ガーナの女性史―植民地期のアカン女性の役割の変容を中心にして

ガーナの女性史―植民地期のアカン女性の
役割の変容を中心にして
Women’s history in Ghana: Changes of colonial Akan women’s role
文学研究科社会学専攻博士後期課程在学
野
津
志
乃
Shino Notsu
はじめに
Ⅰ.アフリカ女性史研究の概観
Ⅱ
ガーナにおける女性の伝統的役割
1.アフリカ女性の自立性と偏見
2.アカンの女性の役割
3.アシャンティの王母の役割
Ⅲ.ヨーロッパ人の侵入とその影響
1.ヨーロッパとの接触
2.奴隷貿易
3.キリスト教の宣教と女性観
4.ガーナ南部の王国の攻防とヨーロッパの各国
Ⅳ.植民地支配と抵抗
1.植民地支配のはじまり
2.ヤア・アサンテワア戦争と植民地支配の確立
3.植民地全盛期
4.植民地下の教育制度
おわりに
はじめに
本論文の目的は、植民地期ガーナi)(旧英領ゴールドコースト)の女性ii)の社会的役割と地位の変
化を明らかにすることである。日本での先行研究は非常に限られており、海外でもアフリカの女性史
研究は比較的新しい試みである。期間を限定し問題を掘り下げ深く論じるのは時期尚早である。その
ため時代を広く設定し、19世紀の初頭から20世紀の中旬まで時代を追ってみていく。
‑ 127 ‑
第1の課題はガーナの母系社会の伝統的女性の役割を明らかにすること、第2の課題はヨーロッパ
との接触による沿岸部の女性の社会役割の変容を明らかにすること、第3の課題はキリスト教と学校
教育の女性に与えた影響を明らかにすることである。
時代区分は大きく4つに分けられる。先ず、ヨーロッパとの接触以前であり、つぎにヨーロッパと
の接触とアフリカ内部での西アフリカ諸部族国家の動乱の時期である。そして本格的な植民地化の時
期があり、最後に第2次大戦後の独立の気運高まる時期が来る。全くヨーロッパと接触のない時期の
歴史資料は乏しく、これに関して、今はまだ論じられる段階ではないともいえよう。しかしながら、
本稿では植民地支配下の影響と変化を考察するため、ガーナ人のヨーロッパと接触して以前の社会規
範やその中での女性像を考察する必要がある。人類学的な調査や限られた文献からではあるが、ガー
ナ南部の伝統的女性の役割を今回中心的に論じ明らかにしていく。
まず、アフリカ・ガーナの女性史研究の置かれている状況を概観する。
Ⅰ.アフリカ女性史研究の概観
アフリカの女性に関する研究は、1960年代までは文化人類学的テーマが中心であった。1970年代に
入ると低開発と女性、都市労働と女性、女性と生産、性別分業、エリート女性の職業といった社会科
学分野のテーマが増えていった。1975年の「国連婦人年」、および、それに続いた「国連婦人の10年」
の設定による世界的な女性解放運動の高まりとともに、1970年代末、アフリカ史研究の分野でもジェ
ンダーの視点から歴史を読み直そうとする動きが現れた。ステファニー・アーダングは『二つの植民
地主義との闘争―ギニア・ビザウの女性iii)』(Urdang 1979)を著し、コーラ・アン・プレスリーは、
ケニアのマウマウ民族解放闘争に果たした女性の役割を知るために、聞き取り調査を開始したiv)。以
来、民族、言語、世代、階級、政治的な立場を異にする女性達が、アフリカ人の女の歴史や状況を明
らかにしようとしている。プレスリーは『ケニアの女性史v)』の冒頭で、彼女が研究を始めた当時「ア
フリカの武装抵抗運動における女性の役割を明らかに出来ると思った人は、ほとんどいなかったと思
う。『国連婦人の10年』以降ジェンダーの視点から仕事の見直しを行う研究者が続出した。それでも
なお、政治闘争における女性の役割を研究しようとしていたのは、私を含めて、ほんのわずかにすぎ
なかった」と女性史に携わる人の少なさに言及している。
バーガー(Berger)は『サハラ以南アフリカの女性』の中で、「わたしたちの知識には大きな空白
が存在する。ほとんどの資料は男性によって書かれてきたものであり、そこに女性の活動が記録され
ることはほとんどなかったからである。しかも、それらは、第三者であるヨーロッパ人によって書か
れたものである。彼らのアフリカ人女性に対する理解は、往々にして歪んでいた。彼らが理想と考え
たジェンダー役割が、西欧的偏見に満ち満ちていたvi)」と述べ、一方「アフリカ人女性は自分たちの
活動についての記録をほとんど残さなかったため、彼女たちがどのように自分たちの生活や当時の歴
‑ 128 ‑
史環境を見ていたかを明らかにするのは困難である。たとえば、アフリカ各地の王母についての情報
はあるが、他の女性が王母の権力をどのように見ていたかについてはほとんど知ることができない
vii)」と言っている。以上のように1970年以降女性研究が進む中でも、アフリカの女性史の研究の進展
には時間が必要であった。
独立運動やナショナリズム運動の中での女性の役割に注目した研究では、当初女性が抵抗運動に参
加したかどうか、女性の参加がジェンダーの役割分担を変えたかどうかを明らかにすることを当面の
目的としていた。その後、国家がいかに女性の団体や関心を利用し、権力を維持するために女性の忠
誠心を操作したかを記録することによって、現代の民族政治とジェンダーの接点を明らかにする研究
が続いたviii)。最近ではアフリカ人女性活動家と研究者との共同プロジェクト、もしくは自叙伝という
形でアフリカ人女性の力量が示されるとともに、政治がいかにアフリカ人女性の生活を変えたかが明
らかにされた。こうした研究は、アフリカ民族主義や植民地主義への抵抗に関するこれまでの歴史像
を修正しようとする作業として位置づけることができるix)。
日本におけるアフリカ女性の研究については、最近の研究まで網羅的に挙げたものとしては、宮本
「特集:21世紀のアフリカ研究
律子x)
ジェンダー研究の回顧と展望」
(宮本2001:33)が参考になる。
アフリカの女性を研究する上で論点を5つ上げることができる。一つ目に「伝統社会と女性」に関
、五
する問題、二つ目に「植民地主義と女性」、三つ目に「都市化と女性」、四つ目に「宗教と女性」
つ目に「開発と女性」である。ガーナの女性の研究では主に伝統社会における女性、都市化と女性、
開発と女性に関して進められた。
ガーナの女性についての研究の概要をここで見てみたい。宣教・植民地支配といった歴史の中で人
類学者xi)は、英国の支配および文化がゴールドコーストの民族に強要される前の従来の伝統的生活に
おける社会、経済および政治的な分野での女性像を示す試みを、長年行ってきた。可能な範囲で、ア
カンxii)(Akan)女性とガ(Ga)、エウェ(Ewe)、ダゴンバ(Dagomba)、ゴンジャ(Gonja)など
の女性の間の差異は指摘されてきた。しかし、ほとんどの実例は、アカン(Akan)から得られた。理
由としては、まず第1にアカン(Akan)がガーナの総人口の40%以上を形成する最大の単一のエスニ
ック・グループxiii)であり、また、かれらの歴史的発展は、事実上他のすべてのグループの生活に影
響していたためでありxiv)、第2に、アカン(Akan)女性の歴史的情報・資料は非常に豊富で、研究者は
より容易にアクセスできたためである。
以上のような理由から1900年代前半から1970年代の初頭は、アシャンティ、特に王母の研究が進め
られていた。しかしながら、1970年代から世界的なフェミニズム運動の流れをうけ、ガーナの女性研
究にも変化が現れた。都市女性の社会経済的役割に注目した研究が現れ始めた。1970年から71年にか
けてペローがガーナの首都アクラのアダブラカで女性の役割の変容を調査し、1971年から1972年には
ローバートソンが博士論文のためアクラにおいて、マーケットで行商を中心として経済活動に従事す
るガ(Ga)の女性の社会経済的調査を行っているxv)。また、1973年にはリトルがアフリカの都市部
‑ 129 ‑
の女性について本を出版しているxvi)。
ガーナ人研究者では1985年にアイドゥー(Aidoo 1985)がガーナの文化と歴史がガーナの女性につ
いての論文を書いている。また、タチワ・メヌー(Manuh 1991)が独立以後の政治史のなかの女性
についての研究を行っている。エンクルマ時代の女性や、PNDC政権時代の女性についてなどである。
クリスチャン・オッポンはガーナを中心に西アフリアの女性について文化人類学的な研究を行ってい
る。いずれもガーナ大学の教授であり、大学で後進の育成にも力を注いでいるxvii。ガーナ大学の研究
所では、アフリカの女性について人類学・法学・家族社会学などさまざまな視点で研究を行っている。
アフリカ内外問わず海外の大学や研究者とも進んで研究会や共同研究を行っている。著者が留学中の
2001年から2002年は毎週金曜日にはワークショップを行っていた。近年はアフリカ全般に広がるエイ
ズを問題視し、エイズ撲滅キャンペーンにおける女子の役割の研究なども進められている。
Ⅱ
ガーナにおける女性の伝統的役割xviii)
1.アフリカ女性の自立性と偏見
西アフリカに訪れたことのある植民地行政官・宣教師たち・人類学者たちは西アフリカの女性たち
の力強さに驚いたことを記録している。ガーナ人研究者アイドゥーは「アフリカの女性の従属的位置
や奴隷制度に関する先入観をもってアフリカへやってくる外国人は、西アフリカの女性の卓越した独
立した姿に驚く。彼女たちは、しばしば自分の家を建て、財産に絶対的な権利をもち、自らビジネス
を運営する。また、ヨーロッパで彼女らの子供たちを教育したりもする。このような女性が結婚して
いる場合でさえ、妻たちは自立および独立独行の傾向がある。西アフリカの女性のこれらの特性は私
たちの歴史および文化にさかのぼるxix)」と述べている。アイドゥーが指摘するように、この女性の独
立独行の傾向は過去に遡ることができよう。
植民地による女性の地位の低下を1970年代のガーナの首都アクラでフィールドワークをしていた
ペローxx)やスモックが指摘している。前章で指摘したようにアフリカの歴史的資料は少なく、女性に
関する記述となると格段に減る。そのうえ、アイドゥーはアフリカの女性の役割に関する認識は最初
から誤解と混乱が生じているというが、それはヨーロッパ人が西洋的認識で女性の地位をとらえよう
とし、想像あるいは偏見をもってアフリカ人女性を見てきたために生じたと指摘するxxi)。
では、植民地化以前のガーナの女性はどのような地位にいて、どのような役割を担っていたのだろ
うか。今回は現在のガーナの人口の半数になるアカンと領土のほとんどを勢力範囲におさめ、他部族
にも大きな影響をあたえたアシャンティを中心に考察する。
ギニア湾岸は15世紀からポルトガルなどのヨーロッパと接触があり、特に海岸部は早くからヨーロ
「自
ッパの影響を受けていたxxii)。18世紀または19世紀にギニア湾岸を訪れたヨーロッパ人によって、
分の農場で熱心に働き、出来上がった農作物を売買し、料理をし、夫と多くの子供を世話する女性」
‑ 130 ‑
が記述されている。それを見た彼らは「アフリカ女性が男性に隷属している」と非難したが、アイド
ゥーは「アフリカ人女性の地位は白人男性が想定したようなものとはまったく違ったxxiii)」と述べて
いる。では、実際の女性はどのような存在だったのか。この質問に答える資料は少ない。なぜならア
フリカで正確な情報をほぼ得ようと真剣だったヨーロッパの観察者および研究者には、いくつかの本
質的障害があった。言語障壁とは別に、女性がヨーロッパ人と接触できないようにしていた多くの慣
行があったのである。 その後、植民地の状況は四方に不信を増加させて、その問題をさらに困難にし
たのである。また、アフリカの男性がヨーロッパ人旅行者たちを慎重に女性に接触させないようにし
ていたxxiv)。
以上のような事情を考慮した上、人類学の調査をもとにガーナ南部の女性について考察していく。
2.アカンの女性の役割
ガーナの女性を研究するために、アカン、アシャンティxxv)について考察する必要がある。その理
由は、アカンの王国としての統一性や長い歴史や史料の豊富さだけではない。アカン語諸部族が母系
制をとって王母(Ohemma;Queen Mother)という女性原理を象徴する存在が各部族にいるためで
ある。隣接するエウェ(Ewe)やガ(Ga)、北部のダゴンバ(Dagonba)などは夫系性を取っており、
アカンは唯一の母系集団として、また、ガーナの中心的民族集団としてガーナの女性を特徴づけてい
る。かつ、その影響がガ(Ga)などにも見られる。
アカン族はガーナの南部と中央部に住む大きな民族集団である。女性は伝統的に高い地位を保持し
てきた。家系は女性を通して伝えられ、歴史的記録には女性に卓越した場所を与え、オヘマと呼ばれ
る皇太后(Queen Mother)は族長から独立していて、彼とほとんど同程度の力を持っていた。伝統
的には男性と女性は子どもへの経済的責任を共有してきた。女性は家庭内責任をいくらか持つが、そ
の責任は男性とのパートナーシップの一部と考えられるのであって、女性の地位の低さや依存性を示
すものではない。仕事役割は補完的なものとみなされた。女性が植えて、男性が収穫した。また女性
は市場で商い、男性は遠隔地に商いに行った。伝統的に夫婦は別々の貯金と投資金を持ち、自分の労
働や商売から得る利益に権利をもつ。夫婦は必ずしも自分の経済状態を相手に知らせるとは限らない
xxvi)。
アカンは「地と霊魂の二つの生命原理を想定し、血は母から子へ、霊魂は父から子へと受け継がれ
るという生命感xxvii)」をもつ。従来のアフリカの社会では、いくつかの要因が男性と女性の間の資源、
力、地位、権利および仕事などの役割分担を決定した。これらの要因というのは経済力と同様に家柄、
相続および継承、父系、所属および居住場所などの規則を含んでいた。母系制のアカン(Akan)社会
の中では、男女の役割を決定する要因がガーナの他の社会に比べ女性に比重を置いている。アカン
(Akan)は女系(母方)をとおって家系をたどる。人々は女性だけが子供に血液(mogya)を送るこ
とができると信じるため、女性は世代間において遺伝的に重要な継承をする存在であるxxviii)。
‑ 131 ‑
女方の血縁組織であるアブスア(abusua)はそれ自体が親族グループおよび子供相続財産の表象の
ようなものである。最も高い政権(チーフのそれ)になる人に必要な第一の資格は、彼の母親がコミュ
ニティーの王の血統に属したということである。この基本的社会構成における女性の重要性は、Obaa
na owoo barimaおよびObaa na owoo ohene【「男性に命を与える者、それは女性です。」および「チ
ーフに命を与える者、それは女性です」
。】
というような諺の中で表現されている。
確かに、社会の中の基礎的なもの、つまり、法的、経済的かつ政治的権利は女性の原理によって定
義され、女性は自動的に強く特別な位置を得た。社会のなかで女性は、受け継がれてきた血統の力、
地位および権利を永続させていくという意味において決定的な立場にいた。ある親族(abusua)にお
いて女性が全員死んでしまうような場合、どれほど多くの男性が残っていようとも、その親族の生活、
血統(abusua)はその男性たちの生きている間にしか続かない。Asanteの諺にWo ni wu a,w’abusua
asa 【「あなたの母親が死ぬ場合あなたの血統(abusua)は終わる。」】とあるが、もし母が死に女系
が途絶えた場合、実際に血統は途絶える。このため、出産はアカン(Akan)や他のコミュニティーの
中で必要不可欠であり、女子が望まれたxxix)。
このような血族・相続意識の中では、当然アカンの人々のなかで女性は社会的な役割は大きいと考
えていたと思われる。ここで注意をしたいのは、あくまで「役割」ということである。なぜなら、実
際に女性をたどって相続されるといっても、実際は家の長となるのは女の男兄弟であり、土地なども
基本的に兄弟のものとなるためである。しかし、近隣の父系制をとる社会に比べると格段に家での権
利は大きい。
3.アシャンティの王母の役割
アカン語系諸族の中でもアシャンティの王母はアサンテヘマ(Asantehemma)と呼ばれ、政治的
力や裁判権をもっていたxxx)。そもそも王母とは、どのような存在なのか。アシャンティにおける王
(Asantehene)と王母(Asantehemma)は、従来の研究では、二元的統治という相互補完的な関係
として位置づけられている[Rattray 1923; Arhin 1983; Aidoo 1985] 。王母は、王の崩御後または(王
位を剥奪されたものを含む)退位後、王位継承者を選出する役割を果たした。王族の母系リネージの
リーダーとして「王母と評議員たち」は、幾つかの規則に従って、王位継承者を決める。王母は、こ
れらの規則を統轄し王位継承を秩序付けるxxxi)。王母は王を決定する権利を持つということから政治
力を持っていたようである。
王母は、伝統的な慣習を管理するもの、また、その知識を持っているものとみなされている。この
ような知識をもつ女性はアベレア( aberewa
=「人格化された知」)と呼ばれ尊敬されているが、
アベレア(aberewa)は同時に「老女」という意味をもっている。つまり、アシャンティの中で「老
女=知を持つもの」として捉えられていると考えられる。アイドゥーは「王が道を外れた場合、王を
直接諌めることができるのは王母だけであった。それゆえ、国の明暗は王母によって左右されたxxxii)」
‑ 132 ‑
と述べている。
また、王母は「女の評議会」の代表者として、法的な手続き、参戦の賛否、土地や財産の配分など
を決定する役割を果たす。王母の法廷は王の法廷とは対立関係にあり、例えば、ある訴訟では王の法
廷とは異なる判定を下すこともあったという。言い換えれば、王母は「女性の領域」を支配する文字
通り「女の王」(Ohemma)と呼ばれて最も信頼される助言者でもある。さらに、王母の椅子(王座)
はアコンヌア・パニン(akonnua panyin、akonnuaは「椅子」、panyin は「優位」を意味する)と
呼ばれていて、王の椅子(王座)よりも優越すると言われている。王母が非常に大きな役割を担って
いたことがうかがえる。それでは王母位に関係のない女性たち・農村女性はどうなのだろうか。王母
の力が強かったからといって、
「女性」を一括りにして語ることはできない。
白井和子はコートジボアール共和国アベングル県ヤカセ村のアカン系アニ・ンデニエ人の集落で野
外研究を行い、女系親族集団アブスワン(アシャンティのアブスアabusuaと同義)と個人の生活の関
係を調査した。白井も言うように、その地域は18世紀に前半に成立したアサンテ連合王国の、政治的
にも地理的にも周辺部に位置している。白井の調査から「男性成員の妻が自由民の場合、妻は実家の
アブスアを頼りにして夫に対して強気の姿勢を崩さない」といった興味深い点が指摘されている。も
し他の女性と性関係をもったならば、そのことで夫は罰せられたxxxiii)。しかし、これは自由民の場合
である。アブスアという女系親族社会の中で、性質の異なるいくつかの関係、すなわち親族関係・主
従関係・保護関係という諸関係が交錯しているということは忘れてはならない。
高根務は1995年から1996年7月の間、ガーナの南部の条件の異なる三つの村でココア生産村社会的
諸側面の特徴を描き出すための実態調査を行っている。その中でココア農村のジェンダー関係の分析
も行っている。「夫と妻が独立した圃場を経営しており、それぞれの収益を共有することは少ない
xxxiv)」と女性の経済的自立を認めながら、男女を一組の経済単位に見ることはできないと指摘してい
る。また、経済関係や権力関係は、
「男性農民」と「女性農民」の対立や格差として単純に捉えられる
べきではなく、「女性農民」というカテゴリー内に存在する差異と格差に注目し、格差の構造が「男対
女」の一面的なものでないということを強調している。
白井、高根ともに20世紀後半のフィールドワークであるが、農村部の女性についてよく物語ってい
る。両者ともに聞き取り調査のなどによって20世紀ココア生産の開始によって村を切り開いた当時の
状況を語っているが、高根によると当初はココア生産に女性は関われなかったが、時がたち外から持
ち込まれたココア生産が現地に馴染んでいくに従って、女性も自らの土地をもち生産も開始し始めた
ことがわかる。また、白井の研究対象はココアの栽培を盛業とする比較的あたらしい村であったが、
ここでは村の伝承からも女性戸主や女性自ら村を開いていく様が現れている。アシャンティを中心と
するアカン社会の周辺といえる村でも、一女性が村の開拓でも大きな役割を担っていたようである。
‑ 133 ‑
Ⅲ.ヨーロッパ人の侵入とその影響
1.ヨーロッパとの接触
前章においてアシャンティを中心に女性の役割について検討した。この章ではそれがヨーロッパと
の接触でいかに変化していったのかを考察する。アイドゥーは、白人男性はアフリカの女性の地位は
必然的に従属的だと仮定したxxxv)と指摘しているが、前章でみたようにアシャンティを中心とするア
カンの女性たちは弱い存在ではなかった。アイドゥーはさらに、アフリカの女性は、西洋の女性解放
家が今まさに確立しようとしている独立、自己依存および自らへの自信をもったタイプを当然だと思
っていると指摘しているxxxvi)。
歴史的に見ると15世紀には、中西部アフリカで広がっていた母系制は1200年頃までに父系制に移行
していたが、いくつかの重要な官職は女性に残されていたxxxvii)。アフリカ大陸における母系から父系
への移行の詳細は定かではなく、また父系から母系を移行的なものと考えていいものかは異論がある
が、その残っていた官職の一つに前章で取り上げた王母(Queen mother)があると考えられる。10
世紀から13世紀は西アフリカでガーナ王国やマリ帝国、ソンガイ帝国とイスラムの国家が続き、イス
ラム的な家父長制が広がったことが、父系制がこの地域に広まった理由であろう。
ヨーロッパとの接触が海岸からはじまった15世紀の変化をホワイト(White 1999)は以下のように
述べている。
この時期に見られた新しい作物の導入・地域間交易とアフリカ=ヨーロッパ交易の進展・相対的
に強力な国家の発展は、女性にとって重要な展開だった。女性はこうした展開にさまざまな影響を
与えたし、また影響を受けた。おそらく、もっとも重要なことは、国家が親族秩序に基盤を置いた
社会を支配するにつれ、女性の階層分化が進展したことであろう。しかし、どのような場合にも、
女性は、男性のようには国家権力や利潤の大きい交易品を入手することはできなかったxxxviii)。
しかし同時に、「農業・長距離交易・域内交易は、この地域における歴史的発展にとってもっとも
重要であり、女性の労働力はそうした農業や交易の展開を促した」とも言う。同時代の目撃者や歴史
研究者は、ヨーロッパ人商人とアフリカ人商人との文化的商業的仲介者として活躍した小人数の女性
グループの存在を指摘しているxxxix)。
2.奴隷貿易
奴隷貿易は、アフリカ大陸に一種の商業革命をもたらしたxl)。酒・タバコ・インド産綿布・金属製品
などが輸入品に加わり、武器・火薬は、ヨーロッパ人商人にとって奴隷獲得のための重要な道具とな
った。若干のアフリカ人は奴隷仲買人として富を増し、王国首長などの権力所有者は、その勢威をあ
げ、勢力範囲を拡大した。ホワイトは女性の奴隷貿易の経験を以下のように述べている。
奴隷の経験はしばしばジェンダーによって異なった。奴隷商人は男性を太平洋奴隷貿易に投
‑ 134 ‑
入し、女性は域内交易用として手元に置いた。所有者は、女性が男性より容易に親族によって
秩序づけられた社会に同化したため、女性奴隷を好んだ。女性奴隷は主として妻になった。家
族の構成員は、親族から切り離された女性を望むままに扱うことができたからであるxli)。
しかしまた、ホワイトは「男性は貿易に直接参加することも可能だったと思われるが、驚くべき人
数の女性もまたこの貿易から収益を得ていた。このように、女性はもっぱら奴隷貿易の犠牲者であっ
たという単純な考えは放棄されねばならないxlii)」と指摘している。
3.キリスト教の宣教と女性観
植民地化・近代化の先鞭をつける役割を果たしたもののひとつに、キリスト教のミッションの活動
がある。キリスト教のミッショナリーは、先住民の生活を変え、キリスト教の福音をもたらそうとし
た。
西アフリアにおける初期のキリスト教伝道は、ローマン=カトリック派によるものであった。イギ
リスの教会伝道教会(CMS)は1806年に、シエラレオネに伝道団を派遣した。フリータウンの解放
奴隷に対する布教をはじめた。解放奴隷の数は増加し、1852年ころにはフリータウンの人口は1万
6000人に達した。彼らはすべて、従来の祖先崇拝などの伝道的文化を保持しながら、キリスト教に改
宗し、英語による教育をうけて、職業を身につけイギリス風住宅に住んだ。彼らは自分が身につけた
教育・技術を故郷に持ち帰ることを望んでいた。ゴールドコーストでは、バーゼル=ミッション・ブ
レーメン=ミッション、その後にウェスレイヤン伝道教会(メソジスト派)が活動していた。伝道団
は、アフリカ人精神生活の向上、読み書きの教育のほかに、住宅建設・農耕技術・保健の改善などの実
践的な生活改善にも力をいれた。例えばバーゼル=ミッションは植物園を経営してオレンジ・マンゴ・
野菜・砂糖・煙草・綿花などを植えて、1857年にはココアの導入をはかり、その種子をアフリカ人に
分配した。
その成果が最も大きかったのは教育の領域であった。ゴールドコースト最初の教員養成カレッジは
バーゼル・ミッションによって1843年に、現在のムファンチピン=スクールとして有名な中学校はウ
ェスレイヤン伝道教会によって76年に設立されたものである。伝道団は現地語を習得し、教会や学校
でも現地語を用いたほか、聖書の現地語訳を行ったりした。ミッションがもたらした思想によってガ
ーナ社会は変化し、それに伴って女性たちの社会的立場も変わってきたと考えられる。
ミッショナリーがとった「先住民」に対する対策を概観すると、宗派の違いにかかわらず、いくつ
かのはっきりとした共通する方針が浮かび上がってくる。ナイジェリアの研究者アマディウメ
(Amadiume 1987)は「切っても切れない関係にあったキリスト教と西欧教育は、植民地化前の文
化と複雑に絡み合いながら、女性の生活に影響を及ぼした。例えば、宣教師は、西欧の家族イデオロ
ギーのもっとも保守的なモデルを引き合いに出すことによって、女性にふさわしいジェンダー役割の
考え方に影響を与えはじめた。
」と指摘している。しかしながら、女性たちはただ一方的に外から影響
‑ 135 ‑
を受ける存在ではなかった。それゆえ、かれらのジェンダー規範は植民地行政府、ミッション側の意
図したものとは大きなずれが生じ、女性たちの植民地化への柔軟な対応と抵抗の複雑な諸相が見られ
るxliii)。柔軟に自らを適応させ、自立性を維持していた。
4.ガーナ南部の王国の攻防とヨーロッパの各国
現在のガーナの南部の森林地帯に、16世紀には金採取・輸出によって栄えていた諸小王国がゴール
ドコーストに誕生していた。ヨーロッパ人の渡来によって、金、また18世紀以降は奴隷の輸出によっ
て、これらの諸国(デンキラ・アクワム・ファンティ、のちにアシャンティ)は強大になった。17世
紀には、アシャンティ王国が誕生した。ホワイトは「国家の発展は、地域間交易およびアフリカ=ヨ
ーロッパ間交易の進展を促し、女性はさまざまな局面で国家形成のプロセスに参加したxliv)」と述べて
いる。16−17世紀、ゴールドコーストの女性奴隷は大量の農作物を提供することによって支配層の台
頭を支えた。一方、その対極にあったのは、時には小さな国家さえ支配した女性たちであるxlv)。
アシャンティは領土拡大のため軍事化をやむなくされ、女性が政治権力に参入する余地のほとんど
ない中央集権化した膨張主義的国家を発展させた。アイドゥーは、17世紀末から18世紀にかけてのア
シャンティ地域の軍事化によって、女性は政治権力から排除されていったという。閉経前の女性は、
兵役に参加できなかったからである。このように、国家が次第に軍事力を持った男性によって支配さ
れるようになるにつれ、女性が行政に関わるチャンスは減少した。その中での例外は、男性の王アサ
ンテヘネと権力を分有したアサンテ連合の王母アサンテヘマーであったxlvi)。
19世紀はアシャンティとイギリスの攻防が続いた。1824年に、アシャンティ王国はアシャンティ商
人とイギリス管理城塞に勤務する警察官との争いを理由に海岸地帯を攻撃し、ファンティ=イギリス
軍はアシャンティ軍に大敗した。これが第一次イギリス=アシャンティ戦争である。このとき、ヤア・
キャア(Yaa Kyaa)という名前の王母(Akyaawaアキャーワと呼ばれていた)がオセイ・ヤウ王(Osei
Yau)とともに南方の戦場に赴いた。アキャーワは、この戦闘における王の戦略を公然と批判する権
限を持っていた。閉経後の女性に付与されていたこの役割は、
宗教的にも容認されていたと思われる。
彼女は、その結果、アサンテとイギリスとの仲裁者として重要な役割を演じ、両者間の和平条約を実
現させたxlvii)。
アイドゥーはこのイギリスとアシャンティの戦闘の際、沿岸部のガあるいはファンティの女性たち
がイギリス兵の荷物もちをおこない、
戦場まで兵士についていっては食料を売り歩いたことを指摘し、
女性たちが戦争にかかわっていたと述べるxlviii)。この女性たちの戦争協力の賛否はさておき、女性た
ちのこのような活躍がなければイギリス人にとっての未開の地での戦闘は不可能であったに違いない。
また、沿岸部の女性たちはこのような協力関係を通して、さらにヨーロッパの物資を手に入れ、内陸
部の女性にも結果的にヨーロッパ人への行商の技法を教え広めることとなったと考えられる。
また、18世紀後半になるとさらに変化がおとずれる。この地域の女性が直面した変化は、国家の分
‑ 136 ‑
裂といった内的展開に起因していたが、外的要因も介在していた。
とりわけ重要だったのは、大西洋奴隷貿易を抑圧しようとしたヨーロッパ人の試みと換金作物貿易
の拡大、そして沿岸部におけるヨーロッパ人の拠点の設置であった。こうした展開は沿岸部の人々と
ヨーロッパ人商人や宣教師や役人たちとの接触をもたらし、
新しい買弁階級(ヨーロッパ人と協力し、
そこから利益を得る実業家)を出現させたのである。女性はこの買弁階級の形成に重要な役割を演じ
たxlix)。
奴隷貿易以後、女性はますます弱い立場に貶められたが、小商品生産部門で頭角を現す女性も多
くいた。このパターンは19世紀に出現し始め、植民地時代に顕著になった。特に、小商品取引は多
くの女性に普通では手に入れられなかった自立のチャンスを与えた。女性たちは、自給経済の一環
として流通に活動領域を広げることによって、19世紀の貿易の活性化に対応した。家族を養う義務
を負っていたため、女性たちは流通からの収益に引きつけられたのである。その結果、女性たちは
農耕だけの時より多くの収益を親族に提供できるようになった。ひとたび家族を養う義務を果たす
ことができるようになるや、彼女たちは収益を自分の意のままに使うようになったl)。
Ⅳ.植民地支配と抵抗
これまでの、植民地化された社会における女性への影響についての研究は、大きく二つに分けるこ
とができるli)。一つは、近代化によって女性の地位は向上したとして植民地化を肯定的に見る立場で
ある。この立場は、植民地化よって近代化がもたらされ、女性の経済的、社会的立場が向上したとす
るものである。植民地支配以前には、男性が圧倒的優位であって、女性が搾取され、奴隷的な扱いを
受ける社会があったことを前提とし、そこから女性が近代化によって解放されるとする見方である。
もう一つは、反対に、近代化によって女性の地位は低下すると見る立場である。この立場は、植民
地化によってもたらされた近代化によって、労働市場が生まれるとともに消費枠組みに飲み込まれ、
植民地の人々が「公」と「私」の空間におしこまれ、それによって女性の地位が低下すると説く。こ
の立場を前提とする植民地化以前の社会においては、女性は「大地」や「豊穣」
、「親族の繁栄」と同
一視されるような重要な存在で、そこには平等なジェンダー関係があったとする。そして、近代の男
性優位というイデオロギーが導入され、女性が周辺化され、経済的政治的決定権を失ったとする見方
である。このように、これまでの研究には、二つの対極的な立場があり、前提とする社会の男女関係
のイメージも両極に分かれていることが分かる。スモックは、植民地政策はガーナの両性の役割分担
と女性の社会参加の機会にかなり重要な影響を及ぼしたと述べているが、良い意味でも悪い意味でも
大きな影響を与えたことは間違いない。それではどのような影響を与えたのか。
ガーナの女性の研究においても同様に両極の立場が見られる。ガーナではアシャンティのようなア
カン系の母系集団とエウェや北部のムスリムのような父系集団、また、ガのような中間的集団が混在
‑ 137 ‑
しており一括にはできない。スモックやオッポンは、沿岸部やアカン諸民族は植民地化によって女性
の地位が低下したと主張している(Smock 1977;Oppong 1975)。
ペローは、白人社会と接触し、貨幣経済を基盤とする生活になることによって、女性はその経済的
自立性を失い、教育、医療の導入、伝統的婚姻システムの崩壊によって、彼女らは第二市民の階級に
おしこめられたと主張する(Pellow 1977)。また、スモックは次のように指摘する。
植民地政策は両性の役割分担と女性の社会参加の機会にかなり重要な影響を及ぼした。キリスト
教の宣教師たちや植民地行政官たちは社会における女性の居場所に関するヴィクトリア的概念を
持ち込んだ。一般的に彼らは、女性の貢献や女性の独立心を認めなかったlii)。
1.植民地支配のはじまり
1872年にイギリスは、オランダが所有していた城塞を譲りうけた。エルミナの割譲をめぐって、ア
シャンティとイギリスの関係は悪化し、1874年に、前年に着任したイギリス軍司令官ガーネット=ウ
ォルスリーは、アシャンティへの攻撃を開始した。1880年までにアサンテの首都クマシは深刻な内政
危機に見まわれた。その要因の一端は、アシャンティがイギリス帝国主義に対抗できなかったことに
あった。こうした軍事的敗北と宮廷クーデターの混乱期に台頭したのが、崩壊しつつあった王国の支
配権を掌握しようとした王母ヤー・アキャー(Yaa Akyaa)liii)であったliv)。
クマシを拠点とした有能な実業家であったヤー・アキャーは、政治家を買収し、戦争をしかけ、王
母と王の支配権を簒奪する闘争を指揮した。彼女は母親を失脚させて王母の地位に就き、まだ幼い息
子プレンペ(Prempe)1世を即位させた。これに彼女の兄弟たちが反対したため、兄弟たちの支持
者が大勢命を落としたlv)。この内乱によってアシャンティは内側から勢力を落とし、イギリスに付け
込まれることになる。アシャンティ軍は、優秀な武器によって装備されたイギリス軍lvi)に、また戦術
的に抵抗しえなかった。1874年7月に、ブラ川南地帯は正式にゴールドコースト植民地・保護領とな
ったlvii)。イギリス人が1896年にプレンペ1世を廃位するチャンスを掴んだ時、イギリス人はヤー・
アキャーが真の実力者であることを認め、両者をセイシェル島に追放した。R. A フリーマン博士
(1888年のアシャンティへの英国特使の一員)は、アシャンティ王母の断固とした冷静さに注目し、
「ヤー・アキャーは、彼女の手の内や心情、情報を全く悟らせない」と感じたことを記録している。
また、彼女は1891年にイギリスの保護を受理しないようにプレンペ1世に助言している。
このような情報は植民地総督府を通し、本国にすべて伝えられ、ヤー・アキャーは英国の帝国主義
者戦略の倒すべき目標になった。彼女は、再び1894年−95年のイギリスからの提案および要求を拒絶
するように王に助言したlviii)。最終的に1896年、イギリス総督府によって彼女はアシャンティから追
放が決定され、ヤー・アキャー、プレンペ1世、彼女の夫および多くの重要なチーフが逮捕されシエ
ラレオネに派遣された。4年後に、彼らは、南東部アフリカのセイシェル島にある流刑地lix)へ送られ
た。ヤー・アキャーは1904年、英国国教会へ「エリザベス」という名で洗礼を受け、1917年9月2日
‑ 138 ‑
に追放の身のまま推定75歳に亡くなったlx)。ヤー・アキャーとプレンペ1世の敗北後、イギリスはゴ
ールドコーストを正式に保護領とすることを決定している。その後、沿岸のアクラを中心に着実にイ
ギリスによる統治が進められた。
2.ヤア・アサンテワア戦争と植民地支配の確立
1900年、アシャンティの誇りを傷つける事件が起こる。その事件を期に、王が追放された王不在の
アシャンティで、英国の帝国主義との最後の戦いがおきる。1900年、アシャンティ領の一つの地域エ
デソ(Edweso)の王母であったナナ・ヤア・アサンテワア(Nana Yaa Asantewaa
以下アサンテワ
ア)がアシャンティを率いて戦争を仕掛けた。
アサンテワアの孫は1896年にプレンペに追放されていた。後継者を失い自らエデソのチーフとなっ
ていた彼女は、イギリス支配に甘んじることができなった。彼女は、アシャンティ王の追放およびイ
ギリスの不正な課税、多額の戦争賠償金などすべてに憤りを感じていた。
1900年3月28日には、ハドソン(Hodgson)知事がアシャンティのチーフは戻らないだろうという
宣言をスピーチの中で行った。徹底的にアシャンティをつぶすため再度戦争の機会をうかがっていた
イギリスはアシャンティの権力の象徴の金色(ゴールデン・スツール)の腰かけを差し出すように要
求した。アシャンティにとってこれは決定的であった。エデソの口頭の伝統によれば、アサンテワア
はその夜別のチーフに会い、彼女は、アシャンティ国家を防御することを躊躇したすべての男たちの
性別を変えると宣言し、イギリスと最後まで戦うようチーフたちを自ら説得して回ったという。
これによりヤー・アサンテワア戦争(Yaa Asantewaa War)が勃発する。戦況はアシャンティが不
利であったが善戦し、戦闘は4か月の間継続した。アサンテワアは、オフィンソ(Ofinso)約15マイ
ル遠方に逃れて、別の反乱をそこに上げた。9月の始めまでに、アシャンティチーフのうちの数人が
英国に降伏しはじめた。大佐ウィルコックスは、降参に現われるためにアサンテワアに4日与えた。
しかし、アサンテワアは姿を現さず、ウィルコックスは、クイーンマザーおよびアシャンティを最後
まで粉砕すること決定し、イギリスの徹底追撃が続いた。60人以上の反逆者リーダーは逮捕され、ア
サンテワア一人を指名手配に残した。彼女はうまく逃れていたが、結局、捕まった。彼女は、1901年
に15人のチーフとともにセイシェル島に流された。彼女にまた「ヴィクトリア」という洗礼名が施さ
れました。プレンペ1世がアシャンティ本国へ送還される2年前1922年7月5日、彼女もアキャー同
様にセイシェル島で亡くなっているlxi)。
ヤア・アサンテワア戦争でアシャンティを破って勝利を収めたイギリスは勢力範囲を拡大し、1901
年には北部ゴールドコーストも保護領としてイギリス領に組み入れられたlxii)。イギリスは、アシャン
ティ征服に際して、この地域を直接統治下にいれた。多くの女性は、植民地支配の導入によって、当
初、不安定な状況に置かれたlxiii)。
アシャンティ王・王母を国外に追放していたが、これはかえってアシャンティ民族主義をわきたて
‑ 139 ‑
させたlxiv)。グッギスバーク総督は、1924年に、国外に追放していたプレンペ1世がクマシに一市民
として帰国することを認め、26年にはクマシヘネ(クマシの首長)として復位させた。1935年にアサ
ンテヘネ(アシャンティの王)として復位して、同時に一種の議会ともいえるアシャンティ連合議会
が設置されたlxv)。この際、王母たちは帰国を許されず、追放の身のままセイシェル島で死んでいる。
イギリスが王母の力を認めていたため、あえて王だけを連れ帰って傀儡政権のようなものをつくった
と考えられる。
植民地に支配権を確立したヨーロッパ人は、内陸部でも奴隷制を廃止しようとした。域内奴隷交易
と奴隷制の終焉は、それ自体 結果的に、奴隷状態にいた多くの女性にとって生活の安全を保障し、自
分たちの生活を自律的に営む機会を提供した。しかし、奴隷制の廃止は、女性の解放奴隷より男性の
解放奴隷に有利だった。男性は自分自身で経済的保障を手に入れやすかったため、女性よりも以前の
所有主のもとを離れやすかったからであるlxvi)。ホワイトは次のように述べている。
税金を支払い、消費物資を購入し、割り当てられた労働義務をこなすために、男性が賃労働
に従事し換金作物栽培に乗り出すにつれ、女性は男性の不在を埋め合わせるための過重労働を
押し付けられた。換金作物の普及は、土地の私的所有が広がる中で、男性に有利な状況をもた
らした。私有財産が重要性を増した時代、西部および中部アフリカ一帯の男性が土地所有権を
入手する機会に恵まれたのに対し、女性はそのチャンスを失った。・・・植民地支配が浸透する以
前の100年間に見られたように、西アフリカにおける女性の階層分化は、商品化が交易のチャン
スを広げるにつれ拡大したlxvii)。
また、植民地支配が確立されると宣教活動も行いやすくなり、各植民地ではその領土に縦横にキリ
スト教と西欧教育が広がりlxviii)、それらは植民地化前の文化と複雑に絡み合いながらも、女性の生活
に影響を及ぼした。例えば、宣教師は、西欧の家族イデオロギーのもっとも保守的なモデルを引き合
いに出すことによって、女性にふさわしいジェンダー役割の考え方に影響を与えはじめたlxix)。この時
期は商品化が拡大し、女性の階層分化が大きく展開したlxx)。
3.植民地全盛期
1920年までに、ヨーロッパ人はアフリカ大陸全域に実質的な公的支配を確立した。もっぱら男性の
領域である換金作物栽培の拡大と都市や鉱山地帯への男性の出稼ぎによって、植民地初期以上に若い
男性の労働力を奪われた女性たちは、自給農業を孤立無援で支えなければならなくなった。家族を養
い、男性の低賃金を埋め合わせるために女性は農業に精を出し、その農業を補うために小商いに参入
したlxxi)。一般的に言って、植民地支配者たちは女性の政治参加を合法であると認めない社会の出身者
たちだった。ひとたび西部および中部アフリカを支配下におくや、彼らは女性が植民地化前の社会で
持っていた制度化された権力をただ単に無視した。この態度が女性の政治権力の後退を引き起こし、
さらに宗教的基盤を攻撃した宣教師によって掘り崩された。女性はこうした状況を何の抵抗もせずに
‑ 140 ‑
受け入れたわけではない。彼女たちは男性とともに反植民地活動に参加し、自分たちの置かれた状況
に抵抗するために女性としての組織化を進めたのであるlxxii)。
ホワイトは「西部および中部アフリカの女性たちは、植民地勢力の侵入によってもたらされた変化
に、もっと余裕をもって向き合うことができ、特に小規模な商品市場の展開は女性に新たな交易チャ
ンスを提供したlxxiii)」と言う。彼女は続けて「植民地支配者を驚かせたことは、経済の変化が女性に
対する家父長的支配権を脅かし始めたことであったlxxiv)」と述べている。アカンの母系制諸族に関し
てはこれを家父長的支配権とは呼べまいが、家族の中では兄を中心とする男性が力を持っていたとい
うことは第二章で見たとおりである。
とりわけ交易活動で成功した女性が、結婚せずに生き残るために必要な物質的資源を入手するよう
になるにつれ、いたるところで離婚が増加した。男性に従属せずに生きてゆく充分なお金を女性が稼
ぐようになるにつれ、女性たちは自分たちのセクシュアリティに対する支配権を掌握するようになっ
た。こうして女性の中には夫への性的・生産的・再生産的義務から決別できたものもいた。この自立
は、リネージの長老・植民地国家・土着の国家の利益に反するものだった。女性が結婚しないという
ことは、換金作物生産と賃労働を脅かした。夫が他の活動に時間を投入することを可能にした自給用
食糧の提供を、女性たちが行なわなくなったからであるlxxv)。それに対して、 地域のアフリカ人支配
者や植民地国家当局はともに、女性の移動や自立を結婚制度の強化によって制約しようとしたlxxvi)。
旧英領西アフリカのゴールドコーストの西のセフィ・ウィアソ(SefwiWiawso)国において、国家評
議会が1925年から1932年の間に一連の慣習法の改正を行なうことによって対処しようとした。これを
ホワイトは「ジェンダー関係の危機」
(a crisis of gender relations)と表現しているlxxvii)。
この時期の大きな変化に輸出農産物の生産の発展とそれによる社会構造の変化が挙げられるが、こ
の輸出作物生産が男女の役割分担に影響を及ぼしたのである。1920年代にこの地域にココア生産lxxviii)
が導入される以前、夫と妻は相互補完的ではあったが、それぞれ独立した経済空間で生活していた。
男性は妻のために土地を開墾し、肉と魚を供給した。女性は夫が提供した土地を耕し、夫や妻の家に
配属された労働者たちに食料を供給した。離婚は比較的簡単に行なわれ、子供を産んだ女性がさらな
る夫への労働提供や出産を避けるため、実家に引きあげるということも珍しくはなかったのである。
しかし、ココア生産がこの相互補完的な夫婦の関係を破壊した。男性が奴隷労働の代替として妻たち
をココア農場の労働に振り向けたからである。夫が経営する農場での労働に従事させられていた女性
たちは、正当な労働報酬が支払われているとは思っていなかった。その一方で、彼女たちは自分たち
が所有できない農産物のために汗を流した。それでもなお、夫が妻への農場の分与や妻たちへの財産
の均等配分を拒否し、妻たちが不満をもつようなことがあると離婚に至ることもあった。
西アフリカの経済の特色として、ヨーロッパ人入植者経営の大規模なプランテーションが少なく、
アフリカ人小農によるココア・落花生・パーム・綿花・ゴムなどの生産が支配的であったことがあげ
られる。ゴールドコーストでも同様に白人主導のプランテーションは発展しなかった。ゴールドコー
‑ 141 ‑
ストからココアが輸出されはじめたのは1891年であったが、1901年には最大の輸出品目であった金を
抜き、13年には総輸出額500万ポンドの半数以上を占めている。1931年に刊行された政府報告書『ゴ
ールドコースト
1931年』はココア産業の発展がアフリカ人農民によって自発的に進められ、土地の
共同体所有を個人所有に母系制社会を父系制社会に移行させるなどの大きな変化を引き起こしている
こと、また、出稼ぎ労働・都市のスラムの発生を促したことを指摘しているlxxix)。また、ガーナのコ
コア生産農民の姿を世界に知らしめた重要な研究としては、ヒルの一連の著作(Hill 1956, 1963, 1970,
1975)がある。彼女は1954年にガーナ南部で行った広域調査から、ココア生産で行われている労働契
約を紹介してその起源などについて考察するとともに、アチム(Akyem)地域における移住ココア生
産農民の社会経済構造と土地保有の関係を分析した(Hill 1963)。ヒルは母系制と父系制をとる人々
の間では、移住先での土地取得の方法や相続後の土地の保有携帯に顕著な相違が見られることを指摘
している。ココア生産におけるジェンダーの問題についてもいくつかの先行研究が存在する。オカリ
(Okali 1983)、マイケル(Mikell 1984, 1989, 1994)、ヴェレンガ(Vellenga 1986)がそれぞれ女
性のココア生産農民に注目して研究を行ってきているが、ヴェレンガによるとココア生産の拡大にと
もなってジェンダー間での格差が生じ、生産資源へのアクセスについても女性農民が男性農民よりも
不利になっていると論じている。
日本人のガーナのココア生産農民を中心に西アフリカの社会経済システム研究をする高根務はコ
コア生産が父系制をもたらし、女性は換金作物の生産にかかわることができなくなったという意見に
対して異論を述べているが、20世紀初頭のガーナに多大な社会的変化をもたらしたことは否定してい
ない。ただ、農村の変化100年の間で更なる変化が生じていることを指摘している。ココアのプラン
テーションが開始された始めたときは、西洋型の男性への土地分配、賃金労働の男性への偏重がみら
れたのは確かであるlxxx)。スモックによると伝統的に女性が食用作物の多くを女性が生産にしていた
のにさえ、ココア生産において男性が支配的であり、いくつかの体系的研究によるとココア農業のた
め、土地を求めて他の地域に移住するものが頻繁にいたようである。女性は他の地域に移住するため
に村を離れることを男性よりも制限された。その上、首長から土地を買い取るために男性移住者によ
って設立された会社はほとんど女性が加入することを認めなかったlxxxi)。女性がココア農場を始める
際、多くは彼らが伝統的に農地にしていた場所がココアの苗木に適していたなら始めたのだが、彼女
たちが死んだ場合、相続方式のために土地の所有権は家族の男性メンバーに譲渡されたlxxxii)。当時の
ヨーロッパ的な家父長制はアフリカの男性にとっても喜ばしいことだったに違いない。男性優位を支
配者である植民地政府に後押しされたアフリカ人男性や権力者の観点に立てば、男性の保護者のいな
い女性は、家父長的な家族にとって脅威となる。ホワイトによれば「特に彼らは、男性が結婚を通じ
て女性の労働力の配分を統制できなくなることを憂慮したlxxxiii)」のである。
西欧的な教育もまた、女性の行動規範を設定するのに利用された。植民地支配者は、いかにしてエ
リート男性の良き妻となれるかを教えるための学校を企画したlxxxiv)。西欧教育を受けた少女のほとん
‑ 142 ‑
どが新たに教育を受けたエリート層の娘たちだった。実際、西欧教育を受けた父親たちは、植民地支
配者が少女に充分な教育の機会を提供していないことを気にしており、娘たちに教育を受けさせるよ
う強く要望したのである。新たに教育を受けた男性エリートは、息子の妻として西欧的なジェンダー
役割を身につけた女性を求めた。そういう女性なら自分たちの社会的地位を維持できるような子供の
養育ができるだろうと考えたからである。1920年以降、植民地支配者たちもエリートの入植者にふさ
わしい妻を育てる重要性に気づき始めた。しかし、それ以上に、行政官たちは、教育を受ける機会を
与えられなかった女性が反抗的になることを恐れたlxxxv)。
沿岸部に居住しており早くからヨーロッパと接触をもっていたガ(Ga)の女性は、教育歴の点で大
きな不利益を蒙った。男性は女性より教育を受ける機会が多く、新たな経済状況の中で女性を不利な
立場に追いやったlxxxvi)。彼らはアクラに行政機能が移転され首都になる以前から、その地域に住んで
おり、そのため西洋教育をうけ現金収入を得る層とそこから離れた層の格差を早くまた大きく出たと
考えられる。アクラの巨大市場マコラマーケットの管轄は女性が行っていた。イギリス人は植民地化
前の女性の政治的役割を無視し、男性を通じてすべての指令を出すようになったlxxxvii)。そのためマコ
ラの管轄も今まで女性が自ら行っていたにも関わらず、現地男性を途用し指令を出させた。これには
女性たちも憤慨した。このような形での女性の地位の低下は、女性の抵抗を引き起こした。
4.植民地下の教育制度
ここで、ガーナの教育と女性について整理しておきたい。ガーナでは、場所によっていくつかの集
団がかなり学校教育や新しい経済的機会に恵まれていた。それはミッショナリーと植民地勢力のへの
距離と協調性・協力する意思によるものだった。それは沿岸部で早くからミッションと接したという
歴史的背景と地理的背景によっていたが、女性が高い地位を持つことができた集団は最も利益を得た
集団であったといえよう。特にファンティ(Fanti:アカンのグループの一つ)とガ(Ga)のような、
いくつかの集団は19世紀の後半までに責任ある位置を埋めるために大学卒業生を輩出していた。それ
に対して、ガーナの北部は相変わらずキリスト教の宣教活動とそれによって拡大した行政から外れて
取り残され、後方をゆっくりと進んでいた。このように、伝統的世界において、女性の役割が制限さ
れていたのは、女性たちが教育や現代的分野の仕事へのアクセスが制限されていたことによるもので
あるlxxxviii)。
初期のミッショナリーの保護の下での教育の拡大は、どんな要因よりも女性の相対的地位に影響を
及ぼした。ガーナの湿気、熱帯という気候、そしてマラリアによる妨害のために永住ヨーロッパ人の
移住を思いとどまらせ、植民地当局やヨーロッパの会社がすべての事務職員や中間管理職を現地社員
によってうめようと考えた。ミッショナリーと行政官は男性が経済的役割を担うのが「自然なこと」
だと考えていたため、これらの職をうめるのに男性を募った。このため、すべてのレベルで男性の教
育が女性の教育よりも優先された。女性はけっして西洋教育から除外されたわけではなかった。しか
‑ 143 ‑
し、ガーナにおける女性教育は、当時のヨーロッパと同様に知的なものというよりむしろ家政に関す
るものであった。それは20世紀に入っても同じであった。教育をうけた男性には教育lxxxix)をうけた
女性が妻として必要であると認識されたために、女性教育が大いに進んだ。このため女子の学校教育
は女性を高等教育レベルに進ませることはできなかった。なぜならイギリス人主婦にふさわしい家政
技術が強調させたからであった。そしてまた、その教育はガーナの女性の置かれる社会で必要とされ
るものとは大きく異なる傾向があったxc)。レディ、つまり、礼儀をわきまえたしとやかな婦人を作り
上げようとした。
植民地教育制度はかなり男性に機会が与えられたにも関わらず、20世紀の前半、他のどんなアフリ
カ諸国よりガーナでは多くの女性が教育を受けていた。ココアの輸出に基づくガーナの相対的豊かさ
は、他のブラック・アフリア地域より学校教育制度の拡大のための良い基礎が広まっていた。最初の
女子寄宿中等学校が1881年に開校し、縫製や聖書だけでなく学術的な教科も教えられた。1988年の調
査による男子学校と女子学校は明らかに異なっている(表1参考)。男女の教育において見られた不
平等の兆しが1918年の教育統計に現れている。政府とウェスレイヤン・ミッション・スクールにおい
て6〜7人の男子に対して1人の女子がいたようである。それに対して、バーゼル・ミッションは、
女性への教育の提供することをより配慮していており、3人の男子に対して1人の女子がいたようで
ある。グッギスバーグ総督xci)の監督下のもと、1920年代の中旬に政府とミッションは男女格差を埋
める努力をおこなった。独立直前xcii)には、ガーナの教育を受ける最初の10年間を含んだ初等・中等
教育における男性に対する女性の比率はほぼ2.2人に対して1人の状態にまでなっていたxciii)。
表1「ガーナにおける男女の学校数
学校
女子学校
総計
832
217
1,049
政府以外の運営する学校
2,789
759
3,549
総計
3,621
976
4,597
政府運営の学校
男子学校
1888年度」
Graham, C.K, The history of education in Ghana, Frank Cass and company, Ltd. 1971, p79. 引用。
植民地教育制度が女性の上に立つ男性エリートを育て上げていた。それは、ある程度の教育をうけ
た男女の子供たちの総数以上に重要なことかもしれない。教育制度のそれぞれの進学過程で、男性の
率が高くなっていった。特に、ガーナのエリートのための訓練の場であった寄宿学校による中等教育
のレベルにおいて、よりより教育機関は男子のために開かれていた。男女共学機関では、ほとんどの
場所は男子のためにとっておかれた。第2次世界大戦の終わりまでに、大学教育を求めるすべての学
生はヨーロッパかアメリカで勉強に従事しなければならなかった。そして、多くの奨学金が女性より
も男性に向けられていたxciv)。
‑ 144 ‑
また、ウェスレイヤン教会で「レディ(Lady)はドレスで着飾り、ただの女(Woman)は布切れ
を身に着けるxcv)」のだと注意されていたようであるが、女性らしい服装も教化されたようである。そ
して、教育をうけた男性は西洋的衣服・ドレスを自分の妻・娘、また、使用人に着るように指導して
いったxcvi)。そのドレスとは熱帯のガーナでは暑すぎ、動きにくいものであったと想像できる。女性
と男性の適正役割についての西洋的ジェンダー概念の押しつけが、植民地支配の一つの側面であった
ことは間違いないだろう。キリスト教ミッションや初期の学校の活動はその流れの先端にあった。そ
れでも、教育を受ける機会に恵まれ女性のなかには実力を示し、専門職につくとことのできた人々も
いたようである。植民地総督グリフィスは数名の女性を郵便局員と電報局員に推薦している。グリフ
ィスのこうした方針は次のような信念に基づいていたようである。「植民地出身の青年女性を公務員
に採用することは、行政運営全般にとって、最も有用、有益そして道徳的な効果を持つと考える」xcvii)
(本国植民地省宛ての報告書[15/4/1890])。このように若干の女性は途用されたようである。しかし、
グリフィスのように女性の力を認める植民地当局関係者や宣教師は依然として少なかった。
植民地支配は巧妙に、その上あまり直接的ではない方法でうまく女性の地位に影響を与えていった。
海岸沿いに小さな開拓地を作ったヨーロッパの商人や、ミッショナリー、植民地行政官はすべてガー
ナ人男性をいかに扱うかを模索していた。そして、数百年間、男性に優位な立場・利益を与え、本質
的な振る舞いとして女性に不適切なものを伝えた。宣教師や教育者は意識してなのか無意識なのか、
ヨーロッパ的な型に社会的関係や習慣を振り分けた。キリスト教のミッショナリーは、あまりうまく
いかなかったようだが、夫婦が分かれて生きる一夫多妻制からヨーロッパの形、つまり妻が夫と子供
に自分自身を全面的にささげる一夫一婦制・核家族に直そうと試みていた。そのうえ、ガーナ人が教
育を受けヨーロッパ人に自分たちと対等な存在として認められることを望むようになるにつれて、ガ
ーナ人は自ら西洋の習慣や慣習を模倣し始めた。当時の歴史家キンブル(Kimble)が記しているよう
に、「しばしばその模倣は無意識であった。というのも、単純に模範となる存在がそこにいたのである。
実際、そのようなヨーロッパ人と接触を持ち始めたアフリカ人の間で、ヨーロッパ人は振る舞いの見
本となる『参考とすべき集団(a reference group)』になっていったxcviii)。」また、エリートの男性は
彼らの妻たちをヨーロッパ式に着飾り、ヴィクトリア朝風の淑女(Victorian Lady)のように振舞う
ように促した。そして、ヴィクトリア朝の女性は経済的、社会的役割がガーナ人女性に比べて制限さ
れていたため、ガーナ社会における女性の高い地位に反して不利に影響を与えた
しかし、植民地化により「女性の地位は低下した」と考えるのは、植民地支配にあくまで抵抗した
王母のような存在や、巧みに西洋との接触中で経済力をつけていった女性の存在を見落としている。
王母の率いたアシャンティ軍は敗北を喫したが、ヤア・アサンテワアは英雄的存在であり、演劇や子
供向けの絵本の格好の材料になっている。その戦いぶりは多くの女性を励まし、語り継がれることに
より「レディ」のように男性に付き従う女性とは異なり、戦う強い女性像を与えているのではないだ
ろうか。
‑ 145 ‑
おわりに
本論文において、植民地期ガーナの女性の社会的役割と地位の変化を考察してきた。個々の女性は
高い地位を勝ち得たにも関わらず、大部分において政治的には女性の地位は退歩したかのようにみえ
る。新しい職業の機会は最初に男性に割り振られたからである。筆者は特にキリスト教の宣教運動に
より西洋的女性観が持ち込まれ、それが植民地期を通して学校教育という制度を通して広まったこと
が大きく女性の地位と役割に影響を与えたと考えている。
植民地政策と淑女観念の影響から教育の機会に不平等が生じ、教育水準を必要とする職業に女性が
つくことは難しかった。英国の植民地サービスに女性が進出したのは独立後の1965年以降である。ホ
ワイトカラートと官僚的な組織労働に地位が与えられ、有給の労働者である夫に比例して、妻は収入
を失った。さらに男性は教育の機会を女性より与えられ、政策が男女間のギャップを拡大した。
しかしながら、政府によって管理されるフォーマルな賃金労働に就いている女性の数ではわからな
い女性たちの動きが現にある。高等教育をうける機会に恵まれ、あるいは西洋的教会の思想を受けえ
た富裕層のエリートの妻たる女性は「淑女」になるべくしてなり、自らのその自立性を手放していっ
たとも言える。逆に、そのような教育機会の受けなかった女性は自ら仕事を行うという姿は変わらな
かった。本稿では論じることができなかったが、マーケット・マミー(マーケットで商売を行う女性)
として一代で財を築き上げ、政府の一員にまであったエスター・オクロ夫人のような例もある。
しかし、マーケット・マミーにしても労働市場に参入することによって、新たな権力構造に組み込
まれ、そのために、その構造の中で下層部に取り込まれてきたともいえる。
しかしながら、女性たちが伝統的に強い役割をもっていたことや、換金作物の生産にも幾分参入で
きたこと、小売業に早くから女性が参入したこと、たとえ少なくても女性のための学校が開かれたこ
と、都市部において男女が比較的均等が取れていたことなどといったことなど、さまざまな要因が理
由となって女性たちは自分たちの権利を支え守っていたxcix)。ココア生産農民に関して、1960年代に
は少なかった女性ココア農民や女性の土地の相続が、高根の研究よると1990年後半には女性農民の土
地の相続も見られ、農村での女性が独自で自分の土地を経営している事例が報告されている。ココア
のプランテーションが開始された始めた時は西洋型の男性への土地分配や賃金労働の男性への偏重が
見られたものの、ガーナの実情にあわせて変わってきたのではないか。それは高根や白井の研究にも
現れている。このような点を考えると、教育や政治的な側面もガーナの女性の実態に合わせて変わっ
ていく可能性もある。すでに変わりつつあるのかもしれない。
現在西アフリカで頻繁に見かけられるマーケット・マミーのようなインフォーマル・セクターを小
川は「困難な状況のなかで人々が開発した積極的な『生き方 mode of life』だと捕らえている。実際
にガーナの女性史を振り返ってみたとき、女性たちは生きる方を自ら切り開いていたと言えよう。女
性は経済力をつけ社会で発言権を得てきた。
‑ 146 ‑
マーケット・マミーの経済活動やその実態は綿密な調査・モノグラフが必要であろう。経済力を基
盤とした政治力も調査の必要があろう。これらは、今後の課題である。
−註−
i)
西アフリカ、ギニア湾岸の国。ガーナ共和国。本稿において「ガーナ」という言葉を用いるとき、旧英領ゴール
ドコースト、現在のガーナ共和国の範囲全体を一般に指す。厳密には「アシャンティの」あるいは「アカンの」、
「ガーナ南部の」といったようにすべきところがあると思われる。論旨の偏りがあることを付記し「ガーナ」とい
う用語を使用する。
ii)
女性を一口に語ることはできない。本稿で王母やその家系の女性、マーケット・マミー、女性農民では著しく状
況が異なる。また、一国内でも部族(あるいは民族:ここではそれに関する議論は避ける)によって状況はジェン
ダーの概念が異なる。
iii)
iv)
Urdang, Stephanie, Fighting Two Colonialism: Woman in Guinea-Bissau, Monthly Review Press, 1979.
Presley, Cora Ann, Kikuyu Women, the Mau Mau Rebellion, and Social Change in Kenya, Westview Press,
1992. コーラ・アン・プレスリー著、富永智津子訳『アフリカの女性史―ケニア独立闘争とキクユ社会』1999年、
未來社、p.1。
v)
Presley, Cora Ann, Kikuyu Women, the Mau Mau Rebellion, and Social Change in Kenya, Westview Press,
1992.
vi)
Berger, Iris and E. Francis White eds., Women in Sub-Saharan Afrca, Indiana University Press, 1999, p.6.
vii)
Ibid., p.2.
viii)
この分野に関しては日本においては上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』(青土社、1998年)が代表
的であろう。
ix)
x)
コーラ・アン・プレスリー、前掲書、p.2。
宮本律子「特集:21世紀のアフリカ研究
ジェンダー研究の回顧と展望」『アフリカ研究』No.57、日本アフリ
カ学会、2001年。
Rattray, R.S., Ashanti, The Clarendon Press, 1923. Wilks, Ivor. Asante in the Nineteenth Century: The
structure and evolution of a Political order, Cambridge University Press, 1975. 等を参照。
xi)
xii)
本稿では「民族」「部族」やアイデンティティやナショナリズム、トライバリズムといったものを論じることは
目的ではないため、これらの議論は避けることにする。本稿ではアシャンティ(Ashanti)、ガ(Ga)、エウェ(Ewe)
といった「部族」の名称が何度となく出て来る。本稿では「アシャンティ」や「ガ」、「アシャンティでは」や「ガ
において」といった言い回しをすることに統一する。xii)
xiii)
アカンの人口(Popuration of Akan)
:7,000,000 (1995 WA),総人口の44% (1990 WA).:内1,170,000 はアシャ
ンティ(Asante Twi), 4,300,000はファンティ(Fante), 230,000はアクアペン(Akuapem Twi)(1993 UBS). Ghana
Home Page
2003年1月7日。
http://www.ghanaweb.com/GhanaHomePage/tribes/akan.html
xiv)
Aidoo, Agnes Akosua
Women in The History and Culture of Ghana,
Research Review Institute of
African studies, 1985, p.14.
xv)
Robertson, Claire Cone, Social and Economic Change in Twentieth Century Accra: Ga Women, University
of Wisconsin, Doctor of Philosophy History, 1974.
xvi)
Little, Kenneth, African Women in Towns: An Aspect of Africans Social Revolution, Cambridge University
press, 1973.
xvii)
ガーナ大学アフリカ研究所(Institute of African Studies. University of Ghana) ガーナ独立後直後の1960
年に大学付属のアフリカ人によるアフリカの研究を目的として設立された研究機関であり大学院MA course と
M.Phil
の
コースを設けている。
xviii)
植民地支配以前と以後では変化のスピードも質も異なると筆者は考える。文化は固定的なものではなく変化を
する。本章では植民地化以前のガーナの状況を「伝統的」と表記し、
「伝統的」女性の地位・役割を検討したい。
xix)
Aidoo, op. cit., 1985, p.14. アイドゥーは続けて指摘をしている。アフリカへ、そのような環境(女性は家にこ
もるという認識を持った環境)からやってきたヨーロッパの観察者は、概して、他文化の自分たちのやり方とは非
‑ 147 ‑
常に異なる性別分業を評価することができなかった。植民地の管理者のIbid.場合には、かれらが自分の文化のよ
うに、女性を現実に差別した教育的・政治的・経済政策を始めた。そのため、その後の悲劇がおこった。つまりア
フリカの女性は植民地政策を通して、それまでとは異なり女性が男性の後ろに位置づけられるようになった。今世
紀、植民地・ポスト植民地の男性(ヨーロッパおよびアフリカ人両方)は、彼らの許す範囲で彼らの望む役割を演じ
ることを女性たちに強いたのである。
Pellow, Deborah. Women in Accra, Reference Publication Inc, 1977. アクラの女性の西洋の影響による地位の
xx)
低下を指摘している。
xxi)
Aidoo, op. cit., p.16.
xxii)
それ以前も北アフリカのアラブ=イスラム地域を通じてヨーロッパとの関係はあった。イスラムの影響も受け
ていた。現在のガーナ南部の森林地帯には、13世紀以降、内陸部から南下して来たアカン(Akan)諸語の民族xxii)
が多く居住し、王国群を形成していた。16世紀には金の採取・輸出によって栄えたデンキラ、アクワム、ファンテ
ィなどの諸小王国が簇生していた。その中から17世紀にアシャンティ王国が誕生し、一大勢力となった。アシャン
ティは、大西洋沿岸でヨーロッパ商人に、またジェラ商人を通じてジェンヌ・トンブクツでアラブ商人に売られる
金の輸出により勢力を拡大した。ヨーロッパ人の渡来によって金・奴隷の輸出が大幅に伸び、これらの国々は強大
となった。
Aidoo, op. cit., p.16.
Ibid., p.17.
xxiii)
xxiv)
xxv)
現地の呼び名から英語表記ではAshanti
あるいはAsante、Asanteeといくつかあり、日本語表記もそれによ
ってアシャンティあるいはアサンテと二通りあるが、本稿ではアシャンティと統一する。引用文献に関しては著者
の表記をそのまま使用する。
レイ・アンドレ著、矢木公子、黒木雅子訳『主婦−忘れられた労働者―』勁草書房、1993年、p.310。Callaway,
xxvi)
Barbara. J, “Women in Ghana,” Women in the world: A Comparative Study, ed., Lynne B. liglitzin and Ruth
Ross, Clio Books,1976,pp.189-199.
xxvii)
小間徹「家族親族組織」伊谷純一郎、小田英英郎、川田順三、田中二郎、米山俊直
編 『新訂増補版
アフ
リカを知る辞典』平凡社、1999年、p.83。
Aidoo, op. cit., p.17.
Ibid., p.18.
xxx)Aidoo, op. cit., pp.37-38.
xxviii)
xxix)
阿久津昌三、
「まつりごとの構造:アンシャンティにおける王母の事例研究」
『信州大学教育学部紀要』No.668、
xxxi)
1989年、p.18。
xxxii)
Aidoo, op. cit., p.37.
xxxiii)
xxxiv)
高根務『ガーナのココア生産農民−小作輸出作物の社会的側面−』アジア経済研究所、1999年、p.162。
白井和子、「森林の非都市的世界」嶋田義仁、松田素二、和崎春日編『アフリカの都市的世界』世界思想社、
2001年、p.111。
xxxv)
Aidoo, op. cit., p.16.
xxxvi)
Ibid.
xxxvii)
White, op. cit., p.66.
Ibid., p.68.
Ibid., p.70.
xxxviii)
xxxix)
xl)
中村弘光『世界現代史16
xli)
アフリカ現代史Ⅳ
西アフリカ』山川出版社、1982年、p.35。
White, op. cit., p.70.
xlii)
Ibid., p.70.
xliii)
英領西アフリカのイボランド(現在の西アフリア・ナイジェリア)では重税と行政府からチーフへの加権に反
対して、「女戦争」(Women’s war)と呼ばれるストライキが1929年におきている。
White, op. cit., p.72−73.
Ibid., p.73.
xlvi)Ibid., p.86−87.
xlvii)Ibid., p.87−88.
xliv)
xlv)
xlviii)
Aidoo, Agnes Akosua,
Women in The History and Culture of Ghana ,Research Review, Institute of
‑ 148 ‑
African studies, Legon.1985.
White, op. cit., p.90.
Ibid., p.83.
xlix)
l)
li)
窪田幸子「ジェンダーとミッション−オーストラリアにおける植民地経験」山路勝彦、田中雅一
編『植民地主
義と人類学』関西学院大学出版会、2002年。
lii)
Smock, Audrey Chapman “Ghana: From Autonomy to Subordination,” Giele, Janet zollinger and Smock,
Audrey Chapman eds., Women: role and status in eight countries, Wiley, 1997, p.181.
liii)
正式にはアサンテワア・ナナ・ヤア・アキャー(Asantehemmaa Nana Yaa Akyaa)。ヤアー・アキャーは独立
したアシャンティの最後の王プレンペ1世(1888-96)の母親であった。窪田幸子「ジェンダーとミッション−オー
ストラリアにおける植民地経験」山路勝彦田中雅一
liv)
lv)
編著『植民地主義と人類学』関西学院大学出版会、2002年。
White, op. cit., p.88.
Ibid., p.88 and Aidoo, op. cit., p.18.
lvi)
このなかにはファンティの兵士もはいっていた。
lvii)
中村、前掲書、1982年、p.58。
lviii)
lix)
lx)
Aidoo, op. cit., p.45.
セイシェル島はイギリス領アフリカからイギリスに抵抗する多くの政治犯が送られた。
このような王母の記録は日本の西アフリカ、ガーナの歴史に関する記録には載ってないと思われる。在ガーナ
日本国大使館による『各国便覧叢書
界現代史16
lxi)
アフリカ現代史Ⅳ
ガーナ共和国』日本国際問題研究所、1971年においても、中村弘光の『世
西アフリカ』山川出版社、1982年にも記載されていない。
Aidoo, op. cit., p.45.
lxii)
中村、前掲書、p.68。
lxiii)
lxiv)
lxv)
White, op. cit., p.96.
中村、前掲書、p.88。
中村、同上書、pp.88−89。
lxvi)
White, op. cit., p.97.
lxvii)
White, Ibid., p.99.
lxviii)
ヘイスティングズは著書の中で、キリスト教は植民地支配の確立によって用意になったとのべ、18世紀後半
から19世紀をアフリカにおけるキリスト教の「成長の一世紀」としている。また、キリスト教とアフリカの文化の
融合によってアフリカ独特のキリスト教が生まれたとする。Hastings, Adrian, African Christianity: An essay in
interpretation , Cambridge University Press, 1976.エイドリアン・ヘイスティングズ著、斉藤忠利訳『アフリカ
のキリスト教
lxix)
一つの解釈の試み』教文館、1988年、の1章と2章を参考。
Amadiume, Ifi, Male Daughters, Female husbands: Gender and sex in an African Society, Zed Books,
1987.
lxx)
White, op. cit., p.101.
Ibid., p.101.
Ibid., p.102.
lxxiii)Ibid., pp.103-104.
lxxiv)Ibid., p.104.
lxxv)Ibid.
lxxvi)Ibid., p.105.
lxxvii)Ibid.
lxxi)
lxxii)
lxxviii)
ガーナにおけるココア生産は、19世紀後半にガーナの東部州のアクアピン(Akuapen)丘陵で開始された。
ガーナのココア生産の歴史に関しては高根(1999)を参考にした。
lxxix)
高根務『ガーナのココア生産農民―小農輸出作物の社会的側面―』アジア経済研究所、1999年。高根は20世
前半の父系制への移行が認められたことに言及しながら、現在新たに伝統的カンの母系相続ではなく、父から息
子・娘への相続が行われていることなどの変化に言及している。また、母系制が崩れてくるなかで、女性の土地所
有が少なくなり、また、女性が賃金労働から隔離され女性の貧困化がすすんでいるといった議論にも女性と男性が
全く異なる苗場を経営している事例などをあげ異論を唱えている。高根はココア生産女性農民がけっして一概に同
じではないことを描き出している。
‑ 149 ‑
lxxx)
高根による研究で農村での女性が独自で自分の土地を経営している事例が報告されている。これは、急激な変
化というよりも、ココアのプランテーションが開始された始めたときは、西洋型の男性への土地分配、賃金労働の
男性への偏重がみられたもののガーナの実情にあわせて変わってきたのではないかと考える。
lxxxi)
Smock, op. cit., p.183.
lxxxii)
Hill, Polly, The Migrant Cocoa Farmers of Southern Ghana: A study in Rural Capitalism, Cambridge
University Press, 1963, p.11, p.39, p.42, p.65, pp.116−117.
White, op. cit., p.105.
Ibid., p.107.
lxxxv)Ibid., pp.107-108.
lxxxvi)Ibid., p.108.
lxxxvii)Ibid., p.110.
lxxxviii)Smock, op. cit., p.181.
lxxxiii)
lxxxiv)
lxxxix)
ここでいう教育とは西洋教育をうけた男性にふさわしい西洋的価値・婦女子の心得をもった女性に育てると
いった意味での教育であろう。
xc)
Smock, op. cit., pp.181-182.
xci)
Sir Gordon Guggisberg: 1919年に総督に就任。
xcii)
1957年に独立。
Smock, op. cit., p.182.
Ibid., p.182.
xcv)Kimble, David, A Political History of Ghana: The Rise of Gold Coast Nationalism 1850-1928, Oxford
xciii)
xciv)
University Press, 1963,p.134.
Ibid.
Ibid., p.96, note 4.
xcviii)Ibid., op. cit., p.133.
xcix)Smock, op. cit., p.184.
xcvi)
xcvii)
‑ 150 ‑