講演テーマ 「穢れと茶碗 ∼日本人の差別意識について∼」 川 越 市

平成26年度
人権問題講演録
講演テーマ
「穢れと茶碗
∼日本人の差別意識について∼」
川 越 市
井沢元彦氏
プロフィール
1954 年 2 月 1 日、名古屋市生まれ。早稲田大学法学部卒。
TBS入社後、報道局(政治部)記者時代に『猿丸幻視行』
にて第 26 回江戸川乱歩賞を受賞(26 歳)。31 歳で退社し、
以後作家活動に専念。歴史推理・ノンフィクションに独自の
世界を開拓し、週刊ポスト連載の「逆説の日本史」は 1000
回を超え、なお精力的に続いている。また、近年は「逆説の
世界史」の執筆にも取り組んでいる。
主な著書としては、『言霊』『穢れと茶碗』『隠された帝
』『天皇になろうとした将軍』『逆説の日本史』(古代黎明
編から幕末年代史編 4 まで既刊 21巻)『逆説の世界史 1 古
代エジプトと中華帝国の興廃』『世界の「宗教と戦争」講座
』『銀魔伝』『黎明の反逆者』『魔鏡の女王』『恨の法廷』
『信濃戦雲録』『ユダヤ、キリスト、イスラム集中講義』『
中国 地球人類の難題』などがある。
テレビ・ラジオへの出演、紙誌への連載も多数。2009 年 4
月から大正大学客員教授(文学部)も務める。
平成26年度人権問題講演会
講師
作家
井沢元彦 氏
御紹介いただきました井沢でございます。本日はようこそいらっしゃいました。
講演会というと、元気になるために聞きに来るという人もいるわけでございまして、
そういう方にはまことに申しわけないんですけれども、きょうのお話は、とりあえ
ず余り元気にならないかなという気はいたします。ただ、お医者さんの診断のよう
なもので、例えばお医者さんに行って、あなたは胃が大変悪いと言われた場合に、
それはがっくりする情報ではあるんですけれども、でも、その悪いところを指摘さ
れたわけですから、そこを治せばまた楽しい人生が待っているということで、きょ
うも同じように受けとめていただければ結構だと思います。
つまり、きょうお話しするのは、私は日本人として生まれまして、この日本とい
う国に生まれまして、日本という国が大好きなんでございますが、もちろんそれに
伴う日本文化というのも非常に好きなんですけれども、ただ、これは人間であれば
誰でもそうなんですが、完全な人間というのはいないですよね。どこか弱点といい
ますか、弱点というより短所、悪いところと言ったほうがいいと思いますが、悪い
ところがある場合がございます。例えば、あの人は実にいい人なんだけれども、酒
を飲むとちょっと人に絡んでよくないというような、そういう人がいた場合、あな
たはすごくいい人なんだけど、酒は控えたほうがいいですよと言ったほうが、本人
のためにもなるし、みんなもそのほうがうれしいわけですよね。きょうはそういう
お話でございます。
日本民族の、日本人の短所の部分。長所は幾らでもございまして、それについて
はとうとうと語りたい面もありますけれども、短所についてちょっとお話ししなけ
ればならないということでございます。ただ、その短所を克服すれば、よりよい日
本人になれるわけでございまして、きょうのテーマは、差別、それも日本人特有の
差別ということでございます。
差別というものは、世界中に残念ながらございます。何で差別するのかという、
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そういう根本的な問題を考えてみますと、人間というのは、他人よりすぐれている
と思いたいんですね。優越感というやつですか。自分のほうがちょっとすぐれてい
ると思いたいんです。これが正当な努力に基づくものならいいんです。
例 え ば あ る 大 学 が あ る 。 そ れ に 例 え ば 500人 し か 入 れ な い 。 と こ ろ が 、 希 望 者 は
1,000人 い る 。 こ の 場 合 、 例 え ば 日 本 人 し か だ め だ よ と か 、 あ る い は 日 本 人 で も 特
別な階級の人間じゃないとだめだよということになると、これは差別ということに
なりますが、とにかく入りたい人は入学試験を受けてください。公平に採点して、
上 か ら 1 位 か ら 500番 ま で は 入 れ ま す と 、 501番 か ら 1,000番 ま で の 人 は 諦 め て く だ
さいと、これはいいんですよね。これは区別というやつで、区別というのは、これ
はもうどの世界にも必要なことです。というのは、残念ながら全ての人の欲求を満
たしてあげるというのは不可能なので、必ず選ぶという作業が出てくるわけですね。
その選ぶ場合、本人の合理的な努力をこっちが公平に客観的に評価するなら構わな
いんですけど、そうじゃなくて、あれは外国人だから入れないとか、そういうこと
になると差別ということにつながってくる。
日本の国立大学は必ずしも外国人に門戸を開いているとは言えないので、ちょっ
と今の例えはよくなかったかもしれませんが、アメリカなんかですと、昔はそうい
うことはよくあったわけですね。例えば、この大学は白人しか入れない。成績が悪
くても白人なら入れる。でも、黒人なら、幾ら成績で優秀でも入れない。こういう
のを差別というわけでございます。
その差別は何に基づくか。差別には必ず理由というものがあるわけですね。全く
人間というのは理由なしに差別はしないんです。ただ、もちろん、これは肝心なこ
とですから強調しておきますけれども、理由があるからといって差別していいとい
うことじゃないですよ。だけど、差別をする側の論理として、理由というものは必
ずあると。その理由が不当だということですよ。
例えば白人が黒人を差別するのは、肌の色が違うからだということですね。昔は
ですね。最近はさすがにそういうことを言う人がなくなりましたけど、昔は科学者
なんかでも、白人のほうが優秀なんだということを、それは科学的に、合理的に証
明されているんだなんていうばかなことを言う人がいました、本当に。白人優越主
義というやつですね。ヒトラーなんかもその流れでございます。ゲルマン民族、ま
あ白人ですよね、白人は優秀で、ユダヤ民族は優秀ではない、劣等民族だなんてこ
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とを堂々と公言する人がおりました。そういうことは、科学的に今は完全に否定さ
れております。
黒人であれ、白人であれ、人類として、表面の色が違うだけで、あとは大して違
いはない。にもかかわらず、白人は黒人、特に白人はと限定するとちょっと失礼な
部分もあります。例えばラテン系の白人、フランス人とかイタリア人とかスペイン
人は、余り黒人の差別をいたしません。中南米、あるいはスペインなどへ行きます
と、肌の黒い市民、別に差別して言っているわけじゃないですよ、それがいっぱい
いらっしゃいます。ところが、アメリカもいるんですが、アメリカは昔は、黒人は
奴隷だったわけですね。リンカーンという人が奴隷を解放しましたけれども、だけ
ど、それでもやっぱり白人の黒人に対する差別というのは根強く続いていって、実
は今もまだ残っていると言ってもいいと思います。アメリカ史上初めての黒人大統
領オバマさんが誕生いたしましたので、一応公的には差別はなくなったというふう
に見えますが、実は微妙な差別がまだ残っているそうでございます。
それはどういうところでわかるかというと、皆さんが必ず一度は見たことのある
もの、生で見たことないかもしれないけれども、テレビではまず間違いなくこの全
員が見たことがあると思うんです。オリンピックですね。オリンピック、例えば陸
上 競 技 、 ア メ リ カ の 黒 人 選 手 が 大 活 躍 し て お り ま す 。 400メ ー ト ル リ レ ー と か 、 あ
る い は 100メ ー ト ル 競 争 と か 大 活 躍 し て い る の に 、 水 泳 で 余 り 見 た こ と な い は ず な
んです。水泳で、アメリカの黒人選手で金メダルとった人というのは、多分見たこ
とないはずなんですね。なぜいないのかということです。
それは、私の友人に言わせれば理由があって、日本でもそうですが、ああいうと
ころで金メダルをとるためには、ちっちゃなころからスイミングクラブに入って、
修行というか訓練しなきゃいけないわけですが、なかなかアメリカでは黒人がスイ
ミングクラブへ入れないんですね。これは国立の施設だと、そういうことを、例え
ば、どうもおかしいと、あの国立スイミングクラブは白人の生徒ばっかりで、黒人
が全然入れない、何か悪いことしているんじゃないかといえば、訴えられますし、
裁判で訴えられればまず負けますし、その前に大体調査が入ります。国立の組織だ
ったらそうなんですね。
ところが、アメリカという国は、皆さんもご存じのように、プライベートな、大
学なんかも私立のほうが力が強いぐらいで、私立の組織って多いんですよね。スイ
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ミングクラブなんかはほとんど私立なんです。私立というのは、その人間たち、そ
この構成のメンバーで運営ができるわけですね。もちろんそれでも、我がクラブは
白人専用で、黒人なんか入れませんなどということを堂々と言ったら、これは人種
差別を規制する法律もありますから、訴えられて、必ず裁判で負けますが、いや、
たまたまなんですよと、うちのクラブはたまたま黒人の生徒がいないだけですよ。
希望者はいるんですけど、そのときたまたまいっぱいだったりしたという言いわけ
が、プライベートの組織だと成立しちゃうんですね。
ゴルフクラブなんか入っていらっしゃる方もいると思いますが、ゴルフクラブと
いうのは、日本でもそうですが、新しい人間が会員になりたいというと、基本的に
それまでのメンバーの合意が必要ですよね。その合意について、理由を明らかにす
る必要はないですよね。あの人は何となく嫌だというのでも、プライベートの組織
だったら通っちゃいます。
日本だったら、何となく嫌いだで済みますけど、まあ済むという言い方も変です
けどね、向こうでは、黒人ということで一緒の水に入りたくないという人がいるん
ですよ。それをプライベートの組織だと、そういう理由を明らかにしなくていいか
ら、結果的に黒人の子供が入れない。子供が入れなければ、当然オリンピックにも
出られない。
もしここで数十年か何年かたって、十数年か20年かわかりませんけれども、たっ
て、アメリカの黒人選手がどんどん水泳選手となって金メダルをとるような時代が
来たら、またアメリカは一つ差別を克服したと、こういうふうに言えるんじゃない
かと思います。
日本の差別をお話しするのに、なぜ外国の例から始めたかといいますと、外国の、
大変嫌な言い方、対岸の火事という言葉がありますよね。これは本当は余りいい言
葉じゃないんですね。向こう岸で火事が起こっている。燃えている。でも、自分の
ところは関係ないということですね。例えば、安倍総理大臣はこれまでイスラム国
と人質事件を対岸の火事だと思っていたら、今度自分のところに来ちゃったという
ような、そういう言葉で使いますけれども、やっぱり外国の差別というのは、日本
人にとって対岸の火事みたいな部分があるわけですね。自分たちはそうしないとい
うことがあります。
例えばユダヤ人。日本人は余り、あの人はユダヤ人だからと言って差別する人は、
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余りというか、ほとんどいないと言っていいと思います。ところがこれが、日本を
一歩出てヨーロッパとかアメリカに行きますと、今でもユダヤ人という人を差別す
る人がいます。それはどうしてそういうことになるかというと、キリスト教に基づ
くものですね。
この中にキリスト教徒の方もひょっとしたらいらっしゃるかもしれませんが、こ
れは別にキリスト教の悪口を言っているわけではなくて、本当の話でございまして、
キリスト教の聖書、特にイエス・キリストのことを書いた聖書のことは新約聖書と
いうんですけどね、イエスさんがどうしたこうした、最後は処刑されて一度は死ぬ
んですが、復活するということなんですが、その処刑に至るところが、マタイによ
る福音書という部分に書かれています。
マタイというのは、これはラテン語で言うからマタイ、ラテン語というのはロー
マ帝国の言葉です。今のイタリア語のもとになったやつですね。英語で言うとこれ
はマシューさんになります。
日本人て、全然名前は別だと思っている人が多いんですけど、例えばキリストの
一番弟子はペトロさんというんですね。あるいはペテロさんというんですね。ペテ
ロさんというのは、実は英語で言うとピーターなんです。フランス語で言うとピエ
ールで、ドイツ語で言うとペーターで、ロシア語で言うとピョートルで、これはみ
んな同じなんですね。
マタイによる福音書というのは、マタイ、英語で言えばマシューさんという弟子
が見たイエス様の行動、言葉ということなんですが、そこに、彼が、イエスが張り
つけにかけられるときに、それをユダヤの民衆が求めたということがはっきり書い
てあります。つまり、ユダヤ人たちは、自分たちの本来同胞であるはずのイエスを
神だとは認めずに、むしろ神の名をかたるインチキ野郎として告発し、処刑に賛成
したということが書かれているわけです。これ、聖書に書かれていることなんです
ね。
しかも、こう書いてあります。イエスを殺すことの責任、その血の責任は、つま
りイエスが殺されることによって責任問題が生じるわけですが、その血の責任は
我々と我々の子孫にかかってもよい。今、聖書の書かれている言葉どおりで申しま
した。そう書かれています。それがずっとユダヤ人差別の根源になっているわけで
すね。
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ユダヤ人というのは、イエス様を死に追いやった、とんでもないやつらだと、そ
ういう反感がずっと続いておりまして、それに、先ほどちょっと申し上げたヒトラ
ーの、ゲルマン人が優秀、つまりドイツ人は優秀だけど、ユダヤ人は劣等民族だと。
当時のドイツというのは、ヒトラーの時代のドイツというのは、結構、ユダヤ人
が社会に進出していたんですね。例えば大学の先生、大学教授、あるいは軍人、高
級官僚というところにユダヤ人がいっぱいいたんですよ。ところが、ヒトラーはそ
れが気に食わないものですから、ユダヤ人というのは劣等民族だと、純粋なゲルマ
ン人でいくべきだということで、まずユダヤ人を公職追放にして、その後、収容所
に閉じ込めて、そして皆殺しにしていったわけですね。
これをホロコースト、ユダヤ人大虐殺といっておりますが、このホロコーストに
関して、実はある方が、それを見過ごしていたということをはっきり認めたんです
ね。ある方というのは、ローマ法王なんです。キリスト教カトリックの頂点に立つ
ローマ法王、今の方ではありません。2代前の、史上初めてのポーランド人出身の
法王であったヨハネ・パウロ2世という方が、今からちょうど15年前、2000年、こ
れ意味があるんです。2000年というのは20世紀最後の年なんですね。2001年から21
世紀です。20世紀のことは20世紀のうちに決着すべきだと思われたのでしょうが、
ヨハネ・パウロ2世は、ローマ法王として初めてユダヤ人の国イスラエルを公式訪
問いたしまして、それまで公式訪問した人はいないんですよ。ユダヤ人はイエスを
死に追いやった悪いやつだという認識が、キリスト教の信者にはあるわけですね。
だからローマ法王が行ったことなかったんですが、初めて行って、しかもそのホロ
コースト記念館、虐殺の犠牲者の名前が連ねられているような、犠牲者を悼む組織
の博物館へ行って、そして、こういうステートメントを ─ ステートメントという
のは声明ですね、発表したんですね。
それは、第2次世界大戦中のナチスドイツのホロコースト政策に対して、我がカ
トリック教会、キリスト教徒は、これを傍観していましたと。傍観てわかりますか。
対岸の火事ですよ。要するに、見て見ぬふりをしていた。あるいは、見えていたん
だけれども、黙って何もしなかったという、傍観しておりました。このことは大変
遺憾に存じますということを発表されたんですね。
これは私が勝手に、うそだと思う人がいるといけない、念のために言いますが、
2000年、ヨハネ・パウロ2世、イスラエル公式訪問などのキーワードを今インター
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ネットに入れればそれはすぐ出てきます。日本でも新聞記事になったんですよ。日
本人は関心がないから覚えていないだけで、なぜ傍観するのかということですよね。
イエス・キリストというのは、人を愛しなさいと言ったんですよね。汝の敵を愛
せよとすら言ったわけですよね。人を救うことがキリスト教の基本です。マザー・
テレサさんなんかもいるわけですよね。なぜ傍観していたか。それは、聖書に、イ
エスを死に追いやったのはユダヤ人たちであるとはっきり書かれているからなんで
すね。だからキリスト教を信ずれば信ずるほどそういうところが気になってきて、
だから、結構、キリスト教の信者なのに……、信者なのというのは、失礼、信者で
あるがゆえにと言ったほうがいいですね、熱心な信者であるがゆえに、ユダヤ人は
やっぱり嫌だという人がいる。公職追放なんてことはしないけれども、娘が友達に
なってほしくないとか、そういう人は今でもいっぱいいるんですよ。
日本人のほとんどは、98%はキリスト教徒ではないので、まさに対岸の火事であ
って、へえ、そんなことが差別の原因になるんだと、もうこの差別は2000年ぐらい
続いていますからね、そういうふうに思われると思うんですが、そういう外国の差
別を見ることによって、日本人はこんなことしないけど、あ、世の中にはそんな差
別もあるんだなという、ある意味で冷静な目で見られるので、1つお話ししたんで
すね。
差別には理由があります。何度も言いますが、理由があるからといって差別して
いいということには決してなりませんが、しかし、差別する側にはやっぱり何か理
由があるんですね。その理由は、白人の黒人に対する差別は、肌の色が違うという
ことで、これは外から見ても明白にわかるわけですよ。一方で白い人がいて、一方
で黒い人がいるわけですからね。
ところが、ヨーロッパ、あるいはアメリカにおけるキリスト教徒のユダヤ人差別
というのは、我々日本人は外から見てもわかりません。なぜならば、肌の色が同じ
だし、言葉も同じだし、同じ国に住んでいるし、普通、差別はないはずなんですよ。
皮膚の色が違うから差別するというのはいけないことなんだけれども、でも理由は
わかりますよね。肌の色の違いが差別の原因なんだと。ところが、そういうキリス
ト教に基づく差別というのは、同じ肌で、同じ髪の色で、同じ目の色で、同じ言葉
をしゃべり、同じ国に住んで、同じ言葉をしゃべっている人が同じ人を差別するの
で、わからないわけです。そういう差別というのはやっぱり世の中にあって、実は
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これが一番根深いんですね。
そういうものというのは、宗教に基づくからです。例えば、実際にそういうこと
をしている人が多少はいるようですが、黒人差別をなくす方法は簡単だと言う人も
いるんですよ。簡単じゃないんですけどね。肌の色をみんな白くすればいいんだと。
これはある意味では、僕は、人間性に対する侮辱で、持って生まれた、親に対して
失礼だと思うんですけどね。だけど、それで本当になくなるかもしれませんよね。
肌の色が違っているのが原因なんだから。ところが、この差別というのは、宗教に
基づく差別というのはなかなかなくならないんです。
今までは外国の話をいたしました。じゃ、日本にはそういう差別はないのかとい
うと、実はあるんですよね。これは有名な話がございまして、都市伝説かもしれな
いんですけれども、明治になって、日本は江戸時代ずっとキリスト教を禁止してお
り ま し た 。 島 原 の 乱 み た い な こ と が あ り 、 キ リ ス ト 教 禁 止 と い う と 100% 悪 い よ う
なことに聞こえるかもしれませんが、江戸時代初期のスペインとかポルトガルは、
武力で相手を征服して、無理やりキリスト教徒にするということを実はやっており
ました。中南米の国はほとんどその征服を受けて、例えばメキシコ、例えばブラジ
ル、サッカーで強い国の大体、アルゼンチンなんかもそうですが、あそこはもとも
と原住民の言葉があったのに、今、みんなスペイン語かポルトガル語です。宗教も
全部カトリックです。それは武力で無理やりやられたからなんですね。日本はそれ
を拒否するために鎖国いたしました。だから必ずしもキリスト教禁止イコール悪と
いうことにはならないんですけれども、それで、世界の趨勢というか流行といいま
すか、世界の流れに取り残されたことは事実です。
そこで、明治になって明治政府は、維新政府は、キリスト教を解禁いたしました。
そこで、日本でキリスト教徒をふやそうといろんな国から宣教師が来ましたね。例
えばローマ字のヘボン式つづりというのが今もございますが、ヘボンさん、これは
明治の初期に来日して、明治学院をつくった人です。
ちなみにヘボンというのは当時の発音で、今、我々はあの言葉をヘップバーンと
言っているんですね。オードリー・ヘップバーンと同じヘップバーンでございます。
ところが、昔の人は耳で聞きますから、ヘップバーンと言ってもアメリカ人に通じ
ないですよね。もっと英語的に発音しないと。そうするとどういうふうに聞こえる
かというと、私もそんなにうまくないですけど、ヘッバンと聞えます。ヘップバー
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ンを物すごく早く言って、ヘッバンと聞えます。それを明治の日本人はヘボンと書
いたわけですね。
そのヘボンさんもそうですが、そうではない、名もない無名のアメリカの黒人宣
教師が来られたそうなんです。キリスト教を日本に広めようとアメリカからやって
きた、そのアメリカ人の黒人の宣教師はこう思ったというんですね。日本という国
は、話に聞くと、肌の色も目の色もみんな同じだという、同じ言葉をしゃべってい
るという、ならば、肌の色の違いはないから差別など全くないだろうと思って来た
ら、差別があったのでびっくり仰天したというんですね。しかも彼には理由がわか
らない。さっき言ったことです。同じ髪の色、同じ目の色、同じ言葉をしゃべり、
同じ服装をして、習慣もほとんど同じで、同じ言葉をしゃべっているのに、何で一
方が一方を差別するのか。それは、だから日本人独特の宗教に基づくものだと考え
ればいいと思うわけですね。
つまり、我々がよくわからないキリスト教徒のユダヤ人に対する差別、差別する
側とされる側が区別がつかない。逆にそれを外国から見ると、日本のいわゆる部落
差別というものですが、なぜ普通……、普通の人っていういい方はよくないですね、
ごめんなさい、ある人間がある人間を差別するのかわからない。その理由は、日本
独特の宗教に基づくものであると。
日本人は無宗教だと言いますが、そんなことはありません。意識していないだけ
です。もし日本人が本当に無宗教、いわゆる何も書かれていないディスクのような
状態で白紙だったら、キリスト教やイスラム教がもっと入って、この中の3割4割
がキリスト教徒でイスラム教徒だという話に実はなっているはずなんですね。とこ
ろ が 、 日 本 と い う 国 は 、 キ リ ス ト 教 を も う 解 禁 し て 何 年 な ん で す か 、 150年 ぐ ら い、
150年 で 解 禁 し て い る ん で す が 、 キ リ ス ト 教 徒 は 一 向 に ふ え ま せ ん 。 ま だ 人 口 の
2%しかいない。お隣の韓国だったら2割ぐらいいますから、やっぱりそれは、日
本には、キリスト教に負けないよう……、負けないという言い方が必ずしもいいか
どうかわかりませんが、対抗できるようなと言いましょうか、強い宗教があるから
だと考えたほうが自然なんですね。
じゃ、それは何かというのが、きょうの講演のタイトル「穢れと茶碗」と、これ
何やと思った方もいらっしゃるかもしれませんが、私の書いた本のタイトルでござ
います。問題は、その穢れのほうなんですね。
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穢れというのは、もともと日本語ですから漢字はなかったんですが、我々の先祖
はこの字を当てたんです。これで「けがれ」と読みます。「れ」をつけてもいいん
ですが、これ1字でも「けがれ」と読みます。
よく皆さんが誤解されていると思うのは、似た言葉があるんですね。汚れ、汚染
の「汚」でございます。これと同じものだと思っていませんか。普通の日本人は、
これは教育も悪いんですけど、古典教育とか、あるいは歴史教育が悪いんですけど、
汚れるという言葉をちょっと、何ていうか昔風に気取って言ったのが穢れ。要する
に、穢れは古語で古い言葉であって、それは汚れは現代語で、意味は同じだと思っ
ている人が実に多いんですけど、全く違うものです。
どこがどう違うのかと。汚れというのは、まず目に見えるものなんですよ。例え
ばこの机が汚れているとします。例えば何かこぼしちゃって汚れる。一目瞭然とい
う言葉がありますが、一目見て、どこからどこまでが汚れているというのがわかり
ます。だからきれいにすることもできます。あるいは衣服のしみなんかそうですね。
しみの部分、まさに汚れですよね。例えばここに丸いしみがあったとしたら、その
汚れはどれぐらいの大きさで、どんな色で、白い汚れですねというようなことがわ
かるわけですね。
必ずしも目に見えなくても、機械で測定できればいいんです。例えば大気汚染、
今、PM2.5とか、一酸化炭素の濃度ppmとか、目に見えませんよね。だけど、機械
を使えば、どれぐらいあるかということはわかる。放射能もそうです。放射能も目
には見えませんが、どれぐらい放射能で汚れているか、汚れに染まっていることを
汚染といいますけどね。汚れに染まる。どれぐらい汚染しているかというのは確定
できます。ここは何ミリシーベルトの放射能で汚れていますと。
ところが、穢れというのは、あるかないかといえば、ないんです。何ミリシーベ
ルトとか、どれぐらいの量がある、何センチの大きさだということは絶対に確定で
きないんです。でも、皆さんそれを感じるんですね。それが茶碗なんですね。
じゃ、どういうことかというと、例えばこういうことを思い浮かべる。昔の話で
す。今から30年ぐらい前の話ですが、皆さんは、若い方もいらっしゃる、まだ生ま
れていない方もいらっしゃると思うんですが、私、さっきご紹介にあったように、
TBSというところに勤めていたんですね。記者をやっておりまして、会社に行き
ますと、これも差別と言われちゃうんですけど、女の子、女性のアルバイトの人が
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お茶を入れてくれるわけですよ。そのために、当時はプラカップなんてしゃれたも
のもないので、自分のお金で茶碗を買って、湯のみ茶碗ですね、預けておいた。だ
から、これはだれだれさんの、これはだれだれさんのというのがわかっていて、ア
ルバイトの女性は、私が出勤してくると、私の茶碗にお茶を入れて出してくれるわ
けですね。そういう状況をちょっと考えて、だと思ってください。今、そういう状
況です。想像してみてください。
私が会社に行きました。お茶が出てきました。ところが、その茶碗、私の茶碗じ
ゃないんですね。毎日なれ親しんでいる私の茶碗じゃないわけ。じゃ、新品かとい
うと、新品でもないんですよ。そこで私は聞きます。僕の茶碗どうしたの。あ、す
みません、井沢さんのは割っちゃったんです。それ使ってください。これ誰の。こ
の間亡くなった○○さんのです。大丈夫です。きれいに洗っておきました。茶渋も
全部取ったし、熱湯消毒した。つまり汚れはない。けど、嫌ですよね。そんなもの
使いたくないですよね。
なぜ。汚れはないはずなんです。徹底的に洗えば。汚れは取れるんですから。と
ころが、我々日本人だけです、これ。日本人は、そこに何らかの汚さを感じるんで
すね。だけど、何センチあるとか、何ミリシーベルトあるとか、絶対確定はできな
い。感覚だけですから。だからそれを穢れといいます。穢れは、あるかないかとい
えば、物理的には存在しません。だけど、我々は感じるんです。
例えば幻覚という言葉、ご存じですよね。幻が見える。例えばその人にはトラが
見えると。トラが見える。いないですよね、トラは。だけど見えるんだから、怖が
ったり、後ずさりしたり、汗を流したりします。その人にとっては、ほかの人にと
ってはないんですけど、見えますから、それを見えている人は反応するわけですよ
ね。穢れもそうなんです。外国には穢れという感覚はないので、見えません。だけ
ど日本人は、それで後ずさりしたり汗をかいたりしているわけですよ。
よくこういうことを言われますよね。外国人というのは個人主義で、自己主張が
徹底していると。日本人はどっちかというと、例えばみんなで食事に行くときも、
みんなと一緒とかそういう言い方をして、協調的であると。それ事実ですよね。だ
けど、食器に関して違うのは気がついていますか。皆さんの家庭へ行って、どうで
すか。自分のおはしであるでしょう。自分のお茶碗、飯茶碗、湯のみ茶碗なんかあ
るんじゃないですか。外国の家庭へ行ったらそんなものないですよ。大人用と子供
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用の食器の差はありますけど、みんな同じ皿ですよ。同じナイフ、フォークですよ。
これはお父さんのナイフ、これはお父さんのフォークなんて区別しませんよ。
なぜ。向こうは穢れ感じないから。誰のだって洗えば同じなんですよ。ところが
日本人は、洗っても、この間死んだ○○さんのは嫌なんですよ。
これ冗談で言っているんじゃないんですよ。実は穢れというのは、日本の一番古
い古典である古事記、古事記に頻繁に出てくる話なんですね。今「こじき」と音読
みで読んでいますが、多分、昔の人は大和言葉で「ふることのふみ」と読んだと思
うんです。日本書紀は漢文で書かれています。これが、日本書紀が一番古い歴史書
で、これは漢文というのは当時の中国語です。外国語で書かれているわけ。ところ
が、古事記は当時の日本語で書かれています。
だからこれが一番古い日本の古典なんですが、日本で一番偉い神様は誰かという
と、伊勢神宮に祭られている天照大神という女性の太陽の神様、太陽の化身でもあ
る神様であると捉えるのが普通なんですが、じゃ、天照さんにはお父さん、お母さ
んはいないのかというと、お父さん、お母さんは一応いるんです。一度は聞かれた
ことがあるかと思いますが、イザナギ、イザナミ、イザナギさんが男、父親、イザ
ナミさんが女です。ただし、私、今、うっかり父親と母親と実は言っちゃったんで
すが、イザナギさんて男とイザナミさんと、いわゆるセックス、まぐわいと言って
いますが、まぐわいによってたくさんの神様が生まれるんですね、まず。
ところが、あるとき、火の神様をそのイザナミさんはイザナギさんとのまぐわい
ではらんでしまう。古事記に書いてあることですよ。そうすると、そのイザナミさ
んは、それを分娩するときにあそこをやけどしてしまって、大やけど、炎が出てく
るわけですから。死んでしまったんですね。ただ、死んだといっても、この世界か
ら消えるだけであって、別の世界にいるわけで、それが黄泉の国、仏教の地獄に近
いものだと思ってください。ただ、仏教の地獄は、悪いことをした人が行くところ
ですが、黄泉の国というのは、悪いことをしなくても死んだらみんなそこへ行く、
地下の真っ暗な社会なんですね。
ところが、夫であるイザナギさんは、どうしても奥さんであるイザナミさんのこ
とを忘れられずに、彼女を取り返そうと、その真っ暗な黄泉の国におりていくんで
すよ。とうとう彼女を見つけるんですが、彼女は泣いてこう言うんですね。私は、
この穢れた世界で食べ物を食べてしまいましたと、もう戻れませんと言うんです。
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それでもちょっと未練が残る、ちょっとじゃないですね、未練が残るイザナギさん
は、たいまつをつくって女性の顔を見ると、腐ってウジがわいていたんですね、イ
ザ ナ ミ さ ん の 体 に 。 そ れ で 、 100年 の 恋 も 一 遍 に 冷 め ま し て 、 慌 て て 逃 げ る わ け で
すよ。彼女は追ってくるんですが、必死に振り切って、真っ暗な世界から、ちょう
ど地下鉄の階段を上がってきたようなものですね、ばーっと上がってきて明るい世
界に出た。その後、彼が何をしたか。私は穢れに穢れてしまったということで、み
そぎということをしたんですね。
みそぎ、漢字で書くとこうですけど、漢字はもともと中国の言葉ですから、無理
に当てる必要はないんですが、みそぎというのは具体的にはどういうことかという
と、清らかな水の中に体を浸すことなんです。体を浸せば穢れは落ちるんですね。
だからできるだけ流れている水がいいんです。清らかな流れている水の中に体を浸
すと穢れは落ちるというふうに昔は信じられていたということが、この古事記の記
述でわかるわけですね。
そして、そのイザナギさんが、左の目、顔を洗ったんです。左の目を洗い、右の
目を洗い、鼻を洗ったんですが、実は左の目、左のほうが昔は上なんですけど、左
の目を洗ったときに天照さんが生まれ、鼻を洗ったときにスサノオさんが生まれた。
弟ですね。右の目を洗ったときには、ツクヨミといって、余り有名ではないですが、
3兄弟の真ん中、これは月の女神です。これが生まれています。
つまりこういうことなんですよ。日本の最高の神様で、そして天照といえば天皇
家の祖先でもある。天皇家の祖先でもある天照大神さんは、イザナギとイザナミの
まぐわいによって生まれた神ではない。穢れを落としたときに、最もその穢れのな
い状態から出てきたものである。つまり、これは何言っているかわかりますよね。
穢れなき状態こそ最もとうといということが1つ。もう一つは、穢れの最たるもの
は、死の穢れであるということなんですよ。
これをちゃんと踏まえていれば、話は急に飛ぶようなんですが、日本の歴史学と
いうのは、そういう日本人が宗教の信者だったということを無視しているんですよ
ね。だから何かわからないことがあると、そのままほったらかしにしているんです
よ。
例えばどういうことがほったらかしにされているかというと、日本の都は今東京
ですよね。前、どこでしたか。神戸になんか一瞬あったこともあるんですが、一応
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平安京、京都ですね。京都の前は。その間にちょっとちっちゃいのもありますけれ
ども、奈良の都ですよね。じゃ、奈良の都の前には、実は藤原の都というのがちょ
っとあったんですが、その前ご存じですか。昔、日本の古代、都はどこにあったか。
天皇1代ごとに。1代ですよ。遷都していたんです。
今、大変、天皇はご長命ですけれども、昔のことですから、5年ぐらいで亡くな
った天皇もいるんですよ。お父さんが亡くなって即位したら、5年で亡くなっちゃ
ったという人もいるんですよ。そしたら、それで遷都していたんです。遷都といっ
ても、今の東京を移すのとは全く違いまして、村役場が移転するぐらいの感じでし
ょうが、それでもですよ、都を一度、せっかく建てたものを全部たたきつぶして、
そこはもう使わずに、別のところに行って新しくゼロから建て直しているわけです
よ。
何でそんなことをするのか。どう考えても不合理ですよね。同じ時代に海の向こ
うの朝鮮半島や中国大陸では、都って、一度決まったら動かないんですよ。初代の
皇帝とか王様がまず宮殿をつくるでしょ。次の代の王様が堀をつくったり囲いをつ
くったりする。そして、3代目の王様が商店街をつくったりすると。ということは、
どんどん発展していくわけですよ。ところが、日本は1代ごとに天皇が動いている
わけだから、都市が全然発展しないわけですね。これは、まず日本書紀を読めば、
そういうことがあったということは確実の事実なんです。
じゃ、そのことについて、ほかの国にはない現象ですから、ほかの国でそんな非
合理な、不合理なことはやっていませんから、説明しなきゃいけないのに、誰も説
明していない。では、私が説明します。それは死の穢れがあるからです。
天皇が亡くなると、そこは天皇の死によって穢れるんですね。ちょっと考えると、
天皇というのは偉大な存在だから、穢れても穢れなんかないように感じるかもしれ
ないですけど、ほら、イザナミさんも死んだら黄泉の国に行っちゃうんですよ。日
本は、死ぬと穢れるところなんですね。実は天皇の死の穢れのほうが深刻なんです。
我々庶民は、例えてみれば1本のバラなんです。わかりますか。1本のバラが枯れ
て腐っても、悪臭も汚れもたかが知れていますよね。でも、天皇は我々と違う偉大
な存在だから、100本のバラなんですよ。100本のバラが腐ったらどうなりますか。
大変なことになるでしょう。
つまり、あれは放射能汚染とよく似ていて、例えばチェルノブイリのように事故
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を起こしたところは封印して二度と使わないということなんです。ただ、チェルノ
ブイリとその日本の古い都の決定的な違いは、チェルノブイリのほうは汚れだとい
うことです。何ミリシーベルトというふうに確定できる。ところが、天皇の都が天
皇の死によって穢れたというのは、汚れは感覚だから、外国人にとっては理解でき
ないし、どれぐらいの穢れかということは、はかることもできない。
だけど、こんなことやっていたら、ずっと日本という国家は発展しないですよね。
実はある天皇が大英断を下してこの状況を変えたんです。多分、歴史にちょっと詳
しい方は、どの天皇か知っていると思いますよ。知っているけれども、それがそう
いう意味を持つということを教えられていないだけなんですが、百人一首の頭のほ
うにも出てくる女帝の持統天皇という方です。持統天皇は、恐らく遺言でこうしろ
と言っていたんでしょうが、日本の天皇で初めてあることをしました。正確に言う
と彼女の死後ですけれども、火葬にされたんです。それまで天皇というのは土葬で
した。
皆さんも多分亡くなったら、縁起でもない話ですけど、火葬にされると思います
けど、今、日本人て、火葬ということにほとんど抵抗感ないんですけど、昔は物す
ごく抵抗したんですよ。だってそうじゃないですか。死体を燃やしちゃうんですよ。
今でも、アメリカのドラマなんか見ていると気がつくと思いますが、ほとんど土葬
ですから。海外で死んじゃって、お棺を運ぶのが大変だみたいなときに火葬にちょ
っとするぐらいで、ほとんど土葬ですから。
火葬というのは、死体を燃やしてしまう、損壊することだという感覚が日本にも
濃厚にあったんです。ところが、仏教という新しい宗教が伝わってきて、いや、違
うと、燃やすということは、それはいいことなんだという教えが来たんです。それ
を持統天皇は直ちに受け入れて、私の遺体は火葬にしなさいと、火葬にすれば、死
の穢れなんか関係ないでしょうということになったんですよ。そこで、実は、彼女
が開いた都、藤原京は、その後、3代、4代続いたんです。天皇が亡くなっても移
転しなかった。ただ、藤原京は、今で言うと、何ていうんですか、試作品みたいな
もので、どうしてもあそこは狭いので、そこで最終的に奈良の都になり、平安の都、
京都になったんですが、あそこのポイントは、天皇が亡くなっても遷都しないとい
うことなんです。
そういうことって初めて聞いたというふうに思われると思うんですが、実は皆さ
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んの中にも、日本人として生まれると、知らず知らずのうちにこの穢れとか感覚が
入っているんですね。穢れというのは、悪いことです。一番まずいのが死の穢れ。
だから昔の日本人の考え方では、悪いことって全部穢れているんですよね。
悪いことってどういうことですか。例えば罪、悪いことですよね。罪を犯すのは
悪いことです。罪、あるいは過ち。過ちも、いいことか悪いことかといえば、悪い
ことですよね。2つあわせて罪過なんて言いますけどね。
皆さんが、ちょっと想像してください。自分が悪いことしちゃった。でも、警察
につかまりたくない。まあそんな人はいないでしょうけどね。仮にそうだとお考え
ください。あいつのせいにしてやろうというときに、日本語で何ていいますか。罪
をなすりつけると言いますでしょう。
あるいは、ここはそういう例えを使っていいのか、例えばある政治家が、小渕さ
んはここじゃないですね、小渕さんみたいに何か選挙区の問題で、あの人は辞職し
なかったけど、仮に汚職みたいなことがばれて辞職に追い込まれたとします。罪を
犯したということで辞職に追い込まれた。しかし、その後、衆議院選挙があって、
獄中から立候補して当選したとしますね。その人は何て言いますか。私は選挙民の
みそぎを受けてきましたと言うでしょ。意味わかるでしょ。私の罪は消えたという
ことですよ。みそぎによって穢れは消える、だから罪も消えるというのは、日本の
古代の神道の、まあ神道と言っていいか、古事記の時代の民間信仰の一番かなめな
んですよ。それ皆さん見についているわけです。だからみそぎとは何ですかと余り
聞かないでしょう。意味わかるもんね。
あるいは友達が大失敗した、過ちを犯した。それを許すときに、あなたたちは何
て言いますか。あなたの過ちは水に流そうと言いませんか。水に流すって、みそぎ
することですよ。
あるいは、これも日本人しか実はない感覚なんですが、外国では、韓国もそうで
すし、アメリカなんかもそうなんですけど、人に復讐するということは悪いことじ
ゃないんですね。リベンジという言葉も、松坂投手がよく使っていましたけれども、
あれはいい意味で使っているんでしょうけれども、報復するということですよね。
でも、日本人は悪いことでしょう。
例えば、私は、終戦直後、昭和21年ごろ、ソビエト軍、今はロシアですけど、ソ
ビエト軍につかまって、シベリアで強制労働させられ、多くの友達が死んだと、ロ
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シア人は絶対に許せんと、だから俺は絶対にいつかロシアに復讐してやるんだと言
うと、その憎しみも実は穢れなんです。悪いことは全部穢れなんだから。尊敬され
ない。穢れています、その人間は。
じゃ、どう言ったら尊敬されますか。私は、ソビエト軍にひどい目に遭わされた。
だからいつかロシア人をぶっ殺してやる、復讐してやると言うと絶対尊敬されない
ですね。何と言えば尊敬されますか、日本人。私は、かってロシア人にひどい目に
遭わされた。しかし、その憎しみは水に流して、これから日ロ友好のために頑張ろ
うと思うと言うと、すごくいい人だということになるじゃないですか。
あるいは、女性がよく使う言葉と言ってはまた女性差別になっちゃうかもしれな
いけど、不潔という言葉がありますよね。不潔ってどういう意味ですか。汚いとい
うことですよね。じゃ、あの政治家は不潔だと言った場合、それは、その政治家が
めったに風呂に入らず、ぷんぷんにおっているという意味ですか。あの人は不潔な
人だという場合、不潔な政治家だという場合、それは宮本武蔵みたいに風呂に入ら
ない人という意味ですか。違いますよね。罪を犯す、罪で穢れている人という意味
じゃないですか。何かすれば悪いことをするという意味でしょ。それ全部、神道の
考え方なんです。外国にはないですよ。
だから日本人は逆に、英語を使うんだけどね、クリーンな政治家というと褒めら
れるじゃないですか。外国に行って、日本ではクリーンな政治家が一番いいんです
と言ったら変な顔をされる。何でクリーンがいいんだって。外国にもクリーンに潔
白とかそういう意味がないこともないけれども、普通はクリーンといったら、いわ
ゆるきれいな状態を意味するので、何できれいなことに価値があるんだというふう
に見られます。だけど日本では、穢れが一番悪いことであるから、クリーンはいい
ことなんです。全部ここから始まっているんですね。
これはそんなに悪いことじゃないと思われるかもしれないけど、問題は1つある
んですね。どういう問題かというと、死の穢れが一番いけないんですよね。死の穢
れに触れることは、イコール罪にもなっちゃうんです。全部イコールだから、これ。
死は穢れであり、穢れは罪であるということは、死の穢れに触れるということは罪
になっちゃうんです。
まず何が困るかというと、お医者さんですよね。お医者さんていうのは、まあこ
れはちょっと余りいい例えじゃないかもしれないけど、やっぱりベテランのお医者
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さんというのは、何回も人間の死に立ち会った人ですよね。それだからこそ、いざ
というときに適切な処置ができる。救急病院の人なんかそうですよね。それを全く
そういう現場に立ち会ったことのない人ばっかりだったら困りますよね。あの人は
医学は学んだけれども、一度も患者の臨終に立ち会ったこともないという人だった
ら、そんなのよりもベテランの人がいいって誰でも思いますよね。それは天皇でも
貴族でもそうです。でも、ベテランということは、死の穢れに触れまくっていると
いうことですよ。
さあどうするということですね。でも、医者はそういうベテランじゃなければ困
るので、日本人はさっきの仏教を使ったんですね。仏教は別枠なんです。神道の考
えで言うと穢れは問題だけれども、仏教はそういう穢れということを、もともとイ
ンドから始まった思想ですから、問題にしない。そこで、そういう部分はお坊さん
が請け負ったんですね。例えば葬式。葬式ってどうしても死の汚れに触れなければ
いけないですよね。だからそれは坊さんにやってもらおうと。
この辺はどうですか。お葬式の帰りに葬儀屋さんがお清めの塩ってくれますか。
あれ、大体日本では一般的な風習なんですけど、お清めの塩って仏教と関係ないよ。
そうですよ。仏教のどこに、どこの経典に、死は穢れであって、清めるということ
は穢れているということでしょう。清めなきゃいけないって書いてありますか。そ
んなこと全然書いていないですよ。仏教は、お経をあげて、香華、香と花をたむけ
ればそれでいいんです。穢れなんて全然ないんです。だからあれ必要ないんですよ
ね、特に仏式の葬儀だったら。でもくれるでしょ。
今、ちょうどお相撲やっていますけど、お相撲さんが塩をまくのは、みそぎのか
わりです。みそぎだと水まかなきゃいけないので、水まくとどろどろになっちゃう
ので、塩はその代用品になっているわけです。あれは神道の考え方です。もともと
相撲は神道と密接に結びついていますからね。
だから例えば神式の、神道形式の葬式で帰りにお清めの塩をくれるならわかるん
ですけど、仏式だったらそんなこと必要ないはずなんです。でもくれるでしょ。
つまり、日本人はまだそういう意識を持っているわけですが、話を戻しますと、
医者というのはベテランじゃなきゃいけないということで、昔は医者がお坊さんの
格好をしていたんですね。縁起でもないと、いきなり思うかもしれないけど。がん
になったと言われて、お医者さんが来たら坊さんの格好をしていたといえば、まだ
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早いよと言う人がいるかもしれませんが、いわゆる江戸時代になって漢方医という
のが入って、あるいは蘭学医というのが入ってきて、お坊さんでもまげを結ったり
する人が出てきましたが、戦国時代あたりまでは、例えば秀吉の脈をとったような
お医者さんは、全部坊さんの格好をしています。
だから葬儀と医療という、どうしても死の穢れに触れるが、支配者階級にとって
は、医者はいい医者じゃなきゃ困るし、葬儀もやらないんじゃ困るということで、
それは、仏教という、あの人たちは仏教の中にいるから日本人とは別枠だというこ
とで何とかごまかしたんですが、ごかまかし切れない部分もあるんですよね。
それは何かというと、一番典型的なのが皮なんです、皮。皮というのは、リバー
ではございません。レザーのような皮ですね。皮膚の皮です。これも「かわ」と読
みますが、日本語ではこれも「かわ」と言いますよね。2つ合わせて皮革製品なん
て言いますが、この違いはおわかりですか。上の皮は、生の皮、毛のついている皮。
ですから、毛皮という字はあっちのほうを使います。下の革は、一度、例えば煮た
り染めたりして、原料としてつくったバッグとかベルトのような場合は、下の革を
使います。いずれにせよ、原料は同じですね。動物の皮膚です。動物の皮膚をひっ
ぺがして使うということは、それをつくる職人、あるいはその工程では必ず動物の
死に触れなきゃいけないわけですよね。でも、死は穢れであって罪であるから、そ
れをつくるということは悪いことなんです。
これも日本人の悪いところで、悪いことで、じゃ、私たちは皮を使いませんとい
うなら、まあ、まだ話はわかるんですが、皮は使いたいんですよ。というのは、今
でこそ革製品というのは、いろんな繊維があって、その一部になってしまいました
が、昔、ほら、ナイロンとかないですから、ナイロンとか、いわゆる化学繊維はな
いですから、プラスチックもないですから、例えばよろいとか、そういったベルト
のようなものは全部皮を使っていたんですね。皮は使わざるを得ない、皮は必要だ、
だけどそれをつくることは穢れにまみれ、罪となる。じゃ、どうするか。罪人にや
らせようみたいなことになっちゃうわけですね。
私は日本人だから日本の文化が好きだということを先ほど冒頭に申し上げました
が、私が、じゃ、日本で一番嫌いな言葉の一つ、自分の手を汚さないということで
す。自分の手を汚さないということは、どういうことですか。人にやらせるという
ことです。穢れた人間にやらせるということですね。自分たちは皮を使いたい、い
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ろんな皮製品使いたい、だけど自分の手は汚したくない。だから例えば罪に落ちた
人たちにそれをやらせる。あるいは、もともと先祖代々それをやっている人は、穢
れた罪びととみなし差別する。娘の婿にするなどとんでもない、それどころか交際
を絶つ、金は払ってそれは使うくせに、住むところは同じところじゃだめだとかね。
結局どういうことになるかというと、差別する側がこっちに住んでいるとします
よね。そうすると、差別される側は離れたところに住むわけですね。大体、この間
に川が流れていますというか、そういう場所を選ぶんです。理由はおわかりですか。
要するに、差別の理由は、向こうが穢れているからですよね。穢れがこっちに来ち
ゃ困るわけですよね。穢れって何で落ちるんでしたっけ。みそぎで落ちるわけです。
みそぎってどういうことでしたか。清らかな水の流れに浸すことによって落ちるわ
けですね。ということは、橋かけちゃいけないわけだ。橋かけると穢れが伝わって
きますから。橋がない。つまり、差別する側から見て、差別される側の住んでいる
場所は、橋のない川の向こう側にあるということです。そういうことになるわけで
すね。
それともう一つあるのは、肉食ということですね。日本人は基本的に肉食を悪だ
と捉えてきました。それはやっぱりこれがあるんですよ。動物を食べるためにはま
ず何しなきゃいけないですか。どんな形であれ、動物を殺さなきゃいけないですよ。
殺すと穢れが生じるわけ。それが、汚れというのは全ての悪の根源だから、それに
触れちゃいけないわけですよね。逆に、ここにいる人たちは、毎日のように動物の
皮をはいでやっているわけだから、その穢れが多過ぎて、みそぎをしてもとれない。
みそぎをしてとれるんならば、うちの息子の嫁にしてもいいけれども、とんでもな
いと、あいつらは穢れているというのが、もちろんこれは使うべき言葉ではありま
せんが、歴史を説明するためにあえて申しますが、エタという言葉です。穢れ多し
と書きます。
そしてそれは、今も申しましたが、食肉の肉食ということについても差別される
わけですね。動物の肉を食べるということは、どう考えても動物を殺さなきゃいけ
ない。死の穢れに触れるわけだから、そういった作業に従事する人たちも差別の対
象になっていくということなんですね。
例えば、そんなのは昔の話だと思っている方がいると思うので念のために申しま
すが、昔の話じゃないですよ。例えば、昼間、何召し上がられましたかね。焼肉定
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食食べたとしますかね。ちょっと思い浮かべてください。お皿が、トレーがあって
ね、御飯があって、サラダか何かあって、みそ汁かスープか何かあって、肉が乗っ
ている。肉は牛肉か豚肉かわかりませんが、とにかく肉というのは、死んだ動物の
残骸ですよね、非常に嫌な言い方すれば。
皆さん、肉をおいしく食べるコツっていうのは知っていますか。これは、殺した
ての肉です。新鮮な野菜がおいしいように、殺したての肉はおいしいんです。殺し
たての肉を長持ちさせる方法もあります。血抜き。動物というのは、殺したらすぐ
食べれるかって、そういうものじゃなくて、血を抜かなきゃいけないんですよ。血
を残しておくと、その血が凝固してまずくなります。ですから、すぱっと殺して、
手早く血抜きをして、そこから冷凍するなり処理するなりした肉じゃないと、おい
しくいただけないということですよ。ということは、皆さんがこの肉おいしいなと
思ったら、それはそういうことをやっている人がいるからその恩恵にあずかれるわ
けですよね。
日本人の伝統的な教育として、私も父からそういうことを言われました。若い方
はご存じないかもしれないけど、例えば御飯食べる場合、御飯の一粒一粒はお百姓
さんが丹精込めてつくってくれたものだから、それを考えてありがたくいただきな
さいと。今これを初めて聞いた人でも、そういう考え方はわかりますよね。ここに
米があるということは、自分じゃなくて誰かが、お金は払っているにしても、自分
のかわりに畑を、田んぼを耕して丹精につくってくれたから、その結果としておい
しい御飯があるんだと。それをいただくときは、御飯をつくってくれた人に感謝し
なきゃいけない。わかりますよね。日本では伝統的にこういう感覚があるんです。
例えば水戸黄門さん、講談の話ですけど、実在の人物ですけど、水戸黄門さんが
あるとき領内の田んぼに行ったんですね、視察に行ったんです。そのとき疲れたの
で、うっかりあるところに腰をかけたら、おばあさんに火吹き竹で殴られた。黄門
さんは一度は怒ったけれども、その理由を聞いて納得した。あんたが座っていたの
は米俵だよと、米俵の上に尻をかけるとは何事だということで叱られた。あ、これ
は、ばあさん、私が悪かったと、そういう感覚わかりますよね。
でも、尊い労働の成果として御飯がここにあり、そのつくり手に感謝するならば、
同じように、ここにある肉のつくり手にも感謝しなきゃいけないじゃないですか。
そうしないと不公平でしょ。一方にだけ感謝して、一方は無視するというのは差別
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でしょ。でも、それやっていませんか。その理由わかりますよね。米をつくる工程
には、一切穢れは入らない。ところが、動物、肉をつくる工程には、どんな形であ
れ、必ず死の穢れが入る。だから穢れで差別しているわけですよ。
あるいはこういうことも言えますね。どういうことかというと、女性の方、特に
ご自分の好きなブランドってあるでしょう、海外ブランド。思い浮かべてください。
ありますよね。日本は、ブランドと言っていいのかどうか、伝統工芸品と言ったほ
うがいいでしょうかね、すぐれた工芸品がいっぱいあります。例えば織物ですと西
陣織とかね、あるいは染物、友禅染とか、陶器だと備前焼とか瀬戸焼とか、磁器は
かたいやつですね、伊万里焼とかあります。漆器もありますよね。輪島塗とかいろ
んなのがあります。日本のクラフトマンシップ、職人の工芸というのは、世界で非
常に高く評価されています。にもかかわらず、世界中どこの国でもつくっているブ
ランドで、ブランドというか、その工芸品で、日本では余りぱっとしないのがある
でしょ。さっき、皆さんのお好きな、女性の方が好きなブランド、ルイヴィトン、
フェラガモ、グッチ、全部何ですか、革製品。こっちの革ですけどね。要するに皮
革製品ですけど、日本て、ほら、伝統的な革製品て余りないじゃないですか。実は
皆さん誰でも知っているもので1つあるんですけどね。それは何かというと、よろ
い。よろいは革なんですね。武士のよろいです。
だからこれで武士というのがどうして出てきたかということがわかるわけですね。
つまり、お公家さんたちも天皇さんたちも、古代においては、やむを得ず、蘇我氏
とかいうライバルがいたので、例えば後に天智天皇になる中大兄皇子は、大化の改
新のときに蘇我入鹿の首を自分の手で吹っ飛ばしたわけですよね。聖徳太子も戦争
に従軍したと言われています。物部氏と戦ったと言われています。古代の天皇や皇
太子は戦っています。だけど、日本はそもそも、死の穢れに触れることが悪いこと
だから、世の中が平和になると、天皇も公家もそういうことはしなくなる。戦争し
なくなるわけです。戦争しなくなるなら結構じゃないかと、平和な今の戦後日本に
いる方は思うかもしれないけど、昔は違いますからね。昔は、軍隊がきちっとして
いないと、地方に反乱が起こるわけですよ。
もう一つあります。警察。警察って何をするんですか。罪びとを捕まえるわけで
すよね。罪びとって何ですか。穢れています。ということは、罪びとを捕まえると
いうことは、穢れに触れる職業で、その意味では皮革生産業と同じことになってし
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まう。だから貴族たちは嫌がってやらなくなったんですよ。
つまり、警察の業務がストップしてしまった。どういうことになりますか。今、
この例えば埼玉県警なくしたら、埼玉県は平和になるかって、とんでもないですよ
ね。世界中の犯罪者が、あそこには警察ないんだということで押しかけてくること
になります。日本も同じような状態になりました。平安時代末期のことです。
そこで、特に地方に住んでいた有力な地主の人たちが、自分の生命、財産は自分
の手で守らねばいけないということで、武装し、彼らは、背に腹はかえられません
から、穢れなんて言っていないわけですよね。向こうが殺しにかかってくるんだか
ら、こっちも腕を磨いてやっつけなきゃいけない。向こうが革のよろい着るなら、
こっちも革のよろい着るということで、どんどん階級として成長していったんです
よ。
お公家さんたち、朝廷たちは、さっき私が使った一番日本語で嫌な言葉、自分の
手を汚したくないものですから、軍事とか警察業務から完全に離れちゃったわけで
すね。そこでまず、幕府という、あれ幕府って何かといえば、軍事政権ですから、
軍人がつくった政権ですから、軍事政権が、天皇家は一応差し置いて、差し置いて
というか、一応立てます。無視はしない。あ、無視するけれども、滅ぼそうとはし
ない。でも、自分たちが雑巾がけ、汚れ仕事をやって、この国を治めていくという
のが幕府なんですね。ですから、武士という人たちは、穢れから結構離れていたん
です。
つまり、余りにも日本人が穢れを嫌って、その結果、軍事面、警察面が無視され
て、日本国が乱れたので、それを補う形で、下級の農民たちを中心に、血を流すこ
ともいとわない人たち、革のよろいを着てお互い殺し合うようなこともいとわない
人たちが生まれてきて、そういう人たちのほうが現実的だから、天下はとったんで
すよ。
ところが、やっぱり日本人、ちょうど天皇が、昔は人を切り殺していたのに、だ
んだん平和になると人の死に触れることすら嫌がったように、江戸時代も実は、江
戸時代って武士ですよね、武士の政権で、将軍様がいた政権で、その初代徳川家康
は戦場で戦い、みずから人を殺した経験もあるような政権なんだけれども、だんだ
ん時代が下ってくると、武士たちも貴族化してくるんですね。
もともと日本人というのは穢れを嫌うというのは根本にありますから、どういう
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ことが起こったかというと、これはマニアックな人なら知っているかもしれません
が、江戸時代の首切り人、山田浅右衛門という人がいたんですね。実在の人物です。
1人ではありません。この名前を代々世襲していました。市川海老蔵さん、あるい
は市川團十郎さんが何人もいるように、山田浅右衛門さんという人は何人もいたん
ですね、代々。この人は何やっていたかというと、江戸時代、江戸町奉行の管轄に
ある罪人、江戸町奉行は何を扱えるかというと、農民と町人と浪人です。坊さんだ
と寺社奉行になります。どこかの正式な藩士、例えば薩摩藩士とか長州藩士とか、
主家を持っている侍は大目付の管轄になります。江戸町奉行が逮捕権があり判決を
下せるのは、農民と町人と浪人です。その3者で何か悪いことをした場合に、昔、
一番厳しい刑は獄門ですよね。その獄門というのは、首を切ってさらし首にすると
いうこと。その下は、さらし首にはしないけど、斬罪、首切りという死刑がありま
す。それを担当していたのは彼なんです。山田浅右衛門は、町奉行の管轄の中で、
首切りの罪人が出た場合に、彼は首を切る役を代々務めていたんです。
ということは、今で言えば法務省の死刑執行官ですよね。公務員のはずなんです
が、実は江戸時代の幕府の台帳には載っていません。彼、浪人なんです。浪人がた
またま毎回ご用を承って、外注で発注されてやっていますよということなんです。
つまり彼は、江戸幕府の仕事をしているのに、江戸幕府の公務員名簿には載ってい
ない、公務員の扱いではないということなんです。差別ですよね。それはなぜかっ
て、そういう死の穢れに直接触れるような仕事をやっているからなんです。
あるいは、時代劇がお好きな方は、江戸町奉行といえば、与力、同心というのが
ありますよね。与力、同心も特別職。どういう特別。特別というのは、悪い意味の
特別職なんですね。というのはどういう意味かというと、旗本というのは、将軍家
に仕える正式な侍。旗本ですと、自分の旗本の地位を文句なしに子供に、長男一人
だけですけれども、受け継がせることができるんです。ところが、町奉行の与力さ
んは、自分の息子を与力にする場合は一々申請しないといけないんですね。息子だ
からといって自動的になれるわけじゃない。なぜならば、与力は1代限りというこ
とになっているんです、形の上では。実際にはその与力の息子が、前の与力、つま
り親の推薦を受けて次の与力になりますから、代々与力を務めているように見えま
すけれども、形の上では1代限り、いわゆるアルバイト作業ということですよ。正
社員じゃないってことですよ。同心も同じ。
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なぜそういうことをするか。罪に触れる人たちだから。だからこれは、今では全
く時代劇に使われなくなったせりふですけど、昔の東映映画なんか見ていますとた
まに出てくる。浪人だと、その同心や与力、逮捕権があるわけですね。藩士だった
ら捕まえられません。坂本竜馬が寺田屋でつかまりそうになったときにまず言った
せりふは、薩摩藩士をなぜ町方がとらえるかと。彼は薩摩の保護を受けていました。
薩摩藩士ではないんですけど、なぜそう言ったかというと、京都所司代の同心、与
力には、正式な藩士の逮捕権はないわけですよ。だから、浪人じゃないぞ、俺は薩
摩藩士だぞと一応言ったんですが、向こうはそれはうそだということを知っていま
すから、つかまえようとしてピストルで撃ったと、そういう話になっていくわけで
すが、これも、町奉行所の与力、同心、そういうシチュエーションですね。浪人だ
と、これまでは薩摩藩士だからあいつらにつかまえられることなんかなかったのに、
浪人になったばっかりにあいつらの捕縛を受けることになるというときに、その浪
人が何と言ったか。不浄役人の縄目は受けぬと。不浄役人。不浄というのは、清め
られていないという意味ですね。つまり穢れているということです。不浄役人とい
うせりふは、やっぱりその穢れ思想から出てくるわけですね。
でも、ここは合理的に、理性的に、論理的に考えてみましょうか。穢れってある
かないかって、先ほど言ったように、ないんですよ。汚れだったら、どれぐらい、
何 セ ン チ 四 方 だ と か 、 何 ミ リ シ ー ベ ル ト あ る と か 、 何 ppmあ る と か 確 定 で き る け れ
ども、穢れというのは、我々日本人があくまで心の中で感じる感覚に過ぎない。だ
から外国人には見えない。まさに幻覚のようなものである。だったらそれ克服でき
るじゃないですか。そんなものはないんだと。清めの塩なんか要らないんだという
ことです。そんなことしたって、不幸の原因になるというのは、昔の人が抱いてい
た迷信なんですから。迷信であるという、まずそれは合理的根拠がないということ
に気がつけばいいわけですよね。
だからこういうことは大切。こういうことというのは、こういう講演会を聞きに
来るとか。きょう聞きに来た皆さんはいいんですよ、聞きに来たんだから。だけど
問題は、こういうことを言っている人がいるんですね。実際にいるんですけど、部
落差別とか同和問題とか、それは過去の話だと、今は日本国憲法も施行されて、戦
後も70年たったし、そういう意識は日本から消えたし、まあ年寄りの中からは消え
ていないかもしれないけれども、若い人の間は、そんなことを知らない人もいる、
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大体、部落なんて知らない人もいるんだから、そういうことを教えないほうがいい
んだと言う人がいるんです。間違いですよね。
皆さんは、選挙民のみそぎを受けてきたということで、あ、罪が消えたんだなと
いうことをどこかで教わりましたか。教わっていないでしょう。教わっていなくて
も、心の中に残っているわけ。だから焼肉定食で、御飯をつくってくれた人には感
謝するけど、肉をつくってくれた人には感謝しない。おかしいですよね。だからそ
ういうことはやっぱりきちんと気がついていくべきなんですね。そのためにこうい
うところには来るべきなんですよ。来ない人のほうが問題なんですね。
じゃ、そもそも、宗教だから理由がないと言えばそれまでなんですけどね。宗教
は宗教で、もともと不合理なものを信じるのが宗教なんだという考え方も確かにあ
りますが、どうしてこういう差別ができたか。なぜ死というものを穢れと捉え、そ
の穢れたものを差別するという感覚ができたのか。ちょっと考えてみますと、これ
は、ここから先はあくまで仮説。穢れが差別の大きな原因であるということについ
ては、反対する人もいるんです。
例えば江戸時代の政治制度が問題だと言う人もいます。だけど、それは確かに江
戸時代の政治制度、具体的に言えば、エタという人たちを非人、これもひどい言葉
ですよね、人にあらずということで、階級としてつくることによって、そして差別
を固定化させたということは、確かに江戸幕府、徳川幕府の悪いことではあります
が、しかしながら、人間にもともと差別する感覚がなければ、あの人たちは俺たち
と同じじゃないかということで差別はなくなるはずなんです。ところが実際には、
江 戸 幕 府 は も う 滅 ん で い ま す か ら ね 、 江 戸 幕 府 滅 ん で 150年 も た つ の に 、 ま だ ま だ
同和問題が起こるということは、政治制度が原因ではないということですね。少な
くとも原因の全てではない。もともと差別感の問題なんだということです。
だからやっぱり差別感というものがどうして生まれたかというのを考えてみるこ
とは、一つ重大なこれの克服のヒントになると思うんですが、実は日本を一歩出ま
すと、こういう差別ってほとんどないんですよ。具体的に言いますと、動物を殺す
人たちは穢れている、死の穢れに常に触れるから。だから、例えば血とか。血もね、
これは女性の方、生理中だと、例えば母屋に近づいてはいけないとか、あるいはお
産のときは本宅の外でしろとか、あるいは昔は女人禁制の聖地というのがあったん
ですね。高野山なんか、女の人は行けなかったんですよ。つまりそれも、血も、血
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と血は分かちがたく結びついているので、これも差別の原因になるんですが、そう
いう差別って、日本を一歩出るとほとんどないんです。
例えば、冒頭にキリスト教のお話をしましたが、イエスの最後の晩餐というのを
ご存じですか。イエスが、結局、最初は処刑されるわけですね、張りつけにかけら
れるわけですが、それを翌日に控えた晩に、12人だったかな、自分の忠実な弟子と、
最後のディナー、晩餐、夕御飯を食べるんですね。有名なレオナルド・ダ・ヴィン
チが描いた最後の晩餐という絵は、教会のこういうところに描かれているんですけ
ど、それは、真ん中はキリストなんです。6人ずつかな、両脇に弟子がいて、実は
そのユダというその1人がイエスを当局に告発した、裏切ったんですね。うちの師
匠はこんな悪いことやっていますと。それをイエスは知っていて、最後の晩餐のと
きに言うんですね。この中に私を裏切った男がいる。その瞬間を描いたのがレオナ
ルド・ダ・ヴィンチの絵なんです。今度、よくごらんになってください。みんなぎ
ょっとしています。びっくりしています。えっと驚いています。ところが、1人だ
け、後ろめたいことがあるので、ぎょっとしていると、その人がぎょっとしている
と言ったほうがいいかな、それがユダなんですね。
そういう絵なんですが、じゃ、最後の晩餐で出たメニューは何かってご存知です
か。これもちゃんと聖書に書いてありますが、パンと赤ワインなんです。しかも、
キリスト、イエスはこう言っています。これは私の血と肉である。食べなさいとい
うことですよね。
ヨーロッパの文化というのは、もともと狩猟文化です。狩猟文化というのは、狩
りをする文化ですね。狩りって何ですか。動物を殺すことですよね。動物を殺して、
その獲物をとって食うことですよ。だから、例えば死は穢れであるとか、穢れに触
れたらよくないことが起こるなんて言っていたら生きていけないですよ。
つまり、これが、狩猟文化というのは、狩人が山の中に入っていって、一々獲物
をとるということですね。だから獲物のない日もある。不効率だということで、後
に牧畜文化になりました。牛や羊のような、人間に反抗しないおとなしい動物を囲
いの中で飼って、そして毎日定期的に殺して、その皮を、あるいは毛を衣料にし、
肉は食べるという、そういう文化ですね。
それで動物を殺すことは悪いことだなんて言われたら成り立っていかないので、
キリスト教もそうなんですけど、肉食を肯定する文化なんですよ。だから差別が起
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こりようもない。血を飲んでいるわけですから。血を飲んでいるということは、血
が穢れだなんていう発想だったら絶対にだめですよね。
カーニバルというのがありますよね、リオのカーニバル、あれはもともとカトリ
ックのお祭りで、明治の人は謝肉祭って訳したんですね。感謝の謝、肉、祭。肉に
感謝するお祭り、正確に言うとこうなんですね。これも聖書に書いてあるんですが、
動物というのは、人間の食料として神様が与えてくれたものである。だからその恩
に感謝してありがたくいただきなさいということで、動物を殺すことは悪いことじ
ゃないんです。でも、動物を殺さなくても生きていける文化はありますよね。それ
が日本の文化だと思うんですが、一言で言えば農耕文化。農業を中心にすれば、動
物を殺さなくても生きていけます。
だから日本は世界的に見ると、農耕文化の影響が物すごく強い国なんですね。で
は、いつからそうなのかということを考えてみますと、縄文人て昔いたんですね。
縄文人の時代って、日本人は狩りをしていたんですよ。だから、昔、日本のもとも
との文化は多分縄文文化だったんだろうと。1万年ぐらい続いたわけですよね。そ
こへ、海の向こうかどこかわかりませんけれども、稲作、農業と、恐らくは鉄の道
具、鉄器を持ってきた民族が侵入してきて、それが西のほうから縄文人をどんどん
征服していったんじゃないかなと。それを弥生人と我々は呼んでいますが、弥生人
は動物を殺す文化ではないので、多分、動物を殺す人たちを軽蔑したと思うんです
よ。
つまり、私のこれは仮説ですけど、日本の部落差別というのは、さかのぼれば、
もともと原住民としていた狩猟文化の縄文人に対して、後から攻め込んできて征服
した弥生人、農耕文化の弥生人の差別である。勝ったほうの負けたほうに対する差
別であると。
実はこれ、世界史的に例があるんです。世界四大文明というのを昔習いましたよ
ね。覚えていますか。西のほうから、エジプト、メソポタミア、今のイラン、イラ
クあたりです。そして、インド、中国。最近は、ラテンアメリカというか、北米大
陸、南米大陸にも文化があったということで、五大文明だと言う人もいるんですけ
ど、とにかくその3番目の文明、エジプト、メソポタミア、インド、インドのイン
ダス文明をつくった人は、今のインドの上流階級の人じゃないんです。実はその人
たちは、今差別されている、カーストという社会制度がありますが、一番下にいる
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人たちが、インダス文明をつくった人たちなんです。どうしてそういうことになっ
ちゃったかというと、インダス文明が衰えたときに、外からアーリア人という別の
民族が攻めてきて、彼らは奴隷にされちゃったからなんですね。だから、それは世
界史的にもはっきり証明されていることなんです。
日本では証明されているわけではありませんが、私は、状況証拠から見て、要す
るに、狩猟民族、動物を殺す文化、血は飲んでもいい、肉は食べてもいいという文
化のところへ外から農耕文化が来て、多分、その農耕文化のトップが天皇家だと思
うんですね。というのは、天皇家のいろいろ年中行事をされますが、あそこに狩猟
文化に関するもの、ただいま一つもないですから、全部農耕儀礼ですから。御田植
であったり、新嘗祭であったり、新しい穀物を備えたりする。全部、血と死に関係
のない文化ですから、だから多分、そういう後から来た弥生人が、原住民である縄
文人を東へ東へと追いやって、その中で差別が生まれたのだろうと。だから西日本
のほうが差別きついですね、明らかに。これははっきりしています。
それともう一つ言えるのは、東北のほうに行くとすごく緩やかになって、東北に
は、マタギ、狩人ですね、マタギの文化というのがあるんですよ。実はマタギの文
化の人は、というか、これ、岩手県へ行くと、これは本当の話で、大阪の人に言う
とびっくりするんですけど、岩手県は今でも、山の中へ行くと、村と言わずに部落
と言うんですね。うちの部落ではさって言うんです。それは差別的な意味は全くな
いんです。本人たちは村のかわりの言葉として部落という言葉を使っています。差
別意識は全くないです。そういうところが日本にもあるんですね。
ですから、やっぱりだんだん狩猟文化が圧倒されていった中で、この差別は生ま
れたのではないかという、仮説ですけどね、想像、推理ですけど、言えるわけです。
狩猟文明、狩猟文化の人の文化って、なかなか理解できないと思うんですよね。
だって、普通、私の血と肉を食べてくださいなんて言いませんもんね。だけどそれ
は、そういう文化のところにとっては尊いことなんですよ。
あるいは、昔は歌にもなったと言われていますが、年配の方は、アイヌに、アイ
ヌも狩猟民族ですが、農耕民族ではありません、狩猟民族ですが、イオマンテの祭
りというのがあるのをご存じだと思うんですが、あれはどういうことかというと、
小熊をさらってくるんですよ、母熊のもとから。丁寧に育てるんですね、大きくす
るんですよ。森に放してやるのかといったら違って、満月の夜に殺してみんなで食
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べるんですね。それ理解できないですよね。何でそんなに、小熊さらってきて、育
てて、何で殺すのかと。これは、獲物というものを与えてくれた神様への感謝なん
ですよ。それがイオマンテの祭り。カーニバルもそうですね。カーニバルというの
は、動物の肉を食料として与えてくれた神様に対する感謝。その動物を肉として食
べるためにはどうしたって殺さなきゃいけないから、殺すことに対する罪悪感とか
悪いことだという感覚は一切ないということです。外国と比べると、割と、だから
日本のあれもよくわかるでしょ。
外国には外国の、我々の目から見たら、どうしてそんな差別するのというのがあ
りますが、それは、人のふり見て我がふり直せで、日本も同じことで、特に日本の
部落差別というようなものは、もともと実体のない、穢れというより穢れ感覚に基
づくものですから、それを教育でちゃんと、こういうものはないんだよと徹底すれ
ば、あるいは逆に、我々が肉を食べられるのはどういうことなんだということをち
ゃんと教育システムの中で、場合によっては食肉処理場を見学コースなんかへ入れ
てもいいと思うんですよ。我々が肉を食べられるのは、それこそ小中学校のころに、
こういうところがあるからだよということもちゃんと社会の中できちっと徹底すれ
ば、私は、そんなに難しくなく克服できるというふうに考えております。
ということで、長々と話してまいりましたが、そろそろ時間もまいりましたので、
これで終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
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