2007連合群馬平和行動

2007連合群馬平和行動
感想文集
広島
原爆の子の像
と
その下に捧げられた折鶴
連合群馬
平和行動広島親子派遣団
参加者名簿
参加者
№
20名(8家族18名)
氏
なかがわ
名
ぶんぞう
1
3
4
5
なかがわ
りょうすけ
い し だ
ひろ たか
い し だ
ゆう き
せきぐち
のぶ ひ さ
せきぐち
まい な
はましま
めぐみ
はましま
かれん
椋介
自動車総連
石田 浩孝
石田 祐輝
自治労
関口 信久
関口 舞菜
浜島
電機連合
恵
浜島 可蓮
たかはし
み
か
たかはし
り
な
電機連合
高橋 美香
高橋 里菜
よ し だ
6
え
中川 智絵
中川
2
ち
ゆういち
電機連合
吉田 裕一
よ し だ
ゆ
り
な
吉田 友里菜
た ぐ ち
ま さ こ
た ぐ ち
かず み
た ぐ ち
ひろ み
たまがわ
たけし
たまがわ
なお と
あ ら い
さとし
たかはし
み
JPU(現JP労組)
田口 正子
7
属
自動車総連
中川 文藏
なかがわ
所
田口 和位
田口 裕望
8
玉川
電力総連
猛
玉川 直登
新井
連合群馬
智
さ
え
高橋 美佐枝
*
連合群馬
パンフレットに記載されている名簿は、2007広島親子平和行動の目的以外で利用しないようお願いいたします。
2007年4月28日∼30日
連合群馬 広島親子派遣団に参加して
自動車総連/富士重工業労働組合
中川 文藏
過去の悲惨な出来事に触れ、あやまちを繰り返す愚かさを知る
何度か訪れた事のある広島。連合の平和行動inヒロシマにも、すでに数回参加してい
ますが・・・今回の親子派遣団は、違った意味で新鮮な発見がありました。その理由は、
何と言っても子どもたちと参加したことにありました。
親子派遣団への参加の話を自宅に持ち帰った時、子
どもたちにしてみると、ふだん忙しくしていて、ちっ
とも家に居ない父親と出かける単なる旅行のつもり
でいたようです。しかし、当日を迎え、何となく様子
が違う事に気付き、
「平和行動ってなに?」
「原爆が投
下されたってどう言うこと?」「被爆ってどんな病
気?」と言った具合に、多くの疑問と関心が高まって
いきます。
中学1年生のお姉ちゃんの方は、さすがに小学校の
社会で習っていたようで、詳しいことまで記憶してい
ないまでも、何となく「戦争の悲惨さ」
「平和の尊さ」
について、頭では理解していたようでした。しかし、
小学校1年生の弟の方は、「何でお家が壊れている
の?」「どうしてみんな死んじゃったの?」といった
具合に、全く事態が飲み込めていない様子でした。
私自身も、連合の平和行動を通じ、沖縄の本土決戦、
広島平和祈念公園へ向かう一行
広島・長崎への原爆投下など、日本が終戦を迎えるま
での悲惨な歴史的な事実を何度か目の当たりにしていますが、決してその事実を詳細に理
解し、記憶できているわけではありません・・・ただ、自分の子どもたちに話して聞かせ
るぐらいの知識は持ち合わせているつもりでしたから、とりあえず行きの道中、子どもた
ちに歴史的な出来事や連合の平和行動について一通り話して聞かせてみたわけです。
数年ぶりに訪れた広島平和公園、参加団の皆さんと折鶴を献納し、子どもたちと共に原
爆の子の像や原爆ドーム、平和祈念資料館など見学して回りました。やはりそこには、悲
惨な歴史上の事実が、決して繰り返してはならない人類が犯した罪が、無言のまま重くた
たずんでいました。さすがに子どもたちも、その事実を目の当たりにして、自分たちなり
に何かを感じた様子でした。
そして私自身も、今までにない感覚を覚えました・・・もし広島に原爆が投下された時
代に、この広島に自分が生きていたら、いったいどうなっていたのだろうか? 自分の目
の前にいる二人の子どもたちを親として守り抜くことが出来たのだろうか? 一人で訪れ
た時には感じられなかった新鮮な感覚でした。
核兵器の廃絶、恒久平和への思い、戦争反対・・・たぶんいつの時代にも、その思いを
強く抱き、果敢に大衆と向き合ってきた運動家の人たちがたくさんいました。もちろん連
合や産別・単組が平和運動に取り組む意義も、多くの人々が平和を願い、核兵器や戦争の
ない安心して暮らせる世界を築く事に他なりません。社会的な運動として、多くの人たち
がかかわりを持って、より強い力で行動のうねりを起こしていく事はとても大切なことで
すし、私も機会ある毎に参加したいと思っています。
- 1 -
しかし、今回の親子派遣団に参加して、過去の悲惨な出来事に触れ、人類があやまちを
繰り返す愚かさを再認識すると共に、もう一つ心に留めたことがありました。それは、
「戦
争がおきなければいいな・・・」「核兵器なんか無くなればいいな・・・」「いつまでも平
和に暮らせればいいな・・・」ではなくて、「戦争は絶対におこさない!」「核兵器の保有
は絶対に許さない」
「平和に暮らせるように自らできる事に取り組もう」というように、他
力本願ではなく、自ら望み、行動することが大切であるということです。
平和への行動は、何も広島や長崎まで出向かなくても、日常の生活の中で出来る。日頃
から、もっともっと子どもたちと、戦争や核兵器について、平和の尊さについて、自宅で
話をしようと思いました。実体験に基づく語り部の方々のお話には、何とも言えない説得
力があります。しかし、いずれその方々も時代と共に世代を終えられるわけであり、だか
らこそ、私たち親が子どもたちに語り継いでいかなければならないのだと感じました。
自宅に帰ってから小学1年生の息子が一言、
「広島の人たち、かわいそうだね」この言葉
を聴いて、彼にとってもすばらしい体験だったと実感したところです。ありがとうござい
ました。
中学1年 中川智絵
4月28日。私は、初めて広島に行きました。
もう、広島に着いた時にはくたくたでした。でも、平和公園に着いたときに、原爆ドー
ムが見えて、『あれが原爆ドームかぁ∼早く見たいなぁ∼』と、ワクワクしました。
そして、平和公園の中心あたりに、原爆死
没者慰霊碑があって碑には、「安らかに眠っ
て下さい 過ちは 繰返しませぬから」と書
いてありました。私はそれを見たとき、少し
悲しくなりました。
その後、千羽鶴を献納しました。そこには、
たくさん千羽鶴がありました。
その場所で、千羽鶴にだれかが火を付けた
と言う話をおじさん(知らない人)が話して
くれました。それから、原爆ドームに行きま
した。教科書で見たときよりも気持ちが伝わ
原爆の子の像の下へ折鶴献納
ってきました。
29日。実際に被爆を体験した坪井さんの話を聞きました。
坪井さんが、20歳のときに広島に原爆が投下されたそうです。坪井さんはなんとか死な
ずにすんだけど、体は火傷だらけだったそうです。坪井さんは、辛い出来事を一生懸命話
してくれました。
坪井さんの話を聞いた後、「広島平和祈念資料館」に行きました。
資料館には、どの辺に原爆が投下されたかが分かる模型がありました。また、爆破した
時に着ていた服や、その時持っていたお弁当や水筒など、当時のものがそのままに展示さ
れていました。戦争の時、そこにいなくても、戦争がどんなものなのかが良く分りました。
もう、戦争はおきてほしくない。多くの人をぎせいにしたくないと思いました。今回平
和行動に参加できて本当によかったです。
- 2 -
自動車総連/富士重工労組
石田浩孝
毎年 8 月になるとテレビで広島や長崎の原爆慰霊祭の映像を見ます。被爆者をはじめ
内外から数多くの人々が参列し厳粛に行なわれ、市民の平和への願いを込めた「平和宣言」
が世界に発せられますが、遠い場所で行なわれる式典だなという認識でした。しかし、今
回の親子平和行動を通じ、広島という街を肌で感じ原爆の悲惨さを目の当たりにして実体
験を親子で聞けたことは、私にとっても祐輝(長男)にとっても貴重な体験をすることが
できました。
平和祈念公園での折鶴献納、記念館の見学をした後、祐輝から「どうして戦争をするの。
どうして原爆をつかうの」と聞かれました。親子で戦争や原爆の話など面と向かって話し
たことはありませんでした。
この三日間は、戦争、原爆、平和、人の命の大切さについて話し合うことができました
し、家に帰ってからもお母さんや姉に体験談を話していました。
当時アメリカは 17 都市を選び、結果的に広島と長崎に原子爆弾を投下したわけですが、
その中には新潟もあったそうです。私の父は新潟出身でしたので被爆の可能性があったと
思うと、少なからず私自身にも関わりがあったわけです。
平和学習会では原爆によって、まさに地獄を実際に体験した坪井さんからその体験談を
そして被爆直後の写真の説明を受けました。しかし、坪井先生は明るく話をしていました。
子どもを怖がらせないように配慮されたことだと思いますが、でも何でそんなに明るく、
普通の人のように話せるのだろうと疑問に思いました。きっと、
「どんなに辛いことがあっ
たとしても必ず良くなる。頑張れば直る。続けることが大事なんだ」という語り継ぐこと
の大切さとともに強いメッセージを感じました。
坪井さんは、国連など様々な国際的な会議の場でも訴え、また私たち連合群馬親子派遣
団 20 人のためにも、一生懸命伝えてくれました。これからも頑張ってほしいと思います。
三日目の親子自由学習会は広島を少し離れ、戦艦大和を建造
した東洋一の軍港、日本一の海軍のまちとして栄えた呉市まで
足を伸ばしました。海事歴史科学館や呉のまちを見て、戦後の
日本の近代化の歴史と平和の大切さ、日本の将来を担う子ども
たちに科学技術のすばらしさ、未来の夢と希望につなげる大切
さを祐輝とともに学んできました。
おとうさん歩く平和公園
今回の平和行動の目的は平和な社会の実現。しかし、未だ核
実験を行なっている国もあります。私たちのできることは、過
去の過ちを繰り返さないように語り継ぐということです。「安
らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」原爆死没者
慰霊碑に刻まれた碑文はけして忘れてはいけない。今回の経験
を活かし、親子で話し合いながら少しでも原爆の恐ろしさを風
化させないよう役に立っていきたいと思います。
- 3 -
連合群馬「広島親子平和行動」に参加して
自治労/群馬県企業局労働組合
関口 信久
中学1年生の娘と参加させて頂き、親子ともにはじめての広島で貴重な学習ができまし
た。
テレビや写真でしか見ることのなかった
被爆地を歩き、被爆体験を聞けたことは普
通の旅行では体験できない貴重なものとな
りました。
「戦争」→「原子爆弾」→「広島」と連想
ゲームのように思い浮かぶ言葉ですが、そ
れらの言葉の持つ重みといったものを考え
させられ、今更ながら「平和」の大切さを
実感しています。
「3日間よろしくおねがいします」
中学1年 関口 舞菜
平和祈念公園の広さといろいろな慰霊碑、原爆の子の像ではたくさんの折鶴に驚き、圧
倒されました。実際に見る原爆ドームは教科書でのイメージより小さく、被爆前の建物か
らは想像できないくらい破壊されていたことや、今は普通の街角の一角となっている爆心
地に、62 年前に本当に原爆が落とされたのか信じられませんでした。
被爆体験者の坪井直さんから、生々しい話を聞いて原爆の悲惨さと、その中で生き延び
たことがすごいと思った。また、今でも苦労していることがわかりました。
平和祈念資料館は、たくさんのものが展示してあった。ボロボロになった服や髪の毛、
中まで黒くなった弁当箱もあった。溶けたガラスや瓦も見て戦争は怖い、原爆も怖いと思
いました。
広島親子派遣団に参加して
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
浜島 恵
「広島親子派遣団」に参加して良かった!まずこれが、正直な感想です。
今までは、テレビでの画面を通じてでしか見る事が出来なかった広島に、直接行き、見て
感じて、原爆の悲惨さを学ぶ事ができるとは、思ってもおりませんでした。
今回は、小学6年生の長女、可蓮と参加させ
て頂きました。
広島の被災については、自分でも分かってい
るつもりでしたが、自分が、実際に広島に行き、
自分の足で歩き、見て感じた方が、より今まで
以上に、原爆の悲惨さ、恐ろしさを感じ得るこ
とが出来ました。
原爆の資料館には、原爆が落とされた後の見
るも無惨になったいろいろな品々や写真等が
展示されておりました。
原爆ドームをバックに
- 4 -
私もそうですが、小学生の我が子も、心に多々、いろいろな事を感じ取ったようです。
広島の派遣団から帰った翌月5月には、小学校の授業でも、原爆について学ぶ学習があり
ました。
前月に広島に行っていたので、余計に、原爆の授業に関心があったようです。親子で原
爆について、話す機会も増えました。親子で広島に行き原爆について学ぶ事は、とても良
い事だと思います。
これからも、広島親子派遣団が続き、たくさんの親子の皆さまが、原爆について学び、
原爆はあってはならないと感じ取る事ができたら良いと思います。
世界中で、戦争が起こりませんように。
広島に行って
小学 6 年 浜島可蓮
私は広島に初めて行きました。
広島に着いたばかりの時は人もたくさんいるし、大きな建物もた
くさん建っていて、とても原爆が落ちたなんて思いませんでした。
でも、後から被爆者の坪井さんの話を聞いたり、広島平和記念資料
館で色々な物を見ていたら、とても悲しくなりました。坪井さんの
話は、この世にあったとは信じられないほど悲惨でした。
坪井さんは今、いくつもの病気と戦っているそうです。原爆での
苦しみは投下された当時だけではなく、一生続くのだなと思いまし
た。
資料館には、原爆が投下された当時の物や写真などが展示されて
いました。8時15分で止まった時計や、熱さでブツブツの泡がで
きた瓦、原爆の模型などたくさんありました。
爆心地 島病院前で
私は広島に行って、戦争の恐ろしさを痛感しました。もうこれ以上、
戦争で死んでしまう人がいなくなるといいと思います。
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
高橋 美香
今回、娘と二人で「広島平和行動」に参加させていただきました。
実際 広島の地で見聞きしたことは想像以上に悲惨・残酷で、大量・無差別に死傷者をも
たらす原爆投下の恐ろしさ・長年に渡り後遺症に苦しむ被爆者の現状・世界平和への願い
を、改めて考えさせられました。
核兵器の恐ろしさを世界の人びとが知
らなければ、核はこの世から無くならない
でしょう。この平和行動が実を結び、人権
の遵守と核兵器のない平和な社会を実現
するために今回の体験を通し、微力ながら
周りの人々に語り継ぎ、しっかりと平和へ
の種を蒔いていこうと思います。
参加にあたり、サポートいただきました
連合群馬のスタッフの皆様、貴重な体験を
させて頂き、ありがとうございました。
原爆死没者慰霊碑に祈りをささげる
- 5 -
小学 4 年 高橋 里菜
私は、広島で原ばくのおそろしさについて勉強してきました。
原ばくで、いっしゅんにして、建物や多くの人たちの命がなくなってしまったのを知りま
した。
2 日目 つぼいすなおさんが、原ばくをけいけんした話をしてくれました。
心に残った話は、原ばくが広島に落ちて、町中真っ黒こげになってしまい、家の下じきに
なってしまったおばさんを助けようとしたけれど、自分も皮ふがドロドロになってしまう
ほどのやけどをしていて、おばさんを助けられなかったこと。
「ごめんなさい。」
「ごめんなさい。」と言いながら、な
くなった人や横たわって助けを求めている人をふみな
がら逃げて行ったことの話です。
私は、戦争や原ばくは本当にこわいと思いました。
みんなが命を大切に考えて、戦争をおこさないでほし
いです。
3 日目の朝 お母さんとひばくしたアオギリを見に
行きました。
ひばくしてかれ木みたいになった木が、次の年芽が出
被爆時の様子を語る坪井先生
てきてみんなに生きる勇気をくれたそうです。命って
すごいと思いました。
電機連合/関東三洋セミコンダクターズ労組
吉田 裕一
小学6年 吉田友里菜
私は広島に行き平和祈念公園などを見てきました。!始めに見たときの平和公園はすご
く広くて緑が多くて「綺麗な所だな!」と思いました。しかし、この思いは原爆ドームや
坪井直さんのお話や資料館を見てから一変しました。
原爆ドームは、骨組みだけになっている所や原爆が落ちる前はあったところもなくなっ
ていたりして爆発の凄さが解りました。坪井さんのお話では「原爆の恐ろしさ」「悲しさ」
など話して頂きました。原爆で瓦礫にはさまれたおばさんを助けようとした事、意識がな
い中でもお母さんの声が判ったこと!などというお話でした。瓦礫にはさまれたおばさん
を助けようとしたお話では「自分もケガをしていて一人では助けることが出来ない!」と
思い人を呼びに行ったのですが・・・「誰も聞いてくれ
ず・・・おばさんを助けることが出来なかった」今でも
夢に出てきたりして心残りだそうです。また、坪井
さんは現在までに十数度の入退院をそのうち三度は
面会謝絶になったといっていました。
こんなお話を聞いて私は「原爆は一生続いていく
怖いものだとよくわかりました。」資料館では一言で
言えば「とても恐ろしい」と感じました。模型でみ
たものですが原爆が落ちる前は家や学校などがあっ
坪井先生のお話を真剣に聞く
たのですが、原爆が落ちた後家は跡形もなく消えて
いて「学校は骨組みだけになっていました」「すごい火傷を負った人の写真もありました」
- 6 -
「ぼろぼろになった子どもや大人の服、変形したお弁当箱、蓄えてあったお米は真っ黒こ
げになっていました」石などは小さな穴がたくさん空いていました。
ビンは何個も何個もくっついていました。原爆が落とされた時間で止まった時計もあり
ました。いろんなものを見たせいもあるかもしれませんが、皮膚が焼け爛れて垂れ下がっ
ている人形を「とっても恐ろしく感じ、とり肌が立ちました」数え切れないほど!「原爆
をなくしてください!」と書いてある紙も
ありました。
そしてもう一度平和祈念公園を見たと
きは始めの姿はなくなっていました。思っ
たことは「私は今、食べることにも不自由
なく安全で家族も一緒にいて幸せなのだ
と・・・深く心に思い知らされました。」広島
に来て私は坪井さんの体験したリアルな
お話、資料館や原爆ドームで見た物、全て
昭和 20 年 8 月 6 日に投下された原子爆弾
原爆ドームを見上げる参加者
によるものだとわかりました。「もう二度
とこのような恐ろしい物を使ってはいけません」そう思いました。
世界中で戦争がたくさん起こっている今、多くの人が命を落としています!
人間が人間を傷つけ・・・何の得があるのでしょう!そんな時に生まれてくるのは「怨みや
憎しみだけだ!」と、思います。
世界が笑顔にあふれるように「戦争や核爆弾がなくなって欲しい」と心から思います。
最後にこの企画を作ってくれた皆様に感謝申し上げます「ありがとうございました!」
JPU/JPU 群馬県連絡協議会
田口 正子
二どとおきてはいけないせんそう
小学3年 田口 ひろみ
わたしは、はじめて広島に行きました。はじめにげんばくドームに行きました。三びき
の子ぶたのオオカミは、ものすごいいきでしたが、れんがはこわれなかった。でも、げん
ばくは、れんがのたて物をこなごなにしてしまうのでこわいんだなと思いました。
げんばくドームのたて物はアメリカと日本がせんそうする前からあったけど、げんばく
をおとされて、鉄もまがるほどひどいじょうたいで、今のこっている。げんばくドームと
していわれて残っているなんてかわいそうだと思いました。だからそのげんばくのおそろ
しさをみんなに伝えるために、世かいいさんにするのはあたりまえだと思いました。
それとげんばくをたいけんした人の話を聞きました。子どもと女はせんそうでたたかわ
ないからひつようがない。ゴミだったと聞いたときとてもかわいそうだと思いました。ガ
ラスがふきとんでたり世界がぜんめつになるようなことがおきたとは、わたしはしんじら
れません。わたしはたいけんしていないけど、もしもたいけんしていたらわたしはどうな
っていたのだろう。どんどん人がなくなっていくようなあまりにもかなしい出来事がまた
おきるとしたらこの世は、どうなってしまうのだろう。せんそうはなんの意味があったの
だろう。なぜ一人一人の命をぎせいにしたのだろう。人間は命をぎせいにするために生ま
れてきたんじゃない。へいわにしあわせにくらすために生まれてきている。産んでくれた
人にも失礼だなと思いました。せんそうなんて、なんでしたのだろう、と思いました。
もう二度とせんそうがおこらなければいいと思いました。
- 7 -
戦争からの願い
中学2年 田口 和位
戦争とはいったい何なのだろう。私達子どもは、戦争を見てもいないし体験してもいま
せん。しかし私は、今回の旅行で戦争のことを十分良く知ることができました。
私が参加したのは「広島親子派遣団」という旅行です。広島といえば世界で最初に原子
爆弾が投下された県です。そして原爆のい力を物語る「原爆ドーム」があります。私達は
その「原爆ドーム」のある平和祈念公園に行きました。
まず初めに足を運んだのは「原爆死没者慰霊碑」です。記念公園は広島市にあり、広島
市は平和都市とされています。それを再建することを念願
して建立されました。ひには「安らかに眠って下さい、過
ちは繰返しませぬから」というひ文が刻まれていました。
次は「原爆の子の像」に行きました。高さが9メートル
もあるブロンズ像です。像の下におかれた石ひには、「こ
れはぼくらの叫びです、これは私たちの祈りです、世界に
平和をきずくための」というひ文が刻まれています。
次に行ったのは「原爆ドーム」です。原爆投下により建
物は一瞬にして大破し、中にいた人は全員死亡したと伝え
られています。私の学校で使用している教科書に、戦争当
時前の原爆ドームが載っています。その写真のドームは、
ヨーロッパ風の建物でとてもきれいでした。しかし実物は、
壁が破壊されていて、当時の様子からは想像できない姿で
す。
他にもたくさんの建物を見て周り、その度思ったことは
原爆の子の像
「もう戦争を起こしてはいけない、私達は未来に平和を保
つ義務がある」ということでした。
次の日、私達は「坪井直」さんに被爆体験を聞きにアステールプラザという所に行きま
した。原爆の恐ろしさ、やけどをおった人達の様子、地ごくのように変わった広島。とに
かく、戦争についてたくさんのことを教えてくださりました。
この旅行を終えて、私はさまざまなことを考えていました。もし今戦争が起きたら、前
以上に大きな被害をもたらすだろう。もし今
世界で核兵器開発競争をしているアメリカ
やロシアの大きな国で戦争が起きたら、核兵
器によって人類のめつぼう、いや、世界めつ
ぼうもおかしくないだろう。
それを防ぐために私達にすることはたく
さんあります。今学んだことを次世代の人々
に語りついでいき、命の大切さを伝えていく
こと。身の回りにあるいじめや暴力をなくす
こと。こういった日常のレベルで平和を願う
平和な広島の朝の散歩道・・・
ことが大切なのではないでしょうか。
戦争、それは二度と繰り返してはいけない過ち。たくさんのぎせいを出した恐ろしい争
い。こんな戦争をこの世からなくすまで、私は平和を祈り続けたいです。
- 8 -
電力総連/東電労組
玉川 猛
広島へは、高校の修学旅行以来 25 年ぶりの訪問でした、当時は学生ということもあり
感動はあったものの真剣さに欠けていた気がしました。
今回、父親という立場や子どもと一緒ということで、感じ方も違っていました。
初日に駅から乗ったタクシーの運転手に、平和学習に来たとつたえた所、その方も被爆経
験者で幼い頃、家族を何人もなくし
ていると聞き、ここ広島ではまだ大
勢の方が、悲劇を引きずっていると
感じました。夕方、平和公園で折鶴
を献納し、みんなで犠牲者の追悼と
平和への願いを改めて祈願しまし
た。
2日目には平和学習会として広
島県原爆被爆者団体協議会理事長
『坪井 直』さんの被爆体験を聞く
ことができました。坪井さんは 20
歳の時に被爆し、生死の境より生き
返ったものの放射線後遺症と呼ば
・・・川沿いの遊歩道を学習会会場へと向かう
れる原爆症で入退院を繰り返しな
がら自分の被爆体験を語り続けています。国内だけでなく海外においても平和への願いと
原爆の無意味さを訴えております。
講義後は家族単位の自由学習でした。私たち親子は資料館に行って展示物や写真から当
時の様子を勉強しました。一つ一つの展示物について親子で語り、戦争の恐ろしさ、無意
味さを痛感いたしました。
帰宅後、家族に資料や写真など見せ、貴重な体験を報告しました。機会を見て長女や二
男にも体験させたいです。
小学5年 玉川 直登
4月28日からお父さんと連合の人たちで広島へ行ってきました。
出発前にお父さんから戦争や原ばくの話を聞
いていましたが、原ばくドームを見て戦争のこ
わさと原ばくのおそろしさを感じました。
2日目は坪井先生から本当に体験した話を
聞いて資料館にも行きました。溶けたガラスや
穴のあいた服、色々な写真を見て、たくさんの
人が死んでしまったことがわかりました。きっ
と苦しかったと思います。こんなことは、2度
とあってはいけないと思いました。
爆心地・島病院前で記念撮影
とても勉強になりました。一緒に行けなかった、
お母さんとお姉ちゃん、弟にも広島の話をたくさんしました。
- 9 -
平和行動 in 沖縄
参加者名簿
参加者20名
No
だ
名
あきお
1
多田 明雄
2
小山 利明
3
小河原
4
おやま
こ が わ ら
としあき
たかし
孝
あいかわ
みつる
こぐれ
ひろゆき
いしい
とよあき
相川
満
5
小暮 博之
6
石井 豊明
7
8
9
10
11
つくえ
机
まさお
正夫
かわた
ゆきひろ
ふじい
こうじろう
むらかわ
のぞみ
えんどう
みつお
かつた
ようすけ
ほしの
てる お
ほその
かつひろ
はとり
ひろいち
くわこ
ひでき
川田 幸弘
藤井 幸次郎
村川
望
遠藤 則夫
12
勝田 陽介
13
星野 輝雄
14
細野 勝浩
15
羽鳥 宏一
16
17
桑子 英樹
ま み づか
馬見塚
あきら
晃
ほしの
ひでひこ
かとう
まさじ
まん だ
まさみつ
18
星野 秀彦
19
加藤 雅二
20
*
氏
た
萬田
雅光
所
属
自動車総連
自動車総連
自治労
電機連合部
電機連合
電機連合
電機連合
JAM
JPU(現JP労組)
JPU(現JP労組)
電力総連
電力総連
情報労連
情報労連
基幹労連
高崎地協
伊勢崎地協
伊勢崎地協
連合群馬
連合群馬
このパンフレットに記載されている名簿は、2007平和行動in沖縄の目的以外で利用しないようお願いいたします。
連合 「2007 平和行動 in 沖縄」に参加して
自動車総連/富士重工労組
多田 明雄
6 月 23 日から 25 日に開催された、連合「2007 平和行動 in 沖縄」に参加して、現地で
見聞きして感じたことを感想文としてまとめたので報告致します。
私は沖縄に行くのは初めてであり、行く前の沖縄のイメージは、常夏の島、明るいイメ
ージという程度しかなかった。しかし、今回この平和行動に参加して、現在と過去の事実
を目の当たりにして、改めて戦争の愚かさ、悲惨さを実感することとなった。
全体を通して感じたことは、行く先々で沖縄での戦闘の悲惨さ、辛さをもうだれにも味
わってほしくない、そういう気持ちが地元の方々からひしひしと伝わってきたことである。
同時に、そのことを嘆いたり悲しんだりするだけではなく、現実としてしっかりと受け止
めていることである。これは、沖縄のことに限らず、普段でも心掛けるべきことであり、
自分はそのことができているだろうかと考えると、すこし恥ずかしい思いがした。
那覇市民会館で行われた 2007 平和沖縄集会では、沖縄らしいというのか、米軍基地問
題をコントで皆に伝える「お笑い米軍基地」が、とても印象的だった。講演や資料などで
学ぶことも重要だと思うが、決してふざけているのではない、これが現実なんだという重
さがかえって感じられ、改めて基地問題の難しさを感じた。
お笑い米軍基地のコント
戦跡見学で最も印象に残っているのは、糸数アブチ
ラガマである。規模は大きな洞窟で外より涼しいが、
真っ暗で狭くて蒸し暑く、ゴツゴツした岩がそこらじゅうにむき出しになっており、つま
づいて転んだら大ケガをするだろう。今私がそんな境遇にいたら、果たして正気でいられ
るだろうか。夏でもクーラーの利いた涼しい部屋で仕事や生活することが当たり前、とい
う感覚だが、当時の沖縄の住民は、なんと非現実的な空間で生きることを強いられたのか。
いかに戦争中とはいえ、とても人間が暮らせる場所ではない。しかもそこが病院として使
われたという。麻酔のない手術を受けた患者や、炊事・洗濯・トイレまでが同居した空間
にいた人々の苦しさやいかばかりか。まさに地
獄だったろうと思った。
次に見学したひめゆりの塔に、アブチラガマ
と同じく洞窟があったのは初めて知った。洞窟
といってもいわゆる横に穴が平坦に続いてい
るのではなく、縦穴から梯子を2本渡り継いで
やっと平坦な空間があるという、簡単には出入
りできない場所であった。ここも外科病院とし
て使われたという。女性が負傷兵を運び込むだ
けでも大変だったろうと思った。
歴史見学として訪れた首里城では、南国らし
平和祈念公園内 平和の火の前で
い強い日差しの下で、琉球文化の一端を感じた。
- 1 -
沖縄独特の衣装や建築物は新鮮で、次に沖縄に来る機会があれば、もっとじっくり見て回
りたいと感じた。
太平洋戦争が終わって 60 年以上が過ぎたが、沖縄には未だ戦争の傷跡が残っていた。
それはとても悲惨だった記憶の痕でもあった。そんな悲惨な体験を自分自身もそうだが、
自分の子どもたちにさせられるはずがない。させてはならない。だからこそ、この悲惨さ
は、私たちが後に続く世代にしっかり語り継ぐ必要があると感じた。
最後に、今回の参加にあたっては連合群馬の加藤団長をはじめ多くの方々にお世話にな
りました。産別を越えた多くの仲間の皆さんとの語らいも、私の素晴らしい思い出となり
ました。心から感謝申し上げます。
連合平和行動 in 沖縄 感想文
自動車総連/ミツバ労組
小山 利明
平和行動 in 沖縄に参加しましたが、平和集会に参加して初めて、6 月 23 日が慰霊の日
であることを知りました。8 月 6 日・9 日は広島・長崎に原爆が投下された日であること
は学んでいますが、正直なところ沖縄については地上戦があった程度の認識しかありませ
んでした。今回平和行動に参加し、糸数アブチラガマ・ひめゆり平和祈念資料館等で戦争
の歴史・事実を見聞きしたことで、戦争の悲惨さを再度認識させられました。
特に沖縄で驚いたのは、新聞です。群馬とは記事が全く違い、琉球新報には、沖縄戦の
「集団自決」軍命削除に抗議する記事が掲載されていましたが、私自身はニュースになっ
ていることすら知りませんでした。糸数の総合案内センターには、集団自決の新聞記事が
シリーズとして掲載され、軍に追いつめられて肉親に殺されかけた生存者の声が記事にな
っていました。その悲惨な記事を読んで、なぜ沖縄県民が抗議しているのか初めて理解で
きました。
そして、一番暗い気持ちにさせられたのは糸数ア
ブチラガマです。光の届かない真っ暗な洞窟、濡れ
た岩と石で滑りやすい足下、爆弾の破片が突き刺さ
った天井、この闇の中で 600 人以上の負傷兵と住民
がひしめきあい、どう生き延びていくかを考えてい
たのかと思うと言葉も出ません。
お世話になりました事務局の方々に感謝するとと
もに、今後も、戦争を知らない世代に平和の大切さ
を伝える活動を継続していただきたいと思います。
アブチラガマ内の階段を昇る
2007連合平和行動 in 沖縄に参加して ∼平和を考える∼
自治労/県企業局労組
小河原 孝
今回2007平和行動 in 沖縄に参加し、感じたことを一言で言うならば、「沖縄は戦時
中も戦争が終わった現在も戦争の犠牲を担わされている!」ということと、平和の尊さ、
命の尊さ、そして戦争の悲惨さ・残酷さを改めて実感し、戦争は二度とあってはいけない
ということです。
- 2 -
実際、戦場となった沖縄で平和祈念資料館、
糸数壕、普天間基地などを見ました。平和祈念
資料館で物語る戦争の悲惨さ、ガマの暗さ、冷
たさが胸を締め付けました。実際に体験してい
なくても、現地を見ることによって戦争の悲惨
さは伝わってきます。
今回の参加で、平和を考えるのに、 過去を学
び、現在を感じ、そして未来を考える 事が必
要だということを知りました。まずは自分以外
の一人でも多くの人にこうした経験を伝え、興
ひめゆりの塔の前で説明を聞く
味を持ってもらい、経験してもらう。そして、
その人からまた一人でも多くの人に伝えてもらう・・・。伝えていくことの必要性・重要
性を含めて一人でも多くの人に興味を持ってもらうこと。戦争は、何一つ良いことはなく、
マイナスしか及ぼさないと次の世代に伝えていきたいと思います。
最後に、戦争のない未来をめざすために、戦後、手にした平和憲法を今後も国民の手で
守っていくべきです。
2007連合平和行動 in 沖縄
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
相川 満
那覇空港に降り立つとそこは、梅雨の明けた暑い沖縄の夏
空が広がっていた。到着後、まずはじめの行動は『平和オキ
ナワ集会』への参加である。会場では、沖縄エイサーからは
じまり平和メッセージ、平和への証言、舞台と沖縄戦の歴史
を物語る話が直接体
験できた。中でも平和
への証言のなかで宮
沖縄電力労組のエイサー
城さんが語っていた
座間味島の『集団自決』については、戦後62年も
たつというのに、いまだに裁判で争っているという
話を聴くと、まだ戦争は終わってないことを実感し
た。
翌日は、糸数壕(アブチラガマ)の見学から始まり
平和祈念公園、ひめゆりの塔、普天間基地周辺の見
群馬の塔で折鶴を献納
学である。訪れる先々で、沖縄戦によって多くの人
が虫けらのように殺され、その多くは、何の罪もない子どもからお年寄りまでの、民間人
が戦闘員の死者よりも多かったということも、自分の目で現場や遺品、当時の資料等を見
ることによって実感した。
最終日、首里城へ通じる坂道を登りながら、ふと空を見上げるとあっという間に爆音と
共に戦闘機が横切っていった。そのとき私は、戦争という悲惨なことを、二度と繰り返し
てはいけないと心に強く思いました。
今後、平和行動に参加して得たことを周りの人に広く伝え、平和の大切さを訴えていか
なくてはならないということを改めて実感しました。最後に『連合平和行動 in 沖縄』に参
加でき多くの方と知り合いになれたことを感謝いたします。
- 3 -
2007 連合平和行動 in 沖縄
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
小暮 博之
梅雨明けの沖縄はまさしく夏本番の日差しであった。戦後62年目を迎える沖縄の平和
集会に初めて参加し、日本で唯一地上戦が行われ多くの住民が犠牲になったことをこの3
日間の平和行動(沖縄平和公園、ひめゆりの塔資料館)で知り、沖縄に対する考え方が一
変致しました。沖縄には2年前に家族で観光に訪れたのが最初でした。当時は慶良間諸島
の渡嘉敷島へ綺麗な海を観光しましたが、今回の平和行動に参加し、まさにそこが 自決
問題 になっていた場所とは知らず、かなりショックを受けました。
1日目の平和オキナワ集会で、前日のメディアの放送で知った 集団自決について の
宮城晴美さんの終わらない戦後では、宮城さんの祖母の話を含めて慶良間諸島で家族単位
の自決を行った内容は、耳を覆うぐらい生々しい語りでした。
実際の戦場としては糸数壕(アブチラガマ)へ2日目に
見学に行きました。アブは、深い縦の洞窟で、チラとは崖
のことでガマとは洞窟やくぼみの事をいい、もともと糸満
集落の避難指定壕だったものが、日本軍の陣地壕や倉庫、
病院として使用されていた。(全長 270m)ガイドの案内
で実際に奥まで懐中電灯を片手に入っていきましたが、一
番奥の脳症患者の収容場所で電灯を消灯した時の暗さは
まさに暗黒の世界であり、この状態で600人あまりが米
軍の攻撃をしのいでいたかと思うと心が痛む思いでした。
病棟になっていた場所では、爆風で飛んだ金属が今も天
井にめり込んでいる光景は当時凄まじい状況であったこ
とが窺えました。ガイドの方の まだ戦争は終わっていな
い と言う言葉は印象的で、いまだに沖縄県全体で未回収
の不発弾は2千トンも地中に埋没されたままであり、日本
の米軍施設の74%は沖縄県に存在している。まさしく戦
アブチラガマの資料館にて
争は終わっていないのである。
この平和行動の参加により、戦争の悲惨さや歴史をあらためて認識し自分の想い体験を
多くの方に語り継ぎたいと思いました。また今後平和の大切さをあらためて学んでいく必
要があることに気づかされました。絶対に風化してはならないと。
電機連合/三洋電機労組マニュファクチャリング支部
石井 豊明
今回、初めて平和集会に参加させていただき、沖縄のイメージが変わりました。沖縄は、
海が綺麗な南国のリゾート地で、長寿の方が多い、そんなイメージでした。しかし、自分
で思っていた事と全然違いました。「糸数の壕」「ひめゆりの塔」「普天間基地」「平和
祈念公園・平和資料館」を見学し、一般住民の犠牲者が多かったことを知り戦争の悲惨さ
を痛感しました。
戦争中は、自分の家族をお互いに殺しあったり、自分の子どもを火の中に投げ込んだり、
石にたたきつけ殺したりして想像を絶する事が行われてきたと聞きびっくりしました。も
し自分がその時代だったら同じ事が出来たのかと考えました。答えが出ません。しかしこ
うせざるを得なかった当時の人達は、辛く、苦しかったでしょう。
- 4 -
私は、家に帰りまず家族に沖縄で聞いてきたこと、
見てきたことを話しました。
戦争を知らない、平和な生活をしている私たちには、
本当の「辛さ」「苦しさ」が分からないと思いますが、
繰り返してはいけないことを教えることが出来ました。
最後に平和行動 IN 沖縄に参加し、自分にとっ
て貴重な機会を与えていただいた事を感謝しています。
公園に展示される砲弾
電機連合/三洋電機労組マニュファクチャリング支部
机 正夫
連合平和行動 in 沖縄に参加し、62年前ここ沖縄で、住民を巻き込んだ地上戦が遭って
多くの住民が犠牲となり、戦争が終わっても心痛な思いで生活をしていたことを「2007
平和オキナワ集会」の講演者の話しで知り、6月23日が沖縄にとって特別な日だと強く
感じました。
沖縄戦の学習のため、糸数豪(アブラチガマ)
・平和祈念公園(資料館・平和の礎・群馬
之搭)・ひめゆりの塔を見学、また、沖縄の歴史を知るため首里城も見学しました。
今回の平和行動でいちばん印象に残った場所は、糸数豪(アブラチガマ)です。糸数豪
は自然洞穴で、戦争中は医療活動が行われていたそうです。ガイドさんの案内で、安全の
ためヘルメットをかぶり、懐中電灯を持って中に入りました。中は外と違ってひんやりし
ていて、ガイドさんが懐中電灯のスイッチを切ってくださいと言って、灯りが消え暗闇の
世界になった時は何て言っていいかわからない感
じだった。こんな暗闇の中で生活していれば正常な
人でもおかしくなって不思議ではないと思います。
また、死体の影響で地面が黒く変色していたり、
歯が壁に着いていたりと生々しい跡があり、戦争は
地上だけでなく、当事者しか分からない地下での生
活を知りました。
当時を知る人が少なくなっている中、今回学習し
た戦争の悲惨さを多くの人に伝えることが大事な
事と感じました。これからも世の中が平和になるこ
アブチラガマ入濠前にガイドの説明
とを心のそこから願います。
2007平和行動 in 沖縄に参加して
JAM/ビクター伊勢崎電子労組
川田 幸弘
私は、今回JAM群馬の代表として参加させていただきました。自分自身、沖縄は生ま
れて初めてであり、以前からすごく興味がありました。飛行機から降りた瞬間、
「沖縄はや
っぱり暑いなあ」というのが第一印象でした。初日は、那覇市民会館大ホールで平和集会
が行なわれ、その中で糸満高校の女子生徒の平和メッセージと現地の宮城さんからの座間
味島の「集団自決」の証言がとても印象に残り、聞いているだけで胸が熱くなる思いでし
た。
- 5 -
二日目は、現地で実際に糸数アブチラガマ・平和
祈念公園・ひめゆりの塔・普天間基地等を見学し、
中でも糸数の洞窟に入ったときは真っ暗でここが住
民の避難場所であり、この中で生活し、また、野戦
病院として利用されていたと聞いて、ただ驚くばか
りで・・・この中で何人もの人が命をなくしていっ
平和メッセージと語り部の宮城さん
たのだと思うとこのような戦争は二度と起こしては
ならないと強く感じました。また、ひめゆりの資料館に訪れた時、当時の人の体験談(目
を覆いたくなるような悲惨な状況)をビデオで
見たり聞いたりして、その人が「今現在もいろ
いろな問題があり、沖縄の戦後はいつやってく
るのだろう?」といっていたことが今でも心に
残っております。
今回の平和行動を通じて、平和の大切さを改
めて考えさせられました。今後はこの事を職場
の仲間や家族に一人でも多く伝えて行きたい
と思っております。自分の人生でとても貴重な
体験ができたことに感謝しています。ありがと
平和集会会場前にて
うございました。
2007連合平和行動 in 沖縄に参加して
JPU/JPU渋川支部
藤井 幸次郎
連合の平和行動に参加させてもらうのは今回の沖縄が初めてでした。もちろん今まで学
生の頃、授業で戦争の勉強をした事もありますし、テレビ新聞等で戦争の事についてはあ
る程度の事は理解していました。現在の私たちは恵まれた生活をおくっており、戦争イコ
ール遠い昔話のように感じていました。
実際沖縄に着いてからもこんなに美しく穏やかな島で本当に戦争があったなんて信じら
れない事でした。体験者の方々のお話やひ
めゆりの塔・平和祈念公園・糸数アブチラ
ガマと見学させていただくうちに学生時
代に学んだ事は本当に戦争の一部分でし
かなかったのだと感じました。それぞれの
場所で見たり聞いたりしただけでも本当
に生々しく、戦争がたった60年ほど前の
出来事だったのだと思うと、今の自分の暮
らしがどんなに豊かなものかという事を
改めて感じさせられました。食べる物はも
ちろん、着る物、明日の自分が生きている
という保障もない状況の中で、日本が戦争
平和の祈りを込めて折鶴の献納
に勝つというそれだけを支えにそれだけ
を信じて毎日を生きていた当時の人達を思うと、
「戦争に意味なんて無いんだ」と心から思
います。人が人を傷つけてたくさんの人が亡くなって、それで得たものはいったいなんだ
ったのでしょうか。
- 6 -
今回この沖縄平和行動に参加しなければ戦争のごくわずかな部分しか知らずに毎日の生
活を当たり前のように過ごしていたのだと思います。自分も今までは普段から戦争につい
て平和について考える事も無く日々生活してきました。戦争は決して勉強するものではな
く、自ら感じるものだと思いました。もっともっと戦争について平和について同年代の人
に知ってもらいたいと思うようになりました。
そして自分からも今回の平和行動について話し、まわりの人に戦争・平和について少し
でも興味を持ってもらえたらと思います。
今回このような機会を与えていただき本当に良かったと思います。
JPU/JPU高崎支部
村川 望
人が生きていく中で支えになるのは、衣食住はもちろん、希望も大きなものだと思いま
す。もし、その希望も衣食住も何もなかったとしたら現代の人々は自分も含めて生きてい
けるでしょうか。良くも悪くも、個人
主義の今、
「日本が戦争に勝つため」に
自分の生活を、命を投げ出す人はどの
くらいいるんだろう。少なくとも自分
にはできない。でも、もし小さい頃か
らそんな環境で育ったとしたら、私も
そうしていたのだろうか。
今回、ひめゆりの塔、糸数アブチラ
ガマに大きな衝撃を受けた。私よりも
若い少女たちが、自分のためでなく、
家族のためでもなく、ただ日本のため
に、自分たちの生活を犠牲に青春時代
の毎日を過ごしてきたということに、
永遠の平和を祈って
大変複雑な心境になりました。
みんながみんな正義を主張して、何かを守るために戦争をして、人を傷つけているなん
て、そしてそれが結局何の結果ももたらさないということに気付かないまま、たくさんの
人の日常がまきこまれていくなんて本当に残念で仕方がありません
明日の保障もないまま、健気にまっすぐに毎日を生きていた少女たちを思うと、今の自
分の生活を本当にありがたく思います。今回参加させていただいて以後、ほんの些細なこ
ともありがたく幸せに感じるようになりましたし、感じるように心がけています。今の生
活が恵まれすぎて、普段忘れがちな感謝の気持ちや、
「ちょっと幸せ」を大事に思う気持ち
が自分の中に生まれたような気がします。すごくいやなことだけど、あの悲劇を繰り返さ
ないようにと思うだけで救われる人もいると思います。
今この時代平和ボケしている今だからこそ、もっと多くの人にこの事実を知ってもらい
たいと思いました。一生懸命生きることが人の胸を撃つのだと思いました。
今回のような機会を与えてくださった方々に心から感謝しています。
「みんなが幸せ」が一番。
- 7 -
電力総連/関電工労組
遠藤 則夫
6 月 23 日(土)∼25 日(月)の 3 日間の日程で、全国から、各都道府県の仲間が、沖縄に集
結し「平和の波。力をあわせて永遠に」をテーマとして、目的については連合平和活動を
「つくり、学び、ひろげる」を基本に動員型ではなく仲間達一人ひとりが参加し、ともに
つくりあげる運動として取り組むことを確認し「2007 連合平和行動 in 沖縄」が開催され
ました。
連合群馬平和活動の実施目的としては、現地を見聞きし、平和の思いを高める活動を通
して、平和意識の高揚に取り組む事と平和の尊さや未来へ続く平和運動の大切さを感じる
事が実施目的として、その団の一員として参加させて頂きました。
2007 年平和オキナワ集会では、第 1 部の中
で、平和への証言 座間味島「集団自決」−終
わらない戦後―が、宮城晴美さんより語られま
した。去る沖縄戦では、住民が悲劇に追い込ま
れた島々であり、地の利を得た日本軍の駐留が
住民に「集団自決」を強制し、多くの女性、子
どもの犠牲者を出したそうです。住民は「敵に
捕まると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺
される」と日本軍から恐怖心をあおられ、併せ
て敵に捕まる前に「自決」するようにと、多く
の住民が手榴弾や短刀が渡され、宮城さんの祖
アブチラガマにて
父は、カミソリで、先に妻を、そして息子、娘、
最後に自分の首を切り、息子は即死、残りは重体で米軍に救出されたそうです。戦後、息
子を 殺し 、自分たちだけが生き残った祖父母の苦悩は、家族といえども共有できるも
のではなく、えぐられるように襲いかかる心痛は、当事者にしかわからない。二人は死ぬ
まで重い十字架を背負わされたようであったそうです。今だ、戦後はいつやってくるのだ
ろうかと、強く訴えておりました。
この戦争の悲劇を二度と繰り返してはいけないし、私を含め皆で戦争について考え語り、
未来に向かって戦争の無い平和な世界を築いていかなければならないと強く感じました。
電力総連/東電労組
勝田 陽介
私は沖縄での平和について以前に何回か活動した
ことがありますが、その度に思うことがあります。
それは、「なぜこれだけ多くの犠牲をはらってまで、
戦争をしなければならなかったのか。」「この戦争で
人々は何か得るものがあったのか。
」ということです。
ケガが重傷な為に青酸カリを渡されて置き去りに
される人の気持ちとはどんなものか。敵に追いつめ
られて逃げ場もないため、自分の子どもを殺す親の
気持ちとはどういうものか。今の私たちの生活から
はほど遠い世界のことで、とても想像がつきません。
しかし実際に日本で、沖縄で行われたことなのです。
- 8 -
ひめゆりの塔にて
ひめゆりの塔で見たひめゆり学徒隊の人達の写真、その写真の下には2つのコメントが
書かれていました。
「とても明るい性格で、みんなから慕われていました。笑顔が印象的な
人でした。」と書いてある下に、「戦地移動中に銃撃され死亡」と書いてありました。
なぜ普通のどこにでもいる女の子が、戦争で命を失わなければならなかったのでしょう
か。この世界から「戦争」という文字が無くなることを強く願いました。また無くす努力
を私たちがしなければいけないのだと思いました。
2007連合平和行動 in 沖縄に参加して
情報労連/小倉クラッチ労組
星野 輝雄
今回の平和行動に参加することができたことを感謝します。
6月23日。那覇到着。沖縄は既に梅雨が明け、いよいよ夏
をむかえ、じっとりした空気が肌を包み込みます。
平和沖縄集会で現地の方々の話を聞いていると、まだまだ戦
争の悲惨さを忘れるわけにはいかないと思うことしきりでし
た。
翌日、数あるガマのなかのひとつである「糸数壕のアブチラ
ガマ」を訪れました。ガマに入るとひんやりした湿っぽい空
気が漂い、手持ちの懐中電灯を消すと、まさに真の闇の世界
です。ガマを案内していただいたガイドの説明によれば、入
口に近いところには現地沖縄の人々、奥の方には病院関係者
がいて、連合軍からの攻撃に耐えていたのですよとのことで
した。事実を知ることの重要性を改めて感じたものでした。
アブチラガマ資料館を見学
何といっても平和であることが肝心です。そのことを改め
て考え、感じることのできた行動でした。バスガイドお奨めの地元スーパー「かねひで」。
行って来ました。これも、現地の事実を知ることに他なりません。短い期間の中に盛りだ
くさんの内容をありがとうございました。
2007連合平和行動in沖縄
情報労連/小倉クラッチ労組
細野 勝浩
2007年度、平和行動のスタートとなる、
「2007連合平和行動in沖縄」が、6月
23日(土)から25(月)の3日間で開催され、連合群馬代表の一員として、情報労連
小倉クラッチ労組より参加して参りました。
私にとっての沖縄は、昨年の「2006沖縄ピースステージ」にて、訪れた事もあり、
平和行動としての2回目の訪問となり、昨年とは違った沖縄、そして平和とは何かを発見
しようと言う気持ちがありました。
事前学習は基より、やはり沖縄と言えば、青い澄み渡る空に白く輝く雲。エメラルドグ
リーンの海。神秘的な珊瑚礁の海など、明るいイメージのある夏の観光地を連想します。
しかしながら、昨年の「2006沖縄ピースステージ」で訪れ、各地の戦跡巡りをしてい
る時から、そんな明るいイメージとは裏腹に、戦争による深い爪あと残る悲しみのある島
である事を、付け加えなくてはならない事を思い知らされました。
- 9 -
私が思う深い悲しみのある場所とは、自然
の壕。すなわち防空壕の役目をした自然の洞
窟「ガマ」です。私が訪れたガマのなかで、
最も印象に残った「アブチラガマ」は、事前
学習や資料館などで見ただけでは判らない、
私の想像を超えた異次元空間の様な思いが、
そこにはあると思いました。その思いは、中
に入り当時の事を連想しながら歩いて行く
と、少しずつ感じ取れる様に思えます。
私達は懐中電灯で照らしながら入って行
きますが、当時はその様な画期的な道具も無
暗闇のアブチラガマにて
く、目を幾ら凝らしても見えて来ないあの暗
闇。そして、いつ何時米軍が襲ってくるか判らない恐怖と不安の入り乱れる中での生活。
何日も何日も耐え忍び、家族の事を思い、仲の良い友人の安否を思い、何時終るか判らな
い戦争を憎みながら暮らしていたのかと思うと、遣り切れない思いが込み上げて来ます。
壕の中を一通り歩き、再び地上に戻り見上げる青空に、今の私たちの生活を写して見る
と、とてもそんな悲惨な戦争がこの地で起こっていたなんて、とても考え難く、青空を見
た瞬間に頭の中から一気に消えてしまいます。
平和行動に参加する中で私達参加者に期待する事、それは、平和行動を通じて見たり聞
いたりした事、体で感じ取った事を、一人でも多くの人達に語り継ぐ事とありました。し
かし、私が今回の平和行動で感じた事は、平和祈念館に行って資料を見たり、VTR等で
当時の戦争映像を見たりして、それを、多くの人に語り継ぐには、本来の悲惨な戦争と恒
久平和を唱えるには、無理があると思えます。
沖縄では大変な戦争があったのですよ。幾日も自然の防空壕の中で大変な生活をしてた
んですよ。と言ってみた所で、私ですら壕の中にいる時は、悲惨だったんだろうな、不安
だったんだろうな、と思っても、壕から出てしまえばそんな思いは一気に消え普段の日常
生活に戻ってしまうからです。
私は戦争を体験した事すら無い訳ですから、当時の事なんて、語り継ぎを聞いた上での、
想像の世界で終ってしまいがちです。ですから、私たちの役目は、戦争の語り継ぎも、今
迄通り誠心誠意行うと共に、これからも永遠に平和である為にはどうしたら良いかを考え
行動し、62年前に体験した日本人の悲しみを無駄にしない様、世界に発信して行く事だ
と思います。
そして、一人でも多くの人達に、平和行動に参加して頂き、平和行動を通じて知り合っ
た仲間の輪を広げ、日本の平和、世界の平和を願い唱えて行く事が大事であると思いまし
た。
2007連合平和行動IN沖縄に参加をして
基幹労連/大同特殊鋼渋川工場労組
羽鳥 宏一
久方ぶりに連合の沖縄平和行動に参加をしました。私は比較的若いときから労働組合の
仕事をしたこともあって、被爆地広島、長崎集会やさらには日本軍玉砕の地サイパン、グ
アム島にも行く機会を与えていただきました。
- 10 -
沖縄集会も含めて、戦争で最も悲惨な状
況を生み出すのは地上戦ではないかと感じ
ました。敵軍も、日本軍もそして住民も「生
きて地獄を見る」と表現していました。と
くに日本の戦前教育は「捕虜」を許さず、
死を持って抵抗する方法を叩き込みました。
占領寸前の島々では、親が無理やり子ども
に毒をのませ、首を絞め、それが出来ない
親たちは子を抱きながら断崖から飛び降り
るという行動をとりました。まさに教育の
恐ろしさ、愚かさだと思いました。
最後に南部戦跡アブチラガマ(洞窟)の
平和の火の前にて
真っ暗の中で傷ついた兵士たちは、日の丸の旗で送り出されたあの駅を、やさしい母を、
父をそして兄弟を想いながら、必ず死ぬ自分を想像していたかもしれません。地上戦を経
験した沖縄の皆さんから「終戦から 62 年経っても、私たちは戦争を抱えて生きている」
と、そして「その戦争が如何に非情であったかを語り継いでいくことが私たちの使命だ」
と言っていました。
連合群馬代表で 20 名の仲間が参加をしてきました。私たちもこの経験を生かし反戦と
平和を訴えていきましょう。
2007連合平和行動in沖縄に参加して
高崎地協(電力総連/東電労組)
桑子 英樹
「沖縄行きたい。
」連合群馬派遣団の参加者募集が高崎地協の幹事会の議題に上ったとき、
思った。沖縄に行ったことはないし、子どもが小さいので仕事でもなければ出かけること
もできない。一日の休暇取得ですむ日程も魅力的だ。
ここは何とか地協に頼んで行かせてもらおう。幹事
会の承認をもらって沖縄行きが決定。初めての沖縄
に期待が膨らむ。しかし、すっかり観光気分で出か
けた私を待っていたのは、楽しいイメージとはほど
遠い、沖縄で起こった悲しい過去の出来事でした。
平和行動の最初に、平和への語り部継承者である
宮城さんの講演で、第2次大戦末期、この地におい
ていかに悲惨な出来事が起きていたのかを聴きまし
懐中電灯の灯を頼りに
た。容赦のない軍国教育、自決の強要。我が子を手
にかけなければならなかった親の気持ちとはどんなものだったのか、想像することができ
ませんでした。戦争に生き残った僅かな人々が自らの悲惨な体験を語り、戦争のない平和
な世界づくりのために、戦争を知らない世代が受け継いで行く事の大切さを知り、全国か
ら集まった連合の仲間とともに平和の尊さを感じました。
翌日、軍事拠点や、野戦病院として使われたという糸数壕に入りました。入り口が狭く、
息が詰まるような感覚を覚え、低い天井にヘルメットを何度もぶつけながら奥へと進み、
空間に出るとそこは負傷兵を収容した病棟だったと説明を受けました。照明などなく懐中
電灯を消せば漆黒の暗闇。この中で人々が生きるために精一杯の努力を続けていた事を感
じました。
- 11 -
平和祈念公園にある資料館で、地上戦の惨状を目の
当たりにし、戦争の悲惨さを知りました。平和の礎に
刻まれた戦没者を慰霊し、群馬の塔に仲間と協力して
自らも折った鶴を奉献。永遠の平和を祈りました。
ひめゆり平和祈念資料館において、将来に希望を持
ちながらも戦争に巻き込まれ、若くして散っていった
学徒たちの姿をみて、深い悲しみを覚えました。多く
の学徒が命を落とした壕に向かい、全員で合掌しまし
群馬の塔にて折鶴を献納
た。
梅雨が明けて間もない沖縄の青い空と海は本当に青かった。ここで起きたすべての出来
事を見て知っている空と海は、この地が永遠に平和で、2度と血に染まることのないよう
に、こんなにも深い青い色をしているのだろうと思いました。この空の青さを心に刻み、
戦争の悲惨さ、平和の大切さを語り継ぎ、平和な社会づくりに努めていこうと思います。
貴重な体験をする機会を与えてくれた連合群馬、地協、そして気さくな団員のみなさん
に心から感謝します。ありがとうございました。
平和行動in沖縄へ参加して
伊勢崎地協(JAM/サンデン労組)
馬見塚 晃
6月23日が沖縄にとって「特別な日」という事をどれくらいの人が知っているのでし
ょうか?
太平洋戦争で唯一、日本国内において一般住民が地上戦を体験し、20 万人を越す戦死者
のうち約半数に近い、9 万 4000 人余りの戦死者が一般県民や子どもだったそうです。そ
の沖縄戦の組織的戦闘の終結は軍司令官の自決とされているそうです。司令官の自決した
日が6月23日未明だったとされ、その節目の日を「沖縄慰霊の日」として制定したそう
です。
そんなことも知らずに平和行動に参加し、実際に戦跡を自分の目で見て、生存者の方や
平和の語り部継承者の方から話を聞き、沖縄で起こっていたことを知り、戦争の悲惨さを
感じとり平和のありがたさを再認識しました。
沖縄には真の平和はまだない事も目の当たりにしました。嘉数高台から見た普天間飛行
場がそれでした。宜野湾市の中央部に位置し、航空機騒音の発生や航空機墜落の危険性な
ど沖縄が抱える米軍基地問題の象徴のような存在でした。
平和行動へ参加し戦争の悲惨さを感じ取った一人として、平和のありがたさを多くの人
に語り継いでいきます。
高台公園から見た普天間飛行場
- 12 -
平和行動 in 沖縄に参加して
伊勢崎地協(JAM/関口精機労組)
星野 秀彦
今回の平和行動へは伊勢崎地協枠として参
加させて頂きました。ちなみに平和行動への参
加は、広島、長崎、根室に続き 3 回目となりま
す。
今までにも戦争の悲惨さを体験学習してき
ましたが、平和オキナワ集会に参加して感じた
ことは、沖縄戦では空襲だけでなく、米軍との
直接対決、地上戦の恐ろしさと悲惨さを知るこ
とが出来ました。
語り部の話曰く、米軍に捕まれば、「敵に捕
まると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺さ
我々の電灯だけが頼りに。
れる」と住民は恐怖心を植え付けられたとのこ
とです。この様な背景下で、戦時中、語り部の祖父がカミソリで妻や息子、娘の首を切り
自分達も首を切って自殺を図ったものの、本人と妻は米軍に救出されて生き残り、子ども
たちはその場で絶命したとのことです。その後、生き残った祖父母は、戦後も自分の子ど
もを殺したという罪を一生背負い続けて生きてきたと言う悲話がされました。私も家族を
持つ身として、その行為に及ぶときの心境は計り知れないものを痛切に感じました。
二日目は、糸数アブラチガマ洞穴[がま]を見学しました。初めは日本軍の陣地壕とし
て使われていましたが、その後は、沖縄陸軍病院の分室として利用された所です。がまに
入るまでのイメージは、観光地の鍾乳洞的にライトアップされているものと思っていたと
ころ、入る前にヘルメットと懐中電灯を持たされました。入り口付近は狭くヘルメットを
かぶっていたから良いものの、頭を何度もぶつけ、足下を懐中電灯で照らしながら進む状
況でした。場所によっては広い空間が有りましたが、参加者全員で照明を消すと過去には
体験したことのない、まさに真っ暗闇となっていました。広
い空間のところでライトを消したので写真を撮って見まし
たが、ストロボを焚いても反射するものもなく、真っ暗な写
真が一枚撮れていました。この闇の中で敵の攻撃を受けたこ
とを想像すると筆舌に尽くし難い恐怖だったと思います。こ
の[がま]の話で気になったことは、軍人は[がま]の真ん
中の安全な場所が確保され、住民は出入り口の一番危険な場
所におかれたとのことです。戦時中と言う中においても、
「軍
は住民を守らない」と言うことで言えば、しわ寄せは弱いも
ののところへ来ると言うことです。
その他、平和祈念公園やひめゆりの塔。三日目は首里城な
どを見てきましたが、今回感じたことは、広島・長崎は一瞬
のうちに廃墟となり、その後遺症に苦しむ大変さを見てきま
アブチラガマ資料館内
したが、沖縄では、直接の攻防で本土を守るために最後の一
人まで戦えと言う軍からの命令により、軍人はもとより、女・子ども・年寄りまで、戦い
や逃げることを強いられるという意味で、まさに敵と向かい合って戦う戦争の恐ろしさを
実感しました。この体験を自分なりに子どもや職場に話していければと思っています。
最後に、全ては教育や道徳のありようで、平和は継続出来るものと信じております。
- 13 -
平和行動 in 広島
参加者名簿
参加者11名
№
氏
名
さかい
ひろゆき
ねぎし
あきら
1 酒井 宏幸
2 根岸
たかくさぎ
章
けいぞう
3 高草木
さとう
4 佐藤
かんだ
5 神田
はやし
6 林
かずこ
和子
こうじ
浩二
おさむ
治
はちす
ひでゆき
しろた
せい じ
かねまき
じゅんぽう
7 蜂須
8 城田
9 印牧
あ
べ
10 阿部
まつもと
11 松本
*
啓造
英之
精治
淳峰
かずひこ
和彦
しん
伸
所
属
自動車総連
電機連合
電機連合
電機連合
電機連合
電機連合
JAM
電力総連
情報労連
連合群馬
連合群馬
このパンフレットに記載されている名簿は、2007平和行動in広島の目的以外で利用しないようお願いいたします。
自動車総連/ミツバ労組
酒井 宏幸
8 月 4 日∼8 月 6 日の 3 日間、連合群馬 2007 平和行動IN広島に参加させていただき、
平和の素晴らしさを改めて感じ、平和である事の大切さ、平和への思いが強くなりました。
この平和行動に参加する前は、戦争は悲惨な出来事である。そして、二度とおこしてはい
けない事、くらいの知識しかなく、戦争に関する事はほとんど知らない状態でしたが、こ
の 3 日間で、色々な知識を身に付け勉強する事ができました。
1945 年 8 月 6 日、午前 8 時 15 分、広島に世界で初めてとなる原子爆弾が投下され、熱
線と、爆風、恐るべき放射線により一瞬にして 14 万人もの尊い命を奪った。その爆発の
すごさは、爆発点の温度摂氏百万度以上にも達し、百万分の数秒後には周囲の空気が白熱
状態に輝く火球が現れ、爆心地の地表面の温度は、三千度∼四千度にも達したそうです。
そんな信じられない、想像もできない威力を持った原子爆弾ですから、その時の衝撃はと
ても大きなものだったのでしょう。
実際に被爆にあった方からの貴重な話を聞く事ができました。原子爆弾が投下された街
は一瞬にして赤く火の海となり、何もかもが焼かれた状態になり、人の顔は、自分で自分
の顔を認識できないほどただれ、体中の皮膚がたれ落ち、衣服は原形をとどめないほど焼
けたそうです。そんな熱さの中ですから、熱さから逃れる為に人々は川に飛び込んだ。し
かし、川に飛び込んだとしても体には大きな
ダメージを受けている状態であり、川の中で
亡くなった方もいて、川は死者でうまるほど
いたそうです。かろうじて死をまぬがれた人
も体中に痛みがあり、生きているのが辛く、
死者をうらやむほどの心境だったそうです。
こんな悲惨な出来事が 62 年前におきてい
た事を実際に被爆地広島に行って勉強する事
ができ、貴重な体験となりました。人間は、
やな出来事は忘れようと努力をしますが、こ
の広島のやな出来事は一生忘れてはなりませ
ん。このやな出来事、事実を一人でも多くの
池田 精子さんの被爆体験談を聞く
人達に伝えていこうと思います。
「2007 連合平和行動 in 広島」連合群馬派遣
電機連合/三洋労組マニュファクチャリング支部
根岸 章
8 月 4 日から6日にかけて、
「2007 年連合群馬平和行動 in 広島」に参加させて頂きまし
た。初日は、広島県立総合体育館で核兵器廃絶 2007 平和ヒロシマ大会」で折鶴の献納を
させて頂きました。また被爆者からの訴えと言うことで、坪井 直さんより原爆投下後の
状況の説明があり、広島に投下された 1 個の原子爆弾により、熱線と爆風、恐るべき放射
線により一瞬にして14万余の尊い命を奪った事実を「広島・長崎 1945 年 8 月の記録」
(DVD 上映)と共に語られ、当時の恐ろしさが心に刻まれました。
2 日目のぴーすセミナーでは、平和の語り部として池田 精子さん(当時 12 歳)の「被
爆体験の証言」を聞き、爆心地から 1.5km での状況を細かく説明されました。また、午後
にはピースウォークに参加し原爆ドームからスタートし慰霊碑等の解説を受け、原爆被災
- 1 -
の状況を体感しました。その後、広島平和記念資料館では数々の資料・写真・展示品を見
学し、その中には語りようもない悲惨なものもあり心も痛みました。
最終日の 8 月 6 日 8:00 からの平和祈念式典では、過去最多の 42 カ国の駐日大使らが参
加し、広島市民からの平和への祈りが国際政治を動かそうとしていると感じました。
3 日間を通して、62 年前の 8 月 6 日 8 時 15 分広島に原爆が投下され「地獄」の街から、
どんなに苦しくつらい時でも希望を持ち続け、街をつくり直し平和な街へとなった今こそ、
戦争・核兵器廃絶、そして広島の平和行動で学んだ平和への思いを、身近なところですが、
子どもたちに語り継いで行きたいと思います。
電機連合/三洋労組マニュファクチャリング支部
高草木 啓造
今回、初めて『平和行動 in 広島』に参加し私の戦争、原爆、平和に対する知識・意識の
薄さを痛感した。
「核兵器廃絶 2007 平和広島大会」では原爆が投下された当時の映像が上映され、被爆に
よって全身やけどを負った人たちの悲惨な姿に
ショックを受けた。また、その後行われた被爆
者からの訴えでは先程の映像を越える原爆投下
時の実体験を聞き戦争の悲惨さ、無意味さを心
に刻み込まれた。
平和記念公園の慰霊碑を巡るピースウォーク
では、平和の尊さを伝えるため懸命に説明をし
てくれた人たちの言葉に戦争・平和に対する思
いを再認識することができた。
この活動に参加し、今から62年前、この地
に起きた出来事を決して忘れることなく後世に
ピースガイドと歩く平和公園
伝えていこうと思った。
「2007連合平和行動 in 広島」
電機連合/三洋労組マニュフャクチャリング支部
佐藤 和子
8月4日から 8 月6日まで「2007連合平和行動
in広島」に参加させて頂きました。
初日に「核兵器廃絶2007平和ヒロシマ大会」に参加
し、折鶴献納を行い、被爆者の訴えとし坪井 直(当時
20 歳)さんから原爆投下後の説明があり、たった1個
の原子爆弾によってすべてのものが熱風や爆風で壊さ
れ、人も一瞬で亡くなり本当にすごい事が62年前に
起きたのだと改めて知らされました。
2日目のぴーすセミナーでは池田 精子(当時 12 歳)
さんが被爆体験の話をしてくださいました。学徒動員
の作業中に被爆をして大火傷し今までに、十数回の手
術を受けてきた事、また生きている限りこの悲惨な事
原爆の子の像の下に折鶴献納
- 2 -
を色々な人々に伝えていかなければいけないと語ってくれました。また、午後のピースウ
ォークでは、連合のボランティアの人達から説明を受けながら慰霊碑をめぐりました。そ
の中で原爆の子の像のところでは 2 歳で被爆し12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さ
んの同級生たちが呼びかけ、原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑が作ら
れたこと、今もなお小中学生や大人から折鶴が献納されている事、一羽一羽に願いが込め
られている事に感動を受けました。
最後の日は朝から雨でした。でも式典のころにはやみ、多くの人達が祈念式典に参加し
ました。心は一つ「戦争・核兵器のない世界を・・・」この平和活動で学んだことを私た
ちの子どもたちや戦争を知らない大人たちにも語り継いでいかなければと思います。
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
神田 浩二
2007年連合平和行動in広島へ、連合群馬派遣団の一員として、初めて参加させて
いただきました。これまで学生時代に戦争の事に対しては色々と学び、それなりの認識は
持っているつもりでいましたが、実際に被爆された「坪井直さん」、「池田精子さん」の話
を聞き、平和記念資料館での展示物を見た事で核兵器の恐ろしさを再認識することができ
ました。
最近では北朝鮮による核実験、前防衛大臣による失言など世の中では、まだまだこの現
実の認識が薄いように感じます。
世界中には、今もなお2万7千発余りの核兵器が存在すると言われています。これらの
核兵器が未来永劫に使用されることの無いよ
うに唯一の被爆国の国民として被爆経験を風
化させることなく、世界平和の尊さを後世に
語り継いでいく義務を痛感いたしました。
戦争は、悲しみ以外を生み出すことはあり
ません。この広島での3日間は、平和とは何
か、戦争がもたらす不幸を考えさせられる貴
重な経験となりました。
世界に存在する核兵器が無くなること、世
界中が平和で過ごせる日がくることを願い感
平和ヒロシマ大会の様子
想とします。
広島に行って感じたこと
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
林 治
自分は戦後に生まれ戦争を実体験したことはない。湾岸戦争なども起こってはいるが、
所詮TVの中の話というイメージが強かった。そういう状況の中で平和行動ときいてもぴ
んと来ないのが本当のところで、平和は普通にあるものという認識でいた。
しかし、実際に原爆ドームを生の目でみた印象はかなり強烈なものがあった。なんと言
っていいのか言葉では表せないのが口惜しいが心に訴えかける何かを感じたのは確かであ
る。また、平和ヒロシマ大会やピースセミナーで、実際に被爆された方の話を聞いたこと
や広島平和記念資料館で被爆者が書いた絵を見たことで胸が熱く感じたことも事実だ。
(こ
- 3 -
の語り部たちも現在高齢であと何十年もしたら実際に被爆された人の生の話を聞くことも
なくなるかもしれない。平和行動を続けていく上ではこれは何とかしていかないといけな
い問題では、と強く感じた次第である)
この平和行動で感じた思いは、また普段の日常に戻ると薄れてしまうかもしれないが、
平和をなくさないためにも何らかの行動に活かして行きたいと思う。
「2007連合平和行動 in 広島」 参加感想文
JAM/明星電気労組
蜂須 英之
この度、8 月4日から6日の3日間「2007連合平和行動 in 広島」に参加させていた
だきました。
10 年以上前になりますが、広島へ一度、長崎へ一度参加させていただいており、今回
で被爆地を訪れるのが、3回目となります。
以前参加させていただいた時は、まだ自分も若かったこともあると思いますが、ただ漠
然と原爆の恐ろしさ、戦争の悲惨さを感じただけで終わってしまい、この時期になると思
い出すだけで、日常では何も出来ぬまま時間が過ぎ去ってしまった様に思われます。
式典やピースウォーク等に参加し、核兵器の恐ろしさ、平和の尊さを再認識しました。特
に、語り部の方々の被爆体験は、非常に印象に残っています。
ただ、62年が経ち戦争を経験された方々、被爆された方々は高齢になり、自分達の子
ども世代にどの様に伝えていけばいいのだろう?と考えさせられました。写真や映像は見
ることが出来る。自分が見たこと、聞いたことは、伝えることは出来る。しかし、本当の
戦争・原爆の恐ろしさ・悲惨さ・平和の大切さを、戦争を経験していない自分にどこまで
伝えることができるのだろうか?
そんな悩みを抱えていましたが、偶然、
広 島在住の青年達と話しをする機会があ
りました。話の中で青年達は、「自分達も
当然原爆は経験していない。ただ原爆が落
ちたという事実を伝えていく必要がある。
その為には、まずここ広島にきて、そこで
何かを感じてもらえればいいのではない
か。それが第一歩。」と話されていました。
自分の経験・知識を人に話すことは重要で
はあるけれど、やはりそれ以上にその場所
に行き、直接自分の目・耳で感じることが
ピースガイドの説明を聞く参加者
必要なのだ、と思いました。
今回平和行動に参加し、平和の重要性を自分の周りの人達に伝える必要性を感じ、さら
に実際に訪れることの大切さを感じました。連合群馬では親子派遣を実施していますが、
更なる活動をお願いしたいと考えます。自分自身も、早い時期に自分の子どもを広島へ連
れて行きたいと思います。
電力総連/東電労組
- 4 -
城田 精治
今回広島へは、初でした。教科書や、TVでしか見たこともなく「原爆ドーム」を見た
時は驚きを隠せませんでした。
「戦争」ということは、過去にも勉強会などに参加し学ぶこ
ともありましたが、今回は「原爆戦争」という恐ろしさを学ぶことが出来ました。
被爆者の体験談を聞いておりますと、現代社会からでは想像ができません。原爆の恐ろ
しさ、戦争の恐ろしさについて後世に残す為にも、平和行動や学習会などは必要だと感じ
ました。
現在でも原爆被爆者の方達が入退院を繰り返しながら語り続けている姿を目の当たりに
すると「平和への願い」が益々強くなり、
「原爆の虚しさ」をつくづく感じた今回の体験で
した。
「2007 平和行動in広島」に参加して
情報労連/ドコモ本部群馬直轄分会
印牧 淳峰
今回、参加させていただいた広島での平和行動の中で、最も印象に残ったことは、実際
に被爆した経験のある、坪井さんや池田さんといった『平和の語り部』の方々の生の声で
した。
爆心地からあまり遠くない場所で被爆し、幸運にも命は助かったお2人は、精神的にも
肉体的にも想像できないほどの苦痛を味わい、本当は思い出したくないような経験である
にも関わらず、戦争の無い現代において戦争の記憶が風化しないよう、
『平和の語り部』と
して話をする姿を見て、私も何か平和活動が出来ないものかと考えさせられました。
原爆が投下された当時に生まれていなかった私にとって、戦争の悲惨さ・原爆の恐ろし
さを言葉で伝えていくことは出来ませんが、今後、自分の家族や友人に、広島や長崎に直
接行って、戦争の記録に触れることや、
『平和の語り部』の話を聞くことを勧めていきたい
と思います。
最後に、連合群馬の事務局の皆様には、今回の平和行動で大変お世話になり、本当にあ
りがとうございました。
献納する折鶴を手に大会会場へ
平和行動 in 長崎
- 5 -
参加者名簿
参加者
№
氏
やまだ
1 山田
名
ひろし
裕司
うちだ
あゆむ
せきや
だい ご
2 内田
3 関谷
こばやし
歩
大吾
ひさし
4 小林
久師
いしかわ
ただよし
はしもと
かずよし
みのわ
たける
すずき
なおし
こじま
たかゆき
5 石川
6 橋本
7 蓑輪
8 鈴木
9 小島
きもと
10 木元
忠好
和好
健
直
隆幸
かずま
和眞
まるやま
みつる
あらい
さとし
11 丸山
12 新井
*
12名
満
智
所
属
UIゼンセン同盟
JPU(現JP労組)
JPU(現JP労組)
JPU(現JP労組)
電力総連
電力総連
情報労連
基幹労連
桐生地協
富岡地協
連合群馬
連合群馬
このパンフレットに記載されている名簿は、2007平和行動in長崎の目的以外で利用しないようお願いいたします。
- 1 -
長崎平和行動に参加して
UIゼンセン同盟/フレッセイ労組
山田裕司
私達は、8月6日から8日の3日間、長崎へ組合員の方が折られた千羽鶴を平和公園内
にある、平和の泉と平和の像の間に設けられた場所に千羽鶴に世界平和を祈りながら献納
して来ました。近くに原爆落下中心地の碑があり、そこにも多くの千羽鶴が献納されてい
ました。また原爆資料館に寄り、原爆当時の長崎の様子を知ることが出来ました。館内に
は、原爆が投下された11時2分で止まった柱時計があります。そして解けた6本の瓶や
熱線により焼け焦げた作業服や戦闘帽等一つ一つを見
ることにより原爆の恐ろしさを感じました。特に兵士が
屋上から降りて来たとき熱線の直射を受け、光が当たっ
た部分は塗料のコールタールが剥げ、影の部分だけが黒
く残った壁は一瞬の凄さを物語っていました。
今回、長崎の惨状を写真ではあるが、目の当たりに出
来た事は貴重な体験であり、平和の尊さを強く感じるこ
とが出来ました。この思いを大切にすると共に、家族や
仲間に伝えていかなければならないと思いました。
平和公園に刻まれた犠牲者数
2007 平和行動in長崎に参加した感想
JPU/JPU藤岡支部
内田 歩
私は、平成19年8月6日から8日にかけてJPU藤岡
支部代表として 2007 連合平和行動in長崎に参加しまし
た。
8 月 6 日に、長崎空港に到着したとき、あまりの景色の
美しさに感動し、とても62年前の 8 月 9 日に原子爆弾が
投下され、あたり一面を焼け野原にし、7 万 6 千人もの尊
い命が失われた都市だとは思えないほどでした。
しかし、2 日目、平和公園に行き、折鶴を献納し原爆資
料館を見学したとき、62 年前に現実に起こった悲惨な出来
事を実感することができました。そこには、原爆により全
身火傷を負い、助けを求める人の絵や高熱により溶けたガ
ラス瓶、あたり一面焼け野原になった写真などが展示され
ていました。それを見たとき、戦争の悲惨さ、原子爆弾の
ダンボールには献納する折鶴が
恐ろしさをあらためて痛感しました。人が人の命を、一瞬
にして、しかも残酷に奪うことができるのかと愕然としました。
そして、「核兵器廃絶 2007 長崎大会」に参加し、実際に被爆経験のある方の話を聞き、
あらためて平和の大切さを考えさせられました。体中に火傷を負い、助けを求める人々、
水が欲しくて汚れた水を飲む人たち、そして、放射能による人体への後遺症などどれも戦
争を知らず平和な時代に生きる私たちには、想像もつかないことでした。
大会の中で、高校生平和大使の人が言った言葉が印象に残っています。
「私たちは、微力
だけど無力じゃない。
」この言葉を聞いた時に、今ある日本の平和は、多くの人たちの努力
によって築き上げられたものなのだと思いました。
- 2 -
一人一人の力は小さいけれど、みんなが恒久の平和を望み、力を合わせれば、二度と長
崎や広島のように原爆で苦しむ人は無くせるでしょう。そして、戦争の無い平和な社会を
創ることができるでしょう。
そのためにも、戦争経験者や被爆体験者が減少していく中、戦争や原爆の恐ろしさ、平
和の大切さを考え行動する、このような平和活動を、風化させることなく継続していくこ
とが大切だと思います。
JPU/JPU高崎支部
関谷 大吾
8 月6日、今回私は、連合群馬の一員として、初めて長崎の地に行くことになりました。
広島には、学生のときに、修学旅行で行ったことがありましたが、長崎は初めてだったの
で今回の旅は、とても意欲的に参加させていただきました。
長崎に行くに当たって、学生時代の知識や情報は、常識程度、理解していたつもりでし
たが、その地で生の被爆地を見たり、被爆者の体験話を聞いたりして、今まで自分が考え
ていた以上に凄惨で壮絶な出来事であったことを思い知らされました。
人類はなぜこのような恐ろしい核兵器を生み出してしまったのか?科学者の又は人間の
欲や探究心には限界がないのかもしれない。だから、いくらそれが危険な物でも、より優
れたものを作り出そうという欲求にかられて作ってしまうのかもしれません。
でも。そのままでよい訳ではありません。戦時中も広島や長崎に、原爆を落とさずにす
んだかもしれないと知りました。一部の人間の意見で落とさせてはいけません。
私は戦争体験者ではありませんから、当時のことをありのままに伝えることはできませ
ん。しかし、大事なことは、ありのままは
分からなくても、諸先輩から聞いたことを
私達も後世に伝えていかなければならな
いと思います。一番恐ろしいことは、戦争
を知らない私達や後世の人々が、この事実
や戦争に対して無関心で、何も考えなくな
ることだと思います。そういう人間にはな
りたくないです。
この旅を通して私は、平和に慣れ過ぎて
いて忘れていたことを思い出させてもら
い又、再認識することができました。考え
る機会を頂けてありがとうございます。ま
た機会があれば参加したいと思います。
原爆落下中心地 標柱の前で
JPU/JPU高崎支部
小林 久師
8月8日、ピースウォークに参加して、原爆「落下」中心碑を見て、この中心碑の上空50
0メートル付近で人類史上2番目の原爆が炸裂したと聞きました。時間は午前の11時2
分、それは多くの人々が、待ちに待った昼食をとったりしながら気を抜いていた時間だと
考えると私は本当にやりきれない気持ちで胸が苦しくなりました。そしてその中心碑の上
空500メートルを見ながら、
「ここにファットマンが炸裂したんだ。」と改めて実感した。
- 3 -
原子爆弾による被害、死者73,884人、熱線、火災、爆風、放射線、どれをとっても
良いことはない。
現在まだ世界では核開発が行なわれている。このようなことを私達は許してよいのでし
ょうか。これは私達一人ひとりが核開発に反対するという意欲がなければ核は無くならな
いと私は思いました。
2007連合平和行動 in 長崎に参加して
電力総連/東電労組
石川 忠好
平成19年8月6日∼8日『2007平和行動in長崎』に参加させて頂きました。
平和行動2日目には、平和公園・原爆資料館・原爆落下地点等を見学しました。
今やその存在を抜きには世界平和について語れないほど人類にとって大きな脅威となっ
ている『核兵器』
。その核兵器の攻撃を実際に受け、被害を体験している場所はこの地球上
に2カ所しかなく、その2カ所がどちらも日本にありその1カ所が長崎であります。
平和公園を訪れると、まず目にはいるのが『平和の泉』
とその前にある石碑でした。
その石碑には
『のどが乾いてたまりませんでした。
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました。
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。』
平和の泉に刻まれた詩碑
渇いた喉を潤せないまま死んでいった方々の喉をいつま
でも潤しているかのように石碑の後ろには大きな噴水があります。
平和公園の一番奥には有名な『平和祈念像』があります。右手は原爆を、左手は平和を、
そして表情は追悼の意を表しているそうです。
原爆資料館を訪れると、原爆の恐ろしさを改めて思い知らされました。原爆投下により
人々も建物も多くの被害を受けました。それは、熱線・爆風・そして放射能によるもので
した。
『熱線』その温度はガラスの瓶をドロドロに溶かしてしまうほどで、爆心地付近では4
000度、1km離れても1800度という猛烈な温度に達します。この熱が人体に尋常
ではない火傷を及ぼし、周囲を火の海にしました。
『爆風』猛烈な爆風は爆心地付近の建物が無くなる
ほど吹っ飛びました。割れたガラスの破片は飛び散り、
樹木や壁などに食い込み、それを浴びた人も多くいま
した。
『放射能』当時は放射能の恐ろしさを誰もが知らな
かったのです。放射能は身体を通過して内部の細胞を
破壊します。そして、時間の経過と共に髪が抜けたり、
内出血を起こしたりして死に至ります。また、数年経
ってから白血病やガンで亡くなるなど後遺症も引き起
こします。
・・・こんな恐ろしいものを使うなんて・・・
戦争の恐ろしさをつくづく感じました。
長崎平和祈念像
- 4 -
平和行動2日目、
『2007平和ナガサキ大会』に参加しました。この大会の中で高校生
平和大使の報告と決意が発表され、その中の『私たちの力は 微力だが、無力ではない。1
人 1 人の力がひとつになった時に大きな力となる。』と訴える言葉が今でも心に残っていま
す。戦後62年がたった今、現役高校生が世界の平和のため力を合わせて活動している事
に感動したと同時に、あの現職大臣の『原爆はしょうがない』発言を思いだし改めて憤り
を感じました。
この平和行動in長崎で学んだこと、聞いたことを通して『平和の大切さ』を一人でも
多くの人に伝えて行きたいと思う。
「2007連合平和行動 in 長崎」に参加して
電力総連/東電労組
橋本 和好
今回私は初めて連合の平和行動に参加しました。長崎を訪れるのは2回目でありました
が、被爆地を訪れたのは初めてでありました。
平和公園や爆心地、そして資料館で破壊された街や原爆の実像を伝える貴重な資料など
を見て、62年前の悲惨な光景が目に浮かびました。
一瞬にして犠牲となった7万人余りの人々、破壊され
メチャクチャになった建物・放射線が被爆者や被爆二世・
三世にまで長きにわたり影響を及ぼしているなど、生々
しい被爆状況を実感させられました。
「今も争いが絶えないこの世界・・・。人間とは何と
愚かな生き物であろうか。人間って一体何?」と嘆き
を感じる自分。
その一方で、この悲惨な状況を風化させないよう後世
に伝えるんだという老若男女の強い意志と輪、そして、
木片に平和の願いを込めて
その行動の力強さに心打たれる自分。
7日に開催された
「核兵器廃絶 2007 平和ナガサキ大会」
の中で高校生平和大使を勤める女子高生が、「私たちの力
は 微力だが、無力ではない。1 人 1 人の力がひとつにな
った時に大きな力となる。」と訴える言葉に参加者の誰も
が感動させられました。
私も感動させられた一人ですが、この透き通った言葉大
切に思い、大きな力にいつか変えられた時こそが、真の世
平和ナガサキ大会の様子
界平和が訪れた時だと感じました。それはまだほど遠い未
来なのかもしれませんが・・・。
長崎はとても暑く感じましたが、平和行動をつくりあげていく人たちや参加者はもっと
熱く感じました。実際にこの行動に参加して、
「見て・聞いて・感じて」戦争や平和につい
て改めて感じさせられました。
戦後62年が経過し現代の我々は平和ボケしています。実感がないかもしれませんが、
幸せすぎる生活を送っているのでしょう。今回私は「参加」という一番小さな行動ではあ
りましたが、今回感じたことを職場の人や友人・家族に伝えていきたいと思いました。そ
して、この微力を大きな力に変えるために出来るだけ多くの人にこの行動に参加して欲し
いと強く感じました。
- 5 -
情報労連/NTT労組
簑輪 健
1945 年 8 月 9 日午前 11 時2分、長崎市上空 500mで炸裂した米軍の一発の原子爆弾が
7万人余りの尊い命と長崎の街を消し去った。
我々連合群馬派遣団 12 名は、ギラギラとした太陽が照りつける中、平和記念公園で千
羽鶴を献納した。初めて見る平和記念像は想像していたものよりも大きく、長崎の空のよ
うに青かった。
その後、原爆落下中心地から長崎原爆資料館へ向かった。
ここでは、全身火傷で横たわり、来る事のない救援を待つ
多くの被災者や、息絶えた幼子を背負い直立不動で何かを
見つめる少年の写真が目に焼きついた。
現在、被爆一世の方が高齢化し、地獄の体験談を語り継
げる人が少なくなっているという。その一人「中村キクヨ」
さんの訴えを聞いた。爆心地から 5.8km離れた地点で 21
歳の時、被爆し現在 83 歳になる。先年 52 歳になる息子が
突然原爆病(白血病)を発症し亡くなった。
「私が息子を殺
してしまった。」と自分を呪ったという。「息子の為にも、
原爆で亡くなった多くの人たちのためにも、被爆体験は死
ぬまで背負っていくしかない。」と涙ながらに語ってくれた。
被爆国に生きる我々に何が出来るのであろうか。核廃絶
ナガサキからの平和アピール
を訴える高校生の平和大使が言った一言が心に残る。
「私たちのやっていることは微力ではあるが、無力ではない」と・・・。
「2007 平和行動 in長崎」 参加における所感文
基幹労連/全石川島播磨重工労組
鈴木 直
毎年8月6日、9日、そして15日は新聞テレビ等を通じて「今年もこういう時期かァ。
1年は早いなァ」と思う程度の人が多いと思う。実際に自分も同様で、特に何をするでも
ない。
参加する前は、毎年行っているとのことで連合
主催の平和行動に関しても、一つの企業組合が何
故ここまでする必要があるのか、あまりピンとき
ていなかったのも、恥ずかしながら事実である。
しかしこの3日間の見聞で、目的の理由が理解で
きた気がする。
平和公園周辺のモニュメントや残存物、そして
原爆資料館。「悲惨」という言葉だけでは言い表
すことが出来ない事実を目の当たりにし、それを
決して忘れることはない程、衝撃的なものであっ
原爆落下中心地公園でガイドの説明を聞く
た。
また、連合群馬の組合員が心をこめた折鶴の献納を含め、溢れんばかりの各種団体によ
る献納された折鶴の列は、とても色鮮やかで見事であった。あらためて平和を祈念した。
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すごく印象に残った言葉がある。総合体育館で行われた「核兵器廃絶 2007 平和長崎大
会」のイベントで、被爆した女性の体験談も生々しかったが、国連に平和大使として派遣
されるある女子高校生が挨拶の中で言った。 「私たちは微力だけど無力ではない!」我々、
労働組合という組織の活動の原点は組合員やその家族が「幸せになる」、「幸せでありつづ
ける」ことであり、そのために一人一人が何をすべきか考えさせられた気がする。
いづれにしても、この平和行動、有意義な3日間であった。また連合群馬事務局の新井
さんをはじめ各単組の方々11 名の皆さんと交流できたことも大切な思い出になりました。
それにしても長崎は暑かった。1945 年8月 9 日も同様に暑かったと聞いた。
「『ノーモア・広島・長崎・被爆者』もっと多くの参加者を」
桐生地協(自治労/桐生市労連)
小島 隆幸
日本に原爆が投下され、終戦となった時から 62
年が過ぎ、日本・広島・長崎は復興を果たしたが、
未だ原爆の傷跡は残っている。
しかし、そのことを忘れずにいる日本人はどれだ
けいるだろうか。今の平和は、戦争で、原爆で犠牲
になった人たちの上に成り立っている。その事を、
私たちは理解し、覚えていなくてはならない。そし
て、戦争をおこしたり、原爆を使うことのない世界
にしなくてはならない。
「2007 平和ナガサキ大会」で歌った曲の詩を自分
平和への思いを歌に託して
のこととして考え、声が詰まり、歌えなかったことをいつまでも忘れない。
『長崎は忘れないあの日の悲惨な出来事を 全身ヤケドの母親のこの子だけは助けてと叫
ぶ声を あなたの愛をください・・・』
多くの人が連合平和行動に参加し、平和に対する思いをその目で、その肌で、強く感じて
ほしい。
『2007連合平和行動 in 長崎』に参加して
富岡地協(基幹労連/全石川島播磨重工労組)
木元 和眞
8月6日に長崎入りをして、鎖国時代に唯一西洋に
開かれた窓口であった、長崎の顔を確認した。
翌日の7日には連合群馬の組合員・県民の方が、平
和への祈りをこめ折った鶴を長崎平和公園に献納し
て、原爆落下の中心地・資料館・片足鳥居などを見学
しました。
資料館で被爆体験者のご婦人が説明で『米軍は小倉
に投下させる予定だったが、小倉上空は雲があり視界
平和長崎大会会場内で
が悪かったので・・・長崎に投下された』と、聞いた。
この時に色々な事を考えさせられた。
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その後、長崎県立総合体育館のメインアリーナで行われた『核兵器廃絶 2007平和
ナガサキ大会』に参加しました。
大会では、伊藤前長崎市長さんに黙祷を捧げた事や、原爆被爆者の方が体験談を話して
くれた。原爆そのものを体験された方の話は迫力があり、心を打つものがあり、頬をスー
ットひとすじの涙が流れ、平和のありがたさを感じさせられた。
昨年の高校生平和大使の挨拶で、
『一人ひとり
は微力ではあるが、無力ではない』と、話して
くれた時に、私は、先生(先に生れた者)とし
て、この子達が、平和の必要性をしっかりと考
え行動をしていることを頼もしく思えた。
最終日の 8 日は、ピースウォークに参加して
連合長崎の方のガイドで長崎平和公園を案内し
てもらい、群馬に帰ってきました。
今回、長崎に行って見て来た現実を私なりに
『微力ではあるが、無力ではない』事を実践し
平和長崎大会会場外で
ていきたい。
「戦争のない平和な社会」を次の世
代にしっかり、たすきリレーが、出来るように、行動していこうと考えている。
ただ、企業戦士であることも事実であり。競争社会の中で希薄になってしまった、人と人
のつながりを組合の活動をとおして、強力なものにしたい。今回、お世話になった連合長
崎の仲間に感謝します。彼らは、毎年、全国の仲間を受け入れ、平和の尊さを、たすきリ
レーをしていた、2007 年の夏は・大変に暑い夏・わすれる事がない夏になりました。
2007連合 平和行動 in 長崎 に参加して
連合群馬(UIゼンセン同盟/群馬県支部)
丸山 満
山と海の町長崎は活気に溢れ、人も車も忙しそうに動き回っていた。62年前に原爆が
炸裂して、遺体とガレキが町一面に横たわっていたことを想像することすらできない様子
である。しかし、平和公園や原爆資料館に一歩足を踏み入れると、思わず姿勢を正さざる
を得ない厳粛な雰囲気があたりを包んでいた。
「水が欲しくて、とうとう油が浮いたまま飲みました」と綴られた平和の泉の碑、高く掲
げた右手と大きく横に伸ばした左手で原爆の脅威と平和への願いを伝える平和祈念像、焼
けこげた遺体の脇で呆然と立ちすくむ女性や子どもたちの写真、上空 500m の爆心空間を
にらみつけるように毅然と立つ「中心碑」。人間の愚かさと戦争の無惨さを感じざるを得な
かった。
何もかも破壊された惨状の長崎の町で、人々がいち早く復興に取り組む姿も同時に教え
られ、人間の力に新たな感動も得た。爆心地近くの教会の中で奇跡的に残った鐘は焼け野
原の丘に再建され、励ましの鐘の音を鳴らし続けた「長崎の鐘」、満足な医薬品も無い病院
で被災者が秩序を保って治療を待っていた。
「2度と原爆を使わせてはならない」
、その思いを強くした。
※高校生の平和大使:
「核兵器の廃絶を願い、すべての核実験に反対するネットワーク」が 98 年から
派遣。被爆地長崎の若者の真剣な願いとして国連欧州本部を訪問。長崎の高校
生が自主的に取り組んだ 1 万人署名を届けることが目的の一つである。
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平和行動 in 根室
参加者名簿
参加者
№
氏
いいじま
1 飯島
か め だ
2 亀田
さ と う
3 佐藤
おおかわ
4 大川
わたなべ
5 渡辺
ほ り え
6 堀江
ひらやま
7 平山
かばさわ
8 樺澤
おし え
9 押江
は ま だ
10 濱田
や ま だ
11 山田
まつもと
12 松本
や ま だ
13 山田
*
14名
名
所
守信
もり のぶ
電機連合
なお や
電機連合
直哉
き
み
お
紀三夫
電機連合
真司
し ん じ
電機連合
すすむ
進
電機連合
邦昭
くに あき
電機連合
享志
きよ し
JPU(現JP労組)
伸行
のぶ ゆき
JPU(現JP労組)
重男
し げ お
基幹労連
光恵
みつ え
日教組
しげる
茂
化学総連
伸
しん
連合群馬
めりか
連合群馬
属
このパンフレットに記載されている名簿は、2007平和行動in根室の目的以外で利用しないようお願いいたします。
北方領土問題解決に向けて
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
飯島 守信
1.北方領土問題とは
北方領土は、日本人によって開拓され、日本人が住み続けた島々である。1945 年(昭和
20 年)8 月、第 2 次大戦後、ソ連軍が不法に北方四島を占拠し、当時北方四島に住んでい
た約 17000 人の日本人は、強制的に追い出され、以降今まで不法占拠が続く。
北方領土問題とは、我が国固有の領土である北方四島の返還を実現する事である。
2.北方領土問題の現状
問題解決に向けて、日露両国政府間で外交交渉が行なわれているが返還のめどは立たず
厳しい状態である。また、北方四島周辺海域での操業に規制があり、基幹産業たる漁業も
低迷している事や、日本漁船が銃撃を受け、犠牲者が出るなどの問題がある。
また、ロシアと日本の領土問題に対する認識の差があり、日本側との隔たりがある。日
本国内においても、北方領土問題に対する理解もまだ不十分であり、大きな問題の一つで
ある。
3.問題解決に向けて
問題を解決する為には、日露両国政府間での外交交渉を粘り強く継続していく事が重要
である。そして、その政府を動かすのは、我々
国民世論であり、北方領土問題に関心を持つ事
である。また、ビザ無し交流などによるロシア
と日本の領土問題に対する認識の差を埋める事
も重要である。
そこで、まず自分に出来る事は、元島民や地
元の方々の北方四島への想い。また、納沙布岬
から肉眼で観た国後島の違和感など、北方領土
問題の現状を正しく伝える事。そして、問題意
識を持ち続ける事であると考える。
最後に、北方四島の返還を信じ、また、平和
行動に参加された方々と交流がもてた事に感謝
芝生の上で北方領土を学ぶ
申し上げます。
2007 平和行動 in 根室 感想文
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
亀田 直哉
北方領土問題は国の課題だということを漠然とは認識していましたが、実際に北海道の
現地を視察し、元島民の方々の話を聞いたり、納沙布岬から北方領土を見るなど、体験や
学習を行ったことにより自分自身の問題として受け止め、北方領土問題は身近な問題であ
る、そして、このことを多くの人々に正しく理解して頂くための活動が必要なのだという
ことを強く感じました。根室にある施設には北方領土展やパネル展、啓発キャラバン、研
修会などが積極的に実施され、一人でも多くの人々に対しこの問題を正しく理解してもら
うための努力も見られました。
- 1 -
北方四島での血のにじむ苦労と努力で開拓した田畑、すばらしい自然や、海産物に恵ま
れた海、これらは全て日本固有の土地だということを、声を大にして訴え続けることが大
切であり、風化させないための活動をもっと積極的に行うことが必要だと感じました。
私の周りの人々がもっと北方領土問題に関心を持ち、返還活動に一歩を踏み出してもら
えるよう正しく伝えていきたい。そう思った平和学習会でした。
「2007平和行動in根室」に参加して
電機連合/三洋電機労組東京製作所支部
佐藤 紀三夫
広い大地、海の幸、山の幸、大自然に恵ま
れた北海道、根室市納沙布岬から石を投げる
と届きそうな緑豊かなきれいな島々、我が国
固有の領土、北方四島がある。
歯舞群島、色丹、国後、択捉の四島は戦後
ロシアの不当な占領によって、17,200 人もの
日本人島民が強制的に内地に引き上げさせら
れ、60 年以上経過した今もなお、返還されて
いない。
分科会に分かれての学習
北方領土問題は、日露交渉経過など歴史を
勉強しないと大変難しい問題である。実際現地では、ロシアによる水産資源などの弾圧的
摘発をうけ続け、数キロ先の境界付近では死者まで出ている。また、旧ソ連軍が行った占
領時の金品略奪などの話を聞くと、旧ソ連・ロシアに対し怒りを感じた。語って頂いた当
時小学生だった元島民も、現在は 70 歳を越えており、北方領土問題を風化させず、一日
でも早くふるさとへ帰れる日を望むところである。
納沙布岬の「希望の岬公園」には、国民の強い願いが込められた「祈りの火」が、返還
実現のその日まで、北方四島に向かって灯し続けられている。
今回、現地視察や研修で学んだ事を、周辺の人達に伝え、北方領土問題に対しての関心
と理解を深めて、国民一丸となって平和的解決、早期返還を推進して行きたい。
*(連)群馬参加者のみなさまには本当にお世話になりました。また、事務局のみなさま、
ご苦労様、ありがとうございました。
2007 連合平和行動in根室に参加して
電機連合/三洋電機労組マニュファクチャリング支部
大川 真司
初めて平和行動に参加をしました。北方領土が占拠されてから 62 年もの月日が流れて
いることを知り、北方領土問題の根深さを再認識することができました。22 日に訪れた北
方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)では、過去の歴史や自然についていろいろなセミナー
を聴講しましたが、特に印象に残ったのは、四島の貴重な海が密漁や乱獲の海となってお
り、カニやウニの枯渇が著しく進んでいるということ、またそういった水産物が根室海峡
の「見えない壁」をすり抜けて日本人の食卓に上がっているということでした。
そして翌日の納沙布集会では、本当に目の前(肉眼で見えるところ)に四島があり、あ
んな近くの島に自由に行き来できないのは変だ!あれは日本の島だ!と強く感じました。
- 2 -
集会の中でも元島民の方の話を聞くことができましたが、非常に感情のこもった口調の
訴えで、「ふるさとを還してくれ。」という切実な思いが伝わってきました。私たちにとっ
てふるさとは行きたいときに行ける場所というのが当たり前のイメージですが、元島民の
方にとっては、目の前に見える場所にあるのに、
すぐに行けないふるさとになっている悲しい現
実となっています。また自分たちではどうする
こともできない歯がゆい思いを毎日しているこ
とを考えると胸が痛くなる思いです。政治的・
経済的・その他いろいろな理由があるにせよ、
一日でも早く問題解決をし、四島の返還をして
もらいたいと思います。そして私も家族を連れ
て北方四島の旅をしたいものです。そのために
も、この問題を風化させないよう家族や仲間に
ノサップ集会会場に向かう
語り継いでいこうと思います。
北方領土返還要求 2007 年度『平和行動 IN 根室』に参加して
電機連合/三洋電機労組マニュファクチャリング支部
渡辺 進
今回初めて快晴にも恵まれるなか『平和行動 IN 根室』に参加させて頂きました。
参加する前は北方四島問題についてはある程度認識していましたが身近に感じ取ることが
無かった事に気が付きました。初参加に於いてはこの北方領土問題についての重要性を自
分自身再認識する事が出来ました。また 北方四島交流センターでのセミナーの中で毎日
新聞記者の方のお話を聞いた時に日本漁船問題(銃撃の背景)ならびに漁業の実態などを
詳しく説明いただきこれらの事の重大さおよび重要性を改めて思い知らされました。それ
から納沙布岬での平和集会参加にあたっては北方四島返還問題についての話の中で元島民
の方の切実な訴えの言葉が本当に切なく心苦しく思えてなりませんでした。
今回参加し自分で見聞きした部分で感じた事は北方四島は日本の領土である事と北海道
の問題として捉えるのではなく日本全体の問題であると強く認識し領土問題について正し
い理解と認識を深め一人でも多くの人達に感心を持ってもらえるよう取り組んでいきたい
と思います。
2007 連合平和行動in根室に参加して
電機連合/三洋電機労組マニュファクチャリング支部
堀江 邦昭
平和行動に参加する前は、同じ日本国内も遠い場所での出来事であり、関心が薄かった
ということが事実としてありました。今回初めて平和行動に参加し、北海道立北方四島交
流センター(ニ・ホ・ロ)
「日本のニ・北方領土のホ・ロシアのロ」で聴講したセミナーで
は、現在の北方四島には日本人の建てた建物が存在し、日本人が住居していた証としての
貴重な家屋もあり、その建物が残り少なくなっていること、また北方領土内は多くの自然
があり、資源も豊富にあるが「法の抜け穴」を巧みに利用した密漁や乱獲の海と化してい
るという現実があることを知り、
「日本の領土である」と訴える理由が改めてわかったよう
な気がします。
- 3 -
また翌日の納沙布(ノサップ)集会では、元
島民の切実な訴えを聞かせていただきましたが、
今の日本政府に声が届いて本当に対応されてい
るのか疑問に思い憤りさえ感じました。その中
で私たちが協力していかなければならないこと
は、こういった地道な行動を継続し風化させて
はならないこと、この北の大地で知ったことを
一人でも多くの人に伝え、あきらめずに粘り強
く訴えることで日本政府も動かすことができる
のだろうと思います。
最後にロシアと日本の友好的な早期解決を望
挨拶する高木連合会長
むと共に、貴重な体験をさせていただいたことを、北方領土返還運動に中心となって取り
組んでおられる方々に感謝いたします。
JPU/JPU 前橋支部
平山 享志
まずは今回の平和行動に参加して、北方領土に対する自分の間違った認識を改めること
が出来たことを感謝します。
今までは北方領土と聞くと、学生の頃、授業で聞いた程度しか頭の中にはありませんで
した。もちろん、旧ソ連の不法占拠など、情けないことに全く知りませんでした。
今回初めて北海道へ行きましたが、札幌を中心としたきらびやかなイメージが強かった
のですが、それはあくまでも北方領土問題に真に向き合ってない自分のイメージでした。
日本であるのに自由に行き来が出来ない。北方領土出身の島民の方の悲痛な叫びが、半世
紀以上経った今でも届かないのが残念で仕方ありません。
2006年8月16日、ロシア国境警備艇による日本漁船銃撃事件は、多くの国民が関
心を寄せました。そして、皮肉にもこのよう
な形で北方領土問題を考えるようになりまし
た。
北方領土問題は北海道だけの問題ではない
のです。国を上げて取り組まなければならな
いのです。
その為にも国民の一人ひとりが当事者とな
り、国へ、世界へと訴えて行かなければなら
ないと私は考えます。
北方領土に向かって返還コール
北方領土問題を考えるにいたって
JPU/JPU 前橋支部
樺澤 伸行
今回、初めて連合群馬の平和活動に参加して大変勉強になりました。
北方領土問題は学生時代の社会科で勉強していたつもりでしたが、実際問題なかなか肌で
感じるものではありませんでした。しかし、北海道根室へ行き、納沙布岬から見る国後島
は遥か遠くのものではなく、手を延ばせば届くすごく間近なものだなと感じました。
- 4 -
2007平和ノサップ集会での元島民の方の話では、なかなか進まないロシアと日本の
領土返還交渉への苛立ち、また日本国内の北方領土問題への関心に対する不安を聞き、胸
の詰まる思いをしました。
自分自身どうであろうか、もし自分の故郷が自分
の意思ではいけない場所であったならどんなにつ
らいだろうか、今までそんなことなど考えもよらな
いことであり、その事が北方領土問題に対する関心
の低さを表わすこととなり、自分がいかに無知であ
るかを感じました。
自分が今回の活動で見てきたことや感じたこと
をいかに伝えられるかが今回の活動成果になると
思います。
うまいもんまつり
も大盛況
「2007平和行動 in 根室」に参加して
基幹労連/大同スターテクノ労組
押江 重男
連合「平和行動」への参加は今回が初めてとなります。
日頃、耳にしていた「北方領土問題」とは何であるか、正確な知識のないまま正直言って
参加させていただきました。
難しい問題だと思います。しかし現地で「四島返還」に向けて取り組んでいる島民の皆
さんをはじめ、関係者の方が諦めずに一歩一歩活動を進めている姿を見て、話を聞いて一
日も早い平和解決を望む気持ちを強く持ちました。
今回の参加を契機に、聞いた事、見た事、話した事を単組内始め周囲の皆さんに伝えて
いければと思っています。
天気に恵まれた 4 日間、連合群馬の参加者の皆さんや多くの方々と交流することができ、
有意義でおりました。ありがとうございました。
「2007平和行動in根室」に参加して
日教組/群馬県教職員組合
濱田 光恵
青少年が描く四島未来予想図
9月21日から三泊四日の日程で、今年も「平
和行動in根室」が実施された。初めての参加で
ある。
一日目は移動のみで、釧路市内に泊。
二日目。根室市にある北海道立北方四島交流セ
ンターで、
「北方四島学習会」が行われた。2時半
ころ到着したが、風が吹き、すでに肌寒い陽気。
しかし、交流センターは館内に身障者のための板
張りスロープが設置されているなど、新しく立派
な建物であった。
五つのセミナーがあったが、特に第1セミナー
「ふるさと北方四島への思い」がよかったと思う。
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講師は元島民の池田英造さんで、敗戦当時に家族と共に島から脱出した話等をうかがうこ
とができた。
三日目には、ノサップ岬にて「2007平和ノサップ集会」に参加。
全体としては、人数が多すぎて充分学習できなかった部分があったと感じた。せっかく
足を運ぶのだから、もう少しセミナー等を充実させて欲しかったと思う。
小学校では、六年生の社会科で北方領土問題を学習することになっている。今後貴重な
教材として、今回の平和行動を活用させていただきたいと思った。
2007年平和行動in根室に参加して
化学総連/信越化学労働組合
山田
茂
今回の平和行動in根室に参加し、改めて「北方領土返還」に対する根室市民の願い、
更には北海道民全体の熱い思いが伝わって来ました。
それは、日本国有の領土である国後島、択捉島、色丹島、歯舞群島が不法占拠から62
年が経過し、いまだロシアによる北方四島の不法占拠が続いている状況を元島民の方から
話を聞かされたからです。
昨今は、元島民の高年齢化も進み、早い段階での解決を望んでいます。
この状態を風化させてしまう事は、島根県隠岐の島に属している「竹島」と同じようにな
ってしまうことが懸念されます。
私たちに出来ることは、この取り組みを一括返還されるまで粘り強く続け、日本国民の
総意として言い伝える事が必要だと思います。
北方領土は、日本国有の領土であり北方四島の一括返還を一日も早く実現し、日ロ平和
条約を締結することが必須であり、更に言えば国民が皆、人ごととは思わない気持ちを持
って政府に苦言していく事こそが必要です。
そのためには、連合が取り組みを続けている「北方領土返還署名」を今後も国民の総意
として継続していく事が最も重要であります。
「北方領土返還署名」は、根室市民の方々に
も大変ありがたく思われており、北海道庁においてもその取り組みに対して高く評価をさ
れています。
1992年からビザ無し交流会が実施され、連
合としても2004年に初めて独自の交流会を開
催して来ています。これまで相互に訪問した人数
は、1万3千人を超え、様々なプログラムを通じ
て我国の北方領土問題に対する主張も伝えて来た
との事です。
この交流会には、共に子どもたちも参画をして
います。子どもは、汚れのないとても素直な気持
ちの持ち主です。私は、この子どもたちを通じて
両国共に良い突破口が切り開ければいいなと強く
思いますし、是非そうなって欲しいと思ってなり
ません。
北方領土返還要求に署名する参加者
結びに、連合として今後も平和行動への取り組みを継続され、多くの皆様に伝授される
事をお願いしまして今回の感想とします。
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