癸生川まどか

コロマン・モーザーと建築と装飾の距離
―ウィーン世紀末の装飾と建築の一断面―
Koloman Moser
Josef Hoffmann
ウィーン工房
Otto Wagner
1x07a071-2 癸生川まどか *
ウィーン分離派
「装飾と犯罪」
序論 彫刻家との交流を持った。メンバー内の建築家、ホフマン
コ ロ マ ン・ モ ー ザ ー (Koloman moser
オルブリヒ (Joseph Maria Olbrich,1867-1908) と共に分
1868-1918、 以 下 モ ー ザ ー ) は、「 ウ ィ ー ン
離派に参加し、建築家との交流の色濃さを垣間見せる。保
分 離 派 」(1897-1907)「 ウ ィ ー ン 工 房 」
守的な古典主義の古い秩序に対する批判と分離という意
(1903-1907) の一員であり、ウィーンに多
識を持っていたウィーン分離派は、機関誌『聖なる春』(Ver
くの芸術作品を残している。モーザーはそ
Sacrum) で世間に広まるようになる。モーザーはその挿絵
の広範な活躍によって「室内装飾家」「デ
をデザインし、彼の名もウィーン分離派と共に広まった。
図 1, K o l o m a n M o s e r
ザイナー」「画家」「舞台美術家」「版画家」
■中期 (1900-1910)
『koloman moser』p11
として評される 1。しかし、モーザーが当時著名な建築 「中期」は、モーザーの人生で多くの転換期を迎えた。
家 2 と恊働し建築に装飾行為をしていた事は知られていな
ウィーン工房結成、ウィーン分離派離脱、そしてウィー
い。また、彼の活動は広範なため、彼の存在定義は定かで
ン工房脱退に至ったのは、全て「中期」の出来事である。
はない。そこで、本研究は、以下の 2 点をの目的としている。 モーザーはこの時代に、建築に関する作品を最も多く世に
1. モーザーの関与した建築作品、ならびにそれ以外の作
送り出した。1907 年、モーザーは工房の財政難と自身の
品を併置し、その背景にある芸術運動や人との関わりか
病気によってウィーン工房を離脱した。以降、工房の作品
ら、モーザーの存在を再評価すること。2. その上で、モー
にスタイルの変化が見られるようになる。幾何学的なフォ
ザーの装飾と建築がいつ接近して遊離したかを理解し、彼
ルムや簡素な装飾はもはや優先されなくなり、曲線を駆
に影響を与えた建築家たちの言説から、建築と装飾の相互
使したフォルムが目立つようになる。後にウィーン工房
関係を捉え、ウィーン世紀末 3 の装飾と建築との距離を明
のデザインは、短絡すれば構造から装飾へと退行していっ
らかにする。
た 4。モーザーの脱退がウィーン工房の転期となった事は
第 1 章 通史からみるコロマン・モーザー 明白であり、モーザーの装飾と建築とが最も近づいた時期
モーザーの生涯を、建築との関係性の有無から、建築との
であったと考える。
遭遇期を「初期」境遇期を「中期」離脱期を「後期」に
■後期 (1910-1918)
分け通史を見ていった。彼は生涯で多彩な芸術活動を展
ウィーンでの一定の評価を得たモーザーは、工房を離脱し
開する。1897 年にウィーン分離派を結成するも 1905 年
た後の「後期」に仕事の幅を広げてゆく。舞台美術や洋服、
にクリムト (Gustav Klimt,1862-1918) やホフマン (Josef
玩具、アクセサリー等、様々なジャンルの仕事に関与し、
Franz Maria Hoffmann,1870-1956) らと離脱する。1903
建築物から日用品という身体スケールの事物に表現を凝
年に自ら設立したウィーン工房も、結成のわずか 4 年後
縮してゆく。1913 年にはジュネーブに滞在し、絵画作品
に離脱する。モーザーは、この時期 ( 中期 ) にワーグナー
において、明るい色彩と強い画風のホドラー (Ferdinand
(Otto Wagner,1841-1918) などの建築家と仕事をする。 Hodler,1853-1918) に影響を受ける。今までウィーンの
彼は建築家との深い関わり合いの中で、彼の作品の中に、 中に留まっていたモーザーが、他国で仕事をしていた事は
一貫した合理的な機能主義と幾何学的構成を確立した。そ
その後の彼の作風に変化を与えた点で重要である。
第 2 章 モーザーの建築 して、独自のスタイルを見せ多くの作品を生み出した。
「中
建築家ではないモーザーであるが、「中期」に建築デザイ
期」にモーザーの作品と建築が最も密接な関係にあった事
ンに関与していた事は第 1 章で述べた通りである。第2
を明確にした。
章はそれらを「モーザーの建築」として見てゆく。ここで
は 2010 年 9 月に行った『サナトリウム』
『アムシュタインホー
フ』
『メイダイヨンハウス』実地調査を元に分析を進めた。
■《マヨリカハウス・メイダイヨンハウス》
(1898-99 年 , 設計 : オットー・ヴァーグナー )
表 1: モーザーの通史(作品と人物関係)筆者作成
■初期 (1868-1900)
モーザーは、ウィーン工芸美術学校の頃から芸術グルー
プ「7 人クラブ」(1894-1897) の一員として、建築家、画家、
この建築はリングシュラーセ沿いの歴史
主義の古典様式の建物からの分離を目指 図 4, マヨリカハウス・メイダイヨ
ンハウス(筆者撮影 2010/9/15))
す事を目的に建設された 5。ファサードは
図 5, メ イ
ダ イ ヨ ン
伝統的な装飾の代わりに、新しい材料のマ
ハ ウ ス の
円 形 浮 彫
ジョルカ・タイルで花柄の装飾を施し、メ
(筆者撮影
2010/9/15)
イダイヨンハウスは、モーザーによる金
Koloman Moser , Architecture and the Distance of Decoration
̶ A Section of the Decoration and Architecture in Vienna at the End of the Century ̶
KEBUKAWA Madoka
メッキの円形浮彫や、漆喰装飾が成された。歴史主義とは
異なり、豪華な階層を強調せず非凡なファサードのデザイ
ンによって建物全体を華麗なものにした。
■《モーザー = モル邸》
(1901 年 , 設計 : ヨーゼフ・ホフマン )
カール・モル (Carl Moll, 1861-1945) は
モーザーと同時代の画家であり、モー
ザーとは友人関係で共同生活をしてい
た。内装の一部はモーザー自身が手掛け、
白と強いコントラストを成す青い塗装が
行われた、「合理的」かつ「機能的」な
作り付け家具が設置されていた。
■《プルカースドルフサナトリウム》
図 6, 内 装『koloman moser』
p153
図 7, 作 り 付 け
家 具『koloman
moser1868-1918』
p159
(1904-05 年 , 設計 : ヨーゼフ・ホフマン )
この作品はウィーン工房の理念 6 を
達 成 し、 芸 術 と 構 造 と の 結 合 を 見
出した、ウィーン工房の建築初期作
品である。内装の一部はモーザーに
第 4 章 考察 - コロマン・モーザーと装飾と建築の距離
図 2, プルカースドルフサナトリウム
(筆者撮影 2010/9/14)
よって成され、この建築が正方形の幾何学構造に基づい
ていていることが、白と黒の 2 つの市松模様の床面や家
具からわかる。モーザーは『若いカップルの住居』(Young
Couple's Home,1904) でも、正方形の幾何学構造の家具を
デザインした。モーザーのインテリアが建築の形態と沿う
ように計画されていた事がわかった。
■《アムシュタインホーフ教会》
(1905-07 年 , 設計 : オットー・ヴァーグナー )
ヴァーグナーは本来この教会をプロテスタン
トやユダヤ教徒も出入りできる開かれた教会
としたいと考えていた 7。しかし、20 世紀初
頭にそういった思想は珍しく、その希望は実 図 3 , ア ム シ ュ タ イ ン
ホ ー フ 教 会( 筆 者 撮 影
現されなかった。この教会の装飾絵画はモー 2010/9/14)
ザーが手掛けた。モーザーもまた、ヴァーグナーの意思を
汲み取り、色彩及び形態の相互作用を主眼とした装飾を試
みた。しかしモーザーの妻がプロテスタントの女性であっ
た為に彼は制作から外されてしまった。新しい様式を見出
そうとする芸術運動は、宗教的な「社会背景」の不一致が
障害となっていた事が明らかとなった。
第 3 章 モーザーと建築家 前章までの「モーザーの建築」の分析と、周辺人物との関
わりの中から、モーザーの作品傾向やウィーンの社会背
景が芸術運動にどう働いていたかを解明した。ここでは、
当時の著名な建築家の言説や作品から、彼らの考える建築
と装飾の距離を計り、モーザーの装飾行為との関係をより
深く理解する。
■恩師 ―オットー・ヴァーグナー/マッキントッシュ―
ヴァーグナーは「芸術を支配するものは必要のみ」8 と主張し、
機能性、合理性を重視する近代建築を目指す事が彼の理念
だった。モーザーはその理念を汲み取り彼と協働する間柄
だった。マッキントッシュは「The Four」9 と呼ばれるグ
ラスコーのアールヌーボーの先駆的な芸術家グループの
一員であった。1899 年にウィーンに訪れ、ウィーン分離
派、そしてモーザーの芸術活動への活力を掻き立てた。
* 早稲田大学創造理工学部 学部 4 年
■同輩 ―ヨーゼフ・ホフマン―
ホフマンが結成したウィーン工房は、自分達の作品の販
路をつくりながら、デザインを行う斬新な組織であった。
モーザーはホフマンの右腕として多くの作品を生産した。
ウィーン工房は「我々は , 銀の装飾品は金や宝石の装飾品
と同じ価値をもちうる」10 事を理想としていた。彼の多才
なデザインや、合理的な装飾行為は、事物の本来もつ価値
を向上させ、ウィーン工房の理想の実現に貢献した。
■影響者 ―アドルフ・ロース―
ロースは、素材の美学と機能の美学を唯美的な装飾に対抗
させようとした。全く異質に見えるロースとモーザーで
あるが、ロースの女性服に対する批判に対して、モーザー
は新しい改良服のデザインをしていたことから、深層心理
で目指す理想は一緒であったかのように思われた。
■「職人」であるモーザー
歴史主義時代、クリエイティブな人間は「建築家」「作家」
「家具職人」等と各分野における職人と定義され、一定の
芸術表現しか行ってこなかった。しかし、ウィーン世紀末
にその定義は拡張され、芸術家グループによる広範な芸術
運動が盛んになった。そのため、モーザーは芸術を表現
する媒体を「日用品」
「絵画」等あらゆる分野に見出した。
その一つが「建築」だった。建築に装飾行為をするものは、
それに相応する熟練された技術の持ち主、いわば「職人」
でなければならなかった。モーザーの気質は、芸術におけ
る「職人」的存在に値すると考察できた。
■建築と装飾の距離
「中期」の最も建築と装飾が縮まった時期に、
「職人」であ
るモーザーの装飾が建築に接近していた事が明白になっ
た。しかし、「後期」には絵画作品に特化し、建築に関与
した仕事をしなくなっている。これは、建築と装飾が完全
に同値する事はないことを意味した。その距離は互いが有
する「合理性」
「機能性」
「社会背景」の不一致から生まれ
ており、建築と装飾はあくまでも一定の距離を保ちながら
接近や遊離を繰り返していたことがわかった。
結論 以上より、建築と装飾の距離を近しくしたモーザーの寄与
は、彼を「職人」的存在であると位置付けさせた。また、
建築と装飾は一定の距離が存在していた。その距離とは両
者が有する「機能性」
「合理性」
「社会背景」の不一致によっ
て生まれた。それを正す為に、建築家は「職人」による装
飾行為に頼らざるを得なかった、という建築の「限界性」
を見ることができた。このような建築と装飾の関係は我々
の時代においても試行錯誤を続けているのである。
謝辞 本研究を書くにあたってサナトリウム調査の際にご協力
頂いたペトラ・ミッチェル氏。また支援を頂いた安藤忠雄
文化財団、その他協力者の方々に厚く御礼申し上げます。
1
『ウィーン世紀末展』1997, ルドルフ・レオポルド / 千足伸行 / 中村隆夫、印象社 ,p158 には「画家」「室内装飾家」「油彩画家」「版画家」
「舞台美術家」と書かれている。) 2 ここではヨーゼフ・ホフマン、オットーワーグナーを示す。319 世紀末、史上まれにみる文化の爛熟を
示したオーストリア = ハンガリー帝国の首都ウィーン、およびそこで展開された多様な文化事象の総称。4『ウィーン世紀末 - クリムトシー
レとその時代 -』1989, セゾン美術館 , 美術出版デザインセンター ,p524 5 『ウィーン世紀末展』1997, ルドルフ・レオポルド / 千足伸行
/ 中村隆夫、印象社 ,p37 6「公衆、デザイナー、職人の 3 者の間の親密な交流を実現させ、良質で簡素な作品を作成」できる工作場の職
業別組織形態が完全に適用する。7『Koloman Moser, 1868-1918』2007,Rudolf Leopold/Gerd Pichler,p251 8『近代建築』1985, オットー
ヴァーグナー , 樋口清・佐久間博 訳 ,p54,「ARTIS SOLA DOMINA NECESSITAS」91890 年、装飾が機能性、合理性をもって構造と共
存する事が理想を掲げて組織された芸術家グループ。妻のマーガレット・マクドナルド、その妹であるフランセス・マクドナルド、そし
てハニーマン & ケッピー事務所での同僚でもあるハーバート・マックニーから成る。10『ウィーン生活と美術 1873-1938』2001, ギュンター・
デュリーグル / 村山鎮雄 ( 以下略 ) 印象社 ,p139
*Undergraduate student, School of Creative Science and Engineering, Waseda Univ