大原美術館 - 大阪キリスト教学院 大阪キリスト教短期大学

大 阪 キ リ ス ト 教 学 院
後
援
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第8号(2006 年7月)
大阪キリスト教学院後援会オリ-ブツア-
大原美術館
倉敷散策同行記
レポ-タ-
宇崎
幸子
去る 2004 年の大塚国際美術館巡りとこの度倉敷の大原美術館巡りに多
数の方々がご参加下さいまして感謝いたします。天候に恵まれ、文化遺産
に触れ、豊かな感性を得たことを感謝致します。
大塚国際美術館は初期キリスト教時代から始まり、中世から近代美術と
壮大なスケ-ルで一覧するにも時間が足りずその流れを辿るのみでしたが、
大原美術館は比較的 1880 年代以降近代の作品で余裕がありました。キリ
スト教美術は歴史的にはロ-マ帝国の東西分離に続き5世紀末には西側のカトリック教会と東の東方
教会に分かれました。6 世紀頃礼拝図像が現われ、イエスやマリヤ像を礼拝することによって奇跡の起
こることを期待したのでした。イコン崇拝といっています。16 世紀後半にマルティン・ルタ-(1517)
やカルウ゛ァンによって宗教改革が起こり礼拝図像の排除が提起されました。プロテスタントでは会堂
の壁画や装飾などは排除されましたが、その反動でしょうか、他の宗派で 16 世紀~17世紀には豪華
絢爛のバロック様式の教会美術が開花します。
さて話はもとに戻りまして、キリスト教美術は紀元 1000 年頃から各地で木造の会堂から石造建築
になりロマネスク様式の立派な修道院や教会が建設されました。内部の壁面は中世から初期ルネッサン
スの絵画はモザイックやステンドグラスを除けばほとんどフレスコ画で明るく淡い色調ですがやがて 5
世紀後半頃から油絵に移行します。
キリスト教美術の中で受胎告知は多くの画家が描きました。今回はエル・グレコの絵に出会いました。
緊張感溢れる絵に多くの人が感動し憧れます。そういえばビカソはエル・グレコに感動し、崇拝してい
たのです。ピカソの初期青の時代などはエル・グレコにそっくりです。エル・グレコのエネルギ-溢れ
る動的人物・構図に魅せられます。このように人を魅了するものは何なのか。或る美学者はその価値を
「凝縮されたエネルギ-」と言っています。お茶漬けさらさらを好む日本人の体質では及ばぬところで
しょうか。しかし、隣の棟に展示されている棟方志功は仏教文化ながらあっぱれ劣らぬものがあります。
また小出楢重氏、などにも共通するものがあります。そのようなもの
と対照的になごやかな絵にも出会いました。セガンティ-ニの「アル
プスの真昼」それは癒しと言いますか。心なごむものです。また現代
絵画のホアン・ミロの自由な絵は浮遊生物のダンスににも似た開放感
を与えてくれます。このような美的価値、良さは多様であって、多様
な価値は受け取る側の感受性に託されています。
2006年6月3日
参加者65名
ところで本館の2階小部屋に入ったところにレオン・フレデリック・1893「万有は死に帰すされど
神の愛は万有をして蘇らしめた」と大画面に裸体の群像がありました。中心より左の人々は希望のない
人々で右半分はキリストに守られ喜びに満ちた人々の群像です。
さて、私達人生を終えた時、どちらの世界に行きますか。?絵はこのようなメッセ-ジを見る人に問い
かけています。メッセ-ジを受け取ることも感性でしょうか。この絵からみ言葉が伝わってくるように
思えるのでした。
「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたよう
に、一人の正しい行為によってすべての人が義とされて命を得ることに
なったのです。(ロ-マ書 5:8)」
いろいろなことを思わせられる旅でした。
[大原美術館の誕生]
それはこの人。石井十次との出逢いから始まったと言って良いのではないか?
石井十次は孤児救済・社会福祉事業に生涯を捧げたキリスト者である。彼の開いた孤児院は、多いとき
にはその数、千二百人にも及んだという。その石井が催した孤児施設の献金アッピール集会にたまたま
出席した大原孫三郎は孤児院の様子を示した幻灯と石井のメッセージに深く心を動かされ即座に財布
の中身をすべて捧げたと伝えられる。それだけでなく、石井の生き方に痛く感動した彼はその後の自分
自身の人生までも変えてしまうのである。
すでに倉敷紡績の責任者として彼は画期的な労働慣習を導入し、会社を大きくしていた大原だが、さ
らに労働・社会問題研究所や農業研究所に私財を投じるのみならず、多くの若者たちに奨学金を出して
有為な人材を育て続けることとなる。
そのような若者の中に児島虎二郎がいる。児島は西欧で学ぶだけでなく、後学のためにと印象派をは
じめとして多数の絵を収集する希望を持っていた。大原は児島の求めるままにお金を送金し続けた。こ
うしてエル・グレコ、モネ等の貴重な絵が蒐集されたのである。
帰国後、児島は石井十次の長女、友と結婚する。その後も渡欧を繰り返し蒐集を続けるが47歳で死
去。児島の蒐集した絵を展示するための美術館が必要だ!
そう感じた大原は当時、民間の美術館など
経営的に成り立つはずもなく多くの人たちの反対にも関わらずその計画に、ゴーサインを出すのであ
る。
ここに日本で最初の私設美術館が誕生したのである。昭和5年のことであった。
さて、あまり言及されない事実であるが、大原孫三郎は現在の日本基督教団「倉敷」教会の創設会員
の一人であることは心にとめておきたい。
〔KS〕