名で、そのうち豪軍ベル少佐がビラの制
写真 1 「桐の葉」表と裏(OWI 作成)
− 23 −
作を指揮した。彼の下で編集者が英語でビラの原案を作成し、それをチャールズ・バビアという日本育ちで
オーストラリアに帰化していた人物が日本語に翻訳、それを元在神戸オランダ総領事だった W.H. デ・ルース、
元駐日英国領事であった H.A. グレイブスなどの日本の専門家がチェックするという手順であった。日本語の
活字がなかったので、日本語のビラはすべて筆かペンで書かれたが、それらはみなバビアの手によるものとい
われる。審査を通過したビラは機密保持のため自前の印刷工場で刷られ、連絡下士官を通じて豪米の空軍に渡
され、散布された。当初は心理戦自体に理解が得られず、現場の情報将校がビラを撒かない場合もあったが、
後には司令部から連絡下士官に連絡が入れば、特定のビラを特定の目標に対し特定の時間に散布できるような
システムが確立された。
他方、散布されたビラが日本軍側にどのように受け止められ、どんな影響を与えたのか、その効果を測る必
要があった。そのために FELO が取った方法は主に三つである。ひとつは日本軍から得た捕獲文書の分析で
ある。1943 年半ばまでは日本兵の捕虜は僅かだったので、日本兵の日記、各部隊の日誌や指令などが分析さ
れた。二つ目は捕虜の数、三つ目は連合国軍翻訳通訳部(Allied Translator and Interpreter Section: ATIS)
の通訳を介した捕虜の尋問である。その記録は報告書として米・豪・英国の関係部署に配布された。ベネディ
クトもこれを読んだはずである。
こうして、FELO による宣伝ビラは、作成・散布・効果の分析・評価、それによる修正というサイクルに
よって、手探りの状態から漸次、改善されていった。したがって、初期のビラには後には見られない試行の跡
が伺える。たとえば 1942 年 11 月に作成されたビラ J12 には、日本軍の捕虜の写真が用いられている。しか
し、捕虜たちは捕虜になったことを恥じるばかりでなく、自分が捕虜になったとわかれば家族親戚がつらい目
に遭うかも知れないと憂えているということを、連合国側は後に知ると、個人が特定できないよう目隠しをあ
てた写真を使用するようになった。また初期にはコマ漫画のビラが何点か作られたが、こうしたコミカルで皮
肉な笑いを誘うビラはまもなく姿を消した。日本兵には嘲笑は禁物で、まじめに誠実に語りかけなければなら
ないと学んだからである。
米国側と FELO の間で議論になったビラのひとつは、ノスタルジー(望郷)を掻き立てるねらいのビラで
ある。母と子の姿、スカートをはいた若い女性(写真 2)、桜や鯉のぼり、田舎の風景など、一見戦争とは何
の関係もない、しかし兵士達には遠く離れた故郷を懐かしく
思い出させるような写真や絵が特徴である。この種のビラに
対し、米国側は「もしこのやり方が正しいなら、米軍は正反
対のプロパガンダを行っている」と疑問を呈した。吉原をは
じめとする遊郭が発達した日本では、男性達は家庭を顧み
ず、家族愛は強くないというのがその主張であった。これに
対し、オランダ人のデ・ルースは、実際には日本人男性は妻
子思いであり、こうしたビラはすぐに投降を引き起こすわけ
ではないが、士気を弱めるには有効であると反論した。実際、
旧暦の祭日や行事を並べただけのビラ J151 もプロパガンダ
とは一見思えないが、多くの日本兵の関心を引いたと捕虜が
語っている。
もうひとつ問題になったのは、昭和天皇の肖像写真を使用
したビラである。これは 1944 年 2 月に制作された LJ シリー
− 24 −
写真 2 J203(FELO 作成)
ズで、全部で 8 種作成された。いずれも軍服姿あるいは大礼服姿の昭和天皇の写真と、爆撃を受ける日本軍の
艦船の写真を組み合わせて、
「陛下の御処置如何」というメッセージと短文が添えられているものである。こ
のビラに対しては、デ・ルースが「日本兵の軽蔑の激怒を引き起こす」と反対し、連合国側の政治戦の指令に
反していると指摘した。たとえば、英国の対日政治戦委員会の指令では、
「天皇の存在への言及は避けること、
ただし国家イデオロギーに関連して彼の地位を真面目に論ずることは許容される」とあった。米国の対日プロ
パガンダ計画でも、
「天皇を攻撃してはならない」とされていた。また、オーストラリアの対日政治戦指令で
は「軍閥が天皇に対する国民の忠誠を自分達の目的のために利用していると日本人に示すこと」という項目が
挙げられていた。結局、総司令部 G-2 の判断により、このビラは制作中止となり、散布されなかったらしい。
こうしてさまざまな種類の宣伝ビラが作られた中で最も重要な柱だったのは、投降する際に意思表示の道具
となる投降ビラと、戦況や政治情勢を伝えるニュース・ビラとであった。前者の投降ビラは、当初危険すぎる
として米軍から反対されたが、捕虜を得ることが結局、連合国軍兵士の命を救うことになると説得、ビラでは
日本兵の抵抗を和らげるため「降伏(surrender)」という語を避けて、「抵抗を止めた(cease resistance)
」
という表現が用いられるようになった。また後者のニュース・ビラは、1943 年 2 月に制作され始めた「南太
平洋週報」
、写真入りの「前線画報」
、「戦況週報」などに代表されるもので、ニュースに飢えていた日本兵達
はそれらをむさぼり読み、事実を伝えるその正直さに感心し、次第に連合国軍側のビラを信頼するようになっ
たという。
4.心理戦における日本人認識
1944 年春から連合国軍による対日心理戦は、
新しい局面を迎えた。この年の 1 月には戦後計画委員会(PostWar Programs Committee: PWC)が設置され、連合国軍側の勝利とその後の政策が日程に上ってきたのと並
行して、米軍下にある各戦域の心理戦部が本格的に稼働し始めたのである。ニミッツ将軍指揮下の北太平洋戦
域では、同年 4 月からホノルルで軍の心理戦部と戦時情報局の協力による宣伝ビラの作成が始められた。マッ
カーサー将軍指揮下の南西太平洋戦域ではフィリピン上陸に備えて、同年 6 月に心理戦部が創設され、7 月よ
りブリスベンで宣伝ビラの作成を始めた。この時、米軍の将校 17 名と兵士 20 名が選ばれ、心理戦の基本的訓
練のため FELO へ送り込まれた。その折りの講義録と思われる文書(1944 年 8 月 2 日付)が残されているの
で、その内容から当時の心理戦と日本人認識を探ってみよう 1)。
この文書は、
「極東連絡局幹部による心理戦入門コースに関する記録」と題されており、その前半約 20 頁は
「南西太平洋における心理戦の基本的軍事計画」
、後半約 50 頁ほどが心理戦入門の講義内容である。その冒頭
にある前書きによれば、心理戦諸機関の責務は「東洋の人々に我々の戦争目的である理想的で非利己的な目標
を知らせる」ことであり、
「西洋と東洋の人々の間の相互の尊敬と信頼を確立する」ことが、その究極の目標
である。現在「日本人は心理的に脆弱」であり、
「心理戦の諸活動は、西南太平洋地域での軍事作戦を具体的
に支援できる」ものである、という。
心理戦の準備としては、まず敵の心理に関する詳しい知識を得ることが必要であり、日本の慣習、伝統、宗
教、教育、訓練、人生観、現在の態度と反応について知るのが基本である。次に敵の心理の弱点を認識するこ
とが必要で、日本人は嘲笑に敏感であり、予期せぬ事には対処できず、逆境ではヒステリーを起こすという最
1)米国国立公文書館所蔵、RG 496 Entry 442 Box 2738。
− 25 −
悪の特性を示す、究極の場合には実際死を求める、敗退に転じた時にどうするかという代替案を持っていな
い、といった点が挙げられている。次に必要なのは、明白な心理的目標を選定することであり、日本の孤立、
軍の幹部や日本の報道に対する疑い、各戦場での日本軍の窮状などを訴えて敵の抵抗の意志を挫くといった目
標が例示されている。そして次には、事実を明確に、論理的に、適時に提示することが必要とされる。正確な
戦況ニュースこそ日本兵の一番の関心事であり、日本人は見ないと信じないので状況を示した地図を提示する
のが効果的である。日本兵の勇敢さと不屈さは充分賞賛し、軍閥の虚偽は公然と攻撃せよ。連合国軍の勝利を
理性的に納得させよ。また、軍事的敗北以前に投降を呼びかけるのは無駄である。そしてさらに日本兵士の心
理的障害を軽減する必要がある。たとえば、日本兵士の西洋人に対する無知、彼らの面目に対する配慮が求め
られる。たとえば、完全な敗北の後でも、投降を呼びかけてはいけない、戦闘を続けるのがなぜ賢明でないの
かを説き、名誉ある理解の機会を提示しなければならない。これには 12 ヶ条の注意書きが付されており、そ
の中には(1)誠実に真実だけを語れ、
(3)日本人に恥をかかせたり攻撃しないこと、
(9)解決策のない問題
は提示しない、
「逃げ道」を残しておけ、
(11)日本人の精神力を嘲ってはならない、
(12)天皇は攻撃せず、
触れないように、といった項目が記されている。最後に、連合国軍に日本軍兵士、および占領地の原住民を理
解させる必要があるという。
これに沿って、各地域の現況や心理戦の実務などの参考資料が付されているが、その中には次のような日本
関係の資料が含まれている。まず、イザナギ、イザナミに始まる簡単な「日本の神話」と神道および天皇につ
いての説明、英国の知日派外交官ジョージ・サンソムの『日本文化小史』(Sansom 1931)から引用したとい
う日本の人種的起源に関する説明、ごくかいつまんだ日本の歴史、そして W.H. デ・ルースによる「日本人」
である。デ・ルースは 17 年間日本で暮らし日本語を流暢に話したというだけに、日本人の子供は世界中のど
この子供ともかわらないが、小学校で「特別な国に住む特別な民族の一人である」と教え込まれ、満州事変以
降その傾向が強くなったと観察している。また、日本人の自殺は、捕虜になれば殺されると信じているから
で、自己破壊の欲望があるからではないとも述べている。その内容をここで詳述する余裕はないが、最後に挙
げられているプロパガンダの基本規則 10 項目の中には、
(1)プロパガンダの書き手は、父親のような温情的
な語り口で日本語を書くこと、
(7)戦闘での死は人間本来の運命ではないと明示すること、
(9)銃や弾薬のな
い明るく和に満ちた未来を出来る限り示唆せよ、といった指示がある。
こうした記述は、いかにも底の浅い、教養の薄い、付け焼き刃的な日本人観察であるとの印象を免れない。
今日の日本人から見れば噴飯ものですらあるが、日系人が多くいた米国ですら開戦時には、日本語をかなりの
程度理解し日本語の文献を利用して日本研究を進めている研究者は全部で 13 人しかいなかったという状況で
あり、ましてや敵国語の使用を禁じた日本に比べれば、心理戦が開始されてからの 2 年間に現実の日本人を相
手に積み重ねられた実践的な知見は、拙いながら日本理解に向けた組織的な日本研究の一歩に他ならず、心理
戦が異文化間コミュニケーションという側面を持っていたことを示している。
5.外国戦意分析課(FMAD)とベネディクトの位置
上述したように米国軍の心理戦部が本格的に活動し始めた頃、1944 年 6 月にベネディクトは、OWI の下に
あった FMAD を率いるアレクザンダー・レイトン中佐から参加を誘われた。前年の 6 月から同じ OWI の海
外情報局で勤めていたベネディクトは、兼任ながら日本研究に着手した。この分析課はもともと日本人収容所
での研究調査から出発した研究班で、日本研究の専門家ではなく社会学、精神医学、文化人類学、心理学、政
− 26 −
治学などの研究者が 30 人ほどおり、日系人も加わっていた。この班は、軍事情報局(Military Intelligent
Service: MIS)に協力し、軍が収集した日本関係の情報を分析する仕事を行った。捕虜の尋問記録、捕獲され
た日本人の日記や日誌、手紙類、日本にいる情報提供者からの報告書、日本の新聞雑誌やラジオ放送、背景と
なる文学書や歴史書、旅行記、映画、在米日本人へのインタビューなど、毎日届く情報やデータを整理し、限
られた数の概念的な準拠枠によって分析することがその研究調査の特徴であった。ベネディクトの『菊と刀』
はこのような研究調査を土壌として生まれたのであり、それはすでに見た心理戦の延長にあったことがわか
る。
FMAD の研究調査は、戦術的というより戦略的な分析を目的としており、ワシントンの心理戦支持派のた
めの活動でもあった。しかし、非軍事組織であるためフィールド、すなわち戦場に出て直接資料を収集できな
いというハンデキャップがあり、人を送ろうとも試みたがうまくいかず、結局、一般的で断片的な結論になっ
てしまったとレイトンは書いている。
『菊と刀』に寄せられた批判のひとつは、文化人類学に必須と言われる
フィールドワークが欠けているというものだが、それはこの外国戦意分析課の欠点でもあった。しかも、レイ
トンが記している 1944 年 9 月の日本兵の士気に関する調査報告概要を読むと、FELO が教授した要点がほぼ
踏襲されて繰り返されているように思われる。
しかし、
「日本人の行動パターン」を読むと、1 年ほどの間にすすめられたベネディクトの日本研究は、心
理戦の報告書に見られる平板さを脱していることがわかる。さらに占領後の資料による知見も加えた『菊と
刀』は、歴史的な記述の厚みを増しただけでなく、アメリカ人の考え方、感じ方との差異を比較によってくっ
きりと浮かび上がらせて、アメリカの読者に理解しやすく書かれているだけでなく、それが今日の私たちに
も、当時のアメリカ人の視点を理解するに有用な説明になっている点でも興味深い。
文化人類学の古典となっている『菊と刀』だが、和辻哲郎が批判したように、
「日本の軍人の考へ方につい
て」とか「日本の捕虜の考へ方について」と題すべき心理戦のレポートがその基盤であることは明らかである
(和辻 1950)。だからこそ、戦中戦後に日本兵や日本人と接した断片的な体験や話を直接、間接に知る欧米人
に読まれたのであり、矛盾に満ちた納得しがたい日本人の行動を、読者はこの本を通じて、ひとつに結びつい
た日本人像として構造的に理解しようとしたのである。ベネディクトの著作の役割は、心理戦で得られた日本
人に関する平板で散漫な記述を、生き生きとした人間の裏も表もある話として立体的に論ずることであった。
そのためにどのような文化人類学の知見と手法が用いられたのかを論ずるのは私の任ではないが、少なくとも
文化人類学という学問研究の上に立ってはじめて、日本人との片々たるばらばらな体験が総合的に把握される
ようになったのであり、その意味でこれは文化人類学の応用研究であり、応用社会科学の成果といえよう。
しかし、ベネディクト自身が『菊と刀』の寿命は 10 年ほどだろうと言ったように、日本人から見ればその
内容は不正確で不満な点も多く、また時代的にも日本人自体が変化しており、現代の日本を語るにも、また日
本研究の書としても、現在ではそれほど価値が高いとは思われない。にもかかわらず、いまだにこの書が読ま
れ続け、有効性を持ち続けているのは、おそらく米国人の目に映った日本人像が日本人を含む人々にとって興
味深いからであり、またそれがどんなに誤解に満ちた「理解」であろうと、その米国人の理解に基づいて行わ
れた占領が現在に至る戦後日本の出発点だったからである。この本には、戦争直後における日米関係の政治的
な枠組みを規定した米国側の日本理解が結晶化しており、それはまた米国が中心となった連合国による対日心
理戦の最大の果実でもある。
− 27 −
参考文献
英語文献
Leighton, Alexander H. 1949. Human Relations in a Changing World. New York: E. P. Dutton & Company.
Sansom, George B. 1931. Japan, A Short Cultural History. New York: Century.
日本語文献
ケント,ポーリン,1998,「ルース・ベネディクトの実像と虚像」,濱口惠俊編『世界のなかの日本型システム』新曜社,
371-91.
土屋礼子,1997,「戦時対日プロパガンダにおける極東連絡局(FELO)」『Intelligence』10: 65-78.
ベネディクト,ルース,2005,長谷川松治訳『菊と刀:日本文化の型』講談社学術文庫.
─,1997,福井七子訳『日本人の行動パターン』NHK ブックス 794.
和辻哲郎,1950,「科学的価値に対する疑問」『民族学研究』14(4): 285-9.
− 28 −
ルース・ベネディクトによる文化理解と紛争解決の関係
ポーリン ケント
龍谷大学国際文化学部教授
はじめに
ルース・ベネディクトの『菊と刀』が日本人論に大変大きな影響を与えたことは周知のとおりである。
『菊
と刀』の原文が出版された 1946 年の翌年から、鶴見和子の書評をはじめ、さまざまな批判や批評などが論文
や本の形で、ずっと今日まで途切れなく発表されてきた。日本では主にルース・ベネディクトの『菊と刀』が
研究対象にされるのに対して、西洋社会においては、人類学者のベネディクトがよく取りあげられる。人類学
者、あるいは女性の研究者として、ベネディクトは学問にどのような貢献をしたかについての研究が多い。
このような研究を踏まえて、ここではベネディクトの『菊と刀』に現れる彼女の学問を通して、『菊と刀』
が戦後の日本人および日本社会に対する理解に、どのような役割を果たしたかについて考察してみたい。つま
り、第二次大戦後に『菊と刀』が戦争後の紛争解決に何らかの影響を与えたかどうかということについて考え
てみたい。
そのために、戦時中にでき上がった日本人に対するイメージを取りあげたうえで、
『菊と刀』に見られる戦
略的な書き方について説明する。その書き方は単なる日本人の行動について述べている内容ではなく、読者に
刺激を与え、自文化と異文化について考えさせる内容となっている。また、異文化を見る際、自文化を中心と
する文化的なフィルター(自文化中心主義)の存在について意識させるような内容になっている。こうして、
ベネディクトは異文化の意味を、その文化に所属する「他者」の目から見た場合にどのように映るかというこ
とと、自分の文化をいかに当たり前にしているのかに気付かせて、自分の文化的価値基準が異文化において必
ずしも通じないことを知らしめるのである。
このようにベネディクトによって戦略的に執筆された『菊と刀』の内容が、彼女の個人的な背景と研究者と
してのプロフェッショナルな背景、そして時代背景を映しながら、戦時中の研究活動に焦点をおいてみた場
合、戦後の紛争解決に影響を与えたかどうかについて考察する。
人種差別と戦時中の日本人のイメージ
ジョン・ダワーの『容赦なき戦争:太平洋戦争における人種差別』(Dower 1986=2001)では、第二次大戦
中の日本人に対する異常な敵対心と、それにともなう憎しみや恨みについて論じている。当時、人種決定主義
の考えがまだ強かったために、人種によって、人だけでなく文化や社会も決定され、文化と文化の間に格差や
上下関係が存在すると考えられていた。その上下関係のなかで、アジア人は白人と比べて劣ると考える人が少
なくなかった。したがって、戦時中のアンケートなどによると、同じ敵であったドイツ人と比べて日本人に対
− 29 −
する敵意の程度がドイツ人に対する敵意を上回っている。つまり、西洋人は人種差別主義の態度でもって日本
人を判断していたために、敵国ドイツとイタリアに対するイメージと比べて、日本人に対するイメージは極端
に非人間的だった。たとえば、ダワーは戦時中の日本人のイメージを三つのタイプにわけて、それは(1)原
始的・文明化されていない、人種的にレベルの低い民族である(日本人はよくサルとして描かれることがこの
考えを反映している)
、(2)幼稚・未熟である(マッカーサーの有名な言葉、
「日本人の精神年齢は 12 歳ぐら
い」がこの考えを示している)
、(3)精神的に不安定な民族である(病気:神経症、強迫人格等)という 3 タ
イプである。このようなイメージは特に研究者やエリートによって支持されていた。たとえば、1944 年 12 月
の Institute for Pacific Relations(IPR)1)のシンポジウムでは、社会科学分野の著名な研究者が「日本人の性
格の構造」について議論を展開した(Dower 1986:138)。そこで、西洋の心理学概念を使用し、日本人の性
格を分析すると理解できるだろうと話しあわれる。ただし、既存の西洋の心理学のフレームワークを使って日
本人の性格を分析すると、それこそ精神的にバランスのない民族として描かれてしまう。たとえば、いかに日
本人が未熟であるか、あるいはいかに異常な(ノーマルでない)性格を持っているかということについて、研
究者は相次いでまじめに発表した。未熟な青年を取り扱う精神医学の枠組みの中から日本人を分析すればいろ
いろわかるだろうということや、マフィアの行動と比較しながら分析をしてみることによって日本人の性格を
解明することが可能になるだろうと最後に結論づけられた 2)。
実はベネディクトもこの IPR シンポジウムに出席していたが、発言を控えていた。すでに 2 ヶ月前に、精
神医学者を対象とする米国戦時情報局(Office of War Information: OWI)の覚書で、最初から日本人を逸脱
者およびアブノーマルな者として扱うことは望ましくないと書いている。そして、文化によって逸脱行為はど
のように異なるかということをまず研究すべきだとアドバイスをした 3)。
つまり、
私たちが逸脱と見なしている
行動は、異文化の価値体系の中に位置づけると、ノーマルな行動と見なされる可能性があるので、行動を文化
の文脈の中で総合的に考える必要があると主張している。つまり、ベネディクトは自文化の価値判断体系にも
とづいていては異文化の分析が困難であると考え、西洋の精神医学が使っている概念の適性を見直しながら、
たとえば、日本人は侮辱に対してどのように反応するか、捕虜となった日本兵が帰国した際、恥の意識は彼ら
にどのような影響を与えるだろうか、といったような研究課題の探求をすすめていた。
このようにベネディクトは文化という総合的な文脈の中で行動をとらえ、分析することを研究方針としてい
た。また、研究対象となっている他者の立場から異文化を理解することも非常に重視していた。ベネディクト
は女性として、またホモセクシュアルとして、世間の偏見が生む絶望等を十分に理解しており、人種差別に関
する研究(Benedict 1940=1997)によって、差別の構造も理解していた。したがって、ベネディクトはダワー
と同様に、日本人に対する人種差別の強さを意識していた。しかし、ダワーは日本人に対する人種差別的なイ
メージをずっと継続的なものとして、その意識を 80 年代における「日本叩き」とも強引に結びつけている。
他方、戦時中にその差別意識がかなり高まっていたとはいえ、日本人をイメージする際、サルや病気などの差
別的なイメージ以外に、戦前にでき上がった、ジャポニズムによるイメージや、確立した文明と歴史をもつ日
1)IPR シンポジウムの参加者は日本専門家の Geoffrey Gorer、Douglas Haring、Helen Mears、Gordon Bowles(当時
の国務省極東局長)
、John Maki (OWI)、Andrew Meadows (OSS) を含み、社会科学者として Talcott Parsons、
Benedict、Andrew Leighton (FMAD)、Margaret Mead、Erik Erikson その他が参加した。
2) Provisional Analytical Summary of Institute of Pacific Relations Conference on Japanese Character Structure”,
December 16-17, 1944. Summary prepared by Dr. Margaret Mead. (24pp.) p. 3. RFB Papers を参照。
3) Problems in Japanese Morale Submitted for Study by Psychiatrists” (OWI Memo, October 26 1944, RFB Papers,
Vassar College Special Collections) を参照。
− 30 −
本のイメージも、潜在的であれ、アメリカ人の頭の中にあるということをベネディクトは計算していた。
たとえば、新聞の『ニューヨークタイムズ』は 1851 年に設立されており、そこでの設立初年から第二次大
戦までの日本に関するイメージをたどると、ジャポニズムや日本の芸術の魅力に関する記事以外に、日本の不
思議な習慣や、魅了される文化と人物についての記事がたくさんある。日清戦争や日露戦争の頃は、日本人を
褒め称える記事がほとんどであり、一種の日本ブームが起っていたことがわかる。日本は文明化された社会で
あり、日本兵は紳士的で非常に優秀である、といったようなことを述べる記事も多々ある。1910 年以降は世
界の情勢が変わり、またアメリカ国内で移民制限法に関する議論が熱くなるなかで、日本に対する批判が徐々
に高まる。しかし、それでもスポーツや芸術分野において、日本人の成果を客観的に評価するという記事は第
二次大戦まで継続的に見られる。
戦時中にプロパガンダ等の影響によって差別的な意識が高まったが、戦前からのさまざまなイメージ(肯定
的と否定的なものを含む)もあった。これを総合すると、アメリカ人の日本に対するイメージはかなり複雑
だったといえるだろう。
戦時中の日本研究
OWI では、ジョージュ・テーラー(George Taylor、1905-2000)は日本の研究チームを招集する際、アメ
リカの戦争指導者の偏見を特に意識し、固定観念や差別意識に左右されない、客観性を保つことのできる人を
集めた。テーラーは中国の歴史を専門としていたが、ベネディクトが所属していたコロンビア大学(ニュー
ヨーク市)で、1939 年に大きな中国史研究プロジェクトを設立した(de Bary 2006:601)。したがって、テー
ラーは少なくとも文化人類学者としてのベネディクトの評判を聞いていたと想像できる。しかし、OWI に入
る前にベネディクトは日本研究をやっていたわけではない。
もちろん日本研究者は少なからずいた。たとえばジェフリー・ゴーラー(Geoffrey Gorer)がすでに(1942
年)日本人の行動についての報告書を出版していたが、彼の分析では、日本人はしつけの段階において、特に
清潔さ、食事や排便に関して厳しくしつけられるために強迫的な人格になりがちであると述べていた。日本で
生活している限り、文化的な制裁がそのような強迫的人格をおさえるが、海外に出かけ、異なった文化的環境
に入ると、日本人の強迫性格が全面的に現れ、恐ろしいことをする結果になる(Gorer 1942;1943)。ゴーラー
以外にも、日本人の性格を精神的不安定なものとしてとらえる研究者は少なくなかった 4)。しかし、テーラーは
ゴーラーやその他の日本をすでに研究している者を使うことを逆に危険と感じ、わざわざゴーラーを日本研究
のチームから外した(Price 2004)。このように、研究チームの構成に対する配慮によって、少なくとも固定
観念と偏見にもとづいた研究を避けることができた。
『菊と刀』の巧みな書き方
ベネディクトは一度も日本に来たことがないので、フィールドワークを行うことができず、古い文献を参考
に研究を進めたのではないか、という批判がよくある。けれども、参考にしたものはさまざまな種類のデータ
を含んでいることは事実である。毎日の日本のラジオ放送や新聞記事などのアップ・トゥ・デートな大量の情
4)たとえば、La Barre(1945:319-42)を参照。
− 31 −
報以外に、文学書や歴史書、旅行記、映画、捕虜の尋問記録、捕獲された日本人の日記や日誌、手紙類、在米
日本人や日本での滞在経験のある人へのインタビューなどを使用した。戦時情報局で日本の研究チームはこの
ような大量データを翻訳・整理し、重要な情報を研究者に提供した。
実は戦後においてこのような集中的で大規模な学際的研究プロジェクトを数回再現する試みがあった。ベネ
ディクト自身は戦後すぐに多額の研究補助金を受け、120 名を含む文化比較プロジェクトを設立した。その後、
70 ∼ 80 年代においても、経済的に急成長を見せた日本を抑えるためにこの OWI をまねたプロジェクトが立
ち上げられたが、成功したとはいえない。さらに、イラク戦争が起った際、今度はイスラム文化圏を探求する
ために、OWI をまねたような研究プロジェクトが提案されたが、実現に成功しなかった。しかし、このいく
つかの試みからわかるように OWI で行われた研究方法と内容は高く評価できるものであったことがわかる。
ベネディクトはこのように確かな情報をもとに分析を進めていたが、おそらく情報を客観的に並べておくだ
けでは、すでに植え付けられた偏見を打ち破ることができなかっただろう。そこで、ベネディクトは『菊と
刀』の最初の章の最初のページには、
日本人はアメリカがこれまでに国をあげて戦った敵の中で、最も気心の知れない敵であった。大国を敵と
する戦いで、これほどはなはだしく異なった行動と思想の習慣を考慮の中に置く必要に迫られたことは、
今までにないことであった。(Benedict [1946] 1974=1948:1)
と書いている。まず日本人が理解不可能という偏見を取り上げ、読者が当たり前としているイメージを確認
し、次に but also(しかしまた)行動を取り上げ、日本人の対立的で、矛盾する行動をリストアップしている
(Benedict [1946] 1974=1948:2)。アメリカ人にとって、日本人の行動は理由なくころころ変わるように見え
た。たとえば、日本人は大変礼儀正しい。しかしまた、彼らは生意気で無礼である。とても保守的であるが、
同時に新しいものや発想に飛びつく。アメリカ人は、一定の行動を守ることのできない日本人は信頼できる人
間ではない、と見なす。裏切り者や訳のわからない人々として見なしてしまった。戦時中にプロパガンダやマ
スメディアではこのようなイメージが特に普及していたので、ベネディクトはこれを意識して、少しずつその
ようなイメージを崩していこうとする。そして、崩してから、新しいイメージを植え直すという戦略にもとづ
いて『菊と刀』を書いている。
つまり、deconstruction(脱構築)手法を用いて、読者が当たり前とする文化的な理解を、ラジカルな文化
比較、つまり全く異なったエキゾティックな文化を比較対象にすることによって、異なった文化に注目させる
だけではなく、自分がそれまでに当たり前としていた文化的行動を見直させる手法を使っていた。あまりにも
対照的なものを比較して、異なることを目立たせることで、読者ははっとさせられ、一瞬どちらが当たり前な
のかと混乱してしまう。その時に、読者はさらに深く考えて、自分の文化や社会についても矛盾を感じること
がある。立場を交代させることもあり、他者を文化的観念から見ることが可能になる。たとえば、『菊と刀』
の第 9 章「人情の世界」では、アメリカと日本の個々の文化的特徴を相次いで比較している。一つだけ例をあ
げると、日本人は何時であっても、どこであっても寝ることができる。日本人は寝たい時に寝てもいいと考え
ているのに対して、特にピュリタンの影響の強いアメリカでは、明日一日、仕事ができるようにちゃんと夜は
7 ∼ 8 時間寝なければならないと考えている。当然、昼間は寝てはいけないと考えるが、日本人の睡眠に対す
る緩やかな態度について読むうちにアメリカ人は逆に、なぜ昼間に寝てはいけないのだろうか、と自分の行動
について疑問を持つことになる。このように、何が当たり前だろうかという疑問を持たせることによって、新
− 32 −
しい視野から他者の行動と文化について考える余裕を与えることになる。
しかし、この手法を用いるために、ベネディクトは日常生活の中の細かいことに大変な注意を払っている。
どんな小さなことでも、行動パターンとのつながりを絶えず探ることをベネディクトはしていた。多くの研究
者が見落とすことを彼女はピックアップし、その意味について考えていた。だから、比較している対象が生き
生きするだけでなく、ある意味で、比較されている例で読者が「はっと」させられ、納得せざるを得ないよう
な状況に追い込まれる。戦後直後にベネディクトの指導のもとに七つの文化を研究する大規模の研究プロジェ
クトが設立され、そこで文化的な特徴を打ち出すために、写真、映画、文学などの日常的なものを研究材料に
するとともに、必ず研究対象の文化で育った一人を研究チームに入れて、さまざまな事実を確認できるように
していた。後にこのプロジェクトはカルチュラル・スタディーズ(Cultural Studies)のルーツになり、現在
の研究の仕方に多大な影響を与えることになった。
ベネディクトが研究生活の中でずっと守っていたことは、上述したラジカルな文化比較と、できるだけ他者
の文化をその他者の目から見ることであった。自分の文化的なフィルターをかけたままで異文化を分析すると
偏見に陥る可能性が大いにある。だから、日本文化を研究した時に、日本人は日本の文化的行動をどのように
統合しているのか、またどのような意味を与えているのか、という相手の立場から文化を見る研究方法を発展
させていた。また、このような方法を使うことによって、個人の主体性(agency)も浮かび上がる。ベネディ
クトは文化をダイナミックなものとして考え、文化が個人に影響を与えると同時に、個人が文化を変える力、
主体性を持っていると考えていた。
『菊と刀』と紛争解決
戦後、1946 年 11 月に原文の『菊と刀』が出版された。日本人の行動についての情報がほとんどなかったた
めに、連合国最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers: SCAP)はいち早く『菊と刀』の日
本語訳を依頼し、日本語訳が 1948 年にでた。アメリカにおいて『菊と刀』に対する書評は、日本人の新たな
イメージを提供するものとして評価された。特に面白い表現としては、日本人をもっとも「人間的」に描いて
いるという指摘もあり、ある程度アメリカの読者一般もサルとしての日本人を忘れ、対等に考えなくても少な
くとも人間、それから人間の痛みを感じるものとして日本人に対する見方を改めることになっただろう。日本
において、多くの占領軍は日本人を理解するためにベネディクトの研究を参考にした。その中で若きドナル
ド・キーンは感動してベネディクトに手紙を書いている。キーンは日本の友人の義理堅い行動が『菊と刀』で
非常に分かりやすく解説されていることをベネディクトに報告している。後にキーンは日本研究のリーダーの
一人となるが、日本研究をする若者は必ずといってもいいほど、この本を読んでいた。また、占領軍の間で日
本人の行動の理屈をある程度理解できたことによって、日本人を信頼し、ともに日本の復興に力を入れること
になった。
さらに、日本側においても、当時の著名な社会科学者を集めて早速学術雑誌で特集を組んで合評を発表して
いる。厳しい評価もあり、時代遅れの資料を参考にしているために分析が的外れだなどの指摘もあったが、こ
の合評によって、当時の日本の学生は『菊と刀』を一度読むべき本であると考えた。逆に、日本人は、
『菊と
刀』によってアメリカ人の行動パターンを理解するためのヒントを得たといわれている。この意味で、文化理
解を促進することによって『菊と刀』は見えない形で紛争解決に多大な影響を与えたといえる。
− 33 −
『菊と刀』は 60 年も前に出版されたにもかかわらず、今でも簡単に入手できる本である。原文も日本語訳も
絶版になったことがない。また、90 年代から新たな言語に翻訳されるケースも多々ある。誤解が多いことや、
現代の日本の文化を解説できないことは、よく指摘されている通りである。
では、そのような本がなぜ今でも広く読まれているのだろうか。それは、中国のケースにおいて指摘できる
と思うが、今日の日本を解説する中身としてとらえるのではなく、日本の文化、および異文化の理解の方法を
教えてくれる本として読まれている部分があるといえるだろう。ベネディクトの細かい点への配慮とその丁寧
な分析が読者を刺激し、文化理解に対して柔軟性を与えてくれることが今の『菊と刀』の魅力と考えられる。
その柔軟性を日本以外の文化に応用できると思わせる力も含んでいる。このようなあまり気がつかない点が
『菊と刀』に秘められているために、愛読され、また時代を超えて私たちに文化を理解するためのヒントを与
え、実際今日の日中関係においてまた活躍していることはその具体的な証拠である。
参考文献
英語文献
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日本語文献
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− 34 −
ルース・ベネディクトの日本人論
ジェフリー・ゴーラーの果たした役割 1)
福 井 七 子
関西大学外国語学部教授
1.はじめに
この論文は、第二次世界大戦の終結に際して連合国側によって行われた敵国の国民性研究、なかでも日本人
研究において指導的な役割を果たした文化人類学者ルース・ベネディクトとイギリスの社会人類学者ジェフ
リー・ゴーラーに焦点を置いて書くものである。ゴーラーの日本研究は、ベネディクトに先行する研究であっ
たにもかかわらず、ベネディクトの偉大な著書『菊と刀:日本文化の型』の陰にかくれてしまっているように
見える。また、マーガレット・ミードとは終生親しい関係が続いたが、個性の強いミードは注目を集めたが、
ゴーラーはミードに寄り添っている影のような存在であるかのように見える。事実、ゴーラーはベネディクト
やミードによって研究者に育てられたことは否定できないことではある。
本論文では日本ではほとんど研究されることがなかったジェフリー・ゴーラーの人物像、文化人類学との出
会い、そして彼の日本人研究の内容を検討し、その影響について考察することに焦点を置くものである。
ゴーラーは、ミードとは終生親しく付き合い、またベネディクトとも研究の上でよき相談相手であった。家
族や親族や友人たちとの人間関係の新しいかたちを研究することに関心が増し、そうした側面から学問的焦点
があてられる必要性が高まっている今日、ベネディクトに様々な面で関わりがあったゴーラーやミードとの関
係を研究することは時宜を得たテーマと思われる。
2.ジェフリー・ゴーラーの生い立ち
イギリスでは社会人類学という名称を使うことが多いためジェフ
リー・ゴーラーも社会学者とか社会人類学者と紹介されることが多
い。ゴーラーは 1905 年ロンドンに生まれ、家庭はかなり裕福だった
ようで、ケンブリッジ大学で古典語のラテン語とギリシャ語を学んだ
後、ソルボンヌ大学やドイツなどの大学でも勉強している。ゴーラー
自身の経歴やどのようなバックグランドを背景にして育ったのかに
ついては、
『死と悲しみの社会学』
(Gorer 1965=1986)の「自伝的序
文」に垣間見ることができる。彼の父親は手広く商売をしており、メ
アリー王妃(エドワード 7 世の死去にともない、その子ジョージ 5 世
1)本研究の一部は、平成 20 年度関西大学研修員研修費によって行なったものである。
− 35 −
Geoffrey Gorer, 1926
(サセックス大学所蔵)
が即位をしたが、メアリーはその妻)が父親の顧客だったというのだから、父親のビジネスのスケールが想像
できるだろう。ジェフリーには 2 人の弟がおり、2 歳年下のピーター、そして 8 歳下のリチャードであった。
父親、Edgar Ezekiel Gorer はイギリスとアメリカにアンティーク・ショップを持つ骨董商で、Chinese
porcelain を専門に扱っていた。イギリスではロンドンのニュー・ボンド・ストリートに、そしてアメリカで
はニューヨークの五番街に店を構えていた。骨董の専門が Chinese porcelain ということから、父親がいかに
コスモポリタンであったか窺い知ることができよう。1915 年にイギリス船籍客船ルシタニア号が魚雷によっ
て沈没するルシタニア号事件が起きたが、当時の乗船名簿を調べると、1915 年エドガー・ゴーラーはルシタ
ニア号のファースト・クラスに乗船しており、アメリカ合衆国での商用を終えて帰る途中であった。同じルシ
タニア号に乗船しており、危うく難を逃れたオペラ歌手でサロン・クラスの船客であったジョセフィン・ブラ
ンデル(Josephine Brandell)は当時の事件の思い出について、魚雷があたった時、急いで階段を上がった
が、本当に怖くてがたがた震えていた。エドガー・ゴーラーは彼女に救命胴衣を着せてくれ、勇気をお持ちな
さいと力づけた、と語っている。この事故によりゴーラーの父親は 43 歳で死亡した。
ゴーラーの母親は 1873 年生まれで、1954 年に死亡するが、その前の 4 年間ほどいわゆる「認知症」を患っ
ていたと思われる。彼はその当時のことを「わが身を処することもできずに失禁を繰り返し、人間存在の全く
支離滅裂なパロディーに退化し始めていたようだ」と書き、また「人が目撃できる変容のなかで、最も悲惨な
変容である。遂に死がやってきた時に、それは明確な意識をもって解放・救済として見られた」と書いている
(Gorer 1965=1986:22)。1950 年代には、母親に加えて母方の 2 人のおじとおばの 1 人が死亡するという経験
をした。
「死は性に代わってタブーとなり、多くの人にとっては陰湿でひそやかなる魅惑に満ちた主題ともなっ
た」と「死」の社会受容の変化を鋭く指摘した「死のポルノグラフィー」は、死の社会学者ともいわれるほど
後の研究に大きな影響を与えた。
ゴーラーは 13 歳の時、イギリスの有名なパブリック・スクールであるチャーターハウスに入った。1931 年、
26 歳の時、弟のピーターとともにロシアのほとんどの地域を訪れるというソ連邦国営旅行社によるツアーに
出かける。当時としては、かなりの冒険と見なされるような旅行だったようだ。3 年後の 1934 年にコート・
ジボワールの赤道付近の森に住むゴロ族を訪れ、その村に滞在する。これが 1935 年に Africa Dances を生む
きっかけとなった。ゴーラー自身にとって人生のターニング・ポイントとなったのが渡米であった。
ゴーラーがマーガレット・ミードに初めて出会ったのは 1935 年 12 月 8 日であった。1935 年 12 月 7 日、
ミー
ドはゴーラーに手紙を書き、会う約束をしている。 Dear Mr. Gorer で始まるフォーマルな手紙がこの 1 通き
りであり、これ以外はすべてファースト・ネームで書いている。
明日の火曜日に自然史博物館 2)にある私のオフィスでお待ちしております。電話でもくだされば、お約束
をアレンジすることができます。お会いするのを楽しみにしております。
(Gorer Collection、以下 G.C. と
する。G.C.1)
この日以来、ミードとゴーラー、そしてベネディクトとの学問上の刺激的な輪が形成されることになるので
ある。ゴーラーは、ベネディクトに比べてミードとの手紙のやりとりは頻繁で、サセックス大学に保管されて
いるゴーラー文書だけを見ても、1935 年から 1954 年までで 436 通の電報や手紙が保管されている。そして
2)アメリカ自然史博物館(America Museum of Natural History)のこと。
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ゴーラーは「ミードとベネディクトから初めて文化人類学の学問的な訓練とオリエンテーションの大部分を得
た」(Gorer 1962:290)のである。
マーガレット・ミードとジェフリー・ゴーラーの関係は、生涯を通して続く落ち着いた関係であったように
見られる。ミードの娘もゴーラーのことを uncle Geoffrey と呼び、たびたびイギリスの彼の家を訪れ、手紙
の交換もかなり頻繁にしている。ゴーラー・コレクションのなかにミードの娘が小さい頃に差し出したかわい
い絵入りの手紙も残されている。
ゴーラーがアメリカでの滞在を始めた頃、アメリカでは文化人類学の父と呼ばれたフランツ・ボアズやルー
ス・ベネディクト、そしてマーガレット・ミードなどが中心となって、文化相対主義に立脚した文化人類学の
分野で活躍していた。ゴーラーが 1935 年に出版した Africa Dances は、多くの著名な人類学者の関心を集め
るものとなった。Africa Dances の成功は、後のゴーラーの人生を決定する作品となった。特に、アメリカ自
然史博物館に勤務していたマーガレット・ミード、コロンビア大学のルース・ベネディクト、そしてまたエー
ル大学のジョン・ドラードといった人たちの注目を集め、1935 年から 1936 年にかけて、彼らの学問分野にお
ける理論的な背景や方法論といったことを指導する期間となった(Gorer 1962:290)。
第一次大戦時と比して彼の心の手ははるかに小さかったようである。その理由は第二次大戦において、彼は
やりがいのある、多くの重要な仕事に専任していたからと Africa Dances のなかで書いている。重要な研究と
は、日本人研究が主たるもののひとつであったことは間違いないだろう。
3.ジェフリー・ゴーラーの「日本人の性格構造」
日本人研究がアメリカで集中的に行われるようになったのは 1942 年から 1944 年であり、ジェフリー・ゴー
ラーは比較的早い時期に日本研究に取り掛かったひとりであった。その論文の影響については Africa Dances
のなかで「非常に影響力のあったものである」と、ゴーラー自身が述べていたと書かれている(Gorer 1935:
290)。その論文とは「日本人の性格構造とプロパガンダ」と題されたもので、後の日本人研究に大きな影響を
与えた作品である。これについては『象徴天皇制の起源』(加藤 2005)にも書かれている。
…1942 年 4 月 20 日付で、情報調整局(Office of the Coordinator of Information: COI)ドノヴァン長官
は、部下である調査分析部(Research and Analysis: R&A)のグレゴリー・ベイトソンにも、感謝状を
贈っている。それは、ベイトソンがイギリスの人類学者ジェフリー・ゴーラーによる「日本人の性格構
造」についての報告書をドノヴァンに届けたことへの礼状で、
「これは実に面白く役に立つ研究だ。われ
われの仕事に役立って嬉しい」と手放しで絶賛している。ドノヴァンの R & A 報告書や個別研究へのこ
のような反応は、極めて珍しい。(加藤 2005:142-3)
ゴーラーの「日本人の性格構造とプロパガンダ」をドノヴァンに送るように提案したのは、ジョン・エンブ
リーによるアドバイスもあったと思われる。1942 年 4 月 2 日付けのエンブリーからゴーラー宛ての手紙には
修正を含めて、レポートを COI に送るようにアドバイスしている(G.C.2)。
1925 年に発足した太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations: IPR)は、アジアの問題を研究した
NGO であり、太平洋戦争中アメリカ IPR のメンバーが国務省を中心として極東政策の立案と遂行にあたっ
た。1941 年 7 月 11 日にはアーチボール ・ マクリューシュ米国議会図書館長の呼びかけで、全米学術団体協議
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会(American Council of Learned Societies: ACLS)を始めとしてアカデミズムの主要団体から要人が集め
られて COI が発足している(山内 2008:2)。
ゴーラーの研究についてはジョン・ダワーも『人種偏見』(War Without Mercy)のなかで高く評価してい
る。
戦時中に発表された「日本人の性格構造」についての唯一最大の影響力のある学問的分析は 1942 年 3 月
にアメリカの学者たちに配布され、43 年の末頃、学術誌に要約された形で掲載された論文であることに
間違いなかった。筆者は、イギリスの社会人類学者ジェフリー・ゴーラーで公表の場は狭い範囲であった
が、重要かつ多彩な読者の目に触れることとなった。ゴーラーは「文化とパーソナリティー」の研究に携
わるアメリカの学級たちと親しく、戦時情報局の「外国士気分析課」が行った日本人の行動分析に短期間
ではあるが関係していた。
(Dower 1986=1987:163)
ダワーが言う「要約された論文」とは Themes in Japanese Character のことを指していると考えられ
る。ゴーラーはこの論文に先駆けて Japanese Character Structure and Propaganda を日本人研究の最初
に書いていた。私はエール大学の図書館を訪れた時に、mimeograph 版の Japanese Character Structure
and Propaganda を手に入れていた。というよりその論文は Japanese Character Structure であり、
Propaganda に関する文章は含まれていなかった。この論文はもともと 3 章で構成されている論文であった
が、Ⅲ章の Propaganda は黒塗りにされ抹消されて保存されていた。また 1942 年の日付があるベネディクト・
コレクションに所蔵されているものも table of contents のⅢ章は黒塗りされ、ページははずされており、30
ページから成る論文であった。アメリカに残された資料は、調べた限りではあるが、Ⅲ章の Propaganda は
まったく存在せず、今回、論文の作成にために使用したのは、完全な形で残されているサセックス大学に所蔵
されているものである(G.C.3)。
「日本人の性格構造とプロパガンダ」のⅠ章は、平均的な日本人の性格構造とは何かについて書かれ、Ⅱ章
Gorer の原稿 Japanese Character Structure
Ⅲ章が黒塗りにされている(エール大学所蔵)
Gorer の完全原稿
(サセックス大学所蔵)
− 38 −
では、日本人を戦争に駆り立てた、過去からその当時に至るまでの経済的 ・ 軍事的な側面から理由を探ってい
る。Ⅲ章では、日本人に最も影響を与え得ると考えられるプロパガンダのタイプをいくつかあげ、さまざまな
面からその有効性を検討し、提案している。
ゴーラーの代表的な著書である Africa Dances の紹介のなかでは 1941 年に「日本人の性格構造とプロパガ
ンダ」を書いたと解説されているが、いくつかの図書館に保管されているゴーラーの文書やアメリカの
Library of Congress にある文献、イギリスのサセックス大学にあるゴーラー ・ コレクションなどを調査した
結果、私が見た論文はドラフトを含めて日付はすべて 1942 年 3 月となっており、1941 年の論文には出合うこ
とはできなかった。ゴーラーは、1941 年に論文作成に着手していたと解釈すべきかもしれない。事実、1941
年 12 月 31 日の日付でゴーラーはマーガレット ・ ミードに手紙を書き、日本関係の文献使用に関すること、そ
して日本の須恵村に滞在した経験を持つエンブリーと長時間にわたる話し合いをし、主として母親による子ど
ものしつけについて話したこと、またシラキュース大学教授で日本に長年滞在した経験を持つハーリング
(Haring)とも話し合った旨を述べている(G.C.4)。
ハーリングはミッショナリーとして 1917 年から 1926 年まで日本に滞在しており、ミッショナリーの職を辞
した経緯については、ゴーラーの話によれば、僧籍を奪われたか、あるいは何らかの理由で職責を辞したよう
である、とミードに書き送っている。ゴーラーとハーリングとの面談時間はそれほど長いものではなかったよ
うだ。ハーリングのデータのほとんどは、逸話的なものであったとゴーラーは書いている。
ハーリングは日本の ronin について興味と恐怖の入り混じった感情をもっていたようで、ゴーラーとはそ
のことを中心にした話が行なわれたようである。ハーリングのいう ronin が具体的に何を指すのか明確では
ないが、無頼の徒ぐらいが適当ではないかと思われる。エンブリーとは日本の小さな村の人々の生活を中心に
話が行なわれたようだ。エンブリーが提供した資料は、ゴーラーのそれまでの研究を立証するようなもので
あったが、女性と男性の役割については興味あるものであったようだ。
ハーリングは日本で教鞭をとっていた時、浪人の息子たちが大学のすべての学部を完全にテロ的行為で
コントロールしたことがあった、と語っています。青年たちは学問を全くせず、恰好な場所で何人かを暗
殺した後、彼らが要求していたすべての特権を手に入れたのだそうです。これら浪人たちは、いつも貪欲
で、必ず欲得ずくなのだそうです。つまり、いつも自分たちの特別な能力をかってもらうことを申し出て
いるのです。ハーリングは浪人の組織には大きな秘密の部分があると考えています。こうしたことからわ
かるのは、社会のイメージとして上流階級のギャングによって政治的に脅かされているということです。
ハーリングはまた極端な反乱の話にも言及しています。ハーリング自身は、そうした例についてひとつ
だけ知っているそうです。その話は、他の日本人の鍛錬のパターンの理由づけともなりうるもののように
私には思えます。ある村で 4 歳の少年が住んでいた家の隣に彼は住んでいたそうです。両親はこの子ども
のために子犬を買い与えたそうで、少年には実際に子犬を殺すこと以外なら、何でも自由にすることが許
されていたそうです。少年はほしいままに、切ったり、傷つけたりして子犬をいじめました。ハーリング
は、隣人の行為によって子犬がなき苦しんでいるのを一年にわたって不愉快に感じていたと話していま
す。さらに彼が両親に忠告すると、両親は、息子が苦しみの声や様子にも動じることがないように成長す
ることができるように、この子犬を買い与えたのだ、と言ったのだそうです。(G.C.5)
− 39 −
3.1 幼児期と教育
エンブリーとの話についてはいくつかの興味ある点が含まれており、とくにトイレット ・ トレーニングにつ
いてはゴーラーが持っていた知識を裏付けるものであったようだ。幼児期と教育は、ゴーラーが特に強調して
書き、「日本人の性格構造とプロパガンダ」の中核のひとつを成している。ゴーラーが論文を作成する上で、
日本とアメリカの相違点に類似点より力点が置かれていることは否めないが、彼の姿勢は、アメリカ人と日本
人の遺伝的な差異は、生まれつきの心理的な差異にはつながらないという点が貫かれており、しつけの違い
は、絶対的な差異というより、むしろ重要視することにおいて生じるものである、とゴーラーは考えていた。
アメリカ文化を含んで、他の社会にも対応しないようなしつけは日本人にはないのであり、異なるのは強調す
る点にあり、そうしたパターン化こそが日本人を特徴付ける主たる要因なのである、と書いている。
しつけに関しての資料は、日本に長年の滞在経験をもつ二人のインフォーマントから得たものであった。一
人は Miss Clara Loomis という女性で、日本で 40 年にわたって医学と教育面を担当していたミッショナリー
で、もう一人は日本において 20 年以上も商売をしていた人の夫人で Mrs. Messer であった。二人とも主とし
て横浜およびその近郊に在住していた。ゴーラーが彼女たち二人から得た情報はまず、feeding 、つまり子ど
もに対する食事の与え方であり、どのようなものを与えているのか、あるいは年齢に応じた食事に対するきま
りといったものが書かれている。
そして次に取り上げられている modesty は、子どもに節度を教えることの基準といったことが述べられ
ている。さらに次の項目として toilet training つまり、子どものトイレット ・ トレーニングについてのしつ
けの方法である。ゴーラーの論文は当時にあって日本研究のパイオニア的なものであった。
まず、ゴーラーはトイレット ・ トレーニングがいかに厳しいものか説明する。
「日本では赤ん坊のトイレッ
ト ・ トレーニングは、4 ヶ月のときに開始される。それはおそらく人生において最も苦痛を伴う経験であろ
う。」「母親から小言(その口調は、ぞっとするほど恐ろしく、ほとほと愛想をつかしたような)を言われ、そ
してゆすられ、時にはぶたれることもある。…日本の赤ん坊は、習慣的に食べさせられすぎていることで、ト
イレット・トレーニングはより困難になる。
(日本人が大人になると食べ物に対して興味をあまり持たなくな
り、少量の食べ物で暮らしていける能力は、これが原因であるかもしれない)」とゴーラーは述べる。
また幼少期に多くの制限があったり、欲求を阻止されたりすることによって、反抗が日本人の生活の根本に
あると考えられる。
「儀式に対する献身、整然さと秩序、不潔なものをひどく嫌うこと、無力な人々に対する
手加減のない残忍さ、
『顔』へのこだわり(アウトサイダーによって行儀の悪い子どもも嘲笑されることに対
しては、日本人の両親は神経過敏である)
」とゴーラーは説明する。さらにゴーラーが指摘している重要なこ
とは、
「日本人は攻撃下にあっては、一枚岩のようにしっかり結びつかないことである。日本人は同胞たちに
対しては、すぐに背を向ける」ことである。
そして日本社会においては幼い頃から性差が、あらゆる面で厳しく意識され、区別されていることを書く。
「日本の女の子は成長すると、自由はなくなる。しかし男の子の場合、何らかの攻撃的な訓練が許されている。
男性は命令する。女性の方は愛され、冷遇され、さげすまれる。男の子が 4 歳になると、すべての女性を、母
親も含んで、支配する特権を獲得する。彼は罰を受けることなく、母親を侮辱したり、噛みついたりすること
もある。母親ができる唯一の防御は、甘いものを与えるだけである」。
このようにして育てられた日本人は国際的な場においても特徴的な行動が見られる。
「他の国々に対する日
本人の態度は、ある種、家族の態度を強く反映するものである。日本人はすべての社会を男と女に分け、それ
に応じてふるまう。19 世紀、日本が西洋のふるまいを模倣するのに忙しかった時、日本人はアメリカやイギ
− 40 −
リスを男と考えていた。それから、日本人の攻撃に対して無抵抗であったアングロ ・ サクソンのおかげで、日
本人は西洋の力に対する性の考えを逆転させた」
。日本人は他の国々や人種を「男か女」をもとにして「服従
か否か」という基準で見ていたのである。それは幼い頃の厳しいトイレット・トレーニングに因ること大であ
ると指摘する。
一人のインフォーマントの話によれば、もし赤ん坊が床に置かれ寝かせられている時に、落ち着きがなく、
もじもじそわそわすると、母親につねられるそうである。歩き始めると、どこを歩くべきか、畳と畳の境目は
踏んではいけないと注意される。それが守られない場合は、お灸を背中にすえられることになる。そして幼少
期までに、きちんと座ることを学ぶ。幼少期から不快な姿勢でじっと黙っていることを強いられることは、大
人になると、自分の感情を抑えることによる無表情さと肉体的な感情の抑制は、いったんお酒を飲むことで、
まったく逆転してしまうのである。これは、日本文化が抑圧的だと感じさせる兆候であるかもしれない、と
ゴーラーは述べている。
こうした幼い頃から受ける訓練によって、多くの日本人は胃腸病に悩まされている。バジル・チェンバレン
(B. Chamberlain)も『日本事物誌』のなかで指摘しているように、「ある社会階級の人々、とくに職人層は
できるだけ食事に時間をかけないことを誇りとしているため、胃腸病に悩まされている」
(Chamberlain
1905=1969:233)3)。これは早食いということに加えて、食事をする姿を見られることを恥ずかしく思っている
こともある。胃腸が悪いため、固形物は排泄行為につながると考えられ、心理的に不安な状態になる。そのた
め子どもは外で砂糖菓子をもらっても封を開けずに必ず家に持ち帰るのである。食事に関しては、エンブリー
も『日本の村:須恵村』において写真にとっているように、百姓たちは畑では背を向けて食事をしている
(Embree 1939=1978)。
幼児期に受けたトイレット ・ トレーニングから生じることとして、もうひとつ重要なことが暗示されてい
る。清潔さときちんとしていることに力点が置かれており、あらゆるものには、その場所があり、まさに存在
するべき場所にすべてのものは存在する、ということが強調されている。ゴーラーはこれに説明を加えて、
「こ
のことはトイレット ・ トレーニングのモットーとして考えられるかもしれない」と書いている。室内の装飾や
庭園は詳細に、正確な位置に置かれることで賞賛される。木の葉一枚、紙切れ一枚たりともあってはならな
い。この完璧主義が極端に儀礼化したのが茶道である。現在において、すべての社会階級や地位の人たちが活
動する時も、これは同様である。しかしこうしたことが求められる社会では、幼少期にある子どもにとってそ
れは恐怖を伴うこととなる。心理的に、儀式上の形式、整頓と秩序を優先する個々人は、厳密には「脅迫的な
神経症患者」として知られている、と論じている。ゴーラーのみならず、当時の日本人研究はこうした帰結に
至るものがほとんどであった。
ゴーラーが日本人の極度の清潔さと潔癖さを表すために書いた doing the right thing at the right time や
a place for everything and everything in its place 「あらゆるものにはその場所があり、まさに存在すべき
場所にすべてのものは存在する」(Gorer 1942:12-3)は、後にベネディクトの論文「日本人の行動パターン」
のなかでも日本人の倫理規範を分析するために用いられることになる。ベネディクトは「日本の倫理基準は、
個人に多大な損失がもとめられているという点が強調されてはいるが、場所柄さえわきまえていれば、肉体的
な充足感を得ることを認めているし、奨励もしている。ピューリタンの厳格な規範のように、肉体の快楽を罪
としてとがめることもなければ、自由主義的なキリスト教の教えのように快楽を罪としてとがめることもなけ
3)ゴーラーはバジル・チェンバレンによる 1905 年の『日本事物誌』(Things Japanese)の 5 版を用いた。
− 41 −
れば、キリスト教の教えのように快楽の剥奪を神の意向への服従と捉えることもない」(Benedict 1945=1997:
84)。つまり、日本の倫理規範はそういったキリスト教的な教えにもとづくものではない。ここでベネディク
トは、ベネディクト研究でしばしば言及される「万事に適所と適時あり」ということばを用いて説明する。「日
本の規範は、これと同じような服従を求めるものではない。そうではなく、肉体的快楽には適した場所があ
り、そうした快楽と真面目な生活とを混同するのは不適切であると、各人が認識しうるように仕込むことを重
視している」(Benedict 1945=1997:84)のである、と書く。
この「万事に適所と適時あり」 everything in the right place at the right time (Benedict 1945:38)は
ゴーラーの分析をさらに発展させたものであった(Ruth Fulton Benedict Papers、以下 RFB とする。RFB
1)。
ベネディクトはこの「万事に適所と適時あり」を、『菊と刀』では 3 章「各々其ノ所ヲ得」(Benedict
1946=1948:53) Taking One s Proper Station という日本人の行動の背景にある規範に対する意識を表す重
要な章を書いたことは間違いないだろう。
『日本人の行動パターン』に比して、日本人の倫理規範をより自由
に展開させ、ベネディクトが『菊と刀』を出版するに際して humanly に書きたいと出版社に語っていたこ
とを裏付けるものとなっている(RFB 2)。
ゴーラーは、日本人の精神性を西欧と比較し分析する。
「ヨーロッパでは脅迫感にとらわれた人々にともな
う特徴は、極度の倹約と欲深さであるが、こうした特徴は日本人には明らかに欠けている。日本の社会は、他
のほとんどの社会よりも、社会で是認されている攻撃性を解放する準備をしている。ほとんどすべての訪問者
を魅了するのは、日本中に浸透している日本人の生活の穏やかさと、ほとんどすべての偵察員と新聞記者を怖
がらせた戦争中における日本人の残虐性とサディズムとの大きなギャップである」と結ぶ。
ベネディクトがゴーラーの論文から影響を受けたと考えられる箇所はいくつもある。それもベネディクトの
論文、著書の根幹を成す部分においてである。日本人の性格構造を分析する際に、ゴーラーが重要視したのは
日本人が「あざけり」に対して持つ強い不快感であった。日本社会における最もひどい制裁は嘲笑やあざけり
であり、人々はこれを最も恐れている、と説明する。
「日本人の性格構造」のなかでゴーラーは書いているが、
彼はエンブリーの『日本の村:須恵村』を参考にしている。エンブリーの「社会的制裁」には次のように書か
れている。
「制裁には非協力というやり方のほかに、一種の嘲笑するということがある。これは多くの若者に
なされる。青年男女が伝承的な行事をやるのに気を配るのは、実は誰かが嘲笑しないかと恐れてのことであ
る。部落の人々は噂が拡まると、その本人を笑う…」(Embree 1939=1978:161)。
この嘲笑については、ベネディクトも『日本人の行動パターン』において強調して書いている。海外で画家
として成功した牧野義雄(Markino Yoshio)の自伝から引用して、
「嘲笑」がいかに自我や自尊心を傷つける
ものかを書いている(Benedict 1945=1997:55)。
ベネディクトがあげた例は、アメリカとロンドンで長年を過ごしたある日本人画家の自叙伝の一節である。
ここから明らかになるのは、
「自我」が軽視されたと感じたときの日本人の傷つきやすさである。愛知県の小
さな町で育ったこの画家は、思春期のころはひどく貧しい生活を送っていた。英語を学ぶために、ミッション
系の学校の床磨きをしたほどで、18 歳になるまで近辺以外の外には出たことがなかったという。
牧野は誰よりも信頼していた宣教師をたずね、アメリカに行きたい旨を伝えた。ところが牧野が宣教師夫
妻から得た返事は、
「えっ、おまえがアメリカに行きたいだって?」と二人して牧野のことを嘲笑したの
である。牧野は翌朝、その場所から逃げ出した。牧野は、
「不誠実こそ、この世における最大の罪なのだ、
− 42 −
そして、嘲笑はある意味で、殺人より許しがたい」と考えた。(Markino 1912:159-60)
嘲笑に対する牧野の心情をベネディクトは説明する。「この画家は、
『嘲笑』とは侮辱であり、自分の名に対
する『義理』を晴らしたが、一般的に昔から日本では相手に敵対することで義理を果たし、嘲笑した者を刀で
切りつけたりしたようである。新渡戸稲造が『武士道』において述べているように、
『復讐にはどこかわれわ
れの正義感を満足させるものがある』」。
ベネディクトは日本人の責務に対して感じる倫理基準を説く。それはまたゴーラーが述べている「きれい好
き」を発展させ、
「日本人の精神性の多くは、きれい好きなところと、それと表裏一体のけがれに対する嫌悪
とに端を発している」ようで、日本人は、
「家族の名誉や国家の誇りに対する侮辱を、申し開きによって完全
に洗い落とさないかぎり、もとのようにきれいにはならないけがれや癒えることのない傷とみなす」と分析す
る。日本人の責務体系のひとつである「名に対する義理」の持つ意味、つまり他者から「侮辱」を受けると、
それにたいしては「汚名をそそがねばならない」と感じる日本人が抱く責務の重要性を書くのである。ゴー
ラーの「嘲笑」をさらに分析し、ゴーラーが書き得なかった日本人の価値基準にまで及ぶものとなっている
(Benedict 1945=1997:55-8)。
ジョン ・ ダワーが 1986 年に著した War without Mercy は、太平洋戦争に情報戦を含めて新たな視点をあて
センセーションを起こした名著であるが、この本の 2 部「欧米人から見た戦争」の 6 章、
「原始人 ・ 子供 ・ 狂
人」のなかにもゴーラーの研究論文が登場する。ジョン ・ エンブリーの『須恵村』以外に主たる日本研究のな
い時代にあって、またエンブリーの『須恵村』は、国民性理論の品位を下げるものと解釈され、エンブリーの
本が、日本の「国民特有の精神病」について説得力ある分析と考えられていた時に、ゴーラーの日本研究のレ
ポートは当時としては画期的で、重要な作品であったことを指摘している(Dower 1986=2001:240)。
3.2 日本人の戦争動機の分析
ゴーラーの「日本人の性格構造とプロパガンダ」には、なぜ日本軍が南進したのかについて述べている。そ
れは、日本は地域によってかなりの気温の違いがあり、寒さやすきま風に対する対策は貧弱なものである。子
どもたちが大きくなっても、寒さは非常に不愉快な経験のひとつであると考えられている。学校に通うように
なった子どもたちは、自己抑制の一つとしてたとえどんなに辛くても、それを表情に表すことなく寒さに耐え
るという訓練を受ける。寒稽古もその訓練の一つである。従って、過ごしやすく暖かい気候に対する願望が根
底にあり、それが現在の南方方面への拡大を進める動機のひとつとなっている、と書いている。
「日本人が侵略戦争に駆り立てられた理由」として最も重要な動機としてゴーラーはいくつかの理由をあげ
ている。ほとんどの日本人が環境を管理したいという衝動に突き動かされているためであり、それは日本人が
育てられてきた方法やその社会に原因があると思われる。つまり、日本人は周囲の状況をすべて理解し、でき
うる限り支配していないと安心することができないのである。日本人は知らない環境というのを、危険で恐ろ
しいものであると考える、とゴーラーは書く。そして世界を管理したいという欲望はさまざまなことから明白
にわかる。たとえば、細部に至るまで行き届き、配置の決まった家や庭の装飾、そして日本人が相手の名前、
仕事、家族に関してもあまりにも親しげに質問するということに外国人は不満をよくもらしていることからも
わかる。ノートをとったり、細かく観察したり、外国にいる時はよく見られる特徴として写真を撮りまくった
り、また海外の記事を模倣したり、外国語をうまく操ることができないということを認めるのを極端に嫌がる
ことなどをゴーラーは指摘する。
− 43 −
日本人は自分のグループの目からみても、外部の目からみても自分たち自身の地位を確立したいという非常
に強い衝動をもっているようにみえる、という点を書く。日本人の子どもは言葉を理解した瞬間から誇張では
なく、あるものは生まれときからエチケットや正しく適切な行動規範を要求される。子どもは家を出るとすぐ
に家名を上げ、家の名を汚さないように正しい行動や十分な成果を得ることが求められる。大きな集団のなか
の個人というこの点は、幼い頃から強調して教えられる。海外における日本人が、自分たちが国全体を代表し
ているように感じたり、発言したりすることは決してまれなことではない。見知らぬ人からの批判を恐れるの
は、日本人が幼年期や青年期から受ける教育によるものである、と書く。
ここでゴーラーは、日本人の in-group に関する卓越した考えを披瀝する。日本人は敵意に満ちた批判を避
けることができる間は、自分たちのグループ、特に大家族から完璧な支持や賛同を与えられるのに対して、も
し個人が見知らぬ人の批判に対して刺激を与えるようなことになったり、あるいは同い年や同性の誰かの要求
を叶えることができなかったりした場合、自分のグループから攻撃を受け、激しく罰せられ、その上、もしそ
の批判が厳しければ勘当されてしまうことになる、とゴーラーは述べる。またこの点については、これが実行
される程度が社会倫理的に非常に異常であるということは、強調しておく価値があることを指摘している。大
家族や他の社会的な小集団が活動している社会の大部分においては、大方の場合、その集団は他の集団のメン
バーから批判や攻撃にさらされている仲間を守るために集まるのが一般的である。自分自身が属している集団
からの賛同があれば、窮地に陥ったり、攻撃されたりした場合、自分は完全に支持されているのだという確信
があればこそ、他の世界に立ち向かうことができるのである。しかし、日本の場合はその逆である。他の集団
が賛同している場合は、自分の集団も反対し、罰する方にまわるだろう。そして、その個人が他の集団内から
の批判を取り除くまで、そうした状態は続くのである、とゴーラーは分析する。ゴーラーは、こうした日本の
社会体系について外の世界の賛同を得るという必要性は、おそらく他の社会においては比較できないほどの重
要性を持っている、と結ぶ。
そのため、日本人は国民全体が個人として外国からの賛同を得ようと必死の努力をしているのである。たと
えば、外国人の批判を受け入れ、それを採用しようとした。なかでも最も顕著なものが prudery (上品ぶる
こと)と、 morality (道徳)という観念を受け入れたということである。外国から非難をまねくもの、たと
えば日本人は長く続いた感情的に重要な田舎の男根崇拝といったような信仰を野蛮なものとして法に定めた。
裸での入浴を野蛮なものとして法的な整備をした。また、日本人は自分の娘を売春宿に売ることを野蛮なもの
として法に定めた。服装や髪型の流行、家具、演説、住宅など日本人は外国人の批判を受け入れ、それに見合
うように最大限の努力をしたのである。しかしながら、日本人の最大限の努力はただの簡単な、恩着せがまし
く、子どもや知恵遅れの者に与えられるような称賛を得ただけで、結局は失敗に終わってしまった、とゴー
ラーは説明する。さらに、1924 年の移民法において、外部集団であるアメリカは、日本人を永遠に土着民、非
白人として分類したのである。この法律によって、日本人の市民権の獲得は禁止されることになってしまった
のである。
ゴーラーは広報活動の面からも書く。わが公的報道機関の嘲笑(たとえば「小さな黄色い強欲者」という表
現)は、われわれに対等な立場を認めさせようという衝動を悪化させるものとなった、と非難する。ゴーラー
はここで連合国、特にアメリカに対して提案する。それは、日本人の衝動を扱う私たちを同等なライバル集団
という立場から、同じ集団における上位の仲間(たとえば国家という家族における父親的存在)という立場へ
かえることである、と提案する。ゴーラーのこの議論は、翌年の 1944 年、ニューヨークにおいて開かれた太
平洋問題調査会の会議においても提案された、儒教的な教えを用いて、兄−弟という関係で日本人を見るとい
− 44 −
う提案のもとになった。
ゴーラーは日本人の形式主義についても触れ、日本の子どもたちは幼いころ、少年は母親や妹に対して攻撃
性を表すことが許される。しかし、学校に通い始めると学校を終えるまで、たとえどのような挑発があったと
しても、攻撃性を表す場所はないのである。そして、すでに指摘されてきたように、社会規範に従うというこ
とは苛立ちとして受け取られ、さらにヨーロッパ人の人格形成の研究によると、すべての日本人の子どもが受
ける初期の過度に徹底した清潔さを求めるトレーニングは、無意識に攻撃心を生み出すことと成り得る。巧妙
で形式的な日本の社会規範は、大きな尺度では、そのような攻撃心を爆発させないように計画されていたと考
えることもできよう。日本で非常に盛んな国技である柔術は、絶対的な自己規制を要求するものである。日本
の侍にとって、完璧に尊敬に値する唯一の生活方法は、他の君主と戦うことである。戦争は日本の軍人に名誉
を達成するための大きな可能性を与えるものなのである、と書く。
3.3 プロパガンダ
「日本人の性格構造とプロパガンダ」のⅢ章でゴーラーは日本人に対して効果を持つと思われるプロパガン
ダの方法のいくつかを提言する。ゴーラーは戦争中に敵国に対するプロパガンダの目的として五つのポイント
をあげている。
(1)軍事的な混乱を生み出すこと
(2)軍の間で「闘争心」を失わせ、市民の間で戦闘を支持する気持ちを減少させること
(3)国内で分裂を起こすこと
(4)対戦国と軍事的に同盟関係にある国との間に分裂を起こすこと
(5)長期的な目的としては戦争後、大方の住民たちとの関係に従順さと協調性が得られること
まず、軍事的な混乱を生み出すこととして、ゴーラーは日本人の心理を書く。
「日本人は知らないことや、
いかんともしがたい状況に対して恐怖心を持つ。そして日本人がとる行動は、自分自身の行動をパターン化
し、他の人々の行動をパターン化されたものとして解釈するという際立った特徴を持つ」
。そのため日本人は
「知らないという環境への恐怖から、自分たちが接触する可能性のある人々や場所に関するあらゆることを理
解するために、努力を惜しまない」と考えられる。そこで日本人に対するプロパガンダとしてとられるべき方
法について、
「軍事上の混乱を引き起こすために最も可能な方法は、日本人が理解できる程度の複雑さである
べきで、一連のパターンが急激に変化するか、あるいは二つがお互いに相容れないパターンかのいずれかをラ
ジオを通して流すこと」をゴーラーは提案する。
ゴーラーは、戦争は日本人に多くの褒章をもたらすため、戦争の恐怖や危険、あるいは苦痛といったテーマ
を取り扱う直接的なプロパガンダは、効果において期待できないため、軍事的な失敗や国内における物資の不
足といったことが起これば、プロパガンダは効果的に働くかもしれない、と前置きとして述べている。
「戦闘の意欲」が低下することはあまり期待できないため、日本人に対する心理戦争の可能性としては、個々
のリーダーたちに「侮辱」といった感情を植え付けることが最も期待できるものであろう、と書いている。こ
こで注目すべき発言は、アメリカが日本に対してとるべき姿勢である。ゴーラーは、アメリカの放送が、
「立
派な自信あふれた、優れた父親」の役割を一貫して演じるなら、個々の軍人や政界のリーダーに対し嘲りや軽
蔑の言葉を遠まわしに言うことは可能となろう、と述べている。しかし、その際には、他の人を称賛すること
− 45 −
によってバランスをとらなければならないとし、英語ではなく日本語でなされることが望ましいと書いてい
る。
また、ゴーラーはいかなることがあってもミカド自身を攻撃してはならないとし、ミカドを攻撃すること
は、中世のローマカトリックの法王を攻撃するのと同じである、と説く。日本における権力側とは、天皇の名
を利用し、天皇を辱めたり、天皇を裏切ったりすることで、自分たちの私利私欲を得るような人たちのことを
言うのである、と述べる。
ゴーラーは、最も見込みのある方法として、ある特定の権力をもつ人たちの評判を落とすことを提案する。
日本国内の社会には不平不満の中心となりうるいくつかのグループが存在し、そのグループのなかで主たるも
のは、多くのエタで彼らは世間から捨てられた人たちのようで、公的には特殊部落と呼ばれている。1869 年
の法的な差別撤廃にもかかわらず、大方の日本人の生活にもほとんど参画することもなく、戦闘的な行動が黙
認されているグループのひとつである、とゴーラーは述べる。ゴーラーがこの項において参照した論文は、
Ninomiya Shigeaki(1933)による An Inquiry Concerning the Origin, Development and Present Situation
of the Eta in Relation to the History of Social Classes in Japan であったことは間違いないだろう。この論
文は Ninomiya が 1933 年にワシントン大学にマスター論文として提出したものであるが、Asiatic Society of
Japan で講演したものを基にしている。1933 年に出版された英文によるこの論文が唯一入手可能なものだっ
たようである。ゴーラーの分析によれば、彼らは政治的に目覚め、水平運動を組織したが、この運動と世界の
プロレタリア運動とのかかわりはあまり明確ではない、と書いている。このグループはおそらく不満と破壊の
潜在的な中心ではあるが、直接的に訴える公的なプロパガンダについてはおそらく無理であろう。しかし、他
の社会階級の日本人聴取者には影響を及ぼすものとなるだろう、と記している。
第二の不満グループとしては、リベラルな知識人をあげている。彼らの作品の引用や彼らの人生の出来事な
どは、適当な場面で利用できるのではないか、またそうすることで、個々人をいい気持ちにさせれば、彼らは
進んで協力するかもしれない、とゴーラーは書く。
第三の不満グループは小作農民たちで、彼らは最も搾取されているグループであり、生活水準においては、
日本政府の戦争政策によって最もひどい影響を受けている。先の 1932 年 5 月には、農民によって組織された
「愛郷塾」4)によってクーデターが企てられた。これは不成功に終わったが、熱心な農民たちの組織は犬養首相
を殺害し、日本銀行、政党の本部、警察の権力組織を襲った。こうした伝統を心に持っている農民グループの
モラルは、非常に重要なものである。しかし、この点については、戦闘意欲が低下してからの方が賢明だと思
われる、とゴーラーは説明する。
最後に、組織的な労働者のグループについて書いている。国際的な考えを持つ左翼や共産主義者グループ
は、これまで酷い攻撃を受けてきたことから、おそらく人数は大幅に減少していると思われる。今残っている
のはすべて右翼であるが、彼らは喜んで政府による膨張政策に協力することだろう。農民グループと労働者グ
ループは、おそらく現在では影響を与えるような存在ではないが、彼らの生活水準が目にみえて低下し、日本
軍が敗北しはじめるようなことがあった後には、適当な人材となるかもしれない、とゴーラーは分析する。
西洋諸国に対するプロパガンダは「脅迫」と「甘言」とで成り立っている。たとえば、
「降伏しなければ全
国民は滅ぼされる」とか「降伏すれば、原料に自由にアクセスできる」などといった訴え方は、日本人に対し
ては絶対に避けなければならないことである。
「私は議論しているのではない。私はあなたに命じているのだ」
4)1931 年に橘孝三郎(1893-1974)が茨城県水戸に創立した農本主義による私塾。
− 46 −
というのが、日本人の典型的な父親や先生としての態度である。
「これが文明化した人たちの行動方法である」、
「これが近代的なやり方なのだ」と放送にあたる人たちは、大きな確信をもって話し、哀れみといったものに
訴えることは絶対に避けねばならない、とゴーラーは注意を喚起する。
「日本人の性格構造とプロパガンダ」の最終章は、敵国である日本に向けたプロパガンダに関する若干の実
験的な提案であった。日本の社会構造を研究し、その上で日本における不満分子と思われる集団にターゲット
をあてた戦略的な試みを書いたものであった。しかし、これを実際に作戦として使うには、時間とタイミング
を計ることが求められるものであり、内容的にも実現が困難と思われるものもあった。
ゴーラーの「日本人の性格構造とプロパガンダ」は、彼にとって最初の日本研究の論文であり、戦時情報局
においても少々専門的でわかりにくいということも言われていた。
「ゴーラーの初期の日本人に関する論文は、
実際的というより心理分析的であった。政府内ではこのような『インテリ』的調査の価値に関しては多くの疑
いがあった」(Caffrey 1989=1993:464)。
4. The Special Case of Japan
1943 年、ゴーラーは連合国によってとられるべき具体的な占領政策に関する論文を、プリンストン大学の
School of Public Affairs から出版されている学術雑誌 The Public Opinion Quarterly の冬号に投稿する。The
Special Case of Japan を書いた時、ゴーラーは戦時情報局での仕事を離れ、ワシントンの英国大使館に勤務
し、プロパガンダに関する仕事をしていた。政府間交渉の仕事に関わっていたようである(ケント 1997:183)。
ゴーラーがワシントンにあるイギリス大使館に勤務していた、ということも論文内容を検討する際の重要な
ファクターであろう。「日本人の性格構造とプロパガンダ」と The Special Case of Japan とでは書いた目
的が異なるのは当然である。日本人の性格構造を心理面から分析し、日本人のパラドクシカルな面のひとつで
ある強迫的な性格が、トイレット・トレーニングに由来することを強調し、日本人の性格を考慮に入れてとる
べき「プロパガンダ」にフォーカスを置いて書いたのが「日本人の性格構造とプロパガンダ」である。それに
対し、1943 年に発表されたゴーラー最後の日本研究論文である The Special Case of Japan は、日本人の
性格構造の分析にはあまり触れることなく、全編を通して、連合国としてとるべき戦略、また決してやっては
いけない行動や手をつけるべき日本社会の構造的な部分などを具体的に提案し、立案している。それは時には
警告めいた口調で、時には研究家らしい口調で学問的な説得を持って書かれている。イギリス人であるゴー
ラーの、アメリカに対する挑戦といった気迫が感じられる論文である。その挑戦とは「政策立案者は、異なる
国の習慣や社会的な慣習を考慮に入れなければならない」ということを含むものであった。
ゴーラーは「日本人の性格構造とプロパガンダ」を書いた後、戦時情報局の主だった人たちに論文を送っ
た。マーガレット ・ ミードやルース ・ ベネディクトはもとより、論文作成にあたって協力を得たダグラス・
ハーリングからは、論文に対する具体的な評価をもらうことができた(G.C.5)。
アメリカ人には異文化に対する経験が少ないことから、占領政策にあたってはイギリス人に任せるべきであ
る、とゴーラーは提言する。この論文がアメリカの学術雑誌に掲載されたという事実から推察されることは、
アメリカ政府やアメリカにおける研究者に与えた衝撃も少なからずあったに違いないということだろう。
社会学的な立場から見ると、日本の軍事的な占領に関わる諸問題は、決して特異なケースを表しているの
ではなく、むしろ極端なケースと言える。日本占領とヨーロッパ占領との相違は、たとえて言うなら、種
− 47 −
類の違いではなく、程度の違いである。軍事的な占領のあらゆる事例は、
「文化接触」という二つの文化
や文明に属する人々の交流をいう学術用語で表される、より大きな社会学的なカテゴリーに包括されうる
ものである。事実、軍事的な占領は、他の文化接触とは異なり、占領する文化をもつ人々が、占領した社
会をどのように変革したいかという方法にかかわる自意識であり、また彼らが目的を達成するために努力
するなかで、説得したり模倣したりするのと同様に、力でねじ伏せることができるという事実である。
文化接触を正しく評価するためには、接触における双方の文化の特色や動機といったものを考慮するこ
とはきわめて重要なことであるが、概してそうしたことを避ける傾向がある。たとえば占領した社会の慣
習や政府、また特色といったものについてある程度、研究することには慣れているかも知れないが、占領
する側はまるで彼らが最高で、理想的な「人間性」そのものの代表であるかのように、また占領された側
の人々は、考慮される必要のないような、特性がないかのように扱われている。それは、まるで数学者が
方程式の一方の辺のみを与えられているかのようである。(Gorer 1943a:567)
占領する側に求められる異文化理解の必要性をかなり大胆にゴーラーは述べている。アジアにおける文化人
類学的なフィールド ・ ワークや日本人の性格に関する知識は、エール大学で行なった集中的なリサーチの結果
であった。ゴーラーが The Special Case of Japan を書いた 1943 年は前述したように戦時情報局の職を辞
し、英国政府の任務のためワシントンで働いていた。それを考慮に入れると、ゴーラーの提言には興味深いも
のがある。戦時中のアメリカによる日本に対するプロパガンダは壮絶を極め、アメリカ国民にとって未知の国
に住む日本人に対する恐怖はいやが上にも強いものがあった。日本人に対する inhuman
(非人間的)で brutal
(残忍)であるというイメージは、日本についての知識がないことによって増幅されることになる。そうした
時にイギリス人である学者がプリンストン大学の学術雑誌に投稿した論文は、おそらく大きなインパクトを、
アメリカにおける戦時情報局の日本研究者に与えるものであっただろう。連合国は勝利をおさめるのは確実で
あろう。しかし、占領政策の実行はアメリカ人ではなく、イギリス人の手によって行なわれるべきである、と
ゴーラーは書いている。
4.1 占領政策への提言
アメリカ人は異文化に対する知識が少なく、これまで行なってきた異文化に対する扱いは極めてひどいと言
わざるを得ない。アメリカ人は今回の戦争によって、
「かなりの憎しみをもって上陸するだろう。日本人によ
る不適切な待遇、特別な利益をもたらしていた領土を破壊され、解体されたこと、そして長く、犠牲の多かっ
た戦いによる損失は大きかった」。アメリカの憎しみがいかに大きくとも、連合国としての戦後の処理方針は、
損失や屈辱に対する直接的な報復であってはならない、とゴーラーは説く。
日本はいずれ「ひとつに団結した組織として活動している連合国に征服されるだろうが、軍事的な責務の大
部分は、イギリスとアメリカ人の責任となるだろう」
。戦争に巻き込まれた様々な国では、これから再建や復
興といった大きな問題を抱えているのである。なにもアメリカだけが戦争の犠牲者ではない。これから行なわ
れる占領政策は、連合国として行動しなければならない。これからの「連合国の処理方針は、太平洋地域での
恒久的な資金のかかる軍備をする必要をなくし、日本社会を非軍事的な協力的なものにすることであろう。そ
のため、日本を占領する個々人が抱いている、如何ともしがたい憎しみをコントロールするということが期待
されることになる」とゴーラーは注意を促す。
したがって、重要なことは「日本を再建する際に、建設的に使用することのできる日本文化と社会の要素を
− 48 −
認識すること」である。この点においてもイギリス人とアメリカ人の経験と態度の対照性が明白になる、と
ゴーラーは書く。
「せっかちに華々しい結果を得たいというアングロ ・ サクソン系のアメリカ人は、我慢する
ということ」を心に留めておく必要がある、とゴーラーは警告する。
4.2 天皇の処遇について
ゴーラーは悩ましい問題として皇室について書いている。ゴーラーは、
「戦争自体、天皇の名のもとに行な
われた」と書き、さらに天皇は、
「連合国の諸国の人々の憎しみの象徴である」としている。しかし、日本人
が別の政府の形態を望んでいるのでなければ、皇室は保持することが賢明である、としている。天皇を説得し
て、「その地位を放棄してもらい、後継者にその地位を譲るのが、ことによると望ましいかもしれない」と書
いている。
この部分は、ルース ・ ベネディクトが戦時情報局にいたときに提出した覚書 What shall be done about the
Emperor (RFB 3)で述べていたことを彷彿とさせる文章である。ベネディクトは天皇の処遇については次
のように書いている。
「…天皇崇拝にかかわる信条を、現在使われているような軍事目的から切り離して考え
ることで、わが国が利益を得ることもあるだろう。また、日本が望むのであれば、その慣習を損なわず、現天
皇のかわりに後任者を据えることも認めなければならない」(Benedict 1945=1997:38)。
ゴーラーは、
「現天皇が維持されるのであれば、天皇にはアドバイザーが用意される必要がある」と述べて
いる。そして、最後にゴーラーは、
「現在、天皇の象徴的な力は、侵略を進めるための主たる道具である。し
かし他方、賢明に利用されれば、連合国にあっては最も有用なものとなり得る」と結ぶ(Gorer 1943a:575)。
ベネディクトも同様の言葉で結んでいる。
「過去十年間、象徴としての天皇のもつ力は、侵略を進めるため
の主要な戦略として用いられてきた。しかし、その力は、どんな目的にも使うことが可能である」
(Benedict
1945=1997:76)。
戦時情報局では、1944 年 5 月からプロパガンダによって天皇のことを汚さないようにすでに指示していた。
ゴーラーのレポートはそれより以前の 1943 年に書かれたものであり、またそれはベネディクトの覚書「天皇
はいかに処遇されるべきか」よりも前に書かれていた。ベネディクトの日本人研究のレポート『日本人の行動
パターン』の日付は、1945 年 9 月 15 日となってはいるが、降伏以前に原稿として配布されていた。
5.結びとして
ゴーラーの一連の日本研究は 1943 年の The Special Case of Japan でひとつの帰結をみる。しかし、彼
の影響はこの後に続く 1944 年 12 月に開かれた太平洋問題調査会のニューヨーク会議へとつながっていき、そ
して彼の研究はさらに発展され、ベネディクトの『日本人の行動パターン』、『菊と刀:日本文化の型』へとつ
ながっていったのである。
戦時情報局から転じて、ゴーラーはワシントンへ行き英国戦時外交使節団のひとつに参画した。ゴーラーが
『アメリカ人の性格』のなかで述べているように、彼に課せられた任務は、
「英国側の連絡員として行動するこ
と、アメリカ側の類似の機関の代表員との会合で英国側を代表すること、そしてアメリカの態度 ・ 批判 ・ 提案
を英国政府へ報告すること」であった。
「共通の目的を達成しようとしていた両国の努力には一般にすぐれた
協力姿勢が見られたが、それにもかかわらず、この仕事が浮彫りにしたものは、戦時という緊迫状態のもとで
は、はっきり現れなかったけれども、私の同僚である英・米人多数の心の中に存在していた『不協和』と『非
− 49 −
難』という基本的な問題であった」(Gorer 1948=1967:
1)。
ゴーラーにとってアメリカは異文化の国であった。
ゴーラーもベネディクトもアメリカという「文化」のな
かで「違和感」を感じたからこそ、客観的な視点で異文
化研究に臨むことができたのではないだろうか。ゴー
ラーとは異なり、ベネディクトは精神病学や専門的な社
会科学用語を省いて書いた。それは言葉が文化を中心と
したものであり、もしアメリカにおける読者にとってあ
まりに多くの含意があると、日本の現実認識を理解する
上での障害になるのではないか、と考えたからであった
(Caffrey 1989=1993:472-3)。
亡くなる直前のルース・ベネディクト
A Lady of Culture と呼ばれた
(ニューヨーク市立図書館所蔵)
国民性の研究とは、国民的相違を研究することであ
り、文化の多様性は混乱を招くのではなく、豊かにするものであるという信念をベネディクトは持っていた。
ゴーラーの日本研究は、日本人の性格構造を導き出すための問題となる様々な糸口を取り出すことに貢献し
た。それを一本の太い糸にして、一見すると「脅迫的」で「抑圧的」にみえる日本人の行動から日本人の ethic
を導き出し、パターンとしてまとまった一枚の布に織り上げることに尽力したのがベネディクトであったと言
えよう。ルース ・ ベネディクトは同性愛者であり、ジェフリー ・ ゴーラーもそうであった。両者はある意味で
アメリカという国のなかで異邦人であった。だからこそ文化の相対性のなかに存する共通性を求めることがで
き、自文化を絶対的なものとみることはなかった。ベネディクトが 25 年の研究生活のすべてを傾注して書い
た『菊と刀:日本文化の型』は彼女自身の総括ともいうべき作品であり、それは自分自身が文化人類学を始め
る契機にも立ち返るものであった。またその目的は、世界にはいたるところに異なった習慣があり、それがど
のようなものかを説明することであった。そして、習慣がどれほど異なっていようとも、基本的には同じ目的
に到達するための方法が違っているに過ぎず、自分たちとは異なっていることで彼らの慣習は間違っているの
ではないことを示そうとした。また世界に平和を真にもたらすことを望んでいるなら、私たちは自分たちがし
ていることが唯一の方法であるという考えを捨てねばならない、ということを訴えようとしていた(Science
Illustrated 1948:24-7)。
様々な相違があっても安心して、安全に生きていくことができる世界をつくること、彼女の言う相違とは単
に文化的な相違だけではなく、個人の多様な価値観の相違をも含むものである。
『文化の型』から始まり『菊
と刀』で終わるベネディクトの長きにわたる挑戦の人生は、絶対的で支配的な価値規範、価値基準に対して挑
み続けたベネディクト自身の投影だったとも言えるのではないだろうか。
参考文献
英語文献
Benedict, Ruth F. 1934. Patterns of Culture. New York: Houghton Mifflin.(=1973,米山俊直訳『文化の型』社会思想社.)
─. 1945. Japanese Behavior Patterns.(=1997,福井七子訳『日本人の行動パターン』NHK ブックス 794.)
─. [1946] 1974. The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture. Tokyo: Charles E. Tuttle
Co.(=1948,長谷川松治訳『菊と刀:日本文化の型』(1995 年初版 45 刷),社会思想社.)
Caffrey, Margaret M. 1989. Ruth Benedict: Stranger in this Land. Austin: University of Texas Press.(=1993,福井七
子訳『さまよえる人 ルース・ベネディクト』関西大学出版部.)
− 50 −
Chamberlain, Basil. 1905. Things Japanese (5th Edition). London. (First published in London, 1890).(=1969,高梨健
吉訳『日本事物誌』平凡社.)
Dower, John W. 1986. War without Mercy: Race and Power in the Pacific War. New York: Pantheon Books.(=1987,
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RFB = Ruth Fulton Benedict Papers
(ヴァッサー大学のベネディクト ・ コレクションに保管されているベネディクト関連文書)
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2 ベネディクトから編集者 Greenslet への手紙,1945.11.14.
3 What shall be done about the Emperor 1945.
G.C. = Gorer Collection
(サセックス大学のゴーラー・コレクションに保管されているゴーラー関連文書)
1 ミードからゴーラーへの手紙,1935.12.7.
2 エンブリーからゴーラーへの手紙,1942.4.2.
3 Japanese Character Structure and Propaganda.
4 ゴーラーからミードへの手紙,1941.12.31.
5 Comment from Haring to Gorer,1942.4.5.
6 Comment from Haring to Gorer,1942.4.5.
− 51 −
第 2 部 東アジアと日本文化論
第
部
東アジアと日本文化論
2
中国における『菊と刀』の翻訳
胡 備
天津理工大学外国語学院准教授
はじめに
現在、中国ではベネディクトの『菊と刀』の中国語訳本が 12 種類を超える。その背景にあるのは何だろう
か。周知のように、近年来、中日関係は「政冷経熱」が続いており、これが逆に中日両国の相互理解を深める
契機にもなっている。言うまでもなく、
『菊と刀』は日本人を知るための必読書であろう。この著は、日本語
をはじめ、韓国語、ロシア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語、ポルトガル語、中国語など世界の諸言語
に翻訳されている。しかし、それぞれの国の立場により、
『菊と刀』に対する捉え方が異なっている。本報告
は、中国における『菊と刀』の翻訳の現状を概観してその問題点を探り、いくつかのテキストの分析を中心に
して中日文化の比較や翻訳の可能性について考察をおこなう。
1.中国における『菊と刀』の訳本
アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)が書いた The Chrysanthemum and The
Sword: Patterns of Japanese Culture は 1946 年に出版された。その 2 年後に日本語版『菊と刀:日本文化の
型』が長谷川松治の翻訳によって刊行されてから、同書は長年にわたりベストセラーになっている。2008 年
には角田安正による新訳も出版された。では、中国における翻訳と刊行の現状はどうだろうか。
1.1 訳本について
中国台湾には、黄道琳訳の《菊花与剣》(桂冠図書股份有限公司、1974 年初版)がある。ただし、この訳本
は後述の③呂万和の訳本で言及されているものの、筆者は確認することができなかった。中国大陸では、最も
時期の早い訳本で、孫志民・馬小鶴・朱理勝訳、庄錫昌校正の《菊花与刀、日本文化的諸模式》
(浙江人民出
版社、1987 年 6 月初版)がある。ところが、この訳本の版元は後に九州出版社に移り、写真や絵を挿んで 2005
年 1 月初版で刊行された。つまり、孫志民らの訳本は二つの版本があったわけである。しかし、筆者は 1987
年の版本を入手できず、本稿での引用などは、その 2005 年版を用いている。中国における訳本は、次のとお
りである。
①黄道琳訳,《菊花与剣》,桂冠図書股份有限公司,1974 年 4 月初版.
②孫志民・馬小鶴・朱理勝訳/庄錫昌校正,《菊花与刀、日本文化的諸模式》,浙江人民出版社,1987 年
6 月初版.
− 55 −
③呂万和・熊墄云・王智新訳,《菊与刀、日本文化的類型》,商務印書館,1990 年 6 月初版.
④唐暁鵬・王南訳,《菊与刀》,華文出版社,2005 年.
⑤廖源訳,《菊与刀:日本人的柔美与暴力(ダイジェスト版)》,中国社会出版社,2005 年.
⑥孫志民・馬小鶴・朱理勝訳/庄錫昌校正,《菊花与刀、日本文化的諸模式》,九州出版社,2005 年 1 月
初版.
⑦晏榕訳,《菊花与刀》,光明日報出版社,2005 年 12 月.
⑧蘇勇強・費解訳,《菊花与刀(英語と中国語対照 ダイジェスト版)》,陕西人民出版社,2007 年 5 月.
⑨譚杉杉訳,《菊与刀》,長江文芸出版社,2007 年 10 月.
⑩南星越訳,《菊与刀》,南海出版社,2007 年 10 月.
⑪北塔訳,《菊与刀》,上海三聯書店,2007 年 11 月.
⑫劉峰訳/薩蘇評注,《菊与刀》,当代世界出版社,2008 年 1 月.
⑬黄学益訳,《菊花与刀》,中国社会科学出版社,2008 年 5 月.
以上で示したように、中国における訳本は少なくとも 12 種類は刊行されている。また、馬駅ほか編著(2006)
の《丑陋的日本人(醜い日本人)》にも『菊と刀』のダイジェスト版が収録されているが、訳者が不明である。
版元不明や海賊版などを含むと、さらに増える可能性はある。
1.2 中国語訳本における挿絵について
中国語の訳本では、上述の③呂万和らの訳本以外は、すべて挿絵が入っている。原著や日本語版に挿絵はな
い。にもかかわらず、中国語版にあるのはなぜだろうか。
一例を挙げると、⑥孫志民らの訳本の第 4 章「明治維新」の中には、福沢諭吉や坂本竜馬、スペンサーなど
の写真が適当なところに入れてある。これは内容との関系があるといえよう。しかし、ほかの訳本の挿絵は本
の内容との関係がまったくないと思われる。たとえば、④唐暁鵬の訳本には、狩野松栄の「四季花鳥図」
、鳥
居清長の「竹抜き五郎図」、入江波光の「臨海の村」などを取り入れている。これはなぜであろうか。
唐暁鵬訳本の前書きの最後に「……修正文庫はこの『菊と刀』という名著と日本における数百年来の絵画名
作とを結びつけたのは、理論と体験とを平行させ、知性と感性とを並存させるためである。このやり方の大胆
さ、および資金投入の果敢な決断ということを読者にも知ってもらいたい」1)
(唐ほか訳 2005:巻頭「序」より)
と述べている。これにより、出版社側の配慮と苦心がわかる。しかし、その目的は達成できているのだろう
4
4
4
4
4
4
4
4
4
か。「日本人の行動と考え方の原理とをこれほどまでに総合的に、全構造的に構成しえた」2)(川島 1972:389)
『菊と刀』は、絵画名作や写真などの挿入で理解しやすくなったであろうか。答えは否である。概して、学術・
理論書には無関係の挿絵を入れるべきではない。むしろ、原著の注釈をはじめ、中国語の訳注や用語解説、背
景知識などを多く入れるべきであろう。
前述した 12 種類の訳本の翻訳の完成度は、日本語のものと比べてばらつきがある。誤訳が頻出しているも
のもある。他方で学術的な訳本もあり、次節ではそれらを紹介したい。
1)原文は ……修正文库将《菊与刀》这部名著与日本数百年来的绘画名作联在一起,是为了理论与体验并行,知性与感
性同在。其作法之大胆,投入之勇决,读者亦不可不知 (筆者による翻訳)。
2)長谷川松治訳(1972)所収(傍点は原文)。
− 56 −
1.3 学術的な訳本
筆者は、上の 12 種類の訳本の中から③呂万和、⑥孫志民、⑫劉峰の訳本を選出した。その理由は、まずは
三つとも、細かい訳注や用語解説を入れてあることである。
また、⑥の校正者の庄錫昌は復旦大学の教授であり、世界文化史および博物館学を研究分野とする。さら
に、⑥は唯一、川島武宜(1972)が書いた「評価と批判」の中国語訳を付録としている。
③の呂万和はかつて天津社会科学院日本研究所の副所長を勤めており、ほかに《简明日本近代史(簡単明瞭
な日本近代史)》(呂 1984)などの著書がある。
⑥孫志民と③呂万和の訳本は、日本語の訳本を参考にしたとそれぞれの前書きに記してあった。前者は長谷
川松治訳の『菊と刀』(社会思想社、1972 年初版)を、後者は同訳の社会思想社現代教養文庫第 16 種・1963
年第 36 刷を参照した。
⑫劉峰の訳本は評論を加えた点で他と趣を異にする。挿絵も他の著書と異なり、
『菊と刀』で言及された事
柄の背景知識に関する写真を取り入れている。評論者の薩蘇は現在、日本でコンピューター関連の職に就きな
がら中日文化比較についてブログを書いたり、《国破山河在》(薩 2007)などの著書を記したりしている。概
して、訳者、校正者、評論者たちの研究の背景は翻訳の質を左右するであろう。
なお、以下で中国語訳本のテキストを分析する際、2005 年に出版された原書 The Chrysanthemum and the
Sword: Patterns of Japanese Culture(Houghton Mifflin, Boston: New York)を参照した。日本語訳本は長
谷川松治訳(1972)3)と角田安正訳(2008)を参照した。
1.4 中国語訳本における問題点
『菊と刀』の訳本は日本には 2 種類しかないのに対し、中国には 12 種類もある。中国語の訳本の問題点は次
に挙げられる。
まずは原著の謝辞(Acknowledgments)をすべての中国語訳本は無視したことである。これも翻訳すべき
内容の一つであろう。謝辞では「とりわけ感謝したいのは、戦争中私の同僚であったロバート・ハシマであ
る」(Benedict= 長谷川訳 1972:1)と記されている。また、
『菊と刀』の原型となる『日本人の行動パターン』
の「まえがき」にも、
「ロバート・ハシマ氏のご協力には、格別の謝意を表さねばなるまい。ハシマ氏の丹念
な記述と翻訳は、大きな力添えとなってくれた」(Benedict= 福井訳 1997:6)とある。ハシマは、ベネディ
クトの部下として勤務した当時のことを回想し、次のように書いている。
……それまで女史には、一人のタイピストの他は特別な研究助手はなく、単独で資料を読み、収集し、そ
してファイル等もこつこつと作っていた。私は女史の参考となる資料をあらゆる面から積極的に収集し、
意見を付して女史の許に提出した。私は日本にいたというので、常に種々の問題につき質問され、その相
談相手となった。(Benedict= 福井訳 1997:154)
この中から、日系アメリカ人、ロバート・ハシマの果たした重要な役割を垣間見ることができる。ベネディ
クトは日本研究の専門家ではなく、日本語ができず、日本に行ったことのない人間である。ゆえに、彼女の日
本人論を疑っている人は多い。こうした不足は、ロバート・ハシマの貢献でかなり補われたと思われる。
3)長谷川松治訳(1972)は、参考文献に示した 3 種類を指す。
− 57 −
次は、原著の用語解説(Glossary)と索引(Index)を訳していないことである。訳本の③、⑥、⑫などは、
注釈や評論などで、多少その欠陥を補填することができたであろう。ただし、原著の用語解説には「ai」(愛)、
「arigato」(ありがとう)、
「bushido」(武士道)、
「hara-kiri」(腹切り)、
「makoto」(誠)のような、ローマ字
で表記された日本語単語の英文解説が 64 個ある。そこには、「jin」(仁)
、「giri」(義理)などのようにベネ
ディクトによって独特な解説がなされたものや、彼女の間違いも含まれている。用語解説を省略すると、中国
語訳者の間違いか、あるいは著者の間違いかが判別できなくなる恐れがある。
原著の索引には、語彙が 243 個あり、そのうち、Adoption(養子縁組)、Competition(競争)、Dog’s death
(犬死に)などの英単語が 3 分の 2 くらいであり、そのほかはローマ字で表した日本語単語(Glossary の単語
はほぼ全部含まれている)、日本の人名や地名などである。特にローマ字で表した日本語単語は、
『菊と刀』の
難解な箇所を、前後の内容と照らし合わせて把握する手がかりにもなる。
また、どの訳本も訳者についての紹介がないことである。筆者は『菊と刀』を翻訳する際、訳者に対し次の
条件を必須としたい。①文化人類学の知識を有すること、②今までの『菊と刀』研究の成果を把握しているこ
と、③英語と日本語が堪能であることである。
『菊と刀』に対しては、すでに定評があった。川島武宜は「著者が述べているような『日本的な型』は、日
本人一般的な姿としては、きわめて些細な部分を除いてはきわめて正当である」(川島 1972:392)と指摘し
ており、Ian Buruma も「要するに、過去の半世紀で日本とその国民は多くの変化が起きたが、この本のほと
んどが真実であるといわねばならない」
(Buruma 2005:xii(筆者訳))と述べている。
角田は鶴見和子(1947)、和辻哲郎(1950)などによる『菊と刀』批判に対し、次のように指摘している。
「これらの批判は、外国人が日本文化を考察したことに対する感情的な反感にとどまり、
『菊と刀』の意味を再
発見する有意義な契機にはならなかった」(角田 2008:521)。日本では、
『菊と刀』に対する批判と評価はか
なり学術的に収斂していると思われる。
それに対して、中国における『菊と刀』の訳本は、日本文化・日本人論の研究書としては、いくつかの問題
点が残るといえよう。そこで、次節では中国語の訳本のテキストを考察する。
2.テキスト分析の事例
一般的に、いかなる著書の翻訳にも誤訳はつきものである。前述した二つの日本語の訳本を比べると、明ら
かになる。その各章の翻訳は次の表 1 のとおりである。
筆者は、副題と第 9 章の訳語は角田安正の翻訳が適切だと考える。角田の方が理解しやすく、原著の内容を
より忠実に反映したからである。ただし、いうまでもなく、日本における『菊と刀』研究に対して長谷川松治
の訳本が果たした貢献は計り知れない。
次に、中国語の訳本のテキストについていくつかの事例を分析する。
2.1 義理に対する訳語
『菊と刀』といえば、欧米の「罪の文化」に対し、日本は「恥の文化」であると想起する人が多い。しかし、
Ian Buruma は「彼女が恥と罪の相違に言及したときさえも、絶対的な基準を与えず、ただいくつかの特定的
な強調点を与えた」(Buruma 2005:ix(筆者訳)
)と述べたように、『菊と刀』において、日本文化のパター
ンは「恥の文化」よりも、むしろ「義理の文化」といえよう。
「西洋人の目から見ると、義理は旧恩に対する
− 58 −
表 1 角田安正訳と長谷川松治訳の比較
角田安正訳(2008 年初版)
長谷川松治訳(1972 年初版)
謝辞
感謝の言葉
凡例
凡例
原著(2005 年版)
Acknowledgements
Foreword(by Ian Buruma)
副 題
日本の文化に見られる行動パターン 日本文化の型
Patterns of Japanese Culture
第1章
研究課題−日本
研究課題−日本
Assignment: Japan
第2章
戦時下の日本人
戦争中の日本人
The Japanese in the War
第3章
応分の場を占めること
第4章
明治維新
明治維新
The Meiji Reform
第5章
過去と世間に負い目がある者
過去と世間に負目を負う者
Debtor to the Ages and the World
第6章
万分の一の恩返し
万分の一の恩返し
Repaying One-Ten-Thousandth
第7章
義理ほどつらいものはない
第8章
汚名をすすぐ
「各々其ノ所ヲ得」
「義理ほどつらいものはない」
Taking One’s Proper Station
The Repayment Hardest to Bear
汚名をすすぐ
Clearing One’s Name
第 9 章 「人間の楽しみ」の領域
人情の世界
The Circle of Human Feelings
第 10 章
徳目と徳目の板ばさみ
徳のジレンマ
The Dilemma of Virtue
第 11 章
鍛錬
修養
Self-Discipline
第 12 章
子どもは学ぶ
子供は学ぶ
The Child Learns
第 13 章
敗戦後の日本人
降服後の日本人
The Japanese Since VJ-Day
解説(角田安正)
評価と批判(川島武宜)
年譜
訳者後記
訳者あとがき
改版に寄せて
─
─
Glossary
─
─
Index
出典:筆者作成
感謝から、復讐の義務にいたるまで、はなはだ種々雑多な務めを含んでいる。日本人が義理の意味を西洋人に
対して説明しようとしないのは無理もない」(Benedict= 角田訳 2008:214)と記したベネディクトは、世界
で外国人としておそらく最初に「義理」を英語で説明した人であろう。
日本人の人生観は、忠、孝、義理、仁、人間の楽しみなどの領域ごとにかくかくしかじか定められてい
る。日本人の目には「人間の義務全体」は細分化され、国ごとに色分けされた地図のような観を呈してい
る。(Benedict= 角田訳 2008:309)
このように、五つの徳目の真ん中に「義理」が並んでいる。
『菊と刀』で最も重要な概念の一つである「義
理」について、ベネディクトが腐心した末に考え出した訳語が「Giri」であった。
「Giri」は、原著では総計
66 頁に頻出し、
『菊と刀』で一番多く言及された単語であった。実際筆者が数えたところ、全書にわたり 178
箇所で使われていた。その多くは「Giri」で表記されている。連語としての用例は、
「Giri to one s name」
(名
に対する義理)と「Giri to the world」(世間に対する義理)の二つがあった。前者は 30 箇所、後者は 14 箇
所で言及された。この重要な用語「Giri」はベネディクトが原著の用語解説で、a category of Japanese
obligations(日本人の義務の一種)という解釈が付されている。これは「義務」に対する解釈と同じである。
一見両者の違いは見当たらないが、「恩と恩返しに関する一覧表」(Benedict= 角田訳 2008:186-9)を参照す
− 59 −
ると、恩を負債とし、
「義理」は対等の返済を要求するのに対して、義務は無限の返済を課することがわかる。
中国大陸で最初に「義理」を中国語に訳したのは、②孫志民の訳本で、そのまま「义理」4)を用いた。まず
「义理」の中国語と日本語の解釈を比較してみよう。『広辞苑』
(第 5 版)の「義理」の解説を次に示しておく。
(1)物事の正しい道筋。道理。
(2)わけ。意味。
(3)(儒教で説く)人のふみ行うべき正しい道。
(4)特に江戸時代以後、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行
為やものごと。体面。面目。情誼。
(5)血族でないないものが血族と同じ関係を結ぶこと。(『広辞苑』(第 5 版)
)
原著では(4)と(5)の意味である。しかし、
『漢語大詞典』(羅 1994)によると、中国語で「义理」とは、
以下を意味する(括弧内は筆者訳)。
(1)合乎一定的伦理道德的行事规则(一定の倫理道徳に合った行動の規則)。
(2)讲求儒家经义的学问(儒教的な学問)。
(3)文辞的思想内容(字句の意味)。
(4)道理。(羅 1994)
両者を比較すると、中国語の「义理」は日本語の「義理」の意味(4)
(5)と完全に対応する言葉ではない
ようである。加えて、中国語の「义理」の英訳は argumentation(of a speech or an essay)であり、
「論争、
議論、推理、理屈」の意味をもつ。日本語の「義理」の英訳は、brother-in-law、duty、debt、obligation な
どである。両者の相違は著しい。これを見抜いたベネディクトは「……義理は中国の儒教や東洋の仏教に由来
するわけではない。それは日本独特の範疇である。だから、義理というものを頭に入れておかないことには、
日本人の行動方針を理解することはできない。日本人は、行動の動機や名声、あるいは日本人において人々が
陥る板ばさみの状況について語るとき、必ず義理に触れる」
(Benedict= 角田訳 2008:213-4)と明言してい
る。ここまで原著を読むと中国語の訳者も「義理」の特性を理解しないはずがなかろう。訳せる単語がなかっ
たため、やむを得ず「义理」を訳語として用いたのだろうと考えられる。無論、
「義理」に等しい単語を新し
くつくれば、この問題を解決できる。しかし、表意文字を用いる中国語で新しい単語をつくるのは至難の業で
ある。
文化人類学者は、他民族の文化を研究する場合に彼らの言語で彼らのことを描く方法を用いる。ベネディク
トは「Giri」という英語にはない新しい概念として、アメリカ人を理解させることに成功した。一方、中国語
において、
「义理」は彼らの言語であるばかりでなく、我々の言語でもあるので、中国の読者にとって納得が
いかなかったのだといえよう。
それでは、③呂万和と⑫劉峰の訳本の訳語である「情义」をみてみよう。⑫訳本の評論者、薩蘇は前書きで
「义理」の訳語が難解だと見なし、
「情义」を絶賛している。しかし、厳密に考察する際、
「情义」と義理との
4)「义」は「義」の簡体字。
− 60 −
コノテーションが重なる部分もあれば、異なるところも大きいと思われる。これは、前述の文化人類学者の研
究原則に反している。つまり、「我ら」の言語で「彼ら」のことを描こうとしているからである。
訳語としては、
「义理」であれ、
「情义」であれ、それは一つの記号に過ぎない。傍点やゴシックなどで母語
と区別し、『菊と刀』の理論体系の用語と明記すれば、どれも成り立つと思われる。
『一語の辞典:義理』(源 1996)の「刊行のことば」では、次のように述べられている。
多くの言語は異文化の影響を受ける。……翻訳語や外来語の意味内容は、原語のそれと必ずしも同じでは
ない。そのちがいは、文化のちがいを鋭く反映する。たとえば明治初期に翻訳語としてもちいられた「自
由」は、誤解を避けるために注釈を必要としたほどである。翻訳は言葉の厳密な定義の上におこなわれ
る。原語と翻訳語との、それぞれの風土の相違も考察される。(源 1996:巻末「刊行のことば」より)
『菊と刀』を中国語に翻訳する際にも同様のことがいえる。原著に 178 回登場したこの語をいかに訳すかに
よって、『菊と刀』の中国語の訳本の完成度は決まるだろう。
2.2 仁
次に、
「仁」という用語について、中国と日本におけるその中身の違いについて考察しよう。ベネディクト
は Glossary の中で次のように述べている。
Jen (Chinese), good human relation, benevolence.(良好な人間関係、慈善、博愛)
Jin (written with the same character as Chinese Jen), obligation which is outside the obligatory
code. But vide knowing jin, p.119, footnote.(倫理体系外の義務、
「仁を知る」、英語版 p.119 の脚注を参
照)(Benedict 2005:318、括弧内は筆者訳)
ベネディクトは「仁」の中国語と日本語における相違を意識し、特に「Jen」と「Jin」の表記で区別をつ
けていた。中国の辞典では「仁」とは下記のとおりである。
(1)古代一䝅含义及广的道德观念,核心是指人与人之间的相互亲爱(古くから幅広く使われている道徳観
念、その中心となるのは、人と人は相互に親愛であること)
。
(2)有德者之称(有徳者と称するもの)
。
(3)思念,致思慕之心(思い慕う)
。(羅 1994)
中国から伝わってきた儒教の核心とされる「仁」の理念だが、朝河貫一は「日本ではこれらの思想は明らか
に天皇制と相容れぬものであった。したがって、学説としてさえも、そっくりそのまま受け入れられたことは
一度もなかった」(Benedict= 長谷川訳 1972:138)と論じている。
『ジーニアス和英辞典』には、「仁」とい
う項目は掲載されておらず、
「仁愛」、
「仁恵」、
「仁義」などの「仁」に関連する用語も一切収録されていない。
そこからも、
「仁」という中国に起源する観念は日本では、その中身が変わっていたということがうかがわれ
る。
ベネディクトはその著書において、
「ジン」と発音される日本的概念が、日本では堕落していたと指摘する。
− 61 −
実際のところ日本では、仁(日本語としての発音はジン)は倫理体系の外に追いやられ、中国の倫理体系
において占めていた高い地位をすっかり失った。「仁を成すこと」、あるいはその別の言い方である「仁義
を立てること」は、徳目と言うほどには遠い。
(中略)なるほど、仁が賞賛に値する行為を指すこともあ
る。たとえば、慈善事業のために寄付金を出したり、犯罪者に情けをかけたりするなどの行為である。だ
がそれは、あくまでも篤志活動である。つまり、義務的な行為ではなかったことである。(Benedict= 角
田訳 2008:190)
一方、
「仁を知る」(徳の高い人の心の状態)を指すものとして使われる場合もある。中国の概念との類似点
が認められるのは、この「仁を知る」という場合のみである。
他方、魯迅は『狂人日記』の中で、以下のように「仁義道徳」を厳しく批判した。
歴史を開けてみると、その歴史には年代がなく曲り歪んで、どの紙の上にも「仁義道徳」というような文
字が書いてあった。ずっと睡らずに夜中まで見詰めていると、文字の間からようやく文字が見え出して来
た。本一ぱいに書き詰めてあるのが「食人」の二字。(魯 2006:4)
では、現在の中国人は「仁」をどのように考えているのであろうか。⑧蘇勇強の訳本の前書きでは次のよう
に述べられている。
蘇勇強はまず『菊と刀』の中の「義務」、「忠」、「孝」、「仁」などに言及し、次のように結論づけている。
4
4
4
4
4
日本文化は現実主義を追求し、中国人の唱導した天から来る道義と原則を欠いている(傍点引用者)
。…
私は中国の刀術の最高のレベルは、ある精神的なものを追及していると考える。すなわち「適当なところ
でやめる」という精神である。それは相手を精神上屈服させることを重んじ、肉体的な殺傷を重要としな
い。日本の刀術はわからないが、20 世紀、1930 ∼ 40 年代の日本人侵略者による中国における殺戮行為か
らみて、日本の刀術は「敵を殺すまで攻める」ことを崇めるのであろう。…中国刀は「仁者無敵」を提唱
しているが、日本刀は中国の「仁者」の精神を欠いている。
(蘇 2007:3、筆者訳)
日本人の「仁」に関するこの論述は、
『菊と刀』を読んだ多くの人々の感想だといえよう。中日戦争の記憶
は、中国人の脳裏に焼きついているため、その戦争についてあまり言及していない本著も、人々に過去の日本
人の悪しき側面を連想させる。感情的なことは理性で説明できないときもあるからである。しかし、客観的に
分析すると、日本の責務体系は、中国の儒教の倫理体系と比べて、うまく機能しているといわざるを得ない。
それは軍国主義時代も、平和主義の現在も同じである。上述の引用の傍点部「天から来る」ものは、100 人い
れば、100 通りの解釈があるだろう。魯迅の儒教批判の観点では、
「仁」は中国の専制君主的な封建社会にお
いて、暴君と阿 Q
5)
を生み出す要因の一つになるとされている。ひるがえせば、
「仁」がなくても、
「義務」
、
「忠」、「誠」などがあれば、平和な社会が成り立ちうる。
上述したように、日本の「仁」(Jin)は、中国でよく使われる「仁」(Jen)とはその意味が甚だしくかけ
5)魯迅著『阿 Q 正伝』の主人公。当時の中国人の悪い根性を代表する人物。
− 62 −
離れている。それゆえ、ベネディクトは、日本人の行動パターンを解明する際に、明晰にそれぞれを定義づけ
た。しかし、中国語の訳本の場合、すべてそのまま「仁」と訳してあるため、読者は読んでいるうちに、Jin
であるのか、Jen であるのか、混乱してしまう恐れがあるだろう。
2.3 忠
ベネディクトは「忠」を「fealty to the Emperor」(天皇=最高指導者に対する忠)としている。前節でも
触れたが、中国では、
「忠」の徳目の上に「仁」があるが、日本では「忠」が最上の徳目である。両者のギャッ
プは明らかである。中国から入ってきた徳目のコンセプトは、日本においてその中身が変容した。日本語の
「忠」の訓読みは「ただ」
(まっすぐ、まとも、正しいの意)や「まめやか」
(浮気でなく、真実の気持ちであ
ることの意)などであり、中国語の「忠」の意味とは異なってる。しかし、中国語の訳本は、すべてそのまま
「忠」と訳している。
上の「義理」、
「仁」、
「忠」だけでなく、
「恩」、
「誠」、
「孝」などの中国語訳も、同様の問題を抱えているが、
紙幅の関係でこれらには言及しない。このように、中日両国は同じ漢字を使用しているが、原語と翻訳語の歴
史や風土の相違で、誤解を招く恐れがあるだろう。
2.4 中国人には難解な一文の分析
下記は『菊と刀』第 13 章からの引用文であるが、角田安正の訳本では次のように訳されている。
保守派の首相、幣原喜重郎は 1945 年 10 月に組閣したとき、日本国民の考え方を的確に代弁している。新
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生日本政府は、国民の意思を尊重する民主主義的形態をそなえている。
(中略)わが国では古来、天皇陛
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下はその御意思を国民の意思としてこられた。これこそが明治憲法の精神である。私が言及している民主
的政府は、このような精神を忠実に体現するものと考えることができる。(Benedict= 角田訳 2008:476、
傍点引用者)
長谷川松治の訳は、上の傍点部以外の箇所が大同小異のため省略するが、傍点部は次のとおりである。
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わが国においては古来、天皇は国民の意思をそのみ心としてこられた。(Benedict= 長谷川訳 1972:351、
傍点引用者)
この傍点部は、上の訳と比較すると、目的語と補語(
「として」の前の部分)が、逆になっていることがわ
かる。どちらの訳文が正しいのであろうか。ベネディクトの原文は次の通りである。
In our country from olden days the Emperor made his will the will of the people.(Benedict 2005:302、
イタリック引用者)
英語では単純な文である。いうまでもなく、日本語を英語に翻訳されたものであろう。これは誰の手による
英訳なのであろうか。
幣原喜重郎(1872-1951)は、東京帝国大学英法科を卒業後、農商務省に勤務し、のちに外務省に入り、ア
− 63 −
メリカやイギリス大使館の参事官を経て、外務次官、次いでワシントン軍縮会議全権委員になった。第一次加
藤高明内閣、第一次若槻禮次郎内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻禮次郎内閣でいずれも外相を歴任した後、
1945 年 10 月に首相として組閣をおこなった。つまり、幣原は英語ができる方である。従ってこの英文は、幣
原自身によって翻訳された可能性が大きいであろう。あるいは、一次資料を重視しているベネディクトが日本
語原文を参照した際、その助手であるロバート・ハシマによって翻訳されたと思われる。
それでは、中国語の訳本を考察してみよう。
③の訳本: 我国自古以来,天皇就把自己的意志作为国民的意志 (呂ほか訳 1990:209)
⑥の訳本: 在我们国家,自古以来天皇就把国民的意志作为他的心愿 (孫ほか訳 2005:214)
⑫の訳本: 自古以来,天皇就以全体国民的意愿为己愿 (劉訳 2008:471)
④の訳本: 我国自古以来,天皇就把自己的意志作为国民的意志 (唐ほか訳 2005:168)
⑬の訳本: 我国自古以来,天皇总是将人民的意志作为自己的意志 (黄訳 2008:245)
⑤の訳本: 自古以来,天皇就以全体国民的意志为己愿 (廖訳 2005:295)
考察の結果、③と④の翻訳は同じく、角田の日本語訳の意味であった。英語原文もこの意味であると思われ
る。一方、それ以外の中国語の訳本はすべて、
「天皇は国民の意思を自分の意思とした」という主旨を表して
いる。従って、中国語訳本の読者には、日本の民主について二つの理解が生じたのである。一体どちらが日本
の民主なのだろうと、読者は当惑してしまうだろう。
長谷川訳と角田訳も若干異なる。
「御意思」
、「み心」という天皇に対してのみ用いる敬語により、一見長谷
川訳は後者の中国語訳の主旨と同じようにみえるが、それとも微妙に異なるだろうと思われる。中国語の訳語
は明確に二分している。しかし、長谷川訳も、前後の文脈や歴史的背景の中で考えた場合、日本人読者には以
心伝心で理解できるだろうと思われる。
このように、一見単純な一文でも様々な翻訳があり、
『菊と刀』を翻訳することの難しさは明らかであろう。
翻訳作業は言語だけでなく、歴史、文化、政治制度などの背景知識も理解しなければならない。また、原著は
2005 年に再版された際、Ian Buruma の「前書き」(Foreword)が添えられた。日本語訳本は両方とも丁寧
に、凡例、解説、著者年表、あとがきなどを加えている。これらは中国語訳本が学ぶべき点だと考える。
終わりに
以上、中国における『菊と刀』の翻訳をめぐって考察をすすめてきた。本稿の第 1 節に触れた中国の翻訳の
現状を考えると、筆者としては一喜一憂である。喜ぶべきは多くの翻訳者や研究者たちの努力で、『菊と刀』
の中国の読者が増えつつあることである。2007 年 11 月には、北京日本学研究センターで、中国で初めて『菊
と刀』研究のワークショップを開催するに至った。これにより、今後『菊と刀』の翻訳水準はますます高まっ
ていくだろう。他方、憂慮すべきは、第 2 節で触れたような誤訳や配慮不足などが中日両国間の相互理解にマ
イナスの影響を与えていることである。中日両国は、歴史、社会制度、風土等が異なるにもかかわらず、同じ
漢字圏であるがゆえに、それぞれに用いられている「義理」、
「忠」、
「孝」、
「仁」、
「誠」などの理解において齟
齬を生じさせる可能性が大きい。それでもなお、
『菊と刀』の翻訳と研究は、両国が互いに理解を深め、新し
い関係を構築するきっかけにもなれるであろう。
− 64 −
参考文献
英語文献
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─. 2005(orig. 1946). The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture. New York: Houghton
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の日本語訳本
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─,1992(初版 1967 年)『定訳 菊と刀:日本文化の型』社会思想社(1992 年第 90 刷).
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の中国語訳本
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唐暁鵬・王南訳,2005,《菊与刀》華文出版社.
廖源訳,2005,《菊与刀:日本人的柔美与暴力(ダイジェスト版)》中国社会出版社.
− 65 −
孫志民・馬小鶴・朱理勝訳/庄錫昌校正,2005,《菊花与刀、日本文化的諸模式》九州出版社.
晏榕訳,2005,《菊花与刀》光明日報出版社.
蘇勇強・費解訳,2007,《菊花与刀(英語と中国語対照 ダイジェスト版)》陕西人民出版社.
譚杉杉訳,2007,《菊与刀》長江文芸出版社.
南星越訳,2007,《菊与刀》南海出版社.
北塔訳,2007,《菊与刀》上海三聯書店.
劉峰訳/薩蘇評注,2008,《菊与刀》当代世界出版社.
黄学益訳,2008,《菊花与刀》中国社会科学出版社.
− 66 −
中国における『菊と刀』研究
郭 連 友
北京日本学研究センター教授
1.はじめに
ルース・ベネディクト著『菊と刀』
(Benedict 1946)は近年中国で大ベストセラーとなった。2005 年以来、
商務印書館をはじめ、数多くの出版社が次々に『菊と刀』を再版、増刷、刊行し、その数は十数種類(英文版
も含む)にのぼっている。今のところ、すべての出版社の印刷部数についての完全な統計データはないが、商
務印書館発行担当者に問い合わせたところ、商務印書館では 2005 年に『菊と刀』改訂版が発行され、2006 年
にはすでに 13 万冊を印刷するなど、売れ行きが好調だったという。
『菊と刀』原作の英語版が刊行された 1946
年からすでに 60 年以上も過ぎ、また中国語翻訳の初版本(Benedict 1946= 吕万和ほか訳 1990)の発行より
15 年以上も経った今、このアメリカ人文化人類学研究者のルース・ベネディクト氏による日本人・日本文化
論『菊と刀』はなぜ中国で急にベストセラーになったのであろうか。本報告では、特にこの問題に着目し、中
国研究者の論文およびインターネットブログを手がかりに、この現象の背景、ならびにそれによって触発され
た中国での新たな日本に対する関心を紹介する。それにより、
『菊と刀』が中日両国の相互理解に果たした役
割を明らかにし、紛争解決における『菊と刀』の可能性について考えてみたい。
2.『菊と刀』がベストセラーになった背景
『菊と刀』が急速にベストセラーとなった発端の一つには、小泉純一郎元首相の靖国神社参拝(2001 年から
毎年参拝)への反発や、それにまつわる中日間の歴史認識の相違によって引き起こされた中日関係の緊張があ
ると考えられる。小泉氏の靖国神社参拝は、当然、中国や韓国をはじめ、第二次世界大戦で被害を受けたアジ
ア諸国から強い反発を招いた。中国国民の中で、小泉氏の靖国神社の参拝は「
(小泉氏が)戦争の非を認めて
いない」
「日本人は戦争被害者に謝罪しない」
「戦争を反省していない」などとして受け止められた。それらが
導火線となって小泉氏の言動への不満が一気に噴出し、2005 年春、北京や上海をはじめ、靖国神社参拝に対
する抗議デモが中国各地で繰り広げられた。その結果、政府首脳間の相互訪問も途絶え、両国の国民感情が傷
つけられ、中日関係が著しく冷え込んだ。
日本人は一体何を考えているのか、なぜ謝罪しないのか、何故非を認めないのか、などが当時の一般的な中
国人の率直な反応であった。それと同時に、中国の国民は、
「実はわれわれは日本人をよく知らない」
、「眼前
の状況を打開するために、まず日本人を理解し、日本人の行動を裏付ける性格や思考様式を理解しなければ何
も始まらない」などと思うにいたった。このように、日本理解を強く求めようとする中国国民の要請の声が高
まる中で、文化相対主義の視点に立脚して綴られた『菊と刀』は再び中国人を魅了し、日本理解に最適な書物
− 67 −
だとみなされるようになった。
『菊と刀』で中国人を魅了したものは何だったのか。それらは、ルース・ベネディクトが提示した文化相対
主義という視点のほかに、日本人の性格、習俗ないし日本文化の特徴などに関する緻密な分析、そしてそれを
支える文化人類学の方法論、さらにその分析に基づいて導かれた結論─とりわけ西洋文化は罪の文化である
というのに対して、日本文化は恥の文化だという論断─などがあげられる。これらのものはいずれも今回の
事件の中で、中国人の日本理解に大きく役立ったと考えられる。
中国の地方有力紙の一つである『南方都市報』
(本社は広州)の記者陳黎氏は、中国で『菊と刀』がベスト
セラーになって、広く読まれた背景について次のように分析している。「『菊と刀』の流行は日本より五十年も
遅れた。言うまでもなく、中日関係の緊張が大変重要な背景をなしているが、ほかにもいくつかの要素が考え
られる。たとえば、中国社会全体が日本関係の問題に強い関心を持っているのに、しかるべき知識の準備が備
わっていない」(陳 2006、筆者訳)としている。
3.『菊と刀』現象をめぐる議論
『菊と刀』現象に対して、中国では、研究者をはじめ、一般の読者のあいだでもさまざまな議論が交わされ
ている。中国社会科学院日本研究所教授の崔世广氏は、
『菊と刀』の現代日本理解における有効性を高く評価
し、次のように指摘する。
『菊と刀』の刊行からすでに半世紀が過ぎた。本書に提示された日本文化に関する基本的理論や視点が、
現代日本文化や日本人の行動様式の理解に重要な価値がある。『菊と刀』は日本民族と日本文化の性格(国
民性)を描き出すことに成功した。…日本人の組織原理でもある『集団主義』と日本人の精神状態である
『恥の文化』を浮き彫りにした。…半世紀以上たった今もルース・ベネディクトが提示した日本文化に関
する基本原理や観点は必ずしも時代遅れとはいえず、現代日本文化や日本人の行動様式の理解にも価値が
ある。…中国人は日本民族や日本文化を本当に理解していない。
(引用者中略)それが中国の日本文化研
究の深化を妨げる原因となっている。中日両国民の相互理解を深めるために、改めて『菊と刀』という名
著を真剣に読むべきである。(崔 2005、筆者訳)
この考え方に対して、中国日本思想史研究者で、同じく中国社会科学院外国文学研究所教授の孫歌氏は『南
方都市報』のインタビューにおいて、
「今にして見れば、この書の中の分析の多くは、第一に非常に時代遅れ
であり、第二にあまりにも浅薄である。畢竟日本語の分からないアメリカ人が書いたものである」(陳 2006、
筆者訳)とコメントし、この書の現代日本理解への有効性を否定している。
上述した記者の陳黎氏はさらに、中国と対照的に、現在日本では『菊と刀』がほとんど関心をもたれていな
いことについて、
「戦後の日本はルース・ベネディクトの描いた当時の日本とはまったく異質なものである」
と分析し、
「この書の好調な売れ行きは、現在の中国人の日本理解がまだ 1946 年の段階にとどまっていること
の証明だ」と論断し、孫歌氏と同様にこの書が現代日本の理解に対する手がかりにならない旨を述べた(陳
2006、筆者訳)。
他方、清華大学歴史学系準教授の劉暁峰氏は下記のようにコメントし、ルース・ベネディクトの方法論やそ
の研究成果の現代日本研究への適用の限界と問題点を指摘した。
− 68 −
1945 年以来、日本社会は大きく変化した。政治面において、アメリカの圧力の下で、戦後民主主義体制
が確立され、戦前の軍国主義体制とまったく異なった国家の政治体制が形成された。経済面において、
1955 年以来、日本は戦争の影から脱出し、高度成長の軌道に乗り、現在世界二位の経済体の地位を獲得
している。文化面において、経済の発展とともに、都市化が進み、既存の村落共同体構造がすでに解体
し、欧米からの国家観、社会観、価値観、生活観などが日本社会の隅々まで浸透した。これらの変化の多
くは実質的なものばかりである。したがって、今日の日本を見る際、ただ単に『菊と刀』を頼りに日本を
観察するだけでは甚だ不十分である。方法論から見ても、60 年来人文社会科学領域の研究が大きく進歩
した。したがって日本を分析、研究する方法をもっと新しくしなければならない。…近年来、中日関係を
めぐって、数多くの複雑な問題が現れた。これらの問題の解決策はすぐには見つからないかもしれない。
しかし、如何に解決するかを思考する前に、やはり、戦後 60 年も経った今、日本人は何を考えているの
か、日本人はどう行動するのか、という問題をまず明らかにしなければならない。これらの問題に対する
解答はルース・ベネディクトとかかわりがあるが、ルース・ベネディクトの回答そのものではないはずで
ある。著者ルース・ベネディクトは西洋中心主義の立場を超えようと努めたが、
『菊と刀』はあくまでも
西洋人研究者の目に映る日本しかなく、しかも六十年前の西洋人研究者の目に映る日本であった。…60
年後、
『菊と刀』の流行は、東洋人の立場に立ち、また中国人の立場に立った日本論、そして戦後 60 年日
本社会の進化の歴史を含めた日本論の誕生を呼びかけているように感じる。今こそ、中国の研究者が心を
沈めて反省する時期だ。(劉 2007:119、筆者訳)
さらに同氏は、中国の日本研究が当面両国の膠着状態の打開に何も役割を発揮していない非実用性に不満を
投げかけた(劉 2007)。
このような現象の中、2007 年 10 月、弊北京日本学研究センターでは「海外における日本思想文化研究の歴
史・現状・課題:『菊と刀』などの解読を中心に」というテーマの国際シンポジウムが開催された。研究者の
意見を集め、社会に発信することがこのシンポジウムの狙いの一つであった。本日ご臨席の濱下先生、ケント
先生、胡備先生をなどの十数名の研究者により、
『菊と刀』をはじめとする、西洋における日本研究の問題意
識、方法論、特徴、問題点および課題について意見が交わされた。
4.『菊と刀』はどう読まれたか
先ほど見てきたように、
『菊と刀』が中国に上陸し、特にベストセラーになってから、さまざまな議論なさ
れた。評価や賞賛の声もあれば、批判の声もあった。では、
『菊と刀』は中国でどう読まれたかという問題に
着目し、それを通して『菊と刀』が紛争解決に役立つ可能性を考えてみたい。
雑誌『軍事歴史』(2002 年 4 号)に、中国军事科学院戦略研究部準教授の徐暁軍氏の「ルース・ベネディク
トの『菊と刀』を読んで」という論文が掲載されている。氏はルース・ベネディクトの定義した「恥の文化」
に言及し、
「『菊と刀』により、日本人はなぜ中国の侵略戦争に謝罪しないか、また、ドイツが第二次世界大戦
の中で被害国や被害者に謝罪したのに、日本の首相がかえって A 級戦犯の祭られた靖国神社を参拝するのは
なぜか、などを教えられた」と論じている(徐 2002:78-9)。
また、
『商業文化』
(2008 年第 7 号)に、武汉大学政治与公共管理学院所属の唐勝兵氏の論文「異文化比較
− 69 −
研究の意義:『菊と刀』を読んで感じたこと」が掲載され、以下の指摘がなされている。
長い間、われわれは日本が第二次世界大戦で戦争を発動したことを強調してきたが、日本人はそう思わな
いようで、われわれは怒りと疑問を感じ、日本人は恥じを知らぬものだと思っている。しかし、戦争発動
についてはそれなりの理由があるのだ。
(『菊と刀』の分析の引用省略)しかし、ここで言おうとしている
のは、日本人の言い方には文化的な理由があっても、文化によって導かれた残虐的な行為とは別物だとい
うことである。それは絶対許すべきものではない。われわれは日本文化を尊重することを前提に、異文化
研究を通じて日本文化の短所を明らかにし、その是正を促すべきである。この書(『菊と刀』)がみなに受
け入れられた時が相互理解の始まるときである。(唐 2008:89、筆者訳)。
同時に反対の意見も少なくない。代表的なものをご紹介する。
章益国氏は、『社会观察』(2005 年第 7 号)所収の「距離をおいて『菊と刀』を読むべきだ」と題した文章
で、ルース・ベネディクトの日本文化特殊性の強調は結果的に「戦後日本処理のその他の可能性が剥奪された
のではないか。また、日本人の戦争への反省の不徹底性の理由がこの『日米共謀』の日本特殊論に含まれてい
るのではないか」と指摘し、
「われわれは距離をおいて『菊と刀』を読むべきである。というのは、
『菊と刀』
は日本の戦争発動の歴史についての説明であるが、この書自体は、日本が戦争に対して徹底的に清算しなかっ
た歴史に与したからである」(章 2005:62、筆者訳)という結論を導いた。
この考え方と類似する視点が风月冷䬗钩氏が作成したブログ 1)に掲載された「『菊と刀』箚記および中日関係
についての見方」(风月冷䬗钩 2006)にも見られる。戦後、天皇の戦争責任を追及しないアメリカの政策に触
れながら、
「周知のように、残された裕仁天皇は戦争に対して、責任を負っているし、そのまま残された日本
の政府機構も戦後日本がだんだん保守化する源となった。つまり、戦後アメリカが日本軍国主義を徹底的に清
算しなかったところに、北東アジアの不安情勢を来たす元凶があり、
『菊と刀』は客観的に『悪人の手先』に
なったのである。この点で、ルース・ベネディクトは咎められる立場から逃れないのだ」(风月冷䬗钩 2006、
筆者訳)と、『菊と刀』を批判的にとらえている。
5.終わりに
以上、報告したように、中国では、
『菊と刀』をめぐってさまざま意見がみられるが、
『菊と刀』の解読を通
じて、現在の日本を理解し、中日関係の膠着状態を打開しようとする意図が強く感じられる。
『菊と刀』ブー
ムを経て、中国人は以前と比べて、より理性的に日本や日本人、日本文化を理解することができるようになっ
たと考えられよう。
濱下武志先生が指摘されたように、今回の『菊と刀』に対する解釈と研究は、現代中国人の日本へのイメー
ジが強く投影されたことが特徴の一つとなっている。
また、
『菊と刀』ブームに触発されて、現在、中国では日本への関心が空前の高まりを迎えている。日本に
関する書物の大量出版や好調な売れ行きは、いずれも例をみないほどである。人々は政治や経済、社会のみな
らず、日本文化、歴史などにも目を向けるようになっている。最近『徳川家康』がベストセラーになったのも
1)http://id.bokee.com/showInfo.b?username=airjz.bokee.com 参照。风月冷䬗钩氏の本名は焦哲氏。
− 70 −
その証拠の一つである。
他方で、
『菊と刀』ブームを通じて、今までの中国人による日本研究への不満や批判がおき、同時に今後の
中国における日本研究がより実用的で、日本理解に一層役立つものでなければならないという強い要望が一般
の中国人から生じている。このような新しい状況に対し、これからの中国における日本研究のあり方─課
題、方法論などを含めて─を、じっくり考え直さなければならないだろう。
引用文献
Benedict, Ruth. 1946. The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture. New York: Houghton
Miffin.(=1990,吕万和ほか訳,『菊与刀』商務印書館.)
徐暁軍,2002,「读鲁思・本尼迪克特的《菊与刀》(ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んで)」『軍事歴史』4:
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陳黎,2006,「一本叫《菊与刀》的学术书还在畅销(《菊と刀》という学術書は依然ベストセラー)」『南方都市報』(2006
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http://id.bokee.com/showInfo.b?username=airjz.bokee.com(2006 年 5 月 30 日掲載).
− 71 −
東アジア地政文化は成り立つか
中国における『菊と刀』現象をめぐって
濱 下 武 志
龍谷大学国際文化学部教授
はじめに
ルース・ベネディクト『菊と刀』の中国語訳が刊行され、21 世紀に入って中国の大学生の中では多く読ま
れているようである。翻訳書は版を重ねており、さらに新しい翻訳書が出されるなど、現在では少なくとも 8
冊の異なる版本を見ることができる。これらの翻訳書の特徴は、香港・台湾の翻訳書を別として、すべて訳者
あるいは校訂者によって、多くの図像が説明文つきで挿入されていることである。本稿が対象とする庄錫昌に
よる翻訳では、220 余ページに 93 箇所の図像とその説明・解説文が挿入されている。図像の印象が前面に出
ているとも言いうる体裁であるとともに、図像の説明を通して、訳者自身の日本観・日本イメージが表出され
ているということができる。
以下に、中国におけるアメリカ経由の日本論・日本文化論として推奨されている中国語版『菊と刀』を取り
上げ、いくつかの検討を加えてみたい。
1.時代環境─グローバル・ヒストリーとアジア研究
改革開放後 30 年間にわたり、高い経済成長を継続してきた中国では、グローバリゼーションを「全球化」
と表現し、そこに積極的にグローバル・ヒストリーを導入しているといえる。
アジア研究においても、近年グローバル・ヒストリーとの相互影響がみられる。背景には、中国史に関連し
て、明清期にまたがる 16 ∼ 18 世紀に関しては多くの論者が注目し、同時代のヨーロッパ史に比して中国はむ
しろ高い生産・蓄積・社会構造を示していたことを論ずる(Frank 1998)。また同時に、1970 年代末からの改
革開放以後 30 年を経た中国の経済発展を根拠に、歴史的な東アジアにおける広域地域秩序であった朝貢シス
テムを援用しながら、それをグローバル・ヒストリーの文脈を介して現在に投影し、中国の近隣地域への影響
力の広がりとして強調しようとする構想も見られる。これらの議論は、地縁政治論として地政論を方法的に導
入することによって、周辺地域との相互関係やそこへの影響力の展開を論じている。1990 年代末に、王恩涌・
王正毅らは、世界システム論に基づく「地縁政治論 geo-politics, political geography」を示し、ナショナルと
グローバルの間をつなぐ「広域地域論」、
「中心=周辺論」を構想した(王 1997)。これはあたかも、歴史的な
朝貢システムに見られる中心=周辺関係を持つ地域関係を、現在に投射したかの感を想起させるものであり、
この新たな周縁論は海洋中国に関する強い関心へとつながっている。このような形でグローバリゼーションは
アジアのまた中国の知識人に様々な影響を与えており、
「発展」する中国が現在グローバリゼーションに積極
的に対応し、アメリカとの均衡・交渉を前面に掲げていることと相俟って、
「脱亜」をすすめているともみな
− 72 −
すことができるのである。
この動きは、文化論の領域においても例外ではない。その一環として、中国知識人が示しているアメリカ経
由の日本視野・アジア視野に注目したい。ルース・ベネディクト『菊と刀』(Benedict 1946=2005)の中国語
版『菊花与刀』の校閲者である庄錫昌は、日本理解の方法として、同書を翻訳し、そこに多くの挿絵とその説
明を新たに挿入した『菊花与刀:日本文化的諸模式』(庄 2005)を著わした(図 1)。同書は、戦後アメリカが
日本を占領統治するに際し、日本を「異文化」と見做し、異文化理解の視点から論じたものであり、論点のひ
とつに、ヨーロッパの「罪の文化」に対して日本は「恥の文化」であり、両者は根本的に異なるという評価が
ある。中国の知識人が、現在この「異文化理解」の方法を通して日本を論じていることは、旧来の伝統的東ア
ジアにおける中国文明下の影響を論じた日本文化論とは全く異なると言える。おそらく、中国知識人による
「アメリカ経由」の日本文化論は、歴史上初めてであろう。因みに本書は、
「了解日本」系列(挿図本)3 冊シ
リーズのうちの 1 冊であり、他の 2 冊としては、戴季陶『日本論』
(2005)と小泉八雲(英国人 Lafcadio Hearn)
『日本与日本人』
(1926-27=2005)が刊行されている(図 2)。表 1 は両書の目次構成を示している。二人は共
に外国人として日本体験に基づいた日本の社会文化を論じている。このように、現在改めて「東アジアの歴史
的地政文化は成り立つか」という問いが投げかけられている。何故ならば、中国知識人の中に見られる「
『菊
花与刀』現象」は、決して単にルース・ベネディクト『菊と刀』の翻訳ではなく、翻訳の各項目に付された
240 点余にのぼる多くの歴史写真・絵画とそれに加えられた解説・説明の中に、翻訳者の世代が持つ日本観・
中国観・アジア観・東アジア視野と、それらが読者世代の大学生に対して持つ影響力とが示されていると考え
られるからである。そこには同時に、アメリカの歴史家ジョン・ダワー『容赦なき戦争』(Dower 1986=2001)
図 1 ルース・ベネディクト著、庄錫昌校『菊花与刀』(2005) 図 2 小泉八雲著、胡山源訳『日本与日本人』
(1926-27=2005)
の表紙
の表紙
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表 1 戴季陶『日本論』、小泉八雲『日本と日本人』の目次構成
戴季陶著
『日本論』
小泉八雲著
『日本と日本人』
第1章
中国人が日本を研究する必要性について
1
日本文明の天性
第2章
神権の迷信性と日本の国体
2
柔術
第3章
神権神授思想と神授思想の時代化
3
極東の将来
第4章
封建思想と仏教思想
4
一人の守旧者
第5章
封建制度と社会階級
5
困難
第6章
日本人と日本文明
6
奇異と魔力
第7章
武士生活と武士道
7
忠義の宗教
第8章
封建時代の 町人 と 百姓 の品性
8
永遠の女性について
第9章
尊皇攘夷 と 開国進取
9
祖先崇拝に関するいくつかの思想
第 10 章
軍閥 と 財閥 の淵源
10
霊魂が存在するという観念
第 11 章
維新事業が成功した主たる理由
第 12 章
現代統治階級形成の出発点
第 13 章
政党の誕生
第 14 章
板垣退助
第 15 章
国家主義の日本と軍国主義の日本
第 16 章
軍国主義の実際
第 17 章
中国の国際関係と日本の南進・北進両政策
第 18 章
桂 太郎
第 19 章
秋山貞行
第 20 章
昨日の田中中将
第 21 章
今日の田中中将
第 22 章
信仰の真実性
第 23 章
美を好む国民
第 24 章
尚武、平和と男女の社会的地位
出所:戴(2006:目次)、小泉(1926-27=2005:目次)
における著述にも重なり合う議論が見られ、終章の占領政策においては、大江健三郎を登場させて時代像を語
らせていることも象徴的である。この、中国における改革開放後の世代の脱アジア論は、とりもなおさず日本
においても戦後のアメリカからの日本視野・アジア視野を改めて歴史的にまた方法的にさらには学術政策史的
に再検討する必要があることを示唆しており、アメリカ経由の日本論・アメリカ経由の中国論を再検討するこ
とを通して、現代における『菊花与刀』の読者世代のアジア像の可能性を解きほぐす事が可能になると考えら
れる。
2.日本人の性格表象─「菊」と「刀」
以下に、ベネディクト・ダワー・庄錫昌三者の相互比較という形式を取りながら、庄錫昌『菊花与刀』とい
う翻訳解説書の特徴を示してみたい。
まずベネディクト・ダワー・庄錫昌の編別構成は、表 2 のとおりである。
ベネディクトとダワー、両者の構成は、ベネディクトに比較し、ダワーがより戦争とその戦争が人種問題を
− 74 −
表 2 ベネディクト『菊と刀』、庄錫昌校『菊花与刀』
、ダワー『容赦なき戦争』の編別構成比較
ルース・ベネディクト著
『菊と刀:日本文化の型』
庄錫昌校正
『菊花与刀:日本文化的諸模式
(挿図珍蔵本)』
ジョン・W.ダワー著
『容赦なき戦争:
太平洋戦争における人種差別』
第1章
研究課題:日本
第1章
研究課題:日本
第Ⅰ部
第2章
戦争中の日本人
第2章
戦争中的日本人
第 1 章 人種戦争のパターン
第3章
各守本分
第 2 章 「汝の敵を知れ」
第 3 章 「各々其ノ所ヲ得」
敵
第4章
明治維新
第4章
明治維新
第 3 章 戦争憎悪と戦争犯罪
第5章
過去と世間に負目を負う者
第5章
負恩于歴史和社会的人
第Ⅱ部
第6章
万分の一の恩返し
第6章
報恩于万一
第 4 章 猿その他
欧米人から見た戦争
第 7 章 「義理ほどつらいものはない」 第 7 章 「義理最難堪」
第 5 章 劣等人と超人
第8章
汚名をすすぐ
第 6 章 原始人・子供・狂人
第9章
人情の世界
第8章
洗刷汚名
第9章
人情世界
第 7 章 イエロー・レッド・ブラックマン
第 10 章 徳のジレンマ
第 10 章 徳的両難処境
第Ⅲ部
第 11 章 修養
第 11 章 修養
第 8 章 純粋な自己
第 12 章 子供は学ぶ
第 12 章 児童的学習
第 9 章 鬼のような他者
第 13 章 降伏後の日本人
第 13 章 投降以来的日本人
第 10 章 「大和民族を中核とする世界政策」
付録
評価与批判
第Ⅳ部
日本人から見た戦争
エピローグ
第 11 章 戦争から平和へ
出所:Benedict(1946=2005:目次)、庄(2005:目次)、Dower(1986=2001:目次)
前面に押し出していたことを強調している。
ボアズと弟子たちがかかわった「科学的反人種主義」は、ルース・ベネディクトにより詳述された。彼女
は「文化とパーソナリティ」に取り組む基本的な前提を、1934 年の『文化の型』という評判のよい本で
広範な読者に紹介した。そして 10 年あまりのち戦争が終わってから『菊と刀』を発表し、日本人の国民
性について最もよく知られた解説者として登場した。ベネディクトが 1940 年に発表した人種主義に対す
る批評は、戦時中に改訂され再発行された。その 45 年版の前書きに、戦争は祖国がいかに人種上、由々
しい不正行為を犯してきたかを、多くのアメリカ人に初めて知らしめたとあった。そして戦争が「白人世
界」のために遂行されたという印象を、アジア、アフリカ、近東に残して終わるとするなら、平和をかち
とる望みはほとんどないであろう、と。このほかにベネディクトは、
『人類の種族』と題する戦時パンフ
レットの共同執筆もした。それが 43 年 10 月に公表されると、アメリカ陸軍および USO(軍人用の娯楽
施設を後援した民間の組織)によって発禁となり、下院の軍事委員会に「共産主義プロパガンダの全手
法」を反映していると糾弾され論争に巻き込まれることとなった。(Dower 1986=2001:225-6)
庄は、菊と刀について、それらが象徴するところを以下のように説明する(図 3)。
菊は日本皇室の家紋であり、美を代表する。刀は武士道の象徴であり、勇気、征伐、忠義・名誉を表す。
両者は日本人の矛盾した性格を象徴している。すなわち、闘いを好むと同時に和を善とする。(庄 2005:
口絵解説)
− 75 −
図 3 庄錫昌校『菊花与刀』の口絵(庄 2005:口絵)
他方、ダワーは、これら二つは、日本人の精神を表すとされた「自殺心理」論を象徴するものであると示唆
した。ダワーは次のように述べる。
「自殺心理」論─すなわち、日本人はその狂言性により自ら破壊を招いたとする議論である。アメリカ
では指折りの中国・日本専門家であった政治学者ハロルド・キグレーは、ドイツが崩壊すれば日本は平和
を求めるようになるのかとの問いに対して、1945 年 4 月にこの有名な議論に言及している。その中で彼
は、まったく逆に「サムライの伝統にのっとって、国家的ハラキリという状態になる」であろうと予期し
ている。この議論では、大規模破壊の責任ははっきり日本のほうに置かれている。週刊誌「ユナイテッド
ステーツ・ニュース」が 45 年のはじめに述べているように、問題の本質は、日本人が根絶されるべきか
否かにではなく、むしろ「無条件降伏を勝ちとるためには、連合国は日本人を最後の一人まで殺さなけれ
ばならないか否か」にあった。(Dower 1986=2001:117-8)
3.悪魔化した日本イメージ
ベネディクトは、『菊と刀』を執筆した動機を次のように記している。
私は、1944 年 6 月に日本研究の仕事を委嘱された。私は、日本人がどんな国民であるかということを解
明するために、文化人類学者として私の利用しうるあらゆる研究技術を利用するよう依頼を受けた。ちょ
− 76 −
うどその初夏のころは、わが国の日本に対する大攻勢が、ようやくその真の大きさを見せ始めたばかりの
時であった。アメリカでは、あいかわらず人々は、対日戦争は 3 年続くだろう、もしかすると 10 年、い
やそれ以上になるかもしれない、などと言っていた。日本では百年戦争だなどということを口にしてい
た。なるほどアメリカ軍は局部的な勝利を得た、しかしニューギニアやソロモン群島は日本本土から何千
マイルも離れている、と言っていた。日本の公報は海軍の敗北をなかなか認めようとせず、日本国民は依
然として自分たちの方が勝っているのだと思い込んでいた。(Benedict 1946=2005:13-4)
庄は、悪魔化させた図を用いて、1924 年にイタリアのポスターにあらわれた日本軍が、英米の軍艦を排除
している様を説明し、イタリアが第二次大戦で日本と同盟を組むなど、日本の軍国主義を賞賛している様を説
明する(図 4)。ここでは、図 5 にみられるダワーの手法を踏襲しているように見える。
4.戦争中の日本人
ベネディクトは、第 2 章「戦争中の日本人」において、日本人のアイデンティティをより根源的な方法で議
論している。ベネディクトは次のように述べる。
階層制度や精神力の優越に関してだけでなく、日本人が戦争中にあらゆる種類の事柄に関して述べた言
葉が、比較文化研究者には日本人を知る好個の材料となった。彼らはたえず、安心や士気は要するに覚悟
図 4 庄錫昌校『菊花与刀』の挿絵「巨大な日本の武 図 5 ダワー『容赦なき戦争』の挿絵「日本人はどこまでタフなの
士」(庄 2005:4)
か?」(Dower 1986 = 2001:333)
− 77 −
の問題にすぎないと言っていた。どんな破局に臨んでも、それが都市爆撃であろうと、サイパンの敗北で
あろうと、フィリッピン防衛の失敗であろうと、日本人の国民に対するおきまりのせりふは、これは前か
らわかっていたことなんだから、少しも心配することはない、というのであった。明らかに、お前たちは
依然としてなにもかもすっかりわかっている世界の中に住んでいるのだと告げることによって、日本国民
に安心を与えることができると信じたからであろう、ラジオは極端な放送を行なった。
「キスカ島がアメ
リカ軍に占領されたことによって、日本はアメリカ爆撃機の行動半径内にはいることになった。しかしこ
うなることは前から百も承知していたことであって、必要なてはずはすっかりととのっている」。「敵は必
ずわれわれに対して陸・海・空三軍の連合作戦をもって攻勢に出てくるであろうが、これはすでにわれわ
れの計画中に予定されていたことである」
。俘虜たちも、日本が見込みのない戦争をいつまでもやらない
で早くかぶとを脱ぐことを望んでいた者たちでさえ、爆撃によって国内戦線の日本人の士気を沮喪させる
ことは不可能である、
「なぜなら彼らはすでに覚悟しているから」、と確信していた。
(Benedict 1946=2005:
41-2)
このように発生する状況説明と状況確認の方法について、ダワーは、第 2 章「汝の敵を知れ」において、欧
米人が日本人を描く際にもつ、日本人性に対する「客観的」見方を紹介した。彼は、ニューヨーク・タイムズ
紙に掲載された政治的な風刺画「世界の学者たちの新たな謎」
(図 6)を引用し、次のようにその含意を解説
している。
日本人のことを「ちっぽけなヒト」とか「劣等人」と見なす欧米人の認識は、原始的、幼稚、低能、また
は情緒的に不安定といった敵のイメージと容易に重なり合った。この挿絵は 1945 年 8 月の日本の降伏時
に最初「デトロイト・ニュース」に掲載され、
「ニューヨーク・タイムズ」の日曜版に転載されて、より
多くの読者の目に触れた。(Dower 1986=2001:336)
ダワーは、次のように議論を続けている。
欧米の診断によれば、集団的な劣等感の現
われは、日本社会の全体に広まっていた心理
的異常というより大きな徴候の一つにすぎな
かった。この異常は事実、前述した原始性お
よび未熟という特性と通常切り離せないもの
として呈示された。三つの概念─原始性、未
熟、精神的・感情的な不安定性─は、日本
人の性格についての広範な議論の中で、統合
された特徴として、必ずといっていいほど取
り上げられた。たとえばニューヨークでの日
本人の行動に関する会議とほぼ時を同じくし
て、イギリスの極東専門家たちのグループが、
アジアに対する長期計画について重要なレ
図 6 ダワー『容赦なき戦争』の挿絵「世界の学者たちの新たな
謎」(Dower 1986=2001:336)
− 78 −
ポートを作成した。その中で彼らは「日本人の現在の発育不全」に
触れ、日本人を全体として「原始的であり、感情的に抑圧されて
いる」と特徴づけた。ルース・ベネディクトは当時、戦時情報局
の仕事をしていたが、日本人の幼稚な行動と情緒障害との間にあ
る関係についてより穏やかな考えをもっていた。日本人の「些細
なこと」に対する鋭い感性は、
「アメリカ人の不良少年と神経症患
者の病歴の記録の中に出てくる」と彼女は(戦時中の研究を戦後
に改訂したものの中で)述べた。
マーガレット・ミード 1)がのちに気づいたように、ベネディクト
自身は厳密な心理学的、精神医学的な概念に不快感を抱き、たま
にしか使わなかった。ゴーラーはフロイト派の分析により好意的
ではあったけれど、独創性に富んだ論文の中で日本人のことを集
団的な神経症と記述することに二の足を踏んでいた。とはいえ、多
くの西洋の分析家や解説者は、こうした遠慮をしなかった。そし
て「ノイローゼ」とか「強迫神経症」という語句は、日本人全般
に あ て は め ら れ た 最 も 流 布 し た 診 断 用 語 で あ っ た。
(Dower
1986=2001:248-9)(脚注は引用者)
図 7 庄錫昌校『菊花与刀』の挿絵「山
伏の修練」(庄 2005:22)
これに対して、庄は、日本人の精神的な修練に注目する。山伏の修練の図(図 7)を掲げて、日本人がこの
ような修練を積んでいることによる事態への対応の可能性を指摘している。
庄は、
「山中で修練する僧の図。日本においては精神的な修練は、単に僧のみに止まらず全民族が共同で学
習する科目の一つである」とこの挿絵を説明し、「共同心理」の獲得を背景に置いている。
5.降伏後の日本人
敗戦後の日本に対して、侵略戦争を「誤謬」とみなし、平和な国づくりに向かう可能性を強調しながらも、
ベネディクトは、米ソ間の冷戦を危惧しながら、日本については、行動の機会主義という特徴をとらえてお
り、教訓を学ぶべきことを、期待をこめて述べる。
日本人は、侵略戦争を「誤謬」とみなし、敗れた主張とみなすことによって、社会的変革への最初の大き
な一歩を踏み出した。彼らはなんとかして再び平和な国ぐにの間で尊敬される地位を回復したいと希望し
ている。だがそのためには世界平和が実現されなければならない。もしロシアとアメリカとが、今後数年
間を攻撃のための軍備拡充の中にすごすならば、日本はその軍事知識を利用してその戦争に参加するであ
ろう。だがしかし、そのような確実性を認めるからといって、私はけっして、日本が本来、平和国家とな
る可能性をもっているということに対して、疑いを抱いているのではない。日本の行動の動機は機会主義
的である。日本はもし事情が許せば、平和な世界の中にその位置を求めるであろう。もしそうでなけれ
1)マーガレット・ミード(Margaret Mead、1901-1978)。ベネディクトとともに 21 世紀を代表する文化人類学者。ベネ
ディクトとの共同研究を行なった。
− 79 −
ば、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう。
現在、日本人は、軍国主義を失敗に終わった光明と考えている。彼らは、軍国主義ははたして世界の他
の国ぐににおいてもまた失敗したのであろうか、ということを知るために、他国の動静を注視するであろ
う。もし失敗しなかったとすれば、日本は自らの好戦的な熱情を再び燃やし、日本がいかによく戦争に貢
献しうるかということを示すことであろう。もし他の国ぐににおいても失敗したということになれば、日
本は、帝国主義的な侵略企図は、けっして名誉に到る道ではないという教訓を、いかによく身に体したか
ということを証明することであろう。(Benedict 1946=2005:387-8)
他方、ダワーは次のように指摘する。
ハートは 39 年から 42 年までアメリカ・アジア艦隊の司令長官をつとめた退役海軍大将であったが、この
ときアメリカ国民に対し、日本側からの和解提案に十分注意するようにと警告を与えている。
「彼らが求
めているのは真の平和ではない。彼らが求めているのはほんの数年間の休戦であり、その間に極東全体、
ひいては全世界を支配下に置くための次の手だてを考えようというのだ。あいつら野蛮人(日本の軍部指
導者たち)は長年にわたって、それが大和民族の神聖なる使命であると人々に教え込んできたのだ。それ
は日本人の血の中にしみ込んでおり、徹底的に洗い流されなければならないものだ」
。リベラルや左派も
また、日本の完全敗北が軍国主義に塗りつぶされた国民心理を一掃し、将来の天皇崇拝の再現を阻止する
ために必要な、いわば一種の歴史的ショック療法であると見る傾向にあった。こうして国務省のアル
ジャー・ヒスは、「国民心理全体を根本的に修正するという意味での日本の完全敗北」の重要性を強調し、
また一方で、急進的なアジア専門家 T・A・ビソンは、「完全勝利」を得ないかぎり、次の世代もまた日
本との戦いを交えなければならなくなるであろうと論じていた。(Dower 1986=2001:119-20)
ダワーは、アメリカにおいて、日本の完全敗北が、一種の歴史的
ショック療法として、軍国主義に塗りつぶされた国民心理を一掃する
ために必要である、という見方があることを紹介している。
これに対して、庄は戦後日本の批判的知識人として、大江健三郎を
最後に取り上げる(図 8)。第二次大戦後の日本における批判的な知識
人として、大江健三郎がとりあげられ、ベネディクトの期待を受け止
めるかのような文脈での議論で翻訳を締めくくっている。
これは、庄自身の日本社会に対するメッセージと重なるかのようで
もある。庄自身、一貫してベネディクトの文脈に沿いながら、それぞ
れの論点を強調したり例示することを心がけている。また、随所に歴
史的な図像が配置され、庄自身の日本文化に対する理解の広がりと深
さを示している。同書の読者世代と異なる翻訳・校閲者の世代の日本
文化・日本論の背景を伺うことができる。
図 8 庄錫昌校『菊花与刀』の挿絵「大江
健三郎」(庄 2005:221)
− 80 −
おわりに─ルース・ベネディクト『菊と刀』:「精神分析」による日本文化論
『菊と刀』の翻訳に携わった世代は、ベネディクトの日本文化論に止まらず、より広く日本論に取り組んで
いるように思われる。そこには、知識人の日本理解と日本議論の実力が表されているということさえ可能であ
る。たとえば、李剛『犂与刀』
(2006)は、犂によって中国の農業社会を象徴し、近代日本と日本の中国侵略
をよりいっそう対比的に示そうとしている。また、周作人の日本論を『周作人論日本』(2005)として編集し、
1920 年代の日本像を紹介したり、新渡戸稲造の『武士道』(1905=2006)を翻訳し、より広い範囲での日本論
と日本観を翻訳している。表 3 は、三つの作品の目次構成を示している。
これは、現代世界の中で変化する中国において、中国論・中国人論が同じように注目を引いているというこ
ととも関連している。日本論は、原理的な議論ではあるが、単一性を必ずしも強調するだけでは無く、歴史性
や多様性の議論を含むことは、中国人論の多様性にも対応すると考えられる。
さらに一貫した特徴として、すべてにおいて、図像によるイメージが用いられていることを指摘することが
できる。図像が持つ象徴性・感覚性・直接性などは、論理による説明に比較すれば、はるかに容易にメッセー
ジを作り強調することが可能である。しかし、これは、あたかも現代世界の情報化による図像利用と無関係で
はないと思われる。
『菊と刀』の図像入りの翻訳解説に止まらず、現代世界における自他認識がいっそう感覚
化しイメージ化するという状況全体が持つ特徴と危険性を図像メッセージが持っているということに改めて
気付かされる。
最後に、『菊と刀』の内容に対して、本稿の主たる目的ではないが、一言しておきたい。
戦争という状態の中にあって、また、敗戦という結果を前提として、さらにその後の軍事占領という政策を
取ろうとしているとき、どのようにして相手側(敵)の文化あるいは文化の型が対象として議論できるであろ
うか。このような根本的な疑問を、ルース・ベネディクトの『菊と刀』に対して筆者は持っている。仮にその
内容において指摘するところがどのように「正確」であろうとも、あるいは「腑に落ちる」断片でうめられて
いたとしても、同書を上記の歴史的文脈のなかにおいて位置づけないとしたならば、結局のところ戦争に動員
された文化を日本文化とするに止まっており、かつそれを日本人の野蛮性と残酷さを、感情表現において繰り
返すことになる。そこからは、時代状況や歴史的文脈を検証する契機を導き出すことはできない。戦争状況の
中において議論された精神分析が、政策の名においてではなく、文化人類学という「学問的な」名において行
われたことは、戦後の日本における学問の非政治性というすぐれて冷戦期のアジア政策に関わった政治性から
切り離されることによって、ベネディクトが読み続けられてきたということ、また同じ戦後文化人類学の議論
からは、自らの存立そのものを問うものとしては批判されてこなかったことにも現れているように思われる。
勝者からの、すなわち西洋文明からの、そしてジョン・ダワーが指摘するように「白人主義」の視点から議
論されてきた多くの日本論・日本人論・日本の精神性の問題は、戦後期の「敗者」自身の反省も勝者によって
与えられているかの感があり、事実戦後の知識人の反省も、歴史的文脈の内部からではなく、反省という感情
を肥大化させることによって行われてきたという特徴と軌を一にしている情況を見ることができるのである。
しかしながら、この『菊と刀』の中国語訳が、日本理解の、また日本文化理解のための基本書として翻訳紹
介され、かつ多くの版を重ねており、また異なる版本も多く出版されている『菊と刀』現象として、中国にお
いて多くの読者を得ていることも確かである。また、同書の若い年代の読者層が次代の日本像を担うことにな
ることも確かである。今、この中国における「アメリカ経由の日本論」について歴史的な議論を試み、いまな
− 81 −
− 82 −
日本と中国
第 5 章 「仁」─人の上に立つ条件とは何か
第 4 章 「勇」─いかにして肚を錬磨するか
第 12 章 「切腹」─生きる勇気、死ぬ勇気
第 13 章 「刀」─なぜ武士の魂なのか
第 14 章
第 8 章 恥ずべき 教科書
第 9 章 釣魚島:日中関係のバロメーター
第 10 章 日本と 台湾独立派 とのあいまいな関係を警戒せよ
第 16 章
第 17 章
第 11 章 対日賠償請求、中国は前言を翻していない
出所:李(2006:目次)、木山(1978)、周(2002; 2005:目次)、新渡戸(出版年不明,奈良本訳:目次)
おわりに 軍国主義:日本が振り払うことができない亡霊
第 12 章 中国はこれ以上負けるわけにはいかない
武士道が求めた女性の理想像
武士道の遺産から何を学ぶか
武士道は甦るか
第 15 章 「大和魂」─いかにして日本人の心となったか
序論 中国の台頭を止めることはできない
第 3 編 中国、平和的な台頭
第 11 章
第 7 章 右翼勢力:日本に現存する ナチ
人に勝ち、己に克つために
第 10 章
武士は何を学び、どう己を磨いたか
第 9 章 「忠義」─人は何のために死ねるか
第 8 章 「名誉」─苦痛と試練に耐えるために
第 6 章 靖国神社の 化けの皮 を剥がす
序論 日本の 右翼 は諦めていない
第 2 編 大国化の路線を突き進む日本
第 7 章 「誠」─なぜ「武士に二言はない」のか?
第5章
第 3 章 9.18 事変 を追跡する
日本人の衣食住
第 3 章 「義」─武士道の光り輝く最高の支柱
武士道の源をさぐる
武士道とは何か
第 5 章 戦争:日本が回避できない話題
第4章
第 2 章 日清戦争:中国はなぜ惨敗したのか
日本の民俗と宗教
第2章
第1章
新渡戸稲造著
『武士道』
第 6 章 「礼」─人とともに喜び、人とともに泣けるか
第3章
第 1 章 長く夢を見続ける日本
日本文化
日本の国民性
周作人著
『周作人論日本』
第 4 章 中国軍民の抗日戦争
第2章
第1章
序論 日本はなぜ懺悔しないのか
第 1 編 中日間の百年競争
李剛著
『犂と刀』
表 3 李剛『犂と刀』、周作人『周作人論日本』、新渡戸稲造『武士道』の目次構成
お読み続けられている『菊と刀』を現代的文脈において再検討し、アメリカという要因を内に含む東アジア地
政文化論の新たな展開を考えるきっかけにできたらと考えている。
引用文献
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資 料
資
料
Ruth Fulton Benedict(1887−1948)経歴
父 : Frederick 外科医(1857-1889)
母 : Bertrice 教師、後に司書 (1860-1953)
ルース
1887.6.5
ニューヨーク市に生まれる
1888-1894
ニューヨーク州で生活する
1888.12.26
妹の Margery の誕生
1889.3.26
父の死
1895-1897
St. Joseph, ミズーリ州
1897-1899
Owatonna, ミネソタ州 母は Pillsbury Academy の「婦人校長」
1899-1911
Buffalo, ニューヨーク州 : 母は Buffalo Public Library の司書
1905-1909
二人姉妹:Vassar College
1909-1910
ヨーロッパの旅行 ; 妹の結婚
1910-1911
Buffalo ニューヨーク州 ルースは母と生活し、Charity Organization Society に勤める
1912
ロスアンジェルス、カリフォルニア州:女子高校で教える、母は 次女と Pasadena で生活
する
1912-1914
パサディナ : Orton School for Girls で教える
1914、夏
Stanley R. Benedict と結婚
1919-1921
New School for Social Research の聴講生になり、人類学に出会う
1921-1922
コロンビア大学に編入:人類学の Ph.D. を 3 セメスターで収得
1922-1923
ボアズの助手として Barnard College で教える
1923-1931
コロンビア大学で人類学の非常勤講師になる(ずっと一年単位での契約)
1923-1924
コロンビア大学(サマー・スクール)で教える
1926、夏
Stanley とヨーロッパを旅行する
1930
Stanley と別居
1931-1937
コロンビア大学、人類学科の専任講師として赴任する
1932.6
『サイエンス』誌はベネディクトをアメリカのトップ 5 の人類学者の一人として選ぶ
1933.3
『タイム』誌はアメリカのトップ 3 の科学者の一人としてベネディクトの名前を挙げる
1934.10.11
Patterns of Culture『文化の型』の出版
1936
Stanley Benedict の死
1936.7.1
人類学科の主任代理になる
1936.11
コロンビア大学でテニアを得る
1937-1948
コロンビア大学、人類学科助教授への昇進
1937-1939
人類学科主任
1939-1940
研究休暇、Race: Science and Politics(1940)『人種主義 その批判的な考察』を書く
− 87 −
1943-1945
ワシントン、戦争情報局、海外情報部、基礎分析の長
1944-1945
戦争情報局、海外戦意分析課 社会科学分析者 1945-1946
研究休暇を取り、The Chrysanthemum and the Sword(1946)『菊と刀』を書く
1946
コロンビア大学に戻る
1948.7.1
コロンビア大学、人類学科の教授になる
1948.9.17
ルース・ベネディクトの死、ニューヨーク市
ポーリン ケント(龍谷大学国際文化学部教授)作成
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松井智子、内田晴子(アフラシア平和開発研究センター・リサーチアシスタント)作成
− 93 −
龍谷大学アフラシア平和開発研究センター 研究シリーズ 6
シンポジウム報告書
よみがえるルース・ベネディクト
―紛争解決・文化・日中関係―
(2008 年 12 月 6 日)
ポーリン ケント 濱下 武志 松井 智子 渡邉 暁子 編
Reconsidering Ruth Benedict: Conflict Resolution, Culture and Sino-Japanese Relations
Symposium Proceedings (December 6, 2008)
Afrasian Centre for Peace and Development Studies, Ryukoku University
Research Series 6
Pauline Kent, Takeshi Hamashita, Tomoko Matsui & Akiko Watanabe (eds.)
発行日/ 2009 年3月 31 日
発 行/龍谷大学アフラシア平和開発研究センター http://www.afrasia.ryukoku.ac.jp/
〒 520-2194 滋賀県大津市瀬田大江町横谷1−5 TEL / FAX 077-544-7173
印 刷/株式会社 田中プリント
PUBLISHED BY THE AFRASIAN CENTRE FOR PEACE AND DEVELOPMENT STUDIES,
RYUKOKU UNIVERSITY
1-5 Yokotani, Oe-cho, Seta, Otsu City, Shiga 520-2194
TEL / FAX + (81) 77-544-7173
http://www.afrasia.ryukoku.ac.jp/
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ISBN 978 - 4 - 903625 - 78 - 2