佐藤 友信

だんぶり長者になろう!
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5.01 成長と貢献と新たな価値の創造をめざす
2013
2013.0
.05
コミュニティ・デザイナー 佐 藤 友 信
005
005「神様」の問題を
解決しておきたい
ダリ:セント・アンソニーの誘惑
何とも不遜なタイトルをつけてしまいましたが、決して「神様」の問題が簡単に解決すると思っているわけで
はありませんし「神様」をないがしろにしているわけでもありません。ただ「だんぶり長者」について語ろうとする
と「神様」や「奇跡」「信仰」ということを避けて通るわけにはいかないので、これらについて、私の考えや態度
を明らかにすることが必要だと思うのです。
実はこれらは本稿で最も扱いたいテーマなのですが、あまりにも奥深く重く、誤解を招きやすいテーマです
ので、軽々しく扱うわけにはいきません。そこで何かいい方法はないかと探し続けていたところ、 アメリカ合衆
国建国の立役者、雷を凧で捕らえた科学者としても有名な、ベンジャミン・フランクリンがとった方法を見つけま
した。面白いのでさっそく紹介しましょう。
「私は長老教会の敬虔な教えを受けて育った。この派の教義には不可解で信じられぬものもあったが、神の
存在、神が世界を創造し摂理に従ってこれを治め給うこと、霊魂の不滅、すべての罪は必ず罰せられすべての
徳行は必ず報いられることなどについて、私は決して疑ったことはない。これらはあらゆる宗教の本質であると
考えた。しかしどの宗派でも、この本質的なもの以外に、人間の道徳性を高めさせず、もっぱら人々を分裂さ
せ、互いに不和にさせるような性質の信仰箇条が混じっていた。
長老会派の牧師の説教は、私たちを善良な市民にするより、むしろ長老会派に仕込むことを目的としている
らしかった。聖書の一説を説教題にしておきながら、期待させた深遠な道徳は語らず、礼拝には出席すべしと
か、牧師を尊敬せよなどということしか語れぬ説教に、私は失望した。
そこで私は、自分自身で徳目や戒律をつくり道徳的完成に到達しようという、大胆不敵かつ困難な計画を立
てたのである。」
これは『フランクリン自伝』の中の有名な「13の徳目」からの引用です。さすがはアメリカ合理主義の祖フラン
クリンです。人類史上、神の名の下にどれだけ多くの争いが起き、多くの血が流されてきたかを考えると、これ
は画期的な方法と言わなければなりません。
神の存在や霊魂の不滅といった宗教・信仰の本質は確かにあるが、各宗派の教義や戒律の中には、神の本
質から離れた世俗的なものも少なからず混じっている。真に神聖な人や観念も、時間が経ち組織化が進めば、
必ず世俗にまみれ勝手な解釈が付け足され肥大化する。こう看破した彼は、神に近づくためには、宗派や教
会の戒律や教えを盲目的に信じるのではなく、その真理を自らの思考と行動で一つ一つ確かめることが必要
だと考え、節制・沈黙・規律・決断・節約・勤勉・誠実・正義・中庸・清潔・平静・純潔・謙虚という13の徳目を創
り出したのです。
この「13の徳目」は多くの人々に支持され実践されてきましたが、もちろん現代社会でも有効なものです。今
日スティーブン・ R ・コヴィー博士らによる「ミッション・ステートメント」の推奨などには、フランクリンの考えが底
流にあります。(Mission Statement については別の機会に書きます)
今日の日本では、過去の戦争の反省から、政治や教育から「神」や「宗教」の概念が抜き取られてしまいまし
た。同時にそれは地域に豊かにあった純粋で素朴な信仰心を奪い、人々の中にあった「神性」や「仏性」、ある
いは「魂」や「信念」といった人間としての根源的支柱をも奪いつつあります。今や「自立」や「自尊」に必要な精
神的支柱を復活させなければならないのは明らかです。「神様」や「信仰」といった言葉は教育の場で使うこと
はできませんが、「徳目」や「ミッション・ステートメント」なら問題はないでしょう。「神」の代わりに「真実」や「理
想」を追究すればいいのです。