六巻 法然上人鎖仰会 雄 知行) 三回 十日第 開郵 艇物認可〈毎月四日 間利十年五月 ・一 三第 五 -ザ〉 符別 級品凧源地柑誌 1 四年同月 ごト八日巡愉悦 U( 鮒利 一・ 間利回 ト五 年 五 月 二卜五日印刷附和問十五年六月 一円口県河行 J , .‘ 且J 下7 J 、 月 Eコ ..1.圃 第 一 一 一 十 唱h • . . 第 /, 号 一目 次ー 表絞「伐折雄大将J 松主主連文商 人生をひらく -3誌にめざめる一 …・・……… … … ・ 桐 山 イT 郎 - 一 ( 2) ヨーロツパかけあるき ………. •. . . . .・ H ・. . . . . ・ H ・- …紛I [ [ 1 隆 持 … (6) i生界の同からこんにちは 一万同博訪Fr:ÍJi.l _. .………. . . ・ H ・ H ・ H ・. .…・ 聖典 鋭 解③「 小消息」の御法諮 に 学..J;;. . . . . 一 …… 小 沢 9 } 1't ( 11 ) … ( 16) フラゾスの庭と花と ……. . . .・ H ・. .…・… H ・ H ・-…. . . .・ H ・-……・ …. . .・ H ・. ( 2 0 ) ù~ も仏道の修し易い但書告を授記せらるととるーそれは浄土ー … …牧野 新拘j紹介大総俊雄署「法然」ーその行動と思想 教端 … (22) ・……. . . .・ H ・. .… ( 26) 往相選相. . •.・ H ・-…. . . . ・ H ・ -…. •. . ・ H ・ - … . . .・ H ・. . .……・・…・…. . ..・ H ・ ・… (28) 道②嵯峨釈迦堂への道 ………. . . .・ H ・. • .……・…高橋良和 … (29) 宝物シリーズ⑥ 木1!食五行上人と千体仏 . . ..・・・・ H ・ H ・・・…. "・ H ・.. . .. •. . ( 3 2 ) -・ • 心 る 析 : . . ~ 1式。 、『 ρ 今周 、 一つは世界の視総を集めたアポロ十三号の事 このところ人間の生命をかけたハプユゾグな出来事が二つも続いた。一つは日本中をテ ν ピに釘づけにしたよど号乗っ取り事件であり 、 後者は人間の知恵が宇宙に闘いをいどんで敗北したし 、 同額の事件であった。しかし、前者はイデオロギーの谷間 件である。どちらも人間の生命が危険の綴限にさらされ、そして最後には無事にその噂い生 命が保護されたということでは で起った人間の悪業のしわざであり わざであった。 、 極めて異質なものを見て 、 科学の 、 日本人の一人として大いに考えさ 、 いずれも人間のしわざから起ったハプニソグには違いなかったのであるが 私はとうした 。 人聞の生命の尊び方において せられるところがあった 、 アポロ十三号が故障した以上 何とか三名の命を守らねばならぬことになった時 、 全力がこれに傾注せられたことはいうまでもない・か如何に発述した科学力でも限界があ 白からも叉祈 コ一 人は無事若水した。航空母艦上に若いた三 人 、 る。その時には三人の生命は宇宙の中で梢削減する以外にない。こうした時に誰が祈らずにい 、 、 られょうか。ニクソン大統領は 全米に無事帰還を祈るように訴えると共に 、 った。そして 全世界の祈りも毅いられて 誰が祈り 、 、 、 よ 、 首相の言葉の中にその片鱗もなかった。 ニクソソ大統領は先ず神に感謝した。これと比較して そして感謝したであろうか 、 に課せられた最初の行事は何であったであろうか。それは牧師による感謝の祈りであった。 、 十二号アポロが成功した時も ど号の時 生活と一枚になった宗教があることを痛感 、 一体これはどうした取であろうか。アメリカ人が特に宗教心が厚いとは恩わない。しかし こうした事が生活と一つとなっているところに 、 する。生活と離れた仏教を持つ日本人は大いに反併せねばなるまい。(安居) ー …一一一一一一一一一一一一一一一一・ーーー・ー・ー・ーーーーーーーーーーーーーーーー 一_ .._____._ 日…ー… 一一一一一一一一一 一一 一一 • 一一一……....... .._ .. ..........ーー"“一一一一一一 A さんは 、 ひ で 日 • いうのは 、 もし痛であるという事実を本人に聞かせた 、 て、主治医からも 、 そ っと聞かされた 本人だけには胃滑筋の診断を申し渡 、 、 、 、 、 、 A どうか全力を尽して治療して 、 、 さんの胃織は すでに痛い膏盲に入るといったところま で進んでいるので もう生命断念は 日時の問題である 、 、 本人や家人の求めに応じて 、 時には非常に苦痛を訴える者とがあるときく。 A 、 るという。 この苦痛をやわらげるため薬拙献を注射することにしてい さんは後者に属するので 者と 死期を早めるであろうとの家族や親戚の計らいによっ というのである。宵・獅患者はあまり苦しまないたちの 、 ら、そのおそろしさを知っているだけに 落胆もひどく 〈横浜市在住 ・ 中学校教諭〉 青い顔をして弱っている Aさんを見舞ったこの足 ら 友人の主治医に会い 、 、 業にめざめる 、 わたしの親しいよき先躍であるが 最近身 ー を 胃 ず くれるようにと 懇ん?と頼みこんだのである。 告を受けた。もっとも本人はこれを胃癌とは知ら 潰拐の初期ぐらいに軽く考えていたとのことである。とところが 主治医のいうには、ほんとうのところ 、 有節 桐 山 生 わたしの友人であった。ある 、 してあるのだと、君護の奥さんから のである。 との主治医は、突は 2- 人 体の調子が悪いとこぼしていたのが とうとう胃癌の立 ……… …ー ・ ……………・・・・・・ ・・ ・ ・・・・・ ・・ …… …・ー・ 紬… 一一一一一一一一 . .....一一一一 一一… 一一一一一一一 一一一………………一一一一 ・・一 一………一一 一 山山 ・・・ ・・・・・・・6・ u ………………・・……一一一-・・….““"“一一一一一・・………・…四一-一一一一一時 、 その薬品は実は止痛にはよくきくが、一 「それは良い薬があったものだね」 「ところが 随分辛い 、 ただ辛いだけで わたし さっぱりわから 、 、 からの招いた業病なのではないだろうか。 こう考えてくると 、病 を通して、しみじみとした業の 、 静かに話を聞いてるうちに 、 、 、 も、代 いま僕の生 業は科学であって、しかも科学以上のような気がする 」 命のなかに不朽の真理としていきいきと蘇ってきた。 えていたが 「なるほど仏教でいう業とは古い思想だとぼんやり考 、 ぞいてみた。友人は うなずいて聞いていたが そんな意味のことをポツりと主治医である友人につぶ 、 ることの許されぬ見守る看護の家人もまた業であろう。 をする医者も業なら 一日たりと も 身代りしたくと い思い 方身体の方には副作用があっていけないのだ。悪いと 感受がおこってくる。これを治療しようとして辛 知りつつ注射を打たねばならぬ医者商売も ものだよ。」 打たねば苦しむ、打てば命を縮める。 、 「じゃ注射を打てばやはり寿命を縮めるのか」 「そうだとも 併し打たなくとも遂には死ぬという病状なのだ。 、 君は仏教者だけれども、どのように説明する 'のか ね。医者としては ないのだ。」 こういって思案に沈んでいる医者に対して 一寸返答に困った。しかし、このとき、ふと浮んだ と合槌を打つのであった。 、 業縁のなかに生きているので 、 も わたしたち おもえば 、 のが 「 業 」ということである。 わたしたちは、早晩死ぬベき命を抱えてこの世に生れ 、 ある。せめてお念仏して この深い業のきづなに縛られ ているわが身を餓悔させていただき 如来さまのまえに 、 てきた。辛 い病にとりつかれる。手を尽しても死ぬもの ひざま.すいて、どうすることもできないわが身が、お念 にはおられないのである。 は死ぬ。しかし、手を尽きなくては苦しい。これが人聞 一切の病患は、患者みず 仏のなかに救われ、道が開かれていくのだと感じとらず 、 の楽ではないだろうか。たちの悪い病気を業病という が、生きているものにとって -3- . ー・ーーー・ 一一一一一一 一一 一 一 ーー ……… …ー…・・ …… …一… ……… … ……一一一一一一一一一一………・………………ー………・"同町一... 一 …一一一一 一一一一一一一一一一一一一一一一一一 一一一一一一一一一一一一一一一一一……・"・・……ー"・・・…一一一 一一一 、 釈尊 は、 その成道直前に 無明よりはじまって生 いるが 、 、 、 、 、 老 、 業の 、 車輸の ってゆくの 悲痛きわまりなき人間苦の いま現実の生老病死の四苦を 深く感受し 、 わたしは 体験のうちに 人から 。 なにかほのぼのとしたものを感じと である O 「一難去っ てまた一難 」 という言葉があるが 、 境のしからしむるところであるとして 客観的な周囲の 、 。 このこと むかしより 「氏より育 この辺の 事情 に当てはまると考えら 、 は 、 「 業 」 への目醒めで っきりと認識する叡知 真に地についた社会改革は 、 一菌 霊性の革命が忘れ去られ 精神 、 。 非常に強くなってきた 社会的機構を改革することにのみ重点を 、 置とうとする傾向が 、 は一応もっともなことである ち」 ということも れる。 しかしながら 的な内部反省を欠くならば 、 いまいうところの を忘れてはならない。 まわるように苦難は繰り返されていく。いったいどこか 成就するものではないことを 、 らとの苦がやってくるのだろうか。世のなかには 人聞 、 この自覚こそ 業の自覚なくしては 、 わが心 つねに物 心両 「内より外へ」 ー 4 - 、 の運命だとあっさり片づけてしまい 投げやりにすごす 。 、 「内から外 惑業辛口の 三道流転の稲を説かれたが 、 一切の行為は歯 はないだろうか 釈尊は 、 神さまの思召しだといって無理やりにこじつ 「外から内へ」 ではなくて 。 。 人もある 車の空転である すべてのことは偶然に廻り 、 ける独断者もあろう。また したい放題をして通ればよ い のだとおもう人もあ 、 へ」 これが業の自覚に 立 つものの行き方である。 、 、 限りなく苦をうけるとされた。 「除苦悩法 」 が仏教の目 、 物心一如こそ仏教の根本的な立 面に平等に注がれ 、し かもこの方向は 場だとすれば、わ たしたちの批判の 眼 は 、 自堕落な考 、 一一楽にはたらきを起しこれによって の惑いより 身口意 一 、 合わせた人聞のあやだとして 一切のできごとに傾着な く る。 独断と 、 、 わたしには 不合理と 、 、 し かし 、 一切の人間普は 社会の紫 環 指すところだとすれば どうしても落ちつけないものが 、 、 心の底にこ 、 このごろでは 、 え方では 、 びりついていて仕方がない。 殊に 一一一一一一 一一一一…一一一一一 一一一 一一一一 一 死におわる十二因縁の回慨を順観逆観されたと伝えられて事情を是正し 一一一一一一一 一一一一一一 一一 が正常のものとして 、 まず考えられねばならぬことを指 、 、 内にふりかえって自ら いつも外部からの批判に対して は、 血 示されたものといってよいであろう。 わたしたちは 眼 になって弁解 Lがちであるが 、 なるほど あっ の る。 、 過去から現在への連続の上には 厳粛な業道因果の不 、 、 現在から未来 への進展 可避的な必然性 が あるとともに 明朗にして自由な接近の選択伎がある。 の上には 、 「時 」は自然の流れであるとすれば 過去もその時に 、 、 、 、 、 現在は未来を生む 光りを担いている筈で 、 業の感じを 、 ただ思想や教還にのみ停滞させず 、 この ここに明るい業の展開が認められねばならない。 あ る。 っているが い夢を忘れてはならない。過去は 現在を縛る裁きをも 、 は現在であり また未来ででもあった。わたしたちは 常に過去を反省するとともに 現在より未来への 美し を批判する勇気に欠けているようである。少くとも他人 が自分に向つてなにか鋭い批判を下したとき 、 そこまで漆く関心をもってみていてくれ 、 他人の批判に感じ入るゆとりぐらいは 自分に対して 、 も . 業の感じというも 、 思然を自己体験の実践にまで進めることによってそこ 慈心に浴することができようか。 わが身の業の強い目醒めとその体験こそ 、 信仰に入る -5- るのかと てほしいものである。 、 、 その根底となっているものが 操の目醒めという であろう。 かように考えをめぐらしてくると 常に二制の牧歌的な真摘をそれみずからの内に締 、 わ に人間の明るい生活と蹄しい将来を約束することに気づ その色影にはいかにも暗い感じ右湛えているようで 、 、 び 、 ー 一一一一 一一一一一 ー 一一一一一一一 一一一一一 が身の罪業の微底的自覚なくしてどうして如来の深厚な 業に泣く人こそ 如来の慈悲に悦 び上る人であり かなくてはならない。 これは楽に対するご聞の見方であって 決 こんでいるように思われる。 、 、 の運命論と混同させる人びとの愚味さからきた誤謬であ 門戸ともいうととができる。 して幾たるものの全貌を、線本的に指摘したものではな い。楽に人聞の自由意志が認められぬと考えるのは 世 けれども 、 ある。少くとも業の思想には、人 生の悲しい涙がにじみ のは 一一一一一 fizz-2 ョ ・ • を ロ 、リ J ' ¥ 台、 =パチカゾ, ロー・・マ サソ ・ ピエトロ通り= け あ る 込Cit--z =進地= パり 京国 回 思久 也E三 ; S 7 • =霊絡事= (カソリ ック教徒は土事事〉 ロー・ eマ 一 6 欧州の旅の魅力 ・フラソス ・イタリア ・ スイス ドイツの五カ閣 ・ 近代へと歴史と文化の足 ピエトロ寺院、フロ 1ν ゾスとミラノのドウモ寺院 ヘソのフラソウエソ教会など。 ・ 、 、 ミュン フランスのブドウ 、 欧州の料理と酒はおいしい。各国は独特の料理をほこり ・ 欧州は風光明縮の因。スイスの山岳と湖水、パリの町並、 南仏のコートダージュール海岸、モナコ、イタリアのナポリ イギリス を、かけあしで一月ちかくまわってきました。欧州の旅のた ソレソト ペニス、ドイツのライソ河、国々によってそれぞ のしさはいろいろあります。 il マの史跡をはじめ、ギリシャ時代||ロ l マ時代||キ 欧州は歴史はふるく、史跡のおおいこと。二千年前の古代 れの風光の美をきそっています。 ロ l ルネッサンス ィ.キリスのウイスキー、ドイツのピ l ル ll の革製品、スイスの時計、ドイツの万年悠等々。 ります。ロソドソの服地やライター、パりの容水、イタリア ショッピニグのたのしさ。日本よりやすいロ聞はたくさんあ りスト教時代 映画の国。パリのスカラ座、ミラノの ・ 漉はやすくておいしい。 演劇 イタリア トベソなどの有名な音楽家の輩出、シェーク ・ i 、 欧州はどこへいっても交通網が教附されています。鉄道は - 7- 跡は、たくさんの史跡をとどめています。 欧州は音楽 オペラ座、ベ スピアをだした演劇の国イギリス、フランス映画 映画は戦前から有名。 の派をたのしませます。スイスの登山電車はアルプスの頂上 欧州は美術の園。パリは世界奨術のトップ。ルーブル奨術 ふるい博物館ゆきの汽車もあれば、欧州各同をつつばしるす 館は質量とも世界第てフローレンスはルネッサ γ ス文化の ばらしい特急もあります。ドイツのアウトパ 1 ソ、イタ リア 町、ポソベイには二千年前の古代ローマの奨衡の遺産をとど の太陽の道路をはじめ、各閣の繋備された高速道路は自動車 めています。 . 欧州はキリスト敏文化の国。かずおおくの有名寺院が宗教 官、で観光客をはこびます。飛行機は欧州の各都市をむすび便 芸術の殿堂ともなっています。ロンドンのウエストミソスタ 利です。 ー寺院、パリのノートルダム寺院、ローマ、パチカソのサン • =ウエ;<..トミソスター寺院 = 1 065制随 =チ皐 ー リッヒの数会= す。国境地過にはバ久ホ l トと検査、入問カードと出向カー 、 ドの提出。パスポートはおとしたら大変 いつも身につけて いなければなりません。 、 l 手洗いがいっしょになっ ・ イに荷物をはこんでもらうとチッ バス式の風 Rはなれるまで不自由なものです。 お風呂の不白品問。パ久 ・トイレ ていて なんでもチップ。ポ 、 ーもチップ 、 夜間は夜間割地しチップ 、 、 いつもポケットにバ 、 各閤まちまちなお金。お金の計算をおぼえたころにはつぎプ トイレもチップの皿がおいてあるととろがありタクシ がたべたくなり 、 食事はお米と味噌汁に縁がなくなります。一一一日たつとラ ソ銭 バをもっていないと不門由。 五日たつとスシがたべたくなります。 洗たくにこまります。クリ|ユソグをたのむとこ日も の園へいってしまいます。 8 一 - スイス マでたべたタクアンは三きれで五百円。 欧州の旅のめんどうなことは 言葉の不自由。欧州各国は自国語にほこりをもっていて 日本をでるとき持出金の制限、飛行機の荷物制限がありま 英語をあまりつかわない。港やホテルでは英語で十分。 ロンドン ロ 、 ート 一番大切なのは命、 二 番 落してはならぬ パスポ 外同へいって ト、 味噌汁をのむように管をたてていましたのを、外人の観光客 、 女性を優先、次性の 、 l もかかることがありますので 自分で洗たく。パス風自のな スト にバスボ がめずらしそうにみていました。 、 ・ フ 71 U かで洗たくするのが一番 冬でも暖 M・かきいていをのですぐ かわきます。 ν ティ きや マナーのわずらわしさ。ホテルの廊ドはスリツ寝・巻ハ は厳禁。なんでも 、 、 まえでバゾド ・スホソに手をかけてはいけません。また靴ヒ 三番目にお金であります。日本人のだれであるかを挺明でき パスホ 1 トだけ これをなくすと再交付の手続だけ るのは モに手をかけること厳禁。食事は部屋へはこんでくれませ 、 、 スープ合チ sl チュ!と るわけにいきません。同外持出金制もきめられています。 で一週間もかかります。またお金をつかいはたしたり、おと ん。ほかのお客といっしょ。食事中は禁煙 スプーンなどの 脅をたてないようにしなければなりません。ロゾトソのホテ したりするとこまります。内地のように電報為容でとりょせ ルで日本の農協のおじさんたちか オ 山 火 一一 教 ピ 一 一 の 会 コ ス .と ベ ナ モ 一一 蹴 Jnl ベ ソ ホ 一一 -9- パリのホテルにとまった日本人のお客の一人が 、 タクシー 、 ほどお客さまへこれをわたすようにいって かえった方があ 、 、 その方は名をいわ イのさし.たしたのは 落した札入れで l ボーイにたずねますと りますという。ポ 、 、 、 、 これにとどけた方の住所氏名がある いそいでよんでみました。 日本の方であることがわかりました。大 、 でこの品物を路上で発見しました。なかをみますとパスポー ボールペンではしりがきがしてありました。「ふとしたこと ものとおもって 紙切れがはいっていて ずにかえられたとのこと。札入れのなかをしらべてみると パスポートも現金もカギもはいっていました。そこに一枚の 、 をおりてから気がついたが、うちホケットにいれたはずの 、 ようとおもって す。おどりあ.かつてよろこびました。とどけた方にお礼をし 、 お金のはいった札入れは λあたりませんでした。 、 パスポートとホテルのカギと旅先の現金、日本円にして二十 万のはいった札入れがない。また遣をひきかえし 路上をし らべたが 、 警察へとどけ 大使館へどのように手続きをするか思案しな ホテルにかえりました。この由をホテルの受付につた がら 部屋にはいって 、これからどうしようかとなやんでおり 、 トがはいっていて 、 と 、 しるしてある.たけで さっそくおとどけいたします。念のため現金を 」 、 金がはいっているようです。ホテルのカギでホテルがわかり ましたので おしらベくださいさようなら 、 住所も氏名もありませんでした。お礼のしょうもなく 涙ぐ 、 、 、 民族をこえ 、 闘境をこ ありがたさを感ずるものは よみかえしたといっておられました。 みながら、その紙切れの文字をなんどもなんども感謝の気持 で 禁固の空で親切にされるほど ありません。あたたかい親切な心は 、 えて人々の心のなかに ひろまっていくものであります。 10 ー - 、 ボーイがはいってきて =サタ ν~ -1レ c. .T:院 = 1 9 1 9~p完成き え 、 さ パリ ました。 そのときドアがノックされ . 西 の 国 台、 ら 東 の 国 、」 ' " -圃ー ・ーー・・. 、 “、..‘・“ー 0m偏 コ方医3 武者小路千家 ・ 、 です。 ・ 、 遺州 ・ 。私は四月四日か 、 薮内の六大流派が五日間づっ期間中 日本庭園内で 、 、、、、 抹茶の無料接待をいたすことになりました' ら八日までその手伝いとして 見物努々会場をおとづれたの ・ おります。茶道界では表千家 ・喪千家 司圃圃圃・ー をよそに 、 静かなたたずまいを見せる日本陸間 、 そ ζが私た この博覧会には全開の各顧問体がいろいろな形で参加して ちの附れの舞台となるのです。そこでまずその概要をみまし んの一コマをつづったものです。 一 一 - 11 ー 豆、 本万国博覧会は花々しく、その孫を切っておとしました。史 やすらぎをたたえた日本庭園へ 上最高の怠加国を得たこの博覧会は 「人類の進歩と調和 」 を テーマに、おのおのの特色を最大限に盛りこんで、相私たちの 来場を待っております。これはそうした大がかりな舞台のほ 超近代的な造形ゃあざやかな色彩豊かなパピリオゾの林立 、 日 は束の国へ 」と、一一一月十五日から大阪千里丘肢を舞台に 「こんにちはこんにちは西の固から、こんにちはこんにち 一ー ょ・フ。 面積約 ・ 明よりはと思い 、 周辺一帯はそミ ・ イヌマキなどの 四つに分けられます。最も上流となる 健闘説明 D の一部を拝借します。 、 大まか地割りは 、 市北約二 00 メートル ・ 西端部に迎質館があり 東西約二エ00 メートル 一一六ヘ クタールの細長い地形のこの庭園は 、日本政府の出展 、 、 上代をしのばせています。また 常緑針葉樹を鐙航して 、 西から東に傾斜しているこの庭閣は 。 その によるものです 、 この東側に泉がわき 水は南北の谷を流れます。滝の水と 南は竹の聞を静かに流れる小川 地形を生かして西側を水源として束に流れる水流を配してお 、 合流してもみじ谷となり 、 この二つの谷にはさまれた小山は 問問臥悼の疎林で一面つ となります。 ります。この水の 「流れ 」は人類の進歩と時の流れを表わす 。そしてこの流れに 沿って ことを意図しているとのことです ひろがる庭闘は日本の地凶史を見るが如くに、それぞれの時 その小に現代的な感覚を盛りこんで一 合流して州浜となり 、 中腹には その景鋭は日本独 、 つじでおおわれています。この山頂には休憩所 、 代の手訟を取りいれ ニつの茶室が時っており これらの述物の周辺は茶庭様式 、 、 芝山を 日本式庭園の集成期である江戸 ぎます。池に蘭した中央休憩所からのちょう謹は 、 純日本的な段々畑をかたどった 、 刷放的な現代の庭園となっています。 、 しょぶ悶と ・ はす池 池 って 以上が総工費二十億円をかけ、十年かかるところを二年間 花檀が連な ・ 東側は、米米を段徴する明るく立体的なデ》イソのとい 初期に範をとった近世風の庭となっています。 背景として雄大に展開し 、 特の石庭の起源を思わせます。流れは 更に中央の池に注 南北の両谷は を係り入れた中枇風の庭となっています。 、 つの作品としてまとめたとのことです。以下は訟のへたな税 一一 ,《、 れ 流 てゆ っを な林 と竹 れ 流 pム Jf 品M b、 る ゆ 一一 12 ー - , じる茶道 で仕上げた日本庭園の概要です。 汎く万里 ト 都経営者協会の、京都の三つの経済団体が建築資金を受けも l う京 都 在 住の方々の担当に ち、造闘を京都大学工学部の図治 六郎博 士、殺析を仙ア 。 スタ ジ オ、施工を中村外二 氏とい よ って造られました れ、うち大広間は佐藤首相により、人々をより大きくっつむ こうしてできあがったこつの茶室は、万国博協会に寄贈さ マ地方に流行し、仏教の東漸と共に同じように中国 ・朝鮮、 ということにより 茶は仏教発祥の地イソド、その教えがひろく伝婚したピル そしてわが国に伝わってきたものです。そして当初は薬用と 宗室両宗匠により、千里のみならず万里に通じると ・ 「万里 裏千家千 してのみ飲用されたことは栄西禅師の 「喫茶養生記 」などで 庵 」と命名されました。坪平均単価一二O 万円前後をかけて 、 明らかですが、そのうち、茶は心におち つきを得られる飲物 造られた こつ の茶室は、日本建築の伝統の中に、若人にも理 「 汎庵」 小聞は表千家千宗左 として、僧侶の問では欲念と睡魔をとりのぞくための修行の 、 人 hの常日頃の行動、日常の茶飯を 、 より美しい生活に お茶会 " " 鑓者は各流派の責任においてまかなうことになっておりま 性格に つ いて一宮つけ加えまし 京 ・ り多くの内外の人々にど理解いただくためにと f ミ前述しました六大流派 前口上が長くなりましたが、ついでにこのたびのお茶会の 芸者 方便として、親しまれてきました。やがて僧侶の布教と共に 解してもらえるよう現代感覚をも取り入れた、創作された茶 一般にも喫茶の風習が伝わり、室町中期の東山時代に、日本 室となって、日本庭闘の一角にその美しいたたずまいを見せ 独特の芸道として大成をみたのです。したがって茶道はただ たのです。 単にお茶を飲むという、日常生活から遊離したものではな く 向上させる芸術として親しまれてまいりました。 この日本独特の芸術 「茶道 」 を、この惇覧会を通して、よ の の家 元がそれぞれの担当期間中、必要経費を負担し、その出 先の税間切に Jレ ありましたこつの茶室の建築がなされたのです。 、 守f 13 ー 通 この二つの茶室は、京都商工会鶴所 ・京都経済同友会 、 - r 、静まりかえった にみながら 、問 中の混雑が想像できない程 間を通り日本庭園へ。十時の開闘までに納似 各 ・ハピリオゾの 、 、てきぱきと進 、 し終えねばならない。泌をわかし、茶碗 をあたため お菓子 をととのえ、道具を仕組む することはたくさんあります が 、こ れらは日頃よりやりなれていること gl 的要素を含んだお茶会放 お手前 、 、 お運び む。開国十五分前、着物に着換え、あとは来場者を待つの み。一種のシ は振袖の似合うとということで、私など男子は来場者の整理 にまわされる。 多く、日本庭闘を訪れる人はまばら。時折、二 三人述れ出つ いよいよ開閥 、しかし制のうちは パピリオンに急く 人々が す。そして一日七百人に鰍料接待がなされたのこのう 。 、 通常のお茶会とは異なり 、 、 やってみなければ見 、 日 。 、 ちゃっかり型 || 旅行業者に連れられた団体さん 。お茶を 、 ふらっと来たところで思いかけない一服 各段示館で待ちに待たされたあげくの一服 飲むことも一日の行程に含まれているらしく、いやいや入る 。 | とよろこび感謝し 感謝感激型| 人もいる -1 4- 手もちぶさたの感はいなめない。だがお昼近く ては来るが みました こうして 不安と期待が交父するなかではじめられまし 、 つ一般入場者のう らやましげなまなざしを械 すぎ凶机引を待 た。広は松初の 三円問、商ロ休憩所の担当でしたが 、制八 時 当がつかない 、 先着五百名 「汎庵 」 では一日二百人 万国博協会の質客 になると事情は一変する。展示館からしめだされたと思われ およびフリーの外国人を対象としました。「万里庵」は拝綴 る人、早くもくたびれた顔の人などが押しよせて来たので のみで、副払たちの担当の際には濃茶席として道具のみを仕組す そんな人々のなかの代表的な表情にふれましょう。 、 ち茶室の向い側の酋ロ休想所の立札席で 一般来場者のうち =水源附近の流れ= も心好い庵内に、唯一人優魅惑を覚えながら、質問にてきぱ にしました。「あのお人形さんよくできてるわね」「おい/あ れ人間か、それとも人形か、どっちだね」。庵内に一人座っ ている訟が、光線のいたずらか、外から見ると人形が座って ソッとの いるように見えるらしいのです。障子のかげから 、 、ハ プニングに官んだ五日 だき 、はるばる来た甲斐があったと、一人ほくそえむことも が、まったく見知らずの人より、思わぬお礼のことばをいた 問。時には無神経な人のためにめいったこともありました こうしてユーモラスななかにも 、 訪れる。もの珍らしげに見守る人がほとんどですが・中には ぞいた老人など、「アッ人間ですか、これは失礼ノ」と拝 、 あ然とさせ られることばをはく外国人もありました。「芸者 観もせず、逃げ出すように立ち去るのです。これにはいささ l です。 人形鎮座まします「万里 庵」 日本紹介 のパソフレットに記されている由 、案内 簡を冊目いた 人の無責 任さに、いささか服出たしくなったのは当然のこと 質問です。よく聞きますと、外国で販売されている万博用のかまいりました。 ガ ルですか、あの女の人たちは?」 という、突拍手もない こうした日本人客に交って、一日平均百人ほどの外国人が 無責任型ーーただなら飲んでやろうというタイプ。ひやか き答えておりました。 し半分に入り、途中で出てしまう若人、室内に入っても相子 しかし、足のいたさも手伝い出した午後、思わぬ会話を耳 もとらず、仲間 とガヤガヤさわいでいる農協団体などがほと んど。宗教団体主催の団体客とは好対象です。 をいただけたと感激するダイプ。 • 後半の二日間は 「万里庵 」 の担当。朝十時より夕方五時ま つかれはしましたが、二度とは体験できな数 い々の思い出を で、昼食時聞を除いて庵内に座り続けねばなりません。拝観 践して、ようやくその鱒かしい明りをともし、一転して幻想 者からの建物や仕組んだ茶道具への質問の応答が主な仕事。 の世界に変ったかのような会場をるとにしたのです。 はじめのうちは一千万円以上も費した、真新しい昼のにおい 〈本会主事長谷川記) しばしば。お茶を過した人と人との心のふれあい、心身共に - 1 5- ' t 八、結ぴ 、 • 「 消息 小 。 のと 、 〈六〉 、 i g s i g j i i i まことに限りない法悦を 天に仰ぎ地に備してもよろこぶべきことで ぐくまれている 身 をおもえば 感ずること 本願に過うよろこびをかげ 、 、 い 前 世 に鰭 仏 を 、 、 なおこの御法踏には 繰 りか る。先には五難を超克したよろこびを述べられた中に 見たてまつったすぐれた宿替によるものと説かれてい ま本願のおしえを驚くことができるのは なければならない。このような法悦は決定の信心を も つ も かの仏の恩徳 このたび弥陀の本 、 • _ . - zj-!i!;!jijjjjjjj i i 」の御法語に学ぶ を 、 き賞 今生に 阿弥陀 さまの本願に遇うことができ 大悲には 教 勇 学 報ずベし仏の思徳、額むべし乃至十念の問信ずベし必 、 正 沢 、 ヨ‘ ものにのみ味われることである。『無量寿経』には 、 初めの四不 可疑と首尾照応する 、 、 願にあふ事を 。 行金坐臥にも報ずベし 天に仰ぎ地に (臥〉して悦 ハぶ)ベし 説明されている。非凡など見解である。 れを四応として 、 大 . -1 6- 大 、 得往生の文と 以上四句で結ばれている。椎尾法主はこ この御法賠は終りに 悦ぶベし弥陀の本願にあう明 • 説〉 解 典 く聖 うことに外ならない。このゆえに知思綴思ということ を、また苔隊遣として毘視するわけである。今日の混迷 した世相の中に、報恩の税は社会倫理としても見直さな 信 じても猶 信 さまの広大な御思徳にむくいることを忘れてはならな 、 ければならないと思う。 頼 〈み〉ても頼 〈む〉べきは乃至十 念の詞 ず べ きは 必得往生 の文也 り、念仏者が報患のおもいをもつことは自然のことであ のおもいは信仰をもつものには常に感ぜられることであ に人びとにすすめておられる。「乃至十念の詞 」 とは、 も信ずべき 」 と言葉を重ねられて、ねんごろにていねい 結ぼれたものとされる。「鮫みても額むべき」、「信じて 。 人びとをも信仰に滋き、大悲をあまねく伝えることが このこ句は、古来安心の最後のおちつき処を明示して る。後には真家や酋山畿の一派などに、称名を仏思報謝 阿弥陀さまの広大な四十八願の中の線本とされる第十八 しんむよ, もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して 願を指すのである。その願に 感謝の気持は宗教信仰をもつものでなければ感じにくい するものまで、もし往生できないようなことがあれ との心をおこし、深く信じて往生をねがい、十念念仏 もし私が仏のさとりを得た後、すべての人びとがまこ とあり、これを取意すれば わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜ ずば正覚を取らじ ているのである。天地一切の力がかかわっているといっ ことではなかろうか。人はたれでも自分一人だけで生き られるのではなく、数かぎりない因縁によって生かされ 報恩とは今日のことばでは多く感謝といわれる。報思 の行とする説も生じたのである。 、 仏恩に報いる道であると教えておられる往生礼讃。報恩 あるとしハ鍛舟讃)、また自らこのおしえを信じ、多くの い。義務大師はお念仏を相続することが釈尊への報恩で 次には行住坐臥の四球儀、日常いかなる時も、阿弥陀 は浄土宗のおしえの生命であるからである。 えして本願について叙べておられる。まことに本願こそ てもよい、仏教で説く縁起の理は、倫理的には恩恵とい , "' ば、その間断じて仏にならぬ と竪くみずから寄っておられる。このお誓いを上人は特 救いの 、 に念仏往生の願と名づけ、れをこめた念仏の行を、この 願の主体とされたのである。仏のみ名を称えて おカの絶対を味われたのである。 「信じても猶信ずべきは必得往生の文 」と するのは、 第七項で取怠してあげた筈滋大師の『往生礼讃』の文を 指し、その最後の一句に全文をおさめているのである。 る。この御法語の始終、またどのお詞もこの義を含まぬ ものはない。わたくしどもの教われる道は、ただ念仏往 、 生の一路であり これについて決定の信をねんごろにお 示しになったのである。 、 ,, 由 仁戸問先生が先頃の講演で 法然上人の宗教の純粋性 について鍛仰されたが、現代の社会でも宗教の混迷はは 、 その当時の仏教界にとっては 、 -1 8- 『選択集』の第三宮にも、初めに『無量舟経』の念仏往 法然上人の浄土開宗は えらばれた念仏 生の願文と礼讃のこの支が並び引かれ、その下に本願に なはだしく、純粋性に立ちかえる必要性も痛感され責 ついてくわしく論述されている。上人は「との女は四十 任も感ずることである。 食ましい になら 八願の限なり、肝なり、神なり 」 と、四十八願全体に生 命を与えた時い文字と見られた。願文 「 若不生新不取生 党 」 〈若し往 生しないものがあるならば断じて仏 ぬ)のお普いが成就して、判然と現益をあらわす。本願 大きな出来事であった。上人の晩年には、南部北績の旧 仏教の陣営から、しばしば非難攻撃を加えられ、滅 後に がことごとく成就して救済のお力が現にはたらくこと を まで権力をかりての弾圧もあった。教義上の論難に及ん 上人はその深い宗教経験とともに確認されたのであ る。この文に接してしばしば感涙されたというのも、こ かっていない。念仏に関する税を見ても、例えば元久二 でいるものもあるが、上人の根本の立場は全く理解にか 、 附 れがためである。 乃至十念必得往生と思い定めるのが安心の歪極であ • 、 偏えに 宗祖は三重の念仏(摩詞止観の念仏 ・往生要集の念 、 を弥陀・本願の行とし専修を主張されたことは 、 時 、 年創刊宿寺から出された弾劾の奏状ゃ点応三年叡山から 共通の修行であってこれによって一宗を別立する 、 仏 ・善導勧化の念仏)を説かれたと伝える。上人 が 称名 、 訴えた上奨文も、いずれも鍍をそろえて 念仏は諸宗の 通規 念仏には浅深霊霊ある・中称名は浅く劣 、 よ るものであった。しかも上人はさらに進ん 大師の説に 、 必要がないとし で、称名の一行を本願に替われた仏のみ旨をつきとめ 、 った行であるとし 念仏をあやまる失としてさまざま指 仏の相好などをお 、 比較して勝劣 ・ 難易の二つの意義を も 、 って 、 一切の衆生 明快に 議 論 か。とれについて『選択集』第三章に 念仏と諸行とを れず 提心とか仏像を造り堂塔を立てるなどの諸行を 本願とさ ただ称名の一行をえらばれたのは何ゆえであろう 、 斥している。見解の梅田央もあり、上人と岨相容れないもふ のかく体認するところがあった。布施とか持戒とか菩 であった。 、 念仏は印度以来仏教の修道として重視されすべての 、 修行は仏を念ずることの外にないといってもよい。念に も種々の怠味がある。憶念といって く 称名の一行をえらばれたことを確信 、 されている。如来は平等の大悲心から 普 観念といって、心をしずめて仏や浄土を観 、 もうもあり を救済するために 仏の選択という空 前 の主張となっている。 、 じ真理を観照するもあり、また称念といえば単に仏のみ された 、 名を称えるのである。仏についても諸宗に説くところ甚 、 たことに 、 、 、 、 。 もあった。この と 何人にも修し易い称名の行一つが選ばれ 、 また革新的で 祖徳をけが す をはなはだ恐れる り この御法語にはあらわれていない。 、 深く平等の大悲心を味われたのである。ま 、 るも貧しきも だ深く多様である。一般論では称念よりも観念が尊ば 本願にえらばれた称名の行こそ 最 も勝れて絶対の功 観念の中でも真理を観ずることが露んぜられた。ま 徳をそなえたもの 智者も愚者も 善 人も 悪人も 宮め れ た念仏が諸宗の通行となっていたととも事実である。 浄土宗の第二祖聖光上人が初めて吉水の草庵を訪れた 、 とに空前の主張であって ような数議論は 拙い解説になり 7 19 ー - • フ-フンスの と 援とその庭園 1 庭と 花 シュノゾソ 、 工夫を加えてなお趣きをこらした . ものが多 -むかしから日本人は自然を愛し 自然の美しさを尊ぶ同民であるとされている。だから 、 、 マイホームのささやかな庭にいたるまで やはり基 、 フランス人は正反対である。彼らは庭をつくるにあたって 徹底的に自然を 、 庭をつくるにしても山紫水明の奨を理想に い。名園と呼ばれる立派な庭園から 、 の心は自然の史しさであろう。 ところで 、 、 、 γス式庭闘と呼ばれてい n然の目前材を使って繰りひろげて凡せる。このような織式の庭 、 ロッ,ハの他の間々でも凡受けられるがはっきりフラ 、 木や紙花という 、 征服してしまう。綿密に計算された図式に則って並べるものは一列に並べ 苅り込むも のは等しく苅り込み 幾何学模様さながら一切を人工の手にゆだねて 人間のつくりだす l 奨しさを 闘はヨ 、 、 これ る。その代表的なものがグエルサイユ宮殿の庭園であろう。広大な敷地に 日も覚めるよ 、 、 、 どんな 二つの・有名な庭 パりの公闘をはじめ 、 その端正なたたずまいが背景をなす自然と巧 このフラソス式庭闘にも大小さまざまあって 、 、 美しくデザインされた花獲が逃ゆく人びとの心を慰め住む 、 互いに引き立てあっているかのようである。との械にも 、 川の流れに橋をかけたかたちで 、 これはフラソス人が自然の抽出しさを大事にしないというのではない。ツ品ノゾソーの 、 見るものは思わず円以を呑み 圧倒されてしまうのだ。しか うち続く色と線の造形美。だがその美しさにもまして うな芝生の緑を基調にして 、 、 を成しとげた人聞の志欲に し 滅などは みに溶けあい 、 園.かいまも残っている。 もちろん 小都市の広場や町かどでも 、 、 人びとの憩いの場所となる。そしてこれが実によく手入れされ 手入れをする人びともま た突に丹念で 町を美しく飾ることに誇りをもっているようだ。 20 ー - さて 、 この見事なフランス式庭園も 、 馴れるとあまりに均一化されていて風情が足りな 、 名だたる庭園はもとより 、 白いいさ繋の楠木を使って花簡をつくり 、 、 感嘆した 塀や垣根で囲っ 、 なかに赤く燃えるようなサルビア 、個人 の庭にしても 、 、 いような気がしてきた。ところが あるときボワチエの 町で早道をしようと植物闘を通り ぬけたさい 、 を一杯に槌えてあるのを見て あまりのおAの細かさに 訟は思わず立ちどまり ものである。これほどまでに奨を創りだすことに専念するとは ll 考えてみると日本では てそのなかの美しさは知る由もない。花や木の美しさは個人個人で眺めるものになってい 、 。 、 る。だがフラソスでは、多くの人に見せて お互いに突しさを分ちあい お互いの美しい よく例人の家の窓に花の鉢た説ベてあるの 、 なかに暮す人の心がその下を辿るものの視線に自ず とおもう心が触れあっているような気がする 、 が自につくが その花の色を過して と伝わってくるのではなかろうか。 私が独仏関境に近いアルザス地方をドライグしたとき、小さな村にさしかかると、こと 、 テラス 、 入り はフラ γスで一番美しい村だと教えられたことがある。しかしそこはとくに風光明朗な土 地ではない。平凡な後村にすぎなかった。だがこの村の家という家の窓 口、そして道端の塀の下にも、およそ花の飾れるところには花が飾られている。決して高 、 、 、 、 、 価な花ではないけれど dt フユウムだのベチュユヤのような花が 村全体に咲き乱れてい る。とりわけフランスのオリソピック委員長の家という 誌のはった長い νンガ携には針 金で総木鉢が随所に吊るされ さながら花の幕のようであった。聞くところによると こ (T - F〉 の村では数年来村長の提唱によって「花いっぱい運動 Lが続けられているとか。高度の個 人主義を標梼する国民でありながら、おたがいに心を令わせて、自分速の生活をより豊か にしているのは、まことに袈しいかぎりである。 ポワチエの植物園 - 2 1- 法然上人の御歌に 、 、 は浄土 これは上巻の終りに出てくる。池がこのようになれば 、 、 ま 、 色身清浄であり そ 、 た岸上にある栴悶樹の葉も撃も全て七宝で出来ている。そこ で泳浴する菩醸 ・戸聞も心垢部除されて 、 浬換の道へと部かれる。作土の万物は 自然法繭であり それ 最も仏 道の 修し易い 浬繋を 授記 その反面 せられるところ 阿弥陀仏と申はかりをつとめにて 浄土の壮厳見るぞうれしき 、 八十里 、 三百二十里 ・六百四十盟の花へと だんだん それら悉く地に落る頃には縮小してやがて消 ・ 、 、 の住人の怠のままに出現する。すべてが無尽蔵に仏の願力で ・ 菩睡 、 阿艦漢 ・ その他の住人は持各々門分述のなすべき行道に励んでい なく、当然その府内抗もないという。その許で 滅する。さんさんと降りそそぐ花弁は、少しも地に積ること 大きく表現し ・ 柴の戸にあけくれかかる内主た と嘆いておられる御歌もある。 浄土とは・::・「 ? 無量努経 」 に次のように説いている。 、 「講堂精舎宮殿様観あり 皆七宝のを厳自然の化成なり :・黄金の池には底に白銀の沙あり、白銀の池には底に黄 金の沙あり、水精の池には底に瑠璃の沙あり、開明璃の池に 、 底に水締の沙あり、珊瑚の池には底に現泊の沙あり 班舶 十里 いつむらさきの色にみなさん と日仰の喜びを詠じたのがある。また 教瑞 牧野 用意されている。持土の秒一界は無相の相である。ま無 た量 「 寿経の回央訳 無品約狩平等覚経」には、花をたとえにして四 、 (東京新宿区西光14f中) している。 の池には底に珊瑚の沙あり、郁艇の池には底に碕磁の沙あ る。即ちすべてが生き生きと臨動し喜びに満ちた相を描き出 り、」 • の,. 、 「貧窮乞人は底極廊下にして衣は形を蔽さず、食は趣かに 命を支う に得んと欲して貧求して厭くこと無く、普を修せず 、 飢寒困苦して人理殆んど尽なんとす、皆前世に 私は単純な気持ちで受け取り それにたいして気にも留めて 最も仏道の修し易い処。次に沼町撲を授記せられている とは 「 犯して山の如くに積めるによる。是の如くして努終すれば き無く、徳として侍むべき無し。是の放に死して悪趣に堕 、 警として恰むべ 、 処。」と解した方がよさそうにも思える。このように生き生 財宝消散す、身を苦めて褒積して之が為に憂悩すれども己 え きと流動している浄土は、例えばコマが早く回れば廻るほ 他仏国の交流も激しく 、絶 、 れに於て益なくして徒らに他の有と為る かたち 扉営として愁苦して念 少長男女共に銭財を憂うること 、 宅あるものは宅を憂う 、 牛 23 ー - 、 「戚な同じく 一類にして形異状なし」と説く。浄土の世界に Fマ〈 細かく説いている。人生論はまだ続く。 三寵段には 、 「 世人薄俗にして共に不急の事を静う、此の劇悪極普の中 貧と無く、富と無く 生すれば即ち化して男子となる」と容かれている。女性であ 、 、 なし 、回 あるものは回を憂え 、 を軍ね慮りを積む 心の為に走佼せられて安き時あること な有無同じく然り、憂思適に等し く に於て動身営務して以て自ら給済す、噂と無く、由ヰと無 、 を誇る友人に此処を話したら、彼は何と言うだろうか。とこ ろが、その友人が反問しそうな聞いが次に出てくる。即ち現 実に差別があるのはどうしてなのかと。経には、 にして、兎に角浄土は平等の世界で徹底しており 共産主義 る私にとって、この文はいただけない。まあ、このことは別 無量清浄平等覚経 」 には、「女人往 無量努経 「大阿弥陀経 」「 は醜悪の差別なく、すべて同一色であるという。しかし初期よい。 「大阿弥陀経 」「無量清浄平等覚経」 には、ここを更に に出ている管春シリーズの人生論などを読むよりかはよほど ず仏道に励む住人で生き生きとしている。 して此の愛着を受く、罪撃て出ること得れども生れて下践 国土荘厳を説いているこの部分は非常に文学的であり、芸 となる」 術的だと私は常々思っている。更にこの後で浄土の住人は と説いている。これはまさに人生論そのものだ。書店の店頭 冴え澄んだ寂静なる世界には ど、それは静止しているかのように見える様なものだ。即ち 、 いなかった。こうして往生せる者の営みをみていると、浄土 楽有の国土 」であると ・ • 徳を績えず。財を拙似て施さず、富士伺にして益慢み、但唐ら 悪を 浄土とは字の如く 「清浄な世界 ' 、 馬六寓回奴縛銭財衣食什物また共に之を憂う思を重ね息を 、 果て歪 念品獄怖す績に非常の水火盗賊怨家依主の為に焚漂 誕議松々として解る時ある 、 憤りて心中に結んで誕悩を離れず、心竪く意図 、 し劾奪せられて消散し磨滅す ことなし 菱俄万端にして勤苦すること此の加し 、 、 衆の 〈 世間の事さらに相い忠脅す 、 、 即時に急に相い破すべか 、 に第二の煩悩 H瞬悲 H の相を説く。 「 或 る 時 は 心 静 て 悉 怒 す る 所あり 今世の恨の意微く相い gL 守 憎嫉すれば後世に転た幽閉して大怨と成るに至る、所以は何 ん H 」 、 と 。 愚鰻 H の相では い報復すにし 第三の煩悩 、 、 、 、 或は父、子を突し 皆当に過き去るベし 常に保つべからず 、 或は 、 教語開講唱 、 父を突す、兄弟夫婦吏相央泣す、願倒上下無常の根本 「生死の常の道転相い嗣立す 子 なり 、 然に副識して相い経ることを得ず 皆当に対生して更に相 して適に縦捨することなし、或は挺砕に坐て身亡び命的於す らずと雄も然も畿を含み、怒 を畜え、慣を精神に結んで自 、 れば之を棄摘して去る。誰の随う者もなし 尊貴濠宮も亦 斯の患あり 宅なければ亦 、 寒熱を結んで痛と 共 に居す、貧窮下劣は困乏にして常に無 し、 簡なければ亦憂て図あらんことを欲し ます 適に一あれば復に一 憂えて宅あらんことを欲す、牛馬六畜奴蝉銭財衣食什物な 、 、 次 趣向 、 、 、 、 、 趣の普に吏りて生死窮り巴むこと無かるべし 京なる哉 或る時は室家父子兄弟夫婦 、 心 、 甚だ傷むべし 一りは生じて更に相い京怒し思愛思慕して憂念結縛し と宥ることなし 」 と。 怠痛著して迭に箱い顧恋し、日窮して滋を卒て解け巴むこ 、 一りは死し 、 峨怒に迷没して財色を食狼す、之に坐て追を仰向ず、悪 、 24 ー - ければ亦憂えて之あらんことを欲す 是あれば是を少く 、斎 等あらんことを思う すれども之を信ずる者は少し、是を以て生死の流転休止あ 、 をタき 、 此の如き人膝其抵突して経法を倍ぜず 心に遠 ることなし 、 ます欲して同時さに有れば使ち復た機散す 是の如く憂苦し 或 思想して益 、 、 宵て善を為し道を行 、 慮なく各快怠せんと欲す 愛欲に疑惑せられて道徳に遥ら 、 、 +炉 衆の然、熱 V M んで痛と共に居す -結 て 当 に復た求索す ベし、時に得ること能わず 、 ず 此 の若し なし、身心似に労して坐起安からず、憂念相い随て鋤普す ること 、 寿終り身死て当に独り遠く去るべし る時は之に坐りて身を終え命を天す じ徳に進まず する所あるも普悪の道能く知る者なし」 と。 これは 一磯 二 町制悩のうちH食欲 H の相を説くものであり • 、 • 、 、 しかしともかく生きよ 五悪段はシナ選述であるのか ・ るのか、私は知らない。しかし訟にとって 愁を覚える。 。 安吾は人聞を、「生きている人聞というものは 自分で何を ・ この 三容 、 、 せっばつまれば全く何をやらすか 自分 、 遁走、まったく悪戦苦闘である 、 。 もろも こんなに 、 りにされ 、 しかも三議 、 この 三議 ・ 五悪 イゾド選述であ 、 、 五悪段の裏付けとなる。 ・ 、 そしてまた、これらの人生の苦悩は永久に自己自身が背負 うものである。現在自己の苦悩に関わっていた人も物色も 、 、 、 、 、 、 遺く他所に至りぬれ 、 普思変化し供稲処を邸内にし あらか 、 、 このような自己の厳し 命終る時になれば全て断絶されて、自己の善悪の業報のみが なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか さた次の様に税いている。 して っている。現実の人 自分の所有物になる。無量努経には と官 独り来る 、 「人 世間愛欲の中に在て 独生し 独死し 独り去り 行に当て趣く音楽の地に至り身自ら之を当く 結する。私は日常これらの煩悩を自覚していない。自分を悪 代る者あることなし 、 人だとも普人だとも思っていない。しかし、そんな平凡な人 当 に独り趣入すべし じめ厳に待つ 慈恵自然にして行を追て生ずる所な 、 独死 ・ 独去 ・ 独来 の孤独稀であると知 ・ った時この線量努経は私自身の為の聖典であると思える。 自己の存在を独生 り、柑幼窃冥冥として別総すること久長なり、」 と。 、 間何か礁があって切羽詰められると、人を裏切り胸算用で独 広は共に涙を流しながらも心の底のど ば能く見る者なし 、 、 こかでほくそえんでいる。自己の意志とは無関係に走り出す それ は、本 来誰しもが持っているものであり 人間の赤裸々 他人の不孝をみても 走する。まるで己の手におえない生き物の如くに走り出す。 間生活のやりきれなさを追求すれば、皆この本能的欲望に帰 すべて生きるためのものなのだよ ろの思想というものがそこに生れて育ってきたのだ。それは 、 とし 、体 当たり ながらたよりない。疑ぐりもする 信じようとし思いこもう て生きようという うとする。何とか手探りででも何かましな物を探り鎚りつい 段はなくてはならない。この段があるからこそ浄土が浮き彫 りゃしない。人聞はせ つないもの た しでかすかわからない。自分とは何物だか それもてんで知 我々の苦悩は これら三つの根本煩悩によって察される。 な襲であろう。また私はそのような己のカではどうしょうも この本能的欲望から現実の人間生活が展開されている。奴口 ない梁の様なものを自覚している人に会うと 古い知れぬ郷 • の4 大橋俊雄著 ーー ; 新 ; j 干1j j その行動と思想 日本人の行動と思想 然 l z 紹 ; ー : 介 i 、 宗筏 密である。本部、『法然ーーその行動と思想||』はその第 、 、 誌の読者諸賢においては 既に一昨年の半年に渡った連餓 「維新のころの人たち」などの筆者として御存知の方も多 々 あられると思うのだが ーーで、もとより日本中世仏教史を専 現夜は時祭文化研究所に車中験されている関 、 門とされる碩学の士であるわけで、殊に宗畑償法然上人伝に関 する論文は多く 係から時宗に関する研究も登宮である。 本由はもとよりそうした著者の長年の研究成果を巧みに取 、 、 、 • e o り入れて、法然上人の教えの深さと、その激動の生涯を余す ところなく書き記されたものである。その著作の基本的立場 は事実に即した史学的見地であり、極めて客観的な論法で法 然上人伝をよく検討し、鎌倉時代という転換期の宗教の本質 。 すくすくと育ってきた。いわば 、 生まれでも育ちえない。だが鎌倉新仏教は 、弾 圧を 、 宗教を求める心なくして 新しい宗教の誕生はのぞ め な そうした企画の特異性を充分に岨鳴 して 一巻であり い 、 法然上人の新たなる伝記的著作の作成を試みようとしたもの 浴びせられながらも でおし広げ、だれかれの差別なく救われると説いた。閉 。 である。法然上人の史実や消息を努めて実証的に追いなが 「浄土 」 これら新仏教の祖師たちは、救いの対品献を 一一般民衆にま 釈を施したものである。著者は大橋俊雄氏||我が ら、その祈り折りに鋭かれた浄土教義思想に平易な文章で解 ているわけである は、評論社の斬新な企画によるもので 転換期における日本 を更には後に日本人の心に探く彫を宿すに到った浄土教の教 民悠の宗教的先覚告の具体的な実践行動とその内奥の思想遍 理的観括とその信仰的様般を 主として法然上人の伝記を念 歴を通して、現代人への宗教的指針を標梼したユニークな襲 頭にその行動した時代を願次辿りながら 遺憾なく説き進め ここに、「日本人の行動と思想」と題記されたシリーズ 法 、 ここ E 回心の時期 ・ ・ 開宗の意志 ・ ・ 穫 下山し ・ 阿弥陀仏とは ・ ・ 難行と日夕行 ・ ・ 九条兼突との出会い ニ河白道のたとえ ・ 万人数済の教え ・ 専修念仏の発見 - て広谷へ 教鋭 型遊門と浄土門 ・ 三心 祭給土とは ・ 大原問答 ・ 念仏者の心得 正行と助業 目思想の形 成 時機相応の教え ・ 興 専修念仏のひろがり ・ 理智より突践の教判へ ・普導 観と ・ 七筒条の制談 ・ 「 選択集 」 の内容 学問観 w教閣の組織と法難 教団弾圧の前提 国家権力を否定した人約勲団 . ・ ・ 法然の死 滅後 ・ 一念畿を説く孝西 ・ ついに遵西、仲立蓮 同信同行の衆団 福寺衆徒、さらに九条良経に言上 ・ ( 畑町軸聞社刊・価O 五九 円〉 その後の法流 多念義の隆寛 ・ 赦免されて勝尾寺に ・ 法然の流部と滅後教団の様相 配所での生活 の法難 ・蓮房信空 鎮西に弘教した霊光 ・ ・ 歩まれた道を如実に具現したということにあるわけである。 浄土宗の理解の為にもまた宗祖法然上人の教えや人となりの 全貌を知る上にも本容は正に恰好の手引密であり、たとえ初 ・ V を処罰 目次 ・ . ・ 「 往生要集」に接して 押領使時間と預所定明との対立 ・出家 法然の求道と世帯修念仏の発見 ! 誕生 俗麗をきらって泉谷へ ・ 南部に浄土教をたずねて ・鋭経疏を閲読 ・ • て 釈迦堂参簡 ・登叡し 心者ならずとて、是非共一読をおすすめしたい一密である。 明にあり 、鎌倉新仏教の祖師として一宗を聞いた法然上人の 俊雄氏の実証史学の 立場にのっとったわかりやすい簡潔な説 は言わば法然上人の思想乃至は浄土教思想に関しての新しい 土宗の出版 物の中 宣揚密であり 、余り数多いとはいえない浄 ではつとに意義深い新刊書と言えよう。 さて、先にも配した如く本書の大いなる特色は、著者大橋 ひしひしと感じられ、ひいてはこの磐者の基本的な信念が、 本曹の独創性をより高める要因となっているのである。本轡 には言うまでもなく、著者の本8 への熱意溢るる意気込みが とは著者の 「はしがき 」 における冒頭の一文であるが ざされた門は、聞かれた。 • 'g ' マ 「浄土宗会・冒 」復刊されあ 、 浄土宗七千ケ寺の寺庭婦人の全国組織である。浄土宗寺庭 ) より、今度 「微風 」 (創刊号〉と 婦人会(会長佐藤治子女史 、 藤間総務両局長 、 、 佐 せ 会員だよりも 、仲々 一読ま って原稿宏寄せているの ・ いう題名の機関蕗が発刊された。 体裁はガリ版で、学生の文化クラブ等の機関誌のようであ 消楚な感じである。内容はなかなか獲しい。岸門主 るが 、 、 小林宗務総長 鵜飼執務長、金問教学 藤会長など、宗門のお雌々がそろ も、近来にないことであろうし るものがある。「微風 」 の命 名者 は御門主であるが 待望久しい滞土宗全容の復刊が計画されてより約一年去 る四月七日、法然上人の御生誕の自に、第一巻が見事に復刊 経 」に説かれている緩楽の様相の心地よい微風が、現代社会 、 「阿弥陀 され、発売された。浄土宗では、昭和四十九年に法然上人浄 のとげとげしい世備をやわ らげる役割を 果すことを期待した 、 、 八月末の 今 か ら その成果を期待し 28 ー - 土開宗八百年を迎えるにあたり、記念事業の 一つとして、浄 ものである。 続四十二巻を復刊することになったのである。 ・ 土宗全世正 仏教総合大学として体裁をととのえつつある大正大学で マ大正大学図書館完成まじか 宗内はもとよ 本金書は、初 版発刊 後 六十余年を 経過しており、験火で焼 失 、 、 れている か 先月十四日には第-期の工務も完了 、 成後は本来の宮籍収蔵 ・閲覧のほか、附属仏教研究機関も数 完 成を目指して鰐 二期 工事も 急ピッ チで進められている。完 ・ ひろく念仏教界から復刊の要望がなされていたものであ は、校舎の新築に続き 図古館の新築が昨年くれより進めら 、 したも のが多く 、ま た校正の不備も多くあり り 、 とくに現在に る。今回の第一巻の体裁はこの面目を一新し いたる研究成果等をふまえた解説がつけられている 。 毎月 一 各巻ともに二千円 っており 、 多く設けられることにな 巻づっ復刊されることになっているが 発売元は東京 本郷、 山事訴仏暫林である。 。 、 てもあまるものがあろう • で 。 マ浄土宗寺庭婦人会会総 「微風」 刊行 される • 良和 高橋 • 峨 嵯 一 -内m_司、円何層、,、,畑町内_.-内, -ヲ 釈迦堂 への 道 司伊 比叡山は伝教大師最澄が開いた山である。 、 、 、 、 、 山を出て 、 、 、 その学生式のなかには 、 、 或は同司 天下国家に役立たせること 固有の菩離 僧 は 、 、 或は国師として 、 或は固 天台のきびしい定めを決めて 、 、 、 谷mH電車吋か mm この山家学生式のおしえ 。 または郡司らのもとに行って 天台の教 、 、 天台法華宗の基礎をつくり それが根本中堂と 伝教大師はこの山に一-禁止観院を建て 今もなお金山の中心的な堂宇として蔀き宏なしている。 、 更に 、 有の 僧 として 国師 といった人材養成のととを述べているのである。 ところで酋塔黒 谷 の腎竜寺に隠遁の生活に入った法然上人 、 、 、 、 、 、 そこで法然上 人 は 保元元年に山を下って南部への遊学を志すのであるが それからと いうもの 奈良の興福寺 ・東大寺などには比叡山における浄土教とは異なった商都の浄土 教の流れがあったので それを学ぶために比叡山をあとにして奈良に向うのである。 た。 ら一歩も出でず 館山比丘ということであったが 十二年はまたたくうちにすぎてしまっ 、 の通り 十二年間の筒山生活をつづけたのであった。 法然上人の 「一十二年山に傭って出でず 」 という修行の生活というのは も 義と体験を生かし 、精神と思想のある指務者として活臨せしめる 、 止観菜 庶那業を十二年間修めたのち 適材適所に国宝とし いる。そのなかに 嵯峨天皇のもとに提出しているが その最澄が弘仁九年に 「山家学生式〈さんげがくしようしき ど というものを明いて して • のる ぬ曹 一 ‘ 一 一一 一 • このとき法然上人は二十四才であった。 釈迦堂は清涼寺と称し したところである。 この釈迦堂への道は 、 京都に入って太 秦広隆寺る通る太子堂を通っ 、 以前は源融 (みなもととおる〉の別荘であって、栖霞寺とも称 おそらく当時なら 、こ の道は、滅後 一つ一一 一条通りをまっすぐ広隆寺にすすむ道であるかもしれないが でもある。 そのいづれでもよいが 、 、 二十四才の若きこの宗教家が 、どうして駿餓釈迦堂への多 舗と 、釈 迦主には 、東大 寺の浴用然〈ちょうねん〉が中国の宋から 今浄土教としての か 、 この 三国伝来釈迦如来の前において、は っきりと意義づけを す これは 、釈尊の発見した仏教が 、日本 の法然上人によって 法然上人は 、 、 、 、 、 しえをどのようなかたちで庶民に侵透させようかと 考えたからではなかったかと思う。 この釈迦堂にはわずか一週間の参簡 であるが およそ上人の伝記のなか たとみられるので ることであったと思うし この地においては、普からかなりの念仏の信務者が住居してい それらの人々にも結縁することによって、新しい救済のこの念仏のお たちをとったのについて いので 少なくと も、 法然上人の念仏のおしえという ものは、 単に法然上人が発見 した J ものでな 招来した三国伝来という釈迦如来が安置されているところであったからなのである。 いうことになったかというと 、 の法鯵のときに、東山知思院の御胸から遺骸をかついで弟子たちが西山光明寺に逃げた遣 もう たのではないかと思うが、今の広沢の池の前の道ではなかったと思う。 、 迦掌に参寵しているのである。 山を下った法然上人は、すぐさま京の町に入って、奈良に赴くところを、洛 西腔峨の釈 • 句d aυ 、 、 }ばん活目したいものがあるといえる。 で、二十四才という年令のときの動きとしては 法然上人の伝記を読んでみても 背少年時代の女献は非常に少ない。 そのなかにあって、はっきり二十四才という年な記していることで、この釈迦堂の移簡 は、若き日の法然上人の求道の姿をあらわしているのであるから、この年を頂点として法 然上人の数道の嬰を一つの教化の指針としたいのである。 たまたまとの釈迦堂には、二十四才の求道の法然上人像が建設されている。 全国の二十四才の背年たち、あるいはそれに関心のある人々の寄贈でできた法然上人の 像である。 その宛淑人の長沢伝氏は、この守の住職塚本持隆帥の弟千であるが、やむにやまれぬ法 、 然上人への思慕から、この銅像の挫立を思いたっ漸 てく完成したのである。 、 、 山門を入った左側に、立像のこの求道の法然上人像が立っている。珍らしい銅像であ り、全国唯一の背年の法然上人像である。 法然上人は ここから奈良に向うのであるが、その途中洛西の広谷に立ち寄っている。 にと 布きに 広谷というのは寸後に比叡山を下って、はじめて大衆教化に乗り出最 し初た 教することになる地であるが、釈迦堂あたりと同様に孟宗竹の茂るところであって、この あたりはみどりの竹林のまんなかの道である。特に広谷に向うあたりは一入薮の茂みの深 いようである。 、 、 京都から釈迦堂への道も同じように この竹蔽だったと思うのであるが その薮のなか を足早に歩む若き聾の姿を思いうかべると、決意を秘めた法然上人の若き日が想像される ようである。 一 一一 - 31- 宝物シリーズ H 風 ふか ば 心 のくもを H ふ きはらひ いつもすすしき十五夜の月 木喰五行明満の自刻像や仏像を一度でも自にとめた人であ 、 その反映であろう。 、 その微笑の中から人に与える心が 笑の相は明満自身の修行により得た 人は誰しも微笑をもっ どれだけ心のかて、ささえとなることがあろう。その微笑み 、 その が宗教であり、深く温かく教え説かれているのである。全て のものは彼の徴笑の中に引きつけられてゆく。誰とて 前に立って徴笑みに温められない者があろうか 徴笑まずし 、 、 れば 誰しも心を慰されるであろう。容貌は天真というか、 て それを見ることは出来ないであろう。他の仏 像 にもやす らかな微笑みたかけているものも多くある。しかし それら 、 どこかとぼけている。法衣は筒繁であり線 は大端で刻跡は無 心でもある。すべてが卒直で決して形式への国執はない 木 は厳しさの中より傍り得た目覚な微笑みであり 凡夫におい 、 喰の無心さがそのまま自然に仏像に象徴されている。こうし ては近づき縫いあまりにもかけはなれた遣いものにほかなら 、 た木喰作の微笑仏は日本全国のいたる所で拝むことができ ない。明満のそれは身近である。気軽に微笑みかけてくれ 、 る。 、 る。まして何事にもこだわりなく自由であり 宗派には一切 こだわらなかった。彼の民衆教化は いうなれば微笑仏を通 木喰明満は一七一八年〈享保三年〉に甲州の山里に貧しい百 姓の第二子として生まれ、二十二歳のとき出家した。明満の し肌から泣み込んでくる無心の教えといえよう。 、 その地に堂宇を建立し供養仏を 安らぎを偽たことであろう。彼の廻聞は日本全国に渡ってい それにしても、こうした微笑仏によって多くの人々が心の 、 半生は日本廻国の巡礼に費いやされた。世俗を捨て無心の境 地に立った彼の教化は民衆の中に次第にうちとけていった。 木食のさとる心はごくふかい る。名もなき旅僧が現われ 刻む どこがどうともわから.さりけり と歌っている。廻国時白からの修行でもあった。しかし、何 力がそうさせるのであろう。歴史上に幾多の名僧 はいるが 、 しかも民衆はまたたくまに彼の囲りに集る。明満の魅 もむづかしい教理を説きはしなかった。無学な者も貧しい者 その独創性は他に見ることは出来ない。(佐々木洋之) 、 も仏のよき伴侶であるとしている。すべての像にみられる徽 • 。必 句。 才作 水喰1:.人九? 「浄土ご購読規定 一部定価九十円 円 六月サ 会佐一カ年金て 000 円 (送料不要〉 年五月 二 l 土 編集違法然上人 鋭仰会 紳士宗務支所内 h胤 以 八二一八七番 銀掛門別 良京都終区芝公園十九号地の一 一決ボ都千代悶区飯回総一ノ十一ノ六 批判行人 法然上人 鎌 仰会 局五九四悶努 包括東京 一一六二 寝袋入 符称附彦 発行人 佐藤副首縫 印刷人 関二三野 ヲ・ 務社印刷所 印刷所 定価九十円 船和凶十五年六月一口発行 . 第 一m郵便物認可 問和利回十五年五月二十五日印航 附利 1争 体仏 と千 =如意愉観世1・昔= = 上人八十四 二r 自刻 像= • 木喰 五 行上 人 岡和昭 利 間関 イ 1 五年 fj'ミ fi. 五日 月 l ニ 11 ト 五実1 [1 τ j印前郵 M -睦 日本仏教の成果 浄土教のあけぼの 現 刊のあいさつ 伶土宗 l引:3;t八百年記念 HEZtmltliMLEA 浄土宗京務総長勺 、 林 大 級 7浄土次全 l'lJ IE統肉官官金~の弘刻微行鎗政以来 二 l 余年 、 三 四郎反の契勧を 33 うするも 、 必の~金面に閤 li を11:ゅ。 関.i.!l!の近親宗派や、 災他にm助を深めようにも 、 持易にその 窓をえず 、 u、 Nl の慰護と有iUの伏流を念じつつ 、 fT, 113RliH3jT l利m6物 認E 八行年を 111山に迎え 、 1.祭心しきり削怠の制送をじて 11:まず。 桁から昨晩秋、 fi脱会社 IIIF'~ ,'U,}仏占体代表取締役背水 IEMíf 内河 氏から 、 附u・ æ 介して 、 談会,rf'Î';~のß7$(lJ刊行に必須の財的 i L L '-J 年2F61 J、 占 月 1.'1 発 1 1行 、・' ぬ ' 1 j 法的などの 切i.'.i任 foli 負をはしめ 、 関.i.!l!ú指紋の悉F守山務を討 をあげてぬお l に苅り 、 浄土ぷや ・ 般人士や社会に~,f しては 、 商rlt;t:l=iJを度外 m して仏教1tHIIIの伝弘に立脚し 、 念仏日1iの 策勉/同f 1:1- 、 "'i,~正.t:rのS密約で 、 日比~lJ~百frに艇身従ZJ4 の切守4 E札必と 、 l, iU抑制il:iの激問に依1 在し 、 rJtj;万;~ßtl7.長八行年,ft.!念雌 讃代革命・iH弓の 111版ぢ~の ー として、 内外大ñ・の夜刻TiHTTtl!.ìl~に 応えるべく 、 伊jどMè4ì:を 、 法然 1:人制必 1 J の四月七 11 と定め て街ぷの I追及に 、 111 g})事仏m燃の切鳴を縫店長したのである。 ζ の政刻刈 uに際し 、 郎反をtl:・1 して 、 lほ4ì:の由来や絞 IEの似 浄 土 ぷ解おや蘭米の研~様子の等々を 、 そのじt任分担l で附すを念 いしも先:nrilrをとiLtぎて 、 」と勺は{也 [' 1 を WJ したさ:怖をお!察 された。 いささか II'l !MiJ1 jの来凶を略.ì!ßして 、 念仏教学のmu純人 ~I; 第 一 一 ff~ のml浜、教化仮作の洪軌と仰さ'つつ 、 先ヨEの悠;{,!!に判iftf して 、 u解 hJlf の~勉を信念にしてたえない。 六巻 十 正続 四十二巻 第 ー ノ、 号 予約申込規定 定価各巻 金四十ニ巻予約申込のみに限り出版します 。 2. 000 円 / 特価全巻一時弘80. 000 円 / 申込期限昭和 451:手 5 月末日 刊行期日 定価金九議 +) 問( 昭和 45年 4 月 7 日第一回第一巻発行 / 御申込みは 大正大学浄土学研究室 ・ 仏教大学浄土学研究主 ・ 下記発売又はお近くの書店か浄土宗宗 務支所にお 申込み下さい 。/ 内容見本進室 発行所 浄土宗開宗八百年記念痩 讃準備局 発売所 山喜房仏書林 J4!京~.文京区本郷 5 -28- 4 J4!大西門前 TEL0 3 -1 1 85361鍛持1以来 1
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