東北学院大学ヨーロッパ・オープン・リサーチセンター フォーラム『危機の時代と「国民」 、プロパガンダ』コメント要旨 2011 年 9 月 16 日 永岑三千輝 1. 史料: 三報告とも、きわめて実証度の高い、専門性の高いすぐれた研究。 VB(熱川報告)、パリの週刊誌『ジュ・スイ・パルトゥ』、文書館史料(南報告)、 『ボル シェビク』、 『ジュルナリスト』、『イズベスチア』ほか(浅岡報告)などが、当時、どのよ うな宣伝を行っていたかの具体的なイメージの一端が伝わってくる。歴史再現における一 次史料の重みを再確認。探索と実証の労を多としたい。 2. 研究史上の位置: 三報告とも、参照を求められている参考文献類をみると、先行研究 のない、わが国での最先端の研究であることがうかがえる。 3. 対象時期の世界史的段階: 三報告が共通に対象としている「危機の時代」は、両大戦 間であり、革命・反革命・戦争の連鎖の時代、とりわけ世界戦争の時代である。二つの 世界大戦とその帰結としての冷戦体制を克服してから 20 年以上となった今日では、も はや想像もできないような人類史上のもっとも残酷で野蛮な時代ということができよ う。 4. 対象となる主体の特質: 三報告で取り上げられた三つの主体は、その野蛮で残酷な独 裁体制と独裁的政策と行動を、 「国民」のため、あるは、 「人民」、 「プロレタリアートと 貧農」のためといった総合的統合的概念で正当化し、宣伝・扇動を行ったことが、改め て確認できる。 5. 20 世紀前半の世界戦争の時代、帝国主義列強による死闘の時代がこうした野蛮な体制 を必然化し、イデオロギー的観念的に正当化する装置・手段を生み出したことがわかる。 6. 今日的到達点(繰り返しになるが、二つの世界大戦とその帰結としての冷戦体制を克服 した世界史的転換・ 「ベルリンの壁」の崩壊・平和革命から 20 年以上経た今日の人類・ 世界の到達点)からみれば、実際には、両大戦間期の「国民」、 「人民」、 「プロレタリア ートと貧農」概念などが、実は実態とかけ離れていたということである。ドイツに関し て言えば、ナチ党はワイマール民主主義の多党制の時代には、最高得票率(32 年 7 月) で、40%未満。33 年 1 月のヒトラー政権誕生後の、政権党としての、そして国会放火 事件を利用して弾圧による圧倒的に優勢な選挙戦の結果でも、40%台の得票にとどまっ たという現実がある。だからこそ、反対政党を弾圧し、非合法化したともいえる。 1 7. 「国民」、 「人民」といった「全体」を意味する概念が、政権党により僭称された、実態 とはかけ離れていたということであろう。その意味では、「全体」主義が、実は、民主 主義的な意味での「全体」ではなかった、むしろその反対物であったということであろ う。というよりも、今回取り上げられた 3 つの宣伝・扇動の主体は、独裁を公然と認め、 当然のこととしている諸主体である。そのことが、今回の三つの報告で実証された具体 的な言説から、確認できる。当時は、世界的に民主主義の価値と重要性が確認されてい る現代からは想像もできないような「危機の時代」だったことがわかる。 8. 今回の三報告は、「自由と民主主義」を掲げる諸国(英・米など)を問題にしてはいな い。しかし、二つの世界大戦から現代までの世界史をみれば、英米など自由と民主主義 を標榜する諸国における不自由と非民主主義の実態をも直視しなければならない、それ らとの世界的な連関の中に、第三帝国ドイツ、フランス右翼やスターリン体制のソ連が あった、ということである。「自由と民主主義」の実態の世界史的水準が問われなけれ ばならない。 9. とくにイギリスは世界最大の植民地帝国として、アメリカ、フランス、オランダなども 植民地の所有・支配や人種差別によって、人種主義的支配体制の国際的連関の中に重要 な位置を占めていた。ヒトラーの人種主義的帝国主義は、「大国としての平等の権利」、 そうした先進帝国主義との同権をもとめるという側面、したがって世界の支配的現実か らみれば、多くの大衆への、その国民への浸透力があったということである。ヒトラー 政権初期の政策は、ヴェルサイユ体制の帝国主義的抑圧体制を公然と批判するという意 味で、民主主義的側面をもち、正常な状態への復帰という正当な国民的願望に応える側 面があった。その意味では、宣伝・扇動の浸透力の背後にある強烈な事実、世界史的現 実という側面も、見据えていく必要があろう。 10. しかし、この点は、すでに多くの人により確認済みのことといえるかもしれない。だが、 世界を覆う危機の時代には、われわれが全く気付かなかったような問題群をも発生させ ていた。その一例が、「中立国スイスとナチズム」の関係である。この点に関して、最 近、書評を書き投稿した(掲載時期は未定)ので、コメントの補足資料として、添付し ておきたい。 11. そのポイントを言えば、中立国スイスも、帝国主義列強のせめぎ合う世界において、 「中立」を維持することがいかに困難であったか、ということである。 12. 「中立国」スイスが、ドイツ第三帝国に協力し、緊密な経済協力関係を結ばざるを得な 2 かった世界戦争の時代を真正面から直視すること、それが可能となったのは、実は、冷 戦体制の解体後であった、ということである。 13. すなわち、今回の三報告が対象とした「危機の時代」は、各国の「国民」的、 「人民」 的見地なるものからの政策と行動により、中立国の尊厳と存在をも脅かすものであった、 ということである。 14. しかしながら、翻って考えてみると、現在の世界は「危機の時代」ではないのか?原 発事故は、まさに現代の日本と世界があらたな「危機の時代」にあることを示してはい ないか。また、ユーロ誕生から 10 年少しでギリシャ離脱、ユーロ崩壊、 「リーマンショ ック以上の危機」とさえ云々されるヨーロッパ、そこでの保護主義・閉鎖的経済システ ムとナショナリズムの回帰(ドイツ世論における「マルクへの復帰」三十数パーセント?) が危惧されている目下の世界情勢がある。 15. まさに、この「危機の時代」の波に乗る形で、「国民」を看板にしたナショナリズムが 跋扈し始めてはいないか? 世界の問題の民主主義的解決策、 「危機の時代」への対応、 行動と政策は、どうあるべきか? 16. 今回のフォーラムは、この我々が直面している現在の世界的危機を、どのように考え、 対処し、行動していったらいいかを考えさせてくれる、反面教師としての、貴重な好材 料となっているのではないか。活発な議論と認識の深化・正確化を期待したい。 ――――――――――――――――― 『社会経済史学』書評原稿: 独立専門家委員会「スイス=第二次大戦」第一部原編、黒澤隆文編訳 麻弥子・穐山洋子 川崎亜紀子・尾崎 訳著『中立国スイスとナチズム―第二次大戦と歴史認識―』 1980 年代、ソ連・東欧をついには瓦解させることになるペレストロイカ、グラスノスチ、 すなわち自由化と民主化のベクトル群が世界を驚嘆させたが、まさに同時並行的に西側に おいても冷戦体制の中で封じ込められ、隠ぺいされていた問題群が多かれ少なかれセンセ ーショナルに暴かれ、俎上に載せられたた。第二次大戦中の不法行為の責任問題、それに 関連する賠償問題が次々と発生した。アメリカ政府は日系アメリカ人強制収容で不法行為 を認め、賠償金を支払った。オーストラリアの先住民・アボリジニは白人に賠償責任の履 行を要求し、ナミビアのヘレロの子孫は、20 世紀初頭のドイツ植民地で多数のヘレロが殺 害されたことに対し、ドイツに多額の支払いを求めた。「従軍慰安婦」だった韓国の女性た 3 ちは人間としての尊厳の回復を求め、日本政府に賠償を要求した。こうした世界的うねり のなかで、90 年代半ば、戦時中・戦争終結直後からくすぶっていたスイスの第二次大戦中 の行動と戦後処理が問題となった。 スイスに対して向けられた問題群と非難はつぎのようなものであった。①所有者消息不 明資産の問題。スイスは虐殺されたユダヤ人の財産によって富を築いた。元の所有者のユ ダヤ人の子孫に返還すべき口座をいまだに持っている。②難民政策の厳しさ。もっと大量 の難民を受け入れることができたはずだ。そうすれば大勢のユダヤ人が国境で入国拒否さ れ絶滅収容所に送られることはなかった。③ナチスの略奪品の買い取り。スイス国立銀行 は略奪品だと知りつつドイツから金を買った。スイス連邦はナチスが略奪した財産の取引 を阻止するために何ら有効な対応策を講じなかった。④ナチスへの経済協力、それによる 戦争の長期化。金の購入、寛大な借款供与、軍需物資の供給により、ドイツに協力し戦争 の長期化を招き、同時に大量虐殺の長期化をも招いた、と。 問題の発端となった所有者消息不明資産の問題は、歴史科学的研究とは別に、ある意味 で政治的に解決された。スイス銀行家協会はアメリカの元 FRB 議長ポール・ボルカーを委 員長とする「独立賢人委員会」を設け、膨大な費用をかけ、諸銀行においてナチ時代に由 来するすべての所有者消息不明資産を捜索した。そしてスイスの大銀行は 1998 年 8 月、ア メリカの原告と和解し、12 億 5000 万ドルを支払うことにした。この額によって、今後も 独立賢人委員会が発見するであろう所有者消息不明資産の総額が弁済されたものとみなさ れた。そこにはまた将来におけるスイス連邦およびスイス国立銀行に対する訴訟すべても 含まれた。 しかし、なぜ前述のようなスイス非難が戦後ずっとくすぶり続け、未解決だったのか。 そもそもこのよう問題群はなぜ、どのような国際的国内的状況で発生したのか。この問題 を抜本的に解明するために、連邦議会は 1996 年 12 月、独立専門家委員会の設置を議決し た。連邦議会は問題を前向きにとらえ、委員会に本格的な歴史的解明の課題を与えた。歴 史研究では前代未聞ともいうべき強大な調査権と巨額の研究調査資金を与えた。強制的な 閲覧権は、銀行業、保険業、製造業など民間企業の文書の調査を可能にした。銀行の守秘 義務や、文書の利用に関連するその他の法規も、委員会とその参加者の活動を妨げないと された。連邦内閣は、バルトシェフスキ(ポーランド人、アウシュヴィッツ囚人経験、ワ ルシャワ蜂起参加、ルブリン大学現代史教授、ミュンヘン大学他で政治学教授、2000 年 6 月ポーランド外務大臣) 、フリードランダー(プラハ・ユダヤ人家庭の出、カリフォルニア 州立大学教授、テルアヴィヴ大学教授を歴任)といった外国の研究者を含む歴史と法律の 専門家 9 名を任命した。予算は 2200 万フランで、最も集中的に作業がなされた 2 年間には 40 名を超える研究者がスイス内外の文書館で史料収集にあたったという。その研究成果の 最終的なエッセンスがここに訳出されたわけである。 本書は二部構成であり、第一部「ナチズム・第二次大戦とスイス」が、独立専門家委員 会「スイス=第二次大戦」の最終報告書(2002 年)の翻訳である。委員会はそれに先立っ 4 て問題別に詳細な調査結果を全 25 巻(総計約 1 万 1000 頁)にまとめた。それぞれの巻の 結論を一冊に取りとめたのが、この最終報告書(本書で 486 頁のボリューム)である。こ れを黒澤・川崎・尾崎の 3 名が分担して翻訳し、全体の点検・統一・訳注などの最終責任 を黒澤が負っている。構成は、前書き、1.委員会設立の経緯と課題、2.国際情勢とス イス、3.難民と難民政策、4.国際経済関係と資産取引、5.法とその運用、6.戦後 における財産問題、7.結論:研究成果と未解明問題、となっている。 第二部「スイスの近現代史と歴史認識」は、第一部をスイス史の中に位置付けて理解で きるようにするための独自論文 5 本で構成されている。それらは黒澤が編者となってまと めたものであり、次のような内容である。1.多国籍企業・小国経済にとってのナチズム と第二次大戦(黒澤)、2.スイス・フランス国境地域と第二大戦(尾崎)、3.スイスの ユダヤ人解放をめぐって―アルザスユダヤ人との関係を中心に―(川崎)、4.スイスの外 国人政策―19 世紀末から「外国人の滞在と定住に関する連邦法(1931 年)」成立まで(穐 山)、5.スイスの「過去の克服」と独立専門家委員会(穐山)。それぞれに力作であり、 各論文の相互連関性によって、「中立国」スイスをめぐる一筋縄ではいかない複雑な諸関係 が明らかにされ、わが国のこれまでのスイス認識の一面性を根本的に改めさせるものとな っている。この部分だけの独立の著書としても価値があろう。 しかし、なんといっても第一部が圧巻であり、みごとな本格的実証研究となっている。 その内容は、 「ナチズム・第二次大戦とスイス」というタイトルから期待されるよりはるか に広く深い射程をもち、スイス問題を突破口として、それと密接に結びつくヨーロッパ史・ 世界史との関連を明らかにし、われわれの世界現代史理解を大きく前進させる高い水準の ものとなっている。第一次大戦とその帰結、ヴェルサイユ体制とその問題性、そして連合 国と枢軸国が世界戦争で死闘を尽くす全体状況、ドイツの軍事的優勢から敗退への変化、 連合国の勝利、冷戦体制といった世界的力関係の変化が、そのときどきのスイスの国家と 社会・経済の行動を、そしてまた世界各国のスイスに対する態度を規定したことが理解で きる。 提起された問題群は膨大な史料に基づき、事実連関に即して冷徹に解明されている。そ の成果を簡単に要約することは、具体的な連関を抽象的に抜き出すことになり不適切であ ろう。しかしその危険を念頭に置きつつ、評者の観点から経済的関係に関する結論的部分 の若干だけを紹介しよう。 最終報告書によれば、1930 年代当時スイスの最大の貿易・投資相手国となっていたドイ ツの景気が再軍備により力強く回復し始めると、ドイツ市場が魅力的となった。ナチス・ ドイツの地位が強まるとスイス経済界はドイツの状況への順応と強め、経済界の圧倒的多 数の者がこれに屈した。その結果、銀行・保険会社はナチスの迫害を受けた顧客の利害を 無視するに至り、ユダヤ系社員を解雇し、スイスの新聞社に対して、ドイツの取引相手や 政治組織についての批判的な記事を書かないように圧力をかけた。そして、戦争の間も、 スイスの銀行はドイツの経済界に資金供給をつづけた、と。 5 スイスは国土防衛のため 1939 年 9 月 2 日に総動員令を発した。総司令官ギザンは、フラ ンス軍の司令部とひそかに軍事援助協定を結んだ。40 年 5 月初旬、スイス軍は最大限の出 動準備態勢にあった。ドイツのフランス攻撃がスイス経由で行われることが危惧された。 戦後明らかになったように実際に、40 年 6 月から 44 年まで、スイスを攻撃するドイツの 様々な計画があった。ドイツがフランスを占領し、イタリアもこれに加わって枢軸がヨー ロッパを支配している権力状況で、態度が変化した。スイスは一方では政治的軍事的独立 を守る姿勢を保ちつつも、他方で経済的にはドイツと通商協定を締結し、数回にわたり延 長した。ドイツは石炭、鉄、石油その他の原料を供給し、スイスはドイツの軍需産業用の 製品及び農産物、電力を供給した。1909 年のゴットハルト条約に従って、枢軸国ドイツと イタリア間のアルプス鉄道の連絡を保障した。周囲を枢軸国に包囲されたスイスは、連合 国および中立国に対しても戦時中を通じて貿易関係を維持したが、総体としてみるとドイ ツによって支配された経済圏に統合される度合いが強かった、と。 だが、実はスイス経済とドイツ経済の関係はナチス政権以前から密接だった。とくに 1920 年代と 30 年代初頭、ドイツによる隠密裏の軍需開発をスイス企業は支援し、スイス当局は それを黙認していた。この関連からすれば、スイスはヒトラー・ナチス政権が短期間のう ちに戦争遂行可能な水準に達するのを助けたのである。20 年代初期から、ヴェルサイユ講 和条約の結果、高度に発達したドイツの軍事技術はスイスに移され、そこでさらに発展を 遂げていた。これが 32/34 年以降ドイツに持ち帰られた。スイス政府は、輸出能力のある ドイツの武器製造企業がスイスへ移転することを、軍事政策上・外交上の理由で歓迎した。 スイス政府は 1918 年以来、戦勝国の論理の行き過ぎに反対しており、勢力均衡の必要性を 主張していた。ドイツを対等のメンバーとして国際連盟に加盟すべきであり、内外のボル シェヴィキ勢力による挑戦に対して、十分な軍備をもつべきであると考えていたのである。 最終報告書を読んで驚くのは、こうしたヴェルサイユ体制に対する根本的な批判に基づい た、ある意味で確信犯的な中立違反のいくつもの事例である。その事実関連が隠されるこ となく明らかされていることに感銘を受ける。 スイスが中立を守ったという抽象的一面的な歴史イメージは今回の最終報告書が究明し た事実群により修正され、表面的で感情的な弁護論の余地は残されていない。逆にまた表 面的で感情的なスイス非難も歴史科学の方法によってリアルかつ説得的に批判されている といえよう。その意味で本書は、歴史を問い直し見つめなおす課題について歴史研究がな すべき貢献の在り方、歴史研究の方法やあり方をも模範的に示すものとなっている。翻訳 の労を多としたい。 京都大学学術出版会、2010 年 11 月、XII+719、9000 円(本体);450 円(税)。 評者:永岑三千輝(横浜市立大学名誉教授) 6
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