セネガルは「修行の場」 ―セネガルのダンスや太鼓を求める日本人たち― 菅野 淑 “Hard Practice” in Senegal: Some Japanese Long for Senegalese Dance and Drum KANNO Shuku 要旨 本稿では、ダンスや太鼓の演奏技術を習得するためにセネガルへ渡航する日本人に注目する。少人 数による現地滞在型をとるこの旅は、マス・ツーリズムに対峙し得るものなのか。しかし、これもま た、現地文化の搾取、消費にすぎないのだろうか。現地でのフィールドワークを元に、日本人の愛好 者と彼らを受け入れる側との関係性を明らかにした上で、これらのトピックを検討していきたい。 Abstract In this paper, I focus on Japanese who goes to Senegal to master how to dance and play drum. I consider whether this trip like as th e tour which few peopl e are gathering and stay in the field could f ace up to “Mass-tourism” or not. However, I regard it as also merely exploits and consumes Senegalese culture. After describing the relationship between Japanese and Senegalese based on my research, I discuss these topics. キーワード マス・ツーリズム、文化の搾取・消費、舞踊、音楽、アフリカ はじめに 本稿では、日本からアフリカ、セネガル共和国にダンスや太鼓の技術習得を求めて渡航する人々に 注目する。彼らは、 「ワークショップ・ツアー」と称されるツアーに参加するか、個人で渡航する。 観光地としてのアフリカは、決してメジャーとは言えないだろう。大手旅行代理店の広告を見ても、 アフリカに関するツアーは数少ない。また、その料金も高額である。しかし、毎年セネガルを含むギ ニア共和国、マリ共和国などの西アフリカへのツアーは 10 件強催行されているのである。これらは、 名古屋大学大学院文学研究科 Nagoya University, Graduate School of Letters. 23 代理店を挟むことなく、個人が主体となり実施されている。フランスやアメリカなど欧米各地からも 同様のツアーが組まれており、その催行数は日本と比べ多いとみられる。中には、日本、アメリカ、 イタリアの三国にまたがって参加者を募り、催行されるものもある。参加人数は、10 名前後か多くて 20 名に満たない程度である。 こういった、少人数で現地に住み込み、人々と触れ合うといった旅は、従来「新植民地主義」[山下 1999:34]と批判されていたマス・ツーリズムに対峙するものと考えられてきた。これに対し、アジア でバックパッキングする日本人に注目した大野は、マス・ツーリズムに対するオルタナティブとされ た、少人数による現地滞在型の旅行も、現代ではマス・ツーリズムと同様に商品化されたものに変化 していると論じている。現地では、日本人バックパッカー側の欲求と、観光客として受け入れる現地 ホストの生活戦略という両者の思惑がある局面で一致しているという [大野 2007]。つまり、マス・ ツーリズムのように制度化され、プッシュ‐プル要因が明確な商品化された旅に変化したと考えられ る。 それでは、本稿において注目している日本人の現地渡航者の旅はどうだろうか。これもまた、少人 数による現地滞在型という形態のみをみれば、マス・ツーリズムに対峙するものと考えられるだろう。 しかし筆者(菅野)は、このツアーに参加する日本人の渡航者は切り取りされた現地の文化を搾取、 消費しているにすぎず、大野の言うバックパッキング同様にツアー自体もほぼ制度化された側面があ るという立場をとっている。ただし、それに加えて、日本人旅行者の中には現地文化への「憧れ」を もち、現地人との金銭を通じたやりとりや恋愛関係に身を投じる者もおり、また現地への再渡航の欲 求をもつ事例もある。彼らの営為からは、単なる一方通行の搾取や消費とは言い切れない一面がみえ てくるのも事実である。日本人旅行者とセネガル人の交流は、単純に権力構造の問題にのみ回収でき るものではないが、本稿ではこの点に留意しながら事例の記述と分析をおこないたい。 なお、第三国の国々における音楽や芸術や美術や工芸など、いわゆる民族芸術はいまや観光客向け に商品化され、貴重な文化資源として売られている[石森 1991:22]。文化の資源化を規定している 場として山下は、ミクロな日常実践の場とともに、国家と市場をあげている[山下 2007]。国家の文 化政策として文化資源が管理されており、また、商品として世界中で売買されている。セネガルにお いては、後に詳しく述べるが、 「伝統的」な太鼓やダンスが文化的大使として政府介入の元、舞台化 され新たに創り上げられていった。これは山下の論をとれば、文化の文化資源化の一形態と捉えられ るだろう。セネガルにおいて創造されたダンスや音楽が、文化資源として先述したツアーや個人によ る現地への渡航を生み出すきっかけとなっていっているのである。 本稿では、まず、ダンスや太鼓の技術を習得するためにセネガルへ渡航する日本人の愛好者に注目 24 し、現地での活動実態を報告する。また、現地で彼らを受け入れる側との関係性をも明らかにする。 その上で、文化資源と考えられる太鼓やダンスと絡み、現地渡航者らが「修行」と称するこれらのツ アーや滞在が、いかなる形で成立し催行されているか、またマス・ツーリズムに対峙し得るものなの かを明らかにしたい。 Ⅰ.調査地概要 調査地は、 セネガル共和国首都ダカールである。 セネガルの面積は、 197,161 平方キロメートルあり、 その広さは日本の約半分である。総人口は、1,270 万人(2008 年 UNFRA)である。民族グループの 割合は、ウォロフ 44%、プル 23%、セレール 15%で、その他の民族が続く。フランス語が公用語と なってはいるが、実際にはウォロフ語が実質的な共通語となっている[正木 2010]。宗教はイスラー ム教が 95%を占め、キリスト教が 5%であり、伝統的宗教が残りを占める。主要産業は、農業(落花 生、粟、綿花) 、漁業(まぐろ、かつお、えび、たこ)である。 アフリカ大陸の西の端、カップベール半島の先端に位置するダカールは、漁民のレブーの村から始 まり[阿毛 2010]、植民地時代に形成され、貿易港として発展した。西アフリカの参加諸国で使用で きる共通通貨を発行する、西アフリカ諸国中央銀行(Banque Centrale des Etats de l’Afrique de l’Ouest, BCEAO)の本店もあることからも、経済的な中心地ともいえる。また、音楽・芸術・文学といった、 文化の中心としても栄えてきた大都市である。ダカールの人口は現在、100 万人を越えており、国の 全人口の 8.3%以上[前掲書 2010:96]が暮らしているという。ダカールを中心に、その近郊には、欧米 からのバカンスとして訪れる観光客も多く、整備されたリゾート地もある。 日本とセネガルとの国家レベルでの関係をみると、1960 年の植民地政府から独立と共に日本はセネ ガルを承認し、1962 年には日本大使館が首都ダカールに開設された。日本からセネガルへは経済的援 助がおこなわれており、青年海外協力隊の派遣もおこなわれている。また、1995 年からは、3 ヶ月以 内滞在の邦人旅行者に対し、査証が免除されている。外務省によれば、両国の関係は、他のアフリカ 諸国に比べ、非常に緊密であるという。 Ⅱ.セネガルにおけるダンスと太鼓 セネガルを始めとした西アフリカにおいて、太鼓やダンスは日常生活に根付いており、結婚や割礼 などの人生儀礼、農耕儀礼等においてのみならず、娯楽などの機会にも頻繁にみられるもの[菅野 2009]である。現在世界的に広がりをみせているジェンベ Djembé , jenbem, jembe1は、セネガルやギニア 共和国、マリ共和国などを中心に演奏されている。また、サバール sabar2と呼ばれる太鼓の演奏とそ 25 れに伴うダンスは、セネガル独自のものとされている。また、セネガルにおいてジェンベは隣国のギ ニアやマリに近い内陸地域で演奏されていたものであり、サバールはより海沿いに近い民族が演奏し ていた、という説もある。 植民地支配から独立後、文化政策の一環として、セネガルには政府指導のもと、1961 年に国立舞踊 団 National Ballet troupe が創立された3。初代大統領レオポルド・サンゴール Lépold Sédar Senghor は、 舞踊を文化の大使的役割を担うものと位置づけた。サンゴールは、 「バレエ」をセネガルの文化大使 として奨励し、国内および世界の主要な劇場でパフォーマンスするよう命じたという。国立舞踊団は、 「アフリカ」を表象しているのである[ウシ 2006(2004) :22、Castaldi 2006:9]4。 現在では、国立舞踊団や他の舞踊団に属するダンサーは、その舞踊団でのステージ以外にも、セネ ガル人歌手の音楽ビデオクリップ(以下、クリップとする)に出演している。クリップは、一日に何 度も繰り返しテレビ放送されており、それらを一般家庭のセネガル人(テレビを見る環境にある人た ち)が目にする機会は多い。また、サバールやタマ tama5、ジェンベを演奏するドラマーにしても、 歌手の専属ドラマーになることもある。有名歌手の専属のダンサーやドラマーとなれば、知名度は上 がるとともに、定期的に仕事が入ってくる。こういった機会以外にも当然ながら、命名式や結婚式な ど多くの機会に「伝統的」なダンスや太鼓の演奏がおこなわれる際には、そこで演奏する。 Ⅲ.セネガルのダンスや太鼓を愛好する日本人の存在 先述したとおり、アフリカのダンスや太鼓で現在、世界的に人気を博しているのがジェンベである。 日本においても、それは同様であり、ジェンベを中心とした「アフリカン・ダンス6」の日本における 概要は、拙稿[菅野 2009、2010]に詳しい。これらを愛好する日本人は、近年、少しずつではあるが増 え始めている。ジェンベの演奏やダンスを学んでいる愛好者らは、その発祥とされている民族7が多く 住む、ギニアの演奏やダンスをお手本にすることが多い。しかし、在日するギニア人数よりも、セネ ガル人のダンサーやドラマーの数の方が多い。その一方で、来日公演やワークショップをおこなうダ ンサーやドラマー数は、ギニア人の方が多い傾向がある。 「ジェンベ=ギニア」との認識がある日本人の愛好者からは、 「セネガルといえば、サバール」と いう考えが定着しており、例えば筆者が「セネガル人にジェンベのダンスを習っている」というと、 「サバールじゃないの?」という反応が返ってくる。実際のところ、在日セネガル人のダンス・クラ スの内容をみると、ジェンベのダンスを教えている人が大半である。中には、それと平行し「サバー ル・ダンス」や「ソルバ souruba 8・ダンス」を教えているセネガル人もいるが、それは日本では 1 名 のみである。また、セネガル国立舞踊団やその他の舞踊団のステージを見ても、必ずジェンベの演奏 26 とダンスもおこなわれる9。しかし、日本人の愛好者からみると、セネガルのジェンベは「ジェンベ= ギニア」の枠内から外れており、 「周縁」として見なされているのである。だが、ジェンベの演奏や ダンスを始めたばかりの愛好者にとっては、セネガルやギニア、マリといった国による若干の違いを ほとんど気にかけず、どこの国の演奏やダンスであろうと、演奏すること、踊ることを楽しんでいる。 ジェンベの知名度は少しずつ日本国内で広まりつつあるようだが、セネガル独自とされているサバ ールに関しては、まだ低いといえるだろう。だが、愛好者の努力もあり、東京を中心に、富山、名古 屋、大阪でその輪がわずかだが広まりつつある。広まりにくい点としては、サバールの太鼓を演奏で きる人(日本人)がほとんどいない、ということが要因の一つと考えられる。 ジェンベにしても、サバールにしても、予め振り付けが決まったもの(コレオグラフ)を踊る時は 別として、太鼓のリズムに合わせそれに合ったステップを即興で踊る。まさに、ドラマーとダンサー のコミュニケーションが必要となる。これにはいくつか決まりごとがあり、ジェンベの場合は基本的 にドラマーの出す合図に合わせ、ダンサーが振り付けを変えていく。それに対し、サバールは、ダン サー側が出す合図に合わせ、ドラマーがリズムを変える。その合図は、知らない人からすれば、一連 の踊りの一部のように見える。しかし、それがなければ、太鼓の音とダンサーの動きとがかみ合った ものにはならないのである。ある愛好者は、そのかみ合った部分がサバールの「魅力」と語る。実践 者としても活動する筆者からしても、自身の動きと太鼓の音がかみ合った瞬間の気持ちよさは魅力的 だと感じる。 ジェンベの演奏やダンスを愛好する日本人から、サバールは「やってみたいけど、難しそうだから」 という語りを得る。実践者としての筆者は、ジェンベもサバールも踊る。どちらもポリリズムであり、 日本にはないリズムの取り方もあり、混乱するときもある。確かにジェンベに比べサバールは、一つ のリズム(曲)の中で叩かれている複数の複雑なリズム(旋律)のうち、どの太鼓の音を聞き、どの 音(リズム)に合わせて踊っていいかが難解な部分が多くあると感じる。実際、愛好者からも、 「 (サ バールは)どこで音(拍)とっていいか(乗っていいのか)わからん」という語りを聞く。こういっ た点も、サバールが広まりにくい要因なのかもしれない。しかし、そういった日本人にとっての「わ かりにくさ」も日本人の愛好者の努力によって、少しずつ理解しやすく解釈されてきている[菅野 2010]。 Ⅳ.セネガルに渡航する日本人 先述したように、日本人の渡航形態としては、 「ワークショップ・ツアー」 (以下、ツアー)への参 加と個人がある。これは、フランスの形態と類似している[RAOUT 2009]。ツアーは、日本の場合、 27 在日アフリカ人ミュージシャンや日本人が主催し、主に 12 月から翌年 3 月にかけ催行される。2 週間 から 1 ヶ月間程度、 日本人同士で共同生活を送りながらダンスや太鼓の演奏技術を集中的に習得する、 いわば「合宿」のようなものである。 これに対し、個人は、自身の伝手を頼りに現地へ渡り、自ら講師と交渉し、ダンスや太鼓の演奏を 習得するものである。ツアーにしろ、個人にしろ、渡航者はこの旅を「修行」と称すことが多くみら れる。 4-1.事例 1:日本人が主催するツアー 「T・ツアー2010」 ツアー参加費は 2 週間で 16 万円強であり、そこに航空券代は含まれない。含まれるものは、全 10 回のレッスン代、宿泊代、食事代、ガードマン代、お手伝い代、タンヌベール tànnibéer /tànnëbéer 10(発 表会)代、衣装代、移動代である11。他の類似ツアーと比べると、割安料金である12。担当講師は、セ ネガル国立舞踊団の現役であり、かつセネガルを代表する歌手ユッスー・ンドゥールの専属ダンサー を務めている人物である。レッスン会場は、国立劇場のステージや練習室などが利用されていた。2010 年度のツアーに参加した男女比は、1 対 13 で、圧倒的に女性が多かった。2008 年度の本ツアーには、 日本で人気を博している音楽グループのパフォーマーが参加しており、彼はその経験を元に、2010 年 にパフォーマンスの一部にサバールが組み込まれた舞台をおこなった。このツアーは、ジェンベやジ ェンベ・ダンスではなく、サバール・ダンスの習得のみに特化したものであり、他のツアーとは趣が 異なっている13。 このツアーでは、ダカール郊外に一軒家を借り、そこで共同生活をおこなっていた。他のツアーで も同様のようである。2010 年度は参加男性が 1 名だったため、彼は 1 人部屋だったが、他の女性は 2 ~5・6 名ずつ相部屋で生活していた。ツアーの朝食は、セネガル人一般家庭と同様で、バター付きパ ン(近所の店で毎朝購入)と、砂糖と粉ミルクたっぷり入ったコーヒー(ネスカフェのインスタント コーヒー) 。昼食と夕食は、食事の世話を依頼しているセネガル人女性が作るもので、昼食はパスタ 類が中心で、夕食はセネガル家庭料理が振舞われていた。 クラスへ向かう際は、大型車を借り、全員で中心地にある会場まで移動していた。宿泊先の近くに 住んでいるバレエ団所属のダンサーやドラマーは、この車に乗り込み、一緒に移動していた。 このツアーでは、参加者の発表会となる、タンヌベールも企画に含まれている。その際は、地元の テーラー(仕立て屋)に頼んでおいたお揃いの衣装に身を包み、コレオグラフ(講師が振り付けした もの)を全員で踊ったり、各自ソロ・ダンスを踊る。タンヌベールは封鎖した道が会場となるため、 28 事前に住民や友人に通知している上、日本人が踊るため多くの人々が集まってくる14。また、真夜中 にクラブ(ディスコティク)で開催されるソワレ(・セネガレーズ)soirée sénégalaise へ遊びに行くこと もある。ソワレはたいてい深夜 0 時すぎから始まり、朝方まで踊り続けるものである。日本人の愛好 者たちはセネガル人女性のキラキラした華やかな服装に負けないようにドレスアップし、会場へ向か う。 そして、 DJ タイムにフロアでかかる曲に合わせ軽く踊るだけではなく、 生の太鼓演奏タイムには、 セネガル人に負けまいとフロアに飛び出し、即興で踊る。その際は、不慣れな日本人の愛好者にとっ ては非常に速く、普段のクラスよりも格段に多い太鼓隊が叩き出す爆音のリズムに乗って踊らねばな らない。しかし、そういった場所で踊る度胸をつけることも、 「修行」の一つと考えられている。 このツアーへの参加特典といえば、何よりも現地のクリップに出演できることだろう。担当講師の 人脈により、現地の有名歌手のクリップに出演することができる。2010 年度の調査で、筆者は 2 度そ の撮影現場に居合わせ、1 度は少しだけだが出演する機会を得た。セネガルではクリップが頻繁にテ レビで流されている中で、特に日本人が現地のポップスに合わせ踊る姿は人々に強い印象を与えるよ うである。そのため、筆者も街中で、その歌手のビデオクリップには出演していないにも関わらず、 「 (有名歌手の)クリップに出演していただろう」と声をかけられたことが何度もある。あるツアー 参加者によれば、マルシェ(市場)で買い物をしていたところ、携帯電話に付属するカメラで写真を 撮られたこともあるという。参加者は、セネガルでちょっとした「スター気分」を味わえるようだ。 4-2.事例 2:個人で渡航する日本人の愛好者 個人的に渡航し直接講師と交渉し、 クラスを受講する日本人の愛好者の大半は、 かつて 1 度か 2 度、 ツアーに参加し現地経験があるものが多い。しかし、中には現地経験のある日本人か、日本に住むセ ネガル人の紹介を受けて初めて渡航するものもいる。個人とはいえ、単身のものもいれば、2・3 名の グループで訪れるものもいる。また、ツアーで参加した後、そのまま滞在期間を延長し、自分の好み のクラスを受けるものもいる。 個人で渡航している人々の現地での動きは、次の通りである。先述したようなジェンベやサバール のダンスや太鼓のみならず、それ以外のクラスも受講している。例えば、セネガルの現代ポップス(ン バラ mballax)に合わせて踊るダンス・クラスや、セネガル南部カザマンス地方やガンビア共和国で踊 られているダンス(ソルバ)のクラスを受講したりする。また、トーキングドラム(タマ)のクラス や、木琴(バラフォン balafone15) 、ハープ(コラ kora16)などのクラスを受講するものもいる。 各クラスの受講料は、講師の知名度や人気度(海外に拠点があるか/あったか、人気歌手の専属か、 など) 、値段交渉によって異なるが、ここでは筆者が受講したものをもとに述べる。個人の場合、他 29 のダンサー/ドラマーが講師のサポートとして参加することもあるが、講師と受講者のマンツーマン による教授が多い。 クラス 時間:料金 備考 ダンス(サバール) 2h:10,000CFA 講師 1 名。ドラマー2 名付き ダンス(ンバラ) 1h30:5,000CFA CD 利用。講師 2 名。 太鼓(サバール) 1h30:8,000CFA マンツーマン。 太鼓(タマ) 2h:12,000CFA、 マンツーマン。 1h30:9,000CFA (500CFA≒100 円) こういったクラス受講以外にも、長期滞在で時間的余裕があれば、地方都市や村落部へ小旅行に出 かけることもある。 宿泊先は、多くの場合、講師の自宅か、知人の紹介によるセネガル人家庭へのホームスティである。 中には、自ら部屋を探し、1 人暮らしをするものもいる。 Ⅴ.日本人の愛好者にとってのセネガルとは ここでは、ツアー参加者や個人渡航者の語りを元に、日本人の愛好者がセネガルでどのような体験 をしているか明らかにする。 ツアーに参加している人々のセネガル滞在は、2・3 週間、長くても 1 ヶ月間程度であり、ほぼ常に フランス語や現地語を理解した日本人と一緒である。また、日本人のグループで行動している上に、 付き添う数名のセネガル人によって安全面もある程度は確保されている。そのため、タンヌベールや ソワレへの参加で、深夜遅くに外出する場合でも、少なからず安心である。 初めて渡航した愛好者にとっては、事前に日本人講師や渡航経験者から見聞きしていた「憧れ」の 世界が広がっているため、その只中にいるという楽しさを味わうことができる。それは、 「非現実」 ともとれる世界であり、帰国後は「 (セネガル滞在は)夢のよう」だと懐かしむのである。言語的不 自由さやカルチャーショックを経験するが、日本人同士で日本語を使って会話できるため、精神的に 落ち込んでしまうことはさほど多くないようである。セネガルにいながら生活は日本人と一緒であり 17 、一歩屋外に出れば、 「憧れ」のセネガルの地が広がっている。セネガル人の知り合いも増える。そ のため、帰国直前には「もっとセネガルにいたい」 、帰国後には「楽しかった」 「また行きたい」とい 30 う感想が得られる。こういった短期滞在者の一連の経験は、非常に「限定」された現地体験だと考え られる。 こういったツアーではなく個人単位で渡航する場合は、日本人と接する機会があまりなくなる。言 語的不自由さやカルチャーショックを感じても、共通意識を持てる日本語話者が周囲におらず、スト レスを感じやすくなる18。単独行動が多くなり、グループ行動以上に安全面に気を使う必要性がでて くる。他にも、自身の対応次第で物事が動くため、セネガル人との意見の対立などといった新たな関 係性も出てくるようになる。また、滞在が長期化するにつれ、セネガルでの生活が「現実世界」 「日 常世界」となっていく感覚を愛好者たちは味わうようだ。しかし、日本の日常とは異なる、 「どっち つかずの」 「不思議な感覚」の世界だという。そして、ある長期滞在者が述べた「リアル・セネガル」 を経験していくことになる。 Ⅵ.「リアル・セネガル」体験 6-1.「マイマ ハリス攻撃」 こう述べたのは、ダンスの「修行」でセネガル入りした Y という女性である。2010 年、Y は、先 述したツアーのサポート・メンバーとして最初の数週間を過ごし、その後、個人的に滞在を延長して いた。Y にとってセネガルは 4 度目の滞在であり、フランス語はほとんど理解しないものの、ウォロ フ語はある程度の会話能力を備えている。Y が述べる「リアル・セネガル」とは、次のようなことであ る。愛好者らが名づけたセネガル人からの「マイマ ハリス(お金ちょうだい)攻撃」( 「おひねり」 を渡すこと)や、金銭の貸与、恋愛などといった個人的な付き合いによって生じてくる関係性のこと である。もちろんツアー滞在者も経験することではあるが、その度合いは低い。 「おひねり」を渡す 行為に関し Y はこれらを、 「アーティスト(ダンサー/ドラマー)とつながっていく上で、セネガル で生活していく上で必要なこと」と語る。 筆者もセネガルで調査中に何度かこの Y と共に、タンヌベールやソワレに行った。その際、Y は踊 ったダンサーやドラマーに「おひねり」を渡しており、筆者自身もそうしていた19。なぜなら、ダン サーが踊っている最中に筆者らの前に来て、お金ちょうだい、とでもいうようなポーズを取り、アピ ールするからだ。これに応えず、もし「おひねり」を渡さなければ、後から「お前のために踊ったの に、どうしてお金をくれない?」と詰問される場合もある。これはドラマーの場合も同様である。そ のダンサーやドラマーが知人であればなおさら、渡さなければ済まされない状況に追いやられる。Y は以前、日本人 1 人でソワレやタンヌベールに行っていた際は、その日の持ち金を全部持っていかれ たこともあったという。 「 (お金を 1 人で全員分渡さなければならないことや、持ち金がなくなり渡せ 31 ないと断ることが)しんどかった」と述べていた。だが、筆者や他の日本人と一緒であれば、事前に 相談し、誰がどのダンサー/ドラマーに「おひねり」を渡すか分担できるので「 (金銭的にも精神的 にも)楽だ」と Y は述べていた。 Y も筆者も、基本的に「おひねり」を渡す相手は、ダンサーやドラマーとして「食べていっている 人」 (生業としているもの)のみである。Y は、彼らが決して裕福ではないことを、個人的な付き合 いから知っているからそうしているという。 この「おひねり」を渡す行為に対して、アーティストではなく大学教育まで受けている、あるセネ ガル人女性は次のように述べた。 「なぜ、淑(筆者)は、あの人(踊ったダンサー)にお金を渡した の?」 。それに対し筆者は、 「あの人は、フェチカット(職業としてのダンサー)だからだよ。 」と答 えた。彼女は、それなら仕方がない、というような雰囲気ではあったが、 「あまりお金を渡すもので はない」と付け加えていた。 セネガルなど西アフリカ地域では、グリオ griot20に対し祝儀を渡す行為がみられる。社会的地位の 高い人物や経済的に豊かな人物は、自身を褒め称える歌を歌ったグリオに対し、与えるのが常となっ ている。タンヌベールやソワレを見ていても、有名人や歌手、人々を魅了する踊りや演奏をおこなっ たものには、セネガル人からも「おひねり」が渡される。その行為に便乗してか、多くのダンサーや ドラマーは、日本人から「おひねり」をもらうことを期待している。日本人はセネガル人からみて経 済的に豊かな人々と見られているがゆえに、 「マイマ ハリス攻撃」の対象になってしまうのである。 また、次のような事例もある。筆者が主催した「サバール ンゴーン」では、事前に筆者がダンス 講師に「おひねり」を渡す場面が作られていた。筆者は、講師に渡す金額を予め確認した。その講師 は、筆者が提示した「おひねり」の最低金額とされる 1,000CFA(約 200 円)では「よくない」と述べ た。具体的な金額が提示されることはなかったが、明らかにそれ以上を要求していた。そのため、筆 者は 5,000CFA を用意した。当日、イベントの途中で講師は会場にいた筆者を呼び寄せた。筆者が「お ひねり」を渡すと講師は、観客の前でマイクを通し、 「どうして私(=講師)にお金をくれるの?」 と尋ねた。この行為は事前の打ち合わせにはなく、筆者は困惑した。だが、 「あなたが私の先生だか らだよ。 」と返答した。渡した金額や回答は、その反応から推測する限り、ある程度、講師の満足す るものだったようだ。その日筆者は、タマ講師にも 5,000CFA を渡した(その金額と行為に対しても、 ダンスの講師は満足していたようだ) 。さらに、筆者の「サバール ンゴーンだから」と来場し、踊 りを披露してくれた知人ダンサー数名および演奏を担当したドラマーに 1,000CFA をそれぞれに渡し た。 筆者のような外国人がセネガル人ダンサー/ドラマーに「おひねり」を渡すという行為は、彼らに 32 とってある種の「権威付け」になると考えられる。それは、ダンスの講師がわざわざマイクパフォー マンスを交えてまで観客の前でおこなったことからも明らかといえる。外国人に教えている、外国人 にも称えられる人物ということがダンサー/ドラマーとしてアピールできる要素となっているのだ。 それに対し、日本人の愛好者にとっては、金銭がその関係性の大半を占めているとしても、踊りや演 奏の技術を学ぶためには、 「しんどく」はあっても必要な行為とみなしているのである。 6-2.恋愛関係 また、 「リアル・セネガル」には、セネガル人との恋愛関係も含まれてくる。セネガルに滞在して いると、恋愛を目的とし声を掛けられることがある。筆者も滞在中、近所の若者からタクシー運転手、 調査先のダンサーやドラマー、道行く物売りまで、様々な男性から求愛された経験がある。たいてい 「可愛い」や「美しい」という褒め言葉から始まり、すぐに「結婚」という言葉が出てくる。筆者も 当初はその対応に苦慮したが、いくつかの決まり文句を返せば、たいていの場合別の会話へ移行でき るようになった。こういった「口説き」は、外国人との会話の糸口を掴むためのものではないかと筆 者は考えている。しかし、中には、より積極的なアプローチを試みるものいる。ある日本人の女性は、 講師のアシスタントからしつこく声を掛けられ、その講師までもがその援護に回ってしまい困惑し、 最終的にはレッスンに行かなくなってしまったという。 もちろん、そういった積極的なアプローチに応える愛好者もいる。特に、レッスンをサポートして いるダンサーやドラマーなどとは滞在中に頻繁に接することもあり、恋愛関係に発展する場合がみら れる。そうなれば、個人単位であっても真夜中のイベントにも行きやすくなり、誰某の交際相手とし て周囲に認識されれば他からアプローチを受けることもほとんどなくなる。しかし、交際相手となれ ば、 「マイマ ハリス攻撃」の恰好の対象となりがちである。何がないからお金を貸してくれ、一緒 にイベントに来たのだから入場料は出してくれ、お母さんが病気だから診察料をくれ、などと様々な 形で金銭を要求されるようになる。また、自身以外にセネガル人の交際相手や配偶者、子供がいる場 合も少なくない。中には、交際相手の「2 番目の妻」として婚姻関係を結ぼうとまで考えた人もいる。 その人は自身が支払った金銭が、 「1 番目の妻」とその子供の生活費になっていることも認識しており、 複雑な感情を抱いていたという。 セネガル人からすれば外国人と交際していることはこれもまた、ある種の「権威付け」にもなりう るし、交際することが足がかりとなり海外へ働きに出られる可能性も秘めている。実際に、在日アフ リカ人ミュージシャンの中には、現地へ渡航した日本人と結婚したことをきっかけに来日したケース がみられる[菅野 2008]。日本人の愛好者にとっては、セネガル人と交際することで現地での行動の 33 幅が広がるとともに、個人で滞在している場合はその存在が少なからず精神的な支えとなることもあ るだろう。また、この場合でも「セネガル人と交際している」ということが、ある種の「権威付け」 になることもある。しかし金銭の貸与や他の配偶者の存在が与える精神的な影響もある。 先述した Y との会話の中で、ツアー参加者は、過去に Y などが築き上げてきた関係性に便乗する だけだから楽な部分がある、という語りが得られた。確かに、ツアー参加者は主催者側の設定したプ ランに則って行動する、いわば受動的な立場である。だが、ツアー料金にはそういった仲介料も含ま れている。Y のように何度も現地に足を運ぶ日本人の愛好者にとって、楽しいだけではない「リアル・ セネガル」の経験が、セネガル人との関係性を構築していくための通過儀礼のひとつとなっているの である。 Ⅶ. 「文化大使的役割」のダンスと太鼓 日本人の愛好者の渡航の目的の核は、繰り返しになるが、ダンスや太鼓の演奏技術を習得するため である。そのため、ダンスや太鼓に関連した部分以外の文化や社会、人々などと接する機会が少ない、 ということが考えられる。もちろん、長期間滞在するものは、クラスの受講予定を分散し、時間的余 裕を作り、セネガル家庭料理を習ったり、ダンサー/ドラマーではない友人と出掛けたり、モスクを 訪れたりする。しかし、それでも彼らにとってセネガルとは「ダンスや太鼓ありき」の社会なのであ り、 「修行の場」なのである。 筆者の知人のセネガル人の中には、国立舞踊団のトップダンサーが誰かなど知らないというものも いれば、ソワレやタンヌベールに出掛けないものもいる。もちろん、彼らが太鼓の音や音楽を好まな いからではない。彼らも、例えば自身の民族の「伝統的」な音楽が鳴れば踊りだすし、太鼓を叩く真 似事もする。筆者が居候している一般家庭の人々21は、筆者がほぼ毎日、何らかのレッスンのために 朝から晩まで外出し、頻繁にソワレやタンヌベールに出向くことに呆れていた。そして「それ以外(の セネガル社会や文化)もみなさい」と筆者に助言した。 太鼓を習得するためにギニアに渡る欧米人をツーリズムの観点から研究した RAOUT によると、そ こでも類似した現状だという。ギニアにも毎年欧米諸国や日本から非常に多くの人々がジェンベやダ ンスを習いに行く。愛好者にとっては非常に著名であるママディ・ケイタ Mamady Keita22やファマド ゥ・コナテ Famadou Konaté23でさえも、ギニアの一般社会では無名に近いという。ギニアのエリート 達は、ときおりジェンベなどがギニア文化の最もステレオタイプ化された様相のようにみなされてい ることに国際的な関心が集まっていることを残念に感じているという[RAOUT 2009:196 ]。 第 2 章で述べたように、サンゴールは舞踊を、文化大使的役割を担うものと位置づけたが、独立か 34 ら 60 年経ち、その役割は少なからず機能してきているのではないだろうか。欧米諸国や日本の限ら れた人々ではあるが、ダンスや太鼓といった「伝統文化」に魅了され、それを目当てにわざわざ現地 を訪れているのである。日本から当地への距離は欧米諸国からのそれと比べはるかに遠方であり、決 して気軽に行ける地域ではない。そのため、日本人の愛好者の中には、一大決心で仕事を辞め渡航す るものもいる。また、スナックなどで働いたり、借金したりとそれぞれの方法で高い航空券代と滞在 費を支払っている。 ダンスや太鼓以外のセネガル文化、社会に接する機会がなかなかないツアーや滞在ではあるが、日 本人の愛好者にとっては、それが目的である。そのために貯金し高額支払う「修行」なのだから、そ れ以外を学ぶ必要を感じないのかもしれない。だが、日本人の愛好者らが筆者に「もっとセネガルの ことを教えてほしい」と述べることからも、それ以外の文化や社会に少なからず興味はあると考えら れる。 Ⅷ.おわりに これまで、セネガルのダンスや太鼓に魅了され、現地へ「修行の旅」に出かける日本人に注目し、 当地での活動実態を述べた。日本人の愛好者にとって現地は、 「憧れ」の世界であり、そこに行けば 「本物」に出会えるところである。日本で必死に働き休暇を得、旅立つ。そして現地でダンスや太鼓、 その他のものにお金を費やす。現地の人々との触れ合いも多分にあるが、それは限られた範囲である。 たとえ楽しいだけではない「リアル・セネガル」を経験したとしても、帰国後も「また行きたい」場 所であり、 「憧れ」の世界に変わりはないのである。それに対し、受け入れるセネガル人側は、ダン サー/ドラマーであれば、外国人の生徒や知人がいることで、一種の「権威付け」ができるという利 点がみられる。さらに、一緒にソワレやタンヌベールに出かければ、おひねりをもらい、小金を稼ぐ こともできる。また、日本人との恋愛関係が成立すれば、海外で働くための足がかりとなる可能性も 出てくる。 以上のことから、日本人とセネガル人のダンサー/ドラマーの関係をみると、双方の期待が合致し ていると考えられるだろう。しかし、こういった関係性は本稿の事例から、ダンスや太鼓を媒介とし た人々の間が中心であり、偏った事象であるといえるだろう。このような「ダンス、太鼓ありき」と みられていることに対して、一般のセネガル人からすれば、それらのみならず、それ以外のセネガル 文化や社会をも見てもらいたいという意識があるということが明らかになっている。 本稿で述べたような「ワークショップ・ツアー」および個人的な滞在は、多分に現地の人々と交流 を持つことからも、マス・ツーリズムに対峙するものとも考えられるだろう。セネガルにおいても音 35 楽やダンスという民族芸術は海外から人を呼び寄せるツールになっていることは先述した。これらを 求めて、一部の限られた人々がダンスや太鼓といった一部の文化を学ぶ目的で渡航する。そして、受 け入れる一部の人々もその利点を得ている。範囲が限られている事象ではあるが、それが次第に形式 化していき、 「修行」と称されるツアーや滞在が成立、催行されているのである。 一見すれば、こういった形態は従来通りの一方的な消費や搾取とも考えられる。しかし、その内情 を追っていくと、日本人とセネガル人との個々人のやり取りの中で、双方それぞれに利点があり、ま た、恋愛や金銭などそれぞれの思惑が絡んだ事象が生起している。これらは瑣末なことにすぎないの だろうか。それらが、マクロな権力構造に対してどのような作用をおよぼし得るのか/得ないのか、 それをどう解釈すべきなのか、今後も注視していきたいと考える。 日本人の愛好者らにとって「現地に行った」という経験が帰国後、新たなステータスになる。愛好 者からすれば、彼らは「本物」に接してきたからである。帰国者は現地で体験してきたことを他の愛 好者に語り、 「憧れの地」の魅力は更に伝えられて行くのである。 1 ジャンベやジンベとも呼ばれる。特に日本ではジャンベと呼ばれることが多いが、これは間違いで ある。鈴木によると、 「ママディ・ケイタの映画の原題“Djanbéfola”をカタカナに翻訳する際に、an [εn] をフランス語風に「エン」とせず、英語風に『アン』として『ジャンベフォラ』と間違って表記した ものが、そのまま普及したものと考えられる」[鈴木 2008:67]。また、ジンベは地域による呼称で あるという。硬い木をワイングラスのようにくり抜き、片面にヤギの皮を張ったもので、素手で叩く。 2 硬い木をくり抜き、片面にヤギの皮を張ったもの。利き手に持った細長いバチと、もう一方の素手 とを合わせ、音を叩き出す。 3 ギニアやマリとは異なり、セネガル政府がポピュラー音楽に介入することはなく、自由に音楽が育 ってきたという[各務 2010]。 4 詳細は、拙稿[菅野 2009、2010]を参照。 5 世界最小の太鼓とされるトーキングドラム。砂時計のようにくり抜かれた木の両面にトカゲの皮を 張り、その双方に紐を幾重にも通したもの。太鼓を小脇に挟み、脇で紐を締めたり緩めたりしながら、 カーブを描いた小さなバチと素手で音を叩き出す。 6 ジェンベの演奏に伴って踊られるダンスは日本において、 「アフリカン・ダンス」と称されることが 多い。それが先行しているためか、それ以外のダンス-例えば、セネガルのサバールやエチオピア、 ケニアなどのもの-は、 「サバール・ダンス」や「エチオピアン・ダンス」などと称されることが多 い。 7 ジェンベ発祥の起源には諸説あり明確ではないが、マンデ族の鍛冶屋が創り出したという説が有力 である。鍛冶屋がジェンベのボディを削り、しばしばそれを演奏するものだったという[Charry 2000:213]。 8 セネガル南部カザマンス地方やガンビアを中心に演奏されている太鼓の総称。 9 セネガルのバレエ団では、ジェンベ・ダンスのことを「バレエ」と称していた。 10 タンヌベールは、セネガルでおこなわれる野外ダンスパーティのことである。街の一画で夜 10 時 頃から始まる女性のイベントであり、地元警察の許可を得て開催される。演奏されるリズムには、一 連の決まりがある[Tang 2007] 。 11 レッスン以外にも、希望者を募りでゴレ島へ観光に行ったり、ムリッド教団の聖地であるトゥーバ に出かけたりするが、それは別料金である。 36 12 他のツアーの平均は 2 週間で 20 万円前後である。 セネガルへのツアーはたいてい、ジェンベとジェンベ・ダンスに特化したもので、サバールやサバ ール・ダンスのクラスはオプションとなることが多い。それだけ日本国内でのサバールの知名度が低 いともいえるだろう。 14 筆者もタンヌベールではないが、夕刻から始まり警察の許可のいらない「サバール ンゴーン sabar ngoon」を開催した。開催の規模により料金は異なるが、筆者の場合は、合計日本円で約 2 万円程度 だった。この際も、事前の口コミ等により、かなりの人数が集まった。 15 木の枠台に木板の鍵盤がとりつけられ、その下に木板の音高に応じて大きさの異なるひょうたんの 共鳴体がつり下げられている[ンケティア 1989:89]。 16 ハープ・リュート。ネックはほとんどまっすぐであるが、弦が一様にネックに対して平行に張られ ているのではなく、垂直に立てた刻み目のあるブリッジによってそれぞれネックの両側へ渡されてい る。ブリッジの刻み目は弦の数だけあり、弦を共鳴胴へわたす際に、その刻み目によって一本ずつ持 ち上げる[ンケティア 1989:110]。コラは、セネガンビアやギニアに見られる 21 弦のものである。 胴はヒョウタンでできている。 17 セネガルに限らず、ギニアやマリへの類似したツアーに参加したもの同士の仲は親密である。たと え、それが日本では遠方に住んでいるもの同士だとしても、その絆は強くみえる。 「あの濃い時間を 共に過ごした仲から」と愛好者同士は語る。 18 初めてのセネガル滞在(1 ヶ月間)だったというある愛好者は、フランス語をほとんど理解しなか ったため、英語会話能力のある人(セネガル人および欧米人)と会うと色々な会話ができ良かった、 と述べていた。 19 セネガルの場合、ダンサーやドラマーにおひねりをあげる際は、お札を口にくわえさせる形式が見 られる。 20 「起源は 12 世紀~13 世紀ごろに遡り、かつては王侯貴族が抱える専属の語り部であった。彼らは ひとつの職業的階層(カースト)を形成していた。グリオは王家の系譜や来歴を記憶する歴史家であ り、楽器を演奏する音楽家であり、詩人でもあった。…現代の共和国で、主人を失ったグリオは歴史 家よりも、音楽家として伝統を継承することになる。 」[白石 1993:157]。 21 クリスチャンの家庭。両親は既に退職しており、子供達もそれぞれ独立し家庭を築いている。子供 達は高学歴であり、高校教師や薬剤師などといった職に就いている。子供のうち1名は現在フランス に在住である。セネガルの水準の中では、裕福な家庭といえる。 22 1950 年ギニア北東ワソロン地方生まれのジェンベ奏者。現在は、アメリカのサンディエゴに拠点を 移し、ヨーロッパ、アジア、アフリカを行き来しながら、世界各地でジェンベの普及活動をしている [ウシ 2006(2004):18-20]。彼の 26 年ぶりの帰郷を描いたルポルタージュ映画『ジャンベフォラ:聖 なる帰郷』は、世界的な成功を収めた[前掲書:20、鈴木 2008]。 23 1940 年、ギニア・ハマナ地方にあるサンバララ村近郊生まれのジェンベ奏者。1959 年~1985 年ま で、ギニア国立舞踊団でリード・ジェンベのソリストを務める。1986 年より、ヨーロッパ、日本、イ スラエル、北アメリカでジェンベの普及活動をおこなっている[Famadou Konaté 公式ホームページより 引用]。 ママディ・ケイタもファマドゥ・コナテも CD やジェンベの教則本を出版しており、それを片手に ジェンベの叩き方やリズムを学ぶ日本人の愛好者は少なくない。また、彼らの CD をそのままコピー して演奏する日本人の愛好者グループも多い。 13 引用文献 阿毛香絵 2010 「首都ダカールの生成と発展の諸相 変わりゆく都市を『カーラピット』でゆく」 『エリア・スタディーズ 78 セネガルとカーボベルデを知るための 60 章』 小川了編 明石書店 37 pp.96-103 石森秀三 1991 「観光革命と二〇世紀」 『二〇世紀における諸民族文化の伝統と変容 3 観光の 二〇世紀』 石森秀三編 ドメス出版 pp.11-26 ウシ、ビルマイヤー 2006[2004] 『ママディ・ケイタ ジェンベに生きる マリンケの伝統リズム 付録 CD 付き』 四元章子訳 楽譜出版ケイ・エム・ピー (Mamady Keïta Ein Leben für die Djembé Traditionelle Rhythmen der Malinké Mit Begleit-CD, Arun Verlag) 大野哲也 2007 「商品化される『冒険』-アジアにおける日本人バックパッカーの『自分探し』の 旅という経験-」 『社会学評論 Vol.58, No.3』 日本社会学会 pp.268-285 各務美紀 2010 「アフリカ・ポピュラー音楽の宝庫——伝統音楽からユッスー・ンドゥール、PBS、 ダーラ J まで」 『エリア・スタディーズ 78 セネガルとカーボベルデを知るための 60 章』 小 川了編 明石書店 pp.179-183 菅野淑 2008 「在日セネガル人と日本人愛好者による『アフリカ舞踊音楽』活動の事例報告」 和 崎春日代表 科学技術研究費『滞日アフリカ人の生活戦略と日本社会における多民族共生に関する 都市人類学的研究』基盤研究(A)研究番号:19202029 報告書 pp.83-96 2009 「在日アフリカ人ミュージシャンの生き抜く術-在日セネガル人ミュージシャンの事 例から-」 『比較人文学年報 6』 名古屋大学大学院文学研究科比較人文学研究室 pp.77-96 2010 「日本における『アフリカン・ダンス』 」 『比較人文学年報 7』 名古屋大学大学院 文学研究科比較人文学研究室 pp.101-115 白石顕二 1993 『アフリカ音楽の想像力』 勁草書房 鈴木裕之 2008 「日本に生きるアフリカ人ミュージシャン」 和崎春日代表 科学技術研究費『滞 日アフリカ人の生活戦略と日本社会における多民族共生に関する都市人類学的研究』基盤研究(A) 研究番号:19202029 報告書 pp.61-82 正木響 2010 「セネガルの通貨の成り立ちと現在 通貨の安定とフレキシビリティーの間で」 『エ リア・スタディーズ 78 セネガルとカーボベルデを知るための 60 章』 小川了編 明石書店 pp.77-82 山下晋司 1999 『バリ観光人類学のレッスン』 東京大学出版会 ンケティア、クヮベナ 1989 『アフリカ音楽』 龍村あや子訳 晶文社 Castaldi, Francesca, 2006 Choreographies of African Identities Négr itude, Dance, and the National Ballet of Senegal, University of Illinois Press Urbana and Chicago. Charry, Eric, 2000 Mande Music: Traditional and Modern Music of the Maninka and Mandinka of Western Africa 38 (Chicago Studies in Ethnomusicology), University of Chicago. Raout, Julien 2009 Au rythme du tourisme -- le monde transnational de la percussion guinéenne (Tourismes -La quête de soi par la pratique des autres -- Circulations artistiques transnationales), Cahiers d'études africaines 49(1/2), p. 175-201 Tang, Patricia, 2007 Master of the Sabar, Wolof Griot Percussionists of Senegal, Temple University Press. 外務省ホームページ セネガル共和国 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senegal/data.html (2010 年 11 月 28 日取得) Tangana jer ホームページ http://tanganajer.com/ (2010 年 11 月 28 日取得) Famadou Konaté ホームページ http://www.famoudoukonate.com/ (2010 年 11 月 28 日取得) 39 40
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