市民社会へ−個人はどうあるべきか

まちづくりと市民参加 Ⅳ
市民社会へ−個人はどうあるべきか
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
財団法人まちづくり市民財団 理事長 村岡 兼幸
「市民社会へ」と考えたとき、社会のさまざまな「システム」や
「主体としてのセクター」について、私たち「市民」はさまざまに
活動し、提言し、特定非営利活動促進法をはじめとしていくつかの
施策を現実のものにしてきました。また、その過程で「市民の活動」
の意義や未来性、必要性などをさまざまに語り、多くの人たちに共
感・共鳴をいただきながら、市民活動を行いやすい環境づくりを進
めてきたのではないかと思っています。
そして、
「市民社会」の主役は、
「NPO」
「企業」
「行政」という
セクターや組織ではなく、ひとりひとりの「個人」であると思って
います。その個人がそれぞれの持つコミュニティや社会、組織のな
かで、これまでどのように行動し、あつかわれてきたかを考えると
き、
「市民社会へ」と向かうステップとして、どうしてもこの「個人」
のありようについて、きちんと「変化」を示していきたいと考えま
す。
個人は、これまで「組織のための個人」という位置づけで、社会
のなかで多く語られてきたと思っています。しかし、これからは「個
人のための社会」という位置づけで語られるべきであり、
「組織やシ
ステムを活用して、個人が思いを形にしていく」というように変わ
っていくべきだと考えます。いわば「個人の思いを形にしていくた
めの社会システム」が構築されてきて、はじめて「市民社会」とい
う言葉が現実味をおびてくると考えます。
そのとき、個人はどうあるべきか?
その点について、わたくしたち市民は、いろいろな現場で出会っ
たみずからの経験をふまえながら、個人のありようについてさまざ
まに語っていくことで、多くのことを示せるのではないかと考えま
す。もちろん人間は、けっして思いのままにストレートに行動でき
るということでなく、社会との関係の中で、ぶれやふくらみ、迷い、
揺れなど、さまざまな幅を持ちながら活動し、人間らしく、さまざ
まなことと取り組んできて今日があると考えていますし、そのこと
をきちんと伝えていきたいとも思います。
財団法人まちづくり市民財団では、今回、地域で市民活動のネッ
トワークと取り組んでいる全国の方々に、
「市民社会へ 個人はどう
あるべきか」について、1995年以降のご自身の活動を通じて語
っていただきたいと考えました。これらのご報告を『まちづくりと
市民参加 Ⅳ』にまとめさせていただくことにより、併せて、これま
であまり語られなかった「日本の市民社会への道筋をつくりだして
こられた多くの方々の思い」の一端でも、記録に残すことができれ
ばとも考えています。
「市民社会へ」という大きな流れをここまでつ
くりだしてきたみなさんが、それを次のステップへと進めて行こう
とするときの、力強い道しるべのひとつでも確保できればと考えま
す。
このような思いから、全国の多くのみなさんに無理をお願い申し
上げ、今回『まちづくりと市民参加Ⅳ』を発行させていただくこと
になりました。この報告書が全国でまちづくりにとりくんでおられ
る多くのみなさんのお役に少しでもたてればたいへん幸いです。最
後になりましたが、本書を発行するにあたりさまざまにご協力いた
だきました本当に多くのみなさんに感謝申し上げます。
総目次
はじめに
村岡兼幸/財団法人まちづくり市民財団 理事長
目 次
第一章「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
○執筆者紹介
○対談「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
中村陽一
立教大学大学院 21 世紀社会デザイン研究科 教授
村岡兼幸
財団法人まちづくり市民財団 理事長
○寄稿「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
川崎あや
まちづくり情報センター・かながわ 事務局長
津田祥子
北海道NPOサポートセンター 理事
上土井章仁 NPOくまもと 代表理事
松本美穂
市民フォーラム21・NPOセンター 主査
鈴木 歩
シーズ=市民活動を支える制度をつくる会
横田能洋
茨城NPOセンター・コモンズ 常務理事
具志真孝
那覇市NPO活動支援センター
三木秀夫
大阪NPOセンター理事 弁護士
長崎禎和
三重県NPOチーム
加藤知美
さっぽろ村コミュニティ工房 理事
新田英理子 日本NPOセンター 企画スタッフ
岸田眞代
パートナーシップサポートセンター 代表
久住 剛
パブリックリソースセンター 代表理事
石井伸弘
市民フォーラム21・NPOセンター 事務局次長
村山康成
新潟NPO協会
半田雅典
高知県ボランティア・NPOセンター
小林薫信
北海道NPOサポートセンター 理事
真嶋克成
大阪NPOセンター 理事
大木直也
くれ未来塾
服部則仁
ひと・まち・未来ワーク 代表
渡辺豊博
静岡県生活・文化部NPO推進室 室長
阿部圭宏
淡海ネットワークセンター
須藤路子
山形創造NPO支援ネットワーク 理事
今瀬政司
市民活動情報センター
松浦さと子 市民とメディア研究会・あくせす 運営委員
紅邑晶子
せんだい・みやぎNPOセンター 常務理事
第二章 平成13、14年度 研究交流事業 巡回フォーラム報告
○平成13年度 研究交流事業
中部5県巡回フォーラム∼市民活動を行ないやすい環境づくり∼
代表執筆 松本美穂
市民フォーラム21・NPOセンター 主査
1.中部5県巡回フォーラム「市民活動を行ないやすい環境づくり」の概要
2.愛知「行政のNPOに対する事業委託」
市民フォーラム21・NPOセンター 自治体とNPO協働研究会
3.長野「地域通貨」
長野県NPOセンター
4.三重「資金サポートシステム」
市民活動資金サポートシステム研究会
5.静岡「市民の役割、行政の役割、中間支援組織の役割」
浜松NPOネットワークセンター
6.岐阜「NPO基礎理解」
ぎふNPOセンター
7.まとめ
○平成14年度 研究交流事業
九州・沖縄5県巡回NPOフォーラム∼NPOの息づく社会づくり∼
代表執筆 上土井章仁
NPOくまもと 代表理事
1.九州・沖縄5県巡回NPOフォーラム「NPOが息づく社会づくり」の概要
2.熊本「ボランティアとNPO∼私にもできることがきっとある」
NPOくまもと
3.佐賀「市民が動けば、まちが息づく」
さが市民活動サポートセンター
4.沖縄「NPOが根付いた市民社会とは!」
那覇市NPO活動支援センター
5.福岡「NPOは21世紀のフロンティアなるか?」
ふくおかNPOセンター
6.宮崎「人にやさしい福祉のまちづくり/共生・共感・共動」
宮崎県ボランティア協会
第三章 平成13年度 まちづくり助成金事業報告
1.地域の自然環境の改善と再生(チョウのサンクチャリ)事業
日本ふるさと研究会/長野県北佐久郡立科町桐原
2.福住氷まつり
未来(ユメ)クラブ/奈良県天理市福住町福住地区
3.建築と子どもたちワークショップ 2001
建築と子どもネットワーク仙台/仙台市青葉区堤町
4.育て菅刈どんぐり林
NPO菅刈ネット 21/東京都目黒区区立菅刈公園
5.素人芝居大浦安2001公演制作及び開催事業
素人芝居大浦安制作委員会/新潟県東頸城郡浦川原村、及び東京都葛飾区柴又
6.市民参加による 21 世紀の新旭風車村のまちづくり
まち子とつばさ(まちづくり実行委員会)/滋賀県高島郡新旭町華園、新旭風車村一帯
7.里山保全ワークショップ in 庄原
「里山保全ワークキャンプ in 庄原」実行委員会/庄原市国営備北丘陵公園及び七塚原一帯
8.What’s up in Kuwana ?! 高校生スペシャル
What’s up in Kuwana ?! /三重県北勢地域
9.境川流域の自然景観づくり
境川流域の自然景観をつくる会/藤沢市(今田・高倉)
・横浜市の境川流域
10.一色能の開催
一色町能楽保存会/一色町公民館仮設能楽舞台
11.水元公園WAKATE フェスタ
特定非営利活動法人葛飾区若手産業人会/東京都立水元公園(葛飾区)せせらぎ広場周辺
12.環境を考えるガーデニング講座
特定非営利活動法人 日本公開庭園機構/大田区、世田谷区、杉並区、文京区、台東区
13.国東半島安岐海岸子供体験フェスタ 2001
国東半島安岐海岸ふるさとづくりの会/大分県東国東郡安岐町大字塩屋 安岐海岸
14.THINK 世田谷/地球環境セミナー
世田谷「地球村」/東京都世田谷区世田谷 世田谷区民会館ホール
15.旧桑島眼科医院の内部設備改善事業
旧桑島眼科医院保存の会/長井市本町 桑島記念館
16.忠別川C&R(キャッチアンドリリース)普及啓発活動事業
アールエヌアイ/北海道旭川市 忠別川中・下流河川河畔地区
17.「桃色レンガ ワークショップ∼ 桃色レンガで地域住民の過去と未来をつなぐ」
NPO法人 琴芝ふぁんくらぶ/山口県阿知須町 山口きらら博 きららネットギャラリー
18.渋田川沿いに自然環境に配慮したプロムナードづくりとその維持管理
21 渋田川プロムナードプラン推進協議会/平塚市域内の渋田川沿川
19.岩島の麻づくり体験及び後継者育成事業
日本麻協会/長野県諏訪市 岩波金太郎氏の作業場
20.上五十沢集落の地域と風景の保全
五十沢木匠塾/山形県村山市五十沢地区
21.良寛さまとあ・そ・ぼ 祭
良寛さまとあ・そ・ぼ祭実行委員会/八幡公園・越後三条良寛の道
22.F−プロジェクト(荒れ地に花を咲かせましょう)
F−プロジェクト実行委員会/富山県新湊市海王地区
第四章 平成13年度 アウトドア・クラスルーム登録事業報告
1.本郷西小学校フラワーロード事業
大江町立本郷西小学校/山形県大江町十八才地区
2.三郷ハートフルグリーンプラン推進事業
ハートフルグリーンプラン推進委員会/山形県大江町三郷地区
3.新世紀記念・夢っ子の花の森づくり
かさい夢っ子クラブ/加西市西笠原町 旧下里小学校跡地
4.竹炭で川をきれいに大作戦
特定非営利活動法人二十一世紀まちづくりの会/鳩山町内、ほか
5.朝里ほたるの里事業
朝里のまちづくりの会/地域会員各家庭と小学校 2 校
6.あそぼう広場
あそぼう広場実委員会/仙台市青葉区旭ヶ丘 旭ヶ丘町内会集会所、チビッコ広場その近隣
7.子供たちと村づくり
麓いきいき村づくりの会/麓ふれあいセンター・六萬騎山裾・真浄寺・他地区内
8.「安代町結っこ子供バスターズ」
「安代町結っこ子供バスターズ」/岩手県安代町
9.花いっぱい、楽しさいっぱいの通学路整備
奥大野村づくり員会/京都府中郡大宮町字奥大野
10.庭づくり夢プロジェクト
大河内庭づくり実行委員会/静岡県静岡市大河内地区
11.市民ガーデン計画∼居心地のいい場所つくろう!∼
市民ガーデンテイルス/三重県桑名市藤が丘デザイン公園及びその周辺
第五章 平成14年度 まちづくりファシリテーター派遣事業 報告
山本一雅
財団法人まちづくり市民財団 運営委員
おわりに
服部則仁
編著者・財団法人まちづくり市民財団 運営委員
第一章
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
執筆・対談者経歴
*できる限り本人の記載に忠実に掲載しました。
阿部 圭宏(あべ よしひろ)
1958年滋賀県生まれ。80年から滋賀県庁勤務。97年4月、
(財)淡海文化振興財団(愛称:
淡海ネットワークセンター)設立と同時に出向。特定非営利活動法人NPO政策研究所理事、特定
非営利活動法人ひとまち政策研究所理事、自治体学会運営委員、近畿自治体学会運営委員。滋賀県
内の市民団体、ひとまちネット滋賀、大津の町家を考える会などにも所属。その他、月刊ボランテ
ィア編集委員
(大阪ボランティア協会)
、
大阪ボランティア協会NPO推進センター運営委員会委員。
石井 伸弘
特定非営利活動法人市民フォーラム 21・NPO センター事務局次長。1972 年群馬県生まれ。名古屋
大学大学院工学研究科修了。大学 1 年の冬からさまざまな環境活動を始め、全国青年環境連盟(エ
コ・リーグ)中日本ブロック事務局長、えこわーく Station 代表、名古屋オイルバスターズ事務局
長他。1995 年より市民フォーラム 21 に参画、1997 年 11 月の市民フォーラム 21・NPO センター
立ち上げに事務局職員として関わる。2000 年より現職。
今瀬 政司
1991 年法政大学卒業後、(株)大和銀総合研究所に入社、国・自治体等の調査・政策立案(経済産業
省産業構造審議会NPO部会等)に携わり、2002 年 9 月退社。一方、学生時代から様々な市民活
動に参加。1995 年に市民活動情報センターを設立し、現在に至る。(社)奈良まちづくりセンター理
事、(特活)大阪NPOセンター理事、(特活)NPO政策研究所理事、日本離島研究会会員、下北山村
ツチノコ共和国国民、非常勤講師(大阪産業大学・鳥取大学)
。
大木 直也
昭和38年1月8日生まれ。オオキグループ代表。1995 年(社)日本青年会議所中国地区基本政策策
定委員会 委員長。1996 年(社)呉青年会議所 副理事長。1997 年(社)日本青年会議所 NPO 推進政策
委員会 副委員長。1998 年(社)呉青年会議所 理事長。1999 年(社)日本青年会議所 NPO 政策委員会
委員長。2000 年(社)日本青年会議所 国家政策会議 議長。2001 年(社)日本青年会議所 評議員 広
島ブロック協議会 会長。2002 年(社)日本青年会議所 常任理事 中国地区協議会 会長 。
加藤 知美
コミュニティ放送局などを使って情報によるまちづくりをおこなう「NPO法人さっぽろ村コミュ
ニティ工房」理事。北海道のNPOを応援する「NPO法人北海道NPOサポートセンター」理事。
IT時代の市民を応援する「NPO法人インフォメンター」代表理事。全国初NPOによるNPO
のための融資システムを支える「NPOバンク事業組合」理事。有限会社オフィス312取締役。
1966年横浜生まれ。京都大学教育学部卒業後、日本電信電話株式会社(当時)に入社。退社後、
鹿児島、函館と転居し、日本で最初のコミュニティFM放送局FMいるかと出会う。その後、札幌、
岩見沢でのコミュニティ放送局に携わり、有珠山噴火に際しては虻田町が開設した災害臨時FM放
送局FMレイクトピアの開局を支援。最近重たい肩書きが増え少々困惑しているが、日常的に事務
所でエプロンとサンダル姿で走り回っているのが本来の姿。
川崎 あや
1962 年千葉県生まれ。10 代を鎌倉市で過ごす。高校卒業時に、あまりの社会・政治意識の欠如に
自ら気づき、中央大学法学部政治学科に入学。大学の先輩にそそのかされ、1 人暮らしを始めた川
崎市多摩区で自由ラジオ放送の活動に参加。地域で活動する生活クラブ生協の女性たちと出会い、
地域の市民活動や市民選挙活動へと参加。大学卒業後、世田谷区へ移転。中央大学大学院で地域政
治を専攻する傍ら、1988 年に発足したアリスセンター(まちづくり情報センターかながわ)のアル
バイトスタッフになる。そのまま就職。1995 年から事務局長。1999 年のアリスセンターNPO法
人化に伴い、理事・事務局長を兼任。2002 年 9 月末で理事を退任し、事務局長職に専念すること
になる。1997 年より藤沢市在住。2001 年に設立したふじさわNPO連絡会代表理事。小学6年の
娘、2年の息子との3人暮らし。NPOスタッフの給料のみで扶養家族をもつ希少な(?)存在。
岸田 眞代(きしだ まさよ)
特定非営利活動法人パートナーシップ・サポートセンター代表理事(事務局長兼務)。フリーの新聞
雑誌記者などを経て、夫の転勤で名古屋に移転。学習塾、作文教室を主宰しながら、子ども会、社
会教育に関わる。その後、産能大学講師の一方で、人材派遣会社の責任者として女性の再就職のた
めの情報誌「WISH」を創刊させる。現在はコンサルティングや社員教育を行なう(有)ヒューマン
ネット・あいの代表取締役。企業・自治体での各種研修講師。「リーダーに求められる要件・能力 (自
己分析 200 問) 」を独自に開発。93 年 NPO と出合い、アメリカ視察。94 年に名古屋にて NPO セ
ミナーを 3 回開催。95 年から現市民フォーラム 21・NPOセンター設立にかかわり、98 年パート
ナーシップ・サポートセンター(PSC)設立。現在代表理事(事務局長兼務)
。日本NPO学会理
事、市民フォーラム 21・NPO センター理事、東邦短大非常勤講師、名古屋市公共事業評価監視委
員会委員他各種委員。
「NPOと企業の社会貢献―企業は地域に何が出来るか」
(PSC 編著)
、
「女が
働く 均等法その現実」
(六法出版社)
、
「NPOって何?NPOの社会的役割」
、
「NPOとのパート
ナーシップで企業は伸びる」
、
「企業の社会貢献活動―企業は地域に何が出来るか」
、
「企業評価・NPO
評価・パートナーシップ評価」
、
「リーダーシップ研修」(200 問の自己分析による)、
「時代の求める
ニューリーダー」
、
「(NPO・企業)のビジネスマナー講座」
、
「スピーチトレーニング」
、「プレゼン
テーション」、
「女性の能力開発」その他多数
具志 真孝
1956 年沖縄県名護市生まれ。那覇市職員。1999 年4月から那覇市企画部企画調整室 にて、NP
O活動支援センターの設立準備にあたり、
2000 年1月の同支援センター設 立と同時にスタッフと
して現在に至る。2000 年8月にモンゴルへの物資支援ツアーに 参加。2001 年4月にはオースト
ラリアのパーマカルチャーW・S 体験ツアーに参加。 2002 年 10 月にオーストラリアからジル・
ジョーダン女史と由香里・デジャーディン 女史を沖縄に招いて、
「21 世紀のコミュニティ」をテ
ーマに、
“コミュニティいきいき 国際フォーラム”の企画実施に携わる。
久住 剛
明治大学卒業。1999 年ニューヨーク大学大学院ロバート F.ワグナー校公共政策・NPOマネジメ
ント修士課程修了。日本ネットワーカーズ会議、市民セクター支援研究会などの場で、自治システ
ム、まちづくり、環境保全、市民活動、NPO支援システム等に関する調査研究及び実践に長年携
わる。96 年日本NPOセンター創設に参画、同企画運営委員。97 年よりニューヨーク大学大学院
において「行政とNPOのパートナーシップ」を中心に研究。2000 年パブリックリソースセンター
(CPRD)創設に参画、同代表理事。2002 年明治学院大学法学部非常勤講師。自治体学会委員。
市民社会創造ファンド運営委員。
(著書)
「NPO基礎講座」
(ぎょうせい 1997 年)
、
「パブリックリ
ソースハンドブック」
(ぎょうせい 2002 年)
。
小林 董信(こばやし しげのぶ)
1947 年札幌生まれ。札幌育ち 54 歳。1971 年 北海道大学文学部(社会学専攻課程)卒業後、サラ
リーマン生活8年(大中小 3 カ所を渡り歩く)30 歳で脱サラ。食料品の共同購入団体「たまごの会」
設立。4 年で会員 6,800 世帯,年間事業高 2 億 8 千万円,スタッフ 13 名。1982 年 12 月 生活クラ
ブ生活協同組合(北海道)設立専務理事就任,組合員 1 万世帯,事業高 20 億円,出資金 2 億円の
計画を 7 年で達成(1990 年 5 月退任)
。その後、社会福祉法人愛和福祉会(保育園 7、高齢者施設
3、障害者施設 8 カ所運営)理事、社団法人市民科学研究機構設立副理事長など歴任。1990 年 6 月 か
ら米酒たばこ小売店経営 (現在に至る。潰れかかっている)
。1995 年 5 月NPO推進北海道会議
設立幹事(99 年 4 月NPO法人化で理事就任)
。1998 年 3 月 北海道NPOサポートセンター設立
理事・事務局長就任。2001 年 9 月∼政府産業構造審議会NPO部会委員。
上土井 章仁(じょうどい あきひと)
計量士の資格を有し、計量器の製作・修理・販売・検査をする企業「株式会社 肥後計量器」の代
表取締役。NPOへの情報提供やスキルアップ講座の開催・相談へのコンサルティング、NPOと
他セクターが協働するプログラム作成へのコーディネーション、調査・研究・政策提言、ボランテ
ィア活動の普及・啓発のための研修会の開催などNPO(民間非営利組織)の活動を支援する団体「特
定非営利活動法人NPOくまもと」代表理事。熊本大学 非常勤講師(NPO、ボランティア)。
(社)
熊本青年会議所では、子供たちに未来を託す発表会「フューチャーズ・キー21」や熊本城を使っ
たまちづくり提案のフェスティバル事業「全国城下町シンポジウム 熊本大会」など青少年の育成
や熊本の魅力を開発する事業にかかわる。
(社)日本青年会議所では、NPOの育成のためのプログ
ラム等を作成し、特定非営利活動法人の全都道府県での法人税減免等として結実する。また、アメ
リカの非営利教育機関「Up with People」の熊本市受入では、行政と市民による実行委員会を組織、
事務局次長として活躍。
「Up with People」は、その活動を熊本での受入方式を基礎に2004年
活動再開予定。その他、各種事業へボランティア参加する。社団法人熊本青年会議所 副理事長、
「熊本県社会参加活動推進基本方針作成懇談会」委員、
「熊本県地域づくり推進」スタッフ、
「熊本
県社会参加活動推進施策作成ワークショップ」メンバー、内閣府・熊本県主催「ボランティア国際
年記念事業∼2001ボランティア博覧際」実行委員会 総括(実行委員長)
、熊本市ハイデルベル
ク市姉妹締結10周年記念ワークショップ・コーディネーター等歴任。
鈴木 歩(すずき あゆみ)
1972年 埼玉県生まれ。女性。大学時代から東チモールの問題にボランティアで関わる。96
年、マレーシアのクアラルンプールで開かれた APCET II(アジア太平洋東ティモール会議)会議
に出席するが、マレーシア政府に妨害され会議は中止、強制送還されるという貴重な経験を持つ。
シーズには、設立当時からボランティアとして関わる。95年12月より、シーズ=市民活動を支
える制度をつくる会事務局勤務。2000年より事務局次長。
須藤 路子
1950年山形県米沢市生まれ。 銀行員を経て専業主婦をしていたが、1990年山形県の女性
リーダー講座を受講後、女性問題をテーマとした活動を行なう。同講座を受講したメンバーで作る
団体や、県の女性プランを民間で進める団体等の役員・代表。特に、山形県で女性達が、自ら企画
して歴史を学ぶ団体がなかったため、女性歴史サークル山形を立ち上げる。また、山形県は三世代
同居が多いことから、そのジェンダーの視点を探る女性団体、WHOS やまがたも立ち上げる。聞
き取りを中心に行い、国立女性会館主催女性学ジェンダーフォーラムで、ワークショップを4年連
続開催し報告をしている。それまで山形県の女性団体で、同フォーラムでのワークショップ開催が
なかったことから、後続を期待しての開催としている。この3年半、普段は山形創造 NPO 支援ネ
ットワークの本部事務局で、来客等の応対をして日々を過ごしているが、多様な団体からのニーズ
が多くなり、当初より外に出向く機会も多くなっている。
津田 祥子
1987年∼1994年 生活クラブ生活協同組合理事。1994年7月(有)SY企画室設立 代表。
1999年4月から 特定非営利活動法人 北海道NPOサポートセンター 理事(2期目)
。200
2年5月 特定非営利活動法人 在宅サ−ビス どさんこ 監事。現在に至る。
長崎 禎和(ながさき よしかず)
現在三重県生活部NPOチームで5年目を迎えております。行政職員としては 12 年目、 三重県職
員一筋です。仕事と人間関係のモットーは”適当にやること”を目指してます。三重県は奥伊勢に生
まれ、大自然に育まれて、育ちました。みえがとても好きです。おいしいものがたくさんあります。
身の丈はほどほどで、やや痩せ型です。遠くをみるのが好きです。こんな感じが自分です。
中村 陽一
1957 年生まれ。一橋大学社会学部卒業。㈱新評論編集部、日本生協連総合指導本部などを経て、
89 年、民間非営利独立のネットワーク型シンクタンク・消費社会研究センター設立、代表となる。
96 年都留文科大学文学部社会学科助教授、2000 年東京大学社会情報研究所客員助教授、同年都留
文科大学教授を経て、現在、立教大学大学院 21 世紀社会デザイン研究科教授(法学部教授兼任)
。
80 年代半ばより、地域の現場と往復しつつ市民活動・NPO/NGO の実践的研究、基盤整備、政策
提言に取り組んでいる。日本 NPO センター企画運営委員、NPO サポートセンター理事、21 世紀
コープ研究センター理事長、市民社会創造ファンド運営委員、パブリックリソースセンター理事、
さいたま NPO センター常任理事[以上すべて NPO 法人]、日本 NPO 学会理事、日本ボランティア
学会副代表なども務める。共(編)著に「日本の NPO/2001」
「日本の NPO/2000」
(日本評論社)
「都市と都市化の社会学」
(岩波書店)
「パブリックリソース・ハンドブック」
(ぎょうせい)
「アメ
リカの NPO」
(第一書林)
「非営利・協同セクターの理論と現実」
(日本経済評論社)他多数。
新田 英理子
特定非営利活動法人日本NPOセンター勤務。1970 年生まれ。京都精華大学人文学部卒業後、印刷
会社の社員教育部署を経て、96 年 9 月に退社。環境 NPO などでの嘱託スタッフやボランティアを
経験後、98 年 4 月より現職。センターでは、交流・研修事業を担当し、NPO 向けの講座や、NPO
支援センターのスタッフ研修などの企画・運営を行なっている。
服部 則仁
ひと・まち・未来ワーク代表。91 年から 97 年まで(社)日本青年会議所の政策系の会議・委員会に
出向し、97 年にNPO推進政策委員会の委員長になる。ちょうど特定非営利活動促進法の成立に向
けた時期に重なり、多くのNPO関係者と知り合う。青年会議所を卒業後、ひと・まち・未来ワー
クを設立し全国のNPO情報をITを使って循環させる。また、認証条例づくりや、三重などで地
域密着型のNPO・市民活動の分野を越えたネットワークの運営にもかかわる。まちづくり市民財
団評議員・運営委員として、研究交流事業の巡回フォーラムや政策研究事業の『まちづくりと市民
参加』を担当している。1957 年生まれ、現在 45 歳、三重県在住、愛知県内にある医療法人役員。
半田 雅典
高知県ボランティア・NPOセンター。1971 年高知市生まれ(30 歳)
。1994 年社会福祉法人高知
県社会福祉協議会の事務局職員となり、1997 年からボランティア活動推進担当。1999 年 10 月に
同会内に高知県ボランティア・NPOセンターを開設したのと同時にNPO支援を担当する。1998
年 9 月の高知豪雨、2001 年 9 月の高知西南豪雨の際には、被災地復旧のためのボランティア活動
の拠点となる「ボランティアベースキャンプ」の立上げ、運営を行い、それぞれ約 10,000 人のボラ
ンティアコーディネート業務にあたる。
現在、
NPOの経営力向上のための研修プログラムの企画、
実施から活動しやすい環境整備、行政セクター、企業セクターとのパートナーシップの仕組みづく
りなど高知県内におけるNPOの基盤整備全般を手掛けている。
紅邑 晶子
広告企画・制作、編集等の仕事を経て、95 年 6 月、NPO ということばに出会う。この出会いがき
っかけとなり、「市民活動地域支援システム研究会」「仙台 NPO 研究会」に参加。96 年 5 月より私
設事務所内に市民活動地域支援システム研究会・仙台委員会事務局を併設。また、市民活動団体の
交流広場「センダードサロン」の運営、市民・ボランティア活動情報誌「杜の伝言板ゆるる」の運営・
編集にも参加。97 年 11 月には、民間の市民活動支援組織「せんだい・みやぎ NPO センター」設立
に参加(99 年 7 月 NPO 法人化)
。現在、特定非営利活動法人せんだい・みやぎ NPO センター常
務理事・事務局長。
真嶋 克成(まじま かつしげ)
1939年、昭和14年11月京都府生まれ。同志社大学で新聞学専攻。ゼミは鶴見俊輔先生で、
庶民の目線から社会を見る目を学ぶ。学生時代、伊勢湾台風被災者救援活動やフイリッピンでのワ
ークキャンプに参加し、社会貢献活動、国際理解・交流に関心を持ち、卒業後1938年、大阪Y
MCAに入会。在職中1969年,6ヶ月間韓国ソウルYMCAでの研修。関西NGO協議会事務局
長、国際・社会奉仕センター所長、国際専門学校校長などを歴任し、1996年末退職。1997
年より大阪NPOセンター事務局長に就任。1999年4月より帝塚山学院大学国際理解研究所室
長として勤務,現在に至る。特定非営利活動法人大阪NPOセンター理事、特定非営利活動法人循環
共生システム研究所理事、とんだばやし国際交流協会会長,日本国際理解教育学会理事・事務局長
松浦 さと子
中京テレビ放送報道部でアナウンサーとして働いたのちに、フリーで番組の企画やコーディネイト
などに携わる一方、
「市民とメディア研究会・あくせす」や「つなぐねっと」など市民活動でも市民
のメディアのあり方を考えていました。名古屋大学大学院人間情報学研究科博士課程在学中は、干
潟保全のためになされた「藤前干潟を守る会」の活動のなかでも特にコミュニケーションや情報発
信に注目し研究、人々がインターネットを通じて連携し協働した事例として『そして、干潟は残っ
た インターネットと NPO』
(リベルタ出版)にまとめさせていただきました。その後、摂南大学
を経て、現在龍谷大学経済学部教員。最近参加させていただいた書籍は『パブリックリソースハン
ドブック』
(ぎょうせい)
、
『パブリックアクセスを学ぶ人のために』
(世界思想社)など。情報社会
における NPO の役割に関心を持っています。
松本 美穂
現在、特定非営利活動法人市民フォーラム 21・NPOセンター主査、特定非営利活動法人コミュニ
ティ・シンクタンク「評価みえ」常務理事、市民活動資金サポートシステム研究会副代表、三重県
科学技術振興センター研究評価委員、三重県の分権型社会を進める懇話会委員、三重県高等教育機
関の知的資源活用調査懇話会委員、
名古屋市男女共同参画推進会議委員など。
1972 年三重県生まれ。
三木 秀夫(みき ひでお)
弁護士。
(特活)大阪NPOセンター理事。55 年大阪市生まれ、大阪大学法学部卒業。84 年大阪弁
護士会登録、91 年三木秀夫法律事務所設立、93 年近畿弁護士会連合会消費者保護委員会副委員長、
95 年社団法人大阪青年会議所理事。現在、大阪大学法学部非常勤講師、豊中市まちづくりアドバイ
ザー、豊中市市民公益活動推進委員会委員、阪神淡路まちづくり支援機構専門委員、大阪 YWCA
専門学校講師、損保ジャパンその他各種企業顧問など。現在のNPO関連の主な役職としては、
(特
活)消費者ネット関西常務理事・
(特活)介護保険市民オンブズマン機構大阪監事・
(特活)北摂こ
ども文化協会監事・
(社)セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン・財政企画委員・
(特活)NPO 政策
研究所監事・
(特活)SCCJ監事・
(特活)関西国際交流団体協議会監事など。事務所:大阪市北
区西天満 4‐4‐12 近藤ビル 510 号室
村岡 兼幸
昭和32年生まれ、青山学院大学経営学部卒業、現在、鳥海プラント株式会社代表取締役。青年会
議所(JC)には 1984 年に入会、1994 年(社)由利本荘青年会議所理事長。その後、秋田ブロック協
議会会長、東北地区協議会会長、(社)日本青年会議所の委員長、室長、専務理事、副会頭を歴任し、
1997 年には、
「小さなデモクラシーが未来をひらく」をスローガンに(社)日本青年会議所会頭に就
任する。新しい時代を切り開くために、地方分権とNPOによる『社会システムの変革』が必要と
主張し、現在もその活動を続けている。現在の公職は、財団法人まちづくり市民財団理事長、青年
経済人政策研究会理事長、総務省新ふるさとづくり懇談会委員など。著書には『大変革・夜明け前
∼メダカたちのデモクラシー』(パロル舎)がある。
村山 康成
新潟 NPO 協会。新潟県柏崎市教育委員会生涯学習・体育課勤務。96 年∼98 年 3 月まで新潟県生
活企画課(現在の県民生活課)派遣。98 年 4 月より現職。NVI にいがたボランティア・インフォ
メーション http://www.mars.dti.ne.jp/~tasuke/ 。自治体が地域の経営に責任をもつならば、NPO
政策は避けては通れない課題であると思い、2001 年、
「市民活動支援課」設置につながる調査研究
を行いました。ボランティア活動ではなく、職務として行いました。本音では、自治体職員は、行
政の立場に立ったり NPO の立場に立ったりするべきではないと思っています。
横田 能洋(よこた よしひろ)
1967 年 千葉県茂原市生まれ。1986 年 茨城大学人文学部社会科学科入学、地域社会論専攻 ボラ
ンティア活動を通じ障害者問題にかかわる。1991 年 大学卒業後、社団法人茨城県経営者協会の事
務局に就職、企業の社会貢献活動推進などの業務に就く。1998 年 同協会退職、1996 年より活動し
てきた「茨城NPO研究会」が「茨城NPOセンター・コモンズ」としてNPO法人化することにな
り、同団体事務局員となる。現職:特定非営利活動法人 茨城NPOセンター・コモンズ 常務理事兼
事務局長。茨城中央福祉専門学校非常勤講師「社会福祉概論」
。茨城大学非常勤講師「NPOとコミ
ュニディ・ビジネス」
。
渡辺 豊博(わたなべ とよひろ)
1950年生まれ。東京農工大学農学部卒。73年、静岡県庁に入る。農業基盤整備事業の計画実
施に携わり、88年、地域総参加による源兵衛川親水公園事業の企画を担当。現在、静岡県生活・
文化部NPO推進室長。この間、農業土木学会「第1回農業土木研鑽賞」や「優秀賞」を受賞。日
本で最初の市民・行政・企業がパートナーシップを組む環境改善運動(グラウンドワーク)を故郷
三島市で始める。NPO法人・グラウンドワーク三島、三島ゆうすい会、三島ホタルの会、
(財)日
本グラウンドワーク協会(県から2年間派遣)の事務局長を歴任。また、環境カウンセラー(市民
部門)
、静岡大学、宇都宮大学非常勤講師、著書に「NPO実践講座」
「環境共生の都市づくり」
(ぎ
ょうせい・共著)等がある。現在、NPO法人・富士山クラブの事務局長も担い、全国各地のグラ
ウンドワーク実践地域間ネットワークづくり、実践者・専門家によるアドバイザーチームの結成な
ど、グラウンドワーク三島の実践事例を機軸にしたパートナーシップによる新たなる市民運動のス
タイルを「行政市民」として全国各地に情報発信し、NPOが創る市民社会システムの確立を目指
す。
対談 「市民社会へ 個人はどうあるべきか」
中村陽一
村岡兼幸
2002.10.20
立教大学大学院 21 世紀社会デザイン研究科 教授
財団法人まちづくり市民財団 理事長
(進行:服部則仁 まちづくり市民財団 政策研究交流事業担当運営委員)
服部:NPOがずいぶんひろがっていって、いよいよ日本の社会が変わるかなと思っていたら、
ちょっとちがうのかなと感じました。
今回、
「市民社会へ 個人はどうあるべきか」というテーマで、全国各地のNPOセンターで活躍
している方たちを中心に執筆を依頼しました。特に、95年あたりから現在までのあいだにそれぞ
れの方たちが体験し行ってきたことを中心に、そのなかで個人としてはどう考え、行動し、どう思
ったのかということをお書きいただければとお願いしました。
95年以降、日本ではNPOがずいぶんひろがってきました。また、まちづくりでも市民参加が
たくさん出てきました。いよいよ日本の社会が変わるかなと盛り上がったのが90年代後半だった
と思っています。ところが世紀をまたいでから、ちょっとちがうかなと感じました。NPOのうご
き方や人のうごき方は伝わっていったのでしょうが、その伝わっていく過程で何か大切なものが落
ちたのではないかなと思っています。ふっと見たとき、現場でひとりひとりが本当に輝いているか
どうか。問題は個人にあるのか、あるいは現場に個人が輝けるようなソフトがあるのかどうか。そ
のあたりを、現場の人たちはどう捉えているのかということで、原稿をお願いした訳です。
おふたりにはそれらの原稿もふまえてご対談いただくことになりました。ご感想などいただきな
がら、ざっくばらんにお話いただければと思います。
中村:何か自分たちが思っていたことを活かす組織のあり方としてこれだと思ったのではないか。
そのへんの思いが共通していて、とても興味深かったですね。
個別の原稿について感想はいろいろありますが、全体的な感想としては、私自身がこれまでかか
わってきて感じていることと共通する部分が多いということです。確かな目をもっている人たちが
今回書かれているので当然と言えば当然ですが、共感するところがとても多かった。
私はこういう活動にかかわって四半世紀ちょっとになります。それで、95年と言えば阪神淡路
大震災がひとつの大きなきっかけになったのはまちがいないところで、そういう意味でボランティ
ア元年と言うのも一理あるのでしょうけれど、少し違うだろうと思います。注目されたという意味
で使うのはいいですけれども、そこからすべてが始まった訳ではなく、NPOでいうと前史という
のがあります。
かつてのべ平連の人たちがDVDをつくりまして、ベトナムのホーチミン市にある戦跡資料館で
上映されています。それを見せてもらってあらためて私は持論を確認したのですが、労働運動とか
政党による運動、そういうところに組織された、いわゆる大規模大衆運動が60年代前半までの主
流でした。そういうなかで、個人が自分の思いを託して幅広い意味での活動に参加する機会という
のは、事実上ほとんどなかった。そういうなかで1965年にべ平連が産声をあげ、同時に、知名
度や組織の形態が違いますが、生活クラブ(のちの生活クラブ生協)が誕生している。これは偶然
とは言えおもしろいなと思っています。まだまだ組織的な運動が主流だったときに、べ平連は、
「私
たちはふつうの市民です」という宣言からはじまって、個人が参加する形態やしくみを用意したの
は大きかった。当時、全国で380以上の組織ができた。しかもそれは上から組織された訳ではな
く、自発的にできた。自分がべ平連と言えばベ平連だった訳です、当時は。ひとりべ平連とか高校
の同級生同士でべ平連をつくったり、いろいろなべ平連があったんです。
なぜべ平連にこだわったかといいますと、地域のサポートセンターであるさいたまNPOセンタ
ーで、私は常任理事をやっているのですが、そこでやはり常任理事をいっしょにやっている方が、
全国のべ平連のなかで唯一残っているかもしれない浦和市民連合の方で、いろんな経緯でごいっし
ょすることになりました。その人がなぜNPOにかかわることになったかというと、自分が追求し
てきたこととNPOは重なることが多かったとおっしゃるんです。
それは、たとえばNPOにかかわる前史としてのものがあったのだと思います。そういうものは
深く見ていくといろんな形があって、NPOという言葉が実際に流布しはじめるのは90年代中頃
から、早い人で90年代前半あたりですが、NPOという言葉を発見してこれだと思った人たちが
一定の数いたということは、その前段にそういうあり方を求めるいろんなうごきがあったのだと思
っています。
たとえば、80年代、ネットワーキングということが盛んに言われて、個と個がつながって社会
にアクションを起こすんだと言われ、事実そういううごきがたくさんあった。そのなかにはいろん
な方々がおられたのですが、実はそういううごきにかかわってきた人たちが、NPOのある社会を
求めたときに中心になっていった人たちなんですね。そして、NPOというものが日本に入ってい
った訳です。NPOというのがよくわかっていた訳ではないのでしょうが、多くの人が、NPOと
いうのは何か自分たちが思っていたことを活かす組織のあり方としてこれだと思ったのではないか
と。そのへんの思いが、ここで執筆している方たちと、年齢や経験によって多様ですが、共通して
いたなぁと思います。この原稿のなかであげておられる年代、90年代のこの頃はこうだったなぁ
というのは私にはとてもよくわかるし、共通していて、とても興味深かったですね。
村岡:非日常的なボランティア活動やNPO活動に目を開いたということであって、
本当は日常的に社会に根をはっていくのが必要なんだと
この5、6年でNPOの考え方がずいぶんひろまり、センターが各地にできあがり、いろんな団
体ができて、NPO法人もどんどんでてきてという状況は5、6年前は考えられなかった。だから
といってそのころと比べて、NPOが新しい社会をつくりかえていくまでの力に育っているのか、
そのなかで個人が輝いているのかというと、まだまだ何か大事なものを忘れてきているのではない
かなと思っています。
また、中村先生が言われたように、阪神淡路がスタートではないですね。一挙に注目を集めて国
民がボランティア活動に目を開いたという意味ではボランティア元年なのかもしれないけれど、根
はもともと前からあったがなかなか広がらないときに、95年の阪神淡路大震災や97年日本海石
油流出事故といった衝撃的な出来事があって、それがいろいろなことを考えるきっかけになったと
いうこと。それはあくまでも非日常的なボランティア活動やNPO活動に目を開いたということで
あって、本当は日常的に社会に根をはっていくのが必要なんだと思います。あれだけをことさら大
きくとりあげるということだけではないと思っています。
中村:ひとつの言葉が多くの人をうごかした時期が過ぎて、
本当に個人の思いが社会の変革につながっていく社会になってきたのだろうか?
という問いかけをする時期にさしかかってきたのは間違いない。
年代で言うと、90年代前半の時期に、いろいろな異なる場で今日のNPOのようなことをやっ
ておられた方たちとさまざまな出会いがありました。ネットワークとかネットワーキングという言
葉があり、そんななかでNPOのある社会をつくろうではないかということがでてきました。NP
Oというのはマジックワード、中身のよくわからない言葉でしたが、それだけに何か夢を託せる言
葉として、これによって日本社会の閉塞状況を突破して、もう少し風とおしのよい社会をつくりた
い、そういう夢をかける言葉としてあったのですね。
私は「多様化と拡散」ということをよく言うのですが、NPO法人も8700近くになり、多様
なタイプのNPOがたくさん出てきて、私なんかもよく知らないものがたくさんできてきました。
多様化がはかられているということで、それはNPOが日本に根付きつつある傾向なので、片方で
は非常にいいことなんですが、その反面、やはり拡散しているなと思います。今年の市民セクター
全国会議のテーマのひとつでもあったのですが、私たちはNPOのある社会をつくろうとしたとき
に、それを通じて何をやりたかったのかということをもう一度原点に立ち還って考えなくてはなら
ないのではないかという時期にきていると思います。
たとえば川崎さんの原稿ではそういうところが非常に色濃くあらわれていて、日常性というとこ
ろでどうあるべきかに非常にこだわっておられる。あるいは服部さんの原稿で大阪NPOセンター
の設立総会のところで、立ち上げてそれからどう続けていくかが問題なんだとありましたが、まさ
にそういうことが大事になってきたんだと思います。
ひとつの言葉が多くの人をうごかした時期が過ぎて、それに夢を託し、思いを託した人たちが、
実際に組織の運営をするようになり、日常的な問題に頭を悩ましながらやっているときに、ともす
ればNPOが行政の下請け化しているのではないかとか、本当に個人の思いが社会の変革につなが
っていく社会になってきたのだろうか?という問いかけをする、そういう時期にさしかかってきた
のは間違いない。私もいくつかのNPOの運営にかかわっていて実際にそう思いますし、周りでい
っしょにやってきた人たちは、10年から15年ぐらいのつきあいになりますが、よるとさわると
ほぼ同じ話になります。
村岡:そういう経験をして、気づいた、あるいは公というのをあらためて考えてみた
というのが大事なことだったのではないかと思います。
話が行ったり来たりするのですが、先ほどの阪神淡路大震災への青年会議所(以下JC)のかか
わりの部分で、たぶん95年の震災前まではNPOという言葉を知らないんですね。92年から9
5年頃まではNGOということで、海外への応援やボランティア活動を積極的にしていた時期だと
思います。そこに阪神淡路大震災が突然起こったのです。そのとき、個人が「心」を揺り動かされ、
自主的自発的に動き出した。とにかく今自分にできることをしようと…。JCでは当時会員数63
000人の頃、元気にボランティア活動に駆けつけたメンバーは、のべ人数ではありますが、5万
人とも6万人とも言われました。JCに限らず全国から多くの人たちが駆けて、大活躍をし、また
大混乱もしました。当時JCはNPOとして、力を発揮するという視点はなかった。いや、その言
葉すら知らなかった。けれども、被災地や被災者にとってもっとも効果的に支援ができるよう、組
織的継続的に「ひと・もの・金・情報」を提供しようと行動した。しかしこれもあくまでも非日常
における体験であった。
いろんな活動をしたのですが、そのなかで特によかったと思うのは、そのとき限りでなく三年ぐ
らいにわたって、被災した子ども達の心のケアーをしようという運動です。全国各地の小学生とJ
Cが中心となって、神戸の小学生の元気を取り戻すためにリフレッシュキャンプを行いました。北
海道とか沖縄とかに2、30人とかの単位で100ヶ所、2000人ぐらいを3年やったんです。
そういう事情だったので飛行機会社の協賛を得たりとか、行った各地で宿泊代を格安にしてもらっ
たりとか、食べ物とかは炊き出しでやるとかして、通常の二泊三日のキャンプでかかる費用の半分
とか三分の一の費用で大きな事業ができた。その経験をふまえて心のケアーセンターも設立するこ
とができました。
こういうことを体験して、
公のことは官がやるものだという観念しかなかった人たちが、
公って、
いろいろな力を出し合うことで、お互いに協働し協力し合うということで、いままでになかったこ
とができるんだなと気づいた。それが我々にとってよかった。阪神淡路大震災への対応は非日常で
終わってしまったことだけれども、そういう体験を持ったということが、その後の、地域に還って
とか、即ち日常の活動でそういうことをやろうということになっていく。そういう芽が生まれたと
いうのがJCにとって一番大きな「財産」だったと思います。そういう経験をして、気づいた、あ
るいは公というのをあらためて考えてみたというのが大事なことだったのではないかと思います。
その後、96年ぐらいになってNPOという言葉もいっぱい出てくるようになって、そういう言
葉に気づいた人たちはいっしょうけんめい勉強して、JC運動の中でも96年、97年、98年ぐ
らいまではある意味でJC運動の中心的活動に位置づけられた。それはまた不思議なことに96年
の地方分権推進法の成立により、地方自治にあっても自立、自己責任の時代へと軸足を大きくうつ
したのとときをいつしょにしています。これらのこともあってNPOという言葉が一般にひろく使
われるようになり、理解もひろまっていったのではないかと思います。
中村:JCのメンバーであった人が地域で個人に立ち還り、
地域にどう帰っていくかというときに、NPOというのが道具立てとして用意されている
各地のJCのみなさんにとっても、自分たちの活動とか組織のあり方を問い直したり、変えてい
くきっかけにもなったという意味では大きいですね。個人的なことで言わせていただくと、JCと
のおつきあいが具体的になったのは、93、4年あたりかと思います。当時、まちづくりを通して
地域、社会を変えていこうといううごきとか、市民社会という言葉をその当時どれぐらい使ってい
たかわかりませんが、割とそれに近いことをおっしゃっておられたりした。そういう文章を目にす
る機会があって、
そういうときに地域のJCの方々とお話する機会やおつきあいも増えてきました。
実はそれまでJCについては一般的なことしか知らなくて、よく知らないだけによくわからないな
と思っていたのですが、話してみると目から鱗と言いますか、なるほどJCという組織はこういう
人たちがこういうことを考えてやっているんだと、いい意味で新鮮な驚きを持ちました。
私は石川県金沢市の出身なんですが、同じ石川県にある山中温泉の山中町、山中JCのみなさん
とおつきあいしています。
実は去年40周年を記念して何か残ることをやりたいということでした。
山代温泉が近くにあり、山中はどうするか、地域をどうするか、市町村合併の問題なども当然あっ
て、いろいろ悩みながらやっているなかにNPOというのも出てきた訳です。山中まちびと会議と
いうのをJCの方たちも入ってやっておられて、何とかNPO法人をつくりたいと若手の人たちが
思っている。その一方で山中ではかなり年輩の方たちが、その方たちなりにまち興しを考えてやっ
てきていて、そういう人たちとやりとりしながら、ある種せめぎあいをしながらですね、いよいよ
今年の秋、NPO法人の立ち上げへ向かっていこうということになりました。山中座という施設も
できて、そこで催しなどもいろいろやっていくということで、私も記念講演をすることになってい
ます。
JCについては外野ですのでかってなことを言いますが、JCは40歳定年制というのがありま
すね。ひとつ、これは組織機構上残念だなと思うのは、一年交代で人が変わるので、せっかくおつ
きあいをして何かをやっていこうとしても、なかなかそれが続きにくい。そんななか、NPOとい
う形態は、JCのなかでやる気を持った人たちにとっては、定年を迎えた後で自分たちが地域でや
っていくひとつの器を用意しているように思えます。JCにとってNPOはこれからのひとつのあ
りようではないかと思います。JCのメンバーであった人が地域で個人に立ち還り、地域にどう帰
っていくかというときに、NPOというのが道具立てとして用意されているという。
村岡:JCという殻をはずれてからでもかかわっていこう、責任を持ってがんばっていこう
という人たちが生まれてくるのが大事なこと
そういう人たちは多いですね。JCという組織は40際定年という若い組織体ですから、理想を
追う無限の可能性を秘めているとともに、単年度制というJCの限界も同時にあるのです。そのJ
Cの限界を知っていれば知っているほど、個人に還り、地域に帰って、そういう活動の中心になっ
てもいいし、応援する側になってもいいし、そういう活動でがんばる人たちが近年非常に多くなり
ました。JCは単年度制という組織文化を持っているのですが、社会にコンタクトしていくには一
年というスパンはあまりにも短い。けれども40歳までという限られた期間のなかで一年で交代す
ることのダイナミズムが組織を活性化するんです。矛盾するかもしれませんが、だからそういう部
分を全て否定するものではないです。
でも現実問題として社会に対してかかわるということでは不十分ということでもあるので、そこ
に気づいた人たちから、JCという殻をはずれてからでもかかわっていこう、責任を持ってがんば
っていこうという人たちが生まれてくるのは大事なことだなと思います。JCというのは卒業とい
う言葉を使いますが、それが社会人としてのもう一つの区切りを迎えたみたいなところもあります
ね。
中村:こういう活動を通じて地域社会とつながり、
自分の位置とか居場所を確保できている。
NPOの重要な役割は、個人と社会をつなぐ新しい中間組織だと
JCというのはユニークな組織原理を持っていますね。卒業ということで思い出したのですが、
ちょうど10年前にアメリカ政府のインターナショナルビジタープログラムで、この目でアメリカ
のNPOを見た最初なのですが、ボストンでシティイヤーという割と有名なNPOに行きました。
この団体はある種のコミュニティディベロップメントもやっているのですが、そのやり方が地域の
青年層、17、8歳から22歳までを対象に、向こうではスクールイヤーの終わった後の時期をシ
ティイヤーと名付けて、まちでボランティアしながら暮らす時期なんだと位置づけて、それが組織
名シティイヤーの由来なんです。
私がそこでインタビューできた人たちは、スラムで育って、いわば少年ギャング団の一員だった
アフリカ系アメリカ人の人だったり、当時のマドンナのような格好をした若い女性がいて、その人
は学校がいやでいやで、でもシティイヤーで活動してやっぱり私は教師になろうと勉強している。
そういう人たちがたくさんいた。シティイヤーがなければ、そのまま拠り所なく生きていくことに
なったかもしれない人たちが、こういう活動を通じて地域社会とつながって、自分の位置とか居場
所とかを確保できている。これは非常に重要なあり方だなと思います。このように、NPOの重要
な役割は、個人と社会をつなぐ新しい中間組織だと思います。そういう意味ではJCなんかの組織
原理もいい形で回転すればそういう役割をはたすのかもしれません。JCイヤーというようなもの
があるのかもしれませんね。
服部:地縁型の組織などでも、少し変わってきたのかなと思うのですが、
地域にはいままでにもいろいろな組織があるのですが、最近、地縁型の組織などでも、かならず
しもNPOを否定するものではなくなってきたように感じます。少し変わってきたのかなと思うの
ですが、そのあたりはどうなんでしょう。
中村:地方都市では、NPO的な組織だけで地域を運営するというのは幻想。
相互乗り入れしてやっていかないとうまく運営できないし、
まちを本当に変えるというようなことはできない。
私は今の立教大学に移る前は、都留文科大学という山梨県の都留市にある公立大学にいたのです
が、都留市では日本の地域のひとつの典型みたいな状態をいろいろ見ることができて、いまでも都
留は私の大事な現場です。都留は歴史のある古いまちですので、組という地縁型の組織が生きてい
る。以前他所からきた学生が、
「先生、このまちには暴力団がいるんです。組長が何とか言ってるん
です。
」とかけこんできて、そこでちゃんと説明するとはじめて納得したのですけれど。しかし、ご
多分にもれず、高齢化したりしてそういう地縁型の組織の機能が低下している。そういうなかで3
0代、40代のいわば若手に、力があったりやりたいことがあるのにうまくその場を見つけられず
にくすぶっている人たちがいっぱいいるということが見えてきた。以前から、せっかく都留文科大
学という市立の公立大学があるのですから、大学が地域といっしょになって何かやるのがいいと思
っていたので、いろいろなところによびかけ、市長なども積極的になってくれて、いろいろまきこ
みながら、都留市まちづくりネットワーク(つるまちネット)をつくってきました。
既存の地縁型組織がいままでの機能を充分には果たせなくなってきているなかで、NPOのよう
なタイプの組織は、多様なテーマがあって自分のかかわれるテーマを選択していける。既存の地縁
型組織は、いい悪いは別にして半強制的にはいるようなところがある。ただそうは言っても、都留
のようなまちで見ていれば一目瞭然なんですが、NPO的な組織だけで地域を運営するというのは
幻想なんですね。一方で地縁型の組織のそれまでの経験や知恵を活かして、相互乗り入れしてやっ
ていかないとうまく運営できないし、まちを本当に変えることはできない。東京や大阪という大都
市は別にして、地方都市ではNPOと地縁型組織がさまざまに連携したり、あるときはせめぎあい
ながらやっていくという関係が大事ですね。
よく引用させていだくのは、湯布院の中谷健太郎さんの言葉で、地域づくりに必要な3つの存在
として「よそ者、わか者、ばか者」という。そのなかでばか者とよばれる、地の人なんだけれど一
回外の文化を経験してきてから何かやるという、山岡義典さんの言葉を借りると「人生NPOシフ
ト」
。故郷や地方に拠点を移して、都市の文化なども吸収しながらそこで何か新しいうごきを起こし
ていく。これからは地方であればあるほど、そういうことが大切なのではないかと思います。おも
しろいことをしている人って割とそういうタイプの人が多いですね。山形県長井市もそうですね。
村岡:個人が社会をつくっている真っ只中にいるなかで今のこの活動があるというようには、
「個人」と「社会」がうまくつながっていかないのではないかと感じている。
96年頃、よく言われたのは、地方にいけば地縁型の組織があって、たすけあいの精神があって、
充分やっていけるよと言われた。でもそうではなくて、地縁型組織だけではなく、みずからのミッ
ションにもとづいてやっていく部分がもうひとつの公共のしくみとしてあっていい。それで、NP
Oも地縁型組織も別々でなくて、融合したりいっしょにやったりして、多様で多元的でいいと思い
ます。否、多様であればあるほど社会が成熟していっていくと言っていいのかなぁ。
ところで、NPOがひろがっていくなかで個人は輝いているだろうかという、今回のテーマを意
識しているんですが、瀬古一穂さんという日本の社会の中で、行政と市民が協働して社会を作って
いくためには協働コーディネーターという中立的な専門的職能を持った人たちがいなければならな
い。その方が主宰しておられるセミナーをちょうど受けてきたばかりで、この対談に臨みました。
そのなかで感じてきたのですが、JCってなんだろうなと思うと、NPO的な要素は多いけれどイ
コールNPOではない。NPOというのは、あるひとつのテーマとかミッションがあってそれを達
成するために集まっていろんな活動をしていく。
そのなかで友情とかいろんな人間関係ができたり、
ネットワークがひろがっていく。でも、JCはそういうこともするけれども、友情も大事であった
り、トレーニングが目的で終わる人もいるし、さまざまなことがいっしょくたになっている。唯一、
そのなかでどこがNPO的かなと言うと、年代の若さということもあって、20代、30代ぐらい
のこれから社会に深くかかわっていこうという人たちが、仕事はもちろんのことですがそれ以外に
も、自分の国はこのままでいいのかという問題意識があって、自分に何ができるのかというのを組
織全体で考えているのがJCだと思います。その部分のエネルギーがJCの運動を保ちつづけてい
る。
この国を何とかしたいとか、いまのままの社会でいいのかという力はどこからくるかということ
では、瀬古さんから聞いたのは、日本はあまりにも周りの国の歴史やそこの若者のうごきを知らな
さすぎる、ましてや自分の国の現代史を知らなさすぎる、いや、勉強してないということなのでし
ょう。知ってても明治維新ぐらいまでで昭和にはいってからのことは知らない。韓国とか中国を見
てみると、そういう国の若者たちは日本より遅れてNPOの「動き」がはじまったのだけれど、
「動
き」はじめた今、大きな渦となっている。その原動力は、その国が今変わろうとしていて、事の善
し悪しは別にして、民主化した国をつくろうと血をながした歴史のなかから、かっては政治犯にな
ったような大学生たちが国を憂い、真剣にうごいている。会ってみるとわかるけれどもその方たち
からはとてつもないパワーを感じる。これはなかなか日本の社会にはなくて、歴史的な体験として
そういうことをまったく知らないなかで民主主義をつくろうと言っても力が弱い。少し周辺国の歴
史、そして自分の国の歴史を勉強することもしなければならないのではないか、と瀬古さんがおっ
しゃっていて、本当にそうだなと強く感じてきました。
私はグランドワークトラストというNPO活動に、イギリスの視察旅行で出会い、これは民主主
義とか市民活動を考える上で、その根幹をなすのではないかと、心がゆりうごかされる思いがしま
した。それで、4年ほど連続してミッションを組み、シェフィールドとかバーミンガムとかのまち
や大学へ行きました。一般によく言われる市民、行政、企業のパートナーシップによるまちづくり
という言葉がありますが、グランドワークトラストは、その三者ではないNPOとしてその専門職
能を活かしておたがいのコミニュケーションをとりながら、三者のよさを引き出しながらそれを紡
いでプロジェクトをつくっていく。それを現場で実践し、小さな成功例をつみあげていくという運
動です。いわゆるもうひとつの公共のしくみづくりをしているのです。
かかわっている人たちに話しを聞いてみると共通することは、英語だったので言葉はよくわから
なかったのですが、
「国を民主化したのは自分たちなんだ」
、
「地域社会をつくっているのは自分たち
なんだ」
、というのが伝わってくるんです。それが今の日本の社会にあるかというととても薄くて、
そういうことは政治家とか首長にまかせていればいいというのがまだまだ日本には強い。その部分
を払拭していかないと、NPOの考えとかNPO法人の数だけがひろがっていっても、本当の意味
で「個人が社会をつくっているんだ」とか、
「私たちはその真っ只中にいるなかで、私たちの今この
活動がある」というようにはうまく環がっていないのではないかと強く感じています。
中村:実験室のなかで市民社会論が言われているような気がして。
切れているんですね、歴史と。
きれいすぎる市民社会論なんです。これはもろいのではないかと
いま非常に重要な点をおっしやられたと思うのです。市民社会という言葉ひとつをとっても、市
民社会というのは、それぞれの国で違いがあって、その国の社会の歴史を背景としてできあがって
くるものです。私たちがイギリスなりあるいはヨーロッパの他の国の社会を見て思いますのは、非
営利の組織といっても、みなそれぞれの国や社会の歴史的な経験の蓄積に裏打ちされて登場してき
ている。それで我が社会を振り返ると、NPOというのはこれだけ盛んになり、注目を集め、追い
風になっている。市民社会論というのも非常に盛んになっている。ただ気になるのは、そこで言わ
れている市民社会論というのが日本の社会の歴史とちょっと切れたところにある。世古さんがおっ
しゃったまわりの国の歴史とつながっていないというのも意味合いとしては重なっていると思うの
ですが、切れているんですね、歴史と。これはもろいのではないかと。きれいすぎる市民社会論な
んです。
これがたぶんNPOからはいった人たちの持つひとつの弱点で、いまの若い学生なんかもそうで
すが、NPOからはいった人たちは、NPOの前の歴史とか活動とか日本の社会にあったいろいろ
なうごきはほとんど知らずに言っているので、糸のきれたタコのようにどこへでも行ってしまうよ
うなところがあるのではないかと思います。マネジメントや評価はもちろん大切ですし、おしすす
めるべきと思いますが、どうもいまの若い人たちは、現場を体験していないのに、何かというとや
れ評価だ、マネージメントだ、やれサポートだと言いたがる。それで、現場を知らないではそうい
うことはできないんじゃないのと言われて、はじめてきょとんとしている。それが非常に気になっ
ていて、いろんなものを背負って評価とかマネジメントと言っている人たちはいいのですが、そう
いうもののない真空地帯のようなところで言っていると、さっと足元をすくわれかねない感じがし
ていますね。気になってしょうがない。全部ではないでしょうが、いま出ている日本の市民社会論
の一部は、浅いと言うと申し訳ないですけれど、中身が薄いところが感じられる。
村岡:本当の意味でひとりひとりが力を活かし合うような地域社会、市民社会にしていくには、
小さな実践でも、何か具体的な挑戦を地域の現場でしなければいけない
私はそういう思いがあるので、民主主義、本当の意味でひとりひとりが力を活かし合うような地
域社会、市民社会にしていくためには、何か具体的な挑戦を地域の現場でしなければいけないと思
っています。小さな実践ですけれど、ワークショップという手法をどんどん取り入れて、学校教育
の現場とかPTAの立場でそういうことをやってみました。校長先生なども共鳴してくれて、最近
導入された学校評議員制度が外部評価とすれば、学校内で内部評価をしてもいいではないかという
ことで、その内部評価にワークショップを活用し、先生方といっしょに私がコーディネートしてや
ってみたんです。なにもまちづくりだけでなく、教育の現場でも充分活かせる手法なので、またそ
れを来年に活かしていこうということになっています。
また、自分のまちの都市計画づくりにもそれをつかっていて、まちづくり担当の市役所の行政職
員の意識の変化を起こさせようと、向こうがまいるくらいやってきて、これは戦略でもあるのです
が、二年目はさらに進化させていこうというところです。最初の年にはなかった予算がある程度つ
いたんです。でもふと見ると、今の段階で八割方中央のコンサルタント料となってる。これはもう
決まっているのですかと聞くと、いやこれから委員会の人たちが検討した上で使い道を決めればい
いということでした。行政のルールやしきたりはわかりませんが、ひとりひとりがタックスペィヤ
ーの意識を持ってものごとを考え、協働作業のなかでまちづくりをやろうとしたら、慣例に囚われ
ずに勇気を持ってメスを入れていく。そのためには第一段階として意識の改革。そのうえで、第二
段階は具体的な行動(私であれば学校や都市計画づくりの現場において)
、さらにもっとも大事なこ
とは第三段階として、新しいシステムづくりまで持っていくことです。そのことが個人のがんばり
で終わるのではなくて、地域社会の力となるのです。いままでになかった発想で、本当の意味での
市民参加のまちづくりを具現化できることを見せないと市役所というのは変わらないのです。それ
にチャレンジしようと思っています。
ただ、いままでやったことも、しろうとに毛のはえた程度のものですので、われわれががんばっ
てつくったものでも、まずまちがいなく従来型で行政が中心となってつくったものよりもかえって
悪いということが多いというのが現実です。しかし、これからの地方分権の時代は行政と市民が協
働型社会をつくっていかなければならないというのはまちがいのないことですので、本当の意味で
の市民参加のまちづくりを具現化するためには、協働コーディネーターのようなプロフェッショナ
ルの第三者の手がはいっていないとできないと思うのです。よって、瀬古さんが主宰している協働
コーディネーター養成のセミナーを受け、意識の改革とコーディネーターとしての技術をみがき、
地域の現場で実践しながら、いま「自分を変えよう」
、
「地域社会を変えよう」という真っ最中なん
です。むずかしさとおもしろさを感じながらやっています。
中村:これからのNPOに求められるのは、経験知と専門知とが相互に乗り入れする形。
そこに市民知と言われるようなもの、市民的専門性が何とか生まれないかと。
私が今やっていることに引きつけてみますと、いまいる立教の大学院(21 世紀社会デザイン研究
科)が標榜しているのは、日常の生活の中で経験されてきた経験知とか暗黙知というもの、それは
けっして言葉にはなかなかならないけれど生活の知恵などとして発揮される。これは、よさがある
けれど、経験の範囲を超えられないので経験主義に陥りやすい。そこに専門知、あるいは専門性を
というのは大事なことだと思う。
これからのNPOに求められるのは、経験知と専門知とが相互に乗り入れする形で、そこにたぶ
ん私が予測するに、市民知と言われるようなものが何とか生まれないかと。言葉を換えると市民的
専門性が生まれてこないかと。
NPOはアマチュアリズムのよさを持っているべきだと思いますが、
本当に社会の変革を起こしていくというのであれば、専門性も同時に持っていないといけない。そ
れを引き出すもののひとつが、たとえばワークショップだろうと思います。その地域、あるいはそ
こで暮らす人たちの内側から出てくるようなものをうまく活かせるのが大事だと思います。
それが、
経験知と専門知あるいは専門性の融合からでてくる市民知であり、それは地域性や内発性に裏付け
られたものであると。そういうものを具体化したいと思って日々活動しているのですが。
服部:地域の現実のNPOはどうかというと、ちがっているなぁと感じられる。
個人が、根の生えたもの、裏付けのあるものとして見えてこないのはなぜだろう
ひとりひとりの個人というのはどうなんでしょうか?日本人は、組織やしくみ、制度、団体ある
いは企業などが守ってきてくれたあいだは黙っていた。それが守ってくれない時代になってきては
じめて語りだした個人がいる。
そういう人たちが、
NPOを突破のひとつの方法だと思ったとして、
それで地域の現実のNPOはどうかというと、ちがっているなぁと感じられる。それはいったいな
んなのだろうと思うのです。個人が、根の生えたもの、そういう裏付けのあるものとして見えてこ
ないのはなぜだろうということなんですが。
中村:まずはじめに個人とか人間ありきというところを強調したいんですね。
社会起業家というのは、人々に夢を与え、希望を与え、
その人の中に眠っている能力を引き出せる、そういう人間なんだと。
今年、象徴的な体験だったんですが、市民セクター全国会議で私がコーディネーター役をつとめ
たセミナーに、イギリスの社会起業家といわれる人が報告者としてふたりやってきたんです。実行
委員会が立てたテーマというのは確か「運動性と事業性のせめぎあいをどう乗り越えるか」という
ような問題意識のセッティングだったので、事前にそのことをイギリス側に伝えたところ、その反
応がおもしろいんです。運動性と事業性がなんで矛盾するのかよくわからない。矛盾するならやら
なければいいのではないかという、シンプルな反応だったんです。かつおもしろかったのは、当日
の参加者の多くは、社会起業のノウハウとか秘訣とか、資金調達をどうやるのかというのを聞きた
いというのがありありと出ている。ところがそれに対して、イギリスのパネリストたちはせっかく
自分たちがよばれたからには、どういう人間が社会起業家たりえるのかというのを言わなければい
けないんだろうと、社会起業家というのはこういう人間なんだと一生懸命語るんですね。日本側に
とっては、ある種精神論に聞こえてしまうけれども、実はそうではなくて、彼らが言いたいのは、
まずはじめに個人とか人間ありきというところを強調したいんですね。生身の人間が前提となった
話なんです。
ところが日本ではスキルやノウハウ的な話が先行する。もう一方で、非常に抽象的な個人を前提
とした、個の自立をもとにした市民社会みたいな議論があって、ここでの個というのは非常に抽象
的な強い個人が前提になっていて、すべて自己決定できるような個人。でもそんなことはありえな
いんですよね、人間というのは強いところもあれば弱いところもある、だからこそ人間として生き
ていける。そこに相互扶助とかネットワークとかNPOの存立基盤もあるわけで、そういう両面を
見すえた上でやっていくという発想が、
いまの日本のNPOや市民社会論にはちょっと欠けている。
その好対照がおもしろかった。
イギリスの人たちというのは、社会起業家というのは、人々に夢を与え、希望を与え、その人の
中に眠っている能力を引き出せる、そういう人間なんだと言うんです。彼らは成功したビジネスマ
ンだし、そういうスキルやノウハウはたぶんいっぱいもっているだろうし、だからこそ成功してい
る。でも、そういうことを聞きたいと言われても、それはそれほど大事なことではないんだ、大事
なのはどういう人物かということなんだということをさかんに強調している。それが私には非常に
おもしろくて。
日本のNPOのなかで、下手なハウトゥ(how to)を追求するよりは、フォアファット(for what)
だと思うのです。ハウトゥを追求して下手なコンサルや調査会社をつくってもしょうがない。むし
ろわれわれはこういうことのためにマネジメントを重視するんだという、強烈なフォアファットを
追求していくような、そういうところが出てこないとまずいなぁと思っているんです。
服部:協働の先にあるものとしての自治
来年は、協働の先にあるものとして自治というものを取り上げられたらと考えているのですが、
自治と言っても大上段に振りかざしたものではなくて、ごく身近な自分たちの自治をつくりだして
いく道筋として、まちづくりもNPOも、地域のありようもとらえていければと思っています。そ
こでフォアファットが弱いんだよねと言われると困ってしまうんです。どうして自治なのと言われ
てしまうとどうすればいいのでしょう。財政論とかはいくらでも言えるのでしょうけれど、たぶん
そういうことではないと思うんです。
中村:まちづくりをやることの意味は、
異質な価値観とか異質な人たちが集まっているなかで、
いかにして共通のテーマを見つけたり、共通の資源を開発したりしていくのかということ。
自治とつながるかどうかわかりませんけれど、まちづくりというのは、まちのなかにいろんな価
値観を持った多様な人々が住んでいるということを知ることでもあると思うんです。ところがNP
Oのなかの一部、カッコ付きの市民派的なNPOの弱いところとして、よく戯画化して半分冗談の
ように言うのですが、自分たちがいつも中心にハイパー市民として存在して、そのまわりにふつう
の市民がいて、そのまわりに圧倒的多数の野蛮人がいるという発想があるんですね。長年私も運動
に関わってきて痛感しているのですが、どうもそういう発想に陥りやすい。そうではなくて、まち
づくりをやることの意味は、いかにして異質な価値観とか異質な人たちが集まっているなかで、共
通のテーマを見つけたり、共通の資源を開発したりしていくのかということ。たぶん自治というの
はそういうことがないとできないと思うのです。私たちはハイパー市民ですとかですぐできるとい
うものではないですから、異質な人間たちがどのようにしてひとつの共通項を見いだしていくかと
いうことだと思います。それはたとえば合意形成の理論として言われたりもしますけれど。
私は東京の三鷹市で、こんど「市民協働センター」づくりの提言というのを三鷹市長に出します。
というのは、三鷹のまちづくり研究所というのがありましてその座長役をおおせつかっているから
なのですが。三鷹市は市民参画型のまちづくりの試みを何十年にもわたってずっとつづけてきて、
三鷹方式というユニークなものを次々に打ち出してきているという素地があるからできるのですけ
れど、たとえばNPO支援センター、サポートセンターは公設でいっぱいできてきていますが、
「N
PO業界」のようにしてセンターを一つ付け加えてもしょうがないではないかと思いまして、むし
ろ、地域にはいろんな人たちがいていろいろやっている、これをうまく後方支援のような形でつな
いでいくネットワークセンターのようなものはできないかと。
これを何とかつくりたいということで、住民協議会という、それこそ住民自治をやってきた人た
ちとの激論もありながら議論を進めてきました。そこで出てきたひとつの結論というのは公設民営
方式ではなく、公設協働運営方式でやろうではないかと。行政もNPOもボランティア活動をして
いるような人たちや住民組織の人たちも地域の事業者・企業の人たちも、同じ立場でセンターの運
営に参加するというのでやってみようではないか。これが最初から万々歳でうまくいくとは限らな
いですから、とりあえず実験をして、3年ぐらいのところで大胆に見直せばいい。行政だからとい
って一回やったら変えられないというわけではないからやってみようと。たぶん予算化されると思
いますが、公設協働運営という、こういうやり方でひとつ問題提起をしてみたいと思っています。
この三鷹まちづくり研究所というのは、もともとは職員研修のような役割も含め、三鷹市役所の
外にあったのですが、ここがいままでいろんな提言を出して三鷹の市民自治が進んできた。それを
ふまえて、二、三年の期間限定で、三鷹市の企画部企画経営室のもとに、つまり行政の中において
しばらくやってみようとなりました。それはなぜかというと、
「みたか市民プラン21会議」という
一種のNPOなんですが、公募によってつくられた市民会議が、現在の三鷹市の基本構想と基本計
画の元になるものを提案するという、従来の自治体の決め方とまったく逆のやり方を 1999 年から
やってきた。この会議は目的を達成したので次はそれぞれがやるべきだということで解散していま
す。そこで出された提言をもとにした基本計画はこういうことをやりますとしか書いてない。それ
を具体化するための提言を出すためにこのまちづくり研究所を活用しよういうことで、相談されて
私も引き受けた。二年か三年、今年は市民協働センター、来年は基本的な制度としての条例づくり、
それからまちづくり研究所自体の法人形態をどうするか、地方独立行政法人であるとかNPO法人
であるとかいろいろあって、そういうことをやってみようとしています。
そういうやり方でやろうとしたのは、異質な人たちがいて、その人たちがいっしょにやっていく
ときに3つ方法があると思うんです。ひとつは異質な人たちを排除して同質的な人たちだけでやっ
ていく。これは誰が考えてもうまくないだろう。もうひとつはなあなあでやっていく、これは最初
はうまくいくように見えて、各論にはいると必ずもめる。これもあんまりよくないだろうと。三鷹
はせっかくコミュニティ行政の先進地としてこれまでやってきたのだから、第三のやり方として、
それぞれが異質だということを前提として、異質さかげんを徹底して議論しようじゃないかと。議
論していくなかでたぶん何か共通項が浮かびあがってくるはずだから、市民協働センターはそうい
う場にすればいいのではないかと。決しておおかたの賛成を得られたというほど満場一致ではない
ですけれど、まあ、やっぱりそんなところかなぁとなってきた。そういう自治の新しいやり方みた
いなことが、実験をしながら出てくればいいなぁと思っています。
村岡:そういう意味でそのような取り組みをしている市町村もあれば、
まったく気づかずというところもあり、危険と言えば危険ですね。
そういう意味でそのような取り組みをしている市町村もあれば、まったく気づかずというところ
もありますね。地方分権にしてもNPOにしても、ましてや市町村合併も絡んできていますので、
よしあしは別にしてこの二三年で加速度的に何らかなうごきがあるということで、危険と言えば危
険ですね。わかっていて合併しようとしているところはいくつあるのかなぁと思うぐらいです。
中村:
「これやられた日には、やっぱり身の丈にあったことしかできないから、
そこでやっぱりNPOとなるんですよね」という環境は認識しておかないと
合併はどっちに転ぶにしても大きく地方の地図が塗り変わるということが出てきますから、泣き
笑いがあるのでしょうね。この間、エコマネーでおなじみの加藤敏春さんとお話したときに、千葉
県のある市長のことを言っておられて、市長さんが分権は歓迎するべきことではあるが、見方を変
えれば国から地方への借金のつけまわしなんですねと。これやられた日には、やっぱり身の丈にあ
ったことしかできないから、いままで200億円使っていたものを100億円にするとかせざるを
えないんですね、そこでやっぱりNPOとなるんですよねと、非常に正直に語っておられたという
ことです。そういうこともこれからのNPOを取り巻く環境としてはきちんと認識しておかないと
いけないということですね。
服部:本当にNPOの現場で個人が輝くような、
そういう運営ができているのでしょうか?
本当にNPOの現場で個人が輝くような、そういう運営ができているのでしょうか?そういうソ
フトがあるのでしょうか?何か、日本人というのはそういうことに慣れていないというような気も
します。
中村:市民社会と言われている割には個が埋没していく傾向もあって、
何か昔よりちょっと窮屈な発想になってきているなぁと感じる
NPOでときおり気になっているのは、ひろい意味での政治と向き合うことを避けぎみの傾向が
どうも比較的多いように思うんです。市民運動と言わず市民活動と言うことの意味合いをポジティ
ブに評価できる感覚と、
「運動」というのはなんだから「活動」ぐらいにしといたらという感覚とが
両方ないまぜになっている。特に若手スタッフなんかと話していると、意外に、いや何かそういう
ことを言うと特殊な集団と思われますからと言われたりする。べつにそれほど過激なことを言って
いるわけではなく、いや、それはやはりもの申していかないといけないんじゃないのと言うと、そ
んなことを言って支持をなくすといやですからと。
市民社会と言われている割には個が埋没していく傾向もあって、私のかかわっているあるNPO
で、9.11のときに、ひとりの市民、個人として何か意思表示をするべきではないかと、まして
NPOというのは社会的な活動を追求し、社会性、公共性ということを言っているのだから、何も
NPOとしての統一見解ということで言う必要はないけれど、そしてそのことで何か変わるという
ことはないかもしれないけれどやはり言うべきではないか、それを個人が言えるというのが市民社
会ではないかと。私はそのとおりだと思ったのですが、ところがそれに対してやはり若手の事務局
スタッフから、
それはまわりから色眼鏡で見られるからというのがずいぶん出てうやむやになった。
ことほどさように、何か、広い意味での政治的なアクションとか発言に自己規制をすごくかけるこ
とが、いまの日本で命を亡くすようなことはまずないのですから、何か昔よりちょっと窮屈な発想
にNPOの一部がなってきているなぁと感じました。
村岡:多様なNPOを育てるための、社会的な土壌、行政や政治、さまざまな意味での力が
かみあっていない。もう少し何かできるのではないかと思う。
地元の秋田で、自分自身のNPO活動だけでなく、大学生などの若い人たちの市民活動などにも
かかわっていて、NPO活動などにも応援団的にお手つだいをしたり、あるいは兄貴分として相談
に乗ったりしています。まさに、私も山岡先生が言われるところの「人生NPOシフト」なんだな
ぁと思っています。彼らのうごきを見ていると、政治もしくは行政にかかわることに自分から壁を
つくってしまうようなところもあります。行政の方もそれを育てようという意識があまりないとい
うか、もっと言えば行政の下請的、あるいは、新しい雇用の場として活用しようというところが見
え隠れします。本来NPOは自分でやって自立できてやれればいいのですが、それは欧米などのN
PO先進地といわれるところでもある意味ではNPOを育てるために行政的な支援をして、そのな
かで成熟をしているので、日本では現段階ではもっと積極的な支援が必要だと思います。そのなか
で行政側がどういう判断のもとに、ここにはどれだけお金を出してここには出さない。それならま
だしも出し方が全然違うというのは、どういうふうに現実のなかでうごいているのか、かかわって
みると不思議に思いますね。
秋田ではヤートセという、札幌の有名なヨサコイソーラン、あれもすごいイベントで雪まつりを
しのぐようなイベントに育っているんですが。私は秋田の若者たちのグループを知っているんです
が、彼らは北海道・東北場合によっては全国の仲間たちと踊りを通して交流をしあうんですね。各
県とか都市どうしとかなどの主要都市をいったりきたりしている。それだけなら単なる仲間づくり
なんでしょうけれども、週に一回ずつ、会議と踊りの練習をやっています。このあいだ私がたずね
たときには、新人の男女の高校生がきていまして、制服姿をジャージに着替えて2時間ぐらいいっ
しょうけんめい踊りの練習をするんです。今どきの高校生が学校が終わって疲れている時間に親に
おくられてきてではありますけれど、汗をかいて声だして生き生きといっしょうけんめい踊ってい
る姿を見ると、これももうひとつの教育の現場というか、青少年が青少年を育てているNPO的な
活動の一端を担っているんだなと思いました。そういうことを知らないでいると、単に踊り好きの
仲間たちがあっちに行ったりこっちに行ったりして騒いでいるだけと見える。それが若い人たちを
どんどん入れてきていっしょうけんめいやっていて、こういうのもまさに社会が多様化した姿だと
言える。ところがこういうものはなかなか行政側は評価をしようとしない。このあたりをどう捉え
ていくかというところは、実は私もよくわからないですね。
ところが、アピールが上手なNPOは目立つんですよね。そういうところは新聞が大きくとりあ
げたりして、
行政から大きなお金がどーんとはいって、
大きなシンポジウムをやったりするんです。
誰が悪いということではないけれど、多様なNPOを育てるための社会的な土壌、行政や政治、さ
まざまな意味での力がかみあっていない。かみ合うのがむずかしいのかもしれないけれど、けれど
もそのむずかしさを乗り越えてもうひとつの公共のしくみをつくっていく、社会を多様化させよう
という努力のプロセスこそが本当の成熟した民主主義だと思うのです。もう少し何かできるのでは
ないかと思うのですけれども。そのためにも、NPOは、新しい日本をつくるために、社会を変革
させるために育てていかなければならないと思います。
中村:行政は、組織の枠組みをどうつくるかということには関心があるけれど、
個と個の関係、住民と行政職員とのさまざまな交流には関心がない。
淡海ネットワークセンターの阿部さんの原稿を読ませていただいて、行政は組織の枠組みをどう
つくるかということには関心があるけれど、個と個の関係、住民と行政職員とのさまざまな交流に
は関心がない。だから人を交代させてしまって関係を壊す。そういう属性というか、それは行政と
いう機構や組織のなかに根深くあるなぁと思います。NPO仲間のある役員などは、行政というの
はそういうものだと思えば腹も立たないからもっと機能的につきあえると言っている。このことに
ついては、現時点では、日本の行政のそういう傾向はなかなか変わらないと思う。
協働というときに、もちろん行政との協働も大事ですけれど、民間同士の、たとえば企業とか民
間組織とNPOの協働というのを、個と個のつきあいというようなことも含めて、割と民間同士な
らそういう側面でもつながれるように思います。その辺りをやっていった方がいいのではという思
いもします。もちろん人にもよりますが、行政の人との一般的なつきあいよりも、企業人との肝胆
相照らしたつきあいの方がよほどよいのではないかと思います。
服部:個人の多様なありようこそが、
新しい未来を築いていく可能性そのもの
協働のさまざまな可能性ということですね。たしかに、市民社会を個人の思いを形にしていける
社会と言うのなら、その個人の多様なありようこそが新しい未来を築いていく可能性そのものだと
思います。大いに期待していいことなのでしょうね。本日はお忙しいところ誠にありがとうござい
ました。
市民社会へ−個人はどうあるべきか
川崎あや
アリスセンター(特定非営利活動法人 まちづくり
情報センターかながわ)事務局長
1.個人と社会の関係への葛藤
学生時代に地域での市民活動に出会ってからすでに20年がたちます。市民にとってもっとも身近
な存在である地域社会こそ、1人ひとりの市民が主体として、社会の様々な場面での決定と運営に
参加できるはずであり、地域社会での市民活動は自治の原点ではないか、という思いを持ち続けて
きました。この間、市民活動・NPOは大きな社会的潮流となりました。20年前の私が、思いもよ
らなかった変化です。しかし、個人と社会の関係を考えたとき、まさにこの潮流こそ、私の大きな
葛藤でもありました。
2.日常社会の変革へ
市民活動やNPO期待されているような市民個々人が主役になる社会像は、ここ何年かの市民活
動・NPOブームの中で初めて登場してきたわけではありません。いつの時代にも、こうした社会
を実現しようと実践してきた人たちはいました。
1980年代の半ば、私が市民活動というものを意識し始めたのも、そうした人たちの存在があった
からです。開発による身近な自然環境破壊や、高齢化社会の前にあまりにも脆弱な地域福祉、社会
的弱者やマイノリティが疎外される社会システムなど、社会の矛盾に気がついた人々が活動を始め
ていました。行政に対する要望や反対運動もありましたが、食の安全や環境に配慮した生活スタイ
ルの実践、身近な自然を市民の手で汗を流して保全しようとする取り組み、社会的弱者やマイノリ
ティが疎外されない地域社会を築いていこうとする試みなど、それぞれ個人としての価値観や生き
方の問い直しを含めた活動でした。
分野も手法も雑多なこれらの活動にもうひとつ共通していたのは、そこに暮らし当事者である市
民の声が反映されない社会のあり方そのものへの問題意識であり、身近な地域での活動を通して、
日常から社会を変えていこうとする志向でした。
アリスセンターは、こうした身近な地域での活動を通して、市民が主体となるような社会が創り
出されることを目指して、市民活動の情報センターとして1988年に発足した組織です。発足当初か
ら、アリスセンターのスタッフとなった私には、市民活動への共感はあったものの、社会的にはい
まひとつとらえどころのない市民活動が、社会やそのシステムを具体的にどのように変えていくの
かまでは、思い描くことができませんでした。それでも、このとらえどころのなさこそが、市民1
人ひとりの自発性や主体性であり、その共感が様々な形で地域社会に浸透することで、社会もまた
何らかの変革を余儀なくされるものだと期待していました。
3.市民の組織が必要だ
アリスセンターが発足した直後の1980年代終わりに、チェルノブイリ原発事故をきっかけに全国
的な盛り上がりを見せたのが脱原発運動でした。環境、平和、人権など様々な分野で活動する人た
ちを中心に、
あっという間に共感層が広がり、
神奈川県内でも各地で脱原発を掲げるグループが次々
と誕生しました。都心での大規模な集会もありましたが、多くは地域で身近な人たちと語りあい裾
野を広げようとする活動を展開していました。しかし、1年もすると、そうした勢いは消え、「脱原
発」を掲げる団体はほんの数えるほどになりました。
市民が潜在的に感じている社会の様々な矛盾への共感は、時に変革への大きなエネルギーを生み
出すということを感じるとともに、その時限性も実感しました。社会のシステムは、行政組織にせ
よ、企業組織にせよ、強固に築き上げられてきた組織とその組織で働く人たちによって成り立って
います。その働き方が人間性豊かかどうかは別としても、そこにプロとして専従し、生活の糧を得
ている人たちがいる組織の集合体に対して、その時々に烏合離散する市民活動では持久力の差は目
に見えています。
地域では、例えば、不登校の子どもたちの親が中心となって緊急避難的に設けていたフリースペ
ースに代わって、専門スタッフを擁して、日常的、継続的に子どもたちを受け入れるフリースペー
スやフリースクールが登場してきました。福祉サービスなど地域に必要なサービスを市民が有給・
有償で担う組織が、新しい働き方の実践としても増えていきました。
市民活動が掛け声だけでなく本当に社会の変革を進めていくのだとしたら、市民の問題意識を受
け止め、専門的に取り組む人材をもち、市民個々人の活動を恒常的に支える市民組織が不可欠だと
いうことを、市民活動に取り組む人たちが気づき始めたのだと思います。
他方で、組織に対する不信が、市民活動に参加する人たちの中にあったことも確かです。それは
行政組織や企業組織に対する不信というよりも、むしろ労働組合や政党といった組織が音頭をとっ
て進めた運動のスタイルに対する不信だったように思います。それゆえに、市民活動に組織として
取り組もうとした人たちは、組織の意思決定や代表性などのルールづくりに皆一様に慎重でした。
そうした時期∼1990年代の前半∼に、NPOという言葉を聞くようになりました。市民活動を日
常的、恒常的に支え、実践する組織もまさに、民間で、非営利で、かつ、公益的なNPOに他なり
ません。市民が気づいた様々な社会の課題や矛盾に自ら取り組み、日常の中から市民社会を創り上
げていくためには、行政セクターや企業セクターで培われてきた組織に対する対抗力をもつNPO
を市民が自ら創りだすことが必要だと思うようになりました。そしてそのために、アリスセンター
もまた、市民活動の情報交流から、市民団体の組織運営の支援に力を入れるようになりました。
4.社会の応答力
90年代に入り、私もいくつかの市域・県域のネットワーク組織の立ち上げの事務局を担ったり、
市民活動の資金集めや仲間集めなどの講座の企画に参加するようになると、現実に地域で起こって
いる数々の問題に対してはだんだんと疎遠になってしまいました。地域での問題解決に何ら具体的
に関与できずに、市民活動の組織運営の支援などできるのかというジレンマがありました。
もっと具体の地域に関わっていくことが必要なのではないかという思いから、1995年から約2年間、
アリスセンターでは、地域社会に密着した課題解決の試みとして、横浜市内の中学校区ほどの地区
での市民の活動を支援しました。その地区では、戦後すぐに県が設置した公共施設が廃止されるか
もしれないという問題に、その施設で活動してきた人たちを中心に反対の声があがっていました。
老朽化は進んでいたものの、高齢化が進み、市によるコミュニティ施設の設置も立ち遅れていたこ
の地区にとって、
その施設は唯一の福祉拠点でした。
そして施設を運営する法人職員と市民の手で、
子どもや高齢者、障害者などを対象とした複合的なサービスを担い、世代間の交流や支えあいを実
践してきた施設でした。
仮にこの施設の廃止が避けられないにしても、これまで市民自身が担い手となって培ってきた支
えあいの機能がそのまま生かされるような新たなコミュニティ施設をつくりたい。そうした地域の
人たちの切実な思いに対して、アリスセンターは、この地区に対する支援をひとつのプロジェクト
として取り組むことにしました。まちの課題や将来像を考えるワークショップを地域の人たちとい
っしょに開催したり、この地区に関する市の施策の情報収集などを行いました。行政の職員も個人
として協力してくれました。自治会組織にも働きかけました。しかし、なかなか目にみえる成果は
得られません。そうこうするうちに、地域の人たちも疲れてきたようでした。そして活動は休止し、
アリスセンターもこの地区への支援活動を打ち切りました。
こうした市民が声をあげても何も変らないという状況は、市民活動に数多く見てきましたし、だ
からこそ、NPOの力が必要だと考えたのですが、この地区に直接関わって「社会の応答力」とい
うものをあらためて考えずにはいられませんでした。人々が生活に直接関わることを決定していく
プロセスに関与しようとするだけのことに、なぜこれほどまでの努力が強いられるのか。普通の人
たちが普通に声をあげていくことに社会はもっと応答できていいのではないかという思いでした。
5.1995年 非日常(非常時)と日常社会
1995年の阪神淡路大震災は、いざというときに自分の意志で行動する数多くの人々の存在と、そ
うした人たちの行動が、市民がこれまで命や安全を託してきた公的システムよりも何倍も有効に機
能するということをあらためて示してくれたと思います。また、多くの人々の自発性を、有効な支
援活動へと結びつけた数々のNPOの存在は、NPOの社会的意義をあらためて実感させてくれま
した。
しかし、私は、市民活動・NPOの社会的意義やその有効性を語る時に、震災を例に出すことに
一抹の違和感も持ち続けてきました。人々が行動に対する社会的な有効性が認知されるためには、
行動する側の意思やエネルギーと、その行動に対する社会の応答力の双方が必要です。震災という
不幸な出来事は、既存のシステムをほとんど崩壊するか、機能不全に陥いらせてしまいましたが、
そのことが逆に、人々の自発的な行動に対する社会の応答力を最大化させていたのだと思います。
ひるがえって、市民活動・NPOが根づくことを期待されている日常社会は、まさにその応答力
を欠いている社会なのです。市民活動・NPOが日常社会に根づいていくためには、震災では不幸
にもすでに用意されていた社会の応答力を、今度は自分たちの手で、「崩壊」ではなく「変革」と
いう形で、日常社会の中に創り出していく必要があるのだと思います。
この非日常と日常の「社会の応答力」の違いに無頓着であっていいのかという戸惑いが、私に、
震災を例に市民活動・NPOを語ることをためらわせていたのかもしれません。
6.NPOの「非営利性」「公益性」がもたらしたもの
95年以降、市民活動・NPOへの参加者層は明らかに変化してきました。アリスセンターの活動
の中で私が出会う人たちも、それまでのように市民活動を行っている一部の人たちから、より広範
な人たちへと移ってきました。確かに、95年以前の市民活動はたこつぼ化の懸念もありました。1
人の人が何通りもの活動を担い、同じような問題意識をもった一部の人たちの活動の域を脱するこ
とが難しい状況にもありました。こうした市民活動を、たこつぼ化の危機から救い、その間口を広
げたのは、95年以降の市民活動団体=NPOとしてのとらえ方だったと思います。
私はそれまで市民活動を「地域の問題に気がついた人たちが、自らそうした問題に取り組み、社
会を自分たちの手で変えていこうとする活動」ととらえおり、そうした人たちが社会的存在として
活動していくための道具としてのNPOに期待したのですが、一般には「NPO」で着目されたの
は、「非営利性」であり、「公益性」でした。多くの人々、そして企業や行政にとってもハードル
が低いのは後者です。
私が、アリスセンターでの日常の相談対応や、NPO関連のフォーラムなどで出会う人たちも、
様変わりしてきました。
それまで出会う人たちは、
何らかの自己主張をもった人がほとんどでした。
それは地域の課題への問題意識だったり、福祉や教育などそれぞれが活動する領域におけるビジョ
ンだったりしました。しかし、ここ数年、そうした自己主張をもった人たちとは若干違う層との出
会いが多くなりました。
例えば、「福祉の分野で何かしたい」「環境の分野でNPOを立ち上げたい」といった思いはあ
るものの、具体的に何をするかについては、その機会や動機づけを誰かにあたえてほしいと考える
人たち、「こういうサービスがあったらいいだろう」と活動を立ち上げたがなかなか利用者が集ま
らないので、活動の社会的認知や利用者開拓に力を貸してほしいという人たち。「採算性がとれる
NPOの事業は何だろう」と模索する人たち。
「非営利」で「公益的」な活動に従事したいという欲求が先行し、問題意識や社会ビジョンとい
う自己主張は希薄なままに、活動を始めたり、NPOを立ち上げたりする人たちが増えてきたので
す。そしてこうした人たちが求めているのが、自分たちが「非営利」で「公益的」な活動を進めて
いくための道案内人です。そして、今、こうした人たちの多くから道案内人として期待されている
のは、行政であるように思います。
7.市民力、地域力は変ったか
市民活動・NPOが社会的な潮流となったここ数年で、市民力や地域力は本当に変化してきたの
でしょうか。市民活動やNPOに自発的に参加しようとする人たちは増えました。地域で、福祉を
中心に様々なサービスがNPOによって創りだされ、着実に成果をあげている例が多々あります。
地域も社会もこうした活動にずいぶん寛容になったと思います。それまでほとんど無視されたり特
別視されたりしてきたのが、今では歓迎され、応援されているのです。それを市民力、地域力と言
うのならば、大きな変化です。
一方で、変らない部分もあります。市民活動・NPOが、既存の制度や公的なシステムを変えよ
うとする行動に対しては、
社会は未だに不寛容なままです。
地域で独自に福祉サービスを創った人々
が、既存の公的サービスとの連動にいかに苦労しているか、環境保全活動を行う人々が自発的に清
掃や自然資源の手入れを行う活動の延長線上で、自治体の環境保全施策の見直しを求めたとき、そ
れがいかに困難であるか、その状況は以前と変っていません。そして、そうした状況を転換してい
くことまでを視野に入れて活動している市民が地域で増えてきたか、また、市民1人ひとりがそこま
での力を蓄えつつあるのかというと、それほど大きな変化は見られないのではないでしょうか。
自発的ではあるが社会の主体とはなりきれない市民、寛容ではあるが応答できない日常社会とい
うのが、今の市民と社会の関係としてあるように思います。
もし、この日常社会の変革という認識をもたないままに、市民1人ひとりの自発性だけが日常社
会に着地し続けるのであれば、人々の善意や支えあいだけが推奨され、大勢にさしさわりのないボ
ランティア大国は生まれるかもしれませんが、市民と社会の根本的な関係はなんらこれまでと変ら
ないような気がします。
8.自己決定と選択
こうした状況の下で、私たちは、自己決定しているのか、選択しているのかを、見きわめる力を
求められているように思います。
これまでの社会で、市民はある時は、「経済の豊かさ御一行様」のバスにのり、ある時は「豊か
なライフスタイル御一行様」のバスに乗ってきました。そして今また「市民活動・NPOによる新
たな社会御一行様」のバスに乗っているような気がしてなりません。今やこのバスツアーは、多彩
なオプション企画であふれています。人々は、バスツアーに参加したいという自発性を持ちさえす
れば、多彩な企画の中から自分の意志で自分の好みにあった企画を組み合わせて決めることができ
ます。
市民が自分で決定し行動するのが市民活動やNPOだと思われていますが、実はこうしたバスツ
アーと同様に「市民活動・NPO」の多彩な選択肢の中から選択しているだけだということはない
でしょうか。
現在、打ち出されている様々な自治体のNPO施策も、「市民活動・NPO御一行様」を乗せた
バスをさらに増発させようとしているかのように思えます。そして、「道案内人」を期待された行
政は、そのツアーコンダクターとして忠実に職務をこなそうとしているように見えるのです。ツア
ーコンダクターは客のニーズに懸命になって対応してくれます。ただし、いくら乗客全員が、バス
の行き先を変えてほしいといっても、それを聞き入れようとはしません。
9.必要なのはNPO支援か
ここ数年の市民活動・NPOをめぐる状況の下で、私は、地域の支援センターとしてのアリスセ
ンターの役割が「NPO支援」でいいのか、あらためて自問自答するようになりました。
私にとってNPOは、問題に気がついた人たちが自分たちの手で変えていこうとするための道具
であり、そうした人たちが道具をうまく使いこなして市民が主体となる社会を実現するための「N
PO支援」でした。しかし気がつくと、道具をいかにいいものに磨きあげるかや、道具の使い方の
技術ばかりが「NPO支援」として注目されるようになってきました。何のためにこの道具を使う
のかをしっかり自覚している人たちにとっては、道具を使う技術こそが必要ですが、最近のいわゆ
る「NPOマネジメント」への取り組みの中には、支援しようとする側も、支援を求める側も、何
のためにこの道具を使うのか、その先にどのような社会を求めていくのかということは二の次とし、
とりあえず「いい道具があるそうだから使い方をマスターした方がいい」というものも多いように
思えます。
こうした「NPO支援」をひたすら続けていくことが、市民社会への道のりだとは思われません。
市民が主体となる社会を目指すならば、支援すべき対象は、「市民活動」や「NPO」という器で
はなく、市民が社会に対して、自分たちで決定し責任をもとうとするその行動であり、それに応答
できるような社会を創ろうとする行動だという原点に立ち返りたいと思うようにもなりました。
10.市民セクターは補完なのか?
市民セクターという概念が生まれたことで、困ったこともおきています。
これまでは、市民の社会に対する不満や批判は、行政セクターや企業セクターに向けられ、その
改善をせまってきました。そして行政や企業はあれこれ取り繕い、自己防衛にやっきになってきま
した。
近年、NPO支援に取り組もうと、アリスセンターに訪れる行政職員や企業関係者は、一様に驚
くほど謙虚です。自分たちの組織がいかに社会の中で不十分かを語ります。行政は「制度の壁があ
るので即応できない」「組織があって柔軟になれない」、企業は「営利を追求しなければならない
ので必要なニーズに対応できない」「働く人の自己実現を第一にはできない」。そして「だからこ
そNPOに期待したいし、支援したい」と言います。そして両者とも口をそろえていうのが、「お
金がないのに動けるのはNPOだけだ」・・・・・・。
行政セクターや企業セクターは、市民セクターが市民の社会に対する不満や批判を解決してくれ
ると考えることで、また、NPOを支援することが自分たちの社会的責任だと考えることで、自ら
の組織の変革には一層怠慢になってしまったようなのです。
市民がNPOを組織し構成するのが市民セクターだとしても、市民は市民セクターだけに居場所
を与えられ、市民セクターだけで主体となる存在ではないはずです。市民が主体となろうとしてい
るのは、行政セクターも企業セクターも含めた社会全体だったはずです。企業や行政ではダメだか
らそれを補うためにNPOがあるのではなく、NPOの存在によって社会全体が変っていくことが
必要なのだと思います。
行政から公平性をなくせとは言いませんが、ニーズのあるなしに関わらず同じサービスを実施す
ることが公平性の名のもとにまかり通っている方が不思議ですし、市民が自分自身の身の周りのこ
とにさえも関与できないような制度や行政組織ならば変える必要があるのです。企業に利益を追求
するなとは言いませんが、そのために社会的責任を放棄するようなことがあってはなりませんし、
企業での働き方では自己実現が難しいとしたら、企業の働き方そのものに問題があるのであり、社
員のボランティア活動を奨励すればすむ問題ではありません。
本当に、市民1人ひとりが主体的な社会に変ってきたのであれば、市民で構成される企業社会や
地域社会、そして行政組織もまた変っていっていいはずですが、なかなかその兆しは見えてきませ
ん。
11.最後に
市民活動やNPOへの期待はとどまるところを知らない勢いです。さらに、失業者の増加や政府
の財政逼迫など処方箋を見失ってしまった問題の特効薬としても、また、高齢者の生きがいや女性
の社会進出を可能にする新薬としても、市民活動やNPOは万能薬としての開発や実用化が拙速に
進められようともしています。
この怒涛のごとき社会の勢いの中で、主体的な個人が社会を創る「市民社会」への突破口を切り
拓いていくことができるのか、それとも、この勢いに身をゆだねてしまうことで、物質的な豊かさ
や同調主義に変って、個人を操り支配する新たな何者かを登場させてしまうのか、今まさに、私た
ち市民1人ひとりが試されているように思えてなりません。
私自身の葛藤も、まだまだ続きそうです。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
津田祥子
特定非営利活動法人 北海道NPOサポートセンター 理事
95年以降現在までに取り組んできたこと、体験を書く前にどう今に結びついたのか?を初めに
書きます。
1.はじまりは・・・
社会の動きに関心を持ったきっかけは、2冊の「本」でした。
水俣病を知らせてくれた、小学生の時に読んだ1冊の漫画の本。遙か昔で題名は忘れました。町
にある工場から排出される不気味な汚水。狂ったように死んでいく猫。工場の社宅に住む子と、地
元の子の友情物語だったと記憶しています。狂ったように死んでいった猫が恐ろしい水銀に汚染さ
れる、それが水俣病だったと知ったのは、それから何年も経ってからのことでした。
もう1冊は、小さな学校の、小さな図書館の隅っこに見つけた「原爆の子」というボロボロの作
文集。被爆した当時の自分と同じような年齢の人たちの苦しみを通して原爆の恐ろしさ、原子力の
怖さを知りました。人々の日常が一瞬にして、自分の意志と関係なく壊されてしまう恐怖・怒りを
感じました。この2冊の本が私のスタートです。
その後、色々なことがありました。でもこの時に感じた、得体の知れないものに翻弄されてしま
うことへの「不安」
「怒り」
「憤り」のようなものが、いつも私の中にあります。
2.絶望の中から・・・
1988年秋、深い絶望感と、空しさが疲れた体に重くのしかかり、その後の私に深く、重く影
響してきました。
1986年に旧ソビエト・チェルノブイリで原子力発電所の事故が起こり、世界中を震撼させま
した。戦争と同じく人々の日常生活を一瞬にして狂わせてしまう原子力発電所の事故は身の毛のよ
だつ思いでTVから流れるニュ−スに耳を傾けていました。当時、生活クラブ生活協同組合の役員
として活動していた私は、その事故の後、国内で、そして北海道で初めて建設が予定されていた、
泊原子力発電所建設反対の運動に色々な形で関わっていました。日本で初めての国民投票に持ち込
もうと、北海道内各地で「道民直接請求」の署名活動に取り組んでいました。小さな子どもの手を
引いて、公園で子ども達を遊ばせながら、たくさんの人たちに会い、話しました。
その日、90万人余の署名を提出して道議会に臨んでいたのです。
初めて直接目の当たりにした議会は、市民には不可解な動きの中で進み、ヤジと怒号の中で一瞬
にして「数の力」という現実が私たちの運命をいとも簡単に決めていきました。毎日毎日歩き廻っ
て集めた私たちの「意思」は、見えないところで駆け引きの材料にされ、いとも簡単に決着がつき
ました。真夜中、我が家にたどり着き、待っていた夫や息子に状況を報告しながら、私たちの思い
(命)がこんな人たちに、こんな形で決められてしまった事への悔しさと、空しさから涙がぽとぽ
ととこぼれ落ちました。
3.そして・・・
その後も色々なことと関わりながら、なかなか個人の「思い」が伝わらない苛立ちと絶望感の中
でくるくると空回りし、疲れ始めている「私」に気付き、少しずつ身辺整理を始め、10年間関わ
った活動を自ら卒業し、あこがれの「フツーのおばさん」に戻りました。毎日、ゆっくりと時間が
流れ、日常を満喫していました。
そんな頃、ある雑誌で初めて「NPO」と出逢いました。アメリカの低所得者層のアパート取り
壊しに関しての地域住民の動きを紹介した記事を読みました。そこに住む人たちを始め、取り壊し
に反対の人たちの動きが記録されたものでした。ちょっと衝撃的で、ずっと心の隅っこに引っかか
っていました。
従来、取り壊しに反対の人たちの署名を集める⇒議会へ陳情などをする⇒議会にかける⇒却下な
どの流れで、取り壊しに反対をする人たちの思い、意見は多数決によって、また、行政の継続とや
らに消えてしまう、私たちの見えないところで、行政が決めたことを遂行していくという流れの中
で、私たちの意見はほとんど採り上げられることがなく、物事が決められ、進んできました。それ
が、このアメリカの事例は違ったのです。
取り壊しを推進する人たちは、周辺の環境悪化を懸念し取り壊しを決めました。それを受け、反
対をする人たちは集まって対案を話し合う事を重ねていきました。話し合いの中で、自分たちの思
いをその中に入れていったのです。さらに、従来、企業と行政間で行われていた工事の請負も仲間
たちの中にいた専門家たち、それに協力をする人たちで適正価格で請け負うことができました。自
分たちの「思い」を動きの中に取り入れることができたのです。こんなにスマートな自己表現の仕
方がアメリカにはあるんだ、こんな形で自分たちの意思表示ができたら・・と読み進んだ記憶があ
ります。でもその時はただそれだけでした。
4.再び動き出す
家にいる生活はほんの半年ももたずに、
「何かをしたい」
「しなければ」の思いが沸々と湧いてき
ました。実際には、何も活動をしない生活もそんなに暇なものではなく、この間に父を看取り、難
病の母の介護等々それはそれで忙しい日々を送っていました。にもかかわらず少しずつ動き出して
しまったこの気持ちは、もう止めることができません。
1994年8月、有限会社 SY企画室を設立しました。その経過と思いを「社会運動・174号」
に投稿していたので、ちょっと長くなりますが以下はその抜粋です。
『S・Y企画室は、SAPPORO・YUME企画室。札幌の夢守り・見つけ・育てます。
SAUCE & YEAST 夢の源を探り・旨みを加え・発酵させます。
人はその一生の中で、人生の「転機」というものを何度迎えるのだろうか。ここで「はい」
というか「いいえ」と言うか。どっちかで人生が違ったものになる。と自覚しつつ返事をした
ことが何度あるのだろうか。いつか誰かから、チャンスの神様は前髪しかないから、つかみ損
なうと無くなってしまう。と聞いたことがある。でも、人生の転換期とかいったって、意外と
“いきがかり”とか“たまたま”が多いのではないだろうかとも思う。今回のことはどういえ
るのだろうか・・・。
(中略)
ずっと活動専業主婦だった私は、もう何年も前から活動への関わり方について考えていた。
いろいろ思うことがあった。いろいろ考えることがあった。急に・・・は無責任すぎるから、
少しずつ整理していこう。
「暇になったら病気になるよ」
「寂しくなるよ」とか、ひどい人は老
け込むよなんて言った。でも、10年はいい頃合いなのかも知れない。少し休んで、仕事でも
しようかな・・なんて、のんびりと構えていた。
(中略)
ある程度活動に関わった人たち、力のある人たちが、そのまま地域に埋もれてしまうのでは
なく、パ−トという形で企業の中に埋もれてしまうのではなく、ワ−カ−ズのように、ワ−カ
−ズとは又ちょっと違った形の働く場があったら・・・。働く意義や学ぶ楽しさを味わうこと
ができる仕事・WORKを考えていきたい。
・・そんな女性(ひと)たちとどんなことができる
のか考えていくのも素敵だ。どうせ仕事を始めるのなら、今まで係わっていたことを生かして
いくことができたら、と漠然と考えていたりもした。
「僕は、メンタ−(師、賢明な顧問、良き指導者の意味)になりたいんだ。
」労働運動、社会
運動、市民運動に精を出してきた生活クラブ北海道設立時の専務理事、小林董信氏(現、北海
道NPOサポ−トセンタ−事務局長)はまじめな顔をしてこういった。
「つまりね、今の市民運
動にはスポンサ−がいない。反対勢力にはスポンサ−がいる。資金力の有る無し、この違いは
大きいよ。僕は微力ながら市民運動のいわばパトロンというわけさ」
「今まで言ってきたことを
お金にしていけばいいのさ」と。
いずれ仕事に就くのなら、
今までやってきたことが生かされることをやってみたい。
そして、
いって来たことを少しでも形にしていけるようなことができたら、とどこかで考えていた。一
緒に活動をしてきた友人にも声をかけた。すぐにこの話に乗ってきた。
今の私たちにできること、迷わず調査事業をメインに考えた。今まで「こんなもんだ」と型
にはめられてきたものに、角度を変えて、ひかりや風を当てていく。もう一つの視点を大切に
した調査事業をやっていきたい。そんな視点から、行政の調査もできるようになればいい。だ
から、形態をワ−カ−ズにするか、法人にするか、現在法人の認可を得ているところの傘下に
はいるか、道は3つあったが、法人の道を選んだ。ワ−カ−ズと共にもう一つの働き方にこだ
わってみようと思った。
しかし、有限会社設立には資金が300万円必要である。今まで活動専業主婦の身。二人と
も蓄えなどあるはずがない。一番身近な借金先・・それぞれの夫に、いつになく謙虚に、この
何とも先の見えない、とらえどころのない、抽象的な話をそれとなく切りだしてみる。なんと!
活動10年の蓄積はすごい!!と言うか、すでにあきらめているのか、また何かが始まった、
の心境なのか、とにかくそれぞれの夫たちは蓄えに余裕があるわけでは決してないのに、二つ
返事でこの話をOKし、自らメンタ−を名乗り、出資者の一人に加わった小林氏と共に、興味
津々事の成り行きを見守ってくれている。
(中略)
資金はそろった。法人の認可も下りた。事務所も借りた。人もいる。心優しく力強いメンタ
−たちもいる。後は仕事が来るかどうか、この会社がいつまで存続するか、が問題だ。
』
NPO法が成立する数年前、有限会社を設立するに至った経過です。その後、3年で出資金は底
をつき、友人は夫と二人で、念願だった無農薬農業を始め(この事は設立当初から、3年経ったら
農業を始めると、彼女から伝えられていた)
、札幌市内数十件の宅配先に届けている。我が家も元気
で美味しい野菜の恩恵を受けている。
頼りの相棒は、やりたいことに向かって進んでいった。借金こそないものの、先のない会社をど
うするのか?という課題だけが残された。いくら何でも僅か3年で結論を出すのは早すぎる。もう
少し、納得がいくまで頑張ってみよう。という結論を出すか出さないうちに、97年夏の初め、あ
のメンター氏はやって来た。
NPO法設立に向け動きが出てきたので、事務所を借りて体制を整えていきたい。が、今は「人
がいない」
「お金がない」
・・で、同じくお金がないSY企画室と共同事務所でどうか?と言ったよ
うなことを持ちかけられ、悪い予感(これは、メンター氏との関係に於いてであって、活動に関し
ては良い予感だったのかも知れません)がしたものの、背に腹は代えられず、メンター氏の話に乗
ってしまったのが事の始まりです。
予感は見事に的中しました。悪い予感は、想像通りで、良い予感は、全く予期していなかったも
のでした。最初は事務所の留守番兼電話番兼掃除人兼お茶汲みでした。98年に法が動き出し、9
9年3月に北海道NPOサポ−トセンタ−が設立し、役員として係わってきています。
法が動き出してから事務所を訪れる人たちが徐々に多くなり、それは、道内各地から、実に様々な
活動を地域でこつこつと続けられてきた人や、今までずっと考えていたこと(夢)を熱く語る人、
何だかわからないけどこんな事があったらもっと暮らしやすくなるのでは etc・・・と一生懸命に
話す人、どこにこんなに素晴らしい人たちが隠れて?いたのだろうか。と、思ってしまうほど様々
な人が訪れて来るようになりました。
もしかすると、この国は変わろうとしているのではないだろうか?変われるのかも知れない。真
剣にそう感じました。
こうしてずるずるとNPO活動に引き込まれ、今日に至っています。 会社はあれから9年目を
迎え、なんとか存続はしているものの、設立当初の思いはNPOそのもので、何だか気持ちの上で
は区切り無く、分け目無く、なかなか儲けには繋がらず、未だ資金面での「メンタ−」にはなれず
に今日に至っています。
(実は、メンタ−が欲しい!)
5.そしていま・・・
道の男性職員3人に囲まれて(実際は前にして)
、か弱い私は訳の分からない因縁を付けられてい
ました。
(・・としか言いようがない状況でした)
事の発端は、今行っている道から委託されている事業の進め方についてなのですが、何がどうな
って、どこが問題なのか?何度話を聞き返しても、私の頭の中では整理がつかず「もっとわかるよ
うに説明を」
「何が問題なのか?わかるように」
「何をどうしたらいいのか?」etc質問をしたに
も係わらず、どうも、応えている人たちも何が問題で、どうしたいのか、何だか良く分かっていな
いようなのです。一人は何だか知らないけれどカリカリしているのです。もう一人はじっと口を閉
じ、ただその場に座っているだけです。一人はつんつんとやたら突っかかってくるのですが、何故
なのか?何をどうしたいのか?全くわかりません。
最後には「奥歯にものが挟まったようなものの言い方しか出来ずに申し訳ありません」等という
始末。結局何故呼ばれたのか?今もわかりません。同じ言葉を話しているのに伝わらない悲しさ、
空しさ、寂しさ、残念さを思いました。組織の中の歪んだ関係が、受託者である、いままで弱い立
場にあった人たちにぶつけられている事を感じ取りました。
6.個人と組織について
「協働」という言葉を行政の人たちは最近よく使いますが、現状は残念ながら、行政マンが考え
た企画を行政の言うとおりに市民が実行するという「協働」でしかありません。上記に書いたよう
に、事業を委託した側は受託した市民の「上」にいます。今までも、いくつかの事業を道から受託
し、担当者として係わりましたが、時としてことばが通じない場面に出会いました。意味不明な行
政用語にも直面しました。書類の(紙)多さにも閉口しています。
本来「協働」とは税金の使い道を行政と共に考え実施すると言うことなのではないでしょうか?
何でも急には変わりません。が、インターネットなどが普及し、情報が一部の人たちのものだけで
はなくなってきたときから、環境問題が目に見える形で私たちの日常に入り込んできたときから、
少しずつ何かが変わり始めてきているのです。
大きな組織に属していることで、自覚しないままに「人」より「組織」が前に立って動き出して
しまうことが多々みられます。組織は人なり。人を大切にしない組織はやがて滅びていきます。組
織につぶされて追いつめられていく人が増えています。悲しいことです。
前記した道とのやりとりは、何も特別なことなのではなく、組織の中で「人」が歪んでしまって
いる分かりやすい例として出しました。当たり前のことですが、北海道の職員だけが特別なのでは
なく、こんな事はあちこちで起きていることです。道の職員の中にはことばが通じる人もたくさん
います。
7.個人と社会
NPOは「こうしたい」
「こうありたい」と、意志有る人たちが集まってできていきます。 時と
して、
「こうしたい」
「こうありたい」の思いがぶつかり合うことが有ります。従来の組織のように
縦で動くのではなく、ひとり一人の思いが折り合って成り立っているので、意見のぶつかり合いや
議論はあちこちでおこります。
私たちの国は、今まで人前で意見を言うとか、全体を乱さないように「まあまあ」と言って調和
をとりながら生きてきました。どこでも、いつでもハッキリと言ってしまう人は浮いてしまって、
行き場の無い状況に追いやられてしまう傾向にありました。残念ながら、意見の食い違いが感情の
もつれとなり、折角志を以て何かをやりたいと動き出した人たちが、お互いの足の引っ張り合いを
し、挙げ句の果てには口も聞かない、というような情けない団体も出てきています。
遙か昔、高校生の時、札幌交響楽団の団員にインタビュ−に行ったときのことを思い出します。
テ−マが「仲間」とか何かだったと記憶していますが定かではありません。音楽が大好きだった高
校生で、ある種の期待をもって行ったのだと思います。どうやって他の団員との調和をとり、良い
音(オ−ケストラ)に仕上げるのか?と言うような質問をしたと覚えています。その時確か、フル
−ト奏者だった方がその質問にこう答えました。
「隣の人はどうでもいい。自分が練習をして、いか
によい音を出すかが重要だ。
」
隣の人はどうでも良い、ということばは、大人の口からハッキリと聞くことは、純粋な高校生に
とってショックでした。でも、自分の意志をきちんと伝えることが出きるようになってその言葉の
意味を考えてみるととてもよくわかります。どうでも良い、と言った団員の方のことばの意味が深
いところにあったことも。
ひとり一人が成熟することで社会も成熟していく。そんな意味からも、形に自分を当てはめてい
くのではなく、形を自分で作っていくNPO活動は、まさに個人も社会も成熟していく場としてこ
れからももっと拡がって、充実していくことを願ってやみません。
「市民社会へ 個人はどうあるべきか−事例」
上土井章仁
特定非営利活動法人 NPOくまもと 代表理事
1.私の原点はいつの頃なのだろうか、と考えています。
私の原点はいつの頃なのだろうか、と考えています。
「NPO(民間非営利組織)
」などという言
葉は、まだ知らない1991年になるのでしょうか。当時、(社)熊本青年会議所は、米日財団の助
成を受け、1991年から3年間「KULP(=kumamoto United-states Leadership Program)
」
というプログラムに取り組みました。この「KULP」という事業は、熊本の次世代を担う各界の
青年たちがワーキング・グループをつくり、アメリカの優れたプログラムを視察・研究し、良いプ
ログラムを熊本へ持ち込んでいこうというものでした。私は、このプログラムに関わり、
「フィラン
ソロピー」や「組織」の研究をしました。この経験が、それ以降、青年会議所内部の活動にとどま
らず、市民社会と接し、新しい運動に取組んでいく機会を得たきっかけだったと思います。
そして、私が、
「NPO」という言葉と正面から向き合うことになったのは、5年後の1996年
になります。今回は、私個人の活動を通して、1997年から1998年を中心に熊本でのNPO
の流れと、1998年度(社)日本青年会議所でNPOの流れの一助をさせていただいた経験を中心
に、現在の活動へいかに結びついていったのかを書かせていただきます。
2.熊本にNPOの息吹を
(社)日本青年会議所 全国会員大会の熊本開催を翌年1997年10月に控えた1996年秋だ
ったと記憶しています。私は、(社)熊本青年会議所1997年度役員として、(社)日本青年会議所 全
国会員大会の熊本大会を主管した以後の(社)熊本青年会議所の方向性を提示する「’98会議」議長を
していました。その模索のなか、大きなヒントとなったのが「NPO」です。
全国会員大会を主管した青年会議所として、全国に発信・提言した「意識の改革」と「システム
の変革」を(社)熊本青年会議所として、実践する必要があります。社会の「システムの変革」へ向
けてのひとつの手段として、
「意識の改革」を促すツールとして「NPO」のもつ先駆性・運動性・
専門性等の特徴を捉え、そこから拡がっていく未来を大いに語っていこうと考えました。ややもす
ると青年会議所運動のなかで見失いがちな要素を「NPO」は持っていました。
「NPO」という考
え方・取り組み方が青年会議所運動に必要なものだと感じました。
勉強で補うものではありません。
私たちが「NPO」というツールを捉えることによって社会参加し、行動することが求められてい
ました。青年会議所として、青年会議所会員として、地域に、市民に、そして、社会に必要とされ
る存在であり続けるために、という思いで取り組みはじめました。
1997年1月28日、熊本県高齢者協同組合・国際文化交流を進める会・熊本民間災害ボラン
ティアセンター・
「協同」研究会・熊本県子ども劇場協議会・ユニハウス(自立生活住宅)研究会・
熊本県社会福祉協議会・熊本県文化福祉ネットワーク協会・(社)熊本青年会議所が集まり、第1回
の打合会を開きました。
ここでは、各団体の現状を討議・意見交換をしたり、熊本のNPOの検討をしたり、NPO支援
センター設立の可能性を検討していました。そのなかで、
「NPO」の理解・促進のため「NPOフ
ォーラム実行委員会」を組織し、報道関係各社の後援をえて、1997年4月26日には日本NP
Oセンター山岡義典常務理事を招いての
「NPOフォーラム∼21世紀を支える熊本型NPOとは」
を開催しました。熊本では、初めての本格的なNPOに関しての学習会に160名の方が集まって
もらえました。ここに、熊本にNPOの灯がともった瞬間でした。その後、この会を「熊本NPO
センター設立準備室」と名称を変え、さらに、自主学習と理解・促進を図って参りました。
また、マスコミの協力を得て熊本シティエフエム「オープンテラス」では、NPOをテーマにし
た「NPOシリーズ座談会」を2ヶ月に1回の生放送を開催して参りました。
VOL.1「NPOって何?」
1997年5月14日放送
VOL.2「市民活動団体集合!! 何がなやみ?!」
1997年7月9日放送
VOL.3「NPOと市民意識」
1997年 9 月11日放送
VOL.4「市民活動はこれからの社会に必要か!!」 1997年11月12日放送
VOL.5「全国の支援センターの現状∼行政は…」1998年1月14日放送
VOL.6「NPO法案成立か!!」
1998年3月11日放送
熊本放送ラジオ「中村幸子人間大好き」では、私の「NPO活動とわたし」と題したインタビュ
ー(1997年6月2日∼6 月6日)が放送され、NPOの理解の促進役をさせていただきました。
この活動は、1998年も引き続き行って参りました。
3.
「NPOの息づく社会づくり」の土台をつくる
1998年、この年は、NPO関係者にとって忘れることの出来ない一年となったと思います。
特定非営利活動促進法が成立をしました。それまで、市民活動法として取り組んできたものがひと
つの形として結実したのでした。私は、この年は(社)日本青年会議所「NPOでつくるコミュニテ
ィ推進委員会」というところにも所属をしていました。ここには、全国から100名近い青年会議
所メンバーが参加し、
「NPOの息づく社会づくり」に真剣に取り組みました。この取り組みには、
特筆すべきことがふたつあります。
ひとつは、1998年5月8日(金)
「最新NPO法セミナー ∼必見!NPO法のそこが知りた
い∼」です。東京お茶の水スクウェアにおいて、私たち(社)日本青年会議所「NPOでつくるコミ
ュニティ推進委員会」と日本NPOセンターさんと共催で実施させていただきました。このセミナ
ーには、行政関係の方々をはじめNPO関係者の方たちなど250名の方々にお集まりいただきま
した。民間の団体が主催したセミナーへ全国47都道府県すべての条例作成担当者の方々がお集ま
りいただきましたことは、極めて例のないものではないかと思います。ここでは、今求められるも
のをタイムリーに情報提供していこうという狙いから、山岡義典氏(日本NPOセンター常務理事)
の「分権社会におけるNPOの役割と新しい法人制度の意義」を基調講演として、都県の方たちに
パネラーをお願いした「各都道府県における現在の取り組み」というパネルディスカッション、雨
宮孝子先生(松陰女子短期大学教授)の「カリフォルニア州の非営利法人法制度」∼認証条件の比
較∼、松原明氏(シーズ・市民活動を支える制度をつくる会事務局長)の「NPO法が拓く新しい
社会」∼立法過程を通じて見た特定非営利団体活動促進法の特徴と都道府県の役割∼について講演
をいただきました。
ふたつめは、法人税の減免措置へ向けての取り組みです。NPOの社会への普及を目的に、法律
としては成立しなかった税制優遇をどういう形づくるための運動です。4月の全国知事アンケート
にはじまり、47都道府県のNPO担当者の方々への緊急電話アンケートなど全国のメンバーがひ
とつになって訪問し、情報収集し、全国へ状況を逐次報告するという手法を取りました。7月10
日時点では、47都道府県のなかでも法人税の減免措置を検討していただいたところは少なく10
県を越えたくらいでした。公表の手順が不味くお叱りをいただいた県もありましたが、12月1日
からの特定非営利活動促進法の施行の際には、全47都道府県すべてで法人税の減免措置の方向を
確信することが出来るようになりました。
「NPOの息づく社会づくり」の土台をつくることができた(社)日本青年会議所「NPOでつく
るコミュニティ推進委員会」での運動でした。全国から集まった100名近い青年会議所メンバー
が全国的な考えのもと、ご自分の地域で運動されました。理論が実践を伴い、運動として結実した
一年でした。
4.熊本NPOセンター設立準備室での、中間支援組織への問いかけ
一方、(社)熊本青年会議所では、1998年度「21世紀ネットワーク室 NPO推進委員会」
を新設し、よりいっそう「NPO」の青年会議所内外への理解促進と「熊本NPOセンター」設立
へ向けての準備を進めていくことにしました。NPO推進委員会では、
「意識の改革」をしながら、
「システムの変革」
を目指しました。
大別すると2つの大きな流れを作り出そうと行動をしました。
ひとつは「青年会議所から社会の流れの共創」
、ひとつは「青年会議所内部の流れの共創」です。こ
の流れを事業のなかに展開するひとつの方法として、(社)日本青年会議所「NPOでつくるコミュ
ニティ推進委員会」との共創事業の展開を企画させて戴きました。
第1回 3/7(土)
「NPOの理解」勉強会
第2回 5/23「ファシリテーター養成講座」
第3回 5/24「市民NPO講座」
特に、日本NPOセンター理事でありせんだい・みやぎNPOセンター常務理事である加藤哲夫
氏をお招きしての5月24日の「市民NPO講座」でのお話しは、熊本のNPOの流れを確立する
ためには、非常に有益なものとなりました。一例を挙げれば、公益は市民がつくることであり、本
流を市民がつくるということ等、
「公益」をはたすセクターとしてのNPOの役割を見直すきっかけ
となりました。そして、この参加者のなかには、NPO団体の方たちや行政関係者、学生、そして、
企業ボランティアを考えられている方たちもご参加戴きました。
ここでも一定の成果を納められた点として、次の2点が上げられます。ひとつは、
「熊本NPOセ
ンター設立準備室」のお手伝いをしたいという方が現れたことです。従来のネットワークだけにと
どまらず、今までと違うネットワークづくりがとても小さな環ですが、確実に少しずつ出来ていく
ことになりました。継続的な開催をし、広く市民の方の参加を募ることの重要性も実感しました。
そこで、熊本NPOセンター準備室の活動目的のである人材育成及び情報提供をメンバー内にとど
まらず広く一般の方々に向けても発信していきNPOについての啓蒙をはかるために、5月8日に
開催した「最新NPOセミナー」の収録ビデオ∼必見!NPO法のそこが知りたい∼をビデオ素材
とした「最新NPOセミナー」を8月より毎月1回(第3木曜日)開催することになりました。
もう一点は、
「NPO講座」終了後、参加者の皆様との懇親会の場で、
「NPO」にとどまらず「ワ
ークショップ」や「ファシリテーター」の部分までお話が及びましたところ、参加者のなかから、
新たな事業展開の企画が自然発生して参りました。新しい価値観や社会観にもとづく地域に根ざし
た草の根事業体の市民起業家、市民活動やボランティア活動と行政・企業のパートナーシップによ
る市民参画型社会づくりの提案者としての仕掛け人、いわゆる、
〈NPOプロデューサー〉
〈市民プ
ロデューサー〉の養成講座です。これもまた、早速、9月から2ヶ月に1回(9月・11月・1月・
2月/1泊2日/合宿形式)4回連続講座で行いました。
しかし、問題も出て参りました。この基盤整備を目的とした中間支援組織をつくるための「熊本
NPOセンター設立準備室」での話です。論議を進めていく過程で、ある方々が、ご自身の所属団
体の弱点を他団体の方たちに補ってもらおうといろいろな課題を持ち込まれました。たとえば、事
業を行うのに、人手が足りないから10名出して欲しいということもありました。事業資金が不足
するので、協賛金を出して欲しいと言われたこともありました。また、それを他の団体にお願いし
て欲しいと依頼をされたこともありました。中間支援組織というのはNPO自体の直接的資材供給
の支援と考えられ、ご自身の所属団体の弱点を補ってもらおうとされていました。中間支援組織と
は、日常的な課題を補ってくれるところだという認識があるようで、正に、駆け込み寺的存在であ
り、中間支援組織=事業を行うための手助けをする組織と解釈された傾向がありました。
今思うと、中間支援組織という実体も定まらないで話だけが進んでおり、基盤整備を進めるだけ
の力量が不足していたように思います。同時に、参加された方々も、事務局を担当する側にも、そ
の情熱に欠けたものがあったことも事実です。また、他の参加者を非難したり、この組織と関わる
ことによる所属団体での地位確保に利用するものまで現れました。従って、不本意ながら、この活
動は1999年3月を持って凍結をしたような形となってしまいました。
5.熊本県の社会参加活動に関する取り組み
熊本県の市民の社会参加活動に関する取り組みの経緯を見てみましょう。1997年熊本県内約
840団体を対象にした「熊本ボランティア・ネットワークシステムに関する調査研究(アンケー
ト調査)
」が実施され、熊本県下の社会参加活動の実体調査が行われました。1997年4月熊本県
におきましても初めて県民の社会参加活動推進を目的とし、同時に「特定非営利活動促進法」に基
づく熊本県の業務を担当する「ボランティア推進班」が熊本県環境生活部県民生活総室内に設置さ
れました。1998年12月から翌99年3月にかけて、
「熊本県社会参加活動推進基本方針策定懇
話会」が設立され、基本方針を策定しました。この懇話会は有識者など25名に加え、熊本県庁内
関係28課が参加するものでした。1999年には、
「余暇活動・ボランティア等社会参加活動に関
する県民意識調査」が実施されました。
より具体的な施策の必要性から、2000年1月から3月にかけて、
「熊本県社会参加活動推進方
策検討検討のためのワークショップ」を開催し、50に及ぶ具体的施策を作りました。この「ワー
クショップ」のメンバーが中心となって組織されたのが「内閣府・熊本県主催『ボランティア国際
年記念事業 ∼2001くまもとボランティア博覧際』
」実行委員会でした。私自身、1997年 4
月「ボランティア推進班」設置以来おつきあいをさせて戴き、その後の「熊本県社会参加活動推進
基本方針策定懇話会」
、
「熊本県社会参加活動推進方策検討ワークショップ」
、
「内閣府・熊本県主催
『ボランティア国際年記念事業 ∼2001くまもとボランティア博覧際』
」
実行委員会に参加させ
て戴きました。
1998年12月特定非営利活動促進法の施行により、熊本県内でもいろいろな団体が特定非営
利活動法人の申請をし、認証を受けています。1999年18団体認証、2000年17団体(計
35団体)認証の段階の1999年11月と2000年8月、熊本県で特定非営利活動人法人格を
取得した団体による法人のネットワーク化を図られました。この法人のネットワーク化のための数
度の会議のなかで、個々の法人の設立趣旨・活動内容の相違、ネットワーク後の活動方針への相違
などが浮き彫りになりました。その結果、NPOへの考え方・取り組みの違いから法人のネットワ
ーク化は十分な結果を結ぶことが出来なかったと認識しています。また、NPOに、まずネットワ
ークありきの考え方は馴染まないことも実感しました。これは、以前の「熊本NPOセンター設立
準備室」の経験と相まって、その後の「NPOくまもと」設立の教訓として残されました。
6.
「NPOくまもと」設立とその後の展開
この経緯のなかから、自分たちの日常の活動だけにとどまらず、
「NPOの息づく社会づくり」を
図りたいという共通の目的を持った関係者の方たちに、2000年8月から組織化した「内閣府・
熊本県主催『ボランティア国際年記念事業 ∼2001くまもとボランティア博覧際』
」実行委員会
へ参加していただき、この機会を通して、同じ活動をさせて戴きました。この共通の活動を通して、
共通の認識を出来た方たちを中心に、基盤整備を目的とした中間支援組織「NPOくまもと」を設
立することになりました。
これらの基盤整備を目的とした中間支援組織は、日常活動の延長線上に存在しない方が良いとい
う経験則を糧に、特定非営利活動法人「NPOくまもと」と会員の方の所属組織との関係について
明確なルールが出来上がっていました。特定非営利活動法人「NPOくまもと」では、お互いの所
属団体の事業支援は持ち込まないという取り決めをさせて戴きました。団体会員は、議決権を有し
ない「準会員」としてのみ参加戴いております。
また、特定非営利活動法人「NPOくまもと」と「個人」の関係についてです。
「内閣府・熊本県
主催『ボランティア国際年記念事業 ∼2001くまもとボランティア博覧際』
」実行委員会という
共通の事業を行った経験により、お互いの共通語があり、個人的な信頼関係の上に組織が出来上が
りました。あくまでも「個人」が主体で出来上がった「組織」です。従いまして、団体会員の恣意
的なものを排除するという共通認識のもと、設立発起人全員の意識から自ずと出来上がっていたも
のが会員に関する約束事でした。
こうして、
「NPOくまもと」の「設立趣意書」が出来上がりました。
『 わたしたちは、21世紀を迎え、経済振興を旗印として発展してきたものへの新たな疑
問を感じています。高齢化・少子化の問題、破壊される環境問題をはじめ、あらゆる社会
制度や組織に対して、この疑問は、日々大きくなって参りました。本当に、わたしたちは、
未来の子供たちへこの地球を託すための努力をしてきたのでしょうか?
わたしたちにできることはいったいどういうことなのでしょうか?
NPO(Non-Profit Organization=民間非営利組織)という言葉が広まろうとしていた
1998年3月19日「特定非営利活動促進法」が成立し、同年12月より申請がはじま
りました。
本来NPOとは、法人格のあるなしに関わらず、
「市民公益的テーマ」をもって「自発的」
に「非営利」で活動する「市民団体」をNPOといいます。
「特定非営利活動促進法」の成
立過程を鑑みましても、NPOに対する概念は十分に認められていました。NPOが活躍
する社会を望み、NPOの健全育成することが望まれていまました。
わたしたちは、わたしたち自身が、個人と行政と企業とのパートナーシップを前提とし
て、積極的に社会に参加し、21世紀の新しい市民参加型社会を作り上げていく必要性を
実感しています。個人の責任において、一人ひとりの日常生活の延長線上にある活動が成
り立つ社会の必要性を実感しています。現在、この活動を推進するNPOの役割がますま
す大きくなってきています。
わたしたちは、21世紀社会を支えるNPO全体の発展とNPOの息づく社会づくりの
ために特定非営利活動法人「NPOくまもと」を設立することにしました。
わたしたちは、NPOにかかわる基盤的組織として、情報交流、人材開発、調査研究、
政策提言などの幅広い活動を通じてNPOの基盤強化をはかり、市民参加型社会づくりの
共同責任者としての企業や行政との新しいパートナーシップの確立を推進します。
わたしたちは、熊本という地域特性を十分に生かした特定非営利活動法人「NPOくま
もと」を設立し、本法人自らの諸機能を発展させながら、各NPOが自立、成長していく
ことを支援したいと思います。
わたしたちは、未来の子供たちに、この地球を託すためにも、全てのものへの思いやり
と、臆することのない勇気を持って、ともに考え、行動を起こしていきたいと思います。
』
この「設立趣旨」のもと、2001年度は、次の事業をさせていただきました。企画事業は、次
の通りです。三井住友海上火災保険㈱様熊本支店頭配合に伴う什器等備品のNPOへの寄贈支援。
熊本市委託事業「観光関連施設バリアフリー実態調査委託」(指名競争入札)
。日本財団助成事業「里
山保全活動マネジメント・セミナーin くまもと」開催。年間事業は、次の通りです。「NPOサロン」
(毎月第3水曜日夜開催)
。「NPO情報」発行(毎月5・20日発行)
。情報紙「NPOくまもと」
(7
月・10月・1 月発行)
。
2002年度は、次の事業をさせていただいています。企画事業は、次の通りです。まちづくり
市民財団交流事業「九州・沖縄5県巡回NPOフォーラム」コーディネート及び熊本会場開催。
日本財
団助成事業「新規NPO設立支援のための人材養成講座」(6月∼2月毎月第4土曜午後)開催。ト
ヨタ財団助成事業「市民分権の担い手となるNPOの育成のための行政からの支援施策のNPOか
らの提言」。
日本財団助成事業
「NPO・行政のパートナーシップづくり−協働の共通概念の構築−」
。
熊本県委託事業「パートナーシップによるサービス提供システムの実証実験事業 −NPO法人設
立支援事業」
。年間事業は、次の通りです。「NPOサロン」(毎月第3水曜日夜開催)
。「NPO情報」
発行(毎月5・20日発行)
。情報紙「NPOくまもと」
(5 月発行)
。相談員派遣「NPO法人認証
事務や運営方法」∼くまもと県民交流会館「パレア」
(毎週水・土曜午後 1 時 30 分∼4 時 30 分)
。
7.市民社会へ 個人はどうあるべきか
いわゆるNPO法が施行されて四年になろうとしています。今、いろいろな動きときしみが出て
きているように思います。
市民の社会参加活動を法律案として論議していた当時は自明であった
「N
POの存在意義」が薄れているように思えます。私たちNPO自身が自分たちの存在意義を十分に
認識し活動していくことが求められていると感じています。
「なぜNPOなのか」
「なぜNPOでな
ければならないのか」という問いかけがないまま、経済活動等の従来の仕組みのなかに枠組みに組
み込まれていこうとする傾向があります。今後も、各方面からの施策の対象として「なぜNPOな
のか」
」
「なぜNPOでなければならないのか」を十分論議し理解された上で、施策をつくっていた
だくことを強く要望しています。
「NPOくまもと」では、市民が公益を担う時代になってきた現在、NPOと行政が協働して住
民に対してサービスを提供していくことが不可欠であり、今後、市町村の合併や新しい地域づくり
をすすめるなか、NPOと行政とが真のパートナーシップを結び、協働を図ることが必要不可欠に
なっているという背景を踏まえ、10月から1年間をかけてNPOと行政とのパートナーシップを
推進し、協働の取り組みへの共通概念の構築を目的とした「NPO・行政のパートナーシップづく
り−協働の共通概念の構築−」プロジェクトを開始しています。
「市民公益」の担い手としてのNP
Oの存在意義を県民や行政の方々に理解していただくとともに、協働の共通概念を構築することに
より、お互いを真のパートナーとして認め合い、パートナーシップの普及を図ることの意義は大き
いと考えています。
「NPOくまもと」では、
「支援」という社会の「システムの変革」を提言しな
がら、
「協働」を通して行政やNPOにとどまらず市民の方々への「意識の改革」に取り組んでいき
ます。
NPO活動は、他人から意図的に恣意的にするものではないと思っています。自分の思いをNP
Oという組織(手段)を使って社会に資材を提供するものだと思っています。だから、営利では補
えない、みんなの心や生き方がその原動力になっていると思っています。従来の枠の中にすっぽり
収まるものではありません。収まりきれない強い意志というものがあります。使命感とでもいうべ
きものでしょうか。
でも、それもある時期がきたら、目的を果たしていることもあるかもしれません。
そのときは、止めても良いんですよ。
すぐに次の課題に取り組むのもひとつでしょう。
しばらく、休んだって良いんですよ。
それは、そのときの心が決めることですからね。
わたしは、この一連の運動や活動のなかで、NPOをこう位置づけしていました。
「みんなのためになることを やりたいことから はじめましょう」
「市民社会へー個人はどうあるべきか」
松本美穂
市民フォーラム21・NPOセンター 主査
95 年以降現在まで、実際に取り組んできたこと、体験してきたこと、個人としてどう思い、考え、
行動してきたか、どう扱われてきたか、それを通して「個人と組織」
「個人と社会」
「個人はどうあ
るべきか」について。-------------
1.学生から社会人へ − 国際協力の活動
95 年は、私にとって、市民活動への関わり方が、学生としてではなく、社会人として仕事という
形に転換した年でした。学生時代、私は、日本の小中学生を対象にアジアの異文化理解や開発教育
を行うプログラムのリーダーボランティア、タイの農村への校舎建設ボランティア、南北格差の構
造に関する学びや解決に向けた活動をする学生NGOなどに関わっていました。スラムや村で現地
の人々と寝食を共にし対話を重ねた経験や、フィリピンのNPOの事務所や現場訪問からの学びな
どいろいろなことが私の活動の動機付けになっていましたが、なかでも特に、日本が関与する開発
プロジェクトで居住地の立ち退きを求められているミンダナオ島の先住民族の問題について、解決
しようと一生懸命になっていました。学習会を開いたり、自分たちでアポをとってスタディツアー
を企画したり、新聞記者や教授を訪問し解決の糸口を模索したりしていました。その原動力は、山
道を数時間歩きたどり着いた彼らの村で、直接彼ら自身から状況を訴えられたことでした。今考え
れば、何の術も持たない学生が、ただやみくもに、まさに単純というか純粋な思いひとつだけで、
がむしゃらになんとかしようと夢中になっておりました。そして結果的には何の力にもなれません
でした。とはいえ、これが私にとっての市民活動の原点でした。
当然、こういったことを仕事にしたいな、という気持ちはありました。が、食べていけるだけの
仕事として成り立つことは少ないこと、たまにあるとしても、その採用は極めてタイミングのよさ
に左右されるものであることを知っておりましたので、夏には企業からの内定を得ました。卒業論
文執筆の追いこみに差掛る時期、注目していたNGOのひとつがスタッフ募集をしていることを知
りました。学生時代の自分の経験に区切りをつけようと思い、採用試験を受けました。結果は最終
選考に漏れたのですが、結局それがきっかけで、95 年 4 月から働くことになった職場に勤めること
が決まりました。
当時は決めるにあたって結構迷いました。企業で働いて、余暇でNGO活動を続けようと、気持
ちの整理をつけていたからです。長期的なことや生計や周囲の理解等々を考え始めれば、一歩を踏
み出すことはちょっとした勇気が要るものでした。とはいえ、実際、最終的に踏み出すときに心に
あったことは、勇気より、好奇心や冒険心だったと思います。8 年前のこの決断が、今につながり
続けていることを考えると、やはりこれは大きな私の人生のターニングポイントだったのだと思い
ます。
2.市民活動を仕事に − 人権・多文化共生・市民参加の活動
こうして私は、95 年4月から働き始めました。そこは「人権・多文化共生・市民参加」をキーワ
ードに活動する財団法人でした。95 年といえば、阪神淡路大震災が起きた年であり、その職場も在
住外国人被災者に対する支援活動をしていました。私が入職する前になりますが、ちょうど阪神大
震災の直後の日程で、大きなNPOに関する国際シンポジウムを企画していました。
「参加と行動、
共感と共生、育てNPO!」というコピーをつけたそのシンポジウムのパネラーにはその頃、ネッ
トワーカーズ会議などで活躍し、日本のNPOセクター基盤創出に尽力していらっしゃった方々が
予定されていました。また、基調講演はレスターサラモン氏でした。大規模に予定していたこのシ
ンポジウムも、直前でありながら阪神淡路大震災により中止になりました。恐らく同様の決断をし
た市民活動団体は、全国各地にあったと思います。そして結果的には、そういったひとつひとつの
動きが、より力強く明らかに市民の力を、社会に浮き彫りにすることになりました。
阪神淡路大震災は、いろんな価値や感覚に麻痺しかけた日本社会において、実に多くの人々に、
自分にとってなにが大事なのか、生きていくうえで必要な力とはなになのか、いま何をするべきか
を明らかにさせた経験であったと思います。
私の始めての仕事は、
「ボランティアのしんどさ、楽しさ」と言ったような特集記事の原稿をニュ
ースレターに書くことでした。リード文は「未曾有の災害が起き、今年はボランティア元年と言わ
れている」というような言葉から始めた記憶があります。また、ボランティアの特集としつつも、
その活動を支えるための税制度の問題にも触れた記憶があります。既にNPOセクターの法整備を
進めるシーズは活動を展開しておりましたし、
「NPOてなに?」という言葉が中間支援分野以外の
現場ではまだまだ交わされつつも、NPOセクターの創り出す動きは確実に始まっていたのだと思
います。当時、ニュースレターの特集記事とリンクさせる形で、ボランティアに関するシンポジウ
ムも企画したのですが、そこへの参加者数や意見交換の様子からも、NPOはともかく、少なくと
も「ボランティア」は市民権を得たのだなあと感じたものでした。
職場の組織は、意思決定機関は形式的なものであり、資金調達に困ることもなく、注意や関心が
そういった組織基盤部分に至らなくても、決定的な組織運営の危機や苦悩がそこに生まれることは
ありませんでした。これこそが、現在の公益法人の改革を必要としている根本にある問題なのだと
今になれば思うのですが、実際、そのときはそんな感覚でした。自分たちが働いている現場は事務
局であり、それを狭義に組織と捉えれば、その組織のマネジメントの悩みや危機は、各自もちろん、
自覚としてあり得ましたが、結局、そんな話もとことん話を突き詰めていけば、主務官庁への伺い
が必要だ、財団はそんな簡単につぶせない、紐がついている以上独自の動きはとれない、といった
壁に行きつくのでした。これが、私にとっての初めての組織文化との出会いでした。
ただ、その分、まっとうに本来の活動テーマに集中する環境ではありました。ですから私のその
当時の関心事も、人権や多文化共生にありました。市民活動は、福祉分野にせよ環境分野にせよ分
野に関わらず、自らの実践を問われる部分がありますが、人権の場合、その実践が技術的ではあり
得ず、もっと根っこの生身の人間としての価値観や生き様に直結していくところがあります。どれ
ほど立派に正論を語ろうと、自らの言動にそれが反映されていなければ、人権文化の創造はあり得
ない、という意識が、私も日々の仕事のなかで根づいていきました。そこに「割り切り」があって
はだめだ、
そうした瞬間から自分が生きにくい人々と共に闘う資格がなくなるとも考えていました。
今振り返って思うことは、そういった姿勢は、常に、いき過ぎて他の価値や考え方が見えなくな
り、唯一絶対的に正しい価値として他者に強力に押しつけてしまう側面をはらんでいるということ
です。ただ一方で、これは、いわば紙一重の話で、社会への新たな価値創造運動へと人を突き動か
す原動力でもあるため、非常に微妙なものです。バランス感覚と柔軟ささえあれば、
「運動」的精神
やソーシャルチェンジへの意欲を支える魂(スピリット)の部分にもなるところです。実際、当時
の私は、経営センスを伴った「事業性」の感覚はほとんど無理でしたが、
「運動性」の感覚だけは随
分培えました。
いずれにしろ、分野の特性も手伝い、個人としての生き方を問い続け、そこで苦しみ、闘い続け
た感のある時期でした。とはいえ、人として生きる力とはなにか、を考えさせられ、自らの背骨を
貫くかのごとく、揺るぎないひとつの価値観を自分自身に注入できた時期でした。
3.米国インターンシップへ参加 − 米国のNPOを知る
肩に力が入った日々が続くなかでいつのまにか私は枯渇感を持っていきました。働き始めて四年
目の 98 年夏、私は米国サンフランシスコへ短期のNPO研修に行きました。これは本当に、生命の
水が身体にしみわたるような蘇生感が得られた体験となりました。個人に戻れた自由さがありまし
た。難民支援の国際NGOのサンフランシスコ事務所へ通い、元難民のスタッフと話した経験やバ
イタリティーあふれる他のNPOスタッフとの出会いは、多いに刺激を与えてくれるものでした。
また、17 時にはぴたっと皆仕事を終えさっさとスポーツや食事に出かける風景や、自らライフワー
クとしてチベット解放運動をしているにも関わらず「人権分野は儲からないよ」と言ってのけ、ビ
ジネスとしてNPOを捉えるファンドレイザーの言葉など、
あっけにとられつつも、
「ねばならない」
という呪縛から解け、
「あ、こういう考え方ややり方もありなんだ」と思うたびに、肩の力がすぅっ
と抜けていくような気持ちになりました。
この時期に、日本各地でNPOに思いをかけるたくさんの人と、同期という形で出会えたのも大
きな収穫のひとつでした。NPOに夢を持つ人、NPOを立ち上げた人、NPOに疲れた人、社会
変革を進め続ける人、NPOと仕事を割り切る人、いろいろな人に出会いました。自分のなかで半
ば禅問答のようになっていた自分にとっての運動と組織を、客観的に時間をかけて見つめなおせる
機会になりました。研修外の時間では、中国系米国人による 731 部隊のエキシビションやエイズイ
ベントに出かけたり、米国のグラスルーツの運動に触れることで、自分の運動に対するある種の苦
しさをも捉えなおし、総括する機会にもなりました。
また、NPOの経営や評価を学んだのもこの時でした。働き始めて丸 3 年が過ぎた頃で、その頃
にはNPOマネジメントにも問題意識を持ち始めていました。つまり自分が属する組織では、資金
を調達するという考えは薄く、予算を消化するという考え方が中心であることへの疑問、人権問題
の成果を評価することは無理であり市民活動の成果を定量的に見ることはあり得ないといったよう
な雰囲気など、費用対効果に対する甘さへの疑問とそれに対する自分の考えの確たる整理のつかな
さを、当時の参加応募動機文でも書いていました。
とはいえ、それまでの私は、経営的概念を運動のなかに据えていくことは、現実的にイメージし
にくく、むしろそれは、開発や公害へのアンチ反応と似たような構図で、まるで敵対する概念ある
いは対立する価値に位置するもの、との見方がありました。米国NPO研修を境に、運動ではなく
経営、対立ではなく共生によって社会を変革していくことを、実質的に捉えようとする力が自分に
強く生まれました。あの当時私は、市民活動にとって経営を知るということは、別に魂を売ること
にはならないのだな、と大真面目に実感したのでした。これは個人としての考え方の推移でしかあ
りませんが、恐らく、こういった考え方の移り変わりに似たものは市民セクター自身の変遷にもあ
ったのではないかと思っています。
「運動」スタイルが強かった時代、左翼と言われた時代、批判や
反対を展開し続けた時代、から、持続可能な経営を通じた社会課題の解決手法を採り入れ、社会や
政府に対し対案や提言を示し、協働を進める時代へ、自分も変わりましたが、社会も変わったのか
な、と思っています。
4.三重県の動きに関わる − 県との協働
米国から帰国してからほどなく、三重県NPO室がオープンした市民活動センターのお手伝いを
することになりました。98 年 12 月のことです。それまでにも三重に戻ることは、考えたことはあ
りましたが、三重は地方であり、田舎であり、自分が考えたり興味を持つような活動はないのでは
ないか、あるいはそういった情報から断絶されるのではないか、という不安がありました。
が、既にこの頃、時代は大きく変わり始めていました。NPO法施行を間近に控え、全国各地で
NPO論議が熱を帯びていました。90 年代初頭から市民活動を始めた私でさえ、なかなか周囲の人
に自分のやっていることを伝えても伝わらず、自分でもうまく説明できずにもどかしい思いをして
おりましたが、まさに、この頃から、実に自分がやってきたことにクリアに言葉が与えられ、私が
言いたかったことはこういことだったのだ、というある種の感慨深さを感じたものでした。
特に三重県は長年続いた知事が変わり、日本のなかでも真っ先に、本格的に行政改革に着手をし
始めておりました。三重県が「みえNPO研究会」をたちあげ、完全公開でNPO法の手続き条例
を作ったのもこの頃です。ちょうど、英国のチャリティコミッショナーも同席する場のなかで、豊
かな三重弁でパートナーシップ宣言が読み上げられる場にも立ち会わせて頂きました。三重県NP
O室の創世紀であり、古き良き時代であったように思います。
米国行きをきっかけに、私の関心はNPOそのものを捉え始めていましたし、三重で充電しよう
かな、とも考えていた矢先でしたので、三重県NPO室に関わるという話は、私にとって、非常に
いい話でした。
三重に生活基盤を移してからは、誰もなにも私のことを知らない人の輪のなかに、ひとつずつ、
少しずつ、飛び込ませて頂き、たいした所属も肩書きもなく、自分の発言や行動のなかで自分を理
解してもらい、人脈を作っていく日々でした。また、比較的時間に余裕がありましたので、今まで
随分不足していたNPOセクター基盤やマネジメントについての勉強をしました。知ろうとした面
もありましたが、むしろ知ることがおもしろかったという方が大きかったです。NPO関連の本は
手当たり次第読みました。恐らく現場での活動に没頭してきたため、その反動で、自分の経験を客
観視する手立てとして、経験知を体系だてる作業として有効だったのかなと思っています。
そして結果的には、多少気軽に考えていた私の考えを大きく上回る形で、本当に数多くの成長と
学びのチャンスを三重県NPO室およびその周囲の方々から私は与えてもらうことになりました。
三重県政策開発研修センターでの政策研究ワークショップ「県有施設の民営化」
、
(頓挫しましたが)
市町村行政評価研究として総合計画を扱ったこと、みえパートナーシップフォーラムでの協働ワー
クショップ、協働事業研究会での協働事業チェックシートと挙げ切れないほど多くの試行錯誤をさ
せていただきました。ここに挙げた取り組みは 99∼00 年のことですが、全国的に見れば、今、よう
やく緒についたテーマも多いものです。実感することは、実に三重県NPO室がやってきた取り組
みは先駆的であったのだなということです。
5.名古屋で活動を始める − 中間支援分野の活動
三重での活動を始めてまもなく、今度は名古屋での活動へのお誘い話がきました。とりあえず、
作れるネットワークは作っていきたい、得られる情報は得ていきたい、誘ってもらえる話は受けて
いきたい、そんな気持ちでいた私は、名古屋でも活動しはじめました。それが今の職場です。こう
して私は、本格的に中間支援分野に身をおくことになりました。また、三重では、行政事業への市
民参加だけでは飽き足らない気持ちが、うまくNPOをつくるというプロセスへとつなげていくこ
とができました。評価に関する団体の立ち上げです。自分なりの米国での評価に対する学びを活か
すチャンスに恵まれたと思っています。
どんどんと何にでも首を突っ込んでいったこの時期は、名古屋と三重の現場をかけもちし、文字
通り休日を取ることもなく、走りまわっていました。三重と愛知、行政とNPO、それぞれのネッ
トワークができ始めました。ところが、そんな勢いも長続きはしません。絶対的な時間不足のなか
で、息切れをしてしまい、考えた末、週5日名古屋に勤務するようになり、物理的に軸足をおく場
を整理していきました。ちょうど、名古屋の職場では、立ち上げへのエネルギーが収束し、本格的
に組織の発展を模索し始める時期と重なり、本格的に団体の事業を生み育て、組織発展を進めるプ
ロセスに立ち会うことできました。今の組織に関わるとき、理事との面談があったのですが、その
とき、草の根の民間団体の体験が自分にはないため、それをじっくり経験していきたいと理事に話
した記憶があります。結局、そのときも好奇心や冒険心が大きかったわけですが、後々、しみじみ
と民間団体の経営の大変さは実感することになりました。
ここでの初めての仕事はNPOプラザなごやオープン記念イベントとして、NPOサポート施設
に関する全国シンポジウムの企画運営でした。その頃にはNPOサポートセンターといったソフト
機能に着眼をしたシンポジウムは盛んに行われていましたが、施設というハード機能に着眼をした
シンポジウムはありませんでした。日本NPOセンター、NPOサポートセンター、せんだい・み
やぎNPOセンター、ひろしまNPOセンター、三重県市民活動センター(三重県NPO室)
、かな
がわ県民活動サポートセンター、そしてNPOプラザなごやと、官設官営・官設民営・民設民営の
全国の主要事例を語れるそれぞれの方をお呼びして参加者 100 名以上の規模で開催しました。
よく、
完全な自主事業でこの規模のイベントをやったものだ、と今更ながら、関心してしまいますが(皆
様のご協力のおかげであったわけですが)
、まさにこれこそが、当時のNPOセクターを作り上げる
気運やエネルギーが物語るものであったのだと思います。
更に感慨深く思うことは、
たまたま最近、
このシンポジウムのテープ起こし文を読んだのですが、実に色あせず、今現在のNPO支援を取り
巻く状況にも多いに示唆を与え得るメッセージが含まれていることでした。あの頃、全国規模で出
し合った論点やビジョンは、今、確実に市町村単位の規模で交わされる議論となっています。そう
いう意味では、現在、もどかしい思いや議論のずれに業を煮やす局面もあろうものの、確実に網の
目は広がり紡がれていっているのだと思います。
私が飛び込んだ当時、二人体制でまわしていた事務局も、有給フルタイムスタッフ9名を抱え、
チームとして機能し始める組織になりました。ようやく組織であることが効果的な意味を持つよう
な状態になり、私自身は、今の組織のなかで、個人としての興味関心の勉強ができ、社会へのチャ
レンジを仕掛けている実感を持てる局面に立ち会うことも増えてくるようになりました。自分一人
ではまずチャレンジできない、束になるからこその力強さやダイナミズムが出せる取り組みに携わ
れることはやはり魅力のひとつです。
6.パーソナル イズ ポリティカル
今、感じることは、組織や社会というのは、誰かがコントロールをしているわけではないし、も
ちろん私もコントロールできるわけがない。皆が皆で作用しあっている、多種多様な価値の相互作
用のなかで組織や社会という船の行き先は決まっていき、そこに悩みや葛藤や対立も生まれ、連帯
も協働も共生も生まれる、ということなのだと思います。
また、私が個人的に歩んできた道のりのなかで得た気づきや学びや問題は、常に社会とつながり
あっていたということを感じます。国連が完全参加と市民社会を言い、国際会議でNGOが存在感
を示すようになり、そこに可能性や共感が集まったことと、私が学生時代に行ってきた活動は偶然
ではなく、そういった各地の小さな活動の積み重ねが波となっていった動きであったのだと思いま
す。
また、阪神大震災当時、市民活動を仕事にする、という決断をした若者は多かったと思います。
今彼らは、30 歳代に入ってきています。周囲に同じような選択をしている同世代の人が見当たらな
いなかで、個人としてのちょっとした勇気や決断あるいは好奇心や冒険心を持った経験は、実は日
本列島を見下ろす目で見れば、全国各地でぽっぽっと灯がともるように増えていっていた時期だっ
たのだと思います。
分野に特化した現場活動をするなかで、NPOセクターという捉え方で、市民活動基盤を社会に
しっかり築いていく必要性を感じ、そこに行動の軸がシフトしたことも、市民セクターの存在を社
会に見せていく取り組みがあったからこそです。他のセクターと対立の構図を作り批判するより、
対話をし協調するなかで解決を見出すことによって現実的な社会を創り出す、ということに自分自
身の価値がシフトしたことも、時代の流れがそうであったのだと思います。
過去に非常識と言われたり、日の目を見なかったことが、地道な取り組みを積み重ねて行くこと
で、いつか世の常識となり、一気に価値が転換する。そんな状況をばたばたと今、目の当たりにし
ている時代です。この時代感覚のなかに生き、市民活動の現場に身をおくことは、極めてエキサイ
ティングなことであり、チャンスともいえる時代なのだと思います。
やはり結局は、個人はどうあるべきかを一人一人が考えることが、社会がどうあるべきかを創り
出すことなのだと思います。常に個人が抱える問題意識は、社会につながっています。それが苦し
く、その重さに耐えがたさを感じてきたこともあった私ですが、今、改めて自分をエンパワーメン
トさせつつ、自分自身のあり方を豊かに考えていける環境として、社会を創造していくことの大切
さを感じています。また、その実践を問われているのが、これからの 10 年なのかな、という気がし
ています。
シーズでの7年間を振り返って
鈴木 歩
シーズ=市民活動を支える制度をつくる会
1.シーズと私の出会い
シーズと私の出会いは、1994年11月開催されたシーズの設立記念シンポジウムに参加した
ことだった。私が、大学4年生だったときのことだ。シーズの事務局長をしている松原さんは、当
時、東京東チモール協会の事務局長もしていた。東京東チモール協会は、その頃まだ日本ではあま
り知られていなかった東チモール問題の日本での啓発活動やロビー活動をしていた。
その協会のボランティアをしていた私は、ある日のミーティングで、「今度こんなイベントがあ
るよ」とシーズの設立記念シンポジウムのチラシをもらった。そのチラシには、シーズの設立記念
シンポジウムのお知らせとともに、シーズは(1)簡易に法人になれる制度の創設、(2)市民活
動の情報公開制度、
(3)税制優遇措置の実現という3つ目標に向け活動を始めると書いてあった。
なんともまあ大胆なことをぶちあげた団体ができるんだなと、興味津々、シンポジウムに参加した
のが最初の出会いだった。
設立記念シンポジウムの会場は参加者一杯で、開演直前に到着した私は、空き部屋から椅子を運
んで座った。それでも椅子が足りなくて、立ち見が出ていた。シーズの掲げている目標にはこんな
にニーズがあるんだと、会場の熱気に驚いたものだった。もっとも、手伝おうとしたら「大学生に
は何もできない」とか松原さんが言うので、憮然として手伝わないことにしたものだった。それで、
シーズとの関係は一旦はとぎれてしまった。
2.東チモールと私
話は少し前に戻るが、私が東チモール問題に関する活動を始めたのは、1992年、大学2年の
時からだ。
東南アジアの歴史学の授業で論文の宿題が出て、
何について書こうかと悩んでいたとき、
図書館で何となく手にしたのが東チモールの本だった。図書館には東チモールの文献は2冊しか置
いてなかった。これなら、ひょっとして簡単に宿題を済ませられるかもしれないという期待もあっ
て、本を読み始めた。ところが、その島では想像も出来ないことが起きていた。
東チモールはインドネシアの東、
オーストラリアの北西に位置し、
四国ほどの大きさの島である。
インドネシアの島々は植民地時代オランダに支配されていたが、東チモールはポルトガルの植民地
だった。1945年にインドネシアが独立した後も、ポルトガルの植民地支配は続いた。1974
年、ポルトガルの独裁政権が倒れた翌年、東チモールはポルトガルからの独立を宣言した。しかし、
そのわずか1週間後、隣国インドネシアが軍事侵攻を始めたのだった。この侵攻は大変残忍で、大
規模な人権侵害が行われた。侵攻後の3年間で、人口60万人の内の3分の1が虐殺されたとされ
ていた。「20世紀も終わろうとしている時分に、世界にこんな地域があったなんて!」恥ずかし
い事ながら、その本を手にするまで知らないことだった。私がこの問題を知った頃、既に東チモー
ルはインドネシアに侵略され十数年が経っていた。
「私1人ぐらいが何かを始めたところで、何が変わるだろうか?」と、「宿題」を終えた直後は
思っていた。しかし、集めた資料を片づけようとしたとき、その一つのレポートに書かれた東チモ
ール支援活動をしている一人の女性の言葉が目に入った。「先進国の人間が、知識もあり、問題を
知りながら何もしないでいることは、重大な問題だ」と。全くその通りだと思い、「私1人ぐらい
がどうこうしたって・・・」という考えは吹っ飛んだ。そして、東京東チモール協会でボランティ
アを始めた。
協会でのボランティアはニュースレターの印刷や発送作業が主なことだった。また、毎年、東チ
モール人難民を日本に招いて各地で講演会を催す活動をしていたので、私も大学の教授の協力を得
て、在学中に講演会を開催した。なんだか熱心に活動する私を見て、アラブ系学生の一人に、問い
つめられたことがある。「世界中で色々な紛争ごとが起きているのに、なんでそんな小さな島のこ
とだけ活動するのだ」と。私は「自分が関心を持った事について行動することに何をいうことがあ
るのか、あなたは何をしているのか。」と反論した。そんなこともあって、大学では私を見かける
と、「おぉー、歩く東チモール問題が来た。」と皮肉られるようになってしまった。
3.シーズでの苦労の始まり
さて、話を戻そう。1995年1月、私は大学卒業記念に、一人オーストラリアを旅行した。シ
ドニーのホームステイ先の居間でくつろいでいたとき、
テレビで阪神・淡路大震災のことを知った。
その頃神戸に頻繁に出張していた父親のことを心配したものだ。東チモールの問題は日本各地11
カ所のネットワークを組んで活動していて、大阪でボランティアをしている人もいたから、日本に
帰国後、みんなの安否を知るべく、東京東チモール協会事務局長の松原さんに様子を聞いた。神戸
に住んでいたボランティアの賃貸マンションにひびが入ったことはあったが、関係者はみな無事だ
ったとのことだった。
その時に、震災直後から、シーズの活動は、急にあわただしくなったことも聞いた。シーズ事務
局長の松原さんは一人で忙しそうだった。「大学生には何も出来ない」と言っていた松原さんだっ
たが、手が回らないほど忙しくなったためだろうか、いきなり「時間があるならシーズのパンフレ
ットを作って」と頼まれた。これが、シーズでの初めてのボランティアだった。覚え立てのDTPソフ
トウェアで、もらった原稿を四苦八苦しながらレイアウトした。
当時、NPO法の議論は、急な盛り上がりを見せていた。震災で活躍したボランティアに社会が
注目し、省庁は「ボランティア支援法案」なる構想を打ち出していた。しかし、その内容には問題
があった。幸い震災の前年に団体をスタートさせていたシーズは、この法案の内容の問題点を各政
党に訴えるキャンペーンを行い、NPO法を、省庁主導から、議員立法へと導いた。
NPO法を議員立法で作ろうという話になった頃、自社さ(自民党、社会党、新党さきがけ)政
権だった。それぞれが試案を作っていて、また野党の新進党も試案を作っていた。当時の自民党案
は、「公益目的の活動をするボランティア団体」に限定して法人格を付与しようとしていて、これ
に対して与党内で折衝が続けられていた。
この折衝に参加する形で、
1995年11月∼12月頃、
シーズは与党議員を招いてのシンポジウムを頻繁に開き、市民サイドの意見を伝えるなどの活動を
していた。
私がボランティアから、シーズでの「アルバイト」を始めたのは、ちょうどこの時期のことだ。
それは、シーズにとってイベントが目白押しの時期だった。勤め出した週には、2回もイベントが
企画されていた。「何をしたらいいのか」と聞くと、事務局長は、「イベントの準備をしておけ」
とだけ言い残して、国会に出かけてしまった。いったん出かけるとずっと国会近辺にいて、夜まで
事務所には帰ってこなかった。何をどうしたらいいかも分からないままに、シーズでの仕事が始ま
った。
私がシーズに入った頃は、新聞で何度も「NPO法案今国会成立か?」といった報道がされてい
た。実際、事務局長からは半年で成立するから、あと少しだけ頑張ってくれと頼まれていた。まあ
少しぐらいいいだろうと思って、がむしゃらに働いていた。20才代のある一時を、こんな運動に
協力してもいいだろうと思って、本当に無理をして働き続けた。でも、法律は全然できなかった。
少ない給料で多忙に働く私を見て、友人は可愛そうにと思っているようだった。
4.NPO法成立までの長い道のり
NPO法が成立するまで、その内容や世間の風向きは様々に変遷した。阪神淡路大震災では、一
気に法制定への追い風が吹いた。ところが、1995年3月に、オウム真理教による地下鉄サリン
事件が起きれば逆風がきた。どんな変な団体があるかも知れないのに、簡単に法人格を取得可能に
する法案は問題であるとされ、監督強化の動きが強くなった。法人格付与に際しては、厳しく要件
にしなければいけないという風潮となった。この逆風は猛烈だった。1996年2月に住専問題が
起こった時は、こんな事件がまさか影響してくるとは思わなかった。その時、NPO法案は、与党
3党で合意直前までいっていた。直新進党が国会座り込みを始めたことで審議が全てストップし、
各政党の動きがおかしくなってしまった。与党3党の間の調整が上手くいかなくなり、合意は暗礁
に乗り上げてしまった。仕方のない状況だった。
NPO法案が国会に提出されたのは、1996年の年末。1997年5月には衆議院を無事通過
した。これでやっと成立かと思ったのもつかの間。参議院で、また止まってしまう。衆議院で通っ
たから参議院も、と言う考え方は「議員立法」では通用しない。NPO法案が何度も参議院で継続
審議になったときには、「よくやるよね」と、言われたこともある。私も、いったい何でこんなに
時間と労力がかかるのだろうと馬鹿馬鹿しく思ったこともある。でも、私もここで働くからには、
それなりの「思い」があった。
NPO法ができるまでというもの、市民活動団体はほとんどが任意団体だった。社団法人や財団
法人になるには、基本財産や主務官庁の許可が必要だった。だから、任意団体しか選択肢はなかっ
た。日本の市民団体は組織的基盤が弱く、スタッフは1∼2人で、いつも財政は火の車。でも頑張
るスタッフの多くは、2年もすればバーンアウトしてしまい、人材が育たなかった。団体の契約事
項など、すべて責任は代表者が負い、個人の負担も大きかった。皆、現状に困っているのは明らか
だった。なんて不自由なことだろうか!簡易な法人格の取得を可能にして、市民活動が活発に出来
る社会にしたい!そういう思いを胸に、なかなか成立しない悔しさを噛みしめていた。
1997年の年末には、NPO法案がなかなか通らないのは、サッカーくじ法案との取引になっ
ているとウワサされた時期もあった。与野党の折衝の中で、サッカーくじ法案を通すことが、NP
O法案を通すための取引材料とされているというのだ。「なんということか」と憤りながら、さり
とて、どうすることもできない。当時、Jリーグは観客動員数が減ってきていて、1998年のワー
ルドカップ(フランス大会)に出場できなければ、Jリーグの存続も危ぶまれていた。そうなるとサ
ッカーくじ法案どころではない。日本代表チームは、ちょうど予選を闘っていた。サッカーにはさ
ほど興味はなかったものの、日本チームがワールドカップに出場できないと、取引材料さえなくな
ってしまう。当時、日本チームが弱いことと関係があるような気もして、心の中で日本チームを必
死に応援したものだ。
5.たくさんの支援者の協力
法案を成立させるということは、国会で過半数の議決を得ることである。それはとても大変なこ
とだった。法案の成立にあたっては、実に様々な支援者の協力を得た。事務局の支援者としては、
ニュースレター発送の手伝い、プレスリリース送付の手伝い、ホームページの更新作業、イベント
の手伝い、等々。事務局は当時2人体制だったから、ボランティアの働きはいつも欠かせなかった。
全国の市民団体の盛り上がりはすごかった。緊急集会を繰り返し、NPO法制定を要望する署名
を集めた。議員を招いてのシンポジウムも繰り返し実施した。各地の支援センターの協力を仰ぎ、
全国の拠点都市で集会を行った。こんな緊急集会の調整や署名集めをする傍ら、国会審議の傍聴に
多くの人に来てもらう作業も行っていた。傍聴希望者に傍聴券を配り、自分も傍聴した。与野党の
議員がNPO法について侃々諤々議論を戦わせているのを見て、支援者のみんなと、怒ったり、喜
んだりしていた。
6.NPO法の成立
1998年3月19日、特定非営利活動促進法(NPO法)が成立した。衆議院本会議にて全会
一致で可決された。成立までの道のりは長かった。法案は全会一致で可決されたから、審議は至っ
て、スムーズだった。議長が「ご異議ありませんか?」と聞くと、出席している議員が「異議なし」
と言った。それだけで、成立した。
その時、私は事務局長ほか支援者やボランティアと一緒に、本会議場の傍聴席にいた。傍聴席で
は声をかけることも、拍手することも禁じられており、不審な動きをしないか、傍聴席を衛視が見
はっていた。だから、可決した瞬間は、ただ顔を見合わせるぐらいしかできなかった。もう少し感
動が味わえるかなと思っていたが、そんなものはなかった。ただ、嬉しいことはあった。傍聴を終
えて本会議場で、支援者の1人と握手したことは今でも覚えている。その人も、別の立法活動に取
り組み、その大変さを分かっている人だったから、その時は嬉しかった。本会議場を出た中庭で、
成立を祝って撮った1枚の集合写真がある。なぜかその写真はセピア色のネガで撮られていて、い
つ見返しても遠い過去のことのように思えて、おかしい。私がシーズに来てから、NPO法が成立
するまで3年もかかった。
法律が成立すれば、一休み、と思っていたのに、どっこいどんどん忙しくなってしまった。法律
ができるということは、周りの様々な関係機関、関係者が変化することを意味する。所轄庁、市民
団体、すべてが動き出した。シーズではNPO法の解説書籍を作成したり、セミナーを開催したり、
問い合わせに忙殺されたりしていた。1998年の夏が猛暑だったこともあり、もうバテてしまっ
た。事務局の仕事がこなしきれずに、2人目のアルバイトを採用した。NPO法の成立は、自分が
関わったこととはいえ、環境の変化に驚く日々だった。そして、NPO法成立の翌年、1999年
3月から、私はシーズの「正職員」になった。
7.NPO支援税制の成立
NPO法と同じように、NPO支援税制も議員立法で進めようとしていた。2000年11月、
シーズはNPO議員連盟が行う各地でのフォーラム開催を手伝った。ちょうどその頃、加藤紘一前
衆議院議員の「加藤の乱」があった。加藤さんは「ドラマはこれから始まる」と言って、すぐに乱
は治まった。しかし、このことで、市民団体側にとっては、長いドラマの幕が開けた。省庁とギリ
ギリ交渉することになる。
税制の仕組みは実にわかりにくい。NPO法人の実態を示せとする財務省(当時、大蔵省)に対
し、シーズは調査データを出し続けた。こまごまと言われる要求は、いちいち面倒なものだった。
しかし、国の税制はこうやって出来るのか、という発見だった。夜中も平気で働き続ける省庁につ
きあって、深夜までデータを出し続けた。ここが踏ん張りどころだからと、スタッフはみな無理を
続けた。夜の11時半すぎてもまだ事務所に8人位残っているという状態が珍しくなくなり、週に
何度かは誰かしらが徹夜していた。事務所はまさしく不夜城となった。夜中、疲れて受話器を取っ
たら、「宿直ですか?」と聞かれたこともあった。宿直なんているわけがないのに、まったく。
まあ、その甲斐あって、2000年12月13日、NPO支援税制が導入されることが決定され
た。年末まで、その解釈などで省庁と議論が続いた。年が明けると、無理を続けたスタッフは次々
と風邪で倒れたていった。NPO法の立法過程と異なり、省庁と交渉するスタイルだったから、N
PO支援税制の立法過程を逐一周知できなかった。これは、反省点である。
NPO支援税制は、一定の要件を満たせば認定を受け、寄付をした人の税金が優遇される。その
ことで、NPOが寄付を集めやすくしようとする仕組みである。しかし、この税制は要件が厳しく
なかなか認定が出ないので、問題が多い。しかし、忘れてはいけないのは、このNPO支援税制は
明確な判断基準を示した税制であるということだ。官庁の裁量の余地がはいらないよう、細かく書
き込んだ認定要件をつくったことは成果である。成立したこの制度を解説するためのブックレット
『NPO支援税制がよくわかる本』も発行した。運動をしていると、「支援税制ね、どうぜ要件が
難しいんでしょ。簡単になったら考えるわ。」と言われることがある。しかし、多くの人が参加し
ないと決して「簡単」にはならない。多くの人とぜひ一緒に運動をしていきたいと思っている。2
002年10月現在、よりNPOが活動しやすくするために、要件の改善をめざして運動は続いて
いる。
8.裏方から見るシーズ
シーズではいつも当たり前のことで、でも、私がすごく好きな点が2つある。それは、1つは、
人権は戦って勝ち取るものであるということだ。もう1つは、思いついた人がまず行動するという
ことだ。
私が最初に関わったボランティア活動が「東チモール」の問題だった。東チモールは、20年以
上もの間、インドネシアによって侵略され、人々が虐殺されてきた。日本で東チモールの活動を始
めた1人の言葉はとても印象深い。東チモールの問題が、国際社会はもとより、日本では全くとい
っていいほど、知られていなかったとき、外務省にもっと努力しろと抗議したのだそうだ。すると、
外務省は「東チモール問題なんて誰も知らないし、誰も興味がないですよ」と無責任な言葉を返し
たそうだ。その言葉に怒り、「ならば、私が知らせてみせます」といって、受話器をガシャンと切
ったそうだ。何とも大胆な!とも思えるが、その後の活動の成果も実り、東チモールは今年独立を
果たした。今でこそ知られる国となったが、20年前には信じられなかったことである。
「東チモール」というマイナーな人権活動からボランティアをスタートした為か、私の人権意識
というものが強化された。シーズの活動も一種の人権活動である。市民が自由に集まって、団体の
法人格を取得できることは、当然の権利であるし、人権である。それを可能にしたのがNPO法だ。
権利は戦ってこそ、手に入れるものだ。また、社会に不満を持ったとき、それを行動に起こすこと
はなかなか出来ないことであるが、それはとても大事なことだ。行動派の人権活動団体で最初にボ
ランティアを経験したことで、文句ばっかり言っていてもしょうがない、まずは行動。「言い出し
っぺ」が行動するのは当たり前だというが身に付いた。
東京東チモール協会でのボランティア経験は、シーズで働くための重要なステップとなった。そ
して、シーズの活動でもそれは当然のことになっている。シーズは、NPO法をつくることに貢献
してきたが、今の法律が出来上がった作品のように思われるのは困る。法律は使いやすいように変
えたらいい。法の精神が生かされていない運用が有れば、断固戦っていけばいい。
ともかく、今に至るまで、ずっと団体の裏方としてお手伝いできたことはとても光栄なことだと
思う。NPO団体がもう8000団体も認証されている。NPOが社会に果たす役割は大きい。多
様な価値観に基づいたNPOが存在することは社会を豊かにする。NPOが提供するサービス
が、市民にもっと身近になって、豊かな市民社会が来るといい。そう願っている。
個人のあり方と社会のありようについて
横田能洋
特定非営利活動法人 茨城NPOセンター・コモンズ
1.私の原点は「個を犠牲にしない社会を誰がどうつくれるか」
人間がつくっている社会の仕組みが、結果として一部の「普通の人とは異質性をもった人」が暮
らしにくい状況をつくっている。私の場合は、身内に障害をもつ兄弟がいたことから、このように
ずっと感じて生きてきました。と、同時に社会を構成しているのは一人、一人の意志、心をもった
人間なのだから、人間によって社会を変えていけるはず、との想いも持ち続けてきました。どうす
れば世の中を変えることが可能なのか、人が社会を変えいわゆる福祉問題や差別問題を改善するこ
とに、自分はどう貢献できるのか、が自分にとって大きなテーマでした。
2.
「ボランティア活動」の可能性と限界を感じた学生時代
大学に入った頃は、福祉を学び、障害者福祉の分野で仕事ができればという感じでいましたが、
ボランティア活動を通じて、様々な矛盾を感じました。
・ 視覚障害者はマッサージ以外に就労機会が乏しく重複障害の方は入所施設しかない。
・ 聴覚障害者は自らの言語であり文化である手話が学校教育の中で認められず、一般社会
でも情報バリアが沢山ある。
・ 知的障害者は一般社会に入るのが難しく学校卒業後の進路の選択肢が少なすぎる。
・ 一生ベットの上で過ごす重症心身障害の人たちが自宅で介助できる体制がないために私
達と同じように過ごせないでいる。
これらの問題に対して、より多くの人がボランティアとして関わり生活支援や社会への働きかけ
を広げることで、少しでも障害がある人が暮しやすくなると感じる一方で、一般的な福祉ボランテ
ィアの限界も感じました。ひとつは地味で一見暗い福祉問題に関わるボランティアは量的になかな
か増えない、学生ボランティアは卒業後継続しにくい、という問題があり、どうすればより多くの
人が福祉に関われる仕組みがつくれるのか、活動と生活・仕事が両立できる方法はないのか、とい
うことがボランティア活動に関する自分の問題意識になっていきました。
また、福祉問題を改善するには、国民の理解と世論による法制度づくり、十分な福祉財源と専門
スタッフ、そして当事者や家族などの主体的な運動が不可欠なのに、現実は制度が立ち遅れている
中で福祉現場は決して十分とはいえないサービスを提供し、多くの当事者や家族は我慢を強いられ
ているように感じました。
「行政は私達の要望をかなえてくれない」
「私達の地域で大都市、まして
は海外でなされている福祉を望んでも無理」といった諦めが障害者や家族、福祉を仕事にしている
方の中にも少なくないように感じました。
福祉現場で働く人々が少数で頑張るだけでは福祉はよくならない。一般の人々が関わりサービス
の質量を高め法制度も変えていく仕組みが必要だと考えるようになりました。
3.
「個人と社会」を考える視座を与えてくれた社会学
私は、趣味はアウトドアと音楽だったので、小説も殆ど読まないのですが、社会学の本との出会
いは私にとって大きな出会いでした。今回の原稿のテーマである「個と社会」の関係を扱っている
学問が社会学であり、法学や哲学のように「どうあるべきか」を追求するのではなく、
「どうしてそ
のような社会問題が生じているのか」を探る社会学であれば、
「問題の背景にある社会構造を分析す
る道具として使える」
「これを学べば何か自分が感じている社会問題解決のヒントが得られるので
は」と学問に希望を抱き、色々読みあさりましたし、今でも暇ができたら古本屋で社会学の本を探
す習慣が身についています。
4.私の中のライフテーマ
やがて、自分の頭の中に「社会問題は、制度の問題というよりは、様々な人々の意識と実践によ
り再生産されている経済社会構造によって生み出されている」
、という考え方が染み付いてくると、
「人々の意識や実践を変えるにはどうすればいいか」が自分のテーマになっていきました。ちなみ
に、卒業論文では「障害児の統合教育(特殊学校ではなく普通学校を選択して教育を受けること)
の可能性」をテーマにしました。内容としては日本の学歴社会形成の過程で人材選別機能が強まる
につれて健常児と障害児を別ける分離教育の流れがつくられて来た。それへの反動としての統合教
育は、子ども、親、教育現場が学歴信仰によって自らが再生産している競争優先の教育システムに
対して、一人一人の個性を認める教育を持ち込むきっかけになる可能性がある。そして統合教育が
根付くかどうかは、ノーマラーゼーションという理念のもとで学校に関わる人の「共感的実践」と
「有機的連帯」が広がるかどうかだという結論に至りました。卒論を書いた時点ではリアリティが
乏しかったのですが、今取り組んでいるNPOの運動とは、まさに「できてしまったシステムを変
えるための共感に基づく市民による実践」だと感じています。
5.企業の社会貢献からNPOへ
このようなことを考えていた私は 91 年に社団法人茨城県経営者協会に就職しました。
丁度経団連
を中心に企業関係者が社会貢献活動に取り組みだした時期で、私も茨城で企業の方々と関わってそ
の関係の仕事がしたくて就職しました。企業は、障害者の雇用や、障害者が利用できる商品やサー
ビスの開発や提供の面で福祉に関わることができますし、多くの人が属し働いている企業を通じて
障害者や福祉に関する人々の意識を変えていけるのではないかと考えました。
仕事としては、企業の社会貢献活動の調査や活動資料の作成、研修企画、地域ニーズの関する情
報収集と提供に取り組み、その関係で首都圏や全国のボランティア関係の研修に何度も出かけ、茨
城県内の活動団体も訪問しました。
この仕事をしてわかったことは、確かに企業には社会貢献を行うための人、モノ、資金、場所な
どの資源があるが、地域問題に関する専門性をもったNPOと組まなければ効果的な活動は難しい
ということです。企業の社会貢献活動推進の鍵はトップの理解、担当者の配置、そして地域に企業
と組めるNPOがあることだ、と気づきました。地域団体と企業の連携協働をテーマにした交流会
なども行いましたが、多くの団体はまだ提案力や事業力が弱いのでここが何とかならないかと考え
るようになりました。
と同時に、94 年頃から市民活動の基盤を強めるNPOという仕組みを日本に実現しようという話
もよく見聞きするようになり、自分にとってもNPOの制度をどう実現するか、ということと、そ
れを使って、どう地域の市民団体の力量を高められるかについて考えるようになりました。全国ボ
ランティア研究集会、市民セクター支援研究会やシーズなどの集まりに参加していく中で、同じよ
うに考え動き出す人が沢山いる、NPOにはいろんな可能性がある、という刺激を得ることができ
ました。95 年に震災が起きた際、自分としては直接支援活動はしませんでした。日本におけるNP
Oの必要性が明確になったことで茨城でどう行動できるのかを考え始めました。
6.茨城NPO研究会発足
96 年の夏に地元のシンクタンクが月刊誌でNPOの特集を組んだ際にNPOサポートの仕組み
についてレポートをまとめましたが、それがきっかけとなって継続してNPOを支え発展させる仕
組みづくりを検討する場をもつことになり、私とシンクタンク職員が参加を呼びかけて歩き出しま
した。私は県内の各分野の市民活動のキーパーソンのところを回りましたが、
「NPOはこれからの
テーマなのでやってみてほしい」
、とか「参加しますよ」という反響が得られました。
こうして 96 年 12 月の企業とNPOの交流会の場において、茨城NPO研究会の設立を宣言しメ
ンバー募集に入りました。丁度その時は日本NPOセンターができた頃で山岡さんに講演に来ても
らうこともできました。研究会は月例で行い、NPOとは何か、NPO法制度づくりにどう取り組
むかをメインテーマに行い、企業と市民団体が連携して行うモデル事業も試みました。毎回口コミ
で参加者が増えネットワークもできてきて 97 年は県内市民団体の実態調査や仙台の加藤さんの講
演会を行ったり、NPO法成立のための署名運動に取り組みました。その頃から徐々にNPOにつ
いて話にいくことも増えていきました。
7.NPO法を地域で運用するためのサポートセンターづくり
98 年 3 月にNPO法が成立したときは、
「いよいよこれからだ」と感じシーズの松原さんを迎え
講演会を行い、その日に開いた総会で、NPO法に基づく団体活動支援、NPO法の適切な運用と
改善、そしてNPOが地域に根付くためのサポートの仕組みづくりに事業として取り組むべく、12
月の法施行までに研究会自ら法人格を取得することを決めました。それから約半年かけて各地で既
にできていたサポートセンターの見学、調査や県内団体ヒアリングなどを行い、例会では事務所を
置くかどうか、名称や事業内容をどうするか、など色々議論しました。11 月には設立総会を開き名
称は茨城NPOセンター・コモンズになりました。コモンズという名前は、金子郁容さんたちの「ボ
ランタリー経済の誕生」という本で「これからはコモンズ(共同地)がキーワードだ」というよう
に書いてあって、なんとなく提案したら通ってしまいました。事務所を借りることに関しては、固
定費が捻出できないと反対意見もありましたが、サポート業務には不可欠だという意見でまとまり
ました。結局役員が会に金を貸す形で事務所を借りましたが、このチャレンジで腹をくくったこと
が良かったと感じています。
8.転職してNPOセンターの役員兼事務局長に
問題はセンターで中心になって動く人をどうするかでしたが、
私自身は 98 年の初めから経営者協
会の退職を考えていました。現実的に仕事とNPO研究会の掛け持ちが難しくなっていたことと、
他にセンターの事務局をやりそうな人が見当たらなかったこともありましたし、他地域で同世代の
人がセンターで頑張っているのが励みになりました。
「インターミディアリーが重要だと思うので知
りたいのです」と研究者の方を訪ねていって「あなたがやったら」と言われたことや、
「お前は企業
セクターにいた方がいいから辞めるな」とアドバイスしてもらったことなどもよく覚えています。
今思うと、30 歳を前に今後の人生を考えていたときに研究会の仲間が急に亡くなりどうせ 1 度の
人生だから思い切りやってみるかと考えられたこと、そして既に 10 年近く私のフラフラ病(いつも
どこかにでかけていく)にあきれながらも連れ添ってくれていた妻が応援してくれると言ってくれ
たことが一番大きいとは思います。職場の方も温かく送り出してくれて 98 年 9 月に退職し 11 月か
らコモンズの事務局長となりました。ただこの時点では、コモンズだけでは生活できないだろうか
ら障害者のパソコンや福祉機器活用のサポートを副業にしようなどと考えていました。結局、事務
所開設、人集め、法人化の手続き、助成金申請と事業運営とどんどん忙しくなって個人の事業構想
は吹っ飛んでしまいましたが、2000 年度からは徐々に事務局の給与が出るようになっていきました。
99 年の法人の最初の年は自主出版のマニュアル販売と講師派遣とイベント、助成金を受けた事業
を行い、2000 年、多少の実績がつくと急に委託調査などが入ってきてやたらと忙しくなり、2001
年度からは研修や情報提供事業で専門性を高めること、地域のNPOのニーズを踏まえて必要な制
度を形にしていくことなどに取り組んでいます。何をすべきかは見えてきているので、それを可能
にするための人や組織のコーディネートと資金づくりが目下の重要課題となっています。
9.NPOの仕事のやりがい
NPOセンターの仕事をし、
且つ組織の経営を考えていると、
マネジメント能力をどう高めるか、
お金をどう回し効果的な事業をするか、という発想になっていきます。マネジメントや効果だけを
考えれば事業も対象も絞って計画的に取り組む、ということになるのでしょうが、現実的には色ん
な相談や仕事の話がきて、そもそもやろうとした事業の他にも、いろいろな仕事を抱え込んでいる
という状況になっています。実際私の他 2 人の有給スタッフもオーバーワーク状態ながら、どれも
チャレンジしている感覚の仕事だし、色々な人との関係のもとで進められる仕事なのでなんとか回
していられるという状況です。
特に私は、対外的にはNPOで何かをしたいという方の相談を受けたり、コモンズ内部で新規事
業の企画立案をすることが多いのですが、それぞれの個人にはすごい可能性があると感じます。何
か漠然と「このことがしたい」という状況から 2、3 人で話をしていくと、どんどん発想が広がって
「こんなこともできるかもしれない」という面白いアイディアが出てくる。人と人とが言葉を介し
て対話「ディスクール」をすることは、個人がもっているものを引き出す上でとても重要だと思い
ます。大げさにいうと企画を作り出すのは芸術と同じくらい創造性がある。ですから討議できる場
をつくること、障害がある人には手話や字幕などの情報保障をすることがとても大事だと考えてい
ます。
10.支援センターの役割と課題
また、討議の前提として「可能性を信じる」ということがとても大事だと思います。事業アイデ
ィアを出そうにも、
「私にはお金も経験もない」
、
「この地域では無理」と思い込んでいるケースが少
なくありません。そこで、
「今お金や人がなくてもNPOという道具を使えばそれが集められるかも
しれませんよ」という話をしています。私が何故NPOサポートの仕事をしているかと問われれば
「あなたのやりたいこと、ほしいサービスを諦めなくてすむ方法がある」と伝えたいから、
「私たち
もこうして自ら事業を成り立たせていますよ」と励ますこと、これがしたくてこの仕事をしている
と思っています。
では、事業アイディアや企画まではできたとして、実際に実現するには人と資金が必要です。よ
く人も資金もないと嘆く人がいますし、確かに現実は厳しいのですが、地域には大勢の人がいるし
お金もあるわけですから如何にそれをつないでいけるか、これが課題です。本来のNPOとはミッ
ションを知らせ共感によって人を結びつけるための器なのに、なかなかNPOに支援者が集まって
いっていない。今NPOを立ち上げている人たちがまわりの人を信じて、忙しくても広報や潜在的
な支援者への働きかけをすることがNPOの健全な発展にとって重要でしょうし、NPOと市民・
支援者を橋渡しするメディアや人材を増やして行くことがサポートセンターの役割だと考えていま
す。
その意味でサポートセンターの顧客は今生まれてきているNPOだけではなく、これからNPO
を立ち上げるかも知れない人たち、またはNPOの支援者になりうる人たちです。言ってみれば、
今NPOを地域で立ち上げている人はちょっと腰の軽い新しいもの好きの人たちで、この人たちが
旗振り役になって普段あまり社会問題に関わっていない一般の人々がNPOを介して地域の活動に
関わるようにしていくこと、ここまでいって初めて地域も変わると考えています。そこまでいける
か、それとも支援者が増えず、事業型NPOのみが第 2 の公益法人のような形で生き残るか、ある
いは自発性が乏しいPTAのような形骸化した組織ばかりになるか、NPOに関して言えば、ここ
5 年くらいが勝負だと感じています。
11.個人のありようとNPO、市民社会
この原稿のテーマに立ち返ると、要は、世の中は個人がつくっているのであり、社会が病んでい
たり問題があるのであれば、個人、ひとりひとりの取り組みによって社会を改良していけばいい。
その際に個人の発想と力を引き出しまとめる道具としてNPOを使い、多くの人を巻き込んで行こ
うということだと思います。人を巻き込むとは、言い換えればひとりひとりを生かすことであり、
参画を引き出すことだと思います。
そこで、NPO関係者が重視すべきことは、単に事業を上手くするということではなく、地域に
大勢いる人、一人一人を地域の担い手として、活かすことでしょう。行政にとってもこのことが本
来は最も望ましいはずです。であるならば、行政とNPOの協働というテーマにしても、地域の各
課題に取り組む市民を増やし事業の主体にしていくための仕掛けをどうつくっていけるかについて
行政関係者とNPOに取り組んでいる人が共に知恵を出すことが、今ある行政の事業をどこかのN
POに担ってもらうことよりも重要なことかもしれません。
最近教育問題や不登校について現場の方達と議論していてやっとわかったのですが、人が活き活
きするとか、自立するとは、その人らしく生きられるようになるということで、そのためには多様
な選択肢の中から自ら選ぶこと、違った価値観や多様な生き方が認められることが大事になる。
一方、現代社会は生活のあらゆる側面、教育、消費、労働、医療などで合理化・システム化が進
み、それがパターン化され画一化された生き方に合わせるように人々に強いている。そのパターン
に合わない人、例えば「学校を出る」というレールに乗れない人は排除されてしまう。そういう中
で、色んな学び方、消費の仕方、働き方、医療や福祉の利用の仕方、住まい方などがあって、今あ
る制度や商品が全てではない、というもう一つの生き方を人が人に伝えること、何がこれから本当
に必要かを知らせることがNPOに求められる先駆性でしょう。
そして巨大な行政機構や大企業に対して無力感を感じている市民に、自分達で制度をつくったり
事業を始めることができると形にして見せていくこともNPOも役割でしょう。さらに、サービス
提供を受けることに慣れきってしまっている人、特に福祉サービスの利用者や誰かが決めるんだろ
うと受身や無関心になっている人々に、
「自分で決めて、それを自ら行動することに価値がある」と
伝えることも当事者性と自発性で成り立つNPOだからできる。
社会のあり方を決めるのは市民だと、理屈ではなく実感として感じられる機会をつくること、具
体的には地域ニーズに関して自分達のできるこことを計画にまとめたり、行政施策に関して市民が
YES か NO か選択したり発言できる機会を増やし、選択のための判断材料を示すことが行政でも企業
にもできない私達NPOの役割であり、そうした取り組みが個人が主体性を取り戻す市民社会の時
代をつくっていくことになると思います。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
具志真孝
那覇市NPO活動支援センター主査
1.はじめに
市民社会の実現にむけて個人や家族、地域団体、NPO、企業、行政などの組織は、どのような
協働関係を築いていけるのか、これからの日本社会のあるべき姿として、ますます重要になってく
ることと思います。ところで、市民社会とはどのような社会像をイメージしているのか、私は市民
が個人として自立し、家族、地域、職場などの環境と共生した社会のことをさしていると思います
が、次世代も視野に入れると地球規模で取り組まなければならない壮大なテーマといえるのではな
いでしょうか。そこで、個人としてはどうあるべきか、私なりに取り組んできたことを以下に述べ
てみます。
2.那覇市NPO活動支援センターの運営
那覇市は第3次総合計画(1998 年∼2007 年)の中で、市民・事業者・行政のパートナーシップに
よる「協働型まちづくりの実現」を提唱。その実現の考え方や方法について、
「協働型まちづくりを
推進していくためのシステムづくり検討委員会」(1998 年 11 月設置)で検討し、1999 年3月に答申
を受けて、市民活動を支援することを決め、2000 年1月 15 日に本センターを設立。これまで資金・
もの・技術・情報などの支援に取り組んできました。
(1) 公益信託「那覇市NPO活動支援基金助成事業」
先に述べた「協働型まちづくりを推進していくためのシステムづくり検討委員会」の中で、那覇
市を中心に活動している市民活動団体 57 団体を対象に、
活動の課題について実施したアンケート調
査の結果 34 団体から回答があり、その中で一番に上がったのが「活動資金が不足している」であり
ました。それで、基金による助成のしくみを公益信託で設置しました。設置にあたっては世田谷ま
ちづくりセンターの「世田谷まちづくりファンド」の取り組みを参考にしました。公益信託にした
メリットは、①NPOへの助成の担保が確保できること、②事務負担が軽減できること、であります。
本市の場合、6,000 万円の出資金をもとに、東洋信託銀行株式会社(現在、UFJ信託銀行株式
会社)と 1999 年 10 月委託契約を交わし、運営管理を委ねています。同年 12 月に第1回公開審査会
を実施。その後は毎年4月に公開審査会を実施し、これまでに4回の審査会を終えたところであり
ます。公開審査会方式を導入したため、事務負担については、委託したとはいえ、私は毎年2月∼
4月、この基金助成事業に専念している状況であります。当初はなぜ委託したのに委託側がこんな
に事務負担をするのか、疑問をもちながら業務に携わっていましたが、受託者である東洋信託銀行
株式会社の少ない信託報酬(出資金に対して一定の率がある)を考えると、やらざるをえない。と
思い、本センターのスタッフやボランティアの協力を得ながら取り組んできました。
とりわけ、運営委員の選任にあたっては、委員が助成先の選考、給付額および給付方法について、
意見を述べたり、勧告することを行う重要な役割があるので、できる限り、幅広い分野から市民活
動の経験者を選任するよう受託者に推薦しました。公開審査の意義については、①公平性・透明性
が確保できる、②市民参加による事業の実施、③審査委員(運営委員)が審査に関してコメントし
たり、支持する団体へラベルを貼付することなどをとおして、審査委員と申請団体、参加者間の交
流が促進できることであります。
この基金による助成事業の対象とする団体は、どちらかというと立ち上げ団体で、2002 年度の助
成総額 300 万円(10 万円コース:10 団体、20 万円コース:5団体、50 万円コース:2団体)を見て
もそれを裏付けるものとなっており、これまでの助成総額は、60 団体に対し 1,200 万円となってお
ります。助成は1年単位とし、原則として通算3年までです。助成団体の事業の特色は、環境保全
に関するものや子どもの読み聞かせ・子育て、商店街の活性化などのまちづくり、障害者支援、学
校建設の国際協力活動など、多種多様な事業が見受けられます。
助成事業の成果として、少ない助成額を有効活用して事業の充実に役立てる団体が多く見受けら
れました。それは、公開審査会においてプレゼンテーションまで行って助成を受ける団体メンバー
の自発性が要因と思います。具体的には、子どもの読み聞かせを通して子どもの健全育成に取り組
んでいる助成団体の場合、
大型の紙芝居用のパネルシアターを購入して、
公演の効果を高めたこと、
および環境保全活動団体の場合、湿地保全について沖縄県内外へアピールし、ネットワークが広が
ったこと、などです。
(2) まちづくりコーディネーター養成講座
行政主導のまちづくりや企業中心の社会から市民参加のまちづくりを推進していくためには、コ
ーディネーターの役割が重要であるという認識から、
「まちづくりコーディネーター養成講座」を市
民と市職員対象で実施。新潟から清水義晴氏(えにし屋主宰)を講師に招いて、1999 年∼2001 年ま
で年間約 100 時間の講座を実施してきました。そこで、主にワークショップの手法を取り入れて、
多くの市民の意見や思いをまちづくり計画や活動、施策に活かしていくコーディネーター養成に勤
めてきました。受講生の中には、市職員で環境保全行動計画にこの講座の手法を用いて、市民の声
を反映させた方や市民で団体の活動に反映させた方、さらには個人としてワークシップの手法を学
んだ方など多くの受講生が何かを感じ、学んだようでした。
(3) 調査・研究の取り組み
a.モンゴルへの物資支援ツアーに参加して
私の友人でモンゴルでNGO活動をして、現地の人と結婚し、沖縄とモンゴルの交流を推進して
いる人がいます。新島忠さんという方で、彼がコーディネートした「モンゴル物資支援ツアー(2000
年8月 20 日∼同年8月 27 日)
」
に参加したのでモンゴルの自立支援のあり方を少しばかり述べてみ
ます。
○ モンゴルのまちの様子と人々の暮らし
市街地:全体的には、社会主義体制の影響を受けた町並みが多く残っていますが、ここ5・6年
の間に高層ビルの建設ラッシュで、町の風貌が変わりつつあります。人々の暮らしは、政治や経済
が安定していないため、質素で苦しい生活者が多いようで、なかには、郊外から職を求めて市街地
に出稼ぎに来る人もいました。
遊牧民:草原のいたるところで5∼10 のゲルが寄り集まった遊牧民の姿が目につきます。モンゴ
ルの象徴「草原」の大地に根をおろし、悠々自適に暮らしている様子は、まさに自然の恵みを受け
た遊牧民の誇らしさを感じさせます。民主化によって、国有だった家畜が私有化され、個人の財産
となり、肉や羊毛、乳製品をつくって生計を立てていました。
○ 支援を必要としている住民(子どもたち)の様子
今回モンゴルで貧しい地域のひとつであるナライハ地区3ホーローへの物資支援を通して感じた
ことは、民主化によって住民の生活基盤産業であった炭坑、ガラス工場が閉鎖されたため、住民が
路頭に迷っている状況でありました。
「こども一時預かり所」にいた子どもたちの場合、家庭不和や
親の虐待・放任によるケースが多く、いったん家族のもとへ帰しても、すぐにマンホールやストリ
ートでの生活を繰り返すようです。
○ 今後の支援のあり方
根本的な支援策として、経済的基盤整備が緊要であり、産業を興し、失業者を減少させるための
仕組みづくりと人材育成にどのように関わっていくかが、当面の課題であります。発展途上にある
モンゴルでは、民主化により人口が市街地に集中し、遊牧民の生活様式を変えつつありますが、自
給自足の生活をしている遊牧民のある家族を訪問したときには、モンゴルらしい寛大で“たくまし
く”
、
“生きる力”を感じさせてくれました。
b.パーマカルチャーのライフスタイルについて∼オーストラリア W・S 体験ツアーを通して∼
友人3人でエコビレッジの世界的なモデル地域であるオーストラリアのパーマカルチャーのまち、
マレーニとクリスタルウォターズへ 2001 年 4 月 24 日∼同年 5 月1日に視察しました。さすがに世
界的なモデル地域だけあってまちづくりの理念が地球規模で捉えられており、自然の中で人間のラ
イフスタイルを位置付けていました。
まさに市民社会のモデルのまちとしてここで紹介いたします。
○ パーマカルチャーとは
「パーマカルチャーとは、人間にとっての恒久的持続可能な環境をつくり出すためのデザイン体系
のことです。パーマカルチャーには、動物、植物、建物および(水、エネルギー、コミュニケーシ
ョンなどの)生産基盤などを扱う側面もあります。しかし、 パーマカルチャーは単にそれらの要素
をそのものだけに関わるものではない。むしろ、それらの要素をその場所の中にどのように配置す
るかによって、各要素間にどのような関係をつくり出せるかを扱うのです。
(
「パーマカルチャー∼
農的暮らしの永久デザイン∼」ビル・モリソン、レニ・ミア・スレイ著、田口恒夫、小祝慶子訳よ
り抜粋)
○ パーマカルチャーの倫理(理念)
地球に対する配慮:土壌、大気、森林、微生物、動物、水などを含むすべての生物、無生物に対
する心配りのことであります。
人々に対する配慮:人間の基本的な欲求である食物、家屋、教育、労働、親しみ深い人間的な接
触なども満たされる必要があります。
余った時間、金、エネルギーを地球と人々に対する配慮のために使う:自分の基本的欲求を満た
すことができ、自分の能力を精一杯発揮して自分の場所のデザインをすませたら、今度はその影響
力とエネルギーを他の人々で同じ目的を達成するのに手をさしのべます。
c.マレーニの取り組み∼事例紹介(1)∼
オーストラリア南東部クィーンズランド地方にあるマレーニは、人口 15,000 人ほどの町です。こ
の町は 1970 年代は寂れた町でありましが、ジル・ジョーダン氏が中心となって、コーポラティブ(人
の感じる気持ちが価値あるものとして評価される)の考え方のもと、1970 年代後半から CO-OP を設
立、発達させて、それをベースとして、クレジットユニオン、レッツ(L.E.T.S)
、リード(L.E.E.D)
などの CO-OP が機能しています。ジル氏はコミュニティを活性化するには、コミュニティの住民が
必要(ニーズ)としていることを把握することが一番大切であると強調しております。
○ メイプルストリート CO-OP
1978 年住民が共同出資して、この町に最初の CO-OP として、メイプルストリート CO-OP が誕生し
ました。ブリスベンの大学で心理学を教えていたジル・ジョーダン氏が仲間5・6人とともに、オ
ーガニックショップとして設立。
○ クレジットユニオン(金融機関)
1986 年ジル氏が中心となって設立したクレジットユニオン。もともとは寂れた町で、ありとあら
ゆる人種が住んでいて、その中には失業者やお金のない人たちではあったが、新しいプロジェクト
やビジネスのアイデアを持っている人が多くいのだそうです。その人たちを支援するため、クレジ
ットユニオンでは、3つのルールをつくったそうです。まず担保がなくても融資する。二番目にお
金が回るのは地域(マレーニ)にとどめる。3番目に投資しようと思っている人は誰でも投資する
ことができる。このしくみがうまく機能して、新しい雇用を生み出し、地域経済の活性化を図るこ
とができたようです。
○ レッツ(L.E.T.S)
1987 年クレジットユニオンと同様にジル氏が中心となって設立したレッツ。レッツシステムは現
在の一般的な貨幣を使わずに、
サービスや物を交換することのできる地域通貨システムのことです。
レッツのしくみ
サ−ビスを受けたいニ−ズと
提供できることを登録する
メンバ−
→→→→→→→→→→→→→→→→→→→
オフィス
←←←←←←←←←←←←←←←←←←←
[事務局]
ニュ−スレタ−を定期的(2 ヶ月に 1 回)に発行
[サービス受けたいニーズと提供できることの情報を知らせる]
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
メンバ−
←
→
メンバ−
サービスの提供を受ける側と提供する側のうち、
受ける側のチェックブック[小切手]に地域通貨
[マレーニでは「バニヤン」と呼ぶ、植物名でやさしく、有機
的という意味]の金額を記し、それをオフィスに提
示する。オフィスは双方の口座の事務処理をする。
この口座の記録はニュ−スレタ−に掲載される。
○ リ−ド(L.E.E.D)
現在ジル氏が主宰するコンサルティング団体。役割はベンチャー支援(人づくり、自立支援)、支
援内容はセミナーの開催やコンサルティング業務
(店舗の場所や建物づくり、
事業の資金調達など)
。
ジル氏は CO-OP を立ち上げていく人材の条件として、次のことを挙げています。まず資金調達に
長けているいる人。
2番目に事業の企画能力に長けている人。
3番目に人を集めることができる人。
4番目にパーマカルチャーのノウハウに長けている人。ジル氏が仕掛けた全てのシステムは、それ
それが全部に影響するプロセスだったようです。コーポの立ち上げは、クレジットユニオンを動か
し、クレジットユニオンは、レッツを動かすプロセスでもありました。
d.クリスタルウォーターズの取り組み∼事例紹介(2)∼
オーストラリア南東部クィーンズランド地方の中で、エコミニュティとして最も成功している所
がクリスタルウォーターズであります。1988 年世界で初めてパーマカルチャーの手法でできた最初
のコミュニティ。人口約 200 名余。小規模の自給自足社会。特にエネルギーと食料の自給が必須。
もちろんパーマカルチャーの理念(倫理)のもと、3つのルールがあります。1つはオーガニック、
バイオダイナミックスである。2つめは化学的な物は使わない。3つめは犬、猫は飼育してはなら
ない。
棲み分けゾーンがあり、野生生物ゾーンは一番高い所で肥えている土地。傾斜地の中腹部分は住
宅ゾーン。低地に共有ゾーン。この棲み分けによって、生態系が維持されているようです。その他、
ここでもレッツ(L.E.T.S)が機能しており、教育センターが 2001 年5月からオープン、世界各地
からの研修受け入れやグローバルエコビレッジのネットワーク推進に取り組んでいました。
2.ホームスティの受け入れ
2001 年6月から9月にかけて、縁があって2名(小学6年生、大学生4年次)のホームスティを
受け入れたので、紹介します。
(1) 草原の国“モンゴル”からの訪問者
草原の国“モンゴル”から、私の友人の紹介で小学6年生の男児バットゥルジー君を沖縄での生
活体験のため、7月1日から9月 15 日まで世話しました。幸い私の息子が小学4年生だったので、
1学期の約3週間と2学期の1週間を西原町立西原南小学校の息子と同クラスに体験入学させまし
た。彼は、はじめ日本語が全く話せなかったのですが、息子や学校での友人との様々な体験が会話
能力を早くマスターすることにつながったようです。
モンゴルは、大陸の地なので沖縄の自然に触れてもらうため、夏休みは海水浴によく連れて行っ
たのですが、彼の感動ぶりは想像以上で、不思議な国へ来ているような感じでした。海水が塩辛く、
魚が泳いでいることがモンゴルでは存在しないからです。彼は生活文化が違うため、いろいろ不便
をきたしたようですが、異郷の地で2カ月余りの体験は、彼の将来において、きっと肥やしになっ
てくれることと信じています。さらに彼との出会いにより、モンゴルと沖縄の草の根交流の架け橋
につなげていければと考えています。
(2) 基地問題調査のため来沖
オーストラリアからキャロラインさんが、ブルスベンのある大学の卒業論文作成調査のため来沖
することになり、サポート役として私が 2001 年6月8日から同月 24 日までの 18 日間、ホームステ
ィを受け入れました。彼女の今回の調査目的は、市民レベルで基地問題に取り組んでいる状況把握
であり、論文のテーマが「沖縄の基地問題に取り組んでいる市民団体(主に女性団体)の歴史と活
動の成果について」であったので、その対応として、県内の市民団体、個人への取材プログラムを
作成し案内しました。
彼女が取材を通して感じたことを紹介すると、
「取材した沖縄の反米基地市民団体は、もともと特
定の事件や地域における問題をきっかけに活動を始め、異なる団体が協力し合って国際的な活動に
まで、ネットワークを広げている。同時に同市民団体は現在、大きな問題に直面していることも実
感した。まわりからの政治的な圧力や現在の世界を覆っている好戦的な状況を考え合わせると、平
和活動を続けていくのは決して容易なことではない。
」と述べています。
沖縄県内で生まれ育った私にとっては、基地の過重負担による様々な事件や事故が生じ、それに
伴う地域住民の生活被害状況の把握は、ある程度認識しているつもりでしたが、キャロラインさん
との取材を通して改めてアジアにおける沖縄の米軍基地の存在の大きさと市民・民間レベルでの反
基地運動を展開していく際の障壁の多さを垣間見た思いがしました。
3.西原町PTAの理念づくり
西原町PTA20周年記念事業実行委員会のメンバーとして、
2000年5月から同年10月にかけて、
私が記念事業の一環として関わり、
“西原町PTAの理念づくり”に取り組んだので、その事例を紹
介します。
<理念づくりの経緯>
1. 町PTA連合会役員会議での研修の実施
テーマ「ワークショップの手法」
(実習)
時間:2000 年 6 月
場所:町中央公民館研修室
参加人数:10 名
2. 町PTA研修会の実施
テーマ「町PTA連合会理念づくり」
(W・S実習)
時間:2000 年7月
場所:沖縄厚生年金休暇センター
参加人数:70 名
3.町PTA研修会の実施
テーマ「町PTA連合会理念づくり」
(W・S実習)
時間:2000 年8月
場所:町社会福祉センター
参加人数:30 名
4. 町PTA連合会役員会議での研修の実施
テーマ「町PTA連合会理念づくり」
(W・S実習)
時間:2000 年9月
場所:町中央公民館研修室
参加人数:10 名
5. 町PTA連合会役員会議での研修の実施
テーマ「町PTA連合会理念づくり」
(W・S実習)
時間:2000 年 10 月
場所:町中央公民館研修室
参加人数:10 名
○ 地域のアイデンティティを活かした理念
沖縄県内のPTAでは初めてワークショップの手法を活用して、理念づくりに取り組むことがで
きました。やはり、参加者一人一人の思いを引き出し、集約していくプロセスが地域に密着したコ
ンセプトを生み出していくことを実感しました。次に、その理念を述べることとします。
現在、西原町PTAではこの理念実現に向けて、町内6小・中学校の単位PTAが行政との連携
事業の提案や中学生の企業へのインターンシップ導入など積極的な取り組みが見られ、地域に密着
した子どもの健全育成が推進されています。
<西原町PTA理念>
◎人が好き ふるさとが好き そして自分をもっと好きになろう
:キーワード「人としての自立と自覚」
この世に生を受けたことに対し、両親に感謝し、祖先に感謝する。
そして、恵まれた環境(にしはら)に誇りと愛着を持ち、
お互いを認め、自分らしい人生を歩むために前向きに生きることをめざします。
たげ ちむぐくるあ
うやく かた
◎互いに肝心合わち 親子語やびら
:キーワード「家庭の教育機能の充実」
人格形成の基盤づくりは家庭にあります。
家族の語らいと親(保護者)の躾によって、子どもに思いやりややさしさ、
生きる力を育むことをめざします。
◎家庭・学校・地域の融合をめざそう
:キーワード「学校教育、社会教育の融合」
生涯学習社会を実現していくためには、家庭・学校・地域が一つに解け合う
関係でつながりをもつ必要があります。
学校へ地域の皆さんが足を運び、子どもや教師とのふれあいを通して、
開かれた学校づくりをめざします。
◎世界に翔く子どもを育むには“ダイヤモンドコミュニケーション”
:キーワード「国際人の育成」
21 世紀はグローバルの時代であります。
子どもたちの未来に夢と希望を与えるため、世界の人々との共生を図り、
国際人として翔く人づくりをめざします。
4.市民社会に向かって
冒頭で述べたとおり、市民社会とは私は市民が個人として自立し、家族、地域、職場などの環境
と共生した社会のことをさしていると思います。日本では成熟した行政と企業に比べ、市民セクタ
ーの方が台頭したばかりで、市民一人一人が地域社会の主人公としてこれまで以上に地域課題に関
わる必要があると思います。NPOが力をつけ、行政、政治、企業とともに協働の取り組みを積み
上げていくことにより、徐々に相互理解が進み、真のパートナーシップが実現できるのではないで
しょうか。その結果、地域が活性化し市民が暮らしやすい環境を創出する市民社会が形成されると
考えます。
(1) 個人の意識改革
市民社会の実現に向けて、
先進地で試みられているNPOと行政、
企業とのパートナーシップは、
多種多様で質の高いサービスの提供が見受けられる。しかし、各種の壁も大きく、国民の意識改革
や法制度の整備が急務であります。中でも、国民の意識改革に係る部分が今後の市民社会推進の大
きなカギを握っていると思います。
現代の政治、経済、社会問題を解決していくには、国民一人一人が地球規模で自由と平和、民主
主義のビジョンをもって、地域レベルで問題解決にあたらなければならないでしょう。要するに、
個人としての自覚と自立が求められてきます。例えば、オーストラリアのマレーニの町が活性化で
きたのは、ジル氏の存在が大きいのですが、この町の多くの住民一人一人がパーマカルチャーの理
念(倫理)に賛同し、様々なプロジェクトに協働で関わったからだと思います。
(2) 市民社会に向けて行政・企業の役割∼NPOへの支援のあり方∼
○ 資金の支援
NPOは非営利の事業体で、その資金源は大きく分けて、ア.会費、イ.寄付、ウ.収益事業、
エ.委託事業、オ.補助金・助成金であります。本来NPOは自立した事業体であるから、主とし
て会費、寄付金、収益事業をもって経営をすることが必要であります。しかしながら、NPOへの
寄付などの税制上の控除が認められていない現在、会費・寄付だけで、NPO活動を維持していく
ことは困難であり、NPOが提供するサービスの種類によっては、行政、企業からNPOへの委託
事業や補助金、助成金などの支援が当分は必要であると考えます。
○ 協働の「場」づくり
市民社会に向けて市民、NPO、行政、企業の協働の「場」づくりは、今後ニーズが高まってい
くことが予想されますが、その中心的役割を担うNPOサポートセンターなどの中間支援組織の運
営については、多くの市民が運営に参加しやすい“仕掛け”づくりが望ましいと考えます。一方で、
行政においては自治体経営の観点から、民間の活用と行政のスリム化などによる質の高い公益サー
ビスを実現するため、なお一層NPOや企業との協働によるサービス効果の検証を行う必要があり
ます。企業においては理念や経営戦略として、地域貢献への配慮が社会的に求められてくることに
対応するため、積極的に地域住民やNPOとの協働関係を構築する必要があると思われます。
弁護士としてお役に立てれば∼私のプロボノ活動
三木秀夫
大阪NPOセンター理事 弁護士
1.震災前
私は、1984 年に大阪弁護士会に登録し、弁護士として活動を始めました。その仕事は、民事事件・
商事事件・家事事件・刑事事件等広範囲にわたるもので、特にバブル経済崩壊以降は、企業倒産の
処理や地域金融機関の破たん処理スキームの先頭部分を走るなど、常に時間との戦いの中にいまし
た。
以下に述べる NPO に関する活動も、
全てこういった弁護士業務の合間を縫ってのものですので、
他の方に比べ、特に大したことをしてきた訳ではありません。
こういった弁護士の本業以外に、弁護士会活動として、消費者保護委員会などの活動にも関わり
ました。弁護士登録の頃には、当時の社会を揺るがした豊田商事事件などの大量消費者被害事件が
あり、もっぱら当初は悪質商法問題などに関心を持ち、その後は近畿弁護士連合会消費者保護委員
会副委員長などの立場で、主として廃棄物などの環境問題を消費者側の観点で関わってきました。
その後、89 年からは大阪青年会議所(JC)での活動にも関わり、その中で、まちづくり団体や国
際交流団体とも関わりができるようになりました。特に、そこでのつながりから始まり、その頃独
立して法律事務所を構えたビルにあった(社)セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン(SCJ)にも少
しずつ関わるようにもなりました。こういった活動の中で、市民団体に対する社会からの支援が非
常に弱いことなどに気がつきました。特に NGO が社団法人格を取得する際の困難さを見ながら、法
律家の一員として何かができないかと思っていました。
そんな中、94 年夏の大阪 JC の理事選挙で当選し、翌 95 年度の事業として、市民活動団体の共通
問題への研究を目的とする委員会の担当理事になったのです。そのときに、かねてから考えていた
市民団体の社会的基盤整備の問題に取り組もうと考え、94 年の秋から年末にかけて、関西のいろい
ろな分野の市民活動団体にヒヤリングをして、共通する悩みを聞きました。その中で、法人格問題
が大きな関心事であることも再認識をしました。そんな折、94 年 11 月に、東京でシーズが発足す
ることを知り、東京へ行き、その設立総会の様子を見に参加しました。
その熱気を感じた私は、この動きを大阪に持って帰り、大阪 JC の一理事として、
「同 JC と関わ
りのある市民団体に呼びかけ、
NPO の基盤整備のための法制度税制度の改革に取り組むこと、
また、
今後の NPO に対する支援を継続的に行うための支援センターの検討を始めること」を理事会に提案
していく事を決心しました。そして、94 年 12 月にその旨の企画書をまとめました。そして、翌 95
年正月早々からは、その企画を実行に移すべく、仲間のメンバーと協議を開始していました。
2.震災直後
1995 年 1 月 17 日、阪神淡路大震災が発生しました。その5年前に、私は神戸市東灘区から奈良
に移り住んでいたのですが、その奈良の地でも、早朝の大きな揺れには目を覚ましました。大阪 JC
も、そのメンバーの多くが阪神間に居住していたために、混乱もありましたが、早期に対策本部を
立ち上げ、救援・支援活動を開始し、当面は救援事業に総力を集中することになりました。その後
すぐに全国の JC の組織的な活動も始まり、各地から送られてくる救援物資の集積・配送など、被
災地周辺の青年会議所との連携を取りながら効率的な活動に広がっていきました。私自身も、自分
の委員会メンバーとともに、芦屋南高校に泊り込んで、芦屋市内の小学校に避難している方々への
救援物資配送を行いました。
また、被災地の子供たちへの心のケアとして、
「愛の手カード事業」を提案し、現地の市民団体
や行政の協力を得ながら、被災地の子どもたちに復興した町の想像絵をかいてもらい、高島屋百貨
店や大阪ガスなどの企業や行政の協力を頂いて、この絵を全国各地で展覧会をするとともに、これ
を絵葉書「愛の手カード」として販売し、収益金を子どもたちへの支援事業にまわすという活動を
行いました(この事業については、市民・市民団体・企業・行政の連携で支えたものとして評価を
受け、翌年度の世界 JC のアジア会議である ASPAC でアワードを受賞しました)
。
そういった活動を行う一方で、私は、被災地で活動する様々な市民団体がどのような活動をして
いるのかを視察しようと考え、自分の委員会メンバーとともに、各地を調べ歩きました。特に、目
に付いたのが、被災地の人々を応援する市民の会をはじめ、宗教団体やボランティア団体、NGO な
ど、きわめて多くの市民活動団体が連携を図りながら活動を行っていることでした。
この頃、マスコミはボランティア元年との見出しでその活躍に光を当て、それがいろんな経過で
NPO 法制定へという社会機運に発展していったのはご存知の通りです。4 月には、市民活動の制度
に関する連絡会も結成され、私も大阪から顔を出していました。
そのような中、私は大阪 JC の理事として、NPO 法の意義を議論するため、95 年7月1日に、大
阪市中央区のコスモ証券ホールで、
「市民活動を支える新しい社会像を目指して」をテーマに「21
世紀地球市民フォーラム」の開催を企画実行しました。事前に新聞報道もあったためか、参加者は
400人近くもあり、会場が一杯になるくらいの熱気で、関心の高さを実感するものでした。
そのフォーラムでは大阪大学の本間正明教授に基調講演を、シーズ事務局長の松原明氏に NPO を
めぐる社会状況の報告を依頼しました。その後、NPO の活動家や大蔵省の行政マン、落語家の桂あ
やめ氏などを交えて「市民活動を支える新しい社会像とは」をテーマにしたパネルディスカッショ
ンを行いました。その中で、私は、
「阪神大震災で NPO の関心が高まっているが、一方的な賛美論
だけでは問題の本質が見えない。特に今回、大いに活躍したのは、行政が公益目的を持つものとし
て許可している財団などの NPO よりもはるかに多くの任意団体としての NPO であったこと」を再認
識し、
「NPO を官が許可するというのは民主国家ではおかしなことである」という実感を持った次第
です。さらに、
「かつての市民運動は、公共的なことは官がやるとの前提で批判勢力だったが、今
は、国家の利益を超える問題や、個別的な問題に対し、積極的かつ能動的にきめ細かく関わってい
けるのは、市民団体である」
、
「人、モノ、金といった NPO の経営資源を確保するための法整備を今
こそ求めるべき時代が来ている」と、制度改革の必要性を如実に思いました。
95 年は、このような活動を続けた年でしたが、続いていろいろな NPO からのヒヤリングなどを行
った結果、10 月に、NPO の基盤整備のための法制度税制度の改革、NPO に対する支援を継続的に行
うための大阪における NPO 支援センター構想などを含んだ提言書をまとめ、発表したうえで、私は
JC を卒業しました。
3.大阪NPOセンターの設立
1996 年からは、私は大阪弁護士会の震災対策協議会に参加し、震災にまつわる法的紛争の分析や
会としての対応などを行っていました。その中で、弁護士会として「NPO 法」の制定問題を取り上
げ、フォーラムや研究会を行っていました。
そういう活動をしていた間に、96 年 11 月に、大阪 NPO センターが設立され、監事に就任しまし
た(今は理事になっています)
。このセンターは、この年に、大阪 JC の理事長であった金井宏実氏
が強力なリーダーシップを発揮し、大阪近辺の市民活動団体の連絡会を基盤にして、いろいろな分
野の NPO が呼びかけ人となって、純粋民間のセンター設立へと至ったものでした(このときに奔走
した松本将氏は、その後に大阪 JC の理事長にもなっています)
。設立総会の翌日には、日本 NPO セ
ンターも設立されています。私自身としては、前年度に、大阪の地での支援センター構想を提言し
ていたこともあり、実際の設立に共鳴をし、参加をすることにしました。
この大阪 NPO センターは、
「各 NPO 間の相互理解や協力をはじめ、NPO・行政・企業が交流し、学
び合い、刺激し合いながら、市民社会の創造へとベクトルを合わせ、パートーナーシップを構築す
ることが重要である」との認識から、
「民・産・官・学がより有効に連携できるような活動を積極
的に展開し、各 NPO が自らの諸機能を発展させながら自立、成長するための支援等を強力に推進す
ること」をめざしたものでした(同センター設立趣旨より)
。
4.NPO法案への関わり
1997 年は、NPO 法案の成立に向けて、できる範囲での活動を行ってきました。たとえば、大阪 NPO
センターでの研究会の開催やフォーラムなどを行う一方で、東京などでの連絡会などにも時間を見
つけては参加をし、意見を述べたり、市民団体の意見を集約したりなどの活動を行っていきました。
この頃は、与党 3 党、新進党、共産党などの法案が出揃ったころで、各党の国会議員にも参加を得
て公開フォーラムなども開催し、パネラーの一員として発言をするなどの活動に参加をしています。
97 年 4 月 22 日、
私は朝日新聞論壇で、
「憲法理念に立ったNPO法案を」
と題した意見を投稿し、
掲載されました。この掲載は、予想以上の反響をよび、いろんな方からの声かけの他、多くの政党
の担当者などからも、意見を聞かれたりしました。これは、そのころの NPO 法案の国会での議論が
行政の関与を強くした内容になりつつあったことに疑念を持ったことから、この問題を矮小化して
議論をすべきではなく、もっと憲法理念を踏まえた高次元での視点で考えるべきではないかと考え
て、書き上げたものでした。
内容を紹介しますと、
まずNPO に対する行政の関与が強い法案になりつつあるのを懸念した上で、
「そもそも、市民が自発的な意思で社会的な活動をグループとしてやっていくのは、まさに憲法の
保障する市民的自由権である。これをさらに発展的にとらえ、
『人類普遍の原理』
(憲法前文)であ
る国民主権を実質的に達成するためには、市民活動が自由かつ活発に行えるような制度的保障が必
要で、その観点に立ってNPO法制を組み立てていくべきである。つまり、営利活動が公の秩序に
反しない限り自由であるのと同じように、非営利の市民活動は、より活動の自由が保障されなけれ
ばならない。その延長線として市民団体の法人格取得の自由と、活動が行政に縛られない自由も、
憲法的基本権として考えていってはどうであろうか。この考えは、市民団体への法人格付与は政策
レベルの問題としてきた従来の考え方を超える。しかし、これまでもっぱら行政サービスの受け手
となっていた市民が、建設的な発言・行動する力を持って、行政・企業と並んで公共政策の立案に
参画できる社会のもとで、国境をも超える地球市民社会をつくっていくというビジョンに立てば、
十分に理解と共感が得られるものと確信する。
」というものでした。
このように、現在の市民活動を考えていく場合に、これを常に憲法レベルから考えることが大切
ではないかと考えています。特に、憲法自体は時代に応じて改正していくことも必要であるとは思
いますが、その際には、市民活動に対する制度的保障を憲法上明記するとともに、憲法 89 条後段(公
金支出条項)なども、時代に合った形に変えていくべきであると思っています。
5.
「NPOたすけ隊」の設立
1998 年 3 月に、NPO 法が成立しました。これを受けて、私は、これからは実際に市民団体が法の
施行に合わせて法人化の検討を始めるであろうが、それを何らかの形でサポートしていかなければ
ならないと思います。また、法人格の有無に関わらず、法律や会計・税務に対する本格的な支援の
必要性も増大するであろうと考えました。
特に、従来の社団法人に比較すれば、設立要件もかなり明確で、提出書類も審査期間も法定され
ているものの、まだまだこういった手続きに不慣れな市民団体には荷が重いものと推測したからで
す。このため、大阪 NPO センターの 4 月早々の理事会において、
「NPO 法律・会計・税務支援事業(愛
称:NPO たすけ隊)
」の企画を提案し、承認を得ました。
この事業は、弁護士・公認会計士・税理士・司法書士・行政書士・社会保険労務士・中小企業診
断士などの資格者をはじめ、
それを目指して勉強中の者、
さらには経理などの知識を有する者など、
NPO へのサポートに少しでも意欲と能力を有する者が参加して、勉強会をしつつ、実際の相談や支
援を行っていこうというものです。おそらく、私が知る限りでは、単発で弁護士や税理士などが NPO
支援に関わることがあっても、まとまった数の資格者が集団を組織して、継続的に NPO 支援を行っ
ていくというものは、当時は無かったように思いますし、今も、全国的にそれほどあるようには見
えず、社会的にもそれなりの存在価値はあるかと思っています。いま、このたすけ隊に関わってい
るメンバーは30名を超えています。
この「NPO たすけ隊」という愛称は、私が命名したのですが、その意味は、
「NPO を『助ける』で
はなく、自分や社会のために NPO が育って羽ばたいて欲しいがために、積極的に『たすけたい』と
いう気持ちで行いたい」と考えたことからきています。
このたすけ隊事業は、早速 4 月から開始をしました。と言っても、最初はどの程度のニーズが生
じるか不明な点もあったため、弁護士である私と、公認会計士の中務裕之氏、税理士の新居誠一郎
氏などのメンバーで、細々と始めました。早速、第 1 回目から NPO 法人格の取得のための準備相談
が舞い込み、以降、次々と同様の相談が舞い込んできました。そして、徐々に相談が増えていくの
に伴い、たすけ隊メンバーの拡充も行っていきました。当初は知り合いに声をかけることから始ま
り、その後はセミナーなどでたすけ隊の存在を知って志願して来た者、その者がさらに同士を紹介
してくるなどで増えていきました。
最初の頃の相談は、NPO 法人の設立準備がほとんどで、その後、施行日が 12 月 1 日と決まってか
らは、相談量も増大し、個別相談でその都度に法律の概要を一から説明していたのでは追いつかな
くなり、基礎知識セミナーなども度々開催しました。設立相談も、最初は法人格を取得すべきかど
うかといった入り口論が目立っていたのが、そのうちに実際の申請書類の記載方法などにも移って
いきました。ちなみに、昨今の相談は、設立手続以外に、会計や税務、さらには労務問題が多くな
ったほか、運営上のトラブルや契約問題、ひいては知的財産権問題など、かなり専門的かつ幅の広
い問題になってきています。このため、たすけ隊相談時以外にもメンバーが定期的に集まって、相
談事例の分析や研究なども実施しています。
たすけ隊を立ち上げた頃、大阪弁護士会震災問題対策協議会の方では、同協議会のメンバーを中
心に、NPO 法の概説書を出そうという話になり、明賀英樹弁護士・池田直樹弁護士らのメンバーを
中心に、たすけ隊メンバーの税理士会計士らの助けを借りて、NPO 法成立後間がない98年5月に
新日本法規出版から「NPO とボランティアの実務∼法律会計税務」を出版しました。また、従来か
ら阪大法学部の非常勤講師として法曹実務の講義をしていましたが、この頃から NPO 法を中心にし
た講義をするようにもなりました。
6.さまざまな活動への参加
翌年の 1999 年頃には、NPO たすけ隊の名も次第に知られるようになり、メンバーも増えてきたこ
とから、新しいメンバーを中心に「NPO 法人まるごと設立マニュアル」や、
「NPO 法人まるごと運営
マニュアル」などの冊子も作りました。
また、私自身の従来からの活動の流れとして、消費者問題の NPO として、弁護士や学者並びに消
費者相談員などのメンバーを中心として(特活)消費者ネット関西を立ち上げ、常務理事として関
わりを持っています。
さらには、
(特活)介護保険市民オンブズマン機構大阪という、ボランティアオンブズマンを養
成し介護施設に派遣する NPO の立ち上げにも関わりました。特に、私はそこで、
「福祉を消費者問
題という観点で見つめなおす」ことを提唱しつつ、講師活動などでささやかな支援をしています。
そのほか、
(特活)北摂こども文化協会、
(特活)NPO 政策研究所、
(特活)日本サスティナブル・
コミュニティセンター、
(特活)関西国際交流団体協議会等々、いくつかの NPO にも関わるように
なっていきました。
7.最近の新たな事業展開
最近は、たすけ隊のネットワークを生かす新たな事業展開を図りつつあります。その代表的ない
くつかを紹介します。
(1) 「NPO大学院」
(NPOグラジュエイト・スクール)の開校
大阪 NPO センターにおいて、NPO を設立・運営する「起業家」を育てるため、2002 年7月から、
NPO 大学院講座を開設しました。同年 10 月現在、24 名の年齢も性別も経歴もさまざまな「学生」が
熱心に勉学と研究に励んでいます。この大学院は、財政基盤が安定しない NPO が多い現状への反省
を踏まえ、
「NPO も経営の時代」という考えですすめています。チーフスーパーバイザーに跡田直澄
慶應大学教授を迎え、スーパーバイザーとして、私と今田忠氏(市民社会研究所所長・大阪NPO
センター理事)とがカリキュラム編成を担当しています。経営学については、加護野忠男神戸大学
経営学部教授らを迎え、カリキュラム内容の充実を図っています。NPOと企業との差異はゼミナ
ール等で補いつつ、「起業・経営の基礎」をしっかり身につけることができる、それがこの講座の
最大の特徴と考えています。
一部の大学では、すでに各種 NPO 概論や関連理論の講座が開かれ、市民講座が NPO を取り上げる
ケースも増えています。しかし、実務家向けの理論的な講座は少ないのが実情です。特に「どう資
金を集め、運営するか」といったマネジメントを系統的・学問的・実践的に学ぶ場がまだまだあり
ません。
今回、講座を開くに当たり、企画は大阪 NPO センターが行う一方で、経営部門として、支援先企
業の出資を仰いで株式会社 NPO グラジュエイト・スクールも設立しました。NPO が株式会社を設立
する手法も、まだ極めてまれですが、これも「NPO も経営の時代」を体現する一手法と考えていま
す。事業が軌道に乗れば、遠隔地に住む学生用にインターネットを使用した授業も行う方針です。
(2) 「NPO経営・起業コンサルタント養成塾」の開講
現在の NPO は、NPO 法人のほか、広義の NPO である公益法人や社会福祉法人、その他の非営利法
人の経営力は、営利企業に比して極めて弱いと言わざるを得ないのが現状です。その一因として、
NPO を支援する専門家の知見が共有されておらず、専門家像が確立されていないことがあげられま
す。このため、大阪 NPO センターにおいて、
「NPO 経営・起業コンサルタント養成塾」を 2002 年 9
月に開講しました。
これは、弁護士・公認会計士・税理士・司法書士・行政書士・社会保険労務士・弁理士・中小企
業診断士及びこれらの資格取得予定者、税務相談員、経営コンサルタント、企業総務関係エキスパ
ート、企業経営経験者、公的又は民間の支援事業従事者等を受講対象者としています。そして、各
業種間のネットワークを深めお互いの知識・情報を共有し、業種間の垣根を越えた総合支援を可能
にする「NPO の経営・起業支援の専門家」を養成し、大阪 NPO センターのめざす「経営力のある強
い NPO 育成」につなげようと考えています。講座はすでに開講した「研修コース」に続いて「専門
コース」を開催する予定で、専門コースを修了すれば、
「大阪 NPO センター認定コンサルタント証」
を発行する予定です。この第一回の研修コースには30名の参加があり、今後、たすけ隊への参加
も求め、たすけ隊事業の拡大にも役立つものと考えています。
(3) NPO法人実務支援講座開講
これは、大阪市ボランティア情報センターとの提携で開講したもので、これから NPO 法人の認証
申請を行う団体や、すでに NPO 法人格を取得した団体の多くが直面する「運営実務」を支援するた
めのものです。対象は、こういった団体の運営担当者を念頭においています。
(4) ボランティア・NPOマネジメント科開講
これは、雇用保険受給者を対象にした労働省緊急再就職促進訓練として実施しているものです。
NPOの経営参加に興味を持つ方に、今までの自分の技能や経験を生かし、NPOに関する知識と
マネジメント能力を修得し希望する団体で活躍できるよう、午前は学習、午後はパソコン学習(カ
リキュラム・講師は裏面参照)の両面で3ヶ月間(360時間)実施しています。
8.私のプロボノ活動
米国の弁護士の世界にプロボノという言葉があり、弁護士は全てプロボノ活動をするようにとい
う使命感を有しています。この言葉は、ラテン語の「よき公共の為に」という意味の言葉からきた
もので、公共のために行う活動を言います。
私たち弁護士は、国家試験を経て、人権擁護活動を使命とした活動をすることが職務としていま
す。これを受けて、弁護士会でも弁護士が公益活動をすることを義務としています。
私自身、本来の弁護士業務の中でその実現を図るつもりでいますが、それ以上に、NPOの基盤
整備に関して、積極的にこの精神で関わっていきたいと思っています。そして、NPOが今後どの
ように発展し変化していくかに関心を持ちながら、その良き発展にわずかでも貢献しえたならば、
一人の弁護士、
一人の人間として、
この世における役割を果たしたと思えるのではないでしょうか。
「市民社会へ 個人はどうあるべきか」
長崎禎和
三重県NPOチーム
1.生活者起点の行政
さまざまな分野での、市民による自主的、主体的な活動は、行政や企業にはない多様で自由な発
想に基づく活動であり、社会の中で大きな役割を果たすようになっています。このような市民活動
を、
行政や企業とともに社会の発展を支えていく主要な担い手としてとらえていく必要があります。
三重県は、新しい総合計画「三重のくにづくり宣言」において、
「生活者起点の県政」を展開し、市
民活動の自主性、主体性を尊重しそれが十分発揮していけるように、活動しやすい環境を整えるな
どの支援を行っています。現在、その第二次推進計画(平成14年∼)を遂行中です。
2.三重県生活部NPO室(現NPOチーム)の施策の展開について
(1) 現在までの取り組み
平成9年4月にNPO担当者を2人置き、平成10年4月に三重県生活部生活課のなかに全国で
も初めて、市民活動を推進するNPO室(職員5人)が設置され、施策を展開してきました。また、
7つの地域機関にも8人(現在9人)のNPO担当者を配置し、市民活動の推進に取り組んでいま
す。
平成10年度に全国に先駆けて、
「みえNPO研究会(市民が主体)
」*1で市民との協働により特
定非営利活動促進法施行条例案づくりを県民参加で行うとともに、
NPOと行政の協働のあり方
「み
えパートナーシップ宣言」を策定・発表しました。
さらに、市民との協働を進める「場」として、平成10年12月に「三重県市民活動センター」
を県民のニーズを踏まえて、公の施設として条例設置し、平成11年4月にはセンターの利用、今
後の管理運営のあり方を検討するため、市民団体、企業、大学関係者、学生など、幅広いメンバー
(42人)で構成する「三重県市民活動センター運営委員会」を発足し、市民が主体のセンターづ
くりに取り組んできました。
条例設置に先立つ、平成10年4月から公の施設として設置されるまで、そのセンターのあり方
などを「三重県市民活動センター(仮称)のあり方を考える集い」
(市民、市民団体、大学関係者、
行政などで構成)で検討を重ねてきました。
平成11年度からは、
「みえパートナーシップフォーラム」を設置し、NPO室の事業を企画か
ら協働で実施してきました。
また、平成12年、13年度には、県内各地域でのネットワークづくりなど、地域のNPO活動
の基盤整備を行うNPOを支援しました。*2
NPO室は、庁内各部局が実施するNPOとの協働事業やNPOからの行政への提案事業につい
て、円滑に事業が推進されるよう各部局との橋渡し役となって協力しています。また、協働事業や
県事業について、
「市民による事業評価システム‘99」
(市民による事業評価検討グループみえ)
による評価や庁内各部局職員で構成する「NPO協働事業研究会」による協働する際の具体的課題
の検討などを行ってきており、現在「NPOと行政の協働事業ふりかえりシート」として、協働の
質を高める取組をすすめています。
平成13年度からは、三重県市民活動センターを、みえ県民交流センター*3内へ移転し、同時に
移転してきた他の関係機関*4とともに、自発的な社会貢献に関する活動を支援し、青少年の健全育
成及び国際化の推進を行うための総合交流施設として、地域や分野を越えた市民活動、ボランティ
アなど、非営利で公益的な活動をしている人たちや、これから活動しようとしている人たちのキー
ステーションとしての機能を果たしています。
これらを進めてきたNPO室の基本的はスタンスは、事業企画段階から市民やNPO等と話し合
いをし、誰もが参画することができるように、オープンな形で進めてきたということです。現在、
三重県内各地域に、地域の市民活動を支援するセンターが機能しはじめており、県としては、支援
から、NPOと行政との協働の質を高めるための取組みをはじめています。
(2) 市民活動への情報支援*5
○ 情報ネットワーク −NPO And Volunteer Information System− の構築
「三重県市民活動センター(仮称)のあり方を考える集い」のなかで、センターとしてどういっ
た機能が必要かの話合いを深めた結果、三重県の施設としては地域や分野を超えた市民活動のキー
ステーションとしての役割を果たすべきであるということになりました。情報機能であれば、県民
が公平にセンターの機能を利用することができるからです。また、情報の内容としては、行政情報、
イベント情報、助成(金)情報、ファシリティ情報、アピール情報、そして市民活動団体情報など
があげられました。そして、その情報は、どのような情報を市民や市民活動団体が必要としている
のか、という観点から考える必要があることも話し合いました。
その成果として、NPO And Volunteer Information System*6(以下NAVISという)が構築さ
れています。NAVISは、三重県内の市民活動をしている人々が情報交換・情報発信を電子ネッ
トワーク上で実現することによって、県民全体の市民活動に対する関心の向上を図って、市民活動
全体の活性化、高度化、効率化をめざすことを目的としています。
この目的を実現するための施策として、第一に、ネットワーク上で県民相互のコミュニケーショ
ンを実現するために、
「オンラインコミュニティ」
(電子ネットワーク上で構築された人々の集まり
の場)を構築しています。このコミュニティに人々が集まり、情報がとれ、さらに自らが情報発信
したくなるような電子コミュニティ空間(ヴァーチャルコミュニティセンター)の実現を目指して
います。第二に、このヴァーチャルコミュニティセンターの情報発信機能として、市民活動情報デ
ータベース機能があります。ここでは、三重県内の市民活動団体約500団体を検索できるように
なっています。
(現在システム更新中)このほかに、ボランティアマインドのある市民が自分が参加
したい、興味のあるボランティア活動を容易に検索できたり、逆にボランティア団体が必要な人材
を求人できるようなサービスの提供を予定してます。これにより、市民活動のすそ野をひろげ、全
体としての市民活動の活性化を支援します。
○ 市民活動ニュースの発行
各市民活動団体は自分たちのイベントや事業を三重県内に広く知ってもらうための手段を持っ
ていませんでした。そのため平成10年12月から「市民活動」を県民に知ってもらうため、
「市民
活動ニュース」を発行しています。
市民活動団体のイベント等の広報手段として、また、行政としては市民活動団体の資金面での間
接的サポートとして助成金情報を知らせたり、実際に市民活動を行っている方へのインタビュー記
事により、読者に身近な市民活動を感じてもらえるような内容での紙面づくりに工夫を凝らしてい
ます。助成金情報や、最近では地域のネットワークからの情報や地域の支援センター*7の紹介など
好評を得ています。また、原稿締切から印刷発行までが短期間*8であるため、タイムリーかつ迅速
な情報発信、提供も好評です。市民活動団体からの原稿掲載依頼も多く、情報量も多いことから、
このニュースで三重県内の市民活動の一端を知ることができます。このニュースは毎月11,00
0部発行し、県内の市民活動団体や地域の支援センター、県内企業のご協力を得て、多くの県民に
配布しています。現在、三重県ボランティアセンターや他の関係機関等と連携をとっており、情報
内容の充実をはじめ、協力して情報ネットワークの構築を図っています。
他方、パソコンなどの情報関連機器の普及や地域のNPOによる情報教育の推進、インターネッ
ト等の情報環境の変化、メーリングリスト等によるコミュニケーションツールの活用により、個人
やNPOから情報発信・提供される機会が多くなっています。
今後は、
「新しい市民社会」*9に向けて、NPO支援のための情報から、NPOとの対等な関係
づくりをするという観点から、情報を媒体として、また、情報提供をきっかけに、コミュニケーシ
ョンを図っていきたいと思います。
3.これまでの経験
以上のような背景のなかで「新しい市民社会」に向けて、行政職員として、NPO室の一員とし
て、市民活動の推進に取り組みはじめました。私自身行政職員12年目で、NPO推進業務に携わ
って5年目を向かえています。
“IT”という言葉もない、バブル期に就職し、特にこの5年の職場
の風景・雰囲気の変化は、就職当時とはかなり異なったものになっています。
さて、市民活動の推進する日々の取組みのなかで、市民やNPOとの話し合いが進められました。
それは、通常、平日の夕方から夜、若しくは土日祝日に行われました。まず、ここで思ったのは、
“この人達はなぜここにくるのか”、
“この人たちを突き動かすものはなにか”です。なぜなら、仕
事等が終わってから、三重県市民活動センター(当時)にきて、センターが閉まるまで、ときには
日付がかわってまでも議論を続けるのですから、その熱心さ、タフさはとても考えられないわけで
す。これまでの行政や社会に対する憤り、現状に対する問題意識がいかに大きかったかがわかりま
す。振り返ってみると、その風景はある種異様な雰囲気だったと思います。でも、同時にそこから
は何かが生み出されそうなそういうものを感じました。また、昼間には、市民活動を推進するNP
O室ができた、あるいは、市民活動のできるスペースがあると聞き、利用者や立ち寄って話してい
く人が日増しに増えていきました。話の内容は、自分の活動をはじめ、そのきっかけ・動機など、
これから活動しようとする思いなど、プライベートなことから社会的な問題まで多種多様で、その
活動分野、抱えている課題もさまざまでした。こちらからも積極的に市民活動のイベントや交流会
に参加し、三重県行政の立場を明らかにするとともに市民活動をしている方々と意見交換等を行い
ました。
そのなかで、多くの方と知り合う機会をもち、また、自ら市民活動やボランティア活動に参加す
る機会も作りました。自分のこれまでの生活ではみえてこなかった世界、既存の社会・経済のなか
では満たされないものがありました。思いの実現や社会的意義のある活動をするために、様々な障
害等を乗り越え、何とかしていこう、何とかしなければ、というあつい思いとともに、それを実現
していく力がありました。そこには、人間対人間の生の関係、思いと制度のギャップ、理屈じゃな
い世界がありました。助けてもらいたい人がいて、助けたい人がいる、というとても単純で率直な
関係。お互い満足していないところに、次につながる発展の可能性を感じました。
その可能性を引き出す制度の一つとして、特定非営利活動促進法という、個人やNPO団体の思
いを実現できる手段が、市民、NPOの力で制定され、三重県では、その法施行条例案が市民主体
のみえNPO研究会で作成されたことは画期的でありました。
行政が限界を突きつけられる一方で、NPOが社会を支えるものとして社会に登場してきました。
三重県は、その総合計画でNPOを社会を支える第三のセクターとして捉え、活動しやすい環境を
整えるなどの支援を行っています。また、施策事業を展開する上で、NPOの思いを何とかして社
会へと導き出すにはどうすればいいのかという問題意識を常に持っていました。
全国で7,992の
NPO が認証*10を受けており、最低でも79,920人、約8万人もの社員が存在することになりま
す。そのうち三重県では132団体が認証を受けているので、少なくとも1,320名の社員が存在
するわけです。これらのNPO法人同士がなんらかの連携・協力・協働すれば、大きな力になるこ
とは間違いなく、さらに、NPOと行政が協働すればその影響力は多大なものになると考えられま
す。
このように、自分のミッションを実現するために行動を起こしている人々がたくさんいます。そ
の思いを形にしていくために、NPO法人制度を使って法人化することで、より活動を発展させて
いく団体の姿もみられました。
他方、
法人になることを選択せずに活動をしている団体もあります。
そこでは絶えず変化し続けている社会に対して、そこに課題や問題を認識し、それに対し、常に何
かを考え、新しいアイデアを出し、自らの手で解決していこうとする姿がそこにはあります。ここ
に「市民」あるいは「市民社会」*11を見る思いがします。
市民社会というのは何か決まったモデルがあるわけではなく、また、仕組み、システムがあるか
らそれをもって、市民社会が存在しているというのではなく、自己決定・自己責任の原則に則って
行動できる個人である市民が、
自らの手で運営する社会が市民社会とするなら、
「みえNPO研究会」
をはじめ、自らの手で何とかしていこうとしている市民の取組が、まさに市民社会そのものであっ
たのではないかと思います。
4.市民社会へ ∼ 個人はどうあるべきか?
社会は、個人を離れて別のところに存在するわけではありません。そこには自分を含めて価値観
が異なる多種多様な個人が存在し、個人と個人の関係において成り立っています。個人が社会に対
して関わるということは、結局は個人に対して関わるということです。そこには、その関係を円滑
にするためのルールやシステムがあり、生活を予測可能なものにして社会を安定させています。
個人がどうあるべきかについて、市民活動やボランティア活動を行っている人とふれあうことを
通して感じたことや、また行政職員として社会に関わるということについて考えたこと等を通して
述べたいと思います。
(1) 個人の社会への関わり方
a.活動している人から感じたこと
○ 社会の課題を自らの課題として捉え、自らの課題を社会の課題として捉えている
市民活動の特性の一つとして、行政、企業の目の行き届かないところのサービスを提供できると
いうことがあげられます。サービスの公平性、画一性や経済的な利益にとらわれずに、サービスを
必要とする人の個別状況に応じたきめの細かい対応ができます。行政にはできない、相手の立場に
たった分野横断的、総合的な対応ができるところにあります。そういった行政の目の行き届かない
ところに将来課題となる端緒が現れたりします。
活動している人たちは、日頃の活動から生じてくる課題を社会の課題として捉え、提起するとと
もに、他の分野で生じている課題についても関心をもち、自分のあるいは社会の課題として捉えて
います。さらに、よりよい社会の実現に向けて、そういった課題に対する解決するための提案を行
ったり、それを自らの活動やいろいろな機会を通じて解決しようと努力しています。
○ 自ら社会との接点をつくり出している
日頃の活動、あらゆる機会、人との対話を通じて、常に自分の意見を社会に対してなげかけ、自
らの意見を主張する一方で、相手の意見も聞きながら話し合い、一緒になっていいものをつくりあ
げようとする姿勢が見られます。
○ 地域と密接なかかわりをもっている
地域に根ざした活動であるということ。自らそこにすんで、あるいは住まないまでも、地域の人々
と交流し、話し合い、その地域をしり、良さを見つけ、そこでしかできない活動を行っているとい
うこと。その中で、自分の意見を理解してもらう努力をし、地域の課題を提示・共有するとともに、
それに対する解決策をその地域の人々といっしょになって解決するために活動しているということ
です。
○ 社会的サービスを提供している
身近な生活のなかから問題点を見つけだし、行政の目の届かない、あるいは企業的に採算のあわ
ないものについて、課題解決を図るために、先駆けて社会的サービスを提供したり、困っている人
を見捨てておけずに、互助的なサービス提供を行っています。
○ 理想的かつ現実的である
自分自身の理想をもちつつも、それを現実の社会でいかに実現していくかという、そのやり方に
ついて心得ています。
○ 行動理念、活動内容等への共感によって行動している
これらのものは一部であり、また、全ての人にその感じを持ったわけではありません。社会や他
の個人に対するスタンスの取り方、その気持ちの持ち方など、この他にもいろいろ感じるものもあ
りました。
b.
「市民」というもの
以上のような、活動している人の社会へのかかわり方をみていると、こういう人が「市民」だな
という感じを持ちます。
「市民」とは、定義をかりれば、自己決定と自己責任原則のもとに地域社会に関心を持ち主体的
に行動できる人間、とされていますが、これをもう少し、自分なりに解釈すると、
「社会的なルール
に則って誰にも迷惑をかけずに生活しているだけではなくて、自分の身のまわりにおきている課題
に関心をもち、それに対して、自分で考え、関心のある人たちと話し合いながら、それに対する解
決策を見つけだすとともに活動し、よりよい社会を実現していこうとする人間」ということになり
ます。
「市民」は、個人が社会のなかで果たす役割の一つを示すものであって、個人の社会生活の一面
をあらわすものだと考えます。
(2) 行政職員の社会への関わり方
ここでは、行政職員としての私の社会への関わり方について、考えていることを述べます。行政
の仕事は、その職種によって、所属する部・チームによって、また担当する事業によってさまざま
ですので、社会との関わり方もいろんな形があります。ただ、三重県行政は、住民の生活を良くす
るためのものであるというのは、どこに所属していても同じです。
○ 現場にいく
私たちが仕事や生活するうえで何か問題が生じた場合、現場に行って直接その状況を確かめに行
くことがあります。さらにそこで当事者や実際に活動している方々と話し合うことがあれば一層認
識も深まります。そこには伝聞では理解できない部分があります。そこにはとても重要な部分であ
る、自分で観て感じるという部分があります。
○ たくさんの人と会って話を聞く・話し合う
自分の知識や経験というものなどは限界があります。たくさんの人と会ってその人の話をよくき
き、話し合うということがとても大切です。その人の知識や経験、考え方などいろんな情報を知る
ことができるとともに、互いのもっているものを共有できます。そこから何らかのきっかけや動き
が起こるかも知れません。
○ きっかけをつくりだす
社会が変化してくなかで、考え方も変化します。住民の生活をよくするための考えや方法も変化
してきます。
そのとき様々なチャンスが生まれます。
行政という社会的資源の集中するところでは、
行政職員としてはまず、自らが行動して、きっかけをつくりだす必要があります。
社会と関わるのは人を通じて行われるものであり、そのきっかけをつくるのが人です。行政職員
として社会に関わる場合も例外ではなく、他分野との関わりは人を通して始まります。そういう意
味で、現場に行って、人と会って話し合うということは特に重要であると考えています。
以上のことは、行政、企業そしてNPOとセクターバランスのとれた社会が実現される場合は、
なお一層重要になってきます。
(3)個人・市民と社会について
a.社会システムを市民の手に
現在の社会は、いろいろなシステムのもとに、それらが複雑に絡み合って、機能しています。自
分たちの生活は、それらのシステムが機能して成り立っています。市民社会を実現し、市民みずか
らの手で運営するためには、基本的にはその手段であるさまざまな社会システムはその手元にある
べきです。しかし、すべての社会システムを手元に置いているのは現実的ではありません。現在の
ように、いろいろなシステムが複雑に絡み合って機能している社会では、市民みずからの手による
運営は不可能です。また、そういう社会システムを理解しようとしても複雑なために難しく、どこ
に問題があるのかわかりにくい状況にあります。
これまで社会の運営を自分たちの手から離しすぎたのではないかと思います。今後、それを自分
たちのところに引き寄せるとともに、絡み合ったシステムを一つひとつ検討して機能させるように
するか、
「新しい市民社会」の実現に向けて、新しく社会システムを作り上げて、自分たちの手で社
会を運営できるようにしたいものです。
b.時間の再配分
通常職場に1日8時間、通勤時間等を含めると、10時間ほど拘束されています。1日のおきて
いる時間の半分以上を職場で拘束されている状況のなかで、かつ、そこに経済的にすべて依存して
います。他方で、職場はそれ自体の存在価値と目的をもち、個人の価値とは無関係に機能していま
す。ときには個人の価値と対立し自由と自立を阻害する可能性もはらんでいます。また、組織のな
かには、社会の変化に対応して機能せず、その存在自体が目的化し、その維持のために無駄なエネ
ルギーが消費されているものもあります。
これまで直接自分たちの手で運営できない部分を色々な形で社会にゆだねてきました。その部分
をもう一度見直し、それをどう運営するか、ゆだねるために構築してきたシステムについても考え
直す必要があります。そのためにも、個人が、その価値と対立する可能性のある組織や機能不全に
陥っている組織に、時間的、経済的にかかわる度合いを少なくしていく必要があると考えます。
c.意識の変化
自分の職場である行政という組織を変えていくことは、これからめざす市民社会の実現には不可
欠ものです。また、その職場のなかで果たせる職員としての役割は、職場の目的達成の他に、新し
い市民社会に向けて、積極的に役割を果たす必要があるということです。
これまで、行政という組織が何のために存在しているのか、という問いに対する回答を明確に認
識せずに、行政組織のために、仕事として、施策・事業をこなしていました。行政目的達成のため
のものという行政内部の認識でとどまっていたわけです。しかし、これまでの経験から、自分のな
かで、私(個人)
、行政職員、市民活動の推進、NPO、行政そして市民社会ということが意味をも
ってつながってきました。行政職員である私が、市民活動の推進という施策を行政というシステム
を使って行う結果、NPOが活動しやすい環境が整うとともに、NPOが成長し、そのNPOと行
政が協働もしくは役割分担することで、新しい市民社会の実現が図られる、というようにです。
行政はいま、新しい市民社会の実現に向けて改革を進めています。行政というものの存在理由を
きちんと理解すれば、日々の事業での自分のとるべき行動がみえてきます。個々の事業の効果が最
終的にどこにつながっていくかがわかります。
ただ、行政という組織は、あまりにも巨大なために、その内部にいる職員や、市民、NPO、企
業等は振り回されるおそれがあります。組織それ自体、個人の価値と対立する可能性があるからで
す。そのため、組織を批判的に見るとともに、職員として組織の中に埋没しないように、絶えず目
的を確認しながら施策・事業を遂行すると同時に、その目的・やり方が妥当なものかを市民として
の判断を行うことが必要であると感じています。
5.最後に ∼市民社会へ 個人はどうあるべきか∼
自分自身の生活を見直し、現状を認識するなかで、市民として、また、個人のそれぞれの立場で
の役割をきちんとはたすことが、市民社会へつながるものと考えています。
<注>
*1.「特定非営利活動促進法」成立過程を尊重すべきとの考えから、法施行条例作成を、公開
しながら、市民参加で行うために設置。NPO7、企業3、県議会議員3、大学2、行
政(市を含む。
)7、NPO有識者4の26名で構成。毎月1回の割合で11月まで8回
開催し、参加した県民はのべ1,500人、討論に費やされた時間は120時間を超え
た。
*2.緊急地域雇用創出特別基金事業により実施
*3.三重県が津市の駅ビルの3階フロアーを買い取り、県民等にサービスを提供している公
の施設
*4.三重県生活部国際チーム、同青少年育成チーム、旅券センター、三重県ボランティアセ
ンター、社団法人青少年育成県民会議、財団法人国際交流財団
*5.拙著「情報新時代に向けた市民活動への情報支援(あすの三重 No.118 2000・夏季 所
収)
」
(三重県、財団法人三重県社会経済研究センター)を参照
*6.ホームページ http://www.mienpo.net
*7.地域のネットワーク、地域の支援センター:市民活動共同センター(桑名市)
、NPO法
人地域づくり考房みなと(四日市市)
、市民ネットワークきらめき亀山21(亀山市)
、
市民情報ネットワーク「すずかのぶどう」
(鈴鹿市)
、津市民ネットワーク(津市)
、NP
O法人伊勢志摩NPOネットワークの会(伊勢市)
、南勢町市民活動室連絡協議会(南勢
町)
、鳥羽NPOネットワーク結(鳥羽市)
、W.T.A まちづくりセンター(上野市)
、志摩
市民活動通信・SANPO(阿児町)
、など
*8.原稿締切から印刷発行:原稿締切毎月15日、印刷発行25日。土日を除くと正味約1
週間
*9.平成9年3月の「新しい市民社会の構築に向けた基礎調査」のなかで、
「市民・企業・行
政のセクターバランスのとれた社会」とし、市民セクターが、行政、企業と並ぶもう一
つの公益活動の主体として、社会の多様なニーズに応えていく社会であるとしている。
*10.平成14年8月30日現在
*11.市民社会:自己決定・自己責任の原則に則って行動できる自立した個人である市民が、
自らの手で運営する社会(平成9年3月「新しい市民社会の構築に向けた基礎調査」
)
<参考資料>
『新しい市民社会の構築に向けた基礎調査』
(平成9年3月発行/三重県、財団法人三重県社会経済研究センター)
『新しい総合計画「三重のくにづくり宣言」
』
(三重県)
『情報新時代に向けた市民活動への情報支援』
(あすの三重 No.118
重県、財団法人三重県社会経済研究センター)
2000・夏季 所収)
」
(三
市民社会へ−個人はどうあるべき
加藤知美
NPO法人さっぽろ村コミュニティ工房 理事
1.95年阪神淡路大震災、ラジオで役に立ちたいと思った。
1995年1月、その日の放送のスタンバイをしていたら、なにやら大変なことになっているら
しいとテレビが騒がしい。私が当時仕事をしていたのは、北海道函館市にある日本で最初のコミュ
ニティFM放送局「FMいるか」でした。私と仕事で組んでいた局のチーフアナウンサーとふたり
でテレビをみつめていろいろ心配しました。関西方面に親戚知人がいるという人が少ないなかで、
彼女と私はそれぞれ関西に暮らしたことがあり愛着があったのでニュースが気になってしょうがな
かった。次々と被害状況が明らかになり、さらに数日たって、全国からボランティアが続々と集ま
っているということもわかりました。
そんな折、ひとつの新聞記事が私たちの目にとまりました。被災地に必要な情報を流すラジオ局
が神戸に開設される、というものでした。即座に「これだ、私たちのできるボランティアがある」
と思いました。彼女はアナウンサー、私はディレクター。ふたりセットで現地入りすれば、相当の
ことができるだろうという自信もあり、すぐに社長のところへ行き、
「神戸へ行かせてください」と
直訴しました。ちょっと困った様子で「その話は預からせてほしい」との返事。しばらくして、
「神
戸を助けることも大事だが、今はこの局も大事な時。いくつもの看板番組を担当している二人が長
期にわたって穴をあけるのは困る」と言われました。今思えば、私たちも若かったのです。出来て
間もないよちよち歩きの放送局をひっぱっていかなければならない時に、
「商品」である番組を放っ
て「神戸でボランティア」をしたところで自己満足でしかないことなど思いもつきませんでした。
社長の判断は正しかったのです。
しかし、
「ボランティア」を考えた結果、自分のスキルを人の役に立てること、プロとしてやって
いる仕事を人の役に立てることがボランティアを考える上で大事な要素だということを実感しまし
た。これは、そののち、有珠山噴火の後に虻田町に開設された「FMレイクトピア」を手伝うこと
になり「ボランティア」を体験することとなりました。
コミュニティ放送局も全国で150局をこえました。北海道には15局があります。FMいるか
が開局したのは1992年。コミュニティ放送局の歴史もちょうど10年です。コミュニティ放送
は、従来のような都道府県単位をエリアとする放送局と異なり、市区町村単位で免許をだすという
ものです。地域の企業などが出資して資本金1000万円∼2億円ぐらいの規模で株式会社を設立
し、地域の情報を中心とした番組を放送し、そのCMスポンサー売上やイベントなどの収益で運営
されます。しかしながら、メディアとしての存在が地域で認められるまでに数年かかるため経営は
厳しく、決して収益性の高い事業ではありません。しかしながら、地域に密着したきめ細かなぬく
もりある情報へのニーズの高まりにこたえるものとして期待され、地域活性・産業振興に寄与する
ことが使命とされ、
「まちづくり放送局」と位置付けられています。また、災害時にも被災者が必要
とする情報を的確に被災地に届けることができると多くの地方自治体も注目しています。
全国の各コミュニティ放送局は、それぞれ特色ある放送をおこなっていますが、従来の県域放送
と違い、市民参加型の番組を放送する局が多く、
「放送ボランティア」が局の運営に大きく寄与して
いる例も多く見られます。私自身、函館のFMいるかやFMレイクトピアで学んだのは、市民自身
が発信することが大事だということです。つまり、プロが作って電波で上から降ってくる放送では
なく、地域の人が、自分たちに必要な情報、みんなに話したいこと、伝えたいことを発信すること
です。ラジオで話すことには責任がともないます。情報の送り手になることによって自律した市民
が増え、地域が活気づきます。そこには「情報のコモンズ」が形成され、いろいろな人が集まって
きて豊かなコミュニケーションの拠点となるのです。
「NPO型放送局」ともいえるこのタイプのコミュニティ放送局が最近増えています。FMいる
か開局から10年。コミュニティ放送の歴史は次の10年にさしかかりました。最初の10年が「第
3セクター型」の時代だとすれば、次の10年は「NPO型」が主流になると予測されます。私ど
もも今、そのための大きな一歩を踏み出しており、のちに詳しく述べることとします。もっとも、
NPO型放送局のあり方に確信をもったのは比較的最近のことなので、それまでの紆余曲折に触れ
なければなりません。
2.再度、コミュニティ放送。しかし、ほどなく解雇・・・
FMいるか退社後、函館から札幌に転居し、充電期間を気取っていたら、
「札幌にもコミュニティ
放送局ができる」という噂が聞こえてきました。それからしばらくして、プロデューサーとして開
局準備に参加してほしいという話をいただきました。札幌(中央区)にできるコミュニティ放送局
となれば、函館より聴取エリアの規模が大きいこと、県域放送局がある都市なのでセミプロのアナ
ウンサー・パーソナリティーがたくさんいて、番組のつくりも本格的になると思われたことなどワ
クワクしながら開局1ヶ月前に入社し、徹夜続きの準備をへて1996年7月20日に開局しまし
た。この局は、医療法人が中心となって設立され、医療と福祉の情報を発信するというコンセプト
をもっていました。
スタッフもようやく放送に慣れ、新しい番組企画も飛び交い、順調に発展するかのように思えた
のもつかの間、半年たった時点で給料遅配が発生し、社員全員に給与カットが一方的に言い渡され
ました。90年代も後半にはいり、すでにバブルがはじけていたこと、経営責任者が放送局経営の
ノウハウを持たず担当役員にまかせたものの、広告収入が思うように伸びず、番組制作コストをま
かないえない状態に陥った結果、1997年2月末に大リストラが敢行されました。社員・アルバ
イト17人中プロデューサーなど5名に解雇が言い渡され、それに続くようにさらに9名が退社し
ました。また、契約パーソナリティーの多くも、突然の契約打ち切りとギャラの未払いに悩むこと
になりました。
新しい放送局を作る気概に燃えて休日返上でがんばったスタッフたちが、ある日突然路頭に迷う
ことになり、なんとも理不尽で後味の悪い出来事でした。一方、放送局のほうは、残ったスタッフ
がわずか3名で、人手が足りず、番組づくりもままならない状態がしばらく続きました。そして、
「ノーギャラではあるが希望者には誰でも自由に番組をやってもらう」という体制になり、ケガの
功名か、たくさんの「放送ボランティア」が番組に参加するようになりました。
解雇・退社組14名の大半が、くやしさのあまり、自分達の力で別の地に新しい放送局をつくろ
う、と集結し情報収集を始めました。時間がたつにつれて、就職先が決まったり他にやりたいこと
ができたりしたため、プロジェクトは途中で解散しましたが、
「新しい放送局」は、あれから6年た
ったこの冬、札幌市東区にまもなく開局する予定です。
3.今思えばNPO的運営を学ぶことだったアルバイト生活
「新しい放送局」をつくるプロジェクトとはいえ、個人としては当面の収入の道も確保せねばな
らず、
「北海道演劇財団」という財団法人でアルバイトをすることになりました。財団法人と言って
も、行政の外郭団体などではなく、
「北海道に演劇の文化を育てよう」と市民がよびかけて地元テレ
ビ局など道内の主要企業が出捐してつくりあげた財団法人です。演劇の道を志した若者がアマチュ
ア劇団からプロをめざす場合に、それまでは東京の有名劇団の付属養成所のオーディションを受け
て、合格すれば北海道を離れて役者修行にはいるというのが一般的でした。そこで、北海道でもプ
ロが育つ環境を整え、
全国に通用する演劇を北海道から発信しようという壮大なプロジェクトです。
私のアルバイトは演劇の制作業務の補助ですから、DMを発送したり、チケットの販売管理をす
るというものでした。しかし、今思えば、市民の「思い」に支えられる組織のあり方や、演劇の裏
方で小道具作りや聴覚障害者や視覚障害者に対応するボランティアスタッフのマネージメントなど、
「NPO的なるもの」がいろいろあり、とても勉強になりました。ちなみに、当時、北海道演劇財
団にならって、富良野演劇財団の設立が準備されている話が聞こえていました。こののち、NPO
法の成立によって、富良野ではNPO法人をめざすこととなり、
「ふらの演劇工房」として全国第1
号で法人認証をうけるNPO法人の誕生となりました。
4.北海道NPOサポートセンターでボランティア志願
1998年3月、新聞に「北海道NPOサポートセンター」設立総会の記事が載りました。NP
Oという言葉をどこまで理解していたのかも定かではありませんが、
何かわくわくするものを感じ、
導かれるようにして「北海道NPOサポートセンター」へでかけていきました。新聞記事を片手に
「ボランティアも募集中と書いてあったのですが、
何か私にできることはありますか」
と尋ねると、
事務局長の小林董信さんが応対してくださって、市民活動に関する新聞記事が増えてきたのでそれ
をスクラップする作業がある、とのこと。また、パソコンが多少できることを伝えると、
「じゃ、パ
ソコン覚えたい人をあっせんするから教えてあげて。3回教えて1万円もらったらいいよ」と言わ
れ、何人かにパソコンを教えることになりました。さらに小1時間、聞かれるままに、今までやっ
てきたコミュニティ放送のことなどを話しました。自分としては、
「新しい放送局」のプロジェクト
のために、北海道演劇財団でのアルバイトを週の半分に減らしていたので、多少の時間を作ること
ができ、作業をしに通いました。
当時、北海道NPOサポートセンターにはいくつかの団体が事務所をおいていたこともあり、常
時主婦や学生や勤め帰りの人が出入りしていました。特に女性は皆元気はつらつとした方ばかりで
少々圧倒されながらも、作業の合間にいろいろなお話を伺い勉強になりました。
しばらくたった頃、小林事務局長から、
「月刊の機関紙を充実させたいので手伝わないか」と誘わ
れ、元「物書き志望」の私としては喜んでひきうけました。A4判8ページの紙面を取材や依頼原
稿で埋める毎月の作業は、NPOについてもっと知りたいという自分自身の欲求を満たす副次的効
果もあり、やりがいがありました。しかし、これも「新しい放送局」のプロジェクトが動き始める
と、取材編集をおこなう時間的余裕がなくなり、また、北海道NPOサポートセンターやその兄弟
分のNPO推進北海道会議の事業が一気にふえ、非常勤では情報をフォローできなくなりつつあり
ました。そうこうしているうちに、小林事務局長から「北海道NPOサポートセンター運営委員に
加わりなさい」と言われ、
「よくわからないけど私にもできることなのでしょうか?」
「大丈夫だか
ら」というやりとりの末、名前を連ねることにしました。のちにNPO法人化にともなって「理事」
という名称になると知り、ようやくその責任の大きさに気づきました。
5.北の起業家セミナー第1期生
「新しい放送局」のプロジェクトのために、少し経営を勉強する必要があると思い、当時のHO
KTAC北海道地域技術振興センター(現・北海道科学技術総合振興センター)クラスター事業部
が1998年に開講した「北の起業家セミナー」を受講しました。稚拙な事業計画書を応募用紙に
そえて、
「コミュニティ放送局を核にした地域サロンなど」を開業するための勉強をすることにしま
した。ベンチャーキャピタル関係者、経営コンサルタントなど豪華な講師陣が惜しみなく時間を割
いてくれる贅沢な約3ヶ月にわたるセミナーでした。
実際には、受講を始めてまもなく、さしたる準備もしないまま、所属する有限会社の一事業部門
として「地域サロン」を開設しました。また、この時期、NPO法が施行されたとはいえまだまだ
認知度が低く、もっと社会に広く知ってもらおうと、広告代理店やプロのCMナレーターの協力を
とりつけて、北海道NPOサポートセンターの有志でNPOキャンペーンCMを制作し、新聞記事
に大きく写真入りで紹介されて驚かれました。開講当初は、
「起業家セミナーは、収益性や成長性が
見込めるベンチャー企業の育成」という目的だったためか、NPO的発想は肩身がせまく、講師陣
にはあまり評価されていないと感じました。ところが、少しずつ「NPO」が認知されるにつれて、
「決して収益性は高くないが、社会貢献度の高い事業」という考え方も理解してもらえるようにな
ったと思いました。
6.さっぽろ村コミュニティ工房の誕生は、NPO法施行の日
「新しい放送局」プロジェクトを考えるにあたって、全国のコミュニティ放送局の多くが経営面
で苦労している原因をさぐりました。多くの場合、地域の有力企業が資本を拠出して比較的にスム
ーズにコミュニティ放送局を設立します。
ところが、
開局と同時に多額の番組制作コストが発生し、
その一方でCMスポンサーからの収入が安定するまでには数年がかかります。そのため、開局から
2∼3年たってようやく単年度黒字になるというのが平均的パターンです。つまり、番組制作コス
ト、特に人件費が負担になるわけです。そこで、私どもの「新しい放送局」では、開局当初にあま
り人件費をかけずに番組制作ができるようになればよいと考えました。つまり、人材育成を先行し
てすすめておくとか、制作に参加・協力してくれる市民のネットワークをあらかじめ形成しておく
とか、そうした放送ボランティアスタッフの情報受発信スキルをあげておく、などといったことを
考えました。その結果、放送機材や送信機、アンテナなどを最初にそろえるのではなく、まずは、
地域のコミュニティサロンを開設し、ITも含めた情報発信の拠点をつくることにしようという結
論に達しました。
当時、私が所属していた有限会社オフィス312は、放送タレントのマネージメントやテレビ・
ラジオ・イベントの企画・構成などの仕事を主にしていました。そこで、マスコミ、つまり「マス
メディアにおけるコミュニケーション」のスキルを、
「地域」に応用し、
「地域サロン」事業として
展開しようと考えました。むろん、収益性は低く、赤字を覚悟しつつも、現有の会社の資源を利用
して、
NPO的事業の運営ノウハウを蓄積する時期としました。
オープンは1998年12月1日。
偶然にも特定非営利活動促進法施行の日でした。札幌市東区が旧札幌村であることにちなんでさっ
ぽろ村コミュニティ工房と名付け、テナントビルの1階の約30坪のフロアで、初心者・シニア向
けパソコン教室を収入の柱としつつ、フリーマーケットや文化教室を展開しました。また、地域の
お母さんたちが安全にこだわって焼いているパンの販売もしました。
7.行政との関係に悩む
地域サロンのさっぽろ村コミュニティ工房には、地域のグループ活動を応援するために、簡易印
刷機を設置し、貸し会議室を用意し、4台のパソコンもレッスン以外の時間は貸し出ししました。
ようやくこのさっぽろ村コミュニティ工房が始動した頃、
「札幌市が公設公営の市民活動サポート
センターを作るらしい」という話が聞こえてきました。仙台をはじめ、全国的にも行政と市民の協
働で「公設市民営」のサポートセンターが作られていった時期なのに、札幌市は何を考えているの
だろうか?と疑問を持ちました。よくよく話を聞けば、あくまで暫定施設であって、しかるべきの
ちに本格的に作られるであろうセンターのための情報収集が目的だ、との説明。それにしても、計
画段階、準備段階で市民の意見をもっと聞けなかったものだろうかと率直に思いました。
1999年6月にその「札幌市市民活動プラザ」がオープンしました。約30坪の広さ、簡易印
刷機、会議スペース、パソコンというスペックは、さっぽろ村コミュニティ工房とそっくりでした。
片や利用者から対価をいただくサービス、片や原則無料で提供される行政のサービス。行政と市民
活動の関係はよくよく考えなければならないと気づかされました。
ついでに言えば、2001年から各自治体で実施されている無料の「IT講習会」は、その2年
前から初心者・シニア向けのパソコン教室を売上の柱にしていたさっぽろ村コミュニティ工房にと
って大きな打撃でした。もっとも、こちらは2年目の今年、一部を区役所から業務委託を受けて講
師を派遣することになり、正直ほっとしました。
行政との関係のあり方を考え始めるようになり、今度は「札幌市生涯学習総合センター」が16
0億円(複合施設部分を含む)の建設費を投じて作られるという話が聞こえてきました。市民のた
めの生涯学習施設なのに、市民の意見がどこに反映されているのかが見えませんでした。オープン
後は「さっぽろ市民カレッジ」が開講し、さまざまな生涯学習プログラムが提供され、その運営に
あたるのはこの施設にあわせて作られた市の財団。せっかくの市民講座、札幌にはすでに生涯学習
を専門的におこなうNPOがあるのに、もったいないと思いました。さっぽろ市民カレッジではN
POを学ぶコースも設けられ、そのコーディネートを引受けることになりました。大学の先生や経
営コンサルタントなど複数名の優秀なコーディネーターに混ざってのお役目ですが、関連ある講座
との連携など全体設計などにかかわることができず、これももったいないと思いました。こちらは
今年度から少し改善されて、コーディネーター会議が全体の企画にかかわるようになりました。
さらに、今年10月に札幌市市民情報センターがオープンしたのですが、こちらは、計画当初か
ら運営をNPOに委託することを考えていたようで、私が代表理事をつとめるNPO法人インフォ
メンターに声をかけていただきました。こちらについてはまだ始まったばかりなので、コメントす
る材料もありませんが、行政が積極的にNPOに事業委託をするようになったと実感しました。
ここ1∼2年は、行政側が「市民との協働」とか「パートナーシップ」などを強調することが多
く、行政職員向けの講演やシンポジウムのパネリスト、検討委員会委員などとして呼ばれることが
増えました。正直に言えば、
「協働」のあるべき姿というのはいまだによくわかりません。ただ思う
のは、行政がNPOを下請けのように考えるのではなく、NPOの特性を見抜いて、行政ではでき
ないようなアイディアやノウハウ、ネットワークを活かしてほしいのです。また、NPOも行政を
よく研究し、政策に対して具体的な提言ができる存在でありたいと思います。
8.メディアNPO視察ツアー
1999年初夏、神戸復興塾がサンフランシスコのメディア関連NPOを視察するツアーを企画
していることを知って、参加しました。私のお目当ては、
「NPOラジオ局」
。バークレーにあり、
会員の寄付でなりたつFM放送局です。また、アメリカの各都市のケーブルテレビがひとつのチャ
ンネルを市民が自由に利用できる「パブリックアクセス」の制度と関連したビデオ番組制作支援の
NPOなども見ました。ツアーのメンバーの中には、神戸市長田区に震災後にできたコミュニティ
放送局FMわいわいの関係者もいて、いろいろなことを教えてもらいました。
このツアーで予想外の収穫だったのは、
「NPOインキュベーション」の役割を果たすタイズ財団
を知ったことでした。サンフランシスコ郊外の一等地に旧陸軍病院の建物を再利用して、巣立ち前
のNPOの経営を支援するNPOです。北海道でも学校の空き教室などを使って同じようなことが
できないだろうか、と夢がふくらみました。これは、最近になってから、規模も内容もささやかな
ものですが、
古い木造住宅を利用してNPO共同事務所を運営することで現実のものとなりました。
9.NPO法人が設立するコミュニティ放送局
1997年からじっくりとあたためてきた「新しい放送局」の計画もようやく花が咲こうとして
います。有限会社の一事業部門として開設したさっぽろ村コミュニティ工房の活動の中で、コミュ
ニティ放送局開局の具体的計画が徐々にすすめられました。
まず、今年5月に、札幌市東区において地域の皆さんの賛同を得て、
「情報のまちづくり」によっ
てコミュニティの再生をはかるNPO法人を設立しました。名称はそのまま「さっぽろ村コミュニ
ティ工房」を引き継ぎ、事業内容は、近くできる予定のコミュニティ放送局の支援や従来からおこ
なっていたIT支援、市民活動支援などをおこなっています。
函館のFMいるか開局以来10年の歴史で、コミュニティ放送局はすべて株式会社として設立さ
れています。そこで、総務省からNPO法人が放送局免許をもらうことができれば、全国初のNP
O放送局となります。いろいろあたってみたのですが、NPO法人にせよ株式会社にせよ事業計画
の妥当性、特に資金調達についての根拠を示すことができなければ免許はもらえません。
「出資」を
うけることのできない「NPO法人」では明らかに不利です。そこで、免許を受ける主体がNPO
法人であることにはこだわらず、NPO法人が主体となって株式会社を設立して免許をうけるとい
う作戦をとることで意見がまとまりました。地域の企業や個人に株式会社への出資をよびかけ、N
PO法人さっぽろ村コミュニティ工房自身も出資し、今年11月上旬に会社設立の運びとなってい
ます。また、すでに7月より、放送ボランティア養成セミナーや微弱電波による練習放送を始めて
いますので、この冬、開局した段階で市民参加の番組がスタートする予定です。また、放送局スタ
ジオとして使われるのは、昔ながらの大きな石造りのたまねぎ倉庫です。
市民が作る市民のための放送局開局まであと少し。ずいぶんと遠回りをしていますが、たとえ時
間がかかっても、まちづくり放送局の理念にこだわっていきたいと思います。コミュニティ放送局
「さっぽろ村ラジオ」の開局はゴールではありません。市民社会をみんなで語るためのツールがよ
うやく用意できたということなのです。
「市民社会へ 個人はどうあるべきか」
新田英理子
特定非営利活動法人日本NPOセンター 企画スタッフ
1.日本NPOセンターでスタッフとして働くようになった経緯を通して、
市民社会の構築に一個人としてどう関われるかを考えてみたい。
「世界中の人々が幸せになる世の中を作る仕事をやりたい。
」
かなり抽象的に漠然と民間企業を辞
めようかと考えていた過程や辞めた後、自分探しをしている中で出した結論だ。それが、現在日本
NPOセンターでスタッフとして働いていることにつながっている。
大学時代に、タイのスラムを自分のフィールドワークの現場として選び、4 ヶ月間のタイでの学
生生活のうちの一部をタイのスラムに通いすごした。タイから戻り、就職活動を始めた頃、ちょう
ど日本はバブル経済がはじけ、私立大学で人文学部で女で 4 年制大学であれば就職できるだけでも
ありがたい時代。諸所の事情もあり民間企業で働くことにした。
企業で働くことを選択したとき、企業が面白ければそのまま企業で働こうと思っていた。面白く
なければやっぱり辞めて、NGOか青年海外協力隊に行こうと思っていた。総合職で入ったため仕
事は実際面白かった。が、しかし 4 年働いたときに人事転換があり、この機会に辞めないと辞めら
れなくなると突然危機感がわき、突然上司に「辞めます」と言ってしまっていた。そのときは、次
の就職先も何も決めてはおらず、かなり周りに驚かれてしまった。
その後、外国人に日本語を教えるボランティアをしたり、アメリカのNPOに 1 ヶ月研修に行く
プログラムに参加したり、環境団体でアルバイトしたり、青年団体にボランティアとして関わって
いるうちに、
個人として働くよりも、
組織の中で組織の一員として働くことが合っているなと感じ、
自分自身が目指したい社会を組織で取り組んでいる団体を探している中で、日本NPOセンターに
出会った。
最初、NPOを支援するNPOで働くということは、NPOの経験がずいぶんないとできない仕
事だと思い、情報を取り寄せる程度だった。偶然にも日本NPOセンターが職員を公募している書
類を目にして、応募し、現在に至っている。
日本NPOセンターで働き始めてからの 3 年間は、日本NPOセンターのミッションを聞けば聞
くほど、考えれば考えるほど、私はなんと大それた団体に就職してしまったのかと、勝手にプレッ
シャーや自分の経験不足を嘆いていた。そう、私は日本NPOセンターに就職したと考えているの
だ。NPOに就職という考え方自体おかしいという意見があることは知っているが、日本NPOセ
ンターは私にとって職場である。
幸福にも、市民社会を創ることを組織ミッションとしている組織に就職ができ、ミッションに共
感できそれを遂行することが仕事として成り立っており、生活の糧も得られる。ちょうど、日本の
中でも支援センターの存在自体が成長中だったこともあり、
私でもやってこれているのかなと思う。
日本NPOセンターという名前と期待に応える仕事が本当にできているか。現実としてはまだまだ
やるべきことはあると思っている。
私自身は現在は、企画スタッフとして日本NPOセンターの研修・交流事業に携わっている。主
にNPO支援センターのスタッフの研修会の企画運営や市民セクター全国会議というNPOの社会
的ポジションの確立を目指したNPOの全国会議の企画運営の補佐を行っている。様々な分野の方
に実行委員会に入ってもらい新しい企画を作り上げる作業や運営は、難しい仕事で挑戦しがいがあ
る。常にセンターのミッション(NPOの基盤整備と行政・企業との新しいパートナーシップの構
築)を確認しながらその先の最終目標である市民社会の確立を意識して仕事として日本NPOセン
ターで働いている日々だ。
2.私が個人として目指している市民社会像は、
「自己責任によって多様な選択肢を選択できるヒューマンスケールな社会」である。
NPOは、そのためのひとつの手法であって、たまたま、私は行政というところで働きその社会
を実現するより、民間企業で働きその社会を実現するより、NPOというしくみの組織に身をおい
て働いたほうが私にあっていると思っているので、NPOで働いている。
日本社会の現状を嘆くのは簡単だが、日本はいい国だと思っている。私は人間が大好きだし、日
本も大好だ。日本の既存のものを批判するのは簡単だけれども、いいことをもっと見つけていきた
いし、私たち若い?世代は、現在の否定から始めるのではなくて、肯定から社会をさらにもっとよ
くしていくという視点でものを見ていきたいと考えている。
そのために、日本NPOセンターという組織の持っているミッションの遂行を使い、既存のもの
(ひと、金、
)と新しいもの(ひと、金)をまぜて新しい価値を創造する「場」を次々に作り出して
いくことが私にとっての市民社会の創造である。
「個人」と「組織」のはざまで
岸田眞代
特定非営利活動法人パートナーシップ・サポートセンター代表
1.本職は企業や自治体の研修講師
「個人と組織」は主要なテーマ
私の本職は、いまでこそNPOの経営者、といったほうが実態により近いが、本来、企業や自治体で
のさまざまな研修の講師でもある。リーダーシップ、営業、プレゼンテーション、ビジネスマナー、
人間関係講座、「リーダーシップに求められる要件・能力200問」という自分で開発したリーダーの
ための自己分析を使っての各種プログラム・・・それは、私にとってのアイデンティティ、存在意
義そのものを示すものでもあり、その本職を力いっぱいやりたいという思いがいつもどこかにある。
NPO(パートナーシップ・サポートセンター/PSC)の方は、後継者さえできればいつでも譲っ
ていいという思いは、パートナーシップ・サポートセンター設立当初から基本的には変わっていな
い。自分が中心になってつくった組織だからと言って、パートナーシップ・サポートセンターに執
着する気は、さらさらない。と言って、決してパートナーシップ・サポートセンターを軽く見てい
るわけでも、おろそかにしているわけでもない。むしろ、私が執着しないことによって、「組織」
としての健全さを担保しておきたいという思いのほうが勝っている。
まずはその本職である研修講師としての経験から語ってみたい。研修の中身はさまざまであるが、
その中で「個人と組織」をテーマに語ることは結構多い。考えてみれば、1993年、はじめて「NPO」
に出合ったとき「これだ」と直感した背景には、まさに「個人と組織」そのものが、伏線として存
在していたのかも知れないと思う。
企業の中で鬱々とその能力を発揮できないでいた女性たち。私の研修に共感し、満足してくれた
彼女たちは、「この研修を会社の上司にぜひ行ってほしい。会社が変わらなければ、せっかく研修
を受けて私たちが変わっても、その力を発揮できない」と、さまざまなかたちで私に訴えた。そう
した彼女たちのために何かできることはないかと、心を悩ましていた研修講師としての日々。その
私の前に、「NPO」は救いの手として差し伸べられたかのようであった。「もしかしたらこれは彼女
たちの道を拓くかもしれない」―-企業に縛られずに、自分の能力を発揮できる道――。
彼女たちに対する研修ばかりでなく、私の研修への思いは、それぞれ「個」がもっている能力を
最大限に発揮することへの支援である。
NPOに出合う1年前に設立した有限会社
(ヒューマンネット・
あい)が、「女性の自立と能力開発を応援する」をキャッチフレーズにしたのも、その思いを表現
したものである。自分自身もそのことを強く意識し続けてきた経験から、受講生の能力を引き出し
発揮できる場を、できるだけ多くつくりだしたいとの思いは人一倍強かった。したがって、私の研
修の多くは、最もその人らしいものを引き出し表現する、というあるパターンをもって導入とする
ことが多い。
オリエンテーションで、研修のねらいと進め方を述べた後、リーダー研修や営業研修などは、「リ
ーダーに求められる要件・能力200問」の自己分析によって、自分の強み弱みをチェックする。「個
人特性」「コミュニケーション能力」「意思決定能力」の3つの側面から、それぞれ8項目(共感
性・感受性・開放性・柔軟性・積極性・バイタリティ・インパクト・ビジョン)、6項目(傾聴力・理解
力・文章力・表現力・説得力・折衝力)、6項目(企画力・分析力・判断力・決断力・統制力・指導力)の計
20項目について、それぞれ10問ずつの計200問を、私が読み上げながら各自チェックしても
らうのである。
この自己分析から得られるものは、組織を考える上でも、また各個人個人にとってもさまざまあ
るが、ここでは紙数の関係上、内容について詳しく言及することはできない。ただ、3000人以
上のデータから得られたなかでひとつだけ明確にしておくとすれば、リーダー性に女性・男性とい
う性差はまったくないことである。あくまで「性差」ではなく「個体差」なのである。
さて、そのあと、「自分を知ろう、仲間を知ろう」というセッションに入る。これは、5∼7人
のグループになって、3分間の自己紹介とそれにもとづく印象交換によって、「人間関係づくりの
基本」を、頭と身体を動かし触れ合いながら楽しく学ぶ。この触れ合いが、これからの研修の雰囲
気づくりに大きく貢献する。各グループ、つまり研修における擬似「組織」を構成しての、いよい
よ本格的なスタートである。ここから「個人」と「組織」の関係へと、徐々に導いていく。
グループづくりをスタートに、次に、リーダー研修ならリーダのための、営業なら営業のための、
マナーならマナーのための「理解促進テスト」という10問ほどの短文形式の問題を出していく。
研修ではよく使われる手法だが、文章の正否を考え、個人としての結論を○×で記入する。その後、
同じ問題について、グループのなかで討議し、単なる多数決といった方法ではなく、合意を得なが
らグループとしての結論を出していく。個人と組織、つまり自分自身の答えと、その他のメンバー
による結論、つまり組織としての結論が異なった場合、「個人」としてどう折り合いをつけていく
のか―-。
答えに自信があれば自分の見解を強く主張するであろうし、そうでなければ黙っているかもしれ
ない。しかし、それぞれが、なぜそうしたのかその理由を語り、他者を納得させられるかどうかも、
このセッションの重要なポイントである。また、グループにおけるリーダーシップのとり方や会議
の進め方も、問われてくる。グループごとに工夫のしどころである。
一定の時間のあと、質問に対する解をみんなで検討していく。内容によっても少々やり方は変え
るが、多くはグループごとに答えを訊ね、理由を確かめていく。このときのそれぞれの反応が、グ
ループで討議をしっかりしたのかどうか、また誰かに任せて結論だけを受け入れたのではないのか、
などの検証にもなっていく。
それからおもむろに、「正解」を述べていく。もちろん、この「正解」は、1+1=2のように
ずばりと出るものとそうでないものがあり、ものの見方や考え方が色濃く反映される問いを、予め
用意していることが多い。したがって、「なぜそれを正解とするのか」が、きちんと述べられるこ
とが大事なのである。
考え方の経緯、判断の基準など、そこに参加した受講生たちが、これからの社会のなかで力を発
揮して十分伸びていけるための物の見方や姿勢を、自分の頭でしっかりと考えてもらいたいという
のが、このセッションのねらいでもあるのだ。受講生は私が用意した「正解」に異議があれば、反
論するチャンスを与えられ、それが参加者たちの共感を得られれば、私の答えだけが正解ではない
ことを保障する。答えはもちろん大事には違いないが、必ずしもひとつだけが正解とは限らないこ
ともあることを知るのである。
そして、さらに、次のチェックが意味をもつ。私が、全員が納得したのを見計らって、「グルー
プの得点と平均点からグループ効率を計算してください」と受講生に呼びかける。受講生は、グル
ープの得点を確かめたあと、自分自身の得点を出し、グループ全員の得点を集めて、平均点を計算
する。半ば機械的に、ホワイトボードに書いた計算式にその数字を当てはめて、グループ効率を出
していく。グループごとに、60、23.8、0、−20といった具合に点数が現れる。
その数字が何をあらわしているのか、受講生たちは興味津々である。これが、「個人と組織の関
係」を如実に表していることには、まだ気がついていない。つまり、グループ効率は、個人の力を
グループ、つまり組織によってどれだけ引き上げられるかを、数字で表したものである。60なら
グループ全体では本来の力を60%引き上げたことになるし、23.8なら23.8%ひきあげたこ
とになるのである。0というのは、結局グループ全体では当初の力に変化がなかったことを示し、
−20というのは、本来もっていた力を20%引き下げたということである。
そこには個人の力がグループの中でどう貢献したかも反映されており、もともと高い得点を取っ
た人がグループのなかでリーダーシップを発揮すれば、当然グループ得点は高くなるであろうし、
低い得点の人がリーダーになればマイナスになることもあるというわけである。あるいは、たとえ
全体に得点が高い人がいなくても、それぞれのプラスをもちよれば、たとえ10点満点の人がいな
くても、最高得点の人が7点、8点のグループであっても、それぞれが足りないところを補い合え
ば、グループ得点を10点にすることは十分可能なのである。
もちろん、5∼7人というグループ、10問程度の問題、などきわめて単純化したシミュレーシ
ョンではあるが、これがまさに、「個人と組織の関係」をきわめて鮮明にあらわしており、研修の
入り口で、受講生が最も驚き、納得する場面でもある。
つまり、「いい組織」とは、個人の本来もっている力を最大限に引き出すことができる組織であ
り、その引き出す力が大きければ大きいほど「すぐれた組織」ということができるのである。これ
こそが、「個人と組織」の関係の、本来もつべき意味ではないかと、私は思っている。
2.NPOにおける個人と組織・・・こうしてPSCをつくってきた
さて、そうした個人と組織の関係を、企業や行政組織における研修の中では口すっぱくして言い
つづけてきたものの、ではそれを実際にNPOに当てはめて考えたとき、どの程度あてはまるのだろう
か。また、企業や行政とNPOの組織に違いがあるのだろうか。あるとすればそれは何なのか。そんな
問いを自分に課しながら、NPOをつくり、経営し、そのなかで悩み、もがいてきた。
93年にNPOに出合ってすぐアメリカのNPOに直接触れる機会を得、「こんな社会があったんだ」と
日本とのあまりの違いに呆然とし、帰国直後に中日新聞に、はじめて「NPO」の文字が踊る記事を書
かせていただいたのも、懐かしい思い出である。日本にNPOが根付くには、早くて5年、おそらく10
年はかかるだろう、しかしみんなに早く知ってもらいたいと、94年、アメリカのNPOをお呼びし、名
古屋ではじめて「NPOセミナー」と銘打って3回開催したのである。
ところが、95年に起きた阪神淡路大震災で(神戸に住む義理の姉家族も被災者となった)、ボラ
ンティアがクローズアップされ、ボランティア法案が国会に上程されるという動きのなかで、いっ
きに市民活動が注目されるようになった。同じ年には名古屋でも市民フォーラム21(現市民フォー
ラム21・NPOセンター)を自分たちの手で設立したのであった。私自身、その動きの渦中に深く身を
投げ出していたのだった。幸か不幸か、10年待たずにNPOは世間の注目するところとなり、98年12
月、いわゆるNPO法は施行されたのであった。
しかし、私自身は、NPOがNPOだけで存在する社会は描きにくく、企業で研修を行っていたという
事情も伴って、税金に頼らないしくみづくりを「企業とNPOのパートナーシップ」という発想のなか
で描き始めていた。つまり、NPOと企業が協働していくことによって、個人の存在が、「市民」とい
う立場であれ、「社員」という立場であれ、本来の力を発揮する場所が生れるのではないかと、密
かに期待したのだった。あの、企業における女性たちの訴えが、その根底にあったと思う。また、
自分の夫をjはじめ、企業に取り込まれている多くの男性たちの、生き生きとした顔をもう一度見た
い、とも思った。
そこで企画したのが、「NPOと企業のパートナーシップを学ぶ訪米ツアー」である。私自身がはじ
めてアメリカのNPOに触れた感動を、企業の人たちにもぜひ味わってもらいたいと、96年3月、アメ
リカで企業がNPOと一緒に何かやっているところはないかと、アメリカでNPO活動を展開するJPR
Nに相談し、見つけてもらったのが、バンクオブアメリカ(銀行)とサンフランシスコ・ルネッサン
ス(起業家を育てるNPO)、GAP(アパレルメーカー)とプロジェクト・オープンハンド(エイ
ズ患者への宅配を行うNPO)などの協働事業であった。
とはいえ、企業にまだそれを受け入れる風土はなく、なかなか参加者が見つからないまま、いよ
いよ断念せざるを得ないかと思案していたとき、95年に北京で開かれたNGO女性会議で出会った
Oさんから、ご夫君の勤める企業のトップクラスの方を紹介していただいた。早速、おそるおそる
毛筆で書いたお手紙を送り、何とかOさんとふたりで会っていただけることになった。その企業グル
ープにも声をかけていただくことができ、ようやくツアーが実現したのだった。
苦労して実施したツアーの成果を、そのままほおっておく手はない。せっかく参加し、新鮮な驚
きをもち帰った企業の方たちの思いを無駄にしてはいけないと、帰国後ただちに、ツアーに参加し
てくれたトヨタ自動車、デンソーといったこの地の有力企業の方たちに声をかけ、パートナーシッ
プ研究所(現パートナーシップ・サポートセンター)設立準備会を立ち上げたのだった。96年11月
19日である。
それから1年半余り、毎月1回の定例会を開きながら、ニュースを発行し、パートナーシップ講座
を開き、企業に声をかけていった。なかには「なぜ企業がNPOと対等にならなければならないの
か」と本気で怒ってくる企業人にも出会った。が、アメリカにいっしょにいった企業人たちは、企
業会員としてばかりでなく個人会員として、理事として、企画委員として、今もパートナーシップ・
サポートセンターを支えてくれている。それは、心からありがたいと思う。と同時に、立場こそ違
え、パートナーシップ・サポートセンターという自分たちでつくった「組織」―-まだまだ心もとな
いものの―-における「仲間」としての絆は、相当に大きいものがある。やはり、組織を支えるのは
「個」なのだとつくづく思う。
3.“場”か“組織”か∼市民活動における苦い経験
しかし、である。一方、名古屋で最初のNPOを立ち上げるときに、数々のジレンマが内部に生
じた。一部が飛び出して別組織を立ち上げるという経験や、またとどまった人たちの中にも言わば
水面下の主導権争いのようなものがあって、必ずしもNPOだからといって一枚岩でないことを身
をもって体験した。私自身もそうした渦中にさらされ、情けない思いや悔しい思いなど、さまざま
な思いを抱いてきた。おそらく、社会経験のある人なら誰でも理解できるのではないだろうか。そ
れは、まさしく個人と組織の関係性に起因するところが大きかった。
NPOをつくる前、「“場”か“組織”か」などという議論を盛んにした。それぞれが自分の活
動の場をもち、それでもこの地域を何とかしなければという高い志を持って集まってきている人た
ち。それは当初、わくわくするほど魅力的な集まりでもあった。ところがいつのまにか、「ネット
ワーク」を口にしながら、みんなと共有しないまま自分の思いどおりに人を動かそうとするある“リ
ーダー”が現れた。
いよいよNPOが本格的に動き始めたころである。東京からNPO設立に向けて説明にきた講師
に、多くの参加者がもっと話を聞きたいと、会議後の講師を囲んでの懇親会を楽しみにして、ビル
の前で待っていた。10数人の参加者がいたろうか。そこに、その“リーダー”が、講師を連れてや
ってきた。では懇親会に、と思ったそのとき、その“リーダー”は、講師と話しをする人をすでに
自分なりに限定していたらしく、何の説明もなくさっさと数人だけで闇に消えていったのである。
残された参加者たちはあ然として、その後姿を見送ったのだった。
私はそのとき、「個」が「場」の権力者になっていくプロセスを見たような気がした。もしかし
たら大事な打ち合わせがあったのかもしれない。しかし、それを秘密裏にこそこそと行うとはどう
いうことか。いつもどおり参加者は会議後の懇親会を楽しみにしているのだ。それを知らないはず
はない。少なくともリーダーとしてやるべき行為ではない―-そうはっきりと、伝えるべきだと思っ
た。しかし、“リーダー”はそれに答えないどころか、批判した者をあからさまに排除する行為に
出たのだった。
正義感や責任感は、時として、必要以上にひとのあいだを裂いてしまう。私自身は、そのとき少
なくともそこで呆然と見送った参加者たちの悔しい思いを、その会議開催の主要メンバーであった
(と思っていた)がために、代弁する責任があると思っていた。あとに残されたメンバーだけで酌
み交わした酒は苦く、それを伝えておくことが、私の責任でもあると思った。しかし、もしかした
らそれは、ただ自分の悔しさをぶつけていただけかもしれない、と今になって思わなくもない。そ
のときはただ、正義感だけが、私を支配していたのだろう。
しかし、日本人はやはり「和」を求める民族なのだと、つくづく実感したのも事実である。その
後何事もなかったように振舞うそのときの参加者たちをみると、「大人だなあ」と思う反面、こう
して我慢しながら表面だけを繕っていくことが、果たして「いい組織」「いい関係」と言えるだろ
うか、という疑問は、やはりふつふつと湧いてくる。「場」であればなおのこと。ネットワークや
「人」を求めて集まる人たちに対して、もっと誠実でなければならないのではないかと、やはり今
もなお思う。「個人」が「組織を動かす」とはいったいどういうことか。プラスで語られるときと
そうでないときで、まるで違った問いになることを、改めて考えさせられるできごとであった。
4.個人が伸びる組織とは∼「はじめて」「むずかしいもの」にチャレンジを!
そればかりではない。事実にもとづかない噂話ややっかみで足元を救われそうになったこともあ
った。しかし、そんななかでも自分のやるべきこと、やらなければならないことだけは、しっかり
と見えていたような気がする。それは、NPOと企業をつなぐのは私の役割なのだ――と。そして、
設立したパートナーシップ・サポートセンター。もちろん、この設立をめぐっても、さまざまな思
いは交錯する。企業的(?)立場とNPO的(?)考えを、侃侃諤諤、重ねに重ねたディスカッシ
ョン。一字一句をめぐって、ぶつかりあいの末に生れた大切なたミッション。たった3人しか集ま
らず、先行き不安ながらもやりとおした定例会・・・。それでも出しつづけたニュースレター。た
ぐりよせればきりがないほど、思いは詰まっている。96年のツアーから6年。任意団体発足から4
年、法人格を取ってから3年が過ぎた。人も変わり、事務所も独立した。
自分の思いを形にしていくことは、たとえどんな苦労をしょってでも、愉しいことである。おそ
らく他人から見れば、なぜそこまでがんばるのか、働きすぎではないか、それではついていける人
がいなくなるではないか、と非難もされよう。しかし、そうしなければやってこれなかったのも事
実である。給料だって、もちろんはじめはむしろ持ち出しで切り抜けてきた。多くの市民団体の設
立者たちがそうしてきたように・・・。
では、その中における個人と組織の関係は、果たしてどうだったのだろう。振り返ってみるほど、
まだ経験はそう長くはない。今なお混迷の中にいる、といったほうが適切だろう。今までも、それ
からこれからも、そう簡単なことではないことだけははっきりしている。ただ、「個人がその能力
を精いっぱい発揮して伸びていける組織づくりを」と、いつも心の底に刻み付けていることだけは
確かである。それは、本業は研修講師、としての自覚である。しかし、だからといって、それがう
まくいくことはまれである。いくらこちらがそう強く思っても、本人がそれを受け止めてくれなか
ったり、逆にこちらが相手の能力以上のものを期待しすぎしくて息苦しくなったりと、なかなかぴ
ったりとはいかないものである。
また創立者の思いと、あとからスタッフとして加わった者とのあいだには、なかなか共有しあえ
ない時間と空間が横たわっているのも、もどかしい。それらを乗り越えなければ求めるものは得ら
れないと頭で判っていても、大事なのは気持ちや志であったりするから、それらは数値ではかれな
いだけに、余計ややこしい。
とはいえ、パートナーシップ・サポートセンターで働く人たちが、「おもしろい仕事」とか「大
事な仕事」とか「やりがいある仕事」などと言うのを、何かの拍子に耳に入ったとき、それはパー
トナーシップ・サポートセンターをつくりそだてる一端を担ってきたという自負をもつ者にとって、
とても誇らしく思う。そう、そういう大事な仕事なのよ、やっぱりわかってくれているんだ、と心
から感謝したくなる。しかし逆に、自ら活動を創りだしたり広げていったりという大変な活動には
いっさい見向きもしないで、ただこれまで働いていた会社の延長線上で、給料をもらう一職場とし
か考えない人がなぜか入ってきてしまったときには、とても悲しい。もちろん最初からそれをあか
らさまに出していたならチェックされただろうが、時としていい人ぶって侵入してくる要注意人物
というのがいるものである。しかし、これは、自分の見る目のなさを公表しているようなもので、
忸怩たる思いをもちながらの反省でもある。何度かの失敗を繰り返しつつ、ようやくNPOとして
の組織のあり方、
パートナーシップ・サポートセンターらしきものが見え始めてきたところである。
そこから得た教訓のひとつは、
ミッション達成のためには、
ほんものを追求しなければならない、
ということである。「ほんもの」は、私にとっての「理想」であり、「基準」である。もちろん、
人も組織も仕事も、である。例えば、電話のかけ方、書類の書き方、報告の仕方、時間の使い方・・・
さまざまな場面で、若いのだからまあいいだろう、と何となく見過ごしたり、NPOなのだから自
主的にやってくれるだろうと大目に見てきたが、最近気がついたのは、そうしていたのでは「いい
仕事」が何か、わからなくなってしまうということである。組織は人でつくられる。「いい仕事」
がわからない人たちで構成された組織は、「いい組織」になりようがない。研修では受講生に向か
ってよく言っていたことではあるが、本当にそのとおりなのだと、自らの組織を振り返って、改め
て自覚し始めたところである。「こうした方が“よりいい仕事”なんだよ」と伝えることが、少し
ばかり先にNPOに係った者の責任なのではないかと思う。
私たちNPO第1世代(と自ら呼んでいるが)は、誰もまだ取り掛かってないことに取り組んで
きた。先が見えないところから見つけ出してきた。わからないものを手探りで探しつづけてきた。
NPOの草創期だから出来たことも確かに多かったのだろう。ひとは、仕事の中で、その能力を伸
ばしていける。そして、ちょっとだけ背伸びしながら新しい仕事にチャレンジすることで、能力は
開発され、磨かれていく。若い人にどんどん仕事を与えよう。それも「はじめて」というものを。
あるいは「ちょっとむずかしいな」というものを。そのなかで、手探りしながらその人らしく堂々
と伸びていってもらいたい。自分でつかんだものは決して逃げてはいかない。「「いい仕事」「い
い組織」を、自らつくり育てる苦労と喜びを大いに愉しんでもらいたい。そのためには、こちらも
常に本気で「いい仕事」「いい組織」を提示しつづける義務があるのだと、心しよう。
5.「パートナーシップ大賞」を創設して
今年、パートナーシップ・サポートセンターは、創立以来の念願とも言える「パートナーシップ
大賞」をかたちにすることができた。全国から35件の応募を得、11ヵ所の現地調査とドラッカー
財団の評価およびパートナーシップ・サポートセンター独自の「パートナーシップ評価」を取り入
れた2度にわたる審査を経て、「飛んでけ!」車いすの会と札幌通運による協働事業「車いすの集
配とはこび愛ネット」が大賞を射止めた。そして私たちは、大賞を受けた事業そのものからも、そ
して審査過程そのものからも、多くのことを学ぶことが出来た。
詳しくは別の機会に譲るが、大賞事業からは、NPOと労働組合、いや、むしろ組合の1個人と
してのボランティア精神によって始まった事業が、企業を巻き込み社会へ大きなインパクトを与え
うる事業になりうることを示すことができた。それは、車いす提供者や受け取るアジア各国の障害
者、そしてそれを直接繋ぐ海外旅行者といった多くの関係者をふくめ、NPO、労組、会社という
3者の絶妙なコンビネーションがもたらした、まさに「個人と組織」のありようを考えるにふさわ
しい協働事業といえるものであった。
また、審査の過程では、何段階かに分けてNPOと企業の係わり合いを検討しつつ、11事業が
残った段階では、NPO、企業、それぞれ別々に自己評価を申告してもらいながら、そのなかで組
織がどう変わったのか、それに関わった人たちがどう変わったのか、そして社会に何をもたらした
のかを、取材調査していったのである。「個」が「組織」によっていかに生かされたかを、実証し
ていく作業でもあった。それは、「パートナーシップ大賞」事業そのものが、パートナーシップ・
サポートセンターを設立した目的である「企業とNPOのパートナーシップの推進」に大いに貢献
できたことを示すものでもあった。と同時に、大賞を受けた事業そのものが、市民社会を構成する
NPOや企業の発展にとって大いに役立つことを確信できたばかりでなく、事業を展開する過程で
得たさまざまな出会いと評価手法の開発が、「個」を生かすために「組織」が存在してほしいと願
ったあの女性たちの痛切な思いとも通じることを、改めて認識できたのであった。
「個」は「組織」のためにのみあるのではない。「個」が伸びていける「組織」のなかでこそ、
「個」は生かされ、「組織」も伸びていけるのである。「いい仕事」ができる「いい組織」のなか
で、もっともっと「個」を磨いていかなければならない。
軌跡 ― 市民社会への「道程図」―
久住 剛 特定非営利活動法人パブリックリソースセンター代表理事
はじめに
自治体職員と市民活動家・NPO理事という「二足のわらじ」を履いてきた。自治体は、この2
0年「地方の時代」「分権時代」から「市民社会」「市民主権時代」に移行するなかにあって、引
き続きNPOとのパートナーシップのニーズが増大し、「市民協働力」が求められている。市民活
動は、この20年余りの間に、急激な変化を遂げてきた。ボランティア中心の活動や運動中心の活
動から、有給スタッフを擁する事務局を装備し、事業体としての自立する段階に入りつつある。ま
た、NPOとしての法的枠組みができあがり、支援システムも徐々に整いつつある。こうした潮流
の中で、1980年代から今日に至る自分自身の活動を跡づけ、今後の展望を考えてみたい。
1.自治体改革の80年代―政策研究から自治体学会へ―
○ 地方の時代と政策研究
1980年代から90年代における日本社会の変化のひとつが「地方の時代」「地方分権」であ
った。「地方の時代」の提唱者であった当時の長洲一二・神奈川県知事は、「地方が変われば、日
本が変わる」と訴えた。その言葉に、私自身も共感し、地方から「変革の潮流」を起していきたい
と肚(はら)に決めた。
この時代のテーマは、「地方政府」対「中央政府」という対抗軸のなかで、自治体が中央のコン
トロールから自立することであった。この自立には、財政・権限・人事そして政策面の自立があっ
た。この中で、制度改革以上に、当時の私が重要視したのが「政策的自立」であった。このため職
員には「政策形成能力」の向上が求められ、その基礎となる「政策研究」が必須と考えた。自治体
における政策研究は、プロジェクト研究、チーム研究、組織研究、自主研究など様々な形があった。
政策研究の意義は、政策的自立の実現と組織文化改革にある。文化改革とは、科学的思考や市民的
感覚を持った「考える職員(組織)」への脱皮などを意味する。
私も1980年の県庁入庁直後から「自主研究グループ」での研究活動を開始していた。テーマ
は、施策評価、組織文化、まちづくり、コミュニケーション手法など多様であった。メンバーも、
当初は県職員だけであったが、次第に市町村職員、企業人、研究者、市民と広がっていった。机上
の研究だけではなく、フィールドワークや各地のまちづくりキーパーソンを訪ねる旅も重要だった。
○ 自治体学会
こうした政策研究の広がりが、
「全国自治体自主研究グループシンポジウム」
(1984年5月)、
「全国自治体政策研究交流会議」(第1回:1984年10月)、そして、学問としての「自治体学」
の確立をめざした「自治体学会」の設立(1986年5月)へと展開していった。
この「自治体学」も長洲知事の提唱だった。「地方の時代」というムーブメントを支える、実践
に裏打ちされた「理論的なバックボーン」が必要と考えたのだ。それを「自治体学」と呼んだ。「自
治体学会」は、「自治体」といい、「学会」というが、ここでの「自治体」ははじめから「行政体」
を意味していなかった。「学会」も、「既成の学者・研究者」の修練の場を意味していなかった。
自治体職員、
市民を中心とする開かれた「ネットワーキング」
の場として、
自治体学会は構想された。
私は、自治体学会の「準備事務局」のスタッフとして、地方の変革を推進する「知」と「行動」
と「ネットワーキング」の拠点づくりに傾倒した。それまでに培ってきた「まちづくり」「市民活
動」「政策研究」のネットワークを結集し、「地方変革の核」を創りたいと寝食を忘れて、議論を
し、奔走した。100を越える地域を訪ね、数百にのぼるまちづくりキーパーソン、市民活動のリ
ーダー、自治の推進者たちに出会っていった。そして、多くの人々との協働で、新たな日本社会づ
くりのための「企て」として自治体学会の設立を目差した。設立発起人は、500名を超えた。1
986年5月23日、開港の地・横浜で自治体学会は産声をあげた。当日、港に浮かぶ「氷川丸」
の甲板で開かれた交流パーティーの空には、大きな月が昇り始めていた。皆が、変革を確信した。
2.市民活動からネットワーキングへ―市民活動の80年代―
○ 新しい市民活動
1980年代に始まるもうひとつの変化は、普通の市民の手によって「もうひとつの社会の仕組
み」をつくり出す「市民活動」や「ボランティア活動」の勃興であった。それまでのイデオロギー
に主導された闘争型運動や、企業や国家と対峙する対決型運動とは一線を画した「市民の活動」だ。
みずからの足元から、暮らしの仕組を組替え、社会システムを創造していく「草の根型」の「創造
的」な営みが、「普通の人々」が担い手となって、各地・各分野に澎湃(ほうはい)と生まれ始め
ていた。
○ ネットワーキング研究会
私が市民活動などに出会うきっかけとなったのは、1984年、「ネットワーキング研究会」(代
表:播磨靖夫・たんぽぽの家理事長、後に「日本ネットワーカーズ会議」に改組)であった。これ
は市民団体メンバー・ジャーナリスト・財団職員・研究者などが自主的に組織したネットワーク型
シンクタンクだ。草の根の活動と先進の思想・哲学をクロスオーバーさせながら、研究会やシンポ
ジウム開催、調査研究を精力的に展開してきた。
ここできっかけとなった「ネットワーキング」とは「立場や職業などを越えた人と人の新たなつ
ながり方」を指した。米国のリップナック、スタンプス夫妻が著した『ネットワーキング』が邦訳
されたのがちょうど1984年だった。彼らは「ネットワーキング」は「もうひとつのアメリカ」
であると記していた。経済や軍事力で超大国であるアメリカとは異なる、人々の良心とヒューマニ
ズム、ボランタリズムに象徴される「もうひとつのアメリカ(Another America)」だ。ネットワー
キングという概念は、『アクエリアン革命』(マリリン・ファーがソン)や『メガトレンド』(ジ
ョン・ネイスビッツ)にも現れており、80年代のアメリカの市民社会の台頭を感じさせるもので
あった。
折しも80年代の日本における「新しいスタイルの市民活動」は、「もうひとつの日本」を形成
するという意味で、まさにネットワーキングそのものであったといえる。すなわち、それまでのイ
デオロギーに主導されるピラミッド型の闘争型運動や、生活防衛から発した各種の反対運動とも違
っていた。普通の人々が、社会問題に対して、草の根・身の丈で取り組み、生活と社会の仕組みを
「編みなおしていく」活動であった。人々のつながりも、立場を越え、共通のビジョンに向けて、
「水平的」で「リゾーム(根茎)型」の関係が基本であった。
ネットワーキング研究会では、さまざまな分野で新たに生まれていた市民活動「ネットワーキン
グ」の動きをレポートし、さらに活動相互を結びつける実践的なネットワーキングの場となっていた。
○ ネットワーキング・シンポジウム
1984年秋に開催した「ネットワーキング・シンポジウム」は、『ネットワーキング』の編訳
者であった正村公宏専修大学教授の基調講演に続いて、リサイクル、老人福祉、熱帯雨林保護、教
育などの各分野で先駆的な市民活動を展開している団体の代表が報告・パネルディスカッションを
行った。その折に、パネリストの中からも「ネットワーキングという言葉は、本日はじめて聞いた。」
といった発言もあり、「新しい言葉」「新たな思想」の発見と探求の場となった。
私自身は、神奈川県職員を中心に「ネットワーク研究会」を1983年から自主的に始めていた。
播磨氏が主宰する「ネットワーキング研究会」には、94年秋のシンポジウム直前の準備から関わ
ることとなった。当日は、代表の播磨氏も不在、事務局長の中本啓子氏(わたぼうし文化基金)も
腹痛に倒れ、日本青年奉仕協会の斉藤信夫氏、槇ひさ恵氏、福祉新聞の瀬戸正嗣氏に、神奈川の研
究会から参加した、久住、鈴木健一、鈴野和重が急遽事務局役を任されてしまったという経緯もあ
った。前夜に、日本青年奉仕協会で、看板はもとより当日の進行なども決定していないという事態
からも、当日の混乱が予想された。当日は、大阪ボランティア協会の早瀬昇氏が、雑誌を抱えて売
りさばいていたのも印象的であった。裏方と資金源を提供していたのが、トヨタ財団の渡辺元氏で
あった。会場から檄を飛ばしたのは、千葉東金で農業運動を主宰していた小松光一氏であった。夜
の交流会も、嫌煙権のグループが禁煙を主張したりしたのも印象に残っている。このネットワーキ
ング・シンポジウムや研究会には、その後の市民活動からNPOに連なる運動を支えてきた人々が
参集していていたといっても過言ではない。
ネットワーキングは、一方では、『奇跡のネットワーキング』(竹村健一)のようにビジネスの
人脈づくりと誤用されたりした。当時は、ビジネス社会でも、勉強会や、異業種交流がブームであ
り、ある面では「ネットワーキング的」な風潮があった。
○ パソコン通信
また、私自身も関わっていたがパソコン通信・ワープロ通信が始まった時期であった。BBS(ブ
レティンボードシステム)という個人やグループベースの「サークル型のネットワーク」が網の目
のように広がり、一方で、PC-VAN(NEC)やNIFTY(富士通等)の商用ネットワークが始ま
った時期であった。これらも市民的なレベルからの情報発信や「個対多」「多対多」のコミュニケ
ーションを可能にするという意味では「ネットワーキング」を支える技術の嚆矢であるといえる。
パソコン通信のネットワーキング仲間では、『月は無慈悲な夜の女王』(ロバート・ハインライ
ン)が話題になっていた。これは、市民のネットワーキングが帝国を打破するというお得意の「革
命物SF」であった。すなわち、私自身もそうであったが、ネットワーキングのもとに集っていた
人々の究極の合言葉は「社会変革」であったといってもいいだろう。このため、ビジネス系の人脈
づくりのような「自己利益」が目的の活動は「ネットワーキングにあらず」と断じることができた
のである。
○ 自治のネットワーキング
私自身は、「自治のネットワーキング」のパートを受け持つこととなった。「自治のネットワー
キング」構想が、設立準備を進めていた自治体学会のデザインにも結びついていったのである。自
治体学会は、1984年から設立準備を始め、1996年5月に設立をみた。この間に、ネットワ
ーキングを機縁に知り合った全国各地の市民活動のキーパーソン達も、このムーブメントに共鳴し、
参画してくれた。設立翌日の朝日新聞に「学会らしくない、新しいタイプの学会誕生」と天声人語
にお書きいただいたのは、西村秀俊氏であった。
この後、ネットワーキング研究会は、日本各地において「出前シンポジウム」を重ね、メンバー
自らもネットワーキングを重ねていった。事務局も福沢恒氏(わたぼうし文化基金)に引き継がれ
ていった。第2回の全国シンポジウムの際には、水俣に長く関わり市民的な知のありようを語って
いらした立教大学教授の栗原彬氏に基調講演をお願いした。第2回シンポジウムの開催趣旨文は、
当時普及し始めていたワープロを使って、鈴木と私が『2001年宇宙の旅』のオープニングの猿
人と骨をイメージしながら、ネットワーキングを「人類を人類たらしめる新たな道具」となぞらえ
た「詩」であった。それを読んだ栗原氏が二つ返事だったというのも奇縁といえるかもしれない。
研究会のメンバーが関わっていた「全国ボランティア研究集会(日本青年奉仕協会)」でもネッ
トワーキングは数年間の間、注目のテーマであった。私も、長野、東京、関西などの大会に参加し、
ネットワーキングと社会変革を唱道していた。
○ いくつかの研究会
この間に他の活動分野として、1981年から「神奈川カウンセリング研究会」を中心に、コミ
ュニケーションや「心と身体」に関わる心理療法の学習を集中的に3∼5年続けた。1983年頃
からは、県の仕事の延長から、「東京2002研究会」(地域総合研究所主催)などを中心に「ま
ちづくり」の活動や研究にも関わる機会を得て、その分野での人々との関わりも広がっていった。
1983年9月に設立された「エントロピー学会」では、環境問題や「内発的発展」に関わる人々
や、「森の保全」活動に関わることになった。
○ 日本ネットワーカーズ会議
次のステージであるNPOへの橋渡しの役割を果たしたのは、ネットワーキング研究会を発展的
に改組した「日本ネットワーカーズ会議」であった。代表は引き続き播磨氏が担い、役員には、栗
原氏、小松氏、西村氏、吉永宏氏(当時、YMCA同盟)、永井順國 氏(当時、毎日新聞)など
が加わった。企画運営委員には、渡辺氏、斉藤氏、早瀬氏、槇氏、瀬戸氏、久住、鈴木氏、鈴野氏、
湯瀬秀行氏(当時、住民図書館)、鶴田栄作(当時、東京海上)、後に、犬塚弘雅氏(社会調査研
究所)、鈴木実(川崎ボランティア協会い)、都賀潔子氏(全国社会福祉協議会)などが関わるこ
ととなった。
○ 第1回ネットワーカーズ・フォーラム―ネットワーキング社会への道程図―
1989年の第1回ネットワーカーズ・フォーラムには、『ネットワーキング』の著者リップナ
ック、スタンプス夫妻を招聘し、東京でのフォーラムを皮きりに、大阪で研究会を開催。神奈川な
どでテーマ別の集会を開催した。この際に「バックグラウンド・スタディ・ペーパー」と呼んだ当
日用資料は、実に『ネットワーキング社会への道程図』と題し、ネットワーキング社会の構造とそ
の実現に向けての戦略・ステップを描き出した「未来のためのマニュフェスト」をねらった野心的
なものであった。
このネットワーキング社会への戦略・ステップは、私が中心となって皆で討議を重ねて描いたマ
トリックスである。いわば、私自身の描く「未来社会」への道程を、投影したものであると言っても
いいものであった。その中には、法制度制定やセクター間の協力などを予見する「セル」も含まれ
ていた。当時、例えば法制度の実現には、20年は要するであろうとの予測を持っていた。(実際に
は、社会変化のスピードは速く、この未来の青写真を再度描きなおす必要がでてくることになる。)
3.ネットワーキングからNPOへ―市民活動の90年代前半―
○ NPOへの模索
1990年代は、いよいよNPOを旗印として、これまでのネットワーキングが大きな社会的な
パワーとして顕在化してくることとなる。
日本ネットワーカーズ会議内部では、NPOの存在は、80年代後半から語られていた。鈴木健
一氏が1987年に県の海外研修の際に、高見裕一氏(当時、リサイクル運動市民の会)のアドバ
イスもあり、海外研修の際に「NPO」の仕組や活動を見てきて、その社会的な有用性が確認され
ていた。しかし、単に横文字を「輸入」することには、播磨氏をはじめ大半の役員が、それに疑問
を呈した。これまでのネットワーキングとNPOとの関わり、日本の制度や文化とのすり合わせ、
戦略的な展開のための理念とビジョンの形成など、多くの課題をクリアして、はじめて日本社会に
対して「提案」できるものであるとの認識があったのだ。
○ 企業の社会貢献
一方、社会の変化は、さらに一層速く、ダイナミックになってきた。たとえば、90年代には、
「社会貢献元年」と呼ばれたように、企業の社会貢献活動という非営利セクターのもうひとつの領
域が急速に拡大をみせることともなった。「企業とNPOのパートナーシップ研究会」(1993
年)は、日本ネットワーカーズ会議のプロジェクトとして、経団連の田代正美氏、アサヒビールの
加藤種男氏らの参加も得て、市民活動関係者とのジョイントで研究会を開催した。
○ いくつかの準備
このほかに、「草の根マネジメント研究会」(1991年)では、NPOや市民活動団体のため
のマネジメントを研究した。『NPOとは何か』翻訳プロジェクト(1992年)では、NPOの
基礎知識を普及する目的で翻訳を実施した。日本ネットワーカーズ会議は、次代の「ネットワーキ
ング社会」創造のための「知見」や「道具立て」を次々に用意していった。それは、「NPO」を
世に問うための準備でもあった。
○ 海外NPO調査
この間に、私は、1991年に県の海外派遣研修生として、NPOの実情を学ぶべく、米国及び
英国等を2ヶ月半ほど、訪問調査する機会を得た。この時の研修テーマは、NPOを真正面に据え
ることはできなかった。この当時は、「土地問題と都市政策」に関わるセクションにいたため、「住
民主体のまちづくり」というようなテーマで研修が認められた記憶がある。まだ「NPO」という
言葉自体が、日本ではほとんどの人が知らない時代であった。
この海外研修には、4つくらいの伏線があった。ひとつ目は、89年に韓国へのスタディーツア
ーに出かけたことだ。これは1年間ボランティアで韓国のユネスコから横浜の特別養護老人ホーム
に研修に来ていた李さんを訪ねたものだった。そこで漢大根氏などの「社会変革」を構想する人に
出会うことになる。意外なことに、帰国までの間に決意したことは、「英語力」を増強することで
あった。彼らとの間では、英語が共通語であったのに、英語で、韓国と日本の将来などの意見をき
ちんと表現できなかったことが、その理由であった。
二つ目は、91年にグラウンドワークの紹介がなされたことだ。小山善彦氏(当時、グラウンド
ワーク財団、バーミンガム大学)が報告書を刊行され(環境情報科学センター)、日本にて「日英
交流シンポジウム」が開かれた(主催、環境情報科学センター)。折しも、5月、私の海外研修へ
の派遣が決定した当日にシンポジウムに参加していた。そこで、直接グラウンドワークトラストへ
の訪問、インターン受け入れのお願いをした。小山さんもマーサーグラウンドワークトラストの事
務局長スーザンさんもその場で快諾していただいた。
三つ目は、やはり90年に、山岸秀雄氏(一書林)たちの勉強会に、米国からデビィ・マックグロ
フリン氏(当時、パートナーシップフォーデモクラシー資金開発部長)が来日し、親交を結ぶことがで
きた。
デビィさんにも出会ったその場でインターンしたい旨をお願いし、
やはり快諾をいただいた。
四つ目は、同じく90年の上野真城子氏(アーバンインスティテュート)との出会いであった。
上野さんは、帰国中に勉強会を開かれ(住都公団の海老塚氏の勉強会だったか)、シンクタンクの
必要性や住宅開発系NPOのインターミディアリー組織の役割を話してくれた。彼女からは、イン
ターミディアリー組織の連絡先などのリストを後にいただき、米国での訪問団体を探す上で、大い
に力になっていただいた。
○ 米国NPO調査
1991年9月から11月にかけて、米国から英国を中心にNPOとチャリティ団体に関する訪
問調査とインターン体験を含めて学んだ。実は出発前には、同時期に渡米予定の平山氏(神戸大学)
と協力し合ってという話があったが、彼が論文の先行権云々とのこだわりがあったため、別行動と
なった経緯があった。このことは、自分自身が何のために米国・英国への調査旅行に出かけるのか、
すなわちミッションを考えるよい機会となった。
最初に、降り立ったボストンの空港には、『ネットワーキング』の著者ジェシカ・リップナック
とジェフリー・スタンプス夫妻が出迎えてくれた。飛行機の到着時間が大幅に遅れたのに、恐縮し
たが、二人の笑顔に迎えられ、NPOめぐりが始まった。ハーバード大学のあるボストン郊外のケ
ンブリッジという小さな町に着く頃、「この町は安全そうですね。」と言うと、ジェシカから「ア
メリカには安全なところはどこもないのよ。」とたしなめられた一言が印象に残っている。リップ
ナック夫妻と事務所のスタッフであるティムさんには、自宅でのディナーやクラムチャウダー、ロ
ブスター、さらにアイリッシュバーと大変な歓待を受けた。むろん、それだけではなく、米国にお
ける市民活動の動向やネットワーキングのその後の進展をうかがった。
この1週間余りの内に、「何のために米国に来たのか」を自分自身でも明確に意識するようにな
った。アメリカ人とのやり取りで、相手に私の訪問目的をはっきりと伝えていく必要に迫られたか
らである。そこで、「私は日本にNPOの仕組を創るために、米国の実践を学びに来た。」と自覚
を新たにし、そのように明言することにした。
その後、ニューヨークへ移動し、「LISC」などのインターミディアリーやアンブレラ団体を
中心に訪問調査と情報収集を進めていった。「ファウンデーションセンター」では、多くの情報を
得たが、さらに、NPOのマネジメントサポートを行っている「サポートセンターオブアメリカ」
の存在を知り、ニューヨークのセンターにおいて、ワシントンの本部を紹介いただいた。
ワシントンでは、先のデビィさんの「パートナーシップフォーデモクラシー」において、1週間
余り、インターンとして組織の事業や資金開拓の実情をうかがったり、事務局長のローリーさんと
理事会をオブザーブさせていただいたり、NPOと次期下院議員との懇談会に出たり、ヒスパニッ
クの住む町の現場へ赴いたりと、NPOの実体験を含めて貴重な経験を得た。「サポートセンター
オブアメリカ」では事務局長のエリック氏から、日本でのマネジメントセミナーの実施に助力する
ことを約束してもらえた。
デビィさんからもうひとり重要な人物を紹介いただくことになった。ボブ・ボスウェル氏
(President, National Committee for Responsive Philanthropy)である。オルタナティブファン
ドの創始者であり、米国NPO界の中心人物のひとりであった。彼とは、フロリダ通りの近くのエ
スニックレストランで昼食をともにしながら「ワークプレイスファンドレイジング」の話をうかが
った。職域募金ということを理解するのに時間がかかった記憶がある。その折に、「センターフォ
ーソーシャルチェンジ」を後日訪ねると話すと、ボブさんからは「事務局長のパブロは志の高いい
いやつだ。彼を知らないNPO関係者はいないし、彼が知らない関係者もいないな」と話してくれ
た。パブロさんとの出会いが楽しみになった。
そのパブロ・アイゼンバーグ氏からは、「NPOの本質=社会変革」ということを学び、本当に
意を強くした。パブロさんは、ヨーロッパでのNPOの調査経験があり、私がのちに英国に渡るこ
とを聞くと、「キャブリートラスト」の事務局長エリック・アダムス氏を紹介してくれた。「彼は
大変高い志と熱い情熱を持った男だ」と言い添えてくれた。これは、私がNPOを創っていきたい、
といった志にパブロさんが共感してくれた結果であった。
○ インディペンデントセクター・アニュアルミーティング
さらに、デビィさんから、「インディペンデントセクター」のアニュアルミーティングがあるか
ら行ってみないかとの話に、二つ返事でOKした。ワシントンでの日程を切り替え、アトランタに
向かった。このアニュアルミーティングは、実にエキサイティングなものだった。行きがけの飛行
機でボブさんと同席になり、NPOについての様々な疑問を解くことができた。
オープニングセレモニーには、当時のブッシュ大統領が、ビデオではあったがメッセージを寄せ
ていたのに、驚いた。さらには、人との出会いが、最大の収穫となった。ピーチトゥリーセンター
のホテルで開かれた会議では、デビィさんから紹介をいただいたジン・ライマン女史が私を名だた
るNPO界の中心人物たちに引き合わせてくれた。このジンさんは、初対面の時は、初老の地味な
おばあさんという印象だった。
たいていの時は、
編物の手を休めていない一風変わった人であった。
しかし、セミナーの席上、彼女が目を上げてコメントしたとき、会場にピーンと張り詰めた空気が
ながれ、その指摘の的確さ、舌鋒の鋭さに驚嘆した。
そして、「インディペンデントセクター」理事長のブライアン・オコーネル氏をはじめ、「ファ
ウンデーションセンター」のサラさん、改めてパブロさんなどなどに、「この若者は、志を持った
熱意のある男だ。力を貸してあげて欲しい。」とこの上ない懇切な紹介をしていってくれた。さら
に、「LISC」などのインターミディアリーを訪ねているというと、連絡が取れずにいた「エン
タープライズファウンデーション」のアニュアルミーティングが、近々ボルティモアで開かれるこ
とを教えてくれ、招待すると約束してくれた。なんと彼女は、「エンタープラーズファウンデーシ
ョン」のボードメンバー(理事)であったのだ。
カーター大統領のメモリアルセンターでのディナーパーティーも印象深かった。ジンさん、ボブ
さんなどが、さらに私を引き回し、多くの人々とのネットワーキングができた。
○ エンタープラーズファウンデーション・アニュアルミーティング
ワシントンに戻り、ジンさんの招きで、ボルティモアの「エンタープラーズファウンデーション」
のアニュアルミーティングに参加した。そこでは、理事長のジム・ラウス氏をはじめ多くのメンバ
ーにジンさんが私を紹介してくれたことはもちろんである。また、この会議には全米から草の根で
地域開発に取り組むNPOが多数参加していた。「インディペンデントセクター」のアニュアルミ
ーティングとは雰囲気が違うものだった。そのことをジンさんに話すと、「ISはハイソサエティ
だけど、こちらは草の根の近いわね。ジムも現場に出ていくのよ。」と話してくれた。ジムさんは、
住宅のディベロッパーとして成功した企業の社長なのであった。実際、大変に気さくな「いいおじ
さま」であった。
ジンさんとの別れ際、「さようなら」というと、「私はさようならとはいわないわ。また、会い
ましょう。成功を祈っているわ。」と微笑を送ってくれた。あとで、デビィさんに聞いたところで
は、「彼女はNPO界のゴッドマザーみたいなものね。素晴らしい人でしょう。」と教えてくれた。
私の「アメリカの母だ」と後の礼状に書かせていただいた。
○ 英国NPO調査
英国は夜のヒースローに降り立った。米国に比べるとのんびりしたムードを感じた。英国での目
当ては、グラウンドワーク、NCVA、そしてパブロさんからの紹介のエリックさんであった。
はじめに、ロンドンにてNCVAを訪れ、チャリタブル・オーガニゼーションの概要をつかもう
と思った。前に日本でお目にかかっていた小山さんからの紹介で、環境関連のチャリティ団体を担
当している女性と国際関係のチャリティ団体の担当にお目にかかり、英国でのチャリティの直面し
ている課題などを聞いた。当時、「コントラクトカルチャー(行政からの委託)」にかかわるチャ
リティの自律性の問題や宝くじ「ロト」からの収益金のチャリティへの還流が全英のチャリティの
関心事であった。また、ここで、「グラウンドワークトラスト」は政府のプログラムよる国策的な
トラストのブランド名であることがわかった。環境問題や地域開発に取り組むトラストは、一般に
は「ディベロップメントトラスト」という呼び名があることを知った。より草の根の自発的な「デ
ィベロップメントトラスト」があること、そして、その協会も紹介してもらえた。
ロンドンにいるうちに、奈良県のメンバーに同行させてもらい、小山さんの案内で近郊の3つの
グラウンドワークトラストの事業地を訪問し、活動を視察させてもらった。グラウンドワークの概
略を知るうえで参考になった。
次に向かったのは、小山さんがいるバーミンガムだ。ここには「グラウンドワークファウンデー
ション」がある。ファウンデーションはグラウンドワークの設立指導や、人材育成、全国的なキャ
ンペーンの実施など、テクニカルアシスタンスを実施する全国組織だ。小山さんからは、さらに詳
細にわたる情報や日本の現状や未来に向けた戦略などの意見交換ができた。
バーミンガムには、もう一人会うべき人がいた。エリック・アダムスさんだ。彼は、まず、一度、
ホテルを訪ねてくれて、朝食をともにしながら、なぜ、私が米英両国を訪問しているか、日本の現
状や将来に向けてのビジョンを話した。彼は、後日、自分の事務所に招いてくれるとともに、自分
自身でつくっているチャリティ団体の理事会にも参加するよう勧めてくれた。パブロさんが言われ
たとおりの、志の高く、信頼の置ける人物であった。
○ グラウンドワークトラスト・インターン
その後、日本でのシンポジウムに来ていたスーザンさんが事務局長を務める「マーサーティドベ
ル・グラウンドワークトラスト」へインターンに向かうことになった。ウェールズの首都カーディ
フに移動し、そこで、スーザンさんと再会した。マーサーは首都から北に向かった国立公園の山間
地にある旧炭坑地帯の小さな町であった。現地に入る前に、港湾地区の開発と河川の保全に関する
委員会にスーザンさんとともに参加させてもらう機会を得た。行政機関の人たちと対等にわたりあ
う彼女の態度の感心した。
さて、トラストでのインターン生活は、毎日きちっとプログラムが作られ、各部門の担当ディレ
クターから事業の説明にはじまり、工場や公園など現場の人々との対話を含めて視察も組まれてい
た。現場では公園づくりの手伝いで、カッパを着て杭うち作業にも参加した。トラストの財務につ
いても、担当から話を聞いた。財務関係は基礎知識もなく理解することは難しかったが…。
圧巻だったのは、ウェールズの小学校で子供たちをいっしょに球根植えの作業に参加したときの
ことだった。環境教育のプログラムであったのだが、セレモニーには、私の手から子供に盆栽をプ
レゼントするということまでセットされていた。地元新聞はもとよりだが、全国紙の記者、さらに
はBBCラジオの記者まで来ていて、ラジオへの初登場は英語によるインタビューとなった。おま
けに、講堂でウェールズ語の歌を子供たちが歌ってくれ、その後に、日本とはどういう国なのか講
義をしてほしいと。さらに、子供たちからの質問攻めにあった。苦しくも楽しい思い出になった。
その晩は、スタッフが近郊の町のパブで慰労会をひらいてくれた。その席で、
「ちょっと静かに・・」
とスタッフが言ったかと思うと、店中に私のBBCでのインタビューの声が鳴り響いた。赤面をし
ながら、勘弁してくれと、ビールをあおった記憶がある。次の朝、新聞にはチャールズ皇太子の記
事よりも大きな自分の写真を見て、また驚いた。同時に、トラストのメンバーが、私を題材にメデ
ィアへの露出を図ろうという「計画」を持っていたことに気付き、あらためてそのしたたかさに感
心した。
その後、隣町のトラストを訪ねたり、スタッフの田舎町のパブで飲んだりと楽しいインターン生
活を送った。
最後に印象に残っているのは、
地元の町役場の環境セクションを訪ねたときのことだ。
担当ディレクターは、暗い顔をして、「来年にはこのセクションもなくなるだろう」としょげてい
た。サッチャー首相の行政改革が本格的に地方自治体にも及びつつある時期であったのだ。
○ ガイ・フォークス
その後、バーミンガムに戻り、エリックさんの「キャブリートラスト」を訪ねた。これは、日本
では「キャドバリー」という名で呼ばれていたチョコレートがあったのだが、その菓子メーカーの
会社が設立したトラストだ。社長は、クウェーカー教徒で、歴史的にも篤志家として有名な人だ。
エリックさんは、今で言う「市民社会」確立の大切さを重ねて語ってくれた。後日参加した彼自身
のトラストの理事会と前日の夕食会でも彼の熱弁は印象的だった。会議後、私が投宿していたバー
ミンガムから離れたコッウォルドの町まで車で送ってくれた。道すがら、ちょうど記念日のセレモ
ニーの時期だった「ガイ・フォークス」の物語を例にとって、英国人の中に、権力に立ち向かって
も正義を通す精神を語ってくれた。この祭は、不当な課税に対して身をもって直訴したフォークク
スを住民がかくまった故事をたたえ、広場に大きな焚き火を燃やし、花火を上げる11月のイング
ランドのお祭りだ。
○ NPOへの開眼
少々、微に入り細にいり綴ってきたが、この2ヶ月半に及んだ調査旅行がNPOに対する理念や
NPOを確立するという決意を、私に確固たるものにさせる決定的な契機となったのであった。ま
さしく、開眼を果たすための旅であった。
○ 第2回日本ネットワーカーズフォーラム―NPOを全国に紹介―
帰国後、1992年に「第2回日本ネットワーカーズフォーラム」にて、米国にて親交を深めた
デビィさん、ボブさん、ほか2名を招いて、NPOという概念を初めて全国的に紹介することとな
った。フォーラムは神奈川、大阪、名古屋で開催した。フォーラムのまとめとしての「私のネット
ワーカーズ提案」において、NPOための法制度制定や支援システム整備などを提言した。このフ
ォーラムの基調にあった考え方は、NPOはネットワーキングの社会的な器であるということだ。
すなわちアクション、アクティビティとしての新しい市民活動に、システム、社会的主体としての
実体をあたえる制度的な「器」がNPOであると考えたのである。したがって、NPOは、市民に
よる社会創造を実体化する仕組みとして構想され、市民社会を創造する主体となるべきものとして
構想された。
○ NPO法に関する国際会議
その後、1994年秋には英国のNCVO主催による「NPO法に関する国際会議」への招待を
受け、山岡義典氏、佐野章二氏、跡田直澄氏、雨森孝悦氏、早瀬氏、渡辺氏、都賀氏など10名に
及ぶデレゲーションを組んで参加した。山岡さんや佐野さんはNIRAの「市民公益活動基盤整備
に関する調査研究」でNPO法制度を提案していた。日本ネットワーカーズ会議では、渡辺さんや
私は、岸本幸子氏(当時、住信基礎研究所)の参加も得て、「ボランタリーセクターと基盤に関す
る調査研究」を行っていた。雨森さんはレスター・サラモン教授(ジョンズポプキンス大学)との
共同研究によるNPOの各国比較で日本を担当していた。跡田さんの上司である本間正明氏(大阪
大学)は「NPO研究フォーラム」を展開されていた。
このデレゲーションには、NPOに関わる日本のキーパーソンたちを糾合し、NPOの確立を図
る戦略的な意味があった。少なくとも事務局を務めた私にはそうした意図があった。日本の現状と
方向を海外に発信するための英文冊子も作成した。最初から、海外のNPOとの協働を通して、日
本にNPOの芽を吹かせたいというねらいもあったのだ。この時の助成元は、国際交流基金であっ
た。このときの基金との出会いが後に、NPO確立に向けたムーブメントに関係してくることにな
る。このときには、先に出会ったエリックさんと、関係者の会談もセットできた。彼からは、英国
のチャリティの直面する課題を調査し、整理した報告書をいただいた。
○ 非営利団体と社会的基盤
ここに挙げた「非営利団体と社会的基盤―ボランタリー活動推進のための仕組みづくりに関する
調査研究」(1995年発行)では、日本国内の市民活動団体や支援組織の現状を分析するととも
に、デビィさんを中心に米国における「サポート・インターミディアリー」(NPO支援組織)を
調査分析し、今後、日本において必要とされる支援組織のあり方を提言した。
○ 市民セクター支援研究会
同時期に「市民セクター支援研究会」を、山岡氏、岸本氏、谷本有美子氏(当時、北区)、熊澤隆
氏(鎌倉市)らとともに設立し、自治体による市民活動・NPO支援のあり方を調査研究し始めた。
ここで指摘しておきたいことは、すでにこの時点で、NPOための法制度、支援組織、自治体とN
POの関係、NPOに関する研究などの青写真が市民サイドで準備されつつあったということだ。
英米諸国との連携も着実に広がっていたということも銘記しておきたい。
○ 阪神淡路大震災
そうした準備が進む最中、1995年1月17日の朝が訪れた。阪神淡路大震災が起きた。私は、
珍しく米国の自然公園などをめぐって帰国した翌朝にこの日を迎えた。横浜でも揺れを観じた記憶
がある。しかし、テレビの画像を見ても、しばらく何が起きたのかを理解できなかった。「えらい
ことだ」ようやくつぶやいた。何人もの友人の顔が浮かんでは消えた。次に、「何をしたらいい?」
と自問した。
その後の支援活動は、私は後方支援が主であった。現地に入ったのは、もう2月も後半であった。
現地のコーディネート組織やボランティアたちに疲労の色が出る時期であり、支援団体から住民団
体への主役の移行が模索荒され始める時期でもあった。支援団体で働く仲間たちへの、今で言えば
「ケアする人へのケア」と、新たな段階における外部からの後方支援のあり方を模索するために出
向いた。時には、一升ビンを抱え、あるいは暖かい焼き鳥を携え、あるいは花を飾りということも
あった。その折に、豊中市を訪れた。災害対策本部の係長が言った。「自分たちも不眠不休で取り
組んできた。しかし、自治体行政というシステム自体が機能をしえなかった。今回は災害という非
常時に、システム不全が顕在化したけれど、実は、日常的にも行政というシステムの機能不全は起
きていたことに気づいた」と。「だからボランティアや市民による活動がなくてはならなかった」
とも。この言葉は、長く重く心に残っている。
○ NPO法制化
この大震災を契機に、ボランティアに対する信頼、市民活動団体に対する期待が、国民的なレベ
ルで高まったことは事実だ。すぐさま国会でのボランティア・市民活動への支援のための法制化の
準備の発言が提起された。中央省庁横断のプロジェクトチームが発足し、法制化に向けた動きは急
速に進んだ。一方で、山岡氏や佐野氏を始め、松原氏(シーズ)らによって、「NPO法制定に向
けた市民連絡会」が発足。私も渡辺氏とともにネットワーカーズ会議として参加した。
○ 市民活動の法制度に関する国際フォーラム
そして、ネットワーカーズ会議では、法制化の機運醸成と国際的協働体制を図ることを目的に、
1995年10月、「市民活動の法制度に関する国際フォーラム」を、東京、大阪、名古屋にて開
催した。この会議には、前年の英国での会議におけるネットワークを活かして、カーラ・サイモン
氏(米国)やアンドリュー・フィリップス氏(英国貴族院議員)らを招いた。この時には、国際交流
基金は資金提供とともに、共催者として会場提供などの便宜を図ってくれた。基金が市民団体との
共催という体制を組むのは異例のことであった。当時の担当者である逢坂浩二氏らの尽力があった。
なお、ネットワーカーズ会議においても、法制化そのものへの異論もあった。法制化が市民活動
を政府が統制する危険性に危惧を抱くメンバーもいたのだ。これは、当時の市民活動関係者のなか
にあった少なからぬ不安でもあった。その後、全国的な市民からの声や、議員・官僚と市民活動関
係者との間の対話・議論を経て、1998年、特定非営利活動促進法の成立をみることとなった。
○ 日本NPOセンター
NPO支援システムに関しては、「非営利団体と社会的基盤―ボランタリー活動推進のための仕
組みづくりに関する調査研究」においてその青写真を描いていたが、具体化に向けての胎動は、別
の研究会から発した。
1995年に、神奈川県が、鈴木健一氏の描いたグラウンドデザインのもとで、「県民活動サポ
ートセンター」を立ち上げた。これには、賛否両論があった。ポイントは、行政が直接サポートに
乗り出すことの是非であった。神奈川県は、「あくまで行政は黒子に徹する」という基本姿勢を強
調した。行政によるNPO支援の嚆矢となる役割はあったと評価していいだろう。しかし、その後
の自治体では、「公設公営」から「公設民営」などへの移行を果たしていっている。
市民によるNPO支援センターの設立が必要とされていた。1995年、山岡氏を委員長とする
「市民活動のための基盤整備に関する委員会」が、経済企画庁の委託のもと、社会開発研究所を事務
局として設置された。委員には、田代氏、早瀬氏、島田京子氏(日産自動車)、三島氏(大阪コミ
ュニティ財団)、そして私が加わった。1年に及ぶ委員会の終盤、経済企画庁の担当課長から、経
団連の支援のもとで、NPO支援センターを立ち上げてはどうか、との提案がなされた。田代氏が
これを一蹴した。
「政府が音頭をとって、企業からの資金支援を集めてセンターをつくるといった、
従来型のやり方には乗れない」と。私も含めて委員一同、田代氏の意見に共鳴した。NPO支援セ
ンターは市民やNPO自身が主体となってつくられなければならないと主張した。
これが「日本NPOセンター」づくりへの契機となった。市民主体でつくると言った以上、それ
を実現する決断をする必要に迫られた。皆、ナショナルレベルのNPOのセンターの必要性は痛感
していたからである。
○ 実現への歩み
1995年12月22日夜、山岡氏の声掛けで、委員会とは別に自主的な会合が開かれた。委員
であった田代氏、早瀬氏、私、それに委員ではなかったが盟友の渡辺氏にも加わってもらった。霞
ヶ関ビルの一室に、事務局を務めていた社会開発研究所の橋本家利氏らも加わり集合した。決断は
早かった。このメンバーが核になって動こうと決まった。田代氏は企業100社は共鳴してくれる
だろうと意気込んだ。私たちは、構想を書き、助成金の獲得に動くと約束した。
その夜、山岡氏、渡辺氏、早瀬氏と私は、新橋の居酒屋でさらに結束を固めた。さらに山岡氏を
除く3名は、秋葉原の早瀬氏投宿のホテルの地下のバーで、さらに突っ込んだ話を詰めた。今回は
フォーラムを仕立てるという仕事ではない、組織をつくる仕事だ。組織には、金が要る、人もいる。
我々は、自分自身のコミットについて覚悟を決めておく必要がある、と確認した。そこで、私が提
案し、3人でクジ引きをすることにした。山岡さんが事務局長を引き受けられない場合に、3人の
うちの誰かがそれを引き受けるというクジだ。コヨリを作り、「よしっ!」と、一度に引いた。皆
のコヨリにしるしがあった。ちょっとした、茶目気だった。皆のクジにしるしを付けておいたのだ。
これで3人の覚悟も決まった。
○ 助成金獲得
私は、助成金獲得を担当することとなった。当然、組織や事業構想、設立までの行程なども計画
した。組織づくりに助成金を出すところがあるだろうかと、考えた。しかも、米国などとの協働の
もとでつくりたかった。そこで、国際交流基金日米センターの伊藤隆氏(当時、事業2課長)を訪
ねた。話を聞いた後、伊藤さんは、「やりましょう」と力強く言ってくれた。資金調達に光が見え
た。年末年始、昼夜を通して企画書、助成金申請書を書き上げた。年明けに、再度相談に訪れた。
事業の全体のうち、米国への訪問調査や招聘事業の部分約800万円余の申請金額だった。それを
見た伊藤さんは、「組織をつくるのに全体ではいくらかかるのか?その全体に対して資金を出さな
いと、組織はできないでしょう。その企画書を出してください」と、意外な、しかも、ありがたい
申し出を受けた。翌日から、企画書を修正した。2年にわたる計画になった、総額で3000万円
を超える大きな事業になった。ふたたび伊藤さんとの協議。「詳細は後日整理させてもらいます」
と、大筋で受け入れられた。
○ 朝食会
1996年の2月2日には、「設立呼び掛け人会」をセットしていた。経団連1パーセントクラ
ブ会長の若原泰之氏(当時、朝日生命会長)、経団連社会貢献推進委員会委員長椎名武雄氏(当時、
日本IBM会長)、樫畑直尚氏(日本青年会議所会頭)、NPO側からは、播磨靖夫氏(たんぽぽ
の家・日本ネットワーカーズ会議)、山崎美貴子氏(東京ボランティアセンター)、山本正氏(国
際交流センター)など面々が、パレスホテルの朝食会に集まった。設立準備企画委員の私たちも、
初めての「朝食会」に緊張して臨んだ。委員として参加した服部則仁氏(日本青年会議所)にもこ
のときに出会った。会は、なごやかでしかも意志にあふれていた。センター設立へ向けた具体的な
スタートが切られた。
○ 大阪戦略
その後、田代氏、山岡氏、橋本氏らは企業への協力要請に走り回った。渡辺氏、早瀬氏、私らは
NPO関係者への協力要請に当たった。
センター設立が現実味を帯びてきた。
多くの議論があった。
あるときは、大阪の「NPO研究フォーラム」に本間正明氏らへの協力要請に、設立準備企画委員
の西口徹氏(朝日生命社会貢献室長)と赴いた。ひととおりの私の説明の間、本間氏は、目をつぶ
って静かに耳を傾けていた。「いかがでしょうか。」との私の問いに、彼の口からは意外な言葉が
出た。「早瀬さんからは、要は、大阪ボランティア協会の東京事務所のようなものをつくるのだ、
と聞いているが。そうではないのか?」と。早瀬さんは、関西の人たちに理解を求めるために、東
京の人間たちが勝手に進めているのではない、という趣旨を伝えたかったのではないかと推測され
る。しかし、表現は必ずしも適切ではなかったのだろう。「日本NPO情報センター」(当時の仮
称)の真意は、本間さんらには伝わっていなかったのだ。その後、山内氏(大阪大学)や跡田氏(当
時、名古屋大学)らも交えて議論は展開した。会議の終わりころ、本間さんから、「わかった。協
力してつくっていこう。」との了解を得た。その夜は、跡田氏、西口氏らとキタで痛飲し、盛り上
がった記憶がある。この折には、佐野氏とも議論をし、いくつものサジェスチョンをいただきなが
らも、協力を約束してもらった。
こうしてNPOセンター設立は、着実に進展していった。NPO法の制定へ向けての準備も同時
に進行していた。
○ 焦燥感―新たな胎動―
そうした進展とはうらはらに、私自身の心の中には、なんともいえない不安あるいは焦燥感が生
まれ始めていた。それは、1989年、1992年の日本ネットワーカーズフォーラムで描いた「市
民社会への道程」やNPO確立へのシナリオが、予想をはるかに超えるスピードで進行しているか
らであった。構想を描いた当時は、今後10年から20年をかけて徐々に実現するという予想を立
てていたものが、わずか数年後には、内容はともかくも「形」になっていく勢いだったからだ。つ
まり、私には、それらの構想実現後の「次の構想」の用意がなかったのだ。「その次には、何をし
たらいいのか?」そうした自問に答える術がなかったのだ。私は、「次代の構想」のための準備、
仕込み、が自分には必要だという認識を深めていった。このために、改めて腰を据えて、NPOに関
する基礎からの研究をしてみたいという願いが大きくなっていた。大学院あるいは、留学もその選
択肢として浮上してきていた。
○ 送別会
1996年の3月、表参道でささやかな送別会を開いた。岸本幸子氏の米国留学への旅立ちを送
る会であった。渡辺氏、中村陽一氏(当時、都留文科大学)、伊藤寿子氏(環境情報科学センター)、
平岩千代子氏(電通総研)、三樹尚子氏(住信基礎研究所)らが参集した。
岸本氏とは、1994年3月に彼女の自主研究「市民活動の発展を目指した助成のあり方に関す
る研究」(住信基礎研究所)の取りまとめ時に、山岡さんからの紹介で、研究へのアドバイスを求
められたのが始まりであった。民間の銀行系シンクタンクにいながら、市民活動に目を向けていた
こと。同時に、その市民的視角と研究水準の高さが目を引いた。同様にアドバイスをした渡辺氏も
同意見であった。そこで、同年、前述の「非営利団体と社会的基盤―ボランタリー活動推進のため
の仕組みづくりに関する調査研究」の中核メンバーに参加してもらうよう要請し、事実、大きな働
きをしてくれた。1995年から96年にかけては、経済企画庁からの委託調査で「市民公益活動
団体の実態把握調査」をまとめられた。この調査は、NPOと呼ぶべき市民団体の数を、約8万9
千と推計し、その後のNPO法制定の基礎資料として貴重な労作であった。この調査の過程で、中
村氏や山崎富一氏(世田谷ボランティア協会)が協力していた。その岸本さんが、職を辞して、米
国にNPOマネジメントを学ぶために留学することとなったのである。
皆が、
彼女の決断をたたえ、
将来の飛躍に期待して、見送った。
○ 訪米予備調査
その数ヵ月後、岸本さんには、米国においてNPOセンター設立に向けた事業に協力してもらう
こととなった。1996年5月、NPOセンターを構想するためのモデルを求めて、米国における
支援団体の調査を実施した。この調査は、後に、経済界のメンバーとNPOメンバーが共同調査団
を送り出すための、予備調査の意味ももっていた。渡辺氏、橋本氏、私、そして、既に渡米してい
た岸本氏も加わった。ワシントンに始まりニューヨークまで、「インディペンデントセクター」「L
ISC」「ファウンデーションセンター」など、名だたる「サポート・インターミディアリー」を
訪ね歩き、日本における「NPOセンター」のモデル探索と設立に向けた米国関係者への協力要請
を行った。
実は、この調査旅行の際に、ニューヨークにおいて、大学院に関する下調べや訪問も行っていた。
先に述べたように、NPOの本場できちんとした学問として学びなおす夢が次第にふくらんでいた
からだ。
○ 訪米本調査
帰国後も引き続き、センター設立に向けた準備を続けた。具体的な、組織イメージづくりは徐々
に進んでいった。ただ、不況の影響もあって、企業からの協力は難航していた。
同年9月下旬には、本調査で米国を訪問した。予備調査メンバーに加え、山岡氏、播磨氏、田尻
佳史氏(大阪ボランティア協会)、治田友香氏(後に、NPOセンター事務局)、河村暁子氏(東
京ボランティアセンター)、通訳に都賀氏のメンバーがNPOサイド。「経団連NPO調査ミッシ
ョン」には、団長に若原氏、副団長に和田龍幸氏(経団連常務理事)のほか、11名の企業関係者、
顧問を山本正氏、事務局を勝又英子氏(日本国際交流センター)が務めた。
NPOミッションと経団連ミッションは、ニューヨークで合流し、サウスブロンクスでのNPO
による都市再生の現場を踏査したほか、多くの「サポート・インターミディアリー」をめぐり、N
POセンターの「モデル・イメージ」を共有するための「共通体験」を重ねた。若原さんは、ジー
ンズのキャップをかぶり、いろいろなところに熱心な好奇心を発揮されていた。いっしょにブロン
クスを歩いた、気さくな姿が印象的だった。また、
「バンカーズトラスト財団」理事長との会談では、
「社会貢献は企業の基本戦略に位置付けられ、利益とは相反しない」との弁に、「それを知りたかっ
たんだ」とひざをたたいた姿も印象に残っている。
○ インフラストラクチャー・オーガニゼーション創設
この本調査において、大きな収穫であったのは、嘉村弘氏(米国法人日本国際交流センター事務
局長)が、「インフラストラクチャー・オーガニゼーション」という概念を、スーザン・ベレスフ
ォード氏(フォード財団理事長)との会談から発見してきてくれたことであった。この「インフラ
ストラクチャー・オーガニゼーション」は、NPOセンターのキーコンセプトそして、後に播磨氏
の原案による「設立趣旨書」にも記されることとなる。
そして、同年11月22日、「日本NPOセンター」は創設された。お気づきかもしれないが、
NPOセンタ―の節目は、12月22日、2月2日、11月22日と、偶然な1と2が付いている。
(ついでに私の誕生日も、2月12日だ。閑話休題。)
○ NPOスタッフ研修に関する調査研究
1996年の成果として、もうひとつ重要な調査研究があった。3月に発行された「NPOスタ
ッフ研修に関する調査研究―米国のNPOとの交流を通して―」である。これは「ナイスハート基
金」と日本ネットワーカーズ会議の共同研究だ。メンバーには、雨森氏、山崎氏、鈴木健一氏、加
藤哲夫氏(現在、仙台みやぎNPOセンター)、萩原喜之氏(中部リサイクル運動市民の会)、谷
山博史氏(JVC)、私などが加わった。この調査研究の助成元は国際交流基金日米センターであっ
た。きっかけは、伊藤隆氏との会談であった。彼は「日本の非営利セクターを確立する上で、NP
Oのリーダーとなる人材がどのくらい育てばよいのだろう?」と、壮大な問いを投げかけてきた。
そのためのひとつの仕組みをつくる基礎を、
この調査研究で用意しようと企図したのである。
一時、
足踏み状態になるが、後に、「NPOフェローシップ・プログラム」として、陽の目をみることに
なる。
4.市民社会の再構想―市民活動の90年代後半―
○ 留学準備
1996年には、水面下で、留学の決意を固め、その準備をすすめていった。県庁には、海外大
学院等派遣研修制度があった。これへの応募をすすめていったのだ。英語力のさらなるブラッシュ
アップも必要だった。早朝、ファミリーレストランで勉強したり、通勤途中もテープを聴き、昼休
みにはTOFELの試験問題を毎日解いた。夜も、英語学校に通った。留学の意志を伝えると友人
の中には、「いまさらなぜ?」という反応も少なくなかった。秋には研修制度が、折からの財政難
のために休止になりそうになったこともあった。休職か、あるいは退職してでも行きたいと、思う
ようになった。研修担当の部長からの勧めで、「嘆願書」を財政課長あてに提出したことまであっ
た。そのおかげか、なんとか制度も存続し、ぎりぎりのところで、選考試験にもパスした。
この過程で、英国か米国かと、一時迷った時期もあった。なぜなら、英国は、政府中心からNPO
などの民間へとシフトしてきたため、日本とどこか国情が近似しているようにも思えた。一方、米国
は、NPO先進国であった。また、英国は理論、米国は実学いう感触もあった。結局は、米国に絞
り込んだ。年末から1997年初春にかけては、多くの大学院へ願書(アプリケーション)を送っ
た。最初に受け入れの通知が届いたのは、2月頃だった。次第に、受け入れ通知も増えていった。
1997年の3月には、晴れて県の正規の派遣研修生としての決定ももらった。
○ NPOフォーラム97inかながわ
その間に、日本NPOセンターの初の大事業「NPOフォーラム97inかながわ」の企画、準備を
すすめていっていた。フォーラムのねらいは、全国的にNPOを発信していくこと、地元神奈川に
NPO発展の種まきをすることの両面であった。全国事務局をNPOセンターに置き、一方に地元
の事務局を「アリスセンター」にお願いした。組織は、全国と地元の混成とし、セクターもNPO
のみでなく、企業、生協、青年会議所、労組、YMCA、行政などの協働型とした。コンセプトは
「地域を超え、分野を超え、セクターを超える全国フォーラム」と設定した。テーマは「市民社会
の創造とNPOの役割」とした。
地域を超えるコンセプトにふさわしく基調講演は、米国から「インディペンデントセクター」特別
顧問のバージニア・ホジキンソン氏を招き、さらに山本正氏にお願いした。4つのセミナー、11
に及ぶ分科会で展開した。フォーラムに続いては、仙台、名古屋、広島、大阪で地域巡回フォーラ
ムを実施した。このフォーラムで蒔かれた種は、地元では、「NPO法研究会」が生まれたり、企
業とNPOのマッチング研究会、あるいはNPOと行政のパートナーシップなど、いくつかの芽が
吹いていくことになる。
○ 米国留学―ゼロからの出発―
実は、私は、6月7日・8日のフォーラム、交流会を最後に、後を任せ、6月10日には米国留
学へ向けて成田を飛び立った。フォーラムの成功を見たとき、これで、ひとつ私の役割が終わった
ことを実感した。そして、次の未来の構想を紡ぎだす作業に着手しようと決意を新たにした。飛行
機が滑走路を離れたとき、「過去から自分を切り離した」「しばらく日本から自分を切り離した」
といった感慨が湧いてきた。明日の朝には、ニューヨークの地で、「ゼロから出発しなおそう」と
思った。
JFK空港に降り立ち、ニューヨークの街並みが見えてきたとき、1991年のニューヨーク初
訪問の際に、摩天楼が見えたとき、身震いした感覚を思い起こしていた。そして、微かにこのとき
も震えを感じた。さわやかだった。
○ ニューヨーク留学
1997年から99年まで、ニューヨーク大学大学院(ロバートF.ワグナー校)において、「パ
ブリック アンド ノンプロフィットマネジメント」コースで基礎からNPOを学ぶとともに、N
POと自治体のパートナーシップの実態を調査研究することとなった。大学院でのコースの詳細は、
ここでは紹介を省略するが、「メートル単位で本を読む」というが、英語力の不足を見積もればそ
の何倍もの資料を読んだ気がする。必死に勉強した。休みもなかった。
1年目が終わるころ、次第に、米国のNPOが見えてきた気がする。2年目終盤からの「自治体
とNPOのパートナーシップの実態調査」では、米国のNPOも「せめぎあい」のなかで自律性を
死守しようとしている姿が見えてきた。
この2年間は、勉学とともに、「自分探し」の時間でもあった。社会の未来を構想することは、
自分自身の未来を見つめることでもあったのだ。自分がこれまでしてきたことは、NPOの基盤を
創生することだった。その道筋は、ついてきた。その次を探すことが自分の使命であると思うよう
になっていった。
○ NPOフェローシップ・プログラム
日本を発つとき、「日本からは離れる」と心に決めていた。日本の友人などからは、米国での調
査を依頼されることもあったが、すべて断った。原稿も、在日時代から引きずっていた「NPO基
礎講座」(ぎょうせい)の校正と、市民セクター支援研究会の関わりで書いた「地方財務」(ぎょうせ
い)の2本以外は、すべてお断りした。しかし、唯一、これは「やり残した」「自分がやらねば」と
引き受けたのは、人材育成基盤となる「NPOフェローシップ」のプログラムづくりであった。
1998年の春だったろうか、NPOセンターからメールが届いた。国際交流基金日米センター
が、米国のNPOにインターンを送るプログラムをスタートさせたいと伝えてきたとの知らせだ。
伊藤さんは異動されていたはずだが、「何人を育てればいいか?」との議論を想起した。「NPO
スタッフ研修に関する調査研究―米国のNPOとの交流を通して―」での提言を実現する時がきた
のだ。私自身が、米国に在住しているのも巡り合わせだと思った。このプログラムは、私が「やる
べき」ものだと確信した。すぐに、プログラム企画書を書き送った。こうして、人材育成基盤づく
りの仕事を、米国にて構築することになった。大学院のコースや研究との両立を図りながら、睡眠
時間を削る日々、企画書を電子メールでやりとりする日々が続いた。ニューヨークの国際交流基金
に転勤していた、元担当者の安藤氏とも情報交換した。
夏には、パイロットプログラムの概要がほぼ出来上がった。この調整のために、2年間帰らない
と決めた禁を破って、一時帰国した。短い期間の内に、検討委員会に出席するなどして、日米セン
ターとの協議も詰めた。これで、「NPOフェローシップ・プログラム」は動き出した。
秋には、受け入れ団体の選定と人選に入った。実は、受け入れ団体の予備調査は、NPOセンタ
ー設立の際の訪米調査時にも質問項目として、インターンの受け入れ可能性を聞いていたのであっ
た。本プログラムの調査として、サンフランシスコでインターン派遣を実施していたJUCEEの
プログラムも参考にするために、サンフランシスコにも飛んだ。ニューヨークやワシントンでの調
査も実施した。このころは、授業の合間を縫ってのことで、ほとんど一睡もせずに飛行機に飛び乗
った記憶がある。
○ 岸本さん
さて、このフェローシップ・プログラムは、私にもうひとつの出会いを与えることになった。そ
の出会いは、パブリックリソースセンター設立に連なるものだった。
パイロット・フェローとなる人選は、検討委員などからの推薦を基本とした。パイロットで失敗
することはできなかったからである。渡辺氏からの推薦で、米国在住の岸本氏もその候補に挙がっ
てきた。申請書にある研修目的、計画、成果の活かしかた、どれも的確であった。岸本氏と、富田
久恵氏(当時、浜松ネットワークセンター)が、パイロット第1号に選ばれた。岸本さんは、「ユ
ナイテッドウェイオブニューヨーク」と「ニューヨークコミュニティトラスト」へ、富田さんはワ
シントンのボブ氏の「NCRP」が受け入れ団体となった。
岸本さんは、1996年からニュースクールフォーソーシャルリサーチ(後に、ニュースクール
大学に改称)大学院ミラノ校にて、ノンプロフィットマネジメントコースに在籍していた。ニュー
スクールは実学を重んじる校風で、彼女のコースもNPOの実務家が講師を多く務める実践的なも
のであった。私の大学とも近かったが、それまでは時間の合うときに情報交換をする程度だった。
彼女の家はニューヨークから離れたプリンストンであり、互いに時間的な制約も多かった。
1998年の夏頃だったか、山岡さんが米国大使館の招きでニューヨークを訪れた際に、嘉村さ
ん、私とともに、岸本さんも加わって日本食レストランで酒を酌み交わしたことがあった。その折
にも、岸本さんの将来構想をうかがった記憶があるが、彼女が「寄付を定着させる仕組みをつくり
たい。」との意向を示したときに、周りからは財団か大学にでも席をおいて様子をみたら・・とい
うような話だったように記憶している。
ところが、1999年フェローシップが始まり、彼女の様子を聞く機会が増えた。そのたびに、
岸本さんの夢が既成の団体に属していても実現しないことを、彼女自身も感じ、私も同じ意見を繰
り返し伝えることになった。
○ 新構想
私自身も、1999年に入り、研究が山場を迎えるとともに、帰国後の「構想」を固めなければ
ならないという課題が日に日に重くなっていった。残された時間は少ない。そうしたときに、力に
なって親身に相談に乗ってくれたのは、インターナショナルセンターで来米以来、英会話のボラン
ティアとして支えてくれたボランティアのスーザン・デュテュリーアレン氏であった。「やりたい
ことを絞りなさい。人生は長くない」と、コンサルタントを長く務めてきた初老の彼女は繰り返し、
私にアドバイスし続けた。
○ パブリックリソース―基盤から資源へ―
この頃になって、NPOのための「基盤整備」に注力してきたが、米国ではその基盤を活用しな
がら、多くの「資源」(人材、資金、情報など)が次々に産み出され、供給され、還流しているこ
とに気づき始めていた。「次は、これかもしれない・・」と漠然と思い始めていた。
そんな折、頻繁に意見交換するようになっていた岸本さんからも、「帰国後の道をどうしたらい
のか、と考えている」という話をうかがった。かつて、「パブリック・マネー(市民のための資金)」
という本をまとめてみたいと思っていたとも聞いた。私は、NPOのための「資源」の必要性を語
った。「それなら、一緒にやりませんか。」どちらが言い出したのか、いまは思い出せないが、話
はまとまった。1999年春、帰国を数ヶ月後に控えた頃だった。パブリックリソースセンターの
胎動がこうして始まった。
「パブリックリソース」という新語を岸本さんと考案し、スーザンさんなどからも「分かる。い
い名前だ」との「お墨付き」をもらった。この「パブリックリソース」の背景には、NPOの伸張
のために、これまでの「基盤」整備に続いて、NPOのための「資源」(経営資源あるいは社会的
資源)が必要との認識が基礎にあった。岸本さんの「パブリック・マネー」の「パブリック」もい
いなと感じた。ニューヨークには「コミュニティ・リソース・エクスチェンジ」というマイノリテ
ィ団体へのマネジメント支援を実施テいる団体がある。この「コミュニティリソース」という言葉
の響きもいいものだと、話し合った。こうしたいくつかの組み合わせから「パブリックリソース」
は誕生した。
1999年5月10日には、徹夜続きで、何とか修士論文の最終版を書き上げ、提出した。その
晩から、「NPOフェローシップ・プログラム」のフォローアップのための第2次調査のために、
渡辺氏、逢坂氏、新田英理子氏(日本NPOセンター)が到着し、渡辺氏と深夜に及んで旧交を暖
めた。この折は、岸本さんと富田さんの受け入れ団体を巡ったほか、新規受け入れ団体の発掘に歩
いた。
○ 留学総括と迷い
米国での滞在も残りわずかとなっていた。既に、新しいNPOとなるパブリックリソースセンタ
ーのための準備事務局の事務所の目当ても付けていた。当面の資金も岸本さんと私が拠出すること
とした。一方で、私自身の米国の2年間の総括はきちんとはついていなかった。どこまでの将来構
想が出来たのか。十分な「青写真」ができたとはいえないかもしれない。焦燥感が募った。その頃
に至っても、私は「NPOのための資源開発に取り組みたい」ということと、「NPOと自治体の
掛け橋になりたい」加えて「市民社会の思想を生み出したい」といくつかの夢を描き続けていた。
スーザンさんからは「ひとつに絞りなさい」「少なくとも順番を決めなさい」「あなたが自分で選
択できるのはどれなの?」と厳しい選択を勧められていた。
ともかくも新たなNPOを立ち上げることだけは、
決意を固められた。
では、
残った課題である「自
治体とNPOの架け橋」の役割は、ペンディングのままであった。やりたいことではあるが、帰国
後の配属先にも関わることだからだ。
5.パブリックリソースセンター創設―市民活動の2000年代―
○ パブリックリソースセンター創設準備
1999年6月末に帰国した。7月5日には、準備事務所の賃貸契約を済ませた。その後、私は
鼻の手術で2週間ほど入院した。岸本さんが準備を進めていてくれた。退院後、「パブリックリソ
ースセンター」の構想を練り上げ、設立計画を詰めていった。
基本コンセプトは、「非営利の実践型シンクタンク及びコンサルティングファーム」とした。「パ
ブリックリソース」とは、「NPOのための“共的”な経営資源=人材、施設、資金、情報」であ
り「 “新たな公共”をつくる社会資源」であると定義した。組織面では、大きな組織とせずに機動
的なプロジェクトチーム体制を中心にしたいと考えた。特に、理事会を、日本流の「看板」だけに
したくなかった。事務局とともにプロジェクトにも参加する「働く理事」としたいと考えた。そこ
で、役員をお願いする人には、一人ひとりに個別に直接会って、組織のミッションや組織体制、事
業に至るまで議論を重ねつつ、就任の依頼をしていった。8月から順次、就任依頼の訪問を重ねて
いった。就任依頼が完了したのは、秋が深まった頃であったと思う。
○ 創設
2000年1月20日、「パブリックリソースセンター」が創設された。
第1期の理事には、今田忠氏(市民社会研究所所長)
、雨森孝悦氏(日本福祉大学教員、国際交流
の会とよなか理事)
、江橋崇氏(法政大学法学部教授、人権フォーラム21副代表)
、岡崎昌之氏(法
政大学現代福祉学部教授、自治体学会企画部会長)
、佐野章二氏(地域調査計画研究所代表、シチズ
ンズワークス代表)
、中村陽一氏(立教大学大学院教授、日本NPO学会理事)
、播磨靖夫氏(財団法人
たんぽぽの家理事長、日本ボランティア学会副代表)
、平岩千代子氏(電通)
、槇ひさ恵氏(財団法
人国際障害者年記念ナイスハート基金事務局長)
、山崎富一氏(社会福祉法人世田谷ボランティア協
会事務局次長)に加えて、岸本と久住。監事には、桜井陽子氏(財団法人横浜市女性協会横浜助成
フォーラム副館長)
、雨宮孝子氏(松蔭大学教授)が就任した。
(その後、雨宮氏、平岩氏が退任し、
2002年度からは、
秋葉武氏
(立命館大学助教授)
、
土肥寿員氏
(財団法人公益法人協会事務局長)
、
湯瀬秀行氏(財団法人助成財団センター事業部課長)
、勝又英子氏(日本国際交流センター事務局長)
が就任した。
)
○ 事業展開
パブリックリソースセンターのミッションは、パブリックリソースを生み出す社会システムの開
発である。そのために、パブリックリソースの現状を調査し、パブリックリソースシステム構築の
ための戦略プロジェクトを構想し、実験的にモデルを構築する役割を担い、次のような事業に取り
組んできている。
①パブリックリソース、市民社会に関する調査研究
基礎研究から戦略研究まで、幅広い調査研究を実施。(例:『パブリックリソースハンド
ブック』(ぎょうせい)の編集、「自立的市民社会の育成に資する資金循環システムの構
築とその基盤整備の方策に関する研究」
(総合研究開発機講 NIRA)
、「NPOの財務状況に
関する調査研究」(政策投資銀行))
②パブリックファンド(寄付仲介組織または基金)の創設
米国の寄付調達の仕組みである「オルタナティブファンド」をモデルに、「地域型ファン
ド(例:世田谷まちづくりファンド)」や「課題型ファンド(例:神奈川子ども未来ファン
ド)」をNPOと協働して、モデル的に立ち上げる。
③企業の社会性・グッドカンパニーの促進と「社会的責任投資(SRI)」の推進
社会貢献活動や環境保全に積極的であるなど、「社会性」を備えた企業に対して選択的に
投資を行う仕組みの開発(例:「あすのはね」
「モーニングスターSRIインデックス」)。
グッドカンパニーフォーラムの開催。(2001、2002)
④市民主導によるNPO支援センターの創設
民主導による支援センターづくりを行政とのパートナーシップのもとで実現する活動を支
援(例:埼玉県蓮田市)。
⑤NPOキャパシティビルディングの仕組みづくり
NPOの組織としてのマネジメント能力を強化する仕組みづくり。(例:「NPO養成講
座」の実施。(多摩市、立川市等))
⑥市民社会創造に向けたアドボカシー
市民社会創造に向けた課題提起とミーティンググラウンドの設定。(例:「パブリックリ
ソースフォーラム」(2000)、「市民社会フォーラム」(2001)、「オルタナテ
ィブファンドフォーラム」(2000)、「ウィメンズファンドファーラム」(2001))
○ 全力投球
パブリックリソースセンターを創設し、運営し、3年余が経過しようとしている。この間、私は、
ウィークデイの夜、土日祝日などに、年間240日余りをパブリックリソースセンターに通ってい
る。平均すると週に4.6日になる。時間とエネルギーは、ボランティアとしてはマキシマムの投入
だろうと思う。パブリックリソースセンターは、まだ3歳。これから大いに変容を遂げていくだろ
う。市民社会の創造へ向けて、役員とスタッフ、岸本とともに、互いの夢を磨き、実現する「協働
と共創」の基点として、最大限のコミットメントをしていきたいと考えている。
6.市民社会の創生へ―市民活動・自治体の2000年代中盤へ向けて―
○ 二足のわらじ
1980年代から2000年代まで、社会は揺れながらも、市民社会への道程を少しずつ歩んで
きたように思う。私は、「二足のわらじ」を履き続けてきた二十年であった。「まだ、役所に勤め
ているの?」と、よく言われる。個人としての年賀状を出さなくなって、パブリックリソースセン
ターの公式年賀状のみが届くのだから、そう思っている人も少なくないだろう。しかし、ずっと、
あるいは、まだ「二足のわらじ」なのだ。
前に、やりたいことを絞り込むべき、とのスーザンさんからの忠告を紹介したが、自分自身の中
では、市民自治の実現と市民社会の実現は、ひとつのこととして「統合」されている。市民主権を
実現する上で、NPOからのアプローチと、自治体改革のアプローチとの2つの同時に進めたい。
そして、どこかで現実に2つを統合したい。2つのアプローチを追うこと自体が、「欲張り」であ
るのかもしれないが。
○ 21世紀中盤への課題
最後に、2000年代の中盤へ向けて、非営利セクターと自治体の課題について、自分がやりた
いと思っていることを中心に課題を提示しておきたい。
a.非営利セクター全体に求められる仕組み
今後の日本社会におけるNPOの拡充・発展のためには、まだまだ、いくつもの課題がある。
まず、パブリックリソースセンターが目指すような「専門的支援組織」の整備・充実が必要とさ
れてくるだろう。ここでいう「支援」は個別NPOに対する技術支援だけではなく、社会システム
を「創出」「開発」していくことを通して市民セクター全体に対して寄与・貢献していく機能を意
味している。調査研究やアドボカシーなどの「社会的提案」という意味合いもこの専門的機能に入
る。専門的支援のなかでも、テクニカルアシスタンスをスポンサー付で実施する「協働型テクニカ
ルアシスタンス」が必要であると考えている。このためには、テクニカルアシスタンスを実行でき
る人材資源の充実が求められる。大学院レベルのNPOマネージャー養成システムも重要である。
あるいは、セクターを越えたコラボレーションも求められるだろう。
このほかに、法制度の改善や、資金・情報資源の充実なども、やっていかなくてはならない。ま
た、いろいろな仕組みづくりとともに、改めて「NPOの思想・哲学」というものが求められるだ
ろう。NPOが市民社会を実現する核としての役割を果たしていくためには、哲学が不可欠である
と考えている。このための仕掛けとムーブメントも興していきたい。
b.市民社会における自治体改革
自治体改革もしくは自治システム改革という分野と、市民活動やNPOの確立という分野は、こ
れまでは「水と油」の関係と見られがちであった。確かに、80年代に私が市民活動やNPOに力
を注ぎ始めた頃は、「酔狂」「物好き」「余技」といわれ、自治体行政との連関を理解してくれる
人は極めて限られていた。「二足のわらじ」の語義は、かつては「相矛盾する仕事を同時並行にす
ること」を意味していたというが、外から見れば私もそのように映っていたのかもしれない。しか
し、現在では「コインの表と裏」あるいは「車の両輪」との認識が定着しつつある。行政とNPO
のパートナーシップ(協働)も時代の必然といわれる状況になった。「市民協働力」が自治体に不
可欠な能力であることも徐々に受け入れられるようになってきた。
ある意味では、NPOと自治体の「融合」が生まれつつある。しかしながら、問題は、自治体が
本当に市民社会に相応しい方向に「改革」されているかである。協働も、自治体の変容を究極のア
ウトカムとすべきものと考えている。たとえば、NPOへの事業委託を進めるなかで、自治体行政
の「委託契約方式」を改めていくことや、情報開示を進めることなどが必要なのである。
マクロレベルでは、
公共政策主体そのものを、
行政一本からNPOや企業との並立型に変更し、
「小
さな政府」を実現していくことも求められる。市民社会実現のために、そのひとつの手段として自治
体改革のあり方を構想することが肝心だ。公務員制度改革や地方制度改革あり方も、NPOとの分
担を前提としない限り成り立たない。市町村合併や都道府県に代わる枠組みの創造なども、市民が
自律的に活動する社会を前提に組み立てる必要がある。
さらに、地方を含む政治のあり方も、NPOや成熟した市民を前提にした「市民社会の政治」が
構想されなければならないと考えている。
終わりに
20世紀中盤の構想などと、書いたが、実際には、2050年には、私自身はこの世にいるかど
うかはあやしい。だから「夢」やビジョンを語ってもしかたないだろうか?いや、そうは思わない。
そもそも、人々の幸福を願う「夢」と私利私欲の「野心」は違う。「夢」は自分自身の努力や寿命
だけでは完結しないものであるべきだ。同世代の他の人とともに協働し、そして次の世代へと引き
継いでいかなければならない。「野心」は、自分のためだから、自分が生存しているうちに実現し
なければ、意味がない。だから「野心」は大きく豊かにはならないのだ。
この20年間は、まさに「夢」を探し、描き、そして実現してきたように思う。これからも、さ
らに豊かな「夢」を描き、次の世代に渡していきたい。
* なお、本文の中にお名前や組織名、書名、時期など原典にあたっていないもの
もあるので、誤りがある場合にはご容赦願います。
<参考>
特定非営利活動法人 パブリックリソースセンター
℡03-5540-6256
URL: http://www.public.or.jp/
『パブリックリソースハンドブック』(パブリックリソース研究会・発行:ぎょうせい)
自治体学会事務局 群馬県自治研修所内
URL:http://wwwsoc.nii.ac.jp/jigaku/
℡027-235-2311
市民社会へ個人はどうあるべきか
石井伸弘
特定非営利活動法人市民フォーラム
21・NPOセンター事務局次長
1.まず、市民社会とは何か
現在、講義などで「市民社会とはなにか」を問われる場合、私は社会サービスの選択肢のひとつ
として「当たり前にNPOがある」社会、と答えています。
よく、自治体などのスローガンに、「市民一人一人がボランティア」に取り組める社会を作りま
しょう、なんてことをいう場合があります。しかし、ボランティアをしやすい環境を作ることは重
要ですが、決して、100中100人がボランティアをしている状態が必要だとは思いません。家庭が忙
しい人もいるでしょうし、一家の大黒柱で働かなければいけない人、研究が面白くてたまらない人
に「ボランティア」が大切です、といったところで意味はありません。
例えば、世の中にスーパーマーケットはとても大切な存在ですが、全員がスーパーマーケットで
働く必要はありません。生鮮食料品を提供することが好きな人が働けばいいのであって、それ以上
でもそれ以下でもないでしょう。同じように、NPOはとても大切な存在ですが、あくまで社会の中の
選択肢のひとつとしてあること、そしてその存在が「役に立っている」状態であるかどうかが、現
在問われているのでしょう。
2.いま、最も求められるのは、社会起業家として関わる人である。
世の中にあまたボランティアグループが活動していますが、残念ながら、そのほとんどは個々人
の趣味の領域を越えていません。その趣味の領域を越えたところにサービス提供者としてのNPOが注
目されているのだと思いますが、では、誰がそれを作るのか。現在、多くのきちんとサービスを提
供しているNPOの実態は、ボランティアグループから成長した、というケースより、「初めからサー
ビス提供者」を目指していた、というケースがほとんどのように思います。
もちろん、NPOの中では、公共事業を止めるための運動や、ゴルフ場建設中止運動、HIV訴訟など、
いわゆるサービス提供というより、社会的な課題を解決するための「運動」は、サービス提供者を
目指すという視点とは異なるものもありますが、共通しているのは、「社会を変える」「成果を上
げる」ということについて、きちんとしたポリシーがあったということだと思います。
市民活動の層の中には、ボランティア活動や、市民運動、そしてサービス提供型の非営利事業体
などがありますが、現在、最も層として薄いと思われるのが、サービス提供型のNPOです。NPOや、
市民活動というより、むしろ「コミュニティビジネス」「社会起業家」といったほうが言葉の意味
を正確に伝えている気がします。
3.自らの活動の歩みから − いくつかのターニングポイント・きっかけ
最初に、わたしの現在の市民フォーラム21・NPOセンターの職員をしている、という状況にいたる
過程として、重要と思われるターニングポイントのみ記します。
① 大学入学とともに、名古屋にきたこと:よそ者になったこと
② 大学4年の春に父親に「環境の分野で生きていく」宣言をしたこと
:普通の就職をしない、という決意
③ 大学4年の秋に環境NPOを立ち上げたこと
④ 大学の1年先輩が環境NPOに就職したこと:モデルが身近にいたこと
⑤ 誘われるまま、市民フォーラム21の職員となったこと
私自身は強い意志を持って「この活動をやる」と決めたことはほとんどなく、結果として、現在
に至っているだけです。なんとなく、「こうなるといいな」「誘われたから」という理由で行動し
てきました。自分から行動を起こしたこともありますが、たいていの場合は「ひまだったから」「こ
うなるといいな」を具体的に考える時間があると、何か始めていました。現在、めちゃくちゃ忙し
い日々を送っていますが、仕事をやめてひまになったら、またいろいろ考えて、何か始めるのだと
思います。
4.市民活動との出会い
大学入学と同時に名古屋に一人暮らしをするようになり、ほとんど誰もいない環境に放り出され
たことは、私自身にとって、大変楽しいことでした。何にでものめりこむ性格のために、大学祭に
はまり、大学祭が終わった後の「ひま」なときにたまたま見つけた大学内の看板から、「長良川河
口堰」の反対運動にかかわります。もともと環境問題に関心があったこともあり、原発の反対運動
でもしようと思っていました。学内にたまたまあった団体が長良川をやっていたので、長良川にか
かわったのです。その活動をきっかけに、全国の学生・青年が行う環境活動グループのネットワー
ク作り「エコ・リーグ」の設立に立会い、自分が抱えていた問題意識が同世代で共有されました。
正直、ひとつの大学の中だけで活動しても、ほとんど仲間の広がらない中での活動であり、しんど
さもありました。しかし、人との出会いが自分の思いを強化したのでしょう。
5.環境問題を解決するために生きることの決意
95年、市民フォーラム21・NPOセンターの前身の前身である「市民公益活動の発展を考える討論会」
がスタートしました。私はちょうど大学の4年生の春で、進路選択を迫られていました。父親が名古
屋に用があるということで、初めて父親が名古屋にくることになりましたが、何を言われるかはわ
かりきっています。「将来の仕事をどうするのか?」
大学そのものも、環境問題を解決するために研究できるテーマは何か、と選んでいたのですが、
環境問題に関連した仕事というのは決して、職業として確立しているものではありません。自治体
職員か、研究者か、市民団体職員か、そんなものでしょう。私は数日悩んだと記憶しています。そ
の結論として、私は父親と2人で喫茶店で食事をしながら、父親に伝えました。「どんな仕事になる
かもわからないけど、環境問題を解決することのできる仕事をしたい。」父親は私が環境活動をし
ていることは知っていましたので、そんなに驚いたふうはなかったように覚えていますが、私とし
ては重大な宣言でした。その宣言からおよそ10年たち、結果としてしている仕事は全く(かなり)
異なったものとなっていますが、それは結果ということで、私自身は納得をしています。むしろ、
この宣言は「目的をもった仕事をする。その結果、収入が少ないものになるかもしれないし、普通
の安定的な仕事をすることを放棄する」という宣言だったのだと思っています。
6.起業と言わない起業
その後、大学院へ進学し、ほとんど研究をしない大学院生活をおくり、同時に大学4年生の時に始
めた、環境就職情報誌を作る、環境NPOの活動で食べていくことができないかと考えるようにな
りました。不良大学院生でしたので、研究がしたくて進学したわけではなく、モラトリアムの延長
(むしろ、活動をするために)でしたので、研究を続けること、研究することを仕事にすることは
全く想像できなかったのです。
研究は嫌いではありませんでしたが、
一日中研究室に閉じこもって、
閉ざされた人間関係の中でいることだけは我慢ならなかったのです。
そのころ、
私といっしょに大学で活動していた、
ひとつ上の先輩が同じ大学の大学院を卒業して、
東京の環境NPOに就職しました。
彼の両親とだいぶもめにもめたそうですが、
結果的に押し切り、
決断をしたのです。私にとって、大学院を修了して、普通の就職をしない、という決断を後押しし
たのは、中部リサイクル運動市民の会の代表である萩原さんと出会う機会があったこと、ひとつ違
いの先輩がNPOに就職したことが大変大きな影響を及ぼしています。そして、私が代表をしていた環
境就職情報誌を作る仕事を職業として選びました。そのとき、その団体の年間の売上は約200万円。
決して大きな活動ではありませんでしたが、工夫次第で大きくすることができると思っていました
し、評判も比較的良く、いっしょにやっていく仲間もいました。そのメンバーとともに、給料を出
せるようにしよう、ということをお互いに言っていましたので、抵抗感も少なかったのです。ただ、
起業とは言いませんでした。起業というより、萩原さんがいう、食える市民活動を目指す、という
ほうが感覚として近かったためです。
しかし、あくまで「決断をした」という感覚はありませんでした。そのときにやっていた活動を
延長することだったのです。両親には帰省のときに中部リサイクルに就職する、月給12万、という
話をしておいたように覚えています。絶句した母親の表情をよく覚えていますが、ああ、絶句する
という表現は、こういうときに使うんだ、と、人ごとのようでしたが。中部リサイクルの萩原さん
から誘われていましたので、起業するともいわず、そのように説明したのですが、今から考えると、
かなりいいかげんですね。
7.ずるずるとNPO支援業務へ
大学院を卒業する春、大学4年生の秋頃から誘われて関わっていた市民フォーラム21のイギリスに
おけるNPO活動の視察に同行しました。そのメンバーの多くが市民フォーラム21・NPOセンターの設
立に理事や職員として、中核メンバーとして関わるのですが、ちょうど、市民フォーラム21で中核
を担うメンバーが引いたため、これからどうするかという話をイギリスにいる間、参加メンバーが
時間があれば喧喧諤諤と議論していました。この視察に行ったメンバーから、設立時の代表理事2
名、常務理事3名、理事2名、職員1名が出ることとなり、現在に至ります。
私は、その当時、組織としてどうするかという話はほとんど関心がなく(むしろわからず)、完
全に他人事だったのですが、グリーンピースUKを視察した帰りの中華レストランで、このままでは
市民フォーラム21のネットワークがなくなってしまう、誰かが事務局職員にならないとまずい、
という話になりました。
ひまだった私と、もう一人の若いメンバーに白羽の矢が立ちました。「石井君、どうだ」
ひまだった私は 「いいですよ」 と軽く受けました。
実際、環境就職情報誌を作成するのは冬から春にかけてが忙しく、それ以外はそれほど就職情報
も出ないため、季節労働のようなものです。市民活動であるなら、大した違いはない、という感覚
も手伝い、引き受けたのです。実際にイギリスから帰国し、イギリスにも同行した萩原さんから「専
従でやるのであれば、20万くらい出せるようにしたい。」それがいつのまにか、
「10万くらいかな」、
となり、実際に5月から仕事を始める時には「月3万円、できる範囲でたのむわ。」
業務の内容も範囲も不明なまま、それでも3万円も出すのは画期的なことだったのです。私にして
みれば、環境活動をするための小遣い稼ぎだと思っていましたし、私自身が社会人経験もなかった
ため、適正価格がどうであるかということは、全く無知だったこと、市民活動で給料が出るなら、
それだけでもすごい、というあたまがあったためでしょう。この3万円は、イギリスに視察に行った
メンバーおよび、市民フォーラム21の運営委員(私もそうでしたが)から、活動を継続するための
最低限のインフラとして、一人6万円(5千円×12か月分)寄付を募ったものでした。そして、これ
で40万円ほど集まり、私への支払いと、家賃の支払いに当てられたのです。
8.NPOセンター職員と、環境NPO代表の二足のわらじ
1997年11月23日、私が働き始めて半年後に、市民フォーラム21は市民フォーラム21・NPOセンター
として、ネットワークとしての活動から、NPOを支援するサービス提供型のNPOとして、あらたな出
発をしました。その後、市民フォーラム21・NPOセンターの活動は毎年、倍倍ゲームで成長していき
ました。月給3万円パートタイム、職員1人の状況から、あっという間に職員17名(短期契約職員含
む)の組織へと成長し、私の給料も賞与込み年間300万程度にはもらえるようになりました。組織の
年間予算額は約15倍、私の年収も約10倍になりました。人並みではないにせよ、人並みに近い数字
になりました。その間に、私が代表をしていた環境就職情報誌を作るNPOは一時期パートタイム職員
を雇うまでになりましたが、代表である私があまりに市民フォーラム21・NPOセンターの仕事に時間
を取られた結果、現在は実質活動中止を余儀なくされています。急成長する組織の理論に、私自身
がやりたいことをやれなくなった、と見ることもできます。
しかし、私は市民フォーラム21・NPOセンターの現場責任者として、さまざまなリソースを使った
活動ができることは大変面白いもので、自分の成長と組織の成長がほぼパラレルになっていたよう
に思います。市民フォーラム21・NPOセンターにおいては単なる事務員として仕事をさせられた、と
いうより、「自分がやらなければ組織も回らないし、伸びない」という強い主体意識を持って関わ
ってきました。組織の起業プロセスにおける、とても重要な一部を自ら担ってきたのだと思ってい
ます。その意味では、私自身も超過勤務、ボランティア労働、ともに多いのですが、半分は経営者
の感覚がありますので、労働条件もなにもありません。組織あっての仕事です。もちろん、現在も
理事会によって雇用される職員の一人ですが、いつでも辞める覚悟と、首を切られる覚悟はあるつ
もりです。あくまで、私は環境問題や、社会の矛盾を解決したいと思っているのであって、それを
実現するには市民フォーラム21・NPOセンターでなければならないとは思っていません。現在はこの
組織という武器を使って、変えることができればと考えていますが、組織から見たら、職員という
リソースを使って、社会を変えよう、ということなのだと思います。
9.個人と組織の関係を考える
私は大きな組織に属したことが全くなく、またそれに類することがあったとしても、組織の一員
というより、つねに組織を経営する側か、そこに近いところにいました。そういった環境において
は、組織と個人の関係は共依存になるのでしょう。また、悪意を持って、共依存関係を作り出すこ
とも多くの組織で行われていますが、組織への帰属意識を高めることと、職員のモチベーションを
高める方法はほぼ、一緒なのではないかと思います。私はのめりこむタイプですから、時代が違え
ば、過激学生運動の当事者になっていたかもしれません。出会ったものが違えば、新興宗教の一員
として殺人を犯していたかもしれません。この先も判断を誤らない自信は正直ありません。
10.市民社会における個人のありようとは
現在、私は財産もなければ、扶養家族もなく、社会的には極めて自由な位置にいます。将来、ど
うなるかの不安がないわけではありませんが、結論から言えば、ほとんどありません。甘いなあ、
と言われればそれまでですが、まあ、これだけ豊かになった国であれば、どうにかなるのではない
でしょうか。個人が行動するときには、必ずリスクがついて回ります。そのリスクに対する感覚が、
決定的に私は抜けていました。もちろん、あるとき突然思い立って市民活動をしよう、としたわけ
ではなく、さまざまな人と出会い、自ら小さな行動を起こしてみたことの積み重ねが、リスクに対
する恐怖より、挑戦することの楽しさを上回らせたのだと思います。
いつの時代であっても、個人が組織を作り、組織を使ってシステムを作ってきたと思います。よ
り柔軟に、より生活している人に近いところでそのプロセスが行えるようにすることが、市民社会
として目指すべきところでしょう。そのための環境整備は、社会的にはまだまだ不十分ですが、さ
まざまな起業を支援することは、制度的なものだけではなく、人とのつながりの方が効果が上がる
ことも実証されているのだと思います。
「リスクを恐れるより、挑戦を楽しめる」全ての人がそうなる必要はありませんが、もう少し(具体
的に定量化できませんが)そういった人が出てきやすくなるように、またその前段階の人がいたとし
たら、物心両面で支援していくこと、これが現在市民活動をしている人に特に必要なことではない
でしょうか。
NPO法前夜と今日
村山康成
新潟NPO協会
1.単純にボランティアの人口だけ増やしてもどうなるのかと
理屈じゃなくて感覚で違和感を持っていました。
−こんにちは。村山さんですね。
はい、そうです。
−今日は、村山さんが、NPO とどういう関わりをもっていったのか、個人としてどう行動されたの
かをお聞きしたいわけです。村山さんは、公務員なわけですよね。県庁に出向してらしたと聞き
ましたが。
ええ。96 年 4 月から 98 年 3 月まで、新潟県庁の生活企画課社会活動推進係という部署におりま
した。本来は、柏崎市の職員なのですが、新潟県で県と市町村の相互交流人事というものが 96 年に
始まりまして、その一期生でした。非常に迷惑な話だったんですが。
(笑)
−ボランティア活動には興味があったんですか。
いえいえ、とんでもない。最初、ボランティア活動を担当する部署だと聞いて、それは暗∼い気
持ちになりました。福祉のボランティアなんてやったことなかったですからね。なんかつらい時で
もニコニコしてなきゃなんないとか、道徳の教科書に出てくるイメージですよね。それと施設に行
ったときの経験。食べ物とトイレの入り混じった匂いをその時思い出しました。今考えると、とん
でもないイメージですけど。
−そもそも、どういう部署だったんですか。
新設の部署だったんです。阪神淡路大震災の直後で、行政の方でもボランティア活動を振興して
いかにゃいかん、という経緯だったみたいです。ボランティアを増やすにはどうしたらいいか、と
か、そんな議論を 4 月 1 日からやってました。市役所では、4 月 1 日は仕事は適当にしておいて、
あとは飲みにいく、というパターンでしたので、飲みに行かない、と判ったときは、あっけに取ら
れましたね。
で、
「ボランティア活動とは…」
と議論している職員そのものが活動未経験なわけです。
可笑しいですよね。
−阪神淡路大震災でボランティアが注目されたのが、95 年ですよね。
そう。県庁にまで「ボランティアしたい…」という電話がかかってくる時でした。わたしは今ま
で活動に縁がなかったものですから、主だったボランティア団体の方を訪ねて回りました。みなさ
ん不思議がるんです。行政にボランティアを専門に担当する部署ができたことに。そして「ところ
であなた活動の経験は?阪神には行きましたか?」それは、敵意に満ちてましたね。
(笑)活動もや
ったことのない人間に、われわれのことがどうして分かるのだ、という。
−どんなお仕事だったんですか。
やはり、行政がボランティア活動を推進していくための基本ラインをつくろう、と。それに、ま
だボランティア活動は、まちづくりなり、河川なり、福祉なり縦割りでしたから、それらの情報を
総合的に集めていこう、と。ほんと、全てが初めて聞く言葉でしたから大変でした。
「ノーマライゼ
ーション」という言葉と、
「ビオトープ」
「NGO」
「市民参加」といった言葉を同時に勉強していかな
きゃならない。
「しゃきょう」って「社会教育」かと思っていたら、
「社協」ですもん。
−NPO法の議論が、その頃始まってますよね。
市民活動に関する情報には飢えていましたから、早くから「インターV ネット」を見ていたんで
す。
「シーズ」の存在も知っていました。行政職員だってそのぐらいの情報収集はしますよ。
(笑)
だけど正直、自分の会社に関係ある話だとは思ってなかったですね。大阪ボランティア協会の早瀬
さんから、
「新潟県はどう対応されるんですか」と聞かれたとき、何も考えてなかった。それが、あ
れよ、あれよ、という感じで議論が進み、間もなく勉強せざるをえない状況になった。
「日本 NPO
センター」
「シーズ」に駆け込んだのが 97 年夏です。大変なことになったと思いました。
−新潟県のNPOの動きはどうだったんですか?
遅かったですね。
「おやこ劇場」さんや「自然保護協会」さんが早くから動いていたぐらいで、逆
に新潟県の意識を高めないと大変なことになると思いました。そうでないと法案の議論に新潟の
NPO の意見を反映できないし、法律が通っても申請はないのじゃないか、と思いました。
最初、わたしの係はボランティア担当なんで、NPO は関係ないという話をしていたんですよ。法
人の認証は各担当課でやればいい、と考えられてました。わたしはそうは思えなかったですね。ず
っとボランティア活動に疑問を持ってましたから、NPO 法の議論は突破口になると思いました。
−どういうことですか?
単純にボランティアの人口だけ増やしてもどうなるのか、と理屈じゃなくて感覚で違和感を持っ
ていました。また、その頃にはかなり活動している人たちを知っていましたから、ボランティアの
限界みたいなものも見えていたんです。
わたしの発想は常に行政側からですから、そうしたボランティアの方たちをパートナーとして位
置付けることに無理があると思っていました。事業を共催しても、当日事情があって来られない…
では、組織としてまずいじゃないですか。でも無理を言えないですよね。ボランティア個人の方と
お話しているうちは…。
−行政のボランティア振興策は、あまり聞かれなくなりましたね。
ええ。現場でボランティアの方たちと向き合っている職員は辟易しているんじゃないかと思いま
す。あと NPO が流行りだということもありますし。
「生涯学習ボランティア」が「生涯学習 NPO」に
なったように、国策が転換されてしまうと自治体もなびいてしまいます。本当は、ボランティア活
動のことを突き詰めて考えることは、行政には無理があります。
「人間とは何か」のような簡単に結
論の出ない命題ですから。
2.NPOの皆さんも縦割りですから、
−村山さん自身は何か活動をされていたんですか。
う∼ん、一通りやりましたね。何せ原体験が「お前は何活動しているんだ?」ですから。施設、
手話、拡大写本、要約筆記、ワークショップ、在日外国人支援、NGO、舞台、テープ起し、自主上映、
シンポジウム・・・。もう、手近にあるものは何でもやったという感じで…。
−ボランティアに良くないイメージを持っていられた割には、随分活発じゃないですか。
怒られるかな。
(笑)仕事だと思ってたんですよ。言われてないけど。とにかく、共通の土俵に立
ちたかったんですよ。活動をやってらっしゃる人と。でも、すぐに活動自体の面白さにのめりこん
でしまいました。いちばん大きかったのは、肩をこわしながら手話通訳やっている人と出会ったこ
とですね。まさに、何とかしなきゃと思わされました。なんとかする、って言ったって何をどうす
るか全然分からないんだけど…。
で、行政とは違う価値観、そして仲間意識を初めて知った感じですね。行政の仕事って孤独だと
思うんです。町会や市民の方は好きなこと言ってくる、という感じで。話し相手が同じ行政の職員
しかいない。センスを共有できない。しかし、いろいろな人と出会う中で、この人たちとなら共通
の土台で話し合いできるんじゃないか、と思いました。
でも本当の意味で行政組織から離れて活動したいと思ったのは NPO 法の勉強会を自分で主催した
ときからでした。この法案だけは、行政ではなく民間の方に勉強していただかなくてはならない。
行政が法案のレクチャーしたって何の意味もないです。むしろ、所轄庁はある意味で NPO からコン
トロールされる立場です。NPO の皆さんも縦割りですから、その分野の東京の団体から降りてくる
情報が全てなんですよ。だから、この法が持つ意味の大きさが今ひとつ腑に落ちないんです。わた
しのところには必要ないわ、みたいな。
−所轄庁になる立場から見て、NPO 法はどんな法律だったんですか。
一言で言うと、こんな迷惑な法律はないな、と…(笑)
。議員立法でさらに団体委任事務でしょ。
これがどういうことかと言うと、国からやり方が全然出てこないんです。経済企画庁で会議を招集
したんで行ってみると、
「みなさん、がんばってください。
」ですから。
(笑)
当時、NPO というか市民活動の所管さえ決めていない県が多かったんです。自分の仕事かどうか
も分からない自治体職員が、あちこちの勉強会を右往左往していました。頼りになるのは NPO だと
言われていましたけれど、NPO だって新聞に書いてある以上のことは知らないんです。だいたい新
潟県では関心が低かったから、NPO は。県庁での仕事が終わってすぐ新幹線に乗って東京の集会に
出かけていく。集会に出ているときは興奮してますが、帰りの新幹線でこんなことまでやらなけれ
ばいけないのか、と。
−村山さんはホームページもされていますよね。
ええ。もとはと言えば、行政で予算要求して削られたのが発端です。本来なら、紙媒体で市民活
動の情報を出せればベストなのですが、なかなかお金がかかることから早くからインターネットに
は目をつけていました。
ところで、
「ぼらんたーる」という雑誌がかつて出ていたのを知っていますか?出て 5 号ぐらいで
休刊しましたけれど。広告が集まらなかったんでしょうね。でも内容は画期的で、今まで縦割り、
仲間内でしか流通していなかった市民活動の情報をファッショナブルに、提供していた。とにかく
自分のところに来た情報だけでも発信しようと、見よう見真似で始めました。今は NPO のホームペ
ージもたくさんあって、
それこそ行政でも情報提供しているので選択肢がたくさんあります。
でも、
わたしが始めた頃はこんな状況は想像つかなかったですね。
3.常に全体のバランスを整えながら、地域社会を良くしていく
その意味で現在のNPOはマニアックだと思います。
−98 年に市役所に戻られて生涯学習課でした。
ええ、なんかしばらく気の抜けたようになっちゃって…(笑)県庁にいた時は、それなりに目的
意識もあったし、やるべきことも分かっている気がしていた。でも、いきなり生涯学習担当になっ
て、この分野と NPO がどうつながるのか見えてきませんでした。単純にボランティアを増やせばい
い、とは、すでに思っていませんでしたし。ただ、どうしても気になっていたことがあって。それ
は、NPO 全体の業界づくりのことなんです。NPO 法のときもそうでしたが、NPO 全体のことになると、
個々の NPO の人たちはテンション下がっちゃうんです。NPO 税制に関して県議会に請願あげたこと
あるんですが、
「税制はうちの団体のミッションじゃない」とハッキリ言われました。そんなもんで
すよ。みんな時間もないし。こればかりは未だに課題です。
それとちょっといいですか。地縁組織についてなんです。今、NPO が世の中を席巻しているよう
になっているけど、昔ながらの地縁組織、例えば町内会とか PTA とかだって充分仕事をしているん
ですよ。地域には NPO のリーダーほど先鋭的でないけど、しっかりしたリーダーもいる。それは、
やっぱり今の担当になってから見えてきた部分ですね。
その地縁、
血縁が複雑に絡み合いながら存在しているのが地域社会で、
その中で NPO って言うと、
どうしても異質な感じがするんです。よく、自治会の仕事はボランティアかどうかという議論があ
りますよね。自治会を自発的でないと思う人は、ボランティア活動でないと言うし、ボランティア
を奉仕活動だと思っている人は自治会もボランティアだと言う。結局「ボランティア」という言葉
の中に「いいこと」という意識があって、それが議論をややこしくしているんですね。
NPO という言葉も同様に、誤解される可能性があると思っています。地縁組織を主体にして活動
が事業になってきているケースはとても増えてきています。でも、地縁組織の顧客はそこに住んで
いる人たち全部ですから、けして突出した存在ではいけないんですね。常に全体のバランスを整え
ながら、地域社会を良くしていく。そうした存在がこれからずっと必要になりますよ。その意味で
現在の NPO はマニアックだと思います。
4.市民活動専門の部署を置くことは自治体にとって第一歩だと思うんです。
−新潟県にはNPOをサポートするNPOはあるんですか。
ええ、いくつかミッションに掲げているところはありますが、まだ充分じゃない。とにかく、個々
の NPO があそこに行くと楽しい、得する、と思えるような拠点が必要です。場所的にも人的にも。
99 年に「新潟 NPO 研究会」というものを立ち上げたんです。見事にぽしゃりました。以後、その繰
り返しですね。
−柏崎市にもこの春から市民活動担当の部署ができたんですよね。
そうです。市役所に戻ってくるとき、市民活動の部署がなかった。確実に時期を失したと感じて
います。だから、部署の設置については相当いろいろな上司に話をしました。柏崎市の場合、トッ
プダウンでもないし、他の自治体を横睨みしてつくったわけでもない。純粋に職員の間でプロジェ
クトを立ち上げて、研究成果を積み上げて機構を直しました。
お役所に市民活動の部署を設けて何になるんだ、ということも言われます。ですが、そこに配置
された職員は最低限市民活動について考えなければならないのです。行く末はお役所全体の意識を
変えることにもつながっていくと思うのです。少なくとも、NPO がどの課に行けばいい、というこ
とがなくなる。業務内容については、部署をつくってから市民と話し合って入れていけばいいと思
うんですよ。
よく市民活動に熱心な自治体職員がいますよね。NPO で活動している方たちになかなか理解して
もらえないと思うのですが、自治体職員が命令以外のことをやったら、それは「職務専念義務違反」
になるんですよ。言われたこと以外してはいけない。本当は言われたこと以外のことをしてもいい
んだろうけど、上司はいつでもそれを止めさせることができる、ということです。わが社のために、
と思ってやったことが上司の意に反することはよくありますよ。
公務員の制度で「ボランティア休暇」というものがありますが、本来ならボランティア活動して
いても「休暇」でなく、
「職務」でいいのではないかと思っています。同じ公益なのですから。
だから、市民活動専門の部署を置くことは自治体にとって第一歩だと思うんです。
−村山さんは、どうしてその部署に配置されなかったんですか。
いろいろな人が同じことを聞きますね(笑)
。別に行きたくなかったわけではないですが、行かな
い方がいいだろうとは思っていました。
−どうしてですか。
う∼ん、バランスですね。今は市民活動をクールに見つめることが必要だと思いますし、行政の
仕事はやはりパーソナリティーでやってはいけませんから。
−現在取り組んでおられることは。
正直何も取り組んでいません。
(笑)実は活動のほうは、この春に願い出て全て休ませていただい
ています。市民活動に対するモチベーションが著しく低下しまして。
−それはどういうことですか。
疲れちゃったんだと思います。けっこうお役所の中で NPO、NPO って言っていくのも大変ですし、
部署もできたからお任せしようかな…と。だって自分の時間何もなかったですもん。この 5 年ぐら
い。
−それは残念ですね。
実は「新潟 NPO 協会」という組織づくりに今関わっています。もう組織づくりでは、わたしとし
ては最後の挑戦になるのかもしれません。10 月に大々的にフォーラムやりますけど。いちばん悩ん
でいるのが、NPO センターのミッションと事業性。ミッションでは、個々の NPO の利益になること
をするべきか、それとは一回り大きな役割を持たせるべきか。事業性にも関わってくるんですが、
だったら何で稼いでいったらいいのか。
−お仕事をお辞めになるんですか。
いえいえ。辞められないですよ、当分。家族を抱えてますし。
5.もっと市民の人たちが地方自治に目を向けないとどうにもならない
地域の行政は、残すべきものをきちんと峻別してかからなければならないだろう
−最後に、行政はこれからどう変わっていくべきだと思いますか。
難しい質問です。結論から言えば、変わる自治体と変わらない自治体が出てくるでしょうね。今、
地方自治体の変革は、首長や議会に目を向けられることが多いのですが、わたしはもっと自治体職
員自体が変わらないといけないと考えています。
「全体の奉仕者」と言われる職員ですが、いったい
どんな仕事をすれば全体に奉仕できるのか。自治体職員の顧客は誰なのか。上司がよくない、とい
う言い方はしたくないのですが、やはり中間管理職のパーソナリティーにより、組織は変わってい
くでしょうね。
それと共に「職務専念義務」であるとか、職制であるとかが、行政と NPO との境で仕事をしてい
ると大変支障になることが多いのです。例えば NPO に職員を出向させてもいいのではないか。こう
なってくると、地方自治法や憲法の解釈をもっと柔軟にしていかないといけないでしょう。
それともっと市民の人たちが地方自治に目を向けないとどうにもならない。誰かがうまくやって
くれるだろう、では済まないです。これからは。
さきほど地縁組織というお話をしましたが、この地縁組織の使命とは何か、今非常にぼやけてい
ると思うのです。
例えば住民全体の福祉の向上と言ったときに、
障害児の放課後のことであるとか、
中途失聴の方であるとかは地縁組織ではうまく片付かないですよね。かと言って、そうした個別の
テーマを追いかけるために地縁組織の資源を使うわけにはいかない。だったとしたら、地縁組織と
NPO と協調していくことが必要になってくる。
逆に NPO 側から見た場合、地縁組織は様々な政策提言の手法とパイプを持っている存在です。地
縁組織がどんな行動原理で動いているのか、NPO はもっと勉強した方がいいと思っています。さら
に地縁組織は顧客でもある。
だから地縁組織のあり方を自治体はもっと整理していかないといけないと思います。言い方は悪
いですけど、都会の行政は勝手に変わっていくと思うのですよ。しかし、地域の行政は、残すべき
ものをきちんと峻別してかからなければならないだろうと思います。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
半田雅典
高知県ボランティア・NPOセンター
1.「場」と「考える材料」があれば、
自発的に動く市民は、自己責任・自己決定により率先して行動する
私が、市民活動やNPOのサポート事業を行う中で、その考え方や行動に大きく影響を受けたの
は、高知県内においてここ数年で2度発生した集中豪雨による大水害、いわゆる1998年9月に高知県
中央部を襲った「高知豪雨」、2001年9月に高知県西南部を襲った「高知西南豪雨」での災害ボランテ
ィア活動、そしてコミュニティ単位での助け合い活動といえます。人が自発的に行動するというこ
とによる活力、また、「いざ」というとき、日頃から形成するコミュニティベースの活動は大きな地
域力になるということです。
1995年は、
阪神・淡路大震災という大災害が発生し、
約140万人のボランティアが動いたことから、
日本のボランティア元年と呼ばれました。しかしながら、私自身、業務の一環として淡路島に入っ
た程度であり、深く関わったわけではないので、テレビ、新聞の報道、経験者からの情報などに納
得はするものの、ピンときていないのが正直なところでありました。やはり、人から聞くことと、
災害の真っ只中で自ら経験することには、大きな違いがあったことは言うまでもありません。
大震災後、全国社会福祉協議会の号令のもと、都道府県社会福祉協議会が「福祉救援ボランティア
活動マニュアル」を作成することとなり、私の所属する高知県社会福祉協議会でも高知県版のマニュ
アルづくりが行われておりました。
1回目の大水害、1998年高知豪雨ではそのマニュアルを基に、ボランティア活動支援業務を始め
たのですが、「経験と汗が盛り込まれていない」マニュアルでは、体制を立ち上げるまではよいもの
の、その後、どう運営してよいか、どう調整を行ってよいか分からない、という状況。また、プラ
スして、社会福祉協議会職員というボランティアコーディネートの専門家が全てを仕切らなければ
ならない、という大きな勘違いも重なり、現場は混乱状態。「なんとかしなければならない」という
思いはあるものの、思いは空回りし、ボランティアの思いを被災地の復旧につなげることができて
いない苛立ちの精神状態と、睡眠時間も充分取れないという身体的疲労が数日続きました。結局、
阪神・淡路大震災の経験者からの応援をいただき、その後、活動を軌道に乗せることができたわけ
ですが、今、振り返っても、私自身の考え方とその行動に変化させる出来事でした。
まず、「専門家が全てを仕切らなければならない。」つまり「私でなければできない。」という大き
な勘違いは、「指示」しなければ動かないだろうという考え方で、ボランティアを信頼して任すこと
ができていなかったということです。しかし、できないと決めつけているのは私自身であって、任
せていなかっただけだと思います。今、思うと情けないの一言です。自発的に動く市民は、「場」と「考
える材料」があれば、自己責任・自己決定により率先して行動するのです。
確かに現在、ボランティア活動をしている人でも、主体性は少ないが奉仕精神のある住民も多く
います。また、「何か社会の役に立ちたいから、何をしてよいか指示して欲しい。」という人も少な
くないでしょう。これらの人たちを活動に誘導するときは「指示」があると思います。本当にその人
に主体性がないか、は別問題ですが…。
以前より行政や社会福祉協議会などが、ボランティア養成講座という名のもとに、「何かしたい」
住民を公募し、学習会を開いたうえ、修了生を登録する。そして、主催者側の都合により用意した
プログラムに基づき、活動してもらうということがあります。長年、この手法は使われてきており、
現在もまだ多くの地域で見受けられます。また、主催者の都合により、当事者が充分話し合い、合
意形成をしないまま、○○団体として組織化する、そして、事務局は主催者が受け持ち、予算、事
業計画は事務局が全て行う、というパターンも未だに多いと思います。
本来、ボランティアコーディネートは、「指示」よりも「支持」という言葉が当てはまるのではない
か、と私は考えます。市民が「○○をしたい。」という思いを応援しようと、その人が自らの力で実
現できるよう、情報提供、助言、導き、サポートしていくというのが本来のコーディネートではな
いか、と私は考えます。そして、当然ながら市民の考えは十人いれば十の考え方、手法がある、と
いうことです。これは、恥ずかしながら災害ボランティア活動であらためて学んだことです。草の
根のNPOにたずさわる方は、当然のことですが、私は、社会福祉協議会職員としてできていなか
ったということです。もちろん、「指示」が全く必要なくてよいということではなくて、ケースによ
り違いますが、最小限の「指示」と最大限の「支持」が理想であると考えます。
2.地域を取り巻く状況が大きく変化する中、
真の市民社会を実現するためには、変革が必要
1度目の災害での経験で、自発性の意義ということをあらためて認識しましたので、NPOセン
ター開設以前から、社会福祉協議会業務に生かしていきました。当初はイベント系からでした。
広く公募して結成したあるイベント系の実行委員会の際、自発的に参加した草の根の市民団体に
たずさわる個人と、古くからある○○団体の役員を努める方、つまり関係のあるイベントだからお
付き合いで顔を出さなければ、と団体事務局から依頼されてきた肩書きのある個人が入り混じった
第1回目会合のときのことです。私どもの事務局で、おおまかな基本方針案を出した際、2つの意
見に分かれました。草の根の個人は、「私たちは白紙の状態から議論したいので、事務局で誘導する
ような資料を出さないでください。」と…。一方、肩書きのある方は、「みんなが異議なしと言える
状態のたたき台を作ってきてもらわなければ困る。」という意見でした。この両者は非常に極端なパ
ターンですが、市民有志型の団体の方と、コミュニティ型の団体の方が、地域の同じ会合で遭遇し
た際に、よくありがちなやり取りではないでしょうか。その時は、イベントの趣旨から、「市民が創
り上げていくものにしたい。」という意見が勝り、私どもも同じ考えであったことから、前者の草の
根的な手法ですすめました。後者の団体代表は、その後、会議には参加しなくなった方も少なから
ずおりました。
スタッフ間でも賛否両論ありました。みんなが納得できるような会合なり活動のすすめ方に心掛
け、途中で抜ける人が出ないようにしなければ、という意見があったからです。しかし、溝の深い
両者の折衷的なやり方では、中途半端になるし、場合によっては両者に魅力のないものになってし
まうという危惧から仕方ないということで割り切りました。「来るものは拒まず、去るものには一言
…。」です。当然、残ったメンバーは、自ら企画し、納得したうえで、事業を展開することで、魅力
的なプログラムづくりになりました。また、自ら企画したことなので、実施に当たっては、当然な
がら積極性、主体性がでてきます。
そして、何より重要なのはその過程(プロセス)です。自ら気づき、考え、行動するということ
です。NPO関係者からとっては当たり前のやり方が、当初は社会福祉協議会内では違和感もあり
ました。「もっと事務局が決めて誘導しなければならない。」「何で実行委員会を8回もやらないとい
けない、2回くらいで終らないのか。」など。全て事務局が決めて誘導するくらいなら初めからは公
募はしなくてもよい。やるなら徹底的にやるということです。
高知県は、高齢化、過疎化がすすみ、特に町村部へ行くと民間の力は弱く、行政主導ですすめら
れる活動も少なくありません。また、若者が少なく、高齢層の方により、地域活動は支えられてい
る状態です。よって、住民の活動は、奉仕精神はあるが、主体性のある活動はまだまだ少ない状態
です。多くの住民の団体は、役場や教育委員会、社会福祉協議会が事務局を持っていますし、事業
計画、予算等も事務局主導で行われているという市民社会にはほど遠い状態に、不安を感じていま
す。
住民自身が自発的に動くことの大切さを認識することと、行政なども手法を改める時期に来てい
ると思います。私も、地域に出向くときや会合の際には、繰り返し伝え、徐々に変わりつつあるの
でしょうが、まだまだです。もちろん、今までこういう手法で地域を支えてきた方々の努力も認め
ているし、否定するわけではないのですが、今、地域を取り巻く状況が大きく変化する中、真の市
民社会を実現するためには、変革が必要という認識のもと、あえて書かせていただいています。
3.NPOの良い部分を生かした運営をしているコミュニティ型の組織
今のコミュニティ型の組織には、魅力を感じない、面倒くさいということから、入会する人も少
なく、逆に退会する人が増え、以前活躍していた組織も休会、崩壊しているのも事実です。これか
らの世代が魅力を感じ、自ら気づき、行動する組織体に変化していく必要があります。
最近、ある高知の山間部でまちづくりなどの活動をする若者から熟年者までに集まってもらい「地
域づくり交流会」というイベントを開催しました。企画も当事者たちとともに行いましたので、まち
おこしに取り組む若者と話し合う機会が数回に渡りました。「僕達は、やりたいことを自分の考え、
自分のやり方で自由にオリジナルにやっている。」つまり「やりたいこと」を有志型でやっているとい
うことです。一方、コミュニティ型の組織は、「やらなければならない」ことを義務感でやっている
のではないか、という意見もありました。その「やらなければならない」ことは、行政や上部組織な
どからメニューを示されているというものです。
先日、この議論に関連してセンターの運営委員会である委員から発言がありました。高知は夏の
一大イベント「よさこい祭り」があり、多くの若者が参加します。よさこい祭りは、約20ヶ所の競
演場で鳴子を両手によさこいのリズムに乗せて乱舞するというものですが、そこには自由さがあり
ます。音楽は自由に作曲できるし振り付けやハッピも自由、地方車の飾りつけも自分たちで決めれる
ということ、つまり規制が少ないことから、自分たちの責任で決定できることに魅力を感じ、おも
しろさがあるのではないか、ということです。
確かに、
地域に求められているニーズは、
「やりたいこと」と必ずしも一致はしないでしょうから、
どちらがよいということは一概には言えませんが、確実に参加する若者は少なくなっているという
状態です。
いろんな形態の組織があってよいというのは当然ですが、高知のような過疎地域には、有志型の
新たなNPOの組織化が急増するということは考えにくいのが現状です。コミュニティ組織のNP
O化といえば語弊はあるかもしれませんが、NPOの良い部分を一部に取り入れることができるよ
うに支援ができれば、と考えています。実際、NPOの良い部分を生かした運営をしているコミュ
ニティ型の組織も出てきています。全員でなくても、そんな住民が少しでもいれば、確実に組織は
変革していきます。
組織や社会を語るとき、人の意欲は「2:6:2」と表されることをよく聞きます。つまり、組織
のことを本気で考えているのは2割、なんとなく、流れるままに、が6割、反発するのは2割にな
るというものです。「なんだ、本気に考えるのは2割か。」と思われがちですが、逆にいえば、2割
の人が真剣に考えれば、組織は動くし、変わることがいえます、そして、元気は伝染していくので
す。東西に距離の長い高知の県域のセンターのスタッフとして、地域に入り込みながら考えている
ことです。そこに住む地域住民が、自らの住む地域の課題に気づき、考え、合意形成のもと、行動
し、地域づくりにつなげていくこと。こういう環境を整備するため、私の今の願いは、西部、東部
に支援拠点を地域の有志により立ち上げていただきたいと考えていますし、サポートしていきます。
4.悲観的にマイナス指向でとらえがちだが、逆手にとってプラス指向で考えよう
2回目の災害、2001年9月高知西南豪雨を経験したことにより学んだことは、地域の絆です。高知
県西南部の集中豪雨で、最も被害の多かった地域は、土佐清水市と大月町、その中でも、高齢・過
疎化がすすんでいる地区でした。水害の規模から、死者が出ても不思議ではないこの災害で、一人
の死者を出さなかったのは奇跡であると言われています。隣近所に声を掛け合って避難する、地区
長が動く、消防団が動く、この日頃から築かれていた絆は、「いざ」というときに生きました。
1万人を超えるボランティアが活動を終え1ヶ月ほど後、私は少し落ち着いた被災地を歩きまし
た。そこで、80歳を超える老夫婦の家を訪ね、インタビューをしたことがあります。当時のことを
尋ねたのですが、「水位が上がってきて、まず一人暮らしの隣人に声をかけて一緒に避難しなければ
ならない。と思った。」という一言。失礼な言い方になるかもしれないが、80歳を超え、自らの命を
心配しなければならないはずの高齢の方が、年下(70歳代)の隣人のことが気になる、当たり前の
ようなことであるが、素晴らしいことだと思いました。都会では、隣に誰が住んでいるのか知らな
い、話したこともない、関心がなくなっていると言われています。一人暮らしの高齢者が孤独死し、
発見されたのが1週間後、などの事件も過去にありましたが、一方、向う三軒両隣という町村部な
らでは、の意識、行動が残っていることは、高知の財産です。
「災害時は、日常の地域のつながりが試される。」とよく言います。災害が起こらなくても、コミ
ュニティが生きている地域は幸福です。2回目の災害を経験し、あらためて、コミュニティを見直
す良い機会となり、このことを広く発信しています。そして、各地で伝えながら、自身も自分の家
の隣人を改めて気にしています。
高知県は、高齢化率全国第2位、集落消滅のスピード全国第1位の高齢・過疎先進県です。セン
ターとして、NPO経営力アップ支援のプログラムのほかに、地域づくりを考える会合もサロン的
に行っています。町村部の場合、NPOだといってもピンと来ないことからの戦略です。地域の良
さを再確認し、その良さを引き出すために市民としてどう考え、どのように行動すれば良いか考え
る機会の提供です。高齢化・過疎化といえば悲観的にマイナス指向でとらえがちですが、逆手にと
り、プラス指向で考えようというものです。「自身がなぜ、この地域に住みたいと思ったのか。」こ
の問いかけに、彼らの言葉ははずみます。「山、川、海に囲まれて心が癒される。」「人と人のつなが
り、温かさが残っている。」「何もないから、自分で始められる。出番がある。」などです。そして、
共通して出てくる言葉が、「子ども達が自分の住んでいる地域を自慢できるような地域にしたい。」
ということです。地域には、この思いを引き出し、組み合わせるプロデュース的な機関が求められ
ますし、まさにNPOセンターの役割であると考えます。
5.センターが動くことにより、地域が成長することを目指して
このように、2度の災害を経験し、様々なことを改めて気づかされました。そして、今も高知県
ボランティア・NPOセンターの事業を通じ、多くの人と出会い、協働することにより、私自身、
一歩ずつ成長していると実感しています。また、一方で私が、センターが動くことにより、地域が
成長することを目指しています。
私の所属する高知県ボランティア・NPOセンターは、社会福祉法人高知県社会福祉協議会が運
営するセンターです。センターの運営母体をどの組織にするか、というときに、社会福祉協議会の
ような既存の組織、行政的な組織では駄目だ、という声も一部ありました。確かに、全国的に見て
も社会福祉協議会は、望まれるような活動や事業展開ができていない一面もあり、組織も行政出向
の事務局長や行政OBが役員となるというケースも少なくなく、民間性を発揮できていない部分も
あります。しかしながら、変わっていかなければならないという意識は、私自身人一倍持っている
つもりです。これまでの経験、体験を通じ、良いものを取り入れながら、センターを民間性、市民
性を生かした組織運営を心掛けて行動してきました。
本来、社会福祉協議会は、誰もが安心して豊かに暮らせる地域福祉を、草の根の市民とともに実
現していく組織と認識しています。よって、市民との「共感」が基本になります。社会福祉協議会
は、市民と思いを分かち合い、ともに活動することにより、きめの細かなニーズを解決していくか
ら、柔軟性、多様性が生まれてきます。社会福祉協議会の存在、また、活動に共感し、ともに活動
する人が増えれば、社会福祉協議会が目指す地域福祉が実現する可能性はグンと広がりますし、実
際、共感してくれる方の多い社会福祉協議会は、元気な活動をしています。それと、住民の思いに「共
感」している社会福祉協議会は、もっともっと元気です。共感者を増やすことはやはり過程です。本
音での話し合いや協働などの過程の中で、「自分たちの町が好きだ。この町をよくするために自分達
ができることは…」と、共感は生まれてくるのだと思います。この部分を社会福祉協議会職員は認識
をもっと深めなければなりません。私はこのことにこだわり、他のスタッフとともに高知県ボラン
ティア・NPOセンターの今を創ってきましたし、今後、本体の高知県社会福祉協議会を変えてい
くことが使命だと思っています。
「一人では何もできない。しかし、その一人が何かを始めなければ何も始まらない。」の個人の意
識、行動がまずは必要です。そして、「一人では何もできない。しかし、共感者が集まれば、できな
いことが、
できるに変わる可能性が広がる。
」という組織の仕組みを生かすことも必要です。
今後も、
自発性に基づく市民の活動が多彩に行われるようサポートし、引き続き「高知の元気」を応援してい
きたいと思います。
「市民社会へ 個人はどうあるべきか」
∼北海道での実践報告∼
小林董信
北海道NPOサポートセンター
1.すべては出会いからはじまる
1994年11月。東京では、シーズ(市民活動を支える制度をつくる会)が設立されました。
翌95年1月阪神大震災。これを契機に一気にボランティア活動、NPOが注目を集めたのは周知
の事実です。同年3月地下鉄サリン事件発生。以降オウム真理教が話題を独占。宗教法人法にから
みNPO法制度の整備には逆風となった時期もありました。私がNPOと出会ったのはそんな時代
背景の時でした。しかし、時の流れの速さには驚かされます。わずか7∼8年前の事がずっと以前
の事のような錯覚に陥ります。その後、日本海重油流出事故などでのNPO、ボランティアの活躍
などが記憶に残ります。
北海道でのNPO活動の始まりは1994年の暮れでした。当時のNPO推進フォーラム山岸秀
雄代表と知り合いだった札幌で旅行代理店を営む佐藤隆さんは、山岸さんから「これからはNPO
の時代だ」と吹き込まれたのでした。私と佐藤隆さんは知り合いでした。95年1月私は、佐藤さ
んに誘われてこの活動にのめり込むことになったのです。95年3月。北海道知事選挙立候補予定
の堀達也さん(私が結婚のとき媒酌人をお願いした横路孝弘知事=現衆議院議員・民主党の後継で
副知事を務めていた)に「NPO推進施策」を選挙公約に盛り込むよう要望したら、これが選挙公
約になってしまいました。
(この選挙の対立候補は元社会党衆議院議員・伊東秀子氏。彼女はこの選
挙で自民党の単独推薦候補となり多くの道民からひんしゅくを買っていました。堀陣営では、彼女
が市民運動グループにも一定の支持基盤があるものと錯覚し、我々のNPO推進要望にすんなりと
乗ったと考えてもおかしくなかったのです。
)堀さんが知事になり、道庁は政策室が事務局となりN
PO推進施策の検討を開始。我々も市民側からの政策提案団体として、95年5月17日にNPO
推進北海道会議を「正式に」結成したのでした。
佐藤隆さんの意向で、代表には「それなりの方?」をということになり、佐藤隆さんと私の共通
の知り合いの上田文雄弁護士、田口晃北大教授、杉山さかえ生活クラブ生協理事長など5名に共同
代表になっていただきました。佐藤さんは事務局長、私は幹事になりました。佐藤隆さんと私は同
い年で、そんなに親しいお付き合いがあった訳ではありません。ともに接点はなかったのですが、
学生運動や労組活動、サラリーマン経験や脱サラ経験など共通する「生き方」があり、お互いにN
PO活動推進で助け合うようになりました。
2.私がNPOに関心を持つに至った経緯
私が最初にNPOという言葉と概念を佐藤隆さんから聞いたとき、この活動は自分の行ってきた
ことそのものではないかと思いました。
大学卒業後、最初に就職したのは大手家電メーカーの三洋電機でした。就職の翌年(1972年)
地元札幌で冬季オリンピックが開催されました。幸運にも私はオリンピック村免税売店に配置され
貴重な経験をすることができました。課長からは「すぐ辞められたのでは元が取れない」といわれ
ましたが1年で辞めました。72年札幌市民生協に就職しました。この年に結婚しました。大学の
同級生です。生協には2年在籍しました。
次に就職したのが「札幌地区労」
(札幌地区労働組合協議会)です。このとき、今のNPOに相当
する活動の萌芽体験をしました。当時は総評が国民春闘とか「職場生産点闘争」から「地域生活点
闘争」へとかいっていました。私は人口が100万人を超え、政令指定都市となった札幌市の西区・
中央区といったエリアで主に住民運動の支援といったことを受け持ちました。スキー場建設反対運
動(緑、森林保全)とか採石場移転運動などを手がけました。
採石場移転運動を例にとると、元々山の中に採石場があったわけです。人口膨張に伴って、採石
場周辺に住宅地ができました。通学路を頻繁に砕石運搬ダンプが通行し、ある時ダンプが商店に突
っ込むといった事故が起きました。さらに、採石場は発破をかけて砕石します。風向きによって砂
塵粉塵が住宅地に流れ洗濯物を汚したりします。発破やダンプの騒音など公害を発生します。地元
の町内会は公害に耐えられなくなって、採石場移転運動を起こしました。私の役目は、チラシづく
り手伝い、チラシ印刷、宣伝カーでの街頭宣伝、北海道議会や役所への陳情活動のアポとり、地域
へのチラシ配り手伝い、住民集会のセットなどの下働きでした。
このとき壁になったのが、
「一過性」の問題です。当時の住民運動では、良い結果でも悪い結果で
も一端決着が付くとそれで終わり。
という経験をしました。
スキー場建設にしろ採石場移転にしろ、
基本問題は「経済と環境」のせめぎ合いです。決してその地区の個別課題だけではないのです。た
またまそこで表出したに過ぎない。だから、そこでの経験は全道、全国、全世界で共有するように
しなければ、結局場所を変え形をかえて表出すると考えました。ですからそこで原体験を共有した
人はその経験を活かして欲しいと思いました。活かすと言うことは選挙での投票行動とか、他の公
害反対運動との連携といった形で表れることを期待しました。しかし、その経験を普遍化し共有す
ることを住民のみなさんに強要できるわけもなく、住民運動支援にむなしさを覚え興味を持てなく
なりました。
こうした問題意識を持って、30才で脱サラして共同購入団体「たまごの会」をつくり、自分の
やりたいことを模索しました。その発展型として34才の時生活クラブ生協・北海道をつくり、設
立発起人代表・専務理事に収まったのでした。この生協は、60年代半ばに岩根邦雄さんが呼びか
けて東京で発足した共同購入生協です。他の生協と違い「良いものを安く」と言った発想ではなく、
商品を「消費材」と呼び、消費材を通して社会問題を解決するというスタンスを徹底していました。
ですから、
「いいもの欲しがり」や「自分さえよければ」と言った考えは否定され、自分がよいと思
ったことを他の人に伝える。消費材の生産から消費・廃棄までトータルで考える。といったコンセ
プトで活動を展開していました。活動の柱は「拡大」と「利用結集」です。こうした活動を展開す
る組織として「班」
「支部」ができ、
「班会議」
「班長会」
「支部委員会」
「支部委員長会議」
「理事会」
という縦組織をつくりました。この生協の特徴は「話し込み」による相互研鑽・学習機能でした。
もともとが「農薬」とか「添加物」などに関心の高い層が組合員ですから、食の安全問題をキー・
コンテンツとして普遍化して捉え、社会問題解決を図るという考えが受け入れられました。組合員
1 万世帯,事業高 20 億円,出資金 2 億円の計画を 7 年で達成しました。
42才で当座の目標を達成したので脱組織して生活クラブ専務理事を退任しました。たまごの会
と生活クラブで知り合った主婦の方たちとの出会いはその後の活動で随分と役に立つことになりま
す。その後縁あって、社団法人「市民科学研究機構」の設立に関わったり、社会福祉法人「愛和福
祉会」という職員数400人の大規模法人の理事として運営に参画しました。そんな中、NPOに
出会いました。まあ、とても飽きっぽい性格で定職につかず、さまざまなことに手を出した結果と
してNPO型人生行路を辿ることになったようです。それと、妻が大学卒業後27年間札幌市役所
職員として家計を担ってくれたことも大きなファクターでした。任意団体―有限会社―生協法人―
社会福祉法人―社団法人といろいろな団体、法人形態に社福法人を除いて設立時点から関わったこ
とは大きな財産になりました。
今思うのは、生活クラブは Vertical Volunterly Organization(縦軸自発的組織)
(営利団体や
宗教団体ではポピュラーだが、非営利団体では珍しいかも)
。NPOは Horizontal Voluntaly
Organization(横軸自発的組織)だということ。また、営利団体はほぼ全てが金銭で量れ、ボラン
ティアの介在する余地は理屈としては成り立たない。宗教団体は、信者というボランティアが金も
労力も提供しごく少数のプロフェッショナルを養うという組織構造。NPOは極めて営利団体に近
いものから宗教団体に近いものまで幅が広い。米国ジョーンズ・ホプキンス大学のレスター・サラ
モン教授提唱NPO定義にもう一つ加えたい。
「ボランティアの参加があること」
。
3.NPO推進北海道会議結成∼建前としての「自主自立」と財団助成
私がNPOに関心を持った背景を長々と書きつづりましたが、NPO推進北海道会議結成後のこ
とを少し振り返ってみたいと思います。
NPO推進北海道会議は、
「行政や企業から自立した、非営利市民公益活動を支える社会的支援シ
ステムを創設すること、及びNPOのネットワークを北海道に作ることを目的」に、1995年5
月に活動を開始しました。
97年4月までの2年間、
北海道へのNPO施策充実の要望
(3回実施)
、
フォーラムやシンポジウムの開催(JPRN 柏木宏さんなど4回)
、アメリカNPO見学(2回)など
の活動を積み重ねてきました。また、
「月例会」
(18回)を開催し、ミニ講座なども実施してきま
した。しかし、95年30万円、96年50万円の年間予算で、事務所もなく専従者もいない状況
で、持ち出しボランティア活動の限界は見えみえだったのです。
97年5月に、
「NPO推進フォーラム/NPOサポートセンター連絡会」の山岸秀雄代表の紹介
で、笹川平和財団と日本財団の方が来札され民間助成財団の活用法を教わったのが飛躍の契機にな
りました。この時期NPO法の制定が現実の日程に上るという状況の変化があったのです。7月に
は事務所を開設し、11月には日本財団の機器助成でパソコンを2台導入し、最低限の基盤が整い
ました。こうした助成はまさに「渡りに舟」
。財団からの助成でジャンプできたのです。 また、自
治労からは96年∼98年まで3年間見返り無しの寄付金をいただきました。代表委員の上田文雄
弁護士からの「返済期限なし借り入れ」もあり活動は一気に全面展開となりました。インディペン
デントセクターとしてのNPOも、建前としての「自主自立」の旗をやせ我慢して掲げていても、
結局先立つものを手に入れる為に、したたかに社会性を身につける必要性を学んだ次第です。この
とき、日本財団ボランティア支援部長の今川啓一さんの支援が心強かったものです。
4.
「推進会議」と「サポートセンター」の分離
北海道NPOサポートセンターの設立構想は、97年当初から断続的に議論していまた。97年
7月の事務所開設、同年10月の常駐スタッフ態勢の確立といった主体的力量のアップと法制度の
整備という客観的条件が折り合い、98年3月28日NPO法人化に関心のある団体・個人が参加
する形の、
「市民設・市民営」による「北海道NPOサポートセンター」を設立しました。
「推進会
議」と「サポートセンター」は無理して分ける必要はないけれど、北海道では「機能・人材・財源」
で分けた方が有利と判断しました。
「推進会議」の機能はNPOをはやらせる、行政と折衝・交渉す
る、調査事業など。
「サポートセンター」は、NPO法人取得講座企画、個別NPOの法人格取得サ
ポート。NPO法人同士の連携、NPO法人運営サポートなど。人材と財源は、別団体なので、そ
れぞれコアメンバーができ活動に主体的に関わる人数が増えたり、使い分けて助成申請できたりメ
リットが大きいのです。
北海道では、更に中間支援センターとしての活動の幅を広げており、NPOへの助成NPO法人
「北海道NPO越智基金」
、NPOのIT化推進NPO法人「インフォメンター」
、全国初のNPO
への資金融資NPOとして「NPOバンク(NPO法人北海道NPOバンク/NPOバンク事業組
合)
」を誕生させています。
5.よく売れるブックレットの発行
98年4月「よくわかるNPO実践ガイド」定価800円を発行しました。このブックレットの
特徴は、
「人類史の中のNPO」
(田口晃北大教授)と「NPOと北海道自立の可能性」
(杉岡直人北
星学園大教授)のアカデミックな論文にはさまれて、NPO法人格取得を考えるNPOにとって実
務的に必要な情報を提供するという大胆なミスマッチにあります。全国に先駆けて、認証に必要な
設立趣意書・定款・事業計画書・収支予算書・役員名簿など15種類の実例フォーム集を載せまし
た。共同通信が全国配信したこともあり、第1刷3000部は半年で完売しました。11月に増補
第2刷2000部作成しました。札幌市内の書店にも卸しましたが、北大生協以外はほとんど売れ
ませんでした。いずれにしても、財団助成でフライトはしたものの、安定的な事業収入による自主
財源をつくらないことには、失速地上激突組織崩壊は自明なのがNPOの宿命です。ブックレット
発行はその実験第1弾だったのです。その後、札幌市内の貸し会議室情報を収録した「さっぽろ会
議室の本」
、この10月から隔月刊の全国初のNPO雑誌「えぬぴおん」の発行を行っています。こ
の辺りは、未だ試行錯誤中です。
6.自主事業と連携事業
ブックレット製作販売以外に、NPO設立相談、安定的な事業収入による自主財源つくりの第2
弾として、税理士を監督にして、パソコン会計ソフトを供として、会計庶務実務代行プロジェクト
がすでに稼働しています。小規模な個別NPOは、当然ながらその集団としての領域(例えば、福
祉とか環境とか演劇とか)に関心がある人たちによって構成されているので、総務とか経理とかは
大抵やりたい人がいなくてしかたなく押しつけられた人がイヤイヤやるというパターンが一般的で
す。そこに着目して「NPO価格」
(これはこれで問題を孕んでいる)で経理や総務の業務代行、介
護保険料請求事務などを行っています。
庶務2的な業務では、
郵便物等の発送代行を行っています。
これは今のところ人力とヤマトメール便と郵便局のアナログ労働集約的作業なのです。
さらにNPO法人設立相談、法人設立書類作成事業、エプロンやTシャツ作成などの自主事業を
行っております。時々の話題を講演会形式で「北海道NPO法人連絡会」と称して年に4回程度開
催しています。介護保険参入NPO法人の情報交換とスキルアップを目的とした「北海道介護NP
O連絡会」
、その札幌版の「介護NPO連絡会・札幌」をつくりその事務局機能を持っています。昨
年からは、北海道労働金庫が設立50周年を迎え創設したNPO支援制度(助成金、自動寄付、振
込手数料免除)に、NPO活動活性化のため、NPO情報の提供等積極的に協力しています。今年
度は、札幌学院大学社会連携センターとの連携で市民向けNPO実践講座(4回)を実施すること
になりました。
7.NPOサポート専門家会議
サポートセンターには、これも全国に先駆けて、弁護士・公認会計士・税理士・司法書士・社会
保険労務士・行政書士・損害保険プランナー・不動産コンサルタント・都市計画建築設計士10名
の「NPOサポート専門家会議」を設置し、NPO法人化を希望するグル−プやNPO法人の個別
具体的な支援システムの構築をしています。当初は「市民設・市民営」で知名度・信頼度に欠ける
サポートセンターの「権威付け」という意味合いもあったのですが、今では否応なく実働部隊とな
りつつあります。経理会計事務講習会、個別相談会、年度末書類作成講座、登記支援、法務局への
申し入れ、社会保険労務講座の講師といった業務を担っています。
8.事務所スペースの共同利用とNPOインキュベーション
現在、北海道NPOサポートセンター事務所は3カ所に分散しています。第1事務所は、札幌の
中心街はずれに所在。今年4月から道内大手のパチンコチェーン「ひまわり」がオーナーのデラック
スなビルのワンフロア約40坪を家賃実質ゼロ円で借りています。ここにはNPO法人「葬送を考
える市民の会」と「札幌チャレンジド」の2団体に光熱水道費実費負担で同居してもらっています。
第2事務所は97年から借りている炭労会館。
北大の近くで、
札幌駅からも徒歩10分の好立地。
家賃15万円/月。30坪のスペースを4法人3団体で共同使用しています。NPO推進会議(1
万)
、
(有)SY 企画室(4万)
、
(有)キューベット(4万円)
、北海道アフリカネットワーク(1万
円)
、A Seed Japan Ezo-rock(1万円)
、編集工房NODE(1万円)
、NPOサポートセンター(3
万)かっこ内は各団体の家賃負担。ちなみに、SY企画室は「さっぽろ・夢企画室」で調査研究、
よろず総務業務代行など。キューベットは学生向けフリーペーパー発行の学生起業家グループ。こ
れらが渾然一体となって「自主運営・自主管理」と「雇用関係を持ち込まない」実験的スペース運
営をしているのです。ネットワーク型の事務局運営のモデルになりうるかも知れない。ほとんど朝
9時過ぎから夜中まで土日祭日も含め、この第2事務所は開いています。会議室(上限15人ぐら
い)
、コピー機、FAX、簡易印刷機(リソグラフ)は各団体共用。電話は各団体で別個保有。当方だ
って日本財団の支援などで孵化したので、インキュベーション事業なんておこがましくて本当は使
えないのですが図々しく使っています。
第3事務所は、札幌駅近く(徒歩5分)の札幌通運ビル3階15坪を6万円で借りています。N
PO法人ボラナビ倶楽部が借りているスペースの半分を又借りしている。駅に近いので「NPO相
談センター」として、書籍や資料の貸し出し・販売、NPO設立相談、介護保険事業者指定相談な
どを行っています。
9.メディアNPOプロジェクトとIT化支援NPO法人インフォメンター設立
これも、出会いがあってできたのですが、NPOのIT化をサポートするNPO法人を2000
年7月に設立しました。主なメンバーは NCF(ネットワーク・コミュニティ・フォーラム)という
MLで知り合った方々です。そこで出会った人や、NPOニュースのボランティア編集長、Web 情
報市民ネットワーク「はしねっと」Web マスターなどと「メディアNPOプロジェクト」を99年
に立ちあげました。代表には生活クラブ北海道の理事長だった杉山さかえさん(現在、NPO法人
北海道グリーンファンド理事長)に就任していただいた。
このプロジェクトでは、とりあえずNPO法施行(12月1日)に合わせて、NPOを広めるキ
ャンペーンを実施しました。ラジオ向けNPO宣伝CMを作成し「道内ラジオ局(ミニ FM を含め1
1局)でのCM」放送)
、NPOマニフェスト’99(NPOをはやらせる標語やポスターなどを公
募=上記のキャラクターを採用、賞金総額20万円)
、NPOイメージデザイン展(複数のデザイナ
ーにデザインポスターを描いてもらう)などを3カ月にわたり実施しました。
この経験を発展させ、市民活動団体のデジタルデバイド(情報の格差)解消を目的としたNPO
法人「インフォメンター」を2001年4月に設立しました。この10月からは札幌市が開設した
「市民情報センター」
(約400平米)の管理運営の一部とその会場で実施する「講座」
「ワークシ
ョップ」などソフト事業を受託しました。
10.NPO基金創設と助成事業
『札幌地区労働組合協議会議長を長年務められた越智喜代秋さんが、今春他界されました。越智
さんは遺言で遺産の一部をNPO活動に寄贈する旨意思表示されました。資産管理を委任された上
田文雄弁護士を中心に、故人の遺志を最大限活かすため、広くNPO活動に資する方法として基金
を創設する運びとなりました。
(
「NPO越智基金」創設(案)より)
』ということで、99年から25
00万円程の運用をする事になりました。一部をNPO起ち上がり資金融資の原資とし、残りは一
般的な利子運用ではなく、原資取り崩し方式で、NPO起ち上がり支援に使う方法で。
NPO法が成立し、21世紀に向けてNPOの立ち上がりを促すことに主眼をおいたのです。9
9年に、NPO推進会議の一部門として設立し、これまで4年間で総額約1000万円の助成金を
北海道内のNPO、ボランティア団体に配分しました。一団体当たりの助成金額は上限10万円と
し、比較的簡便な申請で助成実施しています。2002年8月にNPO推進会議から独立させてN
PO法人として「認定NPO法人」をめざすことにしました。
11.NPOバンク創設
2002年5月から懸案だった「NPOのための融資制度」づくりに本格的に取り組み始めまし
た。道内の事業型と思われるNPO法人74団体とワーカーズ・コレクティブ29団体への電話イ
ンタビュー調査を行い、融資資金需要があることを把握しました。NPO実践者、大学教官、公認
会計士や税理士、地元銀行と労金、政策投資銀行の職員、道庁職員等で「NPO金融システム研究
会」をつくり、2週に1回程度のミーティングを重ね、7月上旬にNPO法人北海道NPOバンク
を設立しました。
(10月4日認証)
、併せて出資金受け入れ団体として民法667条に基づく任意
組合「NPOバンク事業組合」を8月上旬に設立しました。更に北海道NPOバンクは貸金業登録
を行いました。
9月から出資金集めを本格化さえ、NPO越智基金からの500万円を含め、1500万円の融
資原資を確保する計画です。このバンク事業は道庁との協働事業として実施しており、道からも1
500万円の出資が予算化されています。また融資審査に当たって公認会計士や税理士、金融機関
の専門家、財政学が専門の大学教授らで構成する「融資審査委員会」を設置しています。バンク事
業組合は昔の「講」のような組織で、NPO法人の共生連帯基金といった側面と広く企業や市民か
らの資金調達の受け皿という側面があります。
12月に第1回融資を実施すべく準備を進めています。短期の運転資金融資を想定し、金利は長
期プライムレートを参考に当面は年利2%、貸し出し金額は一団体200万円までとしています。
12.行政からの委託事業と民間助成財団からの助成事業
99年以降、国の緊急地域雇用交付金事業などの政策誘導があり、緊急雇用を含むさまざまな行
政からの委託事業と、民間助成財団からの助成事業を実施しています。
行政委託では、(1)介護事業者データガイドブック作成(札幌市委託事業)
、(2)情報化人材バン
ク事業(北海道委託事業)→http://npo-hokkaido.org/、(3)道民チャレンジ21世紀ファンド(情
報)事業(北海道委託事業)
、(4)NPO経営指導者育成事業(北海道委託事業)
、(5)コミュニティ
ビジネス調査(北海道委託事業)
、(6)バリアフリー観光モデル地域調査(北海道委託事業)
、(7)市
民活動全道フォーラム事業(北海道,,ふれあい財団)
、(8)コミュニティ・ビジネス会計業務支援
事業(北海道)
、(9)市民活動地域交流会事業(北海道)
、(10)市民活動団体調査事業(札幌市)
、(11)
失業者対象「NPO起業科」講座事業(雇用・能力開発機構、北海道)などがあります。失業者対
象の「NPO起業科」事業は全国に先駆けて今年の3月から実施し、これまでに3つのNPOが誕
生しています。
民間助成財団からの助成事業としては、企業とNPOの協働関係構築をめざす「地域活性化に向
けた協働型プラットフォーム構築事業」
「モデルNPOスキルアップ事業」
(日本財団)
、
「介護NP
Oスタッフ研修会」
「NPOで元気になる地域介護福祉研修会」
(たばこ産業弘済会/日本フィラン
ソロピー協会)などを行ってきました。
残念ながら、北海道NPOサポートセンターの収入に占めるこの分野の事業収入が70∼80%
と大きくなっておりこの比率を下げるのが課題です。
13.すべては出会いからはじまる
結局、私がNPOに関心を持った理由と95年以降のNPO推進北海道会議/北海道NPOサポ
ートセンターの活動内容の報告に終始してしまい、この稿の本来趣旨からはずれてしまいました。
推進会議の結成は佐藤隆さん、サポートセンターの設立は私が中心にすすめました。この間、生活
クラブで理事として活動をともにした北村美恵子さん、小沼千佳子さん、津田祥子さんの「団塊主
婦パワー三婆衆」は NPO サポセンで重要な役割を担っています。NPO 推進会議代表の田口晃さんは
北海道大学大学院法学研究科教授という第1級の研究者ですが、わたしたち市民の目線で一緒に活
動していますし、北海学園大学の樽見弘紀さんはじめ仲間の多くの研究者がそれぞれのポジション
で北海道の NPO 活動の活発化に力を発揮しています。NPO サポセンの理事長上田文雄弁護士は全国
ではじめて NPO が運営する助成金支給事業をスタートさせる原資を調達しましたし、サポート専門
家会議の大滝和子司法書士はNPO法の不備を指摘し、今回の法改正に盛り込まれることになりま
した。
ほんとうに多くの実践者に恵まれて北海道のNPO支援活動が行われていることを実感していま
す。
市民設の北海道の NPO 中間支援組織の特徴は、機能分化で新たな中間支援 NPO 法人を作ることに
あります。まず NPO 推進会議ができ、NPO 支援が必要と判断したら NPO サポセンをつくり、IT支
援が急務と判断しインフォメンター(加藤知美代表理事、中山慶一事務局長)
、金融支援でNPOバ
ンク(杉岡直人バンク理事長、高木晴光事業組合理事長)
、助成制度をもっと充実(認定NPO法人
をめざす)ということでNPO基金(上田文雄理事長)というように細胞分裂のごとく別法人を作
ってきました。また、広い北海道をカバーするために地域圏域NPOセンターの設立支援をしてい
ます。旭川NPOサポートセンター(森田裕子理事長)
、NPO推進道南会議(池田晴男事務局長)
、
北見NPOサポートセンター(谷井貞夫事務局長)などが地元の方たちの努力でできてきました。
NPOには上下関係は存在しません。相互依存関係のネットワーク組織です。でもこうした組織
形態は日本社会ではなじみが薄くなかなか理解してもらえません。例えばスタッフ(の働き方)に
ついても既存の組織形態に当てはめた見方しかしない方が多いのです。既存のあらゆる価値観から
脱却してオルタナティブを提起するのもNPOの役割と思います。北海道のNPO界隈では、人と
人の出会いを大切に、喧嘩したりいがみ合ったりしながらも、根っこのところでは連帯して活動を
進められたらいいと思っています。
市民社会へ 個人はどうあるべきか
−1995 年以降の自分自身の活動と通して−
真嶋克成
特定非営利活動法人大阪NPOセンター理事
1.阪神・淡路大震災被災者救援活動
個人としての関わりから、信頼関係から運動が広がった。
与えられたテーマ「市民社会へ 個人はどうあるべきか―1995年以降の自分自身の活動を通
して―」を思い描いて、文章を書き始めるとそれは、1995年1月17日、あの淡路・淡路大震
災の出来事からになる。
阪神・淡路大震災が起こった時、私が勤めていた大阪YMCAはすぐさま、救援活動を開始した。
この反射神経のような行動は、組織そのものが持っている、長年の培われ、積み重ねられた活動の
蓄積(それがその組織の伝統や歴史であったりするが)がそうさせたり、そこに働く職員やサポー
トしている会員個人としても体の中に培われていたものが自然に出てきたといっていいだろう。そ
の時、私は大阪YMCA国際社会・奉仕センターの責任者として勤務していたが、YMCAの会員
サービス、国際協力・社会奉仕活動の推進や、外部諸団体との協力活動などが主な活動であった。
その一環として、国際協力を行っている非政府組織、NGOが集まって創った関西NGO協議会(1
987年設立)の事務局の仕事や大阪ボランテイア協会等の市民団体と、市民公共のありかたを研
究する会(市民公共学団といっていた)にかかわっていた。
1月17日、阪神・淡路大震災が発生してから、市民公共学団のグループの有志が 18 日に、支援
活動をする組織を立ち上げようということになり、大阪YMCAの笹江良樹氏、大阪ボランテイア
協会の早瀬昇氏、名賀氏等の協会スタッフ、地域調査計画研究所の佐野章二氏,日本青年奉仕協会ス
タッフなどが中心になった。それは信頼関係を持った個人の関わりからスタートした。それが「応
援する市民の会」の旗揚げであった。
並行して、関西NGO協議会も国際協力で培われた救援活動をすぐさまスタートした。特に2つ
のクループの活動が印象に残る。その一つが、関西NGO協議会の加盟団体である日本キリスト教
海外医科協力会(JOCS)の榛木恵子氏、アジア保健研修所の池住義憲氏等が中心になって、
「関
西NGO医療ボランティアチーム」が組織され、被災地での医療活動が開始された。もう一つは、
同じく関西NGO協議会加盟組織のPHD協会総主事の草地賢一氏(2000年1月病気の為急逝
された。
)や、NGOで経験豊かなシャプラニール市民の会の中田豊一氏らが中心になり、
「阪神大
震災地元NGO救援活動連絡会議」を立ち上げた。この活動を母体としてその後「被災地NGO協
働センター」として組織を作り、トルコ大地震での被災者救援活動など活発に活動を行っている。
「応援する市民の会」はマスメデイアで大きく取り上げられたこともあり、急速にこの会の救援活
動が広まって行った。事務局の大阪YMCAには様々な情報が寄せられ、ネットワークの輪が広が
った。
「応援する市民の会」は最初から時限限定であった組織なので、会そのものは震災後6ヶ月余
りでその中心的な活動を終えた。
救援活動の最中で印象に残った活動団体の中から3つを紹介したい。その一つが、
「外国人地震情
報センター」の活動でその中心が田村太郎氏でその後、
「多文化共生センター」を設立した。2つ目
に、大阪大学の水野義之助教授や下條助教授を中心に、インターネット、電子メールでの情報ネッ
トワークを創って応援していた。この活動は「WNN、ワールドNGOネットワーク」とよばれ、
毎日メールを通して多くの情報や支援の申込が全国、海外から寄せられた。そして、被災地の西宮、
神戸と大阪にそれぞれ、電子情報のキーステーションを設けた。今日ほど一般的にメールでのやり
取りがなかったときであり、携帯電話や電子情報の有効な活用に驚いた。3つ目は、
「震災・活動記
録室」という名前の活動であった。地震に関するあらゆる情報、資料を集めて、これからの救援活
動の参考としようと考えられたのか、その中心で働いておられた実吉 威氏は、その後、資料セン
ターを設置し、現在は「市民活動センター神戸」の代表者として活躍されている。それ以外に数え
切れない個人、団体が創造的な活動を展開していた。
私と私たち国際社会・奉仕センターの職員は、大阪YMCAの救援本部の活動、関西NGO協議
会の救援活動、
「応援する市民の会」に関わり、大阪YMCAの事務所の一角を活動の本拠地として
展開していた。
海外からの支援で印象に残った団体の一つに、サンフランシスコのジャパンタウンに事務所を構
えている、北カリフォルニア日本文化センター(JCCCNC)の関わりである。日系アメリカ人
が中心に支援物資や義援金が集められた。
「できるだけ被災者に直接手渡してほしい」との電話とフ
ァックスが大阪YMCAに入った。アメリカのマスメデイアでは、当時、国内外からの支援物資が
港や倉庫に溜まっているとか、被災者になかなか行き渡らないで市役所などに積まれているといっ
た報道が流されていた。その団体から送られた支援物資は神戸YMCAの救援活動を通じて被災者
に直接届けられた。またJCCCNCから送られてきた2000万円近くの義援金は、主に被災地
のこどもたちの心のケアーのキャンプのために使い、感謝された。これがきっかけで、現在も神戸、
大阪の青少年とJCCCNCとの交流が続いている。このようなたまたまのファックスと電話から
の出会いはその他にも沢山あった。
もう一つ紹介すると、ボートの事故で2000年10月急逝されたニュージランド人のティム・
ホバートさんのことである。氏の葬儀に出席された日本人女性から手紙をいただいた。その手紙に
は、彼が阪神大震災の時、いち早く、地域の人達に呼びかけ、何ができるかを考え、ニュージラン
ド航空に掛け合い、被災を受けた子供達を招待し、ホームステイプログラムを実施したのだ。心の
癒しのホームスティプログラムに被災地のこどもたち100名以上が参加した。葬儀の追悼の祈り
で、
「…私達は多くは彼の能力を過少評価していました。特に彼の他人を思いやる情熱と能力を思い
起します。そして他の人達をも彼のビジョンに巻き込み、その夢の実現に向けてともに進みました.
神戸を襲った大地震の後に、ワイヘイ(オークランド市の沖合いに有る小さな島)の人々と一緒に、
神戸の子どもたちを招待し、過ごしてもらったその実行力を思い起こします。…」と言葉が寄せら
れ感動したと書かれてあった。
2.
「私はそこに関わった」
震災という悲しい出来事であったが、多くの「個人」や「自発的な市民団体」が何か出来ないか
と手を差し出し、救援活動に係った。そこには「個人」の判断と柔軟な対応、行動力がいかに大切
かを痛感した。勿論、緊急救援活動から、日常の救援活動、そしてその後続く復興活動は「個人」
の領域から「組織」
、国や行政の領域に入っていくことは当然である。そして、社会構造を含む体制
そのものの領域に入っていくことだろう。しかしそこには市民の力、市民が参画し、市民主体の相
互に支え合う社会としての市民社会をつくる起爆剤が芽生えようとしていた。市民の目覚めである
ばかりでなく、国、自治体、企業、既成集団そのものも変革を迫られることになった。
私が今少し長々と阪神大震災の時の体験を書き記したが、それは、一つには「人間はどのように
ある出来事の時、対応するのか、そしてどう行動して行くのか」といった「個人」のことに関心が
あるからである。人はそれぞれおかれた状況の中でどう行動するか、それが、やむにやまれず行動
を起した人もいただろう。たまたま出くわせたことからかもしれない。おろおろして、戸惑いなが
ら、かかわっていったのかもしれない。もしかしたら、誰かに引きづられて係ったかもしれない。
各自が主体的に使命と情熱を持って、立ちあがったかもしれない。私にとって、
「私はそこにかかわ
った.そして行動した」ということが大切なのではないかと思える。
今紹介した人達は、課題に立ち向かい、運動を起し、組織化した。それは最初は「個人」と「個
人」の関わりからではなかっただろうか。このような営みの積み重ねが正に「市民社会をつくる」
源流にあるのではないだろうかと思うからである。その原動力は主体的な「個々人のかかわり,繋が
り」であることを痛感する。
その「個人」というかそれぞれの人格,ペルソナがどうして培われたか興味あるテーマでなかろう
か。私にとって、それはたまたまであったが、大学 1 年の1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台
風被災者救援ワークキャンプに参加しなければ、そして『聖書』とイエスキリストの生き様に出会
い、
その後YMCAに入らなければ、
大げさに言えはどんな人生を歩んできただろうかと想像する。
私は、私自身の人格形成をもたらした書物を象徴的に表わすとすならば、それは、マルクスの『資
本論』
、実存主義哲学者ケルケゴールの『死にいたる病』であり、
『聖書』であった。
「社会がどうで
あろうと、私にとって 1 杯のコーヒーを」といった、実存主義的な気持ちと、一方自分自身が、社
会や人々のために何か役に立つことが出来ないか,弱い自分であっても、
といった気持ちを持ちなが
ら、悩みつつ青春時代を送っていた。そこには、
「自己の確立」
「社会や他者との関わり」
「共に生き
る」という問が投げかけられていた。
YMCAに入って、青少年活動、野外活動、会員活動、国際協力・交流活動、社会奉仕活動、語
学教育などの学校経営、他団体との連携の仕事に関わりながら、人間関係、リーダーシップトレー
ニングやコーディネート、組織運営を学び,身につけ、私が育てられ、成長してきたことに感謝して
いる。
3.
「市民社会をつくる」
二つ目に震災のことを最初に書いたのは、今回のテーマである「市民社会をつくる」ことに関心
があり、震災は日本社会が変わって行く、そのターニングポイントであると実感したからである。
阪神・淡路大震災では多くのボランテイア、市民団体が救援活動に係ったが、これを契機にして、
震災復興市民検証研究会編著『市民社会をつくる』の書籍のタイトルではないが、まさに、自分た
ち課題を解決し、社会サービスの担い手は自分たちである。
「市民社会を創る」のは自分たちである
という意識が盛り上がってきた。
救援活動を契機として、ボランティア活動、市民団体の活動が高まり、民間非営利組織、NPO
の活動が勃興していった。そして市民活動、非営利公益活動を促進する団体の法制度をつくる運動
へと広がり、1998年には特定非営利活動促進法の成立を見るに及んだ。
従来の日本社会の社会システムの中で、圧倒的にその力を持っていた、政府、自治体セクター、
企業による民間営利部門を中心に支配していた政界、官界、財界の「鉄のトライアングル」と呼ば
れる日本型社会構造が、バブル崩壊と震災を契機にして一層その閉塞感、制度疲労が顕著になり、
構造改革を迫られることとなった。そして、新たな社会システムの担い手として、市民による民間
非営利組織、非政府組織のセクターが浮上してきた。その社会のビジョンが「市民社会」であった。
私自身は、前述で述べたように勤務していた大阪YMCAの中で民間の非政府組織(NGO)
、非
営利組織(NPO)の大切さを学んできた。大阪YMCAは明治15年、1882年に設立された
今日のNPO、NGOの日本での先駆的な民間非営利の組織である。この組織のモットーは「皆の
ものがひとつとなるため」という聖書のことばであり、民主的な社会の創設に寄与するために創ら
れた世界的な社会教育団体である。
「民主的な社会」は今回のテーマである「市民社会」を顕わすこ
とではなかろうか。
4.ミッションとリストラの中で苦悩する
実は、この大阪YMCAは1992、3年頃からの財政的危機に陥り、震災の時の救援活動の最
中にリストラの風が吹き荒れていた。私自身が所属の嘱託職員に辞表を迫り、辞めてもらう決断を
せざるを得なかったし、私自身も辞めざるを得ない状況に追いこまれていた。同じ時期に大阪YM
CAではミッション・ステートメントの見なおしが進められていた。
「人を大切にし、人に仕え、差
別や戦争のない平和な、民主的な社会を創ることを願って」事業を展開しようと宣言する中で、組
織の責任者は、多くの教職員に辞めてもらうことを行わざるをえなかった。100年続いた事業型
公益法人YMCAの運営(財団法人、学校法人)そのものがまた問われる時代でもあった。
誰かが書いていたが、
「日本の体制の根本的な欠陥は、強い立場にいる者が、自己の行為から生ま
れた状況に関して説明する責任、アカウンタビリティを問われないことだ」そして、責任は道徳的
資質を言うと述べている。
「今行われているリストラのやり方と今検討しているミッションステート
メントとの間にある余りにもかけ離れた姿は、
組織の背任行為ですよ」
といって去って行った同僚、
震災で自分の家が全滅していながら、名前も伏せて多額の義援金を渡して、YMCAを去って行っ
た職員、YMCAの使命に共鳴し、YMCA で仕事がしたいといって大手会社を辞め、パートから職員
になって働いていた後輩も辞めていった。今思っても辛くて、目頭が熱くなる。このような体験は、
事業型公益法人、民間非営利組織の運営を考える際、さまざまな示唆を与えられた。そうして、私
は震災救援活動を最後に1996年12月末、33年お世話になったYMCAを辞めた。
5.願いを結集して「大阪NPOセンター」の設立に関わる
NPO運営のテーマ 運動性と事業性
私が、
大阪青年会議所の人達とかかわったのはYMCAに勤務していた1976年代以後である。
当時留学生のための「日本語弁論大会」を大阪青年会議所(JC)
、関西経済連合会、大阪商工会議
所と大阪YMCAの4団体で主催していて、YMCAの担当責任者として、特にJCの担当委員会
や、事務局にはお世話になっていた。JCが1993年から「オープン・ネットワーク」を中期運
動理念におき、さまざまな市民団体との交流を願っていた。1995年、
「地球市民ひろは」にパネ
リストとして関わり、そこで、人材育成機能と情報機能を備えた「大阪NGOセンター(当初NG
Oといっていた)
」の構想が提案された。そして、1996年には、現大阪NPOセンター理事長で、
当時の大阪JC理事長金井宏実氏の中に、市民ネットワーク委員会(委員長松本将、98年度大阪
JC理事長、現大阪NPOセンター理事)のもと「大阪市民団体の集い」が開かれ、それにYMC
Aから私も参加した。この集いに係った市民団体が中心になって発起人会を作り、理事となって、
1996年11月21日、日本で最初の市民団体によるNPOの支援センター「大阪NPOセンタ
ー」を設立した。
ところが、
センターが出来るが、
そこには経験をつんだ専従のスタッフがいなかったこともあり、
また私自身、
この様な活動を実際YMCAで行ってきたこともあり、
やりがいのある仕事だと思い、
無給であったが、
失業保険で生活をしながら係った。
このような仕事に出会えたのを感謝している。
(2年目から理事長の金井氏の会社の嘱託社員として給与を得る)
大阪NPOセンターの活動の中で市民団体間の交流、情報交換や啓発活動を進めるにあたって、
今までのYMCAでの経験が生かされた。そして、人脈というか、培ってきた関係団体や関係者の
協力が助けとなり、有り難たかった。とにかく、センターを認知してもらうこと、どんな活動をし
ているかを知ってもらうこと、JCのNPO委員会と一緒になって会員を増やすことに勢力を傾け
た。さらに、市民活動促進法(その後特定非営利活動促進法となる)の NPO 法の成立に向かって、
国会議員、マスコミ、市民団体、研究者、企業の社会貢献担当者、行政などとの連携や交流を深め
ていった。さらに、NPO の大切さを広く市民や市民団体などに啓発することに努めた。そして、市
民団体、NPO、企業、行政、一般市民の方々から支援をいただいた。
そのような中で、センターの開拓的、先駆的な事業の一つに今日も続いている NPO のプレゼンテ
ーション能力の向上と、創造的な NPO 活動を顕彰する「大阪 NPO アワード」と弁護士、公認会計士、
税理士、司法書士などの専門家集団による「 NPO たすけ隊」の活動である。これらの専門家グルー
プの方々は多くはJCの会員や元会員であった。この二つの事業を通して、多くの方から、関心を
得たし、センターのイメージを大きく広げたばかりでなく、センターの基幹事業となった。
センターの事務局にとって支えになるのは、良き事務職員を得ることである。豊則憲司さんは 70
才を過ぎたシニアーボランテイアであったが、会社では中小企業の経営コンサルタントもされてい
た。他に主婦や大学生のボランテイアが事務局の仕事を手伝ってくれた。センターの運営にあった
ては理事をはじめ、JCのNPOサポート委員会のメンバーが中心になりながら、会員が様々な形
で応援し、一緒になって、組織の基盤を作るために努力していただき感謝している。
NPOの組織は双方向の支援によって成り立っていると言われているが、マスコミの方の励まし
も有りがたかったが、先般ガンで亡くなられた朝日新聞学芸部記者の井上平三氏も当初から、応援
をしていただいた一人であった。
NPOにとって、最大の課題というか、挑戦は、
「自主・自立性」を保ち、いかに「組織のミッシ
ョン・運動性と組織性・事業性」を両立させるかである。
「経営」と「使命」
「組織」と「個人」
、
「全
体と個」
、
「理想と現実」といったことが何時も緊張関係を持ちながら内部で論じ合っているところ
に、NPOとしての組織の意義があろう。二者択一でなく、相互にゆり戻しながら動いているのが、
NPOである。実は、一人一人が大切にされ、多様性を認め合い、相互に支え合う社会としての「市
民社会・民主社会」は理想の固定した社会でなく、
「本当は何が大切なのかをたえず研鑽する」社会
ではなかろうか。
6.地域を見直す 身近な生活から社会を変える
私自身は、1999 年から、大阪YMCA時代から国際理解公開講座を一緒に行ってきた関係のある、
帝塚山学院大学国際理解研究所(所長米田伸次)にお世話になったので、専従として、事務局長の
役を全うすることが出来なかった。
その間豊則氏や新たに職員として係っていただいた,福田国光氏、
岸田かおる氏、河合佳子氏が事務局を支えてくれた。私は一理事としてセンターに関わり、特に機
関誌「むすび」の編集責任者としてかかわり、また、大阪府民間非営利活動促進懇話会(会長大阪
大学教授本間正明氏)や大阪市市民公益活動懇話会(会長大阪市立大学教授秋山智久氏)のメンバ
ーとして、行政のNPO支援施策に向かっての提言活動に参画させていただき、多くの勉強が出来
たことに感謝している。
センターの事務局長後任人事に関しては 2 年にわたって、
理事会で検討してきたが、
幸いにして、
2001年7月より、センター設立時の賛同者であった、コリアボランテイア会の会長代理の山田
裕子氏が 2 代目の事務局長として就任した。
「組織は人なり」と言われているが、センターには新た
に理事が加わり、
「自立型、事業型のNPO」として事業活動もさらに活発になってきている。
2000年の冬から7ヶ月にわたって、大阪狭山市(私が勤めている大学が有る)の市民非営利
公益市民活動推進懇話会の座長をおおせつかった。地域における市民活動の促進に関して行政の支
援施策に寄与できればとの願いであった。
懇話会を通して、
行政職員を始めNPOを含む市民団体、
ロータリー、ライオンズクラブ、JC、商工会、社会福祉協議会、自治会関係者などと知り合えた
ことが良かった。懇話会が解散して、メンバーの市民団体、NPOが中心に「すみよいまちづくり
をつくる、さやまプロジェクト21」を作ることになり、教育、環境、文化、市民活動支援センタ
ーづくり等の分野にわったて情報交換と勉強会を2年近く進めてきた。また、
「提言書(市民公益活
動促進に関する)を読み解くための会」を開き、より多くの市民、市民団体と課題の共有をはかる
ことにした。
私は懇話会の中で、小都市(大阪狭山市は人口6万人足らず)で市民活動の促進にあったて、支
援する組織(例えば市民活動センター)を作るのに、地元の市民団体や市民の参画が大切だ。その
基盤整備に行政が応援する(財政的にも)よう提案した。今年 5 月に、市民活動支援センターが、
私の勤めていた財団法人大阪YMCAに、事業運営を委託して(一応公募をとっているが)スター
トした。支援センターの必要性は懇話会でも議論したが、その実現に向けては、時間をかけて市民
団体や市民にとって役に立つセンターとその運営を検討しながら造って行こうと提案していただけ
に少し残念であった。
これを契機に、改めて、私が勤め、住んでいる地域社会のことに目をやるようになった。今私は
住んでいる富田林市の国際交流協会に参画している。このように地元の市民団体、NPO、行政との関
わりを通して、いろいろなことが見えてきた。身近な自分の生活圏、足元から問題に関わることの
大切さをあらためて学んでいる。
「まちづくり」と「市民参加」が、NPOが息づく成熟した市民社
会にとってきわめて重要であることを考えれば、その本人がどれだけ、身近な課題に具体的に係っ
ているかということが大切であることを痛感している。
「地域に在住する外国人と外国にルーツをもつ人々との交流、多文化との出会いを通して、共生
社会のまちづくり」
をミッションにもった、
「とんだばやし国際交流協会」
の働きに今注目している。
この協会を市民と市民団体、行政が協働してつくることになったのは、地域の国際交流を進める南
河内の会(モザイク)
、姉妹都市交流協会、地元の学校教員、NGO、ロータリークラブ、行政など
がその促進母体になり、連携を保ちながら、長年地道な活動を進めてきた成果でなかろうか。そし
て団体間協力はもとより、個々の人間的な関わりや志を強く持っておられたファシリテータ―の存
在が大きかったと事務局長から伺った。協会の設立経緯は上記の大阪狭山市の市民活動支援センタ
ーのそれと少し違うように私には思えた。
文章を締めくくるにあたり、1995年以降の自分自身の活動を通して感じることは、今,日本社
会で、市民が、身近なところから主張し、考え、行動を起こし、社会に参画し、社会を変えて行こ
うとする気運が着実に広がっている一方、自己中心的であったり、将来に対する不安、体制に流さ
れて行く風潮もまたあるのは事実である。特に、今日のグローバリゼーションによる、貧富の格差
の拡大,パレスティナ,イスラエル問題や9月11日のアメリカで起きた同時多発テロ以後のブッシュ
政権の政策,国内の様々な課題、問題に遭遇するにつけ、将来の社会が悲観的になったりする。
しかし、今回のテーマである、
「市民社会へ、 個人はどうあるべきか」はまさに、主体的に生き、
社会にかかわる個々人の生き方の大切さを改めて問いかけているのではないだろうか。結局のとこ
ろ、自然の摂理の中で、他者と関わり、繋がり、お互いが支えあって生かされているということを
改めて思い起こすことが必要ではなかろうか、イマジネーションをもって。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
大木直也
くれ未来塾
1.市民ひとりひとりがパブリックという概念を常に持ち続けながら、
社会の一構成員として、よりよいまち、よりよい国家を形成していく意識と気概
私が広島県呉市において「くれ未来塾」を立ち上げて今年で5年を数えます。
「くれ未来塾」とは、
かの吉田松陰先生が日本の行く末を憂い「松下村塾」を通して多くの憂国の志士を育て上げたよう
に、ふるさと呉のまちを愛し、祖国日本を愛する公共心豊かな市民を創造していくための勉強の
場・・というのは少し吉田松陰先生におこがましいかぎりですが、志は同じだと思っています。
今の日本社会は学校や家庭、そして職場・・すべてにいたるまで個人が尊重され、勘違いした行
き過ぎの個人主義が横行し、人間にとって一番必要な「社会に帰属している」という概念がまった
く欠落しているのではないでしょうか。すなわち公共心のない「私民」という「しみん」が「市民」
の顔をして、自分のために、自己の実現のために社会に存在しているというのが今の日本の状態で
はないかと思います。倫理観のまったく無い企業人や政治家のニュースが事欠かない今の日常を見
ただけでも、そうした現状は理解できます。戦後のGHQの日本を再び強国としないための政策の
結果でもありましょうし、戦前の「滅私奉公」にアレルギーを感じすぎるがゆえに「公」というも
のをまったく滅し、まさに自分のために・・という「滅公奉私」の社会を50年かけて日本は作り
上げてきた結果でもあるでしょう。
いまこそ必要なことは、市民ひとりひとりがパブリックという概念を常に持ち続けながら、社会
の一構成員としてよりよいまちを、よりよい国家を形成していく意識と気概をもつことではないで
しょうか。私が過去から今に至るまでの経緯と体験を述べながら、私の理想とする社会と個人の相
対関係を説明したいと思います。
2.本当に大変なのは日常を創り上げていくこと
私は大学を卒業してすぐに父の経営する会社に跡継ぎ予定者として就職しました。それと同時に
社団法人呉青年会議所に入会いたしました。ご存知のように、青年会議所とは「明るい豊かなまち
づくり」をめざした団体で日本全国各地に700以上存在し、会員数は6万名にものぼります。経
営者の二世三世が構成員の大半を占めるため、どうしてもボンボンの道楽集団と世間では見られて
いる事実もあります。しかし、実際は寸暇をおしみ、自費で、時には会社も家庭も犠牲にして、ま
ちのために活動を続けている集団であるということは、是非とも知っておいていただきたいことで
す。入会して今年で17年になりますから、まさに人生の半分は青年会議所とともに歩んできた、
といっても間違いはないでしょう。
17年の活動のうち前半は地域のまつりに参加したり、イベントを企画し実際に運営していくな
ど、どちらかというと汗を流すことによって地域社会に触れ合ってきました。まさに非日常的なも
のをまちに提供することによって、あたかもまちが良くなっていくような錯覚のなかで青年会議所
活動をしていたような気がします。非日常的なものを企画し、それを事業として発信することは、
大変なことのようで、じつはたやすいことです。本当に大変なのは日常を創り上げていくこと、つ
まり日々のくらしがよりよきものになるために、何をなすべきかということなのではないでしょう
か。
そのことに気付いた私の転機は二度あります。ひとつは1993年に初めて日本青年会議所に出
向して以来度重なる出向のなかで出会った人たちが、本当に真摯にこれからの社会の構造を改革す
べく活動していることにふれることができたこと、そしてもうひとつはあの1995年に起こった
阪神淡路大震災です。これまで、イベントをすることで自己満足を繰り返す青年会議所の活動に疑
問を感じながらも、その時々の達成感に勝るものが見出せなかった私にとって、この二つは大きな
衝撃でした。誰のためでもない、自分のためでもない、まさに公のために自らを奮い立たせていく
人たちに出会ったとき、私の今後の人生が確定したのだと思います。
その後日本青年会議所では1997年に「NPO推進政策副委員長」1999年には「NPO政
策委員長」という大役を任命され、法整備、とりわけNPOの税制優遇に関する研究、提言をさせ
ていただくにあたり多くの市民活動家のみなさまとお会いする機会も得ることができました。
また、
過去日本青年会議所で勉強してきたことを地域で実践すべく、1998年当時呉市で三つの活動を
始めました。
3.市民の声が地域づくりに生かされていないことに、いてもたってもいられなかった
まず、行政と市民そして企業のパートナーシップによるまちづくりを具現化していくために、過
去まちづくり活動を通して出会った、やる気のある行政マンとともに「まちづくり市民会議CCC
(三つのCはそれぞれ、コミュニティー、クリエイト、コラボレーションを表す)
」を結成、月に一
度行政側の企画に実際に市民や企業の声を入れていくべく、会合を行ってきました。実際にこの会
合の中から行政マンの企業体験研修など呉市が実行に移した企画も生まれてきました。そして、冒
頭に紹介した市民のためのまちづくり市民育成講座「くれ未来塾」
、最後に呉に存在するNPOのネ
ットワークを進め、より強固な市民活動を行っていくためのシステムとして「呉NPO連絡協議会」
も立ち上げました。
よくも同時期に三つもの団体を立ち上げたものだと、いまさらながら驚いてしまいますが、それ
だけその当時市民の声が地域づくりに生かされていないことに、いてもたってもいられなかったと
いうのが当時の思いでした。実際「まちづくり市民会議」をはじめたばかりのころは、その会合を
通して、あまりにも行政の役人は机の上でデーターのみを頼りに企画をつくっていることに驚くと
ともに、現実の市民の声とのギャップにまったく気が付いていないことを知りました。いままでの
市民の声は陳情にしか聞こえていなかったという話もありました。こうした会合をすることにより
私たち市民は企画段階から市の施策にかかわることが出来、行政もより現実的な企画を練り上げる
ことが出来るようになったと思っています。もちろんすべての題材にかかわることは出来ません
が・・。
4.パートナーシップとは、
複数の「個」が共通した目標のもと、自らの役割を自覚し共創していく関係
その後、年を重ねるとともに「まちづくり市民会議CCC」と「くれ未来塾」はリンクしていく
こととなります。つまり「まちづくり市民会議CCC」の場で地域の抱えている問題点を、行政側
から情報公開してもらい、それを会議のメンバーで市民側、行政側、また企業人としての立場から
議論し尽くします。そして行政で出来ることは行政が動き、市民が率先して動かなくてはいけない
ことは「くれ未来塾」を通して市民に情報提供し、ワークショップなどの手法を通して、市民の問
題意識を上げていき、最終的に市民にしか出来ないことは市民の自己責任において行動できるよう
な下地を創り上げていくのです。
ここで必要なのは行政セクターと市民セクターというものは決して相対的なものではなく、それ
ぞれがそれぞれの役割・使命をもって存在していることを認識することです。私は市民主導型社会
という言葉は好きではありません。また市民主権というのもしっくりきません。市民には市民の役
割があり、行政には行政の、国家には国家の果たさなくてはならない役割があります。そこで個人
は社会に関わっていくとき、自らの権利を主張したり、自己実現を目的におくのではなく、社会の
中で自分の義務を果たしていく使命をもって存在しているということを念頭において行動すること
が必要であると思います。
過去日本社会は、農耕民族特有の共生社会でした。この中で生きていくために、自らの「個人」
としての役割を理解した上で、公益、公共のためにその責任を果たしていたのです。本来パートナ
ーシップとは、複数の「個」が共通した目標のもと、自らの役割を自覚し共創していく関係です。
セクターとしての行政・企業・市民が、今までのように「個」として自らの利益誘導に走るのでは
なく、また、ネットワークのようにみんなが横並びで手をつなぎあっているのではなく、
「公」のた
めにそれぞれの立場を理解しあいながら創り上げていく関係です。しかし、いまの日本の現状は個
人主義が横行しこの三者が微妙な対立構造を形成しているように思われます。市民は行政・企業に
対して、行政は市民・企業に対して、企業は市民・行政に対してそれぞれが何某かの不平不満を抱
き対立してきました。この三者が目標をもって、それぞれの役割を理解し、コミュニティーのなか
で自己責任を確立し、地域を創り上げていくための触媒として「まちづくり市民会議CCC」と「く
れ未来塾」は今も確実に活動を続けています。
5.自分たちでもできるんだ、という勇気を市民ひとりひとりに与えていくこと
5年活動を続けてきて問題点も確かにあります。本来「くれ未来塾」はNPOの発生装置となら
なくてはいけません。塾ですから、そこで学び、気付いた人たちが自らの課題を見つけ出し、それ
を解決していくために地域で活動をはじめていく、というのが理想の形です。しかしなかなか他者
への依存心の強い今の現状で、自らが進んで事を起こしていく、という実例がまだまだ少ないのが
悩みの種です。まさに自分ひとりで行動を起こしても社会が変化していくわけないし、社会にも受
け入れてもらえない・・というあきらめムードです。自分があきらめてなにもしないのならまだま
しで、それは行政のやる仕事、これはあの人たちに頼んでやってもらうこと、といったようにいき
すぎた個人主義の産物である他者依存型社会がしっかりと形成されており、そこから抜け出してい
くことがたいへん困難なのが今の社会なのです。
そんな中でも、地域の合併問題を考える住民会議のようなものが「くれ未来塾」から自然発生し
たりしていますので、ますます私もがんばらなくてはいけないと思っています。成功例が他の地域
でたくさん存在していることを、青年会議所活動をとおして知ることが出来た私にできることは、
その成功例を少しでも多く呉市民に紹介し、自分たちでもできるんだ、という勇気を市民ひとりひ
とりに与えていくことが私の使命だと感じます。
「まちづくり市民会議CCC」については、これははっきりいって誰でも主催できるものではあ
りません。行政は行政の、役人は役人の立場もありますから誰にでも情報を提供したり、企画の立
案段階から情報公開していただけるわけがありません。なんでも情報公開しなければいけないよう
な今の世の中の風潮もありますが、大きな間違いです。そんななかでこの会議が成立するのも17
年にわたり真剣に青年会議所活動を通してまちづくりにかかわってきたことによって、個人的にも
そして公的にも行政の方々との信頼関係ができあがっているからこその、この会議だと思っていま
す。そうした意味からもこの会議の意義であったり責任であったりというものが、大変重たいもの
だと思っています。市民オンブズマンのような行政のあら捜しのような活動は、たしかに「もっと
行政さん、市民に信頼される組織になってください」という気持ちのあらわれかもしれませんが、
そこからはなにも生まれてこないような気がします。互いの信頼関係の中から生まれ出てくる、よ
りよき「まちづくり」の手法として存在していきたいと思います。
6.社会というものに帰属する一個人として
どのような責任のもとに行動しなくてはいけないか
NPOに関しましては、1995年から、いかにしたらNPOがこの日本社会に根付いていくだ
ろうか、ということをずっと研究、提言してきましたので、本当にたくさんのその道の関係者、実
践者、そして同じようにNPOをなんとか根付かせていきたいと考えて行動しておられる青年会議
所メンバー・・・etc・・に出会わせていただきました。もちろん地元である呉市をはじめ周辺
の地域の中でもNPO団体として活動しておられる方、ボランティアの方、さまざまな方との出会
いがありました。
たくさんのそういった方々に出会えば出会うほど、私は今の現状ではNPOは絶対に日本社会に
根付かないし、行政、企業と対等な関係でパートナーシップを構成するなど不可能である、と感じ
ました。
私は青年会議所の提言の中で、自己責任に基づいた自発性というものを大切にしてきました。つ
まり「自分のことは自分でする」
「みんなのことはみんなでする」
「地域のことは地域でする」
「国家
のことは国家でする」という、あたりまえのことがあたりまえにできる社会の実現、そして、その
中で社会というものに帰属する一個人としてどのような責任のもとに行動しなくてはいけないか、
ということです。阪神淡路大震災において、国も地方行政機関もなかなか有効にかつタイムリーに
機能しなかったとき、全国から自発的に駆けつけた市民の行動が大きな力となりました。行政に頼
らず、市民が神戸を支えたこの行動により、日本が新たな一歩を踏み出したことは間違いありませ
ん。それは、行政、企業とともに社会を構成していくセクターとして「市民」というセクターが存
在することを日本人が再認識したということです。まさに日本におけるNPO元年です。まさに「市
民が主役」というのがはやり言葉のようにもてはやされたのもこの頃からです。
7.
「公」というものは、複数の人間が集合したときに生まれてくるものとしての
確固とした「概念」が存在している
先進国では「公」というものは複数の人間が集合したときに生まれてくるものとしての確固とし
た「概念」が存在しています。しかし日本では「公」というものは「しくみ」として済まされます。
つまり公とは「行政の管理するもの」
「私物に対する公共物」というしくみに過ぎないという感覚、
「国家」でさえ「しくみ」に過ぎないというなんとも情けない感覚を日本人は持っています。それ
ゆえ「行政・公共物」以外のものはすべて「私(わたくし)
」という感覚で片付けられがちになって
しまいます。そして自然に「公」と「個」を対立したものにしてしまうのです。
しかし「公」と「個」というものは対立構図にあるものではありません。コミュニティーという
「公」
、会社という「公」
、呉市という「公」
、日本国という「公」があり、そのなかで存在する「個」
があります。そして「個」の意識の中にそれぞれの帰属する「公」が存在しています。前述もしま
したが、現在の日本では個人主義が横行し、この「個」という感覚より「私・・ミーイズム」が中
心となっています。市民が自己実現のためだけでなく、自発的に「公」のために自己の責任におい
て「公民」となって行動することが大切です。自発的なひとりひとりの行動が「私民活動」になる
のではなく、社会のため「公」のための活動として存在しているかを再確認しなくてはいけません。
そこで、いまの日本社会のNPOをみてみると、なぜこれだけ注目をされているのになかなか根
付いていかないのかがよくわかります。たしかに社会システムの問題もあるでしょうが、結果の平
等主義観の強い日本のNPOの体質が、自己責任意識を持つことができないということも大きな理
由であると思います。
8.協議会に何かを求めるのではなく、
自分たちが協議会を通して地域社会にどう関係していくのか
ここから述べることは決して団体の批判ではありませんし、NPOすべてがそうであると言って
いるわけではありませんので、誤解なきようお願いいたします。
欧米社会のように行政、企業を補完するNPOというセクターと違い、阪神淡路大震災以降注目
を浴びた日本のNPOは弱者救済型ボランティア団体、行政がしてくれないことは自分たちでやる
からかまわないで!でもお金はほしい、という感覚をもったNPOが大半を占めています。私の主
催した「NPO連絡協議会」も呉市周辺部で活動するNPOのネットワークを作り上げることによ
り、自分たちのまちを自分たちで創っていくという高い志をもった人たちが集まり、行政・企業・
NPOのセクターバランスができあがるだろうという目的で団体を募集しました。
しかし、ふたをあけてみると、自分たちは大変な思いをして介護やボランティアをやってるんだ
から、このネットワークを通して金銭面や人材面をなんとかしたいという団体が多く、
「協議会」と
して何かを起こしていくという議論になる前に、この協議会に参加したら「大木さんはなにを私た
ちにしてくれるのですか?」
「JCはお金持ちだから助けてくれるのですか?」という話から先に進
みません。この協議会に何かを求めるのではなく、自分たちがこの協議会を通して地域社会にどう
関係していくのかを会の理想としていただけに、そのギャップの大きさに愕然といたしました。中
には、
「JCは企業のトップの方が多いので、この本を読んでみて、考え方を改めた方がいいですよ」
といって、地球上ではもう否定された「マルクス思想」の本をもってきたりする団体もあったりし
ました。
結果の平等を求めている方々には、
けっこう左寄りに傾いておられる方が多かったことも、
私にはなじめなかった原因です。これは私だけが遭遇した挫折感ではなく、当時全国で同じように
行動を起こした私の友人たちも「今となって話せる、あの時の苦労話」として同じような体験をし
ています。
いい事をやっているんだから・・という感覚が強すぎるあまり、社会との相対性やバランス感覚
が欠如しているボランティア団体と、本当に社会の構成員として社会奉仕をしている団体との住み
分けがないなかで、言葉だけが先走ってNPO、NPOと言っていたことを考え直す必要性が私の
中に生じてきたのです。当然自発的にボランティアをしていることに対して否定をしているわけで
はありません。ボランティアの重要性は、青年会議所の活動を通して誰よりも理解しています。し
かし百派一からげにするのではなく、
どこまでがどうでという線引きは大変難しいものがあります。
それがゆえにNPO法成立にあたってもあれだけの物議と時間をかけることになったのでしょう。
今現在、私は「呉NPO連絡協議会」にはかかわっておりません。代表職を1999年に、他の
人にお譲り致しました。会自体は今でも継続しているという話は聞いておりますが、どういう活動
を行っているかということは耳に入ってきません。市のイベントなどで、時々ブースを出して屋台
などをやっているのを見かけることがありますが・・。これからの私の使命は、
「まちづくり市民会
議CCC」
「くれ未来塾」を通して、市民に「気付き」を与え、呉のまちに自己責任意識を持った問
題解決型のNPOが雨後のたけのこのように生まれでてくるようにしていくことです。そんな団体
がたくさん出現したら、今一度新しいセクターづくりのためのNPOネットワークを、自力で立ち
上げるときがくるでしょう。
9.公に対して何が出来るのか、何をしなくてはいけないかを考え、行動に起こすことが
いま日本人に一番かけている概念
私のこうした活動を通して実感していることは、本当に今日本社会は危機的な状況にあるという
ことです。冒頭にも述べましたが、戦後のGHQ政策、軍国主義を否定しすぎるが故に国家までを
も否定し、公教育では誤った歴史観をすりこまれ、行き過ぎた平等主義がはびこり、生きていくう
えで不可欠な競争というものを無くす教育をし、国家解体の危機に迫られています。その中でいき
すぎた個人主義が横行し、さまざまな社会現象、凶悪犯罪の多発、企業倫理の低下、政治不信を生
み出しています。
当然「個人」というものは大切ですし、
「個人」が光り輝かない社会などあってはいけません。し
かし考えてください。その個人には必ず帰属する「公」が存在するのを忘れてはいけないのです。
私は一番大きくて個人に深くかかわっている公は国家であり、もう少し小さい単位で住んでいる地
域であったり、コミュニティーが存在する、と思っています。つねにそれらの「公」に帰属してい
ることを意識しながら、ではその公に対して何が出来るのか、何をしなくてはいけないかを考え、
行動に起こすことがいま日本人に一番かけている概念だと思います。
10.
「個」と「公」のバランスのとれた社会の実現こそが、
私に課せられた使命だと思っています
昨年、地域の友人たちと、この公共心のない社会を創り上げている根源である、現状の公教育を
改善していくためのNPOを立ち上げました。行き過ぎた平等教育、偏重した平和教育、人権教育、
誤った歴史教育を見直し、地域を愛し、国家を愛し、歴史を愛する教育を現場にとりもどすために
活動を始めました。
「くれ未来塾」で大人たちに公共心を持っていただくことと平行して、人格形成
途中の子供たちに自然に「公」というものを育んでいかなければ、とても国家の衰退に歯止めを利
かすことはできないと実感したからです。
「市民社会へ、個人はどうあるべきか」というテーマにおいて発言すると、社会の中であくまで
も主役となるのは「個人」です。しかしこの「個人」とはけっして「私」であってはいけないので
す。個人とは社会に帰属する「公民」です。社会が「個」を従属させるのではなく、個人が自分や
自分のまわりのためのみに活動する「私民」になるのではなく、
「個」と「公」のバランスのとれた
社会の実現こそが、私に課せられた使命だと思っています。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
服部則仁
ひと・まち・未来ワーク
1.自分のまちにいて自分のまちをよくする
阪神淡路大震災での青年会議所の活動を通じて感じたこと
1995 年 1 月 17 日早朝、名古屋のアパートで寝ていた私でさえ飛び起きるほどのゆっくりとした
大きな揺れがありました。朝のテレビでは、神戸を中心として大規模な地震があり、数十人ほどが
亡くなったという報道でした。それがだんだん時間がたつにつれて死傷者数が増えていき、ライフ
ラインが切断され、手のつけられないほどの被災状況であることが伝わってきました。国をはじめ
とする行政関係のうごきはにぶく、自衛隊の災害出動も現地の判断で初動せざるを得ないほど、現
地との通信連絡網が混乱するなかで、公的な機関の組織的な救助活動はおどろくほどもたついてい
ました。
公的組織のうごきは想定外の事態にはかくももろいのかと強く感じさせたできごとでした。
その日の午前中から、(社)日本青年会議所のパソコン通信では、JCメンバーが複数、自発的に
オートバイなどで現地に入り、刻々と現地の状況を伝えてきていました。ここの被害はこういう状
態、この道は通れる、ここで今必要なのはこういうもの…。JC会員限定のパソコン通信で送られ
てくる内容は、顔の見えるメンバーたちからの通信であり、とても信頼度の高いものです。その内
容が刻々と変化し、現地の状況を伝えてきます。当時まだパソコン通信に入っているJCメンバー
は少なかったので、私はその内容をプリントアウトして、所属する地域青年会議所の役員にファッ
クスを送りつづけて状況を知らせていました。地域青年会議所としての対応を協議するときの判断
情報の提供です。このとき、おそらく全国750ほど(会員数 65000 人/当時)のほとんどの地域
青年会議所が、この突発事態に自分たちは何ができるのかを考えていたのではと思えるほど、その
後の各地の地域青年会議所の反応はすばやいものでした。
(社)日本青年会議所は、この国内750余の地域青年会議所からの出向者で構成されています。
一年単位で新たに人員も構成も入れ替わる単年度制で、毎年1月には京都の総会で新たな一年に向
かう所信が新会頭から示され、4∼50ほどの会議・委員会が開催されます。その(社)日本青年会
議所は、阪神淡路大震災の日の夜には、同月下旬に予定していた京都会議の中止を決定、ただちに
震災救援の体制を整えました。全国からの救援を展開する拠点を京都と姫路が設置、それらのうご
きをふまえて必要なところに必要な救援を届ける体制をつくりました。また、それから数ヶ月間に
わたって、全国のJCメンバーが現地に人的支援に行きましたが、その救援活動の手配の体制も整
えました。その数は3月末まででのべ 51000 人にもなりました。パソコン通信からながれてくる震
災直後からのすばやい対応に、
青年会議所のメンバーとしての誇りを感じ、
たいへん感動しました。
自分も何とかしてあげたいという全国のメンバーの「個人の思い」を形にできる「しくみ」として、
そこに青年会議所という組織がありました。
このとき、(社)日本青年会議所は、震災直後の救援活動だけではなく、震災後の建て直しのため
にいくつかの支援策に取り組みました。ひとつは、
「被災した地域の子どもたちの心のケアーのしく
み」づくり、ひとつは「被災したJCメンバーの企業の製品の購入・連携」
、ひとつは「復興への特
別施策を国に提言」することです。また、まちづくり市民財団としては、林泰義さん、山岡義典さ
んたちからの「阪神・淡路復興ルネッサンス基金」をつくって市民自身による自発的な復興活動を
支援しようという提案に協力させていただきました。
当時、私は「個と地域を生かしたまちづくり推進会議」という国への政策提言を行う会議の副議
長として(社)日本青年会議所に出向していましたので、七尾の北原議長と共にいくつかの国への施
策を立案していました。実際に西宮の現地に行って体育館で全国からの支援物資の仕分けをしたの
はたった一日でしたが、現地に行かなくてもボランティアはできるのだと感じました。そのときの
施策の提言のひとつが「地球市民公益活動基本法(
『新しい地球市民の未来に向けて』1995 年度(社)
日本青年会議所提言書」
)で、これは後の「市民活動促進法(案)」と同様の性格を持つものです。
この一連の阪神淡路大震災に対する青年会議所活動の経験は、私に、
「個人の思いを組織の力で形
にできるんだ」という自信を持たせてくれました。きっかけは、震災直後に個人の思いと責任、判
断で現地に飛び込んで情報を伝えたメンバーの行動でしたが、それが多くの人たちに正確な判断の
材料を提供し、多くの人たちの思いを強くして、このような形で大きな力を発揮する行動をとるこ
とができたのです。
そしてもうひとつ学んだことは、既存のしくみの脆さと危うさでした。極端な言い方をすると、
90年代前半までは、自分のまちをよくしようと思ったら東京まで出て行って省庁の官僚と事前に
話をつけ、それを市・県・国会議員というルートで持ち上げて事業財源を確保し、そこで政策がや
っと自分のまちで形になるという方法しか思い浮かびませんでした。けれどもこのときの経験は、
中央集権のシステムは機能しなくなっていることを思い知らせ、一方で、人の力はすごい、個人の
力はすごいということを実感させたのでした。この力を活かすしくみがあれば、地域の現場、つま
り自分のまちにいて自分のまちをよくできると、そう思ったのです。この「中央より地域」
、
「組織
より個人」という考え方の転換は、私にとってはたいへん大きなことでした。
2.市民が主役で、地域からの国づくりができる社会へ
1996 年も(社)日本青年会議所の政策系の会議に副議長として出向しました。新居浜の白石副会頭、
長岡の吉原議長の下で、
『新人間社会の創造をめざして』という政策提言書をつくりました。そこで
は、
「市民が主役で、地域からの国づくりができる社会」をめざし、
「理念、システム、施策」を示
し、青年会議所メンバーへの行動提案も盛り込みました。このなかで「市民活動基本法」としてN
POについての施策を示しました。91年からこの年までの6年間、毎年、(社)日本青年会議所の
政策系の会議・委員会に出向してきましたが、この年の提言書を作り上げた時点で、自分のなかで
あいまいだった自分と社会との関係の基本的なスタンスがはっきりしました。
「社会も組織も個人の
思いを形にするためにある。問われているのは個人のありようだ」と。
(社)日本青年会議所で行った政策提言もそれまでは内向きの作業が多く、対外的には政策官庁連
絡会議のような各省課長補佐級との懇談会で提案するという程度でしたが、この年は政策提言書を
橋本首相に手渡すなど、少しずつ(社)日本青年会議所での行動も外向きになってきていました。
この勢いでさあ実践というのが97年でした。40歳になるという青年会議所に所属していられ
る最後の年でもあり、多くの人たちにたすけられて 97 年度(社)日本青年会議所のNPO推進政策委
員長をやってみろということになりました。会頭は秋田由利本庄の村岡兼幸さん、現在のまちづく
り市民財団の理事長です。
(社)日本青年会議所の議長・委員長は前の年の9月頃に内定します。本番の年の1月からスター
トダッシュできるように、委員長予定者として数ヶ月の準備期間が与えられているのです。そんな
96年の秋頃に、山岡さんたちから(社)日本青年会議所にお話がありました。NPOセンターをつ
くるというのです。それで(社)日本青年会議所も設立発起人のひとりになってほしいということで、
聞くと当時の経団連や東京商工会議所にも声がけしてあるとのことでした。富山の新田(社)日本青
年会議所副会頭予定者が名を連ね、担当の企画委員としてNPO推進政策委員長予定者の私が会合
などに出席することになりました。もちろんお話はすでに全部できていましたので座っているだけ
という感じでした。それでも日本の新しいNPOの誕生に立ち会うということで少し興奮しながら
いろんな会合に出かけていました。
そうこうしているうちに11月に(社)大阪青年会議所理事長の金井さんたちが、それまでの3年
間の(社)大阪青年会議所と市民活動団体との協働事業の蓄積をふまえて、大阪NPOセンターを設
立するという話が入ってきました。当日、村岡会頭予定者のお祝いのメッセージを持って大阪に行
き、そのメッセージを多くの方たちの前で代読しました。そのメッセージは、
「設立するのもたいへ
んなことですが、これを続けていくのはもっとたいへんで、そういうみなさんの思いに敬意を表し
ます。
」という内容だったと思います。その間、会場はしんとしずまりかえっていたことを覚えてい
ます。静かな決意に充ちた多くの人たちが集まっている設立総会でした。日本ではじめてのNPO
センターが民間の力でできた瞬間でした。
翌日は東京に行きました。日本NPOセンターの設立総会でした。
「この旗だけはおろしてはいけ
ない」と、会場に向かう通路でトヨタ財団の渡辺さんと話したことを鮮明に記憶しています。たて
つづけに、日本のNPOが社会に向かって「これからはNPOでいくんだ!!」と意志を明らかにし
たふたつのNPOセンターの設立に立ちあい、新しい時代をつくっていくぞという多くの人たちの
行動を目の当たりにして身の震える思いでした。
このあと一年あまりの間に北海道、仙台、広島、名古屋で、民の力によりNPOセンターができ
てきました。96年末からの一年間ほどは日本のNPOが宣言を発した時期として記されるべきと
きですが、同時代のその場にいたことで、ますますひとりひとりの個人の力を確信するようになり
ました。全国の「市民」の力強い宣言が強く心に響いてきました。これからは本当に地域で個人が
活躍できる、その拠点が次々に市民の力でできてきたという、時代の熱を全身に感じていました。
3.市民発の法律制定へ 市民活動促進法案への取り組み
同じ年、96 年、まだNPO推進政策委員会の委員長予定者だった 11 月に、第一回の 97 年度N
PO推進政策委員会予定者会議を東京の日本青年会議所会館で開催しました。全国各地から集まっ
てきたおおむね30名ほどのJCメンバーの前で、シーズの松原さんに市民活動促進法案について
講演していただきました。また、96 年の副会頭の白石さんに「96 年度の提言書 『新人間社会の創
造をめざして』
」について講演していただきました。こうして、基本的な情報を少しずつ共有しなが
ら一ヶ月に一回ほどのペースで集まって、委員会は進行していきます。そのNPO推進政策委員会
の目的は3つ。ひとつは、NPOの地地域主権型社会での役割をはっきりさせてその考え方をひろ
めていくこと、
ひとつは、
国に対してNPOに関する認知と支援施策の推進をはたらきかけること、
ひとつは、NPOと青年会議所とのこれからの関係と可能性を示すことでした。
96年12月、日本青年会議所会館で5時間にわたって、「市民活動促進法案の5党政調担当者
とNPO、JCとの公開緊急討論会」を開催することができました。ちょうど同法案の自・社・さ
の与党三党案がまとまった時期で、一方で新進党案、共産党案などがありました。この法律は議員
立法で行こうといろんな立場の人たちがさまざまにうごいていた時期でもありました。討論参加者
は18名、市民活動団体関係4名、法律学者2名、マスコミ関係者1名、国会のNPO法案担当・
政調関係議員5名、JC関係者が4名でした。オブザーブは、国会議員1名、新聞を中心としたマ
スコミ関係12名、JC関係者は20名程度、その他経団連、経済企画庁、構想日本、市民活動団
体関係者などで、総合計は60名以上にもなり、日本青年会議所会館402号室はムンムンとした
熱気につつまれました。
もちろん松原さんや山岡さんに入っていただいており、
大きなテーブルで、
与党三党案、新進党案の順番で時間をかけて議論しました。(社)日本青年会議所からは新田副会頭
予定者が議論に参加し、私はというと前半の議論の進行をさせていただきました。議論の中心テー
マは「分野限定」「認証方法」「寄付控除」。その他さまざまな意見があり、多くの人たちに論点・
切り口とそれぞれの立場での意見を知ってもらうことができたと思います。
青年会議所が市民のための法律の成立に向けて、国会議員や他のセクターの人たちを交えたオー
プンのテーブルを用意し、
一定の役割を果たそうとしたはじめての機会ではなかったかと思います。
まさに目の前で自分たちが時代をつくっているという実感がありました。このとき並行して、青年
会議所出身の衆参両院の国会議員117名に対して市民活動促進法に関するアンケートを実施して
おり、その回答と併せてこの公開緊急討論会の報告を送りました。その後一年間にわたって、要望
書を提出するなどさまざまに国会関係者に働きかけました。(社)日本青年会議所という組織の持つ
影響力を最大限に活かして、法案の成立に向かってさまざまな活動を行い、それをパソコン通信を
使って全国の青年会議所メンバーにリアルタイムに発信していました。大切なことは、このうごき
を地域のメンバーと共有し、地域にあっても時代の風にあたっている当事者のひとりという意識を
持ってもらうことでした。地域がうごいているということを伝えることでした。
4.市民社会に向けて、青年会議所と市民との連携
この年6月に、日本NPOセンターが主催するはじめてのNPO全国フォーラムが横浜で開催さ
れ、このときアリスセンターの川崎さんと知り合いました。私は企業とNPOの関係についてのセ
ミナーのコーディネートを担当しましたが、NPO推進政策委員会のメンバーは手分けして行われ
たすべてのセミナーに参加し、簡単な記録をとりました。それを7月に(社)日本青年会議所が発表
するNPOに関する政策提言書『勇気を君に』のなかに記事として入れ込みました。とにかくNP
Oに関する情報が不足している時期であり、NPOについての生の声を多くの人たちに知ってもら
うよい機会になりました。この提言書は10000部以上印刷し、全国の地域青年会議所やNPO
で知り合った多くの人たちに配りました。
全国の青年会議所メンバーに対してNPOを理解してもらい、これからの可能性を模索してもら
う機会としては、
97年7月に横浜のサマーコンファレンスでNPO総合セミナーを開催しました。
100人ほどが20のテーブルに別れてそれぞれテーマ別にディスカッションしてもらい、その内
容を受けて日本NPOセンターの山岡義典さんと大阪NPOセンターの金井宏実さんとでパネルデ
ィスカッションをしていただきました。その各テーブルには日本のNPOセンターを代表するよう
な方たちや特定非営利活動促進法に関わる国会議員の方など、壮々たる方たちにひとテーブルにお
ひとりずつ入っていただき、青年会議所メンバーとの意見交換を楽しんでいただきました。NPO
を理解しようとするより、実際にやっているすばらしい方たちと会って話すのが一番理解が早いの
です。会場は満席で熱気にあふれ、多くの青年会議所メンバーにとって大きなインパクトだったと
思います。その方たちにしぐれひとつと(社)日本青年会議所がつくった分厚い提言書をワンセット
お渡ししただけということで後で大顰蹙だったのですが、お金がありそうでない青年会議所の事業
ということで、
そのときお世話になったみなさんにはすいません、
本当にありがとうございました。
多くのシーズを若い人たちに与えていただき、ほんとうに感謝しています。
同法案が特定非営利活動促進法と名前を変えて成立した98年3月には私はすでに青年会議所を
卒業していましたが、そのときは「できたな、さて、これから本番」と思いました。事実、この法
律にもとづいて各都道府県では認証条例をつくる必要があります。その過程で各地のNPO、市民
活動関係者がどのようにかかわりうごいていくかで、実はこの法律の価値が決まってくるという側
面がありました。98年度(社)日本青年会議所のNPO担当委員会は、駒ヶ根の小松原委員長のも
と、熊本の上土井さんや山口の河野さん、石巻の木村さんはじめ多くのメンバーたちがいろいろな
切り口から全国の都道府県にアプローチをし、NPOに関する全国知事アンケートを行い、並行し
て5月8日に全国NPOセミナーを開催しました。これにはすべての都道府県の特定非営利活動法
担当者が出席し、また全国各地の市民活動関係者が集い、JCメンバーもはいって、同法や認証条
例に関する市民の考え方を明らかにすることができ、また、市民と行政のさまざまな出会いの場を
設けることができました。この97年98年前後の(社)日本青年会議所のNPO関係委員会にかか
わったメンバーの多くが、その後、各地でさまざまにNPO・市民活動にかかわり、自分のまちで
「市民が主役のまちづくり」と向き合っています。
これら(社)日本青年会議所のNPOに対する取り組みを通じて感じたことは、青年会議所という
組織の柔軟性と限界でした。地域の人材の一定割合が青年会議所というところに集っていることを
実感すると共に、ここでトレーニングを受けた人たちが個人に還ったときに、個人として地域でど
のようなうごきができるのかというのが問われると思っています。個人としての自分の思いを形に
するためにJCという組織の持つ信用力や影響力を活用するというように、個人と組織の関係を旧
来のタイプから転換する発想でうごけるかどうかが課題と感じました。その個人の活力・活動を活
かして組織が活性化するようなしくみをつくれれば、変化の時代に対応できる21世紀型の組織に
なるのでしょうし、そのように変われるところと変われないところの差がとても大きく地域に影響
するだろうなと漠然と感じていました。
5.名古屋で取り組んだこと
市民フォーラム21・NPOセンターの設立総会での議論
時期が前後しますが、1997 年の春頃から、全国でNPOセンターができているのを受けて、名古
屋でもNPOセンターを設立しようといううごきが出てきました。名古屋大学法学部教授の後さん
たちがそのような主旨で呼びかけたときには50名近い人たちが賛同してくれました。ところがそ
の後準備を進める半年ほどのあいだに準備会に参加する人数がだんだん少なくなり、最後には10
人程度に減っていました。これで大丈夫かなと思いつつ、中部リサイクル運動市民の会の事務所で
準備を進め、ほぼ原案が固まった段階であらためて設立総会のご案内の呼びかけをはじめました。
97年11月、名古屋国際センターの会議室で設立総会をひらいたところ100人以上もの人たち
が集まってくれました。ほんとうにあちこち手落ちだらけの資料や原案でしたし、付け焼き刃のよ
うな部分もあり、未熟な姿であったと思います。けれども、その思いに対する熱気だけはたいへん
力づよいものがありました。
私はそのとき、評議員ということで設立総会の議長をしました。今にして思えば本当に冷や汗も
のなのですが、にもかかわらず参加してくれた多くの人たちは熱い議論を戦わせてくれました。い
わゆるしゃんしゃん総会ではなく、ひとつひとつをおろそかにせず議論を進めていきました。ぼろ
ぼろと議論の未熟な部分が指摘されていきます。総会の後に日本NPOセンターの山岡さんが講演
する予定でしたが、その予定時間にどんどん食い込んでいきます。けれどもたぶんこれが本当の総
会の姿なのだろうと、そのときに議事を進行させながら感じていました。参加者は会員であり、出
資者である。わからないところ、疑問なところは質疑があってあたりまえ。このあたりまえのこと
をきちんとやっておかないと個人と組織の関係がおかしくなるということでした。会場からどなた
かが、
「私たちはこのセンターに私たちの団体をサポートしてもらおうとは思っていない。いま、こ
の時期にNPOが社会で認められていく上で必要な機能を持ったこのセンターの活動を支援してい
こうと思う」という主旨のご発言をされました。この言葉が私の心に強く残っています。NPOの
社会的認知と役割を広めていくために、NPOセンターはNPOに支援されて存在するということ
です。そういう役割を担った市民フォーラム 21・NPO センターはこうして発足し、NPO法人化
を経て、現在の形になっていきました。
6.ひと・まち・未来ワークが果たした役割
地域からの国づくりをインターネットで共に進める
1998 年の3月、特定非営利活動促進法が成立した翌日、
「ひと・まち・未来ワーク」を設立しま
した。目的は、同法の施行にあたり全国の都道府県で法人認証のための条例づくりを行わなければ
ならないので、そのプロセスをウォッチングし、その動向を全国で情報交換しながら行うことで民
の力をアピールし、法の成立過程で明らかにしてきた多くの思いを無事に施行まで持っていくこと
でした。各地での条例づくりの取り組みは、都道府県の担当者も手探りで進めていました。それら
のとりくみについて各地から寄せられる情報をホームページに掲載すると共に、その過程でできて
きた各地のNPOセンターのさまざまな取り組み情報も掲載するようになってきました。
こうして、
98年3月から 2001 年5月までの3年間に渡る全国各地のNPOセンターなどの活動を、2000 本
近い情報としてホームページに掲載する結果になりました。
そのNPOの草創期における各地でのさまざまな取り組みは、試行錯誤の連続という感がありま
した。また、問題意識の顕在化と取り組み方法の模索という意味では、まだまだ情報収集力も発信
力も未整備な立ち上がり期のこれらのセンターにとって、ひと・まち・未来ワークの情報循環プロ
ジェクトは一定の役割を果たせたと思っています。その結果は、財団法人まちづくり市民財団が、
1999 年、2000 年、2001 年に発行した『まちづくりと市民参加』のⅠからⅢに見出しを整理して報
告することができました。そして、NPOの草創期を経て拡大期にはいると、NPO・市民活動の
拠点もどんどん増え、全国各地からの情報発信も膨大なボリュウムになってきました。また、市民
活動の情報誌NPO/NGO Walkerなどが登場しITサポートの体制も整ってくるなど、
情
報ツールも確立してくるなかで、ひと・まち・未来ワークの情報循環プロジェクトは3年間という
活動期間を終了することができました。
この期間の活動を通じて、ITが本当に日常的なツールとして急速に普及してきたことがわかり
ましたが、それはNPOの普及と軌を一にしています。本来、NPOなどの活動は、個人の思いに
端を発し、それを多くの人たちに説明し共感を得ながら広げていくということと思います。それを
考えると、多くの人たちに向かって個人が発言できる手段を得て、個人が発言するようになったこ
とが、NPOがこの時期に発展してきたことの大きな理由のひとつと思います。もちろん、この時
期の経済状況と重なって組織があてにならないものであることがはっきりし、集団への所属意識が
薄れ、個人が個人であろうという模索のなかでのことであるとも思います。そのなかでNPO・市
民活動団体の組織運営のソフトが語られるべき文脈にあるということだと思っています。したがっ
て、個人のありようはこれからのNPOの組織運営のなかでも試されていくものと思っています。
7.みえNPO研究会での取り組み
1998 年3月の特定非営利活動促進法の成立から同年12月の施行までの間に、
各都道府県では特
定非営利活動法人を認証するための条例をつくらなければならなかったことは書きましたが、全国
の都道府県が淡々と条例づくりを進める中で、三重県では特異な条例づくりのプロセスを踏みまし
た。NPO関係者、県議会議員、学識者、企業人、行政職員など30人近くの人たちからなるみえ
NPO研究会を三重県NPO室が招集し、三重県庁講堂で 200∼300 人ほどの人たちの前で毎月一
回議論し、条例の内容を検討しました。そこでは、法の精神を条例のなかにどう取り込むかという
ことでさまざまな角度から検討しました。そこでの多くの意見をふまえ、法人認証施行条例の冒頭
第一条(目的)のところに『…特定非営利活動法人制度の公正な運営の確保をはかり、もって特定
非営利活動の健全な発展を促進することを目的とする』という一文を入れ込みました。また、その
プロセスを多くの人たちの前に明らかにすることで、NPOに対する理解を進めました。その議論
の様子は、ひと・まち・未来ワークのホームページにリアルタイムに掲載して、全国の都道府県の
担当者やNPOの関係者にアピールしました。
このNPO研究会では、
認証条例の原案を検討すると共にパートナーシップ宣言も策定しました。
この宣言は、個人と社会の関係を規定した7つのフレーズにまとめたものです。これまでの議論を
通して募集した意見を一旦分解しそれを再構成してひとつの宣言にするという作業を、NPO研究
会のメンバーに呼びかけて小委員会で行いました。その内容は、
『(1) 自立した市民が中心の社会を
つくる夢を共有します。(2) 一人ひとりができる範囲で責任ある行動をします。(3) それぞれに違う
立場と利益を認めあい、連携します。(4) 誰もが自由に選択できる開かれた活動を行います。(5) 広
く情報を公開し、活動の中に循環させます。(6) あらゆる変化へ柔軟に対応し、積極的に行動しま
す。(7) どんな活動も地球に貢献する大切な活動であることを自覚します。
』というものです。
「夢
の共有」と「コストの負担」を、自立した市民がそれぞれの判断と責任で実践するというものです。
いま、この宣言の中間評価をする時期に来ていると感じています。
8.桑名での市民活動ネットワーク平成の町割会で試みた個人のありよう
199 年11月に三重県まちづくり推進課が桑名員弁地域(一市八町、人口 22 万人)の市民活動
を行っている人たちの交流会を行いました。その実行委員会の市民メンバーが中心となって、2000
年6月に市民活動ネットワーク平成の町割会を設立しました。私もその実行委員のひとりとして設
立に参加しました。所属するさまざまな団体の肩書きをはずして個人がメンバーとなる分野を越え
たネットワークです。市民活動ネットワーク平成の町割会は最初からITを駆使したネットワーク
で、そのメーリングリストは会員の 75%以上を常時カバーしていました。行うことは3つだけです。
(1)毎月一回の市民活動定例交流会、(2)ITを使ったMLとホームページの運用などによる市民活動
情報ネット、(3)市民活動センターわたし(プラザわたしとサロンわたし)の運営です。たまたま議
論の過程で無料で建物を貸してくれる方がでてきて、センターは 2000 年9月に開設しました。一
階は市民に開かれたスペースとし、二階はメンバーのサロンと共同事務所などです。おりからの緊
急雇用対策費を活用した三重県NPO室の「地域NPO基盤整備事業」をプレゼンテーションで獲
得し、平日の午後は事務局スタッフを常駐させることができました。
この市民活動ネットワーク平成の町割会は、分野を越えたネットワークを提供することを目的と
していました。メンバーはMLや定例交流会でやってみたい事業を個人の責任で提案します。それ
に全体が賛成しなくても、興味を持って賛同する人たちだけで事業を実施するという「この指とま
れ方式」
でなりたっていました。
「人は違ってあたりまえ」
という考え方をシステム化したものです。
したがって、予算もその個人が自分たちで集めますし、事業を実施するのもその人たちです。ML
などでアピールすることで、共感をベースにその事業に必要な経営資源や応援を獲得していく場と
してこのネットワークが機能していました。当初 50 人ほどではじまったネットワークですが、終
了した 2001 年 12 月末には 120 人ほどの市民活動に関心のある個人によるネットワークに成長し
ていました。
自分がうごかなければ何もはじまらない、
行動を自分で選択するコミュニティとして、
このネットワークを自分たちの力でつくりあげ運営しました。
この指とまれ方式のプロジェクトは、1年半ほどの活動期間で30を越えるほどたくさん出てき
ました。生きたネットワークは、これまでの活動の経営資源と新たな経営資源が出会って新たなう
ごきを生み出します。そのような創造的な活動が個人の責任において発生してくる場として設定し
ていました。市民活動ネットワーク平成の町割会の応援システムとしては、その広報的な部分を少
し後押しした程度のものです。したがって本体のMLの周辺でメールのやりとりや小さなMLがさ
まざまなプロジェクトの進行とともにたくさんできては消えていました。
私の提案したプロジェクトとしては、
「広域のまちづくりフォーラム」でまちづくりの理念と課題
を確認し、
「市民活動体験講座」では地域で活躍している市民活動団体の紹介と市民活動の認知を進
めました。
「市民活動応援基金」では自分たちの力で集めた寄付金を自分たちがプレゼンテーション
にしたがって投票して提供先を選びました。同時にそれぞれの団体の課題もあきらかにしました。
「誰でもできるマネージメント講座」ではそこで獲得した小さな資金を元に、自分の活動の課題を
解決する講座をそれぞれが自分で企画して提供するという試みをしました。
「みえ市民活動ネットワ
ーク情報交流フォーラム」では隣接する地域密着型の5つのネットワークで情報の交換を行いまし
た。最後に「届けまちの声プロジェクト」では市民活動を行いやすい環境づくりとして15の施策を
市長に提言しました。いずれも他者に頼ることなく自分たちの力で自分たちが必要としているシス
テムをつくりだしていく一方で、
それにかかわる個人の思いを表に出していく試みでもありました。
9.これまでのことで見えてきた、個人と社会・組織との関係
個人と社会・組織との関係について、これまで見てきたことをもう一度整理してみます。以下の
ことがこの数年の自分の実践の中からはっきりとしてきたということです。
青年会議所活動を通じては次のようなことがありました。阪神淡路大震災では、直後に個人の思
いと判断、責任で現地に飛び込んで情報を伝えたメンバーの行動が、多くの人たちの思いを強くし
て大きな力を発揮することができたということ。日本の全国各地で「市民」の力強いNPOの宣言
がなされ、その拠点が次々に市民の力でできてきて、これからは本当に地域で個人が活躍できる時
代にしていくという意志を実感したこと。青年会議所が市民のための法律の成立に向けて、国会議
員や他のセクターの人たちを交えたオープンのテーブルを用意し、一定の役割を果たそうとしたこ
とで、自分たちが時代をつくっていけると思ったこと。そのうごきをパソコン通信を使って全国の
青年会議所メンバーにリアルタイムに発信し、地域のメンバーと共有して地域にあっても時代の風
の当事者のひとりという参加意識を持てると思ったこと。個人としての自分の思いを形にするため
にJCという組織の持つ信用力や影響力を活用するという考え方ができるようになったこと。
青年会議所を卒業してからのことでは次のようなことがありました。市民フォーラム 21・NPO
センターの設立では、いわゆるしゃんしゃん総会ではなくひとつひとつをきちんと議論する総会が
できたということ。ひと・まち・未来ワークでは、ITを個人が活用して情報を共有し個人の思い
をとても多くの人たちに向かって説明し発信できるようになったこと。みえNPO研究会では、多
くの人たちの前で議論し、そのプロセスを多くの人たちの前に明らかにしてものごとを進めていく
という手法を行政でも行い得ると示したこと。これらをふまえて、桑名での市民活動ネットワーク
平成の町割会で実践した、
個人の責任にもとづいて個人の思いを地域で形にしていくためのしくみ、
経営資源の循環システムを市民自身の力で運営できたこと。そこでは自分の行動を自分で選択する
ネットワーク・コミュニティが小規模であれば地域で成立すると実証できたこと。そのようなきち
んとした個人が地域でちゃんと存在していて、社会システムとしてのツールと運営のソフトさえ確
立すればすばらしい未来を開く可能性をもっていることなど。
10.市民社会へ−個人はどうあるべきか
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」という問いは、私の言葉に置き換えると「個人がどうす
れば輝くのか」ということです。それは、従来の組織・集団の運営ソフトである「指示待ち・依存・
帰属意識」ではなく、個人の責任にもとづく活躍を活力として、組織・集団も活性化する「創造・
自立・独立意識」を前提とした社会システムや運営ソフトを確立していくことだと思います。
そのようななかで「個人が自分の思いを社会で形にしていく」ときに必要な経営資源(人・情報・
資金・もの・サービス・時間・空間・場…など)と出会うための「善意の循環システム」として、
市民自身が維持・運営するネットワークを持ち得れば解決していけると考えます。このときにキー
となるのが「善意」であり「共感」であり「共生」であると思います。この善意の循環システムに
かかわるための要件として、そのような「個人に対する信頼」が必要であり、そこから「新たな公
益」にかかわるスタンスが生まれてくるのだと思います。ここが、従来の「お金」があれば資源の
循環システムにアクセスできるということとは決定的に違います。
市民社会に向かう個人のありようとして問われるのは、そのようなソフトをそなえたネットワー
ク・コミュニティづくりと、そこでの個人の「善意=信用」の創出であり、
「共感」を呼ぶために「個
人が自分を語りはじめること」ではないかと思います。それを行っても少しずつ受け入れられる時
代になり、
「個人と地域の輝き」こそが必要とされる時代にもなってきたのだと思います。
このような社会・時代をつくり出していくときに個人がはたす役割がとても大きくなっていると
いうことだと思いますし、そういう個人を活かすことができるしくみが今を開いていくのだと思い
ます。そして、市民社会というのはその先にあるというものではなく、そのように個人が活動する
過程のなかで、その都度その都度、その場に浮かび上がっては消えるものだと思っています。つま
り日々の個人の活動そのものが市民社会という瞬間をつくりだしているというように思いますし、
そのような個人の行動の仕方をつづけていくことが大切なのだと思います。そして、全国でそうい
う人たちがとてもたくさんいて、今の日本をつくっているということではないでしょうか。
パッションが市民社会創造の原動力
渡辺豊博
静岡県生活・文化部NPO推進室長
1.個人の依存心が公の危機を誘発
今、日本は国家沈没の瀬戸際に追いやられています。高度成長の裏側に、膨大な借金を抱え、そ
の返済に苦しんでいます。人間の体でいえば、癌細胞が果てしなく拡散・拡大して、自然治癒力を
奪い、死の縁に近付いている瀕死の危機的状況といえます。行政に何から何まで依存・甘えてきた
「他力本願のつけ」が、行財政の破綻という「行政崩壊」の現実として、市民に襲いかかっている
のです。この厳しい現実を、市民はどのように認識しているのでしょうか。
この様に、明日の国の方向性が、見出だせない今、私たちは一体、どう生き、どう対処したらよ
いのでしょうか。
「公」は個人の集合体です。多分、個人の依存主義が、公を駄目にしているのです。
新たなる国家再生への原動力は、市民自身の自己変革と問題意識の醸成にかかっています。
市民一人一人の「自立・自律・自発」の意識と具体的な行動なくしては、日本の行政システムの
変革は望めません。今の厳しい現実を嘆き、既存のシステムに固守するのではなく、様々な地域課
題を自分自身の問題として咀嚼し、先導者として改革していこうとする積極的姿勢なくしては、社
会は再生・改善されません。個人の利害を超越して、公益的活動に真剣に取組む市民・団体が、ど
の位、全国各地で活動しているかが、
「今日的市民革命の熟成度の指標」です。
2.実践の蓄積が市民社会構築の前提条件
立派な言葉や理論を話せる人は、世の中に沢山います。しかし、議論の中からは、問題解決に向
けた具体的な処方せんや画期的なアイデアは生まれてきません。
「議論よりアクション・走りながら
物を考える」が、問題解決のための最善の戦略です。余り物事を難しく考えると、
「知恵の混迷・混
乱」が起こります。
実践の中から生まれる、思考錯誤の連続性が、先駆的発意の原点です。失敗と成功の蓄積が、質
の高い市民活動のノウハウを熟成していくのです。経験・体験こそが、社会・地域の実態と現実を
知る「道場・修羅場」といえ、生活者の考え方や課題を吸収できる「実学習得の専門大学」だと思
います。
この現場重視の視点と行動が、個人の資質を進化・深化し、変化に臨機応変に対応できる人材を
生み出していくのです。複雑な利害が交錯し、合意形成が困難な現場こそが、楽しく、素敵な活躍
の場だと思える「心の強靭性・忍耐力」が、市民社会構築のための前提条件です。
「アホらしくて、
馬鹿らしくて、儲からない仕事」を堂々と自信をもって対応できる個人が、沢山輩出されなくては、
社会は変わりません。社会の底辺からの微動なくしては、世の中の変革は不可能です。
3.持続と発展を担保するパッション・情熱と忍耐
平成維新の特効薬は、横のネットワ−クシステムに裏付けされた「人々の信頼の絆」です。この
絆創造の現実性が、市民・NPOに突き付けられた大いなる課題です。社会の混乱が始まろうとす
る今こそ、
「市民力・NPO力」の実力を磨き・実証するべき絶好のチャンスだと思います。
これからの個人には、
「時代を先導するミッション・理念、地域を変革するアクション・実践と成
果、持続と発展を担保するパッション・情熱と忍耐」の意識が、必要不可欠だと思います。具体的
実践活動から地域と日本を変革していきましょう。
個の意思が社会を変える
阿部圭宏
淡海ネットワークセンター
1.淡海文化との出会いがきっかけで
滋賀県庁に入庁したのが 1980 年。田舎の長男だったこともあり、とりあえず県内での就職先と
して選んだ地方公務員。それほどの高い目的意識を持って仕事を選んだわけではなかったため、何
度か市民活動に関わることができる機会があったにもかかわらず、当時は流されるままの生活であ
った。今から思うと、それほど社会に関わらなくても生活ができてしまうこの世界というのは恐ろ
しいと感じる。
こうした生活を一変させ、市民活動のすばらしさを知ったのが、阪神淡路大震災の年である。震
災当時は、副知事の秘書をしていたため被災地へ行けなかったが、その4月に人事異動で淡海(お
うみ)文化推進室に配属されたことで、いろんな市民活動と出会うことになった。
淡海文化推進室は、当時の知事が「新しい淡海文化の創造」という県政理念を掲げ、その推進の
ためにできたセクションである。
「新しい淡海文化の創造」は、滋賀の地に住んでいる私たちが自然
の中に生かされている人間という自覚を持ち、先人から受け継いだ伝統に学び、今の暮らしや生産
活動などを見直して、新しい知恵や努力を加えながら、将来の世代によりよい生活環境と生活文化
を伝えていこうとするものであり、県民、団体、企業などの自主的な取組みを県が支えることによ
り、文化創造につながるとの観点での施策が実施されてきた。
こうした県民が主役で活躍できる舞台づくりを担う核となったのが、
(仮称)淡海文化推進サポー
トセンター設立構想であり、淡海ネットワークセンター設立へとつながっていくのである。この構
想は、95 年1月に出た淡海文化推進懇談会報告「新しい淡海文化の創造に向けた県民と行政がとも
に取り組むための推進方策」で提言され、私が推進室へ移った 95 年度には、構想策定のための調
査が入っていた。
2.市民活動への入口の扉が開く
95 年度、96 年度の2年間がまさにセンターづくりの準備期間であったが、実は私自身がここま
でこの仕事に打ち込めたのは、これまで何となく過ごしてきた生活、こなしてきた仕事とは違う価
値観を見つけたからである。そのきっかけは三つある。一つは、奈良に全国から地域づくりの人た
ちが集まる会へ誘っていただいたことである。地域づくりを熱く語る人が夜を徹して語り合うその
姿を見て、語ることのない自分が非常に悲しくなった。二つ目は、その年に始まった職員研修所の
政策研究講座に参加し、グループ研究をすることになったことである。研究方法をメンバーで話し
合っても、どこからアプローチすしたらいいかが分からず悩んでいたところ、同じ研修に参加して
いた人から現場の人を何人か紹介してもらった。早速、話を聞きに行くと、問題が何かがよく分か
る。机上でしか考えることをしない県庁職員からすれば、まさに眼から鱗という状況であった。三
つ目が、
「ひとまちネット滋賀」というネットワーク参加することになったことである。このネット
ワークは淡海文化がきっかけとなり、県内のいろんな人が集まり立ち上げられたものである。私は
淡海文化との関連から仕事の延長でもともと関わり出した。
結局、こうした三つのエポックは、いろんな人との出会い、市民活動のおもしろさを感じさせて
くれることになった。そこでの気づきは、県庁文化とは違った文化が存在するということである。
ヒエラルキーにとらわれて、自分の意見も主張できない、主張しないという文化とは全く違い、ま
さに自分の価値観で動くことのすばらしさを感じることになったのである。
3.不完全ながら市民参加で
センター構想をいかに実現するかが、推進室にとっても大きな課題ではあったのだが、私自身は
いかに参加型でつくれるかを主眼に置いていた。といっても、今と違い、市民参加でやるというこ
とは合意されていなかったので、実際にはそれほどのことはできなかったが。その一つは市民団体
へのアンケート・ヒアリング調査を含むサポートセンター設立調査(滋賀総研委託)であった。96
年度には、メンバー8名からなる検討会議を設置し検討を行ったが、この時期公募委員制度はまだ
なく、この検討会議は1本釣りでメンバー選定にあたった。あとが、センター構想の経過をニュー
スレターでお知らせしたことである。このやり方は、世田谷まちづくりセンターの手法をまねたも
のであるが、財政当局から掲載事項に関してのクレームが付いた入りして、内容的にも漠然とした
もので、実際にはそれほど機能しなかったかもしれない。
さて、センターの形態に関しては、県内部では神奈川方式(県の機関に位置づける)
、付置設置方
式(既存の滋賀総研にくっつける)
、外郭団体方式(新たに財団法人を立ち上げる)という三つが検
討されたが、すでに建設計画の進んでいた複合施設(現ピアザ淡海)の管理団体がほしいという県
の意向から、行革の折りにも関わらず新たな財団を立ち上げることになった。財団を立ち上げるこ
とになったものの、その職員はプロパーを雇わずに、県からの出向でまかなうということになり、
この問題は現在も解消されていない。
4 センターはできたけど
滋賀県政、特に人事・財政は旧来型で、他府県より進んで新しい施策をやりたがらない。それが、
神奈川に続く支援センターができてしまったのだから、
その点に関しては良かったと言えるだろう。
できた理由はいくつも考えられるが、基本財産の一部を市町村が出捐してくれることになったこと
が大きかった。
センターは「新しい淡海文化の創造」がきっかけでできたが、これは決して淡海文化の推進セン
ターではなく、時代の流れを汲み、市民活動のための支援センターであるという位置づけをしてい
た。行革のあおりで、センターができると同時に淡海文化推進室が廃止されたので、知事としては
淡海文化の名前を残したいと、
「財団法人淡海文化振興財団」という名前が付けられてしまった。淡
海文化の推進はあくまで県政の話であり、淡海文化推進室廃止後は、淡海文化は県民生活課に引き
継がれることになった。
財団が淡海文化の推進を担うとの誤解を避ける意味もあり、
愛称を募集し、
「淡海ネットワークセンター」としたのである。
いよいよセンターができたが、先例は神奈川しかない。その後の支援センターの流れを見ると、
良きに付け悪しき付け神奈川しか先を行く事例がなかったわけである。ただ、滋賀の場合は、場の
提供を前面に出した神奈川のようにはいかないとは分かっていても、どういう方向を目指すべきか
は、まだまだ定まっていたわけではない。
市民活動の盛んな神奈川の場合には、行政が支援センターをつくることの是非そのものも問われ
ていた。滋賀の場合は、アンケート調査を通じて、一部に懐疑的な意見はあったものの、センター
に対しては概ね好意的に受け止められてきた。これは、神奈川とは状況が違いすぎたということで
あるが、市民活動の本質を理解するほどに、行政がつくる支援センターの限界を知ったのも事実で
ある。それと、前述のプロパー職員を抱えない職員体制が果たして機能するのかという不安はずっ
と抱えていたと言える。
5.どちらを見て仕事をするか
淡海ネットワークセンターの運営費は、県からの補助金が 98%を占めている。人も県からの出向
である。ということは、外から見ると、県行政そのものという誤解を招きやすい。事実、県と一緒
だと思っている人もいる。そこで、センターは設立以来、市民サイドの運営をしていくことを基本
としている(少なくとも私は)し、市民サイドの運営がなされるように日々努力をしている。しか
し、県にとっては、センターは別法人格を持っているとはいいながら、いわゆる外郭団体であり、
人も金もコントロールできるから、出先機関だと思っている。議会の答弁でも、
「センターに……さ
せる」ということを平気で言う。これは、センターの職員である私やセンターを好意的に応援して
くれている市民にとっては、あまりうれしい話ではない。
県から出向している職員で、センターに骨を埋めようとする人間は私だけである。それは、通常
の人事異動の中で動かされる県職員としては当然の結果であり、私だけがそのように思っているこ
と自体が、県庁の常識から見るとかなりずれているらしい。片道切符で来ている(と思っている)
私は、常に市民サイドという価値観で動き、県からの圧力的なことに対しては対抗していこうとす
るわけであるが、普通はそこまで県に対して文句を言ったりしない。自分の身がかわいいというこ
とでなくても、同じ県の職員にそこまで言おうと思う人はいない。ここには、どうしても県の外郭
団体であることの限界がある。
そうした県の圧力、介入をいかに少なくするかが、センターやその職員にも求められているわけ
であるが、その限界を外部的に何とかしようとする仕組みが運営会議である。これは、いかに市民
サイドの運営を取り入れるかという発想からできたもので、有識者、NPO関係者など10名の委
員(2年任期。再任なし)から成っている。運営会議ではいろいろな提案をもらい、センター設立
の初期段階から官僚的な仕切りをしようとしてきた事務局を牽制してきてくれた。
6.パクリとネットワークと便宜供与
設立当初の運営会議では、基本的なセンターの運営、事業、あり方などに関して、いろいろな意
見や提言を出していただいた。特に職員の資質や体制に関しては、意見が集中していた。
「センター
にとっては団体同士をつないだり、相談に対応することは地味だが、非常に大切な仕事である。県
から出向している職員がそのようなことに対応できるのか?」
「その職員がうまく育ったとしても、
人事異動で変わってしまえば、また一からになる。そんなことでセンターの信頼が得られるのか?」
「なぜプロパー職員を雇わないのか?」……。こうしたことは、当然指摘されるべき問題であり、
相談対応やプロパー職員の状況などは今も変わっていない。
運営委員の一人がくれた知恵が、
「パクリとネットワーク」である。職員は右も左も分からないの
だから、県内外を問わず、いろんな人と出会い、相談を受ければその人を紹介する、あるいはその
人のやり方を真似するしかしょうがないということである。
もう一つが「便宜供与」である。センターは税金で運営するものだから、公平・公正・中立でな
ければならないという幻想を抱くものもいる。しかし、市民活動はそのレベルも分野も関わる人も
様々であるが故に、一律の対応をしていてはうまくいかない。もう少し後押しすれば自立できると
ころには、かえって厳しめに対応することにより、その効果が期待できる場合が多い。それをまだ
立ち上がったばかりのところに、同じような対応をしてしまうとすぐ潰れてしまうおそれがある。
このように団体や人の顔を見て対応を考えるというのは、マニュアルで対応できるものでなく、個
人の経験とスキルが必要である。また、特定の活動や団体に肩入れする理由もしっかり持っておく
必要がある。
それを行政の十八番である公平・公正・中立という論理で対応すると、方向を見誤ることになる。
こうした対応が、ときにはネガティブ、あるいは責任逃れと映って、一気に信頼を失うことになる。
7.市民の信頼を得るために
センターができて今年で6年目。この間、一番腐心してきたのは、市民の信頼を得ることである。
残念ながら、まだまだ淡海ネットワークセンターが滋賀県内に十分知られているまでには至ってい
ないが、信頼を勝ち得るのは日々の地道な努力の積み重ねなのである。個々のいろいろな相談には
気を遣いながら、ていねいに対応するよう他の職員にも求めてきた。相談のノウハウはなかなか共
有できるものではないが、それぞれの職員が切磋琢磨することにより、全体の質を上げることがで
きると思ってきたからである。
特に、
電話のたらい回しのような対応だけはしないようにしてきた。
細かいことかもしれないが、こうした一つ一つの積み重ねがセンター全体の評価を形作ってしまう
ので手は抜けないのである。
センターを市民に信頼を得られるようにするために、まずいかに市民的な運営に心がけていくか
が重要である。淡海ネットワークセンターは滋賀県をエリアとする広域(県域)のNPO支援セン
ターであるため、地域密着型のセンターのように市民との接点が持ちにくいという特徴(欠点)が
ある。しかも税金で運営してるために、会員制もとりにくい。そのために、前述の運営会議のよう
な仕組みをつくる必要があったのである。運営会議も多くの方々に広くセンターに関わっていただ
けるようにと、その任期を2年とし、再任しないことにした。しかも、2期目委員からは10名の
委員定数のうち5名を公募することにした。公募することが、センターへの関心を高めることにつ
ながっていると思う。
8.ブランチ構想事件
2000 年の夏、次年度の県の重点事業が検討されている中、突然、淡海ネットワークセンターのブ
ランチ構想が持ち上がった。センターは場の提供機能を中心に置くのではなく、県域のセンターと
して事業(ソフト)を中心としながらサポートしていくことが、設立以来、運営会議でも確認され
てきたことであり、ブランチ的なものを持つ必要はないという結論が出ていた。そこには、将来的
には市町村域にできるセンターをネットワークでつないだり、各地のキーパーソンをまさにネット
ワークしていくことで十分対応できるもので、ハード的な対応は必要ないということであった。
滋賀県の地理をご存知の方はお分かりかもしれないが、センターがある大津市は県の南に位置す
るため、北の方にもセンターがほしいという話は設立当初からあった。しかし、センターはあくま
で機能(ソフト)であり、場の提供(ハード)ではないということにしていたため、こうした要求
に答えることはなかったのである。それが、唐突な県からのお達しである。たまたま米原にある県
立施設がうまく機能していないため、新たにハードを建ててではなくこの既存施設を利用してのブ
ランチなら簡単にできるだろうという安易な発想から出てきたものである。
この話には3つの問題があった。1つは、前述のブランチをそもそもつくらないというセンター
の思想であり、もう1つは、いいものをつくるのだから何が悪いというお上の発想であった。セン
ターができた頃ならいざ知らず、市民活動が根付いてきたこの時代に、参加型・協働型でつくり上
げる発想のないものは反発が大きい。3つ目は、センターの意向を無視した県のやり方であった。
センター内でも議論し県と掛け合ったが、まさになぜ悪いという話しか出てこない。一旦センター
としては到底受け入れなれないとしてきたことにも、トップや部長がそういうなら仕方がないとい
う結論になりそうな雰囲気になってきた。
これは実はセンターの信用問題であり、私としてはどうしても許容できなかったので、メールな
どを通じていろんな人の意見を聞いた。ほとんどが私の意見に賛同してくれたので、このまま進む
ことを何とか止められないかという思いから、最終段階でブランチ構想を含む支援体制の調査とい
う項目に計画をつくりかえ、何とか部長の了承を得た。ということで話は落ち着いたもの予算要求
段階ではこの調査費もつかず、結局この話は立ち消えになった。トップの気まぐれに付き合わされ
た格好である。しかし、これを言われるままに進めていればどうなったであろう。昨今の一旦動き
出したら止まらない公共事業と同じである。誰も責任をとらない。
9 結局、県には組織としての評価しかない
行政は枠組みができてしまうと、これで動くはずであるという評価をしてしまう。また、枠組み
をつくることにしか興味を示さない(行政がすべてそうではないが、少なくとも滋賀県庁において
はそうである)
。センターを動かしているのは、実は個々の職員(個人)なのであるが、人事当局は
そういうことを考えない。ジョブローテーションの名のもと、自分たちの価値観でもって容赦なく
人事異動を行い、結果として苦労して築き上げたものを一気に壊してしまう。行政の無謬性とはよ
く言ったものだ。確かに悪気があるわけでない。何年かの周期で新しい職員を送り込むということ
になるが、県というのは中二階の組織であり、現場を知らない職員が多い。現場を知らないミニ官
僚的な人間が来たらどうなるか。結果は火を見るより明らかだ。
人事当局自体も、現場を知らないエリートしかいないから、現場が大切だという考えがない。セ
ンターも一時大きな痛手を被った。職員がコツコツ積み上げてきた信頼が一気に崩れ落ちようとし
たのである。センターの職務に合わない職員を配置するという最大のミスをしたのだ。しかし、こ
れで問題が起こっても、人事が責任をとることはない。一緒に仕事をしているものの志気は低下す
る。これは何もしないことより実は悪いのである。
私もいつまでセンターにいるのかとよく言われるが、確かに人事のまな板に載っているのは確か
である。しかし、人事異動なんかしたくない。今さら出世なんかしたくもないし、活気をなくした
県庁、古い体質の県庁、ムダな仕事をしている県庁なんぞに帰る気など毛頭ない。おまえが後継者
を育てればいいとも言われる。OJT(On the Job Training)で後継者をということなのだろうが、
それは自分で会得するものではないか。人の真似をしていてもうまくいくはずがない。育てないの
はおまえが悪いと言われても、魂も私生活もそこに入れ込んでいる人間と同じになれるわけがない
だろう。
実は、この3月の異動では替わることになっていたらしい。たまたま、諸事情で何とか今年は残
れることになったが、さて来年はどうなることやら。と嘆いていても仕方がない。こうした人生を
選んだ限り、走り続けるしかない。
10.個人としての幅を広げるために
淡海文化推進室から市民活動のおもしろさを知ってしまい、仕事とは別に個人的にはいろいろな
活動、団体に関わってきた。県内外のいろいろな団体に関わり、市民活動の幅の広さと奥深さを実
感しながら、一方で、NPOフォーラム等で知り合った数多くの市民活動の仲間は今も大きな私の
財産となっている。そして、こうした数多くの仲間から学ぶことは多い。たまたま、市民活動に関
わる仕事をできたことから広がった世界が、もうこれなしには人生を考えられないところまで来て
いる。
なぜそこまで頑張るのかと言われるが、公務員の世界は、出世を気にせず、悪いことさえしなけ
れば何でもできるし、何でも言える。たとえ上司であっても、徹底的に戦える。そこまで頑張る理
由はただ一つ。私の回りには多くの市民がいて、その市民の期待に応えるためである。
淡海ネットワークセンターができた6年前に、今のNPOの活躍ぶりを想像できた人がどれくら
いいるだろう。たとえ今は小さな点の活動であっても、10 年後には見違えるようなNPOの活躍が
あるだろう。そうしたNPOの社会的な位置が高まることを願い、市民社会をめざして、これから
も行動していきたい。
「市民社会へ−個人はどうあるべきか」
須藤路子
特定非営利活動法人 山形創造NPO支援ネットワーク
1.私が市民活動に関わるようになったきっかけ
私が市民活動に関わるきっかけになったのは、1990年山形県で実施した男女共生社会(現在
の男女共同参画社会)の実現に向けた講座に参加したことからでした。それまでの私は、市民活動
とは無縁な専業主婦だったのです。この講座を受講して、社会システム全体が男性型なこと、この
ことが女性たちの社会参画を遅らせ、個人としての生き方にも、多大な影響を及ぼしていることを
知りました。いまだ、女性という個人がその尊厳のもとに、主体的に、その能力を発揮できる社会
が、形成されてはいないと思っています。
受講者達を知ることによって、山形県内でも多様な女性達が、多様な価値観のもとに、多様な活
動を行っていることを知ることになりました。講座を受講した仲間達が、山形県内各地で積極的に
団体を立ち上げていました。仲間達の団体の活動情報と一緒に、他の団体の情報も同時に入って来
ていました。その後、私自身も色々な女性団体を立ち上げ、代表を務めていた団体もいくつかあり
ました。それらの活動を通して、自分達の活動にも他団体の情報を得ることは、自分達の気付かな
かったことを知って反省し、それを活動に生かして次の目標設定もできることを、理解できるよう
になっていました。
2.第四回世界女性会議NGOフォーラムに参加してから
1995年世界女性会議が北京で開催され、その NGO フォーラムに仲間と一緒に参加して来まし
た。世界の各地域の女性たちと接し、各地で抱える課題を知るにつれて、その課題解決には、人権
意識をもつことが、必要であることを実感せざるを得ませんでした。世界の女性たちの色々な問題
が、多様な課題となって複雑に絡まりあっている、今社会のあらゆる分野で問題になっていること
は、同時に女性の問題であり、これまでマイノリティーとされてきた人々に対する問題でもあると
感じてきました。社会を構成する人間一人一人の人権が保障された社会づくりは、市民が主体とな
る社会づくりにほかならと思います。
この NGO フォーラムに参加して、市民活動する仲間だけの力では、目的とする社会作りは難しい
と考えていました。そして、山形県で主催する男女共同参画社会づくりの普及啓発事業への実行委
員や、山形市で主催する同様の事業等にも、積極的に参画し発言することにしました。
1996年に山形県内で始めての山形市女性センターがオープンし、同センターの運営委員を委
嘱されました。その結果、公設公営のセンターではありましたが、その運営を市民の立場から考え、
事業を市民の立場から企画していくことにもなりました。通常、公設公営の施設等の運営委員は、
事業の企画・施設の運営について、行政の報告等に対し審議する場合が多いと聞きます。が、同セ
ンターの運営委員は、
新設でしかもこの施設に対する女性たちの期待が大きかったため、
委員達は、
市民が足を運びやすい施設にすることや、女性センターという特徴を生かす事業の方法を、委員一
人一人がどのような認識で、どのような行動をするべきかなど、数日間に渡って時には夜間にまで
及ぶ議論を重ね続けました。その結果、運営委員は審議だけでなく、行動も伴って行こうという方
針を決めました。
その方針のもとに、講座等の事業の企画・運営、イベント等の企画・実行を、行政と運営委員が
協働して行ってきました。委員として一市民として山形市の男女共同参画社会作りのために、私自
身が学びたいことや学んでほしいこと・女性だけでなく男性にも学んでほしいこと等を考え、同時
に私自身も自己学習や研修を続け、講座の企画立案とセンターの運営を考えていました。講座時間
中の参加者の様子、講座終了後の感想などを知るために、時間の許す限り積極的に参加者や市民と
の対話を心がけました。その声を生かすための方法等を運営委員会で発言し、行政と一緒に考え続
けた6年間でした。
1995年以降いくつかの女性団体のメンバーとして、多様な形で山形県の男女協働参画社会作
りのために提言も行ってきました。男女共同参画社会の行きつくところは、男性や女性・老人や子
ども・障害の有無にかかわりなく、個人がその有する個性や能力を充分に発揮できる社会作りにほ
かならなく、それは人権が保障された、市民社会の構築につながると思っていました。そのために
個人としての私自身が、今後社会活動を通して社会とどのように向き合うのか、私自身への問いか
けでもありました。その課題は山積みであると思っています。
3.山形創造NPOネットワークの立ち上げ
山形創造 NPO ネットワークは、1999年3月27日に設立総会を行いました。設立までの経緯
から、総会に行政からの参加があったことが、民間のサポートセンターとはいえ、大きな特徴だっ
たと思います。設立の準備は県の総合開発審議会の答申に基づいて、同審議会のメンバー等と行政
が中心となって、設立の動きを始めたようです。私が県内で、NPO をテーマにしたシンポジウムや
集まりがあると知ったのは、1998年6月ごろで実際に参加したのは、その3ヶ月ほど後の19
98年9月末頃でした。
最初に参加したときは、庄内地域を中心として活動するメンバーが、熱い思いを感じさせるよう
な様子で話し合いをしていました。山形市や置賜地域からの参加者は少なかったと思います。この
ころすでに存在していた、参加者の地域アンバランスが、今でも組織の広がりに、微妙な影響を与
えていると思います。審議会のメンバーに地域づくり始めとする多様な活動を行っている NPO や、
行政・個人が中心となって準備会を結成し、県民に NPO への理解と組織への参加を求めるため、県
内各地でシンポジウムやワークショップ等を開催して PR しながら、
設立の準備を行っていたという
ことです。
私が参加したのは、すでにこれらの PR も一通り終了し、具体的な組織作りに入っていた頃だった
のでしょう。一番初めは、NPO の学習会へ参加したつもりでした。だが、そこは学習の場ではなく、
一つの組織を立ち上げるための話し合いの場でした。山形県内に NPO 支援の組織を設立する。活動
者も企業も行政も連携する共同体として、NPO 支援の組織を設立する。当時の私の理解は、漠とし
たこの程度のものでした。この頃山形県内で、NPO という言葉は殆ど聞かれませんでした。しかし、
NPO を支援するという趣旨は、私にとっては新しい考え方であり、設立される組織は将来多様な活
動をする団体や個人にとって、重要な役割を果たすだろう事は解りました。事務局を担っていた行
政から、準備会開催の案内が来るようになりました。立ち上げを応援しようと思い、時間があれば
参加してみるという繰り返しが、
いつのまにか山形市内の主要なメンバーの一人になっていました。
組織作りの検討過程で、民間主体に組織を作りたい NPO や大学の先生、行政の方針を取り入れた
い意向の行政側と、やりとりの場面もみられました。しかし、それは表面に現れた一現象にすぎな
かったと思います。水面下でも激しい駆け引きが行なわれていたと考えられます。準備会には事務
局を担っていた行政から、議事録等色々な文書が出されていました。
事務局設置予定の場所が、私の住まいから1番近い場所に決まりました。この結果、私を事務局
担当とする、動きが始まっていたと思われます。ある日、行政や大学の先生等のメンバーから呼ば
れ、事務局長補佐としての事務局への関与を依頼されました。事務局長は最初からこの組織の立ち
上げに関わっていた、庄内地域のメンバーが引き受けるということでした。これでは事務局の業務
遂行は、私が行うことになってしまうので断わりました。これを受けることは、私が代表する団体
に対しても、この組織に対しても、全てに対して中途半端で無責任になることは明白でした。また、
この提案は準備会の席上で出されるべきで、一部のメンバーからの依頼は本来では無いと思いまし
た。私ができる部分で手伝いをするという旨の回答を行いました。そして、この組織に情熱を持っ
ていると感じられる、山形市内の仲間を事務局長補佐に推薦しました。新しい組織作りには、自ら
が情熱を持って積極的な関わりをもつ心が重要になります。私はそこまでの心を作り上げることは
できないと感じ始めていたのです。この回答は準備会での席上等でも行いました。
準備会では、設立のためにさまざまな検討が繰り返され、作業も進んでいました。県からは各市
町村に対し、行政会員としての加入依頼文書が出されていました。設立総会に向かって最後の準備
会に、ある銀行から山形創造 NPO ネットワークへの出向予定者が初めて参加しました。この組織へ
出向することが、数日前に上司から言い渡されたこと、今まで、ボランティア活動や市民活動等の
経験がないことを挨拶の中で話していました。これから、事務局にいて会計等の総務を担当してく
ださる方です。これは NPO に金融機関の職員が出向するという全国で始めての例でした。
設立に向けていろいろな準備が進められていましたが、参加している NPO には、議論以外の実際
の動きが見えず、参加者も徐々に少なくなっていると感じられていました。私自身も設立の趣旨に
賛同し、山形県にもこのような組織が必要と思い、設立総会までは協力をしよう思うだけでした。
そして、山形創造 NPO ネットワークは設立しました。理事は全て山形市以外の人達でした。重要な
メンバーは審議会の委員や、それぞれの地域で活動団体を持ち、その分野で活動実績を有する人や
大学の先生等でした。
その結果、
この組織は草の根レベルの NPO ではないと反発をする県民もあり、
同時に指導者にあたる人達は多かったのですが、実際にこの組織のために活動する者はごく僅かと
思われ不安がありました。
4.山形創造NPOネットワークでの取り組み
設立総会後しばらくの間、事務局に顔を出さないでいました。しかし、ある日出掛けて行くと、
銀行から出向してきた総務部長が、どこか不安げな顔をして机に座っています。彼らをこのままに
して良いのだろうか、そんな思いが頭をよぎり、せめて事務局にいる人達が業務に慣れるまで、精
神的なフォローをしてやろうと思いました。時間が空けば事務局に出向き、私のこれまでの女性団
体での取り組み等を話ました。それは、市民活動者の心を理解して欲しいと願い、その理解なしに
は、市民活動団体等の支援や活動者とネットワークを作ることは難しいと思ったからでした。女性
団体への関与はこれまでと同様に続け、この事務局に顔を出す分だけ、活動者としての私自身の活
動時間は総体的に増加していきました。
当初、理事会よりも活動主体となる企画運営委員会に、組織としての重点を置こうとしていたよ
うに思います。理事会は理事に加えて、企画運営委員の一部と事務局が加わり拡大理事会としてい
ました。拡大理事会では、組織自体が新しいことから、その都度発生した事への対応と、企画推進
委員会に付議すること等の整理や検討で、精一杯であったような気がします。企画運営委員は準備
会に顔を出していたメンバーが、そのまま委員となりました。各々自分の事業企画を提案し、それ
を討議し採択されたものが、
プロジェクトになり事業となります。
事業はその企画を提案した人が、
それぞれ実行していきました。
ある時、私にこの組織で何をしたいの、という問い掛けがありました。事業企画を出すよう催促
もありました。しかし、私自身はすでに、他の団体等で事業を企画して実行していましたので、こ
の組織で何かをするという必要性は感じてはいませんでした。ましてや事業提案・採択という手順
は、余計な負担と思われました。その頃、私にはこの組織は何をめざしているのか、それを具体的
にどう実行していくのかよく解りませんでした。設立前、あのように熱く語っていた人達は、この
組織に何を思って語っていたのでしょう・・・。
半年ほど後、県から2つの事業の委託がありました。県民活動団体情報提供事業と県民参加型事
業でした。県民活動団体情報提供事業は、団体名簿を作成しデータベース化し、山形創造 NPO 支援
ネットワークのホームページとリンクして、県民にボランティア団体等の情報とイベント情報等を
提供するというものでした。2年間にわたる事業です。県民参加型事業は、プロジェクト2000
と名づけられ、これまでのトップダウン式の事業遂行形態ではなく、ボトムアップ型の事業遂行形
態とし、それを実行委員会形式で行いました。事業の始まりから、終了までおよそ1年以上かかり
ました。
県内各地でこの事業に賛同する人が、県内4地域でそれぞれアイディアを出し話し合い、検討し
ながら事業を進めていきます。地域で話し合い・それをこの事業の幹事会で検討し・山形創造 NPO
ネットワークの企画運営委員会で再検討するという、意志決定の場が2重3重になりました。この
結果企画推進委員の会議に参加をしなくなった人も出てきました。事業が終了した頃は、地域でこ
の事業に参加していたメンバーにも、必ずしも自分達の意志がそのまま通らなった事から、関わり
を持たなくなった人もありました。しかし、その中には、今活動のステップアップをはかり地域の
活動者と共に、もっと大きく事業展開をしている人・地域のサポートセンターを立ち上げた人・理
事に加わった人もいます。
事業を進める途中には、行政事業の実行委員会と同様に考えて、実行は事務局が行い、委員は意
見を述べるだけという、メンバーの主体的な行動が見られなかった地域もありました。その対応に
本部事務局は、一部地域の事業の実行主体となってしまう混乱状態もありました。そのため、この
事業は事務局が主体となって実行するのではなく、この事業に関わるメンバー各人がアイディアを
出し、そのアイディアを尊重しながら企画し、実行方法を話し合いによって決定し、それぞれが主
体的に行動して実行に移す事業で、まず自らの自発性が重要になると話しました。そのためには、
これまでとは違った発想が必要なことをも話しました。しかし、これまでと同様な実行委員会をイ
メージする参加者からは反発がありました。この事業遂行には、実行委員の行うこと・本部事務局
が行うべき仕事・理事会がやるべきこと、企画運営委員会が行うこと等の、役割分担をきちんと整
理する必要がありました。
この発言の翌日、私には事務に関わる能力ややる気が見えないと、ある理事から事務局長を辞退
するよう勧告がありました。この二つの事業の受託によって、私がこの組織への不関与の時期を逸
していました。設立から一年後、事務局長補佐から事務局長になっていたのです。山形創造 NPO ネ
ットワークの事務局に関わり始めてからも、女性団体の代表などを続けており、事務局長としての
専従は無理でした。私は事務局長を引き受けるに当たり、業務が限られてくる事を条件とし、その
了解のもとに事務局長を引き受けました。事務局長補佐が1年・事務局長1年、この間はいくつか
の女性団体の代表と、この組織の事務局と2足のわらじをはいているような状態でした。
事務局長としての業務遂行には限りがある、という約束とはいえその役を引き受ければ、そのよ
うな約束の効力は殆どありません。しかし、事務局長になってからは、それにかかる時間が徐々に
多くなり、女性団体との活動時間のバランスが少しずつ崩れてもいました。ある女性団体の主要メ
ンバー達から取り囲まれて、代表が事務局を引き受けるとはなにごとかと叱られたこともありまし
た。それ以外の団体でも、仲間と一緒に過ごす時間が少なくなり、コミュニケーション不足が目立
ってきていました。その批判が時間の経過と共に強まっていきました。私自身は、これまでと殆ど
変わることなく、団体活動を行っているつもりでしたが、今思えば関わり方に変化が出てきていた
事は、間違いのないことでもありました。それら団体に関わっている時間は、事務局業務を遂行出
来ません。その分の業務を、銀行から出向していた総務部長に肩代わりをお願いするか、スタッフ
に業務をお願いするかになって来ます。そのことも事務局長としてやる気がないと、批判を受ける
ことになったのでしょう。
事務局に関与することで、このような状況になってしまうことは、以前から私自身わかっていた
事です。年度が変わった時、女性団体の代表は他の方と交代することにしました。本来、市民活動
のスタートは、本人の主体性が基本となります。私の NPO 活動の主目的は事務局に関わることでは
ありませんでした。そのため、私は一旦全ての NPO 活動から身を引き、ここで一度自分を見直す時
間を作ることを決心していました。
5.特定非営利活動法人 山形創造NPO支援ネットワーク の立ち上げまで
山形創造NPO支援ネットワークは、
2000年11月1日に申請し、
2001年2月7日承認、
2月16日法人登記を行い法人となりました。任意団体として発足してから、1年余り後の法人格
取得でした。任意団体の事業計画案の書類は、事務局を担っていた県から準備会に出されていたと
思います。当時は、その策定過程・事業の必要性とその実行方法は、私個人としては解りませんで
した。また、何を目指して進めるのかもよく掴めないでいました。団体設立の頃は、実際組織を運
営している事務局の関与なしで、事業はプロジェクトとして動き始めていきました。このような状
況では、
事務局はこの組織がどのように動き出しているのか把握出来ません。
そのために事務局は、
プロジェクトの情報を収集し、名簿作りを行い、その事業計画等も事務局に常備し、常に連絡を取
れる状態にする等、団体としての組織固めをすることで精一杯の状態だったと思います。
プロジェクト2000は、このような状態での大きい事業の受託でした。組織全体で関わる必要
のある大きな事業だったために、熱意を持って関わろうとしていたメンバーほど、時間も労力も使
い、疲労を招くことにもなりました。事業終了時には組織疲労を起こしていた、といわざるを得な
い状態だったと思います。更に、事務局はこの事業全体の事務局であったのですが、実際は一地域
の実行主体にもなってしまったために、二重三重の疲労を起こしていました。
しかし、この事業の遂行過程で、企業や行政各種団体等と、連携をとっていたこともあって、私
自身はこれまで無関係にしていた分野と、関係を作るきっかけになりました。更には市町村職員の
方の、NPO に対する認識を促す機会にもなりました。そして、山形市との協働事業や昨年度の講座
等の PR、今年度開催したフォーラムとの下地にもなっています。このような状態の中でも、法人設
立に向けての準備を進めていました。定款の原案作りの手助けに始まって、理事をお願いする方へ
の依頼が大きな仕事でした。法人化後の理事は31人になります。同時に顧問の依頼もまた大きな
仕事でした。このような方々に、電話や直接訪問してお願いをします。理事予定者の宣誓書や住民
票等の書類が整い、法人申請ができる状態になるまで約半年近くを要しました。
本部事務局の移転の問題もありました。それまで本部事務局は、ある印刷会社の1部をお借りし
ていたのですが、元職業安定所だった建物の1階部分を、山形県 NPO 支援センターとして県からお
借りすることになりました。そこに移転しなければなりません。建物は築後40年ほど経過してい
ると言われ、頑丈につくられていますが、入居するには改修が必要でした。県有財産のために、改
修は県の費用です。改修にあたって私達は、車椅子を使用する方、そうでなくとも身体に障害のあ
る方、子ども連れのお母さん等、多くの方々が利用可能なように幾つかの要望を出しました。県有
財産の使用という制約と、県側の予算とこちら側の予算との兼ね合いを考慮しながら、合意を図り
ました。この工事完成までおよそ8ヶ月程度費やしています。
県の NPO 支援センターとして、各室の利用方法と事務局の室の整備、多くの NPO に使っていただ
くために休日の利活用の方策とその対応・セキュリティーの確保・印刷機の使用開放・事務局を持
たない NPO への場所の提供とその条件整備等々、多くの検討課題がありました。これらの課題に対
して、事務局で原案を作り、それをもとに少人数のワークグループで話し合い、その結果を理事会
に提案し決定していきました。その基本は、事務局スタッフ各人が、本来持っている個性を充分に
伸ばせる職場環境作りと、NPO が楽しく活動できるような体制を利用団体と連携しながら作り、セ
ンターを運営していく事でした。そして、多様な NPO とその活動をする人々の、心のよりどころに
もなって欲しいと願っていました。
移転の作業も進めなければなりません。関係各団体等への移転連絡から始まって、様々な雑務が
発生し相当な業務量です。事務局の中で、スタッフとコミュニケーションをとり、引越し作業の手
順を作り、これらを確認しながらの準備でした。2000年12月7日に移転しました。設立以来
顔を見せてくれなかったメンバーも引越し手伝いに来てくれて、懐かしい再開の場にもなり、設立
準備会の頃を思い出して胸が熱くなりました。この日を迎えるまで、多くのことがありました。1
2月21日に、県関係者や町内会長さんを始め、近所のかたがたを招いて開所式を開催しました。
山形創造 NPO ネットワーク設立以来の活動発表の場を設け、それぞれの活動を理解していただくこ
とで、末永いご近所付き合いを目指したつもりでした。
この頃も、自分自身が抱える団体の運営と共にこの組織に関わりを持っていました。常務理事・
事務局長としての1年間は、プロジェクト2000事業の遂行、法人化への準備作業、新事務所と
もなる県 NPO 支援センターへの移転、そして開所式を行いました。忙しく、息のつく暇もないよう
な日々を送っていたのですが、他の団体にも時間を割かなければなりません。このような状況の中
でも事務局長辞任要求はあり、同時に他のメンバー等にこれを働きかけていたようでした。
しかし、年度の途中に、やりかけたことを残したままで辞めることは出来ません。新しい事務所
への移転は終了しましたが、
山形創造 NPO 支援ネットワークの法人認証と法人登記が残っています。
認証後は、31人の理事を抱える法人としてスタートします。これまで、この組織に関与のない理
事には、組織を理解していただく事が必要になります。理事依頼の基本方針は、県内で信望の厚い
方々が理事に就任することで、県民の信頼を得ると同時に、県内の NPO 理解と連携を進め、山形に
おける NPO セクターの基盤整備にあったと思います。しかし、理事数が多いことは、今後の経営や
運営等の意志決定に多くの時間を費やし、組織がうまく動かなくなる可能性があります。円滑な理
事会運営には依頼した理事の方々に、この組織の設立の経緯や趣旨目的、これからの進むべき方向
等の理解を得ることが必要になります。
当時の理事会としては、法人化後の中長期的な事業の方針や運営について、基本的なことをはっ
きり示してはいないと感じられていました。これらの必要性から、理事会に今後の基本方針となる
ことの、原案作りの提案等をしましたが、プロジェクト2000事業の遂行や、それぞれが持つ活
動等で理事達もまた忙しく、結果的には見送られているような状態でした。しかし、法人化後のス
ムーズな組織運営を考えた時、
新しい理事達のこの組織への意識醸成は必要なことです。
このため、
事務局が主体となって新理事達の顔合わせ会を開催し、設立の趣旨や設立以来の取り組み等の説明
を行いました。これによって、これまで理事の就任に積極的でなかった人も、新たな姿勢を見せて
くださる方も見え、ほっとしたこともありました。
6.法人化後の取り組み
法人化後、山形創造 NPO 支援ネットワークは、理事長・副理事長・常務理事、理事合わせて31
名の理事体制で進んでいくことになります。2月の理事会で、私は3月末で事務局長を辞任するこ
とを表明し受理されました。3月25日に開催した設立総会では、NPO 法人3団体から現状と課題
をだしていただき、その課題解決の方法を学ぶシンポジウムを開催しました。これによって、県内
NPO 法人の活動の一助とし、更には、NPO 法人のネットワーク化の一環ともなるような事業を目指し
ました。
設立総会後、3月28日に第1回の理事会を開催しました。この席上ある理事が、理事長制を廃
して代表理事制にすることを提案して了承され、5月の通常総会への提案となりました。その理由
は、NPOは理事長制のようなヒエラルキー組織を廃し、フラットな組織形態にすべきだという事
です。同時にその理事が、運営責任理事として運営に関わりを持ち、他の理事は運営に対して関わ
りを持つ必要がないという提案も出しました。この提案に理事会は混乱しました。ここで私は、事
務局長の交代があることから、新しい事務局長の負担を軽減する意味で、事業に対して責任を持つ
担当理事制を提案しました。これは運営責任理事案と真っ向から反対する提案でした。同時に、理
事会に幹事を置くことも提案し了承されました。1名の理事の追加案が提案され、32名という大
人数の理事会となり、形だけの理事会になってしまいます。それをカバーしなければなりません。
そして、3月末までの事務局長のはずだった私に、通常総会まで続けるようにということが出てき
ていました。
5月末の総会では、代表理事制と理事1名の追加が了承され、32名の理事会となりました。こ
れで事務局への関与は終わりました。当分の間は、自分を見直し、これからの自分の人生を改めて
考え直しながら日々を過ごすことにしました。が、新事務局長案は総会には提示されず事務局長は
不在のままです。総会終了後、運営担当理事と他の理事達との軋轢は日に日に増していきました。
そして運営担当理事は自らの提案を取り下げました。
7月になり、あるメンバー達から組織建て直しのワークショップ開催が提案されました。もう、
全てのことは私には無関係と思っていたのですが、是非にと誘われ出かけていきました。参加者か
ら、この組織の目指すものが見えないということが出ました。これまでの私の懸念が、現実となっ
て目の前に突きつけられた思いでした。さらに、現段階で山形市に本部事務局を設置するより、本
部事務局を他所に移動した方が、組織がうまく機能するのではないという提案も出されました。本
部事務局を山形市から移す事は、これまで築いてきたことがすべて崩壊してしまいます。ここで、
2001年度は担当理事制で組織運営を図ることが決まりました。事業毎の担当理事、経理・事務
局担当理事も提案され、それぞれ担当が決まっていきました。各担当理事は、事業の進行状況や問
題点を理事会に報告します。理事会による共同運営方式です。しかし、これらの役割を担ったのは、
一部の理事に過ぎません。事務局長は不在のままにして事務局担当理事を選任し、事務局運営を図
ることで、本部事務局は山形市に現状のまま設置する、という方針が確認されました。再び、私は
事務局担当理事として事務局に関わることになりました。
全ての NPO 活動から身を引く決心でいた私にとって、事務局担当理事を引き受けることは重い決
断でした。しかし、今再び事務局に関わることを拒否すれば、事務局移転案は回避できないような
状況でもありました。もう後に引くことはできない。少なくとも、これまでこの組織の立ち上げか
ら関与して来た者として、この混乱した事態の収拾をはかり、組織の充実によって、県内の NPO セ
クターの支援育成を図らなければならない、深く責任をとらなければならないと思いました。そし
て、山形創造 NPO 支援ネットワークに費やす時間を増やしていきました。
それからは出来るだけ事務局に顔を出し、事務局スタッフが精神的に安定した状態で、業務遂行
ができる環境を作り出すこと、山形創造 NPO 支援ネットワークの周知を図ることを優先しようとを
考えました。事務局会議は、7月以降翌年2月末まで、週1回程度の割合で開催され、その都度運
営に関することが話し合われていました。しかし事務局の業務遂行方針事項や、幹事会に付議する
事項の決定まで、時間を要する等の問題が出てきてもいました。そのカバーが必要でした。会議を
スムーズに運び、事務局スタッフをバックアップするために基礎資料の作成や、必要最低限の書類
の作成等、直接的な形ではないにしろ円滑な組織運営と事務局運営を考え、事務局スタッフのバッ
クアップのための作業も、自分なりに進めていました。事務局会議では、効率的な会議の進め方と、
スムーズな合意形成の方法を作ることが必要と思っていました。事務局担当理事には、山形市以外
の庄内や置賜地域に住む人がおり、事務局会議のためにそれぞれの地から、週に1回1∼2時間か
けて通って来ているからでした。
これまでとは違った、
理事達の熱意に感謝の気持ちで一杯でした。
それに応えなければならないと思っていました。
設立当初から、山形市内でこの組織に関係する人は、少ないと思われる状態にありました。ここ
で組織の認知度を高めることなしに、組織の拡大が図られない等の懸念を持ってもいました。新し
く立ち上げる NPO 法人の設立総会への出席や各種交流施設に出向くなどして、情報の交換や多様な
人と交流し対話の機会を作りました。
この年、山形創造 NPO 支援ネットワークが主催した事業に、社会人大学院講座というのがありま
した。これは1年間にわたって10回の講座を開催し、講師は理事や顧問の方々でした。地元での
各界のトップの方々が講師にあたる講座は、めったに開催されません。この事業を考えるに当たっ
て、私はこれまで連携のなかった人との協働事業にすることにしました。これまでこの組織と無関
係だった活動者に実行委員を依頼して、この講座の企画運営をお願いし、積極的に PR 活動等も行っ
ていただきました。私自身も新たな気持ちで、多様な分野にこの事業の PR と、山形創造 NPO 支援ネ
ットワークの PR を行って歩いて回りました。また、シンポジウムや講演依頼にも積極的に応じ、そ
れも PR の一つとしてできるだけ多くの人と出会う機会を作り、
交流を図るように心がけていました。
7.未来に向かって
今年度から、山形創造 NPO 支援ネットワークは、理事の人数を11名にし理事会の幹事等はな
くなりました。しかし、私自身はこれまで同様にできるだけ多くの人や NPO との対話を心がけ、
それらを通した私自身の NPO 支援と中間支援組織としての NPO 支援を考えながら、多様な NPO
が多様な形で大きく活動できる地域社会の形成を夢見て、彼らと共有できる時間を大切にして日々
を過ごしています。また、今まで活動してきた女性団体の仲間達や団体を結んで、女性のエンパワ
ーメント作りのために、活動する団体設立のために準備を始める予定でいます。女性も男性もみん
なその自発性にもとづき、それぞれが有する能力を充分に発揮できる社会が、一日も早く訪れるこ
とを願い、私自身にとってのまた新たな一歩に向かって進もうと思っています。
わたしの市民活動のあり方
今瀬政司
市民活動情報センター代表
1.個人の視点から見た市民活動
わたしが市民活動、ボランティア活動と言えるような活動を始めたのは、今から 15 年ほど前の大
学生時代であるが、それ以来様々な活動を通じて、先輩や友人などから多くのことを学んだ。今回
は、その学んだことの中から、わたしが考える「個人の視点からみた市民活動のあり方」をいくつ
か述べてみたい。
2.個の尊重と友益が社会をつくる
「個人ベースのボランティア活動」よりも「組織ベースのNPO活動」が注目されるようになっ
てきている。社会的課題を解決すべく力を発揮するには、一人だけでやるより、個々の力を持ち寄
った方がよく、ボランティア活動の“組織化”は確かに重要なことである。ただ、ここで見失って
いけないのは、個人と組織との関係は、
「組織あっての個人ではなく、個人あっての組織」
、
「ボラン
ティア個人の夢が、人を動かし、組織を動かす」というあり方である。個人の集合体がNPO(企
業や国も同様の捉え方)であって、始めにNPO(同)という組織があるのではない。組織の目的が
始めにあるのではなく、個々人の夢や思いが始めにあり、それが共有化され組織化され大きなもの
になっていく。ある 1 人の個人の夢に同じ夢を持った賛同者が集まり、その結びつきで組織という
ものができ、個々人の夢が組織の目的となる。組織の目的が形骸化してしまったら、人は動かなく
なり、唯一動くとしたら金銭的な契約・労使関係でしかない。NPOの良いところは、夢を持った
無償のボランティアが集まって、自由・平等・柔軟に組織化することで物事を大きく動かしていく
ところにある。
個人一人一人の夢や思いや事情が大事にされる社会づくりが、
市民活動と言えよう。
また、個人の尊重というと、個人主義・利己主義で良くないと誤解をする人がいるかもしれない
が、そうではない。市民活動・ボランティア活動を行う者に共通すると思われることとして、困っ
ている人がいるからなんとかしたい、という素朴な思い、人と人の「思いやり」の気持ち、助け合
いがある。
「国のために」
「組織(企業・NPO)のために」ではなく、
「市民一人一人のために」であ
り、
「国益」や「組織益」ではなく、人のために何かをしたいという「友益」の気持ちが根底にある。
3.違いの尊重が社会をつくる
世の中にはいろんな人が生き、暮らし、交流し、なりわいを行っている。NPO、企業、学校、
行政、家事専業など、いろんな職業や組織がある。種種雑多だからこそ、素敵なふれあいもあれば、
いがみ合いもある。そんな“雑多な社会”における市民活動から、わたしは、
“違いを尊重し、分か
り合うことの大切さ”
や、
“否応なく対立したときでも、
相手を思いやる心を忘れないことの大切さ”
、
を学んだ。
組織と組織の関わりも結局はその組織の中の人と人、個人的な交友関係や好き嫌いが大きく左右
するものであり、組織間においても違いの尊重が重要となる。NPOと企業と行政という関わりを
考えた場合においては、NPO・市民社会の仕組みの土俵の上に企業や行政等が乗っかってみない
といけないし、逆にNPO・市民活動団体もこれまでの市場システムや行政システム等の土俵の上
に乗っかってみないといけない。そうした相互の乗っかりあいをしてみないと絶対に分かり合えな
いし、協働・パートナーシップ・コラボレーションなどと流行りの言葉を並べても、言葉や形だけ
で終わってしまう。
「NPOも企業も行政も、互いに相手のことを知り、違いを認め合った上で、改
善しあい、一緒になって良い社会を創っていこう」
、という姿勢が大事である。
4.思いやりの活動が生活の糧を生む
「困った人の役に立つため、社会が抱える問題を解決するためのボランティア活動を時間のある
限りやり続けたい。でも、飯を食っていくためにはお金を稼ぐ仕事もしないといけない。この2つ
を両立する生き方、働き方はできないものか」
、といった素朴な思いを持ったことのある人は、私を
含めて少なくないであろう。長引く景気低迷、失業率の高まり、財政赤字拡大等に伴って、国・自
治体や経済界がNPOを新たな経済主体として捉え、NPOに新産業創出の担い手や雇用の受け皿
の機能を期待するようになってきている。NPO活動に伴う新産業創出や雇用創出はあくまで“結
果論”であって、けっしてNPO自身の目的や活動がそこにある訳ではないが、社会の問題解決を
めざしたNPOの活動は、結果としては、人やお金やモノなどを流動化させ、新産業や雇用を創出
するなど、経済のある程度の重要な部分を担っていることは間違いない。
NPO活動と経済活動はきっても切れないものであり、
「経済は経済活動、お金の流れだけで成り
立つ訳ではなく、NPO・市民活動によっても支えられている」
、ということをあらためて認識し、
評価していくことが重要になっていると言える。これからの社会のあり方として、わたしは、市民
活動と経済活動を両立できるような社会・経済の仕組みを捜し求めていきたいと考えている。
5.市民活動が新たな社会像を開拓する
わたしは最近、
「この 10 年程の間、市民活動団体が社会に対してどれほどの新しいことを開拓・
提案してこれたのか。10 年程前に市民活動をしていた者たちが開拓・提案したことが具現化してき
ただけではないか」
、と自問自答する。阪神・淡路大震災前の 10 年程前には、NPOという言葉が
日本でまだ殆ど使われることがなく、市民活動の意義と団体の存在意義をどうしたら社会全般の人
たちに広く認知してもらい、良い方向で社会システムを変革していけるのかを、
”もがき苦しみなが
ら”模索していたのを思い起こす。NPOの数が増え、社会的認知や基盤整備は進んでいるが、市
民活動団体の持ち味の一つである「新たな社会像の開拓力」は 10 年程前に比べ、必ずしも強くなっ
ているとはいえないのではないか、とも思われる。
6.市民活動の原点を常に自問自答する
“NPO(支援)ブーム”と言われるほど、社会全体のNPOに対する期待度は高まるばかりで
あるが、わたしはこうした自問自答の中で、今こそ、
「なぜ市民活動を行うのか、その意義は何なの
か」
、
「どのような社会を夢見て市民活動を行うのか」を我々一人一人が自分流に見直し、市民活動
の原点を思い起こして、新たな社会像の開拓・創造をしていくことが重要であると感じる。元来、
市民活動において柔軟さや新しさが感じられるのは、こうした“自らへの問いかけ”が常にあるか
らだと思う。社会全体がNPOという組織とともに「個人の市民活動」というものを再評価する仕
掛けづくりが求められていると言え、NPOという組織の活動にも「人のたましい」がなくなれば、
従来型の企業システムや行政システムの中に埋もれて無くなってしまうかもしれない。
社会・経済全体がめまぐるしく大きく変化する昨今、わたしは市民活動を通じて先輩や友人など
から学んだ多くのことを、今後自分自身見失わず、10 年先を読んだ新たな社会像の開拓・創造を実
践していきたいと考えている。そして、わたしの夢である「世の中の矛盾で涙を流す人が一人でも
少なくなるような社会システムの変革」に少しでも貢献していきたいと考えている。
「個人の記憶に刻まれた『まち』と、共通の記憶を創るまちづくり
記録、表現活動による市民参加のあり方」
松浦さと子
市民とメディア研究会・あくせす(運営委員)
1.はじめに − まちを語るために、自らを語る まちへの思いを語る −
まちづくりは前向きな仕事である。未来を見つめ、後生を思う作業である。しかし、そのことで
開発が進み、まちの様相が変わることが良いことだとばかり評価される時代ではない。ただ新しい
ものに変えてゆくだけの開発は、豊かさの表れと捉えられなくなってきた。
かつての開発は、まず自然環境を荒廃させた。コンクリートやアスファルトの整備は、まちの景
観、植生や生態系や温度や湿度までも変えた。そして、生活リズムを一変させた。縦割りで計画さ
れた諸施設は、そこに生きる人の生活のリズムや動線を切断し、人を疲弊させた。さらに人間関係
すらも分断した。道が広くなったために車が増えて路地での縁台のつきあいがなくなり、生活道路
が産業道路に変わり、それに隔てられたつきあいは歩道橋では復活しなかった。そんな反省から、
まちづくりにまちの生活者が参加することが当たり前になってきたことは、良いことである。
町家の魅力が見直され、なんとかその風貌をまちの表情のなかに生かし続けたいと、人が手を入
れ手間をかける試みは、各地で進められている。それらは単に古いものを大切にすることだけでな
く、
「昔ながらの町並みの記憶」をまちに共有し生かし続ける営みで、それらは「住まい方」を考え
直す「新しい」まちづくりでもある。見慣れたものを、まちの共通の記憶としてとどめる作業は、
まちづくりが様々な観点から、住民の記憶を創ることに起源することを確認させてくれる。
しかしまた、古いものを変えないことが豊かさであるのかといえばそれは誤解である。そこに住
み易さとしてバリアフリーの発想が取り入れられたり、新しい人々の生き方に適応した施設の配置
やデザインがなされることは今もこれからも求められてゆくものである。まちに生きる人々が夢を
描き、ともに語り合って新たに盛り込まれるものや取り戻すものは、新しいまちの記憶として人々
が新しく生産する風景である。
まちは、地図の上にとどめられているだけではない。そこに生きた人々が胸の中に抱き続ける「記
憶」のなかにまちが創られることを、誰もがふるさとを思うことで確かめることができる。また、
その「記憶」は、個人の胸のなかにとどめられているのか、表現され、語られ、鑑賞されることで、
まちに共有されているか否かは、まちと個人の「記憶」のつながりがどうであるかを左右する。
。
まちの様々な記憶をひとりひとりが表現し、まちの共通の記憶に刻むことで、新しい発見をまち
の住民に提供することがある。個人がそれぞれの生い立ちや職業、生活リズムという異なる背景や
視座からまちを見ることで、まちは異なる歴史や文化と関連付けられ、選択され、増幅される。一
日のうちの大半をそこで過ごす子どもたちや高齢者、介護や育児に参加する女性たちが次第にその
まちの記憶の主人公となってゆき、
まちの記憶と表現に、
個人それぞれのまちへの思いが込められ、
まちづくりの夢が描かれてゆく。
ならば、まちの記憶を描く個人の表現活動は「まちづくりへの新たな視点の提供」という公益性
を指摘することができるだろう。そこにまちづくりの意図などい表現だとしても、まちの記憶を語
ることは、まちづくりのひとつの手法であるといえないだろうか。ならば映像を録画することや、
伝承として語り継ぐことを録音すること、書き起こすことも、それはひとつの「参加」である。
あるいは「まちの記憶」を刻む行為として考現学を取り上げることもできる。考古学の方法を現
代に適用する「考現学」は、新しい主体的な視覚の実験として昭和初期に生まれた。街にモダンが
あふれた時代に、人々が現在を記録し考察しようとする運動であった。実際、まちの豊かな表情を
捉える活動は現在もあちこちに研究グループを組織していて、名古屋では岡本信也の「路上観察」
の仕事が知られている。しかしながらこの考現学は「軽薄さをともなったしゃれの、面白イズムを
もって」捉えられる傾向が強かった。そのように言うのは、古い絵はがきや挿し絵をテキストにそ
れらをメディアとして読み解き、当時の社会規範や慣習を捉えかえす風景論を展開する佐藤健二で
ある。しかし彼が、考現学を未完成の批判力と真摯に表現することを見ても、それらは記憶を共有
するひとつのまちづくりへの参加のスタイルとして受け止められよう。
ここでは、市民参加のあり方を、記憶のまちづくりの観点から述べてゆきたい。
2.共通の記憶
記憶は個人のもので、同じ記憶はない。しかしそのまちに生活した人々には、共通の記憶の対象
が無数にある。どのように記憶されているかは別として。
近かったはずなのに随分時間をかけた通学路。その途中に見えた景色や、授業中窓からよそ見し
た風景は同窓生なら世代を超えて共通の記憶かもしれない。かどを曲がると、坂を登ると、橋を渡
ると、見える景色はそこに住む人々が意識しないで共有している思い出の風景だ。まちがいなく、
そのまちの共有の財産ともいえる記憶である。しかし、四季折々に咲く花や果実に彩られている風
景を記憶できる幸せを、私は忙しさに忘れていることが随分ある。見慣れすぎているものもなかな
か記憶に刻まれにくいことも知る。何かの工事が始まって、そこに以前立っていた建物を思い出せ
ないこともよくあり、記憶の曖昧さを思い知る。その記憶を取り戻せるような写真に出会って、ど
んなにか懐かしさを新たにしたことだろう。そこに当然毎日あるもの、それを共通の記憶とするた
めには、そう簡単ではないことがわかる。
記憶は風景だけではない。入学式や運動会などの学校行事や、地元の選挙や健康診断も記憶にあ
る。誰それちゃんが1等だった、誰それさんが立候補していた、と登場人物の記憶は風景の記憶よ
りも鮮やかなこともある。あとで見た写真に補足されて、なぜか記憶の中に自分も入っていること
もある。また、成人式は最近、オトナになりきれない成人たちの定点観測の場にもなっている。こ
うした地域のイベントや行事は、まちの記憶としてはかなり公共的なものだ。ローカルメディアの
取材の対象でもある。しかし、その記憶はどこまでも個人的な対象へのつながりが鮮やかさを左右
している。共通の記憶ではあるけれど、個人のそれぞれの思い入れの深さの違いが、多様な角度か
らの記憶を保存させることになる。
もっと個人的なまちの記憶もある。結婚式やお葬式だ。隣近所が助け合う地域もあり、その関係
の中で共通の記憶となっていることがある。名古屋ではその記憶が増幅し、行事自体をエスカレー
トさせているように感じたが、その贅沢さを最近はひとつの表現活動だと思えるようになった。少
しでも多くの人にその生を記憶して欲しいという気持ちが、その行事をより盛大なものにするのか
もしれない。そうした地域社会の中での、家族の関係が、共通の記憶の演出をすることがままある
のが、こうした冠婚葬祭であろう。最近は専門の会館やホテル、レストランなどであくまでも個人
的にだけ営むことも増えている一方、まちの記憶としてとどめられるものも少なく無い。
これらの風景や行事だけでなく、まちに生きる人々の日常の行為総てが、限定的なプライバシー
を除いて、共通の記憶になりうるものだといえよう。現在、人々の関心は細分化し、好きなものを
インターネットでどこまでも探し求めることができ。個人の記憶の中にまちの共通の記憶などなく
ても、この情報社会においては十分楽しく生きられる。しかしだからこそ、まちに共通の記憶を創
ることが重要なまちづくりの課題となるのではないだろうか。
3.共通の五感の記憶 − 匂いや音、そして手触り −
現代は視覚が突出した時代であるという。確かにまちづくり計画は、地図に線を引くこと、模型
を作ることにどうしても力が入っているように思う。しかしまちにはこに現れない多くの記憶があ
る。五感総てでまちを感じると、まちの地図はもっと豊かになるだろう。まちは、レイチェルカー
ソンの「沈黙の春」は環境問題の警告の書であったが、ただ静かなだけの無味無臭のまちにしてし
まうのは、もうひとつの環境破壊ではないかとすら思えてくる。私たちには五感の記憶があり、そ
こに住む人々は、その記憶を共有している。共通の五感の記憶、そのなかに「まち」があるのだ。
五感をしっかり働かせて記憶にしみ込ませたまちの思い出は、風景以上に懐かしさをもたらす。
3月の沈丁花の香り、お彼岸はお墓のそばがお線香のいい匂い。パンを焼く早朝の芳ばしい香り、
下校途中のお肉やさんのコロッケのにおい、私のふるさとは酒どころだったので酒蔵界隈はとても
いい匂いがするのを思い出す。嗅覚は、その香りに誘われて食したものの味覚と併せて、まちかど
の記憶を鮮やかなものにする。その記憶は、生活する人々の存在をしっかりと刻んでいる。
また、最近見つめ直されているのは「音」の記憶である。近所のおばさんの三味線のお稽古、お
豆腐屋さんの「ぱーふー」というあの音はなんていう楽器なのだろう。ぱしゃぱしゃと打ち水をす
るお店の習慣はまちの時計変わりでもある。
だがこれら五感の楽しみが最近は世知辛いものにもなっているようだ。かつて公害防止センター
で嗅覚モニターのボランティアをしたことがあるが、持ち込まれた検体に、鰻屋さんの「におい」
があったのには驚いた。その匂いだけでごはんが食べられると落語になったような匂いが、今では
「公害」のタネになるのだ。昔ながらの老舗ではなく、住宅街に進出してきたチェーン店が挨拶も
なく無遠慮にタレの匂いをさせても、迷惑に思うことがあるのだろう。
音にしても、誰もが懐かしい記憶を共有しているわけではないこともわかった。私は家のウラが
小さな古墳で、その堀にいた無数の牛蛙の「ぼーう、ぼーう」という鳴き声を子守唄に育った。が、
それを懐かしいと眠れるのは聞き慣れた者だけらしい。都会から越して来た新住民が薄気味悪いと
訴えて「駆除された」と聞き、随分可哀想なことをと思ったものだ。しかし最近知ったのだが、こ
の外来種の牛蛙が生態系を破壊したせいで、高齢の方々にはもっと懐かしい雨蛙やがまがえるの声
がすっかり聞かれなくなったのだそうだ。その事実を私が聞いていれば、その牛蛙の駆除について
もっと違った気持ちを持っただろう。蛙の声という貴重な記憶を世代を超えて懐かしむこともでき
なくなったのかと哀しい。
最近では、ピアノやペットの鳴き声が近隣住民のトラブルの元になっている。それがどんなに名
演奏でも麗しい声でも、忌々しいと感じられるような人間関係がまちの中に潜んでいると、豊かな
記憶にはならない。音や嗅覚の記憶はまちの人々の関係をも刻む。
五感の中の「触覚」についても触れておきたい。それがないがしろにされそうな事例があるから
だ。名古屋の藤前干潟はゴミ捨て場として埋め立てられることから免れ、今やラムサール条約の登
録湿地になろうとしている。地元の「藤前干潟を守る会」が熱心な活動を続けてきたことが保全の
大きな原動力なのだが、この会の代表の辻淳夫さんが干潟の魅力を語るときに「百聞は一見に如か
ず、しかし百見は一触に如かず、だよ」とおっしゃる言葉が重要だ。インターネットを通じて干潟
のできごとを発信し続けた辻さんは、パソコンがあっていろんなことを知ってても、環境保護なん
てできないことを子どもたちに伝えたかったのだと思う。聞いて知っているだけよりも実際に見る
ことは大事だが、それよりもそこに来て触って確かめることがもっと大事だよ、という子どもたち
への辻さんの語りかけを、鳥獣保護区としての整備計画にぜひとも活かして欲しいのである。遠く
から渡り鳥を眺めるだけの保護区にしてはいけない、その干潟の温もりを干潟に入って確かめ、干
潟の生き物たちを実際に触ることが、子どもたちのセンス・オブ・ワンダーを育てるのだから、と、
辻さんはたくさんの子どもたちを誘って毎年、藤前干潟で生き物まつりを開催している。触って干
潟の意義を確かめられる貴重な場所をせっかく残したのだから、その触覚を記憶する人々の声こそ
が保全計画で生かされるべきなのではないだろうか。
4.記憶の宝庫 − 高齢者や子どもたち、新しい隣人、そして車椅子の利用者 −
まちづくりに欠かせない記憶を貯えている人は、まちに「生活している人」である。そしてその
中でも長く生活している人ほど、深く豊かな記憶を胸の金庫に大切にしまっている。しまったまま
忘れている人には、その金庫を開けて記憶を取り出してみんなに見せてくださるように呼び掛けて
みることが、ときに必要となる。また、まちの記憶を大切にしまっている人は、出しても誰も興味
がないと思い込んでいる人もいる。
ドイツの地方都市ルートヴィックスハーフェンで、地元ケーブル局で市民に開かれたオープンチ
ャンネルを活用して、自分の番組を制作し放送している高齢者の方々にお話を伺ったことがある。
戦争時に追い出したユダヤ人を呼び戻す活動や、戦争で被害を与えた都市との交流を描きまちの歴
史を辿る番組を制作しているお年寄りのみなさんは、そのまちに「戦争の記憶」があることを若者
に伝えたいと強く思っておられた。
しかし、
お年寄りのみなさんがビデオカメラを手に取るまでは、
その記憶はまちに共有されていなかった。今、彼等、彼女らの取り組みで、いつまでもまちに残る
防空壕の由来をはじめとする「戦争の記憶」が映像として、オープンチャンネルで流れるようにな
った。ビデオカメラが、貴重な記憶の宝庫の扉を開けるきっかけをつくっている。
京都の町家は町並み保全に意味があることは理解されているが、新しい借り手がいないと駐車場
やマンションにとって代わられてしまう。最近、借り手のない町家にこれまで縁のなかったアーテ
ィストや海外の人を紹介して、保存の意義がわかりあえれば賃貸借を取り持つという NPO 町家倶楽
部が現れた。この NPO を仲人役に、持家保存に必要な大工技術やコミュニティのつきあいが、大家
さんと借り手の若者の交流を通じて世代を超えて共有され、町家の記憶は外からも中からもあたた
かくその町に生き続けることになった。新しい隣人が住む、ということ自体が、記憶を創りなおす
こともあるのだ。
子どもたちの記憶も貴重だ。彼、彼女等の目の高さはユニークで、おとなには見えないまちの風
景を捉えている。車椅子や乳母車の利用者もそうだ。目の高さだけでなく、段差を嫌い下ばかり向
いていなければならない道では、まちの風景に落ち着いて目をやることができない。彼等のまちの
記憶が豊かであるかどうか、それはまちの責任なのかもしれない。
それらは確かめなければならないのではないだろうか。これまでひっそりしていたまちづくりの
主役たちをその記憶をともに、公共のステージに引き出す機会が欲しい。
5.柳田国男の風景論 − 佐藤健二の分析から −
冒頭に紹介した佐藤健二は、風景論の新しい課題として「その背後にある感覚上の慣習や規範か
らとらえなおし、論じかえす」必要を説いている。ここにここまで述べてきた「記憶を刻む行為」
の本質との重なりを見い出すことができるので、彼の風景論から学んでみたい。
佐藤はその課題のために柳田国男の民俗学に「風景は成長してゆくものである」というダイナミ
ズムを発見し、五感の社会史、感性の歴史社会学の領域を導き出す。1931 年の『明治大正史世相篇』
「風光推移」の章で、柳田が「生活環境とどのように認識し、記憶し、かかわりあうかは、衣食住
とならぶ『第四の生活技術』である」と論じたことを指摘したのである。佐藤がとくに次の3点に
おいて柳田の民俗学に新しい風景論を見い出した。
まず「動物たちを風景構築の主体の一部と感じる、その感性の発掘が関係性論理の拡大を要請し
ていること」
。佐藤はそこに「生態系そのもののひろがりにおいて、風景をつくる主体性」を読み取
った。植物、家禽や野獣が人に管理されて風景の一素材でしかなくなり、風景を構成する主体とし
て風景からいなくなってしまったことを指摘し、ひとが動物たちと空間を共有する作法を失ったの
だという。それは動物愛護や自然の畏敬としての動植物が失われたことをいうのではなく、環境と
の対話、コミュニケーションの実態を失ったことを問題とする考え方である。
次に「人間のいない山水よりは、農作物が織りなす田園の色彩を重視する、その設定が社会学的
な解読にむかってひらかれていること」
。すなわち、名所名勝主義的な風景論に欠けていた、日常の
生活実践、生活様式のかたちとしての風景を読み直すことを柳田は要請した。何がそこに植えられ
ているのかに注目することで、その緯度からは自然にありえない植生に先人の歴史的実践を読み取
ることすらも可能なのだという。一方で郊外の殺風景な新興住宅街に彩りをと、鮮やかな実のなる
林を目論んでも「風土をわきまえぬ設計」は、何もしなかったより悪い例もひく。あるいは、炭焼
きの煙や、サンカ(山人のたき火か)の火が描かれていたら、その火を囲む人々の話を読み解くよ
うな想像力こそが風景論として必要だという。
そして、最後に述べられているのが「近代に生まれた新しい経験から風景概念を再組織しようと
している、その論理がメディア論への展開を予感させていること」である。佐藤は「風景は生産さ
れ、成長するものであり、よくも悪くもつくりかえうるものである」と捉えており、
「新しい風景の
自覚的な組織化」の手法は、その後さまざまなメディアによって実践される。以下は、もっと身近
な風景の生産を論じてゆこう。
6.記憶をとどめる多様な手法 − ひとりひとりが、語る、表現するまちづくり −
風景を感受し記憶を刻み残してゆく方法は、さまざまなメディアによって助けられてきた。身近
な手法としては、手紙、絵画、歌、文学、映画、ビデオなど各人各様の得意とする表現方法を取れ
ばよいのではないだろうか。最近流行りの「絵手紙」や、俳句や短歌のたしなみは、それなりの素
養が要るのかもしれないと恐れつつ、上手下手に囚われずに表現することを、私たちはまだまだ文
化として共有していない。記憶を表現するために、もともと持っている才能を総動員するのは楽し
いことだ。あるいは、もともとなかった才能をもひねり出して表現に向かうことは、時間さえあれ
ば、やはり楽しいことではないだろうか。絵筆やペンや粘土を手にして、思いを描き、語ることは、
自らの記憶も鮮やかに蘇らせる作業でもある。
また一方で、まちの記憶をとどめるために、時代はもっと簡便な「ビデオカメラ」を生み出した。
特別の才を要求されないビデオを勧める特定非営利活動法人くまもと未来理事長の岸本晃さんは
「押すだけ(で、映る)
」と、その簡便さをアピールする。
「何を取りたいか、それが大事なんです」
という住民ディレクターの指導者は、面倒な手続きや技術は要らない、むしろ生活の記憶を地域社
会で共有することに目を向け、表現の楽しさを語る。映像は視覚中心であるが、音や匂いや手触り
さえも、工夫次第で表現可能なこのメディアは、今、教材としても教育現場に定着しつつある。
環境問題が重視され、まちの景観だけでなく自然環境の変化があまりにも著しいことに心を傷め
る人々は、記憶の共有の重要性を知っている。そこがそのままであることを願いながら、希少種の
動植物だけでなく、そこで見慣れたトンボや田んぼにレンズを向ける。いつの間にか変わってしま
った、という言い訳をしないために、なのだろうか。見つめ続けることは、きっと環境の保全にも
つながる。ホタルの乱舞する川は、住民が川とどうつきあっているのかを映し出す。
地方のまちまちで、映画祭、映像祭が盛んに開催されるようになった。まちの数だけ映像祭があ
るくらい一般的になり、新鮮味を感じなくなった人もいるかもしれないが、こうした催しは、どこ
でも、どんなまちでも、開催する意義がある。まちの人々の記憶を見せあい、確かめ合う重要なコ
ミュニケーションで、プロの捉えたものと同じ対象を記憶していても、そこに住む人の目は異なる
ところを映し出すかもしれない。何より、そのまちでその人がどんな人や場所と関係があって、ど
んな「記憶」をつむぎ出しているのかを考えることの意味がある。
、
7.おわりに − パブリックアクセスの考え方 −
ここまで述べてきたことは「まちづくりは、共通の記憶創りだ」ということであり、
「風景の生産」
なのだということである。通常のまちづくりが地図にも記されるように、記憶も何かに刻み込まれ
ることで、なお一層に多くの住民によって共有され確かめられるということである。そしてその手
法は、絵画でも文学でも映像でも可能だということ、そして、それらの制作活動は個人の趣味や娯
楽であるだけでなく、いやそれ以上に、記憶を共有するためのまちづくりに欠かせない行為である
ということなのだ。
共有したい記憶は、そこに住む人々それぞれにある。誰かに統一した記憶を強制されることがま
ちづくりではない。まちの記憶を、ひとりひとりが何らかの手段によって表現し、伝え、共有する
ことが、記憶のまちづくりなのだ。
ならば、その記憶の共有の方法は何に依るべきなのか。そこに、地域のメディアへの市民の参加、
すなわち地域メディアへの「パブリックアクセス」が新たな手法として注目されている。東京のキ
ー局や本社で選択された全国区の共通の記憶は、地方の地元のまちづくりにはとても遠いものだっ
た。日本の各地のまちをどこも同じようなものにするためには役立っても、地方ごとの個性あるま
ちづくりのための記憶を留め、地域で共有するためには、広すぎ、大きすぎ、遠すぎたのだ。だか
ら傍観者としてしかまちを眺められなくなっている。
しかし最近、メディアへの投稿が、ローカル新聞でもテレビでも受け付けられるようになった。
全国に 150 以上もあるコミュニティ FM の一部では、もう市民が番組を作って話し始めている。近々
開局するさっぽろ村ラジオは古い石造りのたまねぎ倉庫で、高校生のグループがマイクを囲んで模
擬放送の特訓中だ。倉庫内では、近くに住む市民たちが自分の番組までの時間待ちをしながら、ほ
かの人の放送を楽しんでいる。知人が遠方から遊びに来たら、何か地元で共有できる話題を見つけ
ていきなりゲスト出演である。なんて興奮できるのだろう。個人から発信される「記憶」が、とて
もユニークでおもしろいだけでなく、個性あるまちづくりへの大きな気付きをも含んでいて、それ
が「共通の記憶」を創ることにとても意義があることがようやく理解され始めたのだと私には思え
るのだ。そして、単なる投稿ではなく、一貫した考えや感性に基づいて市民ひとりひとりが「私の
まち」の記憶とまちへの思いを語るものを、文章や映像の断片ではなく、まとまりを持って創られ
た作品としてメディアに登場させることを考える地方局やケーブルテレビ局も増えてきている。つ
まり「市民の創った番組」
「市民の作成した紙面」をメディアに載せること、すなわち「パブリック・
アクセス」を前進させているのである。とくに放送において、市民制作の映像作品を流す試みが新
鮮である。
名古屋のボランタリーネイバーズが主催する「なごや・まちコミ映像祭」は、映像表現による市
民参加の考えに基づいて 2001 年から始まった。まちづくりへの人びとの理解と共感を呼び、地域を
こえ町とまち、人とひととを結ぶコミュニケーションを創るための映像祭を謳う。地元のケーブル
放送やローカル放送局がその優秀作品を放送したという。ウエブサイトからも見ることができる。
この映像祭の審査運営などに協力する「市民とメディア研究会・あくせす」代表の津田正夫は、表
現による市民参加とパブリックアクセスの意義について次のように述べている。
「さまざまな情報や
自由な議論を交わし、理解と合意をかたちづくる場(パブリック・フォーラム)は、コミュニティ
になくてはならないものである。
(中略)現在のメディア、コミュニケーションにおけるもっとも切
実な課題のひとつは<自由・公平にパブリック・フォーラムへ参加できる権利の回復>であると同
時に<人間の全体性の回復への寄与>であることがはっきりする。人間の全体性への回復というの
は、コミュニティ・共同体の回復、ひとりひとりの人格全体の回復を含む、関係性全体の回復を意
味する。回復された関係の全体性によって、理解しあい、人間は自己決定し、新たな合意形成と共
生を模索するのである」
地元の人々が共通の記憶を確かめ合え、まちづくりのなかで関係性を回復する機会として、 定例
的に住民制作の作品のために地元メディアが放送枠やチャンネルを開放することになればどんなに
良いだろう。そのことの意義は、都市計画において、開発地図を真っ白なまま住民に手渡すことと
等しい。そこに計画を描くのは誰かを考えることで、まちづくりの主役は住民ひとりひとりである
のだと、改めて自覚できる。そして、まちの記憶をまちで共有するためのメディアを自治すること
を、住民に提起することでもあるのだ。
そのまちづくりはパースや定規を使わない、測量も立ち退きも必要としない、記憶のまちづくり
である。個人がそこに参加するためには、まちで記憶をつくること、好きな方法で記憶を刻むこと、
そしてそれを共有できる道筋を創ることである。記憶を刻むことは誰でも簡単にできそうだが、最
初は誰かの助けが要るかもしれない。共有の道筋としてのパブリック・アクセスの仕組み創りは仲
間が要るだろう。ユニークな個人の手法を生かすためにあくまでも個人がひとりでがんばってもい
いが、メディアへの参加を助ける専門の NPO があるとなおいい。欧米や韓国などの視察で確かめた
のは、市民の表現活動のための「アクセス・センター」
、
「作業所」
、
「研修所」として多くの NPO が
活動していたことだ。メディアへのパブリック・アクセスの道を拓くことは、まちづくりのための
もうひとつの公共事業だといえる。それぞれの地域で、表現する市民たちと NPO、そしてメディア
や行政で検討してみてはどうだろうか。2002 年 10 月 31 日脱稿
<参考文献>
佐藤健二 1994『風景の生産・風景の解放 メディアのアルケオロジー』講談社選書メチエ
ヨーロッパの市民とメディア調査団 2002『ヨーロッパの市民とメディア∼オランダ・
イギリス・フランス・ドイツの事例から∼』
津田正夫・平塚千尋編 2002『パブリック・アクセスを学ぶ人のために』世界思想社
市民メディアねっと・市民が使えるビデオ編集機材お調べ隊 2002『市民からの映像発信』
大阪府ジャンプ助成金プロジェクト
さっぽろ村ラジオを立ち上げるさっぽろ村コミュニティ工房 http://www.sapporomura.com/
まちづくり映像祭(主催、ボランタリー・ネイバーズ)
http://www.vns.npo-jp.net/data/machicomi2002/bosyu.htm
市民とメディア研究会・あくせす http://tunagu.gr.jp/access/
市民メディアねっと http://www.tunagu.gr.jp/c-media-net/
私に老後があるならば、安心して年寄りが暮らせる社会にしておきたくて
紅邑晶子
特定非営利活動法人 せんだい・みやぎ
NPOセンター 常務理事・事務局長
1.双六の目のように転がった、私のNPO元年
1995年は、私にとってのまさにNPO元年です。といっても、この年の1月の阪神淡路大震
災からというのとは違います。私の場合、プロフィールにもあるようにこの年の6月、偶然にも現
在の当センター代表理事・大滝精一さんから初めて「NPO」という言葉を聞いたのが、そもそも
の始まり。それまでは、金子郁容さんの「ボランティア もう一つの情報社会」という本を読んだり
はしたものの、市民活動などにはほとんど無関心な生活をしていました。
大滝さんにNPOという言葉を聞くきっかけになったのは、80年代後半に環境問題などが気に
なりだしたり、行政の仕事に疑問を感じたりしていたからでした。同じ思いの友人とそんな話をし
ているうちに、以前大滝さんが「これからの社会には、企業でもなく行政でもない、新しいセクタ
ーが必要になってくる」といっていたことを思い出し、それはいったいなんだろうということで話
を聞きに行くことになりました。その答えが、
「NPO」だったのです。とはいっても、そうすんな
り理解できるわけもなく、
「仙台NPO研究会」
という所に参加している大学の先生を紹介されたり、
資料を頂いたりということになりました。久しぶりに、本気で学習しなければ、理解できないテー
マに出会ってしまったわけです。
そんなある日、これまた当センターのもう一人の代表理事・加藤哲夫さんの経営するエコロジー
ショップで買い物をしていた折、
「加藤さん、NPO知ってる?」と質問をしたところ、意外にも「僕
のやっていることだよ!」との返答が。
「!?」
。私の中では、彼が経営しているエコロジーショッ
プやHIV関係のボランティア活動とNPOは、まったくつながっていなかったのでした。
(本当か
な?でも、まだ本当かどうかを確かめるほどNPOのことを熟知していないし…)
。ということで、
「NPO」の関係のことならボランティアでお手伝いしますと加藤さんに伝えました。
すると、数日後に10月に奈良で行われるNPO関係の会議に出席しないかという連絡が入りま
した。交通費も宿泊費も出て、奈良に行くことが出来るというのは魅力的だったので、二つ返事で
了解しましたが、会議の内容は出席するまで良く分かりませんでした。それが「市民活動地域支援
システム研究会」の会議だったのです。どうやら、私の仕事は翌年に宮城県内の市民活動団体の調
査をするということだと理解し、またこの年の12月にはイギリスに調査に行く人たちが居るとい
うことも伺いました。
仙台に帰ると、まず、先のNPO研究会が12月に「NPOフォーラム in 東北」という催しをす
るのでお手伝いするということになってしまい、さらには12月のイギリス視察に多忙な加藤さん
の変わりに参加するということになってしまいました。あれよあれよという間にNPOとの関係が
グッと近くなったのが、この95年です。けれども、いまでもこのときのNPOフォーラム体験や
イギリス体験は、私にとってのNPOの原点に思えます。
2.社会を変える面白さをフツーの市民が体験できる「NPO」
よく、NPO向けのマネジメント講座では、組織の事業計画を2∼3年後を見据えて考えなけれ
ばならないと話しています。けれど、私自身のこの7年間は、とても2年先・3年先の自分自身の
ライフデザインをしているゆとりがまったくありませんでした。かわりに何をしていたのかと振り
かえると、初めて本当の民主主義について本気で勉強していたように思います。
NPO法のことに関連する活動をするためには、民法のことを必要な範囲で理解できるように学
びました。また、行政や企業との協動を実現するには、NPOの社会的な役割やパートナーシップ
の条件についても学び、
「情報公開」
「行政改革」
「地方分権」といった4文字熟語にも親しむように
なりました。
そのためには、
学生時代には考えられない集中力で勉強しなければなりませんでした。
それでも、続けられたのは、新しい時代を拓く創造性・クリエイティビティと、行動する面白さ・
アクティビティを感じたからだと思います。お金では買えない、豊かなものが、この活動を通じて
感じられました。そして、この面白さは次々と意外な奇跡を巻き起こしました。人との出会い、お
金の流れ、時間と場所などなど。猛烈な勢いでこれらの流れは私を巻き込んでいきました。ほんと
に、法律の専門家でも、議員でもない、フツーの市民がこの面白さを体験できるということ。これ
は、NPOの活動に関わっていればこそだとつくづく思います。
けれどそろそろ、少しゆとりを作って、自分の2年から3年先を考える時期になってきたと一方
では思っています。NPOセクターの社会的役割の認知は、他セクターの人々の中でも、7年前に
比べるとかなり様子が変わって来ました。海外では、セクター間での人材の流動化がかなり進んで
いるようですが、日本ではまだまだ。再び企業セクターにシフトをしてNPOとの関わりを改めて
模索してみるのも面白いような気がしています。企業セクターにいながらもNPOセクターに関わ
るという体験もしてみたいものです。
一方で近頃、長生きをしてしまった場合のことを考えます。そのための社会の準備状況はという
と心配です。環境はどうなるのかも気になります。だから、NPOとは生涯関わり続けることにな
ると思いますし、NPOの存在は私のまさにライフデザインのかなりの部分をしめるテーマになっ
てしまったことは間違いありません。
第二章
平成13、14年度 研究交流事業
巡回フォーラム報告
平成13年度 研究交流事業報告
中部5県巡回フォーラム ∼市民活動を行いやすい環境づくり∼
代表執筆 松本美穂
市民フォーラム21・NPOセンター 主査
1.中部5県の巡回フォーラムの概要
2001 年春・夏にかけて、市民フォーラム21・NPOセンター(以下、市民フォーラム)では、
財団法人まちづくり市民財団(以下、財団)から事業委託を受ける形で、中部5県巡回フォーラム
を実施した。より実質的にいえば、まちづくり財団と市民フォーラムと中部5県(愛知県、岐阜県、
長野県、三重県、静岡県)各地で活躍する中間団体との協働事業である。
それぞれの役割は、財団が「市民活動を行ないやすい環境づくり」という事業理念を掲げそれに
基づく企画への資金的支援をおこない、市民フォーラムは中部5県の各中間支援団体との連絡調整
等をおこない、5県巡回フォーラム全体としてのコーディネート業務をおこなった。そして、県単
位でおこなわれた企画そのものについては、本事業の理念に基づいて、それぞれの地域事情と照ら
し合わせながら、地域の智恵を発信していくという趣旨に鑑み、各地域の中間支援団体が「市民活
動を行ないやすい環境づくり」というテーマに基づき、自由に企画立案をおこない、現地での開催
に係る全ての事務をおこなった。各団体の企画については、下記のとおりである。
■ 開催実績一覧
日時
会場
テーマ(簡単な内容等)
主催団体
愛
6/9 土
NPO プラザ
事業委託をどうマネージするか∼協働のあり方を
市民フォーラム 21・
知
14:00-
なごや(名古
考える指針として(自治体 NPO 委託調査結果、愛
NPO センター自治体
17:00
屋市)
知県三重県 NPO 担当、受託 NPO の報告等)
と NPO 協働研究会
長
6/23 土
勤労者福祉
人とひとをつなぐかたち∼長野県内の地域通貨
長野県 NPO センタ
野
13:30-
センター(松
の動き∼(基調報告、エコマネー体験ワークショッ
ー
16:45
本市)
プ、グループトーク等)
三
6/30 土
三重県庁講
市民がつくる三重の資金サポートシステム大発表
市民活動資金サポ
重
13:30-
堂(津市)
会(新しい三重県の資金調達のシステムの発表と
ートシステム研究会
16:30
参加の呼びかけ等)
静
7/14 土
南部公民館
市民活動の環境づくり∼市民にできること、行政
浜松 NPO ネットワ
岡
13:30-
(浜松市)
にできること(浜松市内の市民活動事例紹介、県
ークセンター
16:00
営NPO支援施設について討論等)
岐
7/20 金
岐阜文化セ
市民活動・NPO活動のいろは
阜
13:00-
ンター
(講師:ぎふNPOセンター代表和田信明氏)
15:00
(岐阜市)
ぎふ NPO センター
■ 開催案内(本事業案内パンフレットより抜粋)
中部で市民活動のネットワークづくりを進めている団体が「市民活動を行いやすい環境づくり」
という共通メインテーマに基づいて、フォーラムを企画しました。
「こうすれば、もっと私たちの
まちは楽しくなるね、元気になるね」という地域づくりのアイデアを市民活動・NPOの切り口
から捉え、皆で考え話す場をつくることで、中部地域の取り組み・考え方が広域展開・発信され
る機会にしたいと考えています。
2.
【報告―愛知】NPOと行政の協働
2-1.開催概要
テーマ:事業委託をどうマネージするか∼協働のあり方を考える指針として∼
日 時:2001 年 6 月 9 日(土) 14:00−17:00
会 場:NPOプラザなごや 4 階会議室
参加者:計 47 名
パネリスト:金田学さん(愛知県社会活動推進課主査)上田恭生さん(三重県NPO担当主査)長
崎禎和さん(三重県NPO担当主事)服部則仁さん(市民活動ネットワーク平成の町割会
常務)
コーディネーター:後房雄(特定非営利活動法人市民フォーラム 21・NPO センター代表理事)
2-2.パネリスト等の略歴
金田 学:名古屋大学法学部卒業後、愛知県庁入庁。議会事務局、地方課、秘書課、消費生活課を
経て、現在、社会活動推進課にて、NPOの活動促進の一環として、NPOへの事業委
託、協働等に従事。
上田恭生:58 年三重県生まれ。81 年三重県庁入庁。医務環境課、学事文書課、地域振興課等を経て、
98 年から現職。住民参加による NPO 条例づくりを担当。主にNPO法人および協働に関
する業務等に従事。
長崎禎和:67 年三重県生まれ。平成 3 年三重県庁入庁。平成 10 年よりNPO担当にて、NPO法
人および情報分野事業等に従事。
服部則仁:57 年愛知県生まれ、三重県在住。医療法人愛知集団検診協会常務理事。96,97 年と日本
NPO センター企画委員として設立に参画。97 年(社)日本青年会議所 NPO 推進政策委員長
として NPO 法の成立に関わる。98 年みえNPO研究会委員。現在、ひと・まち・未来ワ
ーク情報プロジェクト担当、財団法人まちづくり市民財団評議員ほか。
後 房雄:1954 年富山県生まれ。京都大学法学部卒業、名古屋大学大学院法学研究科博士課程修了。
名古屋大学法学部教授。
専門は政治学・行政学。
イタリアと日本の現代政治、
福祉国家論、
非営利セクター論などを研究。著書に「オリーブの木政権戦略」
「NPOと新しい協同組
合(共著)
」などがある。現在、日本行政学会理事、日本NPO学会理事ほか。
2-3.フォーラム要旨
○ 第1部(基調講演)
:
「NPO と自治体の「契約文化」を育てる(後房雄)
」
1.行政―NPO関係を考えるためのモデル
ひとつめは、諸セクターによって多元的社会が構成されているということ、ふたつめは、各セ
クターそれぞれの長所と短所があるということ、三つめは、行政とNPOの関係には3つのタ
イプがあるのではないかということ(並行モデル:そもそも協働せず独立的に活動、協働モデ
ル:補完関係(委託はこれに該当する)
、対抗モデル:お互いに批判し責任を追及しあう関係(必
ずしも悪い意味ではない)
)
、よっつめは、事業実施プロセス(企画立案・実施・評価)を分担
するということ、五つめは、財源調達とサービス供給を分担するということ、以上5つの観点
から、行政とNPOの関係を捉えることができます。
2.行政―NPO関係における事業委託の基軸的な位置
非常にはっきり打ち出されている「行政革命」の考え方は、企画立案と実施の主体をはっきり
わけるというもので、その動向が英米を始め、日本でも見られています。事業委託はまさにそ
の典型事例ではないでしょうか。
3.欧米における事業委託の参考事例
米国のCDBGの場合、ある意味で日本の緊急雇用対策事業と 5 割ほど似ていると思います。
英国のCCTの場合、コスト面を重視するあまり、創意工夫や労働環境面において弊害がでま
した。イタリアの社会的協同組合については、選定基準として多面的に比重をつけた採点方式
をおこなっています。この手法は、ある意味で透明でわかりやすい選定手法であり、参考にな
るのではないでしょうか。日本では、神奈川県の基金事例が新しく、このシステムは事業委託
の限界として、成果が行政に帰属することを指摘しています。しかし、現段階で事業委託は絶
対に対等関係を構築することが不可能である、と結論づけてあきらめていいのか、と私自身は
思っています。
4.協働と事業委託をめぐるふたつのディレンマ(論点)
ひとつめには、民主的な決定方法として、少数派の意見を反映させればさせるほど(社会的に
NPOの発言権が大きければ大きいほどいい)いいのか、それでは少数決になる、という政治
的な意味における民主主義の問題があります。
ふたつめには、
公的関与の妥当性に鑑みた場合、
行政は委託であってもそのサービス実施についてはチェックをせざるを得ない責任があるとい
う問題があります。だからといって、直営至上を主張するということではありません。委託に
おいて、一般的に望ましいと考えられていることは、実施過程で行政がNPOに関与すること
を抑制し、事後の評価でこそ明らかにさせていくということですが、その評価こそ極めて難し
いため、そのディレンマも浮上してきます。こういったディレンマがあるだけに、現在、入り
口で迷っている状況が見られます。
○ 第2部:ディスカッション NPOへの事業委託をどうマネージするか
上田:問題点として、行政・NPO互いに意識レベルで問いかけるべき点があり、加えて単年度予
算、職員の異動等、行政の仕組みについても指摘ができます。今後の課題としては、①役割
分担の明確化、②NPOの自立、③目的・情報・プロセスの共有化、④企画提案、⑤市民へ
のアピール、⑥評価、⑦公開性・透明性が考えられます。恥ずべきことではありながら、三
重県の失敗事例として、
同様の事業を5つのNPOに受託してもらったケースを報告します。
①役割分担が明確ではなく、お互いがどこまでやっていいかわからなかった、②5つのNP
Oが同様の事業を実施したがその連携や調整をはかることがなかった、③行政担当者がなか
なか現場にこなかった、④評価についても把握することがなかった(アンケート等)
、等がそ
の原因として挙げられました。
長崎:一社随契の場合、なぜこのNPOでなければならないのか、という選定の必然性が行政内部
になかなか理解してもらえない側面があります。そのためにも、企画コンペで「企画が優秀
であったから」という理由があるほうが、内部理解が得やすくなります。三重県では初めて
NPOに事業委託をおこなうときに、そういった教訓がありました。
金田:愛知県の場合は、中間支援型NPOが多く存在し、一社随契の必然性がありませんでしたの
で、企画コンペ方式で事業委託に踏み切りました。応募資格を NPO に限定するか、また法人
格の有無を問うかで随分悩みました。正直、心情的に法人格を参加資格として必要としたく
なりましたが、厳密に調べてみれば、事業委託に法人格が必要であるという決まりはどこに
もなく、結局は NPO に限定(法人格の有無は不問)ということになりました。また、始めて
のNPOへの事業委託で成功事例として提示できれば、庁内他部局あるいは市町村への普及
に有効であろうと考え、
是が非でも成功させねばならない、
という気構えで取り組みました。
NPOへ委託した事業のひとつは、各実施プロセス毎に新聞掲載され計5回載り、県として
のその広報価値は数千万に上ると推測され、これはまず県本体が実施するサービスでは考え
られなかったでしょう。試行錯誤段階ではあるものの、県全体としても「NPOに委託する
には“なにか”意味・価値があるぞ」という雰囲気にはなっています。相互にとって、どう
メリットを積み上げていける手法を、どう創出していけるかがポイントであろうと考えてい
ます。事業委託は、成果物ができればそこで作業が完了し責任が清算される、という意味で、
一番「お手軽」で入門的な協働手法であり、お薦めしています。
服部:NPOに事業委託をするのは、博打だと思います。今実施していることが、後に続くNPO
の評価に大きく影響を与えていくのだ、という自覚が余りにもNPO側に少ないことを危惧
しています。NPO側が事業委託を戦略として判断したうえでやる必要があると思います。
協働あるいは事業委託をするなら、当然、行政側の変化・改革が求められてきます。そして、
それこそが真の協働の成果なのではないでしょうか。戦略性を持ち、行政本体のあり方に対
する変化を問いかけ、行政資源を社会へ還元していけるような社会的価値があるNPOを、
行政にはパートナーとして選んでいただきたいと思います。
○ 質疑応答
質問:企画コンペとして、NPOと民間企業が参入した事例はあるのでしょうか。NPO政策では
ない、例えば福祉や建設等の分野での今後の見通しをお聞かせください。
回答:NPOへの事業委託を「支援策」として実施する事例が多いですが、NPOの専門性やネッ
トワークを重視した形での委託が増加すべきだと考えます。
(上田)NPO担当部局以外の部
局では、なかなか事業委託が広がっていない現実はあります。
「支援策」としているのは、現
段階の状況を象徴していると思います。
(後)
質問:事業委託において、行政はそんなに法人格を魅力的に思いますか(県内NPOから)
。
回答:法人格をとる・とらない、という選択でとらない方向にそこまでこだわらなくてもいいので
はないのでしょうか。
(後)行政職員には、法人格が好きな人がたくさんいる、というのは事
実です。根拠があろうがなかろうが、庁内部の合意形成には、やはり有効に働く傾向があり
ます。勘違いと誤解で成立している部分ですが。
(金田)
○ まとめ −(最後に)不安な点と今後の方向性
長崎:連絡先・代表等の突然の変更が発生しないだろうか、といったような不安はあり、継続性を
確認できるための定款や法人としての能力は見極めたい、という気持ちは常にあります。事
業委託は試行錯誤の段階であり、仕組みを作ったうえで事例を生み出す方法もありますが、
個人的には、事例を積み上げていく結果、仕組みが成立すればいいか、と思っています。
上田:散々、職員研修会を実施してきたものの、残念ながら、庁内では依然としてNPOの理解が
広がっていないという現実を痛感しています。また、市町村は首長の意向が大きく影響を受
けていることが喜ばしくもあり、悩みの種でもあります。各地域のNPOに頑張ってもらっ
て、一緒に市町村での理解を戦略的に進めていきたいと思います。行政改革をする意識がな
いと事業委託は広がっていかないと考えています。三重県の場合、NPO室がなくなると状
況がゼロに戻る危惧がなくもないため、ある程度の明文化やシステム作り等の必要はあると
考えています。
金田:不安だからやらない、ではなく、不安でも、それを回避・乗り越えられる方策を考えて、推
進していくべきだと考えています。協働のねらいは、事業委託の成果よりもむしろ、行政が
変わるため、だと思います。例えばイベント事業の委託をしたのですが、綿密なシナリオを
作り、動員をかけて、としなくてもやれるんだと気づかされた、そういった気づきの意味を
捉えることが重要だろうと思います。
服部:事業委託をする市町村は、周辺の地域にある「よい」NPOを自分のまちに引っ張り込んで
ください。成果はその町に残るわけです。事業委託を広域合併の戦略のなかで整えていくた
めには、積極的にそうすべきではないでしょうか。発注したら、まかせっきりでもなく、監
視するのでもなく、
「一緒にやっていく」ことが重要なのではないでしょうか。
後 :支援と委託の混合が象徴的でありますが、NPOの事業委託は確実に初期段階に入った、突
破口は開いた、という認識を持つべきと思っています。行政としてNPOと付き合うのは不
安だが、リスクをいかにマネージするか、ということで進めていく姿勢が、行政側の意見に
全体として現れていたことが、本日非常に印象深かったと思います。同時に、NPO側もな
んとなく行政を怖がったり、信じなかったりするのではなく、そうであったうえでリスクを
管理しながら、チャンスを活かしていくことが重要であることを再認識しました。本日の議
論をベースに、ルールづくりの方策を今後検討していければ、と思います。ありがとうござ
いました。
3.
【報告―三重】資金サポートシステム
3-1.開催概要
テーマ:市民がつくる三重の資金サポートシステム大発表会
日 時:2001 年 6 月 30 日(土) 13:30−16:30
会 場:三重県庁講堂
参加者:計52名
発表者:酒谷宜幸(市民活動資金サポートシステム研究会代表)
パネリスト:岩崎浩也さん(三重県生活部)海山裕之さん(NPO 法人 地域づくり考房みなと)中
川真知子さん(伊勢市役所)水谷俊郎さん(三重県議会議員/市民活動資金サポートシス
テム研究会副代表)
コーディネーター:松本美穂(市民活動資金サポートシステム研究会副代表)
司 会:井田輝門(市民情報ネットワーク すずかのぶどう)
3-2.パネリスト等の略歴
岩崎浩也:1961 年三重県生まれ。昭和60年三重県庁入庁。地方課、伊賀県民局、監理課、地域振
興課等を経て、平成13年から現職(生活部企画担当)
。地域振興課において、住民と行
政の協働の取組みである「生活創造圏づくり」を3年間担当。現在は、生活部事業の企
画・調整担当。
海山裕之:1955 年四日市市生まれ。四日市市内で自然食レストランを経営。1998 年以来、数々のN
PO活動、行政との協働を経験。2001 年より、NPO法人 地域づくり考房みなと の常
務理事兼専従スタッフとして、
北勢地域の NPO や地域づくりの支援活動に携わっている。
また、
「地域通貨」を導入した中心市街地の活性化の協働事業に取り組んでおり、今夏よ
り、地域づくりの交流サロンとして「コミュニティレストラン事業」の展開も計画して
いる。
中川真知子:1971 年三重県生まれ。1990 年伊勢市役所入所。建築住宅課、戸籍住民課等を経て 1999
年より現職のNPO担当、ほか、伊勢市国際交流協会事務局担当など。身近な相談窓口
を実践するために、
「NPOとのなにげない日常会話に支援のヒントがある。
」をモット
ーとする。
水谷俊郎:東京工業大学卒業後、三重県庁入庁。商工労働部(当時)3 年で退職し、大成建設入社。
退社後、平成 3 年より三重県議会議員。土木、農林水産商工、総務企画各常任委員長、
行政改革調査特別委員長などを歴任。現在監査委員。三重県議会・政策集団「波動 21」
幹事長(6 月解散)
、その後「三重県 PFI 研究会」代表(6 月発足)
、桑名員弁生活創造圏
づくり委員会・エコリーグメンバー。既存社会の欠陥を是正し、
「市民社会」の構築を目
指して、当研究会に参加。
松本美穂:1972 年三重県生まれ。1992 年よりNGO活動を始め、同志社大学卒業後、人権・多文化
共生分野の財団法人勤務を経て、三重県NPO室の事業に関る。現在、特定非営利活動
法人市民フォーラム 21・NPOセンター主査、特定非営利活動法人コミュニティ・シン
クタンク「評価みえ」常務理事兼事務局長、市民活動資金サポートシステム研究会代表、
三重県科学技術振興センター研究評価委員、名古屋市男女共同参画推進会議委員など。
酒谷宜幸:1962 年久居市生まれ、明治大学卒業。(株)ブレインパートナー代表取締役。公認会計士・
税理士。1998 年みえNPO研究会委員。∼現在:三重環境県民会議環境創造基金審査委
員 四日市市民活動ファンド運営委員 みえ市民活動ボランティアセンター運営委員会
会計監事 三重県土地開発公社/三重県住宅供給公社/三重県道路公社監事
3-3.フォーラム要旨
○ 第1部:研究会の活動実績紹介とあたらしい資金循環(調達)システムの発表
研究会の、昨年からの「取り組み」と、
「NPOと地域社会のための新しい資金システム」を、経
緯として説明した。
○ 第2部:パネルディスカッション「地域づくりとNPO支援」
1.地域におけるNPOの役割・必要性について
・中間支援NPOとして、行政とNPOのパイプ役・コーディネイター役としての機能と、資金
サポート機能が重要だと考える。
(海山)
・行政内部におけるNPOの理解がまだまだ進んでいないという印象がある。行政は、NPOに
対する認識をあらたにすることを通じて、自己改革をしていかなければならないと考えている。
(中川)
・"地域"における NPO のイメージは、住民の立場としては、
「リーダシップを発揮し、こだわり
を他の人々に伝え、地域の一体感を醸成することで社会化していく存在」であり、行政の立場
としては、
「パートナー、行政の不十分な施策のフォロー者、的確なアドバイザー」というも
のである。
(岩崎)
・地方分権においては、様々な仕組みの変革が求められることになる。そのためには、住民、N
PO、行政、政治(議員)が自立することが必要であり、議員は、住民ニーズに向けて仕組み
を 変えていく仕事であると自覚している。
(水谷)
2.NPOと資金について
・NPOの社会的認知が難しい面もあり、資金が集まり難い社会構造であるため、NPOが活動
しやすくなっていない。疲弊した既存の仕組みを変え、新たな仕組み作りをしなければならな
いと考えている。
(水谷)
・公益法人も、設立当初は、NPOと同じような目的をもっていたはずである。行政からNPO
という流れが、常態化し、NPOが公益法人化してしまわないように、市民の責任ある選択に
もとづく、自然淘汰が必要である。いっぽうで、企業評価において、社会貢献が重視されるよ
うになってきたため、企業は、NPO支援にも取り組まなければならない時代になってきた。
(岩崎)
・行政は、お金を効率的に使うことが下手である。行政の分野別に縦割りされた助成金を全部く
っつけたオールマイティーな助成金があればベストである。そのようなものが望めない現段階
でできることは、既存のシステムのコーディネイタ−役である。
(中川)
・行政が委託しようとしている事業をこなせるNPOは、意外に少ない。資金がなくても活動す
るノウハウは持っていても、与えられた資金を有効に使えるNPOがどれだけあるのか、再度
考えて欲しい。NPO活動が、価格破壊をもたらすことで、営利企業を淘汰していくいっぽう
で、失業者の就職先という意味で社会的事業体として有効なNPOになっていく必要がある。
(海山)
「NPOに押し寄せる行政側の期待や思惑と、それで良いのかというNPOからの押し返しの
せめぎあいが現状としてあるが、ここのギャップをどう捉えているか。
」
(松本)
・四日市市はNPO委託に前向きであり、実際にいろいろなものを委託しようと出してきている
が、NPO側の応募が少ないのは寂しいことである。もっとトライして欲しい。いっぽうで、
自主的に自由で使い勝手の良い資金循環をねらったPANDAファンドは、誰が運営を担うの
かなど、まだまだ課題が多いと感じる。
(海山)
・行政が果たしている役割を新たに担うセクターとしてNPOを位置づけると、プレッシャーが
大きすぎるのではないか。NPOの自主的な活動の副次的な効果として、行政が担っていた役
割をより効果的に実施しているという割り切りが必要である。行政として入っていけない、入
ってはならない、
"人間らしさの形成"に通じる公益活動こそが、
NPOのしていることである。
(岩崎)
・NPOは未成熟であり、行政を否定するつもりはないが、行政の一部を、当然の権利として企
業、NPOが競争して、どこかが担っていくという流れが必要である。価値の転換期であり、
過渡期であるこの時期に、あるべき姿に向けて模索を始めているところである。このような流
れの中に、社会投資のひとつのあり方として、PANDAファンドが提案されたと感じる。
(水
谷)
3.PANDAファンドに対して、私たちができること、していくこと
・PANDAファンドは、NPOが自分たちで資金調達し易くなる流れをつくっていこうという
ものである。税金で公的サービスをするのなら、行政と変わらない。社会変革を起こすには、
同じ公的サービスをするにも、税金ではない自ら調達したお金を原資とするというこだわりが
求められる。実践段階においては、多くのNPOが参加しやすいものにしていくことを期待し
ている。
(海山)
・発表されたPANDAファンドは公開討論会で出てきた"各セクターが感じている課題"が、バ
ランスよく反映されたものだと感じた。このような仕組みが日本中に広がることを期待してい
る。資金を集める部分がポイントになると思うが、多くの人々に理解してもらい、早く軌道に
乗ることを期待している。
(中川)
・公務員の数は、約2万人、充分寄附者として期待できるし、個人的には、率先して寄附者にな
るつもりである。行政職員の意識に埋め込んでゆくことも大切であり、努力していきたい。フ
ァンドには、資金を出せない企業から、優待券などを提供してもらい、抽選で寄附者に還元す
るというやわらかい部分も取り入れて、なじみやすいものにすることも検討してもらいたい。
(岩崎)
・研究会は、行政内部に滞留し、または、効果的に使われていない公益活動支援のための資金を、
より効果的に使えるように働きかけようということが、もうひとつの目的であるが、そのため
にも、自ら汗をかいて資金獲得の努力をして見せることで、PANDAファンド自体が自立す
ることが大切である。このような取り組みを評価して、当然のように行政の資金が投入され、
NPO支援ができるようになればよいと考える。甘えではなく、過程としてそのような関わり
方があったとしても、最終的に、市民社会が実現できればそれでよいと考える。PANDAフ
ァンドが出来なければ、市民社会は実現できないのではないか、というぐらいの気持ちでいる。
(水谷)
4.まとめ
立ち上がり資金として、行政などからまとまった資金が提供されるのはある意味では楽かもし
れないが、PANDAファンドは、税金のように強制的に徴収したものを当てにするのではな
く、まずは、自分たちで、透明性と自己責任を前面に出して、善意のお金としての寄附をコツ
コツ集めていこうというこだわりを持って、やせ我慢路線を選択した。ゆっくりと、目につか
ないほどの速度で、積み上げていくことになるかもしれない。これは、税金と並ぶ社会資本投
資先としての選択肢をつくろうというPANDAファンドの本質を実現するための挑戦であ
ると考えている。パネラーの皆さんの意欲、決意は、各セクターに持ち帰って伝えていただく
ことで、企業、行政、NPO、市民が関わっていくことを期待させるものである。PANDA
ファンドは、NPOだけでつくっていくものではない。他のセクターとの協働なくして、目指
す社会の実現は出来ないと考える。
(松本)
○ 質疑応答
質問:NPOの存在意義は何か、くらしを支える産業育成のほうが緊急課題ではないか?
回答:NPOは、お金では割り切れないもの、市場原理では割り切れない新たな価値観の創造に存
在意義を持っている場合も多く、企業では、いけない部分であると感じる。個別企業を税金
で支援することは許されないことは明らかである。したがって、競争原理にさらされること
になる。NPO支援により、いろいろなニーズにこたえられる社会の仕組みが必要であると
感じる。
(水谷)
質問:PANDAファンドは、信用組合、企業組合形式とどこが違うのか。
回答:PANDAファンドが、支援を受ける側の参画者であるNPOに求めるのは、継続的な情報
発信であり、いっぽうの支援者に求めることは特になく、支援に関する出入りのしやすさに
もこだわっているように、組合員として囲い込もうという仕組みではない。この仕組みは、
できることからコツコツはじめて、地域社会に波及できることは何かと考えたときに出来た
「情報循環を中心にした資金循環の形」であり、この方式が認められ、他の地域に広がった
り、参考にしていただいて他で実践していただければ、幸いである。
(酒谷)
質問:PANDAファンドは、受け皿としての運営経費をどのように捻出するのか?
回答:この点については、
「PANDAファンドへのお誘い」の中で説明しますので、そちらでご確
認ください。
(酒谷)
質問:爪の先に火をともすような思いをしながら活動をしているNPOが行なう価格破壊が、なぜ
許されるのでしょうか。雇用創出の場であると考えるとき、大きな疑問を感じる。
回答:価格破壊を起こすには、NPOも無理をしているはずである。そういう意味で、価格破壊を
志向するNPOは、雇用の場ではありえないと考える。そのようなNPOは、公益サービス
の継続的な担い手にはなりえないのではないか。価格破壊と、雇用創出の両立はありえない
と考える。NPOがあればよいのではなく、中小企業もあれば、NPOもあるというように、
どちらも選択肢のひとつになればよいと考える。
(松本)
○ 第3部:PANDAファンドへのお誘い
会場からも、
「これまでの生活の中では、NPOにお金が流れるパターンが出来ていなかったの
で、このパターンを変革して、NPOを組み込む必要があるが、行政が補助金、助成金をつけるの
ではなく、NPOの努力に任せなければならない。
」という意見が出ました。かつては、産業育成と
称して多額の誘導型補助金や、助成金が営利企業にばら撒かれた時代もありました。昨今の行政が
実施しているNPO支援には、同じような危険性が感じられます。資金面におけるNPO支援の本
質は、社会におけるNPOの認知を支援することであり、認知後に市民から直接支援をうける努力
は各NPOが自ら行なわなければ意味が無いと思います。
また、営利企業にも利益追求型があったり、ミッション追求型、価格破壊型があるように、NP
Oにいろいろなタイプが出てきても不思議ではありません。実際に出てきています。そして、企業
も、NPOも、私たち市民が何もしなくても自然に淘汰されるのではなく、市民が見極め、選択す
ることで、淘汰するのである事を忘れてはならないと思います。企業や、NPOに市場原理(競争)
を意識させ、より良いサービスをより選択しやすい状態で提供されるようにしていくのは、利用者
側であり、ときには供給者側にもかかわる市民に他ならないと、あらためて実感しました。
いま、研究会は、PANDAファンドが眠れる市民・企業・行政・NPOを起こし、地域社会の
発展成長のきっかけになることをめざして、小さな一歩を確実に踏み出しました。地域づくりのた
めの、みなさんの"ひと手間"をお願いにあがりますので、ぜひご協力いただきたいと思います。
4.
【報告―長野】地域通貨
4-1.開催概要
テーマ:市民活動を行いやすい環境づくり「地域通貨から見えるもの」
日 時:2001 年 6 月 23 日 13:20∼17:00
会 場:松本市勤労者福祉センター
参加者:計 67 名
基調報告者:白戸 洋氏(松商短期大学専任講師)
パネルディスカッションコーディネータ:高橋卓志(長野県NPOセンター代表)
パネリスト:春日俊也氏(駒ヶ根ずらあnetスタッフ)
、白戸洋氏(基調報告者)
、福嶋昭子氏(松
本市蟻ヶ崎西町会長)
体験セッション「地域通貨ワークショップ」ファシリテータ:佐藤悟氏(日本 JC 長野ブロック協議
会会長)
トークセッション:
「市民組織活動を継続させるための環境と条件」コーディネータ:若林敏明氏(N
POネットワーク信州代表)
4-2.講師・ゲストの略歴
春日俊也:1961 年駒ヶ根市生まれ。1984 年 慶應義塾大学法学部政治学科卒。1995 年 駒ヶ根商
工会議所青年部会長。2000 年 社団法人駒ヶ根青年会議所理事長。現在、株式会社伊勢
喜常務取締役。妻と保育園の息子2人の家族。趣味は打楽器、食べ歩き、映画。苦手な
もの ゴルフとカラオケ
白戸 洋:神奈川県横浜市出身。政府開発援助の地域開発、コミュニテイ開発、社会環境の専門家
として 10 年間アジアの地域開発事業に従事。
現職は松商学園短期大学経営情報学科専任
講師。専門は地域開発、地域社会論・地域の国際化、市民活動。
福嶋昭子:1932 年生まれ。1985 年より松本市の社会教育を基盤に市・県・国の女性指導者研修会を
受講しながら、身近な地域活動を始める。松本市青少年補導委員等を歴任。現在、松本
市蟻ヶ崎西区町会長、まつもと男女共生市民会議代表。公民館運営審議委員等。
佐藤 悟:1962 年大町市生まれ。松本歯科大卒業後、佐藤歯科医院を開業。大町青年会議所に入会
以来、まちづくりの視点で各種市民活動に積極的に関わる。1996 年に第 18 回世界アマ
チュア囲碁選手権選長野大会の実行委員長、1997 年∼アルプス囲碁村事業推進協議会委
員、2000 年度大町青年会議所理事長。 本年度は日本青年会議所長野ブロック協議会長、
青年ボランティア世界会議 in NAGANO 実行委員長。
若林敏明:1955 年伊那市生まれ。國學院大学文学部卒業。しなやか県民ネットワーク上伊那事務局
長。NPOネットワーク信州代表。みにやる政策研究所主宰。伊那市民劇場事務局長。
伊那芸術文化協会事務局長。伊那国際交流協会理事。伊那節振興協会事務局長。特定非
営利活動法人長野県NPOセンター理事。伊那市議会議員。
高橋卓志:1948 年松本市生まれ。1981 年国際障害者年の活動を通して、松本の障害者共同作業所「筑
摩工芸研究所」の設立に協力。ターミナル・ケアやホスピスの設立、チェルノブイリや
タイへの医療支援などを行うかたわら、寺の本堂を使って開く「ほてら劇場」
「尋常浅間
学校」など、寺を拠点に活動。現在、神宮寺住職。長野県NPOセンター代表。NGO の
ACCESS21 代表。
4-3.フォーラム概要
※発言記録中、アルファベットで記してあるのは、一般参加者とする。
○ 第1部:基調報告
白戸洋氏が、作成資料をもとに、長野県内の地域通貨・エコマネーの活動地域を紹介。地域通貨
が現代社会にどのような働きをしていくのか、その期待などについて所感を述べた。
○ 第2部:パネルディスカッション
高橋:今日は、地域通貨が、ツールとして地域の活動にどう生きるのかを考えたい。地域通貨は、
「円」とは別の価値観を作り出す可能性が面白い。NPO の活動の4要素、経済、拠点、人的
整備、情報。この情報が地域通貨として活用できるのであろうと考えている。
春日:地域の活性化に何が必要か、主体的な参加のできる仕組みを考えている。ボランティアや貢
献したい市民はたくさんいる。しかし、それをどう生かすかに迷っていた。地域通貨がその
つなぎ役になると考えた。5ヶ月実験をした。ズラーというお札を作った。サービスのお礼
にさしあげる。もらったひとは、それをまたサービスのお礼に渡すという実験。111 回の取
引が5ヶ月にあった。JC の84人とその家族をコミュニティ、合計 200 人くらい。結果とし
て、うまく流通したとはいえない。理由は、30代の連中のやってあげられること、やって
ほしいことが同じだった。4回以上使った人が55%。頼まれなかったということもうまく
流通しなかったことのひとつの理由。
事務局的なサービスの仲介役が必要だったように思う。
今年、ズラーは第二ラウンド。地区社協も加わる。サービスの提供者や需要者の両方にポイ
ントをつける工夫。ポイントカードがいっぱいになったら、福祉 NPO 等にもっていくと、公
益性のある協力をしてもらえるようになるなど。駒ヶ根市の15年計画にエコマネーをいれ
てもらい、予算もつきそう。行政が関心を持ち始めた。
福嶋:蟻ヶ崎西は文教区で環境がいい丘陵地。自分の住みたい町にしたいと思い「道路は家の廊下。
家はそれぞれの部屋。ふれあい広場(公民館)はみんなの家。
」というまちづくり宣言をした。
町会運営そのものが福祉づくり。通貨とか考えなくても自然に支えあえればいいなと考えて
いた。公的支援なら、行政。共に助け合うものなら町会。個人のものなら、自分でやっても
らう。高齢化が進んできたので、さらなる取り組みとしてお弁当づくりをはじめ、それを有
償でやることにした。町会費ではない。ひとりの住人として関わって1年たった。これは、
NPO のひとつだと思っている。でも、地域の中で NPO とか地域通貨という言葉を大きな声で
だすと、地域自治が続かない。
白戸:二人の話を聞いていて、日本の中で、地域通貨を考えたら弱点があると思った。地域という
のは何だろう。ちゃんと地域をとらえているのだろうか。NPO や活動している側だけの問題
ではない。何のために NPO があるのかを見直さなければならない。生活が基盤であることが
大切。地域の中でつながりをもつのは、地域通貨のもつ意味。ボランティアでいいかどうか
という視点。
大もうけはしたくないけど、
こもうけくらいしたいという若い人を巻き込める。
相手によって価格を変えて、自分で価値をつくる。相手との関係の中で価値をつくる。お金
だと値踏みしているようでいやだけど、地域通貨はそれがない。自分が価値をつくることが
地域通貨の面白さ。地域通貨は、負債でも抜けていいということがある。やったほうもやっ
てもらったほうも楽しかったから、だれもこまらないという関係を作る。
高橋:きゅうりがまっすぐという世界で、まがったきゅうりも生きる世界がある。
「円」ではだめだ
けど、それを地域通貨で動かすという可能性ができる。
春日:町会で中のいい人の関係ではできる。が、少し疎遠になった人との関係のあいだでは、地域
通貨が生きる。マネーレスの地域通貨を蟻ヶ崎に感じる。でも、今の地域では、地域通貨が
必要となる。
高橋:フロア-で今、地域通貨をやっている方いますか
M :長野 JC で、エコマネーを研究している。長野 JC 委員会メンバーで実験している。一次実験
が終わって、これから2次実験。HP を使ってやった。春日さんの方法と同じ。してほしいこ
と、できることを一覧表。それを HP に搭載。メンバーの名前をクリックすると依頼シートが
出る。自分のメールアドレス、頼みたい内容等を入れると、メールとして届く。その先は、
メンバー同士が連絡とりあうしくみ。とりあえずは、バーチャルでもいいとしている。交換
したら、報告を義務化。1 ヶ月すぎた。ネット上の取引で、実際のサービスの交換がなかっ
た。でも、実際にやらないと心に残るものがないという反省。
M :伊那八幡長。伊那市社協から話があった。八幡町は社協が主体をもって始めたイーナちゃん。
草をとるとかなど。始めは出足悪く、70 件だったが、今は75%などの利用率。エコマネー
を駒ヶ根から聞いて 8 ヶ月やった。たまる人はたまる、減る人は減るだけど、年寄りの人か
ら「もらうばかりで、何かもっていかないといけないかな」という声がある。
Y :美麻村からきた。23,4年遊学舎をやってきた。地域の自給をやれる場所を地域テーマと
してずっとやってきた。味噌を毎年 2 トンつくってきて、評判いい。ボランティアとか福祉、
地域作りとしての地域通貨が多いけど、物流を考えながらやろうとしているので、難しくて
苦心しているところもある。有機農業で NPO をつくった人や手作り醤油をつくっている人と
地域通貨をやろうと考えている。30 日にその立ち上げをやる。興味ある人は連絡してほしい。
○ 第3部:セッション(
「体験」と「トーク」の二つにセッション会場をわけ同時に実施)
○[体験セッション:地域通貨ワークショップ]
手順:地域通貨エコマネーワークショップ・仮称「ボラ ネットワーク」としてエコマネーを実際
に流通させる体験セッション(参加者 30 名)あくまでもなりきっていただくことを前提に通
貨単位を「ボラ」とさだめるなどのルールを決めてタイムスケジュールを明確にして開始。4
グループ(※印参照)に分かれた参加者にグループ単位で情報提供、支援について検討して
もらい用紙に参考例(以下参照)に従い記入する。手元に用意された通貨に内容とグループ
名を記入し支援して欲しいことを提供できる相手にその通貨を支払い商談を成立させる。逆
に他グルーの依頼に提供できることは通貨を支払ってもらい成立させる。
※4グループ: A)市民チーム B)NPO・ボランティア団体チーム C)企業チーム D)その他 イ
ベント企画/協賛集めチーム
まとめ:流通が実現するまでの経過が体験でき、流通させるにあたっての工夫が見られた。求める
事柄(支援してください)と受け入れが可能な事柄(支援できます)を持つ双方が意見交換
を交わし納得でき、満たされてはじめて流通が成り立つ。また、流通が成立(体験)するこ
とでお互いの必要性が認識でき、人とのつながり・交流に結びついた。我々がする地域づく
りの先に地域通貨があり、独自のお金を循環させることで活性化する目的を体験できた。
○[トークセッション:市民活動を行いやすい環境づくり]
(11人+ファシリテータ)
意見要旨:
「先ほどのトークセッションを聞いて思ったことを書いてください。書いたねたを元に自
己紹介をしてください。
」と切りだし、でてきた主な意見は以下のとおり。
・どういう人が来ているのだろう。
・従来からのコミュニティと新しい組織との関係はどうしたらいいのか。
・本当の市民や住民の自治はどうあるべきか。
・行政が口を出していいかどうか。
・市民活動と NPO とエコマネーとのつながりについて勉強できた。
・本来市民の立場である青年会議所が、地域に入っているかどうか疑問に思っていた。
・昔の日本は蟻ヶ崎のようだったと思う。
・発展途上国で使えないかと考えている。
・ひとつは兌換性。ただ乗りという課題があると思う。
・身近でも地域通貨があることに驚いた。協力できるか考えたい。
・地域通貨が将来のためにためたいという発言があったが、弊害があるのではないか。
・チケット製で経営陣がやっているグループ通貨との区別を知りたい。
・地域通貨が町内単位の通貨として入り込む可能性を確認したい。
・介護保険事業者としてやっていると、介護保険の制度にとりこまれたという閉塞感を感じて
いる。介護保険事業者になりさがってしまった、と仲間ではいっている。エコマネーはそう
いう中で使えるのかと考えた。
○ フリートーク:出てきた意見を元におこなった。
若林:エコマネー長者でいいのか、ギブアンドギブでもいいか、ということ。行政のできることの
限界。について考えたい。住民自治のあり方について、エコマネーを切り口にしたい。
白戸:エコマネーの発想には、使わないと減っていくことが原点にある。金は、ためることに意味
がある。エコマネーをためることは、何かをやらないことになる。まわならいのは、何もし
ないことになる。やりとりをするところに意味がある。もらってばかりいるのは、普通の経
済では許されないけど、エコマネーにはある。
Y :若いうちは、ギブあんどギブ。年取ったらテイクあんどテイクになるだろう。地域通貨のね
らいは「何か」と問うことにある。地域通貨は手段のひとつ。今の社会にかけていることを
補うもの。だから、一方通行だって仕方ないけど、最初からそれを奨励しないで。
若林:たまっちゃったという人がでてくる。人は人のためにしたいというふうに考えるけど、助け
る喜びだけでなく助けてもらう喜びを体験することが五分五分じゃないか。
A :ギブあんどギブか、テイクあんどテイクかは、人の感じ方次第。主観的だ。ひとつの活動が
双方の満足となるなら、同じ。相対的だから、エコマネーの目的が何であるのかによって、
エコマネーをためてはいけないかどうかという視点に答えがでる。
白戸:同感。学生がしていることについて一方向の感じ方しかできないことを感じる。やっている
ことしかわからない。
やってもらっていることしか見えない。
小さな関係がたくさんあれば、
自分と人との1つの関係だけでなく、広げていくことが大切。自立といっても、みんなに支
えられていることの自覚が必要。
若林:今、地域だけでがんちがらめになっているのが現実の課題。
H :公的機関や第三者機関に頼みたいというのが、今の傾向。子どもに頼るより、他の人に頼み
たいとわたしも考える。社会が支えるしくみがほしい。価値のないところに価値がつくのが
地域通貨のよさ。
若林:やってみようかな、というときに「区の総会にかけなくちゃ」となってしまう。行政の下請
け機関としての自治になってしまっている今の実情が問題。
白戸:行政との関係を考えると、
「共」の部分は、町会や自治会が金属疲労を起こしている。補う機
能が必要である。それがエコマネーや NPO。そこに必要なのは、バランス。本日意外だった
のは、地域には距離感があるけれど、関心が高いということ。10 年前だったらエコマネーは、
脱地域の人が考えただろう。でも、今は地域が考えはじめた。ここで死ぬ、地震があったら
どうしよう、という時の感覚がないと地域っていやなところになってしまう。福島さんが浮
くことを心配していたが、そうでなかった。
A :模索していくのがいいじゃないか。加藤さんの言っている概念もあるけど、あまりこだわな
らいでとりあえずやるというのがいいじゃないか。
5.
【報告―静岡】市民の役割、行政の役割、中間支援組織の役割
5-1.開催概要
テーマ:∼市民活動を行いやすい環境づくり∼ 市民にできること 行政にできること
日 時:2001 年 7 月 14 日(土)午後 1 時 30 分∼4 時
会 場:浜松市南部公民館 第3講座室(2階)
参加者:計34名
活動および事例報告者:寺岡勝治(特定非営利活動法人 浜松城北体操クラブ 代表)
、久保田翠(知
的障害児者クリエイティブサポート Let’s 代表)
、池谷雅子(
「水俣」子どもに伝えるネ
ットワーク・浜松 代表)
、小笹貴道(特定非営利活動法人 浜松オープンスクール 代表)
、
コーディネーター:佐藤邦子(特定非営利活動法人 浜松 NPO ネットワークセンター(N-Pokcet)事
務局長)
5‐2.報告者等の簡単な経歴
寺岡勝治:高校時代に器械体操と出会いこれに一生をささげようと決意。中京大学に進学し、非常
勤講師を経て浜松城北工業高校で正規採用され、その後城北工高でジュニア体操教室を
はじめ、浜松城北体操クラブを設立した。現在、磐田南高定時制教諭兼体操クラブ理事
長。趣味はジョギング・体操を指導すること。
久保田翠:武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業、
東京芸術大学大学院環境造形デザイン科修了後、
1993 年より(株)高木滋生建築設計事務所にて環境デザインを担当し、
1994 年には同事務
所の浜松事務所代表となる。現在、建築家として環境デザインに取り組む一方で、知的
障害児の文化・芸術的才能をのばすための環境整備に努める。静岡大学農学部非常勤講
師、浜松市看護学校非常勤講師
池谷雅子:99 年に「水俣・浜松展」の企画・運営に携わり、その後「水俣」を子どもに伝えるネッ
トワーク・浜松の代表となる。
「佐鳴湖の環境を考える会」にも所属し、環境や人権、ま
たそれらを超えて子どもたちと共に考える活動を行っている。
小笹貴道:特定非営利活動法人「浜松オープンスクール」理事長。学校にいけない子どもたちのフ
リースクールを開設し、心のケアと学習のサポートを行いながら、多くの子どもたちを
学校に復帰させている。またこれからの社会を支えていくリーダーを育成するため、音
楽活動やボランティア活動を通じて、小学生から高校生までの指導にあたっている。
佐藤邦子:元ヤマハ発動機(株)海外業務課にて中南米向け輸出業務を担当。99 年 JUCEE 主催「日米
市民活動リンクス」に参加し、米国の NGO;American Friends Service Committee(AFSC)
にて3ヶ月間の研修を受け、
平和・人権に係わる市民活動の事業開発∼運営などを学ぶ。
2000 年より浜松 NPO ネットワークセンターの事務局長を務めるかたわら、多文化共生事
業を同センターにて立ち上げる。
5‐3.フォーラムの概要
○ 第 1 部 活動事例報告 ∼活動環境を向上させるために取り組んできたこと∼
○[事例1.
(特非)浜松城北体操クラブ 代表 寺岡勝治]
活動:主に市内の小学生∼高校生に対し体操競技の普及指導を行いながら、地域にとって友好な資
源である学校施設の市民への開放を行政に働きかけ、
豊かな市民生活の実現を目指している。
課題:文部科学省の政策が学校施設の開放を促し、市民団体に活動の場を提供することになるだろ
うと期待した。しかし実際は行政・市民の NPO への認識が低いために施設の利用許可がおり
ないことが多い。例えば、スポーツ少年団には許可は出しているが、後ろ盾が違うだけで NPO
には貸さない。対外的に活動しやすくなるだろうと NPO 法人を取ったが、教育委員会は企業
と勘違いして立ち会わない。この経験から以下の事が今後の活動に重要と言える。
・地域の一員として自治会や PTA 役員など地域の人々と接点を持つこと、協力していくことが
大切だ。これにより簡単に学校施設利用許可が簡単におりた例がある。
・NPO のボトルネック(活動を制限するもの)とは、市民が NPO を知らないことだ。これは NPO
が地域に根付くことを妨げるものである。
・NPO ブランド=市民が NPO に関ることで地域や社会が豊かになるという意識を高める。
・NPO にとって資金調達をはじめとした運営は大変厳しいものあるが、サービスを提供する専
門性や経営能力を持つことが NPO に持続性を与え、
社会に根付き生き残っていくことになる。
○[事例2.知的障害児者クリエイティブ・サポート Let’s 代表 久保田翠]
活動:知的障害児者のカルチャーセンターを運営し、学校などの既存の施設では実現できなかった
知的障害児者の文化・芸術的才能を伸ばす場として、絵画や音楽講座などの文化的活動を行
っている。現在、知的障害児を抱える80の家族会員、個人会員30人、賛助会員80 人、
20の団体会員をかかえる。
「日頃できないことを思いっきりやる!」を掲げ、障害者と健常
者が共に楽しめる場を作っている。
課題①:福祉の世界では障害者に参加を呼びかける際、個々の住所に広報するのは人権に関るとし
てできない。
その対策としては新聞や TV などのメディアを利用し広く参加を呼びかけている。
課題②:国からお金をもらう、だれかに何かをやってもらうというような、依存型の福祉の枠組み
を超えたい。どこかに頼って行くやり方ではやりたいことはできないし先に進まない。その
ため資金の100%は会費や個人の寄付などによる自己資金で賄っている。できるだけ自立
した活動を行い、障害者がこの浜松で伸び伸びと、生き生きと暮らして行くことを望んでい
る。これも活動環境を整えるための自身の取り組みであると思う。
(多様な人材を各講座に取
り入れながら、ユニーク且つ元気な活動を行えるのも、この考えに基づいているのだろう。
)
○[事例3.
「水俣」を子どもに伝えるネットワーク・浜松 代表 池谷雅子]
活動:99 年に開催した「水俣・浜松展」で行った子どもたちへの啓蒙活動をきっかけに、全国規模
で始まった「水俣」を子どもたちに伝え聞かせる活動であり、2000 年のネットワーク発足に
浜松も加わった。小・中学校へ出前授業を行い、水俣に関する写真やビデオ、子供向けの本
を活用しながら、教科書では読み取れない水俣病や事件を知ってもらい、いじめやその他の
問題にも結びつけ子どもたちと一緒に考えるという活動である。
課題①:学校には団体の活動が殆ど知られていないため、出前講座の依頼があまり来ない。また教
育関係者の水俣に対する理解が乏しいために、活動を阻止されかける場合もあった。今後は
各校への訪問アピールなども必要だが、NPO の中間支援組織などが人材バンク的なサービス
を行ってくれることも期待する。
課題②:市民団体では資金調達に苦労するが、積極的に水俣の胎児性患者の授産所商品などを委託
販売しながら資金を確保している。
・総合学習の場で人権に関する授業の可能性が出てきたが、アムネスティー・インターナショ
ナルも水俣のように学校での受け入れを期待している。
・学校の教師は総合学習で一体何をやったらいいのか頭を悩ませているので、それに市民団体
が参加するのは良いチャンスだと思う。しかし学校の管理職により“やりすぎ”を嫌い、阻
止されるケースもある。
・総合学習を誰に委託するのかで学校側は頭を悩ませているが、地域の活動などに詳しいわけ
でもなく、教育委員会もどんな市民活動があるのか全く把握していない。
・浜松市内学校の全域に市民活動の詳細を知らせるには西部教育事務所へ働きかけると良い。
例えば市民団体同士で、または中間支援組織が総合学習用の市民活動リストなどを作ること
も、今後必要とされるであろう。
○ 第2部 交流と意見交換 「市民にできること、行政にできること」とは何か?
1.行政による市民活動支援センターを考える
概要説明:静岡県の地域交流プラザ「西部パレット」の開所が今年 11 月下旬に予定されている。ボ
ランティア・NPO 等の活動交流の場として設置し、交流ロビー、ミーティングルームが設け
られる。運営時間は 9 時∼21 時 30 分の予定、人員配置は常勤 1 名、非常勤 5 名が配属され、
常時2∼3 名が勤務予定。官設ではあるが、東部パレット・中部パレット同様に市民にとっ
て使いやすい施設を目指している。県民が使いやすい施設を目指し、県民が自主的に運営す
る方向を考えていきたいとのこと。駐車場は有料である。
質疑応答
・利用資格はどのようになっているか?できるだけ幅広い団体が自由に使えることを期待する。
静岡(中部パレット)では、印刷機が無料で使えニュースレターなどの大量の印刷ができる
と聞く。
→県は広く県民に利用してほしいと言っているが具体的にはっきり決まっていない。中部パ
レットでは、印刷は紙は各自持ち込みで、印刷代無料という形をとっているが、西部パレッ
トでは無料にするか有料にするかは決まっていないようだ。
・西部パレットに係るお金だが、浜松市から 1 フロア−を借りるので、フロア−賃貸と交流プ
ラザ運営で年間1億円がかかるそうだ。自分たちの多額の税金が使われるので、施設が有効
的に使われるように責任を持って利用していく、提案していくことが必要である。
・駐車場も県が市に間借りしている状態なので、交流プラザ(西部パレット)に隣接する障害
者関連施設でもあっても駐車場は有料になりそうだ。県が市にかけあっているようだが、良
い返事は返ってきていない。
・ライブなどのイベントや、飲食や飲酒は可能なのか?「市街地のど真ん中」となれば、それ
を最大に生かした施設の使い方があると思います。NPO のための会議室でも良いですが、
「人
が集まる」仕様を考えていただければと思います。駐車場代を払うも払わないも利用の仕方
だと思います。定期的な会議では使いにくいでしょう。やはりフォーラムや大きな会議、ワ
ークショップ的な活用になるのでは?
・あまりにもいろいろな施設がいたる所にありすぎて、差別化が図れないし、使う側としても
分からない。インターネット上に施設の一覧や目的等を明記すれば良いかもしれない。
→県の NPO 推進室の方より、中部パレットについての説明
→駐車場は民間を利用いただいているが、
専用の駐車場があればいいかなと思うこともある。
県の交流プラザ(パレット)は市町村総務室(旧 地域振興室)が主管するが、静岡の中部パ
レットは NPO 推進室と同様の生活文化室が主管する。ボランティア・NPO の推進という命題
を持って設置しているので、オープンスペースで区切りなしのサロン形式をとっている。印
刷機は無料で予約なしの早いもの勝ち。今年中部パレットは民営化の方向で協議し始めた。
県内3ヶ所共に NPO・ボランティアの発展を期待し、情報提供機能なども備えた方がいいの
ではないかという部分も含め、利用法を考えている。利用者規定は市民活動に関るものであ
れば広く個人でも使えることになっているので、多分西部でも同じではないか?
今回の意見をまとめて、市民の声として県へ提出したいと思うので、他に意見がありましたら浜
松 NPO ネットワークセンターまでお寄せください。
最後に西部パレットは障害者支援施設を隣接し、
またその機能を一部もっているのですが、施設のハード部分を充実させてもユニバーサルデザイン
としては不充分で、ソフトの部分、例えば人的サポートが必要となると言われています。利用者一
人一人が障害者に手助けする気持ちが大切のようです。
2.浜松市まちづくりセンター(来春開設予定)
浜松市都市計画課の島津氏より説明
経緯: 今、東地区の区画整理事業を行っている地域(県の総合庁舎の南側)に建設中で、来年 4
月にオープン予定。計画段階から市民と話し合いながら運営のあり方等について考えていこ
うと、去年の 8 月に日本都市計画協会が中心となって都市計画キャラバンが開催された。4
月以降は、キャラバンに参加した人たちが中心になって「まちづくりの会」を結成し、もっ
と多くの市民に参加してもらおうと「広報はままつ」で呼びかけ、20 人で「まちづくりの研
究会」を設けた。
目的:センターの目的は「市民参加のまちづくりに向けて」となっていますが、市民が積極的に関
り行政と協力しながらまちづくりに取り組むことが大切と考えています。なぜセンターが必
要なのか?となると、住民側としても行政に対するニーズが多様化し、両者が協働しながら
やっていく必要があるということです。
行政と市民が協働して行わなければならないことは、
まちづくりセンターが間に入ってやっていけばいいのではないかと考えたのです。
運営方法: 市の直営にすると行政主導になりがちなので運営は財団法人に中立の立場で委託し運営
してもらう。具体的には現在の区画整備協会(区画整備事業を主にやっている所)=まちづ
くりのノウハウがある団体にソフトの部分を充実させてもった上で、まちづくりセンターの
管理運営を任せていきたい。まちづくりに関るいろいろな団体から専門家までの連携を図っ
ていきたい。
機能:センターの機能としては、各団体には印刷機などの事務機器や会議室などの提供も行ってい
く。再開発ビルの上部がマンション、3 階以下がまちづくりセンター関係となり、アフター
キャラバンで出された意見がレイアウトを含め随所(チャイルドコーナー)に生かされてい
る。市のHPの都市計画課のページにアフターキャラバンやまちづくり研究会のページがあ
るので関心のある方は読んでください。また意見のある方はお寄せください。
駐車場:駐車場の問題ですが、再開発ビルとして建設されるので行政独自の無料駐車場は無理で、
設備投資の関係から料金は頂かなければならない。1 回の利用につき幾らかの割引などとい
う意見も出ているが、皆さんもこれについて意見があればHP等を通じて出してください。
最後に一言:まちづくりというと「陳情」とか「要望」というものを考え、それをすれば済むんだ
と考える人がいるが、そうではなく、これは地域に住んでいる人の問題で、実際に市民自ら
がまちづくりを考えることが大切なのです。それがまちづくりセンターなんです。
これに関しじっくり討論する時間がありませんが、是非皆さんの意見をHPなどに出してくださ
い。これらの施設に関してはまだ知らない方が多いので、是非他の団体や知り合いに今日の情報を
お知らせください。
3.浜松市による NPO 講座の業務委託
経緯:今年度の市のNPO啓発事業としてNPO講座(10 月∼12 月、@50 人×5 回)が開催され
るわけですが、
その業務委託について市内24のNPO法人に呼びかけがありました。
N-Pocket
は昨年静岡県のNPO講座を県内他3団体との連携で受託し、
西部地区では 50 人もの多くの方
の参加がありました。そこから本当に多くの方が育ち自分の活動に役立ているのを見て、この
ような講座は続けていかなければと思っています。
業務委託対象の限定について提案:ただ残念なことにNPO法人だけがこの業務委託の対象になっ
ています。しかし市内には法人格はなくても、経験があり、このような講座開催ができる団体
があります。そこでN-Pocket としては是非他団体との協働で受託したいと考え、その方向で
市に提案しようと考えています。例えばNPO総論はN-Pocket が担当し、その後この地域の
課題をテーマとして取り上げ各団体が取り組む活動を全国的な視野でとらえ紹介していくよう
にしたらどうでしょうか?NPO を地域に知ってもらう、次の世代を育てる、これも市民活動の
環境整備の一つではないかと考えます。またこの講座に参加する市民だけでなく、企画運営し
た団体自身にも成長の機会になることも期待しています。N-Pocket まで参加希望をお寄せくだ
さい。
○ 第3部 次世代への種まき∼子どもたちの活動参加を考える∼
国際ボランティア年に際し、県の社協から西部地区のイベント開催の依頼がありました。しかし
ただ単にフェア的な市民団体紹介のお祭りだけにはしたくない。次の世代を育てるということで、
子どもたちが市内の団体の活動に実際に参加できるものを企画したい。子どもによる活動の企画・
開催についてどんなことができるのか、オープンスクールの小笹さんに子どもを巻き込んだ活動の
紹介をしていただきます。
(特非)浜松オープンスクール 代表 小笹貴道:当スクールが実際に取り組んでいることですが、
従来の大人が企画し子どもにやらせているという形をとらず、子ども自らが企画して「ここまでで
きるんだ!」
という自信を持たせる活動を不登校などの子どもたちと一緒にいろいろやっています。
子どもたちには強力なネットワークがあり、
例えばパー券やシンナーなど薬物の販売がそうですが、
そのような大人が作り出した不健全なものではなく、子どもたち自らが健全なネットワークをつく
り出しそれに対抗していく必要があるのです。浜松市内の子どもたちだけでそれができたらいいな
と思います。子どもが実行委員を組み主導して、大人は世話役的なかかわりです。当スクールでは、
同じようなやり方で新聞発行、イベントの企画などを行っています。そのようなものを国際ボラン
ティア年でもやれるのではないかと N-Pocket さんに提案しました。
是非皆さんもこれに参加して一
緒にやりましょう。
今日は大変盛りだくさんの内容で3時間にわたりお付き合いいただきました。環境を整えるとい
いましても、
行政に要請していくだけではなく、
市民としてできる取り組みがいろいろありました。
人を育てるということもその一つです。西部パレットやまちづくりセンター、NPO 講座、国際ボラ
ンティア年といろいろな呼びかけをさせていただき、今日は充分に話し合う場がありませんでした
が、N-Pocket までそれぞれに意見をお寄せいただければと思います。皆さん、ありがとうございま
した。
6.
【報告―岐阜】NPO基礎理解
6‐1.開催概要
日 時:平成 13 年7月 20 日(金・海の日) 13:00∼15:00
場 所:岐阜市文化センター
会 名:中部5県巡回フォーラム「市民活動を行いやすい環境づくり」
岐阜地区「市民活動・NPO 活動のいろは」
テーマ:NPO活動のいろは
講 師:岐阜NPOセンター代表 和田 信明 氏
6‐2.講師紹介
1950 年生まれ。1977 年フランス国立ストラスブール大学人文学部社会学科卒。1983 年フィリピ
ン情報センター名古屋設立。1993 年サンガムの会(現ソムニード・サンガム)を設立し、代表兼海
外プロジェクトを担当。2000 年外務省-NGO 協働評価団団長としてラオスを訪問。同年、ソムニード・
サンガム代表理事兼海外プロジェクト担当、同じく同年、ぎふNPOセンターの代表を務める。そ
の他、訳書にはロペールジョラン著『白い平和』現代企画室、論文には『医の文化人類学』など多
数著している。
6‐3.講演内容要旨
1.NPOになるにはどうしたらよいですか
「NPOになるにはどうしたらよいですか」という質問をよく受けます。これについては「NP
O法人になるにはどうしたらよいですか」と勝手に解釈して答えています。そもそもNPOという
のは法人ではありません。NPO(Non Profit Organizasion)とは非営利団体という意味で、主体的
に公益に関わる活動をしている団体、街のため高齢者のためなど普段から何らかの活動をしている
団体は立派なNPOです。世の中には「NPO=NPO法人」と解釈している方が多いと思われま
す。法人格を取得するのはあくまで、目的の実現のためであり、これはNPO法で規定されていま
す。
2.特定非営利活動促進法(NPO法)とは?
「特定非営利活動促進法(NPO法)
」は、1998 年3月に成立し、同年 12 月に施行されました。
それによってボランティア活動をしたいと考えていた団体が、この法律に基づき法人格の認証の申
請を始めました。
現在、
全国で約 4,000 以上の団体がこの法律に基づいて法人格を取得しています。
この法律は、
「12 の分野でカバーされる特定非営利活動を行う団体に法人格を付与すること等によ
り、ボランティア活動をはじめとする市民が行う自由な社会貢献活動としての特定非営利活動の健
全な発展を促進し、もって公益の増進に寄与することを目的」としています。
3.「特定非営利活動」とはどのようなものか。
「特定非営利活動促進法」における特定非営利活動とは、条文の別表にある 12 分野です。この
12 分野以外の活動をしている団体は、残念ながらこの法律の適用外です。この法律の審議の課程で、
12 番目の「前各号に掲げる活動を行う団体の運営または活動に関する連絡、助言または援助の活動」
については様々な議論がされました。これによってぎふNPOセンターのようなサポート型の団体
が認められることになりました。このような活動を職業としている団体も範囲に入るし、無償でや
っている団体も範囲に入っています。つまり給与は取っても取らなくでも良いということです。
4.サービスの対象が会員に限定されている団体はNPO法人になれないのか。
ここで「公益」とは何かという問題が出てきます。会員のみ提供するサービスは公益とは言いま
せん。例えば生協は公益ではなく「共益」活動といいます。組合員に対しては品物を販売したりサ
ービスを行うが、基本的に組合員以外の人にはサービスの提供を行いません。公益とは、不特定多
数を相手にするサービスのことを言います。ある一定地域あるいは一定の身分を有するもの以外に
はサービスを提供しないということでは公益になりません。実際にできるかどうかはともかく、す
べての人を対象にサービスを提供します、というスタンスが必要です。ただし、主体事業ではなく
従属事業であれば、会員に対するサービスを行うことは可能です。
5.「特定非営利活動」以外の活動をしてはいけないのか。
これについても、内容によります。先ほどのように主と従ということになります。あまり 12 分野
以外の活動を活発にやっている場合は、認証申請の段階で所轄官庁と相談した方がよいと思われま
す。
6.営利を目的にしないとはどのようなことか。
営利活動にしろ非営利活動にしろ、活動を行うには経費がかかります。ここで重要なことは、活
動の継続性ということです。一過性のイベントであればともかく、継続性を確保するには活動資金
を確保しなければなりませんが、非営利団体は収益がでる活動をしていいのかという質問が寄せら
れます。営利とは何を指すのでしょうか。
「活動により収益があがりました。これを団体を構成する
人で分けましょう」と言った段階で営利活動になります。例えば株式には配当が付きます。これは
剰余金の分配であり営利活動です。この点で悩んでいらっしゃる方が多いと思いますが、収益をあ
げることは構いません。むしろ活動の自立性や継続性を確保するためも、資金を潤沢に持っていた
方が、世間の大波小波で影響を受けることも少なく、良いと思います。その意味でも適正な会計処
理が必要となります。
7.会計処理のルールはあるのか。
法人格を取得するか、任意で活動を行うかはその団体の社会的責任や質を問うことにつきます。
法人になると収支は予算計画に基づいて行うことが義務づけられます。団体の予算は世間に公表す
るもので、透明性が求められ、結果に対して責任とる必要があります。会計の方法は複式・単式で
もかまいませんが、会計担当者は普段から会計簿をつけ、財産目録、貸借対照表、収支計算書等の
作成が必要になります。そして年度末には収支決算書を作成し、これらを所轄官庁へ報告する義務
があります。
8.なぜ法人格の取得をおこなうか。
これについてよく相談を受けます。このような責任ばかりで、何か得をすることがあるのか…。
それだけ社会の期待が大きいということです。これからの社会を動かしていくためのNPOである
からこそ、責任や透明性を確保していかなければなりません。法人格を取得すると行政から事業委
託が受けられそうという甘い考えで法人格の取得を目指す人を見受けますが、事業計画や予算を立
てるのに四苦八苦されています。そもそも事業委託をするかどうかは、その団体の能力によるもの
であり、法人格の有無で事業委託をするかを決めるというのは、行政の方の認識不足です。いくら
お金が集まるか分からない、
あるいは年間の予算が 50 万円くらいの団体が法人格を所得するのは大
変です。計画性を持って見極めてやらなければなりません。
9.収益事業を行っている団体はNPO法人の認証はとれないのか。
例えば、パソコン教室を開講している団体が、パソコン教室はそのまま残して、NPO法人の認
証はとれるか、ということです。もし、大手のパソコン教室のようなものにするのであればNPO
法人ではなく株式会社にすればよいと思います。しかし、高齢者や障害者のためのPC教室を包括
的にやりたい、あるいはNPOのIT化の為に役立てたいということであれば、話は別です。ここ
が特定非営利活動促進法の柔軟で重要なところです。収益事業を行うこと自体の規制はありません
が、事業を定款に明記するということが必要です。これに私たちの団体はどういう団体かを書きま
す。
10.税務上の問題について
税務上の措置に関しては未解決でこれからの問題です。特定非営利活動促進法が成立したのは
1998 年で、せいぜい2年程しか経っていない。まだ国民総生産に占める割合は問題にならないほど
小さいものです。しかしこれからは注目されることになると思います。
11.営利・非営利を明確にすることが重要
草の根で社会貢献活動をしているところは手弁当でやっているところが多いと思われます。給与
なんか取れるような状況ではないと思います。日本人が行う事業の特徴かもしれませんが、自分た
ちのコストを考えない傾向があります。普段は収益があがらない事業であっても、社会情勢の変化
で収益をあがったとき、収入の大部分が利益になってしまいます。意識が薄いのは人件費、手弁当
の部分です。自分自身の再生産するための人件費が抜けています。冷静に客観的に見てどれくらい
コストがかかっているか、個人の善意をお金に換算することはいやらしいと考える方もいらっしゃ
るが、一過性のイベントではなく、事業を継続する場合は、これは考えておくべきです。
○ 質疑応答
Q:私は神楽保存会の活動をしていますが、学ぶ人が少なくなり、後継者がいません。その中で収
益事業化や法人化なども検討して今後につなげていきたいと考えています。また、資金援助の受け
方についても教えてください。
A:神楽保存会の活動は促進法上の分類では「文化・芸術又はスポーツの振興を図る活動」あるい
は子どもが関わることでの「子どもの健全育成を図る活動」
、
「社会教育の促進を図る活動」に当た
ると思われます。このような活動に対して行政や民間も含めて様々な機関が助成しており、これを
活用するというのが、一番手早い資金獲得法です。しかし「いくらかかるんだけど、くれませんか」
では助成金はもらえません。助成金にしろ補助金にしろ、資金計画や収支、事業計画を書類のかた
ちで提出しないと、申し込み自体ができません。このように資金調達するにも年間予算や会計書が
重要になってきます。これらについても公平な競争原理の中で公募したところに支給されるように
なります。そういう意味で自分たちの思いこみではなく、ほかの人たちを納得させられる活動か、
客観的に見直すためという意味でも実にいい機会だと思います。
Q:NPOという組織と赤十字という組織の違いは?
A:赤十字もNPOです。普通NPOと言うと民間団体を指すように思われるが、広義では社団法
人や財団法人もNPOの一種です。またボーイスカウト、青年団、青年会議所もNPOです。NP
Oとは非営利団体すべてを指します。
Q:NPO活動に参加したいと考えているが、どうしたらよいですか。
A:活動の内容によって違いますが、赤十字を例にすると、寄付をして社員書を貰うということも
立派な活動です。町内会の活動をすることも立派な活動です。いままでは意識していなかっただけ
です。そのほか、岐阜には 3,000 を超える団体がありますので、NPO活動に参加したいというこ
とであれば、是非センターにご相談ください。
Q:NPO法人になっても収益活動ができるということですが、収益処分の方法は?
A:基本的にはNPO法人の活動の継続性を確保するために、翌年の活動に繰り越すこととなりま
す。また、営利部門及び非営利部門で会計を別立てにしなければなりません。
Q:初めはボランティアというつもりで活動していたが、お礼としてのものやお金を頂く機会が多
く、それらをプールしています。しかし、それらが多くなると人間関係が悪くなりました。またこ
の扱いを明文化すると更に人間関係が悪化するような気がしますが、どうしたらよいでしょうか。
A:たとえば、講師謝金は個人に出ます。その処理に関しては個人の判断で、私の場合は、謝金は
NPOセンターに寄付しており、センターは寄付金として処理しています。団体としてこれだけ頂
きますということであれば事業収入に当たり、そのつもりでなかったにも関わらず貰ってしまった
場合は寄付金として処理します。沢山貰ったからといって分配すると営利事業に該当するが、一定
労働の対価として賃金を支払うことは可能です。幾ら払うかは各団体が決めておくことです。法人
格を取るということはそういうことです。
7.まとめ −中部5県巡回フォーラムを終えて
各地域のタイトルをざっと眺めると、その地域で一番活発に取り組まれている、あるいは関心が
高いテーマ等、その地域の状況を象徴する課題や切り口が見事に一望できる結果となった。実際、
筆者はすべての地域を巡回したが、その地域のリアリティをかなりヴィヴィッドに感じることがで
きた。愛知では、行政とNPOとの事業委託が意味する協働の本質的なあり方、長野では地域通貨
をツールとしたこれからの地域社会像、三重では、市民活動への資金の流れを社会の仕組みとして
創ることによる新しい市民社会の姿の提示、が活発に議論された。また、静岡では、基礎自治体単
位での各分野からの現場の取組みと行政の取組みの二つを相対して提示することにより、その役割
を議論した。最後の岐阜では、NPOの基礎理解を進める趣旨から、基本的なNPO法人に関する
概要説明がなされた。
「市民活動を行ないやすい環境づくり」というテーマから、いかに多くのテーマがあるか、また
それらのテーマはいかに多くの分野・範囲・主体と多様に関連しあっているか、また、それらには
いろいろな光の当て方があり、
その論点も答えも多種多様であることを改めて実感した次第である。
その多様性の豊かさこそが、市民活動の基盤を成し得るものでもあり、こういった議論の場を設定
できる担い手として、中間支援組織の役割があるとすれば、その存在の重要性をも再確認できる場
となったように思う。
加えて、各現場に足を運び、そこの空気を実感し、人と出会う、そして中部地域全体を見渡す、
という一連の経験をさせてもらったコーディネーターの立場から言えば、人材育成の観点からも、
貢献が可能な事業であったと感謝したい。
最後に、本事業実施の機会を与えていただいたまちづくり市民財団評議員服部氏、多忙な日々の
なか、各地域での開催に尽力していただいた長野県NPOセンター事務局長市川氏、市民活動資金
サポートシステム研究会代表酒谷氏、浜松NPOネットワークセンター事務局長佐藤氏、ぎふNP
Oセンター事務局原氏に、厚く御礼申し上げる次第である。
※ 本報告書の各地域からの報告部分については、上記各氏よりご報告頂いた原稿を
元に、筆者が編集したものである。
平成14年度 研究交流事業報告
九州・沖縄5県巡回NPOフォーラム∼NPOの息づく社会づくり∼
代表執筆 上土井章仁
NPOくまもと 代表理事
1.九州・沖縄5県巡回NPOフォーラムの概要
全国で「市民参加によるまちづくり」がさまざまに模索され、実践されています。そのなかでも、
最近、市民活動団体をはじめとするNPOの活躍が、市民社会へと続く道を大きくひらきつつありま
す。ようやく日本という社会でも、社会を構成する主役は「行政」と「企業」だけではなく、もうひ
とつの公共を担う存在として、「NPO」があることが認識されるようになってきたと思います。こ
のNPOが社会でしっかりと位置づけられることが本当に重要であると考えます。しかし、企業や行
政に比べて、NPOは社会で十分に活躍できる状態にはなっていません。社会全体としてNPOが活
動しやすい環境を整えていくことによって、芽を出し、根を張り、成長し、成熟していくものと思い
ます。
そのような考えから、財団法人まちづくり市民財団では、全国各地での「市民参加によるまちづ
くり」を進めるため、
「市民活動を行いやすい環境づくり」というメインテーマで、一昨年の東北地
区5ヶ所・中国地区5ヶ所、昨年の中部地区5ヶ所で開催してまいりました。
今年は、財団法人まちづくり市民財団の助成窓口を特定非営利活動法人NPOくまもとにして戴
き、下記企画内容にて、九州・沖縄地区の5ヶ所で「九州・沖縄巡回NPOフォーラム」を開催させ
て戴きました。このフォーラムを通して、九州・沖縄各地の取り組みやアイデアを明らかにしてい
ただき、
「地域でのまちづくり」=「地域からの国づくり」を応援させていただきました。それぞれ
の地域事情と照らし合わせながら、地域の智恵を発信していくという趣旨に鑑み、各地域の中間支
援団体が「NPOが息づく社会づくり」というテーマに基づき、自由に企画立案をおこない、現地
での開催に係る全ての事務をおこなって戴きました。各地の開催の模様を報告させて戴きます。
■ 開催案内(本事業案内パンフレットより抜粋)
近年、環境・福祉・まちづくり等さまざまな「NPO;民間非営利活動組織」の活躍が多くの関心
を集めています。しかしながら、NPOは、企業や行政と比べると、十分に活躍できる社会環境
にないのが現状です。そこで、NPOがもうひとつの「公共」を担う存在として活躍する社会を展
望すべく、このフォーラムを企画しました。
“NPOが息づく社会”とはどんなものなのか、また、
そのような社会を作るには私たち市民一人一人はどう取り組んでいけばよいのか・・・「九州・沖
縄」というフィールドで、一緒に考え、描きましょう。
開催実績一覧
日 時
会 場
テーマ(簡単な内容等)
主催団体
6/1 土
くまもと
「ボランティアとNPO∼私にもできることが
特定非営利活動法
熊
14:00-
県民交流
きっとある」基調講演/活動事例発表/会場参加 人NPOくまもと
本
16:45
会館
「パレ 者事例 ①NPO法人ともにある会、②NPO法
ア」
人熊本健康支援隊
6/8 土
市民活動
「市民が動けば、まちが息づく」行政・企業・N 特定非営利活動法
佐
14:00-
プラザ
POによる鼎談/活動事例発表
賀
17:30
人さが市民活動サ
ポートセンター
6/15 土
那覇市久
「NPOが根付いた市民社会とは!」
那覇市NPO活動
沖
14:00-
茂地公民
事例発表 ①沖縄ハンズオンNPO②おきなわ
支援センター
縄
16:00
館ホール
CAPセンター③沖縄県難病支援センターアン
ビシャス/質疑と発表者の補足説明
6/22 土
福岡市立
基調講演/「NPOは21世紀のフロンティアな 特定非営利活動法
福
14:00-
博多小学
るか?」 講座/「NPO法人のつくりかた」
岡
16:45
校
「表現の プレゼンテーション/「NPOが拓く社会像」
人ふくおかNPO
センター
舞台」
特定非営利活動法
6/29 土
宮崎県福
「人にやさしい福祉のまちづくり/共生・共感・
宮
14:00-
祉総合セ
共動」人にやさしいまちづくりコンサート「みん 人宮崎県ボランテ
崎
16:30
ンター
な元気にな∼れ」/事例発表/事例発表者との全 ィア協会
体討論会
2.
【報告―熊本】
「ボランティアとNPO∼私にもできることがきっとある」
2-1.開催概要
テーマ:
「ボランティアとNPO∼私にもできることがきっとある」
目 的:私たちの日々の生活は、知らず知らずのうちにボランティアと接したり参加しています。
このセミナーでは、私たち市民が、ボランティアとしていかに社会と関わっているのか、
ボランティアとして社会に参加する楽しさを見つめてみます。そして、ボランティアの実
践をしているNPOの事例発表を通して、私たちがボランティアとしてNPOへ関わる楽
しさを発見して戴こうと思います。
日 時:2002 年 6 月 1 日(土) 14:00∼16:45
会 場:くまもと県民交流会館「パレア」 第1会議室
参加者:計 70 名
講 師:古賀 倫嗣氏(熊本大学教育学部教授)
事例発表者:松村 忠彦氏(特定非営利活動法人ともにある会 理事長)
、佐藤名ゝ美氏(特定非営
利活動法人熊本健康支援隊 専務理事)
2-2.パネリスト等の略歴
古賀倫嗣:1953年生まれ。熊本大学教育学部教授。熊本・福岡・佐賀・長崎県下で、多数、市
町村総合計画、高齢者保健福祉計画、児童育成プラン、生涯学習(社会教育)基本構想
などの策定委員、専門委員を務めるほか、生涯学習・女性問題に関する講演やシンポジ
ウムのコーディネーターを務めている。著書としては「現代の地域と政策(九州大学出
版会)
」
「旧産炭地の都市問題(多賀出版)
」
「負けても勝ち(熊日情報文化センター)
」な
ど多数。
松村忠彦:1943年生まれ。特定非営利活動法人ともにある会 理事長。学生時代より今日まで知
的障害者支援団体熊本市手をつなぐ育成会が主催する青年教室に携っている。また初任
以来、熊本大学教育学部附属養護学校に勤務し、生徒や卒業生の社会的自立を目指して
いる。熊本市障害者生活支援センター青空運営委員。
佐藤名ゝ美:1970年生まれ。特定非営利活動法人熊本健康支援隊 専務理事。ファイナンシャ
ルプランナー。9歳より空手道を始め、高校時代はインターハイ・国体に熊本県代表と
して出場。全日本空手道連盟公認3段。C級スポーツ指導員。
2-3.フォーラム要旨
○ 基調講演 古賀倫嗣氏(熊本大学教育学部教授)
今日は「ボランティアからNPOへ」という考え方の変化について話します。市民活動のことをN
POと言い、行政と違った市民が持っている公共の考え方が、もう1つの公共と考えてみたいと思
います。
1995年はボランティアでは阪神・淡路大震災、男女共同参画では中国の北京における世界女
性会議、オウム真理教、人間らしい生き方や自己決定できる生き方とはどの様な事なのかを問われ
たのが1995年です。ボランティアという共通の認識を生み出しました。ボランティアは自由意
志ですが社会奉仕は社会的に強制されている点であり、奉仕には上下関係が入っており対等な関係
を否定しているので、
社会奉仕という言葉は私達は使わずにボランティアを使うようになりました。
現在、
「ボランティア活動が社会にとって不可欠の維持条件になる社会」であり、ボランティア無
しでは、私達の社会は維持できなくなってきます。これを、私達が担う事によって「自立した個人」
による主体的なコミュニティ自治の社会こそが NPO が息づく社会づくりという事です。1人1人の
市民が自分の自治として社会を作っていく、そのあり方の実験がNPOだと考えています。
ボランティア活動というのはあくまで個人の活動でしたが、NPOというのは、新しい働き方で
あり新しい企業の取り組みであり市民の組織活動です。その組織が経済的な価値も含めてどれだけ
の社会的に有用な価値を生むのかということです。
「日本型ボランティア」から「市民活動」への変
化してきています。
NPOの基本的な考え方をお話します。まず、定款が必要です。約束をする事によって、皆が共
通の活動の基盤を作るわけです。つぎに、出発点において一番大切なものがミッション(社会的使
命)です。ミッションとは社会的に私達が取り組まなくてはならない課題や目的です。また、公益
活動であることです。公の主体である市民の利益であって、行政の利益ではない事の確認が大切で
す。もうひとつ民間の組織であることです。市民による自発的な市民活動、かつ行政のコントロー
ル下にないという意味です。また、
「非営利」であることです。稼いだ収益を分配するのではなくて、
公益活動の事業資金として運用するという事です。NPOと言うのは法人化しているかいないかは
関係ありません。自主的な市民組織活動であるかどうかが重要です。
NPOの組織化のプロセスについてです。まず1番始めは、皆さんの思いを言葉にする事です。
その時にその趣意とか組織の目的にミッションが無ければならない。そして次に、グループ内の役
割分担が必要です。役割分担する事によって組織の事業の規模が広がってきます。そして、その中
でミッションの明確化が進んできます。始めは情熱です。そして、実際に市民活動をする時には、
運動型なのか事業型なのかという事です。
法人化をする場合、法人化を行ってどういった社会を作り出していくのか。自分達の活動を法人
化するのことによって、どういった目標を達成していくのかというビジョンの提示が必要です。法
人化のメリットを生かしていくには、情報公開が不可欠です。
NPOが息づく社会とは何か。分権社会と市民自治だと思っています。分権社会とは、自己決定・
自己責任が可能なシステムというです。自己決定して自分がやった結果、何か問題が起きたなら責
任を問うのは自分自身です。NPO団体もそうです。問題が出てきたならば、理事長や会長が責任
をとるのではなくて、それを支えている皆が、自己責任をとるような仕組が、分権社会と呼んでい
いと思います。そして、市民と行政のパートナーシップです。パートナーシップとは、お互いが固
有の役割を果たしているという認識が必要です。NPOは行政ができない仕事しており、市民は行
政のできない仕事をしている、お互い固有の役割で、かけがいのない役割がお互いにあるというこ
とです。
私たちの周りにやらなければならない仕事、やると楽しい仕事がたくさんあります。それをきち
んと見出すためには、NPO事業ということが重要になってくるわけです。
○ 事例発表① 松村忠彦氏(特定非営利活動法人ともにある会 理事長)
15年前、知的障害者の卒業生を約10人雇用して、福祉工場を作る方針で準備を進めていた会
社が、倒産、全員解雇という出来事があり、各方面の方々のご協力で、子どもたちは、新しい仕事
に就く事ができました。
いろんな立場の関係者が集まったのだから、
子供達の頑張りを生かす為に、
アフターケアを勉強する会を作りました。数年後、障害のある人やそのご家族の相談を受ける「希
望荘ふれあい総合相談」が始まりました。これが「ともにある会」のスタートでした。
「ふれあい相談」をする際、障害に基づく相談であれば、どんな相談にも対応できるようにしよ
うということで、保健婦さん・お医者さん・弁護士さん・税理士さんというスタッフも増やしまし
た。さらに労働行政や福祉行政の方、社会福祉協議会や知的障害者を支援する親の会、身体障害者
の代表の方にも入って頂きました。これにより、当事者の悩みが率直に聞けるような組織が出来ま
した。現在、障害のある方に携わっている人24名が毎週日曜、相談を受けています。私が担当し
ている内容で事例が多いのは、障害者が働く場所の確保の相談です。今の世の中はリストラなど厳
しい状態になってきていますが、その厳しさは、障害者に一番に出てきているように思います。
「輝
き続ける生き方を求めて」という本を作りました。福祉 Q&A の中でできるだけ知ってもらいたい社
会資源をまとめたものです。この本は、福祉制度が大きく変りつつある中で、障害がある方の願っ
ている事が分かるような内容にしました。相談の中で、一番気をつけているのはプライバシーの保
護です。プライバシーの保護を考えて安心して相談に来てもらえる相談に、また障害があっても、
社会に参加していきたいと努力している人たちを支援できるような相談にしていきたいと思います。
今後は、知的障害のある人の3級ヘルパー養成事業を計画中です。
「ともにある会」は、ハンディ
がある方達が、社会に参加できるように、一人ひとりの方が自己発揮でき、皆の為に社会貢献でき、
それが認められるような人生を送ってもらえるように支援をしていきたいと思います。
○ 事例発表② 佐藤名ゝ美氏(特定非営利活動法人熊本健康支援隊 専務理事)
熊本健康支援隊の活動の中心というのは空手教室です。私は小学校3年生の時から、空手をはじ
め、空手が好きで続けてきたわけですが、子供達にそれを伝えていければという気持ちで運営して
いる会です。
その中に、
NPOに好感を持っているという状況でNPOをやろうかという感じです。
大きな社会問題と戦うといった事でもなく、NPOを運営し始めてから色々な問題というものを知
って、なにか少しでも出来ればいいということを発見しつつあります。
会員が約130名いまして、普段は日曜以外市内の至る所で子供達に空手教室を開いています。
今は、市内7ヶ所、全員で約130名の会員の元に指導しています。子供達を指導していて子ども
たちの育つ環境が見えてきます。親の教育とまではいかないですけど、親の方に子供と一緒に参加
してもらいたいと、最近強く思っています。
会員の中に、ADHDの子供がおられます。特別視するのではなく、少し特別な配慮がいること、
少し理解がいる子供が皆の中で普通に活動できる様なことを団体で活動をしていきたいという気持
ちが最近芽生えてきています。これは、会の運営はスポーツ文化振興が柱ではじめましたが後から
いろいろな発想が出てきました。今まで入って来これなかった子供が入って来られるような状況を
作る事を今後の課題としていきたいと思っています。
NPOと営利企業の事を最近良く考えます。運営していく上では、資金がないと公益というのが
まっとうできないと最近強く思います。株式会社の場合は出資をして頂いた方に利益を配当します
が、NPOの資金を出す場合はその仕事が成功する事によって、お金ではない利益が生みだされる
事に、心を打たれました。NPOとは形ではなくてどういった思いで取り組んでいるのかというの
ではないのかなと思っています。
熊本健康支援隊は空手が好きで集まった仲間が子供達と一緒に遊んで、時には空手だけではなく
て遊んだりしてやってきています。その中で将来的に私達の周りに集まってきた子供達がまたいつ
の日か大人になった時に、今やっている事が楽しかったなとか、自分達もそういったことをしよう
など、いまやっている事がつながっていくと嬉しいなと思います。学校時代に部活動の指導をして
くださった先生もきっとNPOだったのだと思います。
○ 会場参加者事例交換会
特定非営利活動法人熊本アマチュア無線日中友好推進の会 田中好人理事長:私は、熊本では「熊
本アマチュア無線日中友好推進の会」
、佐賀ではNPO法人第1号「北方アマチュア無線国際
交流協会」作っています。アマチュア無線で外国と交流を目的に設立しましたが、環境保全
や里山保全定款に追加しました。NPOを作りながら災害救援と同時に環境保全の一環とし
て活動しています。
特定非営利活動法人日本国際童謡館 高田事務局長:NPOのノンプロフィトに関しては、病院経
営や県人会やゲートボールのグループがノンプロフィットでやっている等アメリカで教えて
もらいました。ノンプロフィットはお金は稼いでいい、ただし、それを出資した人たちに分
配してはいけないという所で、共通認識をもちNPO法人になりました。特定非営利活動法
人はお金は必要ということと、営利団体・非営利活動法人の違いを小さい子供から年配の方
まで分かっていただくと気分的に楽になるのではないのかなと思っています。
熊本県ボランティア推進班 松永祐一氏:非営利とは剰余金をメンバーの間で分配しないことです。
翌年の本来の社会貢献的な活動(特定非営利活動)に繰り越して本来の事業としてまた使っ
てくださいということです。収益事業というのは本来の活動とは全く関係ない事業ですが認
められています。
佐賀市より参加 小津真知子さん:NPOという言葉は知っていますが、中身はよく分かっていな
かったので勉強したいと思ってきました。
天明水の会 浜辺会長:実は昨年から水産庁の事業をいただきまして、5年間の継続事業で「漁民
の森活動推進事業」というのをうけました。実はうちは民間団体なので、国からは直にはこ
ないで、熊本県魚連を通してから来ます。ということは、まだまだ認められた団体ではない
のではなかろうかと思っています。私達は一昨年前からNPO法人を取りなさいとしきりに
言われています。
熊本市観光物産課 池田係長:観光の事業として昨年実態調査をするにあたって、全国でも例のな
い入札の中でNPOくまもとに事業を実施していただきました。熊本のことをよく知ってい
るということと、NPO活動をされている方々達の連携をはかる組織であるという点から期
待していました。半年間お付き合いをさせていただきまして、普通の企業が実施するような
調査の内容とは異なる、我々としても違う視点から仕事ができ、NPOだからできたという
結果が確かに出たと思います。熊本ということを全国にアピールできるきっかけとなる調査
ができたと思っています。
八代市母子寡婦福祉会:私たちの会は、それぞれが仕事をもっていて互いに助け合いってというよ
うな動きをしたいけれどもできない、これをどうにか自分たちの仕事になって、互いに助け
合いができて幅を広げていけないだろうかと、去年・一昨年から他の県で活発に動いていら
っしゃる方たちの所に研修にいったりしています。その中でNPOのことを聞き、きちんと
した形でできないだろうかと考えています。
○ 事例の総括 古賀倫嗣氏(熊本大学教育学部教授)
2つのNPO団体からの事例報告の共通点は 4 つ有りました。一つめは、いずれも子どもを対象
とした活動であったという共通点です。子どもを対象とした活動は、次の担い手を育てていく事が
できます。2つめは、行政がリーダー育成や研修という役割を果たしている施設活用されて、行政
の励ましにより、次のサークルを大きくされたというのが非常に印象に残りました。3つめは、行
政サービスの隙間にあってかつ重要な仕事です。いずれもが行政サービスの隙間社会的なミッショ
ンがきちんとある所に取り組まれているなと思いました。そして、最後になりますが、最も大切な
ことなのですが、2つの団体とも今後の課題をきちんと見据えられていたということです。
3.
【報告―佐賀】
「市民が動けば、まちが息づく」
3-1.開催概要
テーマ:
「市民が動けば、まちが息づく」
目 的:佐賀市がNTTと共同で建てた i スクエアビルは 3、4F に市民活動の拠点として「市民活
動プラザ」を設置。公設市民営・官民共同体として新しい風を吹かせようとの想いで取り
組んでいる。行政・NPO・起業家が自らの立場を明確にし、何がしたいのかとの思いを
出し合い、創り上げることについて語り合う。このことを背景に、市民活動はどんな形で
佐賀市のこれからの「まちづくり」に貢献できるのか?一翼を担えるのか?を佐賀市を中
心に実動している異分野のNPOの活動事例から探る。
日 時:2002年6月 8 日(土) 14:00 ∼ 17:30
会 場:市民活動プラザ 5F
参加者:計 93 名
3-2. スピーカーの略歴
山口 裕:
(やまぐちひろし)1958(昭和33)年生まれ。43歳。昭和58年4月佐賀市役所
に就職。保健体育課(現在の市民スポーツ課)を皮切りに資産税課・産業技術情報セン
ター・財政課・社会福祉課・市民生活課を経験。平成11年12月からボランティア・
市民活動担当としてこの業界(?)に携わり、4月1日から総務課市民活動推進係長と
して、iスクエアビル4Fで市民や運営NPOの方々と毎日楽しく仕事をしている。趣
味は、サーフィン・トライアスロン、献血(骨髄バンクにも登録している)
。高校時代か
ら始めた水球を通して青少年の健全育成とスポーツの振興を図ることを目的とした佐賀
ジュニア水球クラブを設立。代表を務める。現在興味があることは、障害者の社会参加
(次男がダウン症なのでその就労に絡めて)及びワークシェアリング(人として望まし
いライフスタイルの追求という観点から)
弟子丸雅理:
(でしまるまさり)クリックビー 企画担当 e でしょ!saga 編集長。佐賀市在住。福
岡女学院短期大学英語科卒業後、富士通オフィス機器(株)でインストラクターとして
県内で講習会等を行う。その後、市内印刷会社にて情報誌の取材・編集を担当。2000 年
5月女性のためのインタネットマガジン「クリックビート」を立ち上げ、2001 年秋より
佐賀県内のお店を中心にした情報誌「e でしょ!saga」もインターネットと紙媒体セッ
トで展開中。URL:http://www.clickbeat.net
URL:http://www.esaga.jp/
宮本一彦:
(みやもとかずひこ)NPO法人 さが市民活動サポートセンター 理事長。平成11年
3月に20年近くの会社勤めにピリオードを打ち、準備期間を経て、平成12年8月 NPO
法人「さがさぽーと」設立、同10月介護保険での「訪問入浴介護」事業開始、昨年1
0月より「居宅介護支援」事業を併設。介護保険の要介護者の方々に対しての在宅福祉
サービス提供を主に活動。会社勤め当時の「市民活動」は、佐賀市一斉美化活動(駅周
辺のゴミ拾い)
や町内の運動会に駆り出される程度のもので、
全く縁の無いものだった。
今思えば、市民活動の仲間に入りたくてもその情報や活動内容を知る術はなかった。縁
がなかった人間が、今、大きな縁に巡り合い活動している。平成14年4月、同法人の
理事長となり「市民活動プラザ」の運営を佐賀市から受託し、市民活動の核となるよう
な場所作りに邁進している。各団体・個人で幅広く活動されている市民の方々(含むボ
ランティア活動)の支援、活動のきっかけを逃した理由を解消してくれる役割も担える
と思っている。
3-3.フォーラム要旨
○ 第1部トーク (スピーカー:山口 裕様、弟子丸 雅理様、宮本 一彦)
宮本:今まで佐賀市には多くの団体が集まる場所を探すのも苦労だった。情報交換の場や市民への
活動紹介の場も欲しかった。この「市民活動プラザ」が出来て、すでに活動を始めている者、
これから考えていく者、
「市民活動ってなんだ」と思っている者など様々ではあるが、5 月末
現在、1000 人以上の利用があっている。そして、その活動を支えるためにボランティアをし
たいという人が 60 名以上も登録し、スタッフとして活動している。
山口:行政はNPOとのパートナーシップを模索している段階。NPOが具体案を出し、行政と協
働してほしい。
「やりましょう」という提案型があればやりやすい。
宮本:協働という言葉は行政の補完的な機関に NPO がなってくれという感じがする。自分たちは「こ
ういう活動がしたい」という理念があるからやっている。私は「さが市民活動サポートセンタ
ー」の運営理事長とともにNPO法人として介護事業を行っている。
仕事への充実感は以前と
比べものにならない。
日本の企業は社会貢献を行うという世界の流れから大きく遅れている。
弟子丸:社会貢献を行いたいということが起業の出発点だった。地元のネットワークを築き、コミ
ュニケーションをつくる中から市民にとって本当に必要な情報を提供していきたい。
まとめ:NPOの抱える問題は、活動継続の難しさ、資金力の弱さなどがある。市民のニーズを汲
み、独善的にならず、地域社会(行政・企業・市民)と連携しながら楽しんで活動すること
が継続の秘訣であり、また資金力をつける基にもなる。
○第2部 事例発表
事例①ボランティア団体銀河クラブ蓮尾和敏さん:
「市民活動プラザ」を使い、視覚障害者同士で音
声パソコン教室を開いている。メール・文章を書くことやインターネット利用方法習得を目
的としている。
世界が広がった。
障害者は障害という能力をもって社会貢献が出来るはずだ。
生活をより豊かにするためにも、障害のあるなしにかかわらず、人とのつながりを求めてこ
の教室を続けて行きたい。
事例②NPOふくしさとづくりの会陣内計江さん:これまでの作業所は家族会による運営が主流で、
ボランティアという形式は少なかった。仕事の役割を分けることで障害者が一人で仕事を出
来ることを痛感。その環境を構築するとともに、作業でなく仕事にしていくシステム作りで
自立の支援を行っている。
事例③NPO地球市民の会大野博之さん:国際理解・交流・協力、提言活動の国際ボランティアを
主な活動としている。具体的にはタイへの奨学金や高校生の交流、外国人のホームスティを
実施している。海外の人を助けることが回りまわって自分たちを助けることになるとの理念
で活動を続けている。
事例④NPO県糖尿病協会久野建夫さん:糖尿病は60歳以上の 3 割がかかり、県内に 4 万人の患
者がいるという。患者、家族、医療関係者、ボランティアでNPOをつくり、正しい知識の
普及、発病前の防止活動に力を入れている。きめ細かい予防啓発をNPOが引き受け、互い
の情報交換、啓発イベント、人材育成を行っている。
4.
【報告―沖縄】
「NPOが根付いた市民社会とは!」
4-1.開催概要
テーマ:
「NPOが根付いた市民社会とは!」
目 的:市民が主役となって、柔軟できめの細かな活動を展開するNPOは、新しい市民社会を多
彩にデザインしていく「市民社会のデザイナー」といえるでしょう。このたび那覇市NP
O活動支援センターは、NPO法人NPOくまもと及び財団法人まちづくり市民財団との
共催でNPOフォーラム「NPOが根付いた市民社会とは」を開催し、NPOの活動事例
を通して「地域との関わりによるまちづくり」を話し合います。また、このフォーラムで
は、NPOの活動に関わる方、関心のある人々が活動分野、地域、世代を超えて集まり、
NPOの可能性と社会的役割について認識を深めるとともに、NPOの活動を社会に根付
かせていくための環境整備を提案します。
日 時:2002年6月15日(土) 14:00 ∼ 16:00
会 場:那覇市久茂地公民館ホール
参加者:計60名
4-2.パネリスト等の略歴
安慶名達也:
(あげな たつや)アメリカ外資系企業を経て、メリーランド大学大学院にてアメリカ
式のカウンセリングを学ぶ傍ら人材育成に取り組むために、平成 7 年地域の国際化理解
教育を促進するための学校ユニバーサル英会話学院を設立(去年ユニバーサルハンズオ
ンアカデミーに学院名を改名)
。平成 14 年1月、地域の幅広い年齢層の人々が異年齢交
流を通して理解し、遊び学ぶための場を創出する沖縄ハンズオン NPO を発足。現在代表
理事として地域活性化プロジェクトマネージメントの企画立案を担当。また学校週五日
制を利用した子どものための体験学習の企画や、外国人講師によるワークショップスタ
イルの英語クラブ、そして市民向け超初心者パソコン講座などを地域の人たちに提供し
ている。現在沖縄市子ども会育成連絡会副会長も努める。座右の銘は天衣無縫。
中村淑子:
(なかむら としこ)おきなわCAPセンター理事・沖縄県NPO活動促進懇話会委員・
沖縄県DV対策事業企画検討委員・沖縄県人権教育企画推進委員。琉球放送、沖縄テレ
ビ報道部勤務を経て、1998年CAPスペシャリスト養成講座基礎クラス受講、19
99年CAPスペシャリスト養成講座就学前プログラム受講、セクシャルハラスメント
防止リーダー養成講座受講、女性・子どもへの虐待防止に携わる専門職トレーニング受
講、2000年CAPスペシャリスト養成講座中高生プログラム受講、人権教育啓発ト
レーナー養成セミナー受講。1998年よりCAPスペシャリストとして各地でワーク
ショップを実施。
照喜名 通:
(てるきな とおる)
昭和37年生まれ。
沖縄県難病支援センターアンビシャス事務局長。
昭和57年県立沖縄工業高校卒業後、東京にてコンピュータプログラマーを7年経験。
平成元年沖縄に帰省後、データベースマーケティング会社へ入社。平成9年名古屋へ単
身赴任中、難病クローン病と診断される。平成12年脱サラを決意し、在宅就労(SO
HO)を目指し、ホームページ作製をする。平成13年沖縄県難病支援センターを設立。
平成14年2月同センターをNPO法人化、
「アンビシャス」とし事務局長となる。平成
14年3月首里城公園にてお土産屋を運営、現在難病患者8名の雇用を実現。
古我知浩:
(こがち ひろし)コーディネーター:沖縄リサイクル運動市民の会代表・特定非営利活
動法人エコビジョン理事長・那覇市環境基本計画策定委員、沖縄県 NPO 活動促進懇話会
委員・沖縄県環境審議会委員。昭和58年に沖縄リサイクル運動市民の会を結成し、
「物
を大切にすることから心の豊かさを取り戻そう」をテーマに掲げ、不要品のデーターバ
ンクやフリーマーケットの開催など、誰もが気軽に参加できる「場」を提供し、エコロ
ジカルな市民社会の構築を目指した活動を展開。
4-3.フォーラム要旨
○ 事例発表① 安慶名 達也氏(特定非営利活動法人沖縄ハンズオンNPO 理事長)
沖縄ハンズオンNPOの活動の背景と現在直面している課題を簡潔に述べていきたいと思います。
我々は主に、
教育の分野をメインにワークショップや地域興しのイベントを企画・プロデュ−スし、
地域の子ども会と連携し青少年育成と多様性のある教育活動の普及を行っています。
現在特に総合的な学習や週 5 日制のプログラム制作に時間を注いでいます。例えば、地域資源の
リサーチを行い、地域密着型の教材素案をNPOが提案し、その地域でどのようなことが求められ
ているのかのアクションプログラムを作成し、地域の人たちと実践していく形をとっています。地
域の活性化という観点から、
沖縄県ではまだNPOと学校教員による連携事業は未発達であるため、
地元住民や行政との協働による事業という点で、十分先駆性があると感じ、様々なプロジェクトか
らプログラムまで開発・実践を行っています。
このような事業の効果として、次のことを期待しています。(1)総合的な学習時間や週 5 日制を活
用した学校と地域の新しい連携の構築、(2)地域産業とコミュニティの活性化、(3)国際的な適応能
力と起業家精神を備えた創造型リーダーの輩出、などが挙げられます。主に楽しみながら学びを深
めることができる体験プログラムを紹介し、実際に体験していただくというのが、われわれの活動
の趣旨になっています。
このような活動を実践するためには大きな課題があります。第一に挙げられるのが沖縄県特に沖
縄市において、行政とNPOとの協働が 2002 年度の重要施策になっておらず、そのため事業委託な
どのプロセスが本格的な活動を起こすに至っていません。この点に関して、我々ハンズオンNPO
としての課題は次の3つです。
1.多様な住民ニーズに迅速に対応するために、行政事務のアウトソーシングや新しいス
タイルの業務委託をさらに考慮していただきたい。
2.
もっと地域行政が NPO との対等性や独立性を評価してほしい。
業務委託となった場合、
行政は発注者であり、NPOは受注者であるために、契約内容が発注者の意向に制約
されるという関係から、住民ニーズに対応するスピードが遅くなり、今対応すべきサ
ービスに対してタイミングを逃すことになってしまうからである。
3.教育現場が自負する「開かれた学校」
「ゆとり教育」
「生きる力」などを実践していく
ために、教育委員会は教師と学校にも競争原理を導入すべきである。
この 3 つの課題を克服すれば、住民のみならず、少なからず地域に与える波及効果が大きくなる
と信じています。
21世紀はインターネットの発達により、教育者主導型の講義式教育から、子供たちが自ら学び
自ら考える力を身につけるよう生徒主体型の教育への転換が叫ばれています。従って健全な子供の
教育は、学校教育の枠の中だけで行えるものでなく、地域環境を取り組んだ新しい環境作りが課題
となってきています。教育環境を活性化していくためには、チャレンジ精神、創造力、決断力、判
断力、協調性、表現力、コミュニケーション力、問題解決能力といった、これからの実社会で必要
とされる資質を備えた人材を、地域が一体となって育成していくことが重要だと考えています。
これからも若い力で行政でも民間企業でもないNPOという自由な立場から起業支援を行い、地
域の雇用創出・地域活性化を目指したいと考えています。
○ 事例発表② 中村 淑子氏(おきなわCAPセンター 理事)
おきなわCAPセンターは、20代、30代、40代、50代のスタッフがいるNPOです。私
たちはまだNPOの法人格を取っていませんが、胸を張って
「NPOの活動をしているおきなわCA
Pセンターです」と紹介しています。
CAPというのはチャイルド アサルト プリベンション、すなわち子供が暴力から身を守るため
のワークショップ型の活動をしており、大人に提供する「大人ワークショップ」と子供たちに提供
する「子供ワークショップ」の2種類あります。大人には2時間かけて、暴力について、虐待につ
いて、たくさんの神話といわれているものと現実をお話させていただきます。そして子供ワークシ
ョップを大人にも体験していただきます。
私たちは暴力防止活動をしていますから、子供が暴力にあわない社会、子供たちが安全で安心し
て元気に過ごせる社会を夢見ている団体です。子供が安全で安心してすくすくと育つためには、大
人も安心して過ごす必要があります。私たちは子供たちに「ねぇ、あなたはどこにいたら安心?」
「誰といたら安心?」
「どんな時に安心する?」と聞きます。子供が安心して暮らすために大人は「お
母さんといたら安心」
「家にいたら安心」
「学校にいたら安心」
「友達といたら安心」って言って欲し
いですよね。でも、例えば実際に家の中で母親がドメスティックバイオレンスにあっている家庭で
は、子供たちに安心はありません。学校で友達からいじめられている、学校の先生が体罰をする、
ちょっとしたことでぴりぴりと怒られてしまう、こんな所では子供たちに安心はありません。友達
との関係、大人との関係の中で、安心な関係はとても大事だと思います。ですから、子供たちが安
心してすくすく育っていくためには、大人も地域も学校も安心な社会が必要です。私たちはこの安
心な社会を築くために、1人で思えば夢だけど同じことをみんなが思えば現実になるよという団体
です。
CAPは、暴力があってからよりも暴力にあわないために何ができるのか、暴力にあったときに
子供たちが「いやだ」と言えたらもっと早い段階で救うことができるという発想でアメリカで始ま
りました。世界15カ国、日本では100以上のグループがあります。沖縄ではおきなわCAPセ
ンターが活動していますが、石垣島にもCAPがあり、県内では2団体が活動しています。活動を始
めてまだ6年ですが、子供たちが変わったよ、先生も変わった、大人の意識も変わったよと、一昨年
よりは去年、去年よりは今年という形で一歩一歩広がってきたかと思っています。
去年は社会福祉医療事業団の子育て支援基金を200万円いただきました。沖縄は離島県なので
宮古や粟国という離島へは交通費がかかり実際に行くのは難しい。そういう離島にも行きますと打
ち立てて100ヶ所無料でワークショップを行いました。宜野湾市では、宜野湾市のメンバーがす
ごく頑張って、まちづくりの助成金をゲットしました。これは宜野湾市のまちづくりのための助成
金でしたが、まちづくりってやっぱり人づくり、子供たちの未来をつくることでもあります。この
宜野湾市でも 26 か所の小学校で実施することができました。
一つの学校を一回は無料でやりますと打ち立てたので、自分の学校は3クラスあるからあと2ク
ラス分ぜひやってくださいというようなのも入れて、去年は300近くのワークを実施することが
できました。私たちは非営利団体で、実際に活動しているメンバーは20人くらいです。ですから
この20人がほとんど仕事のように1年間やってきました。助成金をもらうのはすごく嬉しいのだ
けど、実際には活動が増えるということで、私たちは助成金を獲得したいと思ったあまり、そこの
には気がつかなかったのですが、
300のワークを20人でこなすということは結構ハードでした。
子供たちの豊かな未来、子供たちが次の世代をつくっていくわけですから、良い世の中になるよ
うにするためには、やはり子供たちに力を入れていくことだと思うのです。そして子供たちを見守
っていくのは学校と家庭と、もう一つ地域というのもあると思います。子供たちにとって学校と家
庭だけではない、地域の大人たちが自分たちに関心を持っているということはとても大きなことだ
と思うのです。CAPの活動もこの地域を担っていると思っていますので、子供たちにとって関心
のある大人たちがたくさんいるんだということを知ることはとてもいいことだと思うのです。
私たちの活動の中で、
たくさん困ったことや足りないことがあります。
助成金は欲しいのですが、
人が足りない。その助成金も事業に関しては出るけれど、活動母体の運営に関してお金が出るとい
うのはなかなかありません。事務所もありません。私たちが今持っている財産は唯一電話だけとい
う状況の中で、ある事務所に電話を置かせていただいて留守電とファックスで対応しています。そ
こに勤めているCAPのメンバーが、仕事が終わると電話をチェックしています。
私たちは今年NPOとして法人格をぜひ取りたいと思っています。今年は時間を作って法人格を
取りたいし、メンバーの強化もしたい、事務所も持ちたい。そしてたくさんの問い合わせがあるの
で、9時から5時までいるスタッフも欲しい。法人格を取ってしっかりした財政基盤の上で、私た
ちスタッフのある程度のレベルと質の維持と向上、そして誰がやっても同じ良いものを届けられる
状況にしたいと思っています。
いまだに「CAPって何?」と言われるので、CAPのワークショップを子供たちが小学生の間
に一回は受けられる状況ができたらいいなと思っています。先日、CAPの本部があるニュージャ
ージー州に行ってきました。ニュージャージー州では、CAPは1億ドル以上の助成金でワークシ
ョップをしています。ですから州の国公立の幼稚園、小学校、中学校、高校ではCAPのワークシ
ョップの実施率が100%だということを聞いて、ため息とともに帰ってきました。日本の子供たち
にもCAPのワークショップを、とにかく「暴力を受けないで暮らす権利があるよ」
「誰だって大事
なんだよ」ということが伝わるといいなと思うのです。人権教育・人権啓発推進法というのができ、
その中に他人への思いやりや命の大切さとあるのですが、なかなか「あなたは大切だよ」
「あなたの
こと大好きだよ」という人権が子供たちの中に入っていないというのを感じますので、子供たち一
人ひとりに「あなたって大事なんだよ」
「あなたたちが未来を作っていくんだよ」ということを伝え
られるような活動をこれからもできたらいいなと思います。
○ 事例発表③ 照喜名 通氏(特定非営利活動法人沖縄県難病支援センターアンビシャス事務局長)
私たちアンビシャスは、治療方法が困難であったり、原因が不明な118種類の難病患者に対し
て経済的自立への道を切り開き、在宅就労や軽作業などを通じて、就労の場を確保するための仕事
情報の提供をし、各個人の体調にあった自立を目指すことで、より質の高い生活を過ごせることを
目的としています。
現在、行政側では福祉面での充実を推進しつつも全てを行政で賄うことは不可能ともいえる中、
難病者は福祉法における障害者扱いでは無いため特定の支援体制は不十分と言わざるを得ません。
一般的な健常者でも無い中途半端な状態で一般企業への就職は容易ではありません。無論仕事に対
する意欲や能力の差は無いといえるでしょう。しかし、県内の特定疾患患者の失業率が64%とい
う厳しい現実があります。
このような背景から、非営利団体として、難病者福祉充実の支援活動を通じて社会に貢献するた
め、
「アンビシャス」沖縄県難病支援センターを設立しました。クラーク博士の「少年よ大志を抱け」
と有名な言葉の通り、開拓者精神で志を大きく高く持ち、常に挑戦することを辞めないように団体
名称を決定しました。
今後、この活動を運営していくにあたり、代表者個人と法人との明確な区分並びに社会的信用の
確保が不可欠と考え特定非営利活動法人を設立しました。3月からは、雇用促進の目的を達成させ
る為に、首里城公園にて観光みやげ品店をオープンしました。働くのは8名の難病患者です。人材
の技能養成機能、生活の糧(給料)確保機能を兼ね備え、不治の病と付き合う患者でも起業し運営
可能なモデルとしての機能もあります。近年の日本経済の混迷と全国最下位の沖縄での雇用条件の
中、難病を抱えるアンビシャスの活動は、誇りを持っていける糧になると信じています。
ここまで、活動が出来たのも皆様の小さな小さな支援を集結した結果で成り立っています。行政
からの助成金や補助金は、これまでに頂いていません。寄付金や募金箱の設置、賛助会員として登
録、中古だけど使えるから活用してとか、有名無名の方々の支援で立ち上げる事が出来ました。こ
れから更に経済的効果を発揮して、自立への道を確保していきたいと思っています。沖縄には42
00名くらいの難病患者がいると聞いたある理事は、
「4200名の社員を抱える会社を目指すの
か・・・」と遥か彼方の目標に驚いていました。
まだまだ、活動は続きますが、ボランティアや奉仕活動などで活動する時でも、今の仕事を続け
る時でも、
「貴方は何をもって人々に記憶されたいか?」
、
「何をもって生きがいを感じるか?」
「今
の生活が自分に合っているか?」
、改めて考える必要があります。そして、まずは毎週1時間でもボ
ランティアの時間を作ってみて、自分に合った活動が出来るか試して下さい。今まで味わったこと
の無い体験をし、客観的に自分を見つめなおすことで、自己成長になると信じています。
○ 第2部 パネルディスカッション
1.NPOの役割と可能性
・目標を共有したパートナーが存在するNPOは、行政や企業がやりたくてもできないことを
なし得る可能性を持っている。使命を全うするためにはこのNPOの形があるが、本当に NPO
が一番いいのか結論はまだ出せない。
・企業が発達し、行政機構が複雑になってきて、どこかに隙間が生まれてきたり、新しい分野
に挑みにくい状況があり、そのあたりにNPOの可能性があるのではないか。ただ本当にN
POが良いのか、あるいはもっと違う知恵が必要なのかという状況にある。いろんな社会実
験を経て、次の新しい社会の仕組みを作っていくのだろう。
・NPOというのはニーズがあるからできる。行政がニーズに迅速に応えることは難しいわけ
だから、NPOの意義はニーズに迅速に応えることにあるともいえる。そして必要なことが
わかっている人がサービスを提供するほうがより良く応えられる。NPOをやっていく人た
ちは、こんな社会になって欲しい、こんな世の中になって欲しいというものを持ってやるわ
けだから、お金のためにやるわけではない。これをやってると楽しい、こんな子供たちに会
えるのが嬉しいということが自分たちのエンパワメントになる。しかし夢だけではやってい
けないので、儲からないけど食べていけるという状況になればメンバーも増えると思う。
2.NPOが根ざした社会をつくるために
・お金が社会の中でどう回っていくか、どのように流れたら良い社会ができるのかということ
は非常に大切なことだ。もう少し志を持った人たちの所にお金が流れていく社会の仕組みが
できれば、もっと楽しい社会になるのではないか。
・NPOはニーズを感じて活動するのに精一杯だったような気がする。NPOも自らをもっと
わかってもらうための努力をするべきだし、そのためにはネットワーク作りや活動を発表す
る場を増やしたりするなど、NPOの活動をもっと市民が目にできるような機会が増えると
いい。
・社会の中でNPOは役に立っているのか、機能しているのかが問われるようになるだろう。
いいサービスを提供できることが、NPOの存在価値を高めていく。
・何かをやるときに前向きに動く人たちはスピードを上げる。スピードを上げると考え方がポ
ジティブになる。何も行動しなければ何も得られない。自ら情報を発信していくことが大事
で、ネットワークの構築ができる。
・NPO活動は儲かることではないので、やりがいのあることや楽しいこと、面白いことがな
ければ続かない。
・一度しかない人生をどのように有効に使うか。何をもって生きた証とするか。そのことを忘
れずにNPO活動をしていきたい。
・NPOはこれから行政や企業とどうやってネットワークをつくるか、どうやって市民ニーズ
にあった新しい社会をつくっていくか。NPOで頑張っている僕らや市民がもっともっとN
POに参加し、活動を起こしていくことが大きな力になる。どんどんNPOが増えていくこ
とを願っている。今日のフォーラムがそういうことにつながればと思う。
○ 会場からの意見
1.NPOの課題
①認知度が低い
・行政、企業、市民に対して、もっと認知活動が必要。
・NPOに馴染みのない知人たちに“頑張ってるねー”
“偉いねー”と言われると、自分は当た
り前のことをしていると思っているのに、特別なことをしているように見られているのかな
ぁと少し違和感を覚える。
・他人事として見ている。
・NPOの活動について、その意味など理解していない人が多い。
・収益を上げることに対して理解がない。
②資金づくりなど
・
「ボランティア=個人発」が大切ではあるが、情熱だけでは物事はうまく運ばない。人集め、
人材の育成、企画運営、資金力、広報力などのマネジメント力を高める必要を切に感じる。
・活動費が必要
・NPO法人では借り入れができないので、資金でつまづく。
・活動資金を得るために銀行借入をしたいが、保証について県の保証協会はNPOを除外して
いる。
③その他
・新しいしがらみの誕生。
・自治会とどのように関わったらいいのか。
・やはり、柔軟性の確保が容易でないと思う。
・想いを想い続けること、そして理想を実現させること
2.NPOの可能性
①自由な発想で行動できる
・お金のことを考えつつも、やりたいことができる。想いを実現させるための活動ができる。
・まだ社会的にメジャーではないので、活動分野や手法が慣例化されていないため、参加者の
自由な発想が活動に反映されやすい。
行政や企業と異なり組織内で各人の個性が発揮できる。
・
「経済開発」に対する概念、
「人間開発」を実践できると思う。これは非常に柔軟性が要求さ
れるため、NPOの可能性が注目される。
・夢のある事業ができること。
・これまでの既成概念にとらわれることなく自由な発想でテーマに取り組める(モチベーショ
ンが明確)
。特に環境や福祉の分野で可能性が大であると思う。
・小回りが利き、本当に自分のやりたいことを実行でき、ある程度の収入も確保できる。
②地域活性化
・地域を元気にし、優しくすることがとても大事なこと。それにはやはりNPO。
・地域の活性化、創造型のリーダー、雇用の場が増える。
・なによりも「使命」をもって情熱的に自発的に活動している。何が今、自分たちに、地域に
必要なのかを知っている。自分たちのことを自分たちで、必要なことを必要にあわせて行動
できる。
③行政にできないことができる
・行政にできないことができると思う。
・行政の目の届かないところのアフターフォロー。
④雇用創出
・雇用創出と自立経済への突破口。
・産業基盤の脆弱な沖縄では、雇用に関しての改善の兆しがなかなか見えない。コミュニティ
ービジネスの必要性を日頃感じており、NPOの可能性を期待している。
・NPO活動が一般化することによって、資本の一極集中が緩和されていくことが予想され、
これによって高失業の問題も解決できるものと思っている。私どものNPOにおいては職場
開拓を図り、そこに新たに就職の機会を増やしていきたい。
⑤その他
・自分以外、全国はもちろん諸外国でも通用するのではないか。
・古いしがらみからの脱出。
・NPOの活動をまだうまく理解できていないので、まずその理解をしていきたい。
・今、社会が昔に戻ることが大事。そのきっかけづくりがNPOの存在なのかと思う。
○ 参加者の感想
1.フォーラムについて
・NPOの現状がぼやっとわかったが、話すポイントをもっと絞ってほしかった。
・表面的なことだけではなく、
「実は…」
「本当のところ…」という生の声がもっと聞きたかっ
た。
・NPOの内容について詳しく知りたかったのだが…。
・お金について、具体的な話が聞きたかった。
・若い人が多かったので良かった。
・NPO活動を少し知ることができた。
・NPOがどういうものかわからなかったが、お金を目的とせず、志を持った人たちが集まっ
て作った団体だということがわかった。
・今までジレンマを感じながら仕事をやっていたが、今後自分の生きる道を静かに考えるポイ
ントを得た。
・活動している方々の生の声を聞き、これからの励みとなった。
・お金は必要だが、まず行動が必要だと思った。そのことによりお金をもらい、更に行動が広
がれば良いと思う。
・NPOについてよく知らなかったので、3団体の話が聞けて良かった。
・那覇市のNPOセンターは進んでいるので、羨ましい。
・人が生きていくということは、公益性のような気がする。自分が世のためにどんな生き方を
するかということで、そういう考えが自分のものになって良かった。
・福祉の勉強をしており、教科書にNPOが出てきたので、何かなと思って参加してみた。
2.NPOや市民活動について
・普通に、普段着でNPOができるようになったらよいと思う。
・子ども、文化、芸術、まちづくりの分野でNPOをやりたい。
・今まであまり関心がなかったのだが、これからNPOの可能性を勉強していきたい。
・地域で自分なりに活動できることがあればと思う。儲けることではなく、こんな地域であれ
ばいい、こうすれば自分の職業が生かせるなど、NPOについてもっと勉強したい。
・NGOとの関係、NPOと諸外国との関わりについて知りたい。
・NPO同士の横のつながりをつくり、相談し合えたり助け合えたりすれば、もっと良い活動
ができると思う。
・地域コミュニティ(自治会、公民館、区)の活動を経営的に分析すると、NPO的運営に行
き着いた。長く続いてきた地域特性、習慣、申し合せ、宗教、人間関係などが機能しにくく
なった感がある。参加する姿勢や組織のあり方を見直したい。
5.
【報告―福岡】
「NPOは21世紀のフロンティアなるか?」
5-1.開催概要
テーマ:
「NPOは21世紀のフロンティアなるか?」
目 的:NPO法人が右肩上がりに増加し、NPOが社会で存在感を帯びつつあります。また、多
くの地域で、他者(自治体や企業等)との「協働」の取り組みがなされており、経験とし
て蓄積されつつあります。今回のフォーラムは、NPOを取りまく現況を認識し、NPO
の存立に不可欠な自発性・創造性・独立性といった特性を、NPOあるいは社会全体とし
て、どのように担保していくのか、問い考える機会にします。
日 時:2002年6月22日(土) 14:00 ∼ 17:00
会 場:福岡市立博多小学校 表現の舞台
参加者:計63名
5-2. スピーカーの略歴
田尻佳史:
(たじり よしふみ)/特定非営利活動法人 日本NPOセンター 事務局長高校時代よ
りボランティア活動を始め、1987年、大学を卒業後ケニアに渡り、現地のNGOが
運営している養護施設に、運営メンバーとして4年間関わる。帰国後、大阪ボランティ
ア協会の職員となり、企業や労働組合の社会貢献活動推進の企画を主に担当。阪神淡路
大震災では、
「被災地の人々を応援する市民の会」の現地責任者として派遣され、企業・
行政・市民団体等と協働したプログラムを展開。1996年11月より日本NPOセン
ターへ出向となり、
非営利セクターの基盤強化に努めている。
2001年9月より現職。
5-3.フォーラム要旨
○ 基調講演「NPOは21世紀のフロンティアなるか?」
日本NPOセンター 事務局長 田尻佳史さん
20世紀から21世紀の転換にあたって、
ボランティアやNPOが注目を浴びるようになったが、
21世紀に入った今からは、本講演のタイトル「フロンティア」という言葉にもあるように、もう
少し社会的な位置づけをもたらしていきたいところである。
そもそも、
「市民活動」という言葉は、そんなに古い言葉でもなく、1980年位から社会に登場
してきた。それ以前は「住民運動」
・
「市民運動」
・
「住民参加」等と表現されていた。しかし、
「住民
運動」
・
「市民運動」というと、公害反対運動のように、どうしても反体制的なイメージが強く、社
会にあるサービスでは足りない部分を市民自らの力で創っていこうという、新たな公共サービスづ
くりの動きの実態にはそぐわなくなっていた。この後、
「運動から事業展開へ」という部分が少しず
つ根ざしてくるにつれて、
「市民活動」に移行していった。日本で初めてこの言葉を使ったのはトヨ
タ財団であり、15∼6年前に「市民活動助成」というプログラムを作ったのが始まりである。
80∼90年代になると、
「市民活動」
・
「ボランティア」
・
「NPO」等、色々な言葉が氾濫してく
る。市民活動にせよNPOにせよ、始まりは大体、
「これはおかしいじゃないか?」
・
「社会をこうい
う風に変えていきたい」といった個人の思いであり、これに思いを同じくする人たちが集まって、
サークルの動きへとなっていく。その次には、例えば、当初は単に清掃だけ行っていたサークルが、
ホタルのまちづくりや環境保護などに移行するというように、新たな付加価値を創るアクションの
ための組織化がなされる。その例として、高齢者向けの配食サービスが挙げられる。当初は隣近所
の思いやりから始まり、半ば楽しみながらサークル的に行っていた配食も、メンバーが増えて活動
が広がってくると、外からのニーズが入ってくるようになり、それまでの設備や資金だけでは間に
合わなくなる。ここから、会費を集めたり、助成金を取ったりするようになり、外とのつながりが
生まれてくる。また、
「○曜日の○時には○○さんの家に届ける」といった資金も事業も責任も伴う
活動となると、リーダーが不可欠となり、組織としての体裁を整えていかないとならなくなり、組
織的な活動に移行するのである。
従来の市民活動の多くは、サークルの段階で止まっていた。ただ、もっと多様な活動を求める人
が多くなるにつれ、市民活動の社会的責任を明確にする必要性が生じ、94年頃から法人格を求め
る声が出てくるようになっていた。その後、95年の阪神淡路大震災では、ボランティアとして駆
けつける一人一人をコーディネートし活動へとつなげていく組織の存在が社会の目にさらされ、こ
のような組織に法人格を作っていこうという法律「NPO法」が生まれた。
NPO法人が登場したことによって、サークルから組織化の過程での法人格取得、というストー
リーが一般的になったが、この間に、内面的な大きな変化が生まれている。個人の発意の段階では、
「passion」からスタートしたが、組織化するにつれて「mission」に変化させていく、すなわち、
個人の思いを組織の使命として伝えていくことが重要になっている。現実の活動の中では、グルー
プが分裂する事例もあるが、その多くは個人としての思いに他の人たちがついていけなくなったと
いうケースである。従って、個人の思いを組織の使命に混同させないためには、組織として何をめ
ざしていくか・何をすべきかという使命を決めることが重要になっている。この使命を明確にした
上で、組織を、地域社会のニーズを受信して形にしていく方向性に持っていかねばならない。
「NPO」を日本語訳すると「非営利組織」であるが、実は日本では、公社・公団等のように、
政府・自治体が作った非分配の非営利組織は沢山ある。ただ、あえて「民間」が意訳として付けら
れているのは、市民が独自につくる組織という違いを表すためである。
「特定非営利活動促進法」は、阪神淡路大震災の後、関係省庁・18省庁全てが協議して、ボラ
ンティアの活躍の場を守るために「ボランティア支援法」のようなものを作ろう、という動きから
生まれたものである。一方、市民サイドは、自発性・先駆性・変革性といったNPOの特徴を鑑み、
国が作る法律に縛られるというのはおかしいのではないかと疑問を持っていた。ここから、活動す
る主体である市民自身が法律作りに参画すべきだと主張するようになり、国会議員と協働して意見
を反映しながら進めていくようになった。この後、経済企画庁が中心になって作った政府案は取り
下げられ、最終的には議員立法で全会一致による成立となった。本来であれば、法律は議員が作る
ものであるが、
日本の法律の多くは、
各省庁が原案を作って議員が承認するというスタイルである。
一方、アメリカでは、市民活動やNPOのロビイング活動はごく一般的となっており、議員主導で
法律や条例が作られている。日本も最近はそういう局面が増えつつあると感じている。
NPO法の特徴の一つめは、活動に関して12分野の限定列挙が付けられている点である。これ
は、主たる活動をその分野の中で行う、ということを謳わねばならなくなっており、この点で他の
法律と差別化されている。ふたつめに、
「情報公開」を謳われている法律は、民法34条関連法にお
いては、NPO法だけという点である。財団法人法・社団法人法・社会福祉法人法等の他の公益法
人関連法では、情報公開は一切謳われていない。公益的な活動をする法人だからこそ、もっと情報
を交換していこうという動きになっている。おそらく数年後には、公益法人法、ひいては民法自体
の見直しも行われる可能性があり、
そうなると全てに情報公開が謳われるようになるかもしれない。
「NPO法はザルだ」という人もいるが、このような内容のポイントを見ると、他の法律をも動か
す影響力を持った法律であるといえる。
98年にスタートしたNPO法も、活動内容の5分野追加と、認証業務の中で不要な書類を減ら
す方向で、早ければ次の通常国会で改正になるかもしれない。これに伴い、各都道府県は認証にま
つわる条例を改正する必要が出てくる。また、もう少し先の話であるが、国会では、平成17年を
目標に、民法全体を見直そうという議論が出てきている。これと同時に、税制優遇制度の見直しも
起きてくるであろう。
NPO法ができて以後、変わった点は、まず社会的認知が上がったということである。5年前の
新聞の縮刷版をみると、NPO・NGOといった言葉が一切出てこないが、最近のはNPOの言葉
が多く出てきている。
NPOは個々の思いを形にしていく「仕組み」である。各地域では、
「NPO法人を取ったんです
が何をやったらいいんでしょう?」という相談が増えているようだが、こういう団体では、ミッシ
ョンがきちんと位置づけられていない。ともあれ、少なくとも、法律ができてからは、同じ思いを
持っている人たちが集まって、色々な形を作っていける時代になってきたと感じている。
さらに注目したいのは、組織として個々の力を有効に活かす可能性を秘めている点である。NP
Oの組織を構成している人たちの大半は、無給で活発に動くボランティアであり、NPOは、その
人たちの思いを形にしていくことができる。最近では学生のインターンや主婦、退職者等の参加が
増えており、彼らの働き方も多様になっている。従ってNPOは、問題解決だけでなく、働きたい
とか社会に参加したいという人たちを応援し、次の新たな生活のステップとなるべく、うまく受け
入れるシステムとして有効だと期待される。
ただ、ここでもやはり、ミッションの確認と明確化が欠かせない。組織になると、沢山の人たち
が多様な形で動くようになるため、
組織の運営・経営といった面にも目を向けていかねばならない。
たいてい、運営に切羽詰まってくると、本来のミッションから逸れた助成金に手を出してしまいた
くなる。しかし、機動性や柔軟性を失わないためにも、組織としてミッションを常にふりかえり、
自分達が何をする組織なのか考えていかねばならない。
地域では、高度成長期ごろまでは、自治会・婦人会等の組織が機能していたが、社会が多様化し、
色々な人たちが地域に入るにつれ、地域がなかなか回らなくなってきている。地縁組織だけでは地
域の問題を解決できなくなったがために、別のコミュニティを形成して解決しようと動き出してい
るのがNPOではないだろうか。例えば、地域の自治的な組織は、全て「行政区」という縛りがあ
るが、NPOの場合、行政区は関係ないため、新たなつながりやコミュニティを作る可能性を持っ
ている。気をつけなければならないのは、新旧の対立という場面であるが、今後、両者が良い方向
で作用し、地域社会を再構築するようになってくればよいと期待している。
団体の資金的基盤・運営基盤の強化も課題であるが、2002年度の国家予算のうち、NPO・
ボランティア関連予算は650億円計上されている。国や自治体のお金をミッションを失わずにど
う活用していくかが問われる。かたや、苦しい経済状況にある企業の方も、新たな投資家を地域か
ら集めるためには、地域への貢献が欠かせなくなってきている。日本の大手企業の多くは、海外投
資家からの資金ウェートが大きいが、評価基準がだいぶ変わってきているようだ。以前であれば、
数字やバランスシートだけを見ていればよかったが、社員の活用や、女性の登用といった項目まで
目を向けられるようになっている。この点から、企業の側には「NPOと一緒にやっていかねばな
らない」という認識が生まれてきているようだ。
また、各省庁の施策には、ボランティアはボランティア、子育ては子育て等、まだ縦割りの発想
のものが多いが、これに横断的な方向付けを行おうとする「プラットフォーム構想」の動きが出て
きている。NPOの中にも、高齢者と子どもの問題にセットで取り組むNPOや、高齢者と環境を
組み合わせるNPO等、色々と出てくる可能性を持っている。政府や財団などによる助成制度も多
く出てきているが、市民が自らお金を集めて市民に出そうというシステムづくりの動きも出来てき
ている。また、NPO支援センターも地域に多く出来ているが、市町村レベルまで合計すると15
0∼160ヶ所ほどできており、とりわけ市町村自治体が施策として積極的に取り組んでいる。
雇用不安が深まる中で、政府は、
「雇用の受け皿」としてNPOに期待を寄せている。ただ、NP
O側は、
「民間であることを大切にする」という発想を持って、行政との役割の違いを明確に認識し
ておかないと、協働によって良い効果を生むことはできない。協働とは、相手と同じように振舞う
ことではなく、自立性・独立性を確保した上で、縦糸と横糸とを組み合わせるようなものである。
協働・連携のキーワードとしては、①自己の確立:自立していないとだめ ②自己の改革:自分達
だけの方法論に拠っていてはだめ ③明確な目標の提示:ミッションを確立していないとだめ ④
時限を持って協働する:期限を持っていたら評価もきちんとできるはず 等が挙げられる。
我々が市民活動として思いをアクションにつなげていくためには、やはり思いだけではなく、組
織としてきちんとした使命を持って形づくりを行っていくことが大切である。ミッションさえ持っ
ていれば、法人格の有無はどうであれ関係ない。あくまで法人格は、料理でいうところの「お皿」
である。料理に応じてお皿を使い分けているように、便利な法人格を選べばいい。例えば、地域の
共同作業所の中は、NPO法人にするか小規模の社会福祉法人にするか、迷っている所が多い。た
だ、NPO法の方が官庁の縛りに対する自由度が高い点、違いがある。従って、ミッションに合っ
た法人格を選択する時代に入ってきていると感じており、逆に言えば、ミッションがきちんと明確
でないと、選ぼうにも選べない。また、選ぶ時代に入っただけに、選ぶ選択肢を自分達で作ってい
くことも考えていく必要があろう。このようなアクションを起こすことが、ひいては時代のフロン
ティアになっていくことにつながるであろう。
○ 講座「NPO法人のつくりかた」 福岡県生活文化課
前原弘和さん
「特定非営利活動に係る事業」を主に行うのがNPOである。しかし、法律上、特定非営利活動
に係る事業以外にも「収益事業」と、
「その他の事業」というのがある。収益事業は、あくまで特定
非営利活動に係る事業を財政的にサポートするためであって、収益事業で得られた収益を、特定非
営利活動に係る事業の事業費に充てるためにある。その他の事業は、特定非営利活動に係る事業や
収益事業に該当しないもので、法律の定める12分野にも該当しないが、公益性はあるものや、会
員の互助的な活動を指す。何が主たる事業となっているか判断する際には、事業の頻度や、事業に
従事する人数、事業費などのポイントを総合的に見る。これによって、特定非営利活動に係る事業
が主となっている団体であれば、NPO法人たり得ることとなる。
収益事業に関しては、NPO法上の収益事業以外に、
「税法上の収益事業」がある。法人税の課税
対象となるものを税法上の収益事業と呼んでいるが、NPO法上の収益事業と、税法上の収益事業
とは全く別の概念となる。税法上の収益事業に該当するか否かは税務署が判断することとなる。N
PO法上の収益事業の中にも、税法上の収益事業に該当するものがあり得るし、あるいはその他の
事業の中にも、税法上の収益事業に該当するものがあり得ることになる。
「営利を目的としない」というのは、利益を分配をしないということである。これは、有償を否
定するという意味ではなく、全ての収入から支出を差し引いてお金が残った場合に、その黒字分を
構成員同士で分配をしてはならないという意味である。また、宗教活動や政治活動等についても一
定の制限がある。また、暴力団やその統制下であることも排除されている。
組織に関する要件も若干ある。まず、法律上の「社員」とは、社団の構成員で、総会の議決権を
有している者であり、一般的に言う会員である。法律上、社員の資格の得喪について不当な条件を
付けることはできない。ただ、資格等の合理的な範囲での条件付けは認められている。また、役員
報酬を受ける者は、役員総数の 1/3 以下でなければならない。役員報酬は、当該役員が法人の労働
をしたかどうかに関わらず、役員であるということで支払われるものである。一方、人件費や給与
は、労働の対価として支払われるものであり、役員報酬とは異なるものである。さらに、役員の人
数も、法律上、理事は最低3人以上、監事1人以上、社員10人以上という要件がある。職員につ
いては特に人数制限はない。同じ人が理事と監事を兼ねたり、監事と職員を兼ねたりすることはで
きない。
法人の設立に際しては、所轄庁を名宛人にした「設立認証申請書」が必要である。所轄庁は、事
務所が一都道府県内であればその都道府県の知事、二つ以上の都道府県であれば内閣府に申請する
こととなる。
申請書の様式は各都道府県毎に定められており、
若干違う点もあるので注意されたい。
6.
【報告―宮崎】
「人にやさしい福祉のまちづくり/共生・共感・共動
6-1.開催概要
テーマ:
「NPOは21世紀のフロンティアなるか?」
目 的:宮崎県において、平成12年4月「思いやりのある心づくり」平成13年4月「バリアフリ
ーの施設づくり」が施行された。これは「人にやさしい福祉のまちづくり」実現する為の
ソフト・ハード両面からの規定である。
体の不自由な人、ケアを必要とするお年寄り、子供た
ちが「地域で心豊かに生きていくため」の「まちづくり」を県内で活動しているNPOグ
ループの事例を検証しながら考えます。
日 時:2002 年6月29日(土) 14:00∼16:30
会 場:宮崎県福祉総合センター
参加者:計38名
6-2.スピーカー略暦
川越賢二:福祉作業所アートステーションどんこや、1964年10月宮崎県飯野町(現えびの市)
出身、1989年3月日本福祉大学卒業、1989年4月大阪府岸和田市「東山自立セ
ンター」入所、1991年8月「アートステーションどんこや」で和紙の制作を始める。
吉村照子:呆け老人をかかえる家族の会県支部世話人代表。1946年宮崎県都城市出身。鹿児島
大医学部付属高等看護学校卒業後、助産婦として県立宮崎病院等に勤務。1994年に
社団法人の認可を受ける。宮崎市平和ヶ丘の自宅でケアホーム、5人が入所
後藤幾子:特定非営利活動法人みやざき子ども文化センター理事。1948年宮崎県高千穂町出身。
2児の母親として地域やPTA活動へ参加しているときに「おやこ劇場」とであい、社
会的活動に参加するようになった。おやこ劇場の運営委員長を4年間続けた後、199
2年におやこ劇場の事務局となり、子どもたちの鑑賞活動や地域活動のサポート的役割
を担ってきた。特定非営利活動促進法制定に伴い、おやこ劇場のメンバーとNPOの研
究を手がけ、2000年NPO法人みやざき子ども文化センターを設立、理事に就任現
在に至る。
土肥雅郎:コーディネーター。特定非営利活動法人宮崎福祉のまちづくり協議会理事長。1950
年宮崎県都城市出身。1983年に宮崎福祉のまちづくり協議会を設立し、障害者や高
齢者の社会参加のためにはソフト的な整備やハード的な整備か必要で、特に障害者用の
トイレがないと障害者の社会参加はあり得ないと、
宮崎県内の障害者トイレを調査する。
調査したトイレなどはホームページで公表している。1999年に特定非営利活動法人
の認証を受ける。http://www.machi.miyazaki-mu.ac.jp
6-3.フォーラム要旨
「NPOが息づく社会づくり」というテーマのもと宮崎県ボランティア協会の担当で平成14年
6月29日に宮崎県福祉総合センターで開催された。このフォーラムは(財)まちづくり市民財団
研究交流事業、九州・沖縄5県巡回NPOフォーラムで、宮崎県での目的は「人にやさしい福祉の
まちづくり/共生・共感・共動」で、ハード面ソフト面からから障害者や高齢者などのすべての人
が「地域で心豊かに生きていくため」のまちづくりの実践事例を検証しようと行われた。
まず、特定非営利活動法人宮崎県ボランティア協会の副会長の出水和子氏が全体司会を行い、参
加者に対し今回のフォーラムの説明・本日のスケジュールの案内を行った後、会長の田中達昭氏が
参加者に挨拶した。
「今こそボランティア・NPOが社会のリーダーシップをとり、市民が主役の社
会を作りましょう」と参加者に呼びかけた。今回のフォーラムは事前に参加者を募り、行政担当者
を含め、日頃からボランティア活動に取り組んでいる団体の代表や一般市民など38名の参加があ
った。
まず最初に障害者の詩にメローディを付け、各地でコンサート活動をしている、宮崎県ボランテ
ィア協会の事務局長でもある「おちあいたかみつ」氏が何故、障害者の詩に曲を付けて歌っている
か、採用されなかった詩を読んでいくうちに、みんなにそれぞれの体験や生き様があると感じ、曲
を付け始めたとの説明をしたあと会場に参加した人にペットボトルをマラカスにしたて、参加者全
員でからだを動かしながら歌い楽しい時間を過ごした。
その後、パネルディスカッションが行われ、特定非営利活動法人宮崎福祉のまちづくり協議会理
事長の土肥雅郎氏のコーディネートで3名の方から事例の発表が行われた。
最初に「福祉作業所アートステーションどんこや」の川越賢二氏が写真を前にして日頃の活動紹
介が行われた。この中で障害者の芸術と観光を結びづけた取り組みが紹介された。参加者全員が旗
を作り、その旗にめいめい好きな絵を描き、宮崎の観光地に繰り出し、できあがった旗を持って歩
いた体験が写真を使いながら説明した。また、地域の中で和紙の制作を通して住民とのふれあいの
様子が紹介された。さらに、今までの作業所は狭く、車椅子で使いにくかったので、最近広い場所
を確保し引っ越しをした。今度は障害者トイレもあるので是非皆さん遊びに来て下さいと締めくく
った。
2番目に平和ヶ丘ケアホームの吉村照子施設長が痴呆のある高齢者を受け入れケアホームを運営
しているが、設立当初はケアホームを地域に理解してもらう活動を行ったが、思ったより周囲の理
解がスムーズに進み、積極的に応援していただいた体験や、この種のホームは地域で活かされてこ
そ意味があるのだという体験を話された。
さらに様々な取り組みが痴呆を軽減していくこともあり、
軽減した老人が別の老人の介護を始めるなど、その実績に裏打ちされてか、今後のケアホームの内
容をさらに地域の子どもにも開放するなど、より地域に密着したものにして行きたいなどの抱負も
語られた。
3番目に特定非営利活動法人みやざき子ども文化センター理事の後藤幾子氏が現在、中心市街の
活性化が叫ばれる中で中心地に事務所を構え、
バスの便が良くなることで、
子どもが遊びに来たり、
と多くの人の出入りが多くなったことや、また行政、商店街、商工会議所等と連携した事業も実施
できることなど、今後の中心市街地の活性化にNPOが担うヒントもあるのではと説明があった。
3名のパネリストから事例発表が終わったあと、会場からとコーディネーターから3名の方に対
し質問が出された。最後にボランティア協会の田中達昭会長が閉会の挨拶を行ったが、今回のフォ
ーラムは非常に意義があり、内容についてもかなりの成果が有ったのではないか、もっと沢山の人
が参加し、行政ももっとNPO主催の会議に参加し社会は行政だけが作るのではなく、市民と行政
が一体となって取り組んでこそ、本当の民主主義が築かれると思う、としめくくった。
第三章
平成13年度 まちづくり助成金事業報告
平成13年度 まちづくり助成金事業報告
財団法人まちづくり市民財団事務局
はじめに
まちづくり市民財団では、地域振興、地域活性化の向上を目的に市民主導で行う以下の活動に対
して助成を行っています。具体的には、(1)“郷土の遺産(産業遺跡・歴史的建造物など)の保存・
活用、(2)“郷土の民話、伝統芸能・技術・工芸の伝承と後継者の育成、(3)地域の自然環境の改善、
(4)地域の生活環境・都市景観の改善(街並み、街路樹、歩道、公園、用水路など)
、(5)まちづくり
市民意識の高揚に資する活動(イベント、講演会など)などです。
(ただし、原則として青年会議所
単独の事業は、助成の対象となりません)
。
平成14年度は「パートナーシップによるまちづくり」を活動テーマに25事業600万円、平
成13年度は24事業650万円の助成を行いました。
ここでは、
平成14年度の助成事業一覧と、
平成13年度のまちづくり助成事業の報告を掲載します。
■ 平成 14年度 まちづくり助成金 対象事業一覧
1.郷土の遺産(産業遺跡・歴史的建造物など)の保存・活用
2.郷土の民話、伝統芸能・技術・工芸の伝承と後継者の育成
3.地域の自然環境の改善
4.地域の生活環境・都市景観の改善(街並み、街路樹、歩道、公園、用水路など)
5.まちづくり市民意識の高揚に資する活動 *右端欄は下記の「対象項目」を示す
事業名
1
桜井川親子ワークショップ&地域創り推進協議会
劇団創作事業
2
まちづくり学習実践報告会
3
石造文化財調査研究事業
4
5
6
団体名
【夢創塾】
身近な環境と子どもたちを
考える会
白鷹町石造文化財研究会
岩手茅葺き民家ネットワークNPO法人岩手で茅葺き技
創設事業
術の伝承を促進する委員会
北海道エコロジー住宅学校
エコビレッジ実行委員会
「ビン玉ロード」創作活動
まちづくりグループ
(まちづくり)
「With AIBE」
額 都道府県
30
34
15
20
50
15
福岡県
3
志摩郡
5
石川県
金沢市
山形県
白鷹町
岩手県
盛岡市
北海道
札幌市
三重県
浜島町
5
1
1
5
4
事業名
7
とよさとまちづくり委員会
団体名
OLD&NEW
とよさとまちづくり委員会
額 都道府県
10
大太鼓原木ケヤキ植林事業、
8
宇土雨乞い太鼓 500年の (社)熊本県青年塾
30
ロマンを秘めて
9
10
妙高高原町イモリ池のブラッ
クバス駆除作戦
小泉八雲の世界「雪おんな」
展
11 五頭の里どんぐり植え隊
12
13
まちづくり事業①定住の環境
づくり作業
市民が主役の中津干潟保全活
動
14 「どんが」島興し事業
15 表浜海岸シンポジウム
16 朝日村循環型社会構築事業
17
18
19
流の場づくり事業
住民参加型でのやすらげる憩
いの場の創造
都会の廃校の市民による再利
用ワークショップ
町の魅力発見!たまねぎ倉庫
の再利用
22 日本一安全な村プロジェクト
23
24
イーストベガス構想、企画、
策定事業
大津・町家・まちなか・博覧
会
25 里山レディース講座
合計
25
住江町商店街振興組合
20
新潟県自然観察指導員の会 35
大東まちづくり研究会
25
水辺に遊ぶ会
30
NPO法人 ジュントス
30
田原町太平洋岸総合整備促
進協議会
10
朝日村の循環型を考える会 10
「まちの文化」を生かした交 本町区まちづくり推進協議
20 自転車利用促進事業
21
渓流再生フォーラム
会
20
まち・コミュニケーション 20
21世紀の学校をつくる会 35
NPO法人環境NPO良環 20
たまねぎ倉庫ネットワーク 16
NPO法人グリーンウッド
体験教育センター
25
イーストベガス推進協議会 30
大津の町家を考える会
25
赤目の里山を育てる会
20
滋賀県
豊郷町
1
熊本県
1
宇土市
3
新潟県
新潟市
3
東京都
2
青梅市
5
新潟県
新潟市
島根県
大東町
大分県
中津市
鹿児島県
西之表市
愛知県
田原町
3
5
3
5
3
長野県
3
朝日村
5
長野県
小諸市
兵庫県
神戸市
愛知県
名古屋市
5
5
5
新潟県
4
三条市
5
北海道
1
札幌市
5
長野県
泰阜村
5
秋田県
4
秋田市
5
滋賀県
大津市
三重県
名張市
600(単位:万円)
1
5
1.地域の自然環境の改善と再生(チョウのサンクチャリ)事業
【団体名】日本ふるさと研究会
【代表者】滝澤洋山
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 1 日 ∼ 平成 14 年 3 月 31 日
【事業実施場所】長野県北佐久郡立科町桐原
【共催、後援、協力団体】立科町商工会
【事業内容・参加者数】18 人
【活動内容】
・オオルリシジミの生息地周辺に借地(町有地 6,407 ㎡)ができ、
「チョウのサンクチュアリ」を
つくることとなった。
・チョウの周囲環境整備造成を行い、
(多動植物の保護をしながら)オオルリシジミの食物クララ
を植栽し、卵の採種をし、当面人工孵化をしながら固体の確保を図る。
・サンクチュアリを核として、自然にその周辺に生息が広がっていくことを目指している。1. 環
境整備(造成)6,407 ㎡、2. 人工孵化等の施設設備 簡易ハウス 40 ㎡、3. 調査研究
【事業効果】
・オオルリシジミの生育環境の整備ができ、今後のオオルリシジミの再生に期待大である。
【反省点】
・予備知識だけで活動を始めたが、現状実態把握不足にとどまった結果となったがオオルリシジ
ミの育成基盤ができた。
【今後の課題】
・平成 14 年にオオルリシジミの蛹を確実に孵化させ、固体の確保を図り、更に交尾をし固体を増
やす努力をする。観察会の実施。オオルリシジミの固体確定をできるだけ早い期間にする。こ
の固体確定には今後相当の努力と周囲の産地との連携が必要である。この活動を通じておおむ
らさき等チョウの保護に努め、立科の里の野生動物のマップづくりをする。生涯教育、学校教
育を通じて地域の輪を広げ、だれもが誇れる「ふるさとの再生」をすること。
2.福住氷まつり
【団体名】未来(ユメ)クラブ
【代表者】浦井 喜史
【事業実施期間】平成 13 年 2 月 18 日 ∼ 7 月 20 日
【事業実施場所】奈良県天理市福住町 福住地区
【共催、後援、協力団体】
共催:福住校区区長会、社会教育推進協議会、こども会、長寿会
後援:天理市、天理市教育委員会、財団法人まちづくり市民財団、トヨタ自動車株式会社
協力:福住小中学校、福住幼稚園、山田保育所
【事業内容・参加者数】約 300 人
【活動内容】
・2月に復元した古代氷室に芽で覆い貯蔵した 3 トンの氷を、7月 20 日に取り出し、第 3 回氷ま
つりを開催。天理市役所ロビーで「福住こおり祭り」事業紹介。
【事業効果】
・多世代交流と故郷意識の醸成。故郷の良さ再発見。
【反省点】
・地元幼児の作品展を行なった。1 日の作品展示では短いので次回は、祭り前に 1 週間程度の展
示期間としたい。
【今後の課題】
・テレビ放映で地域外からの参加が増えているが、地元参加を増やしたい。地域発展と創造の機
会とするとともに全国に発信できるイベントとする。
3.建築と子どもたちワークショップ 2001
【団体名】建築と子どもネットワーク仙台
【代表者】細田洋子
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 15 日 ∼ 9 月 30 日
(展示実施期間 6 月 23 日 ∼ 8 月 25 日)
【事業実施場所】仙台市青葉区堤町
【共催、後援、協力団体】
共催:
(社)日本建築学会東北支部、
(社)宮城県建築士会、助成支援:
(財)まちづくり市民財
団、
(財)ハウジングアンドコミュニティ財団、大成建設(株)
、協力:佐大商店、つつみのお
ひなっこや、仙台市歴史民俗資料館、東北学院大学・宮城学院女子大学・東北生活文化大学・
尚絅女子学院短期大学、後援:
(財)まちづくり市民財団、トヨタ自動車(株)
【事業内容・参加者数】
・市民 300 人(展示)
、小学校とその親 25 名(ワークショップ)
【活動内容】
・仙台市北部の堤町に残る藩政時代からの堤焼の登窯と旧作業所を舞台に、子供たちや市民に歴
史的な資源を公開し再認識してもらうことで、歴史的遺産を保全し地域の活性化に役立てるこ
とを目的に、窯元のの提焼・堤人形のコレクションを展示するとともに、小学校のまちづくり
学習の成果をパネルで展示したり、堤町の探検ワークショップを実施した。
【事業効果】
・この事業は、人々の記憶のよりどころとしての歴史遺産を継承し、車が通りすぎるだけの堤町
を、楽しいまち歩きのスポットに変えるきっかけになるのではないか、といった視点でテレビ
ニュースにも取り上げられるなど社会的な関心を呼んだ。
・展示期間中積極的に案内役を務めた窯元の佐藤家では、堤町の歴史を次代に伝えるため、今後
もギャラリーを運営していきたいと張り切っている。また、準備作業を手伝った学生や地域の
人たちが今後の協力を申し出ており、さらに多くの人々に活動の輪が広がってきた。
【反省点】
・準備期間が短かったため、展示物にひとつひとつにキャプションをつける作業が間に合わなか
った。
【今後の課題】
・登窯は大正 7 年につくられたもので、傷みが激しく早急な修復が必要である。ギャラリーに整
備したことにより、学校や市民センターなどから、来年から始まる総合的な学習の時間やまち
づくりワークショップなど、
子供たちのまち体験学習の拠点としてその活用を期待されており、
今回できなかった登窯の修復への対応がのぞまれる。
4.育て菅刈どんぐり林
【団体名】NPO菅刈ネット 21
【代表者】森田安彦
【事業実施期間】平成 13 年 5 月 25 日 ∼ 14 年 3 月 3 日
【事業実施場所】東京都目黒区 区立菅刈公園
【共催、後援、協力団体】
目黒区菅刈住区住民会議、目黒区みどりと公園課、目黒区立菅刈小学校、菅刈小学校PTA、
目黒区立第1中学校
【事業内容・参加者数】
・学校 5 日制実施をにらみ、野外体験、自然学習の受け皿となる里山の自然環境(ビオトープと
小川ならびにどんぐりの木の植栽)づくりを地域児童、生徒、保護者共々建設する。参加者延
べ 2500 人。
【活動内容】
・地域児童、生徒、保護者、に呼びかけ「どんぐ林クラブ」の結成
・ビオトープ (池 45 ㎡) 小川 (幅 1.5m×長さ 40m)の手掘建設(児童、生徒との共同活動)
・建設地周辺の植栽活動(どんぐり苗木植樹) 水草、水辺植物の移植
・水中生物(魚類、蛍幼虫他)の育成
【事業効果】
・活動進行に伴い前記団体との共同意識、体制が確立
・公園利用者を含む、地域住民のボランティア参加質量の拡大
・小中高生異年齢集団の交流の活性化
【反省点】
・活動ピークが夏季であったため、激しい力仕事(スコップ 1 本の手堀り作業)により、かなり疲
労(子供、成人共)状況により主催者として慌てたこともあり。(無事に終わったが…)
【今後の課題】
・池(ビオトープ)、小川の生、植物の自然繁殖、環境育成整備の定着
・児童生徒を主体とした継続的、系統的な自然体験学習の地域風土の育成
・活動を継続するために必要とする資金の確保
5.素人芝居大浦安2001公演制作及び開催事業
【団体名】素人芝居大浦安制作委員会
【代表者】市村一雄
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 1 日 ∼ 平成 14 年 3 月 11 日
【事業実施場所】新潟県東頸城郡浦川原村、及び東京都葛飾区柴又
【共催、後援、協力団体】
共催: 新潟県東頸城郡浦川原町 柴又フェスタ運営委員会、特別後援: 新潟県
後援: 新潟県東頸城郡浦大島町、安塚町、
(財)まちづくり市民財団、トヨタ自動車(株)
、葛
飾区、葛飾区教育委員会、柴又自治会、柴又小学校 PTA、
(財)葛飾区文化振興財団
【事業内容・参加者数】
・約 1400 人(関係者 50、観客 1350)大浦安 3 町村を含む上越地区はじめ、ひろく県内各地より。
【活動内容】
・「芝居づくりは地域づくり」をモットーに、過疎・高齢化・農業問題など地域が抱える課題をテ
ーマとした、大浦安(新潟県東頸城郡大島村・浦川原村・安塚町) 3 町村の住民による自主参加
の手づくりの演劇を実施しました。地元では浦川原村で公演。この他特別公演として、初の東
京公演として葛飾区柴又で公演を行いました。合わせて約 1350 名の入場者があり、芝居のメイ
ンテーマである「町村合併」「大浦安の戦中戦後史」「柴又児童の学童の疎開」「上越魚沼地域振興
快速道路」などについて、多くの皆様と共に考えるきっかけづくりができました。また柴又と浦
川原村との交流イベント「柴又フェスタ」10 周年記念に華を添え、両地域の交流促進と相互理解
に少なからず貢献したものと思われます
【事業効果】
・「芝居づくりは地域づくり」をモットーに下は 3 歳の女の子から上は 80 才過ぎのお年寄りまで、
世代・町村・職場の垣根を越えた出会いと交流が育まれた。
・脚本・演出から舞台美術・音響照明にいたるまで、共同作業による独自の演劇活動を行うとい
うスタイルは近隣に類がなく、地方の文化活動に一石を投じ、地域のイメージアップにつなが
った。
・芝居のメインテーマである、「町村合併」「大浦安の戦中戦後史」「柴又児童の学童疎開」「上越魚沼
地域振興快速道路」などについて、多くの皆様と共に考えるきっかけづくりができた。
・葛飾区柴又と浦川原村との交流イベント「柴又フェスタ」10周年記念に華を添え、両地域の交
流促進と相互理解に少なからず貢献した。
・東京・葛飾柴又公演を実現し、一地方の現状や課題をメッセージとして芝居を通じ都会に向け
て発信できた。
【反省点】
・初めての東京公演でもあり、当初計画を上回る経費がかかってしまった。
・参加者が例年の数を大幅に上回り、メンバーの統率等で問題があった。
【今後の課題】
・補助金も削除され、資金のめどがたたず、来年度以降の活動は流動的である。
・NPO 法人化などを視野に入れた継続的な活動として存続できる体制づくり。
6.市民参加による 21 世紀の新旭風車村のまちづくり
【団体名】まち子とつばさ(まちづくり実行委員会)
【代表者】新海 弘之
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 ∼ 平成 13 年 12 月
【事業実施場所】滋賀県高島郡新旭町華園、新旭風車村一帯
【共催、後援、協力団体】
商工会、観光協会、青年部、子供会連合会、テント村振興会、町役場、滋賀県湖国 21 世紀記念
事業協会
【事業内容・参加者数】
・新旭町の風車村一帯にて四季を通して様々なイベントを実施して、風車村の活性化を図ると同
時に、琵琶湖の環境問題を考える市民の輪を広げるための足掛かりを構築すること。
・通年で、約1万人
【活動内容】
・平成 13 年 4 月 22 日:フリーマーケット、大声大会、花の抽選会
・平成 13 年 8 月 5 日:ヒットペット大会、総おどり大会への協賛
・平成 13 年 10 月 14 日:フリーマーケット
・平成 13 年 12 月 23 日:クリスマスツリーコンテスト
【事業効果】
・貴財団の認定を受けたこと、および滋賀県の湖国 21 世紀記念事業の「水といのちの活動団体」
の一つに認定されたことから、町民をはじめ周辺市町村の人々や京阪神からの観光客にも我々
の活動を十分にアピールできた。少なくとも以前よりこの風車村が琵琶湖の水質保全のへの役
割を果たしており、京阪神の水瓶としての重要な施設であることを活動を通して多くの人に認
識してもらえたものと自負している。
【反省点】
・活動資金の不足から、広報活動が十分にできなかった。NHK、地元の琵琶湖放送、FM 滋賀など
のメディアの協力もあったが、ポスターや新聞の折込チラシなどの枚数を増やし宣伝をしたか
った。メンバー全員何らの団体にも属さない一般市民であるので、行政や各種団体などの協力
要請などに更なる努力が必要であったと反省している。
【今後の課題】
・我々の活動は今後も継続しなければ意味がない。
・しかし資金不足から、次年度以降の見通しが現在全くないことが大きな課題である。
7.里山保全ワークショップ in 庄原
【団体名】「里山保全ワークキャンプin庄原」 実行委員会
【代表者】早田保義
【事業実施期間】平成 13 年 8 月 5 日 ∼11 日 6 泊 7 日
【事業実施場所】広島県庄原市 国営備北丘陵公園及び七塚原一帯
【共催、後援、協力団体】
共催:NICE(ナイス=日本国際ワークキャンプセンター)
後援:国営備北丘陵公園、中国新聞社、庄原市、広島県立大学
【事業内容・参加者数】
・約 100 名(参加者:34 名、実行委員:15 名、講師:10 名、地元の協力者等:約 40 名)
【活動内容】
・備北丘陵公園内の里山の整備作業(植生調査、下草刈り、除間伐、看板づくり、炭焼き等)
・座学(里山学概論、里山人間学)
・里山のくらしを豊かにする料理に挑戦
・生業としての林業の現場の視察
・地域の人々との交流
【事業効果】
・参加者が、里山整備作業や古い民家での共同生活の体験を通じて、里山のくらしや庄原の地域
の持っている良さに触れ、関心をもつことができた。
・一週間の共同生活により、多くの友情を生み出すとともに、今後も続くネットワークを生み出
した。キャンプ終了後には、参加者同士では、自主的にメーリングリストを立ち上げた。
・多くの地元の人々が講師として、あるいは野菜・食材等の差し入れで協力して下さったり、ま
た交流会に出席して下さったため、多くの出会いの場面を生み出し、参加者も地元の人々も、
お互いに刺激を受けた。
・参加者が古い民家での生活や薪での自炊等を楽しんでいるの姿に、民家の所有者や地元の人々
が刺激を受けた。
・海外の参加者がいることで、何とかコミュニケーションしようと頑張る場面を生み出し、その
ことで参加者の連帯感が深まった。日本人参加者にとっても、海外の参加者にとっても刺激に
なり、お互いの国を知るための良いきっかけになった。
・今回の取り組みを通じて、備北丘陵公園の利用の仕方を、地元に住む者が提案し、実行すると
いうきっかけを作ることができた。
【反省点】
・里山というテーマに関して、里山とは何か・何を目指して整備するのかといった議論が十分に
できないままプログラムを進行していったため、整備作業に十分一貫性を持たせることができ
なかった。
・多くの講師に関わっていただくことができたが、講師との連絡・調整が不十分で、若干、内容
の重複等もみられた。
・専属で運営に関われるスタッフが限られていたため、運営上目の行き届かない点が見られた。
【今後の課題】
・里山とは何か・何を目指すのかについての議論を深めていく必要がある
・目的を決めた上で、それに沿ったプログラムを組み、講師も吟味してできるだけ地元の事情を
よく知った講師に協力していただくようにする。
・今後、企画・運営のできる人材を育てていく必要がある。
8.What’s up in Kuwana ?! 高校生スペシャル
【団体名】What’s up in Kuwana ?!
【代表者】水谷慎吾
【事業実施期間】平成 13 年 11 月 ∼ 平成 14 年 3 月
【事業実施場所】三重県北勢地域
【共催、後援、協力団体】
番組制作のサポート:四日市FMポートウェイブ、番組制作に協力していただいた高校:いな
べ総合学園 津田学園 桑名工業高校 桑名北高校 暁学園、番組のスポンサー:(株)インタ
ーナショナルトラベルオフィス
【事業内容・参加者数】
・番組に出演してくださった方々:員弁総合学園、津田学園、桑名工業高校、暁学園高校、桑名
北高校、スタッフ、計 42 名
【活動内容】
・自分達が学生生活の中で感じていることや、自分達の目から見た地域社会、これからの社会人
になって自分達の暮らす街について、どんな未来を描いていけるかなど、自らテーマを見つけ
掘り下げていく。
・これからの番組を、地域のコミュニティFM放送局で実際に番組として放送。
・各学校にホームページを開設し、自分達の手作りの番組がインターネットラジオのかたちで放
送できるようにすると共に、掲示板を設け、意見交換の場を作る。また、このHPをポータル
サイトにし全国に発信する。
・最後は、実際に番組づくりに関わった高校放送部の皆さんと、ボランティア体験・職業体験を
された高校生の皆さんに集まって頂き、ワークショップを行い、こうしてまとめられた成果物
について、更にスペシャル放送を行う。
【事業効果】
・市民の方々が、高校での地域との取り組みや社会活動を知ることができた
・NPOと学校の情報交換ができるようになった
・番組放送を通じて高校生にも社会体験ができた
・交流会を通じて他の高校生との交流が始まった
【反省点】
・番組への反響が少なかった
・話し方を放送できるまでに持っていくのが予想より大変だった
【今後の課題】
・もう一度番組を作りたいという声があるので、次回はスポンサー集めから高校生たちが関われ
るようにしていきたい
・せっかくできたネットワークなので高校生にもぜひ生かしてもらえるように考えていきたい
9.境川流域の自然景観づくり
【団体名】境川流域の自然景観をつくる会
【代表者】植田 稔
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 1 日 ∼ 平成 14 年 3 月 31 日
【事業実施場所】藤沢市(今田・高倉)
・横浜市の境川流域
【共催、後援、協力団体】
協力団体:藤沢市科学少年団・藤沢市立湘南台小学校、日大自然保護研究会
【事業内容・参加者数】
・境川流域の自然観察会・野遊び(6 回)
・境川フォーラム(1 回)成人・大学生・小学生 延 178 名
【活動内容】
・境川流域の自然生態の観察会・野遊び(大学生・成人)
・4・5・6・7 月例会/デジタルカメラ自然生態撮影
・境川探検クラブ(自然生態観察・野遊び)
:11 月∼1 月 小学生・大学生ペアによる自然観察、
11 月野遊び:草木染め・木の実造形・デジカメ撮影、1 月野遊び:七草がゆ・葉の葉脈のしおり
【事業効果】
・境川流域の四季の変化に対応して豊かな生き物・植物との出会いがあることを体験的に確認し、
地域に資料を提供した。
・小学生・大学生の参加で、若者の自然への感性の豊かさを改めて認識させられた。
(次年度の企
画に生かす)
【反省点】
・境川遊水地整備事業の進展によって、自然生態がどのように変化していくかについての水質・
土壌・植生などの定点観察という専門的な調査まで踏み込むことができなかった。
・収集した資料を整理・発信するシステムを確立できなかった。
【今後の課題】
・境川流域には、自然とふれあい、親しむことができる豊かな自然生態があることを地域の人々
に情報を発信していくこと。
・境川遊水地整備事業について、地権者と共に考え共に活動する場を地道につくっていくこと。
10.一色能の開催
【団体名】一色町能楽保存会
【代表者】土屋喜八郎
【事業実施期間】平成 14 年 3 月 17 日 (日)
【事業実施場所】一色町公民館仮設能楽舞台
【共催、後援、協力団体】
伊勢市、伊勢市教育委員会、一色町、(財)まちづくり市民財団、トヨタ自動車工業株式会社
【事業内容・参加者数】
・関東、東海、三重県の能楽愛好者及び住民 約 300 人
【活動内容】
・能、狂言:翁 1 番、能、狂言、舞囃子、連吟 各 2 番、仕舞 4 番、練調 1 番、独吟 1 番
【事業効果】
・会員に好結果をもたらし、一色能の保存育成ならびに地域の文化の振興と活性化に役立てたこ
とと思います。
【反省点】
・奉納能としては十分に観客を堪能させることはできたと思うが、
・稽古に時間が足りなかったため、会員は苦労した。
【今後の課題】
・プログラム作成には稽古に十分時間が取れるよう出演計画を検討のこと。
11.水元公園WAKATE フェスタ
【団体名】特定非営利活動法人葛飾区若手産業人会
【代表者】瀧澤一郎
【事業実施期間】平成 13 年 7 月 20 日 (金:海の日)
【事業実施場所】東京都立水元公園(葛飾区) せせらぎ広場周辺
【共催、後援、協力団体】
共催:
(財)葛飾区文化振興財団 大江戸ダンス、ウォーターネットワーク、後援:東京都 葛
飾区 葛飾区教育委員会 (財)葛飾区地域振興協会 葛飾区観光協会 葛飾区商店街連合会
水元自治町連合会 都立水元公園を守り育てる会 社会福祉法人東京都社会福祉協議会 社会
福祉法人葛飾区社会福祉協議会 (財)まちづくり市民財団 (社)東京青年会議所葛飾区委
員会 (社)葛飾法人会青年部会 葛飾エフエム放送株式会社
株式会社葛飾ケーブルネット
ワーク トヨタ自動車株式会社 株式会社エム・エンタープライズ NPO葛飾福祉サービス
振興会、
協力:警視庁亀有警察署 消防庁金町消防署 金町消防団 (財)東京都公園協会 (社)
葛飾区医師会 NPO日本イベント振興センター わいわい企画 かつしか地球村 水元野球
ソフト連盟 NPO国際スポーツアカデミー ミニ水田のめだかの学校 ゴミ 0 ネットワーク
ガールスカウト東京都第 148 団 かつしかまちかどネットワーク 富士通株式会社 CSI株
式会社 キリンビバレッジ株式会社 キリンビール株式会社 株式会社グッドスタッフ
【事業内容・参加者数】約 2 万人
【活動内容】
・水元公園せせらぎ広場に、若者を主体とした大勢の区民に集まって頂き五感に訴えるライブス
テージを開催し、同時に各種ボランティア団体等のPRブース・模擬店を約 50 ブース、フリー
マーケットを 400 区画近く開設した。メインステージでは、「環境音楽(水の音源風景)」を奏で
るウォーターネットワークや、ダンスを通じた青少年の健全育成を目指す「大江戸ダンス」の皆
さんのダンスショー、葛飾区内アーティストによる演奏などを繰り広げた。特別ゲストとして
“直訳ロックの「王様」”
、今話題の「メロン記念日」においで頂き来場者を喜ばせた。
【事業効果】
・水元公園という都立公園でも地域密着型の事業。野外ライブや模擬店・フリーマーケットの運
営が可能である事が証明された。20 代∼40 代の若手層に、自然環境豊かな水元公園の新しい利
用方法をPRできた。
【反省点】
・初回につき、運営スタッフと予算の少なさに悩まされた。特に模擬店テントの設営から撤去・
返却までは想像を超える大作業であった。開催期間を延長して欲しいとの声もあった。
【今後の課題】
・これ以上の大人数が集まった場合、駐車場は間違い無く不足するだろう。イベントを通じて公
園利用者を増やす為には、駐車スペースの確保も重要な課題である。
・実行委員会のスタッフの拡充と資金面の拡充は必要であるが、この点については地域で主体的
に参加するグループを育成して行く事により可能になるだろう。
12.環境を考えるガーデニング講座
【団体名】特定非営利活動法人 日本公開庭園機構
【代表者】佐藤哲信
【事業実施期間】平成 13 年 6 月 1 日 ∼ 平成 13 年 11 月 30 日
【事業実施場所】大田区、世田谷区、杉並区、文京区、台東区
【共催、後援、協力団体】
後援:東京都建設局、杉並区、文京区、台東区、中央ろうきん
協力:大田区、世田谷区、JA 東京植木、英国政府観光庁、ニュージーランド政府観光局、オラ
ンダ国際球根協会
【事業内容・参加者数】
・大田区、世田谷区、杉並区、文京区、台東区の各区内在住、在勤、在学の方 合計 190 名
【活動内容】
・「環境を学び、私たちの中から庭からまちづくり」をテーマにした講座の開催。
・今日から一人でできる身近な緑化(自宅の庭づくり)から、環境保全参画。
(民有地の緑被率の向
上、環境保全意識の高揚)
・地域の気候風土や周辺の雑木林、崖線の植生と融合する質の高い庭づくりの推進。
(周辺の緑と
連続する緑の形成)
・庭づくりを通じて人々の交流や、助け合い。
(緑の市民ネットワークづくり)
・庭づくりを通じて、緑の市民活動やボランティア活動への参加。
(環境活動への参画)
・瓦や端材を再利用する手作りガーデンの推進(資源の再利用)
【事業効果】
・民有地(特に住宅地)の緑の役割と位置づけ、重要性を理解してくれました。
・受講者は、19 歳から 85 歳、職業は主婦が大半でしたが、ボランティアのグリーンリーダーや
まちづくり公社、区役所、障害者施設の職員、NPOリーダーなど幅広い方に環境緑化をアピ
ールすることができました。
・今回の講座開催がキッカケで、「子供たちの交通安全のための住宅街の安全緑地帯づくり」をテ
ーマとした「チャイルドパーク運動」の発想が思いつきました。これが私たちのNPOにとって
は最大の成果です。
【反省点】
・5会場で実施したアンケート(添付別紙参照ください)では、今回の講座の再開講や講座時間
の延長、2 日講座、シリーズ講座を希望する回答が多数寄せられました。
(次回の開催案内は、
実に 93%が「要」の回答)
・「それぞれの講座をもっとじっくり話を聴きたい」という意見です。予算との兼ね合いはありま
すが、やりくりして、工夫して「さらにわかりやすい講座」を目指したいと思います。また、休
日開講希望の意見もありました。
【今後の課題】
・「公開庭園」のネットワークづくり
・他人の庭を拝見して、庭づくりの参考にしたいという意見が多数ありました。
・公有地、民有地の「チャイルドパーク運動=角地(隅切り部分)のオープン化運動」の推進、チ
ャイルドパーク協議会、チャイルドパーク基金の設置∼子どもたちやお年寄りのために見通し
の良い緑地帯をつくろう∼
※「庭の役割や位置付け」を明確にし、市民ひとり一人が「環境や地域の安全と個人の庭の相関」を
理解したときに、官民一体のやさしいまち・やさしい人が実現すると思います。「環境を考える
ガーデニング講座」が市民対象の講座でありながら、
市役所と協働で開催する目的がここにあり
ます。
13.国東半島安岐海岸子供体験フェスタ 2001
【団体名】国東半島安岐海岸ふるさとづくりの会
【代表者】野田忠治
【事業実施期間】平成 13 年 7 月 19 日 ・ 20 日
【事業実施場所】大分県東国東郡安岐町大字塩屋 安岐海岸
【共催、後援、協力団体】
共催:安岐町・安岐町教育委員会・安岐町商工会青年部
協力:国東半島ボードセーリング大会梅園カップ実行委員会、日赤大分支部 ・新町の会
後援:大分合同新聞・NHK大分放送・OBS大分放送・TOSテレビ大分・OAB大分朝日
放送・FM大分
【事業内容・参加者数】
・安岐町内小学校 600 人・中学校 280 人・園児 150 名その他町外児童・生徒・園児約 50 名が参加
対象、ギャラリー・保護者含め延べ参加者約 1384 人、スタッフ延べ約 126 人、推定ギャラリー
1000 人 合計2510人
【活動内容】
・本年は、19 日が町内学校の終業式にあたり午後から夏休みということで、海の記念日 20 日ま
での 2 日間を利用し小・中・幼などの子供を対象にふるさと安岐海岸と触れ合う体験活動を下
記の内容で実施しました。
①ふるさと安岐海岸を考えるパネルディスカション
町長・区長会長・婦人会長・地元サーフィンクラブ会長・高校生、中学生、小学生代表がパネ
ラーとなり町企画課の海岸整備構想の説明に対し活発な要望・意見交換が行われました。最後
に、高校・中学・小学生の各代表による「安岐海岸の未来」と題した作文発表がなされました。
(参加 150 名)
②ふるさと安岐海岸クリーンアップ作業
参加者全員による海岸清掃を実施しました。(参加 200 名)
③日赤水上安全講習会
夏休みを前に親子で参加の水上安全講習会を実施しました。(参加 50 名)
④ふるさと安岐海岸ふれあい体験事業
ウインドサーフィン体験…ウインドサーフィン教室を開き海と触れ合いました。
(参加 100 名)。
サンドアート大会…グループによるサンドアート大会を実施しました。(参加 60 名)。ビーチコ
ーミング教室…海の漂流物や石・海などを使い色々なオブジェの制作に挑戦しました。
(参加 28 名)。浜辺のキャンパス…「海・環境・ふるさと」をテーマに小学校より絵画を募集、そ
の中最優秀賞の作品を 2 日間かけて海岸の護岸に 6m×5mで参加者で書き上げました。続いて
毎年継続して描いていくつもりです。
(参加 50 名)。魚釣り大会…魚釣り大会を実施しました。
(参加 70 名)。ビーチバレー大会…小・中学生に分かれ各トーナメントによる大会を実施しまし
た。(参加 76 名)。ふれあいバーベキュー…2 日目昼食時に参加者全員でバーベキューをしまし
た。(参加 300 名)。宝捜し大会…参加者全員で宝捜しを実施しました。(参加 300 名)。
【事業効果】
・今回親子で子供たちを中心にふるさとの海で触れ合うことにより、貴重な安岐海岸と海の恵み
のすばらしさの意識高揚が図られ、ふるさと安岐海岸の自然を生かした町民がが、又子ども達
が楽しく触れ合える環境づくりの町民意識高揚が図られました。
・また、国東半島安岐海岸ふるさとづくりの会の更なる結束が図られ、今後の町おこしグループ
活動にはずみがかかり意識高揚が図られました。
【反省点】
・今回当助成金の決定を頂いて事業に着手した為、他事業のスケジュール(学校の夏休み行事)
等と重なり日程調整に苦慮しました。一部こども達が参加できない状態が生じました。どうし
ても助成金を受けないと事業として公表できず苦慮しました。来年も実施しますが、町よりの
補助金は毎年確約できましたので今後は1 日の事業として縮小して7 月20 日海の日に毎年実施
ということで定着させたいと思っています。
【今後の課題】
・今後も当事業は、海の日に規模を縮小してでも実施していこうと考えています。しかし、なに
ぶん事業費が不足するのは、必至です。今回事業においてもかなり会員の自己資金でおこなわ
れた部分も多くボランティア参加にとどまらない部分も多く、今後貴助成も無くなれば事業費
の不足が今後の最大の課題になります。
14.THINK 世田谷/地球環境セミナー
【団体名】世田谷「地球村」
【代表者】古谷真一郎
【事業実施期間】平成 13 年 9 月 29 日
【事業実施場所】東京都世田谷区世田谷4−21−27 世田谷区民会館ホール
【共催、後援、協力団体】
世田谷区、株式会社FM世田谷、世田谷区教育委員会、日本ボーイスカウト東京連盟世田谷地
区、地球市民会議、株式会社世田谷新聞社
【事業内容・参加者数】一般男女 1010 名
【活動内容】
・セミナー実施前に環境団体を訪問して活動状況をアンケート調査した。
・セミナーの講師に高木善之氏を迎え、地球環境の現状について話していただいた。また来場者
に上記の環境団体の紹介を行った。
・会場内に環境団体PRブースを設置して環境団体と区民の交流を図った。
・セミナー終了後、環境団体の交流会を実施して他団体同士の連携を図った。
【事業効果】
・区民の方に地球環境の現状について関心をもっていただけた。
・区民の方にどのような環境団体があり、どのような活動をしているか紹介できた。
・環境団体同士が交流する機会を提供できた。
【反省点】
・受付が混雑した
・会場内に飲料の販売機がなく、のどが渇いた人がいた。
・環境団体調査が十分にできなかった。
【今後の課題】
・どのようにしてもっと多くの人に地球環境に関して関心をもっていただくかが今後の課題です。
15.旧桑島眼科医院の内部設備改善事業
【団体名】旧桑島眼科医院保存の会
【代表者】芳賀忠一
【事業実施期間】平成 13 年 8 月 1 日 ∼ 平成 13 年 8 月 30 日
【事業実施場所】長井市本町1−4−9 桑島記念館
【共催、後援、協力団体】本町大通り商店街振興会
【事業内容・参加者数】照明器具設置事業
【活動内容】
・平成 7 年に取り壊される予定であった旧桑島眼科医院は、市民運動によって移転保存再生され
たが、内部照明コンセント設備がなく、今回貴財団の助成金により分電盤、照明器具、コンセ
ントの設備取り付け事業を行った。
【事業効果】
・夜間の会議や、イベント使用時に対応できるようになり、中心市街地にあるため、利用効果も
大きい。
【反省点】
・今回、貴財団の助成金とあわせて寄付を募り、2.空調設備の工事も行う予定であったが、時節
柄寄付が集まらず、今回は 1.照明器具設備のみとなった。
【今後の課題】
・歴史的建造物に対する関心は近年高まりつつあるので、本建物においても、イベント等で価値
を発信し、利活用に関する意識啓蒙を計り、合わせて金銭的支援要望に取り組みたい。
16.忠別川C&R(キャッチアンドリリース)普及啓発活動事業
【団体名】アールエヌアイ
【代表者】深澤一好
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 1 日 ∼ 平成 14 年 1 月 31 日
【事業実施場所】北海道旭川市 忠別川中・下流河川河畔地区
【事業内容・参加者数】事業実施場所における釣り人、延べ約 20,000 人
【活動内容】
・本会会員が、定期的(1 週間に 2 回以上)に河川パトロールを行い、訪れている釣り人達と接
し、C&Rの意義と効果をつたえ自然環境保護啓発のチラシを手渡して、自然環境保護意識と
マナーの向上につとめる。
・また、釣り場として栄えているポイント 10 カ所に、自然景観を損ねることのないような告知看
板を設置し、釣り場マナーの周辺や周辺エリアがC&R推進区域であることの告知を行う。
【事業効果】
・パトロール員が啓発活動をしながら巡回することで、乱獲者への心理的圧力となり、ある程度
乱獲を押さえる事ができた。
・また、本活動に理解を示した釣り人が乱獲者の情報を提供したり、自発的にチラシを配るなど
普及啓発活動の効果を見ることができた。
【反省点】
・パトロール員の正義感から、まれに乱獲者との間に口論が発生する事などがあり、パトロール
員の接遇講習の必要性を感じた。
・告知看板については設置場所として、旭川開発建設部の管理する河川敷を検討していたが、手
続きに予想以上の時間がかかるため、釣り場入り口の農家敷地に無償で立てさせてもらい、冬
期間は事務局で保管することとなりなった
【今後の課題】
・アメリカやニュージーランドなどのスポーツフィッシング先進国では、法的な漁獲量制度があ
り、違反した場合検挙される例も相当あるのだが、我が国では現時点で法的な強制力が無いた
めに乱獲を現認しても注意する程度なので、地道な啓蒙活動によるモラル向上をはかる事が重
要である。
・どの魚を何匹持ち帰ると乱獲に相当するのかという基準がないので、公開ディスカッション等
で具体的な数量を話合い、当該地区の自主ルールとして定着させてゆく事が必要と感じた。
17.「桃色レンガ ワークショップ∼ 桃色レンガで地域住民の過去と未来をつなぐ」
【団体名】NPO法人 琴芝ふぁんくらぶ
【代表者】木原真三
【事業実施期間】平成 13 年 8 月 15 日 ∼ 8 月 21 日
【事業実施場所】山口県阿知須町 山口きらら博 きららネットギャラリー
【共催、後援、協力団体】
後援:宇部市/山口県産業技術センター
協賛:有帆瓦店(有)/ 有帆建材工業所(有)/(有)いずみ工房/(株)伊藤回生堂/宇部
市子供エコクラブ/(社)親生会うべくるみ園/(公)宇部文化洋裁学院/(株)内平工業所
/(有)キハラ写真館/(株)フラワーハウス磯村/薬仙石灰(株)/恭井建設(株)/山口県
里山インストラクター北村健治/(株)山口フジカラー
【事業内容・参加者数】
・運営参加者人数(制作・搬入搬出・救出・ワークショップ運営等)78 名。期間中会場見学人数
10,116 名。期間中ワークショップ(各種体験プログラム含め)参加人数 1,142 名。プレイベン
ト(4/8、4/22、5/5)参加人数 189 名。
【活動内容】
・桃色れんがをテーマにした風景写真・研究パネルの展示
・再生した桃色れんがを中心とした空間展示
・ケナフ、水生植物、間伐材、風倒木を活かした作品の展示
・宇部炭の石炭灰を使った萩焼作品の展示
・桃色れんがを実際に制作できる体験型ワークショップの開催
・廃材桃色れんがを再リサイクルする実験型のワークショップの開催
・水生植物(ケナフ、じゅず玉)を使った体験学習プログラムの実演
【事業効果】
・10,116 名の方々に来訪していただき、桃色れんがを再発見していただけた。
・各種体験型プログラムを通じたワークショップに 1,142 名の方々に参加していただくことがで
きた。特に桃色れんがに関しては、
プレイベントも含めると 1,255 名の一般市民の方々と体験を
共有できた。
・本事業に向けた桃色れんがの調査・研究を通じて、琴芝ふぁんくらぶや山口県産業技術センタ
ー薬仙石灰(株)の3者による市民・行政・企画による横断的な研究体制を確立することがで
きた。これにより、NPOの地域研究の機関としての新たな方向性を提示することができた。
・知的障害者授産施設であるうべくるみ園に空間展示の為の桃色れんがの制作を依頼し、1,230
個のレンガを制作していただいた。事業期間中においても製作実演していただいた。これは、
社会福祉的な成果であるといえる。
・実験型ワークショップを通じて、廃材桃色れんが自体を建築素材としてもう一度リサイクルで
きることが確認できた。これは焼成しないという桃色れんがの硬化原理に起因する。代替原料
によるレンガ硬化体づくりの実験を通じて、火力発電所の石炭の燃焼灰(ボトムアッシュ等)
や石灰廃土等の現在の産業廃棄物がレンガとしてリサイクルできることが確認できた
【反省点】
・予算の見積り分に見合う資金を調達することができなかった。今回の大きな成果を実績として
PRし、今後の活動資金を確保していく必要がある。
・本事業において地域にいる多くの人材を十分に活かしきれたとはいえない。より多くの人が研
究・企画・運営に主体的に関われる体制づくりを進める必要がある。
【今後の課題】
・半世紀前に形成された桃色れんがの景観を半世紀後の未来につなげていくために、桃色れんが
の景観を保全し、
貴重な桃色れんが自体を安定的にリサイクルしていくための方法論を確立し、
まちづくりに活かしていくことが課題である。
・桃色れんがの景観を保全していくために、桃色れんがの地域における価値をより高め、多くの
人に理解していただくかが課題である。今後とも同様のイベントを継続してPRしていくとと
もに、今回特に明らかになった桃色れんがの物的な特異性以外にも、歴史的意義や地域におけ
る実態をより明らかにし、文化的な価値について考察を深めていく必要がある。
18.渋田川沿いに自然環境に配慮したプロムナードづくりとその維持管理
【団体名】21 渋田川プロムナードプラン推進協議会
【代表者】小林長治
【事業実施期間】平成 13 年 4 月 1 日 ∼平成 14 年 3 月 31 日(平成 13 年度分)
【事業実施場所】平塚市域内の渋田川沿川
【共催、後援、協力団体】横内・横内団地・真土・松が丘・中原・城島・豊田地区連合自治会
【事業内容・参加者数】約 300 人
【活動内容】
①第 2 回桜まつりの開催(4/8) 来場者約 8,000 人 満開の桜の下、人出で賑わった。
②桜の木の下草刈り、消毒及び施肥を 5 月∼11 月にかけて、地区ごとに 2∼3 回実施、参加延人
数約 350 人
③地域住民への啓発と報告を兼ねて、会報の発行№ 7・8 号
④第 3 期プラン策定のため、下田爪木崎水仙の見学 参加 42 名
⑤第 2 期プラン「あじさい」植栽(3/10・3/17)実施参加人数 254 名 合計 1,500 本植栽
【事業効果】
・草刈り等、日常の維持管理活動により土手が大変きれいのなり不法投棄が大幅に減った。また、
ウォーキングをする人が大幅に増加し、土・日は夕刻まで絶え間がなかった。
・桜まつりの開催で地域住民の交流が深まり、また川辺への関心が高まった。
【反省点】
・次の世代へと活動の広がりをすすめることが十分できなかった。
・クリーン渋田川へと第一歩をふみ出しただけだった。
【今後の課題】
・プロムナ−ドをさらに延ばし中味を充実したものにしていくこと、またさらに多くの人に活動
に参加してもらえるようにして、各世代に亘っての活動とする具体的長期計画の検討。
19.岩島の麻づくり体験及び後継者育成事業
【団体名】日本麻協会
【代表者】岡沼隆志
【事業実施期間】8 月 7∼8 日、17∼24 日
【事業実施場所】長野県諏訪市 岩波金太郎氏の作業場
【共催、後援、協力団体】共催:諏訪麻保存会、協力:岩島麻保存会
【事業内容・参加者数】
・8 月 7∼8 日:22 名
・8 月 17∼24 日:延べ 30 名
【活動内容】
・当初、群馬県吾妻町の鳥頭神社で事業を実施する予定であったが、6 月 10 日に発生した降ひょ
う被害によって麻が全滅したため、急遽、諏訪麻保存会(代表 岩波金太郎)のある長野県諏訪
市にて実施することになった。
・8 月 7∼8 日
・8 月 17∼24 日
麻の収穫作業、湯かけ、乾燥作業
水浸し、ねど、麻はぎ、麻ひき、乾燥、製麻作り
・研修コースには 2 名、体験コースは延べ 48 名参加。
【事業効果】
・麻ひき作業に必要な道具「おかき包丁」「おかき台」を 10 セット製作したことにより、参加者一人
一人の体験時間を多く確保できた。そのため、麻への理解の深まりや技術習得に力をいれるこ
とができた。
・また、いくつかの新聞報道によって、地域住民の認知度を高めることができた。
・その他には、全ての一連の作業工程のコツを岩島麻保存会の方からの指導によって技術伝承に
大きな貢献をした。何よりも技術指導した岩島麻保存会の方にこの活動について非常に喜んで
いただいたのがよかった。
【反省点】
・吾妻町での実施も検討したが、作業と原料確保の面で無理が多く、場所の変更を余儀なくされ
た。また、作業日程上、土、日曜日などの休日に実施していれば、より多くの参加日の体験を
してもらえたと思われる。
【今後の課題】
・来年度は、岩島麻保存会のある群馬県吾妻町で実施し、地元の農協や町役場、住民に幅広く呼
びかけ、町の活性化につながる活動を行うことが大きな課題である。また、予算不足で調達で
きなかった専用の道具「麻煮釜(麻茎を煮るためのお釜)」や水浸し用の麻舟(大きな水桶)も
新しく取り揃えていくことも課題である。
又、
天災によって原料が確保できない事態に備えて、
麻の栽培者をもっと増やすことも求められている。
20.上五十沢集落の地域と風景の保全
【団体名】五十沢木匠塾
【代表者】温井 亨
【事業実施期間】茅屋根の修復を通して村の文化を学び、行う地域づくり
【事業実施場所】山形県村山市五十沢地区
【共催、後援、協力団体】
後援:五十沢かやぶきの里景観会議、木匠塾
支援:村山市商工観光課、山形県林業公社、北村山森林組合、東北芸術工科大学公認サークル、
宮城大学:公認サークル
【事業内容・参加者数】
・東北芸術工科大学学生・大学院生約 35 名、宮城大学学生・大学院生約 10 名、五十沢地区住民
約 20 名、県・市・林業公社・森林組合職員約 10 名、大学教員・その他約 10 名
【活動内容】
・活動拠点である茅葺き民家の屋根の葺き替え
・集落の草刈、農繁期前の農道等の補修に参加
・茅場草刈り
・茅刈り
・ゴミステーションの建設
・炭焼き手伝い、炭販売
・20 年生の杉林の間伐、皮むき体験
・林業と木造住宅に関する座談会
・そばの栽培とそば打ち
・雪下ろし、除雪
【事業効果】
・大雪で壊れた屋根の 2/3 の修復が実現した
・高齢の茅葺職、大工職との交流、技術を勉強
・住民との交流
・木を使った製作物第1号の完成
・初めての間伐体験、山林について考える。
【反省点】
・参加学生は、個々の技術を学ぶことに熱意を持って取組んだが、村の将来を考えるという大き
な視点、地域計画的視点について弱点が感じられた。
【今後の課題】
・残された 1/3 の屋根の修復
・地域計画視点に立って村を見ることができるようにするための教育的誘導をいかに工夫
21.良寛さまとあ・そ・ぼ 祭
【団体名】良寛さまとあ・そ・ぼ祭実行委員会
【代表者】川瀬弓子
【事業実施期間】平成 13 年 9 月 15 日(土・祝日)
【事業実施場所】八幡公園・越後三条良寛の道
【共催、後援、協力団体】
後援: 三条市、三条市教育委員会、三条新聞社、越後ジャーナル社、新潟日報社、三条南ロー
タリー、三条八幡宮総代会。
協力団体:三条市ふるさと運動推進協議会、三条市子ども会連合会、NPO三条おやこ劇場、
県央フリーマーケット協会、三条地域学生、ボランティア連合会、ノジコの会、みんなで楽し
む会、NPO地域たすけあいネットワーク、応援団体:三条市社会福祉協議会、三条市社会福
祉事務所、三条市小中学校長会、三条市PTA、連合会、三条市身体障害者福祉協会、三条ロ
ータリークラブ、三条北ロータリークラブ、三条ライオンズクラブ、三条中央ライオンズクラ
ブ、
(社)燕三条青年会議所、インマヌエル・ルーテル幼稚園、三条白百合幼稚園、聖公会・聖
母幼稚園、宝塔院幼稚園、松葉幼稚園、みのり幼稚園、三条若葉幼稚園、三条信用金庫、(株)
コロナ、三条女性会議
【事業内容・参加者数】
・幼児から高齢者まで、午前 9 時∼午後 4 時までの延べ参加人数約 1000 人(焼きそば 630 食、か
き氷 500 食、ホットドック 250 食、菓子パン 50 食から)
【活動内容】
①越後三条良寛の道探検隊:既に整備されてはいたが今ひとつなじみの薄い「越後三条良寛の道」
を子どもや高齢者、
ハンディキャップの方も歩ける範囲で、
まちなみ探検隊として再構成した。
当初は スタンプラリー方式で順位をつける計画であったが、公道に出るので交通事故を心配
し、自由な散策とし、先着10組をポラロイドカメラで記念撮影をした。出発前にパネルシア
ター「良寛さまってどんな人?」を上演し、雰囲気を盛り上げた。その後参加者は三々五々出
発、6 ポイントで良寛さまの人となりがわかるクイズを解き、スタンプをおしてもらいなが
ら、約1時間をかけてもどってきた。
②良寛みこしをかつごう:
「八幡さまの子どもみこし」に「良寛みこし」を加えることにした。当
初は樽みこし程度を計画していたが、結果は三条の匠の技、石田仏壇さんと堀川電気店さんの
善意の奉納による芸術品が生まれたのである。本年は、あえて未完成とし、子どもの成長と共
に育てていくことにした。屋根の四方を飾る良寛様ゆかりのてまりは、栃尾市在宅支援センタ
ー「てまり」からの寄付であった。また、思いをつづる短冊は、痴呆の リハビリ施設「通所
リハビリテーション樫の森」の会員さんの手作りである。
③子どもの縁日:
「フリーマーケット」を「子ども縁日」とし、子どもの創意工夫による遊びコー
ナーを加えた。じょんのび子ども会の子どもたちのアイデアによる「おばけやしき」は、前述
痴呆のリハビリ施設「通所リハビリテーション樫の森」のプログラムの大道具小道具を骨格に
して段ボールとテントで創った。真っ昼間のお化け屋敷の暗闇は?「サングラスをかけて入れ
ばいいよ!」子どもたちのアイデアは目からうろこ、である。屋台は、恒例の焼きそば・かき
氷・のみもの、今年からその日できたてのホットドッグと菓子パン、学生ボランティアの大活
躍により、全て完売だった。
【事業効果】
・本事業はのテーマ「良寛さまの縁を活かし子ども主役の21世紀の祭を創る」のもとに、趣旨・
目的「次世代文化の担い手である子どもたちのために、三条のまちと縁の深い良寛さまの史跡
をたどり、心の時代21世紀の祭りを創出する。停滞の続く中心商店街の活性化をはかると共
に、子供たちが誇りを持ってまちづくりに参画する意識を啓蒙したい」を実現するために3つ
の事業を展開したが、目的達成のためには単年度事業では難しい。
・継続することを前提として、本年度はその「きっかけづくり」を試みた。
【反省点】
・本事業の目的を達成するために、昨年の実行委員会を核にして、まちづくりを活動目的とする
民間団体に協力をお願いした。各団体へは、申請書を添付のうえ団体の責任者へ説明に伺い、
協力をお願いした。実行委員会は、参画する方たちがそれぞれ自営業・主婦など年齢も背景も
異なるので、集まることが負担にならぬよう、昼休みを利用して(午後12時30分から2時
まで)月一回の定例会とした。昨年の実行委員とし、協力団体からの実行委員にはお手伝いを
お願いした。各委員会に企画実行をまかせ、定例会ではすりあわせ調整を行うようにした。
・しかし、事業内容をふくらませ対象を三世代にひろげたことで、焦点が絞り込めず、事業の趣
旨・目的・内容を未消化のままとしてしまった。実行委員の数を増やしたため、お互いの意思
疎通が希薄になり、最後の確認を個人にまかせてしまったところもでた。幸い、昨年からの実
行委員、今年加わった実行委員各人がイベント経験が豊かで、まちづくりへの思いの深い方た
ちばかりであったので、見計らいの多い展開であった。
【今後の課題】
・とかく三条の人たちは自分の住む町に辛口の評価をしているが、今回の事後をみても、三条市
には 21 世紀のまちづくりを真剣に考えている市民が多くいること、
市全体がそういう市民を受
容できる備えがあるほど成熟してきていることなど、前向きに自己評価をしても良いと思う。
そのうえで、旧き良き伝統の上に 21 世紀の文化を創出していくために、参画する市民がまちづ
くりの手法(ルール、共通理解)を身につけることが、今後の課題であると思う。その手法は、
従来のように決して行政任せでなく、また市民ボランティアにのみ頼るものではなく、現存す
る社会資産を有効に活かし、人を育て、未来への希望を産み出すものであってほしい。今回本
事業に関わった方たちが、多くの反省点を抱きながらも、継続することの大切さに気付かれた
ことは、「まちづくり」の第一歩といえよう。財団法人まちづくり助成財団の助成が、その一歩
に大きく貢献されたことは、おそらく時間がたてばたつほど、そのタイミングの重要性が認識
されると思う。あらためて心より感謝申しあげるものである。
22.F−プロジェクト(荒れ地に花を咲かせましょう)
【団体名】F−プロジェクト実行委員会
【代表者】江守淳一
【事業実施期間】2001 年 5 月 11 日∼2002 年 1 月 31 日
【事業実施場所】富山県新湊市海王地区
【共催、後援、協力団体】
(財)まちづくり市民財団・富山県・新湊市・富山新港港湾振興会。協賛各社:(社)新湊青年会議
所・北日本新聞(株)・北日本放送(株)
【事業内容・参加者数】
・新湊地域の住民、並びに新湊地域に関りのある方々 約 11,000 人(北日本新聞報道より)
【活動内容】
・2001 年 5 月 11 日:F−プロジェクト実行委員会発足、第1回全体ミーティング、ボランティ
ア、里親募集受付開始、ポスター配布、ホームページ開設、プレス発表
・2001 年 5 月 14 日∼6 月 13 日:重機にて地起こし、トラクターにてかくはん、種キット作成
・2001 年 6 月 15 日 第2回全体ミーティング
・2001 年 6 月 17 日∼27 日:キット配布開始、小学校、保育園、幼稚園にてキット配布、トラク
ターにてかくはん、キット配布完了(6/24)
、里親募集締切り、育苗開始
・2001 年 7 月 3 日∼7 日:第 3 回全体ミーティング、前日まで現場準備
・2001 年 7 月 8 日 植栽実行(Fの日)
・2001 年 7 月 9 日 ∼9 月 23 日(8/12 開花宣言)
:花畑の管理(水やり・草むしり・間引き・台
風対策)
、花情報発信
・2001 年 9 月 24 日:コスモス参観日の開催
・2001 年 10 月 27、28 日:海鮮祭りにてコスモス写真展、並びに写真コンテストの実施
・2001 年 12 月 13 日 第 4 回全体ミーティング、事業完了報告書完成
・2002 年 1 月 31 日により会計締切、事業完了報告書完成
【事業効果】
・事業の実施により、子供から大人まで、個人から団体・企業まで、地域に関る共通の話題が提
供され、
地域の大家族化を生み出し、
そしてたくさんの地域住民によるまちづくりが実現した。
・約 20 年間利用されず放置してあった空き地が、コスモス畑に変身したことにより、海王町付近
全体の景観が良くなった。
・来年以降、その他の地域での実施も検討され始めた。
【反省点】
・事業規模が大きく、実施に関わった一部の方々へ負担が集中した。
・水やりの人的手配、水の確保・輸送が手詰まりになった。早めにCATVやその他媒体などを
使い、現場の状況を地域住民にお知らせして、よりたくさんの方々の協力を仰ぎ、水の確保・
輸送など行政等にも相談に乗ってもらえばよかった。
・収入の見積りや、気象条件(空梅雨、台風など)によって、大きく計画変更や予算の配分に訂
正がありました。そのことだけに限らず、いろんな可能性を意識しておくべきだった
・事業の継続の問題や社会的な責任(公金の利用の為)を先送りにした。
【今後の課題】
・事業の継続・本来の事業目的達成の検証・苗植え後の畑管理・
『自分たちのまちは自分たちで創
る』
(まちづくりを他人任せにしない)という住民意識の醸成
・参加者名簿の取扱い
・
『F』の輪の拡がり
第四章
平成13年度 アウトドア・クラスルーム
登録事業報告
平成13年度 アウトドア・クラスルーム登録事業報告
財団法人まちづくり市民財団事務局
はじめに
財団法人まちづくり市民財団では、
『
「わたしの”まち”を美しく」∼アウトドア・クラスルーム∼』
事業を実施しています。これは『自らのまちを愛し、美しくしたいという素朴な気持ち。身近な所
から、いろんな仲間とつくり上げていく楽しさ。そんな、まちづくりの原点ともいえる活動』をし
ている団体に事業登録していただき、まちづくり市民財団のネットワークによる、アドバイスや情
報交換・交流、発信などを通じて支援していくものです。
登録をいただきました団体・グループには、次の支援を行います。
『事業計画をもとに「まちづく
り市民財団登録事業」の証(プレート)を発行します。企画費・記録費として100,000円を
交付します(事業の性格上、報告書は2年間提出していただきます)
。必要に応じ企画等の相談を受
けることができます。関係情報誌等で優秀事業を発表する予定です。希望があれば各種の情報交流
事業にご参加いただけます。
』
対象となるまちづくりは、
『
「提唱型」ではなく「実施型」であること。 将来のまちづくりを担う
子供たちが中心となって実施される事業であること。パートナーシップの精神で、できるだけ様々
な人たちの参加があること。単なるガーデニングや個人的喜びに終わるものではなく、まちの景観
づくりを通し共にまちづくりの素晴らしさを体感できる事業であること。継続事業であること。
』で
す。事業登録の方法はホームページをご覧ください。
この事業では、平成13年度に12件、平成14年度には11件の登録をいただき、また、パイ
ロット事業として3件が登録されています。ここでは、パイロット事業の一覧と平成14年度登録
事業一覧、そして平成13年度の事業報告を掲載します。
■ パイロット事業一覧
事業名
1
アクティブ北小ときめきプラ
ン
団体名
長浜北小PTA
2 自分で作ろう・わたしの校庭 水戸市立梅が丘小学校PTA
3 アウトドア・クラスルーム
足利西小学校PTA
実施
場所
滋賀県
長浜市
茨城県
水戸市
栃木県
足利市
■ 平成14 年度 認定事業一覧
事業名
1
藁科の里 花いっぱい運動推
進事業
2 松代にアンズを広める会
3
4
平成 14 年度新発田地域環境教
育講座
街道を彩るマイプランター作
り
5 我がふるさとの里山づくり
6 さくらプロジェクト
7
8
9
土日のアウトドア・クラスルー
ム
団体名
藁科花いっぱい運動実行委員会
松代にアンズを広める会
加治川ネット 21
わさびの会
場所
静岡県
静岡市
長野県
長野市
新潟県
新発田市
三重県
名張市
遊木民倶楽部
島根県
(ゆうぼくみんくらぶ)
匹見町
たてやま・海辺のまちづくり塾
田子浦ジュニアリーダースクラブ
千葉県
館山市
静岡県
富士市
『まちづくり株式会社』設立に ♪ボランティアグループ
青森県
つき=従業員募集=
むつ市
竹イカダを作成し、川下り及び
竹炭作り
まちづくり倶楽部
中緑がんばろ会
10 竹(ちく)再生プロジェクト 小田原角吉倶楽部
11
実施
いーね!おおあさ「菜の花」の
まちづくり事業
NPO法人 INE OASA
熊本県
熊本市
神奈川県
小田原市
広島県
大朝町
1.本郷西小学校フラワーロード事業
【団体名】大江町立本郷西小学校
【代表者名】古城英三
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】山形県大江町十八才地区
【事業内容・参加者数】81 人
【活動内容】
・児童会活動として、全校生で花の苗を道路に植え、水やりや草取りをして世話をした。
・咲いた花は切花にして、学習で世話になった地域の人に贈った。
【事業実施の効果】
・学校周辺の道路が花いっぱいになったことで、地域の人からも好評であった。また、子どもた
ちの情操教育に役立った。
【反省点】
・事業計画に甘さがあったためか、当初提出した予算通りの使い途ができなかった。
【今後の課題】
・児童会活動としてだけでなく、生活科や総合的な学習の一環としても取り組みたい。
・地域の人の参加が少なかったので、よびかけていたい。
2.三郷ハートフルグリーンプラン推進事業
【団体名】ハートフルグリーンプラン推進委員会
【代表者名】阿部勝彦
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 14 年 2 月 30 日
【実施場所】山形県大江町三郷地区
【共催、後援、協力団体】三郷小学校父母と教師の会、深沢区、伏熊区、地区老人クラブ
【事業内容・参加者数】約 300 人
【活動内容】
・地域の人々と花いっぱい運動を実施し、各地区公民館周囲や路肩を花でいっぱいにする。
・ひとりひと鉢運動を実施し、学校を花でいっぱいにする。
・地区に残る「ヒメサユリ」の群生を観察し、自分たちにできることを考えた。
【事業実施の効果】
・地域の人々に、自分たちの思いを伝えるためどんな準備や活動が必要かを考え、自分たちで計
画を進め、「発信する力」が養われた。
・特に、老人クラブの方々とは他に「交流会」を実施するなど、ふれ合うことができた。
【反省点】
・
「ヒメサユリ」の保護活動実施までには至らず、主に 3・4 年生を中心に「知る」「考える」活動に
とどまった。
・地域の方々も、プランターを道路沿いに並べるなど、たいへん喜ばれたが、地域の方々から子
どもたちへの働きかけがもっとほしかった。
【今後の課題】
・プランターへの定植作業を地域の方々に呼びかけ、多くの方々に喜んで参加いただけたが、他
の場面での共同作業がなかなかできなかったのが課題である。
・
「ヒメサユリ」の活動を小学生らしくどのように進めたらよいかも課題として残った。
3.新世紀記念・夢っ子の花の森づくり
【団体名】かさい夢っ子クラブ
【代表者名】伊東一夫
【実施期間】平成 13 年 5 月 12 日∼平成 14 年 3 月 23 日
【実施場所】加西市西笠原町 178-23 旧下里小学校跡地
【共催、後援、協力団体】加西市教育委員会
【事業内容・参加者数】樹木の植栽 60 名
【活動内容】
・地元ロータリークラブがログハウス「夢っ子ハウス」を市へ寄贈。青少年活動の拠点となった。
その建物周辺に 21 世紀を担う子供たちによって新世紀記念として樹木を植栽した。また、花壇
も造った。
【事業実施の効果】
・21 世紀を迎え、21 世紀を担う子供たちのメモリーができた。
・ふるさと緑化について心と体での体験学習ができた。
・地球環境について考える機会となった。
【反省点】
・樹木に対する知識が不足であったため枯れたものがあり、子供たちの夢をこわした。
・樹木の植栽のあとの施肥、かん水が不備であった。
【今後の課題】
・継続して樹木の植栽をする。
・樹木の手入れ除草等管理
・花壇の草花の四季折々の植栽
4.竹炭で川をきれいに大作戦
【団体名】特定非営利活動法人二十一世紀まちづくりの会
【代表者名】青木 茂
【実施期間】平成 13 年 4 月∼平成 14 年 8 月
【実施場所】鳩山町内、ほか
【共催、後援、協力団体】
①協力:鳩山町経済課(竹炭利用の河川水質改善システムの開発)
②共催:竹楽器演奏グループ「かぐや姫」(竹笛づくりイベント)
③協力:国立武蔵丘陵森林公園(竹笛づくりイベント)
【事業内容・参加者数】
①10 名「親子炭焼き体験」イベント
②約 100 名「子供竹笛づくり」イベント
③20 名「竹炭利用の河川水質改善システム」の開発
【活動内容】
①「親子炭焼体験」イベントの(5/27、7/15、11/4)
町内で参加者を公募して計 3 回実施した。残念ながら公募参加者は少数だったが、
「ドラム缶炭
焼き」マニュアル(別添)を作成し、当会のドラム缶窯、その後に完成した大型焼成炉を利用
して竹材の窯詰めから焼成まで炭焼きの詳細を実地体験―思いがけぬ経験で楽しい半日を過ご
した。
②「子供竹笛づくり」イベントの開催(10/28)
後記のように当初に予定した「子どもたちによる竹炭利用のメダカとホタル池づくり」が種々の
事情から実現困難となったため、これに代わるイベントとして町内の竹楽器演奏グループ「か
ぐや姫」と提携して「子ども竹笛づくり」イベントを、国立武蔵丘陵森林公園の協力を得て同園
内で開催した。イベントには、町内からの参加者のほか、当日の来園者の家族多数も参加 ― 普
段慣れない手作業だったが、全員が夢中で製作し好評だった。
③「竹炭利用の中小河川の水質改善システム」の開発
平成 13 年4月より町立農村公園内の石田川で実施し、3 ケ月ごとの測定で別紙のような注目す
べき成果を得ている。現在は、2 期目のテストを実施中―なお、町内外のゴルフ場 2 カ所で、
このシステムを池水質改善に導入テストを行っている。
【事業実施の効果】
・プロジェクト担当リーダーの突然の入・退院などのためスケジュール通り実行できなかった点
も多々あるが、概ね所期の成果は得たと思われる。
・当会が進める環境保全・美化事業(里山竹林の間伐・竹炭づくり・竹炭利用の河川水質改善シス
テムの開発)への町民の理解も、大きく前進した。
【反省点】
・「子どもたちによる竹炭利用のメダカとホタルの池づくり」実施について町内河川の利用が危険
性や事後管理の難しさから当局の許可が得られず、やむを得ず見送りとなった。今後は公園内
の池などを利用する形に変更して、何とか実施していきたい。また、「親子炭焼き体験」イベン
トは中小学校の総合学習の一環として採用できないか、町教育委員会へ積極的に働きかけてい
きたい。
【今後の課題】
・人材の充実―このようなイベントを効果的に実施するには、若手を含めて多くの人材が必なこ
とを痛感した。一層の NPO 活動の PR と共に、ボランティアの確保に努めていきた。
5.朝里ほたるの里事業
【団体名】朝里のまちづくりの会
【代表者名】菊地芳郎
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】地域会員各家庭と小学校 2 校
【共催、後援、協力団体】小樽市立朝里小学校、小樽市立豊倉小学校
【事業内容・参加者数】
・小学生の自然体験や地域住民などが生物への関心向上、ホタル幼虫飼育と生息域の環境美化、
清掃推進 約 100 名参加
【活動内容】
・ホタル幼虫の飼育とエサとなるカワニナの飼育。各成長段階毎の勉強会。ホタル自生場所とな
る池づくり会員各家庭と、地域小学校へ手作り飼育装置とカワニナの飼育。近隣市町村への見
学勉強会等の実施
【事業実施の効果】
・飼育への関心と自然生態系を取り戻す大変さを感じながら、小動物への環境がととのってきま
した。
【反省点】
・初めてのホタル飼育であり、自生する池は出来ましたが思うようにホタルは羽化しませんでし
た。
【今後の課題】
・各家庭の温度・湿度等の変化があるので、今後も分散飼育をつづけながら育てていきます。今
回の土や水の状況を分析し、飼育装置に改良を加えホタルを羽化させていきます。又、昨年の
池の他に新しい池を造り(子作り)自然により近い環境整備を行う。
6.あそぼう広場
【団体名】あそぼう広場実委員会
【代表者名】大沼洋子
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】宮城県仙台市青葉区旭ヶ丘 2-12 旭ヶ丘町内会集会所およびチビッコ広場とその近隣
【共催、後援、協力団体】旭ヶ丘地区社会福祉協議会、旭ヶ丘町内会(地区内の 7 町内会の 1 つ)
【事業内容・参加者数】のべ 875 人(別紙の通り)
【活動内容】
・地域を知る・地域の人と出会う
瞑想の松、ホタルの里、台の原森林公園などに行ってみる、キャップハンディ体験、板金や
さん、近所の高齢者の方などと出会う
・緑に親しむ
小さな鉢に株分けしたハーブを植える、広場に花壇を作る、バタフライガーデンの用地を探
す…市の道路残地の第一候補には断られた
・生活を体験する
主に食べ物を作ることにより、その技術向上、生活の知恵を学んだ。
【事業実施の効果】
・遊びたい人は、参加費がいらないと言うことで、親の金銭の有無に関わらず参加できた。
(こち
らの助成金が今年度の活動の大半を支えた。
)
・子どもたち同士が遊ぶだけでなく、花を植えることにより、地域の方たちの役に立ち喜ばれる
という経験にもなった。
【反省点】
・食材を用いる時に、子どもでも受益者負担とすべきか、話し合いを持たなければならない。金
額的にはそれが大きかった。
・このくらいの活動報告が出せるのも、単年度の助成に頼っていての成果であり、子どもの喜ぶ
顔がみられる半面、負担は大きい。
【今後の課題】
・子どもと主に遊んでいる大学生はみな今年が最終学年なので、地域内の一人暮らしのアパート
生活者などのボランティアや、高齢者や子育て中の保護者世代など新しいメンバーを入れなけ
ればならない。
・地元の地域団体からの継続的な補助も考えなければならない。また、平成14年度より、学校
週 5 日制の完全実施となるが、地域の学童保育所は、土・日は休みである。その補填をここで
も考えなければならない。
7.子供たちと村づくり
【団体名】麓いきいき村づくりの会
【代表者名】水澤利春
【実施期間】平成 13 年4月 1 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】麓ふれあいセンター・六萬騎山裾・真浄寺・他地区内
【共催、後援、協力団体】麓区・麓子供会・麓ボランティアの会・麓女性教室
【事業内容・参加者数】麓区民 60 戸、256 名に案内配布、年間 650 名参加
【活動内容】
・手作り体験と読み聞かせの会・子供たちとの JIBA の会・文化祭・文化祭出品作品作りの会・や
くもち作りの会・〆縄作りの会・春祭り茶会・夏祭り茶会・地蔵様縁日の抹茶サービス・花道
路づくり・区民蛍の夕べ・桜並木整備管理作業・そば打ちと手打ちそばを食べる会 等々
【事業実施の効果】
・子供からお年寄りまで、幅広い年齢層の人たちのふれあう機会があることで、お互い顔の見え
る関係となった。特に子供たちと気軽におしゃべりしたり、声をかけあえるようになったこと
は良かった。
・花道路や桜並木の草取りや下草刈り作業など、一枚の案内で数十名ボランティアが馳せ参じて
くれる地域性を誇りに思っている。
【反省点】
・メダカや蛍の住める小川や池作り等の夢の実現に具体的に取り組めないでいることは残念であ
る。が、労力や土地、資金の問題もあるので気ながに機の熟するのを待ちたい。
【今後の課題】
・欲張らず、地道な活動を楽しみながらこれからも継続したい。夢だけは持ち続けながら…。
・地域を愛し活動している大人の姿はいつかきっと今の子供達に引き継がれていくものと信じ、
「出来ることを出来る人が出来る所で」をモットーに活動してゆきたい。
8.「安代町結っこ子供バスターズ」
【団体名】「安代町結っこ子供バスターズ」
【代表者名】川島佐知子
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 13 年 12 月 20 日
【実施場所】岩手県安代町
【共催、後援、協力団体】
歴史的建造物愛好協会、ローカルアート・クラブ、結っこ下町、結っこ五日市
【事業内容・参加者数】100 人
【活動内容】「結による生活」のシステムづくり
①草つみ、そば刈り、かやぶき暮らしなどの生活バスターズ
②ホームページの作成
③NHK ラジオ全国放送にて活動の紹介、IBC ラジオにて活動の紹介
【事業実施の効果】
・「結」を通して子供たちに、ふるさとの素晴らしさを体得してもらえた。子供達ばかりではなく、
世代間を通して、ふるさと発見の効果があった
【反省点】
・子供たちの参加が少なかったのが反省される。
【今後の課題】
・ふるさと発見の効果はあったが、まちづくりの意識を持てるまでに至らず、今後の課題として
取り組んでゆきたい。
9.花いっぱい、楽しさいっぱいの通学路整備
【団体名】奥大野村づくり員会
【代表者名】安田昌洋
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 13 年 12 月 31 日
【実施場所】京都府中郡大宮町字奥大野
【共催、後援、協力団体】大宮第二小学校、同PTA
【事業内容・参加者数】
・通学路及び沿道の土地にカンナ、ひまわりなどを植栽し花いっぱいの通学路を整備
・参加者:奥大野村づくり委員会のメンバー、区の協力者、大宮第二小学校児童、同PTA
人数:47 人
【活動内容】
・奥大野村づくり委員会が集落年中花いっぱい運動の一環として、小学生の子供たちが大人(父
兄及び区民)と一緒になって花いっぱいのまちづくり活動を行った。
・植栽:平成 13 年 4 月 22 日(日)カンナ、5 月 20 日(日)ひまわり
・掘起:11 月 18 日(日)
・保存:掘起し後芋穴に保存、冬越し
【事業実施の効果】
・子供と親が一緒になって花いっぱいのふるさとづくりを経験し、家族でふるさとの良さを認識
することができた。
【反省点】
・子供たちと連携した植栽後の草刈り等の管理が十分に出来なかった。
【今後の課題】
・平成 14 年度から学校の週休完全実施が始まるので、学校の地域活動の充実を図るため、今回の
事業に加えて花の種類を増やし、
春から冬まで花がいっぱいになるような取り組みを進めたい。
10.庭づくり夢プロジェクト
【団体名】大河内庭づくり実行委員会
【代表者名】西島靖香
【実施期間】平成 13 年 4 月 15 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】静岡県静岡市大河内地区
【共催、後援、協力団体】学校後援会、ふるさと研究所
【事業内容・参加者数】
・中学一年生、二年生、三年生 44 人、教師、地域の人々及び NPO の皆さん約 30 人
【活動内容】
・生徒の組織として「庭づくり夢プロジェクト」を立ち上げ、旧校舎跡地の余剰地に生徒の手によ
って庭づくりを提案し、生徒、地域、専門家をはじめとする NPO がひとつになって、庭づくり
に取り組んだ。
①アクションプランづくり
②ジオラマづくりを通してイメージを高める
③ビオトーブづくりの専門家の方々とのミーティング
④アマゴの飼育やワサビ栽培の地域の講師との交流
⑤9 月、工事に着工
⑥課題解決のために、総合的学習の時間を通しての追究活動
【事業実施の効果】
・庭づくり実現に取り組む中での大人との関わりを通して、山間地の小規模校の生徒に、「自立心」
や創造的に物事に取り組む姿勢が見られるようになった。また、地域の自然 [樹木、ワサビ、
アマゴ、滝、植物、など] や人々との関わり “地場産業を支える人々、庭づくり作業協力者な
ど” が深まり、郷土を愛する心が着実に育ってきている。
【反省点】
・生徒の自立心や創造的に物事に取り組む姿勢を、教師側が適切に支援をするだけの見通しをも
つことができなかった。そのため、生徒が十分に活動できる時間の確保が不十分であったり、
活動内容をきちんと整理し、専門家との関わりの道筋をきちんと示すことができない場面もあ
った。
【今後の課題】
・設計図づくりや資材の繰入、または、重機など専門家に任せるものと、生徒の活動をきちんと
役割分担をして、実現に取り組む。また、造ったら終わりではなく、次の 3 点を具体的にして
いく。
①小中 9 年間を見通した「学びの庭・学びの森」としての活用。
②現在取り組んでいるアマゴ、ワサビ、茶の勤労生産活動との関わりを明確にしていく。
③総合的学習の時間による研究の場としての活用「進化する庭」へ
11.市民ガーデン計画∼居心地のいい場所つくろう!∼
【団体名】市民ガーデンテイルス
【代表者名】川戸由起
【実施期間】平成 13 年 4 月 1 日∼平成 14 年 3 月 31 日
【実施場所】三重県桑名市藤が丘デザイン公園及びその周辺
【共催、後援、協力団体】
元平成の町割会、桑名市都市計画課、桑名市市民活動支援室、藤原町、三重環境県民会議、大
山田連合自治会、はあぶ工房 Tugether、ポナベティ
【事業内容・参加者数】259 名
【活動内容】
・毎月第3日曜日を『市民ガーデンの日』として、開墾・植栽・草取りなどを行い土や花、緑に
親しむ豊かな時間を過ごす。また管理棟を使用して、自然観察や、レクリーエーションなどの
プログラムを組み、参加者と一緒に公園の利用方法などを考え、提案していく。
・宿根草や低花木を中心とした、管理が楽で、成長を楽しめるような「市民の庭」を目指す。
・花苗は、会員や市民が栽培しているものを持ち寄ったり、提供者から頂いたりしたものを植え
て、なるべくお金のかからない方法で運営する。
・この事業を行う事で、次のような効果が予想される。
・苗を提供してもらう事によって、参加という意識から、一歩前に出て景観を作っているとい
う意識を持ってもらえる。
・高齢者でも子供の会員が苗をもらいに行ったりすることで世代を越えた交流が期待できる。
・様々な人が交流する中で、ちょっとした特技をいかし、誰でも自然に主役・先生になれる。
・まちづくりを担う人材との出会いが期待できる。
【事業実施の効果】
・周辺にわずかながら残る自然との関りを見つめなおす機会を提供し、里山に関心を持つことの
大切さに共感してもらうことが出来ました。
・大人と子供との関り、世代を超えた交流の姿が見られました。
・
『市民ガーデン』に根付き、成長していく花たちを見る時、参加者が自らの手でこの場所を耕し、
やすらぎの空間を創りあげた事を実感して満足感を味わっていただけるものと思います。
・社会の中で自分一人の力が成し得ること、その結果を、参加者が自分の目で確認し、自分で評
価する体験をすることが出来ました。
・この一年の『市民ガーデンティルス』の活動によって、傍観と言う姿勢を取っていた行政を一
歩前に進ませることが出来たと思います。
【反省点】
・あまり約束事のないゆったりと楽しんでもらう企画にしたかったのでアンケート等は用意しな
かったのですが、参加者数の多いイベントほど、おひとりづつの関心のありかたや、感じたこ
と、満足度などを知ることが難しいと感じました。
・市民がちょっと集まって、公共の場である公園でちょっとした行動をしている、という姿を理
想としているため、会の PR をあまりしませんでした。そのせいか、中心になって積極的に行動
してくれる人を増やすことが出来なかったのが少し残念です。
【今後の課題】
・今年度の事業により、多くの人に市民ガーデンティルスの存在を知ってもらうことが出来、行
政や環境系の団体等の間で認知してもらえるようになってきました。今後の課題は、「実際に長
靴をはいて行動してくれる人を見つけること」そして、そういう人たちが「気楽にのびのびと自
分を活かせるような場所」と「ネットワークのかたち」を実現していくことだと考えています。
第五章
平成14年度
まちづくりファシリテーター派遣事業報告
平成14年度 まちづくりファシリテーター派遣事業報告
山本一雅
財団法人まちづくり市民財団 運営委員
1.ファシリテーター派遣事業について
まちづくりに市民(住民)の声が必要であり、重要であることは御承知の事と思います。まちづ
くりに市民の声を活かす方法の一つにワークショップがあります。財団法人まちづくり市民財団で
は、全国に展開する青年会議所のまちづくり応援団として、ファシリテーター派遣事業をおこなっ
ています。
全国各地のまちづくり人の養成に応じて出向し、市民自身による様々な課題解決のためのサポー
トを展開しています。出来るだけ近隣に在住するファシリテーターが訪問する事で、地域特性を考
慮したきめの細かいファシリテートが出来ると考えています。更に、ファシリテーターと連絡を密
に取ることで手法だけでなく様々な情報の提供が出来ます。
また、まちづくり市民財団では、ワークショップ体験コースを設けています。このコースは、ワ
ークショップを知って頂く機会である事とファシリテーター養成講座の基礎編としても位置付けを
しています。ワークショップを運営するファシリテーターの養成も行っています。
2.ワークショップについて
○ ワークショップとは
ワークショップとは、1つのテーマに対して同じ体験を通して楽しみながら相互理解・合意形成
を見つけ出していく話し合いの手法です。まちづくり、まちおこしを行なう際、関係者の集う場所
であり、行政・市民・企業・団体(NPO)の参加によりお互いの立場の認識・外的要因・問題点
等を共有できる場であり、更に合意形成できる場なのです。
○ ファシリテーターとは
多くの人たちが集まれば、様々な意見が出て、まとまりを欠いたり、場合によっては1人か2人
の声の大きな人たちや力を持っている人が自分の意見を押し通し、他の人たちが何もいえないとい
った場合もあるでしょう。こういったことにならないように、参加者全員の意見を聞き、それを活
かし、また脱線しそうになった場合それを元に戻したり、子供のように思いを上手く表現出来ない
参加者の声を聞き出したり、主体的に参加できない参加者に主体的に参加できるきっかけを作った
り、専門家のように難しい言葉で表現したものを簡単に言い換えたりする役割をファシリテーター
と言います。
○ テーブルファシリテーターとは
ワ−クショップを最終目標の方向に導く役目であって結論を決定するリ−ダ−ではありません。
その為によくファシリテ−タ−のことを「水先案内人」といわれます。いわゆる、ボトムアップ的
調整者を指します。財団法人 まちづくり市民財団では、ワークショップを運営するファシリテー
ターを養成致します。
○ 体験版ワークショップ
財団法人まちづくり市民財団では、体験版ワークショップ出張サービスを開催しています。ワー
クショップ体験コースは、2時間30分で、対象者は15名∼50名程度です。スタッフ構成は、
大ファシリテーター1名、1テーブル7∼10人に対してテーブルファシリテーター1名です。開
催費用は50000円です。ただし、参加者が10名増す毎に1万円かかります。
■ 平成 14 年度 まちづくりファシリテーター事業 実施一覧
実施日時
開催場所
参加者
参加スタッフ
6 月 19 日
関東地区 茨城ブロック 結城青年会議所
45名
5名
6 月 29 日
近畿地区 京都ブロック 峰山青年会議所
45名
5名
7 月 27 日
横浜(ディベート)
17名
講師:松本道弘先生
村岡理事長オブザーブ
9 月 23 日
近畿地区 京都ブロック 峰山青年会議所
45名
5名
10 月 16 日
関東地区 栃木ブロック 栃木青年会議所
110名
13名
10 月 17 日
東海地区 静岡ブロック 富士宮青年会議所
18名
4名
10 月 29 日
奈良県桜井建物ウォッチング
110名
6名
編著を終えて
編著者 服部則仁
まちづくり市民財団 評議員・運営委員
今回の「市民社会へ−個人はどうあるべきか」というテーマは、NPOと市民社会と個人をむす
びつけるひとつのキーコンセプトとして、どうしても一度、きちんと取り上げておきたいテーマで
した。多くのNPOのほんとうにいろいろな展開はうれしい限りです。だからこそ、地域のまちづ
くりの現場で、ちゃんと市民社会を見つめながら、そして迷いながら、ゆれながら、まちづくりと
取り組んでいるたくさんの人たちのことを、少しでも伝えたいと思っていました。
今回執筆いただいたみなさんは、全国の分野を越えたネットワークに直接かかわっている方々を
中心に、おひとりおひとり電話でお願いさせていただきました。
「ものごとを頼むなら忙しい人に頼
め」というのはよく言ったもので、そのとおり超多忙の人たちにもかかわらず、これだけの原稿を
提供してくれました。内容はというと、実体験に裏打ちされた、本当に読みごたえのあるものです。
ただただ感謝です。本当にありがとうございました。この報告書を手にされた方々に、きっとみな
さんの思いが伝わることと思います。
そして、第二章以下の「巡回フォーラム事業」
「まちづくり助成事業」
「アウトドア登録事業」
「フ
ァシリテーター派遣事業」に登場してくださったみなさんも含めると、地域でまちづくりに真剣に
取り組んでおられる100人以上の方たちの思いや活躍を、この報告書でご紹介できたかと思いま
す。そして、全国にはもっともっとはるかに多くの方たちがまちづくりに取り組んでおられます。
ほんとうに身近なところに、まちづくり人はいます。そんなまちづくり人を応援し、そのような方
たちが活動しやすい環境づくりを進めていきたいと、
財団法人まちづくり市民財団は考えています。
そんな方法で市民社会づくりを進めていければと思っています。
『まちづくりと市民参加』も今年で4年目となりました。多くのみなさんのご厚意に支えられて
今回もなんとか作成することができました。ご尽力いただきましたみなさんに心より感謝します。
ありがとうございました。
(平成 14 年 11 月 30 日)
『まちづくりと市民参加Ⅳ』
発 行:財団法人まちづくり市民財団
発行人:村岡兼幸
編著者:服部則仁
発行日:2002年12月1日
住 所:〒102-0093
東京都千代田区平河町 2-14-3
日本青年会議所会館内
電 話:03-3234-2607
http://home.interlink.or.jp/~machizkr/