在日アフリカ人ミュージシャンの生き抜く術 ―在日セネガル人

在日アフリカ人ミュージシャンの生き抜く術
―在日セネガル人ミュージシャンの事例から―
菅野 淑*
African musicians live through in Japan
-A case study of Senegalese musicians’ strategy -
KANNO Shuku
要旨
現在日本に在住している多く外国人の中には、アフリカ出身者も含まれており、その数は増えつ
つある。彼らは、日本社会において制度的にも積極的に受け入れられる立場ではなく、言語等の問
題からも就労の機会は多くはない。また、その外見的特徴から差別や偏見を受けることもある。在
日アフリカ人は、そのような状況に対応し、生き抜いていく必要がある。近年、在日アフリカ人の
中には、舞踊音楽活動を生業の中心にしている人々がいる。本論文の第一の目的は、その中でも在
住数の多いセネガル人ミュージシャンに注目し、彼らの活動の実態を報告することである。第二の
目的は、在日セネガル人ミュージシャンが自身の持つ舞踊音楽の技術やその容姿等を最大限に利用
し、かつ状況的に使い分け日本で生き抜いている状況を考察することである。
Abstract
Today, the number of African people living in Japan is increasing. They are not systematically accepted by
Japanese society and have not many chances to get jobs because of language handicaps. Sometimes they are
discriminated by Japanese people. African people living in Japan are obliged to live through against such
problems. Recently, some of them are occupied with “dance-music” activity. In this paper, I focus on
Senegalese musicians, the major of African musicians living in Japan, and describe their activities in detail.
Then, I consider how Senegalese musicians live through in Japan, using their skills of dance and music and
their African appearances.
キーワード
在日、アフリカ、セネガル、民族舞踊音楽、生き抜き
*
名古屋大学大学院文学研究科 Nagoya University, Graduate School of Letters
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はじめに
現在日本において、在日外国人の数は増えつつある。2005 年の『在日外国人統計』によれば、現
在日本には約 200 万人の外国人が外国人登録をしている。その多くは、東・東南アジア(韓国・朝
鮮、中国、フィリピンなど)を中心とした人々と、南米(ブラジル、ペルーなど)の国々出身者で
占められている。その他にも、そこにはアフリカ出身者も含まれており、登録数の 0.5%にあたる約
1 万人が外国人登録をしている。
そもそもアフリカ人は、日本において、中国や韓国・朝鮮の人々とは異なり、日本人との間の歴
史的な関係性は薄く、また一方でブラジルやペルー人のように労働力として積極的に受け入れられ
る立場ではない。踊りやショーに出演するエンターテイナーとして、興行ビザを手に来日するフィ
リピン人とも異なっている。佐々木が「招かれざる客」[佐々木 2008:27]と称したように、アフ
リカ人は、日本社会にとって制度的にも積極的に受け入れられる立場ではなく、言語等の問題から
アフリカ人の就労の機会も少ないといえる。また、その外見的特徴から、偏見や差別を受けること
もある[ラッセル 1991、若林 1996]。しかし、それでも在日アフリカ人は増えつつある。
在日アフリカ人の中には、舞踊音楽活動を生業の中心としている人々がいる1。その中でも、西ア
フリカのセネガル共和国2、ギニア共和国3、マリ共和国4出身の人々による活動が近年活発化してい
る様子が見受けられる。統計によると、現在日本に在住するセネガル人の数は 261 名、ギニア人は
249 名、マリ人は 127 名である5。そのうち、自らを「ミュージシャン」と称してイベント等で演奏
をおこなったり、太鼓やダンスのクラスを開講しているものは、セネガル人 20 名、ギニア人 10 名、
マリ人 2 名である6。彼らの居住地域は、北海道から沖縄までと日本全域に渡っているが、その大半
は東京に在住している。
在日アフリカ人ミュージシャンの来住および活動の背景には、アフリカ舞踊音楽を愛好する日本
人によるアフリカ人やアフリカ文化の積極的な受容がある。日本人愛好者7が語るアフリカの代表的
なイメージは、
「アフリカは未開で貧しい国ではあるが、太鼓など音の文化は豊かだ。その音で、人
や自然、全てが調和している。
」といったものである。日本では「既に失われた」と感じる部分や、
アフリカやアフリカ音楽に対し「癒し」ともとれる部分を求めているようである。また、アフリカ
人の演奏する太鼓やダンスに対して「やはり本物は違う」といったような称賛を聞くこともある。
本論文では、まず西アフリカの舞踊音楽に関する概要を述べる。そして、それらが欧米に渡り、
日本にもたらされた経緯および日本国内での歴史について概観する。その後、在日アフリカ人ミュ
ージシャンの中でも数の多いセネガル人を取り上げ、彼らの活動実態を紹介する。その上で、在日
西アフリカ人ミュージシャンが、決して楽とはいえない日本社会において生き抜くために、自らが
持つ舞踊音楽の技術やその容姿等を最大限に利用し、
かつ状況的に使い分けているかを考察したい。
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Ⅰ.西アフリカの舞踊音楽の概要
西アフリカにおいて太鼓やダンスは、日常生活に根付いており、結婚や割礼などの人生儀礼、農
耕儀礼等においてのみならず、娯楽など機会にも頻繁にみられるものである。西アフリカでは、演
奏される楽器によって、グリオ(griot)8のような職能集団に限られる場合とそうではない場合があ
る。例えば、後述するジェンベ(Djembé, jenbe, jembe)9は、グリオが演奏する太鼓ではないと言わ
れている。
この地域におけるダンスの基本姿勢は、一般的にコラップス(屈曲姿勢)と呼ばれるものである。
これは、膝と腰を軽く曲げ、胸が自然に地面と向き合うような形になるものである[写真 1 参照]。
また、身体の各部分を独立させて動かすアイソレーションというテクニックを使い、一人でポリリ
ズムを表現するような動きが見られる[柳田 2000:28]。そして、ドラムの演奏を伴いジャンプの
連続がみられる[Green 1996:15]。セネガル・ギニア・マリを中心とする地域では、あたかも宙に
浮いているような跳躍が多いとされている[柳田 2000:28]。さらにセネガルやガンビアでは、コ
ンペティション的なソロダンスがみられる[Green 1996:16]。ガーナやナイジェリアでは、コラッ
プスのまま、すり足で動くステップが多く[柳田 2000:28]、グループになって踊るのが一般的で
ある[Green 1996:16]という。これらダンスは、植民地時代、支配者側からは、パワフルな原始主
義の表象とみなされた。一方、被支配者側は、ダンスをヨーロッパ植民地主義に抵抗するパワフル
な土着の媒体とみなしていた[Castaldi 2006:1]。
西アフリカには多くの太鼓が存在するが、ここでは在日セネガル人ミュージシャンが主に演奏し
ている太鼓を紹介したい。まず、ジェンベ [写真 2(側面、上面)参照]と呼ばれる太鼓であるが、
これは西アフリカを中心に演奏されているものである。現在世界で、そして日本においても最も広
く演奏されているアフリカの太鼓でもある。マホガニーなどの硬い木をくりぬき、片面にのみヤギ10
の皮を張ったワイングラスのような形をしたもので、素手で叩く。ひと叩きで非常に大きな音が出
る太鼓であり、この音に魅了されたという語りを日本人愛好者からよく聞くことがある。また、ジ
ェンベは演奏する際、
「踊り手のステップにあわせてソロ演奏をおこなう」ため、
「花形としてもっ
とも目立つ存在」[鈴木 2008:66]である。ジェンベの起源にはいくつかの説があり明確ではない
が、マンデ族の鍛冶屋が創り出したという説が有力である。鍛冶屋がジェンベのボディを削り、し
ばしばそれを演奏するものであったという[Charry 2000:213]。
次に、ジェンベと共に演奏されることの多いドゥンドゥン(dundun, dunun)
、サンバン(sangban)
、
ケンケニ(kenkeni)[写真 3 参照]と呼ばれる太鼓である11。これらの太鼓は、ジェンベとは形状が異
なり、硬い木を円柱型にくり抜き、双方の面にウシの皮を張ったもので、バチを使用して叩く。主
に、ジェンベのベースとして叩かれることが多い。
続いて、セネガル特有の太鼓とされるサバール(sabar)[写真 4 参照]12である。こちらはディンブ
(dimb)13と呼ばれる硬い木をくり抜き、片面にヤギの皮を張ったものである。利き手に持つ「ガ
レン(galen)
」と呼ばれる長細い木の枝そのもののようなバチと、もう一方の素手で、合わせて音
を叩き出す。
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これらの太鼓やダンスは「伝統的」なものとして日本に紹介されているが、実際には、政治的に
創り出されたものである。文化政策の一環として、植民地支配から独立後、セネガルやギニアなど
には国立舞踊団(National Ballet troupe)が創立されていった。このような国立舞踊団の創立とその
後の活動には、各国政府が大きく関係している。セネガルにおいては、初代大統領レオポルド・サ
ンゴール Lépold Sédar Senghor であり、ギニアにおいてはフォデバ・ケイタ Fodéba Keita14とギニア
初代大統領セク・トゥレ Sékou Touré である。セネガルには、フランスから独立した翌年 1961 年に
国立舞踊団が創立された。ギニアには 1940 年代後半にフォデバ・ケイタが、Le Ballets Africains(ア
フリカ・バレエ団)を創立し[Charry 2000:9]、独立後国営化された[鈴木 2007:355]。
国立舞踊団創立の背景には、国民文化の創造、国民意識と国民国家の形成という意図があった。
そして、自国のダンスの「伝統」を再構成する狙いがあった。国内の各村、各民族から選りすぐり
の踊り手や演奏者、楽器が集められ、様々なスタイルのダンスが合わさり、舞台用にアレンジされ
ていった。
「伝統的」なリズムが新解釈され、創造され、そして強化されていった。本来、各村にお
いては、円になって演奏され踊られており、演者と観客の入れ替わりが可能であったものが、舞台
上で観客に見せるために、その形態がライン状へ変化していった。国立舞踊団は、国の規範やダン
スのレパートリーの具体化であるという[Charry 2000:194, 211、Castaldi 2006:9、鈴木 2007]。
サンゴールやセク・トゥレは、舞踊を文化の大使的役割を担うものと位置づけた。サンゴールは、
「バレエ」をセネガルの文化大使として奨励し、国内および世界の主要な劇場でパフォーマンスす
るよう命じたという。国立舞踊団は、
「アフリカ」を表象しているのである[ウシ 2006(2004)
:22、
Castaldi 2006:9]。
この国立舞踊団で踊られているものは、村で「伝統的」に踊られているものとは区別し、日本で
は「バレエ・スタイル」と呼ばれることが多い。この「バレエ」とは、いわゆる西洋のクラッシッ
ク・バレエではなく、
「太鼓演奏にあわせて激しく踊る伝統舞踊のことであり、そこに演劇の技法を
持ち込んだ一種のミュージカル劇」[鈴木 2007:354]である。これを本研究においては、アフリカ
舞踊音楽と称したい。
Ⅱ.欧米にもたらされたアフリカ舞踊音楽
このように国家的に創造されていったジェンベを中心とするアフリカ舞踊音楽がアフリカの外に
初めてもたらされたのは、1940 年代のパリであったとされている。1950 年代にギニアのフォデバ・
ケイタが率いた Le Ballets Africains がおこなったワールド・ツアーによって、その最初のインパクト
が世界にもたらされた。1960 年代に、Le Ballet Africains のリードドラマーであったラジ・カマラ Ladji
Camara がアメリカ合衆国に移住し、演奏し教授し始めると、アメリカ合衆国でのジェンベに対する
関心が高まった。その後、1980 年代には、ジェンベの演奏を収録した多くの CD がレコーディング
され発売された。そして何よりも、80 年代後半にワールド・ミュージックのブームが到来したこと
が、ジェンベをもちいた音楽を世界に広める要因となった[Charry 2000:193]。
80
また、1991 年にはママディ・ケイタ Mamady Keïta15の 26 年ぶりの帰郷を描いたルポルタージュ
映画『ジャンベフォラ:聖なる帰郷』がロラン・シュヴァリエ監督のもと制作され、世界的な成功
をおさめた[ウシ 2006(2004)
:20、鈴木 2008]。これにより、さらにその広がりをみせた。
現在は、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストラリア、スペイン等を中心に、世界
中でジェンベを中心とするアフリカ舞踊音楽が各国在住の西アフリカ出身者や各国の愛好者によっ
て演奏され、ワークショップがおこなわれている。最近では、韓国や中国といったアジア各地でも、
アフリカ舞踊音楽が演奏される機会がみられるようになってきている。
Ⅲ.日本国内での歴史
日本国内では、1965 年に、ギニア共和国のアフリカ・バレエ団(Le Ballet Africains)が日本公演
をおこなった。その後、アフリカ各地の歌手や音楽グループが来日公演をおこなった。特に、1980
年代後半から 90 年代前半にかけては、ワールドミュージック・ブームも相成り、多くのミュージシ
ャンが公演をおこなった[白石 1993、鈴木 2008]。
そんな中、アメリカで西アフリカの舞踊音楽を学んだ柳田知子氏と砂川正和氏が、1987 年に「ド
ラム&ダンスシアター ウォークトーク」を主宰し、日本に西アフリカの舞踊音楽を紹介した。彼
らは、ジンベ(ジェンベ)のワークショップとそれらに合わせて踊る、ダンスのワークショップを
開催した。当初は少人数であったが、その一期生には現在東京を中心に活動をおこなっている武田
ヒロユキ氏が、第二期生には寺崎卓也氏などが顔を連ねていた。そこで学んだ者達が、現在はジェ
ンベ演奏やダンスの大御所的な存在となっている。
1990 年には、マリ人ギタリスト、ママドゥ・ドゥンビアがサリフ・ケイタのツアーメンバーとし
て来日し、翌年来住する。彼が西アフリカのミュージシャンとしては最初の来住者であると思われ
る。1992 年に、ユール・ジャバテが来住[鈴木 2008:73-74, 77-78]。前出の砂川氏らと数回、共に
活動をし、また、ママドゥ・ドゥンビアとユニットを結成した。
ママディ・ケイタのルポルタージュ映画『ジャンベフォラ:聖なる帰郷』が日本公開された 1993
年、柳田氏が「セネガルでジンベとダンスを学ぶためのツアー」を主催した。
その後、日本ではバブル経済の崩壊とともに、1990 年代半ばからアフリカ音楽に対するマーケッ
トは収縮していき、日本を離れたものもいたが、多くは残った[鈴木 2008:68]。1995 年以降、毎
年のように西アフリカから舞踊音楽活動をおこなう人々が来住している。2008 年にもセネガル人 1
名、ギニア人 2 名が活動の拠点を日本に移している(2008 年 12 月現在)
。
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Ⅳ.来住アフリカ人ミュージシャンの来日経緯と活動の実態
4.1. 来日経緯
在日セネガル人ミュージシャンの来日経緯には、以下の 3 つのケースがみられる。
a)太鼓やダンスの習得のためにセネガルに渡航した日本人が帰国後、公演やワークショップを企画
し、そこに自身がセネガルで習った先生を個人的に招聘するケース。この場合、滞日期間は、数週
間から数ヶ月間で、日本各地を公演等でまわることが多い。
b)万博などといった公的機関主催の公演等で来日するケース。滞日期間は、数週間から数ヶ月間で
ある。
c)先に来日している親族等を頼って来日するケース。
これらのケースは、基本的に短期滞在となるのだが、この滞在中に、日本人女性と出会い、結婚
し、在住へ発展することもある。また、セネガルに渡航中の日本人女性との結婚を機に来日するケ
ースもみられる。公的機関主催の場合を除いて、現在のところ来日への組織的な斡旋業者はみられ
ず、個人的ネットワークによる来日が中心となっている。
では、このような経緯のもと来日したセネガル人ミュージシャンの事例を述べたい。
事例 1)岐阜県在住 A
出身地:セネガル共和国カオラック(Kaolack)市
エスニックグループ:ウォロフ(wolof)16
宗教:イスラーム(ティジャーニ教団17)
年齢:31 歳
性別:男 ダンサー兼パーカッショニスト(ダンスが中心)
A は、会社を経営する父を持ち、16 歳から本格的にダンス、太鼓を習い始めた。21 歳の時に、カ
オラック市内でダンス講師を始め、
2004 年には、
セネガル全国芸術祭で優勝したという。
2004 年に、
セネガルに滞在していた日本人女性との結婚を機に来日した。
事例 2)東京都在住 B
出身地:セネガル共和国ファティック(Fatick)市
エスニックグループ:トゥクロール18(tukulor)
宗教:イスラーム(ムリッド教団19、バイファル20)
年齢:32 歳
性別:男 ダンサー兼パーカッショニスト(ダンスが中心)
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B は、医者の父と看護婦の母を持ち、12 歳より家族の元を離れ、ダンスを習い始める。17 歳でモ
ロッコへ渡り、その後 2 年間スペインのアフリカ舞踊音楽のバレエ団に所属し、セネガルに帰国後
3 年間セネガル国立舞踊団に所属していた。2002 年に開催された FIFA ワールドカップ日韓共同開
催記念で、セネガル国立舞踊団公演が日本であり、当時そのメンバーであったため来日し、その後、
日本に移住した。
4.2. 日本国内での活動
来日したセネガル人ミュージシャンがその後、
日本国内でどのような活動をおこなっているのか、
事例を挙げて述べる。
図 1 事例 A と B の活動
事例 A
事例 B
ジェンベ・ダンス
岐阜県:月 2 回
東京都内:月 1 から 2 回
クラス
愛知県:月 2 回
全国各地:不定期
サバール・ダンス
愛知県:月 1 回程度
東京都内:月 1 から 2 回
クラス
全国各地:不定期
なし
東京都内:月 1 から 2 回
ジェンベ・太鼓ク
岐阜県:月 2 回
なし
ラス
愛知県:不定期
サバール・太鼓ク
岐阜県:期間限定(3 ヶ月間)
なし
コンサート
2005 年より毎年開催
2003 年、2005 年、2007 年開催
ワークショップ・
なし
2005 年、2008 年開催
勤務先の博物館でのイベント、国際
国際交流イベント、在日セネガル人や
交流イベント、結婚式、和太鼓との
アフリカ人とのイベント、日本人アー
競演イベント、地域の祭りなど
ティストとのイベントなど
ソールーバ・ダン
スクラス
ラス
21
ツアー
イベント
A は、岐阜県、愛知県を中心に、ジェンベとジェンベ・ダンスのワークショップ22をおこなって
いる。また、岐阜県内、愛知県内のみならず静岡県や東京都でのコンサートやイベントにも出演し
ている。
B は、ジェンベ、サバール、ソールーバ23の 3 種類のダンスのワークショップを、東京都内を中
心にひらいている。また、アフリカ各地の音楽を通じて国際交流・国際理解を深めようとする音楽
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グループにも所属しており、日本人・コンゴ民主共和国人・タンザニア連合共和国人・ギニア人と
共に活動をおこなっている。
4.2.1.ワークショップの事例
事例 1)A の愛知県のクラス
愛知県では、ジェンベのダンスクラスのみ、曜日は不定だが、月 2 回おこなわれている。時間は、
19 時半から 21 時までの 1 時間半、愛知県名古屋市内の文化施設の練習室を利用している。受講料
は 1 回 3000 円。受講者は、名古屋市内や近隣の市在住者を中心に、20 代から 30 代前半の女性が多
く参加している。男性の受講者は少数である。受講者数は平均して 10 名程度である。
事例 2)B のソールーバ・ダンスクラス
ソールーバのダンスクラスは、月 1 回から 2 回、土日を中心に、19 時から 20 時半までの 1 時間
半おこなわれる。会場は、東京都区内の文化施設の練習室やレクレーション室を利用している。受
講料は 3000 円。受講者は 20 代から 30 代後半の男女で、東京都区内や関東在住者が大半である。と
きおり、神戸などといった遠方からわざわざ受講しに来るものもいる。受講者数平均は、20 名程度
である。
4.2.2.コンサートの事例
写真 5 イベントの様子
事例 1)A
2005 年から毎年岐阜県内でコンサートを開いている。これには、A のダンスクラスの受講者も出
演し、いわば発表会的な要素も含まれている。2007 年度のコンサートには、愛知県のクラス、岐阜
県のクラス、関西のクラス24から合計 18 名の日本人が出演した。A の他にも、東京都・静岡県在住
のセネガル人ミュージシャンと当時滞日中だったセネガル人シンガー合わせて 9 名も出演した。
2005 年には、当時愛知県に在住していたギニア人ミュージシャンが、2006 年には大阪府在住の南ア
フリカ共和国人ミュージシャンが出演していた。
事例 2)B
2003 年 2005 年 2007 年と東京都内でコンサートを開催している。B のコンサートにも、B が教授
する 3 種類のダンスそれぞれの受講者が出演できるという発表会の要素も組み込まれている。2007
年度のコンサートに出演した日本人受講者の数は、ジェンベ・ダンス 10 名、サバール・ダンス 14
名、ソールーバ・ダンス 9 名だった。東京都在住のセネガル人、ギニア人ミュージシャンを中心に、
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静岡県・岐阜県からも在日セネガル人ミュージシャンが合計 15 名集まった。また同年のコンサート
では、関東でソールーバを演奏する日本人グループと、富山県でサバールの演奏活動をする日本人
パーカッション・グループもスペシャル・ゲストとして出演していた。
Ⅴ.ミュージシャンとしての生活
5.1.一握りの「成功者」
A と B の事例のように来日し活動している者達全員が、必ずしも「成功者25」であるとは限らな
い。実のところ、
「成功者」はわずかである。その数は全体の半数にも満たない。在日セネガル人ミ
ュージシャンの中には、ミュージシャン活動と平行して工場勤務など副業を持つ者もいる。
また、様々な面で配偶者に依存する現状も見受けられる。日本滞在に必要不可欠であるビザの面26
や、金銭面、居住面で、特に来日当初は頼らざるを得ないようである。ある日本人配偶者27からは、
「
(在日セネガル人ミュージシャンは)芸能人みたいなものだから、収入に波がある」という語りが
聞かれた。この日本人配偶者は、派遣社員として勤務する他にアルバイトもおこなっている。不安
定なミュージシャン業の中で安定した経済状況を保つためには、配偶者の協力が欠かせないのであ
る。
5.2.日本人愛好者との関係構築
在日セネガル人ミュージシャンが、こういった面で日本人配偶者を求めることもあるが、配偶者
という立場ではない日本人愛好者とも良好な人間関係を築く必要性が彼らにはある。そこには、良
好な関係を築くことで、自身のワークショップやイベント・コンサートに客として来てもらいたい
という点、また日本人がおこなうイベントなどに招聘してもらいたい(仕事を得る)という点があ
るからだ。そのため、在日セネガル人ミュージシャンは、自分を売り込むために様々な場で積極的
に日本人に声をかける様子がみられる。実際筆者も、東京や関西でひらかれたアフリカ舞踊音楽の
イベントで、セネガル人ミュージシャンから、自身のおこなうワークショップの紹介や自身を筆者
の居住する名古屋に招聘してくれないか、と頼まれることが何度かあった。また、ワークショップ
に、講師である在日セネガル人ミュージシャンが別の場所(アフリカ舞踊音楽が演奏されない機会
も含む)で知り合いになり、自身のワークショップの紹介をした日本人が受講しに来ることもあっ
た。
85
5.3.ミュージシャン同士の関係
5.3.1.在日セネガル人ミュージシャン同士の関係
在日セネガル人ミュージシャンの集合関係には、いくつかの特徴がみられる。まず、第一に居住
地域による関係が挙げられる。例えば、岐阜県在住の A は、自身がおこなうワークショップに、ジ
ェンベの演奏者として静岡県在住の D を呼ぶ。A が出演する愛知県や岐阜県のイベントにも、D は
ほぼ必ず共演している。D は、静岡県在住の AL のワークショップやイベントにも参加している。
また、東京都在住の B は、自身のおこなうワークショップで、同じく東京在住のセネガル人ミュー
ジシャンに太鼓の演奏者としての手伝いを頼んでいる。このように、現在居住している地域が近い
もの同士は集合することが多い。特に A は、身近にセネガル人やギニア人、マリ人などのミュージ
シャンが在住していないため、若干遠方であっても静岡県から D を呼んでいるようである。
次に、兄弟間の関係がみられる。例えば、静岡県在住の AL のワークショップには、その弟であ
る L が参加している。また、北海道在住のセネガル人ミュージシャンのところには、東京都に在住
する弟が参加しに行く様子がみられる。このように、兄弟で日本に在住している場合は、その兄弟
間での集合関係がみられる。
三番目には、自国セネガルにいた頃からの関係やセネガル人同士の仲による関係がみられる。セ
ネガル在住時代に同じバレエ団に所属していたり、同じ地域に居住していたもの同士は、来日して
からもその関係は続いている。だが、中には同じ地域出身で自国にいる際は非常に仲が良かった者
同士でありながらも、来日後の在住地域が遠方なため日本では一度も会ったことがないという事例
もみられる。このような母国からの関係が日本でも大きく影響していることは当然だと考えられる
が、来住してから知り合った場合でも、当人同士の仲が少なからず離合集散関係に影響しているよ
うである。
5.3.2.その他の在日アフリカ人ミュージシャンとの関係
A や B のコンサートを見ていると、在日セネガル人ミュージシャン同士のみで活動しているわけ
ではないことがわかる。例えば A のコンサートには、2005 年には在日ギニア人ミュージシャンが、
2006 年には在日南アフリカ人ミュージシャンが出演していた。
B は、こういったコンサートにおいてのみではなく、他のバンド活動でも在日セネガル人ミュー
ジシャン以外とも共演している。例えば、先にも述べたアフリカ各地の音楽を通じて国際交流や国
際理解を深めようとする音楽グループでは、タンザニア人、コンゴ人、ギニア人と共に活動してい
る。筆者は二度この音楽グループのステージを見る機会があったが、どちらとも東アフリカ、特に
タンザニアなどの音楽が多く演奏されていた。
また、
使用されていた楽器もギターにベースギター、
マリンバ、カリンバ、ドラム(バンド用のドラムセット)
、コンガ、ジェンベであった。B は、ジェ
ンベとコンガを演奏するとともにダンスを披露していた。このステージ内のメンバー紹介で、各自
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アフリカのどこの国出身かを述べていた。だが、その後「アフリカの挨拶を憶えよう」という場面
では、スワヒリ語での挨拶(
「こんにちは」
、
「ありがとう」
)を観客に教えていた。そのためステー
ジ終了後、出演者に話しかけていた客である子供たちは、B に対しても「アサンテ!(ありがとう)
」
と連呼していた。それに対し B も笑顔で応じていた。ただ、子供の親から「セネガルもスワヒリ語
ですか?」と尋ねられた際には、そうではないことを伝えていた。
以上のように在日セネガル人ミュージシャン同士の関係には、地域的、兄弟など親族同士、セネ
ガル人の個人的な人間関係という三つの要素が大きく関係している。また、その関係には、他の在
日アフリカ人ミュージシャンも多いに関わっている。彼ら同士の関係は、全て良好というわけでは
ない。中には、近隣地域に在住しながらも全く関係を持たなかったり、インターネット上で暗に別
のミュージシャンを非難したりと不仲の場合も見られる。
また、
当初は良好な関係を築いていたが、
金銭面のトラブル等でその関係が変化している様子も見られる。
在日セネガル人ミュージシャンは、
その総数が 20 人という決して多くはない中で、
それぞれのネットワークを活用し相互に扶助し合な
がら、日本において活動をおこなっている。その形態は、セネガル人同士のみに限らず、他のアフ
リカ人も取り込み柔軟に変化するである。
Ⅵ.おわりに-日本で生き抜くために
6.1.チャンスとしてのアフリカ舞踊音楽
セネガル人が来日する機会を得る要因の一つとして重要だと考えられるのは、
A と B の事例から、
ダンスや太鼓の技術を持っていた、ということである。2 人とも、幼少の頃から身近に太鼓やダン
スが存在し、自然にそれらを憶えることができたと語っている。だが、10 代に 2 人ともバレエ団に
所属し、ダンスや太鼓の技術を習得していた。高学歴でもなかなか職を得られない、という現状の
セネガルにおいて「手に職を持つ」ということは、お金を稼ぐ上で重要なことだと A は述べていた。
B は、来日前には既にモロッコやスペインといったセネガル国外でも活動をおこなっていた。
このことから、ダンスや太鼓を本格的に学びその技術を得る、ということは海外へ出るチャンス
が少なからず得られる、ということにつながるであろう。また、自身が海外に出ずとも、ダンスや
太鼓の習得の為にセネガルを訪れた外国人と接する機会もできる。そこから外国人の配偶者を得る
可能性もでき、海外へ出るチャンスが得られることとなる。
6.2.「ミュージシャン」という職業の利点-「ミュージシャン」と称すること
先にも述べたが、日本社会にとってアフリカ人は制度的にも積極的に受け入れられる立場ではな
く、就労の機会も多くはない。また、その外見的特徴からこれまで多くの偏見や差別を受けてきた。
ラッセル[ラッセル 1991]や若林[若林 1996]によると、日本人がイメージする黒人は、リズム感が
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よくダンスがうまい、性的に強い、運動能力に優れているなどのステレオタイプのイメージが強く
あるという。また、アフリカに対しても、貧しくて遅れた国、とのイメージが強いという。このよ
うな偏見や差別は、グローバル化の進行とともに年々和らいできているようにも感じるが、いまだ
根強く日本社会に残っている。
在日アフリカ人は、
これらに対応するために、
「自分はアメリカ人だ。
」
あるいは「ジャマイカ人だ。
」というように国籍を偽り、自分を防衛するものもいるという。さらに
は、自分たちがアフリカ人であること、黒人であることに自信がもてず否定的に捉えるものさえい
るという[若林 1996]。このように、在日アフリカ人は、日本で生活してく上で様々な状況に対応
し、生き抜いていく必要に迫られる場合があるのである。
では、ミュージシャンという職業を称した場合はどういう利点があるのだろうか。ミュージシャ
ンの場合、彼らは自身のエスニックを隠す必要がない。彼らは、
「アフリカ人」で「黒人」あるから
こそ日本人に受け入れられるのである。日本人がイメージしているものに、彼らは当てはまってい
るのである。実際、在日セネガル人ミュージシャン A や B は、
「セネガル人が踊ると違うね。
」
、
「か
っこいい」と日本人愛好者から評判である。つまり、
「リズム感がよく、ダンスがうまい。運動能力
に優れている」というイメージに合致している。また、日本人愛好者からみればセネガル人やアフ
リカ人は舞踊音楽の「本場」から来た「本物」のミュージシャンであり、そこに「真正性」を見出
すことができるのである。
このように、在日セネガル人ミュージシャンは自身の持つ舞踊音楽の技術やその容姿等を日本に
おいて最大限に利用できるのである。それを彼らは承知しており、自身のエスニックを隠すことな
く、日本人に伝えることができる。例えば B は、ファミリーレストランで隣り合った日本人中年男
性に「何人?ジャマイカ人?」と聞かれた際に、セネガル人でミュージシャンであると答えていた。
また、アフリカ舞踊音楽が演奏されない機会に出会った日本人が、在日セネガル人ミュージシャン
の直接の紹介でワークショップに参加することからも、在日セネガル人ミュージシャンらが自身の
エスニックを隠していないといえるだろう。
6.3.「セネガル人」であり「アフリカ人」であること
在日セネガル人ミュージシャンが活動する際、彼らが同国出身者同士のみで活動しているわけで
はないことは先述した。彼らは、時にはセネガル人ミュージシャンのみで活動し、サバールといっ
たセネガル「固有」とされる太鼓の演奏とダンスを披露する。その際には、ジェンベも演奏される
ことが大半である。だが、演奏されるリズムには、セネガル国内在住の民族起源とされるものが中
心である。また、ギニア人やマリ人などと競演する際は、主にジェンベを演奏し踊っている。
在日セネガル人ミュージシャンは、彼らのみで活動出来ない場合は、日本人愛好者や地域的に近
いギニア人やマリ人を取り込んで活動する。そこには、その関係に取り込む場合と取り込まれる場
合がある。在日セネガル人ミュージシャンは、
「セネガル人」そして「アフリカ人」として日本社会
において状況的にその度合いを使い分けている。例えば、セネガル人のみならば「セネガル人」と
しての要素が強くなる。だが例えば B が参加しているグループのように東アフリカ地域出身者が多
88
い場合は、
「セネガル人」としての要素が弱まり「アフリカ人」全体(汎アフリカ的)としての活動
となる。それは先に述べた事例からも明らかとなるであろう。
図 2 セネガル的要素と汎アフリカ的要素の使い分け状況
出演者
セネガル的要素
汎アフリカ的要素
セネガル人ミュージシャンのみ。あるい
ギニア人、マリ人、タンザニア人、コ
は、セネガルに精通した日本人グループ
ンゴ人、ナイジェイリア人ミュージシ
と共演する場合。
ャンなどと共演する場合。
「アフリカンライブ」、「アフリカン
コンサー
「セネガルダンス」、「ソワレ・セネガ
マジック」、「アフリカの熱い風」、
ト・イベント
レ」、「タンヌベール」、ウォロフ語を
「ソワレ・アフリケンヌ」【セネガル
名
用いた名など【セネガル人のみの場合】 人のみの場合。他国出身者との共演の
場合】
セネガル国内の民族発祥とされるリズ
ムのジェンベ演奏(バランタ、コデバな
演奏曲目
ど)、サバールの演奏(チェブジェン、
バランバイ、カオラックなど)【セネガ
ル人のみの場合】
ギニアやマリ国内の民族発祥とされる
リズムのジェンベ演奏【セネガル人の
みの際に取り入れる場合もあり。ギニ
アやマリ人との共演の場合】、スワヒ
リ圏の曲を演奏【スワヒリ圏出身者と
の共演の場合】
セネガル国旗をモチーフにした衣装、バ
着用衣装
イファルが着用するジャファスの衣装
など【セネガル人のみの場合、時によっ
アフリカの布を用いた衣装など
てはギニア人も着用する場合あり】
演奏機会
セネガル人が主催した場合、日本人が主
催した場合。
セネガル人が主催した場合、ギニア人
やマリ人が主催した場合、日本人が主
催した場合(文化的行事を含む)。
和崎[和崎 1987]は、村落部から大都市に移住したり出稼ぎにきたりするカメルーンのバムン族
の事例や京都の都市祭礼・左大文字の事例から、彼らが複数の「民族的」レッテルを境界操作し使
い分けていることを論じた。在日セネガル人ミュージシャンは、日本社会において、何か大きなイ
ベントなどの時に、人手や経済的な理由から、そのグループの境界を大きくする必要が出てくる。
そうすると、ギニア人やマリ人を取り込んだり、アフリカ全体にまで範囲を広げたりする。さらに
そこには、日本人愛好者も取り込まれていく。そのグループの規模は状況により自在に変化するの
89
である。
同じように、
今度は在日セネガル人ミュージシャンがそこに取り込まれていく状況もある。
そのグループの規模によって、セネガル的要素と汎アフリカ的要素の度合いが異なってくる。この
要素の強弱は、在日セネガル人ミュージシャン自らおこなっている場合もあるが、日本人からの要
望により操作している場合もある。
在日セネガル人ミュージシャンのアイデンティティは、日本社会において、自身の民族-例えば
ウォロフ族-からセネガルという国の枠を越え、さらにはアフリカ全体にまで集合するグループに
よって自在に変化していく。在日セネガル人ミュージシャンは、舞踊音楽の技術を習得することで
得たチャンスを無駄にしないために、ミュージシャンという職業によって「セネガル人」としてだ
けではなく、
「アフリカ人」としても活動することが、彼らにとって日本社会で生き抜く術なのであ
る。
註
1
生活の拠点を日本においている者を在日とし、拠点が母国など日本以外の国にあり、数週間から
数ヶ月間のみ日本に滞在する者を滞日とする。
2
面積:197,161 平方キロメートル。人口:1,220 万人(2007 年 UNFRA)
。民族グループ:ウォロフ
44%、プル 23%、セレール 15%。言語:フランス語(公用語)
、ウォロフ語など各民族語。宗教:
イスラーム教 95%、キリスト教 5%、伝統的宗教。主要産業:農業(落花生、粟、綿花)
、漁業(ま
ぐろ、かつお、えび、たこ)[外務省ホームページ 2008 年 10 月現在]
3
面積:245,857 平方キロメートル。人口:980 万人(2007 年 UNFPA)
。民族グループ:マリンケ、
プル、スースー等 20 あまり。言語:フランス語、各民族語(マリンケ、プル、スースー等)
。宗教:
イスラーム教、伝統的宗教、キリスト教。主要産業:農業(米、キャッサバ)
、鉱業(ボーキサイト、
アルミナ、ダイヤモンド)
。[外務省ホームページ 2008 年 4 月現在]
4
面積:124 万平方キロメートル。人口:1,430 万人(2007 年 UNFPA)
。民族グループ:バンバラ、
プル、マリンケ、トゥアレグ等 23 以上。言語:フランス語(公用語)
、バンバラ語等。宗教:イス
ラーム教 80%、伝統的宗教、キリスト教。主要産業:農業(綿花、米、ミレット、ソルガム)
、畜
産、鉱業(金)
。[外務省ホームページ 2008 年 7 月現在]
5
外務省ホームページによる。セネガルおよびマリは、2006 年 12 月末現在。ギニアは、2005 年 12
月末現在。
6
イベントやホームページ、宣伝チラシ等を元に、筆者がカウントした。2008 年 12 月現在。
7
アフリカ舞踊音楽を愛好する日本人で、太鼓やダンスの演奏を定期的におこなっている人達のこ
ととする。
8
「起源は 12 世紀~13 世紀ごろに遡り、かつては王侯貴族が抱える専属の語り部であった。彼ら
はひとつの職業的階層(カースト)を形成していた。グリオは王家の系譜や来歴を記憶する歴史家
であり、楽器を演奏する音楽家であり、詩人でもあった。……現代の共和国で、主人を失ったグリ
オは歴史家よりも、音楽家として伝統を継承することになる。
」[白石 1993:157]。在日セネガル
人・ギニア人・マリ人ミュージシャンの中にも、グリオを名乗るものがいる。
9
ジャンベやジンベとも呼ばれる。特に日本ではジャンベと呼ばれることが多いが、これは間違い
である。鈴木によると、
「ママディ・ケイタの映画の原題“Djanbéfola”をカタカナに翻訳する際に、
an [εn]をフランス語風に「エン」とせず、英語風に『アン』として『ジャンベフォラ』と間違って
表記したものが、そのまま普及したものと考えられる」[鈴木 2008:67]。また、ジンベは地域に
よる呼称であるという。
90
10
中にはウシの皮を張ったものもあるという。また、ブルキナファソでは、ラクダの皮を張ったも
のがあるという。
11
3 つの太鼓のうち、一番大型で低い音を出すものがドゥンドゥン、中型のものがサンバン、小型
のものがケンケニである。太鼓を横や縦に置いて叩く場合と、紐を通し肩から吊るして叩く場合が
ある。また、同時に 2 台や 3 台あわせて叩くこともある。横に置いて叩く場合、太鼓にはベル(鉦)
が付けられており、バチとは逆の手に金属製の細い棒を持ち同時に叩く。地方によっては、バチと
逆の手にベルを持ちそれを指にはめた金属製の指輪で打ちながら演奏することもある。
12
太鼓の大きさ形は様々で全部で 6 種類ある。セネガルに住むウォロフ族やセレール族において、
様々な機会に演奏される。
13
英:Cordylia pinnata/仏:poirier du Kayor/ CÉSALPINACÉES
14
(1921-1969)ギニアでアフリカの劇場を創立した(のちにギニア国立舞踊団の 1 つとなる)
。
大統領セク・トゥレと交流があった。1950 年代、ギニアで最も人気のある作家、芸術家となった。
しかし、1969 年にセク・トゥレに対する陰謀に加担した罪で死刑宣告を受けた[ウシ 2006(2004)
:
22]。
15
1950 年ギニア北東ワソロン地方生まれのジェンベ奏者。現在は、アメリカのサンディエゴに拠点
を移し、ヨーロッパ、アジア、アフリカを行き来しながら、世界各地でジェンベの普及活動をして
いる[ウシ 2006(2004):18-20]。
16
ニジェル=コンゴ系の西アトランティック語派の言語を話す。ウォロフ語は、地域共通言語とし
てセネガル人の約 8 割が話す。ウォロフ人は、農耕を主とするが、商業を営む人も多く、エリート
層も多い[小川 1998:69、Murdock 1959:265-270]。
17
18 世紀後半、モロッコで創設された後、セネガルに伝えられた教団。地域ごとにいくつかの支部
教団があり、
支部ごとに活動の内容も信徒の民族構造も少しずつ異なっている[小川 1998:96-97]。
18
北部セネガル川流域一帯で農耕や漁業、牧畜などを営む民族[小川 1998:69、Murdock 1959:
414]。
19
セネガル独自の、しかも当初はウォロフ人という一つの民族社会を基盤にした教団でありながら、
急速な発展を遂げ、社会的に大きな影響力をもつ教団である。1886 年に、カディリーヤ派イスラー
ムの導師の息子として生まれたアーマド・バンバ(1850-1927)により生まれた。バンバの教えは、
現世での労働は来世での救済につながる、ということであった。ムリッド教団は、植民地政府と相
互補完的な関係にあり、独立後のセネガル政府はこの相互的な関係をそのまま受け継いでいる[小川
1998]。
20
BAYE-FALL。イスラーム神秘主義集団ムリッドの下位集団。バイファルは、ムリッド開祖のア
ーマド・バンバと彼に仕えたイブラ・ファールを信仰することで、断食も祈りもしなくて良い。バ
イファルは「歌って踊る托鉢僧」[田尻 1995]である。イスラームではあるが、バイファルの中に
は、酒を飲み、タバコ、ガンジャ(マリファナ)を吸うものもいる。バイファルの「バイ(BAYE)
」
はウォロフ語で「父」の意。女性のバイファルの事は「ヤイファル(YAYE-FALL)
」と呼ぶ。
「ヤイ」
は「母」の意。
21
在日アフリカ人ミュージシャンや現地に精通した日本人が主催し、在日アフリカ人ミュージシャ
ンの母国等でダンスや太鼓を学ぶツアー。ほとんどのツアーが、毎年 12 月から翌年 3 月位にかけて
おこなわれる。2 週間から 1 ヶ月間程度に渡り現地に滞在し、平日 5 日間はクラスを受講し、土日
はその土地の観光地を訪ねたり野外ダンスパーティに参加したりするというプランである。ツアー
代金は、食費、宿泊費、レッスン代を含み、地域や国等によって多少異なるが、2 週間で 15 万円か
ら 20 万円前後となっている。
これには、
日本と現地間の航空券代は含まれていない。
それを含むと、
合計でだいたい 40 万円から 50 万円近くかかることになる。だが、このツアーを利用し渡航する日
本人は少なくない。セネガル、ギニア、マリを対象にしたツアーだけでも、毎年約 10 件開催されて
いる。
22
ダンスや太鼓の講習会をワークショップと呼んでいる。
23
(souruba)セネガル南部カザマンス地方やガンビアを中心に演奏されている太鼓の総称。このソ
ールーバのダンスのワークショップを開講しているのは、日本国内で B のみである。
91
24
2007 年当時不定期であるが、A は年に数回程度関西地区でもワークショップをおこなっていた。
ここで言う成功者とは、音楽活動や教授活動のみで生計を立てている人達のことを指すことにす
る。
26
来日当初は配偶者ビザが多い。その後、永住ビザに切り替える者もいる。
27
日本人配偶者の職業は、会社員や教師などである。
25
引用参考文献・資料
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基盤研究
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ラッセル、ジョン・G 1991 『日本人の黒人観-問題は「ちびくろサンボ」だけではない』 新
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社会学と人類学からの接近』 藤田弘夫/吉原直樹編著 ミネルヴァ書房 pp.46-79
和崎春日編 2008 科学技術研究費『滞日アフリカ人の生活戦略と日本社会における多民族共生に
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財団法人 入国管理局協会 『在日外国人統計』 2001~2005
93
写真 1 屈曲姿勢
写真 2 ジェンベ(上面)
94
写真 2 ジェンベ(側面)
写真 3 ドゥンドゥンとケンケニ
95
写真 4 サバール(太鼓)
写真5 イベントの様子
96