一 世 a I TERRAMCO ech 196S-1タア1 rp■lpP1■■■■■r4I︲ S 11JIi ■ ’ 1 1 北大探検部 = 虹 ヌー 匂 一 企 旨 ▲ 二 一 一 「−‐ 一 一 ■ 一 ー ■ ー ’ 1 北大探検部部報 1965年-1971年 234 Illll1 所感 佐 々 保 雄 あいさつ 吉 崎 昌 一 執研 、活 動 報 告 内 野 和 顕 グ、、、 片 谷 恒 三 '4 24 111 30 ソリ旅行2 平 野 和 夫 トラッキングノート 米 田 政 明 キナンボ計画 河 野 善 一 浜 田 淳 石 川 和 伴 I 大 野 秀 樹 41 黒潮漂流計画 佐 々 保 雄 黒潮漂流グループ | | 55 イランの山域調査から 75 echDIARY 82 部員名簿 86 編集後記 87 カラハリ砂漠 ’ ’ 1 1 I i,111 「 r"" f"…一…皇J…j−i一℃-≦ 菊 池 俊 彦 副 「 I ’ 所 感 I 一一一顧問教官を辞するにあたって I ︲11︲61■■■ザトョ60■P 学を退くことになり、従って自動的に探検部の顧 問教官も辞することになった。 部が始童ったのは1961年だったが、創立に 当って力のあったのは、富川、富田両君で、私は との二人の要請に応じて、顧問教官になったので あった。以来、私の在任した10年間、私として は大したお役に立ち得たとは思わないが、それぞ れの時期の部員たちの創意と努力によって、まず 順調な発展をとげてきたと言えることは、まこと に喜びに堪えない。またその間に、いろいろ危険 を場面がなかったとは言えないが、事故らしい事 故もなくすんできたことも、何よりであった。 部創設以来の部の歩みは、uTMIRAINCOGNITA"の1号をはじめ、今回出るとの2号 にも述べられているので、ここにそれらをふり返 ることは、止めておく。しかし、部として最初の をとまった試み、単車による日本縦断の隊を、根 室の納沙布岬で見送り、一行の姿が砂けむりをた てて彼方に消えていった時、ああこれが部の出発 だと感概一しおだったことを、思い出す。 それから、道内や、道外に、時に外地に、海に、 空に、山に、川に、原野に、氷上に、それぞれに、 多 く の 部 員 が 、 そ れ ぞ れ の 足 跡 を 喪 し て い っ た 。 ’ その中で、おそらく皆は、何かを求め、何かを果 し、何かを掴んでいったのではなかったか。その 多くの試みに、あるいは筏を編み、あるいは気球 をつくり、あるいはプロペラ船を走らせたりして いる。それらは乏しい費用の中から、皆の工夫と 静 心 に よ っ て 作 り 上 げ ら れ た も の で あ っ た 。 そ れ ㎡4,3IIllIII8i8■ⅡⅡJ■ⅡI・■■■q申lIIlBlⅡ’99111︲41Iqll■00■8口■■■■■Ⅱ日日q■5口目日 ら は 必 ず し も 各 員 の 専 門 で は な か っ た が 、 い つ も 、 何 と か 毒 と め 上 げ て 、 も の に し て い っ た 。 部 の 歩 み を 見 て も 、 い ろ い ろ な 制 約 の 下 で 、 必 ず し も は ' 叢 ; 峨 癌 ' L ' い 達 と を や う て 醤 淀 と 憾 言 え 鼬 か も 知 瀧 L いが、むしろ地道に、しかし絶えず、新しい道を 見 つ け よ う と し て き た と は 言 え る で あ ろ う 。 部 と し て は 、 そ れ で よ か っ た と は さ れ な い に し て も 、 得ることができたか、自分の学生時代を思い起 こして、私は感謝することが多いと思っているが、 は一つの自己形成の場であるとも言えよう。こう 皆もそうであってほしいと願っている。 した部の生活を通じて、いかに有形無形のものを 佐 々 保 雄 1970年の春、私はいわゆる定年で北海道大 員として鍛練され、部員としての自覚も湧き、友 情を固めて、やがて、学窓を巣立っていく。そこ あいさ−つ 多くの部員にとって、それらがそれぞれ、意義の −顧問教官就任にあたって あったことだったと信じている。 これらの足跡の中で、特に印象深いのは、「キ ’ 吉 崎 昌 一 ナンポ」と「イカロス」である。前者は、私の、 30年近く前の竜飛崎でのある日の感慨に端を発 日本きっての名探検部長だった佐左教授から、 したことで、くり返し試みて成功し、その喜びを とユカイなフ・ロジェクトが生み出されることが望 伝えた電報を手にした時、あの津軽の強い潮の中 北大に移ったと同時に部をあずけられることにな を、よくやってくれたと、感激一しきりであった。 った。もともと、先史考古学が専門で、いわゆる 目下は、ニューギニアやオーストラリアにとっ そして、次は−これはまだ実現していないけれ 人類学は、ずっと後になってから泉哨一先生の影 ている。との地域の古代には、大きいユメがある ど−太平洋漂流だなと胸をとどろかしたことで 響で関心をもちはじめたこともあり、あまりとぼ あった。熱気球も、部の活動の一つのメディアで けた。,探検”は苦手である。 からだ。それは、ポリネシアやメラネシアに拡散 していった人間達の実態を調べあげ、そのロマン を追究するということである。舟の起源もそのひ とつといってよい。せ室い日本の中でコセコセす るより、はやく南十字星の下で、小舟にゆられて みたい。しかも、考えられているプロジェクトは、 あったが、退官記念にと、朝霧の札幌上空を飛ば もっとも、佐均先生は、小生がアリューシャン せてくれたのは、嬉しい心づかいであった。機関 で死にかけたり、アメリカの学生をむこうに注わ 士の苦労も知らず、呑気にバナナなどをほうばり、 あの上で物を食べたのは先生が初めてですとから かわれたのには参ったが、気球の活用はこれから である。アフリカやオーストラリアといろいろ計 画があるようだが、それらが実現される日を待ち たい。 ここでは、いま、「探検」とは何か、「探検部」 とはどうあるべきか、などは論じない。この部は 創立されて漸く10余年、いわゆる伝統のない部 だけに、まだ妨復を続けていると言ってよいし、 大きなことを自らでやるだけの力も十分に育って いないが、それだけに、囚われずに、次なと力に 応じた新しい企画も生れて〈":,三上であろう。こ うした清新の気が、部員の時と‘!!.j;卿'につれても、 いつ注でもみなぎっていくことにIり│1'fl・ろもので ある。大学生としての時は短かい。う;『州の基礎 的な学問を身につけて、将来の自己開弗〃糸口を 掴み、土台づくりをすることは、学生として当然 のことであるが、それのみに止戎らず何かをやっ てみたい、それを未知の地域への探索、新しい方 法、薪しい見方での踏み込み、といった期待をも つものの集まり、それが探検部であろうと思う。 そうして、一つの目標、一つの実行に、身心を打 ち込み、共に切瑳し、共に苦労し、その間に、部 室しいと思う。 して、無人島でパン焼きを試みたりしたことをよ く御存じだったらしい。 生まれつきの楽天家であるので、旅行をするに 学問的にも面白いものがたくざえある。今年あた も計画をたてる習慣はあ室りない。しかし、その りから現役のメンバーが、との線で動きはじめる 土地の人々と仲良くなるのは、他の人よりずっと 早い。とれは、食物とアルコールにウンチクをか 時間の問題かもしれない。なにせ、三笄、大野両 だろうから、やがて大型の探検が企画されるのも、 たむけられるからであるらしい。おそらくアルコ ト・クターも控えていることだし、スタッフには不 ールに関しては、北大の教官の中でも5本の指に はいるだろうと自負しているほどである。といっ 自由する童い。 のむととが得意なのである。言葉の通じない土地 で、その住民と仲良くなるのには、なんといって もうひとつやってみたいこと。それはサーパイ バルのトレーニングである。すこし前にこれをこ ころみたメンバーがいたが、“昆虫”を喰うとと に気がつかなくて食糊に困ったらしい。セミのカ も酒が一番いい。人類学者にアルコールのベテラ ラ揚げや焼いた毛虫のゴチソウで、スタッフをし ンの多いのは、そうした理由にもとずくのであろ めあげることも計画中である。 ても酒豪だというのではたく、ウマイ酒を上手に う 。 それにしても忙しいこの頃、一年の半分は埋蔵 佐右先生も人をほめるベテランであったが(失 文化財の発掘に引っぱりだされて悲鳴をあげる始 礼……。でもキナンポプロジェクトはその結果と いっても良いのである)、小生も、それを見習う べく努力中である。願わくば、探検部のO.B. たちの力で、おおいに悪ヂエのシンクタンクがで 末。その点、部員各位に申し訳を〈思っている。 きあがり、そこが部の企画の回転の中心に左って 欲しいもの。その回転に現役がのつかって、次を −3− 一‐‐−−,..−−.−訂,凸・圭一一一才も.‐宇一学二一一凸r−...−,−.. IⅢ 「 〆 − − 1 I l | 熱研活動報告 ’ 顕 片 谷 恒 11 〆 ’ え めた空気を気球でつつみ外気と気球内部の温度差 が き 即ち密度差によって浮力を得、これで飛揚する。 ’ は高度計をみながら、上昇あるいは下降停止の際 はバーナーに点火するし、下降あるいは上昇停止 ヴの操作により、下降速度秒速1メートル程度に できるのでいわゆる軟着陸である。高度1,000 の際はバーナーを消しウィンカーバルヴと称する メートルでバーナーを消したまま落下したとして 排気弁を開く。この操作をくり返しながら上昇、 も、秒速4∼5メートルでありパラシュートで降 下降、水平移動を行なうのであるが、今回は始め りる時よりはるかにショックは少い。ドスンと着 に高度1,000メートル迄いっきに上昇し、500 陸したら、球上部を縦断して10メートルにわた メートル下り、水平飛行に移り、再び700 って取りつけられたタングバルヴと称す鳥夫ルヴ 800メートル迄上昇し水平飛行し又300メー を開き熱気を大量に排出する。これをやらないと、 ’| 1 室でになしたことにゴハて、なにか書けとのことであ 気球内部の温度を余り高く上げることができず、 ったが、京都のイカロス昇天クループ(略称イカ 従って浮力も弱く長く飛ぶこともできなかったし ’ ロス会)と共に行なった事柄については、梅棹エ リオの『熱気球イカロス5号』に詳しい。そこで、 人間を乗せるためには気球を非常に大きなものに トル位迄下り、一時下降速度を落し着地点を探し 風に引きづられて気球及びゴンドラが破損し乗員 しなければならなかった。その後、密度の低い水 ながら水平飛行する。空中に於て熱気球は垂直方 が危険にさらされるからである。 ここでは、イカロス会と異なった立場にある熱研 素やヘリウム等を利用したガス気球にとって代ら 向は操作できるが、水平方向は全くの風まかせで における熱気球開発の意味、さた、熱気球計画を なしてゆく過程を通じて熱研参加者側としての感 想、エピソードなどを収録することにした。たて 蚕えと理念を書いた堅い文章としては、すでに熱 研参加者の片谷恒三によって、北海道大学新聞に 書かれた一文「ふうせん?」があるので、これを 第一部とし、ある程度、裏、あるいは、斜めから みたものとして、内野矛暉が新しく一文をなし、 これを第二部とし、合わせて、熱研からの最終報 告とするものである。 れ、飛行船となり更に、飛行機の発達に伴い熱気 ったのは、二年前の10月でこの計画は丸2年か 球の時代は全く過去のものとなった。しかし、最 風まかせということは非常に特異な世界をゴンド かった。直接のきっかけは、部の顧問である名大 近になってアメリカを中心として新しい方式の熱 ラの上の二人に生みだす。というのは風を感じな 理学部教授樋口敬二先生より、オーストラリアの 気球が主にレジャー用として発達してきた。この いから全くの無風状態である。全く静かで音が良 学生が熱気球を飛ばしているという話を伺ったこ く通り、不可思議な世界であるさとれは乗った者 とであった。探検という定義のしにくい(我々は らない程安全で、飛行操作も容易である。球皮は でないと分からない世界超ところが今回の飛行 軽くて耐熱性のあるテトロン等の合成繊維を使用 “知的情熱の肉体的表現”と定義しているが)行 動分野で学生という立場から空に向おう.と、早速 することにより気球内部の温度を90℃まで昇温 に於て、もう一つ特異な体験があった。地上風と 上方の層流をなしている風とのいわば風と風との でき、をた燃料はプロパンガスを使用し、ボンベ 断層面において気球は回転運動をし、この時はわ とバーナーを積込んで飛行するので、燃料のある ずかながら風を感じるのである。通称“オバケの ピケ”と呼んでいる4本の地上制御用ロープがフ 1 限り簡単に温度をあげ飛行し続けることができる。 日本で初めての“熱気球''による飛行 111 終了した。 く『NationalGeographie』という雑誌に アメリカでレジャー用として用いられているとい う記事をみつけ現在ある熱気球の説明書を取り寄 せようと思ったがパテントがどうのこうので構造 開口部より気球内に入り、気球内を一巡して開口 ’0キログラム、積込んだ母の半分であるが危険 性能等全く分らず終り。例えばバーナーを例にと 部より排出さオ,る を考慮して、というのは着陸予定地に高圧線とか の障害物がある場合別の地点に移るため再び上昇 しなければならないのである。飛行時間約25分、 飛行距離約7キロメートル、追跡車に着陸作業を 開始する旨伝え、ウィンカーバルヴを開き、対地 ってみても計算によると終速度毎分4メートルの 説明してi『〈離陸地点に於て、気球とゴンドラの 接続をし、ボー、を積み込みバーナーの状態を事 前にテスト{-『)譽,〈。全ての準備がととのったら 地上用熱風送風磯で熱風を風管を通して気球内に 送り込む。気球'tムクムクと頭を持ち上げ始め 10分位で完全にふくらむ。ゴント・ラに乗員(− 熱気球とは、18世紀人類が始めて空を飛んだ 時用いられた最も古い飛行原理に基づいており温 部内に熱気球グループが作られた。作ったのはい いのだが、熱気球に関して皆目分らない。ようや 上部に取付けられたバーナーで加熱された熱気は それでは実際贈ノ'1│§行方法に従い、装置その他を 北大第二農場に於て、乗員2名と共に空に浮んだ。 この時はザイルをつけた係留テストであったが、 9月28日には羊蹄山麓で自由飛行に成功した。 その後8回の自由飛行を試み何れも成功、貴重な データと共に一連の熱気球計画の第一回目が無事 一・ ラフラと廻り始め“廻り燈寵”の様である。さて いよいよ着陸である。この時迄の燃料消費量は 9月21日午前7時、我国で始めての熱気球が ! 熱気球をとばそうという計画が探険部にもち上 ありそれが熱気球の短所でもあり長所でもある。 1’ 新しい型の熱気球は、以前の熱気球とは比較にな 第一部ふうせん? ←一一一一弓一,画?=一三一ニーーー リーバーである程度吸収し、またウインカーバル | 気球下部に直径4.2沈の開口部があり、ゴント・ラ ’ 程度で気球は毎秒3祁位で上昇を始める。操縦士 昔は空気を温めるのにたき火を使用していたため 熱気球研究グループ(略称熱研)が成立から消失 (内野記) ’| 部に取付けた硬質発泡スチロール製のショツクゴ I 内 野 和 ま 更に気球内に熱気を送り込か侍ノJセンヤフ匂。廷ノJ・ 人は操縦士でありもう一人は通信及び記録係であ る)が乗組む。ゴンドラ上部のバーナーに点火し 上高度’50メートル位戎で下降し水平飛行を続 けながら最終的着陸地を見い出し、バーナーの元 栓をしめ着陸する。風まかせではあるが、着陸地 下降を制御距離100メートルで停止をさせるに プロパンを毎時40キロ燃やさないと駄目なのだ がそういう性能のバーナーはどこにもない。注文 しても出来るかどうか分からないというメーカー の話。素人の我均が始めから勉強してやっと自熱 で強制気化させる方式のものを作った。序にいう ならばこのバーナーの性能は最終的に毎時610キ は150メートルの高さからでは80メートル四 方の範囲で分る。着陸時のシ園ツクはゴンドラ下 ロつまり普通の家庭が1ケ月で使う量を十分間で 燃やせるものだ。同じ様な事が、気球の布自体や −4− −5− I =ず一r一'。.‘-'一ー壬一二公Fヨーーーー< = =一 湾戸も一色-些_坐.1−.一一三皇z--'一-.,L‐−一 -室 三二 二 二ニ 今= ー-.,星.‐一‐具 一q■占一ローーー電ワロローーーロ、−− ==_==・ヨロ星−−L−F--.-▲E,ニーーーー今凸"_, =−−..−今−−=-舎-----"--.----負一一一一一当-----・=--.----一・--,-----"--、.-..÷−−--.-ゴーー,-.…."-..ざ._=苧−−雲---%華_-------…-.--一宮…‐−一々-___一ーーーーーー:=三ニーニー--旦一=一一一一 ’ 「r一一一 1 I 〆 バルヴにもあてはまる。−通りの見通し(といっ 手段と.して野生動物を空から観測でき、その自然 ’ この時は熱源として石炭ストーブを用いた関係で、 のんびりと計画を進めて行き、できなければ後輩 てもまだ不充分でこれで出来るのではないかとい の行動生態を把握できるc北海道の例でいうなら ば、湿地帯のため無雪期間に仲を入り込めない根 I地上に漂う程度ではあったが、参加者に強烈な熱 気球のイメージを植えつけた様だ。これ以後、熱 にバトンタッチするという考えが支配的だったの うはかない希望的観測)がたち計画書を作ったの が昨年の7月だった。その頃探検部全体による2 釧原野を調査でき、台地状の大雪山系の地理的観 気球製作へ向けて、基礎的データ集積が行なわれ ループ・としての存在意義がないのでなにが何でも、 年間に亘る知床調査が終了したのでその整理など 察にも気球が使えるcヘリコフ・ターや飛行機等が たが、仕事が単調などの理由もあって、始め参加 作り上げるんだという切迫感があった様に思う。 やっているうちll月になった。或る日、京都大 接近しにくい水蝕地形や周氷河地形の観察等興味 していた多くの人達が、抜けていき、あくる年の 学の学生がフラリと部屋に現われた。これが我々 と共同チームの“イカルス昇天会”のメンバーだ ある調査がおこなえるだろう。次に、レジャー面 として見るなら、日本で熱気球が発達していくの 1 った。“イヵルス昇天会”は京大・立命館等の学 1 はこの面だと思うがアドベンチャーの領域からス 生らのグループで我々と同じ時期に結成されてい ポーツ・レジャーへ拡大化され、大型レジャー化 た。お互いに存在を知らなかったのだが偶然に知 して来ている昨今熱気球は発展すると思う。確か l 1 I 後熱研は解散時をで以上の6名により構成された。 株式会社「ぼくさん」の菅原厳氏の指導をうける 会の代表は松本長老であり、当時新進の学徒で地 ことになる。菅原さんは、地球物理の孫野教授の された方で、熱研の計画に興味をもたれ、バーナ 同で計画を進めることになった。手紙のやりとり で並行して設計を進めながら互いの不備を補い合 ラブが出来れば熟練した飛行士と共に安全に気球 ギー発散テスト.球皮耐久力テスト・球皮耐熱テ ーの専門家として、我禽が一本立をするまで多く 飛行を楽しむことは容易である。 ストと称する一連の実験を行なって行き、この時 の貴重なアドバイヱを与えて下さった。ここに特 記して感謝しておきたい。、 い今年1月東京に於て直接の打ち合わせをし、互 いの進み具合や地の利を考え、京都は気球本体と 点ですでに球皮材料として、コーディング加工の 調査への第一段階として先ず熱気球なるものが安 テトロン地を用いるのが最良との結論が出ていた。 ゴンドラ、北大はボンベとバーナーその他の計器 全に使えるかどうか、また操縦はどんなものなの ところでこの熱気球計画は、最終的には、京都の ベを空にするほどの大容量のものなので設計に、 かをテストしただけであって、本当の飛行はこれ 「イカロス昇天グループ」(略してイカロス会) 大分手こずった。最初は液体バーナー、及び液体 からである。しばらくは改良を重ね操縦に習熟す との提携で行なわれたのであるが、イカロス会と 強制気化式バーナーの二種類を用意したが、液体 るのが目的であるカヘ更に次なる段階に進みたい の情報交換は、との年の11月頃から始まってい バーナーは炎が長すぎるとの理由で採用されず、 と思っている。 以上熱気球についての概要について説明したが、 興味ある方がいたならば、部屋を訪れてもらいた る。文通は主に、松本(熱研)と島本、田中(イ カロス会)の間で行なわれた。この頃は球皮に関 強制気化式の現在の型のバーナーが採用された. 第一回バーナー燃焼テストは、1969¥8月9 する限り、熱研の方が数段研究が進んでいたと思 いし、また作り飛ばしたいと思う人に、操縦方法 などを公開して行き、日本中に熱気球を広めて行 われる。しかし、1969年1月の東京における 会談(いわゆる東京会談)で球皮ゴンドラは、イ 日に北大農場で行なわれ、R−1型(液体噴射式) は燃焼プロパン量、80Kg/h、B−l型(気化型) は41Kg/hと記録されている。結局B−1型は きたいと思っている、 カロス側が担当し、バーナー・送風機等、熱系統 再三改良された後、B-1改良型(燃焼プロパン (片谷記斗碗道,I_f洲瑚1969年11月1日号Ⅸ録) は北大が担当するとの合意により、熱研は球皮・ ゴンドラより、手を引く事になった。イカロス会 は、この時点においても、球皮に、テトロンフィ ルムを主張していたぐらいであるのに、何故我食 &80K'/h)として8月下旬に送風機用バーナ 我‘々の今回の熱気球飛行は、将来の気球による 第二部熱研,舌動印象記 北大探械部》‘‘球グループ.(略して熱研)は 四一……_’ 一 一 一 一 . . − | バーナーは、わずか80分程度で20KFのボン ーとして完成された。この頃は大学紛争の頂点で あり夕方ゴーというすさまじい音と共にバーナー 実験を始めると、全共闘の新兵器ではないかと評 1967年9jj;JII11に正式発足した。その発足 が球皮から手を引いたかだが、主に考えられるの は、繊維メーカーが関西方面に工場を持つので何. の刺激は、樋'’『'殻授よりの部報用原稿「熱気 かと便利であること、及びイカロス側の島本伸雄 8月も下旬になった頃イカルスより球皮膨張テ 球のすすめ」た′-すでにその年のll月中旬 の球皮設計にかける熱意に負けた事の二つであろ ストを行なうので、バーナーをもってきてぼしい には農学部付近の!」−ンで正二十面体、直径3打z う。これは計画を通じてずっと言えた事だが、熱 との連絡があった。誰も残暑の中の本州行きを希 の球皮のモデルによる浮上実験も行なっている。 研は探検部における一研究会念のだから、気長に、 望せず、結局、本州に寂があるとの理由で、私が −6− ・ と バーナーに対するイメージがわいて来ず、結風 | ’| いったところだった。1968年には球皮エネル で は 、 ヘ リ コ プ タ ー 等 と 異 鋤 空 気 を か き 廻 す こ と な く 大 気 そ の 戎 ま の 状 態 で 観 測 で き ス モ ッ グ の 粒 子 分 布 状 態 、 気 温 の 逆 職 層 面 の 状 態 、 そ の 他 の 高 層 気 象 観 測 が 出 来 る 。 食 た 、 1 時 間 飛 行 す る の に 要 す る 費 用 は 二 千 円 程 度 な の で 最 も 安 価 な 飛 行 一 F = L 具合のテストなどを行なっている。しかし一向に I 年の新人では、相原研一、内野和顕が加わり、以 迄はいかないだろうが、学校、会社等に熱気球ク 生 か ら 消 滅 ま で 内 部 側 か ら 観 測 で き る 。 都 市 上 空 ’ 石橋忠夫のわずか4名になっていた。そしてその 千歳空港の霧消し実験に際して、バーナーを設計 人 の 玩 具 と し て 熱 気 球 を 作 っ た の で は な く 、 気 球 の 短 所 を 長 所 と し て 活 用 で き る と い う 信 念 と 見 通 し を 持 っ て 製 作 し た の で あ る 。 気 球 の 利 用 の 仕 方 は 色 を あ る と 思 う が 、 我 々 は 次 の よ う に 利 用 し た い と 考 え て い る 。 先 ず 学 術 面 か ら 見 る と 自 由 気 球 で は 大 気 の 流 れ と 共 に 動 く の で 、 雲 の 中 に 入 り 発 11 め始め、小型プタンバーナーと送風機による炎の 球物理学者たらんとしていた中島が熱研の頭脳と 人 間 が 月 に 行 く 時 代 に 何 を も の 好 き に 気 球 な ど あ げ る の か と い う 批 判 が あ る と 思 う が 、 我 々 は 大 │I 3月には、メンバーは松本亘、片谷恒三、中島徹、 に現段階では、誰もが気球に乗って飛びまわると 成、先日飛行に成功したのである。 1 東京会談以後、我々は熱系統の資料を新たに集 り合い、同じものを二台作る必要もないし、競争 して不完全なものを作って失敗したら熱気球は日 本で発達しなくなる恐れがあるということで、共 類 を 製 作 す る こ と に な り 、 5 月 に 実 験 を 重 ね た 末 の 最 終 的 計 案 が と と の い 共 同 の 計 画 が 決 定 し た 。 それから実物の製作費用の鯛達等を行い8月に完 I| 1’ に対し、イヵロス会は、彼らが出来なければグ 判が立ち出し、ガート・マンに問いただされたとい う笑えぬエピソードもあった。 --7‘一 ’ ’ 帰省を覧れて京都へ行くことになった。この間、 残りのメンバーは、フライト用バーナー、B−2 ’ 1 0 . 4 〃 1 0 . 7 〃 るが、その二階にあがって驚いた。部屋から部屋 11 〆 , ' 月 下 旬 野 幌 に く { 蝋 圃 門 へと二階のすべてを占領して、オレンジ色の布地 が、さながら海の様に存在し、8∼4人の男たち が、その中で、のたうちまわっていたのだ。おま 1970.3月中標津(雪上にて) {震い} けにABC放送のカメラマン氏、ディレクター殿 が、熱研自満のバーナーを心細げにたたいて、 「ぼん裳にこんなもんで上るんやろか?上らんか つたら、一家心中するほかないわ」などと言いな が ら 、 イ カ ロ ス 会 の 尻 を た た い て い た の で あ る 。 これは、さながら、戦場ではをいかと私は少々あ せ り 、 松 本 長 老 に 、 「 連 中 、 本 気 で 9 月 中 に 上 げ るつもりだから、バーナーもそれまでに完成の要 あ り 」 と か な ん と か 霄 い て 速 達 を 出 し た 記 憶 が あ る。 I し た 。 ゴ ー と い う 燃 焼 音 と ブ ル ー フ レ ー ム の 圧 倒 的圧迫に、イカロス会の面々、ABCのカメラマ ︲I111llIll︲l ン 氏 、 デ ィ レ ク タ ー 殿 も 納 得 し た 様 子 だ っ た 。 そ れから−週間ほどで球皮も完成し、宇治グラウン ド で の テ ス ト を 終 え て 、 舞 台 は 北 海 道 へ と 、 を た もどったのである。 北 海 道 で の 合 同 飛 行 は 、 9 月 2 8 日 、 田 中 、 梅 棹 の 初 飛 行 か ら 、 l O 月 7 日 の 第 4 回 飛 行 を で で 終 わ り 、 以 後 は 、 気 球 の 一 切 が 熱 研 の 管 理 と な り 、 熱 研 独 自 に 第 5 ∼ 第 7 回 の 自 由 飛 行 が 行 な わ れ た 。 以下に、飛行記録を示す。 6月 北大中央ローンより (佐食先生退官記念フライト) 石橋(〃) 佐な保雄ECH 前部長 一回の飛行には2人が乗組み、1人がパイロッ I トとして、バーナー、ウィンカーバルブを操作し、 もう1人が通信士として、高度計を読み、かつ地 上と無線連絡にあたる。飛行は初回、2回と回を 重ねるに従って、日常的になっていたが、小失敗 もいくつかあった。私が飛行した第8回では高度 計のセットを海抜高度にしたので、高度計では、 をだ200加指している時に、着地してし浅い、 当分着地しないと思って着陸準備をしていなかっ た私がゴンドラより、ころがり落ちてしまい、片 谷1人をのせた灸(球か、キミ20加ほど浮かんでし さうという『liか*」∼'・ント・ラ上では、気球は 風と共に進j1『キヘきりの無風状態ではあ るが、端かい」」;1L,ゾノんびりした、フーセン 旅 行 と い , ' ・ j _ ' ' } で は な い 。 バ ー ナ ー の 点 火 中 は 、 。︲bq1dl,IIP1,・IIlpllFIl1pfb■Irl‘。■■Ⅱ11jP1l ゴーコ'-l-i-;X、fLい音がして、お互いの、こと ばはきき{'でifた、パイロットは、バーナー 飛行データ 1 9 6 9 . 9 . 2 8 真 狩 村 “ { 田 中 ( イ カ 回 ス ) 梅棹(〃) | I 1 1 1 jlBりlllI11lIIll日卜ⅡillllI1l4IlPL■,−︲11111J111日11.■j1Illlll1IllIlllll1.1111 lllllllll1■lL■■■■■911■OEl0Ⅱqll44●llIIⅡⅡⅡ010111,LⅡⅡll0IIIrIlI●1lbd1llIIll 翌日、付近の公園で、バーナーの燃焼テストを { 鱒 圃 ? 斑 ) { 題 イ 手 ≦ ) lIllillIll1︲111111︲ll1llIlllIlll ’ " ‘ , , . ’ 真 榊 , { 卿 : 里 ) 型改良型、及びB−3型を完成させた訳である。 本当に京都の連中は球皮を作り上げたのかなあ と半信半疑の気持ちをもって京都へ、そして島本 氏の家へ着いた。彼の家は二階建の洋館なのであ ■■■日日ⅡⅡ0日IIllIIIl0可IlIIⅡIIIl9lIIl9IflllllllIIl4l6II1IIIIIIIIl1l1II4IIlIIIIIlIIII1jl︲000口lq1︲L6 「 『 ここで少し、梅棹エリオ氏の「熱気球イカロス ると、皆かなり緊張しているのがわかる。さて、 自由飛行も第7回あたりになるとずっとリラック 5号」で香かれている様な事に対する熱研の方か スして北大の中央ローンから上げてしまった。今 らみた感想を書き加えて、終わりとしたい。この から考えると、大分無謀だったと反省している。 「イカロス5号」という名前であるが、当初、熱 との時は、松本、片谷はすでになく、中島と内野 研とイカロス会は、対等・平等の関係で提携した が、打ち上げ主任格であった。丁度佐倉先生の退 ので、「熱気球一号」には、片方のグループが一 官記念飛行として、メンバー中唯一の未飛行者で 方的にペットネームをつけないということになっ 理論家の石橋がパイロットとして佐々先生と乗り ていた。またこの対等・平等の原則エリ、,認飛行 こんだのだった。関尾プレの友人にカメラを依頼 には、相方のグループから一人ずつ乗り込み、、熱 し、佐々先生乗り込み前のポーズをつけた写真な 研からは、片谷が乗り込む事になっていた。しか ど撮った後、送風を開始した。ローンの木庵にや し、当時梅棹、田中両氏がこれを機会に、マスコ や球皮がさわった程度で、球皮は順調に膨張し、 ミに乗り出したいとの希望を持っていた事、また 2人はゴンドラの人となった。その時、球皮とゴ 気心の知れた同士の方が、万一の事故の際にも、 ント・ラをつなぐワイヤーにたるみが二ケ所ほど発 より良いのではないかという意見もあり、片谷が、 見された。一時はその童ま上げようとの事だった 自発的に、第1回乗り込みをイカロスチームに譲 が、中島共と、何とな‘〈良心の呵責を感じ10分 った。・との様に、たにか、なしくずし的に、イカ かけて直した。その頃より、札幌ではめずらしい ロス会が主導櫓をとる様な型になっていった理由 あたり一面の霧になったが、気球はそのまま、す を考えると、東京会談において、球皮の研究は熱 さまじいごう音と共に浮上し、20畑も上がると 研の方が進んでいたにもかかオ滝ず、イカロス会 全く霧にかくれて、音のみが聞こえるという有様 の方に球皮の製作をまかせたという事が、その様 だった。予定では、石狩浜方面への飛行という事 になって行くそもそもの始めであった様だ。との で、連絡を含ったが、反対方向それも札幌市内の 東京会談でのイカロス会と、熱研との感情的、理 豊平製鋼の屋根にバウンドし、送電線でスパーク して降りたという通報があり、一同冷や汗をかい た。その日は、上空の風が送風で、しかも、霧中 の飛行だったのだが、打ち上げと同時にバーナー の−基が故障し、石橋が必死で直している際中に、 論的な心理的力関係の性質が、その後のつまりイ う理由を考える鍵となる。その1つは、イカロス ふと下を見ると札幌テレビ塔がみえ、そのため市 事、もう1つは、この気球を上げる事に対する迫 内に緊急着陸を行なったらしい。佐向先生はさす 力の違いを感じさせられた事にあると思う。前者 が大物、故障中に、バナナをもぐりと食べ「君も は言うならば、秀才技術者に対する職人の関係に どうだ」と石橋に渡したそうである。石橋は(、カ ナをほうばbながらテレビ塔上空で、必死になっ’ 職えられるかもしれない。イカロス会の秀才島本 ていたのだそうだ。それにしても、二人共無鰯だ している事もあって、インフェリオリティーコン ったのでほっとしたが、この時のスパークで球皮 プレックスを持ってしまい、この時期に、すでに カロス会の方に次第に主導権が移っていったとい 会の球皮、球状決定に関する実験力、コンピュー ターまで使ったという数値に幻惑されてし食った の頭脳に対し、我点も学生であり科学的たらんと 調整、ウ’一/ノ,‘ブで操作に忙殺されるので、 かなり忙しい、ノノヒノ)通信士は、いわば気楽な乗 客の立場であるとも颪えるが、それでも第4回ま は、焼けただれて寿命は終った。これを機会に熱 その様な厳密な実験やデータが現実の球皮・球状 研は解散し、以後、熱気球はアホウト’リグループ 決定に、ほとんど関係がないとわかっていながら、 での交信記録(テープ・にとってある)を聴いてみ に受けつがれて行く。 経験的な吟味によって自ら到達した結果を、押し −8− −9− I シ今一一‘ 凸尹乙宝一己千戸_-,』,−−4_空−−=、1.雪。,_−0−_■弐一ローマー ,〆 一 | ’ 1 出す事ができなかったのである。この様な関係は、に醸成して行きたかったのである。ところが、イ その後も続いて、その意味では、この共同作業は、カロス会は、先にも書いた様に打ち上げる事が目 イカロル会側には、いわゆる科学的な論理が人間的の集まりであるから、我々にそんな余裕を与え を 動 か す と い う 事 へ の 過 信 を 、 そ し て 熱 研 の 側 に ず 、 学 業 も 放 り 投 げ て 、 気 球 と 心 中 し よ う と い う を 促 す と い う 意 味 で の 教 育 的 価 値 を 持 っ た と は 言 る を 得 な い 一 種 の 仕 事 に な っ て い た と い う 事 も あ い 難 い 。 し か し 、 そ の 様 な 中 で も 、 イ カ ロ ス 側 製 る 様 だ 。 そ こ で 、 梅 棹 氏 の 心 理 的 エ ネ ル ギ ー と 島 〆 作 の リ ッ プ ル バ ル プ が 地 上 実 験 に お い て 、 し ば し 本 氏 の 頭 脳 に よ っ て 動 く 、 巨 大 な イ カ ロ ス 会 が 、 ば 事 故 を 起 こ し 、 現 実 の 飛 行 の 際 に 大 事 故 に 結 び 趣 味 の 会 、 熱 研 を リ ー ト ・ し た と い う 事 に な っ た の つ く お そ れ が あ る と い う 事 で 、 熱 研 片 谷 、 考 案 の だ ろ う 。 ア ニ マ ル は 、 ロ マ ン 派 よ り も 強 か っ た の タ ン グ バ ル プ が 用 い ら れ る と い う 事 は あ っ た 。 ま だ 。 . . … . は た し て そ う だ ろ う か 。 た後者の迫力の点では、我々熱研は、探検部とい 1 IIlllLIllIIIL1rlII︲IIllllII■IⅡ は 、 自 分 の 経 験 へ の 自 信 の な さ と そ こ か ら く る 考 訳 で あ る 。 と の 様 な イ カ ロ ス 会 の あ せ り の 中 に は 、 え る 事 を 他 人 に 蚕 か せ 、 自 ら は 動 か さ れ る 人 間 と 彼 ら の 場 合 は 、 マ ス コ ミ か ら 、 い ろ い ろ な 型 で 援 な っ て し ま う ど い う 態 度 を 植 え つ け 、 人 間 の 成 長 助 を 受 け て い て 、 気 球 を 上 げ る と い う 事 を や ら ざ ’ 1 ①音がしない(動物観察が楽 ①音が大きい( ②球皮が小さくてすむ ②浮力が小さV 永反か必安 ③比較的長時間飛行できる ③毎時間しか瓠 (燃料の関修 (内野記) 畷漁 ウインカーパルプ う サ ロ ン 的 雰 囲 気 の ク ラ ブ の 中 の サ ロ ン 的 雰 囲 気 こ の 報 告 を 蚕 と め る に あ た っ て は 、 新 進 の ル ポ の ク ル ー プ で 、 イ カ ロ ス 会 と 提 携 す る 玄 で は 、 本 ラ イ タ ー 別 府 隆 一 郎 の 援 助 を 受 け た こ と を 付 記 し 当 の 所 、 気 球 計 画 は ま だ 、 当 分 は 夢 と し て 、 大 事 て お き た い 。 詮 ざ 表1 熱気球と水素気球の比較 素 気 球 熱 気 − ①爆発しやすい 球 一一一一一一一一一一一一一■一一一一一一 串 熱気球の有利な点 ①爆発しにくい ② 球 皮 を 膨 張 さ せ る の に 数 時 間 か か る ③ 膨 張 中 に 風 が 出 て 来 た 時 は 保 留 し て 待 た ね ばならない ②10分以内も可能 ③すぐに球皮をたためる ④Hggasは高価である ④プロパンヵズはか'.‘ ⑤H2gasは入手がむずかしい ⑤ブロパンガンけgasgtationがすぐ入 補強テープ 開口部 手できる ⑥ 上 下 勤 が し に く い ( 砂 袋 を 用 い る か ら ) ⑥上下動か簡蝿I三できる ⑦離着陸に高度のテクニックがいる ⑦離着陸かや,ざ│=い ⑧ H , g a s は 多 鼠 の カ ス ポ ン ペ が 必 要 ③ボンベかJ'方非、数ですむ ⑨積乱雲中で爆発する ⑨爆発しない ワイヤー 離陸時 操作用ザイル ウインカーパルプ リップパルプ 捌乍用ザイル 操作用ザイル バーナー 邑 一 ' 一 一ゴンドラ ボンベ ショックアブソーバ -10−11− I − 壱 一 ■ J ■ 背 一 L =室寓塞畠と一彦壷誓喜奉ざ一二喜争垂害毒まぜ頚=垂垂= 一一三一口-,_ 一 勺 一 L L 一 一 ゴ 一一③‐少 − I l l u s t r a t e d by IkuoNinbari 「 L I〆ー ’1 − − 〆 ① 童 ④ ⑥ ⑨ = ② ⑦ 一 △ . G 一 一 ‐ ’ 」 1 に マ 里 戸 ⑤ ③ ⑩ ③ -12−13− ー Ⅱ 一 一 ■ ー 一 一 一 一 画 G 一 一 一 一 − 可 一言垂_一一=一'・"=・■!→令一P− 口 一 一 一 一 一 ロ■■■■■■■■■■■‐ − ソリ旅行2 − i る 。 (1)サロベツ原野縦断 る所があったが、すぐに雪道となる。最初は、随 と‘ この他、北海道開発局を中心にして、気象、動 分、心配したりしたが、10日間やってみて、稚 |物 、耐 物、植物、土壌といった系統的な調査が行われて 内で雪がなくても、サロベツではつぼで無理とい │ い る 。 いる。だが、これ等も、夏のうちにすぎない。冬 平 野 和 夫 は じ め に り 前 に 、 雪 の 道 を 、 ソ リ を 引 い て 1 0 日 間 、 ば か み た い に 歩 い た に す ぎ な い 。 大 体 、 世 の 中 に そ う 面 白 い こ と が あ る わ け が な い 。 血 湧 き 肉 踊 る こ と が あ る わ け が な い 。 馬 鹿 み た い に 、 忍 耐 強 く 歩 き な が ら 、 す る ど い 観 察 の 目 を 開 き 、 ど ん な に っ 童 ら を い も の で も 、 一 つ 一 つ 確 か め て い く 心 が な け れ ば 、 所 詮 穀 つ ぶ し に す ぎ を い の で あ る 。 サ ロ ペ ツ 原 野 と ぬ う の は 、 矛 呪 礼 文 を は る か に 西 に 望 む 、 広 大 鱸 湿 原 地 で あ る 。 排 水 が 悪 く 、 泥 炭 地 で あ る の で 、 人 を 寄 せ つ け た か っ た 。 最 近 、 排 水 牌 を 作 っ て 流 れ を よ く し た の で 、 入 居 者 が 出 て き た 。 大 抵 酪 鰻 を や っ て い る が 、 そ の 他 に 細 々 と じ ゃ が い も な ど を 作 っ て い る 。 樺 太 か ら の 引 揚 げ が 多 い そ う ' ' だ 。 こ う い う 所 だ か ら 冬 は 何 も な い 。 時々襲う吹雪と、広い雪原のみである。 ル ー ム ② 記 録 に よ る と 、 昭 和 3 7 年 1 月 、 倉 知 隊 が 海 岸 を 歩 い ' で 渉 画 ベ ツ に 入 っ て い る 。 昭 和 8 9 年 2 月 ' 、 同 じ く 倉 知 隊 が 、 初 め て ソ リ を 使 い 、 オ ホ ー ツ ク 海 岸 か ら 山 越 え を し て 、 サ ロ ペ ツ に 入 っ て い る o 昭 和 4 0 年 1 0 月 、 前 田 隊 が ポ ー ト を 使い、排水溝をさかのぼってペンケ沼に入ってぃ −1も I 度 の 旅 行 は 、 そ れ ほ ど 危 険 が あ っ た わ け で は な い 。 だ か ら 冒 険 と い っ た ほ ど の も の で は な い 。 極 く 当 O0l000000000000I0000000690000000000000。●6010011 探 険 と は 、 し か し そ ん な も の な の で あ ろ う 。 今 C ラ 地 帯 の よ う を 所 で あ っ た 。 寒 風 が 吹 き す さ び 、 顔 を ぴ り ぴ り さ せ 、 無 言 の 蚕 室 、 ソ リ を も く も く とひいていた。 、﹄■j を 考 え た の だ ろ う 」 と 思 っ た 。 稚 内 を 出 て 間 も な く 、 寒 々 と し た 白 と 黒 の 二 色 し か 見 え ぬ 、 ツ ン ド 一、蝿Q 「 一 体 、 誰 が と ん を お も し ろ く も な い ソ リ 旅 行 爵 I ■11lbⅡll01IIILILIrl卜blllIIIIdIlIII●11︲jlI1l101lj0pⅡⅡ,Illllllllllllllllll0Il1l1lI︲1︲l 〆 〆 C> QqB シユプントウ沼 う風に、全く理想的な条件はないという事が結果 には、犬飼先生(顧問)が、キツネやネズミの食 的にわかった。だから装備についても万全を期し 性を調べる為に入うておられるが、そういう専門 ておかなければならない。道で、ある親爺さんと 的な立場が入る以外、こんな突拍子もなく広い所 話した。雪がある所とない所とけじめがはっきり へ来る物好きはいない。 しているので、大変困る。例えば、平地で雪がな 12月25日雪 くても使いにくいという。ゴミをわざわざ丘の方 10:10急行賦天北”にてオ幌発降りしき へトラックで捨てに行くのだから大変だ。思った る雪は止みそうにない。滝川から向こうは猛吹雪 通りに、沿岸漁民より船主に雇われて遠洋航海に で、列車が立往生しているらしい。まったく出鼻 出る漁民が多いそうだ。失業者は、ゴミ処理場で をくじかれる思いだ。案の定、滝川でストップ。 何時まで経っても発車しない。退屈したからホー ’ムに降りてみる。外は吹雪いていて何も見えない。 働くか、ゴミを捨てにくる仕事をやっているそう だ。小さな丘の上に登る。木もなにもない。ただ 赤茶けた雪だけが続く。正にツンドラだ。遠くを l そのうち、ようやく出発してくれた。美深や音威 望む。シュプント沼の白い原が見える。車道でな l 子府あたりは大変な雪だ。駅員が除雪に精を出し ければ、ソリは、無理だ。しかし車の通りは少な ているが、とても追いつきそうにない。エンエン い。ソリは快調。二人が引いて、−人が後から押 5時間の遅れで、南稚内駅に到着。時に夜ll時 すぎ。駅で、泊めてくれと、しつこく頼むが駄目。 す。この日のテント場玄で、4・ず回も吹雪があ ’ ’ 1 1 しょうがないから、何処かそこらへんにテントを ’張ることにして、出かけようとしたら、何とまあ、 ものすごいリーダーがいたもんだ。この寒風の中 私 | ’ | った。道路の専側に木壁が連なっているのは何故 か。第一日故、ソリの上の荷は90キログラム。 しかし仲を素附しい。ちょっとした峠でソリが重 くなる。これ叉驚いた事に、大湾リーダーは、ソ で、ソリを組立てようというのである。釘を出し リをロウソクで乾かして、銀バラを塗りだした。 て、カナヅチで「トッテンカン」と始めた。実に 敬礼。我庵はこの鷲くべき行動力の持主に敬意を -15℃を下蚕わる寒さ。あきれて我々二人、一 表さねばならない。その後、ソリは快鯛。このト 年目は、もくもくと手伝うことにした。先が思い やられる。今日は初日なのだ。橋のたもとで、幕 キもこれから先、どうなってしまうのか途方にく れた。あとは、のんびりしながら行く。しかし到 営。 底、今日は、カプト沼迄行けそうにもないので、 12月26日晴(南稚内一上勇知15恥) 途中の小さな沢の中でキャンプ。 昨日が遅かったというのに、5時半に起こされ た。急いで、めちやくちやに食いものをザックに 詰こんできたので、まともに整理をしたいといっ たら、「出かけよう」とリーダー・天気は良いし、 風はなし。ソリもスルスルと動き快調。低くてつ 童らない山々、というより丘力錘なる。玄るでツ 12月27日暗風あり(上勇知一カプト沼 I 鯏 口 雷 ンドラだ。滑りだしに雪がなくて、地肌が出てい 9肋) 、5時起床。道が狭くなる。除雪車が通る。馬ソ リも通る。峠まで行く。消耗というほどではない。 カブト沼駅へ向う道を右に折れて宗谷本線を横切 る。そしてカプト沼へ向かう。沼で氷の厚さを測 る。氷上をはう雪煙の美しさ。駅から沼を西に、 −15− ー − − − − _ 一 口 一 ・ 一 ヰ ー ー L一≦“=…‐‐−−−==". P r , ソリの型 位行って帰る。原野は、アシみたいな植物がシa 海岸砂丘が2,3段、海岸に出て、音類から車に ポシ圏ポ出ている位で、いたって殺風景。 出る道を行く。吹雪いてきて、消耗する。川沿い 12月29日晴(豊里つ日本海岸) にペンヶヘ出て、磁石で北へ行く。川はベチャベ チャで雪がスキーにつき、消耗。沼も同じ。沼の サロベツ川は20C腕結氷しているので、ソリを 川に下して、ガラガラ引いていく。快調。川の結 途中で鯖れ間。ペンケ小屋につく。 氷は少なくとも二層になっており、一度表面の氷 1月1日休養 31日夜より雪。明日からの事が気がかり。と を割ってし在った時、びっくりしたが、その童ま 〆 川にはまり込むのではなく、5∼6”の水の層に のペンケ小屋は、この沼で漁をしていた人の仮小 落ちただけだった。 屋で、その人が水死してからは、誰も使っていを い・板敷で、ルンペンストーブがおいてあるきり。 ●◆◆◆●●◆●●●●●●●●●●●●●●●◆● 小屋の近くの林で、たき木を作る。沼の氷堀り、 水 夜は豪快に薪をもやす。 1月2日晴(ペンケ沼一パンケ沼5町)、 スキー 禎載璽趾90kg 何の抵抗もなく、ソリは行く。パンケ沼中央着◎ スキーとスキーとの間隔 60cm 沼の中央にテントを張る。ブロックを作って雪壁 水 を作る。イグルーも作る。沼の西へ行ってみるが、 どうっていうことはない。 ’ I = スキー わきにキャンプ・豊富村。 る普通のソリと違い、前後に短いソリがついてい て、ソリが動く。クサリを動かすとソリが動き方 向を変える。 12月28日くもりカプト沼一豊里8町 ア ッ と い う 間 に I い 榊 一 , ' . 、 , 己 | 季 ・ 写 ) = 牛 乳 力 歎 豊 富 村 か ら 1 . 5 キ ロ 行 っ た 所 か ら 、 右 に 折 れ て 、 た い が 、 唯 内 『 ) ノ ノ ' ・ I # ( 挫 晩 、 1 1 ' # j , て い な い 。 山 道 に 入 る 。 登 り 降 り の く り 返 し 。 雪 が 多 く な り 、 み オ ト ソ あ り 主 j " . 」 と 聞 い た ら 、 変 な 顔 を さ れ シ領ではちょっと消耗。ソリは時々はずれる。ソ 「 IllllI1ll 沼 の 結 氷 上 を 横 切 る 道 が つ い て い る ◎ 津 を 回 っ て い た ん で は 面 倒 だ か ら だ ろ う 。 氷 雪 2 0 ” ? 道 路 1 たのには蚤いった。サロベツ原野に入る。庄内よ リ の 底 に 雪 が つ き や す い の で 、 ロ ウ ソ ク で 乾 か し 豊 −里 −へ ○。 ョ雪 哩は 睡融 vけ ノて ーい Lる い。 る馬 。ソ 馬リ ソで リ化 で学 化肥 学料 肥を 料を| て鯰たら、馬ソリ(パチゾリ)がやってきて、し り 畑 に 入 れ て い る 。 今 頃 す る ら し い 。 サ ロ ベ ツ 川 の き り に 乗 れ と い う 。 そ う い う ' 事 は 、 か つ て は 、 ソ 伽 入 れ て い 、 烏 。 今 頃 す る ら し い 。 談 。 べ ツ 川 の | 岸 に キ ャ ン プ ‘ 対 岸 よ り 東 は 、 上 サ ロ ペ ツ 原 野 へ 岸 に キ ャ ン プ “ 対 岸 よ り 東 は 、 上 サ ロ ペ ツ 原 野 。 | リ旅行の契約違反であるが、リーダーが承知した ので、しぷしぶ荷だけソリに乗せてもらう。バチ ゾリは、ソリのランナーカ睦右二本長く続いてい 等 〒 〆 フ 、 雷 で 鯛 を 歩 い て み る 。 ” ベ ツ 働 く , I O c 腕 、 初 め て 渡 る の で 少 々 こ わ い 。 川 の 中 ほ ど で 、 | プ ク . と い く が 何 で も な い 。 上 サ 回 ベ ツ へ 8 0 分 I −16− 1 1月3日晴風強し(パンケ沼一天塩川、川 底 | 原キャンプ14m) 、 大体、川は雪をかぶっているが、湿って黒くな 荒涼たる原野を人引きが行く。拡すぎて、何処 っている所が危いとは限らない。雪をかぶってい をどう歩いているのか、さっぱりわからない。雪 る所で足がぶくつとするが、水がしみてくるだけ で大丈夫。雪のある所とない所がどうして出来る はベタベタしてきて、消耗。小さな川に出て、川 上を行く。もう天塩川に近いらしいが、よくわか のか。多分風のせいだと思われる。サロペツ川を らないので、ルートを見に行く。途中キツネに会 下ること、−時間、豊徳の町で橋にぶつかったの う。サロベツ川に降りる。豊徳附近とはえらく違 で道に出る。豊富へ向かうパスの道を行って、気 象観測塔附近から、下サロペッ原野へ入る。ズブ ズプも<・りそうだし、ペンヶ小屋室では到底行け そうにもないと思われたが、意体にソリは沈まず、 うその川幅。天塩川に達し、その広さには驚く。 !〃 天塩川は、カンヵンに結氷していて、ソリは楽に 進む。天塩川原でキャンプ。最後のキャンプだ。 川の結氷30cm、長かった旅行はもう終り、食樋 快調。風強く流される。雪原をっっ切って行く。 もあまりそう。 ついに排水瀞に連する。到底、凍っていないと思 1月4日晴風なし(キャンフー謬天塩川8肋) テント撤収。川の提が低くなる所から、河口 ったが、雪にかぶっていて、全然、下は見えないp ペンケ沼に出て、ペンケ小屋へ。 をで、ザラザラと開水面が現われている。氷上と 12月31日晴のち地吹雪(ペンケ小屋ア 水面の境戎で行ってみる。ザラザラと波のよせる 海岸11町) 音は、天塩川の豪快さ。天塩駅蒲午前ll時。天 天気よく、日本海へ向かう。タンネの森、到底 塩は漁村。ニシンの不況、アパラ家が目立った。 サロベツとは思えない。沼の氷の鯛査平均80m −17− 「 ター(注l)の見通しがつきそうであったが、自 。ソリ旅行に関する若干の考察 分としては、犬ソリを又他にやられてしまうので l.ソリのラッシンク(張り綱)には、短いロ−はなぃかという懸念があったので、とにかく芳賀 プを沢山使う方が有効である。先生に手紙を出してみようという事にした。芳賀 2 . ザ ッ ク よ り 、 直 方 体 の 方 が い い シ ソ リ に の せ 先 生 か ら 早 速 返 事 が あ り 、 是 非 話 に こ い と い う 。 る 荷 の 型 → 出 来 れ ば 、 そ の 直 方 体 を 背 負 え る よ と こ ろ が 自 分 は サ ロ ベ ツ に 1 0 日 程 出 か け る と と うにしておくとよい。 に左っていたので、行けない。そこで、日勝パー 8 . ソ リ の 後 で 、 バ ラ ン ス を と る 人 間 は 、 高 い 位 テ ィ ー の 松 立 氏 に 、 行 動 終 了 後 、 帯 広 に 寄 っ て み 〆 ヤ 霞から押す必要がある。てくれと頼んだ。年が明けた,月4日、サロベツ ム 荷 る べ く 低 く 、 重 心 の 高 く な ら ぬ よ う に か ら 帰 っ て み る と 、 松 立 氏 は , 月 1 0 日 頃 か ら 、 す るは 。な 〆 / 帯広に犬ソリトレーニンクに来いという、芳賀先 生の伝言をもってきていた。しかし自分は、東京 5.氷上行進について 1 ° ブ ク ッ と 足 が 沈 む こ と が あ る が 、 氷 が 二 、 ミ ー テ ィ ン グ ( 注 2 ) が め り 、 又 家 の 手 伝 い が あ 三 層 に 分 れ て い る の で 心 配 は い ら な い 。 り 、 5 日 夜 に は 札 幌 を 発 ち 、 松 立 氏 に は 会 え な か 2 . 又 、 割 れ る に し て も 、 ひ び が 入 っ て か ら っ た 。 割 れ る の で 、 そ う 心 配 し た も の で も な い 。 1 1 単 峰 すったもんだの末、L菊池、前田、直田の3名 ’ 8 . 行 進 の 際 、 ス ト ッ ク で つ き な が ら 行 く の で 、 ト レ ー ニ ン グ に 出 か け た 。 8 , 4 日 間 、 帯 畜 もよい。大のキャンパス内や、学外の道路でトレーニング 1 1 ト ◎行動中の気象につし、て をして帰札した。 その後、根釧原野で犬ソリを使うプランがルー 全 般 に 天 気 は よ く 、 l O 日 間 中 、 吹 雪 , 日 、 雪 ム で た て ら れ た が 、 そ れ が 進 歩 し な い ま ふ 、 2 月 2 日 、 風 も 風 力 4 を 越 え る こ と は 友 か つ た 。 雪 は 、 l l 日 、 芳 賀 先 生 の 然 月 噸 ナ キ ウ サ ギ 調 査 に 犬 ソ 場 所 に よ っ て 異 な る が 、 一 般 に 気 温 が 高 い の で 、 リ を 使 う と い う 事 で 、 L 菊 池 、 前 田 、 平 野 の 8 名 湿 雪 。 雪 は 2 日 目 、 峠 越 え の 時 が 消 耗 で 、 あ と は で 出 か け た 。 大 し た こ と は な か っ た 。 然 し 、 上 サ ロ ペ ッ 原 野 で 、 結 果 的 に 、 菊 池 、 前 田 が 先 導 犬 「 ベ ル 」 に か み ス キ ー ラ ツ セ ル は く る ぶ し 下 位 で あ っ た 。 気 温 は つ か れ る こ と に な っ て し ま っ た 。 高 め 、 実 験 ソ リ 旅 行 の ト キ の − 2 0 ℃ 程 度 に 比 べ ’ ’| 1 ’ (2)然別犬ソリ訓練行 動機 だ。鹿追いから笹川の間でバスを降り。バスはす 田氏に帰れと言っている。犬にかまれた位で帰れ ぐ帰ってしまう。降りたとたん、猛地吹雪。全然 なんて、と思ったが、意外に事が重大らしいのに 前が見えない。手、顔は凍りつくようだ。えらい びっくりする。手首をやられたらしい。かみつい 所へ来たもだと思ったが、だんだん慣れてしまっ たのは「ベル」だb前田氏のかみつかれた所が、 た。蚕ずラッシングについて、芳賀先生の注意が 自衛隊鹿追駐とん地のあるところだった。前田氏 あった。ラッシングとは、ソリ上の固定のことで ある。8ミリザイルを持ってきたので、ラツシン はここからバスで帰った。あとは、芳賀先生、菊 グに時間がかかる。長いから、もっと短いものを 用意すればよかった。 池氏、それに平野の8名。ソリに先生と菊池氏、 自分は相変ず歩き。東瓜幕への分岐に達すると、 道は雪の吹きだ蜜りで、スキーでラッセルするが、 自分だけ、スキーをはく。犬ソリに、芳賀先生、 菊池氏、前田氏が乗り、「トウ、トウ」とかけ声 大変な消耗。ことに踏み入れたらソリは全然動か をかけたら、またたく間に地吹雪の中に消えてし いが、道のゆきに入ってキャンプをはる。明日の 対策を練ろう。 昭和41年2月11日地吹雪のち晴 帯畜大のパスに、芳賀先生のザック及び我等8 蚕った。仕方なく、おたおた歩く。道路は除雪さ れているし、まつ平らだから、馬鹿馬鹿しくなっ て、スキーをぬいで引っぱって歩く。ソリは影も 人のザック、スキー、それに本命の犬4頭、ソリ 形もない。頭の上は青空だが、風は強く、地平線 なものにするか大分迷った。1日250円の予算 を ・ 乗 せ て 、 帯 広 市 の 北 西 を 行 く 。 バ ス の 中 で は 、 の方向は視界が悪い。 にしたのであるが、、先生は意外に食い物にはうる 笹川を過ぎた頃、トポトポ歩いていた菊池氏に 追いつく。ソリが重すぎて走らないので、菊池氏 もソリを降りてしまったらしい。しばらく2人で 歩いていると、ソリがとまっていて、前田氏が倒 れている。犬にかまれたという。芳賀先生は、前 さい方ではなかったので、作る方も大分ズポラに る と 、 非 常 に 暖 か く 、 最 低 気 温 − 5 ℃ 、 最 高 気 温 行 動 0℃であった。 ’ 9 Q9町Jt肥 山 岳 部 の 八 木 橋 氏 が 寮 に や っ て き た 時 、 帯 広 畜 犬 が 暑 さ の た め に 車 酔 い す る の で 、 窓 を あ け て お 産 大 学 の 芳 賀 先 生 が 、 犬 ソ リ ト レ ー ニ ン グ の 助 手 〈 。 寒 風 が 入 っ て き て ま い る が 、 犬 ど も 舌 を 出 し を 求 め て い る が 、 帯 畜 に は そ う い う 事 を や る 人 間 て 、 / 、 − ハ ー い っ て い る 。 ど う 猛 の 顔 つ き ( 少 な が い な い ら し い と い う 話 を し て く れ た 。 昭 和 4 0 〈 と も そ う 見 え た ) を し た 。 図 体 の 大 き い 4 頭 の 年 ’ 2 月 の こ と で あ る 。 ち ょ う ど そ の 頃 、 ス キ ー 犬 ど も 、 こ ん な の を う ま く あ や つ ら れ る の が 不 安 -18- ’ ….乳蝉註 一毛●■ ー ない。とてもこれじゃ然別湖は無理だ。。時間は早 ウィンパーをはって、落ちつく。 今度芳賀先生が加わるというので、食細をどん やった。例えば、米はとがないで飯をたくとか。 芳賀先生の話だと、英国隊の食い物なぞ、毎日毎 日同じものばかり食べさせるんだそうである。栄 養価さえ高ければ、なるべく重湿が少ない分がい −19− いから、同じ献立になるのだろうが、どうもそれ では味気左い気もする。いつか寮に、京大の山岳 部の学生が泊まりにきた。日高だか何だか登って 帰ってきたのだが、かれらの食糧はほとんどラー メンばかりなのだそうである。登山中、米の飯は 食わなかったらしく、寮で、自分らが残りものの ベル をひっぱたいた。ソリ旅行のドライバーは、こう ソリとひもでつながって 棒を使ったり、足を横に出したりして止める。足 ブレーキは、グリセードのストップと似たような いう事含で気をかけなくてはいけない。 見つけて寄ってきたのだ。 いた。 犬は童わりの木に、−頭ずつ鎖につながれてい る。犬の夕飯は、たった二尾のあじの干物。「そ んなに食わせたら駄目だ」と芳賀先生が言う。そ れでよく動けるなと思う。こうなると、カラフト 犬などは、荷役のために生蚕れてきたようなもの 天気良し。犬にあいさつに行く。「ベル」も ものだ。 「マサ」も「アイ」も尾をふって、じゃれつく。 パンを取り上げようとし とにかくカーブは難しい。一度ふっとばされて たら、芳賀先生が逃げろ 「アン」のところへ行くと、ウーとうなる。 と言う。「ベル」は食い 横転してしまった。幸い怪我もなく、犬も大丈夫 だった。右に左にカーブを切るうちに、ようやく 意地がはっているから、 平らな道になった。芳賀先生を待つ。先程横転し れから一頭ずつソリにつなぐ。「アン」の方は菊 そんな事をしようなら、 池氏に頼む。菊池氏は、「アン」は大丈夫だと言 かみつかれてしまうとこ た時、自分のスキーのベンドを折ってし浅い、面 倒くさいから捨ててきたら、何と、先生はそれを ろだった。 拾ってきてくれた。 テント撤収後、道にソリを出し、荷を乗せ、そ うのだが。 犬ソリスタート。菊池氏が後、自分が前に乗る。 快調。どんどん走る。通りかかった車のおっさん 平らな道を走る。芳賀先生はソリにひっぱって 管野温泉までの長い事 が、「あんた達、うまいことをやっているね」な もらって、スキーで滑くる。 ./道はしだいに坂となり、 どと言うので、ます注すうれしくなって、どんど ll日のキャンプ地に到着。再びウインパーを 高度を増していく。最終 はる。芳賀先生は、帯広で用事があるため、一人 人家の管野温泉蚕では道 で帰られた。 はあるが、それで道はス 乱れたのを直すため、「プライ(止室れ)」をか すると、日はとっぷり暮 ソリにつまがれている犬を一頭ずつはずし、ま わりの木につなぐ。これ叉やっかいな仕事で、お となしくしてくれる相手ではないから大変である。 れて、温泉の灯がついて 首輪についているカラピナを、ソリの綱について つかれる。ひきつった顔をして、手をおさえて、 に80分もかかってし茜う。 いた。温泉場の一角に犬 菊池氏は、道路わきの雪の上に倒れた。ソリが走 そ こ で 計 画 を 変 更 し 、 犬 ソ リ ョ I 鰊 一 本 に し ぼ り 、 管 野 温 泉 に 向 か う こ と に す る 。 管 野 温 泉 へ の 道 は 吹 き だ 苗 , も な く 快 調 に 走 っ て い っ た 。 自 分 は 歩 をつなぐ。 いる輪からはずし、木につなぐ・のが、又一苦労。 ようやくその仕事が終り、干物2尾の夕食。犬 達は、−尾をまるごと食いついていた。 にして、走らないようにと、通りがかりの人に手 凍てつく空。寒い。雪は80∼40C"b道路は 除雪されている。めったに人通りはないが、人の 気配がすると、「マサ」はウオウォウォーンとな 助けを頼むが、犬をこわがって近づいてくれない。 だ 。 芳 賀 先 生 が 大 便 を し て き た ら 、 ベ ル が そ れ を ア 2月12日晴れ 瓜 幕 浅 で 直 行 。 然 別 へ の 道 を 行 く が 、 吹 き だ 蚕 トップ。管野温泉に到着 っ て い て 、 ソ リ は 無 理 と わ か る 。 第 一 、 然 月 脇 へ の 道 は 、 吹 き だ を , に 加 え て 坂 道 な の だ 。 全 部 が 全 部 吹 き だ 重 り で も な さ そ う だ が 、 数 十 沈 行 く の い た 。 発 電 所 を 過 ぎ た あ た り で 、 菊 池 氏 と 交 代 し て 、 ソ リ ‘ の ド ラ イ バ ー を や っ て み る 。 芳 賀 先 生 は ソ リ の 後 。 自 分 は 、 ソ リ ・ の 前 の ラ ン ナ ー の 上 に 乗 つ か っ て 、 「 ト ウ ( 走 れ ) 」 と 声 を か け る 。 人 を 馬 鹿 に し て い る の か 、 後 を ふ り か え っ て み た り し ょ っ ち ゅ う 止 誉 る 。 . や け に な っ て 「 ト ウ 、 ト ウ 、 ト ウ 」 ' と 声 を か け で い た ら 、 「 に わ と り を 追 う ん じ や あ る 塞 睡 し 、 何 で も か で も 、 ト ウ を 言 え ば い い と い う も ん じ ゃ 湛 い 」 と 言 わ れ る 。 間 一 髪 、 「 ド ゥ 」 と 大 声 を か け る こ と が 必 要 ' な ん だ そ う で ある。 温泉の客は、ほとんど 自炊。同宿した客は8週 間も泊まっているという。 クラーク会館の食堂でも らった天カスを使って、 天井の夕飯をつくる。好評。 2月13日晴れ 狩野温泉から発電所室で、菊池氏と相乗り。芳 キャン.プ地から80分位走ったところで、網が けた時、「ベル」と「マサ」がけんか。ところが、 仲裁に入った菊池氏が「ベル」しE両手、尻をかみ り出すと困るので、をず、自分は、ソリを横倒し 「ベル」の口は蚕っ赤。とにかくソリを横倒しに して、ちょうどやって来たハイヤーに菊池氏を乗 く。それにならって、−勢に4頭がなく。テント から首を出すと、「アン」はじっと人の顔をみる。 せ、一緒に近くの自衛隊鹿追駐屯地に行き、事情 ウオッとうなるので、こわい。「ベル」も「アイ」 ので、その富ま菊池氏は鹿追病院へ。自分は又、 も近ずくと、尾をふって喜ぶのに、「アン」は、 やっぱり神経質なのかもしれない。「マサ」は、 元にもどり犬ソリ‘の職今日、帯畜大のバスに乗 賀先生はスキーをはく。先生のスキー術は自由自 年老いて元気がをい・往年の働きはもうたいよう 在。下駄同根である。先生をあとにして、つっ走 だ。・ソリ引きのアンカーで、「マサ」の綱はいつ る。帰りは下りだからスピードが出る。それはい もたるんでいる。自分で走るだけで、全然ソリを いが、今度はスピードが出すぎて、コントロール するo力蝋しい。ソリが犬の足にのりあげたりす ’引いていない。それでも、「アン」や「アイ」に る つと、足の骨を折ることになる。下りの上、道が’ ちょっかいをかけ、今日も帰る途中で、「アン」 I 休 憩 恥 ン 紬 し て 齢 と し 趣 $ 『 べ 処 」 曲 り く ね っ て い … 、 そ 、 都 塵 、 体 を 横 に 倒 し | −20− 一 毒 。 “ − − ん走った。 、 、 ‘ を話して手当してもらうが、ことには設備がない って、芳賀先生が来られることになっていたので、 、 、 帯畜大に電話し連絡。びっくりしてやって来られ だ。すぐに、ソリ、犬、荷物をパスに乗せて病院 へ行く。菊池氏は、両手4針、尻にl針の大怪我 だった。帯広大生物研究室に寄り、荷物整理。帯 広17時発で帰札する。 に飛びついたので、菊池氏が、カオリ棒で「マサゴ ー21一 I ! 2月14日晴れ その坂も何度もうねって 食ってしさったそうだ。 I て調整しなければならない。ブレーキは、カオリ はいるのだが、食い物を 米飯をもらってきて、キナコか何かつけて食って いたのをおすそわけしたら、うれしそうに食って 〆 がやってきて、食いつく。 | I F− 一 一 . 『 ' ー 二 隊から、芳賀先生が譲りうけたも 鏡 湖 〆 N 一 一 犬ソリ使用法 −から借りて、植物園で試乗していた。 のo小さいとき、他の犬に食い物 (注2)東京におけるOB会。北大探険部ベテュ をとられたりしたので、食い意地 アナランド踏査計画の打合わせ。 がはっている。 oカラフト犬「マサ」(825彫昭和81年 8月生) 文 献 1犬飼哲夫・芳賀良一、「日本南極地域観測隊 南極観測隊カラフト犬訓練所育ち。 犬橇関係報告(1)」『南極資料第4号那リ』 昭和32年2月、稚内一旭川犬ソ 2.犬飼哲夫、『カラフトイヌ』 リ旅行参加。 3.安藤久男、「犬ソリの研究」『北大山岳部を 「アン」(卓34均昭和38年 1.先導犬からソリ蚕で、綱は常にピンとはって いなければいけない。 1月生) 最後に 警戒心強し。発情中。 2.先導犬が十分慣れていない時、犬は労働から 解放されたいので、横道があると曲がりやすく、 叉、時々小便をするが、横道に来たら気合よく 「トウ」をかけ、立ち止蚕りそうだったり、曲 がりそうを時には、先導犬を引っぱってやる。 3.綱がもつれていても、調子よく走っていると きは、「プライ」をかけない事。 報8号』 「アイ」(旱31k9昭和40年 3月生) 閏体重は昭和43年3月現在のも の。 この紀行を書くに際し、芳賀先生より、犬の体 重表、中型ソリ設計図をお送り頂いた。 その後、昭和42年2月、服部、本郷の両名が、 帯畜大キャンパス内外で、犬ソリトレーニングを (注l)スキーター:現在、スキー場等で使われ 行なったが、この犬ソリを使って長旅行するとい ているスノーモービルのこと。国産でス う段階まで達しなかった。ソリ旅衝の技術は受け 継がれて、昭和44年1月、関尾等のサロベツ旅 行、又同じ年3月、東郷OB以下4名による知床 流氷原完全踏査に、新設計のソリを使用した。 4.けんかの仲裁に入らない。 キーターと呼ばれ、林業試験所などで使 われていたようだが、昭和4I0年当時、 5.発情している県に近づく8には注意。 ほとんど見られなかったのを、倉知OB 6.綱のゆるんでいる犬には、「トウ」をかけるo のソリ旅行以来話があり、それをメーカ 7前のドライバーの方向換え。 左に乗っていて、左に曲がりたいときは、右 の足をランナーに左足を地面につき、手を卜・ガ 』 竺 一 に お い て 、 体 全 体 を ソ リ と 反 対 方 向 に 引 っ ぱ る 。 8.後のドライバーのブレーキoカオリ棒と足を ■ 使う。 9 . 前 の 卜 ・ ラ イ バ ー の ブ レ ー キ 。 卜 . ガ に つ か ま り 、 両 足 の か か と を 立 て て ブ レ ー キ を か け る 。 1 0 ‘ 荷 を た る べ く 直 方 体 に し 、 つ み や す い よ う に する。 1 1 . 犬 の 尾 が 下 が っ て き た と き は 、 疲 労 し て い る 。 − o エ ス キ モ ー 犬 「 ベ ル ジ カ 」 ( 8 3 0 1 噂 昭 和 8 4年12月生) 先導犬。南極経験あり。ベルギー −22 − −23− 0 − − 一 一 一 四 - 「 一 − - - − − − − − 唾 一 一 。 … 一 一一一一一一 一一一−ー−‐‐‘'一一一一ロー‐−−アーーー−−−−御--二戸-------------‐ ー - −−−..− ー 』 津 → 「 〆 ' ざ トラッキングノート 小 ノ 川 プけ 裸地 雪渓 ■ プッシュ (ナナカマド)ド ) , , 米 田 政 明 1 〃 次 7 ところにその存在意義が求められよう。その調査 のレベルは、その計画、組織の規模によるし、蚕 た個人にもよる。今回は、北海道の代表的ないく つかの大型哺乳類のトラッキングー行動追跡の いくつかの具体的例を示すととにより、個人的レ ベルで今後のトラッキングと足あとによる種類の 推 定 に つ い て よ り 興 味 を も っ て も ら う こ と を 目 的 とした。 トラッキングには、単なる動物の追跡だけでな く、次の8つの意味がある。 ( 1 ) 動 物 の 種 類 、 ゞ 性 別 年 令 な ど を 足 あ と と そ の 疲 跡 エ リ 、 そ の 動 物 が ど う い う 種 類 、 個 体 で あ ’ I - 5 m 一 図1 残存体毛によるヒグマのブッシュ内トラッキング (1971年8月4日大雪山系大学沼付近) 燕ヒグマ通信5号(1971)より改写 く、ヒグマの体毛とふみあとによるトラソキング つた。図lに示したあとは、ブッシュが密に友つ1972年2月、3月および1974年8月の8 てきたためトラッキングは困難であった。回にわたり、日高ピポイロ川流域罰でエゾシカの個 とれは、たった20加ほどのトラッキングであ体数調査、および雪上トラッキングをおこなう機 の例があるので、この例を記す。 日時:1971年8月4日 場所:大雪山系高原温泉、大学沼付近 るが、雪上でなく夏にブッシュの中で、体毛とふ会をもったので、これをエゾシカトラッキングの 大雪、白雲岳を中心としてヒグマの直接観察と ど 雷 る 場 合 が 多 い だ ろ う 。 こ こ で は 、 ヒ グ マ 、 エ ゾ シ カ を 中 心 と し た ト ラ ッ キ ン グ の い く つ か の 具 ′キングはとの新しいフンの場所から始まった。 みあとをたよりにヒグマのトラッキングができる実際例として示したい。(日高ピパイロ川流域の 可能性が開かれた。なお、とのトラッキングをおエゾシカの一般的行動習性についてはいくつかの となった地点のすぐ近くで、71年9月に親子2報告がある。大秦司ら1971.大秦司1978)。 でヒグマの痕跡調査を行った。そして、大学沼の 甲ⅡIDbF2H 頭のヒグマが捕殺された。これは、トラッキング1974年2月11月、調査の第1日目は4の 対象になったヒグマであろう。このことからも、沢に入った。積雪は約80”、快賄であった。4 をた、夏にヒグマがひどいプッシュの中を、それの沢に入る前からエゾシカの鳴き声を聞き近くに ほど長距離にわたって行動することはないと考えいることがわかっていた。そして、4の沢の枝沢 られるととから、この時のトラッキングは、正確の下の沢がわかれるところで、沢を横断するメス にしかもかなり近距離までヒグマに接近したものジカの一群を発見した。とのうち1頭は標本用に ヒグマのフンを発見した。フ¥は、表面の黒化度 フノ<『t雪渓とプッシュの間の裸地上にあったが、 ノー≦'シ、ら約8”はなれたプッシュには、ヒグマの と考えられる。 Ⅱエゾシヵ iII lIlll −24− 栂成されていたが、そのうち1頭を捕殺したから エゾシカは、冬期にも活動し、しかも、かなり逃走のは7頭である。 11 I・1Iに示すように、ふみあとと枝にひっかかった iイtr.*_たよりに約20"ブッシ旱の中でヒグマの │、ノキングができた。体毛は1本の場合もあっ たし、教本がひとかた室りになっている場合もあ 銃で捕殺したが、あとはその銃声で川下に向って 逃走した。群れは8頭(そのうち仔は2頭)ので ふ"、あとがあり、そのふみあと横の漉木の一本の 技、地上約60mく・らいのところにヒグマの体毛 j;ひっかかっているのが見つかった。その後は、 ヒ グ マ は 冬 期 、 1 2 月 か ら 8 月 室 で 冬 ご も り に 入 る た め 、 冬 期 の 雪 上 ト ラ ッ キ ン グ は 行 え な い c ヒ グ マ の ト ラ ノ キ ン グ は 、 冬 眠 穴 か ら 出 た ば か り 体毛踏みあとトラッキングルート 溌 ただ、夏期に、ご〈・短距離だが足あとだけではな と中の比較からごく新しいものと推定された(図 1)。例があまりたく、しかもトラッキングの新 しい可能性を開いたヒグマの残存体毛によるトラ ----.宇睾.--.−.号.?-:苦一_三二二-.了”:.*隻二逗;姜云、皇員愚挙息:き』垂鵠甦藍:癌.匡与_‐--___‐,: ((カンパ) マの雪上トラッキングはこれからの課題である。 と の う ち 、 { 3 ) は 本 格 的 な 準 備 と 追 跡 の 必 要 が あ る 。 − 般 的 に は 、 ト ラ 診 キ ン グ ま ・ で い か ず 、 足 あ Iヒグマの'トラッキング 2 厩△ ) 上トラッキングを、まだ行っていない。春のヒグ 南、砂川ケルンのさらに南の雪渓わきで童新しい に返る種類の推定法を書とめた。 10 9 ででは、北大ヒグマ研究グループは、この春の雪 ( 3 ) 足 あ と の 密 度 、 長 さ を ど か ら 動 物 の 密 度 を 推 定する。 体 例 と 方 法 を 示 し 、 ま た 北 海 道 の 哺 乳 類 の 足 あ と 6 4 ケースが多い。しかし、昨年(1973年)春蚕 ( 2 ) 足 あ と 、 痕 跡 を 追 跡 し 、 行 動 跡 よ り そ の 動 物 と “ “ 動 物 の 種 類 と 翻 り な ど を 推 定 す る に と 4 甘 春のこの時期に足あとを追ってヒグマを捕殺する 痕跡の調査を行ってきた我々は、当日大学沼付近 の行動と行動圏を推定する。 '3 13 あると考えられる。クマ撃ちのハンターも、主に るかを推定する。 1 ’ | フン 月上旬にかけての雪上トラッキングが一番容易で 2 割 8 率一も I の、主だ、山のふもとに雪がある4月下旬から5 鷲4 〆 ノ ーぅ⑧ 匡ロ甘 探検部の活動は、そこに、単なる登山やワンデ リングだけでなく、自然を意識して調査分析する 明瞭なラッセルあと(トレール)を雪上に残すたこのシカの群れを追って約800加にわたって め、トラッキングは比較的容易である。しかも、雪上トラッキングを行った。この時、群れは、恐 道内では、日高から大雪、道東の限られた分布域慌状態でバラバラに逃走するのでなく、一列状態 をもつため、他の動物とまちがうことは蚕ずない。を保っていた。そのため、雪上には図2に示すよ −25− 「〆 め、トラッキングはやや困難であった。この時の、 このうち(1)と(2)は区別が困難であるが、トラ ヒグマ:極めて大型の足あとのため他の種類と・ま トレールと群れの発見位置とトラッキングの記録 ッキングをおこなう場合、まずこのうちどのト ちがうことはまずない。トレールは内またで歩く も図8に蚕とめて示した。 レールにあたるのかをみる必要がある。 かたちに残る。(A) この時は、2の沢の右岸の枝沢の1つで、かな 図2エゾ シカの群れによる疾走どきの 雪トレール 〆 う に 、 約 1 ∼ l . 5 漉 お き に 大 き く え く ・ ら れ た 凹 地 が 、 ラ ッ セ ル の あ と に 残 っ て い た 。 こ れ は 、 シ カ が 大 き く ジ ャ ン プ ・ し な が ら 逃 走 し た た め で あ る 。 と の 群 れ は そ の 後 急 な 沢 へ 降 り た の で ト ラ ッ キ ン グ は そ こ で 中 止 し た 。 翌 日 に も 、 第 2 事 業 所 の 近 レ ー ル 発 見 位 霞 と 群 れ の 発 見 場 所 は 、 図 8 に 蚕 と めて示した。 り新しいトラッキングをおこなった。8月14日、 のではない。非常に地味な調査である。しかし、 る。1つの足あとだけでは犬とまぎらわしいが、 図8に示した沢のほぼ源頭付近に8頭のシカがい 積雪期以外は、その姿、行動観察などの極めて困 犬は全体として丸みをおびていることおよび犬の るのを2の沢の林道上から発見した。そして、ま た標本用としてこのシカを採集するため、二手に わかれてシカを追い、この群れを沢下に向かわせ ようとした。そして、沢の左岸から蚕わった我々 は、との群れがいた沢のほぼ源頭付近で、ヤブの 中の3頭のシカを発見した。この群れを追って卜 難な動物の動きを、足あととその他の痕跡をとお トレールは、前足と後足が完全に重なるととがな してみることは重要である。またトラッキングに く、少しづれることで区別がつく。しかし、妊娠 は、人間の狩猟本能をかきたて、人間と動物の接 期のメスのキツネのトレールは犬のように前置壁 点をより緊密にするなにかがある。(その意味で 後足がづれる場合がある。(B.C.G、H) もトラッキングは探検部的活動として必要であろ テンとイタチ類:小型で少し前後にづれた足あと う)。 がつづくことがテンやイタチ類のトレールの特徴 ラッキングを開始した。トレールは、.群れの数が 図4には、北海道において、トラッキングが可 である。しかし、種類が多いため同定はやや困難 少なかったため、トレールの中に深くえぐられた 能な哺乳類の足あとと、その特徴を童とめて示し である。そのため足あとの大きさと歩巾が判別の ところがそれほど明瞭に残ることはなかったが、 た。雪上トラッキングを前提としたので、冬眠に 基準となる。道内に生息するテン・イタチ類を大 ヒヅメあと力我っていた。しかし、図3に示すよ 入るものおよび地上歩行性でないものははぶいた。 きさの順に並べると次のようになるが、足あとと うに、との付近はとの8頭だけでなく、多くの群 れの採食場と休み場になっていたため、トレール がいくつもついていたためトラッキングは困難で あった。ただ、ヒヅメあとの新しさを基準として トラッキングを続けたが、途中で見矢ってし玄っ 一 へ.鞠シ,<、 歩巾の大きさもほぼこの順序で小さくなると考え 酒.〃 く で と の 群 れ を 発 見 し た 。 1 9 7 2 年 の 2 回 の 調 査 で そ の 後 の ト ラ ッ キ ン グ を 含 め た エ ゾ シ カ の ト 磐斡 鋤■盤? た 。 A・ヒグマ エゾシカのトレールの発見と、ある程度のトラ ッキングは以上のように比較的容易であるが、採 ! の ト レ ー ノ レ お よ び ト ラ ッ キ ン グ の 記録→トラツキンダルート D ・ テ ン 蝿 難力欝雪鷲Ⅷ'硫域たえ票: こ の 年 、 十 勝 地 方 は 非 常 に 積 雪 通 が 少 を か つ た た # し て ' ソ ) 叢 と 童 , を も ち 、 縦 列 で 走 る た め 深 くえ〈られたところがあらわれる。 チ(イイズナ)、エゾイタチ(オコジョ)。普通 歩巾は、テンで50c”以上、ホンや1,.イタチで40 45c腕のようであるが歩行状態により変化する。 震た、テンは山でももっとも普通にみられるが、 ミンクは川か沢ぞい、イタチ類は平地の凹地やミ ゾのあるところに多いことなど、地形と褒境も同 定の助けとなる(D.I)。 タヌキ:キツネより犬に似た足あとを残す。しか し、キツネのように犬もいる人里近くにはあ室り 生息しない。 、 ● 掻 浄 * ( 4 ) 恐 慌 状 態 で の 群 れ の 疾 走 。 バ ラ バ ラ に 逃 走 4s ぞ ● 0 G.キタキツネH・イヌ1.テシJ,ノゥサギ するため、疾走点から深くえぐられたあと のついたトレールが分散する。 (図4) I仏 I 11 −26 てよい。テン・ミンク・ホンドイタチ‘エゾイタ エゾシカ:雪上では、足あとそのものよりそのラ ッセルあとの方が残りやすい。またヒヅメの大き 蝿 o さにより、8”以下は当才の仔ジカ、5”ほどで 鞠 99 は満’才のシカ、6C加前後は成熟メス、7m以上 ( 3 ) 群 オ ' { ' そ よ る 疾 走 状 態 の ト レ ー ル ー 群 れ と 1 9 7 4 年 8 月 1 0 日 ∼ 1 " 5 日 に は 、 そ の 後 の F・エゾリス E・エゾシカ ・ 齢 合 も つかない 臺蛎瀞篭鋪, ’ W 篭19 ( 1 ) 群 れ に 1 を : , リ キ 通 状 態 の 移 動 一 直 線 状 。 (2)群れの〃愈場一網目状で複雑。また深く 図 8 日 高 ピ パ イ ロ 川 流 域 に お け る シ カ B・キタキッネC・イヌ 鍵②。。 食場や、休み場付近では、トレールが分散するた め 、 確 実 な ト ラ ッ キ ン グ は 、 実 際 に は 困 難 で あ る 。 エゾシカの雪上のトレールには、その行動から、 次の4種類かあ息!≦考えられる。 1 キツネ:直線上のトレールにより容易に判別でき トラッキングは以上のように、なんら特殊なも 一 一 ﹄ 方‘宗 一︾一 一 ︾&帥 F 一 ・・上 一.一 一一 ︲,.肚一誌 I は成熟オスとされているが、計測には、雪の状態 に十分注意する必要がある(E)。 ノウサギ:前肢が前後に、そして後肢は左右がや や前後にづれた足あとがつづくことで容易に判断 できる。蕊肢@足あとは、新雪上では長く、堅雪 −27− i r 一 一 上ではあ性り長く残らない(J)。 エゾリス:前腕後肢とも左右がほぼ平行にそろ った足あとがつく。エゾリスは、樹上性の動物で あるため、地上で、長い距離を歩くことは少なく、 木 か ら 木 へ 移 る 時 に 足 あ と が 残 る こ と が 多 い ( F ) 。 ネズミ類:雪上で、木の根本などから出て、2∼ 3”の小さな足あとが点'々とつく。しかし、足あ と が 小 さ い た め 、 種 類 の 判 別 は 難 し い 。 し か し 、 〆 I ト l i そ の 痕 跡 の 特 徴 を ス ケ ッ チ し て お く の が 一 番 よ い 。 I ( 2 ) 場 所 と 時 間 を 、 明 ら か に し て お く 。 ’l , l ‘1 ( 3 ) 雪 上 が 泥 土 上 か な ど 、 足 あ と の つ い て い る 周 1 lllIhllll 囲 の 壊 境 を 記 減 し て お く 。 霞 た 、 と く に 雪 上 で あ れ ば 、 足 あ と が つ い て ど の 位 経 っ た と 推 定 さ れ る か 、 あ と が つ い て か ら 雪 が 溶 け た た め 、 形 が 変 化 し て い な い か を ど に 注 意 す る 必 要 が あ る 。 ( 4 ) ト ラ ッ キ ン グ の 図 を 作 製 す る 場 合 は 、 動 物 の 利 用 条 件 に 注 目 し た ミ ク ロ 左 地 形 頚 境 ( た と え 嫁 動 物 が い つ も 波 る 沢 の 上 の 倒 木 を ど ) を 雷 き 入 れ る 。 童 た 、 雪 上 ト ラ ッ キ ン グ に 戯 、 や は り 、 ス キ ー が便利である。 前 述 の 塁 宣 に 、 探 検 、 調 査 に は 、 あ る 地 域 の 自 然 と 風 土 ② 総 合 的 把 握 と い う 瞳 逢 が 常 に 必 要 で あ る 。 そ の ひ と つ と し て 、 そ の 地 域 の 励 物 相 の 観 察 として、木があって身が隠せる場所があること。 岩が出ているようなかなり急な地形のところを 。止め足は、ハンターに追跡された場合だけでた 通ることが多いことが示された。 〈、休む場合にも使う。 るため、トラッキングや足あとによる種類の記載 で、新たな知識がもたらされる可能性は少ない。 しかし、足あとにより種類を推定し、必要があれ 参考文献 ( 1 j 種 類 を 明 確 に す る 。 も し 、 不 確 実 で あ れ ば 、 。ヒグマの通る道は、限られている。その通り道 ある。 エ ゾ ア カ ネ ズ ミ : 大 き さ は 2 . 8 c 流 前 後 で 、 間 隔 は 行 動 の 記 録 を お こ な う 場 合 、 , 他 の 記 録 を つ け る 場 合 と 同 様 で あ る が 、 と く に 次 の 点 に 注 意 す る と よ い 。 111.︲︲..11町l‘rlI ’ してをた個人として、正確なトラッキングや、個 体数推定まで進まなくとも、一般的な哺乳類の種 類を足あとから判別できることは必要であろう。 北海道では、小型哺乳類をのぞき、一般的な大型 哺乳類の段階ではすでに分布はほぼ確定されてい ばトラッキングを行えることは、今後、活動地域 を海外にも求める場合、より必要となるであろう。 2 5 c 加 以 _ L ・ 尾 の ひ き ず り 跡 力 職 る と と が 多 い 。 ヒ メ ネ ズ ミ : 足 あ と の 間 隔 が 7 “ ぐ ら い で あ る 。 ト ラ ッ キ ン グ と 足 あ と に よ る 動 物 種 類 の 推 定 と レ 。足あとの正確な計測は、個体識別のため必要で 北海道に生息する野ネズミのうち次の3種類につ い て は 、 足 巾 に よ る 区 別 が − 弓 応 示 さ れ て い る 。 エ ゾ ヤ チ ネ ズ ミ : 足 跡 の 大 き さ は 2 c 流 前 後 で 間 隔 は12cW揃後である。 I と記載は重要である。そのため、あるグループと ・阿部永ら1968哺乳動物調査法JIBP/ CT-Sセクションにおける陸上動物調査法: l∼49 .大秦司紀之1971春先のエゾシカの生態 林昭和46年7月号:1∼10 ‐ ・大秦司紀之1978エゾシカの年周期行動 アニマ1(9):65∼69 。Lawrence,M、J・andR.W.Brown ManmalsofBritainTheirand Signs.(新妻昭夫改編) ・芳賀良一1955雪の足跡からネズミの種類 や生息数を推定する。野ねずみ応2 .ヒグマ通信5号(1971) 追記 l974年4月、北大ヒグマ研究グループでは、 在クマの雪上トラッキングをハンターの助けを貸 りて、朝里峠近くでおこなった(、74小樽春ク マ調査報告雷、斗吠ヒグマ研究グループ1974 −7ピー刷り)。その中で春のヒグマのトラッキン クをする際には次の点に注目する必要性が示され ‐’ / ' − , , 1 −28 & …=雷……−−−−℃-−−− 11− .冬眠穴から出た直後、2.8日はヒグマは何も 採食せず、穴を遠く離れることはない。 −89− I 七 一 一 一 一 「 「 キナンボ計画 II「海峡に賭ける青春」 墨 韓 罵 愚 蕊 噌 軒 識 ? 搦 篭 z 嚥 扇 篝 岨 図 行 な っ 空 『 等 ナ ン 殿 齢 画 』 は 、 4 回 目 に し て 成 功 し た 。 目 的 、 意 義 な ど 、 こ の 針 画 の 厩 要 は 、 2 回 目 終 了 時 に 出 し た 報 告 香 に す で に 述 べ て あ る の で 、 こ こ で は 、 内 外 の 目 か ら 見 た r キ ナ ン , f ざ 叶 画 」 を 総 活 す 潅 癖 専 塞 簿 蕊 織 皇 篭 繁 蕊縦灘蕊 思 う 。 な お 、 3 氏 の 周 書 き は 、 い ず れ も 当 時 の も の で あ る 。灘 NHK函館放送局放送部長浜田淳 (大里予測己)) 、 〃 今 ” ÷ ‐ − − 工筏による 断について 真夏の太陽を浴びて日焼けした顔に点々と浮き | 函館海上保安部警備救難課長河野善一 〆 限 ら れ た 日 中 の 時 間 内 で 津 軽 海 峡 の 漂 流 横 断 を 離 に 配 置 す る こ と が 絶 対 に 必 要 で あ る と 我 々 は 念 め ざ し 、 昨 年 2 回 そ し て 今 年 1 回 の 不 成 功 に も め じ て い た と こ ろ で 今 年 も 東 日 本 フ ェ リ ー の 貨 物 船 げ ず 4 回 目 の 漂 流 を 実 行 し た 執 念 と あ の 炎 天 の も を チ ャ ー タ ー し 、 そ の よ う に し た こ と は 幸 い で あ と で 澆 走 し た バ イ タ リ テ ィ ー に は 唯 々 頭 が 下 る 思 っ た 。 い で 一 杯 で あ る 。 ま ず 無 事 に 漂 流 実 験 が 終 っ た と 次 に 他 の 交 通 船 と の 関 係 で あ る が 、 い う こ と で ほ っ と し て い る と こ ろ で あ る 。 そ こ で 先 ず 筏 自 体 の 安 全 性 で あ る が 、 岐後にこのような実験の実施時期であるが厳し い北洋の気象が荒れくるうlO月から5月頃室で 11 さを考えた場合、帆を補助手段とした10∼15 ら《《おめでとう”とい&たい。 人乗りの大型の丸木、又はハメ合わせ式の舟を予 想することはそれ程無理のないところではなかろ うか。その意味から云って、今度の企てがやL 『成功』本位に走って、技術的に妥協し過ぎたキ ライがある、といつは云い過ぎであろうか。しか もその結果が4度の挑戦を必要としたとすれば... やはり、反省しなければならない点があるのでは ないか。 色々、云い難いことを申し上げたが、基本的に は私はこの種のプランに賛成であ蔑青春は二度 と来ないし、人生も学問も研究も、試行錯誤の連 続であるとすれば、《洞じアホなら踊らにゃ損、 - , ダ タ タ 々あるであろう。何んしても、若者の冒険心と先 史学的考察が同居した今度のキナンポ計画は極め のも結構、マスコミを利用するのも結構……コセ て時流に適ったグット・アイデアであると同時にや コセした了見からは決して価値あるものは産蚕れ k科学性に欠けたのではないか、という見方は素 てこないC ソン…”である。その場合、目玉商品を宣伝する 人のヒガ目であるのか。 例を挙げよう。童ず、キナンポに使ったドラム 一つだけ注文がある。それは『必要なムダは避け 缶である。浮力や居住性の点からドラム缶を使い るな、しかし、不必要なムダはするな』というこ たい気持は分るが、古代にドラム缶がなかったこ とも確かなことであるから、と型はやはり、ほか とである。私達、ジャーナリストには賦さめた心劾 RG大いにおやりなさい”とい世たいところだが、 が必要だ、といわれる。主観に囚われても、客観 の方法を用いるべきであったろう。こ些震で云っ てし蚕うと、やはり前回の報告啓にもあった通り、 筏という前提にかなりの無理があることが分る。 経済面の問題もあろうが、前年の2度に亘る失敗 のあとで、本命の丸木舟に切り替える手があった がかなりあったような気がする。 のではないか。古代説話にもあるように上代の住 く。それも結構だが、どこの大学でも出来る態う 民 が 大 型 の 丸 木 職 使 っ て 滑 岸 霞 易 や 海 峡 、 湖 の なことではなく、北海道の大学でなければできを に過ぎてもいけない。それは文字通り砿さめた心鋤 である。キナンポ計画に見る限り、不必要盆ムダ それからもう一つ。北大探険部には東南了ジア やアフリカを舞台とした壮大な計画がある、と聞 −81− −︲’一 一一 一一一 一●一一 L一 串 乱 J . L ユ ノ , 1 』 , . ' ・ 寺 亨 . . ・ I ・ ロ 弓 『 凸 』 : ヨ ー ー L ・ ¥ . . . , − . − 』 鼻 : 鈩 晶 凸 ■ⅡBIB、■ⅡIⅡ0■!ⅡⅡI・■Jq9■︲l■0日b・少DpbI■iBrJⅡpBP 若 い 英 智 を 結 集 し た と み え て を か な か の 傑 作 で け 問 題 外 と し て 太 平 洋 高 気 圧 の 張 り 出 す 割 合 安 定 昨 年 2 回 目 の 平 均 1 0 メ ー ト ル を 越 え る 風 浪 に も ’ た 気 象 が 連 続 す る 7 ∼ 8 月 盛 夏 を 選 ん で 行 な っ 室 れ た に も か か わ ら ず 意 外 に 浪 乗 り が い い た め か た こ と は 賢 明 で あ っ た 。 鰡 騨 輕 囎 空 で 亀 る 。 こ の 睡 胤 以 上 雷 と 鋤 の 潅 ぃ こ と を 雛 つ ら ね た が 実 験 | 無 線 機 、 救 命 胴 衣 等 の 救 命 設 備 は 当 然 の こ と と し に 参 加 し た 学 生 の 健 斗 を た た え た い と 思 う 。 て 有 時 即 応 の 熊 勢 を と っ た 専 用 の 縦 船 を 至 近 距 −80− ことに恰好の企画であった。4度目の成功に心か 、 険 の た め 、 あ る い は レ ジ ャ ー の た め そ の 他 如 何 な 界 か 良 好 ( 少 な く と も 2 マ イ ル 以 上 ) な 時 に 限 る る 目 的 の た め で あ っ て も 海 上 に お け る 人 命 財 産 の , 必 曙 ‘ ウ ミ あ る 。 安 全 は 砿 保 し て お か を け れ ば を ら を ぃ 。 げるものでないことは勿論である。津軽海流の強 苦労を考えればこの種の試みは2度が限界である う。成功の確率を高めるには、たとえば、キナン ポに乗員と同じ重量のバランスを積み、無人で漂 流させて、大体の流れの方向をつかむ…とか、色 他 数 は 少 な い が 帆 走 す る ヨ ッ ト 等 が あ る が こ れ ら 更 に 青 森 函 館 間 は 連 絡 船 と フ ェ リ ー が 高 速 、 増 便 は 程 度 の 差 は あ る が 進 路 ・ 速 力 を 自 由 に 変 え ら れ を か さ ね 一 日 平 均 上 下 合 せ て 1 6 0 便 も 運 航 し て る o と こ ろ が こ の 実 験 に 使 っ た ド ラ ム 缶 製 の 筏 は お り 、 こ れ ら 船 舶 の 航 路 筋 と り わ け 港 口 付 近 で は オ ー ル が 使 え る と は い う も の の そ の 力 は 微 々 た る こ の よ う な 実 験 は 実 行 不 可 能 で あ る 。 又 夏 か ら 秋 も の で あ と は 風 を か せ 汐 室 か せ 筏 と は い う も の の に か け て は 海 峡 内 は 夜 間 大 量 の い か 漁 船 が 出 漁 、 我 々 の い う 航 路 障 害 物 に 人 が 乗 っ て い る と い う 童 い 集 す る と き で も あ る 。 従 っ て 運 転 の 自 由 の き か つ た く や っ か い な 代 物 で あ っ た 。 学 術 の た め 、 探 な い 筏 ( 航 路 障 害 物 ) の 漂 流 実 験 は 日 中 し か も 視 ’ キナンポ計画は冒険を求める若者にとって、ま 問題の多い計画でもあった。まず、潮流、風向な ど、事前のリサーチ不足、また前回の失敗の経験 を必ずしも次回に生かせなかった…などから、4 度の挑戦となったことは何といっても賞められた ことではない。随伴船、巡視船、ヘリコプターな ど、経費の面はともかく、警備に当る関係機関の 実 験 が 行 な わ れ た 津 軽 海 峡 の 保 安 を 任 務 と し て い 域 内 の 主 要 港 に い た る 航 路 が 錯 そ う し 船 型 や 運 動 る 海 上 保 安 部 の 場 か ら こ の 漂 流 実 験 に つ い て 2 性 能 の 著 し く 異 な る 各 種 船 舶 の 往 来 が ひ ん 繁 と を ∼ 8 記 し て み た い立 と思 う 。 っているが北海道の近海にはこれにひってきする わ か り き っ た こ と で は あ る が 海 を 利 用 す る も の 蚕 で に は 至 っ て い な い 。 し か し 津 軽 海 峡 は 日 本 海 に は 海 上 輸 送 の た め の 船 舶 、 漁 業 を す る 船 、 そ の と 太 平 洋 を 結 ぶ 交 通 の 要 衝 で 東 西 航 の 船 舶 は 多 く I 又、その場合、補助航行手段として帆の併用を妨 しかし、醜って考えると、率直に云って色々と 東京湾、大阪湾、瀬戸内海等においてはその海 「 出す塩……海風にはためくオレンジの帆…...。 横断を行ったことは決して稀な例ではあるまい。 ’ I 〆 いような、地についた、それも学術的な意味の深 在、学術、文化を通じての日ソ交流のかけ橋の猪 いものに焦を向けられないであろうか。たとえば 口に、それは成り得るのではなかろうか。 《§津軽の海”で行ったことを宗谷海峡でくり返す いき、私の脳裡を去来するものは、北極海に浮 ことが出来はしないか。実験的な興味よりも、オ ホーツク、沿海州に《t衷われた民族”オロッコや ギリヤークをたずねる探究の−還として考えるこ かぶ氷島、T3の上で黙々と観測に従事しながら、 果てもない白夜をさすらう日本人の-科学者の姿 である。 とはできないだろうか。北方領土問題の喧しい現 一つに『冒険は酒と女と』と答えていた人もいた 念。在函十数社のマスコミ各社の中には『キナン ようですが、もしそうなら、いっそ考古学上の意 ポはハッタリだ』と取材ボイコットをしようとし 味づけはひとまず置いて、手づくりの道具で《《海 た動きがあったことも、蛇足ながら付け加えてお を駆ける”と云うことに全力を注いだのなら、玄 きます。それでも成功した時に、各社が扱ったの た別の感銘もあったのではないでしょうか。その は、ひとえに探険部の若さが十分評価された結果 点、探険部員が真面目に取り組んだにもかかわら です。 ず、ともすれば売名と受け取られていたことは残 1971.lO.13 〆 ’ Ⅳ探検から探険へ キナンボ漂流実験の経験から 1I1キナンボ見聞録 大 野 秀 樹 北海道新聞函館支社報道部石ノll和伴 I | I ’ 』 I l l l 4 回 目 の キ ナ ン ポ 号 漂 流 を 取 材 し た と か ら 、 個 だ け に 、 逆 か ら い う と 、 フ ロ ー ト の 代 用 に 卜 . ラ ム Iはじめに 人 的 を 雑 感 を 述 べ て さ せ て い た だ き ま す 。 み な さ カ ン を 用 い 、 動 力 貨 物 船 を 伴 走 に 、 潮 流 ま で 漁 船 ん が 《 《 板 子 一 枚 妙 手 製 の オ ー ル と 帆 で 津 軽 海 峡 を に 曳 航 さ れ た こ と は 細 か な こ と の よ う で す が 、 最 横 断 さ れ た こ と は 、 を ず 何 よ り も 探 険 部 員 自 身 に も 古 ぃ 資 料 と 、 最 も 現 代 的 な 器 物 と の 妙 な 組 み 合 と っ て よ か っ こ と で あ り 、 大 学 生 活 の よ き 思 い わ せ に 見 え た の は 残 念 だ っ た と 思 う こ と で あ り 、 出 に な っ た こ とた と思 い さ す 。 私たち自身、諸君になんとも説得できないととの 私 も 隊 員 が 必 死 に な っ て オ ー ル を と ぐ 姿 を 見 て 、 一 つ で し た 。 ぼくは1967年、北大へ入学と同時に探検部 に入部した。それは、本多勝一氏らが、わが国で 初めて京大に探検部を創設して以来十年を経過し 「冒険」の険を当てるとは何たることか./ て、探検部というもが一般にも親しいものになっ どちらかと言えば、生理的に「藻険」は受けつ けられないようであった。 てきた頃であった。 入部早々、ぼくは大いに戸惑ってしまった。入 今になってみると、それは、ごく些細なことで 部以前に抱いていた《《夢とロマンに満ちあふれた” はあったが、当時の(現在も依然としてその傾向 は続いているが)探検部の姿を物語る象徴的なで というイメージと現実とのギャップがあまりにも 大きかったからである。部会にしろ、合宿にしろ、 きごとであったように思われる。 す。最近では、ヘィェルタ・−ル氏が芦の華船「ら 私 た ち マ ス コ ミ に は 、 夏 の よ き 話 題 と な っ た と 一 二 世 号 」 を 駆 っ て 大 西 洋 を 横 断 、 古 代 エ ジ プ ト と も 確 か で す 。 卒 直 に 探 険 部 の 行 勤 力 、 実 践 力 に 人 の 足 跡 を た ど っ た こ と は 耳 新 し い こ と で す 。 ジ は 敬 福 す る 次 第 で す 。 し か し 、 考 古 学 上 貴 重 を 手 ヤ ー ナ リ ズ ノ 、 け 、 同 氏 の か ね て か ら の 冒 険 、 著 述 、 が か り に な っ た か ど う か は 別 問 題 だ と 思 い を す 。 研 甕 f ' " : ; : j : , D 解 明 と し て 注 目 し な い わ 私 は 、 考 古 学 の 専 門 家 で は あ り 叢 せ ん が 、 も し み ‘ ↑ ; . , 、 汗 ! ・ , で す 。 も ち ろ ん 、 み 歳 さ ん 茂 さ ん が 学 問 的 デ ー タ に 基 き 、 実 験 漂 流 の 評 価 を { " 1 1 L 1 i I 、 & り ょ ≦ 1 に や っ て ほ し い と は い い ま せ お通夜のような雰囲気で、楽しさとか、胸ワクワ クときめくなんていう気持などほとんど感じられ なかった。その後、いろいろな機会を通じて、他 の大学でも大同小異であることを知った。 そんなとき、ぼくは、<探検>をく探険>と書 ず る と た れ ば 、 そ れ な り に 疑 問 が 残 っ た こ と と , 暦 , ’ ゞ う ’ 、 考 占 の 解 明 は 、 現 代 科 学 の 深 渕 に あ る わ け い 雷 す 。 私 た ち マ ス コ ミ は 、 と も す れ ば 日 常 の 1 1 ’ で 、 も し 古 代 人 が 津 軽 海 狭 を ど の よ う に 渡 つ た か の 現 象 的 な 事 象 の み を 扱 い ’ 根 本 的 を も の を 置 当 」 い う テ ー ー マ を 追 究 さ れ る な ら 、 そ の 前 に 、 古 代 去 り に し が ち で す が 、 そ れ だ け に 、 学 生 諸 君 に は ノ : ゥ . ど う し て 渡 ら な け れ ば な ら な か っ た か と い う ■ 妥 協 を 許 さ な い 学 問 の 中 で 小 さ な 真 実 の 積 み 重 オ 』 : i 1 I : W ; # @ な さ れ て い な け れ ば 、 唐 突 な 実 験 に な る の を 実 践 し て ほ し い と 思 う か ら で ず 。 でけ:をいでしょうか。 記憶するところでは、みたさんのアンケートの −82− 梅棹忠夫氏は、『コン・ティキ号探検記』の解 説の中でギ現代の探検という行為においては、科 学とアドヴェンチュアとが離れがたく結びついて いる”と述べ、次のフックスの言葉を引用してい る。《探検とはサイエンスとアドヴェンチュアの魅 いて、先輩から非常に怒られたことがあった。た 力にとんだカクテルである”(『世界ノンフィク かが字ぐらいでと思ったが(実際、日本語として はどちらも正しい)、彼の剣幕は異常なほど激し かった。彼の主張は、かいつまんでいえば次のよ うなことであった。 <タンケン>とは、知的好奇心に発した行動 であり、本質的にサィェンティフィックなもので ある。よって「タンヶン」とは、駅さぐりしらべ シ同ン全集』1)。 彼(先藍)の場合、サイエンズの量が多過ぎた のであろう。そんな彼の集合体、探検部がそのよ うな雰囲気であったのは当然であったかもしれ溌 い◎ さて、その後、そのような「探検」の二面性を 意識せざるをえない行動を行なった。それが、 −88− ’ ︲←111− 挫雪-=一国!_一===−−−− 「探検」となる。それをよりによって、愚劣な 、 や は り 現 代 人 は 疑 問 に 思 っ た こ と を 童 ず 実 行 し て 確 か に 、 私 た ち に と っ て 、 古 代 人 が 大 陸 間 の 交 み こ と と い う 本 質 的 な 回 答 を 与 え て 下 さ っ た 流 し て い た か に つ い て は 興 味 の あ る こ と で あ り ま ‘る のと 評 価 し て お、 り茜 す ◎ そ の 点 、 み な さ ん の 行 為 そ の も の が 真 塾 だ っ た るとと”すなわち、探求の探と検査の検をとって 一 − − テ ー ョ 〆 f ’ 巳 《《キナンポ計画”であった。、 合わせたもので、これに帆、舵、擢を取付けた。 (図2参照) Ⅱキナンボ計画の場合 18000∼16000年前、それ蚕で陸橋に よって結ばれていた本州と北海道は、海水面の上 昇によって切断され、津軽海峡が成立した。しか ● し 、 そ れ 以 前 か ら 続 い て い た 両 地 域 の 文 化 交 流 は 、 ’ 「 そ れ で は 、 ど う や っ て 古 代 人 は こ こ を 渡 っ た の か … … 」 と い う 佐 々 保 雄 前 探 検 部 部 長 ( 北 大 名 誉 教 授 ) の 疑 問 に 答 え る た め に 、 キ ナ ン ポ 計 画 は 開 始 さ れ た ( キ ナ ン ポ と は 、 ア イ ヌ 語 で マ ン ボ ウ の意味)。 階 し L , 』 ' 9 7 0 , 7 1 年 の 両 年 に わ た り 、 計 回 、 本 州 か ら 試 み 、 4 回 目 に や っ と 横 断 に 成 功 庵のだ。(図1参照、 含めて、キナンポ計画は当初、“純粋な学術探検” 響睾』一__3="g" <Scalel/nO> と理解された。1970年1月に計画が立案され てから、半年後の七月に横断を実行するまで、ぼ くたちは人類学の猛勉強を続けた。 一 全 昼 ’ 礁灘 ’ 結局、舟の発達段階において丸木舟より原始的と いわれるイカダに落ち着いた。これは、イカダで 成功すれば、より高等な丸木舟の分まで証明した ことになりはしたいか、という意図もあった。 しかし、イカダそのものだけは、鳶ったくの風 凌かせ、潮まかせであって、漂流ピンを流すのと 噸I」41,↑′こりである。また、イカダに浮力をつけ § ' ( ' = ' l i l ラ ム カ ン を 用 い た 。 こ れ は 、 最 後 の 最 後 明 鷺 、 " 、 4』 、 ー 。 、 ■ . 夢 ・ 』 , 悪 諏響 鏡.弾 = 、ザ . aUUW糞廻阿 制 尭 璽 露 だが、このような合理的解釈を行なううちに、風しか利用できない。それに月齢にエる潮汐変化 ぽ〈たちは、キナンポ計画の誹鮴さを認識すが加わり、渡航成功の可否は出航日時にすべてか るようになった。それにつれて、キナンポ計画はかつている、と言っても過言ではなかった。すな 心の中で●僻を学術探模>からくただの学術探わち、出航時にすでに成功か失敗か力映在ってい て、あとはとの連命がどうでるかは、文字通り、 検>へと変わっていった。 繁謡# た。そんなわけで、ぼくたちは出航日時の決定に全 ここで、ぼくたちのキナンポ計画は、<ただの力を注がたければならなか.つた°特に、以上にあ% 淀 。 し か し 、 │ 掌 嘉 曼 皐 学 術 探 検>からく冒険>へと変わっていた(それげた要素の中でも風向が最大のポイントであった 動物の内臓|も、 大した 向 ' ' 『 き { r ご つ か う の と 卜 ・ ラ ム カ ン を 用 い る るのとでは、| の と で は 、 も、大したく冒険>じゃないという意識であった)。ので、出航決定は、できたら出航ぎりぎり霞で、 こ れ は、ぼくたちがく深撹>の二面性を意識し、少なくとも出航12時間前富では余裕力歌しか、う 吏 衝 的 ( ' 届 ( 機 自 融 の 面 か ら み て ) ど の く ら い の 差 く ら い の差|これ は 、 ● ● ●●●■●●●●●● そこにぼくたち自身におけるキナンポ計画を位腫たO.i かあるというのか。むしろ、卜・ラムカン の 方 がが 柾抵Iそこ ン の 方 にぼく -84FF- ’ −85− ! ‐‐‐_ニー当壹ヨー・宗弓-壼雰善意豆毒思壼冒露廷…一手凸一一ゞ‐“-‘"_、.‘__‐ N 0 その他 直 帆 形 式 1 8 m ● 1 / そして、7月22日、第1回目の横断に失敗し霞を板の鯉であった。 ー’罰.つけられることになってしまった。しかし、 、ル{'鮪単に説明がつく。たとえば、動物の内臓 弓材を瀧 I 装 上 ヒバ角材.ドラムカンU掴 ー 〆 り早いこと②資金に限りがあるため、丸木舟や、つた・梱は、海岸から沖へイカダを運ぶのが糖一 浮きを使用しなくともよい大きな丸太のイカダは杯で、とてもこれだけでは渡航は無理だ。そこで、 帆が必要となるが、これもイカダの構造上、追い 困難なこと、などである。 、剛唱,1個江‘ 鶉1回∼第4回目の: ::更之・-牢:…三。:…"壱一・・、←:−.−.宮・‘……心一一奇,K 400昭 5∼6名 − ● ● ● で1#'ツ!'こ意識を持たせるために帆、舵、樋を 、浮きに次いで原始§ ‐ 」 5.um 皿 醸 リ I 一 胃 ‘ ク 図2キナンボ号設計図(第1回目∼第2回目に使用したもの)− づけた結果であった。をた、これには次のような 抗が大きいくらいである。 このようなイヵダに決定したのは、以上の学問外部からの影響がかなりからんでいたに違いない。 的理由の他にも理由があった。それは、①準備期ドラ:ムカン・イカダは、たとえ帆をつけ幡をつ 間が短いため、卜・ラムカン.イカダが最も手っ取けたいといっても、その性能はすこぶる鈍重であ ことになる。これにはほとほと参ってしまったが、 古代にドラムカンはなかったぞ」とクレ ,lL − 全 恋 材 料 いのだから、逆に言えば、何で渡っても構わない チrl- 3.um _ 乗 邑 最大の難問は、渡航手段を何にするかであった。 すでに述べたように、学問的に何もわかっていな 大して違いはない。それに、これ蚕での船の漂流 例をみると、海峡横断の成功率はきわめて低いよ うである。だが、古代人は意識的に渡ったとしか 考えロノオ!を卜ほど大量の遺物を残している。そこ ’ 4.2m 全 輻 韓 蕊 筏の要項 I 内 一一 | って、一層その性格が強蚕ったoぼくたち自身も 、悪 | − ■ ■ ■ ■ ■ ■ I ■ ■ ■ ■ ■ ■ ー 一北大助教授(人類学)を顧問に迎えることによ iIIIl れ る も の の − つ で あ る が 、 当 時 の 舟 に つ い て は 、 そ の 存 在 す ら わ か っ て い を い o そ の 上 、 津 軽 海 峡 は 速 い 海 流 と 複 雑 を 潮 流 の た め に 、 わ が 国 有 数 の 渡 航 難 所 と さ れ て い る と こ ろ で あ る 。 I 類学的疑問に端を発したものだが、これは吉崎昌 二/、寮 と の 事 実 は 、 世 界 で 最 も 古 い 海 上 交 通 と 考 え ら キナンポ計画は、前述のように一地質学者の人 一一一一一一 器 の 強 い 類 似 性 や 、 本 州 産 ヒ ス イ 玉 が 北 海 道 に 持 ち 込 凌 れ て い る こ と な ど か ら 証 明 さ れ て い る 。 キナンボ計画の科学と冒険 蕊:雲 こ れ に よ っ て も ほ と ん ど 中 断 さ れ ず に 現 在 に 至 っ て い る 。 こ れ は 、 両 地 域 か ら 発 見 さ れ る 石 器 、 土 ∼ なお、キナンボ計画の詳細については本誌第2 号「キナンポ漂流記」を参照されたい。 キナンボ計画とは 〆 一 I 巴 言 一一 戸 , 「 " 冬 一 し か し 、 こ れ は 、 ス ポ ン サ ー 、 マ ス コ ミ 、 海 上 を い ・ を た 、 こ の 場 合 、 自 分 の 生 命 は 自 分 で 責 任 底 的 に 工 夫 し て や ろ う 一 「 津 軽 海 峡 横 断 の た め b 着 く こ と が で き た 。 こ れ は 、 世 間 が ぼ く た ち の 行動を許してくれる最後の機会であった。 保 安 部 ( 函 館 、 青 森 ) の 三 者 か ら の 制 約 に よ っ て 、 を 持 た を け れ ば な ら な い の は 当 然 の こ と で あ る 。 に 」 。 出 航 2 日 前 に は 決 定 し 左 〈 て は 友 ら 左 か つ た の で 長 尾 み の る 氏 は 、 『 冒 険 の 珍 説 』 の 中 で 、 「 冒 険 ぼ く た ち は 、 あ く ま で も イ カ ダ の 範 囲 内 で あ っ ぼ く た ち は 、 キ ナ ン ポ 計 画 が 進 行 す る に つ れ て 、 あ る 。 ス ポ ン サ ー の あ る フ ェ リ ー 会 社 は マ ス コ ミ の 名 作 ? は 大 体 に お い て 最 初 と 終 点 し か 見 物 さ た が 、 様 々 の 改 良 を 行 な っ た 。 帆 の 効 率 を あ げ 、 < 純 粋 な 学 術 探 検 > か ら く た だ の 学 術 探 検 > へ 、 の た め に フ ェ リ ー ボ ー ト を 海 上 保 安 部 は 安 全 の た せ て い な い も の が 多 い の で あ る 」 と 述 べ て い る が 、 」 イ カ タ ・ の 抵 抗 を 小 さ く し 、 擢 を 櫓 に 近 い も の と 替 そ し て く 冒 険 > に 傾 斜 し て い っ た が 、 と う と う オ め に 巡 視 船 を 出 航 さ せ る こ と に な り 、 配 船 に 時 間 こ の ( こ っ そ り 行 な う ) ス タ イ ル は 、 少 な く と も え 、 舵 を 大 き く し た 。 そ の 結 果 、 イ カ タ ・ と し て は シ マ イ 童 で 例 の あ い ま い さ か ら 抜 け 出 す こ と が で を要するためであった。 終点だけしか見せるべきでたい。 非常に高性能なものとなったわけである(それできたかったことにも通ずる・ 蚕 た 、 夜 間 は 行 を わ な い 、 必 ず 伴 走 船 を つ け る ぼ く た ち は 、 後 者 ( お 金 を も ら う 方 ) を 選 ん だ も ヨ ッ ト に は 遠 く 及 ば ず 、 イ カ ダ の 性 能 の 域 を 脱 と も あ れ 、 キ ナ ン ポ 計 画 は 終 わ っ た 。 あ と は 忠 実にキナンポ計画をコピーした報告を行なうだけ と い う 約 束 を 海 上 保 安 部 と 取 り か わ し た た め 、 勝 わ け だ が 、 そ れ は 、 資 金 が 大 き か っ た こ と 、 計 画 す る こ と は で き な か つ が ) 。 負 は 、 日 の 出 か ら 日 没 室 で と い う こ と に た っ て し の 性 質 上 、 世 間 に お お や け に す る べ き だ と 考 え た 第 2 回 目 ( 8 月 3 ∼ 4 日 ) に は 、 風 向 を 慎 重 に で あ る 。 人 類 学 上 の 問 題 ( 成 果 ) に つ い て は 、 学 雷 つ た 。 こ れ は 、 も ち ろ ん 安 全 の た め で 、 鍵 は 、 か ら で あ る 。 し か し 、 こ の 理 由 は 、 ど う も 楽 し て 読 ん だ た め 、 出 航 連 絡 を 直 前 ま で 行 を わ 猿 か つ た 者 を 含 め た 世 間 に 任 せ て お け ば 聖 い ° 〆 ● ● ● ● ● ■ ● ● ● 津 軽 海 峡 の 船 航 行 が 激 し こ と 、 イ カ 漁 船 の 出 計 画 を 達 成 し よ う と い う 気 持 の 裏 返 し で あ っ た よ ( こ の 時 だ け 、 フ ェ リ ー ボ ー ト の 伴 走 が な か っ た ) 。 第 2 回 目 が 終 わ っ た と こ ろ で 、 報 告 書 を 出 し た 漁な ど の 理 由 もの 含蚕 れ て い た 。い うな気がする(結果的には、マスコミに大きく取結果は、途中、低気圧に巻き込蚕れて中止し、失(最終的な報告書は、近く発行予定)。その中で、 こ れ ら の 条 件 ( そ の 他 、 玄 だ ま だ 制 約 が あ っ た り 上 げ ら れ て 、 良 か れ 悪 し か れ 世 間 の 人 々 の 間 で 敗 に 終 わ っ た 。 そ し て 、 そ れ つ と ば か り 、 海 上 保 ぼ く は 、 キ ナ ン ポ 計 画 に つ い て 次 の よ う に 記 し た 。 が 、 き り が 左 い の で 省 略 す る ) を の ん で 、 な お 、 は 大 分 反 響 が あ っ た よ う だ が ) 。 そ う い っ た と と 安 部 や マ ス コ ミ か ら 批 判 を 受 け 、 ぼ く た ち は あ い 少 し 長 い が 、 こ れ ま で の 主 と め に も な る と 考 え て 、 「 古 代 人 は . ・ ・ ・ ・ 」 な ど と 主 張 す る の は 、 も は や お る か ら 、 < 純 粋 な 学 術 探 礎 > か ら く 冒 険 > へ と 傾 宮 い さ か ら 発 し た 一 連 の 考 え が 正 し い こ と を 、 改 引 用 す る ( こ れ を 書 い た と き は 、 例 の 傾 斜 の 萱 だ め て 確認 し た、 。、 そ' の' 時」 (= 8月 4日 ) の新聞 の 見 出 途' 中" に' あった. こと を 考 慮 に 入れて 頂 きたい。) 笑 い 種 で し か 左 か つ た か も し れ な か っ た が 、 ぽ く い て い っ た の か も し れ た い o " . 。 、 、 」 ! ' ' ' ' ' ' . = た ち は 承 諾 し た 。 そ こ に は 、 次 の よ う を 考 え が あ し か し 、 以 上 の よ う な こ と を 、 観 念 と し て で は し を 2 , 8 あ げ て お こ う 。 なく、現実と・して認識したのは、室さに、第1回く図に乗る左キナンポ>(『毎日』)、<無謀と叫んでおなかの底から笑っている自分を想像し − キ ナ ン ポ 計 画 は 何 十 万 円 も の 資 金 を 要 す る 。 目 に 失 敗 し て か ら で あ る 。 そ し て 、 人 類 学 ( 学 術 さ に 批 判 の 声 > ( 『 読 売 』 青 森 版 ) 、 < ズ サ ン な て こ の 計 画 を 行 な っ て き 室 し た 。 し か し 、 そ れ は お 金 を つ く 息 の に は 、 こ た 通 り の 方 法 し か な い 。 的 ) に 徹 底 で き な い あ い ま い さ が 、 そ の 核 を な し 連 絡 > ( 『 北 海 タ イ ム ズ 』 ) 。 自 分 で つ く る か 、 他 人 ( 世 間 ) か ら も ら う か で あ て い た 。 ● ● ● 「”...、ぼくは、北海道に着いて、〈《バンザイ。/” つた。 ほんの一瞬のことで、すぐに元の無表情な顔に戻 る 。 礎 者 の 場 合 、 最 近 《 f g i v e a n d t a k e " で あ る また、青森海上保安部は次のような見解を発表ってしまい、心の中も閉ざされてしまうのです。 ともかく、ぼくたちの方針は、必然的に変わっ べ き だ と 言 わ れ て い る が 、 こ れ も 所 詮 は 同 じ と と て い っ た 。 した。 おそらく、この想像の出来事は正夢になるでし上 「海峡横断そのものは学術的に意義があり、まうoそんな一瞬の快楽のために、なぜわざわざと だ 。 お 金 を も ら う と い う こ と は ( 世 間 に ) お お や − ぃ 室 さ ら 人 類 学 を 捨 て よ う と し て も 、 一 度 浴 た 計 画 を 事 前 に 報 告 す る 法 的 義 務 は な い が 、 航 海 の よ う な め ん ど く さ い こ と を や る の か 、 と 尋 ね ら け に す る と い う こ と に ほ か を ら ず 、 そ こ か ら 、 マ お や け に し て し ま っ た か ら に は 、 ど だ ぃ 無 理 な 相 の 安 全 の た め 、 ( 函 館 海 保 ば か り で な く ) 出 港 地 れ て も 、 ま た 、 自 問 自 答 し て み て も 、 よ く わ か ら ス コ ミ や 海 上 保 安 部 と の 問 題 も 生 じ て く る 。 こ れ 談 と い う も の だ 。 し か し 、 こ れ 以 上 人 類 学 や 考 古 を 管 内 に 持 つ 青 森 海 保 と も 連 絡 し て ほ し か っ た 。 な い と い う の が 本 音 で す 。 た だ 、 こ う い っ た 行 勤 ら に つ い て は 本 多 勝 一 氏 の く 日 本 の 官 僚 的 社 会 構 学 に 荷 を 突 込 ん で 、 石 器 や 土 器 、 舟 の 研 究 を し さ い わ い 計 画 を 中 断 し た だ け で す ん だ が 、 夜 中 の は 自 発 的 で あ り 、 そ の 意 味 で 、 ご く 自 然 に 抵 抗 な 造 に 主 る > ( 『 冒 険 と 日 本 人 』 ) な ど の 解 釈 に よ た 「 L ' h , は じ 蚕 ら な い 。 人 類 学 上 の 概 観 は っ か 出 航 を 夕 方 に 知 っ て も 、 計 画 を 変 更 さ せ る な ど 指 く 受 け 入 れ る こ と が で き 蓑 す ( こ れ は 義 務 感 の っ て 説 明 さ れ る か も し れ な い が 、 現 実 に は 、 こ れ む と L ウ 、 で き た し 、 そ の 結 果 、 渡 航 手 段 も 「 イ カ 導 の 余 裕 が な い 」 を 避 け る か 、 甘 ん じ る か の い ず れ し か な い 。 前 者 タ . 」 と 決 定 し た の で は な い か 。 こ れ 以 上 、 人 類 学 筆 者 ) 。 第3回目(1971年7月26日)は、北海道的行動以外ほとんど考えられないので、これも実 ● 。 . ● ■ ● ● ● ・ ・ (『読売』青森版、カッコ内は裏返しとも言えなくはありません。しかし、本来 を と り た て れ ば 、 鈴 や け に し を 1 へ た め に 資 金 を 忙 執 着 し て い て は 、 泥 沼 に は ま る ば か り だ 。 こ れ 自 分 で つ く り 、 準 備 も 本 番 も こ っ そ り 行 な う こ 上 か ら は 、 人 類 学 の 枠 、 す な わ ち 「 イ カ タ コ と い う を 目 前 に し て 日 没 と た り 、 海 上 保 安 部 と の 約 束 通 は 、 義 務 的 行 動 左 の か も し れ ま せ ん ) 。 で あ る 。 そ し て 、 成 功 す れ ば 堀 江 謙 一 青 年 の よ う 制 約 ( も ち ろ ん 、 丸 木 舟 で も よ か っ た の だ が 、 ぽ り , 中 止 し た 。 に 一 大 英 雄 と 左 る こ と う け あ い だ 。 し か し 、 万 こ う し て 、 ぼ く た ち は 、 津 軽 海 峡 と 共 に 世 間 と で っ ち あ げ に 過 繊 い の か 、 と 再 び 問 わ れ る か も 失 敗 す れ ば 、 海 上 保 安 部 は も ち ろ ん 、 良 識 あ る 世 の 面 か ら い っ て も 変 更 す る 余 裕 が を か つ た ) か ら も 戦 わ な け れ ば 義 ら だ か つ た が 、 幸 い な こ と に 、 間 の 人 々 か ら も こ つ ぴ ど く や ら れ る こ と は 間 違 い 抜 け 出 る こ と は で き な い に し ろ 、 そ の 枠 の 中 で 徹 第 4 回 目 ( 8 月 9 日 ) に し て つ い に 北 海 道 へ た ど 代 人 に 対 す る 疑 問 が な か っ た ら こ の 計 画 は 生 さ れ 的に人間は義務感なくしてなしうることは、本能 すると、<古代人云蒔>の問題は単なる義務感、 ● ■ ① 。 ● 寺 ● ● しれませんが、しかし、とれは違いをす。この古 − 3 6 − − 3 7 − 一 ー 配 一 一 ご ロ ー マ ー − = 一 〆 F 1 をかつたでしょうし、誉た、計画の進行中におい ても常に推進力とたってきました。 以 上 の こ と を 、 ピ ー ト ル ズ に た と え て み る と 、 前 者 は ジ 画 ン ・ レ ノ ン 的 、 後 者 は ポ ー ル . マ ッ カ ー ト ニ ー 的 と 言 え る で し ょ う 。 ポ ー ル の あ の 一 般 〆 性 を 持 っ た 音 楽 が を け れ ば 、 ビ ー ト ル ズ の 例 の 熱 狂 的 を 人 気 は 決 し て 生 凄 れ な か っ た で し ょ う 。 誉 た 、 あ の よ う な 幅 の 広 い 音 楽 に な り え な か っ た で し よ う 。 し か し 、 彼 ら の 本 当 の 叫 び を 代 表 し て い る の は ジ ョ ン で あ り 、 そ の 魅 力 は 彼 の 才 能 ば か り 蕊 で な く 、 彼 自 身 の 生 き 方 に 大 き く 由 来 し て い 室 す 。 し か し 、 ピ ー ト ル ズ の こ と は と も か く と し て 、 こ の よ う を 行 動 を す で に 述 べ た 通 り 、 2 つ の 要 素 に 分 け て 考 え る こ と は 、 本 質 的 に 無 意 味 な こ と で あ る と 思 い を す 。 つ き つ め て 考 え 毒 す と 、 ど ち ら も く 遊 び > で あ る こ と に は 変 わ り な く 、 そ し て 、 ぼ く 自 身 も 両 者 の 間 に は さ 室 れ て 、 き ゅ う き ゅ う す る と と も を し に 、 ご く 自 然 に 両 者 を 結 び つ け て こ れ た の で す ( こ と で 、 再 び 両 者 と 言 う よ り も 、 一 体 化 と 言 っ た 方 が 適 切 で す 。 ピ ー ト ル ズ に お い て も 、 ジ ・ ン だ 、 ポ ー ル だ 、 と 分 解 し て み て は 、 ‐ あ の す ば ら し い ハ ー モ ニ ー が 存 在 す る わ け が あ り 室せ ん ) 。 と す る と 、 こ れ に 無 理 に 分 け て 単 な る 冒 険 な の か 、 そ れ と も 学 術 的 研 究 を の か 、 す で に 述 べ た よ う 左 表 面 的 で 意 味 の な い 見 方 を し よ う と す る の は 、 一 体 、 誰 な の で し ょ う か ? 本 多 勝 一 氏 は 、 そ の 元 凶 は 日 本 の 社 会 織 造 、 す を わ ち エ ス タ プ リ ッ シ ュ メ ン ド に あ る と 述 べ て お ら れ 室 す ( 『 冒 険 と 日 本 人 』 ) 。 も ち ろ ん 、 ぼ く も そ の 説 に 異 論 は あ り ‘ 雷 せ ん が 、 あ え て つ け 加 え 注 す と 、 真 の 元 凶 は ぽ く だ ; ち 自 身 に あ る ( そ の よ う を 環 境 に 毒 さ れ ‐ r い る に し て も ) と 思 い 蚕 す 。 す な わ ち 、 常 に 子 ≦ 刀 よ う 崖 思 考 法 か ら 脱 出 で き 霧 い 糟 神 の 貧 困 さ 、 , 、 ‘ つ も 被 害 妄 想 に と ら わ れ て い る よ う な 余 裕 の を ミ ー ー こ う い っ た 異 物 を 体 外 に 排 泄 し て し 室 わ を ぃ 限 り 、 い つ 鳶 で た っ て も こ の 種 の 空 蹄 が 続 く 忙 遮 ●C◆●●● −38− −89− 一 一 一 ? − − 一 一 ? ‐ - → − − 』 一 一 一 111 I 認識活動は、理性的になったり感性的になったりを捨て切れなかづたため、「二兎追うもの−兎を するように、探検も、より科学的なもの、よりア得ず」的状態に陥り、あいまいさ発生の最大の原 ● 團圃團園圖回 ドグェンチュラスなものがある。しかし、「(認因となった。 佐々保雄黒潮漂流グループ 方になりきってし童うことはありえない」(安部ィを取り戻していったことは、明白な事実であっ 公房『同上』、カッコ内は筆者)のように、探検た。これは、言うなれば、<探検>からく探険> も、どちらか一方のみになることはない。ヴアレへの移行であった。 −1 識活動は)いかなる場合にも、純粋にどちらか一しかし、①から③への傾斜において、リアリテ I 巻 頭 言 佐 々 保 雄 リーの「テスト氏」力探検を始めるとはとても考カイヨワは、『遊びと人間』で言っている。 〆 この夏、北海道大学探険部は、筏によって津軽 その為には、健康を保ち得る居住性の良い職, アはどうか、と言えば、この二つはその厳然たる 海峡を横断しようと試みた。いわゆる“きなんぼ 十二分の食料が不可欠だ。安全の為にも、4∼5 作戦”がこれだが、その準備に部員が大童の頃、 人は乗り込んだ方がよいだろう。本もかなり持 私は「次はどこを?」と考えていた。いろいろの ちこんで、それぞれが好みに応じて勉強し、セ 計画が脳中を去来したが、「やはり、これだ」と ミナーでも開けば、文字通り「太平洋大学」だ。 したのが、.、黒潮にのって漂流し、その観測を続 今の学生のことだから、漫画もライブラリに混っ けつつ、対岸に到ること”であった。 ているに違いないが、聖番や仏典、或はコーラン このアイディアは、きなんぽ作戦の反省会の折 に、初めて部員たちに披露したが、それが種子に もくり返し読まれるだろうし、綴じのわるい理科 年表などはやがて、ポロポロになるだろう。太平 なって、ことに今、芽をふこうとしている。一言 洋の真只中、漂よう一片の葉のような船中、その なき能わず、である。、 ある「極限」での毎日、その中での読書は何より 匙… たこともない。 そうすると、探検は、①より科学的なもの、すコントラストを保ったま室で日常生活に入ってい なわち、理性的なもの②中間的なもの③より〈。すなわち、喧騒とシンフォニー、落審きと巧 アト・ヴェンチュアラスなもの、すなわち感性的なみな遠近法の行使とのコントラストである。との もの、の三つに分けることができる。もちろん、対立は、やはり、利用可能な各種の能力を最高度 これはごく大ざっぱなものだが、それぞれ具体的に発揮する慎重な計画と、それ自体の絶頂を極め 友行動として、①野外調査(発掘、文化人類学のる以外の目的を持たない混乱した純粋の興密との 行なう親族名称などの調査、動物の生態調査・・・)間に、いかなる共通点もないという事実から生ま ②コン・デイ1キ号、キナンポ号・…“③ヨットにれる」と(ルドウスとは、無償の困難の愛好、パ よる大洋横断、登山、川下り・・・…などが当てはイデイアは、即興と陽気という原初的能力のこと)。 まるだろう。 しかし、だからといつて、ヨットによる大洋横 .ことで大事なことは、これ蚕で再三述べてきた断や登山や川下りなどをやれというためにこれを 奄侭帷どいうものは、一体どこから発生するで長々と述べてきたのではない。 地 理 的 発 見 の 時 代 に く 探 険 > で あ っ た 行 動 が 、 もう一度、キナンボ計画をみてみよう。その終焉とともに梅棹氏らの言うく探検>へと キナン源計画は、・初め、①の要素が強かった。変わっていった。とれは、文明の進歩と平行した の・か、、どいうと1とである。 「 イ ヵ ダ で 津 軽 海 峡 を 渡 る こ と 」 − 冒 険 は 、 科 必 然 的 攻 成 り 律 奮 っ た 。 し か し ‘ 蕪 検 > は 、 学(人類学)を追求するエネルギーではあったもその結果、あい室いさとそれに付鎚'一る主体性の のの、,所詮、従の関係でしかなかった。それが、喪失を伴う宿命を背負乞'た〔房」:-ず 凸 ノ 次第に②から③へ移行するにつれて、逆に、冒険あいまいさの追放-l*;<探険>への が主となり、科学は冒険を達成するための単なる復帰が、この小稲の1抑?{:。しかし、これ 手 段 で し か な く な っ た 。 し か も 、 と の 科 学 は 、 人 は あ く ま で も 現 代 に : ; 、 { i ' L , 探 険 > で あ っ て 、 地 類 学 で は 諾 ぐ 、 海 流 や 気 象 の 研 究 、 イ カ ダ の 改 良 理 発 見 時 代 の も の と け ' " │ 1 ' ) I ' 異 な っ て い る 。 11 ト 4qJ0︲卜.lhI■f6■pPIl1Ⅱ9■ 日,。.、■qllJG■甲LL■b・’4守 りlII4LlI1︲︲l●11︲卜 一 ■ 一 口 ■ ロ ー ■ ■ 砧 一 七 一 q ■ も ● 左 ど 、 い か に し た ら 樹 翫 が 可 能 か と い う こ と に 関 こ の く 新 し い 探 険 ' ' l ' j 1 、 的 を 内 容 に つ い て は 、 改めて考えてみたし‐、‘ する調査や工夫であった。 それでも、雑や旅したことから、①の要素(『洲い探険』第8号収録) −40.− Ⅱ。“■■10ⅡⅡⅡITqIIIII16■fBbI0b日日ⅡⅡⅡⅡⅡ0ⅡⅡⅡⅡ1IILI0D0Ib■上■■Ⅱ■11ⅡⅡllIj■l■■■■Ip6v■015Ⅱ10ⅡⅡⅡ︲■0J‘・■■HIqI■llhLllIJ1’11日Ifb0IIl0泪刑106■■9. えられないし、太平洋を泳いで渡ったなんて聞い「・・・…遊ぶときの態度であるとルドゥスとパイディ l ’ ’ 当時、私は考えた。これは「漂流」ではあって の心の樋に違いない。 激しい荒天、逆まく怒涛の日、食事もとれず、 も、「難破」ではないから、安全、快適な装備の j6 下に行われねばならぬ。その為には、どのような 船底にうずくまり、どうするすべもなく、ただ風 風浪にも湛え、転覆せぬ栂造の船でなくてはいけ 浪のおさ室るのを祈る時もあろう。風一つないべ ぬ。また、常に、黒潮にのって流れる為には、意 外に複雑らしいその流れから押し外されぬこと、 風浪に海流の外に吹き流されては、本来の目的に た凪ぎの日、あく蚕でも青い空に舞う鴎の翼の白 そぐわぬから、船外機や帆の用意もせねばならぬ 測は怠らない。初めは素人に近い連中も、毎日の だろう。しかし、それはあく雀でも、流れに復す 作業にやがて一人前になり、記録は次第にた蜜っ る為のもので、航・帆走であってはならない。ヨ て、その中に何かを見出し、研究者としての喜び ットなどでならば、太平洋横断は、既にいくつも を覚え始める。こうして、黒潮から離れず、西か の記録があるからだ。 それは一体、何カ月かかるだろう。1年か、も つとか/その間に絶えず、黒潮の観測を続ける としたら、これは学問的にも多くの未知の解明に ら束へとそれに乗りきれば、との巨大な海流につ さに、目を奪われている無心のひとときもあろう。 しかし、彼等は学生だから、その間にも黒潮の観 いて、今まで知られなかったもろもろの事実が判 ってくるに違いない。こうして集めた庵大なデー タは、学術的に極めて貴重なことは疑いない。こ 寄与する資料も得られるのではないか。だとする れは素鯖しいととだ。年配の本職もなし難い、若 と、単なる冒険に止蚕らず、学生らしい、大学探 い彼等にして初めて可能なことだ。「これはいけ 検部らしい業績になるのではないか。 るぞ」と思わず、私はつぶやいていた。 −41− | ’ いシケに何回も遇うだろう。船はそのように設 されているから大丈夫だが、長い月日のことだ ら、健康の維持が問題だ。食糎はそのつもりで 質・量ともに用意するし、水も、今では、海水 I ら採れるから玄ずいいだろう。案ぜられるのは 素人療法のきかぬ病気と、糖神的なまいりだ。 父母はいるだろうか。それが、私の場合だった どうだろう。やはり、覚悟を決めてやろうとし に違いないかな。若い、今のうちにと。玄た、 れが、私の子供だったらどうしよう。危険は一 いや、好むところにまかせてくれた自分の場合 ◎ い、学校のこともあるしと、止めさせるだろう ’ それは、確かに冒険だ。学校の日常で得られぬ 身心の試練もさることながら、前人の思いつかぬ 新しい企だての上に、その成果は、世界最大の海 流、黒潮の研究に大いに貢献するとなれば、これ が、やらずに居れようか/これはやはり若い部 員に奨めるに値する計画だと自らに言い聞かせた。 この企画の実現には多くの困難があろう。しか し、今童での探検部の計画が、部員や先躍たちの 協 力 と 、 多 く の 理 解 者 の お 蔭 で 、 い つ も 遂 行 出 来 て き た と 同 様 に 、 今 度 の 試 み も 、 皆 で 一 致 蒲 励 し 、 何 と か 実 現 に も っ て 行 く よ う 連 進 し ェ う 。 私 は 、 前 探 検 部 長 と し て 、 を た こ の 企 て の 起 案 者 と し て 、 多 く の 方 々 が 、 そ の 意 義 を 認 め 、 賛 同 し て 下 さ る と 共 に 、 あ ら ゆ る 面 で 、 後 援 、 助 力 を 与 え て 下 さ (『黒潮漂流計画書』収録) 力をしてやれるのではないか。 11︲︲凸1︲411Ⅱ | II日本∼アメリカ大陸10,OOOkm I 1 黒潮漂流グループ 1 1 黒潮漂流計画 ’ 〈 て は な ら な い 。 船 外 機 、 帆 は あ く 蚕 で も 流 れ に 復 す る 補 助 的 な 役 割 の も の で 、 こ こ が ヨ ッ ト な ど xその発端 1 北 大 探 検 部 は 1 9 7 0 年 の 夏 、 津 軽 海 峡 に お い の 太 平 洋 横 断 と 異 な る と こ ろ だ と 考 え ら れ た 。 そ て イ カ ダ に よ る 実 験 漂 流 を 行 な っ た 。 い わ ゆ る し て 対 岸 に 論 〈 マ キ で の 間 、 た え ず 黒 潮 の 観 測 を 続 「 キ ナ ン ポ 計 画 」 だ が 、 こ れ は 古 代 人 が ど の よ う け 、 各 自 の 伽 ! 渕 職 行 な っ て セ ミ ナ ー を や れ ば 、 海 に し て 津 軽 海 峡 を 渡 っ た の か を 実 証 す る 目 的 を 持 洋 学 に い , . ‘ に ! ‘ ! ' 歌 す る と と も に 、 学 校 の 日 常 で 得 1 1 I ’ 1 1 11 1 っ て い た ( 『 現 代 の 探 検 』 2 号 参 照 ) 。 ら れ を い I # い ′ 鍛 練 に も な る 。 す な わ ち 「 太 平 洋 と の 計 画 を 発 案 さ れ た 佐 々 保 雄 前 探 検 部 部 長 大 学 」 / 〃 , ノ け ら れ た 。 ( 北 大 名 様 教 授 ) は 、 今 度 は 「 黒 潮 に の っ て 漂 流 た ち 訂 」 1i 名 の 漂 流 志 願 者 が 集 さ り 、 と の 計 画 し 、 そ の 観 測 を 続 け な が ら 対 岸 の ア メ リ カ 大 陸 ま が 誕 ′ い ’ ' 、 # } け で あ る 。 こ れ は 「 キ ナ ン ポ 計 画 」 で 渡 っ た ら 」 ‘ と 話 さ れ た 。 佐 之 先 生 は 、 瞳 の 計 画 で 海 / ノ 』 鼻 ’ 』 且 を 覚 え は じ め て い た か ら だ け で は な ’ ・池田博明(教養部理類) 気象観測担当 きた。しかし、おとなになるにつれて、それらは ・井村泰久(教養部理類) 生物観測担当 だんだん色あせてきて、このままでは最も軽蔑す ・熊本寛見(教養部文類) 調理担当 る怠惰な日常生活に没入する他はなくなって、結 ・米田政明(教養部理類) 無線・写真担当 (大野記) ばかりになってしをうに違いない。 これからの脱出カヘとの行動のもう1つの動機 黒潮 である。しかし、それから先、この計画は合理主 日本列島南東岸に沿って流れる黒潮(日本海流) 義や物質文明に挑戦などというヒッピー的行動と は、豊富な南海のエネルギーをその内に蓄え、 はならず、あく雀で体制内的(個人的意味も含め 中緯度に属する日本にたえまたぐ南海畷か て)であるという点でピートルズ的なのである。 さと湿気をもたらしている。また、その流れ この計画は1年というタイムリミットがあるが、 終了後、おそらくぼくたちは再び、惰性的な目常 生活へ入っていくであろう。いや、との計画でさ にのってやってくる豊かな漁業資源は昔から日 黒潮は北太平洋における海水大循誤の一票として え、日常生活のほんの裏返しに過ぎないのかもし 起こる現象であり、単に日本の風土と生活に深く れない。それでも、あえてぼくたちの夢を実現さ せ、ぼくたち自身の世界を築こうとするのだ。こ 関係しているだけでなく、北太平洋の広大な地域 れは失われた現代人の主体制を取り戻す1つの実 ている。 本人の食生活にかかせないものである。しかし、 の海況とそれを取り巻く沿岸地帯に影響を及ぼし 広く西流してきた北赤道海流が、フィリピン東方 3こオ1〃聖らのこと 沖で南流するミンダナオ海流と北に向かう流れに とのような次第で、ぼくたちは黒潮漂流の準備 にとりかかったわけである。当初、1971年に 分岐するが、この北流する流れが「斗昧平洋の西 計画を遂行する予定でいたが、あてにしていた某 新聞社の’千万円アドベンチュア募集に落選して し蚕つた(応募総数660件のうち、最後の5件 室で残った)。これを契機に下記の各自の分担を 習得して、目下、1978年実現を目標に準備を る強い流れの帯」療注’と定義される黒潮となる。 黒潮は台湾東方付近からさらに顕著となり、琉球 列島に沿って九州南方に達する。ここで黒潮は日 本海に流入する対馬海流を分岐するが、主流はそ の蚤ま北東流し、四国南方、伊豆諸島を経てヨ崖 北赤道海流は幅の広い、流速もlknot/hを 蕊メンバー 越えることの少ない流れであるが、これが黒潮と 。代表.大野秀樹(医学部医学科)医療担当、 なると、地球自転偏向力による西岸強化作用によ り幅は狭くなり流速も増す。黒潮の幅と速度は、 ・乗組員 、土谷俊一(水産学部漁業学科)船長、海洋 台湾東方で150海里∼1.5knot/h,土佐沖で 80海里2∼2.5knot/h,潮岬沖で幅はさらに 観測担当 快適であって、しかも船は漂流に適したものでな 側、フィリピンの東岸から日本の三陸の東沖に至 沖で日本の東に.流れ去る。(図1.) 進めている。 サポーター は意識的左漂流で難破ではないから、装傭は安全、い◎ 1t●1111脱品川 ,志村享(農学部農業工学科)ヨット部部員、 減り2.5∼4knot/h,房総半島、三陸沖では幅 −42− −48− 「 “ “ , , j , 蛇 』 , . ‘ 担 耳 ・山 = ■ ■ = − ー 凸 = . ■ 画 一 = . . ロ ー _ 一 . 凸 ユ 内= 黒潮の起源は、北緯10度から15度の間を幅 験、いや賭といえるのではないだろうか。 14︲︲b0●■ljhIlPo1iI︲liI︲llIjlll4j011BIIj■BII19IIlI711IrllIIlI巳0■111■■■■pl0BIq4b0Lf←︲1勺●ⅡⅡⅡⅡⅡ90︲lⅡII1Ij■■1■ワ■且・11■9lll1gh1、11︲Id 漂流の青写真 I ぽくたちは小さいときからいろいろな夢をみて 局は細分化された社会という臆の中を動きまわる ることを願っている。 省み、むしろ頼しい−人の若者と見て、理解と 航海担当 2その意義 lllll1l 留年は覚悟せねばならぬことだ。これに賛成す 1 、 や、それよりも、不定の長期にわたり、登校せ 〆 し計か、か、いずるらたそばかを助 しかし、心配も無公ではない。海上では、激 〆言等一一 1 が再び広がり流速も1∼2knot/hに減り東に 流れ去る。 J三ESCQYf 一北赤道海流一黒潮、地域にして、日本一北を一周するのに3∼5年かかる」 潮本流から、1本または2本の分岐流が剰上地方 の沖合を北へ向かって流れ黒潮北上分枝といわれ る。含た黒潮反流は続流から南西方向に数カ所で 太平洋一アメリカ西海岸一中部北太平洋一の北太平洋表面海流の大循襄が形成される。 フィリピン一台湾一日本という、「北太平洋(図8) 140E160,1帥・W160140、 分岐し、鳥島、小笠原諸島付近から台湾東方を経 て黒潮本流に合流する流れである。これらの変動 は北太平洋北部の海況を大きく支配するとともに、 I 寒注2世界最大 犀 東北地方の気候にも関係している。黒潮続流はこ 〆 うして北緯40度東経160度付近に達し、北太 【 , 一 f, 平洋海流域に連なる。(図2) 7 E140 1鋤 !“ ]‘一 f一雲寒帝珊 線 ’ 三国 私樋叩 ’ ( 宇 田 道 隆 に よ る 「 太 平 洋 の 海 岸 と 陸 水 」 p 、 7 8 ) ‐・ー. Li(リマン海流)NK(北鮮海流)JC旧本海中央寒琉) EK凍鮮咽遼)SO(宗谷騒流)TG碑軽畷測 111 111 ’ 図8:北太平洋における主要海流図 図2:日本近海夏季海流系図 一"寺、』r・0。ノ YE(黄海履遼)KCC畷湘反流)STC唖然帯収束) STCC唖鰐反減)NECI北赤遺海流)ECC購道反流l ’ 三 陸 沖 か ら 東 に 流 れ 去 る 黒 潮 に 続 く 流 れ は 黒 潮 ・ 房 っ て い き 、 小 笠 原 諸 島 か ら ハ ワ イ の 北 の 平 均 北 続 流 あ る い は 単 に 続 流 と い わ れ 、 東 経 1 6 0 度 付 緯 2 5 度 付 近 で 北 赤 道 海 流 の 北 縁 と 接 し 、 亜 熱 帯 近 玄 で は そ れ 蚕 で と 同 様 強 い 流 れ を な し て い る 。 収 敏 線 を 形 成 す る 。 し か し 、 こ の 東 に 向 か っ た 三 陸 沖 の 黒 潮 続 流 は 、 そ し て 、 北 太 平 ' 羊 海 流 の 残 り の 部 分 が ア メ リ カ 流 路 の 南 北 に 何 ら の 障 壁 を 持 た ず 、 北 か ら は 寒 流 西 海 岸 に 遠 ' = ア ラ ス カ 湾 に 流 入 す る ア ラ ス カ 海 系 の 親 潮 が 流 入 し て く る た め 、 相 互 の 押 し あ い で 流 と 、 南 に I i ' j / # . う カ リ フ ォ ル ニ ア 海 流 に ま じ り 合 ’ | ’ ’ 典 型 的 な 蛇 行 を 示 す 。 そ の 結 果 、 流 れ の 一 部 が と う 。 北 東 に i i リ ル う ア ラ ス カ 海 流 は 、 沿 岸 に 沿 っ て ぎ れ て 強 ぃ 渦 に な っ た り 暖 水 塊 や 冷 水 塊 が 発 生 す 更 に 北 力 ‘ I 』 ' 上 西 へ と 旋 回 し 、 反 時 計 廻 り の 雲 境 を る ° 室 た 南 北 に 分 岐 流 を 出 し 、 こ れ ら 分 岐 流 相 互 形 放 す " 1 」 ま た 、 そ の 一 部 分 は 相 当 強 〈 ア リ ュ ー の 間 に も ま た 反 流 が あ っ た り し て 、 多 重 海 流 と い シ ヤ ン ケ リ ノ ' ル ノ ' 間 を 通 っ て ベ ー リ ン グ 海 に 達 す る 。 わ れ る 複 雑 な 様 子 を 示 す 。 一 方 , ! # ル 伽 す る カ リ フ ォ ル ニ ア 海 流 は メ キ シ コ そ の 分 岐 流 の 中 で も 、 黒 潮 北 上 分 枝 と 黒 潮 反 流 西 方 で 北 か } “ / 流 の 東 端 に 連 ら な り 、 黒 潮 一 黒 は 顕 著 な も の で よ く 知 ら れ て い る 。 金 華 山 沖 の 黒 潮 続 流 一 北 太 平 洋 海 流 一 カ リ フ ォ ル ニ ア 海 流 ri ’ 関係しているため、日本近海に関しては世界でも書店 観測密度の高い海域の1つになっている。また、・「CSKATLAS」vol、3(Summer) 1965年から69年にかけて国際黒潮共同調査1966,Vol.4(Winter)1970 (CSK)が政府間海洋学委員会(IOC)のも(米田記) とに開始され、新しいさらに綿密な資料が蓄積さ トー6■1日IqD●D7lIIIjQ●rIl1jII10I91Ij01︲1101110■809■frIbll卜O0hY1I4II8i1l1II10.’且‘■9J■l︲Ill1IU1Il1r1IljIIIpl4Ij01IllJl116B■1711・gIL る 。 そ の 流 れ の 大 部 分 は 随 所 で 南 方 へ 円 を 描 い て 1 黒潮の動向は、日本近海の海況と漁業に密接に.地学教養謂座『海洋と陸水』、1955,福村 流 や 渦 流 の を ざ り 合 っ た 北 太 平 洋 海 流 と な る 。 北 S E C I 南 赤 道 海 流 ) M C ( ミ ン ダ ナ オ 海 遼 I N G C ( ニ ュ ー ギ ニ ア 海 遼 ) 太 平 洋 海 流 は 夏 は い く ぶ ん 4 勝 り 、 冬 は い く ぶ ん 図 l : 黒 潮 調 毎 劇 画 ( 1 9 6 5 6 6 ・ C M 成 果 に よ る ) 南 寄 り に 北 緯 8 5 度 ∼ 4 5 度 の 間 を 幅 広 く 東 流 す れた。しかし、黒潮は北太平洋大循顔の一部であ海洋観測 り、との大循現の全体が理解できなければ黒潮の1969年度で終了したCSKをはじめとして、 理解も十分といえないであろう。 窯注1庄司大太郎、1970,「Report黒潮」いる。特に、日本近海は世界の中でも最もよ〈わ 『海洋科学』v.2N.2,海洋出版、P.56かつている海域の1つだといわれている。 蕊注2宇田道隆、1969,『海』、岩波新書、‘しかし、これらの黒潮調査は、源を発するフィ p・154 蕪文献 ・ 一 . 一 晶 厚 一 一 一 識査したものであり、東経’50度以東の識査は 房総半島を過ぎて東へ流れる黒潮は黒潮続流と 屋新書 ・太平洋協会編1948、「太平洋の海洋と陸か北太平洋海流といわれているが、それはやがて −45− b■9日I0DL申l■J110●Ⅱ g上︲IIL■。r■■LJ凡 一 リピン東方から日本東岸戎での黒潮を対象として ・南目俊夫、1968,『海の物理学』、紀伊国ほとんど行なわれていない状態である。 I 一 黒潮に対する調査は第2次大戦前からしばしば行 ☆”なわれており、その様子はかなり克明にわかって 一由4− 塗韓::鑑稚蜂醤島郡::;;品:‐ 水」『太平洋圏学術叢書』‐ ☆ 東 経 ’ 6 0 度 よ り 東 方 で は 、 黒 潮 、 黒 潮 続 流 の 0 F 畷 潮 徽 録 ) K F 幌 潮 前 綴 ) K 蝿 潮 ) T S 耐 島 曝 魂 } よ う な は っ き り し た 流 れ は 認 め ら オ L な く な り 、 反 ESC陳サハリン寒溌OY観潮寒瀕0F仔島前綴) 11 〆−7−−−− ト いくつかに枝分かれし遠くカナダの沖合室で達すこれらはワイヤーを取りつけ、捲上機で作動させ 状態、日射などで変化するので、なるべく日陰で ②気圧=アネロイド気圧計 る。る。転倒採水器はナンセン採水器を採用する。転 そして、その黒潮一北太平洋海流一カリフ倒温度計とは任意の深さで転倒し、その時示した 反射のない海面を通して透明度板を見るようにす ③風向・風速=自記風向、風速計 る 。 ④雲量=雲量計 ☆ オルニア海流となる過程はよくわかっておらず、温度を引き上げた後も保つように工夫したもので 海水の塩素量を求めることを塩検といい、分析 r︲ 次に述べる基礎的なものに限られてしまうが、こ はサリノメーター(電気伝導塩分計)で塩分とと れらは海洋観測の基本要素となるもので、黒潮の2測流 もに頂碇する。 ’ (1)物理的観測測流法を採用し、補助的に水温、塩分の密度分布 測温測流、透明度、水色より推算する間接測流法を行なう。 (2)化学的観測 流速計の種類は多く、GEKとかエクマン、メ は一定量の試水に塩化マンガン、ヨウ化カリウム のため機械的、電気的方法によって自記させる南 日、岩官自記流速、流向計を使用する。との機械 (3)生物観測 11t.’■I︲1401︲I プランクトン、魚類、鳥類は取り扱いが簡単で、−度つり下げれば表層から (4)気象観測500メートル層までの任意の層の測定が可能で 温 度 、 湿 度 、 気 圧 、 風 向 、 風 圧 、 雨 量 あ り 、 従 来 測 定 が 困 難 で あ っ た 黒 潮 の 強 流 帯 で の 11日111 1 済新聞社 との測定にはウィンクラーの方法をとる。これ ’ I 談社 行なわれるが、との計画では流速計を用いる直接 海 水 中 の 塩 素 量 、 塩 分 量 、 溶 在 酸 素 量 、 水 素 イ ル ツ 流 速 計 の よ う な も の も あ る が 、 今 回 は 省 力 化 オン濃度 l9Ll0︲■0 ☆流速の鉛直分布を求めるのに都合がよい。 次 に 、 そ の 観 測 方 法 と 使 用 器 具 を 簡 単 に 説 明 す 流 速 計 を 使 用 す る と き は 、 海 上 で 完 全 な 固 定 点 る 。 を 得 る こ と が 必 要 で あ る が 、 特 に 深 海 の 場 合 で は 、 そ れ が 難 し い の で 2 個 の 流 速 計 を 同 時 に 降 ろ す ハ エ採水.測温ランド・ハンセンの方法を用いなければならない。 採 水 及 び 測 温 は 、 国 際 物 理 委 員 会 で 提 唱 さ れ た し か し 、 と の 計 画 で 使 う 船 が , 」 、 型 の た め と れ は 不 観 測 層 か ら 、 5 0 0 メ ー ト ル 左 で の 、 0 , 1 0 、 可 能 で あ る の で 、 も う , っ の 流 速 計 の 代 り に シ ー 8 0 , 5 0 , 7 5 , 1 0 0 , 1 5 0 , 2 0 0 、 ア ン カ ー 、 / 、 ノ ヘ , 、 を 深 層 に 降 ろ す 。 800,500メートルの十層について行なう。 ①海水面の採水、測温 こ れ に は 採 水 バ ケ ツ 法 を 用 い る 。 温 度 計 は 棒 状 水 色 ‘ 7 ) 測 定 に は 、 フ オ ー レ ル 水 色 標 単 液 を 混 合 水 銀 温 度 計 を 用 い る 。 で き た ら イ ン テ イ ク 法 も 併 し て 作 I ノ l ∼ 1 1 号 の 水 色 番 号 を 作 る 。 透 明 度 用したい。 の 測 加 」 i 透 明 度 板 と よ ぶ 直 径 8 0 セ ン チ の 白 色 の 平 ら な I ' I 椀 を 降 る し 、 上 か ら 見 て こ れ 力 現 え な く ②海水中の採水、測温 海 水 中 各 層 で の 採 水 、 測 温 に は 、 職 倒 採 水 鶏 な っ た 深 き 衝 透 明 度 と し 、 メ ー ト ル を 単 位 と す る 転 倒 温 度 計 、 B 剛 自 己 水 温 水 深 針 ) を 使 用 す る 。 透 明 度 は 海 水 の 溝 濁 の 侭 か 、 表 面 の 波 浪 、 天 空 の 一心6− 聖些i堂壁-しずL酎皇!』-』_と一』凸 出弓..− ・宇田道隆、1968,『海』、岩波新書 ・和田鯖夫、1960,『海洋の事典』『気象の などを加え、チオ硫酸ナトリウムで滴定して間接 的に酸素量を求める方法で、ピューレット、三角 事典』、東京堂 (熊本記) フラスコ、ピペットなどの器具を必要とする。 漂流海洋観測船 6水素イオン温度(PH) 毎. これの測定には起電力を利用したPH計を用い 1はじめに ぼくたちの考えた黒潮計画は、黒潮に意織的に る 。 乗り、漂流し、流洋観測を行ないながら北アメリ カ大陸に流れ論こうというものである。 7プランクトン 計画を遂行できる船ということで、ぼくたちの プランクトンの採集には、ネット採集法と逮心 沈殿法があるが、今回はネット採集法を採用する。 中でも種々の案が出された。当初、「キナンポ計 また、使用するネットは開放型の北太平洋標準ネ ット(ノルパックネット)にし、保存にはフォル 画」の延長として、建造費の安くつくドラムカン マリン4∼10%液を使用する。 動力において黒潮の流れを忠実に追うことが不可 イカダで、という意見が出た。しかし、これは行 能なうえ、安全性において関係諸官庁の許可がお りるわけがなく、簡単に没となった。 8魚類・鳥類の観測 ddrElrlb&﹄咀110F。Ⅱ4818ⅡⅡⅡ‘︲810︲106凡I1afもb0口〃0111口IQIJfq︲I!’■Bけ1︲上L■■1ⅡlL9IJ“、80■4F﹄F6FBII0■719■1.h口p4tp、dh 3水色。透明度 ・シユパート・il969,『海の下の大陸』、講 S溶剤酸素量 04田Ⅱ44卜l0l1IB1IIIID10j0l0j91日9B1IIII4ⅡIHI″DIl10Il9lIl0日自lⅡIII1j■ID0Ij■D9l9l呵りUIBもlqIII5lPl■■■■90日UlI14P巳g申占’’昭1111申l11jIlIIl4l | ’ 気象協会 ・佐冶木忠義、1960,『海洋開発』、東洋経 概要を知るためには十分と考えられる。海水の流速と流向を測定することで、直接測流 ☆と間接測流があり、これは採水、測温と平行して 観測内容は次の通り。 ・気象庁編、1970,『海洋観測指針』、日本 の方法は通常モールの銀滴定法を用いるが、今回 この計画で行なう観測は経済的制約を考えると、水深に対して水温が連続的に記入される。 〆 窯文献 4塩素量・塩分 ちょうどこの経路を辿る今回の漂流、そして観測あり、防圧式と被圧式の2つを併用する。BTと は、との謎を解明する貴重な資料になると思う。−は水温の鉛直分布を詳しく調べるためのもので、 との観測に使用する器具は釣道具、スケッチブ ック、カメラなどで、あとは魚類図鑑鳥類図鑑 程度にとどめ、本格的なことは行なわない。 また、表層50メートル位我で海流は風に支配 ‘されていることにより、黒潮を忠実に辿ることの できる潜水方式も出されたが、何億円もの計画な らいざしらず、経済的にまったく不可能であり、 9気象観測 これも没になった。その他種なの船を考慮したが、 c いずれも断念するに至った。 これは航海の安全のためと海洋観測の立体的研v 究のために行なわれる。使用器具は次の通り。 ①温度・湿度=自記温度、湿度計 そこで、漂流、海洋観測を約1カ年に,わたって f 行ない、しかもできるだけ安価で、という条件窓 −47− 「 ’ ヨット設計家として知られる横山晃氏に相談したて頂いた。 とし、しかも労働量の多い帆船は刀荊である。し ところ、図4のようなケッチ型帆船の構想をたて ない◎ かし、海洋観測研究員が研究に並行し、海に密着 第4に、漂流実験であるから、通常帆装はして した本来の人間の姿にたち返って、動的な海の全 なく帆船としての能力を発揮しないのであるが、 貌を直観することを望むならば、帆船を採るべき 行動に迫られたときの帆装は、横山氏の述べられ である。そして、操船技術は乗員の心がけで、ま るように、ぼくたちの単調さを救う大きな魅力と た労働は日食の単調さを救う意味からもよい。 なるに違いない。 ④その他 〆 I ' ’‘ このように、少々不満な点もあるが、それは船 帆船は、動力船の持つ「計画通りの規則的な航 自体の本質的な問題ではなく、工夫により解決で 海」という利点に欠ける。しかし、補助エンジン きる末節的なものであり、多くの点でこの計画に によりある程度是正しうる。なお、帆装をマルコ 最も有利な船と判断する。(志村記) ニー・ケッチ・リグとするのは帆船操船の省力化 行動予想 のためである。 黒潮漂流計画の漂流コース、期間についての予 壊畢16秤 ’ 3ぽ<たちが、横山氏構想の漂流海洋観測船を ため、まったく見通しがつかないのが実情である。 採用する理由 111 鶚鶚異鶚 猯 苛十 弓 寸 = t m , s c A L E 1 / 1 m 図も:漂流観測船の構想 次に横山氏の構想をあげる。 ②安全性 2横山氏の構想 ’ ①長期航海の能力 砿全性 ③操船人員とその熟練度、労働母 ④その他 が、以下その理由をそれぞれ具体的に述べていく。 ①長期航海の能力 441q︲dIl 帆船は他の船に比して、船の大小と無関係に本 質的に長期航海能力を持ち、経費節減を迫られる ことの多いとの計画には絶対的忙榊リである。 帆 船 は す べ て の 事 故 を 自 力 で 処 理 す る こ と を 前 提 と し て い る た め に 、 動 力 船 に 比 し て は る か に 小 型 で も 安 全 性 を 確 保 で き る 。 外 洋 ヨ ッ ト は 風 や 波 に 対 し て 極 め て ダ フ を 性 格 を 本 来 的 に 備 え て い る 。 ま た 、 安 全 性 に 最 も つ な が る 行 動 力 に お い て 、 孤 立 無 援 の 祥 l に お け る 帆 装 の 故 障 は 修 理 可 能 で あ る が 、 動 ノ ノ 拾 の ト ラ ブ ル は 不 可 能 な 場 合 が 多 い 。 そ し て 、 現 塔 に 起 こ り 得 る 乗 員 の 落 水 、 大 型 船 と の 衝 突 、 岩 礁 へ の 衝 突 な ど に つ い て も 、 補 助 エ ン ジ ン の 備 え に よ り 防 ぐ こ と が で き る 。 苛 汐 − 1 肌 が ロ ー リ ン グ の ダ ン パ ー と し て 働 く た め に # 尚 ' " 運 動 性 も 柔 ら か く 、 乗 員 の 健 康 に も よ いo −48− ③ 操 船 人 員 と そ の 熟 練 度 、 労 働 量 と の 点 に お い て 、 操 船 技 術 が 複 雑 で 熟 練 を 必 要 I︲・I 影響などからおおよそ考えられるコース、期間を わ り だ し た 。 雫 口 。 ユ漂流距離 予想される漂流コースにあたる横浜一シアト その点、横山氏の構想は限られた経費において、 最大限にそれらを持つものと判断する。 第2に、黒潮の流れを忠実に追うという点に関 して少な不適かもしれないが、これは巨大なシー・ メートル届に降ろすことなどにより可能となる。 また、本流から離れた場合の行動力につい'ても問 ル間の最短距離である 題がない。 大圏航路によれば金276 第8に、海洋観測にも不適な点があるカヘとれ については、コックピットの拡張や、重母の中央 への集中により、前者は場を、後者はピッチング を柔らかくし、凌波性を高め、ある程度解決がつ く。残るは観測器具の問題となり、船の問題では マイルとなる。しかし、 黒潮続流、北太平洋海 流は北緯85度∼45 度の緯綴にほぼ平行に 図6:緯度に対する経 東流するため、本州東 線の長さ (『理科年表』1961) −49− =■_算呉−1■一 1 − 一 一 一 一 一 =令--日一一r,,∼一 三一一一一 図5:横浜一シアトル大囲航路 アンカー、あるいはパラシュートを150∼200 11 寺..=:、型彊.色..一 一=Fqへ−−p一 しかし、過去の漂流船の記録蕪注1,海流、風の そのために、ぼくたちの居住する空間は可能な 限り居住性、安全性の高いものが必要なのである。 b9I4l0d11L■凸■■﹄■■j0匹900且■■UD6BiⅡ84699$!■﹄■■ずqBUbr4■■■■L■Br1fd8Ⅱ■I■1110■、jqlJ田JqE■■71.■もr8RgPqj0pl■トー10口■■Br■C■■r9P且 そこで、以上の点を考慮した結果、ケッチ型帆 船をベースにした海洋観測船が選ばれたのである 第1に、この計画は「コンティキ号」「ラー号」 などと異なり、人類学上の仮説実証のためではな い。よってそれらの船のような危険性の高い単能 艇を採る必要はない。あくまでも、目的は海洋観 測であり、十カ月と長期にわたる漂流実験にあり、 そして、それに併う限られた空間内での学習を通 した太平洋大学なのである。 IIIll 海洋観預幡としては、次のような点が考慮され なければならをい・ 想は、実際のところこのような計画の前例がない 三 ・ 一 =ユワ鋒 ノ 岸からアメリカ西岸蚕での距離は8500∼ 洋海流域に入るものとみられる。 。 1 g n I b l 9000キロである。(図5,6)実際の漂流で はさらに蛇行や逆行の要素がこれに加わるから、 3北太平洋海流域一アメリカ西海岸 実長漂流匪灘はほぼ10000キロに及ぶであろ 北太平洋海流は東経160度から西経140度 まで北緯40度線に沿う距離にして約5100キ ロ間を、流速0.8knot/h∼0.5knot/hでゆっ う 。 2漂流開始地点 〆 11 ×1.8恥×24=18恥となりとの間だけでもl よって大きく変化する。しかし、犬吠崎東斗陳沖、 隼以上(5100m/18m=892日)かかること になる。しかし、との北太平洋海流の流れる海域 は蚕た偏西風の卓越するところである。そのため、 過去の実験漂流記録及び理論計算式より※注2 北緯86度東経142度付近は常に黒潮本流が流 れている(図7)。したがって、との付近から漂 1 21041111201 0211200931: 23157111061: 流されないとしたら、1日の漂流距離は、0.8knot 黒潮が本州沿岸を離れて東に向かう地点も時期に ’ 1 流を開始するの力穀も適していると考えられる。 hIII凪111︲0町11■’’10.0411018b︲●■■ ’│ 『日本近海海況図』) ・│ 犬吠崎沖より漂流を開始すれば、その時の黒潮 流 に 分 か れ る が 、 い ず れ も 0 . 8 k n o t / h 程 度 の ゆ っ た り と し た 流 れ で あ る 。 北 緯 4 0 度 匝 漉 1 4 0 度 か ら 北 の シ ア ト ル 方 面 ま で 約 1 3 0 0 キ ロ 、 南 の サ ン フ ラ ン シ ス コ 方 面 室 で ’ 7 0 0 キ ロ で あ る 。 ∼ 亀L」YUOキロである‘ したがっ-r玲孟会へ‐‐ の 動 向 に よ っ て 変 わ る が 、 す ぐ に あ る い は 金 華 山 し た が っ て 、 流 速 を O . 8 k n o t / h と し 、 北 太 平 洋 沖 雀 で 北 上 し て 東 に 向 き を 転 じ 黒 潮 続 流 域 に 入 る 。 海 流 域 と 同 様 偏 西 風 の 影 響 を 考 え れ ば 、 ア ラ ス カ 黒 潮 続 流 は 本 州 沿 岸 か ら ほ ぼ 真 東 に 約 1 8 0 0 キ 湾 流 に の り シ ア │ 、 ル 方 面 に は 約 1 ヵ 月 半 、 ( 1 8 0 0 口 、 東 経 1 6 0 度 付 近 ま で 達 し て い る 。 ま た 、 流 h / 3 0 K I n = 4 3 日 ) カ リ フ ォ ル ニ ア 海 流 に の り 1 9 1 特に、冬はその方向に順風が吹くので更に容易に なる。漂流記録に見られる“無人島への漂流, (『阿州船無人島漂流記』『遠州船無人島物語』) などはこのコースをたどったと考えられる。小笠 原諸島は当時無人島であった。しかし、小笠原は 大海の小島なのでうを<漂着せず、さらに南へ漂 流ずる船もでてくる。それらは北赤道海流に入る。 永毒店 ・太平洋協会編、1948,「太平洋の流水と陸 この海流は四季を通じて東から西へと流れ、風は 水」『太平洋圏学術鐡書』(米田記) 冬季には北東から南西へ、夏季には東から西へと 吹くので船は西へと向かい、台湾、フィリピン群 過去の漂流例にみる漂流コースの可能性 との計画は意識的に黒潮にのり、漂流すること ’ ’ 島などに漂着する(『南海記聞』、『融勢丸唐流 帰国記』、『ペラホ物語』)。 を目的としているが、もし風と波のなすままに漂 誉た、台湾、フィリピン群島に接近した船の一 流したらどうなるか、また黒潮からはずれた場合 どのような漂流コースをとるかこれらを知ること 部はパーシー海峡を越えて中国へと流入した(『 はとの計画を行なうのに非常に参考となる。この ような意図のもとに、航海術が未熟で比較的記録 薩州人唐国漂流記』、『松栄丸唐国漂流記』)。 (2)東流過東斗餓也方の太平洋岸でシケに適い、 黒潮以南に吹き流されなかった場合には黒潮にの の残っている江戸時代の漂流について鯛べてみた。って北東に流れ、千島沖に達する。そしてもし夏 ☆ J1ii 季ならば千島、カムチャッカ、アリューシャン列 過去の漂流例を調べると、船の適難地と漂流.島に漂着する可能性が大きくなる(『漂客東察 一ス及び漂着地に関連性があることがわかる。 加出奔記』、『勢州船北海漂着記』、『北權聞3劃、 (図9) 『壊海異聞』)。 日本の太平洋岸では船が漂流を始める地域をおしかし、漂流が冬季であったとすると、それら よそ2つにわけることができる。 の地域に漂着する可能性は少なくなる。それは冬 (1)船がシケに適っている間に、黒潮を越えて南季には北氷洋から来る寒流がカムチャッカ沿岸、 海に出た場合は、黒潮反流が冬季も夏季も小笠原アリューシャン列島を洗い、またアラスカ寒流が 11 −50− 注’藤原咲平、1927,「冬期の漂流涜船に就 、石井研堂、1927,『異国漂流奇談集』、福 している。 J;Ⅷ1判Ⅲ州11’Ⅲ州刑鯏剛 鰹皇竺塗篭譲塗:…群.…:客, 速 , ∼ 2 k n o t / h に 及 び 幅 の 狭 い 速 い 流 れ を な サ ン フ ラ ン シ ス コ 方 面 に は 約 2 ヵ 月 ( 1 7 0 0 m n / 3 0 K n l 圭 言 5 6 日 ) で 至 燵 で き る も の と み ら れ る 。 し た が っ て 、 平 均 流 速 を 1 . 5 k n o t A I , 流 れ 以 卜 " 』 よ う に 、 黒 潮 続 流 一 北 太 平 洋 海 流 一 を 1 0 0 % と ら え て 漂 流 す る と す れ ば ( 以 下 同 様 ) カ リ ′ , ル ニ ァ ・ ア ラ ス カ 海 流 と 黒 潮 の 行 方 を 忠 1 日 の 漂 流 距 離 隣 1 . 8 2 m ( 1 k n o t ) × 1 . 5 × 実 に た た 』 て い け ば 、 犬 吠 崎 沖 を 出 発 後 約 9 ∼ 2 4 = 6 5 恥 と 窟 , 。 、 表 面 海 流 に の み 流 さ れ る と ’ 0 カ 月 後 に は シ ア ト ル か ら サ ン フ ラ ン シ ス コ に す 、 約 n カ 月 後 ( 1 0 m m / 6 5 町 篝 日 ) か け て の ア メ カ 西 海 岸 に 漂 着 で き る と 予 想 さ れ にれ 北ば 緯 8 8 度 東 経 1 68 00 度 付 近 に 達 し 次 の2 北7 太 平 る 。 ( 図 8 )リ 方面へ流れているので、その方面へ船が流れる。 褒文献 う ア ラ ス カ 湾 流 と 、 南 に 向 か う カ リ フ ォ ル ニ ア 海 図7:犬吠崎沖の黒潮の動向 (海上保安庁水路部1955-59 ☆ による漂流調査報告』 合 わ せ て 約 6 カ 月 ( 5 1 0 0 h / 1 8 + 1 7 町 = 1 7 0 日 ) で こ の 間 を 漂 流 す る と 考 え ら れ る 。 北 太 平 祥 海 流 は 画 瀝 ’ 4 , 0 度 付 近 で 、 北 に 向 か ︲IIbllbEB111 ’│ 図9遭難地と漂着地 注2日本海新漁場開発委員会、『筏“日本海” 風力螺茄船の船体に及ぼす影響を風速の4%とし、 常 時 5 m / s e c の 偏 西 風 力 軟 い て い る と す れ ば 、 1 日 の 風 に よ り 流 さ れ る 距 離 は 、 0 . 0 0 5 M × 0 . 0 4 × 3 6 0 0 × 2 4 = 1 7 . 2 8 町 と な り 、 表 面 海 流 と ‘│ 図8:予想される漂流コース、期間 て」『海と空』2月号 、 ’ 00004000101 くり東流する。したがって、表面海流だけでしか 黒潮本流の流路の変動は激しく、それに伴って ’ 。雲, 殉画 ! -51- 一 ざ − 〆壼一丁一一 鴬 ’ 強いので北方に向かうのを拒むのと、風の方向も 方向に漂流する可能性もあり、かなり意識的に黒 一定しないからである。その結果、カリフォルニ 潮から離れないようにしなければならない。しか ア以南の北アメリカ沿岸に漂着する。この漂流記 し、時たま黒潮に執着しないで気ままに漂流した 録は非常に少ないが、1926年12月7日、和 らもっとおもしろく、アドベンチャラスで、よい 歌山県のマグロ漁船良栄丸(19トン)が銚子沖 25海里付近で、シケと機関故障のため漂流し、 観測ができるのではないかとも考えるのである。 その場合に予想される漂流コースを参考までにあ 11ヵ月後、全員白骨またはミイラとなってバン げておく。(図10) 〆 クーバー沖に流れ着いた記録が残っている。 コンパス(ステアリング・コンパス、ベアリン副食として以上をあげたが、長期間保存したけれ グ・コンパス、スタンダード・コンパス)、ロばならないので缶詰に頼る比率が大きくなる。ヴ グ(トーイング・ログ)、方向探知器、ロラン、アラエティのない食事は著しく食欲を減退させる 六分儀、クロノメーター、無線器、アンテナ、と鹿島氏(『コラーサ号の冒険』)やジョンスト ラジオ、アンカー(CQR)、シーアンカー、ン氏は述べているが、たくさんの種類を持ってい その他甲板用具類など コンパスは方位測定用に用いる。なお、1人あたりの1日平均熱量は2800カ ・荒川秀俊、1962、『異国漂流記集』、吉川 ☆ くのもよい方法であろう。卵はグリスかみつろう ステアリング・コンパスは操蛇用、ベアリング.を塗って持っていくことが可能となる。 蕪文献 に達する(越後船)。 I である。品、缶ジュース、缶コーラ、缶ピール ☆ この漂流コースを内蚕わりした場合にはハワイ I むべき進路を探し出し、実験漂流を続行できるのそ、しょうゆ、油、酢、果物缶詰、菓子、嗜好 ロリー、同蛋白質量は80グラムとなる。また、 弘文館 過去の漂流例を探ることにより、ぼくたちは黒 3食粗品 ・石井研堂、1902,『漂流奇談集』、博文館 ・宇田道隆、1954,『海洋気象学』、天然社 潮にのってアメリカ大陸へ行く可能性が十分ある ことを確認できた。しかし、同時にまったく別の ヴィタミンなどの不足は医薬品で補う。しかし、 飯類缶詰(白飯410グラム缶.200ダース、新鮮な野菜、果物への渇望など生理的な欲求には たきこみご飯400グラム缶・’2ダース)、常につき玄とわれるかもしれない。 (熊本記) 乾パン・40キロ、オートミール・45キロ、 4生活装備 乾麺、干しうどん・80キロ、スパケテイ. 482グラム缶23ダース、餅870グラム缶.ソースパン大8中2、フライパン、ヤカン、テ 6ダース、米・20キロ、麦・10キロ聖モス2,包丁、まな板、カン切典、プレブシ 食事は1日2食(朝と夕)とする。ジヨンストンヤーストープ4、食器、はし、スプーン、フォ 氏も、2食で十分でありそれ以上食べるともたれ−ク、ナイフ、オタマ、茶こし、たわし、洗い 小烈 1 ’ 1 lllll る感じになると述べている。(『スハイリ号の孤粉、ゴム手袋、軍手、マッチ、ポリタン72, 独な冒険』)。1日2食といっても昼は何も食べ 洗面用具中性洗剤、タオル200枚、洗面器 ないというわけではなく、簡単にすませるのであ2,洗たく楓ポリバケツ大3中銚トイレッ ン)主食としては米が最良である。熱量、栄養価カレンダー、懐中電燈、ランタン、乾電池 ともに秀れており、腹もちもよく、何よりも食べ炊事、食事用品や日用品で、どれもないとなると 図10:予想される漂流コース(無意識的な場合) 装 備 ’ 慣れている。 炊事や飲料に用いるが、1日に0.5リットルでは履も0足、シュラーフ6,シュラーフカバー6, に必要とする物資、装備は、補給や寄港の困難さ2航海用具 J1 き な く な 〕 た 場 念 あ る い は 予 定 の コ ー ス か ら は ず れ た 場 合 、 ぼ く た ち 微 こ れ ち に よ っ て 位 邇 と 進 −52− 乳叱岩弔『咄..:、群夢乳邑...A唱監..、.=.:、〆...,二 : 不十分なので、不足分は食物中の水分、コーラ、エアコツト、毛布6,その他 ビール、ジュースの類で補うことができる。また、この実験漂流ではカムチャッカやアラスカ方面へ 流される可能性もあるため、防寒衣料は不可欠で 雨水も北太平洋上では大いに期待できる。 凸口■1日ⅡI■11︲︲dも〃副44回■■LT 1 1 ’ ⅡIlJPpDBIII8111B中166−■F6JLbr印04邸 か ら し て 出 港 時 に は 膨 大 を 母 と な ら ざ る を 得 な い 。 海 風 パ イ ロ ッ ト ・ チ ャ ー ト 、 海 流 図 、 気 象 図 、 総 重 斌 は 約 7 ト ン 。 こ の 計 画 を 完 遂 す る た め に 必 { 蝉 " ウ ハ 天 測 暦 、 天 測 計 算 表 、 天 測 計 算 図 表 、 要 と す る も の ば か り で あ る 。 次 に 、 こ れ ら の 物 資 、 ゾ l . i ' 姿 水 路 識 航 海 法 規 装 備 の 用 途 や 意 味 に つ い て 説 明 す る 。 万 漂 流 中 に 不 慮 の 事 故 で 方 向 を 知 る こ と が で 非常に不便なものばかりである。 水・1000リットル(20リットル入りポリシャツ120識パンツ600枚、防水服6、 タンク50) 防寒ジャンパー6,防寒ズボン6,セーター 水は1人あたり1日0.5リットル強となる。主に80枚、ももひき40本、足袋20足、ゴム草 と れ にル ' r は 海 洋 観 測 の 項 を 参 照 さ れ た い 。 約1年間にわたって太平洋を漂流ずるとの計画 1観測器具 トペーパー、チリ紙、針糸、ローソク(大)、 る。(例えば、ジョンストン氏はコーヒーと堅パ 、山、、 I 豆類缶詰、野菜類缶詰、魚貝類缶詰、肉類缶詰、ある。 しかし、単にこれだけの理由ではない。漂流中、 豆、野菜、乾燥野菜、カレー・シチュー・スー プ類缶詰、乳製品、粉、塩、砂糖調味料、み波をかぶってぬれることは必須であり、いったん −58− 『 一 一 リ 『 I 海水につかったものはなかなか乾きにくいからで ある。 なお、盲腸、 肺炎などは薬だけでほぼ大丈夫であ シュラフはぬれていると実に気持ちの悪いもの で、ぼくたちはおそらくこれに悩玄されるであろ 菊 池 俊 彦 灯油180リットル、、ガ:ソリン400リツト 上着、ズボン、海水パンツ、長靴、靴下、帽子、 クリーム、化粧品類、サングラス、時計、書物 ’ 7 燃 料 う。他に個人装備として、 はじめに ノレ 灯油は炊事用、ガソリンは充電用である。この外、 補助エンジンのガソリンも必要。 〆 5文房具 1 イラン山域調査から る 。 日誌用・観察用・記録用ノート100冊、、ボー 8 ルペン5ダース、鉛筆5夕.−軍、切り出し2、 ファイル12 6医療品 応急手当用の医薬品、胃腸薬、目薬、ビタミン剤、 各種栄養剤、フォルマリン。ケガ、病気の場合 適切な処理を施しうるだけの必要量を用意する。 その他 携帯発電機(交直両用)1台、充電機、バッテ リー(12V)2台、35ミリカメラ1台、 N i k o n o s l 台 、 8 ミ リ カ メ ラ 1 台 、 フ イ ル ム 、 カ セ ッ ト テ ー プ レ コ ー ダ . 1 台 、 テ ー プ . 、 救 命 袋 、 救命胴衣6、釣道具 (井村記) (『現代の探検』第5号収録) 111 ’ るというものではなかった。そこで翌春、教授の 1970年7月∼9月、筆者は北海道大学イラ 帰国と同時に計画が練られ、文献収集・情報集め ン中世史跡学術調査隊に加わり、イラン北部アル が進められた。イスマイル派の山城はイラン北部 ポルズ山脈のルート.バール地方で、蚕た1972 と東部を中心に、東はアフガニスタン、西はシリ 年8月∼11月、同第二次としてイラン東部コヘ ア童で分布しているため、これを8回に分け、第 スタン地方と中央部の幾つかの地方で、イスマイ 1次は北部アルポルズ山脈のルードバール地方の ル派の山城調査に従事した。 山城を、第2次は東部コヘスタン地方とアフガニ 同隊の報告書は、その後の1974年7月∼9 タンの山城を、第8次は西部からトルコ・シリア・ 月、同第三次としてイラン西部での調査を終了後、 レバノンに分布まる山城を調査することになった。 刊行される予定である。従って、まだイラン調査 第1次隊は1970年度文部省海外学術調査費 は終了しておらず、また調査隊の記録は別に用意 を得て、隊長に本田教授、隊員は東洋史の加藤和 されている。このようなとき’探検部の部報にイ ラン調査の原稿を依頼されたため、ここでは調査 秀、考古学から大井時男助教授と筆者が決蚕った。 隊の第一次.第二次調査の記録をもとに、「探検」 と「調査」について考えながらイラン調査のメモ 多くの山城を発見すること、そのため広く踏査す を綴ってみよう。 図作製、写真撮影、細部の栂造の観察をずること、 調査方法は、まず分布図の作成の趣で‘きる限り ることだった。同時に典型的な山城の測量と平面 そのためある地点では設営が必要だった。 ’ 本田隊長の予察によれば現地はテヘランから イラン調査隊の成立と準備 ■plBD■日ⅡUl6rhB・■■■■161■91ⅡⅡ881004ⅡF0HI0lHP9G1bO■■Ⅱ■■且■ⅡpBBDD0DPfjD■号凸吊d■■41■■■2J序LⅡ414口600・咽。弓■■Ⅱ4■49J■j511,0口■Pb目0勺釧■■且■11.0■ I 11 瞳埜塗謹鞍蒋蓉ざ基_過苧…卸上I、 二一一一一云』.一一一一一一一ヨロ.:.÷..。:÷− ︸∼ ロ幻 −...望−口.ー 僅か130町だが、ジープ・ラバ・徒歩で8日が いからジープの運転.乗馬。岩登りを練習してお う。そのよう.な避遠の地へ調査に出かけるのに必 くように」という手紙が届いた。蒙古・中央アジ ア.イラン史を専門とする本田教授は、イラン滞 要な装備・調査器材-.食料・設営具・服装・薬品 在中アルポルズ山脈の渓谷深〈にあるイスマイル こうしたときに役立ったのは探検部にいた頃、 派の山城を訪れ、その実地調査を計画されたのだ 部室でいつも果てしなき議論を繰り返して計画し ていた海外遠征の知識であった。ある者はアラビ った。 しかしそこに達するには交通機関も容易でなく、 かりで到達したという交通不便な難所であり、部 落も小さく、村人はペルシャ語しか話さないとい の選定は国内における調査とは大きく異ってくる。 アのルプアルハリ砂漠を、ある者は中央アジアの 輸送・食料.設営も多くの困難が伴うこと、戎た タクラマカン砂漠を、ある者はアリューシャン列 地図も詳細なものがなく、地理も民情も情報が少 島を、またシベリ対南極・ポリネシアなどの遠 い地域だった。とのようなことから単に調査と言 征計画がいつでも誰かによって立案されていた。 って』も、研究室から直ちに現地に入って調査でき それらの計画はすぐ.には実現しなくとも、いつか −55− ●■Ⅶq6冊・貼孕Ⅲ ︲︲l︲︲b騨恥■に陣いい! I“I30III111II1II00IJiⅡIil8Jll伽日 −5屯一 1968年に日本学術振興会西アジア地域研究 センター駐在員として、テヘランに滞在中の本田 実信教授から、「イスマイル派の山城調査をした …? 宥淫雪 ′ ’ 的多数はスンニ派であり、シーア派はイランとイ った。その中で、タイ4脚予察と、カラハリ砂漠詳細はつかめなかったが、後述のスタークとウイ 遠征が実現し、特に後者は資金集めから、帰国をリーの調査記録の付図によって現地一帯の概要は ェーメンだけである。 ですべて探検部員の一致協力で遂行され、その経ほぼ知ることができた。 ア派において主流を成す穏健なナニイマーム派と ティオキアとアレッポの国境の山中に唖山の長老” 験は部員に大きな影響を与えた。このようにして調査隊は準備され、この間にイ 西アジアでの探検と調査という点で、その装備・ラン政府、特に情報省や考古局、博物館と連絡を 最も対照的なのが、過激なイスマイル派だった。 と呼ばれるサラセン人のある一族が住んでいる。 この派はナニイマーム派から分かれ、即ちその第 彼らは山中に住み、充分堅固にされた城砦に引き 6代イマームのジャーファル・アッサーディクの こもるためほとんど難攻不落である。彼らは1人 学の「砂漠と氷河の探検」および東京大学の「オ 長子イスマイルとその子孤に従う一宗派で、この の君主を戴く。彼は隣接するキリスト教君主は堵 リエント」である。この2つの報告書には装備品・イスマイル派とは 派は909年エジプトにファーティマ朝を樹立し とより遠方近隣の全てのサラセン人君主にも最大 調査器材のリストのほか、それらの性能テストのここで調査対象であるイスマイル派の山城につ 結 果 が 載 っ て お り 非 常 に 教 え ら れ る と こ ろ が 多 か い て 、 そ れ が ど の よ う な 歴 史 的 背 景 の も の か 述 く った。 ておこう。 た。このイスマイル派王朝の後継者争いからイラ の脅威を浸透させている。それは彼が驚くべき手 ン.シリアにいたイスマイル派信徒は、エジプト 段をもって彼らを殺すためである。この君主は山 のファーティマ王朝に対立してニザール派を生む。 地帯に多くの非常に美しい宮殿を有しているが、 調 査 器 材 は 大 き く 測 量 と 写 真 に 分 け ら れ る 。 測 イ ス ラ ム 教 は 周 知 の よ う に ス ン ニ 派 と シ ー ア 派 量 に は 輸 送 の 頓 更 さ を 考 慮 し て 、 ト ラ ン ジ ツ ト コ の 二 大 党 派 に 分 か れ て い る 。 預 言 者 マ ホ メ ッ ト の このイスマイル派の一派であるニザール派を最 非常に高い城壁によって囲まれているため、誰も も強力に組織.推進したのが、ハサン・イ・サッ そこへ入ることができない。これらの宮殿におい バーフだった。彼は,090年イラン北部山中の て、彼は支配下にある多数の農民の息子たちを幼 アラムート城砦を根拠地と定めて宣教し、エジプ トのファーティマ王朝に対抗し、童たスンニ派の バグダート・のアッパース朝カリフ政権や、当時ト ルコ.イランを支配していたセルジューク朝とも 対決し、更にシリア.レバノンにおいては十字軍 年時代から養育し、これらの若者たちに君主の全 を脅やかす勢力となった。 れかの君主を殺すために彼らを送り出すのであるj' イ ン チ ) 、 ニ コ ン F T N 2 台 と し 、 前 者 は 1 8 0 な っ た 。 第 2 代 カ リ フ の ウ マ ル の あ と 、 第 3 代 ヵ ” 、 1 5 0 画 、 9 0 鋤 の レ ン ズ 、 後 者 は 2 0 0 " 、 リ ブ に 選 ば れ た の は ウ マ イ ャ 家 の ウ ス マ ー ン だ っ 1 0 5 ” 、 5 0 ” 2 本 、 2 8 ” の レ ン ズ 、 フ イ ル た 。 彼 は カ リ フ 職 E と 共 に 要 職 を ウ マ イ ヤ ー 族 で ム は 4 × 5 イ ン チ シ ー ト フ ィ ル ム の エ ク タ ク ロ ー 占 め る な ど し た た め 暗 殺 さ れ た 。 こ こ で 第 4 代 カ ム(カラー)と同サイズパツクフイルムのフジ リ フ に 選 ば れ た の が マ ホ メ ッ ト の 従 弟 で あ り 女 婿 ( モ ノ ク ロ ) 、 3 5 ” は エ ク タ ク ロ ー ム X と フ ジ で も あ っ た ア リ ー で あ る 。 と こ ろ が ウ ス マ ー ン の SSを用意した。 あ と ウ マ イ や 家 の 家 長 と な っ た ム ァ ー ゥ ィ ャ は 、 設 営 器 材 は 夏 山 用 家 型 テ ン ト 2 張 の ほ か 一 般 的 ア リ ー を 殺 害 し て カ リ フ に 就 き 、 ウ マ イ ャ 朝 を 創 巌 キ ャ 。 こ れ に 大 き な 注 意 を 払 設 し た 。 こ の ウ マ イ ヤ 朝 以 降 の 多 数 派 が 後 に ス ン わ な かン っプ た用 の具 はを 、揃 テえ ンた ト 生 活 が 全 体 と し て 少 日 数 二 派 と 呼 ば れ る ◎ し か し 、 ア リ ー か 繭 言 者 『 L 血 縁 的 に も 結 ば れ て 服 装 は 、 イ ラ ン の 夏 は 4 0 ℃ 以 上 と な る た め 特 い る と と 力 、 島 ‘ ノ 、 フ ・ ‐ ‐ ウ 、 穴 , ) カ リ フ た る を 認 め 腱 不 要 と い う の で は な く 、 逆 に 皮 膚 を 陽 に さ ら す ず 、 と と 『 ノ ・ リ ー ' 7 , ! w J i 7 ヮ イ ン を 擁 ‘ 〉 : し て カ リ と と は 危 険 壷 た め 木 綿 の 長 袖 と し 、 ズ ボ ン は 軽 快 フ に 就 け 1 ・ う 」 す る グ ル ー プ 、 即 ち ア リ ー の 党 派 ’ 歳 選 う に ゴ ル フ ズ ポ ン を 採 用 し た 。 一 方 、 高 度 ( シ ー ノ . ア リ ー ー と れ が 後 に 単 に シ ー ァ と 呼 2 0 0 。 戒 前 後 の 幽 地 の た め 朝 方 気 温 が 下 が る の ば オ ' る ) & ' ノ 』 唾 力 が 起 っ た 。 と こ ろ が フ サ イ ン は イ フ ク の ナ ノ ル バ ラ ー の 荒 野 で 、 ウ マ イ ヤ 朝 軍 に 殺 害 食 料 は す べ て 現 地 食 と す る こ と に し 、 慰 み 程 度 ざ オ ' ノ ル . と の カ ル パ ラ ー の 悲 劇 ( 6 8 0 年 ) を 機 に み そ ・ し ょ う 油 ・ 梅 千 だ け 手 荷 物 に 入 れ た 。 と に ン … ' 派 運 動 が 生 養 れ 、 そ れ を 支 持 す る 宗 派 は 電ヤッケも用意した。 ﹂ =三・式一一・一.一と.一 記録にこう伝えられている。唾ダマスカスとアン ての言葉や命令に服従すべきこと、そして彼らが そのようにするならば楽園の歓喜が与えられるこ とを教授した。そうして、君主は彼恥それぞれ にひとふりの短剣を授け、彼が目星をつけたいず ハサン.イ.サッパーフに始玄るこのイスマイ きた他の十字軍年代記にもこの君主を噸長老”と ル派信徒は、敵対する諸王朝・十字軍の高位高官 を暗殺手段によって倒したことから怖れられ、「暗 殺派」とも「暗殺教団」とも呼ばれるようになっ か「山の老人」と呼び、暗殺者の狂信的な献身と 驚異的な手段を伝えている。 た。とのイスマイル派一暗殺教団一は、イラ 派としてのイスマイル派を知っていただけで、こ ン北部のアルポルズ山中と東部のコヘスタン山地 を中心に、西はシリア、東はアフガニスタンにか けて数百とも伝えられる城砦を築き、宗教結社に の点においてイスマイル派の諸山城が陥落して間 よる支配地域を有した。 ランのイスマイル派について詳しい説話が伝えら セルジューフ朝の軍勢の度重なる攻撃を退け、 約,50年にわたって勢力を誇ったイスマイル派 れている。 の暗殺教団は、18世紀中葉モンゴール軍の西征 住んでいた国の話をしよう。ムレヘトとはサラセ によってアラムートの城が’256年、フラグの ンの律法で異端者をさす名である。「老人jはこ 軍門に降ると次々と陥落していった。 の国の2つの山の谷あいに、とてつもなく大きな このような十字軍の記録は、シリア地方の一宗 もない、1278年にイフスを通って東へ旅した マルコ・ポーロの有名な「東方見聞録」には、イ 、"さてムレヘトという、かって「山の老人」の 美しい庭園を造った。ここに「老人」は美の限り 「山の老人』説話 をつくした宮殿を建て、そのうえもつの灘渠を造 −57− −−1 ! ” 鷺 … … … 贄 言 職 萱 鶏 恥 榊 州 Ⅷ ●j01IIIIIII1613I00D■ⅡBⅡ06画141q各40’1凸■■11咀羽凸晶押口I0B0U叩IEBr3唖孑0津由11 1 1 − ︲ ︲ l ︲ l■ lI Il︲︲lいIl︲叫帷Ⅱu啼川雌4激 『 ’ ’嘘 J j <“ 且」 蝿h ., ン パ ス 、 小 型 レ ベ ル 、 平 板 一 式 、 ア リ ダ ー ド 、 標 死 後 、 マ ホ メ ッ ト の 教 友 ア ブ ー . パ ク ル が 長 老 た 尺 、 ポ ー ル を 用 意 し 、 カ メ ラ は リ ン ホ フ ( 4 × 5 ち か ら 選 ば れ て 「 神 の 使 徒 の 代 理 」 即 ち カ リ フ と の見込みだからであった。 たイスマイル派のこの一宗派のことは、十字軍の シーア派は後に多くの諸派に分かれるが、シー 調査器材等の検討に最も参考となったのは京都大とり、現地調査の許可と協力が得られた。 〆 暗殺という恐るべき手段によって印象づけられ 実現させてみせるという想いを秘めて卒業してい地図はGSGSの百万分の−1つしかないため I 一 一"Fr− = って、一つは酒を流し、別の一つには牛乳を、第 るのだ』と話して聞かせる。「老人」からこうし オード大学ピーター・ウィリーの探検隊がイスマ のか、それは未明な点が多かった。ウィリーの訪 3の溝渠には蜂密を、第4の溝渠には水が流れる た命令を受けた者はなによりも喜び、「暗殺者」 イル派の山城探しに、アラムート渓谷を訪れ、ア れた城が、幸い詳細な地図に付されていたので、 ようにした。また選りすぐった美女たちもいて、 たちは直ちに出かけて行って、「老人」の命令を ラムート城・ラマサル城の簡単な平面図を作製し、 これに負うたが、ルートの記述が簡単すぎて、情 遂行するのである。” 玄たその後、イラン東部のコヘスタン地方でもガ 報としては十分役に立たなかった。 彼女たちはさまざまを楽器を奏で、歌を唱い、踊 りもできた。こうして「老人」は、この園こそ天 国であると国民に信じこませた。実際、マホメッ トが天国に行く者は心の蚕玄になる美女を享楽で 〆 一 このように伝えられた「山の老人」の山城 は、童た「美女の庭園」はどこにあるのだろうか。 イン城ほかの山城を訪れ、略報を発表している。 現地を訪れようとする時、これらの先達者の記 アラムート城へ 録は大いに参考となった。だが、アラムート城と テヘランからガズピンまでの150恥は主妾幹 き、そこには酒の川、乳の川、密の川、水の川が 山城を訪れた人々 ラマサル城についてはわかっても、そのほかの城 線の良い道で、走っている車はふつう80∼100 流れていると語った。その通りに造らせたのであ こうした伝説に魅かれて山の老人の本拠と目さ れるアラムート城を探しあてた最初の人はイギリ がどんなところにあるのか、そもそもほかにある 肋'のスピードで飛ばしている。テレランの街を一 る。 庭園の入口は難攻不落の強固な城になっており、 との庭園には「老人」が「暗殺者」にしたてよう とした者以外は入ったことが左い。宮廷の側近に −ヨ確隊行動ルート 「老人」は12才から20才までのこの地方の若 ▲イスマイル派山域 者をおいていたが、「老人」は若者たちに一服の カスピ海 薬を与える。それによって若者たちはたちきちの うちに眠りに落ちてし童う。それから彼らを庭園 三㎡ に運び入れ、眠りからさせるのである。 > 若者たちは眠をささすと自分たちが庭園の中に いることを知り、含さしくとれは天国にいるのだ と思い込む。美女たちは音楽を奏で、歌を唱い、 ガズヴイ 若者たちは美女たちと歓楽にひたる。こうして望 む が 蚕 室 何 で も で き た 若 者 た ち は 、 自 分 か ら 進 ん ス の 将 校 シ ェ ル 中 佐 で 、 1 8 8 0 年 代 の 初 め の こ で こ の 園 を 立 ち 去 ろ う と は 思 わ な か っ た 。 と で あ る 。 し か し 、 そ の 後 一 世 紀 も の 間 、 イ ス マ 「 老 人 」 は 、 あ る 人 を 暗 殺 し 鰹 う と 思 う と 、 庭 イ ル 派 の 山 城 を 訪 れ た 記 録 は 残 さ れ て い な い 。 園 の 若 者 た ち に 薬 を 服 ま せ 、 眠 り に 陥 ら せ る と 、 ’ 9 2 0 年 代 に 到 り 、 ロ シ ア 人 で イ ス マ ィ ル 派 史 彼 ら を か つ ぎ 出 し て 宮 殿 に 運 ん で く る 。 若 者 た ち 研 究 者 の イ ワ ノ フ 博 士 が ア ラ ム ー ト 城 を 訪 れ 、 博 は 眠 を さ 室 し て 、 自 分 た ち が 「 老 人 」 の 城 の 中 に 士 は ’ 9 5 0 年 代 に も 併 せ て 数 度 ア ラ ム ー ト 渓 谷 い る こ と に 気 付 い て 、 麓 き が つ か り す る 。 「 老 人 」 を 訪 れ 、 ラ マ サ ル 城 そ の 他 も 訪 れ 、 ス ケ ッ チ マ ッ が ど こ か ら 来 た か と 彼 ら に 尋 ね る と 、 彼 ら は 天 国 プ を 作 製 優 れ た 研 究 雷 を 著 し て い る 。 イ フ マ イ ル 派 「 暗 殺 教 団 」 の 城 を 広 く 世 に 紹 介 「 老 人 」 は 、 多 く の 「 暗 殺 者 」 を 近 隣 の 地 方 へ し 方 』 は 、 イ ギ リ ス の 女 流 旅 行 文 学 者 フ レ ヤ . ス 送 り 込 み 、 指 示 し た 人 間 を 殺 す よ う 命 じ る の で あ ダ ー ク で あ ろ う 。 彼 女 ほ 1 9 8 0 年 ア ラ ム ー ト 渓 る ° 「 老 人 」 は 彼 ら に 、 『 私 が こ の よ う 左 命 令 を 谷 を ‐ に 乗 り 、 苦 難 の 山 越 え を 経 て 、 ア ラ ム ー す る の は 天 国 へ 帰 し て あ げ た い と 思 う か ら な の だ 。 卜 城 フ マ サ ル 城 に 達 し て い る 。 彼 女 の 著 書 『 暗 た だ 、 か く か く の 人 物 を 殺 し に 行 く が よ い 、 た と 殺 者 の 合 』 は ペ ン ギ ン 文 庫 に も 入 っ て い る 。 え 死 ぬ よ う な こ と が あ っ て も 真 直 ぐ に 天 国 へ 行 け 更 に 1 9 6 1 年 以 降 数 次 に わ た り 、 オ ッ ク ス フ アフガニ ▲ スタン パ 密.、 ・令 イ ラ ン 0KM から来たと答える。 ー58− ■■■■■■■ こんな水気のないところでスイカがとれるのかと 歩郊外に出ると、そこは砂漠が広がっている。し かしこのあたりはアルポルズ山脈に近いため、水 思うが、このスイカ、食べてみるとそのうまいこ を得やすい。一面ただ茶色の平地が続くと見える と 。 道路の両端は、良く見るとスイカ畑と承っている。 −59− イランの気候は乾季と雨季に分かれ、4月から ノ 1 9月までの乾季は、ほとんど一滴も雨が降らない。省支局・軍事警察宛の手紙を書いてもらい、これ 10月から3月までは雨季だが、これはいつでもでガズピン入りする。カズピンで市長が、をた次 雨というわけではない。乾季に比べて降水量が多の、モアレムケラーエの町長に手紙を書いてくれ、 いという意味ほどのことである。テヘランでは冬文化美術省支局長は視学官に、軍事警察は分遣隊 に雪が降るし、スキー場さえある。こんな乾季で長に紹介状を書いてくれた。こうしてモアレムケ 〆 やらペチャクチャ、じっと我′々を注視している。 ほか、日帰りの山に子供が連れて草を食わせてい 「サラームァレイコン(こんにちは)」とあい る。まだ小学生くらいの男の子が50頭くらいの さつしても、ニヤニヤして答えてくれない。こん 羊を犬に追わせて連れているのには驚く。時には な山奥に外国人が来るなんて珍しいから人づれ 女の子がそうしてさえいる。 していないのか。やがて村長さんが現れ応待して るのだ。 くれた。 ラックの村長に手紙を、そこからアラムートの山 程 の 高 度 に な っ て も 、 景 観 は 変 ら な い 。 行 け ど も と こ ろ で 協 力 を 得 ら れ さ い ○ 西 ア ジ ア で は 岐 も 治 行 け ど も 茶 色 い 地 肌 の 山 に 、 良 く 見 る と 刺 の 多 い 安 が 安 定 し て い る イ ラ ン だ が 、 ど ん な ト ラ フ . ノ レ が アラムート城は比高250祁、長軸700祁、 幅380"ほどの独立岩塊の狭い脊稜部に構築さ アラムート城は村のうしろにそびえる岩山の頂 れている。海抜は高度計が2000加を指してい 上部に構築されている。しかし村を基地として宿 た。山の老人ハサン・イ・サッバーフは本当にこ 泊すると、毎朝城まで80分以上かかりそうだ。 の城から暗殺者を各地に送り込んだのだろうか。 村長の案内で、岩山のすぐ麓で、しかも沢の水が それにしても、城はモンゴール軍に徹底的に破壊 利用できそうな所にテン.卜を設営する。ここで されたのか、建物は何も残っていない。廃撞とし 草が童ばらに生えている。あとは土と岩だけ○そ起こらぬとも限らない。 13日間テント生活をしながらアラムート城の調 て建物の基部と、一部城壁が残されているだけだ。 ん な 山 地 を 単 調 に 道 が 続 く 。 道 路 工 事 は お そ る し モ ア レ ム ケ ラ ー エ か ら 先 の 道 は 、 自 動 車 道 と は く 簡 単 だ 。 ブ ル ド ー ザ ー で 必 要 な 道 幅 分 削 る だ け 言 え な い ○ 昔 の ラ バ . ロ バ の 道 を 近 年 に な っ て 強 で 良 い 。 木 が 生 え て い な い か ら 、 見 通 し も 良 く 、 引 に 車 力 電 っ て 、 何 と か 車 が そ こ を 動 い て ゆ け る どこ室でもずっと見渡せる。低い谷あいに所々、 査に従事する。食事は村人に昼食・夕食を作らせ、 昼には城の上童で、夕食はテントまで運んでもら 伝説の宮殿や、庭園はどこにあるのだろう。建築 う。朝食は夕食の時、パンと卵を用意してもらい、 残されて石積みの城壁を写真におさめてゆく。 緑 に 囲 奮 れ た 村 落 が 、 あ る い は ポ ツ ン と 一 軒 の 茶 い た る 所 に 沸 力 輪 切 っ て 、 時 速 5 町 か ら 8 m l く ら 店 が 見 え る 。 峠 を 下 る の は 慎 重 な 運 転 が 必 要 と な い し か 走 れ な い 。 モ ア レ ム ケ ラ ー ェ の 町 の あ た り イランの農民の日常の食物は小麦粉をこれて平 らにし、大きなセンベイのように焼いたナーンと 探してみると、露岩を切って、貯総を造ってい 呼ぶ一種のパンである。これにチーズをはさんで ある。岩をこれだけの容積分切り込んで、つまり 食べる。近年水田が作られ、米が普及してきたが、 蚕だまだ都会や、中流階級以上の食物である。肉 は専ら羊の肉である。イランの料理と言えば、羊 岩を堀っている。ことに水を貯めたにせよ。飲み る 。 運 転 手 は ベ テ ラ ン の イ ラ ン 人 を 起 用 し た 。 何 は 小 麦 畑 が 拡 が り 、 町 の 畑 に は 野 菜 や 果 物 が 実 り 、 し る ヘ ア ピ ン カ ー プ を 一 回 で ハ ン ト ・ ル を 切 り き れ 花 も 咲 き 乱 れ て い た 。 そ れ が こ の ア ラ ム ー ト 河 の ず 、 一 端 パ ッ ク し て か ら も う 一 度 と い う よ う な 難 渓 谷 に 近 付 い た ら 緑 の 田 が 一 面 に 眼 に 入 っ た 。 水 所がしばしばある。田だった。イランでもアルポルズ山中とカスピ海 シ ャ ー ル ー ド 河 に か か る 橋 を 渡 る 。 − 昔 前 ま で 沿 岸 で は 、 十 数 年 前 か ら 米 作 り が 行 わ れ る よ う に は 、 ロ バ ・ ラ バ が 主 要 な 交 通 機 関 だ っ た 山 地 に も な っ た と い う 。 特 に シ ャ フ ラ ッ ク の 村 の あ た り は 、 車 が 入 る よ う に な り 、 橋 が か け ら れ る よ う に な つ 美 禰 左 水 I u が 拡 が っ て い る 。 シ ョ ト ル グ 、 − ン の 村 た と い う 。 し か し 、 蚕 だ ま だ ほ ん の 一 部 の 箇 所 に か ら 道 は ア ラ ム ー ト 川 の 支 流 に 沿 っ て 登 り に な る 。 し か 、 橋 は か か っ て い な か っ た 。 ア ラ ム ー ト ・ ル す る と 道 が ' ' │ に . § つ か っ て 消 え て し ま っ た 。 橋 も − 卜 ′ パ ー ル 地 区 の 中 心 地 モ ア レ ム ケ ラ ー エ に 、 力 な い し 。 ’ ' │ 燗 ' ' 1 雌 3 0 疵 く ら い で 、 水 は 5 m く ら い 1−…ゞ一一一_.,…--,÷−− ス ピ ン か ら 8 時 間 半 を 要 し て 着 く 。 こ こ は 警 察 . の 幅 を 縦 ” 0 ” く ら い 涛 鉤 − , − つ 一 ≦ ‐ ” " = : w § 』 , 、 U f W く ら い 流 れ て い る 。 車 を 下 り て 軍 隊 ・ 病 院 ・ 高 校 な ど が あ る 大 き な 町 だ 。 偵 察 ; ・ ろ . : , と わ か っ た 。 車 の 跡 が 石 の ゴ ロ ゴ テ ヘ ラ ン で は 文 化 美 術 省 考 古 総 局 、 情 報 省 ア ジ 『 』 し / l ・ , 1 1 鵬 崎 だ っ て い る 。 大 き な 石 の 間 を ぬ っ て ァ 局 、 テ レ ラ ン 大 学 渉 外 風 テ ヘ ラ ン 陣 物 館 、 日 ノ ! ’ ' 1 ノ ! ’ リ と 走 る 。 う ま い 具 合 に 浅 瀬 に な っ て ’’411︲.IfjI1配pjP1d0二 衣 大 使 館 へ 調 査 許 可 の 申 謂 、 協 力 の 要 講 、 便 宜 供 い る ド イ ' ' 崎 幟 切 っ て 岸 辺 に 上 っ た と 思 っ た ら ま た 与 の 依 頼 と い う 袋 う 左 渉 外 の 仕 事 が 続 い た 。 渉 外 鵬 t < W ・ 1 I I " ・ 腱 う や く の こ と 岸 か ら 上 に 道 が は 蛾 も 骨 の 折 れ る 仕 事 だ 。 調 査 の 畑 可 は 渉 外 に か 見 え _ て 鈴 , , ゞ か 亀 、 て い る 。 考 古 局 長 か ら カ ス ピ ン の 市 長 。 文 化 『 l 指 イ ー か ノ ・ ル ' 、 ン の 村 に 漕 ぐ と 、 ど こ か ら と も −6:0.− 杜を測魁して平板に図面が完成されてゆく。一部 こんな山の上で、水はどうしていたのだろう。 自分達で作った。 と い う 程 の 道 だ 。 平 担 な と こ ろ は な く ガ タ ガ タ 、 | チーズ、ヨーグルトを作る。羊は遠くへ連れ出す も、地下水を引いて村ができ、畑が耕やされていラーエ入りする。ここで蚕た次の大きな村シヤフ カズピンから先の道は山路となる。テヘラン城近くのカゾノレハンの村長へ一筆書いてもらう○ もカスピンも海抜約1200沈の高原にあるが、このようにしてー歩一歩進む。外国人がいきなり ここからは一端8000加近い峠玄で登る。それ見知らぬ土地へ入れるはずがないし、もし入った I なく子供が大人がゾロソ.p家陰から出て来た。何 I 1 1 i l : ’ . 1 1 1 I : : 1 1 1 1 i 1 水としては適当とは言えまい。煮沸すれば飲める にせよ、ふつうは麓から運び上げたのであろう。 アラムートの城には大図書館があったと歴史の の肉の料理が代表的なもので、その調理法もいろ いろある。だが決してジンギスカン料理のように スライスした肉は見かけなかった。最もおいしい 史料は伝えている。発堀したら古文書でも出て来 のは羊肉の炭火焼きである。 秘宝も埋蚕っているかも知れない。しかし、我右 羊のほか、鶏もしばしば食べる。野菜は種類が { . : る。最も大きいのは12m×3醜、深さは5祁も 少く、栽培も侭かしかしていない。果物は豊富で、 何でもある。スイカ、メロン、トマト、ぶどう、 るかも知れをい・いやそれどころか、山の老人の の調査は今の所、発堀は将来の課題とし、先ず現 状の確認を急いでいる。 写真の器材を運んだり、測量のポール持ちには リンゴ、ザクロ、くるみなど。我々はテヘランで 夏休み中の中学生を雇った。我々の片言のペルシ 買ってきた米を渡し、,これを炊いてもらい、副食 は村人につくらせた。大抵のおかずは肉と野菜の ャ語で結構通じるし、学校で英語を習っている彼 らの片言の英語とチャンポンで話す。イランにも、 日本のトランジスターラジオが多く輸入され、ナ 卜・ロト・口したスープだった。 ガゾル,、ンの村は男達は羊群を連れて山の中を ショナル、東芝、サンヨーなどの製品が知られて 草を食わせて遊牧する。女達は村の周囲の小麦畑 いる。僅かの間に中学生たちとすっかり仲良くな を管理し、羊の乳や、時には牛の乳からバター、 り、別れが惜しをれた。連日40.℃近い暑さに庵 : . . $ l −61− I ; … 座 ? … ■ 鳥 = I 。 L ’ : : :p 一一ロ,−.−.可L-P ■−−−巴FL=F,Ⅱ一F■ 匙も −−里■一’凸ロ・・一一・一=q-と■ロー■‘生■=豆一一■一壱 & ‐ 一 − 一イーー るため日中昼寝をし、早朝からと夕刻遅く左での ここでも平板測量と写真撮影によって、山城の現 るが、その途中小部落があった。バスで来た時、 分布調査に入った。アラムート河を上流へザパラ 状力詳細に記録されたoとのラマサル城はハサン イ.サッパーフの後継者プズルク●ウミードカ築 バスはここで休憩する。茶店があって一杯2リア ックの村に行く。村長の家に客人と左り、翌朝荷 帰る。 ル(10円)の紅茶を飲む。バフラマバードの終 物をロバに、人はラバに乗り2時間半の山道をイ 城したものと言われて‘いるが、第1次隊の調査し た城のうち最も大きな山城で、アラムート城と共 点にも茶店があり、お茶を飲む。頼めばちょっと ーラーン村近くのイーラーン城へ行く。分布調査 ラマサル城へ した食事を作ってくれる。茶店は夜泊まることも の山城探しはすべて聴き込みによった。「との近 にセルジューク朝が、幾度も攻めながら落ちなか ったと伝えられる天険の堅固な要塞である。アラ ムート城もラマサル城も周囲が切り立っていて、 できる。昔の日本の街道もこんな茶店があったろ くに城はないか」と尋ね、城に行ったことのある う。今のドライブインみたい涙ものだ。イランに 村人をガイドに城を訪れる方法を採った。ラマサ も幹線道路の途中の泉の近くには、ドライブイン ル城やアラムート城へ行く途中、あるいは現地で 城に攻め上れる箇所はない。 が発達している。長距離トラックや長距離バスが いろいろな人から山城の情報を集めたO・アラムー いつも休憩しているのを見かけた。 ト溪谷で城と言えば富ずイスマイル派暗殺教団の 作業で13日間を終え、同じコースをテヘランに テヘランでは、日本の西アジア研究センターに 宿泊させて頂き、ここを基地に再び次のラマサル 城への準備を整えて出かける。ガズピンまでは同 〆 −−,-= 一 一 ラマサル城のある岩山から周囲を見渡して見え 戸 口 。 = 彦 『ア 蝉 瀞 . 円 葎 & 鰭 ’ 〆;〆 P』 画 一 . 一 凶 一F可 一 一 アー 一 l' ﹄辰札毎一 一■ u − − じ道、ここから1度はバスで、2度目はジープ.で シャールード河のほとりにあるパフラマバードに 達した。ここから先は車の道がを〈、ロバに荷を 積み、ラバに乗って進む。支流ネイナルートソ││に 沿ってマンスルバーグ村に着く。村長のヤクービ ー家に客人とたり、食事・人夫の世話を依頼する。 ラマサル城は村から80分程のところに比高 140沈程の独立した岩山で、四方断崖の広大を 斜面のその規模240加×4j30"Z程の空間に遺 構が散在している。ほぼ頂上部にテントを設営し、 初め3日間2度目は9日間をここで生活し調査 に従事した。食事と水はアラムート城と同様に村 人に作らせ、城に運ばせた。ここは建築杜も良く 残されていて、塔や城壁が当時の山城の偉容を偲 I ばせる。建築物は角礫をしっくいで固めた石積の 壁で造られている。 正確な地点が表かなか村人の情報をうまくとらえ 全くの岩山。だが実は保護色とでも言おうか、茶 に 近 い 灰 色 や 薄 い 緑 色 の 草 が 、 点 左 と 、 雨 も 降 ら 世紀以降のことである。しかもイランで茶の栽培 られない。やはり現場へ行き、自分達で地図を作 はまだ数十年前からで、カスピ海南西岸地帯に茶 製して行くしか方法は表い・百万分の一の地図は 畑があった。紅茶以前はたぶんコーヒーを飲んだ アラムート渓谷では役に立たず、偶々テヘランの のだろう。今でも、テヘランの店ではトルココー 日本人から25万分の1の地図を借りることがで ヒーという濃いドロドロのコーヒー(その上澄み き滝とれはタリカン河で潅厩用ダもエ事で技術 協力している日本の三祐コンサルタントである。 な い の に 生 え て い る 。 遊 牧 の 羊 は 、 こ れ を 食 べ て い る 。 村 だ け が − 面 の 緑 で 囲 ま れ て い る o マ ン ス ノ レ パ ー グ の 村 は 、 と の ラ マ サ ル 城 の 下 を 流 れ る ネ イ ナ ル ー ト . 川 と い う 細 い 川 か ら 水 を 村 中 に 引 い て 庭に配られて行く。 小 さ な 沢 や 川 は 乾 季 に は 洞 れ る が 、 少 し 大 き な 川 は 遥 か 遠 く の ア ル ポ ル ズ 山 脈 の 支 脈 か ら 地 下 水 と な っ て 流 れ 出 て 、 い つ し か か を b 豊 富 な 水 量 の 川 と な っ て い る 。 ア ル ポ ル ズ 山 脈 に は 4 ∼ 5 0 0 0 沈 の 頂 上 部 に は 夏 で も 雪 が あ り 、 山 地 で は 水 に 不 足しない。 ’│ を飲む)を飲むことができる。紅茶は砂糖を溶か さず、固い砂糖の塊りを口の中に入れ、紅茶を小 分布調査は、地点を確認し、調査は簡単なスヶ さなカップ・で何杯も飲む。茶店で見ていると人々 ッチマップの作勢と、主要な遺構の搬影にとどめ、 は良くも含あ何杯も飲む◎我をも水の代りに良く 飲んだ。生水は危険なので煮沸した水、むしろ大 次の地点へ移動した。そのため夕刻室でにザバラ 抵紅茶を飲んでのどの渇きを癒した。 引きと人夫4人を伴って片道半日行程のネビザル 7∼8月の希節はさすがに暑いo朝方は20℃ ックの村へ戻る。翌朝ラバ6頭、ロバ1頭、ラバ シャー城に向かう。ラバの乗りずくめで尻と足が 痛くなる。 くらいだが、8時くらいにはもう80℃に上り、 この城はさすが山奥のため、村人の中にも行っ ’0時近くから3時すぎまで、40℃前後の気温 になる。しかし乾燥しているので、日陰に入ると ひんやりする。といっても山城に日陰は友く、崩 道を誤り、羊飼いの小屋に露営して翌朝もう1度 ひ ど か っ た 』 ↓ ‘ デ ′ │ ・ で は マ ラ リ ヤ 予 防 が 進 ん で そ の L , 閥 【 ' 土 倉 を い ・ し か し テ ヘ ラ ン に 出 る に は 、 あ z い は 医 師 の い る ガ ズ ピ ン に 出 る に は 1 壊していたい建物の陰か、大きな岩陰でやっと昼 別表ルートで城に向かう。急斜面にかかるのでラ 寝をする。夕刻工うやく30℃くらいに下がる。 バを下り、ガレ場のような石や岩のゴロゴロした このような毎日での野外作業はつらいものだった。 斜面を登る。岩山をようやく登り切ると、狭い頂 イラン滞在の90日間に雨はテヘランで雷雨が1 上に角礫をしっくいで固めた城壁や建物がまだあ 経 済 7 姉 喧 は 良 く 履 く 、 ガ ズ ピ ン か ら こ の マ ン ス ル ′ ク 室 で 商 店 ら し い 商 店 は つ い に , 軒 も な か っ た 。 村 メ に よ れ ば 、 川 下 の 隣 の 村 に は 、 雑 貨 屋 が 1 軒 あ る と い う 。 カ ズ ピ ン か ら バ フ ラ マ バ 、 ド 茜 で 4 時 間 半 か か 度、ほんのおしめりをもたらしただけだった。一 さり崩れずに残っている。周囲の村から遠いこの ア ル ポ ル ズ 1 l l 脈 γ ) > 7 ) , 地 は か っ て マ ラ リ ヤ が 日 か 力 ・ り た か ら 、 村 人 に は 薬 を ね だ ら れ た 。 商 品 −62− −−■■■■■B 城と考えてよい。しかし詳細な地図がないため、 浅く、イギリスのインド統治時代以後だから19 い る 。 水 路 の 両 側 に は ポ プ ラ を 植 え 、 到 る 所 に 水 を 引 い て 果 物 を 植 え 、 村 の 中 を 通 り な が ら 、 各 家 ラーマサル城 イランでお茶と言えば紅茶。しかしその歴史は る色は、空の青さ、雲は毎日一片だに見られない。 地上はすべて茶一色、どの山も木が生えておらず、 たことのある者が少〈、その日のガイドが途塩 ような山中の頂上によくもこんな城を築いたもの だ。と思ったが、頂上からアラムート河を見下す アラムート溪谷の山城群 アラムール城とラマサル城の調査を終えたあと、 再びテヘランからアラムート溪谷への日間の山城 と、はるか彼方までずっと見渡せる。高度も 2400沈と高い。むしろ各山城をここからのろ −63− 蔦 r ず 一 斗 I 者のほかに東洋史の北川誠一、考古学の木村尚俊 しで合図し合うのに絶好の要所だb の城か、実際の我々の調査した城と同一のものか ザバラックに戻って翌日はシャフラツクの村へ 寄る。ここには山城ではなく、アラムート川とそ どうか、これは今後の研究課題である。 第1次調査隊はこのように専らアラムート渓谷 の支流アンデジュ川の合流点の平地に小高い丘が を中心としてイスマイル派の山城を探し、分布調 あり、そこに城があったらしい。今はあとかたも 査と主要な山城の測量と写真撮影を行った。アラ なかった。茶店の主人宅に泊めてもらう。翌朝、 ラバ5頭を連ねてアンデジュ川に沿って北上する ムート渓谷はテヘランから僅か130hくらいし か離れてい左いにも拘らず、村人の中にはテヘラ ンに行ったことのある者が少〈、新聞も届かぬ山 とと2時間半、アンデジュの村に着く。このアン 〆 デジュ川は大きく、水量も豊富で、途中の村々に I 奥だった。 は緑が繁り、'家々も豊かな感じに見える。山城は、 むしろ村人は北のアルポルズ山脈を越えてカス ピ海側へ出て、時には水田地帯に出稼ぎに行く者 イーラーン城がそうであったが'1、さな全くの裸岩 の上に椛築されている。しかしイーラーンと共に、 もあるということだった。 建築杜らしきものはなかった。城という上り砦と このようなカスピ海側との交通網は山中奥深く、 ラバの道以外にない。我均はアルポルズ山脈の北 呼ぶべきだろう。 シャフラックに戻り、翌朝シールクー山系に向 と南を見るため、テヘランから出発し、アルポル ズ山脈の峠をジープで越え、カスピ海沿岸を走り、 アルポルズ山脈の北側を比較する一般調査も試み い、ピデラン城を訪れる。やや大きくネピザルシ ャー城ほどで、大きな貯水漕が岩に切り込蚕れ、 あまり崩れていない城壁も残されていた。バーグ た 。 ダ シ ュ ト の 茶 店 の 主 人 の 家 に 泊 ま り 、 翌 朝 、 ビ デ ア ル ポ ル ズ 山 脈 の 分 水 嶺 の 南 側 は 緑 の な い 茶 色 ラ ン 城 の 見 張 り の 塔 が 少 し 離 れ た 地 点 に あ る と い の 山 肌 ば か り で あ っ た の に 、 そ の 北 側 を 峠 を 下 り う 情 報 の 確 認 に 行 く o を 8 ケ 所 訪 れ 、 ア る と 、 そ こ は 密 林 だ っ た 。 カ ス ピ 海 沿 岸 は 豊 か な ラ ム ー ト 河 と タ リ カ ン 河見 の張 合り 流塔 点に 出 る 。 ジ ー プ で モ ア レ ム ケ ラ ー エ に 到 り 、 翌 朝 ラ バ 4 あ る 地 方 は 海 抜 が 水 面 下 に な る 所 も あ り 、 湿 度 が 頭 、 馬 1 頭 、 ロ バ 1 頭 で シ ヤ ム ス ケ ラ ー エ 村 の マ 高 く 、 砂 漠 の 緑 辺 や 緑 の な い 山 中 を 歩 い た 我 右 に イ ム ン デ ィ ズ 城 に 向 か う 。 こ こ は 平 地 の た め 馬 が は 想 像 も で き た か 』 た イ ラ ン の 気 候 だ っ た 。 こ の い た 。 山 地 で は 、 馬 は お ら ず 、 丈 夫 を ラ バ が 活 用 ア ル ボ ル ズ 山 脈 の 北 側 に は イ ス マ イ ル 派 の 山 城 は さ れ て い た 。 こ こ マ イ ム ン デ イ ズ 城 は 山 城 で は を 確 認 さ れ て い 弁 い が 、 ジ ャ ン グ ル に 覆 わ れ た 山 で い し 、 建 築 さ れ た 建 物 の 城 で も な い 。 洞 穴 が 断 崖 は I I I 城 イ 』 僻 ツ i ‘ て き な か っ た だ ろ う 。 に 地 上 1 0 ∼ 1 5 漉 程 に 開 口 し て お り 、 こ れ を 利 イ ′ ' . ' ' , ノ の 鯛 森 行 は 、 た だ た だ 暑 か ン た と 言 塗 い る 。 城 と い わ な い ま で も の 為 に 住 み 、 言 上 1 , う : 〈 無 事 終 了 し た 。 利っ 用て し た こ と は 確 か だ 。 こ の 城何 をか 最 後 に 分 布 調 査 ト I を 終 え た 。 こ れ ら の 城 の う ち 、 中 世 の 史 料 に シ ヤ 第 二 , 欠 調 査 隊 フラソク、ネピザルシャー、マイムンディズの名、.* 蝿 2 、 " 1 1 侮 隊 は 2 年 後 の 8 月 1 7 日 羽 佃 を 発 ち 、 “k抑噌聯蝿 III 91F︲fjh1Ihf01iu6〃0DUO色8勺lrb河Uf 卜41卜fFI 雑 前 が 出 て い る 。 し か し な が ら そ れ ら の 聯 I の 名 前 9 0 1 1 1 1 1 1 7 鯛 在 に 入 . 』 た , 隊 員 は 本 田 、 力 漉 、 筆 −64− ili1j 用 し て い る ら し い 。 村 人 は こ れ を 城 と 言 い 伝 え て う I か ‘ を ' ' , ‘ 連 日 4 0 ℃ 近 い 直 射 日 光 は 、 調 査 の い る 。 そ の 1 つ に 辛 じ て 登 っ て 入 る 。 確 か に 入 口 鋭 " 崎 │ ! f し ば 減 退 さ せ て し を っ た 。 し か し な が 付 近 は 角 礫 を し っ く い で 固 め 、 岩 壁 を し っ く い で ら ル f 外 で の 調 査 と し て は 大 き な 困 難 に 遡 遇 す る の5名となった。準備中、企画会議が何度も開か 前回偶々拝借できた25万分の1の地図はイラ れ、第2次隊はカヴィル砂漠の斗瞬にあるゲルド ンで市販されていないものだった。多色刷りでア クー城と、東部イランのコヘスタン(山地の意) メリカの航空測量による地図のため、是非とも入 地方にあるガイン城の主調査に焦点を置き、同時 手したかったが、軍事的に地図は機密が多いため に周辺の山城を踏査の上分布を調べることにした。 国外持出禁止のみならず、入手さえ不可能だった。 前回は日本の西アジア研究センターを基地とし 三祐コンサノレタントは、工事の必要上持っていた たが、今回はテヘランではメイサンホテルを基地 のだった。ところカヘテヘラン到着後市内の地図 として各地に出かける。テヘランではテヘラン大 店で25万分の1が売りに出ていることを発見し 学、宮内省、情報省、外務省文化交流部、文化美 た。この地図は版が古く一色刷で、中には等高線 術省考古総局、日本大使館などへのあいさつを済 がフリーハンドで番かれ数字の入っていないもの ませた。今回の調査地域の1つコヘスタン地方は もある力入我々には貴重なものだった。地図店の 宮内大臣の出身地のため、日本から大臣に協力要 話ではつい最近、軍が、古い地図のため廃棄処分 請の手紙を出した所、何でも便宜を計ってくださ したのを入手したらしい。イラン全域のうちかな るとの返信を与えられた。この1通の手紙の効果 り欠けている地域もあるカミ我々の特に必要とす は後に絶大なものとなった。即ち、宮内大臣から る地域は、ほぼ買うことができた。 コヘスタン地方の各市長、町長、村長に我左が行 東部イランを百万分の一と首っぴきで調査ルー ったら協力するよう指令が出されたらしい。イラ -IFを検討していた我々は、こんな奉運にめぐり合 ンの現政府で実力者の大臣の指令は、後にどの町 うとは思ってもいなかった。前回のアラムート地 に行ってもすべて我均の行動がスムースに進んだ 域は、一応スタークとウィリーの著霄に載ってい ことで、むしろ我々が驚いた程だった。 る地図でかなり補えた。しかし今回の調査地域は 第1次の時もテヘランからアラムート地方の各 水 田 地 帯 で 、 ま た 茶 の 栽 培 も し て い る 。 し か し 、 25万分の1は有力な踏査の手懸りとなった。 の協力がなければ、特に海外の場合は調査が進ま ないだろうし、辺境地帯では行動することさえ困 難だろう。探検に出かけようとするならば、対象 る。一級国道なので途中一泊すれば十分だった。 テヘランからメシェット・窟では約1000町あ 器材と共に乗用車2台をチャーターして分乗する。 考古局からヤーシーさんが我なの協力者として全 地域を地理的に文化的に克明に調べておくだけで 日程同行するととになった。アルポルズ山脈を越 なく、大学やお役所を通じての十分なコンタクト えカスピ海側の国道を走り、途中ゴンパッテカブ が最も肝要である。ぃざその国に着いてから、そ ースに宿泊、翌日メシェット・に入る。この街道は の地域に入れなかった例は幾らでもある。イラン 宣くからの道で、西アジアの旅行者には最もなじ でも純粋な遊牧民族の多い南西イランには、容易 みのある経路なのでこの辺りの記述は省こう。 に入れない。というよりも、政府から協力が得ら メシェッドはイランのイスラム教徒、即ちシー れない。今回の東部イランも、アフガニス多ユ国 ア派の聖地である。アラビアのメッカに巡礼しな 境付近はふつうなら外国人を入らせないような地 くてもシーア派は、一生に一度は必ずここにお参 域もあり、むしるそこに行けたこと自体、我点は りに来る。メシェット・ではメシェット・大学のクラ 幸運だったと言うことができ聖う・ ブに宿泊の便宜を得て、童たホラサン州知事から −65− 一 一 F = 一 一 − − ー ■ 。 ∼ 一 … ■ ロ = 百万分の一以外、何の手引もなかったから、この 地の町長、村長へと紹介状が大きな効果を挙げた が、このようなお役所からの、また土地の実力者 1 ー さ ガイン城へ − 認『ず はジープ(英国製ラント。ローバー)を調査期間中 一台、運転手1名と共に借りることができたO メシェッドから南へ420町のガインに2台の ジープ・で向かう。約100恥は高原の砂漠地帯を 進む。このあとトルバッテハイダイエさでは山地 のため主要幹線にも拘らず、悪路が続く。そもそ もイランでは、主要幹線の国道も西イラン方面は 補装が進んでいるが、この東イラン方面はまだ殆 んど補装されていない。幹線以外となると乗用車 では痛みが激しく、どの町の役所もジープを持っ ている。山地を終えると今度は延々70町にもわ 一 たって全く人家のない砂漠に入ったO水気は全然 なく、一面に茶色の世界、空の青さだけである。 やがてオアシスの町ゴナバードの寺院の尖塔が見 えて来る。再び山地と砂漠を繰り返してガインの 町に着く。 ガインでは市長さんに迎えられ、公民館を宿舎 (それは我々の基地として40日間使うことにな る)として提供された。この宿舎では食事は市長 さんの使用人ハサンが料理してくれ、寝るのはホ ールに簡易ベッドが用意され寝袋と毛布だった。 − 頂上の山城内部にテントを設営するO食料と水は た。いざという時は医者にかかれるため、薬・富 行を得て進むカミとても車が走れる道ではない。 毎日村人に運び上げてもらうことにしたOここで 11日間のテント生活が始蚕るo城は平坦な頂上 部を利用して南北に370"、東西に最小幅の稜 線部で10加、最大幅のところは120"の規模 を有しているo調査は第1次と同様に、測量と写 真だった。測量は第1次と同様、トランシットコ ンパスで基軸を組み、平板で千分の一の平面図を たは、外科用器具は、最低限のものしか用意しな ガイドが近道だからと言うので来たものの、彼ら かった。この点は人跡未踏の地の探検とは異なっ はラバで交通する。車で走ったわけではないし、 ているo 車が通った様子もない。砂漠に近い荒野だから、 第1次もそうだったが、生水は飲黄ないように どこでも走れるとは言え、岩や石がごろごろして した。それでも下痢が多かったのは、気温の高低 いるからそれを除けて走るとなると、時速10恥 差が著しい中での生活のため、疲労から腸が正常 くらいしか進童ない。36mlの行程を3時間かか に活動しないためであった。探検隊や調査隊は、 作製してゆく。夏休みのため中学生をポール持ち に雇う。写真も前回同犠リンホフで4×5イン 国内での環境と異なった条件下で野外活動を余儀 りサルシャバードの村に着く。そもそもこん表寒 村に車が入ることはめったにないようだ。僅か なくされるため、強靭な体力を本来必要とすると 15戸の小さな村だった。今までの経験で食料は チのカラーとモノクロフィルムに城の現在遺され ている姿を撮影するoとのガイン城は周囲にほぼ は言え、休養を十分考慮しなければならないだろ 僅かしか持参しなかった。大抵行く先々の村で購 入することができたからだ。しかしこの村では、 これ程の規模を有する山城でありながらガイン 各地の山城の分布を調べることである。そのため 日程とも併せて検討し、次のように計画された。 翌朝、更に2町ジープ・を進めたがついに車が走 れる状態の地ではなくなった。既に山地奥深い溪 近 い 高 さ の 城 壁 が 取 り 巻 く と の 大 き な 城 は 、 東 部 イ ラ ン の イ ス マ イ ル 派 の 城 の う ち 最 も 大 き な 城 の 第1回はガイン南方の諸山城を探し、その位置と 谷沿いのロバの道しかない。ここからはロバに荷 規模を確認すること、第2回はガイン西方の、第 を積み2町程歩き、ようやくモメナバート城の麓 3回はガイン北方の、第4回はガイン東方の諸山 に着く。比高250ばかりの独立した山だ.頂部 に上り、高度計を見ると2400沈を指している。 した上という程だったo 城 の こ と は 中 世 史 料 に 出 て い な い 。 し か し 1 0 7 7 Z 畢 城をという主うにである。 と し た 北 か ら 南 に か け て は 広 大 を ガ イ ン 盆 地 が 広 が っ て い る 。 城 の 眼 下 に は ガ イ ン の 町 の 一 面 緑 に 荒 地 と 対 照 的 に 眺 誉 れ る 。 、遥電ー を だ 初 秋 と い う に は 暑 い 9 月 初 め の こ と 、 日 中 ⅡhIIIII1jⅡⅡⅡ0■■■日■■■■■■■■画 夕 →…ー劇型, − − − − − − ガ イ ン 城 宿舎から通えなくはないが、麓から頂上蚕で高さ 270沈とは言え、毎日の登り下りは大変なので、 イン南方の分布調査に出かけた。ガイン南方115 マップを作り、主要遺構をリンホフに撮る。分布 町のピルジャント市に行く。ここで周辺の山城の 情報を得るため聴き込みをする。最もねらってい 調査が目的だから、この城に時間をかけて調べる 余裕はない。3時間の作業を終え下山。サルシャ るのは、この当りにあると考えられるモメナバー バードに戻り、今度は別なコースをとり、迂回し ト城について、その所在を確かめることである。 て砂漠状の道を走り、ダルミャーンの郡長邸に戻 モメナバード城は史料に出ているが、それを確認 は 3 5 ℃ に も 上 り 、 そ れ が 明 け 方 に は 5 ℃ 以 下 に を で 下 る 。 そ の た め 日 本 、 特 に 北 海 道 か ら 来 た 我 庵 に は 、 1 日 の う ち 3 0 ℃ も の 寒 暖 差 に 、 身 体 が 白 』 山城の大概の規模をトラコンで測量でスケッチ ガインに主要器材を除く大半を残して我倉はガ 覆 わ れ た 豊 か な 農 村 カ ヘ 周 囲 の 草 木 の な い 茶 色 の p伊P=在 めてくれ、それが唯一の食事だった。やむなく、 持参したパンと紅茶でがまんする。 こ の 山 城 は 、 す ぐ 東 に は 山 脈 が 連 な り 、 西 を 主 』 r 凸 の分まで食料がなく、ようやく鶏卵を村中から集 カイン城の調査を終えた我庵のコヘスタン地方 におけるもう1つの目的は、ガインを中心として − − − − ’ よそ者が来ることも珍らしいから突然訪れた我倉 コヘスタン地方の諸山城 遺構だらけで、歩いている所すべてが建物の潰減 1 つであるから、コヘスタン地方の中心的存在だ ったろう。 | う 。 全域城壁を構築し、その城壁があまりひどく破壊 されずに遣っている。城壁に囲まれた内部は全面 ガイン城はガインの町から6町西にあるoとの 1 詞 した者はい左い。情報が得られ、ピルジャントの 東’50町程の山奥にあるらしい。童ず東へ,00 mnばかり、アサダバードという砂糖工場が新設さ つ い て ゆ け ず 、 日 中 は 暑 く て た さ ら な い の に 明 れて作られた新しい町までジープを飛ばす。ここ け 方 の 寒 さ で 風 邪 を ひ く 者 が 続 出 。 薬 は 何 よ り も 風 邪 薬 が − 術 U 用 さ れ た 。 そ の 他 の 薬 は と い え ば 、 岩 が 多 く 、 き た 山 城 の 斜 面 を 足 を 滑 ら せ た り で の 擦 り 傷 ・ 切 り 傷 に バ ン ド ェ ィ ド が 、 蚕 た 下 痢 も 皆 翌日ここから東へ85mnの小タパスヘ行く。こ のあたりでは、ずっと、海抜1800腕くらいで 砂漠状の高原を走る。村人の情報によると、イス マイル派の山城があるらしいが要領を得ず、童た クにつめる。’5恥程でダルミヤーンに到着。こ ラバで相当な行程にあるらしく、次の調査地点へ 向かう。南へ98町走り、ドルフの町へ着<o村 長宅に泊まり、翌朝ドルフの南5恥程さで行き山 こからモメナバート.に行ったことのある村人の同 城をはるか遠く見る。城へはラバで3時間以上も でガソリンが手に入るが、これから先は小さな町 や村が点在するだけなので、ガソリンを予備タン 2 . 3 度 は 経 験 し た た め 、 整 腸 剤 の 利 用 が 多 か つ る 。 −66− −67− ’ − 一一一一雪一=一一一一== - − − − - . 一 D∼ 間両一 -.宇・-=. ー=マーーー.→-云云=一一 -..ー,けい1画…マーエ令与今− −凸エーヒーー、∼全盲今グー弄禺字ロー弓 − − − ー − − − − − − 〆イ § かかるらしい。城の遺構は東西、即ちアフガニス 面に城を探すことだった。一端南へ50肋下り、 とに湯き出た水を利用して植樹し、緑に取り囲童 村の背後の小さな山の頂部に構築されていた。し タン側(との山を越えるとあと東へ40恥で国境 となる)を向いているらしく、双眼鏡で見ると僅 かに塔が確認される。そこに達する時間的余裕が ないため、位置を地図上におとし、次の調査地点 セデから西へ道をとり、一面に平坦な荒地に車の れている。10月だったのが幸いして暑さは終っ かし、イスマイル派の山城としては規模があまり 轍だけがそれを道と教えている。毎日の購天カヘ 最近少しづつ雲の多く見られる空に変ってきてい ていたが、夏には耐えられぬ暑さになるらしい。 にも小さく、砦というべきだろう。 へ向かう。 ドルフは我々の調査では最南の町となった。イ スマイル派の山城は注だ南にもあるかも知れない 一 ペルシャ湾沿岸に多いはずのナツメヤシがここで 再びもとの山道を国道に戻り、北上してゴナバ た。突然細い雨が降ってきてフロントガラスを濡 はたわわに実っている。政府直営ホテルで、ザク ード市の東5mビート・フトの町に入る。ここから らし、いよいよ秋、雨季の到来を知るolO月上 ロのジュースを飲む。庭には真紅に熟した大きな 砂漠の道に入りシューラープの村近くの城へ行く。 旬、もうこれからは雲が多くなり、暑さも感じな ザクロが落ちそうにして実っている。 砂漠の中に孤立している比高’50m程の岩山に くなる。 が、収集された情報では判然としない。をた我な I 幾つか小さな村を過ぎ、165町走ったあとサ の 調 査 期 間 の 都 合 も あ り 、 基 地 の ガ イ ン を 中 心 と ラ ヤ ン の 町 に 着 く o と の 町 の 近 く に 山 城 が あ る と し た 分 布 調 査 に と ど め た 。 再 び 北 へ 戻 る 途 中 ホ セ い う 情 報 を 得 て い た 。 村 人 に 尋 ね る と 1 0 K m 程 山 . ” イ ナ パ ー ド の 村 に は 、 ア フ ガ ニ ス タ ン 国 境 に 近 い に 入 っ た と こ ろ に あ る と い う 。 車 が 辛 じ て 走 れ る た め 、 軍 隊 が 駐 屯 し て い る 。 卜 ・ ル フ ヘ 行 く 時 も 、 道 が 山 奥 へ 向 か っ て い る 。 と は 言 え 、 昔 は 立 派 な こ と の 兵 士 が オ ー ト バ イ で 護 衛 を 兼 ね て 先 導 し て 交 通 路 ( ラ バ の 通 れ る 道 だ が ) だ っ た か ら 山 城 が I くれた。そんな山奥にあっても何の不思議もないo途中橋 道 を 西 に と っ て 間 も な く 幹 線 道 路 に 出 る 。 砂 利 が 落 ち て い て 、 車 が そ れ 以 上 進 め ぬ た め 、 そ こ か 道 で 車 が 走 っ た あ と は も う も う た る 白 い 砂 塵 が 舞 ら 山 城 を は る か に 遠 望 す る 。 5 0 0 " の 望 遠 レ ン い 上 る 。 辺 ぴ な 山 の 道 は 我 々 の ジ ー プ く ら い し か ズ だ と 、 山 頂 に 塔 や 城 壁 が 良 く 見 え る 。 サ ラ ヤ ン 走 ら な い か ら 、 景 色 を な が め る の に 良 い 。 そ れ が の 町 か ら 4 5 町 程 西 へ 進 み フ ェ ル ト ・ − ス 市 の 大 き 幹 線 道 路 で 、 前 に 車 が 走 っ て い よ う も の な ら 、 フ な 都 会 に 出 る 。 ロ ン ト ガ ラ ス が 砂 で 真 白 に な っ て し 蜜 う 。 窓 は ど イ ス ラ ム 教 の ラ マ ザ ン ( 断 食 ) 月 に 入 っ た た め 、 ‘ I ん な に ぴ っ た り 閉 め て お い て も 、 ど と か ら と も を 開 い て い る 食 堂 が 少 ぃ 。 信 者 は 断 食 月 は 日 の 出 か く 小 麦 粉 の よ う な 砂 の ホ コ リ が 入 っ て き て 、 頭 か . ら 日 の 入 り 窪 で 一 切 食 べ る こ と も 水 を 飲 む と と も ら 顔 か ら 、 お し ろ い を 塗 っ た よ う に 白 化 粧 と な る 。 禁 じ ら れ て い る 。 し か し 旅 行 者 は 例 外 と さ れ て お ’ に あ る と い う 傭 報 を 得 た ロ ス タ ム 城 に 行 く 。 険 し 〃 < / . ' J J に く の 砂 漠 は 、 む し ろ 砂 ば か り の 砂 漠 と な く そ び え 立 っ た 独 立 の 高 い 山 の 頂 き に 城 壁 が 取 り z 》 ず 地 の 砂 漠 は 良 く 見 る と 茶 色 や 灰 色 の 草 が 点 巻 い て い る 。 え . } 」 1 . ) れ た が 、 こ の 砂 の 砂 漠 で は 草 一 本 は え て と の 調 査 を 最 後 に 一 端 カ イ ン の 町 へ 戻 り 、 体 ′ 園 ’ ‘ " か ‘ 地 表 は 砂 丘 の よ う に 砂 の 低 い マ ウ ン ド が ; と 第 次 2の 回の 準 行 備 動を は、 す ガ る イ。 ンか 緋 ら 卓 西: へ4 』 0 I 0恥 ] あ 路 主だ け が 一 本 の 糸 の よ う に 走 っ て い る 。 , 、 … 繩 . オ ア シ ス … … 。 〃 ” 患 ■ 鰯 麓 篁 孟 墓 : 鰯 麓 { −68− 、グl I l ⋮1 _ ‐ 一 一 一 ・ 一 公 一 ’ ‐ − − − ' ・ ・ " 宝 ニ ニ ニ ー . ‘ 、 ’ 呈 冤 ‘ . . . . 、 。 .こ ’ t f ・ 字 寺 間 ' 苦 ‘ 号 ニ ー ー ー ー ー . ∼ = 声 一 ・ ¥ ヒ ニ ー ー 一 . ' L 一 旦 全 一 ・ ‐ . = − − ム ー 等 = 宝 一 一 一 一 = . & = ‐ ロ 害 一 勺 戸 城が築かれている。この城はイスマイル派の・さ識 いたが確実な情報を得られなかった。このタバス なく、別な時代の城だという説もあるため、確認 より西は500mにわたって砂の砂漠が続き、小 のため頂上に登り、簡単なスケッチマップを作製 さなオアシスの村が点在するだけとなる。カヴィ し、遺構も幾つか写真を撮る。観察すると、築城 ル砂漠横断の旅行を一時計画したカミ時間の余裕 の石の積み方が今まで見てきた山城の場合と異っ がなく、翌日再びもとの道を返す。 ている。この城では偏平な石を端正に積んで居り、 行きがけに見たフェルト・一ス市外のハサナパー ト・の山城に再度接近する。城は大きな規模で、独 角礫を豪放堅固に積むイスマイル派の山城とは確 かにやや異るようだ。 立した岩山の頂上から緩い斜面にかけてまだ十分 この辺りはカヴィル砂漠の東端に当り、山頂か 形をとどめた城壁や塔が眺まれる。しかし山城の ら見渡すと、<・るり全くの砂漠。それでも所点に 手前に大きな河があり、また時間もないので、遠 は山が連なり、その近くには村がある。そうした 景写真を撮るにとどめる。 村は山麓からガナート(地下水道)喜引いて緑を 植え、野菜を作っている。 フェルドースからはガインに戻るだけのため、 ガイン北方の山城としては、この北メシ裏.ドま 幹線道路を走ることにし、北へゴナパードの町へ での間にも山城があるという情報を収集したカミ 出て、200町を飛ばし基地のガインヘ帰る。 第3回の行動はガインから国道を40通程北へ サ ル ピ シ ェ に 着 く 手 前 で 山 城 が 発 見 さ れ た 。 独 り 、 ま た 異 教 徒 で あ る 我 々 は 問 題 な い 。 町 の 北 西 立 し た 岩 山 の 頂 部 に 城 壁 の 崩 れ た の が 見 え る 。 を 1 5 K m 程 に ハ サ ナ バ ー ト 城 が あ る と い う 情 報 を 確 だ 2 5 才 と い う 若 さ の 市 長 さ ん の 歓 待 を 受 け 昼 食 認 す る 。 ′ 、 サ ナ バ ー ト ・ の 村 の 近 く 室 で 行 き 、 遠 望 を ご ち そ う に な る 。 し た あ と 〒 、 今 日 の 旅 先 タ バ ス に 向 か う 。 ル ー ト 再 び ピ ル ジ ヤ ン ト に 戻 り 、 政 府 直 営 の 簡 易 ホ テ 砂 漠 舟 . 2 ' ' O m ロ 突 走 る 。 今 ま で 砂 漠 と い っ て も 石 一 ル に 泊 震 る 。 次 は ピ ル ジ ヤ ン ト 西 方 5 5 町 の 山 中 や ヤ ' ' 7 う ‘ 膨 圧 す る 荒 地 の 砂 漠 ば か り 経 験 し た が 、 夕 ’ とのタバス近くに城があるらしいことを聞いて 今回の調査期間には踏査の余裕がないため断念し、 ガインに引き返す。 進み、そこからピーフードへの山道に入る。起伏 の激しい山道を進むと広い河床へ出る。僅かに水 が流れていて、数センチの大きさの魚が群を成し ている。休憩して魚をすくって遊んでいると、突 見渡せど山ばかり。道は渓谷沿いや、山裾を抜っ 然誰か「蛇だ/」と叫墨l.5祁くらいのマムシ て走っている。進むとと56町、シャーヒンの村 のようだ。石を投げて追っていると、通りかかっ の手前で、シャーヒンの山城が見える。古くから た村人が捕えて殺した。幸いにして、第1次と共 街道が通っていて、昔は栄えた町だったらしいが、 に蛇にはこれが唯一の出逢いだった。サソリも第 今は幹線道路からはずれた山の中の村となってい 第4回の行動はガイン東方地域である。南へ 55肋行き、東へ道をとる。全くの山の中となり 1次のラマサル城の小さなサソリを1度見ただけ gdひときわ高く独立した岩山の頂部に城壁らし だった。 き遺構が見える。 ビーフードは周囲を低い山に囲まれた豊かな村 次のザルドゥーの山城を探しに行く。道がはっ で、村には大きな貯水池があり、これを畑に引い きりせず、丘をジープで上り突き進んでみるが遂 て野菜を作っている。緑の野菜と金色の小麦畑と に車が進めそうになくなり、ザルドゥーの村へ行 力詞照を成しながら村をとり巻いている。山城は く道を誤ったらしい。その日の予定時間が准〈な −69− − イ 〆 ‐ − るため、道を少し戻り次のウニークヘ向かう。東 56恥程渓谷沿いに、時には川の中を車は走るo − ー 一 一 へ続いている。 国境近くでは、アフガニスタンとの密貿易が盛 ウニークの村のはずれに低い小山があり、城壁がんで、その取締りのため外国人を行かせないOと 崩壊して遣っていた。のアーハンケランから国境室での間には、もう村 と の 村 の 隣 の 村 を 通 っ た 時 、 そ こ に バ ス が 来 て が な く 、 そ の た め と の 小 村 に 軍 隊 が 駐 屯 し て い た o いるのに驚かされる。聞けばピルジヤンドからア我庵はここの軍隊長に宛てて紹介状を貰ってき は 追 い っ か 式 こ う し た 交 通 . 運 搬 手 段 の 変 革 と を 予 め 警 察 に 提 出 せ ね ば な ら ず 、 そ の 書 類 に よ つ と な っ て 山 奥 に 蚕 で 入 り 込 む の だ ろ う 。 て 各 町 や 村 に 我 冷 の 行 く 日 と ル ー ト が 伝 え ら れ て 次 の 予 定 地 は ル ー ト が 異 る た め ガ イ ン に 戻 り 、 い た ら し い 。 逆 に そ の た め 、 提 出 し た 行 動 予 定 を 翌 日 今 度 は 北 へ 道 を そ れ て 、 エ ス フ エ デ 言 で 7 4 変 更 す る こ と は 大 変 困 難 と な り 、 も っ と 精 細 に 踏 恥 を 走 る 。 山 の 中 の 道 が 急 に 開 け 、 砂 漠 と い う よ 査 し た い 城 が あ っ て も 、 そ の 日 は ど の 村 に 、 泊 ま り 、 湖 が 干 上 っ た よ う な 真 平 ら を 白 っ ぽ い 砂 地 の る と い う 予 定 が あ り 、 そ こ に 夕 刻 ま で に 着 か ね ば 真中を進む。匿気楼が現れ、水面に緑に覆われた左らない。 村があるように見えるが、少し行くと消え、をた 城 が ど こ に あ る か と い う 聴 き 込 み に よ る 情 報 収 別 な 匿 気 楼 力 観 れ て は 消 え る 。 も し 疲 れ た 旅 人 が 集 は で き て も 、 そ の 城 に 行 っ た こ と の あ る 者 は 大 見 た ら 、 水 と 村 が あ っ た と ば か D 狂 気 の よ う に 歓 抵 い を か つ た 。 従 っ て 山 城 の 規 模 や ど ん な 遺 構 が ぶ だ ろ う 。 そ し て そ れ が 消 え て ど れ 程 落 胆 す る こ あ る の か は 、 我 々 が 自 分 達 の 眼 で 確 か め る し か な と だ ろ う 。 実 際 に は 行 け ど も 行 け ど も 、 水 も 村 も い 。 し か し 、 規 模 が わ か ら 左 い か ら 、 頂 上 に 登 る 見 え は し な い 。 の に 要 す る 時 間 や 調 査 に 要 す る 時 間 は 、 大 概 の 見 2 0 n l ば か り こ う し た 状 況 が 続 き 、 よ う や く 現 当 を つ け て お く だ け に 留 蚕 る 。 そ の た め 、 行 動 は 実 に 村 が 見 え て き た 。 エ ス フ エ デ の 村 か ら 遠 く 隔 し ば し ば 山 城 を 遠 く か ら 眺 め て 位 置 を 確 認 す る だ っ た 山 塊 中 に 山 城 が あ る 。 こ れ に 接 近 し て 望 遠 し け 制 約 さ れ た ン ズ を の ぞ く 。 時 間 を 急 ぐ た め 、 次 の 地 点 へ 向 う 。 ア ー / 〆 ケ ア 一 成 . h , , に 落 ち る 尾 根 の 末 ム ハ マ ッ ダ ア バ ー ド の 村 を 過 ぎ る と サ ラ サ ラ の 砂 端 上 に あ り 城 壁 か る り 取 り 囲 ん で い た 。 現 在 か ら 成 る 砂 丘 に ぶ つ か り 、 車 輪 が 砂 に 埋 含 b そ う は 国 境 力 ・ ' 且 い と は 言 え 、 か っ て は イ ス マ イ ル 派 は に な る 。 ほ ん の 僅 か の 距 離 だ っ た が 、 全 く の 砂 砂 ア フ カ ス タ ン 側 ま で 勢 力 を 誇 っ て い た か ら 、 こ 漠 で 、 風 を 受 け た 波 状 の 跡 が 砂 丘 の 表 面 に 見 え る 。 オ カ 東 端 の 城 と い う わ け で は な い 。 折 り し も 今 か 再 び 荒 地 の 砂 漠 を 進 み ア ー ハ ン ケ ラ ン の 小 さ な 村 ら 国 境 弁 越 え て ア フ ガ ニ ス タ ン に 行 く と い う 商 人 に 着 く 。 こ こ は も う ア フ カ ニ ス タ ン 国 境 の 間 近 で 、 か 、 術 を 積 ん だ ラ ク ダ を , 0 頭 あ さ り 連 れ て 通 り あ と 東 へ 6 0 血 で 国 境 と な る 。 コ ヘ ス タ ン 地 方 の 過 き 。 た こ の 辺 り や 、 ド ル フ 、 あ る い は モ メ ナ バ 山 地 は こ の 辺 り で は 平 原 に 変 り 、 ア フ ガ ニ ス タ ン ー ド で 見 か け た 人 庵 は ア フ ガ ン 系 の 民 族 の よ う だ 。 程そのとおり、周囲はすべて90。近い断崖でその をまとっている。これはイラン人の服装ではない。 頂上部と斜面に遺構が見える。そもそもケルドク アーハンケランから、との地平線の向うはアフ ーとはベノレシャ語で円い山の意。高さは後に本調 ガニスタンなのだという感激に浸りつつ夕暮れの 査の測量の結果約250獅、直径約420加のほ 迫った道をガインヘ急いで返す。 ぼ円形の独立した岩山である。 かくして、四回にわたる分布調査を終えたが、 ジープ・の距離メーターは、この間2,754随nの走行 や 一 一 司 睡 卓 壼 申 逢 う と は 、 思 い も ょ ら 友 か つ た o 我 庵 の ジ ー プ で に 、 も っ と 手 前 の 町 で 足 留 め さ れ て し ま う だ ろ う o さ え 時 速 2 0 n く ら い で 苦 疲 し て 走 っ て い る の だ 我 冷 に は い つ で も 、 ど こ で も 警 察 の 監 視 の 眼 が 光 か ら 、 と て も パ ス の 走 れ る 道 で は な い は ず 左 の に o っ て い た ら し く 、 行 く 先 と の 村 で 我 左 が 来 る の を し か し 近 代 文 明 の 波 は 、 ラ バ で 交 通 し て い た の で 知 っ て い た 。 と い う よ り 、 我 点 は 行 動 予 定 ル ー ト 男は頭にターバンを巻き、スカートのような衣裳 宅閃1144.JIF印 〆 サ ダ バ ー ド を 経 て 、 そ の ノ ー ガ ン ド の 村 蚕 で 定 期 た カ ミ い き 友 b 来 た ら 荷 物 を 全 部 点 検 さ れ 、 地 図 運 行 し て い る と い う o こ ん な 山 中 の 村 で バ ス に 出 や カ メ ラ は 没 収 さ れ る か も 知 れ な い o い や そ の 前 ー H 距離に及んでいた。今後の日程を検討し、明日い よいよガインを去ることにする。ガインを基地に 36日間の生活が終った。 メシェッドに戻る途中、カシュマルの西に城が あるという情報を得ていたので立ち寄る。カシュ 一 マルの西15mn程に山塊の独立岩に城が構築され ていた。あとは一路メシェッドヘ走る。 メシェッドではホラサン州知事やメシェット゚大 I 。 学にあいさつ、テヘランへは飛行機で帰る。ハイ ジャックが世界各地で頻発しているため、身体検 ゲルドクー城 査までされ、果物ナイフを取り上げられた。 琴 ガイドを雇い、城に登る。登り口は−ケ所しか なかった。そこだけは断崖が切れて、やや緩い斜 ケルドクー城へ 第二次調査隊のもう一つの主目標はテヘランか 面が裾まで続いている。頂上部には幾つもの建造 ら東約280町にあるケルドクー城の本調査だっ 物の破壊された跡が残っている。まわりは崖にな た。との城の航空写真があり、日本にいる時それ っているので城壁は必要ないため造られていない。 を見て、こんな山の中の城にどうやってアプロー チするのか、どんな調査方法が可能なのか、皆目 山地がカヴィル砂漠と接する末端にあり、裾野 まで車でアプローチできることがわかったので、 見当がつかなかった。そのため、8月下旬ケルド 調査は十分可能であることがわかった。このケノレ クー城の予察に出た。メシェッドヘの主要幹線道 ドクー城を中心に一群の山城があったと考えられ 路をセムナンを経てダムガンに入る。ケルドクー る。情報に基いて分布調査をしておくことにした。 城は国道から見え、ダムガンエリ15Knlテヘラン タ、ムガンからシャールードを経てメイヤメイまで 寄りのところから北に入り、8Kmの所にある。 98恥東へ行き、更に10mn進んでから国道を離 れ、南へカヴィル砂漠に入る。 このケルドクー城はモンゴル軍がイスマイル派 の本拠アラムート城を陥してからも、なお19年 東南方向に60血カヴィル砂漠に連なる低い 間にわたり攻略できなかった程堅固な城だったと 山脈が砂漠と接する山際にガレバーラー村に行く。 史料にあり、またこれを攻略していたフラプのも この村の近くに山城があるという情報はテヘラン とへ中国人の使者がやってきたが、彼はこの城を で得たものだったカヘ村人に聞くとはっきりしな 見て「仰げば帽落っ」(見上げると帽子が落ちる い。しかしカヴィル砂漠の北緑に沿って、ゲルド 程険しくそそり立っている)と記している。なる クー城からコヘスタン地方の諸山城を結ぶ点とし 一 −71− −70− ■■■■■■■■■■■■■■ 凸一一=・一 一一 ‐ーー=−−‘‐一一_一ー 一 ーー‐‐ ー‐‐一一ー一 -.-----マーニーー=-----一一一一.-----.- 一一.−−−‐ ■ーー‐一‐一一= ・ 一 ■ ユ ー − “ 『 r ー 一 一 = = て、この付近に城があっても追いはずだ。考古局の協力者ヤーシーさんは、ガイン城の時 このような関連において、ケルドクー城とアラは町に留蚕,、我々の食料、人夫の調達を担当し ムート溪谷の山城群の中間に山城があっても良い。たが、ここでも、ダムガンの町に滞在し、食料買 セムナンから80h北西のフィルーズクーの町へ出しや人夫の調達をして戴く。食事は近くの村の 向かう。町で聴き込みによる情報収集から、19村長宅で作ってもらい、朝と夕方運んでもらったo n l 東 に ラ ー ジ ェ バ ル ト 城 が あ る と い う ○ 渓 谷 の 道 ヤ ー シ ー さ ん は テ ヘ ラ ン で チ ャ ー タ ー し た ジ ー プ ・ か ら 少 し 上 っ た 山 中 に 独 立 し た 小 さ な 岩 山 が あ り 、 で 、 毎 日 ダ ム ガ ン か ら 村 長 宅 と 我 左 の テ ン ト を 往 頂 部 の 平 担 な 面 に 城 壁 を め ぐ ら し た 建 造 杜 が 破 壊 復 し 、 ト ラ フ ・ ル カ 起 ら ぬ よ う 渉 外 役 を 一 手 に 引 受 〆 され±に埋含っている。これ以外にもこの渓谷沿け努力されたo い に 山 城 が あ り そ う だ が 、 情 報 は 得 ら れ な か っ た 。 調 査 は 遺 構 を 平 板 測 量 し 、 平 面 図 に 城 の 輪 廓 と デ マ バ ン ト 山 ( 5 , 6 7 1 加 ) の 冠 雪 し た 富 士 山 と 共 に 記 入 し て ゆ く o 写 真 班 は 遺 構 の 撮 影 、 . ま た 遠 よ く 似 た 秀 峰 を 車 窓 に 見 な が ら 予 察 行 を 終 え テ ヘ く か ら 山 城 の 写 真 を 撮 る た め 、 ロ バ で 出 か け た り ランに帰る。の毎日だった。城はカヴィル砂漠との接点にある ケ ル ド ク ー の 本 調 査 は 秋 も 深 蚕 つ た 1 0 月 下 旬 た め 、 城 の 上 か ら 見 渡 す と 、 砂 漠 は 白 い 海 の よ う の こ と だ っ た 。 器 材 を メ シ ェ ツ ド か ら 鉄 道 便 で タ ゙ に 見 え る 。 南 は 数 百 キ ロ に わ た っ て 平 担 な 砂 漠 が ム ヵ ン 駅 止 に し て 送 っ て あ っ た 。 イ ラ ン で は 鉄 道 続 く だ け で 、 そ の 間 全 く 村 も 道 も な い o は あ 室 , 発 達 し て い な い 。 石 油 が 豊 富 だ か ら 車 の 1 0 月 3 0 日 の こ と だ っ た 。 朝 か ら く も り 空 だ 方 が 急 激 に 発 達 し 、 メ シ ニ ツ ド と の 最 も 主 要 な 鉄 っ た が 、 昼 食 後 風 が 吹 き 出 し て 、 砂 漠 の 砂 嵐 が 空 道 さ え 一 日 に 一 往 復 し か 走 っ て い な い 。 ダ ム ガ ン を 灰 色 に 覆 い 出 し た 。 危 険 を 感 じ て 早 め に 下 山 す の 駅 は 西 部 劇 に で も 出 て き そ う な 駅 で 、 プ ラ ツ ト る 。 麓 近 く 、 ま で 下 り た 時 、 突 然 雷 雨 が 激 し く 降 り ホ ー ム も な い 。 駅 員 は 二 人 し か い な か っ た 。 列 車 出 し 、 迎 え に 来 て い た ジ ー プ に 駆 け 込 む 。 テ ン ト は チ ェ コ ス ロ バ キ ア 製 の 立 派 な 機 関 車 と 客 車 が 走 に 戻 り 、 濡 れ た シ ャ ツ を 取 り 替 え る 間 も な く 、 風 っ て い る 。 鉄 道 の 利 用 者 は 少 く 、 た 蚕 た 蚕 テ ヘ ラ は 吹 き 荒 れ 、 テ ン ト が 飛 ば さ れ そ う 。 第 二 次 隊 は ン 駅 に 行 っ て み た 時 も 、 駅 は カ ラ ン と し て 、 待 合 カ マ ポ コ 形 テ ン ト に 替 え 、 風 に は 強 い は ず だ が 、 室 に は 何 人 か の 乗 客 が い た だ け だ っ た o も つ と も 、 支 柱 が 折 れ そ う 。 全 員 支 柱 に し が み つ い て テ ン ト 昼 は 暑 い の で 、 汽 車 は む し ろ 夜 運 行 す る ら し く 、 を 守 る 。 雨 も や を な い o l 時 間 近 く 続 い た 雷 雨 と 朝 方 メ シ エ ツ ド 近 く で 前 夜 テ ヘ ラ ン 発 の 汽 車 に 出 砂 嵐 は や み 、 と の 〃 け 公 了 牙 』 ヘ み が 激 し く な っ た o 逢 っ た 時 、 客 車 に は か な り の 人 数 が 見 え た こ と も 翌 朝 、 〕 堂 / ノ ‘ ’ 『 1 噛 祁 を 白 く 覆 っ て い ある。た。いl!"f・f,!’1、てくる。 ケ ル ド ク ー で は 山 城 内 に テ ン ト を 設 営 せ ず 、 3 ケ ′ ‘ ′ 城 』 9 1 1 1 伽 」 ” ↑ ! } り l 間 中 、 本 田 隊 長 K m 手 前 の ガ ナ ー ト ( 地 下 水 路 ) の 水 が 地 上 に 出 る と f ノ ! ! i t 車 へ 2 0 K n l 御 て あ る と い う 情 報 を 得 と こ ろ に 設 営 す る 。 こ れ は ケ ル ド ク ー 城 に テ ン i 、 メ ー ノ ィ ヵ ー ル 城 と マ ン ス ル ク ー 城 を 確 認 に 行 < 。 設 営 に 向 く 平 担 な 場 所 が な く 、 重 た 突 風 が 吹 い た j j i l l 』 城 の 規 摸 は 小 さ い が 、 建 造 物 の 破 壊 が k 残 さ れ て い る と い う 。 た 。 ア ラ ム ー ト の 場 合 も 麓 の 湧 水 の 所 に 設 営 し 、 ケ ノ ク ー 城 は 、 難 攻 不 落 を 誇 っ た 城 だ け に 、 毎 日 山 城 に 登 っ た が 、 こ こ も 方 法 は そ れ と 同 じ で 各 種 の 建 造 物 、 設 備 は 優 れ て い る 。 貯 水 槽 は 1 7 ある号腕×4‘碗、深さ5碗もの大きをものが、数ケ所あ 場合、テントごと飛ばされる危険があるためだつ り、また崖上の斜面の下方には融雪や雨を貯める ダム状の貯水設備もある。城の本丸とも言うべき の街外れにあるが、山城を含む一帯力琿の駐屯地/ 頂上部の建物は破壊が著しいカヘ幾つもの部屋の になっており、立入禁止のため遥か遠望すな以外 跡が平面図に記入された。こうした大規模な山城 になか.った。報告書に主れば、規模の大きな城で で前面に平地の村を控えている点では、ガイン城 ある。 と良く似ている。しかしながら、イスマイル派が イラン中央部にはこれら以外にもあるかも知れ 得意としたケリラ戦術には、ア・ラムート城やラマ・ ないが、情報は得られなかった。このイズファハ サル城のような山中奥深い渓谷の城の方が立地条 ーン近郊の山城を最後に第二次隊は調査のす学-て 件はよかったのだろうか。 を終えた。 アルポルズ山脈に雪が見られるエうになった 11月初めテヘランに戻り、次の行動を準備した。 一 ヘ ー ー アフガニスタン側にもイスマイル派の山城が分 布しているであろうことは十分考えられる。その ため、隊員加藤と筆者はイランを終えるとアフガ イラン中央の山城 今回の調査の最後にイラン中央部の分布調査が ニスタン入りし、カープノレで情報収集に当った。 計画してあった。中央部といっても、当時のイス できれば実際にイラン国境に近い西部地方に行き マイル派の本拠アラムートを中心に見れば、むし たかったが、今回は時間がなく、またその地方に ろその勢力圏の南限と言って良い。同時に、ハサ ンーイーサッバーフがアラムートに本拠を構える 入るのが政治的に困難なため情報だけにとどめた。 前に布教活動していた地方でもある。 も何の情報も得られず、またイス鞠ル派の研究 テヘランから南へ430血、サフアピー朝の首 都であり、日本で言えば京都に当る古い都である イスファハーンの近くに、イスマイル派の城が知 られている。シャーディズ城とハーンラーンジャ 者もいないため、何もわからなかった。アフガニ 谷は極めて難しい。同様にイラン国境もメシェッ ン城である。前者はイランの研究者が調査し、報 ト鯵とヘラートを結ぶ幹線以外の所で国境を越えよ 告書が刊行されたばかりであることをテヘランに うとしたら大変なことになるだろう。 だが実際には、カーブル博物館、カープル大学で スタンでは政府が立入りを許可する地方と禁止し ている地方とがあり、ソ連国境地帯やワッハン渓 今回の調査隊のもう一つの別動隊が、やはりイ 来て知った。蚕た後者はイギリスのイラン研究所 が調査し、昨年報告がその研究所紀要に載った。 ランを終えるとトルコ入りし、トルコ東部ヴァー 従ってこれらの山城は見に行くだけだった。 ン湖周辺にあると言われている山城を探る予定だ テヘランを南へカウィル砂漠の西縁に沿って進 む。ゴムからは山の中の道となる。イスファハー った。しかしこれもトルコ政府から東部地域は立 入りの許可が出ず、次回に検討することにした。 ンはテヘランと比べ、ピルもなく、緑が豊かでい お わ り に かにも古都に言うにふさわしい。 山城の一つハーンレンジャンは郊外へ南西45 イラン調査の記録を極めて荒削りに綴った拙文 町の所、ザャント.ルード河に近い平原に独立した は、これが調査の報告そのものではないため調査 一 岩山の頂部を城壁で囲んで構築されている。秋深 隊が何をしてきたか、イランの歴史と風土の中で く、河には水流豊かな流れと、河岸には紅葉・黄 イスマイル派の山城はどう位置づけられるのか、 葉の林が拡がっている。 ということを知ろうとする者には役に立ち得ない −73− −72− I もう一つの山城シャーディズはイスファハーン ー_=て-------__ = ・ 評 ■ ■ 一 七 r一〆 : かも知れない。 しかし大急ぎでたどった調査隊の行動ルートと 山城の位霞、立地条件、山城の規模と現状の記述 の合い間合い間に記した調査方崖探検・調査に echDIARY 何が必要か、というイランでの経験からの記述が、 未知の土地に行こうと計画を練っている探検部の 諸君の参考になれば、本文の意図は尽くされると 言えよう。 一 1965年度(前期プレジデント松立紘行) (後期プレジデント菊池俊彦) 稚内一上勇知一兜沼一床内一富徳一 4月80日∼5月5日春山合宿(大雪山愛山溪L 町)大湾平野直田。 『 音類一ペンヶ沼小屋一天塩川一天塩 6月3日∼8日トムラウシ(天人峡−1.800 12月29日∼1月8日増毛山道より暑寒別岳 ”台地一小化雲一化雲一トムラウシ (札幌一滝川一幌一増毛山道4鋤 ー南面テラスー停滞一テラスートム 呪地点吹雪−580畑地点一浜益御 ラ化雲鞍部一天人峡一札幌)L北原 殿一幌一滝川一札幌)L東郷早川 野崎西尾山口松奉 野崎後藤。 ’ 6月4日∼6日クッタラ湖々沼調査(札幌一ク 8月12日∼15日ニセコ山スキー(登山口一 ッタラ湖畔一対岸一湖畔一札幌)L 五色温泉一ケレンデーニトヌプリー 松立平野直田小椛 ワイスホルンの分岐の沢一札幌)L 平野一高和 7月9日∼18日知床半島学術調査A班前田 1966年度(前期プレジデント野崎義行) 松本直田小林B班川成菊地 (後期プレジデント平野和夫) 松立。 7月19日∼26日知床周辺総合調査L菊地 I 4月30日∼5月5日春山合宿(愛山溪)。 11 SL斎藤地質班三木北原吉 6月1日∼6日十勝川源流予察領札幌一新得 田。湖沼班前田松立山ロ。動 一あけぼの橋一ヌプントムラウシ川 物班早川、西尾松本。地理班 斎蔵菊地直田。行動要約(羅臼 一鉱山小屋跡一乙女の滝一松葉の滝 一大ガレの下でキャンプー上部ルー −小沼一すだれの滝一地獄谷)L野 ト偵察一知床池一雨の為停滞一第1 キャンプ地一ウキナベツ川河口一合 崎直田関谷小林小粥 8月22日∼24日ウトナイ沼一勇払原野ポー 泊一コンブ小屋泊一合泊一羅臼)。 ト行(札幌一日島湖前一美々川一ウ 一ナガハン平一第一沼一沼の原入口 7月81日∼8月12日北桧山遺跡発堀調査 トナイ沼一勇払川一勇払一千歳一鮭 L菊地松立石川直田後藤。 採卵場一長都新水路一千歳川橋一札 幌)L野崎直田中島本郷。 9月4日∼12日十勝川上流踏査L野崎 後藤石川(忠別小屋で台風に適遇)。 ll月19日∼28日十勝岳スキー漫歩(札幌 10月1日∼8日暑寒別岳(札幌一雨館一円山 荘一南暑寒別岳一暑寒別岳一暑寒別 荘一山の神一増毛)小林関谷。 一白金温泉一白銀荘一三段山一白銀 I 荘一繩)2,,22日悪天の為十 10月8日∼10日芦別山登山(札幌一山部一 勝岳頂上断念、雪少し大湾北原 芦男幡=新道登山口一山部一札幌) 平野直閏松泰 小森服跳 ’2月25日∼1月4日サロペツ原野縦断(南 Ⅱ | 罰 ’| −74− ’ .‘I ↓ : : −75− : ! I 乳 : . 』 Ⅱ ' 0 ’‐iI ’・,i 〃 則 i i……… ! # │ │ j 11月1日∼7日裏大雪山行(札幌一十勝三段 告ァ・マー、−ヨーー可凹:一一一二尾_りぞ垂一一一・・一三F‐令= l ; X=_…一= 一■−−一■』9=-■凸三,=一--.-_。= ∼ = T ロ … 』 ■ _ ■ = 由 己 ■ 圭 一 一 ー ー 凸 画 一 ■ 一 J . . ’ ‐ サ 一 J ョ 部 : 上にキャンプ.−遠根別一下山)L直 −杉沢出合-1,600mコルー天狗力岬一キナウシ岬一神恵内一岩内一 田、小林、北川、片谷、熊木。 岳一温泉岳一岩間温泉への沢)L北札幌)L関谷服部片谷大野侭 2 月 1 2 日 百 松 沢 ス キ ー 登 山 ( 札 幌 一 二 股 一 出 6 月 3 日 ∼ l l 日 日 高 ( 才 暇 一 帯 広 一 大 樹 一 二 合 一 コ ル ー 頂 上 一 コ ル ー 出 合 一 二 股 ) 股 一 ボ ン ヤ オ ロ マ ッ ブ 岳 一 ペ テ ガ リ L平野後藤。 幌岳一札幌岳登山口一定山溪)中田 11 1 9 6 7 年 度 ( 前 期 プ レ ジ デ ン ト 直 田 恒 夫 ) 6 月 1 6 日 ∼ 1 8 日 漁 岳 ( 札 幌 一 定 山 溪 − 豊 平 (後期プレジデント松本亘) 峡取水口一二股一空沼入沢合流点一 第1の滝一第2の二股一第2の滝一 山頂)関尾。 山 口 一 半 月 湖 一 ビ バ ー ク < 9 0 0 m 6 月 2 4 日 ∼ 2 5 日 5 0 I 肋 遠 足 ( 札 滉 ー 島 松 一 ll月8日∼5日暑寒別岳、L関谷、本郷、原、 大野録 ll月11日∼12日無意根山(才l幌一登山口 石町一ヒュッテータ張岳一金山登山 一小屋一札幌)平野、松本、中田、 口一金山)中島。 関尾、熊木水谷。 ll月28日∼26日十勝岳スキー登山、L直 田、松本、中島、本郷、片谷、三井、 関尾中田。 1月8日 13日狩場山、L平野、関谷、佐蔑 曾蕊 8月21日∼29日知床半島北岸踏査(岩尾別 一知床林道一イタ・シュベツ川一知床 大橋一流氷偵察一イオウ岳登山一岩 尾別)L平職関尾他。 1968年度(前期プレジデント本郷輝明) (後期プレジデント片谷恒三) 5月1日∼5日春山合宿(愛山溪)。 5月18日∼19日十勝沖地愛後の芦別岳霞災 鯛査行(山部一登山口一雲峰山一芦 別岳一山部)。片谷d 土屋、佐藤。 ll1! 恵 庭 一 千 歳 一 支 笏 湖 畔 * I J R ) L 松 本SL直田ミ井関尾原b 羅 夫 一 札 幌 ) L 中 田 関 尾 大 野 鼠 7 ) 1 1 5 日 ∼ 2 0 日 大 雪 散 歩 中 島 。 7 月 ’ 5 日 ∼ 2 1 日 春 苅 古 丹 川 ( 標 津 一 春 日 大 1J ’1198日 橋 一 二 股 一 春 苅 古 丹 川 沢 登 り − 1 0 6 0 ∼ 1 1 6 0 " 頂 上 の コ ル . 屋 根 ’ p Il l . i l 1 # 肘 一■も2ー_ L中田、関尾” 9月4日∼7日暑寒別岳(滝川一南幌加一鞍部 一頂上一タ・ムーオ畷)三井。 9月29日∼10月7日稚内市声問遺跡、三井、 ンサヌシべツ川の砂地野宿一アボイ ー 一 口 全 シュベッーウトロー岩尾別一羅臼岳 尾。 野。 鯉 根山一長尾山一無意根小屋一札幌) 9月2日∼6日裏大雪山行L松本、大野、関 木水谷。 # I 一無名滝一カムイワッカ泊一イダツ 一頂上一札幌)三井。 丼 二 股 一 定 山 溪 ) L 直 田 関 谷 星 6 月 2 2 I I ∼ 2 8 日 ア ポ イ 岳 ( ア ポ イ 山 荘 一 ポ #::輪・自白気・桑辮至..、一・:孔...咄:L、..:罰 根小屋一無意根山一中岳頂上一無意 8月25日∼26日不風死岳(札幌一第1の滝 チア小屋一桂岡一札幌)L中田熊 −76− ャ番屋一シシャ川一ウプシノツタ川 新得)L中島、片谷、大野侭関尾 4 月 2 8 日 ∼ 5 月 8 日 春 山 合 宿 ( 愛 山 溪 ) 。 6 月 1 7 日 ∼ 1 8 白 井 岳 ( 札 幌 一 桂 岡 一 銭 函 峠 5 月 2 0 日 ∼ 2 2 余 市 岳 ( 札 幌 一 白 股 一 一 ヘ ル ベ チ ア 小 屋 一 高 原 橋 一 へ ル ベ 左 股 川 出日 合い − 沢 登 り− 1 2 6 8井 碗二 I ll月3日∼4日無意根山(札幌一薄別一無慧 7月80日∼8月5日岡山県洞穴踏査(日本ケ ーピング大会)曾我、大野録 8月24月∼27日十勝川川下り(十勝二股一 L松本服部小林原b 上一オプカル石一川白一珊内一マン 一テッパンペッ川一ルシャ川一ルシ …一 曾我関尾三井。 沼前岬一西の河原一シシャモナイ滝 関尾。 石橋。 頂 上 一 常 次 沢 一 札 幌 ) L 直 田 松 本 頂 上 一 オ コ タ ン ペ 湖 一 支 笏 湖 一 札 幌 ) 6月2日∼4日積丹(札幌一種丹岬一神威岬一 10月15日∼28日枝幸町目梨泊遺跡、服部、 7月28日∼29日斜里岳(羽衣の滝一方丈の 滝一尾根取り付き一頂上)L関尾、 関尾。 に迷いピバークーヤブコギ下山一比 オケツチウシーポトピラベツ川一番 7月24日∼25日夕張岳(野幌一鹿ノ谷一明 空沼登山口一空沼小屋一空沼岳一札 付近>一火国壁一山小屋一下山一道 イB遺跡(清浜)土星 橋、水谷。 3 月 1 2 日 ∼ 1 5 日 ( 札 幌 一 桂 ケ 岡 6 月 1 0 日 ∼ 1 1 日 空 沼 ・ 札 幌 岳 縦 走 ( 札 幌 一 ル ベ チ ア朝 ー里 吹岳 雪の 為 塗 中 で 引 き 返一 しへ 5月21日∼22日羊蹄山(倶知安一比羅夫登 ー岬小屋一番屋泊一アウンルイ川一 一岩尾別)L平野、服部、関尾石 岳)L北原、直田星野。 −1380娩沢源頭一沢出合い−白 10月8日∼ll日稚内市宗谷村オンコロマナ 屋泊一カシューの滝一タコ岩一番屋 パーザッテルー頂上一シルパーザッナイ沢一飯場一沢登り−右沢登クー テルー登山口)L平野直田掠尾。京極一札幌)L東郷中田水谷 12月20日∼25日冬山合宿(ニセコ)。熊木石橋泉谷。 4月28日百松沢(札幌一源人沢源頭一百松沢 昼峠一嬢昼一厚田)関尾、熊木。 7月15日∼29日知床半島北岸踏査(ウトロ 』 ‘ 月 』 ‘ … 派 冥 需 _ 登 山 鯨 人 南 _ シ ” ‘ 川, 鵡 襄 i ( * " _ " _ 、 雪穴一朝里頂上一ヘルベチァー桂ケ 岡一ホ鵬)L平野直田服部。 沢一ルーラン沢一太嶋一内の沢一濃 関谷、本郷、三井、原、星野。 本郷。6月2日∼5日雄冬海岸(滝川一床内一千代志 ll月19日∼28日十勝岳スキー登山L北別一雄冬山道一灯台一雄冬一岩老一 原 平野直田高木服部中島目方泊一歩古丹)L中島三井関 小林。 I 一安瀬一滝の沢山道ロー滝の沢一大 7月15日∼29日知床半島、金山川L松本、 原早川直田佐藤小林関谷原b 一 lO月8日∼9日濃昼山道(札幌一石狩一厚田 10月7日∼10日積丹岳.余月幅(札幌一美 5月25日∼27日余市岳集中登山、左股川パ 国一種丹岳一余別岳一ポンネアンチ ーティ(白井二股一沢登り−湿地帯 山一7つ沼一尾根一余月幡一西江一 一林道一札幌)L関谷、佐藤、関尾 余別一ホ脇)L松本、直田、関谷、 熊木、出口、細徐金大脇白井 星野。 川本流パーティ(札幌一豊羽元山一 −77− I I 尾根コースー余市岳一朝里岳一へル 泊一ウトロ)L関尾、細谷、兼間、 ペチアヒユツテー桂ケ岡一札幌)L 飽津。 中田、原橋本。 一 I ウシの番屋泊。5日三角岩の番屋泊。 6日滝の番屋。ウ日吹雪のため癖 兼間。 上二股一分岐点−セツ沼カールー幌 8日イタ、シュペツo9日岩尾別。10 尻岳一セツ沼カールートッタペツ乗 日帰オし 幌一茂岩橋一石山一常盤一ラルマナ イ川の橋一オコタンペ湖一オコタン L東郷、SL関尾細谷、大脇o先 発隊、佐藤、片谷。 12月冬山合宿(無意根山)。 (定山渓白糸の滝一へルベチアヒュ 1月24日∼25日春香山(札幌一桂ケ岡一道 ッテ一朝里峠一朝里川温泉一小樽一 ケ岡一山の家一奥手稲一天狗山尾根 一鎮函一札幌)L上野、遠藤、山荘。 2月20日∼8月10日流氷期の知床半島北岸 4Fも旧BT柵咀Ⅱ00咽ljqⅡ831lfI0J■召●○日■9個6口Ii月也呵■83むりlJ0I1bI5もJ6jljb弓1dBJⅡ■IBPIIiJ19rHqP8p4 一 古 平 一 美 低 I I ' │ -楡 茶 屋 一 丸 山 一 野 塚 一 岬 一 札 幌 ) L 三 井 、 原 、 相 原 、 兼 間 、 金 、 上 野 、 諸 沢 、 近 藤 、 安 武 。 l i ' ' l l l l ∼ 7 日 暑 寒 別 岳 、 増 毛 山 道 、 L 関 尾 、 島根、諸沢。 l i I 1 4 1 ! 、 l O 日 根 釧 、 畷 周 ピ ッ チ 、 三 井 、 石 。 6 月 2 9 日 ∼ 8 0 日 発 寒 ノ I I ∼ 滝 ノ 沢 ( 平 和 の 滝 往復踏査(20日札幌一網走。21 7月8日∼5日100恥”遠足札幌一洞爺湖 24日ウンメーン岩一ルシャ18号 番屋治625日チャカパパイ川一滝 −79−二 剥群鞍泌端 19■O0dFB I 上野、岡調 ベツ川。28日カムイワッカの番屋 茜------、…‐‐"、聖--←‘.-.--,.-=---∼_‘‐ー_‘,.=‐_‐∼ ー廷十一一一 5月81日山菜苅り(宮城の沢)関亀新喪 I 日宇登呂一岩尾肌22日イダシュ − ← − 室呈サーー宝圭h、一一 祝津一小赤岩山一赤岩山一祝津)L 諸沢、近藤、関息相原、兼間、新 喪上野、佐藤、土谷、岡窄宗、 石糸井林熊本、安武、米田。 2月7日∼8日奥手稲スキーツプー(札幌一桂 Lr9l︲ & 一百松沢南峰一本峰一宮城の沢一平 和の滝←札幌)L上野、遠麗山荘b 5月23日∼24日50町遠足、定山溪一祝津 荘 。 4 月 : 1 ( ) I I r ' i l r , ! ' / f 「 │ 合 《 , . ・ i ( 愛 山 溪 ) 。 3 月 当 3 1 1 : 4 t i l l i 巾 、 神 j 《 " 〃 5 0 K m ( 余 市 lIl 4−. 唯 L , , 5月21日百松沢山登り(札幌−西野一常次川 津、井畑、諸沢、岡本、宗。 新銀嶺荘一札幌)L上野、遠藤、山 1 9 6 9 年 度 ( 前 期 プ レ ジ デ ン ト 勵 君 大 治 ) −78− −毛&’ ーシシャモナイー札幌)L三井、飽 L平野、大野、佐藤、宗。 2 月 2 1 日 ∼ 3 月 2 1 日 知 床 半 島 全 域 流 氷 原 、 慨、けII洲ノ卜佐藤進) 屋泊一ポロモナイーウキナベッーセ セキルサ川一ラウス温泉一木下小屋 一札幌)上野、遠藤。 10月25日∼26日ヘルベチアヒュッテ 津 。 8月10日∼20日知床半島夏の荷揚げと南岸 、偵察(漁業組合交渉。ウトロ海岸で 野宿、A班ルシヤ18号番屋、林 遁の回を確認、B班オケッチウシ熊 谷番屋、大鱗丸中で合流一岬番屋一 赤谷一男滝一番星泊一モレイウシ番 5月1日∼6日春山合宿(愛山溪)。 5月9日無意根山湖探り(札幌一豊羽元山一 千尺高地一湖一千尺雛h-豊羽鉱山 10月11日∼12日50町札幌∼支笏湖(札 口一札廃)L佐藤、本郷、服部、飽 飽鵠井畑。 米田、石井。 L直田、原、飽承兼間、上野。 600晩地点−900m地点一登山 ングのための予察、L本郷、三井、 4月29日百松沢スキー練習L上野、岩城、 9月18日∼21日秋の大雪山系沢登り 1 月 7 日 ∼ 9 日 積 丹 岳 ( 札 幌 一 積 丹 岳 登 山 口 一 滝一ソエマツ直登沢二股一中の岳出 合一本流出合一林道)L小林、佐藤。 7月15日∼19日余別川逆行と熊のトラッキ 新妻、賭沢。 ペ荘一札幌)L直田、原、上野。 関尾、大野。 440mp一無名沢一雪渓二股一小 4月28日∼26日支笏湖畔「熊の穴」捜し との分岐点一二股一山頂一オコタン 1 2 月 2 2 日 ∼ 1 月 5 日 サ ロ ベ ツ 原 野 櫓 旅 行 、 6月19日∼27日日高カムイ岳(林道終点一 ,第8二股一尾根中間点一カムィー1, (後期プレジデント三井公彦) 9月2日∼4日漁岳(札幌一定山溪−空沼入沢 橋、大野、中田。 頂上一無意根小屋一札幌)L中田、 熊木、井畑、細谷、飽津、東郷夫妻、 19.70年度(前期プレジデント三井公彦) 千代一帯広)L中田、熊木、上野。 無意根小屋一札幌)佐藤、熊木、石 早川。 憾.市:、画き.ロ呉 越沢一分岐一ピリカベタヌ出合一八 e Q 11月23日∼24日無意根山(札幌一薄別一無 極一旧飯場一第1の沼一第2の沼一 1 上一豊羽元山一札幌)L中田、関尾、 エサマン比カール分岐手前露営地一 関尾。 6月6日∼9日ペーペナイ川沢上り(札幌一京 1 3日文吉湾の番屋泊。4日オケッチ ”露営地一デポ地一稜線直下停滞一 ll月17日百松沢L平野、原、三井、中田 橋口。 1 露営地一カール直登沢右股1,100 中田、関尾、金、七海。 一札幌)L関尾、橋本七梅、相原、 ’ 経て文吉湾の番屋泊、2日知床岬。 北川。 基地跡一宝島海岸一美国一札幌)L 6月も日∼8日狩場沿岸踏査(第2栄浜一オコ ツナイーツブダラケー滝床前一長浜 I 27日休息日。28日ポロモイの番 屋泊o8月1日メガネ岩、シシ岩を カク出合一ハノ沢出合手前700m ll月9日∼ll日積丹岳(登山口一レーダー L直田、本郷。 ピラベツ川一オケッチウシの番屋。 峰頂上一うぐいす谷一下山)L片谷、 ll月2日∼3日無意根山(薄別一テラスー頂 6月2日∼8日第8次十勝川上流地域踏査行、 稜線一札幌)L直田、関尾、岡本、 7月18日∼26日北日高山行(中札内一コイ フレ小屋一うぐ.いす谷一半面山一雲 一上札内一中札内一広尾一アボイヌ プリ)片谷、北川、大野鼠 の番屋。26日カシューの滝一ポト 安武。 10月30日∼ll月2日芦別岳(山部一ユー 6月1日∼7日日高1,889加峰(中札内一札 幌川コイカクシュ札内沢一露営地一 奥二股一コイカクシュ札内岳頂上露 営地一ヤオロマツプー1839加峰 一ヤオロマツプー奥二股一札内二股 −ダムサイトー第1の沢一分岐沢一 (札幌−石山通一定山溪−中山峠一 喜茂別一留寿都一観湖台一展望台一 洞爺湖温泉)諸沢、熊本、田原、井 村、石井、五十嵐。 11 r−−f 財 7日釧路湿原中央部横断(幌呂川、 8月4日∼ 雪裡川右岸、久著呂川放水路と釧路 川の合流地点を経、釧路川右岸、細 8月8日∼ ’ 五十嵐。 9月18日 一 50町マラソン札幌一支笏湖(札 12月26日∼1月1日天塩山地冬の旅(ピツ 小樽茶屋-100077@付近スキー− 幌一石山通一オリンピック道路一孵 化場)L石井、五十嵐、池田。 1 0 月 1 0日熱気球2号機飛行(繋留)(北大 下山)L燭蕊G筐)、相原、兼間、先川o 2月7日∼12日中山峠∼へルベチアヒュッテ スキーツアー(札幌−中山峠−92 第1農場)早川OB,飽津、原、井 畑、横山、安武、土谷、佐々先生。 1 0 月 1 0日無意根山(札幌一豊羽元山一千尺 高地一沼一山頂一薄別一オ脇)L関 I 尾、兼間、橋本、佐藤、石井。 第1農場)早川OB,飽津、井畑、 横山、安武、米田、土谷、藤田。 10月21 日∼28日釧路川下り(屈斜路湖水 落、眺湖橋下発一弟子屈一標茶一細 ’ 1 岡一釧路川河口)石井。 1 11月 11月2日 室)先川。 11月8日 (後期プレジデント飽津博史) 4月80日∼5月5日春山合宿(愛山溪)。 5 月 1 2 日 ∼ 1 8 日 1 2 0 I 伽 遠 足 ( 札 幌 一 茨 戸 丸山、伊藤。 12月25日∼1月2日サロベツ原野(徳富一 丸山、三井、三井みどり、近臘 7月22日千歳川下り(孵化場一市内鉄橋)東 サロベツ川一ベンケ沼一ペンケ沼小 屋一サロベツ川一パンケ沼小屋一長 沼一パンケ沼小屋一音類一パンケ沼 小屋一サロペツ川一天塩川一下沼一 札幌)L関尾、須賀、宇都木、増田。 別)L伊藤、丸山、増田、東。 12月25日∼1月3日サロベツ原野(ホU混一 豊富一ペンケ沼小屋一下サロベツ原 飛行技術確立L飽津、井畑、横山、 安武、伊藤、佐藤、杉本、山本、野 野一パンケ沼一パンケ沼小屋一音類 崎、三井みどり。 一パンケ沼4厘一天塩川一針葉樹林 7月28日∼8月10日十勝川下,、L三井、 丸山、東、近藤、三井みどり、伊藤。 10月9日∼10日春香山(札幌一桂ケ岡一道 石狩町一厚田一発足一青山中央一当 新銀嶺荘一山頂)三井、三井みどり、 東、増田、丸山、伊藤、近藤。 帯一長沼一パンケ沼一鱈/ケ沼小屋 一下沼一札幌)禾臓、斎藤、近藤。 2月20日∼28日ニセコアンヌフ・リスキー登 山、増田、利満、体斎鹿近藤。 8月27日∼4月5日知床硫黄山(ウトロー羅 ll月8日∼4日余市岳(札幌一白井二股一林 道一山頂)L関尾、井上、東、丸谷、 近藤、丸山、増田、宇津木、仲、利 丸山、近藤。 5 月 2 0 日 山 菜 苅 り ( 宮 城 の 沢 沿 い ) L 関 尾 、 三井みどり、米田、伊藤、増田、仲。 光。. 5 月 2 1 日 ∼ 2 8 日 漁 岳 一 オ コ タ ン ペ 湖 ( 札 幌 熱気球2号機飛行(西長沼)初自由 飛行失敗、早川OB,原、飽津、井 富一落合一丸山一豊富一才幌)東、 7月18日千歳川下り(孵化場一鳥柵舞橋)東、 7月25日∼8月7日熱気球飛行(十勝平野) 飽津。 2発電所一第8発電所)三井、東、 ∼5日根室めく・り(札幌発一初田牛 一海辺−滝口牧場一落石一昆布盛一 西和田一温根沼一春国岱一東梅一根 12月25日∼28日サロベツ原野(和混一豊 丸山、三井、近藤。 ヒユツテー春香山一札幌)L三井、 十勝岳スキー飽津。 ’ 池田、仲、丸谷。 7月25日千歳川下り(孵化場一市内鉄橋)東、 5 月 1 6 日 千 歳 川 下 り ( 千 歳 川 第 1 発 電 所 一 第 10月25日無意根山L三井先川。, 東、近藤、伊蕊増田。 丸山、三井、近藤。 3高地一喜茂別岳一無意根山一美比 内山一余市岳一朝里岳一へルベチア 1971年度(前期プレジデント飽津博史) 1 0 月 l l日熱気球2号機飛行(繋留)(北 雪裡川沿北上一炭焼小屋)L三井、 (札幌一茨戸一石狩一厚田一発足一 青山中央一沼沢一月形)仇 12月30日∼1月3日積丹岳スキー(オ幌一 1 I 流出ローオコタンペ湖)三井、丸山、 7月ll日∼12日100肋遠足、札幌一月形 シリ山)関尾・ 一薄別一空沼入沼出合い−漁岳一ォ コタンペ湖一オコタン湖畔)米田、 熊為 畑 横 山 、 安 武 。 5 月 2 8 日 千 歳 川 下 , ( 千 歳 川 第 3 発 電 所 一 孵 化 場 ) 東 、 三 井 、 丸 山 、 関 尾 。 日 ∼ 2 3 日 旭 岳 ス ( 姿 見 池 付 近 3 月 3 0 日 千 歳 川 下 り ( 猟 上 場 一 エ ン 堤 跡 一 千 に て ス キ ー 、 山 岳キ コー ース よ り 下 山 ) 歳 市 内 入 口 ) 東 、 丸 山 、 佐 藤 、 近 藤 。 L 三 井 雨 兼 間 、 相 原 、 内 野 、 上 野 、 ( i 月 2 0 日 ∼ 2 5 日 十 勝 川 下 り ( 二 股 一 新 清 橋 ∼先 6日 無意 根池 山ス キー (* 螺上 一薄 別橋 川 、 田 。 一 川 一清水大橋一十勝橋一祥栄 ll月15 日千歳川下,、L三井、佐藤、池田・ 11月20 1 I l J。 卓.:1 1. I ’ :・・.。.。.・・・。.・・・.!』l i』l …熱……職 爵 12月4日 一80− − 一 橋 一 中 島 橋 一 十 勝 大 橋 一 豊 頃 大 橋 一 −81− # 口 前一二本松橋右岸一塘路駅一二股一 7月4日オコタンペ湖(札幌一オコタンペ湖 12月23日∼1月4日風蓮川氷上ソリ旅行、 L三井、池田。 9日余市岳(札幌一豊羽元山一頂上 一白井二股一才嘘)L上野、米田、 I 内一開発橋一標茶一五十石一茅沼駅 仲、大野。 米田、池田、井村o 岡)兼間、石井、関尾。 12月22日∼29日釧路川下り(釧路一磯分 河口)L井村、熊本、斎藤、増田、 −小屋一薄別一札幌)L三井、熊本、 臼林道分岐点−岩尾別一イダシュベ ツ川一小池の畔一壁の下一小池の畔 一ウトロ)L三井、飽津。 r−r“ ; 部員名簿 三木昭夫(理学部地質学鉱物学科)‘ 安藤久男(北海道開発局農業水産部) 吉崎昌一(理学部助教授) 千葉県船橋市東船橋5−7−5建設省船橋 561-0479 横浜市西区平沼6−l横浜電線製作所内 愛知県伊予三島市金砂町小]II山2216青雲 大場利夫(北方文化研究施設教授) *iJ呪市中の島1条ワ丁目公務員合同宿舎 藤沢市住宅公団辻堂団地8−8−406 在タンザニアP。OoBOX525 20POMATANZANIA 吉田淳(東洋レーヨン) 85−2702 楠宏(国立科学博物館極地第1研究室長) 東京都中野区上鷺官5−27−28 富川盛道(東京外語大アジア・アフリカ言語 リ 11 芳賀良一(帯広畜産犬教授) 札幌市北’5条西?丁目北大医学部衛生学 教 室 7 1 1 - 2 1 1 1 身寮504 (内5066) 山後藤元(不明)副 大分県直入郡久住町118 慨 │ 吋 趨 夫 ( 臓 岡 K . K ) ! M I 野 市 平 田 北 町 1 2 7 橋本信一(日産自動車) 函館市元町29←8忠静江方 栃木県河内郡上ヨl1I町上生2228 昭和'40年度 原俊郎(#文学部実験心理学科大学院) 直田恒夫I(プリジストンタ,、イヤ):" 札 幌 市 北 3 2 条 西 6 丁 目 金 田 方 。 −8;81- 学 ・・Ⅲ瞳孔蝉 ユ 、 訂 識 一 I # 関尾大治(太陽コンサルタント) 東京都文京区大塚8丁目21−2 野崎義行(水産学部大学院)‘ 鈴 , ” 』 i 原 ( 理 学 部 地 球 物 理 学 科 ) −82− 札幌市川沿町1676 大野秀樹(医学部大学院) !東京都北区浮間4−,25−1通産省浮間独 1 昭 f r ' ! { 7 { i " O、B. 石橋忠夫(電々公社) 山口允彦(特許庁通商産業技官) 在 ケ ニ ア W o x l o 2 1 1 2 N A I R O B I I m I I Y A 1−=0481 昭和42年度 札幌市北40条西5丁目若松荘 札幌市平岸654−18821−4411 I I I I ( ' 1 │ 陳 7 番 l . 2 4 { ヤ ' 公 社 ア パ ー ト 561-64,80 6、1 西尾克彦(HTB製作報道部) 唾剛康(井之頭病院) 札幌市南21条西11丁目 和協市北1条西22丁目 石川信敬(低温科学研究所助手) ’ = J ' ; j i ; ; ' l l . { 、 リ ノ / 【 、 ' 中村治雄(歯学部教授) 本郷輝明(小児科医師). 札幌市北40条西5丁目みどり荘 大 蘭 ノ L j i l ! 蘭 乳 上 』 ク ヒ ラ 大 阪 南 支 店 ) I H I , ' " " F M , " , い , 919-6111 札幌市北7条西8丁目大野方 前田喜四郎(農学部応用動物学教室) 昭イII:llil,, 東京都世田谷区用賀住宅R1-16号 中島徹(理学部地球物理学科大学院) 昭和39年度 名古屋市港「又{町9−2 文化研究所教授) 東京都練馬区東大泉町56ワ 61-2850 東郷昭彦 . − − 佐藤進(日本工営K、K) 東京都保谷市栄町2−8−2本橋方 苫 前 郡 羽 幌 町 字 築 別 炭 朝 日 寮 加納一郎(極地研究家) 一一在ネパール 松立紘行(東京教育大文学部言語学科大学院) 梅原文夫(羽幌炭鉱) 401-82 帯広市稲田町帯広畜産大学生物学教室 781−5576 横川裕樹(阪神百貨店) 奈良県樋原市久米町114,8--97−3264 I 小林二治男 札幌市北26条西8丁目白樺荘 在タンザニア 札幌市麻生町801-811 東京都杉並区荻窪8丁目旭化成寮 早川嘉彦(農学部農芸化学科大学院) 富田浩造(日本海外技術協力事業団) 札幌市北4条西6丁目251−5585 服部敬・(旭化成)・ 東京都練馬区上石神井2一987 網走市南?条東6丁自和光園 伊蕊浩司(鍵学部助教授) 寮 斎藤徹夫(ナウカK、K) 佐藤敬爾(北海道新聞) ,犬飼哲夫(農学部名誉教授) ’ 片谷恒三(住友金属鉱山).: 581-0043 オU幌市藻岩下866581-0797 ’ 豊明荘2の103 北原武道(古河電気K、K) 札幌市豊平区平岸5条9丁目豊泉荘 安部三史(医学部名誉教授) 1 愛知県豊明市栄村新左山9の6住友軽金属 札幌市宮の森742グランドハイツ 佐竹英人(クラブ姿) 顧問 関谷仁司(住友軽金属K8K) 菊地俊彦(文学部北方文化研究施設助手) 帯広市稲田町帯広畜産大学社会学研究室 札幌市南lO条西20丁目 昭和41年度 田中方 和田正平(帯広畜産大識師) , f 東京都日野市日野台5−20−1 東京都世田谷区東玉川町2-26-14 917-6111 、佐々保雄(理学部名誉教授) 松本亘(東京都庁公害局) 川成洋(法政大学助教授) 東京都北区西ケ原4−51 前部長 I 24−2058 寮 758-0107 一 東京都国分寺市南町3−.24−21 大湾喜昭(経済企画庁総合開発局) 文化研究所) 札幌市北80条西4丁目フアミールサッポロ 平野和夫(浦和実業学園商業高校教論) 昭和88年度 森谷清樹(神奈川県衛生研究所) 川崎市生田206196−4697 日野舜也(東京外語大アジア・アフリカ言語 部長 11B.S寮 札幌市麻生町2-21中川方. 江別市大麻沢町6−8 I 広島県佐伯郡王日町楽々園新町1−6− 『 I 札幌市北5条西1O丁目笹井方 231-9606 昭和48年度 飽津博史(農学部農業工学科) 札幌市北18条西7丁目第2春幸荘 才l幌市南5条東4丁目511-6914 内野和顕(横浜市大医学部医学科) 北九州市八幡区槻田5条アパート631 / 野崎裕(農・農生)‘ 566−1809 ?31−8654 土谷俊一(水産学部漁業学科) 杣暁市北15条西20丁目桑園アパート 増田宣泰(水9魚化)‐ 山荘勉(水産学部漁業学科) 函館市本町89−5O小笠原方 丸山博(理。地鉱) ︲︲111︲IIIIIIIIlljj 11 −9565 〃 〃 │ 県 坂 井 郡 三 国 町 加 戸 9 1 −46 杉 本 千 弾 ( 獣 医 ・ 獣 医 ) 札幌市北17条東1丁目湾野方 大江靖雄(教義・理類) 東京都板橋区南常盤台1−80 札幌市北14条西1丁目遠田方 山本章義(工・土木) 711−6688 杣滉市北81条西8丁目みつわ荘 川崎市川崎区藤崎8−6-14 北海道勇仏郡追分町北鉄道宿舎 束 京 都 豊 島 区 南 池 袋 4 − 8 − 1 札幌市北17条西8丁目恵迪寮 5 ---8‘5− 鴬 明白な心弘 言圭一.ご一'"=・・=−−−−‐−−冒.←…‘---‐ 一つ』Ⅱ--口・品ローー岳,,__ニーマヨ_‘‐−.一一■二一・・一=一・・=−・弓=-弓三一.二L 一 ー ∼ ! 27-19:7@9 大久保幸雄(教蕊理類) 昭和47年度 9 8 6- 1 6 0 9 。一8‘令一 函館宙松風町11−822−2954 昭和も8年度 ’81−5688 札 幌 市 北 1 9 条 西 4 丁 目 鈴 木 方 愛媛県新居浜市港町14−9 村上憲男(水。魚業) 48−1667 狐館市末広町19−422 札幌市北7条西18丁目高柳方 :兵庫県姫路市本町8086−0728 奈良市登美ケ丘東2丁目2289−94 馬 I 鯵 : 減 一 ・ ( 水 。 魚 業 ノ 北大農学部応用動物学教室 7A2−0682 781−895& 札 幌 ! i i l い ' i r : l ' l l i l " { 田 ア パ ー ト 」 耐 駮 j r i 紋 別 郡 鈍 尚 ' j d i ' i I M I 1 2 2 5 2 1 井上修平(工・資源開発), 札幌市北18条西7丁目第2春幸荘 札幌市北24条西14丁目海上アパート 近 解 迩 久 ' l ! l l ・ l ! U , │ : 米田政明(農学部大学院) 札幌制上9条西9丁目 宮元均鯉・農工) 丸谷知己(農・林) 桐生市水町3193-8 昭和45年度 6‘21−6826 青森県青森市造道沢田46 758−0974, 現役 部 員 :札幌市琴似町1条6丁目一 函館市青柳町20−41,!、:【I 札 幌 市 北 2 5 条 西 8 丁 目 は つ み 荘 函館市中道9北辰寮 山口県宇部市藤山上条17区 三沢英一(農・農生) 岡山県親見市正842 7−7338 栗原努(理・地物) 7令息−0.682 函館市青柳町21−4勝木方 茨 城 県 稲 敷 郡 阿 見 町 吉 原 1 7 1 7 札幌市北16条西4丁目住吉荘 札幌市北18条西7丁目第2春光荘 東二郎(水・増殖) 621-1555 三井みどり(文学部史学科) 蕊本哲憲(工・機械) 990-4788 宇都木久夫(農・避化) 昭和“年度 青森県青森市新町2−8−18 東京都練馬区富士見台1-16-15 2-0410 岐阜県高山市桐生町580..88−1296 西村英夫(理・物理) 札幌市北20条東1丁目 札幌市北20条東8丁目岡元方 愛知県斗殿楽郡設楽町田ロ栄町 佐識吹江子(主鍋) 札幌市南16条西18丁目 ワ21-1720 518−82742−0もl5 711-7717 1 I 札幌市北27条西8丁目山川方 札幌市北21条西18丁目新川合同宿舎 札幌市北’0条東4丁目大平方 711-7729 1 中野俊夫(経・経済) 長尾睦子(教育・教育) 伊藤千尋(工・合化) 札幌市北21条東12丁目姫鳥方 ’| 京都府福知山市呉服町ワ422−29.8も 東京都小金井市東町8−28−28 昭和46年度 兼間強(理学部地球物理学科大学院) ロ| 742−068,2 亀田市中道町9北辰寮52-1160 81-2672 東京笥町田市原町2−7-17 F 札幌市北18条西7丁目第2春幸荘 仲清隆(水・魚業) 781-4944 井畑敏昭(西松建設) ’ 岡村俊邦(農・林) 札幌市美国9条8丁目821−も438 札幌市北19条東’丁目加地方 742-0682 411−9795 禾職好洋(工・応物) 井村泰久(農・農工) 小樽市長橋8-10-31 安武泰三(工・原子) 函館市高盛町21−28 名古屋市中村区五反城町2-17 ,2−0200 88−3087 相原研一(獣医学部大学院) ワ81−49名も 愛媛県東宇和島郡野村町新町 札幌市北19条西7丁目玉光荘D 福岡市姪浜969−2内浜保育園 731−8054 札幌市北19条東1丁目加地方 781-3954 %ll信一郎(工・応物) 札幌市北16条西4丁目住吉荘 I 井田溝彦(水・魚業) 札幌市北24条西14丁目海上アパート 熱海市小嵐4−888−3037 三井公彦(北大病院麻酔科助手) 一 関本加代(理・高分子) 熊本寛見(三菱銀行駒込支店) 耗篭無難顎●静鐘●削究 I 1 , 茨城県真壁郡協和町十里16 6 7 中林智子(武蔵短大) ● 札幌市美園1条5丁目831-5311 59−8809 小野千文(教養理類) 西田真理子(藤短大・国文) 札幌市平岸4条15丁目892−38 l-108 秋田市寺内堂ノ沢104-20 一 I 46−0824 北見市三輪町93 古厩敏明(教養分類) 加地祥丈(教養理類) 771-6217 、長野県塩尻市大字広丘堅石lll8 道川和子(藤短大・国文) 岡山県岡山市中央町6−223−6683 札幌市南3条西19丁目札幌王子寮 小林俊圏 (教養理類) 苫'」牧市花園町2丁目4-13 山梨県東八代郡石和町中川408 札幌市琴似5条5丁目荻原荘 関根洋(教養理類) 札幌市北16条東lO丁目高橋方 岡山県岡山市赤田“−272−6841 吉田浩正(教養理類) 721-3921 831-5311 11111 i f 屯 1 1. 1 ■ 卜 | ! ■ 僻 ・ 「 . b '08写真 と メ モ トラル・カラハリ・ブツシユマンの 生 態 学的考察一食物を中心に− '’9セン 千葉県香取郡東圧町平山5896-0051 編 集 後 記 「 T E R R A I N C O G N I T A 」 『TERRAINCOGNITA』Ⅱ号をお届けでき 2号 ることを、とても嬉しく思います。本号は、 1965∼1971年分です。創刊号発行以来約lO年、 'やっと発行という感じです。その間、いろいろ なことがありました。カラハリ砂漠熱気球… 11}75年9月2(I日発行 …。なかでも特鐙すべきことは、1970年、創 '38カラ 埼琴 倉知 康 '50装備 ・食料について 松本 亘 '62車輌 メモ・行程概略図・実測距離表 倉知 康 身 体検 査 '42ボツ 立以来部長をされてきた佐々先生が定年でやめ 蕊 ハリ砂漠のブツシユマンの 康 雄 ↑ ; 1 ' ; 『 I h 岬 ' 冊 化 区 北 8 条 西 6 丁 目 北ル『生部気付 北海道大学探検部 印刷所北大生協フ・リント部 ・−86− 1,, |‐, 当_..:.・・I ■l lI 田中二郎 倉知 01.1 亜醤 倉 知 康 札幌市北82条東6丁目井上方 札幌市北23条西8丁目 l 東 郷 昭 彦 761-0107 高橋雅輝(教養文類) l 9 0 自 然 関係や水関係 ,吉田全作(教養理類) 埼玉県大宮市桜木町2−“6 l 佐 々 保 雄 / 731-2069 I 8 8 あ い さつ 661-5257 札幌市北15条東5丁目増永方 I P,、 札幌市北17条西8丁目恵迪寮 札幌市北17条東1丁目園田方 I カ ラ ハ リ 砂 漠 札幌市真駒内緑町4丁目1−3五輪団地 吉田方821-7239 三 一 q 一 一 一 一 . 一 ワナ共和国の医療事情 あいさつ 佐々保雄 このたび、1966年に北大探検部の行ったポ 開 発 に 身 を 捧 げ て い る O 最 も 若 い 松 本 隊 員 は 、 当 ッアナ共和国のカラハリ砂漠計画の報告が出るこ 時 は 注 だ 童 顔 の 農 学 部 学 生 で あ っ た が 、 現 地 で は 先 輩 た ち の た め に 調 査 に 生 活 に ま め に 助 手 と し て 活 動 し た 。 現 在 は 農 業 土 木 に 携 わ っ て い る が 、 そ れ ら の キ ャ リ ア が 、 将 来 未 開 発 国 に お い て 生 か さ れ る 日 も 遠 く な い こ と で あ ろ う ○ と の 隊 に と っ て とになったoだいぶ以前のことになるから、漸く といった感を免がれないが、ともかく正式の部の 行事として、当時の部員たち、参加する者もせぬ 者も相ともに協力してその実現に努めたし、蚕た 学内学外の多くの方との御後援を得て、遂行する ことができたのであるから、その成果を報告する ことは部としての義務であった。それが、いろい ’ 人 に 欠 け て い た 文 化 人 類 学 的 な 面 は 、 氏 に よ っ て 満 足 さ れ る こ と に な り 、 こ こ に ま こ と に 小 さ い な が ら 毒 と ま っ た 仕 事 の で き る よ い 隊 が 組 み 上 が る こ と に な っ た 。 こ の 陸 の 参 加 が 、 同 氏 の 以 降 の 研 蚕ことに申し訳なく思うと同時に、ともあれここ にその資を果し得ることにたったことを喜びとし たい◎ 年余たったばかりでまだ若いが、その人々の業績 に、恐らく興奮を覚えるに違いない。そうした若 者たちによって、この行いとその報告が、一つの 筆をおく◎ (74−5−5、 男子節句の日) ↓ ’ 斗宰 者 と し て の 出 発 点 で あ っ た と も 言 え る 。 従 っ て 、 本 報 告 の 内 容 は 必 ず し も 高 い と は 言 え ぬ か も 知 れ を い 力 、 そ れ な り の 輸 進 を か つ て 頂 け る と 幸 い で 初 め に も 記 し た が 、 こ の 企 画 力 爽 現 で き た に つ い て は 、 実 に 多 く の 方 面 か ら 御 好 意 に 負 う と こ ろ あるo が 多 い 。 そ の 支 え な く し て は 、 と の さ さ や か な 成 果 も 神 る を W あ か た こ j W ・ ' I ( り い 、 深 終 の 謝 意 を 表 せ ず し に ケ i l , ; ; I , } 1 : ; ' , 、 。 こ こ ( ハ ← そ れ ら の 方 々 の 名 を 遂 一 蝿 叶 え , こ と ば 、 〃 │ │ I . . I I │ 」 " ; ず り 、 取 り 敢 え ず 厚 く 厳 1 1 { ' [ ! │ イ し 」 け る 次 第 で ‘ も る ◎ を j , , イ 報 告 は 北 大 探 検 部 の 部 報 〃 T E R R A ろ う か 。 倉 知 隊 員 は 当 時 イ ン タ ー ン 生 で あ っ た が 、 そ の 医 学 的 基 礎 を 駆 使 し て 現 住 民 の 体 質 や 疾 病 調 査 を す る と 共 に 、 医 療 に 努 め た 。 今 は 、 輔 神 病 学 の研究に鞘進している。東郷隊員は大学院生とし て地下水学を専攻していたので、直ちに乾燥地帯 I N ( ' ( ) G N I T A 〃 の 2 号 に 併 せ て 載 せ ら れ る こ と " 3 , た ・ 部 を 次 々 と 引 き つ い で い く 部 員 た ち に は 、 「 デ 幻 先 錐 た ち 、 と 言 っ て も 部 そ の も の が 1 0 の水の問題に迫ることができた。それ力擬に なったかどうか、彼は今タンザニアの水資源 11。 0■■Ⅱ■l■・■I■lⅡ 燕北海道大学名誉教授、前北大探検部顧問教官 −88− −89= 生 ■ 一 し実現していくことを祈って、ここにあいさつの 踏台となり、 踏台となり、部が今後一そう有意義な企画を案出 究 へ の ス プ リ ン グ ボ ー ド と な っ た こ と も 、 隊 と し ての喜びであったo し か し 、 何 分 に も 皆 は 若 か っ た 。 と の 行 が 探 求 との計画がどうして生れたか、何故カラハリ砂 漠を目標としたかについては、報告中に述べてあ る通りであるが、北の国に住む我々にとっては、 カラハリが極めて対照的を乾燥地域であること、 そこに住む人間が、最も原始的な、狩猟採集民の プッシュマンであることなどが、大きな引力であ ったと言えよう。参加した隊員はいずれも大学院 生や学部学生であって、研究者としては未熟を者 たちではあったが、その若さと熱意と体力の相乗 積が、それを補って、その成果をいわゆる探検隊 のそれ以上のものにしたとするのは言い過ぎであ 剖 = = ‐ 幸 い だ っ た こ と は 、 京 大 か ら 田 中 二 良 岻 を 一 員 と し て 迎 え る こ と が で き た こ と で あ っ た 。 北 大 の 3 ろ の 事 情 か ら 今 日 室 で 遅 延 し て し を っ た こ と を 、 I I &■81Ⅱ1︲卜︲F1lll−IIIlIⅡ111ワj︲I︲1110︲11︲j︲I︲︲,︲︲llIlI1︲111,110日,︲11︲︲l︲︲li●l1l1llIIjⅡ!IIlbIil甲111︲111︲︲llIl︲︲:0,︲︲︲甲11︲!︲I − − 垂十・や今-..凶 一 一 =己Ⅱ■ … 一 竺上吾二、 = − = 心聖 11 〆デイ ‐−‐‐‐−‐ ‐‐−‐‐・‐− 一ー一 −−−‐ー--−一二一一一=一二一====− 缶 自然関係や水関係 東郷 昭彦 1Botswana共和国の水文条件 ’9146且00L■I且B9jllp46ⅡIIlII6!■111111Jロl1I1IlljIIllIlljIIIIjI0ⅡI。■■9LII●IJI1.11︲Ijb︲jIbll卜“17lbい◆lllI1I1JIIl1l4JIIlI0︲I︲411︲l︲︲1 -..-・-・-I副境 18 −−−−−台地 一 河 . − −−−カラハリ砂漠 I ヨ l 1 動6 穴 乞0 22 〃 24 25 1 30 JIS[ 26 35 − − − − − 心 州dI1 c ヵは海岸線を崖でかと茜れた台地をなしている・ている。 【 l I l l I 牛 l ,i 1.11 今・L | ' 1 │ M −.90− ='一一…‐一二−−−…・-ヰーューー鰻-,〆.、一_"-‐ a 概 念 図 、 図 − 1 に 示 さ れ て い る よ う に 南 ア プ リ の 西 側 、 大 西 洋 岸 に は N a m i b D e s e r t が 広 が っ ア フ リ カ 大 陸 は 古 く 、 先 カ ン プ リ ア 時 代 の 古 期 岩 私 達 が 調 査 厳 行 を し た B o t s w a n a 共 和 国 は こ の 類 が 全 大 陸 の 半 分 以 上 を 占 め て い る 。 南 ア フ リ カ 台 地 上 に 広 が る 国 土 面 積 5 7 万 平 方 キ ロ メ ー ト ル の と の 台 地 は そ の 中 で も 最 も 古 い 剛 塊 の 1 つ で あ の 独 立 国 で あ る 。 1 9 6 6 年 9 月 に 独 立 し た ば か る カ ラ ハ リ 剛 塊 か ら 成 り 立 っ て い る 。 そ し て 、 台 り の B o t W a n a 共 矛 噛 ほ 国 土 の 約 7 0 % が I m l a h a 地 上 の 大 半 は K a l a h a r i D e s e r t に お お わ れ 、 そ r i 砂 漠 で 占 め ら れ 、 人 口 密 度 も 希 薄 を せ い も あ 2 矛 28 筐 制のアr 図 1 南 ア フ リ カ の 概 念 図 菅 一 = 画.‘ ” 30 一 看 宗 2 6 20 図−2 B o t s " " 周 辺 の 地 形 −91一 一・一一一一旦二凸一ら,、- 壺耳−..−.炉∼.、ローュ ー 些今・∼ ’ 露 ZZ 、一礼一"要一一一一▲−−.−L毛や 一 = = = ニ ー ー 一 一 一 − ’ 千 - F − 一 一 一 − − − − 一 − − ■ ’ 域の西側には、VictorlaFb1lで有名なZanF の白地図に主な町、村、鉄道、道路が記入された bezi河の流域が隣接しており、唖ribaDam ものしかなく、詳細な地形図は未完成である。 の水源となっている。 IQlahariDesertを中心とする一帯の地形の概 Kalahari盆地に流入する地点でのOkayangO河 の流量は250t/Sにもおよぶ堂々たる流水で . このように、Botswn洪和国を排水系統からみ ある。雨期と乾期との水位差が2m近くあり、無 色透明に近い水がゆったりと流れている。(写真 −1)盆地に入ったOlmNAaIEo河は幾条にも別れ ているNOssob河岻lpo河の流域。 Ⅱ−IClahari盆地の中央部の澗河を中心とす ﹃一一15︲’●41 盆地状の地形を示している。盆地をとりまく高地 一 一一 0mの等高線をたどると中央部が周囲より低く、 ー ’一座lahari盆地の南部現在は洞河となっ 一 1,100m、全体に平担な地形であるが、1,10 一 ると次のような地域に別けることができる。 一一一 略を(図−2)に示した。台地の平均標高はは約 − 一 って力、現在手に入る地図は縮尺1/1.000.000 る一帯とりぬ1orileriPanを含む地域。 Ⅲ一睡lahari盆地の東側に隣接するLimpopo b 河の流域。 − − Ⅳ−q<auango河、01画ハBngoSMampを含む地 は3ケ所で切れているoその1つは、Limpopo 写真-2MakarilBriPan 河が深く切りこんでいるo南緯23度の付近であ る。LinWopo河は、南アフリカ共和国とBotswna 共和国との国境沿に西南西に延びて、Kalahari 盆地とインド洋岸との分水界の懐深く泊っている。 さて、一口に盆地とは言うものの、占める位置 は南緯18度∼28度にわたり、北端と南端を結 腱 灰白色を示している。雨期の雌karikariPanの 上澄水水質の分折結果を(表−1)に示した。1 唖 もう1ケ所は、盆地の南西部、南緯26度、東 経21度の辺り。この低地を通じて踵lahari盆 ◆ よぶ広大な地域であるために気候条件も場所によ っていく分異っている。 g/Zeg/Z Ngf.69.003.001 よぶ、Aoup河、Nbssob河、M)lopo河の流域と 写真-101国凧ango" 支流をも含めて、現在では化石河として河道の地 K+2.24,0.057 "2+Trace 乾燥地における重要な自然環境因子として降雨 Anlon Cation てOrange河と結ばれている。古い時代には睡一 なっていたものであろう。これらの3河川はその ぶ距離がおよそ1.0001伽、東西に6・00町にお Q 地内から、NOssob河、ハ恥lopo河の澗河が延び rahari盆地の南半分は総延長3,000町にもお 域、および、盆地の北端のChobe河の流域。 " 絢 聯 〆 令守 …■ − g/Zeg/Z 量と蒸発量とが挙げられよう。BotsIハalm共和国内 C1-82.602.329 各地の年間降雨量は150mm∼800""の範囲に SOf-9.100189 HC"18.600.520 ハ曄+Trace 分布している。一般によく知られているように、 乾燥地域の降雨の特徴は、年間降雨量が少いばか りでなく限られた短期間に雨が降るとどで鰹加うる 形を残しているにすぎない。てOka"angoSwampを形成しているoOkamanLiO.0260.004 に各年によって、年間降雨量にひどいばらつきが 北 、 C h o b e 河 が Z a m b e z i 河 に 合 流 す る 個 所 で m i 湖 に 流 れ る 一 方 B o t l e t l e 河 を 経 て D O w 湖 に 通 7 4 . 2 6 6 3 . 0 6 2 l10.303.038に大雨の年がやってくることも珍らしいととでば さらにもう1ケ所の低地は、砲lahari盆地のgoSMampに流入した多量の水の1部はNgha-ZcationZanion ある。じている。OkamangoSwampは、その北端で あることなどである。{I'リ年間かの干紘が続いた後 ない。Botsuana共和国では1962年以来の大 干紘に苦しみ、1965年には20万頭にもおよ 盆 地 の 北 半 分 は 東 西 の 高 地 か ら 個 河 が 内 陸 に 向 C h o b e 河 と 個 河 で 結 ば れ て い る が 、 こ れ 以 外 に は 、 っ て 走 り 、 西 側 か ら は O k a m a n g o S w a m p に 、 東 O l " ハ a n g o S w a m p − 帯 に 流 入 し た 水 を 盆 地 の 外 お よ び 南 側 か ら は l 他 k a r i k a r i P a n に 向 っ て い る 。 に 排 水 す る 河 道 は な い 。 し た が っ て 1 0 数 年 毎 に と れ ら の 澗 河 は 、 い ず れ も 流 域 が K a j a h a r i 一 帯 お と ず れ る 大 豪 雨 の 年 に は q l a w a n g 。 S w a m p か の 乾 燥 地 域 内 に あ る た め 、 河 道 は 部 分 的 に 砂 に 埋 ら 溢 れ た 水 は L a k e D o w を 経 て B o t l e t l e 河 を 通 上 澄 水 の 水 質 は P a n に 流 入 し た 水 の 水 質 そ の も の う と B o t s , 凡 a n a 共 和 国 総 人 口 の 約 半 分 に 相 当 す る 。 て水をたたえて流入する唯一の河はa<awango よ う な P a n の 水 に 溶 け て い る 塩 類 は 蒸 発 が 進 む に 観 測 が 始 っ て 以 来 の 各 地 の 年 間 平 均 降 雨 量 と 統 計 り 、 ご く 希 な 豪 雨 に み 室 わ れ ぬ 限 り 水 の 流 れ を み じ て 雌 l m r i k a r i P a n の 一 帯 を 水 浸 し に す る 。 ※Temp27℃ 表 l ハ 胆 k a r i l " r i P a n 雨 期 の 上 澄 水 水 質 ぶ 牛 が 姥 水 た 。 政 府 で は 1 9 6 6 年 の 雨 季 に 十 分 な降雨がなければ35万人分の食糧を外国から調 必 当 り , 7 , , の 無 機 塩 類 が 溶 解 し て い る 。 こ の 達 せ ね ば な ら な い と 発 表 し て い た 。 3 5 万 人 と 言 る こ と の で き た い 河 で あ る 。 " l " r i k a r i P a n に 溜 っ た 水 は 、 大 部 分 そ の 年 の で は な く 、 長 年 に わ た り P a n の 底 に 沈 着 し た 塩 類 1 9 6 1 年 か ら 1 9 6 5 年 ま で の B o t s i ハ 尼 L n a 共 を 流 入 し た 水 が 溶 か し だ し た 水 質 で あ ろ う 。 こ の 和 国 内 各 地 の 年 間 降 雨 量 を ( 図 − 3 ) に 示 し た 。 k a i a h a d 盆 地 内 に 通 ず る 河 川 の 中 で 年 間 を 通 じ 乾 期 に 蒸 発 し て し ま う 。 こ の よ う な 事 の く り 返 し で で き あ が っ た 蝿 k a r i k a r i P a n ( 写 真 − 2 ) I j : つ れ て そ の 濃 度 を 増 し て ゆ き 溶 解 度 の 小 さ な 塩 か 年 数 も 併 記 し B o tた s。 wana共和国内で最も降雨量の多い地方は 河 で あ る o O k a w a n g o 河 は 総 延 長 4 . 0 0 0 M , 流 東 西 に 1 5 0 I m l , 南 北 に 1 0 0 h 1 に わ た っ て 広 が ら 順 に 、 そ の 溶 液 中 で の 溶 解 度 に た つ し 沈 着 し て 域 総 面 積 2 0 万 平 方 キ ロ メ ー ト ル に も お よ ぶ 大 河 る 大 規 模 な 塩 湖 で あ る 。 P a n の 底 に は 流 入 し た 水 ゆ く 。 表 に 示 し た 例 の 場 合 も 溶 解 度 が 最 も 大 き い 先 に Ⅳ 地 と し た で あ る 。 一 地 域 の m s a e と S域 ha k a ハ所 ハ層 で は 1 9Ⅳ 61 年 ∼ 1内 96 5 年 の 干n 勉の で 、 盆 地 の 北 端 に 流 入 し て い る 。 O l Z W a n g o 河 流 に 溶 け て い た 無 機 塩 類 が 沈 潜 し 辺 り − 面 が 明 る い -92---"v。NaClが最後まで上澄水中に溶存している。 −93− ∼ ■ 一 一 ー 一 一 一 、=_L--=----=---一一一一 一−一−−−一--−人 ‐ 一 一 一 一 一 毒 一 一 一 ‐ 一 一 一 = ‐ = 室 三 一 ‐ ‐ − = 二 三 一 一 一 ⋮ 「 l︲︲I︲111,b︲“Ⅱ︲ 眠■ⅡⅡ日出ⅡⅡIj8L...0J■..︲..⋮⋮...FhliⅡ!.︲dⅡ111lbⅡq・IIIL■I⋮LIId8屯IIL・・・砧!・lIIILI1・恥四日IL・・。■’し■1411$弓里!︲■ⅡⅡⅡⅡ日Ⅱ貼貼・L.・咄.・・⋮・・⋮ Shakawe Maun 8 壷 3 7 壷 63fmn 5年間の平均年間降雨量はそれぞれ504.3”、 の蒸発量の測定も予定されていたカヘ旅行中に測 449.9”であった。統計年数をさらに延ばすと Kgga"では過去88年間の平均年間降雨通は6 定機械が故障したため目的を果すことができなか ったo Bot…mでの蒸発量の実測結果は末だ得られ l︲I■ⅡⅡ911.ⅡⅡllIllIlII■Ⅱ 90”、Shal画ハ尼では、過去8年間の平均年間降 ていないが年間降雨量の200%程度ではあろう 雨量は637配靭である。 ・・J・・:::::・・・:LI:11.・Lmr・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾・・■・・・・・口・貼・.・・・......。.・・・ lllllIII1ll Ⅳ一地域の次に降雨量の多いのは、排水系統か ら、一地域としたBotSA凪na共和国東部のLim- [ ・61062'63'64'65 5 0 7 " " で あ る 。 と . こ ろ が 、 1 9 6 1 年 以 来 5 年 1 5 年 の 各 月 平 均 気 温 を 用 い て T h o r n t l m ハ 息 i t e の 方 。.1...℃■1.........・・・..●.。.。.....・・・.・・..・・・..・・・・叩・・Ⅷ..・・・..・・・叩.●.・・・勺。.・・・・・・・・叩 jIlI︲︲!141︲︲︲l︲トー1.1﹄1,lll1I4Ill︲lLrlll4■8、16411︲4’1Ⅱl︲114 :熟“1錠蕊静聴鱗舞鼠蕊議蕊襲蕊簿駕篭韓溌溌蒋蝉溌蕊蕊難難撫溌瀧鐙識溌 M a h a l a p y e 渓 3 4 豪 965年10月左での間、自由水面からの蒸発量 p O p O 河 の 流 域 で あ る 。 Ⅲ 一 地 域 内 の G a b e r m l e s j が 実 測 さ れ た 。 と の 結 果 で は 2 , 6 0 0 m m で あ っ た 。 で は 、 過 去 4 0 年 間 の 平 均 年 間 降 水 量 は 5 8 7 m " 、 こ の 間 の 降 雨 量 は 2 3 8 m m で あ っ た 。 " h a i a W e で は 過 去 4 7 年 間 の 平 均 年 間 降 雨 量 は 、 蒸 発 量 の 実 測 値 が 得 ら れ な か っ た た め 、 1 9 6 狐 Ghanzi といわれている。Ser…で1964年9月から1 4 | ’ 間 、 G a b e r o n e s と I 腹 h a l a W e で は 年 間 降 雨 戯 が 平 ‘ 法 に よ っ て 各 月 毎 の 蒸 発 散 能 を 求 め ( 図 4 ) に 均 降 雨 量 に は る か に お よ ば ず 、 5 年 間 の 平 均 年 間 示 し た 。 蒸 発 散 能 と は 地 表 に 十 分 な 水 分 が 供 給 さ 降 雨 通 は 、 G a b e r o n e s で 3 7 1 " 、 W h a l a W e で れ る 条 件 の も と で 蒸 発 散 す る で あ ろ う 水 の 湿 で あ は 2 9 8 ” で あ っ た 。 B o t 園 Ⅳ a n a 共 和 国 で こ の 地 る ・ ( 図 4 ) に 示 し た 5 地 点 と も 年 間 の 蒸 発 量 域 が 最 も 人 口 の 集 中 し て い る 地 方 で あ る だ け に 千 が 4 . 0 0 0 ” を 越 え る 可 能 性 が あ る と い え よ う 。 以上に述べてきたことを(表−2)にまとめた。 魅の被害も大きかった。 次 に 降 雨 量 の 多 い の は 先 に Ⅱ 一 地 域 と し た と と 南 北 に l . 0 0 0 m , 東 西 に 6 0 0 I 伽 に わ た る 地 卯f ︲Ⅱ611吋Il︲トーIlⅡqIll01lIIIJⅡILI司 溌騨蕊溌謹坤藩灘蕊蕊辮蕊舞蕊溌蕊騨蕊溌 ろ で あ る 。 Ⅱ 一 地 域 内 の G h a n z i で の 過 去 8 4 年 域 で あ る が 地 表 は 北 部 を 除 き ほ と ん ど 全 部 ラ 涜 黄 褐 間 の 平 均 年 間 降 雨 量 は 4 4 7 ” で あ る 。 1 9 6 1 色 又 は 赤 褐 色 の 砂 に お お わ れ た 平 担 な 地 形 で あ る 。 年 か ら 5 年 間 の 平 均 年 間 降 量 は 8 7 1 卿 で あ っ た 。 . そ の た め に 各 地 の 年 平 均 気 温 に は 箸 る し い 差 は み 63−−訂=馬 Tsane 6 肇 T s " 9 g G a b e r o n e s 4 0 砺 ︲ObI斜1︲︲■HL.L・仏●4︲b日貼1■・・T■J・q“080Ⅱ14pqa01L■L■■0 .....﹃:....︲,出,刑lIIl︲︲11■FL9Il,q0jjI︲Il11III0L■凸呼.,14,7口4 蕊難溌蕊蕊蕊蕊瀞蕊譲蕊蕊蕊藷熱溌認識剥聡蕊蕊熱聡漁熱 jljI 畑郷皿Ⅷ0 。■・・・Ipp凸■■ ・・・・・・■・・.。・・・・貼叩・・・・・・・・・.・・・・・・.。.・・・■■..。.・・・・・.。・・・・貼叩..・・、。.・叩・・・・■■.詔 蕊●瀞●識●澤●韓溌●蕊鎮蝿溌蕊●蝿蝋驚●蕊蝉●蒔謹黙 dlrll叶4︲11.,4lllLIIIIl0dlI11 ( 図 − 8 ) に も 示 し た よ う に 年 間 降 雨 戯 が 年 に よ ; ら れ な く 2 0 ℃ ∼ 2 8 ℃ 程 度 で あ る 。 し た が っ て 蒸発散能も各地域の間に大きな差はみられない。 って非常にばらついている。 B o t " n a 共 和 国 中 で 最 も 降 雨 通 の 少 い 地 域 が 、 B o t " m 共 和 国 内 各 地 の 自 然 環 境 の 差 異 に は 専 m l a h a r i 盆 地 の 南 部 、 N O s s 曲 河 、 池 l o p o 河 の ら 、 年 間 降 量 の 違 い が 大 き な 影 響 を 与 え て い る と 流 域 で あ る 。 先 に ’ 一 地 域 と し た 地 域 で あ る 。 い え よ う 。 ( 図 − 5 ) と の 地 域 内 の T s a n e と T S a b o I g を 例 に 挙 げ る と 、 T s a n e で の 過 去 6 年 間 の 平 均 年 間 降 雨 量 は 2 7 4 2 B o t S w a n a の 人 々 61'62' 画 j ” 、 T s a b o I 埴 で は 過 去 2 曲 年 間 の 平 均 年 間 降 雨 量 B o t " n a 共 和 国 の 人 々 は 約 6 0 万 人 と い わ れ て が 2 7 5 ” で あ っ た 。 1 9 6 1 年 か ら 5 年 間 の 平 い る 。 こ の 中 に は 、 8 , 0 0 0 人 程 の 白 人 が 含 言 れ 275nm 均 年 間 降 雨 量 は T s a n e で 2 5 5 8 " 、 T s a " " で て い る が 他 は パ ン ツ 一 語 諸 族 の 人 々 で あ る 。 は 、 2 6 4 . 3 " o 他 の 地 方 が 千 魅 に 苦 し め ら れ て い 上 記 の よ う に 、 B o t s 噸 、 共 和 国 内 の 水 文 条 件 る 間 と の 地 域 で は 平 年 に 近 い 降 雨 が あ っ た 。 と 自 然 景 観 の 概 略 を 示 し た が こ の よ う な 自 然 条 件 ( 図 − 8 ) に も 示 し た よ う に 、 B o t 3 A a n a 共 和 の も と で の 人 口 分 布 を ( 図 6 ) に 示 し た 。 国 内 を 排 水 系 統 毎 に 分 類 し た 地 域 、 Ⅳ → 、 → Ⅱ → B o t s W a I B 共 和 国 の 人 口 は 極 め て 片 寄 っ た 分 布 を I の 順 に 平 均 年 間 降 雨 母 が 少 < な っ て い る 。 、 し て い る 6 総 火 口 6 : 0 万 人 の ほ と ん ど 8 0 % は 東 私 達 の 調 査 目 的 の , っ に B o t 国 ハ a n a 共 和 国 内 で 部 国 境 沿 の 地 域 に 集 中 し て い る 。 先 に Ⅲ 一 地 域 と TSabong '6162536465 6 1 , 6 2言 扇壹 扇 一 届 ※統針年数∼1961−平均降雨趾 劇−8B価 奇地の年降雨擬q 昌二95− 髄 人 函吾戸一堂= 一’一 弾 − − 一 − − = W − 274 Tsane − - 531 Gabevones Ⅲ 一 − − 696 IClsane − 687 Shakawe Ⅳ − 6.8 4.943 20.2 34.1 1.0 7.8 73 4.6]‐9 32.8 3.4 12.6 10.4 4.495 1.5 15.1 10.5 4.283 2.0 14.5 8.5 8.4 19.3 14.0 3.8 175 12.3 5.6 121 11.6 4.483 一 = 3-1Kuliの近辺、童ばらに生えたカン 木b下生は、きわめて黄ばらである。 ユ q一 − ー酔啄’︾ . 、 吟 一 一 一 皇 毒 一 戸 ロ 一伽 B 戸 い 画 ?., 垂■▽ 盟“‐、犀 鐘皇 醇恥碑 一 1−金剛!i︲l﹃︲ ー = ‐ 一 ■”﹃画草・﹄■ 一。且 一 マ '−.些埜 一 一 − る水文諸量 ーニ■一 − 一 3−2 一 - 一 − 一 ■■■■■■■■■■■■−−‐‘‐.. K u l i の 近 辺 、 け ば ら に 生 え た カ ン 木 の 中 に 、 ア カ シ ヤ の 立 木 が 点 在 す る 。 匡 一 ,l 鹿 q ■ 澱 一・﹄ 凸﹄ ク■ 昼 癖Q一 一 一 一 一 一 幸一一 .﹄﹂ 名 1刑jlId11︲当■﹃■ 民山 一凸a 且 下生も玄ばら。 ﹄ 良ゞ索討﹃胃目。﹃・鍾辱咽 の彦剣髻耐二の 、尊魂角鮨国内勾寸慰めⅡⅡ鵬仏画 調苦蛍 穫鍾鍛燕 つ○函 。○守 色つい つら” 薑 口 8.1 げ ト 垣晩︾、園一因︻[[。[・ぬト の①ロ○角の二吋。 I 一○ I 。つ罰 I ○つ壱 ろ つつ唾 雲 ’ 。つ垣 I 雨期 0.9 446 的”困却ⅡⅡ。魚函図画寸づめ鼎Ⅱト囚内 の員剣の臼 の︻や寺ⅡⅡQ回国函・国[ⅡⅢ,一四周 |爵﹃雪言。﹃:↑誼 鳥 n 年間 蒸発散能” 34.6 |癖一録一制 507 lbhalaWe 最低 最高 52 aL 33 447 Ghanzi 熱示数 20,0 轆一罪一抑一坪一︾|狸 − - Ⅱ 年平均 一郡一部一釦一癖一梱一岬一︾ 275 Tsabong |︾抑一岬一 年平均 − 一節4 1 − I 気 温 ℃ 降雨量” 域 地 1 6 6 9 2 。﹃IⅡ︲﹃0︲︲︲日罵蝉嫌枇諦洋舞毎m私戦押印叱騨騨鋸輝洋謝締酎泓出離隅隅臨砺臨哩 冨屋”吾。 冨匡鬮罵︾:﹃“﹃﹃﹃。[命電↑ 。﹄ ●” 。 唖の寸寸Ⅱ。四二国内的.①︻ぬⅡⅡ膿角内 鬮爵︾雨 “ ﹃ 閏 ﹃ ﹃ 。 ﹃ 辱 画 ﹄ 月 EE つ つ函 つ︾ つ垣 つ画 唾巨○二甸切臼 函蔑了Ⅱ四鮨﹄画四℃、TⅡ鮨四国 縢蕊蕊識 三 − 一 一 , = = ‐ ’ 図 4 j B o t s W n a 各 地 の 月 別 降 雨 量 と 蒸 発 散 能 1 9 6 5 −96− 一 = 人−−−−.一一一。一一一一一一一 一 一 一 飼 殖 一一一一一一-−−■一一一一 一 −1 一 −97− − _----回 − I 通 竹 鰍 ‘ 〃 鱸 3−7 ー 恥却智蜘 舶 丈の低いカン木が点在する。 口● 母寺 3−3 慰撫 穂、 ︾・4.。 忠‘6.A 、や 唾 』 k Sekuma近辺 I,Ⅱ地域は、3-1.2.3.、写真-15の ような観景が、くり返、現れる。乾期には # I │ 草 は全て枯れ、立木の葉も全て散り、緑が 一切なくなる。 − - - NolBnengの近辺、丈の高い立木が多い。 下生は丈の高い、禾本科が密に生える。 この辺からツエーバエの棲息するように なる。Ⅳ地域 一 一 一 一 ロ】 ’ ∼ 烏 一 3−4 ■ 水々しい、緑にかこ室れSer"の村 I Bamangwatoの人々が、農耕と牧蓄を 3−8 営む。Ⅲ一地域 Shalmweの近辺 アカシヤ以外の樹種も多くなる。 Ⅳ地 軒I 域。 1 V - ・ − 嵯夢一一 Botsua皿各地の代表的景観 写真−3 − し た L i m p O p o 河 の 流 域 で あ る o B o t s , 凡 a n a が 英 B a n g M a k e t s e , B a m a l a t e 、 B a t l o l W a 、 B a l M ー 国 か ら 独 立 す る に さ い し て 新 独 立 国 の 首 都 G a b e e n a , B a l g a t l a , B a m a n g w a t o な ど で い ず れ も r o n e s も こ の 地 域 に 建 設 さ れ た 。 G a b e r o n e s の 南 T " n a の 部 族 の 人 々 で あ る 。 8−5Ⅳ地域の西部、ヤシの見える風景 痘宝酋典一一一」 8 0 m n 程 の と こ ろ に は 、 植 民 地 時 代 か ら の 町 が あ T s i ハ a n a の 人 々 の 生 活 は 農 耕 と 牧 蓄 と で 支 え ら っ た 。 こ の 町 が B o t s W n a 共 和 国 内 の 唯 一 の 町 ら れ て い る o 通 常 、 人 々 が 生 活 す る 拠 点 は " n t r a l しぃ町LObati町である。 こ の 地 域 内 の 年 平 均 降 雨 量 は 、 G a b e r o n e s 5 3 1 0 ∼ 2 0 0 0 人 程 度 の も の が 多 い 。 農 耕 地 は こ の 1 ” 、 ハ 必 h a l a p y e 5 0 7 " " 、 S e r o l ハ c 4 6 2 m m で あ 村 か ら 4 ∼ 5 h 】 離 れ た と こ ろ に あ る 。 普 通 は 、 農 り 、 B o t s w a n a 共 和 国 内 で は 年 間 降 雨 量 の 多 い 地 耕 地 は 一 ケ 所 に か た 室 っ て い る が こ の 地 域 の 西 側 恥鼠 Villageにある。CentralVillageは人口50 Lロ 辱 戸 I ■ r一■Ip■ ー 一-−....‐‐-... 方 で あ る 。 加 う る に 、 地 下 水 位 が 浅 く 年 間 を 通 じ に 広 が る " n t r a l K a l a h a r i に 入 り 込 む と 可 耕 地 8−6 て 浅 井 戸 の 水 を 利 用 で き る 所 も 多 い 。 叉 、 牧 草 も が 激 減 す る た め 畑 も あ ち こ ち に 離 れ て 点 在 す る よ よ く 繁 り 牧 蓄 も 行 わ れ て い る 。 草 が 良 く 育 っ た め う に な る 。 そ し て 、 さ ら に 畑 か ら 離 れ て Q t t l e 土 壌 も わ ず か な が ら 発 達 し て い て 、 雌 i z e , S o P o s t を 定 め 、 牛 を 放 牧 し 、 牛 の 世 話 を す る 人 々 r g h u m な ど の 農 耕 が お こ な わ れ て い る 。 B o t s ー が 生 活 を す る 。 " t t l e P o s t に 定 め ら れ る 土 地 w a n a 共 和 国 内 の 可 耕 地 の 大 半 は こ の 地 域 、 L i − の 条 件 は 牧 草 が 得 ら れ 、 か つ 飲 料 水 が 年 中 得 ら れ m p o p O 河 の 流 域 に あ る と 言 っ て も 過 言 で は な い 。 る こ と で あ る 。 澗 河 の 河 床 や P a n に 近 い 土 地 が 運 Naam,理ke北部、Ⅳ地域 雨期の始めで下生は末だ生えてないが、 アカシヤの林 ’ こ の 地 域 に 住 む 人 々 は 南 か ら 、 B a r o l o n g , ばれ、浅井戸や溜り水が利用される。けれども、 −99− − 98− 』 ▲ − − − − − = , . . . ‘ , , 国 F = ■ − − − − = ‐ 一 一 二 = _ = = = = E F = = = = = = = = ≦ ー − − ‐ 一 一 一 一 ‐ − − 一 − . − ー 一 − 一 凸 P 一 − _ = = = - - − 一 一 ■ 急、し戸 厩漂 ■ ■ ■ ■ − ’ I 職 、 ■ 、 、 、 Ba0wnnn M”、 0 ト ー 446 1 , 肋 │ 鮒 『 。 ” 。 Gmnzi − ー − 0 ■ 写真-401ewangSuanp西側、NkaIEneng付近の人家 −447− 一 ‐ U l Bamang,fmolll l ” 澗l a 、 2∼3 、’1 蕊謹 B副kgaIagadi '瀞ツミ , / 職 縦 3∼4 Ⅲ 自一 Ⅲ = 鰯 図−6人口分布と部族の分布 識 l∼5 間 平 均 降 雨 量 は 6 3 7 ” 、 I m s a n g で は 6 9 6 " " で て 入 念 に 検 査 を う け 消 毒 さ れ る 。 ある。この地域は他の地域に比べて降雨量が多いとQ地域は外の地域に比べて湿潤であるにもか ば か り で は な く 、 A n g o l a に 流 域 を 持 つ α f a ハ a 昭 o か わ ら ず こ の よ う に 人 口 密 度 が 低 い の は T s e W e 河が流入しているため他の地域よりも一層水的条Flyの影響も少なからずあるのであろう。水の得 件 は 良 い と 思 わ れ る 。 し か し な が ら こ の 地 域 の 人 や す さ と 家 蓄 の 疫 病 、 こ の 二 つ 条 件 が , 度 折 合 っ 口 密 度 は 低 く 、 平 方 マ イ ル 当 り o ∼ 1 人 の 地 域 が た よ う 友 人 口 分 布 を し て い る よ う に も 思 わ れ る 。 広 が っ て い る 。 特 に こ の 地 域 の 西 半 分 は 人 口 皆 無 こ の 地 域 内 の 0 k a M a n g o 河 の 西 岸 と N g a m i 湖 の周辺では土壌を発達している。広大な土地と の地域である。 5∼10 20 す で に 述 べ た よ う に 年 間 降 雨 量 が 5 0 0 ” 程 度 し 月 の 末 頃 凌 で 続 く 。 こ の 間 、 C a t t l e P o s t に 必 か を い ば か り で は な く 年 に よ っ て 極 め て 不 安 定 を 要 を 人 数 だ け を 残 し て T S w a n a の 人 々 は Q n t r a l 降 り 方 を す る た め に 、 年 中 安 心 し て 水 を 期 待 で き V i l l a g e に 帰 っ て 生 活 す る 。 そ し て 、 雨 季 が 始 つ る 井 戸 や P a n は 少 い 。 し た が っ て 、 牛 の 放 牧 地 は た 1 2 月 頃 、 耕 作 地 に で か け て 畑 を 緋 や し 雌 i z e 2 ∼ 6 ケ 所 の 水 場 を 中 に 定 め ら れ て い る 。 や S o r g h U m の 種 を 注 ぐ o 人 々 は そ の 蚕 室 収 猿 が ( 図 − 4 ) に も 示 さ れ て い る よ う に 、 B o t s u a n a 終 る 童 で 畑 仕 事 を し た か ら 幾 地 で 生 活 す る 。 共 和 国 で は 乾 季 が 3 月 末 か ら 4 月 の 始 め か ら 1 0 B o t s w a n a 共 和 国 の 北 部 、 先 に Ⅳ − 地 域 と し た −100− 一帯はLimpopo河流域よりもさらに年間降雨量ている。α母Mango河に沿った道路にはTsetse は 多 い o A n g o l a と の 国 境 に 近 い S h a k a w e で の 年 C o n t r o l が 設 け ら れ 通 過 す る 人 、 車 、 家 蓄 を ど 全 f 、 S oh 一韮 T I 口 O k a w a n g o 河 と N g a m i 湖 、 D o w 湖 の 周 辺 、 そ れ q B m n g o の 水 に よ る 農 業 開 発 は 容 易 で あ ろ う 。 と に こ の 2 つ の 湖 を 結 ぶ B o t l e t l e 河 の 沿 岸 に 比 較 こ で の 最 大 の 問 題 は あ 童 り に も 人 口 が 少 な す ぎ る 的 多 く の 人 々 が 住 ん で い る 地 帯 が あ る ( 写 真 − 4 ) こ と で あ る 。 人 口 密 度 に し て 3 ∼ 4 人 / 平 方 マ イ ル 。 住 ん で い B o t s " n a 共 和 国 の 北 部 と 東 部 を 除 い た 地 域 、 先 る の は B a t a ス ハ a n a と 呼 ば れ る 人 倉 で あ る 。 西 南 ア に ’ と Ⅱ と し た 地 域 は 最 も 乾 燥 し た 地 域 で あ る 。 フ リ カ と の 国 境 近 く で は ヘ レ ロ の 人 を も み ら れ る o Ⅱ 一 地 域 内 の G h a z i で の 平 均 年 間 降 雨 量 は 4 4 7 l t a m i 湖 、 O k m v a n g o S w a m p の 周 辺 で は B a m u " " 、 ’ 一 地 域 内 の T s a n e で は 2 7 4 ) ワ z " 、 T s a b o n g k u s h u , B a l q l b a と 呼 ば れ る 人 倉 が 遊 牧 生 活 を し で は 2 7 5 m m で あ る ・ て い る 。 叉 、 こ の 地 域 の 西 部 で は B u s h m a n と 呼 盆 地 の 中 央 部 、 Ⅱ − 地 域 で は 人 口 密 度 が 平 方 マ ば れ る 人 々 が 狩 猟 採 集 生 活 者 の 人 口 は 少 い と 思 わ イ ル 当 り o p 河 、 N b s s o b 河1 の人 澗( 河写 に真 は− さ5 ま, れ6 る) 一M 帯l 、 I 地 域 で は 平 方 マ イ れるがはっきりしていない。 南 ア フ リ カ で は 南 緯 2 0 度 以 北 は T s e t s e F l y ル 当 り 人 口 0 人 の 地 域 が 広 が っ て い る 。 の 棲 息 可 能 地 と な る o T s e t s e F l y は 家 蓄 の 睡 り ’ と Ⅱ 一 地 域 内 で 人 口 が 比 較 的 多 い の は 恥 l o p o 病 を 媒 介 す る の で 口 蹄 病 と 並 ん で 非 常 に 恐 れ ら れ 河 の 河 床 の 浅 井 戸 が 利 用 で き る 場 所 で あ る 。 も う −101− 一 手 。 ④ 一 F ■ ー F ■ = ■ ■ 一 一 - 一 ■ ■ . 人一一藷−−−−-一一一= 一 −−− F 二 ■ ■ 一 ’1 q■ ’ 1ケ所はTsaneの周辺oここでは大きなmnを中 生活の水源として利用されている。(写真-11, 心に小さなPanが散在し、Panに堀った浅井戸を 水源にBakgara"diと呼ばれる入念が牛を飼い細 12)Panとは恥ahari砂漠に特徴的な地形で 々と農耕を営んでいる。Ⅱ−地域西部のGlBIzi 一帯は地下の岩盤が比較的浅く地下水が得やすい。 識 .︾ ﹄ t “ B a k g a r a g a d i の 人 々 が 遊 牧 あ る い は 狩 猟 採 集 生 活 2一 己や到 鎖 今 り r一 写真-5kuliの人家Kgara"di ご − マー 一 − 凸匹〃︽垂△ 口あ ‐ ︸す ■●勺 。 ︾ロム 争炉夕 塞罹I 司 垂 ある。残りの広大な地域は写真−3に示したよう な荒野である。人口密度は0∼1人/平方マイル と言われているがこの超過疎条件を十分利用して “ ■ L (写真−7)このために白人の牧場がいくつかあ る。人口密度はいずれも3∼4人/平方マイルで ■ 二 一軍 、 鉾ら等1 b ▲ − 言 を営んでいる。(写真-8) 写真-6Balarahariの人家、Kuli 写真-11Panの溜水をだ鳥の卵の殻に I、Ⅱ−地域とも降雨条件が悪いばかりではな ’ く土壌の発達も悪く地表は黄褐色の砂におおわれ 汲むBushman、恥li / 農耕には極めて不向の土地である。 南 ア フ リ カ の 先 住 民 で あ る B u s h m a n , H o t t e n - t o t 以 外 の B a n t u 系 の 人 向 が 現 在 の B o t s i ハ B n a 共 和 国 辺 り に 移 住 し て き た の は 、 さ 程 古 く は な く 、 1 6 ∼ 1 7 世 紀 の こ と と い わ れ て い る 。 移 住 し て き た 入 念 は 住 居 を 定 め る に あ た っ て 、 先 ず 、 水 が . . : 一 L = = : Z = m … = − . 遡 一 写真-7Ghanziの揚水用風車 る 人 口 分 布 が 現 在 の よ う に 落 着 く ま で に は 部 族 問 の 抗 争 、 植 民 地 政 府 の 政 策 な ど 諸 々 の 社 会 的 な 制 約 を 受 け た 後 の こ と で あ ろ う が 、 む き だ し の 自 然 と 直 に 触 れ あ う 人 々 の 生 活 に と っ て は 、 水 そ の も の の 存 在 と そ の 土 地 の 水 文 条 件 と は と う て い 無 視 で き ぬ も の で あ っ た の で あ ろ う 。 ( 図 6 ) で 写 真 8 B u s h m a n の 家 11101 人 口 密 度 の 大 き い 場 所 は 必 ず 水 の あ る 場 所 と 一 致 llhlIlJI1J■I■■■■■■。■■■■Ⅱ日■■ している。 ︲IIllll04Ⅱ。■且■■且■■■■■■■■■■■■■■ 建 鍵 塁ヨー ー ∼昌一 夢割て魚麺 ヨ 区 一 ' 」 ー 写真_12Panの浅井戸から水を汲む風景 Tsane あり塩湖の一種である。(写真−18) Panの大きさは大小様々ある。最大のものは 池lerikariRLnで、小さなものは恥lahari地 方に数多く分布している。図−6に南緯28∼2 4度付近の"nの分布を示した。大きなPanは様 なた形をしているが小さなものには、円形叉はだ 3.Panの水 両 写真−9家蓄に井戸水を汲んで飲せる、Sehihハ凪 昭 一102− 形のものが多い。建nの底は塩類が沈着して灰 こ れ ま で に も 述 べ て き た よ う に 、 盆 地 の 南 部 、 円色をしている。雨期には周辺よりも低くなった 中 央 部 の ’ 一 Ⅱ 一 地 域 で は 専 ら P a n の 水 が 人 々 の 白 写 真 − 1 0 水 場 に 水 汲 に 行 く 娘 達 、 K u l i -103- マ 一一 デー 一一 一一一 一 一 一 一 ’ぶり”幸 一 I I 一品 た 。 ( 写 真 9 , 1 0 ) B o t s W a n a 共 和 国 に お け p 一 一 今 鋒 b々_狼八二F。〃基皐 ヨクー勇一。込 一 一■ 得 ら れ る か ど う か 、 そ し て 、 そ の 近 く で 農 耕 と 牧 蓄 が で き る か ど う か を 確 か め な け れ ば な ら な か っ ■ . 』 P 吋 争 −9 凸壺甦 ︾︽卿凧 や − − ‐ ‐ , 」 口 ■ 一 一 一 一 一 _ 一 一 = − 一 T 一 ■ 1冒一 一 11 一 一 ー 一 ■ ユ ニ ‐ 一 ー 一 と 一 一 一 ﹃軍璽 堅金篭一幸ム4-‘∼「.__. an上 = −−−刺..■湖 可と − ■ − − 丑 凸 d 公 r b 1 一 壺 壷 四 一 一 一 一 r ■ 一 二 一 凸 一 ■ 一 一 ■ 壼 − − − 1 − コ ■ − − − . − ■ ■ − 1 一 _ − 1 − ー 砿−−−2 写真−13Ⅱ地域 」 三一.土建‐‐.一一ニーーーー.一=‐‐一‐−− Panの全景、Tsane ②Panの底も砂でおおわれているもの・ 24E 23E (写真-15) 25F ●. 。 22s F 1 L ①のTypeのPanでは堀抜井戸が利用される場 合が多い。機械でボーリングをした井戸もあるが 数は少い。このような井戸を水源とするところで ’ = 。 は家蓄は自分で水を飲むことができず、人影が水 場に現れると砂煙をあげて家蓄が馳寄ってくる。 ②のTypeは比較的小さた恥nの場合が多蝿と ロ リ ‐ ○ ○一.‐ 。 の 。 : 〃 〃 ◎夕 ソ のTypeのPanの底も①のTypeと同様に底は明る い灰白色を呈している。②のTypeの場合は恥、 ‐◎ f p 。 。 qj119句□ 畢 g : 伊﹄心垂 ざ。 0 2も 。 。 のある場所はPanの周囲と植生が異っている。雨 期に水溜りのできる中央部の一番低い個所には植 一 ● 0 つQ酌 。つ 物は全く生えていない。これを中心にまばらでは ●白 〃● 《階 写真−14 ]S 、 ”0 -.今ロ 0 P■ 石 灰 岩 の 露 出 す る P a n の 水 場 、 中央部の浅井戸の水が利用される あるが同心円状に植生の変化がみられる。(写真 −15)これはPanの底に沈着した塩類と土壌中 の水分の影響であろう。 品 このPanの底に沈着した塩類は水によって持込 。ゆ 0 23E 0F 童れたものであるoPanの水ははげしい蒸発作用 のくりかえしによって蒸発してし童い、水に溶け 24E 0 ていた塩類があたり−面白くみえる程にPanの底 −−醐川2雛 11 '"。Pa" に沈着したものである。この塩類の起源を知るた めには水の起源を探らねばならない。 図-6Panの分布 Panの表面から蒸発する水の起源は(図-7) 中央部に水溜りができる。人々はとの溜り水か、 Panの中に堀った浅井戸の水を利用する。 Panの成因についてははっきりしないが、Pan −104− はPanの上に降った雨である。 次に考えられるのはPanの周囲からの雨水の流 (写真−14) −1.05− 一 一 一 一印 1 のように3つが考えられる。第一に考えられるの の 底 の 様 子 か ら み て " n に は 2 つ の I y p e が あ る 。 ① P a n の 底 に 石 灰 石 が 露 出 し て い る も の 。 ▲ 一 一 一 一 一 一 一 画 一 一 一 戸 一 評 = 一 F m 、 二 一 一 幸 ー 丙 − − ー 一 劃 ’ 1 と C a 十 十 、 l 噌 十 卜 、 K + の 含 有 量 を 示 し た 。 P a n の 中 これはPanの中央部の方が周辺部よりも粘土が Pan以外 の士表 これは、Panの中心部よりも周辺部の方が水深 図-7Panから蒸発する水の起源 部 に 沈 着 さ せ つ つ 次 第 に P a n の 中 央 部 に 集 ま っ て おおわれているため少々の雨はたちどころ砂が吸 い込んでしまう。けれどもこの地方の雨は降雨量 こ の よ う に P a n に は 箸 る し い 塩 類 が 集 積 さ れ て い る 。 表 4 I E P a n の 砂 と P a n 以 外 の 地 表 の 砂 に 表の浸透性速度は降雨強度にはるかに及ばず地表 に水溜りが生じ、これが低い方へと流れ始めるo したがってPanの周囲に降った雨水もPanに流入 する場合もある。 ※ ※ PH Panの中心部 砂% ※ Ca% Mg% K % 9.5 4j2.7 0.43 0.076 9.2 76.4 0,99 0.26 0.036 0.63 ≦誤=テーー更一一Ir Panの周辺部 ’ ※So#lubleinl%CitricAc1d. Sampleは地表0∼26m玄での平均 9.7 22.6 9.5 0.631 0.434 0.076 48.7 0.1 20.7 10.1 0.975 0.256 0.055 52.6 0.7 15.8 10.2 1.05 0.414 0.047 48.6 0‘7 14.2 10.2 0.765 0.267 0.034 0,6 13.9 10.3 1.18 0.229 0.038 0.010 0.004 0.002 0.014 0.003 0.002 0.014 0.002 0.002 0.010 0.004 0,002 0.014 0.006 0曹003 0.011 0.005 0.003 0.011 0.007 0.003 61.8 − − 99.1 0,0 1.7 98.9 0.0 l . 7 99.1 0‘0 1.6 98.6 0.0 1.8 98,8 0.0 2.0 98‘7 0,1 2.0 98.4 0.0 一 に経過した時間の推定も不可能ではあるまい。 2.4 一 こ れ は 両 者 の 溶 解 度 の 差 に よ る も の と 同 時 に 水 の 下 方 よ り 上 方 へ の 移 動 の 結 果 で あ ろ う o I m l a h a r i 地 方 ( I , Ⅱ − 地 域 ) は 地 表 が 透 水 性 の 良 い 砂 で けれどもKalahariでは、地形が平担でもあり、 又、Bantu系の人々の移住の歴史も浅いためか、 地下水流などを利用する含でに水利用の技術振澆 達しなかった。人々は専らPanを通じて地下水を 利用し続けてきたのである。 KAnRtであったo お お わ れ て い る 。 堆 積 層 の 厚 さ が 問 題 に な る が 、 雨 期 に 降 雨 直 後 は 地 下 水 面 も 上 昇 す る で あ ろ う 。 南 ア フ リ カ 共 和 国 内 の I m l a h a r i 砂 漠 で の 観 測 に よ る と 、 地 下 水 は 約 1 0 年 毎 の 大 雨 の 年 に 潤 養 さ れ て い る 地 域 が あ る 。 加 う る に P a n の 底 は 周 囲 よ り も 2 ∼ 3 m 低 く た っ て い る 。 し た が っ て 、 P a n の 底 に 浸 出 す る さ い に も た ら さ れ た も の も あ る の では産かろうか。 こ の よ う に 、 P a n の 水 は 3 つ の 起 源 が 考 え ら れ 一 る が ど の 経 路 に 上 る 水 に よ っ て も た ら さ れ る 塩 類 が " n に お け る 塩 類 の 集 穣 に 最 も 寄 与 し て い る か 表 − 3 に P a n の 中 心 部 と 周 辺 部 の 地 表 の 砂 の 鐙 は 、 P a n の 水 収 支 を 探 れ ば 明 ら か に な ろ う 。 年 間 −107− −106− 一 . = ’ 〆 乾 燥 地 域 に 住 む 入 念 は 、 い ず れ も 地 下 水 を 利 用 し て 生 活 し て き た o O a s i s で あ り F o g g a r a で あ り と c a + 卜 は 下 層 に 多 く K f は 表 面 に 多 く な っ て い る 。 表-8mnの砂と含有塩類の上徽 ’ K% 42‘7 の 蒸 発 量 、 各 経 路 か ら 流 入 す る 水 の 平 均 水 質 が 判 れ ば 、 P a n が 出 来 は じ め て か ら 現 在 に い た る ま で 含 ま れ て い る 塩 類 を 示 し た o P a n の 砂 は 他 の 地 表 は少いが、単位時間当りの降雨強度はかなり強い の 砂 の 5 0 ∼ 2 0 0 倍 も の 塩 類 が 集 積 し て い る 。 ひとたび夕立にまき込まれると地表にたたきつけ・ P a n の 砂 に 含 凌 れ る C a ' + 、 K + の 垂 直 分 布 を み る られる雨水の水しぶきで地上50∼60“は見透 が効かなくなる程である。このような場合は、地 Mg% 表-4Panの内と外の砂の比較 ゆくのであろう0 入である。Panの周囲の地表は浸透性の良い砂で Ca% − − 一一 も 洩 い た め に 蒸 発 が よ り は げ し い 結 果 で あ ろ う O 水 に 溶 存 し て い る 塩 類 は 溶 解 度 の 小 さ な 塩 を 周 辺 3 Solublein1%CitricAcid <0.002 0.002 〃〃 PH 0 0 9 6 9 6 4 ●6 ■5 ●6 ●7 ・7 ●7 ● 6 c a J 卜 、 M g + + , K + の 含 有 量 を 比 べ る と 、 周 辺 部 で は Q j + が 多 く 中 央 部 で は M 許 、 K + が 多 く なっている。 111123 Pan 1112 形成されやすい環境にあることも考えられるが、 この粘土はHnに流れ込んだ水によってPanの周 辺部の砂から洗い出されたものが持ち込戎れたも のと考えてもさしつかえたかろう。 2.0−0.02 0.02− 調印皿諏“|亜訓皿翠顕“服 中央部の方が多い。 三 − ヱ ー 2592136284 -−零秀舜∼.↓?↓f↓?−"s'守恵一一 叩卜鈩吟産トト犀卜吟歩鈩娠 央部の方が周辺部よりも砂の含量が少〈、粘土は Clay% Samd% Silt% Depth ▲ ■ − − . ≦ ≦ ニ ュ ー ‐ 一 = _ _ = = = = 二 一 二 一 一 = 一 一一 一 一 " ・ 一 言= == = = “ 口 = = 一 一 写真と メモ − 倉 知 康 !Koおよび!Kungブッシュマンとカラハリ砂漠∼ 11 吾 ぐ一Tshane-雨雲と雨 鍵 雫 や 一 〆 切 一 盈壹 ● ○ 色 狩 り 苧 、ぺ率轡で凡 一● 1111qHIj■dqj■■■J■q■■日日■■F6111illIPpF伝bF︲LRDIbトトトー,IlPII カラハリ砂漠 ﹄ 一→ T s h a n e 画 面 中 央 に ハ ル テ ピ ー ス ト の 群 ( 雨 期 ) → F= ■■一一一 rLoneTreePan−いわゆるCentral kalahari(雨期) 涌ゞ一︽ 苦一 昌勺 争い 聯一。軍 ﹄一 可﹄ ● や。 = 令Q ・華 瑳 鳶 ● 面李︽参 岸 ︾ 蓮ひ一』 厚 ←パン(雌l"rilmri)(乾期) 嚢 パ ン ( T s h a n e ) と ハ ル テ ピ ー ス ト ( 雨 期 ) → ↑AIBHillよりTsodiloHillを望む (雨期) -108- q L −109− ー − − − − − ‐ ▲ー 一 一 房11 一 毛︾ 1 ) ブヅシュマン 耐トゼP,.,今 ぬ 一 辛口 可 口︾ − 一 0 6 可 訓一例9 I } I 少女一乳量の半球化が みとめられるo(Kuli) → ● 由 U 一■Vワ = 、 陣一 一一 可陣 今 一中 性. I − − − − −−−−...一旦一_‐ 』■『 1 石 ー 一 一 岳 守 守 里ぞ._享唖〃 砂 ↑壮年女性(kuli) ■ ー ↑壮年の狩人。(LoneTreePan) 一j︾酸︲ 里 1 I 声 1匁 塞‘冤 ""-; = 、 ’ 』 01 9 1 a− 亡 彦 缶 『毒’ 溌 韓 鰈 . 。 ↑ 1洩 謹 ト 池 L I 4 、蛍 麺卓 J 守 一審二一 − − 一 一 ※ 身 体 計 測 等 の 結 果 は 、 別 稿 「 カ ラ ハ リ 砂 漠 の ブ ツ シ ユ マ ン の 身 体 検 査 」 に 採 録 さ れ て い る 。 ↑母と子b(LoneTreePan) ブッシュマン) −111− −110− ■ 車 ■ = 一 一 一 ■ ■ ■ F ■ 面 宇 ■ p ■ ■ ー 一 ↑ 勢 9 響 鞭 f 聯 お る 少 ▲ . 一 一 = 一 一 − . 一 三 重 壷 一 一 二 一 壷 = ‐ 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 ・ ・ 占 ・ ・ 一 . , ー 一 一 = E = 可 ‐ 一 − 食 生 活 ぐ一干肉木の枝にひっかけて干されている。 メロン画面左方。→ 画面左は皮o(Tshane) (南カラハリ) 且 ‐ 「 ”− 陽一。へ 一 ∼勺 。■ メ、 ′ 」 ロ ー ■一車 画 ︽ 卓 〆か 彫 づ安 夕一 季 □マ句 ﹄卓︾ 画 面 下 方 ・ → │ 』 ﹄や 焚火でやかれている。 (Aha Hill附近の./Kungブッシュマン) 畠会 l A p塵間 、 擬 虚 スフ.リンク・ヘアの蒸し焼き (LoneTreePan) ÷∼イモ ツー 、 、 b 延瑚 ・ 要 - 両F| ぶち 毎α ‐F 毒 一 、 可 刃 4 ■ デ 地下茎。(In'li)-_, ←蒸し焼きにされたばかりの幼虫画面左_t には使った灰の跡がみえる。 (LoIETreePan) 食事風景焙った肉をたべ て い る 0→ ( T s h a n e ) ←マメ乾燥している。画面左下。 ( T s l a n e ) −113− −112− _ − − − . − − − − 一 一 一 『 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 = 一 ■ − ▲ ■ 届 一 ‐ 道 具 − − − − − − . . ‐ 一 一 等 今 h 準 宇一01 一↓・三一.︾・↑ 巨や等 塞, 踊 認鰄 や『イq摩つ ■ ■ ー し ↑夕・チョウの卵の水筒模様と栓に注意。 h IC一 ( I e m e l o n e ) 更 一 ↑火おこし棒。(Ghanzi) ▼I ユ〃 堪 kl 〃 ↑弓矢 0 矢じりははずしてある。 矢筒oGn'li) (スケールは1m)(Kuli) ー ダリ 謹 十 l … り こ ぎ . 室 な 板 ・ 火 か き 棒 o " l i ) 両 L−4− 1 〔 垂 】 1 E虫画 FlIlI﹄1111 ( ダ ン ス の 時 足 首 に 寮 き つ け て 音 を だ す ) . 首 か ざ り ( ダ チ ョ ウ の 卵 の カ ラ で 作 る ) ‘ す ︺こから箸鋭できる橡腱な句ていろ ↑右より、ラットルーガラガラ + 矢毒用の臼 この中で幼虫念 つぶして矢毒を得るの 荒けずりの*製、 」 矢 (いずれもKuliにて) 山 ↑わな 虎ばさみ。 槍 ↑ 背 負 袋 皮 製 で 、 狩 猟 具 と 猶 物 が 入 っていた。(Immel3" ("melane) −115− −114− 国−−一一一一.−−J = ▲ ー_==一=一一一一一一一一−−−=−−一-−−−−■ = や 住 2 − ダンス(Kuli) 余暇 居 − ? - . - 、 奪 11 ↑キャンプ16軒、約40名。 霞 (IQmelane) − , コ F / 典 、 ↑仮小屋風(?)。 (LoIETreePan) 声声子 の の 拍 女 男 手 ︵踊りの歌の楽譜とはやし︶ 塵 ガラガラ 男のはや 垣恨(,閉さ約2m) グチョウの卵の水筒 4 ダチョウの卵 4I ホウロウ引きのポウル 卵) −117− −116− ‐ 一 − 一 一 一 一 一 一 一 一 ロ ー ■ ■ 一 一一 一 一 − 一 − 一一 一 二 口 一 一 = 一 一 一 一 二 − - ’ − , 『 ≦ _ _ _ 4 一 ■ ー − − − ’ 一 一一 二 . − − − − − 一 一 一 一 ‐ 可 ’ 。﹂ 一 ー ’ セントラル。カラハ'ノ・ブツシユマンの 生態学的考察一食物を中心に− ’ P− ← I ■図画 ■ − 田 中 二 郎 1 − − −−ロ】 ↑独奏。(Kuli) 類を使用すること・ができたことによって、私が単 はじめに ↑合奏O(Tsetreng) この報告は、1966年12月より、現在、す なわち、1968年3月に至る15カ月間になさ れたブッシニマン調査の概略であるoはじめの3 カ 月 間 、 す な わ ち 、 1 9 6 7 年 1 2 月 ま で が 北 海 道 大 学 探 検 部 の 主 催 す る カ ラ / 、 リ 砂 漠 踏 査 隊 の 隊 貝 と し て の 行 動 で あ ・ る が 、 以 下 に 述 べ る 報 告 は 、 北 大 隊 解 散 の の ち 、 京 都 大 学 ア フ リ カ 学 術 調 査 隊 の 一 員 と な っ て 、 私 が 単 独 で 行 な っ た 部 分 が 年 月 と調査の内容からいって、大部分を占めるo 章 を 起 こ す に 先 だ っ て 、 日 本 国 内 、 国 外 を 問 わ ず 、 多 数 の 人 な の 援 助 に 対 し 、 心 か ら 感 謝 の 意 を 表 わ し た い 。 と く に 、 北 海 道 大 学 理 学 部 の 佐 を 保 雄 教 授 を は じ め と す る 北 海 道 大 学 探 検 部 の 方 を 、 3 カ 月 間 の カ ラ ハ リ の 旅 を と も に し た 倉 知 康 隊 長 以 下 、 東 郷 昭 彦 、 松 本 亘 両 氏 。 じ っ に 、 北 大 の 方 な の ね ば り 強 い 努 力 を 熱 意 、 そ れ に 、 部 外 者 の 私 を 快 く 受 け 入 れ て く だ さ っ た 温 か い お こ こ ろ ざ し が た か っ た ら 、 と て も こ れ ほ ど 早 い 時 期 に カ ラ ハ リ 入 り す る こ と は で き な か っ た と 思 う o 当 初 の 8 カ 月 間 、 行 を と も に す る こ と の で き た 上 記 3 氏 の ユ ー モ ア と 機 智 に 富 ん だ 、 そ れ で い て 、 み ご と に 蚕 と ま っ た 北 大 踏 査 隊 と 接 す る 機 会 を 得 た こ と は 、 私 個 人 に と っ て 大 変 有 意 議 で あ っ た し 、 そ の 間 に 、 ほ ぼ 、 、 ボ ツ ワ ナ 全 国 を 旅 行 し 得 た こ と は 、 ブ ツ シ 〔注〕 ※説明文中、特にことわってないものは、 全 て . / K O ブ ツ シ ユ マ ン に つ い て の も の で あ る o ※写真は、隊員各自が撮影したものの中か ら 適宜採択させていただいた。 ※楽譜は、東郷隊員によるものである。 ユ マ ン の 分 布 と 他 民 族 と の 接 触 の 状 態 を 知 る う え に 大 変 重 要 な 経 験 で あ っ た 。 こ の 経 験 が 、 そ の 後 の ブ ッ シ ュ マ ン 調 査 の た め の 予 備 知 識 と な っ た と こ ろ は 測 り 知 れ な い も の が あ る 。 そ し て 結 果 的 に は 、 北 大 隊 の 使 っ た ト ラ ッ ク を 安 く 入 手 す る こ と が で き 、 ま た 、 そ の 残 し て い っ て く だ さ っ た 装 備 独でセントラルリザーブにおける調査を遂行する ことも可能になった点も見逃すことができない。 私たちのカラハリヘの出発に際し、実際的な指示 と、とくに人類学調査に関する諸知識を授けてく ださった東京外国語大学アジア・アフリカ言語文 化研究所の富川盛道教授、わがままをとおさせて くださった東京大学文化人類学研究室の故泉靖一 教授ならびに他の先生方、1967年3月以降の 私の調査費の面倒をみて〈ださり、私の京都大学 動物学教室在学中以来の師である京都大学自然人 類学研究室の伊谷純一郎助教授、ならびに他の先 生方に心からお礼申しあげる。当地ボツワナにあ っては、セントラル・リザーブ.への単身乗り込み という冒険にも近い私の調査計画に好意を寄せて くださり、許可をとりつけてくださった、内務省 秘書官A.H.Donald退役少佐、セントラル ・リザーブでの行動に可能なかぎりの援助と便宣 をはかって〈ださり、さらにハンシィでの滞在の ためにつねに政府のケストハウスを提供してくだ さったハンシィ地区の地方弁務官、Simon Cicllett氏に深く感謝する。ブッシュマン・ 調査に関し、多くの示唆を与えて<ださり、とき に有益な議論をたたかわすことのできた当地滞在 の人類学者、Dr.AdamKuper(Unive- rsityoftheWitwatersrand), Dr.H.J.Heinz(Universityof theWitwatersrand),Prof. JohnBlaoking(Universityof theWitwatersrand),Prof. TrvenDevol-e(HarvardUniversity) -119- -118- F 曲 」 1 箪 ‘ ' 擾 , 1.: ;..・ i : i l : : ! : : . : : 。 l : . : . . : . ’ ■■Ⅱ・・・トー・・・酢I 1.:....、...........。.、刑J・・油凹む.。..●:。.・・州・旧・・.舟釧I!・・・.・::・ ●酔貼⋮砧・砧・貼貼.●.m・LL44寺叩叩叩貼貼叩、叩.●●●●●●.叩..m貼叩叩貼●●●●●●﹄●●咄.叩.﹄.叩.●..●●●●●●●●●●●●●.m叩叩叩叩︾●.︾.●..●●..●●●●●●●●叩叩●●●●唖叫●●叩唖●龍●●誰●︾●●●● 胖附鵬群峰脛呼出脱恥嘩韓池鵬催い催●岼唖●陣陀﹄︾雁●許叶肥恥膵唯孫隊酢砂庄恥に●弥貼.●●●●●..●職附鵬呼上訴罪昨蝋轆r嚥箪ご尋●弥叩叩哩叩叩鰯叩叩叩叩貼●●●●●●F脆叩.●、恥附咋 およびDr.RichardLee(HarVard 最新の報告によると55,531人。そのうち、南 西アフリカ20,811人、アンゴラ4,000人、 南アフリカ20人、ローデシア200人を除いて、 ボツワナに生息するものは31,000人を推定さ れる。これらのプッシュマンは、南西アフリカの ホッテントット、東アフリカに少数生存するハザ たいと思う。 University)、の諸氏に感謝する。調査の セントラル・カラハリ・ブッシュマンの生態学 対象としたプッシュマンの友人たちには、私の彼 的研究の報告は、東京大学文化人類学研究室にお らのキャンプでの住みこみ調査を快く受け入れて いて、修士論文として左とめる予定である。 いただき、かつ、私生活から調査のすべての面に 1968年8月8日 わたって、つねに協力していただいたことについ ハンシィのゲスト・ハウスにて著者 て、深く感謝する。 ■ 。。■心貼・・r・・■・叩・叩・ざ、・叩叩叩埒ロロロロロロロ。。■・甜呼叩・ロロ・叩・ロロロロロロLL超ロロロロロロロロロロロ・叩叩叩叩叩叩軋ロロロロロロロロロ哺口唱口・苧琿祁晶叩照LL■此■. .●●●●●●●︾●●●..咄●●●、●●●.咄蕊舘●蕊●●、●●●●●叩:舘弾●粥●鵲●粥●粥●粥●電●咄●咄●藍静蕃疑謝騨舘盟零斑盟●蝋 .■rl1JlⅣgトLⅡ8期BT和..日日190旧T咽61判■畑0旧■■佃Bg91I珊判佃句.や沖 りをみて書き綴ったものなので、概略にすぎず、 また、データの未検討を点とともに論文構成自体 第1章概略 に不備の点も多いと思うが現在のところ本報をも って北大踏査隊の報告の一端としての資を果たし 1 分 布 現在するブツシユマンはTobias(註l)の 。 、 ' 、 、 ’ グ 〃 ’ 1 /Kung 2 言 語 ブッシュマン語の特徴はクリックが頻繁に用い られることであり、その他に、気音(aspiration)。 用いられ、発音は現在用いられる世界中の言語の 中でも最も困難であると思われる。上記3種以外 の発音は比較的簡単で、英語よりはむしろ日本語 に近い。文法構造も又、英語より日本語に近いよ うに思われる。(註5)用いられる音素 うに思われる。(註5)用いられる音素 (phoneme)は; る 方 言 に よ っ て 、 北 、 中 、 南 部 の 8 グ ル ー プ に 大 グ ● ているようである。 声門を瞬間的に鳴らせるglattalflapが ピ(をたはティンディガ)、サンダウェとともに コイサン語族(註2)と呼ばれる。その言語の特 徴はクリック(吸打音)を頻繁に混じえる独特の もので、プッシュマンは採集狩猟による原始的な 生活様式とともに、形質人類学的にも世界最古の 現存人種といわれている。プッシュマンは使われ なお、この報告は、現地の野外調査の合間に折 /Kau/Kae,Nharoその他の一部に限られ /;dentalclick,舌端を上側切歯から 別 す る こ と が で き 、 ボ ツ ワ ナ の ブ ッ シ ュ マ ン は 北 離す際生じる舌打ちのような音哩tch''の 部 : / K u n g , / K a n / K a e , 中 部 : N h a r o , ような音。 T s a o , / G w i , / G a n e , H x a i , 南 部 : /;alveolar-palatalclick,舌 / K o ( 註 3 ) 等 に 分 類 す る こ と が で き る 。 ( 第 − 端を上口蓋に押しつけておいて鋭く離す 少琴 1図)。 ◇ cグ 〆ー 、 辿一 ﹄.一一一 一 一 。一一︲ ﹄一 今 一’F一 や c 〆fO6 、 Istown 。、 A 二 | riReserve 際生じる音、K.T・のような軽く高い音 北 ・ 中 ・ 南 部 の 各 プ ッ シ ュ マ ン は 言 語 学 的 に も か な り の 相 関 関 係 が あ り 、 採 集 狩 猟 に よ る 経 済 生 活 、 社 会 構 造 、 物 質 文 化 採 集 狩 猟 具 、 住 居 、 衣 類 等 、 精 神 文 化 歌 、 踊 り 等 酷 似 し て い る 。 I ’ | } 、 、 雲 . . . ‐ (hollowpoppingsound) /;alveolarclick,舌端の位匿は dentalclickと同じ位霞であるが、 舌の先端部上面を薩麓より離す際生じる 数 百 年 前 、 百 人 と バ ン ト ウ の 南 と 北 か ら の 侵 略 に よ り 南 東 の 海 岸 沿 い か ら 現 在 の よ り 過 酷 な 環 境 の 土 地 に 逃 げ の び 、 住 み つ く よ う に な っ た 過 程 で こ う し た 方 言 群 の 分 布 が 行 な わ れ た の だ ろ う と 思 わ flatpoPpingsounelo /;lataralclick,舌端を上懲茎に押 しつけておき、舌の両側面を臼歯の内側よ り鋭どく離す際に生じる音、alveolar れ る 。 ブ ッ シ ュ マ ン と パ ン ト ウ ( B a n t u ) 、 clickに似た音であるが、記述するのは ( 註 も ) 或 い は 白 人 と の 接 触 は 現 在 で は 大 変 大 き く 、 プ ッ シ ュ マ ン 人 口 の 集 中 し て い る G h a n z i 地 区 で は 特 に 大 半 は 従 来 の 採 集 狩 猟 生 活 を 放 棄 し 上 ユUerOho⑤ て 農 場 の 労 働 者 と な っ た り 、 バ ン ト ウ の 従 属 的 地 位 に 甘 ん じ て お り 、 こ の 傾 向 は 年 毎 に 急 速 に 増 加 し て い る よ う で あ る 。 近 い 将 来 、 将 集 狩 猟 バ ン ド 構 造 と い う 本 来 の ブ ッ シ ュ F マ ン 文 化 は 消 滅 す る こ と は 必 至 で あ る 。 現 在 な お 採 集 狩 猟 の み に よ っ て 第1図 a,b,d,e、,gqh,i,jナk,m,n,0, p,r,s,t'u'w'y'z'・;日本語の発音 に近い。y,;英語のKingのngの発音。 fs,5,3;英語のtoOfg,fhatのth のように上下切歯の間に舌をはさんで発音する。 x;ドイツ語のsprag_gen,スコットランド や 1,21- 一m! ▲ 方言のla虫のchのように喉を鳴らせる。 一 生 計 を た て 、 原 始 生 活 を し て い る の は 、 / K U n g ' / G w i , / G a n a , / K o の か な り の 部 分 と -120- ゞ ≦ 一 . ‐ 一 _ ・ = − … 一 … 一 ‐ − 皇 一 一 = 一 一 零 .…ゞ , − − − ‐ = 一 一 : 雲 一 . = 4 _ _ 」 _ 一 を E 当 − − . … = 、 ‐ 。 ‘ 困難である。 1 l 」 # | , : . ReJ,eγ〃9. カラハリ砂漠全般についての気候、地質、植物 相、動物相などについては同行の諸氏の報告にな いが、非常に種類が多い。最もdominantな 植物は1”位の丈の千本科の草本で全土はこれに 或いはpanから縁林に移行するところは柔らか おおわれている。小舎を葺く材料でもあり、野焼 な芝生様の草原(Sporobolustenellus きの際に万辺なく燃え広がる燃料でもあるし、た きつけにもする。他にこれに似た草力数種混じる。 (?))となっていて、草食動物にとって恰好の食 域としたセントラル・リザーブはわけても雨量が の丈の高い千本科の草と、l 2碗の灌木におお われた柔らかい赤味を帯びた砂-Kalahari sand−の平担地、いわゆるopenscrub plainから成り立つ。ほぼ中央部を東西南北に 蕊 月にはまる1ヶ月間降雨をみなかった。恐らく平 § 義 源の大半を提供する。 セントラル・カラハリの殆んどの部分は1加位 少なく、雨季の最盛期である現在、1968年2 I . 、 群 . 錨 . 、 広大で単調なopenscrubplainにとこ ろどころで変化をもたらしている(第2図)。 ると思うので、繰り返しては述べないが、調査地 蕊 均年間雨量は200"配を割るものと思われ、雨季 の8ケ月位(1月−3月)を除いては全く地表水 (flora)は予想に反して豊富で、全土は数種 o p e n s c r u b p l a i n で は こ の 他 に 、 丈 が 70”∼200”位の潅木群、エ且ェ型_La_LLg 褐色の、雨季とそれに続く数ケ月はさ性ざまを緑 在するpan(フライパンのような凹地、砂質は 固い黒つぼい砂、Molapo中にも多数見られる ) が あ る o O k w a R i v e r , M o l a p o と そ れ に 沿った樹林帯、panの蚕わりの緑林、及びとこ ろどころに散見されるパッチ状の林のみが、この 色で覆われるサバンナ的景観を示す。全ての植物 は最高42℃に達する気温と強力な太陽エネンギ ーを吸収して雨季に備え、わずかの水分にも敏感 に反応して最初の降雨の後、数日中にはすっかり ’ △・melliferaに次いでTerminalia − − prunioidesがみられる。河床から河辺林、 ’│ み場となる。雨季にはいういったMolapo panに水溜りができるので、そこは肉食動物に とっても、人間にとっても最も重要な場所である。 木、Cataphractesalexadriがところ G.fl……、甦旦型_L幽聖空堅牢 が d o m i n a n t と な っ て い る 。 河 辺 林 や パ ッ チ 状 どころに群生する。固い木でプッシュマンの火起 / し棒として使われるので有名である。(第8図) ● uu rg e 〃0 , a en ・ c l d O Ⅲ a 。 v e。 0 0 K ym Ⅲ 〃G 牛G c 凸凹…咽 cノノ O00Og p a ap ap ap a l l l 1l 0M 00 ら M M○ MわK ①②③④ 壱一 日ロ u m k 名をとってこの地域を/Kade地域と呼ぶこと にする。/Kade地域は最も近くのKgalaggdi a a ●竹、● a p l u r n脚一 I ’ 一 − ︾ 一 宗 恥垂|b・一 e ・順一 r蕊c 帳 P e○ q ー 一一 一一一一 ’ 4調査の対象とアプローチ 調 査 の 対 象 と し た / G w i k U e , / G n a k u e (註?)の村蚕で東へ約80恥。Ghanzi農場 ( 註 6 ) は セ ン ト ラ ル ・ リ ザ ー ブ の 全 域 に わ た つ の 南 東 端 ま で 北 へ 約 1 6 0 h o 南 へ は " a l a g a d i て O k w a R i v e r , M o 1 a p o , p a n を 中 心 に . 村 落 で あ る T S e t s e n g 蜜 で 約 1 6 0 m 。 西 は ( 稀 薄 ) を 密 度 で 生 息 し て い る が 、 今 回 の 調 査 で G h a Z i L o b a t s i 道 路 付 近 の N h a r o , は 主 に O k w a R i v e r と 8 つ の M o l a p o 周 辺 / K o の テ リ ト リ ー 窪 で 約 l 6 0 m と い う 全 く 隔 孝 皇薑 一一一一 一一一 一 一 po a O G 一一一一一n − 塞諏 三千 に 住 む も の を 対 象 と し た 。 / G w i k u e と / G a 雛 さ れ た 砂 漠 の 中 で あ る o / K a d e に 入 る に は 、 n a k u e は 大 変 言 語 の 似 通 っ た ト ラ イ プ で 調 査 地 先 年 ボ ツ ワ ナ 政 府 の プ ツ シ ュ マ ン 担 当 官 G . B . 北 東 も 0r 町が ) よ り 南 東 へ 蕊k 直g ぐ 通 っ て お り 、 常に 域 で は 互 い に 行 動 域 を 共 有 し 、 両 者 の 交 流 は 緊 密 S i l b e r b a u e 作 っ た 道 が D e e ( D h a n z i で 、 通 婚 が 行 な わ れ る の で 、 両 者 を 毒 と め て / G w i k u e ト ラ イ ブ と し て 扱 う 。 彼 ら の 行 勤 域 そ れ を 利 用 す る こ と に な っ た 。 道 と は い っ て も 輪 の 中 心 に 位 腫 す る 最 大 の M o l a p o 中 の p a n の だ ら が 二 筋 宴 直 ぐ つ づ い て い る だ け で 、 道 の 中 央 = openscrubplain ‐ − − − 20406') Wr iW 1 ) k 、 一一一一一一一ー一一一一−一一一一一 − Molpoの横断面 | 綱虎地峻 △g旦皇_里皇iraf些星÷△・_uncinata, Sporobollu§に混じって1∼2"の丈の潅 sericea,Bo坐』_竺旦_1_L_L堅』L旦旦且」 Grewia f l a v 些 旦 . _ L g _ L _ L g g L Z L g L の支流のように位置する4つのMolapo(ツワ ナ語で固い黒味を帯びた砂の澗沢)及び各所に点 を除く落葉樹或いは一年草で覆われ、乾季には茶 ! 植物は現在のところ同定できていないものが多 縦横断するOkwaRiver(柔らかな赤味を帯 びた砂の洞沢川巾約50m)とOkwaRiver はないので、地質学的には砂漠とされる。植物相 林では高層部を形成するのはアカシアカ狂倒的で、 緑の景観にかえてし誉う。豊富な植物に呼応して 動物相(fauna)も又豊富でこれらの植物の葉 花、実、茎、根は草食動物とう.ツシュマンの食物 1 鈴1討蕊患箪蕊鴬●鴬瀞識蕊熱驚舞蕊霧謝蕊縛調隷熱難認蕊諭剰劉獄謝 、博祁昨﹄思 3Cenfγα‘KaZaんαγZGame 第 2図 。−−−−−..一一一一_一 --ll28- −122− 一宅.・ユユ・一 =.,、---常一弐・-二・−.−−.トー =−−=日〃一 △ 11 ー 一 ’ は含わりと同じくプッシニと草がおい茂っているつたo筆者は/Kade地域に1967年9月3日 凸凹だらけの悪路である。ブツシニマンの移動とより1968年2月末日室での6ヶ月間を 分散に従って道のないところを始終乗りまわせね/Gwikueと共に生活し、残り3週間をさらに ばならないので、二輪駆動の中型トラック(ニツ/kadeでの現地調査にあてて今回の調査を終了 経済の-部を採集狩猟に依存するが、セント しない。せいぜい、わずかの残り物が翌日の朝食 ラル・リザーブのKgalagadiは特に自然 資源への依存度が大きい。発音は、バントウ となる程度である。それは彼等の食物が大部分保 のgはオランダ語やアフリカーンスと同じく サンジュニア2,000CC)では全く荷の勝ちすぎする予定である。 気音で、カラハーディに近いoKalahari る旅行であった。1mものいたるところに密生す はこれに語源を持つ。 る 草 は 一 年 中 最 も や っ か い な 代 物 で あ っ て 、 輪 だ 註 1 P h i l l i p T o b i a s l 9 5 6 " O h ち の あ と を た ち ど こ ろ に お お い か く し て し ま い 、 t h e . S u r v i v a l o f t h e B u s h m a n ' ' る完全な採集狩猟の自給自足経済である。原則的 に男は狩猟、女は採集を受け持ち、最も基本的な レ ベ ル で の 男 女 の 分 業 が 行 な わ れ る 。 植 物 相 の 豊 富 な こ と は 先 に 述 べ た が 、 こ の 一 見 し て 荒 涼 と し た カ ラ ハ リ 砂 漠 は 、 実 は 驚 く 程 豊 富 な 食 用 植 物 を 供 給 し て い る 。 更 に 重 要 な こ と は そ の 種 類 の 多 い こ と と 共 に 、 主 食 と な る 植 物 の 量 が 非 常 に 大 き い 行では木片やトケによるパンクは非常に頻繁に起れにあては蚕らない。 っ た ° 現 在 ま で の と こ ろ 車 の 故 障 は 泥 水 と ほ と り 註 4 , B 註 a 4 , n B t a u n 東 t ア u フ 東 リ ア カ フ リ に カ 起 に 源 起 を 源 も を つ も N つ N e e g g l l o o i i d に よ る 発 電 機 の ブ ラ シ の 故 障 ( 5 回 ) 、 フ ・ レ ー キ の 一 部 の で 一 、 部 で 現 、 在 現 東 在 ア 東 フ ア リ フ カ リ か カ ら か 南 ら ア 南 ア フ フ リ リ カ カ ま ま の 故 障 ( 2 回 ) 、 ガ ソ リ ン ・ パ イ プ の 切 断 、 ギ ア で に 広 で い に 分 広 布 い を 分 持 布 つ を 持 。 つ コ 。 イ コ サ イ ン サ 族 ン と 族 接 と 接 し し て て 分 分 こ と で あ る 。 最 近 の 報 告 で ハ ー バ ー ド 大 学 の R i c h a r d L e e ( 註 1 ) が 指 摘 し て い る よ う 布 す る 。 Z u l u , X o s a 等 は そ の 言 語 の 一 部 に ク リ ッ ク を と り い れ て い る 。 主 食 ( M a j a r F o o d ) を 持 ち 、 き た さ も な け れ ば 採 集 狩 猟 生 活 は 成 り 立 た な い 」 と い っ て い る 。 ブ ッ シ ュ マ ン も 然 り で あ る 。 L e e の 調 査 し た 北 部 の / K u n g と 違 っ て セ ン ト ラ ル ・ カ ラ ハ リ は よ り 乾 燥 し 、 生 活 環 境 は よ り 過 酷 な の で 、 一 年 中 を 通 じ て M a j o r f o o d と な り 得 る も の は な い 的 比 較 を 云 々 す る こ と は は ば か れ る 力 判 え ば 、 動 詞 は 文 末 に く る 、 時 制 の 変 化 は 助 動 詞 の ょ よ か な い 。 ハ ン シ イ の D . C . と の 喫 密 な 連 絡 に よ う を も う の を に も よ の る に 、 よ 文 る 、 は 文 並 は 列 並 的 列 で 的 あ で っ あ っ て て 関 関 係 係 代 代 って、万一の場合に備えてはいるが、結局最悪の 用詞はないなど。 場 合 、 飲 料 水 の 皆 無 の 土 地 を 1 6 0 町 歩 く 決 意 を 註 6 / 9 w i k u e , / e a n a k u . の K u e は 人 、 し に は や れ だ い 場 所 で あ る o ベ ー ス ・ キ ャ ン プ の 人 含 と い う 意 味 で あ り 、 従 っ て / G w i k U e / K a d e か ら 約 2 0 m n の と こ ろ に 政 府 の 堀 つ た は / G w i p e o p l e の 意 味 で あ り 、 通 常 井 戸 が あ り 、 こ の 水 を ド ラ ム 缶 で 運 ん で 行 っ て 生 / G w i k U e と つ づ け て 用 い ら れ る 。 / G w i 活 し た 。 食 料 は 全 て G h a n z i よ り 輸 送 し 、 主 食 語 は 従 っ て Z 9 w ' 。 h ! k X 。 ! ( k X 6 1 はボツワナのバントウの主食であるミリミール は言葉)と呼ばれる。 ( ト ウ モ ロ コ シ の 粉 ) と ヤ ギ 肉 で あ る 。 他 に 、 季 註 7 K g a l a g a d i B a n t u 語 族 の _ 部 族 で 節 に よ っ て は う ‘ ツ シ ュ マ ン と 同 じ 野 生 の 動 植 物 が G h a n z i 地 区 で は プ ッ シ ュ マ ン に 次 い で 大 − 日 の 食 事 の 半 分 以 上 を 占 め る こ と も し ば し ば あ き 凌 人 口 を 持 つ 。 農 耕 、 牧 畜 を 行 凌 う 民 族 で 、 が 、 こ こ で は 幾 種 類 か の M a i n f o o d 群 の 季 節 的 な 移 り 変 り が み ら れ る 。 ( 註 2 ) / G w i k u e は 常 に 好 ま し い 食 物 ( 食 物 価 が あ っ て 、 美 味 で 、 採 集 が 容 易 で あ る ) を 、 真 先 に 食 べ る 傾 向 を 持 っ て い る の で 、 新 し い m a i n f o o d が 手 に 入 い る よ う に な る と 、 そ れ 雀 で 食 べ て い た も の は か え り み ら れ な く な る 場 合 が あ る 。 こ う し て 利 用 さ れ な い 寮 叢 に 捨 て 置 か れ る も の が 季 節 毎 に 沢 山 み ら れ る 。 彼 等 は 決 し て , 日 の 必 要 量 以 上 の 食 物 を 採 集 −124ター 一一一二-−− −− ==−−−=言マーー- ‐一一‐--‘−−−−= とは縁が切れて、植物性食物、動物性食物の水分 だけ力頼りとなる。有効な水源となるのは、数種 のメロン、数種の根、数種の球根、渡物の血液及 び胃袋の内容物である。その中で最も効率よく水 を得られるツデマ・メロンCitrullus vulgarisを例にとっても、1日1人当り約 4.5必と推定される。メロンの得られない雨季前 の最も乾燥した10月頃には、水分の90筋以上 はRaphionaCmg_Purkei及びCoccinia _reh星雲且iiの二種の根から抽出され、得飾 に 「 オ ー ス ト ラ リ ア の 原 住 民 に し ろ 、 ア メ リ カ イ ン デ ア ン に し ろ 、 彼 ら は s u p e r a b u n d a n t 7 a s タ ー の ゴ ミ づ ま り ( 数 回 ) が あ っ た 程 度 で 、 重 大 註 5 註 筆 5 者 筆 は 者 言 は 語 言 学 語 学 に に 詳 詳 し し く く な な い い の の で で 、 、 そ そ の の 文 文 法 法 I あった後の一週間位、それ以外の時は完全に飲水 /Gwikueの経済生活は野生動植物を利用す カ ラ ハ リ 砂 漠 は サ ハ ラ 砂 漠 や ゴ ビ 砂 漠 な ど と ち が 註 3 と れ ら の プ ッ シ ュ マ ン の 方 言 群 を 指 す の に 、 っ て 全 土 が 植 生 に 覆 わ れ て い る た め 、 局 所 的 な 柔 便 宣 上 t r i b e を 用 い る が 厳 密 を 意 味 で の か い 場 所 や O k w a R i v e r の 河 床 を 除 い て 、 砂 t r i b e は 血 縁 的 な つ な が り の 意 識 を 持 つ 中 に 埋 ま る こ と は ま く 、 数 回 程 度 プ ッ シ ュ を 敷 き 政 治 的 社 会 的 結 合 の 単 位 と 使 用 さ れ る も の で つ め て 苦 労 し た く . ら い で あ る 。 フ ・ ツ シ ユ の 中 の 旅 あ っ て 、 フ ・ ツ シ ュ マ ン の 方 言 群 は 、 決 し て と いかなるときに、どんな事故が起るかは予測がつ 護得食物量は20埒と算出された。彼等の生活が 3月にかけての雨季の期間中のうち、烈しい雨の 第2章食生活 気入れで吹きとばし、水を注がねばならなかった0クを用いる難解を言語を話す。 を故障もなく過ごしてきたが‘、ここでは、いつ、 も重労働であるためである。1日平均の女による よるものである。飲水の得られるのは11月から 網 を く ぐ っ て ラ ジ エ ー タ ー の 網 の 目 に ぎ っ し り と 註 2 K h o i s a n K h o i は ホ ッ テ ン ト ッ ト を 、 つ ま っ て 、 ひ ど い と こ ろ で は 3 随 、 毎 に 沸 騰 し 、 空 s a n は ブ ツ シ ユ マ ン を 意 味 し 、 共 に ク リ ッ .エント・の磨耗破損、キャプレター、燃料フィル 日分以上の量を採集し、運搬することがあまりに 厳しい第一の理由は何といっても飲料水の不足に さらに花や種子は車の前面にとりつけた二種の金Africavo1.26no2 ・ボックスのオイル.シールの破損、タイロッド 存のきかないものであるからという理由と共に1 る量は恐らくメロンの半分以下と思われる。彼等 は水源だけでなく、胃袋を満たしてくれる食物価 のある根の採集も行なわねばならず、従って’0 月頃に行なわれる採集旅行は、力ラカラに乾いて 固くなった大地を時に’沈位も堀りさげて数十個 の根を集めるという非常に苦労の大きいものであ る。しかもこの時期には、空気は最も乾燥し、太 陽は真上にあって灼熱し、木灸は葉を落し尽して 満足な日陰も得られない焼けつくような砂の上で なされねばならないのである。身体は他の季節に 比べてより水分を要求するものと思われる。 水源となる植物は以下の通りである。 ,、里_竺旦4旦且ユ型garis/nann ツァマ・レモンと呼ばれるものである。約1彫 の球形のメロンで、野生とに思えぬ外見と収量 を持ち最も有効な水源と表b得る。やや苦い。 8月一6月年により10月誉で。 -125一 △ 一 一 一 ‐ 一 一 一 、 −1 卿鵬騨鍛蝿騨識癖騨︾蕊︾騨識 | 期間ではあるが、重要食物に数えられる。|:; と思われる。 a、ノ 旦空ヱ里spp・と共に分布④大きい溌木。 1 : | flavaに よ く 似 る ’ # ソラマメ状のカヤに入った豆は直経lc沈位の平ド: ,伽rfez塑皇旦皇x.;w."_"f";。:"""""IJ: 不 可 思 議 な 細 菌 性 の 根 留 ら し く 大 き さ 、 形 は ジ 占 め 、 し か も 食 べ ら れ な い 重 い サ ヤ 毎 運 ん で 帰 | ;:| # : : | u u が 土 壌 表 面 に 育 つ 。 雨 量 に よ っ て 収 量 に 非 榊 バ ク に 富 み 、 美 味 。 ‘ 。 , │ ; 差がある。フ.ツシユマンの食用植物の中で最も’月−6月!;; . . : 弾 1日l家族(平均夫、妻、子供2人)当り採集 ’ L g L 竺 』 L 旦 旦 且 _ X u _ L 旦 竺 l 且 上 述 2.旦一』里哩』−2塁里L且上述 他 に 緑 色 野 菜 と し て 以 下 の も の を 適 当 に ま ぜ あ わ 3 . 且 』 聖 』 L 里 上 皇 上 皇 辿 旦 』 皇 L 上 述 せ 、白でついて水分を得るのも見逃し難い。ただ4.&_ミ旦旦om/e し水源としてははるかに劣る。 | 上 且 2 k 星 _ r _ i に 酷 似 し た キ ’ 『 ; 、 ・ : ! f , 杵 I 6 . A l O ' e s p . / g o r u く て 食 用 に な ら ず 、 心 l _ ' , ィ ! : ' l . ; ・ ↓ : ! f 、 多肉植物の葉肉 形 伏 で で ん ぷ ん に 1 , 列 , ' ト , M 子 ! ' , 1 ル 〆 ′ j , 《 I _ ! 丁 」 ; j l ・ ’ 直 経 l O m 位 の 実 、 タ ン パ ク 、 脂 肪 に 富 み 、 短 . . . : : :■L■. ;│ ;i の変異幅を持つ。 蔦 鴬 I れ Lのでも乃 吻の撰択性のため 一 一 る 茎 。 む し ろ 球 根 は で ん ぷ ん に 富 み m a i n f o o d 5 . 且 且 些 」 』 L 型 一 旦 L 」 哩 響 』 且 上 述 に数えられる。6._RaphiouJ山皇辿』上里上述 一年中7旦些』A"_LLLELKxonl 峰画李_幸雪r赤線) 以 上 1 2 種 の m a i n f o o d の 他 に / G w i k u e ために重要度はうんと劣る。 1 4._エ具堅染坐娯-浬エ些g4/ga: の 食 事 発 に 無 視 で き な い ウ ェ イ ト を 占 め る さ ら に 一 年 中 前述の瀧木の葉、それ自身食物価があるとは思 一 8・エ畠_l_L2_um4エ聖里_』畠/ka:p」e gg_ug呉睾ニニニー E&L"L里且且 一 年 中 る 。 7_Scillasp。Kyun一年中 一 一 一 / :: I . ■ ■ : : . 1 一年中必ず有効な水源が加わっていることに注意。 以上の5種が水源と考えられる植物であるが、 I 灘 ’ ll.且辿里且旦些里竺Kera 隙 1 . . . : . 咄 . 脾伽臘鵬惟臘眠●謝暇股礎縢●唯催腱鵬聡瀧蝉●陸膵腱雁鵬嚥朧●●経嵯●鵬隣、”●臘壗●●”●●”●●●●腱辱●●勝●嘩詳鵬靜僻膵朧●騨明●●●●●●●齢踵””●●髄吋蕊侭喰●●溌僻●●●●●●恥臘●F●誰騨掛蕊.蕊●森●●甑蕊●●蕊嘘腱蕊●●愛●湖●蕊篭 「 節によって種類は変り、その時々に得られる種々 の組み合わせができあがる。従って重量もかなり 些叫・︾ ’ 4月−6月 ‐且旦些_L且旦竺の葉が混ぜられる。水分を増す目的 に そ の 組 み 合 せ は 変 化 す る 。 い ず れ の 組 合 せ に も ↓ される植物量は前述のように約20坤であるが季‘§::臆 234航6孔8901 112 1 ’ 美味と感じられる。 10.旦giu且皇些上述 約 1 k F の 球 形 の 根 。 け ず っ て 水 を し ぼ り と る 。 と 味 を つ け る た め の も の で あ ろ う と 思 わ れ る 。 苦 〈 て 雀 ず い の で 他 の 水 源 の 得 ら れ る と き は あ / G w i k u e の 食 生 活 に お い て 水 源 と 共 に 最 も 護 り 利 用 さ れ な い が 、 雨 期 前 の 1 0 月 、 l 1 月 重 要 な 主 食 は 、 次 の 1 2 種 が あ げ ら れ 、 季 節 と 共 にはCOcCiniaと共に最も重要。 L たい形状。これの実る時期には食事の大部分を ヤ カ イ モ に そ っ く り で 、 根 も 茎 も な く イ モ だ け る の で 、 運 搬 の 労 力 は 甚 し い も の が あ る 。 タ ン g a g I !ド 3月−6月 | 鴬 い。大きさは変異に富むが平均2M" . 5 .Raphiona・cmeburkeibi: | 1 ’ 12.Bauhiniamacrantha/nan/te 8 . 且 ニ エ 且 _ L _ L 旦 皇 エ ユ 』 _ g / K a n e 一年中その場合、非常にしばし付迎旦エュュ』L且上里 ’ F I 11月-12月 12月-1月 .、?.j a/、1− dl/、l ●。︽︾U○︽︽︾DF a/、口。︵U d ”y 唖。 /a 、u a m § であるが、水分とでんぷんに富み、食物価も高 吋︾嘩 キューリの類に属すが根を食用とする。繊維質 一昨 仏葉1 4.Lgg_gj_L_Larehmannii/a: 一趣耐、 3月−6月 :| : ! e 重要度はやや落ちる。 a 味で分布も大きいが、小さいので水源としての ○b 長経約4C沈位の楕円形のキューリ。酸っぱく美 I / Cuclnnishookeri./nan/narugu KO . 8 一一一州紳叫侭擢睡捧﹄ 12月-6月 月 は最も多く利用される。 ● 後には結実するのでツァマ・メロンの出現童で 一達君 ン。酸っぱく少し苦い。最初の雨の後約1ケ月 S 01 2い 1− 3葉 1 1 1 1 1 1 約0.8坊の楕円形のとがったイポだらけのメロ p 哩一繩噛.・ 2.CitrullusnaudinianusK3 ;:| 数 種 の 旦 些 學 哩 圭 L i ' I ' 〃 も 早 く 結 実 し 、 最 も 8 5 種 の 植 物 が あ る 。 そ れ は 、 葉、花、茎豊富で、し力』も蛾も其'外てある。榎大の実で、 12月-4月小さいが最盛期には1日1人当りllW位たべる ' 3 . 且 2 _ L 型 且 旦 旦 _ 二 K w a r e 1 0 の S c i l l a s p ・ と 酷 似 す る が 鯏 苦 い われない。 −寺仙沙一 嚢苧126− 聾奄鐘咄蒋畷 ; ’ 李 ∼ 雪▲ ム ョ ︽ 一 一 一 ■r可 − 1 ■ M 11月-6月 38.notidentified/agubu 15.Bosclaalbitrunca /none 3 9 . 〃 われる。 16.Ximeniacaffra − /gubi/ori 18.Talinumarnotii/Ka:pe 前述 19.T・sp・ 前述 /Kabe 一 41.旦堕辿聖且堅旦辿里些旦/dua 直経約lOc"2の非常に固いカラにおおわれた果 実。ミカンの如き形状で非常に美味。大変好ま わしたのは実はブッシュマンの食生活における動 物性食物の比重が、植物性食物のそれに比べ、は るかに小さいからである。確かに動物の肉は食物 れるが分布は限られており、この木に限り所有 価が高く、美味であり、/Gwikue自身にとって 20.notidentifieddam/agugu前述 権がある。 21.notidentified/nau前述 12月-1月 22.notidentifiedKare/gazuru 細長いサマになる長経8”位の小さな楕円形の 聖些竺旦坐』翌些 81.Ceropegia".llearmggembicensis "dekOgem 82,Ipomoeaverba8coidOa/gao 83'Ipomoeasp./i:ki 27、28、”、30,81、”、33ぼ直騒 | 10W位の水分とでんぷんに富んだイモ。 』 一年中 & 5 ‘ _ 睡 皿 且 辿 辿 旦 坐 ノ n u / l l l l 直経1”の実 2月−5月 鋪.具よ』理墜_I,en /gara 3 5 . 〃 3 6 , 〃 /kon 3 7 . 〃 kyomkyuchu ’ 一 一 三 F = 動物性食物に加わあ。それらの殆んどぼ食生活IE 奉け誇重婁挫娃小さ艫が、参遥種④蛾④幼虫のみ (些型旦竺竺坐とおそら<Mdaufelia 参 る ⑥ 但 し 男 の 採 集 は 量 に お い て も 安 定 性 ( 規 則 性 ) に お い て も 、 数 段 に 劣 る 。 / G w i k u 層 腱 よ う 塁塁』聖聖皇)はかなりのウエイトで/Gwikueの て狩られる砿物は; 註 1 . R i c h a r d L e e l 9 8 5 " S u b S i s t e n c e 4 w i l d p o t a t o と 呼 ば れ 、 美 味 だ が 分 布 小 。 12月−7月 r---.--_- これ以外に、女や子供によって数種の鳩が捕え 食生活にかかわっている。 ” Zcol6gyof/K凹蝕営Bushmen DoctoralThesisforanthorop0l0gr, HarvardUniVersity,U、8. 2.MajorFood 年間密通じて主食とたる 皇lgg_胆辿里空理 5 一 △ − 跡.ホロホロチョウ 8 . ハ ル テ ビ ー ス ト ( オ オ カ モ シ カ ) -128- − andLissotismelonogaster 一 2.ケムスポック_Qエ塑里堕幽− /01、e 鈍辿亘理幽辿壁_L/i:de ’ 22.23.コーハーン2種Afrotiaafra 狩猟の重労働の故である。 1キリン且型墓旦塁雲禦雲坐墓皇 & _ 塑 里 聖 典 』 L 些 I W I , i l l 分 布 小 5月−6月 34.notidentified/kau/kari 21.ダイジャ られ、2種のアリ、数種の昆虫その他虫の幼虫が 物 に あ り つ く 日 以 外 は 植 物 採 集 を し て 帰 る こ “ 2月=8月 2 0 . ダ チ ョ ウ 鐸 な く } / g w i k u e の 狩 猟 具 の 幼 稚 さ と そ れ に よ る 男 は 為 占 そ 』 白 誇 含 位 に 狩 猟 に で か け 、 稀 に 狼 茎、根、実 − s一 4 ●屯8▲ − sll0tl /塾; − alO − 1l1 30._Ceropeg""fnearleucotaenia 13月:=7月 ea 39'Cc"p蝿湛@"""!2" / 鯉 “ m電 分布が偏っている。 印、 孵皿 28・notidentified/kaya l7,ヒヨウPantherapardus S O 根 は つ ぶ し て お か ゆ 状 に し て 食 べ る 。 美 味 だ が l6、チータAcinonyxjubatus h一梱 u 一 27.notidentified/ore l5・ジヤネツト幽旦_些旦genetta O だ い た い 一 致 す る も の と 考 え ら れ る 。 そ の 理 由 は カ ラ ハ リ 砂 漠 の 動 物 の 量 が s u p e r a b u n d a n t で な い と い う こ と に も よ る が 、 決 し て そ れ だ け で は n / 延 一 oも日一 a ン に つ い て い わ れ る 2 0 妬 − 4 0 妬 と い う 数 字 と Phacochoerusaethiopicus T 一 13,イノシシPotamochoerusporcus l4・ウァートッグ レ 一 口勾翫 一 っていることを考えると、他の全てのプツシユマ 81 前述 一 岸咽一 26.Stapeliakwebensis 一 3 4 前述 一 3 25.Duvaliapolita れは根も食物となる。 − ノ 24j.CarallUlnaknobelii前述 l2、アフリカウサギLepuscapensis ヤツ ’ 前述 - 11.トピウサギPedetidaecaffer カネ よ く 似 た 葉 、 豆 を 実 ら せ 、 』 旦 旦 竺 旦 型 皇 に 似 て 美味o分布は非常に偏って、局所的で/kade の近くには乏しいので主食にはたり得ない。こ も 拘 わ ら ず 、 事 実 は 食 生 活 の 大 半 を 植 物 に 依 存 し て い た の で あ る 。 筆 者 の 概 算 で は 、 動 物 性 食 物 の 全 食 物 に 対 す る 割 合 は 約 1 3 筋 と な っ て お り 、 こ れ は / G w i k u e の 水 源 が 殆 ん ど 植 物 性 食 物 に か か Ibrstrixafricae-australis ジキ - ’ 10.ヤマアラシ ●。 8 19 1 , 霞 ふ く 性 の つ る で あ る が 、 亙 些 竺 辿 里 と l1月−2月 23.Aloesp. も 、 そ れ は 最 も 好 ま し い 食 物 で あ り 、 彼 等 の 表 現 に従えば「動物の肉こそが食物であり、肉がない と い う こ と は 食 物 が な い と い う こ と で あ る 。 」 に 42.旦皇辿聖星_旦竺」l_LEI1"/am 異C Raphiceruscampestris われ動物の狩猟が彼らの経済生活を支えているか のようにいわれたにもかかわらず、これを後にま 11月-6月 ’2月−1月 スティーンボック 次に動物性食物であるが、従来、狩猟民族とい ともに生野菜とする。 Antidorcasnlarsupialis ダイカーSylvicapragrimmia 以上の植物が知られている。 3c77zの球根。小型のタマネギの形状。瑚艮、茎 l6、17は長経2α"の梅の実・ 一 /i:num 34,35,36,37,38,39,“は直経 /ori 17.Ximeniaamericanavar. microphylla の食物としての重要性を持たないもの、一度も食 べるのを確認しなかったものを含めて合計70種 /gom 4 0 . 〃 − 7・スプリングポック 89 直経8”の実。葉はIrerminaliaと同様に使 6.エラント・TaurotragusoryX その他食べられるけれども、殆んど/Gwikue ワ イ ル デ ピ ー ス ト ( ウ シ カ モ シ カ ) 鶚讐吾鐡堕辿哩妙 封勿を指し、セン トラルカラハリの主鋳と 異歳るので"in Foodと共に英語の室注用 一] 29一 _ 一 凸 一 一 二 = _ _ 一 一 一 二 = 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 = = . 一 一−‐二= ニ ー ニ ー == = ‐‐ 眠 ’ p 』 七 = 一 一 一 一 一 ! ' ' 『 ■ いる。 第3章生計維持のための技術 マ 関する高度の知識と、20加位まで接近して射る の樹液と腱でつなぎ合わせた全長約4m。日中は穴とま切れにするにも使う。 高度の技術が要求される。弓矢による狩猟は大部 分の動物に対して用いられる。普通、ケムスボツ 穴の中にもく、っているトビウサギをこれで引っか 植物の根を堀るためのもので、非常に単純なも のであるが、最も重要な道具といえる。 Rhigozumbrevispinosumの幹より作られ、 直経2Cm,長さ70d7z-100c77zの棒で樹皮をは ぎ、根元の方を斜めに切って尖らせただけのもの である。固い砂を堀り起すにはスコップ・などは役 に立たず、この棒は全く有用な代物である。メロ ンの皮を割って中身をとりだすのに用いられる。 2 弓 矢 ブッシュマンの弓は小型で長さ約1瓶。 Grewia_flavaの直経約2dnの幹より作られる。 両方の端に近い部分に大型カモシカの首の腱を巻 きつけ、そこへ同じ腱をより合わせた弦を張る。 中央の部分にやはり腱を巻きつけて握りやすくす るo 矢は交易によってのみ得られる針金を叩いた約 8c77zの矢じりとヨシの茎の柄とからなり連結部に る。射手はその夜は食事を差控える。射手が食事 をして元気になると獲物も又元気をとり戻して逃 げ去ってし童うと信じられているからである。翌 朝、5,6人(たいていの場合、キャンプ.に居合 わせる成年男子全員)で狩猟隊を編成し、明るく なるや否や独物の追跡にかかる。狸物は、普通、 をる一日、161伽位走って逃げ死亡する。狩猟隊 S a n s e v i e r i a 皇 旦 旦 竺 些 旦 旦 旦 の 識 俊 を よ り 合 わ せ た 直 経 約 8 ” 、 長 さ 約 2 . 5 1 " の 繩 で 、 一 端 枝 が は ね あ が り 、 繩 の 輪 が 足 首 で し 童 っ て 狸 物 を 捕えることになる。スティーンポック、ダイカー の よ う な 小 型 の カ モ シ カ の 猟 に 用 い ら れ 、 時 に 数 CatophractesaleXadriの幹を回転棒に、 柔かいGrewiaretinervisの枯木を受け血に して火を起す。直接両手のひらでこする最も幼稚 な方法であるが、所要時間は約50秒、火を燃え たたせるホタチに、ある種の菌類(キノコ)を用 い、次に普通の草に移す。 種の鳥にも用いられる。 12スプーン 6ワナ(鉄製) 木製のスプーンも作るが、カメの甲羅がよく使 い わ ゆ る 虎 バ サ ミ で 交 易 に よ っ て の み 得 ら れ 、 一 部 の 者 の み 力 詩 っ て い る 。 全 て の 哺 乳 類 、 数 種 の 鳥 に 用 い ら れ る 。 等 に 、 ヒ ョ ウ 、 チ ー タ な ど 大 型 肉 食 動 物 は 鉄 製 ワ ナ に よ っ て の み 可 能 で あ る 。 るのは翌夕になるから、したがってまる3日がか りの重労働がしいられることになる。得た独物は キャンプの成員全員に平等に分配され、訪問者が あれば、彼らにも分配される。肉は得られた日と 翌日に殆んど消費され、それ以後にまで残ること われる。木の葉もしばしば即席スプーンとL痢爽使 われる。 13ナベ、コツズボール、スプーン 全て金属性で交易により得られる。現在、肉、 7梶棒 J1 &。鎚型の根元の部分岬鰯 は稀である。 つ と を 梶 棒 の 頭 に す る 。 直 経 1 ” − 2 ” 、 長 さ 約 1 " 。 ワ ナ や カ ギ で 捕 え た 動 物 を 殺 す の に 用 い ら 3 槍 一 ‐ I 恒 メロンはたいてい鋳物のナベで煮るが、バントウ との接触以前には、こうした容器は全くなかった ものと思われる。全ては熱い灰と砂の中で蒸し焼 きにされていたものと思われる。 れる。 槍 先 に 、 直 経 2 C W Z 位 、 長 さ 1 . 5 ∼ 2 7 ? z 1 J I I 用いる。毒を練り、注た保存するためにOchna 11火起し棒 − の通路に設置する。渡物が繩の輪の中に足を入れ る と 引 き 金 が は ず れ て 、 し な っ て い た 旦 旦 皇 旦 _ 里 の ら れ る 。 / G w i k U e の 矢 毒 は そ れ 一 種 の み で あ る 。 直 経 l C " z │ 位 の 噸 職 の 棒 を 叩 い て 作 ; . ‘ ” Coceinialなどの根から得た水で練り合わせて るものが多く、その際使われる。 し な ら せ 、 他 の 端 に 直 経 ’ 5 α " の 輪 を 作 っ て 雄 物 単 な 食 事 を と り 、 そ の 夜 を 過 ご す 。 キ ィ , ン う ・ へ 戻 幼虫D1amphidiassl im mp pl le ex xが か矢 大毒 寒と とし して て用 用ぃ い 肉等彼等の料理は熱い灰と砂の中で蒸し焼きにす を B o s c i a a l b i t l a l 聖 竺 の 幹 に 結 び 絡 霞 せ て 、 Grewi_aX_LaZ匙の幹を用いる。ある種の甲虫の 単独にその体液を矢に塗ることもあるが普通 70“のへラ状の棒。メロン、果実、根、球根、 5ワナ(植物製) はその日のうちに、死んだ漉物あるいは絶命寸前 の弱り切った猿物を発見する。稚物はキャンプ・と は反対の方向へ一直線に逃げるのが普通であるか ら20-301伽の追跡行が必要である。狩猟隊は その場で皮はぎ、解体を行なって、内臓などで簡 一 Bosciaalbitruncaの幹より作る、長さ約 恥離れた場所で射、その日はキャンプに帰って眠 − ー 10火かき棒 け、堀棒で堀りだす。 クなど大型の護物の場合、キャンプから8∼15 1diggingstick 14犬 主L竺旦の柄をとりつけたもの。犬を便. ジャカル、キツネ、ジャネット、ウァトッグは 8ナイフ 槍 の 穂 先 と 同 様 に し て 作 っ た 1 0 m l − 3 0 c W z の −シカを仕とめることもあるが普通毒矢や『ノノ 型 型 , 里 よ り 作 っ た 直 経 5 ” 高 さ 7 ” の 円 筒 形 つ た 動 物 に と ど め を さ す 二 次 的 な 武 器 と し て ノ ィ の毒つぼ力轆われる。 られる。 両刃のものo 、 u nc ci i n a t aの直経約7c瓶の真 矢 筒 は ▲ 且 聖 上 i a u n n a t a 犬の使用によってのみ狩猟可能であるし、カモシ カも人によっては犬と槍で狩られる。大切な道具 であるが、族多にエサをやらないので恐ろしくや 9臼・杵 臼 は 旦 竺 , 壁 里 里 空 里 を く り 抜 い て 作 っ た 直 せ て い る 。 経 1 5 ∼ 2 5 c " 1 , 高 さ 2 5 − 3 5 C 7 7 z の も の 。 杵 は 直 経 4 " " 位 の 単 純 な 棒 。 メ ロ ン の 蒸 し 焼 き を つ ぶ 1 5 毛 皮 の フ ロ シ キ し て お か ゆ に し た り 、 固 い 果 実 を 粉 に つ < o 肉 を ケ ム ス ポ ツ ク 等 の 皮 を た め し た も の で 、 約 1 . 5 直ぐした根より作られ、加熱して中身をくり抜き4"ringharehook 80”位の長さにして一方の端をケムスポックな 長 さ 5 m 位 の 先 を 尖 ら せ た 針 金 片 を G r e w i a どの生皮でふさいだもの。一一一一一 型 竺 竺 の 柄 に と り つ け た も の 。 柄 は 直 経 約 1 c m , 弓矢州愉中率偲いた鐘、職伽…長童‘"…徽麺旦垂I迦割:雪 −131− −130− ■ − ‐ l 一一 ---_-__-『−−−.−−−‐一 ▲ 一 一 一 一 一戸垂一■ユーーーーーー■r−−− −−』 〃×l.5碗。衣服にも夜具にも 直物の運搬具でもあろへ 筍家族q 、奥の意味の人 植物の成育、分布も驚く程偏又/Kc 生性への道を拝 垂4図において斜線の部分は雨が友 也琢江2 景観側 bが貝出 全物が豊富で利用屡 0月の/Kadear Fれた。ある拡大家遡 ily)(註1)より /IURhiib城はRR,, ってローブにし、編んえ ヲ10日の旅行によ・ がのハンr懐《 閑の獲物、その他の琿捕 原第5図のよう の移動をトレースL j.成員は成年舅2、 今寄律かr夫鯉 /uWlkuSの食生活は移動を述べることなくL ては語れない。野生の植物性食物が豊富であると 、の皮の縫いぐとは繰り返し述べたが、豊富とは一般に想像され れ、採集物もるよりはということであり、年間雨量200mm以 うことであった。決して栽培植物のように収量は 多くないし、密度も大きくない。したがって10 ”×80”。人-60人位で織成されるバンドが1ケ所に滞在 れるが、できるのは数週間からせいぜい2.3ケ月である Grewiaspp・の実の採集に使わ】 男女共に小物入れとして普通使用ぞ しる。水源、食物源を求めての移動は不可欠であり、移 動 生 活 は そ の ま 室 / G w i k u e の 食 生 活 そ の も の て 最午の4種の運搬用具は人類のを 会 進 化 史 上 、 あ る と も い え る 。 / G w i k u e の 食 生 活 に お け る 稲 る。勿論採集物依存度の大きさからも容易にうなずけるように 旅行の先々で、木の実や葉をつ認 最も重要なものではないかと思わオ い す る 、 い 移 動 は 水 と 植 物 性 食 物 と に よ っ て 決 定 さ れ 、 狩 猟 わゆる「手から口へ」という採食歯 食 は み ら れ る が 、 の 猫 物 の 多 少 は 殆 ん ど 決 定 要 因 に は な り 得 な い 。 集められた食物の大部分は家族と割 のために持ちかえられるのである。 粥とそが男立間の分鑿存百晴EJ-I__ ヤンブの成員カラハリにおける降雨は非常に局所的で 夷 に 食 物 の 運 S i l b e r b a u e r に よ れ ば 直 経 2 0 マ イ ル の 雨 域 を 非 生 産 的 キ ャ 持 つ と い う 。 従 っ て 雨 期 中 も 水 の 得 ら れ る の は 極 ▲Pゴ 亥 下という環境下にあって予想外に豊富であるとい スアイーンボツ夕の反の袋o2C ロ届 グ ー に よ っ て も 判 る よ う に 1 9 6 7 年 9 月 よ り 1 9 問 が 、 外 婚 制 と と も に 》 / l W 1 k u e の グ ル ー プ 8 年 3 月 ま で の 6 ヶ 月 間 に 約 2 5 0 m の 移 動 を 構 造 を よ り 複 雑 に し て い る よ う で あ る が 後 に バ ン な い 、 , 1 回 、 キ ャ ン プ ・ 地 を 変 え た 。 但 し こ れ ト 構 造 の 章 で 述 べ る こ と に す る 。 最 も 移 動 の は げ し い グ ル ー プ で あ り 、 同 期 間 中 こ の エ う に 、 / G w i k u e の 移 勤 は 、 一 定 の . 〒 1 バ ン ト 核 当 り 平 均 移 動 量 は 1 6 0 m , キ ヤ ン ス と 利 用 度 の 高 い 土 地 力 認 め ら れ 、 そ れ ら は 地 5 個 程 度 に な る だ ろ う と 思 わ れ る ( 未 整 理 ) 。 O k w a R i v e r , M b l a p o , " n ・ 笹 冒 い う 地 勢 と 枢 司 地 的 で し か も 年 に よ っ て 非 常 に 差 の あ る カ ラ 生 に 基 づ く も の で あ り 、 雨 の 降 り 方 と 植 物 の 成 育 リ の 降 雨 は 単 に 行 動 域 内 の 食 物 分 布 を 支 配 す る の 度 合 に よ っ て 移 動 の パ タ ー ン が 決 定 せ ら れ る 。 け で な く 、 テ リ ト リ ー 全 体 に 食 物 飢 鰻 を も た ら 註 l . e x # e n d e d f a m i l y 夫 と 要 と そ の 子 供 の こ と が あ る ( S i l b e r b a u e r ) o そ う い う 時 に 自 分 達 の 行 動 域 を 越 え て 、 他 の バ ン ト ・ を 訪 問 み狼り成る家族をnuclear.fami_lyと呼 び、夫や妻の親、或いは子供の配偶者などか ! 、 物 を 求 め ね ば な ら な い し 、 1 6 0 血 離 れ た つ け 加 わ る と き 、 そ れ を e x t e n d e d f & m i l 3 1 , w i a ・ t T s e t s e n g に ま で 足 を 伸 ば さ ね ば 念 狩n 猟民 の 遊 牧 グ ル ー プ を b a n d と 呼 び 、 band , ご : ! z も あ る 。 筆 者 の 観 察 し た と こ ろ で も 、 2 . b a n d u c l e u s 後 の 章 で 述 べ る が 、 採 集 と呼ぶ。 伽 ! , ! ! * ア ) グ ル ー プ . 及 び I i / n u の 8 0 マ イ ル を形成する核となるnuolearfamily 、 , 』 , 、 , _ ; の グ ル ー プ 計 約 8 0 名 が 、 1 9 6 7 」 . g r o u p を b a n d n U C l e u s と 筆 者 は 名 付 け た く 00名@ しぶあ. J I C 、億 ては/Ukuの〃'ー‐ 弔生図 旦 旦 些 旦 を 求 め て 約 2 通 adeに合〃 生 物 を 求 め て の 移 励 と 鼠 拳活して、鯉初の−ご凋閤‘ : ”植 a余 678 。。.BIⅡ.L4Ⅱ. § 一一︾︾︾一一︾一一︾︾︾︾︾︾︾︾︾一一一 みと ︾幸睡︾Ⅷ岫雌岬華︾轟唯手伽坤郵峨峨耗諮狸縦︾耐控鋤畢鋤声確鋤碓詫弛霊︾ ︽︽︾峰叫︾蝿一睡︾恥鋤 用0 吋 さ 極 の解 の 会猟配での天、々 ak 咋食 に 用 も 活 の 撫 率 地 度 の 生 e し 恥︽航︾。臘混率 蹄倒 率転 詑岻 腕地 i理 の明 説 鋤此・肌飢壁罫雌画瓜乱働刎恥銅鯏鍛輌竜純雌吐酒雌施諏鮫稚 、い 恥る る0 れ勺 帥.恥鱸棚式伽﹄唖一麺五壬 Bに 住た が造 を &聴通壁泳。 り小 な移に すら軸 現埼鍵陸坤柵飲謎窪噸勃一 ︾︾一一︾一睡︾一癖︾︾一端﹄人︾唯一函 4 原/地基制経とあ人主し− nのいとれく1や恥恥坤鯉朏齢鉢麩剛鰄唾 蹴紺︾︾蹴噸︾綱鋤紬荊伽唾郵剛章坐伽伽九個軸蒋睡恥詑縦齢雌姶時璋恥 識以生食 るめま き 23 争企4 る め に ま 単 ℃日、今 4 3 8 1 5 鰯癖蝿蟻鯛騨麹鶴鶴騨識騨騨鰯騨畷鱗蟻癖畷識磯︾嬢︾唖 、叱紐活人係 く組特ととるが三 −︾︾︾︽一一一︾︾︾︾︾一一︾︾一一研昌一糾問 ︾か州率撤縦似壁郷綱︾︾涯唖伽噸縦卿鰊抄郷釧。雌︽雌伽維嘩鮒鯰側雛︾郷 &●& く︾ Sの ものし ︾圭一一一一一一一一壱壱弐一一一一一司孟︾一曲一s一 ︾関一み一 G勺■ユ| ︻画や.、ひし 郵錨麺伽︾柵槻︾伽 t oし城れ割、い 鋤はa等”と役父お 伽湖︾賊紬恥︾鮒一 ◎ nをいで共永群何お樹臼・ 唖 縁 位合完 鋤鐘 雄、 誰噸で 〃て り ‘蝿鮒鋤か伽鮒 ’: 謡︾︾唾一︾︾一一︾︽︾︾一補唖︾︾︾︾唖封恥一悟錨︾峠︾︾︾︾︾︾と と ●ピコ さ 一 プ ’; 一吋一一一一一一一一﹄国手五一一一︾ ●、﹃ L 一 一 I 1 : U 一 一 三 ー 一 一 口 − − . − # § ! お に 左 ー 一 一 一 一 | 。 I ヨ (祖父母、孫)がjoking関係に属する。横の関てひんぱんに移動を重ねることが、他bandとの 謎 係は性によって決定され、同性のsibling,両接触、融合、分裂と密接に関係をもってくるが、 親の異性(両親にとって)のsibling,両親のそれではbandが/Gwikue社会の最大の経済単 同性のsiblingの子供、異性のsiblingの子位であるにも拘わらず、なぜにかくも不安定で絶 供がjoking関係。その反対性の場合が Bushman,DoctoralThesis・ 平和維持という最も重要な機能を果しているので I血rvardUniv.U・S・ ある。 Wrslnll,L. 註1.CoHmunity生態学用語で、植物群落、 1957cmTIFKinTerminologySystemofthe 動物共同体と訳されるo/Gwiプツシユマン の互いに交流を持つband群を指して えず離合集散を行なわねばならないのであろうか。 F4v..・・.・・・.Ⅸ牢か邪 aboidance関係に属するo結婚はjoking関その理由は、個人と社会の利害の対立、個人の社 係にある者か、そういった関係の認識されない遠会に対する葛藤に起因すると思われる。/"ikue ノ K u n g . B u s h m e n ' ' A f r i c a l959喚鵬rriageamo吃/KungBushmen" communityと呼びたい。 Africa 註 2 . / G w i K i n s h i p S y s t e m G A B u s h m a n S u r v e y R e p o r t ' ' G 、 B ・ S i l b e r b a u e r い 血 縁 の 者 の 間 で 行 な わ れ 、 a b o i d a n c e 関 係 に は b a n d n u c l e u s の よ う な 小 人 数 で 住 む と き 、 は決してみられない。/Gwikueは非常に慎しみ彼らの一番の好物の動物の肉があまり得られず、 深く特に年上のものに対しては尊敬と遠慮を、特に彼らの胃袋を充分に満たしてくれるような大 aboidance関係のものに対しては慎しみ深い態型の猿物が得られない。さらに大勢の入舎と一緒 度をとるが、joking関係にあるもの同志では、に暮したいという糖神的な動機も加わってより大 1 9 6 0 醜 / K u J E B u s i X n e n B a I n s ' ' A f r i c a 1961qnSlmriIE,TalkingandGivilg:・ l965参照 ReliefofSocialTensionsamoIE 口 ' 4 /KuIEBushmen"Africa 参考文献 l962m/KuIEBushmenReligiousBeliefs" Bledt,DrotheaF・ そ の 規 制 は な く 、 非 常 に 自 由 を 会 話 、 態 度 が 許 さ き た b a n d を 形 成 す る こ と が 考 え ら れ る 。 一 方 、 れ る 。 こ れ が / G w i k u e 社 会 に お け る 社 会 的 緊 張 こ う し た 大 き な b a n d に あ っ て は 、 第 一 に 血 縁 関 を 緩 和 し 、 平 和 を 維 持 し て い く う え に 果 し て い る 係 の 疎 遠 な 、 仲 間 意 識 の 薄 い 人 々 と も 接 す る と と 役割は非常に大きいように思われる。になり、第二に自分の嫌いな人間も何人が含室れ Africa 1 9 3 6 " T h e H a d z a p i o r W a t i n d e g a " A f r i c g 」 1 9 5 6 A B u s h m a n D i c t i o " r y ・ N e w I D v e n , C o n n , A m e r i c a n O r i e n t a l S o c i e t y ■ Mm・dock,G・P.. 1949SdbialStmcture.N、Y、 1959Africa.N、Y・ Dornan,S.S. Schamra,I・ i " " T h e T a t i B U S h m a n f ' J O U " " l o ! R W a l A n t h r o p o l o g i c a l l n s t i t u t e 1 9 2 5 P y g m i e s a n d B u s h m e n o f t h 9 るだろうし、第三に、そうした人々の間では自然、 4社会的緊張の緩和共同、分配という大原則もうさく運用されない場 そ の た め に 血 縁 組 織 が 大 き な 役 割 を 果 す こ と は 合 が 生 ず る 。 第 四 に 姦 通 、 盗 み 、 意 見 の 衝 突 も 多 上 に 述 べ た 。 他 に 歌 と 踊 り が あ げ ら れ る 。 特 に 踊 く な り 、 第 五 に 血 縁 関 係 が 密 で 、 親 密 な 小 人 数 の Africa.LoInon Silberbauer,G・一 1965BuslrnanSurvEyReport,Gaberones 1965喚碓rriageandtheGirl'sPuberW Dunn,E、J・ 1 9 3 1 T h e B u s h m a n . L o n d " Africa ” Fourie,L. 徹 底 し て い る と は い え 、 有 効 な 社 会 組 織 も 持 た ず る な ど の 実 例 が み ら れ た し 、 私 の 妻 と 子 供 だ け が 厳 し い 生 活 を 強 い ら れ る / G w i k u e 社 会 の 中 で 、 大 事 で 他 の 人 々 は 誰 も 好 を な い と い う 述 懐 も 耳 に 自 己 中 心 主 義 的 な 考 え 方 を 根 底 に 持 つ 人 々 が 、 果 し た し 、 は っ き り と 仲 の 悪 い 人 同 志 も 認 め ら れ た 。 し て 上 に 述 べ た よ う な 方 法 だ け で 社 会 を 平 和 に 維 そ し て 口 論 は 何 十 回 と な く 目 撃 し た 。 人 々 は で き 持 し て い け る で あ ろ う か 。 実 は 、 最 も 有 効 な 手 段 る と と な ら b a n d n u c l e u s の よ う な 気 , ひ 合 っ た CeremoxWoftheG/hiBusimen" ; ; ; ; 。 " " " 、 。 f s " I M # r i ・ ' Story,R・ d M i l u " a n d S 。 c i 。 ' m r o f A f r i c 。 1958SmIBPlantsUsedbytlEBUshmen, inObtainilgFomand恥悔r・ Heinz BotanicalsurvByofSouthAfrica, 1 9 6 7 p e r s o n a l c o m m u n i c a t i o n Lmdirno、80 Hmtirgford は で き る だ け 小 さ な 人 数 で 住 む と い う こ と で あ り 、 小 人 数 の グ ル ー プ で 暮 し て い き た い と い う 望 み も 、 こ れ 力 靭 め に 考 慮 し た b a n d の 離 合 集 散 性 と い う 叉 一 方 で は 持 っ て い る の で あ る 。 従 っ て 、 あ る と 形態にほかならない。 1942 : f i " , 。 r " 。 ' 。 ' t " T"ias,P。、 1 9 5 6 " O n t l F S u r v i v a l o f t h e B u S l n n e n " ” Dor"o , 9 " " S 。 u t , p r n N i , 。 H a m i " , ・ L o n d " きは人恋しさに他の人々とキャンプを共にし、を たある時には一緒に生活していたた室れなくなっ AfriCa 1 9 5 7 嘘 B u s h m e n o f K a l a M r i " " n 8 6 Lee,Riclprd 5離合集散性て別れ、単独になったり別のグループと一緒にな b a n d o r g a n i z a t i o n に お け る b a n d の 離 合 た り す る い わ ゆ る b a n d o r g a n i z a t i o n を 作 っ 集 散 性 は 食 物 と も 深 く 関 係 す る 。 一 ケ 所 に 大 人 数 て い る よ う に 思 わ れ る の で あ る 。 そ し て こ の b a n d が 長 期 間 住 む こ と は 、 食 用 植 物 の 分 布 か ら い っ て の 離 合 集 散 と い う 現 象 は 第 一 に 社 会 的 な 緊 張 を 巧 1 9 6 5 S u b s i s t e n c e E c o l o g y o f / 趣 m も 不 可 能 で あ る し 、 好 霞 し い m a i n f o O d , を 求 め み に 回 避 し 、 あ る い は 解 消 し 、 / G w i k u e 社 会 の 弓諄班鼎= -186- − = 一 一 一 急・ず -凸一 一 年 一 =・=1号一 匪離碓碓酢駅暇陛脈雁肢服い僻服舵暇催眠醗孵睡鵬聡眠脳鵬解鵬脳曲鵬鞍幡賑心吸囎罹催眠碓碓恥恥Ⅸ嘩肌碓眺都膿罵吸●酢r匪恥聰舵.雌朏酢肛啼.5F恥1.賑鵬昨●恥昨服唖が小彫附岫 I 1980ThemloiBanPeoplesofSouth mlahari・London , の た け な わ に み ら れ る 踊 り 手 の t r a n c e 状 態 は 、 b a n d に 比 べ 何 か に つ け 、 い さ か い が 多 く 、 深 刻 日 頃 の う っ ぷ ん を 晴 ら す の に 大 き な 効 果 が あ る と に な り 易 い 。 実 際 、 筆 者 の 観 察 す る と こ ろ で も 、 思 わ れ る 。 し か し い か に 共 同 と 分 配 の 平 等 主 義 が 食 物 を 隠 し て 分 配 し な い 、 盗 み を す る 。 姦 通 を す −−凸‘・勺砕挿一昔‘−一宗2司干内_必−−A一・--r一一垂 ,::3..1 { F,一一■÷ 一一.,、与司エーーー 一堅←■ョ二 : カラハリ砂漠の ブツシユマンの身体検査 簾1表つづき 資料として示してみることにする。 152 152 老 年 対象は、南部ブッシュマンといわれる/商う. 156 148 一 ’ 1“ 146 159 151 152 155 青壮年 雛|雷 1“ 158 蝿|: 蕊 │ : 152 1 1“ 女 子 149 せき 157 せき,たん(肺結核?) 1弱 154 1 頭部白露 153 一 153 1印 141 142 1“ 133 1 ” 顕弱即 119 1“ 113 鯛 そ の 他 結膜炎,胸痛,関節痛 結膜炎,歯牙脱落1 結膜炎,う歯1,歯牙脱落1 , f , 、 結膜炎 結膜炎 結膜炎,胸痛 結膜炎2鼻出血 歯牙脱落2,う歯1 トラコーマ,視力障害,歯牙脱落騨噂 妊娠中 結膜炎 肺結核,胸痛,腹痛9結膜炎 う歯3 乳蛾半球化 乳箪膨隆 結膜炎9乳鉦半球化 |■一 一 〃〃 : 慢性胃炎 肺結核? 一一一 77 躯﹃躯舗 1 鯛輿 123 ’ 鎚騨闘帥 35 3 5 與妬印 聞與叫拠釦 結膜炎,腹蒲 149 均 120/74182 1 1 4 / 7 5 1 6 5 ) 平一唖巧超過咽加7775542畔 く 124/82184 555.5 143 16 12.5 156 147 即即興 ”、5 41 55 61 0 1 15 15 111 児 乳 理血噸蠅噸弱、噸弱釦沌 1江 ’ 157 B■■■rB■I8qa■■■。■■■凸■Ⅱ■■LⅡⅡ日0凸8■“■■Ⅱ9曲■■UO■■dBRU“■■■■■■■■■日■■■■■91■■■■■■■0■l■■■■■ⅡⅡ■■●■■■PP○G口■■■■■■■■■■■■■■■■、 | (平均 55 才 鯵皿、血 85555553 (平均 幽弱幻似妬唖郵録︾一釦釦國● 躯口 總蛇錨鋸弘錘蛎一釦率班 男 子 “蛇 物弱露 噸暉蝿蠅蠅煙蜘蝿 妬 111 1 11 青壮年 1總 樽 1 カラハリ・ブッシュマンを対象に身体検査を試 みてみたので、ことにそのいくばくかの結果を粗 釘班訂坪癖鈎鏥一認・婚姻犯諏銘錫似● 偲● 如釦認諏如釦“妬鯛調岬一瓢瓢””釦露漁唄釦娼廻唖沌鯉一 倉 知 康 極拠極加輝加価 皿迦、即唖卯埋 長 令 配“お伽配布鋤 空蝉抑 年 1“ 45 : -188- -189= 『 . : . : . : . : : P 瀦 i ’ j や . . . . 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T・ ; . 全 一 mmHR) 脈 簿 135/75 !kung − 男 子 両者平均 (青壮年) 一■■■● 一 ( 3 0 ∼ 3 9 才 ) 166.3 (20才) 57.49 162.9 ( 3 0 ∼ 3 9 才 ) 58.81 |︾ 一 n 一 ( 2 0 才 ) g 炎 ○吃屋−00● 1,トラコーマ 一 1羽/110 1“ 最大最小平均 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 82“75 8255師 71 120 卯105 82記 124 95110 80銘 1鯛 囲闘 右第3・第4・第5指切断 (mmHg) 釦.542 6● 2● |“一︾叩 04 2 4 日本人 6如 釦蛇 110/" 1 111/的 !k6 一一一一一一一一一一一一一一−一一一一一一一一一 蒸篭 5442 最低血圧 72 7 8 躯/62 “”拠出お““鴎j 1 1 2 / 7 2 兜/釦 ー■ーーーーーーー一一一一ーーーーーー 釦 1型/釦 35 85 3 6 95 u 圧 施侭繩 塑叩別 111 才 5 57732 11 (平均 鍋 5 ●5 ●5 ● 55 子 腹 囲 (cm) 艶娼釦弱蛇銅輻總 釣拓溺聰哩8 男 夕 駒闘闘飽認飢鮨醜 “銅製瓢 11111111 1111 青壮年 154 (kR) 5e 5● 7 49 4 老 年 体 重 IllllllIIIlI︲︲11111口1111Ⅱ11■Ⅱ1日■■■1■ロ■可1JⅡ1jⅡFLⅡⅡⅡⅡⅡ日Ⅱq・■■と■日日■Ⅱ0#J■J■■■■■■■■■■■L■ⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡPIII卜F■b■LⅡ■・■R凸■■可JDIbⅡⅡ日■■︲IIbq 年 令 − 身 長 (cm) 11 第2表身体検壷実数位(!kmgプッシーマンの ぱあい) ■■■■■■■■■■■■ 田 (20∼24才)120 73 (40∼44才)133 81 I 88 / 炎 95/70 112/70 1 1 5 / 6 5 1 1 0 / 6 4 卵/58 汚帥“閉館 ノ/j/j 岨塑陀釦叩 11111 “釦認錨弱釘總 1111111 青壮年 女 子 1 3 1 / 7 5 17.5 1“ 13 111 17.5 82 11.5 隊 員 の 推 定 に よ っ て 見 当 を つ け て み た 。 但 し 、 老 浅 た 、 い わ ゆ る 風 土 病 は ( 筆 者 の 診 断 力 で は ) 発 年 は 5 1 才 以 上 、 青 壮 年 は 1 6 ∼ 5 0 才 、 乳 児 は 見 で き な か っ た 。 ’ 才 未 満 と し た 。 ま た 血 圧 は 、 リ バ ロ ツ チ 血 圧 計 ブ ツ シ ユ マ ン の 体 的 特 徴 い わ れ る 脂 ( S t e ( S t e a t身 op y g i aと )は 、 ホ ッ テ ン臂 トッ ト ほ ど 著a し… をつかい、坐位で測定した。 身 長 ・ 体 重 . 血 圧 に つ い て 、 そ の 最 大 値 ・ 鐙 小 〈 な く 、 ま た 乳 錘 の 半 球 化 は 2 名 に し か み と め ら 値 . 平 均 値 . 日 本 人 の 平 均 値 と の 比 較 を 〔 第 8 表 〕 れ な か っ た 。 ちなみに、カラハリ砂漠の大半を占めるポッヮ −−−−−−−−−−−−−−−一_ に示してみた。 トラコ ご く わ ず か な 時 間 の 粗 っ ぽ い 検 査 で は あ っ た が 、 ナ 共 和 国 で は 、 結 核 ・ 性 病 ・ 胃 腸 カ タ ル . 気 管 支 高 血 圧 と 肥 満 が 全 く み ら れ な か っ た こ と 、 鰯 歯 炎 ・ 上 気 道 感 染 症 . リ ュ ー マ チ ・ 皮 膚 疾 患 . 妊 娠 ( ム シ バ ) 等 の 歯 科 疾 患 の す ぐ な さ ( 老 人 や 幼 児 出 産 異 常 等 が ベ ス ト テ ン に 顔 を だ し 、 睡 眠 病 , ピ さ え も ) ( 殆 ん ど 全 員 の 歯 は 歯 み が き メ ー カ ー の ル ハ ル ツ 住 血 吸 虫 病 ・ 壊 血 病 ・ チ フ ス . 麻 疹 等 の C M の よ う に 白 く か が や い て い た / ) 、 眼 科 疾 患 、 流 行 が 、 問 題 に な っ て い た 。 鹿落8 1叩 8 7 ) 妬蛇鯛 110 闘顕砺釦 才 5442 (平均 j 妬お節 配蛇閉拠配閉沌蛇 “釦 11 153 1"/70 142/釦 55552 (平均 劃鏥弘 躯釦鉛諏坐如拠妬詣錫 老 年 “釦鍵 111 − と く に 結 膜 炎 が / 応 の 成 人 4 2 名 中 ’ 2 名 に − ( 特 に 老 年 層 の ほ ぼ 全 員 に ) / k u n g で は 成 人 1 9 名 中 7 名 に も 見 ら れ た こ と 等 が 印 象 に の こ っ た 。 ーー−−−−m−−−−−=一一一一一一 ツシユマンと、北部ブツシユマンの/kungプッ な お 各 ク ル ー プ . と も 、 構 成 メ ン バ ー の 臆 ぼ 全 員 を 検査できたのではないかと思う。生活は、一言に し て : い え ば 、 主 と し て 狩 猟 採 集 と い え よ う か 。 央部のLoneTreePanのlグループ20名 日時は、1966年12月から67年1月にか (男,0,女10)で、後者は、北部のMohapa けてである。 シユマンである。前者は、カラハリ西部、kuli 付近の3グループ51名(男22,女29)と中 の,グループ29名(男14,女15)であり、 両者あわせて,00名(男46,女54)となる。 # 以下、結果の一覧を〔第1表〕と〔第2表〕に し て 示 す が 、 彼 等 は 自 分 の 年 令 を し ら な い の で 、 一寺“1一 # −“0− 一-----■一一一凸■ニローロュ全一,、 _ ‐ _ = ず 一 ・ . 、 一 二 _ _ . _ ・ ニ ー , . − . 、 . _ 、 . . . , . . 里 二 二 二 一 ・ ・ ニ ー ー ー ・一 一 一 ・ . ' 一 二 一 二 二 二 ・ ・ ・ L ・ ニ ー 、 . . . = ・ 一 堂 ・ 当 7 . − − ‐ = ・ ← ・ ニ ー ー ー . 。 』 ' ニ ニ ー さ 三 二 三 . 己 ・ 邑 筐 = _ . _ 一 - 一一=一‘一一二二 1月 --4=一一全一=----,茸 一 めだった◎ ・チフスが1964年末にGaberones のスラム地区に発生、周辺地域にひろがり 翌年5月におさまった。92件をかぞえ、 倉 知 康 ’ 病 気 (第1表参照) られている新生ボツワナ共和国の医療事情につい ’| て、のぞきみたところを述べてみたい。地理的条件に関連しているもの、たとえばマラ ポ ツ ワ ナ は 面 積 7 5 万 平 方 キ ロ 、 日 本 の 約 1 . 5 リ ア は 南 部 の 沼 沢 地 帯 で 雨 の 多 い と き に 流 行 す る 年次 倍 の 国 土 の 中 央 か ら 南 西 部 に カ ラ ハ リ 砂 漠 が よ こ こ の よ う な 場 合 に は 道 路 条 件 も 悪 く な る 結 果 、 対 た わ っ て い る 。 人 口 は 5 4 3 , 1 0 5 ( 1 9 6 4 年 ) 、 策 が 不 充 分 と な り 大 流 行 に な っ て し ま う 。 ア プ リ ほ と ん ど が ツ ワ ナ 族 で あ り 、 白 人 は 3 , 9 2 1 人 に す 力 睡 眠 病 ( T r y p a n o s o m i a s i s ) は ぎ な い 。 人 口 は 比 較 的 水 の 得 や す い 砂 漠 の 東 、 南 シ エ シ エ バ エ ( T s e t s e F l y G Z o , 先天梅毒 早発梅毒 その他の梅毒 マラリア ピルハルツ住血吸虫症 癖癖 ペラグラ 壊血病 貧血 喘息 その他のアレルギー性 i n g s t o n e H o s p i t a l が た っ て い カ タ ル 。 未 熟 児 ・ 先 天 奇 形 ・ f j i ' l イ ・ 染 病 が め だ つ ているo 数年来うちつづく大干越のもとにある1965 歯疾患 年のトピックスをあげてみると。 155(9) 828(2) 969(一) 1629(6) 961(-) 1117(4) 208(19) 9認(−) 1488(8) 1080(7) 151(16) 683(1) 74(9) 247(−) 柵3 1518(2) 1187(1) 1667(6) 2050(1) 969(−) 1255(2) ,04(2) 281(1) 2 0 9 ( 一 ) 94(−) “8(2) 210(−) 175(-) 鍋2(1) 217(1) 298(1) 428(8) 218(2) 9 9 6 ( 3 ) , 2 5 ' 2 ( 2 ! 4 2 7 0 ( 一 ) 扁桃腺炎。アデノイト. 2 4 1 ( 1 4 ) , 諺 : 洲 Z i 7 8 ( 一 ) 4 8 3 2 ( 一 ) 6 9 4 7 ( 一 ) , 綴 首 ) 織弓 1 4 2 9 ( 1 ) 8“9(−) 1184(一) 8 1 0 ( 4 ) 810(8) 7 5 2 0 ( 1 1 ) 1 8 5 5 8 ( " 1 l22− 死 因 と し て は 、 呼 吸 器 系 刀 ' " f 4 ! : 1 ド ° 結 核 ・ 胃 腸 127(7) 295(−) 671(-) 8釦(2) 4 9 9 ( 2 2 ) 16885(8) 14"4(-) 擬留 1 6 8 6 0 ( 1 1 ) 1 5 0 2 ( 一 ) 認 8 8 ( ) 釧加(8) 5159(-) 4 " 8 ( 1 ) 職螂 8780(−) 218(1) 8889(−) 816(−) 5791(2) 84鼬(95) 15588(7) 8 1 8 2 ( , ) ! 2831(16) 608(8) 鑑8(−) 856(−) 108(−) 217(-) 85(5) jjjj 上気道感染 インフルエンザ 肺炎 気管枝炎 3196(7) 85(1) 1815(一) ll25(10) 229(−) 808(−) 848(−) 252(−) 99(9) 814(-) 1 3 0 7 ( 2 ) 2 0 1 ( 2 ) 高血圧 809(1) 9 1 2 ( 一 ) 1 8 7 ( 一 ) 1 5 8 ( 一 ) 870(9) /“(1) 1"(41 7 7 2 ( 1 ) 1 6 0 8 ( 一 ) 9 0 5 ( 一 ) その他眼疾患 ト 118(4) 2282(8) 26(−) 8351(15) “82(5) l"(一) 742(−) 280(-) 191(-) 1802(-) 16289(1) くくくく 中耳炎 耳疾患 る が 、 そ れ を 記 念 し て 首 都 G a b e o n e s の 西 、 は 目 に あ さ る も の か あ る j F ! r 、 ) 6 6 ( 1 ) 7 9 1 ( 一 ) 17248(一) 631(4) 22190") 121(-) 1888(-) 9“(−) 18420(-) 717(12) 75(1) 1174(6) 29(−) 1 2 8 2 ( 3 ) i l 7 4 ( 一 ) 1 9 7 2 ( 2 ) ‘ 職 了 ) 2 6 7 7 ( 2 ) 眼炎 3418(74) 鍵0(−) 1556(-) 8959 鋤、卵泌 てんかん 4561(69) “8(−) 1066(一) 2836(8) 0 81 1 さ て 、 ボ ツ ワ ナ に は じ め て 西 洋 医 学 を も た ら し 耳 下 腺 炎 ・ 百 日 咳 ・ ジ ソ ナ リ ’ 丘 ど も み ら れ る o た の は 、 砂 漠 の 南 に あ る N g a m i 湖 の 発 見 者 、 1 9 6 4 年 の 末 に 痘 碕 の 旅 i l , { 」 ; あ り 、 1 4 3 件 の リ ピ ン グ ス ト ン で あ る 。 彼 は 探 検 の 途 上 カ ラ ハ リ う ち 3 8 名 が 死 ん で い る o I l l l ' i も ペ ス ト の 予 防 対 で 黒 人 た ち の た め 医 療 奉 仕 を 行 っ た と い わ れ て い 策 は た え ず お こ な わ れ て い / 1 『 、 【 / 性 病 の ま ん え ん る◎ 75K一) 10K一) 1 0 8 ( 一 ) "('1 "(-) 精神病 神経症 2 6 7 9 ( 6 8 ) 824(3) 1407(-) 1 7 2 3 ( 一 〉 18989(9 5 6 0 ( 5 ) 1 8 7 ( 4 ) 7 5 7 7 ( 2 2 ) 疾患 はかかりやすいと言われていら)・麻疹・流行性 1963 1117(2) "'(9) 14K一) 15K12) 悪性新生物 小流行。 完一 00■81■。■■■日■Ⅱ■■■■巳■FrⅡ■1ⅡⅡ日Ⅱ8■■Ⅱ■Ub8■■凸■■0■■■■0■■■0■■■08■■11■U■Ⅱqj■8■6口■ⅡⅡq1日■Ⅱ■■d104bⅡ14■日■ⅡⅡⅡ■Ⅱ1日■1J■IF。’■■hfII。ⅡIbiL■■■■且■I 睡眠病 。インフルエンザ・流行性耳下腺炎・水痘の 1962 1960(1) 1 8 7 ( 一 ) 28談4) 7 7 7 ( 一 ) トラコーマ に達した。 lrIⅡ11。J研lIJII0JlIrJf限I’八冊F1ⅡfrIlAI1.Ji■JIIIIIIr。ⅡIIIlm0JI・IIfJIFIlIII︲ⅡJrIIIIIIⅡI0IrrI・lIIff︲Ⅱ111J・fIIJ限ⅡIIJrIIIIrI,IrJJ和fI■f 条虫症 姻虫症 。麻疹が大流行し、5月未までにl574件 1961 150"1) 7沃一) 麻疹 れているようである◎ 」lⅢ 588(1) 115(6) 百日咳 顛 あ り そ う で あ る o l 9 6 6 年 英 国 よ り 独 立 、 ベ チ る 。 を た ぺ ラ グ ラ や K w a s i o r k o r も み ら ユアナランドからボツワナ共和国となったわけでれる。 は あ る が 、 歳 出 の 4 0 % に も お よ ぶ 赤 字 は イ ギ リ 一 方 、 結 核 は 、 公 衆 衛 生 上 岐 大 の 問 題 と な っ て ス の 援 助 費 金 に よ っ て お ぎ な わ れ て い る ( 1 9 6 5 お り 、 毎 年 お よ そ 1 . 0 0 0 人 も の 新 し い 患 者 が で 年 ) 。 雀 た 政 府 高 官 の ポ ス ト は 依 然 白 人 で し め ら て ( / 、 る 。 幼 児 の 胃 腸 カ タ ル 。 肺 炎 ( ポ シ ヮ ナ 入 MolepoloreにScotishLiv 1567K一) 淋菌感染症 細菌性赤痢 アメーバ性疾患 ア フ リ カ 共 和 国 国 境 ぞ い に 集 中 し て い る 。 気 候 は , z ” α 呪 0 7 J , Z f @ 7 z J , 。 G ・ J , " y r l 7 L 亜 熱 帯 乾 燥 気 候 と い え よ う 。 き わ め て 粗 放 的 な 牧 e γ Z ・ 郡 & ) の い る 南 部 の O h a v a n g o 沼 畜 の ほ か に 、 と り た て て 産 業 と い え る も の は な い − 帯 に 発 生 し て 、 こ の 国 に 大 き な 経 済 的 損 失 を あ と い っ て も 過 言 で は な い 。 わ れ わ れ は 南 ア 共 和 国 た え て き た 。 ピ ル ハ ル ッ 住 血 吸 虫 病 ( B i l h a やローデシアへの出稼ぎ風景をよくみかけたが、 rZiasis)は東部と南部にみられる。砂漠 事 実 、 労 働 力 が 1 9 6 4 年 度 の 輸 出 額 の 第 2 位 を 地 帯 で は 冬 か ら 夏 の は じ め に か け て の 乾 期 に 壊 血 し め て い る 。 ア フ リ カ の 過 疎 地 帯 に な る お そ れ も 病 が 発 生 す る 野 菜 や 果 物 が 手 に 入 ら な い か ら で あ 。 1960 2 5 4 9 ( 5 8 ) 436(一) 1 6 5 8 ( 一 ) 2856(1) 結核.(呼吸器) った。 些〒弊害 病 名 ∼ 0 。幼児の胃腸カタルが東部地域で年頭に多か 111 ここに、その国土の大半をカラハリ砂漠で占め l︲111 ボツワナ共和国の医療事情 。栄養不良と壊血病の増加一特に砂漠地帯で 4090(1) 2 9 8 9 0 8 6 ) l l l l o ( 1 5 ) 2080(2) 5287(−) −1*8一 ・14e- lq6b,JrIL ー=.Lユデ凸,クー.-− 』 ■一一・一.-一一一一一一■I ’ 年次 1960 病名 胃炎 胃腸カタル 腎炎 1961 1962 2592(−) 1 8 9 1 9 ( 1 0 3 ) 263(6) 4921(−) 66“(−) 7 3 4 3 ( 9 ) 13341(11) 5136(-) 624!1(5) 9 8 6 9 ( 2 6 ) 2 5 8 4 , ( 1 ) 169“(53) 290(9) 2322(1) 15532q29) 2虹(2) 60“(−) 7722q3$ 5000(−) 9119(7) 6459(13) 16362(28) 1 2 6 0 2 ( 2 3 ) 10102(14) 1 8 9 6 4 , ( 8 ) 19787(-) 18320(4) 17233(−) 12797(-) 14052(一) 19“0(3) 19620(-) 17362(6) 18“2(−) 1 8 5 1 ( 4 , 1 ) 3 8 6 2 ( 4 5 ) 2951(“) 注:()内は死亡者数。 ’ − − Ⅱ T 識 〕O − − 』 ミ ' B 1203(“) 一 塁 ミ ミ ご g −−且 2名、SeniorSanitarylns ているo 一方、マラリア対策のDDT散布もおこなわれ 2 , ● pector2名、Sanitarylns pector9名が当っているo ローー←むむ一一 、 榊睡 ector3名、FieljObbicer 府がTsetseFlyContolを随所 に も う け シ エ シ エ バ エ 撲 滅 に 成 果 を あ げ つ つ あ る 。 Healthのもとに、Healthlnsp ご卜め叫蓼エトョ◎ぬ MedicalDirectorof 雫乏 江○一嘩込 照 ) に は 4 6 . 0 0 0 の 人 間 と 2 0 万 頭 の 家 畜 が す ん で い る が 、 1 9 6 5 年 か ら W H O と ボ ツ ワ ナ 政 一 基 ] ’ 1 ’ 94 、△●且”G1垂 。 必 公衆衛生活動 ○ 9 b 8 8 2 ( 3 2 ) h つ 1 、 2813(-) 1 5 5 8 5 ( 4 6 ) 849(6) 1964 、芯 x葎 2123(−) 1 4 0 8 2 ( 6 3 ) 573(8) 1963 と , ア N○』 M○ = 結核がもっとも大きな問題にたっているが、南 ア 共 和 国 の 1 5 0 0 万 円 に の ぼ る 寄 付 に よ っ て 、 ’ B、C.G・接種キャンペーンがすすめられてい る。1964年は86,230名、65年には 63,650名に接種されたo学童は全員うけてい るo 吸 虫 病 は 、 M o c h u d i 地 方 の 学 童 の 3 8 % に みられたという記録があるが現在は全員治療をう けているo R e s i s t e r e d p h y s i c i a n と M e d e c a l D e p e r t m e n t で は 、 「 日 L i c e n c e d P h y s i c i a n と が あ り 、 本 に は あ 室 つ た 医 者 は い な い か ? 」 と き か れ た り 、 前 者 は 英 。 米 。 南 ア た ど の 医 師 免 許 を も っ た 者 を 募 集 要 領 を 何 部 も 手 渡 た さ れ た り し た 。 睡眠病は、MaumのMedicalObb さ し 、 我 国 の 免 許 も こ れ に 相 当 す る と の こ と だ つ た 。 イ ギ リ ス や 南 ア の 大 学 を で た 医 師 が 多 い 主 う 母子衛生は各地の病院で実施されていて、最近 o l D e p e r t m e n t と 協 力 し つ つ 、 診 療 の 干 腫 に よ る 飢 鰹 に さ い し て は 、 妊 婦 。 採 乳 婦 や ’ 病院やHealihCentreをかけもちし、 飛行機でとびまわっている医者もめずらしくたい。 医師 I icerがTsetseFlyContor でていない。医師不足は深刻そのもののようで、 医療従事者 (第2表参照) C はれOり ピ ル ハ ル ツ 住 血 吸 虫 ( S c " 2 J 、 Z o 、 s , o ” α ん α ‘ 加 a 2 o j f u , 7 7 z ) に よ る ピ ル ハ ル ツ 住 血 し て い る o l 9 6 5 年 は M a u m 地 方 で は 3 5 例 学 齢 期 の 子 供 た ち に 食 料 の 配 給 が お こ な わ れ た が 、 看護婦 で 、 下 院 議 長 で あ り 、 リ ピ ン グ ス ト ン 病 院 長 で も 1 . N u r s e o f S e n i o r T r a あ る D 、 r ・ M e r r i e w e a t h e r は エ デ イ i n i n g ン バ ラ 大 学 出 身 だ っ た 。 ボ ツ ワ ナ 人 の 医 師 は 寮 だ 2 . C e , ・ t i f i c a t e d N u r s e C h o b e 地 方 で は 7 例 み ら れ た 。 シ ェ シ ェ バ ェ 資 金 不 足 は 深 刻 ら し い 。 のいる、いわゆるTsetseBelt(図参 −145− −144− 一 一 一 一 一 一 一 一 − 一 一 = = − − 』 ‐ 一 一 一 一 一 . 二 = 一 一 二 一 一 一 一 = − 一 一一 一 一 一一ー一 一■'■ー−一一旬← ー 一 − |’ 一 3:PertiallyTrained CentreではNurseofSenio Nurse Inspetor・Med 527 301 85 260 計 97 927 167 606 16 427 80 97 1.633 一二二:= − − 第4表ヘルスセンター(1965) _ 一 一 84 G O V ,│ 小児病床数 病床数 一 数 看護婦 助産婦 − 計 186 87 223 106 45 151 292 82 374 64 26 198 65 23 200 10 170 80 75 75 95 ノ 第 5 表 デ イ ス ペ ン サ リ ー ( 1 9 6 5 )駐 計両如 198 一一一一一一一一一一一一一 − 一 一 一 一 非常 一 − 55 ’ 27 33 7 S &■■■ S 医療施設 一 ” 26 計 一M皿 63 12 O 91 デイスペンサー GM 21 1111 87 』且§聖竺匹 ’一 80 21 62 通 性 800000− 233333 76 ’ 87 048888− 211111 ’│ 20 一一一一一一一一一一−一一一一一一一一一= 244 42 精神科 Mission 医 師 66 43 118 lthAssistantなどがある力、それ 第2表医療従事者.数 ’│, 183 'j、児結核 結核 一 ぞれ所定の教育訓練をうけている。 育病院でうけなければならない。地方のHealth 61 283 一 計 一 − 1 Mssion 一 隔 小児科 産科 普通 一 数 床 06 GOV. icalAid・Despenser・Hea 3.は2年間のtrainingを、それぞれ教 1960 28 1 20 病院数 Sanitary (中学1年相当)修了後3年半(助産婦は4年半) ’│ − その他 School(中学佼に相当)卒業後4年間(助 産婦は5年)、2‘はStandardSeven 離一皿” る場合もある。 任ある地位をしめているようである。 1.はJuniorCertipicate ’ 第3表病院と病床数(含シ、ル:スセンター)(1966) rTraingが診断や治療室でひきうけてい の三種類がある。南アなどからきている白人が責 − (第8∼6表参照) ボツワナには、Hospital。Health − た も の は 、 8 畳 位 の フ ・ レ ハ ブ で 3 2 才 の D i s p 数 第6表患者 enserが一人いた。彼は近くのもう一つの 一一一一一一一■ー一一一一一一ー一 一 D i s p e n s a r y と か け も ち で 働 い て い た 。 ベ ッ ト . が 一 つ あ る だ け で 薬 品 や 器 具 ら し い も の は ほ と ん ど 見 あ た ら 左 か つ た 。 ( 写 真 参 照 ) − 1960 61 62 E■■「−一一一一一一‐‐‐.− 63 一 Patienlとよばれ、日に100円から − 一一一一一一一一一一一一 一 _ 一一 CentreoDispensaryの三種類の 医療機関がある。個人経営のものはみあたらない 黒人と政府関係の白人は初診時に250円はらえ ば、あとは全部無料で治寮をうけることができる。 これらの患者はFreePatientとよば れる一方わずかではあるが自費患者もあり、Pay 計 = 83 60 23 一 通 z_一屋一 16,709 18,713 21,730 19,204 21,330 64 計 暁 一 191‘256 207.965 238,829 252.042 243,109 264.832 242,424 261,628 214,119 285.522 − − 一一一一一一一一一 −一一一一一一一一一=一一一 2,000円穏童かかるらしい。 ’’11101口口0ロロロロロ■■■■■■■■■■■■■ Dr。Mannanはリバプール医学校で熱帯医 Hospitalは看護婦などの教育機関をか A t h l o n e H o s p i t a l ねているo 首 都 G a b e l o n e s の 南 5 0 マ イ ル 、 経 済 シ ャ ツ に 半 パ ン ツ 姿 で 診 察 し て い た 。 看 護 婦 は 1 4 の 中 心 地 L o b a t s i に あ る や や 古 い が 白 い し 人 ( 白 人 3 名 ) 。 N u r s e o f S e n i o r よ う し や な 病 院 で あ る 。 ボ ツ ワ ナ の 大 病 院 の 一 つ T I ・ a i n i n g に な る た め の 教 育 を う け て い る で 、 こ の 国 唯 一 の 糖 神 科 病 棟 を も っ て い る 。 医 師 生 徒 が 2 5 人 い た 。 彼 女 た ち は 、 こ の 国 の 最 高 の は 2 名 、 と き ど き G g l b e r o n e s か ら 外 科 医 教 育 の 一 つ を う け て い る 訳 で 、 全 員 ボ ツ ワ ナ 人 で 。 ー w 鮒 10■■7fユ岾日 底 = ユ 一一 HealthCentreは専任の医師をも たず、地方にあるものが多い。病床もすぐ怠く、 診備も貧弱であるo 161ぞ Dispensaryには3年半の訓練をうけ ﹃ たDispenserがあり、簡単な診療をおこ なっている。無論無床であり、われわれがみかけ 学を専攻したというパキスタン人である。半ソデ デ イ ス ペ ン サ リ ー ( N O k a n e n g ) が 応 援 に や っ て く る ら し い 。 医 師 の 一 人 、 −146− ある。婦長は南アからきた人で、帰国したがって −147− 一 一一 ‐ ‐ ‐ ‐ ‐ 一 ・ ー 閏 ∼ ニ ゥ ー 寺 一 三 ー、一一−’一ニーーロー←一一マーマー== 且 一 一 箒 一 一 F ー ‐ − ■ ー − − ’ │ ' ー 11mⅢⅡⅡⅡⅥⅡⅢmⅡ1411M1111Ⅷ11ⅡI 口 −−−−−ーーー−−ー−−−−面 ’│ いた。平均1日に120名の外来患者があり、入 院患者は常時100∼125名で、消化器と呼吸 器の病人が多いとのことだった。薬品類は南アか ら全て輸入している。完全看謹がおこなわれてお る。火曜の12時に着き翌日の10時には帰って ゆく。訪れたときは医師不在の日でNuvse ICEFへの援助要請の内容をあげておくことに する。ボツワナの医療事情をもつとも如実に物語 外来患者は12名、腹痛と咳が多かったとのことb 彼 女 は 3 5 才 の ボ ツ ワ ナ 人 で 、 A t h l o n e 病 フリカ風バンガローの結核病棟が印象的だった。 。看護婦と助産婦の教育施設 護 婦 は C e r t i f i c a t e d N u r s e で 、 一 olO0床以上の主要病院に配置する四輪駆 〃ぬ宝 33才で1万1千円もらっている。又32才の Dispenserが薬剤師の役目をはたしてい る。、やはりAthlone病院でDispens erの訓練をうけており給料は232千円。その 野 ームを2組。チームのための機動力も 又4カ月前に首都Gabelones唯一の病 MarinaHospitalを、たった一人 の看護婦が番人役をしていたことも。 間統計の数字は、主としてボツワナ政府のMe 動の救急車 。野外用の顕微鏡装置−3台の領微鏡と四輪 edicalDepertmentの調査資料 位 胃 腸 疾 患 だ っ た o 1 9 6 6 年 の 患 者 総 数 は 外 来 2 4 4 8 ( 白 人 1 2 3 ) 、 入 院 2 6 9 ( 白 人 1 ) Athlone病院の結核病棟 あ る 日 の 外 来 患 者 の 内 訳 を み て み た と こ ろ 肺 結 核 1 2 ・ 胸 痛 と 咳 各 2 . 腹 痛 ・ 脱 臼 。 心 疾 患 ・ 妊 婦 な ど が 1 名 ず つ で 計 2 2 名 だ っ た ( も ち ろ ん ド ク タ ー 来 院 日 の ) 。 設 備 は 村 の 古 い 診 療 所 な み と い 苧 ったらあたるかもしれたい。 Athlone病院の小児結核病室 GhanqiHealthCentre 一 空港 で ’三 − −1︽ ︾き ●● ︾︽●↑: ■ ︾ ,fIPい﹄r﹄,︾。 患者だったo前述のAthlone病院のパキス タン人ドクターかGabelonesの南ア人ド しご 南カラハリの中心地Ghanqiにある。砂漠 を鉄線で仕切っただけのだだっぴろい敷地に、診 療棟。医師住宅・看護婦住宅が一棟づつ、はるか かをたに結核病棟がポツンとたっている。ベット は36、うち結核用が25。ほかに小児用が3床 ある。入院患者は18名でそのうち12名が結核 墨 Ghangiヘルスセンター 診 療 棟 の 全 景 。 こ の 中 に 診 察 室 。 薬 局 。 事 務 室 ・ 病 室 ( 1 4 床 ) ・ 炊 事 場 な ど が あ る 。 左の方に救急車がみえる。 クターボ週1回飛行機で砂漠をこえてやって〈 −149− −148− 一二一÷-.--一一一一一一一一、一一二盃二一一一一.一-−.−−−−−−− 一 一 = = − 型 I ’ を参考にした。 駆動のトラック ほ か 職 員 は 料 理 人 と 運 転 手 と 助 手 と 4 人 の 掃 除 人 で あ る o 病 気 の ラ ン ク は 1 位 淋 疾 ・ 2 位 結 核 ・ 3 I ー oB.C.G.・痘瘡・ジフテリア・破傷風 などのワクチン。できたらワクチン接種チ 院と左つたはずの真新しいPrincess ることになるかもしれない。 院 で 教 育 を う け 、 給 料 は 約 5 万 円 。 も う 一 人 の 看 E 」 F L │ 叩 。 一 MedicalDepertmentのUN ketsiさんが診療していた。ちたみに当日の そろいの病衣でやすんでいた。小児結核病棟とア 。薬品一どんな薬でも! おわりに ofSeniorTrainingのKea り、患者たちは掃除の行きとどいた清潔表病室に -1,-q-.一∼函司 ’│ マ − フライは木陰のない所では非常に便利である。るしておいた。これは布の表面に侵出した水が気 しかし、一般に疎林友がらも樹木はあるので使用化熱を奪い、水筒の水はいつも冷えているという 装備について 松 本 今回の目的地はステップないし半砂漠性気便の 業は牧畜と銅、石綿等の一部の鉱物資源を産する 他はめだったものもなく、生活物資の殆んどを輸 したがって、現地では我々の踏査に必要を各装 備の入手はかなり困難と思われること、現地にお 思われるものはなるべく日本から持って行くよう 以上の考えのもとに、まず装備リストを作成し いうことになった。 以下、各装備の使用結果について概略述へるが、 全般にかなり大目であり、合理化を進められる点 も烹童あるので、今後との経験をもとにさらによ いものにしてゆきたい。 〈、窓はない。壁は厚さ10∼15”あって、中に、調味料類は袋に入れておいた瓜衛生上、出 は外の暑さに比べ涼しく、快適な住居である。し入れの合理化からも専用のケースをもうけそれ 時々、我々も彼らの家を利用させていただいたカヘに納めておくのがよいだろう。 一般に空家は少なく短期滞在についてその利用は 入ると一個50KF前後となり一人では持ちにくく、 内容物も捜しにくい欠点がある。しかしながら、 期待できない。また、ブッシュマンの家は潅木を4その他 ト・−ム型に組み、その上に草を葺いた程度のもの文房具類は野帳、ボールペン、マジックインキ、 自動車利用の踏査に関しては木箱と比べた場合、 丈夫という点でやはりより有効な梱包物といえる。 で あ る が 、 家 を 作 る ほ ど の 潅 木 を 集 め る に は か な 荷 札 を 多 く 使 っ た 程 度 で く そ の 他 は ほ と ん ど 使 わ なかったが、余ったものは逐次訪門した学校、現 りな労力であり、その使用はむりである。 現地室でのパッキングは装備、食楓医薬品に 分ける程度で、各パックは自由に入れ、ほぼ重盤 が同じになるようにした。輸送中の湿気を防ぐに テープレコーダーは各種族の声、音楽の録音に カ ラ ハ リ は 砂 漠 と い い な が ら も 、 年 間 平 均 雨 盆 よ く 利 用 し た 。 テ ー プ レ コ ー ダ ー は 一 般 シ ワ ナ 人 約 4 0 0 ” ( 場 脈 年 に よ り 大 き な 違 い が あ る ) も 知 ら な い 人 が 多 く 、 録 音 し て 聞 か せ て あ げ る と はそれぞれの荷全体を油性の紙で包み、ガムテー と か な り あ り 、 . 景 観 は サ ヴ マ ン ナ に 近 く 、 潅 木 が 不 思 議 が り 、 興 味 を 示 し た り す る の で 、 彼 ら と の あ る の で 、 焚 火 は 比 較 的 簡 単 に で き る 。 我 友 も キ 対 話 を 進 め る 手 段 と し て は た い へ ん 便 利 で あ る 。 一 ヤ ン プ 地 に 着 く と 、 ガ イ ド が 薪 を 集 め て き て く れ カ メ ラ は 各 種 附 属 品 を 持 っ て い っ た 力 、 我 々 の ‘ プでとめておいた。現地行動は短期間(5∼lO 日間)の小旅行を重ねる形式だったので、その間 に必要なものだけをいくつかのコンテナーに使い やすいように分け、その他は町にデポしておいた。 息麓息飢忌毫乏焚火に嗜雪裟鷲鱸麗蕊皇鰐鴬 炊 事 も 充 分 可 能 で あ る ハ 時 間 と 手 間 を 考 え 、 我 で あ っ た 。 写 真 は 現 在 の 一 般 的 記 録 方 法 の 基 礎 的 々 の 炊 事 は も っ ぱ ら 石 油 ス ト ー ブ を 使 用 し 、 焚 火 な 最 良 の 手 段 で あ る の で 、 出 か け る 前 か ら 充 分 う は 湯 を 沸 し た り 、 カ イ ト ・ 自 身 の 炊 事 に 利 用 し て い で を 磨 い て お く 必 要 が あ ろ う 。 フイルムは熱気及び海上輸送中の湿気による変 水 は 卜 . ラ ム カ ン ( 2 0 0 Z 入 り ) を 車 に 領 ん で , 質 が 心 配 さ れ た た め 、 菓 子 等 の カ ン ケ ー ス に 発 泡 お き 、 手 に 入 る と こ ろ で は 常 に 補 給 し て お い た 。 ス チ ロ ー ル を 敷 き つ め 、 乾 燥 剤 を 入 れ へ 各 フ イ ル と の 水 は カ ン の 錆 が で て 茶 褐 色 を し て い た が 、 味 ム ケ ー ス に 入 れ て 保 存 し て お い た が 、 変 質 は ほ と 帰路には食糎等の消費して空になったコンテナ ーに採集品を入れ持帰った。 2設営用具 た。 プツシュマンのムラを訪ねる奥地への小旅行等 においてはテント生活を主にした。 テントはウィンパー型(4人用)とその改良型 が 悪 い 程 度 で 、 下 痢 や 体 の 不 調 を お こ す 上 う ' な こ ん ど 見 ら 以れ 上な 、か 持っ 参た し。 た装備用具を示しておく。 と は な か っ た 。 蚕 た 、 通 称 カ ラ ノ 、 リ ク ー ラ ー と い う 帆 布 製 の 水 筒 ( 水 袋 ) を 現 地 で 買 入 れ 、 車 に つ 二人で利用した。食事やその後の夜の時間を費す 場所は焚火の囲り等がほとんどでテントは寝る時 梱包にはプリキテーブで補強した木箱(約75 に入るぐらいであったから、テントの居住性に関 1梱包・運搬 型コンテナー(79”×88”×88”)7個を ’ 1 ヤの付いたものが快適であろう。 一 上 一 二 ー 一 一 ■ 一 L J ■ ■ 一 一一少・・--.・哲司---。∼−−←一モニー 且 ロロロロ叩・口・叩患・・Lロロ酔眼い −151− -11”− 屯BJP・・・・・日11■J1・・I■■F 沁11...■︲L4.. 木箱は重量約5恥と軽いのであるが、出し入れ し、特に不便を感じなかったか、欲をいえ観側 壁が高く中で一般作業のできる位のスペースがあ り、通風の点からは前後両方に入口をもうけ、カ 一 使用した。 地子供達へのブレゼン/卜としてわけていった。 3炊事用具 (通猟全天候5人用)の張をもって行き、各 ”×85”×28”)5侭日通エリ借用した小 3 餅矧剥側謝謝劉潮剥剥削剥剥馴潮釧創熱瀞糾剥熱凱劇測釧熱馴噺訓釧錨認︾罰薊訓淵馴創罰馴剥湖瑚靱剖 た。これによって、それぞれ部からの借用秘学 徳企業からの寄附ないし借用職買入れる物等 に分け調達を進めた。この結黒一般的に設営用 具は部からの借用、カメラ、電気製品、事務用品 は一般企業からの寄符ないし借用、調査用具は学 校からの借用ないし買入れ、炊事用具は買入れと んでその上に草を葺いてある。一般に入口は狭ま食品等の炊事用具は移動の際、バケツか袋の中 かし、現地での禾蝿ではジュラルミン製ではある が、やや大きいので空重最10幼有り、中に物が 入して,いる。 心掛けた。 直径約4加の円筒型をし、屋根は木を円錐状に組飲料等全てで約40必であった。 や輸送中の衝撃等により少しづつ壊れてきた。 −戎コンテナーは丈夫であり、水の浸透がない ので、現地玄での梱包、運搬には非常によい。し の独立(1966年9月)をもない内陸国で、産 ける現金の出費はなるべく少なくすること、現地 での移動は車(小型トラック)で行うので、登山 隊等で問題となる装備の軽量化は今回特に重要で はないこと等の点から装備計画に立っては必要と は少ない。乾燥地のちえとはいえ便利なものである。水の少 ツワナ人の家は砂を牛のフンで固めたもので、ない地域で、我々5人の1日の水消費量は炊事、 亘 一 一 一 | 設 営 用 I 具 り 他 品 名 規 格 . テ ン ト フ ラ イ グランドシート ピニロン W−4人用 ピニロン 3×4" ピニロン ピニールシート | そ の 他 ’ 一 A−5人用 2x8流 2×3" ノ コ ギ リ 尽3寸 ナ タ 調 刃18" 剣型スコップ・ 1131 折たたみスコップ 間 尺 麻 ナ ヮ 巻 尺 ’8”40加 細 引 '4画 " , 折 尺 7加 査 器 具 刺 アリダード 111111211 炊 ポリバヶツ 布バヶッ ミ ナ ナ ベ ザ ル テ ル モ ス サ . . ラ コ ジ ブ 包 丁 タッバウェア ス プ ー ン フ オ ー ク 力 ン キ リ セ ン ヌ キ ヘ ラ 高 度 計 キルピメーター クリノメーター 10.6必入 ”8”18必入 ノ 、 ン マ − − ’85” シヤベノレ ‘28”ホーロー 風 速 計 ’28m 電導度計 / 0碗 PH比色試薬 # 1 5 c W i 5 i m , , 1 2 c w I 7 個 メス.スポイトツ 2必入 セット・ピペット 0.8必入 蒸 留 水 ’20〃 ボ リ ピ ン ヵ ン ピ ン 280“メラニンフエア、手付き ヤ サ ツ 21”刃渡り、肉切り 新 聞 紙 捕 虫 網 小 110 400 1 │ │ │ 000 ルl 2 パラフィン紙 0.95 T R A P 009 フォルマリン 0.08 双 眼 鏡 0.05 ストップウォッチ! −152−− 212 割 ば し “1 ヤ カ ン 2 食 器 毛髪湿度計 ラジユース大1.1必、中0.6必 特大、ナベ2、皿2、ヤカン1 8941 . ポ 一 ル 82 ︲ 0402122744721 2●L LQLLQLQ0L0QQ血 コ シ へ ノ レ 21211211174225506322 ス ト 一 プ 最高最低温度計 事 用 具 0∼100℃ 5 温 度 計 紬 秒毅算 l l 1 M 、 r : 一噸8陰 |│ i : i ' 丘 一 一 = d聖! 一 = 今 一 一 一 六 色 鉛 筆 ホ チ キ ス 接 着 剤 セロテープ ラ ベ ル 荷 札 ナ イ ス 40枚]8×10cWI トランシーバー B4版35×25m ラ ジ オ 4.0 フ 赤、黒、青色 懐 中 電 燈 赤、黒色 強力ライ卜 電気カミソリ ナショナソレコロリー 2種 2箱 ざ蚕し時計 0.2”19”×10加黒・赤・青・黄・白各3個 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一遥一Lそ−2−他”−| / ク リ ッ プ アーブレコーダー ’ 11141120 鉛 筆 I ボーノレハミン ・ノL・〆ノィノ6-, ■ 8 マジックインキ 5.7 冬 一 │ _ 堂 堂 」 塁 一 墜 側 」 ‐ ● 一 一 勺。“ 西 洋 紙 規格・その他 − 一 I 野 帳 重量(K9) 一 51 フィラーノート 事 務 具 ロ皿 数 スケツチブプク 量 01 00 57 12 25 21 52 2叩 54 00 − 20m 加41 2 1 、08 50 品 名 房 凸■■■■■■■■■■■▽680.●in■■■■■■Ⅱ。■■■。 文 一 I _ − − − = 一----−一一====一一=-----_÷ 口 一 = 一 F = ー 三 一 一 | I ’ 食料について <単位重段:ザ> 副 食 ジヤム缶入 (ター缶入 チ−ズプロセス スモーク 1計画を立てるにあたって 2具体的計画 行動地域は人口希薄な荒涼とした乾燥地で、食 料生産は十分におこなわれ犬住民の毎日の食料 エダム にもととかく地域であるため、我令の食料はほと んど全てを日本から持って行くことで計画を進め た。これはまた、装備計画と同様に、現地での経 パルメガン コンピーフ缶入 カノレパス カードに印をつけ、lカード5回料理したらその 費節約のためでもあった。 クウコウ 献立は終りということになる。このカードの利点 はカードの中からその日に食べたいものを自由に 選べ、消費した食料と現在高がカードを見ること 食料計画を立てる前提として、荷の軽量化は特 に考えず、 ①腐敗しないもの(長期保存に耐えるもの) 肉カンズメポイルトqチキン ジペーコン ピクルトボーク で一目僚然にかかり、60日間全てにわたって、 ②水を多く使わないもの 牛肉大和煮 食料を均等に消費できることである。 このカードに基づき1食樋調達を進めたが、調 ③料理に手間のかからをいもの ④コンパクトで栄養化の高いもの の 4 点 に 注 意 を し た 。 ま た 、 長 期 ‘ 勺 の 食 料 計 画 であるので、合理的に行えると同時に、滞在期間 の変更等に対し、対応できるよう充分余裕のある 貝 不足からどの程度現地食が得られるか不明である スキヤキ スパケティー 10 マッシュポテト 10 うどん 10 1.0 100 10 1.0 155 40 3.1 480 10 4.8 200 10 2.0 200 10 2.0 1 5 / 2.4 10 1.0 10 2.2 10 1.7 10 1.7 10' 1.7 I60 170 65 240 150 20 1.8 20 48 10 1.5 485 485 ピワ 485 49.5 ナシ 250 19.5 アスパラヵス缶入 425 12.7 15.0 切干し大根 16.6 600 干椎苛 7.8 かんびょう 5,6 わ か め 6.9 100 .50 高野豆腐 -15W菫− 一 ■ L J▲ 》 子亭 2.0 果実カン詰桃 <総重鉦:Kg> 二蛤・ミー卓一...と..』_一一湿凸.一一.一・一・一号毎-,.-菖一一一一r---ラムL角・マーー今..∼.・厚・ロー当14−.苧_LP=---.:ロー‘=』屋?..、ザ.畠.≦-.母『。、 10 485 −156− 二 100 1' 8.7 2.2 2.2 2.2 6.8 1.7 0.4 1.2 2.0 0.4 0.85 。。qⅡ.・qlq。.:. 25 5.7 ..。F、Ⅱ4.日 ホットケーキ 80 ■四.。■TIB3B8回包Ⅱ■a■Ⅱ■期・・1勺4冊1..m刊畠Tid■!・凸.・則川咽Ⅱ刈咽咽珀刈州4■T由 25 190 ・・・⋮貼・:。・・・・砧・・・咄・・・貼叩・・・⋮・・....・、.・・⋮・・⋮・・・・⋮・・⋮⋮・⋮・⋮:。⋮。.:⋮.・・..・・・.・・・.・・⋮・・.・・・.・・・。.・・・・服・心叩ロ唾 小麦粉 0.4 1.0 ミカン 20 10 屯IIlII1IIIj■日日冊Ⅱ、。Ⅱ11口■日刊ⅡⅡⅡ91・bIIII,II1Id8■ⅡⅡⅡⅡⅡ■Ⅱ..1JIⅡ.g■61砧LIJ..b110130日L1列..・四? インスタントラーメン 40 スルメ リス卜 80 400 2.0 2 米 1.12 5 1.0 ア ズ キ 缶 入 70 225 55554247 ロ叩 ビスケット 225 5 エピ スイートコーン缶入 <食分> 225 170 グリンピース缶入 主 食 2.25 10 干し魚干だら と思われるものもなるべく持っていくことにした。 以F,日本より持参した食料リストである。 食料 225 170 クジラ こと、をた滞在期間の延長も考えられたので余分 7.4 10 220 カン 達の段階で当初予定したものと異なったり、量が多 くなったりした。しかし、現地に関する資料情報 ものを考えた。 870 100 魚カンズメサンマ <総重量:恥> 20 ▲詞・ロロロ・ 料理日数60日、予備食20食分の計画のもと に、朝、昼、夕食それぞれl2種類、合計36種 類の料理カードを作った。これは各々の料理カー ト・の献立を5回料理することとし、食事をしたら <個数> ? _ 一 ■ 一 ℃ 二 二 一 J 一 一 二 ざ = ℃ ■ 極 ’ 1O ピン缶 ン、ルサメ 400 100 梅 干 ケチャップ・ スープの素 ミソ汁の素 緑 茶 150 紅 茶 112.5 コ ー ヒ ー 125 粉末 ミ ル ク 粉末 缶入 コプ茶 300 400 12 ジュース 100 100 ア メ 110 レーズン 111 100 /、チミツ 800 1 調味料 1000 塩 }● 620 味 噌 1000 化学調味料 100 としよう 20 とうがらし 16 ソ − ス 1000 しょう油 500 ガーリック 10 サラター油 3000 酢 350 カレー粉 120 訴人 300 400 25.5 50 1.8 50 50 2.5 52 10 0.52 0.4 I であった。 3使用報告 カード形式は滞在日数、料理日数の変更、日々インスタントラーメンには油で揚げたものと揚 の食欲の違い各人の嗜好性の問題等で、十分な採げてないものの二種がある力、揚げたものは変質 1 用は行なわれず、一部の食料に大巾な残りがでた。が心配されたため、早く食べるよう心掛けた。し しかし、全体の計画に支障をきたさない限り、たがって、メンには異常なかったのであるカヘタ その時あるものを適当に組合題食べたいものをしについてはすでに遅く、一部に変質がみられた。 1.32 0.75 作るのがよいのであって、計画上の献立をそのまホットケーキは甘すぎて主食には向か式あをり ま 守 る の は 実 際 上 無 意 味 な こ と で も あ る の で 、 と 使 用 し な か っ た 。 056 0.25 の 結 果 は あ る 程 度 や む を え な い も の と い え よ う 。 小 麦 粉 は お 好 み 鰯 す い と ん 等 に 使 う 予 定 で か l.5 墓溺雇戻菰曇世話に厳。瀕趣人、孝幸,壱郵雲蕊霊』苧を愛旦た:と?. ツ ワ ナ 在 住 の た だ 一 人 の 日 本 人 、 大 畑 氏 ら へ 分 け し 、 小 麦 粉 は 味 を 自 由 に 付 け ら れ る の で 、 料 理 方 て き た が 、 現 地 で は 食 糎 が 不 足 し て い る こ と か ら 、 法 を 考 え る こ と で 今 後 大 い に 使 用 さ れ て よ ぃ も の 2.0 1.0 0.2 2.2 非常に喜ばれた。次に各食料について使用結果をであ るo b・副食 0.7 若干のべる。 一 腐ら式長期保存に耐えるものということから、 a・主食 0.8 ビ ス ケ ッ ト 、 米 、 イ ン ス タ ン ト ラ ー メ ン 、 小 麦 乾 秘 カ ン ズ メ 類 が 中 心 と な っ た o カ ン ズ メ は 料 粉 、 ホ ッ ト ケ ー キ 、 ス パ ケ テ ィ ヘ マ ツ シ ユ ポ テ 理 材 料 に 使 用 し た か っ た の で 、 味 の 付 い て な い も のを望んだが、日本には比較的少ない進うだ。パ ト、うどんを主食に用いた。 朝 、 昼 食 は そ の ま ま 食 べ ら れ 、 手 間 の か か ら 友 タ ー は 分 離 溶 解 し た が 使 用 に は さ し つ か え 詮 い 。 い よ う に と 、 ビ ス ケ ッ ト 類 を 主 に 使 用 し た 。 全 体 調 味 料 嗜 好 品 は か な り 多 く 持 っ て い っ た の で 、 に 甘 味 の も の が 多 く 、 飽 き て し ま い 十 分 な 盆 を 食 不 足 は き た さ な か っ た 。 現 地 の 自 然 食 に は 糖 分 が く ら れ な か っ た が 、 こ の 味 の 点 を 改 良 す れ ば そ の 不 足 し て い る た め か 、 現 地 人 は ア メ 等 を よ く ほ し 12 1.24 2 . ( ) ( ) , ‐ ↓ illl:1 ま 雀 い つ で も 食 べ ら れ る と い う こ と で 、 主 食 と し が っ て い た 。 料理内容としては、一般料理の基をなす野菜が 1(l て非常によいものになろう。 (IIIH 米 は 水 を 多 く 使 う の で 、 2 日 に 1 食 の 割 と 少 旋 現 地 で ほ と ん ど 手 に 入 ら な い た め 、 材 料 は 乾 物 に 頼らざるをえ式どうしても内容の貧弱なものに 〈 計 画 し た 。 量 は 4 人 1 食 6 0 0 1 , 6 5 0 1 , 7 0 0 牙 の 三 種 に 分 け て い つ 減 へ や は り 御 飯 へ な っ て し ま う の 窓 な る べ く 味 に 妙 味 を も た せ た 。 ユ(1 011・' 6.0 I 」 の 希 望 は 多 く 、 全 て 1 食 7 0 0 1 程 度 に は す べ き 0.35 l.8 3.0 4■qr。.ⅡI 一弛59- -−158−− 1札011.44■日咀●Ⅱ1■qげ’11426用 f一トノース 2224421422150 砂 糖 <総重量:恥> 1 I守 Ⅱ日I Iい I乳I I1 ︲JI I・ IrI I・ I・I I・ I⋮I ︲。 4.1 Ⅱ・ 8脱1 ︲. 1.1 ・・ ■.Ⅱ ⅡⅡⅡⅡⅡⅡHFI0FLⅡⅡⅡⅡ■︲111.ⅡⅡⅡ■Ⅱ■・’1■pIIhⅡLJIIlI181・・■■■■■jⅡ1111日q・qJⅡトーlILFLD■ⅡB■日ⅡJIIIIf 1助FIIⅡ111卜.︲■■11..F1...111:・JIl・・i・︲11.・ロ.。Ⅱr■、.・LFJ宅■■■■■F■■叶日服卜・・.●■Ⅱ凸眠り: ルや JI r叶 .I ●⋮ けI qI hI ・叩 貼I ・L ・I i3 ・■ ・・ 酢日 .. .4 .・ ・Ⅱ ・. 4552550207 330 <個数> 0.2 嗜好品 . コ ア コンソメ クノール 015 2QQ ナ メ コ <単位重母:’> 調味料 ︽守口 12 ふりかけ 唾呼瓜恥 100 漬 物 C 士5051 。 ユ−−−。.‘壼 忽△一・Jg.塵I』 ン 20 ー .。、1且 一 国頭加0斗5 トロコフ 重じ0UQ <個数> ソd8 ∼ ・ ↑、 <単位重量:’> 呵今 総 副 食 − 三.」 一.試・巳・−,凸デーューマゴ.._ニゲェ■手。一Q一・-一.型ダニへ㎡-一F ・=..F−'P一 画、ー..ー‘...-.今・−−−−→。二一.一.=一二W- 団当..‐一一__‘ロ、ー 型 − . ■ ' 一 ■ . , ÷ 画 一 一 一 一 △ L 一 一 一 一 ヨ ー ー J 一 = 一 11111hl ジ ヤ ム ①クノールスープ 玉ねぎ ビスケット クラッカー(651) チーズ(プロセス) アスパラカス <夕食> クノールスーブ 米(シチュー)7001 ポイルト・チキン.l 玉 ね ぎ 3 1 ジュース グリーンピース ホットケーキ グリーンピース 玉ねぎ 1 力二缶 パルメザンチーズ 牛肉大和煮 クラッカー 米(カレーライス) カレー粉 ベーコン ジミタ一 650f 12 アスパラカス 玉ねぎ 果実缶詰 1 さん蚕缶 カンパン カルパス ジ ヤ ム カベロン、ロバッィー、フランシスタウン等の 町ではストアーがあり、日常雑貸、食料、カンズ メの他わずかの野菜、果物を買うことができるが、 チ 一 ズ バ タ ー 果実缶詰 スイートコーン ないことである。 現地(主に町) で購入した食料 瓜 白 人 達 は 店 で 手 に 入 ら な い も の や 不 足 分 を 庭 に 散 水 し て 自 分 達 で 作 っ て い る 。 我 々 は こ の 貴 重 一 方 、 肉 類 は そ の 他 の い く つ か の 町 で 買 え る し 、 現地人からわけてもらったり、野生動物を捕まえ 玉ねき. 干びょう 千椎茸 ることで各地で得られる。 し か し 、 全 体 に 食 料 全 般 に 不 足 し て い る の で お もうようなものは手に入らない。特に、プジシユ マ ン の 住 む 奥 地 で は プ ッ ジ 鐸 マ ン 自 身 の 食 糧 が 満 足 に 得 ら れ 式 彼 ら の 毎 日 の 時 間 が 狩 猟 採 取 に よ 高野豆腐 にんにく 魚缶詰 うどん 1 を食べることは、 笈らの生活を守る点からもでき その種類、量とも少ない。一般のツワナ人はミリ ミール、コーンを主食にし、特に野菜を欲しない 折であり非常にありがたかった。 束 ④コンビーフ ピスケプト 1 . る食料鞭得の生活であるように、 彼らと同じ食料 4現地食料 干椎茸 22 コンソメ 2ゞ2↑11 “,クラッカー 2 ミートソース クリンピース ’! 〆 ビスケット 1 / な野菜をいただいたことがあるが、不足していた 魚 6501 コンピーフ 野鳥の唐あげ アスパラカス 魚缶詰 マッシュポテト 干びょう マカロニスパゲティー ゲムスポックの焼肉 1 =1I"= −160− 〆÷ 換一 I Ud 玉 ね ぎ l O' に ん に く 1 ザ | トマト、カポ チヤ、キュウリ、ニンジン | ’ 各8∼5伊 パン たき,ご 牛乳 ..−上・一 砂糖 肉(牛肉、鶏), 野生動物、その他 (ダチ画一、スプリング叢ジク、グムスポツ ク、ホロホロ鳥) ミリミール(ガイドの食) ワィンナ街詰(〃) 課旧F1.。咄噂叫ⅡⅥ111岬ⅡjiⅡIIIII1II■ⅡⅡ■l88Il0Ilr4IⅡⅡⅡⅡ811・︲叩・・・︲●■日■Ⅱ日H6I・日fbj。!I’11J︲●■日︲d84.・・i1恥IIjlI川叩“■jJ9i,恥l■・凪9..1町︲︲LjM亘碓︲日同日 212 わ.かめ 1 21 211 ジャム ピスケット グリーンピース ピスケット 判︾ 小麦粉 ⑥コンビーフ 。q・■、 果実缶詰 干ぴよう 玉ねぎ インスタントみそ汁 丑顎.砂 クラコウ お好み焼 ’ 魚缶詰 11211 クラッカー ビスケット 2111 ピスケット 牙,12111 ②コンビーフ ③.味噌汁 干 魚 ふ コンソメスーブ 00 00 62 玉ねぎ 2121 3221 クノールスープ カンパン 干椎 牛 l さけたけ缶詰1 ビスケット 米 ふりかけ にんに 干 魚 お茶づけ7001 ポイルドチキン 干 び ょ う 〃 : ビスケット ⑤干びょう 玉ねぎ <夕食> 干椎たけ少庵 ヒクルドポーク 貝 缶 ピクルト・ポーク インスタント ラ ー メ ン 茸く乳 カンパン(2801) 221 袋袋 21 1 2 2 1 ビスケット(2301) <昼食> 21 ピスケット <朝食> 食> <昼 <朝食> 721 献立例(4人) 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一一 一一一 一一い ー.●ロ申出幻一一ー 一一一一一一一一一一ー一七一一一一一一一−一一ー=一寺も1←。←▲・企'q-ヰーー-。アーェェーータ弓---一 図 | | 車輌メモ・行程概略図・実測距離表 のまで。燃費率は4人と600吻 われわれが使用したのは、ニッサン・ジュニア・ 倉 知 康 トラック−2トン積みで2000CCのガソリン 位の積荷で、1ガロンあたり約14 エンジンのボンネットタイプのものである。南ア マイル) o末舗装路4割弱 フリカ共和国のプレトリア市の,.M、V、D社 で組立てられたものをチャーターした(部品の半 -QSHAKAWE ■ も T S o d I I o , 、 、 SO U T H ・舗装路2割弱 D 0 0 , 0 I なかった。とくにタイヤを不整地用かスノータイ ;Okavango OOOSHE t −−..。‘、一一一.・−−・b AhaH8ⅡsNOKANENG SwampSB---__. c c , FRlCA ヤにとりかえたかったが、この種のものは生産さ MAUN O 〃 、 ‐ ● ● つ 〔 ご 頚 笙 A I T W A Lake グ ●− 勺 、 、 、 グ 11 NgamI ( N C , S T O W N L 。‐TsauHIlIs 0 β グ タ 、 (BOTSWANA) ’も : ■iI ku K "; A .. L f。 A L& H H。 A " ! R-l 、7/ ブ d , 〃 ク ’ “UUQMAHALApYE戸 6 4 @ < U L ' 、 ' q , G 、 " A H A L A P Y E j 戸 ; , 9 , 〃 ノノ “ ・ 噂 一 … 認 ' “ 、 タ 〃 、 O L 〃 b TSETSENG Q 0 O ートするのが常だった)。それにやはりタイヤは 9 不整地用か雪路用がほしかった。四輪駆動であれ ば行動範囲はひろくなるであろう一安心感の方が TSHANE.6. , . 。 ,C QG Q , 。 Q ー 、 − , 勺の ガロン) いう改装は、プッシュとぎをするとき、ラジエー ターに草の実などがつ蚕るのを防ぐ.金網である (又これが実によくつまり、たちまちオーバーヒ O e イヤの不備・重要部品類・エンジンオイル・大型 のジャッキ・チエン・脱出用の厚板・スコップ等 結果としては、カラハリで最低限どうしてもと 9 VE O IQ 鱒 ‘整備・修理12.l.00円 ■ bMAFEKING 例 I 剛 塊 に金網と、荷台に水とガソリン用の特月似のタン l:甥地 ー■、ー= ー q ■ 。 ‐ 一 一 一 イ&剛笈鮎 3.整備と修理 走行量 877 582 ホロの枠折損◎ 1247 2044 ( P r e t o r i a M a f e k i n g - GABELONES-FRANCISTOWN:289NOKANENG−SHAKAWE:lli B O T S W A N A K o P f ・ f O n t a i n- FRANCISTOWN-NATA:II8 NOKANENG−AHAHILL:135 Durban) NATA-MAUN:l93 GHANZI−KANG:l67 GHANZI-MAUN:l85 KANG-TSHANE:67 右前輪パンク(砂漠対策として低 に入って?) 2700 ステアリング系のゆるみ◎ 2992 発電機VoltageRegulator とりかえ。 ホロ粋再びおれる。 Thermotransmitterの接 GHANZI-MAMONO:120 KANG-LOBATSI:256 8080 右前輪再度パンク。 4100 ステアリング(プツシユこぎ中、 木の根にぶつかってからこころも とない操縦性になる)とブレーキ 内訳 翻隆◎ ・不整地由割強 ( 砂 漠 に わ た ち の あ と が つ い て い る 程 度 の も の か ら 、 な に も な い も 行 程 概 路 膜 | リバースギヤの抜け◎ 点折損。 1,走行距離5,900マイル GHANZI-NOKANENG:204 坤夢 圧にしたため、砂がタイヤのなか リ向きといえるかもしれない。 GABELONES-LOBATSI:43 4.000マイルの定期点検整備。 燃料・水温計の接続不良。 ば、軽い車体と太くて径の大きいタイヤがカラハ REPUBR℃OFSOUTHAFRICA 内 容 480 ク を 、 そ な え て い る も の が 多 い 。 一 言 に し て い え イ;按地 ’ / b■■Ⅱ■Ⅱ■IIB■■0−12■0ID■BBR■■■■I■■.■■Ⅱ。pⅡ111㎡ⅡⅡⅡ日IbprLFqⅡ■■■■■ⅡⅡF■81■rⅡII■jjqⅡⅡⅡⅡⅡⅡⅡ■P︲ⅡⅡⅡ811■且■・・ざ■L■■qJⅡ■■甲■■&■■・■r四ⅡⅡ哩日■■hFdg■ 凡 − カ ラ ハ リ 砂 漠 で 出 会 う ト ラ ッ ク は ( 乗 用 車 は 最 低 地 上 高 が 低 い の で 問 題 外 ) 、 ラ ジ エ ー タ ー の 前 荊 油脂2.650円 大きいかもしれないが。 脈 鴨 島 # ‘乱.# | ’ 群 燃料84.150円 (レギュラーガソリン868.5 本づつを、別に用意したことはもちろんである。 覇読爾』鶏;/…….,-/PALAPY[ 2.運行費用 れてい左いらしく入手できなかった)、スペアタ 等、また水と燃料用のト・ラムカン(2002)1 ' j P.。..-KALKFONT4IN (南ア共和国) 荷台にキャンバスのホロをつけたほかは、とく に手を加えたところはないが(加えることができ RHODESIA H1ⅡI 8 W EST (主としてボツワナの主要道路) 分〈・らいは南ア製らしい)o V , ’ グリスアツフ・ ホロ枠三度目の折損(南ア製の鉄 =-m68‐−162−−. 1t j・i・曇 = 。 一 一 ご ■ F ・ ・ 一 〆 一 一 . 章 ャ屋一、一・一ゴー‐‘冒一・ゴー_側舎三−一二一三=号当 −里・-ア戸一一一一 .一一,ロ・・-‐聖一・・矩I.:#= 一一 一﹂ ’ 一 一 − − 一 一 一 .一 一 一− 一 一 一ー 一− マ ー ー . − − − − − − − . − . ・ ‐ − − − ‐ 一 一 一 一 一 一 − − − 1 /fl リ ト 寸前rフ'ノシュこぎのしずぎか)。 のセイか?) 4877 スピート・メーターワイヤー折損。 5500 ステアリングギヤポツクスが脱落 ’ ブレーキベーパーロック。 l I l I IlIj1LIpll︲lrhIIIdqIIl1IlトーI | ' ‘ 童 》 | ’│ / ’ lIIII・﹄■I … 1 | 町一 F咄■.︲。。。。| ■ − − −一 ー | ‘ ’ I 1 44 ’ 1 ’ ? -164− ■1_‐ 1 ! ’ PDh︲︲偶陸 ●
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